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| 自殺直前の自画像 | 『星月夜』 | 『ひまわり』 |
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| 『夜のカフェ・テラス』 | 『カラスのいる麦畑』(これが最後の作品と言われている) |
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| パリ、ルピック通り(Rue Lepic) 54番地にあるゴッホの家 |
この最上階右端に住んでいた (2009 撮影) |
門の左にゴッホ兄弟とゆかりが あることを示すプレートがある |
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| パリのサン・ラザール駅。オーベールへはここから北上する | ポントワーズでローカル線に乗り換え | オーベール・シュル・オワーズ駅に到着! | |
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| 駅を出るとすぐドービニーの庭がある | ゴッホ公園のゴッホ像。彫ったのはザッキン | ゴッホ像は観光客に大人気だ | |
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| 深い親交があったガシェ医師の家 | 有名なオーヴェールの教会(05) | 09年は補修中!あんまりだ〜(涙) |
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| ゴッホがピストル自殺した麦畑(2005、2009) | 遺作「カラスのいる麦畑」 |
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| ゴッホが下宿していたラヴー亭は現在ゴッホの部屋が公開されている。 彼が息絶えた部屋は3畳ほどの狭い空間だった(撮影許可済) |
花屋で墓参用のヒマワリを購入。 いよいよ彼のもとへ! |
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| 墓地の正面ゲート | 周辺は畑。遠くに山が見える。とっても平和な世界 |
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| 1989 | 2005.7.29 | 2009 |
| 夜まで6時間ほど彼らと喋っていると、嵐がきてズブ濡れに (大きな雨粒がそれ) |
僕は彼と同じ37歳になった時、命日に絶対来ようと決めていた |
さらに4年後。この時はゴッホの墓の側に たくさんのバラが咲いていた |
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| このツタの葉はテオの妻が植えたもの。そして、2人の墓石の間には数本の麦が生えていた(2009) | バラからは命の輝きを感じた |
| 『太陽が絵を描けと僕を脅迫する』(ゴッホ) 点火、爆発、炎上、沈没といった感じのゴッホ。キリスト教の伝道師を経た後の27歳から37歳までわずか10年の彼の絵画人生は、耳切り事件やピストル自殺など、古今東西の芸術家の中で屈指の波乱に満ちたものだった。「絵画は狂気に対する避雷針だ」という彼の絵は痛々しいまでの誠実さに満ちている。彼が描いたのは貧農ばかりで、“ピアノを弾く御令嬢”なんて絵は一枚もない。「伝道師として挫折した私は絵画を通じて、救い、救われたかった」、そういうことだった。結果、彼の生涯で売れた絵はたった一枚だけ、それも友達の妹が買ってくれたものだった。 収入のない彼を支えたのは弟のテオ。テオは兄の絵の最大の理解者で「兄さんにお金を送ることは自分に送っていることと同じなんだ」と貧しさを訴える妻に弁明していた。絵に魂を奪われたゴッホを周囲の住民は怖がり、住民投票で彼を精神病院に入れるべきだという決議がなされ、彼は病院へ。彼はさらにその中でも描き続ける。 僕はかつて“ゴッホの絵は木や建物がクネクネしていて訳が分からん”と見向きもしなかったが、“絵が実物とソックリかどうかが問題なのではなく、どうして彼の目に世界がのたうつように、うねって見えたかが問題だ”と意識したとき、彼の全作品がかけがえのない愛しいものとなった。小林秀雄氏が『彼の絵を見ると、こちらが絵を見るのではなく、向こうがこちらを見つめている気がする』と著作で語っていたが超同感だ。全くその通りだと思う。 「自分は世間から必要とされていない」とゴッホが自殺した翌年、死後になって兄の絵が売れ始めた世の常の皮肉を呪いながら、後を追うようにテオも逝った。今や花瓶のヒマワリが一枚60億円。逆に大金持ちしか彼の絵を持てないこの事態は、ゴッホにとって苦々しい不本意なものであろう。 自分のことを野良犬と呼んでいたゴッホ。“聖なる野良犬”そんな言葉があってもいいと思うな。 ※芸術家の共同体を夢見ていた農民画家ゴッホと、ゴッホの呼びかけに応えて共同生活を始めた5歳年上のゴーギャン。2人の生活はわずか9週間で破綻したが、才能がぶつかり合う緊張感に包まれた環境の中で、数々の傑作が生み出された。破局後もゴッホはゴーギャンに手紙を送り続け、その2年後、麦畑の中で自ら人生の幕を引く。その数年後、ゴーギャンもタヒチで服毒自殺を試みるが、飲み込んだ薬の量が多すぎて逆に吐き出してしまい、死に至らなかった。生き延びたゴーギャンはパリからヒマワリの種(ゴーギャンいわく“ゴッホの花”)を取り寄せ、その手で育てあげ、亡き友の如くその黄色い花を描いた…。 ※絵画市場、最も高値で取引された作品はゴッホ作『ガシェ医師の肖像』。落札価格はなんと125億円!日本の大富豪が購入した(蔵に入れず公開しやがれコンチクショー!)。 ●ゴッホの後期の絵の明るい透明な色調には、言うに言われぬ静けさがある (カール・ヤスパース)哲学者 『私は絵の中で、音楽のように何か心慰めるものを表現したい』〜ゴッホ |
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| 『巨人』 (弟子の作品説アリ) |
『マドリッド1808年5月3日』 |
『我が子を喰らう サトゥルヌス』 |
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| ゴヤが眠る聖堂 | 祭壇の前にゴヤの大きな墓がある |
