| 安倍晴明の墓(陰陽師) | ナイチンゲールの墓(看護婦) |
| 伊能忠敬の墓(測量家) | シュリーマンの墓(考古学者) |
| ヘレン・ケラー&サリバンの墓(教育者) | 勅使河原蒼風の墓(華道家) |
| 淀川長治の墓(映画評論家) | 三人の東方賢者の墓(占星術師) |
| 北大路魯山人の墓(料理研究家) | レニー・ブルースの墓(エンターテイナー) |
| 深田久弥の墓(山岳研究家) | ルードウィヒ2世の墓(芸術擁護者) |
| 山田康雄の墓(声優) | 安珍の墓(行者) |
| ジョゼフ・ピュリツァーの墓(ジャーナリスト) | 檀君の墓(古代人) |
| 宮武外骨の墓(ジャーナリスト) | 安徳天皇の墓(天皇) |
| 尾崎秀実の墓(ジャーナリスト) | ダビデ王の墓(ユダヤ王) |
| ゾルゲの墓(スパイ) | ツタンカーメンの墓(エジプト王) |
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| 巨大なワシントン大聖堂 |
祭壇の左奥に地下霊廟へ続く 階段がある。気付く人は少ない |
地下礼拝堂の一角に2人の墓がある。 写真中央の大きな柱の左横に遺灰が入っている |
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| 2000 | 2009 | 墓碑は点字の部分だけ色が変わっている |
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| 付近の墓とはまったく異なる家の形をした墓 | ロンドン・セントポール寺院の祈念碑 |
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| TVで解説を始めた頃 | “サヨナラおじさん”の名で愛された | 最晩年、宮崎駿監督と |
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| 素晴らしい名解説をもっと聞きたかったです〜ッ! (兵庫・須磨寺にて) |
生涯を銀幕に捧げた 「映画の伝道師」 |
05年の淀川長治賞に輝いて 喜ぶジャッキー・チェン |
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映画評論家。神戸出身。ハイカラな港街で芸者小屋を営む両親に連れられ、4歳の頃から映画を見まくった。子どもの頃から良い作品は他人に紹介せずにいられなかった性分らしく、一人で面白い映画に出くわすと、劇場の電話を借りて家に連絡し、親類の席を約10人分予約して、改めてもう一度観たという。
中学時代、「映画ばかり見ずに数学の勉強をしろ」と説教した先生に、「公開中の『ステラ・ダラス』を観てからそれを言って下さい」と抗議し、先生が数人で劇場に足を運んだところ、感動的な自己犠牲のラブ・ストーリーに一同はむせび泣き、以降は学校行事として映画を見に行くようになった。作品の選定は淀川に一任され、自分が薦めた映画で級友たちが、笑い、泣き、楽しむ様子を見て、「もっと多くの人に映画の素晴らしさを伝えたい!」と思うようになった。 1927年(18歳)、上京して雑誌「映画世界」編集部でアルバイト。1932年(23歳)には、米国の映画会社ユナイトの大阪支社宣伝部に入った。1936年3月(27歳)、『チャップリンと新妻ポーレット・ゴダードが、新婚旅行で極秘に神戸港へ船で立ち寄る』という大ニュースをキャッチ、ホノルルからクーリッジ号で入港したチャップリン(当時47歳)にアポなし突撃取材を敢行する。甲板で5分間だけという約束だったのが、淀川がチビッコ時代から観てきたチャップリン・ムービーの様々な名場面をパントマイムで再現しているうちに、炎のファン魂がチャップリンのハートに燃え移ったのか、「ねぇ、君!中に入って話をしよう!」と船室に招待してくれ、そこで一時間も2人きりで話をするという、人生最大最高の体験をする。チャップリンは淀川に、買い物に出るポーレット・ゴダードの為の神戸ガイドを依頼した。 1938年(29歳)、次第に日本が戦争に深入りしていく中、東京支社に転勤となり両親と上京。1940年(31歳)、彼が担当した『駅馬車』が空前の大ヒットを記録する。しかし、翌年に日米開戦となり、ハリウッド作品は敵性映画として終戦まで公開禁止になる。この当時、ディズニーの長編アニメ『白雪姫』を会社の試写室で密かに見た淀川は、色彩あふれるカラー映像に驚愕し「こんな国と戦争したら絶対に負ける」と絶句したという。1942年、東宝の宣伝部に移籍。 1945年、36歳で終戦を迎えてセントラル映画社に入社。翌年、雑誌『スクリーン』の編集委員となる。1947年(38歳)、映画世界社の「映画之友」編集部に入り、翌年から1967年まで20年も同誌の編集長を務める。その間、1951年(42歳)に初めてハリウッドを訪れ、念願だったチャップリンとの再会を果たす。スタジオで『ライムライト』を撮影していたチャップリンの第一声は「アイ・リメンバー・ユー!」。神戸港でのあの楽しいひと時を彼は忘れておらず、淀川をスウィート・ボーイと呼んだ。チャップリンは62歳。淀川は15年の間にチャップリンの髪の色がすっかり変わったことを知り、思わず泣きそうになる。「なぜ泣く?」「グレー・ヘアー」「……」。チャップリンは黙って淀川の肩を抱いた。 「映画之友」編集長として、彼は読者との定期的な交流会(友の会)を企画。映画への一途な熱愛ぶりが参加者に伝わり、映画ファンの間で名が知れ渡っていく。テレビでの初仕事は1960年のTVシリーズ『ララミー牧場』の解説。51歳のブラウン管デビュー。親しみやすい解説で一躍脚光を浴びた。 1966年(57歳)、新番組『日曜映画劇場』がスタート。この番組は劇場映画を毎週オンエアするという、業界初の試みだった。解説を依頼された淀川は「より多くの人へ映画の魅力を伝える」ことが可能なこの仕事を喜んで引き受けた。以後、一度も休むことなく32年間も(死の前日まで)解説を続けることとなった。 放送が始まると、丁寧で分かりやすい解説だけでなく、番組冒頭の「ハイ、またお会いしましたね」から最後の「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」に続く一連の「淀川節」が大ブレイク。独特の口調で映画の素晴らしさを嬉々として語る姿は人々に愛され、“サヨナラおじさん”の愛称でお茶の間の人気者となった。当初は「サヨナラ」の回数が毎回異なっていたが、子ども達が回数を賭けているという噂を聞き、それからは3回に決めた。 1967年(58歳)、テレビ、ラジオ、雑誌で引っ張りだこになった淀川は、「映画之友」を離れてフリーになり、各方面に活動の場を広げていく。
