カントレフ、彷徨
                                         
                              
カジポン・マルコ・残月

第4回


  (四) ニーナ

 
陽が落ちた直後から気温はさらに下がってきた。カントレフがフォンタンカ川の風に身震いしていると、ちょうど国立図書館の前にさしかかった。
 (そして、この階段だ。)
彼は正面玄関へと続く大きな石段をじっと見つめて、二度目に錨を下ろそうとした時の事を回想した。
 (ニーナ…彼女にはもう子供が何人かいるんだろうな。)
ニーナは彼がソーニャの一件ですっかり心を閉ざしてしまってから、約四年が経った頃、その重い扉を開いてくれた女性だった。活発で行動的なニーナはカントレフと同じ村の出身で幼なじみだった。彼女が彼と同様に村を出たことは話で聞いてはいたが、ペテルブルグにいること以外には何も知らなかった。

 七年前。その出会いは全くの偶然だった。
 「もしかして…アレク?」
国立図書館で本を借りようとカウンタ−に並んでいた彼は、故郷を出てからまだ一度も呼ばれたことのなかった自分の愛称を、目の前にいる受付係の女性に言われ、思わず持っていた本を落としそうになった。
 「ねぇ、アレクセイでしょ?」
間違いなかった。その女性は美しく成長したかつての幼なじみ、ニーナだった。西部ロシアでは珍しい、黒い髪と黒い瞳が何よりも大きな特徴だった。この巨大な帝都で再会したことで、双方は共に驚いた。
 その日の夕方、二人は場末のレストランで昔話に花を咲かせた。“笑う”という事は彼にとって随分久しい出来事なので、自分の笑い声に懐かしさを覚えたほどだった。彼はニーナに古き良き故郷の匂いを感じたが、それはニーナにしても同じことで、二人でわざと村の訛りで会話をしてみたり、村長の物真似をしてふざけあった。長く自分に自信を失っていた彼も、幼なじみの彼女の前では自然と心を開くことが出来た。カントレフには分かっていたのだ、ニーナの目に映る彼の姿は、幾つになっても子供時代に遊んだ彼のままで、偏見や疑念といった類の言葉とは無縁だということを。
 等身大のままの自分に向かって、こぼれるような笑顔で話しかけてくれる彼女を好きになっていくことに、何の疑問があろう。何度か会ううちに彼が自分と暮らしてみないかと話を切り出すのに、そう長い時間はかからなかった。

 夏のペテルブルグ、午後。彼は図書館の閉館時間をみはらかって、正面玄関に続く石段の欄干に腰掛け、彼女が出てくるのを待っていた。今回の告白には、ソ−ニャの時の様な切迫感はなく、不思議と穏やかな気持ちだった。
 (彼女の様に、肩の力を抜いて話が出来る相手と出会えたなんて、俺の運命もまんざらじゃないな。神に感謝したいよ。)
彼の前を次々と人が出ていき始めた。
 (ニーナはどういう反応をするだろう。いつもちゃんと正面から俺の目を見て話してくれるから、少なくとも嫌われてはいないと思う。問題は、俺が男として認識されているかどうかだ。こういう場合…お、彼女だ!)
彼が欄干から立ち上がると、ほぼ同時に彼女は彼を見つけ、小さく手を振りながら小走りに石段を降りてきた。
 「どうしたの!?」
彼女のよく通る明るい声は、彼の体に軽く電気を走らせた。
 「いや今ね、ちょうど前を通りかかったもんだからさ、閉館時間だし君が出てくるかなぁと思って。」
 
