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| 若き黒澤 | 『七人の侍』は超最高ッ!! | こっちは「クロサワ」 |
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| 1990年の第62回アカデミー賞で、スピルバーグ(右)とジョージ・ルーカスから名誉賞を受け取ったクロサワ(80歳)※181cmと長身なので迫力がある 受賞コメント「この賞に値するかどうか、少し心配です。なぜなら私はまだ映画が良く分かっていないからです。だからこれからも映画を作り続けます」 |
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| m(_ _)m ハハーッ! |
| 1936年、26歳で現・東宝に入社。33歳の時に『姿三四郎』で監督デビューを果たす。大映や松竹でもメガホンを取り、ベネチア映画祭グランプリを『羅生門』で受賞する(41歳)。以後も『七人の侍』『生きる』『用心棒』など名作を次々と生み出し、『影武者』がカンヌ映画祭グランプリに輝いた。全30作。映画人で初の文化勲章を受章し、死後に国民栄誉賞を贈られた。寺墓地の左側、一番奥の方に眠っている。 「オーストラリアで(滞在中に)黒澤監督特集が催され、そのおかげで日本人観まで好転した。パスポートだけでなく芸術の力で私達がいかに守られていることか」(井上ひさし)。世界各国で高い評価を受け、愛され続けている黒澤作品。それは、黒澤の人間愛がしっかりと伝わっているからだろう。練り上げられた脚本、妥協のない演出、完全主義と言われる緻密な構成と完成度の高さ。これらはスピルバーグをして「クロサワは映像のシェイクスピアだ」と言わしめた。アカデミー賞だけでなく、カンヌ、ヴェネチア、ベルリンなど各地の映画祭で賞に輝く。黒澤が徹底して描いたのは、人間ひとりひとりの生命の重さと、良心を踏みにじる社会悪への怒り。彼は映画監督であると同時に非常な読書家でもあり、若い世代に対し次のメッセージを残している「自分の人生経験だけでは足りないのだから、人類の遺産の文学作品を読まないと人間は一人前にならない」。他人の立場になって世界を見ること、この能力がなければ良い映画を作れないし、この力こそ人間にとって一番大切だと言いたかったのだろう。 ※世界最大のクロサワ監督ネット資料館「黒澤デジタルアーカイブ」(圧巻の充実資料!) |
| 「ここに」 | 「埋めてチョ!」 |
| 僕の場所をわきまえぬこの満面の笑顔を深くお詫びしたい。しか〜し!自分には正当な理由があった!な、なんと監督のお隣が空いていたのだ〜ッ!奇跡じゃ!監督のヒューマニズムに心酔している自分にとって、この墓所は聖地の中の聖地。“監督のお側で眠れるかもしれない”そう考えると、理性など吹き飛んで当然。自分はネットを通して、この場所だけは誰にも譲れぬという『この場所とっぴ宣言』を、全世界へ向けて発布する!! | |

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| ロシア人墓地らしく建物はタマネギ型の屋根 | 大きな岩が丸ごと墓石になっていた!十字架の根元の絵は聖母子像 |
| 映像詩人タルコフスキーの墓は、パリからずっと南のサント・ジュヌヴィエーヴ・デ・ボワにある、亡命ロシア人の墓地(ロシア正教会)に。僕は彼が作品中に好んで描いた水流や霧の映像が大好きで、ミニシアターでリバイバルがあると必ず足を運んでいる。墓は鉄道やバスを何度も乗り換え、苦労してたどり着いたので感動もひとしおだった! ※パリからRERのC線を利用して、Sainte-Genevieve des Bois駅で下車し、そこからバスで行けます。 |
| 代表作『惑星ソラリス』『ノスタルジア』 |
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| 2002 真新しい花束が捧げられていた |
2009 右後方の植木が7年間で成長している |
メトロの切符は「これを使って会いに きて」というファンのメッセージらしい |
| 自分はトリュフォーが作った作品を愛してやまないが、何より人間トリュフォー自身がすっごく大好きだ。フランスの植民地主義を糾弾したイタリア映画『アルジェの戦い』がベネチア映画祭で金獅子賞を受賞した際、怒ったフランス代表団は退場したが、その時ただ一人だけ会場に残ったのがトリュフォーだった。死後約20年経った今もなお、花に囲まれている墓を見て、どんなに多くの人が彼の誠実な人間性に惚れ込んでいるのか良く分かった。メルシー・ヴォク、トリュフォー!! (余談。スピルバーグの『未知との遭遇』のクライマックスで、宇宙人とコンタクトをとる科学者に扮していたが、監督が本業とは思えないほどの名演だった) 「映画製作は幌馬車の旅。初めは良い旅を望むが最後には目的地に着くだけでよくなる」(トリュフォー) |
| 代表作『突然炎の如く』『アデルの恋の物語』『アメリカの夜』 |

| ラトビアのリガ生まれ。27歳で作った傑作『戦艦ポチョムキン』において、対立するショット(主にクローズアップ)をつなげて緊張感を生み出すモンタージュ理論を確立。晩年に超大作『イワン雷帝』を残す。映画史における最重要人物の一人。※写楽のファンだった! |
| 代表作『戦艦ポチョムキン』『イワン雷帝』 |
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| 池上の本墓 | 世界のミゾグチ | 京都の分骨墓(2005) |
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溝口健二は、黒澤明、小津安二郎と並ぶ日本の三大映画監督の一人。撮影スタッフに対し、小道具、セット、衣装など、全てにわたって完璧を求めたことから、「文句を言う(ゴテる)ばかり」だと、現場では“ゴテ健”というあだ名で恐れられた(徹底して時代考証にこだわる為に撮影が進まず、困ったスタッフが偽物の史料を作って誤魔化すこともあったという)。
