ケラー24歳 | ケラー8歳、サリバン22歳 |
巨大なワシントン大聖堂 |
祭壇の左奥に地下霊廟へ続く 階段がある。気付く人は少ない |
写真中央左の壁にヘレンの墓を 示す銅板が埋め込まれている |
2000 初巡礼 墓碑は点字の部分だけ色が変わっている! |
2009 再巡礼//サリバン先生の遺灰が安置 された後、ヘレンの遺灰がここに安置された |
「ヘレン・ケラーと生涯の仲間アン・サリバンは この礼拝堂後方の納骨堂に埋葬された」 |
ヘレンはアメリカの著述家・社会事業家・平和主義者。三重苦を克服し、障害をもつ人々の救済のために生涯を捧げた。
●サリバン先生との出会い 1880年6月27日、アラバマ州タスカンビア生まれ。父は退役軍人。1歳9カ月のときに胃と脳髄の急性充血による高熱で、視覚と聴覚を失い、言葉が不自由になった。両親は沈黙の世界にいたヘレンが短気でワガママな子どもになるのを見るにつけ、教育の必要性を痛感。6歳の時に、アレグザンダー・ベル(電話の発明家であり熱心な盲人教育者)に相談し、その縁で翌1887年3月3日からパーキンス盲学校の卒業生アン・サリバン(通称アニー、当時20歳)が家庭教師として派遣された。サリバン自身も3歳で失明し、手術によって視力を取り戻した過去があった。「私の生涯を通じて忘れられない最も重要な日は、サリバン先生が来て下さった日です」「それは私の魂の誕生日だった」(ヘレン)。 1887年4月5日、サリバンがケラー家にやって来て33日目。サリバンはヘレンと散歩中に井戸へ寄った。そしてヘレンの手に水を注ぎながら「w-a-t-e-r」と指文字(指話法)で何度も綴っていると、突如としてヘレンは言葉と物を結びつけ、すべての物に名前があることに気づいた。2歳から5年間身を置いた暗闇に光が差した!ヘレンはポンプなど数語を尋ねた後、サリバンの方を向いて名前を聞いた。手の平に綴られたのは「t-e-a-c-h-e-r 」。“先生”の名の通り、サリバンは人生の先輩として、全存在をかけてヘレンに向き合っていく。「water」を理解した同日夕刻には、「give」「go」「baby」「door」「open」「come」など30もの単語を覚えていた。
「言葉の存在を最初に悟った日の夜。私は嬉しくて嬉しくて、ベッドの中で、この時初めて“早く明日になればいい”と思いました」(ヘレン)。翌朝の様子をサリバンはこう記す。「彼女は妖精のようにベッドから跳ね起きると、手当たり次第に物の名前を尋ね、一語学ぶ度に感激して私にキスしました」。3カ月後には300個以上の単語を記憶し、「very」という言葉を知った時は、「very happy」のように他の単語を組み合わせて表現することに夢中になった。 ヘレンは「water」事件の翌月に点字の本を読めるようになり、翌々月には簡単な手紙を書けるようになっていた。ヘレンが非常に高い知性を持っていたことが明らかになり、それまで聾唖者の知的発達を疑っていた人々がみな驚いた。ヘレンの噂は米国に広まり、1888年(8歳)、ホワイトハウスに招待され
第22代大統領クリーブランドと面会した。大統領はヘレンと会えたことを大いに喜んだ。
ヘレンは3年間をパーキンス盲学校(国内最大の盲人用蔵書が図書館にあった)で暮らした後、1890年(10歳)に発声法を学び、1カ月の練習で話し方を身に付けた。ただし、近親者しか理解できず、他人が聞き取るのは困難だった。
サリバンは常にヘレンに寄り添い、世界のすべてを指文字で通訳した。グラハム・ベルがバッキンガムに送った雑誌記事を通してヴィクトリア女王もヘレンのことを知っていたし、12歳の頃には“ヘレン・ケラー”という名前が世界の人々に知れ渡っていた。ベルはヘレンに普通の子どもの体験をさせてあげたくて、ワシントンの動物園に連れて行った。1893年(13歳)のシカゴ万国博では、“何でも触って良い”と許可を受けたことから、バイキング船、ダイヤモンド鉱石、エジプトのミイラ、蓄音機など世界中の珍しいものに触れることが出来た。「私は指で博覧会の素晴らしさを吸収しました」(ヘレン)。1894年(14歳)、ニューヨークの口話学校で2年間学び、大都会でスラム生活者の苦しみを初めて知り、社会問題に関心を持つようになった。
