我は第六天魔王なり!!
【 あの人の人生を知ろう〜織田信長・聖地巡礼 】

Nobunaga Oda 天文3年5月12日(1534年6月23日)-天正10年6月2日(1582年6月21日)享年47歳










JR安土駅前の信長像。ハハーッ!

武将の銅像は騎馬像が多く、この様に
能を舞っているものは非常に珍しい
大河ドラマのオープニングみたい!

足下の解説板は、英語、スペイン語、
伊語、ポルトガル語の四カ国語表記

JR岐阜駅前に09年秋に新設された黄金の信長像!日本刀ではなく火縄銃を
持っている武将像は初めてかも!?もし全身黄金の秀吉像があれば下品に
見えるかも知れないけど、なぜか信長ならめっちゃカッコ良く感じるのが不思議
上半身の鎧は先進的思考の信長らしく西洋の甲冑っぽい。
っていうか、この位置から見ると、目の錯覚でビルの屋上に
建っているようだ(笑) ※前日に完成したばかり。ラッキー!

教科書に出ている信長像

宣教師が描いた信長像。
最も実像に近いとされている
RS2『信長の野望・革新』



●信長の生誕地

勝幡(しょばた)城は信長の祖父・織田弾正忠信定が築城。信長の父・信秀はこの城で生まれた。信秀が那古野(名古屋)城を奪取した時期には、
1532年説、1538年説がある。信長の誕生がその間の1534年になるため、前者なら那古野城、後者なら勝幡城で生まれたことになる。


『勝幡城址』。愛知県稲沢市平和町にある。
名古屋鉄道津島線「勝幡駅」下車徒歩約10分
勝幡城址を示す碑文はもう1カ所ある。こちらは木碑だ。
日光川の河岸に建っていた
城址内の石碑「織田弾正忠信定古城跡」。
“弾正”は今でいう警察機構

夕日に映える名古屋(那古野)城
二の丸跡。この付近で信長は生まれたとも伝わる

 
桶狭間の古戦場(愛知県)。この地で今川氏に歴史的
勝利をおさめ、信長は破竹の進撃を開始する
信長が前城主・斎藤龍興を追放し稲葉山(金華山)山頂に修築した岐阜城。
初めて見た時「なんちゅう場所にあるんだ!」と驚愕した(左上写真の頂上)





『織田信長居館跡』。金華山(岐阜城)の西麓にある。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが
その壮麗さに感嘆したという。発掘調査は現在も続いてる(公式ページ)。
ちなみに「岐阜」という名前を当地に付けたのは信長だ。それ以前は“井口”(いのくち)だった
居館跡に隣接して建設中だった信長の
資料館(?)※2009年9月の時点

ノーッ!楽しみにしていた『若き日の
織田信長像』にブルーシートが!(涙)
※居館跡からこっちへ移設されたようだ

【 信長の墓・12カ所大巡礼 】

●滋賀県〜安土城












『安土城址』 標高199mの安土山。かつて、この上に巨城があった CG再現だとこんな感じ!(『信長の館』) 麓にも石碑がある



JR安土駅前の『安土町城郭資料館』には20分の1スケールの安土城がそびえる。
宣教師が「これほど豪華な城は欧州にも存在しない」と感嘆した五層七重の名城!
うおお!まさかの真っ二つ!



天守にはあのお方が! 内部は障壁画や襖まで再現されている 真ん中に入って心ゆくまで鑑賞できる



こちらは同じ安土町にある『信長の館』 なんと焼失した安土城の天守を実物大で再現!


右端の人間と比較すると
天守の巨大さが分かる
日本政府は国家予算を投入して
早急に全階を再建して欲しい!(真顔)
最上階の部屋!こんな空間に信長がいたのか。
レプリカと分かっていても緊張していまう

●いざ安土城天守閣跡へ!




