源平時代のアウトロー
【 木曽義仲と巴御前 】 

Yoshinaka Kiso 1154-1184.1.20
Tomoegozen 1157-1247




義仲騎馬武者像〜富山・小矢部市の護国八幡神社
長野・木曽町の歴史資料館「義仲館」 PS2「義経英雄伝」から義仲&巴御前


源義仲とも呼ぶ。1歳の時に父・義賢が義朝(頼朝の父)との対立の中で殺され、義仲は乳母の夫・中原兼遠に長野県南西部の木曽で育てられた。※頼朝は義仲の7歳年上。義経は5歳年下。

1180年4月(26歳)、清盛が強引に安徳天皇を即位させると、平氏の独裁に不満を抱く後白河法皇の皇子・以仁(もちひと)王が平氏打倒を全国に訴えた。これを受けて8月に伊豆で頼朝が、そして9月に義仲が信濃国で挙兵した。翌年、越後から信濃へ攻めて来た平氏軍を撃破。そのまま父のかつての領国上野(群馬)への進撃を考えたが、東国統一を目指す頼朝との衝突を避け、自身は北陸地方の統一に専念する。
次の年は全国的に凶作に見舞われ、義仲軍、頼朝軍、平氏軍は共に兵糧が確保できず戦どころではなかった。

1183年3月(29歳)、父の弟・源義広が頼朝の配下になることを良しとせず挙兵。敗北した義広は義仲を頼ってくる。義仲が保護した結果、義仲と頼朝は対立し、義仲は西に平家軍、東に頼朝軍と両面を挟まれる形になった。頼朝は10万の兵で信濃に侵攻し、義仲は長男・義高を人質として頼朝に送り和議を求める。頼朝はこの和睦に応じ、義仲は心置きなく平氏との戦いに集中できるようになった。

5月、富山と石川の境界にある倶利伽羅(くりから)峠で、平維盛(これもり)率いる義仲征伐軍と激突。義仲軍5万に対し、平家側は10万の大軍。兵力は半分だったが、義仲は軍を本隊4万と分隊1万に分け、分隊を平氏軍の背後に回らせ、断崖の近くで夜襲をかけた。逃げ場を失った平氏軍は暗闇の中、逃げ道を求め次々と谷底へ落ちていった。約7万騎が埋め尽くした谷底は、馬には人が、人には馬が落ち重なっていたという。地の利を生かした戦法で圧勝した結果、平氏軍は一夜にして10万の兵がわずか2万まで激減するという空前の大敗北を喫した。

※倶梨伽羅峠の戦いで捕虜にした平氏の猛将・瀬尾太郎兼康を“失うには惜しい武士じゃ”と命を救ったところ、瀬尾は再び敵に回って多くの被害を与えた。頭に来た義仲は「今度はもう許さん!」と大攻勢をかけて瀬尾を自害に追い込む。最期まで瀬尾が奮戦したことを聞くと、「さすがは瀬尾。う〜む、やはり殺すには惜しい男だった」と悔いたと言う。例え裏切られても、忠義心を高く評価する義仲だった。

●義仲、上洛!

7月末、平家一門は義仲の追撃を恐れて神戸、九州へと都落ちしていく。その2週間後に義仲は比叡山にいた後白河法皇を保護し平安京に入った。都の人々は傲慢な平家を追い出してくれた英雄として義仲軍を喝采で迎え、東方(木曽)から日の出の勢いで上洛した彼を“朝日将軍(旭将軍)”と呼び讃えた。

この頃、京の都は飢饉で荒廃し尽くしていた。人口約15万人のうち、餓死者が4万人という地獄絵図(方丈記に記述アリ)。道端には死者が連なっている。その結果、義仲軍は都で兵糧を補給することが出来ず、腹を空かせた兵たちが民家へ押し入るなど、人々への略奪を始めた。収穫前の青田を馬のエサにしたり、他人の家の蔵を開けたり、兵の中には追い剥ぎをして着物を奪う者もおり、こうした略奪行為は「平家の方がまだよかった。服までは剥がれなかった」と言われるほどになった。また後白河法皇を始めとした公家達も、義仲が牛車の乗り方さえ知らず、食事の作法もなっておらず、木曽の野生児と馬鹿にした。

