(注)この文章は自分がまだ20代の若かりし頃に吠えたもの…どうか
若気の至りということでこの暑苦しい文章を大目に見て下さいまし。(汗)


【 映画の魅力を分析&吠えまくり 】
映画のひみつ〜人生を愛する者は映画を愛す


「映画は人生に似てる、そうだろ?」
「冗談じゃない」
「違うかい?」
「人生そのものだ」
        リチャード・バック著『イリュージョン』より


 (序章)映画鑑賞ではなく映画体験

 僕は映画が大好きだ。狂熱状態だと言っていい。1000本くらいじゃ全然物足りない。この世に映画より大切なものがあるなんて思えない。30代が近づくにつれ、最近やたら周囲から「よくそんなに映画観る暇あるな〜」と言われることが多くなったので、ここでそのようなふざけた言葉を発するウツケ者に、炎の鉄拳制裁を加えるべく、全世界の人々に、映画は“鑑賞”するものではなく、自分の全存在をまるごとかけて“体験”するものだと訴えたい。

 そもそも映画は暇があるから観るものではない。それは食事をすることや睡眠をとることと同じレベルだと考えてほしい。誰も「よく食事している暇があるな〜」とは言わんだろう。「なんでそんなに映画を見んの?」と問われたら、逆に「なんでもっと映画を観ずにおれんの?」とこちらが問い返したくなる。僕はよほどのことがない限り、毎朝4時半に起きて映画を一本観てから出勤している。朝に映画を一本観ておくと、一日中その映画について熟考していられるからだ。
(10年後に追記。“朝一本”は体力的にもうムリに。33歳位が限界っす@37歳)


 (第1章)推定年齢12万才

 映画が僕をヘロヘロに夢中にさせる理由は大きく分けて3つある。第1のポイントは、やはり様々な人生に触れることができる点であろう。出会った主人公が多ければ多いほど、当然たくさんの人生を体験することができるわけで、これは長生きするということが単に長期間この世に滞在しているといった状態を指すのではなく、どれだけ多種多様な人生を体験してきたかということで決まるなら、一本に一人の人生80年が入ってるとして、僕は80×1500本で推定年齢12万才といったところか。

 このように書くと、きまって「映画の登場人物はしょせん架空人物で、現実に存在している人間とは違う」と知った顔をしてほざく輩がいるが、そいつは何一つ映画をわかっていない。現実にこの世に存在しているくせに、生きているのか死んでいるのかわからない奴が多いのに対し、スクリ−ンの中にあっても強烈に生命力を輝かせ、現実の人間以上に圧倒的な存在感をもつ登場人物(『ブル−スブラザ−ズ』のジェイクや』グラン・ブル−』のエンゾ、『真夜中のカ−ボ−イ』のラッツォや『ベティ・ブル−』のベティ、『乱』の鶴丸や『七人の侍』の菊千代、勘兵衛、久蔵など)がどれだけ多いことか!

 僕に言わせてみれば、スクリ−ンの中よりこっちの世界の方が、存在感のない生きる屍・ゾンビだらけだ。決められたマニュアルにどっぷりつかり、ただ流行を追うだけで価値観まで均一化されてしまった無個性な者、自分が自分をどう見ているかより、他人が自分をどう見ているかということに振り回されている者、ボヤくばかりで毎日が反復作業になっている思考停止型の者。映画が終わった後にも“主人公はあの後いったいどうするんだろう?”とか“無事幸せになれたかなぁ”と思いを馳せずにはおられないスクリ−ンの連中の方が、はるかに現実的な存在感がある。

 また、この国は社会風潮として、対人関係において自分の感情を、ありのまま出すことを良しとせず、逆に感情を押し殺して当たり障りなくふるまうことが善とされている。もちろんそれは周りとの人間関係をスム−ズに保つという良い側面もあるが、現代人(特に若者)においては、あまりに互いが距離を置き過ぎ本当に腹を割った心の交流ができず、他人を傷つけてしまっても、相手の痛みがよく分からないといった問題が明らかに生じている。

