ほとばしる人類愛!怒れるタイタン!
【 あの人の人生を知ろう〜ベートーヴェン編 】
Ludwig van Beethoven

1770.12.16-1827.3.26 享年56歳

















都会的でハンサム でも本当はもっと素朴 第九や荘厳ミサを完成させた頃 散歩中に「田園交響曲」の構想を育む

※はじめに/ウィキペディアの項目「ピアノソナタ第32番」には右下に同曲の再生ボタンがあります。それもかなり高音質!是非その「第2楽章」の方をクリックし、聴きながら読まれることをオススメします!ベートーヴェン最後のピアノ曲。聴いてると星空の下にいる気が!
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「モーツァルトは誰でも理解できる。しかしベートーヴェンを理解するには優れた感受性が必要だ。失恋などで悲しみのどん底にいなければならない」(シューベルト)
「ベートーヴェンの曲は“これしかない”という音が後に続くから完璧なのだ」(レナード・バーンスタイン/指揮者)
「今、運命が私をつかむ。やるならやってみよ運命よ!我々は自らを支配していない。始めから決定されてあることは、そうなる他はない。さあ、そうなるがよい!そして私に出来ることは何か?運命以上のものになることだ!」(ベートーヴェン)

“楽聖”ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。僕はかつて同じ人類の中に彼がいたという一点をもって、人間が地球に誕生したことは無意味ではなかったと確信している。ベートーヴェン以前の音楽家は、皆が王室や貴族に仕え、作品といえば注文に応じて書く式典用の音楽が大半だった。だが、平民出身で進歩的なリベラル(自由主義者)のベートーヴェンは、そのような主従関係を拒否し、一部の貴族のために作曲するのではなく、全人類に向けて作品を生み出した。自身の内面から湧き上がる創作の欲求に従い音楽を書いた。単なる娯楽としての音楽ではなく、「苦悩を突き抜け歓喜へ至れ」と人間讃歌をうたいあげた。個々の音符から見えてくるものは“そうあらねばならぬか?そうあらねばならぬ!”という鋼鉄の意志。古典派の堅固な構成とロマン派の劇的な展開が化学反応を起こし、安定感と創造的破壊のせめぎ合いが生む緊張感にシビレ、法悦(エクスタシー)とも言うべき快楽を与えてくれる。限りなく深い世界愛と、権力者の理不尽な抑圧に立ち向かう人道主義に裏打ちされた楽曲は、まさに“楽聖”の名にふさわしい。

ベートーヴェンは9曲の偉大な交響曲、7曲の協奏曲(5曲がピアノ協奏曲)、32曲のピアノ・ソナタ、17曲の弦楽四重奏曲、10曲のバイオリン・ソナタ、5曲のチェロ・ソナタ、2曲のミサ曲、オペラ「フィデリオ」、その他、138曲もの作品を生み出した巨人(タイタン)。同じ人間が作ったものとは思えず、僕にとっては存在そのものが神話に近い。
その一方で、親しみを感じる人間味のあるエピソードも多数残している。ベートーヴェンは決して“天才”ではなかった。天才とはモーツァルトのように楽譜に向かう前に既に頭の中で曲が完成している者のことをいい(モーツァルトの楽譜は殆ど修正した跡がない)、ベートーヴェンのようにひとつのメロディーを書くだけで延々と書き直したりはしない。『運命』の第2楽章には8度も旋律が書き直された(貼り直された)箇所があり、しかもそれを剥がしていくと8枚目と元の旋律が同じだったりする。有名な『運命』の冒頭もさんざん試行錯誤して下書きを繰り返したものだ。散歩中に書き付けた紙切れやメモ、ノートのスケッチは7000点以上にのぼる。
不器用な彼は作曲中、他の一切の用事が出来ず、ピアノの上にはカビの生えたパンが皿に乗っており、ピアノの下では簡易トイレが大爆発していた(雇ったメイドは片っ端から逃げ出した)。そんな環境で『エリーゼのために』や『月光』など美しい珠玉の傑作が生まれるんだから面白い。大好物はパンを入れて煮込んだスープ、魚料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたもの、そしてハンガリーの極甘口トカイワイン。コーヒーは自分で豆60粒をピッタリ数えて淹れるこだわりを持っていた。
神経質なほど“引越し魔”で、ウィーン滞在の35年間で79回も転居したという記録が残っている。他にも、人道主義的理想を掲げた大傑作の第九の直後に『なくした小銭への怒り』という珍曲を作ってるのも人間っぽくて良い!

1812年、テプリツェ(現チェコ北部)でゲーテと腕を組んで散歩中(当時ベートーヴェン42歳、ゲーテ63歳)に、オーストリア皇后やルドルフ大公(皇帝レオポルト2世の子)の一行と遭遇した時のこと。ゲーテは腕を解くと、脱帽し通りの脇から最敬礼で一行を見送った。ベートーヴェンいわく「私は帽子をしっかりかぶり、外套のボタンをかけ、腕組みをしたまま、堂々と頭を上げて行列を突っ切った」「おべっか使いの臣下どもが両側に人垣を作っていたが、ルドルフ大公は私に対して帽子をとり、皇后は真っ先に挨拶した」(クルト・バーレン著『音楽家の恋文』)。逆に大公一行から挨拶されたベートーヴェン。この出来事を他人に伝えるベートーヴェンの手紙は辛辣だ「行列がゲーテの前を行進した時は、本当に可笑しくなってしまいました。彼は帽子をとり、深く頭を下げて脇に立っていました。それから私はゲーテにお説教をしてやりました。容赦せず彼の罪を全部非難しました」。21歳も年下の男から道端で激しく説教されるゲーテの気持ちはいかほどだったろう…。ベートーヴェンは後援者のリヒノフスキー侯爵に対してさえ「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎないが、私が今あるのは私自身の努力によってだ」と書き送っている。
17世紀の封建社会にあって貴族に唾を吐きかける無敵ぶりと、耳が聞こえなくなるという不運にもかかわらず、“運命が決まってるならそうなるがよい、こっちは運命の上を行くだけだ”(聴覚を失ってもさらに作曲を続ける)と、逆に運命の女神に闘争宣言を叩き付け、血祭りに上げてしまう恐るべき精神力。歩く活火山のようなパワフルさ。めちゃくちゃカッコイイ!