この門は奇跡的に消失を免れた 安土城の天守閣まで405段。往復40分〜1時間かかる かなり急な箇所もありチビッコには厳しい



仰天したのは“仏など信じぬ”と言わんばかりに、多数の
石仏が階段に使用されていたこと。踏めと言いたいのか?
仏が頭を左に横になっているのが分かるだろうか?
神仏を恐れなかった天魔・信長ならでは
この仏教徒にとって神聖な仏足石は
城の石垣の中に混じっていたという



二の丸跡にある信長廟入口

巨大な信長の墓。この廟には一周忌の法要後に
秀吉が信長の太刀や烏帽子を納めた(2008)
翌年、快晴の日に再巡礼。信長の墓だけが
真っ白に光って不思議な光景に(2009)


安土山の頂上に到着。天守跡から望む 遠くに写っているのは琵琶湖っす! 約420年前に信長もこの景色を見ていたのか

かつての第六天魔王の居城も、
今は子ども達の楽しい遠足コースだ
信長が1578年に建てた浄厳院(浄土宗)。法華宗
VS浄土宗の「安土問答」が行なわれたのはここ!
桃山時代のセミナリヨ(神学校)跡。
安土城の落城と共にこの建物も灰となった

●滋賀県〜西光寺






近江八幡の西光寺 なんとこの墓には遺歯(信長の歯)が入っている! 歴女さんのコップ?

●岐阜県〜崇福寺


岐阜市崇福寺の信長父子墓。本能寺の変からわずか
4日後に側室・お鍋が遺品や位牌を送り届けた
父子の位牌が安置された崇福寺の位牌堂(2008)


●和歌山〜高野山



高野山の「織田信長公」墓(1994)
行方不明だったが1970年に発見された
同じく高野山(2005)。板の文字が「織田信長墓所」
と変わっている。ここ10年の間に交換されたようだ
さらに4年後、2009年。なんと音声ガイド(80)が導入されていた。
信長も草葉の陰でテクノロジーの進化に驚いているだろう

●大阪〜本源院

大阪堺市の本源院。公開されていないが、ここにも信長父子の墓があるという(2003)

●富山県〜瑞龍寺




富山県高岡市の瑞龍寺。建物の大半が国宝だ 信長の分骨墓 暴風雨!左奥から信忠、信長側室、信長、前田利家

●静岡県〜西山本門寺

JR芝川駅から北に4km、静岡の山奥

西山本門寺の周辺はのどかな山村だ

墓所はこの本堂の裏手。京都からこんなに
離れた場所に本当に信長の墓が?ドキドキ…







境内に信長の首塚への
ルートを記した看板を発見!
なんと、このヒイラギの大樹そのものが信長の墓だった!
この地に信長の首が埋葬された経緯は寺伝によると下記の通り↓
目印の石碑『信長公首塚』。
ヒイラギの右手前にあった

(1)信長は囲碁名人・本因坊算砂(さんさ)の腕前に惚れ込み、光秀が謀反を起こす前夜に本能寺で御前試合をさせた。
(2)西山本門寺の第18世住職・日順上人の父は原宗安(志摩守)。本能寺が攻撃を受けた時に、原宗安の父と兄は信長を守っていたが“もはやこれまで”と自刃。炎上する本能寺から、原宗安は父と兄の首の他に、親交のあった算砂の指示で信長の首も持ち出した(原宗安自身が信長を介錯したという説もある)。
(3)3人の首は駿河(静岡)まで密かに運ばれ、信長の首は西山本門寺に納められた。そして首塚が築かれ、魔除けの力があると信じられているヒイラギを算砂が植えた。
(4)その後、日順上人(原宗安の子)は過去帳に本因坊日海(算砂)、織田信長の法号を記し、手厚く回向していた。
(5)首塚のヒイラギは樹齢400年以上の古木で時代的にも一致する。
ここまで詳しい話が寺に残っていると、首塚の存在がリアルに感じられる。








ヒイラギの根元にお酒が供えられていた

通常は墓石の背後にある卒塔婆が、ヒイラギの根元に立てかけられていた。
ちなみにこの巨木の根元の周囲は4.6mもある
2代目のヒイラギもスクスク成長中


●京都府〜大徳寺総見院、妙心寺玉鳳院、本能寺、大雲院、阿弥陀寺(ココが本命)

