なんちゅう優しい兄弟なのか!
【 あの人の人生を知ろう〜ゴッホ兄弟 】
withポール・ゴーギャン

★ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ/Vincent Van Gogh 1853.3.30-1890.7.29 (享年37歳)
★テオドール・ヴァン・ゴッホ/Theodore Van Gogh 1857.5.1-1891.1.25 (享年33歳)


「私は絵の中で、音楽のように何か心慰めるものを表現したい」(ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ)

※以下、文中で宛名を表記していない手紙は、すべて弟テオへ書いたもの。

●画商、教師、本屋、伝道師〜転職と苦悩の日々(1853-1880)

1853年3月30日、オランダ南部ベルギー国境沿いのフロート・ズンデルト村にヴィンセント・ヴァン・ゴッホは生まれた。碧眼、赤毛。“ヴィンセント”の発音は独語読みではフィンセント、仏語ではヴァンサン。祖父と父は牧師。男3人、女3人の6人兄弟の事実上の長男(初子は死産)で、4つ年下の弟テオドルス(通称テオ)と終生固い兄弟愛で繋がっていた。
ヴィンセントは少年時代から思い込みの激しい性格で、熱烈な片想いと失恋を繰り返し、就職しては客や上司と衝突していく。1869年(16歳)、美術商グーピル商会の共同経営者である伯父の取り計らいで同社に就職、ハーグ支店で画商として働き始めた。1872年(19歳)、この年からテオとの文通が始まる。
熱心な仕事ぶりが評価され、20歳の時にロンドン支店に栄転。テオもブリュッセル支店に就職した。ロンドンでは下宿先の娘ウルスラに惚れ、相思相愛と信じて告白するも既に婚約者がいて玉砕。1875年(22歳)、失恋から立ち直れないヴィンセントは仕事への熱意を失い、彼の精神状態を心配した伯父の計らいでパリ本店に配属された。
ヴィンセントは次第にミレーなど農村を描いたバルビゾン派の作品に心を惹かれていく。画商にもかかわらず、自分が気に入らない絵を買おうとした客に「これは買わない方がいい」と“助言”したり、クリスマス商戦を放り出して無断でエッテン(父の新しい赴任地)に帰るなど勤務態度が問題になった。「私に何かご不満がおありですか?」と支配人に尋ねたことが決め手となり、翌春に解雇される。


 
ヴィンセント少年期/青年期(18歳) 弟テオ 31歳(1888)

1876年(23歳)、新聞広告で知った英国の小学校教師の職を得て、仏語、独語を教える。ロンドン近郊の貧民街の様子にショックを受けたヴィンセントは、この年の後半に副説教師の職にも就き、初めて福音の説教を行った。聴衆の反応に手応えを感じたことから、貧者を救う為に伝道活動に身を投じる覚悟を決める。翌年、聖書の研究をしながら、伯父が見つけてくれたオランダ・ドルトレヒトの書店に勤めるが4ヶ月間で退職。キリスト教への情熱が加速し神学校に入るが、語学教科のギリシャ語で挫折。棍棒を自分の背中に打ちつけ“体罰”を与えた。
1878年(25歳)、ブリュッセルの伝道師養成学校に入ったが、見習い期間が終わっても伝道の仕事が与えられなかった。同年暮れ、聖職者の仕事を探してベルギー南部のモンス、ボリナージュ炭鉱地帯へ向かう。この頃、ヴィンセントはテオ宛ての手紙に「僕は他人の為にどうすれば役に立てるのかずっと悩んでいる」と苦悩を綴っている。

翌年、半年間の期限付きではあるが、ついに伝道師として認められる。ヴィンセントは劣悪な環境で働く炭鉱夫に心から同情し、懸命に伝道活動を行う。「僕はこの貧しく、闇に埋もれて働く労働者たちの中に、何か人の心を感動させるものを見出し、痛ましいような悲しさを覚える。このドン底の連中、世間からまるで悪人か泥棒みたいに見なされている、これら最も蔑まれた人たちに対してそう思うのだ。もちろん悪人や飲んだくれ、泥棒はどこにもいるようにここにもいる。だがそんなやつらは、1人として本当の坑夫じゃない」。半年後、任期延長を期待していたがそれは認められなかった。理由は“常軌を逸した熱心さ”。ヴィンセントは聖書の「汝の持ち物を売りて貧しき者に施せ」を実践し、ひどい掘っ立て小屋に住み、伝道師の衣服は坑夫にやり、手製のズック地のシャツを着ていた。顔は炭で汚れ、落盤事故で負傷者が出ると下着を引き裂き包帯にした。これらが聖職者の権威を傷つけると判断された。その後の9ヶ月間はテオにさえ連絡をとらず音信不通となる。ヴィンセントいわく「羽毛の脱け替わる時期は人前に出ず身を隠さねばならない」。

●27歳、画家としてスタート(1880-1884)

「伝道師として挫折した私は絵画を通じて、救い、救われたかった」。1880年(27歳)、ヴィンセントはテオへの手紙の中で画家を目指すことを告白し、取りつかれたように素描(デッサン)の特訓を開始する。伝道師として人々に光を与えることが出来なかった為、絵によって光を与えようとした。芸術はヴィンセントにとって「愛を訴える方法」だった。テオは兄の生活を助けるべく仕送りを始め、10年後に兄が自殺するまで毎月続けた。質素に暮らしていることを報告する為か「僕の主食は乾パンとジャガイモ、或いは街角で売っている栗だ」「4日間で23杯のコーヒー以外に殆ど何も食べなかった」と弟に書き送っている。テオが多忙で返事を書けないでいると「君が手紙を寄越さないのは僕が金をせびるのを警戒しているのか」と嫌味を書いたが、テオが表向きは親からの送金といって自腹を切っていたことを父より聞かされ、恥じ入ると共に「心から感謝しているし、君が(仕送りを)後悔しないよう決して期待を裏切らない」と誓った。
テオに対する負い目を感じていたヴィンセントは、絵をすべて送ることで心の重荷から逃れようとした。「僕は君が送ってくれる金を自分で稼いだ金と考えたいのだ。だから僕は毎月君に作品を送る」。ヴィンセントは当初独学でスケッチしていたが、秋からブリュッセルの美術学校で遠近法と解剖学(人体構造)を学ぶ。

※この時代の画家の関係を年齢から見てみると、ミレーがゴッホより39歳年上、セザンヌが14歳年上、モネとロダンが13歳年上、ルノワールが12歳年上、クリムトがゴッホより9歳年下、ムンクが10歳年下、ロートレックが11歳年下、マティスが16歳年下、ピカソは28歳年下になる。ゴッホが死んだ時、ピカソは9歳だった。日本の絵師ではゴッホが生まれる4年前に葛飾北斎が他界し、歌川広重はゴッホが5歳の時に他界。

翌年(28歳)、エッテンの家族の元へ戻り、風景や農民を描き続けた。「もう、以前のように自然を前にして為す術を知らずに手をつかねているようなことはない」。その夏、牧師館には夫を亡くしたばかりの子持ちの従姉ケーが、ヴィンセントの父の招きで共に暮らしていた。父はケーの悲しみが癒えるまでゆっくり過ごさせるつもりだった。ところがヴィンセントはそのケーに惚れてしまう。彼女を真実の愛で救おうと求婚するが、ケーはヴィンセントの想いに驚愕してこれを拒絶、家を去ってしまう。父は“未亡人の気持ちを理解していない”と激怒した。ヴィンセントは自分の誠実な想いがケーに伝わっていないと感じ、再度求婚するべくケーの実家のあるアムステルダムまで追いかけた(この旅費もテオが送った)。だが、ケーは会おうともしてくれず裏口から逃げ出した。彼女の両親に「会わせて欲しい」と懇願し、愛の強さを“証明”するために左手の指をロウソクの火にかざした。その苦痛を我慢できる間だけケーと話をさせて欲しいと頼んだようだ。ケーの父は慌てて火を吹き消し、結局会うことは許されなかった。

 
 ゴッホが恋い焦がれたケー・フォス・ストリッケル

父との衝突が続いて居場所を失ったヴィンセントは、クリスマスに「教会制度なんて唾棄すべきもの」と、捨て台詞を吐いて家を出た。さすがにテオもこの悪態が許せず「意見が合わないからと言って両親をあんなふうに痛めつけて、どうしてそう子どもっぽく恥知らずなことが出来るのですか」と叱り、兄は腹立ちのあまり理性を失ったことを詫びた。「父と母が僕を本能的にどう見てるかがよく分かる。家の中に入れることに恐怖を感じているのだ。ちょうど、大きな野良犬を家に入れたのと同じなんだ。犬は濡れた足で部屋に押し入る。みんなの邪魔だし、やたら大声で吠える。ようするに汚い獣(けだもの)なのだ。いいだろう。だがこの獣にも人間らしい魂がある。犬には違いないかも知れないが、人間の魂を、それもとびきり敏感な魂を持っている。おかげで人々からどう見られているか分かるのだが、これは普通の犬に出来る芸当じゃない」。

1882年(29歳)、年明けにハーグで家を借りて従兄の画家アントン・モーヴ(マウフェ)から絵を学ぶ。だがモーヴが石膏像のデッサンを重視すべきと助言すると、ヴィンセントは石膏像を粉砕して石炭入れにブチ込み、「僕が描きたいのは生命であって冷たい石膏じゃない」と言い放った。呆れたモーヴはしばらく距離を置く。ヴィンセントは焦燥感を胸にテオへ書き送る「一体人々の目に僕はどういう人間に見えているのだろう?取るに足らぬ存在、あるいはひどく風変わりで不愉快な男、社会的地位を何も持たず、将来も最低の地位すら持てそうにない男。結構だ…それなら、そういう男の胸中に何があるか、僕は作品によって見せてやろう。これが僕の野心だ。この野心は、何と言われようとも、怒りよりも愛に基礎を置いている」。
ハーグに住み始めて1ヶ月が経った頃、ヴィンセントは街で出会った娼婦シーンと同棲を始めた。シーンは30歳。子持ちで、妊婦で、性病に感染し、アルコール中毒だった。性病が移ったヴィンセントは3週間入院する。その後、シーンをモデルにデッサンを続けた。

