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| この柳の下でくつろぐ北斎は近年発見された自画像だ! |
「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」 北斎は目にしたものを一度頭の中で分解し、 もっとも美しく面白みのある形に作り変えた! |
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| 冨嶽三十六景 甲州石班沢 漁師の綱と岩で富士の形になってるゾ! |
冨嶽三十六景 尾州不二見原 こっちは桶の中に富士!スンゲー構図だッ! |
冨嶽三十六景 東都浅草本願寺 雲の下に町を描くことで高さを強調! |
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| スイカを描いたリアル絵。紙が水分を 含みシットリした感じがよく出てる! |
繊細なタッチの美人画 こうしう細かい絵もお手のもの |
百物語「皿屋敷」 首が全部お皿になってる(汗) |
なぞなぞ絵。体の線に小野小町の名が 隠れてる。右肩「小」、左腕先「の」、左肩 「こ」、左肩の髪下「ま」、足元「ち」(逆さ文字) |
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| 司馬江漢に感化された洋画風の風景画 遠近法を完全にマスターしている! |
役者絵 市川団十郎の忠臣蔵 |
『北斎漫画』 漫画のルーツだ! 上段の3コマがわけわからん!!(笑) |
ひょうきんな自画像 |
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世界一有名な日本の画家は、江戸後期の浮世絵師北斎だ。小さい頃から手先が器用だった彼は、14歳で版木彫りの仕事につく。自分が彫っている文章や絵に親しむうちに絵描きの職への思いがつのり、1778年(18歳)、浮世絵師勝川春章に入門し、春朗の名で役者絵を発表する。向上心と好奇心に富む北斎は浮世絵のみに飽き足らず、師に内緒で狩野派の画法や司馬江漢の洋画も学ぶ。これがバレて逆鱗に触れ「他派の絵を真似るうつけ者!」と破門される。生活に窮した彼は、灯籠やうちわの絵を描いたり、時にはトウガラシや暦(こよみ)を背負って行商するなど、「餓死しても絵の仕事はやり通してみせる」と腹をくくり、朝の暗いうちから夜更けまで筆を走らせたという。 1798(38歳)、オランダの風景版画に啓示を受け、風景そのものを味わうことを見出す。それまでの絵師にとって、風景はあくまでも人物の背景に過ぎなかったのだ(鑑賞の対象ではなかった。鎖国中に交流を持っていた国オランダは、西洋で最も風景画が盛んだった国だ)。一方、貧乏生活は続いており、北斎は自分の描きたい絵ではなく、本の挿絵、役者絵、美人画、武者絵、果ては相撲画まで、内職として手当たり次第に描くしかなかった。北斎は「私は絵を描く気違いである」と宣言し、名前を“画狂人”とした時期もあった。だが、誇りは高かった。ある時、長崎のオランダ商館が彼の絵を高値で買い上げてくれた。その絵を見た他のオランダ人医師が同じ絵を注文したが、絵が完成すると“半値にしてくれ”と北斎に値切ってきた。怒って絵を持ち帰った北斎に、妻が“半値でも生活の足しになったのに…”と言うと、「同じ絵を相手によって半値にすれば、日本の絵描きは掛け値の取引をすると言われる。この様な事は絵師のみでなく、日本人全体の信用に係わる大事なのだ」と応えた。またある時は、大名の使者が絵の依頼をしてきたが、その頼み方があまりに横柄で高飛車だったので、そっぽを向いた北斎は、一言も返事をせず使者を家から叩き出したという。
1814年(54歳)、民衆の様々な表情や動植物のスケッチを収めた『北斎漫画』を発表。町人が割り箸を両鼻に突っ込んでたり、ロウソクの灯を鼻息で懸命に吹いてたり、禅僧・達磨(だるま)が百面相を作ってたりと、見ていて本当に楽しく、大きな人気を博した。「漫画」とは“思いつくままに描いた絵”といった意味。軽妙で自由奔放な筆運びから、北斎は“森羅万象を描く絵師”とまで言われた。余談だが、西洋に輸出された日本陶器の包装紙に『北斎漫画』が使われ、そのデッサンの秀逸さに驚嘆した仏人の版画家が画家仲間に教え、そこから空前のジャポニスム=日本ブームが広まったという。
