邪馬台国を探せ!〜古代ロマンをひもとく
【 卑弥呼の墓と邪馬台国論争 】

★Himiko 153?175?-247?248?


卑弥呼の墓と言われている箸墓(はしはか)古墳入口。
この先は宮内庁が調査禁止に。公開して〜!(1999)
9年後に再訪。この前週、新たに大規模な周濠が
発見されたと報道され、考古学ファンを湧かせた
弥生文化博物館
の卑弥呼復元像



「倭迹迹日百襲姫命
大市墓」とある
箸墓古墳の全景。一帯はとってものどかデス

この角度から見ると、手前が方形で奥が円に
なっている「前方後円墳」というのがよく分かる

「倭迹迹日百襲姫命大市墓」。天皇の古墳である“陵”ではなく、あくまでも一般人の巫女の“墓”。
日本最古の巨大な前方後円墳に葬られた“巫女”って…?卑弥呼と考えるのが自然!



前面部分を横から 背後の円墳部分。樹木の真ん中に“穴”が ポッカリと開いておりミステリアス

上空から。全長280メートル!
(画像/エンカルタ総合大百科)

【参考】 長野県更埴市の森将軍塚古墳
完成当時の古墳はこの様に石で覆われていた。
(上部にズラリと並んでるのは全部埴輪!)
景初三年(239年)制作の画文帯神獣鏡。
何と卑弥呼が生きていた時のものだ!
(画像/エンカルタ総合大百科)


【 邪馬台国九州説の卑弥呼の墓 】

●福岡県前原(まえばる)市・平原(ひらばる)遺跡(2008)

『曽根遺跡群 平原遺跡』

この1号墓から多数の女性用副葬品が発掘され
巫女的な女王の墓と考えられている
周囲には田畑が広がり、ゆっくり
ゆらゆらと時間が流れていた

この地は伊都国とされているが、この古墳の棺から日本最大の銅鏡“変形内行花文八葉鏡”(直径46.5cm)、ガラス勾玉(まがたま)、メノウ管玉(くだたま)、
連玉886点、丸玉500点ほか多数の副葬品(鏡だけで42面)が出て来たことから、NHKの歴史番組では卑弥呼の墓の“最有力候補”として紹介していた


伊都国歴史博物館には発掘時の様子が再現
されている。駅から少し離れているが、充実
展示で考古学ファンにはお薦めの博物館!
一般の国立博物館でも1、2点しか展示されて
いない国宝指定の銅鏡がここにはズラリ!

ガラス勾玉や瑠璃管玉など国宝の装飾品が
ザックザク。これらがたった1人の女性の墓
から出て来たという。ということは…!?

付近には32×31mという日本最大級の
弥生王の墓『三雲南小路遺跡』がある
ここから出土した銅鏡の数は弥生〜古墳時代
の中で最も多く、後の大量副葬の先駆けだ
この甕棺(かめかん)がワンセットで王の棺。
互いの口を上下に合わせて密封していた


●佐賀県神埼郡・吉野ヶ里遺跡(2008)








王宮(主祭殿)は高さ16.5m、13m四方という巨大さ! 1800年前の卑弥呼が生きていた時代の姿を復元! 王宮と見張り台の楼閣。楼閣はあちこちにある

1階では諸侯が会議をしている 最上階では卑弥呼(?)が神託を受けていた

吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は弥生時代の巨大遺跡。南北1km以上、甲子園の10倍となる約40ヘクタールの土地から、周囲を二重の堀で囲まれた大環濠集落や王族の墳丘墓、約3千もの甕棺(かめかん、昔の棺)が見つかっている。また、高さ12mの物見櫓(やぐら)跡があったり、傷を受け首がない人骨や鉄の矢じりも出ており、文献に残る邪馬台国のように戦争していたことが分かる。

まさに戦闘国家。高い柵が都市をグルリと一周 写ってる人間と比べてみて! 堀の深さもかなりのもの。突破不能

遠方から見ると柵がずっと続いているのが分かる 外堀の柵を越えても今度はこの内堀の柵が待っている 王宮を囲む内堀の柵。難攻不落!


吉野ヶ里には鳥のオブジェが多い。魔除けや守護神だったのかも 居住エリアにある王の家の鳥。ちょこんと乗ってて可愛い

歴代の王の墓(北墳丘墓) ここからは14基の甕棺(かめかん)を発掘 甕棺の中はこうなっている 被葬者が抱きかかえていた立派な銅剣




吉野ヶ里遺跡の北外れにある日吉宮。このように木を全体にくくり付けた
鳥居を見たのは初めて。これにはどういう意味が含まれているのだろう?
謎の鳥居をくぐると日吉宮の本殿が見えてくる。ここを卑弥呼の墓と考える学者も
いる。確かに“日吉”という太陽と関係ある名は日巫女=卑弥呼を彷彿させる


●宮崎県西都市・西都原(さいとばる)古墳群(2008)

西都原古墳群は日本最大の古墳銀座!この土地には300基以上の古墳がある!これ以上の規模の
古墳群が見つかっていない以上、ここが邪馬台国という可能性は否定しきれない


古墳の向こうにまた古墳 右を見ても左を見ても古墳、古墳 まさに古墳尽くし!これほどとは思わなかった!



