![]() 「僕は自分を革命家だと思っている。誰の助けも借りず買収もされず音楽を武器に単身戦っているからだ」(ボブ・マーリィ) |
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| ジャマイカは四国よりも小さい島国だ。その地で生まれた民俗音楽レゲエを世界に広げたのが、“レゲエの神様”ボブ・マーリーだ。彼は貧困や人種差別といった社会問題をとりあげ、メッセージ性の強い歌を通して社会改革に立ち上がった。反体制アーティストとして暗殺されかけても、断固として抵抗し続けた姿勢から、第三世界の精神的リーダーともくされた。癌の為36歳で没したが、彼の音楽は現在もなお世界の貧困層にとって解放のシンボルとなっている。レゲエという言葉が生まれたのは’60年代末。まだ30年強という浅い歴史で、これほど世界にレゲエが浸透したのはボブのおかげだ。 |
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| ボブの墓を納める為に、故郷の丘に建てられた小さな教会。 教会の手前に写っている岩に座って、彼は作曲していた。 |
この扉の裏にある巨大な石棺の中で彼は眠っていた (内部は写真撮影禁止!残念…) |
| ※“レゲエ”という言葉自体は、ジャマイカ英語の“レゲレゲ”(抗議する)からきている。1968年にトゥーツ&ザ・メータルズが『ドゥ・ザ・レゲエ』をヒットさせたことで定着した。 ンチャッ、ンチャッと裏拍ではねるギター、地を這うメロディックなベース、そして渇いた音のドラム。そこへ社会改革を訴える歌詞を乗せたのがレゲエだ。過激な歌詞の内容とは裏腹に、ゆっくりとしたレゲエのリズムは、まるで心臓の鼓動のように身体の芯に響く。“レゲエはメロディーが単純すぎて10分も聴くと飽きてしまう”、こう思う人に僕は言いたい、“それは10分だからだ”と。2時間ぶっ続けで聴けば、鼓動がリズムと完全に調和してしまい、全身が音楽と一体になる快感から逃れられなくなるハズ!身体の最深部で味わう音楽、それがレゲエの魅力だ。 |

| 絶句。軍部に抵抗して虐殺された人々の墓が壁一面に 並んでいた。みんな死亡日がほとんど同じ。むごい… |
大勢の市民に交じってビクトル・ハラも眠っていた。 小さな、小さなコンクリートのお墓だ。どうか安らかに |
「…死体収容所は建物全部が死体であふれていて、事務所までも一杯だ。長い廊下、扉の前、床の上の死体の列。学生たちも死んでいた。そして無数の列の中ほどに、私は夫を見つけた。彼らは1週間でこんなにも変わり果てるような、どんなことを貴方にしたのか?眼は見開かれていた。頭部や顔面の皮膚の恐ろしい裂け目にもかかわらず、いまだに激しく果敢に抵抗しながら前を見つめているように思えた。彼の服はナイフか銃剣で切られたように引き裂かれ、下着はお尻のまわりにボロボロになってぶら下がっている。胸は最もひどく、穴だらけでパックリと傷口が開いていた。そして彼の手は…手首が異様な角度で、腕からぶら下がっていた。…それがビクトル、私の夫、私が愛した人であった」(ビクトル・ハラ夫人の手記から) 9月11日は米国人にとって特別な日だ。しかし、南米の人々にとって9月11日は1973年の悲劇を思い起こさせる。その日、チリでは米国から約300億円の軍資金と数千名のCIA工作員という圧倒的支援を受けたピノチェト将軍が、陸海空軍を率いてクーデターを起こしたのだ。歌手のビクトル・ハラは抗議の意味を込めて軍事政権への抵抗歌を歌っていたが、軍部に反抗した7千人もの市民(国際赤十字推計)と共にスタジアムに連行された。拷問や処刑が始まると、ハラは皆を励ますためギターをとり人民連合のテーマ曲『ベンセレーモス(勝利するぞ)』を歌って抵抗した。軍人たちは怒ってギターを取り上げた。 「歌えるものなら歌ってみろ!」 脅迫されたハラは今度は手拍子で歌い続けた。兵士は彼の両腕を折り、さらに指を銃の台尻でメチャメチャに打ち砕いた。ビクトル・ハラはそれでも立ち上がって歌おうとした。彼は銃剣で口元を切られ、雨のように機関銃の弾丸を撃ち込まれた。 ピノチェトの軍事独裁政府は全ての政党を非合法化し、その後も徹底した反乱者狩りと裁判抜きの処刑を行ない、国際人権団体アムネスティの調査で4万人が虐殺、10万人が逮捕及び拷問された事実が判明している。そして最終的にチリ全人口の5分の1が亡命するという異常事態になった。これらすべてが、米政府による右派援助のたまものだ。 ビクトル・ハラの曲は放送禁止になり、その声が再びチリの街角に流れたのは、実に17年間後の1990年にチリが民主化を達成した時であった。 |