| 40代で宮廷画家までのぼりつめ、スペイン最高の画家という栄誉を得たゴヤ。だが彼は、1792年(46歳)に高熱で聴覚を失った。また、ナポレオン戦争で冷酷で残忍な蛮行を目撃し、以後の絵は人類史上最もダークなものとなった。 彼は人間の暗部に情け容赦なく光を当て、その全てを白昼の下にさらけ出した。この目撃者に徹した“怒れる画家”の絵は、同時に哀しみも満ちている。死後自宅から出てきた作品群『黒い絵』の中に、“犬”という砂地獄に飲まれていく犬の絵がある。胴を飲まれ身動き出来ずわずかに頭だけ地上に出ているその絵は、僕が見てきたあらゆる絵の中で、最も絶望的な作品だ。 ※ 『1808年5月3日』『着衣のマハ』『裸のマハ』など有名な絵は、すべて耳が聞こえなくなってから描かれたもの。 ※ゴヤには尼寺に忍び込んだり、刃傷事件を起こして国外へ逃亡したりと、様々な逸話がある。 |
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| 【情報募集中!】 他にもゴヤの墓があるらしい!画像はこちらの海外サイトより。 このお墓がどこにあるのか情報を求めています! |
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| 『自画像』(1661年) | アムステルダムの西教会の共同墓地に身元不明の老人として埋葬された。 現在、墓碑の下には代表作“夜警”の小さな複製画が置かれている |
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| 光と影の魔術師、魂の画家レンブラント。金色(こんじき)の光に照らされて闇の奧から浮かび上がる人物たちは、聖者も妻も商人も誰もが神聖かつ崇高な空気で包まれている。 最初の妻に先立たれ、息子夫婦にも、そして2人目の妻にも先立たれた上に、裁判所から破産宣告を突きつけられ全ての絵を競売用に没収されたレンブラント。晩年の彼が描いた何枚もの自画像には、いつまでも続く激痛にとうとう慣れてしまった、いわば“達観”した静かな目がそこに描かれていた。 ※エルミタージュ美術館の『ダナエ』は、作品の虜になった錯乱した青年によって硫酸をかけられ、ナイフで切り裂かれた。修復には12年の月日を要した。 |
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| ミスター印象派・モネ | 『日傘をさす婦人』 | 『睡蓮の池』 | |
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| モネがジヴェルニーの自宅に造った庭園 (一般公開されている) |
あの日本の太鼓橋も現存。 池には睡蓮がいっぱい浮かんでいる |
中央の木の背後に2階建てのモネ邸がある。 家の中には浮世絵が飾ってあった |
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| モネ邸の2階から庭園を望む。観光客が たくさんいて人の列が途切れることはない |
墓は村はずれの教会墓地にある。庭園に行く人は 多いけれど、ここまで来る人は殆どいない |
| 高校の図書館でモネの画集に感動してから、18年目にしてついに直接お礼を言うことが出来た! |
| 「モノは形を見るのでなく、色のかたまりと思え」(モネ) 「睡蓮のおかげで、もう眠ることが出来ない」(モネ) 「影には色があることをモネが発見するまで、影は黒いものと決まっていた。」(サマセット・モーム) 「モネがいなければ絵筆を捨てていた」(ルノアール) 総作品数、2045点。光というつかみ所のないモノを、キャンバスの中に閉じこめることが出来た奇跡の画家。モネ以前は“雪は白く、影は黒い”とされていたが、モネが「私は影や雪に様々な色が含まれていることを発見した」と語るように、この印象派の旗手は美術界に色の革命を起こしたのだった。たかが一個の積みわらに、一体何色の色がちりばめられていることか! 対象物を輪郭線で囲むのではなく、線を使わず色の塊として表現する…当時の画壇は本当に目からウロコだっただろう。睡蓮にしろ大聖堂にしろ、日射し(光)が異なるだけで、同じ対象物を何枚も何枚も描き続ける画家魂に感服。 ※モネは自分の名前が大先輩のマネに似ているため、恐縮してわざわざフルネームで「クロード・モネ」と絵にサインしているのがカワイイ! ※モネは自分に厳しい芸術家で、満足のいかぬ作品は自らの手で廃棄した。死の半年前ですら60点もの作品を燃やしている。 |
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| 『二十歳の自画像』 | すごい存在感 |
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| 3.5m×8mもある大作『ゲルニカ』。これは独裁者フランコと手を組んだナチス空軍に、人類史上初めて無差別爆撃を受けたスペイン・ゲルニカ市を描いたもの。パリがドイツ軍に占領された時、アトリエに兵士が押し入りピカソに詰め寄った。「ゲルニカを描いたのは貴様か!」「いや、あなた方だ」--ピカソは冷静にそう答えたという。 |
| とにかく大変だった。ヴォーグナルグ行きのバスは、バス会社の発行している時刻表だと16番乗り場から出ていると印刷されているのに、いくら探してもバス停には12番乗り場までしか存在してないのだ。ハリー・ポッターの気分どころじゃない。ヴォーグナルグ村に向かうバスは本数が少なく、何としても乗らねばならないのだ。半泣きで色んな人に尋ねた結果、16番ではなく10番ということが判明。6と0の誤植だった…(しかも僕が見てたのは日曜の時刻表。アホ!) |
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| オオーッ!あれがピカソの眠るヴォーグナルク城の雄姿だ!朝陽の中で輝いて、めちゃくちゃカッコ良かった! |
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| 入口の門の側に看板が。“ここはプライベート・エリアなので、入ってはいけません”とのこと |
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| ピカソが触ったであろう門のノブを、バンダナで力強く拭いた。これでいつでもピカソと“間接握手”が出来る ようになった!帰りのバス(写真右)はスムーズに乗れた。ホッ。ちなみに乗客は最後まで僕一人 |