 
信長の葬儀のため秀吉が大徳寺に建立した総見院の織田一族の墓。“総見院”は信長の戒名「総見院
殿大相国一品泰巌大居士」から。毎年秋に特別公開される。左から、秀雄(信雄長男)、信雄(信長次男)、
信長、信忠(信長長男)、秀勝(信長4男)、信高(信長七男)、信好(信長十男)。右写真は信長の墓

  
上記の信長一族の墓は、不届き者が台座に登らないように、四隅を猫の看板が守っている。この猫、
目がガラス玉でいかにも「見張ってるぜ〜」とアピール。猫が番人の墓は他に見たことがなく珍しい(2008)


 
妙心寺玉鳳院の墓(原則非公開)。長い交渉の末、ついに墓参
&撮影許可を頂く。左が信長父子、右は何と旧敵の武田家!
奥が長男信忠、手前が信長の墓。
重臣の滝川一益が建立した(2008)



大事件の舞台となった本能寺。寺名の札に注目。一度全焼したので“火は去れ”
という意味から、“能”の文字は右側が“ヒ×2”ではなく“去”になっている(2008)
移転前に本能寺があった場所は現在老人ホーム。
その前は小学校だった(スクールゾーンの看板のみ残る)

改装前の本能寺本堂。天正17(1589)年、秀吉に
よる区画整理で当地に移された(2001年撮影)
本堂は平成20年5月8日から長期の大改修に入って
いる。工事の終了は平成24年4月1日だ(2008)
うお!改修の終了はまだ2年先と思っていたら、
もう本堂正面の足場は撤去されていた(2010)




信長の墓は境内の奥にある※写真の門の背後
(2001)

立派な信長の墓。三男・信孝が集めた遺骨が葬られたと
いう。かつての本能寺は約4万uもの敷地があった(2008)
※信長愛用の太刀が納められているとも
隣は本能寺の変で死んだ家臣の合葬墓。
「明智が者と見え申し候」と告げた森蘭丸の名も









大雲院。信長父子と石川
五右衛門が同じ墓地!
信長父子の墓。死の5年後に
正親町天皇の勅命で建立(1999)
右側が信長、左側が信忠という
変わったスタイルの合葬墓(2010)
大雲院は信忠の戒名「大雲院殿三品
羽林仙厳大居士」に因んで名づけられた

京都市上京区の阿弥陀寺(2008) 僕はこの阿弥陀寺が、最も信憑性が高いと思う(2010) 信長の“本廟”とアピール



阿弥陀寺に残る
織田軍の旗


阿弥陀寺の清玉上人が記した過去帳。右端が総見院(信長)。左から8人目に、信長が
寵愛した小姓・森蘭丸の名が見え、ここでは親しみを込めて「森おらん」と書かれている。
これは、信長が日頃「おらん」と呼んでいたことを清玉上人が知っていたからだろう。
こういう所からも、信長と清玉上人の親密さが伝わってくる(画像は絵葉書より)
安土桃山時代の第107代後陽成天皇
の直筆で「総見院」と書かれた勅額
(ちょくがく)。秀吉建立の大徳寺
総見院ではなく、この阿弥陀寺にある



阿弥陀寺本堂にて、左から信忠像、信長像、そして
信長の実兄・信広像。信長像前に「本能寺の変」で散った
家臣の名がギッシリと彫り込まれた位牌が立っている
信忠像の前にある位牌は、右から
森蘭丸、坊丸、力丸の森三兄弟。
この信忠像はけっこうイケメン
本堂の全景。本尊は大きな阿弥陀如来。火災の時に
首に斧を入れ「頭部だけでも」と脱出させたという。世に
仏頭のみが残る仏像は、多くの場合救出されたからだ

阿弥陀寺墓地の織田軍墓所全景(2010) 三男の信孝が建てた信長父子の墓。手前に「信長信忠討死衆墓所」の石柱(2005)



左から信忠、信長、一段下がって三男の信孝(2005) 夕陽の中の3人(2010) 側面には「天正十年」とある(2008)

 

墓前の石灯籠は天正13年建立(信長3回忌)。信長の側近だった森家家臣の
青木家が寄進したものだ。初冬に墓参すると周囲は紅葉になっていた(2008)
うっすら「総見院…」と判別できる







