作曲家の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

作曲家コーナー PART2 PART1へ



★プロコフィエフ/Sergei Sergeevich Prokofiev 1891.4.23-1953.3.5 (ロシア、モスクワ 61歳)1987
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation

 

バレエ組曲ロミオ&ジュリエット。よくぞシェイクスピアの台本にここまで完璧な音楽をつけたもの。
運命的かつ官能的な楽曲は、正直、舌を巻かずにはおれぬ!

●墓所はモスクワのノヴォデヴィッチ修道院/Novo-Devichy (Nowodjewchij) Cemetery
最寄り駅は地下鉄スポルチーヴナヤ駅(徒歩10分)。他にショスタコーヴィチ、スクリャービン、リヒテルらが眠る。




★ヘンデル/Georg Friedrich Handel 1685.2.23-1759.4.14 (イギリス、ロンドン 74歳)2002
Westminster Abbey, London, England

  

バッハと同じ歳のヘンデル。現在ではバッハの方が有名だが、当時はヘンデルの天下だった。
『メサイア』という曲の中に、名曲“ハレルヤ”が含まれている。




★シベリウス/Jean Sibelius 1865.12.8-1957.9.20 (フィンランド、アイノラ 91歳)2005
Ainola (Jean Sibelius Home), Jarvenpaa, Finland





駅員に道を尋ねようと思っていたので駅に
降りて絶句!無人駅!目の前は野原!
周辺地図ナシ!
シベリウスの墓は彼の家の庭にあると
のこと。しかし、誰かに方角を聞くにも、
通行人が一人もいないッ!
ようやく遭遇した民家。
突撃して住人のお婆さん
から道を教えてもらう
「ホントにあってるのか…?」
この地味で目立たない門が
シベリウス・ハウスの入口だった




この家がシベリウス博物館になっている 裏庭の奥の方にあったシンプルな墓。デカい!

フィンランドの国民的作曲家。祖国の自然と歴史に根ざした交響詩などを書いた。「フィンランディア」は第2の国歌。
シベリウスは交響曲第7番を完成させた後、第8番の作曲に取り掛かったが、7番を超えるような納得いく作品を書けずに苦悩。
書いては破棄を繰り返し、1929年、64歳で創作活動を停止し、91歳で他界まで28年間も沈黙を続けた。遺言によって残された楽譜を娘が燃やした。

昔、僕がまだクラシック・ファンでなかったころ、クラシックはどの曲も同じに聴こえた。作曲家の違いはもちろんのこと、作曲家が暮らしていた国なんて見当もつかなかった。なのにシベリウスを聴き込むにつれ、彼が愛してやまない北欧の自然、森や湖へ連れて行かれてしまうのが分かるんだ。部屋の空気が一変する。

晩年の言葉「こんなにも自然が美しいのに、この世に別れを告げるのはつらい」



★ストラビンスキー/Igor Fyodorovitch Stravinsky 1882.6.17-1971.4.6 (イタリア、ヴェネチア 88歳)2002
Cimitero di San Michele, Venice, Veneto, Italy





水の都ヴェニスには墓地だけの島がある! 船に乗ってここまでやって来た!

『春の祭典』はリズム地獄が心地よい。ある種、快楽の極み。

★ヨハン・シュトラウスT世/Johann Strauss 1804.3.14-1849.9.25 (オーストリア、ウィーン 45歳)1989&94&02
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria/Plot: Group 32 A, Number 15






珍しい三角形の墓 45歳で他界 左後方に見える墓は息子(U世)のワルツ王

オーストリアの作曲家。「ワルツの父」。ウィンナ・ワルツの基礎を作った。「ラデツキー行進曲」など約250曲を遺す。



★ヨハン・シュトラウスII世/Johann Strauss II 1825.10.25-1899.6.3 (オーストリア、ウィーン 73歳)1989&94&02&05&15
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria


親友のブラームス(右側)と 左がシュトラウス、右がブラームス(2005)

1994 2002 2015

親子でワルツ王。ウィンナー・ワルツはクラシック・ファンに“思想性が皆無”と小馬鹿にされがちだが、
ド硬派ガチガチのブラームスさえ、シュトラウスの流れるような楽曲を絶賛していた。




★ガーシュウィン/George Gershwin 1898.9.26-1937.7.11 (USA、NY郊外 38歳)2000&09
Westchester Hills Cemetery, Hastings-on-Hudson, Westchester County, NewYork, USA /400 Saw Mill River Road




 
ジャズとクラシックを融合! 彼の墓は正門をくぐるとすぐ右側に見えてくる





庭師たちが墓前の木陰でちょっとひと休み(2000) 9年後に再訪。緑が美しかった(2009) 扉から中を覗くとジョージの名前が見える

ロシア・ユダヤ系移民の2世としてNYブルックリンに生まれる。16歳から楽譜商の試奏ピアニストとして働き、20歳ごろには兄と組んで流行歌を生み出していた。26歳(1924年)、当時ダンス用の低俗な音楽と軽視されていたジャズと、クラシックを融合した『ラプソディー・イン・ブルー』を発表。保守的な批評家からは「クラシックの冒涜」と叩かれたが民衆は喝采した。2年後に『パリのアメリカ人』を完成。この曲は途中で“自動車の警笛”が登場するなど実に型破り。36歳(1934年)、ガーシュウィンの最高傑作となるオペラ『ポーギーとベス』を発表。ゴスペルや黒人霊歌を愛していた彼は、このオペラの主要キャストをなんと全員黒人にした(警官役だけが白人=歌はなし)。まだ人種差別が激しかった時代、これは前代未聞の「事件」だった。意味のない偏見を無視し「良いものは良い」とする彼。同作品からはスタンダードの名曲「サマータイム」が誕生した。この子守歌は3幕まで各幕に登場するが、3幕目は両親を失った子どもに歌われ悲痛極まりない…。娯楽オペラに社会問題を入れ込んだガーシュウィン革命。未来を期待されていた彼だが、脳腫瘍の為わずか38歳で旅立った。

「ピアノの鍵盤に触れたとたん、指先からメロディーが流れ落ちてきた」(ガーシュウィン、“ラプソディー・イン・ブルー”の作曲時に)
「ガーシュインこそ唯一、真のアメリカ音楽だ」(トスカニーニ)




★ロベルト・シューマン/Robert Alexander Schumann 1810.6.8-1856.7.29 (ドイツ、ボン 46歳)1989&1994&2015
★クララ・シューマン/Clara Josephine Wieck-Schumann 1819.9.13-1896.5.20 (ドイツ、ボン 76歳)1989&1994&2015
Alter Friedhof, Bonn, Germany






16歳のクララ ヨーロッパ最大の女性ピアニスト! 作曲家でもあった 女手一つで7人を育てる







青春時代のシューマン クララと炎の大恋愛 有名なポートレート 1847年、37歳と28歳 クララに夢中のブラームス




ボン旧墓地の中央部に眠る 上部のレリーフ クララとよく似たミューズ





1994年 手前に2人の名前 シューマンが身を投げた、父なるライン川

ロマン主義運動の旗手を自任したドイツの作曲家。1810年6月8日生まれ、ザクセン出身。5人兄弟の末子。書籍商の父は少年シューマンをベートーヴェンの交響曲や著名ピアニストの演奏会に連れて行き、シューマンは音楽の素晴らしさを早くに知った。父はシューマンの楽才に気づいてピアノを買い与え、彼はピアノに夢中になった。7歳頃にピアノ曲を作曲し、11歳で合唱と管弦楽からなるオラトリオ(宗教音楽)を書いている。シューマンは早くから文学にも目覚めており、15歳でドイツ文学サークルに入りゲーテやシラーを愛読、中でもジャン・パウルの小説に熱中した。この頃、ピアノ連弾でベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」を演奏。16歳の時に姉が川で入水自殺し、同年に父も他界しショックを受ける。1827年、17歳の年にベートーヴェンが死去。
1828年(18歳)、友人と旅行して詩人ハイネに会う。この年、シューマンの自作詩が夕刊に掲載された。母の意向で法律家になるべくライプツィヒ大学の法学部に進んだが、音楽好きの学友たちと室内楽(シューベルトのピアノ三重奏曲第1番など)の演奏に熱中し、学業がおろそかになっていった。
夏にライプツィヒの知人家の音楽会で、シューマンはピアノ教師のフリードリヒ・ヴィーク(1785-1873)と娘クララ(ドイツ語ではクラーラ/1819-1896)の父娘と運命的な出会いをする。クララはまだ9歳だったが、5歳から父の指導を受け、この年にゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会でモーツァルト・ピアノ協奏曲を弾き大成功を収めていた。彼女はプロデビューを果たし、神童としてドイツ全土に名が知れ渡っていった。
同年11月にシューベルトが31歳で夭折。シューマンは「私だけのシューベルト」と語るほどシューベルト作品を好んでいたため、訃報に接し一晩中泣いたという。

翌年、ハイデルベルク大学に転校すると、シューマンはピアノの名手として当地で評判になり、バーデン大公妃に招かれて演奏を披露した。自由な学生の街ハイデルベルクでシューマンは青春を謳歌し、酒を飲み葉巻を吸った。
1830年(20歳)、友人と訪れたフランクフルトで天才ヴァイオリン奏者パガニーニ(1782-1840)の演奏を聴き深く感動し、母に法律を捨て音楽で身を立てる決意を伝えた。母が反対したことから、ピアノの師ヴィークがシューマンの母に息子の音楽的才能を保障し、住み込みでレッスンさせることを約束した。10月、ライプツィヒのヴィーク家でシューマンの新たな生活が始まった。ヴィークのレッスンは極めて厳格で容赦なかった。この年、公式に作品番号1となったピアノ曲『アベッグ変奏曲』を作曲。
1831年(21歳)、シューマンは無理な練習がたたって右手の指を負傷し、ピアニストになる夢を断たれてしまう。その後は作曲と音楽評論に力をそそいだ。同年、ジャン・パウルの小説に霊感を得たピアノ曲『蝶々(パピヨン)』を書く。一方、12歳になったクララはヨーロッパ各地で演奏を行い、先々で皇帝から市民まで聴衆を感動させた。シューマンはクララに手紙を書く。「私はよくあなたのことを考えます。妹や女友達としてではなく、巡礼者が遠く離れた祭壇画に想いを馳せるように」。

1832年(22歳)、同い年のポーランド人ショパン(1810-1849)の演奏(『ラ・チ・ダレム変奏曲』)を聴いたシューマンは「諸君、脱帽したまえ、天才だ」とショパンを讃える論文を音楽雑誌『一般音楽新聞』(ドイツ最初の音楽雑誌)に寄稿、これが最初の音楽評論となる。ただ、同誌は保守的で、以降、シューマンの寄稿は掲載されなくなっていった。同年、13歳のクララが作曲したオーケストラ曲が演奏されている。
最初の交響曲『ツヴィッカウ交響曲』に着手するが未完成に終わる(第2楽章まで完成)。この曲は第1楽章のみが初演され、これが作曲家シューマンのデビュー作となった。
1833年(23歳)、兄夫婦が相次いで病死。シューマンは後に生命を奪うことになる精神病の最初の兆しを日記に記した。「10月から12月にかけ、怖ろしい憂鬱病に悩む。気が狂うという固定観念が僕をとりこにした」。シューマンは“思考力を失ったらどうなるのだろう”と怯え、医者に「自分の生命に暴力をふるわないと約束できない」と相談した。

