愛国リベラル史観・近代史年表〜日本と東南アジア編
〜日本軍占領時代の東南アジア 1941-1945〜



1942年時点の日本領

シンガポール /マレーシア / ベトナム / タイ / ビルマ(ミャンマー) / インド / フィリピン /インドネシア / ニューギニア
香港 / ラオス / ブルネイ / オーストラリア / グアム / 南洋諸島 / 千島列島・北方領土
インパール作戦 / ガンジー声明 / (フィリピン戦)皇軍兵士の告白 /名将今村閣下! / 戦争と財閥


〔はじめに/年表作成のきっかけ〕

先の大戦について、僕は昔からひとつの疑問を抱いていた。「日本は白人からアジアの植民地を解放するために戦った」「日本のおかげでアジアの独立が早まった」という意見に触れるにつれ、それでは東南アジアでは独立記念日に日本に感謝するための大規模なイベントがあったり、現地の教科書に「日本に占領されて良かった、日本は独立の恩人」と記載しているのだろうかと。確かに一部有力者には日本を讃える人もいるようだが、それが経済援助目当てのリップ・サービスでないのなら、日本人は“聖戦”で310万人も命を失っているわけだし、一国くらい「日本感謝日」なる祝日を制定してくれてもいいはず。
ところが、外務省が1987年にアセアン(東南アジア諸国連合)各国で行った世論調査は次のようなものだった。

●大戦中の日本について「悪い面を忘れることはできない」
インドネシア:33% マレーシア:32% フィリピン:36% シンガポール:41% タイ:24%

1987年といえば、もう終戦から42年も経っている。ところが「悪い面を忘れることはできない」という人が3人に1人。シンガポールでは4割だ。直接占領しなかったタイでも4人に1人。もしも、このアンケートに「独立を助けた日本に感謝すべき」と外務省が加えていればどんな結果になっただろうか。僕が調べた限り、アセアン各国で現職の国のトップが日本の戦争を讃えた記録は見つからなかったし、アセアン各国の歴史教科書には、日本軍占領時代の苦難の日々、日本の戦争行為への糾弾だけが記されていた。「アジア解放の正義の戦争」をしていたはずの日本軍は、フィリピンで住民の抗日ゲリラに終始悩まされていたし、最初は親日的だったインドネシアやビルマでも、結局は反日闘争が展開されるようになった。そこから見えてきたのは以下の構図だ。

『補給を軽視し“現地調達”を原則とした大本営→食糧を日本軍に奪われ、働き手を基地建設などにかり出される地元民の不満→軍票(日本が作った現地通貨)乱発で超インフレ→約束していたはずの独立もない→これなら欧米の支配の方が良かった→反日運動を憲兵が弾圧→反発を抱いた急進派が抗日武装蜂起→日本軍が反乱指導者を逮捕・処刑→住民の怒りが爆発、全国規模の抗日ゲリラが誕生→ゲリラは一般住民に紛れ込んでいるので疑心暗鬼になった日本軍の一部が住民虐殺→ゲリラと連合軍が連携して日本軍に抵抗』

規模の違いはあれ、日本占領地のほとんどで上記の流れになっている。しかし、このことを日本では学校の授業できちんと教えていないため、「正義の戦争」論が保守派を中心に幅広く支持されている。僕だって日本人として、あの戦争が真にアジア解放の聖戦であればどんなに良かったかと思う。でも、以下の年表を見て頂くと分かるように、多くの現地住民が日本軍に殺害されており(特にインドネシアとフィリピン)、その現実から目をそらして“聖戦”と言っていては相手国民への非礼になる。日本政府は終戦後にインドネシアの独立運動に加わった日本人義勇兵約800人を賞賛するどころか、1991年まで50年近くも「脱走兵」扱いとし、軍人恩給の対象外としていた。マレーシアで独立のために戦った元マレー人民解放軍・田中晴明さんいわく「大東亜共栄圏とかなんとかと駆り立てられて、これは良いことだと思ってマレーに行ってみると、事実というのは、ただ英国の植民地を日本が取った、戦争で横取りしたという、そういう感じを受けた。日本が来たために現地の人はどれだけ苦労したか。食料なども、豊富なところなのに、ほとんど日本が取り上げてしまって、マレーの人は本当に苦労したんですよ」。

この年表は日本占領中に起きたことを国別(約15カ国)にまとめてあり、残虐行為も包み隠さずに書いている。でもそれは戦争犯罪を告発するのが目的ではない。侵略した側は侵略された側以上に、自らが与えた被害を知っておく義務があり(それが誠意というもの)、国際化社会にあってアジア出身者と交流する際に、こちらの無知が相手を傷つけることを避けるためだ。負の歴史を学ぶのは自虐ではなく人としての道理。そして、戦争がどれほど人間性を失わせるものかを知ることが、新たな戦争を抑止することになるし、犠牲になった人々の命を無駄にしないことに繋がると思う。
※中立を心がけ、日本軍だけでなく連合軍のやったことにも触れていマス。アメリカのとの戦闘(主に玉砕戦)については「近代史年表〜日本とアメリカ編」にアップ(ニューギニアとグアムの住民殺害事件のみこちらに)。香港は東南アジアじゃないけど対英戦ということでこの年表に。

★参考資料…『世界戦争犯罪辞典』(秦郁彦ほか/文藝春秋)、『アジアの教科書に書かれた日本の戦争』(越田稜/梨の木舎)、『教科書が教えない歴史』(藤岡信勝ほか/産経新聞社・扶桑社)、『戦争案内』(高岩仁/映像文化協会)、『歴史修正主義の克服』(山田朗/高文研)、『昭和天皇語録』(講談社学術文庫)、『昭和天皇』(古川隆久/中公新書)、『昭和の名将と愚将』(半藤一利・保阪正康/文藝春秋)、『レイテ戦記』(大岡昇平/中央公論社)、『天王山』(ジョージ・ファイファー/早川書房)、『ルソン住民虐殺の真相・狂気』(友清高志/徳間文庫)、『虚構の特攻隊神話・つらい真実』(小沢郁郎/同成社)、『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ百科事典』(マイクロソフト)、『日中戦争〜兵士は戦場で何を見たのか』(NHK)、『沖縄 よみがえる戦場』(NHK)、『さかのぼり日本史 とめられなかった戦争』(NHK)、『日本はなぜ戦争へと向かったのか』(NHK)、『シリーズ証言記録 兵士たちの戦争』(NHK)、『責任なき戦場〜ビルマ・インパール』(NHK)、ウィキペディア、ほか多数。


〔太平洋戦争に至る経緯〜すべては日中戦争の誤算から〕

1937年7月7日に北京郊外の盧溝橋から始まった日中戦争は、軍中央の楽勝予想とは裏腹に、中国の徹底抗戦を受けて戦線は拡大、短期戦どころか先の見えない泥沼に落ち込んでいった。日本は「中国がずっと抵抗を続けているのは、欧米諸国や在外中国人(華僑)が支援しているから」と考え、インドシナ(ベトナム)やビルマ(ミャンマー)が中国への支援物資の運送ルートと見ていた。だが当時のインドシナはフランス領であるため手出しができない。そんなおり、1939年9月に欧州で第二次世界大戦が勃発。ドイツは周辺国を次々と占領していった。1940年6月14日にパリが陥落すると、仏の新首相ペタンはドイツと休戦協定を結んで親ドイツ政権を築いた。フランスの屈服を知った日本は、中国補給ルートを遮断する絶好の機会と捉え、3ヶ月後の1940年9月、フランスに圧力をかけてインドシナ北部に日本軍の進駐を認めさせた。その4日後に日独伊三国同盟が締結される。
1941年6月、ドイツがソ連に電撃侵攻。日本は対ソ戦を考えて北方の兵力を充実させてきたが、独ソの激突で極東におけるソ連の脅威はなくなった。北の緊張が解け、軍部は南方に熱い視線を向ける。「ドイツとの戦いで英蘭仏は疲弊しており、今なら資源に恵まれた東南アジア(英領マレーシア、蘭領インドネシア、仏領南部インドシナ)に軍事的進出が可能ではないか」。南進論の声が大きくなり、独ソ戦開始の翌月、日本はシンガポールを空爆圏内におくインドシナ南部に軍を進駐させた(南部仏印進駐)。
これが大誤算だった。米国が激怒したのだ。かつて米国も満州の利権を狙っていたが、あれよあれよと言う間に日本に獲られてしまった。そして今度は米国の植民地フィリピンに日本軍が近づいて来ている。何度も警告しているのに南下をやめない。日本はアメリカから7割、蘭領インドネシアから3割の割合で石油を輸入していた。日本が戦争できるのは米国のおかげだ。米国にしてみれば、自分たちが輸出した石油を使って米国の利権を奪おうとしているわけで、たまったものではない。かねてから日本の大陸進出に抗議していたルーズベルトは、米国内の日本の資産を凍結し、「石油の全面禁輸」に踏み切った。この禁輸措置に日本軍部は大きなショックを受ける。石油の備蓄は2年分しかない。急進派は石油が切れる前に戦争をすべきと考え、御前会議で軍部は「短期決戦なら勝算はある」と訴えた。
1941年12月8日、石油全面禁輸から約4ヶ月半、かくして日本海軍による真珠湾奇襲攻撃が敢行され、陸軍は東南アジア各国に上陸した。


【シンガポール】(旧英領)※日本占領時代は“昭南島”に改名

●1941.12.8 極東アジアにおける英軍の最大拠点シンガポール攻略を目指し、真珠湾攻撃に合わせて日本軍がタイ南部やマレー半島北部に上陸。シンガポールの英軍の大砲は全て海に向いているので、日本軍は背後(陸上)から攻撃を加えようとした。

●1941.12.10 シンガポールを守っていた英国の最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが、サイゴン(南部仏印=ベトナム南部)から飛び立った日本の爆撃機約80機の猛攻を受けて轟沈。作戦行動中の主力艦が航空機に撃沈されたのは史上初。ウィンストン・チャーチルは著書『第2次世界大戦史』にこう記している「この戦争でもっとも衝撃的だったのは、『プリンス・オブ・ウェールズ』と『レパルス』喪失の報告だった」。これによってマレー半島のどの海岸からも日本軍が大挙上陸可能になった。英軍には戦車がなかったが、日本軍は約300両もの戦車を送り込むことに成功した。

●1942.1.31 日本軍はマレー半島をハイスピードで南下し、シンガポールに隣接するジョホールに到着。途中の山岳部で豪州軍200人が逃げることなく全滅するまで抗戦したことから、日本軍は豪州兵に敬意を表し、彼らの墓に「我々の勇敢なる敵オーストラリア兵のために」と刻んだ巨大な木の十字架をジェマールアン郊外に建てた。2/8、日本軍はジョホール海峡の岸に大砲400門を並べてシンガポールに砲撃を開始。ジョホールからシンガポールへの水の供給を止めた。
※この迅速な南下には世界的に類例のない「銀輪部隊」が活躍したが、その自転車のかなりの台数が“現地調達”という収奪品だった。

●1942.2.14 英軍病院襲撃…“マレーの虎”山下奉文(ともゆき)中将率いる第25軍は2/9に英軍の極東最大拠点シンガポールへ上陸。英印軍第44旅団の兵士が英軍のアレクサンドラ病院の一角にたてこもって抗戦したことから、第18師団(師団長は盧溝橋で日中戦争を始めたあの牟田口)歩兵第55連隊が病院に突入。軍医たちは赤十字の旗を降ったが、日本軍は非武装の軍医、衛生兵、ナース、患者の区別なしに発砲、銃剣で約30人を殺傷した。その後、降伏した約200人を付近の建物に詰め込み、翌日に次々に殺害していった。正確な被害者数は不明だが、事件後に牟田口師団長が英側に部下の暴行を謝罪している。

●1942.2.14 バンカ島事件…シンガポール陥落の直前に豪州陸軍のナース65人を含む民間人300人が船で脱出したが、同船は日本機の爆撃で沈没し乗客の多くがバンカ島を目指して泳いだ。ビーチに泳ぎ着いて日本軍に投降した男子は全員が処刑された。65人のナースのうち、21人が銃殺され、12人が溺死し、32人が捕虜となったが、栄養失調とマラリアで8人が息絶え、終戦まで生き残ったのは24人。事件の責任者と推定された折田大隊長は1948年に獄中で自殺。
※陥落前にシンガポールを出港した50隻のうち40隻が日本軍によって沈められた。

●1942.2.21-3.31 昭南粛清事件/華僑虐殺…華僑(かきょう)とは中国本土から海外に移住した中国人のこと。彼らは抗日戦争中の中国を支援するため資金を送り続けていた。2/15にシンガポールを陥落させた第25軍の山下奉文中将は残敵掃討作戦を発令、3月末までに3度にわたって華僑に対する“選別”を実施、敵性ありと判断した者を「厳重処分」(裁判なしの処刑)に付した。この大粛清は攻略前から予定されていたもの。1/28の時点で鈴木宗作参謀長から大石正幸中佐(野戦憲兵隊長)に「軍はシンガポール占領後に華僑の粛清を考えており、相応の憲兵を用意せよ」と命令が下っている。“厳重処分”となった人々はトラックに乗せられ、チャンギー海岸、ボンゴール海岸で機銃掃射された。英軍検察官は日本軍に虐殺された犠牲者を6千人と推定。シンガポール攻略戦の砲撃で死亡した市民、占領中に処刑、獄死した犠牲者の総数は、当時の昭南特別市政庁の厚生科長・篠崎護いわく「1万9千人から2万人」。マレーシアの中学生用歴史教科書には「シンガポールで4万人の華僑が殺戮され、マレー半島全体では10万人以上の華僑が殺害された」とある。
この苛烈な処置の背景は3つ。
(1)第25軍はスマトラ、ビルマ方面へ主力が転戦することになっており、残った警備兵力では民衆蜂起に対応できないため(シンガポールの人口は80万人)、反乱の可能性を完全に封じるべく弾圧した。
(2)華僑義勇軍がシンガポール島のブキテマ攻防戦で激しく抗戦し、日本軍に多くの死傷者が出たことから、日本兵には華僑に対する憎悪が広がっていた。後日ブキテマの中国系住民は男女子どもを問わず虐殺されている。
(3)産業を乗っ取るためには、経済を握る華僑が邪魔だった。山下中将はマレー半島の華僑代表に、当時マレー半島に流通していた通貨の50%にあたる5千万ドルを提出するよう命じている。家財道具を売り払っても金額が不足した中国人には、植民地経営の主力銀行・横浜正金銀行(天皇家が大株主)から借金させて5千万ドルを奪取している。これで経済の中心にいた中国系企業は息の根を止められた。また、“選別”では肉体労働者は釈放して知識人だけを虐殺している。
※“選別”はやりすぎとして、現場の憲兵隊(大石隊)から軍司令部へ“慎重な対応を”と意見具申があった。だが鈴木参謀長は「山下軍司令官が決めたこと。本質は掃討作戦であり命令通り実行を望む」と昭南警備司令官の河村参郎少将に命じ、大石隊も従うしかなかった。戦史研究者の間では、作戦主任参謀・辻政信が粛清を発案し、作戦参謀・朝枝繁春が命令を起草し、山下軍司令官が黙認・発令したとする見方が多い。辻政信は粛清の各現場で「シンガポールの人口を半分に減らすくらいの気持ちでやれ!」と怒鳴り散らしていたという。

