【 あの人の人生を知ろう/坂本龍馬 】

〜世の人は 我を何とぞ言わば言え 我がなす事は 我のみぞ知る〜(龍馬)

天保6年11月15日(1836年1月3日)-慶応3年11月15日(1867年12月10日) 享年31才※西暦









脱藩浪人が日本を変えた 薩長同盟ぜよ! 和服に靴も龍馬ならカッコイイ

●龍馬像&生誕地碑(高知)



高知市桂浜の龍馬像。
この角度だと巨大さが分かる
高さが台座を含めて13.5m。銅像としては日本一の高さだ。
正面は太平洋。海の彼方を見つめ何を思う(2008)


龍馬像の足下から階段を下りると広い浜辺だ 高知市上町の「坂本龍馬生誕地」。ここで生まれた脱藩者が体一つで歴史を変えていく

●寺田屋(京都)



維新の志士が集い、数々の歴史的事件の目撃者となった寺田屋 襖の向こうが寺田屋事件の際の龍馬の部屋。他の部屋は今も宿泊可能だ









高杉晋作から贈られ龍馬が愛用した
「S&Wモデル2アーミー33口径」の模型
「龍馬の部屋」は龍馬ゆかりの品が展示されている

龍馬が撃った弾痕?



お龍が入っていたお風呂と、龍馬へ危機を告げるために駆け上がった階段
※実は寺田屋は戊辰戦争で燃えているので、忠実に復元されたものッス(汗)
伏見区松林院に眠る寺田屋
の女主人、お登勢さんの墓

●龍馬&お龍像(鹿児島)





鹿児島市に建つ坂本龍馬新婚の旅碑
(2008)
名前がよく似た龍馬とお龍。2人は日本で最初の新婚旅行をした事で有名。
薩摩での3ヶ月は龍馬の生涯で最も平和な時間だった※1年半後に暗殺
お龍さんはこの角度が
マジで最高 (*^v^*)

●いろは丸事件(広島)



広島県、鞆(とも)の浦。龍馬たち海援隊の「いろは丸」はこの沖合いに沈んだ
※この港町は『崖の上のポニョ』のモデルになったことでも知られる

慶応3年(1867)4月23日、広島・鞆の浦沖にて龍馬率いる海援隊蒸気船「いろは丸」と紀州藩の蒸気船「明光丸」が衝突し、「いろは丸」は海の底に沈んだ。龍馬たちは鞆の浦の「桝屋清右衛門宅」を宿にし、「魚屋萬蔵宅」を談判所とした。紀州藩といえば徳川御三家の大藩。龍馬ら海援隊は浪人集団であり、7万両(約30億)という莫大な賠償金を払うことになった紀州藩はメンツが丸潰れとなった。この談判が決着した10月19日の約1ヶ月後に龍馬は暗殺される。海援隊同志は犯人が紀州藩と信じ込み、翌月に「龍馬の仇!」と京都天満屋で宴をしていた紀州藩の面々を襲撃した(天満屋事件)。



鞆の浦の「いろは丸展示館」 いろは丸の海底調査の様子が再現されている 茶碗や船の部品などいろいろ引き上げられた

龍馬の宿泊所跡「桝屋」。有名な回船問屋だった
※内部は非公開

1988年、桝屋の屋根裏に「龍馬の隠し部屋」が発見
された!従来は表通りの部屋に滞在したとされていた
※復元された部屋は「いろは丸展示館」の2階にある
鞆の浦の法宣寺に眠る
桝屋清右衛門の墓



談判会場のひとつ、福禅寺の“対潮楼”。江戸中期に
当地を訪れた朝鮮通信使は「日本一の名景」と絶賛した
対潮楼から瀬戸内を眺める。実に素晴らしい。
龍馬もこの眺望を楽しんだのだろう
こちらも談判会場「旧魚屋萬蔵宅」


鞆の浦を訪れた際、ちょうど秋祭りが行なわれていて、人々が龍馬を山車に乗せて練り歩いていた。
いかに龍馬が民衆から慕われているかが分かり、僕は興奮してこの山車を撮りまくった!
こちらは東京豊島区・妙行寺
の三浦休太郎(紀州藩)の墓

●酢屋・海援隊詰所/土佐藩邸/明保野亭/円山公園(京都)


ここ『酢屋』は海援隊の詰所となった木材商。龍馬は
この2階で大政奉還が実現したことを知り歓喜した
酢屋の『坂本龍馬寓居之跡』。
現在、2階はギャラリーだ

 
京都市中京区の「土佐藩邸跡」 土佐藩邸の敷地にあった土佐稲荷。境内に龍馬像とお稲荷様が並ぶ不思議空間

  
京の常宿の一つだった明保野亭。現在は湯豆腐会席、京弁当の店。清水寺近くの三年坂に面している(2010)

明保野亭のメニューの上に「竜馬ゆかりの店」 明保野亭から出て来た迫力ある異人。攘夷は完全に失敗(汗)

京都祇園・円山公園の
龍馬&中岡慎太郎像(2010)
この銅像はけっこう大きい。ここに写っているのは
インド人の旅行者。この後、記念撮影をしてました♪

●近江屋跡(京都)



『坂本龍馬・中岡慎太郎
遭難之地』の石碑
ここが近江屋の跡だーッ!…と言っても、
多くの通行人はこの聖地に気付いていない
京阪交通社があったが移転した。
(2008)


2年後。大河ドラマの力は偉大なり!『龍馬伝』のオンエア前に京都市の
案内板が建ち、足下に小石が埋められ花入れが添え付けられた!
通行人も気付くようになり、この写真のように説明を読んでる人が!(2010)
早朝というのにもう石碑の土台に水が打たれ、清め
られていた。コンビニの店員さんが手入れするんだって

このコンビニには龍馬グッズ
の特別コーナーがあった!





