【パレスチナ問題について】

    (2009.4.14) 
村上春樹スピーチ カンタン!中東近代史

複雑なパレスチナ情勢を簡単に説明。
ユダヤの人々は2600年前にバビロニアとの戦争に敗れてパレスチナから追放されて以来、ずっと同地を“約束の地”と呼び帰還を夢見ていた。一方、パレスチナにはその後アラブ人が生活基盤を築いていく。16世紀からはオスマン帝国の支配下に。

英国は第一次大戦中の1915年に

「オスマン帝国(トルコ)に向かって武装蜂起するなら中東での独立を認める」

とした“マクマホン協定”をアラブ人と結ぶ。だが翌年、その裏で大戦後の中東地域の分割についてフランス・ロシアと“サイクス=ピコ協定”で協議し、さらに翌年にはパレスチナにユダヤ人国家建設を約束する“バルフォア宣言”をユダヤ人銀行家に戦費調達のため出しており、こうしたイギリスの「三枚舌外交」=アラブ人に独立、ユダヤ人に建国を認め、連合国とは領土分割を協議が、長年批判されてきた。ただし、近年になり個々の約束が必ずしも矛盾してなかったとする説も出ている。
Wiki「三枚舌外交」

世界に散らばったユダヤ人がパレスチナに集まり始めた当初は、アラブ側にも歓迎するムードがあり、両者は互いの宗教を尊重しながら同じ地域に暮らしていた。

・「私達アラブ人、特に教育と知識のある者は、シオニズム運動に対して心から共感を覚え見守っている。(中略)私達アラブ人は、ユダヤ人帰還者を心から歓迎する。我々は改革され、更に改善された中東社会を求め、共に働くつもりである」(1919年、アミール・ファイサル・フサイニー)※アラブ軍の指導者で後のイラク王国初代国王

・「我々はユダヤ人が外国からパレスチナの地にたどり着くのを見てきた。深い判断力を持っているものならば、ユダヤ人の権利に目を閉ざすことはできない。我々は、あらゆる違っている点にもかかわらず、この土地が共に愛され、あがめられ、共通の祖国であり、同時に、この土地の本来の子らのものであることを知っている」(ヨルダン・フセイン国王)

しかし、あまりにもユダヤ人移民の数が増えてきたこと、またユダヤ財閥の潤沢な資金を目の当たりにしてアラブ側に警戒感が生まれ始めた。アラブ人の中には貧しさからユダヤ人に土地を安く売り渡す者も多く、このこともアラブ側の民族主義者を神経質にさせた。そして両者の間に緊張が高まり、1929年に60名のユダヤ教徒が虐殺されたヘブロン事件や、133名のユダヤ教徒が虐殺されたツファット事件の悲劇が起きる。これに対してユダヤ人側も軍事組織を作りアラブ側に反撃し、1946年にはアラブ寄りだった英国治安部隊にも爆弾テロを仕掛けた。混乱する情勢に英国は自ら“統治不能”と認識し、国連に助けを求める。
国連は1947年11月、パレスチナをアラブ人地域、ユダヤ人地域、エルサレム周辺の国連統治地域に三分割する分割統治案=国連決議181号を可決。

国連決議181号は大きな問題を含んでいた。3分割するのは良いとして、人口の3分の1しかいないユダヤ人(決議前の所有地7%)が、決議181号によっていっきに8倍の面積となる56.5%の土地を手に入れ、反対に人口の3分の2を占めるアラブ人が残った43.5%の狭い土地に押し込められることになった。
どうして多数派のアラブ人が狭い方の土地を割り当てられるのか…この理不尽な議決の背景には、同年に米国で大統領選挙があり、トルーマン大統領がユダヤ人票及びユダヤ銀行家の資金を目当てに強烈な圧力をかけたことが知られている。