1896年(16歳)、父が他界。ボストンのケンブリッジ女学校に入学。当初、校長は「我が校には聴視覚障害者に対応できる設備がない」と入学に難色を示していたが、ヘレンと直接対面して聡明さを知り、考え方が180度変わった。サリバンはヘレンと同じ学生寮に住み、目となり耳となって全授業に出席し、講義内容を手の平に伝えた。ヘレンは歴史、文学、外国語、数学など猛烈に知識を吸収し、1900年(20歳)には名門ラドクリフ女子大学(1999年ハーバード大に吸収)に入学。他の生徒と同様に扱われ、4年後に“優等”で卒業し、ギリシア語、ラテン語、ドイツ語、フランス語を身に付けた。彼女が特別待遇なしに大学課程を終えたことを人々は喝采した。1905年、サリバンはハーバードの講師ジョン・メイヤーのプロポーズを承諾し結婚する。
卒業後のヘレンは“盲人のために尽くすことが終生の使命”と確信し、全身全霊をこの目的に捧げた。まず、ボストンで盲人が就職可能な社会整備を訴え、その結果設けられたマサチューセッツ州盲人委員会の委員に26歳で就任する。1909年(29歳)、「貧困が社会の不平等と不幸を生む」という信念からアメリカ社会党に入党。当時としては進歩的な思想を持ち、婦人参政権運動(NYやD.Cでデモ行進に参加)や公民権運動など多くの人権運動に関わり、若年労働や死刑制度にも反対した。1913年(33歳)、社会問題をテーマにしたエッセイ集『暗闇から外へ』を出版。同書は社会主義的傾向が批評家や保守派から批判され、それまで好意的だったメディアはヘレンが時事問題を語った記事を掲載拒否するようになった。
1914年(34歳)、ヘレンたちは経済的に追いつめられ、さらにサリバンの目の状態が悪化したことから、ヘレンは講演を通して生活費を稼ぐ決心をした。人前で話すことは大きな勇気が必要で、最初は講演を苦痛に感じていた。だが、どの講演でも聴衆が感動し熱狂的に受け入れてくれたので、次第に自信を持つようになり大陸横断の講演旅行を敢行する。聴衆はヘレンの発音を理解できなかったが、言葉の奥底にあるヘレンの思いをサリバンの通訳で汲み取り喝采を贈った。一方、ヘレンとサリバンがますます有名になったことでサリバンの夫ジョンは心の距離を感じ、1人の“良き友人”となって別々に暮らすようになった(ジョンは18年後に他界)。
別居後、サリバンはメーン州のホテルで倒れてしまう。行き詰まったヘレンを金銭的に援助してくれたのは実業家アンドリュー・カーネギーだった。おかげで1人の秘書を雇うことが可能になり、求人広告を見て応募してきた陽気なスコットランド人女性ポリー・トンプソンとの3人の生活が始まった。同年7月に第一次世界大戦が勃発すると、ヘレンは平和主義の立場からNYで次のようにスピーチした。「私の祖国は世界です。それゆえ、どんな戦争も私にとっては同胞を争わせる非常に嫌悪すべきものなのです」。
1916年(36歳)、ヘレンは7歳年下の若きジャーナリスト、ピーター・フェイガン(29歳)からプロポーズを受けた。サリバンが結核になり、ポリーが療養に付き添った為、臨時で雇った秘書がピーターだった。それまでヘレンは恋愛をこう捉えていた「私と結婚したい男性などいるはずがありません。彫像と結婚するようなものですから」。だが、ピーターは誠実にヘレンを愛した。「彼が本気で私を想っていることに驚きました。私を幸せにするための様々な計画を彼が持っており、結婚後は人生のどんな苦境に直面しても、常に側で私を助けたいと彼は言いました」。だが、政治的に保守思想を持っていたヘレンの母は、労働運動に身を投じていたピーターを認めず、婚約していた2人を無理やり引き裂いた。ピーターは簡単に諦めなかったが、ヘレンの妹の夫からライフルを向けられついに断念した。「(ピーターとの)短い恋愛は、私の人生の中で、暗い水に囲まれた小さな喜びの島です」。これがヘレンにとっては最初で最後の恋となった。