 
昼過ぎに再訪すると団体さんが到着した!龍馬のコスプレをしていた人が史跡の
解説をしていた。『龍馬伝』の人気でこうした幕末名所ツアーは満員御礼のようだ

【豆知識】近江屋跡のこの石碑は東を向いている。ところが東側にはビルがあるため、いつ
行っても日陰になると思ってた。しかし!6月1日の朝6時半に行ったら、この写真の様に
ギリギリセーフで直射日光が当たってた!石碑マニアはぜひその頃、その時間に!

●復元・近江屋(高知)





坂本龍馬記念館に最近登場した実物大「近江屋」(2008) 龍馬は床の間の前。賊は右の屏風の方向から侵入 中に入れマス!

●龍馬の墓(京都)

龍馬の死の翌1868年、国家の為に殉じた者の霊を祀った日本初の招魂社が
明治政府によって創建された(1939年、護国神社に改称)。1968年、墓所に続く
道が「維新の道」と名付けられて整備され、松下幸之助が名を石碑に刻んだ
(2010)
「維新の道」碑の向かいにある石柱群。左から「木戸孝允
卿墓勅碑是より二町」「此の上に勤王志士の墳墓あり」
「梅田雲濱先生碑」「天誅組義士墓」、そして右端の岩に
「贈正四位坂本龍馬氏之墓」。これらの道標が並ぶ

墓地に隣接して建つ『霊山歴史館』。幕末の貴重な資料を展示!偉人パネルとの
撮影コーナーでは、龍馬、新選組という敵同士の間に入って記念撮影も可能!(2010)
近所の店で龍馬の大好物“軍鶏”(しゃも)が入った
蕎麦が食べられるぜよ(歯応えのある鳥肉だった)

霊山歴史館の裏手にある「龍馬坂」。めっさ急斜面!龍馬の友人達
は真夜中にここを上って亡骸を墓所へ運び込み、密かに埋葬した
龍馬坂の途中にある霊明神社。現在は護国神社の管理下にある霊山墓地は、もともとこの
霊明神社の境内墓地だった。それを招魂社創建のため明治政府が上知(あがりち=没収)した

龍馬が眠る霊山墓地の入口。墓参者でごった返している! 入場料は300円。自動改札を抜けて墓参したのはココだけ!


ゲートをくぐると、龍馬の墓前まで足下にズラリと並んでいるのが、当墓地“名物”ともいうべき魂のメッセージ集。
清水寺の近くで修学旅行の生徒も多く、まるで若者の教祖状態。有名人の墓には“寄せ書きノート”が墓前に
あったりするけど、石板で叫びまくりってのは他にないのでは。高杉に宛てたものも散見した(1枚千円也)
謎の絵





墓地内の展望台には、どの柱にもたくさんメッセージが
書かれている。「死んだら会いに来ます。話を聞かせてくれ
たら嬉しいです」(のりこ)。全く同感!その気持ち分かる!


珍しい中岡宛!「慎太郎さんへ。天国の住み
心地はどうですか?退屈してませんか?
あなたたち2人は今の日本を見てどう思うの
でしょうか。見晴らしの良いこの場所で、日本
の移り変わりを見ていて下さい」(紗姫)
女性たちが書いている内容は
詩的だったり、ジーンと来るのに、
野郎どもといったら、龍馬や中岡が
ズッコケルようなものも多い。もっと
他に書くことがあるだろう!?

大河ドラマに合わせて、土佐で開催中の龍馬展の旗 こちらは長崎の龍馬展の旗。京都なのに! 墓地の中は龍馬の墓まで旗がいっぱい!(2010)



この鳥居の背後が龍馬の墓所。
石板の数もここがマックス!
木漏れ日の中の墓所。2人の墓は西側を向いているので
午後の巡礼がオススメっす!(午前中は墓地全体が日陰になる)
墓前で千羽鶴を見たのは、龍馬、
沖田、近藤の3名のみ!(07)




1999 憧れの坂本龍馬(左)&中岡慎太郎(右)に謁見!
これは何代目の千羽鶴だろう
2007 再巡礼。この時は大きな花束が2人に供えられていた
※2人は一緒に暗殺された。墓の名前は木戸孝允筆!
2010 1999年に比べ名前がかなり薄くなっていた。
っていうか、中岡の前に真新しいお賽銭入れが(汗)




1999 この時はお酒がいっぱい


2007 「龍馬」の字に光!墓石に「坂本龍馬
紀直柔(きの・なおなり)之墓」と、通称の“坂本
龍馬”、諱(いみな)の“紀直柔”が並記
2010 千羽鶴が袋に入った。
手前の花入れは竹の形


墓の傍らに建つ2人の銅像(2007) 円山公園の銅像の縮小版。中岡の顔が精悍でGood!(2010)




手前から龍馬の用心棒・藤吉、龍馬、慎太郎(2010) 2007 「藤吉之墓」 2010 最初に藤吉が斬られた 3人の墓からは京の街並みが一望できる!

2人の背後から。レアな構図かと!遠くまで見える 斜め上から。墓前の若者は中岡と長く語り合っていた 2人の像が見ているのは京の都ぜよ!

  
墓前は若者だらけ!くどいようだけど、『龍馬伝』の影響力は凄まじいものがある。龍馬の墓参は3回目だけど、
過去2回はこんなに次から次へと若者が訪れていなかった。GWは墓地の外まで行列が出来ていたんだって!

