〜アフガン・伊藤和也さんを悼む〜
 2008.9.23

【追記】2019 中村哲医師追悼

アフガニスタンの伊藤和也さん
(1976.11.19-2008.8.26 享年31歳)

2008年8月26日、アフガニスタンで復興支援を続けていた「ペシャワール会」(1983年結成)の伊藤和也さんが4人組の武装グループに拉致された。伊藤さんを慕った1000人を超える村人が捜索・追跡に加わり、追い詰められた犯人はパニックとなって伊藤さんに発砲、弾は左太ももの動脈を撃ち抜き伊藤さんは出血死した。まだ31歳の若さだった。当初は政治目的の誘拐とされ過激派の犯行声明も出たが、犯人のうち逮捕された2人は「結局は金目当てだった」と自白。そして「殺さないと思っていたのでボスが撃った時は驚いた」とも。犯行の動機はどうあれ、失われた生命は戻って来ない。僕は自分より10歳も若い青年が、文化も言語も異なる遠い異国の地で、高い志を持って飢餓から人々を救おうとしていたことに強く心を動かされた。

アフガニスタンの全人口は2500万人。このうち1200万人が干ばつで被害を受け、現在500万人が飢餓状態にあり、100万人が餓死寸前という深刻な状況だ。アフガニスタンは1979年の旧ソ連の侵攻、90年代の軍閥の内戦、2001年からの米国等の空爆作戦で国土は荒廃。そこへ追い打ちをかけるように大干ばつが襲っている。日本のNGO「ペシャワール会」は四半世紀も前から現地で医療活動を続けてきた。現地代表・中村哲医師(61歳)は、長年の運動を通して最も必要なものは“水”であり、もし水がなければ農業が続けられず、日々の糧を得ることができない、しかも綺麗な水がなければ伝染病の蔓延を防ぐこともできないと思い至る。そして各地で井戸を掘ると共に大規模な用水路の建設を始めた。既に16.5キロが完成し、約5000ヘクタールの農地を復興させ、ペシャワール会の用水路1本で数十万人が食べられるようになった。こうした活動に共鳴した伊藤さんは03年から参加し、農業支援を担当した。
草1本ないこの砂漠が… 5年で緑の大地になった!!

●伊藤さんがアフガニスタン派遣を希望して提出した「志望動機」(26歳、03年6月15日付)※抜粋
『(アフガニスタンの復興に農業支援は欠かせないという強い思いを述べた後)私の現在の力量を判断すると、語学は、はっきりいってダメです。農業の分野に関しても、経験・知識ともに不足していることは否定できません。ただ私は、現地の人たちと一緒に成長していきたいと考えています
私が目指していること、アフガニスタンを本来あるべき緑豊かな国に、戻すことをお手伝いしたいということです。これは2年や3年で出来ることではありません。子どもたちが将来、食料のことで困ることのない環境に少しでも近づけることができるよう、力になれればと考えています。
甘い考えかもしれないし、行ったとしても現地の厳しい環境に耐えられるのかどうかもわかりません。しかし、現地に行かなければ、何も始まらない。そう考えて、今回、日本人ワーカーを希望しました』。

中村医師いわく「伊藤さんは砂漠化する農地をなんとかしようと最前線で働いていた。他の人が狙われても彼だけは大丈夫というほど現地になじみ、人々に好かれていた」「(帰国前に)用水路の事業を何とか突貫工事でやり遂げようとしていた」。
タリバン政権崩壊後、アフガニスタンはヘロインの原料となるケシ(アヘン)の世界最大の産地となってしまった(アフガン産アヘンのシェアは約9割!)。これは貧しい農民が手っ取り早く現金収入を得るため、そして武装勢力の資金源としてケシ栽培が奨励された結果だ。伊藤さんはサツマイモ栽培などの農業指導で人々の暮らしを安定させ、ケシ畑を芋畑に変えていこうとしていた。その意味でも、非常に意義のある活動だった。
日本はこれまでアラブ諸国とはとても良い関係にあった。米国に追随を繰り返した結果、イスラム世界の一部からは失望の声や憎しみさえ向けられるようになったが、それでも伊藤さんのような活動が、中東の一般市民の間に草の根レベルで日本人への好感度を維持している。

テレビのニュースで伊藤さんの亡骸が近隣の村に運ばれる所が映った時、村にはたくさんの地元民が集まり「イトウサン」「イトウサン」と名前を呼んで泣いていた。大勢の男たちが涙をぬぐっていた。あの光景を僕は一生忘れないだろう。外国人の若者のために、あんなにたくさんの人が涙を流していた。