 その点、映画ファンはイヤというほど傷ついた登場人物に出会っており(それも様々なパタ−ンの)、人間がどういったことで深く傷ついてしまうのか知っている。何度も何度も心の悲鳴を聞き、また悲鳴すらあげることができず狂気の扉を叩いてしまった人など、数多くの人生を目撃してきた(スケアクロウ、惑星ソラリス、カミーユ・クローデル、バーディ、鏡の中にある如く、気狂いピエロ、アデルの恋の物語、乱、白痴、どですかでん等々)。人種差別に苦しむ人も、同性愛者として迫害される人も、先住民でありながら土地を追われた人も、崩壊していく家庭も、恋人が自殺してしまった者も、この世の不条理の極致である戦場で、発狂してしまった若き兵士も見てきた。映画ファンは現実から逃避するために映画を観ているのではなく、実際はむしろその逆で、映画を通じて普段人々が目を背けている現実を直視するのだ。その結果、人生のからくりや恋愛のからくり、政治家による民衆支配のからくりを映画で学ぶのだ。

 これらは非常に重要なポイントだ。我々は映画を観ることによって、これからの体験をある程度予想できるようになるし、何よりこの先自分が大きな壁にブチ当たったとき“このパターンはすでに知っている”ということで、パニックにならず冷静に対応できる可能性があるからだ。金や地位、名声の無意味さ、依存する恋愛のマヌケ度を、これでもかというくらい観てきた今、僕は“いつも陽気であり続けるコツ”を気がつかぬ間に学んできたことを悟った。ただ、僕はバカなので、こんなに映画を観てきてるのに、今だについ他人を傷つけてしまうことがあることを残念ながらここに告白する。日々これ勉強なり。


 (第2章)泣く子も黙る総合芸術

 次は第2のポイント。いわずとして、“全芸術の最高峰”としての映画だ。映画という芸術は、タルコフスキーやヴィスコンティの作品に代表される、恍惚としてウットリため息がでるほどの映像美(絵画的要素)、それ自体サウンドトラックとしてCDショップにひとつのコーナーを作ってしまうほど名曲の多い映画音楽(音楽的要素)、名セリフの連発で観客が泣きたおし、立ち泳ぎをしなければならぬほど心に沁み入る脚本(文学的要素)、上映後“うひゃーっ、ラストシーンのあの目は一生忘れられんぞ!”と、我々が狼狽してしまうほどの素晴らしい名演技(演劇的要素)、それら絵画、音楽、文学、演劇という、どれもが本来は単体の芸術として成立し得る4つのものが、シンフォニーの様に重なりあい、響きあって完成された、人類が自らの手で創り得る最高の総合芸術なのだ(もちろん、美しさを追求されたセットにみられる建築学的要素や、画面に華をそえる衣装デザイナーの手腕も見逃せない)。

 そしてこの総合芸術の感動は、誰かを打ち負かすことで初めて得られるという、スポーツなどの一方が喜び一方は悲しむという感動と、質的に違う点で僕は好きだ。敗者やうなだれた者を必要とするような、そういう勝利による感動ではなく、他人との競争も誰の犠牲も必要としないこの感動を、僕は“純粋感動”と呼んで他と区別している。

 先に、この総合芸術は単体としても十分成立すると書いたが、ここでその分かりやすいエピソードをひとつ。有名な映画音楽家のエンニオ・モリコーネが担当した映画(ニュー・シネマ・パラダイス、わが青春のフロレンスなど)がヨーロッパで封切られた時に、向こうの人は『映画を観にいく』とは言わずに『モリコーネを聴きに行ってくる』と言うそうだ。まるでコンサートに行くかのように。こういう感覚はあまり日本人にはないのですごく新鮮に感じた(個人的にはニーノ・ロータが捨て難い)。