春夏秋冬の表情を見てみたい 訪れたのは朝7時半。青々とした緑が目に染みる 内部の石室が公開されている古墳もある

宮内庁による、『男狭穂(おさほ)塚・女狭穂
(めさほ)塚 陵墓参考地』の案内板

日本最大の円墳=男狭穂塚はニニギノミコト、九州最大
の前方後円墳=女狭穂塚はコノハナサクヤビメの墓と
伝わる。円墳の男狭穂塚を卑弥呼の墓とする説も

宮内庁が立入禁止にしており望遠で撮影。分り難いけど
この林の奥がニニギノミコトの墓。土が盛り上がってる
少し離れた場所から。おそらく右の山がニニギノミコト
(=卑弥呼?)、左の山がコノハナサクヤビメのハズ!


●福岡県柳川市(旧・山門郡)・大和町(2008)

西鉄天神大牟田線の塩塚駅

なんて、のどかなんだろう。
だが地名はめっさ邪馬台国っぽい
隣接するみやま市大神(おおが)の女山の旧名は
「女王山」。付近の城跡を卑弥呼の墓という人も
この一帯は2005年3月の合併で柳川市になるまで、住所は「福岡県山門郡大和町」だった!“山門郡”だけでも邪馬台国っぽいのに、
“大和町”という2段重ね!魏志倭人伝の記録が九州を指しているのなら、山門郡大和町という地名はまさにその名残ではなかろうか!?


●大分県宇佐市・宇佐八幡宮(2008)

美しい西大門。夕日で朱が一層映えている

宇佐八幡宮本殿。この奥に三神が祀られている

中央の二の御殿で祀られるヒメオオカミ(比売大神)。
比売=ヒメ(日女)&巫女=ヒメコ=卑弥呼?

石清水八幡宮、鶴岡八幡宮など、全国に約2万4000社ある八幡宮の始まりとなった神宮。創建725年。本殿の祭神は、一の御殿が応神天皇(八幡大神)、二の御殿が
ヒメオオカミ(比売大神)、三の御殿が神功(じんぐう)皇后。鎮護国家の武神として信仰され、歴代天皇は伊勢神宮に次ぐ宗廟として参詣している。


三の御殿。日本書紀にはこの神功皇后を
卑弥呼と示唆する文章が書かれている
宇佐神宮境内の亀山神社。小山になっているのでここが卑弥呼の墓という研究者もいる


 
こちらは伊勢神宮・内宮(ないくう)。アマテラスの別名はオオヒルメノムチ。“ヒルメ”とは
「日につかえる巫女」。そこから天照大神=日巫女=卑弥呼と考える学者もいる。(2008)


●卑弥呼の奮闘

時は今から約2千年前。180年頃から、古代日本では「倭国大乱」と呼ばれる激しい内乱が起きていた。何年も互いに攻め合い疲弊した小国約30カ国は、国家連合を作ることで戦争を終わらせようと考え、連合体の中心国で7万余戸から構成される邪馬台国(推定人口30万人)の卑弥呼を共通の女王、王の中の王とすることにした。彼女は呪術に長け、絶大なカリスマがあり、連合体は見事にまとまった。宮殿は厳重に警護され、卑弥呼には千人の侍女がつき、決して民衆の前に姿を見せることはなかった。彼女は神の妻として終生結婚せず、神託は弟によって実行された。

この頃、中国大陸の後漢では184年の民衆蜂起“黄巾の乱”で支配体制が崩れ、『三国志』の英雄たちが活躍していた。207年に曹操(そうそう)が北部を統一、さらに全土を支配すべく15万の大軍で南下するが、翌208年に天才軍師・諸葛孔明を得た劉備(りゅうび)&孫権の5万の連合軍に“赤壁の戦”で策にはまり大敗北を期した。220年に曹操が病没すると子の曹丕(そうひ)が後漢を滅ぼし「魏」を建国する。翌年に劉備が「蜀」を、翌々年に孫権が「呉」を建国し、大陸は3国に大分裂した。

やがて劉備と諸葛孔明が病没。蜀が弱体化し西方から脅威が消えたことで、魏は東の朝鮮半島へ戦力を向け始めた。238年、魏軍が朝鮮半島を南下し、ソウル一帯まで支配下に治めると、卑弥呼は素早く政治判断を下し、魏に使節を送って貢ぎ物を献上した。魏王朝2代皇帝の明帝は卑弥呼に「親魏倭王」の称号を授けて魏の支配下に入れ、明帝は卑弥呼の使者に金印、刀、銅鏡100枚(三角縁神獣鏡?)を与えた。

邪馬台国は南方の狗奴国(くなこく)と長く戦争状態にあり、卑弥呼は魏の支援を期待して使節を送り続けた(243年)。その結果、245年に魏軍を象徴する軍旗を与えられる。卑弥呼はさらなる支持を求めて247年に戦況を報告する為の使節を派遣した。これを受けて魏は「卑弥呼に協力をするように」と檄文を出すと共に倭国の各小国へ特使をおくった(卑弥呼の狙い通り)。
このように卑弥呼は魏の軍旗や詔(みことのり)で邪馬台国の権威を高めていったが、苦戦が続くなか248年に他界する。
※邪馬台国の兵士は魏の旗を振って戦っていた。三国志に登場した旗を卑弥呼の軍も掲げていたとは。歴史って面白い。

卑弥呼の没後、男性が後継者となったが連合国はこれを認めず内乱が再度勃発。卑弥呼の親族から13歳の台与(とよ)を新女王に選ぶことで平和を取り戻した。魏は卑弥呼の死の約20年後に晋に滅ぼされ、台与は晋にも朝貢したが(281年)、その後は413年まで倭国は中国の文献に1世紀以上登場しない。

