すべての武将たちのヒーロー
【 あの人の人生を知ろう〜真田 幸村 】 

Yukimura Sanada 1567-1615.5.7



性格はとても優しいのに超強い 『戦国セレクション』から 上田駅前の真田幸村像は、鹿の角の兜を装着 PS2『戦国無双』の幸村

●君は「幸村まつり」を知っているか!?〜幸村終焉の地を巡礼(安居神社)2009

うおお!祭りの旗が見えてきた! 2009年の幸村まつりは5月5日だった 夢か誠か視界にたなびく六文銭の真田旗!



故郷長野の上田市や大阪の真田隊が結集。目の前が赤、赤、赤ッ!アドレナリンが噴出!真田の赤備えは人数が揃うとカッコ良さ倍増っすね!






戦死した場所に供えられるたくさんの酒や食べ物

「真田幸村戦死跡之碑」とある

幸村公の武勇は異国にも轟いて
るようで、異人さんもチラホラ

仰天!「真田幸村公、家康狙撃の銃」
(すごく新しく見えるのはきっと僕の気のせい…)
説明文には「幸村公が九度山にて御使用
の品々」とあった。モチ、六文銭入り!
この神社に建立が予定されて
いる幸村像のミニチュア

境内の隅っこでチビッコ真田兵がネコと遊んでいた(笑)

●まず最初に、幸村もスゴイが親父さん(昌幸)もスゴイ!

幸村の父・真田昌幸がまだ武田信玄の家臣だったころ、甲斐国甲府で次男として生まれた。本名、真田信繁。信繁の名は「川中島の戦い」で散った信玄の弟・武田信繁(信玄に匹敵する名将で兄をかばって戦死した)を敬慕して父がつけたもの。幸村が8歳の時、「長篠の合戦」で武田軍は敗北し、この戦で父の2人の兄も討死した。1582年には「天目山の戦」で信玄の子・勝頼も自刃し、これで主君の武田家は滅亡する。

この戦の帰り、わずか300人で敗走する真田軍は北条軍4万と遭遇する。発見されれば瞬殺だ。すると15歳の幸村が「父上、私に策があります」と昌幸に進言した。それは無地の旗に北条方の武将の紋(永楽通宝)を描くことだった。しかし、味方のフリをして逃れても怪しまれたら終わり。だが、疑う隙も与えぬ方法があった。夜襲を掛けるのだ。真田軍は50人ずつ分かれ、6方向から襲撃して人数が多いように見せた。
北条側は旗を見て自軍の武将が裏切ったと思い大騒ぎ。その混乱に乗じて敵陣を突破した。6つの旗に銭が描かれたことから、これにちなんで幸村の旗印は「六文銭」の紋になった。また、三途の川を渡る船賃は6文とされ、当時は棺の中に六文を入れたことから、“真田隊はいつでも死ぬ覚悟が出来ている”という気概を象徴した。

                       六文銭の旗印

「武田が滅び、次はいったい誰を主君にすればいいのか…」悩んだ昌幸は信長に名馬を贈って接近しつつ、『真田家』として独立大名への道を模索する。ところが勝頼の死からわずか3ヵ月後の6月に信長も本能寺の炎の中に消えた。仕方なく7月から関東の覇者北条氏の配下になり、さらに9月には家康に従属するなど戦国の世を渡る為に昌幸は試行錯誤する。

1583年(16歳)、昌幸は上杉軍に勝利して信濃国北部(長野・上田市)に居城となる上田城の築城を開始。翌年、家康と北条が和睦する。この時、真田家にとって大事件が起きた。家康は講和の条件に“真田領の沼田(群馬北部)を北条に譲る”と勝手に決めたのだ!父は怒った。「沼田は真田が戦で勝ち取った土地であり、徳川から頂戴した土地ではない!」と引渡しを拒絶した。天下を狙う家康は、このまま真田の言い分を聞いてしまうと「徳川はあんな小国も自由に出来ぬのか」と笑い者にされてしまう。家康はメンツを守る為に真田征伐を決定した。昌幸は徳川との対抗上、越後の上杉に接近する。しかし、上杉はこれまで何度も戦ってきた相手。そこで17歳の幸村を「人質」として上杉に送った。