ベートーヴェンの作品が後世の作曲家に与えた影響は絶大で、ブラームスは40代になるまで交響曲が書けなかった。ワーグナーは「この世には既にあの9つの交響曲があるのに、このうえ交響曲を作る意味があるのか」と立ち尽くし、ベートーヴェンが開拓しなかった楽劇の道に進んだ(ベートーヴェンのオペラは1作品しかない)。また、『運命』が交響曲第5番であったことから、多くの作曲家が自身の第5番に並々ならぬ気合いを入れ、チャイコフスキー、マーラー、ブルックナー、ショスタコーヴィチ、ドヴォルザーク(「新世界より」は旧5番)などが名曲を残している。ブラームスは4番までしかない。


【その波乱の生涯】

1770年12月16日、ケルン選帝侯の城下町ボンに生まれる。身長167cmでがっしり体型。肌は浅黒。弟子のチェルニー(教則本で有名)は、ベートーヴェンの第一印象を「ロビンソン・クルーソー」「黒髪が頭の周りでモジャモジャ逆立っている」と表現している。後年は服装に無頓着だったためホームレスと誤認逮捕され、ウィーン市長が謝罪するなんてこともあった。
祖父(オランダ人)は宮廷楽長、父も宮廷楽団の歌手であったが、父が酒に溺れてしまい、祖父が家計を援助していた。母は宮廷料理人の娘。3歳で祖父が他界すると生活が困窮し、翌年から父はベートーヴェンをモーツァルトのような神童にして一稼ぎしようと苛烈なスパルタ教育を行う。10歳で小学校を退学し、12歳で作曲家ネーフェに師事。14歳、正式に宮廷オルガニストに任じられる。1787年(17歳)、音楽の都ウィーンを旅行してモーツァルト(当時31歳、ベートーヴェンとは14歳差)を訪問し、ピアノの腕前を高く評価される。この時、「今にこの若者は世の話題をさらうだろう」と予言されたとも。弟子入りが認められたが、母の結核が悪化しボンに帰郷、その死を看取る。
1789年(19歳)、妻を失った父はさらに酒量が増えアルコール依存症で失職。ベートーヴェンが宮廷楽師となって家計を支え2人の弟の世話をした。同年、フランスでは民衆が王政を打ち倒す革命が起き、青年ベートーヴェンも大いに刺激を受けた。この頃、ベートーヴェンは教養の不足を感じボン大学聴講生となっていた。大学で文豪シラーの詩「歓喜に寄す」と出会って胸を打たれ、約30年後に第九の歌詞にしている。
1790年に20歳で書いた「皇帝ヨーゼフ2世の悼むカンタータ」は、師ネーフェやベートーヴェンの後援者ワルトシュタイン伯らの心を動かし、“この才気ある若者を是非ウィーンに送ってモーツァルトの弟子にしよう”という運動が起きる。だが翌年にモーツァルトが35歳で早逝してしまい、1792年(22歳)、後援者たちはウィーンで活躍していた高名な作曲家ハイドン(当時60歳)にベートーヴェンを弟子入りさせた(弟子入り資金は後援者が負担)。同年、酒乱の父が他界。ハイドンはあまりに多忙でろくに指導できず、ベートーヴェンは不満を抱いて宮廷楽長サリエリなど複数の作曲家を師に持った。
※ある時ハイドンから「ハイドンの教え子」と楽譜に書くよう命じられ、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と拒否したという。

1795年(25歳)、ベートーヴェンは慈善コンサートで自作ピアノ協奏曲を演奏し、これが大きな話題を呼んだ。さらに即興演奏の名手として人々を魅了。青年ベートーヴェンは作曲家としてより、天才ピアニストとして音楽好きのウィーン貴族たちから喝采を浴びた。一躍社交界の花形となり、楽譜出版社からの収入も増えていき、ボンに残していた2人の弟を呼び寄せた。当時、音楽家の地位は低く、あのモーツァルトでさえ貴族からは使用人扱いで、貧困の中で死亡し亡骸は共同墓地に埋蔵された。だが、モーツァルトの死から10年が経つと楽譜の出版市場が拡大し、ベートーヴェンはフリーの音楽家として楽に暮らしていくことが可能になった。