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| 一般にピカソの絵といえば幾何学的な人物画。難解だと思われがちだけど、実は超簡単。ピカソがやろうとしたことは、“ひとつの方向からしか描けない”という一般常識を打ち破り、複数の角度から見たモデルを同一画面に表現しただけ。人間という生き物は、外面的にも内面上も、誰もが様々な側面を持っているから、色んな角度からその人を表現した方が、より現実に近いリアルな絵になると彼は考えたんだ。だから目は正面を向いているのに鼻が横を向いていたりするんだ。 ピカソの本名について雑学を少し。本名がとにかく長い!“パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアーノ・クリスピン・クリスピニアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダッド・ルイス・イ・ピカソ”だ。名の由縁は最初のパブロが伯父の名、以下、ディエゴ(祖父)、ホセ(洗礼時の司祭)、フランシスコ・デ・パウラ(母方の祖父)、ファン・ネポムセノ&マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアーノ(洗礼時の立会人)、クリスピン・クリスピニアーノ(誕生日の守護聖人)、デ・ラ・サンティシマ・トリニダッド(三位一体)、ルイス(父の姓)、ピカソ(母の姓)となる。ピカソは生まれた時に息をしてなかったので、この長い長い名前には、両親の“色んな人に赤ん坊を守ってもらおう”という必死の思いが込められているんだって。良い名前だね! |
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| 『モナリザ』 | 『洗礼者ヨハネ』 | 『岩窟の聖母』 |
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| ダ・ビンチが設計したアンボワーズ城 | 庭園にあるダ・ビンチ像 | 城内のこの礼拝堂に眠っている |
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| 内部にステンドグラスからの光が満ちる | ゴゴゴゴゴ… | ついに人類史上最大の天才に謁見! |
| こちらは1994年に僕がお墓と勘違いして巡礼したフィレンツェのダ・ビンチ・メモリアル。 それ以来、ずっとアンボワーズの本物の墓に行きたいと思っていた。11年越しに悲願がかなった! |
| “ノートの落書きすら名画”といわれるほど、そのデッサン力の素晴らしさは他に例を見ない。モナリザには筆の跡が全く残っておらず、絵が完璧すぎてどう考えても同じ人類が描いたモノには思えない。 ダ・ビンチは絵画が得意なだけではなく発明の天才だった。人類で初めて飛行機を設計し、人体の解剖図を初めて作成。エレベーターも考案した。当時は平べったかったパスタを細長いスパゲティにしたのもダ・ビンチだし、三又のフォークを考案したのも彼だ(それまでのフォークは二又だった)。 それにしても、つくづくモナリザは不思議な絵だ。写真がなかったあの時代、生きた証となる肖像画では、モデルは誰が描かれているのか分かるように家紋の入った服を着たり特徴的なアクセサリーを身につけるもの。でも、ダ・ビンチは彼女に指輪、イヤリングなど全て外させ、服はアピール度ゼロの黒生地とした。わざと身元不明にさせてるとしか思えない。顔は片方が微笑んでいるのに一方は悲しんでいるし、背景に至っては左右の地平線がずれていて景色も全然違う。ウーム。 ※ダ・ビンチはオトコ好きで、絵のモデルにちょっかいを出して2回捕まったという説アリ。 ※1994年、ビル・ゲイツはダ・ビンチのメモ72枚を30億円で買った。 ※『モナリザ』の時価は今や200億円以上と言われている。 |

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| 自画像 | 『落穂拾い』 | 『晩鐘』 | 『種まく人』 |
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| 画家たちが愛したフォンテーヌブローの森 | パリから列車で一時間ほど。ビバ森林浴! | 拙者も思わず水を一杯 |
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| バルビゾン村が見えてきた! | 村のメインストリート。ほんと小さな村 | 墓地の入口 |
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| 村に今も残るミレーの家 | 内部は見学可能。この部屋はアトリエだった | ミレーの聖書 | 山梨県立美術館の券! |
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| バルビゾンの森 | 森の木々の間に石切場(?)があり、ミレーとルソーの友情のレリーフがあった |
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| 2002 | 2009 親友の画家テオドール・ルソー(左)と2人並んでいる | 鳥の声が聞こえる静かな墓地だった |
| 日本人にバカ受けの有名な落穂拾いの絵は、のどかな農作業を描いたものではなく、画面奧の富農が刈り残した穂を、懸命に拾い集めている貧農たちの過酷な労働を描いたもの。決して“楽しい田園風景”なんかじゃない。『種まく人』は人物の顔がぼやけているが、これはミレーの意図したもので、つまり人物をはっきり特定しないことで逆にすべての農民を描き出そうとしたんだ。何枚も何枚も、名もなき農民に永遠の命を吹き込み続ける…、農民出身のミレーだからこその作品群! |
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| ルソーの家 | 家の前の庭で子ども達が写生していた |
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| 岩の上に鉄の十字架が建つ独特の墓 | 右隣の白い墓はあのミレーの墓だ |
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| ロートレックが愛したキャバレー「ムーランルージュ」 | 『アリスティード・ブリュアン』 | 『カフェ・タンブランにいるゴッホ』 |
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| ロートレックはゴッホの唯一に近い親友だった |
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| びえ〜ん!ずっと会いたかったデスーッ! | 墓にはこんなキュートなプレートが | 生前はゴッホの一番の友人だった |