浅草生まれ。小学校を出たあと職を転々とし、22歳の時、俳優を希望して日活に入る。彼は助監督(この当時は雑用係)にされたが、1922年、日活のお家騒動で多くの監督や俳優が退社したことで監督に昇進(24歳)。25歳、第一作の『愛に甦る日』を発表。同年関東大震災で撮影所が壊滅し、活動の拠点を京都に移す。その後、時代は戦時に突入、映画界は国策映画が中心になり、溝口の創作活動は中断。約10年間にわたるスランプ時代が訪れる。復活したのは亡くなる4年前の1952年(54歳)。ベネチア国際映画祭で国際賞(監督賞)を受賞した『西鶴一代女』で、世界のミゾグチとなった。彼はこの作品で名女優の田中絹代を得、翌年も彼女とタッグを組んで『雨月物語』を撮り、翌々年には『山椒太夫』を創り上げ(共にベネチア国際映画祭銀獅子賞受賞)、ベネチア国際映画祭において3年連続受賞という大記録を打ち立てた。56歳、溝口はスター嫌いで有名だったが、社の方針で美形俳優・長谷川一夫と組むことになり、対立が功を奏して情念のこもった傑作『近松物語』を生み出す。撮影後に白血病を発病し、急速に容態が悪化、58歳で京都に永眠する。生涯に監督した作品は90本。ただし残念ながら戦火もあって現存するのは33本のみだ。
溝口は長回しの撮影方法で知られる。カットを入れずにいっきに撮るのだ。その結果、演技の流れが中断されずに済むが、少しでも失敗すると全部やりなおさねばならないリスクがある。この緊張感によって、追い詰められた役者は迫真の演技を見せたのだった。 また、白黒の映像美が他の映画作家より突出して素晴らしく、『西鶴一代女』以降の代表作を通して、世界の映画ファンはカラーよりも美しいモノクロ映像がこの世に存在することを知った。 ※溝口を語るとき、女優の田中絹代と共に忘れてはならないのが、天才カメラマン宮川一夫の存在だ。宮川は『雨月物語』の7割をクレーン撮影するなど、移動撮影に超絶的テクニックを振るった。また、ワンシーン・ワンカットの名手であり、『新・平家物語』冒頭の群集シーンでは、その自在なカメラワークが「到底ワンカットと思えない」と、トリュフォーやゴダールが映写室に入ってフィルムを確認したという。
池上の寺墓地では、若い僧侶が監督の墓まで案内してくれた。墓の左隣には、“墓は隣同士で”と約束していた新派の名優・花柳章太郎が仲良く並んでいた。 「小津さんは自分の好みの中でしか仕事をしなかった。その上、好みを自分で知りぬいていた。だから幸福だったでしょう。しかし、溝口さんは一生自分がなにをやりたいかもわからず、ただ、無茶苦茶に頑張った。苦しい一生だったと思います」(大島渚)
京都満願寺には分骨があり、そちらへは1960年代に来日したJ.L.ゴダールが墓参したという。 |
| 代表作『雨月物語』『山椒太夫』『近松物語』『西鶴一代女』 |

| イタリアが世界に誇る名匠フェリーニは、アドリア海に面した故郷の街に眠っている。墓には泉があり、船のような巨大な黄金のオブジェがそびえ立っていた。いろんな墓をこれまで見てきたが、墓の一部が泉になっているものは初めてだ。小鳥が次々と水を飲みにやって来るのを見て、とても微笑ましく思えたよ。(『道』でジェルソミーナに扮した愛妻ジュリエッタ・マシーナも一緒だった) |
| 代表作『道』『カビリアの夜』『8 1/2』『甘い生活』『アマルコルド』 |

| ナチス占領下で抵抗する市民の姿や、レジスタンスをかくまって銃殺される神父を描いた『無防備都市』は、イタリア・ネオレアリズモ運動(社会問題をテーマに世論を啓発する運動)の出発点となった。名女優イングリッド・バーグマンはこの映画に激しく魂を揺さぶられ、なんと夫と子どもを捨て、まだ会ったこともないロッセリーニのもとへ(妻子がいるのに)走ってしまった。たった1本の映画で見る者の人生を変えてしまった男、それがロッセリーニだ。 |
| 代表作『無防備都市』『戦火のかなた』『ドイツ零(ゼロ)年』 |

| 1923年、20歳で松竹キネマ蒲田撮影所にカメラ助手として入り、4年後に監督デビュー。ユーモアを織り交ぜながら小市民の家庭生活を淡々と描くことで、人生の悲哀を浮き彫りにしていった。小津監督は「人間」を全面に出すために移動撮影をやめ、カメラを低位置に固定し、人物を真正面から撮影するという独特の「小津スタイル」を確立させた。余計なセリフや感情表現を排し、その場の空気だけで場面のすべてを語る演出は、今でも世界中の映画人に影響を与えリスペクトされている。昨今の大作映画に多い、過剰演出や目まぐるしく視点が切り替わる画面に慣らされた僕らには、半世紀前の小津スタイルが却って新鮮に映る。墓前には缶ビールが供えられていた。監督は大のビール好きとして有名で、撮影現場での昼食は、いつも生卵入りビールだったそうだ。60歳の誕生日に人生の幕を閉じた。 「どうでもよいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う」(小津安二郎) |
| 代表作『東京物語』『生れてはみたけれど』 |
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| 演技を鬼指導している小津 | はっちゃけた小津(笑) |

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| なかなか場所が分からず、 見つけた時は感動したッ! |
かわいいリスがフォード監督の 墓の回りを駆け巡っていた(2000) |
西部劇の神様、ここに眠る!(2009) |
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| モニュメントバレーの「ジョン・フォード・ポイント」 | この場所を好んで多くの撮影が行なわれた(2009) |
| フォード監督はジョン・ウェインと組んだ西部劇作品のイメージが強いけれど、『怒りの葡萄』のように重厚な社会派ドラマも多く作っている。アカデミー監督賞の受賞4回は史上最多。墓地では墓のすぐ側をリスが走り回っていた。 本名 ショーン・アロイシャス・オフィーニー |
