古代ロマンをひもとく!
【 卑弥呼の墓と邪馬台国論争 】

★Himiko 153?175?-247?248?


卑弥呼の墓と言われている箸墓(はしはか)古墳入口。
この先は宮内庁が調査禁止に。公開して〜!(1999)
9年後に再訪。この前週、新たに大規模な周濠が
発見されたと報道され、考古学ファンを湧かせた
弥生文化博物館
の卑弥呼復元像



「倭迹迹日百襲姫命
大市墓」とある
箸墓古墳の全景。一帯はとってものどかデス

この角度から見ると、手前が方形で奥が円に
なっている「前方後円墳」というのがよく分かる

「倭迹迹日百襲姫命大市墓」。天皇の古墳である“陵”ではなく、あくまでも一般人の巫女の“墓”。
日本最古の巨大な前方後円墳に葬られた“巫女”って…?卑弥呼と考えるのが自然!



前面部分を横から 背後の円墳部分。樹木の真ん中に“穴”が ポッカリと開いておりミステリアス

上空から。全長280メートル!
(画像/エンカルタ総合大百科)

【参考】 長野県更埴市の森将軍塚古墳
完成当時の古墳はこの様に石で覆われていた。
(上部にズラリと並んでるのは全部埴輪!)
景初三年(239年)制作の画文帯神獣鏡。
何と卑弥呼が生きていた時のものだ!
(画像/エンカルタ総合大百科)


【 邪馬台国九州説の卑弥呼の墓 】

●福岡県前原(まえばる)市・平原(ひらばる)遺跡(2008)

『曽根遺跡群 平原遺跡』

この1号墓から多数の女性用副葬品が発掘され
巫女的な女王の墓と考えられている
周囲には田畑が広がり、ゆっくり
ゆらゆらと時間が流れていた

この地は伊都国とされているが、この古墳の棺から日本最大の銅鏡“変形内行花文八葉鏡”(直径46.5cm)、ガラス勾玉(まがたま)、メノウ管玉(くだたま)、
連玉886点、丸玉500点ほか多数の副葬品(鏡だけで42面)が出て来たことから、NHKの歴史番組では卑弥呼の墓の“最有力候補”として紹介していた


伊都国歴史博物館には発掘時の様子が再現
されている。駅から少し離れているが、充実
展示で考古学ファンにはお薦めの博物館!
一般の国立博物館でも1、2点しか展示されて
いない国宝指定の銅鏡がここにはズラリ!

ガラス勾玉や瑠璃管玉など国宝の装飾品が
ザックザク。これらがたった1人の女性の墓
から出て来たという。ということは…!?

付近には32×31mという日本最大級の
弥生王の墓『三雲南小路遺跡』がある
ここから出土した銅鏡の数は弥生〜古墳時代
の中で最も多く、後の大量副葬の先駆けだ
この甕棺(かめかん)がワンセットで王の棺。
互いの口を上下に合わせて密封していた


●佐賀県神埼郡・吉野ヶ里遺跡(2008)








王宮(主祭殿)は高さ16.5m、13m四方という巨大さ! 1800年前の卑弥呼が生きていた時代の姿を復元! 王宮と見張り台の楼閣。楼閣はあちこちにある

1階では諸侯が会議をしている 最上階では卑弥呼(?)が神託を受けていた

吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は弥生時代の巨大遺跡。南北1km以上、甲子園の10倍となる約40ヘクタールの土地から、周囲を二重の堀で囲まれた大環濠集落や王族の墳丘墓、約3千もの甕棺(かめかん、昔の棺)が見つかっている。また、高さ12mの物見櫓(やぐら)跡があったり、傷を受け首がない人骨や鉄の矢じりも出ており、文献に残る邪馬台国のように戦争していたことが分かる。

まさに戦闘国家。高い柵が都市をグルリと一周 写ってる人間と比べてみて! 堀の深さもかなりのもの。突破不能

遠方から見ると柵がずっと続いているのが分かる 外堀の柵を越えても今度はこの内堀の柵が待っている 王宮を囲む内堀の柵。難攻不落!