名声を得て得意絶頂のベートーヴェンだったが、人生が突如暗転する。1798年(28歳)、聴覚障害の最初の兆候が現れると次第に症状が悪化していった。音楽家にとって聴覚を失うことは致命的。他人にバレないようにするため、交際を避け家に引きこもるようになった。同年、ピアノソナタ第8番『悲愴』を作曲。1800年(30歳)、明るく活気に満ちた交響曲第1番を書き上げるが、まだベートーヴェンの個性は薄くモーツァルトやハイドンに近い。1801年(31歳)、弟子でイタリアの伯爵令嬢ジュリエッタ・グイチャルディ(16歳)に捧げたピアノソナタ第14番『月光』を作曲。ベートーヴェンは彼女に恋し、身分の差に苦しむ。
転地療養のため夏はウィーン郊外の静かなハイリゲンシュタットで過ごしていたが、1802年(32歳)、不安と絶望が頂点に達し「ハイリゲンシュタットの遺書」を2人の弟に執筆した。自殺を考えたが、芸術に引き留められたという切実な文章だ。

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『ハイリゲンシュタットの遺書/わが弟たちカール(とヨハンへ)』※原文は長文ゆえ今井顕氏の訳とNHK『その時歴史が動いた』を参考に抜粋要約。

私が意地悪く、強情で、人嫌いのように見えたとしても、人はその本当の原因を知らぬのだ。私の心と魂は、子供の頃から優しさと、大きな夢をなしとげる意欲で満たされて生きてきた。
だが6年前から不治の病に冒されたことに思いを馳せてみて欲しい。回復するのでは、という希望は毎年打ち砕かれ、この病はついに慢性のものとなってしまった。
情熱に満ち活発な性格で、社交好きなこの私が、もはや孤立し、孤独に生きなければならないのだ。
「もっと大きな声で叫んで下さい、私は耳が聞こえないのです」、などと人々にはとても言えなかった。
他の人に比べてずっと優れていなくてはならぬはずの感覚が衰えているなどと人に知らせられようか…おお、私にはできない。だから、私が引きこもる姿を見ても許して欲しい。
こうして自分が世捨て人のように誤解される不幸は私を二重に苦しめる。

交友による気晴らし、洗練された会話、意見の交換など、私にはもう許されないのだ。どうしても避けられない時にだけ人中には出るが、私はまるで島流しにされたかのように生活しなければならない。
人の輪に近づくとどうしようもない恐れ、自分の状態を悟られてしまうのではないか、という心配が私をさいなむ。
医者の言葉に従って、この半年ほどは田舎で暮らしてみた。そばに佇む人には遠くの笛の音が聞こえるのに、私には何も聞こえない。人には羊飼いの歌声が聞こえているのに、私にはやはり何も聞こえないとは、何と言う屈辱だろう。こんな出来事に絶望し、あと一歩で自ら命を絶つところだった。

自ら命を絶たんとした私を引き止めたものは、ただひとつ“芸術”であった。自分が使命を自覚している仕事(作曲)をやり遂げないで、この世を捨てるのは卑怯に思われた。その為、このみじめで不安定な肉体を引きずって生きていく。
私が自分の案内者として選ぶべきは“忍耐”だと人は言う。だからそうする。願わくば、不幸に耐えようとする決意が長く持ちこたえてくれればよい。もしも病状が良くならなくても私の覚悟はできている。自分を不幸だと思っている人間は、自分と同じ1人の不幸な者が、自然のあらゆる障害にもかかわらず、価値ある芸術家、価値ある人間の列に加えられんがため、全力を尽くしたことを知って、そこに慰めを見出すことができるだろう。

L. V. Beethoven 1802年10月6日
ハイリゲンシュタットにて
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“私を生につなぎ止めているのは芸術だ。内なるものを表現し尽くすまでは、死ねない”。精神の危機を克服した瞬間だ。この言葉の通り、ベートーヴェンの創作欲は遺書の脱稿後から大爆発する。パリの有名ピアノ製作者から最新型のピアノ(グランド・ピアノ)を贈られ、その幅広い音域やペダル装置が芸術家魂をさらに奮い立たせた。ベートーヴェンはこのピアノを手に入れると、さっそく特性を生かしたスケール感のあるソナタ=後援者ワルトシュタイン伯に捧げたピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」(1803)を書き上げている。そして、1804年に英雄交響曲を完成させたのを皮切りに、10年間に6つの交響曲の他、ピアノやヴァイオリンの優れた協奏曲を次々と作曲した。この10年間は後世の音楽愛好家から「英雄の時代」と呼ばれ、作家ロマン・ロランは特に1806〜08年を「傑作の森」と呼んだ。