※たぶん、どの本にも載っていないエピソードを紹介。80年代前半、まだレンタルビデオ店というものが世になかったので、高校生の僕は『日曜洋画劇場』を毎週必ず観ていた。一度、酒に酔ったまま解説した回があって、あの衝撃を今でもハッキリと覚えている。「ハイ、皆さん今晩は。今日は私の顔、赤いですね。ちょっとスタジオに入る前、お酒を呑みましたね。フラフラですね。そういうわけで、今日は私、少しご機嫌さんでキャメラに向かってますが、舌がもつれたら皆さんごめんなさいね。さて、今日の映画は…」。師匠も凄いがこの収録をボツにせずオンエアしたテレ朝もブッ飛んでると思った。そしてこう考えた。つまり、番組の現場スタッフは日頃からその人間的魅力に惚れ込んでいて、親近感の湧く“ご機嫌さん”バージョンをどうしても人々に見せたかったのだと。翌週のオンエアでは「あらまあ、先週はごめんなさいね」と謝っていた(笑)。 あと、「サヨナラ」ではなく「にぎにぎバイバイ、にぎにぎバイバイ」と右手を“にぎにぎ”した回があった。翌週から「サヨナラ」に戻ったけど、あれは一体…!? 『日曜洋画劇場』で解説を収録する前に、「それだけ責任あるから」と作品を三回以上見たという。映画文化を支えていく強い自負がそこにはあった。しかし、理由はそれだけではない。毎週の放送ともなると、“箸にも棒にもかからぬ救い難い駄作”を解説する回もあった。「どんな映画でも何か一つは必ず良いところがある。それを拾って皆に説明するのが私の使命」、この映画愛のたまものだ。 また“吹替え版”には次の意見を持っていた。「吹替え版はセリフのノーカット版。字幕は一度に2行しか表示できず、どうしても要約せざるをえない。複数の人間が同時に喋る場面にも対応できない。この問題を克服し、全てのセリフを楽しめるのが吹替え版のメリットだ」。 淀川は自分の人生観、人間観について、よく次の様に語っていた。 「私はいまだかつて嫌いな人に会った事がない。好きになる事がどんなに人を助けるか私は知っている」 「ウエルカム・トラブル、苦労来たれ、苦労が人間を強くするんだ。悲しいなぁ辛いなぁと泣いたことがある人が偉いんだ」 「最近の親友と申したい監督が、香港生まれのウェイン・ワン監督。親友といってもじかに話したこともない。好きな映画を見せてくれた監督は私には親友だ」 「イランがどこにあるのか調べるといい。各国の映画が国境を越えて日本に訪れ、“人間”は同じという事を知る。これほど平和を生むものは他にはない」(イラン映画『友だちのうちはどこ?』のコメント)
“好きになることが相手を助ける”“知識は(異文化への)恐怖を取り除く”…これらはすべて映画が教えてくれたのだという。
名シーンを細部まで再現する驚異的な記憶力は、年をとっても全く衰えず、「映画の生き字引」と呼ばれた。1984年(75歳)、勲四等瑞宝章受章。1992年(83歳)、雑誌「ROADSHOW」創刊20周年記念として、映画文化の発展に功績のあった人や団体に贈られる“淀川長治賞”を集英社が設立(第1回受賞者は翻訳家・戸田奈津子)。晩年の口癖は「明日、来週、新しい映画がくるかと思うと、死ねない」。そして『日曜映画劇場』の為に、テレビ朝日に近い全日空ホテルで生活していた(まるで出家者のようだ)。 後期の黒澤映画が、世間から「“七人の侍”の頃のエネルギーがなくなった」「クロサワはもうダメだ」と叩かれていた頃、淀川は『夢』(1990)を「日本映画史上最高の映画美術と申したい」と評し、『まあだだよ』(1993、遺作)には次のコメントを残した。
「若い映画ファンの多くが、この師弟の物語を観て“時代おくれ”“照れくさい”“ついていけない”と言う。馬鹿かと思った。なぜ監督の、美を一途に追い求める姿勢が分からないのか。日本中が今、この温かさを受けつけなくなった。怖いし、悲しい。干からびた地面からは、このような枯れ木の若者が伸びるのか。この映画、乾いた土に水の湿りを与える」。 1998年9月、長年親交があった黒澤監督が他界。ひとつ年上の淀川は、自らの死を予期していたのか、棺で眠る黒澤に「泣かないよ。僕もあとから追いかけるから、もうすぐだよ」と語りかけた。
2ヶ月後の11月10日、『日曜映画劇場』の解説用にブルース・ウィリスの『ラストマン・スタンディング』を観て、番組の収録を終えた後に体調を崩して倒れる。そして翌11日午後8時7分、腹部大動脈瘤(りゅう)破裂が原因による心不全で逝去した。享年89歳。最期の言葉は、病室に駆けつけた姪御さんに言った「もっと映画を見なさい」だった。 名物の「サヨナラ」は32年間に1500回以上も流れ、多くの日本人が、これからもずっと日曜夜に繰り返されると漠然と思っていたのが、突然4日後(15日)のオンエアで最後になった。
※その日、僕は朝から緊張していた。新聞に「最後の解説」と書かれていたからだ。午後9時、放送開始。89歳の淀川翁が、かすれた声を振り絞って、懸命に作品の見所を伝えている。すると画面の下方にテロップが静かに流れ始めた--『ご覧の映像は永眠される前日に収録された最後の解説です』。…激涙。僕は“翌日に亡くなった”という事実に圧倒された(収録は何週も前だと思っていた)。まさに、映画に殉じたのだ。死ぬまで映画に身を捧げた、本物の「映画の伝道師」だった。
『ラストマン・スタンディング』は、邦画の『用心棒』をハリウッドがリメイクしたもの。若い頃から外国映画の魅力を語り続けてきた淀川が、最後に日本映画が外国からリスペクトされた作品を解説する、そこにもまた感慨深いものがあった。まして『用心棒』は盟友・黒澤監督の作品。運命的なものさえ感じた。
葬儀の『淀川長治さん・さよならの会』には、杉浦孝昭(おすぎ)ら親しかった映画関係者ら約500人が出席。祭壇の遺影には、本人が最も気に入っていたという、チャプリン『独裁者』のポスター前でニッコリ笑う淀川の写真が選ばれた。棺には愛用の眼鏡やチャプリンの写真が収められ、黒澤監督が愛用したひざ掛けがかけられた。 チャプリンの『ライムライト』の美しいテーマ音楽が流れる中、全国から集まった一般ファン約2500人が白いカーネーションを祭壇に献花した。各国からの弔電もたくさん届き、そこにはベルナルド・ベルトルッチ監督、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督、アラン・ドロン、ブラッド・ピット、アーノルド・シュワルツェネッガー(“シュワちゃん”は淀川のネーミング)、スティーブン・セガールなど、名監督や銀幕のヒーローたちのそうそうたる名前が並んだ。アカデミー賞ともカンヌとも関係ない、ただ一人の映画評論家の死を、こんなにも多くの人々が国境を越えて悲しんだ。
「淀川さんが一番いいね。純粋に映画を楽しんでいる。映画は理屈じゃないんだよね」(黒澤明)
※戒名は「長楽院慈眼玉映大居士」。意味は“慈しみの目であらゆる映画を珠玉の名作として長く楽しんだ者”。
※「批評家は多いが、無声映画時代から映画に人生をささげた方は、ただ一人だと思う」(戸田奈津子)
※淀川は「邦画に関して私はアマチュアだ」と公言しており、仕事柄、筆で評論することはあっても、テレビで解説することはなかった。 ※「結婚をしていないと映画の中の男の気持ち、女の気持ちの両方がわかる」と生涯独身を通したが、同性愛者でもあった。しかしそれは“あっけらかん”としたものであり、本人は特に隠してなかったし、恥じてもいなかった。
※「映画館で映写が終わったのに、まだ座っている老人がいる。従業員が終わりましたよと声をかけると、死んでいた」--理想の死をそう語った。 ※僕が今改めて脱帽するのは、その膨大な知識(記憶力)はもちろんのこと、作品の魅力が10あれば10すべてを聞き手に伝えきる天才的な話術。解説が、分かりやすく、かつ熱狂的。この“熱狂”がないと人は引き込まれない。しかし“分かりやすさ”と“熱狂”は、非常に両立が難しい!映画に詳しい人はゴマンといるが、相手の心を掴むトークをできる人は少ない。氏は声色を巧みに使い分け、話のポイントを確実に押さえ、作品に対する自分の主張を明確に伝えている。そしてまた、(これは非常に重要な点だけど)自虐的なユーモアをふんだんに散りばめる為、評論家にありがちな傲慢な姿勢、権威主義的な部分がこれっぽちも感じられず、聞いてて押し付け感が全くないんだ。ホント、偉大な方でした。m(_
_)m
〔淀川長治が選んだ各ベスト〕 外国映画ベスト5(1980年) 1.黄金狂時代(チャールズ・チャップリン) 2.戦艦ポチョムキン(セルゲイ・エイゼンシュテイン) 3.グリード(エリッヒ・フォン・シュトロハイム) 4.大いなる幻影(ジャン・ルノワール) 5.ベニスに死す(ルキノ・ヴィスコンティ) 日本映画ベスト3(1979年) 1.残菊物語(溝口健二) 2.羅生門(黒澤明) 3.戸田家の兄妹(小津安二郎) 男優ベスト5(1985年) 1.チャールズ・チャップリン 2.オーソン・ウェルズ 3.ルイ・ジューヴェ 4.ローレンス・オリヴィエ 5.スペンサー・トレイシー 女優ベスト5(1985年) 1.メリー・ピックフォード 2.グレタ・ガルボ 3.マレーネ・ディートリッヒ 4.ベティ・デイヴィス 5.イングリッド・バーグマン 「映画は皆のもの。映画館の中で、こっちに学校の先生、あっちにソバ屋のおかみさんがいる。お爺ちゃんも、子供もいる。皆が学問や教養に関係なく、一緒になってひとつの映画をみている。僕はそういうのが好きなの。映画は人の垣根も国の垣根も取り払ってくれる。それがいいの。それが映画なの」(淀川長治) |