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| ピアソラの墓には花が一本もない。っていうか、長く誰も訪れた 形跡がなかった。白い綺麗な墓に見えるけど、これは僕が 掃除したから。最初は泥んこだった!ごっつい寂しかった…。 |
どの墓も同じ形で探すのが大変だった。すぐ側まで来てる ハズなのに、なかなか会えないもどかしさったらもう! |
タンゴの革命児アストル・ピアソラ。彼はそれまで踊りの伴奏音楽としか見られていなかったタンゴ音楽を、コンサートで鑑賞するに値する芸術作品に昇華させた作曲家兼ミュージシャンだ。激情がほとばしる、エネルギッシュなピアソラの楽曲にシビレまくった僕は、ずっと彼への墓参を夢見ていた。しかし、アルゼンチンはあまりに遠い。日本のちょうど裏側だ(ということは一番遠い国ッ!)。意を決して巡礼を敢行したのは01年3月。大阪からのフライト時間は30時間という、悟りの道に入ったような空の旅だった。ブエノスアイレスに着いてからも一難去ってまた一難!(その辺の事情は下記の巡礼ルポに記した) ようやくたどり着いた墓には、彼の功績を讃える碑文も、バンドネオンの絵も何も彫られてなかった。60X40cmの小さな墓だ。愚直なまでにタンゴに殉じたピアソラの生き様を墓に見た気がした。 『立ち止まることは精神の腐敗を招く』(アストル・ピアソラ) |
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| 1967年2月5日早朝、ビオレータはギターを胸に抱き、右のこめかみへピストルの弾丸を撃ち込んだ。49歳の彼女は独りで逝った。原因は、社会変革の戦いに疲れ果てたことと、失恋の深いダメージだった。どちらの理由も、情熱的で真直ぐな彼女の性格ゆえだ。 |
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| シャンソンの女王。歌声で多くの人を魅了した | 人だかりの中心にピアフが眠っている |
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| 2002 | 2005 | 2009 |
| 本名エディット・ジョヴァンナ・ガシオン。フランスのシャンソン界を代表する歌手エデッィト・ピアフ。彼女の人生は波乱に満ちていた。母親は薬物中毒で死亡、大道芸人の父親とフランス各地を放浪した後、15歳から安酒場で歌い始める。17歳で出産。20歳のときにパリの街角で歌っているところをキャバレー支配人に見出され、人生に裏打ちされた気迫に満ちた歌声でいっきにスターダムを駆け上がる。ところが、その恩人の支配人が何者かに殺され、殺人の嫌疑を受け2年間の沈黙。22歳で再デビューを果たし、順調に活躍していたが、30代半ばから4度の自動車事故にみまわれ、痛み止め用のモルヒネ中毒になる。さらにアルコール中毒も重なり、7度に渡る手術や自殺未遂を経験し、47歳で亡くなった。 ピアフの代名詞とも言える名歌「愛の讃歌」は、彼女が34歳の時に、飛行機事故で亡くなった恋人を想って作ったもの。この曲はフランス国内にとどまらず、世界中で現在も愛聴されている。 ※詩人ジャン・コクトーは、彼女の訃報を聞いて「嗚呼、ピアフが死んだ!私も死んでしまいたい」と嘆き、その数時間後、書きかけの弔辞を前に心臓麻痺に襲われ、彼もまた死んでしまった。 |
| ●愛の讃歌(これほど激しい愛の歌は他にないだろう!) ♪たとえ空が落ちても大地が足元で裂けても あなたの愛があれば良いの あなたが望むなら 世界の果てまでも行き 祖国も棄て 友とも別れ 盗みすらもするわ どんなに笑われても どんなことでもしてみせる いつの日かあなたがこの世を去ることがあっても あなたの愛があれば私は平気 だってすぐに私もあなたの後を追うから そのとき大空の中で 神が愛し合う二人を結びつけてくれるわ |
| 男性的かつ甘い声を持っていたイブ・モンタン(本名イーボ・リービ)は、戦前にファシスト政権を逃れてイタリアからフランスへ移住し、トラック運転手や工場労働者を経た後に、美声を生かして歌い始めた。やがてエディット・ピアフに見出され、シャンソン歌手として大成功を収める。名歌『枯葉』は3分22秒の短い曲だが、映画数本分に匹敵する人生を感じさせる傑作で、世界的なスタンダード・ナンバーとなった! 彼はまた、映画俳優としても素晴らしい演技を見せている。代表作は『恐怖の報酬』と『Z』。どちらもシリアスな社会派作品だ。特に『Z』はギリシャの軍事独裁政府を糾弾した作品で、当のギリシャでは公開中止になった問題作。女優シモーヌ・シニョレと結婚し2人は同じ墓に入っている。 |
