【 あの人の人生を知ろう〜石川啄木 】

1886.2.20-1912.4.13 享年26歳





啄木と金田一京助 16歳の啄木 JR盛岡駅の文字“もりおか”は啄木のものだ








「石川啄木生誕之地」 啄木はこの常光寺(岩手)で生まれた 啄木が生まれた部屋(2012) 部屋に境内の生誕碑と同じ掛け軸が

1歳から18歳まで過ごした宝徳寺(岩手)

復元された「啄木の間」。“啄木”のペンネームは
境内の樹木を叩く啄木鳥(きつつき)からきている
夕暮れの岩手山。啄木もこの景色を見た








故郷渋民(しぶたみ)の石川啄木記念館 啄木が小学校代用教員時代に家族と間借りしていた斉藤家 盛岡市内の「啄木新婚の家」(見学無料)


【北海道・函館】

“啄木一族の墓”は立待岬に 岬に登る道の海側に啄木は眠っている


1998 初巡礼。はじめまして、啄木さん!
(住吉町共同墓地)
2009 11年ぶりに巡礼。墓域全体が高くなっていた!
階段の数が倍になり、石垣も底上げされていた!
2014 5年ぶり、3度目の巡礼。早朝に訪れた




2009 小雨巡礼

2014 可愛らしい小花が献花されていた
前面に「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」
墓石の背後には啄木の手紙の一節が刻まれ
ている「おれは死ぬ時は函館へ行って死ぬ」

啄木の墓から函館の街並みが一望できる この日の津軽海峡からの風は穏やかだった 素晴らしい景観の地に眠っている

すぐ近くに義弟の歌人宮崎郁雨の墓。
啄木の妻の妹ふき子と結婚した
墓所の前の坂道を登っていくと立待岬に。
水平線が丸みを帯び、地球が円とわかる
津軽海峡。対岸は青森の陸奥


本名、一(はじめ)。岩手県生まれ。1歳の時に父が渋民村・宝徳寺の住職となり同村が啄木の「ふるさと」になる。小学校を首席で卒業し、地元では神童と呼ばれる。盛岡の中学では4歳年上の金田一京助(後の言語学者)から文学の面白さを教えられ、文芸雑誌『明星』を熟読して与謝野晶子に影響を受け、また初恋にも夢中になった。高まる文学熱と情熱的な恋!反面、学業がおろそかになり、カンニングが2回連続でバレ、落第が決定となったため16歳の啄木は自主退学して上京する。『明星』に投稿した短歌が掲載されたこともあって文学で身を立てるつもりだったが、与謝野鉄幹・晶子夫妻の知遇を得たものの仕事は何も見つからず、家賃を滞納して下宿を追い出され半年も経たずに帰郷する。17歳の時に初めて“啄木”の号を名乗り『明星』に長詩を発表、注目される。

●19歳(1905年)、処女詩集『あこがれ』を刊行!一部で天才詩人と評価される。だが、父が金銭トラブルで住職を罷免され、また中学時代からの彼女と結婚したことで、両親と妻を養わねばならず文学どころではなくなる。

●20歳、小学校の代用教員として働き始める(年末に長女生れる)。

●21歳、住職再任運動に挫折した父が家出。啄木は心機一転を図って北海道にわたり、函館商工会議所の臨時雇い、代用教員、新聞社社員などに就くが、どの仕事にも満足できず、函館、札幌、小樽、釧路を転々とする。函館で出会った文芸仲間・宮崎郁雨(いくう)は啄木の良き理解者で、家族を北海道へ呼び寄せる旅費を出してくれた。

●22歳、どうしても文学への夢を捨てきれない啄木は、郁雨に家族を預けると旧友の金田一京助を頼って再び上京する。金田一は啄木を援助する為に愛蔵の書籍まで処分した。啄木は作家としての成功を夢見て次々と小説を書いたが、文壇ではことごとく無視される。夢が打ち砕かれた啄木は、彼にとって気持ちを吐き出すための“玩具”、すなわち三行の短歌に日々の哀しみを歌い込んだ。

●23歳、前年に与謝野鉄幹に連れられて鴎外の歌会に参加したことをきっかけに、雑誌「スバル」創刊に参加。相変わらず小説は評価されず、失意のうちに新聞の校正係に就職する。親友に預けたままの家族から、肩身が狭いので早く呼び寄せてくれと促される。自由な半独身生活を送っていた啄木は、家族がいては小説の構想に集中できず作品が書けないなどと、家族を迎えるまでの約2ヶ月間の苦悩を『ローマ字日記』に記した(後にこれは日記文学の傑作として文学史に刻まれることに)。家族の上京後、生活苦から妻と姑との対立が深刻化し、妻が子どもを連れて約一ヶ月実家へ帰ってしまう。年末に父が上京。