●第1次上田合戦

1585年8月、家康は徳川軍7千を信濃に派遣し、昌幸は兵700でこれを迎え撃った。10倍の徳川軍と戦って勝ち目はあるのか?昌幸は築城中の上田城に兵500を入れ、残りの200をおとり部隊として城の手前の神川に配置する。そして城下町のあちこちに柵を交互に置いた。姿を現した徳川軍はおとり部隊へ攻撃を開始。おとり部隊は敗走する振りをしながら城の側まで敵を引き寄せた。調子に乗る徳川軍「真田は不甲斐ないのう」。徳川軍が城下にすっかり入ったことを確認すると、昌幸は道に面した家屋に火を放った(住民は既に避難済み)。

この日は風が強く、すぐに徳川軍は炎に包まれた。しかも、大軍ゆえに柵で身動きが取れない。そこへ真田鉄砲隊の一斉射撃が始まった。大混乱に陥った徳川軍に対し、さらに隠れていた農民兵が襲い掛かった。徳川軍が火災から逃れるように川へ逃げ込むと、上流で真田側が堰を切った為に大増水。多くの人馬が流された。徳川勢の死傷者は3千を超え、ついに撤退命令が出され、真田軍は10倍の敵を見事に撃退、『上田合戦』に勝利した。“徳川敗北”の報は天下を巡り、“真田恐るべし”と諸大名から一目置かれるようになった。

昌幸は家康との次なる戦いに備え、秀吉の力を頼ることにする。秀吉は真田家の後ろ盾となることを約束し、人質(幸村)は上杉から秀吉の下へ移った。この後、家康は秀吉に屈服し、あとは関東北条氏さえ下せば天下の統一となった。1590年(23歳)、20万の兵を導入して小田原征伐は完了。秀吉は天下人となり、真田も徳川も同じ主君に従う家臣として和解する。昌幸の長男・信之(幸村の兄)は徳川四天王の一人・本多忠勝の娘と結婚し、幸村は秀吉の重臣で敦賀の大名・大谷吉継(石田三成の親友)の娘と結婚した。1598年(31歳)、秀吉病没。時代は再び動き出す。

1600年(33歳)、家康は天下取りに向けて豊臣五大老の征伐を開始、前田利長(利家の子)を服従させた後、会津120万石の上杉景勝に狙いを定めた。6月、家康は東進開始。一方、石田三成が7月に挙兵。21日、上杉討伐に従軍していた真田父子(昌幸、信之、幸村)は、下野国犬伏(栃木・佐野市)で家康を断罪する密書を受け取った。そこには「秀吉の遺命に家康は背き、秀頼を見捨てて勢力を拡大している。秀吉の御恩を大切にするなら西軍に入るべし」と記してあった。

「これはどうしたものかのう…」その夜、真田父子は東西のいずれに身を置くか話し合った。昌幸の妻と石田三成の妻は姉妹。信之の妻は父が徳川四天王、幸村の妻は父が三成の最大の親友(ちなみに側室は豊臣秀次の娘。)。昌幸は真田領譲渡の一件で家康を嫌っていたが、信之は和平後に家康から才を認められ側近を務めるなど家康と親しく、幸村は豊臣方での人質時代に世話になった知人が大勢いる。その結果、昌幸と幸村が西軍に、信之が東軍につくことになった。敵味方に分かれる事になった両者は、互いの武運を祈ると共に、戦国の世の非情さを痛感した。昌幸・幸村は上田城に帰った。家康は信之が残ったことに感激し、関ヶ原の後、昌幸の土地は信之に与えることを約束した。