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| 214枚の日本大図はこんなに巨大だッ! ※’04年、名古屋ドームにて(撮影kooichi.ikaiさん) |
56歳を過ぎてから肉体をメジャーに、 17年間をかけて全国を歩ききった、 その不屈の精神力とパワーに脱帽 |
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| 手前が忠敬、左端に忠敬が尊敬していた高橋至時の墓。 遺言で並んでいる。源空寺は上野駅から歩いてスグ! |
ドグサレ漫画家のS氏(左)と。2年前と比べて花が たくさんあり、伊能先生もゴキゲンに見えた(2002)! |
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| 江東区の富岡八幡宮。境内に忠敬像がある | 忠敬は富岡八幡宮の近所に住み、毎回ここへ参拝してから測量遠征に出発していた(2009) |
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江戸後期の測量学者。本名、神保三治郎。千葉県九十九里町に生まれ、18歳の時に酒造家伊能家の婿養子となる。彼が伊能家に来た時、家業は衰え危機的な状態だった。忠敬は倹約を徹底すると共に、本業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で完全に経営を立て直した。1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済する。こうした功績が幕府の知る事となり、彼は苗字・帯刀を許された。やがて50歳を迎えた忠敬は、家業を全て長男に譲り、幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出る。浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があったからだ。
※人生50年と言われていたこの時代、隠居後は盆栽を育てたり孫と遊んだり、のんびり余生を送るものだけど、50歳から“勉強の為に”江戸に向かう知識欲、知的好奇心の大きさにオドロキ! 暦局に着いた忠敬は、この当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)の門下生となった。第一人者とはいえ、高橋至時はまだ32歳。一方、弟子入りを申し込んだ忠敬は51歳。忠敬は家業を通して、長年人を使う立場にあった男。しかも時代は儒教精神から年上は常に敬われ、メンツを何より重んじる封建社会だ。普通の男なら、20歳も年下の若造に頭を下げて弟子入りを請うことに抵抗があるだろう。しかし忠敬は違った。燃え盛る向学心の前では、そんなプライドなど取るに足らないことだったんだ! 当初、至時は忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていた。しかし、昼夜を問わず猛勉強している忠敬の姿を見て、彼を“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになった。忠敬は巨費を投じて自宅を天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過を観測したりもした。 この頃、暦局の人々の関心ごとは、“いったい地球の直径はどれくらいなのか”という疑問だった。オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、大きさがよく分からなかったのである。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなる。師弟は考えた…江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで距離を測ればどうだろうか、と。 当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、至時が考えた名目こそが“地図を作る”というものだった!外国の艦隊がやって来ても、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図がなく、そこを突いたのだ。結果、幕府は蝦夷地はもちろん、東日本全体を測量しても良いという許可を与えたのだった。(ただ幕府の援助はなく、すべて自費。忠敬は30年間しっかりと家業を勤めてきたから、この測量が可能だったのだ) 忠敬は幕府に手紙を送った「隠居の慰みとは申しながら後世の参考ともなるべき地図を作りたい」。 1800年(55歳)、忠敬は江戸を出発。測量の方法は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、距離を計算するというものだった。目撃者の記録には「測量隊はいかなる難所もお通りなされ候」とあり、雨、風、雪をものともせず、海岸線の危険な場所でも果敢に突っ込んでいった。 昼は測量、夜は宿で天体観測し、両者を比較しながら誤差を修正、各数値の集計作業に追われた。江戸にいた至時は手紙を書いて忠敬を励ました「今、天下の学者はあなたの地図が完成する時を、日を数えながら待っています。あなたの一身は天下の暦学の盛衰に関わっているのです」。 忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組んだ。その結果を、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この時忠敬が弾き出した数値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった!
しかし、その喜びの中、至時は天文学書の翻訳等に無理を重ねたため病に倒れ、翌年39歳の若さで永眠する。忠敬は深く打ちのめされた--。 半年後、11代将軍家斉に東日本の地図を披露し、そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は息を呑んだ。そして忠敬には“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ”と幕命が下る。彼の測量はもはや個人的な仕事ではなく、多くの人の期待を担う正式な国家事業に変わった! 1805年(60歳)、再び江戸を出発。今度の測量隊は時に100人以上になることもあった。忠敬は暦方の皆から「西洋人が科学に携わる時には、自分の為にではなく、人の為、天下の為に命がけでやるといいます。天に尽くすつもりで事業を達成されますように祈っております」と励まされた。
だが西日本の測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷だった。3年で終わるはずが、内陸部の調査が加わったり、思いのほか四国が広かった為に、予定の3年が経っても九州は全く手付かずだった。ようやく九州に入った忠敬が娘に出した手紙には「(10年も歩き続け)歯は殆ど抜け落ち一本になってしまった。もう、奈良漬も食べることが出来ない」と書かれていた。また、ずっと相棒だった測量隊の副隊長がチフスで死んでしまう悲劇もあった--。
そして、1815年2月19日!最終測量地点の東京・八丁堀で、忠敬はすべての測量を終えた。時に忠敬70歳。彼が15年以上かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことになる!
あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだ。地球は球面なので、地図という平面に移す場合の数値の誤差を修正する計算に入った。だが、既に高齢になっていた忠敬は肺を病んでしまう。そのまま忠敬は回復することなく、1818年、73歳で病没する。高橋景保(至時の息子)や弟子たちは“この地図は伊能忠敬が作ったもの”、そう世間に知らしめる為に、彼の死を伏せて地図の完成を目指した。 1821年、江戸城大広間。幕府の重鎮が見守る中、ついに日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。これらの地図は3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が3枚という、途方もない規模のものだった。
この地図の後日談にこんなエピソードがある。忠敬の死から43年後の1861年、来訪したイギリス測量艦隊が幕府に強要して日本沿岸の測量を始めた時、幕府の役人が忠敬の地図の一部を携帯していたのを船長が見てびっくり仰天し、“この地図は西洋の器具や技術を使っていないにも関わらず正確に描かれている。こんな地図があるなら今さら測量する必要はない”と測量を中止してしまったのだ。そしてイギリス海軍は忠敬の地図を基に海図を完成させ、巻頭に「日本政府から提供された地図による」と書き記した。鎖国状態にあった日本を、西洋の知識人は未開の文明後進国だと決め付けていたが、世界水準の正確な地図を持っていることに驚き、見下すことを改めたという。 忠敬は、遺言にこう残した--「私が大事を成し遂げられたのは、至時先生のお陰である。どうか先生のそばに葬ってもらいたい」。その願いは聞き届けられ、上野の源空寺の墓地で、彼は既に200年近くも恩師の傍らで幸せな時を過ごしている。忠敬の墓石の側面には、こんな文面が彫られている“忠敬は星や暦を好み、測量にはいつも喜びを顔に浮かべて出かけて行った”と。 「地球の大きさを知りたい」、このとてつもなく巨大な好奇心を満たす為に、測量を始めることになった忠敬。当時の平均寿命を考えると、50代後半から4万kmを踏破したなんて信じられない。第一、200年前の海岸線など、道なき道に等しいものだ。コンビニがある今だって徒歩で一周なんて考えられない。忠敬が残してくれたのは地図だけじゃない。彼は人間の底知れぬ可能性を後世の僕たちに見せつけてくれた!本当に有難う、推歩先生!! ※地図を仕上げた高橋景保は縮小図を持っていた。シーボルトは“世界地図と交換したい”と働きかけ、その写しを国外に持ち出したのだった。この流出事件で景保は捕らえられ、失意のうちに獄死した--「私は罪を認める、罰も受けるが、この世界地図は日本の為になる」(高橋景保) 主な参考文献:NHK「その時歴史が動いた」、エンカルタ総合大百科、世界人物事典(旺文社) 僕は上野署の前でS氏と待ち合わせた。警察署の前をランデブー・ポイントにしたのは、伊能忠敬の眠る源空寺が、手持ちの地図に載っていなかった為だ。我が愛用の地図本は、誰もが認める地図の最高傑作、アトラス首都圏マップ(2700円)なのだが、日本初の本格地図師・忠敬の墓寺を掲載しとらんのは不届き千万、猛省を求む! |
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| ドイツ・バイロイトのワーグナー邸の前に建つルードウィヒ2世像 |

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| 1991.3.15 | 2005 14年ぶり。側の木が変わってた | ロシア語で名を刻む |
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| なんとロシア人の墓参者と遭遇!ここは日本か!?(2010) |
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| 「ゾルゲとその同志たち」と彫られた墓誌。11名の名があり、それぞれ“刑死”“獄死”とある。 死亡地は「巣鴨」「網走」など。みんな、終戦直前に非業の死を遂げている |
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世界史の流れを変えたスパイ。コードネームはイニシャルの頭文字RとZをとった「ラムゼイ」。1895年、旧ソ連・アゼルバイジャン共和国に生まれる。父はドイツ人鉱山技師、母はロシア人。3歳でベルリンに移住。1914年(19歳)、第一次世界大戦が勃発し、ゾルゲはドイツ陸軍に自ら志願した。戦傷を負って入院し、その際に社会主義思想と出合う。戦後、大学を最優秀で卒業し政治学の博士号を修得。1919年(24歳)、ドイツ共産党が結成されると入党し、1924年(29歳)にモスクワでソ連共産党に入り諜報部門に配属された。1930年(35歳)、ドイツの新聞記者に成り済まして上海に上陸。ゾルゲは半年で中華民国全土に情報網を構築した。そして日本の文化や言葉も学び、アジア情勢のスペシャリストとなる。この上海滞在時に、後にゾルゲの右腕となる朝日新聞記者の特派員・尾崎秀実と知り合った。
1933年(38歳)、前年の上海事変で日中両軍が軍事衝突したこともあり、日独の情報を得る為に横浜へ渡航。ドイツ人記者の肩書き信じ込ませるためナチスにも入党した。彼は駐日ドイツ特命全権大使オイゲン・オットの信頼を勝ち取り、私的顧問に抜擢される。1936年(41歳)、二・二六事件に際し的確な情報分析を行ない、1939年(44歳)にドイツが戦争に突入すると大使館情報官に任命された。翌年、日独伊三国軍事同盟が締結。
ゾルゲが知りたかった主な情報は、(1)ドイツのソ連侵攻作戦の日時(2)日本が狙うのは南方かソ連か(3)石油の備蓄量や武器弾薬など日本の戦争継続能力の3つ。この情報を得るには日本の支配層に接近する必要があった。 ゾルゲは単にソ連の為に動いている訳ではなかった。反戦・平和活動の理念を持ち、日本の民主化や列強からのアジア解放を考えていた。こうしたゾルゲの理想主義に、新聞社を辞めて近衛内閣の顧問団になっていた尾崎秀実が同調し、また、同じく近衛内閣のブレーンだった西園寺公一(元首相・西園寺公望の孫)や犬養健(犬養元首相の三男)も心を打たれて仲間となった。彼らの協力で日本政府の機密情報が手に入るようになった。またドイツ人無線技士マックス・クラウゼン、フランスのアバス通信社特派員ヴーケリッチ、アメリカ共産党員の洋画家・宮城与徳らが同志となりゾルゲ・スパイ団を作り上げた。
彼らは無線技士のクラウゼンが特別に自作した短波送信機と改造ラジオ受信機を使い、暗号を生成してウラジオストックと交信した。日本側は東京発の怪電波を確認していたが、ゾルゲ達が街中を小まめに移動しながら交信していた為に発信源を特定できなかった。1941年6月、独ソ戦が勃発。ゾルゲが詳細なドイツ軍のソ連侵攻日を打電したにもかかわらず、スターリンはその情報を信じようとせず初戦で大敗した。