吉野ヶ里には鳥のオブジェが多い。魔除けや守護神だったのかも 居住エリアにある王の家の鳥。ちょこんと乗ってて可愛い

歴代の王の墓(北墳丘墓) ここからは14基の甕棺(かめかん)を発掘 甕棺の中はこうなっている 被葬者が抱きかかえていた立派な銅剣




吉野ヶ里遺跡の北外れにある日吉宮。このように木を全体にくくり付けた
鳥居を見たのは初めて。これにはどういう意味が含まれているのだろう?
謎の鳥居をくぐると日吉宮の本殿が見えてくる。ここを卑弥呼の墓と考える学者も
いる。確かに“日吉”という太陽と関係ある名は日巫女=卑弥呼を彷彿させる


●宮崎県西都市・西都原(さいとばる)古墳群(2008)

西都原古墳群は日本最大の古墳銀座!この土地には300基以上の古墳がある!これ以上の規模の
古墳群が見つかっていない以上、ここが邪馬台国という可能性は否定しきれない


古墳の向こうにまた古墳 右を見ても左を見ても古墳、古墳 まさに古墳尽くし!これほどとは思わなかった!



春夏秋冬の表情を見てみたい 訪れたのは朝7時半。青々とした緑が目に染みる 内部の石室が公開されている古墳もある

宮内庁による、『男狭穂(おさほ)塚・女狭穂
(めさほ)塚 陵墓参考地』の案内板
男狭穂塚はニニギノミコト、女狭穂塚はコノハナサクヤビメ
の墓と伝わる。円墳の男狭穂塚を卑弥呼の墓とする説も

宮内庁が立入禁止にしており望遠で撮影。分り難いけど
この林の奥がニニギノミコトの墓。土が盛り上がってる
少し離れた場所から。おそらく右の山がニニギノミコト
(=卑弥呼?)、左の山がコノハナサクヤビメのハズ!


●福岡県柳川市(旧・山門郡)・大和町(2008)

西鉄天神大牟田線の塩塚駅

なんて、のどかなんだろう。
だが地名はめっさ邪馬台国っぽい
隣接するみやま市大神(おおが)の女山の旧名は
「女王山」。付近の城跡を卑弥呼の墓という人も
この一帯は2005年3月の合併で柳川市になるまで、住所は「福岡県山門郡大和町」だった!“山門郡”だけでも邪馬台国っぽいのに、
“大和町”という2段重ね!魏志倭人伝の記録が九州を指しているのなら、山門郡大和町という地名はまさにその名残ではなかろうか!?


●大分県宇佐市・宇佐八幡宮(2008)

美しい西大門。夕日で朱が一層映えている

宇佐八幡宮本殿。この奥に三神が祀られている

中央の二の御殿で祀られるヒメオオカミ(比売大神)。
比売=ヒメ(日女)&巫女=ヒメコ=卑弥呼?

石清水八幡宮、鶴岡八幡宮など、全国に約2万4000社ある八幡宮の始まりとなった神宮。創建725年。本殿の祭神は、一の御殿が応神天皇(八幡大神)、二の御殿が
ヒメオオカミ(比売大神)、三の御殿が神功(じんぐう)皇后。鎮護国家の武神として信仰され、歴代天皇は伊勢神宮に次ぐ宗廟として参詣している。


三の御殿。日本書紀にはこの神功皇后を
卑弥呼と示唆する文章が書かれている
宇佐神宮境内の亀山神社。小山になっているのでここが卑弥呼の墓という研究者もいる


 
こちらは伊勢神宮・内宮(ないくう)。アマテラスの別名はオオヒルメノムチ。“ヒルメ”とは
「日につかえる巫女」。そこから天照大神=日巫女=卑弥呼と考える学者もいる。(2008)


180年ごろ、倭国では「大乱」と呼ばれる激しい内乱が起きていた。戦火に包まれた小国
約30カ国は、国家連合を作ることで戦争を終わらせようと考え、連合体の中心国で7万余戸(推定30万人)を超える人口を持つ、邪馬台国の卑弥呼を共通の女王とすることにした。
彼女は呪術にたけ、絶大なカリスマがあり、連合体は見事にまとまった。宮殿は厳重に
警護され、卑弥呼には千人の侍女がつき、決して民衆の前に姿を見せることはなかった。
卑弥呼は神の妻として終生結婚せず、神意は弟によって実行された。