1883年(30歳)、何とか彼女を救済したいと結婚を考えるが周囲は猛反対。夏にはテオがやって来てシーンと別れるよう強く説得した。これを受けて彼はハーグを去ってオランダ東部ドレンテ地方へ向かい、農民の過酷な暮らしを描き始める。3ヶ月後、ヴィンセントは次第に孤独感がつのり、年末に両親の元へ戻った(一家はニューネンに赴任)。翌年、ミレーに心酔していたヴィンセントは、ニューネンで農夫と同じ環境で暮らしながら、仕事着の農民や職人を描き続けた。炭鉱夫も娼婦も救えなかった彼は、貧しい人々への愛を絵で表現しようとした。「巨匠たちの絵の中の人物は生きて働いていない。働く農民の姿を描くことは近代美術の核心である」「僕はいくら貧乏になっても絵を描き続ける。そして自然に背を向けず、その懐の中に入って人間的に生きるのだ」。やがて隣家の娘マルホット・ベーヘマンから求愛され(ヴィンセントが惚れられた!)、彼はその気持ちを受け入れようとしたが、生活能力の問題から双方の親に交際を禁じられ、彼女は服毒自殺を図った。

●“ゴッホ”誕生『じゃがいもを食べる人たち』(1885-1886.2)

1885年(32歳)、3月に父が脳卒中で急死する。父子は最後まで理解し合えず、他界の2日前に父はテオに「どんな仕事でもいいから、(兄が)成功してくれればよいのだが」と書いた。ニューネンに来て以来、40点以上も農民の顔をスケッチしていたヴィンセントは、父他界の翌月、初めての人物画の大作となる『ジャガイモを食べる人々』を完成させた。画家を志してから、ひたすらデッサンを続けてきた5年間の総決算。神話の神々や歴史上の英雄を描いたものでも、裕福な貴族の肖像画でもない、農村の厳しい暮らしぶりを熟知しているヴィンセントならではの、胸に迫るような農民画。画中の家族の晩飯はゆでたジャガイモだけだ。現実世界の真実を切り取ったものであり、ここに画家ゴッホが誕生したと言っていい。

 
       『じゃがいも(馬鈴薯)を食べる人々』(1885)


「僕がこの絵で強調したかったことは、ランプの下で皿を取ろうとしている、まさにその手で土を掘ったと言うことだ。つまりこの絵は“手の労働”を語っているのだ。彼らが正直に自分たちの糧(かて)を稼いだことを語っているのだ。誰もがすぐにこの絵を好きになったり褒めたりしてくれるとは思わない。だが“これこそ本当の農夫の絵だ”と、やがて世間の人は悟るだろう」(画中にコーヒーが見えるけど、本物のコーヒーは高くて買えなかった為、チコリという野菜の根を乾燥させたものを代用コーヒーとして呑んでいた)。モデルを引き受けた農民はヴィンセントの手で不滅の姿をとどめた。この家族絵は評価されなかったが、ハーグの画材店がヴィンセントの作品を初めてショーウインドウに展示してくれた。秋になると、以前モデルとして描いた女性が妊娠し、ヴィンセントは無関係なのに地元の教会が彼のモデルになることを禁じる布告を出した。誰もモデルになってくれなくなったため、11月、2年間家族と過ごしたニューネンを出てベルギーのアントワープに移る。3ヶ月滞在したこの街で、日本の浮世絵と出会い、その構図や色使い、力強い輪郭線に感銘を受けた。


名所江戸百景亀戸梅屋敷
(歌川広重)
「花咲く梅の木」(ゴッホ)
油絵で模写。漢字も書いている
名所江戸百景 大はし
阿たけの夕立(歌川広重)
「雨中の大橋」(ゴッホ)
これも周囲を漢字で装飾

アントワープの美術学校に通い始めたヴィンセントの元へ、その頃グーピル商会のパリ・モンマルトル支店長となっていたテオから、パリの美術界に“印象派”と呼ばれる新しい画風が広まっていることを手紙で知らされる。彼は好奇心を抑え付けられなくなった。

●パリ時代(1886.3-1887)

1886年(33歳)3月、テオに事前連絡もせずパリにやって来て、弟の部屋に転がり込んだ。「突然来てしまったがどうか怒らないでくれ」。テオは戸惑いながらも自分の部屋で兄と共同生活を始める。ヴィンセントは画家コルモンの画塾で若いロートレック(22歳)やシニャック(23歳)と友情を育み、画材屋のタンギー爺の店でも芸術家たちと知り合った。パリ画壇は印象派の大ブーム。画風においては印象派の重鎮ピサロや、点描法を得意とした6歳年下のスーラ(1859-91)の絵画から影響を受け、それまでの武骨で暗い絵から、明るく輝かしい色調の作品へと大きく変わっていった。テオは妹宛ての手紙に「兄は絵がめきめきと上達している。太陽の光を絵に取り込もうとしているのだ」と記す。モデルを雇う金がないため、パリ滞在の2年半で27点も自画像を制作した。画材店のタンギー爺さんは、貧乏な画家たちを損得抜きで助け、飯を食わせ、画材を買えない画家には作品と引き換えに絵の具やカンバスを渡してやった。売れない画家の絵でも店に飾ってあげ、セザンヌの絵がタンギーの店にしかない時期もあった。「タンギー爺さんは何と言っても長年にわたって苦労し、堪え忍んできた。だからどこか、昔の殉教者や奴隷に似たところがある。現代のパリの俗物どもとは全く違うんだ。僕がもし老人になるまで長生きしたら、タンギー爺さんみたいになるかも知れないよ」。

 
 タンギー爺さん。ヴィンセントは背後を日本画で埋めた!


※ヴィンセントの死後、ある美術評論家がタンギー爺さんの店でヴィンセントの静物画を発見した。買い求めたところ、爺さんは古い帳簿を調べて「42フラン」と言った。なぜ半端な金額か尋ねられると「可哀相なファン・ゴッホが死んだとき、ワシは42フランの貸しがあったんですよ。これでやっと返してもらいました」と返答したという。
※パリの画塾でヴィンセントを見た女流画家シュザンヌ・ヴァラドンの証言「彼は重いカンバスを抱えてやってくると、光線の具合の良さそうな片隅に立てかけ、誰かが注意を払ってくれるのを待っていた。しかし、誰もそれを気にとめないでいると、絵に向かい合って座り、会話には殆ど加わらず、みんなの視線をうかがい、やがて疲れ切ってその最新作を抱えて立ち去った。けれども次の週にはまたやって来て、同じパントマイムを繰り返した」。

1887年(34歳)、死まであと3年。北斎や広重の作品を集めたり、自ら模写を試みていたヴィンセントは、カフェ『ル・タンブラン』で浮世絵の小さな展覧会を企画し好評を得た。ゴッホ兄弟の浮世絵コレクションは500枚以上もあった(特に広重の『名所江戸百景』を好んだ)。「日本の芸術を研究すると、明らかに知恵者であり哲学者である。しかも才能に溢れた1人の人間に出会う。今その人はどんな風に生きているのだろうか。地球と月との距離を研究しているのか、ビスマルクの政策を研究しているのか。いいやそうじゃない。その人はただ草の芽のことを調べているのだ。しかしその一本の草の芽から、やがてあらゆる植物を描く道が開かれる。四季の変化も山野の風景も、動物を、人間を描く道が開かれる。まるで自らが花であるかのように、自然の中に生きている素朴な日本人が僕らに教えるものこそ真の宗教ではなだろうか。僕たちは決まり切った世間の仕事や教育を捨てて自然に還らなければいけない」。
同年、モンマルトルのレストラン『デュ・シャレ』で、気の合うロートレックやベルナールらとグループ展を催した。この展覧会にふらりと現れた画家ポール・ゴーギャン(39歳)は、ゴッホの『ひまわり』(有名な絵とは別。枯れかけた2本を描いたもの)を気に入り、「私の作品と交換したい」と申し出た。2人は意気投合し、作品交換をきっかけに交流を重ねていった。「ゴーギャンには人間として、とても興味をそそられる。画家などという絵の具まみれの汚い仕事には、労働者のような手と胃袋を持った人間が最もふさわしいのだ。ゴーギャンは野生の本能を持った無垢な人であることは疑いない」(友人ベルナールへの手紙)。


ゴーギャン 『ひまわり』 ゴーギャンが交換を希望した!

※ゴーギャンは1848年にパリで生まれた。株式仲買人として成功し、5人の子を持つ裕福で洗練された男だった。御者付きの四輪馬車も持っていた。1874年(26歳)の第1回印象派展で絵画の魅力に目覚め、日曜画家として絵筆をとり始める。1880年(32歳)、第6回印象派展に出品した『裸婦習作』が、批評家から「裸婦を描いている現代作家の中で、これほど激しく真実を見つめた者はいない」と絶賛され、1883年、35歳の時に会社を辞め、すべてを捨てて画家になった。だが、絵は全く売れず妻は子を連れて実家に帰ってしまった(家具も全部持って帰った)。やむなく、ポスター貼りをしながら生活費を稼ぐ。建築場で連日12時間もツルハシをふるった時期もあった。1886年(38歳)、パリからブルターニュ地方ポン=タヴェンに拠点を移し、安宿に泊まって新しい絵画芸術を模索。そして誕生したのが、見たままを描く印象派を脱し、想像力で独自の世界を築いた記念碑的作品『説教の後の幻影・ヤコブと天使の闘い』(1888/40歳)。この作品で現実と幻想をひとつの画面に融合した新しいスタイルを獲得した。ただし、当時はあまりに前衛的で世間から全く評価されなず、教会に寄贈を申し出たものの司祭から冗談と思われ断わられた。その後、印象派の画家が時々刻々と変化する光と空気の効果を捉えようとしていたことに対し、ゴーギャンは「絵を自然の移ろいに従わせることから解放する」と真逆の態度を取った(この前年1887年11月、パリに出た際にゴッホと初めて出会っている)。


『裸婦習作』(ゴーギャン)
こんなタッチの絵も描いていた
『ヤコブと天使の闘い』 天使の幻影を見る人々。
現実と想像を混ぜるゴーギャン革命が起きた!

