愛国リベラル史観・近代史年表〜日本とアメリカ編
〜日米太平洋戦争史 1941-1945〜



1942年時点の日本領

〔はじめに / 記録を伝える決意表明〕

2011年は太平洋戦争の開戦からちょうど70年目にあたる。あの戦争を振り返った時、保守側からよく聞かれる言葉が「避けられない戦争だった」「追い詰められて仕方なく立ち上がった」「現代の価値観であの時代を見るな」といったもの。一方、左派側は「狂信的な軍部が戦争に引きずり込んだ」「戦果を求めた天皇にも責任が」というもの。右派も左派も両方が誤った歴史観に支配されている。
保守に対しては、当時の価値観から見てもあの戦争は極めて無謀だったことを、左派に対しては軍部の中にだって開戦に反対していた人物がたくさんいたし、天皇も軍部急進派を抑えようとしていたことを訴えたい。決して開戦への路は一本道ではなく、避けることも充分可能だった。米国のハル・ノートだって、“試案”を日本が最後通牒と早合点したものだった。

以下の年表では、前半部分が1941年12月の開戦に至る過程で、「戦えば負ける」と発言する“勇気がないため”に戦争を回避できなかった姿を浮き彫りにし、中盤では南太平洋各島の日本軍守備隊が絶望的な状況で奮戦する姿(玉砕させた軍上層部の責任は重い)を、後半は本土空襲、沖縄戦、広島、長崎、敗戦に至る破滅への行程を、昭和天皇や米兵の言葉も交えながら解説していく。最後は神風特攻隊を中心に、散っていった若者たちの命を無駄にしないため軍組織の非人間性を掘り下げていく。
所詮は個人サイトの1コーナーとはいえ、渾身の力を込めた年表であり、参謀や末端兵の言葉を随所に挟んで単なる年号だけの年表とは一線を画したものを目指したつもりだ。完読すれば太平洋戦争の全貌を把握できるだろう。フィリピンに出征した作家・大岡昇平は、『レイテ戦記』を書く際に、砲弾一発ずつ、銃弾一発ずつの音まで記録するつもりで書き続けたという。その想いをリスペクトし、何ヶ月も戦史資料と向き合い、気持ちの上では頭上や耳の横をかすめる弾の音を聞きながらこれを書き上げたつもりだ(特に硫黄島戦や沖縄戦)。

詳細に書くといっても、無用に長ければ読み手の集中力も途切れるし、全体の構成も散漫になる。だから、長い年表ではあるけれど、可能な限りトピックを絞り込んでいる。南の島に散っていった兵士の犠牲を無駄にせぬ為に、大本営発表の美化された戦争ではなく、ありのままの姿を描き出すことで、戦争の愚かさ、不毛さを後世に伝え、本当の愛国心とは戦争をすることではなく戦争を起こさせないことであると訴えたい。

★参考資料…『世界戦争犯罪辞典』(秦郁彦ほか/文藝春秋)、『アジアの教科書に書かれた日本の戦争』(越田稜/梨の木舎)、『教科書が教えない歴史』(藤岡信勝ほか/産経新聞社・扶桑社)、『戦争案内』(高岩仁/映像文化協会)、『歴史修正主義の克服』(山田朗/高文研)、『昭和天皇語録』(講談社学術文庫)、『昭和天皇』(古川隆久/中公新書)、『昭和の名将と愚将』(半藤一利・保阪正康/文藝春秋)、『レイテ戦記』(大岡昇平/中央公論社)、『天王山』(ジョージ・ファイファー/早川書房)、『ルソン住民虐殺の真相・狂気』(友清高志/徳間文庫)、『虚構の特攻隊神話・つらい真実』(小沢郁郎/同成社)、『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ百科事典』(マイクロソフト)、『日中戦争〜兵士は戦場で何を見たのか』(NHK)、『沖縄 よみがえる戦場』(NHK)、『さかのぼり日本史 とめられなかった戦争』(NHK)、『日本はなぜ戦争へと向かったのか』(NHK)、『シリーズ証言記録 兵士たちの戦争』(NHK)、『責任なき戦場〜ビルマ・インパール』(NHK)、ウィキペディア、ほか多数。


(ショートカット※管理人的には出来れば年表トップから順番に読んで頂きたいですが…)
1937-1940 / 1941 / 1942 / 1943 / 1944 / 1945
三国同盟 / ハル・ノート / メディアの責任 / 真珠湾攻撃 / 反戦・石橋湛山 / 大東亜政略指導大綱 / 海軍乙事件
マリアナ沖海戦 / サイパン玉砕 / 台湾沖航空戦 / レイテ沖海戦 / ペリリュー玉砕 / 硫黄島戦 / 本土空襲
沖縄戦(大和の最期含む) ※渡野喜屋事件/ ダウンフォール作戦 / ポツダム宣言 / 原爆投下 / 聖断(終戦) /神風特攻隊

〔太平洋戦争直前の状況〕
1937年に始まった日中戦争は、軍中央の短期戦の予想とは裏腹に、中国側の激しい抵抗を受けて戦線は拡大、先の見えない泥沼に落ち込んでいった。日本は「中国がずっと抗戦を続けているのは、欧米諸国や在外中国人(華僑)が支援しているから」と考え、仏領インドシナ(ベトナム)や英領ビルマ(ミャンマー)が中国への支援物資の運送ルートと見ていた。だが当時のインドシナはフランス領であるため手出しできなかった。
そんなおり、1939年に欧州で第二次世界大戦が勃発。ドイツ軍が破竹の進撃でオランダ、フランスなど東南アジアに植民地を持つ国を打ち破っていった。日本は北部仏印(インドシナ)に進駐し、中国補給ルートを遮断した。ドイツはさらにソ連へ電撃侵攻。日本は対ソ戦を考えて北方の兵力を充実させてきたが、欧州における独ソの激突で、極東におけるソ連の脅威がなくなった。北の緊張が解け、軍部は南方に熱い視線を向ける。「ドイツとの戦いで英蘭仏は疲弊しており、今なら資源に恵まれた東南アジア(英領マレーシア、蘭領インドネシア、仏領南部インドシナ)に軍事的進出が可能ではないか」。南進論の声が大きくなり、独ソ戦の翌月、日本はインドシナ南部に軍を進駐させた。
これが大誤算だった。アメリカが激怒したのだ。かねてから日本の大陸進出に抗議していたルーズベルトは、米国内の日本の資産を凍結し、「石油の全面禁輸」に踏み切った。日本は米国から大量の石油(7割)を輸入していた。石油の備蓄は2年分。石油が切れる前に戦争すべきと考え、御前会議で軍部は「短期決戦なら勝算はある」と訴えた。「この際大陸から撤退して禁輸を解いてもらおう」という声は“臆病者!非国民!”と掻き消された。1941年12月8日、日本は真珠湾を奇襲した。


【1937-1940年】昭和12-15年 ※明治維新から日中戦争までは“日本と中国編”に詳しく掲載

●1937.7.7 盧溝橋事件…米国も列強の一員として中国の利権を狙っていたところ、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が交戦状態にり、日中戦争(支那事変)へ拡大していく。米国は中国に“貸し”を作る好機とみて大量の支援物資を送り続けた。日本側の楽勝予想とは裏腹に、中国の徹底抗戦で戦線は拡大していく。

●1938 この年に北原白秋が作詞した歌『万歳ヒットラー・ユーゲント』(2分)はサビが「万歳ナチス」。当時の日本の雰囲気を象徴する歌。

●1939.7.26 米が日米通商航海条約破棄…日本が戦線を華南(中国南部)まで拡大して英米の権益を侵害し、さらに天津の英仏租界を抗日運動の拠点とみなして封鎖した為、怒ったアメリカ(ルーズベルト)は「日本の中国侵略に抗議する」として、関税自主権を認めた日米通商航海条約の廃棄を通告した。日本は日中戦争と占領地の経営に米国の物資を必要としていたため経済的打撃を受けた。

●1939.9.1 第二次世界大戦勃発…ドイツがポーランドに侵攻し世界大戦へ。同月ワルシャワ陥落後、翌1940年にデンマーク(4月)、ノルウェー(5月)、ルクセンブルク(5月)、オランダ(5月)、ベルギー(5月)、フランス(6月)、ルーマニア(8月)、ハンガリー(11月)を制圧、1941年にはブルガリア(3月)、ユーゴスラヴィア(4月)、ギリシア(4月)と、周辺国を次々と軍事占領していく。

●1940.6.14 パリ陥落。仏の新首相ペタンはドイツと休戦協定を結んで親ドイツ政権を築いた。フランスやオランダといった東南アジアに植民地を持つ国が次々とドイツに敗れ、日本が進出する隙が生じる。

●1940.7.3 「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」…大本営政府連絡会議にて、南方の領土及び資源を獲得するために武力行使もあり得ることを採択。

〔最高意思決定機関〜大本営政府連絡会議について〕
首相、外相、海相、陸相、参謀総長、企画院総裁、軍令部総長という各組織のトップが集う連絡会議で、実質的な日本の最高意思決定機関。重要な国家方針は天皇同席の御前会議にかけられるが、そこでは天皇の承認を受けるだけだ。方針案は連絡会議が責任を持って全会一致で示すことが原則だった。だが、会議では各代表の権限が「対等」で、首相にも決定権はなく、反対者が一人でると何も決められない。そこで話をまとめるために各組織の要望を均等に反映した、曖昧で実態のない決定に合意することが慣例になっていた。「具体的なことは別に定む」など。第1回は1938年1月11日で議題は支那事変処理根本方針。戦争末期には最高戦争指導会議に発展的解消を遂げる。
※企画院…戦時経済計画を担当。国家総動員法など数々の戦争協力法案を立案。

●1940.7.19 荻窪会談…近衛文麿(後の首相)、松岡洋右(後の外相)、東條英機(後の陸軍大臣)、吉田善吾(後の海軍大臣)が行なった荻窪会談で、前月にフランスを征服したドイツのヨーロッパ戦勝に呼応して、「南方植民地を東亜新秩序(松岡曰く“大東亜共栄圏”)に積極的に組み込むべし」とした。日独伊三国同盟に難色を示した吉田海相は“病気辞任”に追い込まれる。
※昭和天皇は軍部がしきりに(アジアの)“指導的地位”という言葉を掲げてアジア進出を目論むことを批判。「指導的地位はこちらから押し付けても出来るものではない、他の国々が日本を指導者と仰ぐようになって初めて出来るのである」。

●1940.7.26 基本国策要綱決定…近衛内閣は荻窪会談を反映して公式に“基本国策要綱”を定め、「大東亜新秩序」の建設のため南方進出に言及。

●1940.9.23 北部仏印進駐…仏印とは仏領インドシナのこと。現ベトナム。日本は「中国がいつまでも抵抗を続けるのは欧米諸国が支援しているから」と判断。中国への支援物資がインドシナ経由で入ったことから、フランスがドイツに敗れた今こそ補給ルートを断つ絶好の機会と捉え、フランスに圧力をかけてインドシナ北部に日本軍の進駐を認めさせた。
※昭和天皇「強い兵を派遣し、乱暴することなきや。武力衝突を惹起(じゃっき)することなきよう留意せよ」(北部仏印の駐屯部隊について、杉山参謀総長に)

★1940.9.27 日独伊三国同盟締結…第二次大戦中の枢軸国であった日本・ドイツ・イタリア3国が締結した軍事同盟(近衛文麿内閣が締結)。ドイツと結んでアジアのヨーロッパ植民地に進出していこうとする方針。当時ヨーロッパで英国が戦っていた独と手を結んだことで、英米との関係が決定的に悪化し、太平洋戦争の要因となった。
※近衛首相や松岡外相が三国同盟にこだわったのは、ドイツとソ連が不可侵条約を結んでいる→三国同盟を通してソ連と関係が近くなれば、アメリカの対日開戦を抑制できると考えたから。結果的には米国の不信感を増大させ真逆の展開になったけれど。
※小林よしのり『戦争論』は、欧米白人列強の人種差別主義を批判しているけど、日本が同盟を結んだドイツこそ最悪の人種差別主義国家。人種差別に反対するならドイツと真っ先に手を切らねばならぬはず。戦争の大義に関わるすごく重要なとこなのに、保守論客はみんなここをスルーしている。また、約6千人のユダヤ人を救ったリトアニア日本領事代理・杉原千畝さんに対し、外務省は独断行為を咎めるように退職通告書を突きつけ依願退職に追い込んでいる。杉原千畝さんの行動=日本政府の行動ではないのに、そこを言及しないのは如何なのもか。
※ヒトラー『わが闘争』(1925)の日本語版で翻訳されなかった部分「日本の明治以後の進歩はアーリア人の科学技術を日本の特性によって装飾しているに過ぎない。日本人は二等民族である」。
ヒトラーは日本人を猿の雑種のように見下していた。戦前に刊行された日本語版『わが闘争』は意図的にそこがカットされていたため、日本陸軍にはヒトラーに心酔する者がいた。海軍大将の山本五十六や井上成美(しげよし)は原書を読んでヒトラーが「日本人は想像力を持たぬ劣等民族(二等種)だが、小器用でドイツ人が手足として使うには便利だ」と考えているのを知っていた。陸軍中佐から「『わが闘争』を読め」と言われた井上成美は、原文の蔑視部分を見せて追い返したという(このエピソードは近年の役所広司の映画『山本五十六』にも出てくるくらい有名)。
日本軍が英軍に勝利してシンガポールを征服したことを聞いたヒトラーいわく「もう一度あの黄色い奴等を追い返すために、ドイツからイギリスに20個師団の 援軍を送りたい気持ちだ」(ドイツ外交官ハッセル遺稿集)。同盟国の勝利より、白人の敗北が悔しい男。


〔昭和天皇はずっと日独伊三国同盟に反対していた〕
締結時の詔書(しょうしょ)には「日本とその意図を同じくする独伊と提携協力し、ここに三国間における条約の成立を見たるは、朕の深く喜ぶ所なり」と述べているが、これは全く天皇の本音ではない。ドイツと同盟すれば英米と対立することを懸念していることが成立前後の言葉からよく分かる。
・陸軍の意を受けて日独伊三国同盟を結ぼうと暗躍していた大島駐独大使と白鳥駐伊大使が、独伊に対して勝手に“独伊が第三国と戦う場合は日本も参戦する”と伝えていた。天皇は板垣陸相を激しく叱責。「出先の両大使がなんら自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか」(『西園寺公と政局』)
・前年に海軍の三国同盟批判をうけて交渉がいったん打ち切りになった際「海軍がよくやってくれたおかげで、日本の国は救われた」(『岡田啓介回顧録』)
・「独伊のごとき国家とそのような緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、この国の前途はどうなるか、私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる」(『天皇秘録』)
・「この条約(三国同盟)は、非常に重大な条約で、このためアメリカは日本に対してすぐにも石油やくず鉄の輸出を停止するだろう。そうなったら、日本の自立はどうなるのか。こののち長年月にわたって大変な苦境と暗黒のうちにおかれることになるかもしれない。その覚悟がおまえ(近衛首相)にあるか」(『岡田啓介回顧録』)
天皇はファシズムの独伊に好感を持っておらず、民主主義の英米、特に英国に親しい感情を持っていた。

●1940.10.12 大政翼賛会結成…第2次近衛文麿内閣は国民の効率的な戦争動員を目的に国民統合組織・大政翼賛会を結成。全政党が解党して同会に加わったことから、明治以来初めての無政党時代となった。“翼賛”とは時の権力者に協力するという意味。近衛が翼賛会の発足を天皇に報告した際、天皇は「これではまるで昔の幕府ができるようなものではないか」と批判した。


【1941年】昭和16年

●1941.1.8 『戦陣訓』公表…陸軍大臣の東條英機は、自らが発行した『戦陣訓』の中で「生きて虜囚の辱受けず、死して罪禍の汚名残すことなかれ』と、捕虜にならずに自決せよと命じた。その結果、前線では多くの兵士が自決した。
※東條自身は占領軍の手で“虜囚”になった。戦死したわけでも、戦地で自決したわけでもないが、靖国神社に合祀された。

●1941.1.30 対仏印及び泰国(タイ)施策要綱…欧州におけるドイツの攻勢で、英仏の勢力がインドシナやタイで後退。これを受け、第7回大本営政府連絡会議にて、インドシナとタイを軍事、政治、経済的に支配するため武力を背景にした占領計画を決定。この報告を受けた昭和天皇いわく「自分としては主義として相手方の弱りたるに乗じ要求を為すが如き、いわゆる火事場泥棒式のことは好まない」。

●1941.4.13 日ソ中立条約締結…長期化する日中戦争に苦しむ日本、緊迫する欧州情勢に集中したいスターリン、双方の思惑が一致して不可侵条約が結ばれた。これで日本は北の不安が一応遠のいた。

★1941.6.22 独ソ開戦…ナチスドイツが独ソ不可侵条約(1939)を破ってソ連を攻撃(バルバロッサ作戦)。陸軍の中からは「この機にソビエトを叩け」という北進論、海軍からは「南の資源を確保せよ」という南進論が同時に浮上。

●1941.7.2 帝国国策要綱…御前会議で当面の国家方針『帝国国策要綱』を打ち出す。南進の準備、北進の準備、和平の外交交渉、すべて進めるというプラン。しかも具体的なことは「状況を見て別に定める」とし、つまり何も決めずに準備だけするという、実質、様子見・先送りだった。軍令部作戦課長・富岡定俊「文字で妥協したのです。作文で。陸軍が自分の要求に従ってやる、海軍は海軍の了解でやっている、そんな現象なんです」。

●1941 7.13 関特演(関東軍特種演習)…政府連絡会議の方針に基づき、陸軍は北進準備の動員を開始。弘前第57師団など総勢16個師団、「85万人」の大兵力。“準備”がどこまで指すかは軍の判断に任されていた為、陸軍は“準備”の内容を最大限に解釈。この大動員が“陸軍の準備は行きすぎではないか”と波紋を広げる。
海軍省の軍務二課長・石川信吾は「陸軍はまた勝手に戦を始める気なのか」と危機感を持って陸軍省軍務課長・佐藤賢了の部屋に乗り込んだ。「佐藤、貴様らは本気でソ連に出る気なのか。国を潰すぞ。くい止めるんだ」。様子見のために曖昧にした首脳部の方針が、逆に現場の拡大解釈を許す結果となった。近衛首相らは陸軍が勝手にソ連と戦わないよう、関心を南に向けるべく南方準備に同意した。
企画院総裁・鈴木貞一「近衛さんは、南の仏印(インドシナ)をやらなきゃ北を陸軍がやるのを心配していた。しかも、南ならすぐ戦にはならないという考えだった」。

●1941.7.18 第3次近衛内閣樹立…近衛首相は中国問題解決の為に米国との交渉継続を主張。一方、親ドイツの松岡外相はドイツに呼応して対米強硬外交を主張。松岡という人物が危険すぎるということで、首相は松岡を排除した新内閣を組閣した。

●1941.7.28 南部仏印(インドシナ)進駐…前年の北部仏印進駐に続き、南部仏印(ベトナム南部)へ陸軍が進駐。日中戦争を継続するため、石油など南方資源獲得の足がかりとなる基地を確保しようとした。とはいえ、日本としては事前にフランス政府と合意した派遣に過ぎず、この時点では英米蘭と戦うつもりもなかった。だが、これが予想外に深刻な事態を招いていまう。

●1941.8.1 米が対日石油全面禁輸!…これまで、日本の中国侵略に抗議してきたアメリカは、日本が南部仏印(ベトナム南部)へさらに軍を展開したことに激怒した。南部仏印からは英領マレー、蘭領インドネシア、米領フィリピンへ容易に侵攻できたことも反発を呼んだ。仏印進駐は米国の態度を決定的に硬化させ、それまでの部分的な輸出制限から、一気に一滴の石油も売らないという全面禁輸に踏み込ませた。米国の反日世論が急激に高まり、米政府内でも対日強硬派が力を増し、時間をかけて日本と交渉しようとしたハル国務長官らを徐々に圧迫。強硬措置に舵が切られ、制裁解除には中国と仏印からの撤兵が条件に掲げられた。この対応に日本軍部はショックを受ける。日本は米国から石油の7割を輸入していた。石油の備蓄は2年分しかない。石油がなければ中国との戦争も継続できない。日本の首脳部が方針を曖昧にして選択肢を残そうとしたことが最悪の結果を引き起こした。全面禁輸を覚悟していなかった軍中枢は混乱に陥った。

海軍省軍務局中佐・柴勝男「アメリカは欧州の戦争に関心が向いているから、東洋方面で自ら日本と事を構えることはしないだろうと。まさかそこまでは来んだろうと考えていた」「禁輸など夢にも思わなかった」。
参謀本部前作戦課長・土居昭夫「南部仏印の進駐が大東亜戦争のきっかけになると考えなかった。経済やアメリカの決意など情勢判断をできなくて進駐をやった」。
企画院総裁・鈴木貞一「あの禁輸の瞬間に戦になっていた」。
豊田貞次郎外相「(“日本は挑戦を受けて立つのか”と聞く当時のマスコミに)君らは本気で日本が米国と戦えると思っているのか?」。
※この頃、三国同盟に消極的だった米内光政内閣が陸軍に倒され近衛内閣が発足。

●1941.8.8 幻の日米首脳会談…対米戦争を避けたい近衛首相は賭に出た。ルーズベルト大統領と太平洋上で日米トップ会談を行うというもの。近衛は全会一致原則の政府連絡会議を通さずに、直接ルーズベルトに撤兵案を申し入れ、引き換えに石油供給の合意を取り付け、それを天皇に報告、天皇を後ろ盾に撤兵に抵抗する軍部を抑えて戦争回避へと持って行く計画を立てた。ルーズベルトは会談に乗り気だったし、船名は新田丸、乗って行く人まで決まっていた。“陛下の思し召しだ”ということで押し切ろうとした。しかし、ハル国務長官は日本の指導部に意見対立があることを知っており、9月3日に米側は「まずは予備交渉から」と大統領返書で回答し会談は流れた。

●1941.9.3 第50回連絡会議…日本の石油の備蓄は2年あるかないか。日本の選択肢は2つになった。国内世論から非難されても対米譲歩し撤兵するか、海外から非難されても南方資源を独自調達するか。譲歩か戦争か。その間も1日1万トンの備蓄燃料が消えていった。 軍司令部総長・永野修身(海軍最高責任者)「このままでは帝国はジリ貧で痩せて足腰が立たなくなる」。陸軍参謀総長・杉山元「10月上旬には結論を。それ以上の先延ばしを統帥部(作戦部)は認めない」。

最初に海軍省で「本当にアメリカと戦うのか」と動揺が広がった。
海軍の装備面の責任者として国策決定にかかわっていた海軍省兵備局長・保科善四郎「海軍の最高首脳部は絶対(米国とは)やっちゃいかんという考え。対米戦争を目標に日本の陸海軍の戦備は出来てる訳じゃない」。
海軍省調査課長・高木惣吉「何度(対米戦の)演習をやってみても、或いは図上で演習をやってみても、勝ち目がない。実際のところ審判(判定)で誤魔化しているが、本当に率直に言えば勝ち目がない」
やがて強硬派の陸軍からも対米戦に慎重な声が上がる。“日中戦争が終わっていないのにアメリカに挑むのは無謀”と現場の指揮官達は訴えた。
支那派遣軍総司令官・畑俊六「日米交渉は何としても成功させて欲しい」。
支那派遣軍総参謀長・後宮淳「この際、撤兵の条件をのむことも大した問題ではない」
支那派遣軍総司令部は近衛首相に「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と申し入れた。
陸軍省戦備課長・岡田菊三郎は徹底的な国力データの分析から「日本に勝算なし。絶対開戦に賛成してはいけない」とトップ(武藤軍務局長)と直談判を重ねた。

しかし、政府首脳部は、もしも米国と戦わずに中国から撤兵すれば、これまでに失った兵士20万人の命、毎年国家予算の7割にも達した陸海軍費は何だったのかと、国民は失望し国家も軍もメンツを失うと恐れた。また血気盛んな海軍の中堅将校たちは軍首脳を突き上げた「このままでは油が底をつくだけでなく、米国が戦力を増強し、ますます日本は引き離される。この際、1日も早く開戦すべきだ」。

9月5日、翌日の御前会議を前に、近衛首相が明日の議題となる帝国国策遂行要領の説明を昭和天皇に行った。まだ外交に希望を託していた天皇は「これを見ると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げている。何だか戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける」。直ちに陸海軍総長が宮中に呼ばれ、天皇は軍の真意を問いただした。杉山参謀総長との対話「(杉山に)日米に事が起きれば、陸軍としてはどれほどの期間で片付ける確信があるのか」「3ヶ月くらいで片付けるつもりであります」「支那事変勃発の時、貴殿は陸相として“1ヶ月くらいで片付く”と言っていたが、4年の長きにわたり未だ片付かんではないか」「支那(中国)は奥地が開けており作戦が予定通り行かず…」「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。いかなる確信があって3ヶ月と言うのか!」。杉山参謀総長はただ頭を垂れ答えられなかった。「なるべく平和的に外交をやれ。外交と戦争準備を並行させず、外交を先行させよ」。

●1941.9.6 帝国国策遂行要領…石油禁輸から1ヶ月。御前会議において決定された国策。内容は「日米交渉の推移を見つつ、次の最小限度の要求が達成されない場合、10月上旬までに米英蘭に対して開戦か否か判断する」。日本が求めた最小限度の要求とは、「米英は日本が支那事変を解決しようとするのを妨害しないこと(日中戦争に介入するな)」「ビルマからの中国補給ルートを閉鎖し、中国国民党軍に軍事支援、経済援助をしないこと」「米英は極東における兵備を現状以上に増強しないこと」「米英は日本との通商を回復し日本の自存上緊要なる物資を供給すること」等々。そして日本からの譲歩案としては「日本はインドシナから近隣地域に武力進出しない」「日本は公正なる極東平和確立後(日中戦争の和平後)、インドシナから撤兵する」「日本はフィリピンの中立を保証する」というもの。昭和天皇は開戦に反対し、あくまで外交により解決を図るよう改めて命じた。

近衛は穏健派の海軍次官に打ち明けた「(陸海)どちらの軍からも対米戦に勝つ見込みがあるという話を聞かない。この際私は人気取りで開戦を決意しようとすれば容易だが、それは陛下の御心に反することになる。対米譲歩は国内を乱すと言うが、国内問題がどうあろうと国を滅ぼすことはない。だが対外問題を誤れば国家の安危(あんき)にかかわるのだ」。
本音では戦争を避けたいリーダーたち。だが多くの恨みを買うその決断(軍の撤退)を誰が言い出すのか、水面下でなすり合いが始まった。
1941年10月初旬、内閣書記官長室を訪れた陸軍省軍務局長・武藤章「海軍に自信がないのなら政府連絡会議でハッキリそう言うよう、海軍側に話してもらえないだろうか」。内閣書記官長・富田健治「そんなことを海軍が承知するはずがない」。武藤「日米開戦だけは何としても避けねばならんのだ」。
海軍省軍務局中佐・柴勝男「武藤さんは、お前のところ(海軍)で“戦争できん”と言ってくれ、そうしたら陸軍は何とか治めるからと」。そんな役割を押し付けられそうになった海軍は企画院を頼った。
企画院総裁・鈴木貞一「及川海相と豊田外相が僕の家にやってきた。“企画院総裁が御前会議の時に戦争は絶対できませんということを御前会議の前に陛下に内奏してもらいたい”と。“海軍は戦はできない、やりたくない”と。そういうことは海軍大臣がハッキリ言うべきだ」。
陸軍省軍務課長・佐藤賢了「海軍の口から戦はしないと言うことは出来ないから総理大臣から言って欲しいと言っていた」。

●1941.10.12 五相会議…戦争ではなく外交による解決を模索していた近衛首相は、私邸の荻外荘に豊田貞次郎外相、企画院総裁・鈴木貞一、そして陸海軍の双方から譲歩を引き出すべく及川古志郎海相と東條英機陸相を呼んだ。近衛は及川海相が戦争回避を明言することを期待した。

及川「戦争か交渉か、海軍はいずれにも従います。決定は首相の御裁決に一任します」。
近衛「私は交渉に賭けてみたい」。
東條「陸軍としてはあやふやな理由で統帥部を説得できない(海軍は真意を明らかにしてくれ)」。
豊田外相「(開戦・非戦の期限を10月上旬とした)9月の決定は軽率だった」。
東條「今更そんなことを言われても困る」。
議論は4時間にわたったが、誰も勇気ある決断を下せなかった。先に戦争回避を口に出来なかった。
それから4日後、10月16日に近衛首相は「私では事態を好転できぬ」として内閣総辞職。近衛は万策尽きた。辞表には「東條大将が対米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが、遂に説得出来ず輔弼(ほひつ)の重責を全う出来ない」とした。