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●枯葉(この曲はメロディーの宝庫!すごい密度で曲が展開する) ♪ああ 覚えていてほしい 幸せだった日々を 2人は仲が良くあのころ人生は美しかった 陽はもっと暑かった 枯葉は散る 僕は忘れちゃいない 枯葉は散る 想い出も哀しみも一緒に北風が運んでゆく 僕は忘れちゃいない 君が歌ってくれたあの歌を 僕たちに似たその歌 君は僕が 僕は君が好きだった そして二人で共に生きていた でも 人生は愛しあう者たちを別れさせる---静かに音もなく そして海は消してしまう---心の離れた恋人たちの砂上の足跡を 枯葉が散る 想い出も哀しみも一緒に 誠実な恋人はいつも人生に微笑み感謝する 僕は君がとても好きだった 君は美しかった 君を忘れられるわけがない あのころ人生はもっと美しかった そして陽はもっと暑かった 君は誰よりも僕に優しかった でも嘆きはしない 君が歌ったあの歌が いつまでも僕には聞こえるから… |
| 世界最初のタンゴ歌手。『喉に涙を持つ男』『ガルデルの前にガルデルなく、ガルデルの後にガルデルなし』とまで言われている。涙を溜めたように震えるあの声は、確かに一度耳にすると忘れられない。1917年、彼が30歳の時に歌った“我が悲しみの夜”が、それまで音楽のみだったタンゴに歌をのせた第一号となった。そのカリスマ的人気は、かのクラーク・ゲーブルが「俺もガルデルくらい歌が上手くて人気があれば…」と思わず漏らしたほど。 彼は作詞作曲にも素晴らしい才能を持ち、数々の名曲を残している(映画“セント・オブ・ウーマン”でA・パチーノが踊っている曲もそう)。47歳の円熟期に飛行機事故で逝ったことが、ますますガルデルを伝説化した。彼の墓には銅像が建ち、死後70年近く経った今もたくさんの花束に囲まれていた。 僕が墓参している時、一台の白い乗用車がやって来た(写真参照)。乗っていたのは60歳位の白髪のじいさん。墓の手前で車から降りたかと思うと、一輪のカーネーションをガルデル像の足元に置き、しばしその顔を見つめた後、再び走り去った。この間、約1分。あまりに粋な光景に僕は固まってしまった。あのじいさんにとっては、日常生活の一部にガルデルの墓参が含まれているようだった。こういう人たちの存在が、墓に温かさを感じさせているのだ。 なんとも良いものを見させてもらった。 |
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成田雲竹は日本民謡協会から初代の名人位を授与された“唄の神様”。弟子の数はなんと6000人。1950年、雲竹が62歳の時、伴奏者に40歳の初代高橋竹山を指名、この最強タッグは15年に渡って津軽民謡の黄金時代を築くことになる。墓石は巨大な黒石で、大地からドーンと天へそそり立っていた。
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作曲家、バンドリーダー、ピアノ奏者。世界で初めてブルースの楽譜を出版したことから、彼は『ブルースの父』と呼ばれている。
W.C.ハンディことウィリアム・クリストファー・ハンディは、1873年に南部アラバマ州で牧師の子として生まれた。彼は子どもの頃から賛美歌に親しみ、また毎日のようにオルガンで演奏し深く音楽に傾倒してゆく。20代に入ると友人らとブラスバンドを結成し、南部を半ば放浪しながら演奏活動を続けた。
1903年(30歳)、そんな旅回りのある日、ハンディがミシシッピ州タトワイラーの駅で9時間遅れの列車を待っていた時のこと。彼がベンチでウトウトしていると、みすぼらしい黒人のギター弾きが隣に座り、ポケット・ナイフを弦に当ててスライドさせながら“今まで聴いたなかで最も風変わりな音楽”を奏で、歌い始めた。ハンディは神の啓示を受けたように新しい音楽、ボトルネックの音色の誕生を予感したという(この時はまだブルースという呼び名は存在していない)。 ブルースは黒人労働者の労働歌(ワークソング)や黒人霊歌から生まれたもの。南部の黒人達は日々の生活の辛さや嘆きを、歌で吐き出していた。しかし誰もこれを楽譜に書き写した者はいなかったので、ハンディは巡業先で出合った黒人達の歌を地道に楽譜に起こしていった。1912年(39歳)、ハンディは長年集めた歌が元になった曲『メンフィス・ブルース』を発表する。