事件から6日後、伊藤さんの実家がある静岡で葬儀が行われた。弔辞で中村医師が「アフガン農民の一人になりきって、言葉ではなく、その平和的な生き方によって、困った人々の心に明るさをともした」と涙声で功績をたたえた。
現地のアフガニスタン人スタッフは、「亡くなった伊藤和也氏は、今後私達がこのような人に出会うことはできないと感ずるほど素朴さと穏やかさ、そして謙虚さを備えた人柄でした。伊藤和也氏は現在わが国が直面している最悪の状況から全アフガン人を救おうと努力していました。アフガン人の抱えるさまざまな難問を取り除こうと昼夜を厭わずがんばっていました。不運にも、余りに不運にも、私達はこの上なく素晴らしい人物を失ってしまいました」「一同、悲痛の念に耐えません。この度のこと、まさに全アフガン人が大きな悲しみに直面しております」と悲しみを吐露した。

最後に、伊藤さんが現地で撮影した子ども達の写真を紹介したい。赴任当初の伊藤さんは、意気込みが強すぎて日本の技術を“教えてあげる”という気持が前に出てしまい、それを感じ取った現地の人と距離が開き悩んでいた。
その状況を変えたのが「写真」だった。伊藤さんはアフガンで暮らした4年8カ月の間に3000枚もの写真を撮り溜めていた。元々は作物の生育状況を記録するために撮っていたので、初期に写っているのは農作物ばかり。
ところが、遠巻きに伊藤さんの作業を見ていた地元の子ども達が、好奇心からだんだん近づいてきた。やがて「撮って!撮って!」の嵐。かくして伊藤さんのカメラの中には子どもの写真が溢れることになる。そして伊藤さんになつく子どもを通して、その親たちも心を開くようになっていった。アフガンでは外国人が女性や子供を勝手に撮影すると問題になりやすい。安心しきった笑顔が広がるこれらの写真は、いかに伊藤さんが現地の人たちに親しまれていたかを静かに物語っている。




ブディアライ村。この何もない荒野を…

伊藤さんは赴任してから3年で菜の花畑に変えた!
(撮影・伊藤さん)






男たちも伊藤さんに笑いかける

農作業を手伝う少女

大きく育ったサツマイモを
伊藤さんに見せる少年 

これらの写真で子ども達が収穫を手伝っている土地は、どこも伊藤さんが赴任した頃は荒れ地だった。彼の31年の人生は、日本にいる僕らが知らないところで、数え切れない優しい笑顔を生んでいた。


※伊藤さんはアフガン派遣の「志望動機」の中で、“現地の人たちと一緒に成長していきたい”と書いていた。農業技術を“教えてやる”のでも、同情して“援助してあげる”のでもなく、相手と肩を並べて一緒に成長していく。この誠実な姿勢が現地の人に伝わっていったんだと思う。

※アフガニスタンの外相は「アフガニスタンの人々を支援している最中に亡くなり、アフガン政府はこの犯行を強く批判する。ご家族と日本国民に深い同情と弔意を表したい」と声明を出した。

※事件の際、ネット上には伊藤さんのことを「事件になれば日本の税金を使って助けることになるのに行動が浅はかだ」「自己満足でアフガンに行ったんだからほっとけ」など、厳しい意見も出ていた。だけど僕は声を大にして言いたい。いま、世界で日本は「良い影響を与える国第1位」と評価されたり、多くの国で日本人が尊敬されたりするけれど、こうしたイメージは地道に活動している伊藤さんのような人たちが作ったものだ。彼のような人を“迷惑”と非難しながら、自分では何も行動せずに「俺は日本人だから尊敬されている」と悦に入っているのは勘違いも甚だしい。この手の事件が起きた時にすぐ“救出費用は税金の無駄遣い”という話が出てくるけど、世界に貢献する日本人の為に使うことは無駄だろうか。そんな額とは比較にならないほど巨額の無駄金(特別会計等)が、特殊法人や各省庁で何年も浪費されてる。そっちへ怒りのエネルギーをぶつけるべきでは。

※「危険地帯へ行ったんだから自業自得」「平和ボケ」という聞くに耐えない意見もネットではよく見かけた。現地日本人スタッフの後輩は弔辞の中で、“和也さんは決してあえて危険を冒して仕事を行う様な人ではなかった”と言い、夕方に農場へ出ようとする仲間を「遅いから行くな」と制したり、住民同士のケンカがあった地域には「しばらくあそこへは行かずに現地の農家に行ってきてもらった方がいい」と助言するなど、その行動は誰よりも慎重だったと述べた。その上で、「そんな和也さんでも今回の突発的な事件を避けることはできなかった」と無念さをにじませた。伊藤さん本人が最も危険性を感じていたのに、“自業自得”という言葉で斬り捨てるのは抵抗がある。飢餓状態にいる500万人を少しでも救おうと、伊藤さんは地元民と一緒になって干上がった畑を5年がかりで美しい小麦畑や芋畑に変えた。誰にでも出来る事じゃない。