※牛車爆走事件…高い官位を得た義仲は、貴族の装束を着て烏帽子を被るが全く似合わない。牛車の牛飼いは元々平家の親玉・平宗盛に仕えていたので義仲を嫌っていた。それで牛小屋から気が荒すぎて3年も使っていない猛牛を選んだものだから、鞭を当てた瞬間爆走した。生まれて初めて牛車に乗った義仲は、仰向けに倒れ、手足をパタパタさせ車の中を転げ回った。羽根を拡げた蝶のようになっているので、さすがに気の毒に思った牛飼いは「手すりにお掴まりなさい」と教えてあげた。「おお〜、これは実に良い仕掛けだ。オヌシの案か。それとも宗盛殿か」と、すっかり感心し、手すりにしがみ付いていた。御所に着いた義仲は、後ろから乗って前から降りるというルールを知らず、「旦那様、前からです!」という指摘も聞かず後部から降りてしまった。

※猫間殿事件…猫間という土地に住む中納言・猫間殿が、所用で義仲の館を訪れた際のこと。取次ぎが到着を告げると、義仲は「都では猫が人に会うのか」と本気で信じて噴出した。猫間殿が広間に通されると、昼時だったので義仲はいきなり「やあ、猫殿、飯を馳走しよう」。当時の貴族は1日2食。義仲はそれを知らず、嫌がる猫間殿に食事を無理強いした。「さあ召し上がれ」目の前には縁の欠けた汚い椀に山盛りの飯、平茸汁。猫間殿は躊躇したが食べないのも悪いと思い少し口に運んで箸を置く。「猫殿は小食じゃのう。噂に聞く猫の食い残しとは、まさにこの事。ガハハ。さあ食え、それ食え!」。猫間殿はそそくさと退散した。

※鼓判官事件…法皇の伝言(「義仲は軍の狼藉者を捕らえよ」)を伝えたのは、鼓(つづみ)の名手“鼓判官(ほうがん)”。冗談好きの義仲は真面目な話の最中に「貴殿の名は誰かにぽこぽこ打たれ、頬をペタペタされたからか」と相手をおちょくったので、判官は激怒して立ち去り、法皇に「木曽を討つべし」と進言した。
 
10月、法皇は義仲軍を都から遠ざける為に、「平氏追討」を命じて西へ下らせた。しかし、“腹が減っては戦ができぬ”とはこのこと。義仲軍にはかつての連戦連勝を続けた覇気はなく、規律も乱れて「水島の戦い」(岡山・倉敷)で完敗した。
法皇は義仲の留守中に頼朝に接近し、「義仲追討」の令を発布。これを知って義仲は憤慨する“あのタヌキ親父め!”。「兵たちだって、兵糧があれば誰も略奪なんてしない。我らは命をかけて平氏と戦っているのだ。青田の一部を馬草にしたと非難するが、では馬に乗らず平氏と戦えというのか。なぜに分かって下さらぬ」。
12月、帰京した彼はクーデターを断行する。義仲軍は7千まで兵数が減っていたが、法住寺に終結した鼓判官率いる2万の僧兵・武士を討ち取り法皇を拘束し政権を掌握する。彼は人事を一新した。清盛は公家39名の官職を剥奪して非難を浴びたが、それを上回る47名を追放した。この『法住寺合戦』では、延暦寺の最高位・天台座主を含め、多くの高僧が犠牲になった。

※『法住寺合戦』に関しては、兵を統率する苦労を頼朝も痛感していたのか、義仲に同情的だった。「鼓判官の軽はずみな言動が帝を悩ませ、多くの高僧を失う事態となった。もう、奴を相手にするな!」。鼓判官は面目をなくし山里に隠居したという。

一方、義仲は宴を開き上機嫌。「この義仲、帝との戦に勝利した以上、私が天皇や法皇になるべきだろうなぁ。だが、法皇になる為に出家するのも妙な話だし、天皇になるには歳を取りすぎておる。童には戻れぬから関白になろう」。義仲は上皇(位を譲った後の天皇)が出家した場合に法皇となることや、この時の後鳥羽天皇は院政の中でたまたま子どもだった訳で、何歳で天皇になってもいいことを知らなかった。関白が藤原氏の要職ということも同じく知らない。