パリは刺激に満ちていたが、大都会に息苦しさを覚えたヴィンセントはアルコールに手を出し、テオは万事に強情な兄との生活を負担に感じ、喧嘩が絶えなくなる。「彼の中にはまるで2人の人間がいるようだ。1人は才能に溢れて優しく繊細な心を持つ人間だが、もう1人は自己中心的で、かたくなな人間だ。2人は代わる代わる現れる。1人の話を聞くと、次にもう1人の話を聞かねばならない。2人はいつも喧嘩している。彼は彼自身の敵なのだ」(テオから妹への手紙)。妹が「お願いだからもうヴィンセントと別れて下さい」と書くと「彼が画家でなければ、君に言われるまでもなく、とっくに僕たちは別れて暮らしているだろう。しかし彼は間違いなく芸術家だ。僕は彼を助けなくてはならない」と返答した。一方、ヴィンセントも“このままでは自分がダメになる”と気づいていた。

●南仏アルルへ〜愛憎ゴーギャン(1888.2-1888.12)

1888年(35歳)2月19日、ヴィンセントは心機一転を図るべく、冬の陰鬱なパリを離れ、南仏プロバンス地方に向かった。南仏出身のロートレックから、明るく暖かい太陽のことを聞かされていたのだ。光が溢れる国・日本を夢見た彼は光に満ちた南仏に日本を求めた(浮世絵の人物には足下に影がないので、日本をいつも真上に太陽がある国と勘違いしていた)。暖かいアルルに到着したヴィンセントはすぐに同地を気に入り、麦畑や花が咲き乱れる果樹園、跳ね橋を好んで描いた。「アルルはまるで日本の夢のようだ。僕たちは日本の絵を愛し、その影響を受けている。印象派の画家はみなそうだ。それならどうして日本へ、つまり日本のような南仏へ行かずにおられようか」「影ひとつない麦畑で、真昼の照りつける太陽を浴びて仕事をしているが、それでもセミのようにご機嫌だ」「まるで絵を描く機関車みたいに僕は爆進しているんだ」。一方、パリのテオは妹に寂しさを綴る「このアパートに1人になった今、空虚さが身に染みる。誰か相棒を見つけて一緒に住んでみようとも思うのだが、ヴィンセントのような人間の代わりはなかなか見つかるものではない。兄さんがどれほど深くモノを知っていたか、どれほど明瞭に世の中のことを分かっていたか、とても信じられないほどだ。もし兄さんが長生きすれば、きっと名声を得るに違いないと信じている」。

アルルでマダム・ジヌーが経営する「カフェ・ド・ラ・ガール」に下宿したヴィンセントは、やがてこの土地に芸術家共同体“南仏派”を築くというアイデアに夢中になり、5月になるとアルル中心街に1階をアトリエに整備した「黄色い家」を借りた。

 
『黄色い家』。ここを芸術家村にしようと構想した

ヴィンセントはパリの画家仲間十数人に手紙を送った。「ギリシャの彫刻家や、ドイツの音楽家、フランスの小説家が到達した、あの澄み切った境地に画家が匹敵するようになるには、個人個人が独立していたのではとても無理だ。そうした絵画は共通の理想を追求する画家集団によって作り出されるだろう」「現状では画家たちは互いに非難攻撃し合うだけで共倒れにならないのが不思議なくらいだ」。特にゴーギャンには“友情の証”として『坊主としての自画像』を贈り、「新しい芸術を一緒に目指そう」と熱心に誘った。「数人の画家が共同生活を営むことになると、秩序を保つ為に責任者が必要になる。その役にはゴーギャンがうってつけだ」。ゴーギャンは申し出を受け入れ、自身をお尋ね者ジャン・バルジャンになぞらえた『自画像(レ・ミゼラブル)』に“我が友ヴィンセントへ”とサインを入れてゴッホに贈った。

  
友情の証として贈りあった『坊主としての自画像』、『自画像(レ・ミゼラブル)』&“我が友ヴィンセントへ”

ゴーギャンが来ることになり大喜びするヴィンセント。さっそくゴーギャンの部屋を飾るために『ひまわり』の連作を制作した。「君(テオ)が泊まりに来たり、ゴーギャンが来たりした時に使う部屋には、白い壁の上に大きな黄色いヒマワリの絵を飾るつもりだ。僕は本気で芸術家の家を創ろうと思っているんだ」。ヴィンセントはゴーギャン用の家具を買い揃え、ヒマワリを何枚も描きながらひたすら到着を待つ。アルル行きをゴーギャンが承諾したのは、非常に経済的に困窮しており、テオが提案した「月々の手当のほか、交通費、家賃、画材代を負担するから兄のもとへ」という条件をアテにしたことも背景にあった(テオは、まっこといいヤツ!)。
10月23日、ゴーギャン到着。自室に掛けられた『ひまわり』をとても気に入った。「私の部屋にはヒマワリの絵が飾られている。黄色い壺に活けられたヒマワリ。絵にはヴィンセントと署名が入っている。私の部屋のカーテン越しに太陽が差し込んで、花々をすべて金色に染める。朝、目が覚めたとき、私はこうしたものは皆とても良い匂いがすると思う。ヴィンセントは黄色を、彼の心を熱くする太陽の光を愛していた」(ゴーギャン)。






『花咲く桃の木(モーヴの思い出)』 『種まく人』 『郵便配達人ルーラン』

●『花咲く桃の木(モーヴの思い出)』(1888.4)…アルル時代の初期に描かれた。かつてヴィンセントに絵を教えてくれ、故人となった画家アントン・モーヴの思い出に捧げた。
●『種まく人』(1888.6)…圧倒的な黄色い太陽。同じ農夫を描いた作品でも、初期の暗い灰色の世界とは全く異なる。
●『郵便配達人ルーラン』(1888.8)…「ルーランは僕に対してどこかベテランの兵隊が新兵に対してするような、黙々とした優しい態度で接してくれる。一言も喋らないけれどいつもこんな風に言ってる気がする“明日がどうなるかは分からないが、どんなことになっても俺のことを考えろ”と」。一家全員を赤ん坊まで描いた。

『ひまわり』※連作は12点あった。十二使徒を意味しているらしい。 『夜のカフェ・テラス』

●『ひまわり』(1888.8)…“Vincent”と署名が入った黄色い花瓶は、2人が共同生活する「黄色い家」を表している。西洋ではヒマワリは生命の源である太陽の象徴であり、花瓶のヒマワリ一本一本が、これからアルルに集まるであろう芸術家たちを表している。
●『夜のカフェテラス』(1888.9)…“現場に行って描く”ことしか出来なかったゴッホは、夜景を描く為に、昼夜逆転の生活をしばらく送った。青色と黄色の対比が美しい。多くの印象派は昼間に屋外で絵筆を取ったが、彼は夜の町にもイーゼルを担いで繰り出した。共同生活に入る前に描かれた。

『ローヌ川の星の夜』 『アルルの寝室』

● 『ローヌ川の星の夜』(1888.9)…「星を描くことで希望を、輝く夕陽を描くことでひたむきな魂を表現したい」と語っていたゴッホ。いわば希望の絵だ。火を灯したロウソクを何本も帽子にくくり付け、明け方まで絵筆を握った。
●『アルルの寝室』(1888.10)…「この絵の意図は、精神あるいは想像力に安らぎを与えることだ」。よく見ると、2つの枕、2つの椅子になっていて、寂しさから生まれる未来への期待の念が込められている。

ヴィンセントは目の前にあるものを見たままに描くことしか出来なかったけど、ゴーギャンは想像力を駆使して描くことが出来たため、ヴィンセントは5歳年上のゴーギャンを崇拝していた。「ゴーギャンは全く偉大な芸術家だ。僕に想像で絵を描く勇気を与えてくれる」。ヴィンセントは“想像力で絵を描け”というゴーギャンの言葉に従い、記憶をもとに『エッテンの庭の思い出』(1888)なる家族を描いたが、想像で描くことは苦痛でしかなかった。「抽象画は魔法の領域なのだ。たちまち壁に突き当たってしまう」。共同生活の初期こそ和気あいあいとしていたものの、あまりに両者の個性は強すぎた。画風や芸術観の違いもあって意見の衝突が増え、緊張が高まっていく。「彼(ゴッホ)は噴火山のように燃えたぎっていたし、私の心の内もまた沸騰していた。ゴッホと私は意見が合わなかった。絵に関して特にそうだった。彼はロマン派的だが、私はむしろ原始的なものに関心を持っていた」(ゴーギャン)。「2人で議論になると電気のように火花が散る。時にはまるで放電が終わった電池のように頭がクタクタになったあげく、ようやく議論から抜け出る」(ヴィンセント)。

12月に入るとゴーギャンはパリに帰ることを考え始め、テオに手紙を出した「ゴッホと私とでは性格の違いがあって、トラブルを起こさずに一緒に暮らすことは絶対に不可能です。仕事には静けさが必要であり私はここを去ります」。ヴィンセントはゴーギャンがアルルを去るのではないかと不安に脅えながら過ごし、アブサンという強い酒に逃げるようになる。ゴーギャンいわく「ある晩、カフェで彼はアブサンを飲んでいたのだが、突然グラスを中身もろとも私の顔めがけて投げつけた」。
そんな折り、ヴィンセントを大きく動揺させる手紙がテオから届いた。物心両面で頼りにしてきたテオが“婚約”したというのだ。ヴィンセントは今まで独占していた弟の愛情を奪われてしまうことを恐れた。援助が途切れることを心配した。友人宛の手紙に「お祝いを言いつつも、何とも言えない漠(ばく)とした悲しみがある」と吐露。

★ヴィンセントとゴーギャンは同じ対象(モデル、風景)を見てもまったく異なる作品になった!