※「以前は日本人なら大丈夫だったが、4月ごろから対日感情も急速に悪化していた」「ソ連が来た時も、米軍の空爆時も活動を続けた。治安の悪化は武力では解決しない。空腹を満たす環境をつくることが大切だ」(中村医師)。今回の伊藤さんの死について、一部では「憲法9条の無意味さが証明された」「自衛隊を派遣すべき」と言う人もいる。ニュースで町村官房長官が「尊い犠牲が出たが、日本がテロとの戦いに引き続き積極的に加わる重要性を多くの国民が感じたのではないか」と、“伊藤さんの死を無駄にしない為にも軍事支援をすべき”とする主旨の会見をして、僕は怒りでTVを叩き割りそうになった。伊藤さんの死を政治利用して世論を伊藤さんの望まない方向へ誘導するなど最低の行為じゃないか。
アフガン空爆以前はこんな事件は起きなかった。僕はむしろ、アフガニスタンというあれほど危険な地域で四半世紀も活動を続け、今まで1人も犠牲者を出していなかったことが、中立を象徴する9条の真価だと思っている。

※伊藤さんはアフガンに向う前に、「もし僕に何かあったらアフガンの土になったと思ってくれ」と母親に伝えていた。この遺志を受け、伊藤さんの遺族はアフガンに分骨するため、現地に戻る中村医師に伊藤さんの骨壺を渡した。伊藤さんの半身は愛するアフガンの大地に帰り静かな眠りにつく。

※ペシャワール会の公式WEB。中村医師は若者たちを日本に帰し、一人現地に残って用水路を完成すべく重機を運転している。ネットなどで誹謗されても反論せず沈黙しているのは、アフガンの人々を救うことが最優先であり、自分がなんと中傷されようと、取るに足らないことだと思っているからなんだろう。
「今必要なのは憎しみの共有ではありません。憤りと悲しみを友好と平和への意思に変え、今後も力を尽くすことを誓い、心から祈ります」(中村医師、伊藤さんの追悼文集に)

【追記】〜NHKドキュメンタリー『菜の花畑の笑顔と銃弾・アフガンに捧げた青春』

2009年2月23日、伊藤さんの追悼番組『菜の花畑の笑顔と銃弾・アフガンに捧げた青春』がオンエアされた。伊藤和也さんの人生に迫った素晴らしいドキュメンタリーだった!伊藤さんが撮影した膨大な写真(豊かな畑、用水路、民衆の笑顔)や動画ムービーが、現地で彼が起こした奇跡を伝えてくれた!
現地の人が飾っていた「ザ・ヒーロー・オブ・ジャパン・ミスター・イトウ」の写真、荒れ地だった場所に作物が実り大はしゃぎする子ども達、誘拐された伊藤さんを救出に向った1000人の村人たち、見てて何度も目頭が熱くなった。
草木のない気温50度の荒野が、伊藤さんたちの奮闘で見渡す限りの菜の花畑に変わっていく。虫害や雹(ひょう)の打撃を受けながら3年越しで収穫にこぎ着けた、日本の甘いサツマイモ。その美味しさに、村の男たちは「砂糖が混ぜてあるのかと驚いた」。伊藤さんは村のモスク建設に自分の貯金を寄付し、自分の牛を一頭購入し、何年も農業支援を続ける覚悟を決めていた。
死の前年に伊藤さんはこう記す--「アフガンを取り巻く状況はますます厳しくなっています。しかし、時間をかけ、試行錯誤をしながら、苦闘を続けてきた結果(収穫物)が、やっと現地の農家の手に届けられるようになりました。これからは現地の人々が、どこの家庭でも毎年お腹いっぱい食べられるようにさらに努めていきたいと思います」。
年配の村民いわく「イトーはライオンのように何も恐れず活動していた。毎年いろんな種や苗をくれた。とても助かっていたよ」。そしてアフガンに作られた伊藤さんの墓の前で、農家のおじさんはこう呟いた「自分の息子が亡くなったようで、村中が悲しんで泣いたよ…イトーのことはたとえ一瞬でも忘れることが出来ないよ」。伊藤さんがこの世にいてくれたことに、ただただ感謝。
そしてこの追悼番組を制作したNHKスタッフの勇気にも、ありがとうと言いたい。番組製作者はテレビ史に残る偉大な仕事をしたと思う!
「イトーは大事なことを色々教えてくれた。学んだことをみんなに広めていくよ」(アフガン農家の言葉)
※番組を見ると、現地には伊藤さんと同じ志を持った日本人が何人もいたのが分かる。この番組を通して、全世界で活動しているNGOの人々の存在を強く感じた。彼ら名もなき英雄たちは真の意味で国民栄誉賞にふさわしい!
※畑の作物を夜間に動物に食べられたり、人間に盗まれた伊藤さんと、その相談を受けたおじさんの会話にジーンときた「女の子が姉妹で盗んでいるのを見たことがあり、動物相手であれば対策を講じることも出来ますが、人が食べることについては複雑な気持になります」「人間の泥棒については神経質にならないで下さい。泥棒が入ることはその作物が地域で評価されている証だと思って下さい」。
※最初の5分をNHKウェブで見られるほか(リンク先の下方に動画)、YouTubeではフル(計4本)に鑑賞できます。著作権的にグレーなんですが、NHKさん、どうか伊藤さんのことを後世の人々に伝える為にも、このYouTube動画を削除しないで下さい〜!


