思想家のお墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

思想家(国内)コーナー


★34名


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一休の墓
一遍上人の墓
内村鑑三の墓
栄西の墓
大塩平八郎の墓
岡倉天心の墓
片山潜の墓
行基の墓
空海の墓
空也上人の墓
幸徳秋水の墓
最澄の墓
嵯峨天皇の墓
坂本龍馬の墓
俊寛の墓
親鸞の墓
沢庵和尚の墓
武市半平太の墓
天海僧正の墓
道元の墓
中江兆民の墓
日蓮の墓
橋本左内の墓
長谷川如是閑の墓
平塚らいてうの墓
福沢諭吉の墓
法然の墓
細川ガラシアの墓
明恵上人の墓
由比正雪の墓
吉田松陰の墓
蓮如の墓



★大塩 平八郎/Heihachirou Ooshio 1793.1.22-1837.3.27 (大阪市、北区、成正寺 44歳)1999&2008







武士であり学者でもあった 進撃する大塩たち。中央、3門の大砲をひくのが見える 日本一タフなおやっさん





労をねぎらいカロリーメイトを献上

大塩の墓よりも、側にあった『大塩の乱に殉じた人々の
碑』の方が、遥かに大きかった。あくまでも民衆第一!
江戸時代、“大罪人”大塩の墓を
造ることは許されなかったという



大阪のド真ン中にある成正寺 08年に再訪。境内が整備されて激変!キレイになってた 手前が殉死碑、奥に見えるのが大塩父子

江戸後期の陽明学者で大塩の乱の首謀者。大阪出身。父は大阪町奉行所与力(よりき)で大塩家は禄高200石の裕福な旗本だった。号は中斎。幼くして父母を失い、祖父母に育てられる。13歳頃、与力見習いとして東町奉行所に出仕、1818年(25歳)正式に与力となる。「与力」は今で言う警察機構の中堅。署長が奉行で、与力は部下の「同心」たちを指揮している。翌年には吟味役(裁判官)となり、裁定に鋭い手腕を発揮した。大塩は20代から陽明学を学んでおり、職務を通して陽明学の基本精神“良いと知りながら実行しなければ本当の知識ではない”を実践していく。
大塩が吟味役となって驚いたのは、奉行所がとてつもなく腐敗していたことだった。ある日、彼が担当した事件で当事者から菓子折りが届いた。中味は小判という“金のお菓子”だった。これが日常茶飯事であるばかりでなく、同僚の中には自ら賄賂を要求する者が多数いることを知り愕然とする。捜査に手心を加えることも、半ば公然と行なわれていた。つまるところ、奉行所は腐りきっていた。

内部告発の為に証拠を集める大塩は、西町奉行所(奉行所は東と西がある)にとんでもない与力がいることを知る。この弓削という男は裏社会の犯罪組織のボスで、手下に恐喝や強盗、殺人まで行なわせて自身は遊郭で遊び暮らし、与力という立場を利用して捜査を妨害する大悪党だった。
大塩は徹底的に戦う決意をし、大阪各地に潜伏する弓削の手下を片っ端から摘発、弓削のシンジケートを壊滅させた。弓削は自害し、大塩は没収した3千両という莫大な金銭を貧民への施し金とした。ところが事件はこれで収まらなかった。捜査の過程で、複数の幕府高級官僚が不正に加わっていた証拠を掴んだのだ!「余計なことをするな」「大人しくしていろ」と幕府中枢部から圧力を受けた大塩は、身の危険を感じて同棲中の恋人を親戚の家に匿ってもらい、腹をくくって巨悪に立ち向っていった。
1830年(37歳)、大塩が不正行為を暴いた一大スキャンダルの裁決が発表される。それは大塩を深く失望させる内容だった。幕府高級官僚の悪事は揉み消され、小悪党の3名が遠島や改易処分になってこの事件は幕が下ろされた。そして処分の一ヵ月後、大塩を陰ながら応援してくれていた上司が辞任。これに連座する形で、名与力として人望を集めていた大塩も、職を養子・格之助に譲って奉行所を去った。こうして大塩の25年にわたる奉行所生活が終わった。

これに先立つ5年前(1825年)、大塩は32歳の時に、私塾『洗心洞』を大阪天満の自宅に開いていた。教えていたのは陽明学。彼は学者としても広く知られており、与力や同心、医師や富農にその思想を説いていた。塾の規律は厳しく、朝2時に講義が始まり、真冬でも戸を開け放していたが、門弟は増える一方だった。奉行所を隠居した大塩は、一介の学者として学問の道を究めようとし、1833年(40歳)“知”は“行動”が一致して初めて生きるとする「知行合一」を説いた『洗心洞剳記(さつき)』を刊行する。大塩は著作の最後を「口先だけで善を説くことなく善を実践しなければならないのだ」と締めくくり、門弟と共に富士山に登り同本を山頂に納めた。

1833年(40歳)、冷害や台風の大被害で米の収穫量が激減し、米価は高騰した。凶作は3年も続き餓死者が20〜30万人に達する。世に言う「天保の大飢饉」だ。1836年(43歳)、商都大阪でも街中に餓死者が出る事態となり、大塩は時の町奉行・跡部良弼(老中・水野忠邦の弟)に飢饉対策の進言をする。凶作とはいえ“天下の台所”大阪には全国から米が集まってくる為、庶民は飢えていても米問屋や商家にはたっぷり米があったからだ。「豪商たちは売り惜しみをして値をつり上げている。人々に米を分け与えるよう、奉行所から命令を出してはどうか」と訴えたが、跡部は耳を貸すどころか「意見するとは無礼者」と叱責する始末。

さらに大塩を憤慨させることが。将軍のいる江戸に米をどんどん流して点数を稼ぐ為、奉行所は大阪に搬入されるはずの米を兵庫でストップさせ、それを海上から江戸に送っているというのだ。しかも米価を吊り上げ暴利を得ようとする豪商と結託しているからタチが悪い。飢饉につけ込む豪商らの米の買占めで、大阪の米の値段は6倍まで急騰した。一方で奉行所は大阪の米を持ち出し禁止にし、京や地方から飢えて買い付けに来る者を牢屋に入れ厳罰に処した。もうメチャクチャだ。あくまでも出世の為に組織の論理を優先し、利己的な考えに終始する為政者たち。

日々餓死者が出ているのに何の手も打たない大阪町奉行。大塩は三井、鴻池ら豪商に「人命がかかっている」と6万両の義援金を要請したが、これも無視された。「知行合一、このまま何もしなくていい訳がない」。大塩は言葉が持つ力を信じていたし、けっして武力を信奉する人間ではない。しかし、事態は一刻を争った。窮民への救済策が一日遅れれば、一日人命が失われる…。12月。ことここに及んで、大塩はついに力ずくで豪商の米蔵を開けさせる決心をした。堺で鉄砲を買い付け高槻藩からは数門の大砲を借りた。大塩が睨む最終目標は、有り余るほど大量の米を備蓄していた「大阪城の米蔵」だ。

蜂起の前に大塩は、門下生や近隣の農村に向けた木版刷りの檄文(げきぶん)を作成する。「田畑を持たない者、持っていても父母妻子の養えない者には、市中の金持ちの商人が隠した金銀や米を分け与えよう。飢饉の惨状に対し大阪町奉行は何の対策を講じぬばかりか、4月の新将軍就任の儀式に備えて江戸への廻米を優先させ一身の利益だけを考えている。市中の豪商たちは餓死者が出ているのに豪奢な遊楽に日を送り、米を買い占め米価の吊り上げを謀っている。今こそ無能な役人と悪徳商人への天誅を為す時であり、この蜂起は貧民に金・米を配分するための義挙である」。
1837年1月。大塩の同志連判状に約30名の門下生が名を連ねた。内訳は与力や同心が11名、豪農が12名、医師と神官が2名ずつ、浪人1名、その他2名。役人と百姓が主軸だ。

2月、民衆の窮状を見るに見かねた大塩は、学者の自分にとって宝ともいえる5万冊の蔵書を全て売り払い、手に入れた六百数十万両を1万人の貧民に配った(奉行所はこれをも“売名行為”と非難した)。そして檄文を周辺4カ国の貧農に配付した。そして一切蜂起の日時を、新任の西町奉行が初めて市内を巡回する2月19日、町奉行が大塩邸に近づく夕刻とした(2月の夕刻なら陽も落ち、闇に乗じて攻撃できる)。
決起の前日、大塩は幕府の6人の老中に宛て、改革を促す書状を送った。蜂起後に江戸へ届くはずの文面はこうだ。「公然と賄賂をとる政治が横行していることは、世間の誰もが知っているのに、老中様たちはそれを存知ながら意見すらおっしゃいません。その結果 、天下に害が及ぶことになったのです」。仮に蜂起が失敗しても、心ある老中が一人でもいれば改革を行なってくれるかも知れない、そう願った。
※この書状は何者かの手によって、後日山中に打ち捨てられていた。

●大塩の乱

蜂起当日の午前4時。門弟の与力2人が裏切り、計画を奉行所へ密告した。当直で奉行所に泊まっていた別の門弟が「バレた!」と大塩に急報する。事態急変を受け、大塩は午前8時に「救民」の旗を掲げて蜂起した!朝の大阪に大砲の音が轟く。計画が早まり仲間が集まらず最初は25人で与力朝岡宅を砲撃し、続いて洗心洞(大塩邸)に火を放った。「天満に上がった火の手が決起の合図」と伝えていたので、近隣の農民が次々と駆けつけてきた。70名になった大塩たちは、鴻池善右衛門、三井呉服店、米屋平右衛門、亀屋市十郎、天王寺屋五兵衛といった豪商の邸宅を次々と襲撃し、奪った米や金銀をその場で貧民たちに渡していった。難波橋を南下し船場に着いた昼頃には町衆も多く混じり300人になっていた。島原の乱から200年目の武装蜂起は街のド真ン中で起きた。次なる目標は大阪町奉行、そして大阪城!「救民」の旗をひるがえし進軍する大塩たち。
※出陣した東西の町奉行が砲声に驚いた馬から振り落とされ、こんな歌が流行った。「大阪天満の真ん中で、馬から逆さに落ちた時、こんな弱い武士見たことない、鼻紙三帖ただ捨てた」。

しかし、正午を過ぎると奉行側も反撃の態勢が整い、大阪城からは2千人規模の幕府軍が出てきた。幕府軍の火力は圧倒的だ。砲撃戦が始まると民衆は逃げ始め、大塩らは100余名になった。100対2000。私塾の門下生と正規軍では勝負にならない。大塩一党は砲撃を浴びながら淡路町まで退き、二度目の総攻撃を受け夕方には完全に鎮圧された。しかし火災は治まらず翌日の夜まで類焼し、「大塩焼け」は大阪中心部の5分の1(約2万軒)を焼き尽くした。

事件後の執拗な捜査で門下生たちは軒並み捕縛されたが、大塩と養子の格之助だけは行方を掴めなかった。最終的に、約40日間逃走した後、3月27日に市内靱油掛町の民家に潜伏しているところを包囲され、大塩父子は自ら火を放つと火薬を撒いて爆死した。享年44歳。
この乱で処罰された者は実に750人に及ぶ。重罪者31人のうち6名は自害、2名は他殺、1名は病死、そして17名は1ヶ月の間に獄中死している。仲間の名を吐かせる為に過酷な拷問が行なわれたと見られる(大塩の恋人も獄中死)。刑の執行まで生存していた者は、わずかに5人だった。
大塩には逃亡中に最も重い判決「重々不届至極」が下っており、幕府は爆死して黒焦げになった大塩の遺体を塩漬け保存し、門弟20人(彼らも遺骸)と共に磔(はりつけ)に処した。※ムゴすぎる…。

幕府はこの騒動が各地に波及するのを恐れ、反乱の実態を隠し「不届き者の放火騒ぎ」と封印しようとした。しかし、大塩が1ヶ月以上も逃亡したことで、広範囲に手配せざるを得なくなり、乱のことは短期間に全国へ知れ渡った。しかも爆死したことで人相確認が出来なかったことから、「大塩死せず」との噂が各地に流れてしまう。
乱から2ヵ月後の4月に広島三原で800人が「大塩門弟」を旗印に一揆を起こし、6月には越後柏崎で国学者の生田万(よろず)が「大塩門弟」を名乗って代官所や豪商を襲い(生田万の乱)、7月には大阪北西部で山田屋大助ら2千人の農民が「大塩味方」「大塩残党」と名乗って一揆を起こした。この様な大塩に共鳴した者の一揆や反乱がしばらく続いた。
大阪周辺の村に対して、奉行所は大塩の「檄文」を差し出すよう命じたが、農民たちはこれに従わず、厳しい監視の目をかいくぐって写筆し各地に伝えていった。

薩摩や長州といった巨大な大名でさえ、幕府に対して従順であるしかなかったこの時代に(龍馬はまだ2歳)、一個人が数門の大砲を用意して、白昼堂々と大阪の中心街でブッ放し、豪商の米蔵を打ち壊しながら奉行所や大阪城襲撃を目論んだ。誰がこんな事態を想像できよう。この事件は徳川政権を大きく揺さぶり、幕府の権威が地に落ちていることを全国に知らしめた。
とはいえ、大塩らが幾ら鉄砲や大砲を揃えた所で、幕府を敵に回して勝ち目などある訳がない。密告がなく予定通り決起しても、敗北が早いか遅いかの違いだ。大塩もそれが分かっているからこそ、蜂起前に資産を処分して貧民に配ったのだろう。要するに、一身を犠牲に庶民の救済を求め立ち上がったのだ。それはあの朝集まった25名の門下生も同じだ。だからこそ、大火で焼け出された人々は、大塩らに怒りをぶつけるどころか、「大塩さま」と呼んでその徳を称えた。※事件後、市中で大塩を賞賛したとして数十名の逮捕者が出ている。

大塩の先祖は家康から直々に愛用の弓を賜ったという直参の旗本。彼は真面目に与力という要職を勤め上げ、ずっと体制側にいた元幕府役人だ。そんな男が幕府の政治に反抗したという事実は、幕府だけでなく諸大名にも強烈な衝撃を与えた。たとえ半日で鎮圧されても、彼らの死は無駄ではなかった。つまり、幕政に不満を持つ人々に、それまでは考えもしなかった“幕府は刃向かえるもの”という選択肢を心の中に芽生えさせた。これは30年後の明治維新へと繋がっていく。


●墓
江戸時代、“大罪人”大塩の墓を造ることは許されなかった。維新から30後にようやく建立されたが大阪大空襲で破壊、1957年に有志が墓を復元した。感動したのは、大塩父子の墓よりも、側にあった『大塩の乱に殉じた人々の碑』の方が、遥かに大きかったこと。あくまでも民衆第一。後世に建てられたものとはいえ、墓にまでその思想が徹底しているように見えた。
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●大塩が撒いた檄文から(原本は長文なので一部抜粋)

役人はただ下々の人民を悩まして米金を取立る手段ばかりに熱中し居る有様。大阪の奉行並びに諸役人共は万物一体の仁を忘れ、私利私欲の為めに得手勝手の政治を致し、江戸の廻し米を企らみながら、天子御在所の京都へは廻米を致さぬのみでなく五升一斗位の米を大阪に買ひにくる者すらこれを召捕るといふ、ひどい事を致している。何れの土地であつても人民は徳川家御支配の者に相違ないのだ、それをこの如く隔りを付けるのは奉行等の不仁である。

大阪の金持共は年来諸大名へ金を貸付けてその利子の金銀並に扶持米を莫大に掠取つていて未曾有の有福な暮しを致しおる。彼等は町人の身でありながら、大名の家へ用人格等に取入れられ、又は自己の田畑等を所有して何不足なく暮し、この節の天災天罰を眼前に餓死の貧人乞食をも敢て救はうともせず、その口には山海の珍味結構なものを食ひ、妾宅等へ入込み、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘引してゆき、高価な酒を湯水を呑むと同様に振舞ひ、この際四民が難渋している時に当つて、絹服をまとひ芝居役者を妓女と共に迎へ平生同様遊楽に耽つているのは何といふ事か。
天下の為と存じ、血族の禍を犯し、此度有志の者と申し合せて、下民を苦しめる諸役人を先づ誅伐し、続いて驕りに耽つている大阪市中の金持共を誅戮に及ぶことにした。そして右の者共が穴蔵に貯め置いた金銀銭や諸々の蔵屋敷内に置いてある俸米等は夫々分散配当致したいから、摂河泉播の国々の者で田畑を所有せぬ者、たとひ所持していても父母妻子家内の養ひ方が困難な者へは右金米を取分け遣はすから何時でも大阪市中に騒動が起つたと聞き伝へたならば、里数を厭はず一刻も早く大阪へ向け馳せ参じて来てほしい、これは決して一揆蜂起の企てとは違ふ。

此度の一挙は、日本では平将門、明智光秀、漢土では劉裕、朱全忠の謀反に類していると申すのも是非のある道理ではあるが、我等一同心中に天下国家をねらひ盗まうとする欲念より起した事ではない、それは詰るところは殷の湯王と周の武王、漢高祖、明太祖が天誅を執行したその誠以外の何者でもないのである。若し疑はしく思ふなら我等の所業の終始を人々は眼を開いて看視せよ。ここに天命を奉じ天誅を致すものである。

 天保八丁酉年 摂河泉播村々 庄屋年寄百姓並貧民百姓たちへ

※「飢饉は天災ではなく人災である」(大塩平八郎)



★坂本 龍馬/Ryoma Sakamoto 1835.11.15-1867.11.15 (京都市、東山区、霊山護国神社 32歳)1999&07
★中岡 慎太郎/Shintaro Nakaoka 1838.4.13-1867.11.17 (京都市、東山区、霊山護国神社 29歳)1999&07

●龍馬像&生誕地碑(高知)



高知市桂浜の龍馬像。
この角度だと巨大さが分かる
高さが台座を含めて13.5m。銅像としては日本一の高さだ。
正面は太平洋。海の彼方を見つめ何を思う(2008)


龍馬像の足下から階段を下りると広い浜辺だ 高知市上町の「坂本龍馬生誕地」。ここで生まれた脱藩者が体一つで歴史を変えていく

●寺田屋(京都)



維新の志士が集い、数々の歴史的事件の目撃者となった寺田屋 襖の向こうが寺田屋事件の際の龍馬の部屋。他の部屋は今も宿泊可能だ









高杉晋作から贈られ龍馬が愛用した
「S&Wモデル2アーミー33口径」の模型
「龍馬の部屋」は龍馬ゆかりの品が展示されている

龍馬が撃った弾痕?



お龍が入っていたお風呂と、龍馬へ危機を告げるために駆け上がった階段
※実は寺田屋は戊辰戦争で燃えているので、忠実に復元されたものッス(汗)
伏見区松林院に眠る寺田屋
の女主人、お登勢さんの墓

●龍馬&お龍像(鹿児島)





鹿児島市に建つ坂本龍馬新婚の旅碑
(2008)
名前がよく似た龍馬とお龍。2人は日本で最初の新婚旅行をした事で有名。
薩摩での3ヶ月は龍馬の生涯で最も平和な時間だった※1年半後に暗殺
お龍さんはこの角度が
マジで最高 (*^v^*)

●いろは丸事件(広島)



広島県、鞆(とも)の浦。龍馬たち海援隊の「いろは丸」はこの沖合いに沈んだ
※この港町は『崖の上のポニョ』のモデルになったことでも知られる

慶応3年(1867)4月23日、広島・鞆の浦沖にて龍馬率いる海援隊蒸気船「いろは丸」と紀州藩の蒸気船「明光丸」が衝突し、「いろは丸」は海の底に沈んだ。龍馬たちは鞆の浦の「桝屋清右衛門宅」を宿にし、「魚屋萬蔵宅」を談判所とした。紀州藩といえば徳川御三家の大藩。龍馬ら海援隊は浪人集団であり、7万両(約30億)という莫大な賠償金を払うことになった紀州藩はメンツが丸潰れとなった。この談判が決着した10月19日の約1ヶ月後に龍馬は暗殺される。海援隊同志は犯人が紀州藩と信じ込み、翌月に「龍馬の仇!」と京都天満屋で宴をしていた紀州藩の面々を襲撃した(天満屋事件)。



鞆の浦の「いろは丸展示館」 いろは丸の海底調査の様子が再現されている 茶碗や船の部品などいろいろ引き上げられた

龍馬の宿泊所跡「桝屋」。有名な回船問屋だった
※内部は非公開

1988年、桝屋の屋根裏に「龍馬の隠し部屋」が発見
された!従来は表通りの部屋に滞在したとされていた
※復元された部屋は「いろは丸展示館」の2階にある
鞆の浦の法宣寺に眠る
桝屋清右衛門の墓



談判会場のひとつ、福禅寺の“対潮楼”。江戸中期に
当地を訪れた朝鮮通信使は「日本一の名景」と絶賛した
対潮楼から瀬戸内を眺める。実に素晴らしい。
龍馬もこの眺望を楽しんだのだろう
こちらも談判会場「旧魚屋萬蔵宅」


鞆の浦を訪れた際、ちょうど秋祭りが行なわれていて、人々が龍馬を山車に乗せて練り歩いていた。
いかに龍馬が民衆から慕われているかが分かり、僕は興奮してこの山車を撮りまくった!

●酢屋〜海援隊詰所(京都)


ここ『酢屋』は海援隊の詰所となった木材商。龍馬は
この2階で大政奉還が実現したことを知り歓喜した
酢屋の『坂本龍馬寓居之跡』。
現在、2階はギャラリーだ

●近江屋跡(京都)



『坂本龍馬・中岡慎太郎
遭難之地』の石碑
ここが近江屋の跡だーッ!…と言っても、
多くの通行人はこの聖地に気付いていない
京阪交通社があったが移転した。
京都市は近江屋復元のチャンス!

●復元・近江屋(高知)





坂本龍馬記念館に最近登場した実物大「近江屋」(2008) 龍馬は床の間の前。賊は右の屏風の方向から侵入 中に入れマス!

●龍馬の墓(京都)





京都・霊山護国神社にて 左が坂本龍馬、右が中岡慎太郎。2人は一緒に襲われた 「藤吉之墓」龍馬の用心棒



















2007 花が絶えることがないという 1999 この時は酒がたくさんあった


1999 僕が知る限り、墓に千羽鶴があるのは、龍馬と
沖田総司、そして近藤勇の3名のみ
2007 これは何代目の千羽鶴だろう


  
清水寺の近くで修学旅行の生徒も多く、墓の周囲には魂のメッセージが炸裂している!まるで教祖状態。
有名人の墓は“寄せ書きノート”が墓前にあったりするけど、石板で叫びまくりってのは初めて見た



墓の近くにある2人の銅像

ちなみに墓地への入場料は300円。自動改札を
抜けて墓参りをしたのは後にも先にもココだけ!
龍馬の墓からは京の街並みが一望できる!


