庶民に愛された反骨の破戒僧
【 あの人の人生を知ろう 〜 一休 】

Ikkyu Sojyun 1394.1.1-1481.11.21



少年時代の一休をリアルに描いた絵 (*^o^*)

もっとリアルな後年の一休

リアルどころか、本人の髪と髭を
植えて究極再現した一休の木像





一休が眠る御廟。天皇の実子なので宮内庁が管理! 境内の橋には「このはしわたるな」 台座の字はアニメと全く同じ字体

室町期の禅僧(臨済宗)。別号、狂雲子。幼名千菊丸。父は南朝方から神器を受け取り南北朝統一の象徴となった北朝の後小松天皇。母は藤原一族、日野中納言の娘・伊予の局(つぼね)。母が一休を身篭ると、皇位の継承権を妬んだ人々の謀略で、彼女は南朝方と通じていると誹謗され、宮廷を追われることになった。そして南北統一から2年目の元旦に、嵯峨の民家でひっそり一休を産んだ。母は子が政争に巻き込まれぬよう、その身を保護する為にも、1399年、5歳の一休を臨済宗安国寺に入れ出家させた。
「周建」の名を与えられた一休は成長と共に才気を育み、8歳の時に有名な「このはし渡るべからず」や、将軍義満に屏風の虎の捕縛を命じられ「さぁ追い出して下さい」と告げ、ギャフンと言わせたトンチ話を残したとされている。

1410年(16歳)、11年間修行した安国寺を出て、学問・徳に優れた西金寺の謙翁(けんおう)和尚の弟子となる。謙翁は自身の名前・宗為から一字を譲り「宗純」の法名を与えた。一休はこの謙翁和尚を心底から慕っていたらしく、1414年(20歳)に和尚が他界した時は、悲嘆のあまり、来世で再会しようとして瀬田川に入水自殺を図っている。
運良く助けられた彼は、翌年から滋賀堅田(かただ)祥瑞庵の華叟(かそう)禅師に師事した。華叟は俗化した都の宗教界に閉口し、大津に庵を結んでいた。志は高かったが餓死しかねないほど師弟は貧しく、一休は内職をして庵の家計を支えたという。
1418年(24歳)、ゴゼ(盲目の歌方)の平家物語を聞いて、無常観を感じた彼は「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と詠んだ。有漏路の“漏”は煩悩の意味。つまり「人生は(煩悩溢れる)この世から、来世までのほんの一休みの出来事。雨が降ろうが風が吹こうが大したことない」とした。これを聞いた華叟は、歌の中からとった「一休」の号を彼に授けた。

1420年(26歳)5月20日の深夜、一休は琵琶湖岸の船上で座禅をしていた際に、カラスの鳴く声を暗闇に聞いて「カラスは見えなくてもそこにいる。仏もまた見えなくとも心の中にある」と悟りに至ったという(後の行動から、“禅僧は悟りへの欲求さえも捨てるべき”“悟る必要はないということを悟った”とも言われている)。華叟は一休を後継者と認め、印可(いんか、悟りの証明書)を授けようとしたが、権威を否定する一休は、これを頑として受け取らなかった。28歳、大徳寺7世の追悼法要にボロ布をまとって参列し、この頃から奇人和尚と噂され始める。
1428年(34歳)、師の華叟が没したことをきっかけに、一休は庵から出て庶民の間に飛び込んで行く。1人でも多く、そしてあらゆる階層の人に仏教の教理を易しく説く為に、彼は一ヶ所の寺に留まらず、一蓑一笠の姿で近畿一円を転々と説法行脚して回った。
38歳、崩御する直前の実父・後小松天皇と初めて対面する。
※この頃、一休は堺・南宗寺に庵を結び、弟子であり実子の紹偵(しょうてい)と住んでいる。
 
1437年(43歳)、17年前の印可状がまだ保管されていたことを知り、一休は火中に焼き捨てた。1447年(53歳)、二度目の自殺未遂。大徳寺内の派閥争いから僧侶数人が投獄され、自殺者まで出たことに胸を痛め、そして堕落した僧界に失望し、山へ入って断食死を試みる。この時は天皇自らの説得(親書)を受けて思い留まった。
 
1456年(62歳)、これより200年前に尊敬する大応国師(臨済宗の高僧)が創建し、その後兵火に焼かれ荒廃していた妙勝寺を、一休は恩返しの為にと約20年以上かけて修復。新たに酬恩庵として再興した。以後、この庵が一休の活動の中心地となり、これを知った多くの文化人が一休を慕って訪れた。
1461年(67歳)、浄土真宗の中興の祖、蓮如が営む親鸞200回忌に参列。一休は19歳年下の蓮如と、宗派の違いや年の差を超えて深く親交を結んでいた。互いの思想に敬意を払い、教えを学び合っており、一休はこんな歌を残している。「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ」(真理の山に向かう道は違うけれど、同じ月を我らは見ているのう)。他宗と見れば排斥しあう風潮の中で、一休の器の大きさが感じられる歌だ。