●邪馬台国はどこにあったのか?〜江戸時代から続く邪馬台国論争

『魏志倭人伝』に記された邪馬台国に至る方位&距離をそのまま信じると、九州よりもっと南の海上になってしまう。これが原因で、江戸中期に新井白石が苦悩し始め、本居宣長から現代まで、畿内説と九州説の議論がずっと続いている。近年は関東説、北陸説、四国説、沖縄説、果てはハワイ説、インドネシア説なども登場し、20説以上が入り乱れている状態だ。いったい邪馬台国はどこにあったのか。1世紀前半の中国・新王朝の貨泉(かせん)と呼ばれる貨幣が畿内と北九州から多く発掘されており、双方に文化圏があったのは確実だ。論争を代表する九州説、畿内説の最新情報を紹介し、日本神話も踏まえながら謎に迫りたい。


《邪馬台国九州説・10大理由》

(1)『魏志倭人伝』(以下、魏志)の方角にあるのは福岡県山門郡(現みやま市、柳川市)。山門=ヤマトだ。『日本書記』神功記には筑後国に“山門県”の文字があり、古来からこの土地名は存在していた。距離は換算方法でどうにでもなり、大事なのは方角。命がけで外洋を越える海の男たちが方向を間違えるはずはない。「北極星を頼りに渡航した中国の使者が邪馬台国の位置を誤るのは不自然」(松本清張)

(2)2世紀後半に戦争で強力な武器となったのが、従来の青銅や石の武器に比べてはるかに頑丈で鋭い鉄製の武器。3世紀、卑弥呼の時代までに作られた鉄製武器の出土状況は、畿内の約300点に対して九州は約1300点と完全に圧倒している。当時の日本は製鉄技術がまだ確立されておらず、『三国志魏志弁辰伝』には「朝鮮で産出される鉄を倭人が取りに来た」とある。九州と朝鮮は200kmしかなく(博多〜岡山より近い)、この地の利を生かしてどんどん鉄を持ってきたと思われる。魏志にも“邪馬台国の兵の鏃(やじり)は鉄か骨”と記述されており、鉄器が充実していたことが分かる。

(3)『魏志』に記された邪馬台国の風俗は南方系そのもの。「男はみんな入れ墨をし、海に潜るのが得意で魚や貝をとる」「気候は温暖であり裸足で生活している」など、海と密接した暮らし、刺青の風習、温暖な気候、すべてが南国を彷彿させる。

(4)『魏志』で人口(戸数)や支配体制まで詳しく紹介されている倭の諸国は九州のクニばかりで、九州から東の記述があまりにも少ない。これほど九州の情報が充実しているのに邪馬台国だけが畿内というのはあり得ない。もし畿内にあったなら、中国地方の大きな文化圏=吉備や出雲の記載がないのは不自然。

(5)『魏志』には「女王国の東、海を渡りて千余里、また国あり、みな倭種」とある。九州なら東に海があり、しかも渡った場所に四国・本州があって文献通りだ。

(6)『魏志』は卑弥呼の都について、「王宮、楼閣(ろうかく、物見やぐら)、城柵など防衛施設があり兵士が守っている」と記している。佐賀県の吉野ヶ里遺跡(総面積40万平方メートル)は卑弥呼には、“弥生時代最大”となる12.5メートル四方の建造物の跡があり、そこが2重の堀で囲まれていたことから王宮と考えられる。また、大きな楼閣の存在や、高い柵と土塁が周囲を巡っていることも分かった。この王宮のさらに北には日吉神社があり、これを卑弥呼の墓とする学者もいる。※日巫女であれば日&吉という意味合いから日吉神社と関連づけられたのも分かる。
※吉野ヶ里遺跡は紀元前4世紀から700年も繁栄した都で、末期が邪馬台国の時代と重なる。遺跡からは鉄製のやじりが出土し、発掘された人骨には、鏃(やじり)の傷があったり首がなかったりと、激しい戦乱の様子を伝えている。

(7)福岡県前原市の平原(ひらばる)遺跡からは、直径46.5cmという国内最大級の銅鏡(内行花文鏡)を始め、鏡が42面も出土しており、さらに当時の最高級品であるガラスやメノウ製の勾玉、管玉、小玉が多数出土。豪華な副葬品は女性用と見られ、これほどの鏡を集める力があるのは卑弥呼ではないか。

(8)卑弥呼が魏からもらった鏡は「三角縁神獣鏡」ではなく「後漢式鏡」ではないか。「後漢式鏡」なら北九州でも多く発見されている。畿内派は近畿で多く出土する「三角縁神獣鏡」を卑弥呼が魏から授かったものとするが、この鏡は中国から一枚も出ておらず国産ではないか。「三角縁神獣鏡」の中には実在しない年号が刻まれているものがあり(改元が未反映)、このあたりも怪しい。卑弥呼の鏡は100枚の筈なのに「三角縁神獣鏡」は約500枚も見つかっている。見つかりすぎだ。

(9)卑弥呼の他界と同時期の247年と248年に、2年連続で皆既日食が北九州で発生している。このことから、卑弥呼=アマテラスとする説もある。一度隠れて(死んで)、再び出てきたこと(新女王・台与の就任)が伝説化したという。

(10)山門郡瀬高町南部(現・みやま市瀬高町)の大神(おおが)では、卑弥呼の時代より400年も前から弥生人が多く住み、稲作を始め、山間部には鉄を生産するタタラがあった。同地が発展して邪馬台国になった。地域の女山はかつて「女王山」と呼ばれていたという。また、付近には豪族・物部一族の祖先を祀った神社がある。後年、大和朝廷の軍事部門につく“あの”物部氏だ。