●1941.10.18 東條内閣発足…平和外交を望んだ昭和天皇が、あえて即時開戦論のタカ派・東條英機に組閣を命じたのは、戦争回避に向け、陸軍に対して統制がきく人間が東條しかいなかったから。首相になれば重責から慎重になるのではという期待があった。天皇は東條へ伝えた「(10月上旬に結論が出ねば開戦という)9月の国策にこだわらず白紙に戻して検討して欲しい」。天皇は開戦を既定路線にせずあらゆる可能性を探れと命じた。
※内大臣・木戸幸一「東條を推薦したのは私。政治家はどこに行ったかわからなくなってた。器は大きくなくても東條しかいない」。
※企画院総裁・鈴木貞一「東條は海軍がやっぱり戦に不同意と言うことになれば、陸軍だってそんな戦は強いて主張しないと言っていた」。このような証言もあり、強硬派とされる東條にも迷いはあったようだ。
※作家・司馬遼太郎の東條評は「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」とかなり手厳しい。
※開戦前、軍部は敗戦までのシナリオを正確に予期。「総力戦研究所」はシミュレーションを行い、対米戦失敗率100%と結論を出した。東條はこれを次の発言でもみ消した。
「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争といふものは、君達が考へているやうな物では無いのであります。日露戰争で、わが大日本帝国は勝てるとは思はなかつた。しかし勝つたのであります。あの当時も列強による三国干渉で、やむにやまれず帝国は立ち上がつたのでありまして、勝てる戦争だからと思つてやつたのではなかつた。戦といふものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がつていく。したがつて、諸君の考へている事は机上の空論とまでは言はないとしても、あくまでも、その意外裡の要素といふものをば、考慮したものではないのであります。なほ、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬといふことであります。」

●1941.10.23 第59回連絡会議(国策再検討)…陛下の意を受けて東條は連絡会議を招集した。企画院の数字データを基に10日間にわたる国策再検討が始まった。
企画院総裁・鈴木貞一「南方石油施設を確保すれば、3年目から石油(最終的に年450万トン)が入り出す」。軍令部総長・永野修身(海軍)「緒戦の2年は確算あり」。
問題は南方の石油を手に入れたとして、戦火の中で艦船が海上輸送力を維持できるのかにあった。
艦政本部総務部長・細谷信三郎「3年後には造船の方は40万トンから80万トンへ倍増するものと見込まれる」。
嶋田繁太郎海相「若い者は楽観的過ぎる。実際はその半分ではないか」。
物資を運ぶ輸送船舶量の見込みが甘かった。この試算を出したのは海軍省軍令部。開戦後の予想船舶量を計算したのは軍令部中佐・土井美二(よしじ)。十分な時間も材料も与えられないなか出した数字なのに、軍令部の中堅層はそのことを連絡会議にきちんと伝えなかった。土井「数日研究し、その結果を軍令部作戦班長に示した。この数字は多くの仮定の下に出されたものであるから、仮定の一つでも崩れると、この数字は狂って来ると説明し、強く念を押した。これらの数字が誰に渡されどのように取り扱われたのかは全然知らない」。
結局連絡会議の検討では、この数字を深く問い直すこと無く、開戦後の自給は可能とする楽観論の根拠に加えてしまった。
軍令部作戦部長・福留繁「永野さんは“2年から頑張ってそれ以上のことは分からん”ということは、要するに“その先は勝つ見込みは少ないですよ”という言葉の代わりに私はそういう言葉を言ったんだと。“負ける”といったようなことは言えませんから」。
最初の2年はともかくその先はどうするのか。国家の命運を握るこの重大な疑問からリーダーたちは目を背けてしまう。
※「(戦略上)補給が続かないのでアメリカとは戦争すべきでない」(陸軍大将・真崎甚三郎)

●1941.11.5 帝国国策遂行要領(7月に続き2度目)…御前会議にて開戦の決意を固めつつ、開戦か戦争回避かの最終決断を12月1日午前零時に先送りにする。
一方、アメリカ政府内では日本の南部仏印進駐をきっかけに対日強硬派が勢力を強め、この頃に主導権を握ってしまう。ハル国務長官は日本との交渉に熱意を失った。

★1941.11.20 南方占領地行政実施要領…開戦前に大本営政府連絡会議決定が決めた占領方針。“アジアを独立させる”どころか、独立運動を封じる必要性に触れている。

南方占領地行政実施要領
第1 方針
占領地に対しては差し当たり軍政を実施し治安の回復、重要国防資源の急速獲得及び作戦軍の自活確保に資す。
第2 要領
7.国防資源取得と占領軍の現地自活の為、民政に及ばささるを得ざる重圧はこれを忍ばしめ、宣撫(せんぶ、民族解放の宣伝)上の要求は右目的に反せざる限度に止むるものとす。(=資源取得と占領軍の食糧確保によって地元民にかかる重圧はこれを耐えさせ、民族解放の宣伝はこうした行動と矛盾しない程度に抑えておくように)
8.原住民に対しては皇軍に対する信頼感を助長せしむる如く指導し、その独立運動は過早(かそう)に誘発せしむることを避けるものとす。※当面独立運動は抑えておけということ。

●1941.11.26 連合艦隊・空母艦隊出撃…ハワイ・真珠湾に向け、旗艦“赤城”など空母6隻を中心とした31隻の日本海軍機動部隊(第一航空艦隊)が択捉島から出撃。3200海里の大渡洋作戦に挑む。司令長官は南雲忠一(なぐも・ちゅういち)中将(後にサイパンで玉砕)。ただし、ギリギリまで外交努力をし、「交渉妥結の際は速やかに引き返す」ことになっていた。その直後にハル・ノートが届く。

★1941.11.26 ハル・ノート提示…奇しくも空母艦隊出撃と同じ日、日米交渉でアメリカのハル国務長官がいわゆる“ハル・ノート”を提示した。「中国やインドシナからの全面撤退」を求めるものだった。その代わりに「米国内の日本の資産凍結を解除し、通商条約再締結のための交渉を開始」するという。米側の要求を「日露戦争以降に築いた権益と領土、軍事同盟の全てを直ちに放棄するもの」と解釈した日本。政府連絡会議はハル・ノートを最後通牒と見なした。それまで政府内は妥協派が優位だったのに、ハル・ノートによって軍部を中心に強硬意見が主流になり、昭和天皇も「開戦やむなし」に傾いたという。
だがしかし、ハル・ノートを巡っては日本側の対応に不可解な点がある。
(1)ハル・ノートの冒頭に「試案にして法的拘束力無し」とあるのに、なぜか外務省がその部分を削除して枢密院に提出し、東郷外相が昭和天皇に上奏して「最後通牒」と解釈されるようになった。外務省と東郷外相の真意は不明。
(2)同様に、原文は中国&仏印からの「撤兵」とあるのに、訳文では「“即時”撤兵」と厳しいものにされていた。これも謎。
(3)原文には「中国」に“満州を含む”とは書いていない。だが、日本側は満州からの撤退も含むと思い込んでいた。
(4)ハル・ノートには米国が国交断絶するとも武力行使するとも書いておらず、それを最後通牒とするのは違和感がある。
外交交渉の常として、最初に高いハードルを提示しておいて、徐々に妥協していき相手から譲歩を引き出し、条約を結ぶ方法がとられることから、ハルがわざわざ「試案」と念を押しているのもそのニュアンスを含んでいるからだろう。ある意味、日本軍の早期開戦派がハル・ノートを利用して戦争に突入させたとも言える。以下の4点から、ハル・ノートと開戦は関係ないとする説もある。
(1)日本はあくまでも11月5日の御前会議で決定された国家方針(12/1までに交渉成立しない場合は開戦)により戦争を開始した。
(2)その証拠に、ハル・ノートが日本に届いた時には、既に真珠湾に向けて日本機動部隊が出航していた。
(3)11月15日の時点で、大本営陸軍部が発動時期を保留しながらも、南方軍にイギリス領マレーなどの攻略を目的とする作戦開始が告げられている。
(4)さらに遡れば7月2日の御前会議・帝国国策要綱で「南方進出の態勢を強化す」「帝国はその目的達成のため対英米戦を辞さず」と決め、南進の準備に邁進してきた。
一方、米国側もハル・ノートを“試案”としながらも、日本が最後通牒と見なして攻撃してくる可能性を予測しており、真珠湾にいた空母部隊に対して奇襲攻撃を警戒すべく太平洋の哨戒任務を下令していた(だから米空母部隊は真珠湾にいなかった)。
いずれにせよ、ハル・ノートを提出されるまでに状況を悪化させ続けたことを無視した「ハル・ノート原因論」は、責任逃れ感が強すぎる。

★1941.12.1 御前会議/開戦決定…大本営政府連絡会議はハル・ノートを最後通告とみなして交渉打ち切りで一致、開戦を決定した。アメリカに勝利できる確信を誰も持たないまま、選択肢をすべて失った末の、決意なき開戦。翌日に海軍中央は奇襲実施の暗号「新高山ノボレ1208」を打電する。開戦日に12月8日を選んだ理由は月曜日だから。前日が休日ゆえ米兵たちは深夜まで飲み遊び、朝寝坊して油断していると日本の軍令部は考えた(マジで)。
開戦時の日米国力差は、米国が日本を圧倒している。国民総生産12倍、鋼材17倍、自動車数160倍、石油721倍!冷静に考えて勝ち目はないのに、軍首脳部は「日露戦争では1対10の国力差で勝てたではないか」という言葉で現実逃避し、開戦に踏み切った。

開戦決定後の第4艦隊司令長官・井上成美「山本(五十六)さん、大変な事になりましたねと言うと“うん”と言ってました。一体、嶋田海軍大臣はこういうことになったことも、国家の大事だということを分かってんでしょうかねと、非常に私は不安ですがと言ったのが、山本さんこう言ったですよ、“あれはおめでたい男だからな”って。だから山本さんも“ああ、ここまで来たけども、ああ”と考えたんじゃないですか」。
部下に「開戦おめでとうございます」と言われた井上は「何がめでたいだバカヤロウ」と叱りつけた。
海軍省兵備局長・保科善四郎「総理大臣が2、3人殺されるつもりでやりゃあ戦争回避はできると思うんですが、それだけの人がいなかった」
陸軍省軍務課長・佐藤賢了「独裁的な日本の政治では無かった。だから戦争回避は出来なかったんです。こうした日本人の弱さ、ことに国家を支配する首脳、東條さんはじめ我々の自主独往の気力が足りなかったことが、この戦争に入った最大の理由だと思う」。佐藤軍務課長は軍では好戦的な発言をしていたが、家庭では開戦前日に「負けると分かっていて戦争をするのは馬鹿だ」と言っていた。
日本の場合、独裁者がいなかったからこそ、戦争が避けられなかった。大本営政府連絡会議はみんな責任を負うのがイヤで、弱腰とみなされ失脚するのが怖くて、戦争は愚かと気付いていながら戦争という道を選んでしまった。
企画院総裁・鈴木貞一「東條君が言ったのは、(大陸で)あれだけの人間を殺して金も使って、手ぶらで帰ってこいと言うことは出来ないと」。
人が死ねば死ぬほど兵は退けなくなる。リーダーは死者を見捨てることは許されない。犠牲者に背を向け「我々は間違えた」と言えない。しかし、その結果日本は建国以来最大の死者を出す戦争へ突き進むことに…。
東条英機「(陛下は開戦に際し)統帥部その他自分をふくめて責任者の進言によって、しぶしぶご同意になったのが実情である」。

※満州事変を起こした陸軍中将・石原莞爾「敵は中国人ではない。日本人である。自己の野心と功名心に駆り立てられて武器を取って立った東條こそ日本の敵である」。石原は“いずれ米ソが戦争し、米国がかろうじて勝利するだろうから、そこを日本が叩く。それまで日本は戦争せずひたすら国力を付けておくべき”という自論から満州国を建国させた(だから中国と戦って国力を消耗することに反対)。石原は東條が作った戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず死して罪禍の汚名を残す事なかれ」(生きて捕虜となるよりは死を選べ)にも強く反発し、部下には断固として読ませなかった。

★永野海軍軍令部総長は石油を全面禁輸される直前の7月末の時点で「三国同盟がある限り日米関係の調整は不可能。短期決戦で打って出るほかない」と言っており、ハル・ノートがあろうがなかろうが、対米開戦は一部の軍人の既定路線だった。「日本はABCD包囲陣を打ち破るためギリギリの選択をした」という見方は間違っている。英蘭にしてみれば、自分たちと戦っているドイツと同盟を結ぶ時点で日本は敵だし、中国を支援している米国からすれば、自分の売った石油を使って中国を攻撃している日本に“そんな目的で石油を使うならもう輸出しない”となるのは当たり前で、ABCD包囲陣を作ったのは日本自身といえる。先の見えない日中戦争を打開すべく、ドイツの勝利に便乗して北部仏印に進駐し、南方進出の為に「対英米戦を辞せず」と決定し、それに基づいて南部仏印に進駐した結果、米国から石油を止められた。石油がないから早く開戦した方が有利という早期開戦論が全面に出てきた。自ら経済制裁を引き出し、ハル・ノートのせいにして「自存自衛」という言葉を振りかざすのは開戦の流れを冷静に分析できておらず、まったく筋が通っていない。

〔戦争を煽ったメディアの責任〕
2011年2月にNHKがオンエアした『日本人はなぜ戦争へと向かったのか・第3回“熱狂”はこうして作られた』はマスコミの戦争責任を問う画期的な内容だった。タブーなし、大手新聞(実名)からNHK自身まで自己批判で斬りまくり。
・これまでマスコミは「軍部による言論弾圧や検閲に苦しめられた被害者」として語られがちだった。果たして本当にそうなのか。当時の朝日記者(96歳)の証言「戦争になれば新聞にとっては経営面ではマイナスじゃないんです」。満州事変以前は発行部数が伸び悩んでいた新聞各社。だが、戦争になると身内が出征するため、安否を知るために新聞を購読する人がうなぎ登りに増える。1931年の満州事変から1941年の日米開戦までの10年間で、朝日・毎日・読売の発行部数は400万部から850万部に倍増した。※この記者は報道の戦争責任を感じ、終戦時に辞表を出している。
・1931年、中国東北部(柳条湖)で南満州鉄道の線路が爆破される。これは日本側(関東軍)の自作自演だったが、中国軍のしわざと偽って日本は攻撃を開始した。新聞各紙は「卑怯な中国に報復を」と社説で煽ったが、陸軍の谷萩大尉が「あれは関東軍の謀略だ」と大手新聞のデスクには伝えていた。新聞は終戦まで真相を伝えず、「満州事変は日本の正当防衛」と国民に信じ込ませた。これが日中戦争、太平洋戦争へと進む発端となる。
・満州事変の3ヶ月前、陸軍の中村震太郎大尉が中国をスパイ偵察中に捕まり、処刑され遺骸が損壊される事件が起きた。マスコミは“スパイ中”ということを伏せ、殺害されたことだけを大きく伝え、“中国憎し”の世論を作っていった。
・一貫して好戦的だった毎日新聞と異なり、朝日は当初、“外交で解決すべし”と軍事行動に公然と反対していた。しかし、その姿勢が世論から“弱腰”と批判され不買運動が起きてしまう。さらに陸軍から“支援を頼む”と編集長が説得され、ついに戦争支持に転じた。
・国際連盟から満州に派遣されたリットン調査団が、「満州を国家として認めず。国際管理下に置くべし」と報告書をまとめる。全国132の新聞社は「リットン報告書は断じて受け入れられない」と共同宣言を出す。そして新聞各紙は連日のように「国際連盟を脱退すべし」という社説を掲載した。
・1933年、当時の大蔵大臣・高橋是清(3年後に2.26事件で暗殺)はメディアの暴走に怒り、「国際連盟脱退せよと新聞に書かせるな」と陸軍に噛みついた。陸軍は「あれは新聞が勝手に書いている」と返答。
・国際連盟を脱退した日本全権大使の松岡洋右は、「日本は世界から孤立。大変なことになった」と“敗戦将軍”の気持でジュネーブから帰国。ところが待っていたのは「よくぞ日本の誇りを貫いた」「英雄、松岡」という国民の大歓声だった。新聞各社が社説で「世界に物申した希代の英雄」「松岡代表の凱旋」など讃えた結果だ。松岡いわく「この非常時に私をこんなに歓迎するとは、皆の頭がどうかしていやしないか」。
・1937年、近衛文麿が首相に就任し、1ヶ月後に日中戦争が勃発する。開戦4日目、近衛は世論を味方につける為、首相官邸にメディアの代表40人を集め「挙国一致報道」を確約させる。半年後に首都・南京陥落。
・近衛は戦争終結までNHK総裁でもあった。近衛はヒトラーがラジオを最大限に利用したことを知っており、自身もラジオを巧みに活用し、国民を熱狂へ駆り立てようとした。NHKはナチスの手法を徹底的に研究し、それを手本に番組編成を行った。
・国民は「首都(南京)さえ落とせば戦争が終わる」と思っていたのに、終戦どころか戦域が拡大し長期化していく。政府は国民の戦意を保つために、戦場から“勝った勝った”とラジオ中継。負け戦は報道しない。戦争の実態を知らず、日本の力を過信する世論をラジオもまた作り出していった。
・戦争が長引き、経済は悪化の一途。やがて国民は「報道では連戦連勝なのに中国が屈しないのは、米英が中国を支援しているからだ」と不満を抱くようになり、英国大使館に6万人(!)の民衆が押し寄せ、抗議集会を行った。米国に対しても、“強硬に出るべき”という世論が3分の2に。
・そこに飛び込んできたのがドイツ快進撃のニュース。新聞各紙は「日独伊三国同盟を結べ」と世論に訴え、民衆もこれを熱狂的に支持した。米英の底力を知っている外務省と海軍は三国同盟に反対していたがマスコミのせいで劣勢に立たされ、1940年9月に同盟は成立。駐ドイツ大使・来栖三郎は記者に向かって「君たちの新聞が三国同盟を支持するからああいうふうになったんだ」と嘆き、近衛首相は「ドイツ特使が日本に来やがるし」と肩を落とした。
・ドイツはフランスを占領し、英国を空襲しており、そのドイツと同盟を結んだことで英国、米国との関係悪化は決定的となった。
・政府の打ち出した方針に、メディアが「そんな弱腰でどうする!」「国益が守れるのか!」と声高に批判。「正義は日本にある!」という新聞の絶叫に、国民は喝采を送った。メディアは自分たちが作った世論に自身も巻き込まれ、転がる雪だるまを自分たちでも止められなくなり、お互いに無責任になっていった。
・1941年の年頭の世論調査では6割の国民が“日米開戦は避けられる”と楽観視していた。10月、日米交渉に行き詰まった近衛内閣は総辞職し、陸軍の東條英機が首相に就任。新聞は反米報道一色になり、日米開戦が現実味を帯びてくる。戦争を望まない人の声はかき消された。
・1941年12月1日(真珠湾攻撃一週前)の御前会議で日米開戦が決定。この日、東條と秘書官の会話。秘書官「この頃は総理に対して何をグズグズしているのかという投書が多くなりました」東條「東條は腰抜けだと言っているのだろう…」。首相官邸に届いた投書は3千通。その大半が日米開戦を求めていた。
・日本の舵取りを任された指導者たちは自分たちの行動に自信がないために世論を利用しようと思った。世論の動向に一喜一憂するも、その世論はメディアによって熱狂と化し冷静な判断を失っていた。
僕は近衛文麿が首相とNHK総裁を掛け持ちしていたとは知らなかった。しかもそのNHKがナチスから学んでいたとか。一番のスクープは、1931年の時点で大手メディアが「満州事変が日本側の自演」と知っていたこと。それなのに、“戦争は新聞が売れる”と真実を伏せていた。武力外交に消極的な政治家や海軍を追い込んだのもメディア。追い込まれていく東條大将が気の毒に見えた。敗戦から66年。あまりに遅かったけど、メディアが自己を批判する番組をオンエアしたことを素直に評価したい。

●1941.12.8 日米開戦/真珠湾奇襲攻撃…早朝6時(現地時間7日)、空母艦隊から真珠湾に向けて350機の戦闘機、雷撃機、急降下爆撃機が二波に分かれて発進。米国は日本が軍事行動を起こすならマレー半島かフィリピンに上陸するという先入観に支配されており、完全に虚を突かれた。7時53分、「ワレ奇襲ニ成功セリ」を表す「トラ・トラ・トラ」が打電され全機突撃。戦艦アリゾナなど8隻が号沈または大破し、数百機の飛行機が滑走路で破壊され、約3600人が死傷した(うち死者2400人)。
真珠湾攻撃の1時間前に、日本陸軍はマレー半島の上陸にも成功。同日、日本海軍航空隊がフィリピン・ルソン島のアメリカ軍航空基地を爆撃し航空機を多数破壊した。
※ゼロ戦(零式艦上戦闘機)は1940年に海軍に公式採用された。同年は“紀元2600年”にあたり、そこから“0”をとってゼロ戦とした。

〔遅れてしまった宣戦布告〜外務省の失態〕
国際法では開戦前に事前通告を行うことが定められている。東郷外相は「自衛戦争に事前通告は不要」と考えていたが、昭和天皇と連合艦隊司令長官・山本五十六の願望をうけて、真珠湾攻撃の20分前に事前通告をする手筈になっていた。ところが駐米大使館はパーティーをしていて暗号が入ったことを気付くのが遅れ、さらに暗号の解読にも手間取り、野村大使がハル国務長官へ通告を行ったのは開戦から50分も後のことだった。
それより34年前、1907年の第2回ハーグ国際平和会議において、日清戦争と日露戦争で日本が先制奇襲攻撃で開戦したことが問題となって、“宣戦布告後に攻撃をする”という「開戦ニ関スル条約」が作成された。それにもかかわらず、結果的に真珠湾で奇襲したことから、「またか日本か!」と米国世論が怒りで沸騰した。
もっとも、この時に野村大使がハル国務長官に渡した公文は、「今後交渉を継続しても妥結に達しないと認識した」としかなく、これでは“交渉打ち切り”の通告に過ぎず、たとえ開戦に間に合ったとしても「どこが事前通告なのか」と米側を憤慨させていただろう。
※「ルーズベルトは事前に真珠湾攻撃を知っていた」という説があるが、アメリカが「日本海軍の暗号電報」の解読に成功したのはミッドウェー海戦の直前となる1942年の4〜5月頃。真珠湾の約半年後だ。米側は暗号傍受に成功していたものの、まだこの時点では暗号を解読不能だった。日本政府と駐米大使館が交わした外交電報については1940年秋頃から解読されていたが、そこでは直接的に奇襲のことが書かれていない。仮に外交電報から推測されたとしても、ホワイトハウスだけでなく、ハワイの司令部など多数の軍関係者が全員で共謀する必要があり、現実的には考えにくい。さらにはルーズベルトは12月6日、昭和天皇に異例の親電(親書)を書いている。内容は天皇に平和を共に築こうと呼びかけるものだった。ルーズベルトは日本政府・軍部ではなく天皇に直接かけあったのだ。

「日本国天皇陛下。私が陛下に対して国務に関する親書を送るのは、両国にとって特に重大な場合のみですが、現在起こりつつある深刻で広範な非常事態を鑑(かんが)みると、まさに今がその時であると感じています。日本の大量の軍隊が南部インドシナ(ベトナム)に送られました。どうか兵を撤退するようお願いします。私と陛下が日米両国民のみならず、隣接諸国の住民の為、両国民の友情を回復させる神聖な責務を有していることを私は確信しています。フランクリン・ルーズベルト」

なんとこの親電が東京電信局に届いたのが真珠湾攻撃の15時間半前。ところが国家の命運を決めるようなこの最重要文書が、電信局で10時間も止められてしまう。元陸軍参謀本部通信課・戸村盛男いわく「もう今さら親電を届けてもかえって現場が混乱をきたす。従って御親電は10時間以上遅らせることにした。それで陛下も決心を変更されずに済むし、敵を急襲することができると考えた」。親電が天皇のもとに届いたのは真珠湾攻撃の20分前だった。
ちなみにハルに助言していた国務長官特別顧問ホーンベックは、「12月15日までに開戦する可能性は2割以下」と分析していた。当時はそういう認識だった。
真珠湾攻撃が「米国の罠」であったにせよ、同時にマレー半島に上陸し、それまで戦っていた中国だけでなく、イギリスやオランダにも宣戦布告し、全方位で戦っていることを忘れてはならない。

日本は盧溝橋に始まった支那事変から対米戦争へと突き進んでいった。中国は一撃で倒せるという誤った見通し、軍の暴走を止めることが出来なかった国のシステム、戦線はアジア各地から太平洋へと拡大し、国民は次々と戦場へ動員された。戦争の大義が後付けの論理で二転三転し、軍も政府も戦争を収束できなかった。

●1941.12.10 北マリアナ諸島の米領グアムを占領
※グアムの北にあるサイパンはかつてドイツが統治していた。第一次世界大戦で日本が手に入れ、1920年に国際連盟から統治を委任された(南洋委任統治領)。

●1941.12.12 日本政府は支那事変をふくめてこの戦争を「大東亜戦争」と名称決定。

●1941.12.25 イギリス領香港占領。

石橋湛山、魂の咆哮「日本は全ての植民地を一切捨てる覚悟をせよ」〕
「日本は生き残る為に戦争するしかなかった」いう意見がある。これについては戦争に反対していた反骨のジャーナリスト(後に首相)、石橋湛山(たんざん)のことを語りたい。第1次世界大戦が欧州で勃発すると、日本は欧米列強に対抗する為に、この混乱に便乗して大陸に勢力を広げようとした。世論も「これで一等国の仲間入りだ」と熱狂。でも石橋湛山は違った。湛山は“大日本主義の幻想”という題で「全ての植民地を一切捨てる覚悟をせよ」と経済誌に書いた。理由はこうだ。当時の日本とアジアの貿易額は約9億円。一方、英米との貿易額は倍の約18億円。日本が英米と衝突すればこの18億が失われるので、平和的な貿易立国を目指すべきと説いた。これは軍部が思いもしなかった主張だった。しかし1931年に満州事変が起き、大陸への進出が加速していく。世界各国から非難を受けた日本は翌々年に国際連盟を脱退。1934年、湛山は英字経済誌を創刊し、これを欧米で発行して「日本政府の政策は決して国民の総意ではない」と世界に訴えた。
湛山は権力ににらまれ、1942年に同誌の記者や編集者が逮捕されて4人が拷問で獄死する。さらに紙やインクの配給も大幅に減らされた。だが、それでも湛山は絶対にペンを折らなかった。「良心に恥ずる事を書き、国の為にならぬ事を書かねばならぬくらいなら、雑誌をやめた方がよい」。次男が南方で戦死したと知らせを受けた湛山は日記にこう刻んだ「汝が死をば父が代わりて国の為に生かさん」。
日本は戦後にゼロ(焼け野原)からのスタートで、わずか約20年で世界第2位の経済大国に登り詰めた。資源がないのは戦前と同じ条件だ。あのまま開戦せずに平和的な貿易立国になっていれば、有能な人的資源も失われず、さらなる発展を経ていただろう。本来、生きるべき人が死ぬ必要もなかった。“しかたなかった”論で過去を総括していては、あまりに死者が救われない。


【1942年】(昭和17年)

●1942.1.2 米領フィリピン・マニラ占領※フィリピン全土占領は5月

●1942.1.23 豪領ニューギニアのラバウル占領
※昭和天皇「人類平和の為にも、いたずらに戦争の長引きて惨害の拡大しゆくは好ましからず」(2/12)。開戦初期の勝ち戦のなかにあって東條首相に早期終戦を訴える天皇。「長引けば自然と軍の素質も悪くなる」とも。

●1942.2.15 英領シンガポール占領

●1942.3.8 英領ビルマ(現ミャンマー)のラングーン(ヤンゴン)占領※全ビルマ占領は5月

●1942.3.9 蘭印ジャワ(現インドネシア)を占領

●1942.4.18 ドーリットル本土初空襲…米空母ホーネットから発進したドーリットル中佐指揮下のB25爆撃機16機が日本本土を初空襲する。12機が東京、3機が名古屋、1機が神戸を爆撃した。日本側は死者45人(機銃で小学生にも死者)、重傷者153人。東京と名古屋で一機ずつ撃墜され8人が捕虜となった。大本営は本土を直接爆撃されたことに衝撃を受け、8/28、全員に死刑判決を下す。だが、東條陸相が「米国内で(報復心理により)抑留中の日本人に悪影響が出る」と反対し、天皇の特赦という形で5人が無期監禁に減刑された。10/15、機長2人と機銃手の3人が銃殺される。