日本政府には同盟国のドイツから対ソ参戦しろと要求がきていた。だが、日本には南方の資源が必要だったし、日ソ中立条約が2ヶ月前に結ばれたばかりだった。9月の御前会議で南方進軍が決定されたことを尾崎が知り、ゾルゲは翌月にソ連へ「日本南進」を急報した。この打電が歴史を変えた。日本からの侵攻がないと分かったソ連は、対日本用に配備していた満州国境の精鋭部隊を、シベリア鉄道でどんどん西の欧州戦線へ輸送した。ドイツ軍はモスクワまで数十キロに迫っていたが、ソ連の増援部隊に押し返され、最終的に4年後のベルリン陥落へ繋がっていった。ゾルゲの活躍がなければソ連はどうなっていたか分からない。このようにゾルゲが本国に送った重要情報は約400件にのぼった。 ゾルゲ・スパイ団の破滅は突然訪れた。1941年6月、1人の日本共産党員が逮捕され、特高の拷問に堪えきれずに、国内で地下に潜っていたアメリカ共産党員の仲間を自白。そこからゾルゲ一味でアメリカ帰りの宮城与徳の名が浮かんで家宅捜索が入った。宮城は不覚にも多数の重要書類を自宅に置いていた為、10月にはメンバーが一斉逮捕される。スパイ容疑の逮捕者は35名にものぼり、ゾルゲ達が近衛内閣中枢に食込んでいたことから政府・軍部に衝撃を与えた(国民には翌年まで伏せられた)。ドイツ大使は「誤認逮捕」「冤罪だ」と外務省に抗議するほどゾルゲを信じ切っていた。
1942年(47歳)、ゾルゲ達は18名が国防保安法、治安維持法、軍機保護法など各法違反で起訴され、翌年の判決で全員が有罪となった。無期は2名、ゾルゲと尾崎には死刑判決が下った。そして巣鴨拘置所において、1944年11月7日のロシア革命記念日に死刑が執行された。処刑前にゾルゲが残した最後の言葉は「ソビエト赤軍、国際共産主義万歳!」。宮城やブーケリッチなど5人も獄死した。この国際諜報団事件を戦時中は東条内閣が、戦後はGHQが反共キャンペーンに利用した。
ソ連政府としてはスパイの存在を認める訳にはいかず、戦後もしばらくゾルゲに光が当たることはなかった。死刑から20年目の1964年に、ゾルゲは功績を認められて「ソ連邦英雄勲章」が贈られた。以来、現在までロシア駐日大使が新しく日本に赴任した際は、多磨霊園のゾルゲの墓参りをすることが慣例になっている。ゾルゲの墓には「戦争に反対し世界平和のために命を捧げた勇士ここに眠る」と刻まれている。
国王でも大統領でもなく、ただ一人のスパイが後世の歴史を変えた。ゾルゲの情報がナチス・ドイツを倒すきっかけとなった。かくしてファシズムに勝利したが、戦後半世紀を経た現在でも人類は戦争と訣別していない。ゾルゲの死を犬死にとするかどうかは後世を生きる人間次第だ。 ※ゾルゲがターゲットから情報を聞き出す時の殺し文句は「あなたはそんなことも知らないのですか?」。相手は小者と思われるのが癪で、“俺はこんなことも知っている”とペラペラ喋り出す。
※墓碑には「妻石井花子」と刻まれている。彼女は銀座のドイツ料理店でウエートレスをしていてゾルゲと出会った。
※誕生日は4月10日とする説も多い。
※少し歩いた所に同志・尾崎秀実も眠っている。 |
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| 戦時にあって理想主義を捨てなかった男 |
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| ゾルゲに情報をリークしていた尾崎秀実の墓。なんと三島由紀夫の斜め 後ろに墓がある。思想的には両極の2人がすぐ側で眠っているのも墓地ならでは |
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岐阜県出身。生後まもなくジャーナリストの父と共に日本統治下の台湾へ渡り中学まで台北で育つ。少年尾崎は台湾人を三級市民として差別する日本人の姿を見て胸を痛めた。1922年(21歳)、一高を経て東京帝大に入学。翌年関東大震災の混乱の中でアナーキストの大杉栄が虐殺されたことにショックを受ける。農民運動者への弾圧事件などもあり、抑圧された人々を救いたいという義憤から共産主義に傾いていった。1926年(25歳)、朝日新聞社に入社。1928年(26歳)、上海支局に特派員として配属され、滞在中に人道主義者の女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーの紹介でリヒャルト・ゾルゲと出会う。1932年(31歳)、帰国。翌年、来日したゾルゲからスパイ組織に勧誘される。
1937年に盧溝橋事件が勃発すると、尾崎は中国問題の評論家として日中戦争拡大方針を論壇で訴えたが、これは世論が対ソ開戦に向かわないよう、中国や南方に引きつけるためだった。徹底抗戦を説く尾崎は支配層に気に入られ、1938年(37歳)、朝日新聞社を退社し、第1次近衛内閣のブレーンとなる。翌年、満鉄調査部嘱託職員として東京支社に就職(近衛内閣の中枢にはいたまま)。1941年、日米開戦の気配が次第に濃くなり、9月の御前会議で決まった「対米開戦、日本南進」の情報をゾルゲに報告。これによってソ連は日本と対峙していた極東部隊を欧州戦線へ移送可能となり、ドイツとの戦いに戦力を集中できた。
10月14日、ゾルゲ・スパイ団の活動が発覚し一斉逮捕される。近衛文麿首相は側近の尾崎の正体に仰天し、天皇に「全く不明の致すところ」「深く責任を感ずる次第に御座候」と謝罪した。1944年11月7日に、国防保安法違反などで巣鴨拘置所にてゾルゲと共に絞首刑となった。翌年、終戦。
尾崎はスパイであることを徹底して隠していたので、妻でさえ気付かなかった。“非国民”となって牢獄にいる夫に対し、妻は「私や子ども達のことを考えていない」と手紙で責めた。遺書で尾崎はこう綴った「ただ、私には迫り来る時代の姿があまりにもはっきり見えているので、どうしても自分や家庭のことに特別な考慮を払う余裕が無かったのです。というよりもそんなことを考えたとて無駄だ、一途に時代に身を挺して生き抜くことのうちに、自分もまた家族たちも大きく生かされることもあろうと真実考えたのでありました」。つまり、家族を守る為に時代を変革しようとしていたのだ。
そして追伸で冷夏に触れ「一番暑熱の必要なこの頃、この涼しさはお米のことが心配になります」と、全国の真面目な農民のことを心配し、遺書を締めた。戦後、尾崎が獄中から妻子に宛てた書簡集は『愛情はふる星のごとく』として出版されベストセラーとなった。 ※右派の中に反ファシズムの信念を持った尾崎を売国奴という人がいる。日本人としてスパイされたことが憎いのは分かるけど、大局を見て欲しい。尾崎の情報でダメージを受けたのは独ソ戦に敗れたナチス・ドイツだけ。右派はヒトラーに世界を支配して欲しかったのか。また、尾崎は戦時中の右翼と同じで対中徹底抗戦を主張した。本心はソ連を守る為だが、表面的には同じ事を言っている。その尾崎を批判するなら大東亜戦争肯定論も否定することになるけど、右派はそれでいいのか。勝算もなく開戦に踏み切り、補給を軽視して多数の兵士を餓死させた連中より、尾崎の方が売国奴とは思えない。誤解を恐れずに言うならば、お札に登場してもいいほどの人物。 ※尾崎の遺言は全文が青空文庫で公開されてマス。 |
![]() ルクソール |
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| 王位継承をめぐる政争に巻き込まれ、18歳の若さで毒殺 された悲劇の王ツタンカーメン。彼はエジプト南部ルクソー ルにある、王家の谷のこの石窟に何千年も眠っていた! ※後述の記事によると死因は骨折&マラリアとのこと |
ミイラが納まっていた黄金の棺は、現在カイロの国立 博物館で公開されている。よく盗掘されなかったものだ! |

| ●ツタンカーメンは兄妹婚の子=死因は骨折とマラリア−米医学誌 2010.2.17配信