●24歳、新聞歌壇の選者に任命されるも、暮らしは依然厳しかった。貧困生活の中で左翼的な思想に傾いていた啄木は、6月に大逆事件(天皇暗殺未遂事件=後に当局のデッチ上げと判明)が起きると、国家による思想統制・言論弾圧を深く憂慮して評論『時代閉塞の現状』を書く(死後に発表)。また、“林中の鳥”という匿名で、『所謂今度の事』を書き上げ新聞に掲載を依頼したが掲載されなかった--

「いわゆる“今度の事”について。政府はアナーキストをテロ信奉の狂信者の如く評しているが、実はアナーキズムはその理論において何ら危険な要素を含んでいない。今の様な物騒な世の中では、アナーキズムを紹介しただけで私自身また無政府主義者であるかのごとき誤解をうけるかもしれないが…もしも世に無政府主義という名を聞いただけで眉をひそめる様な人がいれば、その誤解を指摘せねばなるまい。無政府主義というのは全ての人間が私欲を克服して、相互扶助の精神で円満なる社会を築き上げ、自分たちを管理する政府機構が不必要となる理想郷への熱烈なる憧憬に過ぎない。相互扶助の感情を最重視する点は、保守道徳家にとっても縁遠い言葉ではあるまい。世にも憎むべき凶暴なる人間と見られている無政府主義者と、一般教育家及び倫理学者との間に、どれほどの相違もないのである。(中略)要するに、無政府主義者とは“最も性急なる理想家”であるのだ」。

12月、「我を愛する歌」「煙」「秋風のこころよさに」「忘れがたき人々」「手套を脱ぐとき」の5章551首からなる処女歌集『一握の砂』を刊行。平易な言葉で日常の悲喜こもごもの感情を素直にうたいあげた短歌は、好感をもって歌壇に受け入れられ生活派短歌と呼ばれた。出版で多少の収入を得たが、同時期に生れた長男がわずか3週間で逝き、その葬式代で消えてしまう。


《一握の砂》 26選(カジポン選)

