戦争拡大との戦い 昭和天皇かく語りき
〜昭和天皇のリベラル発言〜

2011.12.19

〔驚くべき反戦・反軍部発言の数々〕

戦前や戦時中の昭和天皇の発言をひも解いて驚愕するのは、もし同じ発言を一般国民がすれば“政治犯として投獄される”レベルの言葉をずっと言い続けていたこと。仮に僕があの時代に生きて同様の言葉を言えば、憲兵が飛んできて治安維持法違反でしょっぴかれ、右派からは「国賊」「売国奴」のレッテルを貼られ、家族まで猛攻撃されるだろうということ。
右翼は皇室を大切にしており、特に昭和天皇を心底から崇拝している。だが僕は問いたい。ちゃんと昭和天皇の発言を知っているのかと。昭和天皇は満州における軍の暴走に怒り、中国侵略に激しく抗議し、とりわけ日米開戦には徹底的に反対する立場をとっていた。
アジア太平洋戦争(大東亜戦争)の時期、常にといっていいほど、軍部は天皇の心に反することをやってきた。それが言葉の端々から垣間見え、天皇の心労に胸が痛くなるほど。

これまで多くの左翼は昭和天皇を戦争推進派の象徴として見てきたけれど、きっちり発言を追っていけば、むしろ極めて左翼的であることが分かるはず。とても逆説的な言い方になるけど、保守論客の歴史認識に従えば、“昭和天皇は非国民”ということになってしまう。僕のこの表現が大袈裟でないことは、以下の言語録を読んで頂ければ容易に伝わるだろう。



●昭和4年(1929)昭和天皇28歳

・「説明は聞く必要がない」(5月)…満州支配をもくろむ関東軍が暴走して張作霖爆殺事件が起きると、昭和天皇は軍の独走を懸念して田中義一首相に関係者の厳罰と軍紀粛清を命じた。ところが陸軍の反対で軍法会議すら開かれない。事態を言い訳しようとする首相に立腹し、「この前の言葉と矛盾するではないか」「説明は聞く必要がない」と宮中の奥へ立ち去った。

・「将来陸軍軍人はかかる過ちを再びなさざるように」…張作霖爆殺のような事件の再発防止を訴えて。


●昭和6年(1931)30歳

・「軍紀がゆるむと大事を引き起こす恐れがあるから、軍紀は厳守するようにせねばならぬ」(4月)…“三月事件”(陸軍将校のクーデター未遂事件)に際して陸相に軍紀粛清を命じる。


●昭和7年(1932)31歳

・「自分は国際信義を重んじ、世界の恒久平和の為に努力している。それがわが国運の発展をもたらし、国民に真の幸福を約束するものと信じている。しかるに軍の出先は、自分の命令もきかず、無謀にも事件を拡大し、武力をもって中華民国を圧倒せんとするのは、いかにも残念である。ひいては列強の干渉を招き、国と国民を破滅に陥れることになっては真にあいすまぬ」
「陸軍が馬鹿なことをするから、こんな面倒なことになったのだ」(4月頃)
…関東軍の満州国建国によって、日本が世界各国から非難を浴びたため。


●昭和8年(1933)32歳

・「予の条件を承(うけたまわ)りおきながら、勝手にこれを無視たる行動を採るは、綱紀上よりするも、統帥上よりするも、穏当ならず」(5/10)…参謀総長が熱河省への進軍許可を求めた時、天皇はすぐに撤退することを条件に許可した。ところが、撤退後に再び関東軍が華北(中国北部)に侵入したため強い不満をもらした。


●昭和10年(1935)34歳

・「軍部に対して安心ができぬ」
・「君主主権はややもすれば専制に陥りやすい。(略)美濃部のことをかれこれ言うけれども、美濃部はけっして不忠な者ではないと自分は思う。今日、美濃部ほどの人が一体何人日本におるか。ああいう学者を葬ることはすこぶる惜しいもんだ」
・「機関説でいいではないか」
・「思想信念をもって科学を抑圧し去らんとする時は、世界の進歩は遅るるべし。進化論の如きも覆(おお)へさざるを得ざるが如き事となるべし。(略)思想と科学は並行して進めしむべきものと思う」(4月)
…憲法学者・美濃部達吉が「国家の統治権は天皇にあるのではなく、国家(法人)に属し、天皇は国家に従う“最高機関”にすぎない」と天皇機関説を唱えると、政府・軍部は「天皇の統治権は絶対無限である」として天皇機関説を否定した。だが、天皇は美濃部を擁護していた。

・「日系官吏その他一般在留邦人が、いたずらに優越感を持ち、満人を圧迫するようのことなきよう、軍司令官に伝えよ」(4月)…天皇が陸相に伝えた、満州の関東軍司令官に対する注文。

●昭和11年(1936)35歳

(二・二六事件に際し)
・「とうとうやったか」
・「まったく私の不徳のいたすところだ」
・「速やかに暴徒を鎮圧せよ」(2/26)

・「朕(ちん)の軍隊が命令なく自由行動を起こしたことは反乱軍と認める、反乱軍である以上速やかに討伐すべきである」(2/27)

・「朕ガ股肱(ココウ)ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕(ジョ)スベキモノアリヤ」(私の手足となって働く老臣を殺戮するという、このように凶暴な将校たちは、どんな理由があろうと許されはしない)(2/27)

・「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」(私が最も信頼する老臣をことごとく殺すことは、真綿(まわた)で私の首を締めるに等しい行為だ)(2/27)

・「朕自ラ近衛師団ヲ率イテ、此レガ鎮定ニ当タラン、直チニ乗馬ノ用意ヲセヨ」(私が自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たるから、すぐに乗馬の用意をせよ)(2/27)

・「自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ」(反乱将校が自殺するなら勝手にすればいい。あのような連中に勅使などもってのほかだ)(2/28)

※二・二六事件については、41年が経った1977年2月26日になっても、卜部亮吾(うらべりょうご)侍従人に「治安は何もないか」と就寝前に尋ねており、当事件の衝撃が脳裏に焼き付いていることがうかがえる。

・「第二の満州事変の勃発ではないか」(11月)…関東軍が事前報告せず満州の西のチャハル省に蒙古族の自治政府を作ろうとしたことについて。


●昭和12年(1937)36歳

・「(お前がそう言うなら)外国新聞の東京駐在記者を官邸に呼んで、陸軍大臣自ら帝国には領土的野心がないことをはっきり言ったらどうか」(9/10)…支那事変への国際社会の非難が高まるなか、“軍部に領土的野心はありません”という杉山陸相に。


●昭和13年(1938)37歳

・「この戦争は一時も早くやめなくちゃあならんと思うが、どうだ」(7/4)…戦線拡大を続ける支那事変を憂慮し、板垣陸相と参謀総長・閑院宮(かんいんのみや)を呼び早期解決を問うた。対ソ戦を考えると中国と戦っている場合ではなかった。