・日本軍はシンガポール占領後に市内の食糧・物資を取り上げたため、価格は終戦まで上がり続けた。1942年と1945年を比較すると、米価は150倍、卵350倍、砂糖142倍、石鹸100倍、インクペン73倍、腕時計118倍と、何もかもが高価になった。
・占領中、教科書は日本語で印刷され、毎朝生徒は日本の方向に遙拝して君が代を歌わなければならなかった。
・シンガポールの戦争記念公園の“血債の塔”(日本占領時期死難人民記念碑)は、塔の台座部分に戦後発掘された日本軍による犠牲者の遺骨が埋葬されている。また同公園北方の「孫文記念館」(晩晴園)には、日本軍によって虐殺された市民の遺品が展示されている。それらの遺品の中には子ども用品も含まれている。


【マレーシア】(旧英領マラヤ)
マレーシアの中学生向け教科書には「当初、マレーの人々は日本のアジア解放のスローガンを信じていたので、日本が進出してくることに地元住民の激しい反対はなかった。後になってやっと現地の住民は日本が約束を守らないことに気づいた。日本人はマレーをまるで自分たちの植民地であるかのように支配した。今度は彼らがイギリス人の座を奪った。日本の支配はイギリスよりずっと酷かった」「多くのマレー人はイギリスを支持し、日本人を憎んだ。日本人はスパイ組織を設立し、次のことをする者は誰でも逮捕された。(1)反日思想を持つ人間と交流する(2)日本人の行政について文句を言う(3)日本に協力する現地人をからかう(4)英国王または女王の写真を掲げる。そして逮捕された者は憲兵隊に尋問された。憲兵隊は罪のない人間を罪人だと自白させる為、手足の爪を抜く、水責め、電気ショックなど様々な残酷な拷問を行った。日本占領時代は国民が恐怖に脅えた暗い時代だった」「日本占領時代、物資を欧米に輸出したり外国から物資を買うことが出来なくなった。日本は軍票を乱発し、卵1個の値段は1941年12月には3セントだったが、1945年には35ドル(約1167倍)になった。砂糖1カティは1941年に8セントだったものが1945年は120ドル(1500倍)にもなった」「日本軍は日本国歌と国旗に尊敬の念を抱くよう強制し、学校では日本語を教えた。毎日生徒は日本の方角に向かって最敬礼して天皇に対する崇拝の念を表すよう強制された。そして人民を愚昧にするため、新聞、雑誌、放送局のニュースは禁止された」。

●1941.12.8 マレー半島上陸…真珠湾攻撃の1時間前に日本陸軍が上陸した。最終目標はフィリピン攻略。

●1942.1.22 英軍捕虜殺害…ジョホール州バクリ付近の日本軍のチャンギー俘虜収容所(パリト・スロン)を視察に訪れた元近衛師団長・西村琢磨中将が「捕虜を処分せよ」と下命、約150人の英軍捕虜(オーストラリア兵110人、インド兵40人)が機関銃の一斉射撃で処刑され、亡骸はガソリンで焼却された。

●1943.10.10 アピ事件…日本軍は1942年2月にボルネオ島(当時英領)を制圧し軍政をしく。創設されたボルネオ守備軍は、日本からの補給に頼らない“現地自活”を方針とした。その結果、島内に食料や日常必需品の不足を引き起こし、また道路や飛行場建設のために多数の青壮年が徴用されたことから、原住民の反日感情が高まり武装蜂起に至った。約300人(原住民200人、華人100人)の反乱軍は警察署や日系企業を襲撃し、軍は2週間をかけてこの反乱を鎮圧した。約60人が殺害された日本側は、反乱軍の首謀者アルバート・クォックを探し出すため数千人を拷問にかけ、250〜300人が処刑された。クォックは無実の人々が拷問にかけられるのを止めるために自首し、斬首された。戦後2人の憲兵が処刑の責任者として死刑となった。

●1945.2-6 サンダカン死の行進…日本の南方総軍は連合軍がボルネオ島の東岸から上陸すると考えて第37軍(約2万人)を配置していた。だが、1945年1月末に、連合軍が西岸から上陸する気配を見せたため、主力部隊と捕虜を東岸サンダカンから西岸ラナウへ移動させた。“移動”といっても山岳地帯、湿地帯、密林の中を260kmも行軍するわけで、捕虜を移送した日本兵582人のうち73人が死亡している。だが、捕虜の悲惨さはそれどころではなかった。サンダカンには飛行場建設のために約2200人の連合国捕虜(英兵&豪兵)がいたが、終戦まで生き延びた者は逃亡に成功した6人だけ。約1200人がマラリアと飢餓によって収容所で死亡し、残りは西岸へ徒歩移動の途中か、到着後に死亡した(歩けなくなった者は射殺せよと命令が出ていた)。
・“死の行進”第1陣(2月)→453人中、114人が死亡。移動に2週間。ラナウ到着後も約4ヶ月で333人が死亡した。
・“死の行進”第2陣(5月)→536人中、353人が死亡。移動に26日もかかり犠牲者が増えた。
・“死の行進”第3陣(6月)→288人の全員が50kmもいかないうちに全員死亡。
出発地点のサンダカン収容所には約50人の捕虜が取り残され、自然死を待っても死ななかった23人は全員射殺された。6/26の時点で西岸ラナウには第1陣の生存者6人と、第2陣の生存者183人の計189人の捕虜がいたが、8/1(終戦2週間前)にはたった33人に減り、その後17人が射殺され6人が逃亡に成功した。壮絶。
戦後、ボルネオ捕虜収容所長・菅辰次中佐は自決、戦犯法廷で司令官・馬場正郎中将とサンダカン分所長ら4人が死刑となった。

日本軍の降伏後、連合軍の東南アジア司令部が3週間近く英軍をマレーシアに進駐させなかったことが、無政府状態、恐怖政治を引き起こす原因になった。華人の抗日軍を討伐する際に日本軍はマレー人の警官や義勇軍を動員したことから、華人にはマレー人への敵対心があり、戦争末期の頃にはモスクが焼き討ちされるような事態も起きていた(マレー人はイスラム)。日本軍が撤退した地区に抗日軍が入り、日本軍に協力的した警官や密告者が人民裁判にかけられ即刻処刑された。これらにマレー人は危機感を持ち、抗日軍であろうと一般華人であろうと報復の対象にしてしまう。11月にはキキール村落で200人以上の華人がマレー人に虐殺され、井戸に婦女子が投げ込まれた。進駐英軍は戦時中の抗日運動に報いるため華人優遇政策をとり、マレー人との間に何年も確執を残すこととなった。

日本は終戦後、マレーの人々の独立を認めず、イギリスに植民地のまま返還することに決めた。だから、イギリス占領軍がマレーに乗り込むまで、独立運動を弾圧する必要があった。1945年9月5日、日本軍は共和国建設を目指した人民委員会の主要メンバー10人を捕らえ、暴行、拷問を加え、虐殺した。「日本の軍隊が欧米諸国の支配からアジアの人々を解放して独立させるために大東亜戦争を始めた」と信じた人はここでも裏切られた。
しかし、マレーの真の独立のために戦い続けた旧日本兵もいた。
※現在、日本人もよく訪れる観光地ペナンは、日本軍の空襲で大きな被害を受けている。
※日本軍によるマレー住民虐殺の実態は、日本軍の公式文書「陣中日誌」(歩兵第十一連隊第七中隊陣中日誌)に詳しい。


【香港】(旧英領)
●1941.12.25 英軍捕虜の虐殺…12/18に香港上陸戦を開始した日本軍は砲台陥落の際に約25人の英軍投降兵を銃剣で刺殺。12/25、英軍ヤング総督が日本軍に降伏して香港は陥落したが、一部の英兵が抗戦を続けたことが日本兵を怒らせた。そして降伏後の夜、英陸軍病院を占領した日本軍が、約25人の病院スタッフ(ナース含む)と約60人の患者を虐殺した。事件4日後、両手両足を縛られ刺し殺された50体以上の遺体を生存者が目撃。


【ベトナム】(旧仏領インドシナ)
フランス領インドシナ(仏印)は現在のベトナム・ラオス・カンボジアにあたる。日中戦争が長期化すると、連合国が行う中国への支援・補給を日本は阻止する必要性に迫られた。対中支援はインドシナやビルマ(ミャンマー)を通して行われ、インドシナでは“ハノイ・ルート”と呼ばれる対中支援ルートがあったが、インドシナはフランス領であり容易に手を出せなかった。東南アジア全体を睨んだ前線基地にするためにも、日本はインドシナを必要としていた(サイゴンからシンガポールに爆撃可能)。
1940年6月、欧州でドイツがフランスに勝利。フランスが弱体化したことでインドシナに介入する隙が生まれた。3ヶ月後(9月)、日中戦争の行き詰まりを打開すべく、フランスに強要して「北部仏印進駐」を成功させた。フランス植民地軍はインドシナ北部から撤退し、日本はハノイ・ルート遮断に成功した。
1941年4月「日ソ中立条約」を結んで北方を固めた日本は、同年7月、インドシナを“フランスと共同で防衛する”という口実で「南部仏印進駐」を開始した。だが、日本軍がベトナム南部へ展開したことに米国は激怒し、ルーズベルトは石油の全面禁輸に踏み切った。半年後に日米開戦へと至ると、日本はインドシナ総督ドゥクーに軍事協定を結ばせた。その内容は「フランス植民地政府は日本軍に食糧を供給し、兵舎を建設し、日本軍の安全を保証する為にインドシナにおける社会秩序を維持しなければならない」という対日従属的なものだった。

日本の教科書には「北部仏印進駐」(1940.9)と「南部仏印進駐」(1941.7)に関しては語句だけが載っている程度。進駐後の現地住民の被害や抗日運動については全く記載がない。日本軍進駐後、インドシナの民衆は日本とフランスの二重の支配を受けることになった。フランス植民地政府は減税するどころか重税を課し、1939年から1945年の間にフランスのインドシナ予算の総収入は倍増している。
1945年3月9日に日本軍がクーデターでフランス植民地政府を滅ぼした後、ベトナム、ラオス、カンボジア3国の国王に“独立”を宣言させたが、実権は終戦まで日本が握っていた。ベトナムではホー・チ・ミン(グエン・アイ・クォックの変名)率いるベトナム独立連盟(ベトミン)が抗日闘争を繰り広げ、北ベトナム各地で武装蜂起を展開した。

●1945.3.12 ランソン事件…北部インドシナ(ベトナム)に駐屯していた日本軍は、戦局悪化にともない、連合国軍が上陸するとインドシナのフランス勢力は敵側にまわると予測。“明(あきら)作戦”を実施してフランス勢力をインドシナから一掃しようとした。3/9、まず日本側はフランスの高級将校らを会食に招き、現場で憲兵が彼らを拘束。同じタイミングで日本軍が戦闘を開始し、ランソンのフランス要塞群を攻略した。この攻防戦で最大の要塞を落とした際に多数のフランス兵が降伏し捕虜となる。日本軍は敵からの反撃に備えて捕虜管理に兵を割くことが出来ず、歩兵第225連隊は次の作戦で移動するため、3月12日夜に捕虜300〜500人を銃剣と軍刀で処刑した。要塞守備隊のルモニエ少将は、他のフランス兵に対する降伏命令の署名を拒否したため斬首された。処刑命令を伝えた小寺大隊長は戦犯裁判の公判前に自決、捕虜殺害に関わった4人が死刑となった。

●1945.1- ベトナム飢餓…日本がインドシナに求めた最も重要な物資は米。それが、1945年初頭の数ヶ月の間、ベトナム北部で破滅的大飢饉を発生させる原因となった。100万人以上が命の危機に直面し、犠牲者数から言えば南京事件以上のもの。駐留日本軍への供出用にフランス植民地政府が安価で備蓄米の強制買い付けを行い市場の米が不足し、さらに連合国軍の日本軍への空爆で鉄道・船舶などの大量輸送手段を破壊したことにより南北が分断状態になり、南部からの米が北部に届かなくなった。それでなくても、北部農村は日本軍によってジュート(黄麻)など軍用作物・工業用植物の作付けをに強制されており米は減っていた。トドメのように天候不順による大凶作、洪水被害による疫病の発生が重なり、日本軍の人災と自然災害によって膨大な餓死者が出た。
1945年9月2日にホー・チ・ミンが読みあげたベトナム民主共和国の独立宣言では、この飢饉による犠牲者の数を「200万人」としている(犠牲者数は諸説あり、日本が30万人、フランスが70万人、旧南ベトナムが100万人、旧北ベトナムが200万人。1957年の日本・南ベトナム間の戦時賠償交渉では100万人がベースとなった)。


【ラオス】(旧仏領インドシナ)
ラオスの高校生用歴史教科書では「日本は植民地の住民をだますために大東亜共栄圏のスローガンを掲げて、それぞれの国に偽りの独立を与え、日本の目的や利益の為に傀儡政権をつくりあげた」と解説。


【タイ】(独立国)
当初、タイは比較的に親日ムードがあった。1941年春、タイとインドシナの国境紛争を調停に入った日本が、タイ側有利に交渉をまとめたからだ。

●1941.12.8 タイ陸軍と交戦…タイは1939年に欧州で第二次世界大戦が勃発するといち早く中立を宣言した。日本軍はシンガポール攻略を目指し、“通過目的”でタイ南部に上陸したが、タイ政府の許可を得る前に上陸したため海岸線で交戦状態になった。一部地区では40時間も戦闘が続き、タイ側に150人、日本側に250人の戦死者を出した。12/21、「日本タイ間同盟条約」が締結される。この同盟に基づいてタイも英米両国に宣戦布告をするが、タイ側は日本の圧力を理由にするため、宣戦布告は摂政3人分の署名が必要なのに2人しか書いていない(1人は当時雲隠れ)。戦後、宣戦布告は不成立と主張した。
※日清戦争&日露戦争の天皇による開戦の詔勅(しょうちょく)には「国際法の遵守(じゅんしゅ)」の一文があったのに、12/8の宣戦の詔勅にはなかった。南部仏印進駐でタイの対日感情の悪化を懸念していた陸軍は、上陸作戦でタイの中立を犯す可能性があったので、天皇が嘘をつくことを避けるため、「国際法の遵守」の文言を削除することにこだわった。