●同志、中岡慎太郎


同じ人物の写真とは思えない!享年29歳 『龍馬伝』で中岡のファンも増加(2010)

「中岡慎太郎寓居之地」
近江屋跡の近所にある
あぶらとり紙屋さんの敷地にあるため、
店が閉まっている時はフェンスで撮影困難

●お龍の墓(神奈川)

美しいお龍さん

京都市木屋町通の
「お龍独身時代寓居跡」
横須賀市大津町の信楽寺(しんぎょうじ)に眠る

龍子は龍馬の死後に再婚し、西村ツルの名前で横須加の米ヶ浜通りに住んでいた。毎秋に龍子を偲び「おりょうさんまつり」が催される。


墓地奥の壁沿いに建ち、立派な説明板がある

「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」とある。
再婚先の西村姓ではなく“龍馬之妻”となっている!
裏面に「永代寄附 明治三十九年一月十五日歿 享年六拾有六謚昭龍院閑月珠大姉 大正三年八月十六日 実妹中沢光枝建立」とある。
再婚相手の西村松兵衛に甲斐性が無く、当初はお龍の墓がなかったことから、晩年に親交のあった鈴木清治郎なる人物が各方面より寄付を募って建立したという。



薩長同盟を西郷に訴えるフィギュアがあった



台座前面に坂本家の家紋“桔梗紋”



台座左側には“賛助人”として
・西村松平(夫の松兵衛)
・鈴木魚龍(別名・清次郎)
・新原了雄の連名があった

●平井加尾の墓(東京)

  
龍馬の初恋の女性とされる“平井加尾”の墓は青山霊園にある。結婚して西山加尾と名乗っていた。※大河で広末が演じていた

●海援隊ほか龍馬をとりまく人々(青山霊園)

後藤象二郎。龍馬と容堂のパイプとなった 野村維章。脱藩して亀山社中、海援隊に参加 佐々木高行。海援隊を援助した土佐藩士

黒田清隆。薩摩藩士、第2代総理大臣。龍馬と
一緒に長州の木戸を訪れ薩長同盟を薦めた

白峰駿馬。越後長岡藩出身。勝に操船を学んだ生え抜きの海援隊士。龍馬暗殺時に
近江屋へ急行した。維新後に外国を視察、日本初の民間造船所・白峰造船所を設立
※墓所には「海援隊士白峰駿馬墓所」と刻まれた誇らしげな石碑があった


「日本を今一度、洗濯いたし申し候」(龍馬28歳の時の姉への手紙から)。圧巻!日本を洗濯、なんとスケールの大きい言葉なんだろう。しかも本当に洗濯してしまった!
マンガ、小説、映画、あらゆる媒体で坂本龍馬の人気は絶大だ。龍馬は西郷、大久保、桂たちと違って、大藩の重鎮でもなければ強大な軍隊も持っていなかった。脱藩した一介の浪人だ。しかし、この男が徳川300年を終わらせた。永遠に続くかと思われた徳川幕府を、そして鎌倉時代から700年続いた武家政治に終止符を打たせた。もちろん、幕府を追い詰めたのは薩摩と長州の大きな軍事力だ。しかし、敵対関係にあった両藩を和解させ連合させたのは龍馬その人。彼が奔走したこの軍事同盟なくして倒幕はなしえなかった!
過去にも日本史を変えた英傑はいるが、大名の家に生れた信長や源氏の名家の頼朝とは、スタート地点が全然違う。江戸から見れば片田舎にすぎない土佐に生まれ、しかも脱藩者で権力の後ろ盾が何もない30歳そこそこの男が、文字通り天下国家を動かしていく。しかも龍馬が活動したのは、27歳で脱藩してから32歳で暗殺されるまでたったの5年間だ。これにロマンを感じないわけがない!

坂本龍馬は1835年(天保6年)11月15日、土佐藩高知の郷士(下級藩士)の家に生まれた。本名は直柔(なおなり)。通称の「龍馬」は、生れる前に龍が炎を吐きながら胎内に躍りこんだ夢を母親が見たことと、背中に馬のたてがみの如く毛が密生していたことによる。
18歳の時に江戸へ出て千葉道場で剣を学び、この時に黒船来航と遭遇。攘夷(じょうい=外国排斥)思想の影響を受けた龍馬は、翌年に帰郷すると藩の尊攘派急先鋒の武市半平太に接近。1861年(26歳)、半平太が結成した土佐勤王党に加盟して尊王攘夷運動に係わって行く。藩に所属していては自由な行動が出来ないので翌年に脱藩を敢行(27歳)。攘夷の気運の高かった長州を経て江戸に入り、幕府の軍艦奉行・勝海舟の自宅へ「(話が通じなければ)目ざわりじゃき、北辰一刀流で斬るだけのことよ」と論戦を挑みに行くも、逆に渡米体験のある勝の視野の広さに驚愕し、その場で弟子入りを志願する。
龍馬は無闇に外国を排するのではなく、むしろ西洋の進んだ技術を積極的に導入することで国力を高め、海外と対抗しようと考えた。

攘夷論を棄てた龍馬は勝の右腕となって幕府の近代海軍創設計画に参加し、神戸海軍操練所設立の塾頭となる(倒幕派なのに幕府軍を強化するのは矛盾しているようだが、先述したように、国防の為にも海軍強化が必要と思っていた)。
勝のおかげで脱藩の罪は許されたが、土佐藩が勤王党への弾圧を激化させた為、帰藩命令を拒否して再度脱藩。勝が幕府内の保守派に疎んじられて失脚した後、勝の計らいで龍馬は西郷のいる薩摩藩へ身を寄せる。

幕府の古い体制を打ち倒すには、諸藩の中で最強の軍隊を持つ薩摩藩と、吉田松陰、高杉晋作ら優れた人材を輩出し、反幕府の先陣を切る長州藩との連合が不可欠と龍馬は考えていたが、1864年、両者は“禁門の変”で武力衝突をし犬猿の仲となってしまう。多くの犠牲者を出した長州藩では薩摩の人間を「薩賊」(さつぞく)と呼んで憎んだ。
龍馬は「事を起こすのにまず資金が必要」と、翌1865年(30歳)、海軍操練所で身につけた航海術を生かし、日本で最初の会社組織と言われる貿易商社・亀山社中(後の海援隊)を長崎で設立。海運業に励み、経済を通して薩摩藩と長州藩の橋渡しとなっていく。
※海援隊は身分にこだわらず、菓子屋や町医者など様々な人材で構成されていた。「海援隊には役者もおれば乞食もおるが、腹わただけはきれいだぞ」(龍馬)。