時事通信 【カイロ時事】黄金のマスクで知られる古代エジプト王、ツタンカーメン(新王国第18王朝、紀元前14世紀)は、アクエンアテン(アメンホテプ4世)とその姉妹の1人との間に生まれ、骨折にマラリアが重なって死亡した可能性が高いことが、エジプト考古学チームによるDNA鑑定やコンピューター断層撮影装置(CT)の調査で分かった。 17日付の米医学誌「ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・メディカル・アソシエーション」が伝えたもので、最新科学で古代エジプト史の謎の一つが解き明かされた。イタリア、ドイツの専門家も加わり、ツタンカーメンを含むミイラ16体を2年がかりで調査した。 10歳で即位し19歳で早世したとされるツタンカーメンの父親は、唯一神信仰をもたらした異端の王アクエンアテンとされ、アメンホテプ3世やスメンカーラ王が父との説を否定。当時兄妹婚は一般的だった。母親の名は特定されていない。またツタンカーメンには2人の女児ができたが、いずれも母親の胎内で亡くなった。 荘厳で華麗な黄金マスクに象徴されるツタンカーメンだが、「腐骨や内反足を患い、転倒して足を骨折し、マラリアが命取りになった」という。同誌は「歩くのにつえをついていた虚弱な王だった」としている。 1922年に英考古学者ハワード・カーター氏によってエジプト南部ルクソールで王墓が発見されたツタンカーメンの死因をめぐっては、ミイラの頭蓋骨にある損傷などを根拠に他殺説も指摘されてきた。 |
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| 墓前にはカラフルな石が 敷き詰められていた |
登山を身近にした 功績は計り知れない |
| COMING SOON |
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| 2001 | 2005 |
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| 唯一無二の名優だった!! |
宮崎監督の名作『ルパン三世・カリオストロの城』収録風景。 担当キャラは、右からルパン、次元、不二子、五エ門、銭形 |
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東京生まれ。俳優エノケン(榎本健一)を尊敬していた山田は、22歳の時に早大英文科を中退して「民芸」に入団し、続いて27歳からは劇団「テアトル・エコー」に所属する。「日本人のへそ」「表裏源内蛙合戦」「珍訳聖書」「道元の冒険」といった一連の井上ひさし作品では看板俳優として好演した。一方、海外TVドラマが全盛だった60年代当時、吹き替えの役者は新劇団の若手が務めていたことから、山田は西部劇「ローハイド」のヒーローや、クリスト・イーストウッド、ジャン・ポール・ベルモンドの吹き替えを担当した。また「お笑いスター誕生」では中尾ミエと司会を担当した(デビュー当時のドリフターズに演技指導をしたという裏話も)。1995年、突然の脳出血により大田区の都立病院で急逝する。享年62歳。『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』で追悼テロップ「永遠のルパン三世 山田康雄さん ありがとう」が流された。声優とは役者の一部という信念から、若い声優に対するアドバイス--「声優を目指すな。役者を目指せ。演技は全身でするものだ」が口癖だった。
山田康雄といえば切っても切り離せないのが、1971年から放送が始まった『ルパン三世』!当初、ルパン三世の声には野沢那智や広川太一郎などの候補がいたが、「オレは信用のおける泥棒だぜ」といったキザでトボケた味わいのあるセリフを、違和感なく言いのける声優を、演出担当の大隈正秋は、なおも必死で探していた。その時、井上ひさしの『日本人のへそ』に出演中だった山田(当時38歳)を発見、電気が走ったという。
「舞台狭しと軽やかに飛び回り、時にニヒルで、どこかに暗さがあって、まさに僕の思い描いていたルパンがそこにいた、その男こそ山田康雄です」(大隈正秋)
「“ルパンやんない?”“やるッ”、これで決まり。原作のまんが読んでて、すごく好きだったし」(山田康雄)
以降、彼は日本一有名な声優として知られることになった。
●次元役の小林清志が語る思い出〜「ルパン三世よ永遠に・山田康雄メモリアル」(徳間書店)から
『ある収録の時である。「ドリフターズ」の長さんが、顔を出した。続いてドリフの面々が顔を出す。口をそろえて、「山田さん、どうも。」と挨拶をしにくる。隣のスタジオで連中が仕事をしていたらしいな。なにせ小生の息子が、当時夢中になってテレビにかじりついて見ていた人気者たちを、直に見たから小生も、興奮の極みである。ヤスベエ(山田康雄)はというと「よう、お前たち頑張ってるか、おい」ってなもんである。どうしたもんだ、これ。何か、いわくがあるなと思って聞いてみたら、ドリフの面々のデビューしたてに、なんと演技指導をしたというのだから、そりゃ挨拶にやってくるわな。納得。榎本健一さん、エノケンさんを崇拝していたというヤスベエのこと。そういう世界の名人っちとの交流もあったのは、当然のことと言えよう。
それから苦言まじりにひとこと。最近のアニメの番組制作のなかで気になるのは、線画だけ、色も動きも口の動きもひどい時にはどんな人物なのかわからない仕上がりで声を入れなければならない場合が多い。それまでのスタッフの苦労も充分わかるのだが、なんとかならないかなぁと思う。しかし「ルパン三世」に限っては、それがないのだ。これは山田康雄が口をすっぱくして、スタッフに要望した結果である。 ともかく、愛すべき、そして見事なルパンを作りあげた男、山田康雄に、乾杯!』 |

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| 『鬼の上前をはねる奴』は 実に上手いキャッチ・コピー |
夕日の中にたたずむ安倍晴明。墓所は住宅街の中にあり 非常に分かりにくい。式神を使って根性で探そう(2001) |
正面に五芒星 (ごぼうせい)が! |
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| 2007年、6年ぶりに再訪! |
“陰陽師”ではなく“陰陽博士” と墓前には刻まれている |
その後、いかがお過ごしですか |
缶コーヒー(BOSS)とワインという 微妙な組合わせで供えられてた |
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| 2010年、3年ぶり3度目の巡礼。よく晴れた! | 季節は6月。緑が目に眩しい! | 初めて後方から激写。小さな五芒星で囲まれている |
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| 京都市上京区の晴明神社 | 鳥居の真ん中には五芒星! |
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| 晴明神社の本殿。五芒星尽くし!左右の提灯にも! | 屋根の下の照明にも! | 屋根の上にはダブルで五芒星! |
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| 夢枕獏、京極夏彦、荒俣宏、岡野玲子が 名前を連ねた豪華絵馬!欲しいッ! |
野村萬斎!他にも沢口 靖子、今井絵理子等々 |
晴明と式神の顔出しパネル(笑) テーマパーク状態 |
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| 神社境内に移されてきた旧・一条戻橋 | 式神がいた! | 現・一条戻橋。晴明はこの橋の下に“式神”を隠してた |