【“英雄の時代”10年】

●1804年(34歳)
2年をかけて交響曲第3番『英雄(エロイカ)』を完成(初演は翌年)。平民出身のベートーヴェンはフランス革命を熱烈に支持しており、平民のナポレオンが欧州の王政諸国を次々と打ち負かしていることを喜んだ。そしてナポレオンのため英雄交響曲を作曲し、楽譜の表紙には“ボナパルトへ捧ぐ”と献辞を記した。ところが、フランスに送る段になって「ナポレオン、自ら皇帝就任」の報が届き、ベートーヴェンは「畜生!ヤツもただ権力にしがみつく俗物に過ぎなかった!」と怒り狂った。そして献辞を穴が開くまで掻き消し、“かつて英雄だった男の思い出に”と書き替えた(ボロボロになった表紙は今も残っており、ブチ切れぶりがよく分かる)。
だが、ベートーヴェンは英雄交響曲の内容を書き直すことはなかった。この曲はナポレオンという1人の英雄を表現したものではなく、全ての人間が持つ英雄的側面や、ベートーヴェンがハイリゲンシュタットで経験した芸術家としての覚悟を音楽に昇華した作品だからだ。従来の一般的な交響曲が30分程度であるのに対し、「英雄」は50分を超える前人未踏の大曲であり、壮大なコーダ(結尾)が聴衆を圧倒した。人々は音楽が持つ強烈な生命力に驚愕した。現実の苦悩を突き抜けて創造の歓喜へと到達した芸術家の魂の記録であり、“これからも生き続けていく”という決意表明だ。魂の新生、ここにあり。英雄交響曲はモーツァルトやハイドンといった古典派から、シューベルトやメンデルスゾーン、ドヴォルザークらロマン派への橋渡しとなった。
●1805年(35歳)
唯一完成したオペラ『フィデリオ』を作曲。題材はフランス革命で実際に起きた事件からとられた。政治犯を救出する物語であり、ベートーヴェンのリベラルな政治的立場が窺える。大変な難産の末に生まれた作品で、ベートーヴェンは自分にオペラは向いておらず、本領は交響曲にあると痛感する。だが、作品の評価は徐々にあがり、11年後(1814年)の上演では当時17歳のシューベルトが教科書を売り払ってチケットを購入したという。
●1806年(36歳)
ベートーヴェンの内省的で情感のこもった作品群はさらに進化。鬱屈した情念が吹き荒れるピアノソナタ第23番『熱情』や、後にメンデルスゾーン、ブラームスと合わせて3大ヴァイオリン協奏曲と呼ばれるヴァイオリン協奏曲ニ長調が書かれる。弦楽四重奏曲にもラズモフスキー・シリーズの名曲を残す。
●1807年(37歳)
交響曲第4番、ピアノ協奏曲第4番、ミサ曲ハ長調。
●1808年(38歳)
1808年12月22日、交響曲第5番『運命』と第6番『田園』が同日にウィーンで初演された。『英雄』や『運命』で描かれた“苦悩を突き抜け歓喜へ至る”という姿勢がベートーヴェン作品の基軸となる。ベートーヴェンは『運命』で音楽史上初めて交響曲にトロンボーンやピッコロを導入し、後の作曲家に受け継がれていく。
●1809年(39歳)
ナポレオン軍のウィーン再占領の混乱下で完成したピアノ協奏曲第5番『皇帝』は、その雄大で輝ける響きから感極まった聴衆が「皇帝(フランツ1世)万歳」と叫んだという。※この「皇帝」はナポレオンのことではないし、フランツ1世も関係ない。後世の音楽ファンが「ピアノ協奏曲の皇帝的存在」と讃えたもの。
●1810年(40歳)
ピアノ小品『エリーゼのために』。ベートーヴェンが愛したテレーゼ・マルファッティに捧げられた。これも悲恋に終わった。
●1811年(41歳)
ピアノ三重奏曲第7番『大公』。優雅で気品のある当曲は、ベートーヴェンを最後まで金銭的に援助し続けたパトロン兼弟子のルドルフ大公に捧げられた。
●1812年(42歳)
この年に書かれ翌年初演された交響曲第7番はベートーヴェンの交響曲の中で最もリズミカルであり、後年ワーグナーは“舞踏の聖化”と讃えた。
●1813年(43歳)
交響曲『ウェリントンの勝利』を発表すると、フランス民謡をイギリス国歌が覆す(仏敗北)という分かりやすさでウィーン市民から絶大な人気を集めた。現在は殆ど演奏されないが、ベートーヴェンにとって生前最大のヒットとなった。
●1814年(44歳)
交響曲第8番が完成。演奏時間が25分前後と短く、モーツァルトやハイドンの時代の古典スタイル。だが旋律はロマン派のそれであり小品ながら意欲作。52小節もフォルティッシモが続いたり、当時では異例のfff(フォルテフォルティッシモ/トリプル・フォルテ)やpppも登場する。

この後、難聴が急速に進み、人前での演奏会はこの年にピアノ三重奏曲『大公』初演でピアノを弾いた場が最後になった(耳が聞こえない為ピアノを大きく弾きすぎた)。第九初演の1824年まで10年間ほど大スランプに陥り、交響曲を書くペンがピタリと止まる。この間に特筆すべき作品は後述する数曲しかない。40代半ばから他界するまでの10年間は聴力を殆ど失っていたことも関係するだろう。次第に奇行が増え、神経性である持病の腹痛と下痢にも苦しめられた。
1815年(45歳)、実弟が死去し、9歳の遺児カールの養育権を得るべくその母と5年後まで裁判で争うことになる。
1818年、絶不調のベートーヴェンのもとに、ロンドンのピアノ会社から73鍵6オクターヴの大型ピアノが贈られた。ベートーヴェンはこのピアノの表現能力を極限まで引き出すことを決意し、「50年後の人間なら弾ける」と語ってピアノソナタ第29番『ハンマークラヴィーア』(約45分の大曲)を完成させた。
1820年(50歳)、有力パトロンのルドルフ大公の仲介もあって、ようやく甥っ子の養育権を勝ち取り後見人となったが、14歳という思春期になっていたカールはベートーヴェンと激しく衝突した。翌年、ナポレオン死去の報が届くとベートーヴェンは“英雄”第2楽章を引き合いに「私はとうの昔にやつの葬送曲を書いている」と皮肉った。
この1820年のベートーヴェンの家事日記が人間味があって面白い→「4月17日、コックを雇う。5月16日(わずか1ヶ月後)コックを首にする。5月30日、家政婦を雇う。7月1日、新しいコックを雇う。7月28日、コック逃げる。8月28日、家政婦辞める。9月9日、お手伝いを雇う。10月22日、お手伝い辞める。12月12日、コックを雇う。12月18日(たった6日後)コック辞める」。こういう具合に何年間も続く。だが、ベートーヴェンは自分にも厳しかった。ある時演奏会が絶賛されたのを読んでこう語った「私のように常に自分の限界を意識している者が、こんなに絶賛されるととても不思議な感じです」。
1822年(52歳)、最後のピアノソナタ3曲「第30番」「第31番」「第32番」と、宗教曲『ミサ・ソレムニス』を作曲。「第32番」の第2楽章は宇宙に静かに瞬く星々の如き崇高さ!