収穫できて良かったね!!(*^v^*)



★「伊藤和也さん写真展」レポート

2009年4月16日、京都市左京区「かぜのね」で開催された伊藤さんの写真展に行ってきました!
入場無料のこの写真展は、“伊藤さんのことを語り継いでいきたい”という、無数の人の善意で成り立っています。
京都の会場に展示された写真は約100点!その殆どが初めて見るものばかり。これまでNHKスペシャルや新聞で
紹介された写真がごく一部であった事を改めて知りました。すべての写真が素晴らしく、1点1点が忘れられません。




駅前の電柱に案内板発見 この超手作り感! 会場となった「かぜのね」


●第1室(以下の写真は許可を得て撮影)

入口にはアフガンに旅立つまでの伊藤さんが 子ども時代の伊藤さん。可愛い! ペシャワール会での活動内容を詳しく解説

水路工事が始まる前のスランプール盆地。麦が
まばらに20cmしか育たない荒れ地だった(2003)
そこに伊藤さん達が用水路を建設した結果、
なんと3年後には緑の田畑が復活!(2006)




仲間の日本人たち。伊藤さんは左から2番目。中央がリーダーの中村医師! 健康なのに診察券をもらいにきた子ども達


●第2室









伊藤さんが育てた菜の花畑にて!
※良い写真が多いけど個人的にこれが一番好き!
菜の花に囲まれたヒゲ2人。
妙にかわいらしく微笑んでしまう
この最も有名な伊藤さんの写真は
ポストカードになってました!








笑顔がとっても優しい羊飼いの少年 お父さんとお昼寝中♪



麦の収穫期に、殻と実を分別する少女。
どの家も子どもは良く働くとの事!
「いーしっしっ!」伊藤さんから貰った飴に
大喜び&「ノール・ラーカ!(もっとちょーだい!)」




説明文がユニークだった“ブドウ”泥棒の話→「ブドウの実。例年、盗み食いされて
食味(しょくみ)が分からない幻のブドウ。時には苗ごと持って行かれる」(2008)



「ブドウ盗ったど〜」 姉妹なのかな?
「伊藤君は怒る前にカメラを向けてシャッターを切っている。少女達もまた逃げもせず、半ば見せびらかすような
ポーズをとっている。ここに伊藤君の優しさと伊藤君と少女達の関係が鮮やかに映し出されている」(同僚の言葉)

会場受付にあった菜の花 第2室に向かう通路にあった菜の花
この写真展が開催された時、関西はちょうど菜の花が開花していた。伊藤さんが好きだった
菜の花が咲き誇る季節に、伊藤さんの想いがこもった写真を見られて本当に良かったデス


●写真展後日談
伊藤さんの写真展は2009年12月まで全国を巡回し、北海道から沖縄まで34カ所が会場となった。約4万人が足を運び、東京の会場には皇后様まで訪れた!08年11月にアフガンの農業と教育支援を目的に『伊藤和也アフガン菜の花基金』が設立され、写真展会場で募った募金を中心に、不況にもかかわらず約2600万円が寄せられた。この基金から1800万円が、東部ジャララバードにペシャワール会が建てたイスラム教学校「マドラサ」(日本の小・中学校にあたる)の寄宿舎建設に充てられた。寄宿舎には戦争孤児や遠隔地に住む7〜15歳の少年約200人が暮らし、色々な地域の子どもが教育を受けることが可能になった。さらに農業支援として200万円がアフガンで使う脱穀機やトラクターの購入資金などに充てられた。伊藤さんのお母さん「不況で、募金を呼びかけるのはためらわれました。でも、失業中の人が『写真展で勇気をもらった』とメッセージを残してくれたり、多くの人に支えられました」。


追記〔2012.5.29 “ありがとう伊藤さん!”〜伊藤和也さん巡礼〕

伊藤さんが亡くなってから、僕はずっと墓前で感謝の言葉を伝えたくてお墓の情報を探していた。そして2011年6月、静岡県版の
読売&毎日に「静岡・掛川に慰霊碑建立」の記事を発見。翌年、大阪から掛川を訪れ、悲願だった伊藤さんのお墓参りを果たした。

伊藤さんの菩提寺、掛川市杉谷の興禅寺 本堂の中に伊藤さんの追悼コーナーが! 写真集など書籍が閲覧できる!
ご住職に挨拶して話をいろいろ伺った。伊藤さんを敬愛する人が全国から墓前に訪れているという。新聞記事には慰霊碑のことしか書かれていなかったけど、
伊藤さんの御遺骨は確かに同寺の墓地に埋葬されているとのこと。NHK特集にアフガンの伊藤さんの墓が映っていたので、分骨される(された?)のかも。


墓地はお寺と道を挟んで斜め前にある 墓地の入口右手のこの一角に伊藤さんのお墓 奥の方に見える長い塀は東名高速道路

「伊藤家之墓」。嗚呼、伊藤さん!合掌し、
アフガンでの活動や写真に感動したこと→

→伊藤さんを慕っていた現地の方の思いに胸を
打たれたことなど、時間を忘れて色々話した

2011年建立の慰霊碑。高さ約1m、幅約30cm。
正面の略年譜に「凶弾に斃(たお)れる」とあった。
ご住職「伊藤さんの墓前は花が絶えません」

胸が熱くなったのは慰霊碑の側面。伊藤さんがペシャワール会に応募した時の志望願書
から「現地の人たちと一緒に成長したい」「緑豊かな国に近づけたい」などが刻まれていた
卒塔婆に書かれた戒名は
「徹心和道上座」
伊藤さん自筆の「和」の
文字を刻んだ地球!