「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いる様なこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う」
・「今後は朕の命令なくして一兵でも動かすことはならん」(7/21)
…板垣征四郎陸軍大臣に。この板垣陸相はかつて満州事変を画策した人物。


●昭和14年(1939)38歳

・「出先の両大使がなんら自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか」(4/10)…大島駐独大使と白鳥駐伊大使が、独伊に対して各々独断で「独伊が第三国と戦う場合、日本も参戦する」と伝えた。

・「(中立の)米国が英に加われば、経済断交を受け、物動計画、拡充計画、したがって対ソ戦備も不可能なり」
・「参戦は絶対に不同意なり」(5/26)…ドイツと同盟すれば英米と対立することを懸念。

・「満州事変の時も陸軍は事変不拡大といいながら、かのごとき大事件となりたり」(6/24)…ノモンハン事件の報告を受けて。

・「その後、京大は立ち直っているか」(7月)…京大の教職員が思想弾圧を受けた滝川事件から6年後、各大学総長との会食の場で。天皇が事件に関心を持っていたことが分かる。

・「政治は憲法を基準にしてやれ」(8/28)…陸軍の内閣介入に注意。

・「(日独伊三国同盟の交渉打ち切りを喜び)海軍がよくやってくれたおかげで、日本の国は救われた」(14-15年)…海軍の三国同盟批判を天皇は高く評価していた。


●昭和15年(1940)39歳

・「(国益の為なら手段を選ばぬという)マキアベリズムのようなことはしたくないね」(6/20)…ドイツの攻勢で英仏が弱体化。軍部はその隙に仏印、タイへの進出を狙った。こうした軍部の姿勢を天皇が批判した。

・「指導的地位はこちらから押し付けても出来るものではない、他の国々が日本を指導者と仰ぐようになって初めて出来るのである」(夏)…しきりに“指導的地位”という言葉を掲げてアジアに進出しようとする軍部を牽制。

・「近衛首相は支那事変の不成功による国民の不満を南方に振り向けようと考えているらしい。陸軍は好機あらば支那事変そのままの体勢で南方に進出しようという考えらしい。海軍は支那事変の解決をまず為さねば南方には武力を用いないという考えのように思える」(7/30)
…7/26に第二次近衛内閣が“大東亜新秩序・国防国家の建設”をスローガンに「基本国策要綱」を決定し、7/27に大本営政府連絡会議で「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」が決まった。後者は日中関係打開と南方進出を軸に対米英戦も想定した決定的な方針であり、天皇は政府陸海軍3者の思惑の違いに疑問を示した。

・「(大政翼賛会を目指す)近衛がとかく議会を重んじないように思われるが、我が国の歴史を見るに、蘇我、物部の対立抗争以来、源平その他常に二つの勢力が対立しており、この対立を(武力ではなく)議会において為そうというのがひとつの行き方だ」(8/31)…天皇は近衛首相の大政翼賛会構想に対し「憲法の精神に抵触しないか」と批判的意見を述べた。

「これではまるで昔の幕府ができるようなものではないか」(10/11)…大政翼賛会発足の報告を受けて。

「独伊のごとき国家とそのような緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、この国の前途はどうなるか、私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる」(9月)…日独伊三国同盟の締結に際して。

「この条約(三国同盟)は、非常に重大な条約で、このためアメリカは日本に対してすぐにも石油やくず鉄の輸出を停止するだろう。そうなったら、日本の自立はどうなるのか。こののち長年月にわたって大変な苦境と暗黒のうちにおかれることになるかもしれない。その覚悟がおまえ(近衛首相)にあるか」(9月)…このように天皇は的確に未来を予測していた。


●昭和16年(1941)40歳

・「強い兵を派遣し、乱暴することなきや。武力衝突を惹起(じゃっき)することなきよう留意せよ」(1/16)…北部仏印の駐屯部隊について、杉山参謀総長に。

・「自分としては主義として相手方の弱りたるに乗じ要求を為すが如き、いわゆる火事場泥棒式のことは好まない」(2/3)…欧州で英仏がドイツに苦しめられている間に、彼らの植民地を奪おうという大本営政府連絡会議に。

・「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。いかなる確信があって3ヶ月と言うのか!」(9/5)…中国をなかなか倒せないのは奥地が開けているためと言い訳する杉山参謀総長が、今度は「米国を3ヶ月で倒す」というので天皇が怒った。

・「なるべく平和的に外交をやれ。外交と戦争準備は並行せしめずに外交を先行せしめよ」(9/5)…帝国国策遂行要領を見て杉山参謀総長に。


●昭和17年(1942)41歳

・「人類平和の為にも、いたずらに戦争の長引きて惨害の拡大しゆくは好ましからず」(2/12)…開戦初期の勝ち戦のなかにあって東条首相に早期終戦を訴える。「長引けば自然と軍の素質も悪くなる」とも。

・「いま日光なぞで避暑の日を送っているときではない」(8/7)…健康問題の懸念で日光で休養することになったが、米軍ガタルカナル島上陸の報が入り即時帰京を希望した。


●昭和18年(1943)42歳

・「わが陸海軍は、あまりにも米軍を軽んじた」(1/27)…“ノモンハンの(対ソ)戦争の場合と同じ”と、軍部が敵を軽んじた為にガタルカナル島で尊い犠牲を出したことを嘆いた。


●昭和19年(1944)43歳

・「陸海の首脳部がついに意見一致せず、ひいては政変を起こすが如き事があっては、国民はそれこそ失望して、5万機が1万機も出来ないことになるだろう」(2/10)…戦局悪化で内部争いしてる場合じゃないのに、陸海両軍が航空機の生産量の配分を巡って激しく対立していることを批判。


●昭和20年(1945)44歳

・「もう一度、戦果をあげてからでないとなかなか話は難しいと思う」(2/14)…近衛元首相との対話。左派はよくこの言葉を例に「天皇がもう一度戦果をあげよとこだわったから終戦が遠のいた」と批判しているけど、この言葉には前後の流れがある。どうすれば終戦できるかと悩み、元首相と相談するなかで、軍部急進派を軍部穏健派で抑え付けるには、戦果があがって急進派のメンツがたつタイミングを選ぶべきという話。あくまでも戦争推進派をどう抑え込むかの議論。

・「わたくしは市民といっしょに東京で苦痛を分かち合いたい」(5月中旬)…軍部は東京が空襲で危険なので、長野県松代に完成した地下陣営に大本営と皇居を移そうとした。それに反対しての言葉。