墓所の左側に並ぶ森蘭丸、力丸、坊丸の墓 信長父子の背中に小さな3つの墓 信長父子の周囲には家臣たちの墓がいっぱい

幼名吉法師。尾張の那古野(名古屋)城の城主、織田信秀の子。生まれた城は那古野城、勝幡城の2説がある。妹はお市の方(市の娘は豊臣家として散った淀君)。家系は尾張守護代の清洲織田氏の三奉行のひとつ。
1546年、12歳で元服(成人式)して信長を名乗る。14歳の時に美濃の斎藤道三と父が同盟し、その証として道三の娘と結婚。17歳で父が病死、家督を継く。若い頃の信長は服装や行動が奇天烈で、大通りを人の肩にもたれ掛かって栗や柿を手掴みにして食い歩くなど、「大ウツケ(頭がカラッポ)」と世間から呆れられていた。父の葬式に髪を派手な紐で縛り、袴もつけず着流しで現れ、仏前に進み出るといきなりお香を鷲づかみにし、位牌に投げつけて帰る傍若無人さでひんしゅくを買った。
それだけではない。信長は父の病気が回復するであろうと保証した祈祷師・仏僧らを、“虚偽を申し立てた”として寺院に監禁し、外から戸を締め「今や自らの生命に念を入れて偶像に祈るがよい」と言い放ち、鉄砲隊に包囲させ射撃命令を下した。信長は生き残った仏僧を指さし、憤激して言った。「あそこにいる欺瞞者どもは、民衆を欺き、己れを偽り、虚言を好み、傲慢で僭越のほどはなはだしい。予はすでに幾度も彼らをすべて殺害し殱滅しようと思っていたが、人民に動揺を与えぬため、また人民に同情しておればこそ、予を煩わせはするが、彼らを放任しているのである」と。合理的主義者の信長は神仏の存在を全く認めていなかった。

翌年18歳の信長は天下取りに向けて動き出す。まずは自国尾張を統一せねばならない。最初に清須の坂井大膳を攻め、19歳で主家の織田信友を倒し、23歳には野心家だった弟信行を暗殺し、最後は尾張守護代家の岩倉織田氏を滅ぼし25歳で尾張を統一した。
この間、19歳の時に亡き父に仕えていた重臣平手政秀が、信長の素行を諫(いさ)める為に切腹するという事件があった。尾張が統一された時、側近たちは「ここまで強大になるとも知らず平手政秀が自害したのは浅薄でした」とお世辞を言うと、信長は「こうやって弓矢を執れるのは、みな政秀が諫死したおかげだ!わしが自分の恥を悔やんで過ちを改めたからだ!古今に比類ない政秀を、短慮と言う貴様らの気持ちが口惜しいわ!」と顔色を変えて激怒した。

1560年(26歳)、桶狭間で休息中の駿河・今川義元の大軍2万5千を、たった2千の兵で奇襲攻撃し見事に勝利。これによって信長の武勇は全国に広まった。※桶狭間への出陣前、信長は「人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり 一度生をうけ 滅せぬもののあるべきか」と舞った。
翌々年、今川から独立した三河の徳川家康と同盟。清洲から小牧へと本拠を移し美濃(岐阜)に侵攻する。美濃の斉藤道三は子の義竜に討たれており、既に同盟は廃されていた。33歳、7年をかけて斎藤氏を滅ぼすと、本拠地を尾張小牧から稲葉山城に移し、「天下布武」(武家の政権を以て天下を支配する)の印を使い始める。
34歳、足利義昭を奉じて京都に入り、義昭を15代将軍にして室町幕府を再興するが、事実上の権力は信長にあり、義昭との関係は悪化した。