その後、ヘレンは労働者への共感をより深め、戦争の暴力を批判し、1917年(37歳)に起きたロシア革命を擁護した。1919年、ヘレンはハリウッドの誘いで喜劇役者チャップリンと映画『救い』で共演を果たす。
1921年(41歳)、母が他界。同年、ヘレンの発案で米国盲人援護協会が創設された。サリバンの健康は快復と悪化を繰り返し、1924年頃には視力を殆ど失ってしまったが、ヘレンと共に米国盲人援護協会の支援者を求めて各地を訪れ、3年間に250回以上も集会を開き25万人以上に声をかけた。ヘレンが持つ不屈の精神、ユーモアと楽天主義が出会う人をことごとく虜にし、ヘンリー・フォードやロックフェラーをはじめ多くの国民が米国盲人援護協会に寄付をし、100万ドル以上が集まった。ヘレンはまた、それまで欧州式、米国式など5種類に分かれて不便だった点字を、ひとつに統合すべく尽力した。そして1932年(52歳)、ルイ・ブライユが1824年に作った6点式の点字が国際標準化された。
1936年(56歳)、70歳のサリバンは目の手術が体の負担になって衰弱していき、ポリーが最期の言葉を書き留めた。「(ずっと昔)ヘレンが孤独な私の人生にやって来た。続いてポリーも。私たちはいつも幸せだった。神よ、私が居なくてもヘレンが生きていけるよう助けたまえ」。10月20日、アニー・サリバン逝去。次第に冷たくなっていく恩師の手を、ヘレンは力一杯に握りしめて「生命の光、音楽、栄光が消え去ってしまった」と泣き崩れた。
約50年にわたって共に生きたサリバンが没し、人々はヘレンの心が折れることを心配したが、彼女は盲人救済活動をやめなかった。翌1937年、日本語の点字を考案した盲目の社会実業家・岩橋武夫(ライトハウス館長)からの来日要請を受け、4月に横浜港へポリーと到着。残念なことに横浜港の待合室でヘレンは財布を盗まれてしまった。この事件が報道されると、日本全国から見舞金が寄せられ、4カ月後にヘレンが日本を離れる頃には盗難された金額の10倍以上が集まった。ヘレンは新宿御苑の観桜会で昭和天皇に拝謁し、日本各地を巡った。奈良では大仏を自由に触ることを許された最初の女性となった。その後、朝鮮や満州も訪問し、97回の講演で20万人に盲人の福祉や教育の向上を力説した。
ヘレンはリベラルな反戦・政治思想によって保守派から激しく中傷されることもあった。FBIの要調査人物に指定され、初来日の際は日本の特高警察が監視していた。そんなヘレンだが、1941年(61歳)の日本による真珠湾奇襲には憤った。1943年から、戦争で視力や聴覚を失った兵士を慰めるため軍病院を巡り始めた。ルーズベルト夫人いわく「(ヘレンの訪問は)負傷兵たちが体験した、おそらく最大の癒しでした」。ヘレン自身も、頭にキスしたり手を置くという、たったそれだけのことが傷ついた者を救うことを知って胸を動かされた。1946年からヘレンとポリーは海外盲人アメリカ協会の代表として、各国で障害者のために講演活動を続けた。1948年(68歳)、再来日。1950年に現在の東京ヘレン・ケラー協会と西日本ヘレンケラー財団が設立された。外交官の重光葵(まもる)は戦犯として巣鴨プリズンに収監されていた時、元将校の中に「あれは盲目を売り物にしている」とヘレンをけなす者がいたことから、日記に「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや」と怒りをぶつけた。1952年、仏からレジオン・ド=ヌール勲章を授けられ、同年から2年間の講演旅行が始まる。中東、中部アフリカ、北欧などを訪れた。1955年(75歳)、前年に没した岩橋武夫を弔うため3度目の来日を果たす。ヘレンとポリーの遠征は、1946年〜1957年の11年間で5大陸35カ国にのぼった。