1467年(73歳)、京都で応仁の乱が勃発。一休は戦火を避けて奈良、大阪へと逃れ、1470年(76歳)、住吉薬師堂で鼓を打つ盲目の美人旅芸人・森侍者(しんじしゃ)に出会う。彼女は20代後半。2人は50歳の年齢差があったが、一休は詩集『狂雲集』に「その美しいエクボの寝顔を見ると、腸(はらわた)もはちぎれんばかり…楊貴妃かくあらん」と刻むほどベタ惚れし、彼女もまた彼の気持を受け入れ、翌年から一休が他界するまで10年間、2人は酬恩庵に戻って同棲生活を送る。

長年にわたって権力と距離を置き、野僧として清貧生活を送っていた一休だが、1474年(80歳)、戦乱で炎上した大徳寺復興の為に、天皇の勅命で第47代住職(住持)にされてしまう。「さて、再建費用をどうしたものか」。一休が向かったのは豪商が集まる堺。貿易が盛んで自由な空気の堺では、破戒僧一休の人気は絶大だったからだ。「一休和尚に頼まれて、どうして断わることが出来ようか」。商人だけでなく、武士、茶人、庶民までが我れ先にと寄進してくれ、莫大な資金が集まった。5年後、大徳寺法堂が落成。一休は見事に周囲の期待に応えた。
※一休は大徳寺の住職となっても寺には住まず、酬恩庵からずっと通っていた。(たぶん彼女と離れたくなかったからと思う)

一休は死の前年に等身大の坐像を弟子に彫らせて、そこへ髪や髭を抜いて植え付けた。これは、髪や髭のある像を残すことで、「禅僧は髪を剃るもの」などといったつまらない形式に捉われず、精神を大切にしろという目に見えるメッセージだった。「一休の禅は、一休にしか解らない」「朦々(もうもう)淡々として60年、末期の糞をさらして梵天(ぼんてん、仏法の守護神)に捧ぐ」と辞世を残し、当時の平均寿命の倍近い87歳まで長寿して、マラリアで亡くなった。
臨終の言葉は「死にとうない」。悟りを得た高僧とは到底思えない、一休らしい言葉で人生を締めくくった。
一休は他界する直前、「この先、どうしても手に負えぬ深刻な事態が起きたら、この手紙を開けなさい」と、弟子たちに1通の手紙を残した。果たして数年後、弟子たちに今こそ師の知恵が必要という重大な局面が訪れた。固唾を呑んで開封した彼らの目に映ったのは次の言葉だった--「大丈夫。心配するな、何とかなる」。

現在、酬恩庵は一休寺の名で親しまれている。一休が死の前年に建てた墓(慈揚塔)は境内にある。しかし!彼が天皇の息子であったことから、その敷地だけが宮内庁の管轄にあり、内部の墓は見ることができない。菊の紋章の門から先は立入禁止なんだ。常に庶民と共に生き抜いた一休としては、庶民から隔離されている今の状況は不本意だろうなぁ。
境内には小僧版一休像もある。こちらは参拝者が自由に触れるとあって、誰もが頭を撫でていくので、目を細めないと直視できないほど頭部が光り輝いている。手にホウキを持っているのは、世の中の汚れを一掃して明るい世界にしたいとの願いが込められているという。

高価な法衣を着て大伽藍の奥に鎮座し、貴族のような扱いを受けていた当時の高僧たち。印可状を乱発し、金さえ積めば高僧と呼ばれる腐敗した宗教界を一休は痛烈に批判した。彼は印可状など無用と焼き捨て、禅僧でありながら酒を呑み、女性を愛し、肉を食し、頭も剃らず、戒律なんかどこ吹く風だ。一貫して権威に反発し、弱者の側に立ち、民衆と共に生き、笑い、泣いた。庶民と一緒になって貧困や飢餓にあえぎ、贅沢に溺れる権力者や、人々から偶像視され得意になり、地位を上げることしか眼中にない宗教者たちを口を極めて痛罵した。
戒律や形式に捉われない人間臭さから、庶民の間で生き仏と慕われた一休。権力に追従しない自由奔放な生き方は、後世の作家を大いに刺激し、江戸時代には『一休咄(ばなし)』というトンチ話が多数創作された。
禅の民衆化に大きく貢献した一休はまた、仏法を説くだけでなく、歌を詠み書画を描く風狂の人でもあった。