そしてこの曲を楽譜として出版したことで、従来からあったブルースが、改めて「ブルース」として人々に認識されるようになった。 1914年、41歳で発表した代表曲『セントルイス・ブルース』は、“米国第二の国歌”と言われるほど大ヒットとなり、ストラヴィンスキー、ガーシュインら同時代の多くの作曲家に影響を与えた。※ハンディは旅回りの途中にセントルイスでついに無一文となり、施しを受けつつ橋の下で暮らしていたという。この最も辛かった時代を歌の題名に冠した。 ハンディは70歳の時に事故で失明したが、それからも点字の楽譜を使用しながら音楽活動を続行する。最晩年、ルイ・アームストロング(ジャズ)とレナード・バーンスタイン(クラシック)というジャンルの違う2人が同じ舞台で『セントルイス・ブルース』を演奏しているのを聞いて、83歳のハンディは思わず落涙した。 ハンディは大戦中に日本兵が硫黄島の洞窟に持ち込んだ、日本語のセントルイス・ブルースのレコードを生涯宝物として大切にし、こう語っていたという--「このレコードは人種や国境を超えて『セントルイス・ブルース』が愛された証拠なんだ」。 代表作は『セントルイス・ブルース』『イエロー・ドッグ・ブルース』『ビール・ストリート・ブルース』『オール・ミス』等多数。 ※ガーシュインは『セントルイス・ブルース』を参考に『ラプソディ・イン・ブルー』『ポーギーとベス』を作曲したと語っている。 ※メンフィスのダウンタウンの中心に「W.C.ハンディ公園」があり銅像が建っている。 ※Bluesの正確な発音は「ブルース」ではなく「ブルーズ」と濁る。語源は“憂鬱”のブルーとされている。 ※12小節、半音下げた3度や7度の暗い旋律をとるブルースの技法をブルーノートという。現代の楽譜は半音下がる指示をフラット記号で表しているけど、ハンディが活躍した頃はブルーノートの記号だったという。この呼び名は名門ジャズクラブ「ブルー・ノート」の名の由来となった。 |
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| ハンディとルイ・アームストロング |
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| 南部ミシシッピの夕焼け |
見渡す限りのコットン畑 |
墓地の近くのクロスロード。R.ジョンソンは 真夜中の十字路で悪魔と取引をしたという |
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| 十字路の停止標識に弾痕!? | 墓の前面。3箇所ある墓でここが一番有名 | こちらは背後 |
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| レコード会社が建てた写真入り墓 | 最もシンプルな墓。ここの墓前で土砂降りの嵐になった |
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| ハーモニカが供えられていた |


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| 右端から2番目、下から3段目がマイク | ファンからの手紙やマイクの写真が挟まっていた |



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| ハンク・ウィリアムス博物館 | モントゴメリー中心部の公園にある彼の銅像 |
墓地入口の巨大案内。おかげで分かりやすかった! 全ての墓地がこんな風に墓参者に親切ならいいのに! |
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| 夫婦で並んでいる。右側がハンク | トレードマークの帽子。手前の墓石にはギターの絵 |
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| 死後半世紀を経ても墓参者が絶えない。すごい人気ぶり! |
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| この墓地はカントリーのミュージシャンや 作曲家の墓がめちゃくちゃたくさんあった |
左がジョニー、右が妻ジューン。彼女が他界して わずか4ヶ月後にジョニーも世を去った |
なぜゆえにムーミンパパ!?そもそも米国内で ムーミングッズを見たのはこれが初めて。ビックリ! |