そして1948年4月8日、ユダヤ人軍事組織がアラブ人のデイル・ヤシーン村を襲撃し、女性や子供も含む107人〜254人を虐殺した『デイル・ヤシーン事件』が起きる。
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(ウィキ“デイル・ヤシーン事件”より要約)
デイル・ヤシーン事件はそれだけでも忌まわしい事件であるが、実は隠された目的があった。それは「ダレット計画」と呼ばれる、パレスチナ人(アラブ系住民)の大量追放計画の実行である。つまり、ユダヤ人テロ組織はパレスチナ人の中に意図的にパニックを起こすことを意図してデイル・ヤシーン村で虐殺を行った。これは、イスラエル独立前後にユダヤ人武装勢力がパレスチナ人の数百の村々に入り、見せしめの殺戮やレイプを行って恐怖をあおって土地から追い出し、短時間の間に百万人を超えるパレスチナ人の「移送」を完成させることを目的とした計画だった。デイル・ヤシーン村は現在イスラエル領になり、虐殺された犠牲者の土地や財産は、ユダヤ人のものとなっている。
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この報復として1週間後にアラブ人非正規軍が、77名のユダヤ人を虐殺したハダサー医療従事者虐殺事件が起きる。双方のテロ合戦が各地で起き、デイル・ヤシーン事件後にユダヤ人軍事組織によって最大3千人のアラブ人が虐殺されたと見られている。

ユダヤ人軍事組織の狙い通り、デイル・ヤシーン事件の噂は瞬く間に広がり、パニック状態になったアラブ系住民70〜80万人が着の身着のままで周辺国に脱出した。そしてデイル・ヤシーン事件の翌月、先の国連決議181号を根拠としてユダヤ人はイスラエル建国を宣言した(1948.5.14)。国際社会はアウシュビッツへの同情や、圧倒的に力を持つユダヤ資本の存在もあって建国を黙認した。
これに納得できない周辺アラブ諸国が攻撃を開始したのが第一次中東戦争。この戦闘に勝利したイスラエルは、国連決議で定められた地域以外も占領して自領に取り込んだ。続く、第二次&第三次中東戦争はイスラエルによる先制攻撃、第四次はアラブ側の先制攻撃と泥沼に。中でも第三次中東戦争ではイスラエル軍が捕虜にしたアラブ兵数百人を違法に処刑したことが問題になった。


●そして現在

パレスチナ難民の帰還権を認める国連決議194号をイスラエルは60年以上にわたって拒否している。国外へ脱出せず、イスラエル内に留まったアラブ人の多くはガザに詰め込まれた(日本の人口密度339人に対し、ガザは3945人と世界最高レベル)。イスラエルは国連からの再三にわたる建設中止命令を無視して、巨大な壁をガザの周囲に建造。外部との交通を遮断されたガザはほぼ全産業が崩壊し、市民150万人のうち110万人が外部の支援で食いつないでいる。
イスラエル軍が設置した100カ所以上もある検問所は交通を麻痺させ、救急車は病院に辿り着けず妊婦や重傷患者が死に至る事件が多発。“大壁”建設地で立ち退き拒否を続けるパレスチナ人を応援するために、国際NGOが「人間の盾」となって座り込みをすると、イスラエルは生きた人間をブルドーザーで轢き殺すという信じられない暴挙に及ぶ。

パレスチナ人地区では新しい家の建設にイスラエルの許可が必要で、自分の土地に自由に家を建てる権利すらない。しかも申請の94%が却下され、特にヨルダン川西岸の大半を占めるC地区では、過去10年の間1軒も許可されていない(逆にイスラエル人入植者の為に01年から3年間で1万8000軒も建設)。
国連が決めた境界線を越えて土地を奪うイスラエル政府。だが、アメリカはイスラエルを擁護し続け、07年には今後10年間で300億ドル(約3兆円)もの巨額の“無償軍事援助”を米国が行なう協定が結ばれた。