一方、中国大陸の後漢では184年の民衆蜂起“黄巾の乱”で支配体制が崩れ、『三国志』の英雄たちが活躍していた。207年に曹操(そうそう)が北部を統一、さらに全土を支配すべく15万の大軍で南下するが、翌208年に天才軍師・諸葛孔明を得た劉備(りゅうび)&孫権の5万の連合軍に“赤壁の戦”で策にはまり大敗北を期した。220年に曹操が病没すると子の曹丕(そうひ)が後漢を滅ぼし「魏」を建国。翌年に劉備が「蜀」を、翌々年に孫権が「呉」を建国し、大陸は3国に大分裂した。

やがて劉備と諸葛孔明が病没。蜀が弱体化し西方から脅威が消えたことで、魏は東の朝鮮半島へ戦力を向け始めた。238年、魏軍は半島北部に侵攻しソウル一帯まで支配下に治める。翌年、卑弥呼は素早く政治判断を下し、魏に使節を送って貢ぎ物を献上(朝貢)した。魏王朝2代皇帝の明帝は卑弥呼に「親魏倭王」の称号を授け、魏の支配下に入れた。明帝は卑弥呼の使者に金印、刀、銅鏡100枚(三角縁神獣鏡?)を与えた。
卑弥呼は243年に再び使節を送って朝貢を続けたが、その背景には邪馬台国の南方に位置する強敵・狗奴国(くなこく)との戦争があり、彼女は魏の支援を期待していたのだ。その結果、245年に魏軍を象徴する軍旗を与えられたが、さらなる支持を求めて247年に戦況を報告する為の使節を派遣した。これを受けて魏は特使をおくり、倭国の各小国が卑弥呼に協力をするように檄文を出した。
卑弥呼は魏の軍旗や詔(みことのり)で邪馬台国の権威を高めようとしたが、苦戦が続くなか同年他界した。
※邪馬台国の兵士は魏の旗を振って戦っていた(曹操が掲げた旗を卑弥呼の軍も掲げていたとは。歴史って面白い)。

卑弥呼の没後、男性が後継者となったが連合国はこれを認めず内乱が再発。卑弥呼一族の13歳の台与(とよ)を新女王に選ぶことで平和を取り戻した。「魏」は卑弥呼の死の18年後(265年)、「晋」に滅ぼされた。281年、台与は晋にも朝貢したが、その後413年まで倭国は中国の文献に1世紀以上登場しない。


●邪馬台国はどこにあったのか?

『魏志倭人伝』に記された邪馬台国に至る方位&距離をそのまま信じると、九州よりもっと南の海上になってしまう。これが原因で、江戸中期に新井白石が最初に苦悩し始め、本居宣長から現代まで、畿内説と九州説の議論がずっと続いている。1世紀前半の中国・新王朝の貨泉(かせん)と呼ばれる貨幣が畿内と北九州から多く発掘されており、双方に文化圏があったのは確実だ。近年も各地で遺跡の発掘が続いており、新たな学説も含めて推理していきたい。