| 「醜さの中に美を見ること、それは刺激的だ」(ロートレック) 彼は始め貴族として生を受け城の中で暮らしていたが、子供の時に落馬などで両足を骨折してしまい下半身の成長が止まってしまった。極度に背が低かったので、青年貴族の社交行事である乗馬や狩り、ダンスに全く参加できず、そんな彼を周囲の者は必要以上に気づかった。それを逆に辛く感じた彼はパリの裏通りへ逃げ込む…唯一の友であった絵筆と共に。 酒場では口の悪い下町連中が彼を“小さな貴族”と呼んでからかったが、それまでずっと孤独だった彼は、そうからかわれることを凄く喜んでいた。酒がある所では肩書きなど意味がなく、コップが廻ればみんなが友達になった。彼はそんなユートピアに入り浸ったのだ(彼の絵が酒場モノばかりなのはそういうわけだ)。差別を受けてきたからか、娼婦、酒場の踊り子といった、日陰の世界に生きる女たちに深く共感し描き続けた。 アルコール中毒になった彼の人生はわずか37年という短さで、結局は酒に殺された形になったが彼は決して後悔はしていないと思う。自分自身で選んだ道だからね。 ポスター画家の彼の魅力はズバリ構図だ。斜めになった群衆の影、画面手前へ大胆に置かれた後ろ姿など「何でこんなカッチョエエのん!?」と叫ばずにおられないほど画面構成が心ニクイのだ(絵に描かれている文字の字体まで超イカス)。 |
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| 晩年、リウマチで苦しみ ながらも執念で描き続けた |
『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』 この絵の為に、人数分の帽子を彼が用意したという |
『イレ−ヌ・カーン・ ダンヴェール嬢』 |
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| ルノアールが住んでいた家 | 付近のセーヌ川。上流なのでまだ小さい |
| この空の美しいこと!こんな光が降り注いだら、誰でも絵を描きたくなると思う! | 4時間も一緒だったタクシーの運転手さん |
| 「人生には不愉快なことがたくさんある。なぜこれ以上、不愉快なものを作る必要があるんだ?」(ルノアール) 「裸婦を見れば、そこには何千というかすかな色合いが見える」(同) ルノアールを語るときの僕のスタンスは実に微妙だ。なぜならルノアールはゴッホの絵を「泥臭い。嫌いだ。」とこきおろしたからだ。ゴッホの農民画に対して、彼が描くモデルときたら、ピアノを弾いたりする金持ちの御令嬢ばっかし。しかし、やはり美は美だ!ルノアールが描き出す美しい世界は、心を捉えて離さない。 中部フランスの田舎町に彼は眠っていた。そこは鉄道はおろかバスも走っておらず、往復4時間もタクシーに乗るという、極貧文芸研究家でありながらルイ14世なみの贅沢をすることに。 ルノアールの最期の言葉は「まだ上達しているぞ」だった。 |
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| 今も熱狂的ファンが多い | 代表作は『接吻』! | 晩年のクリムトはまるで脱獄囚 |
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| クリムトが描いたシューベルト。絵画と音楽の融合だ | 『ユーディット』は官能の極み |

| 19世紀末のウィーンに君臨したクリムト。金という色は濃淡を出せないので絵にとって実に不向きだ。しかも使い方を間違えると、たちどころに絵が下品になってしまうので厄介なことこの上ない。クリムトはその金を使って、艶めかしい官能、生命のきらめきを描いた。 男殺しのファム・ファタール(運命の女)を描かせたら彼の右に出る者はおらん! |
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| 床の小さな石板が墓石 | 『ターバンの少女』 |
| オランダの古都デルフト。彼はこの小さな街に生まれ、生涯を通して一歩も街から出ることもなく、この地で眠りについた。墓の側には代表作『ターバンを巻いた少女』のレプリカが飾られていた。彼は40代前半で亡くなっている上、一年で2枚ほどしか描かなかった為(ゼロの時もあった)、現存する彼の作品わずか30数点だけ。そして、そのどれもが人類史に残る傑作といわれている。 美術界には“フェルメール・ブルー”という言葉がある。フェルメールが使った青絵の具はこの世で最も美しいブルーであり、特殊な原材料とその時代の湿度がマッチした超激レアの絵の具で、精製工程が謎ということもあり二度と作られていない。彼の絵を見るときは、ぜひ青に溺れて欲しい。 ※ヨーロッパ中の美術館を手中に収めたヒトラー(学生時代、ヤツは画家志望だった)が、兵士に真っ先に奪わせた絵が『ターバンを巻いた少女』。この絵は別荘の正面に飾られていた。 |

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| モジリアニ | ジャンヌ・エビュテルヌ |
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| モジリアニはジャンヌを描きまくった!! |
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| 2009 モジリアニとジャンヌは同じ墓に眠る | 墓石の上にメトロの切符が無数にあった。「これを使って会いにきて」という意味らしい | |
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| 2005 | 「彼は成功の暁に世を去った」と刻まれているとの事 | 2002 ヒシッ! |
| ハイパー極貧画家モジリアニを語るとき、決して忘れぬことが出来ぬのが、その妻ジャンヌのこと。彼女は彼にメチャ惚れ。1920年厳冬のパリ。モジリアニは世に認められないまま、失意の内に35歳の若さで病死する。彼が息をひきとったのは午後8時50分。その8時間後の朝5時に、妻ジャンヌはお腹に9ヶ月の子を身篭ったまま、アパートの5階から身を投げた。彼女はまだ21歳だった。生きて愛する男の忘れ形見を育てる…そんな選択肢が微塵も存在しない翌日の死。壮絶!2人は今、同じ墓の中で安らかに眠っている。 僕は一枚だけジャンヌをモデルに描いたレプリカを持っているが、その絵はモジリアニには珍しく瞳がちゃんと入っていて、まるですぐそこにジャンヌが居るようだ。その絵との付き合いは随分長く、引っ越しする時もずっと持ち歩いているので、独身時代はジャンヌと同棲している様な錯覚に陥っていた。もっとも、ジャンヌには不本意だろうけど(笑)。 |
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| 『自画像』 | 『雨、蒸気、速度』 | 『ノラム城、日の出』 |