| 「その占いの効果、神の如し」「わが国第一の陰陽家」と言われた平安時代の天才陰陽師。鎌倉から明治初期まで宮廷の陰陽寮(天文・暦のことを司る役所)を統括した安倍氏(土御門家)の祖。父は阿倍仲麻呂の子孫を称する下級貴族で、宮中の食事を担当した大膳大夫、安倍益材(ますき)。母は巫女といわれているが、白狐が人間に化けた葛乃葉(くずのは)という伝説もある。出身地は大阪説、讃岐説、茨城説など複数あるが、大阪市阿倍野区の安倍晴明神社には生誕地の碑(ただし江戸中期に建立)と晴明の産湯の井戸の跡があり、中世の人々は土地の名前を名字にしたので「阿倍野区」説はなかなか説得力がある。またこの神社には「晴明の生誕地へ帝が神社を建てさせた」という記録も残っている。 晴明がどんな青春期を送ったのかハッキリした記録はないが、没後まもなく編纂された『今昔物語集』では、当時最高の陰陽師、賀茂忠行&保憲父子に陰陽道を学んだとされている。何歳で結婚したのかは不明だが、33歳の時に長男吉平が生まれている。 ※若い頃の晴明を『今昔物語集』はこう記す…ある夜、師匠・忠行が牛車で出かけた時に晴明がお供でついて行くと、前方から恐ろしい鬼の群れ、百鬼夜行がやって来るのが見えた。晴明が師匠に報告すると忠行は隠形呪文で自分たち一行の姿を鬼の視界から隠して無事にやり過ごした。忠行は鬼を見ることが出来る晴明の素質に惚れ込み、自身のすべての知識を受け継がせたと言う。(今昔物語巻二十四 安倍晴明、忠行に随ひて道を習ふ語、第十六) 当時の日本では科学と呪術(占い)がワンセットであり、宮廷には天体観測を基に国家の吉凶を占う役職“天文博士”があった。そして朝廷は、年中行事を成功させるために、儀式の日をいつにすれば縁起がいいのかを占わせた。「天の意志」を読み取った天文博士は、予測した未来の情報を極秘裏に天皇へ伝えた。晴明の陰陽道の師匠・賀茂保憲は同時に天文博士でもあり、960年(39歳)、師が天文博士を引退した時に、彼は天文博士の見習い、天文得業生となった。 晴明は唐に渡って、陰陽道の本場城刑山で伯道仙人に学び、帰国すると日本独特の陰陽道を築き上げる。972年(51歳)、12年間の修業を経て天文博士となった。晴明は6代の天皇(朱雀、村上、冷泉、円融、花山、一条)や藤原道長の信頼を集め、58歳で那智山の天狗を封ずる儀式を行ったり様々な記録を残している。晴明は天文博士の一方で陰陽師としても名を極め、呪術によって式神(鬼神)を自在に操るなどして、宮廷内の政争に一役買うことも少なくなかった。※晴明は、青龍、勾陳、六合、朱雀、騰蛇、貴人、天后、大陰、玄武、大裳、白虎、天空という12体の式神を下僕として使役させていたという。 後年は主計権助、大膳大夫、左京権大夫、播磨守などの官職を歴任し、最晩年の1001年(80歳)には従四位下まで出世した。晴明は一代にして超一流の陰陽師として天下に名を成し、2人の息子も優秀な陰陽師に育ったことから、阿倍家は師匠である賀茂家と並んで2大陰陽家となった。 ※賀茂家は晴明が台頭するまでずっと天文道と暦道を担当していたが、保憲はあまりに晴明が賢い弟子なので、晴明には天文道、息子の光栄には暦道と分けて教えた。晴明の次男は晴明でさえなれなかった「陰陽頭」にまで出世している。 晴明は邸宅を平安京の鬼門に当たる北東に構え、都に侵入しようとする魔物や邪鬼を防いでいた。そうして1005年、84歳という当時ではかなりの長寿で人生の幕を閉じた。没後、晴明を惜しみ、彼に対する生前の官位が低すぎたと感じた時の天皇は、京都晴明町の住居跡を「晴明神社」に、大阪の生誕地を「安倍晴明神社」とした(晴明が稲荷大明神の化身と信じられていたことも神社で祀られる理由の一つ)。晴明桔梗印(五芒星)と呼ばれる祈祷呪符が神紋になっている。 晴明の墓は京福嵐山線嵯峨駅から南へ徒歩5分の角倉町、長慶天皇陵の横。墓の裏側は角倉神社。墓所までは細い路地裏が続くので迷いやすい。角倉町に入ったら地元の人に尋ねよう。命日の9月26日には毎年墓所祭が催されている。 晴明の伝説は『信田妻(しのだづま)』『蘆屋道満大内鑑』など文楽や歌舞伎になりいっそう世に広まった。1993年にはマンガの主人公となり、生誕1080年目(2001年)にはついに映画の中で大活躍した。 【晴明伝説】 晴明が他界した後、かなり早い段階から“鳥が話す言葉が分かった”など、その存在は伝説化されていた。晴明に関する逸話は『古事談』『大鏡』『宇治拾遺物語』『古今著聞集』『今昔物語集』『體源抄』『日本紀略』『権記』『平家物語』『大江山絵詞』『元亨釈書』『源平盛衰記』『発心集』など、文献は多岐にわたっており、いかに当時の晴明がスーパー陰陽師だったかを雄弁に語っている。 伝承で最も有名なのは先述した『今昔物語巻二十四 第十六』。鬼の一群とすれ違う話以外にも、色々なエピソードが記されている。例えば… ・陰陽道を身につけて得意になった僧侶(智徳法師)が、噂に聞こえる晴明の実力を確かめようと自分の式神を連れて会いにいったら、晴明に式神を隠されてしまい、彼に謝って出してもらう話。 ・仁和寺の僧侶らが晴明の力を試そうとして、陰陽術で庭先の蛙を殺すよう要求した。晴明は「罪作りなことを…」と言いつつ草の葉に呪文をかけて蛙に投げると、蛙は葉の下でペチャンコになった。僧侶らは真っ青になって震え上がった。 ・晴明は客がいない時には家で式神を家事に使っており、人影がないのに勝手に戸が上下し、門が開閉していた。 他の文献でよく知られているのは… ・雨が降ると頭痛に苦しむ花山天皇について、晴明は天皇の前世の頭蓋骨が野ざらしで岩に挟まっていると指摘、実際にその通りで、雨が降ると岩が膨張し骨がきしんでいた。骨を取り出したら頭痛は治った。(古事談) ・天体の異様な動きから天皇が退位し出家することを予知。(大鏡) ・藤原道長が外出しようとすると愛犬に止められた。晴明は式神の攻撃を犬が察知したと判断。果たして道を掘り起こすと道長を呪う土器が埋められていた。晴明が紙を鳥形に折って空に投げ上げると式神=白鷺に変身して南へ飛び、犯人の陰陽師・蘆屋道満(あしやどうまん、道摩)の家に落ちた。道満は自分の黒幕が道長の政敵・藤原顕光であることを白状したので、道長はこれを赦して故郷播磨へ追い返した。(宇治拾遺物語 御堂関白の御犬晴明等奇特の事) ※道満は能力のある民間陰陽師で晴明のライバルと伝えられている。一条戻橋で道満に父を殺された晴明は、術を駆使して父を蘇生させた。この橋は今でも現存し、晴明は自分の式神2人をこの橋の下に普段は隠していたという(妻が式神を不気味がるんだって)。 ※晴明の著書に「占事略決」がある。 ※奈良・安倍文殊院境内の小高い丘(展望台)は、かつて晴明が天文観測を行った場所と伝えられている。 ※晴明神社のある場所はかつて千利休の屋敷があり、利休が自害して果てた終焉の地でもある。 ※ちなみにマンガ『陰陽師』で晴明の親友として登場する音楽好きの源博雅は実在の人物で、晴明よりも3歳年上の918年生まれ。966年(48歳)、「長秋譜」を作曲し、「博雅笛譜」「長竹譜」を作成した。980年に62歳で亡くなっている。今昔物語集でも源博雅は琵琶“玄象”を探して活躍する。 |
この3賢者(カスパール、メルキオール、バルタザール)のことを、新約聖書では「マギ」と呼んでいる。 ・カスパール(没薬)は白髪白髭の老アラブ人。象徴は受難(死)と信仰。 ・メルキオール(黄金)は青年のインド人。カスパールの弟。象徴は王権と愛。 ・バルタザール(乳香)は中年のエジプト人。象徴は神性と善行。 |
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| この一帯はすべてピュリツアー家!大帝国! (写真では後列左から2番目がジョセフ) |
“あのう、実は密かにピュリツアー賞を狙っている んですが…ゴニョゴニョ”と本人に直談判!(笑) |
