(五)サ−シャ ところで、カントレフが母港に錨を下ろそうとしたのは二度だけだと先に記したが、プロポ−ズにまで発展しなかった恋の中に、ひとつ特に印象的なものがあった。失恋の内容が、あまりに絶望的なものだったためだ。 彼が三十路を迎えた年のサ−シャへの恋は、独り身の“寂しさ”が原動力となっていた点でソ−ニャや二−ナのそれとは違うものだった。当時のカントレフは、弟が先に結婚してしまったり、同じ三十才の同僚に二人目の子供ができたり、他にも色々と周囲だけがやたらと賑やかで、寂寞感がどんどん増す一方の状態だった。 サ−シャは取引先の婦人靴店の売り子で、くったくのない明るい笑顔をする、お喋りが大好きな娘だった。二十歳そこそこという噂だったが、あだ名は『カルメン』というすごいものを持っているように、恋愛経験においてカントレフが太刀打ちできるような相手ではなかった。 笑い上戸な彼女は、カントレフが納品にくる度に彼を無邪気にからかっていた。彼は始めのうち、それまでに出会ったことのないタイプの彼女に呆気にとられていたが、会う度に話し掛けてきてくれる彼女のことが、徐々に気になり始めた。彼は自分の心に冷静さを求めた…ふたつの理由から。まず、彼女が彼をからかうのは好意というよりもただの暇つぶしだろうという点、次に、道で彼女とすれ違った男の誰もが振り返ってしまう、その肉体の妖艶さという点で。派手な服を着ているわけでもないのに、とにかくとてつもない色気なのだ。 彼はいったん彼女が気になりだすと、もう目を見て話すことなど出来なくなってしまった。彼女の店を出る時、いつも首を振って呟く言葉が“きつい…これはたまらん”だった。 そんな彼が一度我に返ったことがあった。親方の次男坊のピョ−トルと、二人で店へ納品しに来た時の事である。相変わらず彼女にからかわれてどぎまぎしている彼を、納品手続きをしながらじっと観察していたピョ−トルは、店を出た時こう言った。 「気に入らないな、あなたの態度。」 彼は驚いてピョ−トルの顔を見た。 「おろおろしてさ、みっともない。」 そう言われて、彼の顔はみるみる紅潮した。 「…そんなに、おろおろしていたかい?」 「鏡で見せてあげたかったですよ…でもねぇ、そう気になさることもないです。私は何人かの男と納品作業をしましたが、相方の男は例外なくあのカルメンに目を奪われていましたから。ただ“かしましい”だけのあんな女の、一体何処がそんなにいいんでしょうかね。やはり体ですか?」 普段は無口だと思っていたこの次男坊が、こうもあけすけにものを言うので、彼は一体どう反応してよいのか分からなかった。 「しかし、じゃあそれでは聞くが、君は彼女を見て何も感じないのかね?」 「ええ、まったく。おや?カントレフさんは私が同姓愛者だと御存じなかったのですか?例のチャイコフスキーと同じですよ。」 「!?」 彼は絶句した。この絶句はピョ−トルが同姓愛者だったことにではなく、サ−シャの魔力に支配されぬことがあり得るということに対してのものだった。彼があんまり目をぱちくりしているので、ピョ−トルはたまらず吹き出した。 「そんな目をしてどうされたのですか?質問があれば何でも答えますよ。」 「いや、自分は男なら誰もが、彼女を見れば悶々と苦しむものだと信じ切っていたので…。」 「私にとっちゃあ、あの胸もただの大きな脂肪の塊です。それ以上でも、それ以下でもありません。犬や猫にだって同じ物がついていますよ。とはいえ、無論、性欲はあります。それも焼け付くように苦しいものがね…ただ対象が女性ではない、それだけのことです。しかし、同じ苦しみにしてもあなたはまだいい。相手が女性なら世間から罵倒されないし、想いをひた隠す必要もない…惚れた相手から唾を吐きかけられることも、聖書で神から激しく糾弾されることもね。」 彼は仕事場に戻ってからも、その日は一日中考え込んでいた。彼女から妖艶さを取ったときに何が残るかと。 (良く言えばざっくばらんで開放的だし、悪く言えば気まぐれで節操がない。同姓愛者の彼が見て、人間的に魅力を感じなかったとすれば、やはり俺はあの外見のせいで思考停止に追い込められているのだろうか?) この時は、結局次に彼女を見たおりに、もう一度冷静に考察する事にした。 五日後、納品先でサ−シャに会った時、彼女は髪型を変えていて、いつもはそのまま垂らしていた髪を、頭の上の所で可憐にまとめあげていた。僅かにそれだけの変化であったが、あまりの神々しい美しさに、彼はめまいがしそうだった。分析などまったく無意味であった。 (畜生、美は美だ!) カントレフは心に白旗をかかげた。 そう降参した後、事態は急転直下で展開した。