●1942.6.28-1943.10.25 泰緬(たいめん)鉄道建設…1942年3月にビルマ(ミャンマー)を占領した日本軍は、来るべきインド侵攻に備えてビルマへの補給ラインを確保する必要があった。海路輸送は米潜水艦の攻撃で輸送船が次々と撃沈されて困難なことから、大本営はタイとビルマの密林地帯を結ぶ全長415kmの鉄道建設を決定する。迅速に完成させねばならず、タイ側とビルマ側の両方から着工した。5年間と見られていた建設期間を大幅に短縮し、1年4ヶ月で完成させたが、そこには1日14時間労働という虐待があった。建設には連合国の捕虜約6万2千人が投入され、このうち約20%にあたる約1万2619人が死亡した。他に賃金労働者として、ビルマ人約10万6千人(死者4万人)、マレー人約8万人(死者4万2千人)が働いたが、半数近くが死亡する凄まじく劣悪な環境だった。栄養失調による衰弱でコレラ、赤痢、マラリアに感染し多数が絶命した。また、賃金こそ払われていたが、日本人監督によるビンタや軍靴の足蹴りが横行し脱走者が続出した。他に死者数は不明だが、インドネシア人4万5千人、日本軍1万2千人も投入されている。地元のタイ人がいないのはバーンポーン事件(後述)の影響。戦後の戦犯裁判で36人の泰緬鉄道関係者が捕虜に対する非人道的扱いを理由に死刑となった。現在、鉄道建設の拠点カーンチャナブリー市内には、連合国捕虜の共同墓地や戦争記念館がある。
※靖国神社には泰緬鉄道を走ったC56機関車が“奉納”されている。

〔バーンポーン事件/文化の違い〜東南アジアでは頭部に触ってはいけない〕
タイ、インドネシア、ビルマ(ミャンマー)、ベトナム、カンボジア、ラオスなど東南アジア一帯の仏教圏では、頭が体で一番上にあることから最も神聖な場所と考えられている。頭には魂、精霊、仏などが宿り、他人の頭に触ることは最大限の侮辱的行為となる。それゆえ、子どもの頭を撫でるという習慣もない。一方、日本は軍隊内で連日のようにビンタや鉄拳制裁が行われていたことから、アジアの占領地において日本人的な感覚から地元民を些細なことでビンタした為に、深い憎しみを植え付けるケースが多々あった。また、足は最も下にあるため、足で何かを示したり、足の裏を見せることも侮辱となった。当然、他人を蹴ることは非常に無礼なこと。日本兵は「もたもたするな!」と地元民を蹴るなどし、こうしたことも無用な屈辱感を与えることとなった。
泰緬鉄道の建設にあたって、当初は地元のタイ人を日雇いで募集していたが、建設開始の約5ヶ月後(11/24)、バーンポーンで連合軍捕虜に煙草を差し入れをした「僧侶」(タイの僧侶は民衆から非常に尊敬されている)を日本兵がビンタするというトンデモないことをやってしまう。これは大騒動になり、鉄道工事部隊の日本軍宿営地が報復で夜襲され、将校など数名が射殺された。そして、タイは比較的に親日国であったのに、タイ警察と日本兵が衝突する事態に発展する。日本側はタイ政府に「首謀者の僧侶を極刑にし、死者に賠償金8万バーツを払う」ことを要求。だが、タイでは僧侶を法で罰することが出来なかった。困り果てたタイ側に助け船を出したのが、事件の翌年にタイ国駐屯軍(第18方面軍)司令官に就任した中村明人(あけと)中将。中村司令官は「首謀者の極刑は撤回、賠償金8万バーツは受領後に日本からタイ側に寄贈し、2年前の戦争勃発時に日本軍との交戦で戦死したタイ軍人の遺族のために役立てる」と提案、この見事な解決策で事態を収拾した。中村司令官は改めて駐留日本兵に「タイ人の風習を尊重し頭に触れてはいけない。頭部への殴打はもってのほか」と通達し、バーンポーン事件以降のタイ人雇用は中止された。
※参考にした外部サイト/バーンポーン事件
1991年にノーベル平和賞を受賞したアウンサン・スー・チー女史。その父親アウンサン将軍は反ファシスト人民自由連盟を作って日本軍と戦った独立の英雄だ。日本の保守論客は将軍の娘であるスー・チーさんが、なぜあれほど国民に慕われているか考えるべき。日本はビルマを解放しようとして占領したのではなく、日中戦争におけるビルマからの中国支援ルートを遮断することが目的だった。

陸軍大佐・鈴木敬司は日米開戦前から諜報機関“南機関”を率いて、ビルマから英軍を追い出し独立を勝ち取ろうとする人々を支援していた。南機関によって武器供与や戦闘訓練を受けたビルマ人30人が、建国物語に登場する「30人の同志」として後世まで語られる事になり、彼らのリーダーがアウンサン(アウンサン・スー・チー女史の父親)だった。1941年12月26日、アウンサン将軍らは約1500人(半年後2万3千人)のビルマ独立義勇軍を組織し、日本軍と共に英軍との戦闘を開始。1942年3月、独立義勇軍はラングーン(ヤンゴン)を占領し、さらにインド国境まで英国軍を掃討した。5月にはビルマ全土を制圧し軍政が布告された。鈴木大佐はアウンサン将軍らに英軍追放後は早期の独立を約束していたので、早急にビルマ独立政府を作り上げることを軍上層部に訴えた。ところが、南方軍参謀・石井秋穂大佐は「まずは単なる行政担当機関を作らせ、軍司令官の命令下に管理するのが順序」などと、のらりくらりと対応した。ビルマを独立させたくなかった日本は、1942年6月、アウンサンらに肩入れしていた鈴木大佐を近衛師団司令部付へ転属させて南機関を閉鎖し、翌月にはビルマ独立義勇軍を解散させ、兵力を約8分の1(3千人)に減らしたビルマ防衛軍に再編させた。1943年8月、日本は戦局の悪化からビルマの戦争協力を得るため、傀儡政権を立て形式的には独立を認めた。

ビルマの中学生用歴史教科書→「日本はビルマに形ばかりの独立を与えた。行政機関の各部署には日本人顧問が必ず任命されていた。日本の銀行は全く保証のないない紙幣(軍票)を際限なく発行し、ビルマ経済を破壊した。価値のない紙幣で米や穀物を買い、時にはそれさえ払わずに持ち去ることもあった。外国貿易は三井や三菱といった日本の大企業に独占されていた。国民は貴金属を強制的に供出させられ、男子は労務者として狩り出された。日本支配下では、食糧、衣料品、住宅、医薬品が欠乏し、マラリア、ペスト、天然痘が蔓延した。国民は貧困に苦しんだが、日本人に取り入り、不法なやり方で利得を狙った者は潤った」「ビルマ政府にはファシスト日本が許容した権限があっただけである。一般国民は憲兵隊の思うがままに逮捕され、拷問され、さらには虐殺されたのである。こうしたファシストの弾圧の結果、人々は怒りの炎をたぎらせた。真の独立を望む声が全土に広がった」「1944年8月(インパール作戦で日本が敗北した翌月)、アウンサン将軍は新政権を指して“紙上の独立”に過ぎないと演説し、反ファシスト人民自由連盟を結成。連合軍指導部から武器援助を得るようになった。1945年初頭から始まった“イワラジ会戦”で日本軍が英印軍に敗北したのを契機に、ビルマ国民軍は人民独立軍と改称。1945年3月27日、アウンサン将軍指揮の人民独立軍と各地のゲリラが一斉に武装蜂起を決行し、英印軍の到着前にラングーンから日本軍を追い出し占領した」
※教科書の中で三井や三菱といった私企業が固有名詞を出されて批判されていることに驚く。
※アウンサン将軍は1947年7月19日、政敵のテロによって32歳の短い生涯を終えた。

★1944.3.8-7.3 インパール作戦

日本軍が歴史的敗北を喫し、“無謀”行為の代名詞として現代でもよく引用される作戦。太平洋で苦戦が続くなか、日本軍は早く日中戦争を終わらせ、中国に派遣している100万人の日本兵を援軍として南へ送る必要があった。しかし、連合国は4つの支援ルート(援蒋ルート)を使って蒋介石率いる中国・国民党軍に軍事物資を援助し続け、中国は徹底抗戦を続けていた。
(1)英領香港ルート。香港の港から中国内陸部へ輸送。1938年10月に広州を日本軍に占領されて終了。
(2)仏領インドシナ(仏印)ルート。現ベトナム北部ハイフォンの港から鉄道で物資を輸送。1940年9月に日本が北部仏印に進駐して終了。
(3)ソ連ルート。1941年に独ソ戦が始まりソ連は物資供給の余裕がなくなって終了。
(4)英領ビルマ(ミャンマー)ルート。当初は鉄道とトラックを使って支援。1942年の日本軍のビルマ占領後も、インド東部からヒマラヤ越えの空路で支援を続けていた。インパール作戦は、インド東部の都市インパールを攻略し、中国支援ルートを遮断しようというもの。同時に、インドに入ることで英国からの独立運動を誘発し、英軍をインドの対応で消耗させようとした。公式作戦名「ウ号作戦」。

作戦を担当したのは牟田口(むたぐち)廉也司令官の第15軍。8万6千人の大部隊だ。第15軍は、第15師団(山内正文師団長)、第31師団(佐藤幸徳師団長)、第33師団(柳田元三師団長)で構成されている。また前述したようにインド内部の独立運動に火をつける為、チャンドラ・ボースのインド国民軍6000人も作戦に投入された。英印軍はこの日本軍を倍近い15万もの兵で迎え撃った。
日本軍では作戦立案当初、この作戦があまりに補給を軽視し無謀すぎると、反対の声が多かった。インパールに至る道は険しい山岳地帯で、戦場に着くまでに日本兵は参ってしまうと考えられた。
戦史研究者・吉川正治氏は「この作戦が如何に無謀なものか」を分かりやすく説明している→「インパ−ルを岐阜と仮定した場合、(第31師団が目指す)コヒマは金沢に該当する。第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m)を通って岐阜へ向かうことになる。第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg〜60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えばその想像は付く。後方の兵站基地(物資集積場)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する」。

密林と2000m級の山々。ただでさえ行軍の困難さが予想されるうえ、間もなく雨季に入ることも大問題だった(年間降水量9000ミリ。日本の平均は約1700ミリ)。滝のように降り続ける雨で泥状になった山道を大部隊で進軍できるのか。車を使えぬ密林でどうやって食糧を補給するのか。そもそも第15軍には56万トンの補給物資が必要なのに、6万トン弱の輸送力しかなかった。第15軍内部で作戦に反対していた参謀長・小畑信良少将は、就任から僅か1か月半で牟田口司令官に罷免され、上級司令部にあたる南方総軍では、作戦実施に反対した総参謀副長・稲田少将が更迭された。インパール作戦反対者は「大和魂が足りない」と排除される雰囲気が軍に漂い、反対者は次第に口を閉ざしていった。当初は大本営でも「第15軍の考えは無茶苦茶な積極案」(竹田宮参謀)と評していたのに…。

牟田口司令官は「物資不足は敵補給基地を占領すれば心配なし」と考え、また補給問題を解決する策として「ジンギスカン」作戦を考案。それは、牛、ヤギ、羊などに荷物を積んで行軍させ、必要に応じて食用にしていくものだった。そして実際にビルマ牛3万頭や羊、ヤギが部隊と移動を共にした(3万頭の牛は現地調達されており、牛を供出された農民は災難だった)。その他、千頭もの象と、軍馬1万2千頭が物資運搬用に使役された。
かくして3月8日、インパール攻略戦が始まった。第15師団と第33師団は直接インパールを目指し、第31師団はインパールに近いコヒマに進撃した。当初の行軍は順調だったが、これは奥地へ誘い込むための連合軍の罠だった。ジャングルの進軍は困難を極め、家畜の半数が川幅600mのチンドウィン川渡河時に流されて水死、さらにジャングルや山岳部で兵士が食べる前に脱落し、「ジンギスカン」作戦は初期の段階で破綻した。そもそもビルマの牛は低湿地を好み、長時間の歩行にも慣れておらず、牛が食べる草も確保できてなかった。3万頭の家畜と共に徒歩行軍する日本軍は敵爆撃機の格好の標的となり、家畜たちが荷を負ったまま逃げて多くの物資を失った。険しい地形は重砲などの運搬を困難にし、武装は小火器中心となり戦闘力が激減した。

やがて懸念されていた雨季が始まり、豪雨が泥水となって斜面を洗い、増水した川が行く手を遮り、行軍速度はさらに低下。英軍の大規模な反撃も始まり、補給線は寸断され、栄養失調の日本兵は次々とマラリアに感染していった。前線では戦う前に餓死する兵が続出し、日本軍にとってはインパールで戦うどころか、たどり着くことさえ絶望的になった。
この過酷な状況で佐藤幸徳中将率いる第31師団が果敢に戦い、インドとビルマの国境地帯コヒマを制圧。ところが、一粒の米、一発の弾薬も届かぬため、コヒマ維持が不可能になった。佐藤中将は何度も「作戦継続困難」と撤退を進言したが、牟田口司令官は「気合いの問題」と拒絶し、作戦継続を厳命した。そして5月末、ついに佐藤中将は日本陸軍初となる師団長クラスの命令違反、“独断撤退”を断行する。佐藤中将は軍法会議で死刑になるのを覚悟のうえで逆らった。佐藤中将は部下達に「余は第31師団の将兵を救わんとする。余は第15軍を救わんとする。軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり、即刻余の身をもって矯正せんとす」と告げ、司令部に対して「善戦敢闘60日に及び、人間に許されたる最大の忍耐を経て、しかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と打電し、第31師団をコヒマから補給基地ウクルルまで退却させ、そこにも弾薬・食糧が皆無だったため、さらに後退した。
牟田口司令官は激怒し、佐藤師団長を更迭。すると今度は第33師団長の柳田中将が作戦中止の進言をしたため、牟田口司令官は柳田中将も、そして残る第15師団の山内中将(マラリアに感染)も更迭した。作戦参加師団の全師団長が更迭される異常事態である。山内師団長の戦闘詳報(現地の記録)には「撃つに弾なく、今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、これに立ち至らしめたるものは、実に軍と牟田口の無能の為なり」と怒りが綴られている。
※第33師団にテコ入れで着任した田中信男少将は、ある中隊長の軍刀が真っ赤に錆びていたことを叱責。その場の全将校の軍刀を検査すると全員の軍刀が錆びていた。少将は激怒し、即刻錆びを落とせと命じたが、誰も錆を落とす将校はいなかった。雨季の豪雨と泥の中、磨いてもすぐ錆びると分かりきっていたからだ。
※日本兵は英軍輸送機が投下した敵方の物資を拾って飢えを凌いだため、この物資を拾う決死隊が組織される有様だったという。