信長の勢力拡大に不満を持つ将軍義昭は、武田、朝倉、浅井、毛利、三好ら諸大名や、石山本願寺、比叡山延暦寺などの宗教勢力に呼びかけて、信長包囲網づくりを進める。これに対抗して信長は家康に援軍を要請。
1570年(36歳)、浅井&朝倉両軍に近江姉川の戦で勝利すると、両氏に味方した延暦寺を翌年焼き討ちし、僧侶、一般人を問わず男女約4千人を皆殺しにした。38歳、戦国最強と言われた甲斐の武田信玄が京都に進軍を開始、家康の領国へ侵攻してきた。武田軍は強敵で、遠江三方原(みかたがはら)の戦において織田・徳川連合軍は完敗!ところが何と信玄が結核で急死。武田軍は甲斐に引き返し信長・家康は命を繋いだ。
翌年、未決着だった浅井氏を近江小谷(おだに)城で滅ぼし、一気に越前まで進んで朝倉氏も討ち取ると、畿内に戻って、京都宇治で挙兵した将軍義昭を追放して室町幕府を滅ぼした。

1575年(41歳)、三河長篠の合戦では3千挺の鉄砲を用意(当時は海外にもこんな軍隊はない)。信玄の子勝頼が率いる武田騎馬軍を粉砕し、近代戦の幕をきる。これで東国からの侵攻の懸念が消えた。翌年に天下統一の拠点として7重の大天守閣を持つ安土城の造築をスタート。長男信忠に織田家の家督を譲り、自身は安土に移った。43歳、秀吉を中国攻めに出陣させ、西国の雄・毛利氏との対決が始まる。織田軍の勢力拡大と共に朝廷の位は正二位右大臣まで上がったが、もはや覇業に朝廷権力は無用と、1578年(44歳)、全ての官職を返上した。

京都大徳寺にある日本最古の火縄銃。本能寺の変の翌年(1583年)に生産された
もの。1挺でも迫力があるのに、長篠に3千挺も揃ったというのだから想像を絶する

しかし、信長にとっての最大の敵は戦国大名ではなく、死を恐れぬ一向宗の門徒たちであり、難攻不落の城、総本山・石山本願寺だった(跡地は大坂城になっている)。石山戦争は1570年に始まり、石山から顕如が退去する80年(本能寺の2年前)まで10年間も続いたのだ。この過程で信長は、一向一揆を徹底的に弾圧した。伊勢長島の一揆では男女2万人(!)を焼き殺し、100年続いていた越前の一向一揆を攻撃した際は、農民でも僧侶でも見つけ次第に皆殺しにした。その数、4万人。彼は自身の手紙の中で「府中(福井県武生市)の町は死骸ばかりで空き地もない。見せたいほどだ。今日も山々谷々を尋ね探して打ち殺すつもりだ」と書き記している。鬼も震える冷酷非情。だが他の支配地では領民に善政を行なっており、石山戦争の初期に兄信広と、可愛がっていた弟信興と秀成を失ったことが、狂気じみた残酷さの背景にあることを付け加えておく。最終的には鉄板装甲の巨大軍船を建造して本願寺側の毛利水軍を木津川河口の戦でくだし、大阪湾の制海権を掌握、本願寺の援軍を断ってこれを屈伏させ、畿内を完全に支配した。
1581年(47歳)、京都で軍事パレードの馬揃(うまぞろえ)を挙行し、覇王信長の力を天下に見せ付けた。家臣団の構成は、北国方面・柴田勝家、丹波、丹後方面・明智光秀、関東方面・滝川一益、中国方面・羽柴秀吉、対本願寺戦・佐久間信盛。

そして、運命の1582年があける。この年も快進撃は続いていた。3月に武田領国へ侵攻、甲斐天目山で勝頼にとどめを刺し、関東上野まで本州中央部を支配下に治めた。5月には三男信孝を四国に遠征させる。一方、毛利を攻め落とせないでいた秀吉に、援軍として明智光秀を向かわせた。さらに6月1日、自らも対毛利戦に参戦すべく進軍する途中で本能寺に宿をとった。東の武田は既に滅び、西の毛利と四国の制圧も目前であり、年内の天下統一は時間の問題だった。
ところが!2日未明、1万3千の軍勢に突然襲撃される。信長側は180名。本能寺の境内では若い小姓たちが戦ったが、たちまち数十名が討死。信長は鉄砲の音で部屋を出た。「これは謀反か!攻め手は誰じゃ!」。敵が寺の中に突入して来る。蘭丸が答えた「明智が者と見え申し候!」。“光秀!”火矢が放たれ本能寺は燃え上がる。「是非に及ばず(何を言っても仕方がない)」。信長は数本の弓矢を放ち、弦が切れると槍を手に取ったが、やがて戦うのを止めた。智将・光秀の強さは信長が一番理解している…最も信頼していた部下なのだから。信長は炎上する本能寺の奥の間に入ると、孤独に腹を切った。覇権の夢はついえた。享年47。

