史上最強の超名作洋画
ベスト1000

〜映画を愛する者は人生を愛す〜

   第1位〜第100位   

1〜100位  101〜200位  201〜300位  301〜400位 401〜500位
 501〜600位  601〜700位 701〜800位 801〜900位 901〜1000位
 次点1001位〜

このランキングは映画に優劣をつけたものではなく(芸術にランクは無意味)、あくまでも管理人が人生に影響を
受けた作品順です。いろんな映画と出合う為のきっかけ、入門用として書いています。(*^v^*)
(注)皆さんがお気に入りの作品がココに登場しない場合、僕が“未見”と思って頂いて間違いないです。


1.チャップリンの独裁者('40)126分 米                        
チャップリンがヒトラーとユダヤ人の床屋という、抑圧者と抑圧を受ける側の一人二役をこなす反戦コメディの金字塔。チャップリンはヒトラーと同年同月生まれ(わずか4日違い)。双方が黒髪、小柄で、トレードマークがチョビ髭とは信じられない偶然だ。
この映画の強烈な反戦平和メッセージは、ナチスだけでなく米国の軍部や軍事産業にも警戒され、様々な妨害と圧力が撮影中のチャップリンに加えられた(後年、この映画がもとで彼は赤狩りにあい米国を追放される)。

作品の撮影が始まったのは、ドイツがポーランドに侵攻し2次大戦が勃発した1939年9月。終戦は1945年だ。つまり、戦争が終わってからヒトラーを告発する映画を作ったのではなく、世界がまだアウシュビッツの地獄を知らず、米社会もパールハーバー前で欧州の政情に無関心だった中、彼はいち早くファシズムの危険性に警鐘を鳴らしまくっていたのだ。
参戦前の米国には人種差別主義者やナチの信奉者が少なくなかったので、
「何度も脅迫を受けている。このまま撮影を続けると殺されるかもしれない」
とチャップリンは周囲に語っていた。
作品中のヒロインの名を、自分の母親と同じ“ハンナ”としたのは、“何としても作品を完成させる!”という決意表明に思える。

この作品に驚嘆するのは、コメディという表現手段をとりつつも、平和を求める切実な思いがビリビリ伝わってくることだ。反戦映画によくある、罪なき民衆の亡骸を延々と映す演出は、戦争の愚かさの表現手段としては分かりやすく簡単だ。だが、娯楽好きな米国人は暗く深刻な映画では劇場に足を運んでくれない。コメディなら政治に無関心な層にも受け入れられると確信していたチャップリンは、「これを撮るのは私の天命だ」と、圧力に負けず執念で完成にこぎつけた!(笑いの中で反戦を伝えるのは、どれほど難しいことだろう!)

印象的なシーンは山ほどある。ヒトラー(役名はヒンケル)が風船の地球儀と戯れる場面や、ハンガリー舞曲にあわせて床屋業を営むコミカルなシーン、フライパンが頭を直撃し千鳥足で踊るダンス、ムッソリーニ(ナパロニ)との滑稽な意地の張り合い、等々。
鳥肌が立ったのは、ユダヤ人街焼き討ちシーンの直後にヒトラーが一人でピアノを弾いているカット。冷酷な命令を下した人間が、何事もなかったかのように美しいピアノ曲を弾いているこの狂気に、僕は心から戦慄を覚えた。
そしてあの“世紀の6分間”と呼ばれるラストの大演説!頑固なまでに無声映画にこだわっていた彼が、このクライマックスの撮影の為についにトーキーに踏み切ったのだ。彼いわく「ついに語るときが来た」決定的シーンだ。ぜひ、その目、その耳で確かめて欲しい。彼が「ビバ!デモクラシー!(民主主義万歳!)」と叫ぶ命がけのメッセージを!

※この映画で米国を追放されたチャップリンは、1972年にアカデミー名誉賞に輝き約20年ぶりに訪米。授賞式で彼に贈られたスタンディングオベーションはオスカー史上最長の約5分間にわたった。
※本作品はチャップリンの他作品と同様、監督、脚本、製作、主演、全てが彼の手によるもの。
※「アウシュビッツを撮れなかった『映画』(という芸術)は、チャップリンが『独裁者』を撮ることで辛うじて生き延びた」(ゴダール)
※ヒトラーは首相官邸でこの映画を笑い転げながら3度見た後、上映禁止処分にしたという。
※近年、撮影に使用されたヒンケルの衣装がオークションで競り落とされた。その人物の名はBONO。言わずと知れたU2のヴォーカルである。
※NY批評家協会賞(1940)男優賞

 
2.トーチソング・トリロジー('88)115分 米
人間誰しも自分の心に正直に生きたいもの。しかし、世間の様々なしがらみの中で己を通すということはとても困難だ。だからこそ、しっかりと頭(こうべ)を上げて自分の人生を歩き続ける人物に出会うとたまらなくカッコ良く見える。『トーチソング・トリロジー』の主人公アーノルド(ハーヴェイ・ファイアスティン)は、もう若くも美しくもなく、自嘲的に自らを“ヒキガエル”と呼ぶ中年ゲイ。だが、その内面は誰よりもピュアで、溢れんばかりの愛情を抱いている。そして誰に対しても底抜けに優しく、苦難にぶつかってもユーモアを忘れない。差別されることを恐れて同性愛者であることを隠している人も多いなか、彼は両親にもゲイであることを告白(カミングアウト)し、傷つきながらも毅然と胸を張って生きている。タイトルの“トーチソング”の意味は失恋歌。1970年代のニューヨークを舞台に、アーノルドの10年間をトリロジー(3部作)として描いている。

【ストーリー/ネタバレ文字反転】
第1章は1971年。女装歌手としてステージに立つアーノルドは、ゲイ・バーで出会ったエド(ブライアン・カーウィン)と恋に落ちる。だが、エドは周囲にゲイであることを隠しており、女性の恋人を持つバイ・セクシャルだった。アーノルドは自分を偽るエドに我慢できず2人は破局する。
第2章は1973年。ゲイ・バーでトラブルを起こした美青年アラン(マシュー・ブロデリック)をアーノルドが救ったことから2人の共同生活が始まる。アランはアーノルドによって都会の荒んだ暮らしにぬくもりを見出し、アーノルドもまたアランの純粋で一途な想いに心の安らぎを得る。だが、7年間の交際を経て“結婚”に踏みきり、養子縁組が決まった矢先に、アランはゲイを蔑視するチンピラたちに撲殺されてしまう。
最終章は1980年。養子で高校生のデイヴィッドと暮らすアーノルドの元へ、母親(アン・バンクロフト)が訪ねてくる。彼女はゲイである我が子を受け入れられず、アーノルドの人生を「歪んだ生き方」として認めてくれない。亡きアランのことまで侮辱する母親に対し、アーノルドは抑えていた悲しみを吐き出す。「ぼくは人に頼らず自分の事は自分で出来る。独りで生きてゆける。だから人に愛と敬意以外は求めない。それを持たない人に用はないわ。あんたは母親、愛してるわ。心から。でもぼくを見下げるなら出て行って」。そんな折、かつて別れたエドが、ゲイであることを公言する覚悟を決め、アーノルドやデイビッドと暮らしたいと申し込んできた。エドの気持ちは嬉しいが、アランの思い出を断ち切れないアーノルドは、母との別れ際に悩みを話す。「ママ…アランが恋しいわ。死人は愛しやすい…欠点がないから」「時が癒してくれるわ。傷が消え去るのではない。仕事して子供を育てて私とケンカしても、傷は残って指輪のように体の一部になる。傷がある事に慣れてしまう。慣れるけど忘れはしない。それでいいのよ」。“忘れる必要はない”という言葉に救われたアーノルド。皆が外出した後、1人になった部屋にラジオからエラ・フィッツジェラルドの名歌『This Time The Dream's On Me(今こそ夢がかなった)』が流れる。この曲は、以前にアランがアーノルドへのプレゼントにリクエストしてくれたもの。その思い出の曲をデイビッドもまた贈ってくれたのだ。アーノルドは部屋に散らばっていたデイビッドの野球帽、母の土産のオレンジ、エドの老眼鏡、アランの写真を集めると、それらを抱えてソファーに座り、皆への愛をたっぷり込めて抱きしめた。優しさと温かさに満ちた静かな幸福感がアーノルドを包み込んでゆく--。

ゲイ・ムービーといえば、マイノリティが受ける差別や偏見を告発する社会派作品が多いけれど、この映画は親子や恋人と交わされる普遍的な愛を描いている。ゲイの恋と聞いて抵抗を感じる人がいるかも知れないけど、純粋な愛にゲイもストレートも関係ない。映画を見始めて5分もすれば、アーノルドの優しさと人間味溢れる人物像に引き込まれているだろう。性別を越えてこれほど魅力的な人物は滅多にいない。人生で遭遇する喜びも悲しみも、すべてを丸ごと受け止め、どんな状況でも「誇り高く」生きているアーノルドの姿は、何度鑑賞しても感動的だ。

映画の演出で特筆したいのは、突然スクリーンの中から観客に話しかけてくるという手法。恋に悩むアーノルドが「皆はどう思う?」といきなり僕らに向かって話しかけてくるのでビックリする。『ヘンリー五世』のような歴史劇で狂言回しが話しかけてきたり、ミュージカル映画で観客に向かって歌いあげるってのはあるけど、演技の途中で主役が急に人生相談をしてくる作品は他にちょっと思いつかない。この手法は実に効果的で、銀幕の中の人物との距離が一気に縮まり、アーノルドのことを他人事に思えなくなる。他者に裏表なく誠実に接するアーノルドは、それがために人一倍傷つきやすく、そんな彼を応援せずにはいられなくなる。差別される側として心を強く持たなければやっていけない彼が、苦しみをユーモアに変えて乗り越えている姿が胸を打つ。
それにしても、“自分の心に嘘はつかない”という生きる姿勢を貫き通す人間は、こうも輝いて見えるものなのか!現在、孤独感に襲われている人がいたら、是非この映画を見て欲しい。「ぼくを見下さないで」というアーノルドの魂の叫びが心に届くはず。一人で生きてきた彼の言葉はどれも生きぬく為の力となること間違いなし。映画が命の恩人にもなり得る。世界をありのまま受け入れ、深く大きな愛で包み込む、映画史上最高のラストシーンがあなたを待っている!

※アランの墓前で言った「たった7年の日陰の恋。でも、巡り会えただけ幸せだった」というセリフが泣ける。“巡り会えただけ幸せだった”というフレーズはは、失恋した時に自分を励ます言葉として何度重宝したことか。
※この作品は元々ブロードウェイで演じられ、トニー賞の戯曲賞&男優賞を受賞(83年)した傑作舞台だ。原作者で主役を演じたハーヴェイ・ファイアスティンが、映画でも脚本と主演を担当。ファイアスティンのダミ声は実に魅力的。
※本作が公開された頃、『モーリス』(1987)や『アナザーカントリー』(1984)など若いイケメンの同性愛を描いた作品は女性たちの人気を集めていた。僕はこの中年男の愛を描いた作品こそ、孤独な魂を描いた本物のゲイの映画だと感じた。
※製作されたのは1988年。ゲイがエイズ問題でバッシングされるなか撮影された。06年に『ブロークバック・マウンテン』でアン・リーがアカデミー監督賞を、09年に『ミルク』でショーン・ペンが主演男優賞に輝くなど、昔に比べてハリウッドで市民権を得てきた同性愛。しかし、州によっては同性婚が違法になったり、サウジアラビア、イラン、アフガニスタン、パキスタン、イエメン、ナイジェリア、スーダンといった国では同性愛が「死刑」となるように、深刻な差別はまだまだ残っている。

 

3.ガタカ('97)106分 米
1本の映画との出会いが人生そのものを変えてしまうことがある。僕にとってこの『ガタカ』がまさにそれだ。(従来の安定した生活を捨て、文芸研究家という、明日の身さえも分からぬ生き方を選んでしまった)

“帰り道のことを考えずに生き始めた時、あらゆることが可能になる!”こんなテーマの作品が現れることを、自分はどれだけ待ち望んでいたことか!
この作品は、人間が国籍でも人種でもなく、遺伝子の優劣によって差別されてしまう近未来の物語。遺伝子を調べることで、寿命がどれくらいか、そしてどんな病気で死ぬのか、そこまで分かってしまう世界の話だ。
主人公ヴィンセントは、生まれた瞬間に「推定寿命30才、心臓病」と医者から短命の宣告を受ける。彼は何をするにも「心臓のことを考えろ」「お前には絶対ムリだ」と周囲から言われ続け(両親からさえも)、だからこそ最も実現が困難な夢=宇宙飛行士を目指す(宇宙飛行士は頭脳的にも肉体的にも最高度のものを求められる)。「自分の限界を他人に決めさせない」と、人間の可能性を遺伝子レベルで切り捨てようとする社会に“努力”で反抗し、いくら壁にぶつかっても、ひたむきに挑戦し続けるヴィンセント。この主人公の生き方に、一体どれほど多くの人間が勇気づけられただろう!
この映画には途中からもう一人の主人公ジェロームが加わる。彼は「遺伝子の申し子」と呼ばれるほど、超人的に優れた遺伝子を持つ男だ。しかし、その「完璧さ」が精神的重荷となって彼を苦める。周囲は常に彼に期待するし、何でも“出来て当然”と思っている。周りの過度な期待を日常的に背負い続けるのは本当に辛いことだ。映画はそんなジェロームがヴィンセントと出会うことで、内面に大きな変化を起こしていく過程も描いている。

音楽は“ピアノ・レッスン”で名をはせたマイケル・ナイマン。ハリウッドの露骨な商業主義を嫌い、ずっと米国映画の仕事を断り続けていた彼は、この作品の脚本を読み終わった後、感極まり自ら作曲を申し入れた。そのサントラの解説に次のような一節があった。
『不完全であることの魅力…不完全な人間にも可能性はある。不完全だからこそ、完全を目指すエネルギーがとてつもないエネルギーに進化する』
この文章はこの映画の本質を見事に集約している。人生の糧になる映画だ。

自分は32歳でこの作品と出会ったが、劇場で年甲斐もなく大号泣してしまった。上映後一時間もしゃがみこむほど、それはもうモーレツに。僕はこの映画に背中を押してもらった。もっと詳しく書きたいけど、それはネタバレ・コーナーにて。アカデミー美術賞にノミネートされた、シンプルで清潔感のある近未来のセットも良い。

※ガタカのタイトルはDNAに含まれる4つの化学物質、adenine、thymine、guanine、cytosineの頭文字からとられた。ガタカは遺伝子エリートの象徴なんだ。タイトルロールでは役者の名前のATGCだけが浮き上がるようになっている。
※ガタカの宣伝チラシに、ヴィンセントが目指していた土星と、人間の卵子が半分ずつ合わさって円を作っている写真がある。あの発想はすごい。ゾクッときた。
※僕にとって、このトップ3は人生の大恩人。「独裁者」からは良心の声に従って世界と向き合う“勇気”を、トーチソング・トリロジーからは“愛”の本質を、「ガタカ」からは夢に向かって突き進む“行動力”を学んだ。
【ネタバレ文字反転】
映画の中盤で指名手配されたヴィンセントが悲観して宇宙へ行くのを諦めかけた時、ジェロームが「俺はどうなる!?どうやって宇宙へ行けと言うんだ!」と叫んだ事に胸を打たれた。この頃のジェロームの頭の中では、ヴィンセント=彼自身であり、自分が宇宙へ行くと思い込んでいる…。
ジェロームが必死になって、らせん階段を自力で登るシーンがあるが、あれはDNAの申し子である彼が、自分の遺伝子の呪縛を克服すべく、もがき苦しみ、闘っている象徴だ(DNAはらせん状)。そして彼は打ち勝った!
ジェロームがコンプレックスの象徴として憎んでいた銀メダルを、死ぬ間際に自分で自分にかけたのも素晴らしい。メダルの色を決めるのは他人なのか、それとも自分なのか?彼は自身が全力を出したと納得できたなら、どんなメダルも金と同じだと思ったのだろう。ジェロームは塵と化したが、「人間が宇宙の塵から出来たのなら、僕は故郷に帰るのかもしれない」と語るヴィンセントのラストの言葉が、ジェロームの死を“宇宙そのものとして生きる”という形に昇
華していた!
※ラスト近く、ヴィンセントをニセモノと見抜いたドクターが見逃してくれるシーン。字幕には出ていなかったが、英語では「早く行けヴィンセント」と名前を言っていた。もうずっと前から気づいていたようだ。ヴィンセントがどこまでやれるか応援したかったんだろう(ドクターの子供も病弱)。助かると思っていなかった主人公が、ドクターを茫然と見つめるカットは、映画史上に残る名場面だと思う!
※遺伝子操作されずに自然に任せて産まれた人間を、ユマ・サーマンが「神の子」と言ったシーンは、その言葉だけでウルッときた…。


 
4.クラッシュ('04)112分 米
クラッシュ(衝突)は国家の間や地域社会、家族の間、様々な場所で起きる。小さな行き違いが大きな対立を生むことも。作品のテーマはズバリ「不寛容」。日常生活の中で個人が抱く小さな負の感情が重なり合って、社会をズタズタにしていることを描いている。この映画は人間を単純に善人・悪人に分けていない。人種差別主義者は24時間有色人種を差別しているわけじゃなく、時と場合によっては命がけで相手を助けようとする。短気で常に他人を批判している人物の心の内には地獄のような孤独感がある。登場する全員が日々の中で何かしら辛い問題を抱えており、ストレスのはけ口が弱者への差別となる。
悲劇の本質は、誰もが生活に精神的な余裕がなくて、他者の内面まで考えられない「想像力の欠如」。他人の為に何かをすることが「損」と思われ、人を信用すると馬鹿と言われる風潮。憎悪や偏見という負の感情で人々は圧死寸前になっている。この映画は観客に“一呼吸つこう、その憎しみの先を考えて”と語りかける。そして、ちょっとしたきっかけで、負の感情がプラスに変わる瞬間が幾つも描かれる。苦手だと思っていた相手の小さな善意を見ただけで、その人を許せてしまう。見事な心理描写で、登場人物の気持が変化していく過程を追う。
『ミリオンダラー・ベイビー』で製作・脚本を手がけたポール・ハギスの初監督作品。

【以下、ストーリーが素晴らしいのでラストまで完全ネタバレでいきます(文字反転)】

クリスマス間近のロサンゼルス。黒人刑事グラハム(ドン・チードル)が同僚に呟く。「触れ合いだよ。街中を歩けば、よく人と体がぶつかったりするだろ。でもロスじゃ、触れ合いは皆無。人々は金属やガラスの後ろに隠れている。でも本当はみんな触れ合いたいのさ。ぶつかり合って何かを実感したいんだ」。
---ある夜、若い黒人二人組アンソニーとピーターが白人街で強盗のカモを物色していた。アンソニーは白人を敵視し、「バスの窓が大きいのは、乗客の黒人を晒し者にして乗らせなくするためだ」と考えている。「ここは白人ばっかで超安全な場所だ。ここでビビるのは俺らの方だぜ。俺たちは囲まれている。カフェイン過剰の白人どもと、やたらバンバンぶっ放すロサンゼルス市警にな。だが俺たちにも銃があるぜ」。白人を毛嫌いし、義賊気取りのアンソニーたちが襲ったのは、地方検事リックとその妻ジーン(サンドラ・ブロック)の車だった。
夫妻は家の鍵まで奪われた為、帰宅後すぐに鍵屋を呼びド家中の鍵を交換したが、鍵屋の職人ダニエル(マイケル・ペニャ)がヒスパニック系であったことから、ジーンは「家を出た途端、合い鍵をギャング仲間に売るに決まってるわ」と聞こえよがしに言い放つ。ジーンは家政婦のマリア(ヒスパニック系)にも「食器の片付けが遅い」など細々と悪態をつく。ジーンは1年で6人も家政婦を変えていた。夫とも色々ギクシャクしている。彼女は友人に打ち明ける「夫にもマリアにも怒ってるの。あとブラウスをまたダメにしたクリーニング店、芝生に水をやりすぎる庭師にも。今朝、目が覚めたら気嫌が直ってると思ってた。でもまだ怒りが収まらない。それで気がついたの。これは車が盗まれたせいじゃないって。毎朝こんなふうに目覚めるのよ。なぜだかいつも腹を立ててる。理由は分からないの」。ストレスの固まりとなり、いつもイラついているジーン。そんな彼女が階段を踏み外して転落した時に、友人たちは多忙を理由に来てくれず、一番親身になって体を心配してくれたのは、日頃冷たく当たっていたマリアだった。看病してくれるマリアをハグし、ジーンは感謝を込めて言う「親友はあなただけ」。

ペルシャ(イラン)系アメリカ人のファハドは小さな雑貨店の店主だ。度々強盗に入られたことから、護身用の銃を買いに銃砲店を訪れた。英語が完全ではないため、娘ドリが付き添う。ドリは銃の購入に反対だ。店内で2人がペルシャ語で会話していると、「オサマ、聖戦の相談なら後にしろ」「まともに喋れイラク野郎」「貴様たちの泥小屋にジェット機で突っ込むぞ」と店主から暴言を吐かれた。「私はイラク人じゃない!米国市民だ!」。いきり立つ父の代わりにドリが銃と弾丸を買った。鍵屋のダニエルが仕事を終えて帰宅すると、5歳の娘がベッドの下に隠れている。近所で銃声が聞こえたらしく脅えていた。ダニエルは機転を利かせ、弾丸を通さない“透明マント”の話をする。「パパは子どもの頃に妖精から身を守る“透明マント”をもらったから今日まで無事に生きてきた。子どもが5歳になったら譲る約束を妖精としたのに忘れていた」。そういって娘に透明マントを着せてあげた。仕事の連絡が入り、ファハドの雑貨店へ向かうダニエル。裏口の鍵を交換したが、ドアにガタがきていて閉めてもすぐに外れた。「ドアを交換しないとダメです」。ダニエルは告げるが、ファハドは「ドア屋とグルで新しいドアを売りつけようとしている。早く鍵を直せ、イカサマ野郎!」と聞く耳を持たない。呆れたダニエルは「鍵代も工事代もいい、勝手にしろ」と立ち去った。翌朝、ファハドが店を開けに来ると、泥棒が入って店内は滅茶苦茶に荒らされていた。壁にはスプレーで「リメンバー911!」「アラブ人、帰れ」「ターバン野郎」と落書き。しかも保険屋はドアを変えなかったファハドの手落ちゆえ保険は降りないという。全てを失ったと思ったファハドは「ちゃんと鍵を直さなかった鍵屋のせいだ」と逆恨みし、拳銃を握りしめ、ダニエルの家の前で待ち伏せる。ダニエルが帰宅すると玄関先で銃を突きつけ「店を弁償しろ!金を寄越せ!」と叫ぶファハド。その様子を見ていた5歳の娘が「パパには無いの、パパは透明マントを持って無いの!」と家から飛び出しダニエルに駆け寄った。「家に入ってなさい!」と娘を抱き上げた瞬間、ファハドが引き金を引いた。「バン!」。銃口の先に娘の背中があった。絶叫するダニエル。慌てて外に出てきた妻も地に崩れた。…「大丈夫よパパ、私が守ってあげる」。娘の声に驚くダニエル。「すごく良いマントね」。背中から血が出ていない。ファハドも立ちすくみ、家に入るダニエル一家を茫然と見ている。「あの娘はフェレシュテ(ペルシャ語“天使”)だ」。その夜、ファハドはドリに天使を見たことを話す。「私の天使だ。私たちをお守りに来て下さった天使だ。何も心配ない、もう大丈夫だ」。ドリは銃砲店で“空砲”を買っていたのだった。

勤続17年のベテラン白人警官ライアン(マット・ディロン)は父が尿道炎で苦しんでいた。父はかつて清掃会社を経営し、黒人を差別せずたくさん雇い、平等に給料を払っていた。働きづめの人生を送っていたが少数民族の雇用主を優遇する法律ができて、会社も家も妻もすべてを失った。そのような経緯もあってかライアンは差別主義者だ。一方、同僚の若い白人警官ハンセンは正義感が強くライアンを嫌っている。2人はパトロール中に黒人の裕福なTV局ディレクター、キャメロン(テレンス・ハワード)と妻クリスティン(タンディ・ニュートン)の車を停めさせた。ライアンはクリスティンにセクハラ同然の身体検査を行った。事を大きくしたくないキャメロンは妻が侮辱されても黙っていた。妻は酷く傷つき、夫をきつい言葉でなじる。いたたまれなくなり家を出るキャメロン。署に戻ったハンセンは「ライアンとのコンビは耐えられない」と上司に直訴しチームを解消してもらった。
翌日、キャメロンは自らが演出するドラマの収録で、黒人青年の話し方について白人スタッフから「“んな話、すんじゃねぇ”と言うところを“そんな話はするな”って。あれじゃ彼の役柄に合わない」と指摘され、粗野な言い方に変更する屈辱を味わった。スタジオまでクリスティンが「昨夜は言い過ぎた」と謝りに来たが、警官への対応をめぐってまた喧嘩になってしまう。その後、クリスティンは動揺のため運転を誤り、車が仰向けになる大事故を起こす。ガソリンが漏れ、引火の危険が迫るが、クリスティンは自力で脱出できない。たまたま現場を通りかかり、救出に駆けつけた警官はライアンだった。前日の悪夢を思い出し、「私に触らないで!」と泣き叫び、救助を拒むクリスティン。ライアンは“彼女は自分に救出されるより死んだ方がマシなのだ”と知り衝撃を受ける。その間も火の手がみるみる迫る。周りの人間がこのままではライアンも危ないと彼の体を引き出すが、ライアンは制止を振り切って燃え始めた車に戻りクリスティンを救出した(直後に車は大爆発)。
一方、車泥棒のアンソニーとピーターは、次のターゲットとしてキャメロンを襲った。昨夜から踏んだり蹴ったりのキャメロンはブチ切れてアンソニーの銃を取り上げ殴りかかった。そこへパトカーが通りかかり、事情の分からない警官たちがキャメロンに銃を向ける。ピーターは逃げ、アンソニーは助手席に隠れた。自暴自棄になったキャメロンは警官に悪態をつく。「俺に用か?ブタ野郎!貴様こそ跪け!冗談はそのツラだけにしろブタ野郎!」。射殺されそうになったキャメロンを助けたのは、理想肌の警官ハンセン。彼は前夜ライアンに辱められたキャメロンであることに気づき、「この男は知り合いだ!無害だし誰にも危害を加えない!」と体を張って全員に落ち着くよう呼びかけ、その場を収めることに成功した。キャメロンはアンソニーを警察に突き出さず、「お前は自分を貶めている」と諭す。
ハンセンは仕事帰りに夜道で若い黒人ヒッチハイカーを拾った。逃げていたピーターだ。ピーターは自分が大切にしている聖クリストファー(旅の守護聖人)の人形と同じものをハンセンが車に飾っていたので思わず笑った。黒人も白人もお守りは一緒だ。もちろんピーターの笑いには悪気はない。だが、ハンセンは何か小馬鹿にされたように感じ、車を停めて降りろと命じた。ピーターはポケットに同じお守りが入っていたので見せようとしたが、ハンセンは銃を出されると恐れ、咄嗟に発砲した。絶命したピーターの手のお守りを見てハンセンは絶句する。

黒人刑事グラハムは母との関係が上手く行っていない。母はグラハムの弟を溺愛していたが、犯罪に手を染めた弟を叱ったことで、家出したことを悔やんでいる。顔を合わせると「あの子は見つかったかい?」と尋ねる母。グラハムは仕事が多忙で弟を探せなかったが、仕事の合間に買い物をして、母が寝ている間に新鮮な食べ物を冷蔵庫に入れていた。夜半、ハイウェイ脇で黒人青年の死体が見つかった。草むらの中に横たわっていたのは、ハンセンに撃たれた弟ピーターだった。検死場で泣き崩れる母を支えるグラハム。母は言う「あの子を殺したのはお前だよ。あんなに探してと言ったのに何もしなかった。あの子と2人にしておくれ。優しいあの子は、冷蔵庫に食べ物を入れておいてくれた」。悲痛な表情で検死場を去るグラハム。これまで他人との間に距離を置いてきたグラハムだが、生き方を変えるときがきた。
終幕。アンソニーが偏見を捨てて初めてバスに乗る。そして、前夜盗んだ車で逃げる際に、路肩に車を停めていた韓国人男性を轢き、大怪我をさせた現場へ向かう。韓国人男性のミニバンを闇屋に売ろうとすると、荷台の中にアジア系の密入国者が10人近く詰め込まれていた。闇屋は1人頭500ドルで買うという。アンソニーは取引を断りチャイナタウンで彼らを解放し、「皆で野菜スープでも食え」と40ドルを渡した。側の道では車が小さな追突事件を起こし、相変わらず人々が言い争っている。彼らの足下の道路の車線が十字架に見え、祝福するように街灯が照らしている。上空からは温暖なロサンゼルスには降らないはずの雪が降ってきた。美しく静かな奇跡=ロスの雪が舞う中、物語は終わる。

ポール・ハギス監督いわく「ロスに雪が降ったら不可能なことはない。希望の結晶だ」。この映画には様々な演出上の仕掛けがあると監督は説明する。ライアンが父親の自己犠牲を語る場面では、病院の屋外の電柱が十字架に見える部屋を選んで撮影したという。5歳の娘が父を助けに行くシーンでも、扉を開けた瞬間、外光に包まれた輝く十字架のように電柱が見える。ドリは空砲と分かっていてあえてそれを買い、その選択のおかげで父は救われた。最後にアンソニーが良心を見せたのは、自分の先祖(奴隷)の境遇に思いが至ったからだという。子どもを撃ち復讐の虚しさを描いたシーンで、人物の背後に大きな星条旗がはためいているのも、建国の理想に戻れと和解を示唆するようだ。

みんな心の中では寂しくて、他者との触れ合いを求めているのに、不信感や銃が邪魔となりクラッシュ(衝突)してしまう。この作品は様々な問題を提議しているけれど、個人的に印象に残ったのは、ジーンが“朝起きた瞬間からイライラしている”ことだ。まったく余裕がない。周囲と折り合いを付けられずに崩れていく自我。日々の根底に怒りがあり、些細なことが気に障る。非常に攻撃的。その背景には他者への不安と恐怖がある。文化や価値観が異なり、身近に暮らしているのに言葉の壁でコミュニケーションが阻まれ、蓄積していく苛立ち。理解できないから相手を知る為に近づくのか、それとも理解できないから攻撃して排除するのか。米国市民が前者を理想としながらも往々にして後者を選ぶのは、多民族国家ゆえに意思疎通をめぐって日常的に混乱があるのに、“銃”が至る所に存在することだ。身の回りに銃が溢れていることが、不信を極大まで増長し人をピリピリさせる。見えない何かへの恐怖。身の安全を守るために銃を所持し、互いに銃を持つことで不安が加速する負の連鎖。極度の緊張感に晒され続け、すぐに苛立ち、捌け口として無関係の人にも当たり散らす。自分の苛立ちが他人の苛立ちを呼び、その負の連鎖の果てに待っている世界を考えねば。不信が恐怖になった時に銃が火を吹く。人種や宗教、言語という分かりやすい違いで自分と他者を分け、陥っている苦境を“連中”のせいにして、“自分は悪くない、被害者だ”と納得させ自我を保っている。
どうすれば、暗く長いトンネルの中から出られるのか。個々人の価値観が異なるのは当然であり、そこにこだわっていては生涯ずっと平穏な心持ちになれない。映画冒頭の言葉「本当はみんな触れ合いたいのさ。ぶつかり合って何かを実感したいんだ」をヒントにすると、よく会話し、抱擁し、喧嘩もやり、言語と肉体によるクラッシュ(衝突)を経て互いの共通点を見出すしかない。ジーンは家政婦に抱きつき「親友はあなただけ」と言った。あれは肉体が触れ合って他者の命を感じ、自然に出てきた言葉。安らぎは、相手を信用することを、他者を思いやること、社会が銃と訣別すること、これらでしか得られない。日本でも最近はよく電車で乗客同士のトラブルが起きたり、酔っ払いが烈火の如く駅員を怒鳴り散らしている光景を見かける。一億総イライラ。他人事ではない。

「僕ら(制作側)が伝えたかったのは“人はとにかくまとめたがる”ということだ。ペルシャ人とアラブ人についても同じ。中東の出身者はみんな“アラブ人”」(ポール・ハギス)。この作品を通して「ひとくくり」と「思い込み」の危険性をヒシヒシと感じた。差別する側の人間は、アジア系のすべての人を“中国人”にまとめてしまうし、プエルトリコ人などヒスパニックは全部メキシコ人、アラブ人とペルシャ人の区別もついておらずひとくくりにする。そして白人は黒人を犯罪者と決めつけるなど「○○人のやつらはこうに違いない」という思い込みで相手を判断。だが、本作は登場人物を多角的に描くことで、完全な善人や完全な悪人がいるのではなく、人間は各々の状況で、ある時は善人に、ある時は悪人になり得ることを見せている。
白人警官ライアンは差別主義者だが、家では尿道炎の父を懸命に介護して一緒に泣き、自動車事故で炎に包まれた車から命がけで黒人女性を助け出そうとする。人間は様々な理由で相手を差別するが、誰かを救うときは理由なんてなく、目の前で絶命しそうな人がいればとっさに体が動く。一方、日頃は差別反対を唱えて正義を貫こうとする若い巡査が、心の奥底にある「黒人は何をやらかすか分からない」という先入観で無実の相手を撃ってしまう。差別という感情は、普段は本人に自覚がなくても、何かがきっかけとなり、ふとした瞬間に爆発するように露呈する。ハギス監督はあの若い巡査についてこう語る。「人の心の中の“不寛容”は思っているより厄介。先入観が彼を駆り立てたんだ。相手の言葉尻がひどく気に障る」。黒人差別への怒りを始終ぶちまけている黒人青年が、平然とアジア人を差別したり、韓国人がヒスパニック系を密入国者と決めつけるシーンも考えさせられる。
人間はある程度生きると、第一印象で他人にレッテルを貼って接するようになる。一人一人に真っ直ぐ向き合うより、その方が楽ちんだからだ。だが、面倒でも相手の多様な横顔を見ようとすることが、「ひとくくり」と「思い込み」から生まれる悲劇を避ける唯一の道筋だ。希望はある。人間はちょっとした出来事でイライラして不寛容になる一方で、相手がどうしてそういう態度をとるのか、他者の立場で少し考えるだけで“なるほどね”と許せてしまう。皮肉屋は“誰だって心の中に差別感情を持っている”とうそぶくが、この映画は“だがしかし、もっと心の奥底には差別感情を超越した人間愛がある”というメッセージを伝えており感動した。
正義を手放しで賞賛し、返す刀で悪を断罪しても、双方の距離は広がるだけ。相互理解に向かう為には、この映画のようにまず正義と悪を近づけ、各々の内に善悪が共存する事実を認め合うことから始めるしかない。

様々な人種、階層、職業の人物の人生が交錯するこの群像劇は、主要な登場人物だけでも10人以上いる。2時間もないのに、見る者を混乱させずに描き分けている脚本と演出は見事としか言いようがない。特定の感情を押しつけることもなく人間の本質を描ききる…これほど完成度の高い社会派エンターテイメントは滅多にない。拳を突き上げて差別を非難するのではなく、差別に走る人間の弱い部分をそのまま見せることで、観客もまた当事者であることを気づかせる。オスカーの栄冠にも納得だ。ハリウッド大作のように次から次へと大事件は起きないのに、クラッシュ(衝突)の緊張感から一瞬もスクリーンから目を離せなかった。使用される音楽は多言語で洗練されており、物語同様、メロディーに冬空の寂しさと、美しさ、透明感が同居していた。

見終わってもずっと心に焼き付いているのは、不当な圧力に必死で耐えている黒人演出家キャメロンの表情と、差別主義者の警官ライアンから命を救われた黒人女性クリスティンが彼を見つめる目、娘を撃たれた時の鍵職人ダニエル夫妻の嗚咽。キャメロンが涙を浮かべ、口元を奮わせながら気持ちを抑えている様子は、自尊心を粉々にされた胸の痛みがヒシヒシと伝わってきた。クリスティンの瞳からは怒りと感謝がない交ぜになった混乱を感じた(男として“あのシーンでライアンを彼女は許した”とは書けない。ここは女性の意見を聞きたい)。ダニエルと妻の慟哭は、あのシーンは音楽しか流れていないのに、頭蓋を揺さぶるような悲しみの叫びに貫かれた。それだけに直後の“救済”が本当に嬉しかった。近年の映画では「これがリアル路線だ!」と救って欲しい人を助けないことが多いから(それも、作品メッセージを伝える力量がないために、インパクトのある人の死を出すという安易な演出)。
僕は映画の後半で、様々な人物が自分自身で作り上げた周囲の壁を崩していこうとする姿に胸が熱くなった。憎しみや怒りなど負の感情はすぐに他人へ伝染するけど、善意は憎しみほど急速に広がらない。だからこそ善意を積み上げていくしかない。


最終的に本作は人々の日々の営みを肯定し、人とクラッシュ(衝突)すると、悲劇が生まれるケースもあるけど、逆に救われたりもするんだよと語っている。神話ではないリアルな人間讃歌。この作品を観ると、多民族国家アメリカが、あんなに英語を喋れない人がたくさんいて、銃が社会に溢れているのに、曲がりなりにも国家として成立していることが、“人間は基本的にみんな良い人”ということの証拠に感じる。「人は必ず分かり合える」という言葉に接すると、歯が浮く理想論に聞こえるけど、この映画を見終わると“現実は確かに甘くない、でも可能性は0%ではない”と感じる。映画はクラッシュで始まりクラッシュで終わるものの、物語を一通り観た後のクラッシュは、ワイワイと言い争っている人間たちが愛しい存在に見えるから不思議。おそらく、誰しも欠点を持つように長所も持っていることを観てきたからだろう。他者からの優しさは、日々の苦悩を吹き飛ばす絶大な力があり、人はまた少し“やっていける”。人生はその繰り返し。“お互い様”と優しくありたい。人間は不完全だから面白い。

※父親から弾丸を通さない「妖精のマント」を譲ってもらった子どもが、父親を守る為に銃口の前に立つシーンは何回見ても泣ける…。10回見て10回泣くようなシーンって他の映画にあったかな。
※僕は初めてアメリカに行った時、ロス空港から街中へ向かう行程で、3人連続で「アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ」と言われて衝撃を受けた。ロスはスペイン語だらけ。
※ライアンのセクハラ尋問のシーン。ハギス監督「人が人に加える圧力と暴力は撮るのも辛い。撮影後も誰も笑っていなかった」。
※リックの黒人秘書カレンのラストカット。エレベーターの前に立つカレンに当たる照明を、(リックが乗った)エレベーターの扉を閉めることで暗くして心理を表現。
※厳密には1970年代にロスに雪が降ったことがある。

※ぶっちゃけ、アカデミー賞を獲るまで完全にノーマークだったし、観る予定もなかった。この『クラッシュ』一本をもって、観るキッカケをくれたアカデミー協会に一生の恩を感じている。
※アカデミー賞(2005)作品賞、脚本賞、編集賞

 
5.ブレード・ランナー/ファイナル・カット('07※オリジナルは'82)116分 米
人はどれくらい寿命があれば十分に生きたと思い、また死の恐怖から逃れる事が出来るのだろうか。89歳まで生きたミケランジェロは「残念なのは、やっと何でも上手く表現出来そうになったと思えた時に死なねばならぬことだ」と遺し、葛飾北斎は88歳の臨終の際に「あと10年、いや5年永らえたい。そうしたら本当の画家になれるものを」と嘆息した。SF映画『ブレードランナー』は、まさにその“寿命”がキーワードだ。

『21世紀の始め、タイレル社はロボットの進化段階をネクサス・フェーズ(実質上、人間に等しい存在)に進めた。それはレプリカントとして知られる。ネクサス6型レプリカントは、彼らを創造した遺伝子技術者に対して、体力や機敏性においては勝り、さらに知能においては少なくとも同等であった。レプリカントは、危険な宇宙探査や、他の惑星の植民地化など、宇宙での奴隷労働に使われた。ネクサス6型の戦闘チームが宇宙植民地で流血を伴う反乱を起こした後、レプリカントは地球上では非合法な存在と宣言された -- その罰は死刑である。特別捜査班(ブレードランナー・ユニット)は、侵入してくる全てのレプリカントを捜索の上、撃ち殺すように命令された。それは処刑とは呼ばれなかった。それは廃棄と呼ばれた。〜ロサンジェルス2019年11月』(映画の冒頭より)

作品舞台は、超高層ビルが林立し酸性雨が降り注ぐ2019年のロサンゼルス。宇宙で奴隷労働に従事していた数体の人型ロボット=レプリカント(以下レプリ)が、反乱を起こして地球へ密航してきた。主人公はレプリたちを始末する特別捜査班のデッカード(ハリソン・フォード)。彼はレプリを見つけ出しては一体ずつ“廃棄”していくが、その過程でなぜレプリたちが危険を冒してまで母星に戻って来たのかを知る。レプリは製造から数年経つと人間のように自我が芽生える為、安全装置として寿命が“4年”に設定されていた。彼らは製造年月日を知る為に、そして延命の方法を探す為に、自身が生産された会社に潜入を試みる。そしてデッカードは、最後の瞬間まで必死に生きようとするレプリを見て、機械だと思いつつも殺す事の後味の悪さを感じ、生きる姿勢に共感し始める。※人間である僕らが、ロボットから逆に命の尊さを教えられるという構図に唸った!
【ネタバレ文字反転】
最後に残ったレプリはリーダーのロイ(ルドガー・ハウアー)。一騎打ちで満身創痍となったデッカードは、逃げ場を失いビルの屋上から転落しそうになるが、落下する彼の腕を他ならぬロイが掴む。4年目のレプリだったロイは、自身の寿命の尽きる前に命の価値を知り、たとえ敵であっても救おうとしたのだ。人間だってレプリと同じで、いつ死が訪れるのか誰にも分からない。どの命も、尊く、輝かしく、そしてはかない。ロイは静かに腰を下ろし、雨に打たれながらデッカードに語りかける。「俺はお前ら人間には信じられぬものを見てきた。オリオン座の近くで燃えた宇宙船や、タンホイザー・ゲートのオーロラ。そういう思い出もやがて消える。時が来れば…雨の中の涙のように…」。ロイはエネルギーが切れ停止した。聞こえるのは雨音だけ。彼が命のぬくもりを感じたくて手の中に捉まえていた白い鳩が、まるでその魂を象徴するかのように天へ飛翔していく。
与えられた短い人生を精一杯生き抜いた彼の姿は、死して神々しいほどに美しい。レプリのロイが命の重さに気付き、そして人間がロボットから命の尊さを学ぶという見事な脚本!観客は、レプリと自分のどちらが人生を大切にしているか考えずにはいられない。短い命を懸命に生きるレプリに対し、80年も寿命があることで日々を消耗していないかと。


この作品は生命賛歌のヒューマンなストーリーだけでなく、光と影を使い分けた幽幻な映像美でも大きな話題を呼んだ。完全主義者のリドリー・スコット監督は1ショットの撮影に8時間も費やしたという。監督は美術に造詣が深く、小道具の一つ一つまでデザインにこだわった。天才シド・ミードがデザインした流線の美しいスピナー(パトカー)にはため息が出るだろう。徹底した映像世界とヴァンゲリスの幻想的な音楽に身を浸す至福を味わえる珠玉の一作!
※本作を初めて見る人は、いきなりファイナル・カット版を見るより、主人公のナレーションが挿入された“完全版”('92)の方が解りやすいかも。それを見た後、究極のブレードランナーであるファイナル・カットを見て欲しい。物語に超重要シーンが加えられており、ラストの意味が正反対になっている。ファイナル・カットのラストは余韻があり、様々な感情が見る者の心に湧き上がる。
※敵ボスのロイは手のひらに釘を突き刺すが、これはキリストのはりつけの象徴とのこと。


【さらなる完全ネタバレ〜ブレードランナー撮影秘話集】
※リンク先には驚愕の設定が貴方を待っている!