●お龍の墓(神奈川)

美しいお龍さん 横須賀市大津町の信楽寺(しんぎょうじ)に眠る
龍子は龍馬の死後に再婚し、西村ツルの名前で横須加の米ヶ浜通りに住んでいた。毎秋に龍子を偲び「おりょうさんまつり」が催される。


墓地奥の壁沿いに建ち、立派な説明板がある

「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」とある。
再婚先の西村姓ではなく“龍馬之妻”となっている!
裏面に「永代寄附 明治三十九年一月十五日歿 享年六拾有六謚昭龍院閑月珠大姉 大正三年八月十六日 実妹中沢光枝建立」とある。
再婚相手の西村松兵衛に甲斐性が無く、当初はお龍の墓がなかったことから、晩年に親交のあった鈴木清治郎なる人物が各方面より寄付を募って建立したという。



薩長同盟を西郷に訴えるフィギュアがあった



台座前面に坂本家の家紋“桔梗紋”



台座左側には“賛助人”として
・西村松平(夫の松兵衛)
・鈴木魚龍(別名・清次郎)
・新原了雄の連名があった

●平井加尾の墓(東京)

  
龍馬の初恋の女性とされる“平井加尾”の墓は青山霊園にある。結婚して西山加尾と名乗っていた。※大河で広末が演じていた


「日本を今一度、洗濯いたし申し候」(龍馬28歳の時の姉への手紙から)。圧巻!日本を洗濯、なんとスケールの大きい言葉なんだろう。しかも本当に洗濯してしまった!
マンガ、小説、映画、あらゆる媒体で坂本龍馬の人気は絶大だ。龍馬は西郷、大久保、桂たちと違って、大藩の重鎮でもなければ強大な軍隊も持っていなかった。脱藩した一介の浪人だ。しかし、この男が徳川300年を終わらせた。永遠に続くかと思われた徳川幕府を、そして鎌倉時代から700年続いた武家政治に終止符を打たせた。もちろん、幕府を追い詰めたのは薩摩と長州の大きな軍事力だ。しかし、敵対関係にあった両藩を和解させ連合させたのは龍馬その人。彼が奔走したこの軍事同盟なくして倒幕はなしえなかった!
過去にも日本史を変えた英傑はいるが、大名の家に生れた信長や源氏の名家の頼朝とは、スタート地点が全然違う。江戸から見れば片田舎にすぎない土佐に生まれ、しかも脱藩者で権力の後ろ盾が何もない30歳そこそこの男が、文字通り天下国家を動かしていく。しかも龍馬が活動したのは、27歳で脱藩してから32歳で暗殺されるまでたったの5年間だ。これにロマンを感じないわけがない!

坂本龍馬は1835年(天保6年)11月15日、土佐藩高知の郷士(下級藩士)の家に生まれた。本名は直柔(なおなり)。通称の「龍馬」は、生れる前に龍が炎を吐きながら胎内に躍りこんだ夢を母親が見たことと、背中に馬のたてがみの如く毛が密生していたことによる。
18歳の時に江戸へ出て千葉道場で剣を学び、この時に黒船来航と遭遇。攘夷(じょうい=外国排斥)思想の影響を受けた龍馬は、翌年に帰郷すると藩の尊攘派急先鋒の武市半平太に接近。1861年(26歳)、半平太が結成した土佐勤王党に加盟して尊王攘夷運動に係わって行く。藩に所属していては自由な行動が出来ないので翌年に脱藩を敢行(27歳)。攘夷の気運の高かった長州を経て江戸に入り、幕府の軍艦奉行・勝海舟の自宅へ「(話が通じなければ)目ざわりじゃき、北辰一刀流で斬るだけのことよ」と論戦を挑みに行くも、逆に渡米体験のある勝の視野の広さに驚愕し、その場で弟子入りを志願する。
龍馬は無闇に外国を排するのではなく、むしろ西洋の進んだ技術を積極的に導入することで国力を高め、海外と対抗しようと考えた。

攘夷論を棄てた龍馬は勝の右腕となって幕府の近代海軍創設計画に参加し、神戸海軍操練所設立の塾頭となる(倒幕派なのに幕府軍を強化するのは矛盾しているようだが、先述したように、国防の為にも海軍強化が必要と思っていた)。
勝のおかげで脱藩の罪は許されたが、土佐藩が勤王党への弾圧を激化させた為、帰藩命令を拒否して再度脱藩。勝が幕府内の保守派に疎んじられて失脚した後、勝の計らいで龍馬は西郷のいる薩摩藩へ身を寄せる。

幕府の古い体制を打ち倒すには、諸藩の中で最強の軍隊を持つ薩摩藩と、吉田松陰、高杉晋作ら優れた人材を輩出し、反幕府の先陣を切る長州藩との連合が不可欠と龍馬は考えていたが、1864年、両者は“禁門の変”で武力衝突をし犬猿の仲となってしまう。多くの犠牲者を出した長州藩では薩摩の人間を「薩賊」(さつぞく)と呼んで憎んだ。
龍馬は「事を起こすのにまず資金が必要」と、翌1865年(30歳)、海軍操練所で身につけた航海術を生かし、日本で最初の会社組織と言われる貿易商社・亀山社中(後の海援隊)を長崎で設立。海運業に励み、経済を通して薩摩藩と長州藩の橋渡しとなっていく。
※海援隊は身分にこだわらず、菓子屋や町医者など様々な人材で構成されていた。「海援隊には役者もおれば乞食もおるが、腹わただけはきれいだぞ」(龍馬)。

●薩長同盟

仇敵同士の薩長両藩をどう和解させるか。長州藩は間近に迫った長州征伐を前に最新鋭の武器を欲していた。しかし幕府は『長州藩への武器売却まかりならぬ』と禁制を出しており、武器購入は不可能。文字通り藩存亡の危機に瀕していた。そこで龍馬は親交のあった西郷に働きかけ、 長州藩が武器を購入する際に薩摩藩の名義を貸す代わりに、飢饉で苦しむ薩摩に長州が米を送るという密約を提案した。
作戦は大成功。新式の武器を大量に手に入れた長州藩は、薩摩藩が幕命に反してまで名義を貸してくれたことで、わだかまりが消えていく(実際、第二次長州征伐では30倍もの幕府軍を蹴散らした)。
龍馬が仲介となって両者は急接近し、悲願だった薩長の軍事同盟締結が現実味を帯びてきた。1866年、正月明けの京都で薩摩・西郷隆盛と長州・桂小五郎のトップ会談が始まる。しかし!同盟へ向けた話し合いが10日目に入っても、互いに「我が藩と同盟を結んでくれ」と切り出せないでいた。先に言った方が“お願いする”立場になるからだ。

長州への帰り支度を始める桂小五郎に龍馬が詰め寄ると「もし長州から和解を申し入れれば、幕府との戦争を控え危機にある長州が、薩摩に情けを求めることになる。たとえ和解が成立せず長州が焦土となろうとも、面目を落とすことは出来ない」との返事。彼は激怒した。「長州の対面云々、一応うけたまわろう。しかし元来、薩長の和解はこの日本国を救わんがためなれば、一藩の私情は忍ばざるべからず!」。藩の名誉や利益は関係ない、今日本を新たな世の中に変えなくてどうする、この談判に桂は心を動かされる。一方、西郷もまた龍馬から無情を痛論され、桂の心情を察して自分から同盟を申し込むことを約束する。1866年1月21日、ここに日本の歴史を変える薩長同盟が締結された!

●寺田屋事件

同盟成立の3日後、深夜3時。京都伏見の寺田屋で龍馬が長州藩士の三吉慎蔵と同盟締結の祝杯を酌み交わしていると、寺田屋の女中で龍馬に惚れていた“楢崎お龍”が、外の異変を2人に知らせた。奉行所の役人が踏み込んできたのだ。部屋に突入してきた役人と対峙した龍馬はピストルで相手の出鼻をくじく。彼は右手に深手の刀傷を負いながらも何とか薩摩屋敷に脱出したが、2名の捕り方を射殺したことで奉行所の恨みを買ってしまう。
この事件後、龍馬とお龍は正式に結婚。傷の治療には鹿児島・霧島の温泉が良いという西郷の勧めもあって、薩摩藩の汽船で日本初と言われる「新婚旅行」を敢行、高千穂の峰を登ったり温泉に入ったりと行楽を楽しんだ。
翌1867年6月、京に向かう船中。龍馬はあくまでも武力で倒幕しようとする薩長に対し、“今は日本人同士が戦っている場合ではない”と、幕府から朝廷へ平和的に政権を移譲させる大政奉還など八ヵ条の構想「船中八策」を考えた。土佐藩はこれをもとに幕府へ建白し、10月14日、将軍慶喜はついに大政奉還を受け入れた。

●龍馬、京都近江屋に死す

その1ヵ月後、運命の11月15日。寺田屋事件の後、京や大阪に人相書が出回っていた龍馬は、京都河原町蛸薬師の醤油商・近江屋の裏庭の土蔵に密室を造り、そこを隠れ家にしていた。裏手の称名寺(しょうみょうじ)への脱出ルートも作って万全を期していたが、この日の龍馬は風邪気味で、土蔵の中は寒さがこたえるからと、夕方から来訪していた同志・中岡慎太郎と母屋の二階で火鉢にあたっていた。そこに2人の仲間が加わり談笑するうちに、龍馬が「栄養たっぷりの軍鶏(しゃも)鍋でも食おう」と言い出し、20時半ごろ一人(菊屋峰吉)に鶏を買いにやらせた。もう一人も所用で帰り、この時点で母屋にいたのは龍馬、中岡、龍馬の護衛役で力士の藤吉の3人。その直後、十津川郷士と名乗る7人の男が訪問し、龍馬の部屋に案内する藤吉を背後から斬りつけた。

龍馬は藤吉が倒れる音を聞いて部屋の外でふざけていると思い「ほたえな!(騒ぐな!)」と声をかける。そこへ2人の刺客が飛び込み、龍馬の額をいきなり真横に斬った(この時の血が掛軸に残っている)。続いてもう1人が中岡に「こなくそ!」と斬りかかる。不意を突かれた龍馬はピストルを取り出す間がなく、とっさに床ノ間の愛刀『吉行』に手を伸ばす。そこを右肩から背中にかけて二の太刀が襲い、続く三太刀目はかろうじて刀の鞘で受け止めたものの、そのまま力押しで前頭部を再度斬られた。中岡も全身を10箇所以上斬られる。奥にいた刺客が「もうよい」と告げ賊は去った。
血溜まりの中で龍馬は「残念、残念」と呟き、刃に映った自分の傷を見て「俺は脳をやられたからもう駄目だ」と言い絶命。この日は奇しくも龍馬の32回目の誕生日(旧暦)だった。
重傷の中岡は暗殺時の状況を土佐藩士に伝えた後、翌々日に「今後は岩倉具視卿に王政復古の実行を頼れ」と言い残し息絶える。龍馬の葬儀は死の3日後に近江屋で執り行われ、亡骸は中岡や藤吉らと共にに埋葬された。この非業の死の翌月、王政復古の大号令が発され新生日本が誕生した。

「薩長同盟も大政奉還も、全部龍馬一人で考えてやったこと。あの大ボラ吹きは、言葉一つで薩摩という大藩を動かしおった」 (勝海舟)


●龍馬の墓

京都八坂神社の南東、「維新の道」の坂道を上りきった東山霊山(りょうぜん)に、明治維新に尽くした1043名を弔う霊山護国神社がある。墓地には坂本龍馬や中岡慎太郎をはじめ、桂小五郎、高杉晋作、池田屋で新選組に暗殺された志士など、そうそうたる顔ぶれが眠っている。一般の墓地と様子が違うのは、入口から龍馬の墓に至る道に所狭しと並ぶ龍馬ファンの石板寄せ書き!龍馬個人へ直接語りかけた熱いメッセージばかりで、どれほど彼が愛されているかよく分かった(僕が今までに訪れた国内の墓で、最も墓参者が多かったのが龍馬の墓!)。墓所の入場券(300円)は龍馬の名刺になっていて、肩書きは「土佐海援隊隊長、亀山社中代表取締役」。ファンとして最高に嬉しい。併設されている霊山歴史館は幕末維新が専門の歴史博物館として1970年に開館。龍馬が高杉晋作から貰ったピストルの同型品など、5千点を超える収蔵資料が展示されている。
龍馬の墓は山の中腹にあり、墓前からは京都市内が一望できる。今、どんな思いでこの国を見つめているのだろうか。

一人の男が30歳にして日本を新たに創世する。現代では30歳で「国を変える」と言ったところで白昼夢として一笑されそうだけど、これは平安時代や室町時代の話じゃなく、ほんの140年前の出来事だ。人間が本来持ってるエネルギーに極端な大差があるとは思えず、龍馬のことを考えると、僕らだって何でも出来そうな気がする。龍馬がけっして想像上のヒーローではなく、現実に存在していた人間という「事実」が、どれだけ力強く勇気をくれることか!ありがとう龍馬ッ!



★ミステリー考察〜龍馬暗殺の実行犯や黒幕は一体誰なのか?140年も続くこの議論の、主な6つの説と疑問点を検証!

【その1.新選組説】
現場に新選組隊士が通っていた料理屋(瓢亭)の下駄や刀の鞘が遺留品として残っていた上、中岡が「こなくそ」という伊予弁を聞いたことから、事件当時は伊予出身の原田左之助を抱える新選組の犯行と思われていた。一説には「刀の鞘は原田のもの」と御陵衛士(元新選組隊士)・伊東甲子太郎が証言したとも。さらに維新後に捕縛され斬首となった元隊士・大石鍬次郎が取り調べの中で龍馬殺しを自白している(後に否認)。
《反論》事件後に幕府大目付・永井尚志に対して近藤勇が「あまりにわざとらしい物証ではないか」と暗殺を否定したように、現場に物証を残すことで新選組の犯行に見せようとする意図が感じられる。先の伊東甲子太郎は龍馬暗殺の3日後に新選組に殺されており、対立関係にある伊東の言葉は信用できない。そもそも動きにくい下駄を履いて襲撃するなどあり得ない。龍馬は倒幕派ではあるが平和主義者だったので、この頃は薩長の暴走を止められる男として幕府からも重宝されていた。徳川慶喜は永井を通して「龍馬捕殺禁止」の通達を新選組に出していたとも伝えられる。
※近藤勇が切腹を許されず斬首・晒し首になったのは、龍馬暗殺犯に対する土佐藩の怒りがあったといい、新選組がシロなら近藤には可哀相な話だ。

【その2.顔見知り(土佐藩士)説】
寺田屋事件後に身の危険を感じていた龍馬は、暗殺の10日前に海援隊の詰所・酢屋から近江屋に隠れ家を変えたばかり。近江屋では密室や抜け道を作る念の入れ要だ。事件の2日前には御陵衛士の伊東甲子太郎から「ここは危険だから土佐藩邸に移るように」と警告もされている。用心深い龍馬が防御できなかったのは相手が顔見知りで油断したからではないのか。玄関で犯人を取り次いだのは龍馬の警護担当・力士の藤吉。彼も2階で背後から斬られており警戒心が薄かった。犯人は十津川郷士と名乗ったと伝えられるが、本当に見知らぬ相手ならこれほどの隙は生じなかったはず。土佐藩の重鎮・後藤象二郎は龍馬が考えた大政奉還案(船中八策)を自分の意見として前藩主・山内容堂に進言しており、徳川慶喜までが後藤のアイデアだと信じていた。大政奉還の実現後に土佐に戻った後藤を容堂は大いに誉め称え、1500石という破格の賞与を与えた。この褒美を受けたのは龍馬暗殺の前々日。大政奉還の手柄を後藤が独り占めしようとして放った同郷の刺客という線もある。そもそも後藤は叔父の吉田東洋を土佐勤王党に暗殺されており、報復で龍馬の師である武市半平太を切腹させている。武士同士でも身分差別の激しかった土佐藩にあって、低い身分の龍馬の活躍を苦々しく思っていたのかも知れない。暗殺の直前に土佐藩内の佐幕派33名が、龍馬や中岡を批判する建白書を藩主に提出しており、土佐藩の中でも龍馬を憎むグループがあったことも気になる。
《反論》龍馬は斬られたが、結局今のように龍馬のアイデアということは広まってしまった。後藤が保身のためにそこまで危険な賭けをするだろうか。

【その3.御陵衛士説】
近藤勇との思想の違い(佐幕VS勤王倒幕)から新選組を出て行った者が結成した御陵衛士(高台寺党)。遺留品がデッチあげとすれば、なぜ御陵衛士の盟主・伊東甲子太郎は新選組の物と証言したのか。事件当時、御陵衛士は水面下で薩摩藩の援助を受けていた。しかし、“元新選組”という過去が足枷となって勤王でありながら薩長から信用されず伊東は焦った。後述するが薩摩には穏健派の龍馬を疎ましく見る者もおり、新選組に濡れ衣を着せて龍馬を始末することで、武力改革派からの心象を良くしようとしたのではないか。龍馬暗殺の3日後に新選組は維新側に接近する御陵衛士の粛清を行ない伊東は殺された。新選組の襲撃から生き残った者が薩摩藩邸に逃げたことからも両者の繋がりが伺い知れる。また、龍馬の刀傷や掛け軸の血痕から犯人は左利きと推測され、北辰一刀流の達人・龍馬を斬る実力を備えている左利きの剣士は、この当時新選組から御陵衛士に移っていた斎藤一と思われる。齋藤は新選組の間者として御陵衛士に潜入しており、スパイ疑惑を払拭する為にも伊東の指令を断り切れなかったのだろう。
《反論》御陵衛士が実行犯なら、事件前に伊東甲子太郎が龍馬に危険を知らせたことが矛盾する。ただし、これについては御陵衛士に嫌疑の目が向かないよう、頭の良い伊東が事前にアリバイを作ったという見方もある。

【その4.紀州藩説】
暗殺される8ヶ月前、海援隊士34名を乗せた「いろは丸」(160トン)と紀州藩の軍艦「明光丸」(870トン)が夜霧の中で衝突し、いろは丸が沈没する事件が起きた。紀州藩は不幸な事故として片付けようとしたが、龍馬は賠償しろと「万国公法」を持ち出して大騒ぎ。紀州藩は徳川御三家の名藩であり、将軍家の威光を笠に着て海援隊を無視。怒った龍馬は“紀州藩は徳川御三家なのにケチだ”と紀州藩を侮辱する歌を街中に流行らせ、さらにこの事件を土佐藩VS紀州藩の構図に拡大させた。その結果、紀州藩代表の三浦休太郎は要求された8万両から1万両を値切ったものの、7万両(約30億円)という大金を払わされ、しかも徳川の看板にケチというレッテルを貼られ赤っ恥をかいた。龍馬の暗殺から3週間後、黒幕が龍馬を恨む紀州藩という噂を聞いた海援隊幹部・陸奥陽之助(宗光)は逆上し、「龍馬の仇」と叫びながら三浦が滞在する天満屋を十数名で襲撃して斬り合っている。
《反論》龍馬を殺せば土佐や薩長が黙っておらず、政情不安な折、紀州藩としてそんなことはできないだろう。

【その5.京都見廻組説】
佐々木唯三郎率いる京都見廻組は幕臣によって結成された治安維持組織。幕府を倒そうとする薩長同盟を成立させた龍馬は許せぬ敵であり、また寺田屋事件で龍馬は指名手配となり見廻組に追われていた。維新後に戊辰戦争で捕虜になった元見廻組隊士・今井信郎は、自分達が龍馬を暗殺したと1870年に自供している。今井が証言した刺客団は7人で、佐々木唯三郎、今井信郎、土肥仲蔵、桜井大三郎の4人が見張り役、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助の3人が襲撃役としている。新選組の近藤も見廻組が斬ったと思っていた。
《反論》見廻組が犯人なら龍馬を斬ったことは手柄であり、堂々と宣伝したはず。後年の今井は「刺客団は4人で龍馬は自分が斬った」と語っており証言に一貫性がない。また、名前を出された渡辺吉太郎(篤/一郎)は遺言の中で「刺客団は佐々木唯三郎、渡辺一郎、世良俊郎、今井信郎ほか計6名、斬ったのは佐々木」と語り、これも今井とくい違っている。近江屋に駆けつけた陸援隊の田中光顕は、重傷の中岡から「実行犯は2名」と聞いている。同じく中岡から聞き出した土佐藩士・谷干城(たてき)は「人数不明」と残している。この谷干城は近藤勇を斬首獄門に処した人物だ。今井が龍馬を斬ったと告白した時、谷は「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と激怒したという。

【その6.薩摩藩急進派説】
西洋の最新兵器を揃え、薩長は軍事力で幕府を圧倒しており、西郷隆盛や大久保利通らはあくまでも武力による倒幕を目指していた。しかし、龍馬は大政奉還を実現させるなど徳川を含めた議会政治を念頭に置いていた。西郷たちは徳川の底力を舐めておらず、完全排除せねば反維新の火種を残すことになると考え、龍馬の存在が次第に目障りになったとしてもおかしくない。そして、この意を汲んだ薩摩藩士急進派が刺客となって龍馬の命を奪った。中岡慎太郎が聞いたという「こなくそ!」は薩摩弁の「こげなくそ!」。暗殺の実行犯は薩摩藩士きっての武闘派“人斬り半次郎”こと中村半次郎(坂上田村麻呂の子孫)ではないか。中村も倒幕を目的に薩長の和解を画策してきた男であり、その眼には和平路線に走った龍馬が裏切り者に映っただろう。逃走する刺客が薩摩弁で会話しているのを近江屋の女中が聞いたとする説もある。
《反論》本当に大政奉還を阻止するつもりなら、徳川慶喜に建白した後藤象二郎を暗殺すべきでは。西郷は龍馬について「天下に有志あり、私は多くの人と出会ってきた。しかし龍馬ほど心の広い人を、いまだ見たことがない。龍馬の度量は到底測ることなどできない」とまで語っており、龍馬を始末するとは思えない。ただ、無能であれば脅威になりえず、龍馬を高く評価していたからこそ危険に感じたとも言えるが…。

●犯人の手がかりは中岡慎太郎の“沈黙”

犯人をめぐる諸説にはどれも一理ある。果たして真相はどうだろうか?近年の通説では見廻組の犯行とする見方が優勢だが、では誰が見廻組に潜伏先の情報を流したのか。晩年の龍馬は薩摩藩邸はおろか、土佐藩邸にさえ警戒して身を寄せなかった。まして近江屋には移ったばかり。密告がなければ絶対に民家に潜む龍馬を発見することは不可能だ。僕は実行犯・見廻組、黒幕・薩摩藩だと見ている。
先述した見廻組の今井信郎は証言がブレることもあるが、龍馬の暗殺を自白したにもかかわらず、判決は死罪ではなく禁錮5年だ。しかも実際はわずか2年で釈放されている。維新の立役者となった龍馬を殺して斬首されないのは不自然すぎる。今井が龍馬暗殺の容疑で伝馬町の牢に放り込まれた時、なぜか西郷が助命運動に乗り出し、今井自身も後年「西郷さんが骨を折って命を助けてくれた」と証言している。ここはやはり薩摩が龍馬の動向を流していたのではないか。それに幕臣の見廻組が龍馬を斬ったとなれば、穏健派の土佐藩の連中も「幕府許すまじ」と武力倒幕に傾く計算もあったかも。
事件に巻き込まれた中岡慎太郎は即死ではなく、2日後に他界している。一時は焼き飯を「うまいうまい」と食べるほど快復したが、容体が急変して旅立ったという。彼は龍馬の最期の様子なども証言しているのに、なぜか犯人のことを何も語らずに逝った。だがもし、“語らない”のではなく、“語れない”のだとしたら?土佐藩と薩長は一体となって維新を進めており、自分達が薩摩に襲われたことを明かせば足並みに亀裂が生じてしまう。外国船が頻繁に現れる時に、倒幕派が分裂している場合ではない。状況から薩摩が手引きしたことを見抜いた中岡は、そう考えて秘密を土の下まで持っていったのではないだろうか。

  なんと、飛行場の名前にまでなったぜよ!