伊藤さんのお父さんは“和”の一字に、「和也と平和、二つの意味を込めた」とのこと。慰霊碑建立の動機については「今も墓参りに訪れてくれる人がいるが、人々の記憶は薄れていく。家族として和也がやってきたことをしっかりと残し、伝えていかねばと思った」。
伊藤さんの他界後、アフガンでは中村哲氏のほか、2〜3人の日本人スタッフと約500人の現地人が用水路の建設や砂漠の緑化などを進めているほか、農業指導や医療支援活動も続いており、東部ジャララバード近くの砂漠の試験農場では、スイカや小麦、稲が収穫できたという。
僕は戒名の「徹心和道」という言葉に泣けた。まさに、伊藤さんの生きる姿勢から感じるのは、“和道”に徹した心。これほど戒名で感動したのは初めて。ずっと、ずっと、あなたのことを忘れません!!

 

中村医師がクナール川の石を3つ、伊藤さんの墓前に供えた

 

中村医師は用水路が見える農場に伊藤さんの功績を讃える顕彰碑を建立した



〔2019.12.4 中村哲医師を忘れない〕



【イスラマバード共同】アフガニスタン東部ナンガルハル州ジャララバードで4日、同州で農業支援などに取り組む福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」現地代表、中村哲医師(73)らが乗った車が武装した男らに銃撃され、中村さんが死亡した。日本政府関係者が明らかにした。州報道官によると、中村さんのボディーガードや運転手ら5人も死亡した。 事件が発生したのは午前8時ごろ。目撃者によると、不審な車2台が待ち伏せし、通り掛かった中村さんの車を両側から銃撃したという。アフガンのガニ大統領は声明を出し、事件をテロと断定した。(ロイター記事)


 

1946年に九州福岡で生まれた中村哲医師は、1984年に38歳でパキスタン・ペシャワールに医師として赴任した。この医療活動中に、アフガニスタン難民を通して、アフガンの干ばつと絶望的な医師不足を知る。そして、1991年(45歳)に診療所をアフガニスタンのジャララバードに開設した。
2000年(54歳)、アフガニスタンは“100年に一度”といわれるほど深刻な大干ばつに襲われ、中村さんはその惨状に絶句する。2500万人の人口のうち、約半数の1200万人が干ばつ被害を受け、うち500万人が飢餓に苦しみ、100万人が餓死寸前だった。子どもは不衛生な水で病気になり、6人に1人が5歳以下で死んでいった。また、赤ちゃんは体を洗う清潔な水がなく皮膚病になった。
中村医師はこの年から、「人々には水が必要」とアフガン各地で井戸を掘り始め、その数は生涯で1670本に達した。
こうした日々の中、2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが起きる。ビン・ラディンが潜伏していたアフガンは米軍に空爆された。
「ブッシュ大統領が“強いアメリカ”を叫んで報復の雄叫びを上げ、米国人が喝采する。瀕死の小国に世界中の超大国が束になり、果たして何を守ろうとするのか素朴な疑問である」
「あの地域で空爆を行うというのは現場にいる者として考えられない状態だった。目の前では(飢餓で)人が死んでいる。そういう人たちを助けに来るならまだしも、そういう人たちの上に爆弾を落とすなんて信じられない」

タリバン政権の崩壊後も、大干ばつにより国家の再建どころではなかった。とにかく食料と水がいる。問題解決のために用水路が必要だった。
「水がなく食料生産が上がらないから栄養失調になる。水が汚いから下痢なんかで簡単に子どもが死んでいく。医者を100人連れて行くより水路を1本作った方がいい。病気の予防という観点からすれば、水路1本が医者数百人分の働きをする」
「水がなければ農業が続けられず、日々の糧を得ることができない、しかも綺麗な水がなければ伝染病の蔓延を防ぐこともできない」
中村さんは7000m級の山々の氷河を源流とし、干ばつでも枯れることがない大河、クナール川に目を付けた。この川の水を引き込む全長27kmの巨大な用水路を作り、水が届かないダラエヌール渓谷やガンベーリー砂漠の一部を農地に変えようというのだ。
2003年(57歳)3月、中村さんは『緑の大地計画』を実行に移す。原資はペシャワール会の寄付金3億円。手伝ってくれた周辺地域の農民には日当を渡し、彼らが生活できるようにした。試行錯誤しながら堰(せき)を建設し、護岸工事を進める。気温40度の中、地面が掘り進められた。