 (第3章)映画は世界平和へのカギ

 これは作家の井上ひさし氏の体験談。『オーストラリア滞在中にジャパン・ウィークとしてあちこちの映画館でクロサワ特集が催され、そのおかげで現地では日本人観までが好転した。パスポートだけでなく、芸術の力で私達がいかに守られているか身をもって実感した』とのこと。太平洋戦争というと若い人は米国との戦いを連想すると思うが、日本はオーストラリアも爆撃しているし、収容所で餓死させた捕虜もいる。すべての戦後補償に逃げ腰の日本政府のおかげで、対日感情が悪化している最中(さなか)でのこの井上氏の体験は、ぜひ特筆しておきたい。最後の3番目のポイント。それは井上氏の引用で見られるように“映画によって他国の生活、文化を知る”ということである。

 この章のタイトルは決して大袈裟なものではない。なぜなら戦争が往々にして、未知なる相手への恐怖心から引き起こされているからだ。恐怖という感情は相手に対する無知からくる場合が非常に多い。人間は自分の知らないもの、理解できないものに対し恐怖心を抱く。そしてヒステリー状態で攻撃する。戦争で人を殺せるのは、相手の家族や日常生活を想像することをしないからだ。仮にアラブに向けてミサイルの照準を合わせた兵士がいたとする。もしその兵士が、大ヒットしたイラン映画『友だちのうちはどこ?』を観ようものなら、もう彼はアラブへミサイルを落とせない。ネマツァデをはじめ、あの愛すべき人々を殺したくないからだ。

 敵対する人間にだって温かい素朴な生活があることを知れば、民族間の憎しみが意図的に作られたものだと気づくであろう。我々は映画から世界のいろんな民族の風習や、先祖の知恵を学ぶことができるし、たとえ価値観が違っていたとしても、その価値観を形成してきた、そこの土地の生活環境や伝統などの背景を知れば、恐怖は理解へと、取って代わるであろう。また、他国の映画に描かれている日本人像を観て、我々が国際社会でどういう風に視られているか痛感し、恥を知ることも可能になってくるのだ。

 もはや、“映画”というより“啓示”だ。世紀末に向かってますます排他的な民族主義が全世界に横行している今、映画こそ、我々に相互理解をもたらす人類存続の最後のカギなのだ。


 (終章)シネマ・ジャンキー(中毒者)、略して『シネ・ジャン万歳宣言』

 我々が短い一生の中で体験できることには限界がある。だがしか〜し!我々は映画を発明した!これによって、大阪の場末のボロ映画館にいても、電気が消えれば瞬時にしてアラビア砂漠のド真ん中や、インドの小村の村祭り、吹雪の中のエベレスト山頂や、オーロラの下の南極越冬隊の基地、はたまたNYの路地裏やイタリアの寒村に立つこともできるのだ。しかも映画の魔法は場所だけにとどまらず、時間だって超越させてしまう。ウィーンでモーツァルトが自ら指揮をしているオペラを観たり、信玄の足軽部隊に混じったり、未来に飛んで木星の軌道上で瞑想することも出来るのだ。たまらんではないか!これは“どこでもドア”と“タイムマシン”を同時に手に入れたようなものだ。毎日24時間のうち2時間を、他者の人生に触れたり、他人の意見を聞くことにあてがうということは、自分の視野を狭い小さなものにせぬためにも、また人類が正気を保ち続けるためにも大切だと思う。

 それから、シネ・ジャンは自然と多趣味にならざるをえないことを言っておきたい。『ラウンド・ミッドナイト』や『バード』などジャズ・メンの映画を観れば翌日からジャズにはまるし、『カミーユ・クローデル』の様な彫刻家の映画を通じて、その創造の苦労を知れば、以後彫刻を気合いを入れて見るようになるからだ。実際『アマデウス』を観てクラシックが以前より身近になった人はかなり多いと思う。シネ・ジャンはイモづる式というか、連鎖的にどんどん広がっていく自分の興味分野にてんてこまいになる。必然的に背中に電気を走らせるモノと出会う機会が一般の人よりぐっと多くなる。人は感動しているときに普段にも増して生きている実感が湧く。そのことを考えるとシネ・ジャンはこの世で最も幸福な“種族”であろう。人生を愛するものは映画を愛す。シネ・ジャン万歳!!