牟田口は司令官とはいえ、階級は佐藤、柳田、山内と同じ中将だった。各師団長は昭和天皇によって任命されており、明らかに牟田口の暴走行為であったが軍上層部はこれを問題としなかった。佐藤中将は軍法会議で堂々と作戦の愚かさを訴えるつもりだったが、上層部は佐藤中将を“心神喪失”扱いにして退役させ、病気という理由で処罰しなかった。これは佐藤中将を罰してしまうと、天皇の任命責任が問われるからだ。
牟田口司令官が人望を失った理由に、司令部での行動が前線に伝わり怒りを呼んだこともある。兵士たちが飢餓に苦しんでいるのに、牟田口は司令部に「清明荘」という料亭を併設。毎日午後5時に仕事を切り上げ、その後は芸者遊びに明け暮れていたという。牟田口司令官は自身の道楽の為に、わざわざ芸妓、女中、料理人、髪結い、三味線屋、鳴物屋、仕立屋、洗濯屋、医者(婦人科兼泌尿器科医)を計150人も呼び寄せていた。「牟田口閣下の好きなもの、一に勲章、二にメーマ(ビルマ語で女性)、三に新聞記者(記者に大口を叩く)」と部下たちは呆れていた。芸者遊びを好んだ提督は多いが前線司令部まで呼んでいたのは牟田口中将くらい。「牟田口が畳の上で死ぬのだけは許せない」「無茶口め」と激高する兵士もいた。

6月5日、師団長の造反という事態を受け、ビルマ方面軍司令官・河辺正三中将が牟田口司令官を訪ねた。河辺中将は牟田口と共にインパール作戦を推進してきた人物。2人とも作戦中止は不可避と考えていたが、それを言い出した方が責任を負うことになると恐れ、ついに作戦中止を言い出せずに会談は終了。後年、牟田口は「私は最早インパール作戦は断念すべき時機であると咽喉まで出かかったが、どうしても言葉に出すことが出来なかった。私はただ“私の顔色によって”察してもらいたかった」と回想している。司令官がこうして作戦中止を言い出せないでいる間にも、最前線ではどんどん兵士たちが飢餓と病で死んでいった。
1ヶ月後の、7月3日、ついに作戦中止が正式に決定する。だが退却戦でも地獄は続いた。食糧がない状況は変わらない。赤痢、マラリアが猛威を奮い続々と行軍から脱落していった。退却路には餓死者が延々と続き、亡骸は豪雨に叩かれ、虫に食われ、すぐに白骨化した。撤退中にジャングルで道を見失った時は、友軍の白骨が後続部隊の道しるべとなった。日本兵たちはその路を「白骨街道」と呼んだ。
※コヒマを落とした第31師団の名将・宮崎繁三郎少将は、佐藤師団長の命令で撤退戦の殿軍を務め、少ない野砲を頻繁に移動させて英軍に戦力があるように見せかけ、追撃を抑えて味方に撤退する時間を与えた。また、宮崎少将は脱落兵を見捨てずに収容し、多くの人命を救った。

日本軍は参加8万6千人のうち死傷者7万4千人=戦死3万2千人(大半が餓死)、負傷者4万2千人(多くが飢餓からくる戦病)という未曾有の犠牲者を出し壊滅した。牟田口が撤退の視察に乗馬姿で向かうと、兵が誰も自分に敬礼しないので「軍司令官たる自分に最敬礼せよ」と怒鳴った。だが、兵たちは虚ろな目を向けるだけで、杖を突き黙々と歩き続けた。牟田口は誰も自分を省みないことを悟った。
牟田口司令官はインド国民軍を創設した参謀の藤原岩市に自決を匂わせたが、口先だけと藤原参謀は見抜いていた。
(牟田口)「これだけ多くの部下を殺し、多くの兵器を失った事は、司令官としての責任上、私は腹を切ってお詫びしなければ、上御一人(かみごいちにん=天皇)や、将兵の霊に相済まんと思っとるが、貴官の腹蔵のない意見を聞きたい…」
(藤原)「昔から死ぬ、死ぬと言った人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めないわけには参りません。司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい。今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があります」(結局自決せず)

7月10日、牟田口司令官は幹部を集めて泣きながら訓示した「諸君、佐藤師団長は軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退(しざ)りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」。この訓示が延々と1時間以上も続いたため、栄養失調で立っていることが出来ない幹部将校たちは次々と倒れた。
牟田口司令官は各師団が帰還する前に、「北方撤退路の視察」を理由に司令部を離れてそのまま帰国した。

このように、インパール作戦は補給を軽視した無謀・ずさんな作戦のため、多くの犠牲を出して終わった。この作戦失敗で、それまで英印軍とは互角の形勢にあった日本軍の西方戦線は崩壊。翌春には、日本軍が組織、育成したビルマ国民軍(指揮官はアウン・サン将軍※スー・チー女史の父)が連合軍側へ寝返り、ビルマを失う原因となった。
英軍の第14軍司令官スリム中将は回想録で「日本陸軍の強みは上層部になく、その個々の兵士にある」と下士官兵を賛辞。その一方で指揮官については「最初の計画にこだわり、応用の才がなく、過失を率直に認める精神的勇気が欠如」「日本の高級司令部は我々をわざと勝たせた」と皮肉っている。
このインパール作戦全体を見ると牟田口司令官の責任ばかり目立つが、南方軍総司令官・寺内寿一元帥や大本営など、上層部が牟田口中将の暴走を止めることなく容認し続けた事実も看過できない。冷静に戦局を見て、最初に作戦中止を口にした者が、「消極的」「弱腰」として干されるような硬直化した組織そのものが問題。作戦後、牟田口中将が予備役(退役)に追われたのに対し、一緒にインパール作戦を押し進めた河辺中将が大将に昇進し、航空総軍総司令官に栄進したのは不公平に感じられる。1966年8月2日、脳溢血で牟田口中将は他界。享年77歳。戦後20年の余生をまっとうした。その葬儀において、「私は悪くない、部下が悪い」と自説を記したパンフレットを、遺言により参列者に配布させた。牟田口中将のこの“強気”の背景には、ある英軍中佐が「佐藤師団があのまま進軍していたらコヒマの先にある要衝ディマプールは落ちていたかもしれない」と語ったことにあるが、落とせたところで補給もなく維持できないのは明白だった。

★1945.7.8 カラゴン事件…南ビルマのカラゴン村(人口約千人)の村民が英軍に物資を提供するなど協力的だったことから、日本軍歩兵第215連隊第三大隊の大隊長・市川清義少佐が“敵対村”と判断、村民のうち男性をモスクに、女性と子どもを集会所に連行した。英軍の動きに関する情報を訊きだした後、男174人、女195人、子ども266人の計635人が銃剣(弾薬節約のため)で虐殺された。死者は井戸に放り込まれた。千人の村の過半数が殺され、また多くの子どもが殺害されたという悲惨さもあって、戦後の戦犯法廷は市川大隊長を絞首刑に、3人の将校を銃殺刑とした。


【インド】(旧英領)

●1942.7.26 ガンジーの声明『すべての日本人に』

インド国境に迫る日本軍に対し、ガンジーは帝国主義戦争の停止を求めた公開状を発表した。日本は欧米列強からアジアの植民地を解放するという大義名分を掲げていたが、ガンジーは日本が同じアジアの中国を攻撃している時点で大義名分に説得力がないと批判している。また、「我らの対英独立運動に手助け無用」とも。

〔ガンジー『すべての日本人に』抜粋〕
最初に私は、貴方がた日本人に悪意を持っている訳ではありませんが、貴方がたが中国に加えている攻撃を極度に嫌っている事を、はっきり申し上げておかなければなりません。貴方がたは崇高な高みから帝国主義的な野望にまで堕してしまわれたのです。
世界の列強と肩を並べたいというのは、貴方がたの立派な野望でありました。けれども、貴方がたの中国に対する侵略や枢軸国との同盟は、そうした野心が生んだ不当な逸脱だったのです。
貴方がたは中国の古典文芸を摂取されてきましたし、あのように古い歴史を持つ民族が貴方がたの隣人であるという事実に、私は貴方がたが誇りを感じていられるものとばかり思っていました。お互いの歴史・伝統・文芸を理解し合うことは、貴方がた両国民を友人として結びつけこそすれ、今日のように敵同士にするはずはありません。
帝国主義に対する私たちの反抗は、イギリス人に危害を加えるという意味ではありません。私たちは彼らを改心させようとしているのです。それは英国支配に対する非武装の反乱です。この闘いには、外国からの援助を必要とはしません。
もし私たちがイギリスの苦境に乗じて好機を掴もうと思っているのなら、既に三年前に大戦が勃発すると同時に行動を起こしていたはずです。インドから英国勢力の撤退を要求する私たちの運動を、どんな事があっても誤解して貰ってはなりません。

貴方がたが、もしインドから快く歓迎されるものと信じていられるなら、幻滅の悲哀を感じることになるだろうという事実について、思い違いのないようお断りしておきましょう。イギリスの撤退を要求する運動の目的と狙いは、インドを解放にすることによって、イギリスの帝国主義であろうと、ドイツのナチズムであろうと、あるいは貴方がた日本のものであろうと、一切の軍国主義的・帝国主義的野心に抵抗する準備をインドが整える事にあります。
もし私たちがそれを実行に移さなければ、私たちは、非暴力こそ軍国主義精神や野心の唯一の解毒剤であることを信じていながら、世界の軍国主義化をただ傍観しているだけの卑怯者になり果てるでありましょう。
これまで私が読んだ(日本の中国侵略に関する)全てのものは、貴方がたはいかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない、ただ剣にのみ耳を貸す民族だと語っています。その様に考えるのは、貴方がたを甚だしく誤解している事でありますように、そして、私が貴方がたの心の正しい琴線に触れる事が出来ますようにと、どんなにか念じている事でしょう!
ともかく、私は人間性には互いに通じ合うものがあるとの不滅の信念を抱いています。そして、貴方がたにこの訴えをするよう私をうながしたのも、他ならぬその信念です。
貴方がたの友であり、その幸いを祈る者である M.K.ガンジー(1942年7月26日)

●1943-44 ベンガル大飢饉…餓死者150万人、飢餓が生んだ疫病等の病死が200万人、計350万人が死亡した大飢饉(死者数は日本人の戦争犠牲者310万人を上回っている)。飢饉の原因は次の3つ(1)日本軍がビルマなどを占領した結果、東南アジア地域からインドへの米の輸入が途絶してしまった(2)植民地軍隊へ優先的に食糧供給(3)英国による輸送船の大量接収。この最悪の大飢饉のなか、1943年12月5日に日本の陸海軍航空部隊はカルカッタを爆撃した。狙いは米英が集積した軍事物資であったが、これによって良好だったインド民衆の対日感情は一変し、インド農民組合は「日本が勝てば戦争が長引き、インド独立を遅らせる」という見解を発表した。

●1943-45 アンダマン・ニコバル島事件…インドの東側、ベンガル湾に浮かぶアンダマン島とニコバル島では、兵力1万人以上に達した駐留日本軍が、占領末期に多くの島民を英国のスパイ容疑で殺害した。英軍に海上封鎖され、物資不足から疑心暗鬼に陥った結果である。海軍関係では1944年1月に住民44人が銃殺されたアンダマン事件、1945年8月初めにビルマ人9人を銃殺したスチュワート・サウンド事件、同時期に387人が餓死したハヴェロック島事件などがある。陸軍関係では1945年島民約80人が銃殺されたニコバル事件、62人が銃殺されたタルムグリ事件などがある。戦犯件数は両島だけで34件にのぼり、BC級戦犯として44人が死刑となった。

●1944.6.22 日本傷病兵焼殺…インド・アッサム州ミッションを攻略した英軍は、日本軍の野戦病院を襲撃し、退避できなかった100人以上の日本軍傷病兵(歩兵第60連隊)をガソリンで焼くなどして殺害した。これは国際法「戦地軍隊における傷病者の状態改善に関する条約」(1929/ジュネーブ条約)に違反する残虐行為だ。


〔インド洋における日本軍第八潜水戦隊の捕虜処分〕
1942年に大島駐独大使はヒトラーから「潜水艦戦は商船を撃沈するだけではだめだ、英米はいくらでも船を造るから、急には養成できない乗員を皆殺しにすべき。ドイツはこの方針を採る。日本もそうすべきだ」と勧告を受けた。この報告書は海軍トップの永野軍令部総長(1947年巣鴨プリズンで病死)に渡った。1943年2月末、軍令部の金岡大佐(サイパンで戦死)がトラック諸島の第六艦隊司令部に「撃沈した敵の商船乗員は徹底的に処分すべし」と下命。その後、以下の潜水艦による事件が起きる。
1943.12.14 「呂110」号が英船Daisy Moller号を撃沈した際、救命ボート上の乗員127人のうち55人を機関銃掃射で殺害。
1944.3.26 「伊37」号が蘭船Tjisalak号を撃沈した際、生存者98人を艦上で処刑。
1944.7.2 「伊8」号が米船Jean Nicolet号を撃沈した際、生存者96人を甲板に放置して潜行。これには次の経緯があった。艦長は捕虜を銃殺に処すつもりだったが、航海長や機関長付が「戦争とはいいながら、あまりに武士道に反する」と抗議し、艦長が「敵の物質力は無限であり人員を減らすことが勝利に繋がる」と説明していた。そこへ敵哨戒機の逆探知を受け、やむなく急速潜行となった。4日後、現場を奇跡的に通りかかったインド船が23人を救助。「伊8」号艦長の有泉大佐は終戦後に日本へ帰還する船内で自決した。
他にも「伊37」号の英船British Chivalry撃沈、「伊26」号の米船Richard Hovey号撃沈、「伊12」号の米船John A.Johnson号撃沈の際に救命ボートへの機銃掃射が行われているが死者数は不明。
※潜水艦部隊以外でも同様のことはあった。有名なのは1944年3月の『ビハール号事件』。巡洋艦「利根」が英商船ビハール号を撃沈した際、生存者を収容すると共に、救命ボートが利根に向かってきた為それらも収容した(3/9)。捕虜の総数は104人。司令部から艦長に「捕虜を処分すべし」と指令がくるが、艦長は「いまだ尋問中」「処分せずに労働作業に従事させたい」と意見具申。しかし、司令部の方針は変わらなかった。艦長と副官は助命嘆願を続け、士官捕虜15人、女性2人、インド人20人がジャカルタ港で降ろされたが、3/18(撃沈9日後)に残りの捕虜67人が後部甲板で処刑され遺体は海中に投棄された。


