愛国リベラル史観・近代史年表〜日本と中国編
〜今こそ真の和解を、そしてあなたの義憤は他国にではなく日本社会の改革に!〜
2011.9.22
〔はじめに〜この年表のコンセプト〕
もう歴史問題に決着をつけて「仲良くしようぜ!」ということです。 中国政府はチベット弾圧、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)弾圧、格差問題、官僚腐敗、公害問題、内政に山のように問題を抱えており、対外的にはベトナム領パラセル諸島(西沙諸島)&スプラトリー諸島(南沙諸島)占領、フィリピン領ミスチーフ礁占領、尖閣をめぐっての日本との衝突など、強硬路線が軋轢を生んでいます。
天安門事件以降、愛国教育で政府への求心力を高め、民主化を求める者はノーベル平和賞受賞者であろうと国家転覆未遂で監獄へ放り込む滅茶苦茶なことをしています。 隣国日本としては「もっと国民の声に耳を傾け民主化を」と言いたいところですが、中国政府が批判をそらす為に「過去の戦争を反省してない日本に言われたくない」「靖国参拝は軍国主義の証拠」と国内世論を持っていき、こちらの言葉がうまく届きません。
僕としては、過去の中国侵略を美化したり開き直ったりする発言は、中国政府に日本叩きの口実を与えるだけなので控えて欲しい。でも、学校の授業では日本が中国大陸で何をやったのか殆ど教えてないので、「中国の歴史教育は何から何まで捏造!日本軍は悪い中国人を“懲らしめた”だけで、国際法は守ってた!」と思ってる人が少なくありません。それは正しくないし、とても危険な誤解です。
僕は以前からチベットの自治権拡大を訴えるページを作っており、共産主義の信奉者でもないので、先入観を捨てて以下の近代史年表を見て頂けると有難いです。自論に有利なデータ(数字)だけを引っ張るようなことはせず、基本的に日本軍の公式記録をもとに年表を作っています。 作成時に心がけたこと→
(1)中立的であること※参考資料後述
(2)単なる事件の列挙ではなく、昭和天皇や軍中央の言葉も数多く紹介し、歴史が動く現場を再現する
(3)文芸ジャンキーらしく、各時代の作家の言葉なども入れる
(4)従来の左派のように日本軍の戦争犯罪を糾弾するのではなく、最前線の軍医(精神科)の分析などから、“兵士の心が壊れていく過程”を描き出し、人間全体の体験として捉える
(5)南京事件、731部隊、重慶都市爆撃、毒ガス作戦、その他きわどい問題は、確定しているデータを基に語る
客観的な歴史を把握していないと、ニュースで日本批判のデモ映像が流れると「反日デモむかつく」「いつまで謝罪させる気だ」と怒りに支配され、君が代・日の丸で起立しない先生が何と戦っているのか分からず“売国教師”に見えてしまいます。
ですが、近代史を正確に知れば「反日デモは不愉快だけど彼らが(靖国参拝等に)反発している気持ちは分かる」「不起立教師の考え方には賛成しないけど、“立たない”のではなく“立てない”という心情は理解できる」と、自分と異なる意見であっても、尊重したり前向きに議論を重ねていくことができるようになります。中共政府からスケープゴートに利用されないよう、発言前に一呼吸置くことが大切です。 ※年表を作成して実感したことを先に2点。 (1)昭和天皇が反戦・平和主義なのはガチ。例えば1938年の板垣陸相への怒り→「元来、陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖の場合といい、今回の事件(日中戦争)の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕(ちん)の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いる様なこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う」。 左派の多くは天皇を主戦派と思ってるけど大きな誤解。また、同様に右派も自分たちの行動が穏健な天皇を困らせていたことを理解していない。二・二六事件に際していわく「朕が最も信頼する老臣をことごとく殺すことは、真綿(まわた)で朕の首を締めるに等しい行為なり」。 (2)大陸の各師団長は命令無視のオンパレード。年表の途中まで何度命令違反したか数えていたけど、あまりに多すぎてカウントをやめました。一般兵が上官の命令に逆らえば「戦地抗命罪」で銃殺刑に処したのに、師団長クラスは、天皇の言葉も、軍中央(参謀本部)の命令も、政府の方針も、ことごとく無視して独断専行。執筆中、何度も絶句しました…。 ★参考資料(視点が偏らないよう、保守、リベラル、両方に目を通してます) 『世界戦争犯罪辞典』(秦郁彦ほか/文藝春秋)、『教科書が教えない歴史』(藤岡信勝ほか/産経新聞社・扶桑社)、『アジアの教科書に書かれた日本の戦争』(越田稜/梨の木舎)、『戦争論』(小林よしのり/幻冬舎)、『新しい歴史教科書』(藤岡信勝/扶桑社)、『戦争案内』(高岩仁/映像文化協会)、『歴史修正主義の克服』(山田朗/高文研)、『昭和天皇語録』(講談社学術文庫)、『日本はなぜ戦争へと向かったのか』(NHK)、『シリーズ証言記録 兵士たちの戦争』(NHK)、『日中戦争〜兵士は戦場で何を見たのか』(NHK)、『さかのぼり日本史 とめられなかった戦争』(NHK)、『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ百科事典』(マイクロソフト)、ウィキペディア、ほか多数。 僕はいかなる政党、政治思想団体、プロ市民団体、宗教団体にも属していません。単純に「何があったか」、事実を知りたいだけです。 |
(ショートカット※管理人的には出来れば年表トップから順番に読んで頂きたいですが…)
勝海舟の反戦論 / 張作霖爆殺 / 満州事変 / 五・一五事件 / 熱河作戦 / 国際連盟脱退 / 二・二六事件 / 満州開拓移民 / 731部隊
盧溝橋事件 / 通州事件 / 第2次上海事変 / 南京事件 / 毒ガス戦 / 重慶爆撃 / 燼滅作戦(三光作戦) / 花岡事件
【日本と中国の近代史〜日清戦争から終戦まで】 ●1868 明治維新…旧幕府軍VS維新軍の戊辰(ぼしん)戦争を経て、薩長藩士が中心となった明治政府が樹立される。政治、経済、文化、すべてが大変革! ●1894.7.25 日清戦争勃発…朝鮮半島の支配権をめぐって日本と清が衝突。豊島沖の海戦をきっかけに戦端が開かれ、9月に日本軍が清国の拠点・平壌(ピョンヤン)を陥落。黄海の海戦でも大勝し、旅順を占領。翌年2月に威海衛(いかいえい)湾の北洋艦隊を壊滅させ戦局を決定づけた。 ●1894.11.21-11.25 旅順虐殺事件…日清戦争の旅順陥落時に発生した事件。攻略したのは元薩摩藩士・大山巌率いる第二軍。占領2日目に旅順市内に入った国際法学者の有賀長雄いわく「市街に散在する死体の数はおよそ2千で、うち500の非戦闘員を含んでいた」。それからさらに3日間、掃討作戦が続いた。この様子は日本軍に従軍取材した複数の外国人記者から糾弾されることになる。『ニューヨーク・ワールド』特派員クルーリマンの記事「日本軍は11月21日に旅順入りし、冷酷にほとんど全ての住民を大虐殺した。無防備で非武装の住人達が自らの家で殺され、その体は言い表すことばもないぐらいに切り刻まれていた」。大本営に弁明を要求された大山は旅順住民の多くが軍関係者だったことをあげたが、記者たちは捕虜の不必要な殺害に抗議し、日本は国際社会から残虐行為を非難された。 ●1895.4.17 下関条約締結…日清戦争の講和条約。日本は台湾と遼東半島(中国東北部、南満州)を清国から割譲させた。しかし、条約調印6日後にロシア・ドイツ・フランス3国の公使が外務省を訪れ、遼東半島の日本領有は東洋の平和をおびやかすとして、領有放棄を勧告した(三国干渉)。日本は圧力に屈し遼東半島を返還する。この一件で三国に借りが出来た清国は、3年後、ドイツに膠州(こうしゅう)湾の租借(そしゃく=領土の一部を貸す)を認めたのを機に、ロシアに旅順・大連を、フランスに広州湾を、イギリスに山東半島の威海衛を、次々に明け渡すことになった。 ※ロシアは極東進出のため遼東半島・旅順の不凍港を必要としていた。 〔勝海舟「オレは日清戦争に大反対だった」〕 勝海舟は欧米列強のアジア進出に対抗する為に、日本、清、韓国がガッチリとスクラムを組むべきと考えていた。海舟は日本と清がアジアで戦えば欧米が喜ぶだけと思っていたんだ。 「日清戦争はオレは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないじゃないか。たとえ日本が勝ってもどーなる。支那はやはり(謎の)スフィンクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力がわかったら最後、欧米からドシドシ押しかけてくる。つまり欧米人が分らないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。いったい支那五億の民衆は日本にとって最大の顧客さ。また支那は昔から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。おれなどは維新前から日清韓三国合従(がっしょう)の策を主張して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものさ」(海舟の談話を収録した『氷川清話』より) ※坂本龍馬は勝海舟の弟子。龍馬が平和的に幕府からの政権委譲(大政奉還)を実現させようとしたのは、西洋列強がアジアに進出してくるなか、国内で日本人同士が戦っている場合じゃなく、一致団結して対抗する必要性を感じていたから。その大局的な視野は海舟の影響が大きい。上記の“日清戦争反対論”も実に海舟らしい発言。欧米諸国の強大な力に対抗するにはアジアが一丸となる必要があり、アジア同士で戦って消耗している場合ではない。つけ込む隙を与えるだけだ。当時の欧米白人中心主義・植民地主義との戦いは、日本だけでは苦しいものだった。だからこそ、日中韓が互いに協力してWin-Winで国力をあげて、西洋列強から権利・独立を守るべきだった。(日清戦争は龍馬暗殺の27年後) ●1904.2.8 日露戦争勃発…日本海軍が旅順港のロシア艦隊を夜襲し、陸軍が仁川に上陸して日露戦争が始まった。後の真珠湾同様、奇襲によって当初は優位に戦局が展開する。開戦から半年後、乃木希典率いる第3軍がロシア艦隊基地・旅順の包囲戦に突入。5カ月に及ぶ激戦で6万人の死傷者を出しながら、翌年1月に“二〇三高地”を陥落させた。ついで3月に最大の陸戦となった奉天会戦を制し、5月に東郷平八郎率いる連合艦隊が日本海でバルチック艦隊を壊滅させる。日本軍は陸海に勝利したものの、兵力・弾薬共に底をつき、政府は講和を急いだ。一方、ロシア側も国内で革命運動が起きたことから、両国とも戦争継続が困難になり、アメリカの仲介で講和が成立する。日本側の戦死者は約8万4000人、戦傷者14万人以上。軍事費は国家予算の7年分にあたる18億円にのぼった。 ※日露戦争で日本は戦費18億円のうち40%を英米などに日本国債(外債)を買って貰うことでまかなった。英国は南アのボーア戦争で疲弊しており、ロシアの力を削ぐため日本を後押しした。 〔幸徳秋水の日露戦争反対論〕 (開戦直前に)「世を見渡せば、ある者は戦勝の虚栄を夢想するが為に、ある者は乗じて私腹を肥やす為に、ある者は好戦の欲心を満足させんが為に、焦燥熱狂し、開戦を叫び、あたかも悪魔の咆哮に似たり。我らは断固として戦争を非認す。戦争は道徳的に恐るべき罪悪なり、経済的に恐るべき損失なり。社会の正義はこれが為に破壊され、万民の福利はこれが為に蹂躙(じゅうりん)せらる。(略)ああ愛する同胞よ、その狂熱より醒めよ。諸君が刻々と堕せんとする罪悪、損失より免がれよ。戦争は一度始まると、その結果の勝敗にかかわらず、後世の者に必ず無限の苦痛と悔恨を与える。真理の為に、正義の為に、天下万生の福利の為に、今こそ汝の良心に問え!」 ●1905.9.4 ポーツマス条約締結…日露戦争の講和条約。日本は遼東半島の先端・関東州(旅順、大連)の租借権をロシアから獲得した。