関ヶ原に向かう家康は、関東不在中に上杉・真田軍に江戸を奪われぬよう、軍を二手に分けて進軍した。自ら率いる本隊8万は東海道を、嫡子・秀忠が大将の分隊4万は真田の牽制も兼ねて中山道を行かせた。西軍としての昌幸の戦略は、秀忠軍を足留めして関ヶ原合戦に遅刻させること。東軍の両隊12万に対し西軍は9万と数の上では負けている。しかし本隊8万のみなら西軍の方が1万多い。小大名の真田が関ヶ原で秀忠の4万を倒すことは不可能だが、合戦に遅参させれば倒したも同然。このあたり昌幸が天才戦略家と呼ばれる由縁だ。

●第2次上田合戦

秀忠にとって、重要なのは関ヶ原であり、真田攻めはあくまでも“大事の前の小事”。無視して真っ直ぐ関ヶ原に行っても良かった(ていうか、行くべきだった)。しかし、信濃を通過後に背後から攻撃される可能性があり完全には無視できない。まして秀忠はこの時21歳と若いうえ、これが初陣だった。かつて徳川軍が敗退した上田城を自分が落とせば、関ヶ原に到着した時の良い土産になるし、初陣を勝利で飾れば父からも誉められる…「我が軍は4万、上田城は天守閣すらない小城(実際、真田軍は2千人だけ)、負ける訳がない」。
一方、昌幸としても秀忠を関ヶ原に行かせない為に、何とか相手を怒らせ、戦闘に持ち込む必要があった。

秀忠は上田城に近づくと、「この大軍を知れば戦わずに降伏するかも知れぬ」と、使者を立て降伏勧告をさせた。使者に選ばれたのは信之と本多忠勝の子・忠政。「信之、父上を説得して来るのだ」。会談の場に現れた昌幸は頭を剃り、粛々と降伏を受け入れ開城を約束した。秀忠は大喜び。「それ見たことか。我が軍は一人の犠牲も出さずに真田を落としたぞ!」。…ところが策士・昌幸、これは巧みな時間稼ぎだった。その日も、翌日も開城されない。どうなっているのだ。翌々日、9月5日。関ヶ原合戦は10日後(15日)であり、布陣の準備や他大名との作戦立てを考えると2日前には着いていたい。もうタイムリミットだ。

「これ以上待てん!今一度使者を送って開城を催促して来い!」。すると昌幸は、会談を拒否するどころか逆に『宣戦布告』をしてきた!「カーッ!真田め、徳川を馬鹿にしおって!」。秀忠の側近達は“殿、真田など無視して先へ!”と説得したが「何もせずナメられたままでは、武士の顔が立たぬわ!余は物笑いの種ではないか!」。秀忠は全軍に攻撃命令を下した。

真田側は上田城に昌幸が、北部の戸石城に幸村が入っていた。秀忠は本隊で上田を攻め、分隊を戸石に派遣した。分隊の大将は土地勘のある信之が選ばれた。幸村は「それがし、兄上とは戦いとうない」と、信之が着く頃には上田城に撤退していた。信之はもぬけの殻の戸石城に入ったが、奪還される可能性があるのでそのまま城を守備した。昌幸は戦わずして秀忠軍を分断することに成功し、また信之がいないので思う存分戦えた。

昌幸は徳川軍を挑発する為に、まず昌幸と幸村が自ら50騎を率いて城外に出てきた。総大将が現れて徳川軍はびっくり。昌幸らは偵察だけして戦わずに城内へ戻って行った。総大将が最前線に出てきたのは“お前らに絶対やられはせん”と嘲笑するのと同じ。頭に来た徳川軍は一斉に城門へ向かった。その結果、後方の本陣が手薄になる。この一瞬の隙を突いて、敵本陣の後方に潜んでいた伏兵たちが秀忠を襲撃した。
「本陣が攻撃されているぞ!」慌てて徳川軍は城に背を向け戻り始めた。そこを城内の真田鉄砲隊が一斉射撃!徳川軍がパニックになると、城門が開いて幸村の騎馬隊が襲い掛かってきた。徳川軍は挟み撃ちになって大混乱。これはいつか来た道。徳川は援軍が到着したが、城の手前の神川は真田側によって上流の堰が切られて大増水しており、渡河して参戦することが出来ない。

