人間に限界なし!
【 あの人の人生を知ろう〜南方 熊楠 】 

Kumagusu Minakata 1867.4.15-1941.12.29













愛用の標本採集セット 世界へ飛び出た若き熊楠 晩年 スケッチはカラー&注釈だらけ!
「南方熊楠は日本人の可能性の極限だ」(柳田国男)

JR紀伊田辺駅。駅前で自転車をレンタル可 晩年の25年を過ごした邸宅が公開されている 熊楠の書斎。数々の論文が生まれた


こちらは書庫。採集物の標本などを保管した 書庫内部。熊楠にとっては宝物館! 隣接の小さな資料館にあった熊楠の日記

熊楠が眠る高山寺の山門 墓地に入ると案内の石柱が。さすが地元の英雄





お会いしとうございました!(2001) 9年後に再訪!(2010) 右隣は南方家代々の墓。立札には昭和天皇が詠んだ歌


博物学者、民俗学者、細菌学者、天文学者、人類学者、考古学者、生物学者、その他。
別名「歩く百科事典」。坂本龍馬や西郷、新選組が活躍し、翌年からは明治という1867年、熊楠は和歌山市の金物商の家に生まれた。6人兄妹の次男。子どもの頃から好奇心が旺盛で、植物採集に熱中するあまり山中で数日行方不明になり、人々は天狗にさらわれたと噂し、「天狗ちゃん」と彼を呼んだ。7歳の頃から国語辞典や図鑑の解説を書き写し始めた。1879年(12歳)、中学に入学。知識欲はさらに増大し、町内の蔵書家を訪ねては百科事典『和漢三才図会』(全105冊)を見せてもらった。まだコピー機などない時代であり、熊楠は内容を記憶して家で筆写し、5年がかりで105冊を図入りで写本した(ド根性!彼は植物図鑑25巻や名所図絵等も同様に写している)。

1884年(17歳)、熊楠は大学予備門(現・東大)に入学。同期に夏目漱石、正岡子規、クラスには幸田露伴がいた(すごい時代)。ところが地方から出てきた熊楠は、上野の国立博物館や動物園、植物園で「百科事典で見たものがいっぱい!」と鼻血が出るほど興奮し、大学そっちのけで通いつめた。さらに、米国で植物学者がキノコ・粘菌などの「菌類」を6千点採集したというニュースを聞くと、がぜん対抗意識を燃やし「自分が記録を塗り替えてやる」。そんな有様なので当然学業の成績は急降下。翌年に落第したので“ちょうど良い機会”と自主退学し、田舎の親を仰天させる。

●アメリカへ

1886年(19歳)、実家に戻った熊楠は「学問はアメリカの方が先を行ってます!」と父に渡航の意義を力説。だが、明治維新からまだ間もない時代、親にしてみれば国外に行くのは永遠の別れも同然。“無茶を言うな”と大反対された。しかし、熊楠は8ヶ月にわたって熱弁をふるい続け、ついに親も根負けした「行って来い!」。12月22日、横浜から米国に向けて出航!
年が明けて1887年、船は半月後にサンフランシスコへ無事入港した。19世紀のアメリカで20歳の若者が一人暮らしを始めたのだ。恐るべき行動力。

熊楠は大陸を東へ進んでシカゴに入り、続いてミシガン州に至った。同地の州立農学校を受験しこれに合格。しかし翌年、学生5人でウイスキーを飲み、泥酔した熊楠が寄宿舎の廊下で爆睡しているところを校長に発見され放校処分(21歳)。以降独学し、頻繁に山野へ出かけ、植物採集などフィールドワークに汗を流した。この過程でさらに粘菌の魅力にとりつかれていく。1891年春(24歳)、知人の研究者から「フロリダは新種の植物の宝庫」という情報を聞くと居ても立ってもいられず、顕微鏡など研究道具と護身用のピストルを携帯して鉄道でフロリダへ向かう。現地では八百屋を営む親切な中国人の世話になりつつ、ひと夏の間採集を続け、秋に南端のキーウエストからキューバに渡った。「キューバには日本人はいないだろう」と思っていたら、首都ハバナで公演中のサーカス団に日本人がいてビックリ。両者は意気投合し、熊楠も一座に加わった。象使いの補助をしながらハイチ、ベネスエラ、ジャマイカなど3ヶ月ほど中南米の巡業を共にした(この間も各地で植物採集は続けている)。