※信長暗殺の真の黒幕は誰か?光秀と公家には深い親交があったことから、近年では朝廷と見る意見が多い。延暦寺焼き討ちでは天皇が認定した国師(高僧)が焼かれ、本能寺の変の2ヶ月前にも国師快川和尚が信長の敵を匿った罪で焼き殺されている。国師を殺すと言うことは、天皇を全く恐れていないと言うこと。信長は室町幕府を潰した時に、暦を元亀から天正へ勝手に改暦しており、官位も返上している。光秀謀反の前月には天皇が信長に勅使を送り幕府開設を勧めるが、これも無視された。信長はルイス・フロイスら宣教師から聞いた欧州の絶対王政を目指しており、国王になるつもりだったのだ。その為には天皇を殺し(王は2人もいらない)、朝廷公家を滅ぼす。皇室はこれを阻止せんが為に光秀を利用し信長を葬ったという。

信長は武闘派として知られるが、内政でも様々な改革を推し進めた。経済発展のカンフル剤として課税を免除した楽市・楽座を設定し、流通をよくする為に関所を廃止、政教分離の徹底、検地、刀狩など新政策を次々と実行した。外国文化への好奇心が強く、式典の際はビロードのマントと西洋の帽子を着用し、側近には彌介(やすけ)と名付けた黒人もいた。信長はまた、茶の湯、能楽、鷹狩り、相撲などをよく好んだ。茶の湯は政治にも利用し、千利休&今井宗久らを召抱えて、家臣に茶の湯の開催権や茶器を恩賞として与えた。命令、規律は絶対であり、家臣は信長の一声で飛び散る様に従った。その一方で、秀吉の妻(ねね)へ夫婦喧嘩仲裁の手紙を書くなど、面倒見が良い一面もあった。

●信長からねねへの手紙
「ねねさん、先日は私に会いに来てくれて有難う。持って来てくれた土産の数々には目を奪われるほどで心から感謝申し上げます。それにしても、あなたはますます美しくなっているので驚きました。にもかかわらず秀吉はあなたのことを不満に思っているとのこと、これは言語道断です。あなたのような素晴らしい女性は何処を探してもいるはずもなく、『禿鼠(はげねずみ、秀吉のこと)』には二度と得ることが出来ないからです。だから、あなたも気持ちをほがらかに、妻としてどっしりと構えて、嫉妬などしない方がいいですよ。秀吉には私から何かと意見を述べてもいいのですが、彼の世話をするのはあなたの役目だということも忘れないように」

●イエズス会宣教師ルイス・フロイス『日本史』より(信長を身近で見ていた者の非常に貴重な資料!)

彼は中くらいの背丈で、華奢(きゃしゃ)な体型であり、声は高く、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。幾つかのことでは人情味と慈愛を示した。彼の睡眠は短く早朝に起床した。貪欲でなく、よく決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。
彼はほとんど家臣の忠言に従わず、一同から深く畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の取扱いは実に率直で、自らの見解に尊大であった。彼は他の大名をすべて軽蔑し、頭の上から話をした。そして人々は絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己れに背いても心気広濶、忍耐強かった。

彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。
彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることの指図に非常に良心的で、対談の際、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賤(ひせん)の者とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることを甚だ好んだ。何ぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当ってははなはだ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。

美濃の国で見た全てのものの中で、最も私を驚嘆せしめましたのは、この国主(信長)が如何に異常な仕方、また驚くべき用意をもって家臣に奉仕され畏敬されているかという点でありました。即ち、彼が手でちょっと合図をするだけでも、彼らは極めて兇暴な獅子の前から逃れるように、重なり合うようにしてただちに消え去りました。そして彼が内から一人を呼んだだけでも、外で百名が極めて抑揚のある声で返事しました。彼の一報告を伝達する者は、それが徒歩によるものであれ、馬であれ、飛ぶか火花が散るように行かねばならぬと言って差支えがありません。都では大いに評価される天皇の最大の寵臣のような者でも、信長と語る際には顔を地に着けて行なうのであり、彼の前で眼を上げる者は誰もおりません。