真っ赤だった顔色がみるみる真っ青になる秀忠。水位が下がって援軍が合流すると、真田軍は上田城に閉じこもって篭城戦に入った。城内にはたっぷりと兵糧・弾薬が備蓄されている。「この城を落としていたら関ヶ原に間に合わぬ…無念」。
秀忠軍は急いで関ヶ原へ向かったが、途中の天候が最悪。山中で豪雨にあうわ、利根川は洪水寸前だわで、関ヶ原合戦の開戦時間に間に合わないばかりか、到着したのは合戦から4日後の9月19日のことだった。家康は激怒し、秀忠が合流しても3日間対面を禁じた。

●高野山へ

真田父子は秀忠軍を翻弄し、遅参作戦は大成功に終わったが、肝心の関ヶ原の方で西軍が敗れてしまった。第二次上田合戦に勝利したのに敗将という立場になった2人。家康は真田父子に二度もメンツを潰され死罪にするつもりだった。そこへ信之と本多忠勝が助命の懇願にきた。「真田だけは絶対に許せん」と譲らぬ家康に対し、信之は「自分の命と父弟の命を引き換えに」と訴え、忠勝に至っては「ならば、殿と一戦つかまつる」と言う次第。家康はあくまでも特例として、真田父子を高野山の麓の九度山へ謹慎させることにした。
昌幸は上田城から連行される際、「悔しい。家康をこのようにしてやりたかった」と涙ながらに語った。10月9日、高野山に到着。
※配流先への家臣の同行も一部認められ、昌幸には16人の家臣が、幸村には妻が随行した。当時の高野山は女人禁制だったので、幸村たちは高野山の入口となる九度山に入った。

配流先の善名称院(ぜんみょうしょういん)、通称『真田庵』で父子は仕送りに頼って細々と生活を送る。昌幸は三男に宛ててこんな手紙を書いている--「借金が重なって大変苦しい。至急20両を届けて欲しい。無理なら10枚、せめて5枚でも」。幸村も「焼酎を2壷送って欲しい。そして途中でこぼれないようシッカリと2重に蓋をして欲しい」と書くなど、配流生活は実に侘しい日々だった。※信之の妻・小松は鮭を届けている。
1611年(44歳)、配流から11年目に昌幸が再起の夢も虚しく病没。享年64歳。翌年に幸村は出家、伝心月叟と名乗った。幸村は来るべき日に備えて兵法書を読み、武術の訓練を積む。

「真田庵」の文字の下に旗印の“六文銭”が。 真田橋。九度山は真田づくし!

やがて時代は徳川と豊臣の全面対決へ。1614年10月1日(47歳)、家康は大坂城討伐令を布告。豊臣家の兵は3万しかおらず、秀頼は関ヶ原以降の徳川の政策に不満を持っている諸国の大名や浪人に対し、大坂城に結集するよう呼びかけた。大名は動かなかったが浪人は大勢集まった。家康が天下を統一して戦が無くなった今、諸大名からの召抱えを期待する浪人で豊臣勢は10万を超える大軍となった。
高野山にも使者が尋ねて来た。「徳川を滅ぼすため幸村殿の力を貸して頂きたい」豊臣家から当座の支度金として黄金200枚、銀30貫が贈られた。

使者が帰った後、幸村は感極まる「このまま高野の山中に埋もれるかと思ったが、ついに武士として最高の死に場所を得たぞ!」。幸村は14年間の謹慎生活で周辺の農民とも親しくなっており、彼らは幸村の心境を察し、脱走に協力したという。10月9日、幸村は高野山を脱出し妻子(長男大助など5人の子)と共に大坂城に入城した。
14日、家康の元に「真田が入城せり」と報告が入る。「なんだとッ!」家康は驚愕して立ち上がり、思わず掴んだ戸が手の震えで音を立てたという。「その篭城した真田は親か子か」「子の幸村であります」。まだ幸村の本領を知らぬ家康は胸を撫で下ろした。