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| 2002 | 2005 |
| ターナーはすごい!もっともっと彼を評価すべきだ。フランスでモネやルノワールらが第一回の印象派展を催す“半世紀”も前に、ターナーは英国において、光や霧で輪郭線が消え去った“印象派”の絵を既に完成させていたからだ! 当時の画家はアトリエから一歩も外へ出ずに作品を仕上げていたけれど、“行動する画家”ターナーは嵐の海を描く際に、悪天候をついて出航する船長に頼んで、なんとロープで自分の体を船の先端に縛り付けてもらったという。ド根性アーティスト! |
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ドイツ史上最大の画家デューラーは、ケタ違いに優れたデッサン力を身に付けていた。ミケランジェロとちょうど同世代(ダ・ビンチは年上)。思索活動を好む、哲学者の側面もあった。彼はゴッホやレンブラントと同様、生涯に何枚も自画像を描いており、28歳の時の絵は描かれた年から『1500年の自画像』と呼ばれている。彼はこの自画像で自身をキリストに似せて真正面から描いたが、これは当時ドイツで画家が卑しい職業と思われていたことへの、怒りと抵抗だった。左写真は一緒に墓を探した英国人夫婦。御主人は画家だそうだ。右写真がデューラー。墓に埋め込まれた銘文には、先の28歳の時に自ら自画像に書き込んだ「アルブレヒト・デューラー、28歳。不滅の光を持ってこの絵を描く」という言葉が刻まれていた。カッコ良い! このニュルンベルクの聖ヨハネ墓地こそが、世界で最も美しい墓地だと僕は断言する!この世界最高の墓地の魅力をより深く味わってもらう為に、以下に特別コーナーを作った!是が非でもクリックすべし! |
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| おすましドガ |
手洗いかと思って近づいたら ドガのお墓だった。ゴメン!(2002) |
この鉄扉は押せば開く。 ドガ家の小さなお廟だ(2009) |
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| 鉄扉の内部。右下のプレートがドガのもの。手前の祭壇には ドガに宛てたファンからのメッセージがたくさんあった(2002) |
7年前は右上に花が挿してあった (2002) |
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| ドガは名もなき庶民を好んで描き… | そして、踊り子たちをこよなく愛した |
| 「芸術というものは手仕事で成り立っているんですよ。詩人ポール・ヴァレリーが画家ドガについて語った有名な話がある。ヴァレリーは若い頃にドガと知り合った。ある時、屋外で樹を描いているドガと出会うんだけど、ドガが葉っぱの一つ一つをとても細かく丁寧に描いていたので、思わず“一つ一つ描くなんて、絵描きはなんて辛抱のいる仕事だろう!”と言った。ドガの返事は“お前は何て馬鹿なんだ。こうやって描くことが楽しいのが絵描きなんだ。樹があります、なんて描くのは絵描きの仕事じゃないよ。樹を描くんじゃなくて、こうやって一つ一つの葉っぱを描いていくこと、それが絵なんだよ”。--原稿を書くのも同じ。一字一字の言葉をよく考え選択していくのが、書くっていうことなんですよ」(吉田秀和)音楽評論家 |

| シーレの絵は“不道徳”のかどで、法廷で裁判官に焼かれた。画家の目の前で。彼の描くヌードは生々し過ぎると非難する人々へ向け、シーレは怒りのメッセージをぶつける--「芸術作品にはひとつとして猥褻なものはないのだ。それが猥褻になるのは、それを見る人間が猥褻な場合だけだ」。 墓を巡礼して驚いたのは、彼と彼の奥さんが2人とも同じ1918年に亡くなっていたこと。帰国後、文献を調べるとスペイン風邪という流行り病に命を奪われていた。シーレはまだ28歳だった。この年はクリムトもスペイン風邪に倒れており、ウィーンの芸術運動の灯が消えてしまった悲しみの年だ。 ※スペイン風邪(インフルエンザ)は1918年から翌19年にかけて世界的に流行し、感染者数6億人、死者4千万人以上を出した。 「僕は人間だ。生を愛し、死を愛す」(エゴン・シーレ) |
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| 20歳の青年ミュシャ | 自分の作品に囲まれて | 晩年のミュシャ |
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| 『黄道十二宮』 | 『ジョブ』 | 『月桂樹』 | 『サラ・ベルナール』 |
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| ミュシャも内装を担当したプラハの市民会館(スメタナホール)。こんな美しいホール、今まで見たことない! |
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| ヴィシュフラド墓地の奥、高台の霊廟に眠っている |
ドドドドド… 黒字に金文字がカッコイイ! |
ゴゴゴゴゴ… 生没年の表記方法もオシャレ! |
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アール・ヌーボーを代表する画家。チェコ(モラヴィア)に生まれる。19歳でウィーンに出て働きながらデッサン学校に通い、25歳の時にミュンヘン美術アカデミーに入学。卒業後は28歳でパリに移りアカデミー・ジュリアンで学ぶ。雑誌の挿絵で細々と生計を立てるなか、1895年(35歳)に女優サラ・ベルナールの舞台「ジスモンダ」のポスターを描く。この作品でのサラの堂とした存在感、文字・背景の優美で細かな装飾が大きな話題を呼び、彼は一気にアール・ヌーヴォーの旗手となる。植物をデザイン化し曲線を強調した流麗なデザインは実にエレガント。サラはミュシャを大いに気に入り、以後、ミュシャは彼女をモデルに「トスカ」「椿姫」「メディア」「ラ・プリュム」など名作を残す。ミュシャは業界で引っ張りだこになり、JOB社の煙草用巻紙、モエ・エ・シャンドン社のシャンパンなど様々なポスターを描き、アクセサリーや室内装飾等も手がけた。大成功を収めたミュシャはチェコの作曲家スメタナの組曲『わが祖国』を聴いて望郷の想いを強くし、1910年(50歳)、フランスを去ってチェコに帰国。スラブ民族の歴史を描いた連作「スラブ叙事詩」に取りかかる。チェコ人の愛国心を呼び起こす歴史画は20年をかけた大作となった。