●本能寺後、秀吉の信長評

「公は勇将であったが、良将ではなかった。剛が柔に勝つ事はよく知っておられたが、柔が剛を制する事をご存知ではなかった。一度背いた者があると、信長公はその者への怒りがいつまでも収まらず、一族縁者まとめて皆殺しになされた。降伏する者さえも躊躇なく殺すため、信長公への敵討ちはいつまでたっても絶えることがなかった。これは信長公の人間としての器量が狭かったせいであろう。強さや怖さで人に恐れられはしても、敬愛されることはない。例えて言えば信長公は虎や狼のようなもの。人は自分が噛み殺されるのを防ぐために、猛獣を殺そうとするであろう」

●墓について

信長墓と伝えられるものは阿弥陀寺、大雲院、大徳寺総見院、妙心寺玉鳳院と京都だけで5ヶ所あり、他にも和歌山・高野山(1970年に供養塔を発見)、滋賀・安土城二の丸跡(一周忌の法要後に秀吉が信長の太刀や烏帽子を納めた)、大阪・堺の南宋寺本源院(信忠も一緒)、富山・瑞龍寺(前田利長が信長父子の分骨を納めた)、岐阜・崇福寺(信長父子の遺品を側室・お鍋が寺内に埋め位牌を安置)、静岡・西山本門寺(信長と懇意の囲碁名人・本因坊算砂が作らせた首塚がありヒイラギの木が植えられている)など、全国に最低でも20ヶ所以上ある。信長を祀った神社も各地に存在する。

京都市上京区の阿弥陀寺の寺伝(『信長公阿弥陀寺由緒之記録』)によると、信長が帰依したことから親交のあった阿弥陀寺住職・清玉上人は、光秀が本能寺を攻めたと聞いて、約20人の僧侶を連れていち早く駆けつけた。表門は明智軍がいたので裏道から入ると、既に本堂に火が放たれ信長は自刃した後だった。境内裏の竹林で十数人の家臣が火を焚いていたので事情を聞くと「絶対に死骸を敵に渡すなという公の遺言だったが、周囲を包囲され遺骸と共に脱出するのは不可能であり、やむなく火葬して隠したうえで各自切腹するつもりだ」と言う。信長の火葬中だったのだ。上人は「ここで自害するより信長公の為に敵と戦って死ぬべきではないか。私と信長公には縁があり、火葬はもちろん将来も追悼供養をするので後は任せて欲しい」と提案すると、家臣達は大いに喜んで門前の敵に向っていった。上人は信長の遺骨を法衣に隠し、本能寺の僧侶たちが逃げるのに紛れて脱出に成功した(明智軍は僧侶や女子には手を出さなかった)。その後、阿弥陀寺に帰って遺骨を埋葬したという。光秀がいくら捜索しても信長の骨が出て来なかったのは、既に上人が持ち去った後だったからだ。
一方、信長の嫡男・信忠が同夜に二条城で自刃し、死骸が敵に渡らぬよう火中へ投じられたことを知った清玉上人は、なんとか骨を拾おうと画策する。そして翌日の午後2時頃に七条河原で休息する光秀の元へ“陣中見舞い”として餅や焼き飯を持参し、「本能寺と二条城の戦死者の中に檀家の者が多いので、遺骨を阿弥陀寺に葬りたい」と願い出た。光秀は上人の志に胸を打たれ、申し出を許可。上人は多数の寺僧を引き連れて信忠や本能寺の戦死者112人の死骸を引き取って阿弥陀寺に運び込み、数日後に信長父子と家臣達の葬儀を行った。
※阿弥陀寺は清玉上人が1555年に近江国坂本(現大津市)に創建し、帰依を得た信長の上洛に合わせて都に移築された。坂本といえば光秀の坂本城があった場所。その意味でも、光秀は清玉上人に心を許したのかも知れない。1570年には正親町天皇が祈願する勅願所とされ塔頭11寺院の巨大寺院になった。