我慢の限界を超えたパレスチナ人が抵抗組織を作れば「過激派」の言葉でひとくくりにし、世界のマスコミはパレスチナ人の絶望をほとんど伝えず、逆に「ヤツらはテロリストだ」というイメージを繰り返し流している。そして08年の年末から翌1月にかけてガザへの凄まじい空爆と侵攻が行なわれた(パレスチナ側の犠牲者は1300人以上。その大半が子ども、女性、老人だ)。
このガザ侵攻のきっかけは「武装組織ハマスが停戦協定を更新せずにロケット弾攻撃を再開したこと」と、“パレスチナ側にも非がある”という論調がある(僕も当初そう思った時期があった)。だが、戦争状態とはロケットや銃弾が飛び交う状況のみを指すのではなく、経済封鎖で食料もなく薬もなく生活が根元から破壊されている現状は、命が危険に晒されている点で、ずっと攻撃を受け続けているのと同じことだ
土地を占領されたパレスチナ人が、占領者イスラエルに対して行う攻撃(抵抗運動)と、イスラエルが占領地の人間に行なう攻撃は、正当性、大儀の面で全く異なる。イスラエルは武力で勝手に他人の土地を支配し、抵抗されたら相手をテロリストと呼んで、それを口実にさらに激しく弾圧しているだけだ。


●問題解決に向けて

まず混乱の原因となったアンバランスな3分割法案=国連決議181号を撤回し、人口に見合った居住地域を再設定するのが筋。この場合、パレスチナ難民の中には、故郷がユダヤ人地域となってしまい戻れない人も出てくるので、彼らをいかに説得して状況を受け入れてもらえるかが重要。どちらにしても今のままでは戻れないのだから…。

ハマスは「イスラエルが1967年(第三次中東戦争※イスラエルが先制攻撃でガザ、ゴラン高原、ヨルダン川西岸、シナイ半島を占領)当時の国境線まで撤退すれば10年間の停戦を実施する」と表明している。つまり、かつてのように“イスラエルという国の存在自体を断固認めない”というものではなく、“国としては承認しないが、存在を事実上黙認する”という現実路線になっている。僕はこのハマスの提案がそんなに無茶なものとは思わないし、国連だって基本は同じ立場だ。
そして(出来ればこの事態は避けたいが)究極的にはガザへ国連軍(多国籍軍)を派兵してでも、イスラエルに占領を止めさせるしかないと思う。もう60年もパレスチナは占領されたままであり、国際社会は本気で事態を解決する時期にきている。08年末からのガザへの大規模侵攻で千人以上を殺害したイスラエル首脳は、「人道に対する罪」で旧ユーゴのミロシェヴィッチ大統領のように“国際戦犯法廷”で裁かれるべきだ。前世紀ならともかく、今世紀ではこんなことは絶対に許されない。無残に殺害された300人を超える子どもたちの為にも法による審判(正義)が実現されねばならない。

以上。

《パレスチナ関連の管理人過去日記から》

2002年4月9日の日記…イスラエル軍、大暴走。聖地ベツレヘムの生誕教会(キリストが生まれた場所)に逃げ込んでいるパレスチナの人々に手榴弾を投げ込み、しかも消火作業をしている人間を射殺したり正気の沙汰とは思えない。旧約聖書を重視するユダヤ教徒にとってキリストは重要人物ではないが、全世界のキリスト教徒にとって生誕教会は心の故郷。銃撃を行なうなんてもってのほか。パレスチナ難民キャンプにロケット弾を20発も撃ち込む凶行もあり、EUはついに経済制裁の用意に入ったが、日本政府は何をやってるのか?

2004年3月24日の日記…「僕はハマス創始者で穏健派だったヤシン師を、一昨日イスラエル軍が暗殺したことに激怒している。イスラエルや米国はハマスにイスラム過激派のレッテルを貼っているが、パレスチナの人々にとっては抵抗運動の英雄であり、医療や学校を無料にしてくれ、母子家庭を経済的に支えてくれる慈善団体だ。ヤシン師は以前から、イスラエルがガザから撤退したら、ハマスは攻撃をやめると言っていた。その人物を殺してどうするのだ?イスラエルに自衛権があるというのなら、パレスチナにだって自衛権がある。報復に対する報復、その報復に対する新たな報復。この暴力の連鎖を断つには両者が対立を超えて解決策を協力して見い出さなければならないのに、今日のニュースでは、イスラエル政府がハマス幹部を皆殺しにするまで暗殺を続けると宣言していた。正気の沙汰とは思えない。今どき裁判ナシの処刑など、どの国際法も認めていない!パレスチナでは穏健派までがヤシン師の仇を討つと息巻いている。シャロンは地獄のフタを開けてしまった」