| 代表作『怒りの葡萄』『駅馬車』『わが谷は緑なりき』『男の敵』『荒野の決闘』 |

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| 2000 | 2009 | 巨大霊廟に眠る |



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| これぞ映画監督の墓!なんてカッコイイ墓なんだろう! | ||
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| 道を尋ねたことが縁で一緒に墓参 することになったヴィロンスカさん |
彼女はキシェロフスキ 監督の大ファンだった! |
彼女は「大好きな監督の墓を教えてくれた 御礼がしたい」と、僕を家に招待してくれた |
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| 食事の用意。なんて 親切な方なんだろう! |
お部屋にはモナリザが。 芸術家肌のヴィロンスカさん |
カナッペをご馳走してくれた!食べてる間、 墓参りでポーランドに来て、こうして民家 で食事をしている事が信じられなかった |
お土産でくれた謎の帽子、 トマト、巨大ハム、黒パン! 素晴らしい出会いだった |

| 京都生まれ。父は扇子職人。少年時代から映画狂だった山中は、1927年(18歳)、母校の一年先輩のマキノ正博(日本映画の父マキノ省三の息子)を頼ってマキノプロに入社する。翌年、嵐寛寿郎プロに移籍し、助監督の傍らでシナリオを執筆。20歳で脚本『鬼神の血煙』が映画化される。山中の才能を見抜いた嵐は、1932年、『抱寝の長脇差』で監督デビューさせた。この処女作は映画評論家に激賞され、いきなり「キネマ旬報」の年間ベスト入り。23歳の山中は若き天才監督として一躍注目を浴びた。以後、監督作の全てを自ら脚本・原作を書いた。また、より良い脚本を生み出す為に、会社の枠組を超えて8人の脚本家で「鳴滝組」(ペンネームは梶原金八)を結成し、互いに切磋琢磨した。鳴滝組は時代劇の字幕を分かりやすい現代語で書くなど銀幕を革新していく。 翌年からは活動の場を日活に移し、話題作を作り続ける。映画もサイレントからトーキーに移って行く。素早い場面転換、テンポの良いストーリー展開、切れのある演出、絶妙のタイミングで入る字幕などで山中は観客を虜にした。彼の映画には偉人や聖人君子は登場しない。描かれるのは貧しい浪人、気弱なやくざ者、不器用だがどこか愛すべき男たち。彼らの悲喜こもごもを、暖かく優しい目線で見守っている。1935年(26歳)、『国定忠治』、痛快娯楽コメディ『丹下左膳余話・百万両の壺』、山中の最高傑作とされる『街の入墨者』(現存せず、無念!)を発表。27歳、『河内山宗俊』公開。 1937年、京都から東京のPCL(東宝)に入社。7月7日、日中戦争が勃発。重苦しい世相を反映してか、前年から次第にニヒリズムが押し出していた山中は、貧乏長屋の人間模様を通して紙風船のように儚い人の世を描いた『人情紙風船』を発表。この作品の完成試写当日、撮影所の庭で雑談中に召集令状が届く。開戦から一ヵ月でもう中国戦線に徴兵されたのだ。この時山中は手が震えて煙草に火を点けられなかったという。「『人情紙風船』が俺の最後の作品では浮かばれんなァ」と言い残し10月に出征。 3ヶ月後(1938年1月)、6歳年上の友人小津安二郎監督も召集され、両者は南京郊外の句容で再会する。帰国後にどんな映画を撮りたいか熱く語り合った。同年4月、山中は徐州会戦を前に遺書を書く「『人情紙風船』が遺作ではチトサビシイ。負け惜しみにあらず。最後に、先輩友人諸氏に一言。よい映画をこさえて下さい。以上。1938年4月18日」。人情紙風船の出来に不満があったのではなく、戦争さえなければ好きな映画をもっと撮り続けることが出来たのに、という無念の叫びだ。 中国軍の黄河決壊作戦で一ヶ月も洪水に浸かっていた山中は、7月に急性腸炎を発病。中国河南省開封の野戦病院で9月17日午前7時に息をひきとった。わずか28歳10ヶ月の短すぎる生涯だった。 当時のフィルムは可燃性で何度も火災にあった上、映画会社自身も映画をアートとして見ておらず、あまり保管に気をつけていなかった。その結果、山中の作品は23本中たったの3本(「丹下左膳余話・百万両の壷」「河内山宗俊」「人情紙風船」)しか現存していない。そしてその残った3本の全てが日本映画史に輝く傑作だ。山のように新作のアイデアを抱えたまま、野戦病院のベッドで死んで行く山中は、どんなに悔しかっただろう。戦争がなければ、後世にどんな名作が生み出されていたろうかと思うと残念でならない。 1941年の三回忌の際、菩提寺の大雄寺に大きな山中貞雄之碑が建てられた。碑文「その匠意のたくましさ、格段の美しさ、洵(まこと)に本邦芸能文化史上の亀鑑(手本)として朽ちざるべし」と記したのは小津。式後、小津は山中を最初に絶賛した評論家にこう呟いた「山中ほどの仕事をしてもそれが僅か六百文字内外に詰められてしまうのかと思うと寂しいな。しかし俺達が死んだってこんな碑は建ちっこないんだから、まあそう考えれば幸福な奴さ」。墓には終焉の地となった、中国の病院跡の土が納められた。毎年9月には今も墓前にファンが集まり「山中忌」が催されている。 ※「すごい才能なんだヨ。本当に早く亡くなっちゃって日本映画の大きな損失だね。」(黒澤明。山中より一つ年下) |
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| 墓地の壁際奥に眠っている。享年90歳と、かなり長寿だった監督 |
墓の上に日本の鳥居が描かれたプレートが。 仏語が出来る方、これは何か教えて下さい〜! |


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| 2000 | 2009 | 前列右から3番目がカサベテス監督 |