《邪馬台国畿内説・10大理由》

(1)畿内だと同じ場所に大和政権が成立したことを容易に説明可能。

(2)『魏志』には「南へ水上を10日、陸を1ヶ月」と記載されているが、「陸を1ヶ月」というのは古代の不便さを考慮しても九州だけでは長すぎる。

(3)『魏志』には「卑弥呼に銅鏡100枚が贈られた」とあり、事実、魏の年号が刻まれた三角縁神獣鏡が畿内を中心に出土している。多くの三角縁神獣鏡は精巧なもので、国内の鋳造技術では生産不可能と考えられている。仮に国産の場合、逆にそんな精巧な銅鏡を大量に生産できるだけ畿内の文明が発展していたことになり、いずれにせよ邪馬台国近畿説を補強するものとなる。
※三角縁神獣鏡は全国で500枚近く発見されており、2004年に鏡の成分を分析した結果、卑弥呼が生きていた当時の中国の鏡と同じ成分のものと、日本の土を使った粗悪な模造鏡があることが判明した。精巧なものは中国の土だった。
※「三角縁神獣鏡の中に景初4年という存在しない元号があるから国産だ」(景初は3年まで)とする説もある。これは改元を知らない職人が朝鮮で作ったか、来日して鋳造した為に改元を知らなかったものと思われる。
※発見される枚数が多すぎるのは、何度も魏から銅鏡が送られたからだろう。
※同じ型の鏡が畿内を中心に九州から関東まで15府県に分布している。これは畿内から全国に分けられたことを示し、権力の中心が畿内にあったことは確実。


(4)飛鳥時代に中国で完成した『隋書』(656年)には「倭国の都は邪靡堆(やまと)にあり、これは魏書に記された邪馬台なり」とある。当時の外交官は遣隋使・遣唐使で大和朝廷を訪れており、“大和”=“邪馬台”というのが大陸側の基本認識。

(5)『魏志』に卑弥呼の墓は約150mの大型古墳と記載。初期の前方後円墳は畿内に集中しており、遠ざかるにつれて古墳の規模が小さくなっている。前方後円墳は大和を中心に分布しており、時代が下るにつれて全国に広がっている。

(6)大和盆地の纒向(まきむく)遺跡は2世紀後半〜4世紀半ばの文明。ここから出土した土器全体の2割近くは北陸・東海・山陰・瀬戸内など遠隔地からもたらされたもの。中には纒向の土で作られた東海地方タイプの土器もあり、これは愛知から来た人が住み着いている証だ。当時の遺跡で他の地方からこれほど多くの人が集まっていた都は他に見つかっていない。各地域を結ぶ巨大勢力があったことが伺える。

(7)弥生時代は穴を掘った竪穴式住居が一般的だったが、纒向遺跡では身分の高い人が住んだ高床式住居がたくさんあった。これは周辺国から纒向に集まった有力者たちの“都の別邸”ではないか。

(8)2世紀半ば、ニギハヤヒや神武といった北九州勢の東征で畿内の銅鐸文化が滅ぼされ、鏡・剣・玉を崇拝する文化が畿内に広まった。“倭国大乱”とは神武の後継勢力の争乱であり、そこから卑弥呼が登場したのではないか。

(9)1997年に大和政権誕生の地、奈良・黒塚古墳から33面の銅鏡が出土。同古墳は3世紀後半〜4世紀前半のもので、初期大和政権と時代がピッタリ。同型の兄弟鏡が近畿を中心に九州から関東まで15府県に分布しており、大和政権が誕生時から絶大な権力を持っていたのは邪馬台国の延長だからだ。

(10)「ヤマタイコク」と「ヤマトコク」でふつうに名前がそっくり。中国側は「大和国」(やまとこく)を邪馬台国と聞き間違えたに過ぎない。中国人が”やまと”を聞いて書き留めたのが”邪馬台”。


●箸墓(はしはか)古墳は卑弥呼の墓!…と思う。そう思いたい。

奈良県桜井市にある「日本最古」の大型前方後円墳・箸墓古墳は卑弥呼の墓と言われている。墳長約280m、後円部径約150m、高さ約30m、前方部幅約130m、高さ約15m。前方部4段、後円部5段からなる。古墳の多い奈良でもトップ3に入る大きさで、一帯は国内で最も古い古墳群だ。
※追記…2008年8月、箸墓古墳を調査していた桜井市教育委員会が、同古墳は幅60m以上もの周濠(堀)に取り囲まれていたことを発表。これにより、周濠を含めた古墳域の全長は450mという巨大なものになり、“一体誰が埋葬されているのか”と考古学ファンがロマン爆発。

・『魏志倭人伝』には「卑弥呼の墓は大きな塚で、直径が百余歩、奴婢(ぬひ、奴隷)100余人が殉葬された」とある。魏の時代の一尺は約24cmで、一歩が六尺。すると一歩は約1.45mとなり、百余歩は約150m前後。これは箸墓古墳の後円部径約150mとピッタリ一致している!

・卑弥呼の死は247年頃と伝えられている。箸墓古墳が造成されたのは墳頂から出土した土器の形式から260年頃と推定され、卑弥呼が亡くなってから工事期間10余年で完成したと考えると時期的にドンピシャ!