『赤い葡萄畑』(ゴッホ) 『アルル・ぶどうの収穫/人間の悲劇』(ゴーギャン)

●『赤い葡萄畑』(1888)…生涯で売れた唯一の作品。まばゆい夕陽の中、アルルの葡萄畑で農作業をする人々。対象から受けた感動を鮮烈な色彩で表現した。
●『アルル・人間の悲劇』(1888/ゴーギャン)…ゴッホと同じ光景を見ながら全く違う作品に仕上げた。労働に従事する人間の悲劇性を想像で表した。現実の光景に題材を得ながら自分の世界に再構成した。


『アルルの女・ジヌー夫人』(ゴッホ) 『夜のカフェ』(ゴーギャン)

●『アルルの女・ジヌー夫人』(1888)…アルル地方の正装で椅子に座る女性。行きつけのカフェの女主人にモデルになってもらった。ヴィンセントはモデルの姿を正確に描写し1時間で仕上げた。目にしたものをあるがままに描く彼の手法。
●『夜のカフェ』(1888)…ゴーギャンが描いたジヌー夫人。じっくり時間をかけ、想像力を駆使して作品を仕上げた。煙草の煙の向こうでまったり時を過ごすカフェの客や娼婦たち。酒を前に頬杖をつく女主人。アトリエという殺風景な室内にいながら、イメージを膨らませてカフェの退廃そのものを表現した。

そしてアルルでの共同生活9週目、テオの婚約直後の12月23日に決定的な事件が起きる。この日、テオに「ゴーギャンはこの素晴らしいアルルにも、僕らの小さな黄色い家にも、そしてとりわけ僕自身にも、少し嫌気が差したんだと思う」と書いたヴィンセントは、夜になってゴーギャンをカミソリで襲ったのだ。
「夕方、食事が終わると私(ゴーギャン)は月桂樹の香りに誘われて散歩に出た。ユゴー広場を通り過ぎたとき、背後に聞き慣れた小刻みな足取りが急に近づいて来た。振り向くと、ヴィンセントがカミソリを手に飛びかかってきた。私が睨み付けると彼は立ちすくみ、首をうなだれて家の方へ走り去った」(回想録)。黄色い家に戻ったヴィンセントは、左耳の下部を切り取り、止血後に大きなベレー帽をかぶって馴染みの娼婦に届けるという奇怪な行動に出た。“耳切り”はゴーギャンを引き止めるため同情を買おうとしたとも、ゴーギャンから「自画像の耳の形がおかしい」と指摘され怒って切ったとも言われている。

  2016年に公開された主治医のスケッチ。左耳がほとんどない

翌朝、癲癇(てんかん)の発作を起こして意識不明になっているところを警察に発見されて病院に運ばれ、ゴーギャンは荷物をまとめてアルルを去った。共同生活はわずか9週間で破綻した。テオはゴーギャンの電報を受けてクリスマス・イブに夜行に乗り、17時間かけてアルルに向かった。
※事件当時のアルル新聞「昨日、日曜日の夜11時30分、オランダ生まれの画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、1号娼館に現れ、ラシェルという女を呼んで自分の耳を渡し、“これを大事に持っていてくれ”と言いおいて姿を消した。不幸な狂人の仕業としか考えられないこの事件の通報を受けた警察は、翌朝この人物が瀕死の状態で自宅のベッドに寝ているのを発見した」。

『ゴッホのいす』 『ゴーギャンのいす』

●『ゴッホのいす』(1889.1)…白木の素朴な椅子。明るい色調で描かれた昼の世界。愛用のパイプと煙草が載っている。もう1作と共にゴーギャン滞在中に描き始め、破局後に完成した。
●『ゴーギャンのいす』(1889.1)…ロウソクに照らされたゴーギャンのために購入した肘掛け椅子。本は博学のゴーギャンの象徴。椅子の絵ではあるが肖像画に見える。

『ひまわりを描くゴッホ』(ゴーギャン) 耳切り事件後の『自画像』

●『ひまわりを描くゴッホ』(1888年/ゴーギャン)…共同生活の破局直前に描かれた。ひまわりを描くゴッホを想像で描いたもの。ゴーギャンは背景に自分の作品『青い木』を描き込んでいる。ゴッホを見下ろす位置に自分の絵を置くことで自身の優位を示している。また、両者の友情の象徴であるヒマワリとゴッホがV字型に左右に引き裂かれている。この絵を見たゴッホいわく「これは確かに僕だ。だが、狂気の僕だ」。
●『自画像』(1889)…耳を切った後に描かれた自画像。背後には浮世絵。以降、ゴッホの自画像はすべて右耳を鏡に向けている。

●闘病、されど名画オンパレード(1889.1-1890.5)

1889年(36歳)、死の前年。耳切り事件から2週間後、1月7日にヴィンセントは退院し「黄色い家」へ戻る。平静を取り戻したヴィンセントは、一通の手紙をゴーギャンに送った。「友人が出発してしまったとなると、いささかやりきれない思いです。嗚呼、親愛なる友よ。悲しみに傷ついた心に慰めを与えるには絵を描き続けるしかありません」。彼はルーラン夫人をモデルに『子守女』(1889)を描いた。ゆりかごを揺らす子守女は、慰めや安らぎを与えてくれる母性の象徴。手にゆりかごのヒモをしっかりと握っている。ヴィンセントは救いを求めて『子守女』を何枚も描いた。「『子守女』を中央に、『ひまわり』を左右に置けば三双一局になる。そうすれば中央の黄色とオレンジの色調が隣り合った両翼の黄色の為にいっそう輝きを増す」。

テオは自分が結婚間近で幸福なだけに、兄のことを思って胸を痛めていた。ヴィンセントはそれを察し「これからは僕への愛情を出来るだけ妻に向けるのだ」と強がる手紙を出したが、翌月に癲癇の発作が再発した。付近の住民に耳切りのことは知れ渡っており、人々は“赤毛の狂人”と呼び恐怖した。住民たちは彼を危険人物として病院へ収容するよう嘆願書の署名を集め警察に提出した。ヴィンセントは病院の鉄格子の奥でテオに手紙を書いた。「僕は精神に異常をきたしているのではなく、全く普通の状態にある。それなのに住民が市長に嘆願書を送り、罪状が明らかにされぬまま独房に入れられてしまった。こんなに多くの人間が、卑劣にも病人の僕に向かって来るのを見たとき、まるで胸をこん棒で打たれたみたいだった」。春に退院すると、村の少年たちは“狂人”とはやし立て、石を投げつけて彼を追い回した。彼が「黄色い家」に逃げ込むと、少年たちは家に石をぶつけ、窓によじ登ってあざけった。
4月にテオがヨハンナ・ボンゲル(通称ヨー)と結婚。これによって、ヴィンセントは以前のようにパリのテオの下に身を寄せることも不可能になり、その上いつ癲癇の発作が起きるかも分からないという状態に追い込まれ、アルルから25km離れたサン=レミの精神療養院の門を自らくぐった。

8畳ほどの病室にベッドが一つ、窓には鉄格子がはまっている。ここで1年間過ごすことに。「常に悲しみを要求する人生に対して、僕らにできる最良のことは、小さな不幸を滑稽だと思い、また大きな悲しみをも笑い飛ばすことだ」。担当医がヴィンセントに絵筆を握ることを許可したことから、テオは兄のアトリエ用に庭が見える部屋を借り、2部屋分のお金を払った。入院翌月、ヴィンセントはヨハンナが妊娠したことを知り翌日に発作を起こした(赤ん坊の誕生でテオ夫婦に見捨てられる不安を感じたのだろう)。その後、病状が安定したので戸外の制作も許可された。しかし、8月に錯乱して毒性の絵の具を食べたりランプの油を飲むなどした為、しばらくアトリエに入ることを禁止される。9月から絵筆を取ったが、ヨハンナの出産が近づくと12月にまたしても錯乱して絵の具を飲み込もうとし、この発作は一週間も続いた。医者は絵の具を没収し、スケッチだけを認めた。「もう2度と発作は起きないだろうと思いかけていた矢先に、またぶり返したのでとても気が滅入っている。何日も何日も完全に錯乱状態になっていた。今度の発作は、風の吹く日に野原で描いてる最中に突然起こった」。
このようにヴィンセントは発作の合間を縫ってしか絵を描けなかったが、まさにこの時期にこそ、『星月夜』『糸杉のある麦畑』『アイリス』『オリーブ園』『刈り取りをする人のいる麦畑』など、うねるようなタッチの数々の名画が生まれ、画家としての創作期のピークを迎える。襲いかかる狂気を鎮めるように絵筆を握り続けたヴィンセント。仕事こそ救いであり「狂気に対する避雷針」だった。

『星月夜』 『糸杉』

●『星月夜』…鉄格子から見た夜景をモチーフに描かれた。黒々とうねるように天を目指す糸杉は死を意味している。星は生命の象徴。ゴーギャンにならって想像を駆使して描いた。アルルで過ごした1年3ヶ月に得たものを着実に自分のものにしている。『星月夜』を送られたテオはその美しさに息を呑んだ。「このところの君の作品は、みなかつてないほどの力強い色彩に彩られている。さらに先へ進み、多くの絵で形をねじ曲げディフォルメまでして、内なるモノを象徴させようと追い求めている。君が深い繋がりを感じている、自然や生きものへの思いを凝縮した表現に、それが見事に現れている。だがそれにたどり着くまでに、君はどんなに頭を酷使したことだろう。どんなに目まいするような極限まで、自分を追いつめる危険を冒したことだろう。君は仕事をすることによって病気を征服できると言うが、愛する兄よ、君があんまり猛烈に仕事をすると僕は気が気でならない。そんなことをしていれば必ず身体が参ってしまうからだ」。
●『糸杉』…プロヴァンスでは墓地に糸杉が植えられており、南仏の人間にとって糸杉から連想されるのは墓だ。ギリシャ神話では美少年キュッパリソスが誤って殺した鹿を弔う為に糸杉に変わった。欧州では古来から兵士が死んだときは糸杉で棺桶が作られ、それゆえに糸杉が死を象徴するようになり、また死者への哀悼のシンボルとなった。「糸杉をなんとか“ひまわり”のような作品に仕上げたいと思っている」。ゴッホの糸杉は苦悩する大地から身もだえしながらほとばしり出た黒い炎。