【龍馬語録】
「何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから」
「自分に万一のことがあったら、薩摩の西郷と大久保に伝えてほしい。 二人に線香を手向けてもらえれば成仏できる」
「はてさて人間の一生というのは合点のいかぬものよ、 運の悪い者は風呂から上がる時に金玉をぶつけて死ぬものである」
「アメリカの大統領は下女の給料まで心配するそうだ。徳川幕府300年で将軍がそんな考えをした事があるか。この一件だけでも幕府は倒さにゃならんぜよ」
「天下の世話は実に大雑把なるものにて、命さえ捨てれば面白きなり」
「(刀剣を)父の形見だとか武士の魂だとか言っているのは自分に自信のない阿呆の言うことだ。形見はお前さん自身さ」(『竜馬がゆく』司馬遼太郎)
「おれは落胆するよりも次の策を考えるほうの人間だ」(同上)


【龍馬トリビア】
※龍馬死後の坂本家について。武士に貸金をしていた本家は、明治維新で貸した金が戻らなくなり没落。1898年、一族は新天地で再起を図るべく北海道樺戸郡浦臼(うらうす)町に移住、土地を開拓する。同町には記念館がある。高知にあった家は戦災で焼失し現在は病院が建つ。
※残された龍馬の紋服や証言から、龍馬の身長は170cmを越えていたことがわかる。当時は平均身長150cm台の時代なので、かなり大柄だったといえる。
※次姉の栄(えい)は龍馬脱藩の際に自害したと言うのが通説だったが、近年墓が発見され、龍馬が10代前半の頃にはもう亡くなっていたことが分かった。
※龍馬は土佐勤王党の同志・桧垣清治が流行の長刀を身につけて得意気なのを見て、「長い刀は実践の役に立たぬわい」と短い刀を薦め、次に会った時は懐中よりピストルを取り出してブッ放すと「今はコレじゃ」、3度目には「万国公法」という1冊の本を差し出して「これからは学問が何より大切だ」と言ったという。先に先にと行く男だった。
※暗殺時に妻のお龍は下関に預けられていた。悲報を受けたお龍は下関で法事を行い、長い黒髪をバッサリと切って龍馬の霊前に供え号泣したという。2年後に江戸で西村松兵衛と再婚し横須賀で他界。墓は横須賀市の信楽寺(しんぎょうじ)。
※死と隣り合わせに生きていた龍馬は暗殺の前年、兄の権平に「先祖の刀を持って死に臨みたい」と手紙を送り、名刀・吉行を兄から譲り受けた。吉行は、山内容堂→西郷隆盛→中岡慎太郎→龍馬というルートで届く。龍馬は「京都の刀剣家が褒めてくれる」と喜んで兄に御礼状を書いた。その翌年、龍馬は吉行を握ったまま絶命した。
※龍馬は亀山社中で薩摩藩から3両2分を給料に貰っていた。
※『船中八策』の第二条「万機宜しく公議に決すべき事」は民主主義思想の先鞭。
※龍馬が勝海舟と会った1862年から暗殺されるまで、わずか5年の間に船で移動した距離は実に2万km!あの時代に地球を半周もしているのがスゴイ。
※龍馬の護衛役で、近江屋で一緒に殺された藤吉。龍馬の仲間たちが彼を不憫に思って龍馬や中岡と同じ敷地に墓を建てた。
※勝海舟の弟子になった龍馬が、得意気に姉へ書いた“エヘンの手紙”というユーモアにあふれた手紙がある。
※龍馬を知る人物は語る…「維新前後の志士は、扮装(なり)にも振りにも構はず、ツンツルテンの衣服で蓬頭垢面(ほうとうこうめん)の人が多かった。坂本先生も書物などには幣衣(やぶれころも)をまとい、破袴(やぶればかま)をはく、などと書いてあるが大間違いで、実は大の洒落者でありました。袴はいつも仙台平、絹の衣類に、黒羽二重の羽織、たまには玉虫色の袴などはいて、恐ろしくニヤケた風をされる。中岡慎太郎さんは又ちっとも構わぬ方で、“坂本は何であんなにめかすのか、武士には珍しい男じゃ”と、よく言い言いされました」(寺田屋のお登勢の娘・殿井力(とのいりき)の言葉)
「坂本龍馬には過激な部分が全くない。声高に論争することもなく非常におとなしい人だ。容貌を一見すると豪気に見えるけれど、万事温和に事を進める人。ただし胆力は極めて大きい」(寺田屋で龍馬と一緒に戦った長州藩士・三吉慎蔵)
※坂本家の先祖は明智光秀の娘婿・明智左馬之助という説がある。高知県南国市の坂本家初代・太郎五郎の墓に「弘治永禄の頃(1555年〜1570)畿内の乱を避け土佐の国殖田郷才谷村に来り住む」とある。坂本家の家紋は明智と同じ桔梗文。坂本の姓は光秀の本拠地、滋賀の坂本からきているのか。土佐の猛将・長宗我部元親の妻は、明智光秀の重臣&甥の斎藤利三の異父姉にあたる。斎藤利三が山崎の合戦で死んだ後、利三の妻、次男、娘“福”は長宗我部氏を頼りに土佐へ渡った。もしも坂本家が明智の家臣ならば、同様に長宗我部氏を頼って高知に向ったかも知れない。(ちなみに斎藤利三の娘・福は、後に家光の乳母・春日局となる)



和服に靴も龍馬ならカッコイイ こちらは中岡慎太郎。同じ人物とは思えない!享年29歳

坂本龍馬の人生を調べてるうちに、一緒に近江屋で暗殺された中岡慎太郎にも興味が湧いてきた。NHK『その時歴史が動いた』ではこんなエピソードが紹介されていた
--土佐藩がまだ幕府にベッタリで保守的だった頃、中岡や龍馬が尊敬する反幕府派のリーダー・武市半平太が捕まった。釈放を求めた中岡の同志23人は反乱の罪で逮捕され全員が処刑される。脱藩し長州で悲報を聞いた中岡の、友への手紙が悲痛だ「実に天下、ムチャクチャに相成り申し候。言語に絶し悲憤極まり申し候。天下挽回再挙なきにあらず。しかしながら今しばらく時を見るべし。涙を抱えて沈黙すべし。外に策なし」。何も出来ない、時を見ることだけが策、これは本当に辛い事だと思う。
やがて武市半平太(37歳)に切腹命令が下り維新を見ずに死去。衝撃を受けた中岡は次の漢詩を刻んだ
「吾身可而未死 淪落且抱盗生恥」(私は仲間たちから死に遅れている。落ちぶれた私が無駄に生きることは恥である)
死んでいった仲間の為にも、絶対に無駄に生きてはならない、生命を役立てねばならない、そんな決意に満ちた一文だ。彼が龍馬と共に殺されたのは29歳。心底無念だったと思う。

※参考資料〜NHK『その時歴史が動いた』、霊山護国神社パンフ、世界人物事典(旺文社)、エンカルタ百科事典(MS)ほか多数



幸徳 秋水/Syousui Koutoku 1871.9.22-1911.1.24 (高知県、四万十市、正福寺 39歳)2000



秋水38歳

徹底した反戦・平和主義者の秋水は、文字通り命懸けで日本政府の軍国主義に反対し続け、最後は無実の
身で処刑された。“非国民”とされた彼の墓は、終戦まで墓参を許されぬ「禁断の墓」だったという。


(幸徳秋水の巡礼ルポ)



★法然/Hounen 1133.4.7-1212.1.25 (京都市、東山区、知恩院 78歳)2005



知恩院の本墓(2005) 高野山の墓(1994) 草庵跡の金戒光明寺の墓(2005)





京都嵯峨野のニ尊院の墓。東山区にある法然御廟が知恩院として発展するまで、没後しばらくは二尊院が信仰の中心地だった。

現在の岡山県久米郡に生れる。8歳の時、土地の警備担当者だった父が夜討ちにあって非業の死を遂げる。父の遺言は息子に復讐を禁ずるものだった「私を襲った敵を恨むな。お前が敵を恨めば、将来また敵の子孫がお前を恨む。恨みがこの世で尽きることがない。お前は世俗を離れて出家し悟りを求めろ」。この後、叔父の寺に預けられた彼は14歳で比叡山に入り正式に出家、天台宗を学ぶ。ところが山の上では高僧までが権力争いに狂奔しており、失望した彼は師を変えていく。最終的に延暦寺中心から離れた場所に庵を結ぶ聖僧・慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)に師事し、法名“法然房源空”を与えられる。ときに法然17歳。それからは人々を苦しみから救う方法を思索する日々が続くが、『智恵第一』の名で評されるほど学問を探求するも、なかなか満足する答えを見出せないでいた。
だがしかし!出家から28年目の1175年(42歳)、平安中期の僧侶・源信の「往生要集」を学んでいる時に、中国で5世紀に浄土教を大成した善導大師の思想と出合う。民衆が救済される道は専修念仏=ひたすら「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える事=と悟った法然は、他の修行を一切やめ、師に別れを告げて比叡山を下りていく。※この1175年は「回心(えしん)の年」と呼ばれ浄土宗開宗の年とされている。

法然が説く『南無阿弥陀仏』の“南無”とは“お任せします”の意。つまり全身全霊で「阿弥陀仏」に身を委ねるということだ。他宗派まで名が轟くほど学問に長けていた法然が出した結論は、学んだ全ての知識を良い意味で捨て去ることだった。学問が阿弥陀仏を信じんが為にあるのなら、信じ抜いておれば何の仏教知識がいるのかと、教義の解釈論より「南無阿弥陀仏」と行動(念仏を唱える)で示すことが肝要と考えたのだ。
従来の仏教は貴族を対象にした貴族仏教で、教義が高遠で難解すぎるうえ、文字を読めない民衆からはかけ離れたものだった。しかし、度重なる戦で人心はすさんでおり、誰もが心の拠り所となる仏の存在を欲していた。そこに登場したのが「ただ一心に阿弥陀仏のお名前を称えれば、誰もが必ず極楽浄土に入れる」という単純で分かりやすい法然の教え。乾いた砂に水が沁み込んでいく様に、武士、農民関係なく爆発的に浄土宗が普及していった。
※なぜ阿弥陀仏なのか?…阿弥陀は仏になる為の修行の中で48個の誓い(願)をたてた。その中の18番目の願として“私の浄土に生まれたいと思って、わずかでも念仏を唱えた人を救えなければ仏にはならない”としており、仏になったいま、信徒はこの言葉を信じて阿弥陀仏に念仏を唱えている。

一方で、「悟りとは人々が修行や功徳を積んで得られるもの」(自力本願)と考えていた多くの学僧は、法然の念仏重視の思想に疑問を持っていた。そこで天台座主(延暦寺の長)は京都大原に法然を招き、学僧たちと論戦させる(1186年53歳、大原談義)。法然は「人々の修行には限界があり、念じていれば仏の方から助けに来て下さる」と阿弥陀の力を頼って往生する持論(他力本願※悪い意味ではない)を展開し、居合わせた者を感服させた。大問答を制した後は、ますます門徒が増えていく。後白河法皇や関白九条兼実というビッグネームの信仰も得て、彼が説法をする場には平敦盛を討ち取った熊谷直実や、鎌倉の北条政子の姿もあった。1198年(65歳)、九条兼実の薦めで生涯の主著となる『選択本願念仏集』を記す。1201年(68歳)には親鸞が入門してくるなど、有能な弟子も次々に増えていった。

やがて迫害の時代が訪れる。あらゆる階層、いかなる身分の者にも分け隔てなく救いの手を差し伸べる法然。浄土宗があまりに民衆にもてはやされ、浄土宗が宗教界の一大新興勢力になると、旧仏教界は警戒を強め大きく反感を持つようになっていく。法然が「念仏こそ民衆を往生に導く唯一絶対の行」と主張するにつれ、当初は寛容だった他宗派から邪教と呼ばれて激しく非難・弾圧された。人間というものは弱い生き物だ。法然の弟子の中には教えをはき違えたり、“悪事をしても念仏さえ唱えれば極楽に行ける”と都合よく曲解する者も出てきた。また、真面目に学問にいそしむ他宗派の学僧をあざ笑い馬鹿にする弟子もいた。教団はここを叩かれた。法然は一部の弟子の不品行を徹底的に攻撃される。

1204年(71歳)、比叡山の僧侶3千人が念仏禁止を求めて抗議運動を始めたので、法然は事態を深刻に受け止め、“他宗を攻撃してはならない”“悪事を為すべからず”と弟子たちを戒める「七箇条制誡」を起こし、主な門弟189名に署名させて延暦寺に送った。
だが浄土宗人気に危機感を持っていたのは京都の僧侶だけではなかった。翌年、今度は奈良興福寺の宗徒たちが、法然一派の罪科をあげて攻撃し、罪を問うべく朝廷に直訴したのだ。内容は、「阿弥陀仏の救いの光が浄土宗門徒のみに当たり他宗は救われぬとは許せない」「阿弥陀仏だけを供養し釈迦を供養しないのは仏教徒として本末転倒」「仏像や寺を造る善行を積む者をあざけり笑うとは言語道断」「法然は最澄や空海より偉いつもりか」「念仏は心の中で念じること。口で唱えるのは曲解だ」「妻帯、肉食など戒律を破壊している」「既に宗派が8つもありこれ以上必要なし」云々、最後に「全仏教徒が一丸となって訴訟するという前代未聞のことを致しますのは、事は極めて重大だからであります。どうか天皇の御威徳によって念仏を禁止し、この悪魔の集団を解散し法然と、その弟子達を処罰して頂きますよう興福寺の僧綱大法師などがおそれながら申し上げます」と結ばれていた。

そして翌年、後鳥羽上皇を激怒させる決定的な事件が起きる。弟子の住蓮と安楽に感化された宮廷の女官たちが、密かに宮廷から逃げて尼僧となったのだ。出家をそそのかした罪で2名の弟子は処刑、浄土宗は禁教とされ、1207年、法然は僧籍を剥奪されたうえ74歳という高齢にも関らず四国(讃岐)へ流されてしまう。
1年後に赦されて関西に戻ったが京都に入ることは禁じられ、3年後にようやく入洛を果たしたものの、体調を崩して床に伏し、2ヵ月後の正月明けに東山大谷で79歳の生涯を終えた(1212年)。死の2日前、念仏の核心について弟子に求められて記した「一枚起請文」は遺言書と成り、同時に浄土宗の聖典となった。

法然の没後も旧仏教からの迫害は続く。入滅から15年後の1227年、天台宗の高僧を法然の弟子が論破したことをきっかけに、逆上した延暦寺の僧侶らが現・知恩院に埋葬された法然の墓をあばこうと襲撃した。彼の遺骸を鴨川に流そうとしたのだ。これは六波羅探題が制止したものの、法然の弟子たちはその夜のうちに亡骸を嵯峨に避難させた。またいつこのような法難があるかも分からず、遺骸を一箇所に置いては危険ということで、17回忌の際に荼毘(火葬)に付し、分骨して各地に墓を造った。1234年、弟子の源智がかつての墓に遺骨を戻し、廟堂と勢至堂(入滅した大谷禅房跡)を造ったのが知恩院の始まりとなった。
以降も弾圧の過程で弟子たちは各地へ配流されることが多かったが、それが逆に地方で浄土宗が広がることにつながった。現在浄土宗は光明寺が本山の西山浄土宗、禅林寺(永観堂)が本山の西山禅林寺派、誓願寺が本山の西山深草派などに分かれている。あと数年で入滅から800年の2012年になる。




親鸞/Shinran 1173.4.1‐1262.11.28 (新潟県、上越市、浄興寺&京都市、東山区、大谷本廟 89歳)2004&08


見真(けんしん)大師ともいう

「今日、英訳を通じて、初めて東洋の聖者、親鸞を知った。もし、10年前に、こんな素晴らしい聖者が
東洋にあったことを知ったなら、私はギリシャ語や、ラテン語の勉強もしなかった。日本語を学び、
親鸞聖人の教えを聞いて世界じゅうに広めることを、生きがいにしたであろう」(哲学者ハイデッガー)


●新潟県〜浄興寺




上越市の浄興寺。親鸞が創建。元々は茨城県にあったが、
戦火を受けて転々と場所を移りここへ。浄興寺は本願寺
よりも24年も古い。遺骨も遺言で浄興寺に安置された

山門の手前には
『宗祖親鸞聖人御本廟』


境内の親鸞聖人像



浄興寺宝物殿。ここは絶対に入った方が
良い。なんと東本願寺と西本願寺からの
「分骨御礼状」があった!天下の本願寺が
御礼を書く…浄興寺の偉大さを実感!

浄興寺本堂の奥に親鸞の墓(御本廟)がある

御本廟の門は普段閉じているので正面からは墓がよく見えない(格子の向こうにある)。
でも写真のように、門の正面右端まで行くと、お墓の上部がチラッとだけ直接見える!

『親鸞聖人御上陸之地』の石柱
(新潟県上越市居多ヶ浜)


1207年、親鸞は念仏禁止の弾圧で京から越後に流された。上陸地の石碑には「もしわれ配所に
おもむかずは、何によりてか辺鄙(へんぴ)の群類を化(け)せん、これなお師教の恩致なり」
と彫られている。※意味「もし私が越後に流されなければ、どうして辺境の人々に念仏の教えを
伝えることができようか。そう考えると、これも我が師・法然上人のご恩であったのだ」

こちらは「念仏発祥の地」と刻まれた石碑
(居多ヶ浜)
本願寺の国府別院(上越市)。親鸞はここにあった
草庵で教えを広め、恵信尼と結婚生活を営んだ
この地で7年活動した。いわば国府別院は
浄土真宗発祥の聖地※堂内は金色の世界!

●京都〜本願寺大谷本廟

浄土真宗本願寺派本願寺大谷本廟 (西大谷)。本願寺の起源だ。
この建物は明著堂といい、背後にある祖壇が親鸞聖人のお墓
明著堂の奥に見える建物に聖人は眠っておられる
これ以上近くには接近できない。残念!(2004)



中央に祖壇(墓)の屋根がかろうじて見える 背後にまわってみた。夕闇の中にたたずむ祖壇 こちらは高野山のお墓(2005)

聖徳太子が創建した六角堂。1201年に親鸞が100日間
こもって太子の霊告を受け、真宗を開宗するきっかけに
屋根のラインが非常に美しく、いつまでも見飽きない。
北側の池坊(いけのぼう)は華道発祥の地でもある

浄土真宗の開祖。初期鎌倉時代の仏教僧。下級貴族・日野有範(ありのり)の子で幼名松若丸。4歳で父と別れ7歳で母と死別して天涯孤独と成り伯父に育てられるも、1181年(8歳)、源平争乱の真っ只中、飢饉と疫病が蔓延する都の中で、子どもながらに人の死後を憂い比叡山に出家。以後、心の救済を求めて約20年の修業の日々を送る。だが、最澄が開いた日本仏教の最高学府比叡山は、400年の間にすっかり俗化していた。裕福な貴族たちと結んで大荘園の領主となり、僧兵を組織して他派と争い、熾烈な権力争いが飽くことなく続いていた(もちろん、真面目に学問に励む者もいたが)。
親鸞はいっこうに悟りを得ることが出来ない自分自身と、堕落してしまった比叡山への絶望もあって、1201年(28歳)、ついに下山。都で説法していた法然の元へ足を運ぶ。そこで阿弥陀仏の慈悲を全身全霊で体感した親鸞は「たとえ法然上人に騙されて念仏して地獄に落ちようとも後悔せず」と弟子入りを決意する。当時の出家者は独身を守らねばならなかったが、深く愛する女性・恵信尼と出会った親鸞は、30歳の時に法然の許しを得て結婚した(結婚は後の流刑後説もアリ)。昼夜を問わず勉学にいそしむ親鸞は、多くの門弟の中でも目に見えて頭角を表わし、入門4年目にして、法然の肖像を描くことと、師が記した『選択本願念仏集』の書写を認められた。

高い学識を持つ師の法然は、当時の旧仏教の最大勢力、奈良興福寺や叡山延暦寺からも一目置かれており、布教の当初は弾圧もなかった。しかし、浄土宗が栄えるにつれ、信者の激増が危機感を与え圧迫が始まった。1204年(31歳)、法然は綱紀粛正の為に弟子に向けて「七箇条制戒」を記し、親鸞はこれに綽空(しゃっくう)の名で連座署名した。しかし、門徒の中には「念仏を唱えれば何でも帳消しになる」と平気で悪事を行なう者もいて、弾圧はさらに厳しくなった。あげくに朝廷の女官と通じる弟子が出てきて、1207年(34歳)、とうとう朝廷から「念仏停止(ちょうじ)」の命令が下され、弟子の2名が死罪、法然は讃岐に、親鸞は越後(新潟)に流罪となった。この時代は出家者を法で裁けなかったので、わざわざ親鸞を還俗させて俗名・藤井善信(よしざね)と付けてから流した。この後、師弟は二度と再会することはなかった。

1211年(38歳)、親鸞は4年で流罪をとかれたが、法然の死を知り京都へ戻らず、東国で布教活動を始めた。41歳、関東を飢饉が襲う。当時は何回も経典を読むことが人々の救済に繋がるというのが常識だった為、根本経典(三部経)を千回読もうと思い立つが、人の渦に飛び込み伝道する事こそが重要だと悟って中止、約20年にわたって農民と共に暮らし、常陸、下総、下野を中心に、関東から東北まで教えを広めた。
この時代の僧侶は、律令制に従って国家によって認定を受け、寺の奥深くで厳しい戒律を守り、国土の安泰を祈っていた。だから、親鸞のように庶民の輪に入って仏法を説くことは極めて異例だった。この意味で親鸞は自身を「僧にあらず」と言い、一方で心底から阿弥陀を信仰する点では紛れもなく僧なので「俗にあらず」と位置づけた。非僧非俗。

封建制度の下で徹底的に痛めつけられ、他人を押しのけねば生きていけない悲惨な状況の民衆。生活の余裕から善根を積む貴族のようにはいかない。しかし民衆こそ切実に救いを求めていた。なのに多くの宗教者は、人々の弱い心につけこんで神仏を恐れの対象とし、祈祷や呪術に明け暮れている。仏は罰を与えるものではなく、救いを与えるものではないのか。仏罰の怯えの中で安らぎなど得られるはずもない。親鸞は「南無阿弥陀仏」の念仏だけで救われるという師・法然の教えの重要性をますます強く実感していく。
そして、法然が「悪人でも念仏を唱えれば“死後に”浄土に行けるが、善人の方がより救われる」とした思想(浄土宗)をさらに発展させ、「ひとたび念仏を唱えれば臨終を待つことなく“生きながら”にして救われる」(浄土真宗)との考えに至り、親鸞にとっての念仏は、“浄土に行きたい”という意味合いではなく、浄土に行くこと(往生)が決定したことで、阿弥陀に感謝する“報恩”の念仏であると説いた。そして「善人が救われるのは当たり前だが、悪人であればなおさら往生できる」とした(「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」=“悪人正機説”)。

※「悪人正機(しょうき)説」は関東の弟子唯円(ゆいえん)が師の言葉を没後にまとめた『歎異抄(たんにしょう)』にある。親鸞の死後、教義について様々な噂が入乱れたことから、教義を明確にする為に師匠の真の口伝を刻んだ。
『世間では悪人でさえ往生できるのだから、善人なおさら往生できる言われるが、これは他力本願(阿弥陀の救いを信じ抜くこと)の主旨に反する。自力で善を為せる人は、阿弥陀に頼る必要がない。だが、どんなに行を積んでも煩悩から逃れらない私(唯円)どももいる。阿弥陀はそれを哀れに思って、自分を頼る者は必ず救って見せると願を起こされた。だから親鸞聖人は、善人だって往生するのだ、まして悪人はと仰せられたのだ』
『ある時、師が「私の言うことを信じ、けっしてそむかぬか」と仰せられるので賛意したところ、「では千人を殺せば往生できると言われたら殺すのか」と仰せであったので、「一人も殺せそうに思えません」と答えると、「それはたまたま、お前が一人とて殺せる業や縁がないから殺さないのだ。心が善いから殺さぬのではない」との仰せであった。殺さずにすむ縁に感謝すべしとのことなのです。阿弥陀の救いをあてにして、わざわざ好んで悪を行なった者に対しては、「薬があるからと言って毒を飲むようなことをするな」と正された。この頃では、善人だけが念仏を唱えるかのように、道場に貼り紙をして、これこれのことをなしたるもの、道場に入るべからずなどというのがある。これは本末転倒というもの。善きも悪しきも、業報に任せきって、ひたすらに本願に頼ってこそ他力というものだ。だいたい罪業、煩悩をなくしてから本願を信ずるというのであれば、もう煩悩が消えているのだから、そのまま仏である。仏にとっては、阿弥陀の願も用なきものであろう』