| 『白い巨塔』、『あゝ野麦峠』、『皇帝のいない八月』、『戦争と人間3部作』など社会派エンターテインメント作を世に送った山本監督。墓石背後の壁面には次のように彫られていた--「映画は真実を伝える眼であり、政治や社会の不正を批判し、本当に大衆の幸福を願うものでありたい。私たち創造者は、常に創造者としての見識を高めなければならない」。 |
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| 2000 | 2009 |
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| 墓前までゾフィーが迎えに来た!!(あえてゾフィーっていうところが感動的!よく分かってる!) |
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| キングギドラ、レッドキング…“特撮の神様”の墓はロマンが爆発している |
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「ゴジラ」や「ウルトラマン」を生み出し、日本の特撮映画をいっきに世界最高峰のレベルにした“特撮の神様”。「特撮」という言葉も円谷が創った(従来は「トリック撮影」と呼ばれていた)。福島県出身。本名は“英一”。3歳で母を亡くし、父が離縁となり祖母に育てられる。15歳の時にパイロットに憧れて飛行学校に入るが、翌年に同校は墜落事故を起こして廃校となる。その後、現東京電機大学に入学。1919年(18歳)、映画会社(天然色活動写真)の人間と知り合ったことから、同社に入り撮影技術を学んだ。25歳、衣笠貞之助の「狂った一頁」(1926)で撮影助手を務める。翌年、林長二郎(長谷川一夫)のデビュー作「稚児の剣法」でカメラマンとしてデビューし、松竹に移籍。29歳、撮影中にクレーンから転落し、看病してくれたマサノ夫人と結婚。この頃、尊敬するおじの名前が「一郎」だったことから遠慮して「英二」を名乗るようになる。31歳、日活に引き抜かれ移籍。
1933年(32歳)、『キング・コング』が日本で公開され円谷は特撮技術に驚愕する。フィルムを取り寄せ特撮シーンの全てのコマを研究した。翌年、J・Oトーキー(東宝)に移り、1935年(34歳)に海軍のドキュメンタリー映画「赤道を越へて」で監督デビューを果たす。日独合作映画「新しき土」(1937)において、円谷は別の場所で撮られた背景をセット後方のスクリーンに映して撮影する合成撮影法(スクリーン・プロセス)を完成させた。戦争の拡大につれて、1940年(39歳)に「燃ゆる大空」、1942年に「ハワイ・マレー沖海戦」など戦意高揚映画の特撮部門に関わっていく(この頃、合成カメラのオプチカル・プリンターの国産化に成功)。1944年には軍の教育用映画の特撮スタジオの責任者を引き受け、これが原因となって戦後(1948年)にGHQから公職追放指定を受けてしまう。4年後に追放が解除されると、フリーとして映画界にカムバック。翌年に本格的特撮映画「太平洋の鷲」(1953)を制作。 そしてッ!1954年に53歳で日本初の怪獣映画となる「ゴジラ」を本多猪四郎監督と組んで完成させた!ゴジラは大ヒットを記録し、邦画初の全米公開映画となった。1956年、「白夫人の妖恋」「空の大怪獣ラドン」でカラー特撮に挑戦。1959年に円谷特撮の集大成となる「日本誕生」で日本神話の大作ファンタジーを作りあげる。1961年(60歳)には反戦思想を前面に出した「世界大戦争」で、全世界が核の炎に包まれる衝撃的な結末を描き出す(フランキー堺が神がかりの熱演!)。 ※円谷は戦意高揚映画に関わったが、当時はすべてのメディアが軍の支配下にあり、映画の撮影フィルムも国家による統制品であったことから、映画会社は一般の映画を作るためにも軍に逆らうことは出来なかった。円谷が戦後に作った「ゴジラ」は完全に反核映画であり、「世界大戦争」では庶民の目から見た第3次世界大戦を描いた。この映画のラストでは核でドロドロに溶けた国会議事堂が映り、次の言葉で締めくくられる「この物語はすべて架空のものであるが、明日起きる現実かも知れない。しかしそれを押しとめよう!我らすべてが手をつないで!まだそれが起こらないうちに」。
1963年(62歳)に円谷特技プロダクションを設立。翌年から円谷プロ初のTV作品「ウルトラQ」の制作をスタート。同番組は半年分の放映に2年の制作期間を費やすことになる。1966年(65歳)、ついに特撮テレビ映画「ウルトラQ」が放送開始!大きな話題を集めたことから、同年7月に今度はカラーで撮影した「ウルトラマン」を茶の間に届けて空前の怪獣ブームを日本列島に巻き起こした。翌年(66歳)、『キングコングの逆襲』が公開。若い頃の円谷の口癖は「まずキングコングを見ろ」だったが、偶然にもキングコングが、円谷にとって最後の怪獣映画の演出となる。2年後の1969年、遺作「日本海大海戦」が完成。年明けの1月25日に喘息の発作から狭心症になり他界する。享年68歳。円谷一家はカトリック教徒であり、遠藤周作と同じ府中カトリック墓地に眠っている。円谷は大人からサインを求められると「子供に夢を」と書いていた。
※親分肌の人柄から若い連中から「オヤジ」と慕われていた。
※今の映画界では一般的なクレーン撮影を最初にやったのも円谷。また、飛行機の模型を逆さに吊って、カメラを逆さまにして撮影したり、飛行機を固定して背景の方を回転させることで急旋回のカットを撮るなど、様々な撮影技法を編み出した。 |
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| 実家の「松風苑」は沖縄で有名な老舗の料亭だ | 離れの2階が仕事部屋 | 金城さんの書斎がそのまま保存されている! |
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| 机の上には怪獣フィギュアがズラリ!(ファン手作りのものも!) | こっ、こっ、これは…! | ノンマルト!激レア過ぎる! | ノンマルトと金城さん! |
