【 あの人の人生を知ろう〜植村 直己編 】

Nomi Uemura / 1919.2.12-1984.2.13 享年43歳





優しい笑顔の植村さん 植村さんが最後に登ったアラスカのマッキンリー(米国)


板橋の乗蓮寺にて墓参(2000) 10年後に再巡礼(2010)。墓石には詩人・草野心平の追悼詩が刻まれている
『地球には もう彼はいない けれども生きている 修身に化けて 植村直己は 私たち心中に 生きつづける』

「自分の力で切り抜けられる時は、祈るよりも立ち向かうべきだと山は教えてくれた」(植村直己)
植村直己は1941年2月12日、兵庫県・現豊岡市の農家に6人兄弟の末っ子として生まれた。少年時代は目立たず地味な存在で、自分でも平凡を自覚し、長く自信を持てないでいた。同郷で単独登頂を多く成し遂げた登山家・加藤文太郎(1905-1936 享年
30)への憧れから、高校一年の時に地元の蘇武岳(1074m)に登頂し、これを皮切りに植村の冒険家人生が始まる。1960年(19歳)、明治大学農学部に進み山岳部へ入部。不器用でよく転ぶため、“ドングリ”というあだ名を付けられたが、精力的に登山を重ねる姿、経験を積むための努力が認められてサブリーダーに抜擢された。

1964年(23歳)、卒業後に就職試験で失敗。山岳仲間から海外の氷河の絶景を聞かされ渡航を決意する。欧州のアルプス氷河へ行く資金を米国で稼ぐため、アルバイトで貯めた金と長兄の援助を元手に移民船で米西海岸ロスに上陸した。同年、ブドウ農場での不法就労で捕まりフランスへ。待望の外国の登山で最初に選んだのは西欧最高峰モンブラン(4810m)。単独登頂に挑んだ植村は新雪で隠れていたクレバス(氷河の底なしの裂け目)に落下してしまう。奇跡的にアイゼンの刃と荷物が氷壁に引っ掛かって宙づりになり、2mの落下で済んだが、通常なら命を落としている事故だった。植村は恐怖で心が折れ、モンブラン登頂を断念し下山した。この事故の教訓から、以降の危険な登山では、4mの竹竿2本を横に倒して両端を前後に胴につけ、転落防止のストッパーとした。

西欧最高峰モンブラン(4810m) クレバス落下防止用の竹竿を腰に装着

1965年(24歳)、世界第6位ヒマラヤ山脈チョ・オユー(8201m)の明大登頂隊に参加し登頂に成功。翌1966年7月(25歳)、モンブランで2年前の登頂挫折のリベンジを果たし、同月マッターホルン(4478m)単独登頂にも成功する。秋にはアフリカ最高峰キリマンジャロ(5895m)の単独登頂に成功した。1968年(27歳)、南米最高峰アコンカグア(6961m)の単独登頂に挑み、現地では“20日かかる”と言われたが、たった15時間で山頂に立った。世界的なアルピニストとなった植村は、ここでいったん山から離れ、アマゾン川6000kmの単独いかだ下りに挑戦し、ピラニアとバナナを食べながら2カ月かけて河口に出た。この後、4年ぶりに帰国。

アフリカ最高峰キリマンジャロ(5895m) 南米最高峰アコンカグア(6961m)

1970年5月11日(29歳)、日本山岳会派遣のエベレスト(チョモランマ 8848m)登頂隊に飛び入りの裏方として参加したところ、タフな体力と慎重な判断力を買われて第1次アタック隊に選ばれ、エベレスト南東稜から先輩登山家の松浦輝男と共に日本人初登頂を果たす。植村はアタック隊の先頭にいたが、頂上を前に「いよいよ頂上です。松浦さん先に登ってください」と先を譲り、頂上では次のように交信した「ありがとうございます。私だけが登ったのではありません。皆さんの力が私を頂上にあげてくれたのです!」。同年8月26日、アラスカにて北米最高峰マッキンリー(6168m)の単独登頂を成し遂げ、20代最後の年に『世界初の五大陸最高峰登頂者』(エベレスト・モンブラン・キリマンジャロ・マッキンリー・アコンカグア)となった。