こっちは2000年に間違えて巡礼した息子の墓。 帰国後に「SON OF」ってあるのをみて絶句した! |

| 生け花・草月流創始者。本名はナ一(こういち)。東京生まれ。木の根を使ったり、鉄、プラスチック、コンクリート、動物の頭蓋骨、とっくり、ヤカンなど斬新な素材との組み合わせで「前衛生け花」ブームを巻き起こす。1955年(55歳)に渡欧すると、生け花と彫刻を融合した作風が海外でも話題を集め、ミロやダリが讃え、タイム誌は“花のピカソ”と呼び、生け花界のカリスマとなった。華道500年の伝統を破壊した蒼風は、岡本太郎や写真家・土門拳らとも連帯して前衛運動を繰り広げ、78歳で他界した。「生け花は、生きている彫刻である。生け花は、生命を持った花の彫刻である」(蒼風)。 |
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| 平家の滅亡と運命を共にした幼き天皇。「安徳天皇阿弥陀寺陵」は壇ノ浦にある | 平時子の墓(清盛の妻) |
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| “食”の大巨人 | 墓地入口の池を右折、坂道を登った一番奥に眠る | 詩人の三好達治も愛用した魯山人の陶磁器 |
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| 料理研究家だけでなく、陶芸家、 画家、書道家など、多様な顔を 持っていたマルチ・アーティスト |
魯山人曰く「食器は料理の着物」。彼は自ら器も焼いた。 北大路家は地元の名士。同家の墓が多数あった。 この魯山人の墓所は近年に整備されたばかりとのこと |
石碑に刻まれた言葉は「春来草自生」。 意味は“春来たらば草おのずから生ずる”。 ※情報を下さったKさん、有難うございました! |
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京都出身。本名、北大路房次郎。父は訳あって魯山人の誕生と共に自刃しており、里子に出された。転々と家を移り、6歳で木版師の養子に入る。小学校卒業後、薬屋の丁稚奉公となった。当初は画家を目指したが書に才能を発揮し、1903年(20歳)に上京。いきなり翌年の日本美術展覧会にて一等に選出され注目を集める。1908年(25歳)、中国に渡って篆刻(てんこく、印判)を学び、新たな才能を開花させた。2年後、彼の才能に惚れ込んだ人物から、長浜や金沢で創作環境を提供され、書や篆刻を極めていく。この過程で竹内栖鳳や土田麦僊など日本画壇の巨匠とも知遇を得、交流を重ねていった。
魯山人は各地に逗留するうちに料理(美食)の造詣を深め、「食器は料理の着物」として自ら陶磁器を自作し始める。1921年(38歳)、東京に美術店を持ち、会員制食堂の「美食倶楽部」をスタート。42歳、赤坂に会員制高級料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」)を開き、自身が厨房に立って腕をふるった。1927年(44歳)、鎌倉に窯を持って作陶に本腰を入れ、翌年に三越で陶磁器の個展を催した。1936年(53歳)、魯山人の美学へのこだわりが周囲との衝突を生み、星岡茶寮との関係が切れる。
やがて戦火が激しくなり苦しい生活を送るが、1946年(63歳)に再起を賭けて銀座に開いた陶器店が人気を呼び、1954年(71歳)にはロックフェラー財団の招待で欧米の美術館を巡った。海外では自作の展覧会や講演も行ない、ピカソやシャガールとも会う。翌年(72歳)、織部焼の人間国宝に指定されるも辞退。その4年後、1959年に肝硬変により他界した。享年76歳。 生涯に6度も結婚したり、フランスの名門レストラン「トゥール・ダルジャン」にて手持ちのワサビ醤油で鴨料理を食すなど、その奔放な生き方も含めて(相当な毒舌家だった)、人々に強烈なインパクトを残して旅立った。
※グルメ漫画「美味しんぼ」の海原雄山は魯山人がモデル! |
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| 案内板に“よこかわしょうぞうぼしょ” | 盛岡に生まれ、東京、アメリカ、中国と渡り、ロシアで銃殺された激動の人生 |
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| 敵から尊敬された | 東京の青山霊園にも墓はあるけど… | 植物の侵攻が激しい(2010) |
| 明治期の新聞記者、特殊工作員。南部盛岡藩出身。旧名、三田村勇治。南部藩士の父は北方警備で滞在した函館でニコライ神父に感化されキリスト教に入信し、その影響で省三も熱心なキリスト教徒に。1884年(19歳)、横川家の婿養子となる。2ヶ月後、単身上京し自由民権運動の闘士となり、加波山(かばさん)事件=要人暗殺未遂事件に係わった同志を匿ったことで犯人隠匿罪に問われ1年9ヶ月投獄される。獄中で聖書や荘子を読み耽るなか、自分は1日に三度は反省すべき人間であると考え、名前を勇治から省三に改名した。 釈放後、自由民権論者は保安条例によって東京から追放された為、故郷の岩手に戻る。妻子を養うために朝日新聞の記者となり、1893年(28歳)、海軍大尉・郡司成忠(幸田露伴の兄)の千島列島探検隊に同行取材し探検記を連載、好評を博す。翌1894年、日清戦争が勃発。省三は海軍従軍記者となり、ジャーナリストとして名声を高めた。1896年(31歳)、辞表を出して翌年サンフランシスコに渡り開拓事業を始めるが、日本人移民社会の教養レベルを上げる必要性を痛感し、米国で2番目の邦字新聞社“北米日報”を設立する。 2年後に岩手の妻が重病(肺結核)という知らせが届き帰国、妻の最期を看取った。この帰国途上でハワイに移住した日本人が奴隷状態になっているのを目撃し、妻の葬儀後にハワイに戻って待遇改善のストライキを指導した。1901年(36歳)、北京に派遣された清国公使の内田康哉から手腕を見込まれ、大陸へ呼ばれて機密活動を託される。1904年に日露戦争が始まると、省三は特別任務班第六班班長となった。ロシア軍はシベリア鉄道を大動脈として兵員、弾薬を極東へ送り届けることから、省三はシベリア鉄道の爆破任務に志願。蒙古の僧侶(ラマ僧)に変装し、約50日をかけて満州チチハル付近まで潜入するが、そこで天幕の敷物の下に隠していた爆薬をロシア警備隊に発見された。 省三と沖禎介はハルピンに護送された後に軍法会議にかけられ、スパイ罪で銃殺刑を言い渡される。当初は民間人としての絞首刑だったが、省三は軍人として名誉ある銃殺刑を希望し許可された。高潔な人格に惚れたロシア軍大佐が同情し、総司令官クロパトキンに減刑を進言したが、クロパトキンは「仮に赦しても日本の軍人は捕虜とならずに自決する。野に亡骸を放置するよりも、むしろ敬意を払い銃殺せよ」と答えた。 処刑当日、2人の娘への遺書を書き終えた省三は、所持金全額となる500両をロシアの赤十字社に寄付する旨を裁判官メジャークに伝えた。メジャークはこの申し出に驚き、遺族に送ることが可能なことを説明したが、省三は(1)500両は公金であり個人のものではない(2)遺族は天皇や国民が必ず助けてくれる(3)日本軍の砲弾で負傷した貴国将兵に対する敬意である、と理由を述べて“どうか納めて欲しい”と譲らなかった。 銃殺に際し、指揮官シモノフは「射撃用意!愛を持って撃て」と部下に命令した。享年38歳、波瀾万丈の人生だった。 省三の死の30年後(1934年)、シモノフは盛岡へ省三の長女を訪ね、涙と共に「父上の立派な最期を伝えに来た」と語ったという。 |
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