※生涯にわたって苦しみ悩み続ける人々を何とか助けてやりたいという大きな慈悲心から、阿弥陀は「我を信じよ。どんな苦悩を持つ者でも、この世も未来も最高無上の幸福にしてみせる。もし、絶対の幸福にできなかったら、仏の生命を捨てよう」と本願(約束)を立てた。「この世も」ということから、これは死後の救いではない。親鸞の布教はいたってシンプルで、「阿弥陀仏の本願による救いを、自らも信じ、人に伝える」こと。徹底した他力信仰。現在、一般に「他力本願」という言葉はマイナスイメージの誤った使い方をされているが、仏教用語の本来の意味は、阿弥陀(他力)の本願(約束)を信じ、その為に心を整えるという尊い言葉だ。いつ死んでも浄土に往生できる安心感の中で生きるわけで、死後の不安は微塵もない。この歓喜を一人でも多くの人に親鸞は伝えたかった。法然門下の兄弟子が「念仏の徳により、死後に極楽往生させて頂けるのが、阿弥陀仏の御本願の有難さです」と説いた時の、親鸞の反論が残されている。「あなたは阿弥陀が死後でなければ助けて下さらぬとおっしゃいましたが、私は既にもう救われたことを喜ばずにおれません。“腹痛はこの世では治らぬから辛抱しなさい。死んだら何とかしてあげよう”と言う医者はいません。濁流に溺れている者に、“今は救ってやれないが土左衛門になったら助けてやるから待っていろ”と言う人がいましょうか。人間ですらそうです。ましてや慈悲深き阿弥陀仏が、“この世の苦悩はどうにもできぬから苦しくても我慢せよ、死んだら助けてあげるから”、と誓われる道理がありましょうか」。

親鸞は従来の宗派と異なり「肉食(にくじき)妻帯」の立場をとって、食欲や性欲を否定しなかった事から、浄土真宗は多くの人に受け入れやすく急速に広まった。1234年(61歳)、23年ぶりに京都に戻り弟の家に住み、74歳で主著『教行信証』を完成させ真宗の基礎を固めた。しかし、親鸞が去った関東では、幕府の弾圧や日蓮の念仏批判を受け、信者の間に動揺が広がっていた。親鸞は事態を安定させる為に息子の善鸞を派遣したが、善鸞は逆に同門内に対立を引き起こした。そして親鸞の息子という権威を高めるために「父から自分だけが教えてもらった秘法は祈祷の予言」と嘘をついてしまい、護符で病を治す祈祷師として権力者との癒着すら行なった為、1256年(83歳)、親鸞はあえて善鸞を絶縁した。
1262年、全てを阿弥陀仏の救済に任せて、心に平安を抱きつつ、末娘の覚信尼や弟子たちに看取られ89歳で大往生。遺言は「一人いて喜ばは二人と思うべし。二人いて喜ばは三人と思うべし。その一人は親鸞なり」。
旅立ちの翌日に東山の延仁寺で火葬され、翌々日に大谷へ納骨し墓標が立てられた。やがて巡礼者の増加に伴い、墓所に六角のお堂を建て親鸞像が安置された。これが現在、大谷本廟と呼ばれているもの。1694年に宝形造りの廟堂が建てられ、1709年にはお骨が納められた祖壇の前に、拝堂『明著堂』が造営された。

親鸞は終生、自分は教祖でも師でもなく、阿弥陀の前で人々と平等な存在だと考えていた。浄土真宗という教団が誕生したのは没後半世紀が経ってからだ。信者はいたが教団を結成する意志は皆無で、自分からは進んで弟子を持とうとも、寺を持とうともしなかった。とにかく、命を尽くして阿弥陀仏へ恩返しがしたい、その気持ちだけで人生を駆け抜けた。死後、見真(けんしん)大師の名を与えられる。

※親鸞自身は日頃から「私が死んだら賀茂川へ捨てて、魚に食べさせよ」と言っていた。いかに名誉や形式への執着心がなかったかが分かる。また、僧侶でありながら菜食主義ではなく多くの魚を食したことから、死後に自らの肉体を差し出したかったのかも。
※東京の築地本願寺には歯が埋葬されている。

【僧侶トリビア】比叡山の僧侶たちの身分は、学生、堂僧、堂衆の3種。
学生…貴族階級出身。小僧都→僧都→天台座主へ栄光の道を進むエリート。
堂衆…上記の貴族が出家する時に連れてきた従者。堕落する者が多く「叡山の荒法師」とビビられる。
堂僧…道場に籠もって行に励む念仏僧や、お堂で奉仕する役僧。
下級とはいえ貴族出身の親鸞は「学生」の資格があったが、修行に明け暮れる「堂僧」の道をあえて選んだ。親鸞が書き写した経文には、上下の空白や行間にぎっしりと書き込みがあり、どれほど熱心に勉強していたかがよく分かる。



一休 宗純/Ikkyuu Sojyun 1394.1.1-1481.11.21 (京都府、京田辺市、一休寺 87歳)1999



少年時代の一休をリアルに描いた絵 (*^o^*)

もっとリアルな後年の一休

リアルどころか、本人の髪と髭を
植えて究極再現した一休の木像





一休が眠る御廟。天皇の実子なので宮内庁が管理! 境内の橋には「このはしわたるな」 台座の字はアニメと全く同じ字体

室町期の禅僧(臨済宗)。別号、狂雲子。幼名千菊丸。父は南朝方から神器を受け取り南北朝統一の象徴となった北朝の後小松天皇。母は藤原一族、日野中納言の娘・伊予の局(つぼね)。母が一休を身篭ると、皇位の継承権を妬んだ人々の謀略で、彼女は南朝方と通じていると誹謗され、宮廷を追われることになった。そして南北統一から2年目の元旦に、嵯峨の民家でひっそり一休を産んだ。母は子が政争に巻き込まれぬよう、その身を保護する為にも、1399年、5歳の一休を臨済宗安国寺に入れ出家させた。
「周建」の名を与えられた一休は成長と共に才気を育み、8歳の時に有名な「このはし渡るべからず」や、将軍義満に屏風の虎の捕縛を命じられ「さぁ追い出して下さい」と告げ、ギャフンと言わせたトンチ話を残したとされている。

1410年(16歳)、11年間修行した安国寺を出て、学問・徳に優れた西金寺の謙翁(けんおう)和尚の弟子となる。謙翁は自身の名前・宗為から一字を譲り「宗純」の法名を与えた。一休はこの謙翁和尚を心底から慕っていたらしく、1414年(20歳)に和尚が他界した時は、悲嘆のあまり、来世で再会しようとして瀬田川に入水自殺を図っている。
運良く助けられた彼は、翌年から滋賀堅田(かただ)祥瑞庵の華叟(かそう)禅師に師事した。華叟は俗化した都の宗教界に閉口し、大津に庵を結んでいた。志は高かったが餓死しかねないほど師弟は貧しく、一休は内職をして庵の家計を支えたという。
1418年(24歳)、ゴゼ(盲目の歌方)の平家物語を聞いて、無常観を感じた彼は「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と詠んだ。有漏路の“漏”は煩悩の意味。つまり「人生は(煩悩溢れる)この世から、来世までのほんの一休みの出来事。雨が降ろうが風が吹こうが大したことない」とした。これを聞いた華叟は、歌の中からとった「一休」の号を彼に授けた。

1420年(26歳)5月20日の深夜、一休は琵琶湖岸の船上で座禅をしていた際に、カラスの鳴く声を暗闇に聞いて「カラスは見えなくてもそこにいる。仏もまた見えなくとも心の中にある」と悟りに至ったという(後の行動から、“禅僧は悟りへの欲求さえも捨てるべき”“悟る必要はないということを悟った”とも言われている)。華叟は一休を後継者と認め、印可(いんか、悟りの証明書)を授けようとしたが、権威を否定する一休は、これを頑として受け取らなかった。28歳、大徳寺7世の追悼法要にボロ布をまとって参列し、この頃から奇人和尚と噂され始める。
1428年(34歳)、師の華叟が没したことをきっかけに、一休は庵から出て庶民の間に飛び込んで行く。1人でも多く、そしてあらゆる階層の人に仏教の教理を易しく説く為に、彼は一ヶ所の寺に留まらず、一蓑一笠の姿で近畿一円を転々と説法行脚して回った。
38歳、崩御する直前の実父・後小松天皇と初めて対面する。
※この頃、一休は堺・南宗寺に庵を結び、弟子であり実子の紹偵(しょうてい)と住んでいる。
 
1437年(43歳)、17年前の印可状がまだ保管されていたことを知り、一休は火中に焼き捨てた。1447年(53歳)、二度目の自殺未遂。大徳寺内の派閥争いから僧侶数人が投獄され、自殺者まで出たことに胸を痛め、そして堕落した僧界に失望し、山へ入って断食死を試みる。この時は天皇自らの説得(親書)を受けて思い留まった。
 
1456年(62歳)、これより200年前に尊敬する大応国師(臨済宗の高僧)が創建し、その後兵火に焼かれ荒廃していた妙勝寺を、一休は恩返しの為にと約20年以上かけて修復。新たに酬恩庵として再興した。以後、この庵が一休の活動の中心地となり、これを知った多くの文化人が一休を慕って訪れた。
1461年(67歳)、浄土真宗の中興の祖、蓮如が営む親鸞200回忌に参列。一休は19歳年下の蓮如と、宗派の違いや年の差を超えて深く親交を結んでいた。互いの思想に敬意を払い、教えを学び合っており、一休はこんな歌を残している。「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ」(真理の山に向かう道は違うけれど、同じ月を我らは見ているのう)。他宗と見れば排斥しあう風潮の中で、一休の器の大きさが感じられる歌だ。

1467年(73歳)、京都で応仁の乱が勃発。一休は戦火を避けて奈良、大阪へと逃れ、1470年(76歳)、住吉薬師堂で鼓を打つ盲目の美人旅芸人・森侍者(しんじしゃ)に出会う。彼女は20代後半。2人は50歳の年齢差があったが、一休は詩集『狂雲集』に「その美しいエクボの寝顔を見ると、腸(はらわた)もはちぎれんばかり…楊貴妃かくあらん」と刻むほどベタ惚れし、彼女もまた彼の気持を受け入れ、翌年から一休が他界するまで10年間、2人は酬恩庵に戻って同棲生活を送る。

長年にわたって権力と距離を置き、野僧として清貧生活を送っていた一休だが、1474年(80歳)、戦乱で炎上した大徳寺復興の為に、天皇の勅命で第47代住職(住持)にされてしまう。「さて、再建費用をどうしたものか」。一休が向かったのは豪商が集まる堺。貿易が盛んで自由な空気の堺では、破戒僧一休の人気は絶大だったからだ。「一休和尚に頼まれて、どうして断わることが出来ようか」。商人だけでなく、武士、茶人、庶民までが我れ先にと寄進してくれ、莫大な資金が集まった。5年後、大徳寺法堂が落成。一休は見事に周囲の期待に応えた。
※一休は大徳寺の住職となっても寺には住まず、酬恩庵からずっと通っていた。(たぶん彼女と離れたくなかったからと思う)

一休は死の前年に等身大の坐像を弟子に彫らせて、そこへ髪や髭を抜いて植え付けた。これは、髪や髭のある像を残すことで、「禅僧は髪を剃るもの」などといったつまらない形式に捉われず、精神を大切にしろという目に見えるメッセージだった。「一休の禅は、一休にしか解らない」「朦々(もうもう)淡々として60年、末期の糞をさらして梵天(ぼんてん、仏法の守護神)に捧ぐ」と辞世を残し、当時の平均寿命の倍近い87歳まで長寿して、マラリアで亡くなった。
臨終の言葉は「死にとうない」。悟りを得た高僧とは到底思えない、一休らしい言葉で人生を締めくくった。
一休は他界する直前、「この先、どうしても手に負えぬ深刻な事態が起きたら、この手紙を開けなさい」と、弟子たちに1通の手紙を残した。果たして数年後、弟子たちに今こそ師の知恵が必要という重大な局面が訪れた。固唾を呑んで開封した彼らの目に映ったのは次の言葉だった--「大丈夫。心配するな、何とかなる」。

現在、酬恩庵は一休寺の名で親しまれている。一休が死の前年に建てた墓(慈揚塔)は境内にある。しかし!彼が天皇の息子であったことから、その敷地だけが宮内庁の管轄にあり、内部の墓は見ることができない。菊の紋章の門から先は立入禁止なんだ。常に庶民と共に生き抜いた一休としては、庶民から隔離されている今の状況は不本意だろうなぁ。
境内には小僧版一休像もある。こちらは参拝者が自由に触れるとあって、誰もが頭を撫でていくので、目を細めないと直視できないほど頭部が光り輝いている。手にホウキを持っているのは、世の中の汚れを一掃して明るい世界にしたいとの願いが込められているという。

高価な法衣を着て大伽藍の奥に鎮座し、貴族のような扱いを受けていた当時の高僧たち。印可状を乱発し、金さえ積めば高僧と呼ばれる腐敗した宗教界を一休は痛烈に批判した。彼は印可状など無用と焼き捨て、禅僧でありながら酒を呑み、女性を愛し、肉を食し、頭も剃らず、戒律なんかどこ吹く風だ。一貫して権威に反発し、弱者の側に立ち、民衆と共に生き、笑い、泣いた。庶民と一緒になって貧困や飢餓にあえぎ、贅沢に溺れる権力者や、人々から偶像視され得意になり、地位を上げることしか眼中にない宗教者たちを口を極めて痛罵した。
戒律や形式に捉われない人間臭さから、庶民の間で生き仏と慕われた一休。権力に追従しない自由奔放な生き方は、後世の作家を大いに刺激し、江戸時代には『一休咄(ばなし)』というトンチ話が多数創作された。
禅の民衆化に大きく貢献した一休はまた、仏法を説くだけでなく、歌を詠み書画を描く風狂の人でもあった。

●一休の歌
その書『自戒集』『狂雲集』『仏鬼軍』は戒律を守る真面目な僧侶にとっては、読めば読むほど恐ろしいものと言われている。『続狂雲集』には「淫」「美人」といった言葉が30回以上も登場する。こんな禅僧はいない。とはいえ、美しい歌も多いので幾つか紹介。

「白露の おのが姿は 其のままに もみじにおける くれないの露」(白露はありのままの自分でいながら紅葉の上では紅の露になる)
「持戒は驢(ろば)となり 破戒は人となる」(頑固に戒律を守るのは何も考えず使役されるロバと同じ。戒律を破って初めて人間になる)
「生まれては死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も」(世の中のものは全て生まれて死んでゆく、釈迦も達磨も何もかも)
「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」(釈迦という悪戯者が世に生まれて皆を迷わしたよ、爆)
「花を見よ 色香も共に 散り果てて 心無くても 春は来にけり」(花から色も香りも消えてもちゃんと春は来るんだよ)
「秋風一夜百千年」(こうして秋風の中で貴女と過ごす一夜は、私にとって百年にも千年の歳月にも値するものです)

アニメに出てくる“しんえもんさん”は蜷川新右衛門と言って実在する一休の弟子。初めて一休を訪れたとき、彼は「仏法とは何ですか」と質問し、一休はこう答えた。
「仏法は 鍋の月代(さかやき) 石の髭 絵にかく竹のともずれの声」
(石のヒゲや絵の中の竹の葉ずれの音と同じで、そんなの見たことも聞いたこともないわい)
この人をくったような返事に新右衛門はシビレたという。
※おまけ「骨かくす皮には誰も迷いけん 美人というも皮のわざなり」(蜷川新右衛門)

●奇行伝説
一休は町に出る時、よく美しい朱塗りの鞘(さや)に入った刀を持っていた。ある時不思議に思った人が「なぜ刀を持っているのですか」と質問したら、一休が抜いた刀は偽物の木刀だった。そして「近頃の偉い坊さんどもはコイツと同じだ。派手な袈裟を着て外見はやたらと立派だが、中身はホレこの通り、何の役にもたたぬわ。飾っておくしか使い道はござらん」と言い放った。
またある年のお正月には、一休は杖の頭にドクロを載せて、ズタボロの汚い法衣でこう歌い歩いた。
「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(元旦が来る度にあの世が近づいているのをお忘れなく)。
 
●茶
侘び茶を創始し、茶室を考案した茶道の祖、堺の豪商・村田珠光(じゅこう)は一休の禅弟子。座禅の時の眠気防止に一休から茶を薦められたのが、そもそもの茶との出合いだったが、座禅を繰り返すうちに“茶禅一味”(いちみ、茶も禅も同じ)の悟りに達した。彼が始めた「侘び茶」は、従来の派手で形式中心の「大名茶」とは全く異なるもの。小さな四帖半の茶室の中では、人に身分など関係なく、そこにあるのは亭主のもてなしの心だけ。この心が仏だとした。まさに一休から学んだ「仏は心の中にある」であり、珠光は仏の教えをお経を通してではなく、日常生活(茶の湯)を通して具現化した。この思想は武野紹鴎(じょうおう)を経て千利休へと受け継がれてゆく。
 
●トンチ話
足利義満は周建(一休)を邸に招き、困らせてやろうと魚を食事に出した。周建がパクパク食べるので「僧が魚を食べていいのか」と義満が問いただすと、「喉はただの道です。八百屋でも魚屋でも何でも通します」との返事。義満は刀を突き出し「ならば、この刀も通して見よ」。周建は「道には関所がございます。この口がそうです。この怪しい奴め。通ることまかりならぬ」。そう言って平然としている周建に対し義満がさらに言ったことが「あの屏風の虎を捕らえよ」だった。一休の生涯を見ていると、「渡るべからず」の物語は、ただのトンチの披露ではなく、世間の束縛やくだらない慣習は無視して「堂々と橋の真ん中を渡って行け!」とメッセージを込めたエールのようだ。
 
※能楽には一休の詞に金春禅竹が作曲した『山姥』『江口』がある。
※一休像の“髪”は500年が経ち風化して、今は代わりに動物の毛が植えられている。
※一休の残した言葉で一番有名なのは、アントニオ猪木が引退セレモニーで朗読したこれだろう→「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せばその一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」。(一休ではなく清沢哲夫の詩「無常断章」という説もあります)



★空海/Kuukai 774.6.15-835.3.21 (和歌山県、伊都郡、高野山奥の院 60歳)2005

    
空海像は靴を脱いで椅子にチョコンと座ってるのが多い。手に持っている法具は三鈷杵(さんこしょ)という武器。これで煩悩を粉々に打ち砕く。

空海のお墓には山のふもとからケーブルカーで。かなり急勾配だ。下山の最終便が18時すぎと早いので要注意!

 

この奥の院の裏手に弘法大師(空海)の御廟がある。※ココから先は写真撮影は禁止デス

平安初期に活躍した真言宗の開祖。弘法大師の号から「お大師さま」の名で親しまれる。出身は讃岐国の屏風ヶ浦(香川・善通寺市)。本名佐伯真魚(まお)。
788年、伯父と共に14歳で都(長岡京)に上る。伯父は桓武天皇の三男・伊予皇子の家庭教師であり、空海は伯父から論語・史伝等を学んだ。791年(18歳)、大学に入って詩経・書経等を学ぶが「大学の学問は古人の言葉の糟粕(そうはく、酒の搾りカス)で何の役にも立たない」と間もなく去り、阿波・大滝嶽や土佐・室戸岬の洞窟(御蔵洞)など四国各地で修行に入る。仏道こそ命を活かす道と確信した時に、目の前に大海原と空が果てしなく広がっていたことから、自身の名を空海とした。※この時に修行した88ヶ所が後にお遍路の札所となる。
794年、奈良では寺社が朝廷を上回るほど巨大権力を持つようになったので、これを嫌った桓武天皇が平安遷都を敢行。天皇は奈良の寺院に平安京への移転を禁じた。

797年(23歳)、奈良・久米寺で密教の経典『大日経』に触れてのめり込み、24歳で日本初の思想小説とされる『三教指帰』を記した。
※『三教指帰(さんごうしいき)』…主人公の青年が人生の煩悶の中で、儒教・道教より仏教が優れていると悟り、官位を捨てて仏門に入るまでの心情を描く。この作品を通して、空海自身が仏教に進む理由を明らかにした。
密教の聖典は梵語=サンスクリット(古代インド語)で書かれており、日本では分からないことも多々あり、彼はやがて大陸で直接学びたいと強く願うようになる。そして7年間、奈良仏教の研究に励み、山野で修行する一方で、来たるべき日に備えて中国語、梵語を熱心に勉強した。

804年(30歳)、春に東大寺戒壇院で受戒し公式に僧となり、悲願だった遣唐使の一員に抜擢される。受戒直後の僧が国費留学生となるのは極めて異例であり、前年の遣唐使船の遭難で大量に欠員が出たとも、伊予皇子の推薦があったとも言われている。空海は留学期間を20年とされ、大陸への切符を手に入れた。4隻で出航し、空海の乗る第一船と、最澄の乗る第ニ船は唐に着いたが、第三船、第四船は暴風雨で遭難し行方不明になる。空海の船も大きく航路を逸れて漂着した。この時代、海を渡るのは命がけ。もし空海と最澄が後半の船に乗っていたら、歴史は大きく変わっていた。
※短期留学僧の最澄は翌年に帰国。空海より7歳年上の彼は、皇室直属の僧(内供奉十禅師)であり、無名の空海と異なって、既に仏教界に高い地位を築いていた。

陸に着いた空海一行は、航路から外れた為に海賊と疑われ、約2ヶ月間も足止めされる。この時は空海が遣唐大使(責任者)に代わって潔白書を代筆し、疑いを晴らした。達筆な空海は書記として同行したという説もある。
31歳、長安に到着。青竜寺の高名な密教第七祖・恵果和尚に会う前に、梵語の知識を磨く必要があったので、まずはインド僧から梵語やバラモン(インド哲学)を学んだ。そして5月、彼は恵果を訪ねて弟子となった。恵果は空海の超人的な理解力に驚く。そして彼に対し、6月に胎蔵界、7月に金剛界、8月に伝法阿閣梨(あじゃり、規範)の灌頂(かんじょう)を授ける。灌頂とは師が免許皆伝を認めた弟子の頭上に水を注ぐ重要な仏教儀式。つまり、空海はたった2ヶ月で正統後継者として密教の奥義を全て授かったことになる。その4ヶ月後、12月に恵果は没した。

806年(32歳)、恵果の全弟子を代表し、師の業績を称える碑文を起草。空海は仏法以外にも最先端の土木技術や薬学を学んだ。そして20年と決まっていた留学期間を、違法であることを承知で2年で切り上げ帰国した。独断行動をとった為に入京を許されず、3年ほど大宰府・観世音寺に留め置かれる。罪になることが分かっていて帰国したのは、彼が極めた密教奥義を早く日本に伝えたかったこと、手に入れた新訳の経論など216部461巻の重要な仏典、貴重な曼荼羅や法具、仏舎利(釈迦の遺骨)などを、早急に国内に届けたかったからだ。
空海は従来から日本にある仏典を熟知していたので、461巻は選んで持ち帰ったもので、どれも内容がダブッていなかった。(当時、これがどれほど凄いことか分かっていたのは最澄だけだったという。彼は真っ先に経典の閲覧を希望している)
809年4月(35歳)、仏教を深く信奉する嵯峨天皇が即位。最澄の力添えもあって空海は入京を許され、かつて最澄が道場を開いた高雄山寺に身を寄せた。その御礼もあるのか、翌年に空海は最澄に宛てて「最澄さんと修円(室生寺を開山)さんと私の3人で集まり、一度仏法のことを一緒に勉強しませんか」と手紙『風信帖』を書いている。

812年(38歳)、体調を崩した空海は、自分に万が一のことがあった場合を考え、唐で学んできた真言の秘法を他人に伝える決心をし、高雄山寺で最澄ほか多数の高僧に灌頂を授けた。 しかし翌年、さらに奥義(阿閣梨灌頂)を伝授するよう願った最澄に対し、空海は「まだ3年は修行して頂かないと」と断った。最澄にしてみれば、自分は年長であり、しかも空海が2ヶ月で伝授された奥義を自分は3年かかると言われ屈辱を感じただろう。また、最澄が空海所蔵の仏典を借りたいと願ったのを、「密教を極めるのは仏典の研究ではなく実践だ」と閲覧を断ったと伝えられている。さらには最澄が後継者と目していた弟子が空海のもとへ走るという事件もあり、日本思想史に名を刻んだ2人の巨人は決別した。