三国干渉で奪われたものを取り返した形。また、樺太の南半分やロシアが敷設した南満州鉄道も手に入れた。ただし賠償金は一文も貰えず。ロシアはまだ70万もの兵を温存していたが、日本はもはや戦う体力がなかったので賠償金を断念した。セオドア・ルーズベルトは講和条約成立の功績によりノーベル平和賞を受賞。 ※日露戦争はあれ以上続いていたら日本が負けていたギリギリの勝利だった。国民は“一等国になった”と戦勝気分に酔っていたが、英国留学で世界を見ている漱石は内外の国力差を熟知しており、1908年に小説『三四郎』の中で「(日露戦争に勝ち)これからは日本もだんだん発展するでしょう」「滅びるね」と会話させた。 ●1910.11 大逆事件…“明治天皇暗殺を計画した”という理由で、全国の多数の自由主義者・社会主義者らが検挙され、わずか2週間あまりの非公開裁判(1人の証人も出廷させず一審だけで終審)で24人に死刑判決が下り、判決6日後という異例の早さで幸徳秋水ら11人が絞首刑となった(翌日さらに1人執行)。12人が無期懲役に減刑されたが、うち5人は獄死。処刑は世界にも衝撃を与え、日本政府に諸外国の思想家から抗議が寄せられた。この後、大震災のドサクサの虐殺、治安維持法(最高刑・死刑)など、1945年の終戦まで政府による思想弾圧が続く。戦後、大逆事件に関して拷問による調書類の捏造や、被告の大半が無関係だったことが判明した。死刑を求刑した検事・平沼騏一郎は1939年に首相になっている。 〔作家・徳富蘆花、一高(現東大)の教壇から抗議〕 大逆事件による死刑の翌月、徳富蘆花(ろか)が学生たちに思想弾圧の危険を訴え、後に校長・新渡戸稲造の更迭問題に発展した。 「(明治初頭は)我らには未曾有の活力があった。誰がその潮流を導いたか。先見の目を持った志士たちである。新思想を導いた蘭学者にせよ、局面打破を事とした勤王攘夷の浪士にせよ、時の権力から言えば謀叛人であった。法律の眼から逆賊と見ても、天の眼からは彼らは乱臣でも逆賊でもない、志士である。無政府主義の何が恐い?幸徳らはさぞ笑っているであろう。何十万の陸軍、何万トンの海軍、幾万の警察力を擁する堂々たる明治政府をもってして、手も足も出ぬ者に対する怖(おび)え様も甚だしい。人間弱味がなければ滅多に恐がるものでない。幸徳ら冥福すべし。政府が君らを締め殺したその前後の慌てざまに、権力階級の器の大小は完全に暴露されてしまった。(政府は)吉田松陰に対する井伊大老になったつもりでいるかも知れない。しかしながら徳川の末年でもあることか、明治44年に12名という陛下の赤子(むろん彼らも陛下の赤子である)をいじめぬいて、謀叛人に仕立て上げ、臆面もなく絞め殺した一事に到っては、政府は断じて責任を負わねばならない。諸君、西郷も逆賊であった。しかし今日となって見れば、逆賊でないことは自明の理である。幸徳らも誤って逆賊となった。しかし百年後の世論は必ずこの事件を、この死を悲しむであろう」。 ●1915.5.9 対華二十一カ条要求…前年に第1次世界大戦が勃発し、欧州列強は中国進出どころではなくなった。これを大陸への影響力拡大の好機とみた大隈重信内閣は、対中国要求を21カ条にまとめて袁世凱(えん・せいがい)大総統に提出。そこには、満州・内蒙古を日本が独占的に支配するため、日露戦争で手に入れた旅順・大連&満鉄の租借権を「99年間に延長せよ」というものを中心に、日本の軍部・財界の要求がズラリと並んでいた。日本は武力を背景に最後通牒を勧告、要求の大半を中国に受け入れさせた。これによって、中国民衆は要求をのんだ5月9日を国恥記念日と呼び、日本に対する激しい怒りが広がっていく。 ●1928.6 治安維持法改正…治安維持法の最高刑が「死刑」となった(制定から3年で改正)。言論統制を強化され、国民は自由な政府批判、軍批判が困難に。これより3ヶ月前(1928年3月15日)、田中義一内閣は反共政策により全国で大検挙を行い、官憲によって左翼活動家1600名以上が一斉検挙されている。 ※小林多喜二「(3/15の検挙で)雪に埋もれた人口15万に満たない北の国(小樽)から、500人以上も“引っこ抜かれて”いった。これは、ただ事ではない」。 ●1928.6.4 張作霖爆殺事件…満州一帯に勢力を持っていた中国の軍閥政治家・張作霖(ちょうさくりん)が、欧米資本の提供を受けて満鉄の沿線に別の鉄道を建設し始めたことから、「このままでは日本の鉄道利権が失われる」「欧米への接近は許せぬ」と関東軍参謀・河本大作大佐は考え、1928年6月4日、張作霖を独断で列車ごと爆殺した。昭和天皇(当時28歳)は軍の独走を懸念して田中義一首相に関係者の厳罰と軍紀粛清を命じたが、陸軍の強い反対によって首相は軍法会議を開けなかった。これを立憲民政党(リベラル)は批判し、天皇も犯人不明で終わらせては帝国陸軍の綱紀を維持できぬと立腹。田中首相に「(厳罰に処すという)お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と叱責し、鈴木侍従長に「田中の言うことはちっとも判らぬ」と怒りを表明した為、翌年7月に田中内閣は総辞職した。終戦まで17年間も事件の犯人が公表されることはなかった。 ※田中義一首相は天皇の叱責が相当こたえたのか、総辞職から2ヶ月後に急性狭心症で他界した。昭和天皇は自身の言葉の影響を考え「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮に自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることに決心した」(『昭和天皇独白録』)という。内閣は選挙で選ばれた議員で構成されており、その国民の声に介入するのは(天皇の言葉一つで内閣が吹き飛ぶ)、民主主義ではなく独裁になると考えたからだ。 ※関東軍…日本の植民地、満州(中国東北部)に常駐した陸軍部隊。1919年設置。旅順に司令部。日露戦争後、遼東半島の関東州租借地&南満州鉄道(満鉄)沿線の警備の為に組織された。大陸侵略の先鋒として、張作霖爆殺、柳条湖事件など様々な陰謀工作を行った。1941年の関東軍特種演習(関特演)時には約70万の大軍になった。 ※一部保守論客が「張作霖爆殺はソ連・コミンテルンの陰謀」と唱えているけど、外務省・陸軍省・関東庁の「特別調査委員会」や、事件当時に現地へ派遣された峯憲兵司令官の調査で河本大佐の謀略であることが判明しており、また、鉄道大臣・小川平吉も事後処理にあたって河本大佐から直接事件の全容を聞いており、歴史学者から“コミンテルン説”は全く相手にされていない。 ●1928.8.27 パリ不戦条約…国策による戦争を放棄。パリで列強15カ国が署名(最終63カ国)。日本も調印。パリ不戦条約の第一条は「締約国は国際紛争のため戦争に訴えることを非とし、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、各自の人民の名において厳粛に宣言す」。条約は自衛戦争以外の戦争、領土拡張の為の戦争や報復の為の戦争を禁止している。戦後の憲法第9条はこの法規を参考にしている。 ●1930 満鉄赤字化…関東軍に暗殺された張作霖の息子・張学良は抗日を決意し、蒋介石の南京国民政府に合流する。南満洲鉄道を経営的に崩壊させるべく、満鉄のすぐ横に新しい鉄道を敷き、安価な値段で経営戦争をしかけた。満鉄は1930年11月から赤字に転落し社員3000人を解雇。張学良はさらに「盗売国土懲罰令」を制定し、日本人や朝鮮人に土地を貸し売りした者を処罰するなど、様々な方法で日本企業と対決した。 ●1930.11 浜口雄幸首相狙撃…民政党(リベラル派)初代総裁として首相になり、ロンドン海軍軍縮条約を結んだ。これによって軍と関係が悪化し、東京駅で右翼に狙撃され翌年他界。浜口首相は風貌から「ライオン宰相」として親しまれていた。ロンドン海軍軍縮会議の首席全権・若槻礼次郎は、「骸骨が大砲を引っ張っても仕方がない」と国力にあった軍備を説き、若槻も右翼に糾弾された。 ※民政党は協調外交方針、政友会は中国進出方針。 ●1931.6.27 中村大尉事件…中国最北部をスパイ活動中の陸軍参謀・中村震太郎大尉と他3名が張学良配下の中国軍に殺害された事件。拘束された場所は、中国官憲が「盗賊が横行するので外国人(日本人)の旅行を禁止する」と通知した立入禁止区域だった(日本側は治外法権を理由に立入禁止区域設定に抗議していた)。中村大尉は農業技師と詐称していたが、多額の旅費を持っていること、所持品の測量機、地図、日記帳、ピストルから中国軍がスパイと判断し、金品没収のうえ銃殺、証拠隠滅のため遺体を焼き埋めた。4人を裁判もなく処刑したことは当然批判されるべきだが、軍部は中村大尉が軍事目的(兵要地誌調査)のため潜入していたことを“伏せて”発表した為(8/17)、日本の世論は「中国の非道許すまじ」「蛮族を征伐せよ」と憎悪で沸騰した。翌月、満州事変が起きていることから、陸軍は大尉の死を利用して対中強硬論を煽り、武力行使の環境を作ろうとしていた意図が見える。
●1932.1.28 第1次上海事変…満州事変勃発から4ヶ月後、国際社会の非難を満州からそらすため、関東軍・板垣征四郎大佐らは国際都市・上海で日中両軍を戦わせることを計画。上海公使館の陸軍武官補佐官・田中隆吉少佐に依頼して、「中国人に日本人托鉢僧を襲撃させる」という謀略工作を行った。僧侶は死亡。これがきっかけとなり10日後に海軍陸戦隊が中国の第19路軍と衝突。犬養毅内閣は上海派遣軍を増派したが中国軍の頑強な抵抗にあい、日本軍は769人の戦死者を出した。5月に停戦協定締結。中国では反日運動が盛り上がる。 ●1932.3.1 満州国樹立…関東軍はわずか4ヶ月で奉天・吉林・黒竜江の3省など満州全土を武力占領。蒋介石は軍閥や共産党軍との戦いに手一杯で、関東軍と積極的に戦わなかった。同地域は中華民国からの独立を宣言し、清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を執政=国家元首とする日本の傀儡(かいらい)政権「満州国」を樹立させた。上海事変のさなかであり、外国の目を上海にひきつけて満蒙支配を狙うという板垣大佐らの目的は果たされた。満州国は建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げていたが、終戦まで13年間選挙は一度も行われず、政治結社の組織も禁止されていた。 ※国際連盟は日本を強く批判し、満州に調査団を派遣した。昭和天皇「いったい陸軍が馬鹿なことをするから、こんな面倒な結果になったのだ」(1932)。 ※昭和天皇「日系官吏その他一般在留邦人が、いたずらに優越感を持ち、満人を圧迫するようのことなきよう、軍司令官に伝えよ」(1935)。 ※満州国出身の著名人…小澤征爾、赤塚不二夫、ちばてつや、浅丘ルリ子、梅宮辰夫、加藤登紀子、草野仁、ジェームス三木、富山敬、板東英二、矢追純一。 ★1932.5.15 五・一五事件…犬養毅首相(政友会総裁)は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、満州侵略に反対で、日本は中国から手を引くべきだとの持論をもっていた。それゆえ、満州国樹立から2ヶ月経っても、政府の満州国承認には慎重だった。5月15日、海軍急進派の青年将校らは総理公邸に乗り込んだ。犬養は落ち着いて応接室に案内し「話せばわかる」と語りかけたが、後から入って来た三上卓中尉の「問答無用、撃て」の一言で殺害された。息絶える前の犬養の言葉は「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」。あくまでも対話で解決しようとする民主主義と、話など聞かぬというファシズムを象徴。その後、クーデタ・グループは警視庁・日本銀行・内大臣官邸・立憲政友会本部・三菱銀行に手榴弾を投げつけた。政治家や財界人は震え上がり、軍部の発言権が増した。11日後、海軍大将・斎藤実が首相となる挙国一致内閣が成立し、政党政治はここに終焉した(1945年の敗戦まで13年間政党政治は復活しなかった)。6月14日、犬養が反対していた満洲国承認決議案が全会一致で可決された。 ※反乱罪で死刑を求刑された海軍中尉の古賀清志・三上卓の判決は、首相暗殺にもかかわらず禁固15年となった。この軽い判決が、4年後の二・二六事件を起こす原因になる。 ※戦前に衆議院議員で総理大臣になったのは3人だけ。全員が党首で、原敬、浜口雄幸、犬養毅の順。そして3人とも総理大臣時代にテロで殺害されている。 ●1932.9.16 平頂山(へいちょうざん)事件…満州事変から1年が経過したこの頃、反日ゲリラの数は30万人にも達していた。事件前日、満鉄所有の撫順炭鉱(満州)がゲリラに襲撃され、炭鉱所長ら日本人職員など5人が殺害された。翌日、炭鉱を警備する日本軍守備隊は、近くの平頂山集落がゲリラをかくまっていると考え、“記念撮影をする”といって女性や赤ん坊を含む全村民400世帯3000人(日本側は400〜800人と主張)を広場に集め、機関銃掃射で虐殺した。村民の死体はダイナマイトで崖を爆破して土石の下に埋められた。 ※本当に村がゲリラと通じていたとしても、小さな子どもまで殺害するべきではない。この虐殺を主導した大尉は終戦時に服毒自殺している。