1834年(24歳)、ドイツの保守的な音楽批評に風穴を開け、若い音楽家の作品に耳を傾けさせる目的で友人らと『新音楽時報』を創刊(なんと現在も隔月で刊行中)。同誌で10年間ペンを執り、闘士風のフロレスタン、詩人風のオイゼビウスといったペンネームで新進音楽家ショパン、メンデルスゾーン、ベルリオーズらを世に紹介した。『新音楽時報』はドイツでもっとも影響力のある音楽雑誌に成長していった(後にワーグナーも編集部員となった)。シューマンは作曲家としてよりも批評家として最初に名声を得た。同年、ヴィークの新しい弟子、18歳のエルネスティーネ・フォン・フリッケンがヴィーク家に住み込み、シューマンと彼女は恋愛関係となり半年で婚約まで進む。だが、後に両者の合意で婚約は解消された。理由は彼女の複雑な家庭事情と、シューマンがクララへの愛に気づいたこと。

シューマンのピアノ曲はその多くが短い小品を集めた組曲形式をとり、小規模な枠組みの中でひとつの世界観を描いている。1835年(25歳)に書かれた全20曲の初期の傑作『謝肉祭』はエルネスティーネとの恋愛から生まれた。同年、初めてソナタ形式の大作に挑んだ『ピアノソナタ第3番』はクララに献呈された。技巧的で華やかな5楽章の『ピアノソナタ第3番(グランドソナタ)』には“管弦楽のない協奏曲”のタイトルが付けられた。エルネスティーネの父が作曲した主題を使った変奏曲『交響的練習曲』(1837年)もオーケストラの響きを持つ名曲として知られる。
この年、ひとつ年上のメンデルスゾーンがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者に就任し、暮れに15歳のクララがメンデルスゾーンの指揮で、彼女が書いた『ピアノ協奏曲第1番』を演奏した。

エルネスティーネと別れた後、それまで兄妹のようだったシューマン(25歳)とクララ(16歳)は恋愛関係になっていく。クララの父ヴィーク(50歳)は弟子と愛娘の関係に気づいて驚愕した。ヴィークはクララが幼い頃に歌手の妻と離婚しており、ヴィークにとって彼女は男手一つで育てた宝物だった。コンサート・ピアニストとして活躍させるのが夢であり、主婦として家庭に入るなど考えられなかった。前年にクララは15歳にして3楽章の『ピアノ協奏曲』を完成させており、作曲家としても前途有望だった。
1836年(26歳)、ヴィークが2人を引き離すためクララをドレスデンに引っ越しさせると、シューマンは彼女を追ってドレスデンに行き4日間を2人で過ごした。直前にシューマンは母を失っており人恋しさが増していた。この密会を知ってヴィークは激怒し、クララをライプツィヒに連れ戻すと、手紙の検閲を行い、単独外出禁止を命じた。シューマンはヴィーク家に出入り禁止となる。
ヴィークは娘を失う恐怖のあまり、「シューマンは大酒飲み」とデマを流して新聞で中傷し、街角でシューマンを見かけると罵詈雑言を浴びせて唾を吐きかけ、クララの声楽教師にクララの恋人役を演じさせようとするなど、異常な行動を取るようになった。父想いのクララは「このままでは父は死んでしまう」といったん別れを決意し、シューマンの手紙をすべて送り返した。

1837年(27歳)8月、シューマンを心から愛していたクララは、自分の演奏会でシューマンが献呈してくれた『ピアノソナタ第1番』を弾き、その数日後に結婚を承諾する手紙を彼に送った。この婚約を踏まえ、翌月、シューマンはヴィークと話し合うために面会を求める手紙を書く。結果はシューマンいわく「会見は僕への敵意に満ちた恐るべきものでした」「父上は人の胸に言葉の刃物を突き刺してくるのです」。ヴィークはシューマンの収入面も懸念しており、結婚は許可されなかった。クララの手紙「父の無礼な振る舞いの数々を心苦しく思います。私を幸福に出来るのは愛だけです。あなたのためだけに生き、すべてをあなたに与えましょう」。シューマン「どちらか一人を君は諦めねばならない。父か、それとも私か」。

1838年(28歳)、クララと会うこともできず、苦悩の日々を送るシューマンだったが、彼女への想いを作品に昇華することで次々と傑作が生まれていった。「トロイメライ」を含む優しさあふれるピアノ曲集『子供の情景』は、少女時代のクララを思い浮かべて書かれた。ひとつ年下のフランツ・リスト(1811-1886)は『子供の情景』に感動し、シューマンへの手紙に「この曲のおかげで私は生涯最大の喜びを味わうことができた」「週に2、3回は娘のために弾いています」「しばしば第1曲を20回も弾かされ、ちっとも先に進みません」と書き綴った。ショパンに献呈された傑作『クライスレリアーナ』は、ホフマンの著作に登場する人物にクララの姿を重ね合わせて書かれた。『幻想曲 ハ長調』はボンにベートーヴェン記
念像を建てるための寄付金目的で書かれたが、ベートーヴェンの歌曲『遥かなる恋人に寄す』を引用することでクララへの想いを込めた。前年には各曲に文学的な標題が付いた抒情的なピアノ曲集『幻想小曲集』を作曲している。

同年秋から半年間、シューマンはウィーンに滞在した。そして敬愛するベートーヴェンとシューベルトの墓参りを実現させた。このときベートーヴェンの墓前で鉄製のペンを拾い、後にこのペンで交響曲第1番が書かれる。生前のシューベルトの話を聞きたくてシューベルトの兄の家を訪ね、そこで遺稿の中から『交響曲第8番“ザ・グレート”』の草稿を見つけるという大発見をする。シューマンは“ザ・グレート”を「天国的な長さ」と紹介、数ヶ月後にライプツィヒにてメンデルスゾーンの指揮で初演され空前の成功を収めた。
一方、クララは10代後半にしてその名がヨーロッパ中に伝わり、演奏を聞いたショパンは「僕の練習曲集を弾ける唯一のドイツ人女性」と激賞。オーストリア皇帝フェルディナント1世から最も栄誉ある「王室皇室内楽奏者」(外国人女性で初)の称号を授与され、ゲーテからは「才能ある芸術家クララ・ヴィークのために」と銘文が刻まれたメダルを贈られた。クララは当時では珍しい女性作曲家でもあり、リストはその独創性を讃えてクララの3つの歌曲をピアノ独奏曲に編曲した。
この年6月20日の手紙「クララ、君はもっと早く僕と一緒にならなければいけない。性急だと言わないでほしい。1分でも遅れたら死ぬも同然だ。これ以上は耐えられない」。9月、クララはリサイタルで左手の薬指に指輪をしてステージに出た。シューマンは感動を手紙に綴る「昨日、僕はずっとステージの君を見ていた。何という指輪の輝きだったろう。君をしっかり、しっかり抱きしめたい。美しい心と完璧な偉大な芸術を備えた我がクララ」。

1839年(29歳)6月、クララは経済上の不安に触れた手紙を書く「父はあなたが生活の成り立つ未来を約束できると分かり次第、すぐにでも同意してくれるそうです。実際、(生活費の)心配のために素晴らしい芸術家の生活が曇ると、あなたはご自分をとても不幸と感じるでしょう。そのようなことからあなたを守ることが私の義務と心得ています」。シューマンは自尊心が傷つく。「まるで死者のように冷たい手紙だった。友人たちはみんな僕への愛を疑っている。愛するクララ、もっと慎重に言葉を選んで欲しい」。その2週間後、言い過ぎたと思ったのか次の手紙を出す「いつも側にいてもらうためには、僕は自分を高めなければ。君の心には大きく豊かな愛が宿っている。たくさんの美しい特性がそこにある」。
ヴィークは「シューマンが求婚を諦めないなら撃ち殺す」と語っており、もはや和解は不可能と悟ったシューマンは、7月、裁判で結婚許可を得るべく、クララの同意のもと訴訟に踏み切った。訴状にはシューマンとクララのサインがあった。シューマンの手紙「今なら君が僕を誠実に愛してくれていると実感できる。君が署名しているところを見たから。愛しいクララ、この世が君にとってずっと良きものであってほしい!」。憤慨したヴィークはクララを家から追い出し、彼女はベルリンの実母に引き取られた。ヴィークは街でシューマンに平手打ちを食わせ、偽名を使ってシューマンの悪口を並べ立てた手紙を書き、クララに送りつけた。この手紙にはさすがのシューマンも怒ってヴィークを名誉毀損で訴える。

高名なメンデルスゾーンまでがシューマンに有利な証言をしたことから、ヴィークは法廷闘争を諦め、1840年8月12日、裁判所から待望の結婚許可が下された。ヴィークは偽手紙の件で2週間の禁固刑に処された。判決から1カ月後の9月12日にシューマン(30歳)とクララ(20歳)は結婚し、クララは翌日に21歳の誕生日を迎えた。リストも結婚式に駆け付けた。クララの結婚承諾から3年を経てのゴールインだった。シューマン夫妻は共通の日記を付け、日々の出来事や悩みごとを書き記し、日曜日のコーヒータイムに一週間分を朗読し、2人で生活改善に向け何をすべきか話し合った。
1ページ目はシューマンが書いた。「2人の願いや悩みを記そう。お互いに対する希望のノートだ。2人に誤解が生じたときは仲介と和解のノートにしよう。ここに全てを打ち明け心を開こう。そして日曜日には一週間を振り返り、品位があり活動的だったかどうか、内面的にも外面的にも満たされた状態で安定していたか、僕たちの愛すべき芸術がさらに完璧に近づいていったかどうかを吟味しよう」。続く第一週。「あふれんばかりの幸福。妻は真の宝で、しかも日増しに大きくなる。君はどれほど僕を幸福にしているかしっかり感じて欲しい。初めての料理も素晴らしく美味しかった」。クララの最初のページ「私は今までにこれほど幸福な日々を経験したことはありません。私はこの世で一番幸福な妻なのです。私は毎分ごとにあなたをさらに愛するようになっていく気がします」。

