スーパー・マルチ・アーティスト
【 あの人の人生を知ろう〜本阿弥 光悦 】

Kouetu Honami 1558-1637.2.3 (享年79才)

京都生まれ。工芸家、書家、画家、出版者、作庭師、能面打ち、様々な顔を持つマルチ・アーティスト。優れたデザイン・センスを持ち、すべてのジャンルに名品を残した日本のダ・ビンチ。特に書の世界では近衛信尹、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」の1人に数えられ、光悦流の祖となった。

生家の本阿弥家は京の上層町衆。足利尊氏の時代から刀剣を鑑定してきた名家だ(主なパトロンは加賀の前田利家)。刀剣は鞘(さや)や鍔(つば)など刀身以外の製作工程に、木工、金工、漆工、皮細工、蒔絵、染織、螺鈿(貝細工)など、様々な工芸技術が注ぎ込まれており、光悦は幼い時から家業を通して、あらゆる工芸に対する高い見識眼を育んでいった。その後、父が分家となり家業から自由になった光悦は、身につけた工芸知識を元に、好きで勉強していた和歌や書の教養を反映した芸術作品を創造するようになった。

やがて40代に入った光悦は、才能があるのに世に出る機会に恵まれない1人の若手絵師、俵屋宗達と出会う。1602年(44歳)、光悦は厳島神社の寺宝『平家納経』の修理にあたって宗達をチームに加え、彼が存分に実力を発揮できる晴れの舞台を提供した。宗達は見事期待に応え、この後『風神雷神図屏風』など次々と傑作を生み、30年後には朝廷から一流のお墨付き(法橋)を授かるほど成長した。
※後年、宗達は若い頃を「光悦翁と出会わなければ、私の人生は無駄なものに終わっていただろう」と回想している。

 
『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』(重文)※これはほんの一部!
そして50代になった光悦は俵屋宗達との“合作”に取り組み始めた。天才と天才の共同制作。それが『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』だ。光悦は時の将軍徳川家光に「天下の重宝」と言わしめた書の達人。彼は三十六歌仙の和歌を、宗達の絵の上に書こうというのだ。この大胆な提案を引き受けた宗達は、目を見張るほど無数の鶴を、約15mにわたって筆先で飛ばせ、これを華麗に対岸に着地させた。宗達からの“挑戦状”(下絵)を受け取った光悦は、どこに文字を置けば最高度に栄えるのか、最適の文字の大きさはどうなのか、書が絵を活かし、絵もまた書を活かす、これしかないという新しい書を探求した。そして!後に「光悦流」と呼ばれる、従来の常識を打ち破った、極限まで装飾化した文字がほとばしった!光悦の筆から生まれた文字は、時に太く、時に細く、ここでは大きく、そこでは小さく、あたかも音楽を奏でる如く、弾み、休み、また流れていった。文字を超えて絵画となった新しい「書」だった。型破りな2人の天才のセッションが完璧に調和したのだ。

1615年、大坂夏の陣の後、光悦の茶の湯の師・古田織部が豊臣方に通じていたとして自害させられる。そして57歳にして光悦の人生に大きな転機が訪れた。徳川家康から京都の西北、鷹ヶ峰に約9万坪の広大な土地を与えられたのだ。師の織部に連座して都の郊外へ追い出されたとする説もあるが、いずれにせよ光悦は俗世や権力から離れて芸術に集中できる空間が手に入ったと、この事態を前向きに受け止め、新天地に芸術家を集めて理想郷とも言える芸術村を築きあげようとした。以後、亡くなるまで20年強この地で創作三昧の日々を送る。

光悦の呼びかけに応えて、多くの金工、陶工、蒔絵師、画家、そして創作活動を支える筆屋、紙屋、織物屋らが結集し、彼はこの「光悦村」の経営と指導に当たった。文字通り、日本最初のアート・ディレクターだ。有志の中には尾形光琳の祖父もいた。風流をたしなむ豪商も住み、村には56もの家屋敷が軒を連ねていたという。光悦の友人は、武士、公家、僧など広範で、宮本武蔵も吉岡一門との決闘前に光悦村に滞在している。
茶の湯も大いに賑わい、それに関連して光悦は今まで以上に熱く陶芸(茶碗づくり)に力を入れてゆく。

赤樂茶碗 通称『加賀光悦』 国宝の『不二山』 黒樂茶碗 銘『雨雲』 
紅蓮の炎! 雪を戴く富士! 雨雲から降り注ぐ!
作陶は楽焼の2代常慶、3代道入から指導を受け、ロクロを使用せず手とヘラで整えた手びねりで制作した。本職の陶芸家ではなく外野から参加している分、自由な発想で個性あふれる茶碗を生み出した。革命的だったのは、光悦が茶碗の箱に自分の署名を入れたことだ!制作者が名を刻んだのは日本陶芸史上初めてのことだった。それまでは陶芸家でさえハッキリと茶碗を芸術作品とは認識していなかったのを、光悦が名前を入れたことで、茶碗を通して作者の自我を主張できるようになったんだ。現在国産の焼き物で国宝に指定されているのは2つだけ。その1つが光悦の銘『不二山』だ。雪を冠した富士のような景色からこの名が付いた。他にも『雨雲』『雪峰』『時雨』『加賀光悦』などの傑作茶碗を後世に残した。

