青春、鮮烈なり
【 あの人の人生を知ろう 〜 梶井 基次郎 】

Motojirou Kajii 1901.2.17-1932.3.24





学生時代 30歳(死の前年) 24歳

昭和初期の作家。大阪生まれ。子ども時代は父の転勤と共に、東京、三重、京都などで暮らす(梶井は31年間の短い生涯に20回以上も転居している)。母は古典や和歌を子どもたちに読み聞かせた。12歳の時に祖母を、14歳の時に弟を結核で亡くす。18歳、文学や音楽に熱中しあまり授業に出なくなる。特に漱石については「漱石全集」を買い揃え、手紙に自分の名を“梶井漱石”と記すほどハマッた。19歳、肺結核を発病し最初の転地療養。20歳、父が定年後にビリヤード場を始め、梶井も熱中。この頃から本人曰く“退廃的生活”を送るようになる。泥酔してラーメン屋の屋台を引っくり返したり、喧嘩してビール瓶で殴られたり、家賃が溜まった下宿から逃亡したり、料亭の池に飛び込んで鯉を追ったり、その無頼ぶりは、梶井が登校すると「あれが梶井基次郎だ」と学生達が囁くほどだった。あまりに風貌に無頓着なので、同級生が金を出しあって散髪をさせたこともあった。

※20歳頃の梶井について(現代語に意訳、抜粋)
●4月から汽車通学を始めた梶井は車内で出会った同志社女学校の生徒に惚れ込む。この時の様子を女友達が記している。
『(梶井さんは)日に何度もその女性の名前を口にしたり、どうすれば気持を伝えることが出来るかという相談ばかり持ちかけるようになりました。そうした事が続いたある日のこと、珍らしく上機嫌でやって来て、いきなり「とうとうやりましたよ!」と嬉しそうに言うので、私は何だか不安になって理由を尋ねると、梶井さんは少し得意になってこう話しました。ある英詩集の中に、恋を知った一人の男が相手の女性に自分の愛を訴える処があり、その一頁をひき破って、座席に腰かけている先方の膝の上へ「これを読んで下さい」と言って置いて来たと言うのです。話終ると、まるで男一匹が重大な仕事をなし遂げた時のような顔をして、あの大きい手を宙に振りあげながら「細工はりゅうりゅう!」等と言っていました。ところが翌々日、今度は大変しょげてやって来ました。その朝女性に逢ったので、恐る恐る「読んで下さいましたか」と尋ねたら、相手は大変迷惑そうに「知りません!」と言って横を向いてしまったとのこと。梶井さんはその「知りません!」を、いかにも感に迫った句調で2、3回真似てみせたのでした』(平林英子)
●友人と初めて遊郭へ行く
『男3人で酒をあおり、へべれけに酔っ払った梶井は「俺に童貞を捨てさせろ」と怒鳴りながら、祇園の石段下で大の字に寝て動かない。そこで近くの遊廓へ彼を初めて連れて行ったのである。それ以来梶井は、時々その夜のことを呪うように「俺は純粋なものが分らなくなった」とか「堕落してしまった」とか言うが、そんな言葉に私は全く取合わなかった』(中谷孝雄)
●梶井の部屋を訪れた友人談
『その頃の梶井は、花を愛し、樹を眺め、芭蕉を慕ひ、音楽を好み、雪舟や、セザンヌや、ゴッホを楽しんでいた。梶井は室内を自分の好みの道具類で飾り、私に西洋皿を見せながら「これ、エリザベス朝時代の皿だよ」とニコニコして言っていた』(外村繁)
●同じ下宿に住んでいた詩人の話
『ある晩彼が襖越しに私を呼んだ。「葡萄酒を見せてやらうか…美しいだろう…」そう言って、ガラスのコップを電灯に透して見せた。葡萄酒はコップの七分目ばかりを満して、なるほど鮮明で美しかった。しかし、それはつい今しがた彼がむせんで吐いたばかりの喀血だった。彼にはそんな大胆な嫌やがらせをして人をからかってみる、野放図と茶目っ気の入り混じった何かがあった』(三好達治)

22歳、ロシア文学に没頭、学生演劇でチェーホフなどを演出するが団員に2名の女学生が加わっていたことから「不謹慎」とされ、校長から上演中止命令をくらう。ちなみに劇団で使用していた筆名「瀬山極」は、ポール(極)・セザンヌ(瀬山)のパロディ。23歳、東大英文科に進学。同年妹が結核で逝去。1925年(24歳)、友人らと 同人誌『青空』を創刊、肺結核と宣告された直後の気持、思春期の不安や焦燥を描き込んだ『檸檬(れもん)』を発表する。翌年、病状悪化により卒業を断念し中退する。伊豆湯ヶ島温泉で療養生活に入り、当地で川端康成、萩原朔太郎、宇野千代らと親交を結ぶ。『Kの昇天』を発表。26歳、川端の『伊豆の踊子』の校正を手伝う。