シューマンは当初ピアニスト志望だけあってこれまでピアノ曲を中心に作曲していたが、この結婚の年に歌曲の創作に目覚め、1840年は彼にとって“歌の年”となった。シューマンいわく「ほかの音楽には全く手がつかなかった。私はナイチンゲールのように、死ぬまで歌い続けるのだ」。わずか一年のうちに、実に120曲以上もの歌曲を生み出した。アイヒェンドルフの詩による『リーダークライス』、ゲーテ他の詩人の詩による『ミルテの花』、シャミッソーの詩による『女の愛と生涯』、ハイネの詩による『詩人の恋』などの連作歌曲を次々に書きあげた。これらは詩の行間まで美しく繊細な音楽で描写され、ピアノの役割は単なる歌の伴奏ではなく、歌とピアノが対等の立場で詩の世界を表現した。
新婚の2人は一緒にバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を研究し、次にベートーヴェンの弦楽四重奏曲を読み込んだ。

1841年(31歳)、『交響曲第1番“春”』が完成、シューマンは日記に「このような大曲をかくもたやすく、かくも短期間に完成させたまう神に感謝する」と綴った。初演は成功を収め、以降シューマンが本格的に交響曲を書き始めた点から、本年は「交響曲の年」と呼ばれる。長女が生まれ、生活費のためにクララは演奏旅行の回数を増やした。
1842年(32歳)、リストの勧めで室内楽曲の研究を開始、渋みが光る『ピアノ五重奏曲』を6日間で、朗々とした『ピアノ四重奏曲』を5日間という驚異的な速筆で書きあげた。本年は「室内楽曲の年」と呼ばれる。同年の北ドイツの演奏旅行で、クララだけが宮廷に招待され、傷ついたシューマンは一人ライプツィヒに戻った。同年、シューマンは過労で倒れボヘミアの温泉で療養した。

1843年(33歳)、ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者メンデルスゾーンが創設したライプツィヒ音楽院の講師に招かれ『新音楽時報』を去る。ベルリオーズとの交流で創作欲が刺激され、同年、エジプトやインドを舞台にしたオラトリオ『楽園とペリ』を完成させ、初演で大成功を収めた。名声を手に入れたシューマンのもとへ、クララの父から「親愛なるシューマン、対立していても芸術において私たちはつねに一つでした」と和解を求める手紙が届いた。年末に両者は長年の確執を超えついに和解し、クララは「これでようやく私の切なる願いが聞き届けられました」と喜びを日記に記す。子ども達はお爺ちゃん(ヴィーク)からクリスマスプレゼントをたくさん買ってもらった。
1844年(34歳)、5カ月に及ぶロシア訪問。クララはショパン、リスト、アントン・ルビンシテインと並ぶ19世紀の最も有名なピアニストの一人であり、帝都サンクトペテルブルクでロシア皇帝の前で御前演奏を行った。かたやロシアでは知名度の低かったシューマンは「ピアニストの夫」という扱いに終わった。シューマンは現実を受け入れた。「芸術家が結婚すれば、当然そうなるに違いないのだ。結局のところ、大切なのは幸せをずっと永続きさせることである」。
だが、シューマンは帰国後に重度の神経疲労に陥った。高所恐怖症、体の震え、鋭利な金属への恐怖症に苦しみ、幻聴が作曲を不能にした。クララは夫が恐ろしい妄想で一睡も眠れず涙に暮れている姿を見て胸を痛めた。シューマンは環境を変えることを決意し、ライプツィヒ音楽院の職を辞しドレスデンに転居した。

1845年(35歳)、ドレスデンは音楽家の地位が低く、保守的な空気が支配しておりシューマンを失望させたが、それでも4年がかりの労作『ピアノ協奏曲イ短調』を書きあげた。初演でクララがピアノを弾いたこの曲は、豊かな音色が奔流となって聴く者を包み込む名曲で、シューマンの代表曲のひとつとなった。年末の演奏会で病気のクララの代役で登場した14歳の天才ヴァイオリン奏者ヨーゼフ・ヨアヒムは、後にシューマンとブラームスを巡り合わせる。
翌1846年、幻聴と戦いながら『交響曲第2番』を完成させ、1847年(37歳)に『ピアノ三重奏曲』を書いた。この時期、夫婦には4人の子がおり、生活費を稼ぐために演奏旅行を繰り返した。だが、ウィーンの演奏会は不評で、楽屋で荒れるクララをシューマンが「落ち着きなさい、10年経てばすべてが変わるよ」となだめた。 ウィーンから帰ると長男が1歳で早逝、秋には
盟友メンデルスゾーンが38歳の若さで他界し、シューマンには辛い出来事が続く。その中で、生まれ故郷ツヴィッカウで開催されたシューマンを讃えた記念祭が慰めになった。
1848年(38歳)、おそらく長男の追悼の想いを込めたのであろう、「楽しき農夫」を含む『子供のためのアルバム』を作曲。同年6月、シューマン家をリストが訪問した。37歳のリストは強烈な上昇志向を持ち、皮肉屋の一面があった。シューマンがセッティングした晩餐会を2時間も遅刻してきたうえ、シューマンの親友かつ前年に他界したばかりのメンデルスゾーンの批判を始めた。リストはメンデルスゾーンの2つ年下だ。怒りの沸点に達したシューマンは両肩を鷲掴みにし、「そんな風にいえるあなたは、いったいどれほどの人間なのだ?」と叫び部屋を出ていった。リストはクララに謝罪した。「ご主人は、私がきつい言葉を冷静に受け止めることができたただ一人の相手です」。この騒動にもかかわらず、リストはシューマンの作品を積極的に演奏し続け、後にシューマンはリストへの手紙に「大切なことは絶えず努力し、向上することです」と書いて水に流した。
1849年(39歳)、オペラ『ゲノフェーファ』を発表するが台本に一貫性がなく不成功に終わった。劇付随音楽『マンフレッド序曲』完成。

1850年(40歳)、バッハ没後100年。「バッハは芸術の半神であり、あらゆる音楽の根源」「我が手本とする双璧はバッハとベートーヴェン」「バッハには到底かないません。彼は桁違いです」とバッハを崇拝していたシューマンは、バッハ作品がほとんど出版されていない現状に憤り“バッハ協会”設立のために奔走した。
同年、デュッセルドルフの音楽監督を引き受け、秋にドレスデンから移住。憂鬱なドレスデンの日々が終わり、ライン河畔で明るい新生活がスタートしたことに胸を弾ませ、『交響曲第3番“ライン”』を1カ月強で書きあげた。シューマンには『交響曲第4番』もあるが、そちらは出版が10年以上も遅れた作品であり、時系列ではこの『ライン』が最後の交響曲となった。病気については、宿の2階の部屋にいられないほど高所恐怖症が悪化していたが、2週間で『チェロ協奏曲』を作曲するなど創作能力は研ぎ澄まされていた。

1851年(41歳)、シューマンは神経の発作に悩まされながらも、4日間で『ヴァイオリンソナタ第1番』を、一週間で『ピアノ三重奏曲第3番』を完成。7人目の子が生まれ、クララは演奏家と母親、妻の両立に追われた。
1852年(42歳)、神経症が悪化し言語障害も出て創作活動が滞る。当初はシューマンに好意的だったデュッセルドルフの音楽関係者は、指揮棒を落としたり、楽団員との意思疎通が不得手なシューマンを批判し、オーケストラの理事会は音楽監督職の辞任を求めて総辞職した。

1853年(43歳)、9月に当時20歳のブラームスがヨアヒムの紹介状を持って訪れてきた。ブラームスが自作のピアノソナタを弾き出すと、シューマンは才能に驚いてすぐにクララを呼びに行き「もう一度最初から弾いてくれ」と頼んだ。翌月、その興奮を胸に10年ぶりに『新音楽時報』に寄稿、「新しい道」と題してブラームスを熱烈に賞賛、彼の名を広く楽壇に紹介した。ブラームスにとってシューマンは生涯の恩人となった。ヨアヒムに触発され遺作となる『ヴァイオリン協奏曲』を作曲。
同年秋、シューマンの病気が進行し、演奏を開始できないという事件が起きる。それまでも楽団員に演奏指示を出せないシューマンの代わりに、クララが「ここは弱く演奏して欲しいと主人は思っています」など代弁していたが、“事件”をヨアヒムはこう証言している。「彼は指揮棒を振り上げたまま立っていて、オーケストラ・メンバーは楽器を構えたまま、いつ弾き始めたらよいかわからないのだった。コンサートマスターと私が手で合図して演奏を開始すると、シューマンは嬉しそうに笑いながらついてくるという有様だった」。この日を最後にシューマンが指揮台に上ることはなかった。麻痺の発作も出て、会話の内容が次第に意味不明になっていった。

1854年2月10日、シューマンは耳の激痛に襲われた。その4日後、レストランで読んでいた新聞を置き「とてもこれ以上読んでいられない。ラの音が鳴りっぱなしで聞こえるんだ」と知人に苦しみを訴えた。クララは日記で「かわいそうなロベルト」と同情する。「彼にはどんな音も音楽に聞こえ、これが止まらなければ気が狂ってしまうと何度も訴えています」。
2月17日、シューマンは天使たちの歌を聴き、翌日は悪魔の幻覚に襲われた。その後は発作と小康状態を繰り返し、26日に「妻子を傷つける前に精神病院に入れてほしい」と訴えた。翌日(2月27日)、クララが医師と話し合っている間にシューマンはガウンとスリッパのままで家を抜け出した。寝室には「2人で結婚指輪をライン川へ投げ入れよう、そして二つの指輪をひとつにしよう」と書き置きがあった。シューマンは橋の上から結婚指輪を投げ込むと真冬のライン川に身を投げた。たまたま落ちるところを目撃した漁師に助けられ一命を取り留めた。クララは妊娠中で非常に疲労していたことから、医師は自殺未遂のことを伏せておいた。翌月、シューマンは自身の希望でボン近郊エンデニヒの精神病院に入院、3カ月後に末子フェリックスが生まれた。
医師はシューマンの神経を刺激しないよう家族に面会を許さなかったが、友人のブラームスやヨアヒムは許可された。ワインを飲んでいたシューマンが、突然「毒が入っている」と床に流しまうこともあった。
当初、シューマン自身は回復して退院するつもりだったが、症状は進行し、常に室内を歩き回り、食事を拒否してやせ衰えていった。翌夏は“バネが壊れた機械のように”ピアノを弾いていた。
1856年6月8日、ブラームスが見舞いに行くとシューマンは足が腫れ上がって寝たきりになり、地図の地名をアルファベット順に並べていた。翌月、クララが生活費を得るために敢行したイギリス演奏旅行から帰宅すると、「患者が存命のうちにお会いになりたければ至急おいで下さい」と病院から容体悪化の電報が届いた。クララは7月27日に着き、シューマンと2年ぶりに再会する。シューマンはクララに微笑みかけ、自由がきかない体で懸命に腕を回した。クララの回想「私はそれを決して忘れません。世界中の宝を持ってしても、この抱擁にはかえられないでしょう」。
2日後の1856年7月29日午後4時、シューマン他界。享年46。最後の言葉は「おまえ…ぼくは知っているよ」。
翌々日、ボンで葬儀があり、ブラームスら友人が棺を担ぎグリルパルツァーが弔辞を述べた。他界2年後にシューマンの友人でバイオリン奏者のヴァジェレフスキが最初の伝記を出版した。この年、クララは夫がライン川で自殺未遂をしたことを知った。