・宮内庁は被葬者を第10代・祟神天皇の時代に三輪山の神に仕えた巫女、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト、以下百襲姫)としている。弟は吉備地方を平定して桃太郎のモデルとなった吉備津彦(キビツヒコ)だ。箸墓古墳の体積は30万立方メートルで建設に動員されたのは述べ135万人。天皇ではなく一人の巫女の為にこれだけの人間が動くのは卑弥呼以外にありえない。『日本書紀』はこの墓について「昼は人が造り、夜は神が造った」と特記しており、「人々は近隣の山の石を手から手に渡して運び、山から墓に至るまで、人々は絶えることなく続いた」と築造の情景まで記している。墳丘の斜面から古墳の外装用に敷き詰められた葺石(ふきいし)が見つかっており、これを人々がリレー式で運んだ様子が伺える。また「壬申の乱」では、天武天皇が箸墓のそばで戦ったとされており、この墓が古くから特別視されていたのが分かる。

・『日本書紀』では祟神天皇が巫女である百襲姫の教えを聞いて政事を行なっている。邪馬台国でも卑弥呼の神意を聞いて弟が政事を行なっている点で共通している。“百襲”という勇ましい名前も戦乱の時代に相応しい名だ。

・付近から大量の「卑弥呼の鏡」が出土しており邪馬台国はここにあったか、もしくは、当初北九州にあった邪馬台国の本拠地が、卑弥呼の時代までにこの地へ移ってきたと見られる。また、3世紀後半までに100m級の古墳を造ることのできる権力者が複数いたことは、この地が初期大和政権の首都であったことに他ならない。卑弥呼がいたから、ここが首都になったのだ。

・初期古墳群の全長は平均約100m。しかし箸墓は300mに迫る規模でケタ違いの巨大さ。埴輪の原型となる吉備系土器が出土したり、古墳の周囲を堀で囲むなど、従来の墳墓とは完全に一線を画している。前方後円墳として様式が完成された第1号の古墳でもあり、以後の大規模前方後円墳のモデルとなっており、箸墓古墳の完成をもって古墳時代の幕開けと見る説が多い。この墓が卑弥呼でなくて誰の墓というのか。

女王陛下にィィィィイ! 土下座ァーッ!!ハハーッ!!(1999)

★1800年目の結論〜邪馬台国は移動した!(たぶん!)

九州説、畿内説、それぞれに説得力があり論争の決着は簡単につきそうにない。九州では2世紀という早い段階から鉄のやじりが使用されており、鉄器文化が畿内より発展していたことは確実だ。一方、畿内には3世紀後半までに100m級の古墳を造ることのできる権力者が複数いた。僕が注目しているのは神武天皇の東征や鉄製武器の出土状況を基にした「邪馬台国移動説」だ。日本書紀や古事記には、九州を拠点にしていた神武天皇が、中国地方を経由して大和に入ったという大遠征の物語『東征神話』が書かれており、国家の大移動を示唆している。この神話を裏付けるかのように、九州を中心に出土していた鉄製武器が、卑弥呼の死を挟んで畿内からも出土するようになる。『魏志』には邪馬台国が南の狗奴国との戦いに苦戦していたとあり、列島全体を効率よく支配する為にも東へ拠点を移したのだろう。その後にヤマトタケルが南九州の熊襲(くまそ)を平定した物語は、畿内で力を蓄えた政権によるリベンジにも見える。
箸墓古墳については、卑弥呼が他国との戦争中に死んでいること、また死後に内戦まで起きていることから、その状況下で巨大な古墳を築く余裕があったのか疑問で、被葬者は卑弥呼の後継者・台与(とよ)ではないだろうか。大和王朝の古墳には装飾品や鏡も一緒に副葬されているが、これはもともと北九州の風習だ。箸墓古墳は表面が葺石(ふき石、化粧石)で覆われていたが、これは出雲地方の特色。また、古墳の上に並んでいた円筒ハニワの原型は山陽(吉備)地方の土器だ。古墳だけを見てもこのように様々な埋葬方法が融合しており、邪馬台国が中国地方の文化を吸収しながら東へ移動したことは間違いない!

●古代の謎を解明する為、宮内庁には全ての天皇陵を公開して欲しい!

邪馬台国の畿内・九州論争の決着は、「親魏倭王金印」が一方の地から見つかるか、もしくは「これが卑弥呼の墓」という決定的証拠が出てくるまでつかないだろう。ただし金印は「漢委奴国王金印」だと2cm強しかなく、簡単に持ち運べて場所の説得力に欠ける。となれば、やはり墓だ。
だがしかし!卑弥呼の墓の最有力候補の箸墓古墳は宮内庁が陵墓(天皇陵)に指定し、発掘調査ができない!仕方がないので、考古学者は箸墓近辺の民家が建て替え工事をする時に発掘調査させてもらっている。つまり、あくまでも外側の調査であり、内部構造や副葬品は一切不明なのだ。2001年には箸墓古墳の周囲から国内最古の馬具が見つかった。4世紀初頭の鐙(あぶみ、足入れ)で定説を一世紀もさかのぼる物だった。こんなケースは、本格調査が実現すれば幾らでも出てくるだろう。
戦後の考古学界で最大の発見となった高松塚古墳壁画のように、「発見、即国宝」といったような文化遺産が全国の古墳にある可能性は、考古学者の誰もが分かっている。しかし政治的な問題があるので、「いつの日か詳細な調査が実施される日を待つしかない」と諦めている。宮内庁よ、このまま人類が絶滅するまで未調査のままにするつもりなのか。

今は主権在民の世であり、僕らは小学校から人間は平等だと教わっている。“文化の継承者”としての皇室に敬意を持つことは大切だが、天皇&皇后の墓だけを特別に「陵」という言葉で区別するのは、近代市民社会の価値観にそぐわない。現行法で規定された「陵」は全国に188ヶ所あり、皇子・皇女を葬った「墓(ぼ)」なると552ヶ所にも達し、陵墓の可能性がある「陵墓参考地」を合わせると、宮内庁の管轄下にある国有地は最低でも896墓にもなる。
宮内庁は「ご子孫が現におられて、ご先祖を祀られているから文化財ではない」と主張して天皇陵を文化財と認めないが、これは詭弁だ。なぜなら、戦国期の将軍や大名の墓は被葬者が分かり、子孫が墓参をしていても文化財に認定されているからだ。