816年(42歳)、東国や九州へ弟子を派遣し密教を全国に伝える一方、この年から活動の本拠地となる高野山の開山に着手。山上に草庵を造り始める。45歳から各種教義書を立て続けに執筆し、真言教学の体系を築き上げていく。また、詩歌論や日本最古の漢字辞書『篆隷(てんれい)万象名義』なども表す。彼はまた、この時期に東海地方を経て日光まで布教の為に足を運んでいる。
821年(47歳)、故郷香川で満濃池(まんのういけ、日本最大の溜め池)が決壊・洪水を繰り返しており、地方官が「百姓たちが父母のように恋慕する空海殿に、堤防改修工事の指揮を執って欲しい」と要請。彼は唐で学んだ最新の土木技術を駆使して3ヶ月で工事を完了させた(空海の人徳を慕って多くの人々が力を結集した)。翌年、最澄が他界。
823年、嵯峨天皇より京都・東寺を受預し、講堂に仏像による立体曼荼羅を配置する。

828年(54歳)、当時の大学は貴族の為のものだったので、空海は学問を学ぶ機会のない庶民の為に日本最初の学校『綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)』を開校する。総合教育を目指し、無料で儒教、道教、仏教の授業をした。
830年(56歳)、精神の成長過程を詳しく説く主著『十住(じゅうじゅう)心論』を記し、生きながら仏となる「即身成仏」の教義を完成させる。832年から高野山に隠棲して、座禅三昧の日々を送る。
835年3月21日、空海は「入定(にゅうじょう)から56億年後に弥勒菩薩の御前に控えて現世に現れ、世を救うだろう」と告げ、真言を唱えて大日如来の印を結び、結跏趺坐(けっかふざ、座禅)になったまま入定したという。享年60歳。921年(没後約100年)、朝廷より弘法大師の諡号(しごう)を贈られた。

空海が遍歴した土地には親しみと尊敬を込めた弘法大師信仰が数多く生まれた。「弘法の腰掛石」「笠掛けの松」「大師の杖立(つえたて)柳」等々。その数、全国に5000以上!中でも弘法大師が杖を突いた場所から、泉や温泉が湧き出たという「弘法水」伝説は、それだけで千数百件にのぼる。日本の歴史上にはヤマトタケル、小野小町、西行法師のように、各地に伝承地を残している人物は多いけど、5000以上というのはケタ違い。これだけでも、約1200年の間、どれほど日本人が空海を慕ってきたかが良く分かる。


●墓
空海は没後50日が経っても肌がまだ温かく髪も伸びたので、真言宗では高野山・奥の院の御廟で今も生き続けていると信じられている。そして廟内で禅定を続ける空海の為に、高僧が毎日朝晩の食事を給仕し、年に2回衣替えも行っているとのことだ。霊廟内の様子は極秘とされ不明だが、平安末期に書かれた『今昔物語』には、東寺の住職・観賢が霊廟を開いた事が記されている。それによると、空海は厨子と石室で二重に囲われて坐しており、30cmほど伸びていた髪を観賢が剃り、衣服や数珠のほころびを整えて再び封印したという。付近には空海を敬慕する人々の墓が20万基以上あり圧倒される。

※四国八十八カ所巡礼…若き空海が山岳修行を行なったゆかりの地88ヶ所を巡るもの。白衣姿の巡礼者は“お遍路さん”と呼ばれる。順廻りを終えて数年が経った後、88番札所から逆に回る「逆打ち(さかうち)」に挑む人も多い。逆打ちは順廻りよりも難易度が高く、その分ご利益も高いとされている。逆廻りは順廻りをしている空海と必ずどこかで出会うことになるので、空海ファンには魅力のコースという。どちらの順でも、全てを巡ったら、高野山を最後に詣でて「満願成就」となる。巡礼者はたとえ独りで歩いていても「同行二人(どうぎょうににん)」と言って、いつも空海の存在を側に感じ、2人で一緒に巡る想いで一歩一歩、足を運んでいるという。

   お遍路さんの笠

※大日如来…宇宙の姿を仏の形で表したもの。古代インド語(サンスクリット)では「マハーバイローチャナ」、漢字(音写)では「摩訶毘盧遮那仏(まかびるしゃなぶつ)」と書かれる。真理(理)と智恵の活動(智)そのものであるとされ、「大日経」が説く“理”=胎蔵界大日と、「金剛頂経」が説く“智”=金剛界大日の両界から宇宙が構成されているとみる。仏像で表現する時は、手の平を組み合せた禅定印を胎蔵界大日、左手の人差指を右手で包む智拳(ちけん)印を金剛界大日と表現する。すべての仏像は大日如来が時と場所を超えて変化した姿とされており、まさに仏の中の仏。真言宗のお寺なのに本尊が大日如来じゃなく、釈迦如来や薬師如来という場合があるけど、それは結局どの如来に手を合せても、真の姿は大日如来になるからノー・プロブレムなのだ。

※曼荼羅(まんだら)…密教の宇宙観や悟りの境地を描いた仏画。サンスクリットのマンダラ(円、本質)が音写された。大日如来を中心として周囲に諸仏を配し、宇宙が仏で満ちていることを伝える。「大日経」を表した胎蔵界曼荼羅では、白蓮に座す大日如来を4如来&4菩薩が囲み、その周囲に444の仏像を描いて“理”を象徴し、「金剛頂経」を表した金剛界曼荼羅では、9分割された画面に1461もの仏像を描いて「智」を象徴する。

※真言宗…単純に密教とも呼ばれる。大日如来を本尊として崇拝する。日常の言葉を使用せず、真言(大日如来の言葉)を通して、身・口(言葉)・意(心)の全てを大日如来と一体化することで、現世における成仏(即身成仏)が可能と説く。核となる聖典は「大日経」「金剛頂経」の2つ。理論だけでなく実践を重視する。密教の仏法は大日如来→金剛さった→竜猛→竜智→金剛智→不空→恵果→空海へ伝わったとし、この8名を「付法の八祖」と呼ぶ。天台宗の密教を「台密」、真言宗を「東密」ともいう。空海の誕生日に中国密教の大成者・不空三蔵が入滅したことから、空海はその生まれ変わりと言われている。

※三密…密教の修行にある「三密」とは、指で様々な印を結ぶ「身密」、心に仏を思う「意密」、真言を唱える「口密」のこと。空海は特に口密を重視したので、自分の宗派を真言宗と命名した。大半の真言は帰依(身を委ねること)を表すオン(オーム)やナム(南無)で始まり、成就を表すソワカ(ズバーハ)で終わる。

※真言…密教で仏や菩薩の言葉とされる短い呪文。サンスクリットのマントラ(“思考の器”の意。マンダラと別)の漢訳。真言は内容よりも文字や音声自体に無限の力を擁しているとされ、実際に声に出して唱えることで、仏の説く真理に近づき成仏できると考えられている。空海が唐で授かった『遍照金剛(へんじょうこんごう)』の灌頂名は、空海を拝む時の真言となっている。意味は「この世の全てを遍(あまね)く照らす最上の者」。

※空海は書道でも唐風の新しい書風を生み、嵯峨天皇や橘逸勢と並び「三筆」と称される。国宝の「風信帖」「灌頂歴名」「三十帖冊子」「高雄山灌頂記」「真言七祖像賛」等で筆跡に出合える。漢詩にも優れ、弟子の編集した「性霊集」は漢文の模範とされている。

※空海の他界後も真如など高僧が多く出て真言宗は栄えたが、没後300年ごろ根来山の覚鑁(かくばん)が念仏を導入しようとして、高野山・東寺と対立し、真言宗は覚鑁の「新義真言宗」と、従来の「古義真言宗」に大分裂した。その後、新義真言宗は長谷寺の「豊山(ぶざん)派」と智積院の「智山(ちざん)派に分かれ、古義真言宗はさらに分裂を重ねて、山階派、醍醐派、御室派、東寺派など約30派に細かく分かれている。




★日蓮/Nichiren 1222.2.16-1282.10.13 (山梨県、南巨摩郡、身延山久遠寺 60歳)2006

身延山には京王の高速バスが
新宿から出ていて便利

当日は台風接近中で大雨洪水警報が
発令されており、乗客は僕を入れて3人!
(この日しか休みがとれなかった…)
正午前なのに夜のような暗さ。
楽しみだった富士川が見えない…


ついに日蓮宗総本山・身延山久遠寺の山門に到着。豪雨もこの時がピーク!過酷な巡礼となったが、
鎌倉幕府からの弾圧、聖人の苦労に比べれば、これしきのこと試練のうちにも入らぬわ!

 
「吹く風も、ゆるぐ木草も、流るる水の音までも、この山
には妙法の五字を唱えずということなし」(日蓮聖人)
気が遠くなる287段。菩提梯(ぼだいてい)と呼ばれる
大階段で、一段登るごとに悟りに近づくとされている



頭上に輝く「立正」 深い緑の中に眠る。墓には聖人の文字で「南無妙法蓮華経」と刻まれていた







久遠寺本堂 山門とJR身延駅を地元のバスが結ぶ 青空!帰りは晴れマシタ

 

身延山から正式に分骨された“御真骨”が、この京都・妙伝寺(関西身延)に納められている 東京・池上本門寺にも日蓮上人御廟があった(2004)

 
博多の吉塚駅前の身延山別院には特撮映画のような錯覚を与える日蓮上人がいる!








日蓮上人60歳(優しそう) こっちは任侠系、法力全開 あの本能寺の前にも!









超ド迫力の『快傑日蓮』(1954作)
史上最強の日蓮像。戦闘値測定不能
「喝ッ!!」 作者は長崎の平和祈念像を彫った北村西望氏!
※井の頭自然文化公園の「北村西望彫刻館」におられます!

天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗…平安期、鎌倉期には様々な宗教が開かれたが、その中で日蓮宗だけが始祖の個人名が付いた宗教だ。といっても、日蓮自身がそう呼んだのではなく、弟子達が親しみを込めてこう呼び始めた。それほどズバ抜けて個性が強かったということ。一体どんな人だったのか。

千葉・小湊の漁師の家に生まれる。幼名薬王丸。親鸞と道元が貴族、法然が武士、栄西が神官階級出身ということを考えると、庶民出身というのは異例かも。世代的には法然の約90歳下、親鸞の約50歳下になる。1233年、11歳で清澄(せいちょう)寺に入り15歳で出家(1237年)。始めは鎌倉で学び、続いて比叡山、奈良、高野山、東寺、三井寺などで15年かけて各宗の経文を研究し、「釈迦が世に現れたのは法華経を伝える為、末法の世は法華経でなければ救えない」と悟りを開いた。
1253年、31歳で帰郷。4月28日に清澄山頂で、太平洋の日の出に向かって「南無妙法蓮華経(法華経に帰依します)」の題目を高らかに唱え、これが日蓮宗開宗の瞬間とされる。当時関東では禅宗が鎌倉幕府の保護で繁栄し、浄土宗も法然の開祖から約80年が経ち、弟子達の布教努力のおかげでかなり庶民の間に浸透していた。日蓮は山を降りると法華経第一の立場から、「禅天魔、律国賊、真言亡国、浄土念仏無間地獄」(禅宗信者は天魔、律宗信者は国賊、真言宗徒は亡国の徒で、浄土宗信者は地獄に堕ちるだろう)と苛烈に批判を展開。当然ながら他宗の信者は猛反発。特に、地獄堕ちを告げられた浄土宗(念仏宗)信者の怒りは激烈で、日蓮は故郷から追い出され鎌倉に身を移した。

鎌倉で日蓮がとった行動は、町中に立って人々に直接語りかける“辻説法”。他宗教を邪教と呼ぶ過激さは反感を買い人々から罵倒されたが、「南無妙法蓮華経」の題目と共に説かれる功徳に、耳を傾ける者も出てきた。おりしも1257年(35歳)に鎌倉を大地震が襲い、翌年には疫病が発生、飢饉まで重なって大量に餓死者が出た。日蓮はこうした天変地異を、幕府の為政者が邪宗を信仰するが故の国家単位の仏罰と捉え、1260年(38歳)、『立正安国論』を著して執権北条時頼に献上した。そこには禅宗や浄土宗を禁教にせねば内憂外患(国内に憂い生まれ国外より患い来る事)は避けられず、法華経を信じねば日本は滅ぶと書かれていた。しかし日蓮はまだ無名であり時頼はこれを黙殺。一方、日蓮に敵意を抱く念仏宗徒たちは彼の庵を焼き討ちし、世論に圧された幕府は翌年日蓮を逮捕、取り調べもせず伊豆(伊東)へ流した。※今の伊東は温泉のある景勝地だけど当時は世間から隔離されていた。

配流が許されたのは3年後。1264年(42歳)、これより7年前に父が没しており、墓参と病の母を見舞う為に約10年ぶりに故郷に戻ったが、「日蓮は阿弥陀仏の敵」と怨む念仏宗徒数百人の襲撃を受ける。日蓮を守った弟子と友人は殺され、彼自身も左腕を骨折した(小松原の法難)。
4年後の1268年、蒙古から幕府にフビライへの従順を迫る国書が届く。日蓮は『立正安国論』の懸念が当たったと再び幕府に進言し、他宗の代表的寺院11箇所に公開討論を申込むが、これらは全て黙殺され憤激頂点に達する。他宗への批判は輪をかけて激化し、極刑を覚悟した辻説法にも熱が入る。

3年後の1271年(49歳)、幕府に3度目の進言をしたところ、他宗からの告訴も重なってまた捕らわれ、表向きは「佐渡へ流刑」、実際はその途中で斬首という判決になった(龍口の法難)。いよいよ刑執行という時、対岸の江ノ島に激しく稲妻が走り、頭上で巨大な雷鳴が轟いたことから役人が恐れをなし処刑は中止。間一髪で佐渡への遠流となった。
※この時の日蓮宗への弾圧は厳しいもので、弟子、信徒、そして話を少し聴いただけの一般人まで捕らえられ、謀反者として重刑に科せられた。

厳冬の島では飢えと寒さに苦しむが、“釈迦は真実(法華経)を語る者は迫害にあうと言われた。この法難こそ正しき道を行く証だ”と、ますます自説に自信を持ち、著作活動に励んで『開目抄』『観心本尊抄』等の代表作を記した。
『観心本尊抄』では信仰の中核となる三大秘法(本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇)を示し、“現実世界こそが釈迦の住む浄土”であり、人は「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることで“生きながら救われる”とした。

1274年(52歳)、北条家は次の執権を争う内紛状態になり、外からは元軍の襲来が目前に迫り、まさに内憂外患そのものの状況になった。ここにきて幕府の態度は一変し、日蓮の流刑を解いて鎌倉に呼び戻す。幕府は根負けした形で「国家の安泰のみ祈る」との条件付で布教を許した。漁師の子に生まれた貧僧・日蓮が、時の政権に認められたのだ。社会的な不安もあり日蓮宗は門徒を増やし、信者によって妙本寺が創建された。しかし、いくら日蓮が「法華経のみを信ぜよ」と言っても幕府は聞く耳を持たぬので、ほどなく鎌倉を去って山梨の山間へ分け入り、身延山(みのぶさん)に隠棲し『報恩抄』を書くなど、弟子の育成に残りの人生を捧げた。
1282年、病に冒された日蓮は湯治にいく途中で容態が悪化し、後事を弟子の六老僧(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持)に頼み武蔵池上にて60歳で他界した。遺骨は希望に従い身延山へ納骨された。

その後、弟子たちは協力して布教に励み順調に信徒を増やしたが、七回忌の際に六老僧の間に内部分裂が起きる。(このあたりの事情は各宗派によって主張が全く異なるので結果だけを書く)まず日興が駿河に大石寺や本門寺を建て最初の分派となり、続けて日朗の弟子日像が京都に妙顕寺を建て、さらに鎌倉・妙本寺、中山・法華経寺、池上・本門寺、身延山・久遠寺などに弟子が別れ、以降、分派ごとに発展することとなった。

日蓮宗では「他宗の信者の布施供養を受けず、また他宗の僧に供養してはならない」とする不受不施(ふじゅふせ)を説く僧も多く、近代では神道を拒絶するなど、異端として権力側からしばしば弾圧された。
現在は身延山久遠寺を総本山とした日蓮宗を筆頭に、日蓮正宗(大石寺)、本門宗、法華宗、本門法華宗、本妙法華宗、日蓮宗不受不施派、本門仏立宗などがあり、新宗教として、創価学会、立正佼成会、霊友会など多数の信者団体が存在している。

日蓮の他宗教に対する態度は確かに厳しかった。『選時抄』を読むと、ここには書けないような過激な言葉もある。これを「不寛容」と見るか、「純粋」と見るか。仮に「不寛容」だとしても、それは短所ではあるが偽善でないことだけは確かだ。「たとえ命を捨てても法華経は捨てない」とまで言い切る背景には、既成の宗派では末法の世を現に救済できてないという、怒りにも似た焦燥感があったのだろう。権力闘争に明け暮れる旧仏教界の要人や、多くの真面目な念仏行者の中にいる一部の不届き者(念仏をただの極楽行きの切符としか思っていない)が、どうしても許せなかった。真剣に世を憂いていた。2度にわたる流刑を生き延びたのは、門徒たちの命がけの差し入れがあったことが分かっている。佐渡の場合、鎌倉から片道15日もかかる道のりを、何度も弟子がやって来ている。もし日蓮が他宗を批判するだけで保身に勤しむ狭い男であれば、だれがそこまでして面会に行くだろう。弟子に宛てた優しい文面の手紙も多く残っている。これぞまさに人望の賜物ではないか。

※阿弥陀仏による死後の救済(極楽浄土)を法然が説いたことに対して、日蓮は釈迦の教え(法華経)が自身の内にある仏性を目覚めさせ幸福にすると説いた。念仏や禅が個人の為の宗教であるのに対し、個人を超えて社会や国家全体の救済を主張しているのも日蓮宗の代表的な特徴だ。ただし、これら国家の救済はあくまでも非暴力、不殺生であらねばならぬとした。

※「冬は必ず春となる」(日蓮)



★天草 四郎/Shirou Amakusa 1623-1638.2.28 (長崎県、南島原市、原城跡 15歳)2000

四郎は細川軍に討ち取られ、長崎でさらし首となった。 原城跡。この一角だけで4万人の信徒が殺された!

  

島原藩が定めた税は多岐に渡り、家に棚をつけたら「棚税」、窓をつけたら「窓税」、子が出来たら「頭税」、囲炉裏(いろり)を作れば「囲炉裏税」、挙げ句の果てには死者を埋葬した時の「穴税」まで制定した。特に年貢については、3倍に水増しした検地を行ない、それを基に年貢を課すという極悪非道ぶり。しかもキリスト教が禁教となってからは、改宗を拒む者や、他の信徒の名を自白しない者は雲仙の火口へ生きたまま投げ込まれたり、火あぶりに処せられたりと、苛烈な拷問と処刑が日常的に行われた。農民にはもう、黙って死ぬか、戦って死ぬかの、どちらかしか道が残されていなかった。かくして一揆が勃発する。一揆軍のリーダーは天草四郎(本名益田時貞、洗礼名ジェロニモ)、彼はまだ15歳の少年だった。そんな若者が一揆の指導者に選ばれたのは、彼が様々な奇跡を行なったので、人々が彼を天使と信じていたからだ。海の上を歩いたり、秋に桜を咲かせたり、雀がとまった枝を折っても雀が逃げなかったなど、各種の伝説がある。中でも有名なのが、皆の前で鳩に手の平へ卵を産ませ、卵の中から聖書の経文を取り出したエピソードだ。

幕府が動員した兵力は一揆軍の3倍以上の12万人で、関ヶ原の際の東軍兵力を上回る超大軍となった。鎮圧後、一揆の原因を作った島原藩主松倉氏は、大名としては異例中の異例である斬首に処された。天草藩主の寺沢氏も領地は没収。結局寺沢氏は責任を取って切腹した。また攻防戦の時に命令に従わなかった各藩主も処分を受ける。さらに幕府はこの土地の農民の年貢を島原の乱以前と比べて6分の1(!)にし、大変優遇した。

光にきらめく青い海や、付近の田園風景があまりに穏やかなので、自分が悲劇の地に立っているとはなかなか思えなかった。しかし、ちょっと散策すると城跡のあちこちに無縁墓があるのが分かり、徐々に事件の重みが全身に伝わってきた。.)