37歳で夫を失ったクララは女手ひとつで7人の子を育て上げた。女性が作曲することへの偏見が強かったことから作曲をやめてピアニストとして生き、ベルリンを拠点にして精力的に演奏活動をおこなった。そして夫のピアノ協奏曲を広め、また心の友ブラームスの音楽を世間に伝えるべく尽力した。
その後、1872年(53歳)から20年間フランクフルトの音楽院で教師を務める。1879年(60歳)から14年をかけて全29巻のシューマン作品全集が刊行された。1893年(74歳)、クララは夫を精神病のイメージで語られることを避けたい気持ちから、最晩年の病状が悪化していた頃の作品(1853年の『ピアノとチェロのためのロマンス』など)や手紙の多くを廃棄したため、シューマンの支持者にとって大きな損失となった。
クララは76歳まで生き、1896年5月20日に脳出血で没した。ボンのシューマンの墓に葬られ2人は40年ぶりに再会。ブラームスがクララの棺に土をかけた。

シューマン夫妻は旧西ドイツの首都、ボンのアルター・フリードホフ(旧墓地/Alter
Friedhof)に眠っている。ボン中央駅から西へ徒歩1キロ、墓地の門をくぐると墓地の案内図があり、シラーの妻など著名人の墓に印が入っている。敷地は3ヘクタール。右側の壁沿いに1787年7月に他界したベートーヴェンの母親の墓があり(ベートーヴェンは当時16歳)、さらに先に進むと墓地の中央部に白亜のシューマン夫妻の墓が見えてくる。上部にはシューマンの横顔のレリーフがあり、その下に白鳥、左側にヴァイオリンを持つ天使、右側に楽譜を読む天使、下からクララに似た音楽の女神がシューマンを見上げている。シューマン記念碑とも言うべきこの美しい墓は、シューマン没後24年目の1880年に除幕されたもの。その16年後にクララは亡くなった。近年改修の手が入り2016年3月に作業が終わった。
ドイツではひとりひとり独立した個人墓が主流だけど、シューマンとクララは同じ墓に眠っている。シューマンが先立った後、40年間再婚せずにいたからこそ、再び2人はひとつになれた。再婚していれば再婚相手と眠っていただろう。シューマンはクララと再会できて喜んでいるはず。いつまでも墓前にいたくなるような、そんな心温まる墓だった。

「今世紀後半の音楽は、芸術の歴史の中に、後の世がシューマン時代と呼ぶような、そういう時期として入ってゆくに違いない」(チャイコフスキー)
「シューマンは詩人であり、ショパンは芸術家である」(作家アンドレ・ジッド)
「シューマンは実は協奏曲作家だ」(池辺晋一郎)
「シューマンの歌曲は詩と音楽の香気あふれる合一である」(横溝亮一)
「シューマンの交響曲の美しさは、その細部とロマン主義的な精神の燃焼にある」(ドナルド・グラウト)
「シューマンは保守的すぎて、私の考えを受け入れることができない」(ワーグナー)

※シューマンは字が下手だった。クララが初めてシューマンに出した手紙には、追伸に「すぐお返事下さいね。ただ、字は綺麗に、ハッキリと分かるように書いて下さいね」と念押しがある。
※生涯で270曲以上の歌曲を作曲したシューマンは、それまで単なる歌の伴奏という扱いだったピアノの地位を向上させた。ピアノ・パートのこのうえない美しさから「歌の伴奏を持つピアノ曲」ともいわれる。
※シューマン夫妻の物語は『愛の調べ』『哀愁のトロイメライ』『クララ・シューマン  愛の協奏曲』と3度映画化されている。
※ブラームスとクララの物語はタカラヅカの舞台になっている。
※生誕地ツヴィッカウのシューマンの生家はシューマン博物館として公開。
※クララはユーロ通貨導入前の最後の100マルク紙幣の肖像だった。
※シューマン最後の直弟子アデリーナ・ダ・ララ(187-1961)が世界初のシューマンのピアノ独奏作品選集を録音した。
※シューマンの『ピアノ協奏曲』は『ウルトラセブン』の最終回で、『ピアノ五重奏曲』はNHK『映像の世紀』で使用された。
※末子フェリックスはシューマン他界時に2歳であり、ブラームスの子ではないかと噂が飛び交った。
※三男は父の年齢に近い42歳でモルヒネ中毒により衰弱死。
※シューマンの兄弟は全員短命でシューマンより早く没している。
※シューマンの神経症の原因は若い頃に感染した梅毒とする説が有力。
※シューマンが音楽談義をしていたライプツィヒのコーヒー・ハウス「カフェ・バウム」はドイツ最古のコーヒー店として現存。
※クララは父から演奏家は作曲家の意図を尊重した演奏をするべきと教えられており、リストのように自由に装飾する演奏スタイルには否定的だった。
※シューマンの交響曲は一般に雄大さに欠け、楽器の色彩感に乏しく、楽器の特性を引き出してないと評されるが、そこにシューマンらしい魅力がある不思議な作曲家。そして美しい。
※ボンのシューマンハウス(精神病院跡)は図書館として無料で公開されている。開館は月・水・木・金の11時〜13時半、15時〜18時。
※シューマンが歌曲で選んだ詩人は、ハイネが最多で44篇、続いてリュッケルトが42篇。ちなみにゲーテは18曲。
※ワーグナーはバイロイトで総合芸術を目指し、リストはワイマールを拠点に標題をベースにした交響詩で勝負をかけた。一方、シューマンやブラームスは交響曲を守ろうとした。
※シューマン夫妻は日常生活や芸術観で時おり対立したものの、互いに助け合い、補い合った理想的な夫婦だった。
※シューマン22歳、クララ13歳の時の作品が演奏されたプログラムには、他に当時の人気作曲家だったカール・ライシガー、ハイドン、ヨハン・ピクシス、ヨゼフ・ウォルフラム、イグナーツ・モシェレス、アンリ・ヘルツ、シャルル・ド・ベリオ、フリートリヒ・ヴィークらの名があるが、今も名が残っているのはハイドンとシューマンだけだ。

〔参考資料〕『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)『大作曲家の知られざる横顔』(渡辺学而/丸善)、『リストからの招待状』(渡辺学而/丸善)、『世界人物事典』(旺文社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)、『尚美学園大学芸術情報学部紀要第6号 クララ・シューマン』ほか。



★ベルリオーズ/Louis Hector Berlioz 1803.12.11-1869.3.8 (パリ、モンマルトル 65歳)2002&09
Cimetiere de Montmartre, Paris, France




黒光りする重厚な墓(2002) 7年後。若干、花の色が変わった(2009)

星の数ほどある全てのクラシックの中で、もっともブチ切れている曲を選ぶなら迷うことなく『幻想交響曲』だ。なんたってベルリオーズがフラれた腹いせに私怨の為に書いた曲なんだから!

第一楽章は彼女との最初の出会いを描き、第二楽章の舞踏会シーンで再会した彼女への想いが加速する。彼はその苦しい恋心を断ちきる為に、第三楽章で都会から田舎に脱出するがどうしても忘れられず、第四楽章で失恋、悲しみのあまり服毒自殺に至る。

通常、交響曲は四つの楽章でワンセットだから本来ならここで終了だけど、ベルリオーズの“復讐”はここから始まる。つまり呪いを込めた第五楽章を特別に追加したのだ。内容はこう。キリスト教では自殺者は地獄に堕ちる為、彼も地獄で目覚めてしまう。そこで図らずも悪鬼、魔女、怪物たちの狂気の宴を目撃することになるのだが、なんとデーモンの輪の中でヨダレを垂らし、鬼畜の様に踊り狂う彼女を発見するのだ!曲は醜い彼女を中心に、ドンチャン騒ぎのような猥雑な聖歌で限りなく下品に締めくくられる。ヒヨェ〜ッ!

※オペラ「トロイア人」は演奏所要時間6時間というブッ飛ぶ長さ。



★ショスタコーヴィチ/Dmitrii Shostakovich 1906.9.25-1975.8.9 (ロシア、モスクワ 68歳)2005
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation

 

墓に刻まれた楽譜はショスタコーヴィチが自分を表すモティーフとして使用していた音符。
楽譜はドイツ音名「D・Es・C・H」で日本語の発音では「デー・エス・ツェー・ハー」(イタリア音名だとレ・ミ♭・ド・シ)。
つまり、名前のドミトリー・ショスタコーヴィチ "D"mitri  "S""C""H""ostakovitchにかけているわけ!
ヴァイオリン協奏曲や、弦楽四重奏曲など多くの作品に使用されている。※情報を下さったS.Jさん、有難うございます!

交響曲の歴史は1732年(ハイドン誕生)に始まり1975年(ショスタコービチ死去)に終わった、そう考えるクラシック・ファンが多い




★シェーンベルグ/Arnold Schoenberg 1874.9.13-1951.7.13 (オーストリア、ウィーン 76歳)1994&2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria 本名:Arnold Schonberg

 

現代音楽の作曲家シェーンベルグの墓は、デザインの方も超モダン。

中期以降のシェーンベルグは難解すぎて全くついていけないけど、初期の『浄夜』は素晴らしい。やっぱり音楽はメロディーが肝心!




★サン=サーンス/Charles Camille Saint-Saens 1835.10.9-1921.12.16 (パリ、モンパルナス 86歳)1989&2002

Cimetiere de Montparnasse, Paris, France

1989 2002

壮大なスケールの交響曲第3番「オルガン付き」は、レスピーギの「ローマの松」、ワーグナーの「ローエングリン第3幕への前奏曲」
と並ぶ、フィナーレ大爆発3大名曲のひとつだ。とにかくもう、オーケストラとパイプオルガンと2台のピアノが大音響で炸裂するんだ!
あの音圧…何度聴いても涙がチョチョ切れるッ!




★ロッシーニ/Gioacchino Antonio Rossini 1792.2.29-1868.11.13 (イタリア、フィレンツェ 76歳)2004
Santa Croce Church, Florence, Toscana, Italy

フィレンツェの墓(2004) パリの墓(2009)

「ウィリアム・テル序曲」はあまりに有名。生前はベートーヴェンより人気があった。
※最初の埋葬場所はパリのペール・ラシェーズ墓地。




★ハイドン/Franz Joseph Haydn 1732.3.31-1809.5.31 (オーストリア、アイゼンシュタット 77歳)1994
Bergkirche, Eisenstadt, Eisenstadt Stadt, Burgenland, Austria//Plot: Private Mausoleum

パパ・ハイドンと慕われた アイゼンシュタットのハイドンハウス この家にハイドンは住んでいた







墓所のベルク教会。霊廟の入口は裏手ゆえ要注意 ここから入っていく。車道から見えず迷った 教会内のハイドン顕彰碑

受付で拝観料を払うと自動で扉が開く この鉄柵の向こうに→ ハイドンが眠っていた!