《畿内説》

・656年に唐で書かれた『隋書』には「倭国の都は邪靡堆(やまと)にあり、これは魏書に記された邪馬台なり」とある。当時の外交官は遣隋使・遣唐使で大和朝廷を訪れており、“大和”=“邪馬台”というのが大陸側の基本認識。
・「銅鏡100枚」が魏から贈られたとする記述を裏付けるかのように、畿内から「三角縁神獣鏡」が大量に見つかっている。銅鏡が畿内から全国に分けられ、権力の中心が畿内にあったは確実。
・「南へ水上を10日、陸を1ヶ月」と記載されているが、「陸を1ヶ月」というのは古代の不便さを考慮しても九州だけでは長すぎる。
・卑弥呼の墓は大型古墳と記されており、初期の前方後円墳は畿内に集中している。
・畿内だと同じ場所に大和政権が成立したことを容易に説明可能。
・「三角縁神獣鏡は中国から1枚も出土例がなく魏から贈られたと思えない」という否定意見に対しては、(1)倭国の為に限定生産されたもの(2)ハイレベルな鋳造技術の銅鏡は国内で生産不可能(3)仮に否定派が指摘するように国内産とした場合、あれほど精巧な銅鏡を大量に生産できるだけ畿内の文明が発展していたことになり、やっぱり近畿が邪馬台国。いずれにせよ、畿内には鏡を製造or大量の鏡を集める財力を持つ力があり、倭国の中心が近畿にあったことの実証に他ならない。
・否定派は「中国の元号・景初は3年までしかないが、三角縁神獣鏡の中に景初4年という、存在しない元号があるから国産だ」とするが、これは改元を知らない職人が朝鮮で作ったか、来日して鋳造した為に改元を知らなかったものと思われる。
・奈良のホケノ山古墳の発掘調査で大和政権の発生が100年も早い可能性がでてきた。邪馬台国と同時代に大和政権が発生していたことになり時代があう。同古墳には大和地方以外からの土器が多数含まれており、各地域を結ぶ巨大勢力であったことが伺える。
・2世紀半ば、ニギハヤヒや神武といった北九州勢の東征で畿内の銅鐸文化が滅ぼされ、鏡・剣・玉を崇拝する文化が畿内に広まった。“倭国大乱”とは神武の後継勢力の争乱であり、そこから卑弥呼が登場したのではないか。
・1997年に大和政権誕生の地、奈良・黒塚古墳から33面の銅鏡が出土。同古墳は3世紀
後半〜4世紀前半のもので、初期大和政権と時代がピッタリ。同型の兄弟鏡が近畿を中心に九州から関東まで15府県に分布しており、大和政権が誕生時から絶大な権力を持っていたのは邪馬台国の延長だからだ。
・「ヤマタイコク」と「ヤマトコク」でふつうに名前がそっくり。

《九州説》

・『魏志倭人伝』の方角にあるのは福岡県山門郡。山門=ヤマトだ。距離が文献と異なるが、それは換算方法でどうにでもなる。大事なのは方角。命がけで外洋を越える海の男たちが方向を間違えるはずはない。
・上記の山門郡瀬高町南部(現・みやま市瀬高町)の大神(おおが)では、卑弥呼の時代より400年も前から弥生人が多く住み、稲作を始め、山間部には鉄を生産するタタラがあった。同地が発展して邪馬台国になった。地域の女山はかつて「女王山」と呼ばれていたという。また、付近には豪族・
物部一族の祖先を祀った神社がある。後年、大和朝廷の軍事部門につく“あの”物部氏だ。
・『日本書記』神功記には“山門県”の文字があり、古来からこの土地名は存在していたことが分かる。
・北九州で発掘されている3世紀の鉄器・青銅器は畿内よりはるかに多く、文化の中心地は九州だ。
・古文書には「女王国の東、海を渡りて千余里、また国あり、みな倭種」とある。九州なら東に海があり、しかも渡った場所に四国・本州があって文献通りだ。
・畿内派は近畿で多く出土する「三角縁神獣鏡」を卑弥呼が魏から授かったものとするが、この鏡は中国から一枚も出ておらず国産ではないか。「三角縁神獣鏡」の中には実在しない年号が刻まれているものがあり(改元が未反映)、このあたりも怪しい。卑弥呼の鏡は100枚の筈なのに「三角縁神獣鏡」は約500枚も見つかっている。見つかりすぎだ。
・卑弥呼が魏からもらった鏡は「三角縁神獣鏡」ではなく「後漢式鏡」ではないか。「後漢式鏡」なら北九州でも多く発見されている。
・佐賀県吉野ヶ里遺跡は長期間にわたって繁栄した集落であり、末期が邪馬台国の時代と重なる。遺跡からは矢じりの傷がある人骨や首のないものがあり、激しい戦乱の様子を伝えている。邪馬台国の都の特徴である「物見やぐら」や「城柵」の跡も発見されている。
・卑弥呼の他界と同時期の247年と248年に、2年連続で皆既日食が北九州で発生している。このことから、卑弥呼=アマテラスとする説もある。一度隠れて(死んで)、再び出てきたこと(新女王・台与の就任)が伝説化したという。