その日、彼女の店の倉庫に入って一人で在庫を調べていると、ちょうど休憩時間で暇をもてあましていた彼女が入って来て、何か手伝うことがないかと尋ねてくるではないか! その時突然、ピョ−トルの“想いを伝えられるだけ幸せ”という言葉が彼の脳裏をよぎった。まして二人きりのその場は、千載一遇のチャンスだった。 「ねえったら、手伝ってあげるって言ってるのに。もう!」 「あ?いや、ありがとう。」 「ちょっと、どうしたのよ。何か考えごと?」 「実はね…。」 彼は、サ−シャがいつも自由な風の様に自然体でいることに好感を持っており、彼女の喜怒哀楽の激しさに強く人間味を感じていて、彼女がいかに魅力的かということを率直に語った。当初“お世辞がうまいのね!”などと笑っていた彼女は、彼が交際を申し込む段になって、明らかに困惑した表情になっていた。その顔を見て、カントレフは言葉が続かなくなってしまった。 「…アンタが善い人間だってことは分かってるわ。でもね、アタシはとびきりの男前じゃなきゃイヤなんだよ。どうしてかって?もうアタシは浮気したくないんだよ!」 痛烈だった。つまり、彼では必ず浮気してしまうから、そんな恋はしたくないというのだ。彼の印象はいつも『善い人』止まりであった。なぜそこから先へ行くことが出来ないのか、考えた事もある。だが何時だってその結論は、自分に人間的魅力がない、つまり自分の“個性”たるものが非常に弱いのだ、という同じものになった。彼は頭を抱え込んだ。 (単純に『善い人』なだけでは、それは人間的魅力にはつながらぬのか。なぜ『善い人』を“個性”として受け取ってもらえぬのだろう。外見、財産、社会的地位それら全てと縁のない俺は、その一点からでしか自分を語れぬというのに!) そこへもって衝撃的だったのは、彼女が容姿を重視していたことだ。…彼は自分の外見に自信など一度も持ったことはない。だが、経験的にいって“外見”というものが幅をきかせるのは初対面の時がピ−クで、三、四回目の会話の頃にはほとんど問題とされなくなるものだと信じていたので、サ−シャのようにハッキリと外見がすべてだと言い切ることが信じられなかったし、信じたくなかった。彼は、悲痛な思いで彼女に問うた。 「内面は…内面は関係ないのかい?」 彼女はうなずいた。 「ひどい女だと思うでしょう?でも事実そうなのよ…少なくともアタシには。世の中にはいろんな男がいるけど、どの男もアタシにすごく優しくしてくれるの。みんな中身は同じ、みんな優しいの。そうなると、違いはもう“外見”しかないじゃない!」 彼は仕事もそこそこに、逃げ去るように店を出た。サ−シャが彼女なりに正直な気持ちで答えてくれたのが分かっていたので、受け入れてもらえなかった事で、彼女を恨んだり、失望することはなかった。しかし、その代わりに彼の心を支配していたものは、いまだかつて味わったことがない類の恐怖だった。 (この失恋には救いがない。内面ならどうとでもなるが、外見の話をされてはお手上げだ。俺はまだ三十なのに五十と間違えられるような老人顔の男だ。小男な分、押し出しも効かぬ。生まれ持ったこればかりはどうにもならん!自分でどうすることも出来ない事が理由になるのは、何という恐怖なのだ!) その夜、彼は自室でどうすれば立直ることが出来るか模索していた。長い時間を費やした結果、彼は“認めること”の中に活路を見出だそうとした。 (サ−シャの言う、そういう恋愛観が事実存在することを、認めてしまえばいいのだ。人間はどんなに辛い現実であろうと、必ず“慣れる”。これは俺が自分で三十年かけて知り得た真実だ。誰が何と言おうと、人間とは慣れてしまう事が出来る生き物なのだ。そうでなければ年間の自殺者が今の人数で収まらず、とっくに人類は絶滅しているはずだ。人は、どういう場合に壊れてしまうのか。それは現実を認めずに、血眼で自らのプライドにしがみついた時だ。挙げ句の果てに、際限なく続く外界からのプライドへの攻撃の為に、ズタズタになってしまうのだ。初めから守るべき自尊心を持たなければ、攻撃は無効になるのに!) 実際、『恐怖』に打ち勝つ為には“そんなことは知っている、だからどうした”という立場が、最も有効なのだ。“ウソだ、俺は信じない”という態度こそ『恐怖』の思うツボだ。現実を直視する事態になって欲しくない、そういう不安が永遠に付きまとう羽目になる。カントレフは、負けて勝つ、とはこういう事なのだと舌を打った。 …以上が、サ−シャに関する五年前の出来事だった。 なおもネフスキ−を歩き続けるカントレフの横を、行く組ものカップルが通り過ぎた。彼は拳を握り締め、胸中で叫んだ。 (えい、俺は絶対に自殺せんぞ!三十五になっても母港が見つからぬからといって、それが死をもって償わなければならぬ罪ではあるまい!) 第2部・完 (次回第6回、いよいよ第3部へ突入!怒濤のカジポン節、炸裂!) |