1939年、プラハはナチスの手に落ち、進駐したドイツ軍はミュシャの作品が「ドイツの支配に対するチェコ人の愛国心を刺激する作品」として危険視し、ミュシャを逮捕。79歳の老ミュシャはドイツに反抗しないよう厳しく尋問され、釈放後に体調を崩して4ヶ月後に他界してしまう。戦後、ソ連の機嫌を伺うチェコ政府は国民の愛国心を刺激しないようミュシャの業績を無視していたが、1960年代にアールヌーボーが世界的に再評価され、民主化された近年にミュシャ美術館がプラハに建立された。
※「ミュシャ」はフランス語読みであり、チェコ語では「ムハ」。 ※アルフォンス・ミュシャ館…実は世界トップ・レベルのミュシャ・コレクションが大阪・堺市にある!プラハのミュシャ美術館の3、4倍も作品が充実している。ミュシャの息子ジリ・ミュシャと親交を結んでいた日本人実業家・土居君雄が大量に集めていたものが、堺市にまとめて寄贈されたのだ。氏に感謝! ※美画像いっぱいのお薦めサイト。 |
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| 1994 めっさ大ファンっす | 2005 11年ぶりの再会。は〜、幸せ… |
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| 墓の上にルーベンスの絵 |
ルーベンスといえば“フランダースの犬”!最終回でネロが見ていた『キリスト昇架』は アントワープのノートルダム寺院にあり、お墓からも歩いて行ける距離! |
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| 『キリスト昇架』 | 『キリスト降架』 |
| ルーベンスの眠る教会に12時を5分オーバーで着くと、『午後3時まで休憩』の札が!むせび泣きつつシエスタ(昼休み)が終わるのを待って教会に入ると、墓の側には彼が描いた素晴らしい作品が。3時間も待ったけど、その甲斐あり!※墓がある教会と、ネロが昇天したノートルダム寺院は異なる教会です。 |
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| 自画像 | 『民衆を導く自由の女神』 |
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| 『サルダナパールの死』 | 『ダンテの小舟』 | |
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| 2002 黒色の巨大墓 | 2009 木漏れ日の中のドラクロア。大きく重量感のあるこの棺はいかにも彼に相応しい | |
| 有名な“民衆を導く自由の女神”をはじめ、ドラマチックな作品を数多く描いたドラクロワ。彼の真骨頂はダークな絵。地獄で亡者に襲われるダンテ(『ダンテの小舟』)や、降伏直前の王宮内で繰り広げられた大虐殺の図(『サルダナパールの死』)など、公開当時はあまりに衝撃的で女性が失神したという。生涯独身だった。 |
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| 2002 墓地の中央付近にマネは眠る | 7年後。後方、ペンキ塗り替えてるね(09) | マネ像を拡大 |
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| 「笛を吹く少年」 | パッシー墓地からはエッフェル塔がよく見える |
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| 自画像 | 『出現』 |
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| 2002 寂しげな墓だった | 2009 この時は鉄柵や墓石の上に花があった! |
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| 『大家族』 | 『白紙委任状』 |
| ベルギーは墓マイラーにとって鬼門の地。欧州の墓地は、夏期には閉門時間が18時以降と遅くなるものだが、ベルギーの墓地は16時頃に閉ざされてしまうのだ!僕はこの前日、17時頃に訪れて涙をのんだ。さて、このマグリットだが、一輪の花すらなかった。首都にある墓だというのに。ウーム、これはどうしたことか。 |
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| 墓の上にムンク像があった | 『叫び』 |
| “この絵は狂人だけに描き得る”(ムンクが『叫び』の画中に書いた落書き) ムンクの『叫び』は多くの人に誤解されている。『叫び』というタイトルは、大気を引き裂くような全世界の悲鳴のことを指し、男はその悲鳴を聞くまいとして両手で必死に左右の耳を塞いでいる。つまりあの男が叫んでいるわけではないんだ。 極度に人間嫌いだったムンクは、人里から遠く離れた地に、自分の家の周囲を巨大な壁で囲ませて隠者の様に暮らしていた。その為、ムンク本人を直接知る者は極めて少ないという。 ムンクはノルウェー人。墓参では、それだけを手がかりに僕は北欧ノルウェーに入国した。首都オスロ駅の切符窓口で働く職員を物色し、最もインテリっぽい兄ちゃん(銀ぶち眼鏡&七三分け)を選んで、祈る思いで墓のありかを尋ねた。返事は「墓はこのオスロだよ。場所も知ってるぞ」。僕の「ビンゴ!」の絶叫が駅構内に響いた! 「もう、これからは読書し、編物をする女たちを描くべきではない。生きていて呼吸し、感じ、苦悩し、愛する人間を描くべきだ」(ムンク) |
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| 『泉』 |
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| 墓地からは崖マニアのクールベが好きそうな断崖が見えて いた。オルナンの生家はクールベ美術館になっている。 |
ビバ!フォンソンさん! |
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| メキシコ・シティーのコヨアカン地区にある“青い家”。これが カーロの生家だ。遺灰はこの中の壷に納められている。 |
“青い家”は地下鉄駅から離れており、タクシーを利用。 ところが運ちゃんは場所を知らず、2人で通行人に 道を尋ねながら向った。たどり着けて喜ぶ彼! |
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| この生家は現在「フリーダ・カーロ博物館」として公開されて いる。近年の彼女のブームもあり、ものすごい人出だった。 |
青い家の中庭。まるで小さな植物園のようだった。 |