北斎は人物画、風景画、歴史画、漫画、春画、妖怪画、百人一首、あらゆるジャンルに作品を残し、しかもそれぞれが北斎の情念のこもった一流の作品だ。また、長寿だった分、引越し記録93回(!)などビックリするようなエピソードも多い。引越し魔の彼は、一日に最高で三回も転居したという。名前の変更は30回に及んだ。これは、様々なジャンルに挑戦した北斎が、真の実力を世に問う為に、新人の振りをして画号(名前)を変えたことによる。“魚仏”、“雷震”、“時太郎”、“三浦屋八右衛門”、光琳派の絵には“俵屋宋理(そうり)”、最晩年は“画狂老人卍(まんじ)”と、もう訳がわからない。
また、彼は人の度肝を抜くことを楽しみにしていた節がある。縁日の余興で120畳(なんと200平方メートル!)の布へダルマを描いて人々を驚かせたり、小さな米一粒に雀2羽を描いてみせたり、クイズを画中に入れたり、果てには将軍家斉の御前で鶏の足の裏に朱肉を付け紙上を走らせ“紅葉なり”と言い放ったりと、やれることは全てやったという感じだ。
北斎芸術の頂点は70歳を過ぎて刊行された『富嶽三十六景』。これは50代前半に初めて旅に出た際に、各地から眺めた霊峰・富士にいたく感動し、その後何年も構図を練りに練って、あらゆる角度から富士を描き切ったもの。画中のどこに富士を配置すべきか計算し尽くされ、荒れ狂う波や鳥居の奥、時には桶の中から富士が覗くこともあり、まるで富士を中心に宇宙が広がっているようだ。同時に、作中には富士の他にも庶民の生活が丁寧に描かれ、江戸っ子は富士と自分たちのツーショットに歓喜し、“北斎と言えば富士、富士と言えば北斎”と称賛した。
北斎はその後も富士を描き続け、74歳の時に『富嶽百景』を完成。そのあとがきに彼はこう寄せた--「私は6歳の頃から、ものの姿を絵に写してきた。50歳の頃からは随分たくさんの絵や本を出したが、よく考えてみると、70歳までに描いたものには、ろくな絵はない。73歳になってどうやら、鳥やけだものや、虫や魚の本当の形とか、草木の生きている姿とかが分かってきた。だから80歳になるとずっと進歩し、90歳になったらいっそう奥まで見極めることができ、100歳になれば思い通りに描けるだろうし、110歳になったらどんなものも生きているように描けるようになろう。どうぞ長生きされて、この私の言葉が嘘でないことを確かめて頂きたいものである」。
しかし!『富嶽百景』を刊行した頃、人々の興味はまだ30代の若い天才絵師、広重の風景画に移っていた。人気に陰りが見え、再び借金が増えていく。そこへ天保の大飢饉が起こり、世間はもう浮世絵どころではなくなった。老いた北斎は最初の妻、2度目の妻、長女にも先立たれ、孫娘と2人で暮らし。窮乏生活を送っていたそんな79歳の時に火災にあい、彼がまだ勝川春朗の名だった10代の頃から70年も描き溜めてきた、全ての写生帳を失う悲劇に遭遇する。この時北斎は一本の絵筆を握り締め「だが、わたしにはまだこの筆が残っている」と気丈に語ったという。
※83歳の時の住所録では「住所不定」扱いになっている。
この後、火災の教訓からか、彼は自分が培った画法を後世の若い画家に伝える為、絵の具の使い方や遠近法についてまとめた『絵本彩色通』や手本集『初心画鑑』を描き残した。この時すでに87歳。弟子が長旅をする時は現地の特産品や魚介の写生を依頼するなど、北斎の絵に対する執念は衰えなかったが、1849年4月18日、浅草の長屋でついに病に散った。享年88歳。死を前にした北斎は「せめてもう10年、いや、あと5年でもいい、生きることができたら、わたしは本当の絵を描くことができるのだが」と嘆いた。この偉大な絵師は、最後の最後まで修業をしていたのだった。
墓は上野駅から浅草に続く大通りから、一筋入った誓教寺にある。英文の解説が書かれた案内板が立っていることから、海外からの巡礼者も多いのだろう。「画狂老人卍墓」と刻まれたその墓は、雨風から守る為の、特製のお堂に入っていた。僕は墓前で北斎の墓の絵をスケッチした。絵師の彼を逆に描いていると、なんだか墓が恥ずかしがってるように見えて微笑ましかった。彼と同じ国に生れることができて、本当に嬉しい。
(他の浮世絵師との年齢差は、広重と国芳が共に彼より37才年下、歌麿は逆に7才年上になる)
主な参考文献:アーティスト・ジャパン(新集社)、葛飾北斎名品展図録、世界人物事典(旺文社)、エンカルタ総合大百科 |


| 《あの人の人生を知ろう》 | ||
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