2009年1月15日の日記…国際赤十字(ICRC)が怒りのイスラエル批判。「国際人道法は(敵味方を問わず)負傷者を避難させ手当てすることを義務づけているが、イスラエル軍はこれを無視し負傷者と遺体を放置している」と声明。中立・不偏をモットーとする国際赤十字が“国際人道法違反”で一方を批判するのは極めて異例のこと。当初、イスラエル当局は国際赤十字がガザ市内に入ることさえ拒み続け、交渉4日目にようやく中に入る許可が下りた。そこで赤十字職員が見たものは「砲撃で崩壊した家の中で、母親の遺体に寄り添う4人の衰弱した幼子」を始めとした無数の爆撃跡。そして「複数の市民の遺体や負傷者を見つけたが、目の前のイスラエル軍は救助の手助けをするどころか、赤十字職員らに即時退去を迫った」という。赤十字は救急車までが砲撃されることにも抗議した。

※パレスチナ問題を耳にする度に、僕は20年前に自殺したユダヤ人作家プリーモ・レーヴィのことを思わずにいられない。レーヴィはアウシュビッツの地獄から奇跡的に生還したのに、終戦から40年が経ち自殺した。理由は、ナチスに非道な仕打ちを受けたはずのユダヤ人が、今度はイスラエル軍としてパレスチナの人々を虐殺していること。“イスラエル軍は撤退せよ”と声明文を発表したレーヴィは、ユダヤ社会から「裏切り者」扱いされ孤立し、全てに絶望し自ら命を絶った。レーヴィの死から何も学んでいない現状を思うと、たまらない気持になる。


画像元:ツイッター(作者不明)


【村上春樹氏のエルサレム賞受賞スピーチ】
(2009 エルサレム)


※エルサレム賞は「社会における個人の自由」のために貢献した外国人作家に隔年で贈られるイスラエル最高の文学賞。2009年2月15日の授賞式は、イスラエル軍がパレスチナ自治区ガザに侵攻し、千人以上の市民を殺害した直後であり、村上氏の発言が注目された。

(以下、2009年3月2日毎日新聞から/翻訳・佐藤由紀)

こんばんは。私は本日、小説家として、長々とうそを語る専門家としてエルサレムに来ました(聴衆笑)。
もちろん、うそをつくのは小説家だけではありません。ご存じのようにうそをつく政治家もいます。外交官や将官も、中古車セールスマンや肉屋、建築業者と同じく、それぞれの都合に応じてうそをつくことがあります。小説家のうそが他と違うのは、誰も不道徳だと非難しないことです。実際、より大きく上手で独創的なうそをつけばつくほど、人々や批評家に称賛されます。なぜでしょうか。

私の答えはこうです。巧妙なうそ、つまり真実のような作り話によって、小説家は真実を新しい場所に引き出し新しい光を当てることができるからです。大抵の場合、真実をありのままにとらえて正確に描写するのは実質的に不可能です。だから、私たち(小説家)は、隠れている真実をおびき出してフィクションという領域に引きずり出し、フィクション(小説)の形に転換することで(真実の)しっぽをつかもうとします。
でもこの作業をやるには、まず最初に、私たち自身の中の、どこに真実があるかを明確にする必要があります。これが上手なうそを創造するための重要な能力なのです。

でも、今日、うそをつくつもりはありません。できるだけ正直に話そうと思います。1年のうちで数日しかうそをつかない日はないのですが、きょうはたまたまその日に当たります(聴衆笑)。
だから、真実をお話ししましょう。日本でかなり多くの人に、エルサレム賞授賞式に行くべきではないと助言されました。一部の人には、もし行くなら私の著作の不買運動を起こすとさえ警告されました。
理由はもちろんガザ地区で起きている激しい戦闘でした。国連の発表によると、封鎖されたガザ地区で1000人以上が命を落とし、その多くは子どもや老人を含む非武装の市民でした。

授賞通知をいただいたあと、このような時期にイスラエルに出向き、文学賞を受けるのは適切なのか、これが紛争当事者の一方を支持し、圧倒的に優位な軍事力を行使することを選択した国の政策を承認したとの印象を作ってしまわないか、と、たびたび自問しました。もちろん(そうした印象を与えることも)著作が不買運動の標的になることも、あってほしくないことです。