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| 代表曲で伝記映画のタイトルにもなった 「I Walk The Line」の文字が彫られていた |
このベンチに座ってキャッシュ夫妻と語り合える |
ベンチの背後にも言葉が刻まれていた |
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| 40代で散った | マービン・ゲイは火葬にされ、太平洋に散骨された(ロス沖にて撮影) |
| 説教師の父の影響で、子供の頃から教会でゴスペルを歌っていたマービン・ゲイ。ソウル・シンガーとなった当初の彼は、他のシンガーと同様に甘々のラブソングを歌っていたが、1971年(32歳)、正面から社会問題をテーマにした、ソウル史上の金字塔『ホワッツ・ゴーイング・オン』を発表する。このアルバムには黒人層の貧困、ベトナム戦争、公害などを取上げており、音楽界に一大センセーションを巻き起こした。45歳の誕生日の前日、彼は訪れた両親の家で父親と口論になり撃ち殺されるという、非業の死を遂げている。 |
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●ホワッツ・ゴーイング・オン ♪母さん、なんて多くのものが涙の雨を降らせるんだ 同胞よ、仲間が次々と死んでゆく 神よ、もうたくさんなんだ 愛だけが憎しみに打ち勝つことが出来る だから戦争は解決方法にならない さあ、愛を降り注ぐ方法を考えよう 嗚呼、一体何が起こっているんだ この世は何がどうなっているんだ? |
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| 画面中央の塀の背後がクックの眠る「Garden of Honor」 | 残念ながら一般非公開。門は固く閉ざされていた(涙) |
| “ソウル・ミュージックの父”サム・クック。1950年代に活躍したゴスペル界初のティーン・アイドルで、ソウルシンガーの草分け的存在だ。クックに影響を受けてないソウルシンガーはおらず、あのオーティス・レディングも自らが敬愛しているシンガーとして、真っ先に彼の名前をあげている。活動の絶頂期にあった33歳の時に、安モーテルの支配人で黒人中年女性バーサ・フランクリンに射殺される。真相は不明だが、同宿していた女性を追いかけてて、フロントで撃ち殺されたようだ。 |
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| 画像は海外サイトから。そこには墓石がアップされていた。どうやって入ったんだろう!?いいなぁ! |
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| オーティス・レディング通り | レディング家の農場「ビッグ・オー・ランチ」 | 残念!一般人はここまで。門から墓は見えず…(涙) | 「R」の紋章! |
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| ファンからの花や風車で名前がほとんど隠れてしまっている |
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| 嬉々として演奏し、豪快に笑うレイ! | レイが眠る大霊廟 |
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| 右壁、花束があるのがレイ | 名前の下に小さなト音記号が刻まれていた |
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| ファンクを生んだ「ゴッドファーザー・オブ・ ソウル」JBの生れ故郷、ビーチアイランド |
この小さな町で葬儀が行なわれた。右上写真の教会で墓の場所を尋ねたら、神父さんいわく「葬儀は したけど墓はこの町にないんだ。隣町のオーガスタに妹さんが住んでいるからそっちだろう」とのこと |
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| オーガスタに到着。隣町といっても州境を越えたジョージア州。中心にはジェイムズ・ブラウン広場があり、ノリノリのJB銅像が 立っていた。ところが市民に聞いても「墓があるとは聞いたことがない。ビーチアイランドじゃないの?」との返事。どっちなんだ!? |
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