『梶井君は私の作品集「伊豆の踊子」の校正をすっかり見てくれた。誤植や私の字癖の細かい注意を彼から受けながら、私は少からず狼狽したのを覚えている。送り仮名の不統一をとがめるような事ならば、熟練した校正係りが鋭いであろう。そして私は、読めさえすればどうでもいいと、面倒臭がるであろう。梶井君の細かい注意にも、私はどうでもいいと答えた。しかし、私がそう答えたのは、校正ということを離れて、自分の作品が裸にされた恥しさの為であった。彼は私の作品の字の間違いを校正したのでなく、作者の心の隙を校正したのであった。そういう感じが自然と私に来た。彼は静かに、注意深く、楽しげに、校正に没頭してくれたようであった。温い親切である。しかも作品の誤魔化しはすっかり掴んでしまった。彼はそういう男である。』(川端康成)

以降、『冬の日』(26歳)、『冬の蝿』『桜の樹の下には』(27歳)、『闇の絵巻』(29歳)など、衰弱していく肉体を起こして真っ直ぐに自身の病と対峙し、人生を達観したかのような心境を綴っていく。1931年(30歳)、『交尾』を発表。病勢はさらに進み血痰が止まらず、大阪へ戻る。三好達治ら友人達が力を合わせて梶井の作品集『檸檬』を刊行した。
そして人生最期の年となる翌1932年1月、肺病患者の静かな日常を描いた『のんきな患者』を「中央公論」に著し、生涯初めての原稿料を受け取る。正宗白鳥、直木三十五が新聞の時評で採り上げ、世間は梶井の存在を知った。続いて2月に小林秀雄が好評を書き、さらに知名度が上がるが、翌3月に入って急速に容態が悪化する。

●母親の梶井久が記した『臨終まで』から(現代語に意訳し抜粋)
『3月23日、病人(基次郎)は肝臓が腫れ出して痛むと言います。弟がやって来ますと、直ぐ医者へ行って薬をもらって来てくれと言います。「医者を探してくれ…自転車で…処方箋を貰って来てくれ」と、途切れ途切れにせがみました。弟は「ようし」と引受けて立上りました。陰鬱な時が過ぎてゆきました。そこへ弟が汗ばんだ顔で帰って来て「基ちやん、貰って来たぜ、市営住宅で探し当てた。サアお上り」と言って薬を差出しました。病人は飛び付くようにそれを呑み下しました。しかしもはや苦痛は楽になりません。「もうお前の息苦しさを助ける手当は全て尽してあるが、まだ悟りが残っている」と言いますと、病人はしばし瞑想し「解りました。悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」と仰向けのまま胸の上で合掌しました。その眼に涙があり、それを見た私は「嗚呼、可愛想な事を言った」と思いました。病人は「お母さん、もう何も苦しい事はありません。この通り平気です。しかし、私は恥かしい事を言いました。この一帯(天下茶屋)を馳け廻つて医師を探せなどと無理を言いました。どうぞ赦して下さい」と苦しげな息の下から言って、後は眼を閉じ、ただ荒い息遣いが聞えるばかりでした。どうやらそのまま眠ってゆく様子です。
ふと私は、一度脈を測ってやろうと病人の手を取ってみると、脈は遥か奥の方に打つか打たぬかと思う程で、手の指先はイヤに冷たくなっています。医者は直ぐ駆けつけてくれましたが、もはや実に落着いたもので「ひどく苦しみましたか…大した苦しみがなければ、まず結構な方です」といった具合です。そして「まだ一日くらい持つだろう」と言うのでした。しかし、医者を見送った者には「あと2時間」とハッキリ宣告したとの事です。危く私は病人の死を知らずにいるところでした。
やがて一同が枕元に集って、綿で口へ水を塗ってやりました。私が「基次郎」と呼ぶと、病人はパッと眼を見開きますが「お母さんだよ、分っているか」と言っても何の手応えもなく眼を閉じてしまいます。吐く息が長く吸う息は短く、次第に呼吸の数も減って行きます。そして、最後に大きく一つ息を吐いたと思うと、それきりパッタリと呼吸が止まってしまいました。時に3月24日午前2時。』

「その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体に中に吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた」(『檸檬』)
「私は好んで闇の中へ出かけた。谷ぎわの大きな椎(しい)の木の下に立って遠い街道の孤独な電灯を眺めた。深い闇の中から遠い小さな光を眺めるほど感傷的なものはない」(『闇の絵巻』)
「冬の蝿とは何か?ヨボヨボと歩いている蝿。指を近づけても逃げない蝿。そして飛べないのかと思っていると、やはり飛ぶ蝿。彼らは一体どこで夏頃の不逞さや憎々しいほどのすばしこさを失って来るのだろう」(『冬の蝿』)
長く肺を病み、死と隣り合わせに生きてきたが故の、研ぎ澄まされた繊細な感受性。衰弱した体が独特の詩的な文体、数々の美しいイメージを刻んだ。青春期の倦怠、絶望、焦心、苦悩を告白した作品群は、どれもが梶井基次郎という男の生命の炎の記録だ。
「視ること、それはもう“なにか”なのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ」(『ある心の風景』)
梶井はどんなに肉体が弱っていても、自らの病と非情な運命をジッと“凝視”し続け、そこから決して目をそらすことはなかった。家族が次々と結核で先立つなか、小鳥や蛙といった小動物の生命に敏感にならずにはいられなかった。彼は蜘蛛や蝿に至るまで、命という命を優しい目で見守った。
自らの病について、20代前半に『檸檬』へ動揺を表した梶井だが、30歳の最晩年の『のんきな患者』では病気を材料(ネタ)にして、患者から見た俗世間をユーモアさえ交えながら描写している。死の数時間前に「悟った」と言ったのも自然に頷ける。