1890年(37歳)、死まで7ヶ月。1月、テオ夫妻に男の子が生まれ、テオは敬愛する兄と同じ“ヴィンセント”と名付けた。めでたいことではあるが、自分が見捨てられることを心配したヴィンセントは、出産後にまた発作に襲われた。同月、著名な批評家アルベール・オーリエがヴィンセントの作品を絶賛する評論を発表。「(ゴッホの)作品全体を通じて目につくのは、過剰である。力の過剰、情熱の過剰、表現の荒々しさの過剰…(略)彼の色彩は信じ難いほどにまばゆい。私の知る限り、彼は色彩というものを真に心得ている唯一の画家である」。2月、ヴィンセントは赤ん坊の誕生を祝福して『花咲くアーモンドの枝』を描き上げ、この絵はゴッホ家代々の家宝となった(可憐に咲く白い花に健やかに育って欲しいという願いが込められている)。

ヨハンナと赤ん坊 『花咲くアーモンドの枝』 優しさに満ちた作品

同月は画家として大きな出来事が起きた。ブリュッセルの『20人会』展に6作品が選出され、しかもそのうちの『赤い葡萄畑』が400フラン(今の4万円くらい?)で売れたのだ!ヴィンセントの絵が売れたのはこれが初めて。買い手はベルギーの女流画家アンナ・ボック。アンナはヴィンセントがアルルで友人となった画家兼詩人ウジェーヌ・ボックの姉だ。結局、この作品が生涯で売れた唯一のものとなった。一方病状は良好とは言えず、2月下旬に発作で倒れ、約2ヶ月の間創作から遠ざかった。3月、パリの『アンデパンダン展』に10点が展示され、画家仲間から好評を得る。特にモネは「今展で最も優れている」と激賞した。少しずつ、そして確実に世間に認められ出した。

●終焉の地、オーヴェール(1890.5-7)

5月16日、サン=レミの病院を出て、夜行列車で新たな静養地、パリ北西部(30km)のオーヴェール・シュル・オワーズに向かう。同地は芸術家村として知られ、また画家兼精神科医のポール・ガシェ(当時62歳)がいることから、ピサロが芸術に造詣が深いガシェの下での療養を勧めてくれた。途中でパリのテオ一家を訪ね、初めて妻子と出会う。赤ん坊は4ヶ月。兄が次々と送った絵は、全く売れない為に家中に溢れかえっていた。ヨハンナが思い出を綴っている「テオは兄を坊やのゆりかごのある部屋へ通しました。兄弟は黙って眠る赤ん坊に見入りました。2人とも目に涙を浮かべていました」「私たちの家は彼の絵でいっぱいで、どの部屋の壁にも彼の絵が掛かっていました。食堂には『ジャガイモを食べる人々』、居間には『アルルの風景』と『ローヌ川の夜景』、ベッドの下もソファの下も、小さな空き部屋の押入れの下も、カンバスでいっぱいでした」。5月20日、オーヴェールに到着し、ラヴー夫婦が営むレストラン“ラヴー亭”の3階屋根裏に下宿した(2階は家賃が高かった)。天窓が唯一の窓で、夏は40度まで暑くなる3畳ほどの狭い部屋だ。

この南仏からオーヴェールへの転地療養は正解だった。絵筆がよく走り、発作の再発もなく、約2ヶ月という短期間に約80点もの作品を描き残した(一日に一作以上のハイペース!)。ガシェ医師もヴィンセントの作品をこよなく愛してくれた。6月8日にはテオ一家がピクニックで遊びに来てくれた。ヨハンナいわく「ヴィンセントは甥のオモチャとして小鳥の巣を持って駅まで迎えに来てくれました。彼は自分が赤ん坊を抱いて歩くと言い張り、ガシェ家の庭にいる動物(山羊、孔雀、犬、猫、兎、鳩、鴨、亀)をすっかり子どもに見せてしまうまで休みませんでした。私たちは戸外で食事をとり、ゆっくりと散歩しました。大変穏やかで、幸せな1日でした」。
翌月(7月6日、死の3週間前)、今度はヴィンセントがテオ一家に招待されパリを訪ねる。ヨハンナの兄夫婦やロートレックも招待され皆で楽しいひとときを過ごす…はずだった。テオは上司が印象派を低く見ているので画商として独立したいと言い、不安になったヨハンナが家計の苦しさを訴えて夫婦は喧嘩になり(テオは兄だけでなく母にも仕送りをしていた)、ヴィンセントは自分への援助がいかにテオ一家の負担になっているかを痛感した。
逃げるようにオーヴェールに戻ったヴィンセントは心労でヘトヘトになった。自分のためにテオ夫婦は喧嘩をしている…。「こっちに帰って来てから、僕もとても気が滅入っている。君たちを襲っているあの嵐が、僕の上にも重くのし掛かってくるのをずっと感じている。どうすればいいのか。僕も生活も根っこからやられており、そして僕の足もよろめいている。実は僕は心配でたまらなかった。僕のことが重荷で、君は僕を荷厄介に感じているのではないかと」。その後、『ドービニーの庭』を描き上げ、7月25日には遺作とされる『カラスのいる麦畑』を完成させた。「今にも嵐になりそうな空の下に麦畑が広がる絵だが、僕はここに究極の悲しさと孤独を表せないかと思った。この絵を早く君にも見て欲しい。なるべく早くパリに持って行こうと思っている。見ればきっと、口では言えないものを、じかに君に語ってくれると思うからだ」。

『カラスのいる麦畑』(これが最後の作品と言われている)
ゴッホが「極度の悲しみと孤独感を表現した」と語った遺作。怒りに満ちた空は2つの雲を圧倒し、
泥の道は曲がりくねって消え、麦畑もまた空と戦う怒れる海のように沸き立っている。水平線
(世界)は容赦なくこちらへ押し寄せるが、大地は盛り上がり、天は垂れ込めて観る者の退路を防ぐ。
※本物の絵の前に立つと、悲しい絵のはずなのに、彼の澄み切った精神を感じた。不思議だけど…。

7月27日夕刻、ヴィンセントはオーヴェール城裏手の麦畑(農家の中庭とも)でピストル自殺を試み腹を撃った。だが、急所を逸れて死ぬことすら上手く行かなかった。宿に戻って苦しんでいるところを家主が見つけガシェが呼ばれた。ガシェが「大丈夫、助かる」と励ますと「それならもう一度撃たねばならない」とヴィンセント。テオの住所を言おうとしないので、ガシェはテオの職場に連絡をとった。そのため弟は翌朝まで事件を知らなかった。駆けつけて泣き濡れるテオに「また、しくじってしまったよ」とヴィンセント。そして「泣かないでおくれ。僕は皆のために良かれと思ってやったんだ」と慰めた。ヴィンセントは真夏のうだるように暑い屋根裏部屋で、2日間苦しんだ後、7月29日午前1時半にテオに看取られながら絶命した。最期の言葉はオランダ語で「家に帰りたい」。オーヴェールの司祭は自殺者の葬儀を拒否し、隣村の司祭が呼ばれた。

葬儀の様子は参列した親友の画家ベルナールが詳しく書き残している。「遺体が安置された部屋の壁には、晩年の作品すべてが掛けられていた。それは彼を取り巻く後光のように見えたが、絵が輝かしく天才的であるだけに、彼の死は我々画家にとっていっそう悲しいものだった。棺には質素な白布が掛けられ、大量の花が置かれていた。それは彼が愛したヒマワリや黄色のダリアなど黄色の花ばかりだった。黄色は彼の好きな色で、彼が芸術作品の中だけでなく、人々の心の中にもあると考えた光の象徴だった」「遺体は3時に友人たちの手で霊柩車に運ばれた。テオがずっとすすり泣いているのが哀れだった…。外は狂おしいほど太陽が照りつけていた。私たちは故人の人柄について、彼の芸術家としての勇気、画家の共同体の夢、彼から受けた影響について語り合いながらオーヴェールの丘を登った。彼が葬られる共同墓地はまだ新しく、新しい墓標が点在しているだけだった。青空の下、収穫間近の麦畑が眼下に広がっていた。気候はまさに彼の好みにぴったりで、彼はまだ幸福に生きられたのにと思わずにはいられなかった」。葬儀にはピサロやタンギー翁らも参列し、埋葬時にガシェは涙に暮れながら「彼は誠実な人間で、とても偉大な芸術家だった。彼には人間性と芸術というたった2つの目的しかなかった」と告別の言葉を捧げた。

 
  『ヴァン・ゴッホの埋葬』(エミール・ベルナール)


ヴィンセントのポケットの中には最後の手紙が入っていた。「弟よ…これまで僕が常々考えてきたことをもう一度ここで言っておく。僕は出来る限り良い絵を描こうと心に決めて、絶対に諦めることなく精進を重ねてきたつもりだが、その全生涯の重みをかけてもう一度言っておく。君は単なる画商なんてものではない。僕を介して君もまた、どんな悲惨にあってもたじろぐことのない、絵の制作そのものに加わってきたのだ。ともかく、僕は自分の絵に命を賭けた。そのため、僕の理性は半ば壊れてしまったも同然だ」。



『医師ガシェの肖像』 『オーヴェールの教会』 『自画像』※自殺前の最後の自画像

『ジキタリスを持つ医師ガシェの肖像』(1890)…変わり者で気むずかしい性格を見事に描きあげている。
●『オーヴェールの教会』(1890)…死の前月の作品。深いコバルトの空の下、教会が揺れ動くように描かれている。ゴッホは他の画家と異なり教会の風景画を殆ど描いていない(っていうか、この絵以外にあるのかな?)。おそらく、牧師を目指して成れなかったこと、父との確執があって、辛くて描けなかったのでは。死の直前の当作品で父と和解したように思う。しかも、手前左の女性はオランダの衣装を着ており(オーヴェールは仏なのに)、僕には教会がゴッホの父、女性が母親に見える。
●『自画像』(1890)…ヴィンセントの最後の自画像。ひとりでいるときに襲って来る恐怖感が発作を引き起こす。繰り返し襲いかかる狂気を、凄まじい意思の力で抑え付けながら、画家の目で毅然と観察し、内面の魂を描いた。