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| 生家の2階にあるカーロの遺灰(壷)。花の絨毯の上にあった。身体が不自由だった彼女は「私は横になった 姿勢で苦しみ続けた。もうこの格好はイヤ」と死後に棺の中で寝かされることを拒み、火葬され立てられた。 |
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| 「カード遊びをする二人の男」 |
彼がこよなく愛し、何度も絵の題材に したサント・ヴィクトワール山 |
| セザンヌ関連の観光ポイントを結ぶ“Cプレート” (Cは彼の頭文字)が街の通りに埋めてあった |
墓地では入口の街灯に荷物をチェーンで 結び、身軽になって墓探索を開始 |
| な、なんで墓に花が一輪も無いわけ!?最近、誰かが来たという形跡が何もない。花で覆われてると思い込んでた分、発見するのに時間がかかった。“まさかこれではないだろう”と思っていたのがセザンヌだったのだ。街の英雄ならもっと彼を大切にすべし! |
| 「私は左か右にちょっと動くだけで、何ヶ月も同じ場所で絵が描けると思う」(最晩年、死の数日前の言葉) 構図の鬼セザンヌ。彼は遠近法を無視して静物画を描いた。そこまでして一番良い構図を求めたのだ。セザンヌが起こした絵画史上の革命は、従来の画家がひとつの視線(方向)から対象物を描いていたのに対し、複数の視点から描いて一枚の作品にまとめあげたこと。あちこちから物体を掘り下げることで、対象物の「存在感」(本質)を表現したんだ。 ※あちこちから見る、これがやがてピカソのキュビズムに発展していく。ピカソは「唯一影響を受けた先人はセザンヌ」とまで言い切った。 セザンヌの絵はなかなか世間から認められず、友人の審査委員に頼み込んで初めてサロンに作品『画家の父』が入選したのは43歳の時だった。自然主義文学の創始者ゾラは少年の頃から親友だったけど、ゾラの小説「製作」がセザンヌの失敗を揶揄していると47歳の時に絶交する。人付き合いの苦手なセザンヌは印象派のグループに友達はいなかった。ただし最年長者のピサロにだけは心を開き、共同制作も行なっている。 「自然を模写してはいけない。自然を解き明かすことだ」(セザンヌ) |
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| 『サロメ』 |
| 地図上では駅から墓地まで1キロ半しかなかったので、全荷物を背負って歩き出す。ところが、なんと墓地は山の上だった!猛暑の中、写真奥の海岸沿いからフラフラになってここまで登って来る。 |
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| 墓地に着いてからが本当の地獄だった。大規模な墓地なのにビアズリーの墓が案内板に載っておらず、しかも管理人は不在!そのため、ひとつひとつの墓を確認していくという、気の遠くなる過程を踏むことに。墓地は斜面に沿って階段状になっており、上り下りがこれまたキツかった。 |
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| 「せっかくここまで来たのに…」探し始めて1時間。何の手がかりも得られず涙の撤退を開始した時、僕を呼び止める声が!彼らはノルウェーから旅に来た兄妹で、町全体の眺望を写真に収めるためにこの墓地へやって来ていた。実は30分ほど前、ビアズリーの墓を探しているという会話を彼らと交わしており、弟のポール君が「見つけたよッ」と伝えに来てくれたのだ! |
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| き、き、奇跡だった。ビアズリーの墓は何の特徴もない普通の墓であるうえ、刻まれた文字はまるで墓参者を拒むかのように小さかった。この、墓マイラー歴15年の僕でさえ発見できなかった墓を、彼らはよくぞ見出したものだ!僕は思わず2人の前に身を投げ出し、「は、ハハーッ」っと両手をついて感謝した。もうノルウェーに足を向けて眠れないッス。 | |
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| ポップアートの巨人! |
『Self-Portrait』(1986) トレー ドマークはシルバーのカツラ |
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| ウォーホルはスープ缶やコーラの瓶を好んで描いた | 『マリリン・モンロー』 |
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| 2009 なんて賑やかなウォーホルの墓! 彼は丘の中腹に眠っている |
キャンベル・スープ缶(トマト)の嵐!墓石の上には コーラの瓶が乗っている。ファンに愛されまくりだなぁ♪ |
ピンクのファイルは ファンの交流ノート |
| このマダムはウォーホルと面識があったそうだ。彼女いわく、「彼は生涯独身だったので子供がおらず、墓を手入れ する家族がいないの。だから私が毎週墓の手入れをしているのよ」これらの花はすべて彼女が植えたものらしい。(2000) |
| ウォーホルはポップ・アート界の帝王!時代そのものをアートに変えた現代のカリスマだ。 「僕は退屈なものが好きだ。同じ物の繰り返し…物の意味は消えていき、快適な虚無の世界に浸れるというわけさ…」 「20万ドルの絵の隣りに20万ドルをまとめて壁にかけてみな。もし誰かが訪ねて来たら、彼らが最初に目にするものは、壁の上のお金の方だ」 「美に関する人々のセンスはまちまちだ。全く似合わない、ぞっとするような服を着ている人を見ると、僕は彼らが『これは素敵だ。気に入った。これを買おう』と思って、その服を買っているところを想像してみる。アクリル製のタンクトップで、胸に光る文字で“マイアミ”なんて書いてあるのを買わせる、何が彼の頭をよぎったのか想像もつくまい」(A・ウォーホル) |
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| 『ヴィーナスの誕生』 | 『春(プリマヴェーラ)』 |
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| 2004 午後に行ったら閉まっていた | 2005 午前中は開いていた!この中のどこかに墓があるハズ |