 

6.ブルース・ブラザース('80)133分 米
昔から「笑う門には福来たる」と言われるが、実際に“笑い”で身体の免疫力がアップすることが近年になって分かってきた。笑った時にガン細胞を攻撃するNK細胞(ナチュラルキラー細胞)が活性化し、ガンの予防と治療の効果がある、血糖値を下げるので糖尿病の治療にも有効である、モルヒネの6倍以上という強力な鎮痛作用を持つ神経伝達物質が増加し、ストレスや血圧が下がるなどが報告されている。まさに「笑いは副作用のない良薬」である。一方、音楽の力も馬鹿に出来ない。好みの音楽を聴いた後では、聴いていない状態よりもウイルス感染細胞が平均約40%も減少し、一度聴くだけで24時間以上も効果が持続するという。その意味では、爆笑ギャグがふんだんに盛り込まれ、ゴキゲンな音楽に溢れた映画『ブルース・ブラザーズ』は、究極の“医者いらず”ムービーと言えるだろう。

主人公は黒い帽子、黒いスーツ、黒いネクタイ、黒い靴、どんな時でもサングラスを外さないジェイク(ジョン・ベルーシ)とエルウッド(ダン・エイクロイド)の兄弟、ブルース・ブラザーズ。2人は自分達を育ててくれた孤児院が、5000ドルの税金を払えずに立ち退き寸前にあることを知る。期限は11日、工面の方法を模索するなか、教会で「バンドを作れ」という神の啓示を受け、2人はかつて組んでいたバンドを再結成し、コンサートの収益で孤児院を救おうと決意する。バンド仲間の主要メンバーは、既に堅気の職に就いていたが、「俺たちは神の使徒だ」「お前には聖職の一端を担って貰う」と、最初は説得、無理なら実力行使をして引き入れる。紆余曲折を経て、納税期限の前夜になんとかコンサートを実現させた彼ら。いざ税務署へ!ところが、彼らはここまでの過程で道路違反を重ねており、イリノイ州のパトカー軍団の大追跡を受けることになる。2人の愛車は中古のパトカー。「サツの車だ。エンジンが違う。サツのタイヤにサツのサスペンション、公害対策前の仕様だからレギュラーでよく走る」と、フルアクセルで逃亡。ネオナチ極右団体(アメリカ社会主義白人党)に喧嘩を売ったことで連中からも命を狙われ、因縁のある他のバンドからも追われ、元彼女からもバズーカ砲を撃たれるという大騒ぎになっていく。

まだCGが普及する前の映画であり、アクション・シーンでは本当に車をシカゴ上空からヘリで落下させたり、廃墟のショッピング・モールに140店舗を復元させてぶっ壊したり、土日の早朝にシカゴ中の道路を封鎖してパトカー34台で暴走するなど(最高160キロ)、呆れ返るほど大スケール。デイリー・プラザのクライマックスで登場した車両やエキストラ、小道具は、州警察のパトカーが60台、市警のパトカーが42台、救急車17台、警備員150人、市警60人、350丁の銃と150本の警棒、4台の装甲車と3機のヘリ、その他トータル400人の軍隊!映画史上類を見ない大規模なカー・クラッシュが出てくるけど、この映画では誰一人死なないし、ケガさえしないのがまた良い。ジェームズ・ブラウン、アレサ・フランクリン、レイ・チャールズら大物ミュージシャンが歌いまくるほか、後半に若きスピルバーグがチョイ役で登場するなど、古今例がないほどの痛快娯楽作品だ。残念ながら公開の2年後にベルーシがドラッグ中毒のため33歳で早逝。様々な意味でハリウッドの伝説的映画となった。
この作品は自分にとって映画ファンになるきっかけとなった記念すべき1本ッス!忘れもしない、1982年9月6日。リバイバル上映されたこの映画を、今はなき大阪キタの大毎地下劇場で観た自分は、興奮が沸点に達したまま劇場の外に出た。当時中学2年の自分は半分不登校状態で生きる気ナッシングだったが、“世の中にこんな面白いものがあるのなら、この世界は生きるに値するそう実感したんだ!

 
7.ギャラクシー★クエスト('99)102分 
2000年にSF界の最高権威であるヒューゴー賞を獲得した『ギャラクシー★クエスト』は、800万光年彼方の宇宙を舞台に、「ネバー・ギブアップ!ネバー・サレンダー!(望みを捨てるな)」を合い言葉として、幾多のピンチを乗り越えていく痛快SFコメディだ。主人公は20年前に大人気SFテレビ・シリーズ『ギャラクシー★クエスト』でプロテクター号のタガート艦長を演じたジェイソン(ティム・アレン)。当時のメイン・キャストを演じた5人の俳優はうだつの上がらない日々を送っており、番組の熱烈なファン“クエスタリアン”が集うイベントでサイン会を開いたり、安売り電気店の人寄せパンダに身をやつして小金を稼ぎ生計を立てている。

ある日、ジェイソンの前にオカッパ頭で銀色の服を着た風変わりな4人が現れた。彼らはネピュラ星雲の宇宙人サーミアンと名乗り、極悪宇宙人サリスとの戦争で絶滅の危機に瀕していた。サーミアンは偶然キャッチした地球のドラマ『ギャラクシー★クエスト』を歴史ドキュメンタリーと信じ込み、的確な指示で運命を切り開いていく“タガート艦長”を頼って地球へやって来たという。ジェイソンは仕事のオファーと勘違いしてこれを快諾するが、サーミアンの船に移動する際、ブラックホールを突破して星間旅行をするはめになり驚愕する。嘘を知らず心優しいサーミアンを助ける腹を決めたジェイソンは、かつて番組レギュラーだった技術主任チェン役のフレッド(トニー・シャローブ)、紅一点マディソン役のグエン(シガニー・ウィーバー)、異星人ドクター・ラザラス役のアレックス(アラン・リックマン)、名操縦士ラレド役のトミーの他、番組開始5分で死亡する脇役のロックらを勧誘。俳優たちはみんな仕事が入ったと喜んで話に乗るが、サーミアンが再現した“実物”のプロテクター号で宇宙戦争を行なう事態に震え上がる。メンバーは逃げ腰になるが、「すべてあなた方から学んだのです」「危機に立ち向かうあなた方の勇気と友情に感動しました」と彼らをヒーローと信じて疑わないサーミアンの人々に心を動かされ、期待に応えたいと思うようになる。こうして落ち目のテレビ俳優が、銀河の彼方の文明危機を救う戦いを始めるのだった。

俳優たちが本物の宇宙戦争に巻き込まれるというブッ飛んだ物語。『スタートレック』の第一級パロディ映画であり、無意味に前転しながら進む艦長や、必ず1秒前に止まる爆発解除スイッチなど、笑いどころが随所にある。特に、バービー人形をイメージしたという金髪のセクシー乗組員を演じたシガニー・ウィーバー(当時50歳とは思えない美しさ)が、複雑すぎる船内構造に「このシナリオライターは死ね!」と悪態をつくシーンは爆笑。ハリポタのスネイプ先生がトカゲ頭のカツラを被り、“本当はリチャード三世やシェイクスピアがやりたいのに…”とボヤキながら「このトカゲヘッドに懸けて!」と決めゼリフを言うなど、豪華すぎるキャスティングも嬉しい。

そしてまた、単なる笑って楽しいだけの喜劇ではなく、自信を失っていた主人公たちが、他者から必要とされることで勇気を掘り起こし快挙を成し遂げることが素晴らしい。自分たちを信じている人たちのために、必死に頑張っているその姿は実に感動的だ。彼らは他者を助けることで、結果的に自分の誇りを取り戻していく。
一方、戦闘シーンに手抜きはなくCG演出もリアル。プロテクター号から助けを求められたオタク少年たちが大活躍するのも、SFファンとしては涙モノだろう。冒頭からラストまでストーリーに無駄がなく、非の打ちどころなし。後味も爽やか。こういう映画が観たかったと叫ばずにはいられない。ドリームワークスが渾身の力を込めて作った“B級映画”の最高峰!

※「僕はイカれてるわけじゃありません。あれはただのテレビ番組。架空の話さ」「待て、あれは現実だ」「現実?思った通りだ!」このやりとり最高っす(笑)
※新レギュラーとなった保安主任ロックに乾杯。

 
8.グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版('88)169分 仏
青い大海原を舞台にした映画は数多くあるが、素潜りの深さを競う“フリー・ダイビング”の世界を描き、狂おしいまでの海への愛が全編に満ちている『グラン・ブルー』は、いつまでも瞼の裏に碧(あお)い世界が焼き付く、心に残る作品だ。実在する世界的ダイビング選手ジャック・マイヨール(1927-2001)の自伝を元に制作されている。

物語は1965年、ギリシャのキクラーデス諸島から始まる。8歳のジャックは2歳年上のエンゾと素潜りを競う仲。ジャックの父は潜水夫であり、母は事故に脅える不安な日々に耐えられず家を出て行った。父は潜水中のアクシデントでジャックの目の前で命を失う。最期の言葉は「心配するな。海では人魚が助けてくれる」
それから22年が経ち、フリー・ダイビングの世界チャンピオンとなったエンゾ(ジャン・レノ)は、懸命にジャック(ジャン=マルク・バール)の行方を探していた。エンゾはジャックに勝たなければ真の世界一ではない思っていたのだ。
その頃、ジャックは潜水中の人体の生理現象を研究するローレンス博士に協力し、ペルーの湖でダイビングを繰り返していた。ジャックは水中に潜ると鼓動が遅くなり、血液が脳に集中し手足まで回らなくなる体質だった。これは鯨やイルカにしか見られない現象で、それが長時間の潜水を可能にしていた。ニューヨークから博士の研究所を訪れた保険調査員のジョアンナ(ロザンナ・アークエット)は、物静かで優しい瞳のジャックを神秘的に感じ一目惚れをする。

南仏コートダジュールの自宅に戻ったジャックは水族館を訪れ、仲の良いイルカたちに一匹ずつ旅のお土産をプレゼントした。天涯孤独のジャックはイルカだけを友として生きていた。ジャックの居場所を突き止めたエンゾは20年ぶりにジャックと会い、10日後にイタリア・シチリア島のタオルミナで開催されるフリー・ダイビング競技会に参加するよう促す。ジョアンナはジャックがタオルミナの大会に参加することを知って現地へ飛んだ。
ジャック、エンゾ、ジョアンナはタオルミナで競技会主催のパーティーに参加し親交を深める。不器用なジャックは生まれたての赤ん坊のように純粋であり、エンゾはジョアンナに忠告する。「気をつけな。好きになる前に現実を見ろ。ジャックは人間じゃない。異星人だ」。
“世の中のことを教えて欲しい”というジャックに、エンゾは家族の話をした。「うちの家族は一日中怒鳴り合ってる。妹は隅で泣いてばかり。でも最後はみんなで抱き合うんだ。なぜか分かるか?愛があるからだ。だから許し合う。独りぼっちじゃない。それが愛ってもんだ。家族の絆は強い」。その後、どちらが長く潜れるか勝負することになり、プールの底にシャンパンを持ち込み我慢比べをするが、意地を張りすぎて2人とも担架で運ばれた。呆れ返るジョアンナに「見せたいものがある」とジャック。それは財布に挟んでいたイルカの写真だった。「僕の家族だ。こんな家族がいる奴は僕だけだ」。嗚咽するジャックをジョアンナは「大丈夫、私がいるわ」と抱きしめる。

翌日、タオルミナの水族館でイルカショーが中止になったことを知ったジャックは、新入りのメスのイルカが緊張の原因になっていることを見抜く。その夜、ジャックたち3人は水族館から新入りを“救出”し海へ離してやった。
競技会が始まるとエンゾは深度107mの新記録を叩き出した(普通は酸素ボンベを付けた者でも100メートル以上潜らない)。大得意のエンゾ。だが、ジャックはそれをさらに1メートル上回る108mを記録し、新たな世界チャンピオンとなった。ジャックは元気のないエンゾを見て勝利を素直に喜べない。
その夜、ジャックとジョアンナは初めて結ばれたが、ベッドに彼女を一人置いたまま朝までイルカと遊んでしまう。ジョアンナは“ついていけない”とアメリカに帰国。ジャックはどうしていいか分からない。
ジャックと離れて喪失感に包まれたジョアンナは、たまらずNYから電話をかける。“お話をして”とせがまれたジャックは人魚のことを話した。「人魚と暮らす秘訣を知ってるかい。海深く潜るんだ。深すぎて青さは消え、青空も見えない。一度沈黙の世界に入って留まる。人魚のため永遠に命を懸けようと決心すると、その愛を確かめるため彼女たちは近づく。その愛が誠実で、純粋なら人魚は喜び、僕と永遠に一緒だ」

フリー・ダイビングの次の大会はジャックが住むコートダジュールで開催。エンゾが115m(4分50秒)に到達して大幅に記録を塗り替えた。「誰も破れないぜ」と自信満々のエンゾ。だが、ジャックが120mまで潜り、またしてもエンゾは敗北した。笑顔が消え沈黙するエンゾを見て、ジャックは胸を痛めた。水族館では落ち込むジャックをイルカたちが水面に顔を出して励ましてくれた。「ありがとう…ありがとう」と涙を拭いてイルカたちに感謝するジャック。

その次の競技会は、ジャックとエンゾが少年時代を過ごしたギリシャが舞台となった。父の生命を奪った故郷の海。「潜るってどんな気分?」とジョアンナ。「水の中を滑り落ちる感じだ。海底はつらい。上がってくる理由が見つからないからだ」。ジャックに悪気がないのは分かっていても、ジョアンナはこの言葉に傷つく。愛し合っているはずのジャックが遠い。彼女が“大事な話がある”と言っても聞く体勢になってくれないので、「ここなら話せる?」と海に入った。続けて嬉しそうに飛び込んできたジャックに、彼女は想いを切り出す。
「私の世界の話。あなたのことよ。愛してるわ。一緒に暮らしたい。子どもが欲しいの。二人の家も。車を持って犬も飼いたい。どう?」。だが、ジャックはイルカの真似をするなど遊び始め真面目に聞いてくれず、彼女が「妊娠したみたい」と言っているのに海中に潜ってしまった。「ジャーック!」。叫び声が海面に反射する。

【以降、この作品はラストを語ってこそのレビューなので完全ネタバレでいきます!

ギリシャ大会の直前にローレンス博士が競技の中止を訴えた。「前大会のジャックのデータを解析した。彼の達した深さが生理的な限界だ。水圧があまりに高すぎて、血液中の酸素が体の隅々まで回らない。ジャックの記録を破るのは自殺行為だ」。だが、エンゾは中止命令を無視して勝手に潜ってしまう。瀕死の状態で引き上げられたエンゾは、ジャックの腕の中で呟く。「お前は正しい。海の底はいい。陸より快適だよ。俺を海の底に…ジャック…連れてってくれ。頼むよ、ジャック…」。エンゾは息絶え、ジャックは泣きながら海底へ沈めた。
一方、ジョアンナは正式に妊娠していることが検査で分かった。幸せな気持ちで宿に戻ると、ジャックが目を見開いたまま、鼻と耳から血を流している。彼はイルカたちが室内を泳ぐ幻覚を見ていた。ジャックの肉体も大きなダメージを受けていた。
意識が戻ったジャックは、自分がもう“陸”では生きられないことを悟り、彼女の制止を振り切って夜の海へ向かう。エンゾが絶命した水域に着いたジャックとジョアンナ。ジャックは水圧で人間が絶命する深度へ“旅立つ”つもりだ。

〔ここからの3分間、ジョアンナ役のロザンナ・アークエットの演技が神がかっている!
ジャックはフリーダイビング用の筏(いかだ)に腰掛け足ヒレを履く。その姿を、ジョアンナは2mほど背後から腕を組んで見つめる。
履き終わったジャックは足が半分海に浸かっている。後は一気に潜るだけだ。ジョアンナは頭を左右に振りながら彼の言葉を待つ。
ジャックは少しだけ背後に顔を向け、「見てくる」と一言。
ジョアンナは両手を広げ、「何を?」。そして堰を切ったように叫ぶ「何も見えないわ!暗くて冷たいだけよ!誰もいない。でもここには生きてる私がいるのよ!」。
その場にしゃがみ込み、号泣しながら手で頭を抱え、顔を覆うジョアンナ。
ジャックは背中を向けたまま振り向かない。
突っ伏して泣いていたジョアンナは体を起こして語りかける。「ジャック…愛してるわ」。
ジャックから返事がないため、ジョアンナは意を決して告げる。「ジャック、妊娠したの」。
ずっと海を見ていたジャックが、その言葉に少し振り向いた。だが、何も言わない。
不安げな表情で「聞こえたでしょ?」とジョアンナ。ジャックは小さくうなずく。
妊娠のことは言った。ジャックに言葉は届いた。でも何も言葉が返ってこない。
“妊娠という言葉でも無理なのか”と、ジョアンナは目をつむり、再び両手で頭を抱え、突っ伏し、口に手を当てジャックを見つめる。
ジャックは背を向けたまま、うなだれていた。
30秒ほど沈黙が続き、ジャックが体を反転させる。そして右手をジョアンナに差し伸ばした!
身を投げ出すように駆け寄り、両手でその手を掴むジョアンナ。
“思い留まってくれたの?”。うつむいてジャックの手を握っていたジョアンナが顔を上げると、ジャックはロープをたぐり寄せていた。そのロープは海底への降下装置のスイッチ。人間の体には浮力があるが、ロープを引くと“おもり”が海底へ落ちるので、掴まっていれば100m以上沈んで行ける仕組みになっている。
嗚咽するジョアンナに、ジャックもまた泣きそうな表情で“君に引いて欲しい”とロープを手渡した。
右手にロープを掴んだジョアンナ。ジャックは背を向け、降下装置を握って待っている。
ジョアンナはしばらくジャックを見ていた。
…やがて両眼を閉じ、うつむいて少し泣き、そして彼に別れの言葉を告げた。
「行きなさい。私の愛を見てきて(Go…Go and see, my love!)」。
そして渾身の力を込めて、両手でロープを引っ張った。ジャックが海底へ落ちていくのを身を乗り出して見届けるジョアンナ。

みるみる水面が遠のき、真っ逆さまに深海へ降下していくジャック。深く、深く、より深く…。
ジャックが底まで下降すると一匹のイルカが現れ、“こっちへ来い”という仕草をした。ジャックは一瞬、降下装置を握っている自分の手を見る。降下装置は陸地と自分を結ぶ最後の接点であり、手を離すということは海の一部になるということ。イルカと自分の手を交互に見て…そして…ジャックは静かに手を離しイルカの方へ泳いでいった。ジャックの姿はグラン・ブルー(大いなる碧)へ消えていった。

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ジョアンナがロープを渡されてから、両手で引くまで30秒。引けば愛する人は死ぬ。でも、引かなければ相手を全く理解していないことになる。究極の選択。映画を観ていてあの30秒ほど緊張したことはない。ロープはジャックが自分で引くことも出来た。でも、あえて彼女に引かせたのは、“一番大切な人に引いてもらいたい”という、ジャックなりの愛の告白だ。僕はジョアンナがどうするのか息を止めて画面に見入った。彼女の出した答えは「私の愛を見てきて」。つまり、ロープを引けるほどジャックのことを愛している=海底には私の愛がある、ということ。これ以外考えられない最高の愛のセリフ。なんという極限状態のラブストーリー。衝撃が強すぎて劇場を出る時は放心状態になっていた。
ジャックの選んだ道は、客観的に見れば自殺ということになる。でも、この映画は約3時間という長い時間をかけて、ジャックやエンゾにとっては海の底にこそ真実の生があり、陸の生活は偽りの生であることを描いていたので、結末に悲壮感は皆無。ジャックの選択を納得させる海の美しさも充分に描いていた。逆説的になるけど「生きる為に死ぬ」という印象。よくこんなことを映画で表現できたものと感嘆せざるをえない。物語はゆっくりと展開していくけど、そのすべてがラスト5分に凝縮していく様は圧巻としか言いようがない。
この映画が公開されたのは日本がバブルで浮かれていた頃。映画もドラマも恋愛至上主義に席巻されていて、どの作品も恋愛より大切なものはこの世にはないと言わんばかりだった。だからこそ僕は本作に仰天&歓喜した。異なる価値観に出会えた興奮。愛が2番目の価値になったのは、古今東西、この作品と『テルマ&ルイーズ』くらいだろう。海の美しい映像だけでなく、透明感のあるエリック・セラの音楽もこの作品を伝説の1本にしている。公開時、リュック・ベッソン監督はまだ29歳。『レオン』以降、あまり話題になる作品を撮っていないので是非復活を願いたいところ。


※ジャックが深淵に消えていく予兆はあった。人魚のことを電話で話していたとき、「その愛が誠実で、純粋なら人魚は喜び、僕と永遠に一緒だ」というセリフのところで、背後にイルカの声が数回入っている。
※ジョアンナにも救いが用意されている。エンゾの恋人であるスペインの女優は、「(子どもは欲しいけど)一人じゃ育てられない」と言うジョアンナに、「なぜ?私は子持ちよ。一人でも何とかやれるわ」とエールを送り、さらに「子どものいる人生は、美しいわ」と素晴らしい助言をしていた。
※とはいえ、妊娠している彼女を残して海へ消えるというのは可哀相すぎる。ジョアンナはきっと夜が明けるまであの場所でジャックが上がってくるのを待っているだろう。そもそもジャックは本当に“愛を見に行った”のかという疑念もある。エンディングに「娘ジュリエットに捧ぐ」と入っていたが、あれは「こんな男に惚れると地獄を見るよ」という警鐘なのだろうか。僕が女性なら、本作はホラー映画に入るかも知れない。
※ジョアンナが雑誌の中の子どもの写真を見ながら「その子大好き。かわいいわ」と言ってるのに、ジャックがその雑誌を無関心にポイとやった時点で、「コイツはやめとけ!」とスクリーンに叫びたくなった。さらに、ジョアンナが海に入って「私の世界の話」という言葉を口にした時、互いが別の世界にいることを認識していると分かり、「お互いのために早く別れた方が良い」とアドバイスしたい衝動にかられた。そこまで別世界に身を置いてるなら、一緒にいても傷つくだけなのに(当社比)。
※ジョアンナに一言。妊娠してるかも知れないって検査をお願いしている時に、煙草を吸って酒を飲んでたらダメだろう…。
※初公開時、フランスでは社会現象になるほどメガヒットし、国内の観客動員数は1000万人、パリでは187週連続上映という記録を打ちたてた。一方、日本では超不入りで、たった1週で上映終了となった。その後、クチコミで魅力が広まりカルト・ムービー化した。
※アメリカ公開版はラストが激変。まさかのジャック浮上!アメリカではハッピーエンドじゃないとウケないと言われており、こんな展開に(汗)。
※ネットで映画評を見ると「何が言いたいのか意味不明」「退屈きわまる」「ただの環境映画」とか散見して絶句。“意味不明”って(汗)。一方、「ジャックを送り出すジョアンナは、あの一瞬で聖母になった。彼を解放したことに同じ女として脱帽した」という意見に、男だけど感銘を受けた。
※『グラン・ブルー』には日本人選手が滑稽に描かれるシーンがあり、人種差別と批判の声もある。でも、僕はあの程度で自分が差別されているとは思わない。日本人の群れたがり&生真面目さを描いたデフォルメであり、差別とデフォルメは違う。“愛すべき連中”という感じで描いていたし。
※モデルになったジャック・マイヨール(1927-2001)はフランスのフリー・ダイバー。戦前に上海で生まれている。フリーダイビング中は脈拍が毎分26回と極端に遅くなり、赤血球が著しく増加したという。1976年11月23日、44歳のときにイタリア・エルバ島で人類初の素潜り100メートルを成功させた。恋愛には本当にストイックだったようで、結婚したのは62歳。晩年に鬱病になり、イタリア・エルバ島にて74歳で自死。遺体のそばのテーブルの上に『グラン・ブルー』のビデオがあったという。遺骨はトスカーナ湾に散骨。エンゾのモデルはイタリア人選手のエンゾ・マイオルカ(1931〜)。映画公開年に101mを記録。
※昨今は「完全版」「ディレクターズ・カット」ばやりだが、何でも詰め込んで時間を伸ばせば良いというものでもない。僕は『グラン・ブルー』より50分短い『グレート・ブルー』の方がスッキリまとまって好きだ。
※この映画を観ると、食事シーンが美味しそうで無性に「海の幸パスタ」が食べたくなる!それも山盛りの!他人に対して高圧的なエンゾが、レストランでママンの前でちっちゃくなっているのが微笑ましい。
※フリーダイビングの記録は、1966年はまだ60 mだった。それが10年後には100mの大台に達し、1983年にジャック・マイヨールが55歳で105 mを出した。2007年、オーストリアのハーバート・ニッチが214mを記録!驚異!

 
9.Vフォー・ヴェンデッタ('05)132分 英・独

2010年1月、四半世紀も独裁政治が続いたチュニジアで、当局の腐敗に絶望した青年ムハンマド・ブアジジさんが死をもって抗議したとき、それがアラブ全体を揺るがす民主化運動に拡大していくなど誰が想像しただろう。ブアジジさんの他界10日後に独裁者は追放され、翌月にはアラブの盟主エジプトでムバラク政権が打ち倒された。革命の熱気は、リビア、バーレーン、シリアと広がっていく。この「自由」を求める大きなうねりが、たった1人の若者から始まったという事実に、胸を打たれずにいられない。独裁者がいかに秘密警察を暗躍させようと、民衆の本気の怒りの前では無力なのだ。ニュース番組で中東の圧政を批判していた若者が、『Vフォー・ヴェンデッタ』で独裁者と戦う主人公“V”のマスクを被っていたのを見て、作品の大ファンである僕は感嘆の声をあげた。この映画も1人の行動が革命のきっかけとなる。

物語の舞台は近未来の英国。第3次世界大戦で核が使用され、既に米国は滅亡状態だ。英国では独裁者アダム・サトラー(ジョン・ハート)が“終身議長”の肩書きで君臨し、街中に監視カメラを設置して秘密警察が市民の会話を盗聴している。国営放送ではキャスターが「移民、異教徒、同性愛者、テロリスト、皆排除されねばならない!」と叫んでいる。なぜこんな社会になったのか。
20年前、サトラーたちファシスト・グループは密かに生物兵器を開発し、史上最悪のウイルスとその治療方法を手に入れた。彼らは“恐怖”を究極の道具として政治に利用することを考え、ウイルスを小学校、地下鉄、浄水場に撒き、“狂信的な左翼過激派の仕業”とした。このバイオ・テロで約10万人が死亡し、メディアの煽動で国は大混乱に陥った。人々は心の余裕をなくし、やがて“表現”や“解釈”という言葉が危険になり、“国家への忠誠”などの言葉が力を増していった。そして“人と違う”ことが危険になった。選挙では排他主義を掲げる超保守派が狙い通りに圧勝する。生物兵器の人体実験は、反体制活動家、同性愛者、有色人種などが連行された収容所で行われ、その地獄から脱走した唯一の生存者が“V”(ヒューゴ・ウィーヴィング)だ。彼は関係者への「ヴェンデッタ(血の復讐)」を誓い、入念に計画を立て、元所長や科学者を一人一人抹殺していく。“V”の最終目標は独裁体制そのものを崩壊させること。彼は1605年に英国政府転覆を狙った国会爆破未遂事件(火薬陰謀事件)で捕縛されたガイ・フォークスの仮面を被り、フォークスが処刑された11月5日(英国の祝日/ガイ・フォークス・デー)の深夜に、中央裁判所を「長期休暇で不在の“正義”と、代わりに住み着いた“偽善”に敬意を表して」爆破した。夜が明けると国営放送をジャックし、全国民に3分間のスピーチを行う。

「皆さん、お耳を拝借。突然の非礼をお許し下さい。平穏な毎日は捨てがたい。同じ事の繰り返しは確かに安全だ。しかし11月5日の精神を皆さんにもう一度思い出してもらいたい。この国ではしばしば警棒が言葉の代わりに使われるが、本来言葉には力がある。真実を明らかにすることも出来る。真実とは、この国に大きな間違いがあることだ。暴虐、不正、偏見、弾圧、それがこの国だ。かつては自由に考え反対も出来た。今は検閲や監視が横行し、服従が求められる。誰がこうしたのか。真の責任者を知りたければ…鏡を見るだけでいい。あなたの気持ちは分かる。なぜ過ちを犯したか、怖かったからだ。戦争、テロ、疫病…恐れて当然だ。あなたの理性をむしばんで、判断力と良識を奪い去る問題はいくらでもある。そして恐怖とパニックの中で、議長サトラーに頼ったのた。彼は秩序と平和を約束し、代わりに沈黙と同意を求めた。昨夜私は沈黙を破ろうと決め、この国が忘れたものを思い出させるため、オールド・ペイリー(中央裁判所)を爆破した。思い出して欲しい、400年以上前に偉大な市民が記憶に刻み込んだ“11月5日”を。彼は伝えようとした“自由と正義は言葉ではない、それは生き方だ”と。あなたにとって政府の犯罪が許されるのであれば、11月5日を忘れて頂いて結構だ。だがもしあなたが、私と同じように感じ、立ち上がるというなら、来年の今夜、私と共に国会議事堂の正面に立とう。共に11月5日を永遠に忘れることの出来ない日にしよう」。

“V”は秘密警察の暴行から救い出した女性イヴィー(ナタリー・ポートマン)を理解者に得て、1年後に向けて着々と計画を推し進める。イヴィーの両親は、彼女が12歳の頃に反体制運動で命を落とし、弟はウイルスの犠牲になっていた。「国会議事堂を爆破すれば本当に今より良い国になると思う?」というイヴィーの問いに、“V”は「確実ではないがその可能性が生まれる。あの建物は“象徴”だ。それを爆破するのも“象徴”。人々が望めば世界が変わるきっかけになる」と語る。
“V”の演説以来、権力への抵抗を試みる者が出てきた。同性愛者で差別政策に苦しんでいたテレビ局のプロデューサー・ゴードンは、ドタバタ喜劇でサトラーを風刺した。ゴードンは美を愛し、「イスラム教徒でなくとも美しい文字や言葉に感動できる」と14世紀のコーランを隠し持っている。彼は家宅捜索でコーランが見つかりその場で処刑された。
翌年の11月4日。サトラーは国会議事堂の周囲を軍でかため、外出禁止令を出す「今夜外出する者はテロリストの仲間と見なされる」。“V”はイヴィーを封鎖された地下鉄駅に案内した。そこには車内に爆弾を満載した列車が待機していた。線路は議事堂の真下に続いている。「この発車レバーを引く権利は私にはない。全てを君に委ねたい」。憎しみに捕らわれ、両手を復讐の血で染めた“V”は、自分もまた旧世界の象徴であり、未来の選択に関わってはならぬと考えた。「今の古い世界は私も一員となって作り上げたもの。それは今夜終焉を迎える。明日から新たな世界が始まる。だからこのレバーは新世代に委ねる」。

【以降ネタバレ防止のため一部文字反転】
同夜、“V”は野心家の秘密警察長官にサトラーを葬らせ、さらには長官の息の根も止めるが、死闘で特殊部隊の銃弾を浴び致命傷を負う。「これでいいんだ」。新時代に“V”がいてはだめなのだ。
いよいよ11月5日零時の鐘をビッグベンが鳴らそうという時、通りという通り、至る所から市民が押し寄せてきた。彼らは“V”同様にガイ・フォークスの仮面をつけていた。あまりの市民の多さに、軍は誰も発砲できなかった。一方、イヴィーはヴァイキングが戦士を水葬するように、地下鉄に“V”の亡骸を乗せた。午前零時、彼女はレバーを引いて列車を見送る。「今この国に必要なのは、あの建物(象徴)ではなく“希望”よ」。街頭スピーカーからは“V”がセットした音楽、チャイコフスキーの大序曲『1812年』が流れ始めている。そして音楽のクライマックスと同時にビッグベンの地下から爆炎が吹き上がった。粉々に崩壊していく議事堂から花火が打ち上がり、新世界を祝福するように夜空を鮮やかに染めた。なおも続く爆音は祝砲となった。
Vの字に輝く花火を見つめてイヴィーは思う、“V”とは私たち皆なのだ、変化を求める者の誰もが“V”なのだと。


ジェームズ・マクティーグ監督はインタビューで“Vはテロリストか”と聞かれ「アメリカ建国の父・ワシントンも英政府から見ればテロリスト、南ア政府からすればアパルトヘイトに抵抗するネルソン・マンデラもそう。テロ犯か自由の戦士かは、歴史だけが答えを出せる」。そしてまた「国民自身がしっかりと政府を監視しないと、どんな世が到来するのか見て欲しい」とも。支配者側か、抑圧される側か、どちらの立場からこの映画を見るかで評価も変わる。原作コミックは1982年から数年間連載され、サッチャー保守政権への反発が込められている。ロンドンが第3次世界大戦の戦火を免れたのは、「労働党が政権を執ってイギリスから米軍のミサイルをすべて撤去させ、その結果この国は核の標的にならなかった」という裏設定があるからだ。
製作・脚本を手がけたのは『マトリックス』のウォシャウスキー兄弟。ブッシュ政権への反発が随所に垣間見える。ブッシュの支持母体であるキリスト教右派は同性愛を毛嫌いし、同性婚に猛反対。ウォシャウスキーの兄は女装を好んでおり、ゴードンがゲイというオリジナル設定は抗議の声だろう。また、コーランの美しさを讃えるシーンもオリジナルで、イスラムを敵視するネオコンへの確信犯的なメッセージだ。繰り返される盗聴の描写も、テロの“恐怖”を道具に使い、普段であれば可決される訳がない愛国者法を成立させて、市民のメールを覗き盗聴しているブッシュ政権へのレジスタンスに思える。

製作者の1人、ジョエル・シルバーいわく「これは政治色の濃い映画だと思う。しかしその意味や個人の考えにどう影響するかは、観客の“理解”次第なんだ」。社会への問題意識を持っている者には政治的な作品になるが、現状に満足している者には娯楽アクションにすぎない。
この映画が制作されたのは2005年。米英が対テロ戦争の真っ只中なのに、よくこんなビッグベン爆砕を試みる映画が公開されたもの。政府施設の崩壊はツインタワーを思わせるため、タブーであったはず。制作費が集まっただけでも驚きだ。むろん、本作は安易なテロ推奨映画ではない。“V”は暴力に訴える自分が新時代にふさわしくない事を自覚していた。
巨悪である権力幹部だけじゃなく、命令を受けているだけの下っ端まで容赦なく殺害するのは、正義のヒーローとは呼べず、やはりダークヒーローだ。崇高な理念は暴力で汚される。だがしかし、彼はたとえ銃で撃たれても前へ進む。「俺を殺せると思ったのか?この仮面の下には血も肉もない。理念だけさ。理念に銃は効かないぜ」と。その強い精神力が心を掴む。(ちなみにタフ・ガイという言葉はガイ・フォークスから来ている)

文学や音楽をこよなく愛し、ユーモアを大切にする教養人であり、流れるような台詞回しに聞き惚れてしまう。そして同時に躊躇なくナイフを投げる事が出来る“V”は、『巌窟王』を観ながら1人でチャンバラごっこをする少年のような一面があり、また鼻歌を歌いながらエプロン姿でパンを焼いている可愛らしさもある。そんな多面的な顔を持つ“V”を演じたのは、『マトリックス』のエージェント・スミス役で怪演を見せたヒューゴ・ウィービング。終始マスクをつけていながら豊かな感情が伝わり、声や体の動きだけで仮面の下の表情が想像出来た。ナタリー・ポートマンはスキンヘッドになって体当たりの熱演。フィンチ役のスティーブン・レイはいつもながら木訥(ぼくとつ)としており、飾り気がなく実直な雰囲気に好感。ゴードン役のスティーブン・フライも知的で存在感がある。
僕は独裁や弾圧を徹底批判する本作品のDVDが政府によって発禁となるかどうかが、国家の健全性を見極めるリトマス試験紙だと思ってる。これが店頭に並んでいるうちは、その国は大丈夫。まだ民主主義は死んでない。
原作の最後のイヴィーのセリフが良いので紹介。「今や、人々を幽閉する牢獄だった社会は廃墟と化した。ドアは開いている。そこから出て行く事も、その場でいがみ合い、新たな看守を待つ事も自由だ。全て彼ら次第だ。そうあるべきなのだ。彼らを率いたりはしない。築き、創造する手助けはするが、人殺しの手伝いはしない。殺人者の時代は終わった。より良き新世界に殺人者の居場所はない」。どうか、自由で明るい未来を僕らが築けますように。

※「政治家は真実を隠すため嘘をつき、芸術家は真実を伝えるため嘘をつく」や、「あなたは誰?」「仮面をした男がその質問に答えると思うか?」のシュールなやり取りが好き。

 

10.ボンベイ('95)141分 インド
「ヒンズーでもムスリムでもない!俺はインド人だ!」
主人公が暴動のさなかに叫ぶこのセリフは、映画史に残る悲痛な言葉だった…!

実際にインドで起きたヒンズー教徒とイスラム教徒との血で血を洗う暴動を背景に、宗派を超えて愛し合う2人を描いたインド版ロミオとジュリエット。社会派作品でありながら歌や踊りの娯楽的要素も含んでいるという、近代インド映画の金字塔。
映画の前半は、由緒あるヒンズー教徒の一族に生まれた主人公が、命を賭してイスラム教徒の女性に愛を捧げる物語。双子が生まれ、夫婦は子供たちにヒンズーとイスラムの混ざった名前(姓がヒンズー、名がイスラム)をつける。すでに自分はこの時点でTOP50に入ると確信した。後半は、1992〜3年にボンベイで実際に起こった両派の宗教大暴動に、この一家が巻き込まれていく物語だ。この暴動シーンは震えあがるほど生々しく、自分は尋常ではない緊迫感に包まれた。

インド映画の定石通りミュージカル・パートが挿入されるが、その歌詞は仰天モノ。『ブッダが生まれた国にブッダは不在』とか『武力なしで独立を成し遂げた国(ガンジーのこと)なのに、今また刀を手に混乱を巻き起こす』など強烈なメッセージ性があった。極めつけは『頬をつたう涙はどれも同じ色、宗教という名の狂気は捨てよう、それぞれの誇りを重ね、高い山にしよう』だ。なんと、宗教を“狂気”と歌い上げるのだ!
殺し合いになるほど信仰心の厚いインドで、本作を撮るのはすごく勇気のいることだったと思う。最大限の賛辞をスタッフ一同に贈りたい(主人公夫婦の親同士が、宗教感情で対立しても孫の前で簡単にメロメロになるのがコミカルで可笑しかった)。映画が終わってみれば、何とTOP10入りの大傑作!万難を排して観るべし!

 

11.アマデウス('84)160分 米
「仰天した。とても信じられなかった。曲想が浮かぶままに書いたオリジナルが…どこにも書き直しがない!1か所も。書く前に頭の中で曲が完成しているのだ。どのページもすべて書き写したように整っている。その音楽も見事なまでに完成されていた。音符一つ変えるだけで破綻が生じる。楽句一つで曲全体が壊れる。私は思い知った。それは神の声による響きなのだ。五線紙に閉じ込められた小さな音符の彼方に、私は至上の美を見た」(モーツァルトの楽譜を見たサリエリの台詞)
 
18世紀のドイツの思想家ヘルダーは「この地上の2人の最大の暴君、それは偶然と時間だ」と、国王から庶民まで誰も逆らうことが出来ない、運命という名の“偶然”や否応なしに流れていく“時間”を嘆いた。しかし同じ頃、ウィーンにはその手で生み出す作品によって、時の流れの壁を突き抜けて永遠に名を語り継がれていく人間がいた。ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト。4歳でピアノ作品を作曲し始め、7歳で交響曲を、12歳でオペラを書いた神の申し子。35歳で早逝するという非情な運命の下でも600曲以上も作品を残した、その偉業と栄光の前で2人の暴君はどこまでも無力だ。とはいえ、モーツァルトの例はあくまでも奇跡であり特例で、多くの人間はこの暴君の手の平の上にいる。

映画『アマデウス』の主人公はモーツァルトではなく、同時代の作曲家アントニオ・サリエリ。サリエリは宮廷作曲家としてオーストリア皇帝ヨーゼフ2世(アントワネットの兄)にピアノを教えるなど、当時の音楽界で欧州一の名声を手に入れた男。しかし、6歳年下のモーツァルトがウィーンに現れ、激しく動揺する。同じ作曲家だからこそ分かる--才能にケタ違いの差があった。サリエリにとってモーツァルトの音楽は“神の言葉”に聴こえた。彼は自分の凡人ぶりを痛感し、勝負にならないことを悟ってしまう。サリエリはモーツァルトの音楽と人物のギャップに混乱した。サリエリは作曲を通して神を讃えたいと願い禁欲的な生活を送ってきたが、モーツァルトは軽薄で不道徳な男であり、サリエリを小馬鹿にしていた。「初めて耳にするモーツァルトの音楽。満たされぬ切ない思いに溢れていた。神の声を聞くようだった。なぜだ?なぜ神はかくも下劣な若造を選んだのだ?」「あんまりだ。私は神の栄光を歌い上げたかった。だが神は願望だけを与え、声は奪い去った。私の賛歌など望まぬなら、なぜ切望を与えたのだ?熱い欲求だけで、才能は下さらない」「理解できない。神は何をお考えなのだ?私への試練か?私に赦(ゆる)しの心を持てということか?それが神の望みか?いかに辛くても?だがなぜ彼なのだ?なぜモーツァルト相手に謙虚さを学ばねばならん?」。
神がサリエリに与えた才能は、音楽を創造する才能ではなく、モーツァルトの音楽の魅力を誰よりも理解する才能だ。これはまさに生き地獄。「(モーツァルト『フィガロの結婚』では)まことの赦しに満ちた音楽が劇場を包み、圧倒的な感動で観客の心を捉えた。神がこの小男を通じて天上から世界に歌いかけていた。1小節ごとに私は敗北の苦さを噛みしめた」「私の圧力で“ドン・ジョバンニ”は5回で打ち切られた。だが私は密かに5回すべてを見た。私だけがあの音楽を理解したのだ」。
 
音楽的才能に恵まれなかったサリエリはやがて神を憎み始め、モーツァルトに殺意すら抱き始める。「神よ。もう、あんたは敵だ。憎い敵だ。あんたは神の賛歌を歌う役目に、好色で、下劣で、幼稚なあの若造を選んだ。そして私にあるのは彼の天分を見抜く能力だけ。あんたは不公平だ。理不尽で、冷酷だ。あんたの思い通りにはさせない。あんたの創造物であるあいつを傷つけ、打ち砕く」「あれはモーツァルトではない。神のあざけりだ。神が下劣な声で私をあざ笑っていた。神よ笑うがいい。私の凡庸さを見せ物にしろ。いつか笑ってやる。この世を去る前にあんたを笑ってやるとも」。そしてサリエリは、“神よ、あんたは不公平で冷酷だ”と十字架のキリスト像を火にくべてしまう(映画とはいえキリストを燃やす場面は衝撃的で、地域によっては上映禁止となった)。
モーツァルトは35歳で死んだが、サリエリは74歳まで生きた。モーツァルトの名声が死後もどんどん高まる一方で、自分の名や作品が忘れられていく苦しみを味わう。「慈悲深き神は、愛する者(モーツァルト)の命を奪い、凡庸な人間にはわずかな栄光も与えはしなかった。神はモーツァルトを殺し、私に責め苦を与えた。32年間も私は苦しみ抜いてきた。自分の存在が薄れていき、私の音楽も忘れられていく。今ではもう、演奏もされない。だがモーツァルトは…」。
天才を前にして自身の凡庸さを思い知らされたサリエリの姿は、多くのクリエイターにとって決して他人事ではない。創作に苦しむ芸術家たちには、この映画は娯楽作品ではなく恐怖映画に映るだろう。最後に老サリエリが「私は平凡な一般人の頂点に立つ、凡庸なる者の守り神だ」と語るが、その彼をあざ笑うかのようにモーツァルト(或いは神)の高笑いが響いて映画は終わる。あれほど戦慄を感じた笑い声を聞いたことがない。

貧困の中で死んだモーツァルトは共同墓地に埋葬されたが、後に美しい墓が建てられた。近くのウィーン中央墓地にはベートーヴェン、シューベルト、ブラームスら有名作曲家が眠る楽聖墓地があり、その中心にはモーツァルトを讃えた追悼碑が建つ。一方、サリエリは同じ中央墓地に埋葬されてはいるが、楽聖墓地から遙かに遠く離れた壁際にあり、背後には路面電車の線路が敷かれ騒音で休まることはない。墓参した僕は思わず「サリエリも楽聖墓地に加えてあげて!」と涙が出そうになった。※サリエリの墓

『アマデウス』はアカデミー作品賞、監督賞、主演男優賞など8部門を制覇。授賞式ではサリエリ役のF・マーレイ・エイブラハムが「老人姿が本物で今日は特殊メイクで若返ってきました」とスピーチし、客席は大いに沸いた。モーツァルトの珠玉の音楽と、我らの王・サリエリに乾杯!
※オスカーの授賞式で「モーツァルトがノミネートされてなくて本当に良かった」とジョークを言った作曲賞受賞者がいた。同じ年のモーリス・ジャールか、2年後に『ラウンド・ミッドナイト』で受賞したハービー・ハンコックのどちらかだったハズ!