●一休の歌
その書『自戒集』『狂雲集』『仏鬼軍』は戒律を守る真面目な僧侶にとっては、読めば読むほど恐ろしいものと言われている。『続狂雲集』には「淫」「美人」といった言葉が30回以上も登場する。こんな禅僧はいない。とはいえ、美しい歌も多いので幾つか紹介。

「白露の おのが姿は 其のままに もみじにおける くれないの露」(白露はありのままの自分でいながら紅葉の上では紅の露になる)
「持戒は驢(ろば)となり 破戒は人となる」(頑固に戒律を守るのは何も考えず使役されるロバと同じ。戒律を破って初めて人間になる)
「生まれては死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も」(世の中のものは全て生まれて死んでゆく、釈迦も達磨も何もかも)
「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」(釈迦という悪戯者が世に生まれて皆を迷わしたよ、爆)
「花を見よ 色香も共に 散り果てて 心無くても 春は来にけり」(花から色も香りも消えてもちゃんと春は来るんだよ)
「秋風一夜百千年」(こうして秋風の中で貴女と過ごす一夜は、私にとって百年にも千年の歳月にも値するものです)

アニメに出てくる“しんえもんさん”は蜷川新右衛門と言って実在する一休の弟子。初めて一休を訪れたとき、彼は「仏法とは何ですか」と質問し、一休はこう答えた。
「仏法は 鍋の月代(さかやき) 石の髭 絵にかく竹のともずれの声」
(石のヒゲや絵の中の竹の葉ずれの音と同じで、そんなの見たことも聞いたこともないわい)
この人をくったような返事に新右衛門はシビレたという。
※おまけ「骨かくす皮には誰も迷いけん 美人というも皮のわざなり」(蜷川新右衛門)

●奇行伝説
一休は町に出る時、よく美しい朱塗りの鞘(さや)に入った刀を持っていた。ある時不思議に思った人が「なぜ刀を持っているのですか」と質問したら、一休が抜いた刀は偽物の木刀だった。そして「近頃の偉い坊さんどもはコイツと同じだ。派手な袈裟を着て外見はやたらと立派だが、中身はホレこの通り、何の役にもたたぬわ。飾っておくしか使い道はござらん」と言い放った。
またある年のお正月には、一休は杖の頭にドクロを載せて、ズタボロの汚い法衣でこう歌い歩いた。
「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(元旦が来る度にあの世が近づいているのをお忘れなく)。
 
●茶
侘び茶を創始し、茶室を考案した茶道の祖、堺の豪商・村田珠光(じゅこう)は一休の禅弟子。座禅の時の眠気防止に一休から茶を薦められたのが、そもそもの茶との出合いだったが、座禅を繰り返すうちに“茶禅一味”(いちみ、茶も禅も同じ)の悟りに達した。彼が始めた「侘び茶」は、従来の派手で形式中心の「大名茶」とは全く異なるもの。小さな四帖半の茶室の中では、人に身分など関係なく、そこにあるのは亭主のもてなしの心だけ。この心が仏だとした。まさに一休から学んだ「仏は心の中にある」であり、珠光は仏の教えをお経を通してではなく、日常生活(茶の湯)を通して具現化した。この思想は武野紹鴎(じょうおう)を経て千利休へと受け継がれてゆく。
 
●トンチ話
足利義満は周建(一休)を邸に招き、困らせてやろうと魚を食事に出した。周建がパクパク食べるので「僧が魚を食べていいのか」と義満が問いただすと、「喉はただの道です。八百屋でも魚屋でも何でも通します」との返事。義満は刀を突き出し「ならば、この刀も通して見よ」。周建は「道には関所がございます。この口がそうです。この怪しい奴め。通ることまかりならぬ」。そう言って平然としている周建に対し義満がさらに言ったことが「あの屏風の虎を捕らえよ」だった。一休の生涯を見ていると、「渡るべからず」の物語は、ただのトンチの披露ではなく、世間の束縛やくだらない慣習は無視して「堂々と橋の真ん中を渡って行け!」とメッセージを込めたエールのようだ。
 
※能楽には一休の詞に金春禅竹が作曲した『山姥』『江口』がある。
※一休像の“髪”は500年が経ち風化して、今は代わりに動物の毛が植えられている。
※一休の残した言葉で一番有名なのは、アントニオ猪木が引退セレモニーで朗読したこれだろう→「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せばその一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」。(一休ではなく清沢哲夫の詩「無常断章」という説もあります)


《あの人の人生を知ろう》
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※番外編〜歴史ロマン/徹底検証!卑弥呼と邪馬台国の謎(宮内庁に訴える!)



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