鎌倉から頼朝の大軍6万が出陣したことを知った義仲は、平家に対して「過去を水に流し共に力を合わせて頼朝を倒そう」と呼びかける。平家の親玉・平宗盛は「やった!これで都に戻れる!」と喜んだが、武闘派の知盛から“義仲が平家に降伏することが先です”とたしなめられ、反鎌倉の大連合は実現しなかった。日本は三国志の世界の如く、西に平家、都に義仲、東に頼朝と、三者が対峙しあう一触即発の状況だった。

●宇治川の合戦

1184年1月、義仲は自身を権威づけるため、約370年ぶりに征夷大将軍を復活させ就任する。20日、頼朝が派兵した源義経・範頼の率いる義仲討伐軍が京都に迫った。義仲軍の本隊は都への入口となる宇治川に布陣して義経隊と向き合い、分隊は瀬田(琵琶湖の南岸)で範頼と戦闘に入った。義仲は宇治の橋を事前に落としていたが、義経隊は佐々木高綱、梶原景季(かげすえ)が馬で渡りきったのをきっかけに、一斉に全軍が渡河を開始。ここに『宇治川の合戦』の火蓋が切って落とされた(義経は初陣)。義仲軍は6万の頼朝軍に7千の兵で激しく抗戦した。

しかし、やはり多勢に無勢、義仲軍の敗北は時間と共に決定的になっていく。戦場の混乱の中で、頼朝軍の間に「義仲は丹波(兵庫)へ逃げた」「いや北陸へ向かった」と情報が錯綜したが、義仲はまだ瀬田近辺にいた。兵数はわずか13騎。彼は分隊を指揮する今井兼平を探していたのだ。兼平は義仲が1歳の時に預けられた乳母の家の子。2人は兄弟のように育ち、子どもの頃から「死ぬ時は一緒」と固く誓い合っていた。分隊は千騎もおらず苦戦が予想された「兼平…生きていてくれ!」。
義仲の視界に琵琶湖が見えてきた。南岸の“打出の浜”に出たところで、遠くから約50騎の武士が近づいてくる。なんと、兼平たちだった!兼平もまた義仲と死を共にする約束を思い、宇治川を目指していたのだ。

視線の先に互いの姿を認めると、共に馬の足を速めて駆け寄った。義仲は兼平の手をとり、感極まって声を震わす。「業平!」「殿!」「六条河原で幾度も討死を考えたが、貴殿のことが気掛かりで、恥を忍んで敵に後ろを見せ、ここまで逃れてきたのだ」「この兼平も、瀬田にて死なんと幾度も覚悟しましたが、殿が心配で逃れて参りました」「小さい頃に“死なば一緒”と誓ったあの約束は健在か」「殿…!」。

義仲と兼平が手を握り締める姿を見て、散り散りになっていた味方の兵が集まり出した。その数、約300騎。彼らは皆、今から死ぬことを承知しつつ、自分の意思で集結した。「ようし!この浜で最期の戦いを始めるとするか!」。一帯を見渡した彼らの目に、6千騎を率いる甲斐・一条次郎隊が見えた。「うむ!良い相手が見つかった。同じ死ぬなら大軍の中で散ろうぞ!」彼は先頭になり“義仲はここであるッ!この首をとって頼朝に見せろーッ!”と叫び突っ込んで行く。一条は驚き「いかにも木曽殿!ものども、必ず討ち取れ!」。
突撃した300騎は大いに暴れ、敵陣を突破した時に50騎が残った。義仲も、兼平も、まだ生きていた。続いて土肥実平の2千騎に特攻をかけ、また2人は生きて突破した。さらに別の500騎へ、今度はこちらの300騎へと突撃を繰り返し、最後に5騎が残った。上洛前に5万人いた義仲軍は5人になった。そしてこの中に一人の女武者が生き残っていた。巴(ともえ)御前だ。

巴御前は27歳。兼平の妹で「色白く髪長く、容顔まことに優れたり」と記される義仲の妻(愛妾とも)。荒馬「春風」に乗って風を切る彼女は、人一倍派手な鎧を着て、大型の弓と大太刀を自在に扱う美しき猛者。宇治川の戦場を13騎で脱出した時、前方に立ち塞がった敵将・畠山重忠をして「かの者は女に非ず、鬼神にも勝る」と言わしめ、追討を諦めさせた勇将だ。