1.東海(とうかい)の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる

2.たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず

3.草に臥(ね)て おもふことなし わが額(ぬか)に糞して鳥は空に遊べり

4.やはらかに積れる雪に 熱(ほ)てる頬を埋むるごとき 恋してみたし

5.路傍(みちばた)に犬ながながと呻(あくび)しぬ われも真似しぬ うらやましさに

6.新しきインクのにほひ 栓抜けば 餓えたる腹に沁むがかなしも

7.はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る

8.友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ

9.興(きよう)来(きた)れば 友なみだ垂れ手を揮(ふ)りて 酔漢(よいどれ)のごとくなりて語りき

10.ふるさとの訛なつかし 停車場(ば)の人ごみの中に そを聴きにゆく

11.飴売のチャルメラ聴けば うしなひし おさなき心ひろへるごとし

12.石をもて追はるるごとく ふるさとを出(い)でしかなしみ 消ゆる時なし

13.青に透く かなしみの玉に枕して 松のひびきを夜もすがら聴く

14.長く長く忘れし友に 会ふごとき よろこびをもて水の音聴く

15.今夜こそ思ふ存分泣いてみむと 泊りし宿屋の 茶のぬるさかな

16.ごおと鳴る凩(こがらし)のあと 乾きたる雪舞ひ立ちて 林を包めり

17.寂莫(せきばく)を敵とし友とし 雪のなかに 長き一生を送る人もあり

18.死にたくはないかと言へば これ見よと 咽喉の痍(きず)を見せし女かな

19.葡萄色(えびいろ)の 古き手帳にのこりたる かの会合(あひびき)の時と処(ところ)かな

20.朝の湯の 湯槽(ゆぶね)のふちにうなじ載せ ゆるく息する物思ひかな

21.しめらへる煙草を吸へば おほよその わが思ふことも軽(かろ)くしめれり

22.あさ風が電車のなかに吹き入れし 柳のひと葉 手にとりて見る

23.ほそぼそと 其処(そこ)ら此処(ここ)らに虫の鳴く 昼の野に来て読む手紙かな

24.夜おそく つとめ先よりかへり来て 今死にしてふ児を抱けるかな

25.おそ秋の空気を 三尺四方(さんじやくしほう)ばかり 吸ひてわが児の死にゆきしかな

26.かなしくも 夜明くるまでは残りいぬ 息きれし児の肌のぬくもり

※24〜26は我が児への追悼歌。自分は20、22、25が好きデス。

●25歳、前年に続いて大逆事件の公判を追っていた彼は、独自に手に入れた陳弁書から“(主犯とされる)幸徳は決して自ら今度のような無謀をあえてする男でない”と判断していた。それだけに、被告26名中、11名死刑(半世紀後に全員無罪の再審判決)という結果に大きな衝撃を受ける。この頃の詩稿が死後の詩集『呼子と口笛』になった。以下、啄木の日記より。

『1911年1月18日(死刑宣告当日の日記)
今日ほど予の頭の昂奮していた日はなかった。そうして今日ほど昂奮の後の疲労を感じた日はなかった。2時半過ぎた頃でもあったろうか。「2人だけ生きる生きる」「あとは皆死刑だ」「あゝ24人!」そういう声が耳に入った。「判決が下ってから万歳を叫んだ者があります」と松崎君(記者)が渋川氏(社会部長)へ報告していた。予はそのまゝ何も考えなかった。たゞすぐ家へ帰って寝たいと思った。それでも定刻に帰った。帰って話をしたら母の眼に涙があった。「日本はダメだ。」そんな事を漠然と考えながら丸谷君を訪ねて10時頃まで話した。夕刊の一新聞には幸徳が法廷で微笑した顔を「悪魔の顔」と書いてあった。』

『1月24日(判決の6日後)
(新聞)社へ行ってすぐ、「今朝から死刑をやってる」と聞いた。幸徳以下11名のことである、あゝ、何という早いことだろう。そう皆が語り合った。
夜、幸徳事件の経過を書き記すために12時まで働いた。これは後々への記念のためである。』

『1月25日(死刑翌日)
昨日の死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載った。(処刑された)内山愚童の弟が火葬場で金槌を以て棺を叩き割った−その事が激しく心を衝いた。昨日12人共にやられたというのはウソで、管野(幸徳の妻)は今朝やられたのだ。かえりに平出君(特別弁護人)へよって幸徳、管野、大石等の獄中の手紙を借りた。平出君は民権圧迫について大いに憤慨していた。』

啄木は慢性腹膜炎の手術後に肺結核を発症。妻が肺カタル(炎症)になったことで家主から立ち退きを迫られ、函館の宮崎郁雨(2年前に啄木の妹と結婚していた)の援助で転居するが、妻と郁雨の関係を疑った啄木は、大恩人の郁雨に絶交を叩き付ける。


●26歳(1912年)、年明けに漱石から見舞金が届く。3月に母が肺結核で亡くなり、翌月に啄木もまた肺結核で危篤に陥る。以下の日記は死の約二ヶ月前に書かれた最後のもの。

『2月20日
日記をつけなかった事12日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられていた。39度まで上がった事さえあった。そうして薬をのむと汗が出る為に、体はひどく疲れてしまって、立って歩くと膝がフラフラする。そうしている間にも金はドンドンなくなった。母の薬代や私の薬代が一日約40銭弱の割合でかかった。質屋から出して仕立て直さした袷と下着とは、たった一晩家に置いただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢った。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかった。』

啄木が26歳の若さで死に至る最晩年の様子は、親友の金田一京助、若山牧水によって書き残されている。

《亡くなる10日前…金田一京助》※一部要約
石川君はその時、『ひょっとしたら自分も今度はだめだ』と言った。『医者は?』と聞くと、『薬代を滞るものだから、薬もくれないし、来てもくれない』という。また『いくら自分で生きたいと思ったって、こんなですもの』と言って、自分で夜具の脇をあげて腰の骨を見せた。ぐっと突立った骨盤の皿。私は覚えず恐い物に蓋をするようにして、『これじゃいけない、何よりも、とにかくまず好きなもので滋養になるものを食べて、少し太る様にしなくちゃ』と言ったら、『好きなものどころか!米さえ…ない』と顔を歪めて笑った。(金田一は処女出版『新言語学』の脱稿直後。自宅に引き返して家族に本の収入が近々ある事を話し、自身の一ヶ月の生活費、十円札を持って駆け戻ってくる)『ほんの少しですけれど』と私が、うつむきながら手を差し出した時、石川君も、節子(妻)さんも、黙って何とも言わなかった。『無躾だったかしら』と心に気遣いながら二人を見ると、石川君は枕しながら、片手を出して拝んでいた。節子さんは、下を向いて畳の上へぽたりと涙をおとしていた。 私は私で胸がいっぱいになり、誰ひとり物も言わず、しばらく3人は黙りこくって泣いていたのだった。石川君が一等先に口を切って、『こう永く病んで寝ていると、しみじみ人の情けが身にこたえる』『友だちの友情ほど嬉しいものがない』というので『私の言語学が脱稿したので(無理をした金ではない)』と話すと、自分の著述でも出来たように喜んでくれた。