●1942.4.30 翼賛選挙実施…第21回衆議院選挙は“翼賛選挙”と呼ばれ、東條内閣は体制を堅固にするため初めて候補者推薦制を導入。「政府と戦争に協力する人物」を推薦し軍事費から多額の選挙資金を与えると共に、他の非推薦候補者は警察・憲兵から激しい選挙妨害を受けた。推薦候補者で当選したのは466名のうち381名、一方、非推薦候補者は85名が当選した。政府の露骨な選挙圧力にもかかわらず、非推薦者の得票数は約419万票(得票率35%)もあった。その後、東條内閣は翼賛会に大日本婦人会や“労資一体”を掲げた大日本産業報国会などの官製国民運動団体を組込み、さらに町内会まで末端組織とし、国民生活の隅々まで国家権力による統制を実現していく。
※翼賛選挙の結果(得票率)を見ると、国民の3人に1人が強引な東條内閣に否定的感情を持っていたことが分かる。戦時中は全国民が政府を無批判に支持したイメージがあるけど、選挙データは政府とは異なる考え方を持った国民が3分の1もいたことを示している。

●1942.5.7 珊瑚海海戦…歴史上初めて航空母艦同士が主力として戦った海戦。ソロモン諸島の南、珊瑚海で対決。日本は艦隊戦に勝利したが目標のポートモレスビー(ニューギニア)は攻略できなかった。

●1942.6.5 ミッドウェー海戦に大敗…日本海軍は真珠湾攻撃で取り逃がしたアメリカ機動部隊を撃滅すべく、航空母艦4隻を基幹とする47隻の大機動部隊で、太平洋ミッドウェー諸島の米軍陸上基地を攻撃した。だが、索敵活動を軽視したため敵機動部隊の発見がおくれ、米艦載機の急降下爆撃を受ける。貴重な空母を4隻も沈められ(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)、重巡洋艦「三隈」1隻、航空機約300機、将兵約3000名以上を一挙に失ったのに対し、米国は空母1隻、航空機約150機の被害にとどまった。開戦以来の日本軍の破竹の進撃はここまで。この海戦を境に戦争の主導権がアメリカに移ってしまう。米国が事前に日本海軍の暗号解読に成功して待ち伏せていたことや、日本側にはレーダーがなかったことが勝敗の分かれ目となった。日本海軍を代表する名提督、第二航空戦隊司令官の山口多聞中将が沈没する空母「飛龍」と運命を共にしたことも日本側には大打撃だった。

●1942.7.6 ガダルカナル島に上陸…日本軍約600人(後に増援され3万6千人)がオーストラリア侵攻の布石として南太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島に上陸。付近の制空権を確保すべく飛行場を建設し8月5日に完成。16日に戦闘機が配備される予定だった。

●1942.8.7 米軍反攻開始/ウォッチタワー作戦…ガダルカナル島の日本軍飛行場を驚異に感じた連合軍は、1万人(後に増援され6万人)を上陸させた。米軍の本格的な反攻(ウォッチタワー作戦)の開始だ。米軍に飛行場を奪われた日本軍は、これ以降、飛行場奪還を目的に死闘を繰り広げる。

●1942.8.7-8 フロリダ諸島守備隊玉砕…南太平洋ソロモン諸島のツラギ島(ガタルカナル島の北)、ガブツ島、タナンボコ島の守備隊は計1100人。8月7日早朝、各島に8千人の米兵が奇襲上陸してきた。ツラギ島守備隊約400人はラバウルの第八艦隊司令部に「ツラギ守備隊は最後の決意をなせり」と打電後に玉砕。ガブツ島、タナンボコ島では守備隊700人の奮戦に米軍はいったん兵を引き、翌日に軽巡1隻、駆逐艦2隻を島から500mの至近距離に停泊させ、猛烈な艦砲射撃を開始。これによって守備隊は3人を残して全員が戦死した(司令官の宮崎大佐は自決)。米側の戦死者は122人。日本軍にとって初めての占領地喪失となった。

●1942.8.9 第1次ソロモン海戦…ガタルカナルへの米軍上陸を知った日本海軍は、重巡洋艦5隻を含む8隻を派遣。上陸中のアメリカ艦隊に夜間戦闘を挑み、敵重巡4隻を撃沈し同1隻を大破させる一方、自軍の沈没はゼロという大勝を収めた。ところが、本来の目的であった輸送艦隊への攻撃は“非武装の輸送船を攻撃するのは武士道に反する”という理由もあって中止された(開戦初期はまだこうした誇りが残っていた)。その結果、米軍は大量の武器や生活物資の揚陸に成功し、日本軍の後の苦戦に繋がっていく。

●1942.12.31 ガタルカナル撤退決定…ガタルカナルでは8月21日に一木支隊先遣隊が飛行場攻撃を敢行して全滅。以降、9月に川口支隊、10月に第2師団の総攻撃が敢行されるも続けて失敗。増援の輸送船11隻は撃沈された。約5ヶ月間で日本兵3万6千人のうち2万5千人が戦死あるいは餓死し、12月31日、御前会議でガダルカナルからの撤退が決定された。翌年2月7日、ガダルカナルから1万1千人が撤退終了。


【1943年】(昭和18年)

●1943.4.18 海軍甲事件/山本五十六戦死…連合艦隊司令長官・山本五十六大将が、ラバウルからブーゲンビル島バラレ基地へ視察飛行中、暗号電報を解読した米軍P-38戦闘機18機の待ち伏せを受け撃墜された。この攻撃の前、太平洋艦隊司令長官ニミッツは“山本よりも優秀な軍人が後任になるなら攻撃を手控えねば”と本国に伺いを立てた。回答は「山本に代わるような軍人は山口多聞だが、彼は先のミッドウェー海戦で戦死しているので山本機を撃墜して構わない」。かくして攻撃計画が進められた。享年59歳。山本長官は21歳の時に日露戦争・バルチック艦隊との日本海海戦で左手の人さし指と中指を失っており、その左手で本人確認がされた。6月5日、元帥として国葬。
※山本長官は駐米武官時代に米国の圧倒的な国力を見ており、米内光政、井上成美(しげよし)と共に海軍を代表する「非戦派」3人衆だった。日独伊三国同盟にも反対していた。

●1943.5.29 アッツ島守備隊玉砕…アラスカから連なるアリューシャン列島最西部、アッツ島。日本軍は前年6月にミッドウェー海戦の陽動でアッツ島に上陸していた。5月12日に米軍1万1千人が上陸し、これを山崎保代陸軍大佐の指揮するアッツ島守備隊2652人で迎え撃った。山崎司令官は水際防御の戦法をとらず、後の硫黄島やペリリューの戦いのように内地に引き込んで陣地&トラップを駆使して迎撃した。17日間の激しい戦闘の末、守備隊は大半の砲を失い食料も尽きた。29日、山崎司令官は大本営に「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す」と最終打電。生存していた日本兵300人は山崎司令官を陣頭に玉砕突撃を行なった(重傷者は自決)。
米軍は捨て身の突撃に驚愕して混乱に陥り戦線が崩壊した。米兵たちは日本軍が投降・捕虜の道を選ぶと思っていた。右手に軍刀、左手に日の丸を握りしめた山崎司令官を先頭に守備隊は前進を続け、ついに敵本部付近まで肉薄したものの集中砲火を浴び玉砕した。生還者は28人のみ、生存率1パーセント。米軍の死傷者も約1800人にのぼった(うち戦死約600人)。戦後の遺骨収集では突撃部隊の一番先頭で山崎司令官の遺品・遺骨が見つかった。自らは安全圏に身を置き、部下だけを突撃させる高級将校もいた日本軍にあって、最期まで陣頭で指揮をとっていたことが裏付けられた。
※アッツ島玉砕について昭和天皇いわく「こんな戦をしてはガタルカナル同様、敵の士気をあげ中立、第三国は動揺し、支那は調子に乗り、大東亜圏内の諸国に及ぼす影響は甚大である。何とかして何処かの正面で米軍を叩き付けることは出来ぬか」(1943.6.8)

★1943.5.31 大東亜政略指導大綱…天皇列席の御前会議で決定された政略方針。いわゆる「大東亜戦争は正義の戦争で日本に領土的野心はなかった」というのが完全にまやかしと分かる最重要史料。あのまま戦争を継続していたら以下のように帝国領土に編入されていた。これは日本の戦争を「アジア解放の為の聖戦だった」と言い張る保守論客が絶対に触れようとしない史実だ。

《大東亜政略指導大綱 6(イ)》
「マライ(現マレーシア・シンガポール)」「スマトラ(現インドネシア)」「ジャワ(同左)」「ボルネオ(同左)」「セレベス(同左)」は帝国領土と決定し、重要資源の供給地として極力これ開発並びに民心把握に努む。

現マレーシア、シンガポール、インドネシアという重要な資源地帯を「日本領」にすることを、御前会議まで開いて決定している。一方、ビルマとフィリピンについては領土併合せず独立を容認した。なぜか。ビルマを独立させるのは、インドに対する戦略的工作だ。隣国ビルマを独立させることで、インドの対英独立運動に火が付くことを期待したんだ。フィリピンは戦争前から米国が既に独立を約束していたので、“解放”という大義名分の為にもアメリカが約束したよりも早く独立させるしかなかった。
日本政府は台湾や朝鮮など古くからの植民地を“解放”しようなどとは一度も考えておらず、アジア独立の意思があったとは思えない。対米開戦に踏み切る前に政府が考えていたアジア政策は、占領地の住民を労働力として動員し、占領地で生産された食糧を日本軍が徴発するというもの。大本営はこのような南方軍政が占領地住民に“重圧”を及ぼすことを予想していたので、「(重圧は)これを忍ばしめ」(=耐えさせる)と打ち捨てている。そして「アジア解放」というバラ色の宣伝をやりすぎると現実とのギャップが大きくなるので、あまり宣伝しないよう開戦前から決めていた(『南方占領地行政実施要領』1941.11.20)。最前線の日本兵には心底からアジア独立の高い理想を信じて戦い抜いた者も少なくないが、大本営においてはこれが“聖戦”の実態だった。

●1943.9.30 絶対国防圏確定…御前会議において、本土防衛のため死守すべき防衛ライン“絶対国防圏”を、千島、小笠原、マリアナ諸島、カロリン諸島、西部ニューギニア以西に確定。

●1943.11.23 マキン守備隊玉砕…中部太平洋キリバスのギルバート諸島旧マキン環礁(現ブタリタリ環礁、ニューギニアのはるか西)の日本軍守備隊693人が上陸アメリカ軍6400人との4日間の激戦を経て玉砕。最後に突撃した30人は米軍陣地の50m手前まで接近したという。戦死589人。守備隊にいた朝鮮出身の軍属200人も、うち100人が戦死した。

●1943.11.23 タラワ守備隊玉砕…中部太平洋キリバスのギルバート諸島タラワ環礁にて、島を要塞化した日本軍守備隊約4800名がアメリカ軍3万5千人の大部隊との壮絶な戦いを経て玉砕。戦死4713人。捕虜となって生き残った者は、負傷して意識不明の状態で捕えられた者など160人だけだった。米軍の死傷者も3305人(うち戦死1009人)に達したが、これは島の周囲が珊瑚礁で水深が浅い為、米軍の上陸用舟艇が使用できず、作戦初期に徒歩上陸を試みた米兵約5000名のうち3分の1が死傷したことが大きい。タラワ戦は米軍にとってトラウマとなり語られていく。


【1944年】(昭和19年)

●1944.2.2-5 マーシャル諸島クェゼリン環礁守備隊玉砕…2月1日、 中部太平洋マーシャル諸島のクェゼリン島(守備隊6257人)、ルオット島(守備隊約2500人)に米軍が上陸。作戦に参加した米兵は約2万人ずつ計4万人。米軍はマキン&タラワの教訓を生かし、事前攻撃を徹底した上で強化された水陸両用戦車を投入、また陣地破壊に徹甲弾を使用した。翌2日、ルオット守備隊玉砕。ルオットでは事前攻撃で指揮官の山田少将が戦死し、47ミリ速射砲一門しか残っておらず、残存守備隊は海岸線で銃剣突撃を行って玉砕した。5日、クェゼリン島守備隊玉砕。司令官の秋山少将は「各隊は一兵となるまで陣地を固守し、増援部隊の来着まで本島を死守すべし」と命じ初日に戦死。残った部隊は5日午前10時に玉砕突撃した。米兵の戦死者は両島で計372人。ニミッツ大将はマキン&タラワと比べて、はるかに少ない損害で勝てたことを大喜びしたという。
米軍が日本の領土を占領したのは、委任統治領とはいえこれが初めて。※日本は第一次世界大戦の結果、クェゼリン環礁を含むマーシャル諸島の委任統治を行っていた。

●1944.2.17-18 トラック諸島大空襲…現ミクロネシア連邦チューク諸島には日本海軍の一大拠点があった。米軍は空母9隻、戦艦7隻を含む大艦隊で攻略し、艦載機589機による大空襲を敢行。日本軍は43隻もの艦船を撃沈されたほか、飛行場で地上撃破された約200機を含む約270機を失った。このうち100機は当時の新鋭機・零戦52型。日本兵7000人以上が戦死。一方、米側の死者は40人だった。この敗戦の責任をとる形で、21日に陸軍参謀総長・杉山元と海軍軍令部総長・永野修身が共に更迭された(後任として、陸軍大臣を兼務していた東條英機、海軍大臣嶋田繁太郎が兼務)。制海権、制空権を握った米軍はマリアナ・パラオ諸島へ侵攻を開始。

●1944.2.22-23 マーシャル諸島ブラウン環礁守備隊玉砕…日本軍守備隊総兵力3560人はブラウン環礁に陣地の構築計画を立てていたが、その前に総兵力約1万人の米兵がやってきた。米軍は猛烈な艦砲射撃と空襲の後に上陸。まともな陣地のない日本軍は事前攻撃で多くが死傷しており、米軍上陸の1時間後にエンチャビ島守備隊の残存兵はバンザイ突撃(「天皇陛下万歳」と叫びながら行う最期の突撃)を行い玉砕した。エニウェトク島でもバンザイ突撃。米側は戦死195人。米軍将校は「もう2ヶ月攻略が遅ければ米軍上陸は容易ではなかった」と報告している。

★1944.4.1 海軍乙事件…南太平洋パラオからフィリピン・ダバオに飛行していた参謀長福留繁中将は、天候が悪く搭乗機が不時着水、沈没した(別機に搭乗していた連合艦隊司令長官・古賀峯一大将は機体ごと行方不明)。8人が死に、約8時間後に生存者9人がフィリピン・セブ島の抗日ゲリラに捕らえられた。その際、福留参謀長は「Z作戦計画書」(太平洋海域での作戦計画書)、「艦隊司令部用信号書」、「暗号書」を防水ケースに入れて携行していたが、ケースごとゲリラに奪われてしまう(ゲリラのカヌーが接近する前に沈めたが拾われた)。その後、セブ島守備隊のゲリラ掃討作戦の一時中止と引き換えに9人は釈放された。
福留は東京で査問され「ゲリラは書類ケースにほとんど関心を抱いてなかった」と証言。海軍首脳部は“ゲリラは正規軍ではないから福留らは捕虜ではない”“原住民は機密書類に関心がない”ことを理由に不問とした。事件の翌々月、福留中将は第二航空艦隊司令長官に栄転した。これは捕虜になったという噂を一掃する為の中央の配慮だった。海軍上層部は、Z作戦計画も、そして暗号も何も変更しなかった。“実害がなかった”以上、変更は矛盾するからだ。
だがしかし!!!現実はこれ以上ないというほど最悪の事態だった。書類とケースはすべてゲリラから米潜水艦に渡され、豪州ブリスベンの陸軍情報部で一字一句に至るまで翻訳された(5月23日全訳完了)。1ヶ月後の太平洋戦争の命運を決したマリアナ沖海戦(あ号作戦)、10月のレイテ海戦に際して、アメリカ側は日本軍の戦略はもちろんのこと、参加機種と機数、参加艦種から燃料量、火力、弱点、各指揮官名まで分かっていた。レイテ海戦にて初期の神風特攻が戦果をあげたのは、Z計画書に記載がなかったからだ。

●1944.5.18 アドミラルティ諸島守備隊壊滅…アドミラルティ諸島(ニューギニア本島の北)マヌス島、ロスネグロス島の日本軍守備隊3800人が、米豪連合軍45000人と2ヶ月間の戦いを経て壊滅。連合軍がロスネグロス島に上陸したのは2月29日。日本の第8方面軍司令部は玉砕攻撃を行わせようとしたが、司令官の江崎義雄大佐は命令を無視して持久戦の方針を採った。そして食糧の備蓄があるマヌス島へ転戦。激しく抵抗していたが5月1日の無線連絡を最後に部隊は消息を絶つ。日本軍の戦死者は3280人、生存者77人。米側の戦傷者1515人(うち戦死者326人)。守備隊は小火器でよく戦った。江崎大佐の指示により山中に潜伏した日本兵の中には、終戦を知らないまま隠れていた人もいて、1949年に2人が原住民に発見され帰国した。

●1944.5.26 ワクデ島守備隊玉砕…ニューギニア西部の小島ワクデ島には日本軍の飛行場があり、島の対岸サルミとあわせて守備隊は1万4千人にのぼった。米軍は5月18日にワクデ島に上陸。同島守備隊800人は8日間の激戦を経て26日に玉砕。戦死759人。サルミの日本軍は終戦まで持ちこたえたが、1万4千人のうち生還者は2千人だけであった。
※ニューギニアに上陸した20万人の日本軍将兵のうち、生還者は2万人に過ぎなかった。

●1944.7 ティンブンケ事件…東部ニューギニア・ティンブンケの日本軍守備隊(第41師団歩兵239連隊)が米豪連合軍に爆撃されたことから、守備隊の浜政一大尉はティンブンケの村民が敵と通じていると疑った。そして、同村と対立関係にあるコログ村民を引き連れて報復攻撃を行った。日本軍はティンブンケ村の男性99人、女性1人を村の中心に集め、軍刀、銃剣、機関銃で虐殺した。事件の50年後、1994年にティンブンケの首長ラクが来日し、日本軍が行った虐殺、レイプ、人肉食などの戦争犯罪に対する補償を訴えたが、日本政府は「サンフランシスコ平和条約で解決済み」として門前払いにした。

●1944.6.19-20 マリアナ沖海戦…サイパン島やグアム島を含む北マリアナ諸島。日本軍は真珠湾攻撃の直後からこの一帯を軍事支配していた。米軍はマリアナ諸島に進軍すべく、空母15隻を含む109隻の大機動部隊で来襲した。迎え撃つ日本機動部隊は空母9隻を含む47隻。両軍の空母同士の航空決戦となった。航空機の数は日本が428機、米側が901機。日本側の作戦名称はあ号作戦(あめりかの“あ”よりきている)、米側の呼称はフィリピン海海戦。
日本側はこの海戦で「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」の空母3隻を失ったほか、参加航空兵力の3/4以上となる378機もの航空機を損失(米側は航空機123機を失ったものの、艦船の沈没はゼロ)。完敗の理由は大きく3つ。
(1)これまでの戦いで熟練パイロットが激減し、編隊を率いるベテラン指揮官がいなかった。第653海軍航空隊として参戦した進藤三郎少佐いわく「搭乗員の練度は何とか着艦ができる程度、洋上航法や空戦はやっとこさというくらい」。日本の航空部隊がロクに回避運動もせず簡単に撃ち落とされるため、米兵は「マリアナの七面鳥撃ち」(反撃の恐れのない一方的な射撃=お祭りの射的)と呼んだ。
(2)索敵の痛恨のミス。日本軍偵察機の一部が、緯度変更に伴う磁針の訂正をし忘れ、敵艦船の位置を誤って報告。その結果、敵のいない方向へ100機近い航空機を空振り出撃させ、戦局がさらに後手後手に回ってしまう。
(3)2ヶ月前の海軍乙事件(福留参謀長が捕虜になって作戦計画書や暗号表を奪われる)で作戦が筒抜けだった。これが最も深刻。米軍は“あ号作戦”の戦略、参加艦船や艦載機、燃料量、各部隊の指揮官名まですべて把握していた。米軍は最も効果的な布陣を速やかに展開し、さらに米軍機の主力「F6F ヘルキャット」は性能の上で零戦を凌駕していた。
日本海軍はこの惨敗で空母部隊が壊滅し、二度と機動部隊を核にした海戦を行えなくなった。

●1944.7.2 ビアク島守備隊壊滅…ニューギニア西部のビアク島には良質な飛行場があり守備隊1万2400人が守っていた。5月27日に米軍3万人が上陸。 猛攻を受け6月21日に指揮官・葛目大佐は玉砕を決意するが、千田少将らの説得で持久戦に変更し高地へ移動。7月2日、1ヶ月を超える戦闘に疲れた葛目大佐は自決。残存将兵1600人はジャングルに分散し援軍を待ちつつ米軍の物資を盗むなど自活を図ったが、次々と飢餓とマラリアに倒れていった。米軍は8月20日、ビアク作戦の終結を宣言。3万の大部隊を1ヶ月以上も防ぎ続けたビアク支隊には、昭和天皇から嘉賞(称賛)があり、南方軍総司令官・寺内寿一大将も感状を授与した。日本軍の戦死者は1万人以上。生還者は520人に過ぎない。だが米軍の被害も、戦死者471名、戦傷者2433人、戦場神経症患者が423人にのぼっている。米軍は元々マリアナ沖海戦に先立って飛行場確保を目的にビアク島へ上陸した(海戦の約3週間前)。しかし結果的には飛行場を確保せずとも海戦に勝利しており、米軍としては約3千人の死傷者を出してまで戦う意味があったのか、虚しさの残る上陸戦となった。

★1944.7.7 サイパン守備隊玉砕…サイパン守備隊約3万2千人は米軍約6万7千人を相手に激戦を繰り広げた。米軍がサイパンを攻略したのは、新型爆撃機B-29の攻撃圏内に東京など日本本土が入るからだ。日本としてもそれを警戒し、絶対国防圏を定めてマリアナ諸島に3万人以上の守備隊を置いた。兵員も増援で送られたが、制海権を失っていることから、輸送船団は米潜水艦の餌食となり約1万人もの兵がサイパンに上陸することなく無念に海へ沈んだ。守備隊を指揮したのは、陸軍が第43師団師団長・斎藤義次中将、海軍が中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一中将(真珠湾攻撃の指揮官)で、ガダルカナル以来の陸海共同作戦となった。
6月11日、突如現れた米軍機1100機の大空襲があり、13日には戦艦8隻を含む米艦隊が18万発も艦砲射撃を行い日本の陣地は半壊し、基地の航空機150機を全て失った。この奇襲に驚いた日本軍は6月15日に、救援の為に“あ号作戦”を発令し、空母9隻を中心とした機動部隊をマリアナ諸島に派遣した。
同日、米軍が上陸開始。初日に海兵隊2万人以上が島の西岸に上陸した。翌16日、飛行場を巡る攻防戦となり日本軍は約8000名が抵抗したが、米軍は1時間あたり野戦砲800発、機銃1万発という圧倒的火力をふるい飛行場の日本軍は全滅した。19日、“あ号作戦”で出撃した日本機動部隊が近海に到着するも、待ち伏せていた米機動部隊とマリアナ沖海戦が勃発し、2日間で空母3隻と艦載機400機を失う大敗を喫した。サイパン守備隊は救援の望みを絶たれ、斎藤中将は防御に徹するため中部山岳地帯・タポチョ山に後退し洞窟を使って抵抗した(大本営の晴気誠陸軍参謀は、自身が命じた水際作戦で守備隊が早々に壊滅した責任を痛感し、終戦後の8月17日に自決している)。

6月24日、大本営はサイパン島の放棄を決定。この時点で守備隊は6000人まで減っていたが、なおも激しい抗戦を続け、いらだった米軍上層部は第27師団長ラルフ・スミス少将を更迭した。25日、日本軍が拠点にしたタポチョ山にも米軍が接近。7月7日、日本軍は約20日間戦ったがついに行き場を失い、斎藤中将は生存兵約3000名に最後の総攻撃を命じ、陸海軍が一斉にバンザイ突撃(玉砕突撃)を行った。司令部では斎藤陸軍中将が中央に、南雲海軍中将が右、井桁敬治陸軍少将が左に正座。日本の方角を向き、割腹と同時に各々の副官が後頭部を撃った。南雲中将の最期の言葉は副官の「よろしうございますか」という問いに「どうぞ」。斎藤中将は玉砕前の最後の通信で「我々陸軍将兵一同は敵アメリカ軍を恨まずして日本海軍を永遠に恨みつつ玉砕する」と打電したという。7月9日、米軍はサイパン島占領を宣言した。日本軍の戦死者は2万5千人、自決者は5千人、捕虜は921人。米軍も1万6600人の戦傷者(うち戦死者3500人)を出した。

守備隊の中には日本敗戦後もサイパンの山岳地帯(タポチョ山)で終戦を知らずに戦い続けている部隊もあった。歩兵第18連隊衛生隊の大場栄陸軍大尉以下47人の部隊は、神出鬼没のゲリラ作戦で米軍を翻弄し、大場大尉は米兵から“フォックス”と呼ばれていた。12月1日、天羽少将から投降命令を受けた47人は軍歌を歌いながら下山し投降した。
サイパン島の戦闘開始段階での在留邦人は約2万人。一方、戦闘終了後に米軍が保護した民間人は約1万人しかおらず、残りの1万人が戦闘に巻き込まれたり自ら命を断つなどして死亡したとみられる。当時の日本人は「残虐非道の鬼畜米英」「男子は虐殺され女子は暴行される」と信じ込まされており、岬に追い詰められた民間人が通称“バンザイクリフ”や“スーサイドクリフ”から海に飛び込み自決した。実際に米兵の中には乱暴な者もいたが、住民の半数となる1万人もの民間人が保護されたことを軍は一般国民に伝えなかった。サイパン陥落後、同島はグアム島やテニアン島攻略、フィリピン奪還の拠点となり、日本本土に向かう長距離爆撃機の基地となった。サイパンを失ったことで、もはや日本は戦局の逆転や有利な条件で講和を結ぶ可能性が完全についえた。

●1944.7.22 東條内閣総辞職…マリアナ沖海戦、サイパン陥落など戦局悪化の責任を取り東條首相が辞任、小磯内閣が誕生した。近衛元首相は戦争の早期終結を意図し、元首相の和平派・米内光政海軍大将を入閣させた。

★1944.8.2 テニアン守備隊玉砕…サイパン島のすぐ南西に浮かぶテニアン島は、1920年から日本の委任統治領(第一次世界大戦時はドイツ領)であり、日本人約1万5千人が移民していた。同島には南洋諸島で最大の滑走路(1450m)を備えたハゴイ飛行場があり、テニアン守備隊約8500人はこの飛行場の死守を厳命されていた。7月24日に米軍約5万4千人が上陸。翌日、日本軍は移民者の3割にあたる16歳〜45歳の一般男子約3500名を集めて民間義勇隊を編制し、戦闘に協力させた。テニアンはサイパンのような山岳地帯がなく、平坦な島であったため米軍の凄まじい火力にさらされた。やがて島内唯一の水源地を奪われ、水がない以上持久戦は困難となり、8月2日、約10日間の抗戦後に指揮官の緒方連隊長は軍旗を奉焼(敵に渡さないため)、生存兵と民間義勇隊をあわせた約1000人が玉砕突撃を敢行した。日本軍の戦死者は8010人。米軍も戦傷者1899人(うち戦死328人)を出しているが、これは上陸時の陽動作戦で戦艦コロラドと駆逐艦が日本の集中砲火を浴び、艦長が死亡するなど多数の犠牲が出た為。
テニアン守備隊はサイパンとは異なり、民間人に対して角田中将が「軍と共に玉砕する事はないのですよ」と自決を戒めたことから、民間人の集団自決はあまり起きなかったと言われている。ただし、元住民の中には「(戦闘直前に)海軍中佐が住民を学校に集め、『敵が上陸したら、皆さん死んでください、米軍に捕まったら残虐な行為で、性器をもがれるかもしれない』と言った」「戦闘で死亡した居留民1500人の大部分が集団自決」と証言している人もいる。
米軍に奪われたハゴイ飛行場からは、1944年11月以降、連日のように日本へ向けてB-29が離陸。広島と長崎へ原爆を投下したB-29も、このテニアンから発進した。