※僕の一番好きなシーンは(以下ネタバレ文字反転)→場末の大衆劇場で『魔笛』を公演し過労で倒れたモーツァルトと、彼を家まで送ったサリエリとの会話。「サリエリさん感謝します。オペラを見に来て下さった。知人ではあなただけだ」「モーツァルト、君の作品は見逃すものか」「所詮、大衆オペラだ」「とんでもない、極めつけの作品だよ。傑作オペラだ!」「……」「…私の知る限り、君は最高のオペラ作曲家だ」「恥ずかしい」「何が?」「あなたに嫌われていると思ってた。赦してくれ…赦して…」。モーツァルト=神が、サリエリに赦しを乞い謝っているのだ。この謝罪を受けて驚くサリエリの表情がたまらない。

※アカデミー賞(1985)作品賞、主演男優賞、監督賞、脚色賞、美術監督・装置、衣裳デザイン賞、メイクアップ賞、音響賞

【以下はメイキングにあったミロス・フォアマン監督の言葉から】
・劇中のモーツァルトは下品な高笑いをするが、これはプラハのある高貴な女性がいとこに出した手紙「モーツァルトのケダモノのような笑い声を聞いて卒倒した」が元ネタだ。
・『アマデウス』には、ぼんやりとだが確実に感じる細部が多い。映画の冒頭でサリエリは神父に身の上を語り始めるが、その時点ではまだ窓の外が明るい。映画の進行と共に暗くなって背後のロウソクも短くなり、映画の終わりには再び外光が戻る。そしてラストは神父のヒゲが少し伸びている。つまり、サリエリの告白は一昼夜も続いたということだ。
・この映画でモーツァルトは指揮棒を使っていない。当時まだ指揮棒はなく19世紀初頭に初めてベリオスが指揮棒を使ったから。
・演奏家や作曲家や指揮者、私にとって音楽家ほどミステリアスな存在はない。(私は)手紙が書けるから物書きにはなれる。絵描きにもなれるだろうし、役者にもなれると思う。だが音楽家だけはダメだ。何が何だかさっぱり分からん。天上の調べを生み出すことなど凡人には不可能だ。自覚してるかどうか知らんが音楽家は凡人をバカにしてる。例外もいるが、基本的に凡人を相手にもしないし、自分の間違いを認めない(笑)。
・当時はいくら曲を作ってもお金にはならなかった。印税やら上演料などない時代だったから。彼らは教師で生計を立てた。だからサリエリは「貧しい音楽家を助けるべく常に努力し、多くの生徒に無料で教えた。働きづめの日々だったが素晴らしかった」と強調している。モーツァルトが宮廷の音楽教師を切望したのは、宮廷で教えれば評判が高まり生徒が一挙に増えるから。“サリエリは王女を教える件で私が召し抱えられることを明らかに妨害している”と、実際にモーツァルトがサリエリを名指しで非難する手紙を残している。
・クライマックスのレクイエム作曲シーンで、モーツァルトは寝かされたまま、サリエリも座ったままだ。人間が動かないから音楽が生きる。観客も音楽に集中する。映画史上初めて、人間ではなく音楽が主役になった作品だ。※作曲シーンの会話は指揮者のネヴィル・マリナーが書いた。
・モーツァルトはプラハで最初に借りた部屋は売春宿の2階だった。彼はそこの売春婦ローザ・カナビッチといい仲になる。そして次に当時有名だったソプラノ歌手・ドゥーシェク夫人の邸宅(ベルトラムカ)に移り住み、ドゥーシェク夫人とも関係した。このドゥーシェク夫人はクラム伯爵の愛人でもあった。ローザ・カナビッチは性病(梅毒)にかかっており、彼女の菌はモーツァルトからドゥーシェク夫人へ移り、クラム伯爵へと移った。そして数年後、伯爵は25歳のドゥーシェク夫人を捨てて19歳の若手ソプラノ歌手を愛人にした。菌もまた伯爵から彼女へ。その歌手は全盛期のベートーヴェンの愛人になった。つまり、ある1人の売春婦の性病が、モーツァルトとベートーヴェンという2人の天才を殺したんだ。実際、彼らは梅毒の治療の為に大量の水銀剤を服用している。水銀は腎臓が健康なら無問題だが、病んでいたら致命的な毒になる。彼らの腎臓は不摂生とアルコールでボロボロ。この水銀は毒となり彼らは死んだ。
・映画の総括〜脚本のピーター・シェーファー「映画を作って何よりも嬉しかったのは、大勢の若者が作品を観に来てくれたことだ。世界一の作曲家の映画をね」。フォアマン監督「モーツァルトという作曲家を紹介できた。コンサートで百年かかったことを、我々はこの映画で成し遂げたのだ」。

 
12.アバター('09)162分 米

世界興行収入が『タイタニック』を抜き、歴代1位となる26億4000万ドル(約2385億円)を記録。なんという超美麗な映像。字幕を見る一瞬さえもったいない、夢のような2時間42分。ブルーで統一された神秘的な色彩は海の底にいるようだった。特に衛星パンドラの夜の美しさは空前絶後!しかも立体映像だから、客席にいながらパンドラへ旅行している気分!約2千円で他の星に行かせてくるキャメロン監督に心から御礼を言いたい。エイワ(御神木)を始め、ひとつの星の生態系を丸ごと創造した監督の豊かなイマジネーションに圧倒された!

舞台は22世紀の植民衛星パンドラ。人類はパンドラの大地に埋まる希少鉱物を狙って軍隊を送り、原住民ナヴィ族を追い払う目的で総攻撃を開始する(人類はミサイル、ナヴィ族は弓矢!)。その状況下、主人公は米兵(人類)でありながらナヴィ族に共感していく--。同監督の『エイリアン2』では、エイリアンと戦う海兵隊にエールを送っていた観客は、『アバター』では侵略者と化した海兵隊に抵抗するエイリアン(原住民)にエールを送ることに。
世間では“ストーリーが単純”と言われているけど、僕は全く薄っぺらな物語とは思わ なかったし、むしろ「地下資源を目当てに軍隊を派遣し、相手の文化や価値観に敬意を払わず踏みにじる」という構図は、世界第2位の石油埋蔵量を誇るイラクへの侵攻とダブった。ブッシュ前大統領がイラク攻撃の開始時に使った「(集中爆撃で)衝撃と畏怖を与える」というセリフがそのまま出て来たのは“確信犯”と言っていい。実際、キャメロン監督は「この映画は我々が戦っている(アフガン、イラク)戦争を反映している。兵士は不当に戦場に送られている。この映画で目覚めてほしい」とロサンゼルス・タイムズ紙のインタビューに答えている。
米国には年間約50兆円という天文学的数字の軍事利権があり、反戦論者がタカ派から暗殺される危険性は日本の比じゃない。よくぞエンターテインメントの形をとりながら、現在進行形で自国が遂行する戦争を批判したものと、監督の勇気に感服した。
最初は違和感のあった青い肌のナヴィ族が、だんだん美女やイケメンに見えてくる不思議さ。そして、クライマックスの「I see you」で号泣!種族も文化もすべてを超えたあの「I see you」はもっと評価されるべきかとーッ!

※『アバター』がTOP10からもれたのは、もう少し人間側の事情も描いて欲しかったから。やはり善悪の構図が単純すぎる。設定では「地球は瀕死状態」とあったので、おそらくパンドラの希少鉱物は地球を救う物質ではないだろうか。それなら海兵隊があそこまで非情になる理由も少しは分かる。続編でそこが描かれるだろう。『アバター2』は2014年12月、『アバター3』は2015年12月に公開予定。
※大佐は憎たらしいけど、「パンドラに比べたら地獄なんてリゾート地だ」という
台詞は面白い。これは使い回しがきく言葉。
※中国で“南天一柱”という名の山が、アバターのモデルになったことを記念して
“アバター・ハレルヤ山”に改名!ジョークと思ったらリアルの記事で笑った。
※アカデミー賞(2010)撮影賞、美術賞、視覚効果賞/ゴールデン・グローブ(2010)作品賞(ドラマ部門)、監督賞。

 
13.テルマ&ルイーズ('91)128分 米
どんな環境でも、自分らしくあり続けるのは簡単ではない。人生の転機に直面し、勇気をくれる映画が必要になったとき、この映画は間違いなく背中を押してくれる。アカデミー賞とゴールデングローブ賞で脚本家がダブル受賞したことからも、多くの人の生き方に影響を与えた重要な作品であることが分かる。

●ストーリー
物語は米国南部アーカンソー州の小さな町から始まる。レストランの中年ウエイトレスで自立した人生を送る独身のルイーズ(スーザン・サランドン)と、夫やキッチン以外の世界を知らない専業主婦のテルマは、退屈な日常に別れを告げるべく週末のバカンスに意気揚々と出発する。ルイーズは愛車、メタリック・ブルーの66年型サンダーバードを疾走させた。内気なテルマは傲慢な夫に旅行のことを言えず、置き手紙を残し黙って旅に出た。「あたしはいつも、がんじがらめ。彼だけ外で遊んであたしは家を出られない」。夕食で立ち寄ったカントリー・バーで、テルマは日頃の鬱憤を晴らすべく酒をあおる。ハーランという男からダンスに誘われたテルマは、踊っているうちに酔いが回り外へ出る。するとハーランが豹変してテルマに襲いかかった。顔を殴られ強姦されかけた時、心配で様子を見に来たルイーズが護身用の銃をハーランの頬に突きつけた。「やめないと、この顔を吹っ飛ばすわよ」「ちょいとふざけてたんだよ」「ふざけてた?笑わせないで!顔を見せて。よく聞いて。ああいう泣き方はふざけてんじゃないのよ!」。ルイーズは過去に暴行を受けトラウマがあった。ところが、ハーランは謝罪するどころか最低の悪態をつく。「早くやればよかったぜ。俺のナニを…」。バン!銃口が火を吹く。弾丸は心臓に命中。キョトンとした顔で死んでいるハーランに、ルイーズは忠告する「言葉に気をつけて」。思い出づくりの旅は逃避行に一変した。
テルマは自首を提案するが、ルイーズは自分の体験から、“テルマは酒場でダンスをしており、世間は酔った女の方から誘ったと中傷する。誰も取り合ってもくれない”と判断、メキシコへの逃亡を選択する。ルイーズには貯金が6700ドルあり、それを逃走資金とするべく恋人ジミーに連絡し、オクラホマへの電信振込を依頼する。一方、テルマが夫に電話すると、「早く帰って来い」と怒鳴り散らすばかりで話にならない。辟易してテルマもメキシコ行きを決断した。警察はルイーズたちの車がハーラン殺害の現場から立ち去ったとの目撃情報を得ており追跡を開始する。
 
オクラホマに着くと、ジミーが飛行機で先回りし待ち受けていた。彼はルイーズが遠くへ去るのではと指輪を持参していた。ルイーズはジミーの気持ちを嬉しく思うが、今となっては遅すぎると別離を選ぶ。同じ頃、テルマはヒッチハイカーの青年J・D(ブラッド・ピット)と意気投合し、情熱的な一夜を明かす。14歳で夫と交際を始め、18歳で結婚し、夫以外の男性を知らないテルマは、初めて女としての喜びを味わった。しかし、このJ・Dはとんだ食わせ者で、保護監察中の元強盗だった。彼は隙を見て彼女たちの有り金を盗んで行った。
八方塞がりになり大泣きするルイーズ。「大丈夫」と慰めるテルマに、「大丈夫じゃないのよ…何もかも大丈夫じゃないわ。ガソリン代は?」と泣き続ける。テルマは激しい感情を初めて感じ、「立ってここを出るの」と行動を決定する。腹をくくったテルマはJ・Dから教えてもらったやり方で、誰にも危害を加えずスーパーマーケットで強盗に成功。これでお金の不安はなくなった。
警察は既にテルマ&ルイーズの身元を突き止めており、テルマの夫ダリルにスーパーの防犯ビデオを見せた。「おはよう皆さん、強盗よ」と優雅にレジの金とワイルドターキーを奪う妻の姿に驚愕するダリル。一方、テルマは電話の向こうのダリルが猫なで声で「テルマ!ハロォーゥ!」と言った瞬間に、ガチャリと受話器を置き、自宅に警察がいることを察知した。
2人を追跡していたハル刑事(ハーヴェイ・カイテル)は、これ以上罪を重ねる前に自首させようと苦心していた。彼は「ハーランなんか駐車場で撃たれて死ぬのが当然の男」「彼女たちが犯人のはずがない」という証言に接しており、さらにルイーズが性暴力を受けた痛ましい過去を持っていること、テルマの夫の俗物ぶりなどから、2人に深く同情していたのだ。
アーカンソー州からメキシコへは南下すればすぐだったが、間にはテキサス州があった。テキサスに嫌な思い出があるルイーズは絶対に足を踏み入れようとしない。結果、アーカンソー州→ニュー・メキシコ州→アリゾナ州と西回りに大きく迂回するルートを選ぶことになる。遠回りではあったが、雄大な岩山や赤い大地など国立公園の絶景が続く。逃亡の日々にも時折穏やかな時間が流れ、「ずっと旅行に憧れていたのよ」とテルマ。
 
アリゾナでルイーズがスピード違反(170キロ)によりパトカーに停止を命じられた。黒サングラスのナチスのような警官が近づいてくる。無線連絡で指名手配犯と判明すれば一巻の終わりだ。そう思ったテルマは警官に銃を向けた。「こんなことができるなんて不思議だけど亭主を見れば納得するわ」「助けてくれ。俺には女房とガキが…」「あら、そう。奥さんを大事にしなさいよ。大事にしないとあたしみたいになるわよ」。パトカーのトランクに2度発砲して“空気孔”を作ったテルマたちは警官を押し込み、銃を拝借してから出発した。これで銃が二丁になった。
ハル警部は電話口で自首を懸命に勧める。彼女らが州境を越えたことでFBIが登場し、このままでは2人とも射殺される可能性があった。テルマはルイーズに言う「あたしは引き返せない一線を越えてしまった。戻っても前のような暮らしはもうできない」。ルイーズも「世間の笑い者にはなりたくないわ」と自首を否定する。ルイーズは口紅を捨て、道端の老人が被る白いカウボーイハットと、自分の指輪、ネックレス、時計を交換してもらった。もう化粧やアクセサリーは必要ない。テルマ「こんなに目覚めてる気分は初めて。すべてが新しいの。未来に希望があるって気分」 。2人はメキシコの浜辺でマルガリータを飲み、クラブで働く夢を語る。
タンクローリーを追い抜こうとすると、運転手の中年オヤジが「イイコトしようぜ!」と舌をベロベロさせ、卑猥な言葉をぶつけてきた。2人は「イヤらしいブタ野郎。あいつ女があれを喜ぶとでも思ってんのよ」とゲンナリ。あまりにその男が下品なので車を停めさせた。良い思いができるとワクワク降りてきた男に2人はたたみ掛ける。「見ず知らずの女に失礼じゃない?母親とか姉妹、奥さんが同じ目に遭ったら?」「舌をベロベロさせて、あれは一体何なの?」「それに指でヘンな所を指して何のマネ?自分はデブの間抜けだってこと?」「謝るのよ」。男は面食らいながらも謝罪しようとしない。それどころか大声で「ファックしな!」と悪態をつく始末。テルマ&ルイーズはタンクローリーに向けて銃を乱射、号音と共に大爆発した。「なんてことしやがる!お前らは地獄から出てきたのか!」とわめく男を一笑して、2人の旅はさらに続く。
 
警察、FBIは総力をあげて追跡し無線が飛び交う。『犯人はアリゾナとニューメキシコ州で指名手配。武装強盗、警官に対する暴行誘拐。両者とも銃を持ち極めて危険、用心せよ』。数十台のパトカーとヘリコプターに追われ、カー・チェイスを繰り返すなか、次第に包囲網が狭まっていく。

【以降、この作品はラストを語ってこそのレビューなので完全ネタバレでいきます!

「たとえどうなろうとこの旅は最高よ!」とテルマ。逃げ切れないと予感しながらも、2人の表情は晴れ晴れとし、心の底からの笑顔。「ツキもこれまでね。悔いはないわ!」「前向きな人ね!」。2人とも髪は日に焼けてバサバサ、砂ぼこりで顔は泥んこだが目は輝いている。テルマは万感の思いを込めて言う「あんたは最高」。ルイーズ「あんたも最高」。出発時のテルマは自分で物事を決められない人間だったが、この4日間で激変した。「最高のバカンスね。少し脱線したけど」「それがあんたよ、本当の自分になれたのよ!」。
何度振り切っても追跡してくるパトカー群。特にヘリが厄介だった。ひたすらアクセルを踏んできたルイーズが、慌てて急ブレーキをかける。目の前にグランド・キャニオンの断崖絶壁があった。高さは500m。サンダーバードが停車したことで、後方のパトカーから警官たちがライフル片手に次々と降りてきた。ヘリが着陸し、ハル刑事がマイクで投降を呼びかける。逮捕され監獄へ行くか、自分たちの手で旅を終わらせるか、二つに一つ。せっかく見えない拘束から解放され自由な自分になれたのに、監獄に閉じ込められることは過去の自分に戻ることだった。
テルマが切り出す。「あんたも捕まりたくないでしょ?」「だから?」「このまま行って」「このまま?」。前方の断崖に向け、笑顔でアゴを指すテルマ。「行って!」「本気なの?」「そう!出して」。テルマの気持ちを汲み取ったルイーズも笑顔だ。友情のキスを交わし、サンダーバードはフルアクセルで発進する。異変を感じ取ったハル警部が走り出す。車が猛スピードで断崖に向かうなか、出発時に撮った記念写真が風に舞い上がる。2人がしっかり手を繋ぐと、次の瞬間にサンダーバードは谷底へダイブした---。
 
実に魅力的な作品だ。テルマとルイーズは最後まで後退せず、前進し続けて伝説になった。彼女たちは“これこそが本当の人生”と実感して旅立った。本作でアカデミー賞に輝いた女性脚本家カーリー・クーリは語る。「女のアウトロー映画はなかった。昔はどれも性の対象。そうでない作品はそれまではなかった。女性をきちんと見つめたような、そんな描き方をした映画はなかった。女優は役柄の幅が狭い。“いち少女”“いち人妻”であり、カラッポで愚かな女性の役が多かった。ただ、じっとしているだけ。でも、この登場人物は状況に対応していく。究極の旅を続けて自分らしさを取り戻す」「フェミニズムや女性の地位向上が作品のメッセージじゃない。女性たちに人生は自分で決められることを示しているの」。
 
リドリー・スコット監督は「何かを決断したとき人生はシンプルになる」という。余計なものがそぎ落とされていく。身軽になる。その力強い生き方に観客は心惹かれるのだろう。口紅をルイーズが捨てたシーンや、スカートからジーンズになったテルマについて、監督はこう語る「化粧をやめるが、これ以降、彼女は最も美しくなるのだ」「2人はだんだん生き生きとしてくる。自分らしさが分かってくる。解き放たれてリラックスし、とても魅力的だと思う。テルマは最初着飾りすぎで、ルイーズも化粧が濃すぎた。髪型やスカーフの下には美しい女が隠されていた。風になびく髪や日に焼けた肌は徐々に2人の象徴になるが、本来の姿に近づいた」。
社会的な体面や同調圧力の中で、自分を押し殺している人は少なくない。この映画の爽快さは2人が殻を破って突き抜けていくとことにある。当初のテルマは他人について行くだけで、次に何をすべきか分からない。いわばルイーズとは母と娘のような関係だった。それが英雄的な旅を通して立場が逆転していく。最初はルイーズがテルマの面倒を見ていたが、ルイーズが悲しみで動けない時は、テルマが引っ張っていくようになる。内気だったテルマが礼儀正しい口調でスーパーを襲撃したり、警官に手を挙げさせ「奥さんを大事にしないとあたしみたいになるわよ」と言い放つシーンは劇場で笑いが起き、夫の電話の出方だけで家に警察がいることを察したシーンに爆笑した。
女を見れば下ネタを言い、性の対象としか見ないアホ男どもが描かれる反面、2人を助けようとするハル刑事や、ルイーズにプロポーズするジミーの存在は同じ男として救いだった。
 
本作を語る時に忘れてはならないのが、グランド・キャニオンや赤茶色の荒野、壮大な朝焼けなど西部の自然の美しさ。スコット監督は「景色とキャラクターを協調させるのが私のやり方」と解説しており、背景と内面描写は入念に計算され調和している。テルマとルイーズが誇りを重んじ、神々しさすら身にまとうようになると、背景の景色は広大な土地になり、どんどん荘厳な雰囲気になっていった。対向車も殆ど登場しなくなる。世界に存在するのは2人だけ。観客は景色にもテルマとルイーズの心を感じた。スライドギターの乾いた音色が響くハンス・ジマーの音楽も良い。「心理的な密度が高まると壮観さも増す。2人も景色も壮烈になっていく」(スコット監督)。
 
本作の批評で「現代版“ボニー&クライド”(俺たちに明日はない)」「現代版“ブッチ・キャシディ&サンダンス・キッド”(明日に向かって撃て!)」とよく見かけるけど、それらの映画は強盗や泥棒を本職にしている連中の物語だ。テルマ&ルイーズは、普通の女性が気晴らしのバカンスに出かけただけ。しかもラストの死はまったく意味が違い、本作は無駄死にではない。
公開時、「自殺を助長する」という批判があったそうだが、なんと馬鹿げたバッシングだろう。描かれていたのは2人の行動の気高さ。僕はこれまで女性がカッコよく死んで行く映画を見たことがなく、本作は鮮烈な印象を残した。そのインパクトは公開から20年以上経った今も変わらない。ルイーズは帰れば恋人がいるが相棒にテルマを選んだ。女の友情ここにあり。最初は他人に依存していたテルマは旅を通して自立し、片や何でも自分の力でやろうとしていたルイーズは、他人に“頼ること”ができるようになたった。吹っ切れた2人の表情が実に素晴らしい。最後の友情のキス(アドリブ)は映画史上最も感動的なキス・シーンのひとつ。旅の初日は「最悪のバカンスになってしまった」と思っていたのに、最後は「最高のバカンスになった」と喜ぶ2人。
 
テルマ役のジーナ・デイビスは「映画が人の人生に影響すると初めて知った」と作品を振り返る。いわく「以前なら人が寄ってきては“あなたのファンです”とか“『ビートル・ジュース』が好きです”とか言われたけど、この作品以降は“人生が変わった”などと言われる。人の心に残る作品に出られて良かった。あれで私自身も大いに変わった」。映画の感想が「楽しかった」「面白かった」ではなく「人生が変わった」、それが本作品だ。スコット監督は「今まで作ったどの映画よりこの作品は楽しんで作った」という。本当の自分になれないまま一生を終える人々がいる中で、彼女たちは自分を解放し、生命の輝きに満ちて旅立った。その意味で紛れもないハッピーエンドだ。鑑賞後の余韻は非常に爽やか。真っ直ぐな道、青い空、ゴキゲンなカーステレオ…開放感だけが残る。
 
〔この映画は公開時に論争を巻き起こした。アンチ派への関係者の見解〕
・「暴力で人生を切り開くことは白人男性の特権と思われていたから、領域を荒らされて無意識に反発を覚えたのよ」(スーザン・サランドン)
・「女性コラムニストが“感受性の強い少女たちには見せたくない”と書いていたけれど、私には理解できない」(ジーナ・デイビス)
・「数々の賞をもらうと同時に批判にも耐えなきゃいけない。おかげで精神的に強くなったわ。偏見を無視することも学んだ。いったん作品を作り上げて世に送り出したら、もう自分ではコントロールできない。先入観で作品を見られても、こちらは何もできない。製作者やアーティストの責任も云々される。人が何をどう思うかは私たちの自由にはならない。打つ手は無いわ。どう理解されたいかなどと考えず、心を強く持たなきゃね。発表したら後はなるようになる。好む人も嫌う人も無関心な人もいるでしょう。ままならないのだから、いちいち気にしないことよ」(カーリー・クーリ)
・「あれ(キス)は性的なものではなく、絆を確かめ合うようなもの」(スーザン・サランドン)
・「この作品を意義深いと絶賛する人たちは、批判する人たちと同じ点を良しとしている」(カーリー・クーリ)
 
※スコット監督の思い。「終盤のテルマはとても“ハンサム”に見える。ハンサムで強くてセクシー。ルイーズもまったく同じで、2人のその姿を撮りたかった」「あきらめるか、戦うか、選択肢は2つ。もし戦えばライフルで撃たれ気の重い終わり方になる。なら答えは一つ。旅を完結させる」「2人の決断の輝きを、エンディングの輝きを撮る。最後は感動的で気高くもある」。
※スーザン・サランドンとジーナ・デイビスはアカデミー主演女優賞にダブルでノミネートされ、タイム誌の表紙を飾った。スコットも監督賞にノミネート。
※別バージョンのエンディングは、谷底へ落ちていく車をロングショットで追い、B・B・キングの歌声「♪空を飛びたきゃ下を見るな/アクセルを踏み込んで全速で飛ばせ/後ろを振り返ると涙が出るよ」が重なる。
※公開時の関係者の年齢は、スコット監督54歳、スーザン・サランドン45歳、ジーナ・デイヴィス35歳、ブラッド・ピット28歳、ハーヴェイ・カイテル52歳、カーリー・クーリ34歳。
※ブラッド・ピットは本作のラブシーンで体脂肪率の低いボディを見せ、新たなセックスシンボルとなった。「女房、イカすぜ!」のウインクとおちょくりは劇場で笑いが起きた。
※第64回アカデミー賞と第49回ゴールデン・グローブ賞で脚本賞を受賞。
※撮影の半分はユタ州モアブ市で、終盤はデッドホース・ポイント州立公園で行われた。西海岸のベーカーズフィールドでも撮影。
※当初、J.D.役はウィリアム・ボールドウィンだったが、『バックドラフト』出演で降板した為、オーディションで落ちたブラッド・ピットが採用された(出演料推定6000ドル)。ちなみにジョージ・クルーニーもこの役に挑戦して落とされている。
※監督いわく、自然保護区での撮影は申請書がたくさんあって大変だったとのこと。だがそれを納得しているとも。「景色を保護しなければ観光客が押し寄せマクドナルドができるからね」(スコット)。
※出演者が口を揃えて絶賛していたのがダリル役クリストファー・マクドナルドのコミカルな演技。眉の動き、指の動き、全て完璧で、アドリブが天才的とのこと。
※スコット監督はジョン・レジスター(john register)の絵のファン。
※ジミー役のマイケル・マドセンは、『レザボア・ドッグス』のミスター・ブロンド役で観客を震え上がらせた。
※セクハラのトラック野郎を演じた男優いわく「二度と彼女ができなくなる」。よく見ると、彼はトラックを降りる前に指輪を外し避妊具まで取り出している。撮影後の仕事がハムレットの舞台という。
※「一番すごい書物と思うのは初めて言論の自由を認めた(合衆国)憲法修正第一条よ。それは恐ろしい結果をもたらすとして反対の声が続出した。思ったことを発言し、それに対する責任を取る心構えでいても、発言者の意図に反して人は誤解や思い違いをする」(カーリー・クーリ)

この作品が高順位になった一番大きな理由。それは自殺が人生から“逃げた”ことにならなかった点だ。このように死を生に変える奇跡を成功させた作品は極めて少ない。他者から見れば自殺でも、それが当人には死と認識されておらず、「生きる為に死ぬ」「死んで本当の自分になる」という矛盾した言葉で表現されており、しかもなんの違和感もないほど強い説得力を持っている。一歩間違えれば単なる人生逃避映画になってしまうこの種の映画ほど、作り手の力量が問われるものはない。だが、作品中で見事に死は生に転生されていた!僕は自殺を推奨する気はさらさらないが、“死=全ての終わり”という概念を打ち破った離れ技に拍手を惜しまない!死という人間にとって最大の悲劇を悲劇ではなくする、つまり死を無力にする本作や『グラン・ブルー』は、存在そのものが奇跡といえよう。

 
14.渚にて('59)135分 米
第三次世界大戦(核戦争)で北半球が壊滅、南半球オーストラリアの一角に生き残った人々が、放射能で半年後に死に絶えるまでの日々を描いた衝撃の一本。“衝撃”といっても、描かれているのは阿鼻叫喚の地獄絵図ではなく、普段どおりの暮らしを続けている人々。その日常生活の中で、何十年も寝かしていた家宝のワインを開けたり、ずっと秘めていた恋の告白をしたり、政府が安楽死の薬を配布するシーンなどが挿入される。観客は劇中で人々が黙々と「終わり支度」をしているのを見届けるのだ。グレゴリー・ペックの好演が光るが、全くダンスシーンのないフレッド・アステア(の死)が何より印象的だった。
※コカ・コーラが小道具として使われている有名なシーンがある。あれはブラックかつ最高のCMだ。
※劇中のセリフ「時間がないと価値観が変わる」というのは真理だと思う。半年で死ぬのに財産や身分に何の価値があろう。

 
15.トイ・ストーリー3('10)103分 米

2010年度の世界興行収入で第1位(約11億ドル)となりアカデミー長編アニメーション賞に輝いた『トイ・ストーリー3』は、オモチャの視点から“出会いと別れ”を美しく描きあげた傑作だ。
主人公はカウボーイ人形のウッディ(声トム・ハンクス)。持ち主のアンディは小さい頃からウッディや仲間のオモチャとよく遊んでいたが、思春期になるとオモチャを卒業し、今は17歳になって大学生活を始めるため家を出る準備をしている。アンディの部屋は妹モリーのものとなり、オモチャは黒いポリ袋に入れられ屋根裏へ片付けられることに。ウッディたちは「いつかこうなることは分かってたろ」と互いに励まし合い、アンディやモリーに子どもが生まれる日まで長い眠り(スリープモード)に入る覚悟を決める。

ところが、ある手違いからアンディにゴミ扱いされたと勘違いしたオモチャたちは、自ら保育園へ寄付される段ボールに入ることを決意。オモチャにとって最高の喜びは子どもに遊んでもらうことであり、その意味で保育園は天国だった。「屋根裏よりよっぽど良い!」と喜び合うオモチャたち。ところが、保育園の幼少組にあてがわれた為、遊び方を知らない幼児たちは彼らを恐ろしいほど乱暴に扱う。しかも、保育園のオモチャ社会は、過去のトラウマで人間不信に陥った熊のぬいぐるみ・ロッツォが独裁者として君臨する暗黒世界だった。
ウッディは「僕らはアンディの元へ帰るべきだ」と仲間を説得、かくして保育園からの大脱出劇が展開される!

【ネタバレ文字反転】
何度も窮地に陥りながらも危機一髪のところで逃げ延び、なんとかアンディの部屋へ戻ってきたオモチャたち。そこでウッディは、アンディの母親が「ずっと一緒にいられたらいいのに」と泣きながら、独り立ちしていく我が子を抱きしめている様子を見る。それまでアンディの近くにいることにこだわっていたウッディは、“一緒にいる”ことは距離の問題ではないと気づく。離れていても心は通じることを知る。一方、アンディもまた“オモチャがいるべき所は暗い屋根裏じゃない”と思い、近所のオモチャが大好きな4歳の女の子ボニーに贈ることにする。
ボニーの家を訪れたアンディは、庭で遊ぶ彼女と向き合い、一個一個のオモチャのあだ名や思い出を語りながら、「僕の宝物なんだ」「大切にしてね」と手渡していく。そしてボニーと2人でウッディたちと心ゆくまで遊んだ後、アンディはオモチャに微笑みかけ「ありがとう…みんな」と感謝して去って行った。小さくなるアンディの車を、ウッディは「あばよ、相棒」と見送る。明るい陽射しに包まれ、両者は新たな生活を歩み始めた。
 
1995年に世界初の長編CGアニメーション作品となるパート1が公開されてから15年。前作からも11年ぶり。これ以上ないという最高の形できっちり終わり、近年では珍しい充実したシリーズ完結編となった。冒頭の大列車強盗アクションでワクワクした後、大学に行くアンディがオモチャを“仕分ける”シーンからラストまで、全編にわたって涙あり笑いありのアッという間の103分。スペイン語モードのラテンなバズや、バービーに良い所を見せようとするケンは抱腹絶倒だ。脚本でさすがと思ったのは、保育園で“砲丸投げ”など酷い目にあってもけっして幼児たちを悪く見せないところ。オモチャたちは「イモムシ組の子はまだ私たちと遊ぶ年齢になっていないんだ。私たちにはもっと大きいチョウチョ組の子があってる」と、子どもに悪気はなくまだ小さすぎて上手く遊べないだけとフォローしている。

【ネタバレ文字反転その2】
何より忘れられないのが、保育園からの逃避行中に、運悪くゴミ処理施設に運ばれたエピソード。ベルトコンベアに乗ったオモチャたちの先に待っているものは溶鉱炉。当初は逃げようともがくものの、次第に溶鉱炉が接近。運命を悟ったオモチャたちは、互いに黙って手を握り合ってひとつになり、目を閉じて最期の瞬間を“気高く”迎えようとする。最初に手を差し出したバズの目を思い出すだけで泣きそうに。
ラストのアンディとの別れは後世まで映画ファンに語り継がれるだろう。アンディが自らの半身同然のオモチャをボニーに渡す場面は、ルノアールの絵画のように美しい緑と日光にあふれ神がかっていた。オモチャに感情移入していた僕は、アンディの「宝物」「ありがとう」、この短いたった2つの言葉で救済され、すべてが報われた気がした。別れは切ないけどそこに悲壮さはない。心が確かに繋がっている実感があるからだ。これがあれば前進できる。新しい生活に希望を感じる1本。

※97点。こんなに誉めてるのになぜ満点じゃないのか。僕はロッツォが最後までワルのままだったのが辛かった。“カールじいさん”の悲しい冒険家といい、最近のピクサーは“悪は心を入れ替えず悪のまま”という方針を打ち出したのか?どう考えても、あそこでロッツォが善玉になる方が、子どもが喜ぶし感動も大きいのに。停止ボタンを押したけど故障していて溶鉱炉のシーンに繋がる展開でいいじゃん…。あの裏切りの瞬間、60点まで下がった。でもその後の手を繋ぐ→アンディとの別れが神脚本だったので97点まで盛り返した。アメリカ人はハッピーエンドが好きだから、ロッツォの裏切りはピクサー社内で議論になったはず。あえてあの展開にしたということは、溶鉱炉脱出後に「(ロッツォなんか)ほっときゃいいさ、復讐する価値もない」というセリフを言わせたかったから?子ども達に、将来ああいう人間と出会った時に「復讐する価値もない」とやり過ごすようアドバイスしているのかなぁ。でも、そんなドライなことをわざわざ映画で伝えるかな。うーん、ピクサーの本心が読めない。
※字幕を読んでいる時間がもったいないほど画面の隅々まで遊び心満載なので、日本語吹替えをお薦め。声優陣は全員めっさ上手かった!
※世界歴代興行収入で第5位。日本国内でも『ファインディング・ニモ』を抜いて洋画アニメーション史上歴代トップとなった。
※最後のスタッフロールには制作期間4年の間に産まれたスタッフの子どもの名が出ている。
※アニメーターなど技術スタッフが苦労したのは、黒いゴミ袋の薄っぺらさを出すことで、DVD解説では「ゴミ袋を見る度に今でもストレス障害になる」とジョークを言ってた。あと、ポテトヘッドの「トルティーヤのおかげで白髪が増えた」とも。
※アカデミー賞(2011)長編アニメーション賞、主題歌賞

 
16.ニューシネマ・パラダイス完全版('89)175分 伊・仏
公開時、「歴代映画の中で最も感動的なラストシーン」と絶賛された本作は、イタリアの片田舎に建つ映画館“パラダイス座”を舞台にした、映画好きの少年・トト(サルヴァトーレ・カシオ)の成長を詩情豊かに描き出した傑作だ。冒頭シーンで有名なエンニオ・モリコーネのテーマ曲が流れ、ノスタルジックなメロディーと共に観客は一気に作品世界へ引き込まれる。
映画の前半は少年トトと老映写技師の微笑ましい友情に終始笑い放し。中盤では主人公と共に恋の苦悩を体験し(“100日間連続立ち”のエピソードは気持ちが分かるだけに切ない)、後半は“時の流れ”という残酷な現実を見せつけられ、2度と戻らぬ過ぎ去った過去への郷愁の前に立ちすくむ--人生のいろんな局面が詰まった作品だ。そして、当「完全版」を見てない人は断固見るべし!成長したトトの人生が公開版より約50分も描き込まれていて、ラストに至る感動もひとしお。大人になったエレナとの再会やアルフレードの“ある行動”など、公開版にはない重要なシーンがいくつもある。公開版でも十分に楽しめる良質な感動娯楽作だけど、完全版はそれにプラスして精神的な深みが加わり、観る者の人生と共に歩んでいく、感動が“現在進行形”の作品に昇華されている。

撮影時にまだ29歳だったジュゼッペ・トルナトーレ監督が、老巨匠のような風格を出していたことに驚く。3時間の長編映画だが、少年期、青年期、壮年期と1時間ごとに区切りがあるのでアッという間だ。あまりに有名なクライマックスのキスシーンは圧巻の作品43本分。この他にも本編の随所に往年の名画が登場し、トルナトーレ監督の映画への愛が爆発している。まさか、ストーリーのないキスシーンだけで泣けると思わなかった。パラダイス座に集う村人たちの表情も最高だ。登場する誰もが映画をこよなく愛している。映画館に入りきれなかった人の為に、広場の壁に映すシーンも魔法のようで素晴らしい。
この映画は日本での初公開時に連続40週のロングラン上映となり、シネスイッチ銀座にて観客動員数約27万人、興行収入3億6900万円という単館ロードショーの新記録を打ち立てた。これは約20年が経った今もまだ破られていない。
この映画はノスタルジーで溢れているが、単純に観客の涙を狙った作品ではない。エレナとの再会がない2時間の劇場版の方が良いという声もあるが、僕は圧倒的にこの3時間の“完全版”を押す。人生はここにある。

【ネタバレ文字反転】
終戦直後のシチリア島。トトの村では映画が唯一の娯楽であり、父を戦争で失った彼は、老映写技師アルフレード(フィリップ・ノワレ)を父親替りに慕っていた。当時は検閲が厳しく、キスシーンは御法度。カットされたキスシーンをトトは欲しがるが、アルフレードは上映後に元に戻すからと断り、「これは全部お前にやるが、代わりに俺が預かっておく」と言いくるめる。母に頼まれた買物代まで映画に使ってしまうトトはますます映写室に入り浸り、子供ながらアルフレードの後継者として映写機を回すようになる。やがて青年になったトトは青い瞳の転校生エレナに初恋。トトの真っ直ぐな想いはエレナの心を動かし幸福な夏を過ごすが、貧しいトトを嫌ったエレナの父は2人を引き裂き遠くの大学へ入れてしまう。一方、トトは徴兵されて除隊後にシチリアへ戻るが、兵役中に彼女が転居し新しい住所を知らせてくれないことに深く傷つく。傷心のトトにアルフレードは「人生はお前が見てきた映画とは違う。もっと困難なものだ」と語り、“己のやるべき事に集中しろ”と、村を出て都会で自分の才能を開花させよと忠告する。そして「長い年月帰ってくるな、もうお前と話したくない、お前の噂を耳にしたい」と突き放した。そしてトトは昔聞いた“王女と兵士の物語”のお伽噺を思い出す。王女に恋した兵士は「100日間バルコニーの下で待っていてくれたら貴方を愛します」と言われ99日目の夜に立ち去った。兵士は怖くなったのだ。翌日になれば失恋するかも知れないが、今立ち去れば“王女は愛してくれたかも”とずっと思っていられる。トトもまた「エレナは愛が醒めて連絡をくれないのではなく、僕の行方が分からないからだ」と、そう信じたくて村を逃げ出した。アルフレードは駅でトトを見送り、別れ際に「何をするにしろ自分のすることを愛せ、子供の頃に映写室を愛したようにそれを愛せ」と最後のアドバイスをする。

それから30年の時が流れ、映画監督として大成功を収めローマで暮らす中年トト(ジャック・ペラン)の元へ、故郷からアルフレードの訃報が届く。久しぶりにシチリアへ帰ったトトが見たものは、テレビの普及で廃館・解体されるパラダイス座、そしてかつての同級生と結婚したエレナだった。彼女になぜ連絡をくれなかったのかと詰め寄ると衝撃的な事実が判明する。アルフレードはトトを村に戻って来させないために、駆け落ちを希望するエレナの伝言をわざとトトに告げなかったのだ。しかも映写室に彼女が残した新住所の書き置きもトトは見落としていた。トトはエレナから「あなたほどの人はいなかったし、心から愛していた」と告白され驚く。トトは「30年間ずっと君を求めてた。仕事では確かに成功したが、いつも何かが欠けていた」と胸中をさらけ出し、アルフレードに対して恨み言を吐く。しかしエレナは「もし私と結婚したら映画作りは出来なかった」と言い、アルフレードはトトを騙していないし、むしろ唯一の理解者だったと諭す。事実、トトの映画は素晴らしいものばかりで、彼女は全作品を観ていたし、アルフレードも全てのセリフを暗記していたという。これらの作品は、トトがエレナと結婚し村で映写技師を続けていたら生まれなかった。トトはもう一度エレナとやり直したいと願うが、既にエレナには子供がおり、「もう終わったこと。私たちにあるのは過去だけ」と自分の家庭に戻っていった。アルフレードの葬儀後、夫人から形見のフイルムを受け取るトト。ローマの試写室で上映すると、スクリーンに映し出されたのは、少年時代にカットされたキスシーンを1本に繋げたものだった。アルフレードが大昔の約束を守って返してくれたのだ。次々と映し出されるキスシーン。これはアルフレードが作った“映画”だった。銀幕を見つめるトトの瞳が少年の頃のように輝き、熱い涙が溢れ出した。時代は移り風景は変わっても、エレナへの想いだけはいつも変わらなかったトト。社会的には成功したのに、何年もエレナを失った喪失感や寂しさを胸に抱き続けていた。しかし、アルフレードの形見がパラダイス座で知った「映画への愛」と映画の持つ本来の力を思い出させ、トトはエレナへの想いからついに解き放たれるのだった--。


※好きな人と結ばれるのは幸せなこと。でも、この映画は幸福へ至る道は恋が全てではないと、異なる価値観を示してくれる。僕は学生時代、失恋直後にこの映画と出会えたおかげで再び前向きに歩き出せた。
※中年エレナを演じていたのは名画『禁じられた遊び』のかつて子役ブリジット・フォッセー。
※アカデミー賞(1990)外国語映画賞/カンヌ国際映画祭(1989)審査員特別グランプリ

  完全版は全映画ファンが見るべき作品!
17.ショーシャンクの空に('94)143分 米
(注)主人公と親友の長年の友情を語らねばレビュー困難なので、完全ネタバレでいきます!