「有難う、待っててくれたんだ。」
ニーナはそう言いながら欄干に肘をついた。
 「わぁ、ネヴァの方から気持ちいい風が吹いてくるわね。」
 「この季節ならではだよな。」
そう言って二人はしばらく世間話に興じていた。涼しい風が、時折彼女の美しい黒髪をかきあげた。白夜に近いとはいえ陽は傾き始めており、その日差しは彼女を天の衣のように包んでいた。カントレフは神に背を後押しされたように感じ、会話が途切れた瞬間に自分の想いを切り出していた。
 「ニーナ、ここ最近ずっと思っていたんだけど…もし君さえよかったら、僕達二人で一緒にこの街に住まないかい?二人とも気心が知れた仲だし、実を言うとこの所、僕は君のことを…」
 「アレク、ちょっと待って!そこで終わりにして!」
彼は話し終える前に制止されてしまい、面食らってしまった。
 「落ち着いて聞いてね。あなたを驚かせようと思ってもう少し伏せておきたかったのだけど…私にはフィアンセがいるの。式は来々月。もちろんアレクも来て下さるわよね?」
 「式…式ってもちろん結婚式のことだよね?」
 「ええ!」
天真爛漫に彼女は答えた。
 「今、僕は君に好きだって告白したこと、ちゃんと分かってる?」
 「もちろん分かってるわよ。でも、私が幸せになることを祝ってはくれないの?」
カントレフは彼女の言葉を理解しようと努めた。彼女が言ってることは正しい、それは分かる。あとは自分の愛情の本質、つまり利己性を克服出来るかどうかだった。
 彼はひとつひとつの言葉を喉の奥からふりしぼって返事をした。
 「君が、幸せに、なることが、僕の、幸せ、なんだ。」
彼女は彼の言葉の続きを待っている。
 「ぜひ、出席させてもらうよ。」
それを聞いて喜んだ彼女は、彼の手を取って強く握り締め、いつもと同じように真っすぐに彼の目を見てこう言った。
 「嬉しいわ!ちゃんと人数に入れておくから必ず来てね!」
 快活に立ち去っていくニーナの後ろ姿をぼんやりと見つめながら、彼は崩れるように欄干にもたれかかった。

 三分、いや、五分ほど経った頃であろうか、突如として激しい感情が彼の胸を突き上げた。
 (だから、どうだというのだ。フィアンセがいるから、だからどうだというのだ。フィアンセがいてもいなくても彼女は彼女だ。この恋を終らせる理由にはならん!)
そう思った瞬間、彼は駆け出していた…左足を引きずって。
 カントレフは猛然と後を追った。人込みを掻き分け、走り、走り、また走った。ついにニーナに追いついた時、彼はそのまま大きく肩で呼吸しながら、彼女の前におどり出た。
 「アレク!?」
 「ニ、ニーナ、聞いてくれ!僕は例え君にフィアンセがいたって構わない!それでも僕は…」
 「言わないで!お願い、それ以上言わないで!ね、ねっ!」
 「どうして言っちゃだめなんだよ!なんでだよ!」
 「それ以上言うと、どういうことになるのか分からないの?私、あなたという大切なお友達を失いたくないの!この関係を大切にしたいの。ずっと、ずっとよ!だからアレク、本当に私のことを好きなら私の願いをきいて!」
こう言われてしまっては、いくら意気込んでいても手も足も出なかった。
 
「ニーナは…その人のこと、心から愛しているの?」
彼女はこういう問い掛けがくるとは思っていなかったので、一瞬躊躇した。
 「分からない…だってむこうは十五も年上の人だもの。でも私のことすごく大切にしてくれているのがよく分かるし、それに…。」
 「それに?」
 「それに、郊外に…軽蔑しないでね…郊外に大きな領地を持っているの。ね、分かってアレク、もう決まったことなのよ!」
カントレフは、ニーナの実家が大家族だという事も、その家計を支える両親がここ数年ずっと病気がちだという事も知っていた。しかし、知ってはいても、自分にはいかにも理解力があるという顔をしながら失恋を受け入れるなんて事は出来なかった。
 「じゃあ、僕は領地を持たぬゆえにその男に負けてしまうのかい?」
 「そんな言い方はやめて!アレク、そういうふうには言わないで!」
 ニーナは必死だった。彼にはそれがよく分かった。そして彼にはあきらめること以外に選択肢がないことも理解した。なぜなら、彼が恋愛面でその男と戦っているわけではなかったからだ。
 彼は天を少し仰いだ後、今の彼が出来る限りの、精一杯の笑顔で言った。
 「友達でいられるのだったら、幸運な方かな。会えるだけでも、まだ最悪の事態ってわけじゃないんだから。」
 「そ、そうよ。最悪なんかじゃないわよ!」
 沈黙。
 「じゃ、連絡を待ってるから。」
 「ええ。住所は前に聞いたリゴーフスキー沿いから、変わってないわよね?」
 「うん、まるでピンでとめられたみたいにね。」