★1944.8.11 グアム守備隊玉砕…グアムはマリアナ諸島で最大の島。真珠湾攻撃の2日後に島を占領した日本軍は、島に飛行場があり、位置的に必ず米軍が奪還に来ると考え、2年がかりで強固な防衛陣地を構築した。1944年7月21日に米軍5万5千人がグアムに上陸。日本軍守備隊1万8500人でこれを迎え撃った。守備隊は上陸初日に米軍をわずか180mしか進軍させないほど激しく抗戦。しかし、多勢に無勢、戦力の差は埋めがたく、7月28日に指揮官の高品彪中将が戦死。同島に滞在していた第31軍司令官・小畑英良中将が後を継いで戦ったが、米軍が島全体を支配するに至り、8月11日に小畑中将は自決、日本軍の組織的な抵抗は終わった。守備隊1万8500人のうち、戦死1万8000人、負傷者485人という凄絶な戦いであり、米軍側も死傷者が1万122人(うち戦死3000人)という大きな犠牲を払った。グアムを奪還した米軍は、同島の飛行場をサイパン、テニアンと共に日本本土への戦略爆撃の拠点とした。
米軍占領後も日本軍残存兵の一部は密林でゲリラ戦を続け、中には終戦を知らずにジャングルに潜伏し続ける兵士もいた。歩兵第38連隊の横井庄一(しょういち)伍長は1944年(当時29歳)にグアムに配属され、戦後も自ら作った地下壕で生活。1972年に食料調達のため川でエビを採っていたところをグアム島住民(漁師)に発見され、終戦から27年を経て57歳で日本へ帰国した。帰国時の羽田空港での第一声は「(自決をせず)恥ずかしいけれど、帰って参りました」。1997年心臓発作で他界。享年82歳。
※横井庄一記念館…名古屋市中川区冨田町千音寺稲屋4175(自宅) 。開館日は毎週日曜日(10:00-16:30)、無料。
※太平洋戦争終結後に初の内閣総理大臣となった東久邇宮稔彦王は、グアム陥落で日本の敗北を悟ったという。

★1944.9 津野田事件(東條暗殺計画)…昭和天皇の弟、三笠宮・崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう=大正天皇の第四皇子)が戦争終結を模索し、陸軍・津野田知重少佐らと共に東條内閣打倒のクーデター計画を立案。津野田の計画が東條英機暗殺、主戦派数百名大量粛清とあまりに先鋭化したため、「米国と戦っている時に2・26の二の舞をやったら国内が目茶苦茶になる、日本はまいってしまう」と懸念した三笠宮が憲兵に通報し未遂に終わった。津野田少佐は軍法会議に送られたが、事件に皇族が関係していることが明確なので、懲役2年執行猶予2年に収まった。三笠宮は自身も責任を負うことを決心したが、皇族の処罰は難しいため、苦肉の策として他の職に左遷してもらったという。
※三笠宮・崇仁親王は「若杉参謀大尉」の仮名で1943年1月〜1944年1月まで南京の支那派遣軍総司令部(陸軍)に勤務していた。当時の回想「わたしの信念が根底から揺り動かされたのは、実にこの1年間であった。いわば聖戦というものの実体に驚きはてたのである。罪もない中国の人民に対して犯したいまわしい暴虐の数々は、いまさらここにあげるまでもない」「聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけ離れたものであったからこそ、そして、内容が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである」「こうして聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるものはただ和平のみとなった」(『わが思い出の記』)。

●1944.10.10 沖縄大空襲(十・十空襲)…10日後にフィリピン進攻を計画していた米軍は、これに先立ち後方の日本軍拠点を空母艦載機で空爆した。日本軍は海軍のレーダーが敵の接近を探知していたが、レーダーの故障と思われて注意を払われなかった。敵方面に向かった哨戒機が撃墜されても、接近中の台風のため未帰還になったと判断された。さらにタイミングの悪いことに、当日は沖縄守備隊の首脳部が図上演習を予定しており、前日から司令官たちが那覇の料亭で宴会を開き、各部隊は指揮官不在だった。日本軍の航空機は空中退避が間に合わず、損失した47機の多くが地上で破壊された。艦船は26隻沈没。民間にも空襲の被害が生じ、旧・那覇市は市街地の9割が焼失、住民330人が亡くなった。この空襲の米軍攻撃機は延べ1400機近くに達した。

★1944.10.12-16 台湾沖航空戦…10月12日、米軍はフィリピン侵攻に先立ち、2日前の沖縄に続いて台湾への日本軍基地へ延べ1378機を投入する大空襲を行う。沖縄空襲の復讐に燃える日本軍は、熟練パイロットのT攻撃部隊を投入し、米第3艦隊への夜間爆撃を行ったが運悪く曇天で戦果を出せなかった。14日、日本軍は380機の航空総攻撃を敢行するも、敵艦隊を護衛する艦載機と高射砲によって240機が未帰還となった。米第3艦隊は台湾空襲を終え、第7艦隊が行うフィリピン・レイテ島上陸作戦の支援に向かう。
15日、16日と日本軍航空隊は継続的に攻撃を繰り返したが、実際の戦果が「巡洋艦2隻大破」(沈没はゼロ)に過ぎないにもかかわらず、航空隊は希望的観測から「空母を撃沈」「戦艦を撃沈」と華々しい戦果を次々と打電した。誤認の原因は撃墜された味方機の火柱を敵艦のものと錯覚したり、炎上した敵艦を別々の機が重複してカウントしたり様々。大本営はこれらの報告を一切疑わずにそのまま集計し、19日に「空母19隻(!)、戦艦4隻、巡洋艦7隻、(駆逐艦、巡洋艦を含む)艦種不明15隻撃沈・撃破」と目まいを覚えるような大戦果を公式発表した。そして戦果ゼロに等しいのに、否、この作戦で航空機を約700機も失っているのに、全国的に祝勝大会が開かれた。米国ではこの発表を投資家が信じて一時株価が大暴落した。第3艦隊司令長官“猛牛”ウィリアム・ハルゼーは、太平洋艦隊司令長官ニミッツに宛て次の電文を打電した「ラジオ東京が撃沈と報じた第3艦隊の全艦艇は、いまや海底から蘇って、目下、敵方へ向けて退去中」。
この太平洋戦争最大級の誤報は取り返しのつかない悲劇をこの先日本にもたらしていく。

(1)軍内部で“大戦果は怪しい”と疑問の声があがり初めても、首脳部は大勝利を信じていたいという想いから、フィリピン沖に現れた米艦隊を「台風から避難中の残存艦隊」と信じ込み、“たいした戦力ではない”という希望のもとに海軍の残った兵力のほぼ全てを投じた捷(しょう)号作戦を発動。レイテ沖海戦で武蔵を含む戦艦3隻、瑞鶴を含む空母4隻、巡洋艦6隻、駆逐艦9隻、航空機180機を喪失した。
(2)陸軍は海軍の虚報を基に行動することになり、ルソン島(マニラがある)での迎撃方針をレイテ島に変更し、数万人の決戦兵力をレイテ島へ輸送した。ところが海上輸送中に空襲を受け、兵も武器も軍需物資も多くが海に沈み、これまで米軍上陸に備えて懸命に積み上げてきた決戦準備が水の泡になった。
(3)ルソン島からレイテ島に兵力が引き抜かれた穴を補うため、台湾から第10師団をルソン島へ移し、玉突きで沖縄から第9師団を台湾へ移した結果、沖縄が戦力不足となった。沖縄空襲のリベンジで行った航空戦が、世紀の虚報によって、巡り巡って沖縄守備隊の兵力引き抜きになってしまう…あまりにやりきれない話だ。
(4)神風特攻隊が誕生してしまった!この戦いまで特攻作戦は実行に移されなかった。だが、在フィリピンの航空部隊(第一航空艦隊)は保有約150機のうち110機以上を失い、残り40機では味方連合艦隊の護衛という任務遂行能力を失ってしまった。大西瀧治郎中将はこの残存戦力で有効な攻撃は特攻しかないと判断し、台湾沖航空戦から5日後、10月21日に神風特別攻撃隊が初出撃することになった。
当時、大本営にも大誤報であることを的確に見抜いている者もいた。情報参謀の堀栄三中佐だ。堀中佐は航空兵らに聞き取り調査を行い、「実際の戦果は重巡数隻程度と推測」と大本営情報課に連絡していた。また沖縄や台湾への空襲を、フィリピン上陸の布石と確信していた。この報告を握りつぶした瀬島龍三作戦参謀は、戦後になって堀中佐に謝罪したという。
※年表の間に私感を挟むのはアレなんだけど、一言書かずにはいられない。「なんてこった!!」。フィリピンの苦難も!沖縄の地獄も!この航空戦から!

●1944.10.19 アンガウル守備隊玉砕…フィリピンの東方に浮かぶパラオ諸島のアンガウル島には守備隊1400人が駐留していた。米軍2万1千人が一週間の艦砲射撃の後9月17日に上陸。日本軍は地雷や水際作戦で抗戦していたが、30日に全島を制圧された。その後もなお抵抗を続けて10月19日に玉砕突撃。15倍の敵と1ヶ月間も戦った部隊の壮絶な最期だった。日本軍の戦死者は1400人中1338人、捕虜59人。米軍は死傷者2554人(うち戦死260人)。米軍がアンガウル島を攻略した目的は爆撃機用の飛行場建設だったが、結局飛行場は築かれず島は焦土と化した。

●1944.10.20 マッカーサー再上陸(フィリピン・レイテ島)…1942年3月に豪州へ脱出したマッカーサー将軍はフィリピン奪還作戦を開始。650隻もの強力な艦隊と航空機約4300機、約20万2500人の米兵を率いてレイテ島に上陸した。2年半ぶりのフィリピン帰還だった。日本側の司令官は山下奉文大将。人命・食糧・物資の多くがルソン島からの海上輸送時の攻撃で失われ、ガタルカナル戦のように守備隊は飢餓がに苦しんだ。フィリピン戦における日本軍戦死者(戦病死者を含む)は全戦線の中で最も多く、大半は戦闘ではなくフィリピン防衛戦での餓死。飢餓によって軍の統制は崩壊し、一部の部隊では「敵兵であれば食べてよいが自軍、住民は禁止」「一人では行動するな(空腹の味方に殺される)」という凄絶な命令まで出された。また、日本軍は現地住民の抗日ゲリラ「ユサッフェ」27万人とも戦わねばならなかった(彼らには米国が最新の武器を与えていた)。フィリピン守備隊40万人のうち、戦死・戦病死は33万6352人、戦傷は1万2573人という膨大な数にのぼる。米軍は上陸部隊30万人のうち、死傷者6万2514人(うち戦死1万3973人)。米軍としても戦死者が1万人を超える厳しい戦場となった。

●1944.10.23-25 フィリピン沖海戦(レイテ沖海戦)…日本軍は「フィリピンを奪還されると南方資源地帯と本土が分断され戦争敗北に繋がる」と危惧し、海軍は残存軍艦のほぼ全てを投入してフィリピン沖の米フィリピン進攻部隊にぶつけた。米軍も太平洋艦隊の大半で迎え撃ち、文字通り総力戦となった。参加兵力は、日本軍が栗田艦隊(戦艦「大和」「武蔵」「長門」「金剛」「榛名」を含む計32隻)、小沢艦隊(空母「瑞鶴」、軽空母3隻、戦艦「伊勢」「日向」を含む17隻&航空機116機)、西村艦隊(戦艦「山城」「扶桑」を含む計7隻)、志摩艦隊(巡洋艦3隻等の計7隻)。作戦内容は、(1)地上基地の航空部隊が米空母群を攻撃して戦力を削ぐ(2)小沢艦隊が囮となり敵空母をレイテ近辺から引き離す(3)西村艦隊と志摩艦隊がレイテ湾に南から入って敵艦隊を引きつける(4)そこへ主力の栗田艦隊が北からレイテ湾へ入り、敵上陸部隊や輸送船団を艦砲射撃で壊滅させる、というもの。
米軍はハルゼー艦隊(空母8隻、戦艦6隻を含む計95隻)、キンケイド艦隊(戦艦6隻を含む計72隻&航空機1280機)であり、双方の戦力比は戦艦が日本9隻、米国12隻。航空母艦が日本4隻、米国17隻(!)。総艦船数は、日本が63隻、米国が167隻。航空機に関しても日本は地上基地の40機を合わせて156機、米側は1280機以上とケタが違っていた。

・10月23日、レイテ湾を目指す主力の栗田艦隊がパラワン島沖(フィリピン西側)で米潜水艦に捕捉され、重巡「愛宕(旗艦)」「摩耶」が魚雷を受け沈没。栗田中将は海に投げ出され「大和」に救助された。
・10月24日『シブヤン海海戦』。午前10時半、フィリピン中央のシブヤン海にて栗田艦隊がハルゼー艦隊の空襲を受ける。米軍は巨大戦艦「武蔵」に延べ264機で攻撃を集中し、19時35分に武蔵号沈。栗田艦隊は空襲を避ける為に一時戦域を離脱した(栗田艦隊はこの時点で32隻から17隻になっていた)。一方、この日夕刻に連合艦隊司令部から「天佑を確信し、全軍突撃せよ」との電文が打たれており、他の艦隊はレイテ湾に突進していた。※小沢艦隊は別行動。
・10月25日未明『スリガオ海峡海戦』。栗田艦隊と西村艦隊は南北からレイテ湾に突入する予定だったが、栗田艦隊がシブヤン海の交戦などで到着が遅れた為、西村艦隊のみでスリガオ海峡に突入。キンケイド艦隊はT字隊形でこれを迎撃した。午前3時40分、西村中将が旗艦「山城」から「われ魚雷攻撃を受ける、各艦はわれを顧みず前進し敵を攻撃すべし」と命じ、これを最期に号沈。沈没後、多くの水兵が海面に漂っていたが、大半が米軍の救助を拒否して自決した。近くの島に泳ぎ着いた兵もいたが、丸腰のため原住民に殺害された。「山城」の生存者は乗員約1400人中たった2人。戦艦「扶桑」はさらに状況が酷く、弾薬庫爆発で艦体が真っ二つに折れ、艦長以下1637名全員が戦死。西村艦隊は7隻のうち最後尾の駆逐艦「時雨」以外は全滅し、生存者は全艦合わせて10数人だった。米艦隊の損害は駆逐艦1隻大破。
・『サマール沖海戦』。夜が明けて25日朝7時、本隊である栗田艦隊がキンケイド艦隊の護衛空母(商船改造空母)部隊と遭遇。栗田艦隊は敵が空母6隻の主力機動部隊と誤認。「大和」の主砲が火を噴くなど、2時間の攻撃で護衛空母1隻と駆逐艦3隻を撃沈した。確かに戦果ではあったが、栗田艦隊は「正規空母3隻、巡洋艦2隻、駆逐艦2隻」を撃沈・撃破したと信じ込んでいた。
★同25日10時45分、栗田艦隊の攻撃を受けた直後の護衛空母群に、地上航空基地から出撃した初の『神風特別攻撃隊』=関行男大尉率いる零戦五機「敷島隊」が突入。護衛空母セント・ローに特攻機が命中し、弾薬庫の誘爆でセント・ローは沈没した。日本軍はこれを“正規空母の撃沈”と誤認し、「特攻は効果あり」と見なされ、以降、神風特攻が攻撃の基本になっていく。
※本来であれば「武蔵」への攻撃も、航空部隊が空中で迎撃すべきものだった。ところが直前の台湾沖航空戦や各基地への空襲で約700機も失っており、栗田艦隊の援護に向かえる零戦はわずか40機程度だった。司令長官・大西瀧治郎中将は小数の航空機で行える戦法として、特攻攻撃に踏み切った(詳細後述。元々の発案は海軍上層部)。

・『エンガノ岬沖海戦』。25日午前8時、栗田艦隊のレイテ湾突入を助ける為、囮となってハルゼー艦隊を引きつけていた小沢艦隊に米機180機が来襲。その後も波状攻撃が続き、午後2時に第3波約200機の攻撃を受けて空母「瑞鶴」が沈没。この「瑞鶴」は真珠湾攻撃に参加した空母6隻のうち、最後まで残っていた空母。“仇討ち”を果たし米兵の士気が上がったという。小沢中将の軽空母「千代田」も被爆、航行不能になったことから。小沢中将は旗艦を軽巡洋艦「大淀」に移し作戦を続行した。「瑞鶴」を護衛していた駆逐艦「初月」は友軍を逃がす為に単独で米艦隊17隻と戦って沈没し、全乗員が死亡した。
10月26日、栗田中将は「敵機動部隊撃滅の戦果(誤認)をあげたこと」「将兵の疲労が極限」「西村艦隊全滅で連携不能」など諸々の理由からレイテ湾突入意思を喪失。栗田艦隊は参謀会議を開いて作戦中止を決定した。レイテ湾のキンケイド艦隊は弾薬が不足していたといわれ、この“栗田艦隊の反転”は後に論争を呼ぶ。志摩艦隊は他の艦隊と最後まで共同行動がとれず、短時間交戦したのみだった(空襲で撤退)。
日本軍は空母4隻、戦艦3隻、重巡6隻ほか多数の艦艇を失い、さらに本土への帰航中に戦艦「金剛」が敵潜水艦に沈められた。日本海軍の艦隊戦力はこの海戦の敗北で事実上壊滅した。
※小沢艦隊・小沢治三郎「レイテで本当に真剣に戦ったのは西村だけだった」。
※フィリピン戦で起きた日本軍による現地住民虐殺事件は“日本と東南アジア編”に記述

●1944.11.24 ペリリュー守備隊玉砕…フィリピン東方のパラオ諸島は第一次世界大戦後に日本の委任統治領となり、ペリリュー島には2本の1200m滑走路を持つ飛行場があった。日本にとっては本土の防波堤となる重要拠点(絶対国防圏内)であり、米軍にとってはフィリピン進攻に利用できる島として、戦史に残る苛烈な戦いが繰り広げられた。なんとしてもペリリューを死守したかった日本軍は、大陸から関東軍最強と呼ばれた第14師団(宇都宮)を派遣し、1万1千人の守備隊が守りについた。日本軍はコンクリート並に硬い珊瑚礁の地質を利用し、500以上もある洞窟を要塞化。強固な陣地を築いて米軍を待ち構えた。9月15日、米軍は「パラオ攻略作戦」を開始し2万8484人がペリリュー島に上陸した。ペリリュー島は長さ10kmの小島であり、米軍には当初、「2、3日で陥落可能」との楽観ムードがあった。だが、日本軍は屈強に組織的抵抗を行い、上陸米兵は水際で猛攻を受けた。“2、3日で陥落”どころか上陸後6日目(9/21)には全連隊が壊滅状態に陥るという凄惨な事態となった。10月30日、米軍第1海兵師団2万4234名が全滅判定(損失60%超)を受け、陸軍第81師団1万9741名と交代した。守備隊はここまでよく抗戦してきたが、1ヶ月半が経過した頃から米軍の圧倒的な物量攻撃に急速に押され始める。11月24日、司令部の弾薬が底を突き玉砕が決定され、指揮官の中川州男大佐は拳銃で自決。参謀の村井少将、大隊長の飯田中佐が割腹自決し、玉砕打電「サクラサクラ」を本土に送った後に生存兵55人が「万歳突撃」を敢行、玉砕した。11月27日、米軍はペリリュー島占領を宣言。上陸開始から2ヵ月半が経ち、既にフィリピンへの上陸は終わっていた。
日本軍の戦死は1万1000人中、1万695人。捕虜202人。米軍の戦傷者は9804人(うち戦死1794人)。過酷な戦闘で米兵は数千人が精神に異常をきたした。住民の被害は軍が戦闘前に強制退避させたために0人であったという。昭和天皇はペリリュー守備隊を励ます為に嘉賞(称賛)11度、感状3度を与えた。終戦を知らずに34人の日本兵が洞窟の中で生き延び、1947年4月に投降した。
ペリリューの美談として舩坂弘元軍曹が以下のエピソードを紹介している「ある老人が若い頃日本兵と仲良くなり、戦況が日本に不利となった時“一緒に戦わせて欲しい”と日本兵隊長に進言したが“帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!”と激昂され、見せ掛けの友情だったのかと失意の中島を離れる船に乗り込んだ。が、船が島を離れた瞬間その隊長を含め日本兵が手を振って浜へ走り出てきた。老人はその時、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという」。
※大本営では朝夕「ペリリューはいまだ落ちないぞ」と慰めあい、昭和天皇も毎朝「ペリリューはどうなった」と質問していたという。
※絶対国防圏MAPリンク

●1944.11.24 サイパン発の爆撃機B-29が東京を初空襲。以降、連日のように列島に空襲警報が鳴り響く。当初は無差別爆撃ではなく軍事目標への精密爆撃だった(詳細後述)。


【1945年】(昭和20年)

●1945.2-3 父島事件…小笠原諸島の父島で起きた指揮官クラスの人肉食事件。(以下、残酷描写あり)第109師団長・立花芳夫中将は捕虜の米軍通信兵を銃剣で刺殺し、翌日の夜の宴会で大隊付軍医・寺木忠少尉が遺体から取り出した肝臓と太ももの肉を食した。同月、パラシュートで降下して捕虜となったダイ通信兵が斬首され吉井静雄海軍大佐が肝臓を食す。さらに同月、捕虜の海兵隊飛行士ヴォーン少尉が斬首され、吉井大佐が肝臓を再び食した。翌月、師団で英語教師を務めていた捕虜のホール海軍少尉が斬首され、第308大隊の宴会で肝臓と太ももを的場末男陸軍少佐と森国造海軍中将らが食す。英語教師まで殺害したことや、立花師団長が「これはうまい、お代わりだ」と言うなど、異常な空気を憂慮した同師団の堀江参謀は、たまりかねて大本営へ「事情あり適任の師団長を派遣されたし」と打電した。戦後、戦犯法廷で立花中将、的場少佐、吉井大佐ら5人に絞首刑が言い渡された。

●1945.2.4-11 ヤルタ会談…米大統領ルーズベルト、英首相チャーチル、ソ連首相スターリンがクリミア半島のヤルタ近郊に集まり、戦後処理を話し合った連合国首脳会談。主な決定項目は(1)ドイツ降伏後、90日以内にソ連が対日宣戦布告をする(2)ソ連はサハリン(樺太)南部、千島列島、中国大陸での権益を獲得する(3)1945年4月にサンフランシスコで国際連合設立会議を開催(4)ドイツは分割され連合国管理委員会が統治、等々。この密約を土台として、7月のポツダム会談で具体的実行が取り決められた。

●1945.3.10 東京大空襲…東京上空に来襲した米空軍B29爆撃機が、焼夷弾による無差別爆撃を行い約10万人の民間人が殺害された。

〔日本本土、無差別爆撃への道/米軍内では意見が対立していた〕

第一次世界大戦でドイツ飛行船が行ったロンドン空襲への批判から、1922年にオランダ・ハーグで『空戦法規案』が合意された。そこには「攻撃は軍事目標だけに限り市民への爆撃を禁止する」と無差別爆撃の禁止がはっきりとうたわれている。1930年代後半、最初にこれをドイツと日本が破った。1937年4月26日、ドイツは新型爆撃機の威力を試すためスペイン北部の小都市ゲルニカを空襲し、街は3時間で壊滅した。死傷者2千人。その3ヶ月後、日中戦争が勃発し日本軍は1938年から3年間にわたって長距離爆撃機で中国都市への空襲を開始。重慶では1万人を超える人が犠牲になった。これらの空爆に対し、同年10月ルーズベルト大統領はシカゴで抗議演説を行う「女性や子どもを含む大勢の市民が空からの爆撃によって無慈悲に殺された!」。

1940-1941年の独空軍によるロンドン空襲で、英国の死者は最初の1年で4万人を超えた。英国は爆撃隊を増強し、報復でケルン、エッセン、ハンブルクなどの都市を爆撃。犠牲者はハンブルク空襲(1943年)だけで3万5千人。ドイツ各都市の合計は30万人以上にのぼる。英国は米国にも絨毯(じゅうたん)爆撃への参加を要求したが、先のルーズベルトのシカゴ演説もあり、米国は軍需工場への精密爆撃を貫いてこれを拒否していた。
一方、1944年夏にマリアナ諸島を占領した米軍は、グアム、サイパン、テニアンの各島に飛行場を整備。これによって日本列島はB29爆撃機(第21爆撃兵団)の行動圏内に入ってしまった。米軍ではサイパンやグアムの戦いで各々1万人以上の死傷者を出していることから、報復的な感状から「精密爆撃はもうやめるべき」という声が上がっていた。だが。空軍上層部は理性に訴えた。
航空軍副参謀長ローレンス・カター将軍「我々は相手国民を殺したいのではなく、自ら降伏するよう仕向けるべきなのだ。民間人に戦争を挑むことになる絨毯爆撃は、かえって敵の抵抗を強める恐れがある。そもそも我が国の国家理念に反するのではないか」。
ヒューズ大佐上申書「アメリカは世界に率先して人道とは何かを追求してきました。たとえ日本人が捕虜を処刑しようとも、私達が同じ事をしてはならないのです。これまで通り、攻撃は軍事目標に限定すべきです」。
これに航空軍情報部長ローウェル・ワイカー大佐は反対意見を唱えた「残虐な敵に対しいつまでもフェアルールを使う必要はない」。
論争は続く。
1944.9.27 航空軍欧州指揮官アイラ・イーカー中将「絨毯爆撃を実行すれば、我々はナチスが言ってきた通りの野蛮人だったと証明することになる。民間人を狙う攻撃になることは明かで、犠牲者の95%が一般市民となる」。
航空軍作戦計画部長チャールズ・キャベル准将「装いを変えて繰り返し提案されてくるが、どれも功名心にはやった心理学者達の殺戮計画に過ぎないではないか」。
ヒューズ大佐上申書「私たち空軍は相手の国民がすべて家を失い流浪の民となることを本当に望むのでしょうか。戦後の復興も出来ないほどに追い込むことを望むのでしょうか」。
しかし、フィリピンやペリリューでの増え続ける米軍犠牲者に「無差別爆撃」を求める声が広がっていく。やがてヒューズ大佐は退けられた。
1944.11.24 ヘイウッド・ハンセル准将(第21爆撃集団)が日本本土空襲を指揮し、サイパンからB-29が初の東京空襲を行った(詳細後述)。※精密爆撃
1944.12.18 ハンセル准将に対し空軍司令部から「名古屋市街地に焼夷弾攻撃をせよ」と指令。
1944.12.19 ハンセル准将「目標を正確に捉える精密爆撃にこそ爆撃の理念があるのです。もしここで絨毯爆撃に変更すれば過去アメリカが積み上げてきた信頼は地に墜ちることとなるでしょう」。
1944.12-27 追い詰められたハンセル准将は司令部命令を無視して精密爆撃を行ったが天候不順で攻撃失敗。
1945.1.6 ワシントンの空軍司令部はハンセル准将を解任した。後任は漢口の日本軍への焼夷弾爆撃で一気に評価を高めたカーチス・ルメイ少将。
1945.2.13 米英空軍によるドレスデン大空襲。最初の空襲から3時間後、防空壕から出てきた市民を500機の第二波が襲った。
1945.3.9 日本焦土作戦開始。ルメイは非情だった。ついに精密爆撃から無差別爆撃に舵を切った。背景には前月から続く硫黄島の戦いで、米兵の死傷者が日本兵を上回るという悲惨な現実があった。軍内部は“日本憎し”の思いで沸騰し、325機のB29が東京に向けて飛び立つ。