アジア最高峰エベレスト(8848m) 北米最高峰マッキンリー(6168m)

翌1971年、30歳になった植村は、新たなる冒険の場を極地探検に定めた。最終目標は南極大陸3000km横断。この距離を体感するため、同距離となる北海道稚内から九州鹿児島を51日間で踏破した。1972年9月から5カ月間、グリーンランドでエスキモーと共同生活を行い、狩猟や犬ぞり操縦技術を学び、そのままグリーンランドで3000km犬ゾリ単独行を行った。1974年(33歳)、前年にトンカツ屋で出会い、一目惚れをした公子夫人と結婚。グリーンランドの経験を踏まえ、74年から76年まで1年半をかけ、北極圏12000kmの犬ぞり探検に挑み、そりの“海中”水没や、犬の全頭逃亡という死の危機に直面しながらも、これらを乗り越え成功させる。1976年(35歳)、ロシア・コーカサス山脈のヨーロッパ最高峰エルブルス(5642m)に登頂。

1978年(37歳)、米国ナショナルジオグラフィック協会から資金提供を受け、史上初の単独北極点到達を犬ぞりで成し遂げ、日本人として初めて『ナショナル・ジオグラフィック』の表紙を飾った。この冒険はたまたま同時期に日本の大規模隊が同じ北極点を目指しており、彼らに良い犬を独占されてしまい、植村は犬集めに苦労した。実際、北極点に到達するまで真剣に犬ぞりをひいたのは7頭ぐらいで、他の犬はエサを食べるばかりで役に立たなかったという。その4カ月後、白熊のテント襲撃に遭いながらもグリーンランド単独縦断にも成功し、冒険家ウエムラの名を世界に轟かせた。極地探検で無線機を持ちサポートを受けたことについて、一部から“冒険と呼べない”と批判する声があった。これに対し植村はこう反論した。(1)無線はオーロラが出ると電波状態が悪化し使用できない(2)無線で救援を求めても飛行機到着まで12時間以上かかるため、緊急事態には間にあわない(3)何より私は通信網に頼りすぎてはならないことを肝に銘じている。

  北極点で日本、カナダ、デンマーク、米国の国旗を掲げる

※植村の犬ぞりは全長約4メートル。荷物の重量は多いときで500kg。これを12頭〜17頭が引く。天候が良好なら時速10km。犬の食料はアザラシの凍肉だが、植村も毎日1キロ食べてエネルギー源とした。肉が不足するとオヒョウ(大型カレイ)を釣った。「(カリブーの)獲りたての生温かい肉はそうおいしくないです。やはり、冷凍した生肉を口の中に入れ、アイスクリームのように溶けだすのがいちばんうまく、量も多く食べられます」。元気を出すために紅茶(大量の砂糖入り)、コーヒー、ビスケットを重宝した。毎日朝夕、荷物・テントの積み降ろしや犬の世話に1時間以上要する。植村の記録「テントに入るとまず石油コンロに火をつけ、履いていた靴、内靴、毛皮の手袋、毛糸の手袋、帽子、マフラー、ヤッケをテント内にわたした紐に吊り下げて乾かす。テントの天井はたちまち一杯になってしまう。石油コンロは身動きしたときひっくり返さないように木箱の中に入れておく。氷を溶かしたお湯で紅茶をのみ、カンテラの明りを頼りに地図を見ながら食事をとる。セイウチの肉には塩をつけるが、肝臓やキビアにはなにもつけない。腹いっぱいに、これ以上は何も入らないというところまでつめ込む…約1キログラムだ。食事がすむと、その日切れたりほころびたりした犬の胴バンド、ムチ、靴の修理をすませ、紅茶をのみながら日記をつける。瞬く間に十二時をすぎ、ときには一時、二時にもなる。日中の疲労で、ほころびをつくろう縫針をもったまま、眠ってしまうこともあった」。

  極地が平地とは限らない!