●箸墓(はしはか)古墳は卑弥呼の墓!…と思う。そう思いたい。

奈良県桜井市にある日本最古の大型前方後円墳・箸墓古墳は卑弥呼の墓と言われている。墳長約280m、後円部径約150m、高さ約30m、前方部幅約130m、高さ約15m。前方部4段、後円部5段からなる。古墳の多い奈良でもトップ3に入る大きさで、一帯は国内で
最も古い古墳群だ。

・『魏志倭人伝』には「卑弥呼の墓は大きな塚で、直径が百余歩、奴婢(ぬひ、奴隷)100余人が殉葬された」とある。魏の時代の一尺は約24cmで、一歩が六尺。すると一歩は約1.45mとなり、百余歩は約150m前後。これは箸墓古墳の後円部径約150mとピッタリ一致している!
・卑弥呼の死は247年頃と伝えられている。箸墓古墳が造成されたのは墳頂から出土した土器の形式から260年頃と推定され、卑弥呼が亡くなってから工事期間10余年で完成したと考えると時期的にドンピシャ!
・宮内庁は被葬者を第10代・祟神天皇の時代に三輪山の神に仕えた巫女、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)としている。箸墓古墳の体積は30万立方メートルで建設に動員されたのは述べ135万人。天皇ではなく一人の巫女の為にこれだけの人間が動くのは卑弥呼以外にありえない。『日本書紀』はこの墓について「昼は人が造り、夜は神が造った」と特記しており、「人々は近隣の山の石を手から手に渡して運び、山から墓に至るまで、人々は絶えることなく続いた」と築造の情景まで記している。墳丘の斜面から古墳の外装用に敷き詰められた葺石(ふきいし)が見つかっており、これを人々がリレー式で運んだ様子が伺える。また「壬申の乱」では、天武天皇が箸墓のそばで戦ったとされており、この墓が古くから特別視されていたのが分かる。
・『日本書紀』では祟神天皇が巫女である倭迹迹日百襲姫命の教えを聞いて政事を行なっている。邪馬台国でも卑弥呼の神意を聞いて弟が政事を行なっている点で共通している。
・付近から大量の「卑弥呼の鏡」が出土しており邪馬台国はここにあったか、もしくは、当初北九州にあった邪馬台国の本拠地が、卑弥呼の時代までにこの地へ移ってきたと見られる。また、3世紀後半までに100m級の古墳を造ることのできる権力者が複数いたことは、この地が初期大和政権の首都であったことに他ならない。卑弥呼がいたから、ここが首都になったのだ。
・初期古墳群の全長は平均約100m。しかし箸墓は300mに迫る規模でケタ違いの巨大さ。埴輪の原型となる吉備系土器が出土したり、古墳の周囲を堀で囲むなど、従来の墳墓とは完全に一線を画している。前方後円墳として様式が完成された第1号の古墳でもあり、以後の大規模前方後円墳のモデルとなっており、箸墓古墳の完成をもって古墳時代の幕開けと見る説が多い。この墓が卑弥呼でなくて誰の墓というのか。

女王陛下にィィィィイ! 土下座ァーッ!!ハハーッ!!(1999)

●古代の謎を解明する為、宮内庁には全ての天皇陵を公開して欲しい!

畿内説、九州説の決着は、「親魏倭王金印」が一方の地から見つかるか、もしくは「これが卑弥呼の墓」という決定的証拠が出てくるまでつかないだろう。ただし金印は「漢委奴国王金印」だと2cm強しかなく、簡単に持ち運べて場所の説得力に欠ける。となれば、やはり墓だ。
だがしかし!卑弥呼の墓の最有力候補の箸墓古墳は宮内庁が陵墓(天皇陵)に指定し、発掘調査ができない!仕方がないので、考古学者は箸墓近辺の民家が建て替え工事をする時に発掘調査させてもらっている。つまり、あくまでも外側の調査であり、内部構造や副葬品は一切不明なのだ。2001年には箸墓古墳の周囲から国内最古の馬具が見つかった。4世紀初頭の鐙(あぶみ、足入れ)で定説を一世紀もさかのぼる物だった。こんなケースは、本格調査が実現すれば幾らでも出てくるだろう。
戦後の考古学界で最大の発見となった高松塚古墳壁画のように、「発見、即国宝」といったような文化遺産が全国の古墳にある可能性は、考古学者の誰もが分かっている。しかし政治的な問題があるので、「いつの日か詳細な調査が実施される日を待つしかない」と諦めている。宮内庁よ、このまま人類が絶滅するまで未調査のままにするつもりなのか。