〜本土空襲の移り変わり/全三期〜
(1)1944.11.24-1945.3 第一期空襲…初の東京空襲ではゼロ戦を生産する中島飛行場が爆撃された。24機が爆弾を投下したが高々度(1万メートル)からの攻撃で不成功に終わる。空襲初期の米空軍、特に司令官のハンセル准将は「我々はナチスではない」と無差別爆撃に対する抵抗感を持ち、狙いをあくまでも軍事目標に絞り、目視による昼間の高々度精密爆撃にこだわっていた。しかし、冬期の日本は曇天が多く、強い偏西風が吹いて精密爆撃が困難なうえ、高々度飛行は燃料消費も多く、その分爆弾の搭載量が減った。やがて空軍内に「東京の下町は家内工業が多く、町全体が軍需工場の下請け」との意見が広がり、あくまでも精密爆撃にこだわるハンセル准将は解任された。後任としてドイツを猛爆した武闘派のカーチス・ルメイ少将が着任した。ルメイは東京に対する未曾有の大規模爆撃を決断する。
(2)1945.3.10-4 第二期空襲…1945年3月10日深夜、“298機”ものB29が高度1500〜1800mという超低空で東京上空に侵入し、無差別爆撃「東京大空襲」を行った。始めに標的の周囲に巨大な火の壁を作って住民の逃げ道を断ってから、住宅密集地に1783トンもの焼夷弾(火炎・高熱を伴う爆弾)を、約15m間隔で投下していった。下町は木造家屋が多く、おりからの強風でみるみる猛火に包まれた。約2時間の爆撃で10万人以上の民間人が犠牲になり、死因は焼死だけではなく、酸素不足による窒息死も多かった。米国の戦略分析委員会は「短期間に6大都市を焼き払えば必ず大混乱が起き戦局は決するはず。遠からず、内部から降伏を求める声がわき起こるであろう」と推測。
以降、300機の大編隊で名古屋(12日)、大阪(13日)、神戸(17日)と次々と無差別空襲し、10日間で1万トンの焼夷弾を連続的に投下した。東京でも4/13に327機のB29が豊島、荒川、四谷、牛込一帯を爆撃。その後、標的は山の手地区に広がっていき、5/24には「525機」、5/25には「470機」という大編隊が渋谷、目黒、世田谷、杉並、品川などを、ことごとく爆撃。3596人が死亡、16万5千戸が全焼した。東京は市街地の半分が焼失し、主要な爆撃目標がなくなったことから、地方が無差別爆撃の標的になっていく。
(3)1945.5-8.15 第三期空襲…B29は“1000機”に増強され、疎開先の地方都市への爆撃を開始。6/17鹿児島、7/2宇部、7/4高松、7/10仙台、7/17大分、8/2富山など一晩で4都市ずつ焼き払われていった。B29の代わりに硫黄島から出撃した戦闘機P51(マスタング)や艦載機による銃爆撃も増える。8/2、B29が八王子空襲を行い、全市が壊滅した。
1945.7 戦略爆撃調査団報告「ドイツ爆撃の分析結果。絨毯爆撃は軍需産業への打撃とはならず、戦争終結に大きな影響を持たない。最優先目標からハズすべきである」。だが都市爆撃は続いた。
1945.8.6/8.9 広島・長崎へ原爆投下。非戦闘員を対象にしており、完全に国際法違反だ。8年前、ルーズベルトは「女性、子ども、大勢の市民が爆撃で無慈悲に殺された!」と日本を非難したが、いまやアメリカ自身が核爆弾を市街地に投下していた。終戦時、米軍が空襲目標にリストアップした日本列島180都市のうち、66都市が焦土となっていた。
※本土を爆撃したB29は数機が撃墜され、名古屋空襲で11人、他地域で27人の搭乗員が捕虜となった。前者を軍律会議の検察官・伊藤信男法務少佐が、後者を第13方面軍司令官の岡田資(たすく)中将が、「住宅地への無差別爆撃が戦争犯罪にあたる」として、全員に死刑判決を出させ、捕虜たちは斬首された。戦後の戦犯法廷で伊藤少佐、岡田中将は死刑判決を受けた。

★信じ難いことに、1964年、日本政府(佐藤栄作政権)は、東京大空襲・原爆など本土焦土作戦を指揮し約50万人もの市民を殺害したカーチス・ルメイに、勲一等旭日大綬章を授与している。理由は“航空自衛隊の指導・発展に対する功績”。さすがに昭和天皇はルメイに会わず手渡さなかった。授与を熱烈に推進したのは小泉元首相の父・小泉純也防衛庁長官(当時)であったという。

●1945.3.26 硫黄島守備隊玉砕
1平方キロあたり1400人の日米兵士が戦死し、沖縄と共に太平洋戦争最大の激戦地となった硫黄島。同島は小笠原諸島に属する東西8km、南北4kmの小さな火山島。島内に建設した飛行場は、日本にとっては本土と南方を結ぶ航空経路の中継地であり、米軍にとってはサイパンと東京を結ぶ唯一の中継地となりえた。硫黄島守備隊はサイパンから日本へ向かうB-29爆撃機を見張り、この早期警戒網のおかげで日本軍は本土上空で戦闘機がB-29を待ち伏せることができた(米軍は距離が遠すぎて護衛の戦闘機をつけられなかった)。こうしたことからアメリカ統合参謀本部は、「日本軍の早期警報システムの破壊」「被弾爆撃機の不時着飛行場の確保」「長距離護衛戦闘機P-51の基地の確保」などを目標に、硫黄島上陸作戦「デタッチメント作戦」を実施した。
このように戦略上の重要拠点であったため、日本軍は来襲を予想し、水際防御のため海岸線に陣地を構築していった。1944年6月8日、同島に着任した小笠原方面最高指揮官・栗林忠道陸軍中将(前月就任)は、過去にサイパンなど水際防御を試みた守備隊が、米艦隊の艦砲射撃でことごとく壊滅する一方で、地下陣地を活用したペリリュー守備隊が長期間抗戦した事実を重視。栗林中将は全民間人(千人)を疎開させ、水際防衛にこだわる海軍を説得して、7月から全島の地下要塞化を進めていった。具体的には約半年で人工の地下坑道を18kmも張り巡らせた堅牢な地下要塞を構築した。この間、栗林中将は全将兵に陣地構築を命令し、「時間との戦いである」と巡視時でも作業中は一切の敬礼をやめるよう訓示した。島の特徴である硫黄ガスや、50度にもなる地熱で、坑道の建設は困難を極めた。司令部は地下20mに作られ、400人収容可能な部屋もいくつか作られた。トーチカは鉄筋コンクリートで造られ、壁の厚さは1.2mもあった(火山灰をセメントに混ぜることでより強固な防御力を発揮)。栗林中将には戦車を地中に埋めて隠し砲台にするという思い切りの良さもあり、1944年末には75mm以上の火砲約361門が設置された。これらの火力は通常の日本軍装備の4倍に相当した(ちなみに戦車隊の連隊長“バロン西”西竹一陸軍中佐は1932年ロス五輪の馬術金メダリスト)。兵員の増援も続き、米軍上陸前に守備隊は2万1000人に達した(陸軍13586人、海軍7347人)。食糧と弾薬は持久抵抗に必要となる2.5か月分が備蓄された。栗林中将は決戦前の訓示で、日本軍が行ってきたバンザイ突撃(玉砕突撃)を厳禁した。「我らは最後の一人となるもゲリラによって敵を悩まさん」と、本土が少しでも防御に時間を避けるよう時間稼ぎの持久戦を選択した。他に「演習の様に無暗に突込むな。打ちのめした隙に乗ぜよ。他の敵弾に気をつけて」「苦戦に砕けて死を急ぐな」とも。1945年2月13日、海軍の偵察機がサイパンから硫黄島方面に向かう170隻の米軍大船団を発見、硫黄島守備隊に緊張が走る。決戦が迫っていた。

1945年2月16日、硫黄島攻略開始にあたり指揮官スミス中将いわく「攻略予定は5日間、死傷は1万5千人を覚悟している」。これより前、米軍はB-24が事前攻撃として74日間の連続爆撃を行ない、さらに作戦スタート時に戦艦6隻、巡洋艦5隻の猛烈な艦砲射撃を3日間海岸線に撃ち込んだ。日本軍の陣地はこれに耐えたが、栗林中将が厳しく「水際防御をするな」「上陸させ500m進んだところで撃て」と言っていたにもかかわらず、標高169mの摺鉢(すりばち)山に布陣する海軍・重砲部隊が米軍上陸用舟艇を砲撃してしまう。居場所がバレ、たちまち大火力の反撃を受け重砲陣地が壊滅しただけでなく、海軍が設置した魚雷庫(これも栗林中将が設置するなと言っていた)が誘爆して大爆発を起こし、坑道への進入路が露呈してしまった。
19日、朝からB-29爆撃機120機の爆撃と“仕上げ”の艦砲射撃を行った後、米軍はついに上陸を開始した。午前10時、日本軍からの攻撃がなく海兵隊員が肩透かしを感じ始めていた時、それまで地下坑道でチャンスを待っていた日本軍守備隊の一斉攻撃が始まった。たちまち先頭の海兵連隊は25%の死傷者を出し、米戦車隊は高射砲の水平射撃を受け56両のうち28両が撃破された。米兵たちは塹壕を掘って身を隠そうとしたが、地面は崩れやすい火山灰で掘れなかった。この上陸初日だけで海兵隊の戦死者は501人、戦傷死47人、負傷1755人という甚大な損害を受けた(1日で戦死者501人というのは海兵隊創設以来最大)。海兵隊は犠牲を出しながら、日没までに3万人を上陸させた。
20日、海兵隊は火炎放射器と手榴弾でトーチカを1個ずつ破壊していく。21日、沖合の米艦船に八丈島から飛んできた神風特攻隊32機が攻撃をかけ、空母「サラトガ」大破炎上、護衛空母1隻撃沈などの戦果を挙げた。米国では国民に「戦死644人、行方不明560人」が伝えられ衝撃が走り、坑道の日本兵を一気に殲滅するため毒ガス攻撃を主張する新聞もあった。硫黄島上陸後、わずか3日間で“史上最大の作戦”ノルマンディー上陸作戦の戦死傷者数を上回っていた。
22日、米軍は坑道に発煙弾を投げ込み、立ち上る煙で出入口を見つけるとブルドーザーで入口を塞ぎ、坑道上部に穴を開けガソリンを流し込んで放火する「馬乗り攻撃」を始める。23日、海兵隊は遂に摺鉢山頂上へ星条旗を掲げ、その様子を写した『硫黄島の星条旗』は同年ピューリッツァー賞を受賞した。26日、飛行場陥落。

3月7日、夜明け前に米軍としては異例となる奇襲攻撃を行い、日本軍の分断に成功した。この日、栗林中将は大本営へ最後の戦訓電報を打電し、自分たちの経験を後世に生かすべく攻防戦の総括を報告した。
「陸海軍の縄張的主義を一掃するため、両者をひとつにまとめねばならない」「海軍中央の指令により飛行場の拡張のため兵カを奪われ、陣地が弱化したことは遺憾の極み」「防備上致命的なのは日米の物量差。結局戦術も対策も施す余地なし。特に数十隻からの間断なき艦砲射撃と、一日のべ1600機にも達することがある敵機の銃爆撃により、我が方の損害が続出したのは痛恨の至り」。
硫黄島には川がなく日本兵は雨水が命綱だった。備蓄の飲用水が絶え、兵は渇きに苦しんだ。3月16日、弾薬も尽き果て、同月のフィリピン陥落で援軍も期待できず、栗林中将は大本営へ訣別電報を送る。
「(抜粋要約)敵の来襲以来将兵の敢闘は真に鬼神を哭せるものあり。この要地を敵の手に委ねることになり幾重にも御詫び申上げる。今や弾丸尽き水涸れ、全員反撃し最後の敢闘を行おうとしている。皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ御別れ申しあげる」
17日、大本営は同日付けで栗林を陸海軍最年少の大将に昇進させた。栗林大将はその信念に従い、無意味な突撃をしなかった。3月26日、訣別電報から10日間好機を待ち、最も夜襲の効果を出せる敵(空軍野営地)を探して約400人で攻撃を敢行し、米側記録で死傷者172人(うち戦死53人)の被害を与えて散った。米海兵隊は敵である栗林大将に敬意を表し遺体を捜索したが、栗林大将は階級章や所持品を外して最後の総攻撃を行ったため発見できなかった。日本軍の組織的戦闘は終結。1949年、終戦を知らずに坑道に潜伏し続けた日本兵2人が投降した。米兵が捨てた雑誌の中に東京・不忍池で米兵と日本人女性が一緒にボートを漕ぐ写真を見つけ敗戦を悟ったという。
硫黄島守備隊壊滅から6日後の4月1日、沖縄本島に米軍が上陸し地上戦が始まった。

「5日で攻略できる」と思っていた米軍相手に36日間も抵抗を続けた日本軍。この戦いで守備隊2万933人のうち2万129人が戦死した。米軍の死傷者は2万8686人(うち戦死6821人)。戦傷者を含むと人的被害は日本軍を上回っており、星条旗を摺鉢山に掲げた海兵隊員6人のうち、生きて帰国できたのは3人っだけだった。硫黄島陥落から終戦までに2251機ものB-29が硫黄島に不時着し、搭乗員計2万5千人の命が救われたことから、米国としては戦死者6821人の犠牲が報われたことになる。戦後、アーリントン国立墓地の近くに『硫黄島の星条旗』をモデルにした合衆国海兵隊戦争記念碑が建てられた。
1985年2月19日(上陸40周年の日)、硫黄島で日米双方の元軍人400人が合同慰霊祭を行った。慰霊碑には日本語と英語で「我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦った事を銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之れを繰り返す事のないように祈る次第である」と刻み、双方の参加者は抱き合い落涙したという。その後、日米が合同慰霊祭を行なう世界で唯一の土地になっている。2008年時点で遺骨が回収された元日本兵は8638人。

※イーストウッド監督は映画『硫黄島からの手紙』の中で、米兵にとっては憎むべき宿敵であるはずの栗林中将に「我々の子どもらが日本で一日でも長く安泰に暮らせるなら、我々がこの島を守る一日には意味があるんです!」と叫ばせた。ジャップではなく尊厳を持った人間として。栗林中将の墓は長野県松代。

●1945.3.18-21 九州沖航空戦…3月18日、沖縄上陸作戦の事前攻撃のため、米空母12隻&約1400機が日本近海に現れ、九州、四国、和歌山の軍施設を空襲した。これに対し、日本軍は神風69機を含む193機で反撃。空母2隻を小破させたが、161機(出撃機の約8割)を失った。他に米軍機を迎撃した零戦47機損害。米軍機の損害は29機撃墜にとどまった。
19日、室戸岬沖から瀬戸内海を空襲していた艦隊に日本軍は付近の全航空兵力で反撃。空母2隻を大破させ1隻を中破させた。特に空母「フランクリン」は戦死者832人という甚大な被害を受けた。“832人”は、この大戦で米軍が受けた一隻あたりの戦死者数で最大のもの。
21日、この間の空襲を終えて沖縄戦に向かう米艦隊に対し、日本軍は初めて人間爆弾“桜花”15機を投入。だが、桜花を搭載した神雷部隊・一式陸攻18機全機が、目標地点到達前に米艦載機に撃墜された(詳細後述)。大本営は「空母5隻、戦艦2隻を含む11隻撃沈」と発表したが、実際には撃沈ゼロであった…。

〔太平洋戦争最大の激戦・沖縄戦

●1945.3.23 沖縄戦開始…米軍上陸の可能性に備えて日本陸軍は沖縄守備隊となる第32軍を編成した(1944年2月)。サイパン島玉砕(同44年7月)で沖縄への進攻が確実となり、大本営は司令官に牛島満中将を任命。砲兵の権威、和田中将が派遣された。精鋭部隊の第9師団も置かれ守備隊は強力になったが、フィリピン・レイテ決戦に台湾駐留部隊が動員され、玉突きで第9師団は台湾に派遣され、守備隊は兵力の約3分の1を失った。だが、依然として砲兵戦力は充実しており400門以上の火砲を擁した。
米軍上陸前の沖縄守備隊は陸軍8万6400人、海軍約1万人、学徒隊などが2万人で、計11万6400人。ただし、陸海軍の約2万人は現地で徴兵された17歳から45歳までの一般男子だった。1945年になると第32軍は決戦に備えて積極的に疎開を促した。
連合軍は日本本土にも中国にも進攻できる沖縄を前線基地にする必要があり、フィリピンと硫黄島をほぼ攻略し終えた1945年3月下旬、沖縄上陸作戦=アイスバーグ(氷山)作戦の実施を決定した。3月23日、米軍機延べ2000機が周辺離島を空襲。サイパン島やレイテ島から続々と米艦隊が出発し、艦艇1500隻、輸送船450隻、兵員54万8000人(うち上陸部隊18万人)の大部隊が沖縄洋上に集結した。アイスバーグ作戦には、香港、シンガポールの権益回復を期待しイギリス軍も空母10隻を参戦させた。24日、上陸予定地点へ艦砲射撃開始。地形が変わるほどの激しい攻撃が行われたため、この艦砲射撃を沖縄では「鉄の暴風(Typhoon of Steel)」と呼ぶ(米軍が沖縄戦で使用した銃砲弾は約300万発というとんでもないもの)。3月26日、米軍は離島へ上陸を始め、慶良間諸島の座間味島などを占領し本島に迫る。

●1945.3.28 沖縄渡嘉敷島・住民集団自決…沖縄本島の西、渡嘉敷島に米軍が上陸した際、「米兵に殺されるよりは身内の手で」と約300人の住民が集団自決した。これを皮切りに、座間味島で177人、慶留間島で約50人、伊江島で約150人が集団自決した。沖縄本島でも読谷村チビチリガマ(壕)で82人(4月2日)、玉城(たまぐすく)村糸数で約20人で痛ましい住民の自決があり、本島・離島で約800人の住民が命を断った。詳細後述。

●1945.4.1 沖縄本島へ米軍上陸…沖縄戦開始から一週間が経過した4月1日、米軍が本島中西部へ上陸を開始。守備隊は本土決戦までの時間稼ぎをするため、硫黄島やペリリューのように水際作戦を放棄し、中南部に陣地を築いて敵兵力を消耗させる持久戦を展開した。無血上陸を果たした米軍主力部隊はその日のうちに嘉手納と読谷村の飛行場を制圧した。

●1945.4.6 菊水作戦開始…沖縄の米軍に対する日本軍の航空総攻撃。作戦名の「菊水」は楠木正成の旗印に由来。4月6日から11日まで行われた「菊水一号作戦」(524機参加、うち特攻機297機)を皮切りに、6月21日〜22日の「菊水十号作戦」まで2ヶ月半続き、米船36隻が撃沈された。菊水作戦による沖縄沖の米海軍の戦死者は4907人であり、地上戦で戦死した陸軍4600人、海兵隊の2800人よりも多い。しかし、日本側の被害もまた甚大だった。乗員が複数の機体もあったので、菊水作戦を含む沖縄戦全体で、約2900機(うち特攻機は約2300機)の飛行機と約4400人の搭乗員を失った。敵に命中した機体は2300機のうち約250機(11%)。沈没したのは全て駆逐艦以下の船舶であり、大型空母で戦線を離脱したのはバンカーヒルとエンタープライズのみで、戦局を好転させるに至らなかった。

●1945.4.7 天一号作戦/戦艦大和轟沈…3月28日、及川軍令部総長が昭和天皇に航空総攻撃「菊水作戦」の実施を伝えると、天皇は「海軍にもう艦はないのか、海上部隊はないのか」と質問。動転した及川軍令部総長は「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と答えてしまい、すぐさま大和を旗艦とした連合艦隊第二艦隊に沖縄出撃の命が下る。それは片道分の燃料(3往復分との説あり)で沖縄の海岸に乗り上げ、水上砲台となって戦えという「水上特攻」の指令だった。
水上特攻は連合艦隊主席参謀・神重徳(かみ しげのり)大佐が発意し、豊田副武(とよだ そえむ)連合艦隊指令長官が決定した。
軍が考えていた元々の作戦では、大和を使って米艦隊を本土の側まで誘い出し、空と海から叩くというものだった。しかし天皇の言葉で作戦は激変、「畏レ多キ御言葉ヲ拝シ恐懼(キョウク)ニ堪ヘズ…」と緊急電報で特攻が告げられた。

4月5日、瀬戸内海に浮かぶ「大和」艦上の朝のコーヒー時。特攻命令を伝えに来た連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将に対し、第2艦隊司令長官の伊藤司令長官は「航空機支援もない無謀な作戦で無駄死にだ」と抗議。草鹿参謀長自身も作戦に疑問を持っていたため黙りこくってしまうと、作戦参謀・三上作夫中佐が「要するに、一億総特攻のさきがけになって頂きたい、これが本作戦の眼目であります」と説得。伊藤司令長官は「わかった。作戦の成否はどうでもいいということなんだな」「我々は死に場所を与えられた」と覚悟を決めたが、“ただし”と一つ条件を出した。「作戦がいよいよ遂行できなくなった時は、その後の判断は私に任せて欲しい」。草鹿参謀長はうなづいた。慌ただしく出航準備が整えられ、4月6日夕刻、大和は護衛の軽巡1隻、駆逐艦8隻と共に10隻で出撃する。
伊藤司令長官は妻に宛てて「親愛なるお前様に後事を託して何事の憂いなきは此の上もなき仕合せと衷心より感謝致候 いとしき最愛のちとせ殿」、娘に宛てて「私はいま可愛いあなたたちのことを思っております。そうしてあなたたちのお父さんはお国のために立派な働きをしたと言われるようになりたいと考えております。もう手紙は書けないかもしれませんが、大きくなったらお母さんのような婦人におなりなさい。というのが私の最後の教訓です。御身大切に。父より」と遺書を残した。
この「大和」出撃に際し、鹿屋基地司令官・宇垣纏中将は途中まで護衛航空機をつけ、その中に伊藤の長男・伊藤叡(あきら)中尉の零戦もいた。
※長男・叡は父を空から見送った2週間後、4月28日に沖縄海域で神風特攻を行い戦死した。

「死ニ方用意」。約3千名の乗組員に作戦内容が特攻と知らされたのは出航の後。動揺し、特攻の是非を巡って衝突する乗組員に対し、“これは無駄死にではない”と臼淵大尉の悲壮な決意が語られる。「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る、まさに本望じゃないか」。

天一号作戦は暗号解読で米軍に筒抜けで、大和は出航から半日で米潜水艦に捕捉された。出撃の翌日正午過ぎ、鹿児島・坊ノ岬沖を航行中に米艦載機が来襲。386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もの米艦載機から猛爆を受けた。
米軍で攻撃命令を下したのは、伊藤司令長官が30代の頃、駐米時代に親友となったレイモンド・スプルーアンス(後の米太平洋艦隊司令長官)。米航空機は左舷を集中的に狙って魚雷10本を命中させ、上空から爆弾3発を投下(米側の記録では魚雷30〜35本・爆弾38発)。14時20分、船が20度左傾。この時点で艦隊は2隻が沈没、3隻が航行不能で、動けるのは大和と駆逐艦4隻のみだった。伊藤司令長官は「(若い)有為な人材を殺すことはない」と考え、全艦隊に「作戦中止」命令を出し、大和乗組員には総員退去を命じた。その後、伊藤は長官室に入ると内側から鍵をかけ、二度と出てこなかった。
交戦開始から約2時間後、大和はゆっくりと横転し、直後に大爆発を起こし、14時23分、艦体は2つに分断されて轟沈した。伊藤司令長官と有賀幸作艦長は大和と運命を共にした。

大和の乗組員3332人のうち3056人が戦死。生存者は1割以下の276人。同時に大和を護衛していた軽巡「矢矧」、駆逐艦「磯風」「浜風」「霞」「朝霜」も沈没し、護衛艦の乗組員計3890人のうち981人が戦死した。この天一号作戦では計4037人が戦死している。生存者を救助した駆逐艦「冬月」の士官によれば、大和乗組員は重油で真っ黒であったという。
伊藤司令長官の作戦中止命令がなければ、大和乗組員を救出した駆逐艦は、そのまま沖縄に艦隊特攻をかけて玉砕していた。現在、大和の最期が語り継がれているのも生存者がいてこそ。伊藤司令長官の英断のおかげだ。

※海軍兵学校同期の遠藤喜一、高木武雄、山県正郷と伊藤も含めた4大将は全員中将で戦死し、死後大将に特進している。
※天一号作戦への軍令部次長・小沢治三郎中将の当時の反対意見が的確。「積極的なのはいいが、それはもはや作戦と呼べるのか」。

  猛攻に耐える大和

●1945.4.8-24 沖縄戦最大の戦闘・嘉数(かかず)の戦い…大和が沈んだ7日から本格的に沖縄地上戦が始まり、4月8日から24日まで首里(那覇市)北方の“嘉数(かかず)高地”(第七〇高地)において沖縄戦最大の戦闘『嘉数(かかず)の戦い』が繰り広げられた。高台を有効活用した日本軍陣地は米軍からの連日の猛攻によく耐え、戦力差を考えると互角以上に戦ったといえる。特に4月19日は、米軍が投入した戦車30両に速射砲、高射砲、爆雷を背負った特攻兵の体当たりなどで22両を破壊し退却させた。20日、両軍は熾烈な白兵戦を展開。この日、米軍は半月間の戦いを経て嘉数陣地の大半を占領した。21日、嘉数の村落陣地で激戦となり日本軍は米軍を撤退させる。22日、米軍は戦局を一気に打破するため精鋭だけを集めたブラッドフォード特攻隊を編成。23日、砲撃戦。24日、ブラッドフォード特攻隊が嘉数陣地へ突入し激闘の末に陣地を陥落させ、16日間にわたる死闘に決着がついた。
『嘉数の戦い』における日本軍の死傷者は6万4千人。守備隊約10万人のうち半数以上が何らかのダメージを受けたことになる。一方、米軍の死傷者も2万4千人にのぼり、嘉数高地だけで両軍の戦死傷者が合わせて約10万人にのぼった(嘉数の住民も半数以上が死亡)。翌月の“シュガーローフの戦い”と共に沖縄戦を象徴する決戦とされている。また、4月26日から11日間続いた浦添の前田高地の攻防戦も一進一退の激しいもので、米陸軍省が「ありったけの地獄を1つにまとめた戦場」と表現するほど凄絶な状況だった(地域住民の3分の2が死亡)。

『嘉数の戦い』と時を同じくして、4月16日に本島の東対岸に浮かぶ伊江島に米軍が飛行場建設のため上陸。守備隊2千人及び動員された島民が5日間抗戦し、日本側は4706人が死亡した。残留島民は5千人であったから、守備隊を差し引いても島民の2人に1人以上が死んだことになる。この伊江島攻略で米軍は218人が戦死した(ピューリッツァー賞を受賞した従軍記者アーニー・パイル含む)。22日、米軍が沖縄本島の北部を制圧。
5月4日、守備隊は温存していた砲兵隊や戦車隊を投入し、本格的な反転攻勢を開始。戦線を普天間まで戻そうとした。だが、あまりにも米軍の物量攻撃が凄まじく、火砲や戦車の大半が破壊され、第32軍の戦死者は7000人に達し大打撃を受けてしまう。

●1945.5.12 渡野喜屋事件…日本軍による民間人殺害事件。詳細後述。

●1945.5.12-18 シュガーローフの戦い…地上戦が本格化して1ヶ月以上が経っても、いまだ守備隊司令部は落ちず日本軍は健闘していた。5月12日〜18日にかけて第32軍司令部がある首里西方に米軍が迫り“シュガーローフの戦い”と呼ばれる激戦となった(シュガーローフは米国の菓子パン。高地の形が似ていた)。米軍は要塞化したこの丘の攻略で何度も十字砲火を浴び、死傷者2662人という多大な犠牲を払った後にようやく制圧した(“米海兵隊地獄の7日間”とも)。5月24日、シュガーローフを突破され首里陥落の危機が迫った第32軍司令部は南部への撤退を決定。30日、本島南端の摩文仁(まぶに)村に防御陣を築いたが、既に第32軍は戦力の8割を失っていた。31日、首里落城。

【海軍・大田実中将の自決】
日本海軍の陸戦隊・沖縄方面根拠地隊も、那覇から南部へ移動し第32軍と合流しようとしたが、米軍の包囲網突破を不可能と判断。6月6日、海軍部隊司令官の大田実中将(当時少将)は司令部壕で自決する前に「沖縄県民、かく戦えり」とする訣別電報を海軍次官宛に打った。そこには“軍は戦いに専念し県民のことを顧みる余裕がなかったのに、県民は軍の召集に進んで応募し戦ってくれた”と沖縄県民への感謝の言葉がある。そして、“沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして、草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている”と絶望的状況を報告し、訣別電報の一番最後で「沖縄県民、かく戦えり。沖縄県民に対し、後世に特別の配慮を願う」と締めくくっている。

【日米・両司令官の死】
そんな中、6月18日に前線視察中の米側最高指揮官サイモン・バックナー中将が砲撃で戦死する。沖縄上陸軍のトップの死は米軍に衝撃を与えた。バックナー中将は米軍史において最高位の階級(中将)で戦死した唯一の軍人となった。日本軍にとっては大戦果であるが、バックナー中将は人柄が兵士たちに慕われていたことから、復讐の鬼と化した上陸軍は中将が死亡した地域で苛烈な掃討作戦を行い、国吉高地(現在糸満市)では約500人の住民のうち200人以上が報復で殺害され、捕虜になった男子は全員銃殺された。南部の東風平村・小城では住民約750人のうち約6割の440人以上が死亡した。陸軍の各師団も加速度的に崩壊していく。
6月23日、バックナー中将戦死から5日後、日本軍の方でも沖縄守備軍・最高指揮官の牛島満中将(第32軍司令官)と、参謀長・長勇中将が摩文仁司令部で自決した。前日の「菊水十号作戦」で航空部隊の菊水作戦も終了しており、6月25日、大本営は沖縄本島における組織的な戦闘の終了を発表した。
牛島中将は最後の命令で「最後の一兵まで戦え」と降伏も玉砕突撃も許さなかったことから、残存兵の一部は終戦後も8月29日まで抗戦を続けた。その後、沖縄は米軍占領下に入り、1972年5月15日に日本へ返還された。