大坂城での軍議は「篭城」「出撃」で真っ二つに割れた。豊臣家重臣は大坂城の堅牢さに自信を持っており、長期的な篭城戦に持ち込むことで、真冬が来て敵は疲弊し、諸大名にも寝返りが出てくると主張。幸村たち浪人衆は篭城策が有効なのは援軍を待つ時だけであり、今回は先制攻撃をかけ、伏見城、宇治川、京都、大和、茨木、大津を真っ先に抑えて畿内を統一し、遠征で疲労した東軍を迎え撃つ野戦を主張した。しかし、結局は「きっと味方になる大名が現れる」という豊臣家の強い願望が作戦に反映され、篭城策になった。

「さて、どう戦うか」。篭城が決定した後、幸村は攻城戦をシミュレーションして、東に湿地帯、北に天満川、西に難波港という地形を考えると、大軍が陣を張るのは南と考え、最も防衛力をそこへ集中する必要があるとし、南城壁の外側に砦・真田丸を築いた。真田丸は背後を大坂城の堀で防御し、三方を空掘り(水の無い堀)と三重の柵で囲み、矢倉、銃座、城内への抜け穴を持つ強固な砦になった。

●大坂冬の陣

11月15日、『大坂冬の陣』開戦。幸村は大坂城の外に飛び出た「真田丸」が総攻撃の的になる事を覚悟して立て篭もり、兵たちの団結力を高める為に、真田隊の鎧を赤で統一した(真田の赤備え)。家康は力攻めでは落城できぬと判断し、城内にスパイを忍ばせて内部の切り崩しを謀るなど、攻撃のタイミングをうかがった。同時に戦場では常に争いの種になる「一番槍」を固く禁じた。※最初に戦った者は合戦の勝敗に関係なく、英雄として後世まで語り継がれる。武士の世界では最大の名誉。

  頭に六文銭

開戦から数日が経っても一向に東軍が攻めてこないので、幸村は敵兵の功名を焦る気持を刺激する心理戦で勝機を生もうとした。真田丸と敵陣との間には小山がある(真田丸の前方200m)。幸村はこの山に少数の鉄砲隊を配置し、前列の前田利常隊を連日射撃した。前田隊には死傷者が出たが家康はまだ攻撃命令を出さない。前田隊の兵たちは腹を立てて、小山の鉄砲隊を追い払おうと出陣したが、山につくと既に敵兵は撤退して誰もいない。手持ち無沙汰で小山をウロウロする前田隊は両陣営から笑われた。

翌日(12月4日)も発砲された前田隊は、小山に夜襲をかけたがやはり誰もいない。カッコ悪くて陣に戻れず、前田隊は真田丸の堀まで進撃した。これを見た徳川勢は、前田隊が「一番槍」を抜け駆けしたと思い、「我が隊も遅れをとるな!」と井伊直孝、藤堂高虎、松平忠直の各隊が真田丸に殺到した。まさに幸村の思うツボ。「撃ていッ!」堀に入った敵兵は真田丸からの一斉射撃を受けた。一瞬のうちに数百名の犠牲者を出した東軍は退却を始めたが、その時真田丸後方の城壁で、守備兵が誤って火縄を火薬桶に落とし大爆発が起きた。城内には徳川の内応者が裏切る手はずになっており、これを寝返りの合図と勘違いした東軍は引き返して来た。

手柄を焦り狭い城門の前にひしめき合う敵兵を見て、幸村は呆れ果てた。連中は開城を待っており防御していない。「…では遠慮なく」再び真田鉄砲隊の一斉射撃!みるみる死傷者が増え、やがて事態を把握した東軍は撤退を始めようとしたが、後方からはどんどん援軍がやって来てバックできない。前にも後ろにも身動き出来なくなった東軍の頭上に、さらに弾丸の雨が降り注ぐ。幸村は完全に指揮系統が崩壊した徳川勢を見て「ようし!一気に叩き潰すぞ!」と、城門を開いて長男・大助ら陸戦隊を突撃させた。