しかし、考えに考えた末、最終的にはここに来ることを決めました。理由の一つは、あまりにも多くの人が「行くな」と言ったからでした。他の多くの小説家と同じように、私は人に言われたのと正反対のことをする傾向があります。もし、「そこへ行くな」とか、「それをするな」と命令されたり、ましてや警告されたりすると、私は逆に「そこ」へ行ったり「それ」をやったりしたくなります。あまのじゃくは小説家である私の天性といえます。小説家は特別な種類の生き物です。自分の目で見たものや、自分の手で触れたものでなければ、心から信頼できません。
だから私はこうしてここにいます。欠席するより出席することを選びました。見ないことより自分で見ることを選びました。何も語らないより、皆さんに語ることを選びました。

だから、ここでごく個人的なメッセージを一つ紹介させてください。小説を書いている時、いつも心に留めていることです。紙に書いて壁に張ったりはしませんが、心の中の壁に刻まれているもので、こんなふうに表現できます。

<高くて頑丈な壁と、壁にぶつかれば壊れてしまう卵があるなら、私はいつでも卵の側に立とう>

ええ、どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立ちます。何が正しく何が誤りかという判断は、誰か別の人にやってもらいましょう。時間や歴史が決めてくれるかもしれません。しかし、どんな理由があっても、もし壁の側に立って書く小説家がいるとすれば、作品にどれほどの価値があるでしょう。

ここで申し上げた壁と卵のメタファー(隠喩・いんゆ)の意味とは何でしょう。ごく単純で明らかな例えもあります。爆撃機、戦車、ロケット弾、そして白リン弾は、高い壁です。卵は、押しつぶされ、熱に焼かれ、銃で撃たれた武器を持たない(パレスチナの)市民たちです。これがメタファーのひとつの意味であり、真実です。

でも、それがすべてではありません。さらに深い意味が含まれています。こんなふうに考えてください。私たちはそれぞれが多かれ少なかれ卵なのです。世界でたった一つしかない、掛け替えのない魂が、壊れやすい殻に入っている−−それが私たちなのです。私もそうだし、皆さんも同じでしょう。そして、私たちそれぞれが、程度の差はありますが、高くて頑丈な壁に直面しています。
壁には名前があり、「体制(ザ・システム)」と呼ばれています。体制は本来、私たちを守るためにあるのですが、時には、自ら生命を持ち、私たちの生命を奪ったり、他の誰かを、冷酷に、効率よく、組織的に殺すよう仕向けることがあります。

私が小説を書く理由はたった一つ、個人の魂の尊厳を表層に引き上げ、光を当てることです。物語の目的とは、体制が私たちの魂を罠にかけ、品位をおとしめることがないよう、警報を発したり、体制に光を向け続けることです。小説家の仕事は、物語を作ることによって、個人の独自性を明らかにする努力を続けることだと信じています。生と死の物語、愛の物語、読者を泣かせ、恐怖で震えさせ、笑いこけさせる物語。私たちが来る日も来る日も、きまじめにフィクションを作り続けているのは、そのためなのです。

私は昨年、父を90歳で亡くしました。現役時代は教師で、たまに僧侶の仕事もしていました。京都の大学院生だった時に徴兵されて陸軍に入り、中国戦線に送られました。私は戦後生まれですが、父が毎朝、朝食前に自宅の小さな仏壇に向かい、長い心のこもった祈りをささげている姿をよく目にしました。ある時、なぜそんなことをするのかと聞いたら、戦場で死んだ人を悼んでいる、との答えが返ってきました。死んだ人みんなの冥福を祈っているんだよ、味方も敵もみんなだよ、と父は言いました。仏壇の前に座った父の背中を見つめながら、父のいるあたりを死の影が漂っているような気がしました。
父は去り、父とともに父の記憶、私が永遠に知ることができない記憶も消えました。でも、父の周辺にひそんでいた死の存在は私の記憶として残りました。それは、父から受け継いだ数少ないものの一つ、最も大切なものの一つです。