「これでやっとみんなと、同じになった」(5/26)…夜間に空襲の火災が皇居にも飛び火し、中心の貴重な建物“明治宮殿”が全焼。火災の一報が入った時は「正殿に火がついたか、正殿に!あの建物には明治陛下が、たいそう大事になさった品々がある。大事なものばかりだ。何とかして消したいものだ」と咳き込んで語るも、鎮火後は犠牲者の有無を問いかけ、焼け落ちた正殿に「みんなと同じになった」と静かに諦観。

・「なるべくすみやかにこれを終結せしむることが得策である」(6/20)…東郷茂徳外相が和平の為ソ連に仲介を頼むことを報告。天皇は大いに賛成した。

「慎重に措置するというのは、敵に対しさらに一撃を加えた後にというのではあるまいね」(6/22)…和平工作について陸軍の梅津参謀長が「和平の提唱は慎重に」と発言したことへ懸念を表明。この言葉からも、“新たな戦果よりも速やかな和平”という思いが分かる。

「この種の武器が使用された以上、戦争継続はいよいよ不可能になった。有利な条件を得ようとして戦争終結の時期を逸することはよくない」(8/8)…広島に投下された新型爆弾が原爆と判明。東郷外相が原爆を戦争終結の転機にしたいと考え述べ、天皇は同意した。

「自分は涙をのんで原案に賛成する」(8/10)…無条件降伏を求めたポツダム宣言をめぐる御前会議にて。受諾すべきという東郷外相&米内海相と、徹底抗戦を訴える阿南陸相、梅津、豊田の軍首脳が対立したため、鈴木貫太郎首相は天皇に最終判断を求めた。天皇は受諾を求めた。「本土決戦、本土決戦と言うけれど、一番大事な九十九里浜(米軍上陸予想地)の防備も出来ておらず、また決戦師団の武装すら不充分にて、充実は9月中旬以降になるという。飛行機の増産も思うようには行ってない。いつも計画と実行は伴わない。これでどうして戦争に勝つことが出来るか。もちろん、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰など、それらの者は忠誠を尽くした人々で、それを思うと実に忍び難いものがある。しかし今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲びたてまつり、自分は涙をのんで原案に賛成する」。いわゆる“聖断”が下された。

「たとえ連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではどうしようがない。人民の自由意思によって決めて貰って、少しも差し支えない」(8/12)…日本政府は「国体維持(天皇制)が約束されるならポツダム宣言を受諾する」と答え、その回答は「日本政府の形態は日本国民の自由意思によって決められるべきだ」というものだった。軍部が“共和制になる可能性がある”と反対すると、天皇は“連合国の言う通りで少しも差し支えない、国民が未来を選ぶべき”と答えた。

・「我が身ももはやどうなるか知れぬ。その前に今生(こんじょう)の別れとして、是非とも一目なりと母君にお会いしておきたい」(8/12)…昭和天皇の母が軽井沢へ疎開することになり、その前に一目と。

・「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」(8/14)…軍部がポツダム宣言「断固拒否」の姿勢をとり続けるため、14日に改めて御前会議が開かれた。かたくなに反対する阿南陸相、梅津陸軍参謀総長、豊田海軍軍令部総長の3人に対して天皇は次のように説得した。「陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことは真に堪え難いことで、その心持ちは私にはよく分かる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。このうえ戦争を続けては、結局わが国がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩をなめさせることは私として実に忍び難い。祖宗(そそう)の霊にお応えできない。(略)日本がまったく無くなるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる」。

・「私の切ない気持ちがどうして、あの者たちには、わからないのであろうか」(8/15)…終戦に反対する陸軍の一部の将校が、近衛師団長・森赳(たけし)中将をを射殺したうえ、偽の師団命令で近衛歩兵連隊を出動させて皇居を占拠、玉音放送を阻止するため録音盤奪取を企てた。報告を受けた天皇は「私が出て行ってじかに兵を諭(さと)そう。私の心をいってきかせよう」と、反乱部隊を説得しようとした。

・「今日の時局は真に重大で、いろいろの事件の起こることはもとより覚悟している。非常に困難のあることはよく知っている。しかし、せねばならぬのである」(8/15)…終戦に反対する近衛師団の反乱を鎮圧した東部軍司令官の田中静壱大将に、予想される混乱に対する覚悟を語った。

・「自分が1人引き受けて、退位でもして納めるわけにはいかないだろうか」(8/29)…戦争責任者を連合国に引き渡すことについて。

・「責任はすべて私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼らに責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお任せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」(9/27)…連合国最高司令官マッカーサー元帥との初会見で。「絞首刑も覚悟している」とも。マッカーサー「なぜあなたは戦争を許可されたのですか?」天皇「もし私が許さなかったら、きっと新しい天皇がたてられたでしょう。それは国民の意思でした(事実世論は鬼畜米英一色だった)。こと、ここに至って国民の望みに逆らう天皇は、恐らくいないのでありましょう」。

「自分があたかもファシズムを信奉するがごとく思われることがもっとも堪え難きところなり」(9/29)…昭和天皇は日中戦争前から一貫して戦争拡大に反対してきた。だが、米国のメディアは昭和天皇をヒトラーやムッソリーニと同列に見ていた。独裁者は議会を軽視するものだが、天皇は常に議会の決定を尊重してきた。むしろ、介入せんと心がけすぎて戦争を止められなかった。そのことを悔い、“あまりに立憲的に処置してきた為に、かくのごとき事態になった”と嘆いた。

※参考文献…『昭和天皇語録』(講談社学術文庫)、『昭和天皇』(古川隆久/中公新書)


●靖国参拝問題
昭和天皇は戦争指導者(いわゆるA級戦犯)が靖国に合祀されて以来、靖国への参拝をとり止めた外交問題化する前のことであり中国が騒いだからじゃない。最後の参拝は1975年。中曽根元首相が公式参拝して中韓が猛抗議したのは1985年。外交問題に発展する10年前に、もう参拝を止めていたんだ。

その理由を元宮内庁長官・富田朝彦(ともひこ)が聞いてメモに書いていた。
昭和天皇いわく
「私は或る時に、A級が合祀され、その上 松岡、白取までもが。筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが松平の子の今の宮司がどう考えたのか。易々と。松平は平和に強い考えがあったと思うのに親の心子知らずと思っている。だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」。

これを解説文入りで書くとこうなる→
「私はある時に、A級戦犯が合祀され、そのうえ(ナチスとの日独伊三国同盟を締結した)松岡洋右・元外務大臣、(国際連盟脱退を主導した)元駐伊大使の白鳥敏夫までもが祀られた。(先の靖国神社宮司)筑波藤麿は慎重に対処してくれた(1966年に旧厚生省から合祀を依頼されても退任まで10年以上合祀しなかった)と聞いたが、(元・宮内相)松平慶民の子の今の宮司(松平永芳。1978年にA級戦犯を合祀)がどう考えたのか。やすやすと(合祀するとは)。松平慶民は平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから、私はあれ(合祀)以来参拝していない。それが私の心だ」。