★1933.2.23 熱河省侵攻/熱河作戦…満州の守りを固めるため、隣接する熱河(ねっか)省の張学良軍を倒そうと軍部が計画。満州西部の熱河省には約3万もの抗日軍がいた。斉藤実(まこと)首相も昭和天皇も、いったんは熱河侵攻作戦を認可したものの、侵攻が国際連盟規約に抵触することを知って首相は裁可を取り消し、また、天皇も宮中で「熱河攻略を取り消したい」と語っていた(2/8側近日記)。だが、宮中側近は天皇に“取り消してはいけません”と説得した。なぜか。もし天皇が「取り消す」と宣言した時に、それでも軍部が侵攻作戦を断行すれば、天皇の権威に傷がつくからだ。陸海軍の統帥者である天皇の権威が失われることを恐れた。 昭和天皇には関東軍の暴走を止めたいという明白な思いがあった。熱河侵攻の12日前には「“統帥最高命令によりこれを中止せしめざるや”と興奮あそばされて仰せあり」(2/11側近日記)と、大声を出すほど焦っている。だが天皇の意思は軍部に伝えられず2/23に熱河侵攻は決行された。天皇と政府・軍の中間にいた宮中側近には“大元帥・天皇が中止命令を出した時に軍が聞かなかったら大変なことになる”という思いがあった。 ※ここは超重要。政府は国民を統治しやすいよう天皇の神格化を徹底する一方で、軍部は宮中を“天皇の命令に逆らうかも”と不安にさせている。要するに皇室を都合の良いよう利用しているだけ。 3月中旬、中華民国は中央軍約20万を派遣し日本軍の南下に対抗させる。激しい攻防戦を関東軍は制し5月12日には北京まで迫った。天津軍参謀長・酒井隆は同僚の中で自分だけ勲章がなく手柄を焦っており、陸軍中央に報告せず独断行動で北京市内に進駐、結果オーライで少将になった。関東軍も刺激され、中央に無断で満州を越え、華北地域(北京・天津など)へ進出を繰り返す。五・一五事件など右翼テロが吹き荒れて政治家は脅えきっており、内閣は「越境は認めないが軍の必要経費は認める」と弱腰対応になった。 ※熱河作戦に際して「平津地方(華北地方)領有ノ為…作戦ヲ指導スル場合、本地方ヨリ一部ノ作戦ヲ行フノ有利ナルハ当然ニシテ…」(『熱河省兵要地誌』)と、北京や天津を“領有”すると書かれており、張学良軍討伐は口実で、ハナから土地を奪うことが狙いであると示唆している。 ※昭和天皇「(すぐに軍を退くという)予の条件を承(うけたまわ)りおきながら、勝手にこれを無視たる行動を採るは、綱紀上よりするも、統帥上よりするも、穏当ならず」。 ●1933.3.27 国際連盟脱退表明…熱河作戦の翌日(2/24)、国際連盟特別総会で「満州における日本の権益は容認するが満州国の建国は認めない」「満州を国際社会で共同管理する」と定めた『リットン報告書(国際連盟調査委員会報告書)』が42:1(日本)の圧倒的多数で可決された。タイは決議の時間に遅れ棄権となった。日本の権益は認められていたし、“柳条湖事件以前の状態に戻りなさい”という甘めの決議だったが、松岡洋右日本全権大使は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と抗議し、3月27日に国際連盟脱退を表明した。脱退前の日本政府は、6年間で7人も首相が交代しており、外務省、陸軍、内閣がバラバラだった。 ※日本のマスコミは「国際連盟を脱退せよ!」と世論を焚きつけていたので、松岡大使が横浜に戻ってきた時に埠頭には約2000人が駆けつけ、「よくぞ日本の誇りを貫いた」「英雄、松岡」と歓声をあげた。松岡自身はジュネーブからの帰国途上で「これで日本は孤立してしまう、大変なことになった」と“敗戦将軍”の気持で落ち込んでいたので、「この非常時に私をこんなに歓迎するとは、皆の頭がどうかしていやしないか」と感じたという。 ●1933.5.31 塘沽(タンクー)停戦協定…日本は中国の国民党政府と塘沽停戦協定を結び、満州支配を事実上認めさせた。これで柳条湖事件からの満州事変はいったん終息。しかし、新たに軍部は「満州国」治安維持の為に周辺の華北5省を占領する必要があると考え、やがて日中全面戦争に突入していく。 ※華北分離工作…北京・天津など華北地方占領を目指した陸軍の『北支那占領地統治計画』では、占領目的を「重要資源の獲得」としている。鉄道管理、貨幣計画、重工業建設、様々な統治プランが練られているが、タテマエであるはずの「居留民保護」の文言はどこにもない。未占領地域の統治計画を事前に作っていながら“これは防衛戦争である”というのは無理がある。翌年の関係課長会議『対支政策に関する件』でも“日本の言う通りにしないと存亡の危機に陥ると脅せ”“国民党の影響を排除し地方政府の幹部を我々に都合の良い人物に置き替えさせる”と権益確保が論じられている。 ★1935.8.12 永田鉄山暗殺…陸軍省軍務局長の永田鉄山は6年間の欧州駐在経験があり、日本と欧米の国力差を正確に把握していた陸軍きっての逸材。陸軍統制派の中心人物で「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と言われた英才。エリート将校40人が結集した一夕(いっせき)会のホープ。外務省が国際関係の修復に乗り出すと永田達は外務省幹部に接近した。「ソビエトと平和外交を進めようとする外務省の考えに賛成です」(永田)「できれば陸軍もそれに協力したい」(東條※この頃は東條も穏健派)。 永田達は宮中、元老、政党と支持を広げ、陸軍皇道派(急進派)を追い詰めていった。そして悲劇が起きる。8月12日、白昼の陸軍省で、永田が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺されたのだ。発見時、刀が肺に突き刺さっていたという。 「永田が殺されていなければ日本の姿がよほど変わっていた。あるいは大東亜戦争も避けられたかもしれない」(元陸軍中将鈴木貞一)。 〔皇道派VS統制派〕 ※皇道派…天皇中心の国体至上主義を信奉し、直接行動による国家改造を企てた急進派。反ソ・反共。中心人物は荒木貞夫大将、真崎甚三郎大将。 ※統制派…合法的に陸軍大臣を通じて国家総力戦体制を樹立することを目指した。反英・反米。中心人物は永田鉄山、東條英機。永田の死後、全体主義色の強い軍閥に変容していく。永田さーん!! 〔陸軍と海軍の中核〕 作戦統轄機関は陸軍が「参謀本部」、海軍が「軍令部」。参謀総長と軍令部総長は内閣とは異なる独立機関(統帥部)であり首相に指揮権はなかった。 ※陸軍三長官…陸軍大臣、参謀総長、教育総監。大臣は事務方のトップでしかなく、指揮をとるのは参謀総長 ※海軍三長官…海軍大臣、軍令部総長、連合艦隊司令長官。こちらも指揮をとったのは軍令部総長 ●1935.11 冀東(きとう)政権成立…国民政府が日本軍の圧力に屈して河北省北東部(冀東)に設立した親日的地方政権。日本は冀東を麻薬など密貿易の拠点として中国の貿易・経済を混乱させた。後の通州事件の舞台。
●1936 軍部大臣現役武官制導入…二・二六事件の後、新たな広田弘毅内閣は陸海軍の同意がなければ内閣が成立・維持できない状況になる。二・二六事件で皇道派を一掃した陸軍首脳の梅津美治郎、武藤章ら統制派が、“陸・海軍大臣を選ぶ時は現役の大・中将に限定する”という「軍部大臣現役武官制」を広田に認めさせたのだ。これによって、(1)軍部が気に入らない内閣であれば陸軍大臣を送らない=組閣できない(2)わざと陸相を辞任させ後任を送らないという戦法で政局を動かす、といった事態が度々起き、軍部の発言力をさらに強めた。 ●1936.3 天皇機関説事件…政府が「天皇機関説」を排斥して「天皇主権説」を採る。天皇機関説とは憲法学者・美濃部達吉による明治憲法の解釈で、「天皇は国家に従う“最高機関”にすぎず、天皇は国家の統治権を持っていない。統治権は国家(法人)に属している」というもの。天皇の権限を憲法の枠内に限定し、議会が天皇の意思を拘束できるという考えは、当時多くの法学者に支持されていた。二・二六事件の翌月、政府は天皇の神格性・超越性を強調し、統治権は絶対無限であるとし天皇機関説を否定。機関説に関する書物は発禁処分となり、以降、軍部による思想統制が強化され、終戦まで「神である天皇の名で行動する軍部」への批判はいっさい禁じられた。 ※天皇自身は美濃部を擁護していた。「機関説でいいではないか」「君主主権はややもすれば専制に陥りやすい。(略)美濃部のことをかれこれ言うけれども、美濃部はけっして不忠な者ではないと自分は思う。今日、美濃部ほどの人が一体何人日本におるか。ああいう学者を葬ることはすこぶる惜しいもんだ」。 ※軍部や右派と戦い、戦前に思想弾圧されたリベラル派学者・思想家リスト→滝川幸辰京大教授(京大法学部教員は滝川を守るため全員辞表を出して戦うが敗北)、矢内原忠雄東大教授、加藤勘十、山川均、鈴木茂三郎、大内兵衛、有沢広巳、美濃部亮吉(美濃部達吉の長男)、津田左右吉(そうきち)、森戸辰男東大助教授、河合栄治郎東大教授など。1939年、昭和天皇は各大学総長との会食の場で「その後、京大は立ち直っているか」と語り、滝川事件に胸を痛めていたことが窺える。 ●1936.5.7 斎藤隆夫の粛軍演説…二・二六事件後の帝国議会にて、陸軍大臣・寺内寿一に対して民政党・斎藤隆夫が1時間25分に及ぶ質問演説を行った。議会軽視の陸軍を批判し、また、軍部を利用せんとする政治家に対して猛烈に批判している。「いやしくも立憲政治家たる者は、国民を背景として正々堂々と民衆の前に立って、国家の為に公明正大なるところの政治上の争いをなすべきである。裏面に策動して不穏の陰謀を企てるごときは、立憲政治家として許すべからざることである。いわんや政治圏外にある所の軍部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとするに至っては、これは政治家の恥辱であり堕落であり、また実に卑怯千万の振舞であるのである」。斉藤は1940年に日中戦争処理に関し「聖戦の美名に隠れて」無計画に戦線を拡大する軍への反軍演説を行い議会から除名された。4年後のこの演説は陸軍にとって「2個師団を失ったぐらいの打撃」であったという。 ●1936 抗日運動激化…東京の陸軍中央が「軍事工作をやめろ」と言っても関東軍は聞かず、戦果を競って北支(中国北部)など領域を侵し続けた。陸軍中央は関東軍の北支進出を抑えるために、隣りの天津軍を3倍に増強するという手まで使った(天津の部隊で関東軍に睨みをきかせた)。しかし、中国に説明なく天津軍を増強したことから、現地では抗日運動が激化し全土に広がった。暴走する出先軍、あいまいな対応しかできない中央という構図が続く。 ●1936.8 満州開拓移民推進計画決議…1931年の満州事変以降、国策により満州国への移民が本格化。1936年、広田弘毅内閣は“今後20年間で100万戸、500万人を移住させる”と「満州開拓移民推進計画」を決議した。実際、政府は1938年から4年間に20万人の農業青年を、そして1936年に2万人の家族移住者を送り込んでいる。移住責任者は加藤完治で「満州拓殖公社」が業務を担った。『王道楽土』『五族協和』といった言葉で大々的に開拓移民募集のキャンペーンが行われ、当時の日本、特に地方農村は昭和恐慌で困窮をきわめていたことから、多くの人々が募集に応じた。