明治政府は近代天皇制国家を目指して、学説が分かれる墓所をロクに調査せず、考古学の科学的な検証も殆ど行なわず、何でもかんでも「陵」に決めていった。この流れは昭和の軍国政府になってさらに加速し、天皇制強化の道具として、政府は名前しか分かってないような皇子・皇女たちのものまで次々と聖域に指定していった。しかも、戦争が終わっても「天皇陵」の再検討は行なわれず、戦前に指定されたものが丸々“国有財産”とされ、宮内庁書陵部陵墓課が今日まで管理している。だが、“国有財産”であれば、公開決定権は宮内庁ではなく国民各自にあるのではないか。
また、明治政府の場合は学者から「墓ではない」という明確な資料を出されると、すぐさま指定から外す英断を下していたが、今の宮内庁は超がつくほど保守的で、継体天皇陵のように学者がどんなに間違いを実証しても陵墓指定の誤りに耳を貸さないばかりか、逆に「指定が誤っていても、長年祀ってきたのでもう御霊は宿っている」と開き直る始末。
死者の尊厳や、祖先を大切にする気持は、もちろん大切に守るべきだ。しかし、別人の墓を間違ったまま信じ続けるのは、被葬者に対しても冒涜ではないのか
今一度、声を大にして言いたい。古代日本の歴史に光を当てる箸墓古墳を始め、すべての天皇陵を宮内庁は公開するべしと!


※出雲のスサノオは出雲平野の斐伊(ひい)川上流に住むオロチ族(鉄文化を持っていた)を倒し、鉄を手に入れ(草薙の剣ゲット)次に九州を平定して卑弥呼と結婚した。神武天皇は孫。--こんな異説もある。
※中国では前王朝の歴史を、後に続く王朝が公文書にまとめる義務があり、曹操親子が建国した魏王朝については、後の晋王朝が史書『三国志』の中に「魏書」30巻として記録した。このうち日本に関する部分が『魏志倭人伝』と呼ばれる。成立が280年頃と卑弥呼の死から30年しか経っていないこともあり、この約2000字の文章が古代日本を知る貴重な手掛りとなっている。(日本最古の歴史書『古事記』は712年成立)
※中国の『後漢書』には、57年に倭の奴国の使者に金印を与えたという記録が残っている。この「漢委奴国王」と刻まれた金印は江戸中期に甚兵衛と農民が偶然用水路で発見し国宝になっている。卑弥呼が受け取った金印もこの国のどこかにあるはずだが、まだ発見されてない。


【大物主神(オオモノヌシノカミ)の世界】

日本最古の神社、大神(おおみわ)神社の祭神・大物主神は、日本書紀に記された倭迹迹日百襲姫命の夫!

箸墓古墳と三輪山(奥)という夫婦のラブラブ・ツーショット!





ご神体の三輪山(みわやま)と巨大な大鳥居(2008)

本殿はなく拝殿だけがある。
人々は背後の三輪山を拝む
巳の神杉(みのかみすぎ)は、
根元に神の化身の蛇が棲む霊木

奈良県桜井市三輪の大神神社は、三輪山そのものが御神体なので本殿はなく拝殿だけがある。三輪山周辺は古墳時代初期の前方後円墳が多数あり、ここが邪馬台国や大和政権の発生地と考える学者も多い。祭神は『日本書紀』に登場する大物主神(オオモノヌシノカミ)。
※拝殿の裏手にある三ツ鳥居は参拝者からは見えないけれど、神社の事務所で申し込めば拝殿の奥まで無料で案内してもらえる。三ツ鳥居は3つの鳥居が1つに合体した珍しいもので、僕はここでしか見たことがない。※残念ながら写真撮影は禁止だった





 
大物主神は蛇の姿と伝わり、蛇の好物&願いを丸呑みして欲しいという思いから、卵を捧げる
参拝者も多い。大物主神は酒の神でもあり、酒造家の信仰対象となり日本酒が捧げられている
鳥居は一般のような赤い鳥居ではなく
木に縄がかけられた素朴なもの

倭迹迹日百襲姫命が仕えた第10代崇神(すじん)天皇の
古墳。スッキリして非常に美しい!崇神天皇は初めて
畿内の外まで治めた天皇だ※奈良県天理市(2008)
1998年に“卑弥呼の鏡”と呼ばれる「三角縁神獣鏡」が33面
も発見され、畿内説を補完した黒塚古墳。4世紀初頭に造
られた全長約130mの前方後円墳※奈良県天理市(2008)

【 邪馬台国の風俗など〜『魏志倭人伝』現代語訳@エンカルタ百科事典 】
 
●邪馬台国の位置
倭人は帯方郡東南の大海の中の山島に国をつくっている。もともと100余国にわかれており、漢王朝に朝貢してきた。今は30カ国が使者をおくってくる。  帯方郡から倭国にいくには、朝鮮半島西岸沿いを船でいき、馬韓をへて、しばらく南にいき、しばらく東にいくと、倭国の北岸の狗邪韓国につく。その間、7000余里。はじめて海を横断し、1000余里で対馬国につく。そこの大官は卑狗といい、副官は卑奴母離という。離れ小島で、面積は400余里四方ほど。うっそうとした森林におおわれ、しかも山はけわしい。南に海をわたって1000余里で一大国〔一支国(壱岐国)か〕につく。  また海をわたって1000余里で末盧国につく。陸路を東南に500里いくと伊都国につく。そこの大官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚という。1000余戸あって代々の王もいるが、女王国の属国である。帯方郡からの使者が往き来するときは、いつもここで駐留する。ここから東南100里で奴国、東に100里で不弥国につく。  船で南に20日いって投馬国につく。そこから南に船で10日、陸を1カ月ほどいくと邪馬壱〔台〕国につく。ここが女王が都をおいているところである。
 