●薩長同盟

仇敵同士の薩長両藩をどう和解させるか。長州藩は間近に迫った長州征伐を前に最新鋭の武器を欲していた。しかし幕府は『長州藩への武器売却まかりならぬ』と禁制を出しており、武器購入は不可能。文字通り藩存亡の危機に瀕していた。そこで龍馬は親交のあった西郷に働きかけ、 長州藩が武器を購入する際に薩摩藩の名義を貸す代わりに、飢饉で苦しむ薩摩に長州が米を送るという密約を提案した(運搬は亀山社中)。
作戦は大成功。新式の武器を大量に手に入れた長州藩は、薩摩藩が幕命に反してまで名義を貸してくれたことで、わだかまりが消えていく(実際、第二次長州征伐では30倍もの幕府軍を蹴散らした)。
龍馬が仲介となって両者は急接近し、悲願だった薩長の軍事同盟締結が現実味を帯びてきた。1866年、正月明けの京都で薩摩・西郷隆盛と長州・桂小五郎のトップ会談が始まる。しかし!同盟へ向けた話し合いが10日目に入っても、互いに「我が藩と同盟を結んでくれ」と切り出せないでいた。先に言った方が“お願いする”立場になるからだ。

長州への帰り支度を始める桂小五郎に龍馬が詰め寄ると「もし長州から和解を申し入れれば、幕府との戦争を控え危機にある長州が、薩摩に情けを求めることになる。たとえ和解が成立せず長州が焦土となろうとも、面目を落とすことは出来ない」との返事。彼は激怒した。「長州の体面云々、一応うけたまわろう。しかし元来、薩長の和解はこの日本国を救わんがためなれば、一藩の私情は忍ばざるべからず!」。藩の名誉や利益は関係ない、今日本を新たな世の中に変えなくてどうする、この談判に桂は心を動かされる。一方、西郷もまた龍馬から無情を痛論され、桂の心情を察して自分から同盟を申し込むことを約束する。1866年1月21日、ここに日本の歴史を変える薩長同盟が締結された!

●寺田屋事件

同盟成立の3日後、深夜3時。京都伏見の寺田屋で龍馬が長州藩士の三吉慎蔵と同盟締結の祝杯を酌み交わしていると、寺田屋の女中で龍馬に惚れていた“楢崎お龍”が、外の異変を2人に知らせた。奉行所の役人が踏み込んできたのだ。部屋に突入してきた役人と対峙した龍馬はピストルで相手の出鼻をくじく。彼は右手に深手の刀傷を負いながらも何とか薩摩屋敷に脱出したが、2名の捕り方を射殺したことで奉行所の恨みを買ってしまう。
この事件後、龍馬とお龍は正式に結婚。傷の治療には鹿児島・霧島の温泉が良いという西郷の勧めもあって、薩摩藩の汽船で日本初と言われる「新婚旅行」を敢行、高千穂の峰を登ったり温泉に入ったりと行楽を楽しんだ。
翌1867年6月、京に向かう船中。龍馬はあくまでも武力で倒幕しようとする薩長に対し、“今は日本人同士が戦っている場合ではない”と、幕府から朝廷へ平和的に政権を移譲させる大政奉還など八ヵ条の構想「船中八策」を考えた。土佐藩はこれをもとに幕府へ建白し、10月14日、将軍慶喜はついに大政奉還を受け入れた。

●龍馬、京都近江屋に死す

その1ヵ月後、運命の11月15日。寺田屋事件の後、京や大阪に人相書が出回っていた龍馬は、京都河原町蛸薬師の醤油商・近江屋の裏庭の土蔵に密室を造り、そこを隠れ家にしていた。裏手の称名寺(しょうみょうじ)への脱出ルートも作って万全を期していたが、この日の龍馬は風邪気味で、土蔵の中は寒さがこたえるからと、夕方から来訪していた同志・中岡慎太郎と母屋の二階で火鉢にあたっていた。そこに2人の仲間が加わり談笑するうちに、龍馬が「栄養たっぷりの軍鶏(しゃも)鍋でも食おう」と言い出し、20時半ごろ一人(菊屋峰吉)に鶏を買いにやらせた。もう一人も所用で帰り、この時点で母屋にいたのは龍馬、中岡、龍馬の護衛役で力士の藤吉の3人。その直後、十津川郷士と名乗る7人の男が訪問し、龍馬の部屋に案内する藤吉を背後から斬りつけた。

龍馬は藤吉が倒れる音を聞いて部屋の外でふざけていると思い「ほたえな!(騒ぐな!)」と声をかける。そこへ2人の刺客が飛び込み、龍馬の額をいきなり真横に斬った(この時の血が掛軸に残っている)。続いてもう1人が中岡に「こなくそ!」と斬りかかる。不意を突かれた龍馬はピストルを取り出す間がなく、とっさに床ノ間の愛刀『吉行』に手を伸ばす。そこを右肩から背中にかけて二の太刀が襲い、続く三太刀目はかろうじて刀の鞘で受け止めたものの、そのまま力押しで前頭部を再度斬られた。中岡も全身を10箇所以上斬られる。奥にいた刺客が「もうよい」と告げ賊は去った。
血溜まりの中で龍馬は「残念、残念」と呟き、刃に映った自分の傷を見て「俺は脳をやられたからもう駄目だ」と言い絶命。この日は奇しくも龍馬の32回目の誕生日(旧暦)だった。
重傷の中岡は暗殺時の状況を土佐藩士に伝えた後、翌々日に「今後は岩倉具視卿に王政復古の実行を頼れ」と言い残し息絶える。龍馬の葬儀は死の3日後に近江屋で執り行われ、亡骸は中岡や藤吉らと共にに埋葬された。この非業の死の翌月、王政復古の大号令が発され新生日本が誕生した。
※検死によると、龍馬には34ヶ所、中岡は28ヶ所、藤吉は7ヶ所の刀傷があったという。

「薩長同盟も大政奉還も、全部龍馬一人で考えてやったこと。あの大ボラ吹きは、言葉一つで薩摩という大藩を動かしおった」 (勝海舟)


