2005 |
左から定家(鎌倉)、足利義政(室町)、伊藤若冲(江戸) 時代ごとの墓の形の違いがよくわかる |
1999 |
鎌倉初期の歌人。父は千載和歌集を撰進した歌人藤原俊成。幼少の頃から父に歌の指導を受け、また西行法師や平忠度らと親交を持ち、天性の歌心に磨きをかける。1178年、16歳で初めて歌合(うたあわせ、和歌バトル)に参加。1180年(18歳)、源氏が挙兵し源平の争乱が勃発。この年から定家は日記『明月記』を73歳まで56年にわたって書きつづる。その最初の年にこう刻んだ「世上乱逆追討耳ニ満ツトモ、之ヲ注ゼズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」。“世間では反乱者(平家)を追討せよなどと騒いでいるが、そんな事はどうだっていい。紅旗(朝廷の旗)を掲げて戦争しようが、俺の知ったこっちゃない”。若き定家は、愛する和歌の世界を究める為、孤高に我が道を行くと宣言しているんだ。翌年、その言葉の通りに19歳で『初学百首』を、20歳で『堀河題百首』を詠んだ。その内容の素晴らしさに、父・俊成は感涙にむせんだという。 定家は天才型に多い直情タイプの性格で、歌人にあって血の気が多く、1185年(23歳)、宮中で少将源雅行に侮辱されて殴りかかり、官職から追放されるという事件を起こす(父の奔走で3ヵ月後に許された)。同年、平家が壇ノ浦で滅亡。天下の変動に目もくれず創作に打ち込んでいたが、定家の歌風は禅問答のように難解と、世間から「達磨(だるま)歌」と非難された。彼はそれに屈せず、24歳の時に西行から勧められて『二見浦(ふたみがうら)百首』を詠み、そこに名歌「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮」(花も紅葉も何もなく秋の夕暮れに沈む海岸の漁師小屋)を収めた。 1188年(26歳)、父の手による『千載集』に8首を採用される。ますます歌道に精進し、政界の実力者九条家に出仕するようになって順調に官位を上げ、また九条家の歌人グループと親交を深めるにつれ定家への誹謗は消えていった。1193年(31歳)に『六百番歌合』で詠んだ百首は、中から35首も新古今集に採用された。34歳の『韻歌百二十八首』では「旅人の袖吹き返す秋風に夕日さびしき山の梯(かけはし)」(夕日が照らす寂しい山の架け橋を、旅人が秋風に袖を吹かれながら渡って行く)、「行き悩む牛の歩みに立つ塵の風さへ熱き夏の小車」などと詠んだ。この冬、源通親のクーデターにより九条家は失脚、定家も出世の夢は消え、貧乏かつ病気がちになる。36歳、『仁和寺宮五十首』で「大空は梅の匂いにかすみつつ曇りもはてぬ春の夜の月」(大空が梅の香りと霞に満ちる春の夜のおぼろ月)、「春の夜の夢のうき橋とだえして嶺にわかるる横雲の空」(春の夜に浮き橋の如く儚い恋の夢から目覚めると、たなびく雲も山の峰から別れていくところだった)を詠む。同年息子の為家が誕生。 1200年(38歳)、不遇な現状を打破すべく、和歌を愛する後鳥羽院の目にとまろうと精力を傾けて『院初度百首』を詠み「駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野の渡りの雪の夕暮」(馬をとめ袖に降り積もった雪を振り払う物陰もない、佐野の渡し場の雪の夕暮れよ)を収めた。果たして後鳥羽院はこれを絶賛、宮廷への出入りを即日許された。かつては九条家の歌人だったが、ついに宮廷歌人となったのだ。この頃の歌は「白妙の袖のわかれに露おちて身にしむ色の秋風ぞふく」(一夜を過ごした朝の別れに涙の露が袖に落ち、吹き来る秋風が身に染みます)、「たづね見るつらき心の奥の海よ潮干のかたのいふかひもなし」(あの人の冷めた心を探ってみれば、もう何を言っても気持が戻らないことが分かった。潮が引き干上がった潟のように何も貝=甲斐がない)などがある。 後鳥羽院をバックにつけ歌壇の第一人者となった定家は、歌合の審判になるなど絶頂を迎え、翌年、院から新古今和歌集の選者に任命される。ここから4年間の歳月をかけて膨大な数の歌を選定していくことになったが、後鳥羽院と定家は互いに一家言を持つ激情家だったことから、好みの歌を巡って大激突。たとえ相手が上皇だろうと、歌に関しては頑固に折れることを知らない定家(まして相手は18歳も年下)は院を憤慨させ、徐々に関係が険悪になっていった。 その後の定家は歌を作ることより理論等の研究に興味が移っていく。歌論書の執筆の傍らで将軍源実朝の歌を通信添削もしていた。1216年(54歳)、自分のベスト作品集『拾遺愚草』を制作。1220年(58歳)、ついに定家と後鳥羽院の緊張はピークに達し、激怒した院は定家を謹慎処分(歌会の参加も禁止)にした。 ところが翌年に後鳥羽院は鎌倉幕府を打倒すべく挙兵し(承久の乱)、完敗した後、隠岐に流されてしまった。定家の境遇は一気に好転し、高い官位を得て生活が安定した。歌壇の大御所として君臨した定家は、かねてから古典を熱愛していたこともあり、自らの次の仕事として、『源氏物語』『土佐日記』など様々な作品を、後世の人々に正確に伝える為に筆をとって写しまくった。 1232年(71歳)、後堀河天皇より新たな歌集を作るよう命を受け、官位を辞し出家して選歌に没頭、三年後に『新勅撰和歌集』をまとめあげた。 1236年(75歳)、それまでの歌集制作の総決算的な意味合いで『小倉百人一首』を選出した。※カルタになるのは戦国末期にトランプが入って来てから。 1241年、79歳で永眠。その2年前に後鳥羽院も隠岐で亡くなっていた。院は流される時にわざわざ新古今の資料を運んでおり、かの地で自分好みの「隠岐本新古今和歌集」を完成させている。定家も院も、本当に歌が好きで好きでたまらなかったんだね。 定家の墓の隣は200年後に亡くなった室町8代将軍足利義政、さらにその横には600年後に亡くなった絵師伊藤若冲(遺髪)が眠っている。何とも不思議な顔合わせだ。 |
《あの人の人生を知ろう》 | ||
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