| 中世の厳格なキリスト教社会では、絵画でヌードは御法度だった。そこでボッティチェリはギリシャ神話を題材に使い、“女神ならオッケーじゃろ?”と神話にかこつけて裸体を描く革命を起こした。 500年も昔の絵だというのにヴィーナスの桜色の頬は今でもドキドキさせる。あのダ・ビンチが一目置いてたというのだから、彼の実力は折り紙付きだ。後にボッティチェリは異端裁判にかけられそうになり、火刑を恐れて自らの手で殆どの作品を燃やしてしまったのが残念。でもまぁ、そりゃ命をとるよね。 ボッティチェリはフィレンツェ駅の近くにあるOgnissanti教会に眠っている。2004年に行ったら閉まってて、伊語が分からない僕は「きっと改修工事中で非公開なんだ」と勝手に思い込んで帰国。ところが伊語の分かる友人が現地のサイトを調べてくれた結果、午前中は開いてることが判明。ショック!翌年、執念で再訪問。今度は開いていた!やった!だが、喜びは束の間。内部が広くてボッティチェリの墓が分からず、さらに尋ねようにも堂内には教会関係者が一人もおらず、事務所もないときた。ここまできて墓を発見できずに涙の撤退…悲惨!! ●サイト読者のRYANRYANさんから貴重な情報を頂きました! 『ボッティチェリのお墓の場所を探していらっしゃるとの事なのですがネットで探しまくって見つけました。オニサンティ教会の右翼廊にありまして、アメリカの由来にもなりましたアメリゴ・ヴェスプッチのお墓もそこにあるそうです。“ボッティチェリ”とは「あだ名」なそうで本名の「Alessandro di Mariano Filipepi」と言う名で葬られているようです』 ※墓標画像(ウィキペディアより) |
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| もっと評価されるべき! | 代表作『グランド・ジャット島の休日』※小さな点々で描かれている! |
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| 霊廟の中を覗くとGeorges Seuratの名前が見えた | |
| 31歳という若さで病に倒れたスーラ。彼は絵の具をパレットで混ぜず、カンバスに極小の点として配置し、鑑賞者が目の中で色を混ぜるという画法=点描法の第一人者。 長生きしていれば、どれだけ多くの傑作が世に残っただろう!いまだに彼以上の点描法の使い手は現れていない。もっと長生きして欲しかった。彼の夭折は人類全体の損失だ。 |
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| 『Cycle(循環)』 |

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| 『上昇と下降』 | 『Sky and Water 1』 |
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| 『白衣の少女、白のシンフォニーNo.1』 |
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| 背景に黄色いキリストがいる自画像 |
『我々はどこから来たか?我々とは何か?我々はどこへ行くのか?』 自殺を決意したゴーギャンが、遺作のつもりで描いた渾身の大作(横約4m)。右端の赤ん坊が生の 象徴、左に向かって時間が流れ、中央でリンゴを摘んでいるのはイブ。そして左端の老婆が死の象徴。 一番左の白い鳥は“言葉の虚しさ”を表している。死後の批評に意味はないということだろうか。 |
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| タヒチの本島から遠く離れたヒバオア島に眠る | 実際に巡礼したなんて自分でもいまだに信じられない。それくらい日本とは別世界 |
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| 墓前から南太平洋が見える | ゴッホの「アルルの部屋」Tシャツ! | ゴーギャンのアトリエを復元 |
| ゴーギャンが画家になったのは35才と、非常に遅いスタートだ。それまで彼は株式仲買人をしていた。タヒチに渡ったのは43才! ゴーギャンは友人ゴッホと喧嘩別れしたことから、ゴッホLOVEの僕はゴーギャンに対して以前は良いイメージを持ってなかった。しかし文献を調べているうちに、ゴーギャンがすごく良い奴ということが分かって大好きに。ゴーギャンは西洋文明に疲れ果て、当時の欧州人には地の果て同然のタヒチに渡ったけど、それはゴッホ自殺の翌年であり、自責の念がゴーギャンにあったことも理由の一部と思ってる(ゴッホの弟テオにもお悔やみの手紙を出している)。 ゴーギャンは芸術論でゴッホと衝突したものの、けっしてゴッホを嫌っていた訳じゃなかった。ゴーギャンは遠い異国の島でゴッホを懐かしみ、わざわざパリから(ゴッホが愛した)ヒマワリの種を取り寄せ自分で植えている。そして、かつてゴッホがゴーギャンにプレゼントした椅子とよく似た形の椅子を用意し、育てたヒマワリを置いて絵を描き、ゴッホ風に署名している。ゴーギャンは胸の奥底に、ずっとゴッホへの深い友情を抱いていたんだ。 彼は一度パリに戻って個展を開いたものの、作品は酷評されて全く売れず、再びタヒチへ。そしてゴッホの死から10年後、孤独地獄の中でゴーギャンもまた自殺を試みる。だが大量に劇薬を飲み過ぎて体が拒絶反応を起こして吐き出し、倒れているところを発見された「私は落伍者だ。もはや自尊心すらない」。 晩年の自画像には若い頃の野獣のような迫力はなく、達観した僧侶のように静けさをたたえていた。享年54歳。 死の直前の手紙--「こと芸術に関しては私は正しかったと思う。たとえ私の作品が後世に残らなくても、絵画を解放した芸術家の記憶は永遠に残るだろう」。ゴーギャンは世間から無視されていたので、自分の作品が残らぬと思っていたのだ。 ゴーギャンが眠るヒバオア島の宿は4軒のみ。そしてレストランが2軒、小さなスナック・バーが2軒あるだけ。観光案内所は“土日が休み”というから、観光させる気はナッシングだ。この地に訪れる者の目的は2つしかない。ゴーギャンの墓と、彼の家(アトリエ)を再現したゴーギャン博物館だ。僕が泊まった宿は嬉しいことに墓地のすぐそば。滞在中、彼に会いたくなったら何度でもすぐに会いに行けた。 ゴーギャンの墓前からは美しい稜線を描く山や、白波が寄せる海岸が見え、素晴らしい場所だった。文章ではイメージが湧き難いと思い、彼の墓と、墓から見えるヒバオア島の景色を動画で紹介。そそり立つ緑の山、遠くから聞こえる海の音、村のニワトリのコケコッコーなど、1分間の短い動画ですが、南洋の墓地の雰囲気が伝わると思いマス。かつて文明社会に背を向けて、遠く海を渡ったゴーギャン。つい3日前にここに居たというのが信じられない。 ★ゴーギャンの墓・動画→朝7時半頃の撮影。色んな鳥の声、墓前で呟いた「ゴーギャン」など、色んな音が入ってます。最後に映ってる黒い犬は、墓守のようにずっと彼の墓に付き添っていたんだ。不思議なワンちゃん。※動画1分 |
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