明確にA級戦犯合祀に不快感を語っており、子である今上天皇も即位から一度も参拝していない。

この「富田メモ」を2006年7月に日経新聞が伝えた際、櫻井よしこ、上坂冬子、大原康男ら保守論客が、信憑性を疑ったり、“合祀に不快感を持っていたと解釈できない”などとアクロバット論評をしていた。だが、翌07年4月に朝日新聞が「富田メモ」を決定的に裏付ける元侍従・卜部亮吾(うらべりょうご)の日記を公開する。
『卜部亮吾侍従日記』の1988年4月28日分に「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国(から)の批判・奥野発言のこと」とあり、「靖国」以降はわざわざ赤線が引かれていた。“奥野発言”とは特高警察あがりの奥野国土庁長官が「(日中戦争について)当時の日本に侵略の意図は無かった」と国会で発言したこと(翌月国土庁長官辞任)。
この4月28日という日付は、富田元長官が昭和天皇の“A級戦犯合祀不快発言”をメモした日とまったく同じだ。しかも卜部元侍従人は13年後の2001年7月31日の日記に「靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」と記しており、昭和天皇が合祀に不満を持っていたことをハッキリ綴っている。さらに半月後の8月15日の日記には「靖国合祀以来天皇陛下参拝取止めの記事 合祀を受け入れた松平永芳(宮司)は大馬鹿」とまで書かれていた。
卜部元侍従人は1969年から約20年間も昭和天皇の侍従を務め、香淳皇后死去に伴う大喪儀では“祭官長”を務めている。天皇家から大きな信頼を得た人物が、侍従時代から32年間もつけた日記33冊を、死の1ヶ月前に新聞記者に渡し“公開して欲しい”と願った真意を、僕らはくみ取るべきではないか。

『富田メモ』『卜部亮吾侍従日記』に続く第3の証言「戦死者の霊を鎮める社(やしろ)であるのに、合祀でその性格が変わる」もある。
中曽根元首相が靖国に公式参拝して近隣国から批判されたその翌年(1986年)、終戦記念日に昭和天皇は「この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし」と詠んだ。同年秋、皇室の和歌相談役を長年務める歌人・岡野弘彦のもとを、先の歌を手にした徳川義寛侍従長が訪れた。岡野が「うれひ」の理由が歌の表現だけでは十分に伝わらないと指摘すると、徳川侍従長は「ことはA級戦犯の合祀に関することなのです」と述べた上で、「お上はそのこと(合祀)に反対の考えを持っていられました。その理由は2つある」と語り、「一つは(靖国神社は)国のために戦にのぞんで戦死した人々の御霊(みれい)を鎮める社(やしろ)であるのに、そのご祭神の性格が(合祀で)変わるとお思いになっていること」と説明。そして「もう一つは、あの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになるとのお考えなのです」と述べた。さらに徳川侍従長は「それをあまりはっきりとお歌いになっては、差し支えがあるので、少し婉曲にしていただいたのです」と述べたという。(岡野弘彦著『四季の歌』より)
※徳川義寛・元侍従長の長男・徳川義眞の談話「新聞で(富田)メモを見た時は、父の言っていたのと同じだなあ、と思いました。父は、家では役所の話をあまりしませんでしたがね」週刊新潮2006年8月10日号

※平成の今上天皇も同じ考えであることが次の報道からも分かる。
・「今上天皇が1996年に栃木県護国神社に参拝した際、宮内庁がA級戦犯合祀が無いことを事前に問い合わせし確認していた」朝日新聞2001年8月15日朝刊
・(護国神社は合祀基準が靖国神社とほぼ等しいが)「1993年に今上天皇が参拝した埼玉県護国神社にはA級戦犯が合祀されていない」産経新聞2006年8月7日朝刊
中国や韓国が知るよしもない、地方の護国神社の参拝にさえ、宮内庁がA級戦犯合祀の有無を事前に確認している。これほど明確な皇室のメッセージ(合祀反対)が、なぜ日本の保守右翼には届かないのか。



【オマケ〜歴史認識「保守」×「リベラル」早わかり相違表】

歴史問題に対する保守派とリベラルの立場の違いを、項目別に短くまとめてみた。要点をパパッと見られるようにしたので説明不足な部分もあるけど、方向性は大きくズレていないと思う。
A=保守 B=リベラル と意見を併記している。
※Bの説明文の方が長いのは僕自身リベラル側っていうのもあるけど、Aの方は追加説明がいらないほどシンプルというのが大きいデス。

●時代の価値観
A.現在の価値観で過去を見るな。
B.過去に起こったことは「当時はどうしようもなかった」という議論に繋がり、結局、歴史から何も学ばないことになる。当時の人たちには何がどう見えていたかを把握すると同時に、当時の人には何が見えていなかったかを問題にせねば。

●いつまで謝罪するのか
A.戦前・戦中の出来事に、戦後生まれは関係ないから謝罪する義務はない。
B.他国を攻撃したのは国家責任であり、日本という国家の構成員である以上避けられない。私たちは先祖の文化的・経済的遺産の恩恵の上に生きている。同時に先人が精算していない負の遺産に対しては精算に参加する必要がある。先人と自分を完全に断ち切って生きていきことはできない。相手が過去を克服するためには謝罪が必要。

●英霊
A.日本軍は降伏することなく次々と玉砕していった。英霊に感謝せよ。
B.日本軍が捕虜になることを禁じていたことに触れずに玉砕を美化することは、上層部の作戦の失敗を最前線の兵士の「大和魂」で覆い隠すもの。
※『戦争論』(小林よしのり)は個人の美談ばかりで編んだもの。戦争を行なっている主体である「公」を語っていない。政府決定や御前会議決定など、「公」の意思決定についてはすべて沈黙している。

●東京裁判
A.事後法を作って裁いており無効だ。
B.日本は第一次大戦終結後、連合国の一員として、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世を国際道義に反したという理由から、“事後法”の「平和に関する罪」で国際法廷にかけることを求めている。「今後もし日本が負けたら天皇に罪がかかるのではないか」という点を問題にして「人道に反する罪」には反対したが、「平和に対する罪」には異論を言わなかった。

●1億総懺悔
A.指導者のみに敗戦の責任を押し付けてはいけない。日本人全体の連帯責任だ。
B.戦時体制になる以前に、戦争反対の立場をとる政府関係者をテロやクーデターで殺しまくったのは右翼。原敬、浜口雄幸、井上準之助、犬養毅、斉藤実、高橋是清と、総理3人、蔵相2人、内大臣1人も次々とテロで殺しておいて“連帯責任”という言い草はおかしい。犯人は全部右翼活動家か軍関係者。言論の自由はなかった。軍内部の穏健派さえ急進派に殺されている。