●倭の習俗と社会
男はみな入れ墨する。もぐって魚・貝をとるときに大魚や海獣の害をさけるためだったが、のちに飾りになった。この国は、会稽郡東冶県の東にあたるらしい。  男子は中国のように冠をつけず、みずらを結い、布をかぶっている。体には横長の布をまきつけている。女子は髪をたばねて、単衣の布の中央に穴をあけ、そこから頭をだして着ている。稲・麻を植え、カイコをやしない、絹糸をつむいでいる。ここには牛、馬、トラ、ヒョウ、ヒツジ、カササギがいない。矛(ほこ)・楯・木弓を武器とし、竹の矢は鉄か骨の鏃(やじり)である。  気候は温暖で、年中生野菜を食べ、裸足(はだし)で生活している。まるでおしろいのように、朱を体にぬっている。飲食には高坏(たかつき)をつかい、手づかみで食べる。棺はつくるが外箱はなく、地面にうめて上に塚をきずく。人が死ぬと10余日は喪に服して肉を食べず、喪主は号泣し、ほかの人は歌舞・飲酒する。埋葬がおわると家族みんなで水浴びにいく。倭人が中国などにわたるときは、持衰という男が髪もとかさずシラミもとらず、衣服もあらわず、肉を食べず、女も近づけないで、ひたすら謹慎している。もし航海がうまくいけば褒美をあたえられるが、一行が病気や損害をうければ殺された。  物事の初めや往来には、焼いた骨にはいったひびをみて吉凶を占う。  人はみな酒好きで、100歳や80〜90歳くらいまで長生きする人が多い。支配層はみな4〜5人、一般人でも2〜3人の妻をもつが、女子はみだらでなく、嫉妬(しっと)しないし、盗みなどもしないので訴えごとが少ない。
 
●支配の実態
法をおかすと、軽ければ妻子が奴隷にされ、重い場合はその家族・一門が滅亡させられた。上下の身分差は厳然としてあるが、お互いに信頼している。税物を収納する建物がある。国々には市場が開かれ、物資の交換がなされ、大倭が不正のないよう監督している。  女王国の北の伊都国に一大率がいて諸国の監察にあたっているので、各国は彼をこわがっている。  支配層の者にあうと一般人は道をゆずって草むらにはいり、命令をつたえるときは一般人はひざまずいて両手をつき、承知したら「あい」という。
 
●卑弥呼像
倭国はもともと男子を王として70〜80年ほど経過したが、国内がみだれ、連年抗争をくりかえした。そこで卑弥呼という女性をたてて王とした。卑弥呼は鬼道(呪術)に通じていて、よく民衆をみちびいた。年をとっても夫をもたず、弟が国政を補佐している。人前にたたず、1000人の女奴隷をはべらせている。ひとりの男だけが食事の給仕と伝言にあたり、卑弥呼の部屋に出入りしている。その王宮は物見の楼閣や柵などの防衛施設がととのい、武装兵士にまもられている。
 
●魏との関係
238年(景初2、実際は景初3)6月、卑弥呼は大夫の難升米を帯方郡に派遣し、魏の天子(明帝)に謁見と朝貢を申しでてきた。帯方郡太守の劉夏は使者に難升米らを魏の都の洛陽まで案内させた。  その12月に、天子は卑弥呼に「親魏倭王卑弥呼に詔する。おまえははるばる大夫の難升米と都市牛利をつかわし、男女の生口(技術奴隷)と班布を献上してきた。おまえの忠孝をいとおしく思い、親魏倭王として紫綬のついた金印をあたえる。郡太守に付してとどけるからうけとりなさい。国内を安定させ、礼儀をととのえなさい。使者の2名もその労をねぎらい、それぞれに官職と青綬のついた銀印をさずける。返礼として赤地蛟竜文様の錦、縮みの粟粒(あわつぶ)文様の毛氈(もうせん)、深紅の布・紺青の布をあたえる。また特別に紺地の句文錦、細班華文様の毛氈、白絹、黄金8両、5尺の刀、銅鏡100枚、真珠、鉛丹(仙薬)をあたえる。帰国したら国中の者たちにみせ、中国がおまえをいつくしんでいることをよく知らせなさい」と詔した。  240年(正始元)郡太守の弓遵は使者をつかわし、少帝の詔書と印綬を倭国にとどけ、黄金と絹帛、刀、銅鏡、采物などをさずけた。倭王は上表文して感謝の言葉をのべた。  243年、倭王は伊声耆や掖邪狗ら8人の使者をおくって、生口、倭錦、赤青の絹、綿衣や短弓などを献上した。  245年、少帝は倭の難升米に帯方郡経由で黄色の中国軍旗をさずけた。  247年、郡太守の王?が政府にきていう。卑弥呼はもともと南にある狗奴国の男王の卑弥弓呼と仲がわるい。倭国は載斯烏越を帯方郡に派遣してその戦況を報告してきた、と。そこで中国は塞曹掾史(地方官)の張政を派遣し、少帝の詔書と中国軍旗を難升米にさずけ、狗奴国や動揺する倭の諸国に檄文をおくり、卑弥呼にしたがうよう告諭した。
 