今日私が皆さんにお伝えしたいのは、たった一つです。私たちは皆、国籍や人種や宗教を超えて人間であり、体制という名の頑丈な壁と向き合う壊れやすい卵だということです。
どう見ても、私たちに勝ち目はなさそうです。壁はあまりにも高く、強く、冷酷です。もし勝つ希望がわずかでもあるとすれば、私たち自身の魂も他の人の魂も、それぞれに独自性があり、掛け替えのないものなのだと信じること、魂が触れ合うことで得られる温かさを心から信じることから見つけねばなりません。
少し時間を割いて考えてみてください。私たちはそれぞれ形のある生きた魂を持っています。体制にそんなものはありません。自分たちが体制に搾取されるのを許してはなりません。体制に生命を持たせてはなりません。体制が私たちを作ったのではなく、私たちが体制を作ったのですから。

以上が私の言いたかったことです。エルサレム賞を授与していただき、感謝しています。世界のさまざまな所で私の本を読んでいただきありがたく思います。イスラエルの読者の皆さんにもお礼を申し上げます。皆さんのおかげで、私はここに来ることができました。そして、ささやかであっても、意味のあることを共有したいと願っています。本日ここでお話しする機会を与えていただき、うれしく思います。どうもありがとうございました。



★カンタン!中東近代史※2ch掲示板の投稿が分かりやすかったので再編集させて頂きました。欧米のゲスっぷり…(汗)。

【イラン(ペルシャ)】
石油が出ることで列強に支配され、1919年、イギリスに保護国にされる。
1921年、レザーハーンという人が革命を起こし、自ら王位についてパフレヴィー朝を開く。イギリスは撤退するも、イラン国内の油田はイギリス資本が握る。
WW2後の1951年にモサデクが首相就任。(国王とは別に首相がいる)モサデクは「イラン国内の石油は国有化すんぞ!」と宣言する。イギリス利権をのさばらせておくわけにはいかないからね。
欧米と結びついているイラン国王レザー=シャーは「あいつが勝手な事するんです」とアメリカにチクる。するとアメリカはイラン国王を支援、首相をクーデターにより追放し、アメリカ寄りの国王が政治を握る事に。国王パフレヴィー2世は西欧化をすすめ、イランは超アメリカ寄りの国になる。
しかし国王の余りのアメポチぶりと、国内の貧富の格差拡大に国民が激怒。1979年、ホメイニという人が革命を起こし、イラン=イスラーム共和国を建国。革命を起こしたのは反米政権だからそれ以降イランは反米国になる。
同じ1979年、ソ連がアフガニスタンに出兵。同じイスラームの同胞を侵略する行為に反発し、イランは反ソの姿勢を掲げる。
イランは反米・反ソな上、イスラーム原理主義で、アメポチやソ連パグである周辺諸国に反米反ソの蜂起を呼びかけような国だ。アメリカとソ連は、イラン共和国の隣のイラクにこう吹っかける。「イラク大統領さんよ、イラン革命の影響が及ぶ前にイランに出兵して封じ込めといた方がいいぜ、イラク国内でも革命が起きたらアンタの首も危ないだろ?」
こうして米ソの支援により1980年イラン=イラク戦争が開戦、特にどちらが勝つということもないまま終わり、両国に残ったのは荒れた国土だけ。
2002年、アメリカのブッシュが一般教書演説で『イラク・イラン・北朝鮮の3国は悪の枢軸だ!』と非難する。アメリカに対抗するため保有した核についても指摘され、両者はギスギスしたまま現在に至る。