義仲は巴に生き延びて欲しかった。もはや5騎、ここから先は確実な死が待っていた。「巴、よくお聞き。今からは別行動だ。早く逃げなさい」「いやです。最後までお供いたします!」。巴は死ぬまで義仲に寄り添うと言ってきかない。彼女に対し“命を大切に”と説得しても通用しないので、義仲は心を鬼にして言った。「巴!お前は私のことを、“最後の戦に女を連れていた”と世の笑い者にしたいのか!」。
武士の名誉を語られて、彼女は言葉が出ない。なおもしばらく義仲から離れるのをためらっていた。
義仲が「さらばじゃ!」と言って馬を駆けて行くと、敵の30余騎が後を追撃した。巴は泣きながら、その敵のど真ん中へ「私と戦え!」と愛馬を突入させる。彼女は真っ先に大将の体を掴んで引き落とし、鞍(くら)に首を押し付けると、それを斬って投げ捨てた。巴は東国へ落ち延びて行く。

近江国粟津(あわづ、滋賀・大津市)。義仲は新たに追撃を受けていた。琵琶湖南岸は敵だらけだ。矢も少なく、いよいよ最後の局面となった。兼平は腹をくくった“ここまで戦えば悔いはない”。「殿、残りの矢は7、8本です。私が時間稼ぎをしている間に、あそこに見える粟津の松原(松林)で静かに御自害なされ」「何を言う。私は共に戦って散るぞ」。兼平の頬を涙がつたう「日本国に名を馳せた殿が、無名の雑兵に討たれてはあまりに無念ゆえ、早く松原へお入り下され」。これ以上、義仲には何も言えない。「兼平さらば!」と単騎、松原を目指した、

兼平は、素早く矢を放って瞬時に7、8騎を射落とし、矢が尽きると太刀を振り回した。敵は「奴を早く射れ!」と、次々と射掛けたが気迫に圧倒されて命中しない。義仲が“よし、もうすぐ松林だ”と思ったその時、馬の足がぬかるみに捕らわれ身動きがとれなくなった「不覚!」。そして“兼平はどうなったのか”と背後を振り返った瞬間、彼の額を矢が貫いた。即死だった。享年30歳。
敵はその首を掻き切ると太刀の先に刺し掲げ「鬼神と聞こえし木曽殿をこの石田次郎が召し取ったり!」と、名乗りを挙げた。兼平はこれを聞いて「もはや戦う意味はなし!木曽武士の死に様、貴様らよく見とけ!」。彼は馬上で太刀の先端をくわえると、頭から飛び降りて刺し抜いた。

●義仲寺

墓は義仲を憐れんだ近隣の大津・膳所(ぜぜ)の村人たちが造った。法名、徳音院義山宣公。その数年後、尼僧が墓の側に草庵を結び、朝夕に菩提を弔い始めた。人が名を尋ねると「名は捨てました」。後に村人は彼女が巴御前と知り、没後に草庵を「無名庵(むみょうあん)」といつしか呼び始める。草庵の名は巴寺、木曾塚、木曾寺と移り行き、100年後には「義仲(ぎちゅう)寺」となった。
義仲の他界から510年後(1694年)、一人の俳人が遺言を弟子に残す「私の亡骸は義仲公の側に葬って欲しい」。その俳人の名は松尾芭蕉。芭蕉は大人気の義経ではなく、アンチヒーローと見られている義仲を愛し、『奥の細道』の完成後の最晩年は、京都・嵯峨の「落姉舎(らくししゃ)」と義仲寺を交互に住んだ。※境内の庭園には「無名庵」が建てられ、1691年(死の3年前)には庵に3ヶ月間滞在している。
所要で向かった大阪で逝去した芭蕉の亡骸は、遺言に従って弟子10名(去来、基角他)が舟に乗せ、淀川を上がって義仲寺・無名庵の前に埋葬した(正面右から芭蕉、義仲、巴御前の順で並んでいる)。境内には弟子の又玄(ゆうげん)によって句碑が刻まれた「木曾殿と背中合せの寒さかな」。

  左奥に義仲、右手前に芭蕉の墓

源平争乱を全体から見た時に、“一ノ谷”や“壇ノ浦”での義経の華々しい活躍ばかりがクローズアップされているが、平家打倒の真の功労者は戦乱初期の「倶利伽羅峠の戦い」で、10万の平氏軍を2万まで壊滅させ、平家一門を海上へ都落ちさせた義仲だ。彼が20年続いた平氏政権を3年で打倒したのだ。義経の少人数での奇襲作戦が通用したのは、義仲がごっそりと平氏軍主力部隊の戦力を奪っていたから。平氏軍は人数が減った上に、新たに増えた兵は忠誠心のない傭兵(ようへい)ばかりになってしまった。