《前々日…若山牧水》
死ぬ前々日に石川君を見舞ふと、彼は常に増して険しい顔をして私に語った。『若山君、僕はまだ助かる命を金の無いために自ら殺すのだ。見たまえ、そこにある薬がこの2、3日断えているが、この薬を買う金さえあったら僕は今すぐ元気を回復するのだ、現に僕の家には1円26銭の金しか無い、しかももう何処からも入って来る見込は無くなっているのだ』と。
※この言葉を受けて若山や友人たちが啄木の創作ノートを持って奔走し、第2歌集『悲しき玩具』の出版契約を結びとる。

《臨終記…若山牧水》
細君たちは口移しに薬を注ぐやら唇を濡らすやら、名を呼ぶやらしていたが私はふとその場に彼の長女(6歳)の居ないのに気がついて、探しに戸外に出た。そして門口で桜の花を拾って遊んでいた彼女を抱いて引返した時には、老父と細君とが前後から石川君を抱きかかへて、低いながら声をたてて泣いていた。老父は私を見ると、かたちを改めて、『もうとても駄目です。臨終のようです』と言った。そして側にあった置時計を手に取って、『9時半か』と呟くように言った。時計は正に9時30分であった。


屋外で満開の桜が散っていくのと歩みを合わせるように、4月13日に啄木は果てた。死の二ヵ月後、
194首を収めて刊行された『悲しき玩具』は各方面で激賞される。時を同じくして次女が生れた。妻は啄木の遺児を懸命に育てたが、彼女もまた肺結核に冒され、夫の死の翌年2人の子を残して26歳で病没した。その後、長女・京子は24歳、次女・房江は18歳で亡くなるなど、悲劇は続く。京子は早逝したが二児=晴子、玲児をもうけており、さらに啄木のひ孫が生まれている。ひ孫の名は真一(しんいち)であり、生後24日で他界した啄木の長男と同名。

啄木が函館に暮らしたのは4ヶ月のみだが、彼はよほど風物やその頃の生活が気に入っていたらしく、生前に「死ぬときは函館で…」と語っていた。1926年、函館山の南東端にあたり津軽海峡を展望する素晴らしい景観の地、立待(たちまち)岬に宮崎郁雨が『啄木一族の墓』を建立した。墓石の前面には『東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたわむる』(一握の砂)という一首が彫り込まれている。
※墓地は函館市電・谷地頭行き終点から徒歩20分。僕はレンタサイクルで函館市文学館や啄木像のある啄木小公園を周りながら墓参しました。


《悲しき玩具》 40選(カジポン選)

1.呼吸(いき)すれば、 胸の中(うち)にて鳴る音あり。 凩(こがらし)よりもさびしきその音!

2.途中にてふと気が変り、 つとめ先を休みて、今日も、 河岸をさまよへり。

3.本を買ひたし、本を買ひたしと、 あてつけのつもりではなけれど 妻に言ひてみる。

4.家を出て五町ばかりは、 用のある人のごとくに 歩いてみたれど――

5.何となく、 今朝は少しく、わが心明るきごとし。 手の爪を切る。

6.途中にて乗換の電車なくなりしに、 泣かうかと思ひき。 雨も降りていき。

7.しっとりと 酒のかをりにひたりたる 脳の重みを感じて帰る。

8.新しき明日の来(きた)るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど――

9.朝寝して新聞読む間なかりしを 負債のごとく 今日も感ずる。

10.よごれたる手を洗ひし時の かすかなる満足が 今日の満足なりき。

11.何となく、 今年はよい事あるごとし。 元日の朝、晴れて風無し。

12.いつの年も、 似たよな歌を二つ三つ 年賀の文(ふみ)に書いてよこす友。

13.何となく明日はよき事あるごとく 思ふ心を 叱りて眠る。

14.すっぽりと蒲団をかぶり、 足をちぢめ、 舌を出してみぬ、誰にともなしに。
 
15.百姓の多くは酒をやめしといふ。 もっと困らば、 何をやめるらむ。

16.あやまちて茶碗をこはし、 物をこはす気持のよさを、 今朝も思へる。

17.古新聞! おやここにおれの歌の事を賞めて書いてあり、 二三行なれど。

18.笑ふにも笑はれざりき―― 長いこと捜したナイフの 手の中(うち)にありしに。
 
19.この四五年、 空を仰ぐといふことが一度もなかりき。 かうもなるものか?