タリバンが再び活動を始めると付近で米軍との戦闘が度々起きた。ある日、中村さんたちは米軍の攻撃ヘリから機銃掃射を浴びるという危ない目にあった。岩盤を砕くダイナマイトの音を、米軍が攻撃音と勘違いしたためだ。
…かつて中村さんはアフガンで車に日の丸を描いていた。「欧米の支援団体と差別化でき、安全に繋がる」と思ったからだ。だが自衛隊が米軍艦船に給油活動を行うなど米国へ軍事支援を続けたことで、「かえって危険を招く」と日の丸を消した。
中村さんは“武力ではテロを断ち切れない。その背景にある貧困の問題を解決しなければならない”と考える。
アフガン問題とは政治や軍事問題でなく、パンと水の問題である。“人々の人権を守るために”と空爆で人々を殺す。果ては“世界平和”のために戦争をするという。いったい何を何から守るのか。こんな偽善と茶番が長続きするはずがない」
「“日本だけが何もしないで良いのか。国際的な孤児になる”ということを耳にします。だが今熟考すべきは“まず、何をしたらいけないのか”です。民衆の半分が飢えている状態を放置して、“国際協調”も“対テロ戦争”もうつろに響きます」

中村さんたちは16km離れた山から重機で転がしてきた5トンの巨石を川底に入れ、水流の方向を変えていった。冷たい雪解け水に入って作業を続けていると、次第にタリバンの元戦闘員や、米軍の元傭兵(ようへい)が武器をツルハシにかえて協力するようになった。
「家族を食わせるために米軍の傭兵になったり、タリバン派、反タリバン派の軍閥の傭兵になったりして食わざるをえない。家族がみんな一緒にいて飢饉に出会わずに安心して食べていけることが、(アフガン人の)何よりも大きな願いだ」



2003年3月に始まった用水路建設は2007年3月に第一期13kmが完成。中村さんは荒野を流れる美しい用水路となるよう「マルワリード(真珠)用水路」と名付けた。
2008年8月に日本人スタッフの伊藤和也さん(31)が武装勢力の凶弾に倒れてからは、日本人スタッフ全員を帰国させ、自分一人だけが現地に残って活動を続けた。
その2年後、2010年に総延長25.5 kmが完成し、約3,000ヘクタールの荒廃地が農地に変わり、廃村に人が戻った。
2015年にはミラーン用水路が稼働、用水路は27kmとなり新たに1700ヘクタールが甦る。他にも16年間に及ぶ建設で計9カ所の用水路にたずさわり、2019年段階で1万6,500ヘクタールもの緑化に成功した。これは甲子園球場(3.85ヘクタール)4286個分に相当する途方もない面積だ。大地には小麦が豊かに実り、65万人が飢餓から救われた。

 
干ばつにより干上がった大地が、広大な緑の畑へと姿を変えた。かつて死の谷と呼ばれた砂漠が「緑の大地」として甦った!!

 
緑色の部分が農地として生まれ変わった。赤丸にも用水路があり、川魚を釣ることができる!

中村さんの支援は次の段階に進む。心の拠り所としてのモスク、子ども達が初等教育を受けられる授業料無料の神学校(マドラサ)を建設した。キリスト教徒の中村さんが収容人数800人の大型モスクを作ったことは、人々に感銘を与えた。モスクは地域コミュニティの中心的役割を果たしていく。
中村さん「水が来たときに人々は喜びましたが、モスクが建つともっと喜んだんですよ。“これで解放された”って。自分たちの伝統的生活が外国軍の駐留で否定されてきた。イスラム教徒であることが悪いことであるかのような、一種のコンプレックスが村を支配していたんですね」。そのコンプレックスから解放されたのだ。

 
モスクの完成(後方)を祝う式典にて抱きかかえられる中村さん。この後、中村さんはお返しで相手の男性を持ち上げようとして笑いを誘っていた

「アフガニスタンは40年間戦争が続いていますが、いまは戦争をしている暇はない。敵も味方も一緒になってアフガニスタンの国土を回復する時期だ。できるだけ多く緑を増やし、砂漠を克服して、人々が暮らせる空間を広げること。これは絶対できない課題ではない」



中村さんは自分が特別なことをしていると考えていなかった。アフガニスタンは内戦や干ばつで泣いている人がたくさんいて、食べるものがない。「泣いたり困っているのを見れば誰だって“どうしたんですか”って言いたくなるでしょう」。
政府軍、タリバン、ISが三つ巴の戦いをしている危険地帯で、アフガンの最も弱い立場の人々を助けることに人生の大半を捧げた中村さん。この偉業にアフガン政府は敬意を表し、2019年10月、中村さんはアフガンで外国人初の名誉国民に選ばれた。