 (あとがき)シネ・ジャンの掟《ない袖(そで)を振りたおせ!》

 幸いにも街にはレンタル・ビデオ店が山とあり、深夜放送でも衛生でも連日ガンガン映画をやってるのだから、せっかく持ってるビデオ・デッキを宝の持ちぐされにせず、火を吹いて煙をあげるまでフル稼働させるのだ!ん?何だって?そんなに金がない?ウキーッ、まだそんなことを言っているのか!本来ニューヨークへ行くのに20万かかるところを、ウディ・アレン監督なら350円で連れてってくれるというのだゾ!喫茶店のコーヒー一杯とアポロ13に乗るのが同じ料金だというのに、えーい、それでも高いとそちは申すのか!?映画代は食費や水道代と同じ生活維持費であり遊興費ではないということを、よ〜く頭に叩き込んでおくべし!観るか死かだ!!


 【(番外編)役者はつらいよ】


 1979年度アカデミー賞で主演男優賞に輝いたダスティン・ホフマン(当時42才)のスピーチから。この年の男優賞は大混戦だったので、人々は彼のスピーチに注目した。会場全体が注視する中、彼は静かに語り始めた。

 
「複雑です。僕はアカデミー協会を批判してきた…以下の理由から。仕事の機会を得られた事には深く感謝しています…でも、ジャック・レモンに勝ったとは思わない!アル・パチーノやピーター・セラーズにも!決してロバート・デュバルが負けたんじゃない!…皆、同じ芸術を志す家族だ。現在、映画俳優組合員は10万人。ほとんどは仕事がなく、運のいいひと握りの者が、脚本や監督の機会を手にする。演じる事しか能がない役者バカは、タクシーを運転しながら修業するしかない。…演技の向上を求め必死に努力する皆さん、全員が勝者です。この賞を分かち合いましょう。ありがとうございました。」〜会場の老俳優たちは涙にぬれた。


 【(番外編2)シネ・ジャン執念の第2章補足】

 “演劇的要素”のとこで書いた「忘れられぬ目」の例を紹介。

 『テルマ&ルイーズ』で最後に「行って」と言ったときのジーナ・デイビス(テルマ)の目、『風の輝く朝に』で手榴弾を握りしめたチョウ・ユンファの目、『ゴッド・ファーザー』で例の扉が閉まる直前の妻の何とも言葉にならぬ目、『ブラザー・サン、シスター・ムーン』でなかなか仲間にならなかった彼が、仲間に飛び込む直前に見せた目、『スピード』で犯人の罠に引っ掛かり自分が死ぬことを悟った爆破処理班の親友の目、『ジーザス・クライスト・スーパー・スター』の前半の洞窟シーンで、キリストに頬を触られたユダの目、『時計じかけのオレンジ』の冒頭の、超アブナイあのアレックス君の目、『サラーム・ボンベイ』のラストの子どもの泣き腫らした目、『ベニスに死す』でこれみよがしに主人公を苦しめるタジオの流し目、『スケアクロウ』で噴水の中のアル・パチーノを必死に抱え込むジーン・ハックマンの目、『さらば青春の光』で自分が尊敬している人物が金持ちにアゴで使われてる現場を目撃し、その現場を立ち去る時の主人公の瞳孔が開きまくった目、『仁義なき戦い』で親友の葬式で銃を乱射している時の菅原文太の目、『異人たちとの夏』で成仏して消滅していく自分の親の幽霊に、最後の別れを告げる風間杜夫の泣き腫らした目、『明日に向って撃て!』でボリビアに着くなり糞を踏んだサンダンスの目、あと『プラトーン』のエリアス軍曹や『狼たちの午後』のアル・パチーノなど、まだまだ押さえておきたい目が山ほどありマス! 完


「あした、来週、新しい映画がくるかと思うと、死ねない」(淀川長治)映画評論家



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