近年は司法における科学捜査の導入が進み、米国では1989年〜06年の17年間に、十数人の死刑囚を含む188人もの囚人がDNA鑑定で無実を証明した。彼らは平均で12年間も服役していたという。“平均”ということはもっと長い人間もいたということだ。無実にもかかわらず自由を奪われた時、人間はどうやって希望を見出すのだろう。

●物語
『ショーシャンクの空に』の主人公アンディ・デュフレーン(ティム・ロビンス)は、1947年に妻と間男を射殺したという罪で終身刑を宣告された。アンディは無実だったが、状況証拠が彼にとって不利過ぎた。彼が投獄されたショーシャンク刑務所にはコソ泥から殺人犯まで様々な囚人がいる。アンディは入所から一ヶ月間誰とも話さなかったが、何かに打ち込んで正気を保とうと、趣味の鉱物採集を再開することにした。そして外部との闇ルートを持っている“調達屋”レッド(モーガン・フリーマン)に砕石用の小さなロックハンマーを頼んだ。レッドは既に20年も入っている古株の黒人囚だ。元銀行マンのアンディには粗野な部分がなく、レッドは以前からアンディが持つ特別な空気に気付いていた。「アンディはいつもすごく物静かだ。物腰がここにいいる連中とは違う。まるで何の悩みもない人間が公園を散歩しているようだ。彼は自分だけの世界を持っていたのだ。ハッキリ言おう、俺は初めからアンディが人間的に好きだった」。レッドはロックハンマーでアンディが脱獄でもする気かと怪しんだが、取り寄せた小型ハンマーを見て「これでトンネルを掘るには600年かかるな」と肩をすくめた。

アンディは入所の当初から生傷が絶えなかった。不運なことに荒くれ連中の性の対象にされた為、抵抗する度に殴打されていたのだ。転機が訪れたのは2年目。炎天下の屋根修理に動員された時に、遺産の相続問題で悩む鬼看守ハドレーに解決策を助言したことから、アンディは節税の相談を受けることになった。アンディは書類作成の報酬として、汗だくで屋根を修理する仲間たちにビールを要求した。普段は無口なアンディの言葉に仲間たちは驚きつつも感謝した。後日、レッドは回想する「太陽を浴びてビールを飲む、まるで自由な人間だ。アンディはと言えば、独り離れて座り、奇妙な笑いを浮かべながら俺たちがビールを飲むのを見ていた。…アンディは束の間でも、普通の人間の気分を味わいたかったんだと俺は思う」。この件でアンディは仲間から一目置かれるようになり、アンディを襲撃したヤクザ連中は鬼看守から半殺しにされた。アンディに資産運用の相談をする所員が日増しに増え、彼が税金申告書の作成に集中できるように、所長は彼を図書係に回した。こうして図書室がアンディにとって“税理士事務所”になったわけだが、図書室とは名ばかりで蔵書は少ししかなかった。人生には文学が必要と考えたアンディは図書予算をつけるよう所長に訴えるが「金がない」の一点張り。アンディは州議会に宛てて、図書予算請求の手紙を毎週出し始めた。そんな折、悲しい出来事が起きた。図書係の前任者ブルックス老人が、仮出所で50年ぶりに外へ出た後、生活環境の変化に対応できず「BROOKS WAS HERE」(ブルックス、ここにありき)と壁に刻んで命を絶ったのだった。レッドは仲間に語る「この高い塀がくせ者だ。最初は憎む。それから慣れる。やがて長い月日の間に頼るようになる。それが“施設慣れ”だ。終身刑は陰湿な方法で人を廃人にする刑罰なのさ」。

アンディの手紙作戦が6年目に入った時、ついに年200ドルの予算と大量の中古図書が届けられた。寄贈された中にはレコードもあった。モーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』を見つけたアンディは、放送室で第三幕の“手紙の二重唱”に針を置いた。無断でマイクのスイッチを入れると、刑務所中のスピーカーから美しいソプラノ歌手の声が響き渡った。すべての囚人たちがスピーカーを見つめたまま動けなくなった。レッドは胸が熱くなった「あのイタリア人の女性が何を歌っていたのか知らない。分からなくても良い。何か言葉には出来ない素晴らしいことを歌っている、だから聴く者の胸がキュッとなる、そう思ってた方が良い。あの歌声と共に聴く者すべてが限りなく高い空の果てに舞い上がっていく感じだった。まるで美しい鳥が灰色の檻に舞い降り、あの高い塀を消し去ってくれたようだった。短い間だが、ショーシャンクの全員が自由になった」。所長は激怒し、アンディは2週間も“穴蔵”(懲罰房)に放り込まれた。懲罰房は狭く暗い密室で精神のバランスを失いかねない牢だ。穴蔵から出て来た彼に囚人たちが声をかける。「ようマエストロ、懲罰房はどうだった?」「最高に快適だった」「嘘をつけ、あそこは1日が1年だ。地獄だよ」「音楽を聴いてた。モーツァルトっていう友達がいたんだ」「どうやって聴くんだ?」「頭の中にいた。心の中にも。それが音楽のいいところで、音楽は決して人から奪えないんだ」。“ここじゃ音楽は意味がない”という声にアンディは「ここだからこそ意味があるんだ。人の心は石で出来てるんじゃない。心の中には誰にも奪えないものがある…希望だよ」。レッドは「希望か。お前に言っとくが希望は危険なものだ。希望は正気を失わせる。塀の中では禁物だ。よく覚えておけ」と吐き捨てた。
1959年、服役12年目。アンディが図書予算要求の手紙を週に“2度”に増やして送り続けた結果、予算は500ドルに大幅増額された。これを機に図書室を皆で改装し、『ブルックス記念図書館』の看板を立てた。この頃になると所長までもがアンディを私設秘書のように扱っていた--ただし、所長の場合は賄賂や裏金の“洗濯”など不正経理が目的だったが。

1965年、服役18年目。トミーという跳ねっ返りで愛嬌のある若者が入所してきた。そしてこの若者の口から信じられない言葉が飛び出した。彼は以前にいた刑務所で、アンディの妻と間男を殺したと自慢していた悪党に会ったと言うのだ。有頂天で所長に再審を求めるアンディに対し、自由になり悪事をバラされることを恐れた所長は、逆にアンディを懲罰房へ閉じ込め、アンディの為に証言台に立つというトミーを罠にはめ殺害する。“穴蔵”から出て来た後、目に見えて憔悴していくアンディをレッドや仲間たちは気遣う。自殺したブルックスのことが皆の頭をよぎり、「アンディが変な気を起こさぬよう見ていよう」と約束する。そして服役19年目のある日の朝。いつものように点呼をとると、アンディが部屋から出て来ない。胸騒ぎを覚えるレッド。同じ頃、所長の部屋でも異変が起きていた。靴箱を開けると、所長の靴の代わりにボロボロのアンディの靴が入っていた。その時、サイレンが鳴り響く。看守たちが動転して叫んでいる「ヤツがいない!」。アンディの部屋を調べると、なんと映画女優のポスターの裏側にトンネルが掘られていた!アンディはあの小さなハンマーで20年も掘り続けていたのだ!嵐の夜に下水管から小川へ這い出したアンディは、土砂降りの空に向かって両手を広げ自由を噛みしめた。レッドは痛快だった。600年かかると思った穴掘りを20年でやりきったアンディが、自分のことのように誇らしかった。アンディは所長の不正蓄財をちゃっかり戴き、悪事をマスコミに暴露された所長は自ら頭を撃った。

その後のショーシャンク。仲間たちは何かにつけてアンディの思い出話で盛り上がる。屋根の上のビール、オペラ事件、図書室、皆が楽しそうだ。レッドも笑顔だが心は複雑だった。「アンディはもういない…。彼が去って寂しくなる時もあるが、俺は自分に言い聞かせる。カゴに閉じ込めちゃいけない鳥もいるんだと。羽があまりに美しすぎる鳥。それが飛び立つ時、自由になって良かったと喜ばなきゃいけないんだと。とはいえ、鳥が飛び去った後の世界は、前よりくすんでわびしい。要するに俺はアンディに会いたかった」。しばらくして、レッドは服役40年目の審査で仮出所が許可された。だが、ブルックスと同じで外の生活に順応できず、居場所がないと毎日怯え、刑務所に戻りたいと考えてばかり(レッドはブルックスが死んだ部屋で暮らしていた)。そんな時、彼はアンディとのある約束を思い出した。指定された場所へ行くとアンディの手紙が見つかった。そこには「レッド、一緒にメキシコで暮らそう。君に仕事を手伝って欲しい。希望は素晴らしい。何にも替え難い。希望は永遠の命だ。君がこの手紙を見つけてくれることを、そして元気でいることを願っている。」とあり、旅費も入っていた。レッドの脳裏に、アンディがメキシコ・ジワタネホの海辺でホテルを営みたいと以前に語っていた記憶が甦った。レッドは部屋へ戻ると「SO WAS RED」(レッドもここにありき)と刻み、“俺は生きるぞ”とメキシコへ向かう。バスの中でレッドは胸が高鳴っていた。「ワクワクして落ち着かない。これは自由な人間だけが味わえる興奮だ。何にも縛られず長い旅に出る、自由な人間だけに」。そしてジワタネホ。どこまでも広がる真っ青な海、そして明るく輝く白い砂浜。浜辺で船を修理していたアンディの目に、見たこともない笑顔で歩いてくるレッドが映った。再会した2人は無言のまま、黙って肩を抱き合った。太陽と海が2人を祝福した。


素晴らしい映画だ。原作者のスティーブン・キングはフランク・ダラボンの脚本を「私が行間に込めたものの、さらに裏側まで描き出した」と絶賛。劇場で2時間半も灰色の暗い牢獄にいた観客は、ラストの1分間、降り注ぐ太陽を浴び、青い海が広がる砂浜に裸足で立つ。閉ざされた空間からの自由は、もう宗教的体験と言ってもいい。画面いっぱいに広がる青い太平洋の端っこで、再会する2人の小さな影を見つめていると、明るい太陽と海が何もかも浄化していくようだった。ジワタネホではセリフがないので、この映画の最後のセリフは、メキシコ行きのバスの中でレッドが呟く言葉だ。「国境を越したい、親友と再会したい、太平洋が青く美しいといい」と“希望(Hope)”の単語が3度繰り返され、さらに「I hope…(俺の希望だ)」で締めくくられる。かつては「希望は危険だ」と斬り捨てた男が語る「I hope」。この映画は希望の勝利を描きあげた。観客はアンディを不幸のどん底であえぐ不幸な男と思っていたら、実は自分の力で人生を取り戻すヒーローだった。長年の牢獄生活の中でも自分を見失わず、ついには脱獄に成功した英雄。人生には不運が続いて牢獄(ショーシャンク)に囚われた気分に陥ることがある。だけどこの映画は根気強く希望を持ち続け、逆境に耐えていれば、いつか明るい太陽を浴びることが出来ると教えてくれる。次に踏み出す勇気を奮い起こしてくれる。始めた事をやりとげる、最後まで希望を捨てず諦めないアンディの姿は勇気を与えてくれる。現代では「希望」という言葉は何の鮮度もない使い古された言葉に成り下がったけど、あえてその言葉とがっぷり組み合い、改めて「希望」という言葉に命を吹き込むことに本作は成功した。

『ショーシャンクの空に』本作が1994年に公開された時はたいしてヒットせず、制作費と収益がトントンだった(正確には宣伝費を入れると赤字)。アカデミー賞では7部門にノミネートされたものの、ごっそり『フォレスト・ガンプ』に持って行かれて受賞ゼロ。客の不入りは、2時間半の刑務所映画で気が滅入る話と思われてたのと、タイトルの覚えにくさ(コレ重要)。しかし口コミで評判が高まり、なんと公開の翌年には全米でレンタルビデオの貸出し1位に輝いた。派手な作品ではないが、困難な状況でも諦めなければ希望は叶うというテーマと共に、悪党を出し抜くドンデン返しの爽快さもあり、感動だけじゃないエンターテインメントとしての面白さもある。「冤罪のままで消化不良」という意見もあるが、鬼看守の逮捕でトニー殺しも発覚するし、自ずと真相は明らかになるだろう。それにもし冤罪のままだとしても、理不尽な状況の中で誇りを捨てずに自分を貫きベストを尽くすのが人生じゃないかな。
この映画は綺麗事だけじゃなく、老ブルックスの悲しい末路も描いている。たとえ刑務所であろうと、人間は同じ場所に長く居続けると、そこが自分の全世界になってしまう。望まなくても環境に適応してしまう。そして今度はそれを失うのが怖くなってしまう。そうなってはいけないと、アンディは別の世界の存在を忘れないように、皆に向けてモーツァルトをかけたり、図書館を充実させたり、若者に勉強させたり、冷えたビールをプレゼントした。

忘れてはならないのは、アンディがスーパーマンではないことだ。彼も普通の人間であり、計画の実現まで果てしない時間を必要とする為、正気を保ち続けようとして、音楽や文学、彫刻に励ましを求める。希望を持つことは大切だが、持ち続けることは難しい。しかし芸術や文学など支えになるものは自分から求めれば幾らでもあるし、多くの先人たちもそうやって突破してきた。決して夢物語ではなく、誰でもジワダネホの砂浜に行ける可能性がある。その希望を描いているからこそこの映画は愛され続けるのだと思う。どこかミステリアスなティム・ロビンス(ビールを飲む仲間を見ている時の笑顔は彼にしかできない)と、モーガン・フリーマンという主演の2人だけでなく、脇役の俳優たちも皆が心に残る良い演技をしていた。人気ロックバンドのMr.childrenは“one two three”という曲の中で「『ショーシャンクの空に』を見てからは、暗闇で振り回す両手もやがて上昇気流を生む事を確信した」というニュアンスの歌詞を歌っている。希望こそが生きる原動力。どんなに苛酷な環境でも絶対に希望を捨てないという姿勢が、最終的には自分だけじゃなく周囲の人間まで幸福にしてしまう。こんなに後味のいい映画はあまりない。

※試写会の時点ではバスのシーンで終わっており、結末は観客の判断に委ねられていた。ところが配給会社が「この結末だと希望はあっても満足感はない。2人の再会を見せないのは観客への詐欺行為だ」と抗議。ダラボン監督は渋々とビーチで追加撮影したが、それがあまりに良い出来だったので急遽くっつけることにした。ただし、再会した2人の抱擁をハリウッド的にベタなアップで撮るのではなく、小さな遠景にすることでダラボンの意地を貫いた。
※原題は『The Shawshank Redemption』。Redemptionの意味は“贖い”。
※フランク・ダラボン監督は脚本も担当。レッドのナレーションには相当自信があったようで「ナレーションは原作を超えたと思う」とのこと。ちなみにモーツァルトのシーンも映画オリジナル。ブルックスが死を選ぶ10分間もそうだ。
※2度目を見ると、所長がアンディに聖書を返す時に言った「救いはこの中にある」が皮肉で可笑しい。既にあの時点でハンマーが隠してあったもんね。しかも『エクソダス(出エジプト記)』のページに。これは小道具係が考えたジョークらしい。
※モーガンがキャッチ・ボールしながらアンディと初めて会話をするシーンは、5分のシーンに9時間も撮影に時間がかかり、翌日にモーガンは腕に氷を当てて現れた。
※時の経過を表すのに白髪を増やすだけじゃなく囚人服まで途中で替えている。仮釈放の審査メンバーに最後は女性が混じっているのも時代の変化。
※約束の場所で手紙を読むレッドがキョロキョロするのは、モーガンいわく「これが40年もの長い間監視されてきた人間の行動だ。監視されないことに慣れていない」。
※ティム・ロビンスが脱獄時に入った小川は、農薬や家畜の屎尿に汚染された川で、地元の科学者が水質調査をして「この小川に人間が入ったら死んでしまう」と警告した。ティムにその情報は伏せられた(笑)。
※屋上のビールのシーンで、撮影中に第2助監督がモニターを見て泣いているスチール写真が残っている。現場のスタッフが泣ける映画なんだ。
※アンディ役にはトム・クルーズやニコラス・ケイジも興味を示していた。トニーはブラピ。
※ティム・ロビンス「男同士の長年の友情を描いた映画は少ないし、男の友情モノでカーチェイスがない映画はもっと少ない」
※Mr.childrenの“one two three”の正確な歌詞は「ビデオにとった『ショーシャンクの空に』見てからは もっともっと確信に近いな 暗闇で振り回す両手もやがて上昇気流を生むんだ」。
※原作は新潮文庫『ゴールデンボーイ』に所収された中編『刑務所のリタ・ヘイワース』。
※95年度キネマ旬報外国映画ベスト・ワン作品。
※映画と関係ないエピソードだけど良い話なので紹介。ある時ダラボンがモーガンに“なぜCMに出演しないのか?”と聞いたそうだ。彼の答えはこうだった。「俺が言うと皆が信じてくれるからさ。だからCMには出ないんだ。不要な物を買わせるのは申し訳ないよ」。
※ノミネート…アカデミー作品、主演男優、脚色賞ほか全7部門。


 
18.ラブ・アクチュアリー('04)135分 英
最高ッス!五つ星ッス!この映画は単なるラブコメを超えた大きな人間讃歌だ!未見の人は速攻で観て欲し〜い!
作家サン=テグジュペリは『星の王子さま』の中で“愛”についてこう記した「本当に大切なものは目に見えないものなんだよ」。日々の仕事に追われ、ニュースで痛ましい事件ばかり目にすると、心が疲れてサン=テグジュペリの言葉を忘れそうになる。英国映画『ラブ・アクチュアリー』の冒頭はその目に見えない“愛”を描き出す映画史に残る名オープニングだ。映し出されるのはロンドン・ヒースロー空港の到着ロビー。撮影スタッフが1週間カメラを回した映像だ。撮影を知らないたくさんの一般人が、溢れんばかりの笑顔で抱きしめ合っている。そしてこんなナレーションが重なる--「僕は世の中に嫌気がさしたらヒースロー空港の到着ゲートを思い描く。人は言う“現代は憎しみと欲だけ”と。本当にそうだろうか?“愛”は目立たないしニュースにもならないが、いつでもそこにある。父と子、母と子、夫と妻、恋人同士、懐かしい友人。わざわざ探さなくても、実際のところこの世には愛が満ちあふれている。そう、どこにでも」。

脚本が実に素晴らしい。同時進行で9つのラブ・ストーリーが進むんだけど、各エピソードはどれも1本の作品として上映できるほど良い話なんだ。下町育ちの秘書に一目惚れした首相、愛する女性が親友と結婚してしまった画家、言葉の通じないポルトガル人に想いを寄せる作家、11歳の息子の片想いを応援する父、部下に浮気心を出す夫とそれに気付いた妻etc。本作で描かれる“愛”は恋愛だけではなく、心の病になった家族を思う愛もある。秀逸なのは、老いぼれロック歌手と相棒の男性マネージャーの“信頼”という名の愛。クリスマス・ソングでカムバックを果たしたロック歌手は、クリスマスの夜にセレブのパーティーを抜け出し、狭いマネージャーのアパートへ行く。「クリスマスは愛する人と過ごすべきだ。50歳半ばの今、俺は半生をチビデブのお前と過ごしたことにやっと気付いた。俺の人生で一番大事なのはお前らしい。いつも文句ばかり言ってるが、お前との人生を結構気に入ってるんだぜ」。これを聞く初老のマネージャーの表情が驚きから涙目に変わっていくのが良い。

エピソードが9つもあれば混乱しそうなものなのに、それぞれに名セリフや名場面がテンコ盛りで、構成の破綻もなく、ラストまでグイグイ引っ張られた(エピソードごとに用意されたクライマックスがホント良い!)。シャイな19人の男女の想いが飛び交う中、劇場は終始笑いに包まれていた。大袈裟にではなく、自分はこれまでに観たどの恋愛映画よりも、一番よく笑ったし、よく泣けた(悲しみの涙ではなく、“人間っていいなァ”の涙)!

本作が初監督となるリチャード・カーティスは『ブリジット・ジョーンズの日記』『フォー・ウェディング』『ノッティングヒルの恋人』など恋愛映画の脚本を手掛けた才人。ヒュー・グラント、リーアム・ニーソン、エマ・トンプソン、アラン・リックマン、キーラ・ナイトレイ、ローラ・リニーら、実力派の役者たちの豪華競演も見どころだ(父子でやる“タイタニックごっこ”が可笑しかった)。皆演技が達者だし、音楽もツボをついた選曲で楽しい。観た後に優しい気持になれる一本!
※恋をあきらめる一人の男性の、気持の決着のつけ方が最高だったと特筆しておく!
【ネタバレ文字反転】
特筆したいのは“ポジティブ失恋”のエピソード。親友の妻を愛した画家マークは想いを断ち切って前進する為に、勇気を出して彼女に気持ちを伝える。「重荷に思わずクリスマスだから聞き流して欲しい。本心を打ち明けるのがクリスマスだから。僕にとって君はパーフェクト。僕の心は君のもの。君がこういう姿に成り果てる日まで(ミイラの写真を見せ彼女は笑う)」。その帰りに彼はこう呟く「enough now(これで充分)」。付き合えなかった時に、どこで満足するか。言葉を交わす、手紙を渡す、握手する、色々あるけど、画家は自分の気持を告白したこと、その一点をもって「イナフ・ナウ」と恋を締めくくった。ストーカー化せずに恋愛をあきらめる方法はたった一つ、この「イナフ・ナウ」しかない。結婚式のビデオで花嫁を好きだったことがバレるシーンや、クリスマスに紙芝居で告白するシーンなど、恋愛映画史上に残る名場面を一人で2つも演じた彼。マークに感情移入しない観客がいたら正座させて小一時間説教したい。他にもこの映画には、ポルトガル人街を近所の人を引き連れてプロポーズに行くエピソード、空港ロビーで警備員を振り切ってダッシュする男の子のエピソード、首相が一人の男として女性を訪ねて行くエピソード、“1秒ちょうだい”といって物陰で歓喜するシーンなど、胸に響く場面がいっぱい。観て良かったッ!。山ほど恋愛映画があっても、前向きな諦め方を描いた作品は少ない。実際の恋は成就しない場合が多いのだから、気持ちの切り替え方を描いた映画は貴重。“聞き流して欲しい”と告白し、“イナフ・ナウ”があれば恐いものなし。片想い中の読者諸氏、突撃あるのみです!

 

19.トンマッコルへようこそ('05)132分 韓国

1億点。舞台は1950年代、朝鮮戦争の真っ只中の半島。都市から遠く離れた山間の村トンマッコル(“子供のように純粋な村”という意味)は、戦争が起きていることも知らず村民たちは幸福に暮らしていた。その村に、連合軍のアメリカ兵パイロット、2人の韓国軍兵士、3人の人民軍兵士(北朝鮮軍)という、敵味方の3組6名が遭難し迷い込んでくる。兵士達は村人に銃を向けて「貴様らはどっちの味方だ」と迫るが、村人は銃も手榴弾も見たことがなかったので「それは何?」とポカ〜ン。両軍の小競り合いの中、兵士達はアクシデントで村の食料貯蔵庫(一年分を貯蔵)を爆破してしまい、謝罪の気持ちから畑仕事を手伝うようになる(倉庫のトウモロコシがポップコーンになって雪のように空から降る場面はとても美しい!)。南北の兵士は畑にいても“いつ相手が襲ってくるかわからん”と、互いに警戒していがみ合うが、額に汗してじゃがいもを収穫しているうちに、だんだん憎み合うことがバカバカしくなってくる。畑を荒らすイノシシ狩りでは、ついに両軍の兵士が協力。村祭りで酒を呑み、歌い踊り、敵対心が友情に変わっていく。映画の後半は、戦乱に巻き込まれそうになったトンマッコルを救う為に、兵士達がある「恩返し作戦」を決行する。僕はこれに滝泣き。マジで脱水症状。村人から「今度の戦争はどこが攻めてきたんだ?中国か?日本か?」と問われて“同じ朝鮮人で殺し合いをしている”と言えず、黙ってしまう兵士達から朝鮮戦争の虚しさと悲しさが伝わってきた。音楽は宮崎アニメで知られる久石譲。ユーモアをふんだんに混ぜながらシリアスな物語を描いた優れた作品。お薦めです。兵士達が長老に“偉大な指導力の源は何ですか”と尋ねた答えは「腹いっぱい食わせることじゃ」。シンプルながら金言なり。
【ネタバレ文字反転】
連合軍の爆撃目標となった村を救う為に、“おとり部隊”となって陽動作戦をする南北の兵士達。作戦の目的は村の代わりに自分達を爆撃させること。「トンマッコルを救おう」という気持ちで固く結ばれた彼らは、出会った当初の敵意むき出しの姿からは想像もつかないほど、深い友情で結ばれていた。「自分達の死=作戦成功」という悲しすぎる運命にもかかわらず、頭上から降り注ぐ爆弾を見て「やった!成功だ!」とニッコリ笑顔をかわすラストがたまらない。死を前にしたあの爽やかな笑顔は、映画と分かっていても、泣けて泣けて…。生涯忘れられない表情。寂しさと温かさの入混じった余韻があった。


 
20.ミュンヘン('05)164分 米
スピルバーグ作品の中で間違いなくベストワン!パレスチナとイスラエルのテロの報復合戦を克明に描写し、テロ首謀者を倒しても一層過激な後継者が生まれるだけという憎しみの地獄ループを、恐ろしいほどリアルに描き出している。メルヘン・チックな『E.T.』と同じ監督とは到底思えない。スピルバーグはユダヤ人として『シンドラーのリスト』を撮っているのに、今作ではパレスチナ人に夢や理想を語らせていることから、ユダヤ社会で“裏切り者”と非難されている。実際、劇中ではイスラエルの高官を非情な役人とし、暗殺の対象となったパレスチナの指導層の方を、知的でユーモアがある紳士として捉えていた。監督の勇気に脱帽。上映後10分近く座席から立てなかった(ラストに映った“某建物”を見てたまらず号泣)。ハリウッドは娯楽映画だけじゃないぞ」という、米国映画人たちの誇りを実感した。
※ノミネート…アカデミー作品、監督賞。

 
21.クロッシング('08)107分 韓国

凄まじい衝撃。映画の真価のひとつに、異国の人々の暮らしに触れ得ることがある。それらは世界の多様な価値観を教えてくれ、人生・社会への視野を広げてくれる。同時にまた、描かれた民衆が独裁政治に苦しめられている場合は、鑑賞後に義憤や無知でいたことへの恥、動揺、様々な感情に包まれる。
『クロッシング』は北朝鮮からの複数の脱北者に対する聞き取り調査をもとに脚本が書かれた社会派作品。主人公の炭鉱夫は、妊娠中の妻が結核になったため、薬を求めて中国に密出国し戻って来ようとする(韓国なら保健所が無料で配っている薬。北朝鮮では命がけで国境を越えないと手に入らない)。だが、予期せぬ出来事が起き、故郷の妻子との再会がなかなか果たせない。不安になった11歳の息子は父を探して越境を試みるが…。食料不足で飢餓状態の農村、文字通り“生き地獄”の強制収容所、軍人たちの残酷な暴力、子どもであっても射殺される国境線、戦慄の連続だ。

正式な国交がないため、日本人は北朝鮮の一般市民の暮らしぶりを知らない。まして政治犯の収容所の実態など知りようがない。だから、北朝鮮という言葉で連想されるのは“金正日のみ”ということになる。だが、この映画を観たことで、圧制下で生きている北朝鮮の民衆をイメージすることが可能になった。これは重要なことだ。民衆が望むものはとても小さな幸せなのに、それすら踏みにじられていく不条理。先述したように、入念な聞き取り調査で再現された半ドキュメンタリー的な要素もあり、ぜひ多くの人に観て欲しい。日本のすぐ隣りで、しかも現在進行形でこの悲劇が日夜生まれている。脱北者問題を取り扱っているため、中国、モンゴル、韓国にて秘密裏にロケが行われたという。河原遊びをしているモノクロの回想シーンで涙腺決壊。
※閉口したのは悲しみを強調しようとする扇情的な音楽。映像だけで十二分に心を動かされるのに…。韓国映画の特徴というか、あれがなければ満点プラスαだった。
※「イエスは南朝鮮にだけいるんですか?人を救いに来たのに、こんな不公平でいいんですか?神様も豊かな国だけ?なぜ北朝鮮を放っておくんですか?」が切実。
予告編/2分32秒。


 
22.ホテル・ニュー・ハンプシャー('84)109分 米
「開いてる窓は見過ごせ」(けっして飛び降りるな)--なんて静かに、身体の奥底から生きる力が湧き上がってくる映画なのか。これでもかというほど、次から次へと悲惨な出来事が続くストーリーなのに、登場人物が前向きなので陽気なコメディ映画と錯覚してしまう魔法のような作品。どんなに辛いことがあっても明日を生きたいと思わせる人生“全肯定”の力はすごい!2位のトーチ・ソングと同じで、まさに人生の宝!!

 
23.惑星ソラリス('72)165分 ソ連
探査に訪れた人間が、全員発狂、もしくは自殺してしまうという惑星ソラリス。原因究明のため現地入りした主人公は、人が心の奧に秘めた記憶を、ソラリスの大気(海)が次々と引き出し、物質化していくことを知る。主人公の前にも、かつて彼が自殺に追いやった妻が物質化された。「結局は良心の問題なのだ」そう言って自殺していく他の調査員達。“僕はどうしても人類を愛することが出来ない”と苦悶する主人公が最後に目撃した世界を、ぜひあなたも見届けて欲しい。全セリフが詩のように聞こえる文学的SF映画。祈るようなバッハのオルガン曲も良い。ただし前半1時間は拷問に近いほど退屈。がんばって乗り越えて!僕はラストに圧倒された。
※「良心が突然物質化されて現れ、その所有者を苦しめる。私が原作から読み取ったコンセプトはこのようなものです」(タルコフスキー)
※カンヌ国際映画祭(1972)審査員特別グランプリ

 

24.ブラッド・ダイヤモンド('06)143分 米
あ、あ、圧巻!百点なんてものじゃない、1億点ッス!作品の舞台は内戦下のアフリカ・シエラレオネ。“ブラッド・ダイヤモンド(血のダイヤ)”とは、武装勢力が武器購入の資金としている密輸ダイヤのこと。各地で内戦が続くアフリカでは、ダイヤ、象牙、ゴールド、石油といった資源を、政府や反政府ゲリラが奪い合っている。栄養失調で倒れる子どもがいる一方で、外国製の最新の機関銃やバズーカがふんだんにある。明らかに異常事態なのに、武器取引や資源の輸入で莫大な利益が生まれる為に、西洋諸国はこの問題に真剣に向き合おうとしない。この映画は1個の巨大ピンク・ダイヤをめぐる、ダイヤの密売人(ディカプリオ)、採掘した男、ジャーナリストという、3人の運命を描く。冒頭から緊張の連続で、3人とも何時死んでもおかしくない状況がずっと続き、見ている間生きた心地がしなかった。 
ピンク・ダイヤは3人にとって最後の切り札。密売人は“神が見捨てた”アフリカから脱出する為のパスポートとしてダイヤを欲し、採掘者は内戦でバラバラになった家族を捜す為に情報収集の取引に使い、ジャーナリストにとっては闇社会の流通ルートを暴く証拠となった。この映画は、紛争ダイヤだけでなく、貧困、ドラッグ、難民、利権問題、先進国の無関心など、アフリカの様々な問題に触れている点でも高い評価を得ている。特に深刻な少年兵問題が詳しく描かれていたことは、アフリカの悲劇を世界に伝える強力なメッセージとなった。現在、アフリカには6歳〜10歳前後の少年兵が20万人もいる。みんな、武装勢力が村を襲撃した際に誘拐した子ども達。まだ善悪の判断がハッキリとついてないところを、洗脳&ドラッグで感情を奪い去り、実の親でさえ平気で殺せる恐ろしい兵士に育て上げてしまう。この悲惨な事実は時々報道されてはいたけれど、ハリウッド映画で正面から描いたのは初めてだと思う。ゲリラに襲撃された村民が「石油が出なくてよかった」と言った台詞も胸にズシリときた。すでにシエラレオネは荒廃しているのに、“石油が出ればもっと破滅的な状態になった”とその男は言うのだ。 
この映画がスゴイのは、テーマが非常にヘビーなのに、立派なエンターテインメント作品として仕上がっていること!決して政治的主張を押し付けてくることはなく、手に汗握るアクションと、所々に挿入されるユーモアにより、堂々たる娯楽作になっている。しかも観客がアフリカの問題に無関心でいることが恥と感じるほどに、現実を叩き付けてくる。制作サイドの手腕は見事としかいいようがない。撮影は実際にアフリカで行われ、緑の魔境と化したジャングル、野生動物、雄大な山脈など、スクリーンに映った大自然はそれだけで観る者を圧倒した。2時間23分の長丁場がアッという間だったのは、出演俳優の熱演も大きい。この映画でディカプリオは完全に“タイタニックの…”という枕詞を葬り去った。タイタニックの時に23歳だった彼も今は33歳。無精ヒゲを生やしてアフリカなまりの英語を話す密売人に、アイドルタレントの面影はない。いつオスカーを受賞しても良いと思う。 
監督は『ラストサムライ』で時代に逆らい滅び行く侍たちを、『グローリー』では南北戦争に散った黒人部隊を描き、深い人間愛と共に鋭い視点で世界を描写する名匠エドワード・ズウィック。監督いわく「この映画のダイヤは象徴だ。我々が見えない部分で(国境を越えて)いかに影響を与え合っているかを描いている」。アフリカはあまりに西側先進国と別世界であり、そこに生きる人々の苦難は他人事に思われがちだ。ダイヤは確かに美しいし、ダイヤ自身に何の罪もない。でも、この映画を見た人は、ダイヤをめぐって流れたアフリカの血を思わずにはいられないと思う。一本の映画を公開したところで、アフリカの悲惨が解決される訳じゃない。だけど、これでほんの少しでも、世界が良い方向に向かう可能性は十分にある。それくらい、観た人間には強烈なインパクトを持つ作品だった。この映画の主演がディカプリオで良かった。彼が出ているから全国でロードショーされたけど、他の俳優ならシリアスな内容が敬遠され、ミニ・シアターでひっそり公開されて終わっていたかも知れない。劇中の「白人がダイヤを欲しがるのは分かる。しかし、なぜ、アフリカ人同士が争わなければならないのだ?」という言葉があまりに重い。
※ダイヤ業界は国際条約によって紛争ダイヤが激減したと主張しているが、依然としてアフリカ諸国が公表する産出量と、実際の流通量には大きな開きがあり、「密輸が根絶されていない」とパンフには書いてあった。ちなみに世界で流通するダイヤの3分の2がアメリカに入っている。
【ネタバレ文字反転】
肺付近を撃たれたレオ君がゼーハーゼーハーとするラスト、「ダイヤを持って行け!」という言葉が引き金となって、劇場中で涙腺が決壊…!アフリカの美しい日没と共に彼の命も消えていった。映画の架空の人物なのに、見終わった後の喪失感はハンパじゃなかった(涙)。ダニー・アーチャー、君のことは忘れない。※この映画が、イケメンのレオ君を起用しているのに、一度もキスシーンがなかったことにもビックリ!

 

25.善き人のためのソナタ('06)138分 独
アカデミー外国語映画賞に輝いたドイツ映画。『フィツカラルド』『アギーレ』を世に送った巨匠ヘルツォーク監督が「ドイツ映画史上、最も素晴らしい作品」と絶賛し、僕は公開を楽しみしていた。実際、期待をはるかに上回る内容だった!舞台は1984年、ベルリンの壁崩壊の5年前の東ドイツ。政府は密告社会を築いて国民を24時間監視し、反体制の疑いがある市民を盗聴、証拠を抑えては投獄していた。主人公は国家保安省(秘密警察)の局員ヴィースラー。冒頭の尋問シーンがリアルで、主人公いわく「被疑者がシロなら尋問が長びくと“家に帰せ”と怒り出す。クロなら心に負い目があるので強気になれずメソメソし始める。また、本当にアリバイがあるなら色んな言葉で状況を説明しようとするが、嘘のアリバイなら同じ単語の繰り返しになる。追い詰められるほど変化のない自作の筋書きにすがる」。主人公は盗聴のエキスパートであると同時に心理学のプロ。僕は“こいつの前では絶対に嘘がつけない”としょっぱなからビビった。このスゴ腕の主人公が、反体制の劇作家&恋人の女優を盗聴し始めて、2人から少しずつ影響を受けていく。逮捕の証拠を集めているハズなのに、劇作家の切実な“自由を求める叫び”に胸を打たれてしまう。しかし、思想犯に少しでも共鳴することは、秘密警察である彼にとって銃殺モノの罪だった。やがて民主化を求める劇作家に逮捕の手が迫る。国家権力の動きを知る主人公はどんな行動をとるのか--あとは映画を観て下さい!映画の前半にある、盗聴マイクから聞こえるピアノソナタに聴き入るシーンは本当に美しいカットで、映画史に残る名場面と思いマス。この作品を観て実感したのは言論の自由の大切さ。僕はサイトへ自由に政府批判の意見を書いてるけど、この行為が罰せられる時代が日本にもあったし、現在でも世界各地の独裁国家が国民に弾圧を加えている。僕らは大きな犠牲を払って手に入れた言論の自由を、絶対に死守せねばと痛感した。※この映画はラブストーリーとしても優れた傑作デス!たぶん07年の僕のベストは(まだあと9ヶ月あるけど)本作か『リトル・ミス・サンシャイン』のどちらかに決まりそう。
※89年の夏、22歳の僕はゲーテとワーグナーの墓参の為に東ドイツを訪れた。当時はビザが必要で、鉄道の切符は政府指定の高いホテルとセットだったり、移動するのも大変だった。その3ヶ月後にベルリンの壁が崩壊したのを英国で聞き、事態の急変に驚いた。そしてあの壁を越えられずに射殺された市民の墓地を思い出し、これでもう、壁際の墓地に新しい墓が増えることはないと思い黙祷した。
※ヴィースラーを演じウルリッヒ・ミューエさんが本作の撮影翌年の07年7月に胃癌のため54歳で他界。冥福を祈ります。
※アカデミー賞(2007)外国語映画賞

 

26.シッコ('07)123分 米
『シッコ』は去年公開された映画なんだけど、医療ドキュメンタリーと聞いて“退屈そう”と思い、結局観に行かなかった。こんなに良い作品なら足を運べば良かった!なんと米国では同時期に上映された『ダイ・ハード4』よりも観客が入ったという。
この映画が素晴らしいのは、医療問題を描きながら最終的には人間の“生きる姿勢”にまで踏み込んでいること。拝金主義・弱肉強食の社会はもうこれくらいにしようと思わせる強烈な力がある。しかもユーモアを交えて語っているので全く説教くさくない。多くの国では国民の誰もが加入できる健康保険があるけど、米国は先進国で唯一“国民皆保険”の制度がない。人々は民間の医療保険に入るんだけど、高い掛け金や持病の問題で加入できない人が全米で約5千万人もいる。米国の乳児生存率は西側諸国で最低だ。映画の冒頭に事故で指を手術した人が出てきて「2本の指を切断したんだけど、接合費は中指が6万ドル(630万円)、薬指が1万2千ドル(126万円)と言われ、金がないので薬指だけにした」と苦笑い。そしてスーパーの倉庫で働いている79歳のお爺さんが登場。いわく「妻の腰痛の薬を買おうとしたら213ドル(22000円)と言われて絶句した。死ぬまで働くしかない」。
 
ところが保険に入っていても安心できない。保険会社は何だかんだと難癖をつけて保険金を払ってくれない。手術費用が出ない為にガンが転移して死んでいった人や、子供が発作を起こしたのに保険会社の系列病院に行けと命令され、最寄りの病院に行けなかった為に死亡した親、交通事故に遭ったのに事前許可のない救急車の使用には保険が下りないと言われた人(信じられん!)、その他、保険が支払われなかった驚くべきケースが次々と紹介される。治療費を払いたくない保険会社は、契約書の小さなミスを見つけたり、加入者ですら知らない既往症(保険に加入できない持病)を徹底的に調べ上げて、申告漏れを理由に契約を破棄する。ある元保険会社の社員は、加入者から治療(支払い)の申請を受けても、ノルマで最低10%以上は否認する必要があったと実態を暴露する。米下院公聴会である医師(審査医)はこう証言した「私の唯一の任務は医師としての専門知識をいかし、保険会社に利益をもたらすことだった」。手術を拒むことが保険会社の利益になるので、否認率1位の医師には業者からボーナスが出るという。保険金の支払いは業界用語で“医療損失”と呼ばれ、保険会社はあらゆる手段を使って支払いを拒否し、空前の利益を上げている。病院に行くのに契約保険会社の許可が必要ということにも唖然。保険会社で働く医師たちが患者の命を奪っている恐怖の現状がここにある。“国民皆保険”があれば良いが、政治家が保険企業と癒着しているので制度ができない(製薬会社とグルになり、薬を不必要な量まで処方し儲けている問題もある)。
 
映画の後半は各国との比較。カナダ、英国、フランス、キューバなどは医療費が無料であり、これは日本人にも目からウロコだ。英国の国民保険パンフ(1948年)にはこう書かれている。「全ての国民は医療・歯科・看護のケアを受けることができます。収入にかかわらず老若男女誰でも利用できます。無料が原則で、保険に入るのに審査はありません」。国営病院は入院費も無料で出産費用はタダ。病院に会計窓口があるが、そこでは病院までの交通費を払い戻してくれるんだ。英国の薬局では30錠買っても120錠買っても、何錠であろうと基準の6ポンド65(約10ドル)で、HIVや本来高価な癌の薬も同じ値段だ。しかも16歳以下か60歳以上なら薬代は無料。フランスの医療制度は世界第1位と言われている(2位はイタリア)。フランスには24時間無料の往診システム(SOSメドサン)があり、夜中でも医者が家まで来てくれる。保育園は無料or低料金だし、大学まで学費は無料だ。法律で決められた有給休暇は正社員でもパートでも最低で5週間から(!)。大企業なら8〜10週間の場合も。っていうか、勤務は週にたったの35時間(7時間×5日)だし、原則残業ゼロ!もし35時間以上働いたら代休が出る。引っ越しにまで法律で2日間の有給がつく。また、育児疲れにならない為に、乳児がいる家庭には週に2日無料でヘルパーが派遣される“子育て支援制度”がある。パリ在住の米国人はいう「この国には絶望感がなく、人々が人生を謳歌している」。実際、少子化どころかベビーブームだ。「フランスでこういう制度が成り立っているのは、政府が国民を恐れているから。国民の抵抗を政府が怖がっている。米国では立場が逆で、国民は政府に対して行動を起こすことを怖がっている。フランスでは大規模デモが日常茶飯事だよね(笑)」。大学教育もタダ、医療費もタダ、政府派遣の乳母、税金は高いが誰もヘトヘトになってない。ムーアは言う「フランス人を見ていて思った。なぜ米政府もマスコミもフランスの悪口を吹き込むのか?国民がフランスびいきになると困る?フランスの制度に憧れるから?」。
 
米政府やメディアはこうした医療の無料システムを“社会主義医療”と呼んで批判している。「きっと機能していない」「米国では数日待ちの手術が数ヶ月待ち」「少ない診療報酬で医者のやる気なし」「社会主義医療の内容は最低ライン」「健保制度そのものが病気」と米国民は信じ込まされている。だが、ムーアの取材でそれらがことごとく大袈裟なデマであったことが証明された。英仏カナダ人の平均寿命は米国人より長い。そこで彼は思い至る。米国でも色んなものが無料だと。例えば、警察や消防は無料だし、公立校の授業料はタダ、郵便料金は安く、図書館では無料で本を貸し出してくれる。消防や警察は命に関わることだから無料ならば、医者代だってタダにすべきことじゃないのかと。「なぜ他国に出来ることが米国にできない?」。
米国では入院費を払えない患者をタクシーに乗せて貧民街に捨てる事件が多発しており、ムーアは嘆く。「僕らは何者だ?これが僕らの国なのか?入院費が払えないという理由で市民をゴミ同然に歩道に捨てる国。底辺に生きる者への接し方で、その社会の本質が分かる」。なんとか社会を変えることは出来ないのか?英国の元国会議員T・ベンは語る「労働者の借金苦は体制側に有利。借金漬けの者は希望を失い疲れ果て、“誰が議員でも同じ”と選挙に行かない。もし本当に労働者が自分の代弁者に投票したら真の民主主義革命が起こる。それは困るから体制側は希望を奪う。国民を支配する方法は2つある。まず恐怖を与え、次に気力を失わせること。教育があり健康な国民は統治が難しい。ある種の人間は“国民には教育も健康も自信も与えたくない、与えると手に負えなくなる”と考えている。世界の人口の1%が80%の富を独占していることによく皆は耐えていると思うが、それは貧しく気力もなく、権力を恐れているからだ。命令を聞いて最善を祈るのが一番安全だと思い込まされてるんだよ」。
 
ムーアは映画をこう締めくくる。「僕はこの撮影を通してやっと気づいた。結局、人は皆同じ船の乗客なのだと。どんな違いがあるにせよ、一緒に泳ぐか沈むか。米国以外の国はそうしてる。彼らは意見の違いを超えて助け合ってる。米国人は外国のいいものを取り入れる。良い外車があれば乗るし、美味しいワインがあれば飲む。それなら病人への優れた対処法や、子供の教育法や、赤ん坊の育て方、互いを思いやる気持、それもマネていい。なぜ出来ない?“私”ではなく“私たち”を大切にする、その基本が出来なきゃ僕らは何も直せない。これじゃあ権力者達の思う壺だ。彼らは西側諸国で唯一の“国民皆保険”のない国でいいと思ってる。もし足かせが外せたら?医療費や学費の借金や養育費、僕たちを縛りつけている不安がなくなったら?その時は御注目、新たな米国の始まりだ」。
社会派ドキュメンタリーでありながらジョークをふんだんに交えてエンターテインメント性もある本作。欧州の高い消費税のことや、フランスでは失業問題が原因で騒動が起きていることに触れず、単純に称賛する姿勢には抵抗があるけれど、残業ゼロで休暇が多く、病気になってもお金の心配がない社会が実現しているのは、紛れもない事実。旅をしていても人々の表情に余裕があるのがよく分かる。人間に必要なのは、日々の自由な時間と、病気や老後に対する安心感。入院患者の放置や、保険証が無くて病院に行けない人が多いのは日本でも問題になっている。この作品が発しているヒューマニズムの輝きに泣けた。
※sickoの意味は“イカれた奴”のスラング。発音的にはシッコというよりシコーに近い(日本語的に後者にすればいいのに)。あとムーアはもっと痩せるべし(笑)。