東軍は24時間で1万人以上の死傷者を出し、この日から迂闊に真田丸に接近できなくなった。師走の厳寒の中、吹きさらしの塹壕や仮小屋で野営を続ける東軍の士気は著しく低下していく。米を補給するにも、豊臣側が既に買い占めていたので現地調達は出来なかった。家康は焦燥する。

家康は家臣の真田信尹(幸村の叔父)を使者に真田丸を訪問させ、「信濃10万石で寝返らないか」と幸村を勧誘した。信濃一国をやるというのだ。幸村は「お断り申す」。あっさり断った。

「うーむ、これでは埒(らち)があかん」家康は豊臣方に和議を提案した。当初、総大将・秀頼は和睦を拒否した。しかし、家康が一晩中、約300門の大筒(大砲)で断続的に攻撃する為、轟音で母・淀君の神経が参ってしまった。しかも一発が居室を直撃、侍女の8名が即死した。悲惨な現場を見て震え上がった淀君は秀頼を説き伏せ、城の『外堀』を埋めることを呑んで12月20日に和平が成立した。豊臣側は「だらだらと埋め立てて時間を稼ごう。家康はもう高齢だ。死ねば諸大名も寝返るだろう」と考えた(事実、家康は1年半後に他界している)。和平が結ばれ、真田丸は日本中の大名20万を相手に大阪城を守り通した。

※冬の陣で幸村は真田の軍旗「六文銭」を使用せず、真紅の旗を使っている。東軍の兄・信之の部隊が「六文銭」を掲げていたので、立場を考え遠慮した。ただし、冬の陣に信之は病気で出陣しておらず、代わりに2人の若い息子が戦列に加わっていた。甥っ子たちは攻撃が巧みで豊臣の武将も感心し、猛将・木村重成は鉄砲隊に「あの六文銭の2人を撃つなよ。鉄砲なんかで殺してはならん」と命じた。

しばしの休戦。幸村は故郷の姉や親戚に遺書とも思える手紙を書く。「豊臣方について本家に迷惑をかけ申し訳ありませぬ。豊臣の味方をして奇怪とお思いでしょうが、まずは戦いも済み、自分も死なずにいます。ただし明日はどうなるか分かりませんが…。とにかく今は無事です」。







姉への手紙 大坂の陣で幸村が使った巨大望遠鏡(奥)と弁当箱(手前)

ただちに外堀の埋め立てに取り掛かった家康は、豊臣側が工事を担当したエリアまで「お手伝い」と称してどんどん埋めていった。一気に内堀まで埋めようとする東軍に豊臣方が抗議しても、シラを切ったり、とぼけたりで、約1ヶ月後には外堀、内堀、全ての堀が埋まり、真田丸も壊されてしまった。大坂城は本丸だけの裸城になった。さらに家康は、秀頼に大坂から別の土地への国替えと、すべての浪人の追放を要求してきた。秀頼はキレた「和談要求は我がドクロの前で言え!」。

●大坂夏の陣

1615年4月28日、夏の陣開戦。兵力は豊臣軍約7万、徳川軍約15万5千。豊臣方の武将は城を捨て野戦にうって出た。2倍の敵に突撃していったのだ。
5月6日、「道明寺の合戦」。豊臣方は奈良と大坂を結ぶ道明寺付近に布陣して、畿内入りする東軍を各個撃破する作戦をとった。しかし、スパイがいた為に進軍ルートを変更され、しかも濃霧の中で豊臣勢は終結が遅れ、先に集合地点に着いて孤立した後藤又兵衛、薄田兼相(すすきだかねすけ)ら有名武将が、伊達政宗の騎馬鉄砲隊1万5千の前に次々と壮絶な戦死を遂げていく。