●犬死にと呼びたくない
A.あの戦争を侵略戦争と呼んだら戦没した人が犬死にとなる。
B.犬死にとするかどうかは、後世の人々のあり方にかかっている。国家が決定・遂行した戦争という行為と、それに参加した個人の行為を一体視するのは誤り。再び戦争したらそれこそ先人は犬死にとなる。

●サヨクと米国
A.日本のサヨクは米国の犯罪を絶対に追求しない。
B.戦後、原水禁運動などで米国の戦争犯罪を最も厳しく追及してきたのはサヨク運動。右翼はなぜ8月6日や9日に街宣車で米大使館に向かわないのか。

●アジアの独立国
A.あの当時、アジアで日本だけが独立国だった。
B.モンゴルはロシア革命後に独立しており、中華民国も国際連盟に加盟していたから独立国。タイも植民地ではない。

●歴史教育のあり方
A.日本人であることを誇りに思えるような教育を。
B.“植民地支配をしたのは日本だけじゃない、他の国もみんなやってる”というような開き直った態度が誇りを生むとは思えない。

●靖国(1)
A.神道は日本の伝統であり靖国神社を尊重すべきだ。
B.靖国の「国家神道」は明治からの新興宗教であり、古来からの「神社神道」とは異なる。靖国は神社本庁にも属してない。天皇も訪れない右翼宗教施設であり、日本の伝統でも何でもない。

●靖国(2)
A.台湾の遺族による合祀取り下げ要求は、中国政府が靖国参拝を政治問題化させたせいだ。
B.最初の合祀取り下げ要求を台湾の遺族が行ったのは1978年であり、中曽根元首相が1985年に公式参拝したことで中国政府が抗議を開始する前。

●天皇と戦争責任
A.天皇に戦争責任はない。むしろ陸軍の暴走の被害者だ。
B.これは非常に難しい。満州事変、二・二六事件、ずっと軍部の暴走に悩んでいたことが当時の側近の日記からも分かっており、心情的にはすごく同情できる。「軍の暴走の被害者」という見方は間違っていない。ただ、客観的に見れば、次の3つの理由から天皇に戦争責任はあると言わざるを得ないかも…。1.国務と統帥(軍事)を統轄できるただ1人の責任者、2.唯一の大本営命令(軍事命令)の発令者、3.統帥権の実際の行使者としての責任。

●日本と人種差別
A.ユダヤ人を助けた杉浦千畝リトアニア副領事のように、日本は人種差別に反対していた。アジアで平等を実現しようとしていた。
B.杉原千畝は後に訓令違反で外務省から処分され退職に追い込まれている。つまりユダヤ人保護は日本政府の方針ではなかった。「八紘一宇」は“天皇の下ですべての民族は平等”という理念だが、『宣戦ノ詔書』には「八紘一宇」の言葉は出て来ない。台湾や朝鮮の住民はほとんど無権利状態で、地方行政に参加する選挙権もなければ、代表が帝国議会に議席を占めることはなく、一方で義務として徴兵まで課せられた。同じ皇民というが、実際には朝鮮人をチョン、中国人をチャンコロと呼び、決して同等の者として扱わなかった。

●占領地の統治
A.道路整備や識字率の向上など植民地支配は良いこともした面もある
B.道路や橋を造ったのは統治しやすくする為であり、本国(日本)の利益の為。植民地支配に必要だったからこそ社会資本の整備を行なったわけで住民福祉のためではない。教育水準を高めたのは皇民化を目的とした同化政策の一環。

〔昭和史最大のタブー 元外務省官僚・天木直人氏のブログより〕リンク元

日本の占領を成功させるには、「神の子孫」である天皇を活用することが必要と判断したマッカーサーは、東條英機らA級戦犯に戦争責任をかぶせ昭和天皇を免責するとともに、戦争放棄(武装解除)と象徴天皇制を新憲法に盛り込むことによって戦後の日本を他の同盟国に認めさせた。それらのことは自分自身の生命はもとより天皇制存続という最大の危機に直面していた昭和天皇の利害と見事に一致した。
しかし昭和天皇にはもう一つ脅威があった。それは共産主義との冷戦である。日本が共産化されるという脅威はそのまま天皇と天皇制の脅威でもあった。昭和天皇は自分を戦争責任から救ってくれたマッカーサーを見限って、冷戦思考のジョン・フォスター・ダレス(後の米国務長官)と直取引し米軍駐留を受け入れを吉田茂首相に日米安保条約を急がせた。ダレスと昭和天皇の考えは一致し、吉田には選択の余地はなかった。日米安保条約の結末に必ずしも満足していなかった吉田茂は、講和条約締結(同時に日米安保条約を締結することになる)の全権代表として渡米することを拒んだが、嫌がる吉田を最後に翻意させたのもまた昭和天皇であった。
以上の戦後史は、戦後史の中でも最大のタブーあり、知る人は知っているが一般国民からは遠ざけられてきた。


〔今上天皇(現在の天皇)も美智子皇后も、ウルトラ級にリベラル!〕

以下、『リテラ』記事(2014.11.5)より抜粋。

それは、安倍首相に対して発せられたとしか思えないものだった。10月20日の誕生日を前にした文書コメントで、美智子皇后が「来年戦後70年を迎えることについて今のお気持ちをお聞かせ下さい」という質問に、こう答えたのだ。

「私は、今も終戦後のある日、ラジオを通し、A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いた時の強い恐怖を忘れることが出来ません。まだ中学生で、戦争から敗戦に至る事情や経緯につき知るところは少なく、従ってその時の感情は、戦犯個人個人への憎しみ等であろう筈はなく、恐らくは国と国民という、個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということに対する、身の震うような怖れであったのだと思います
実はこの皇后発言の2ヶ月前、安倍首相がA級戦犯として処刑された元日本軍人の追悼法要に自民党総裁名で哀悼メッセージを送っていたことが報道されていた。連合国による裁判を「報復」と位置づけ、処刑された全員を「昭和殉難者」として慰霊する法要で、安倍首相は戦犯たちを「自らの魂を賭して祖国の礎となられた」と賞賛したという。
皇后の言葉はこうしたタイミングで出てきたものだ。しかも、それは記者からA級戦犯をどう思うかと質問されたわけではない。自らA級戦犯の話題を持ち出し、その責任の大きさについて言及したのである。