【イラク】
WW1後、イギリス占領地に誕生したイラク王国。WW2を経て、イラクはアメリカによって反共産(反ソ)主義の拠点と位置付けられた。
この親米国家イラクで、1958年にイラク革命が起こる。軍人カセムが起こしたクーデターによってイラク国王は殺害され、イラクは共和国となる。
その後イスラーム原理主義の政党が政権を握るも、このイスラーム原理主義を弾圧して大統領となったのがサダム=フセイン。だからイラクはイスラーム原理主義のイランと仲も悪く、イラン革命の影響を恐れてもいた。それを米ソがそそのかし、イラクを米ソが支援してイラン=イラク戦争が勃発。
結局、戦争後にイラクに残ったのは莫大な借金だった。そこで、隣の産油国クウェートに攻め込み、支配下に置こうとした。(クウェートは英米の石油権益のためだけに作られたような国だったので、フセイン大統領は植民地支配の爪痕を正そうとしただけだ、と言った。)
当然のごとくこれにアメリカはブチ切れる。これまではイラクを利用しまくっていたが、多国籍軍を編成して「イラクのクウェート侵攻をやめさせる!」と湾岸戦争を仕掛けた。湾岸戦争により、イラクはすっかり荒廃してしまう。サダム=フセイン政権はかろうじて残る。
さらに、アメリカは『イラクは大量破壊兵器を保有している!!平和を乱す存在だ!!』とイギリスと手を組み、今度はイラク戦争を仕掛けた。2003年、アメリカ軍はバグダッドを制圧し、サダム=フセインを犯罪者として"逮捕"。すっかり荒れ果てたイラクの国土を"復興"させるため、アメリカ軍が統治を開始する。だが、イラクにアメリカが攻め込んだ「口実」だった、肝心の『大量破壊兵器』が、どれだけ探しても見つからなかった。
2度の戦争を経てすっかり混乱してしまったイラク。無政府状態に近くなり、かえってテロリストの温床となり、イラク戦争終結後の方がアメリカ軍人は多く戦死している。

【アフガニスタン】
1838年、イギリスがアフガン戦争を二回仕掛け、アフガニスタンを事実上の植民地化し、ロシアのアジア南下を牽制する。
第一次、第二次世界大戦を経てイギリスから独立したものの、アフガニスタンを巡るイギリスとロシアの対立は、アメリカとソ連の冷戦下での対立へと引き継がれる。隣国のパキスタンがアメリカ寄りの国になったため、パキスタンと仲の悪いアフガニスタンはソ連を支援を受けて社会主義的な道を進むのね。
しかし、国内で反政府デモ(=反ソ的な動き)が頻発したため、1979年、ソ連はアフガニスタンに出兵し、この動きを弾圧しようとする。
アメリカは反政府(反ソ)側を支援し、イスラーム諸国も反ソ側でアラブ義勇兵として参戦。オサマ=ビン=ラディンなどの義勇兵にアメリカは武器を与えて支援する。
1989年、ソ連が撤兵し、アフガニスタンでは親ソ政権が倒れる。10年間ものソ連の軍事介入により国土は荒廃し、その後も混乱が続いた。
そこに現れたのがタリバンと呼ばれる若者たちの勢力で、混乱したアフガニスタンを一つにまとめていく。タリバンは他の軍閥と違って略奪などを行わず、規律が非常に高かったため、民衆から幅広い支持を集めて政権についた。
バーミヤンの仏教遺跡の爆破についても「過激なイスラームグループだ!」と各国のメディアは報道したが、実際は外国人が現地の高官に賄賂を送って仏像を盗み売りさばくなどの汚職行為が見受けられたためだった。アフガニスタンはタリバンによって秩序を回復した。
しかし2001年、同時多発テロが発生。アメリカはオサマ=ビン=ラディンを首謀者と断定し、アフガニスタンのタリバン政権がオサマ=ビン=ラディンをかくまっているとしてアフガニスタンへの激しい空爆を開始。以後再び国内は混乱に陥り、アメリカ軍との泥沼の抗争に陥ったまま、現在に至る。