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| ガッツ・ペン! | 隣の部屋は金城さんの資料室になっていた | うおお!科特隊メンバーのサインじゃあ! |
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| 壁一面に本棚があった | 芥川、川端、鴎外など日本文学が並ぶ | 故郷で書いていた沖縄演劇の脚本 |
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| 金城さんの眠る識名霊園は那覇市唯一の公営墓地とあってとにかく広大。見渡す限り、墓、墓、墓!遠くに 見える山の中までお墓(沖縄のお墓は家の形)。墓前までたどり着けず、墓地全体に向かって手を合わせ、 金城さんに作品の御礼を言った。※沖縄の“お盆”は4月の清明祭(シーミー)。一族が墓前で食事をするそうだ |
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金城(きんじょう)哲夫は初期ウルトラマン・シリーズの名脚本家で円谷プロの文芸企画室長(企画立案担当)。沖縄県出身。玉川大学の学生時代から脚本に興味を抱き始め、1963年(25歳)に円谷プロダクションへ入社。1966年(28歳)、『ウルトラQ』に参加して第3話「宇宙からの贈りもの」(ナメゴン)、第13話「ガラダマ」(ガラモン)、第19話「2020年の挑戦」(ケムール人)など計12話の脚本を担当。放送は視聴率30%を超え、特撮の大ブームを起こした。そして半年後の同年7月、白黒からカラー特撮となった伝説の『ウルトラマン』が放送開始され、金城は第1話「ウルトラ作戦第一号」(ベムラー)を共同脚本した。『ウルトラマン』では第1話の他、第26話「怪獣殿下」(ゴモラ)、第30話「まぼろしの雪山」(ウー)、第33話「禁じられた言葉」(メフィラス星人)、第37話「小さな英雄」(ジェロニモン、ピグモン他)、最終回「さらばウルトラマン」(ゼットン)など計14話を担当。金城は単純に“悪い怪獣を退治する”というストーリーで終わらせず、メフィラス星人は戦いをやめてウルトラマンにこう語りかける「よそう、ウルトラマン…宇宙人同士が争っても、しようがない…私が欲しいのは地球の心だったんだ」。“小さな英雄”では科学特捜隊のメンバーが「どうせ俺がいなくてもピンチになればウルトラマンが助けにくる」といって自分を見失う。そして最終回ではヒーローのウルトラマンが死ぬ!こうした、子供向けと簡単にくくれない脚本は、翌1967年(29歳)の『ウルトラセブン』でさらに研ぎ澄まされていく。
※『ウルトラマン』の敵は“怪獣”だけど、『ウルトラセブン』では“星人”。本能だけで暴れる巨大生物を「退治」するのではなく、独自の価値観と文化を持つ知的生命体である“星人”との戦いだ。一気に物語が奥深くなった。 金城はセブンでも、第3話「湖のひみつ」(エレキング、ピット星人)、第8話「狙われた街」(メトロン星人)、第14話「ウルトラ警備隊西へ」、第25話「零下140度の対決」(ガンダー、ポール星人)、第42話「ノンマルトの使者」(ノンマルト、ガイロス)、最終回「史上最大の侵略」(パンドン、ゴース星人)など、計13話を執筆。人類を互いに人間不信に陥らせて自滅させようとするメトロン星人の回では、以下の最後のナレーションがファンの間で語り草になっている「人間同士の信頼感を利用するとは恐るべき宇宙人です。でもご安心下さい、このお話は遠い遠い未来の物語なのです…。え、何故ですって?…我々人類は今、宇宙人に狙われるほど、お互いを信頼してはいませんから」。主人公・諸星ダンは第3話にしていきなり変身アイテムのウルトラアイを敵が変身した美少女にまんまと盗まれ、ガンダーの冷凍攻撃では変身前にウルトラアイを落として探しに戻ったり(この時に寒さに震えながら言うセリフ「基地に着けば、温かいコーヒーと、スチームが俺を待ってるぞ」が良い!)、クールに見えて完全無欠ではない人物像を描き出していた。 ※共同脚本は『ウルトラマン』では担当回の半分(7話分)だったが、『セブン』になると共同は1本だけで、あとは全部が単独脚本だ。
金城脚本の最高傑作は「ノンマルトの使者」と「史上最大の侵略」だろう。ノンマルトでは、「人類こそが地球の侵略者で、地球はもともとノンマルトのものだった」という、ヒーロー・ドラマではあり得ないような衝撃的内容だった。ノンマルトは人類から地上を追われ、海底に都市を築いて暮らしていたが、ウルトラ警備隊から“侵略宇宙人”と見なされ、無抵抗のまま皆殺しにされてしまう。何が善で、何が悪なのか分からなくなる。人類が常に正義とは限らないことを子供に教えた作品は、一般のドラマや映画を見渡してもそうそうない(しかも主題歌やCMを除くと20分ちょい。その短時間で描いてしまうのがスゴイ)。最終回では、ダンはこれまでの戦いのダメージと疲労が蓄積し、ウルトラの国(M78星雲)の上司から、「今度変身したら死ぬ」と警告される。しかし、ウルトラ警備隊の仲間が敵に誘拐され、“ただ友を救うために”最後の変身をする。自分の命より友の命を優先したダン。ダンが「僕は…僕はね…人間じゃないんだ、M78星雲から来たウルトラセブンなんだ!」とアンヌ隊員に告白する場面は、BGMにシューマンのピアノ協奏曲が流れる、シリーズ屈指の名シーンだ。クライマックスの戦いでは、アンヌを通してセブンがダンであることを知った隊員たちが、「頑張れセブン!」ではなく、「頑張れダン!」「負けるな諸星!」「ダンが危ない!」と、ダンを応援する。これは泣ける…。素晴らしい最終回だった。