   彼の菌類LOVEが溢れている

●イギリスへ

1892年秋(25歳)、米国滞在の6年間で標本データが充実したので、植物学会での研究発表が盛んな英国に渡ることを決意する(大英博物館にも行きたかった)。9月21日、大西洋を横断してリバプールからロンドンへ到着。ロンドンで弟の手紙を受け取った熊楠は、優しかった父が夏に病没していたことを知り絶句する。
1893年(26歳)、下宿で標本整理を続ける一方、天文学会の懸賞論文に出した初論文「極東の星座」がいきなり1位入選し、英を代表する科学雑誌『ネイチャー』に掲載された。「ミナカタ」の名は一躍知られるようになり、その後も「ミツバチとジガバチに関する東洋の見解」「拇印考」など51回も論文が紹介される。
熊楠は連日のように大英博物館へ足を運び、気に入った本から書き写した。この頃の熊楠は「植物も興味深いが人類そのものも面白い」と、人類学、民俗学、宗教学に強く関心を寄せている。筆写ノート『ロンドン抜書(ぬきがき)』は52冊に及び、紙代を節約する為に小さな字でぎっしり埋め尽くした。
※後年の熊楠は18ヶ国語を操ったと言われ、このぶ厚い『ロンドン抜書』でも、英・スペイン・ギリシャ・ラテン・仏・独・伊・ポルトガルなど8種の言語で書かれている。

大英博物館の図書部長は熊楠の驚異的な博識に圧倒され、同館の東洋関係文物の整理、目録の作成を依頼した。彼は大英博物館東洋調査部員となった。同館では展示品の仏像名を考証するなど様々な形で東洋美術に関った。冗談好きの熊楠は、袈裟を着た僧侶姿で働くなど(この服は訪英中の高野山管長から貰った)、茶目っ気のあるところも見せた。当時の彼は亡命中の“中国革命の父”孫文とも親交を結んでいる。

しかし順調なことばかりではない。欧州では東洋人への蔑視がひどく、気の荒い熊楠は屈辱を受けると腕力で返事をした為に、何度も騒動を起こしていた。人類学に造詣が深い彼としては、馬鹿げた人種差別を人一倍許せなかった。30歳の時には館内で英国人を殴りつけ、一ヶ月間入館禁止になり、翌年にも声高の女性を注意した際に騒ぎになり、とうとう博物館を追放される。その後は、翻訳の仕事をしたり、浮世絵の販売をするなどして生活費を稼いだが、ついに困窮極まり8年間過ごした英国と別れ、日本への帰国を決意した。
1900年9月1日午後4時、テムズ川から船は出航した。日記には短く「夜、しばらく甲板に出て歩く」。熊楠、ときに33歳であった(この翌月、熊楠と入替わるように日本の国費留学生第一号、即ち夏目漱石がロンドンに到着している)。

●14年ぶりの帰国

同年10月15日、神戸港に到着。14年ぶりの日本。出迎えた弟はボロを着ている兄の姿に仰天し、何の学位もとらずに書物と標本だけ持ち帰ったことを知り唖然。和歌山への帰郷後は酒屋を営む弟宅(那智勝浦)に一ヶ月ほど身を寄せ、「長く日本酒が呑みたかった」と毎日浴びるように大酒した。一呼吸つくと、日本の隠花植物(菌・苔・藻・シダ類等)の目録を完成する為に、付近を巡って標本採集に精を出した。
1901年(34歳)、訪日中の孫文がはるばる和歌山の家まで遊びに来てくれ、2人は思い出話で盛り上がった。同年、那智で苔の採集中に小畔(こあぜ)四郎という青年に出会う。彼は熊楠の半生を聞いて腰を抜かし、すぐに門弟となった。小畔は船会社に勤めており、各国の寄港地で採集した標本を熊楠に送ってくれた。
これら熊野地方での植物調査は足掛け3年に及び、植物や昆虫の彩色図鑑を作った。また世界の古典文学を読みまくり、鴨長明の『方丈記』をロンドン大総長のディキンズと協力して英文訳に取り組み、完成させた。孫文やロンドン大総長との交流のように、紀州にいてもインターナショナルな熊楠だった。