【晩年】

1824年(54歳)、5月7日にウィーンで交響曲第9番の初演が行われる。第8番から10年が経っていた。この頃、ウィーンではロッシーニの喜劇など軽いタッチの音楽が流行しており、ベートーヴェンは自分の重厚な作風は受け入れられないと感じ、第九初演をベルリンで行おうとした。この動きを知ったウィーンの文化人は「どうかウィーンで初演を!」と連名の嘆願書を作成しベートーヴェンを感動させた。嘆願書には「『ウェリントンの勝利』の栄光を今一度」という文言が添えられていた。
この第9番の初演には細心の注意が必要だった。当時のウィーンではフランス革命の波及を恐れた皇帝が、王政や身分制度に反対する者を次々と秘密警察に逮捕させ大弾圧を行なっていた。平民出身のベートーヴェンもまた平等な社会を求め、危険思想の持ち主ということから当局にマークされていた。ベートーヴェンは知人への手紙で“自分の思想を大声で話せない。そんなことをすれば、たちまち警察に拘留されてしまう”と憂いた。また、筆談帳にレストランでの友人との次の会話が残っている「ご注意下さい、変装した警官が様子をうかがっています」。
ベートーヴェンは言論の自由のない社会への抵抗と、自由・平等・博愛の精神を込め、反体制詩人シラーの詩にメロディーを付けた。クライマックスで「 引き裂かれた世界を汝(市民)の力が再び結
び合わせ、その優しい翼を休めるところ全ての人々は兄弟となる」と高らかに歌い上げ、貴族や平民など人間を分けず、身分制度を超えた兄弟愛で人類が結ばれることをうたった。当局の検閲を怖れたベートーヴェンの秘書は、歌詞の内容を伏せて演奏会の許可をとった。権力者から危険人物とされた作曲家のコンサートにもかかわらず、初演には大勢のウィーン市民が足を運んだ。
ステージではベートーヴェン自身が指揮棒を握ったが、聴覚の問題があるためもう1人のウムラウフという指揮者がベートーヴェンの後ろに立ち、演奏者はそちらに合わせた。演奏が終わって聴衆から大喝采が巻き起こるが、ベートーヴェンはそれに気づかず、失敗したと感じて振り向かなかった。見かねてアルト歌手のウンガーが歩み寄り、巨匠の手をとって振り向かせベートーヴェンは魂が聴衆に届いたことを知った。演奏後に何度もアンコールの喝采が続いたが、聴衆が5回目の喝采を行った時、劇場に潜んでいた当局の人間が人々を制止した。当時、皇帝への喝采は3回と決められており、それ以上は不敬罪となるからだ。

第9番完成後、ベートーヴェンの楽曲は極めて個人的な性格を強め、最晩年となる1824年から1826年に書かれた孤高の傑作、5曲の弦楽四重奏曲は、現世に対する達観の境地へ分け入った。この当時、作曲家は依頼を受けて曲作りをしたが、ベートーヴェンは弦楽四重奏曲の最後の2曲を自発的に書き上げた。死の前年に書かれた弦楽四重奏曲第14番について、これを聴いたシューベルトは「この後で我々に何が書けるというのだ?」と述べた。

1826年(56歳)、ベートーヴェンは養育していた甥カールと将来の進路を巡って激しく対立(カールは軍人志望、ベートーヴェンは芸術家にしたかった)。カールは伯父からの独占的な愛情に息が詰まり、ピストル自殺をはかった。弾丸は頭部にめり込んだが、奇跡的に一命を取り留める。この事件にベートーヴェンはショックを受け、すっかり気弱になっていく。同年12月、肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなど病状が悪化。何度も腹水を取り除く手術が行われたが快方に向かわなかった。10番目の交響曲に着手するも未完成のまま、翌1827年3月26日、肝硬変により56年の生涯を終えた。最期の言葉はラテン語で「諸君喝采したまえ、喜劇は終わった」。