【フィリピン】(旧米領)
マニラ市庁舎の大ホールに日本軍侵略を描いた歴史壁画があるように、日本軍は抗日運動の強い地域では老若男女の区別なく住民を皆殺しにした。3年半の占領期間に110万人以上のフィリピン人を殺害している。
日米開戦前、日本のフィリピン侵攻を予測したルーズベルトは、フィリピン兵13万人と米軍を合体してアメリカ極東軍(ユサッフェ)を組織し、指揮官にマッカーサーを任命した。本間雅晴中将率いる陸軍第14軍は、1941年12月8日にフィリピンに上陸し、多くの犠牲者を出しながらも3週間後、1942年1月2日にマニラを無血占領した。総司令官マッカーサーはバターン半島に撤退後、「アイ・シャル・リターン」と告げて3/11に豪州へ脱出。日本軍は掃討戦を経て4/9にアメリカ極東軍を降伏させた。
アメリカは日本のフィリピン占領の前から、フィリピンの独立を約束していた。だがら、日本は他の占領地とは異なり、できるだけ早くフィリピンを独立させる必要があった。1943年10月、日本は侵攻を正当化するために傀儡ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン共和国の“独立”を宣言させた。

フィリピンの高校生用歴史教科書→「1942年1月2日、日本軍マニラ占領の翌日から軍政が始まった。夜間外出禁止令が全マニラに施行され、火器、弾薬、その他の武器すべてが没収された。日本軍に敵対するいかなる行動も罰せられ、日本人を1人殺せば、フィリピン人の有力者2人を射殺するという軍の布告が出された。全てが日本支配下に置かれ、銀行、教会、工場、印刷所、学校、劇場は軍当局の厳重な監視を受けた。フィリピン国旗の掲揚は全面的に禁止された。国歌及びアメリカの歌を唄うことも許されなかった。日本の軍票がフィリピンの通貨に代わって配布された」「日本はフィリピン独立宣言以前に、政党活動をすべて禁止し、その代わりにカリバピ(新生フィリピン奉仕団)を設けた。カリバピはフィリピン大統領を選出したがこれは日本の傀儡だった。フィリピン人はアメリカとその民主主義の価値観の方に忠実であった。そして一般市民は抗日ゲリラに全面協力し、食糧やお金を与えた。日本軍はフィリピン人の心まで征服することは出来なかった」。

フィリピンの小学校4年生用歴史読本→「ゲリラは日本と戦い、ゲリラは人々の希望となりました。日本兵はゲリラに復讐するため、フィリピン人のスパイを使いました。日本人は、スパイがゲリラとみなした人々にとても残忍でした。捕らえた者たちを拷問し、要塞に閉じ込めました。捕まった者たちに仲間の名を言わせました」。

●1942.4.10 バターン死の行進…アメリカ極東軍降伏時の捕虜数は、米兵が約1万人、比軍が約6万2千人、合わせて約7万2千人にも達した。日本側は約50キロ離れたオドンネル収容所まで列車と徒歩で向かわせたが、米比軍は約3ヶ月もバターン半島に立てこもっていたことから、降伏時に栄養不良、マラリア、赤痢で衰弱しており、行軍中に米兵約600人とフィリピン兵約1万人が絶命し、収容所に着いてからも米兵約1600人、フィリピン兵約16000人が死亡した。日本兵は「捕虜になることは恥」と教え込まれており、米比軍の将兵が恥じる様子もなく捕虜になったことを軽蔑していた。その心理もあって、行進から遅れた者を“怠け者”として刺殺、銃殺、生き埋めにしており、終戦後に第14軍司令官・本間雅晴中将、輸送責任者・河根良賢少将、現場責任者・平野庫太郎大佐が戦犯として銃殺刑になった。
※「バターン死の行進」は米兵の死がクローズアップされがちだけど、フィリピン兵が約2万5千人も死亡(収容所含む)していることも記憶に留めるべき。
※多くの抗日ゲリラは豪州のマッカーサー司令部と連絡を取りながら戦った。

●1944.10.20 マッカーサー再上陸…1942年3月に豪州へ脱出していたマッカーサー将軍は、650隻もの強力な艦隊と10万5千人の米兵を率いてレイテ島に上陸した。2年半ぶりのフィリピン帰還だった。レイテ海戦で初めて特別攻撃隊(特攻隊)が体当たり攻撃を行い、さらに人間魚雷回天などが出撃した。

●1944.12.14 パラワン島事件…フィリピン・パラワン島の日本軍守備隊は、米軍機の空襲で破壊された飛行場の補修工事に捕虜の米兵約150人を動員していた。12月14日午後、「米軍機が来襲した」と偽って防空壕へ導き、全員が入ったところでガソリンの入ったバケツと手榴弾を投げ込んだ。138人が無残に殺害されたが、命がけで逃げ出した12人が抗日ゲリラに助けられ、米軍勢力圏にたどり着いた。※生存者

●1945.2.3-3.3 マニラ市街戦…米軍がルソン島(マニラがある)に上陸すると、山下奉文大将率いる第14方面軍は持久戦を選び山地にこもった。しかし、岩渕三次少将率いる1万数千人の陸海混成部隊はマニラ脱出の機会を逸し、玉砕覚悟で米軍を待ち受けた。2/3、米軍がマニラに突入し3週間にわたる凄絶な戦いが始まる。約70万人のマニラ市民は米軍に協力的で、ゲリラとなって日本軍と戦うケースもあった。市民への疑心暗鬼にとらわれた日本兵は、聖パウロ大学で994人を虐殺し、北部墓地で約2千人を処刑し、サンチャゴ監獄でも集団殺害を行った。米軍との激戦の末、マニラの街の半分は日本軍に焼かれ、残り半分は日本軍への米軍の砲撃で破壊された。2/26に岩渕司令官が自決し、3/3に米軍は戦闘終結を宣言。日本軍の死者は約1万2千人、米軍戦死者は1010人、フィリピン市民の犠牲者は約10万人にのぼった。米軍の砲撃で命を落とした市民も多いという。戦犯法廷で山下大将は死刑となった。
※山下大将がバギオで降伏した際、降伏式に立ち会ったのは、1942年2月にシンガポールを山下大将に引き渡したパーシバル副将軍と、バターンで日本に降伏した後に満州の捕虜収容所から救出され、前日に東京湾ミズーリ号上の降伏式で署名したジョナサン・ウェインライト中将だった。


〔抗日ゲリラと日本軍〕
1942年春に日本軍が島国フィリピンを占領した直後から、各島で民衆が「フクバラハップ」など抗日ゲリラとなって戦った。その数、実に100組織27万人。代表的な例として中部パナイ島の状況を紹介したい。同島に駐留したのは独立歩兵第37大隊約2000人。ゲリラ側は1万〜2万人もいて、待ち伏せ攻撃、施設爆破、地雷の埋設などで抵抗した。これに手を焼いた日本軍は翌年夏から半年にわたって討伐作戦を開始する。しかし、一般住民とゲリラの区別が容易につかず、焦燥感から暴走する部隊が出てきた。同隊の熊井大尉いわく「住民2、3人の首をバサバサと斬り落とし、1人だけ残して(情報を)白状させた」「ゲリラを捕らえると、豚か鶏を料理するようにいとも簡単に処刑した」。ゲリラ側の記録ではこの討伐戦で約1万人の島民が殺害されたという。米軍が再上陸すると日本軍は山中へ退却し、終戦後に投降した。

●1945.3.4 リパ大虐殺…フィリピン戦では「抗日ゲリラ掃討」を名目に、日本軍による住民虐殺が全土で多発した。フィリピン全体で最も多くの老若男女が殺されたのがマニラ南方、ルソン島バタンガス州リパ市ルンバン。一家に10人〜15人の家族がいたとしても、そのうちの1人、2人しか生き残ってはいない。事件は米軍のマニラ奪還から約10日後に起きた。午後11時すぎ、ルンバンの全住民約千人が川の土手に集められ、男性は後ろ手に、女性は数人ずつ紐で縛られた。最初に男たちが日本兵に包囲され、銃剣で脇腹や背中を刺されていった。次は女性と子供。皆殺しだった。午前3時すぎまで虐殺は続き、村は抹殺された。日本軍は陣地構築作業にルンバンの村人を使役していたので、米軍に情報が流れぬよう口封じで殺害されたものとみられる(村にゲリラはいなかった)。戦後、千柱以上の遺骨が同地区の慰霊堂に納められ、堂内にはフィリピン語で「戦争中の1945年3月4日、日本人に殺された千人以上の老若男女の遺骨をここに埋めたことを知らしめる」と刻んだ石版が掲げられた。虐殺の生存者は傷の後遺症で満足に仕事をできない人がいるが、日本政府からは全く補償金が出ていない。
この地域には「藤兵団」と呼ばれる総兵力約1万2千人の部隊が配備されていた。兵団長は歩兵第17連隊長の藤重正従大佐。「藤兵団」が虐殺を行ったのはリパだけではない。ラグナ州のカランバ、ロスバニオス、バイ、サンパブロ、そしてバタンガス州のバウアン、タナワン、サンニコラスなど、合計2万5千人に及ぶ住民が虐殺された。これらは1945年2月初めに米軍が同地域に進攻して来た時に始まり、「藤兵団」が敗北・撤退するまでの1カ月半続いた。
※参考にした外部サイト

〔フィリピンで戦った「藤兵団」第86飛行場大隊の友清高志上等兵(5年兵)の手記から〕

元日本兵が戦場での加害行為を証言すると、その兵士が中国に派兵されていた場合、保守論客は「中国で洗脳されて帰って来たのだろう」「日本軍ではなく八路軍の仕業だ」「規律正しい皇軍がそんなことをするはずがない」などと、頭から否定してかかることが少なくない。戦場が人間の精神を破壊することを認めようとしない。ここで紹介するフィリピン駐留軍上等兵の手記には、「大東亜共栄圏」を掲げて派遣された皇軍の実態が刻まれている。作戦の日付も所属部隊も分かっており、これを虚偽と疑うならば自身で検証してもらいたい。“反日工作”などと、この上等兵に陰謀論のレッテルを貼る行為は、それこそ軍上層部の短慮で絶命した英霊や、不条理に殺害された現地住民への冒涜だと僕は考える。

手記の著者、友清上等兵は戦後28年目(1973年)にフィリピン戦場体験記を刊行したが、胸にポッカリと暗い空洞ができたという。理由は「罪の深さを畏(おそ)れた余り、書かねばならない事実を隠してしまった」からだった。そして10年後の1983年に『ルソン住民虐殺の真相・狂気』を脱稿した。氏は序章でこう語る--
「虐殺は兵団命令によるものだった。天皇統帥の帝国陸軍にあって、上官の命令は絶対であり、抗命、反逆は即処刑である。けれどもこの様な理由で下級将校、下士官、兵の行為が正当化されるものではない。いやむしろ、逆に命令を口実に必要以上に自己の苛虐(かぎゃく)本能を満たした将兵が多かった」
「(フィリピンからの帰還兵が)過去を振り返る時、敬虔にフィリピンを畏れる者と、戦場という異常環境に責任の転嫁を計る者とに分かれる。後者は、ややもすると戦場を美化し、日本軍の勇猛を強調、虐殺行為すら正当化しようとする。上級将校ほどこの傾向は顕著で、自家版による数多い戦場回顧録がこれを語っている」

友清上等兵があえて手記を記したのは、有名なリパ大虐殺の他に、世間には知られていない別の大虐殺があったことを、犠牲者への供養の意味で書き残す為だった。
事件が起きたのはリパ大虐殺の一週間前、1945年2月26日。その前日、「リパ市郊外のアンチポロ村、アニラオ村に米軍兵器が搬入され、日本軍襲撃の訓練が行われている」と密告が入った。兵団長・藤重大佐は各将校を集めて次のように訓示した。
「ゲリラを徹底的に粛清すべき時がきた!住民でゲリラに協力する者あらば、そいつもゲリラと見なせ。責任は一切この藤重が負う。対米決戦はそれからだ!思い切りやってしまえ。後世の人間が世界戦史をひも解いた時、全員が鳥肌立つような大虐殺をやって見せろ」。
当初の計画では村民男性16歳から60歳までを広場に集めて重機関銃4挺で皆殺しにする予定だったが、千人を一気に射殺することは不可能ということになり作戦が練られた。“通行証明書を発行するので16歳以上60歳までの男子は全員リパ小学校に集合せよ”と告知し、村人を校舎に入れた上で10人単位で校舎裏の小屋に呼び込み、総数130人の粛清要員が順に銃剣で刺殺していく、というものだった。通行証明書がなければ行動範囲は極めて規制される。この計略を疑う村民は1人もいなかった。陽性で人を信じやすいフィリピン民族の裏を日本軍はかいた。
26日朝7時過ぎ、両村の住民800人が、美しい四列縦隊で小学校にやってきた。この整った隊列に、密告通り軍事訓練の影を感じる一方、果たして全員をゲリラや協力者と見なしてよいものかと友清上等兵は迷う。日本軍の謀略など露知らず、陽気にはしゃぐ少年達の表情は底なしに明るく、あどけない笑顔だった。日本軍の指示で最初の10人が小屋に向かうと、そこに待っていたのは銃剣を構えた20人の日本兵だった。脅える住民はロープで手首を数珠つなぎに縛られ、そのまま林の奥へ連行された。全身の震えでまともに歩ける者はいない。よろめきながら裂けんばかりに両眼を開いた少年。虚ろに視点の定まらぬ中年男。呪文を唱えるごとく呟く初老の男の口辺には泡が噴き出ていた。やがて谷が見え、崖の3m手前に立たされる。2人の将校が愛刀の試し斬りのため村民2人を連れて行き8人が残った。「突け!」「えい!やあ!」と、村人1人につき日本兵2人がX字に左右から銃剣を突いた。軍靴で腰を蹴り銃剣を抜き戻すと、はずみで8人の体は芋づるのように連なり崖下へ転落した。将校の前に引かれて行ったうちの1人は観念の眼を閉じると座り込み、うなじを前に突き出した。軍刀が振り下ろされた一瞬、ゴーッと凄まじい音を立て、首根からほとばしる血の圧力で首は前に飛び、体も谷にもんどり打っていった。いま1人は、震える足を踏ん張り怨恨の形相凄まじく正面切って将校を睨み据えた。将校が日本刀を横に薙(な)ぐと、白刃一閃、垂直にほとばしる血の先端7、8メートルに首は舞い、地面に転がった胴体に血は降りかかった。すると、早くも次の10人がやって来た---。
渓谷の底を流れる白濁の水は、死体が転落していくにしたがい、どろりと赤味を増し、ぶつぶつと泡立っていった。流れは死体の累積によって堰止められたがそれも一時で、水かさが増すと再び血に染まりながら流れ出し、そこへ人間が止めどもなく落下しては水しぶきを立てた。日本兵の中には高ぶる感情のままにのめり込み、交替を拒否し続ける者もいた。だが、昼食に運ばれてきた握り飯にはさすがに誰も手を出さなかった。いつしか陽は西に傾き、顔面に血を浴びた兵隊の形相は幽鬼と呼ぶにふさわしいまでになっていた。殺戮は18時までかかった。翌日も小学校の裏の雑木林では、前日に続く200人の殺戮が行われた。