●テオの死と、その後のゴッホ家

兄の死の直後にテオは母親へ手紙を書いた。「お母さん。どんなに悲しいか書き表せません。何も慰めにはなりません。僕は生ある限り、この悲しみを背負っていかなくてはなりません。一つだけ言えるのは、兄さんはずっと望んでいた安らぎを手に入れたのです。死に際に兄さんは言いました。“もうそろそろ逝けそうだよ”と。30分後、彼の望みは叶えられました。人生はそれほど彼にとっては重荷でした。それにしても、よくあることですが、今や誰もが彼の才能に賛辞を惜しまないのです。嗚呼、お母さん!彼はあんなに僕の、僕だけの兄さんだったのに!」。
テオはただの一度も送金停止をほのめかさなかったけど、それでも援助のことで兄を不安にさせたことや、妻子を得て兄を孤独の恐怖に追い込んだのではと責任を感じ、葬儀後も全身全霊で兄の作品を世に紹介しようとした。個展の実現に向けて奔走した。しかしどこも会場を貸してくれず、2ヶ月後(9月20日)にやむなく自宅のアパートで初の回顧展を開いた。部屋中に兄の絵が掛けられ、妹に次の手紙を出した「君にも見てもらえたら、と思うよ。そうすれば兄さんの絵が決して病んだ心から生まれてきたものではなく、偉大な男の情熱と人間性から生まれてきたのだということが君にも分かるよ」。膨大な作品群から個展用の傑作選を決める作業でテオは疲労が蓄積し、職場で上司と大喧嘩して辞表を叩き付けた。
そして…テオは回顧展の翌月に錯乱し、11月18日にユトレヒトの精神病院に入院した。そして兄の死からわずか半年後の1891年1月25日に、兄の絵が死後になって売れ始めた世の皮肉を呪いながら病院で衰弱死した。享年33歳。
その後、ヨハンナはオランダに帰り、小さな下宿屋を営みながら、テオの子、ヴィンセント・ウィレムを育て上げた。テオの墓は没後23年が経った1914年にヴィンセントの墓の隣りに改葬され、ヨハンナは兄弟の墓をツタで覆い、聖書の次の言葉を捧げた。「二人は生くるにも死ぬるにも離れざりき」(サムエル記・下1章23節)。同年、ヴィンセントの命日にテオ宛ての書簡集がヨハンナの尽力で刊行された。
ヨハンナは義兄の作品を幅広く売却することで知名度をあげようとしたが、ウィレムは反対に特定の場所に集めることを重視した。そのお陰で作品が過度に散らばることなく保管された。そして1960年代にゴッホ財団の創設を条件に作品群を寄贈し、1973年に国立ゴッホ美術館がアムステルダムに誕生することになった。世界のゴッホ・ファンはゴッホ美術館にさえ行けば、絵画、素描、手紙など膨大な作品資料(所蔵1000点以上)に触れることが出来る。

●ゴーギャンの心にずっとヴィンセントはいた(ゴッホLOVEの僕は喧嘩別れしたゴーギャンに対して以前は良いイメージを持ってなかった。しかし文献を調べていくうちに、ゴーギャンがすごく良い奴ということが分かって大好きに!)

アルルを去ったゴーギャンはすぐに『黄色いキリストのある自画像』(1889)を描いた。自分の顔を中央に、隣りにキリストの受難を描き、芸術の為に殉教も辞さない覚悟を示した。「私は敗北したと宣言しよう。様々な出来事、人間に、家族に敗北した。しかし世間に負けたのではない。世間などはどうでもよい。私は叫ばずにはいられないんだ。これが自称イエス・キリストの今の姿だよ」(ゴーギャンの手紙)。ゴーギャンは悪意があってヴィンセントに冷たくしたのではなく、自分の事で精一杯で、他人にまで親切に出来なかったんだ。

 
 『黄色いキリストのある自画像』 ゴッホと別れた直後の自画像

テオからヴィンセントの死を知らされたゴーギャンはすぐに追悼の手紙を書いた。「痛ましい知らせを受け取り、深い悲しみに沈んでいます。このようなときに、月並みなお悔やみの言葉をかけるつもりはありません。あなたもご承知のように、彼は誠実な友人でした。そして私たちの時代における数少ない本当の芸術家でした。作品の中に彼はずっと生き続けることでしょう。彼がいつも“岩はいずれ砕けるが言葉は残る”と言っていたように。 私もこの眼と心で、作品の中の彼に会うつもりです〜P.ゴーギャン」

ヴィンセントの死の翌年、ゴーギャンは当時の欧州人には地の果て同然のタヒチに渡った。ゴッホ兄弟が死んだことも含め、すべてに行き詰まったのだ。タヒチでは文明に犯されていない素朴で野性的な人々の暮らしがあった。人々に原始の美を見出したゴーギャンは彼らの姿をカンバスに刻んだ。2年後に楽園の作品60点以上たずさえてパリに帰ったが、人々が普段見慣れた絵画とあまりに異なっていたため理解されず、たったの2、3点しか売れなかった。新聞からも酷評された「お子さんを喜ばせたかったらゴーギャンの展覧会へ連れて行くとよろしい。呼び物としては、猿のような原始人の女が緑色の玉突き台に寝そべっている絵もある」。
『帽子をかぶった自画像』(1893-94)はそんな世間への怒りに満ちている。ゴーギャンは欧州から永遠に離れる決心をした。「47歳にもなって私は惨めな境遇になりたくない。今だって決して良いとは言えないが。私が倒れたって、誰1人私に手を貸してくれる者はいない。自分の問題は自分自身で解決すべきという言葉は、深い叡智の現れだ。私はその言葉に愛着さえ覚える。確かに私は太陽なしでは生きていけないのだ」(手紙)。そして2年間のフランス滞在後、「腐りきったヨーロッパ!」と叫んでタヒチへ旅立った。出発前に最後の展覧会を開いたが、入札者はゴーギャンがつけた最低の値段にも反応しなかった。友人が励ますために夕食に連れて行くと、ゴーギャンは“子どものように泣いた”という。

 
 『帽子をかぶった自画像』 この怒りの自画像の後、西洋文明から去った

タヒチに戻ると2年間で土地開発が進み、かつての楽園は消えていた。電灯が灯り、メリーゴーランドのある遊園地までできていた。彼は病魔に冒された。『ゴルゴダの丘の自画像』(1896)のゴーギャンは、囚人服を着て処刑を待っているかのようだ。以前の傲慢な表情は消え、精気も無い。「私は今やひざまづき、自尊心さえも捨ててしまっている。もはや、落伍者以外の何ものでもない」。さらに追い打ちをかけたのが最愛の娘アリーヌの死(享年19歳)。アリーヌは父親が家族を捨てて芸術に身を捧げていることを理解し、13歳の時に「私が大きくなったら、お嫁さんになってあげる」と真顔で言ってくれた娘だ。「彼女の墓はここに、私の側にある。私の涙こそ生きた花なのだ」「神よ、もしあなたが存在するなら、私はあなたの不正を、意地の悪さを咎めよう。そう、憐れなアリーヌの死を知って、私はすべてを疑い、神に挑むように笑ったのだ。美徳が、仕事が、勇気が、知性が、一体何の役に立つというのだ」(手紙)。
あらゆることに絶望したゴーギャンは自殺を決意し、娘の死の8ヶ月後、最後に全身全霊を賭けた幅約4メートルの大作『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』(1897)を完成させ遺書として残した。原始の楽園の中で、右端の赤ん坊(人類の起源)から左端の老人(滅亡)までが象徴的に描かれている。中央は禁断の果実を摘むイブに見える。この作品を描き上げると、密林に分け入ってヒ素をあおり、横になって死を待った。しかし、呑み込んだヒ素が多すぎた為に吐き出してしまい、朝まで嘔吐に苦しんだ後「生きるさだめを背負って」アトリエに戻った。

『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』 完成後、ヒ素を飲み自殺を試みた

命を取り留めた彼はフランスの友人に手紙を送った。「ヒマワリの種を送って欲しい」。彼はヒマワリを“ゴッホの花”と呼んでいた。ヴィンセントの死から11年。種を取り寄せ自分で植え、ゴーギャンの筆による『いすの上のひまわり』(1901)が完成した。アルルでゴッホが用意してくれたものとよく似た肘掛け椅子の上にヒマワリを乗せて描き、ゴッホ風に署名した。ゴーギャンは胸の奥底に、ずっと深い友情を抱いていたんだ。
同年、ゴーギャンはタヒチ本島から1200kmも離れた絶海に浮かぶ、マルケサス諸島ヒバオア島に旅立った。病が悪化し治療のため帰国の希望を匂わせる手紙を友人に送ると、絶対に帰って来るなと返事が届いた。「今、パリではどんどん評価が上がってきている。君は太平洋の彼方から素晴らしい傑作を送ってくる伝説的画家なのだ。帰国すれば名声がぶち壊しになってしまう」。最後の『自画像』(1902-03)に描かれた顔には若い頃の野獣のような迫力はなく、達観した僧侶のように静けさをたたえていた。
「こと芸術に関しては、私は正しかったと思う。たとえ私の作品が後世に残らなくても、絵画を解放した芸術家の記憶は永遠に残るだろう。私の本質は野性にある。文明人たちもそのことは分かっているだろう。私の芸術が人を驚かす奇抜なものであるのは、私の中の野性がそうさせたのだ。だからこそ、誰も私を模倣することが出来ないのだ」(手紙)。ゴーギャンは“私の作品が後世に残らなくても”と、最終的に自分の作品は残らぬと思っていた。
1903年5月8日、心臓発作で他界。享年54歳。誰にも看取られず自分の小屋で息絶え、原住民が亡骸を発見した。島のカトリック司祭はフランス本国に次のように知らせた「卑しむべき人物ゴーギャンが急死した。彼は評判の高い画家であったが、神と品位ある人々すべての敵だった」。
ゴーギャンは死の直前にヒバオア島のアトリエで回想録を書き残し、アルルのことをこう刻んだ。「どれくらい私たちは一緒にいたのだろうか。破局が急速に訪れたにもかかわらず、この期間は私には1世紀にも思えた。2人の男はそこで世間の気づかぬうちに大きな仕事をした。2人にとっても、たぶん他の人にとっても有益だった。そのうちのあるものは実を結んでいる」。