今は主権在民の世であり、僕らは小学校から人間は平等だと教わっている。それは死者についても同じだ。天皇&皇后の墓だけを特別に「陵」という言葉で区別する必要はない。現行法で規定された「陵」は全国に188ヶ所あり、皇子・皇女を葬った「墓(ぼ)」なると552ヶ所にも達し、陵墓の可能性がある「陵墓参考地」を合わせると、宮内庁の管轄下にある国有地は最低でも896墓にもなる。
宮内庁は「ご子孫が現におられて、ご先祖を祀られているから文化財ではない」と主張して天皇陵を文化財と認めないが、これは詭弁だ。なぜなら、戦国期の将軍や大名の墓は被葬者が分かり、子孫が墓参をしていても文化財に認定されているからだ。

明治政府は近代天皇制国家を目指して、学説が分かれる墓所をロクに調査せず、考古学の科学的な検証も殆ど行なわず、何でもかんでも「陵」に決めていった。この流れは昭和の軍国政府になってさらに加速し、天皇制強化の道具として、政府は名前しか分かってないような皇子・皇女たちのものまで次々と聖域に指定していった。しかも、戦争が終わっても「天皇陵」の再検討は行なわれず、戦前に指定されたものが丸々“国有財産”とされ、宮内庁書陵部陵墓課が今日まで管理している。だが、“国有財産”であれば、公開決定権は宮内庁ではなく国民各自にあるのではないか。
また、明治政府の場合は学者から「墓ではない」という明確な資料を出されると、すぐさま指定から外す英断を下していたが、今の宮内庁は超がつくほど保守的で、継体天皇陵のように学者がどんなに間違いを実証しても陵墓指定の誤りに耳を貸さないばかりか、逆に「指定が誤っていても、長年祀ってきたのでもう御霊は宿っている」と開き直る始末。
死者の尊厳や、祖先を大切にする気持は、もちろん大切に守るべきだ。しかし、別人の墓を間違ったまま信じ続けるのは、被葬者に対しても冒涜ではないのか。
今一度、声を大にして言いたい。古代日本の歴史に光を当てる箸墓古墳を始め、すべての天皇陵を宮内庁は公開するべしと!


※出雲のスサノオは出雲平野の斐伊(ひい)川上流に住むオロチ族(鉄文化を持っていた)を倒し、鉄を手に入れ(草薙の剣ゲット)次に九州を平定して卑弥呼と結婚した。神武天皇は孫。--こんな異説もある。
※中国では前王朝の歴史を、後に続く王朝が公文書にまとめる義務があり、曹操親子が建国した魏王朝については、後の晋王朝が史書『三国志』の中に「魏書」30巻として記録した。このうち日本に関する部分が『魏志倭人伝』と呼ばれる。成立が280年頃と卑弥呼の死から30年しか経っていないこともあり、この約2000字の文章が古代日本を知る貴重な手掛りとなっている。(日本最古の歴史書『古事記』は712年成立)
※中国の『後漢書』には、57年に倭の奴国の使者に金印を与えたという記録が残っている。この「漢委奴国王」と刻まれた金印は江戸中期に甚兵衛と農民が偶然用水路で発見し国宝になっている。卑弥呼が受け取った金印もこの国のどこかにあるはずだが、まだ発見されてない。


【大物主神(オオモノヌシノカミ)の世界】

日本最古の神社、大神(おおみわ)神社の祭神・大物主神は、日本書紀に記された倭迹迹日百襲姫命の夫!

箸墓古墳と三輪山(奥)という夫婦のラブラブ・ツーショット!