彼らは農業研修や軍事訓練を渡航前に受け「満州開拓武装移民団」として送り込まれた。 最大の問題は入植先の反日感情。これは日本側の横暴なやり方が原因だった。入植地の確保にあたって、一方的に先住農民が開墾していた土地を「無人地帯」に指定し、政府がこれらの「無人地帯」を格安で強制的に買い上げ、先住農民を新たに設定した土地(荒野)へ強制移住させ、その上で日本人開拓移民を入植させる政策をとっていた。約2000万ヘクタール(東京都の面積の約100倍)の移民用地が強制収容された。先住農民は苦労して開墾した耕作地を取り上げられる強制移住に抵抗し、衝突やトラブルに発展するケースが相次ぎ、関東軍が武力で鎮圧することもあった。1934年には中国人の日本人移民に対する武装蜂起で日本軍の連隊長が殺害される事件もおきている(土竜山事件)。 先住農民は自分たちの生活基盤を奪った存在として日本人開拓移民団を恨み、こうした反感が反日組織の拡大につながった。1942年以降は戦局の悪化で成人男性の入植が困難となり、15歳から18歳の少年で組織された「満蒙開拓青少年義勇軍」が移住のメインとなる(1938年4月に第1陣5千人が出発。最後は終戦2ヶ月前の214人。全体で86530人)。軍事上の理由でソ連国境に近い満州北部が入植先に選ばれた為、ソ連参戦時に移民団が現地住民たちに襲撃される伏線になった。戦争末期に大部分の男子が軍に召集され、残された婦女子はソ連軍による暴行や現地住民から報復的略奪にあい、集団自決や親子の生き別れ(中国残留孤児)など悲劇が起きた。青少年義勇軍を含む満州開拓移民は約32万人にのぼったが、殆どが国境地帯に取り残され、開拓民で帰国できたのは約11万人だけだった。 当時、満州開拓移民を訓練する指導者だった元第三師団上等兵・福手豊丸さん「名は開拓だったけど事実上は昔から住んでいた農家の人を強制的に国の力、軍の力で追い払った。満州の開拓政策は根本的に大きな誤りがあった」。 ※「満州は今の中国人の土地でないから中国に謝罪する必要なし」というのは詭弁。当時の日本政府は、満州が中国の一部と思っていたからこそ、いろんな方便を使い「清朝・中国との交渉」を通して権益を獲得していった。 ※参考にした外部サイト ●1936 第731部隊誕生…細菌兵器を人体実験で開発していた満州第731部隊。正式名称“関東軍防疫給水部”で、初代部隊長は石井四郎。陸軍内部では石井機関と呼ばれた。731部隊は中国東北部(満州)ハルビンに設置されたが、1938年に北京、1939年に南京、広東、そして1942年にはシンガポールにも関連部隊「防疫給水部」が派遣された。1939年末の総人員は10045人。このうち、組織的に人体実験を行っていたのは731部隊と南京の1644部隊。731部隊については敗戦後の米軍調査の記録が残っており概略が判明している。1943年7月までの人体実験の死者数は850人。人為的にコレラ、ペスト、赤痢、炭疽、その他様々な伝染病に感染させ、病原体ごとに「感染に必要な細菌の量」を調べて生物兵器に応用した。1940年10月27日の寧波(ニンポー)市に対する重爆撃機からの“ペストノミ”(ペスト菌を持つネズミの血を吸ったノミ)の散布は石井機関の作戦だ。1942年には戦場にコレラ菌を使った生物兵器を使用し、1万人以上を感染させたが、その全員が日本兵という大失態を犯してしまう。連絡ミスで日本軍が誤って散布地域に踏み込んでしまった為だ。1644部隊の調査では1700人以上の日本兵が主にコレラで死亡している。1944年末に米軍の捕虜となった衛生兵は「実際の死者数は1700人より多いはず。不愉快な数字は低く見積もるのが通例だから」と証言。この作戦で被害にあった日本兵は、上官から「中国の生物兵器の攻撃だ」と教えられた。 「ジュネーヴ議定書」(1925)は戦争で生物化学兵器の使用を禁じており、石井たちは生物兵器が議定書違反になることを認識していたが、戦後、帰国した部隊員は誰一人戦犯として訴追されていない。米軍が研究データを提供すれば戦犯を免責すると“取引”したからだ。 ※戦後、薬害エイズ事件を引き起こしたミドリ十字の創始者は石井の片腕、内藤良一。 ※陸軍が1940〜42年にかけて中国で細菌兵器を使用していたことを示す陸軍軍医学校防疫研究室の極秘報告書が、2011年に国会図書館関西館で見つかった。細菌兵器の使用は1993年に発見された陸軍参謀の業務日誌にも記述があるが、研究室の公的文書でも裏付けられた。これまで日本政府は細菌戦について「証拠がない」との見解を中国人遺族らによる損害賠償訴訟で示している。態度を改めるべき時がきた。細菌戦を行ったとして記されていた場所と効果は次の通り。 2011.10.15 朝日から 笑顔で731号機に乗る安倍首相。あまりに無神経。普通避けるだろ… ★1937.7.7 盧溝橋(ろこうきょう)事件…牟田口歩兵第一連隊長が率いる天津軍は、連日のように国民党の精鋭部隊がいる北京郊外・盧溝橋付近で演習を繰り返した。7月7日、演習中の日本軍が何者かに数発の銃撃を受け、牟田口は国民党軍の挑発として独断で中国軍への攻撃を許可(外部サイトに詳細)。両軍が交戦に入った。日本政府は不拡大方針を打ち出し事態の早期解決を目指す。満州駐留の日本軍は強大な軍事力を持つソビエトと直接向き合っており、軍上層部も中国に戦力を割くのは危険と考えた。4日後に停戦協定成立。しかし1ヶ月後に上海で新たな武力衝突が起き、戦争が本格化してしまう。 ※盧溝橋事件の時点では日本居留民に危機は迫っていない。日本側には華北5省(河北、山東、山西、綏遠(すいえん)、チャハル)を第2の満州国にしようという「華北分離論」があり、“この際事件を拡大して華北を分離し蒋介石を打倒しよう”という方向へもって行った。 ※1937年から1941年に宣戦布告するまでの4年間、日本は大陸での戦いを“支那事変”と称した。この頃、アメリカには戦争当事国への戦略物資の輸出を禁止した“アメリカ中立法”があった。日本は石油や兵器の材料の多くをアメリカに依存していた。石油がなければ中国と戦えない。宣戦布告をするとアメリカが中立法を発動する恐れがあったので、“事変”であって国際法上の戦争ではないと主張し続けた。また、中国側も同様に1941年まで宣戦布告していない。 ●1937.7.29 通州事件…冀東(きとう)防共自治政府(親日派)の首都・通州で起きた日本人・朝鮮人居留民虐殺事件。事件の背景は12日前に遡る。その日、中国軍と戦闘中の日本軍機が冀東政権の保安隊兵舎を誤爆。味方と思っていた日本軍に攻撃され、憤慨した保安隊が報復のため29日朝に日本守備隊や民間人を襲撃した。支那駐屯軍司令官・香月清司中将の当時の記録『支那事変回想録摘記』によると、日本人104名と朝鮮人108名、計212人が殺害された。襲ってきた保安隊は、日本軍が軍事指導していた部隊であり、飼い犬に手を咬まれたことになる。この事件が報道される際、軍部は誤爆が最初にあったことや、襲撃者が冀東政権の保安隊であることを隠し、「支那人部隊が突然やって来て虐殺した」と伝えた。当然、国民は支那人部隊=国民党政府軍と考え「鬼畜の行為」と激怒した。当時の日本政府が国民党政府を非難しなかったのは国民党が全く無関係だから。悲劇的な虐殺事件さえも反中国感情を煽る宣伝に使われた。 ※元陸軍省新聞班の松村秀逸少佐いわく「橋本参謀長は“(新聞に書く時は)保安隊とせずに中国人の部隊にしてくれ”との注文だった。勿論、中国人の部隊には違いなかったが、私はものわかりのよい橋本さんが、妙なことを心配するものだと思った」。 ※日本は通州を拠点に、大陸に麻薬を流す「毒化政策」を行っていた。満州でヘロインを製造した製薬会社社長・山内三郎いわく「冀東地区(通州)からヘロインを中心とする種々の麻薬が奔流のように北支那五省に流れ出していった」。 ※この通州事件は当時だけでなく、今も「犯人は支那軍」と嘘をついて反中国感情を与える材料に使われている。しかも、彼らは被害者の半分以上が朝鮮人であったことや、通州にアヘン密貿易者がたくさん集まったこと、「毒化政策」に対する中国人の反感もスルーしている。民間人への無差別殺戮は絶対に許されるべきものではない。しかし、事件を意図的に政治利用するやり方は、それもまた死者に対する冒涜だ。 ★1937.8.13 第2次上海事変…盧溝橋事件から続く日本軍の華北(北京など中国北部)侵略に対し、上海で激しい抗日運動が起こる。その渦中の1937年8月9日、虹橋飛行場を偵察中の海軍陸戦隊・大山勇夫中尉らが中国保安隊に射殺される事件が発生。日本政府はこれをきっかけに華北侵攻の「不拡大方針」を放棄し、「乱暴で道理に反する支那軍を懲らしめる」と積極的な武力行使に方針転換する。中国側も8月15日に総動員令を発して蒋介石を指導者とする抗日民族統一戦線を結成した。 日本側は中国の兵力を軽視していたが、中国は満州事変から盧溝橋事件に至る6年間で大きく変貌していた。ドイツから軍事顧問を招いて兵力を近代化し、屈強に生まれ変わっていた。蒋介石には30人のドイツ人軍事顧問団(リーダーはドイツ国防軍の将軍ファルケン・ハウゼン=歩兵部隊育成の第一人者)がいた。ドイツは日本と防共協定を結んでいたが、一方で中国に軍事支援を行い、大量に最新兵器(装甲車・戦闘機含む)を輸出していた。盧溝橋事件の年には前年の3倍の軍需品が中国に渡っている。ヒトラーいわく「日本との協調関係は維持する。しかし、中国への武器輸出も偽装できる限り続ける」。 一方、陸軍は日露戦争から武器がほとんど変わっていなかった。中国共産党と国民党政府は抗日意識でまとまり、中国軍はもはや清国とは異なる、手強い軍隊になっていた。 軍事顧問団ファルケン・ハウゼンは「中国の敵は日本が第一、共産党を第二」と思考、蒋介石に「今こそ対日戦に踏み切るべき、日本軍を攻撃すべし」と進言。蒋介石の日記「中国北部で戦っても世界は誰も注目しない。国際都市上海で戦争すれば世界中の関心を集め国際世論を喚起できる」。 1937年8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進、中国軍の屈指の精鋭部隊約3万人が国際共同租界の日本人区域を包囲した。上海にいた日本の海軍陸戦隊は5千人であり、6倍の勢力。そして、翌13日午前10時半頃、商務印書館付近の中国軍が日本軍陣地に対し突如として機関銃攻撃を開始した。ここから日中両軍は上海各地で戦闘に突入し、以降、8年の長きに及ぶ日中戦争が展開される。 ※中国軍の先制攻撃は当然大問題だが、背景には満州占領からの北京侵攻、天津侵攻があり、「日本軍を追い出せ」と反日感情がピークになっていたことも理解しないと、「日本は何も悪くないのに当然攻撃された」と偏った視点になる。 増援の要請を受けた陸軍大臣・杉山元(はじめ)は「対ソ戦を考慮するとこれ以上中国に兵力を投入できず」としたが、陸軍強硬派の中心、参謀本部作戦課長・武藤章(あきら)は「大軍で一撃し威嚇すれば、中国はすぐに降参し事態の拡大を防げる」という“対支一撃論”を掲げ即時派兵を求めた。当時の日本では「支那兵なんて弱い」「中国に一撃を加えれば事態を収拾できる」と、軍上層部から一兵卒まで、兵隊だけじゃなく、普通の人まで支那人を侮蔑していた。海軍大臣・米内光政は長期全面戦争を強論。結局、軍の大増派が決定し、8/23に陸軍は上海へ“10万人”を上陸させる。 中国軍は日本軍の上海上陸を予測し待ち構えていた(盧溝橋事件の半年前には南京と上海の防御陣地が完成していた)。増援部隊10万が到着すると、上海戦では中国軍が装備したチェコスロバキア製のZB26軽機関銃が猛威を振るった。毎分550発。命中精度が高く当時世界最高水準の軽機関銃。これもドイツ経由で中国に売却された。 日中戦争当初、主力として活躍したのは北陸の第九師団。第九師団歩兵第七連隊戦闘詳報(当時の戦況公式報告書)によると、上海事変勃発から2週間で部隊2566人中、死者450人、負傷者905人、兵士損耗率53%。2人に1人が死傷者という壮絶な戦い。 ※元第九師団歩兵第七連隊通信兵・小西輿三松は、通信兵として最前線と司令部を行き来しており、戦場の様子を逐一書き留め日記をつけていた。友軍がまさかの全滅。「1937年9月27日 部隊が反撃にあい驚いている」。“中国側の徹底抗戦など誰も予想してなかった、烏合の衆と思ってた”という。 