僕は長年、義経や頼朝の視点でしか義仲を見ていなかったので、彼のことを短慮で粗野な無法者という印象しか持っていなかった。だから、なぜ芭蕉ほどの男が、義仲の墓の側に住んだり、死後は隣に埋めてくれと遺言までしたのか、その気持がさっぱり分からなかった。しかし、共に死ぬ約束を果たす為に兼平を探し回る姿や、牛車爆走事件で手足をバタつかせている様子、猫間殿への無邪気な振る舞いを通して、荒くれ者ではあるが決して悪人ではなく、むしろその不器用さ、一本気さに親しみを感じた。何より、「木曽義仲」という人物に魅力がなければ、巴御前がああまで慕い、圧倒的に不利な戦力差で兵がついて来るハズがない。平家物語や記録に残らないエピソードが多数あることが容易に想像できる。芭蕉は豪傑であると同時に素朴で人間味の溢れる義仲の人柄を愛したのだろう。

※人質として頼朝の下にいた義仲の子・義高は、頼朝の長女・大姫と結ばれていた。始めこそ政略結婚であったが、大姫は義高にベタ惚れになる。義仲が討たれたことで大姫は義高の身が心配になって彼を逃がそうとするが、義高は捕らわれ処刑された。彼女は父を恨み、悲しみのあまり長く床に伏せる。政子は頼朝を強く非難した。後に義経の愛妾・静御前が鎌倉へ連行された時、大姫は父に愛する者を奪われた彼女に身を重ね、様々な贈り物をしている。
※「義仲の寝覚(ねざめ)の山か月かなし」(芭蕉)
※墓は他に3ヶ所。長野県木曽郡木曽町(木曽福島)の徳音寺に木曽義仲、巴御前、今井兼平の墓がある。寺の名前は義仲の戒名「徳音院義山宣公」が由来。また興禅寺には巴御前に託された遺髪が義仲の墓に納められている。墓前には種田山頭火の歌碑「さくらちりをへたところ旭将軍の墓」が建つ。京都東山の法観寺には首塚がある(八坂の塔の横)。六条河原で晒され法観寺に葬られたとのこと。巴御前の墓も滋賀・国分寺の境内に供養塔(瀬田の唐橋の西)、横須賀市岩戸、横須賀市佐原など複数あるようだ。



お薦め参考サイト…『平家物語』現代語訳と写真で綴られており、めちゃくちゃ分かりやすい!



  
中央、薄茶色の灯篭を挟んで向かって右が義仲、左の小さな墓石が巴御前(義仲寺)


《あの人の人生を知ろう》
★文学者編
・宮沢賢治
・太宰治
・小林多喜二
・樋口一葉
・梶井基次郎
・清少納言
・近松門左衛門
・高村光太郎
・石川啄木
・西行法師
・与謝野晶子
・茨木のり子
●尾崎放哉
・種田山頭火
●松尾芭蕉
・ドストエフスキー

★学者編
●南方熊楠
●湯川秀樹

★思想家編
●チェ・ゲバラ
・坂本龍馬
●大塩平八郎
・一休
・釈迦
・聖徳太子
・鑑真和上
・西村公朝
・フェノロサ

★武将編
●明智光秀
●真田幸村
・源義経
・楠木正成
●石田三成
・織田信長




★芸術家編
●葛飾北斎
・尾形光琳
・上村松園
●黒澤明
・本阿弥光悦
・棟方志功
・世阿弥
・伊藤若冲
●グレン・グールド
●ビクトル・ハラ
●ベートーヴェン
●ゴッホ
・チャップリン

★その他編
●伊能忠敬
・平賀源内
・淀川長治
●千利休

●印は特にオススメ!

※番外編〜歴史ロマン/徹底検証!卑弥呼と邪馬台国の謎(宮内庁に訴える!)



愛と情熱のTOPページへ



【最新ランク】 DVDトップ100 本のベストセラー100 音楽CDトップ100 玩具のトップ100/(GAME)