『ウルトラセブン』では、ダンが何かの問題に直面した時、M78星雲の宇宙人である自分と、地球人として生きている自分との間で価値観が衝突し、悩むシーンが出てくる。人類にとっては“宇宙怪獣”でも、ダンにとっては同胞なのだ。金城の生涯を振り返ったドキュメンタリー『金城哲夫 西へ!』によると、沖縄から東京に出て来た金城は、大和民族の中で暮らす琉球民族としての自分のアイデンティティに思い悩んでいたという。沖縄は征服される側であり、先のノンマルトも、いつの間にか大和文化に呑み込まれた琉球文化へのレクイエムだという。既に『ウルトラマン』の後半で、メフィラス星人の「貴様は宇宙人なのか!地球人なのか!」という問いかけに金城の葛藤が現れているが、この延長線にあるものが、セブンの最終回で正体を明かしたダンにアンヌ隊員が語る「たとえ宇宙人でもダンはダンに変わりないじゃないの、たとえウルトラセブンでも」だろう。“ダンはダンに変わりない”は、大和民族であろうと、琉球民族であろうと、自分は自分であり金城哲夫に変わりない、それを金城が叫んでいるようだ。 ※金城はまた、そういったシリアスな背景を持ちながらも、第14話では敵の宇宙ロボットの名前をキングジョー(=金城)としたり、沖縄弁のチブル(頭)から名付けたチブル星人や、残波岬が由来のザンパ星人など、脚本で遊び心を見せた。さらにエキストラとしてチョイ役で主演することも度々あった。
しかし時代は金城に追いついていなかった。シリアス路線を目指した後番組の『マイティジャック』『怪奇大作戦』は視聴率が伸びず大苦戦。円谷プロの経営が傾きリストラの嵐が吹き荒れると、金城は1969年(31歳)に退社届を出した。故郷の沖縄に戻った金城は地元のテレビ番組の司会やラジオのパーソナリティーを務めるかたわらで、沖縄の伝統文化に根ざした芝居の脚本を書いた。だが、長く東京にいた金城は“ヤマトンチュー”(大和人)と見なされ、周囲との温度差が生まれていく。沖縄海洋博の演出は金城にとって久々の大仕事だったが、そこでも自分の構想が実現できず、理想と現実の狭間でもがき、次第にアルコールの量が増えていった。そして1976年2月。実家「松風苑」の離れの仕事部屋(2階)の鍵がかかっていたことから、泥酔したまま窓から入ろうとして転落し、4日後の2月26日に脳挫傷により永眠した。まだ37歳の若さだった。 「明けの明星が輝く頃1つの光が宇宙へ飛んでいく。それが僕なんだよ」(セブンの別れの言葉)
※金城は一話ごとの脚本家というより、シリーズ全体のコンセプトを担って各話のシナリオをチェックするメインライターだった。また、一般の脚本家は戦闘シーンを特撮チームに任せっきりだったが、金城は戦い方まで詳細に指示していたという。
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| 左からマキノ雅弘監督、牧野省三監督、牧野家一族の墓 | 日本映画の父! | 戒名は「荘厳院浄空映画雄飛居士」 |
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| 等持院の墓地の前には牧野監督の立派な銅像がある。この地に撮影所があった | 松之助主演の『豪傑児雷也』(1921) |
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日本初の映画監督で多くの映画人を育てた“日本映画の父”。京都生まれ。私生児のため芸妓の母の手ひとつで育てられ、幼少から芸事に親しむ。やがて母は芝居小屋「千本座」の経営者となり、省三が後を引き継いだ。26歳の時に旅役者の尾上松之助(後の日本初の映画スター)に惚れ込み座長を引き受けてもらう。1908年(30歳)、パリでカメラを購入した横田商会(日活)が千本座で活動写真を上映し、それが縁で省三は活動写真の制作を依頼される。彼は一座の役者で『本能寺合戦』を撮影。これは映画監督による日本最初の劇映画となった。翌年、松之助が主演の『碁盤忠信・源氏礎』を制作すると、豪快な立ち回りが話題になって爆発的にヒットとなった。観客の嗜好を掴んだ省三は、スピーディなアクション・シーンで人々を虜にし、歌舞伎や講談、狂言などあらゆる題材を3日に1本という超ハイペースで撮りまくった。松之助は激しい動きを得意としたので忍術映画を多く制作し、中でも『児雷也』(1914)は空前のメガ・ヒットとなった(両者は12年間に約700本でタッグを組むことに)。やがて映画産業が東京で盛り上がってくると、省三は京都映画界の衰退を憂慮して1921年(43歳)に日活から独立、等持院の敷地にマキノ映画を設立する。一連のリアル路線のチャンバラ映画で劇場は大入りになった。「1スジ(筋、脚本)、2ヌケ(現像処理)、3ドウサ(演技)」をモットーに、何よりも物語の脚本を重視し、プロデューサーとしても若い脚本家の育成に努めた。俳優の個性を引き出す能力にも優れ、阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵など、すべて省三が育てたスターだ。1925年(47歳)、「マキノ・プロダクション」を設立。この頃から、所属のスター俳優が次々と独立して省三のライバルとなり、経営は苦しい状態が続く。そして最大の悲劇が省三を襲う。1928年、全霊を込めた大作『実録忠臣蔵』を編集中にネガが引火して撮影所が全焼してしまったのだ。莫大な負債を抱えたまま、翌年、失意のドン底の中で過労による心臓麻痺のため“映画の父”は50歳で他界した。死後マキノ・プロは倒産。まさに、映画に生き、映画に殉じた人生だった。合掌。
※息子のマキノ雅広も映画監督。俳優の長門裕之と津川雅彦は孫。
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| 左からマキノ雅弘監督、牧野省三監督、牧野家一族の墓 | 20歳で『浪人街』を完成 | 夕陽を浴びるマキノ監督 |