第九師団は上陸1ヶ月で1万の兵を失った。幼友達の戦友を失った兵士(元第九師団山砲第九連隊・滝本孝之)の当日の陣中日記。「胸も張り裂けんばかりに激憤して暴支膺懲(ぼうしようちょう=支那軍の不法者を征伐して懲らしめる)の声が染みこむ」。翌日一人の中国兵を捕虜にした。「分隊兵全員で蒸し焼きにして殺せり。約30分ほどうめく」。最前線の誰もが親友や上官をやられ、中国兵への復讐心をつのらせていく。“支那兵を皆殺しにしてやる”と敵への憎悪が部隊戦隊を覆っていった。陣中日記「ある兵隊が集落で捉えたといって、真裸の男を後ろ手にくくって連行した。隊長はチラとその方を見たがすぐ新聞を頭に載せて“やっちまえ”と一言いわれた。もう一人農村青年がいることを告げると、もう一言“やっちまえ”。一言の取り調べもなく、よくその人物を見るでもなく、簡単に。2、3人“俺がやってやる”と銃をとって駆けて行った者もいる」。軍上層部の「中国は弱くすぐに降参する」という誤った認識が、末端の兵士たちを追い詰めていった。 ※千葉県の浅井病院に日中戦争から太平洋戦争の間に心を病んだ兵士のカルテが8千人分も現存する。陸軍病院に勤めていた精神科医が戦場の実態を後世に伝えるべくコピーしたもの。終戦後、陸軍から焼却命令が出ていたが密かに保存された。オリジナルの記録者は当時上海の陸軍病院にいた軍医・早尾乕雄(とらお)中尉。早尾は第一次世界大戦の戦場神経症について欧州で学び、第九師団の兵士の心理状態を次のように分析、書き留めている。 「第一線で血を見た歩兵部隊ほど気分が荒々しくなっている。その有り様は狂躁状態と同じ。ここに絶大な力のエネルギーが働いて、十人斬りをやり刺殺できるようになるのである。戦友が辱められた、殺されたのを見ているから、余計に敵愾(がい)心が強くなり、思い切ったことをやった。抗日分子を全滅するには、老幼男女の別なく“支那人と見たら皆殺せ“とまで命令した部隊長さえあったくらいである。みな、これ激しき復讐心の表れである」。 戦闘開始から2ヶ月。東京の参謀本部は膠着状況を打開すべく、新たに大規模な増援部隊(第10軍)の派遣を決定(10/20)。同時に、軍上層部は戦いの早期終結をはかるため、戦場を上海周辺に厳しく限定した。蘇州と嘉興(かこう)を結ぶ制令線を越えて西(南京方面)に進軍することを制限した。 11/5に7万の増援部隊が上海の南、杭州湾に上陸。これを機に日本軍が優位になり、11月上旬、上海は陥落した。この攻防戦は世界に伝えられ、蒋介石は欧米による日本への経済制裁を期待したが、この段階ではまだ列強は動かなかった。世界は上海のみを戦場にした局地戦と思っていたからだ。陸軍中央もこれで停戦になると考えていた。参謀本部では河辺虎四郎作戦課長に加え多田参謀次長らが、さらなる作戦地域の拡大に反対していた。 だが!!11/19(資料によっては11/15)、第10軍の司令官・柳川平助中将は中支那方面軍司令官・松井石根大将の指揮権を無視して独断で「南京攻略戦」を開始した。松井はこの「独断追撃」を制止しようとしたが間に合わず、結局は同調した。 ※命令を無視した第10軍・柳川平助中将は二・二六事件の際に、昭和天皇について「不適任なら、別の人に替えてもよい」と語っており、天皇軽視の傾向があった。 上海での死闘をかろうじて生き残った兵士たちは、 敗走する中国軍を追撃するよう命じられ驚く。今度は食糧など補給の遅れに苦しむことになった。日本軍はもともと「上海周辺」の限定された地域での「短期戦」を想定して補給の体制を組んでいた。追撃命令で作戦地域が拡大した結果、補給体制が破綻し始め、地元民に対する徴発(ちょうはつ=強制的に物資を取り上げること)が日常化されていった。 ※前線の元第九師団歩兵・小西輿三松の陣中日記「皆、一様にもうしばらくだと語り合いながら、苦しい追撃を続行する。我々は一度交代になるべきはずなのに、次の攻撃命令が次から次と来る」「急激な追撃に後続部隊が続行できず、物品の運搬に泡を食っている」。 ※元第九師団歩兵第三十六連隊・横山重(中国軍の手榴弾で右目を失う)いわく、「一週間も米粒なし。そこらの畑から取ってくるしかない。銭を払う時もあったが、無い時はどうしようもない。徴発をする。つまり泥棒だ。悪いことは分かっているがどうしようもない」。 補給問題は陸軍が現地の地理を充分に調査していなかったことから深刻化した。作戦地域は船による水上運搬が適切だったのに、補給部隊の設備は陸上輸送を中心としていた。第九師団経理部は公式報告書に陸軍省に対する批判を書いている。「第一線の兵士は現地調達によって得た食糧によりかろうじて餓死を免れた」。徴発は本来、物資の対価を支払うことが軍規に定められていたが、戦闘続きでその余裕はなかった。兵士たちは徴発に奔走するようになり、上海から80kmの蘇州では、11月中旬に“部隊が百貨店になるほど”の大規模徴発があった。 11/20、日本国内には戦時の最高統帥機関・大本営が設置され、大本営と政府の連絡機関「大本営政府連絡会議」も設けられた。同日、国民政府は首都を重慶に移して抗戦を続けると宣言。 11/22、蘇州における徴発で兵が鋭気を養ったと見た上海派遣軍司令官・松井石根は、東京の参謀本部に電報を打つ。「制令線(蘇州)に軍を留めていては戦機を逸する。南京に向かう追撃は可能なり」。松井は首都さえ落とせば蒋介石は屈服すると考え南京攻略を進言した。不安に包まれた軍上層部は参謀本部名で電報を返信「南京への追撃は制令線を定めた命令への逸脱行為であり断念すべし」。しかし松井ら現地軍は参謀本部の作戦部長・下村定と密かに呼応していた。 11/24、下村は御前会議で天皇に今後の作戦方針を説明することになった。下村の役割は、軍上層部が決めた“制令線を越えた進軍の予定はない”を伝えることであったが、独断で「南京その他を攻撃せしむることも考慮いたしております」と付け加えた。この発言で下村は叱責されたが何も処分されなかった。同24日、増派部隊は独断で南京への追撃を開始。第六師団は制令線の限界であった嘉興を越えて南京に出発。 11/26、国民政府は唐生智(とうせいち)を南京守衛部隊司令長官に任命し、13個の編成師団と15個の連隊合わせて15万あまりの兵力を指揮下におき、南京の防衛に当たらせた。 11/30、蒋介石は日本軍の西進に備えて、南京郊外の農村に400カ所以上の陣地(内部に機関銃を設置したコンクリート製のトーチカ)を築き防衛ラインを引いた。トーチカが置かれた村々は日本軍を迎え撃つ“砦”となった。結果、多くの住民が戦闘に巻き込まれた。 南京事件の死者数が日中で大きく異なるのは、このように南京近郊の戦いで殺害された村民たちも中国側は南京事件の犠牲者と見なしているからであり、南京城内の死者しかカウントしていない日本側と数字が異なるのは当然のこと。どちらの数字が正確か非難しあう前に、対象にしている地域の範囲が違うことを知らねばならない。嘘の数字と批判するのは的外れ。 12/1、ここに至り、軍中央は中支那方面軍(上海派遣軍、第10軍)に「華中方面軍司令官は海軍と協力して、敵国の首都南京を攻略せよ」と南京攻略を正式に発令した(「大陸命第8号」)。またしても、現地軍の独走と軍上部の追認という、満州事変と同じ構図が繰り返された。参謀本部では多田参謀次長や河辺作戦課長が和平交渉(トラウトマン工作)による政治的解決を意図していたが、進撃を制止できなかった。 12/3、上海派遣軍と第10軍をあわせた約10万の兵力は、兵力を三つのルートに分けて南京に迫りつつあった。 12/7、蒋介石は南京防衛軍の兵士を残し、自らは戦線の立て直しを図るため南京を脱出。前後してドイツ軍事顧問団や国民党幹部も場外へ逃れた。南京の城内には南京在住の外国人商社員らによって難民区が設けられ、南京周辺からも戦禍を逃れた多くの民衆が集まり日本軍の攻撃から身を守ろうとしていた。 急進撃による補給の不足については「現地にて徴発、自活すべし」という命令が出ていた。 先述した第九師団担当の軍医・早尾乕雄中尉は、論文『戦闘神経症並びに犯罪について』で徴発の危険性を指摘。「実に徴発なる教えは、極めて兵卒の心を堕せしめたる結果を示せり。内地においては重罪のもとに処刑せらるべきものなり。しかるに戦場においては毫も制裁を受けず、かえってこれに痛快を感じ、ますます奨励せらるるが如き感ありき。徴発の如き、公然許されしこと、最初は躊躇(ちゅうちょ)せるものなり。ついには不必要なる物品を、自己の利欲より徴発なすに至り。実に日本軍人の堕落と言わざるべからず」。 徴発が兵士たちの倫理観を麻痺させていった。軍が公認した徴発が略奪や強奪となり軍規を崩壊させた。上海の激戦で多くの戦友を失い、復讐心をたぎらせ、飢えと疲労でギリギリの精神状態の兵士たちは、大陸上陸から4ヶ月、ついに南京へ到着した。 12/8、日本軍の首都包囲が完成する。 12/9、松井石根司令官は中国軍に開城投降を勧告(16時)。蒋介石から南京死守を命じられていた南京防衛軍司令官・唐生智はこれを黙殺する。
●1938.1 第1次近衛声明…南京陥落の1ヶ月後、ドイツに頼った和平工作が難航したことから、近衛文麿内閣は「今後、国民政府を相手とせず」と声明を発表。自ら国民政府とのチャンネルを閉ざし強硬路線を続ける。 ●1938.5.5 国家総動員法施行…日中戦争の長期化にそなえて、軍需動員など強力な統制をはかるため立法。議会の承認をはぶいて勅令(ちょくれい、天皇の命令)だけで運用する前例のない法律であり、立法権を無視された議会は反発したが、政府は陸軍の圧力を背景に制定を強行した。総動員法の施行後は「国民徴用令」「新聞紙等掲載制限令」「価格等統制令」「生活必需物資統制令」「国民職業能力申告令」など多数の統制令がつくられ、法案の拡大解釈により思想統制、滅私奉公の肉体労働の強制、集会・大衆運動の制限など、国民生活は軍事一色になっていく。 ※昭和天皇は板垣陸相と参謀総長・閑院宮(かんいんのみや)を宮中に呼びつけ「この戦争は一時も早くやめなくちゃあならんと思う」(7/4)。 ●1938.7.11 張鼓峰(ちょうこほう)事件…満州・朝鮮・ソ連国境の交叉点“張鼓峰”にソ連が陣地を構築し始めたことから、日本軍がこれを攻撃し占領した。衝突10日後、陸相・板垣征四郎がさらなる武力行使の許可を天皇に上奏したところ、天皇は声を荒げて却下した。「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いる様なこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う」「今後は朕の命令なくして一兵でも動かすことはならん」(7/21)。ところが、現地の第19師団(師団長・尾高亀蔵/板垣陸相の同期)が「近隣にソ連兵が進出した」と独断で攻撃を開始し一帯を占領。2日後にソ連軍の大反撃を受けて壊滅寸前に追い込まれた。8/10停戦。命令違反に対する天皇の処罰は甘く、「もう積極攻撃をしないように」という注意にとどまった。 ※関東軍にとって、この天皇の命令の軽さは何なんだ!?何度目の命令違反なのか、もう分からない。天皇をなめきっているとしか思えない。国民に対しては「天皇は現人神(あらひとがみ)」と畏怖させる一方で、出先の軍は平気で命令を破る。日本軍は上官の命令に逆らえば銃殺なのに、どうして師団長なら大元帥(最高司令官)天皇の命令に背いても許されるのか。