/上陸米軍の銃砲声が近づくにつれ、虐殺もエスカレートした。「“住民”を殺すにはより多くを一定の場所に集め、一挙に処理するが良好なり」、上層からの訓示は、“ゲリラを殺す”が“住民を殺す”に替わっていた。明け方に町村を襲い、住民をトラックで連行しては機関銃を乱射した。討伐隊によっては現場で住民を数珠つなぎにしては井戸に放り込み、上から頭大の石を重し代わりに投げ込んだ(パンガオ集落では約70人の男性が殺害され井戸に投げ込まれた)。

/カトリック国であるフィリピンには至る所に教会が建っており、日本軍はこれを絶好の殺害の場とした。トリビオという集落では住民30人を教会に集めると扉に錠をかけ、導火線に点火した。日本兵が走って壕に飛び込むと、教会が一瞬ふくらみ、木っ葉微塵に舞い上がった。いつしかリパの街とその周辺は腐臭漂う死の街と化し、風が吹く度に風下の将兵は反吐(へど)を催していた。

/「敵が上陸するまで女は我慢しろ。上陸したら強姦してもかまわん。ただし済んだ女は必ず殺して土に埋めることだ」。憲兵リパ地区分遣隊長が兵隊に与えた訓示の一端である。憲兵とは一般軍人の風紀取締官でもある。その隊長自ら強姦を認めた発言に兵隊達ははしゃいだ。「富田警備中隊の一部と加賀速射砲小隊の下士官、兵は、(リパ市長、同警察署長を軟禁状態にした上で)リパ市民の家屋に強引に押し入り、有無を言わさず老若男女の区別なく住民を血祭りにあげた」

/この異常な空気のなか、友清上等兵は虐殺現場に関わりながら運良く1人も殺さずにきた。ある日、行軍中に部隊が何者かに発砲され、現場近くの集落に踏み込んだ際に20人余りの女子供を見つけた。隊長は彼女たちをスパイと決めつけ、「全員処置(処刑)しろ」と命じた。友清上等兵が“もう少し調べてみては”と意見したところ、「生意気だ。まず貴様が処置の手本を示せ」と命じられてしまう。「早くせんか!」と隊長が腰の拳銃に手をかけ、これ以上逆らえば抗命罪で葬られると観念し、目の前の母子に向かった。友清上等兵は記す--
「彼女はその場に座り込み抱いていた幼児をさらに強く抱きしめた。反動的に私は2人に向けて銃剣を突き出していた。銃剣は女性の抱いた幼児の脇腹に突き刺さった。その時幼児は身を起こそうとして私を振り仰いだ。その眼が私を見るやニコッと笑った。それは信じられない、まるで天使のような顔だった。火のつくような泣き声をあげ、痙攣を始めたのはその直後である。しかし私の殺害動作はそれで終わったのではない。一刻も早く息の根を止めねばと可哀相だと、しゃにむに銃剣を肉体に突き立てていた。現場を離れても体の震えはしばらく止まなかった。感情も乱れていた。抵抗もなし得ない女と幼児を殺した私には開き直る以外に救いはなかった。現在、虐殺現場に小学校の建物はなく、校舎の跡地は開拓されて教会が建っている。その教会の側に佇んでいると、必ず現地人が寄ってきて「アンチポロ」「アニラオ」「ジャパン」と3つ単語を唱えるように言って首を斬る真似をする。しかし、的確に現場を指摘できる者は誰もいない。そこにあらためて私は罪の深さを知る。現市長とて知らないのである」
第86飛行場大隊はこの事件の翌月(3/21)、米軍に追われ山中へ落ち延びた。撤退行軍中、戦火を避けて夜の平地に潜んでいた女性達を見つけた軍曹が兵に呼びかけた。「女の欲しい兵隊は集合しろ。いいか、よく聴けよ。好きな女を適当に選べ。嫌がる奴は強姦しろ。しなくともいい。ただ、女は必ず殺せ」。軍曹の説明に、わあっとばかり兵隊達は女性群に殺到した。胸で十字を切る女、助けを求めて人の名を呼ぶ女。悲鳴と怒号が飛び交い、月光の下で目を覆うばかりの地獄絵が展開されていった。女性は30人余りだった。友清上等兵“敵に追い込まれた極限でも、強姦と虐殺は行われたということだ”。
敗戦から1ヶ月以上が過ぎて部隊は投降した。すぐに投降しなかったのは、「捕虜になると去勢され、地の果ての孤島で終生酷使される」という投降防止の方便として流された虚言をひたすら信じていたからで、これは当時の日本軍人に限らず、日本国民の観念でもあった。戦犯裁判で藤重大佐は「リパ事件その他の虐殺は関知するところでない」と言い張った。「責任は一切負う」と言明したのに。生き残りの将校達はこれを聴いて唖然となった。横山中将(藤重大佐の上官)にとっても住民虐殺は寝耳に水だった。殺害はすべて戦果として報告されていたのである。アニラオ、アンチポロ村民虐殺の当日の無電は「米比軍800を殲滅せり」とあった。“集団虐殺”は“米比軍の撃破”とされていた。無電を受けた中将は感激の余り藤重大佐に賞詞を送り、マニラ東方の全軍にこれを伝え、志気を鼓舞したのである。結局、藤重大佐は死刑宣告を受け刑場の露と消えた。

/手記のあとがきで友清高志さんはこう締めた。「私はこの一冊によって、旧藤兵団関係者の怨恨を買うことだろう。執筆中の5、6年、得体の知れない電話も幾度か掛かってきた。しかし、38年も経った旧戦場を現在振り返ってみても、いまだに戦慄が身を貫くのだ。“世界に冠たる”軍国日本の一部隊においてなされた行為こそ、歴史の一頁に書き留めねばならない内容であったのだ。それ以外に他意はない」。

●1945.6 ラムット川の悲劇…ルソン島北部を逃避中の在留邦人の集団(民間人と傷病兵)が、ラムット川の氾濫で橋が崩れ足止めされていたところを、米空軍機(P51編隊)と戦車から集中攻撃を受け1000人以上が殺害された。※日本軍の隊列と誤認?しかし攻撃中に民間人が混じっていることは分かったはず。米軍もまたこのような虐殺を行った。


〔日本軍と捕虜〕
日本軍は日露戦争や第一次世界大戦期において敵捕虜を大切にし、国際的に高く評価されていた。しかし、その後の日中戦争以降、“捕虜は恥”という考え方がはびこり、捕虜となった兵士は日本人であっても日本国民から軽蔑の対象となっていった。日本兵が捕虜とならず自決したのは、捕虜になれば故郷の家族が村八分にされるからであった。勝ち戦が続いていた戦争前半はジュネーブ条約(捕虜の権利を定めた国際法)を遵守していたが、戦局の悪化と共に気持ちに余裕がなくなり、捕虜の虐待、殺害が多発するようになる。日本占領地の連合軍捕虜の死亡率は30%で、ドイツの収容所の5%に比べるとかなり高いものになっている(内地の捕虜死亡率は10%)。


【インドネシア】(旧蘭領東インド)
インドネシアの中学校用歴史教科書には、日本によるヒトとモノの収奪の実態が詳細に描写されている。
「当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。長く切望してきた独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。その実態はどうであったか。日本は結局、独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える非人道的なものだった。資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争の為に搾り取られた。ジャワ島とスマトラ島は陸軍によって、その他の地域は海軍に支配された」
「インドネシア民族に対する日本の圧政は、実に非人間的なものであった。自然資源と労働力の搾取は徹底的に行われた。民衆はわが国の歴史に例のない苦難を体験した。日本占領時代には全ての政党は解散させたれた」
「あらゆる耕作地は日本軍政府に監視された。収穫物の販売は独占され、価格も日本軍政府によって決定された。それはオランダ東インド会社による香料の独占と、どこが違うだろうか。農地にするという理由で行われた森林伐採は、ジャワ島だけで50万ヘクタール(管理人注・甲子園球場13万3千個分)に及んだ。思慮を欠いた森林伐採は土地の浸食と洪水の原因となった。浸食は土地の肥沃度を低下させ、灌漑に不可欠な水源を涸れさせた。洪水は稲作を破壊し、食糧増産どころか、逆に収穫は減少した。農民たちは田を耕す為に家畜が必要だったのに、日本軍は食用に家畜を大量に殺した。こうして農業生産が減少していったのに、民衆は収穫の80%を日本軍政府に引き渡すよう強制された。飢餓で多くの人々が死んでいった」
「多くの民衆が無理やりロームシャ(強制労働者。日本語の労務者が語源)にされた。ロームシャたちは、橋、幹線道路、飛行場、防衛拠点、防空壕といった、日本の防衛のために重要であった建設工事に強制動員された。ビルマ、タイ、インドシナなど国外で労働させられた人々もいた。その待遇は極めて残酷で、彼らが労働中に少しでも不注意だったりすると、平手で叩かれ、銃で殴られ、鞭で打たれ、足蹴にされた。これに抵抗したものは殺害された。健康は配慮されず、衣服は満足に支給されなかった。食糧は米食ではなくタピオカ粉の粥で、それも一日一回であり、量も限られていた。その結果、何千人ものロームシャは二度と故郷に戻ることがなかった。彼らは働かされていた森林で世を去ったのだ」
※西スマトラのブキティンギでは日本軍の地下司令部建設に3000人のロームシャが動員され、完成時には機密保持のため全員殺された。戦後の賠償交渉で労務者の動員総数は、インドネシア側が400万人、日本側が14〜16万人で大きくかけ離れている。日本軍が1944年11月に行った調査では約210万人と出ている。

●1942.2.6-2.20 ラハ事件…海軍の呉第一特別陸戦隊はアンボン島のラハ飛行場を制圧する際、豪州軍から猛烈な抵抗を受けて多数の死傷者を出した。3日間の激戦後に豪州軍は降伏。その際、日本軍に損害を与えた迫撃砲隊をよりわけ、報復のために約310人を銃剣で刺殺した。戦後、発掘された豪州兵の遺体の手足には電線が数珠つなぎに巻かれていた。

★1943.10 ポンチャナック事件…戦局の悪化にともない、ボルネオ島に駐屯する日本兵の数が減っていくと、駐屯部隊は住民の反乱を恐れて、反日的な住民の摘発に明け暮れるようになる。実際、日本人による現地人への高圧的な態度や、シンガポール、マレーシアで行われた華僑虐殺により反日傾向が高まっていた。こうした不穏な空気の中で日本側が現地人に対する猜疑心を募らせていたところ、元ボルネオ州知事J・B・ハガ(オランダ人)に抗日陰謀の嫌疑がかかる。日本軍は「予防的措置」として元知事を銃殺し、知事と近い立場にあった人間を片っ端から検挙・処刑した。1943年10月から8ヶ月間の犠牲者の総数は、インドネシア側資料が4000〜2万人、日本側資料が1486人〜2130人となっている。死者が多数にのぼることから、インドネシア側はこの虐殺事件を日本の過酷な植民地支配に対する民族の誇りをかけた反乱として、処刑された蜂起指導者を歴史的に高く位置づけている。戦後、海軍第22特別根拠地隊司令官・醍醐忠重中将ら13人が戦犯として刑死。
※「ポンチャナック事件」を知っている日本人は殆どいない。現地では教科書に載るほど有名な事件だが、加害者の日本の教科書には載っていない。これでは犠牲者が浮かばれない。

★1944.2 白馬事件/強制慰安婦事件…日本占領下のインドネシアでは15万人以上のオランダ人が捕虜収容所と民間人抑留所に収容され、うち2万人が女性だった。第16軍司令部は好待遇を条件に白人女性の慰安婦を募ったが、中には無理やり連行してくる部隊もいた。1944年2月、民間抑留所にトラックで乗り付けた軍人たちは17歳以上の独身女性を整列させ、16人の少女をジャワ島スマラン慰安所に連れ去った。彼女たちは高級将校専門の慰安婦にされ、軍刀で脅迫され暴行を受けた。2ヶ月後にこのことを知った日本の第16軍司令部は驚愕し、直ぐさま該当慰安所を閉鎖、彼女たちを家族の下へ戻した。戦後の戦犯法廷で、事件当事者の大久保大佐が公判中に自殺、池田大佐が発狂、岡田少佐は死刑、能崎中将が懲役12年となる。慰安婦関連で死刑判決が出たのはこのスマラン事件が唯一。法廷は慰安婦になった35人のうち25人が強制だったと認定した。
※ジャン・ラフ=オハーンさんの怒りの証言

●1944.10.27 ババル島事件…顔の殴打を最大の侮辱と捉える現地の風習を日本人が理解不足ゆえに起きた悲劇。ババル島に駐屯している陸海軍は、住民から不当に安い価格で食糧や煙草を差し出させていた。これに抗議したエンプラワス村の村長を軍嘱託の日本人が殴打したところ、これがきっかけとなり日頃の抑圧に激怒した島民たちが蜂起。問題の嘱託と密偵を殺害し、海軍見張所や憲兵屯所を襲撃した。これに対し、日本軍守備隊は報復討伐を行い、エンプラワス村の住民716人のうち、婦女子を含む400〜500人を虐殺した(インドネシア側の資料では犠牲者704人)。事件を記録した第五師団参謀部報告書は添削、修正が多く、実態が不明。第五師団長・山田清一中将は後に自決。

●1945.2.14 ブリタル事件…戦争末期になると、日本軍は兵力不足を補うため、インドネシア人による補助部隊ペタ(PETA:郷土防衛義勇軍)を編成した。ペタは補助部隊とはいえ、駐留日本軍の2倍に達する3万8千人の大兵力。やがてペタの内部では、占領政策に対する不満や、日本兵のペタ兵に対する無礼な態度から、反日武装蜂起の気運が高まっていく。ペタ・ブリタル大団(東部ジャワ)のスプリヤディ小団長ら410人は、反乱計画を日本側に察知され準備不足のまま武装蜂起に踏み切った。反乱軍は刑務所を襲撃して政治犯ら258人の受刑者を解放し、警官宿舎や憲兵隊を襲撃した。日本側は全面衝突を避け、親日派のペタ部隊に投降の説得に当たらせた。この策が功を奏し、(1)蜂起軍の責任を追及しない(2)武装解除しない(3)ペタ将兵の待遇改善、これらを条件に反乱軍は投降した。主要メンバーは6人が死刑となった。ちなみに、スプリヤディ小団長は蜂起の初期段階で山にこもり消息不明になっている。終戦後、ペタはインドネシア正規軍の中核となり、スプリヤディは行方不明のまま国軍創始者の一人に列せられている。