1904年(37歳)、和歌山・田辺市に家を借り、居を定める。お寺(和歌山市円珠院)に寄宿した時期もあったが、彼がキノコや藻・苔類などを大量に部屋に置き、身だしなみも無頓着で不潔だったので寺が悲鳴を上げ、出て行くことになった。熊楠は田辺を「物価は安く、町は静かで、風光明媚」と絶賛し、亡くなるまでこの町で過ごした。
1905年、整理した粘菌標本を大英博物館に寄贈。これが英の植物学雑誌に発表され、「ミナカタ」は世界的な粘菌学者として認知された。
1906年(39歳)、神社宮司の娘・松枝と結婚。翌年、長男熊弥(くまや)誕生。赤ん坊を見た熊楠は「児を見て明け方まで眠れず」と日記に歓びを刻んだ。生活が落ち着くと採集活動を再開した。田辺周辺で山に分け入り、道に迷って野宿したり、珍しい植物を発見して歓声をあげながらブリキ缶を担いで山を駆け下り、田植えをしていた女性達が天狗が出たと思って逃げ去った等、様々なエピソードが伝えられている。

●環境保護に立つ!

1909年(42歳)、熊楠は『神社合祀(ごうし)反対運動』を開始する。明治政府は国家神道の権威を高める為に、各集落にある神社を1村1社にまとめ、日本書紀など古文書に記載された神だけを残す「神社合祀令」を出した。この結果、和歌山では3700あった神社が強制的に600に合祀(統合)され、三重では5547が942まで激減した。しかもこれにはビジネスの側面もあった。神社の森は樹齢千年という巨木もあり、これが高値で売れたのだ。廃却された境内の森は容赦なく伐採され、ことごとく金に換えられた。

熊楠は激怒した!樹齢を重ねた古木の森にはまだ未解明の苔・粘菌が多く棲み、伐採されると絶滅する恐れがあった。「植物の全滅というのは、ちょっとした範囲の変更から、たちまち一斉に起こり、その時いかに慌てるも、容易に回復し得ぬを小生は目の当たりに見て証拠に申すなり」。熊楠は“エコロジー(生態学)”という言葉を日本で初めて使い、生物は互いに繋がっており、目に見えない部分で全生命が結ばれていると訴え、生態系を守るという立場から、政府のやり方を糾弾した。
※当時は誰も「生態系」という概念すら持っておらず、熊楠が「日本最初のエコロジスト」と呼ばれる由縁だ。

熊楠はまた、民俗学、宗教学を通して人間と自然の関わりを探究しており、人々の生活に密着した神社の森は、子どもの頃に遊んだり、祭りの思い出があったり、ただの木々ではない、鎮守(ちんじゅ)の森の破壊は、心の破壊だと憤慨した。熊楠は新聞各紙に何度も反対意見を出し、合祀派の役人を舌鋒鋭く攻撃した。彼は国内の環境保護活動の祖となった。

   熊楠が守ろうとした紀州・熊野古道の木々(この杉は樹齢800年)

1910年(43歳)、熊楠は合祀派の県役人が田辺高校の教育講習会に出席することを知り、直談判すべく会場を訪れる。しかし面会を拒否され、植物標本の入った布袋を会場へ投げ込んだ。彼は「家宅侵入罪」で逮捕され、18日間拘留された。でも、熊楠はどこでも熊楠。拘置所で珍しい粘菌を見つけた彼は、釈放を告げられると「もう少し置いてほしい」と言い出ようとしなかったという。