●1938.11 東亜新秩序声明/第2次近衛声明…武漢陥落後、短期決戦が不可能と悟った近衛内閣は、国民政府との和平交渉の可能性を求めて対中政策を転換。「日本の戦争目的は日・満・支3国提携により東アジアに新秩序を建設すること」「東アジアから欧米勢力を駆逐する」と声明。「東亜新秩序の建設」は、後に「大東亜共栄圏」構想に発展していく。 ※満州事変の前から東亜新秩序を言ってればもっと説得力があるけど…このタイミングで言っても…。あと、南京陥落後でも多くの日本国民は中国と戦争をしていると思ってなかった。戦力差が大人と子どもほどあると思っていたので、“懲らしめる”という感覚。アメリカが9.11後にアフガンやイラクに行った制裁感覚と似ている。 ●1938.12.2 毒ガス戦/大陸指第345号発令…この頃、日本軍は中国で頻繁に毒ガスを使用していた。極秘にするため、“大陸指第345号”には「つとめて煙に混用し厳にガス使用の事実を秘し、その痕跡を残さざる如く注意すべし」とある。日本が毒ガスの生産を開始したのは1929年。広島県大久野島の陸軍施設で、皮膚に猛烈な炎症を起こすイペリット(マスタード・ガス)が製造された。翌年にはさっそく台湾で抗日蜂起をした原住民に“みどり弾”(塩化アセトフェノン)を使用。1937年から中国戦線で本格的に実戦投入を開始する。1939年になると大っぴらに使用するようになった。致死性の化学兵器でなくても、前線で中国軍に使用すると、戦闘中止ないし退却させることができ、容易に前進できるし苦戦から脱することが可能だった。防衛省が保管する資料によると、1937年から7年間に中国戦線で使われた化学兵器の量は次の通り。 あか弾(嘔吐、くしゃみ剤)2万発、あか筒12万8千本、みどり筒(催涙剤)2万3千本、みどり手投げ弾5発、きい弾(イペリット)2千発、投下きい弾78発、きい剤630kg。GHQ検察局の調査では使用回数1312件、中国軍の死傷者数36968人(うち死者2086人)。 日本軍による化学兵器の使用にブレーキがかかるのは、1943年6月にルーズベルト大統領が「同じ方法で報復する」と警告してから。この声明以降、大久野島での化学兵器生産は激減する。終戦時に日本軍が中国に残してきた化学兵器=“戦争廃棄物”は約70万発と見積もられている。 ※日本軍は1941年12月のマレーシア・コタバル上陸戦で「チビ」と呼ばれる青酸液入りガラス玉をトーチカ攻撃に使用し、1944年にもモドブン高地で英軍戦車に歩兵第60連隊が「チビ」をぶつけて青酸ガスを発生させ、これを仕留めている。 ●1938.12.26-1941.9 重慶爆撃…新首都となった重慶への大規模な戦略爆撃。航空部隊は軍事施設を目標に爆撃したが、視界不良、爆撃精度などの関係で、結果的に無差別爆撃になってしまった。特に1939年5月4日に27機が行った空襲では、死傷者5291人(うち死者1973人)を出し、前年4月にドイツ空軍が実施した、スペイン・ゲルニカへの世界最初の無差別爆撃の死者1654人を上回った。全期間(約5年間)を通じた重慶爆撃の中国側被害は死者11800人、家屋損壊17600棟。 ※重慶爆撃に関して日本軍関係者で戦犯として訴追された者はいない。重慶爆撃を戦争犯罪として取り上げれば、それをはるかに上回る日本本土空襲や原爆投下が問題になるからだ。 ●1939 日中泥沼化…日中戦争が始まって2年が経つと、大陸の派遣軍は当初の20万人から5倍の100万人に増加していた。組織の拡大に従って、元々は関東軍、台湾軍、朝鮮軍の3軍だったのが、現地に11の軍(北京、南京、済南、上海、武漢、張家口、太原など)を新たに組織し、20を越す司令官や参謀長クラスのポストが新設され、大臣経験者など大物軍人の栄転先となった。陸軍は組織全体の利益よりも、今自分が所属するセクションの利益を重視する巨大組織になっていった。 組織の肥大化で戦費は逼迫し、侵略戦争と非難するアメリカからの撤退要求もあり、軍務局長に就任した陸軍中将・武藤章(あきら)は危機感から派遣軍の縮小を検討し始める。交渉の矢面に立ったのが軍務局予算班・西浦進。軍備の近代化と引き換えに、段階的に現地軍の縮小を求めた。これに対し、支那派遣軍の司令官から一斉に反発の声が上がる。支那派遣軍総参謀長・板垣征四郎は帰国して縮小どころか増派を訴えた。日米通商航海条約が風前の灯に。 ●1939.5.12 ノモンハン事件…満州国は西隣のモンゴルと国境問題を抱えていた。5/12、モンゴル軍が日本側の主張する国境線(ハルハ川)を越えたために満州国軍がこれを攻撃。満州国軍に日本軍第23師団が加わり、モンゴル軍にソ連軍が加わったため、日ソ両軍の戦闘となった。8/20、ソ連軍機械化部隊の総攻撃を受けて第23師団は壊滅し、戦死傷者は約1万数千名にも達した。翌月、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。ソ連は欧州問題に集中する為これ以上の戦闘を望まず、両軍は9/15に停戦協定に調印。 ※ノモンハン事件を聞いた昭和天皇「満州事変の時も陸軍は事変不拡大といいながら、かのごとき大事件となりたり」。 ●1939.7.26 米が日米通商航海条約破棄…日本が中国で戦線を華南まで拡大して英米の権益を侵害し、さらに天津の英仏租界を抗日運動の拠点とみなして封鎖した為、怒ったアメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告した。 ●1940.3 南京新政府樹立…親日派の汪兆銘に日本の傀儡政権を作らせる。 ●1940.5 宣昌(ぎしょう)作戦…一撃を加えて和平に持ち込むことを目的に、支那派遣軍の総攻撃「宣昌作戦」開始。これによって、それまで政治に関心がなかった中国の若者が、次々と抗日に立ち上がりさらに泥沼。攻撃すればするほど中国のナショナリズムが盛り上がり和平交渉は頓挫する。国際社会の非難もどんどん吹き上がった。 ●1940.7.19 荻窪会談…近衛文麿(後の首相)、松岡洋右(後の外相)、東條英機(後の陸軍大臣)、吉田善吾(後の海軍大臣)が行なった荻窪会談で、前月にフランスを征服したドイツのヨーロッパ戦勝に呼応して、「南方植民地を東亜新秩序(松岡曰く“大東亜共栄圏”)に組み込む積極的処理を行なう」とした。日独伊三国同盟に難色を示した吉田海相は“病気辞任”に追い込まれる。 ※昭和天皇は軍部がしきりに“指導的地位”という言葉を掲げてアジアに進出しようとすることを批判。「指導的地位はこちらから押し付けても出来るものではない、他の国々が日本を指導者と仰ぐようになって初めて出来るのである」。 ●1940.9.1 燼滅(じんめつ)作戦/三光作戦…燼滅作戦は八路軍(共産軍)を補給も休息も出来ぬように巨大な無人地帯を作る作戦。エリア内のすべての村を破壊した。その非情な内容から、中国語で「三光(さっこう)」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす)と恐れられる。9/1から開始した北支那方面軍第1軍の「晋中作戦」が最初の燼滅作戦となる。日本軍は“三光”という用語を使用したことがないため、「中国軍がやったことを日本軍に押しつけたもの」と一部の保守論客が主張しているが、1940年に内容が“三光”そのものの日本軍の作戦指令が実際に出ている。 《北支那方面軍司令部が発令した「第一期晋中作戦復行実施要領〜燼滅目標及方法」》 1. 敵及び土民を仮装する敵…殺戮 2. 敵性ありと認むる住民中、16歳以上60歳までの男子…殺戮※敵国住民は普通敵性があるもの 3. 敵の隠匿する武器弾薬器具、爆薬等…押収携行できない場合は焼却 4. 敵の集積せりと認むる糧秣(りょうまつ、兵員用の食料)…同上 5. 敵の使用する文書…同上 6. 敵性部落…焼却 はっきりと「怪しげな男性はすべて殺し尽くせ」と上級司令部が命令として出している。敵国の住民は全員が潜在的には“敵性ありと認むる住民”であり、どの村も“敵性部落”の可能性を持っている。天津地域の第27師団は万里の長城に沿って、南側に幅4km、長さ約100kmの無住地帯を設定し、地域内の住民約10万人を強制移住させ、1万数千戸を焼き払って無人の大地とした。第27師団の歩兵団長鈴木啓久少将いわく「武力を用いて立ち退きを強制したが、この処置は特に住民怨嗟の的となり、三光政策だとして八路軍の宣伝に利用された」。もし三光作戦が八路軍の仕業であれば、民衆は八路軍ではなく日本軍を支持していたはずだ。 ●1940.9.23 北部仏印(ベトナム)進駐…日本は「中国がずっと徹底抗戦しているのは、欧米諸国が支援しているから」と判断。日本軍は欧米から中国への補給ルートを断つため仏領インドシナ(ベトナム)北部に進駐した。 ●1940.9.27 日独伊三国同盟締結…第二次大戦中の枢軸国であった日本・ドイツ・イタリア3国が締結した軍事同盟(近衛文麿内閣が締結)。ドイツと結んでアジアのヨーロッパ植民地に進出していこうとする方針。当時ヨーロッパで英国が戦っていた独と手を結んだことで、英米との関係が決定的に悪化し、太平洋戦争の要因となった。 ※近衛首相や松岡外相が三国同盟にこだわったのは、ドイツとソ連が不可侵条約を結んでいる→三国同盟を通してソ連と関係が近くなれば、アメリカの対日開戦を抑制できると考えたから。結果的には米国の不信感を増大させ真逆の展開になったけれど。 ※小林よしのり『戦争論』は、欧米白人列強の人種差別主義を批判しているれども、軍事同盟を結んだドイツこそ最悪の人種差別主義国家。人種差別に反対するならドイツと真っ先に手を切らねばならぬはず。戦争の大義に関わるすごく重要なとこなのに、保守論客はみんなここをスルーしている。 〔昭和天皇はずっと日独伊三国同盟に反対していた〕 締結の際の詔書(しょうしょ)には「日本とその意図を同じくする独伊と提携協力し、ここに三国間における条約の成立を見たるは、朕の深く喜ぶ所なり」と述べているが、これは全く天皇の本音ではない。ドイツと同盟すれば英米と対立することを懸念していることが成立前後の言葉からよく分かる。 ・陸軍の意を受けて日独伊三国同盟を結ぼうと暗躍していた大島駐独大使と白鳥駐伊大使が、独伊に対して勝手に“独伊が第三国と戦う場合は日本も参戦する”と伝えていた。天皇は板垣陸相を激しく叱責。「出先の両大使がなんら自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか」(『西園寺公と政局』) ・「参戦は絶対に不同意なり」「(中立の)米国が英に加われば、経済断交を受け、物動計画、拡充計画、したがって対ソ戦備も不可能なり」(『侍従武官長日記』) ・前年に海軍の三国同盟批判をうけて交渉がいったん打ち切りになった際「海軍がよくやってくれたおかげで、日本の国は救われた」(『岡田啓介回顧録』) ・「独伊のごとき国家とそのような緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、この国の前途はどうなるか、私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる」(『天皇秘録』) ・「この条約(三国同盟)は、非常に重大な条約で、このためアメリカは日本に対してすぐにも石油やくず鉄の輸出を停止するだろう。そうなったら、日本の自立はどうなるのか。こののち長年月にわたって大変な苦境と暗黒のうちにおかれることになるかもしれない。その覚悟がおまえ(近衛首相)にあるか」(『岡田啓介回顧録』) 天皇はファシズムの独伊に好感を持っておらず、民主主義の英米、特に英国に親しい感情を持っており、半月前に大英博物館がドイツのロンドン空襲で爆撃にさらされることを知った天皇は「なんとか独英両国に申し入る方法はないか」と側近・木戸幸一(木戸孝允の孫)に語っている。 ●1940.10.12 大政翼賛会結成…第2次近衛文麿内閣は国民の効率的な戦争動員を目的に国民統合組織・大政翼賛会を結成。全政党が解党して同会に加わったことから、日本政治史上初めての無政党時代となった。“翼賛”とは時の権力者に協力するという意味。近衛が翼賛会の発足を天皇に報告した際、天皇は「これではまるで昔の幕府ができるようなものではないか」と批判した。 【1941年 ここから先の対米開戦は“日本とアメリカ編”に詳しく掲載】 ●1941.7.2 御前会議…南方進出の為に「対英米戦を辞せず」と決定し、それに基づいて南部仏印(南ベトナム・カンボジア)に進駐し、そのために米国から石油を止められる。石油を止められたなら早く開戦した方が有利という早期開戦論が台頭。つまり、自衛の為と言うより、日中戦争に行き詰まった日本はドイツと連携して武力南進政策をとろうとし、その南進が米国の経済制裁を引き出したわけで、日本は「ABCD包囲陣を打ち破るためギリギリの選択をした」という見方は間違っている。 ※三国同盟に消極的だった米内光政内閣が陸軍に倒され近衛内閣が発足。 ●1941.7.28 南部仏印(ベトナム)進駐…仏印進駐に怒ったルーズベルトは、米国内の日本の資産を凍結し、石油の輸出を全面禁止にした。この対応に日本軍部はショックを受ける。石油の備蓄は2年分。