(天草四郎の巡礼ルポ)



★一遍上人/Ippen Syounin 1239.2.15-1289.8.23 (兵庫県、神戸市、真光寺 50歳)2005

    
一遍上人像はどれも裸足。とってもストイックな雰囲気だ(右から2番目、眉毛を強調し過ぎかと…)










高さ2mの巨大な墓(五輪塔) 一遍を慕う人々の無縁墓 こんな感じで隣接している


戦や飢饉が続き、死と日常が背中合わせだった中世。民衆は切実に心の救済を求めていた。叫びにも似たその思いに応える様に、平安時代の末期から、従来は貴族社会のものであった仏教を、民衆に伝えるべく宗派を開いて奮闘した名僧が次々と現れた。法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(日蓮宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、彼ら鎌倉新仏教の巨星の最後に登場したのが、時宗の開祖・一遍だ(法然と一遍の生年は106年も離れている)。彼ら個性的なカリスマ開祖たちの中にあって、一遍は死の間際に自著・経典を全て焼き捨てるなど、その存在が一際異彩を放っている。

一遍の本名は河野時氏。伊予国(愛媛)道後温泉の法巌寺に生まれる。幼名松寿丸。河野氏は壇ノ浦の合戦で活躍した河野水軍の長を祖父とする有力豪族(伊予守護)だが、承久の乱で後鳥羽上皇(朝廷方)について幕府軍に敗北し、一族は離散、所領を奪われボロボロになった。1248年、9歳で母を失い、既に出家していた父に命じられ、天台宗の寺へ彼も入った。1251年(12歳)、九州大宰府で法然の孫弟子を師に、彼は智真の法名で12年間浄土念仏を学ぶ。1263年(24歳)、父が没したことを機に故郷・伊予に帰国する。

一遍は還俗(げんぞく、僧籍を離れる)して武士となり、豪族の長として妻子も持ち新たな生活を始めたが、8年後の1271年(32歳)に再出家する。子供が車輪を棒で転がして遊んでいる様子に「輪廻もかくの如き」と見出したとも、一族の領地争いで命を狙われたとも言われている。
信濃・善光寺で阿弥陀信仰に覚醒した彼は、伊予に戻って窪寺の山中に庵を設け、そこで3年間ひたすら念仏を唱え続けた。常に阿弥陀の名を口に唱えることで仏との一体感を実感した。
1274年(35歳)、「ただ一心に名号にすがる(阿弥陀の名を唱える)ことで、人は生きながら浄土に生まれる」と確信した一遍は、妻・娘・下女の3人を伴って念仏布教の行脚に出る。摂津・四天王寺、紀伊・高野山を経て熊野権現(阿弥陀如来)に参詣した際に、「衆生済度(全ての生物の救済)のため、阿弥陀の名を記した札を配るべし」とお告げを受け、一遍に改名する。「一遍」=「ただ一度」。この名前には“たった一回の南無阿弥陀仏で往生できる”との思いが込められている。
※時宗はこの年を開宗としている。「南無」は“お任せします”という意味。彼が繰り返し念仏するのは、一念では足りぬからではなく、臨終の言葉としての「南無阿弥陀仏」を絶え間なく唱えることで、生と死を真っ直ぐに見つめる覚悟の念仏だった。時宗の名は『阿弥陀経』の「臨命終時(りんみょうしゅうじ)」“一刻一刻を臨終の時と思え”にちなむ。

以後、一遍は16年後に他界するまで、「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」(南無阿弥陀仏と唱えれば、誰でも往生が決定する)と記した木札を、日本全土に配り歩く遊行(ゆぎょう)を開始する。願いは衆生救済ただひとつ。
※六十万人は一遍が考えていた当時の全人口という説もあるし、熊野で神託を得た次の言葉の頭文字とも伝えられる。
『六十万人の頌(しょう、仏法の詩)』
六字名号一遍法 「六字の名(南無阿弥陀仏)は普遍の真理そのものである」
十界依正一遍体 「十界(全ての世界)の事物は皆平等であり一つの存在である」
万行離念一遍証 「万行(あらゆる修行)で執着の念を離れた所に浄土は待っている」
人中上々妙好華 「人々の心の中で名号は清らかに美しく咲く蓮華の花なのだ」

この念仏札の配布は画期的だった。出会う人すべてに手渡しで配りまくった結果、以前から阿弥陀を信仰する者はより信心を深め、信仰しない者にはこれが浄土教に触れるきっかけとなった。
10月、博多湾にモンゴルが来襲し全国に衝撃が走る。一遍たちは北九州に向かった。戦地では負傷兵や戦火の被害を受けた庶民に「この札は、念仏だけで浄土へ往生できる安心のお礼です」と念仏札を配り歩いた。人々は一遍の教えに勇気づけられ、豊後(ぶんご、大分)では領主自らが彼に帰依した。一遍に付き従う民衆も多く、一行は九州を発ち、布教しながら北上していく。その過程で、39歳の時に備前(岡山)で吉備津宮の神主の子息を始め、280余人が一度に出家するようなこともあった。

           ←「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」このお札を一遍は配っていた

一遍の心のヒーローは平安中期に活躍した空也(くうや)上人。平安朝の多くの僧は、寺院に布施を寄進する貴族の為に経を読んだが、空也は違った。彼は庶民が集まる市場や祭りの片隅に立ち、首から提げた鐘を叩きながら民衆の為に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えた。そしてお布施が入ると、すぐさま病人や貧者に届け、水源が遠い村に井戸を掘るなど民衆の為に生涯を捧げた。空也は念仏の詠唱の果てに法悦に包まれ踊り始め、これをして「踊(おどり)念仏」の開祖となった。人々はそんな空也を、敬意を込めて「市聖(いちのひじり)」と呼んだ。

それから300年後の1279年(40歳)。信濃国に滞在中だった一遍ら一行は、とある武士の館の庭で鐘に合わせて念仏を合唱しているうちに、あまりの熱気と興奮から誰ともなく無意識に跳ね回り出した。手足を振り回して一心に念仏を詠唱すると、座して唱える念仏とは異なる命の爆発があり、トランス状態で失神者が出るほどの解放感があった。空也の踊念仏が時を経て甦ったのだ。ただし空也と違ったのは、彼は一人だったが、一遍たちは数十人の集団だった。
彼らは往生決定の歓びを鐘や太鼓に合わせて激しく踊り表現したので、市場などでは「何事か」「何だか楽しそうだ」と黒山の人だかりができた。この宗教パフォーマンスは、難解な仏教哲学を説くよりも、発声や体を動かして雑念を捨て、阿弥陀と一体化する法悦に至るという分かりやすさで見る者の心を鷲掴みにし、大ブームになった。考える念仏ではなく体験される念仏、つまり「当体一念の念仏」だった。また“一人でも多くの人に念仏札を”と考えていた一遍にとって、大勢の人が自然に集まる素晴らしい布教方法だった。
彼らは新しく町に到着すると、僧と尼の集団で派手に「踊念仏」を敢行して大勢の見物人を集めては、一遍が念仏札を配って教えを説き、すぐさま次の町を目指す、そんな日々を何年も続けた。
※男女混合の仏教集団は大変珍しいもので、それだけでも人が集まった。当時の宗教界は高野山が女人禁制だったように、神道も含めて女性を低く見る一面があった。しかし一遍は旅立ちの時点で妻や娘を連れており、女性を平等に考えていた。

一遍の行動指針は、空也上人の言葉「捨ててこそ」。あらゆる執着を捨てた時、人は現世で浄土に入る。定住は執着を生むと言わんばかりに、旅を先に進めた。九州・鹿児島から東北地方まで足を伸ばし、最後は四国へ渡るなど、不断なく布教の旅を続けた。「布教の旅」と一言で言っても、雪の日もあれば雷雨の日もあり、それは決して生易しい旅ではない。文字通り歩き通しなのだ。例えば伊豆に入った時には、8人の信者が息をひきとっている。そんな過酷な旅を、一遍は自身が他界するまで続けた。
1282年(43歳)3月、執権・北条時宗のお膝元・鎌倉に入ろうとしたが、鎌倉は元寇の乱の直後ゆえ恩賞を求める武士で混乱しており、また旧仏教や禅宗を支持していた幕府に、異端として立ち入りを禁じられる。だが一遍はくじけない。「その昔、法蔵菩薩が阿弥陀仏になった時から、全ての生命の往生は決定しているのです」。彼が次に目指したのは京の都だった。

1284年(45歳)、上洛した一遍は、憧れの空也上人が開いた六波羅蜜寺へ巡礼する。当地では「噂の踊念仏を一目見よう」と多くの民衆が集まった。「“南無阿弥陀仏”の言葉そのものが“仏”であり、その言葉には絶対的な力がある。唱えれば必ず救済されるのだ」--京の人々はボロをまとった貧僧が説く分かりやすい教義に耳を傾け、熱烈にこれを支持した。都での布教は大成功、彼は感極まった。

1289年、上半期は四国で布教し、7月18日に明石港に入り神戸に至る。8月10日朝、体調の異変から死期を悟った一遍は「“南無阿弥陀仏”以外の言葉はすべて蛇足だ」と弟子達に語り、「一代聖教(しょうぎょう)みな尽きて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」(この教えは一代限り、ただ南無阿弥陀仏が残る)として、手元にあったすべての経典、法具、書籍を自ら焼き捨てた(だから現在、時宗には本典がない)。一遍は寺を持とうとせず、名を後世に残そうという野心も全くなかった。「捨ててこそ」、なのだ。執着してはならぬ。この悟りに注釈は必要ない。※一遍は「捨て聖(ひじり)」とも呼ばれる。

2週間後の8月23日午前8時、神戸和田岬の観音堂(現・真光寺)で、眠りに入るように静かに他界した。遺言は「我が亡骸は野に捨て、ケダモノなどに施せよ」。享年50歳。日本中を歩き尽くし、一遍が一枚づつ札を手渡した相手は25万1724人と記録されている。
没後、信者達はどうしても亡骸を野に打ち捨てることが出来ず、荼毘(だび、火葬)にふした後に手厚く供養した。
真光寺には一遍の五輪塔(墓)があるが、なにぶん700年も昔の人物なので、墓碑が記念碑的なものなのか、後世の追悼供養塔なのか、当時のままの墓なのか、建立の年代もハッキリ分かっていなかった。1995年、阪神大震災で巨大な五輪塔は完全に倒壊した。ところが偶然にも割れた墓石の内部(球体の水輪部分)から遺骨が発見され、本物の一遍の墓であることが裏付けされた。その後、五輪塔は修復され遺骨も納め直された。墓のすぐ側には千基を超える数え切れぬほど無数の無縁仏(墓)がある。長年の風雨で名前は読み取れないものも多いが、誰もが一遍を慕って傍らに眠ることを願った人。これなら一遍も寂しくないし、皆も側にいれて幸せだし、見ているだけで心温まる墓所になっている。

『花は色 月は光と眺むれば 心はものを思わざりけり』
(色とりどりの花や、澄んだ月の光を眺めていると、その美しさに思わず我を忘れてしまいます)(神奈川・藤沢の片瀬にて、44歳)

※一遍上人の踊り念仏が盆踊りの起源だという。
※時宗の教えは、『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』という浄土三部経に拠っている。
※愛媛の法巌寺には一遍上人生誕地の碑が建つ。
※「捨ててこそ」は魔法の言葉で、何か辛い思いに心が支配された時に、この言葉をつぶやくと、不思議と苦しみが軽くなって前進できる。
※一遍は著作が皆無なので、没後10年目に弟子の聖戒が文を書き、3人の絵師が絵をそえた「一遍聖絵」12巻(京都・歓喜光寺所蔵)と、宗俊が編集した「一遍上人絵詞伝」10巻が貴重な資料となっている。
※鎌倉には光触寺や別願寺など7つの時宗の寺があるが、一遍の死後に建立されたもの。
※「唱ふれば 仏も我もなかりけり なむあみだぶつ なむあみだぶつ」(一遍上人)
※踊念仏は室町時代にかけて大流行し、やがて娯楽的色彩が強まって芸能化すると、出雲阿国が踊念仏に歌を交えて踊り始め、これが歌舞伎の幕開けになった。空也が踊念仏を始めて300年後に一遍が現れ、一遍が全国に広めてさらに300年後に歌舞伎が生まれたのだ!




阪神大震災で完全に倒壊(1995年当時) 700年ぶりに発見された一遍の骨壷
※画像元/神戸大学附属図書館震災文庫



★最澄/Saityou 767.8.18-822.6.4 (滋賀県、大津市、比叡山延暦寺 54歳)2002





延暦寺の奥にひっそりとたたずむ最澄の霊廟 他人には優しく、自分には厳しかった最澄 廟に続く山道。周囲は鳥の声だけ

日本天台宗の開祖。伝教大師。近江国古市郷(滋賀・大津市)出身。4世紀中頃の渡来人の子孫で本名、三津首広野(みつのおびとひろの)。12歳で近江国分寺(石山)に入り、14歳で正式に出家して名を最澄と改めた。785年4月、東大寺において18歳で受戒(殺生の禁止など250の戒めを守ると誓うこと)したが、3ヵ月後の7月、奈良仏教が貴族社会の文化であることや、自ら煩悩を断ち切り悟りを得るために比叡山に向かい、修行生活を開始した。東大寺で受戒した僧は国家が認めた官僧であり、奈良で立身出世していく道を選ぶのが普通。最澄のように世俗的な名声を求めず、受戒後すぐに孤独な山林修行に入るのは極めて異例のことだった。

天台の教えでは、理論の研究をせず体験的な修行ばかり積む事を「愚」、体験的な修行をせず理論ばかり学んでいるのを「狂」と言う。最澄は比叡山に登る時に『願文(がんもん)』を記して誓いを立てた。18歳の彼は激しい口調で自身を批判する。「愚の中の極愚、狂の中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、上は諸仏に違い、中は皇法に背き、下は孝礼を欠く(抜粋)」“私は愚の中の極愚、狂の中の極狂、塵の如き人間、最低の最澄である。上は仏たちの教えに反し、中は天子の法に背き、下は孝を欠いている”。このように自分を定めた上で、山林修行を通して功徳を得れば、それを自分だけのものにせず、あらゆる人に伝えて世界を仏の慈悲が満ちた浄土にすると誓った。

3年後の788年(21歳)、草庵を建てた最澄は、側のお堂に自ら彫った薬師如来を本尊として安置した。(これをもって比叡山開創とし、この時に仏前で灯した小さな灯は“弥勒仏”が救済に現れる日まで絶やさぬと門徒は誓い、1200年後の現在も根本中堂を照らしている)。
最澄は793年(26歳)から草庵を比叡山寺(根本中堂)と呼ぶ。やがて一人で修行している最澄の下へ様々な立場の者が集まるようになった。鑑真和上の一番弟子・道忠は、最澄の『願文』を読んで純粋な熱意に胸を打たれ、なんと所有する2000巻以上(!)の教典を、わざわざ彼の為に写経して贈ってくれた。中国で生まれた天台学は、鑑真から道忠へ伝わり、そして道忠から最澄へと受け継がれて、日本独自の天台学が形作られていく。

翌794年、最澄27歳。この年、都が平安京に遷都された。「比叡山に無名の良き青年僧あり」との噂は宮中に届き、平安京の造営担当者・和気(わけの)清麻呂らが最澄に帰依し、やがて桓武天皇も最澄の『願文』を知ることとなる。桓武帝が奈良を出たのは仏教界の権力が朝廷を凌ぐほどになったから。帝は完全に奈良仏教と縁を切るために、寺院の京都への移転を厳しく禁じた。それほど仏教界と距離をとろうとしていたが、帝もまた『願文』が胸に沁み、なんと自ら比叡山に登り最澄の下を訪れた。最澄が説く「即身成仏(じょうぶつ)」は“一切の生き物の中にはみな仏性があり誰もが仏になれる”ということ。桓武帝は最澄と親交を結び、797年に最澄を側近の内供奉(ないぐぶ、天皇のアドバイザー)に登用した。定員が10名の役職であることから「十禅師」とも呼ばれ、30歳の最澄は文字通り大抜擢されたのだ。35歳、高雄山寺(神護寺)で法華経の講師をする。

804年(37歳)、かねてから中国に渡って最新の仏教を学びたいと思っていた最澄は、1年間の短期留学生として遣唐使で渡航した。“渡航”と一言で言ってもそれは命懸け。派遣された遣唐使12回のうち、無事に往復できたのは5回だけ。それでも最澄の仏法への思いは抑え難く船に乗り込んだ。4隻で出航した船団は暴風雨に遭い、中国に着いたのは最澄が乗る第二船と、僧として公認されたばかりの若い空海(30歳)が乗る第一船の2隻だけだった(2隻は行方不明)。
最澄と通訳の門弟は上海の南西にある天台山を訪問し、天台教学、禅、戒律などを学び、230部460巻の経典、多くの法具を土産に翌年帰国した。彼は桓武天皇に天台法華宗の設立許可を願い、806年1月26日(39歳)、天皇は奈良の南都六宗(華厳宗、律宗、法相宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)に加え、新たに天台宗の僧侶を年に2名ずつ国費で養成する許可を出した。天台宗は晴れて国教の仲間入りをし、この日が「日本天台宗」の始まりとなった(この1ヵ月後、桓武天皇は病没)。

同年に空海が帰国。彼は貴重な経典を山ほど持ち帰ってきた。最澄は大興奮。というのも、1年という短い留学期間では天台を学ぶことが精一杯で、密教の教義への理解は不完全のまま帰国したと自覚があったからだ。「空海殿に経典を借りて勉強しよう!」と、意気込む最澄。ところが空海は20年の留学が義務付けられていたのに2年で切り上げて帰国したことが違法とされ、平安京に入ることを3年も許されなかった。最澄は朝廷に働きかけ、自分が修行場に使った高雄山寺で空海を受け入れる提案をし、また新しく天皇に就いた嵯峨天皇が仏教を深く信奉していたこともあって、空海は入京を許された(809年)。

最澄が十禅師に名を連ねていたのに対し、空海は全く無名の青年僧。しかも最澄は空海より7歳も年上。だが、最澄は驕(おご)ることなく礼節をもって空海に密教経典の閲覧・借用を申し込み、空海の方もこれに対して快く貸し出した。数ヶ月が経ち、最澄は見栄を捨てて空海に頭を下げてお願いした--「灌頂(かんじょう)を受けたい」と。灌頂とは師が免許皆伝を認めた弟子の頭上に水を注ぐ重要な仏教儀式。つまり、最澄は自分が空海の弟子となる決断をしたのだ。たとえ屈辱に感じても、それでもなお、仏法を極めたいという最澄の真剣な思いが伝わってくる。
812年、空海は最澄に灌頂を授けた(45歳)。最澄が目指している天台宗のあり方は、いわば仏教の総合大学。様々な宗派を学ぶことで真理を見極め、広い視野をもって悟りに至るというもの。だから、空海が中国で極めた真言密教も、最澄はどうしても学んでおく必要があった。

しかし翌年、最澄と空海の交流は途絶えてしまう。実は灌頂には段階があり、最澄が受けた灌頂は一般人でも受けることが出来るものだった(結縁灌頂)。後日、さらに重要な灌頂(伝法灌頂)を授けて欲しいと願ったところ、空海は「それには3年かかります」と断った。さらに、新たにお経の閲覧を申し込んだところ、「真言の悟りは文章修行ではなく実践修行から得られます」とこれも拒否。最澄には関東や九州に天台を布教し、比叡山に戒壇を開く大きな計画があり、50歳を前に3年を修行にあてる時間はなかった。やむなく愛弟子を高野山に送って真言密教を学ばせるが、弟子は最澄と別れて空海の弟子になってしまった。後継者と見込んでいた愛弟子が空海に走ったことに最澄は言葉を失う。
全ての宗派を平等に見る最澄の価値観と、真言密教至上主義の空海の決別は、遅かれ早かれ避けられない道だった。

814年(47歳)、九州・筑紫国へ布教に赴き、翌年は関東で教えを説き、貧窮者の為の無料宿泊所や寺院を建立した。最澄の晩年は比叡山へ戒壇(かいだん)を設置する運動に精力を注ぐ日々。当時の仏教界は、誰もが自由に僧侶になれるわけではなく、国が指定した3ヶ所しかない戒壇で受戒した者だけが、公式に僧として認定された。3ヶ所とは奈良・東大寺、九州大宰府・観世音寺、東国栃木・薬師寺。最澄は天台の僧は奈良仏教の戒律ではなく、天台の戒律「大乗戒」を守るべきだし、比叡山での修行者が山で受戒できれば素晴らしいと考えていた。これに対し、奈良仏教界は猛反発。最澄は徹底的に叩かれた。

818年(51歳)、18歳の時に受戒した奈良仏教の戒律(具足戒)を破棄し、日本天台宗の学僧制度『山家学生式』(さんげがくしょうしき)を作る。内容は年分学生(官費の修行僧)の試験に合格した者に「大乗戒」を授け、12年間比叡山にこもって修行する菩薩僧を養成し、国の宝として下山させるというもの。「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝と為す」“国宝とは何か。宝とは正しき道を歩もうとする心であり、その心を道心という。道心のある人を名付けて国宝となす”。(『山家学生式』)※「山家」は天台宗、「学生式」は学制の意。

822年6月4日、比叡山の中道院にて逝去。遺言は「怨(おん)を以って怨に報ずれば怨止まず。徳を以って怨に報ずれば怨即ち尽きぬ。私は生涯、荒い言葉を言ったことも、叩いたこともない。私の為に仏像を造ったり経を写さなくてもよい。ただ私の志を受け継いで欲しい」。弟子の手で建てられた廟所は浄土院と呼ばれている。
最澄の戒壇設置を求める努力は生前に報われることなく、没後7日目になってようやく認められた。嵯峨天皇は最澄の死を惜しみ、生前に最澄と親しく、天台宗を国教として認めた桓武天皇の元号『延暦』を寺号として額に刻み比叡山に贈った。これを受けて最澄の弟子達は「比叡山寺」を「延暦寺」に改名した。866年(没後44年)、清和天皇から最澄に伝教大師の名が贈られた。大師の意味は“天皇の先生”。最澄は大師の第1号になった。

最澄の死後、天台宗は様々な日本仏教の母体となり、延暦寺の修行僧の中から法然上人・親鸞聖人・栄西禅師・日蓮上人・道元禅師・一遍上人という、後世に大きな名を残す各宗派の開祖が巣立っていった。すべては最澄という一人の人間が、20歳頃に人生の煩悶を振り払うように山へ分け入り、その手で小さな庵を建てたことから始まったのだ。

※命日の6月4日は各地の天台宗寺院は「山家会(さんげえ)」という法要が催される。
※最澄の誕生地(門前町坂本)には「生源寺」が建ち、生誕日に祭りが催される。付近には居住した紅染寺跡もある。
※天台密教は最澄の没後、弟子の円仁が唐から最新密教を持ち帰って完成された。東密(高野山)と台密(比叡山)は日本密教の双璧となった。
※最澄を伝える文化財は兵庫県・一乗寺の『天台高僧画像』(国宝)、滋賀県観音寺の彫像(重文)、筆跡は『将来目録』『久融帖』等々。
※霊廟の浄土院は本堂(根本中堂)のある東塔地区から徒歩約15分。ここに仕える僧は「侍真(じしん)」と呼ばれ、12年間一歩も浄土院から出ず、毎日午前3時に起床して修行を続けている。



琵琶湖・東岸、西明寺の最澄像



★吉田 松陰/Syoin Yoshida 1830.8.4-1859.10.27 (東京都、荒川区、回向院&山口県、萩市、吉田松陰墓所 29歳)2000&01&06&08






2001 2008 松陰先生像 2006
荒川区(小塚原刑場跡)の墓
史跡コーナーに移動していた 烈火の魂を持つ男 山口・萩の墓。後方上段の墓は高杉晋作!

松陰先生の没後の諱(いみな)は矩方。墓には号の「二十一回猛士」が彫られている


萩の墓には墓を建てた門人たちの名が。幕府に逆らって
死罪になった人間の墓に、堂々と名を刻むその勇気!
高杉春風(晋作)の
名前もあった!




萩の松陰神社境内にある松下村塾

高杉、木戸、伊藤…内部にはこの塾から
巣立った長州藩の志士たちの肖像が
“明治維新胎動之地”
カッコイイ!