『船橋蒔絵(まきえ)硯(すずり)箱』(国宝)
硯箱の表面に書かれた文字は『後撰和歌集』の源等(みなもとのひとし)の歌「東路(あづまぢ)の佐野の船橋かけてのみ 思ひ渡るを知る人のなき」“東国佐野に長い舟橋(舟と舟に架かる橋)が架かっているように、あなたをずっと想い続けているのにちっとも気づいて下さらない”。ただし遊び心でわざと「東路乃 さ乃ゝ“ ”かけて」と、途中の「舟橋」の言葉が抜かれている。そのかわりに舟橋そのものを箱に描いている心憎い演出だ。下地に波を描き、そこへ並んだ小舟を彫り、その上に鉛の板を橋に見立てて配置している。丸々と盛り上がった蓋のデザインも斬新だ。古典文学と硯箱のコラボに光悦の“キマッタ!”という満足気な顔が見えそうな逸品だ。






日本のダ・ビンチ、光悦の墓 色紙帖『薄(すすき)に月図』 『山姥』
洛北の鷹ヶ峰は静かで落ち着く良い場所だ。芸術村に
あった彼の屋敷の跡が、そのまま光悦寺になっている。
美しい庭の外れに眠っていた。※千葉県市川に分骨あり
これも光悦筆・宗達画のコラボ。半月は銀色
だったのが、今は酸化して黒ずんで残念。
当初は手前のススキが浮かびあがっていた
能面も打った!



光悦は平安朝から続く伝統文化を深く愛し、それをベースに様々な創意工夫を加えて新しく甦らせた。従来の蒔絵(まきえ、漆を塗って金銀粉を蒔いたもの)についても、見た物をそっくりに描いて「ハイ、おしまい」ではなく、対象となった物をデザイン化して再構成したり、文字を絵の一部として装飾化して加えるなど、変幻自在にスタイルをかえた。その斬新な造形感覚は他に比類のない独自のもので、屏風、掛軸、うちわ、本の表紙など各種生活実用品まで多岐にわたって創作の対象とした。装飾を凝らした日用品を創ることで、光悦は美術品を観賞用ではなく、生活道具の一部として暮らしに密着させようとした。光悦村が美術史の中で日本のルネサンス(文芸復興)の地と呼ばれる由縁だ。そして特筆したいのは、そこに軽妙な遊び心があったこと。この明るさがまた人々を惹きつけた。
光悦は宗達と共に琳派の創始者となり、その精神は半世紀後に尾形光琳に受け継がれていく。光悦が日本文化に与えた影響は計り知れない。享年79歳。

※1604年(46歳)から2年をかけ光悦の書を版下にした『方丈記』『徒然草』『伊勢物語』などが出版された(嵯峨本と呼ばれる)。
※光悦は名器(瀬戸の茶入れ)の購入の際、相手が値引きしようとしたのを断って、あえて言い値で買い取ったという。芸術家として、鑑定家として、自分がその価格に見合う真に価値ある作品だと思えば、それを値切ることは作者への冒涜だと思ったのかもしれない。

【おまけ】“弘法も筆の誤り”というが光悦も間違うことがある。冒頭の『鶴下絵』をよく見ると、宗達の絵に
見とれ過ぎたのか、柿本人丸(麻呂)と書くべきところを、“柿本丸”と書いてしまった。墨なので
消すわけにもいかず、“柿本丸”の隣に申し訳なさそうに薄く“人”と付け加えられている。かわいい!


《あの人の人生を知ろう》
★文学者編
・宮沢賢治
・太宰治
・小林多喜二
・樋口一葉
・梶井基次郎
・清少納言
・近松門左衛門
・高村光太郎
・石川啄木
・西行法師
・与謝野晶子
・茨木のり子
●尾崎放哉
・種田山頭火
●松尾芭蕉
・ドストエフスキー

★学者編
●南方熊楠
●湯川秀樹

★思想家編
●チェ・ゲバラ
・坂本龍馬
●大塩平八郎
・一休
・釈迦
・聖徳太子
・鑑真和上
・西村公朝
・フェノロサ

★武将編
●明智光秀
●真田幸村
・源義経
・楠木正成
●石田三成
・織田信長




★芸術家編
●葛飾北斎
・尾形光琳
・上村松園
●黒澤明
・本阿弥光悦
・棟方志功
・世阿弥
・伊藤若冲
●グレン・グールド
●ビクトル・ハラ
●ベートーヴェン
●ゴッホ
・チャップリン

★その他編
●伊能忠敬
・平賀源内
・淀川長治
●千利休

●印は特にオススメ!

※番外編〜歴史ロマン/徹底検証!卑弥呼と邪馬台国の謎(宮内庁に訴える!)



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オヌシは 番目の旅人でござる