沖縄戦で使用された銃砲弾の数は、米軍側だけで271万6691発。他に砲弾6万発と手榴弾39万発、ロケット弾2万発、機関銃弾3千万発。膨大な数の民間人が戦闘の巻き添えや飢餓によって死んでいった。住民は国体護持の捨て石とされた。日本側の死者は18万8136人。沖縄守備隊11万6400人のうち、戦死者は9万4136人。民間人の死者も9万4000人で軍人とほぼ同じだ。現地召集を受けた正規兵のほか、防衛隊・鉄血勤皇隊など2万8228人や戦闘地域外の餓死者・病死者を含めると、沖縄県民の犠牲者は「15万人」にものぼる。人口45万のうち15万、実に県民の3人に1人が帰らぬ人となった。一般住民の集団自決(読谷村ほか)や、渡野喜屋事件のように日本軍が住民を虐殺した悲劇もあった。米軍の戦死者は1万2520人、戦傷者7万2012人。太平洋戦争で米兵の戦死者が1万人を超えた戦場はフィリピンと沖縄だけ(フィリピン戦は約半年間だが、沖縄戦は約3カ月)。
沖縄では毎年6月23日を「慰霊の日」として休日とし、合同慰霊祭がおこなわれている。

※沖縄戦では米兵の婦女暴行が多発し、沖縄戦を書いた米国の作家ジョージ・ファイファーは被害者数を1万人以上と推定している。特に、沖縄戦末期に上陸してきた部隊の素行が酷かった。氏は元海兵隊員からシュガーローフ(那覇市・新都心地域)の悲惨な戦いを聞き、沖縄戦の研究を開始。いわく「米国人はいつも自分たちが正しい、と思うよう教育を受けている。しかし、戦後の沖縄の統治時代を勉強し、我々の行いについて恥じるに至った」。住民の収容所生活も適切な環境とは言いがたく、本島では(現在の)米軍基地建設のため強制移住が行われ、宜野座地区収容所には20万人以上が押し込められる過密状態で、「飢えと負傷とマラリアで老人や子供が続々と死んでいった」という(浦添村の犠牲者のうち312人は収容所で死亡)。収容所に女性目当ての米兵が入ってくると酸素ボンベの鐘を叩いて女性たちを避難させたとも伝わる。現・名護市勝山では毎週のように避難民の女漁りにくる米兵の一団にたまりかねた人々が、3人の米兵を殺害して洞窟の奥深く投げ捨てた事件まで起きた。
※最初の激戦地となった嘉数高地は嘉数高台公園として整備され、複数の慰霊塔がある。トーチカ跡も残っている。
※海軍部隊大田司令官が自決した海軍司令部壕跡は現在「海軍壕公園」として壕内が見学できる。沖縄守備軍・牛島司令官が自決した壕は平和祈念公園の中にあり、壕の近くには「黎明の塔」が建てられている(内部は立入禁止)。
※守備隊は激戦の中で何度も大本営に援軍を求めたが聞き届けられなかった。戦略としては正しくても、捨て石にされた人々はたまったものじゃない。そして今、日本政府は普天間基地の移設問題で、また県民を“捨て石”にしようとしている。大田中将の自決からもうすぐ70年。訣別電報の“県民には後世に特別の配慮を”という願いは実現しただろうか?沖縄にはいまだ75%の米軍基地が集中し、米軍機の墜落や騒音、米兵の暴行事件に悩まされ続けている。普天間基地移設に対する政府の態度は極めて冷たいもの。政府や保守は沖縄県民と対立してはだめだ。本土防衛の時間稼ぎために尊い犠牲を捧げた沖縄に、もっと感謝と共感の念を持つべきだ。


〔沖縄戦〜本土防衛のために犠牲となった沖縄県民〕(NHK『沖縄 よみがえる戦場〜読谷村民2500人が語る地上戦』より)
沖縄県民の受難は17世紀から始まる。1609年、突如として薩摩藩約3000の兵と100隻の軍船による侵略を受け、琉球王国が諸外国と良好な関係を築いて交易で得た富の大部分を略奪された。薩摩藩は当時貴重品だった砂糖を農民にタダ同然で作らせ独占的に買い占め、大阪の市場で何十倍もの値段で専売し莫大な利益をあげた。明治維新で薩摩が見せつけた軍事力は琉球支配の結果だ。薩摩が押しつけた“掟15条”には「薩摩の許可なしに唐へ進貢物を送ることを禁ず」とあり、琉球は外交権を奪われ独立国家とは言えなくなった。
それから約340年後、1945年4月1日にアメリカ軍が沖縄本島へ上陸し、3ヶ月間で10万人の沖縄県民が犠牲になった地上戦が始まった。沖縄の人々は沖縄守備軍として組織された第32軍のことを“友軍”と呼んでいた。しかし大本営は、沖縄を本土防衛のための“捨て石”と位置付けていた。本土の防衛体制を整える時間稼ぎと、沖縄で少しでも米軍の兵力を削りとり、本土上陸の敵兵を減らそうというのだ。沖縄戦の5ヶ月前に第32軍が作った極秘文書『県民指導要綱』には「軍官民、共生共死の一体化」とあり、沖縄県民は軍と生死を共にすることを求められていた。

米軍が事前攻撃で撃ち込んだ艦砲射撃は“一畳に一発”といわれるほど凄まじいもので、人々はこの「鉄の暴風」から逃れるためガマ(洞窟)に逃げ込んだ。本島中部の読谷村(よみたんそん)には飛行場があるため、真っ先に米兵が上陸してきた。読谷村に米軍が上陸した時、日本軍は既に南部へ撤退していたので、村民はガマに隠れるか、村の外に逃れるか、決断を迫られた--。
読谷村では1万3千人のうち3千人以上が亡くなっている。集団自決、逃避行の果ての餓死、味方の日本軍による虐殺。これらの戦争体験を後世に伝えるため、読谷村は2004年に『村史戦時記録』をまとめた。制作に費やした年月は14年。2500人の証言を集め、当時の全村民1万3千人の足取りを追った。
日本軍は兵力不足を補う為、弾薬の運搬などを手伝う戦闘補助員“防衛隊”を招集した。防衛隊は米軍上陸後に最前線へ送り込まれた。17歳以上の男子が対象だったが、読谷村の防衛隊員のリストによると、11歳の子どもまで招集されていた。村民「長男が小6の時に招集しよった。米と黒砂糖を持たせ“頑張っておいでね、気をつけてよ”と泣きながら行かせたが、そんでもう…だめだった…」。
読谷村では米軍上陸翌日(4/2)に集団自決が9カ所で起き、139人が亡くなった。なかでもチビチリガマという名の洞窟では83人が亡くなっている。大半は女性、子ども、高齢者。チビチリガマでは敵に捕まることを恐れた18歳の娘が最初に声をあげた「お母さんの手で殺して」。ひざまづいて頼む娘を母は刺した。次に煙で窒息死するため、ガマに持ち込んだ布団に石油をかけ火が付けられた。炎に着物が投げ込まれ、多くの人がこの煙で亡くなった。刃物や注射で命を断つ人もいた。知花カマドさん(当時26歳)は夫を沖縄戦で失い、5歳の長男をチビチリガマで失った。知花さんは煙が広がるなか“死ぬなら外で”と考える人達の後をついて出口に向かった。出口の手前で帯を掴んでいたはずの息子がはぐれてしまった。生後6ヶ月の娘を人に預け、無我夢中で米兵から懐中電灯を奪いガマに戻ったが、あまりに煙の勢いが強くて見つけられなかった「60年経ったけれど、昨日か一昨日にしか考えられず…辛い」。当時12歳の上原進助さん「米兵に捕まって殺されたら天皇陛下に申し訳ないと、敵に殺されるより自決を選ぶ方が潔しという教育だった」。
読谷村民の死因内訳によると、栄養失調(つまり餓死)が1014人で犠牲者の3分の1にのぼっている。あとは砲撃、射殺、マラリア、病気など。読谷村では約半数の6千人が村を離れ、“やんばる”と呼ばれる北部山岳地帯に向かった。軍が事前に指定していた避難地域(国頭村)を目指し、密林70kmを徒歩で北上した。やんばるには全島から8万人が避難した為に、食糧の配給はすぐに途絶え、多数が栄養失調で亡くなった。

村民が向かったやんばるの山岳地帯ででは、米兵による敗残兵狩りが行われていた。兵隊と間違われて射殺される人もいた。一方、鬼畜と教えられていた米兵から食糧が与えられ人々は驚いた。だが、ようやく飢えと恐怖から逃れた住民を、予想もしない悲劇が襲った。5月12日、やんばるの渡野喜屋(とのきや)という集落に収容されていた住民が、日本兵に襲撃されたのだ。当時の米軍の記録には「山に潜んでいた日本軍の部隊が35人の住民を殺害した」と記されている。
生存者の仲本政子さん「当時私は4歳だったので何も覚えていない。でも、兄は8歳だったので全部見ていた。私は20歳の時、兄から両親のことを聞いた。その日、父は米軍から貰ったメリケン粉を皆に配っていたそうだ。夜中、日本兵が何十人も血相を変えてやって来て、“俺達は山の中で何も食うものがないのに、お前達はこんな良いものを食っているのか”と言い、村の男達を連れて行った。家族の目の前ではなく別の場所で父は殺された。首に短刀を3つ突き刺され、両方の膝の裏側を“日の丸だ”といって500円玉くらいの大きさで丸くくり抜かれていたそうだ」。父の無残な姿を見た母は精神を患って亡くなり、兄も父の最期を仲本さんに伝えた後で発病した。両親を失った仲本さんにとって兄は親代わりだった。兄は米軍住宅の芝刈りをして稼いだお金で高校も卒業させてくれた。
渡野喜屋事件は残された資料が少なく世間一般に知られていない。当時28歳だった仲村渠(なかんだかり)美代さんは、渡野喜屋で家族9人のうち5人を日本兵に殺された。何があったのか鮮明に覚えており、今でも事件を思い出してよくうなされる。「あの日、夜中3時頃に武装した10人ほどの日本兵が突然押し入ってきた。まず男達が家の外に出された。女性と子どもは海岸に連れて行かれ4列に並ばされた。仲村渠さんは最前列右端。真後ろで4歳の女の子が母親に抱かれて眠っていた。前方には手榴弾を手にした日本兵が並んでいた。1、2、3の号令でもう投げていた。私が伏せると頭の上を何か行くような気がした。首がなくなってる人、手がなくなってる人、足がなくなってる人、誰かの腿(もも)か飛んでたり様々だった」。真後ろの少女は手榴弾の破片を浴び全身血まみれになっていた。翌朝、少女の父親を目撃した。民家の柱に縛られ、惨殺されていた。「短刀で突かれ胸に血がだらだら流れていた。その姿は忘れられない。よくもあんなことを出来たものと」。NHKの取材班は、この仲村渠さんの証言に出てくる少女の年齢や父親のことが仲本さんと一致していることに気づいた。

仲本さんは33歳の時に沖縄を離れ大阪に移った。ずっと渡野喜屋事件を心に閉じ込めて生きてきた。事件に触れると、畑泥棒までした戦後の貧しさや、母の病気で受けた差別など惨めな過去も思い出すからだ。
2005年、2人は60年ぶりに再会した。手をしっかりと握り合った。出会ってから話し終えるまで、ずっと。「覚えていますか」と仲本さん。「覚えていますよ。私ね、あなたがアメリカ兵に連れて行かれるのを見たからね、あの時は血を浴びて…箱に入れて連れられて行くのを見たから、元気と聞いたからよけい会いたくてね」「(手榴弾の)傷あとは60歳になってからも残ってます。体中血だらけでした」「抱っこ出来ずに箱で運ばれたのよ」「きっと泣いたはず、全身に手榴弾が入ってるから」「怖かったねぇ」「今でも破片が足から出てくるの。学校でもね、汚いと言われましたよ。鉄弾が腐って全身がかさぶただらけでした。毎日暑い日でも長靴下と長袖で通いました。でも顔は隠せないからかさぶただらけで歩きました」「あんたに会えるなんて思わなかったよ」「ありがとう、ありがとう」「夢みたいだね。あんたの便り聞けて良かったさ。どうしてるかといつも思ってたよ」。仲本さんにとって仲村渠さんは辛い記憶を素直に語れる初めての人だった。手を握ったまま仲村渠さんの膝に顔をうずめ、泣いた。優しく声をかける仲村渠さん「あなたが元気でこんなに嬉しいことはないさ。ね…」「おばぁ、私もね元気で頑張るから、仲村渠さんも頑張ってね」。
大阪に帰る前日、仲本さんは事件のあった渡野喜屋の海岸に立った。「お父さん、何事もなく、ゆっくりと眠って下さい。私達はこんなに元気に育ってますから…お父さん、お父さん」。家族の運命を大きく変えたこの浜で、仲本さんの戦後に一つの区切りが付いた。

※元日本兵・森杉多さんは渡野喜屋の現場にいなかったが経緯を知っていた。「地元民から渡野喜屋“スパイ部落”の情報が伝えられた。米軍から食糧支給を受けスパイを働いているという内容だった」。日本兵は住民が部隊の隠れ家を米軍に通報することを恐れた。3日後、隊長命令で渡野喜屋の人々の“処刑”が決定した。スパイ疑惑の真偽が確かめられることはなかった。今となってはスパイかどうかなど確認のしようがないけど、4歳の女の子がスパイであるわけがなく、大人も子どもも一緒に殺害しようとしている点で正常な精神状態でないのは確か。沖縄戦での日本軍による住民殺害事件は、自治体が把握しているだけでも31件、94人にのぼっている。生存者がいない場合は当然証言もなく本当の数は分からない。
※沖縄戦で初めて捕虜となった2人の沖縄県民(年配の男女)は後に解放されたけれど、悲惨な事に日本兵の手で処刑されてしまった(男性は日本刀で斬首)。理由は“無事に解放されたのは、きっとスパイになったから”。しかし明確な証拠があった訳ではない。米軍の依頼を受けて日本兵に投降勧告に向かった島民が、スパイ嫌疑をかけられて日本兵に処刑されるケースも少なくなかった。

★森山良子『さとうびき畑』(7分25秒)上記の沖縄戦コラムを読まれた方は、この歌が今までと異なって聞こえると思う…。

●1945.4.1 阿波丸事件…連合国側から航行の安全を保障され、捕虜へ救援物資を届けるなど人道活動をしていた阿波丸が、台湾海峡で米潜水艦クイーンフィッシュ(ラフリン艦長)から4発の魚雷攻撃を受け沈没。2045人の乗客・乗員のうち生存者はコックの下田勘太郎だけという惨劇となった。日本政府は当初から強く抗議していたが、米艦長は軍法会議で戒告処分になったのみ。米政府は違法性を認めたが、戦後吉田内閣はマッカーサーの圧力に屈して“阿波丸協定”を結び、損害賠償請求権を放棄した。遺族への補償は日本政府が肩代わりした。

●1945.4.12 ルーズベルトが急死。トルーマン副大統領が昇格する。トルーマンは初めて原爆開発計画のことを知った。

●1945.4.15 石垣島事件と巣鴨プリズン…石垣島を空襲した米軍機が高射砲で撃墜され、3人の米兵が捕虜となった。井上乙彦大佐率いる海軍警備隊は、捕虜に対して敵情報の尋問を行った後、同日夜に2人を斬首、1人を銃剣で処刑した。終戦後、捕虜殺しの事実を隠すために遺体を掘り起こして火葬にし、遺骨を海中に投げ入れた。しかし、良心の呵責に耐えかねた1人の元兵士がGHQに匿名で投書を送り、事件が発覚。その結果、処刑を指示した井上大佐ら士官7人が逮捕され、1950年4月7日に巣鴨プリズンで絞首刑となった。この2ヶ月後に朝鮮戦争が勃発し、日本は米軍の後方基地として一心同体になったことから、先の7人が巣鴨プリズンで最後に処刑された戦犯となった。その後、終身刑の受刑者も目立たぬように少しずつ釈放され、1958年には戦犯全員が釈放された。1962年に改名後の巣鴨刑務所も廃止され、1978年に巨大商業施設「サンシャイン60」が跡地に立てられた。

●1945.5.8 ドイツ降伏…降伏に先立ち4月30日に自殺したヒトラーは、遺書にこう書き残した「敗戦の原因は私にあるのではなく、私の意見を行わなかった将軍達や将兵にある」「戦争で負けるような民族は劣等民族なのだから、絶滅しても構わない」「捕まって恥をさらしたくないから自殺する」。その最後の言葉の中には、これまでドイツのために戦ってくれた兵士への感謝や、破滅的な結果へ導いた国民への詫びの一言すらない。

●1945.5.17-6.2 九州大学・生体解剖事件…九大医学部石山福二郎教授は、捕虜のアメリカ人飛行士8人を生きたまま4回にわたって解剖した。(以下、残酷描写あり)1回目は2人の兵士の肺を全て摘出し、輸血の代わりに海水を注入し、どれくらい生きられるかを実験。2回目は2人の捕虜の胃と肝臓を全摘。3回目は捕虜一名の頭蓋骨を外して頭部解剖。4回目は3人の捕虜を海水の代用血液、肺解剖、肝臓切除に処した。この事件は戦後にGHQへの匿名投書で発覚した。石山教授は逮捕され獄中で首吊り自殺。
※大戦後、「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーブ条約」第13条において、捕虜の身体の切断またはあらゆる種類の医学的、科学的実験で、医療上正当と認められないものを禁止した。

●1945.5.26 皇居“明治宮殿”全焼…5月中旬、軍部は東京が空襲で危険なので、長野県松代に完成した地下陣営に大本営と皇居を移そうとしたが、天皇は「わたくしは市民といっしょに東京で苦痛を分かち合いたい」と断った。そして5月26日、皇居近辺も激しい空襲に晒され、火災が飛び火して敷地中心の貴重な建物“明治宮殿”が全焼する。火災の一報を聞いた天皇は「正殿に火がついたか、正殿に!あの建物には明治陛下が、たいそう大事になさった品々がある。大事なものばかりだ。何とかして消したいものだ」と咳き込んだ。鎮火後は犠牲者の有無を問いかけ、焼け落ちた正殿について諦観したように「これでやっとみんなと、同じになった」と静かに語ったという。

●1945.6.8 本土決戦決定…御前会議にて、日本はあくまで徹底抗戦し本土決戦を敢行することを決定。

●1945.6.18 ダウンフォール(滅亡)作戦承認…米軍の日本本土上陸作戦・ダウンフォール作戦をトルーマン大統領が承認。次の2つの作戦で構成されている。もし8月15日に降伏しなかったら以下のようになっていた。
(1)『オリンピック作戦』〜1945年11月1日に予定されていた九州南部上陸作戦。目的は東京陥落のための前進基地、大型飛行場建設(兵員72万人、3000機収容)。作戦に参加する兵力は空母42隻(!)、戦闘機1914機、戦艦24隻、400隻以上の駆逐艦、海兵隊&歩兵約34万人!まず10月に中国・上海に上陸するものと見せかける陽動作戦=パステル作戦を発動し日本軍の兵力をそちらへ分散させる。次に10月末に高知県沖に8万人が陽動上陸。さらには九州上陸5日前に米英連合軍が種子島、屋久島などを損傷艦の退避場にするため占領。これらの事前準備の上で、『オリンピック作戦』を発動し、宮崎、大隅半島、薩摩半島の3方面から上陸する。連合軍は自軍の予測死者数を、タラワ、硫黄島、沖縄戦の結果から25万人と見ていた。
(2)『コロネット作戦』〜1946年3月1日に予定されていた関東上陸作戦。東京を東西から攻撃。具体的には、神奈川の湘南海岸に30万人が上陸し、相模原市・町田市付近より東京都内へ東から進攻。同時に、千葉の九十九里海岸に上陸した24万人が西から攻めあがり、約10日で東京を包囲するというもの。予備兵力と合わせて107万人の兵士と1900機の航空機を投入し、ノルマンディー上陸作戦をはるかに凌ぐ最後の作戦だった。
一方、日本側は大本営が「一億玉砕」の号令の下、陸海軍500万人と共に男子15歳から60歳、女子17歳から40歳まで根こそぎ徴兵した国民2600万人を本土決戦に投入する計画を立て、1945年4月に東日本を第一総軍(司令部・市谷)、西日本を第二総軍(司令部・広島)に振り分けた。
トルーマン大統領は『オリンピック作戦』と『コロネット作戦』で最大50万人の米兵が戦死すると考え、開発中の原爆の威力に期待した。
※広島が最初に原爆を投下された最大の理由は、第二総軍の総司令部があったから。総司令部は原爆で壊滅的被害を受け、市内の諸部隊は全滅。爆心地から4km離れていた陸軍の暁部隊(宇品)が救護・救援活動の主力となった。

●1945.6.23 沖縄守備隊、組織的抗戦を終える。

●1945.7.21 原爆実験成功…米国がニューメキシコ州で原爆実験に成功。人類はウラン分裂の発見から、わずか7年で核兵器を作ってしまった。
遡ること1938年12月、ドイツのカイゼル・ヴィルヘルム科学研究所でウラニウム(ウラン)の核分裂現象が発見された。翌月、デンマークのニールス・ボーア博士が“原子核を分裂させれば膨大なエネルギーが放出されるはす”と発表。原爆開発の動きが最初に起きたのは、米国ではなくドイツと交戦中の“英国”。1940年3月、英の物理学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスは、「原爆製造は理論的に可能である」と、その破壊力、放射能汚染、製造過程について初めて具体的に触れた『フリッシュ=パイエルスの覚書』をまとめ、「(ドイツが原爆を保有するなら)最も有効な対応は、同様の爆弾により反撃の威嚇を行うことだろう」と記した。その翌月、英科学者たちは原爆研究を行うMAUD委員会を組織。米国のマンハッタン計画より2年も前のこと。太平洋戦争の1年前であり、当然ながら、対日本の原爆開発ではない。
MAUD委員会は1941年7月の最終報告書で、英政府チャーチルに対して「米国と協力し至急開発すべき」と勧告した。3ヶ月後、英で原爆開発計画「チューブ・アロイズ」が開始され、米政府にも早い段階で原爆の意義が伝えられたが、欧州の戦争と距離を置いていたこともあり、積極的に検討されなかった。チャーチルは北アフリカ戦線でドイツ軍に苦しめられ、しきりにルーズベルトに原爆開発を促し、MAUD委員会のメンバー(マーク・オリファント)が渡米して要人を説得してまわり、1941年10月にルーズベルトは原爆の開発を決断した。この時点でもまだ日米は戦っていない。2ヶ月後に真珠湾攻撃があり、マンハッタン計画がスタートするのはさらに翌年のこと。
※科学者たちは通常爆弾の1000〜1万倍の破壊力と想定し、ドイツ、米国、そして日本でも原爆開発が進められた。1943年、東京の理化学研究所は「原爆の製造は可能」と陸軍に研究報告を提出し、軍は同研究所に開発を委託(東京大空襲で研究は全部灰になった)。
※1939年の時点で米国では亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードやアインシュタインがルーズベルトに「ナチスより先に核兵器を開発すべし」と信書を送ったものの、前述したようにルーズベルトはすぐに本腰を入れず、米政府がマンハッタン計画で本格的に原爆開発に取り組むまで3年を要している。ドイツ降伏後、5月28日にレオ・シラードは後の国務長官バーンズに原爆投下反対を訴えた。ドイツ降伏前は訴えておらず、シラード博士は1945年になっても日本を目標にしていたのではないことが分かる。ロスアラモス国立研究所の所長としてマンハッタン計画を主導し、“原爆の父”と呼ばれるオッペンハイマーでさえ、「使うことの出来ない武器」として開発を指導していた。戦後、オッペンハイマーは反水爆活動に積極的に展開し、また共産党の集会に参加したことが“赤狩り”で糾弾され、1954年に公職追放の憂き目に遭う。
※ニールス・ボーア博士は自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに当初は気づいていなかった。2年後(1943年)、ユダヤ人を母に持つためナチスの迫害を恐れて渡英した際、米英が平和利用ではなく原爆として原子力を研究していることを知る。以降、核兵器の軍拡競争を怖れて原子力国際管理協定の必要性を米英指導者に訴えた。

●1945.7.26 ポツダム宣言…ベルリン近郊ポツダムにおいて、米・英・中三国の名で日本に対する降伏勧告と戦後処理方針が宣言される。連合軍による占領、戦争犯罪人の処罰、再軍備禁止などが規定され、トルーマンは原爆を念頭に「降伏しなければ迅速かつ完全なる破壊があるのみ」と警告した。だが、鈴木貫太郎内閣は軍部に圧力をかけられ「ポツダム宣言を黙殺する」と声明を出し、ワシントンは原爆投下を決定する。

〔ポツダム宣言・全13条〕
1.我々(合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣)は、我々の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。
2.3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。この軍事力は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持され且つ鼓舞される。
3.世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ナチス・ドイツに対して適用された場合にドイツとドイツ軍に完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。
4.日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
5.我々の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。
6.日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。
7.第6条の新秩序が確立され、戦争能力が失われたことが確認される時までは、我々の指示する基本的目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点は占領されるべきものとする。
8.カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない。
9.日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる。
10.我々の意志は日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障害は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。
11.日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争と再軍備に関わらないものが保有出来る。また将来的には国際貿易に復帰が許可される。
12.日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。
13.我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである。

〔“ポツダム宣言”はちゃんと読むと“気配り宣言”〕
「無条件降伏しか認めない」「占領軍が進駐」「受諾せねば日本と日本軍が完全に破壊される」など、そこだけ読めば威圧的に感じられる宣言内容。しかし、全項目を読めば、“できるだけ日本国民に不安を与えないようにしたい”との気配りが随所に感じられる。特に印象的な条文を以下にピックアップ。
第4条…日本が軍国主義者の指導を引き続き受けるかそれとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。(もうこれ以上、軍国主義者に好きにさせるなという呼びかけ)
第6条…日本を世界征服へと導いた勢力を除去する。(連合軍の敵はあくまでも軍国主義者であり一般国民ではない)
第7条…第6条の新秩序が確立され戦争能力が失われたことが確認されるまでの日本国領域内諸地点の占領。(軍部が再団結しクーデターに走らぬよう監視)
第9条…日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る。(兵士諸君!愛する家族と再会でき、これからは穏やかに平和に暮らせます!)
第10条…日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではない。一切の戦争犯罪人は処罰されること。民主主義的傾向の復活を強化すること。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること。(軍部が宣伝していた“米国に負けたら奴隷にされる”とかはウソ!ただしこれだけのことを引き起こした戦犯は裁く。基本的人権を尊重する社会を目指し、失われていた言論、思想の自由が復活することを約束!)
第12条…日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立。これが確認されたら占領は解かれる。(いつまでも占領するつもりはない。選挙によって平和な政府が誕生すれば占領をやめます)
このように、降伏によって倒されるのは軍国主義であって日本民族ではないと念を押し、強調している。でも、軍部はこの第10条の文面を国民に知らせなかった。日本のリーダーたちは天皇の扱いがハッキリしていないことを「黙殺」の理由にしているけど、条文全体を見れば、戦犯裁判にかけられることを恐れて「黙殺」しているようにしか思えない。実際、天皇自身は“大丈夫、連合軍の価値観は信頼できる”と語っていた。

★1945.8.6 広島へ原爆投下…午前8時15分、B29爆撃機“エノラ・ゲイ”号が広島直上からウラン型原子爆弾を投下。通勤時間と重なり約14万人(1945年末時点)もの死者が出た。日本政府は原爆投下を戦時国際法違反であるとし、8/10にスイス政府を通して「原爆は無差別性・残虐性を有する非人道的兵器であり、それを使用したのは人類文化に対する罪状なり」とする抗議文を米国政府に送った。
政府内では、東郷外相が原爆を戦争終結の転機にしたいと述べ、これに天皇は同意した。昭和天皇「この種の武器が使用された以上、戦争継続はいよいよ不可能になった。有利な条件を得ようとして戦争終結の時期を逸することはよくない」(8/8)。
原爆開発の基礎を担った英の物理学者オットー・フリッシュは、広島に初めて原爆が投下された時の複雑な気持ちを語っている。「(原爆製造に関わった)多くの友人たちが電話に殺到して、祝賀会のためにホテルへテーブルを予約しようとするのを見たときの不快な、実のところ吐き気を催す感覚を今でも覚えている。 もちろん彼らは自分たちの仕事の成功に得意になったのだった。 だが、10万の人々の突然死を祝う姿は、たとえそれが『敵』であったとしても、むしろ残忍であると思えた」。