 
27.ジーザス・クライスト・スーパー・スター('73)106分 米
イエス・キリストの最後の7日間を描いたロック・オペラ。崇拝の対象としてキリストを祀り上げるのではなく、ユダの視点から人間キリストの実像に迫ろうとした問題作。聖書をミュージカル化するという、その発想がスゴイ。71年にブロードウェイで初演された際は、「神への冒涜だ」とキリスト教団体がプラカードを掲げて劇場周辺をデモし騒然となった。73年に映画化された時は、ローマ・カトリック教会が上映禁止を求めた。そんないわくつきの作品だ。作詞はティム・ライス、作曲は天才アンドリュー・ロイド=ウェバー(初演時はまだ23歳!あり得ない!)。

本作品では“裏切り者”ユダを神に利用された受難者として描いており、「俺は愛し方が分からない」と胸をかきむしるユダに、僕は激しく感情移入。それまで彼について“銀貨30枚で師を売った卑怯者”という知識しかなかったので、心を入替えたユダがイエスの助命を求めて奔走し、いったんは受け取った銀貨を返して、イエスが処刑されるよりも“先に”首を吊って自殺したことを、この作品で初めて知った。ユダが死ぬ前に叫んだ「俺はあなたに利用された!なぜ俺を選んだんだ!」という絶望の声に胸を締め付けられた…。「神は悪党だ」なんて言いきった作品は、後にも先にもこれだけじゃないかな。
また、イエス自身も苦悩する一人の人間として描かれており、非常に斬新だった(イエスは「私が死ねば教えに説得力が増すのか」と悩み苦しむ)。あんなに苦悩するキリストを見たことがない。この勇気ある作品を世に送った制作陣に脱帽。 音楽も非のうちどころがないほど素晴らしい。
※銀貨30枚は当時の奴隷の値段。同じ額にすることで敵対勢力はイエスの価値を下げようとした。

 
ビデオもDVDも絶版!
28.明日を夢見て('95)115分 伊
主人公は明日の銀幕のスターを発掘すべく、イタリア各地をまわるスカウトマン。オーディションのカメラの前で様々な人間が自分を語っていく。ある羊飼いは、夜に野で星と会話することを告白し、スペイン内戦で心が傷つき失語症になった帰還兵は、必死にその目で何を見たかを伝えようとする。この両者のシーンだけで100点だ。日本で普通に生きていたら絶対に出会うことの出来ないだろうイタリアの寒村の人々と、まるで昔馴染みの友人のように肩を並べて話を聞く--映画というものは魔法の壺だと思った。監督はニュー・シネマ・パラダイスのジュゼッペ・トルナトーレ!
※邦題がくさくてパスした人は多いと思うけど、真の主人公をイタリアの名もなき民衆においた傑作中の傑作。
※ヴェネチア国際映画祭(1995)審査員特別賞

 

29.2001年宇宙の旅('68)140分 米
「この映画は一日24時間、寺院で上映されるべきだ」(ジョン・レノン)

 

この作品は、人間が類人猿から人類を経て超人(もしくは精神のみの存在=神?)へと進む生物進化を描いた力作だ。400万年前に猿が投げた骨からミサイル衛星に画面が切り替わる場面は圧巻。これほどリアルに宇宙空間を表現した映画が、人類の月面着陸の前年に作られたなんて信じられない!それに宇宙空間とクラシック音楽がこれほど合うとは…やはりキューブリックは只者ではない。ストーリーは難解だが、実は監督が衝撃的な解説をしている。映画を観ても分からなかった方は以下のネタバレ・コーナーを是非ご参考に。
※初めて観た時(高2)は「え?終わり!?なんじゃこりゃ!」と、あまりに分からな過ぎて笑ってしまった。二度目に観た大学時代は苦痛を感じるほど退屈だった。それなのに今では「うおー!この宇宙の静けさ!美しい美術セット!この完璧な“間”!1秒たりとも余分なシーンがないッ!」ってホントにそう思えちゃうんだから、ヒトって不思議(笑)。
※アカデミー賞(1969)特殊視覚効果賞。ノミネート…監督、脚本、美術監督賞。
【ネタバレ文字反転】
キューブリック監督は雑誌のインタビューで以下のコメントを残したとのこと。
「“2001年”で描き出されたのは、血塗られた進化をたどった人類の悲劇だ。猿は手に入れた道具(骨)を殺しに使うことでヒトに進化した。次にヒトは道具の進化の最終形態ともいうべきHALを殺すことであのスター・ゲートを通過する。木星(白い部屋)にいるボーマンは殺す相手がいないので、自分で自分を殺し始めた。そして一瞬で老人化する。老人になったボーマンは殺し尽くした結果、眼前に現れたモノリスの手助けで新生命として転生し、グレート・サタンとなって地球に凱旋し、人類を宇宙から見下ろす。地球は赤ン坊に与えられたオモチャだ」
モノリスの色が白ではなく黒というのも納得。自分としては新生命の誕生を希望の象徴として受け止めたいんだけど…ギャフン!
原作の日本語版を発行したの
早川書房編集部の解釈も分かりやすい。
ヒエ〜ッだね。


 
30.ゴッドファーザー('72)175分 米
ドロドロの陰謀が渦巻くNYマフィアの裏世界を、セピア調の画面と哀切な音楽にのせて格調高く描ききった3時間の大作。こんなに悲哀を感じたギャング映画を観たのは初めて。マーロン・ブランドとアル・パチーノは最高の演技を見せてくれた(特にパチーノがレストランで最初の殺しをする一連のシーンは、画面から漂う緊張感がハンパじゃない!)。ラストシーンがいつまでも脳裏に焼きつく名画だ。
※アカデミー賞(1973)作品賞、主演男優賞、脚色賞。M・ブランドはこの作品でアカデミー主演男優賞に輝いたが“ハリウッド映画における先住民族(インディアン)の差別的な描かき方に抗議する”と、受賞を拒否した。アッパレ。この一作から助演男優賞にアル・パチーノ、ジェームズ・カーン、ロバート・デュバルの3人が同時にノミネートされた。

 

31.炎の人・ゴッホ('56)122分 米
この映画はスゴイ!たった一本でゴッホの魅力が120%伝わる!事実にとても忠実だし、ゴッホの絵も数多く登場して勉強になる。“偉人”の伝記映画は星の数ほどあるが、この映画はケタ違いに出来が良い。社会に受け入れられず苦悩するゴッホを、カーク・ダグラスが迫真の演技で演じきった。同じく熱演したゴーギャン役のアンソニー・クインは助演男優賞をゲット!
※アカデミー賞(1957)助演男優賞/ゴールデン・グローブ(1956)男優賞(ドラマ)/NY批評家協会賞(1956)男優賞
 

32.時計じかけのオレンジ('71)137分 英
赤一色の画面から始まり、主人公の凶暴な目のドアップと続き、後は全編を満たすウルトラ暴力&ベートーヴェン。英国では“犯罪奨励映画”と言われるほど初公開時に青少年の犯罪率が上がってしまい、慌てたキューブリックは配給会社を説得して自分の作品を公開中止にさせた。その後、彼の作品がほぼ全てビデオ化された後も、この映画だけは長年ビデオ化をためらっていた、いわく付きの作品だ。(僕は映画の前半で女性客が頭を振りながら出て行くのを劇場で何度か目撃している)
舞台設定は近未来の英国。不良グループのリーダー・アレックスは、毎夜ドラッグをキメては強盗を繰り返す極悪青年。しかし、一方でベートーヴェンをこよなく愛し(親しみを込めてルードヴィッヒと名前で呼んでいる)、粗野な言動を軽蔑し礼儀を重んじる精神的貴族でもある。彼は、対立グループとの抗争、仲間の裏切り、逮捕を経て刑務所に収監されるが、そこで待ち受けていたものは、政府と精神学者による“完全無害人間”への洗脳(人体)実験だった--。

 

カンフー映画を観た後に自分が強くなった錯覚に陥るように、僕は高2の時にこれを見て一週間ばかり無敵になった(アホ)。ベートーヴェンを聴いてはアレックス坊やとシンクロし、悦に浸った。一緒に見た二人の友人のうち一人は「学校で家畜になるのはごめんだ」と5日間登校せず、もう一人は「よくも悪夢のような映画に誘ってくれたな」と僕に絶交状を叩き付けた。自我が固まっていない10代では、キューブリックのブラック・ユーモアに対応し切れなかったんだ。
※モダン&サイケな美術セットに目をみはった。音楽面でも、クラシックをテクノ化した斬新な音楽は特筆モノ。作曲を担当したウェンディ・カーロスは、以前ウォルター・カロスの名で活躍してたが、手術をして名前が女性になった。
※この映画を観て以来、“雨に唄えば”を聴くと、ジーン・ケリーではなくアレックスが出てきてしまう…。
※NY批評家協会賞(1971)作品賞、監督賞。驚くべきことに、アカデミー賞にも作品賞でノミネートされてる(なんと大胆な…)。

 


33.スター・ウォーズ 特別篇('97=旧版'77)126分 米
「ジャーン!」と壮大な音楽と共に画面いっぱいに映されるタイトルが、一瞬にして観客のアドレナリンをすべて抽出する。画面の奥に向かって流れていく字幕も斬新だが、続いて背後から超大型戦艦“スター・デストロイヤー”が頭上を覆い尽くすように登場したのはすごいインパクトがあった。宇宙を支配する悪の帝国軍に挑む反乱軍(共和国軍)という単純な設定がいい。メカのデザインも美しく、エックス・ウイングは何時間眺め続けても見飽きない!クライマックスのデス・スターの攻防戦は撮影に3ヶ月以上かかったという。この映画を宇宙船やメカのデザインから未来の話だと思ってる人が多いけど、映画の冒頭にあるように、これは「ずっと昔々、銀河のどこかで」おこった物語だ。最先端技術を駆使した昔話ってのが面白いね。'97に製作された特別篇は、最後の決戦シーンでXウイングの数が増えるなど、全編の特撮がパワーアップしており、上映時間が5分長くなっている。ジャバとソロのからみもあるし、見るなら特別篇が断然お薦め。
※ルーカス監督自身が明かしているように、この映画は黒澤映画の影響が濃い。C-3POとR2-D2の凸凹コンビは元ネタが『隠し砦の三悪人』の千秋実と藤原釜足だし、「ジェダイ」という言葉は時代劇の「時代」から来ているし、ベイダーは侍の兜を被り、ルークは柔道着を着用している。これは日本人として素直に嬉しいっす。
※最初に公開された第1作が、物語全体の第4話というのもユニーク。
※親に頼み込んで劇場に連れて行ってもらったものの、当時の自分は小4。弟に至っては小1だ。現在のような日本語吹き替え版はなく字幕オンリー。「枢機卿」なんか読めないし「元老院」も何のことやら…。何度も質問するので母は途中から「いいもの」「わるもの」としか答えてくれなくなった。
※アカデミー賞(1978)作曲賞、美術監督・装置、衣裳デザイン賞、特殊効果賞、音響賞、編集賞、特別業績賞。ノミネート…作品、監督、脚本賞。

 

34.パラダイス・ナウ('05)90分 パレスチナ・仏・独・オランダ

腹に爆薬を巻き付け、自爆テロに向かう2人のパレスチナ人青年を描く。舞台はイスラエル軍に包囲された西岸の町ナブルス。パレスチナ問題をパレスチナ人視点で描いた数少ない作品。ゴールデン・グローブ賞の最優秀外国語作品賞に輝いている。
僕は一般市民を標的とした無差別テロには絶対に反対だ。それだからこそ、なぜ自爆テロの志願者がこんなにも多いのか、その動機を以前から知りたいと思っていた。この映画では普通の若者が自爆テロの実行役に選ばれ、両親には秘密にしたまま組織のビデオカメラの前で遺言を吹き込み、イスラエル人が利用する路線バスに乗り込む過程を追っている。
見終えた今、テロには断固反対という立場は変わらないけれど、パレスチナの若者が直面している八方塞がりの絶望感、心の尊厳を現在進行形で踏みにじるイスラエルへの怒り、天国への熱烈な憧れ、そういうことから志願者が絶えないという現状が理解できた。
劇中では、テロ犯に“そんなことをするな”というアラブ人も出てくるし、命の重みがマヒしているような過激派幹部の描写(メシを食いながら“片手間に”テロを指導)もあり、単純に過激派を支持する作品でないことを念押ししておく。
以下、爆弾テロ反対派との会話(論争)を紹介。

「教えて、なぜこんなことを!」
「分かるだろ。平等に生きられなくとも平等に死ぬことは出来る」
「平等の為に死ぬことが出来るなら、平等に生きる為の努力をするべきじゃないの」
「あんたのいう“人権”でか?」
「それも一つの可能性よ。とにかくイスラエル側に殺す理由を与えないの」
「無邪気だな。自由は戦って手に入れる。不正がある限り自分を犠牲にする者はいるんだ」
「犠牲なんかじゃない、ただの復讐よ!人殺しは皆一緒。人殺しに犠牲者も占領者も違いはないわ」
「奴らには飛行機があって空爆してくる。俺たちは何もない、自爆して対抗するしか方法がないんだ」
「見当違いよ。何をしてもイスラエル軍の方が強いのよ、武力では勝てないのよ」
「死だけは常に平等だ。俺たちは天国に行ける」
「いい加減にしたら!?天国なんて頭の中にしかないわ!」
「地獄で生き続けて行くよりも、想像上の天国の方がマシだ。占領下は死んだも同然。それなら別の苦しみを選ぶ」
「残された私たちはどうなるの?こんな作戦で勝利すると思う?あなたの行動が私たちを破壊するのよ。そしてイスラエルに殺す理由を与えることになるの」
「理由がなくなればどうなるって言うんだ?」
「殺さない。この戦争を理論的な戦いに持って行くことはできるわ」
「イスラエルの方にモラルがないんだ、そんな理論が通じるはずない」

※ゴールデン・グローブ(2006)最優秀外国語作品賞/ベルリン国際映画祭(2005)青い天使賞/ヨーロッパ映画賞(2005)脚本賞。
予告編

 
35.ミスト('07)125分 米

「異常な状況に追い込まれた時、普段隠された人間の本質がむき出しになる。だからホラーやSF映画の方が、リアルなドラマよりも鋭く現実を描くこともある」(フランク・ダラボン)。僕がこれまでに鑑賞した映画の中で最も震え上がった作品は、幽霊映画でもゾンビ映画でもなく、SF映画の『ミスト』だ。鑑賞中、部屋の空気が絶対零度まで下がった衝撃の一作。アッという間に理性が崩壊する、人間の弱さ。 ミス
ト(霧)は人の心を翻弄する邪悪の象徴。原作はスティーブン・キング、監督はフランク・ダラボン。2人は傑作ヒューマンドラマ『ショーシャンクの空に』や『グリーンマイル』の黄金コンビであり、まさか両者がこのような戦慄の物語を生み出すとは。

舞台はアメリカ北部メイン州の田舎町。ある日、デヴィッド(トーマス・ジェーン)が息子ビリーを連れてスーパーマーケットで買い物をしていると、屋外で突然サイレンが鳴り響き、頭部から血を流した男性が店内に駆け込んできた。「霧の中に何かがいる!表に出るな!」。その直後、町全体が霧に包まれてしまう。スーパーの中には100名以上の買い物客がいた。やがて目撃者の情報から、“何か”の正体が恐ろしい怪物たちと判明する。人々の反応は4つに分かれた。
(A)手に入れた情報を分析し、怪物たちから身を守る方法を検討するデヴィッドたち“対策派”
(B)怪物の存在をまったく信じようとせず、外に出ようとする“現実拒否派”
(C)パニック状態で嘆くばかりの“悲観派”
(D)この災厄を“最後の審判”と盲信しているキリスト教原理主義者ミセス・カーモディ(マーシャ・ゲイ・ハーデン)率いる“天罰派”
「怪物などバカバカしい」と言って出て行った“現実拒否派”は、すぐに餌食となって店の前に下半身だけが転がった。店内は騒然となるが、“対策派”の呼びかけで日没後の襲撃に備え、正面ガラスの前にバリケードを築くことに。夜半、巨大イナゴのような生物と、これを捕食する不気味な鳥がスーパーに群がった。やがてガラスは割れ、続々と店内に侵入していくる異形の動物たち。拳銃は一丁しかなく、人々は棒や松明(たいまつ)で戦うが、犠牲者が続出する。怪物たちが去った後、“悲観派”の中に自ら命を絶つ者が現れ始める。店内には3人の軍人がいたが2人は「俺たちのせいだ」といって自殺した。人々はこの異常事態と軍の関係を疑い始め、残った1人を問い詰める。そして兵士は驚愕の事実を告白した!

〔この映画は後半が超重要であり、全てが凍り付くエンディングに触れないレビューはあり得なく、この先はネタバレ全開でいきます〕

兵士いわく「軍の科学者たちは…この世は異次元の世界に囲まれていて、“窓”を開けて向う側を観察しようとしたんだ」。その窓が扉になり、向こうの世界がこちらへ流れ込んできたのだ---。
いわゆる“未知の生物VS人間”という構図は従来のSF映画で山ほど描かれてきたし、凶悪なモンスターもたくさん存在した。だが本作では、本当に怖いのは怪物ではなく人間であることが暴かれる。デヴィッドは「この連中から逃げねば」と早い段階で店を出たがっていた。店外の怪物よりも、「私たちは罰を受けている」と聖書を振りかざすミセス・カーモディの方を危険視していた。その不安は的中する。当初、“神と対話ができる”カーモディは変人扱いされていたが、恐怖のあまりに思考停止に陥った人々は、「神を信奉すれば救われる」という目の前の“解決策”にすがり、たった2日間で彼女を教祖とする過激なカルト教団が誕生した。彼らは兵士をユダと呼び、包丁で刺し、生け贄として店外に放り出した。本当の恐怖は店の外ではなく店の中に潜んでいた。

“天罰派”約100名に対し、“対策派”は8名。カーモディはこの事態を「聖書に反する生き方をした者が原因」と決めつけ、「この災害は人間に対して下された神罰」「店を出ようとする者は最後の審判を受入れようとしない冒涜者」と群衆を洗脳し、旧約聖書でアブラハムが息子を生け贄にする覚悟を示したように、「次は子ども(ビリー)を生け贄に!」と煽った。デヴィッドは必死で息子を守ろうとするが多勢に無勢…その時、対策派の副店長がカーモディに発砲した。腹を撃たれて両膝を着く彼女。続けて副店長はカーモディの額を撃ち抜く。群衆がひるんだ隙にデヴィッドたちは表に飛び出し駐車場を走る(彼の車まで30m)。途中で次々と怪物に襲われ、車にたどり着いたのは、年配の男女、若い女性、デヴィッド親子の5人。エンジンをかけ、あとは、霧を抜けるまでガソリンが持つことを祈るのみ。途中で高層ビルほどもある巨大生物が道を横切り、デヴィッドたちはその神々しさに絶句し終末感に包まれる。
やがて、車のガソリンは切れてしまった。周囲の霧からは怪物たちの声が絶え間なく聞こえる。やるだけのことはやった。彼らは生きながら食べられるより拳銃でひと思いに死ぬことを選ぶが、残りの弾丸は4発、1発足りない。「僕は自分で何とかする」とデヴィッドは告げ、まず愛するビリーを撃ち、残りの3人を撃った。返り血を浴び、車内で号泣するデヴィッド。彼は外に出て悲痛な叫びをあげる「さあ来い!早く殺せ!」。やがて霧の中から巨大な黒い影が迫る。それは米軍の戦車隊だった!後続のトラックの荷台には救出された人々。軍は“窓”を閉じることに成功し、圧倒的な火力で怪物たちを焼き払っていた。戦車は町の方角から来た。数分、ほんの数分の差で、ビリーたち4人は帰らぬ人となった。今や霧は完全に晴れ上がった。デヴィッドは膝をつき、我が子を撃った手を震わせ延々と慟哭し続けた…。

ここまで絶望感に包まれるエンディングはちょっと記憶にない。原作のラストはスーパーを脱出し霧の中を車で進むところで終わっている。しかし、映画版の結末を聞かされたスティーブン・キングは「このラストを思いついていればそうした」と大絶賛。キングいわく「いつの時代でも(ハッピーエンドばかりじゃなく)全滅で終わる映画もまた必要なんだ」。現実世界に様々な不条理があるなかで、映画だけが綺麗事一色ではいけないということだろう。カーモディ役のマーシャ・ゲイ・ハーデンは、あのスーパー内は“911事件後のアメリカそのもの”という。「この映画は恐怖が人間を暴力に駆り立てることを描いています。それはアメリカの今の状況とよく似ています。ブッシュ政権はイラク侵略を911テロの前から計画していたことが判明しましたが、テロの恐怖を利用してそれを正当化できました。今のアメリカではキリスト教を掲げる人々が戦争を支持し、同性愛者たちを糾弾しています。でもKKKだってヒトラーだって神の名を語っていたことを忘れてはいけません」。
人々は姿の見えない敵に脅えるばかりで、最良の対処方法を話し合わず、ネオコンや宗教右派の扇動で簡単に武器を手に取った。その結果、混乱に拍車がかかり、中東でさらに多くの血が流された。そこには相手を理解しようという対話が存在しない。最初に出て行った“現実拒否派”は、リーダーが黒人弁護士だった。彼は怪物の話をされて自分が侮辱されたと思い込んでいる。話を信じれば笑いものにされると感じていたのだ。そう思うのは、彼が過去に辱めを受けたからだろう。もしも、弁の立つ彼が味方だったら、カーモディ相手にどれほど心強かったろう。スーパーにはまだどっさり食料が残っていた。軍の救援も真近だった。皆が互いの声に耳を傾け、協力していれば殆ど犠牲者も出ず助かっていた。どの登場人物も自分が正しいと思い込んでいるが、一致団結の方向には向かわなかった。異なる価値観を持つ者同士の意思疎通が重要なのはいつの時代でも真実であり、そのメッセージを含む本作は普遍性を持っている。僕らは恐怖心を他人に利用されぬよう、しっかりと理性を保たねばならない。イラク戦争はテロを解決する方法と言われて始まったが、テロとイラクは無関係だと判明した後も戦争は続いたし犠牲者が増え続けた。SFホラーの枠を超えて、現代を生きる人々へ本作が語りかけるメッセージはあまりに重い。

※この映画はデヴィッド視点で進んでおり、観客は自然と“対策派”に入れ込んでしまう。カーモディが射殺されたシーンでは劇場で小さな拍手が起きたほどで、告白すると、僕もこのシーンでスカッとするカタルシスを感じた。でも、2発目が額に命中し彼女が血溜まりに沈んだ時、僕は我に返り、殺人行為に喝采していた自分の残酷さを思い知った。監督いわく「(既に死んでいる相手への)二発目は絶対に必要だ。なぜなら一発目で喜んだ客は、二発目で観客自身が心に隠した暗黒を見てゾッとするはずだから」。1発目は正義の制裁と思ったのに、2発目の後味の悪さ。“何も頭まで撃たなくても”という気持ちは、既に腹を撃たれている側にすれば、その同情は無意味だ。自分を無条件に正義と思っている観客に冷や水をぶっかける演出…さすがダラボン監督、タダモノじゃない(汗)。
※「自分の知識を超えたことを受け入れられないのは狂信と同じで一種の狂気だ」(アンドレ・ブラウアー)黒人弁護士役の俳優

 
36.イントゥ・ザ・ワイルド('07)148分 米

イントゥ・ザ・ワイルド(荒野へ)。これは来た!実話の映画化。主人公のクリスは22歳。東海岸の裕福な家庭に生まれ、大学を優秀な成績で卒業し、エリートコースを約束された若者だ。だが彼には人と異なる夢があった。それはアラスカの雄大な大地に立ち、自然の中へ全存在を投げ出し、体内に燃える命の炎を感じ取ること。物質社会にウンザリし、自然の中で自身の力を試したかった。彼は安い中古車に乗っていたので、両親が卒業祝いに新車をプレゼントしようとすると「なぜ?まだまだ走れるし全く必要ない」と断る。モノが溢れていれば幸せという考え方が彼には理解できなかった。そして天に切望する「愛よりも金銭よりも信心よりも名声よりも公平さよりも、真理を与えてくれ!」。
やがて自分を偽りながら生きるのが限界になり、“これ以上文明に毒されないよう”に脱出を決意する。全貯金(約300万円)を慈善団体に寄付し、クレジットカードを切り刻むと家を飛び出した。まず西海岸へ向い、そこから北上する。カナダの先にあるアラスカを目指して。「一度は自分を試すこと。一度は太古の人間のような環境に身を置くこと。自分の頭と手しか頼れない、苛酷な状況に一人で立ち向かうこと」。

  原野のクリス

交通費をアルバイトで稼ぎ、ヒッチハイクをしながら北上を続ける。途中で出会ったいろんな人から、“ここに残れ”“一緒に暮らそう”と誘われるが、彼の熱い目線は北だけに注がれていた。「北へ行くんだ。ひたすら北へ向かう。僕一人だけの力で。時計も地図もオノもなし。何にも頼りたくない。真っ只中で生きるんだ。そびえる山、川、空、猟銃。荒野のど真ん中で。分かるかい?ただ生きるんだ」。2年をかけて厳冬のアラスカに到着。財布に残っていたお金を燃やすと、さらに雪原を奥地へと進む。「そして僕は歩いていく--荒野へ」「自由とその素朴な美しさは無視するには素晴らしすぎる」。
無人の原野での生活は刺激に満ちていた。絶対的な孤独。小動物を狩り、魚を食べ、植物図鑑を見ながら食べられるものを腹に収めた。初めて大きなヘラジカを仕留めた時は、解体前に自分が奪った命へ畏敬の念を捧げずにはいられなかった。しかし、解体に手間取っているうちに蝿がたかり蛆がわいてしまう。こうなれば捨てるしかない。他に食べ物があったのに立派なヘラジカを殺したばかりか、それを食べずに捨てるというのは、彼が最も忌み嫌っていた物質社会がやっている事と同じ行為だった。クリスは良心の呵責に苦しむ「ヘラジカなんか撃つんじゃなかった」。
久々に食べるリンゴに感動で震え、一口ごとに「君は本当に美味しい!」と讃えた。「今まで食べたどのリンゴよりも10万倍は美味しい!」。荒野では毎日トルストイやジャック・ロンドン、ソローなどを読み耽る。
16週間が経ち、何日か不猟が続き食料が底をついたことで、彼は町の方角へ歩き出す。そして川辺で呆然とする。来る時は歩いて渡れた川が、雪解け水で大増水していたのだ。帰れない。“しまった!!”。ここから先は映画を観て欲しい。映画史上に残る名セリフが出てくるのもこの後だ。公式の予告編(2分17秒、ネタバレあり)がすごく良いので是非見て欲しいけど、クリスの生涯は米国では有名らしく、予告編の冒頭で映画の結末がいきなり語られるので、先が知りたくない人は見ない方がいいと思う。
一番感動した台詞はコレ!【ネタバレ文字反転】独りぼっちで衰弱&餓死していくクリスは、命と引き換えに追い求めていた人生の真理を手に入れた。それは「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合った時だ」というもの。初めて心から人を恋しいと感じた時、もう人生は終わろうとしていた。しかし、都会にいてはクリスが生涯たどり着けなかった真理を見つけたんだ。日記の最後の言葉は「僕の一生は幸せだった。みんなに神のご加護を!」。4ヶ月後、ハンターが寝袋の中で死んでいるクリスと日記を発見した。享年24歳。これだけ褒めて100点じゃないのは、クリスの両親と妹がやっぱりちょっと可哀相だから。それでわずかに-5点。
監督のショーン・ペンは映画化権の獲得に10年を費やし執念で完成させた。クリス役のエミール・ハーシュは撮影中に18kgも減量するほどの大熱演。彼はクリスの人物像についてこう語る。「高校時代は金曜の夜といえばパーティーやドンチャン騒ぎが当たり前だ。でもクリスは友人と食料を買って貧しい人に配っていた。食べることに困っている人がいるのに何もしないことが理解できないんだ。観客がこの映画に共感するのはきっと誰の心の中にも乗り越えたいものがあるからだ。そんな心の冒険をクリスはやってのけた。“一歩踏み出せたら”ってみんな思ってる。彼はそれをやった。やらないことが正しい場合もある。でも(ネタバレ)少なくとも彼は死んでしまうまでに、殆どの人が夢で終わることを実現させた。(ネタバレ終わり)彼は憧れと現実の境界線を越えて目的を達成したんだ」。
主題歌を書いたのはパール・ジャムのエディ・ヴェダー。ギターで弾き語る歌詞は「♪ひざまずいていては自由になれない カラのグラスを高々とかかげて どこへ行こうと自分らしくいよう 自由でいる為に」。
公式WEB。ここも猛烈ネタバレ全開中。※撮影監督は青春映画の傑作『モーターサイクル・ダイアリーズ』で広大なラテンアメリカの原風景を撮った名匠エリック・ゴーティエ。どうりで自然が美しいハズ!
※クリスは放浪中に16歳の少女に恋され、彼女から積極的に求められた。しかし「僕は抱けない」という。「なぜなの?」「だって君は若すぎるじゃないか」。決して少女の好奇心につけ込まない。まさに男の鑑。ハリウッド映画でこんなストイックな台詞に初めて出合った。

 
37.硫黄島からの手紙('06)141分 米
ゴールデン・グロ−ブ賞の最優秀外国語映画賞に輝く。完全に日本人視点の映画をハリウッドが作ったことが信じられないし、敵国の日本兵に感情移入させる物語を米国人が受け入れ、さらに賞まで与えてしまうことに驚いた。劇中にはこれまでの米国映画ではタブーだった米軍による虐殺シーンまであったというのに。従来の米国映画では米軍兵は常に正義のヒーローであり、投降した丸腰の日本兵を殺すような場面を絶対に描かなかった。硫黄島決戦は日本軍の20,933名のうち20,129名が戦死するという凄惨な戦いだったが、米側もまた戦死6,821名、戦傷21,865名という大損害を受けた。多くの米国人にしてみれば、米兵の戦いを神聖にする為にも、後の空襲や原爆投下を正当化する為にも、日本兵はあくまでも狂った邪悪な人間である方が都合が良いハズ。傷ついた米兵捕虜を手当てしたり、故郷の妻子に手紙を書くような描写、つまり“米兵も日本兵も同じ心を持った人間だった”という演出は受け入れ難いと思う。しかし本作品は、日本兵を血の通った人間として描き抜いた。硫黄島の米兵にとって憎むべき“敵のボス”栗林中将に「我々の子どもらが日本で一日でも長く安泰に暮らせるなら、我々がこの島を守る一日には意味があるんです!」と叫ばせた。日本軍は米側が5日で陥落できると予測していた硫黄島を36日間も守り抜く。“黄色いサル”ではなく、尊厳を持った人間として。この作品を名監督イーストウッドが撮ったことも嬉しい。過去にオスカーに輝いた名匠であり、“イーストウッドの映画だから”という理由で、より多くの人が劇場に足を運ぶから。僕は「敵は政府から教えられたような鬼畜ではなかった」と気づくシーンに一番心を揺さぶられた。敵も普通の人間--それは右や左という政治的メッセージを超えた所にあり、“なぜ俺たちは殺し合っている?言葉があるのになぜ話し合えない?”と、戦場で沸騰した頭を冷静にさせる。『硫黄島からの手紙』はその部分で戦いの虚しさを強く訴えてきた。
※1平方キロあたり1400名の日米兵士が死んだ硫黄島は、今、日米双方が合同慰霊祭を行なう世界で唯一の土地になっている。
※アカデミー賞(2007)音響効果賞//ゴールデン・グローブ(2006)外国語映画賞

 

38.真夜中のカーボーイ('69)113分 米
ニューヨークの底辺を生きる男2人の友情物語。最初は詐欺や喧嘩から始まった両者の交流だが、やがて互いの存在がなくてはならぬものになっていく。貧しさのあまり2人が宝物にしていたラジオを質入れするシーンがたまらない。アメリカに摩天楼や華やかなイメージのみを抱いていた自分は、この映画で米社会の別の顔を見て現実を知った。当時(二十歳頃)は下宿生活をしていて貧乏のピーク(ラーメン、おかゆ、パンの耳の日々)。極貧生活の中でもささやかなプライドを持ち続けるD・ホフマン演じるラッツォが他人事のようには思えず、食い入るように画面に見入った。
※アカデミー賞(1970)作品賞、監督賞、脚色賞。主演の2人は揃って主演男優賞にノミネート/NY批評家協会賞(1969)男優賞

 

39.ジョニーは戦場へ行った('71)112分 米
第1次世界大戦に出征したジョニーは、砲弾を浴びて両手両足を失い、さらに聴覚、視覚、嗅覚、味覚のすべてを奪われてしまう。軍高官や軍医はジョニーが生きてるだけで「意識がない存在」として扱うが(ジョニーが首を動かしても無意味な動物的反応と判断)、実はジョニーの意識はハッキリとしており、必死で軍医たちに“まだ物体ではない”ことを訴えようとする。一体どうすれば自分に思考能力があることを伝えることが出来るのか…。そんなある日、ジョニーは画期的な方法を発見する!彼は唯一動く頭部を上下に動かして軍医にモールス信号を送った、「キル・ミー」と…。反戦映画だけでなく、この世にある映画の中で、最も絶望的な作品だろう(だからこそ逆に見て欲しい)。クリスマスに看護婦が「メリー・クリスマス」とジョニーの胸に指先で書くシーンに号泣。生命の尊厳をテーマにした、一生に一度は見ておくべき映画。
監督は原作小説を書いたダルトン・トランボ自身。トランボは1939年に原作を執筆し、1947年に赤狩りにあうが議会で証言を拒否。議会侮辱罪で獄中に入る。出所後は米国を追われてメキシコに移住。偽名で脚本を書き続け、『ローマの休日』ではイアン・マクレラン・ハンターの名でオスカーに輝いた。そしてベトナム戦争の最中の1971年に(当時65歳)、生涯唯一の監督作としてメガホンを取ったのが、この『ジョニーは戦場へ行った』だった!原作の発表から32年目に映画化を実現させ、その8年後にトランボは他界した。

※1989年、ヘヴィメタル・バンドのメタリカのメンバーは、この映画に強い衝撃を受け、機関銃や砲撃音で始まる7分24秒の傑作『ワン(One)』を書きあげた。歌の中で主人公は「地雷が視界を遮る/僕の会話も視覚も奪い/腕を足を奪い魂も奪って/地獄のような生に僕を置き去りにする」「今、世界は消滅し、僕はただ独り/神よ、死を望み息を止める僕に救いの手を/どうぞ神よ救いの手を」と絶望的な叫びをあげる。プロモーション・ビデオには映画のカットが大量に使用され、この映画を知らない若い世代の強烈なインパクトを与えた(“One”7分2秒。最初はレクイエムの如く静かに始まり、4分を過ぎた辺りから怒涛の展開へ)。それまでマッチョ系の単純な歌詞が多かったヘヴィメタル界にあって、孤独の極限を歌い上げる高い精神性の楽曲がここに誕生した。グラミー協会では「この曲を特別に讃えるべきだ」という声が沸き起こり、なんと“One”の為にヘヴィメタル部門が新たに設けられ、同曲が栄えある第一回受賞曲となった!
※カンヌ国際映画祭(1971)審査員特別グランプリ、国際映画批評家連盟賞

 

40.ベニスに死す('71)131分 伊・仏
動くギリシャ彫刻。自分は同じ人類の中にこれほど美しい男がいるとは思わなかった。劇場で初めてタジオ君を見た時、周囲のお客さんが全員、それこそ男も女もあんぐりと口を開けていたのを僕は見逃さなかった。彼が画面に映るだけで、その度、劇場の空気が変わった。この俳優は他の映画に出てないので誰も老いた姿を知らない。それが嬉しい!よく分かってる!
主人公はマーラーをモデルにした作曲家。彼は静養先のヴェネチアでタジオと遭遇する。音楽を通して、もがきつつも懸命に美を生み出してきた作曲家は、自然界がいとも簡単にタジオという完全な美を創り上げることに絶句する。現世の“美”を追求した映画でこの作品に肩を並べられるものは存在しない。これほどまでに官能的で、しかも格調高い映画が他にあるだろうか、いいや、あるまいて!
※カンヌ国際映画祭(1971)25周年記念賞。ワーナーの会長が製作現場でマーラーのアダージェットを聴き、「素晴らしい。この作曲家と独占契約を結べないか?」とマジで聞いたのは有名。

 

41.明日に向って撃て!('69)112分 米
原題は“ブッチ・キャシディ&サンダンス・キッド”。西部劇といえばアクション・シーンが売りだが、本作はアカデミー脚本賞を獲ったことで、シナリオが“別格”であることを雄弁に物語っている。西部劇といっても、ここにはOK牧場もインディアンの襲撃も出てこない。銃は苦手だが頭の切れるブッチ(ポール・ニューマン)と早撃ちの名手サンダンス(ロバート・レッドフォード)の2人組が列車強盗を敢行し、保安官や軍に追いつめられていく逃避行を描いている。危機的状況下でもブッチとサンダンスはウィットに富んだ会話やユーモアを忘れない。劇中では、緊張感と笑いが絶妙のバランスで物語が進行していく。そしてあまりに有名な最後のシーン。ラスト・カットは心の一番深い所に刻まれた。
※アカデミー賞(1970)脚本賞、撮影賞、作曲賞、歌曲賞。ノミネート…作品、監督賞。

 

42.グッドモーニング・バビロン!('87118分 伊・仏・米
ビデオが廃盤になり、テレビでも全く放映されないので、クライマックスについて詳しく書かせて欲しい。時代はハリウッドがバビロンと呼ばれていた20世紀初頭。イタリアから一旗あげようと映画創生期のハリウッドにやってきた2人の兄弟が主人公。彼らは豊かなイマジネーションと手先の器用さで、ハリウッドの美術チームとして着実にキャリアを伸ばしていった。そんなおりに第一次世界大戦が勃発。「俺はイタリア人だ」と故郷に戻りイタリア軍に入った兄と、ハリウッドを愛し米兵となった弟が、戦場で敵味方に分かれて再会する。
炸裂する大砲、飛び交う銃弾、深く突き刺さる銃剣。混戦の中で倒れた弟を助けようと駆け寄った兄も致命傷を負う。地面をのた打ち回る2人。「兄さん…」「産まれてくる子は、俺たちの顔も知らない」(共に妻が身篭っていた)。その時2人の目に入ったのが、死んだ記録兵が回していたニュース用カメラだった。
「…きっと誰かが見つけてくれるよ」「お前も同じことを考えてたのか」。砲弾が降り注ぐ中、兄弟は最後の力を振り絞って体を起こし、交互にカメラを回しあった。最初に兄が弟を撮る。「顔を拭けよ。そんな顔を子どもに見せるのか」。弟は爆煙で黒くなった顔を拭く「これでいいかい」。2人のすぐ近くで砲弾が破裂するが、なおも兄はカメラを回し続ける。「笑えよ…」「笑っているさ…」。今度は弟が兄を撮る。カラカラカラ…。カメラが回り始めると、兄はレンズに向かって、ゆっくり無言で両手を差し伸ばした…わが子を抱きかかえようとするかのように。だが、その手は自分の血で赤く染まっていた。カメラに自らの血を見せる姿、それは子どもに向かって“父さんは今からこの傷で死ぬんだ”と伝えているようにも見えた。--こんな映画が、世の中にはあるんだ。

 

43.素晴らしき哉、人生('46)130分 米
「1人の命は大勢の人生に影響してるんだ。1人いないだけで世界は一変する」

時計の裏側を外すと、内部は小さな歯車でギッシリ埋まっている。どんなちっぽけな歯車でも、それが欠ければ時計は動かず、一つとして無駄なものはない。人間社会もそれと同じで、誰が欠けても世界は不完全になる。『素晴らしき哉、人生』(原題「It's A Wonderfull Life」)の主人公ジョージ・ベイリー(ジェームズ・スチュアート)は、身をもってそれを体験した男だ。彼は少年時代からずっと世界一周旅行の夢を抱いており、“船の錨の音、飛行機のエンジン音、汽笛”を何よりも愛していた。成長したジョージは故郷の小さな町から外の世界へ出ようとするが、その矢先に父が過労で他界してしまう。父は住宅金融会社を経営し、“貧しい庶民にマイホームを”というモットーから低利で人々を助けていた。ジョージは会社存続の為にいったん旅の計画を封印して経営に集中し、弟が大学を卒業したら会社を継いでもらうつもりで頑張った。ところが弟は工場主の娘と結婚し、相手の家業を継ぐことになった。ジョージの冒険の夢はまた遠のく。やがてジョージは幼馴染みと結婚。新婚旅行で今度こそ海外に行けると思いきや、出発当日に世界恐慌の影響で会社が取り付け騒動に巻き込まれる。彼は旅行を中止し、貧しい預金者の為に旅費の全額を使って払い戻してやった。

様々な苦境を乗り越えてきたジョージだが、ある時最大の危機が訪れる。叔父が会社の運営資金8000ドルを紛失してしまったのだ。町を牛耳る悪徳資産家ポッターは乗っ取りを画策し、「会社のカネを横領したのだろう」とジョージを告発した。ジョージは子供の頃から世界に飛び出したかったのに、現実は家業に縛られて町を出る友人を見送ってばかり。挙げ句の果てには巨額の金を紛失し、会計監査員がやって来る始末。心がすさみ、家に帰って幼い子供たちに当たり散らしてしまう。酒場でも心は晴れず、クリスマス・イブの夜、吹雪の中を運転して街路樹にぶつかった。「いっそ生まれて来なければ…」人生に絶望したジョージは川に向かい、橋の上から身を投げようとする。その時、彼よりも先に老人が身投げした。ジョージは自殺しようとしていたことも忘れて必死で老人を救出する。実はこの老人の正体は、翼のない落ちこぼれの2級天使クラレンスだった。

【ネタバレ文字反転】
クラレンスは神から“ジョージを救えたら翼をやる”と言われて助けに来たのだ。“自分なんかいなくてもいい”とヤケになるジョージを見て、“それでは”とジョージが生まれなかった世界に連れて行く。それは悪夢のようだった。ジョージは少年時代に冬の池に落ちた弟を助けたことがあるが、その世界ではジョージがいなかったので弟は9歳で溺死していた。また、かつてアルバイト先の薬局で、薬剤師が誤って劇薬を処方したのを指摘したことがあったが、これも彼がいなかったので患者は死に、薬剤師は20年も服役していた。町の施設はすべてポッターが買い占め、人々には笑顔がなかった。妻は独身で、もちろんジョージの可愛い4人の子供もこの世にいない。クラレンスは言う「1人の命は大勢の人生に影響してるんだ。1人いないだけで世界は一変する」。愕然とした彼は、元の世界に戻してくれとクラレンスに懇願する。

かくして現実に戻ったジョージは、状況そのものは身投げを考えた時と何も変わっていないのに、今や全く逆の気持になり、“人生は素晴らしい”と歓喜して「メリークリスマス!」を叫び、全力で町を駆け抜け家に帰る。その数分後、ジョージの家を目指す群衆がいた。貧しい人々の為にずっと汗を流してきたジョージのピンチを知った人々が、寄付をする為に大挙して押し寄せていたのだ。クラレンスはジョージにこんなメッセージを残して消えた--「友のある者は敗残者ではない。翼をありがとう」。


この映画が素晴らしいのは、天使が登場するものの、彼を幸福にする為に「奇跡」で現実を変えるのではなく、モノの見方だけを変えさせたということ。ラストでジョージに希望を与え救ったのは、あくまでも人生で出会った人間であり天使じゃない。不運続きの人生に思えても、誠実に生きていれば必ず報われる。映画が公開されたのは、まだ各地に戦争の爪跡が残る1946年。キャプラ監督は作品を通して誠意を持って生きることの尊さと、ひとつの生命がどれほど重いかを歌い上げた。

ジョージを演じたジェームズ・スチュアートは現在ハリウッドの丘に眠っている。素朴な善人の役柄を多く演じた彼は、米国人にとって古き良き時代の象徴となり、1997年に亡くなった時は当時のクリントン大統領が“彼はまさにアメリカの良心だった”と弔辞を述べた。人生で壁にぶつかり絶望しても、違う角度から見るだけで「奇跡」が起こり得ることを教えてくれた映画だ。“もうダメだ、生きていけない”と思うほど苦しい時にこの作品を観れば、再び生きる力を呼び起こしてくれるだろう。第3位のガタカと同じく、一本の映画で人生が変わることがあるという好例だ!
※ゴールデン・グローブ(1946)監督賞

 

44.シルミド('03)135分 韓国
信用していた国家に裏切られて散っていく男たちに黙祷。実話というのが凄まじい。民主化される前ならまず映画化は不可能だったろう。どの役者も演技を超えて、本当に命のやり取りをしているようだった。圧巻!