ご神体の三輪山(みわやま)と巨大な大鳥居(2008)

本殿はなく拝殿だけがある。
人々は背後の三輪山を拝む
巳の神杉(みのかみすぎ)は、
根元に神の化身の蛇が棲む霊木

奈良県桜井市三輪の大神神社は、三輪山そのものが御神体なので本殿はなく拝殿だけがある。三輪山周辺は古墳時代初期の前方後円墳が多数あり、ここが邪馬台国や大和政権の発生地と考える学者も多い。祭神は『日本書紀』に登場する大物主神(オオモノヌシノカミ)。
※拝殿の裏手にある三ツ鳥居は参拝者からは見えないけれど、神社の事務所で申し込めば拝殿の奥まで無料で案内してもらえる。三ツ鳥居は3つの鳥居が1つに合体した珍しいもので、僕はここでしか見たことがない。※残念ながら写真撮影は禁止だった





 
大物主神は蛇の姿と伝わり、蛇の好物&願いを丸呑みして欲しいという思いから、卵を捧げる
参拝者も多い。大物主神は酒の神でもあり、酒造家の信仰対象となり日本酒が捧げられている
鳥居は一般のような赤い鳥居ではなく
木に縄がかけられた素朴なもの

倭迹迹日百襲姫命が仕えた第10代崇神(すじん)天皇の
古墳。スッキリして非常に美しい!崇神天皇は初めて
畿内の外まで治めた天皇だ※奈良県天理市(2008)
1998年に“卑弥呼の鏡”と呼ばれる「三角縁神獣鏡」が33面
も発見され、畿内説を補完した黒塚古墳。4世紀初頭に造
られた全長約130mの前方後円墳※奈良県天理市(2008)

【 邪馬台国の風俗など〜『魏志倭人伝』現代語訳@エンカルタ百科事典 】
 
●邪馬台国の位置
倭人は帯方郡東南の大海の中の山島に国をつくっている。もともと100余国にわかれており、漢王朝に朝貢してきた。今は30カ国が使者をおくってくる。  帯方郡から倭国にいくには、朝鮮半島西岸沿いを船でいき、馬韓をへて、しばらく南にいき、しばらく東にいくと、倭国の北岸の狗邪韓国につく。その間、7000余里。はじめて海を横断し、1000余里で対馬国につく。そこの大官は卑狗といい、副官は卑奴母離という。離れ小島で、面積は400余里四方ほど。うっそうとした森林におおわれ、しかも山はけわしい。南に海をわたって1000余里で一大国〔一支国(壱岐国)か〕につく。  また海をわたって1000余里で末盧国につく。陸路を東南に500里いくと伊都国につく。そこの大官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚という。1000余戸あって代々の王もいるが、女王国の属国である。帯方郡からの使者が往き来するときは、いつもここで駐留する。ここから東南100里で奴国、東に100里で不弥国につく。  船で南に20日いって投馬国につく。そこから南に船で10日、陸を1カ月ほどいくと邪馬壱〔台〕国につく。ここが女王が都をおいているところである。
 
●倭の習俗と社会
男はみな入れ墨する。もぐって魚・貝をとるときに大魚や海獣の害をさけるためだったが、のちに飾りになった。この国は、会稽郡東冶県の東にあたるらしい。  男子は中国のように冠をつけず、みずらを結い、布をかぶっている。体には横長の布をまきつけている。女子は髪をたばねて、単衣の布の中央に穴をあけ、そこから頭をだして着ている。稲・麻を植え、カイコをやしない、絹糸をつむいでいる。ここには牛、馬、トラ、ヒョウ、ヒツジ、カササギがいない。矛(ほこ)・楯・木弓を武器とし、竹の矢は鉄か骨の鏃(やじり)である。  気候は温暖で、年中生野菜を食べ、裸足(はだし)で生活している。まるでおしろいのように、朱を体にぬっている。飲食には高坏(たかつき)をつかい、手づかみで食べる。棺はつくるが外箱はなく、地面にうめて上に塚をきずく。人が死ぬと10余日は喪に服して肉を食べず、喪主は号泣し、ほかの人は歌舞・飲酒する。埋葬がおわると家族みんなで水浴びにいく。倭人が中国などにわたるときは、持衰という男が髪もとかさずシラミもとらず、衣服もあらわず、肉を食べず、女も近づけないで、ひたすら謹慎している。もし航海がうまくいけば褒美をあたえられるが、一行が病気や損害をうければ殺された。  物事の初めや往来には、焼いた骨にはいったひびをみて吉凶を占う。  人はみな酒好きで、100歳や80〜90歳くらいまで長生きする人が多い。支配層はみな4〜5人、一般人でも2〜3人の妻をもつが、女子はみだらでなく、嫉妬(しっと)しないし、盗みなどもしないので訴えごとが少ない。
 