●龍馬の墓

京都八坂神社の南東、「維新の道」の坂道を上りきった東山霊山(りょうぜん)に、明治維新に尽くした1043名を弔う霊山護国神社がある。墓地には坂本龍馬や中岡慎太郎をはじめ、桂小五郎、高杉晋作、池田屋で新選組に暗殺された志士など、そうそうたる顔ぶれが眠っている。一般の墓地と様子が違うのは、入口から龍馬の墓に至る道に所狭しと並ぶ龍馬ファンの石板寄せ書き!龍馬個人へ直接語りかけた熱いメッセージばかりで、どれほど彼が愛されているかよく分かった(僕が今までに訪れた国内の墓で、最も墓参者が多かったのが龍馬の墓!)。墓所の入場券(300円)は龍馬の名刺になっていて、肩書きは「土佐海援隊隊長、亀山社中代表取締役」。ファンとして最高に嬉しい。併設されている霊山歴史館は幕末維新が専門の歴史博物館として1970年に開館。龍馬が高杉晋作から貰ったピストルの同型品など、5千点を超える収蔵資料が展示されている。
龍馬の墓は山の中腹にあり、墓前からは京都市内が一望できる。今、どんな思いでこの国を見つめているのだろうか。

一人の男が30歳にして日本を新たに創世する。現代では30歳で「国を変える」と言ったところで白昼夢として一笑されそうだけど、これは平安時代や室町時代の話じゃなく、ほんの140年前の出来事だ。人間が本来持ってるエネルギーに極端な大差があるとは思えず、龍馬のことを考えると、僕らだって何でも出来そうな気がする。龍馬がけっして想像上のヒーローではなく、現実に存在していた人間という「事実」が、どれだけ力強く勇気をくれることか!ありがとう龍馬ッ!


★ミステリー考察〜龍馬暗殺の実行犯や黒幕は一体誰なのか?140年も続くこの議論の、主な6つの説と疑問点を検証!

【その1.新選組説】
現場に新選組隊士が通っていた料理屋(瓢亭)の下駄や刀の鞘が遺留品として残っていた上、中岡が「こなくそ」という伊予弁を聞いたことから、事件当時は伊予出身の原田左之助を抱える新選組の犯行と思われていた。一説には「刀の鞘は原田のもの」と御陵衛士(元新選組隊士)・伊東甲子太郎が証言したとも。さらに維新後に捕縛され斬首となった元隊士・大石鍬次郎が取り調べの中で龍馬殺しを自白している(後に否認)。
《反論》事件後に幕府大目付・永井尚志に対して近藤勇が「あまりにわざとらしい物証ではないか」と暗殺を否定したように、現場に物証を残すことで新選組の犯行に見せようとする意図が感じられる。先の伊東甲子太郎は龍馬暗殺の3日後に新選組に殺されており、対立関係にある伊東の言葉は信用できない。そもそも動きにくい下駄を履いて襲撃するなどあり得ない。龍馬は倒幕派ではあるが平和主義者だったので、この頃は薩長の暴走を止められる男として幕府からも重宝されていた。徳川慶喜は永井を通して「龍馬捕殺禁止」の通達を新選組に出していたとも伝えられる。
※近藤勇が切腹を許されず斬首・晒し首になったのは、龍馬暗殺犯に対する土佐藩の怒りがあったといい、新選組がシロなら近藤には可哀相な話だ。

【その2.顔見知り(土佐藩士)説】
寺田屋事件後に身の危険を感じていた龍馬は、暗殺の10日前に海援隊の詰所・酢屋から近江屋に隠れ家を変えたばかり。近江屋では密室や抜け道を作る念の入れ要だ。事件の2日前には御陵衛士の伊東甲子太郎から「ここは危険だから土佐藩邸に移るように」と警告もされている。用心深い龍馬が防御できなかったのは相手が顔見知りで油断したからではないのか。玄関で犯人を取り次いだのは龍馬の警護担当・力士の藤吉。彼も2階で背後から斬られており警戒心が薄かった。犯人は十津川郷士と名乗ったと伝えられるが、本当に見知らぬ相手ならこれほどの隙は生じなかったはず。土佐藩の重鎮・後藤象二郎は龍馬が考えた大政奉還案(船中八策)を自分の意見として前藩主・山内容堂に進言しており、徳川慶喜までが後藤のアイデアだと信じていた。大政奉還の実現後に土佐に戻った後藤を容堂は大いに誉め称え、1500石という破格の賞与を与えた。この褒美を受けたのは龍馬暗殺の前々日。大政奉還の手柄を後藤が独り占めしようとして放った同郷の刺客という線もある。そもそも後藤は叔父の吉田東洋を土佐勤王党に暗殺されており、報復で龍馬の師である武市半平太を切腹させている。武士同士でも身分差別の激しかった土佐藩にあって、低い身分の龍馬の活躍を苦々しく思っていたのかも知れない。暗殺の直前に土佐藩内の佐幕派33名が、龍馬や中岡を批判する建白書を藩主に提出しており、土佐藩の中でも龍馬を憎むグループがあったことも気になる。
《反論》龍馬は斬られたが、結局今のように龍馬のアイデアということは広まってしまった。後藤が保身のためにそこまで危険な賭けをするだろうか。

【その3.御陵衛士説】
近藤勇との思想の違い(佐幕VS勤王倒幕)から新選組を出て行った者が結成した御陵衛士(高台寺党)。遺留品がデッチあげとすれば、なぜ御陵衛士の盟主・伊東甲子太郎は新選組の物と証言したのか。事件当時、御陵衛士は水面下で薩摩藩の援助を受けていた。しかし、“元新選組”という過去が足枷となって勤王でありながら薩長から信用されず伊東は焦った。後述するが薩摩には穏健派の龍馬を疎ましく見る者もおり、新選組に濡れ衣を着せて龍馬を始末することで、武力改革派からの心象を良くしようとしたのではないか。龍馬暗殺の3日後に新選組は維新側に接近する御陵衛士の粛清を行ない伊東は殺された。新選組の襲撃から生き残った者が薩摩藩邸に逃げたことからも両者の繋がりが伺い知れる。また、龍馬の刀傷や掛け軸の血痕から犯人は左利きと推測され、北辰一刀流の達人・龍馬を斬る実力を備えている左利きの剣士は、この当時新選組から御陵衛士に移っていた斎藤一と思われる。齋藤は新選組の間者として御陵衛士に潜入しており、スパイ疑惑を払拭する為にも伊東の指令を断り切れなかったのだろう。
《反論》御陵衛士が実行犯なら、事件前に伊東甲子太郎が龍馬に危険を知らせたことが矛盾する。ただし、これについては御陵衛士に嫌疑の目が向かないよう、頭の良い伊東が事前にアリバイを作ったという見方もある。