 

45.家族の肖像('74)121分 伊・仏
老人と若者の世代間の溝、富める者と貧しき者の溝…この物語で起きた悲劇は、主人公の老教授が若者達に心を開いたことから始まったが、それでも自分は、やはり心を開いて良かったと思う。新たな人間との出会いこそ生きている証だからだ。文芸色の濃い映画を撮らせれば右に出るものはいないヴィスコンティ監督の傑作!どのシーンでビデオを止めても絵になっていた。モーツァルトが所々で効果的に使われており、作品の印象をより深いものにしている。劇中に登場する反ファシスト青年に、ヴィスコンティのヒューマニズムを見た。感動。
※ヴィスコンティは名門貴族の出身にもかかわらず資本主義社会を批判しており“赤い貴族”の異名を持っていた。
【ネタバレ文字反転】
最後の足音に絶句!あの忍び寄る“死”の表現に、全身鳥肌が立った。なんと凄絶なラストシーンなのか。

 
46.太陽がいっぱい('60)122分 仏・伊
アラン・ドロンと言えば2枚目、2枚目と言えば大根役者というカジポン方程式は、この作品において全否定された。貧乏ゆえに劣等感に苦しみ、屈折した感情を金持ちの友人に抱く青年(ドロン)が、殺した友人になりかわって平然と生活する--パスポートを偽造し、友の筆跡を訓練するドロンの迫真の演技に脱帽!サスペンス映画らしくないニーノ・ロータの哀愁を帯びた音楽が、逆に胸に染みる。ギラギラと輝く明るい日差しが海の青さを際立たせていた。

 

47.シティ・オブ・ゴッド('02)130分 ブラジル
トラウマになりそうなくらいビビリまくった。ブラジルのスラム街の現実。少年マフィアの抗争。子供が子供を殺すなんて、悪夢の一言。レビューを書こうとするだけで心不全になりそう。
※NY批評家協会賞(2003)外国映画賞

 
48.ダークナイト('08)152分 米

バットマン・シリーズの中で、最も重く悲壮感に包まれた作品。きれい事じゃない現実、“たとえ幻でも民衆にはすがる為の希望(ヒーロー)が必要だ”と、おそらく初めて言ってしまった「ヒーロー映画」。本作のバットマンはゴッサムシティの民衆から「ならず者の自警市民」と呼ばれて苦悩する。
ある日、マフィア撲滅に燃える熱血漢の地方検事が就任し、人々は検事を“ホワイトナイト”(光の騎士)と呼んで喝采を送った。バットマン自身も、“ダークナイト”(闇の騎士)の自分ではなく、マスクを必要としない“素顔のヒーロー”に街の未来を託したいと思い始める。ところがそこへ、恐るべき邪悪の化身「ジョーカー」が出現。ジョーカーはバットマンにこう言いのける「お前の強さは無意味だ。俺を脅かすものは何もないんだから」。どんな悪党にも犯罪には目的がある。お金が欲しい、権力が欲しいetc。ところがジョーカーの犯罪には目的がない。彼は金が目当てじゃなく、犯罪そのものを楽しんでいる為、何の交渉も成立しない(パンフの解説にはこう上手くまとめていた「(ジョーカーは)ムカつく正義とやらを叩き潰し、高潔な人間を堕落させ、世界が破滅していく様を特等席で楽しみたいのだ」「退屈を紛らわすために極悪非道な犯罪をオモチャに遊び狂う男」)。
ジョーカーの宣戦布告は卑劣だ。「バットマンが人々に正体を明かすまで毎日市民を1人ずつ殺す」「バットマンが愛した女性と、バットマンが後継者に願った検事を誘拐して、どちらを救うか選ばせ、選ばれなかった方は死ぬ」など、バットマンが窮地に追い込まれるものばかり。しかもジョーカーは、「バットマンのいない世界は退屈だ」とも同時に考えている。バットマンは“最高の遊び相手”なんだ。まさに最凶の敵。この圧倒的な“悪”の前に対してどう戦う?検事“光の騎士”が対抗できるのか?心に迷いがあるバットマンで勝てるのか?
---ノーラン監督いわく、「ジョーカーが犯す罪には目的がない。だから誰も彼を理解できない。恐るべき破壊者で、そんな自分の残忍な性質が楽しくて仕方がないんだ」。この超ブチキレたジョーカーを演じたのは、本作の撮影後に薬物中毒で急死したヒース・レジャー(享年28歳)。ヒースは共演者に「俺を殴るシーンは、演技ではなく本当に殴ってくれ」と要求するほど役柄に没頭し、撮影スタッフは「まるで血管を破裂させているようだった」と証言。ゲイリー・オールドマンも「役者はキャリアを積む中で、突然音速を突き破るような時がある。『カッコーの巣の上で』のジャック・ニコルソンや、『狼たちの午後』のアル・パチーノみたいに。ヒースはそれをやったんだよ。これまで映画で見た最も恐ろしい悪役の1人を演じたんだ」と語っている。あのジョーカーの演技を見るだけでもこの作品を鑑賞する価値がある!脇役のモーガン・フリーマンやマイケル・ケインといった名優も画面を引き締めていた。アクション・シーンの方も、CGではなく本物のトレーラーがひっくり返るし、新兵器のバットポッド(バイク)もカッコよく見応えがある。
ラストシーンの受け止め方は人それぞれだろう。僕は伝説となるラストだと思う。

高順位の大きな理由となった一番の感動シーンは【ネタバレ文字反転】→なんといってもフェリーの民衆!ジョーカーは2隻のフェリーに爆弾を仕掛け、互いの船の起爆スイッチを乗客に与える。そして「深夜0時までにスイッチを押せば、片方のフェリーは爆破されるが自分のフェリーは助かる」と通告。フェリーは一般市民が乗るフェリーと受刑者が乗ったフェリーだった為、市民の方は「相手は囚人だから早く押さないと向こうに押されてしまう」と不安がり、受刑者の方も「彼らは俺たちを信じてないから押してしまうだろう、その前に押せ」と議論が沸騰。ジョーカーは高みの見物。両船の乗客は何度もスイッチを押しかけるが、ついに0時になっても、相手を殺して自分が生きることを選ばなかった。僕は思わず銀幕に拍手をしそうになった!ジョーカーは想像と異なる結果に激しく落胆したが、あれこそ人間の誇りと尊厳がジョーカーに勝利した瞬間だった!

※アカデミー賞(2009)助演男優賞、音響編集賞/ゴールデン・グローブ賞(2009)助演男優賞

 
49.バーディ('84)120分 米
反戦青春映画の傑作。ベトナム戦争をテーマにした映画は山ほどあるけど、この作品はほとんど戦闘シーンがないにも関わらず、戦争の悲惨さが一番胸に迫ってきた。最前線で発狂したバーディに「お前は正しい」と語りかけるアルの言葉ほど重く切ないセリフが他にあるだろうか

バーディは鳥を熱愛する心優しい青年。彼はベトナムの戦場で理性が崩壊し、自分のことを鳥だと思い込んでしまう。そんなバーディを元の世界に戻すべく精神病院を訪れる親友アル(若きニコラス・ケイジ)。しかしアル自身も戦場で顔面を被弾し、ミイラのように包帯に巻かれ、身も心も深く傷ついている。アルが「ジョン・ウェインに騙された!」と絶叫するシーンは、ウェイン映画を神聖視するハリウッドのタブーをぶち破っており本当に驚いた(ウェインが監督・主演した対ベトナム戦意高揚映画“グリーン・ベレー”はキング・オブ・ワースト映画!)。
『バーディ』には他の戦争映画のように、画面いっぱいに屍が横たわるカットも、村人を虐殺する場面もない。戦場のシーンは回想部分に短く挿入されるだけだ。しかし、精神のダメージを描くことで、どんなベトナムものよりも戦争の悲惨さ、異常さが伝わってくる。音楽面でも、ピーター・ガブリエルのストイックなサウンドが、物語にさらなる精神的な深みを与えていた。
※だが、けっして暗く重い映画ではない!深刻なテーマとは対照的に、ユーモラスな場面がそこかしこにちりばめられており、ラストの後味も良いッ!
※カンヌ国際映画祭(1985)審査員特別グランプリ
【ネタバレ文字反転】
こんなドンデン返しなら大歓迎!ビルから落ちたと思ったアルの悲愴な叫び声に対し、「どうしたんだい?」と手をはたきながら答えたバーディのとぼけた顔!あんなに幸せな気持ちでラ・バンバを聞いたことはない。アラン・パ−カー作品にハズレなし!!

 
50.街の灯('31)86分 米
主人公が惚れるのは盲目の花売り娘。彼は女性の目の手術代を稼ぐために必死で働きまくる。チャップリンいわく、放浪者チャーリーの姿がヒロインから見えないのは、単に彼女の目が不自由だったからではなく、チャーリーの存在が社会的に透明に近かったから。そう考えると、クライマックスの「僕が見える?」はより深いものがあるね。

 

51.黄金('48)125分 米
僕はかつて、流した涙の量で感動を評価していたけど、世の中には涙以外にも感動が存在していることを教えてくれたのが本作。
金鉱を巡って錯綜する人間の欲望を描いた心理劇。ラストのセリフがめちゃくちゃ良かった!50年以上前の古い作品だし、置いてないビデオ屋も多いので、あえてここにオチを書かせてもらう。山賊の襲撃や仲間の裏切りを乗り越え、約1年がかりで掘り集めた砂金が、いろんな偶然が幾つも重なって、ラストでぜ〜んぶ風に乗って飛び散ってしまう。全ての努力がパーになったんだ。普通ならここで主人公は嘆き悲しむのに、この映画では仲間同士で顔を見合わせ、次のセリフと共になんと大爆笑するんだ!「笑え!笑え!神様か自然が仕掛けたとてつもない冗談だ。ユーモアのセンスがあるなぁ。金が自然に戻ったんだ!10ヶ月のタダ働きも惜しくはない!」。悲劇を「一生笑える冗談になるぞ」と痛快に笑い飛ばす男たちがチョ〜気持いい!努力が無駄になった現実を爆笑で受け入れる器の広さ。これは生きていくうえですっごく大切なコツだと思った!!(こんな作品に会えるから映画ファンをやめられないッ!)
※アカデミー賞(1949)助演男優賞、監督賞、脚色賞/ヴェネチア国際映画祭(1948)音楽賞/ゴールデン・グローブ(1948)作品賞、助演男優賞、監督賞/NY批評家協会賞(1948)作品賞

 

52.ツォツィ('05)95分 南ア・英
アフリカ映画として初のアカデミー外国語映画賞に輝く。世界一治安の悪い街と言われる首都ヨハネスブルクを舞台にした、償いと希望の物語。“ツォツィ”とは不良やギャングを指す南アのスラングで、彼らはスリや強盗、麻薬売買など、金になることは何でもする。主人公はスラムに暮らすギャング・チームのリーダー。彼は子供の頃に母をエイズで亡くし(03年の時点で成人の約20%がエイズに感染しているという凄まじい状況)、父の暴力から逃れる為に家を飛び出し、少年期は工事現場の土管を家にして生きてきた。青年になった彼は、感情を封印し無表情になっている。感情がなければ傷つくこともないからだ。過去を忘れる為に本名を隠し、誰一人、彼を名前で呼ぶことはない(“ツォツィ”がそのまま呼び名になっている)。強盗が日課になりモラルが麻痺している為、時にはわずかな金を奪う為に人を殺すことも…。だが、新しい仲間には“仕事”(殺し)の後にゲロを吐く者もいた。新入りは言う「品位という言葉を知ってるか?俺は知っているから吐くんだ」。痛い事実を指摘されたツォツィは逆上し、この仲間を半殺しにする。そんなある日、カージャックで奪った車を一人で走らせていると、なんと後部座席から赤ん坊の泣き声が聞こえた。動転した彼は車を乗り捨てようとするが、赤ん坊を放置することはさすがに良心が咎め、ここから物語は波乱に満ちた展開になっていく。予告編は冒頭のリンク先のPREVIEWをクリック。これがまた素晴らしい予告編ッス(鑑賞後に予告を見ると、これだけでも相当胸に来るものがありマス)。本作は、監督、スタッフ、キャストがすべて南アの出身者で固められ、内側から見た南アの日常の姿が詳細に描き出されている。その場の空気がフィルムから強烈に伝わってくるので、観客はいきなりヨハネスブルクに放り込まれることになる。オープニングに登場するスラムの全景は圧巻。地平線の彼方まで掘立小屋が続いており、“今から見たこともない世界に自分は入って行くんだ”と腹をくくった。映画の宣伝コピーは「拳銃を持つその手で、小さな命を拾った」。この文面を考えた人は天才。一行の中に、作品のすべてが収まってる。劇中ではいろんな人物が崖っぷちの状況に直面する。極限状態にいるときこそ感情がよく見えるので、人間の真理に触れる為にも、多くの人にこの作品を観て頂きたいデス。レオ君の『ブラッド・ダイヤモンド』といい、ドン・チードルの『ホテル・ルワンダ』といい、アフリカを描いた映画は傑作が続くね。
※アカデミー賞(2006)外国語映画賞
【ネタバレ文字反転】
ホームレスの車椅子の老人との会話は忘れられない!主人公が拳銃を突きつけ“なぜそんなになってまで生きようとするんだ”と、傲慢ではあるが彼にとって切実な問いかけをすると、老人はこう答えた「両手に太陽の光を感じたいんだ。こんな身体になっても太陽の温かさは分かる」。地獄の釜の中のような犯罪の嵐の中に登場した、“太陽の光”という眩しい言葉に鳥肌が立った!


 
53.ラストサムライ('03)154分 米
一昔前のハリウッド映画は、日本人をどこか小馬鹿にし、不可解な民族として描いたものが多かった。しかしエドワード・ズウィック監督は『ラストサムライ』の中で、日本人にさえ忘れられつつあるサムライの美学、武士道を見事に描きあげ、日本文化や精神性を賞賛している。全編にわたって日本人に対する敬意に満ちており偏見の欠片もない。日本を舞台にしたハリウッド作品では最高レベル。滅びゆくサムライたちへの壮大な挽歌。

【この映画のレビューは結末をどう感じたか語る必要があり完全ネタバレでいきます】

作品の舞台は1876年(明治9年)、アメリカ北部のリトルビッグホーンでカスター将軍指揮下の第七騎兵隊がインディアンと戦って全滅した直後。主人公ネイサン・オールグレン大尉(トム・クルーズ)は、報復戦で何の罪もない部族を虐殺したことを自責し、魂を失った者のように酒浸りの日々を送っていた。 ある日、軍隊の近代化を目指す日本政府から、軍事訓練の指導者になって欲しいと要請を受ける。高額の報酬(半年で北軍の3年分)に惹かれ、オールグレンは横浜の地を踏んだ。まもなく、オールグレンには新政府の元老でありながら政策に反抗する勝元盛次(渡辺謙)を討伐するよう命令が下る。勝元は時代が変わってもサムライとしての生き方を貫く男。オールグレンは、騎兵隊に続いて、日本でも再び少数派を武力鎮圧することになった。遠征に出た政府軍は、勝元率いる“サムライ”たちと初めて対決する。霧の中から現れた甲冑の迫力に息をのむオールグレン。編成されて間もない政府軍は、見事に統率されたサムライたちに歯が立たず、すぐに戦線が崩壊した。オールグレンは手強い“赤い甲冑の男”を紙一重で倒したものの、サムライに包囲され絶体絶命に。オールグレンの勇敢な戦いぶりをジッと見ていた勝元は、とどめを刺さず村へ連れ帰った。

オールグレンは勝元の妹・たか(小雪)に預けられ、戦の刀傷を癒やす。たかは“赤い甲冑の男”の妻であり、オールグレンは自らが命を奪った男の妻子としばらく暮らすことに。傷が少し癒えると、村内の散策が日課になった。この村の民は勝元の祖先が900年もの間守り続けてきた。オールグレンはサムライや村人たちと交流していくうちに、彼らのストイックで律された生活、誇り高い人格に畏敬の念を抱くようになる。たかは、「夫はサムライとして本懐を遂げました。あなたもあなたのすべき事をしただけです」と真摯に謝罪するオールグレンを赦した。
穏やかな日々の中でオールグレンは心の平安を取り戻し、また猛将の氏尾(真田広之)と剣を合わせて引き分け、サムライたち彼を認めるようになる。村が刺客集団に襲われた際は、オールグレンと勝元が協力し互いに背中を預けて戦った。

翌春(史実では西南戦争の年)、政府閣議に呼ばれて東京に出た勝元は、前年に出された廃刀令を拒絶し、あえて帯刀していた。勝元の刀は400年前に祖先が天皇家から下賜(かし)された家宝であり、維新の時もその刀で明治政府樹立に貢献した。勝元は他の元老から「もう時代は変わったのだ」と追い出され、東京の自邸で軟禁状態となる。街中では勝元の息子・信忠が髷(まげ)を無理やり切り落とされたり、オールグレンが刺客に襲われたり、様々な抑圧を受けた。オールグレンらは監禁されていた勝元を救出したが、その際に信忠は父を逃すため落命してしまう。村に戻った勝元たちは、政府軍の討伐隊がやって来ることを予想し、最後の戦いの準備をすすめる。反乱軍は約500人。政府軍はこの1年間で本格的に訓練され、榴弾砲(火薬弾)まで備えていた。兵力・火力に圧倒的な差があったが、オールグレンはかつてテルモピュライ峠で300人のギリシャ軍が100万人のペルシャ軍を撤退させた史実を話し、政府軍の慢心を突く作戦を立案する。オールグレンはあの“赤い甲冑”を身に付けて決戦の地へ向かう。

1977年5月25日、ついに両軍が相まみえる。「例のギリシャ軍の最後はどうなった」「もちろん300人全滅だ」。勝元はニヤリと笑って総攻撃を命じた。サムライたちは多くの死傷者を出しつつも、知略を尽くし、地形を利用した反撃で敵に大ダメージを与え善戦する。とはいえ、多勢に無勢、やがて生存者は1割程度になる。覚悟を決めて全員が騎乗し、政府軍の本隊に向けて最後の突撃を敢行する。鬼神の如く奮戦し、敵の最終防御戦を約15騎が突破した。もう敵の指揮官は目の前だ。吠える勝元たち。そのとき、政府軍の最新兵器ガトリング砲(機関銃)が火を噴いた。雨のよう銃弾を浴び、壊滅していく反乱軍。全員が馬から投げ出され、なおも撃たれ続けた。見かねた政府軍中尉が独断で射撃を止めさせる。虫の息の勝元と足を撃たれたオールグレンが寄り添う。勝元はオールグレンがインディアン虐殺の記憶に苦しんできたことを知っていおり、言葉を絞り出す。「お前は名誉を取り戻した…わしにも名誉の最期を…」。オールグレイは勝元に応じ、刀をしっかり握らせた。腹を切った勝元の瞳に、遠方の散りゆく桜が映り、オールグレイに囁く。「パーフェクト…何もかも、パーフェクトだ」。勝元絶命。彼らを包囲していた政府軍はラストサムライたちの壮絶な最期を見届け、敬意を込めて脱帽し、膝を着いて頭を垂れた。
合戦を生き延びたオールグレンは、明治天皇(中村七之助)に拝謁し、勝元から託された皇室の遺刀を天皇に返却する。刀を受け取った天皇は西欧文明を盲信するのではなく、勝元がこの刀で守ろうとした日本人の心に想いを馳せる。「彼の死に様を聞かせて欲しい」。オールグレンは天皇の目を見て静かに応える--「生き様をお話ししましょう」


同じ戦場にあって、サムライは誇りを守る為に死に、オールグレンは誇りを取り戻して生き続ける。“どのように死ぬか”を重視するサムライと、“どう生きるか”にこだわるアメリカ人が、互いを尊敬し合い、言葉を超えた深い友情で結ばれる。なんとよく出来た話なのだろう。また、かつて自分が命を奪った男の甲冑を身にまとい、彼らが大切にしていたものを守るために戦うという設定も心を熱くさせる。劇場で初めて見た時は、渡辺謙の強烈な存在感に圧倒され、サムライたちにばかり目が行った。だが、2度目、3度目と見ているうちに、オールグレンの魂が再生されていく過程に胸を打たれるようになった。インディアン虐殺に荷担し、毎夜のようにうなされていた男が、異国の地で歴史から消えんとするサムライたちのために戦い、最後の一人となったサムライから「お前は名誉を取り戻した」と救済される。ラストの明治天皇との謁見で、オールグレンの軍服には両肩に数字の“7”が縫われていた。これは第7騎兵隊のものだ。単なる正装というより、自分の過去を真正面から受け入れ、すべてを背負って生きていく決意表明に見えた。彼は自分の恥と向き合い克服したんだ。
日々の鍛錬で剣術を磨き、強い精神力を培ってきたサムライたちが、ガトリング砲という手回しハンドルを回すだけの機関銃で瞬時になぎ倒されていく光景は、一つの時代が決定的に終焉を迎えたことを思い知らせた。ガトリング砲に比べれば、まだライフルの方が弾を込めて一発ずつ引き金を引くという動作があるだけ“戦い”といえる。ガトリング砲は命を奪う“作業”に見えた。それだけに、戦闘後に政府軍が一同に両手を地面についた時、僕は色んなものが救われた気がした。負けて勝つというか、生きた証を敵の心に刻みつけ、真に勝利したのは勝元たちだと思った。

それにしても、エドワード・ズウィック監督の日本人に対する理解力に驚かされる。まさが、死んでいく勝元に桜を見せるとは。DVDの音声解説では「ソンノージョーイ(尊皇攘夷)」という言葉を使って時代背景を説明していた。オールグレンを毛嫌いしていた氏尾が、赤い甲冑を着用した彼に歩み寄り、紐に緩みがないか無言で確認する動作を通して、仲間として“承認”する演出など、シカゴ生まれの監督とは思えない語り口の渋さ。トム・クルーズが吹き替えなしで挑んだ高速4人斬りの殺陣やサムライVSニンジャなど、アクションも見応えたっぷり。日本人の精神性をテーマにしながら、外国人が喜ぶサムライ、ニンジャ、ハラキリ、フジヤマが全部入っており、エンターテインメント性も充分。ラブシーンでは、「脱がす」ラブシーンではなく「着せる」ラブシーンという離れ業をやってのけた。キスも他のハリウッド映画ではあり得ない“入口で引き返す”キス。明治なのにニンジャが出てくるとか、なんでバナナの木(?)が生えてるんだとか、細かい間違いはいろいろあるけど、僕にとっては些細なこと。それは作品の本質とは無関係。劇中で描かれた日本人の原風景は、決して付け焼刃ではなかったし、髷を切られる信忠の「やめろーッ!」の絶叫は、問答無用で異なる文化を押し付けられるマイノリティーの真の慟哭に聞こえた。丁寧なサムライの里の生活描写からも、日本の伝統や風習を本気で惜しんでいるのが伝わってきた。
特筆したいのが渡辺謙の“目ヂカラ”。時に温かく、時に鋭く、時に少年のように輝く瞳。息子と別れる時の目は、言葉がなくても悲しみがあふれ出ていた。俳優陣の素晴らしい演技、四季折々の美しい映像、緊張の中に時々ユーモアを挟むバランス感覚、この映画そのものが「パーフェクト」!

※劇中では寺で読経する勝元が描かれている。僕は「侍」という文字が“にんべん”と“寺”で出来ていることに感じ入った。
※サムライの勝元がよどみなく英語を話すことが当初は奇異に思えたが、監督いわく「明治維新から10年が経っており、外国勢力と渡り合うための基礎教養として上に立つ者は英語を学んでいる」。なるほど、ガッテン。
※ズウィック監督は渡辺謙を次のように絶賛。「演技に機知を含むことができる役者は少ない」「凄まじい内面の演技」「初めて会った時、鼓動が遅くなるのを感じた」(鼓動が速くなるではなく、遅くなるというのが良い表現)。
※ズウィック監督「明治天皇を演じたのは歌舞伎役者の中村七之助。歌舞伎界には世襲制度があり、その意味で天皇の役と通じるものがある」。
※日本にないトロピカルな植物が映っているのはロケ先がニュージーランドだったため。日本人スタッフが注意したが、美術監督のこだわりで残ってしまった。
※“ボブ”役のさんは「5万回斬られた男」「3番目に斬られる役者」として知られる福本清三。
※渡辺謙はゴールデングローブ賞助演男優賞とアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。受賞は逃したが、渡辺謙は国際派スターとして引っ張りだこになる。
※寺院のロケ地は姫路市の圓教寺。
※2004年度日本公開映画の興行成績第1位に輝いた。
※音楽担当のハンス・ジマーは本作がちょうど100作目。


 
54.俺たちに明日はない('67)112分 米
1930年代にアメリカで各地の銀行を荒らしまわった実在の男女ギャング、クライド・バロー&ボニー・パーカーの凄絶な青春物語。銀行を襲っても客の金は奪わず人も殺さないクライドが、悪党なのに憎めない。ヒステリー持ちで超イラつく兄嫁役の女優は、よくぞあそこまで観る者を不快にさせたと、助演女優賞を受賞した。作品のモデルになったボニーとクライドの墓は、現在ダラスの別々の墓地にある。
ちょっと余談。僕の高校時代はまだ世間にレンタルビデオ店がなく、こうした古い映画は名画座と呼ばれるリバイバル専門の劇場で鑑賞していた。この作品を大阪毎日文化ホールでイージーライダーと、二本立て400円で見た時のこと。映画の途中で突然フィルムがちぎれ、スクリーンが真っ白に。なかなか修理が終わらないので客の一人が手で影絵のハトを作り、バカウケ。他の客も犬とかキツネを映していた。そのうちトイレへ立つ人の頭が次々と画面を横切り始めた。結局30分近く、誰も映写係に文句を言わずのんびり待っていたんだ。古き良き時代の思い出だ。
※アカデミー賞(1968)助演女優賞、撮影賞。W・ビーティ、F・ダナウェイ、G・ハックマンも、それぞれ主演男優、主演女優、助演男優賞にノミネートされている。全員名演技。/NY批評家協会賞(1967)脚本賞
【ネタバレ文字反転】
蜂の巣になって転がる衝撃のラストは“死のバレエ”と呼ばれた。浴びた弾丸は実に87発!

 
55.ライフ・イズ・ビューティフル('98)117分 伊
前代未聞の強制収容所コメディ。重労働を強いられても、主人公は「これは楽しい荷物運びゲームなんだ」と子どもに言い聞かせる。以前、僕はTVのドキュメンタリーで、アウシュビッツの生還者が“生き残る為に一番必要なものはユーモアだった”と語っているのを見たことがある。だからこの映画を通して、これ以上ないという絶望の中でも、生き続ける為にはユーモアが必要だと改めて実感した。また、映画の前半、主人公が結婚に至るドタバタ恋愛騒動は、そこだけ上映しても作品として成り立つほど非常に良く出来ていた。主演のロベルト・ベリーニは監督と脚本も兼任している天才映画人!
エンドクレジットが短い為、劇場で観た時まだ観客が泣いてるのに照明がつき、みんな焦りまくった。
※アカデミー賞(1999)主演男優賞、外国語映画賞、音楽賞/カンヌ国際映画祭(1998)審査員特別グランプリ

 

56.白雪姫('38)83分 米
世界初の長編カラー・アニメにして、ディズニー映画の頂点。白雪姫の頬には本物の化粧品を使ったという。人物の動きの滑らかさ、色彩の鮮やかさなど驚くべきことはたくさんあるが、何がすごいかといって、この作品の制作年が1938年ってことだ。1938年!このころ日本はまだ石器時代ではないか!日米開戦は1941年。白雪姫をもし日本の軍上層部が見てたら、米国と戦うのはマズイと悟ったろうに。
※「くしゃみ」「おとぼけ」「照れ助」「寝ぼ助」「怒りんぼ」「先生」「ごきげん」といった個性的な7人の小人たちは、全員がキャラ立ちしてて魅力的。手塚治虫はこの映画を生涯に50回以上観たという。
※アカデミー特別賞/ヴェネチア国際映画祭(1938)偉大な芸術トロフィー/NY批評家協会賞(1938)特別賞

 

57.Uボート('81)135分 独
第二次世界大戦のドイツの潜水艦Uボートを舞台にしたド硬派戦争映画。“潜水艦モノにハズレなし”というのが映画ファンの定説だが、中でもこの『Uボート』は密閉空間の緊張感がハンパじゃない。上映中、こちらもずっと海底で息を殺していた気がする。額から脂汗が流れるわ、目がドライアイになるわ、神経擦り切れまくり。結末に愕然。

 

58.イル・ポスティーノ('95)107分 伊・仏
ノーベル文学賞を受賞した南米チリの大詩人パブロ・ネルーダは、詩作の過程を「朝露が降りるように魂に詩が降りてく」と表現した。詩人が生み出す言葉の海に身を浸すとき、読み手の心には様々な感情が沸き起こる。詩に触れている時の気持ちを、「言葉の波間で揺れる小舟のよう」と表現した映画がある。アカデミー作曲賞に輝いた美しい音楽に乗せて、詩人と郵便配達人が育む友情を描いたイタリア映画『イル・ポスティーノ』だ。

作品の舞台は1950年代の南イタリアの貧しい島。ある日、ネルーダ(フィリップ・ノワレ)が政変によって祖国を追われ、この小さな島に亡命することになった。英雄の如き詩人のもとへ、全世界からファンレターが殺到したことから、島の郵便局は臨時配達員を募集。そして内気な青年マリオ(マッシモ・トロイージ)が採用された。毎日手紙を届けているうちに、マリオはネルーダに感化され、詩の奥深さ、美しさに目覚めてゆく。ネルーダもまた、マリオの素朴な人柄に好感を持ち、詩作の核心を突く質問に驚かされることもあった。
年の差を超えて両者の交流が深まっていくなか、マリオが食堂で働く娘ベアトリーチェに一目惚れしてしまう。ネルーダはマリオを応援し、「“雨が降る”ことを“空が泣く”と書くように、物事を別の言葉で表現する方法、隠喩(いんゆ)を使うんだ」と詩作の神髄を伝授する。そして、マリオは詩を武器として果敢にベアトリーチェにアタックし、ものの見事にハートを捉えた。結婚パーティの席でネルーダに吉報が届く。チリ政府が逮捕命令を取り消したのだ。祖国に戻れることを喜ぶネルーダだが、マリオは別れの寂しさを感じずにはいられない。島を去ったネルーダに、マリオはテープレコーダを使って“音の手紙”を送ろうとした。かつてのマリオは島の貧しさに嫌気が差し、自分の身を悲観し、都会に出た友人を羨むばかりだった。だが、ネルーダが青い海や海岸線、崖に咲く花、身の回りに溢れている美に気付かせてくれたのだ。生まれた時から当たり前のように身の回りにあり、気付かなかった島の美しさ。普通、そういったものは故郷から遠く離れて気付くものだけれど、ネルーダのおかげでいかに素敵なものに囲まれて暮らしているのかを知った。その御礼に、マリオは彼が最も美しいと思うものの音を次々と録音していく。島に打ち寄せる波の音、妻のお腹の中にいるパブリート(子どもの名前)、漁師の父が投げる投網の音、吹き渡る風、教会の鐘、そして満天の星空にもマイクを向けた。
【ネタバレ文字反転】
数年が経ち、ネルーダが懐かしい旧友との再会を楽しみに島を訪れた。だが、少年パブリートの姿はあったが、マリオには会えなかった。実は、詩の力で世界を変えんとするネルーダに影響を受けたマリオは、労働者の集会で自作の詩を朗読しようとして、暴動に巻き込まれ命を落としていたのだ。ネルーダはマリオと詩について語り合った海岸で良友のことを追想し、頭(こうべ)を垂れて静かにたたずんだ---。
タイトルの意味は“郵便配達人”。ラストはシリアスだが、随所にユーモアが散りばめられている。古代ギリシャの哲学者プラトンいわく「恋をしている者は誰でも詩人だ」。本作はネルーダと女性を触媒として、1人の“芸術家”が生まれる瞬間を優しさいっぱいに描いている。彼は詩で人生が変わった。詩の魅力を教えてくれる映画。

映画以降のネルーダは、ノーベル文学賞を受賞する一方でチリの軍事クーデターに抵抗。持病が悪化して危篤に陥った際に、病院搬送を軍が妨害し非業の死を遂げている。“政治を絡めたのが興ざめ”“社会派メッセージが好きじゃない”、そんな意見を見かけることがある。しかしネルーダ自身がまさに政治的な人間であり、そのために南米で絶大的な人気を得、それがために軍に殺されたわけで、この映画に関わっているスタッフには、ネルーダが去った後のラストに至る物語が重要なんだと思う。政治的メッセージとかじゃなく、このように生きた人がいたということを伝えたいのだろう。
詩人との交流を通して内面的に成長していくマリオを演じたマッシモ・トロイージは、心臓病を抱えながら撮影に挑み、全シーンを執念で撮り終えるとロケ現場で倒れ、12時間後にこの世を去った。享年41歳。命と引き換えにして世界に残していった作品だ。96年度キネマ旬報外国映画ベストテン第1位。

※史実ではネルーダが滞在したのはカプリ島だが、サリーナ島でロケが行なわれた
※アカデミー賞(1996)音楽賞。作品、主演男優、監督賞など5部門にノミネートされたが、残念ながら受賞はメル・ギブソンやN・ケイジに持っていかれ、音楽賞(作曲賞)のみにとどまった。NY批評家協会賞(1938)特別賞。

 

59.汚れた血('86)125分 仏
今、あなたが誰かのことをたまらんほど好きで、しかも相手が一向に振り向いてくれないなら、この作品の様々なセリフをメモりまくるはず。主人公アレックスは恋に苦しむ全ての人間の代弁者だ。また、映画の後半、警官隊に包囲された建物から脱出する際の“人質のいない人質シーン”は、その意表を突いたアイデアで映画史に残るだろう。腹話術での別れといい、印象的な場面を多く含む青春映画の傑作だ。
※仏語の日本語字幕は直木賞作家松浦寿輝の翻訳。どうりで一味違うはず。

 

60.ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2('11)130分 英・米

シリーズ第8作にして最終章。2001年の第1作『賢者の石』から10年目にして、すべての謎が解き明かされた。めさめさ良かった!もう主人公はスネイプ先生で良い。スネイプ先生の切ない過去に激しく共感し、満点を献上。それにしても、ハリーが背負っている宿命がここまで重く非情なものだったとは。最後の分霊箱の秘密が分かった時に絶句した。これまでの意味深なハリーとヴォルデモートの共鳴に辻褄が合った。映画ならではのアクション場面も大充実。魔法銀行でのジェットコースター&ドラゴン飛行から始まり、魔法界最強の“ニワトコの杖”を手に入れたヴォルデモートによるホグワーツ魔法学校襲撃、そして弱虫ネビルの大奮戦!特に城塞のようなホグワーツを先生軍団がバリアーで防御し、それをこじあけた敵との大決戦は、クィディッチ競技場の炎上、大回廊の崩壊、巨人兵の出陣、次々と戦死していく先生や仲間など、最終章に相応しい死力を尽くした激戦だった。

子どもにとって魔法学校の先生というのは信頼・尊敬できる大きな存在であり、その先生方が戦死していく衝撃は大きい。全面対決のバトルが終わってから、ハリーらの子どもが入学するエピローグまで、ハリーたちにお疲れ様と思うと同時に、物語が終わってしまう寂しさを感じながら観ていた。『ロード・オブ・ザ・リング』や『スター・ウォーズ』の最後の作品でも感じたけど、好きなシリーズの最後は、「これでもう新作が観られないのか」って物悲しい気持ちになる。とにもかくにも、最終章がこれまで見続けてきたことを後悔させない、見応えのある内容で本当に良かった。
※スネイプ先生のリリーへの純愛にシンクロしまくり、“チクショー、ハリーの親父許せん!”ってなった。あと、親が死んでベビーベッドで泣いている“赤ん坊ハリー”が可哀相で、あの赤ちゃんの涙目に思わずもらい泣き…。

 
61.パピヨン('73)151分 米
実話。無実の罪で投獄されたパピヨン(S・マックイーン、胸に蝶の刺青を入れてる)が、不屈の精神力で13年間ひたすら脱獄に挑戦し続ける物語。画面を通して自由への切実な憧れがヒシヒシと伝わってきた。主人公が夢で裁かれる場面で、有罪判決の理由が「時間を無駄に使った罪」というのが、個人的にガツンときた(身が引き締まった!)。共演のダスティン・ホフマンも素晴らしい演技を見せてくれる。
※独房で生き抜く為に、ゴキブリ、ムカデを食っていた場面は、子供の時に見てトラウマになったぞ〜。

 

62.モダン・タイムス('38)87分 米
冒頭、羊の群れの映像が、工場に詰め込まれる労働者とダブっていくブラックユーモアに、いきなりノックアウトされた!ベルトコンベアの前でネジ締めの流れ作業をしているうちに、スパナを持つ手が止まらなくなり、幻覚まで見え始め、あらゆるネジ(に見えるもの)を締めまくって病院送りになるチャーリー。労働者のデモ隊のリーダーと誤解されて逮捕されるシーンなどもあり、ただのドタバタではなく、笑いの中に社会変革の必要性まで縫いこんだチャップリンの力作。トレード・マークの、山高帽、ドタ靴、ステッキはこの作品が最後。
※劇中でチャップリンが歌う「ティティナ」は、彼が創作したオリジナル言語(笑)。

 

63.プラトーン('86)120分 米
ベトナムで報道写真を撮り続けた石川文洋氏が「この映画には本当のベトナムがある」と評価した傑作。アメリカ人にとっては耳が痛い米軍の残虐行為などもちゃんと描かれており、実際に前線へ送り込まれたO・ストーン監督の、米政府と軍への怒りが爆発している。味方殺しや上官殺しを含め、戦場のあらゆる愚行がスクリーンに映し出された。この映画に作品賞を与えた米国アカデミー協会のバランス感覚は素晴らしいと思う。
※アカデミー賞(1987)作品賞、監督賞、編集賞、録音賞/ベルリン国際映画祭(1987)監督賞

 

64.博士の異常な愛情('64)93分 英・米 
題名で内容を誤解されそうだが、この愛情の矛先は女性ではなく水爆だ。正確なタイトルは『博士の異常な愛情 または私は如何に心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』。鬼才キューブリックによる、掟破りの核戦争ギャグ映画。まずアメリカ空軍の司令官が発狂し、全戦略爆撃機にソ連を核攻撃する命令を出す。もし一発でもソ連に核ミサイルが落ちると、ソ連から報復攻撃用の“人類皆殺し爆弾”(スゴイ名前)が発射されてしまう!大統領は必死で爆撃機を呼び戻すが、どうしても一機だけが通信装置の故障で連絡がとれない…世界の運命や如何に!?ピーター・セラーズの一人三役(軍副司令官、大統領、ドイツ人科学者)は、映画を観ただけでは絶対に気付かない。
※NY批評家協会賞(1964)監督賞
【ネタバレ文字反転】

ラストの核爆発オンパレードに重なる「また会う日まで〜♪」の美しいバラードが爆笑だったが、以下の当初のキューブリックの案もなかなかすごい。
●(カメラが遠ざかる地球を宇宙から眺めつつナレーション)
「我々の銀河から遠く離れたゆえに知られざる死の惑星地球は、今日の我々の学術的な興味をそそっている。本日は『滅亡した古代文明シリーズ』としてこの前史の風変わりな喜劇をお届けしました。」


 
65.ダンス・ウィズ・ウルブズ('90)181分 米
「人間ってものは、知り合いになってみればどんな人間でもそんなに恐ろしいもんじゃないんですよ」。劇作家テネシー・ウィリアムズは著作の中でこう書いた。実際、腹を割って喋った結果、人づての情報や第一印象だけで苦手に感じていた人物が無二の親友になることも人生にはよくあることだ。アカデミー作品賞を始め6部門に輝いた『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は、南北戦争の時代を背景に、1人の白人将校とスー族(インディアン)の交流・友情を描いた異色西部劇。なぜ“異色”なのか。1972年にマーロン・ブランドが「ハリウッド映画の先住民に対する差別的表現」に抗議しアカデミー賞を拒否したように、従来の西部劇で描かれる先住民は、ジョン・ウェインに“成敗”される“残忍で無知な連中”だった。だが、本作品はハッキリと白人が侵略者であると明言。滅びゆく先住民への同情と共感が前面に出された初のハリウッド大作となった。原作小説は発表当時、白人批判の内容が問題になり多くの出版社から発売を拒否されたという。
 
映画は南北戦争の激戦地テネシー州から始まる。時代は1863年。主人公の北軍中尉ジョン・ダンバー(ケビン・コスナー)は右足に重傷を負う。足を切断されると思ったダンバーは破れかぶれになり、丸腰で馬を駆り南軍の前に飛び出した。撃てと言わんばかりに両手を挙げるダンバー。結果的にこの行動が南軍兵士の注意を引きつけ、北軍は急襲に成功し大戦果をあげた。意図せず英雄となったダンバーは、その褒賞として自由に駐屯地を選ぶ権利を与えられる。当時は新しい領土を求めて白人たちが西進しており、「喪失する前にフロンティアを見ておきたい」と、最前線サウスダコタの砦への赴任を希望した。数日後、ダンバーは果てしない大草原にたたずむ、“砦”とは名ばかりの廃屋に到着し、愛馬シスコと彼が“トゥー・ソックス(2つの靴下)”と名付けた狼と共に暮らし始める。それは、孤独ではあったが大自然に身を沈め、静かに精神の充実を感じる生活だった。ある日、スー族のインディアンがシスコを盗みに来た。何とかこれを追い払ったものの、次は大勢で押し寄せてくるかも知れない。事実、スー族の集落では、“白人(ダンバー)を殺せ”という意見も出ていた。彼は砦の防御を固めるが、敵の襲撃を待っているのは性に合わぬと、直談判して真意を確かめるべく自分から集落へ向かっていった。ところが、途中でケガをしたインディアン女性を発見、彼女を助け集落へ送り届けた。この出来事をきっかけに双方の交流が始まる。返礼に来た2人のスー族にコーヒーと砂糖を土産に渡すと、今度は彼らがバッファロー(スー族の言葉でタタンカ)の毛皮を贈ってくれた。ダンバーは思う「インディアンに関する噂は何一つ真実ではなかった。彼らは乞食でも盗賊でも邪教を信じる恐ろしい人間でもない。それどころか礼儀正しくユーモアが分かる人々だった」。白人たちは毛皮と舌だけの為にバッファローを殺戮するが、スー族は必要な数だけを狩り、獲物に敬意を払って食した。神聖な儀式でもあるタタンカ狩りに参加したダンバーは日記に綴る「彼らの暮らしは笑い声が絶えず何よりも家族と仲間を大切にする。“調和”という言葉しか思いつかない」。集落には小さい頃にスー族に拾われた白人女性“拳を握って立つ女”がおり、ダンバーは彼女と結婚。“狼と踊る男”というインディアン名やテントをもらい、スー族の一員として第2の人生を送る。だが、平穏な日々は長く続かなかった。騎兵隊の大軍が既に接近していたのだ--。

上映時間は3時間もあるが、長さを感じるどころか、むしろゆっくりと時間をかけて交流したからこそ、そこに生まれた友情に説得力があった。先住民と彼らの文化への崇敬に満ちたこの作品を製作する為に、自邸まで抵当に入れ全私財を注ぎ込んだコスナーに敬意を表したい。かつては主人公を殺そうとしたスー族の戦士が最後に叫ぶ声がいつまでも耳に残り、思い出すだけで胸がたまらなく熱くなる--「聞け!“狼と踊る男”!俺はあんたの友達だ!いつまでも、あんたの友達だ!!」。

※最近ハリウッドにおける彼の存在感は、髪と共に日増しに薄くなっているが、この当時のカリスマ性はすごいものがあった!
※アカデミー賞(1991)作品賞、監督賞、脚色賞、撮影賞、作曲賞、録音賞/ベルリン国際映画祭(1991)特別個人貢献賞

 