1960年、3年前に脳出血を起こした秘書ポリー・トンプソンが他界。サリバンの死後、ポリーはどんなに困難な時も、真摯に、そして笑顔で助けてくれた。「きっと天国で2人は再会し、先生はポリーのことをとても誇りにしているはずです」。1961年(81歳)、ヘレンは軽い発作に襲われ、以降はコネティカット州イーストンの自宅で体を休めた。7年後の1968年6月1日、自宅で永眠。享年87。没後、日本政府は勲一等瑞宝章を贈った。
著作活動としては、1903年(23歳)に『私の生涯』を執筆し高く評価されたことを皮切りに、『私の住む世界』(1908※「心理学的古典」と絶賛された)、社会派エッセイ『暗闇から外へ』(1913)、自伝第2巻『流れの直中で』(1929)、『中流?私の晩年』(1930)、『私の宗教』(1940)、恩師を讃えた『教師、アン・サリバン・メーシー』(1955)、『オープン・ドアー』(1957)などを刊行。1954年(74歳)、『征服されざるもの』で生涯が映画化され、1959年(79歳)には米作家ウィリアム・ギブソン作の劇『奇跡の人』(ピュリッツァー賞受賞)でサリバンの偉業が舞台化され、同作は3年後に映画化された。
ヘレンの生涯は、三重苦に始まり波乱に満ちたものだったけれど、世界への飽くなき好奇心と強靱な精神力、そして根っからの楽天主義で様々な壁を乗り越えていった。ヘレンを知る多くの人が、人間の可能性の無限さを見せられた思いがしただろう。
〔墓巡礼〕 ヘレンの墓は米国の首都ワシントンD.C.に建つ『ワシントン国立大聖堂』の地下にある。この大聖堂は世界で6番目に巨大な聖堂であり、塔の高さは海抜206mに達する。アメリカ建国の父である初代大統領ジョージ・ワシントン(1732〜1799)が、宗派を超えた大聖堂の建設を計画し、死後1世紀近く経った1907年に着工、83年後の1990年に完成した。ホワイトハウスの約5キロ北に位置する。 僕は2000年に初めて墓所を訪れた。D.C.は面積177 km2(大阪の堺市より少し大きい)。長距離バスでアトランタから首都に入り、バス停から徒歩でヘレンが眠るワシントン大聖堂を目指した。首都で最も高い建物であり、遠くから「なんて大きいんだ」と感嘆しながら向かった。内部に入ると、国際連盟を提唱してノーベル平和賞を受賞したウッドロー・ウィルソン大統領の墓や、月面に初めて降り立ったアポロ11号が持ち帰った月の石がはめ込まれたステンドグラス「スペース・ウインドウ」があった。 中央祭壇の左奥に地下霊廟へ続く階段があり、その先の地下礼拝堂の一角にヘレンの墓を示す銅板がはめ込まれていた石壁があった。近づいて銘文を読んで驚いた。「HELEN KELLER AND HER LIFELONG COMPANION ANNE SULLIVAN MACY ARE INTERRED IN THE COLUMBARIUM BEHIND THIS CHAPEL」(ヘレン・ケラーと彼女の生涯の仲間アン・サリバンはこの礼拝堂の後ろの納骨堂に埋葬されている)、なんとサリバン先生が同じ墓所に!先生はニューヨークで没しているのでお墓もそちらか、或いは故郷のマサチューセッツ州にあると思っていた。師弟であると同時に、生涯にわたって最上の友だった2人がずっと一緒と分かって胸がいっぱいになった。 ヘレンの墓前ではもうひとつ、猛烈に感動したことがある。それは、2人の名前が刻まれた銅板の点字プレートが、点字の部分だけ指でこすられて金色に変色していたことだ。「こんなに色が変わるなんて、いったい、何千、何万人の人が2人に会いに来たのだろう!」。ヘレンの名を指でなぞっていると、誰もいない無人の霊廟にいながら、彼女をリスペクトしてここを訪れた世界中の人と心が繋がった気がした。世界をより良いものに変えていこうとした彼女に共鳴した人の多さに希望を感じた。「世界を動かすのは、英雄の強く大きなひと押しだけではありません。誠実に仕事をするひとりひとりの小さなひと押しが集まることでも、世界は動くのです」。 「マーク・トウェーン(作家。『トム・ソーヤの冒険』)と握手した際、その目の輝きを手の内に感じました」(ヘレン) 「19世紀にはふたりの偉人が出た。ひとりはナポレオン一世であり、いまひとりはヘレン・ケラーである。ナポレオンは武力で世界を征服しようとして失敗に終わった。しかしヘレンは三重苦を背負いながら、心の豊かさ、精神の力によって今日の栄誉を勝ち得た」(マーク・トゥエイン)