【その4.紀州藩説】
暗殺される8ヶ月前、海援隊士34名を乗せた「いろは丸」(160トン)と紀州藩の軍艦「明光丸」(870トン)が夜霧の中で衝突し、いろは丸が沈没する事件が起きた。紀州藩は不幸な事故として片付けようとしたが、龍馬は賠償しろと「万国公法」を持ち出して大騒ぎ。紀州藩は徳川御三家の名藩であり、将軍家の威光を笠に着て海援隊を無視。怒った龍馬は“紀州藩は徳川御三家なのにケチだ”と紀州藩を侮辱する歌を街中に流行らせ、さらにこの事件を土佐藩VS紀州藩の構図に拡大させた。その結果、紀州藩代表の三浦休太郎は要求された8万両から1万両を値切ったものの、7万両(約30億円)という大金を払わされ、しかも徳川の看板にケチというレッテルを貼られ赤っ恥をかいた。龍馬の暗殺から3週間後、“龍馬を恨む紀州藩が黒幕”との噂を聞いた海援隊幹部・陸奥陽之助(宗光)は逆上し、「龍馬の仇」と叫びながら三浦が滞在する天満屋を十数名で襲撃して斬り合っている。
《反論》龍馬を殺せば土佐や薩長が黙っておらず、政情不安な折、紀州藩としてそんなことはできないだろう。

【その5.京都見廻組説】
佐々木唯三郎率いる京都見廻組は幕臣によって結成された治安維持組織。幕府を倒そうとする薩長同盟を成立させた龍馬は許せぬ敵であり、また寺田屋事件で龍馬は指名手配となり見廻組に追われていた。維新後に戊辰戦争で捕虜になった元見廻組隊士・今井信郎は、自分達が龍馬を暗殺したと1870年に自供している。今井が証言した刺客団は7人で、佐々木唯三郎、今井信郎、土肥仲蔵、桜井大三郎の4人が見張り役、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助の3人が襲撃役としている。新選組の近藤も見廻組が斬ったと思っていた。
《反論》見廻組が犯人なら龍馬を斬ったことは手柄であり、堂々と宣伝したはず。後年の今井は「刺客団は4人で龍馬は自分が斬った」と語っており証言に一貫性がない。また、名前を出された渡辺吉太郎(篤/一郎)は遺言の中で「刺客団は佐々木唯三郎、渡辺一郎、世良俊郎、今井信郎ほか計6名、斬ったのは佐々木」と語り、これも今井とくい違っている。近江屋に駆けつけた陸援隊の田中光顕は、重傷の中岡から「実行犯は2名」と聞いている。同じく中岡から聞き出した土佐藩士・谷干城(たてき)は「人数不明」と残している。この谷干城は近藤勇を斬首獄門に処した人物だ。今井が龍馬を斬ったと告白した時、谷は「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と激怒したという。

※その5に追記
松平定敬(さだあき)&手代木直右衛門黒幕説…松平定敬は京都守護職・松平容保の実弟として幕府維持に努めていた。会津藩の重臣、手代木直右衛門(てしろぎ・すぐえもん)は松平定敬が佐々木只三郎暗殺を命じたと示唆。手代木は後藤象二郎から聞かされた大政奉還に反発していた。この手代木の実弟がなんと佐々木。これにより話の信憑性が増す。歴史学者・磯田道史は「松平定敬の命を受けた手代木直右衛門が暗殺を企画し、弟の佐々木只三郎が実行した」と唱えている。

【その6.薩摩藩急進派説】
西洋の最新兵器を揃え、薩長は軍事力で幕府を圧倒しており、西郷隆盛や大久保利通らはあくまでも武力による倒幕を目指していた。しかし、龍馬は大政奉還を実現させるなど徳川を含めた議会政治を念頭に置いていた。西郷たちは徳川の底力を舐めておらず、完全排除せねば反維新の火種を残すことになると考え、龍馬の存在が次第に目障りになったとしてもおかしくない。そして、この意を汲んだ薩摩藩士急進派が刺客となって龍馬の命を奪った。中岡慎太郎が聞いたという「こなくそ!」は薩摩弁の「こげなくそ!」。暗殺の実行犯は薩摩藩士きっての武闘派“人斬り半次郎”こと中村半次郎(坂上田村麻呂の子孫)ではないか。中村も倒幕を目的に薩長の和解を画策してきた男であり、その眼には和平路線に走った龍馬が裏切り者に映っただろう。逃走する刺客が薩摩弁で会話しているのを近江屋の女中が聞いたとする説もある。
《反論》本当に大政奉還を阻止するつもりなら、徳川慶喜に建白した後藤象二郎を暗殺すべきでは。西郷は龍馬について「天下に有志あり、私は多くの人と出会ってきた。しかし龍馬ほど心の広い人を、いまだ見たことがない。龍馬の度量は到底測ることなどできない」とまで語っており、龍馬を始末するとは思えない。ただ、無能であれば脅威になりえず、龍馬を高く評価していたからこそ危険に感じたとも言えるが…。

●犯人の手がかりは中岡慎太郎の“沈黙”