1911年、熊楠の反対運動に共鳴した内閣法制局参事官・柳田国男(民俗学者)は、熊楠の抗議書を印刷して識者に配布し、活動を側面から支えた(柳田は熊楠の家に話を聞きに行った)。同年、長女誕生。この頃から自然科学の論文に加え、民俗学や文化に関するものも大量に書き始める。
1912年(45歳)、熊楠の猛烈な抗議運動がやがて世論を動かし始め、和歌山出身の議員が国会で合祀反対を訴えた。
1915年(48歳)、6年前にアメリカ農務省から省内に入って欲しいと要望書が届いていたが、ちょうど合祀反対運動の開始時で返事をしなかった。すると、この年にわざわざアメリカから農務省の役人が田辺までやって来て、再度の渡航要請をした。しかし彼はまだ反対運動が続いていること、家族のことを考えて辞退した。この米国農務省の一件は、日本社会に熊楠がどれほどスゴい男・世界的博物学者なのか知らしめた(熊楠は海外では有名だったけど日本では無名に近く、近所の人も変わり者の親父と思っていた、笑)。
1917年(50歳)、自宅の柿の木から新種の粘菌を発見し、英の学会で「ミナカテラ・ロンギフェラ」(ミナカタの長い糸)と学名がついた(和名・ミナカタホコリ)。

1920年、10年間の抵抗運動がついに実を結び、国会で「神社合祀無益」の決議が採択された。これ以降、熊楠は貴重な自然を天然記念物に指定することで確実に保護しようと努めるようになる。※世界遺産に指定された熊野古道には、熊楠がいなければ伐採され、僕らが姿を見ることが出来なかった巨木(樹齢800年の杉等)がたくさんある。

●最後まで全力疾走

1925年(58歳)、熊楠は数年前から「南方植物研究所」の構想を練り、建設資金集めに奔走していた。この年に寄付を求める為に書いた「履歴書」が、超密度の濃い人生を象徴するかのように7m70cmという長大なもので、巻紙に細字5万5千字で書かれており、世界最長の履歴書と言われている。翌年には資金作りの為に『南方閑話』『南方随筆』『続南方随筆』という3冊の著書が刊行された。海外への論文は何度も書いてきたが、国内に向けた一般著書はこれが初めて。59歳での初出版となり、人々は随筆に書かれた熊楠の博識に感嘆した。

1929年(62歳)、昭和天皇が田辺湾沖合いの神島(かしま)に訪問した際、熊楠は粘菌や海中生物についての御前講義を行ない、最後に粘菌標本を天皇に献上した。戦前の天皇は神であったから、献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、なんと熊楠はキャラメルの空箱に入れて献上した。「アッ」現場にいた者は全員が固まったが、この場はそのまま無事に収まった。側近は「かねてから熊楠は奇人・変人と聞いていたので覚悟はしていた」とのこと。後年、熊楠が他界した時、昭和天皇は「あのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったという。
※1962年、昭和天皇は33年ぶりに和歌山を訪れ、神島を見てこう詠んだ「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」。

    神島(天然記念物)

1933年(66歳)、白浜の御船山神社境内に天皇の行幸を記念した博物館設立が決まると、「神社に博物館を置くのは文化の破壊」と民俗学者として反対運動を展開し中止させた。翌年、神島の自然を保護するため、島の詳細な植物分布図を作り、史跡名勝天然記念物の申請書を提出。2年後に政府から認定された。
1937年(70歳)、日中戦争が勃発。戦局が拡大するなか、高齢になった熊楠は体調を崩し病床に就く。それでも人生の集大成として、「日本産菌類の彩色生態図譜」(日本菌譜)の完成に向け、これまで採集した標本と、連日弟子達が持ち込んでくる菌類を整理し、世界に誇る作品にするべく、写生し、注釈を書き、死力を尽くして奮闘し、4500種・1万5千枚の彩色(カラー)図譜を完成させた。熊楠が生涯に発見した粘菌は40種以上に及んだ。

