★クリックしてしまった貴殿へ★(注:この序文は独身時代に書いたものです)

 
僕には子供がいない、って言うかそれ以前に妻がいない。30代に突入すると、周囲の友人たちがどんどん家庭を持ち始め、どうも自分だけが何かをやり忘れている気がして落ち着かなかった。しかし最近それが何故だかやっと分かった。彼らの赤ん坊を見た時に“子供は本人(親)が生きた証だ”と強烈に認識した一方、この自分には生きた証が何もなかったからなのだ。自分はこの世にいた証拠が欲しかったのだ。

 結論。僕は自分の全存在証明をかけて小説に挑むことにした。この作品を自分の生きた証とする。この一編の物語に僕の恋愛論、芸術論、宗教論、人生論の全てを注ぎ込む。これは紛れもなく僕の子供だ(DNA鑑定を受けてもいい)。自分の死後、後世の人間はこの作品を通して僕の魂と向き合うことになるであろう。
 
 さあ、独身三十路男の雄叫びを、とくと聞くがよい!(1998.11)

(オマケ)数学的考察〜作品完成の方程式!
       文芸地獄×失恋地獄
÷銀行に貯金ゼロ=“カントレフ、彷徨”



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(カントレフ第1回) (カントレフ第6回) (カントレフ第11回)
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カントレフ、彷徨(ほうこう
                                         
                              
カジポン・マルコ・残月

『カインは激しく怒りに燃えたが、しかしその顔色は沈んでいた』 創世記第四章
『ユダは銀三十枚を神殿に投げ込んで立ち去り、自ら命を絶った』 マタイ伝第二七章



   第一部ネフスキー大通り

  (一)打つ手なし

 
帝政ロシア末期の一八九九年、冬。カントレフは、女性の官能的破壊力と闘っていた。今、彼は一人の女性の後を、引寄せられる様について歩いてるのだ。仕事の帰りに乗った汽車で、たまたま同じ客車において出会った女性である。人込みにもみくちゃにされながら、ペテルブルグ中央駅(ニコラエフスキー停車場)から夕闇に包み込まれたネフスキー大通りの雑踏の中に出て、耳を引き裂くほど冷たい二月の風に殴打されつつ、彼はあたかも漂流するが如く彼女の後を尾けていた。カントレフ、彷徨。
 
(女か。)                                
カントレフは苦々しい思いで呟いた。                      
 (一体何という恐ろしい生き物なのだ…今日、俺はいつもと同じように仕事を定時に終え、普段と同じ汽車に乗って帰途についた。何の変化もない平凡な夜、だが静かで穏やかな夜が訪れるはずだった。なのにこれだ!)
 彼は夕空を見上げ、神がその奥まった所にいるかの様に、朱から濃紺となった一際高い場所を無意識に睨んだ。目には敵意が宿っていた。彼は、本来空を眺めることをこよなく愛する人間であったが、こういう場合、空は憎しみの対象であった。    
 視線を戻すと、彼女の姿が大通りから消えていた。一瞬の出来事であった。
 (しまった、距離を開けすぎたか!ウソだろ?どの路地に入っちまったんだ!?)
彼は狂ったように大通りの人込みを掻き分け、彼女を見失った付近の路地を次々と覗いてみたが、彼がその美に畏怖を感じた彼女の姿はどこにもなかった。カントレフは彼を嘲るような天からの視線を感じ、己れの道化師ぶりを隠すために、肩をすくめて皮肉に微笑んだ。
 (帰るしかあるまい。)
 彼はきびすを返し、大通りから駅を挟んで南下した所にある、うらぶれたリゴーフスキー通りの住宅街に向かって歩きだした。

 
その瞬間、すれ違った。彼女に。
 (黒い外套に栗色の髪、そして鷹のような目。間違いない、確かに車内で金縛りにあったように視線を離せなくなった彼女だ。あの汽車はいつも利用しているが、あれほどの女神が乗っているのは初めて見た。今、彼女は確かパンの包みを抱えていたな。するとあそこのパン屋に入っていたわけか。なるほど、わからんわけだ!俺は横の路地へ入って行ったものだとすっかり信じきっていたからな。)
 彼は焦茶色のよれよれになった自分の外套のポケットに両手を入れ、彼女のフワフワと上下に揺れる栗色の髪に見とれながら、今度は彼女のすぐあとを尾いていった。
 歩きながらカントレフは自問した。
 (しかし、俺は一体何をしようというのか?こんなことをして何になるというのだ?三十四年も生きて、なぜ俺は不毛という言葉が分からぬ…自分が理解できん…。ええい、なのにこの足、どうして尾いてゆくのだ!)
 夕闇の大通りでは帰宅を急ぐ人々の群れが、ゆっくり散策している連中を押しのけて、岩場の急流のように流れていた。彼は身も心もその急流の渦中にあり、思考は波に揉まれる木の葉の様に激しく揺れ動き、また混乱していた。通り沿いの街灯や立ち並ぶ店々の明かりは、彼の表情を支配している苦悩と狼狽をくっきりと映しだしていたが、誰一人それに気づく者はいなかったし、また気づこうとする者もいなかった。
 (どうする…どうする…何か行動を起こさねば、この広いペテルブルグだ、二度と彼女には会えまい。あの強烈に存在感のある細く切れ込んだ瞳!俺は、長くあれを見ていたい、見たい時に見たい!…そう、ただそれだけのことだ。だが、それが実に難しい!まず、どうやって話しかける?どう話を切り出す?この大勢の人込みの中で彼女に話しかける勇気は俺には無い…かといって、細い路地に入ってしまえば、そんな所では後ろから接近してきた男に警戒心以外の感情を持つことはありえない。どうするんだ、カントレフ!)