−−2019年12月4日、その中村さんが撃たれた。犯人は不明だが、2台の車から降りてきた複数の男たち。タリバンはすぐに「我々はそんなことをしない」と犯行を否定する声明を出した。
※事件当日と翌日は大きく報道されたけれど、3日目になると『報道ステーション』は薬物所持で逮捕された沢尻エリカ氏の保釈ニュースをトップニュースで延々とやり、中村さんの続報はずっと後回しに。日本人には中村さんが亡くなったことを知らない人がまだ沢山いる。このまま風化させちゃだめだ。アフガン人が「忘れない」と言っている人を、日本人が知らないなんてことがあっていいはずない…。


「まさか砂漠で稲刈りができるなんて思ってなかった。人に話しても信じてもらえないんだ」

「自分はそんなに長生きしないので、それまでに研修体制を整えて、あとは自分たちでつくれるようにしたい」。死の前年、中村さんはもし自分がいなくなっても、アフガン人だけで用水路の建設を進められるよう、用水路建設の専門家を育てる職業訓練校を設立していた。「マルワリード用水路」流域の人口は全国民の2%であり、国民の多くがまだ飢えている。そして干ばつの被害が大きな地域ほど、過激派イスラム国(IS)が勢力を伸ばしていた。食べられないと傭兵になってしまう。「腹がいっぱいになれば戦争なんかしないし、そもそも畑の世話で戦う暇がなくなる」。

 

マルワリード用水路ができて一帯は治安が良くなった。用水路がもたらした奇跡をアフガン全土に拡大するため、急いで職業訓練校でノウハウを伝える必要があった。この人材育成プログラムには、既に全国から集まった1000人以上が参加している。

 

「私たちの暮らしは(中村さんのお陰で)大きく変わった」と力説する男性。右の老人「昔は毎日のどが渇いて死にそうだったけど水が来て暮らしが180度変わったよ」。みんな、いかに自分たちが中村さんに恩を感じているか懸命に語る。言葉に強い想いがこもっていた。

大きなカボチャ(?)を収穫 小麦畑で遊ぶ子ども達


追記〔2019.12.8 中村哲医師、無言の帰国〕

 

中村さんの棺を先頭で担ぐアフガニスタンのガニ大統領。棺はアフガン国旗に包まれ国葬なみの弔い方だった。

 

離陸前に約50名のアフガン軍と軍楽隊が最敬礼で見送り、大統領の追悼演説が捧げられた

 

一方、日本では安倍首相は出迎えず、茂木外相の姿もなく、誰1人閣僚は来なかった。
2名の外務“副”大臣のうち鈴木氏1人だけが成田空港で出迎えた。
そして、映像を見る限り、駐日アフガニスタン大使の職員の方が日本人より多い。
中村さんが行った35年間の活動に対する評価が、日本ではあまりに低すぎる…

 

成田空港のロビーでは、日本在住のアフガニスタン人70名が集まり中村さんを追悼。

 

翌日、故郷の福岡に帰郷すると、空港の展望ロビーに九州のアフガニスタン人が集まって追悼。
プラカードに赤い字で書かれた言葉は「守れなくて申し訳ない」。

 

必ず出てくる「ヒーロー」という言葉!


アフガニスタンで中村さんの亡骸が帰途につく際、空港ではアフガニスタンのガニ大統領が棺を先頭で担ぎ、約50名のアフガン軍と軍楽隊が最敬礼で見送り、大統領の追悼演説が捧げられた。棺はアフガン国旗に包まれており、国葬なみの弔い方だった。それは実に荘厳で胸を打つ光景だった。
一方、中村さんの棺が8日の夕方に帰国した際、安倍氏は成田空港に姿を見せなかった。事件直後の官邸会見で「医療分野や灌漑(かんがい)事業においてアフガンで大変な貢献をしてきた。厳しい地域で命がけで業績を上げ、アフガンの人も感謝を述べていた。このような形で亡くなったことは本当にショックだ」と悼んでいたので、棺を担いだガニ大統領のこともあるし出迎えてくれるのかと思った。僕は「その時間、首相は何をしてたのだろう?重要な国際会議に出席していたのかな」と、報道の首相動静を見て絶句した。

 

「午後3時17分、私邸着」「午後10時現在、来客なし」

目を疑った。なんで15時から私邸でのんびりしていたのか…。棺は17時すぎに成田へ着いたのだから、14時50分に東京駅にいたなら余裕で間に合ったはず。特に来客の予定があったわけでもない。“本当にショック”と言うなら迎えに行ってほしかった。中村さん自身は“首相の出迎えなど無用”と思うかも知れないけど、首相が出迎えることで、より多くの人が「それほどの人だったのか」と、中村さんの活動や人物に関心を持ってくれたろうから…。

−−結局、僕が安倍氏に感じている違和感はこういうところなんだと思う。アフガン大統領の行動を見てよく分かった。政治上の意見がぶつかっても「考え方の違い」として、ある程度は理解できる。だけど、非業の死に同情できないとか、他国で名誉国民になったほどの故人に敬意を払えないとか、そういう根本的な部分、人として最も大切な部分を軽視しているような言動を見せられると、不信感は決定的なものになる。まして中村さんはテロの被害者だ。首相は常日頃「テロとの戦いに全力を尽くす」と言っているのにどうして…。