その後、「山崎の合戦」で光秀を倒して京都に入った秀吉は、信長の遺骨が阿弥陀寺にあることを知る。そして、秀吉は自分の力を内外に示すため、葬儀を阿弥陀寺で行うと清玉上人に告げた。上人は「既に法事は終わっているのでご心配なく」と秀吉の要求を拒否。驚いた秀吉は、法事料として300石の朱印を提示し、永代墓所供養のため寺領も与えると申し出たが、上人はこれらも断固として受け取らなかった。
秀吉は3度も使者を出して葬儀をさせて欲しいと願うがすべて拒否され激怒する。だが、清玉上人は天皇から直々に東大寺再建の大勧進職の勅命を受けた名僧であり、秀吉といえども強硬手段はとれなかった。
秀吉はやむなく、新たに大徳寺の境内に寺を建立し、信長の戒名をとって「総見院」と名付け、遺骸の代わりに信長の木像を彫ってこれを盛大に弔った。この後、天下を獲った秀吉は、1587年に清玉上人への報復として都市改造計画を理由に阿弥陀寺を移転させ、寺領を8分の1まで削ったという。1917年、信長に正一位が追贈されることになり、宮内庁は調査を通して阿弥陀寺の信長公墓が廟所であると結論づけ、勅使を派遣した。
※秀吉が一周忌の法要のため大徳寺に総見院を建てたという説もある。しかし、総見院の資料では1582年建立、つまり本能寺の変の年になっている。一周忌なら1583年でないとおかしい。このあたり、ど〜なっとるのか!?

   秀吉に最後まで屈しなかった清玉上人(阿弥陀寺)

※寺伝以外の記録でも、公卿の山科言経の日記の中で、本能寺の変から約1ヶ月後の7月11日に「阿弥陀寺に参り信長や織田家家臣達を弔った」と記され、さらに9月8日に阿弥陀寺で百ヶ日追善供養が催されことが書き残されている。
※遺骨は三男の信孝によって集めらたとする説もある。
※亀丘林幸若『敦盛』(信長が桶狭間合戦の出陣前に舞った)
思えば此の世は 常の住処にあらず
草の葉におく白露 水に宿る月より猶あやし
金谷に花を詠じ 栄華はさきを立って
無常の風にさそはるる 南楼の月を弄ぶ輩も
月に先だって 有為の雲に隠れり
人間五十年 下天の中をくらぶれば
夢幻のごとくなり 一度生を受け
滅せぬ者のあるべきか滅せぬ者のあるべきか
人間五十年 下天の中をくらぶれば
夢幻のごとくなり 一度生を受け
滅せぬ者のあるべきか滅せぬ者のあるべきか


【信長暗殺の黒幕はやはり朝廷か〜建勲神社の謎 2008】

信長は朝廷をないがしろにしていたにもかかわらず、建勲神社の説明文は異常なほど信長への大絶賛。
『贈・太政大臣正一位織田信長公 織田信長公は戦火の巷と化した応仁の大乱に終止符を打ち、民衆を疲弊絶望から救い、伝統文化に躍動の美を与え、新秩序を確立して日本史に近代の黎明を告げ、西洋を動かす力の源を追求し、悠然として東西文化交流を実行した。明治天皇より特に建勲の神号を賜い、別格官幣社に列せられ、ここ船岡山に大主の神として永遠に奉斎されている』
太政大臣は左大臣・右大臣より上位にある最高位の官職。信長は生前に官位を“無用”と返上しているのに、それでもなお死後に太政大臣を贈るとは。しかも建勲神社は御所や二条城を見下ろせる船岡山にある。これほどの朝廷のへりくだり方は、信長のタタリを恐れ、神にすることで裏切りの怒りを封じようとしているとしか思えない。



京都市内北部にある建勲神社 織田家の家紋・織田木瓜 狛犬の台座にも織田木瓜





建勲神社の本殿

戦国時代は考えられなかった皇室
の菊紋と織田木瓜のツーショット!
船岡山からは市内が一望できる



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