「天皇と皇后両陛下は、安倍政権の改憲、右傾化の動きに相当な危機感をもたれている」
宮内庁記者や皇室関係者の間では少し前からこんな見方が広がっていた。天皇・皇后は、即位した直後からリベラルな考えをもっているといわれていたが、それでも以前は、一言か二言、憲法や平和、民主主義についてふれる程度だった。それが、第二次安倍政権が発足し、改憲の動きが本格化してから、かなり具体的で踏み込んだ護憲発言が聞かれるようになったのだ。
たとえば、昨年、天皇は誕生日に際した記者会見で、記者の「80年の道のりを振り返って特に印象に残っている出来事を」という質問にこう答えている。

「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」

日本国憲法を「平和と民主主義を守るべき、大切なもの」と最大限に評価した上で、わざわざ「知日派の米国人の協力」に言及し、「米国による押しつけ憲法」という右派の批判を牽制するような発言をしたのである。
また、美智子皇后は昨年の誕生日にも、憲法をめぐってかなり踏み込んだ発言をしている。この1年で印象に残った出来事について聞かれた際、皇后は
「5月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます」
としたうえで、以前、あきる野市五日市の郷土館で「五日市憲法草案」を見た時の思い出を以下のように語り始めたのだ。
「明治憲法の公布(明治22年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、204条が書かれており、地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います」

日本国憲法と同様の理念をもった憲法が日本でもつくられていたことを強調し、基本的人権の尊重や法の下の平等、言論の自由、信教の自由などが、けっして右派の言うような「占領軍の押しつけ」などでないことを示唆したのである。
そして、今回のA級戦犯発言──。これはどう考えても偶然ではないだろう。この期に及んでA級戦犯を英雄視する首相に対して、「責任をとることの意味を考えなさい」と諭したとも受け取れる言葉だ。
もっとも、安倍首相やそれを支える右派勢力にこうした天皇・皇后の発言を真摯に受けとめようという気配はまったくない。それどころか、首相の周辺からは、天皇に対する批判発言までが飛び出している。
今年4月、安倍政権下で教育再生実行会議委員をつとめるなど、安倍首相のブレーンとして知られる憲法学者の八木秀次が「正論」(産業経済新聞社)5月号で「憲法巡る両陛下のご発言公表への違和感」という文章を発表。そこで、天皇・皇后に安倍内閣の批判をするな、と説教をしたのである。
「両陛下のご発言が、安倍内閣が進めようとしている憲法改正への懸念の表明のように国民に受け止められかねない」
「宮内庁のマネジメントはどうなっているのか」
この憲法学者は、日本国憲法第99条に「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」という条文があることを知らないらしい。そもそも現天皇は戦後憲法によって天皇に即位したのであり、自己の立脚基盤を憲法におくことは当然なのだ。象徴天皇制とは戦後レジームの象徴であり、だからこそ天皇と皇后は常に戦後憲法理念である平和と民主主義の擁護を語ってきた。そういう意味では、先に喧嘩を売ったのは、その戦後天皇制の立脚点をはずしにかかった安倍政権のほうなのだ。

だが、彼らにこんな理屈は通用しない。ネット上では安倍首相支持者が、護憲発言を繰り返す天皇・皇后に対して「在日認定」という表現で非難するケースまで出てきている。
これまで、安倍首相が議連会長をつとめる神道政治連盟はじめ、右派勢力は天皇を再び国家元首にかつぎあげることを公言し、天皇を中心とした祭政一致国家の復活を声高に叫んできた。ところが、天皇が護憲や平和、民主主義を口にし始めたとたん、その存在を敵視し、天皇を棚上げするかたちで国家主義政策を進め始めたのだ。現在の天皇・皇后はむしろ、政権に疎んじられ、完全に孤立しているようにすら見える。
しかも、こうした状況に拍車をかけているのが、マスコミの対応だ。新聞、テレビはオランダ王室との華やかな宮中晩餐会などを大々的に報道する一方で、天皇や皇后のこうした憲法発言はほとんど取り上げようとしない。
たとえば、天皇が昨年の誕生日会見で、「平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り」と憲法に言及した部分について、NHKは安倍政権に配慮して、完全に削除してしまった。また、今年の美智子皇后の「A級戦犯」発言についても、この部分を大きく取り上げた新聞、テレビは皆無に近かった。全国紙の政治部記者がその理由をこう解説する。
「読売、産経、NHKは安倍政権の広報機関のようなものですから、改憲に水を差すような発言は報道しない。一方、朝日などの左派系メディアは今、弱っていますから、それを取り上げることで『天皇の政治利用だ!』 と言われるの
を恐れて腰が引けている。結局、天皇陛下や皇后陛下がどんなに護憲発言をしても、国民には伝わらない、そういう状況になっています」
この先、おそらく天皇と皇后はますます孤立を深め、何を話しても政権から無視される状態になっていくだろう。
(抜粋終わり)
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今上天皇の2015年元旦(戦後70年)のコメントがまたすごい!右傾化する安倍政権を牽制する踏み込んだ発言
宮内庁HPより→「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々,広島,長崎の原爆,東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています」。
単なる“戦争の歴史”ではなく、あえて「満州事変に始まる」と言及しているところが重要。政治不介入の原則がある天皇にとって、安倍内閣へのギリギリの抵抗と受け取った。

〔満州事変(柳条湖事件)〕
1931年に関東軍=日本陸軍が中国東北部・柳条湖で起こした自作自演の鉄道爆破事件で、これが15年に及ぶ日中戦争の発端となった。日本は軍部が行った爆破テロを相手の犯行とみせかけ、「中国軍の日本に対する挑発だ」として武力攻撃を開始した。事件翌日、軍部の暴走に驚いた若槻内閣は“事態不拡大”の方針を告げるが、3日後、朝鮮にいた日本軍も独断で満州に越境する。これは国外出兵を天皇の命令なしで行った明確な違法行為だ。
その後、軍部は「自衛のため」と称して次々に戦線を拡大していく。国民は柳条湖事件が自作自演であることをずっと知らされなかった。
若槻首相は侵略行為に反対していた為、陸軍急進派が全閣僚殺害のクーデターを画策(十月事件)。未遂に終わったが内閣は衝撃を受けて総辞職し、新たに犬養毅内閣が誕生する。
犬養首相も満州侵略に反対で、「日本は中国から手を引くべき」との持論をもっていた為、首相公邸に乗り込んだ急進派将校たちに暗殺された(五・一五事件)。
満州事変以降、関東軍は(1)天皇の裁可がなくても(2)陸軍中央の許可がなくても(3)内閣が反対しても、勝手に国策を決定して実行するようになる。政府も軍上層部も、満州事変の独断行動を不問にしたことで、その後の手柄目当ての暴走も認めざるを得なくなった歴史のターニング・ポイント。
昭和天皇「自分は国際信義を重んじ、世界の恒久平和の為に努力している。それがわが国運の発展をもたらし、国民に真の幸福を約束するものと信じている。しかるに軍の出先は、自分の命令もきかず、無謀にも事件を拡大し、武力をもって中華民国を圧倒せんとするのは、いかにも残念である。ひいては列強の干渉を招き、国と国民を破滅に陥れることになっては真にあいすまぬ」。
※事変翌日、特務機関の甘粕正彦はハルピン出兵の口実作りのため、自分たちで奉天市内数カ所に爆弾を投げ込み、「居留民保護」を名目に関東軍を動かそうとした。このように、特務機関があらかじめ標的地に不穏な空気を作ってから、軍が日本人保護を理由に出兵するやり方が当時の常套手段だった。