〔ヘレン・ケラー語録〕
●「幸せの一つの扉が閉じると、別の扉が開く。しかし、私たちは閉じた扉ばかり見ているために、せっかく開かれた扉が目に入らないことが多いのです」
●「不幸のどん底にいるときこそ、信じてほしい。世の中にはあなたにできることがある、ということを。他人の苦痛を和らげることができるならば、人生は無駄ではないのです」
●「世界を動かすのは、英雄の強く大きなひと押しだけではありません。誠実に仕事をするひとりひとりの小さなひと押しが集まることでも、世界は動くのです」
●「言葉というものがあるのを、はじめて悟った日の晩。ベットの中で、私は嬉しくて嬉しくて、この時はじめて、“早く明日になればいい”と思いました」
●「私は一人の人間に過ぎないが、一人の人間ではある。何もかもできるわけではないが、何かはできる。だから、何もかもはできなくても、できることを拒みはしない」
●「ナイアガラの滝の突出部に立ち、周囲の大気が震動し、足下の大地が震えるのを感じた時の感情は表現し難いです」
●ロックフェラー所有の炭坑で労働争議が起き、機関銃で鎮圧された事件について。「女性と子供たちをあんなに無慈悲に虐殺するなんて、ミスター・ロックフェラーは資本主義の化け物です。慈善事業の裏では無力な人たちが殺されるのを許しているのです」
●アイゼンハワー大統領の顔を触ったときのジョーク。「あなたの微笑みは美しいですね。でも髪の毛のほうはそうでもありませんよ」。
●ヘレンは楽器やスピーカー、口元に指を触れて音楽を楽しんだ。世界的バイオリニスト、ヤーシャ・ハイフェッツのバイオリンに触れた感想「個々の音譜がアザミの毛のように指先の上に留まり、それが私の顔や髪に触れるのです。まるでキスの感覚のように」。
〔関連語録〕
●アインシュタインからサリバンへの言葉「あなたの仕事は近代教育の他のいかなる業績よりも興味深いです。あなたはケラーに言葉を伝授したばかりでなく、彼女の個性を開花させました」。
●イタリア女性で近代教育法を革新したマリア・モンテッソーリ博士のサリバン評「私はこれまでパイオニアと呼ばれてきましたが、そこにはパイオニアであるあなたがいます」。
●オペラ歌手エンリコ・カルーソーいわく「ヘレン・ケラーよ、私はあなたのために人生の中で一番よく歌うことができました」。
※よく誤解されているけど、“奇跡の人”とはサリバン先生のこと。サリバンは教育者として傑出した能力を持っていた。
※ヘレンは三重苦の反面、味覚、嗅覚、触覚がケタ違いに鋭敏だった。
※子ども時代のヘレンは、母親から江戸時代の盲目の国学者、塙(はなわ)保己一のことを聞かされ、塙を手本に勉強したという。
※ヘレンは20世紀の三大重要人物に、エジソン、チャップリン、レーニンの名をあげた。
※1948年の来日ではハチ公像を触った。「(この動物愛は)日本人の人間愛を証明するもの」。
〔参考文献〕 『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ百科事典』(マイクロソフト)、『世界大百科事典』(平凡社)、『ブリタニカ国際大百科事典』(ブリタニカ)、ウィキペディアほか。こちらのサイトでは海外のヘレン伝記を翻訳されており、大いに参考にさせて頂きました。素晴らしい労作! |
《あの人の人生を知ろう》 | ||
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