| 京都生まれ。本名牧野正唯(まさちか)。ペンネームは正博→雅弘→雅裕→雅広と4回改名したが一般には雅弘で知られる。“日本映画の父”牧野省三を父に持ち、4歳から169本の映画に子役・女形で出演。1926年、18歳の時に撮影した『青い眼の人形』で監督デビュー。早撮りの名手と言われ261本を世に送った。監督として高い評価を決定づけたのは、1928年に20歳で発表した群像劇『浪人街・第一話 美しき獲物』(キネマ旬報ベストテン第1位)。スターなしのリアル・ドラマ路線を追求し“髷(マゲ)をつけた現代劇”と呼ばれたこの映画は、脚本・山上伊太郎、撮影・三木稔との20代トリオで作られた。その翌年、父の省三が『忠臣蔵』編集時に撮影所全焼の悲劇にあい心労で他界。マキノプロは倒産し、父の莫大な借金を背負った彼は、録音機材を研究してトーキー録音機を考案。日活、大映、嵐寛プロなど各映画社を渡り歩く。早撮りで(一本28時間というのも)撮りまくって借金は完済。1938年(30歳)、父の悲願だった『忠臣蔵』を撮影。東宝では長谷川一夫の主演作を大ヒットさせた。翌年には“傑作時代劇ミュージカル”として今なおカルト的な人気を誇る『鴛鴦(おしどり)歌合戦』を世に送った。戦後は弟が設立した東映に参加。一時、薬物中毒でスランプに陥るも、40代に入ると『次郎長三国志』『雪之丞変化』など娯楽時代劇をどんどん撮り始め、1964年(56歳)の『日本侠客伝』で東映任侠映画の基本スタイルを確立。傑作『昭和残侠伝・死んで貰います』などを生み、1972年に64歳で映画界から引退。それから21年後に85歳で他界した。俳優の長門裕之、津川雅彦は甥。 ※長男のマキノ正幸は沖縄アクターズスクールの主宰者。 |


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| 理生院(りしょういん)は伊予21霊場16番札所 | 山の中腹に墓地が広がる | 伊丹監督の墓所付近の眺め。松山を一望! |
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| 「池内義豊之墓」が万作監督 |
墓所は苔むし、ワビサビが漂う ※左奥が万作監督、右手前が十三監督 |
「池内家累代之墓」とあるのが十三監督 |
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京都生まれ。「13の顔を持つ男」と呼ばれるほど多彩な才能を持ち、映画監督、俳優、CM作家、エッセイスト、イラストレーターなどの肩書きの他、本格的に料理を研究し、バイオリンを演奏し、乗り物に凝るなど(愛車は英国のベントレー)、バイタリティ溢れる趣味人でもあった。本名は池内義弘。身長183cm。父が映画監督の伊丹万作ということもあり、2歳にして銀幕にデビュー(殿様の赤ちゃん役)。13歳で父が結核で他界し、高校時代に父の故郷・松山市に転居。そこで大江健三郎と友人になる。大学受験の失敗を機に、上京して商業デザイナーとなった後、26歳で大映に入社。伊丹一三の名で正式に俳優デビュー。1960年(27歳)、日本最大の映画輸入業者・川喜多長政の娘と結婚。同年に妹が大江健三郎と結婚する。33歳、妻と協議離婚。1969年(36歳)、「伊丹十三」に改名し、宮本信子と再婚。1983年(50歳)、『家族ゲーム』『細雪』に出演しキネマ旬報賞助演男優賞を受賞。翌1984年(51歳)、妻の父の葬式を題材に一週間でシナリオを書いた『お葬式』で映画監督デビュー。本作品は日本アカデミー賞など30以上の賞に輝く(キネマ旬報第1位)。十三は映画監督業が自分の過去の経験をすべて生かせる天職と認識。その後、『タンポポ』(1985)、『マルサの女』(1987)、『マルサの女2』(1988)、『あげまん』(1990)、『ミンボーの女』(1992)、『大病人』(1993)、『静かな生活』(1995)、『スーパーの女』(1996)、『マルタイの女』(1997)と13年で10本という驚異的なペースで作品を発表し続ける。国税局査察部“マルサ”の活躍を描くなど、シリアスな社会問題をエンターテインメント作品として作り上げる作風は高く評価され「伊丹映画」という言葉(ジャンル)が生まれた。
中でも、1992年(59歳)に発表した日本映画史上最も勇気のある作品『ミンボーの女』は、従来の「ヤクザ映画」が暴力団を美化していたのに対し、主人公の女弁護士がヤクザのことを“卑怯な弱虫”と言いのけ、暴力団の卑劣さ、姑息さ、浅ましさを糾弾するなど、日本中の度肝を抜いた。十三はこの映画の中で、単なるヤクザ批判にとどまらず、市民側がとるべき法律上の具体的な対抗手段まで語った。この映画の公開から一週間後、十三は刃物を持った山口組系後藤組の5人に自宅近くで襲われ、全治三ヶ月の重傷を顔や両腕に負う。病院に搬送される十三は容体を尋ねる取材陣にピースサインで応え、「私はくじけない。映画で自由をつらぬく」と宣言。その後も多数の脅迫を受け続け、翌年には右翼の男が劇場で伊丹作品を映すスクリーンを切り裂く事件が起きた。警察から身辺警護を受けるが、タフな十三はさっそくこの経験をネタにした『マルタイの女』を作る。『マルタイの女』公開から3ヶ月後の1997年12月20日、写真週刊誌『フラッシュ』に若い女性との不倫疑惑(といってもレストランで一緒に食事をする姿と、女性の一方的な証言のみ)が掲載されると、十三は伊丹プロが入る東京麻布のマンションから謎の投身自殺をとげる。「死をもって潔白を証明する」とする遺書が見つかったが、これはワープロで打たれたものであり、作家業もした十三なら思いを込めた最後の言葉を自筆で残すはずだし、何より山口組に襲撃されてもVサインで応える豪胆な男が不倫疑惑程度で自殺するとは思えず、事件当初から他殺説が根強く語られている。2007年、松山市にイラストなど遺品8万余点を集めた伊丹十三記念館が開館。著書は『ヨーロッパ退屈日記』『女たちよ!』『日本世間噺大系』など十数冊にのぼり翻訳本も多数。
墓は松山市の理性(りしょう)院。父・万作(池内義豊)の傍らの「池内家累代之墓」に眠っている。墓所は市内を見渡せる高台にあり素晴らしい眺め。周囲の真新しい墓に対して伊丹家(池内家)の墓所だけが苔むしているが、これは伊丹家のこだわりとのこと。墓前をコンクリートで固めず土のまま自然の状態にしているのも墓所では伊丹家だけ。苔の生えた墓石にはイブシ銀の風格があり、風流を愛した十三を象徴する墓所となっている。