幸村が到着した頃には戦線が崩壊しており、撤退する大坂方の殿軍(最後尾)を務めた。幸村は伊達軍に対し、地面に伏した長柄槍隊で波状攻撃をかけ追撃を食い止めた。幸村は「関東の武士は百万いても、男は一人もおらんのう!」とひと吠えした後、悠々と帰還した。大坂城に戻った幸村は、木村重成が八尾合戦で討死したことを知る「そうか…あの男も逝ったか」。

5月7日、幸村は徳川の主力が天王寺方面から進軍して来ると予想し天王寺口(茶臼山)に布陣。多くの古参武将が倒れた今、戦に勝利する方法はただ一つしかない。家康の首だ。豊臣勢の疲弊は激しく、幸村は兵の士気を一気に高める為、秀頼出陣を求めた。城内には「幸村は東軍の兄のスパイ」という心無い噂が広まっていたので(おそらく東軍内応者の仕業だろう)、幸村は子・大助を大坂城に人質として送り、秀頼の出馬を要請した(秀頼側近によって出馬は阻止された)。

正午。幸村の正面の越前松平軍1万3千の後方に、家康は本陣を張った。幸村は目を細める。「まっこと、ワシは名誉な死に場所を得た。真田隊、行くぞ!」。真田隊3千は、家康だけにターゲットを定め一丸となって突撃を敢行した。幸村は越前勢の戦力を分散させる為に、数名の影武者と共に進撃し、各影武者が果敢に東軍を引き付けた(影武者は最初から死ぬ気だ)。真田隊は鬼気迫る戦いぶりで越前勢の大軍の中を突破し、そして防御が手薄となった場所を突いて、とうとう家康の本陣にたどり着いた!

本陣前では家康の旗本隊(先鋭部隊)が人間の壁を作り、真田隊の猛攻を受け止め凄絶な乱戦となった。真田隊は討死が相次ぐが、戦列を整えて3度本陣への突撃を繰り返した。そしてついに家康の『馬印』(うまじるし、本陣の旗)が引き倒された。家康にとって馬印が倒されたのは、生涯で「三方ヶ原の戦」の武田戦と、この真田の特攻の2度だけだ。“真田にこの首は取らせぬ!”踏み倒された馬印を見て家康は腹を切ろうとしたが、これは側近たちに止められた。

決死の覚悟で臨んだ真田隊だが、多勢に無勢、次第に追い詰められ四天王寺に近い安居神社に撤退した。負傷した幸村は神社の側の畦(あぜ)で手当てをしていたが、そこを越前松平隊の西尾仁左衛門に槍で刺され討ち取られた。享年48歳。翌日、秀頼・淀殿は自害し、大助も秀頼に殉死。こうして大坂夏の陣は終わった。幸村を討って褒美を授かった西尾仁左衛門は、故郷に「真田地蔵尊」を建て菩提を弔った。

●そして英雄となった

夏の陣で幸村の武神ぶりを目の当たりにした島津家当主・島津忠恒(家久)は、故郷への手紙にこう記した(以下抜粋)。
「真田は日本一の兵(つわもの)。真田の奇策は幾千百。そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚をとっていない。真田を英雄と言わずに誰をそう呼ぶのか。女も童もその名を聞きて、その美を知る。彼はそこに現れここに隠れ、火を転じて戦った。前にいるかと思えば後ろにいる。真田は茶臼山に赤き旗を立て、鎧も赤一色にて、つつじの咲きたるが如し。合戦場において討死。古今これなき大手柄」。

大坂の陣の後。家康は幸村の首実検の際に、「幸村の武勇にあやかれよ」と言うと、居並ぶ武将達がこぞって遺髪を取り合ったという。そして家康は「幸村の戦いぶりは敵ながら天晴れであり、江戸城内にて幸村を誉め讃えることを許す」とした。石田三成のように名前さえ口に出来ない者がいる一方、「誉め称えていい」というのは極めて異例なこと。家康は本陣が崩壊するほど窮地に追い込まれながらも、騎上の幸村に同じ戦国の男として感嘆していたのだろう。