1827年3月29日、集会の自由が制限されるなか、ウィーンのヴェーリング地区墓地(1769年開設)で執り行われたベートーヴェンの葬儀に2万人もの市民(当時の人口は約25万人)が参列し、臨終の家から教会に至る道を埋めた。宮廷からは一輪の花も、一人の弔問もなかった。
墓地に着き、オーストリアの偉大な詩人グリルパルツァーの弔辞を俳優が墓前で読み上げた。「彼は芸術家であった。しかし同時に一人の人間であった。あらゆる意味で最も高貴な人間であった。世間を避けたので彼は敵意に満ちていると言われた。感情を避けたので無情の人と言われた。愛情が深かっただけに、世間に対抗する武器を持たなかった。だからこそ世間を逃れたのである。己の全てを同胞に捧げたが、代わりに得るものは何もなかった。だからこそ身を引いたのだ。己の分身を見つけることが出来ず一人のままでいた。しかし死ぬまで父親のような心を持ち続けた。彼はこうして生き、そして死んだ。そして永遠に存在し続ける。ここ(墓地)までついてきた者たちよ、悲しみを抑えなさい。我々は彼を亡くしたのでなく得たのである。生身の人間は永遠の命を得ることはできない。死んで初めて永遠の世界の門を通ることが出来るのだ。お前たちが嘆き悲しんでいる人は、今、最も偉大な人々の仲間入りをし、もう永遠に傷つけられることがないのである。心痛のまま、しかし落ち着きをもって家路につきなさい。今後、彼の作品の嵐のような力強さに圧倒された時、またそれらに対する意気込みが次の世代に受け継がれた時、今日のこの日を思い出しなさい。彼が埋められた時、我々は一緒にいたのだ。彼が亡くなった時、我々は泣いたのだ」。

翌年、シューベルトが31歳の若さで病没し、本人の遺言に従ってベートーヴェンのすぐ側(3つ隣り)に墓が造られた。その後、人口増加による都市計画が立案されヴェーリング地区墓地の閉鎖が決定。没後51年の1888年6月22日、ベートーヴェンの遺骸は掘り起こされ、新たに造成されたウィーン中央墓地の名誉墓地(楽聖特別区)に改葬された。ウィーン市の南端に位置する中央墓地は300万人以上が眠るヨーロッパ屈指の巨大墓地。その中の名誉墓地に埋葬されることはウィーンの芸術家にとって最高の栄誉とされている。

遺書は死の3日前に書かれていた。「私は今、喜んで死を受け入れます。運命は残酷でしたが、終わりのない苦しみからやっと解放されるからです。いつでも用意はきています。私は勇気をもって死を迎えます。さようなら。私が死んでも私のことを忘れないで下さい。覚えてもらうだけのことはしたと思います。どうしたら人々を幸福にできるか、ずっと考えていたのですから。さようなら」。

●墓巡礼
墓参のために初めてウィーン中央墓地を訪れたのは1989年。当時22歳の僕は休学してアルバイトで貯めた資金で、欧州一周の墓巡礼に出発した。中央墓地はシュテファン寺院や王宮のあるウイーン中心部から南東約7キロに位置する。路面電車71番に30分ほど揺られ、目の前に巨大な墓地が見えてきた。“もうすぐルートヴィヒに会える!”、そう胸を高鳴らせて降車しかけると、他の乗客が「ノー、ノー」「ネクスト」と言っている。中央墓地は面積250ヘクタール(甲子園球場約65個分)、33万の墓所を擁し、年間約2千万人が訪れるヨーロッパ最大級の墓地。1871年に市内5箇所にあった墓地をひとつにまとめて開設された。その途方もない広大さゆえ、路面電車の停留所が端から端まで4つもあった。
ベートーヴェンら作曲家が眠る“楽聖特別区”は、第2門から目指すのが最短。ゲートを超えて案内地図を確認し、プラタナスの並木道をダッシュ!200mほど進むと左手に“聖地”が。「ここだ…第32区A!」。クラシック・ファンが卒倒しそうな光景がそこにあった。
区域の中心には、ベートーヴェン、モーツアルト(墓石のみ記念碑として移転)、シューベルト、ヨハン・シュトラウス2世、ブラームスの墓が順番に並んでいる。ちょうど団体さんが帰っていくところで、思いがけなくベートーヴェンと1対1になった。生み出した作品世界があまりに巨大すぎて、同じ人間というより、どこか架空の英雄のような非現実感があったベートーヴェン。だが目の前に彼は眠っている。「本当だった!嘘じゃなかった!ベートーヴェンは確かにいた!」。周囲に誰もいないため、思わず身を投げ出し「ダンケ・シェーン!(ありがとう!)」と落涙。側面から墓石に手を触れた瞬間、全身に電気が走るアートサンダーに打たれた。9つのシンフォニー、ピアノ・ソナタ第32番、皇帝、悲愴ソナタ、大フーガ等々、人生の糧となる様々な楽曲のお礼を言った。5分後、他の墓参者が来たので後方に下がり、離れた場所から1時間ほど語りかけた。同じ空間に身を置く至福!

ベートーヴェンの墓はメトロノーム型で、真ん中に黄金の竪琴のレリーフがある。メトロノームはベートーヴェンの晩年に発明され、特許申請者メルツェル本人が持参し使い方を教えてくれた。難聴のベートーヴェンでも振り子を見れば目で速度が分かるため、手に入れてとても喜んだという。ベートーヴェンは、作曲の速度指示にメトロノームを利用した最初の音楽家となった。
なみに、初巡礼で撮った写真は悲しいことに一枚も残っていない。墓参の後、南仏アルルで荷物を盗まれ、貴重なフィルムも消えてしまった。帰国後、仕事に追われ消耗する日々の中で、再びベートーヴェンに会いたい気持ちがつのり、5年後の1994年に再訪。さらに2002年、05年と貯金しては巡礼を重ね、やがてベートーヴェンの誕生日に結婚。初墓参から四半世紀、2015年に長年の夢だった妻と子を初めて墓前で紹介し、「こうして今があるのはあなたの音楽のお陰です」と心からの謝意。人生の壁にぶつかったときは、ベートーヴェンの音楽と言葉、人類愛が勇気をくれた。これからも命が続く限り、墓参を続けていきたい。