 はたして、招待状はその後すぐに届いた。当日まで多少迷ったが、結局彼は観念して出席した。つまり腹をくくって、自ら道化の道を選んだのである。その理由は、彼に妙な好奇心が生まれたからであった。それは、式に立ち合って、自分がこの際どこまで惨めな気分になるか一度味わってみてやろうという、なんとも救いがたい好奇心だった。
 (悲劇というものは、度を超すと、ある瞬間から喜劇に変わってしまうから不思議だ。ヨシ、今日はひとつ、自分のその決定的瞬間を見極めてやろう。)
式の当日、彼は道々その様なことを考えていた。“発展的やぶれかぶれ”といったところか。

 「現実は、強烈だ。」
帰り道、まず始めに口をついて出た言葉がこれだった。
 (畜生、あの男、本当に穏やかで幸せそうな顔をしていやがった!そりゃそうだろうさ、ニーナを妻に出来るんだから!)
だが、そう悪態をつきながらも、心の底から嫉妬出来ない理由が彼にはあった。カントレフは式の最中に新郎を注視していたが、その男は彼女が戸惑ったり困ったりすることがないよう常に優しくエスコ−トしていて、丁寧で暖かさが伝わってくる身のこなしのひとつひとつに、彼の人の善さがにじみ出ていた。とどのつまり、カントレフはなんとも癪なことだが彼に好感を持ってしまったのである。
 (他の男に敗れるのはこれが二度目だ。しかも、おそらく相手の男は敗れた俺のことを、否、戦ったことさえ知らないだろう。何という屈辱!しかし誰をも恨むことはできん。式の最中に、俺よりもヤツの方がふさわしいと思ってるようじゃ、話にならん!)
 そして彼は思った。優しいニーナは、人間的魅力においてカントレフが劣っていたのを、あえて領地の話を持ち出す事で失恋の核心を他へそらしてくれたのではなかったのかと。

 
翌朝、孤独な現実が続いているのを確認したカントレフは、枕に軽く両手を打ち付けた後、一息ついて立ち上がった。
 (せっかくの失恋だ。“時”には癒させやしない。これは俺が自分の力で、自分の哲学で、自分の思想で癒す。“時”なんぞに、俺の大切な失恋を奪われてなるものか。断固、“時”の手には渡さん!)
さわやかな朝の陽射しが、部屋を白い光で満たしていた。
 (母なる太陽が世界を照らしている事に、昨日と今日で何の違いがあろうか。この美しい世界の中にあって、いつまでも落ち込んだ気分でいる事は、まさに大自然への冒涜に他ならない!…この先、俺に出来ることは何か?ひとつしかない、ひたすら自己を磨き続けるだけだ。分かりきったことだ!)
 彼は失恋後の身の処し方に関し、空白の日々より前進を選んだ。ソ−ニャの時の絶望が非常に深かった分、彼はある意味で“免疫”を身に付けていた。その自覚は彼にもあり、思わず苦笑してしまった。                       
 (こんな免疫なぞ、別に欲しいと思ったことはないんだがな。)
 こうしてニーナへの恋は終わった。

 二十八才頃の思い出だった。背後に遠のいていく国立図書館を背に、彼は呟いた。
 「ダスヴィダ−ニャ(さようなら)、ニ−ナ。」


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