荒川区の墓(2000年) 8年後に行くと環境が激変!(2008年) 世田谷区の松陰神社にある墓(2001年)
僕の他にも巡礼者の一団が。さすがは松陰先生、死後
約150年を経ても多くの自称・門下生から慕われている!
墓地に史跡コーナーが新設され、安政の大獄
の受難者が一斉に移動。先生は一番奥だ
一般にはこちらの墓の方が有名か。歩いて行ける範囲の場所
に豪徳寺があり、そこには宿敵の井伊直弼が眠っている

中央区日本橋小伝馬町にある牢屋敷跡(十思公園)。
松陰はここで処刑された
「松陰先生終焉之地」とある。
合掌


吉田家は長州藩の軍学指南役であり、松陰は若干9歳にして兵学の講義をする為に藩校の教壇に立ち、翌年は藩主にまで講義したという。二十歳のときに長崎を訪れ、視野が世界に広がり日本の将来に思いを巡らす。翌年、藩の許可なく東北諸国を見て回った為に脱藩扱いに。1853年(23歳)、浪人として江戸に出た時にペリーの黒船事件に遭遇。海外の事情をさらに知る必要性を痛感する。そして次の年、再び来航したペリー艦隊に、なんと松陰は夜闇に紛れて米国への密航を試みた。だが、漁船で接近した彼は発見され、米側に懇願するも、日米交渉の支障になることを恐れ願いは聞き入れられず、鎖国の禁を犯した罪で投獄される。獄中で囚人たちが松陰の語る学問に強く関心を持ったことから、国家の柱となる優れた人材を育成することを自らの天命と知り、25歳で出獄すると近隣の子弟を集めて塾を開いた。それは27歳の時に萩の松下村(しょうかそん)塾に発展し、門下生の高杉晋作、木戸孝允ら、後の志士を育てた。1858年、大老・井伊直弼が日米修好通商条約を独断で調印したことに対して、諸藩から抗議の声が上がると、直弼はこれを徹底的に弾圧する(安政の大獄)。翌年、松陰は幕府役人に時代の変化を知らせる為に、そして幕政の混迷を批判する意味で、あえて老中暗殺計画を自供し、江戸中を引き回されて小松原刑場で刑死した。享年29歳。亡骸は現在の世田谷区に葬られ、後年祠が立てられ松陰神社となった。
 
松陰は死刑の直前に、獄中から当時20歳の高杉晋作に次の手紙を記した。 『死は好むものでもなく、また、憎むべきものでもない。世の中には、生きながら心の死んでいる者がいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者もいる。つまり小生の見るところでは、人間というものは、生死を度外視して、何かを成し遂げる心構えこそ大切なのだ』以降、この手紙は晋作の行動指針となる。松陰の熱い生き方は多くの若者の心を揺るがし、9年後の明治維新へと繋がっていった。

「体は私なり、心は公なり」(坐獄日録)



★細川 ガラシア/Garashia Hosokawa 1563-1600.7.17 (大阪府、東淀川区、崇禅寺&京都市、北区、大徳寺 37歳)1999&2003





キリシタンのガラシア 崇禅寺にある墓・1999



  
京都の大徳寺高桐院は細川家の菩提寺。
美しい苔寺として有名だ(2008)


高桐院の墓。石灯籠そのものが墓石。夫の2代細川忠興(三斎/1563-1645)の歯もこの下に。この石灯籠は利休
が天下一と美しさを讃えたもの。名声を聞いた秀吉が権力に任せて奪おうとした際、利休はわざと背後を割ってキズ
モノにし譲渡を断った。そして切腹時に遺品として弟子の忠興(当時28歳)に贈った。それから約50年後、80歳に
なった忠興は熊本からこの石灯籠を高桐院に運んできて、忠興とガラシアの共同の墓と遺言し3年後に他界した

 
熊本市・立田自然公園の泰勝寺跡にも墓がある。しかも超巨大! 手前から初代細川藤孝(幽斎)、藤孝妻、忠興、ガラシア


ガラシアはあの明智光秀の実娘で本名は玉子。15歳の時に織田信長の
媒酌で夫の細川忠興(ただおき)と結ばれた彼女は、当時から才色兼備の女性として知られていた(父光秀は教養人だった)。1582年(19歳)、光秀が本能寺の変を起した後、忠興は謀反人の娘となった愛妻と離縁せざるを得ず、ガラシアは2年後に秀吉の許しが出て復縁するまで京都の山里に幽閉される。その後、夫を介して高山右近からキリスト教の教義に触れた彼女は、イエズス会宣教師との手紙のやり取りで聖書を学び、24歳でキリシタンとして洗礼を受け、名をガラシア(Gracia=伽羅奢、意味は“神の恩寵”)に変えた。関ヶ原合戦の2ヶ月前、夫が家康に従って上杉征討のため会津へ向かった留守中に、挙兵した石田三成が大阪玉造の細川邸を包囲した。三成は合戦を西軍有利に導くために、諸大名の妻子を人質として大阪城へ集めようとしていたのだ。しかし、ガラシアは大阪城への移動を毅然として拒否する。キリスト教で自害は禁じられているので、家老の小笠原小斉に胸を突かせ、家臣らは屋敷に火薬を撒いて全員爆死した。37年の人生だった。ガラシアの辞世の句は『散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ』。この壮絶な最後に石田三成は胸を打たれ、人質作戦を断念した。ガラシアの生涯はヨーロッパにも伝わり、死後約100年が経った1698年に、音楽劇「ガラシャ夫人」がウィーンのハプスブルク家宮殿内で行われた。
 
「こんなにも家臣たちに愛されていたのか!」夕暮れどき、細川家の菩提寺・崇禅寺(大阪市東淀川区)を訪れると、最期の瞬間までガラシアを守り続けた重臣たちの小さな墓が7つ、死後もガラシアの周りを固めていた!彼らの遺骨は、ザビエルの弟子オルガンチノによって細川邸の焼跡から死の翌日に拾い集められ、堺のキリシタン墓地に埋葬される。その後の宗教弾圧で墓地が破壊され、この地に改葬されたという。※ガラシアの墓は夫の忠興が眠る京都大徳寺にもある。

※忠興は文武両道の武将で、利休に直接茶の湯を学び利休七哲(蒲生氏郷、高山右近、芝山監物、瀬田掃部、牧村兵部、古田織部、細川三斎=忠興)の一人に数えられている。また、宮本武蔵を肥後熊本藩に招いた初代藩主細川忠利は忠興とガラシアの長男だ。忠利の死は鴎外が小説「阿部一族」で採り上げている。次男は大阪の陣で豊臣方につき切腹。大阪玉造カトリック教会にはガラシア夫人の像がある。ガラシアの血筋をひく細川元首相は、政界引退の際にガラシアの辞世の句“散りぬべき--”を引用した。



★俊寛僧都/Syunkan Souzu 1143‐1179.3.2 (山口県、長門市、湯本温泉 37歳)2000



俊寛は骨になってもここまで戻ってきた
※墓参の際は駅から墓まで温泉街を歩く
鹿児島市の「俊寛の碑」。俊寛はここから鬼界ヶ島に流された。
※1898年の埋め立てまで俊寛堀があったそうだ(2008)

おごり高ぶる平家を打倒すべく反乱を企てるも、密告によって捕えられ、鬼界ケ島(現在の硫黄島)に流された
悲劇の僧侶・俊寛。彼の遺骨は息子・有王丸によって本土に持ち帰られた。詳しくは以下の巡礼ルポにて。

(俊寛の巡礼ルポ)



★沢庵宗彭/Takuan Soho 1573.12.1-1646.12.11 (東京都、品川区、東海寺大山墓地 73歳)2000

墓の上には巨大な漬物石が! 67歳の沢庵

(沢庵和尚の遺言)
・自分の葬式をしてはならない
・香典はいっさいもらってはならない
・死骸は野外に埋めて二度と参ってはならない
・墓は造るな
・朝廷が名(禅師号)を与えようとしたら断れ
・法事をしてはならない

2代将軍徳川秀忠は政権安定の為にも、僧侶が巨大な力を持つことを好まず、各地の有力な寺に弾圧政策をとった。そんな幕府に反抗し続け、抗議文を送り付けた為に流刑罪となった反骨の僧がいる。現在、発案した漬物の呼称として名を残している彼の名は、沢庵宗彭(たくあんそうほう)。
流刑5年目に秀忠が死ぬと、3代将軍家光は沢庵の流刑を解いた。家光はかねてから歯に衣を着せぬ沢庵の大ファンだったのだ。さらに家光は沢庵の為にわざわざ品川に東海寺を建て、説得してそこに住んでもらった。家光は周囲にイエスマン以外の相談役が欲しかったのだ(家光は沢庵を75回も訪問したという記録が残っており、沢庵の人間的魅力がよく分かる)。
逸話をもうひとつ。無敗伝説で有名な宮本武蔵。実は武蔵がまだ駆け出しの頃、京都大徳寺の大仙院で沢庵と戦って負けている。対決時間はわずか数秒。沢庵と正面から向き合った武蔵は剣を抜くこともなしに、和尚の目を見ただけで“参りました”と頭を下げたのだ。

墓は東海寺の本堂からかなり離れた場所にある。墓の上には楕円形の岩がドシンと乗せてあり、それがまるで漬物石そっくり!実にユニークな墓だった。



道元禅師/Dougen Zenshi 1200.1.2-1253.8.28 (福井県、吉田郡、永平寺 53歳)2001

諡(おくりな、死後贈られた名)は仏性伝東国師・承陽大師

鎌倉時代の禅僧で曹洞宗の開祖。ひたすら座禅をすることで、自身の内部にある仏に出会えと説いた。
総本山の永平寺は山間の巨大寺。どんどん寺内の階段を登って行くと、道元の廟にたどり着く。




★福沢 諭吉/Yukichi Fukuzawa 1834.12.12-1901.2.3 (東京都、港区、善福寺 66歳)2001







樹齢700年(東京最古)、天然記念物の
巨大な“逆さ銀杏”と向き合っている(善福寺)
若い頃は僕らがイメージしてる諭吉と全然違う! 写真屋の娘さんと♪
諭吉も隅に置けない

 
故郷、大分県中津駅前の福沢諭吉像

大分県出身。諭吉の父は儒学に造詣があり財政にも通じていたが、下級武士であった為に能力を発揮できず、憤怒詠嘆しながら彼が3歳の時に病没した。(諭吉はこの件に関し「封建制度は親の仇でござる」と残している。)諭吉は20歳の時に長崎で蘭学を学び、24歳で江戸に出て藩邸で塾を開いた。また同時期に、ペリーの来航を機に横浜が開港したことで、彼はこれからは英語が必要になると直感し、独学で英語を学ぶ。1860年(26歳)、幕府のアメリカ派遣使節の従者として咸臨丸で渡米。サンフランシスコで異文化に触れ、習慣の違いに仰天する。彼はこの時の気持ちを「日本を出るまでは怖い者なしと威張っていたのが、初めてアメリカに来て花嫁のように小さくなってしまったのは自分でもおかしかった」と記した。そして、この52日間の滞在を通して最大の衝撃は次の会話だった。
「私がふと胸に浮かんである人に聞いてみたのは、ほかでない、今ワシントンの子孫はどうなっているかということだった。その人の言うに、ワシントンの子孫には女の人はいたはずだ。今どうしているか知らないが、何でも誰かの妻になっている様子だと、いかにも冷淡な答えで何とも思っておらぬ。これは不思議だ。もちろん私も、アメリカは共和国、大統領は四年交代ということは百も承知の事ながら、こっちの頭には源頼朝、徳川家康というような考えがあって聞いたところが、今の通りの答に驚いた」
諭吉は、初代大統領の子孫は高い地位に留まっていると思っていたので愕然とした。徳川家康の子孫が15代にわたって将軍であり続けた日本に対し、初代大統領の子孫が一市民として暮らすアメリカ。目からウロコとはこのことだった。翌年、幕命で渡欧(ロシア含む)し海外を視察。32歳、豊富な海外知識を記した『西洋事情』を刊行する。1867年(33歳)、江戸時代最後の年に、NY、ワシントンにまで足を伸ばした。維新後は塾名を慶応義塾と改名し、教育に専念する為に明治政府からの登用を断った。1872年(38歳)、諭吉が12年前の最初の渡米で驚愕したワシントンのエピソードは、この年に刊行された『学問ノススメ』の冒頭の言葉“天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず”に結実した。封建主義や階級制度を激しく批判した同著は8年間で70万部(当時の人口は今の3分の1)という超ベストセラーとなった。その後も最後まで政界には入らず民間教育者の立場を貫き、66歳、脳出血により死去。
 
※男尊女卑が当たり前だった江戸時代。諭吉は欧米で“レディーファースト”という概念と出合い、また一般家庭を訪問した際に、妻がテーブルについて夫がお茶を運んでくる光景に出くわし腰を抜かした--「いかにも不審なことには、おかみさんが出て来て座敷に座り込んでしきりに客の取り持ちをすると、ご亭主が(お茶を出すなど)周旋奔走している。これはおかしい。まるで日本とアベコベなことをしている」。後年、彼が著作『日本婦人論』などを通して積極的に女性の政治参加や性の解放を主張したのは、欧米での体験が源流になっているのだ。
※『自由とわがままとの境は、他人の妨げを為すと為さざるとの間にあり』(福沢諭吉)
※「議論」「演説」「文明」は諭吉が造った言葉。
※夏みかんの皮でマーマレードを作ることを考えたのは諭吉!



岡倉 天心/Tenshin Okakura 1863.2.14-1913.9.2 (東京都、豊島区、染井霊園 50歳)2001&2006

墓の上は草がボーボーだった(2006) 隣には『永久の平和』の石碑






かつては墓石の上に天心像があったという(2001) 日本美術界の恩人 救世観音



福井市にある天心像 政治家でも武将でもないのにめっさ巨大 本人もびっくりだろう(笑)

明治期の美術指導者・思想家。本名、覚三。横浜生まれ。父は福井藩士。「天心」の名は、胸にあった傷が天の字に似ていたから酔狂で付けたもの。天心が成人した明治初期は、狩野派、円山派、浮世絵諸派など、伝統的な日本画は、人材の不足もあって世の流れから取り残され、壊滅寸前の状態にあった。彼は学生時代に、日本美術の熱烈な愛好家だった米国人教師フェノロサに師事したことや、卒業後に文部省職員として、文化財保存の為にフェノロサと共に全国の社寺を訪問し、名宝を調査。そこで法隆寺夢殿の絶対秘仏(住職でさえ見られない)、救世観音を千年ぶりに開扉しその美しさに大感激する。さらに、欧州での西洋美術の視察体験から、日本美術の素晴らしさを確信。美術学校開設の必要性を痛感した天心は、1889年(26歳)、今の東京芸大を設立し初代校長となった。
ところが9年後に、日本美術復興にかける苛烈で精力的な活動が、保守派や留学した洋画家ら一部の反感をまねいて排斥騒動にあい、校長辞職に追い込まれてしまう。この際、天心の熱い志に心酔していた、横山大観、下村観山、菱田春草、橋本雅邦らが連名で抗議辞職したのを受け、彼は新たに日本美術院を創設した(1898年)。天心が推し進めた画法は、従来の日本画と全く異なり、西洋の印象派のように輪郭線をなくして、その場の空気感を表現しようとするものだった。この作風は海外で絶賛されたが、日本画壇からは侮蔑の意味を込めて「朦朧(もうろう)体」「化け物絵」と呼ばれ中傷された。これにはさすがの天心もすっかり沈み込み、突如インドへの放浪の旅に出る。その旅先で大詩人タゴールと出会い、芸術における民族主義に開眼。1903年(40歳)、ロンドンで著書『東洋の思想』を出版したことを皮切りに、『日本の覚醒』『茶の本』などを執筆、日本文化を積極的に海外へ紹介する(名著『茶の味』は親日派欧米知識人のバイブルとなった)。翌年、ボストン美術館に東洋部門顧問として正式に招かれる。生涯を通して、貧乏な若い画家たちに金を貸すなど、物心両面から育成に努めてきた天心は、長年の多忙極まる日々の無理がたたり、腎臓を壊し50歳で逝った。
染井霊園の墓には自筆で「釈天心」と刻まれている。以前は墓碑の上に胸像があったとのことだが、今はただ草が生い茂っていた。
※10代後半で結婚した天心は、夫婦喧嘩で若妻に卒論の「国家論」を焼き捨てられ、代わりに「美術論」を執筆したことが日本美術への造詣を深める結果になったという裏話がある。
※誕生日について。1862年12月26日生まれというのは旧暦。西暦では1863年2月14日になる。
※「美術は國の精華なり」(岡倉天心)…世界最古の美術専門誌『國華』創刊の辞



★栄西/Eisai 1141.4.20-1215.6.5 (京都市、東山区、建仁寺 74歳)2005



「大いなるかな、心や。天の高さは極むべからず。然るに心は天の上に出ず」(栄西)
→心はなんと大きいものか。天の高さは極めることが出来ないほど高い。でも心は天の上に出ることもできる





ガーン。この壁より向こうには行けないんだって 前庭には「茶碑」があった
日本茶が大好きな僕としては、ぜひ日本にお茶を伝えてくれた栄西に墓前でお礼を言いたかったんだけど、
御廟の開山堂は非公開で近づけず、壁の向こうに手を合わせて遥拝するしかなかった。建仁寺さん、どうか公開お願いします。m(_ _)m


「ようさい」ともいう。別名、葉上房、千光法師。鎌倉初期の禅僧で臨済宗の開祖。岡山で神主の家に生れる。13歳で出家して比叡山延暦寺で受戒し、18歳の時に鳥取・伯耆大山寺(だいせんじ)で天台密教の奥義を学んだ。1168年(27歳)、かねてから夢だった宋に博多から渡り、かつて575年に仏僧智(ちぎ)が天台宗を開いた聖地・天台山を訪れた。
当地は禅宗が強く支持を集めており、栄西も大いに感化された。一ヵ月半後に天台の経巻60巻を携えて帰国し比叡山へ戻るが、この頃の延暦寺は僧侶たちが権力争いに明け暮れていたので、仏法復興の為にもインドへ渡って釈迦の足跡を辿りたいと願うようになった。そして1187年(46歳)、19年ぶりに大陸に渡航する。

しかし、宋から陸路インドに入ろうとしたところ、金軍の南下という治安上の問題で許可が出ず泣く泣く帰国することに。だが、博多へ向けて乗船したが船が逆風で難破し温州に漂着。これがきっかけとなって天台山万年寺の高僧と出会い師事し、本格的に臨済禅(南宋禅)の修行を積み、明菴(みょうあん)の道号を与えられる。4年後(1191年)、宗の船に便乗して帰国に成功すると、筑前、肥後を中心に、まず北九州から戒律重視の臨済禅を伝え始めた。これは、当時の京都が天台宗&真言宗という平安時代が生んだ2大勢力の下にあり、すぐに新興宗教となる禅宗の布教活動を開始できる状況ではなかったからだ。

お経もなく、仏を拝むのではなく、座禅を通して自らが仏であることを悟る禅宗。栄西は旧仏教界との対立を避ける為に天台宗だけでなく真言宗も学ぶなど調和に努めたが、禅宗が広がるにつれ、それを快く思わない旧仏教界からの迫害を受ける。1194年(53歳)、比叡山からの告訴を受け、ついに朝廷から禅宗の布教禁止の命が出されてしまう。大宰府で尋問を受けた栄西は「禅は天台宗の復興に繋がる。禅の否定は最澄の否定だ」と主張してその場を押し切り、翌年には博多に日本初の禅寺となる聖福寺を建てた。

圧迫を受けて逆に禅を伝える使命感に火が付いた栄西は、1198年(57歳)、閉塞状態を打破する為に意を決して京都に入り、“禅は既存宗派を否定しておらず、目的はあくまでも仏法復興だ”と『興禅護国論』を記して弁明する。そして翌々年の1200年、今度は誕生から間もない幕府に庇護を求めて鎌倉へ赴き、禅宗の重要性を力説。厳しい戒律など精神性を重んじる禅に鎌倉武士は美学を感じ、将軍頼家や北条政子の帰依を得ることに成功した。そして政子の援助を受けて鎌倉での布教の根拠地となる寿福寺を建てた。
そして!幕府から京都に所有する直轄地を提供してもらうことで、1205年(64歳)、ついに禅寺(建仁寺)を「京都に建てる」という悲願が実現した。※スムーズに建仁寺を創建できるよう、栄西は同寺を禅宗、天台宗、真言宗の三派を学ぶ為の寺とした。

その後も栄西は禅宗の浸透だけにこだわるのではなく、日本仏教全体に活力を与える為に、1206年には東大寺勧進職に就任して同寺の復興に尽力した。朝廷や幕府の間を精力的に立ち回る姿が、比叡山から「政治権力に媚びる慢心の権化」などと批判されたが、この間も浄土宗が弾圧を受け法然が配流されており、逆にそこまでしなければ旧仏教側の妨害の中で新しい禅宗を広められなかったとも言える。1215年、寿福寺にて74歳で病没した。

栄西は2度目の渡航で大陸(宋)から茶の種子を持ち帰ると、長崎県平戸の千光寺、佐賀県背振山(せぶりやま、昔は茶振山と書いた)の雲仙寺・石上坊に植え、これが日本のお茶栽培の原点とされている。そして将軍源実朝に献上した『喫茶養生記』では「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」とその薬効を説き、具体的に栽培の適地や製法、茶のたて方まで細かく解説し、日本における茶文化の祖となった。そして実際に実朝の二日酔いを茶が癒したことで、茶の普及が加速したという。
 
※栄西が茶の栽培に積極的だったのは、単に健康に良いだけでなく、お茶の持つ不眠作用が禅の修行に不可欠と思ったからだ。
※宇治以前の京茶の名産地は栂尾(とがのお)だった。栄西が栂尾・高山寺の明恵上人に茶の薬効を話して栽培を薦めた後、同地では茶栽培が盛んになり、栂尾の茶を「本茶」、それ以外のものを「非茶」と呼ばれたほどだったという。
※法然は栄西より8歳年上。



★内村 鑑三/Kanzou Uchimura 1861.3.23-1930.3.28 (東京都、府中市、多磨霊園 69歳)1990





高崎藩の武士として江戸に生まれ、7歳の時に明治維新を迎える。16歳で札幌農学校(現北大)に入学、「少年よ、大志を抱け」で有名なクラークからキリスト教を知る。翌年にはメソディスト派の受洗を受け、23歳の時に米国へ留学し神学を学ぶ。帰国後、各地で教職に従事。1891年(30歳)、東大教養部において前年に明治天皇が発布した教育勅語の奉読式が行なわれた際、礼拝を強いられた内村は「天皇の署名のある勅語への礼拝は、天皇を神と認めることだ」と、最敬礼を拒否した。これが「不敬事件」と呼ばれ、非国民と非難された彼は学校から追放されてしまう。
その後、日本各地を転々を移り住みながら、1895年(34歳)、『余は如何にして基督(キリスト)信徒となりしか』を刊行、反響を呼ぶ。36歳、日刊新聞「万朝報」の英文主筆に就任。翌年には「東京独立雑誌」を創刊して、社会批判や政治評論を行なった。
 
内村はかねてから、欧米の宣教師たちが受洗者の数を競い合い、実績を上げることで満足している様子に怒りを覚えていた。彼にとって教会が信仰の内容よりも、自身の繁栄を追う態度を“宗教的自慰”として心から嫌悪した。そして宗教改革の原点である「信仰のみ」「聖書のみ」の立場を徹底するべく、教会組織も儀式的礼拝も廃した無教会主義の運動を開始する。個々人が聖書を通して神と直接向き合うことを目指したのだ。1901年(40歳)、この考えをもとに創刊した『無教会』巻頭の言葉に、内村はこう記す--「“無教会”は教会のない者の教会であります。天国には実は教会なるものはないのであります。天国には洗礼もなければ晩餐式もありません。しかしこの世に居る間は矢張りこの世の教会が必要であります。それは神の造られた宇宙であります。その天井は青空であります。その床は青い野であります」。
同年、彼は『余の従事しつつある社会改良事業』の中で、この頃の悲壮な決意を吐露している。「余はたびたび思う。余にしてもし貞応-貞永年間(鎌倉時代)にこの国に生まれて来たならばさぞかし幸福であったろう、されば余も及ばずながら鎌倉武士の中に加わって、少しは真面目なる、日本人らしき行動をなしたものを。もし松葉ヶ谷に日蓮上人が独り天下を相手に戦っておったならば、余も日朗上人にならい、千里をとせずして彼のもとを訪れ、彼の弟子となったものをと。しかしながら、何たる不幸か、この偽善政府をいただくこの偽善社会に生まれてきて、余の心に存する天賦の良性は少しも発達するの機会を与えられず、馬を見てはこれを鹿と言わざるをえず、嘘をつくのがかえって忠臣である義士であると唱えられることなれば、余は、人類の一人として、如何にしてこの世に処せんかと、ほとんど途方にくれる者であって、幾回か天を仰ぎ、地に伏して余の不幸を嘆ずるものである」と。
 
以後晩年に至るまで、彼は自宅で毎週のように聖書講義を行ない、文書での伝道も精力的に進め、学生や知識人を中心に多くの支持者を得ていった。また足尾鉱毒事件が起きると、田中正造と連帯して被害農民の救済運動にあたって財閥企業と対決し、さらには幸徳秋水らと社会改良団体「理想団」を結成するなど、熱い情熱を持って社会悪と闘った。後の日露戦争、第一次世界大戦に際しては、「汝、殺すなかれ」というキリスト者の立場から、終始徹底して非戦論を貫いた。1926年(65歳)、『イエスと日本〜二つのJ』を刊行。同著に「イエスは私を世界人とし、人類の友たらしめる。日本は私を愛国者たらしめ、それによって私をしっかりとこの地球に結合せしめる」と書き記した。内村は、政府とは違う立場をとったが、彼もまた真の愛国者なのだ。1930年、69歳で永眠。彼が創始した無教会主義運動は、現在も継承されている。



墓には英文で以下の言葉が刻まれていた---
I for Japan,(我は日本のため)
Japan for the World,(日本は世界のため)
The World for Christ,(世界はキリストのため)
And all for God.(そしてすべては神のために)



★平塚 らいてう/Raityou Hiratuka 1886.2.10- 1971.5.24 (神奈川県、川崎市、春秋苑 85歳)2005

 

女性解放思想家。本名は奥村明(はる)。墓石の背後にうっすらと“平塚らいてう”と読み取れた。



★明恵上人/Myoue Syounin 1173.1.8-1232.1.19 (京都市、右京区、高山寺 59歳)2003
































小鳥たち 大自然の中で 香炉を炊く 木に登って座禅 リス 木の下の下駄
『明恵(みょうえ)上人樹上坐禅像』(国宝)
雄大な松林の中、履物を脱いで木に登り、香炉と数珠を枝に掛け、小鳥の鳴声を聴きながら坐禅を組む明恵。肖像画
であるにもかかわらず、人物よりも背景の方が大きいというのは珍しいし、それがまた明恵の人格も象徴している。
また、体が大地から離れているので、世俗からも離れていることも表している。弟子の成忍(じょうにん)が描いた。