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●戦後70年、全国戦没者追悼式のお言葉(2015年)

「戦後という、この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき、感慨は誠に尽きることがありません。ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」。
戦没者追悼式での天皇陛下のお言葉は、基本的な内容は毎年、踏襲されて変化しないが、今回は新たに「さきの大戦に対する深い反省と共に」という一文が追加された。戦没者追悼式において「反省」という言葉が盛り込まれたのは初めて。前日に安倍首相が出した戦後70年の“安倍談話”が、過去の村山談話や小泉談話と異なって「侵略」「植民地支配」を日本による行為という文脈では触れなかったことへのけん制とも受け止められる。


●天皇陛下お誕生日に際し(2015年)

「今年は先の大戦が終結して70年という節目の年に当たります。この戦争においては,軍人以外の人々も含め,誠に多くの人命が失われました。平和であったならば,社会の様々な分野で有意義な人生を送ったであろう人々が命を失ったわけであり,このことを考えると,非常に心が痛みます。

軍人以外に戦争によって生命にかかわる大きな犠牲を払った人々として,民間の船の船員があります。将来は外国航路の船員になることも夢見た人々が,民間の船を徴用して軍人や軍用物資などをのせる輸送船の船員として働き,敵の攻撃によって命を失いました。日本は海に囲まれ,海運国として発展していました。私も小さい時,船の絵葉書を見て楽しんだことがありますが,それらの船は,病院船として残った氷川丸以外は,ほとんど海に沈んだということを後に知りました。制空権がなく,輸送船を守るべき軍艦などもない状況下でも,輸送業務に携わらなければならなかった船員の気持ちを本当に痛ましく思います。今年の6月には第45回戦没・殉職船員追悼式が神奈川県の戦没船員の碑の前で行われ,亡くなった船員のことを思い,供花しました。

この節目の年に当たり,かつて日本の委任統治領であったパラオ共和国を皇后と共に訪問し,ペリリュー島にある日本政府の建立した西太平洋戦没者の碑と米国陸軍第81歩兵師団慰霊碑に供花しました。パラオ共和国大統領御夫妻,マーシャル諸島共和国大統領御夫妻,ミクロネシア連邦大統領御夫妻もこの訪問に同行してくださったことを深く感謝しています。この戦没者の碑の先にはアンガウル島があり,そこでも激戦により多くの人々が亡くなりました。アンガウル島は,今,激しい戦闘が行われた所とは思えないような木々の茂る緑の島となっています。空から見たパラオ共和国は珊瑚礁に囲まれた美しい島々からなっています。しかし,この海には無数の不発弾が沈んでおり,今日,技術を持った元海上自衛隊員がその処理に従事しています。危険を伴う作業であり,この海が安全になるまでにはまだ大変な時間のかかることと知りました。先の戦争が,島々に住む人々に大きな負担をかけるようになってしまったことを忘れてはならないと思います

この1年を振り返ると,様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年だったように思います。年々,戦争を知らない世代が増加していきますが,先の戦争のことを十分に知り,考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います

陛下は先の大戦を語る時に日本人が忘れがちな“現地の島民”への加害行為に言及したり、戦争を知らない世代に、先の戦争のことを十分学んで考えを深めて欲しいと強調されている。
元旦の「満州事変」、敗戦日の異例の「反省」、年末の「戦争を知らない世代は先の戦争を十分に学べ」、この3つは全部繋がっている。過去の歴史を美化してはならぬという、これほど明確な、そして焦燥感すらある立て続けのメッセージに耳を塞ごうとする一部保守論客が嘆かわしい。

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●2018年秋、宮内庁が皇后さまの誕生日に合わせてHPにお言葉を公開。近年は憲法擁護の発言が続いている(2011年は憲法を作った米国関係者に御礼まで表明)。今年は1年を振り返り、西日本豪雨や北海道地震についてお見舞いの言葉などが綴られた後、一番最後に森友・加計問題を念頭においたような一文があった。

「(陛下退位後は)赤坂の広い庭のどこかによい土地を見つけ、マクワウリを作ってみたいと思っています。こちらの御所に移居してすぐ、陛下の御田(おた)の近くに1畳にも満たない広さの畠があり、そこにマクワウリが幾つかなっているのを見、大層懐かしく思いました。頂いてもよろしいか陛下に伺うと、大変に真面目なお顔で、これはいけない、神様に差し上げる物だからと仰せで、6月の大祓(おおはらい)の日に用いられることを教えて下さいました。大変な瓜田(かでん)に踏み入るところでした。それ以来、いつかあの懐かしいマクワウリを自分でも作ってみたいと思っていました。」

普通に読んでいれば気づかないと考えてか、宮内庁はこの文末に、“あえて”皇后陛下のお言葉に補足説明を入れている。次のような注釈だ。

「大変な瓜田に踏み入るところでした」の意味
→広く知られている言い習わしに「瓜田に履(くつ)を納(い)れず」(瓜畑で靴を履き直すと瓜を盗むのかと疑われるのですべきではないとの意から、疑念を招くような行為は避けるようにとの戒め)がある。

安倍氏は親友である加計学園・加計孝太郎氏に特別便宜を図ったのではないかと追及されると、二言目には「加計孝太郎さんが学園の理事という立場と考えると、誤解を招かないよう距離をとるべきだった。“李下に冠を整さず”(りかにかんむりをたださず)だ」と言っている。意味は李(り=すもも)の下で冠をかぶり直すために手を上げると、すももを盗ろうとしているような誤解を与えてしまう」というもの。
「瓜田に履を納れず」も「李下に冠を整さず」も、元は古代中国・晋の詩人・陸機(りくき 261-303)が記した同じ漢詩の一節だ。陸機は君主がとるべき正しい振る舞いについて、「人から疑いをかけられるような行いは慎むべきである」ということのたとえとして『君子行』にこう詠んだ。

『君子行』
君子防未然     君子は未然に防ぎ
不處嫌疑間     嫌疑の間に処らず
瓜田不納履     瓜田(かでん=うり畑)に履(くつ)を納(い)れず
李下不正冠     李下(りか=すももの下)に冠を正さず