兄の智将・信之は、弟の人柄をこう評している「柔和で辛抱強く、物静かで言葉も少なく、怒り腹立つことはなかった」「幸村こそ国を支配する本当の侍であり、彼に比べれば、我らは見かけを必死に繕い肩をいからした道具持ち。それ程の差がある」。
これは連戦連勝の豪傑としての幸村のイメージとは随分異なる人物像だ。しかし、普段はとても温厚なのに、戦場では無敵の漢に変貌するところが人々の畏敬の念を呼び、各地から集まった浪人衆をひとつに結束させた。名だたる武将の中でも傑出した名将だ。
戦局不利と見るや身内でも裏切りが珍しくない世に、幸村の家臣は誰も降参しなかった。これも高い人徳ゆえと諸将は感心した。庶民からも歌舞伎・講談のヒーローとされたが、幕府はこれを禁じなかった。

幸村は生き延びたければ高野山にいれば良かった。それでも大坂城に入ったのは武人としての死に場所を求めたゆえ。信濃譲渡の話を蹴ったように、保身や利害といった文字は幸村の心にはない。敵味方の関係なく幸村が絶賛されるのは、戦国期においても時に失われがちな武士の誇りを、身をもって体現した数少ない本物のサムライだったからだろう。武士が憧れた武士、それが真田幸村だ。


※千利休が眠る大阪・堺の南宗寺には、なんと家康の墓もある。夏の陣で家康は「真田特攻」で槍の深手を負って死亡し、後の家康は影武者というのだ。これをトンデモ話と一笑できないのは、1623年(大坂の陣の8年後)、家光が3代将軍に就いた時に、父の2代秀忠と共になぜか江戸から堺の南宋寺へ、わざわざ「将軍就任の報告」をしに足を運んでいること、明治期に旧幕臣の剣聖・山岡鉄舟が“この墓は家康のもの”と刻んだ石碑を建てたこと、水戸徳川家・家老の子孫が「家康公の終焉地である事は歴史家が保証している」と石碑を建てている等々、そんな話があるからだ。

※幸村の脇差しは貞宗、刀は正宗。

※「真田がいる限り信濃を取ることは難しい」(上杉謙信)

※江戸元禄期の歴史小説『真田三代記』に八勇士(真田忍者)が登場。後の真田十勇士は、猿飛佐助・霧隠才蔵・根津甚八・由利鎌助・筧十蔵・三好清海入道・三好伊三入道・望月六郎・海野六郎・穴山小助。明治末期の少年向けの読み物『立川文庫』でこの顔ぶれに決定した。それそれにモデルがいると言われている。

※幸村人気は高く、「幸村は影武者・穴山小助の死で徳川方をあざむき、秀頼を守って大坂を脱出し、薩摩で天寿を全うした」という異説もある。実際に大坂の陣の後、次のわらべ歌が流行したという「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きものいたり鹿児島へ」。

             

高野山の麓の「真田庵」に真田家三代が弔われている
中央の霊廟は幸村の父・昌幸の墓
幸村はこの庵を出て大坂城に入城した。墓域には「猿飛佐助」
「霧隠才蔵」など時代劇ファン大興奮の旗がたなびいていた





庵にはゆかりの品を展示した宝物庫が併設され、幸村が
実際に大阪夏の陣で使用した槍先や深紅の鎧兜があった
真田庵には自筆の書も展示!

こちらは京都市右京区の墓。他に彼の墓は10ヶ所近くある






「オイラたち猿飛一族は真田忍者だよ!」


《あの人の人生を知ろう》
★文学者編
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★思想家編
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●大塩平八郎
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●明智光秀
●真田幸村
・源義経
・楠木正成
●石田三成



★芸術家編
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・本阿弥光悦
・棟方志功
・世阿弥
●グレン・グールド
●ビクトル・ハラ

★その他編
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・平賀源内
・淀川長治
●千利休

●印は特にオススメ!





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