●ベートーヴェン語録
「行為の動機が重要であって結果は関係ない。精神生活が旺盛なら結果を考慮しないし、貧困と不幸は単に事柄の結果であるにすぎない」
「愛しいあなたに誇れる作品を書こう」
「田舎ではどの樹木も“聖なるかな、聖なるかな”と私に話し掛けているようだ。森の中の恍惚!」
「音楽とは啓示であり新しい美酒である」

●指揮者バーンスタイン、ベートーヴェンLOVEを吠える

・「ベートーヴェンとはどういう人物だったのか。一方では巨匠として愛され、求められ、賞賛されていた。しかし他方では偏屈な怪物の姿が浮かび上がってくる。友達もなく、寄ってくるのはパトロンと腰巾着ばかり。エネルギッシュでいつも好きな田舎を歩いていたかと思うと、慢性の鬱病、気管支炎、肝臓障害を患っていた。女性が大好きだったのに恋人はいなかった。甥カールを愛するあまり、あやうく死に追いやるところだった。この上ない崇高な心を持っていたかと思うと、出版社には厳しく、時には卑劣な条件を出した。そしてこれこそが極め付けの矛盾だが、この発育不全で病的で偏屈で苦悩に満ちた男の中に天使の声が宿っていたのだ」

・「ベートーヴェンはどんな時代の作曲家よりも優れた能力がある。主題の後にくる一番ふさわしい音を見つける能力だ。つまり次に来るべき音が何かが分かっていなければならない。その音以外考えられないということを納得させる力だ。納得できるまで書いては消し、書いては消しと、20回も書き直したパッセージもある。こうした苦闘を一生続けた。どの楽章も、どの交響曲も、どの協奏曲も、どのソナタも、常に完璧さを追及し、これ以外にはないというまで書き直していった。これはこの偉大な芸術家の神秘性を解く唯一のカギだ。ベートーヴェンは必然的な音の追究に一生を捧げた。どうしてこんなことをしたのか彼自身も分からなかっただろう。一風変わった生き方かも知れない。しかしその結果を考えるとそうでもない気がする。ベートーヴェンは我々に信じられるものを残してくれた。決して我々の期待を裏切らないものがあるとすれば、それはベートーヴェンの音楽だ」

・「ベートーヴェンの作品は、メロディ、和声、対位法、色彩感、オーケストレーション、どれをとっても欠陥だらけだ。それぞれの要素は何の変哲もない。彼は一生かけても満足なフーガを書けなかった。オーケストレーションは最悪で、トランペットが目立ってしまって、他の楽器がかき消されている。では何に惹かれるのか?それは型だ。ベートーヴェンの場合は型こそすべてだ。型は結局、次にどの音を持って来るかで決まる。ベートーヴェンの場合、その選択が完璧なのだ。まるで神と連絡を取りながら音を決めていったようだ。モーツァルトでさえこうはいかなかった。次に何が来るかは全く予想出来ないが、これしかないという音を選んでいる。どれもそれ以外考えられない音で、それゆえに完璧な型を作っている。どうしてこのようなことが出来たのか誰にも分からない。ベートーヴェンは一音一音搾り出すようにして書いている。部屋に閉じこもったまま気がおかしくなるくらい集中した。彼は心の中の氷山の一角しか表現できないと悩んだ。部屋は散らかし放題、食事は3日間手つかず、ピアノの下には一杯になったままの便器。しょっちゅう引っ越しをし、落ち着ける場所を探した。楽譜の下書きを見れば彼がどんなに苦しんだか分かるだろう。こうしてやっと完成した曲は神様が口述したかのようだ。これこそがベートーヴェンの素晴らしさなのだ。しかしこの必然性の追究の為、彼の人生はめちゃくちゃだった」

●友よ、第九のサビを歌おうではないか!
Freude, schoner Gotterfunken,
フロイデ シェーネル ゲッテルフンケン 喜びよ 神々の散らす美しい火花よ
Tochter aus Elysium,
トホテル アゥス エリージウム 楽園からやって来た娘よ
Wir betreten feuertrunken,
ヴィル ベトレテン フォイエルトルンケン わたしたちは 炎の情熱に酔いしれて
Himmlische, dein Heiligtum!
ヒムリッシェ ダイ ハイリトム 天高きあなたの聖殿に踏み入ろう
Deine Zauber binden wieder,
ダイネ ツァーベル ビンデン ヴィーデル 世の時流がむごく引き裂いた者を
was die Mode streng geteilt
バス ディー モーデ シュトレン ゲタイル あなたの神秘なる力は再び結びつける
alle Menshen werden Bruder,
アーレ メンシェン ベルデン ブリューデル その柔らかな翼に抱かれ
wo dein sanfter Flugel weilt.
ボー ダイ ザンフテル フリューゲル ヴァイト 人々はみな兄弟となる
※他の歌詞も「我が抱擁を受けよ全人類よ!」「我がこの口づけを全世界に!」「太陽が天の軌道を進むように、君たちは自分の信じた道を進め。勝利の道を歩む英雄のように!」など超ポジティブ。