※完全主義者の十三は、テーマとする題材を徹底して取材し、映画撮影時も俳優に一切アドリブを許さず、あらゆる小道具にとことんこだわった。
※十三はネコが超大好き。自分が描いた愛猫の絵をプリントしたオリジナルTシャツを作っていたほど。
※スパゲティの理想的な茹で上がりを指す「アル・デンテ」という言葉を、日本で初めて紹介したのが十三(『ヨーロッパ退屈日記』)と言われている。
※丸腰の十三を数人がかりで襲った山口組系組員たちは4〜6年の懲役刑。言論を暴力で弾圧した卑劣な事件にしてはあまりに軽すぎる判決だった。 ※「われわれの映画は、これからも様々な観客に出会い、各人の中でさまざまな形で完成されてゆくでしょう。私としては、それぞれの出会いが幸せなものであることを祈るのみです」(伊丹十三)
※「(終戦翌年に記す)多くの人が、今度の戦争で騙されていたという。みながみな、口を揃えて騙されてたという。私の知ってる範囲では、“俺が騙したのだ”と言った人間はまだ1人もいない。(略)“騙されていた”といって、平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でも騙されるだろう。いや、現在でもすでに別の嘘によって騙され始めているに違いないのである」(伊丹万作) 主な参考URL:伊丹十三記念館 |
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| 2004年に遺骨が故郷島根に改葬されたので、現在は墓碑だけが残る |
| 文芸評論家であり新劇運動の先駆けとなった演出家。坪内逍遙と文芸協会を設立。42歳の時に15歳年下の女優・松井須磨子とのスキャンダルが発覚して両者は退会、芸術座を結成する。トルストイを脚色した「復活」が大ヒットして全国巡演を行うなど精力的に頑張るが、抱月は間もなくスペイン風邪(インフルエンザ)で急死した。松井須磨子は抱月の死の2ヶ月後、彼の後を追って芸術座の道具部屋で自殺した。彼女は35歳だった。 |
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| クレール家の廟はヒョロとっした縦長 | 扉のガラス越しに接写。「Rene Clair」の名前が見える |
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| 中央の通路は遠近感がおかしくなりそう | 同タイプの廟が無数にあり探し出すのは大変に思えた けど、幸いにも監督の墓はゲート(裏門?)の近くだった |
ブローニュの森。歩いてすぐ近くにある |
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| かなり広大な墓地 | 往年の映画ファンは感涙の墓 | 13区周辺にいた |
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| 墓の上にドッコーンと大きな植木があり、肝心の名前が隠れちゃってた |
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| Calimesa近郊 | 遺灰はこの一帯に撒かれたとのこと! |

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| 墓地入口のグリフィスを讃える看板 | 牧場の囲いチックなグリフィス監督の墓所 | グリフィス監督の墓には鷲(?)の紋章が入っていた |
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| 自家用ジェット機オンリー、超大金持ち専用空港! | 一生縁がなさそうな空港っす | 遺灰はこの上空で撒かれたという |
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| マリブーの海岸のベンチの刻印 | ペキンパー監督の遺灰はこのマリブー海岸に…合掌 | 当ビーチには自由に入ることが出来る |
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| マリブーの海岸はペリカンまつり開催中! |
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| ヒッチコック監督の葬儀が行なわれたビバリーヒルズのGood Shepherd Catholic Church! | 葬儀後、太平洋に散骨された(写真は太平洋@ロス沖) |
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| なんとトランボ監督は、医学の発展の為にこのUCLAの大学病院に自分の亡骸を献体したという |

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| 墓碑の言葉は映画『お熱いのがお好き』から、「完璧な人間なんていないさ」。ブラボー! |
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| 画面中央の塀の背後がルロイ監督の眠る「Garden of Honor」 | 残念ながら一般非公開。門は固く閉ざされていた(涙) |
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| 向かって右がデミル監督 |
所属するパラマウントが“デミル王国” といわれるほど成功した |
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| デミル監督の墓参時に“野良クジャク”が いて目を疑った。ここ墓地だよ!? |
しかもこいつらが、いきなり狂った ように大喧嘩!ビビるっつーの! |
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