●1945.10.15 スマラン事件…敗戦後、日本軍守備隊は連合軍が進駐するまで2ヶ月間、“現状維持”を命じられていた。一方、インドネシアは8/17に共和国独立を宣言。人民保安団(国軍)を組織し、日本軍に武器の引き渡しを要求した。だが、守備隊上層部は、武器を渡すと戦犯として処罰される可能性があり、本土への復員が延期されることを恐れ、これを拒否し続けた。その結果、対日感情が極度に悪化していく。10月14日夜、連合軍の上陸が4日後に迫り、焦ったスマラン(中部ジャワ)の人民保安団は在留邦人の軍政関係者を一斉拘束した。翌日、守備隊が邦人救出のため人民保安団とついに軍事衝突。インドネシア側の犠牲者は1000〜2000人と言われている。収容所を解放したとき、既に日本人約180人が殺害されていた。
スマランでは日本軍とインドネシア側が交戦したが、他地域では日本軍が武器を渡して衝突を避けたケースも多い。武器を手に入れたインドネシア独立派は、英印第5師団25000人、兵力10万のオランダ軍を相手に戦いを挑み、1949年7月にインドネシア共和国の最終的な独立が実現した。インドネシア人に同情した旧日本兵は、700人以上が自発的に独立運動に参加し、部隊の訓練を行ったり最前線で活躍し、半数以上が戦死している。この独立戦争で女性や子どもを含む40万人がオランダ軍の犠牲になったという。
終戦後に独立戦争を援助した日本兵はほんの一部であり、大半の日本軍は連合軍との間で1945年8月26日に結ばれたラングーン協定(旧宗主国が治安維持を日本軍に依頼)に基づいて、旧宗主国(英仏蘭)側について治安維持活動を行ない独立運動を弾圧した。個人として独立運動を支援した日本人はいるけど、日本軍の組織としては弾圧側にまわったのが事実。


〔インドネシア独立義勇軍に入った元日本兵たち〕
インドネシアやマレーシアなどの東南アジアでは、“アジア解放”の言葉を信じて戦い、敗戦後も帰国せず独立運動に身を投じた日本兵もいた。インドネシア独立義勇軍に参加した元日本兵は700〜903人。彼らは戦死・行方不明者534人と犠牲を出しながら、再占領をもくろむオランダ軍と戦い続けた。文字通り、他国の独立のために戦い、しかも実戦を熟知しているため先頭に立って銃を握った。インドネシア政府は彼らを独立戦争の英雄“45年組”と讃えて軍人恩給を支給した。45年組は陸軍病院に無料で入院でき、没後は国軍葬を経て独立戦争の英雄として英雄墓地に葬られる。一方、日本政府の対応は極めて冷淡で、1991年まで50年近くも“45年組”を脱走兵扱いとし、軍人恩給の対象外(!)としていた。日本政府の軍人恩給を受け取れたのはわずか21名。金額は一人当たり平均48,280円しかなく、しかも受給はこの一回限りだった。ある“45年組”の言葉「我々としては金額など問題外で、日本の軍人恩給が支給されたことによって、脱走兵ではなく戦時中に日本が働きかけたインドネシア独立のための職務を果たしたのが認められたと判断して、大喜びでこれを受け取ったのです」。
※45年組は1963年にスカルノ大統領令でインドネシア国籍を付与された。ただし、同国では「自力独立」を固く信じていたので、元日本兵が協力した事実は長年タブーとされ、80年代に入ってから公に認められるようになった。現在、45年組はインドネシアで「45」の数字が入った特製帽子をかぶる栄誉を受けているとのこと。
※参考にした外部サイト


【ブルネイ】(旧英領)
ブルネイは三重県ほどの面積の小さな国だが石油資源が豊富なため日本軍の重要目標だった。
ブルネイの中学生用歴史教科書→「日本軍は米の収穫時期になるとほとんどの穀類を奪っていったので、ブルネイの人々は米不足に陥った。またマラリアが流行していたのに、日本陸軍はその蔓延を予防しようとしなかった(病院を管理下に置いていたのは日本軍)。日本陸軍が修復したのはブルネイ〜トゥトン、ブルネイ〜ムアラの道路のみだった。この2つの道路を日本軍が修復したのは石油のパイプラインをひくためであった」「日本軍は退却前にセリア油田を破壊し、反日運動を組織したと思われる人々を殺害した。日本陸軍がブルネイから立ち去ると新政府がイギリス軍政の下に置かれた。食糧・衣料が全住民に無料配布された。病院で看護が受けられるようになり住民の健康は快方に向かい、貿易も徐々に再興した。日本陸軍撤退から1ヶ月後、軍政から民政に移った」。

●1945.6.10 ラブアン守備隊玉砕…ボルネオ北部(ブルネイ地区)のラブアン島に英豪軍が上陸し、日本軍守備隊(独立歩兵第371大隊)約440人が玉砕。占領初期の司令官・前田利為中将(1942年9月に搭乗機が墜落)は陸軍士官学校同期の東條英機のことを「頭が悪くて先が見えない男」と批評し、東條が首相になると「宰相の器ではない。あれでは国を滅ぼす」と危ぶんでいた。


【ニューギニア】(西側・旧蘭領、東北・旧独領、東南・旧豪領)

●1943.3.16 秋風事件…駆逐艦「秋風」は東部ニューギニアのカイリル島にいた26人の外国人(神父12人、修道女11人、教会が保護した中国人の子ども3人)を、そして、マヌス島でも神父や宣教師、農園主ら外国人約40人を乗船させた。当初の軍命は海軍の前線基地ラバウルへの移送だったが、海上で外国人全員を殺害するよう司令部から命令が下る。艦長・佐部少佐は60余人の神父ら外国人を目隠しのうえ船尾に連れて行き、小銃の一斉射撃で集団処刑を行った。翌年、秋風は米潜水艦の魚雷で沈没。

●1944.7 ティンブンケ事件…東部ニューギニア・ティンブンケの日本軍守備隊(第41師団歩兵239連隊)が米豪連合軍に爆撃されたことから、守備隊の浜政一大尉はティンブンケの村民が敵と通じていると疑った。そして、同村と対立関係にあるコログ村民を引き連れて報復攻撃を行った。日本軍はティンブンケ村の男性99人、女性1人を村の中心に集め、軍刀、銃剣、機関銃で虐殺した。事件の50年後、1994年にティンブンケの首長ラクが来日し、日本軍が行った虐殺、レイプ、人肉食などの戦争犯罪に対する補償を訴えたが、日本政府は「サンフランシスコ平和条約で解決済み」として門前払いにした。

〔ラバウルは落ちず!〜軍中央にさからって善政を敷いた名将、今村均閣下!〕

  

日本陸軍にも名将がいた!住民弾圧もナシ!ここに僕が敬愛する今村均(1886-1968)陸軍大将を全力で紹介したい。今村大将の存在は愚将の多い軍上層部の中で燦然と輝いている!
1886年、仙台生まれ。父は裁判官。中学を首席で卒業し、一高(東大)への進学が期待されたが、父が他界し経済的に厳しくなり陸軍士官学校へ。1907年(21歳)、陸軍歩兵少尉に任官、20代半ばに陸軍大学校に進学した。幼少期より夜尿症にる睡眠不足に苦しんでいたが陸大を首席で卒業し、陛下から恩賜の軍刀を賜る。1918年(32歳)、イギリス大使館附武官補佐官として渡英。1922年(36歳)、 陸軍歩兵少佐に昇進。
1927年(41歳)、インド公使館附武官として渡印。1935年(49歳)、 陸軍少将に昇進。1941年(55歳)、第16軍司令官として開戦を迎え、5万5千の兵力で蘭領インドネシアを攻略する。空挺部隊や航空兵力を効果的に活用し、わずか9日間で約2倍の敵兵=蘭軍約9万3千、英豪軍約5千を無条件降伏させ、最重要戦略目標のパレンバン油田地帯を制圧した。この戦いでオランダ側に流刑されていたインドネシア独立運動の指導者スカルノやハッタら政治犯を「これから貴殿たちは自由だ」と解放し、さらに資金物資を援助した。
軍政指導者としても腕を振るい、石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額にしたり、蘭軍から没収した金で各地に学校の建設を行い、集会の自由を保証し、民衆にはオランダ統治下で禁歌となっていた独立歌「インドネシア・ラヤ」を解禁した。日本兵には略奪禁止を命じ、一般オランダ人には外出の自由を認め、捕虜軍人の待遇もよく寛容な軍政を行った。
大本営がジャワ産白木綿(しろもめん)を日本へ大量輸入するよう求めてきたが、今村司令官は「現地人から白木綿を取り上げれば日常生活を圧迫する」として拒否した。内地から批判の声が起き、1942年、軍政最高顧問・児玉秀雄がジャワへ赴任し実態調査を行った。児玉は「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」「原住民は日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」と報告し今村司令官の軍政を賞賛した。
だが、軍中央からの今村司令官への圧力は続き、陸軍省軍務局長・武藤章や人事局長・富永恭次は、シンガポールの如く強圧的な軍政に転換するよう求めた。これに対し、今村司令官は陸軍参謀本部起案の『占領地統治要綱』に書かれた「公正な威徳で民衆を悦服させ」という一文を出して方針変更に抵抗した。同年11月、今村司令官はわずか在任10ヶ月で第16軍司令官を解任され、新たに第8方面軍司令官としてニューギニアのラバウル(ニューブリテン島)に左遷された。
※今村司令官の後任でジャワを統治した原田熊吉中将は、今村司令官と逆に強圧的な軍政を行ったため、ジャワでは抗日ゲリラの動きが活発になった。

1943年(57歳)、陸軍大将に昇進。同年4月に旧知の山本五十六海軍大将(今村より2歳年上)が撃墜され嘆き悲しむ。この頃、ガタルカナル島が陥落するなど太平洋の各島は次々と米軍に占領されていた。
今村大将はラバウルが本土や他島から補給線が切れることを予測し、自給自足体制を確立するため島内に大量の田畑を作らせ、自ら農具を握り開墾した。同時に米軍上陸や爆撃に備えるため、堅牢な地下要塞を構築。要塞内には長期戦を見込んで弾薬生産工場まで保有していた。マッカーサーはラバウル上陸を断念し、兵糧攻めを狙った迂回進撃・飛び石作戦を行うが、自活体制が整い充分に物資が備蓄されたラバウルに効果はなく、米軍勢力圏にあって終戦まで日本軍が駐留した。
1945年(59歳)、日本降伏。今村大将はラバウル戦犯者収容所に収容され、豪州軍の裁判を受ける。現地住民の好意的な証言などから禁錮10年となった。ジャワ島時代の責任を問う裁判では無罪となる。1950年(64歳)、東京の巣鴨拘置所に移されるが、翌月「(部下は南方の監獄なのに)自分だけ東京にいることはできない」とニューギニア・マヌス島で服役する事を希望。マッカーサーいわく「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった」。3月よりマヌス島刑務所にて服役。1953年(67歳)、刑務所閉鎖につき東京の巣鴨拘置所に移った。68歳、刑期を終え出所。その後は自宅の片隅に建てた謹慎室に自身を幽閉し、戦争を反省。質素な生活の中で「回顧録」を出版し、印税をすべて戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に用いた。出所から14年後、1968年10月4日に82歳で他界。温厚な人柄で部下から慕われ、指揮官としても将兵の命を終戦まで守り抜き、戦後の真摯な行動も実に立派。猪突猛進、無責任な指揮官が多い軍部にあって、別格の存在といえる。墓所は仙台の輪王寺。

※ラバウル駐留軍だった水木しげる先生いわく「(今村大将は)私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」。戦時中の新聞は今村大将を「教養に富み部下を愛する謙虚な風格ある将軍である」「人情将軍」と紹介している。
※大陸での南寧作戦(1939)では第5師団長として指揮を執り、数十倍の戦力を有した中国国民党軍の大攻勢を数十日間もしのぎきった。
※ジャワ島攻略の際、重巡洋艦「最上」の魚雷誤射で搭乗艦が撃沈され、真夜中に重油の海を3時間泳いで救助される経験をしている。
※第14軍司令官・本間雅晴中将はフィリピン・バターン攻略に難航した。これを大本営が問題視した際、今村大将は本間中将に同情し、杉山参謀総長に大本営批判を行った「バターンの苦戦は大本営の状況誤認に因るところが多く、兵力不足の状態で占領を急かされた本間にのみ責任を被せるというのは酷すぎる」。
※戦史研究で知られる作家・半藤一利(はんどう・かずとし)は、“名将”として今村均・山本五十六、栗林忠道、石原莞爾・永田鉄山、米内光政・山口多聞、山下奉文・武藤章、伊藤整一・小沢治三郎、宮崎繁三郎・小野寺信をあげ、“愚将”として牟田口廉也・瀬島龍三、服部卓四郎・辻政信、石川信吾・岡敬純、特攻隊責任者の大西瀧次郎・冨永恭次・菅原通大をあげている。
※スカルノ(1901-70)…インドネシア共和国初代大統領。在任1945〜67年。ジャワ島スラバヤ出身。在学中から民族運動に参加し、1929年(28歳)にオランダ当局に逮捕される。2年後に釈放となったが、1933年(32歳)に再逮捕され流刑となった。9年後の1942年(41歳)、今村均中将(当時)によって釈放され、対日協力のかわりに政治指導者の地位を認められた。1945年8月17日(44歳)、日本降伏直後にインドネシア独立を宣言し初代大統領に就任。再植民地化を狙うオランダと戦い、1949年(48歳)に独立を承認させた。その後、1955年(54歳)にジャワ島・バンドンで第1回アジア・アフリカ会議を開催するなど反帝国主義運動をリード。1965年(64歳)、新興国家の指導者として反米色をより強めて国連を脱退。1967年、軍部トップのスハルトに大統領権限を奪われ、翌年第2代大統領となったスハルトによって監禁。2年後(1970年)に軟禁状態のまま病没した。


【オーストラリア】

●1942.2.19 ダーウィン空襲…オーストラリア本土、ダーウィン市の軍港を狙った日本軍の艦載機242機による空襲。9隻の船舶が沈没し251人が死亡。負傷者300〜400人。鉄道や燃料タンクなど補給線となるインフラも攻撃したことから、民間人にも死傷者が出た。真珠湾攻撃の総量を凌ぐ弾薬が使用されたという。日本軍は1943年11月まで97回の空襲を行った。
※オーストラリア本土を100回近く空襲していることを知らない日本人は多い。

●1943.5.14 病院船セントール撃沈…オーストラリア東海岸ブリスベーン沖合にて潜水艦「伊177」号が豪州の病院船「セントール」号を撃沈、299人が死亡した。「伊177」号は64人を救助した。