ウィーン「ハイドンパーク」の端っこに… 移転前の最初の墓が記念碑として残っている

「ハイドンはふざけながら感動を与え、笑いと深い感銘を備え持っている。自分のような者を2人合わせても、まだハイドンの域には到達し得ない」(モーツァルト)

オーストリアの作曲家。106曲もの交響曲を書いた“交響曲の父"。弦楽四重奏曲や交響曲の形式を大成して古典派様式を確立し、モーツァルトやベートーヴェンに多大な影響を与えた(その両者と共にウィーン古典派三巨匠の一人と称えられる)。1797年にナポレオン軍のオーストリア侵攻に対抗して書いた「皇帝賛歌/神よ、皇帝フランツを守り給え」(弦楽四重奏曲第77番「皇帝」第2楽章)は現在のドイツ国歌。68曲の弦楽四重奏曲、62曲のピアノ・ソナタ、オペラ、宗教曲、ダンス音楽、あらゆるジャンルで作曲し、総数は約1000曲(現存約700曲)にのぼる。オーストリア東端のアイゼンシュタットに居城を持つハンガリーのエステルハージ侯爵の宮廷楽長。エステルハージ宮はウィーンから40km離れていたが、楽譜出版により名声はヨーロッパ中に広がった。

1781年(49歳)、25歳のモーツァルトと親しくなり、モーツァルトから6つの弦楽四重奏曲(ハイドン・セット)を献呈されるなど交流を深め、モーツァルト死後は遺児の音楽留学に尽力する。1809年、ナポレオン軍のウィーン侵攻の砲弾が降り注ぐ中で死去。1759年に27歳で最初の交響曲を書き、77歳で没するまで創作意欲が衰えることがなかった。

遺体は熱烈な崇拝者の手で密かに頭部を切り離され、脳容量の研究対象にされたが、約150年を経た1954年に、無事に胴体の元へ戻った。代表作にオラトリオ「天地創造」、交響曲ではロンドンで披露した第94番「驚愕」、第100番「軍隊」、第101番「時計」、第103番「太鼓連打」、第104番「ロンドン」など、ハイドンを英国に招いた興行師の名にちなんだ“ザロモン・セット"の人気が高い。気取りのない人柄と作風から、人々に“パパ・ハイドン"と慕われた。

墓はウィーン郊外(南東、バスで70分)、アイゼンシュタット(Eisenstadt)のベルク教会(Bergkirche)。

※ハイドンの妻アンナ・マリアは、夫が書き上げた楽譜をケーキの台紙や鍋敷にしていた。それゆえか妻の死後「悪妻」という曲を書いている。

 
ハイドンの弟ミヒャエル・ハイドンとモーツァルトの姉ナンネルの墓(ザルツブルク、ザンクト・ペーター教会)



★エルガー/Edward William Elgar 1857.6.2-1934.2.23 (イギリス、リトル・モルビン 76歳)2005
Saint Wulstan's Roman Catholic Churchyard, Little Malvern, Worcestershire,England



コルウォール駅前の郵便局
(英国の郵便局は雑貨も売って
いてコンビニ化している)




ネットで調べたエルガーの墓は駅から2km。「30分で行ける、楽勝」と思ってたら、無人駅で駅員に道を尋ねることが出来なかった。他に降車した乗客もおらず、駅前の郵便局に飛び込んだ。経営者の中年夫婦(?)は驚いて「リトル・モルビンは山の向こうよ!?」「無茶だ、往復20km近くある。帰りは山の中で夜になるぞ」。エーッ!2kmじゃないの?僕は仰天したけど、ここまで来るのだって大変だったんだ。なんとか地図だけでも書いてもらおうとした。しかし「遠すぎるし山道のグニャグニャは説明できない」とのこと。「この村にはバスなんかないし、タクシーを呼ぶしかないわ。でも、タクシーを呼ぶと言ってもどこから…」奥さんは夫の目を見つめた。夫「よし!分かった!車を出してやる!」。なんと、奥さんに店を任せて、ガレージからマイカーを出してきてくれた!




ダンナさんの名前はロウさん。僕が
「あわわ、仕事中なのに!」とテンパると
「いいんだよ気にするな」。神ですか!?
ダッシュボード上に『ウォレス
とグルミット』のプルプル!

山道を抜け約20分後、リトル・モルビン
の教会に到着。ところが、この墓地に
エルガーの墓はなかった!真っ青の僕
「慌てるな、村人に訊いてみよう」
「ハ、ハイ!」僕はロウさんの後を
ついて行った。(T_T) ウルウル







馬具店で聞き込み中のロウさん

「あの教会だ!今度こそ墓がある
ハズ!」ロウさんもエキサイト
ドキドキ…

「エルガー・グレイブ」
キターッ!





 





エルガー


「やったー!エルガーさんだ!」墓前で思わず僕らは抱き合った。
エルガーさん、あなたがこの土地に眠って下さったおかげで、ここを訪れ
ロウさんと出会えました!ロウさんに会わせてくれて本当に有難う!
ロウさんスマイル

郵便局に戻って別れ際、ロウさんはカウンターで売っているポストカードを「この日の思い出にとっとけ」と僕にくれた。
いつになってもいい、絶対にまたコルウォールに来てロウさんに会いたい!


ロンドンのウエストミンスター寺院には彼のメモリアルがある(以前はこれを墓と思ってた)

エルガーは傑作「威風堂々」を完成した時、“うひゃー!俺はとんでもないメロディーを書いてしまった!”と
大興奮したという。実際、英国では現在“第二の国歌”と言われてるもんね。※チェロ協奏曲も最高!




スコット・ジョプリン/Scott Joplin 1868.11.24-1917.4.1 (NY、クイーンズ 48歳)2000
Saint Michaels Cemetery, East Elmhurst, Queens County, New York, USA



ラグタイムの父。黒人作曲家としては初の成功者ではないだろうか。



★バルトーク/Bela Bartok 1881.3.25-1945.9.26 (ハンガリー、ブダペスト 64歳)2005
Kerepesi Cemetery, Budapest, Hungary

 

雨上がり、光り輝くバルトークの墓!
※最初の埋葬場所はNYのFerncliff Cemetery and Mausoleum。




★モンテベルディ/Claudio Monteverdi 1567.5.15-1643.11.29 (イタリア、ヴェネチア 76歳)2002
Iglesia de Santa Maria Gloriosa dei Frari, Venice, Veneto, Italy



墓参した作曲家の中では最も昔に活躍した人物。クラシック音楽創成期の作曲家だ。



★リムスキー・コルサコフ/Nikolai Andreevich Rimskii-Korsakov 1844.3.6-1908.6.8 (ロシア、ペテルブルグ 64歳)1987&05&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation



レーピンが描いた肖像 全体に苔むした感じ(2005) 4年後、墓石上部がきれいになってた(2009)

上部のキリストのイコン、土台の装飾的な文字など、この墓は非常に凝っている!

手前から、コルサコフ、ムソルグスキー、ボロディン、
チャイコフスキー。ウィーンの楽聖墓地と並ぶ絶景なり!

アラビアン・ナイトの物語を音楽にしたのが、この曲『シェエラザード』だ。シンドバットの船が大海を航行するのが目に見えるような雄大さは圧巻!



スメタナ/Smetana Bedrich 1824.3.2-1884.5.12 (チェコ、プラハ 60歳)1994&2005
Vysehradsky Hrbitov, Prague, Czech Republic

1994 スメタナが愛したプラハの河、モルダウ 2005

組曲“わが祖国”の中に有名な『モルダウ』が挿入されている。音楽の力はすごい。スメタナと同じくチェコに生まれた
画家ミュシャは、晩年このモルダウを聴いて作風がガラリと変わったと告白している。※スメタナは晩年に発狂した。




★ロドリーゴ/Joaquin Rodrigo 1901.11.22-1999.7.6 (スペイン、アランフェス 97歳)2005
Aranjuez Cemetery, Aranjuez, Madrid, Spain

  

ギターの形をした墓石には代表曲「アランフェス協奏曲」の第2楽章が彫られていた!



★パガニーニ/Nicolo Paganini 1782.10.27-1840.5.27 (イタリア、パルマ 57歳)2005
Cemetery Della Villetta, Parma, Emilia-Romagna, Italy

   

パガニーニは作曲家としてより演奏家として有名だ。彼があまりに超絶技巧を駆使するので人々は
「悪魔と取引したのだ」と噂しあった(実際、彼の死の際にカトリック教会は葬儀を拒否した)



★スクリャービン/Alexander Nikolayevich Scriabin 1872.1.6-1915.4.27 (ロシア、モスクワ 43歳)2005
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation



従来の一般的な3度和音を使わずに、4度音声を基本にした不安定な不協和音「神秘和音」を
使うことで、彼にしかない独自の音楽世界を創り上げた。(ピアノ・ソナタ第10番など)




★アルビノーニ/Tomaso Giovanni Albinoni 1671.1.17−1751.6.14 (イタリア、ヴェネチア 80歳)2005
Church of San Marco, Venice, Veneto, Italy
※誕生日は6.8説、6.14説もあり。命日は1.17説があり。



『アルビノーニのアダージョ』、もう何回聴いたか分からない。彼の墓は写真のサン・マルコ寺院の中と伝えられているが、
僕が行った時は、警備員も、お坊さんも、売店の人も、全員が「見たことない」という返事だった。仕方なく外観をパチリ。




★ボロディン/Aleksandr Porfiryevich Borodin 1833.11.12-1887.2.27 (ロシア、ペテルブルグ 53歳)2005&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation

2005 美しい金のモザイクで楽譜が刻まれていた。
ボロディン像はとても穏やかな顔をしている
2009 手前に小さな台座があり清楚な花が供えられていた


●“ロシア五人組”全員集合!!(撮影はすべて2009年。みんな同じ墓地)

アレクサンドル・ボロディン
(1833-1887)
享年53歳
ツェーザリ・キュイ
(1835-1918)
享年83歳
ミリイ・バラキレフ
(1836-1910)
享年74歳
モデスト・ムソルグスキー
(1839-1881)
享年42歳
リムスキー=コルサコフ
(1844-1908)
享年64歳

ボロディンは19世紀後半のロシアで、反西欧・反アカデミズムを掲げて民族主義的(ロシア的)な音楽の創造を目指した作曲家集団「ロシア五人組」の一人。“五人組”の呼称は1867年に芸術評論家スターソフが命名した。
五人の顔ぶれは年齢が高い順に、ボロディン、キュイ、バラキレフ、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ。ボロディンとコルサコフの年齢差は11歳。
※バラキレフ(Balakirev)…26歳で無料音楽学校を設立した五人組のリーダー格。グリンカの弟子。バラキレフの作品は少なく運動の理論的指導者だった。多くの音楽書籍やウィキでは「1837年生まれ」になっているけど、墓が「1836年」だったので当サイトはそれを尊重。
※キュイ(Cui)…音楽評論家としても活躍したが毒舌ゆえ敵だらけだった。晩年は失明し口述で作曲を続けた。

●09年5月、読者のVindobonaさんがボロディンの墓の曲名を全て解読して下さいました!有難うございます!