1941年、病状悪化から死期を悟った熊楠は、家族への形見として『今昔物語集』に署名する。12月8日、米英に知人の多い熊楠は、真珠湾攻撃のニュースに絶句。その18日後の29日朝6時30分、「天井に紫の花が咲いている」という言葉を最期に激動の人生を終えた。享年74歳。翌日に熊楠の希望で脳解剖され、阪大医学部に脳髄が保存された。田辺市郊外、神島を望む真言宗高山寺に埋葬される。戒名は智荘厳院鑁覚顕真居士。1965年(没後24年)、和歌山県白浜町に南方熊楠記念館が開館した。

「南方熊楠は日本人の可能性の極限だ」(柳田国男)
江戸時代に生まれ昭和に死んだ熊楠。なんという破天荒な人生、天衣無縫さ。あまりにカッコよすぎる。記憶力も驚異的だけど、熊楠は気が遠くなるほど膨大な量の書籍を写本し、自分の足で世界各地の山野に分け入り標本を集めた『努力の人』だ。熊楠の口癖は「読むことは写すこと。読むだけでは忘れても、写せば忘れぬ」だったという。熊楠は何かに興味を覚えると、それに関連する全ての学問を知らなければ気が済まないという、底なしの好奇心と爆発的な行動エネルギーの持ち主だった。
『ネイチャー』に論文が載るのは研究者の夢。科学者なら一生に一度は掲載されたい。東大、ハーバード、ケンブリッジ、どこの大学教授も、研究チームも“いつかはネイチャーに”というのが悲願。それを熊楠は51回!しかも最初に掲載されたのが天文学に関するもので、彼の十八番の粘菌関係じゃないので2度ビックリ。
学歴もなく、どの研究所にも属さず、特定の師もおらず、ただの民間の一研究者。何もかもが独学で肩書きナシ。国家の支援も全く受けずに、これほど偉大な業績を残した人間が実在した。
「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」(南方熊楠)

※日本で孫文と再会した時に、別れ際に熊楠へ贈った孫文愛用のパナマ帽や、熊楠が大英博物館で作成した『ロンドン抜書き』、ルーペ、メガネ、採集用具などは、白浜の南方熊楠記念館で公開されている。
※粘菌や昆虫(害虫も含めて)など微小なものを徹底して観察した熊楠は言う--「世界に不要のものなし」





これが噂の標本箱、
森永ミルクキャラメル

熊楠の死の約20年後、昭和天皇が和歌山で
詠んだ歌「雨にけふる神島を見て 紀伊の国
の生みし南方熊楠を思ふ」(熊楠の墓で撮影)


《あの人の人生を知ろう》
★文学者編
・宮沢賢治
・太宰治
・小林多喜二
・樋口一葉
・梶井基次郎
・清少納言
・近松門左衛門
・高村光太郎
・石川啄木
・西行法師
・与謝野晶子
・茨木のり子
●尾崎放哉
・種田山頭火
●松尾芭蕉
・ドストエフスキー

★学者編
●南方熊楠
●湯川秀樹

★思想家編
●チェ・ゲバラ
・坂本龍馬
●大塩平八郎
・一休
・釈迦
・聖徳太子
・鑑真和上
・西村公朝
・フェノロサ

★武将編
●明智光秀
●真田幸村
・源義経
・楠木正成
●石田三成
・織田信長




★芸術家編
●葛飾北斎
・尾形光琳
・上村松園
●黒澤明
・本阿弥光悦
・棟方志功
・世阿弥
・伊藤若冲
●グレン・グールド
●ビクトル・ハラ
●ベートーヴェン
●ゴッホ
・チャップリン

★その他編
●伊能忠敬
・平賀源内
・淀川長治
●千利休

●印は特にオススメ!

※番外編〜歴史ロマン/徹底検証!卑弥呼と邪馬台国の謎(宮内庁に訴える!)



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