20.そうれみろ、 あの人も子をこしらへたと、 何か気の済む心地にて寝る。

21.『石川はふびんな奴だ。』ときにかう自分で言ひて、かなしみてみる。

22.真夜中にふと目がさめて、 わけもなく泣きたくなりて、 蒲団をかぶれる。

23.話しかけて返事のなきに よく見れば、 泣いていたりき、隣の患者。

24.ぼんやりとした悲しみが、 夜(よ)となれば、 寝台(ねだい)の上にそっと来て乗る。

25.看護婦の徹夜するまで、 わが病ひ、 わるくなれとも、ひそかに願へる。

26.もう嘘をいはじと思ひき―― それは今朝―― 今また一つ嘘をいへるかな。

27.何となく、 自分を嘘のかたまりの如く思ひて、 目をばつぶれる。

28.薬のむことを忘るるを、 それとなく、 たのしみに思ふ長病(ながやまひ)かな。

29.ボロオヂンといふ露西亜名(ロシアな)が、 何故ともなく、幾度も思ひ出さるる日なり。

30.まくら辺に子を坐らせて、 まじまじとその顔を見れば、 逃げてゆきしかな。
 
31.時として、 あらん限りの声を出し、 唱歌をうたふ子をほめてみる。

32.何思ひけむ―― 玩具をすてておとなしく、 わが側に来て子の坐りたる。

33.或る市(まち)にいし頃の事として、 友の語る 恋がたりに嘘の交るかなしさ。
 
34.ひさしぶりに、 ふと声を出して笑ひてみぬ―― 蝿の両手を揉むが可笑しさに。
 
35.五歳になる子に、 何故ともなく、ソニヤといふ露西亜名(な)をつけて、 呼びてはよろこぶ。

36.ある日、ふと、やまひを忘れ、 牛の啼(な)く真似をしてみぬ―― 妻子(つまこ)の留守に。

37.かなしきは我が父! 今日も新聞を読みあきて、 庭に小蟻と遊べり。

38.児を叱れば、 泣いて、寝入りぬ。 口すこしあけし寝顔にさはりてみるかな。
 
39.ひる寝せし児の枕辺に 人形を買ひ来てかざり、 ひとり楽しむ。

40.庭のそとを白き犬ゆけり。 ふりむきて、 犬を飼はむと妻にはかれる。

※22、30、38が特に好きっす。それに絶唱となった40も…。26歳の死はあまりに早すぎる。啄木は40歳、80歳になった時に、どんな短歌を詠んでいただろう。本当に残念だ。(>_<)


《あの人の人生を知ろう》
★文学者編
・宮沢賢治
・太宰治
・小林多喜二
・樋口一葉
・梶井基次郎
・清少納言
・近松門左衛門
・高村光太郎
・石川啄木
・西行法師
・与謝野晶子
・茨木のり子
●尾崎放哉
・種田山頭火
●松尾芭蕉
・ドストエフスキー

★学者編
●南方熊楠
●湯川秀樹

★思想家編
●チェ・ゲバラ
・坂本龍馬
●大塩平八郎
・一休
・釈迦
・聖徳太子
・鑑真和上
・西村公朝
・フェノロサ

★武将編
●明智光秀
●真田幸村
・源義経
・楠木正成
●石田三成
・織田信長




★芸術家編
●葛飾北斎
・尾形光琳
・上村松園
●黒澤明
・本阿弥光悦
・棟方志功
・世阿弥
・伊藤若冲
●グレン・グールド
●ビクトル・ハラ
●ベートーヴェン
●ゴッホ
・チャップリン

★その他編
●伊能忠敬
・平賀源内
・淀川長治
●千利休

●印は特にオススメ!

※番外編〜歴史ロマン/徹底検証!卑弥呼と邪馬台国の謎(宮内庁に訴える!)



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オヌシは 番目の旅人でござる