1段目 交響曲第2番第1楽章
2段目 歌劇『イーゴリ公』の「だったん人の踊り」
3段目 歌曲『暗い森の歌』
4段目 交響曲第3番第2楽章 スケルツォ
5段目 交響詩『中央アジアの草原にて』



★山田 耕筰/Kosaku Yamada 1886.6.9-1965.12.29 (東京都、あきる野市、西多摩霊園 79歳)2000


   



東京生まれ。日本の近代音楽界の先駆者であり、育ての親。東京芸大声楽科で学んだ後に作曲の道を志すが、明治の日本には作曲の先生などまだいなかった。それゆえ1910年(24歳)、ベルリン国立音楽学校の作曲クラスに留学。最初に「序曲 ニ長調」を書く。26歳、卒業制作に日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲し、オペラも手がけた。28歳、帰国と同時に国内初の交響楽団「東京フィルハーモニー管弦楽団」を組織し、日本最初の交響楽演奏会を開催する。34歳、カーネギーホールで自作の管弦楽曲による演奏会を開く。36歳、日本語による日本の歌を生み出すべく、北原白秋と雑誌『詩と音楽』を創刊。50歳でフランスのレジオン・ドヌール勲章、70歳で文化勲章を受賞。1965年(79歳)、心筋梗塞のため死去。「からたちの花」「赤とんぼ」「この道」など日本語のアクセントを効果的に使った童謡、歌曲など、作品総数は約1600曲におよぶ!

耕筰はかなり気が強かったらしくプロコフィエフと喧嘩したとか、幾つかエピソードが伝えられている。海外で作曲家ブロッホから「日本人であるのに、あなたは何故日本の音楽を書かないのです、何故歌麿の音楽を書き、北斎の音楽を書かないのです」と問われ、「もしもあなた方が私どもの国と、私どもの国民に対して、そうした要求をなさるのならば、何故私どもの鎖国の夢を破ってまで、あなた方欧米人の尊い文明の恵みを私どもに与えたのですか」と答えたという。



★オッフェンバック/Jacques Offenbach 1819.6.20-1880.10.4 (パリ、モンマルトル 61歳)2002
Cimetiere de Montmartre, Paris, France



運動会やカンカンで有名な「天国と地獄」は彼の手によるもの。本名ヤーコプ・レヴィ・エーベルスト。



★グルック/Christoph Willibald Gluck 1714.7.2-1787.11.15 (オーストリア、ウィーン 73歳)2002
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



オペラの改革者。当時のオペラは歌手の技巧、テクニックを誇示するものが中心だったが、彼は作品の装飾的な部分よりも、内容(ストーリー)を
最重視する運動を展開した。祖父、父とも森林監視員で音楽とは全く縁のない家に生まれ、オペラ作曲家としてデビューしたのがユニーク。




★フーゴー・ウォルフ/Hugo Wolf 1860.3.13-1903.2.22 (オーストリア、ウィーン 42歳)2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



詩と音楽を巧みに融合させ300曲以上の歌曲を残した。37歳から心の病気で入院生活を送り43歳で死去。



★グリンカ/Mikhail Ivanovich Glinka 1804.6.1-1857.2.15 (ロシア、ペテルブルグ 52歳)2005&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation



2005 2009 大きな花が供えてあった

ロシア音楽の父。曲の中にロシア民謡を多く取り入れた国民楽派の創始者。ベルリンで死去。
※最初の埋葬場所はベルリンのRussisch-Orthodoxen Friedhof。




★マックス・ブルッフ/Max Bruch 1838.10.6-1920.10.2 (ドイツ、ベルリン 82歳)2002
Friedhof III, Berlin-Friedenau, Germany
※誕生日は1月6日説あり



ヴァイオリン協奏曲第一番の第一楽章はバリ渋ッ!!



★ブゾーニ/Ferruccio Benvenuto Busoni 1866.4.1-1924.7.27 (ドイツ、ベルリン 58歳)2002
Friedhof III, Berlin-Friedenau, Germany



「シャコンヌ」といえばバッハが有名だが、プゾーニもなかなか良い。



★ヴォーン・ウィリアムズ/Ralph Vaughan Williams 1872.10.12-1958.8.26 (イギリス、ロンドン 85歳)2005
Westminster Abbey, London, England



名曲『グリーン・スリーヴス』で知られる。ケンブリッジ大には記念碑があるtのこと。



★スッペ/Franz von Suppe 1819.4.18-1895.5.21 (オーストリア、ウィーン 76歳)20025
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



オペレッタ『軽騎兵』『詩人と農夫』などの序曲が有名。



★ヤナーチェク/Leos Janacek 1854.7.3-1928.8.12 (チェコ、ブルノ 74歳)2005
Central Cemetery, Brno, Czech Republic

 

チェコの民俗音楽をモチーフに作曲。※この曲の曲名が分かればお知らせ下さい!m(_ _)m



★コダーイ/Kodaly Zoltan 1882.12.16-1967.3.6 (ハンガリー、ブダペスト 84歳)2005
Farkasreti Cemetery, Budapest, Hungary

  

女性が寄りかかっている墓。ちょっと羨ましいかも…



★プーランク/Francis Poulenc 1899.1.7-1963.1.30 (パリ、ペール・ラシェーズ 64歳)2005
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France



プーランクの墓はステンドグラス入りで美しい。



★チェルニー/Carl Czerny 1791.2.21-1857.7.15 (オーストリア、ウィーン 66歳)2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



ピアノの教本でお馴染みのチェルニー。名前を聞いただけで逃亡する人も多いとか(笑)
ベートーヴェンの弟子であり、リストの師匠だった。




★サリエリ/Salieri Antonio 1750.8.18-1825.5.7 (オーストリア、ウィーン 74歳)2002&2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria

2002 2005
作曲家サリエリは映画『アマデウス』で一躍有名になった!

哀れサリエリ!モーツァルト毒殺犯の嫌疑をかけられた男。かつては宮廷楽長でありながら、同墓地中央に眠っているベートーヴェンやシューベルト、ブラームスたちから遠く引き離され、一番壁際の、それも真後ろに市電が走っていて、騒音でまったく魂が安らげない場所に埋葬されていた。(背後に市電のパンタグラフが写っている)

※動画があります!サリエリの墓(4秒)



★シャルル・グノー/Charles Francois Gounod 1818.6.17-1893.10.18 (フランス、パリ 75歳)2009
Cimetiere d'Auteuil, Paris, France




1800年からある非常に古い墓地 墓地内のメインストリートにあるグノー家の霊廟

廟内の祭壇 08年に供えられた生誕190年カード シャルル・グノーの名がある

バッハの名旋律に歌詞をのせた『アヴェ・マリア』で知られる。墓所はメトロのExelmans駅から南100mのところ。



★フランソワ・クープラン/Francois Couperin 1668.11.10-1733.9.11(フランス、パリ 64歳)2009
Church of St. Joseph, Paris, France

ビックリ!このモダンなビルが聖ヨセフ教会だった! 礼拝堂は地下にあった 教会の中庭。このどこかに埋葬されている?

バッハに影響を与えたバロック音楽の大作曲家クープラン。ラヴェルは最後のピアノ独奏曲の題名を『クープランの墓』としており(正確な訳は“クープランを偲んで”)、どんな墓か楽しみにしていた。ところが!聖ヨセフ教会がなかなか見つからない。それもそのはず、外観が写真のように近代的なビルだったんだ。こっちは昔ながらの古い教会をイメージしていたので前を素通りしていた。中に入っても墓地がなくポカ〜ン。神父さんに質問すると「教会の敷地のどこに埋葬されたかわからない」とのこと。うーむ。とりあえず、中庭全体を墓所とみなして合掌した。※場所はメトロのTernes駅から南へ300m。凱旋門の近く。



★アレクサンドル・グラズノフ/Aleksandr Konstantinovich Glazunov 1865.8.10-1936.3.21 (ロシア、ペテルブルグ 70歳)2009
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation

   

ロシア民謡を作品に取り入れるなど、ロシアの大地に根ざした音楽を目指したロシア国民楽派の最後の大物作曲家。
師匠はリムスキー・コルサコフ。1898年(33歳)、バレエ音楽「ライモンダ」を作曲。サンクトペテルブルク音楽院の
院長も務めた。1928年(63歳)にスターリン暴政下のソ連へ別れを告げ、パリ近郊で死去。享年70歳。




★ジョン・ケージ/John Milton Cage 1912.9.5-1992.8.12 (USA、ニューヨーク州 79歳)2009
Ashes scattered, scattered , NY at the Gate Hill Cooperative, USA

    

前代未聞の異色曲「4分33秒」などで知られる現代音楽の巨匠ジョン・ケージ。彼の遺灰はNYの「Gate Hill」に撒かれたとのこと。調べたところ、
NYで「Gate Hill」という地名はここしか見つからず、おそらくこの付近で土に帰ったんだと思う。(別情報をご存知でしたらご一報を!)




★エンリケ・グラナドス/Enrique Granados y Campina 1867.7.27-1916.3.24 (大西洋 48歳)2009
Body lost or destroyed

 

  
1916年3月24日、グラナドスはこの大西洋に散った

第1次世界大戦のさなか、英国汽船「サセックス」号で米国からスペインに帰国する途中、ドイツのUボートに撃沈され妻と共に大西洋に消えた。



★カール・ニールセン/Carl August Nielsen 1865.6.9-1931.10.3 (デンマーク、コペンハーゲン 66歳)2009
Vestre Kirkegard (Western Churchyard), Copenhagen, Denmark

  
なんかこう、少しオドロオドロしかったんですけど…

更新中。交響曲第4番『不滅』で知られる。



★スティーヴン・フォスター/Stephen Collins Foster 1826.7.4-1864.1.13 (USA、ペンシルバニア州 37歳)2009
Allegheny Cemetery, Pittsburgh, Allegheny County, Pennsylvania, USA  Plot: Section 21, Lot 30


非常に歴史が古い墓。門は古城のよう 独立記念日に生まれた 墓地の中央付近の丘に眠る

更新中。『草競馬』や『ケンタッキーの我が家』で知られるアメリカの作曲家。早逝した。



★サミュエル・バーバー/Samuel Barber 1910.3.9-1981.1.23 (USA、ペンシルバニア州 70歳)2009
Oaklands Cemetery, West Chester, Chester County, Pennsylvania, USA

 

更新中。『弦楽のためのアダージョ』で知られる。

【おまけ〜この墓の形に惚れたッ!】

 

なんとこれは木に見えて、石の墓だった! 背後は奥さん♪

バーバーの右斜め後方にあったウィリアム・ビーティーさん(1834-1882)という方の墓は、木の形に彫られた石!
幹に名前が刻まれていてカッコイイ!しかも夫婦で相合い傘のように背中合せになっている。今までに見たお墓で一番素敵な造形かも!