●卑弥呼の後継者
卑弥呼は死んだので、大きな高塚をきずいた。その直径は100余歩分ほど。いっしょに奴婢100人あまりが葬られた。そのあとに男子の王がたったが諸国は服従せず、抗争がつづいて1000人あまりの死者がでた。そこでまた卑弥呼の一族の女で13歳の壱与〔「台与:とよ」の誤りか〕を擁立して王とした。これによって、国内はやっとおさまった。


【追記 報道機関の最新ニュース〜近畿説を裏付ける遺跡が続々】

卑弥呼の居館か 奈良・纒向遺跡から3世紀前半の建物跡が出土 2009.11.10 サンケイ

邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半の国内最大規模の大型建物跡など2棟が見つかり、市教委が10日、発表した。倭国の女王、卑弥呼が活躍した時代(2世紀末〜3世紀前半)とほぼ一致。中国の歴史書・魏志倭人伝には「卑弥呼の宮室(宮殿)は楼観や城柵(じょうさく)を厳かに設け」と記され、卑弥呼の居館の可能性が浮上し、邪馬台国畿内説をさらに有力にする一級の資料になりそうだ。
大型建物跡は、東西2間(1間3・1メートル)、南北4間(1間4・8メートル)分を確認。西側は6世紀後半の水路で壊されていたが、市教委は建築様式などから、西側にさらに2間分延びていたと推測している。建物の規模は東西12・4メートル、南北19・2メートルで床面積は238平方メートルとなり、邪馬台国九州説の有力候補地・吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼市、吉野ケ里町)の大型建物跡(156平方メートル)を大幅に上回ることが分かった。
柱穴に残された痕跡から、柱は直径約30センチで、柱の間には床を支えるため直径15センチ程度の束柱(つかばしら)を立てるなど堅固な構造だったとみられている。
大型建物跡を復元した黒田龍二・神戸大准教授(日本建築史)によると、高床式の入り母屋造りで高さ約10メートルと推定。直径50センチ以上の太い柱を用いた弥生時代の大型建物と異なり、比較的細い柱でも造ることができる最先端の技術があったことがうかがえるという。
大型建物跡の西側では、棟持(むなもち)柱をもつ建物跡(東西5・3メートル、南北8メートル)も確認。これまでの調査でさらに西側で2棟の建物跡が見つかっており、計4棟が方位を合わせて東西に並んでいたことが判明した。このうち大型建物跡など3棟は、さくで囲まれていたという。
これらの建物群跡の外側は東西約150メートル、南北約100メートルにわたり、周囲より1メートル以上高台になっていることから、市教委は高台の範囲を宮殿の外郭、さくで囲まれた部分を内郭と想定。今回の調査区域は内郭の西半分にあたるという。
市教委の橋本輝彦主査は「建物の中心軸をそろえた極めて計画的な構造。方形で区画した飛鳥時代(7世紀)以降の宮殿構造につながる可能性もあり、国内最古の都市の中枢部が分かる重要な成果だ」と話した。
石野博信・香芝市二上山博物館長(考古学)の話 「建物の大きさだけでなく、建物群の中心軸が東西一直線に並んでいる点がすごい。これほど計画性のある建物群の遺構が見つかったのは古墳時代を通じて初めてだ。外郭もあり、復元されたら壮観だろう。祭祀(さいし)空間なのか政治空間なのかは現段階では分からないが、卑弥呼の館の可能性はある」

★国内最多銅鏡81枚 - 卑弥呼と関係か【桜井茶臼山古墳】 2010年1月8日 奈良新聞
初期ヤマト政権の大王墓とされる、桜井市外山の大型前方後円墳・桜井茶臼山古墳(3世紀末〜4世紀初め)で、国内最多となる81枚以上の銅鏡が副葬されていたことが分かり、県立橿原考古学研究所が7日、発表した。鏡の形式も最多となる13種類以上で、「卑弥呼の鏡」説もある中国・魏の年号入りの「三角縁神獣(さんかくぶちしんじゅう)鏡」もあった。「邪馬台国論争」にも影響を与える古代鏡研究の貴重な資料になりそうだ。
昨年実施した60年ぶりの再調査で、石室内の土中から銅鏡片計331点が出土。最大縦11.1センチ、横6.3センチで、多くは1〜2センチの細かな破片だった。盗掘時に割られたとみられ、完形品や本来の位置を保った遺物はなかった。過去に見つかった53点を含む破片計384点を調べたところ、81枚以上の鏡があったことが判明。国内最多だった平原遺跡1号墳(福岡県)の40面を大きく上回ることが分かった。
13種類以上の後漢から三国時代の中国産や国産の鏡を確認。半数近くが直径20センチ以上の大型鏡で、国内最大級の内行花文鏡(直径約38センチ)もあった。黒塚古墳(天理市)などに比べ、三角縁神獣鏡以外の鏡が多かった。
また、「是」の字が残る破片(縦1.7センチ、横1.4センチ)を3次元計測した結果、「正始元(240)年、陳是作鏡…」との銘文が入った蟹沢古墳(群馬県)の三角縁神獣鏡と一致。正始元年は邪馬台国の女王・卑弥呼の使者が帰国した年とされ、魏から贈られた「銅鏡100枚」の一つとする説も。県内での出土は初めてで、今後、専門家の論議を呼びそうだ。
同研究所の菅谷文則所長は「日本国家初期の『最高の王』の力を示す成果。今までの理論を超えた鏡の組み合わせで、今後は広い視野を持つことが必要だ」としている。このほか、ガラス製管玉や石製品なども見つかった。



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