最後の自画像。もはや
別人!戦闘モード解除
晩年にゴーギャンが描いた『ひまわり』。
ゴッホと暮らしていた頃の椅子と同型(涙)
ヒバオア島のゴーギャンの墓!
2008年に巡礼

《まとめ&墓巡礼》

点火、爆発、炎上、沈没といった感じのヴィンセント。彼の描く風景画や静物画はすべて自画像に思える。今にもうごめきそうな筆致はまるで生きているようで、生命の炎が揺れているようにも見える。カンバスに盛り上がった絵の具は力強く、そのまばゆい色彩が心を鷲掴みにする。27歳から画家として歩み始めたヴィンセントの活動期間は、37歳で命を断つまでのわずか10年。しかも最初の4年間は素描(デッサン)しか描いていない。その中で1600点の水彩・素描と800点以上の油彩画という膨大な作品を残した。ヴィンセントが描いたのは貧農ばかりで、“ピアノを弾く御令嬢”なんて絵は一枚もない。結果、生涯で売れた絵はたった一枚だけ、それも友人の姉が買ってくれたもの。ヴィンセントにはモデルを雇う金がなく、自画像が40点以上もある。今や花瓶のヒマワリが60億円。人生は非情だ。庶民の為に絵筆をとっていたヴィンセントにとって、大金持ちしか作品を手に出来ぬという現状は不本意なものかも知れない。
ヴィンセントは極度の寂しがり屋で、テオに鬼の如く手紙を書きまくった。テオとの文通は死の間際まで18年間続き、テオが兄の手紙を一通目から大切に保管していたので661通が現存している(テオ宛て以外は135通現存)。これだけ数が多く長期間に及んでいると、いわば“自伝”も同然だ。お陰でヴィンセントが19歳から晩年までどのように人生を捉え、芸術をどう考えていたか、何が創作の原動力になったのかなど、様々な思索の変遷に触れることが出来る。一方、テオからの手紙は最後の36通しか残っていない(ヴィンセントよ…)。

僕は10代の頃、“ゴッホの絵は木や建物がクネクネしていて訳が分からない”と見向きもしなかった。でも、“絵が実物とソックリかどうかが問題なのではなく、どうして彼の目に世界がのたうつように、うねって見えたかが問題だ”と意識したとき、彼の全作品がかけがえのない愛しいものとなった。小林秀雄氏が『彼の絵を見ると、こちらが絵を見るのではなく、向こうがこちらを見つめている気がする』と著作で語っていたが超同感。自分のことを野良犬と呼んでいたヴィンセント。“聖なる野良犬”、そんな言葉があってもいい。
終焉の地オーヴェールに向かう列車の中では「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」が全く通じず、仏語では「ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ」であることを知った。墓地はオーヴェールの麦畑の中にある。兄弟の墓が並んでいるのを見て強く胸を打たれた。ヴィンセントにたくさん御礼を伝えた後、テオにも感謝を告げようとして、没年を見て兄の死の翌年に早逝していることを知り絶句した。33年の生涯!まっこと、テオがいなければ僕らはこんなにも多くのヴィンセントの作品を味わうことは出来なかった。テオは家計の貧しさを訴える妻に「兄さんにお金を送ることは自分に送っていることと同じなんだ」と、弁明しながら仕送りを続けてくれた。本当に、本当に、ありがとうテオ!あなたは人類の恩人です!

●ゴッホ語録

「死んだらば汽車に乗れないように、生きている限りは、星へ行かれないからね。船や汽車が地上の交通機関ならば、コレラや結核や癌は天上へ行く交通機関のように思われてくる」
「一塊のパンと共にレンブラントの絵の前に2週間座らせてもらえるなら10年寿命が縮まっても良い」
「素描とは何か?それは、感じていることと自分で表現できることとの間に立ちはだかる、見えない鉄の壁を自ら突き破ることである」
「人の本当の仕事は30歳になってから始まる」
「絵画は狂気に対する避雷針だ」
「虫だって光の好きなのと嫌いなのと二通りあるんだ!人間だって同じだよ、皆が皆明るいなんて不自然さ!」
「僕はずっと一人ぼっちでいるせいか、人と話すと自分のことばかり話してしまう」
「太陽が絵を描けと僕を脅迫する」(これは黒澤映画『夢』に登場したゴッホが語った言葉。黒澤監督がゴッホの文章から持ってきたのか、監督のオリジナルかは不明。あまりにゴッホの書簡があり全てを検証するのは困難)

●ゴッホ評

「ゴッホの後期の絵の明るい透明な色調には、言うに言われぬ静けさがある」(カール・ヤスパース)哲学者
「人々は、ゴッホが精神的に健康だったと言うことが出来る。彼は、その生涯を通じて、片方の手を焼いただけだし、或るとき、自分の左耳を切りとったに過ぎないのだ」(アントナン・アルトー)
「君の描き方は気違いじみているな」(セザンヌ、初対面時に)
「ファン・ゴッホは気違いになるか、我々全部を置き去りにするか、どちらかと思っていたが、その両方をやってのけようとは思わなかった」(ピサロ)

※画商としてのテオの鑑識眼は傑出していた。テオの上司は頭が古く、テオの後任に就いた支店長に「(テオは)新人画家のろくでもない絵をため込んでいた。これらをうまく処分できなければ画廊を閉めねばならなくなる」と腹を立てた。テオが買い上げた“ろくでもない”絵の作者の名は、モネ、ルノワール、ゴーギャン、ドガ、ロートレック、ルドンなど、近代美術の創始者がズラリ。美術史上、テオほど高い鑑識眼を持った画商はいない。
※日本人に人気の高いゴッホ。最初に国内へ紹介したのは武者小路実篤で、1911年に文芸誌『白樺』誌上に掲載した。1919年に白樺派のパトロンで実業家の山本顧彌太(こやた)が『ひまわり』を購入して日本に持ち込んだが、終戦9日前の神戸空襲で燃えてしまった。贋作説もあるが、灰となった今では検証不能だ。1987年に安田火災海上(現損保ジャパン)が約58億円で『ひまわり』を落札し、新宿の東郷青児美術館が展示している。
※ゴッホの絵で最も高値で取引された作品は『ガシェ医師の肖像』。バブル期の1990年、なんと125億円で落札された!これは当時の新記録。大昭和製紙の齊藤了英名誉会長が購入し、「死後は寄付する」と説明していたが、没後その約束は果たされず密かに競売に出され米国の投資家が落札。その投資家も破産してサザビーズが引き取り、今はどこにあるのやら。人類の遺産レベルの作品は、公開前提の美術館しか所持できないという制度を作るべき!
※アルルの「黄色い家」は1944年に連合軍の爆撃で破壊されてしまった。裏手に駅や橋があり爆撃の巻き添えになってしまった。無念!
※ロートレックは他の画家がヴィンセントの絵をけなすのを聞いて、相手に決闘を申し込むほどヴィンセントに敬意を持っていた。
※絵の具は安くないのに、ゴッホはカンバスに直接塗りつけて地図模型並に盛り上げた。尋常ではない厚塗り。貧乏画家の描き方ではない。恐ろしいほどのスピードで絵の具が消費された。
※大抵の画家はファミリーネームを署名に使っている。だが彼のサインは“ヴィンセント”であり名字の“ゴッホ”ではない。まるで友人として親しみを込めた挨拶をしているようだ。
※ゴッホ兄弟の実家では、父の死後、母が引っ越しの際に約70点の作品を古物商にまとめて売り、その古物商は格安で投げ売りをした後、残った作品を焼いてしまったという。200点以上の油絵が古カンバスとしてリサイクルされたという説もある。うおお…。
※ウィキによると『医師フェリックス・レイの肖像』は、贈与した相手が鶏小屋の穴を塞ぐのに使っていたという。
※ゴッホは生涯に38回引っ越しをした。現在、最後のラブー亭はゴッホが住んだ100年以上前と全く同じ状態で公開されている。
※独自のスタイルを編み出したことから、署名がなくてもゴッホの作品とすぐ分かる(ウチの2歳児でも分かった)。これこそ芸術家の究極の姿。
※後世の画家は様々な影響をゴッホから受けているが、なかでもスーティン、ココシュカ、ノルデ、キルヒナーはその筆頭。
※ヴィンセントが生まれるちょうど1年前の同じ3月30日に、長子ヴィンセントが生まれたが死産だった。
※耳切り事件の真相について“ゴーギャンがフェンシングの剣で斬った”と主張する研究者もいる。
※ヴィンセントは右利きなのに銃弾が左脇腹から垂直に入っていることから他殺説もある。
※映画監督のテオ・ファン・ゴッホはテオの曾孫。イスラムに批判的な態度をとっていたことから、2004年11月にモロッコ系青年から8発の弾丸を撃たれて殺害された。享年47歳。ちなみにテオの子ウィレムは大正期に約1年間神戸で暮らしている。
※ゴッホが生まれた1853年は日本にペリーが黒船でやって来た年。その2、3年後に欧州の人々は初めて浮世絵を知った。ジャポニズム抜きの印象派は考えられず、大袈裟に言えばペリーがゴッホを生んだことに…。


〔 ゴッホゆかりの地を行く 〕

●ゴッホ生誕地、オランダ・ズンデルト

ゴッホの生家(跡)。1853年に誕生(2015撮影) 写真で当時の姿が分かる 2008年にゴッホ記念館としてオープンした



生家跡を記すレリーフ ゴッホの父(牧師)の礼拝堂 ズンデルトの散髪屋さん。ゴッホがモヒカンに! こちらはメガネ屋さん

※リンク先のサイトによると、ズンデルトにはゴッホ兄弟のモニュメントや、生後すぐに他界した兄の墓があるらしい。わーん!知らんかった、行きたかった(涙)