【エジプト】
エジプト王朝に接近したフランスは、エジプトに「通行料取れば絶対儲かるぜw」とスエズ運河建設を持ちかける。これに騙されたエジプト。1869年に運河が完成し、ヨーロッパ諸国は地中海から直接インド洋に抜けられるようになったが、莫大な借金を返せなかったエジプトは財政破綻。スエズ運河はイギリスが買収し、事実上イギリスの植民地となった。
第一次中東戦争でイスラエルに負けたエジプト国内では、1952年にエジプト革命が起こる。
指導者はナセルという人。エジプトは王国から共和国になる。ナセルは、アラブ人の統一を目指していた。アラブ人はかつてオスマン帝国の下で同じ国の民として暮らしていたが、ヨーロッパ諸国によって分断されてしまったんだった。
だからナセルはイギリスやアメリカから距離を置き、ソ連と手を組む。また、反アメリカの中華人民共和国とも国交を結ぶ。この動きに怒った英米は、アスワン=ハイダム(英米資本により建設中のダムで、エジプト国土を緑化させちゃえる大規模なダム)への融資を中止する。
するとナセルはスエズ運河国有化宣言を出す。スエズ運河はイギリスが占領していたからね。これにブチ切れたイギリスは、フランスとイスラエルを誘ってエジプトに攻め込み、第二次中東戦争となる。
当然エジプトは負けはじめるわけだが、ここでアメリカが鶴の一声。『おい!ソ連がハンガリー侵攻してんのにエジプトで戦争してる場合か!!!』。アメリカとしては最大の敵はソ連なわけで、英仏には資本主義側としてヨーロッパにソ連が侵攻して来ないか見張るのがお前らの仕事だろ!ということ。
結果、イギリスフランスイスラエルはエジプトから撤退し、何か知らないけどエジプトは第二次中東戦争に勝ったことになった。戦争に勝ったナセルは、「アラブの統一」という夢にむかって突き進む。手始めにエジプトとシリアを合体させて一つの国にした。しかし、やはり上手くいかず、3年後にはもとのシリアとエジプトに解体してしまう。
さらに、1958年のイラク革命以降、イラクも「アラブの統一!」を叫び始めた。しかしイラクは反ナセルで、ナセルのアラブ統一はたびたび妨害された。
そんな中、1967年に第三次中東戦争が勃発。イスラエルがシリア・エジプト・ヨルダンに仕掛けた侵略戦争だった。これは6日間戦争と呼ばれ、アメリカのユダヤ系財閥の支援を受けたイスラエルが圧勝し、シリア・エジプト・ヨルダンは大きく領土を削り取られる。
失意の中ナセルは死去、エジプトではサダト大統領が就任する。イスラエルに侵略され、領土を失ったサダト大統領は、ヨルダン・シリアとともに復讐戦の計画を練る。アラブ人居住区だけは何としても取り返さなくてはならない。1973年の第四次中東戦争ではいっせいにイスラエルに攻め込んだ。
この時点でイスラエルは欧米諸国の支援を受けて核兵器を保有しており、その使用の可能性も囁かれた。またしても劣勢のアラブ諸国は、イスラエルのバックにつく欧米諸国に対して、石油の輸出を制限する石油戦略をとる。これが第一次オイル=ショック。アメリカと同盟を結んでいる日本もダメージを食らった。
結局、第四次中東戦争にも敗れたエジプト。サダト大統領は「イスラエルと和解する」という決断をする。もちろん、他のアラブ諸国からすれば、パレスチナ人を見捨てるというエジプトの裏切り行為にしか見えない。以後、エジプトはアラブ人世界からは孤立していく。
このサダト大統領の行為に対して国内からも「パレスチナ人を見捨てるのか!」と反発が上がり、サダト大統領は暗殺され、後任にムバラクが就任する。しかし、30年の長期政権は行き詰まり、2011年にムバラクは大統領を辞した。

【イスラム教とサラディン】
イスラーム教は普通、他宗教に寛容です。
だから、征服した国にキリスト教徒が住んでいても、少々税金を払えばキリスト教を信仰していてもOKです。緩やかな統治のため多くの地域から受け入れられました。
キリスト教は異宗教は認めないのでとりあえずイスラームは皆殺しにしないといけない。イスラーム教徒は老若男女皆殺しにされた。
しかしイスラームの英雄サラディン(サラーフ=アッディーン)は聖地を守り、キリスト教徒たちをとっ捕まえはするものの、同じ「経典の民」として尊重し、捕虜に衣食住を与え手厚く対応したあと釈放した。
十数回に及ぶヨーロッパの十字軍は聖地を奪回することができず、結局失敗してしまった。野蛮人のヨーロッパ人たちでしたがこのサラディンに尊敬の念を抱くようになります。
サラディンがモデルとなってヨーロッパで「騎士道」(神を敬い、女性や弱者を守る道徳)が生まれた。



画像元:ツイッター(作者不明)


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