●なぜ年末になると第九を演奏するのか?理由は2説ある。
その1…1943年、戦況が悪化する中、学生にも徴兵令が下り始めた。徴兵された東京芸大音楽部の学生たちは、入隊間近の12月初旬に繰上げ卒業式音楽会で『第九』の第4楽章を演奏した。出征した多くの学生が死に、終戦後、生還した者たちで「別れ際に演奏した『第九』をもう一度演奏しよう」ということになった。つまり、“暮れの第九”の始まりは、戦場で散った若き音大生の魂を慰める鎮魂歌(レクイエム)だったんだ。
その2…N響は1927年から第九を演奏レパートリーに持っていたが、年末の演奏が定番化したのは終戦直後の混乱期から。食糧不足など厳しい生活を送っていた楽員たちは、年越しの費用を稼ぐために12月は『第九』を演奏する機会が増えた。なぜなら『第九』は曲そのものに人気があるうえ、合唱団員が多く出演するためその家族や友人がチケットを買ってくれ、確実な収入が保障されているからだ。同様の理由で“年末の第九”が、プロ、アマを問わず定着していった。現在国内の12月の第九演奏会は150回を超えている。※近年の海外の「年末第九」の習慣は日本から(ドイツは例外)。

※メトロノームは1812年(ベートーヴェン42歳)にオランダ人ウィンケルが発明し、4年後(1816年)にドイツのJ.N.メルツェルが上下に振り子をつけて改良、ギリシャ語のメトロン(拍、韻律)とノモス(規準)を合わせた造語メトロノームの名で特許をとった。ベートーヴェンより2歳年下という同世代のメルツェル。彼はベートーヴェンに会ってメトロノームを披露し歓迎された。
※ファン・ゴッホ(van Gogh)のように、ベートーヴェンも姓に“van”がついているのは祖父がネーデルラント出身だから。祖父の代にボンに移住した。貴族を表す「von(フォン)」とは異なる。
※死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年(42歳)の手紙が3通発見された。ベートーヴェンは生涯独身だったが、いつも身分違いの貴族女性や既婚女性という、手が届かない相手に恋をしていた。「不滅の恋人」は長年謎だったが、フランクフルトの商人の妻で4児の母アントニエ・ブレンターノ説が最有力。手紙には恋の煩悶が綴られており、結局はベートーヴェンが自ら身を退いている。
※臨終の家はショッテン門の北側、奉納教会の斜め裏手。入口にベートーヴェンの顔のレリーフがはめ込まれている。葬儀が行われたのはアルザー通りに面する聖三位一体教会。ここにもベートーヴェンのブロンズレリーフがある。
※秘書のシントラーは第九公演の申請手続きを行うなど、身寄りのないベートーヴェンの世話を一身に引き受け助けたが、著作伝記『ベートーヴェンの生涯』の捏造部分と内容を合わせるため、ベートーヴェンが晩年約10年間に書き込んだ数百冊にのぼる貴重な筆談ノートを、半数以上も廃棄処分にして“証拠隠滅”を計る暴挙を行っている。
※CDの収録時間が74分という中途半端な時間になった理由は第九にある。ソニーがCDを開発中に、1枚に録音できる長さを盛田会長が友人の指揮者カラヤンに相談した際、カラヤンは第九が全曲入る長さ=74分を求めてそう決定した。カラヤンは「これで第九をA面、B面と中断されずに聴ける」と大いに喜んだという。
※交響曲第5番を「運命」と呼んでいるのは日本だけ(汗)。
※ベートーヴェンは作曲の際、ほうきの柄の片側を歯で噛み、もう片方をピアノに入れて振動で音を聞くこともあったという。
※「(最晩年の“大フーガ”は)絶対的に現代的な楽曲。永久に現代的な楽曲」(ストラヴィンスキー)
※映画『アマデウス』で有名になったアントニオ・サリエリは、ベートーヴェンにイタリア語歌曲の作曲法を教えた。ベートーヴェンはサリエリを慕い、イタリア語歌曲を作曲する場合は必ず助言を求めていたという。サリエリがモーツァルトを毒殺したという噂がウィーンに流れた時は、筆談帳で胸を痛めている。
※日本人でも日本の業者を通してウィーン中央墓地に眠ることが出来る(300万円〜1000万)。

聴覚を失っていく絶望感からハイリゲンシュタットで自殺さえ考えた1802年の秋。32歳のあの日、彼が芸術の存在によって命を断たなかったおかげで、後に『運命』や『第九』が生まれ、今、僕らが聴くことができる。生きていればこそだ。ダンケ・シェーン(ありがとう)、ベートーヴェン!

  ベートーヴェンの遺髪(許可を得て撮影)

※最初の埋葬場所はウィーンのWahringer Friedhof(Defunct)。
















彼が住んでいたアパート。
部屋は5階の窓が開いている所
ドアのノブに触って
「間接握手」だッ!
ベートーヴェンのピアノと胸像。窓の向こうは大学だ(撮影許可済)


路線38Aで彼が遺書を書いた
ハイリゲンシュタットへ
通称エロイカ・ハウス

窓から美しい庭が見える

デスマスク…ぐっすん


別のベートーヴェン・ハウス。彼は引越し魔
(70回以上!)だったのでウィーン中に家がある
エロイカの楽譜。ナポレオンの名前
がグチャグチャに消されているッ!










2002 夕陽の中にたたずむベートーヴェン。
メトロノームの形をしている
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2005 小雨の中の彼




《あの人の人生を知ろう》
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※番外編〜歴史ロマン/徹底検証!卑弥呼と邪馬台国の謎(宮内庁に訴える!)




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