最近、日本の右派ほど皇室を軽んじている者はいないんじゃないかと思うことが多い。菊の紋章を街宣車に掲げておきながら、まったく天皇・皇后両陛下のお言葉から真意を読み解こうとしない。今上天皇がテレビを通して「退位制度の“恒久法”を作ってほしい」と異例の声明を出し、国民に“直接”訴えたにもかかわらず、安倍政権はその想いを完全に無視し、一代限りの“限定法”で押し切った(百田尚樹氏に至っては声明を「見ていない」とさえ公言)。右派は天皇陛下のお言葉にまったく耳を貸さず、何ひとつ行動しなかった。少なくとも僕はこの件で安倍政権に抗議する右翼街宣を見たことがないし、新聞の意見広告も一度も見てない。

皇室は政治的発言を禁じられており、その制約の中で、ギリギリの表現で自分の想いを国民に示されている。「満州事変での日本軍の過ち」などに触れることで、あの戦争を美化せぬよう歴史修正主義に警鐘を鳴らされている。官邸が北朝鮮ミサイルの避難訓練を国民にさせていた時期にあえて渡来人の神社に歴代天皇で初めて公式に参拝され、沖縄では離島にまで訪問されている。

今回、皇后さまが声明の最後にあえて「瓜田に履を納れず」を引き合いに出されたのは、安倍氏が壊れたレコードのように答弁で繰り返している「李下に冠を整さず」にかけ、政治・行政全体への危惧とされているのは明白。安倍首相だけでなく、「ワイロを受け取ったと誤解されたのは心外」の自民甘利氏、「セクハラと受け止められたのは心外」の財務事務次官、「忖度はしてないがそう見えたなら心外」の理財局長、政治家も官僚も「瓜田に履を納(い)れず、李下に冠を整さず」の事案だらけだ。この悪しき風潮を変えるべく、国民がしっかりと声をあげていこう。

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●平成最後の天皇誕生日の記者会見(2018年)

陛下が時折涙声になられた、とても感動的なものだった。特に、沖縄、戦争、皇后さまについて語られる際は、思いの深さから声がつまる場面もあった。

「昭和47年(1972)に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません
先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています
そして、戦後60年にサイパン島を、戦後70年にパラオのペリリュー島を、更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません」
※この会見の6日前(12/14)、安倍政権は沖縄辺野古の珊瑚礁に、県民の民意を無視した、基地建設の土砂投入を始めた。陛下はそれを念頭におき、心を寄せていると強調されたのだろう。また、過去の声明と同様に、戦争の真実を正しく伝えることの重要性を説かれた。

「今年、我が国から海外への移住が始まって150年を迎えました。この間、多くの日本人は、赴いた地の人々の助けを受けながら努力を重ね、その社会の一員として活躍するようになりました。こうした日系の人たちの努力を思いながら、各国を訪れた際には、できる限り会う機会を持ってきました。(略)
日系の人たちが各国で助けを受けながら、それぞれの社会の一員として活躍していることに思いを致しつつ、各国から我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています。また、外国からの訪問者も年々増えています。この訪問者が我が国を自らの目で見て理解を深め、各国との親善友好関係が進むことを願っています」
※外国人排斥を訴える右翼に100回聞かせたい言葉。

「天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労(ねぎら)いたく思います」
※皇后さまへの愛情のこもった感謝の言葉。多くの国民の胸を打った。

「新しい時代において、天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います」
※秋篠宮文仁親王は、この前月の平成30年11月22日、自身の誕生日(11/30)に先だって秋篠宮邸で行われた記者会見で「宗教色が強い大嘗祭(だいじょうさい)に公費支出をするべきではない」「身の丈にあった儀式を」と、政府方針と違う異例の提言をされ、「宮内庁長官らに伝えたが聞く耳を持たなかった」と踏み込んだ発言をされた。「大嘗祭」は天皇の代替わりに伴う皇室行事であり宗教色が強い。
秋篠宮「(即位の礼は国事行為で行われるが)大嘗祭については、これは皇室の行事として行われるものですし、ある意味の宗教色が強いものになります。その宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか、これは平成のときの大嘗祭のときにもそうするべきではないという立場」
「宗教行事と憲法との関係はどうなのかというときに、それは、私はやはり内廷会計で行うべきだと思っています。大嘗祭自体は私は絶対にすべきものだと思います。ただ、そのできる範囲で、言ってみれば身の丈にあった儀式にすれば。そのことは宮内庁長官などにはかなり私も言っているんですね。ただ、残念ながらそこを考えること、言ってみれば話を聞く耳を持たなかった。そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています」。

政府は2019年の大嘗祭関係費として27億円の公費支出を決定。皇居・東御苑に新造される「大嘗宮(だいじょうきゅう)」の設営費関連だけで19億円かかる。この「大嘗宮」はたった一度だけ使用され、解体・撤去される。秋篠宮は代替案として、新嘗(にいなめ)祭が行われる宮中の「神嘉殿(しんかでん)」を活用して大幅に費用を抑え、それを天皇家の私費で賄うという具体案を、宮内庁の前長官にも、現在の山本信一郎長官にも示していた。神嘉殿は国中の神々をまつる神殿で、収穫に感謝する新嘗祭で使用している。
「大嘗宮を建てず、宮中にある神嘉殿で執り行っても儀式の心が薄れることはないだろう」「天皇の代替わりに伴う諸行事は国民の理解のもとで執り行われるべきだ」「公費支出はなじまない」と繰り返し意見を述べてきたが、宮内庁は本格的に検討しなかった。

皇族が関わるものには、国事行為で行われる行事と皇室の行事があり、国事行為については意見を言えないが、皇室の行事にはある程度の考えがあっても良い。

新天皇が五穀豊穣や国家安寧を祈る大嘗祭は宗教的な性格があるため、政府は「国事行為とはしない」とする一方で、「皇位継承の重要儀式」として公費を支出。だが、政教分離を定めた憲法に反するとの意見があり、前回は知事らの参列の合憲性を問う訴訟が相次いだ。最高裁は支出そのものへの憲法判断を下しておらず、今回も宗教者や市民らが違憲と考え、支出差し止めを求めて東京地裁に提訴している。




《時事コラム・コーナー》

★愛国リベラル近代史年表/日本と中国編
★愛国リベラル近代史年表/日本と韓国・朝鮮編
★愛国リベラル近代史年表/日本と台湾編
★愛国リベラル近代史年表/日本とアメリカ編
★愛国リベラル近代史年表/日本と東南アジア編
★昭和天皇かく語りき
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★靖国神社参拝問題
★愛国心について僕が思うこと
★日の丸・君が代強制と内心の自由について
★残業ゼロが常識になる社会は可能!
★アフガン・伊藤和也さんを悼む
★パレスチナ問題&村上春樹スピーチ
★チベット問題について
★普天間基地を早急に撤去すべし
★マジな戦争根絶案