数々の冒険で名声を得た植村だったが、80年代に入ると試練が続く。1980年(39歳)、自身が隊長となったエベレスト厳冬期登頂で隊員が事故死したうえ、悪天候が続き登頂断念を決断。1982年(41歳)には12年越しの夢だった南極大陸単独横断と、南極最高峰ビンソン山(4897m)登頂を実現するため、南極のアルゼンチン軍基地まで行き、“あとは出発するだけ”という状況で、アルゼンチンVS英国のフォークランド紛争が勃発。10カ月も基地に足止めされた挙げ句、必要とした軍の協力が得られなくなり横断を断念。植村は打ちひしがれる。
だが、簡単に夢を諦める植村ではない。新たに南極のアメリカ基地をスタート地点にする計画を練った。その為にはアメリカに対して冒険家として存在感をアピールする必要があった。そこで、成功すれば世界初となる北米最高峰マッキンリーの冬期単独登頂を敢行した。

この最後の登山では、かつて「探検家になるために必要な資質は臆病者であることです」と持論を語っていた植村が、悪天候のため雪洞で待機中に「何が何でもマッキンレー、登るぞ」(2月6日)と記すほど焦っていた。山頂はマイナス50度。「何が何でも」は本来の植村の哲学=『冒険で死んではいけない。生きて戻ってくるのが絶対、何よりの前提である』とは異なる。
1984年2月12日、43歳の誕生日のこの日、植村は世界で初めてマッキンリー冬期単独登頂を果たし、山頂付近に日の丸を建てた。ところが翌13日に行われた交信以降は連絡が取れなくなり、下山途中で消息不明となってしまう(16日に捜索機に手を振ったという証言があったが、後に目撃者が誤認の可能性を認めた)。最後の交信は「私がいるのはサウスピークからずっとトラバースして…標高…えーあとは…20000フィート(約7千メートル)。えー、私もよくわかりませんが約20000…20000、20000フィートです、どうぞ。20000、20000、20000フィート」。

  太陽に染まるマッキンリー

2月20日、救援隊が4200m地点の雪洞で植村の日記を発見、4900m地点の雪洞には食べ残しの食糧や装備の一部があった。さらに5日後、5200m地点の雪洞にて35点もの装備と整理された食糧が見つかった。食糧も雪洞もあるのに、ただ植村の姿だけがなかった。植村の身に何が起きたのか…。
明大山岳部OBによる第二次捜索隊はマッキンリー山頂で日の丸を見つけたが消息の手掛かりはなく、最後の交信があった2月13日が命日とされた。他界の2カ月後、日本政府は国民栄誉賞を贈る。同年、デンマーク政府は植村に敬意を表し、かつて植村がグリーンランド縦断で到達したヌナタック峰を「ヌナタック・ウエムラ峰」と改称した。

  山頂で見つかった植村さんの日の丸

捜索活動が打ち切りになった際、10年の短い夫婦生活(一緒に暮らした期間は実質5、6年)となった公子夫人は悲しみを抑えて記者にこう語った。「(夫は)好きなことを好きなだけやれて最高に幸せだったと思います」「『必ず生きて帰る事が本当の冒険だ』といつも偉そうに言ってたくせに…ちょっとだらしないんじゃないの?と言ってやりたい気持ちです」。
消息を断って2年後に、公子夫人はマッキンリーを訪れ手記を記した。「あの人は、大学を出て、日本を飛び出した頃とちっとも変わっていなかった、いえ、変われなかった。自分の世界の堂々巡りの輪から抜け切れなかった。日記を読んでいるとそれが伝わってきて、せつなくって先に進めない。もう少し、目を他に向けて見ることができたら、違った生き方ができたのにと悔しく思ってみたりもしたが、あの人は過酷な楽しみを選んだ。私はそれをそばで見ているだけだった。ごめんなさい。植村さん、あなたの旅は、楽しいものだったのでしょうね。そう信じさせて下さい。そして、こんどは、できることなら消えてしまったあなたの夢の続きを一緒に旅したいと思っています」。