犯人をめぐる諸説にはどれも一理ある。果たして真相はどうだろうか?近年の通説では見廻組の犯行とする見方が優勢だが、では誰が見廻組に潜伏先の情報を流したのか。晩年の龍馬は薩摩藩邸はおろか、土佐藩邸にさえ警戒して身を寄せなかった。まして近江屋には移ったばかり。密告がなければ絶対に民家に潜む龍馬を発見することは不可能だ。僕は実行犯・見廻組、黒幕・薩摩藩だと見ている。
先述した見廻組の今井信郎は証言がブレることもあるが、龍馬の暗殺を自白したにもかかわらず、判決は死罪ではなく禁錮5年だ。しかも実際はわずか2年で釈放されている。維新の立役者となった龍馬を殺して斬首されないのは不自然すぎる。今井が龍馬暗殺の容疑で伝馬町の牢に放り込まれた時、なぜか西郷が助命運動に乗り出し、今井自身も後年「西郷さんが骨を折って命を助けてくれた」と証言している。ここはやはり薩摩が龍馬の動向を流していたのではないか。それに幕臣の見廻組が龍馬を斬ったとなれば、穏健派の土佐藩の連中も「幕府許すまじ」と武力倒幕に傾く計算もあったかも。
事件に巻き込まれた中岡慎太郎は即死ではなく、2日後に他界している。一時は焼き飯を「うまいうまい」と食べるほど快復したが、容体が急変して旅立ったという。彼は龍馬の最期の様子なども証言しているのに、なぜか犯人のことを何も語らずに逝った。だがもし、“語らない”のではなく、“語れない”のだとしたら?土佐藩と薩長は一体となって維新を進めており、自分達が薩摩に襲われたことを明かせば足並みに亀裂が生じてしまう。外国船が頻繁に現れる時に、倒幕派が分裂している場合ではない。状況から薩摩が手引きしたことを見抜いた中岡は、そう考えて秘密を土の下まで持っていったのではないだろうか。

   なんと、飛行場の名前にまでなったぜよ!

【龍馬語録】
「何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから」
「自分に万一のことがあったら、薩摩の西郷と大久保に伝えてほしい。 二人に線香を手向けてもらえれば成仏できる」
「はてさて人間の一生というのは合点のいかぬものよ、 運の悪い者は風呂から上がる時に金玉をぶつけて死ぬものである」
「アメリカの大統領は下女の給料まで心配するそうだ。徳川幕府300年で将軍がそんな考えをした事があるか。この一件だけでも幕府は倒さにゃならんぜよ」
「天下の世話は実に大雑把なるものにて、命さえ捨てれば面白きなり」
「(刀剣を)父の形見だとか武士の魂だとか言っているのは自分に自信のない阿呆の言うことだ。形見はお前さん自身さ」(『竜馬がゆく』司馬遼太郎)
「おれは落胆するよりも次の策を考えるほうの人間だ」(同上)

【龍馬トリビア】
※龍馬死後の坂本家について。武士に貸金をしていた本家は、明治維新で貸した金が戻らなくなり没落。1898年、一族は新天地で再起を図るべく北海道樺戸郡浦臼(うらうす)町に移住、土地を開拓する。同町には記念館がある。高知にあった家は戦災で焼失し現在は病院が建つ。
※残された龍馬の紋服や証言から、龍馬の身長は170cmを越えていたことがわかる。当時は平均身長150cm台の時代なので、かなり大柄だったといえる。
※次姉の栄(えい)は龍馬脱藩の際に自害したと言うのが通説だったが、近年墓が発見され、龍馬が10代前半の頃にはもう亡くなっていたことが分かった。
※龍馬は土佐勤王党の同志・桧垣清治が流行の長刀を身につけて得意気なのを見て、「長い刀は実践の役に立たぬわい」と短い刀を薦め、次に会った時は懐中よりピストルを取り出してブッ放すと「今はコレじゃ」、3度目には「万国公法」という1冊の本を差し出して「これからは学問が何より大切だ」と言ったという。先に先にと行く男だった。
※暗殺時に妻のお龍は下関に預けられていた。悲報を受けたお龍は下関で法事を行い、長い黒髪をバッサリと切って龍馬の霊前に供え号泣したという。2年後に江戸で西村松兵衛と再婚し横須賀で他界。墓は横須賀市の信楽寺(しんぎょうじ)。
※「亀山社中」が「海援隊」になったのは1867年4月。
※死と隣り合わせに生きていた龍馬は暗殺の前年、兄の権平に「先祖の刀を持って死に臨みたい」と手紙を送り、名刀・吉行を兄から譲り受けた。吉行は、山内容堂→西郷隆盛→中岡慎太郎→龍馬というルートで届く。龍馬は「京都の刀剣家が褒めてくれる」と喜んで兄に御礼状を書いた。その翌年、龍馬は吉行を握ったまま絶命した。
※龍馬は亀山社中で薩摩藩から3両2分を給料に貰っていた。
※『船中八策』の第二条「万機宜しく公議に決すべき事」は民主主義思想の先鞭。
※龍馬が勝海舟と会った1862年から暗殺されるまで、わずか5年の間に船で移動した距離は実に2万km!あの時代に地球を半周もしているのがスゴイ。
※龍馬の護衛役で、近江屋で一緒に殺された藤吉。龍馬の仲間たちが彼を不憫に思って龍馬や中岡と同じ敷地に墓を建てた。
※勝海舟の弟子になった龍馬が、得意気に姉へ書いた“エヘンの手紙”というユーモアにあふれた手紙がある。
※龍馬を知る人物は語る…「維新前後の志士は、扮装(なり)にも振りにも構はず、ツンツルテンの衣服で蓬頭垢面(ほうとうこうめん)の人が多かった。坂本先生も書物などには幣衣(やぶれころも)をまとい、破袴(やぶればかま)をはく、などと書いてあるが大間違いで、実は大の洒落者でありました。袴はいつも仙台平、絹の衣類に、黒羽二重の羽織、たまには玉虫色の袴などはいて、恐ろしくニヤケた風をされる。中岡慎太郎さんは又ちっとも構わぬ方で、“坂本は何であんなにめかすのか、武士には珍しい男じゃ”と、よく言い言いされました」(寺田屋のお登勢の娘・殿井力(とのいりき)の言葉)
「坂本龍馬には過激な部分が全くない。声高に論争することもなく非常におとなしい人だ。容貌を一見すると豪気に見えるけれど、万事温和に事を進める人。ただし胆力は極めて大きい」(寺田屋で龍馬と一緒に戦った長州藩士・三吉慎蔵)
※坂本家の先祖は明智光秀の娘婿・明智左馬之助という説がある。高知県南国市の坂本家初代・太郎五郎の墓に「弘治永禄の頃(1555年〜1570)畿内の乱を避け土佐の国殖田郷才谷村に来り住む」とある。坂本家の家紋は明智と同じ桔梗文。坂本の姓は光秀の本拠地、滋賀の坂本からきているのか。土佐の猛将・長宗我部元親の妻は、明智光秀の重臣&甥の斎藤利三の異父姉にあたる。斎藤利三が山崎の合戦で死んだ後、利三の妻、次男、娘“福”は長宗我部氏を頼りに土佐へ渡った。もしも坂本家が明智の家臣ならば、同様に長宗我部氏を頼って高知に向ったかも知れない。(ちなみに斎藤利三の娘・福は、後に家光の乳母・春日局となる)