《トルーマンが日本への原爆使用に踏み切った理由》
1.東京大空襲で市民10万人を殺すなど、繰り返し絨毯爆撃を続けてきたことで、無差別爆撃の残酷さに対して不感症になっていた。トルーマンもヘンリー・スティムソン陸軍長官も、原爆をまるで通常兵器の延長のように捉えていた。
2.日本の共産化を防ぐ為に、ソ連軍が満州や北海道に侵攻してくる前に対日戦を終結したかった。
3.約20億ドルもの税金を投入して開発した新兵器を使わずに戦争を長引かせると、議会や国民から猛烈に非難されると考えた。
4.原爆を使用しない場合、日本本土上陸作戦の際に米兵が最大で50万人戦死すると予想された。
5.ドイツがまだ降伏していない時点で日本を目標にしたのは、原爆完成までにドイツは降伏していると予測したから。
6.攻撃目標がなくなるほど都市爆撃を繰り返しても、日本の軍上層部の暗号解読からは「徹底抗戦、1億玉砕」といった言葉ばかり。
7.原爆のショックで日本軍部の戦意をくじき、日本指導部の中にいる和平派を力づけて早期降伏に追いやるため。
※軍部にショックを与えるのが目的なら、人口密集地に落とさず海上に投下し、「次は市街地」と警告すべきだと僕は思う。
※1944年9月18日にルーズベルトとチャーチルが結んだ密約“ハイドパーク協定”にて、原爆の目標がドイツから日本に移された。背景として、前月にグアム島で米兵1万122人が死傷しており、前々月にはサイパン島で米兵1万6600人の死傷者が出ている。「日本への投下は人種差別が背景にある」という意見については、確かにそれもあるだろうけど、最初に連合国から無差別都市爆撃を受けたのは白人国家のドイツであることを忘れてはならない。むしろ日本は軍事施設だけを爆撃されていた…東京大空襲までは。東京大空襲は硫黄島の戦いで米側が苦しんでいる時期と重なる(米兵の死傷者数が日本兵を上回る惨状)。続く沖縄戦では米兵戦死傷者約8万5千人という多大な犠牲を払うことになった(しかも司令官まで戦死)。トルーマンが“沖縄だけで約8万5千人も戦死傷者が…これで本土に上陸したらどうなるんだ”と不安に包まれたことは想像に難くない。ドイツ兵は戦場で負け戦と分かると降伏して捕虜となったが、日本兵は降伏せずに玉砕特攻をした。こうした違いも判断の陰にあっただろう。僕は人として絶対に原爆投下を容認しませんが。
あと、あまりこういうことは書きたくないけど、日本兵も中国の民衆をチャンコロと呼んでめちゃくちゃ差別し、フィリピンでも凄まじい住民虐殺を起こしている。日本が同盟相手のナチスドイツに人種差別を抗議したという話も聞かない。それを棚に上げた意見は説得力に欠ける。
トルーマンが急死したルーズベルトに代わって大統領に就任してから、原爆投下まで3ヶ月半しか経っていない。前述したように、彼は核兵器の本当の恐ろしさを理解しておらず、通常兵器の延長線で捉えていたとも。米陸軍長官ヘンリー・スティムソンは次のようにこう回想している--「私はトルーマンに、広島の破壊を示す写真を示した。大統領は、それを見て、我々が負わなければならない恐るべき責任について、私に吐露した」。

《広島平和記念公園の受難》
爆心地に近い『広島平和記念公園』は1954年4月1日に完成した。公園中央の原爆慰霊碑(死没者慰霊碑)には、死没者27万5320人の名簿が納められている。慰霊碑や関連施設は50年近く“鎮魂の場”として国民に大切にされてきたが、2001年から毎年のように心ない行為に晒されている。

●2001.12.7 原爆慰霊碑が落書されたうえ赤ペンキがかけられる。
●2002.5.5 再び原爆慰霊碑にペンキがかけられる。
●2003.8.1 「原爆の子の像」千羽鶴14万羽放火…広島平和記念公園の「原爆の子の像」側に保管されていた原爆犠牲者を悼む折り鶴に関西学院大学4年生男子が放火。約14万羽が焼失した。「原爆の子の像」のモデルは、2歳で被爆し、後に白血病でわずか12歳で死亡した佐々木禎子さん。佐々木さんは病気の快復を信じ病床で折り続けたという。大学生は「就職が決まらずむしゃくしゃしてやった」と供述。その場にいた友人2人は傍観していた。8月6日の5日前の出来事であり社会に衝撃が走った。同大学の在校生、卒業生、教職員が折った91000羽が6日に届けられた。
●2003.10.19 原爆ドーム説明碑に悪戯…8月に折り鶴放火事件があったばかりなのに、今度は原爆ドーム前の説明碑が黒い油性塗料で汚された(複数の手形あり)。
●2005.7.26 原爆慰霊碑破損事件…被爆60年目の夏に平和記念公園の原爆慰霊碑の碑文が削られた。犯人は27歳の右翼団体構成員。碑文の『安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから』の「過ち」を、“日本に過ちはない”と右翼の男が削ろうとしてハンマーで損壊。だが、碑文の中の「過ち」とは一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した戦争や核兵器使用を指したもの。1970年に山田節男市長が「(慰霊碑の)主語は『世界人類』であり、碑文は人類全体に対する警告・戒めである」と公式に見解を示しており、今の広島市のホームページでも同様のことがハッキリと書かれている。この慰霊碑破損事件は、まったくもって短絡的で視野の狭い犯行だ。結局、60周年の大事な平和祈念式典に修復が間に合わなかった。懲役2年8ヶ月の実刑判決(短い!)。犯人は修理費用182万円の支払いも「“過ち”を消さない限り支払わない」と拒否している。
●2006.1.11 慰霊碑破損事件から半年後、母が子を抱いた平和記念像の台座に“ボケ”と落書きがあり、平和の灯やトイレにも“ボケ”の落書き。
●2008.5.22 広島・JR三原駅前の原爆死没者慰霊碑そばにある石柱に掛けられた折り鶴約2万羽が放火され、すぐに消し止められたが1万羽が焼失した。慰霊碑は同市原爆被害者之会が03年に建立。市民が平和を願い数万羽の折り鶴を捧げてきた。同会副会長の上田孝司さん(79)いわく「原爆の被害に対する認識がない、ということなのか…」。
●2008.7.30 広島市中区の『堀川町原爆慰霊碑』が倒され正面が大きく破損。町民の犠牲者185人を追悼し50年前に建てられたもの。サラリーマン風の酔った複数の男が上に乗って遊んでいたとの目撃情報。同年の原爆の日に修復は間に合わず。
●2009.10.19 平和記念公園の原爆慰霊碑に捧げられた花束11束が引き抜かれ、撒き散らされた。犯人は37歳の右翼団体構成員。礼拝所不敬罪で検挙。
●2010.3.11 平和記念公園に約10日前に植樹されたばかりの「被爆桜」(広島市役所の敷地内で被爆)が数本が竹製の支柱ごと引き抜かれる。桜はロープで囲われ被爆桜であることを説明するプレートも付いていた。
●2012.1.4 原爆慰霊碑に金色のペンキがかけられる。今回も『過ちは 繰返しませぬから』の部分が汚された。監視カメラには塗料スプレーを持った男の姿。広島市の松井市長は「原爆死没者の御霊(みたま)を冒とくするもので強い憤りを覚える」と声明。

  汚された碑文(2012年1月4日、広島市撮影)

…このように、原爆慰霊碑と関連施設は様々な嫌がらせ・悪戯の対象になってきた。しか し、前述したように戦後約50年はこんな事件は殆どなかった(1989年に右翼が別の碑文を損壊したけど、さすがに原爆慰霊碑には手を出さなかった)。最初の赤ペンキ事件が起きた2001年はどんな年だったのか。同年4月に小泉政権が誕生し、靖国問題などで愛国心論議が起き、小林よしのり氏ら保守 論客が「大東亜戦争は正義の戦争」と盛んに喧伝した時期だ。「戦争の反省は自虐的」という意見を恐れて、学校現場で戦争のことを教える機会が減った結果が、若者による折り鶴放火などを引き起こしているのでは。保守の一部には、米国による原爆投下を虐殺行為と批判しながら、原爆被害者に対して「反核は左翼的」「平和運動が気にくわない」と鞭打つようなことを言う人がいる。原爆で同じ日本人の命がたくさん奪われたのによくそんなことを言えるもの…。現在、平和公園の主な慰霊碑は24時間体制で防犯カメラによって監視されている。そこまでせねば破壊行為や悪戯を防げない現状が日本人として誠に情けない。

●1945.8.8 ソ連の対日参戦…“ドイツ降伏後3ヶ月以内に対日参戦する”というヤルタ協定に従い、ソビエトが日ソ中立条約を破棄。翌9日、ソ連軍の大部隊が満州国へなだれ込んだ。広島に投下された新型爆弾が原爆と判明し、スターリンに連合国との和平仲介役を期待していた日本は衝撃を受ける。

※NHK-BSで日ソ交渉史を特集。スターリンが不可侵条約を破って日本に参戦したのは、ソ連が独断で決めたわけではなくアメリカに頼まれたから。ヤルタ会談でルーズベルトの要請を受けたため。
戦後、鳩山一郎総理や重光大使がソ連で交渉し、平和条約締結と歯舞・色丹返還が決定した。ところが冷戦下のアメリカは、日本がソ連と平和条約を結びニ島返還に応ずれば「沖縄返還」はないと圧力。結局、日本政府は米に屈し断念した。

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●1945.8.9 長崎へ原爆投下…午前11時2分、プルトニウム型原爆が長崎市の真上で爆発。約7万人もの人々が死んだ。この日、首相、外相、陸海軍の大臣、統帥部長らの最高戦争指導会議では、戦争続行派が「アメリカは原爆を1個しか持っていない」と説いていたが、その最中に長崎の悲劇が伝えられ衝撃が走った。東郷外相が「天皇の地位保全がされるなら降伏しましょう」と訴えると、鈴木首相、米内(よない)光政海相が賛成した。だが、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相、梅津美治郎(うめづ・よしじろう)陸軍参謀総長、豊田副武(とよだ・そえむ)海軍軍令部総長の3人は(1)武装解除は日本が行う(2)戦犯の処罰も日本側で行う(3)本土を占領しない、この3条件にこだわった。阿南陸相は「1億玉砕の覚悟で戦い続けるうちに何らかのチャンスがある」と本土決戦を主張した。約12時間の閣議で結論は出ず。

●1945.8.10 聖断…「ポツダム宣言を受諾すべき」とする東郷外相&米内海相と、「あくまで徹底抗戦を」と訴える阿南陸相、梅津、豊田ら軍首脳が対立したため、行き詰まった鈴木貫太郎首相は天皇に“鶴の一声”を仰ぐため深夜に御前会議を招集。天皇は東郷外相の降伏案を支持し、理由を説明した。「本土決戦、本土決戦と言うけれど、一番大事な九十九里浜(米軍上陸予想地)の防備も出来ておらず、また決戦師団の武装すら不充分にて、充実は9月中旬以降になるという。飛行機の増産も思うようには行ってない。いつも計画と実行は伴わない。これでどうして戦争に勝つことが出来るか。もちろん、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰など、それらの者は忠誠を尽くした人々で、それを思うと実に忍び難いものがある。しかし今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲びたてまつり、自分は涙をのんで原案に賛成する」「これ以上戦争を続けてもいたずらに国民を苦しめ、国家を滅亡に導くだけだ」。いわゆる“聖断”が下された。和平派は原爆を降伏理由の中心に置いて武闘派を説得した。それによって、徹底抗戦を叫んでいた軍部は、“精神力”や作戦でアメリカに負けたのではなく、原爆開発の“科学戦”に負けたという論理でメンツが守られ終戦を受け入れた。
※木戸幸一内大臣(宮中側近)「陛下や私があの原子爆弾に依って得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機を与えられたと言うものであった。心理的衝撃を利用して断行すれば終戦出来るのではないかと考えた。私ども和平派は、あれに終戦運動を援助して貰った格好である」。鈴木首相「(終戦の口実として)非常に好都合なもの」。米内海相「原爆とソ連参戦は、ある意味では天佑だ。国内情勢によって戦争を止めるという言わずに済むからだ」。
※戦後、昭和天皇と対面したマッカーサーは「なぜ終戦の決定が遅れたのですか」と質問。戦時中、大本営も新聞も“勝った勝った!”と勝利ばかり伝えていたことを念頭に、天皇はこう答えた「それまで一般国民には(戦況が)正確に知らされていなかったので、世論にショックを与えることなしに戦争を終わらせるように持って行くことは難しかった。和平派は広島の爆撃が劇的な情勢を創り出すまでには、優勢にならなかった」(9/27)。
※政府首脳があの原爆被害を“天佑”という言葉で表現することに怒りを感じるが、同時にこれまでの流れを見ると、「1億玉砕」「1億火の玉」など叫んでいる軍部は、ソ連が参戦しようが日本が焦土になるまでとことん降伏しないのは明らかだった。

●1945.8.14 御前会議…軍部がポツダム宣言「断固拒否」の姿勢をとり続けるため、14日に改めて御前会議が開かれた。かたくなに反対する阿南陸相、梅津陸軍参謀総長、豊田海軍軍令部総長の3人に対して天皇は次のように説得した。「陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことは真に堪え難いことで、その心持ちは私にはよく分かる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。このうえ戦争を続けては、結局わが国がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩をなめさせることは私として実に忍び難い。祖宗(そそう)の霊にお応えできない。(略)日本がまったく無くなるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる」。
またその2日前には、「降伏すると共和制になる可能性がある」と、軍部が国体維持(天皇制)にこだわることに対し、天皇は「たとえ連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではどうしようがない。人民の自由意思によって決めて貰って、少しも差し支えない」と語った。連合国が示した“日本政府の形態は日本国民の自由意思によって決められるべき”という戦後日本のビジョンを天皇は支持していた。

●1945.8.14-15 宮城(きゅうじょう)事件…国体護持が確約されるまで徹底抗戦すべしと、日本の降伏を阻止するために陸軍省軍務課員の畑中健二少佐や椎崎二郎中佐(共に33歳)ら一部将校が起こしたクーデター。反乱部隊は玉音放送を実施させないために録音盤の奪取を画策。15日深夜2時頃、同志となることを拒否した近衛第一師団長・森赳(たけし)中将を殺害し、森中将をかばおうとした第二総軍参謀・白石通教中佐も斬殺した。そして師団長命令を偽造し、近衛歩兵第二連隊を率いて皇居(宮城)を占拠。宮内省の電話線を切断、皇宮警察官を武装解除させ、深夜に録音盤を探し回った。並行して反乱将校は軍上層部や東部軍に決起の参加を呼びかけたが応じる者はいなかった。15日早朝6時、昭和天皇に事件が知らされると、「私が出て行ってじかに兵を諭(さと)そう。私の心をいってきかせよう。私の切ない気持ちがどうして、あの者たちには、わからないのであろうか」と嘆いた。午前7時に東部軍司令官・田中静壱大将が皇居を奪還。反乱将校はクーデターを断念し、畑中少佐と椎崎中佐は玉音放送の1時間前に皇居の松林にて自決した。また、反乱部隊に理解を示していた師団参謀の古賀秀正少佐(東條の娘婿)も放送開始と同時に自決した。
※事件後の昭和天皇は反乱を鎮圧した田中大将をねぎらい、「今日の時局は真に重大で、いろいろの事件の起こることはもとより覚悟している。非常に困難のあることはよく知っている。しかし、せねばならぬのである」と、今後予想される混乱に対する覚悟を語った。

●1945.8.15 終戦…日本は8月14日にポツダム宣言を受諾した。9月2日、ミズーリ号にて降伏文書に調印。日中戦争以来の日本兵の死者は約233万人、民間人の死者は約65万人にのぼった。日本の全人口(当時)の8分の1にあたる900万近い人々が家を失い、建築物の被害は全国都市床面積の約4割、艦船の喪失は8割に達した。

日本人の死者は310万人、アジアの人々の死者は1700万人以上(中国1千万、インドネシア400万、ベトナム200万、フィリピン110万、朝鮮半島20万、ミャンマー15万、シンガポール10万、タイ8万。05年8月7日・東京新聞調べ)。
日本軍の降伏時、南方の各地域にいた兵力は陸軍約61万3千人、海軍11万7千人、計73万人。BC級戦犯5700人が捕虜虐待・住民虐殺の罪で裁かれ、934人が処刑になった。

※1946.2.23 “マレーの虎”山下奉文大将がフィリピンで絞首刑の40分前に残した遺言より
「私の刑の執行は刻々に迫って参りました。もう40分しかありません。この40分が如何に貴重なものであるか、死刑因以外には恐らくこの気持の解る人はないでしょう」
(日本の皆さんへ)「軍部の圧力によったものとは云え、あらゆる困苦と欠乏に堪えたあの戦争十箇年の体験は必ず諸君に何物かを与えるに違いないと思います。新日本建設には、私達のような過去の遺物に過ぎない職業軍人あるいは阿諛追従(あゆついしょう=媚びへつらうこと)せる無節操なる政治家侵略戦争に合理的基礎を与えんとした御用学者等を断じて参加させてはなりません

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〔元特攻隊員たちの声〜特攻隊の真実/“自己犠牲は美しい”論がけっして問おうとしない自己犠牲をさせた人間の罪〕

当項は、この長い年表の中でも、特に先の戦争の核心に迫るものになっている。特攻隊員たちの心の叫びと、戦後に右派が流布してきた「特攻隊の若者は全員が自ら志願していた」「遺言は国の為に死ぬことを名誉に思っているものばかり」「みんな笑顔で飛び立った」という特攻隊員像があまりにかけ離れており、このまま誤った歴史認識が既成事実になっては散っていった若者が浮かばれないと感じ、この項目を特に気合いを入れて記した。
もちろん“記した”と言っても、僕が実際に当時を知っているわけではないので、いろんな元特攻隊員の手記を読み、それを再構成したものになる。知覧特攻平和会館や靖国遊就館は胸を打つ資料がたくさんある。でも今から書く内容はけっしてそこでは語られなかったことばかり。「志願どころか先に名簿で決まっていた」「遺言は上官がチェックし、軍の意向に沿わねば書き直しを命じられた」「生還すれば卑怯者と呼ばれるので機体が故障しても戻れず海に堕ちた」等々。特に、エースパイロットほど特攻に否定的であったことを強調しておきたい。前途有望な若者の生命をむざむざ喪失させたことを決して美化してはならない。
※撃墜王エース…(海軍)“最強の零戦パイロット”岩本徹三、“公称神風第1号”関行男大尉、菅野直、“大空のサムライ”坂井三郎、小高登貫、杉田庄治、横山保 (陸軍)田形竹尾。特に海軍の岩本徹三は太平洋戦争時の日米パイロットの中で唯一撃墜数200機超えを記録するエース・パイロット。
彼らの大半が特攻作戦の不毛さを語り、軍上層部への怒りを表明している。是非ともこのコラムを読んで、あの戦争や神風を振り返る時の参考資料になればと願っていマス。

●いろんな手記が出ているけれど、僕が知る限り『虚構の特攻隊神話・つらい真実』(小沢郁郎/同成社)ほど、特攻隊員の本音を集めたものはないように思う。本人も特攻隊員で、出撃直前に終戦を迎えている。故・小沢郁郎さんの気迫のある文体から「彼らの死を無駄にしたくない」という真摯な思いを感じる。
以下はその著書からの抜粋。基本的には原文通りだけど、この年表の読者に10代の若者がいることを想定して、専門的すぎると感じた言葉や、今はあまり使われてない漢字などを現代語に置き換えているのと、原書で話が前後にとんでいるものを読みやすいように一つにまとめている部分があります。意図的に内容を変えるようなことはしていませんが、オリジナルの文章を知りたい方はまだ絶版になっていないので購入されることを薦めます。

★『虚構の特攻隊神話・つらい真実』(小沢郁郎)より〜神風、桜花(人間爆弾)、回天(人間魚雷)

●訓練時間の圧倒的不足
体当たりを“した者”とともに、“させた者”がいる。最初から体当たり専用兵器を開発・生産・準備し、要員を編成組織・訓練・実施したのは日本軍くらいで、ナチスでさえそんなことはしなかった。日本軍は特攻隊の相当数を“神様のように”どころか“紙屑のように”扱った。飛行機による体当たりは命中しても貫徹度、破壊力は低く、むしろ投弾した方が破壊力は大きい。機体の衝突も、軽金属が鋼鉄に当たるので効果はなく、それよりも燃料が飛散・発火して被害を大きくすることはあった。
パイロットの養成には時間がかかる。300飛行時間程度まででは“飛べる”というだけで、空中戦など問題にもならない。操縦歴2年でもヨチヨチ歩きの段階。操縦歴4年、1500時間までは“僚機”として作戦任務につける程度。指揮官として戦闘力を発揮するのは5年〜10年、2000〜5000時間は飛んでいる操縦者。飛行機を作るより搭乗員を養成することの方がはるかに困難。ところが特攻隊には200時間以下の者さえあった。これでは静止目標への急降下命中さえ怪しい。無風でも急降下して加速された機体は機首が浮く。特攻機の多くが目標をオーバーしたのは機首が浮いた為だ。艦船はタテに長いので横からの攻撃はわずかの高度差でも命中しない。前方からの突入も速度が合成され命中率が低い。艦尾からの命中率が最も高いが、目標は動いているうえスコールのような弾幕がふりかかる。目標の艦船種、全長と速力(艦尾の波で推測)の把握、風向・風速を同時に加算できなければ海面への突入となる。駆け出しの操縦者にできることではない。
貴重な人材と飛行機をひたすら消耗していく作戦を押し進めることは利敵行為であり、参謀らは敵側から感謝状でも欲しかったのか。
特攻要員に選ばれた第14期予備学生の中には、練習機5〜60時間、零戦2〜30時間程度しかない者もいた。フィリピン戦後期に台湾で予備士官たちに施された特攻教育はたった7日間の課程で、いわば離陸と体当たりだけであった。
※1944年11月に特攻攻撃を受けた米駆逐艦『アンメン』艦長マックリーン大佐いわく「神風のパイロットたちは相対運動を計算していないように見受けられる。彼らは今後も、攻撃目標の後方に外れ続けるだろう。この有利性は速力を利用することで高められる」。

●神風特別攻撃隊の誕生
1944年10月17日、米軍がフィリピン・レイテ島に上陸を開始した同じ日に、一航艦(第一航空艦隊)長官に大西瀧次郎が着任し、3日後(20日)、「艦隊決戦を有利にするため敵空母甲板を一週間は使用不能にする」のを目的として201空戦闘機隊に体当たり隊の選出を命じた。「神風特別攻撃隊」の出現である。ただ、これは大西の独断ではなく海軍中央の意向だ。10月13日の時点で、軍令部作戦課の源田実中佐が起案した次の電文(大海機密第261917番電)が出ている。「神風隊の攻撃の発表は全軍の士気昂揚並びに国民戦意の振作(しんさく)に至大の関係ある処、各隊攻撃実施のつど純忠の至誠に報い攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等)をも併せ適当の時期に発表のこと…」。このように特攻は最初の編成、実施以前に、隊名まで決められ、発表の心配を中央がしているほど既定のことだった。
10月25日、250キロ爆弾を取り付けたゼロ戦5機が米軍艦船へ体当たり攻撃を加え、護衛空母「セント・ロー」が誘爆で沈んだ。「セント・ロー」が民間商船を改造した装甲もロクにない護衛空母だったことや、沈没原因が幸運な誘爆だったことも分からず、大西瀧次郎は正規空母(大型空母)と誤認し「効果あり」と体当たり攻撃を押し進めた。
一方、陸軍の方も「海軍に負けるな」とハッパがかけられ、フィリピンの四航軍司令官・富永恭次中将の強い功名心によって11月12日に万朶隊(ばんだたい)4機がレイテに突入した。大本営は陸軍最初のこの体当たり攻撃を4人の氏名入りで公表した。だが、うち一機は離陸後トラブルで引き返し、一機は爆弾を投下して無事に帰還していた。後者の操縦者が敗戦後まで生き抜いたことで有名な佐々木友次伍長だ(詳細後述)。陸軍航空特攻は最初から公表と食い違っていた。
陸軍の特攻機は4名乗りの九九式双発軽爆撃機(九九双軽)や8人乗りの四式重爆撃機など大型で、武装を外して1人で操縦した。重い爆弾を抱えた鈍重な機体は敵戦闘機のカモにされた。それでも富永中将は体当たりを熱望し強行した。景気の良いことが好きなのだ。出撃を見送る時は「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と滑走路で日本刀を振り回して激励した(62回にわたって約400機の特攻を命令)。
航空戦のシロウトで、鈍足の百式重爆全9機の白昼ハダカ強襲までやらせ、夜間襲撃のベテランぞろいの小川戦隊は消滅した。小川飛行団長は痛憤を『所感録』に残した「百式重爆をもって艦船攻撃を行えば、その行動は牛の如く、全滅のほかなし、無知識の猪突(ちょとつ)」。

●古い機体でトラブル多発
熟練操縦士の貴重さを知っている海軍は海軍兵学校出身者を虎の子として温存し、予備学生・予科練(海軍飛行予科練習生)出身ばかりを出撃させた。片や陸軍は最初から超エースの万朶隊長・岩本大尉や富嶽隊長・西尾少佐を指名し、陸軍航空士官学校や陸軍士官学校出身者をフルに投入した。1945年3月末の沖縄戦開始期には米軍の特攻対策は格段に強化され、二段構えのレーダー、それを最大限に活用した艦載戦闘機群、近接信管(ドプラー効果を利用し当たらなくても最接近した瞬間に炸裂)の40ミリ機関砲など艦船防空火力の飛躍的増強で対抗していた。作戦初期は高かった特攻機の命中度も戦果も減少し、なけなしの飛行機と貴重な搭乗員は失われ、明らかに特攻を中止すべき状態で逆方向に直進したのが軍上層部だった。練度の低い搭乗員を、実戦不適のオンボロ機(練習機“白菊”、時代遅れの九七式戦闘機、羽布ばりの中級練習機)までかき集めて送り出した。1945年5月11日の神風出撃では8機の九七式のうち5機がトラブルで飛べなかったという記録も残る。オンボロ機では250キロ爆弾など運べるものではなく、100キロ弾で出撃したものもある。これでは命中しても打撃は弱い。特攻機は退歩さえしているのである。
陸軍の特攻推進派は簡易特攻機『剣』まで製作した。ブリキ製、低速、低性能、不安定で、爆弾を機体に半分埋め込んで一体化し、離陸すると車輪を落としてしまう無慈悲な特攻機だった(投下不能の爆弾が腹にあり胴体着陸も出来ない)。
1945年2月下旬、富高(宮崎県日向の特攻隊基地)で操飛練40期生に特攻員が募集された。中級練習機特攻隊である。誰も申し出る者がなかった。先任分隊長は蒼白な顔をして怒鳴った。「誰もいないのか!」1人が手を挙げるとそれにつられて手が挙がり始め、やっと全員手が挙がった。分隊長は満足したであろうが少年達は“せめてゼロ練習戦闘機でゆきたいと思った。だから戦争末期の特攻基地では、整備員達が「こんな子供をこんなボロ飛行機で!」と泣くのである。無駄死が分かっているから泣くのである。

●攻撃力が低かった特攻〜撃沈は駆逐艦以下の小型船のみ
エースパイロットほど体当たりが成功しても効果が低いことを認識し、批判的な考えを持っていた。“最強の零戦パイロット”岩本徹三中尉「(体当たり)戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気は目に見えて衰えてきた…表向きは、皆、作ったような元気を装っているが、陰では泣いている…上層部の破れかぶれの最後のあがきとしか思えなかった」。
特攻は多くの艦艇を沈めはしたが、すべて駆逐艦以下の中型・小型船。太平洋戦争全体を通して、正規空母、戦艦、巡洋艦を1隻も撃沈できなかったことが、体当たり攻撃の破壊力の低さを示している。神風支持派は「太平洋戦争の米海軍の喪失艦船は120隻。神風はうち45隻を沈めたから喪失米艦の3分の1強を沈めた。日本と戦った米海軍戦死者の7分の1は特攻で殺された。神風の戦果は大きい」と主張するが、重要なのは船の数ではなく船種やトン数。若者たちが命がけで狙った正規空母はついに一隻も沈まず、軽空母も、戦艦や巡洋艦もゼロ。撃沈させた駆逐艦13隻以下全艦艇のトン数を合計して、ようやく本命の大型空母(3万8千トン)に匹敵する。隻数をそのまま戦果の判断基準とすることが乱暴であることは海軍の常識であり、神風支持派は意図的にトン数の議論を避けている。1942年にインド洋で英重巡洋艦『コンウォール』を艦載機が撃沈した際は、神風と同じ250キロ爆弾を「31発」命中させて沈めることができた。特攻のスローガン「一機一艦」がいかに困難かが分かる。
プロペラ機が時速650キロ程度の速度で爆弾を当てても効果は限られ、むしろ従来通り爆弾を投下した方が加速力がつき、体当たりよりも貫通力が高かった。