★バーナード・ハーマン/Bernard Herrmann 1911.6.29-1975.12.24 (USA、ニューヨーク州 64歳)2009
Beth David Cemetery, Elmont, Nassau County, New York, USA Plot: Section BB2



更新中。『サイコ』などヒッチコック映画のサントラで有名。



★ハロルド・アーレン/Harold Arlen 1905.2.15-1986.4.23 (USA、ニューヨーク州 81歳)2009
Ferncliff Cemetery and Mausoleum, Hartsdale, Westchester County, New York, USA Plot: Hickory, Grave 1666

 

更新中。『オズの魔法使』の名曲『オーバー・ザ・レインボー』などを作曲した。



★ジョルジュ・ドルリュー/Georges Delerue 1925.3.12-1992.3.10 (USA、カリフォルニア州ロス 66歳)2009
Forest Lawn Memorial Park (Glendale), Glendale, Los Angeles County, California, USA  Plot: Triumphant Faith Terrace, lot #4063A

 

フランソワ・トリュフォー監督の大半の映画で音楽を担当。その他『プラトーン』『ジュリア』『リトル・ロマンス』などでもスコアを書いた。



★ジェリー・ゴールドスミス/Jerry Goldsmith 1929.2.10-2004.7.21 (USA、カリフォルニア州ロス 75歳)2009
Hillside Memorial Park, Culver City, Los Angeles County, California, USA  Plot: G/M Truth 265



左端の下から2段目に眠る

墓碑には「彼の音楽の贈り物を
世界中が大切にしている」とあった

更新中。有名な『スタートレック』『パピヨン』『オーメン』『グレムリン』『氷の微笑』『エイリアン』『ランボー』など、名だたる有名作品の映画音楽を作曲した。



★ビクター・ヤング/Victor Young 1899.8.8-1956.11.10 (USA、カリフォルニア州ロス 57歳)2009
Hollywood Forever, Hollywood, Los Angeles County, California, USA

 

『八十日間世界一周』『シェーン』『誰が為に鐘は鳴る』などの映画音楽を作曲。脳出血のために急死し、
死後に『八十日間世界一周』がアカデミー作曲賞に輝いた。




★アルフレッド・ニューマン/Alfred Newman 1900.3.17-1970.2.17 (USA、カリフォルニア州ロス 69歳)2009
Forest Lawn Memorial Park (Glendale), Glendale, Los Angeles County, California, USA  Plot: Great Mausoleum, Sanctuary of Eternal Prayer

この堅牢な古城の如き大霊廟にニューマンは眠る。一般非公開につき、泣く泣く外部から遙拝!

『王様と私』『南太平洋』『慕情』『七年目の浮気』といった映画音楽のほか、有名な20世紀フォックス・ファンファーレもニューマンが作曲!

世界一、墓マイラー泣かせの墓所、それがロスのフォレストローン墓地。ここはセレブ用の特別区画があり、一般人は純粋に墓参が目的でも入ることができない。
ハンフリー・ボガード、メアリー・ピックフォード、サム・クック、彼らはその区画に墓があり巡礼不可能だ。またこの墓地には、クラーク・ゲーブル、マイケル・ジャクソン、
ハロルド・ロイドなど、名だたるスターが眠る大霊廟があるが、そこに至っては建物が丸ごと一般立入禁止という始末。欧米の墓地は基本的にとても外に開かれた
空間であり、墓ツアーを企画したり、ガイドさんがいる墓地も多い。フォレストローンのように霊廟を立入り禁止にするなんて聞いたことがない。おそらく、マイケルが
ここに永眠したことで多数の巡礼者がやって来る思う。世界中から来たファンを全員門前払いにするつもりなのか…。もっと墓参者の善意を、人間を信じて欲しい。



★マックス・スタイナー/Max Steiner 1888.5.10-1971.12.28 (USA、カリフォルニア州ロス 83歳)2009
Forest Lawn Memorial Park (Glendale), Glendale, Los Angeles County, California, USA  Plot: Great Mausoleum, Sanctuary of Enduring Honor

 
スタイナーはアルフレッド・ニューマンと同様、一般非公開のこの大霊廟の中に眠る。無念!

『風と共に去りぬ』『カサブランカ』『トップ・ハット』などの映画音楽を作曲。



★アーヴィング・バーリン/Irving Berlin 1888.5.11-1989.9.22 (USA、ニューヨーク州ブロンクス 101歳)2009
Woodlawn Cemetery, Bronx, Bronx County, New York, USA




バーリン家の墓所。右から2番目がアーヴィング

『ゴッド・ブレス・アメリカ』は第2の
国歌とまで言われている

 『ゴッド・ブレス・アメリカ』、『ホワイトクリスマス』など、アメリカ国民にとってのソウル・ソングを多数作曲!



★瀧 廉太郎/Rentaro Taki 1879.8.24-1903.6.29 (大分県、大分市、万寿寺 23歳)2008

 
墓の側には『嗚呼天才音楽家 瀧廉太郎君碑』の石碑が建つ 終焉の地は史蹟に指定(大分市)

  
終焉の地には瀧の銅像があり、若死にしたので台座にはギリシャ人ヒポクラテスの言葉『人生は短し芸術は長し』が彫られている(涙)

東京生まれ。「荒城の月」「花」「鳩ぱっぽ」「桃太郎」「雪やこんこ」「お正月」など多数の名歌を作曲。肺結核の為にわずか23歳で他界した。



★古賀 政男/Masao Koga 1904.11.18-1978.7.25 (東京、杉並区、築地本願寺・和田堀廟所 73歳)2008



本名、古賀正夫。国民栄誉賞を受賞した、昭和の歌謡界を代表する作曲家。
「誰か故郷を想わざる」「人生劇場」など心に残る歌謡曲を約5千曲も生み出した。




★服部 良一/Ryoichi Hattori 1907.10.1-1993.1.30 (東京都、杉並区、築地本願寺・和田堀廟所 85歳)2008



大阪府出身。「青い山脈」「東京ブギウギ」など作曲し、古賀政男に次いで作曲家として2人目の
国民栄誉賞に輝いた。作曲家一族であり、息子は服部克久、孫は服部隆之。




★團 伊玖磨/Ikuma Dan 1924.4.7-2001.5.17 (東京都、文京区、護国寺 77歳)2009&10







「夕鶴」「ぞうさん」を作曲

名門・團家の墓所。右手前は三井の
総帥、琢磨。中央が伊玖磨の墓(2009)
翌年に再巡礼。境内奥の花屋さんの左側が墓所(2010)



 
墓域全景(2010) 中央「團家累代墓」の背後に名があった

東京生まれ。祖父は戦前の三井財閥の総帥で、右翼に暗殺された團琢磨。父は元参議院議員の団伊能。現東京芸大で山田耕筰に師事。その後NHKの専属作曲家となる。1952年(28歳)、木下順二の『夕鶴』をオペラ化。『夕鶴』は国内外で600回以上も公演され、伊玖磨の名を高めた。翌1953年、芥川也寸志、黛敏郎と「三人の会」を結成。オペラ、交響曲、合唱曲、映画音楽、様々なジャンルを手掛け、童謡の『ぞうさん』『やぎさんゆうびん』『おつかいありさん』も作曲した。2001年、中国旅行中に蘇州市にて心不全のため客死。戒名は鳳響院殿常楽伊玖磨大居士。
※NHK特集でムソルグスキー「展覧会の絵」の原画を探し当てた時の団伊玖磨さんの情熱に感動!



★いずみ たく/Taku Izumi 1930.1.20-1992.5.11 (東京都、豊島区、雑司ヶ谷霊園 62歳)2010





墓前に「見上げてごらん夜の星を」の楽譜 本名の今泉で眠っている 作曲家であり参議院議員

東京生まれ。本名、今泉隆雄。1950年(20歳)、舞台芸術学院演劇学科を卒業。芥川也寸志に師事し作曲を始める。歌謡曲、童謡、アニメソングから交響曲まで幅広いジャンルの作品を手がけ、生涯の作品数は約15000曲!1969年(29歳)、佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』で第11回日本レコード大賞を受賞。1989年(59歳)、参議院に“第二院クラブ”から入る。政治的立場は極めてリベラル。「日本は世界第2位の経済大国であるのに、国の文化・芸術関連への予算配分が少なすぎる」と訴え、文教関係予算の増額のために尽力。3年後の1992年に、現職議員のまま肝不全で他界した。享年62。

主な作品…「太陽がくれた季節」(青い三角定規)、「ゲゲゲの鬼太郎」(主題歌)、「見上げてごらん夜の星を」(坂本九)、「いい湯だな」(ザ・ドリフターズ)、「手のひらを太陽に」(作詞はやなせたかし!)、「チョコレートは明治」(CMソング)、「バーモントカレーの歌」(CMソング)、「徹子の部屋」(テーマ曲)など。遺作は病床で口述筆記させた「アンパンマンとなかまたち」(ミュージカル『アンパンマン』)。



★河村 光陽/Koyo Kawamura 1897.8.23-1946.12.24 (東京都、文京区、吉祥寺 49歳)2013

有名な「うれしいひなまつり」を作曲!
墓前の正面右側の石碑は→
“童謡一路”の文字の下に
「かもめの水兵さん」の楽譜

福岡県出身。1920年(23歳)、ロシア音楽を研究するためモスクワを目指して出国するも、ロシア革命の混乱で政情不安定であるため、朝鮮で学校の音楽教師となる。4年後に帰国し、東京音楽学校選科(現・東京芸大大学院)で音楽理論を就学。1926年(29歳)頃から自作曲を発表する。
その後、小学校の音楽教師を務めながら楽曲を発表し、1936年(39歳)にキングレコードの専属作曲家となった。河村光陽と改名し、同年、「うれしいひなまつり」(山野三郎作詞)が大ヒットする。翌年には「かもめの水兵さん」(武内俊子作詞)が大当たりとなり、「赤い帽子白い帽子」「早起き時計」「仲良し小道」「りんごのひとりご」「船頭さん」「雨傘唐傘」など多数の童謡を発表していくが、9年後の1946年12月24日、胃潰瘍による出血のため急逝する。享年49。



★浜口 庫之助/Kuranosuke Hamaguchi 1917.7.22-1990.12.2 (東京都、府中市、多磨霊園 73歳)2010

 

兵庫県神戸市出身。愛称ハマクラ。作詞作曲に「バラが咲いた」「夜霧よ今夜も有り難う」。作曲に「人生いろいろ」(島倉千代子に提供し大ヒット)。



★伊福部 昭/Akira Ifukube 1914.5.31-2006.2.8 (鳥取県、鳥取市、宇倍神社 91歳)2014




『ゴジラ』を作曲 宇倍神社の鳥居。ここから石段を登っていく 社殿。伊福部家は明治まで当神社の神主だった

墓所は境内右側の山道から 3分ほど歩いていると… 右手に墓所に続く別れ道が出てくる





伊福部家の墓所に到着!先生の墓は後列の左端 日本を代表する作曲家の1人 周囲の山林からウグイスの鳴き声。素敵な墓所





娘さんが作った動物(ニワトリや魚)の焼物が
囲んでおり、これなら寂しくない
本物のコーヒーが供えられた墓は
初めて!良い香りがした♪
「ゴ」と描かれた石板が置かれていた!
『ゴジラ』のテーマ曲が頭に浮かぶ

「芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達しなくてはならない」(伊福部昭)
北海道釧路出身。アイヌ文化から影響を受ける。1954年、40歳のときに『ゴジラ』のサウンドトラックを手掛けた。『座頭市』シリーズ、『ビルマの竪琴』なども担当し、SFから時代劇まで幅広いジャyンルに作品を遺した。門下に芥川也寸志・黛敏郎。平和主義者であり、池辺晋一郎、三善晃、加藤登紀子、湯川れい子、千住真理子らと共に、“音楽・九条の会”呼びかけ人になる。
伊福部家は古代豪族(因幡国/鳥取)・伊福部氏を先祖とする。祖父の代まで宇倍神社の神官であり、墓所も同神社。宇倍神社は648年創建、因幡国一の宮で格式が高い。境内右脇の山道を登っていくと茂みの中に伊福部家の墓所がある。

※『音楽・九条の会』呼びかけ人(アイウエオ順)
池辺 晋一郎(作曲家)/伊藤 強(音楽評論家)/井上 鑑(キーボード奏者・アレンジャー・プロデューサー)/伊福部 昭(作曲家)/桂 直久(大阪音楽大学名誉教授・オペラ演出家)/笠木 透(フォークシンガー)/加藤 登紀子(歌手・俳優)/上條 恒彦(歌手・俳優)/上村 昇(チェロ)/川本 守人(N響団友会会長、元首席オーボエ奏者)/亀渕 友香(ゴスペルシンガー)/喜納 昌吉(歌手)/日下部 吉彦(音楽評論家)/黒崎 八重子(ホール支配人)/小室 等(ミュージシャン)/櫻井 武雄(大阪芸術大学名誉教授)/さとう 宗幸(歌手)/菅原 洋一(歌手)/茂山 千之丞(狂言役者)/千住 真理子(ヴァイオリニスト)/高石 ともや(フォークシンガー)/高橋 アキ(ピアノ)/竹本 節子(アルト)/田村 拓男(日本音楽集団)/外山 雄三(音楽家)/中澤 桂(ソプラノ)/成田 繪智子(アルト)/新実 徳英(作曲家)/西村 朗(作曲家)/野口 幸助((財)関西芸術文化協会名誉会長、関西歌劇団団長)/広上 淳一(指揮者)/藤井 知昭(音楽学)/普天間 かおり(歌手)/三原 剛(バリトン)/三善 晃(作曲家)/湯川 れい子(音楽評論家・作詞家)/横井 和子(ピアノ)。



★弘田 龍太郎/Ryutaro Hirota 1892.6.30-1952.11.17 (東京都、台東区、全生庵 60歳)2010


唱歌をたくさん作曲 「弘田家之墓」 墓前に『叱られて』の譜面

高知県出身。東京音楽学校で本居長世に師事。1928年(36歳)、文部省在外研究生としてドイツ・ベルリンに留学。帰国後、東京音楽学校の教授となったが、2カ月後に作曲活動に集中するため辞任。素朴さと叙情性をたたえた童謡「雀の学校」「春よこい」「靴が鳴る(♪おててつないで 野道をゆけば)」「鯉のぼり(♪いらかの波と雲の波)」「浜千鳥」「られて」などを作曲。



★ウェーベルン/Webern Anton 1883.12.3-1945.9.15 (オーストリア、ミッタージル 61歳)2015
Mittsersill Kirchhof, Mittersill, Zell am See Bezirk, Salzburg, Austria 

  

前衛音楽家。新ウィーン楽派。第二次世界大戦の終戦直後、喫煙のためにベランダに出てタバコに火をつけたところを、
オーストリア占領軍の米兵から闇取引の合図と誤解を受け射殺された。悲惨すぎる…。墓の文字がカッコ良い。



★ウェーバー/Carl Maria von Weber 1786.11.17-1826.6.5 (ドイツ、ドレスデン 39歳)2015
Alter katholischer Friedhof(Old Catholic Cemetery), Dresden, Dresdener Stadtkreis, Saxony (Sachsen), Germany



墓地中央のチャペルの後方に墓域 壁際にウェーバー家の墓が並ぶ “マリア”と書いてるけど男性

生前から評価が高かった “壺が割れてる?”いえいえ花瓶です 手前には名前の刻まれたプレートがあった

ドイツの作曲家。指揮棒を初めて用いた。モーツァルトのドイツ語オペラを継承、中世・近世の伝説を
題材にドイツ・ロマン派歌劇を確立。「魔弾の射手」を作り、ワーグナーへの橋渡し役となった。
モーツァルトの妻は父方の従姉。オーケストラの配置を現在に近い形にする。「舞踏への勧誘」もヒット。




★フランツ・クサーヴァー・ヴォルフガング・モーツァルト/Franz Xaver Mozart 1791.7.26-1844.7.29 (チェコ、カルロビ・バリ 53歳)2015
Saint Andrews Chapel Churchyard, Karlovy Vary, Karlovarsky (Karlovy Vary), Czech Republic


大作曲家の息子

フランツ7歳(左)1798年
※右は7歳年上のカール

チェコのカルロビ・バリはかつての独領カール
スバート。温泉保養地として知られている

ネットには墓のおおよその場所しか出て
おらず現地で情報収集する必要があった。
画面右の看板(地図)には載ってなかった
誰に尋ねても「聞いたことがない」と言われる
なか、左のマダムが墓地を知っており、右の
学生さんが英語で通訳してくれた

マダムに教えられた方向へ行っても墓地が
なく、このペンションで聞き込みをした。
オーナー「モーツァルトの息子か。あと500m
先に昔の墓地があるぞ。きっとそこだ」


確かに史跡っぽい古い墓地があった。
庭師さんが耳栓(ヘッドフォン)をして掃除
していたので、視界に入るように手を振った。
「モーツァルトの息子!奴の墓はここじゃ
ないぞ。地図を持っているか」「はい」
「ペンを貸せ。墓の場所はここだ」「おおきに」
この白髭のオジサンが地図に印を入れて
くれたことで、少なくともこの町にフランツ
の墓があることが確実になった。直前まで
“ネット情報はガセネタでは”と疑い始めて
いたので、一気に元気が出た。さあ行こう!


…教えてもらった場所は小さな山だった。
これのどこに墓地が…。とにかく通行人を
見つけては「この辺らしいのですが」と
聞きまくったのだけど→
「モーツァルトの息子?お墓?」
「30年住んでるけど初耳だわ」
ダメだ…地元では有名人かと
思ったけどこうも知らない人ばかりとは
この2人には「お父さんのお墓が
ウィーンにあるのだから、ウィーンの墓地
を調べてみたら?」とアドバイス
されてしまった。既に1時間が経過…

50年住んでるお爺さんが知らなかったので心が折れ、「これ以上時間をかけると次の目的地に着いたら夜になる」と墓参を断念。うなだれてレンタカーに戻ると、道の反対側にiPhoneを聞きながら散歩している若者がいた。「ご老人に聞いても分からなかったんだ。こんな若者が知ってるはずない」と思いつつ、最後にダメ元で聞いてみた。
彼は“ちょっと待って”と考える仕草をした後、“モーツァルトの子、モーツァルトの子…”と呟き、指をパチン。「うん、なんかそれらしいのを見たことがあるぞ。着いてきて!」。
マジか!やった!と喜んだものの、彼は「近道をする」とひとけのない雑木林にズンズン入っていった。ぶっちゃけ、街中は落書きが多く、あまり治安の良いエリアじゃなさそうだ。僕は“初対面の人を疑うなんていけない”と思いつつ、“もし雑木林で事件に巻き込まれたら、それが僕の人生だったと、そういう宿命だったと受け入れよう”、そんなことを考えながら彼について行った。

ここを入っていく。海外では昼間でも
ひとけのない場所を避けていたので緊張。
名前はレナド君とのこと
15分で雑木林を抜け、山の斜面を降りると
レナド君が「YES!LOOK!」と前方を
指差した。うおっ、墓石が何個か見える
「MOZALT」の文字が見えた!ウオオ!
レナド君、本当にありがとう!一瞬でも疑
ってゴメン!君のおかげでたどり着けた!

レナド君「じゃ僕はこれで。ベトナムから来たの?チャイナ?」(旧共産圏
の交流国)。日本と答えると「ジャパン!ハイク!クロサワ!アイ・ラブ!」。
まさかの俳句、黒澤明。なんて渋い若者なんだ。今時、日本の若者
でも黒澤映画はすぐ出てこない。もはや同志、思わず固い握手。
墓碑銘が本名のフランツ・クサーヴァー・モーツァルトではなく、父の
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトになっているのは、彼が“2世”
をアピールしていたからだろう。生没年はちゃんとフランツになっていた


聞けばレナド君は散歩が大好きで、音楽を聴きながら町中を歩きまくってるという。しかもこの時クラシックを聴いていた。通りで墓を知ってたはず!
僕がレナド君に巡り会うまで、18人に道を尋ねた。その結果は「この街にモーツァルトの子の墓があるなんて聞いたことがない」と肩をすくめた人が10人、「知っている」と言いつつ違う墓地を教えてくれた人が8人。うう…教えてくれる優しさに感謝だけど、知らない場合はそう言って欲しい。2時間ほど行ったり来たりでヘトヘトに。
それにしても、諦めて帰る前に、“最後の一人”とレナド君に訊いて良かった。彼に会えなければ、フランツの墓巡礼ができぬまま帰国していた。間一髪だった。
レナド君と別れた後、故井上ひさし氏の言葉を思い出した。「オーストラリアで黒澤監督特集が催され、そのおかげで日本人観まで好転した。パスポートだけでなく芸術の力で私達がいかに守られていることか」

【フランツ・クサーヴァー・モーツァルト】…作曲家、ピアニスト。天才モーツァルト他界の4カ月前に生まれた末子で四男。6人兄妹(4男2女)のうち成人できたのは次男カール・トーマス(1784-1858)と四男フランツ・クサーヴァーだけ。宮廷音楽長サリエリなどに学び「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト2世」の名で活動した。洗練されたピアノ協奏曲やヴァイオリン・ソナタを作曲したが、30代になると筆を置き、ピアニスト活動に特化していった。1844年、カールスバート(現カルロビ・バリ)にて53歳で病没。死因は胃癌。兄カールは役人となり、フランツの死の14年後に他界した。兄弟どちらも生涯独身だったことから、大作曲家の血筋はここで途絶えた。
※父の弟子にフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤー(1766-1803)がいる。“フランツ・クサーヴァー”という名が全く同じなのは、敬意を表してつけられたという説、母コンスタンツェとの不倫の子という説がある。



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