66.ルートヴィヒ・神々の黄昏('72)184分 伊・独・仏 
映画の枠を超えて存在が美術品になった作品。若干19才でバイエルンの国王となり、国家財政が傾くほど芸術(特にワーグナーの音楽)と築城に金を注ぎ込み、周囲からは“狂王”と呼ばれて国政から追放され、最後は水死体となって発見されたルートヴィヒU世(享年40才)の物語。主役のヘルムート・バーガーは鬼気迫る演技で完全に狂王になりきっていた。ヴィスコンティ監督はルートヴィヒが愛した美世界を莫大な資金を費やして再現し、おかげで映画制作会社は劇中のバイエルンの如く財政が傾き倒産してしまった(汗)。洞窟シーンで使用されるワーグナーの『夕星の歌』が美しい。
※完全版は4時間の超大作。

 

67.シン・レッド・ライン('98)171分 米
2010年はNHKの朝ドラ『ゲゲゲの女房』が大きな話題になった。漫画家・水木しげる氏の戦争体験も細かく描かれ、異色の朝ドラとなった。水木氏は南方戦線に出征し、玉砕命令を受けて生き残ったことを糾弾され、さらには敵機の爆撃により左腕を失った。しかし、そのような地獄の日々であっても、南の島の美しい鳥類(インコやオウム)や花々を愛し、親切な現地人との交流によって人間性を保っていた。この話を聞いて真っ先に思い出した映画が『シン・レッド・ライン』だ。本作は南太平洋に浮かぶガダルカナル島で繰り広げられた日米の激戦を描いているが、切り口は普通の戦争映画とは全く異なっている。全編にわたって豊かな大自然を丁寧に描写し、主人公を置かずに天の目線で人間の営みを見つめている。

「海と陸はこんなにも調和しているのになぜ大自然の中で戦争をするのか」。こうしたアプローチの反戦映画を他に見たことがない。自然と共生する島民の暮らしに人間の原点を見たウィット二等兵(ジム・カヴィーゼル)が、脱走兵となって島の村で暮らすシーンから物語は始まる。ウィットは軍に連れ戻され、数日後に所属するC中隊は日本軍の防御陣地への攻略を開始する。指揮官のトール中佐(ニック・ノルティ)は出世のために功を焦り、滅茶苦茶な突撃命令を下す。兵は次々と戦死し、部下を全員失った斬り込み隊のマクローン軍曹(ジョン・サヴェージ)は「雑草だ…俺たち兵士の命は雑草と同じだ!」と発狂した。ウェルシュ曹長(ショーン・ペン)が瀕死の若い兵士に命がけで安楽死の薬を届けると、若者は涙ながらに感謝し「さようなら…曹長…さようなら」と別れを告げた。ウェルシュの行為を“勲章ものだ”と誉める上官に「勲章など申請しやがったら、すぐに曹長を降りる。勲章だと?くだらねえ!」と彼は吐き捨てた。ケック軍曹(ウディ・ハレルソン)は手榴弾が爆発する前に身体で覆い被さり、命と引き換えに仲間を救った。再三にわたって突撃指令を下すトール中佐に「2年半も一緒の部下を自殺に追いやれません」と懲罰覚悟で命令を拒否した中隊長は、解任され母国へ送られた。戦闘は佳境に入りジャングル奥地の日本軍本拠地をついに陥落。捕虜になった日本兵は戦友の亡骸を抱きしめて嗚咽し、ウィットは胸中で神に問いかける。「人を戦わせる悪はどこから来たのだろう。いつの間にこの世にはびこったのか。どんな種から、どんな根から育ったのか。誰の仕業だ?幸せを奪い面白がっているのか。俺たちの死は地球の糧(かて)になるのか。草を成長させ太陽を輝かせるのか。あなたの中にもこの闇が?この闇を経験しましたか」。決戦後、C中隊には一週間の休暇が与えられたが、兵士たちはフラッシュバックで甦る戦闘の記憶に苦しむ。「こびりつく戦闘の恐怖。この恐怖に慣れることはない。戦争が人を気高くする?人間をケダモノに変え、そして魂に毒を盛る」。死んだ日本兵から金歯を抜いていたある兵士は、捕虜から「貴様も…いつか、死ぬんだよ…貴様も…死ぬんだよ」と囁かれ、その言葉が耳を離れず心のバランスを失う--。

戦場は南太平洋の楽園。ひらひらと蝶が飛ぶ中を突撃する兵士たち。超人的なヒーローは登場せず、銃火に混じって挿入される透き通った海や緑の美しい光景が、凄惨な殺し合いを続ける人間の愚かさを際立たせる。有名俳優が多数出ているが、ヘルメットを被れば誰が誰か分からなくなる。それは、兵士たち全体を1個の生命体と見なす監督の意図だろう。
戦闘中の映像は実にリアル。だが、他の戦争映画が目指した、腕が飛んだり内臓が出るといったリアルさではない。地面に伏している兵士が目の前の“おじぎ草”に指を触れたり、砲撃で巣から落ちた一羽の雛が映ったり、死にゆく兵士の視点で見た草や青空など、今まで誰も描かなかった戦場のリアルさだ。日本兵をことさら邪悪に描くこともない。

タイトルは米国の諺、「正気と狂気の間には細く赤い線があるだけ」からきている。映像から伝わってくるのは兵士たちの内面のヒリヒリとした“痛み”。もっとも印象に残ったのは、戦友の死を看取る際のウィットの表情。通常の戦争映画では「畜生!必ず仇を取ってやる!」といきりたつ場面だ。ところがウィットは悲しみつつも静かな笑みをたたえた。これは衝撃的だった。自然の一部に還っていくことを祝福しているのか、生の苦しみから解放され楽になったと思っているのか、解釈は色々あるだろう。いずれにせよ、友の死に優しい眼差しを向けた戦争映画は初めてだった。約3時間の作品だがクライマックスが中盤にあるため、残りの1時間が長く感じられる。しかし、それは終わりの見えない戦いの日々を体感させるものだ。
音楽についても特筆したい。冒頭でフォーレのレクイエム「天国にて」が流れ、戦闘シーンに勇ましいBGMはなく、勝利のファンファーレもない。決戦後に流れていた曲は、チャールズ・アイブズの『答えのない質問』だ。ずっと流れている鎮魂歌のようなハンス・ジマーの音楽が胸に染みた。

監督は映像詩人テレンス・マリック。前作『天国の日々』の映像美が各方面から絶賛されたが、その後20年も沈黙。本作でカムバックした際はスピルバーグをして「私はずっとマリック監督の復活を待っていた」と言わしめた。俳優たちは出演を熱望し、ハリウッド映画で主役を務めるスター男優たちが結集。ショーン・ペン、エイドリアン・ブロディという2人のオスカー俳優の他、ジム・カヴィーゼル、アントニオ・バンデラス、ジョン・キューザック、ニック・ノルティ、ウディ・ハレルソンら実力派が中核となり、ジョン・トラボルタやジョージ・クルーニーが脇を固めている(この2人はノー・ギャラという噂。ブラピやレオ君も出演を希望したが断られたらしい)。信じられないほどの豪華な顔ぶれ。勇敢な米兵の英雄物語ではなく、退屈と批判されることも恐れずに娯楽性を完全に排除した本物の戦争映画。あらゆる意味で前代未聞の戦争叙事詩だ。

※ベルリン国際映画祭(1999)金熊賞。ノミネート…アカデミー作品、監督、脚色、撮影、音楽賞/NY批評家協会賞(1998)監督賞、撮影賞

 
68.ある日どこかで('80)103分 米
華麗な音楽と圧倒的な映像美、胸を揺さぶるロマンスから熱狂的ファンを持つ名作。1972年、ある若い劇作家の成功を祝うパーティーが開かれた。青年の名はリチャード・コリアー(クリストファー・リーヴ)。友人たちから祝福される彼の元へ一人の老婦人が歩みより、金色の懐中時計を手渡すと共に、謎めいた一言を残して立ち去った「カム・バック・トゥ・ミー(帰ってきてね)」。その夜、老婦人はお気に入りのラフマニノフ作曲『パガニーニのラプソディー』を聴きながら静かに生涯を閉じる。
それから8年後、脚本家となったリチャードはスランプから脱出する為にミシガンの湖畔地帯へ小旅行に出る。そして引力に引き寄せられるように宿をとったグランド・ホテルの史料室で、人生最大の体験をする。壁に掛けられた古い女性のポートレート(肖像写真)の、その目も眩むような美しさに心を奪われたのだ。調査の結果、彼女は一時代を築いた舞台女優エリーズ・マッケナ(ジェーン・シーモア)であり、肖像は1912年に巡業で滞在した時に撮影されたものと分かった。彼女はその年を境にして、なかば世捨て人のように人が変わったという。何が彼女の身に起きたのか。
エリーズの虜になったリチャードは足しげくポートレートの前に足を運び、恍惚として神秘的な笑顔に見入っていた。“どうしても彼女に会いたい”そう強く思うようになった彼は、服装や髪型を当時のものに変え、1912年のコインを購入するなど、身の回りから現代のものを排除し、ひたすらに過去にタイムトラベルするよう願った(一般のSF映画はタイムマシンを使うけれど、本作品の方法は“ド根性”!)。何度も失敗を繰り返しつつ、執念で自己暗示をかけ続け、ついにエリーズが滞在した1912年6月27日へのトリップに成功した。そして湖畔での運命の出会い。これ以上はないというほど美しい音楽が場面を盛り上げていく。エリーズもまた彼を一目見た瞬間に“人生を一変させる男性だ”と直感した。
翌日、舞台稽古の合間を縫って、2人は湖畔へ散歩に出かける。会話を重ねるうちに魂が深く結び付いていく。幸福感に包まれた彼は、鼻歌でラフマニノフの『パガニーニのラプソディー』を口ずさむ。彼女もまたラフマニノフが好きだったが“その曲は聴いたことがない”という(作曲されるのは22年後。つまり彼女にとっては未来の曲)。その夜、舞台で彼女は台本にない愛の言葉を客席のリチャードに向けて語る。一幕目が終わり、彼がステージ裏に駆け寄ると、彼女は記念写真の撮影中だった。ちょうどそこに彼が現れた。リチャードを見て幸せそうに微笑む彼女。つまり、現代で彼が一目惚れした写真は、まさに彼だけに微笑みかけたものだった!“あれは僕に向けられた笑顔だったんだ”、感極まるリチャード。2人を引き裂こうとするマネージャーの妨害を乗り越え、3日目の朝、ついに2人は結ばれ結婚の約束をする。全てがバラ色に思えたその時、リチャードの背広のポケットから1979年の硬貨が出てきた。この時代にあってはならないものだった…。

【ネタバレ文字反転】
リチャードの身体が消え始め、エリーズは彼の金時計を握りしめて絶叫する「リチャード!リチャードーッ!」(この悲痛な叫び声は映画が終わっても耳から離れない)。現代に引き戻されたリチャードは、完全に打ちのめされてしまい、再度68年前に戻ろうとしても精神が崩壊して戻れなくなってしまう。食事を摂ることもなく衰弱していき、ついには文字通り“焦がれ死に”してしまう。しかし息絶える直前にリチャードの口元に笑みが浮かぶ。世界が白い光に包まれていくなか、エリーズが彼を待ち受け手を差し伸べているのだ。ゆくっり歩み寄って初めて湖畔で会った時のように帽子を脱いで挨拶するリチャード。そして2人が手をとりあったところでフィルムが静止し、画面が真っ白になりエンドクレジットが流れ始める…限りなく美しい音楽と共に。悲しみは感動に昇華された。号泣。

運命の人を探すため過去へ旅立つ。命の炎を燃やし尽くした3日間の愛。クリストファー・リーヴといえば一般には“スーパーマンの役者”として語られるけれど、この映画と出合って以来、リーヴと言えばリチャードだ。それほどの名演を見せてくれた。ヒロインのジェーン・シーモアは“女神の如く”と形容するのが相応しい美しさ。2人の最初のキス・シーンは息を呑んでしまう。崇高な愛はすべてを超える。物語はシンプルだし、タイムトラベルの仕方も“そんな馬鹿な”という超設定だけど、そんなものを軽く超越したところで本作品は燦然と輝いている。ラフマニノフとジョン・バリーの美しい音楽と、印象派の絵をモチーフにした撮影方法(圧巻の映像美)、俳優たちは脇役に至るまで名演を見せ、いつまでも心に余韻が残る魔法のような映画となっている。
現代のシーンでホテルの老ボーイが「前にお会いしましたか」と尋ねるなど、時間の経過を生かした脚本も小粋。2度目に見ると、老いたエリーズが一人で過ごした68年間を思い、もう冒頭から泣けてくる。
1980年の公開時は宣伝の失敗もあってほとんど話題にならなかったが、その後ビデオやDVDで人気に火が付いた。今でも毎年10月最後の週末に、ロケ地となったミシガン州マッキーノ島のグランド・ホテルに世界中からファンが集まり、上映会を企画するなどイベントが催されているという。ただ純粋に人を愛し抜く、それを描いた作品がこれほど多くの人に支持される、その事実に感動が新たになる。後年のリーヴは落馬事故で全身麻痺となり、10年間のリハビリ生活の末に52歳の短い人生を終えたが、この作品は恋愛映画の古典となって多くの人に感動を与え続け、リーヴは何十年、何百年と、時空を超えて生き続けるだろう。

※リチャードが初めて写真を見るシーンには裏話があり、実際に撮影本番まで布で隠されていたという。演技を超えた新鮮な反応はそこから導き出された。
※監督やカメラマンは印象派の光の描き方を学び、散歩のシーンはスーラの絵をイメージしたという。
※リチャードが髭剃りに失敗するシーンの後にすれちがった紳士が原作者。カメオ出演している。
※この映画を見た友人とこんな会話を交わしたことがある。「なぁ、今まで見た映画でどんなのが良かった?」「知らないと思うけど…ある日どこかで」「同志よッ!!」(ヒシッ)
※日本でも毎年DVDがリリースされていることから、国内に根強いファンがいることが分かる。

 
69.ブラザーフッド('04)148分 韓国
ド硬派超ヘビー。第二次大戦やベトナム戦争を題材にした映画は何度も見てきたけど、朝鮮戦争の映画は初めて。米軍対独軍、米軍対北ベトナム軍と違って、言葉が通じ合う同じ民族同士の戦いは、互いの言葉が分かるだけに戦争の悲惨さが際立った。「思想の違いってのは同朋で殺しあうほど大切なのか!?」という前線の兵士の叫びが強烈!戦闘シーンのリアルさは日本映画がお子様ランチに思えるほど。(残酷なシーンが多いという意味ではなく、画面から伝わってくる戦場の狂気じみた空気が作り物とは思えなかった。あの緊迫感、息苦しさは言葉で説明できない!)主人公2人の熱演も素晴らしいの一言。韓国ではアイドル俳優とのことだが、鬼気迫りすぎ!
※ただ、音楽が大きすぎて演技の邪魔になっていたのは残念。戦争映画に“直球”すぎる音楽は必要ない。あざとさが出てしまうから。それでちょっと減点。

 
70.ホテル・ルワンダ('04)122分 英・伊・米
1994年に「3ヶ月で100万人」が大虐殺されたアフリカ・ルワンダ。その悪夢の中で「正気になれ!」と訴え続け、多くの人命を救った一人の市民の物語。言語を絶するほど悲惨な状況なのに、欧米の政府は“石油も資源もない”ルワンダを見捨て、蛮行を野放しにした事実を描いている。主人公に対して国連軍の隊長が言った「欧米の白人にとって、あなた方はニガーですらない。アフリカ人なのだ」が胸に突き刺さった。“ニガー”は差別されていても欧米社会の住民であり、アフリカ人はそれよりもっと下だと言うのだ。カメラマンは自分が撮った虐殺映像がTVで配信されても「世界の人々はこれを見て“怖いね”と言うだけでディナーを続けるだろう」と吐き捨てた。主演のドン・チードルの演技は誠実さが溢れており、彼が語る言葉、行動、何もかもが心に響いた。必見!

 

71.X-MEN:ファースト・ジェネレーション('11)131分 米

大傑作!SFアクションというジャンルを超えた、非常に優れた人間ドラマ!よもや“X-MEN”でこれほど落涙するとは。遺伝子の突然変異によって超人的なパワーが覚醒した人間たち(ミュータント)の苦悩を描いた「X-MEN」シリーズ。副題に“ファースト・ジェネレーション”とあるように、これまで制作された作品の過去話、「エピソード1」にあたる。他作品を未見でも物語が分かるという意味でもオススメ!以下、重要ネタバレを避けて魅力を解説。

まず冒頭シーンがアウシュヴィッツ強制収容所から始まることに仰天した。なんというシリアスな幕開け。ユダヤ人のエリック少年(後のマグニートー)はそこで壮絶な体験をし、特殊能力を開花させる。戦後、成長した彼はナチスの収容所関係者への復讐を開始。各地で暮らすミュータントは、差別されることを恐れて“能力”を隠し、ひっそり生きている。エリックもまた“人と違う”能力ゆえに孤独を抱えていたが、「エリック、君だけじゃない」と心を開き接してくれたのが、最強テレパシストのチャールズ(後のプロフェッサーX)だった。2人は互いに尊敬しあい、深い友情で結ばれていく。
当作品の時代設定は米ソの冷戦が激しさを増した1960年代。脚本が上手いと思ったのは、世界征服を企む邪悪なミュータントの“ショウ”を登場させ、キューバ危機の黒幕になっていく展開。フィクションと史実を巧みに織り交ぜ、ドラマに緊張感を持たせている。ショウは世界征服の邪魔となる米ソの2大国を核戦争で自滅させようと画策し、チャールズとエリックはそれを阻止するために、各地からミュータントをスカウトして「X-MEN」を結成する(このスカウト・シーンにファンサービスあり!)。

当作品がただのバトル映画じゃないのは、正面から“差別”という人間の負の感情を描いていること。ミュータントと人間の共存を願うチャールズに対し、ユダヤとして迫害を受けた過去を持つエリックは、ミュータントは社会の新しいマイノリティーであり、人間は早晩ミュータントをバケモノ扱いし、差別し、“同胞たちは殺害される”と危機意識を持つ。事実、人間には未知なるもの、自分が理解できない現象を恐れる傾向がある。クライマックスで空をあるモノが覆い尽くすんだけど、その光景の絶望感たるやもう…。
僕は基本的に「憎しみの連鎖を断ち切ろうとする」チャールズを応援しているけど、エリックの「このままでは多数派(ミュータント以外の人間)に絶滅させられる」という悲壮感、焦燥感はヒシヒシと伝わるし、時と場合によってはエリック派に立つかも知れない。この年齢になっても立ち位置がゆらぐことを認めざるを得ない、そういった心境に立たせる名脚本の力作だ。本作でチャールズとエリックの友情が丁寧に描かれたことで、以前に公開された「X-MEN」3部作の評価まで高くなった。この映画を観てから3部作を観ると、宿敵にも肩入れしたくなるんじゃないかな。

他人と違うことを恥じ、“みんなと同じになりたい”と苦悩するキャラが、心の成長と共に“この違いは誇りだ”と、相違点を受け入れるようになる、そういう物語を見られるのは嬉しい。違いを肯定してくれる物語に感謝。

 
72.鬼が来た!('00)140分 中国
2000年のカンヌでグランプリを受賞した中国映画の傑作。日本兵捕虜(香川照之が好演)と中国農民の交流が描かれており、従来の戦争犯罪告発映画と違って、喜劇タッチというのが驚いた。日本兵をかくまう中国人という設定は斬新。しかし、物語の後半は人間の狂気が爆発!ラスト・シーンから受けた衝撃は言語を絶したものだった!映画を観た後、すぐに座席を立てなかった。驚愕の一本。
※カンヌ国際映画祭(2000)審査員特別グランプリを受賞したが中国国内では後に上映禁止となった。

 

73.グラン・トリノ('08)117分 米

『ダーティハリー』で悪党にマグナムをぶっ放し、問答無用で成敗していたイーストウッドが、銃を置き丸腰で悪党に気骨を見せる。まるで引退後のハリー刑事を見るようだった。イーストウッドが過去に演じてきた人物は銃で物事を解決してきたが、銃で解決できない、もしくは銃を使うことでさらに事態が悪化する、そんな状況を前になんと勇気ある決断をしたことか。2009年を代表する傑作!例によってイーストウッドが担当した音楽も良い。

  イーストウッドは「俳優として出演するのは本作で最後」と宣言。役者人生の集大成。
74.ロード・オブ・ウォー('05)122分 米
「今世界には5億5千万丁の銃がある。12人に1人だ。目指すのは1人1丁の世界…」こんなモノローグで始まる本作は、映画史上初めて武器商人の裏世界を描いた問題作。監督は傑作『ガタカ』のアンドリュー・ニコル。米国では“内容が物議をかもす”として制作費が集まらず、1年半をかけて国外から資金を集めた。主人公を執念で追い続けるインターポールの刑事は叫ぶ「世界平和の為には核問題の方が重要か?いや違うね。戦争犠牲者の9割が銃で殺されているんだ。核兵器じゃない。AK47こそ真の大量破壊兵器だ!」(AK47“カラシニコフ”は格安の機関銃。アフリカには銃があふれ、今やニワトリ1羽の値で機関銃が買える地域もある)。“死の商人”を拘束した刑事は言う「お前の動きを1日封じることで犠牲者たちの死を先送りできる。お前から1日奪うんじゃない。罪の無い人々に生きられる1日を与えるんだ」。しかし武器商人は呟く「米国大統領の輸出量は1日で私の1年分だ」。
※冒頭の「銃弾の一生」(3分)は凄いインパクト。欧米の工場で誕生した銃弾が船でアフリカへ輸出され、それが少年兵に命中するまでを“弾丸からの視点”で描いている。

 

75.シックス・センス('99)107分 

生と死の狭間の世界を描いたヒューマン・ホラー映画。幽霊を怖いものと思っている人はぜひ観て欲しい。この作品は従来のホラーのように、幽霊を単なる恐怖の対象として描かれていない。自分は、生者も死者も、共に“救われたい”という切実な願いを胸に秘めていることにボロ泣きだった。監督の優しさが静かに胸を打った。“ホラー映画”を観て幽霊が怖くなくなった…なんて、奇跡のようじゃないか!
これが映画だというのは十分に承知している。だが自分はこの作品から生きる力をもらい、本当に感謝している。自分はシックス・センスを観て救われた。自分で作り出した地獄からね。
※ノミネート…アカデミー監督賞、脚本賞、助演男優賞(オスメント君)。
※以下の理由(ネタバレ)で高得点にした。
【ネタバレ文字反転】
映画『シックス・センス』について、周囲の反応(声)を以下に大別してみた。
(1)チョ〜怖いホラー映画!独りで観てはダメ!
(2)難しかった。秘密って何?ブルース・ウィリスと関係ある?
(3)この「オチ」、何かと似ている。パクリだ。
(4)素晴らしすぎ!涙が止まらない!助かった!
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(1)は字幕を読まず画面しか観てない人。たぶんストーリーがあると思っていない…。
(2)はテレビの見過ぎ。垂れ流し状態のインスタントな情報を受け取るばかりで、自分の頭を使って推測、洞察することに慣れていない。だから少し情報(ヒント)が減っただけで物語が分からなくなる。
(3)は話を分かった上での感想であるから、ある意味自分と最も離れたとこにいる人間だ。あえて言おう“木を見て森を見ず”と。
(4)お互いの過去に乾杯。

自分が思うに、1〜3の人間には共通点がある。基本的に幸せな人生を歩んでいるのだ。この映画に「感動できない」のではなく「感動する必要がなかった」のだ。率直にそう思う。非難しているのではない。羨ましいかぎりだ。逆に言えば、この映画に感動する人間は不幸な者、そういうことだ。
“人生のあの場面をやり直したい”、僕はそんな思いを幾つも抱えながら今日を生き長らえている。だから、あの死者たちを他人事として見ることが出来ない。彼らは、自分そのものだ。
それゆえ「取り返しがつかぬ」と後悔し続けていることを、死後でも“やり直せる”という夢を、その可能性を与えてくれたこの作品の優しさが嬉しかった!
ウィリスの「オチ」はもちろん重要なポイントだ。でも100年後まで残るシーンとなると、おばあちゃんをめぐる車内での母子の会話シーンや、少女に「何か言いたいことある?」のシーンだろう。あの「オチ」は“仕上げ”みたいなもんでクライマックスではない。


 
76.ブルワース('98)106分 米

あまりに内容がヤバ過ぎる為にハリウッドで黙殺された本作。米国議会や政府の偽善を暴き、悪徳保険会社を糾弾した本作とW・ベイティはもっと評価されるべき!ツタヤになかったけどどうしても観たかったのでDVDを購入して鑑賞。

 
77.タクシー・ドライバー('76)114分 米
当時26歳のデ・ニーロがNYの孤独なタクシードライバーに扮した問題作。毎夜タクシーを転がす度に都会の堕落、退廃ぶりを目にしてきた主人公トラヴィスは、映画の後半でついにブチ切れ、全身に武器を仕込み夜の街へ繰り出す。後は見てのお楽しみ。鏡の前でスゴミを効かす「ユー・トークン・トゥー・ミー?」は、後にパロディ化されるほど有名になった。これが遺作となったバーナード・ハーマンの音楽もいい。当時12歳のジョディ・フォスターが既に貫禄十分でびっくり。
※カンヌ国際映画祭(1976)パルム・ドール。ノミネート…アカデミー作品、主演男優、助演女優賞/NY批評家協会賞(1976)男優賞

 

78.未知との遭遇・特別編('80、原版は'77)132分 米
原題は“第3種接近遭遇”。この作品が公開されるまで、映画に登場する異星人は常に侵略者だった。スピルバーグが初めて異星人を友人として描いたんだ。お互い言葉が通じないので、音楽を使って交流するクライマックスのラスト20分は本当に素晴らしい。仏のF・トリュフォー監督が地球人代表の科学者を嬉々として演じていたのが印象的(そんなトリュフォーを観れたのが嬉しい!)。アカデミー協会は、見事な音響効果にオスカーを与えようとしたが該当する賞(音響効果賞は'82年から)がなく、臨時で「特別業績賞」を授与した。特別編には宇宙船の内部が追加撮影されている。映画の宣伝コピー“We are not alone.”がめちゃカッコイイ!
※アカデミー撮影、特別業績賞。
※“ピノキオ”の主題歌『星に願いを』が流れた瞬間、身体中に電気が走った!

 

79.サルバドル('86)123分 米
中米エルサルバドルの軍事独裁政権に対して、農民達が蜂起し始まった内戦に、米国が自国の権益を守る為に介入。アメリカが軍事政権を支援したことで、どんな悲劇が起こったかを報道カメラマンの視点から描いた。米国政府の様々な犯罪が包み隠さず描写されており、よくぞここまで踏み込んで映像化したと思う(かなりCIAの圧力があったと聞く)。とても緊張感のある作品で、上映中は映画を観ていることを忘れ去っていた。メッセージ性とエンターテイメント性を両立させたオリバー・ストーンの大傑作。世界の人々に知らされていなかったエルサルバドルの現実を広く伝えた点で、この映画の果たした功績は計り知れない。
※「神のみ名において、民衆への弾圧をやめるよう私は軍事政府に命令する!」こう訴えていたノーベル平和賞候補のロメロ大司教が、ミサの最中に極右の手で暗殺されるシーン。あそこは何度見ても背筋が寒くなる。
※ジェームズ・ウッズはアカデミー主演男優賞にノミネート。

 

80.グローリー('89)122分 米
奴隷解放戦争と呼ばれた南北戦争で活躍した北軍黒人部隊と、それを指揮する若き白人将校の物語。実際にこの将校が書き残した記録をもとに映画が作られている。この時代のライフルは命中精度が悪かったため、戦場で射撃する際に両軍はかなり接近せねばならなかった。それゆえ、この映画の戦闘シーンは“超至近距離での射撃戦”という熾烈なもの!僕は劇場で観ててマジで震え上がった…。ラストが胸に沁みる人間の尊厳をうたった名作だ。オスカーを獲った若きデンゼル・ワシントンがかっこいい!
※アカデミー賞(1990)助演男優賞、撮影賞、録音賞

 

81.バベットの晩餐会('87)102分 デンマーク
19世紀後半のデンマークの貧しい漁村が舞台。いろいろ経緯があって村民たちが本格派フランス料理を初めて食べることになるんだけど、快楽を禁ずる宗教上の理由で、「味覚がないかのように振舞おう」「味わってはならぬ」と互いに誓い合う。しかし、あまりに食事が美味しすぎた。これでもかと出される芸術的料理の数々!村人は心の中で激ウマと思いつつ、必死にお天気の話などで平静を装うが…。愛を込めた料理が人間にどれだけ大きな幸せを与えるか描いた、見てるだけでこちらまで幸せになってしまう名画。またこの映画にはラブ・ストーリーも挿入されており、そのエピソードがめちゃくちゃ良い。たとえ離れ離れに生きていても、どこまでも深く心の交流が可能なんだということを初めて知ったッ!
「いつどこにいてもあなたと一緒でした。それはご存知ですね」「ええ。存じてます」「これからも毎日あなたと共に生きる。それもご存知ですね。--夜ごと、あなたと食事をする。肉体がどんなに離れていようと構わない。心は一緒です。この美しい世界では全てが可能なのです」
個人的にはこの映画の良さがわからない人とは友達になりたくない印象。
※「貧しい芸術家はいません!」も好きなセリフ。精神の豊かさをバベットは重んじている。
※アカデミー賞(1988)外国語映画賞

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82.十二人の怒れる男('57)95分 米
これほど手に汗を握った法廷映画はない。ある殺人事件をめぐって有罪か無罪かを12人の陪審員が激しく意見をぶつけあう、その息詰まるような論戦を95分間ひたすら追った映画だ。最初から最後まで同じ部屋(審議室)で話が展開するのが、全く中だるみもなく飽きさせない完璧な脚本。映画の冒頭では有罪11名に対し無罪が1名。これがどう変わっていくかは見てのお楽しみ。僕は好きな男優のベストワンにヘンリー・フォンダを挙げているが、それはこの作品の名演が大きな理由になっている!
※ベルリン国際映画祭(1957)金熊賞(グランプリ)

 

83.ウエスト・サイド物語('61)152分 米
「誰かと分かち合えない感動は私にとって無意味だ」(レナード・バーンスタイン)。今年、没後20周年を迎えるバーンスタインは、ライバルのカラヤンと共に20世紀後半のクラシック音楽界をリードした大指揮者。両親はロシアから米国に移住したユダヤ人であり、“共存”“寛容”の精神の大切さを人々に訴え続けた。1957年、指揮だけではなく作曲法も学んでいた彼は、39歳にして作曲家の才能を華々しく開花させる。シェークスピアの『ロミオとジュリエット』の舞台を現代アメリカに置き換えたミュージカル『ウエスト・サイド物語』の楽曲を書き上げたのだ。従来の明るい幸福感に満ちたミュージカルと異なり、アメリカが抱える社会問題を大胆に取り入れた異色作であったが、全編が素晴らしいナンバーが満ちており、ブロードウェーで大ヒットを記録。特に“トゥナイト”は世界中の人々に愛される名歌となった。その4年後、舞台は映画化され、若いエネルギーを爆発させたダンスが銀幕から人々を圧倒した。

ドラマが展開されるのはニューヨークのウエスト・サイド。プエルトリコ系移民のシャーク団と、イタリア系移民のジェット団は、縄張りを巡って毎日小競り合いを起こしている不良グループ。(以下ラストシーンまで言及)ある日、中立地帯で催されたダンス・パーティーで、シャーク団のリーダー・ベルナルド(ジョージ・チャキリス)の妹マリア(ナタリー・ウッド)と、ジェット団のリーダー・リフ(ラス・タンブリン)の親友トニー(リチャード・ベイマー)が、一目で恋に落ちてしまう。両グループの和解を願う2人だったが、対立は加速し、ついに全面対決となってしまう。トニーは決闘の現場に駆けつけ、皆に冷静を呼びかけるが、いきりたった若者たちは耳を貸さない。そして戦いの中でリフがベルナルドに刺殺されてしまう。親友リフの亡骸を前に我を失ったトニーは、ベルナルドの胸にナイフを突き立てた。兄を殺され嘆くマリアだが、彼女は深くトニーを愛しており、2人は遠い土地へ向かう約束を交わす。しかし、ベルナルドの仇としてトニーを恨むシャーク団のメンバー・チノが、マリアの目の前でトニーを射殺してしまう。その場に集まったジェット団、シャーク団のメンバーたちにマリアは叫ぶ「あなたたち全員が彼を殺したのよ!弾丸でも拳銃でもなく、憎しみによって!」。

--ハッピーエンドが常識のミュージカルにあって、悲劇的なラストは賛否を呼んだが、アカデミー協会は作品賞、監督賞をはじめ10部門という大量の賞で応えた。市街を縦横無尽に駆け巡る冒頭のダンス・バトル、情感たっぷりの楽曲、皮肉を効かせたコミカルな歌詞、「ミュージカル映画の金字塔」の称号に相応しい作品だ。バーンスタインはその後も音楽家としての名声をバックに様々な社会運動に取り組み、1985年には被爆40周年として広島で平和コンサートを開催した。死の前年にベルリンの壁が崩壊し、翌月ベルリンで催されたクリスマス・コンサートでは、東西ドイツ&アメリカ&ソ連&イギリス&フランス各国のオーケストラの混成メンバーを指揮し、ベートーヴェンの第九を演奏。この時、終楽章の「歓喜の歌」の歌詞を“Freude(歓び)”から“Freiheit(自由)”に変え、世紀の和解を祝福した。それは、マリアの想いを体現化したような生き方だった。

※名曲『マリア』の歌詞が好き。「♪こんなに美しい響きは初めて聞いた。“マリア”…マリア、マリア、マリア。この言葉には世界の美しいものすべてがある。マリア…マリア、マリア、マリア。マリアという女性に出会った。すると突然“マリア”という言葉の意味が変わった。マリアという名の女性に口づけをした。すると突然、その名の響きが素晴らしくなっていくことに気付いた。マリア!大きな声で言えば、それはまるで音楽のよう。小さくささやけば、それはまるで祈りのよう。マリア、このまま言い続けたい!マリア…マリア、マリア、マリア」
※アカデミー賞(1962)作品賞、助演男優賞、助演女優賞、撮影賞、ミュージカル映画音楽賞、美術監督・装置賞、衣装デザイン賞、編集賞、録音賞/NY批評家協会賞(1961)作品賞

 

84.スターリングラード('93)138分 ※ドイツ版
(ドイツ映画であり、ジュード・ロウ主演のハリウッド版じゃないので要注意)
映画のコピーは“涙も凍る、零下50度の氷の戦場”。第2時世界大戦で最大の市街戦が行われたスターリングラード。このたったひとつの街をめぐってロシアとドイツの双方に80万人(!)の死傷者が出た。
“この世で最も美しい地獄”と呼ばれた戦場で、飢えと寒さと極度の緊張感から精神が崩壊していく兵士たち。戦争の虚しさと狂気が見る者に押し寄せてくる。名作Uボートのスタッフが再結集し、ドイツが作った第2次世界大戦の反戦映画ということで多くの注目を集めた。戦争で人間が直面しうるあらゆる状況が全て描き尽くされている力作中の力作。ドイツはすごい。
※辛く重い映画だが、極限状況下で両軍の兵士が食料を交換し合う場面などでは一抹の救いを感じる。
※大阪ではミニシアターで2週間だけ公開。

 
85.7月4日に生まれて('89)145分 
実話。7月4日という合衆国独立記念日に生まれたロン・コービック(トム・クルーズ)は愛国心に燃える青年に育った。ベトナム戦争では自ら志願して戦場へ向かう。そして戦地で彼が見たもの…それは他国を土足で踏みにじる傲慢な「アメリカ」だった。戦闘で下半身が麻痺し車椅子の帰還兵となった彼は、反戦運動の旗手となり、大統領選挙のキャンペーン会場(マイアミの共和党大会)へ帰還兵の仲間と共に「戦争反対!空爆を止めろ!」と乗り込んでゆく。
報道陣の前で彼は叫ぶ--「この戦争でどれだけ大勢が苦しんでいるか分からないのか?この戦争は恐るべき犯罪だ!国民に嘘をつき罪のない者を苦しめてる。僕の名はロン・コービック。ベトナムの帰還兵だ。この戦争は間違ってる。政府が我々を騙し、アメリカ国民を騙した。2万キロの遠くへ我々を送って、輝かしい抵抗の歴史を持った貧しい農民に戦いをしかけている。過去千年にわたって独立の為に戦ってるベトナム国民だ。米国の指導者達の非道さは言葉では言い表せない。人々はこう言う。“アメリカを愛さぬ奴は出て行け”と。僕は愛してる。僕はこの国の人々を愛してる。だがこの国の政府は、腐った盗人と強姦犯の集まりだ。我々はもう黙ってはいられない。真実を語りに来たのだ。我々はベトナムで兄弟を殺している!なぜ反戦デモに催涙ガスを?若者を殺した事を隠そうとしているからだ!若者を犠牲にしている!」
僕は戦争賛美映画『トップ・ガン』でトム・クルーズが大嫌いになったが、この映画の彼を見て考えが一転。トム・クルーズ最高!彼は役づくりの為に、実際に何度もコービック本人と会い、一年間も車椅子の生活を続けたという。
※アカデミー賞(1990)監督賞、編集賞。ノミネート…作品、主演男優賞。

 

86.大脱走('63)168分 米
アッという間の2時間48分!第二次世界大戦中、絶対に脱走不可能と言われていた独軍捕虜収容所から、実際に連合軍兵士が一晩で76名も脱走したという話に基づいた作品。脱走を繰り返しては、捕われて独房にぶち込まれるスティーブ・マックィーンがクールでカッコ良い!

 

87.ロッキー('76)119分 米
試合後にインタビュアーの取材を無視して、ボコボコになった顔でひたすら恋人エイドリアンの名を連呼し続けるロッキー。あれで泣かない奴は漢じゃねぇ!スタローンといえば脳まで筋肉で出来ている大根役者というイメージが定着しているが、この作品の脚本は彼が一人で書いたもの。もう少し評価してあげるべきかも。
※アカデミー賞(1977)作品賞、監督賞、編集賞

 
88.バック・トゥ・ザ・フューチャー('85)116分 米

映画の冒頭はコチコチと時を刻む秒針の音で幕開け、そこから主役が登場するまで、延々と約40個もの時計の大洪水が映し出されていく。この中には男が時計にぶら下がっているものがあり、クライマックスの時計台のアクションを暗示した小ネタになっている。主人公はロックが大好きな高校生マーティ(マイケル・J・フォックス)。彼は親友の天才科学者ドクが発明した車型タイムマシンの実験中に、アクシデントから30年前の1955年にタイムスリップしてしまう。そこで目撃したのはなんと高校時代の両親!彼はうっかり両親の出会いを邪魔してしまい大変な事に。現在の自分が消えてしまうので、マーティは内気な父親と発展家の母親を何とかくっつけようと四苦八苦する。一方、現代に戻る為に過去のドクを訪ねるが、タイムマシンの作動には落雷に匹敵するエネルギーが必要と分かり落胆する。しかし、町の時計台が落雷で止まったことを思い出したマーティは、その瞬間を利用する計画を立てる。落雷の日まで残された時間は1週間。両親の恋を実らせて、“未来へ帰る”ために、抱腹絶倒の大奮戦が展開する。
前半は30分をかけてたっぷりと伏線を張っているので、過去のシーンでそれらが次々と繋がっていき興味が尽きず、116分間まったく退屈しない。ムダなカットが皆無ですべてのシーンに意味がある。時代のギャップで笑わせる脚本が素晴らしく、マーティの口癖「ヘビー」に対してドクが「重力は関係ない」と突っ込んだり、ダウンジャケットが救命胴着と思われたり、彼が演奏した狂乱エレキギターの音をロックの開祖チャック・ベリーが電話で聴くなど、脚本家が噴き出しながら執筆している姿が目に浮かぶようだ。ちなみにタイムマシーンとして登場した銀色のデロリアンは、米国で実際に販売されていた伝説の車で、正式名称は“DMC-12”。公開の3年前にメーカーが倒産しており、2年間で8583台が製造された。
この作品は公開年の興行収入が全米第1位に輝き、マイケル・J・フォックスは24歳でスターの仲間入りを果たした。しかしパート3の公開翌年に、30歳の若さで筋肉が麻痺する難病・パーキンソン病を発病し、長い闘病生活が始まった。だが彼はマーティ同様、ポジティブに現実と向き合い続け、近年のインタビューでこう語っている。「僕が最も強調したいのは、この状況でも人生を愛していることだ。僕はこの病気を贈り物と思っている。生きることを教えてくれる贈り物なんだ。失ったものを見つめると持っているものに気づく。僕が病を公表し、なおも人前で活動することで、同じ病気の人から社会参加しやすくなったと聞いた…それはこの状況から得た素晴らしい贈り物だ。意図したわけでなく結果的にそうなった。演技でも人生でも何においても、大切なのは誠意をもって身近な正しい事をすることだ。この病気はひどい苦痛だが克服できると信じている。あきらめる、自暴自棄になる、自殺するなんてことは僕はしたくない。行く末を見届けたい。恐怖や世間の目や今後の不安をくぐり抜けたら、きっと素晴らしいことが起こるさ。僕はそれに賭けてみたい」。マイケルの生きる姿勢が反映したような、何度観ても楽しい娯楽映画の王様だ。
※タイムスリップに必要な電力は1.21ジゴワット。この聞き慣れない単位は脚本家のミス。ギガワットの綴りをジゴワットと間違えたまま映画が作られてしまった。1.21ギガワットは121万キロワットで、原子炉1機分の電力とほぼ同じとのこと。落雷一回の電力量は平均900ギガワットもある。
※エメット博士の愛称“ドク”は科学者・研究者を呼ぶ時のドクターの略。
※父親役のクリスピン・グローヴァーは実際にはマイケルの3歳年下だった。
※燃料切れのデロリアンがなぜ時計台まで走れたのかは不明(笑)。
※アカデミー賞(1986)音響効果編集賞

 
89.JFK('91)188分 米
'63年のケネディ暗殺事件の真相に迫ったオリバー・ストーン監督入魂の一作。実際のニュース・フィルムを挟みながらの生々しい再現映像に体が縮み上がった。四方から狙撃されたケネディら一行が、次々と蜂の巣になっていく様は戦慄の一言。様々な事実関係からオズワルドの単独反抗でないことは自明であり、なぜいまだに米政府が真相を隠蔽するのか腹立たしい(資料の公開予定は2029年)。ストーン監督は映画の中で真犯人を特定し、その超大物の実名をあげている。この勇気はハンパじゃない!
※劇中にはキング牧師やケネディの弟ロバートが暗殺されるニュース映像も挿入されている。銃による言論弾圧。アメリカの目指す民主主義とは何なのだ。
※アカデミー賞(1992)撮影賞、編集賞。ノミネート…作品、監督、助演男優賞。作品賞は「羊たちの沈黙」に行ってしまった。おーい。

 

90.ザ・インタープリター('05)118分 米
ショーン・ペン ニコール・キッドマン
ハリウッドきっての演技派俳優の競演…豪華すぎ!