●「自発的に志願せよ」と命令〜「志願」という名の強制
「特攻隊はすべて志願」と強調する元軍人がいる。敗戦時の陸軍航空本部次長・河辺虎四郎中将は「志願者に不足することはなかった」といい、元特攻隊員の回想でも「熱望」「志願」の証言は多い。端的に言えば、軍上層部は「自発的に志願せよ」と命令出来たのである。むろん、本心から国に殉ずる気持ちで死んでいった若者たちも多かった。だが全員を「志願者」にくり入れて特攻隊を一律に神話化するのは誤りだ。直属の上官に肩を抱かれ涙ぐんで頼まれた場合、拒否できる若者があったであろうか?
最初の神風特攻隊、関大尉はフィリピンで報道班員小野田政氏に本音を語った。「日本も終わりだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に500キロ爆弾を命中させて帰る自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(家内)のために行くんだ。命令とあればやむを得ない。日本が敗けたら、KAがアメ公に何をされるかわからん。僕は彼女を守るために死ぬんだ」。感激した小野田氏はこのことを記事に書き、菅野大尉に怒鳴られた。「関は女房に未練を残すような男じゃない。特攻隊員は神様なんだ。その神様を人間扱いにし誹謗するとはけしからん。それが分からんとは貴様は非国民だぞ!銃殺にしてやる」。記事は骨抜きにされ、美辞麗句をつらねたものに書き直された。
1945年2月23日、香川県・詫間(たくま)海軍航空隊で飛行隊長の日辻少佐が神風の片道誘導をする二式飛行艇(こちらも特攻扱い)の隊員を発表した。「全員が志願するであろうと確信されるので、こちらからそのペアを発表する」。上官が全員志願すると思えば志願制という論理。
※最大の特攻作戦となった戦艦大和の水上特攻隊(約3千人死亡)は、出撃の時点で一般兵士は特攻作戦であることを知らされていなかった。いわゆる強制志願の典型。

●佐々木友次伍長の戦い
陸軍航空特攻第一陣の指名者、今西六郎少将も“志願者を募れば全員が志願するだろうから、こちらが指名すればいい”との論理で、体当たり反対の第一人者で九九式双発軽爆機のベテラン、岩本益臣大尉以下24人を万朶(ばんだ)隊に指名した。志願した者は1人もいなかったが、拒否権は事実上なかった。使用機としてあてがわれたのは、どうせブツかるからと、無線機、副操縦士席、機銃、機関砲を取り外し、風防がベニヤ張りの九九双軽。800キロ爆弾が固着してあったが、岩本隊は独断で固着爆弾を投下可能に改造した。
岩本らを最初の体当たりに指名したのは、陸軍最初の体当たりを成功させたい功名心と、体当たり反対論を封殺する為だろう。岩本大尉の部下、佐々木友次伍長は爆弾を“投下”して生還した。体当たり攻撃を否定し生き抜き戦い抜く腹を据えていた。
佐々木伍長「私は必中攻撃でなくてもいいと思います。そのかわりに死ぬまで何度も行って爆弾を命中させます」。既に佐々木伍長の特攻死を公表していた上層部は困惑する。天皇に上奏したことは正確でなければならないから佐々木伍長が生きてるのは間違いであり、生存が罪と言わんばかりに、伍長は次の体当たり攻撃に加えられた。すると爆弾を命中させて再び戻ってきた。その次の特攻にまたまた加えられ、またまた活躍して戻ってきた。何度も懲罰出撃から帰還する佐々木伍長。
第86飛行場大隊の景家伍長はマニラの空軍司令部で佐々木伍長が上官(猿渡参謀長?)から“死”を命令される光景を見た。「貴様、それほど命が惜しいのか腰抜けめ!」「お言葉を返すようですが、死ぬばかりが能ではなく、より多く敵に損害を与えるのが任務と思います」「馬鹿もん!それは言い訳にすぎん。死んでこいと言ったら死んでくるんだ!」。その後、目標もないのに単機出撃が命じられたり、ついには暗殺の危険が高くなり佐々木支持派が身辺の警戒に当たるまでになる。1944年12月31日、フィリピン・カローカン基地の病院にマラリアで伏せていた佐々木伍長と出丸中尉(彼も生還者)の所へ足音荒々しく師団参謀が入って来て、軍医の制止を無視してベッドの出丸に「命令だ、今すぐ出撃せよ」と睨み付けた。出丸は胸元を掴まれ引き起こされしばらく参謀の顔を睨んでいたが「よし死んでやるぞ」と泣くような必死の声で叫んだ。その出撃はただ一機で、いわば処刑飛行であった。
米軍のフィリピン上陸に脅えた富永司令官や上官達の“敵前逃亡”のおかげで佐々木伍長はついに戦後まで生き残った(特攻隊映画を作るなら、佐々木伍長の物語を映画化して欲しい!)。

●これでは“自殺機”ではなく“他殺機”
1945年4月16日、鹿児島県の国分基地で宇垣長官に一人の準士官がこう質問した「本日の攻撃において爆弾を100%命中させる自信があります。命中させた場合、生還してもよろしゅうございますか」。宇垣長官は即座に大声で答えた「まかりならぬ!」。準士官は未帰還となった。こんな血迷った人間が指揮をした日本の下級将兵のみじめさに胸が痛む。アメリが側は神風を“自殺機(シューサイド・プレーン)”と呼んだが、これでは“他殺機”ではないか。夜間攻撃の特殊訓練に打ち込んでいた美濃部正少佐は隊員を次のように叱咤した「貴様ら、これが出来ないと特攻に入れるぞ」。全員が特攻を志願したのならばあり得ぬ言葉だ。元特攻隊員・笠井智一氏「私の場合“特攻隊にゆく希望者は手を挙げ”と言われたことは一度もない。全員が特攻を志願するという前提のもとに司令部から指名で来た」。

●「どうして生きて帰って来たのか」〜機体故障でも生還者は“卑怯者”、収容施設に放り込まれた
元特攻隊員付き報道班員・戸川幸夫氏の回想「(台湾の)新竹では飛行機がボロいので故障も多く、途中から引き返してくるのもあった。そんなとき上官は“卑怯な行動である”と叱った。ある日、卑怯者呼ばわりされた1人の特攻隊員が、“ようし、明日は敵が見えなくとも突っ込んでやる”と泣きながらわめいていた。次の日、とうとう彼は還って来なかった」。
第14期甲飛練出身、市田謙三氏の目撃談「5月下旬のある日、鹿屋基地で艦上攻撃機が単機で特攻に出撃するのを見送っていると、ふらふらしながら滑走を始めたが、ついに飛び上がることが出来ず、飛行場の端で大音響と共に爆発してしまった。この隊員は若い予備学生出身の搭乗員で…飛行訓練時間の短縮がもたらした悲劇であった」。
第一航空艦隊副官・門司親徳氏「特攻機の中には最後に“日本海軍のバカヤロウ”“お母さんサヨナラ”と打電した者もあった。離陸直後に指揮所を銃撃したという話まで耳にした」。
石垣島の飛行場ではある時、飛び立ってすぐに特攻機が機体不調で黒い煙を引き出した。重い爆弾を捨てれば機体が安定するのに、抱えたまま基地に戻ろうとして飛行場の手前の松に接触して地上に激突、爆発した。その操縦者は前回の出撃でエンジンの調子がおかしいと言って飛行機を降り、その夜参謀に呼びつけられ「卑怯者、命が惜しいか」と殴られている。二度も故障で降りると言えず、爆弾を海に投じて帰って来る訳にはいかなかった。軍の上官はしばしば青年士官をこの様にして殺した。
沖縄戦の頃になると老朽機ばかりで、それに比例して機体トラブルによる帰還者が増えた。知覧基地では「振武寮」という特攻隊生還者収容施設に放り込まれ、寮内では自殺者も出た。川崎少尉は3度生還し、参謀から殴られ、「貴様のような臆病者は軍法会議にかけてやる」と怒鳴られ、5/10に故郷の隼人町郊外で自殺した。両親の訴えにもかかわらず遺体は渡されずお通夜もできなかった。徳之島に不時着し、やっとの思いで55日目に帰還した者に司令官・菅原道大中将が言った言葉が「どうして生きて帰って来たのか」。説教は1時間以上続き、「振武寮」に入れられ、外出禁止で毎日参謀が来て「死ねないような意気地なしは特攻隊の面汚しだ、国賊だ」と罵った。司令官も参謀も、特攻隊に求めているものが戦果ではなく“死”そのものであった。だから機器の故障でやむをえず戻った者までが臆病者や国賊に見えるのだ。自ら死のうとしている若者へのいたわりの心も持てぬ上官。こうした罵倒がどれほど純粋な若者の心を傷つけただろう。
志願であれ強制であれ、多くの若者たちの最後の願いは「有効に死ぬこと」であって「無駄死にしたくない」だった。馬鹿参謀どものように「何が何でも死ねばよい」では決してなかった。
※元特攻隊・長峯良斉氏「特攻隊員の遺書は、それが必ず他人(上官)の手を経て行くことを知っており、そこに“死にたくはないのだが”などとは書けない」。特攻隊員の遺書は軍の検閲があり自由に書けなかったことを説明せずに教科書で引用するのは問題。

●人間爆弾“桜花”
“桜花”は先端に1500キロの火薬を詰めたグライダーの尾部に小型ロケットをつけた人間爆弾だ。一式陸上攻撃機の腹部に抱かれて目標上空に達し、離脱→滑空→噴射→突入する。ロケット噴射時間は9.3秒。敵戦闘機の追随を許さず、“命中すれば”有効である。文字通りの一発勝負、母機から離脱したら、脱出も着地も出来ない。問題はどうやって母機が敵に近づくか。ただでさえ鈍足の一式陸攻が、2トンの桜花を運ぶ訳で、敵戦闘機に見つかれば逃れようはない。桜花と陸攻(7人乗り)で8人の命が失われる。桜花志願者の訓練を担当した名パイロットの野中五郎少佐は、機会あるごとに「俺はたとえ国賊と罵られても桜花作戦は司令部に断念させたい…攻撃機として敵に到達することが出来ないことが明瞭な戦法を肯定することは嫌だ。クソの役にも立たない自殺行為に部下を道連れにしたくない」と言っていた(野中少佐の兄は二・二六事件を起こし“国賊”として自決した野中四郎大尉)。
1945年3月21日、五航艦長官・宇垣纏中将は野中らの反対意見を却下して第721航空隊(桜花隊)の神雷部隊に出撃命令を下した。陸攻18機に桜花15機を搭載し、野中は指揮官として陸攻に搭乗する。この出撃の10日前、野中は後輩に「桜花はダメだよ。昼間強襲をかければ食われるに決まっている。俺は全滅して捨石になる。だから、後は何とかして桜花の使用をやめさせてくれ」と語っていた。最後の言葉は井口大尉への「湊川だよ」(楠木正成が意見を受け入れられず戦死した湊川合戦)。果たして野中の危惧した通り、目標米艦隊のはるか手前で50機もの米戦闘機の待ち伏せにあい、無戦果のまま全滅した。結局、終戦までに桜花隊は約10回、母機91機(うち桜花搭載74機)が出撃し、母機72機、桜花56機が撃墜された(母機19機が故障等で引き返した)。死者は母機搭乗員と合わせて411人。軍は母機乗員も“特攻隊員”と認定した。米軍側が公表した桜花の戦果は、命中6、うち駆逐艦一隻が沈没、それのみであった。
※米軍が撮影した野中隊の最期(1分42秒)

●人間魚雷“回天”
潜水艦から発進した後、人間が操縦する大型魚雷。回天(九三式魚雷)の装甲は薄く、水深80mを超えると水圧で圧壊するため、母潜は回天発進時に深く潜航できない。その結果、桜花と一式陸攻のように、回天発進以前に母潜ごと撃沈されることが多かった。最初の出撃は1944年11月20日に西太平洋カロリン諸島の敵艦船に向かった5基。正確な戦果は目視確認が不可能なので不明。回天はエンジンが停まらないよう12ノット以下に減速できない。だが、12ノットで波を切る潜望鏡は発見されやすい。それゆえ発進した回天は潜望鏡で「瞬時」に敵の速度、距離、方位を測り、回天の方位と速度を決定しなければならなかった。そして敵の“未来位置”に向かって突進が始まる。“乗員が目標を視認しつつ高速突進するのだから命中は確実”と思うのは大間違い。敵を見るのは突進前の数秒で、それも視野の狭い潜望鏡に片眼を押し付けて観測するだけ。もしも外れて燃料(約1時間分)が尽きたら海底に沈むのみ。脱出装置は製作時間のロスを恐れた発案者らによって拒否され最初からない。珊瑚礁に座礁して自爆した者もいた。終戦までに回天148基が発進した。
1945年5月下旬、池渕中尉以下6人の回天の訓練が行われた。彼らは全員、機器故障で戻った者だった。先任将校が怒鳴る「いつの出撃でも、1本や2本、おめおめ帰って来る。鉢巻きを締め日本刀をかざし得意になって出て行くだけが能じゃないんだぞ。スクリューが回らなかったら手で回してでも突っ込んでみろ」。池渕中尉は泣きながら隊員に言った「あれが彼らの本心なんだよ。今度はどんなことがあっても1人も戻って来るな。命が惜しくて自分で回天をぶっ壊したくらいにしか考えてないんだ。俺はもし故障を起こしたら艦長を脅迫してでも発進しるつもりだ」。
※体当たり用モーターボート「震洋」も存在した。フィリピン戦で約70隻が夜間突撃し戦車揚陸艇など8隻を撃沈した。本土決戦に備えて約6200隻が日本海軍最後の水上部隊として各地に待機したが終戦となった。

●敗戦、特攻を“させた者”たちのその後
8月15日の日本降伏後、一航艦長官・宇垣纏中将は「最後の特攻機」として艦上爆撃機“彗星”で沖縄に突入した。特攻の生みの親、大西滝治郎は特攻隊員に詫びる為、介錯もなしに自刃した。桜花神雷隊司令だった岡村基春も自決した。彼らは謝罪し殉じた。大西の遺書「特攻の英霊に曰す。善く戦いたり。深謝す…吾、死を以て旧部下とその遺族に謝せんとす」。だが、詫びも殉じもしない生き方の者が圧倒的に多かった。フィリピン四航軍司令官・富永恭次、九州六航軍司令官・菅原道大、彼らは「お前達だけを死なせはしない、わしも最後の特攻機で突入する」と若者たちに言い続け、生還者には理由も聞かず「お前は命が惜しいのか」と罵ってきた両者は生き残った。富永中将はフィリピンから台湾へ敵前逃亡した(その際、芸者を連れウィスキーを載せたという説もある。上官の山下大将に無断の撤退で、本来なら銃殺刑)。菅原司令官は宇垣長官突入の報を聞いた参謀・鈴木京大佐から「閣下もご決心を」と言われるや、当惑げに「後始末が大事、死ぬばかりが責任を果たすことにならない。それよりは後の始末を」と言い逃れた。若者たちには一切言い訳を許さず死を強要した四、六航軍の参謀達も見事に死なぬ理由を見つけ出した。
愚行を反省もせず、もちろん謝罪もせず、正当だった、仕方なかった、と戦後まで言い張ることは死者への鎮魂になるだろうか。勝ち戦の功績は自分のものとし、悲劇の責任は“異常”と言ってすむなら、軍人くらい気楽な職業は世の中にあるまい。
※玉音放送後に特攻した宇垣纏中将については、その志を評価する声がある一方で、11機で飛び立ち若者16人を犠牲にしたことで、「なぜ息子を連れて行ったのか」と遺族の非難を受けた。連合艦隊司令長官・小沢治三郎は「自決するなら一人でやれ、若者を巻き込むな」と激怒したと伝わる。

〔小林よしのりファンの若者たちへ〜元神風特別攻撃隊古鷹隊・海軍少尉 信太正道〕※『最後の特攻隊員』著者

小林よしのりのコミック『戦争論』がたいへん売れているようです。その中で彼は、「戦争の中で愛と勇気が試され/自己犠牲の感勤が生まれ/誇りの貴さを思い知ることもある」と戦争を賛美しています。なにか、60年前の雑誌『少年倶楽部』を読んでいるような気になりました。当時の日本の少年たちは、戦争賛美の記事やイラストを満載した、こうした雑誌を血わき肉おどらせながら読み、知らぬうちに“軍国少年”に染めあげられていったのです。小林よしのりには、当時の無邪気な“軍国少年”の姿が重なります。彼こそまさに「洗脳されっ子、純粋まっすぐ君」です。(略)
小林よしのりは本当の軍隊を知りません。あまりにもおセンチです。たとえば、少年飛行兵は卒業前に「郷土訪問飛行」が許され、出身小学校では全校生徒が校庭にその飛行兵の名を人文字で描いて大歓迎するのだった!と感動して描いています。とんでもありません。郷土訪間飛行は重大な軍隊の規律違反でした。これはアメリカ空軍でも同じで、ホーム・ピッケは厳禁・厳罰です(それでも外出中にこっそり故郷に手紙を出し、郷土訪問飛行を実行した不届き者たちは後を絶たなかったようでずが)。このように軍隊は、小林よしのりが考えるほど甘っちよろいところではありません。
私たち海軍兵学校の同期生(74期生)36名からなる神風特攻隊古鷹隊は、北海道の千歳航空隊で訓練を受けた同期の200名の中から、指名によって編成されました。日本の敗戦のちょうど20日前、1945年7月25日のことです。その翌日、近くの旅館で、横浜からやってきた両親と最後の面会の機会を与えられました。200名の中から特攻隊に選ばれたことを聞くと、母は突然、「正道、二階にいらっしゃい」と言い、部屋に入ると、「断わることはできないの?」と言って泣きくずれました。もちろん、そんなことが不可能なのはわかりきっているのです。
そのあと体当たりの訓練が続いて翌8月10日、身辺整理を命じられ、「遺書」を書くことを薦められました。しかしそこに“本心”など書けないことは、海軍兵学校に入ってすぐに身にしみて思い知らされていました。「…ご両親様有り難うございました。正道はこれから御国の為に行きます」これが私の「遺書」の結びでした。
8月13三日、千歳航空隊を出発し、陸路、前進基地に向かいました。その移動の途中、仙台駅で敗戦を迎えました。仙台は無残な焼け野原になっていました。敗戦を知り、誰もが悲しそうな顔をしていました。だけど同時に、お互い「助かった!」という目つきを隠すことはできませんでした。
私たち海軍兵学校卒業生は、しばしば同期生会を開きます。そこでときどき、古鷹隊の生き残りと顔を合わせます。でも、隣り合わせに座ることはありません。何故だかわかりますか?仙台駅での弱気を語りたくないからです。私たちは、いまでも「海
ゆかば」や「軍艦マーチ」「同期の桜」に陶酔する集団だからです。私が日本航空に在職中、ステュワーデスの結婚式に招待されました。彼女の父親が同期生だからです。同期生の一人が、祝賀会で挨拶しました。「俺は空の特攻隊であった。新婦の父親は海、つまり、回天の特攻隊であった。だから、父親の気持ちがよくわかる」。私は、「なに言ってやがんだ」と唖然としました。なぜなら、彼は特攻隊の指名からまぬがれた170名の1人だからです。日本に生き残る1万人以上の“自称特攻隊員”は、みんな彼のように大ボラを吹きまくっているのでしょう。私たち特攻隊員は、右翼からは賛美され、左翼からは「特攻くずれ」とさげすまれ、屈析した気持ちでおります。本心をあまり語りたくはありません。
騙されないでください。戦争も、そして軍隊も、小林よしのりが考えているようなものとは違います。特攻隊当時はもちろん、海軍兵学校当時も、小林よしのりのような無邪気な「純枠まっすぐ君」は私の周囲に一人もいませんでした。みんな自分の行く手に「死」を見ていたからです。「死」に対して無知で鈍感な者だけが、戦争を賛美できるのです。
※参考にした外部サイト

●田原総一朗責任編集『オフレコ!』(アスコム)2005年 Vol.1より

渡邉恒雄「特攻に行くのは、最初は長男は許された。長男はいい、次男はいけ、というわけだ。それがそのうちに長男も次男もなくて、志願するものは一歩前へ出ろ。一歩前へ出ると、それはもう明日には死ぬわけだ。出ないやつは助かるが、あとでボコボコにやられるわけです。それで、そんなにやられるならおれも一歩前だ、と出る。当時ニュース映画で特攻隊出撃の場面を見た。勇んで行くどころか、皆首を垂れ、うなだれたような悲哀を感じさせる姿としか思えなかった」
田原「そういうことですか」
渡邉「だから、強制ですよ。暴力による強制」
田原「お国のためとか、天皇のために、特攻に出たんじゃない」
渡邉「とんでもない。ほとんど暴力による強制です。この間、僕は政治家たちに話したけど、NHKラジオで特攻隊の番組をやった。これがよくやったと思う番組でね。兵士は明日、行くぞと。その前の晩に録音したもので、みんな号泣ですよ。うわーっと泣いて。死にたくないって。戦時中、よくこんな録音を放送できたと思う」
田原「あ、そんな録音がとってあった」
渡邉「特攻隊の死ぬ前の晩の声。勇んでいって、靖国で会いましょうなんか信じられているけど、ほとんどウソです」


〔最後に〕

長大な年表を最後まで読んで下さり本当に有難うございました。インターネットという形ではありますが、これを読んで下さったあなたと、僕は膝をつき合わせて語ったつもりです。
アジア太平洋戦争における日本人の民間人の犠牲者は50万人。その殆どの死者が、1944年7月のサイパン陥落で日本本土が空襲に晒されるようになってから。もしもサイパンを落とされた時点で降伏していたら、民間人50万人が死ぬことはなかった。サイパン陥落で本土空襲は分かっていたし、だからこそ陥落の直後に東條内閣は総辞職した。そこが終戦の貴重なタイミングだった。さらにいえば、その前月のマリアナ沖海戦で空母艦隊が壊滅した時に降伏していれば、サイパン守備隊の命も、戦闘に巻き込まれたり自決をした島民1万人の命も救われていた。軍首脳はマリアナ沖海戦の完敗で、もう逆転はないことを悟っていたはず。日本兵の戦死者210万人も最後の1年半で「9割」が死んでいる。実に9割!マリアナ、サイパンで降伏していればどれほど多くの日本兵が死なずに済んでいたか。
どうしてもサイパン陥落で降伏に踏み切れないなら、せめてポツダム宣言を7月26日に受諾していればと悔やまれる。ポツダム宣言からわずか20日たらずの間に、広島、長崎が焼かれ、ソ連参戦による満州・樺太の悲劇が起きた。ポツダム宣言をすぐに受諾していたら、それらの悲惨はすべて起きなかった。だが、戦犯として処罰されることを恐れた戦争指導者たちは、無条件降伏になるのを避けるため、少しでも交渉が有利になる一撃、最後の大勝利を期待して戦争を続行した。
鈴木貫太郎首相に圧力をかけ、「ポツダム宣言を黙殺」と新聞発表させたのは軍上層部。「自存自衛のため」「日本人が生き残るため」の戦争と言いながら、敗北が決定的となった時に「1億玉砕」「民族滅亡まで戦う」と、日本民族の滅亡を視野に戦い続けようとした指導者たちの無責任さに絶句する。終戦後の「1億総懺悔(ざんげ)」という言葉に表れているように、軍部と国民の連帯責任という徹底した刷り込みの結果、戦場で死んでも空襲で死んでも、同じように戦争で死んだことには変わりないのに、戦死者の遺族には累計50兆円の遺族年金が支払われる一方で、空襲被害者には何も賠償がない理不尽に国民が怒ることもない。戦犯として裁かれながら総理大臣になった人物もいる。「戦争を煽った国民も悪い」という元軍人がいるけど、ウソの大戦果ばかり国民に信じ込ませておいて「煽られた」はないだろう。
あの時代の軍上層部が集まって、当時の出来事を語っている番組を見たりすると、開戦の理由にハル・ノートの“ハ”の字も出て来ないことが多い。対日制裁云々よりも、軍隊内の出世争いやメンツを開戦理由にしていることが大半だ。なのに、保守論客にはハル・ノートの話ばかりする人がいる。

ただ、戦争指導者に反発を感じる一方で、近衛首相も戦争回避に向けて努力していたし、昭和天皇も開戦への流れを止めようとしていたし、真珠湾攻撃の直前ですら、軍上層部には積極的に戦争を行っている気持ちがない人が多かった事実もある。「アメリカと戦ったら負ける」という一言を言い出せない人間の弱さを見て、僕も自分自身が弱い人間あることを分かっているだけに、激しく糾弾することをためらうのも正直な気持ちだ(甘いかも知れないけど…)。
あの戦争を美しいものにしたいという保守派の“思い”は分かる。聖戦で殉じた方が英霊たちは報われる。僕もその気持ちがあるから、年表ではつい、玉砕戦であっても日本兵の奮戦を強調したいが為に、日本兵は「戦死者」の人数を書き、米兵は「戦死傷者」の人数を書いてしまう(その方がたくさん倒したように感じられるから)。

最後に僕はひとつの数字を提示したい。出征した日本兵の戦死者230万人のうち、約140万人が「餓死」しているということを。実に死者の「6割」が戦死ではなく餓死!赤紙1枚で召集され、太平洋の孤島で餓死していった日本兵が100万人以上もいるのに、「大東亜戦争を批判するやつは愛国心がない」「皇軍は正義の軍隊だ」という言葉で、過去の過ちから何も学ぼうとしないのでは、それこそ作戦ミスで死んでいった兵士が浮かばれないと思う。無謀な作戦と分かっていても抗議できかった軍のシステムへの反省が必要。特攻隊の若者が機体トラブルで帰ってくることも許さず、その思想が狂気と見なされない世界はまともじゃない。国策を誤ったと分かった時に、それを修正できる社会に変えていく為にも、戦時中の教訓を生かすべきなんだ。地震大国なのになおも原発推進にこだわる今の官僚機構は完全に硬直化しており、まるで一度決定したことを修正できない旧軍部を見ているようだ。国家の指導者たちは、政策を誤った時に勇気を出して方向転換できる人物であって欲しい。
もう一度念を押しておく。「昔の日本人はよく頑張った、美しかった、それでいいじゃないか」は、過去から何も学ぼうとせず、先人を本当の意味で犬死にさせる態度だ。僕は犬死にさせたくないから、こうして年表を作っている。

僕が作成する近代史年表シリーズは、中国編、韓国・朝鮮編、台湾編、東南アジア編、そしてこのアメリカ編でおしまいです。全体を貫く思いは、保守の人と敵対するのではなく、なぜリベラルの立場なのかを根気よく説明して、こういう考え方もあることを分かってもらうこと。昨今の日本の難局は、右も左も団結して、知恵を出し合って乗り越えて行かなくちゃならない。歴史問題について対立を煽る為にデマを意図的に流す人には、僕も感情的になってしまうことがあるけど、それでも根本にあるものはスクラムを組んで日本をより良い方向に進んで行かせようという気持ちです。子ども達がずっと笑顔でいられる国にしましょう!


●国際連盟脱退を伝える東京朝日新聞「我が代表堂々退場す」昭和八(1933)年二月二十三日


《時事コラム・コーナー》

★愛国リベラル近代史年表/日本と中国編
★愛国リベラル近代史年表/日本と韓国・朝鮮編
★愛国リベラル近代史年表/日本と台湾編
★愛国リベラル近代史年表/日本とアメリカ編
★愛国リベラル近代史年表/日本と東南アジア編
★昭和天皇かく語りき
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★愛国心について僕が思うこと
★日の丸・君が代強制と内心の自由について
★残業ゼロが常識になる社会は可能!
★アフガン・伊藤和也さんを悼む
★パレスチナ問題&村上春樹スピーチ
★チベット問題について
★普天間基地を早急に撤去すべし
★マジな戦争根絶案