【グアム】

●1944.7.12 デュエナス神父処刑…日本軍は1941年12月10日にグアムに上陸し、1日で島内を制圧した。その際に米軍守備隊の6人が逃亡、5人は発見と同時に処刑されたが通信兵ジョージ・ツィードは島民にかくまわれて生き延びた。日本軍の捜索隊は、島の宗教的リーダーで島民から深く敬愛されているデュエナス神父が情報を持っていると判断し、公衆の前で拷問した後に、最後まで口を割らない神父を処刑した。ツィードはその前日に沖合の米艦に救助されていた。

●1944.7.15 メリッソ村民虐殺事件…米軍再上陸の6日前、日本軍はグアム島南部のメリッソ村民の中から、家族に米軍関係者がいる者や体格の優れた者16人を連れだし手榴弾で殺害した。翌日にも30人の男性が村から連行され殺害された。その4日後、激怒した村民が日本軍守備隊員に報復攻撃をかけ、十数人を殺害する。なぜ守備隊が村民を虐殺したのかは、上陸した米軍との戦いで関係者が玉砕したため不明だ。上陸部隊と連携した反乱を恐れたのだろうか。


【南洋諸島】

●1944.2-7 トラック病院事件…中部太平洋トラック諸島のデュブロン島(夏島)の第4海軍病院で、米軍捕虜8人を生きたまま解剖(処刑)する生体解剖が行われた。これは院長の岩波浩軍医が、731部隊の陸軍軍医が行っていた生体解剖を「海軍でもぜひやってみたい」と意気込み実施されたもの。岩波軍医は捕虜にブドウ状球菌を注射したり、止血器を取り付けて解剖を行い、生き残った2人の捕虜を“爆風実験”のため1mの距離でダイナマイトを爆発させた。足を引き裂かれても絶命しなかった為、最後は毒薬を注射して殺害。戦後、この事件の捜査過程で、軍医長・上野千里が別件で捕虜2名を生体解剖したことが発覚。クロロホルムで麻酔をかけ肋骨や内臓の一部を取り出した後、傷口をテープで止め斬首した。前者は「二月事件」、後者は「七月事件」と呼ばれる。戦犯法廷で岩波軍医は絞首刑、上野軍医長は終身刑となった。

●1943.11.26 ぶえのすあいれす丸事件…南太平洋ビスマーク諸島の沖合で日本の病院船「ぶえのすあいれす丸」が米爆撃機の攻撃で撃沈され158人が死亡した。病院船はジュネーブ条約によって攻撃・捕獲の対象にならないと合意されており、米軍による明確な国際法違反。翌年11月にも日本の病院船がマニラ沖で爆撃され32人が死亡している。

●1945.4.8-8.10 ヤルート島事件…マーシャル諸島のヤルート島にて、第64警備隊司令・升田仁助海軍少将が、抗日的と判断した島民21人を銃殺に処した。升田少将は終戦後に自決。

●1945.8.19 オーシャン島事件…現キリバス共和国のオーシャン島(バナバ島)に駐留していた日本軍・第67警備隊(500人)の指揮官・鈴木直臣少佐は、終戦4日後に島民140人を断崖絶壁に並べ次々に射殺させた。占領中に加えた島民への弾圧が発覚するのを恐れたもので、戦犯法廷は鈴木少佐ら4人の将校を死刑とした。

●1945.9.20 ナウル守備兵“死の行進”…豪州陸軍・第二軍団は復員待ちの日本兵(ナウル守備兵)をブーゲンビル島トロキナの収容所へ移送する際、多くの兵が栄養失調にあるにもかかわらず10マイルの徒歩行進をさせ、また到着後もマラリアの感染を放置したことから600人以上の日本兵が死亡した。この命令を発した豪州軍サベージ中将は何の咎も受けていない。不条理なり。

●1942.5 マダガスカルの戦い(南洋諸島ではない)…あまり知られていないけど、なんと日本海軍はアフリカ大陸沖のマダガスカル島まで進出していた。、ヴィシー・フランス軍の増援要請を受けて潜水艦5隻が出撃し、英国の戦艦ラミリーズを大破させた。


【番外編 日本とソビエト】

●1945.8.9 ソ連軍侵攻…スターリンは1945年2月のヤルタ会談において、「ドイツ降伏から3ヶ月以内にソ連は日本に参戦する」と、英米と密約を結んでいた。5/8にドイツが降伏したことから、3ヶ月後の8/8にソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦。翌8/9零時から日本支配下の満州と朝鮮に侵攻を開始した。
スターリンは「千島・樺太交換条約」(1875)で日本に帰属した千島列島と、日露戦争に敗北して日本へ譲渡した南樺太を奪回したかった。それゆえ、終戦翌日、トルーマンに対して「千島全島と北海道の北半分」をソ連領とすることを要求した。だが、トルーマンが北海道割譲を拒否したばかりか千島列島に米軍航空基地を作る動きを見せたことから、スターリンは米国より先に千島を占領する必要があると判断。ソ連軍はミズーリ号における降伏文書調印の9月2日を終戦と考え、軍事行動を起こした。
※ノモンハン事件や満蒙開拓民虐殺など、満州を舞台にした戦いは「日本と中国編」に記載。

●1945.8.18 ソ連軍北方領土侵攻…日本が8/15に降伏したにもかかわらず、終戦3日後の深夜に突如としてソ連軍が千島列島東端の占守(しゅむしゅ)島を奇襲侵攻。同島は「樺太・千島交換条約」で日本領土となっており、ソ連に対しての最前線であったことから、国境警備の拠点として第5方面軍・第91師団が駐屯しており激戦となった。当初のソ連軍上陸部隊は8363人、火砲218門。対する日本軍は同島一帯に陸軍約2万3千人、海軍約1500人、戦車64両、航空機8機、火砲200門を擁しており、ソ連軍増援後も何度も押し戻した。日本側は無用な戦闘を避けるため、当日午後及び翌日の2度にわたり、ソ連側に停戦を求める軍使を派遣。ソ連側が即時武装解除を要求したので、「停戦はするがすぐに武装解除はできない」と返答。ソ連軍の攻撃が止む気配がないため、第91師団は21日に総攻撃を予定したところ、大本営から「戦闘行為を停止し、武器を引き渡せ」と指示が届く。これを受け、降伏文書に正式に調印した。日本軍の死傷者は1018人、ソ連軍の死傷者は1576人(死者516人)。捕虜となった第91師団の日本兵1万2千人は、ソ連側に恨みを買っていたことから、シベリアで最も過酷な地域に抑留された。調印翌日夕刻(8/22)、ソ連極東軍総司令官ワシレフスキー元帥は「北海道上陸作戦」の撤回電報を前線に打電した。

●1945.8.22 避難民輸送船の悲劇…終戦時、樺太には16万人もの在留邦人がおり、周辺海域の日本艦船が避難民輸送のために樺太に向かった。一方、ソ連海軍は「北海道上陸作戦」支援のため潜水艦12隻を日本海に配備、各艦長に「航行中の敵船舶をすべて撃破せよ」と下命していた。また、8/22にワシレフスキー元帥から攻撃中止命令が出てからも、通信事情により25日になっても届いていない潜水艦もいた。
その結果、避難民を乗せた3隻の船舶が魚雷で撃沈され、乗船者の合計約5250人のうち、約1700人が海没してしまった。
・小笠原丸…20日樺太出港。乗船者702人。小樽に向かって北海道西岸を航行中、8/22夜明け前にソ連潜水艦L-12の魚雷を受けて沈没。生存者は海岸にたどり着いた62人のみ。640人が死亡。
・新興丸…21日樺太出港。乗船者約3800人。小樽に向かって北海道西岸を航行中、8/22早朝にソ連潜水艦の魚雷を受け、大破浸水しつつ留萌(るもい)港に入港。犠牲者約400人。
・泰東丸…20日に樺太出港、乗船者780人。小樽に向かって北海道西岸を航行中、8/22の10時頃、ソ連潜水艦L-19から魚雷を受けて沈没。6時間後に日本船が漂流していた143人を救出した。約500人が行方不明。その後L-19は宗谷海峡の機雷原で沈没し、ソ連海軍にとって大戦最後の喪失艦となったためウラジオストックに乗組員の顕彰碑が建立された。

310万人の日本人が死に、数え切れないほどアジア人の命を奪った1941年から1945年までの太平洋戦争だけでも、以下のように日本の企業は経済成長を遂げた。
三井系企業の資本 1億円(1941)→3億円(1945)
三菱系企業 1億2千万円→2億4千万円
日産系企業 5千万円→4億5千万円
石原産業 150万円→9300万円
右翼のボス、児玉誉士夫は海軍と結託して上海で巨万の富を得たし、新興財閥も多数出現した。日本と満州にまたがる重化学工業の独占支配を狙った日産コンツェルンは三井・三菱につぐ第三のコンツェルンに成長し、朝鮮の水力発電・化学工業を開発した日窒コンツェルンは後のチッソの前身となった。

1930年代は五・一五事件や二・二六事件など、右翼や青年将校のクーデターが続発し、戦争反対を唱えたり大陸進出に消極的な政治家は抹殺された。この一連の“決起”には、巨額の資金を提供した企業家がいた。『三月事件』では徳川義親(昭和天皇と親戚関係)が50万円(現在の約50億)、『10月事件』では藤田勇(中国戦線で麻薬を売って巨利を得た)が63万円(約63億)、『五・一五事件』では神武会(軍事政権樹立や南進を掲げた大川周明らの秘密結社)が9万円(約9億)、『二・二六事件』では石原廣一郎(マレーシアにゴム園・鉱山を持っていた石原産業社長)が35万円(約35億)を提供している。石原産業は日本の軍隊を使って南方から欧米諸国を追い払った後、39カ所の鉱山の利権を獲得している。マレーシアでは英国企業が独占していた鉱山を、三井鉱山、石原産業、日本鉱山、古川鉱山で四分割している。シンガポールでも英国を追い払った後に日系企業が大量に乗り込んで利権を引き継いだ。仮にクーデター資金に現在の50億円、100億円を出したとしても、戦争で植民地を獲得すれば何倍にもなる。これこそが戦争の本質であり根本原因。日本の劇映画も歴史小説も、二・二六事件には青年将校と右翼思想家しか登場しない。二・二六事件を必要として、計画して、お金を出して、最終的に目的を果たした張本人の資本家たちのことが何も語られていない。

侵略戦争のための軍備増強には増税の必要がある。日清戦争前、山県有朋首相率いる山県内閣は何度も増税案を国会に提出するが否決された。そこで山県は反対派の国会議員を買収するため議員歳費を5倍に跳ね上げ、有力議員には個別に大金を渡して直接買収した。この時の買収資金98万円(現在なら100億円以上)を提供したのは明治天皇だった。「首相の山県は国会議員買収のための天皇から受け取った資金を、一部自分の懐に入れているようだ」(『西園寺公望日記』)。
その後、国家予算をふんだんに使って軍拡し、日清戦争に勝利した日本は、清国から国家予算の3倍以上である3億5千間円もの賠償金を手に入れた。このうち2千万円を明治天皇がもらっており、実に国家予算の20%に値する金額を天皇は受け取ったことになる。日露戦争後、手に入れた朝鮮に施設した京釜(キョンブ)鉄道の上位株主は、1位が天皇で5千株、2位が朝鮮皇室で2千株、以下、三井、三菱などが1千株と続く。

天皇家が大量の株を保有していた企業は、横浜正金銀行(外国貿易金融専門の特殊銀行。旧東京銀行の前身)、南満州鉄道、台湾銀行、台湾製糖など多くが侵略戦争に関わっている企業。綺麗事ではなく、天皇家は日本が侵略戦争をして植民地を拡大すれば、着実に巨大な利益が得られる仕組みになっていた。ちなみに、明治維新直前、1867年の天皇家の資産は10万2268円。1890年には約1千万円になり、5年後には日清戦争で清国から天皇家に2千万が入っている。1917年のロシア革命で皇帝ニコライ2世が倒されてからは、天皇が世界一の大富豪になった。
進駐米軍の調査によると、日本の国土の10%を天皇家が所有しており(鳥取、佐賀、神奈川、東京、香川、大阪の全面積に等しい)、1946年3月の財産税納付時の調査によれば全財産の現金評価額は約37億円。当時、公務員の月給は65円。現在の月給が25万円とすると、37億円は今の約14兆2千億円になる。一方、昭和天皇は一貫して戦争に反対していた(天皇言語録参照)。政府首脳は皇室を懐柔したり、皇室の威光を高め利用して国民を支配するために、極端な経済上の優遇政策をとってきたようにも見える。
※参考にした外部サイト

〔最後に〕
当年表は、この地域に散っていったすべての人命を無駄にしないために作成した。もっと生きられたはずなのに、日本軍の進駐で命を奪われた占領地の住民。そして、大義を信じて東南アジアに渡ったにもかかわらず、望まない住民弾圧を強いられ、インパールやフィリピンの密林で死に追いやられた日本兵たち。その無念を思い、ひたすら文献を調べキーボードを打ち続けた。
保守論客は、戦後の歴史教育が自虐的で、“反日教師”が負の歴史ばかり教えていると批判している。この年表を作り終えた僕にしてみれば、「どこが?」と言わざるをえない。むしろ負の歴史なんて教えてないに等しい。アジアの教科書に接して初めて侵略の事実を知るという歴史教育のお粗末さ。ガンジーは「独立に日本の手は必要ないし我々が自分で実現する」と言っていた。従軍した司馬遼太郎も「アジア解放をいうなら、最初に手本として台湾と朝鮮を独立させるのが筋」と指摘している。
古来から日本人の美徳とは“謙虚さ”であった。「アジア独立は日本のおかげ」論はその対局。今世紀に入って、東南アジア各国の日本への好感度はあがっていると聞く。アセアンの人々は、今の日本が戦前の日本と完全に訣別していると信じている。一部の人間が事実誤認の歴史認識を(たとえ善意や使命感からであっても)広めることで、日本人全体の信頼を損なう事態に僕はなって欲しくないし、この年表がそのような保守派の誤解を解くものになればと願っている。

※右派であろうがリベラルであろうが、日本を愛する気持ちは同じ。歴史問題の対立を乗り越えて、より良い国を作ってきましょう!



《時事コラム・コーナー》

★愛国リベラル近代史年表/日本と中国編
★愛国リベラル近代史年表/日本と韓国・朝鮮編
★愛国リベラル近代史年表/日本と台湾編
★愛国リベラル近代史年表/日本とアメリカ編
★愛国リベラル近代史年表/日本と東南アジア編
★昭和天皇かく語りき
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★愛国心について僕が思うこと
★日の丸・君が代強制と内心の自由について
★残業ゼロが常識になる社会は可能!
★アフガン・伊藤和也さんを悼む
★パレスチナ問題&村上春樹スピーチ
★チベット問題について
★普天間基地を早急に撤去すべし
★マジな戦争根絶案









オヌシは 番目の旅人でござる