石油が切れる前に戦争をすべきと考え、御前会議で「短期決戦なら勝算はある」と訴えた。 海軍省軍務局中佐・柴勝男「アメリカは欧州の戦争に関心が向いているから、東洋方面で自ら日本と事を構えることはしないだろうと。まさかそこまでは来んだろうと考えていた」。 参謀本部前作戦課長・土居昭夫「南部仏印の進駐が大東亜戦争のきっかけになると考えなかった。経済やアメリカの決意など情勢判断をできなくて進駐をやった」。 企画院総裁・鈴木貞一「あの禁輸の瞬間に戦になっていた」。 ●1941.9 近衛文麿首相は米国に首脳会談の開催を訴えるなど、外交での解決を模索していた。だが、外交交渉に行き詰まり、翌10月に近衛内閣は総辞職。対米強硬派の東條英機陸軍大臣が首相になった。11月の御前会議で開戦の決意が固まる。 ★1941.11.20 南方占領地行政実施要領…開戦前に大本営政府連絡会議決定が決めた占領方針。“アジアを独立させる”どころか、独立運動を封じる必要性に触れている。 南方占領地行政実施要領 第1 方針 占領地に対しては差し当たり軍政を実施し治安の回復(独立運動の弾圧)、重要国防資源の急速獲得及び作戦軍の自活確保に資す。 第2 要領 7.国防資源取得と占領軍の現地自活の為、民政に及ばささるを得ざる重圧はこれを忍ばしめ、宣撫(せんぶ、民族解放の宣伝)上の要求は右目的に反せざる限度に止むるものとす。(=資源取得と占領軍の食糧確保によって地元民にかかる重圧はこれを耐えさせ、民族解放の宣伝はこうした行動と矛盾しない程度に抑えておくように) 8.原住民に対しては皇軍に対する信頼感を助長せしむる如く指導し、その独立運動は過早(かそう)に誘発せしむることを避けるものとす。※当面独立運動は抑えておけということ。 ●1941.12.8 日米開戦…日本は盧溝橋に始まった支那事変から対米戦争へと突き進んでいった。中国は一撃で倒せるという誤った見通し、軍の暴走を止めることが出来なかった国のシステム、戦線はアジア各地から太平洋へと拡大し、国民は次々と戦場へ動員された。戦争の大義が後付けの論理で二転三転し、軍も政府も戦争を収束できなかった。開戦時の日米国力差は、次のように米国が日本を圧倒している。 国民総生産12倍、鋼材17倍、自動車数160倍、石油721倍。 冷静に考えて勝ち目はないのに、軍首脳部は「日露戦争では1対10の国力差で勝てたではないか」という言葉で現実逃避し、真珠湾を奇襲した。 〔石橋湛山、魂の咆哮「日本は全ての植民地を一切捨てる覚悟をせよ」〕 「日本は生き残る為に戦争するしかなかった」いう意見がある。これについては戦争に反対していた反骨のジャーナリスト(後に首相)、石橋湛山(たんざん)のことを語りたい。第1次世界大戦が欧州で勃発すると、日本は欧米列強に対抗する為に、この混乱に便乗して大陸に勢力を広げようとした。世論も「これで一等国の仲間入りだ」と熱狂。でも石橋湛山は違った。湛山は“大日本主義の幻想”という題で「全ての植民地を一切捨てる覚悟をせよ」と経済誌に書いた。理由はこうだ。当時の日本とアジアの貿易額は約9億円。一方、英米との貿易額は倍の約18億円。日本が英米と衝突すればこの18億が失われるので、平和的な貿易立国を目指すべきと説いた。これは軍部が思いもしなかった主張だった。しかし1931年に満州事変が起き、大陸への進出が加速していく。世界各国から非難を受けた日本は翌々年に国際連盟を脱退。1934年、湛山は英字経済誌を創刊し、これを欧米で発行して「日本政府の政策は決して国民の総意ではない」と世界に訴えた。 湛山は権力ににらまれ、1942年に同誌の記者や編集者が逮捕されて4人が拷問で獄死する。さらに紙やインクの配給も大幅に減らされた。だが、それでも湛山は絶対にペンを折らなかった。「良心に恥ずる事を書き、国の為にならぬ事を書かねばならぬくらいなら、雑誌をやめた方がよい」。次男が南方で戦死したと知らせを受けた湛山は日記にこう刻んだ「汝が死をば父が代わりて国の為に生かさん」。 日本は戦後にゼロ(焼け野原)からのスタートで、わずか約20年で世界第2位の経済大国に登り詰めた。資源がないのは戦前と同じ条件だ。あのまま開戦せずに平和的な貿易立国になっていれば、有能な人的資源も失われず、さらなる発展を経ていただろう。本来、生きるべき人が死ぬ必要もなかった。“しかたなかった”論で過去を総括していては、あまりに死者が救われない。 ●1942.4 翼賛選挙実施…第21回衆議院選挙は“翼賛選挙”と呼ばれ、東条内閣は体制を堅固にするため初めて候補者推薦制を導入。「政府と戦争に協力する人物」を推薦し軍事費から多額の選挙資金を与えると共に、他の非推薦候補者は警察・憲兵から激しい選挙妨害を受けた。推薦候補者で当選したのは466名のうち381名、一方、非推薦候補者は85名が当選した。政府の露骨な選挙圧力にもかかわらず、非推薦者の得票数は約419万票(得票率35%)もあった。その後、東条内閣は翼賛会に大日本婦人会や“労資一体”を掲げた大日本産業報国会などの官製国民運動団体を組込み、さらに町内会まで末端組織とし、国民生活の隅々まで国家権力による統制を実現していく。 ※翼賛選挙の結果(得票率)を見ると、国民の3人に1人が強引な東条内閣に否定的感情を持っていたことが分かる。戦時中は全国民が政府を無批判に支持したイメージがあるけど、選挙データは政府とは異なる考え方を持った国民が3分の1もいたことを示している。 ●1942.11.27 強制連行開始…「華人労務者内地移入に関する件」が閣議決定され、以後強制連行が始まる。約4万人の中国人が日本に連行され、死者・行方不明者は8823人にのぼった。詳細は後述(花岡事件)。 ★1943.5.31 大東亜政略指導大綱…天皇列席の御前会議で決定された政略方針。いわゆる「大東亜戦争は正義の戦争で日本に領土的野心はなかった」というのが完全にまやかしと分かる最重要史料。あのまま戦争を継続していたら以下のように帝国領土に編入されていた。これは日本の戦争を「アジア解放の為の聖戦だった」と言い張る保守論客が絶対に触れようとしない史実だ。 《大東亜政略指導大綱 6(イ)》 「マライ(現マレーシア・シンガポール)」「スマトラ(現インドネシア)」「ジャワ(同左)」「ボルネオ(同左)」「セレベス(同左)」は帝国領土と決定し、重要資源の供給地として極力これ開発並びに民心把握に努む。 現マレーシア、シンガポール、インドネシアという重要な資源地帯を「日本領」にすることを、御前会議まで開いて決定している。一方、ビルマとフィリピンについては領土併合せず独立を容認した。なぜか。ビルマを独立させるのは、インドに対する戦略的工作だ。隣国ビルマを独立させることで、インドの対英独立運動に火が付くことを期待したんだ。フィリピンは戦争前から米国が既に独立を約束していたので、“解放”という大義名分の為にもアメリカが約束したよりも早く独立させるしかなかった。
日本政府は台湾や朝鮮など古くからの植民地を“解放”しようなどとは一度も考えておらず、アジア独立の意思があったとは思えない。対米開戦に踏み切る前に政府が考えていたアジア政策は、占領地の住民を労働力として動員し、占領地で生産された食糧を日本軍が徴発するというもの。大本営はこのような南方軍政が占領地住民に“重圧”を及ぼすことを予想していたので、「(重圧は)これを忍ばしめ」(=耐えさせる)と打ち捨てている。そして「アジア解放」というバラ色の宣伝をやりすぎると現実とのギャップが大きくなるので、あまり宣伝しないよう開戦前から決めていた(『南方占領地行政実施要領』1941.11.20)。最前線の日本兵には心底からアジア独立の高い理想を信じて戦い抜いた者も少なくないが、大本営においてはこれが“聖戦”の実態だった。
●1944.9.7 拉孟(らもう)守備隊玉砕…中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近の拉孟には、援蒋ルート(連合国から中国への物資支援ルート)を遮断するため、1942年5月から日本軍守備隊1280人(3ヶ月前まで2800人)が警備していた。守備隊は少人数ながら堅固な防衛陣地を築きあげる。1944年6月2日、中国軍の雲南遠征軍20万のうち4万8千人の大軍が拉孟を包囲攻撃開始。蒋介石の直系の雲南遠征軍は、米軍の支援を受け近代化した精鋭部隊だった。 7月中旬、(悪名高き)辻政信参謀が、拉孟守備隊の救援作戦を発令し援軍を9月上旬に送ると約束した。既に生存兵が500人を切ってい守備隊は大いに希望を持つ。だが、直前のインパール作戦の歴史的敗北で、日本軍は食糧も兵力も涸渇し救援不可能なのが実状で、辻参謀は最初から拉孟守備隊を見捨てる気だった。8月2日、守備隊本部陣地が陥落。9月6日、指揮官の金光少佐が戦死。翌7日、全陣地が陥落し守備隊は「援軍」を待ちながら全滅した。拉孟守備隊は補給路を断たれ、撤退命令も出ず、また救援部隊もないなか、拠点死守のみを命じられ、兵力差約40倍の敵を相手に100日間も戦い抜いた。捕虜はゼロ。太平洋の孤島で守備隊が玉砕したケースは多いけれど、大陸において玉砕したケースは少なく、後述する騰越守備隊と共にその最期が知られる。 ●1944.9.13 騰越(とうえつ)守備隊玉砕…北ビルマ戦線の日本軍最前線、雲南省の城郭都市・騰越(現、騰衝)は拉孟から北東60キロの町。日本軍守備隊は2025人。6月27日に中国軍の雲南遠征軍約5万人が攻撃開始。中国軍は砲撃を加えながら騰越を完全に包囲し守備隊を孤立させる。7月27日、指揮官の蔵重康美大佐は守備隊を騰越城に後退させ、なおも徹底抗戦を続けて9月13日に玉砕した。 騰越守備隊は25倍の敵を相手に2ヶ月以上も死力を尽くし戦った。 ●1945.6.30 花岡事件…戦時中、秋田県大館市の花岡鉱山は、日本政府から戦争遂行のため大規模な生産量を義務づけられていた。だが、朝鮮人や米国人捕虜を動員してもまだ労働力が足りなかった。花岡以外にも日本中がこういう状態であった為、約4万人の中国人が日本に強制連行され、135カ所の事業所で労働を強要された。このうち、死者・行方不明者は8823人にのぼった。 1944年8月から3回にわけて、鹿島組中山寮に連行されてきた中国人は986人。労働条件や生活環境はあまりに劣悪だったことから、第1次連行者295人のうち、事件発生までに113人が死亡していた(死亡率38.3%!)。近隣の東亜寮に収容されていた中国人連行者の死亡率3.7%と比較すれば、中山寮の過酷さは明らか。「このままではみんな殺されてしまう」、中国人はひとつの脱走計画を立てた。中山寮の現場監督たちを殺害し、鉱山周辺に収容されているすべての外国人を解放し、彼らと連携して脱出をはかるというもの。決行当日(終戦2ヶ月前)、日本人現場監督4人を殺害し、約800人の中国人たちが中山寮から逃亡した。しかし、疲労や空腹のため体が動かず、約600人の中国人が翌朝までに逮捕された。 花岡町の外まで逃げた約200人も、各地の警察署や在郷軍人団など2万人規模の捜索によって、6日以内に逮捕された。この捜索の過程で数十人の中国人が殺害され、広場に3日間座らせ晒し者にするなど、拘禁や拷問によって命を落とす者も多数出た。見せしめのため、6日間で100人以上の中国人が拷問のあと殺害された。事件後も中山寮での生活は変わらず、敗戦後でさえ177人の死者が出た。強制連行開始から、1945年10月にアメリカ占領軍が解放するまでに、全体の約半数、418人が死亡した。 花岡事件の中国人首謀者11人は戦時騒乱罪で起訴され1人が無期懲役、他は10年以下の懲役となった。後にアメリカ占領軍の指示で無罪となったものの、1948年3月まで軟禁状態だった。2000年11月、鹿島と被害者は補償基金など和解条項の合意に達し、鹿島は中国赤十字会に5億円を寄託。中国赤十字会は「花岡平和友好基金」として強制連行された犠牲者の追悼や被害者・遺族の自立支援などに役立てた。 ※この事件は当時の中国人への差別意識を象徴する事件。ハッキリ言って人間扱いしていない。内地(国内)ですらこうした状況。戦地ではさらに中国人の命が軽かったことは容易に想像できる。山東省では日本軍が軍事作戦として“労工狩り”を行った。 ●1945.8.14 葛根廟(かっこんびょう)事件…8/9、対日参戦した極東ソ連軍が一斉に満州へ侵攻。