梶井の作品は、その短命もあって20編しかない。これらは「中央公論」で発表された一編を除き、発行部数の少ない同人誌に書かれたものばかり。同時代に芥川、谷崎、志賀、島崎らが華々しく活躍した「文壇」からは遠く離れており、死の2ヶ月前まで無視され続けた。作品は死後、時間と共に高く評価され始め、今では教科書に載るまでになっている。
墓は中央区の常国寺。お茶が大好きだった梶井の遺言により、棺にはお茶の葉が詰められ、周囲は草花で飾られた。梶井が長生きしていたら、どんな作品を残しただろう。本当に残念でならない。

※梶井が檸檬を買い求めた店「八百卯」は今も京都中京区寺町二条角にある。丸善は2005年10月10日、惜しまれつつ閉店した。
※「梶井君は本質的な文学者だ」(萩原朔太郎)
※「梶井氏の文学は、日本文学から世界文学に架かっている僅かの橋の一つで、それも腐り落ちる憂いの無い、真にたくましい文学だと思う」(横光利一)
※「(『交尾』の評)これこそ真に神わざの小説だと私は驚嘆し、作中において河鹿(かじか、蛙)の鳴く声や谷川の水音は私の骨髄に徹してまことに恍惚たる限りであった。(略)これは我らの一生のうちに、そう度々感じ得るものではない」(井伏鱒二)


●1925年、24歳で発表した傑作短編『檸檬(れもん)』。檸檬の購入からラストまで、日本文学史に残る劇的なクライマックスを以下に紹介!


その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈(たけ)の詰まった紡錘形の恰好も。――結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛(ゆる)んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗(しつこ)かった憂鬱が、そんなものの一顆(いっか)で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。

 その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖(はいせん)を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い故(せい)だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。
 私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅いでみた。それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を撲(う)つ」という言葉が断(き)れぎれに浮かんで来る。そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。……
 実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから。

 私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで、一種誇りかな気持さえ感じながら、美的装束をして街を濶歩(かっぽ)した詩人のことなど思い浮かべては歩いていた。汚れた手拭の上へ載せてみたりマントの上へあてがってみたりして色の反映を量(はか)ったり、またこんなことを思ったり、
 ――つまりはこの重さなんだな。――
 その重さこそ常づね尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さであるとか、思いあがった諧謔心(かいぎゃくしん)からそんな馬鹿げたことを考えてみたり――なにがさて私は幸福だったのだ。

 どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善(京の老舗本屋)の前だった。平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。
「今日は一つ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。
 しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。香水の壜にも煙管(きせる)にも私の心はのしかかってはゆかなかった。憂鬱が立て罩(こ)めて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。私は画本の棚の前へ行ってみた。画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と思った。しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。それ以上は堪(たま)らなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。私は幾度もそれを繰り返した。とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの橙色(だいだいいろ)の重い本までなおいっそうの堪(た)えがたさのために置いてしまった。――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。

 以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。一枚一枚に眼を晒し終わって後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味わっていたものであった。……
「あ、そうだそうだ」その時私は袂(たもと)の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」
 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌(あわただ)しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
 やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。

 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃(ほこり)っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
 不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
 ――それをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外へ出る。――
 私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑(ほほえ)ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉(こっぱ)みじんだろう」
 そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩(いろど)っている京極を下って行った。 完






小説「檸檬」にちなんで、梶井の直上にレモンを捧ぐ!


《あの人の人生を知ろう》
★文学者編
・宮沢賢治
・太宰治
・小林多喜二
・樋口一葉
・梶井基次郎
・清少納言
・近松門左衛門
・高村光太郎
・石川啄木
・西行法師
・与謝野晶子
・茨木のり子
●尾崎放哉
・種田山頭火
●松尾芭蕉
・ドストエフスキー

★学者編
●南方熊楠
●湯川秀樹

★思想家編
●チェ・ゲバラ
・坂本龍馬
●大塩平八郎
・一休
・釈迦
・聖徳太子
・鑑真和上
・西村公朝
・フェノロサ

★武将編
●明智光秀
●真田幸村
・源義経
・楠木正成
●石田三成
・織田信長




★芸術家編
●葛飾北斎
・尾形光琳
・上村松園
●黒澤明
・本阿弥光悦
・棟方志功
・世阿弥
・伊藤若冲
●グレン・グールド
●ビクトル・ハラ
●ベートーヴェン
●ゴッホ
・チャップリン

★その他編
●伊能忠敬
・平賀源内
・淀川長治
●千利休

●印は特にオススメ!

※番外編〜歴史ロマン/徹底検証!卑弥呼と邪馬台国の謎(宮内庁に訴える!)



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オヌシは 番目の旅人でござる