  公子夫人と直己さん

1985年1月(消息不明の翌年)、北海道の帯広動物園に植村直己記念館“氷雪の家”が建てられた。植村と帯広動物園は、北極圏12000kmの犬ぞり探検後に連れ帰ったエスキモー犬を寄贈したことで縁ができた。“氷雪の家”にはマッキンリー、北極点、グリーンランドで使用された遺品や犬ぞりが展示されている。没後20年にあたる1994年3月に、東京都板橋区に植村冒険館が開館し、翌月に故郷の神鍋高原(豊岡市日高町)に植村直己冒険館が開館した。1996年、日高町は植村直己冒険賞を創設した。植村の著書は『青春を山に賭けて』『極北に駆ける』『エベレストを越えて』など約10冊。

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山を通して人生を語った植村直己さん。植村さんが冬期マッキンリーで消息を絶ったのは、僕が16歳のとき。今でもニュース番組で大きく取り扱われていたのを覚えている。国民栄誉賞が授与され、かけがえのない人物を失ったのだと肌身で感じていた。その後、人物像を知るにつれ、植村さんは決して特別な能力を持つスーパーマンではなく、少年時代から自らの平凡さを自覚し、「これぐらいやらなければ、誰もオレを認めてくれない」と、劣等感をバネに偉業を成し遂げていったことを知り、強く親近感を持つようになった。
「自然は征服するものではなく、学ぶものである」という植村さんの哲学は、エスキモーと共同生活をして極北で生きる術を身につけてから冒険に挑むという姿勢に現れており、大量の物資を投入して力押しで自然をねじ伏せる西洋型の冒険とは異なる点でも感銘を受けた。
後に墓マイラーとなった僕は、各地で偉人の墓を巡礼していく中で、東京・板橋区の乗蓮寺と、故郷の兵庫県豊岡市日高町・頼光寺に植村さんの墓があることを知った。植村さんは20代後半から晩年まで15年ほど板橋に住んでいた。乗蓮寺は東京大仏や将軍家ゆかりの寺として知られてる名刹だ。寺を訪ねて墓前に立つと、墓石には詩人草野心平(1903-1988)の追悼詩『地球には もう彼はいない けれども生きている 修身に化けて 植村直己は 私たち心中に 生きつづける』が刻まれていた。
植村さんの体は没後30年を経た現在も見つかっておらず、ご遺骨はない。でも、魂というものがあるならば、大勢の人が手を合わせに来るこの場所に戻って来ていると、そう感じられる墓所だった。合掌しつつ、植村さんの行動力に勇気をもらった御礼を伝えた。

  生誕70年の2011年、グリーンランドで切手になった

※頼光寺の墓には遺品が納められている。ある意味、巨大なマッキンリーそのものが植村の墓標ともいえる。
※『植村直己 妻への手紙』の公子夫人のあとがき−『厳冬期のエベレスト、南極のビンソンマシフと失敗が二度続いて彼の中に穴があいたように感じました。その穴の大きさや深さを窺い知ることはできませんでしたが、時折その穴に入り込んでいる彼を見るのは辛いものがあり、失敗は自分自身どうしても許せなかったのでしょう。その果てが厳冬のマッキンリーになり自爆してしまったと哀しく思うのです。堂々めぐりのなかから抜けられなかった。ちょっと気持ちをそらせば違う生き方だって出来たのにと切なく思うのですが、それとて長い時間の中からの結果論であって、当時はとにかく夢中で暮らしていて今となってはあの頃の緊張感が懐かしいのです。』
※登山することも大変だけど、現地で登山の許可を得ることも相当困難だった。例えばマッキンリーは「4人以下の登山は禁止」という国立公園法があった。
※先祖の名と干支と合わせて「直巳」と名付けられたが、大学時代から「直己」を名乗る。
※「私には誇らしいより前に、切ない人なんです」(公子夫人)

【参考資料】
エンカルタ総合大百科、ナショナル・ジオグラフィック(貴重な証言)、谷底ライオン(圧巻の読書量!)、ウィキペディアほか。


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