●ゴッホ家はズンデルトからオランダ・エッテンに





ゴッホの父親が着任した教会 ゴッホ家が暮らした牧師館。ゴッホは1881年に滞在 このドアノブに触ればゴッホと“間接握手”に!?
ゴッホの父親は1875年から1882年までエッテンの教会に赴任し、経済的に行き詰まったゴッホが8カ月ほど身を寄せた

※さらに別のサイトによると、この教会の近くにゴッホ像があるっぽい。ぎょえー!見ずに帰ってきてもうた(滝涙)

●ゴッホ革命の地、オランダ・ヌエネン(ニューネン)



 
ゴッホ家が住んでいたヌエネンの家。父の最後の
赴任地であり、父は当地で他界した (2015)
1885年、この地で初期の代表作『じゃがいもを食べる人々』が誕生!
本作品によって“画家ゴッホ”が生まれたと言っていい

※さらに、さらに、こちらのサイトによると、ヌエネンには父親の墓や、広場には“じゃがいもを食べる人々”の立体彫刻があるらしい!ノーッ!僕は何をしていたのか(号泣)

●パリに出たゴッホ







パリ、ルピック通り(Rue Lepic)
54番地にあるゴッホの家
この最上階右端に住んでいた
(2009 撮影)
門の左にゴッホ兄弟とゆかりが
あることを示すプレートがある

●悲しみのアルル

ゴッホの足跡をたどって、ゴッホとゴーギャンが絵筆を握った南仏アルルに行きましたが、泥棒に荷物を盗まれフィルムも消えました…。1989年のことです。


〔2005.7.29 ゴッホの命日に巡礼〕

●ゴッホ終焉の地オーベールへ

パリのサン・ラザール駅。オーベールへはここから北上する ポントワーズでローカル線に乗り換え オーベール・シュル・オワーズ駅に到着!






駅を出るとすぐドービニーの庭がある ゴッホ公園のゴッホ像。彫ったのはザッキン ゴッホ像は観光客に大人気だ

深い親交があったガシェ医師の家 有名なオーヴェールの教会(05) 09年は補修中!あんまりだ〜(涙)

 

ゴッホがピストル自殺した麦畑(2005、2009) 遺作「カラスのいる麦畑」









ゴッホが下宿していたラヴー亭は現在ゴッホの部屋が公開されている。
彼が息絶えた部屋は3畳ほどの狭い空間だった(撮影許可済)
花屋で墓参用のヒマワリを購入。
いよいよ彼のもとへ!

 
墓地の正面ゲート 周辺は畑。遠くに山が見える。とっても平和な世界





1989 2005.7.29 2009
夜まで6時間ほど彼らと喋っていると、嵐がきてズブ濡れに
(大きな雨粒がそれ)
僕は彼と同じ37歳になった時、命日に絶対来ようと決めていた

さらに4年後。この時はゴッホの墓の側に
たくさんのバラが咲いていた
ツタの葉で結ばれ、ひとつになったゴッホ兄弟の墓!
ヴィンセントの自殺からわずか半年後に、衰弱した弟テオが死んでいたことを、初巡礼のときに墓前で知った…。

2015年、人生4度目のゴッホ巡礼 もう僕は彼より10歳も年上になってしまった テオの墓石でトカゲが休憩中

ゴッホの墓前には次から次へと巡礼者がやってくる。地方にある墓としては、僕が知る限り最も墓参されている墓!彼が多くの人に愛されていて嬉しい

 
このツタの葉はテオの妻ヨハンナが植えたもの。彼女は兄弟の墓に次の言葉を捧げた
「二人は生くるにも死ぬるにも離れざりき」(サムエル記・下1章23節)。そして、2人の墓石の間には
数本の麦が生えていた。「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、
死なば多くの実を結ぶべし」(ヨハネ伝第12章24節)というキリストの言葉を彷彿させた(2009)


※僕はこれまでに読んだどんな美術評論家のゴッホ評よりも、川上未映子さんのゴッホに対する熱い想いが
爆発した詩「私はゴッホにゆうたりたい」(私はゴッホに言ってやりたい)詩に胸を揺さぶられた。読み返す度に、
もらい泣きしそうになる。たまらない。
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私はゴッホにゆうたりたい 川上未映子

春が煙っておる。なんか立ち込めている。

何でもないよな一面をさあっと塗ったようなこんな空も、
ゴッホには、
うろこみたいに、飛び出して、
それは憂う活力を持ち、美しく、強く、見えておったんやろうか。

春がこんこんと煙る中
私は、
ゴッホにゆうたりたい。
めっちゃゆうたりたい。

今はな、あんたの絵をな、観にな、
世界中から人がいっぱい集まってな、ほんですんごいでっかいとこで
展覧会してな、みんながええええゆうてな、ほんでな、どっかの金持ちはな、
あんたの絵が欲しいってゆうて何十億円も出して、みんなで競ってな、なんかそんなことになってんねんで、

パンも食べれんかったし最後のパンも消しゴム代わりに使ってな、
あの時もどの時も、あんたはいっつもおなじように、描いててな、苦しかったな、
才能って言葉は使わんとくな、なんかの誰からかの命令なんかな、
なんか使命なんかな、
多分絶対消えへんなんか恐ろしいもの、恐ろしいくらいの、美しい、でも苦しい、
そういう理みたいな、そんなもんに睨まれてあんたは、
いっつも独りで絵を、絶対睨まれたものからは絶対逃げんと、や、逃げる選択もなかったんかな、
それでもとにかく、絵を、絵を描いて、

そら形にするねんから、誰かに認めてもらいたかったやろうな、
誰かに「この絵を見て感動しました、大好きです」
ってゆわれたかったやろうな、
それでもいつまでも独りぼっちでよう頑張ったな、淋しかったし悲しかったな、

それが今ではあんたは巨匠とかゆわれてんねんで、みんながあんたをすごいすごいってゆってほんで、
全然関係ない時代の日本に生まれた私も、あんたの絵が大好きになった、

教科書にも載ってるねんで、
夜もな、空もな、ベッドの絵もな、麦畑も、月も、デッサンいっぱい練習したやつもな、
全部観たで、きれいなあ、あんな風に観てたんやなあ、

みんなあんたの生きてきたことを知ってるねんで、
耳をちぎったことも、キチガイ扱いされたことも、
悲しくて悲しくて悲しくてしょうがなかったこと、
そんなあんたが書いた絵が、ほんまにほんまに美しいことも、
今はみんな、あんたのことを思ってんねんで、

私の知り合いの、男の職業絵描きの人とな、
随分前にあんたの話になってな、
私はあんたの生き様、芸術って言葉も使わんとくわな、
もう、それをするしかなかったっていうものと死ぬまで向き合ってな、そういう生き方を思うと、
それ以上に、なんていうの、ほんまなもんってないやろって思うわ、私は信頼するわって話をしたん、

そしたらその絵描きな、未映ちゃんがそう思うのは全然いいけど、
あんな誰にも認められんで苦しくて貧しくて独りぼっちでゴッホが幸せやっと思うかってゆわれてん、
俺は絶対にいらんわってゆわれてん、

ほんでそっからしばらくあんたの幸せについて考えてみてん、
幸せじゃなかったやろうなあ、お金なかったらおなかもすくし、惨めな気持ちに、なるもんなあ、
おなか減るのは辛いもんなあ、ずっとずっと人から誰にも相手にされんかったら、死んでしまいたくもなるやろうな、
いくら絵があっても、いくらあんたが強くても、しんどいことばっかりやったろうなあ、

そやけど、多分、
あんたがすっごい好きな、すっごいこれやっていう絵を描けたときは、
どんな金持ちよりも、どんな愛されてる人よりも、比べるんも変な話やけど、
あんたはたぶん世界中で、一番幸せやったんやと、私は思いたい。

今はみんながあんたの絵を好きで、世界中からあんたが生きてた家にまで行って、
あんたを求めてるねんで、
もうあんたはおらんけど、今頃になって、みんながあんたを、
今頃になって、な、それでも、あんたの絵を、知ってんねんで。知ってるねんで。

あんたは自分の仕事をして、やりとおして、ほいで死んでいったなあ、
私は誰よりも、あんたが可哀相で、可哀相で、それで世界中の誰も適わんと思うわ
あんたのこと思ったらな、
こんな全然関係ないこんなとこに今生きてる私の気持ちがな、
揺れて揺れて涙でて、ほんでそんな人がおったこと、絵を観れたこと、
わたしはあんたに、もうしゃあないけど、
やっぱりありがとうっていいたいわ

だからあんたの絵は、ずっと残っていくで、すごいことやな、すごいなあ、よかったなあ、
そやから自分は何も残せんかったとか、そんな風には、そんな風には思わんといてな、
どんな気持ちで死んでいったか考えたら、私までほんまに苦しい。
でも今はみんなあんたの絵をすきやよ。

私はどうにかして、これを、それを、
あんたにな、めっちゃ笑ってな、
ゆうたりたいねん。
ゆうたりたいねん



〔カフェ・タンブランにいるゴッホ〕(1887年頃)〜ロートレック
自画像の多いゴッホだけど、これは他人が彼を描いた珍しい作品。ゴッホは生涯にわたって変わり者扱いされ、
ほとんど友達がおらず、その数少ない友人の一人が画家仲間のロートレックだった。カフェにポツンと座っている、
ゴッホのこの孤独感。でも視線は真っ直ぐ前を見据えている※当カフェはゴーギャンいわく「凶悪犯の溜まり場」。


参考文献…『ゴッホの手紙』(岩波文庫)、『巨匠の世界ファン・ゴッホ』(タイムライフブックス)、『巨匠立ちの肖像〜ゴッホ 炎の絆』(NHK)、『ゴッホとゴーギャン二人のひまわり』(NHK)、『日曜美術館』(NHK)、『ゴッホ展図録2002』、『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ百科事典』(マイクロソフト)、等々。


《あの人の人生を知ろう》
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※番外編〜歴史ロマン/徹底検証!卑弥呼と邪馬台国の謎(宮内庁に訴える!)



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