【中岡慎太郎】

土佐藩出身のク士(下級武士)。変名、石川誠之助。親は土佐国北川郷(高知県北川村)の大庄屋。1855年、17歳から武市瑞山(半平太)に剣術を習い、道場で2歳年上の坂本龍馬を知る。19歳で結婚。1861年(23歳)に武市が土佐勤王党を結成すると、すぐさま加盟して血盟文に署名した。翌年、警護部隊“五十人組”の伍長として前藩主・山内容堂(豊信、とよしげ)を守って江戸にあがり、尊王攘夷運動に参加。同年、松代を訪れ蟄居中の佐久間象山の話を聞く。翌1863年(25歳)、京都から山内容堂にしたがって帰郷するが、8月18日の政変(長州失脚)後に藩論が公武合体に傾き、藩当局が土佐勤王党の弾圧を強化した為(武市も逮捕された)、脱藩して長州に走った。

1864年(26歳)、禁門の変において長州軍遊撃隊として活躍するも、負傷により長州に戻される。その後、脱藩浪士が長州支援を目的に結成した「忠勇隊」の総督となり、攘夷派の公卿・三条実美らに仕えた。故郷の土佐では、武市の釈放を求めた清岡道之助ら同志23人が反乱罪で逮捕され全員が処刑された。長州でこの悲報を聞いた中岡は、友へ悲痛な手紙を書く「実に天下、ムチャクチャに相成り申し候。言語に絶し悲憤極まり申し候。天下挽回再挙なきにあらず。しかしながら今しばらく時を見るべし。涙を抱えて沈黙すべし。外に策なし」。何も出来ない、時を見ることだけが策…。
1865年(27歳)、武市に切腹命令が下り、三文字割腹で果てた。衝撃を受けた中岡は次の漢詩を刻んだ「吾身可而未死 淪落且抱盗生恥」(私は仲間たちから死に遅れている。落ちぶれた私が無駄に生きることは恥である)。死んでいった仲間の為にも生命を役立てねばならない、そんな決意に満ちた一文。中岡は倒幕実現の為には憎み合う薩長の和解・協力が不可欠と考え、同志である龍馬と手を組み、下関、大坂、京、太宰府、長崎、鹿児島など各地で薩長同盟に向けて尽力した。

1866年(28歳)正月、悲願の薩長同盟が締結。中岡は土佐藩の同志にむけて書いた『時勢論』の中で、「今後は薩長両藩が天下を変える」と予測している。同年6月、幕府は第2次長州征伐で敗北し、討幕の動きが加速。翌1867年に中岡は脱藩の罪をゆるされ、京都白川にて土佐藩の経済援助を受けて諸藩出身の浪士を集めた軍隊「陸援隊」を組織、隊長に就任する。この年、龍馬の「海援隊」(前身は1865年設立の亀山社中)も土佐藩の公認を得た。5月、土佐藩・板垣退助を西郷隆盛に引き合わせ、翌月の薩土盟約締結に立ち合う。
同年11月15日、武力倒幕を計画していた中岡は、京都の商家・近江屋に隠れていた龍馬を訪ね、談義中に刺客の襲撃を受ける。龍馬はその場で死亡し、中岡は2日後(17日)に絶命した。享年29。武力倒幕に積極的な中岡に対し、龍馬は穏健派だったことから、刺客が狙っていたのは中岡で、龍馬が巻き込まれたと考える歴史家もいる。


※参考資料〜NHK『その時歴史が動いた』、霊山護国神社パンフ、世界人物事典(旺文社)、エンカルタ百科事典(MS)ほか多数


《あの人の人生を知ろう》
★文学者編
・宮沢賢治
・太宰治
・小林多喜二
・樋口一葉
・梶井基次郎
・清少納言
・近松門左衛門
・高村光太郎
・石川啄木
・西行法師
・与謝野晶子
・茨木のり子
●尾崎放哉
・種田山頭火
●松尾芭蕉
・ドストエフスキー

★学者編
●南方熊楠
●湯川秀樹

★思想家編
●チェ・ゲバラ
・坂本龍馬
●大塩平八郎
・一休
・釈迦
・聖徳太子
・鑑真和上
・西村公朝
・フェノロサ

★武将編
●明智光秀
●真田幸村
・源義経
・楠木正成
●石田三成
・織田信長




★芸術家編
●葛飾北斎
・尾形光琳
・上村松園
●黒澤明
・本阿弥光悦
・棟方志功
・世阿弥
・伊藤若冲
●グレン・グールド
●ビクトル・ハラ
●ベートーヴェン
●ゴッホ
・チャップリン

★その他編
●伊能忠敬
・平賀源内
・淀川長治
●千利休

●印は特にオススメ!

※番外編〜歴史ロマン/徹底検証!卑弥呼と邪馬台国の謎(宮内庁に訴える!)




愛と情熱のTOPページへ


【最新ランク】 DVDトップ100 本のベストセラー100 音楽CDトップ100 玩具のトップ100/(GAME)