本稿は中村医師の追悼コラムだから、これ以上はやめておく。ただし、首相と葬儀に関してはあと一点だけ言及せねばならぬことがある。南アフリカで人種差別と戦いノーベル平和賞を受賞したネルソン・マンデラ元大統領の追悼式(葬儀)についてだ。
2013年12月10日、当時のオバマ米大統領、オランド仏大統領、メルケル独首相を含む世界140人以上の首脳クラスが参列したマンデラ氏の「世界最大級の葬儀」が催された。マンデラ氏は終身刑を言い渡されても獄中から黒人解放を訴え続け、27年後に釈放された「不屈の闘士」として世界から尊敬を集める人物。
マンデラ氏いわく「生きていく上で最も偉大な栄光は、決して転ばないことではない。転んでも転んでも起き上がり続けることである」「生まれながらにして肌の色や出身や宗教を理由に他人を憎む人は誰もいない。憎しみは後から学ぶものであり、もし憎しみを学ぶことができるなら、愛することも教えられるはずだ。愛はその反対の感情よりも、人間の心にとって自然になじむものだから」。
−−安倍首相はこの追悼式に参列せず、代わりに当時の皇太子殿下と福田元首相が参列した。国会は閉会していたし、いくつかの会合はあったが、緊急性のあるものはなかった。南ア大使館で弔問記帳のみ済ませ、当日の昼は銀座の高級中国料理店「福臨門酒家」で、自民の石原伸晃、塩崎恭久、小渕優子議員とランチ、夜はJRの社長とディナー。安倍氏の中で、マンデラ氏はその程度の価値なのだ。
中村医師を安倍氏や閣僚クラスが誰も出迎えなかった光景を見て、フラッシュバックのようにその記憶が甦った。



飛行機の尾翼に中村さんの肖像画を掲げたアフガンのカーム航空


活動の原点「照一隅」。他界2カ月前 この草木のない荒野が… 別世界の豊かな土地に!同じ場所と思えない!

亡くなられる2カ月前の中村さん。座右の銘は「照一隅(いちぐうを照らす)」。
天台宗をひらいた最澄の言葉。「世界を豊かにするとか全人類を救うとかそういうことではなく、
一隅、自分の身の周りから照らしていく。1つ1つできることをしていく以外に何かを実現する方法はない」



左端、伊藤和也さんだ!伊藤さん…!悲劇から11年、アフガンの人は伊藤さんを忘れることなく、こうして写真を掲げてくれている!!

 

中村さんの追悼ニュースの中で、伊藤和也さんのお母さんが、中村さんからもらった最後の手紙を紹介されていた。
中村さんはこの手紙を、用水路事業の最新の情報を記した著作と共に伊藤さんのご両親に贈った。
「先日はお会いできて嬉しうございました。本当なら何度もお伺いして御報告を申し上げるところ、失礼をいたしております」
「(この本は)写真が多いので『その後』の様子が多少なりとも目で伝わるかと思います」
伊藤さんの事件以後のことを『その後』とカッコ付きで表現しており、中村さんの気持ち、ご両親の気持ちを思い胸が詰まった。

中村哲、かく語りき−−
「ほかの国に比べたら、(現地での)日本への感情はとても親しいものです。この感情を大事にしなければならないと思うんです。湾岸戦争のときに、「日本は血も汗も流さずお金だけばら撒いて、しかも国際社会から何の感謝もされなかった。それが、トラウマになっている」なんて、自民党の議員さんたちはよく言うようですけど、なんでそんなことがトラウマになるんですか。「お金の使い方が間違っていた」と言うのならいいのですが、「もっと血と汗を流せ」という方向へ行って、とうとうイラクへは自衛隊まで派遣してしまった。僕は、これはとても大きな転回点だったと思っています。
 これまでは、海外に軍事力を派遣しない、ということが日本の最大の国際貢献だったはずなのに、とうとうそれを破ってしまったんです。これは、戦争協力ですよね。そんなお金があるんだったら、福祉だの農業復興だの何だの、ほかに使い道はいくらでもあるというのに。」
日本は、軍事力を用いない分野での貢献や援助を果たすべきなんです。現地で活動していると、力の虚しさ、というのがほんとうに身に沁みます。銃で押さえ込めば、銃で反撃されます。当たり前のことです。でも、ようやく流れ始めた用水路を、誰が破壊しますか。緑色に復活した農地に、誰が爆弾を撃ち込みたいと思いますか。それを造ったのが日本人だと分かれば、少し失われた親日感情はすぐに戻ってきます。それが、ほんとうの外交じゃないかと、僕は確信しているんですが。」

 

「寒風の中で震え、飢えている者に必要なのは弾丸ではありません。温かい食べ物と、温かい慰めです」


★おすすめYouTube動画『武器ではなく命の水を 医師中村哲とアフガニスタン』(58分)









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