●支配の実態
法をおかすと、軽ければ妻子が奴隷にされ、重い場合はその家族・一門が滅亡させられた。上下の身分差は厳然としてあるが、お互いに信頼している。税物を収納する建物がある。国々には市場が開かれ、物資の交換がなされ、大倭が不正のないよう監督している。  女王国の北の伊都国に一大率がいて諸国の監察にあたっているので、各国は彼をこわがっている。  支配層の者にあうと一般人は道をゆずって草むらにはいり、命令をつたえるときは一般人はひざまずいて両手をつき、承知したら「あい」という。
 
●卑弥呼像
倭国はもともと男子を王として70〜80年ほど経過したが、国内がみだれ、連年抗争をくりかえした。そこで卑弥呼という女性をたてて王とした。卑弥呼は鬼道(呪術)に通じていて、よく民衆をみちびいた。年をとっても夫をもたず、弟が国政を補佐している。人前にたたず、1000人の女奴隷をはべらせている。ひとりの男だけが食事の給仕と伝言にあたり、卑弥呼の部屋に出入りしている。その王宮は物見の楼閣や柵などの防衛施設がととのい、武装兵士にまもられている。
 
●魏との関係
238年(景初2、実際は景初3)6月、卑弥呼は大夫の難升米を帯方郡に派遣し、魏の天子(明帝)に謁見と朝貢を申しでてきた。帯方郡太守の劉夏は使者に難升米らを魏の都の洛陽まで案内させた。  その12月に、天子は卑弥呼に「親魏倭王卑弥呼に詔する。おまえははるばる大夫の難升米と都市牛利をつかわし、男女の生口(技術奴隷)と班布を献上してきた。おまえの忠孝をいとおしく思い、親魏倭王として紫綬のついた金印をあたえる。郡太守に付してとどけるからうけとりなさい。国内を安定させ、礼儀をととのえなさい。使者の2名もその労をねぎらい、それぞれに官職と青綬のついた銀印をさずける。返礼として赤地蛟竜文様の錦、縮みの粟粒(あわつぶ)文様の毛氈(もうせん)、深紅の布・紺青の布をあたえる。また特別に紺地の句文錦、細班華文様の毛氈、白絹、黄金8両、5尺の刀、銅鏡100枚、真珠、鉛丹(仙薬)をあたえる。帰国したら国中の者たちにみせ、中国がおまえをいつくしんでいることをよく知らせなさい」と詔した。  240年(正始元)郡太守の弓遵は使者をつかわし、少帝の詔書と印綬を倭国にとどけ、黄金と絹帛、刀、銅鏡、采物などをさずけた。倭王は上表文して感謝の言葉をのべた。  243年、倭王は伊声耆や掖邪狗ら8人の使者をおくって、生口、倭錦、赤青の絹、綿衣や短弓などを献上した。  245年、少帝は倭の難升米に帯方郡経由で黄色の中国軍旗をさずけた。  247年、郡太守の王?が政府にきていう。卑弥呼はもともと南にある狗奴国の男王の卑弥弓呼と仲がわるい。倭国は載斯烏越を帯方郡に派遣してその戦況を報告してきた、と。そこで中国は塞曹掾史(地方官)の張政を派遣し、少帝の詔書と中国軍旗を難升米にさずけ、狗奴国や動揺する倭の諸国に檄文をおくり、卑弥呼にしたがうよう告諭した。
 
●卑弥呼の後継者
卑弥呼は死んだので、大きな高塚をきずいた。その直径は100余歩分ほど。いっしょに奴婢100人あまりが葬られた。そのあとに男子の王がたったが諸国は服従せず、抗争がつづいて1000人あまりの死者がでた。そこでまた卑弥呼の一族の女で13歳の壱与〔「台与:とよ」の誤りか〕を擁立して王とした。これによって、国内はやっとおさまった。




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