西部の国境を守備していた関東軍は、日本人居留民を見捨てて8/10に撤退する。8/11夜、西部の約1200人の居留民(若い男は根こそぎ招集され9割が女性・子ども)が、葛根廟駅を目指して着の身着のままで脱出を計るも、8/14の正午頃に上空からソ連機に発見され、葛根廟付近でソ連軍第39軍第12戦車隊のT35戦車14両に襲われた。避難民は白旗を掲げたが、戦車砲と機関銃によって約1000人もの日本人婦女子が虐殺された。東満州の麻山でも退避中の開拓民約400人がソ連軍戦車隊に攻撃され集団自決し、宝清県では約1500人が行方不明になり、“仁義仏立開拓団”600人も全滅した。終戦時の在満日本人は160万人。うち開拓民は27万人で、その中の7万8500人が死亡した。引き揚げ者の中には子どもの死を恐れて、中国人家族に子どもを委ねるケースも多かった(いわゆる残留孤児)。最終的に満州に渡った民間人の死者は約24万5千人に達した。 ソ連軍に武装解除された関東軍は、各地の収容所へ入れられた後、1946年夏までに健康状態の良い者50万人以上が労働力としてシベリアに抑留された。 ●1945.8.15 終戦…日本人の死者は310万人、アジアの人々の死者は1700万人以上(中国1千万、インドネシア400万、ベトナム200万、フィリピン110万、朝鮮半島20万、ミャンマー15万、シンガポール10万、タイ8万。05年8月7日・東京新聞調べ)。 外地からの民間人の引き揚げ者数は、満州が約130万人、北朝鮮が約32万人、南朝鮮が約60万人、千島・サハリンが約29万人に及ぶ。判明している民間人の死没者数は、満州が24万5千人、北朝鮮が約3万5千人、南朝鮮が約1万9千人。満州では6人に1人、北朝鮮では10人に1人、南朝鮮では30人に1人が亡くなったことになる。 〔最後に〕 “白人からのアジア解放”理論は、同じアジア人を殺害した中国では通用しない。「日本だけが悪じゃない、当時は他の国もやっていた」という意見は盗人猛々しいというか、正直ウンザリしています。親兄弟を殺された被害者がまだ生きているのに“いつまで謝まらねばならないのか”など、どうして言えるのだろうか…。加害者には過去のことでも被害者には過去になっていないんだ(しかも傷は時間に癒されるどころか、無思慮な発言で新たに傷口がエグられる)。「大陸では日本兵による残虐行為を一度も見なかった」「どの日本兵も立派だった」という人がいる。僕はその言葉を否定しない。“その人の周囲では”本当に何もなかったのだろう。その人の周囲では。
※「南京で中国兵の疑いのある奴は殺したが一般人は殺していない」というのも冷静に考えれば理不尽な話で、中国兵だって元は農民のような一般人が大半。日本軍が侵略したから仕方なく武器をとったわけで、侵略された側の国民の命の重さを兵士と一般人で分けるのは間違っている。 ※保守派の論客には、「日本のために戦った先人を尊敬せよ」という一方で、実際に戦場で戦った先人が戦争の悲惨さを発言すると売国奴認定して叩く人がいる。もっと出征兵士の声を謙虚に聴くことが出来ないのか。 09年4月、ダライ・ラマは五輪後の中国政府がチベット独立派に死刑を立て続けに出していることに抗議声明を出し、またウイグル自治区での中国核実験で19万人急死、被害は129万人という調査報告も出た。報道の自由についても中国は世界最低レベル。冒頭にも書いたけど、こうした政策の誤りを中国側に指摘する時、日本軍の美化は不満を外にそらしたい中国政府の“愛国教育”に利用されるだけで、利敵行為以外の何ものでもない。 歴史を反省することについて“民族の誇りを失うからやめろ”と主張している政治家には、もっと日本に数々の素晴らしい芸術・文学があることを知って欲しい。日本文化の偉大さが分かっていないから“誇りを持てない”なんて発言が出てくる。僕は加害行為を謝罪することが“自虐”になるなんてちっとも思わないし、むしろ欧米が開き直っているにもかかわらず、真摯な対応を示し謝罪する日本の方がよっぽど誇らしいと思う。
いずれにせよ、日本にとって中国は既に世界最大の貿易相手国(20兆円規模)となっており、もはや経済的に切っても切れない関係になっている。自動車産業にとっても中国は世界一の市場となった。今これを読んでいるあなたのキーボードの裏側にもメイド・イン・チャイナの文字が刻まれているだろう。今後、間違いなく中国は民主化運動が爆発する。かの国で未来を切り開く人々とうまく付き合っていくために、歴史認識で一致点を見い出しましょう。謙虚であることと、卑屈であることは違います。この年表が謙虚という感情に繋がるものでありますように。 ※文化大革命による死者の数は1966年から1976年の10年間で最大200万人といわれている。 |
【重要】「東京裁判でパール判事は日本を無罪と考えた」は誤解 パール判事は日本軍に怒っている。東京裁判は、新しく作った法律(平和・人道に対する罪)で過去の行為を処罰できないという、法学者の信念から「無罪」としたのであって、「日本は悪くない」なんて言ってない。南京大虐殺では、マギー証言を「伝聞や憶測による思い込みが激しい」としつつも、「宣伝と誇張を出来る限り考慮しても、なお残虐行為は日本軍が占領したある地域の一般民衆、また、戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である」と虐殺を認め断罪している。 そしてパール判事の息子は、東條英機の伝記映画『プライド』が東條を美化するため自分の父を利用していると憤慨し、田中正明(勝手に松井石根大将の文章を改変し、日本に「南京事件はなかった」と嘘をまき散らした張本人)に抗議している。 パール判事は戦後の日本再軍備にも批判的だった。独立前のインド国民は英国人として日本軍と戦っていた。 パール判事の激しい批判: ・張作霖爆殺事件は「無謀でまた卑劣である」「殺人と言う卑怯な行為」 ・満州事変を「非難すべきもの」 ・満州国建設を「手の込んだ政治的狂言」 ・南京虐殺やフィリピンでの虐殺を事実と認定し「鬼畜行為」と批判。南京大虐殺について20箇所以上の残虐行為を指摘したうえで「鬼畜の性格を持っている」と断じ、戦争指導者は無罪であっても、殺人・強姦など通例の戦争犯罪の実行者に対する処罰は(新法で後から処罰することですら)「正当である」と述べている。 ※東京裁判開廷時のインドは英国の植民地でなかったため(公判中の1947年に独立)、裁判参加資格がなかった。パールは「インド国民は日本軍の蛮行で被害を受け、裁く権利がある」と交渉して裁判に加わった。結果的には、時間を遡って事後法を適用することは出来ないという結論に至ったが。靖国にパール判事の顕彰碑を置くことは、判事への冒涜。 |
※終戦時、日本は中国・満州だけで約170万人もの兵を展開していた
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★虐殺否定派の重鎮、東中野修道氏と田中正明氏について 「中国は嘘をついている」と主張する張本人が嘘をついている場合、もうその人物は学者としてみなされない。 ・東中野修道氏は日本兵による一家惨殺の生存者・夏淑琴さん(事件当時8歳)を「マギーフィルムの“夏淑琴”とは別人であり南京事件も中国の捏造」と喧伝、夏淑琴さんから名誉毀損で提訴され東中野氏が敗訴した。東京地裁「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」。09年最高裁が上告を棄却し東中野側の400万円の支払いが確定した。「学問研究の成果というに値しない」、つまり東中野氏は研究者の資格なしということ。 東中野氏の『南京事件証拠写真を検証する』について、歴史学者・笠原十九司は「はじめから南京事件の証拠ではない写真を検証して『証拠とならない』と言ってみせることで南京事件に証拠はないと思わせるトリックを使っている」「村瀬写真集の中から“虐殺された後薪を積んで、油をかけられた死体”の二枚の写真がはずされている。この写真は集団虐殺をした日本兵が悪臭のためマスクをして、煙がまだ残っている死体の現場に立っているもので、否定できなかったのであろう。否定できない写真は“検証”からはずし、“証拠写真として通用する写真は一枚も無かった”と結論するのはまさにトリックである」と指摘。 ・田中正明氏は南京を攻略した松井石根大将の「陣中日記」を出版する際に300箇所以上も改ざんした。田中氏は日記の原文にはない「南京占領10日後の会見の感想」を捏造したうえ、その嘘の感想に次の編者注をつけた「南京占領から十日を経た外人記者団との会見において、松井大将が『南京虐殺』に関する質問を受けたという様子が全く見られない点、注目すべきである」。“質問を受けたという様子”などあるわけないのだ、田中氏自身が日記を書いているのだから。自分で捏造した文章に自分で編者注まで付けるという行動には学者の良心のカケラもない。しかも改ざんを指摘されると、「別の紙にその内容が書かれていたが紛失した」と弁明。それならば貴重な松井大将の手原稿を紛失したわけで、取り返しのつかない大失態だ(保守派こそ激怒するべき)。また、東京裁判で刑死した松井大将について、「戦後の1966年に蒋介石が“松井大将は冤罪”と泣いて謝ったエピソード」は、35年後の2001年になって田中正明氏がいきなり言い始めたもので、現場にいた第三者による記録がいっさいなく、田中氏が1984年に出版した『南京虐殺の虚構』にもこの話は登場しない。これが真実ならその時点で載せたはずであり、現在では保守系学者からもデマとみられている。 近年の虐殺否定派、小名木善行氏、藤井厳喜氏、水間政憲氏について ・最近、小名木善行氏の動画『南京事件は4度あった』に影響を受けたとみられる書き込みを見かけるが、氏の歴史観は違和感だらけ。「第一次南京事件で日本は弱気だったから中国側になめられていた」「日本は戦争したくなかった」と繰り返し熱弁しているが、氏はもっと大きな流れである、日清戦争、日露戦争、張作霖爆殺、満州事変、平頂山事件、それに続く熱河省侵攻、華北占領に“まったく”触れていない。60分間、一言も言及なし。国際連盟脱退まで軍国化を突き進んだ日本のどこが弱腰なのかと。 小名木氏はどこで歴史を研究したのか。ネットで経歴を検索しても過去がわからない。かわりにヒットしたのはこんな内容→「“ねずさん”というペンネームの小名木善行氏はそれが本名ではなく、小名木伸太郎が本名であり、過去にマルチ商法(ストレートワン)に手を染めていた疑惑や主催されている「日心会」の不正会計疑惑、さらには自らが代表者として経営されていた食品会社 大和食研(株)も2014年3月に破産開始決定している」。 ・藤井厳喜氏は落ち着いた話し方から説得力を感じる人もいると思うが、話の内容はとうの昔に解決した周回遅れのものばかり。氏のフォロワーは25万人という多さであり、影響力を深く懸念。 藤井氏の講演録『日本人が知らない太平洋戦争の大嘘』を大々的にネットで宣伝しているダイレクト出版は、無料をうたってメールアドレスだけを集めているという苦情がネットに複数あり、注意喚起を促した方が良いかもしれません。 ・水間政憲氏について検索したところ、水間氏の慶應大学法学部中退という経歴に対し、慶応OBが「水間氏は入試すら受けていない」と大問題にしているだが大丈夫だろうか。経歴詐称は明確な軽犯罪法違反。 否定派の言葉に欠けているのは「他国へ軍を送ってる時点でアウト」という大前提。まるで「相手が死者の人数を誤魔化しているから俺たちの侵略は悪くなかった」とでも言わんばかり。虐殺否定論の最初と最後に、100万もの大軍で他国を占領し首都を征服したことのお詫びの言葉を置くべき。議論はそこからです。 |
・村上春樹/領土問題エッセイ
《時事コラム・コーナー》
★愛国リベラル近代史年表/日本と中国編
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★昭和天皇かく語りき
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★パレスチナ問題&村上春樹スピーチ
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★普天間基地を早急に撤去すべし
★マジな戦争根絶案