憎しみの連鎖を断ち切るために、どうすれば敵に「復讐したい気持ち」を克服する事が出来るのか。
主人公は国連本部で通訳をしているシルヴィア(ニコール・キッドマン)と、シークレット・サービスの捜査官ケラー(ショーン・ペン)。シルヴィアは「銃よりも即効性はないが対話こそが平和への道」と言葉の力(外交)で世界を平和に出来ると信じる女性であり、一方のケラーは捜査官として人間の暴力性・闇の部分と背中合わせに生きている男で、いわば2人は川の対岸にいる。ある時シルヴィアは偶然に、アフリカ・マトボ(仮想国)の独裁者ズワーニ大統領を国連総会中に暗殺する計画を知り、口封じの為に命を狙われるようになる。彼女の警護を担当したのがケラーだった。
※コミュニケーションの失敗と誤解が紛争を生むことを考えると、シルヴィアが「“通訳”で世界平和に貢献する」と熱く語る姿はとても説得力がある。

シルヴィアとケラーには最愛の人を亡くすという共通点があった。シルヴィアはNY在住の白人だが、実はアフリカ生まれ。そして内戦中に地雷で両親と妹を失っている。ケラーの方は妻が若い男に走り、その男が自動車事故を起こして2人とも死んでしまった。妻の死を受け入れられないケラーに、シルヴィアはアフリカの部族に伝わる慣習の話をする。--大切な人を失った者は「復讐」するのか「許す」のか選ばねばならない。犯罪者は事件の1年目に手を縛られ川に投げ込まれる。もし被害者の家族や恋人が憎む相手を溺死させ復讐すれば、その人は一生喪に服さねばならないし、死ぬまで故人の名を口に出してはいけない(過去に出来ない)。しかし相手の命を救えば(失った命の代わりに別の命を救えば)、悲しみから解放され、死者の冥福を祈って新しい一歩を踏み出すことができ、初めて故人の名を口にすることが許されるという。--これは「復讐」という不毛な憎しみの連鎖を断ち切る方法を説いており、この思想が作品の根本を貫いている。

ポラック監督は過去にアカデミー監督賞を受賞(ノミネートは3回)している社会派映画の巨匠。今回は国連を舞台にした暗殺計画を題材にしているけど、映画から伝わってくるメッセージは米国の進める“対テロ戦争”への疑問の声だ。監督は言う「テーマは言葉VS銃。これは砲弾の代わりに言葉を使う物語なのだ」と。正面から対テロ戦争を批判する映画を作れば全米公開が見送られてしまう。反戦メッセージは多くの人に届かなければ意味がないので娯楽サスペンスという形をとったという。この作品が映画史上初めて国連本部ビルでのロケが許可されたのは、監督がアナン事務総長に直接製作意図を語ったからだ(アナンもグッジョブ!)。
ポラックは独裁者ズワーニの言動からも世界情勢を風刺している。ズワーニはかつて祖国を民主化させた英雄だったが、長く政権に座すことで恐怖の圧制者に変貌し、多くの国民を虐殺している。彼は自分と意見を異にする者を反政府過激派とみなして片っ端から処刑し、反政府運動を全てテロ活動と認定し弾圧した。対外的には虐殺を「対テロ戦争」だと主張、「自由と安全を守る戦い」だと訴えているのだ(国際社会は対テロ戦争という名目に弱い)。このように、極めて今日的なテーマを描いているんだ。

主演のニコール・キッドマンとショーン・ペンは、2人とも近年アカデミー賞を受賞してノリにノッてる旬の俳優だ。膨大な数の出演オファーが殺到しており、台本を読んで納得した仕事しか引き受けない。だからこの2人が出ているというだけで、既に作品の質は保証されている。
僕はニコールと同じ'67年生まれというのもあり勝手に親近感を持っている。彼女が『めぐりあう時間たち』で主演女優賞に輝いた時のスピーチは拍手喝采だった--「対テロ戦争中にアカデミー賞授賞式を開くことへの疑問の声も聞かれますが、アートは大切です(“アート・イズ・インポータント”)。この仕事に信念を持っているし、それに敬意を表したい」。
そしてショーン・ペン。彼は今のハリウッドで一番権力に逆らっている俳優だ。ブッシュ政権を「極悪きわまる腐敗政権」と糾弾し、イラク戦争前には自らバグダッドに入って戦争回避を訴えた(ここまでする俳優を他に知らない)。昨年の主演男優賞受賞(『ミスティック・リバー』)時のスピーチはこうだった「大量破壊兵器が存在しなかった様に演技にも優劣は存在しません」。ポラック、ニコール、ショーン。最強の布陣で作られた映画が本作だ。

※この映画は名前を覚える登場人物が非常に多いので、かなりの集中力を要する。ボーッとしてたらアッという間に物語を追えなくなる。黒人俳優の顔が似ているので気合を入れて見るように!
※ズワー二が理想を追っていた頃の著書の一文 「圧制者の銃声が鳴り響く中でも聞こえる音がある。人間の囁き声はどんな音とも違う。それは他の音に打ち勝つ力を持っていた。叫び声ではなく、たとえかすかな声でも、真実を語る時は銃声に勝るのだ」がグッときた。昔は良い奴だったのに…。
※キス・シーンのないハリウッド映画を見たのはこれが初めてかも。
※国連の近くに桜並木?が映ってて、満開で美しかった。
※ニコール・キッドマンは年を経てますます美しくなってきた。離婚して若い娘に走ったトム・クルーズは大馬鹿者。
※こういう映画が作られるから、僕は米英の良心を信じてしまう。ブッシュやブレアが米英そのものではないって。
【ネタバレ文字反転】
少年兵の描写やバスの爆弾テロのリアルさに、映画と分かっていても震え上がった。でも、あれは実際に何度も起こってることなんだよね…。
シルヴィアの兄が「死者の名を言ってくれない」と嘆いていた冒頭と、ショーン・ペンが絞り出すように妻の名を口にするラストシーンが繋がったのは実に見事。カメラがそのままショーン・ペンから“川”にスライドしていくカットは映画史上に残る名シーンっす!
そして最後にカメラは、かつてWTCが建っていた方向を映して終わっている。監督から米国民へ強烈な問いかけだ。

 
91.黄金狂時代('25)72分 米
チャップリン初の長編映画。監督、脚本、製作、主演、音楽まで全部チャップリン。名場面はたくさんあるが、雪山で遭難したチャーリーが、エレガントに革靴を食べるシーンは特に有名。また、山小屋が崖から落下しかけるエピソードも楽しい。映画の後半、好きな女性とデートの約束をしたチャーリーが、喜びのあまり部屋で飛び跳ね、大はしゃぎして羽毛枕を引きちぎる場面は、こっちまでニコニコと幸せになってしまう!(僕がこれまでに見た“喜び”の表現の中で、最もはっちゃけてる!)

 
92.木靴の樹('78)187分 伊・仏
19世紀末の北イタリアの寒村で、貧しいながらも自然への感謝を忘れずに生きている農民一家の生活を、四季の移り変わりに合わせて丁寧に描いた名作。まるでミレーの絵画がそのまま動いてるようだ。出演者は全員が素人の農民で、プロの俳優は出ていない。また人工の照明を全く使用せず、すべて自然光で撮影されている。BGMはバッハの静かなパイプオルガン。神様目線で作られた、全身が郷愁に包まれる3時間7分の大作だ。カンヌ映画祭では審査員全員一致(史上初)で最高賞に輝くという快挙を成し遂げた!
※若夫婦のささやかな新婚旅行のエピソードが特に素晴らしい。
※カンヌ国際映画祭(1978)パルム・ドール/NY批評家協会賞(1979)外国映画賞

 
93.フォレスト・ガンプ('94)142分 米
アメリカ人がイメージするチョコレートの箱は、中にハート型や星型などいろんな形のチョコが入っていたり、食べるまで中がナッツかクリームか分からなかったり、とてもワクワクするものらしい。『フォレスト・ガンプ』では母が子に人生をこう例える--「人生はチョコレートの箱。開けるまで中身は分からない」。何でも実際に体験しないと幸か不幸か分からないし、行動せずに悩むのではなく、勇気を出してぶつかりなさいというエールだ。辛いことや悲しいこともある人生を、あえて甘い“チョコレート”という表現で語るところに母の優しさが溢れている。
本作品は主人公フォレスト・ガンプ(トム・ハンクス)の辿った数奇な人生をアメリカ現代史に合わせて描くと共に、無垢なフォレストと出会ったことで魂が救済されていく周囲の人間を描いたものだ。

(注)ガンプの人生全体を見渡さねばレビュー困難なので、完全ネタバレでいきます!

映画の冒頭は、これから語られる人生の不思議さを象徴するかのように、白い羽根が空に舞っている。アラバマ州グリーンボウに生まれた少年フォレストは、母(サリー・フィールド)の手ひとつで育てられてきた。“フォレスト”の名はKKKの創始者ネーサン・フォレストからきている。これは“人間は時に愚かなことをする”ことをいつも忘れないようように母が名付けたもの。“ガンプ”とはアラバマの方言で「間抜け」を表し、原題は“間抜けのフォレスト”の意味になる。フォレストは足に矯正機をはめており動作が遅く、IQも一般の子供より低かったが、純真で優しい心の持ち主だった。母は「バカをする者がバカだ」と彼が自信を失わないように普通の子として育てた。フォレストの初恋の女性は、小学校へ入学する時にスクール・バスで席を空けてくれた少女ジェニー。彼女は父親から虐待されており、神様に「私を鳥に変えて」と自由を求めて祈りを捧げ、フォレストも一緒に願ってあげた。ある日、同級生にいじめられていたフォレストにジェニーが「走って!」(逃げて!)と声をかけると、言われた通りに駆け出したフォレストの矯正機がバラバラになる。いじめっ子たちは自転車に乗っても追いつけなかった。フォレストはとてつもなく足が速かったのだ。この才能を買われて大学にアメフト選手としてスカウトされると、彼は全米代表選手に選ばれるほど大活躍をし、ケネディ大統領から祝福された。

フォレストが卒業する頃、米国はベトナム戦争を始めていた。ベトナムに出征したフォレストは、黒人兵のバッバと無二の親友となる。バッバはエビの話ばかり。「エビは海の果物だ。焼いても茹でても煮ても炒めてもいい。エビの串焼き、エビのトマト煮、エビの煮込み、エビの唐揚げ、エビフライ、エビソテー、パイナップルとエビ、レモンとエビ、ココナッツとエビ、唐辛子とエビ、エビ・スープにエビ・シチューに、エビ・サラダ。エビとポテト、エビ・バーガー、エビのサンドウィッチ…だいたいこんなもんかな」。バッバの提案で、戦争が終わったら2人でエビ採り船を買い、“エビ長者になろう”と約束をする。だが、部隊は敵の猛攻撃を受けて壊滅する。足の速いフォレストは負傷兵の救出に奔走したが、重傷のバッバは腕の中で死んでいった。最後の言葉は「家に帰りたい」。フォレストは初めて命の喪失感を味わう。「バッバは僕の一番の友達だった。こんな親友はどこにでもいるわけじゃない。バッバはエビ採り船の船長になる代わりにベトナムで死んでしまった」。

フォレストが助けた兵士の中には、小隊長のダン中尉もいた。救出時にダン中尉が「俺はここで散る」と死にたがっていたのを、フォレストが無理やり助け出した。フォレストも尻を撃たれたが、両脚を失ったダン中尉は病院で激しくフォレストをなじる。「人間には持って生まれた運命ってものがある。最初から決められてるんだ。部下と死ぬ運命だったのに、このザマを見ろ!両脚がないんだぞ。俺は戦場で名誉の戦死を遂げるはずだった。そういう運命を貴様がぶち壊したんだ!こんな事になるはずじゃなかった。これは俺の運命じゃない」「…今でもダン中尉です」。その後、病院で卓球の才能が開花したフォレストは、卓球全米チームに加わり中国に遠征するなど、時の人に。TVでジョン・レノンと共演するなど、有名になったフォレストは「バッバとの約束だ」とCM出演料でエビ採り船“ジェニー号”を買う。すさみきった生活を送っていたダン中尉はフォレストに誘われて船に乗り込み、2人でエビ漁に挑戦するが簡単にはいかない。しまいには暴風雨に遭遇するが、帆柱の上でダン中尉は神に噛みついた。「こんなものが嵐か!笑わせるな!もっと風を吹かせてみろ!決着をつけようじゃないか!アンタと俺の!俺は逃げも隠れもせんぞ!俺を打ちのめせ!貴様の力でこの船を沈めてみろ!」。嵐の翌朝、他の漁船が大破する中、ジェニー号は港に生還した。それからは大漁続き。フォレストが設立した「バッバ・ガンプ・シュリンプ」は大企業に成長していく。穏やかな夕暮れの海を航海しながら、ダン中尉は初めて感謝の言葉を口にする「フォレスト、命を救ってくれた礼を言うよ」。車椅子から海に飛び込み、気持ちよさそうに泳ぐダン中尉を見て、フォレストは思う--「ダン中尉は神様と仲直りしたんだ」。大金持ちになったフォレストは、「利益は仲良く分ける約束だった」とバッバの母親に稼ぎの半分を渡し、残ったお金は必要な分だけ引いて地元の病院や教会に寄付した。

一方、成長したジェニー(ロビン・ライト)は自分の居場所を求めてヒッピーの集団と行動を共にし、何度かフォレストと再会したが、彼の愛を知りつつも新しい土地へ旅立っていった。だが、孤独感から薬物に溺れ、退廃した日々の中で飛び降り自殺を考えるまで心が病んでいく。やがてフォレストの母が死に、故郷で暮らし始めた彼の元へジェニーが現れる。初めて結ばれる2人だったが、純粋すぎるフォレストに自分は相応しくないと感じたのか、翌朝彼女は何も告げずに去っていった。ジェニーを失った痛みに押し潰されそうになったフォレストは、以前に母が言っていた「過去を捨ててから前へ進みなさい」という言葉を実践するように走り出した。3年2ヶ月14日と16時間走り続け、4回も大陸を横断した。その様子はマスコミに大きく報道される。走り終えたフォレストを待っていたのはジェニーからの手紙。病に冒された彼女は死期が迫っており、彼女の息子(ハーレイ・ジョエル・オズメント)に引き合わせようとした。父親がフォレストだったからだ。驚愕しつつも、すぐに打ち解け合う父子。ジェニーはフォレストと離れている間も、彼に関する記事は全部大切に切り抜いていた。2人は結婚し、彼女は病床からフォレストが人生で何を見てきたのかを聞く。「ジャングルで見た満天の星空、入り江に沈む夕陽、湖に映り込んだ雪山、天国とこの世の境目が分からなくなる砂漠の夜明け…」「あたしも一緒に見たかったわ」「君もいたよ」。“いつも一緒だった”と語るフォレストに、胸がいっぱいになるジェニー。彼女は間もなく息を引き取り、墓前でフォレストは語りかける。「僕らには皆運命があるのか、それともただ風に乗ってさまよってるのか。たぶんその両方だろう。両方が同時に起こってる」。運命に導かれていようと、羽根のように舞っていようと、“チョコレートの箱”を開けて全てを受け入れていく--そう話しかけて墓参を終えると、少女の頃の祈りが天に通じたかのように、彼女の墓前から鳥の群れが大空へ飛び立った。ジェニーの魂は解放された。やがて息子が小学校に入る年になり、ジェニーと初めて出会った時のスクール・バス(運転手も同じ!)に子供が乗るのをフォレストは見送った。命は繋がれ人生は続く。再び白い羽根が舞い上がり、風に吹かれる人生も良いじゃないかと、映画は静かに幕を閉じる。


この作品では様々なキャラが心の旅をするが、最も精神的な変化を遂げたのはダン中尉だ。走ることで人生を切り開いてきたフォレストに対し、脚を奪われ走ることができないダン中尉。ベトナムで自分の運命に固執して死にたがっていたダン中尉は、脚を失い「こんなはずじゃなかった!」と呪いの言葉を吐きながら生きていたが、エビ採り漁の中で人生にはいくらでも選択肢があることを知り、フォレストに助けてもらった礼を言う。この場面でダン中尉は運命の象徴である海に飛び込んで波間に身を任せた。風に舞うあの白い羽根のように。そして最後は義足を付けて自らの足で歩み始め、ベトナムでのトラウマを克服しアジア人の女性と婚約する。

映画的にはジェニーが死んでしまうし、安易なハッピーエンドじゃない。それでも世界的に大ヒットし、アカデミー作品賞、監督賞、主演男優賞など6部門を制覇し、国を超えて人々に支持されたのは、真面目に生きていれば人生は切り開かれる
という希望だろう。死んだ友達との約束をきっちり守る、そんな正直者が馬鹿を見ることがない世界。フォレストの周囲の人物は、友達思いの彼の純粋さや善良さに癒される。でもそれは一方通行じゃない。彼自身も、ジェニーからは走ることを、バッバからはエビ採りを学び、彼の人生に転機を与える最も重要なことを学んだおかげで生きていけた。バッバのように夢があるのに突然死ぬかも知れないし、ダン中尉のように一度は絶望の淵に立たされても、また光が戻ってくるかもしれない。何も思い通りにいかないと思っていたら、時にはうまくいく人生。僕らに出来ることは一瞬一瞬を大切に生きることだ。何に対しても誠意を失わず真面目にきっりちと。

最後に素晴らしいデジタル合成技術と音楽にも触れておきたい。宇宙戦争や未来都市を描くことだけが合成技術じゃない。ケネディと握手したり、ジョン・レノンに「イマジン」作曲のきっかけを与えたり、歴史上の偉人との時を超えた共演は圧巻だった。94年当時は“こんなことが可能なのか”と仰天した。そしてドアーズやプレスリーなど、フォレストが生きた時代のヒット曲をBGMとして効果的に使うことで、いろんな世代に時代の空気を伝えることに成功していた。黒人差別がまだ激しかった時代に、フォレストが黒人女性の落とした物を拾ってあげたり、彼の電話でウォーターゲート事件が発覚したり、ホワイトハウスで手を洗うと側にモンローの写真があったり、歴史的な事件が起きるときにいつもフォレストが居合わせるのも面白かった。個人の人生と、アメリカという国そのものの青春を描きあげたロバート・ゼメキス監督の手腕に脱帽。

※原作はウィンストン・グルームの小説『Gump and Co.』(1985)。フォレストがチェスのチャンピオンやプロレスラー、果ては宇宙飛行士まで体験しながら湾岸戦争集結まで書かれているという。なんという壮大さ。
※フォレストの母が死ぬ前に言った「死を怖がらないで。生の一部なんだから。誰も逃げられない運命なの」も名言っすね。
※トム・ハンクスは16才から36才まで演じたが、服装はブルーのシャツでほとんど変わっていない。第1ボタンを外したり、目で成長を表した。
※若きプレスリーの声は俳優のカート・ラッセルが演じたもの。
※ベトナム戦争のシーンはサウスカロライナのゴルフコースで撮影され、フォレストの家もすぐ近くにセットが組まれていた。
※ダン中尉の足について。ゲイリー・シニーズは撮影時に合成用の青い布を巻き、編集時に消したという。
※フォレストが被っていたババ=ガンプ社の帽子は、映画グッズとしてバカ売れし、急遽再生産された。
※フォレストが走って大陸を横断する場面は、トム・ハンクスの弟が何度も代役を務めていたとのこと。
※母役のサリー・フィールドはハンクスと10歳しか離れていない(笑)。
※映画に出てくるフォレストの会社をモチーフにしたレストラン「ババ・ガンプ・シュリンプ・カンパニー」が96年に米国で設立され、日本にも東京や大阪(USJの側)に3店舗ある。
※アカデミー賞(1995)作品賞、主演男優賞、監督賞、脚色賞、特殊視覚効果賞、編集賞

 
94.西部戦線異状なし('30)100分 
1929年にドイツの作家レマルクが発表した同名小説を、翌年映画化した反戦映画の原点。第1次世界大戦に出征したドイツ兵の若者ポールが主人公だ。愛国心を生徒に説き、戦場へ駆り立てる老教師の言葉に乗せられた彼は最前線へ向かう。補給が途絶え飢餓状態の中、戦友が砲撃の恐怖から発狂する姿や、多くの無残な死に直面し、身も心もズタズタになっていく。彼ら最前線の兵士たちは語り合う「一体、なぜ戦争が起きたんだ?」「国が国を侮辱して…」「ドイツの山がフランスの山を侮辱したのか?」「山じゃなくて人間だよ」「俺は侮辱された覚えはないぜ」「誰かが戦争をしたがったんだ」「誰かが得をしている」「皇帝以上の得はないぜ。戦争をすれば歴史に名が残るじゃないか」「将軍たちも」「武器商人には金がたんまり」「…そうだ、こうすりゃいい。まず野原をロープで囲み、囲いの中へ各国の王様や大臣たちを集め、裸にしてケンカをさせる。それで勝敗を決めるんだ!」「イエー」。
故郷に帰還した彼は、母校で相変わらず生徒を煽っている教師に対し怒りを爆発させた。この映画は10年後に勃発する第二次世界大戦を止める事は出来なかった。しかし、個人的には憎くもない相手を、生まれた国が違うという理由で殺すことの狂気(ポールは自分が刺し殺した敵兵が持っていた妻子の写真を見て絶句し、嗚咽する)を描いた意味は非常に大きい。行軍する若い兵士たちと、視界の彼方まで続く無数の十字架が重なっていくラストカットが、胸を締め付けた。
題名の意味はラストシーンで明かされる。ポールに待ち受けている運命については映画を見てほしい。
※レマルクの国ドイツでは、上映をめぐって左派と右派が衝突し上映禁止になった。
※アカデミー賞(1931)作品賞、監督賞

 
95.勝手にしやがれ('59)95分 仏
ブレまくりの手持ちカメラ、荒っぽくブツ切に編集されたフィルム、街角での突撃ロケなど、従来の映画技法の常識をブチ壊した、ヌーベル・バーグの旗手ゴダールの代表作!警官殺し&自動車泥棒の主人公ミシェルが破滅していくさまを、スタイリッシュに描く。ミシェル役のJ・P・ベルモンドは、最初から最後まで煙草を吸いっ放し(たぶん歴代最高の本数)。トリュフォーが書いた脚本は文学作品からの引用もあり、名セリフのオンパレード。ミシェルを何度も平手打ちするヒロインのジーン・ゼバーグが存在感大。警官に追跡されるラストの数分間は伝説化している。
「現代でも愛を信じられますか?」「愛しか信じられぬのが現代だろう」
※ベルリン国際映画祭(1960)監督賞

 
96.エボリ('79)151分 伊・仏
原題“キリストはエボリで止まった”。ムッソリーニのファシズム政権に反抗した主人公(反体制作家)が、思想犯としてイタリア辺境の村に幽閉され、その地で素朴に生きる人々と交流する物語。どんな状況下でも信念を貫く主人公と、ヨソ者の彼に深く信頼を寄せていく村民たちがめちゃくちゃいい。心に染みる叙情的な音楽とイタリア山岳地帯の原風景が、いつまでも記憶に残る(雨の中の別れは感動的)。僕はもう何度この映画を観たか分からない!
※主人公の相棒となるムク犬もかわいい。
※ロケ地は南イタリアのメルフィ村。サレルノからエボリ経由でポテンツァに行き、そこからフォッジアに向かうローカル線に乗る。
※モスクワ映画祭金賞。

  NO VIDEO!!NO DVD!!(涙)
97.ナイトメアー・ビフォア・クリスマス('93)76分 米
世にクリスマス・ムービーは数あれど、最大の人気を集めているのは奇才ティム・バートンが原案・製作・キャラクター設定を担当した本作。クレイアニメ(粘土人形アニメ)による傑作ファンタジー・ミュージカルだ。人形を少しずつ動かして生命を吹き込むため、24種のポーズを撮影して“1秒分”、3年がかりで1コマ1コマ撮影されたという、途方もない労力が注がれた作品だ。この映画は、独創的な人形の造型や親しみやすいメロディーの楽曲の数々、細部まで作り込まれた小物、凝りに凝った背景、ポジティブ思考の主人公の魅力などにより、公開から約20年経った今もファンが増え続けている。

【ストーリー全紹介】
物語の舞台は、狼男、半魚人、ミイラ、魔女、コウモリ男、ゾンビ、吸血鬼ブラザーズらが仲良く暮らす『ハロウィン・タウン』。住民は人を驚かせたり怖いことが大好き。主人公ジャックは“カボチャの王”の異名を持つ骸骨男で、外見は恐ろしいが優しいハートを持ち、物腰は紳士的。そしてあの手この手で人を驚かせる天才だ。この年のハロウィン祭もジャックの演出のお陰で大いに盛り上がり住民は大喜び。ところが、ジャックの気分は沈んでいた。
「祭は去年と同じだ。前の年とも。前の前の年とも…。僕の才能を疑う者はいない。腕をひと振りしただけでどんな強者も震え上がる。でも毎年が同じ事の繰り返し。悲鳴を聞くのはもう飽きた。いつまで同じ事を繰り返すのか。見知らぬものに出会いたい。世界は広い、何かがあるはず」「誰1人分かってくれない。ガイコツ笑いのその陰で思う…地位や名誉が何だろう。この骨の体に募る虚しさ。人は僕を褒め称える。けれど心の悲しみは癒やされない」
月夜の墓地で虚しさを歌い上げるジャック。彼は人生を物足りなく感じ、新しい生き甲斐を探していた。翌朝、ジャックは“祝日の森”に迷い込んだ。そこには、ハロウィン、クリスマス、イースター(復活祭)、バレンタイン、セント・パトリック・デー、感謝祭に繋がる扉があった。彼がきらびやかなツリーの絵に惹かれて扉を開けると、そこには美しい雪景色のなか、人々が幸福に笑い暮らす『クリスマス・タウン』があった。無数の電飾で明るい色彩に包まれた町に仰天し、心奪われるジャック。脅かす以外の人生を知って、彼にある計画がひらめいた。“今年のクリスマスはハロウィン・タウン主催でやろう”。クリスマス・タウンからサンディ・クローズ(“鋭い爪を持つ男”の意。サンタクロースと間違えている)を誘拐し「今年は休暇を取って我らにお任せあれ」と大はりきりのジャック。サンタに代わって偉大なことをするんだと大興奮。しかしハロウィン・タウンの住民は、ジャックを含めてクリスマスが何かを正確に理解しておらず、喜ばせる=怖がらせると解釈し、おぞましく不気味なオモチャを一丸となって作り始めた。
かくしてクリスマス当日となり、ジャックは“骸骨トナカイ”に棺桶型のソリをひかせて大空へ飛び立つ。霧の中、ジャックの愛犬で幽霊犬ゼロが鼻先のジャックランタンを光らせ先導する「ゼロよ、まばゆい鼻で行き先を照らしておくれ」。住民たちは盛大に祝福し、彼を見送った。一方、ジャックを密かに恋しているツギハギ人形のサリーは、胸騒ぎを覚えて彼を心配する--
「彼のそばで役に立ちたかった。恐ろしいことが起こりそう。彼をどんなに大切に思っているか、いつか気づいてくれるかしら。きっとかなわぬ恋でしょう。私も町のみんなの中に入りたい、あの喜びに沸く人々の輪に。でもどうしても入れない。いつの日か彼と私、結ばれる日は来るの?いいえ、無理ね。かなわぬ私の片想い…彼が選ぶのは私じゃないの」
人間界ではジャック扮する偽サンタの“訪問”を受けた家々が阿鼻叫喚に包まれる。ジャックが配ったプレゼントは動物の死体や巨大ヘビ、ゾンビ鳥、おばけリースなど身の毛もよだつモノばかり。「諸君、礼には及ばないよ」とすっかり悦に入っているジャック。警察署の電話は鳴り続け、ついに軍隊が出動する。サーチライトに照らされたジャックのソリに向けて砲撃が始まると、彼は歓迎の花火があがったと勘違い。自分は良いことをしていると信じ切っているのだ。やがて骸骨トナカイに砲弾が命中し、ソリも粉々になり、ジャックは地上の墓地へ落下する。意識が戻った彼は、自分の行為を猛省した。
「僕は何てことをしたんだ。取り返しのつかないことを…僕は何て愚かだったのか。すべてを失ってしまった。僕は何を考えてた?何もかもぶち壊した。あらゆることが間違っていた。ほら穴深く身を隠したい。百万年後に人は見つけるんだ、塵と化した僕と一枚の金属の板を。刻まれた言葉は“哀れなジャック、ここに眠る”」
絶望するジャック。だが彼は切り替えが速い!自分で自分に演説をぶち、みるみる立ち直っていく。
「決して悪気があった訳じゃない。誰も分かってくれないけれど、本当なんだ。僕はみんなを喜ばせようとし、それが失敗しただけだ。まあ、いいじゃないか!僕は精一杯頑張った!素晴らしい体験をした!少しだけど(トナカイで)空も飛べた!語り継がれるような物語も残した。そしていつからか見失っていた自分を取り戻せたじゃないか。僕はジャック、カボチャの王様だ!ハッハハハ!次のハロウィンが待ちきれない。悲鳴を起こす新しいアイデアも浮かんだ。とことん皆を脅かしてやるぞ!」
失敗した時は、元に戻せば良いんだ。ハロウィン・タウンに戻ったジャックは、無法者ウギー・ブギーに殺されかけたサンタを救出して一連の騒動を謝罪。サンタはジャックを許し猛スピードでプレゼントを配り直した。クリスマス前の悪夢(ナイトメアー・ビフォア・クリスマス)は終わった。そして、サンタよりハロウィン・タウンの住民に空から“雪”が贈られた。初めて降り積もる雪にみんな大興奮。さぁ、来年のハロウィン祭の用意に取りかからねば。もう10ヶ月しかない。ジャックはサリーがずっと深い愛情で見守ってくれていたことに気づき、自分自身も彼女を特別に想っていることを知った。月夜の墓地に一人で座っているサリーに、本当の愛に目覚めたジャックが気持ちを歌う。
「僕の愛しい人、もしよかったら君のそばに行ってもいいかい?一緒に夜空の星を眺めよう」。これに応えたサリーとジャックの歌声が重なる「2人肩を寄せて永遠に離れない。ずっと永遠に。2人の間には愛がいつの間にか芽生えていた…」。

制作スタッフの熱い意気込みを感じる至福の76分。ファンタジーやホラーの要素が絶妙にブレンドされ、最後に愛のデュエットで締めくくられたことで、恋愛映画としても後味が良い。「地位や名誉なんかより、見知らぬものに逢いたい」という想いも、多くの人の共感を得る部分だろう。骸骨やツギハギのグロテスクなキャラが、次第に可愛らしく、かつ、優美に見えていく不思議!その生き生きした動きは、粘土であることを開始早々から忘れさせた。劇中に登場するのは約60キャラ、のべ200体。ジャックの頭部だけで400種類も作成された。小さなネズミまでサンタの赤い帽子を被ってるなど、観るだびに新しい小道具を発見できる。

ミュージカルとしてみても超一流。劇中で歌われるナンバーは、アンドリュー・ロイド・ウェバーのミュージカル並みに心を掴んで放さない。作詞・作曲はバートンの盟友ダニー・エルフマン。彼はジャックの歌声も担当している。いわく「ジャックの歌に愛着が湧き、他の人に歌わせるのが惜しくなった。どん底のジャックに自分を重ね合わせていた」。ダニーは本作のコンセプトをバートンから聞かされると即座にメロディーが頭に浮かんだという「簡単な歌でも作るのは大変なのに、生みの苦しみがないなんて自分でも信じられない」。それくらい素敵なナイトメアーにノリノリだった。(ジャックの日本語吹替えは元劇団四季の市村正親。英語版に負けない歌唱力でこちらもお薦め!)

様々な魅力に富んだ本作だけど、僕が感銘を受けたのはジャックの立ち直りの速さだ。ティム・バートンいわく「ジャックは自分を納得させてやる気を出させるのが上手い。自己動機づけの天才で、しかもそれを歌いながらやってのける」。約20年前に初めて観た時、正直言ってこの復活の速さに反発を感じた。歌一曲で立ち直ることに違和感があった。でも、40代になった今、人生をしのいでいくには「やるべきことはやったから前に進もう」という軽快なバイタリティーが重要なのだと思うようになった。壁にいちいち全力でぶつかっていたら心身が持たない。バートンはジャックの自己問答を“お得意の激励演説”と讃え、ジャックが「語り継がれる物語も残した」「見失ってた自分を取り戻した」と肯定面を見つめ、“死後100万年云々”とドン底から始まった歌が、いつの間にかスッキリしてやる気満々の内容となり、歌い終わるや即行動するフットワークの軽さを愛している。
昨今の映画に多い悩みすぎて自滅していくキャラと正反対の主人公に明るい力を感じた。クリスマスを必死になって科学分析しようと没頭するあたり、何とも微笑ましい。そしてサリー。彼女はただのボロ人形ではなく深い魂を持っている。悲しみを誰かに分かって欲しいと思っている。感情移入せざるを得ない。

「クリスマスとハロウィン、2つのお気に入りの祝日をくっつければパワーも楽しさも倍増すると考えたのが作品誕生のきっかけ」(バートン)。氏は子ども時代からクリスマス・ツリーにハロウィンの飾り付けをして遊んだという。かつてバートンはディズニーの社員で、ナイトメアー・ビフォア・クリスマスの企画を持ちかけた。だが、ダークな世界観や、米国では人形アニメ(ストップモーション・アニメ)が不人気ゆえ却下された。そればかりか、バートンはディズニー・キャラ特有の瞳が描けなくてディズニーを追い出されている。その後、別会社で『バットマン』『シザーハンズ』などをヒットさせて実績を作り、20年かけてようやく映画化が実現した。ディズニーとしては異色作だが、本作は興行的にも当たり、いわば古巣に戻って凱旋をあげた形。「CGでは暖かみと立体感が出ない」と人形アニメにこだわったバートン。CG全盛期の現代でも本作のキャラクターの質感は再現できていない。まさにストップアニメーションの頂点を極めた一作。
「この映画ほど客入りを熱望した作品はない。映画は最初の1ヶ月で客入りが悪ければ失敗作。本作は7年かけて人気が出た。そんな奇跡が起きたのは僕の作品でこれだけだ」(バートン)

※羽のある黒いおばけ人形の元ネタはミッキーマウス。それを示唆するように、襲われる子ども達をよく見るとミッキーやドナルド柄のパジャマを着ている。
※子鬼3人組が最初にサンタと間違えて誘拐してきたウサギはイースター・ウサギ。欧米ではイースター・エッグをもたらす動物として伝承されている。
※祝日の森にあったクローバーの扉は“聖パトリックの日”。三つ葉がキリスト教の三位一体を表している。
※ジャックの動作には、ナナフシ、蜘蛛、フレッド・アステアの動きが融合されている。
※町長に2つの顔があるのは政治家への風刺。
※バートン監督お気に入りの住人はチビッコ・ゾンビのコープスチャイルド。この子は町で一番優しい良い子なんだって。
※サリーの身体は何度もバラけるが、血が出るとリアルなので“落ち葉”を詰めることにした。
※制作中、ディズニー側から子どもが怖がらないようジャックに目玉を入れるよう要請されたが、バートンは「子どもはちゃんと魅力を理解できる」と目玉ナシを貫いた。
※東京ディズニーランドのアトラクション「ホーンテッドマンション」は、ハロウィンから年明けまで期間限定で“ナイトメアー”バージョンになる。
※個人的に一番好きなキャラは、陰気な音色のバンドマン!(笑)


 
98.JSA('00)110分 韓国
朝鮮半島を2つに分断している38度線。その共同警備区域(JSA)で起きたひとつの射殺事件をめぐる物語。真相を解明していくうちに、韓国兵と北朝鮮兵の間で、「国家」のしがらみを超え尊い友情が育まれていたことが明らかになってくる--。両国はまだ終戦条約を結んでおらず、あくまでも“停戦中”。それにもかかわらず、敵国である北朝鮮兵士の「良心」を描いたことは画期的だ。
映画には社会的テーマを取り上げることで、問題の存在を人々に知らしめる力がある。正直言って、この映画を観た日本人の大半は、まさかここまで民族分断の悲劇が深刻なものとは想像していなかったと思う。映画を観た後、あの1枚の写真が何度も思い出されて胸が詰まった。激涙。

 
99.運動靴と赤い金魚('97)88分 イラン
2011年2月、アカデミー賞授賞式で外国語映画賞が発表された瞬間、アラブ世界が湧いたのではないか。受賞作に輝いた『別離』は、同賞初となるイラン映画!近年、米国とイランは外交で火花を散らしており、仮想敵国扱いのイランの作品が受賞したことは意味深い。壇上でオスカー像を手にしたアスガー・ファルハディ監督はこうスピーチした。「世界中のイラン人が喜んでいることでしょう。受賞だけが理由ではありません。政治家たちの間で戦争の可能性が語られ、攻撃的発言を交わしている中、本作ではイランの素晴らしい文化が描かれたからです。政治の影で身を潜めている、豊かな歴史ある文化です。あらゆる文化・文明を尊重し、対立や怒りを嫌う人々にこの賞を捧げます」。イラン映画と聞いて真っ先に思い起こされるのが、幼い兄妹の悲喜を描いて1997年のモントリオール世界映画祭でグランプリを受賞した『運動靴と赤い金魚』。

映画の冒頭、主人公のアリ(9歳)は靴屋で修理してもらったばかりの妹ザーラ(7歳)の靴を帰り道で紛失してしまう。八百屋の軒先に置いて買い物していたところ、廃品回収業者が誤って持って行ってしまったのだ。涙に暮れるアリ少年。家が貧しくて新たに靴を買う余裕がないこと、また厳格な父親が怖くて紛失を知られたくないことから、アリは妹に頼み込んで秘密にしてもらう。翌日からは、一足しかないアリの運動靴を2人で履くことになった。
イランの小学校は女子が午前、男子が午後に別れているため、ザーラは授業が終わると一番に学校を飛びだして兄との合流地点へ猛ダッシュする。スリッパで待っている兄は大急ぎで履き替えて学校に向かって全力疾走!しかし結果的に遅刻を繰り返し教頭から問題児扱いされてしまう。妹の方も靴がブカブカであるため排水溝に片足が落ちたり、早く帰る為にテストの答案も急いで書かねばならず、大変な日々。何より他の女生徒が可愛い靴で登校しているのに、破れかけの汚れた運動靴だと恥ずかし過ぎる。妹が「もう我慢できない」と親に告げようとする度に、兄は新しい鉛筆や、先生から好成績の褒美で貰った金色のボールペンを妹にプレゼントして必死になだめる。

【ネタバレ文字反転】
ある日、ザーラは学校で自分の靴を履いた子を見つけた(廃品業者から渡った)。下校時に尾行して家を突き止め、兄を呼んで靴を返して貰おうとするものの、その子の父親は盲目で家も貧しいことを知り、何も言い出せずに引き返す。そんな折、学校対抗マラソンの3等景品が運動靴と発表され、アリは妹のために出場を決意。遅刻しないように毎日走り込んでいるお陰で足が速くなっており、代表選考のタイムトライアルに見事に合格する。大会当日、死力を尽くして「3等」になるべく奮闘するアリ。ゴールまで4キロ。先頭集団は混戦模様となり、3等を目指して駆け引きするが、転倒して遅れを取り戻す為に執念のスパートを敢行した結果1等になってしまう。先生や教頭は大喜び。でも、“不幸にも”優勝してしまったアリは記念撮影でもガックリとうなだれ半ベソ。肩を落として家に帰ると、妹はその様子を見て“やっぱりね”と責めることなく、ぎっくり腰の母を助けて用事を手伝う。アリが一人で血豆のできた足を池に浸すと、金魚が集まり、慰めるかのように足にまとわりついた。その日、父は新しく初めた仕事がやっと軌道に乗り、兄妹それぞれに新しい靴を買って、今まさに帰宅しようとしていた--。映画は幸福な未来を予感させつつ幕を閉じる。

たった靴1足でこれほど心温まる作品が出来るとは!人間は誰かの為に頑張る時には普段よりも力が発揮されることを教えてくれる88分間の至福。1等なのに残念というユーモアも秀逸だし、最後に救いも用意されている。ハリウッドのように大金をかけなくても、日々の小さな出来事の中にハートを掴む物語がいくらでもあることに気づかせてくれた。妹の為に必死で走るけな気さに、思わずスクリーンに向かってエールを送ってしまう。アリが妹のことを考えながら走ったように、ラストもハッピーエンドをあえて見せないことで、最も素晴らしいシーンを観客の頭の中に描かせるという余韻のある演出。それにしても、3等になることがこんなに難しいとは!むしろ1位の方が全力を出し切ればいいだけなのでカンタンに思える。カメラがアリの視界になった時に誰もいなかった為「ヤバイ!トップだ!」と叫びそうになった。アクション映画のド派手な銃撃戦を見るよりも手に汗を握った。優勝したのにショゲ返っている様子が、アリには申し訳ないけれど実に可笑しい。


マジッド・マジディ監督(兼脚本)の、子どもに寄り添う眼差しはどこまでも優しい。妹が汚い運動靴を目立たないようにしていると、体育の時間に運動靴で来たことを褒められ嬉しくなったり、排水溝に靴を落として泣いていたら(この追跡シーンはかなりドキハラ)おじさんが心配して助けてくれるし、アリが教頭に大目玉を食らっていると担任の先生が助け船を出してくれ、マラソンの応募期間が終わっても涙にほだされ受付ける体育教師など、子どもが傷ついてもすぐにフォローが入り、マジディ監督の温かい人柄が伝わってくる。些細なことで一喜一憂する子どもの心理が丁寧に描かれ、新しい靴に大喜びしていた遠い子ども時代の感覚を思い起こさせてくれる。
親父さんも実に良い味を出していて、家の中では頑固で怖いのに、庭師として高級住宅街に行くとドギマギしてシドロモドロになる。逆にアリの方が大人顔負けの対応をして、内弁慶の親父さんは「アリは凄いなぁ」とニッコリ目を細めて感心。親の愛がひしひしと伝わる名シーンだ。モスクでイスラムの聖者の話を聞いて、オイオイと涙ぐむ感受性豊かな親父さん。家の砂糖が底をつき、モスク用の砂糖を大量に預かっても、一部を拝借することは絶対にない。根っから真面目で、時にチャーミングな愛すべき好漢。
A・キアロスタミ監督の『友だちのうちはどこ?』にしてもそうだけど、イランという国は子どもを撮るのが本当に上手い!本作で主要人物を演じたのはみんなシロウトという。それなのに、カメラが回ってるの知ってるの?って思うくらい自然体だった。しっかり者でツンとしている妹が笑うとめちゃくちゃ可愛い。

最後に、この映画の大きな魅力として、日本人には縁遠い中東イランに暮らす庶民の生活が丹念に描かれていることもあげたい。男女が入替制になっている学校、巨大なナンの焼き方&包み方、路地の中央を流れる水、リヤカーを引いている塩交換屋さん、家で勉強する時は机を使わず床で書く、9歳で“もう大人”と説教され家の手伝いをする、挙手の時は人差し指を1本立てる、朝礼で女の子たちは「私たちは国の花です」と唱和、下町と高級住宅街は同じ国と思えないほど生活に格差がある、貧しくても母親は近所の老夫婦にスープを分け与え、老夫婦は御礼に木の実を分けるなど、作品の随所に生活感があり旅行者でもなかなか見ることのできない暮らしの細部が描かれる。流された靴を必死で追いかけるエピソードでは、豊かな物質文明にあって、靴一足がどれほど大切かを再認識させてくれる。
映画は、国籍や文化が異なっても、人間は相違点より共通点の方がはるかに多いことを教えてくれる。911事件以降、何かと誤解されがちなイスラム圏。こういった作品に多くの人が触れることで、異文化に対する無知から生まれる恐怖が取り除かれていく。NHK朝ドラ『おしん』はイランで視聴率80%以上という日本を超えるメガヒットとなった。文化が違っても両国民の感性は似ているのだろう。もっと多くのイラン映画を日本人が気軽に楽しめる環境になりますように。
(この記事を読み終えたら財布持ってレンタル店にダッシュして欲しい!)

※モントリオール国際映画祭グランプリ。アカデミー外国語映画賞ノミネート。

 
100.ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還('04)203分 米・NZ
ただただ圧倒された!まばたきするのも忘れて画面に見入っていた。前半は少々タルいんだけど、中盤からラストまでが壮絶の一言!食料も尽き、故郷に帰ることを諦めてまで前進するフロドとサム、地平線まで続く20万もの大軍と大軍の激突、また激突!僕が映画ファンになり始めた中学の頃は、まさか自分が生きてるうちに、ここまで壮大な戦いを映画で観られるとは思っていなかった。足かけ3年に及んだ3作の上映時間は合計10時間近くなるけど、この映画に関しては、その長時間が功を奏している。おかげで観客は完全にフロドやサムと旅をしている気になる。だからこそ、旅の終りは登場人物と一緒になってハラハラと泣くことができるんだ(それもごく自然な感情で)。このシリーズ完結編は絶対に劇場の大スクリーン&大音響で観て欲しい!最後に、サム最高ッ!!あんたこそ真の主人公!!
※この3部作をリアルタイムで観る事ができて本当に良かった。待ってる間も幸せだった。
※アカデミー賞(2004)作品賞、監督賞、脚色賞、作曲賞、歌曲賞、美術賞、衣裳デザイン賞、メイクアップ賞、特殊効果賞、音響賞、編集賞。ベン・ハー、タイタニックと並ぶ史上最多の11部門/NY批評家協会賞(2003)作品賞
【ネタバレ文字反転】
見終わった直後は最後のエルフ国への旅立ちが唐突に感じたし、どうしてアラゴルンたちが4人に跪くところや、目覚めたフロドがサムと再会する場面のように感動的なシーンで終わってくれないのだろう、なぜ観客に気持ちの良い涙を流させて「完」にしないのだろうと首をかしげた。だが、一晩たつと、安易なハッピーエンドに終わらず、あまりに深くダメージを受けた魂は元に戻らないと示すことで、「あ〜、面白かった」というただのファンタジーではなく、重みのある物語になったと思う。この映画の真価は、サウロン打倒後にあるのかも知れない。フロドは“活躍しない”“弱すぎ”と主人公失格の烙印を世間から押されているが、それだけ指輪の負の力が凄まじかったということだ(指輪を身につけて運ぶだけでも英雄)。フロドは強かった--滅びの山に辿り着いたのだから!

 


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