 だが、そうやってカントレフの思考が足踏みしている間も、決して時の行軍は止まりはしない。そうこうしているうちに彼女は路地に入ってしまった。
 (曲がった!曲がってしまった!何てことだ、終わりだ、もうこれでおしまいだ!畜生、俺はまたしても何の行動も起こせなかった!)
 カントレフは大通りから路地へと入る曲がり角に立ちすくんで、次第に遠ざかる彼女の後ろ姿を為す術もなく見送っていた。
 (これで家に戻って、今回も全く手足が出なかった己れの勇気のなさの為に、自己嫌悪でさいなまれるのか!)


  (二)戦慄

 
だが、カントレフが絶望に頭を垂れたその時、信じ難いことが起こった。既に五十メートルほど進んでいた彼女が、突然、どうしたわけか再びこちらへ向かってくるではないか!彼は棒立ちになったまま瞳を大きく見開かせ、自分の呼吸がみるみる浅く、また速くなり、体内の血が文字通り逆流してゆくのを感じた。次第に近づいてくる彼女を前に、彼は自分から接近することも遠ざかることもしなかった。もちろん、動かなかったのではなく、動けなかったのである。
 (これはもしかして、一種のサインかも…。間違いない、運命が俺に“動け”とけしかけているのだ。もしこれほどの偶然を生かすことが出来なかったら、俺は死人も同然だ。生きているとはいえん!…ああ、近づいてくる、彼女が近づいてくる、どうする?どうする!?)
 彼女が彼とひと並びになろうとする瞬間、追い詰められた彼は殆ど無意識のうちに、とっさに声を出していた。
 「あの…。」
 なんのことはない。彼女は歩をゆるめる様子もなく、チラと彼を一瞥しただけだった。しかし、その一瞥が彼の重い鉄鎖を蒸発させた。彼は瞬時に身をひるがえし、すぐさま、再度ネフスキーに出た彼女の後を追い始めた。
 「あの…すみません…僕は先程同じ汽車であなたを…。」
 彼は隣に並んだが、彼女は真っすぐ前を見たまま突き進んでおり、その足はますます速くなった。
 「いや…だから…違うんです、そうではなくて…(なぜだ、なぜだ、頼む、頼む止まってくれ!)。」
 カントレフの声は震えていた。同じく膝も。すると突然、思いがけなく彼女の足が止まった。しかし、それは扉を開いたのではなく、逆に扉に施錠をするためのものであった。
 「いい加減にしてよ!」
 周りの者が思わず振り向くような大きな、そしていまいましそうな声で一言そう吐き捨てると、彼女は再び歩きだそうとした。彼の顔からは血の気が失せ、代わりに額から冷たい汗がじっとりとにじんできた。
 「違うんだ、僕だって何も…あなたが路地を戻ってきたから…。」
 「ハア?」
 彼女はまるでゴミか何かを見るような目で、カントレフがまさに魅力的だと思ったその瞳で、彼の存在を嘲笑し、気持ちを苛立たせて立ち去った。当然、彼は恐怖に縮みあがってしまった。背中は汗でぐっしょり濡れていた。
 (そんな…そんな…何だっていうんだ…一体、何だっていうんだ!俺が何をした?ここまで酷い扱いを受けねばならぬ程、俺は君に非道なことをしたのか!?)

 彼女は大通りを横切って果物屋に入っていった。実際、彼女が路地を戻って来たのはそのためであり、他に何の意味もない。彼は両手で髪を掻きむしり、逃げるようにその場から走り去った。世界中が彼を笑っているような気がした。
 彼は大通りの果てにあるネヴァ河に向かった。とにかく、何か流れていくものが見たかったからである。
 (河へ…河へ!流れを、流れを見せてくれ!そして、この屈辱感と羞恥心のすべてを運び去ってくれ!ダメだ、耐えられない、この大通りでは息が出来ない!)

 彼はまだ幼かった頃、両親の不注意から納屋の階段を転げ落ち、それ以来左足を完全に自由には動かせなくなった。といっても普通に歩くには何の支障もなく、少々速く歩いても外から見て何の問題もないのだが、駆け足となると話は別である。露骨に片足を引っ張る形になってしまう。左足は絶対に走ってはくれないのだ。それゆえ彼は人々の視線が足に集まるのを避けるため、よほどの事がない限り決して走りはしなかった。…その彼が今、河を目指して走っている。しかもネフスキーの雑踏の中を脇目もふらずに。彼は視線のことなど完全に忘れ去っていた。

 
二月のネヴァ河河岸は厳寒の極致であり、まして日没後の河岸はおりからの河風で、ものの三分と立っていられる所ではなかった。カントレフがたどり着いたとき、そのような状況の中でも近くと遠くに一人ずつ、計二人の人影が見えた。
 (ここでなら呼吸が出来る。)
 そんな極寒の河岸にたたずむのは、現実の生活がさらになお寒い、人生の避難民だけだ。彼らはコートの衿を立てて耳を守り、一様に両腕を組んで、ぼんやりといつまでも暗い河面を見続けていた。

                                       第一部 完

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