御廟(墓所)の入口には、彼が詠んだ「山の端に我も入りなむ月も入れ 夜な夜なごとにまた友とせむ」
(山に入るので月も入っておいで。夜毎にまた友として語り合おうぞ)の歌碑がある。

和歌山有田出身。南都六宗の華厳宗(大本山は東大寺)の学僧。諱(いみな、没後の贈り名)は高弁。鎌倉初期の同時代を生きた法然、親鸞、日蓮と違って新宗派を開いた教祖ではないので、現代では知名度が低いけれど、当時は旧仏教界側の最も影響力の大きな人物の1人だった。父は平重国、母も武家出身。
1180年、7歳の時に母が病没、父も半年後に挙兵した頼朝軍と戦い東国で敗死してしまう。翌年、両親を失った明恵は、亡き母が生前に彼を京都高尾・神護寺の薬師仏に仕える僧にしたがっていたことから、同寺の叔父を頼って仏門を叩き、名僧文覚(もんがく)の弟子となる。
※明恵は母がこの薬師仏に祈願して授かった子どもだった。

熱心に華厳宗を学び、16歳の時に東大寺にある鑑真が作った戒壇院で公式に出家。これまで以上に力を入れて修行するが、京都や奈良の僧たちが出世レースに明け暮れている姿を見て違和感を感じ、1196年(23歳)、故郷紀州に戻ると山中に小さな庵を建てそこに篭って修行を続けた。
この時の仏道を究めんとする明恵の決意は相当なもので、学識で有名になり傲慢になりつつあった自分を戒める為に、そして色欲の煩悩など全ての俗念を取り去る為に、庵に入ってすぐ右耳を切り落としている。彼は「これでもう自分から人前に出なくなる。人目をはばかり、出世しようと奔走することもない。私は心が弱いので、こうでもしなければ道を誤ってしまう」と語り、そして「目を潰すとお経が読めなくなる。鼻がないと鼻水が落ちてお経が汚れる。手を切ると印が結べない。耳は見栄えが悪くなるだけだ」と耳を選んだ理由をあげている。以後、明恵は自身の事を「耳切り法師」と呼ぶようになった。
※ゴッホは耳を切ったり『ボンズ(坊主)としての自画像』を描いている。明恵の影響、というのは考え過ぎだろうが、文献で“坊主”を知っている以上、可能性が全くゼロともいえない。

1199年(26歳)、神護寺に帰るが、師の文覚が後鳥羽上皇への謀反の嫌疑で流刑となり死去、神護寺は荒廃し明恵は各地を流転する。次第にあらゆる全仏教の原点となる釈迦の遺跡を巡拝したいとの思いを強め、30歳、32歳の時に2度にわたってインド渡航を計画した。三蔵法師の旅行記などを熟読して長安からの日程表を作り旅支度をしたが、病に伏したり周囲の猛反対や神託の為に頓挫。実際、大陸の治安はチンギスハンの勢力拡大と共に悪化しており旅を出来る状況ではなかったという。

1206年(33歳)、後鳥羽上皇から京都郊外の栂尾(とがのお)を与えられ、華厳宗の修行道場として高山寺を再興する。明恵は坐禅をこよなく愛し、数日分の食料を小ぶりの桶に入れて裏山に行き、「一尺以上ある石で、私が坐ったことのない石はない」というほど、昼夜を問わず石の上、木の下などで坐禅を重ねた。
明恵は常に釈迦を深く慕い、憧れていた。心の中心にいたのは釈迦だ。彼は釈迦を敬慕するあまり、仏陀伝を聞いている途中で失神したという。そして釈迦の言葉を理解する為にも、学問、戒律、行を重視していた明恵は、1212年(39歳)、念仏(南無阿弥陀仏)さえ唱えれば阿弥陀の大慈悲で極楽往生できるという法然・親鸞の浄土教へ反感を持ち、『摧邪輪(さいじゃりん)』を著して、舌鋒鋭く猛烈に抗議した(ちなみに親鸞とは年が同じ)。

1215年(42歳)、臨済宗開祖の栄西禅師が没する。明恵は30歳頃から栄西と交流があり、明恵の誠実さに惚れ込んだ栄西は「宗派の後継者になって欲しい」と願ったが、明恵はガラじゃないとこれを固辞。栄西は「せめてこれだけでも」と、自分の大切な法衣を明恵に贈った。栄西は弟子達に「分からないことがあれば明恵上人に聞け」と言い残したという(すごい信頼ぶりだ)。
栄西はまた、宋から持ち帰った茶種を明恵に渡した。明恵は高山寺に茶園を作って栽培し、優れた効能を知ると宇治に広め、そこから静岡や各地に茶が伝わった。高山寺のある栂尾は茶の発祥地として鎌倉後期には日本最大の産地となり、毎年天皇にも献上された。

1221年(48歳)、承久の乱で幕府軍に追われて高山寺の境内に隠れていた上皇側の落武者をかくまい、明恵はその罪で六波羅(治安機関)の北条泰時の下に連行される。泰時に真意をただされた明恵はこう語った「私は親友に祈祷を依頼されても引き受けない。なぜか。全ての人々の苦しみを救う事が重要であり、特定の人の為に祈祷などしないのだ。この戦でも、どちらか一方の味方をするつもりはない。高山寺は殺生禁断の地である。鷹に追われた鳥、猟師から逃げてきた獣は、皆ここに隠れて命を繋いでいる。ましてや人が岩の狭間に隠れているのを、無慈悲に追い出せようか。むしろ袖の中でも袈裟の下でも隠してあげたいし、私は今後もそうするつもりだ。もしも、この当然のことが許されぬのなら、即座にこの愚僧の首をはねられよ」。この毅然とした態度、高潔な徳に泰時は胸を打たれ、無礼を謝ると帰りの牛車を用意して寺に届けた。この後、泰時は明恵を師と仰ぎ、教えを請うためにしばしば高山寺に足を運んだ。この2年後、明恵は夫を戦で失った妻たちの為に尼寺(善妙寺)を開いた。

1231年(59歳)、明恵は紀州で法要を行ない、帰って来た後に疲れが出て床に伏した。そして翌年1月、明恵は「今日臨終すべし」と告げて、弟子たちに「名声や欲得に迷わぬように」と戒め、しばらく座禅をした後、「時が来たようだ。右脇を下に身を横たえよう」と横になり、蓮華印にした手を胸に置き、右足を真っ直ぐ伸ばし、左膝を少し曲げて重ねた。最期は顔に歓喜が満ち、安らかな大往生だったという。明恵は禅堂院の後方に、弟子によって丁重に埋葬された。現在、廟前には毎年11月8日に茶業者が訪れ、その年の新茶を供える献茶式が行われている。
栄誉を避け、戒律を守り、ひたすら釈迦を慕い、心静かに修行し続けた清僧・明恵。訃報を聞いた天台座主の良快は、宗派が異なるにもかかわらず「今の世は、明恵上人のような人こそ聖人と言うのだ」と称えたという。

【月の歌人・明恵】
明恵がまだ10代半ばの頃、放浪歌人の西行法師が何度か神護寺を訪れており、明恵は歌道の指導を受けたという。明恵は一晩中屋外で座禅を組むことが多かったことから、「月の歌人」と呼ばれるほど月の歌を大量に詠んだ。その歌才は勅撰集に27首も選ばれているほど優れている。

「山寺に 秋の暁 寝ざめして 虫と共にぞ なきあかしつる」
(山寺の秋の朝焼け。眠れぬ私は虫と共に泣きあかしたよ)

「隈もなく 澄める心の 輝けば 我が光とや 月思ふらむ」
(隅々まで澄み切った私の心の明るい輝きを、月は自分の光と思うのではないか)

「昔見し 道は茂りて あとたえぬ 月の光を 踏みてこそ入れ」
(昔訪れた廃寺の草茂る道。私は月の光を踏み入って行く)

「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」
(明るい!明る過ぎるぜ、お月さまッ!)

「雲を出でて 我にともなふ 冬の月 風や身にしむ 雪や冷たき」
(雲から出て私に同行する冬の月よ、風が身に沁むだろう、雪が冷たいだろう)
※川端康成はノーベル文学賞受賞の記念講演「美しい日本の私」の冒頭でこの名歌を紹介した。

【高山寺】
寺内の石水院は戦火をくぐり抜けた鎌倉期の建物で国宝。『明恵上人座禅像』のほか、有名な『鳥獣人物戯画』(漫画の原点!)も寺の所蔵で、これまた国宝だ。明恵は幼くして死に別れた両親をよく懐かしみ、母の遺品の美しい櫛を、常に肌身離さず懐に入れていた。また夢で修行に出かける時はいつも仔犬が登場することから、仔犬を見る度に父母の生まれ変わりではないかと思ったらしく、明恵に帰依した名仏師・運慶が彫ってくれた木彫の仔犬を、常に机の側に置いて大切に可愛がっていたという。これらの櫛や仔犬像は現在も高山寺に保管されている。

※平家一門が我が世の春を謳歌していた頃、明恵は建礼門院(清盛の娘、安徳の生母)に受戒を頼まれた。ところが、建礼門院は高座の御簾(みす)から手だけを出しており、明恵は静かにこう言った。「私は低い身分ですが釈迦の弟子となって久しく、高座に上らず受戒すれば師弟ともに罪に落ちると経にあります。どうか私以外の法師を招き御授戒ください」。びっくりした建礼門院は御簾から飛び出て彼を高座に座らせ、その後は深く帰依するようになったという。
※明恵は19歳から58歳までの40年間、毎夜の夢を綴った。これは世界で唯一の夢の日記、『夢記(ゆめのき)』として知られている。
※承久の乱の際、明恵は泰時への説法で許されたが、後鳥羽院は隠岐に流され、かの地で死去している。
※高山寺は真言宗と華厳宗の寺であったが、江戸時代に真言宗のみに転じた。
※インド旅行がボツになった悲しみを慰めるように、明恵は寺周辺の山に釈迦と縁のあるインドの山の名を付けている。
※高山寺には複製画の『鳥獣人物戯画』が展示されている。オリジナルは京都国立博物館に預かってもらっている。
※文覚(俗名遠藤盛遠)は頼朝に挙兵を促した高僧。父の仇ともいえる人物に弟子入りしたわけだが、明恵が後年それを知ったのかは不明。神護寺に伝頼朝像があるのは文覚繋がりだろう。
※釈迦は阿弥陀について語っていない以上、阿弥陀より釈迦を尊ぶ明恵の気持は理解できる。また、宗教の価値が人の苦しみを取り除くことにあるならば、念仏ひとつで救われる浄土教がお経を読めない多くの民衆を勇気づけたかを考えると、要は一人一人が自分にあった思想を選べばいいのだと僕は思う(もちろん何も選ばなくてもいい)。



運慶の仔犬像

●南都六宗〜当時は仏教を学問として捉えていたので、学僧たちは自由に各宗派間を飛び回っていた。
法相(ほっそう)宗…661年伝来。弥勒、無著、世親に始まり、唐の玄奘三蔵を経た万物唯識を説く宗派。法隆寺、薬師寺などで栄え、行基や良弁(ろうべん)といった名僧を生んだ。
華厳(けごん)宗…736年伝来。華厳経が根本聖典。聖武天皇の東大寺造営を通して国家的宗派となった。明恵上人が有名。「一即一切、一切即一」。
律宗…753年渡来した鑑真が、戒律の道場(唐招提寺)を建立して始まった宗派。
三論宗…625年伝来。般若の空を研究する宗派。元興寺流と大安寺流がある。
倶舎(くしゃ)宗…法相宗の一学派。一切有部(うぶ)の教義を研究。
成実(じょうじつ)宗…三論宗の一学派。中国天台の智(ちぎ)に小乗的と批判され衰える。



★天海僧正/Tenkai Soujyou 1536-1643 (栃木県、日光市、輪王寺慈眼堂 107歳)2002








墓参者が少ないのか、墓所に続く
石段は完全に苔で覆われていた
慈眼堂

亀の形をした水場。とにかく、何もかもが苔むしている

日光東照宮に隣接する輪王寺・慈眼堂の背後に、天海の墓所がある

仰天!墓石の周囲を等身大の六部天像(四天王&梵天・帝釈天)が守護していた!

  
こんな形態のお墓は天海の他には見たことがない。ビックリ&カッコイイ!






喜多院の天海像

こちらは滋賀坂本の天海の墓

『家康・家光・天海 御影額』…秀忠がいないのに天海が
いる!どれほど徳川にとって重要人物かが分かる。

「天海僧正は人間の中の仏なり。恨まれるのは出会いが遅かったことだ」(家康)
通称・南光坊天海。安土桃山〜江戸初期の天台宗・大僧正。徳川のブレーンとして家康、2代秀忠、3代家光に仕え、幕府の設立と安定に努めた。別名「幕府の知恵袋」「黒衣の宰相」。陸奥・会津高田出身。蘆名兵太郎。10歳で出家し「隋風」と名乗り、13歳で宇都宮粉河寺に学ぶ。1553年、17歳で比叡山に学僧として入り、三井寺や興福寺でも熱心に学んだようだ。1558年(22歳)、母が病没したため故郷にいったん戻り、24歳で下野国(栃木県)足利学校に学び、29歳で上野国(群馬県)善昌寺で修行を続けたとのこと。1571年(35歳)、比叡山に帰ったが信長による全山焼き討ちで入れなかった。甲府に入り武田信玄の元に逗留。1573年(37歳)、上野国長楽寺で修行し、会津に戻って黒川稲荷堂の住職となる。1590年(54歳)、武蔵国(埼玉県)川越・喜多院の僧正豪海の弟子となり、この頃名前を「天海」と改めた。同年、江戸城に入城した家康に師・豪海の代理として謁見。翌年、常陸国(茨城県)江戸崎不動院と無量寿寺北院を兼務。
天海は武芸に長じていたようで、1600年(64歳)の関ヶ原合戦に従軍したと思われる。『関ヶ原合戦図屏風』に東軍最後方の家康の傍で、鎧をまとった天海が描かれているからだ(絵には「南光坊」と書かれている)。

ただし!ここまでは「……と、言われている」。つまり前半生は全くの謎。確定されている経歴はこれ以降。

1607年、71歳の時に家康から比叡山の探題奉公(幕府の要職)に任命され、信長の焼き討ちで衰退していた延暦寺を再興。これを機に積極的に幕政に参画するようになる。1612年(76歳)、埼玉の喜多院の住職となり同院を関東天台宗の総本山とする。家康は寺領300石を寄進。翌年、日光山第53世貫主を家康から拝命。豊臣家が滅亡した大坂の陣では、合戦の際に作戦会議で家康に意見を述べていることから、戦略にも優れていたようだ。豊臣に余程深い恨みがあったのかも(天海の甲冑は現在大阪城に展示されている)。

1616年(80歳)、家康は他界の15日前に遺言を天海に伝え、葬儀の導師を務める。僧界トップの大僧正に任ぜられ、家康に「東照大権現」(“権現”は天台系)を贈った。当初、“東照大明神”とする動きがあった。天海は「明神」に猛反対し「権現」として祀られるようになった。秀吉が「豊国大明神」だったからだ。家康の亡骸は静岡・久能山に埋葬され、翌年に日光へ改葬、東照社(東照宮)が建立された。
1625年(89歳)、上野に寛永寺を創建し、同寺は後に徳川家の霊廟となった。京都の鬼門(北東)を比叡山が守るように、江戸の北東を守護するべく“東の叡山”という意味で寛永寺の山号を「東叡山」と名付けた。1636年(100歳)、家光の大号令で日光東照宮が現在のように大増築される。

以後、1643年に107歳という仰天するほどの長寿で他界するまで、その身を天台宗の布教に捧げた。没後5年目に謚号(しごう、死後の名)として『慈眼(じげん)大師』が朝廷から贈られた。この号が贈られたのは平安時代以来700年ぶり。それほどの快挙だ。天海は仏法だけでなく、風水や陰陽道にも深く通じており、天海がこれらの知識をもとに江戸の都市計画を練ったとされている。

天海は長生きしただけに「正体」をめぐる伝説も多い。11代足利義澄の子、或は12代足利義晴の子であるとか、第4次「川中島の戦い」を見物していたとか、没年にも諸説あり最高で135歳!だが、最も有名な伝説は「天海=明智光秀説」。これがトンデモ話と笑い飛ばせないのは、奇妙な一致点が山ほどあるからだ。

・家康の墓所、日光東照宮は徳川家の「葵」紋がいたる所にあるけれど、なぜか入口の陽明門を守る2対の座像(木像の武士)は、袴の紋が明智家の「桔梗」紋!しかもこの武士像は寅の毛皮の上に座っている。寅は家康の干支であり、この門を造営した天海は徳川の守護神であると同時に、文字通り“家康を尻に敷く”ようだ。また、門前の鐘楼のヒサシの裏にも無数の桔梗紋が刻まれている。どうして徳川を守護するように明智の家紋が密かに混じっているのか。
・日光の華厳の滝が見える平地は「明智平」と呼ばれており、名付けたのは天海。なぜ徳川の聖地に明智の名が?(異説では元々“明地平”であり、訪れた天海が「懐かしい響きのする名前だ」と感慨深く語ったと伝わる)
・2代秀忠の「秀」と、3代家光の「光」をあわせれば「光秀」。
・天海の着用した鎧が残る。天海は僧兵ではなく学僧だ。なぜなのか。
・年齢的にも光秀と天海の伝えられている生年は数年しか変わらない。
・家光の乳母、春日局は光秀の重臣・斎藤利三の娘。斎藤は本能寺で先陣を切った武将であり、まるで徳川は斉藤を信長暗殺の功労者と見るような異様な人選。まして家光の母は信長の妹・お市の娘。謀反人の子を将軍の養育係にするほど徳川は斉藤(&光秀)に恩があったのか。※しかも表向きは公募制で選ばれたことになっている。
・強力な物的証拠もある。比叡山の松禅院には「願主光秀」と刻まれた石灯籠が現存するが、寄進日がなんと慶長20年(1615年)。日付は大坂冬の陣の直後。つまり、冬の陣で倒せなかった豊臣を、夏の陣で征伐できるようにと“願”をかけたのだ。※この石灯籠、移転前は長寿院にあり同院に拓本もある。
・家康の死後の名は「東照大権現」だが、当初は“東照大明神”とする動きがあった。天海は「明神」に猛反対し「権現」として祀られるようになった。秀吉が「豊国大明神」であったからだ。
・そして極めつけ。光秀が築城した亀山城に近い「慈眼(じげん)禅寺」には彼の位牌&木像が安置されているが、没後に朝廷から贈られた名前(号)が「慈眼大師」。※大師号は空前絶後の名誉。“大師”とは“天皇の先生”の意。つまり、信長を葬った光秀は朝廷(天皇)の大恩人ということ。
天海の墓は滋賀坂本と家康が眠る日光東照宮に隣接した輪王寺・慈眼堂にある。坂本は明智光秀の居城・坂本城があった場所で、山崎の合戦の際に、この地で光秀の妻や娘も皆死んだ。天海の墓と明智一族の墓まで歩いていける距離にある。そして天海の墓の側には家康の供養塔(東照大権現供養塔)が建っている。明智一族の終焉の地に天海の墓と家康の供養塔…実に意味深だ。
日光の墓は慈眼堂の拝殿背後にあり、天海の命日(10月2日)は慈眼堂で長講会(じょうごえ、法要)が営まれ、天海の大好物であり、長寿の秘訣という「納豆汁」がお供えされる。

※寛永寺に眠る将軍は、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の6人。天海の髪が納められた「天海僧正毛髪塔」もある。
※家光の遺言は「死後も東照大権現(家康)にお仕えする」。これを受け4代家綱が日光に家光廟大猷院を建立した。家光の霊廟は家康の方を向いている。
※光秀であった場合、前半生の経歴を比叡山で出会った「隋風」から買ったのではないか、或は比叡山で亡くなった「隋風」に成りすましていたのではないか、そんな説もある。比叡山にとって光秀は、宿敵・信長を倒した英雄であり、どんな協力も惜しまなかっただろう。

上野公園にある『天海僧正毛髪塔』。死後もここから江戸城を鎮護していた(2008)



★大杉 栄/Sakae Ohsugi 1885.1.17-1923.9.16 (静岡県、静岡市、沓谷霊園 38歳)2006




ぐおー!ここから探し出すのか! さんざん迷い、墓前の石碑のおかげで分かった ほとんど読めない

反戦・平和を叫び続けた信念の人。無政府主義者(アナーキスト)。関東大震災の混乱の中で憲兵に虐殺された。
管理人がおらず、何も案内板のない墓地で、墓を見つけるまでめっさ苦労した。静岡市はもっと大杉に愛を!



★二宮 尊徳(金次郎)/Sontoku Ninomiya 1787.7.23-1856.10.20 (栃木県、日光市、二宮神社 69歳)2006



金次郎バージョン 尊徳バージョンの像 今市の二宮神社に眠っている



墓石の背後の塚が本来の墓だ。



★新井 白石/Hakuseki Arai 1657.2.10-1725.5.19 (東京都、中野区、高徳寺 68歳)2006


こういうキューブ形の墓石はあまり見ない 白石の理想主義は現代にも必要かと!

江戸中期の儒学者、詩人、政治家。白石は号。祖先は関ヶ原の戦で所領を失った。貧困ゆえ幼少時から独学で勉強し、1686年(29歳)に儒学者・木下順庵の弟子となる。そして師の推薦で甲府藩主・徳川綱豊(家宣)の講師となり、20年後に家宣が6代将軍となると、重用されて幕府政治の改革(正徳の治)を推進した。7代家継(いえつぐ)の世でも、白石は仁愛の精神と理想主義で国家を運営しようとしたが、人々はこれについてこれず社会は混乱。1716年(59歳)、8代将軍に吉宗が就任すると白石は幕府からお役ご免となった。6年後に他界するまで著作活動に精進し、約100年が経ってから主著「読史余論」「西洋紀聞」などが学問的に高く評価された。



★宮武 外骨/Gaikotsu Miyatake 1867.1.18-1955.7.28 (東京都、豊島区、染井霊園 88歳)2006

 

香川出身。同郷の鬼才・平賀源内に例えられ“明治源内”の異名を持つ。20歳頃に頓知(とんち)協会を設立し、1889年(22歳)発行の「頓知協会雑誌」第28号で、大日本帝国憲法の発布を風刺した「大日本頓知研法」や、天皇のパロディ「頓知研法発布式」図を掲載、発禁処分を受ける。外骨は不敬罪で3年余りの獄中生活を送り、同雑誌は廃刊となった。出所後は官僚を宿敵と認定して腐敗を追及、さらに権力批判を強めていく。生涯に創刊した刊行物は160種。入獄4回、罰金40回以上、発禁&発行停止14回をくらった、筋金入りの反骨のジャーナリスト!
※外骨の刊行物は当局にマークされていたにもかかわらず、その姿勢は多くの民衆、知識人に支持され、南方熊楠、森鴎外、谷崎潤一郎、武者小路実篤らも寄稿している。

●1901年(34歳)に創刊した『滑稽新聞』は過激な風刺で人気を博していたが、権力者の度重なる弾圧に激怒した外骨は、7年後の第173号(外骨は“自殺号”と呼んだ)で廃刊に踏み切った。
廃刊の辞--「滑稽新聞は明治34年1月をもって生れ、今明治41年10月をもって自殺する、近来世間に続出する自殺者は、その原因多くは煩悶厭世(えんせ)の為であるが、我輩が自殺するのはそのような薄弱の意志ではない、これを例せば南朝の忠臣・楠正成公が湊川(みなとがわ)において自殺したのと同様の見識に出たもので、楠公の生命がその自殺の日より長(とこしな)えに存続するがごとく、滑稽新聞もまた今日以後死して亡びざるものとなりたいのである。滑稽新聞の本領は、強者を挫(くじ)いて弱者を扶(たす)け、悪者に反抗して善者の味方となるのであったが、その本領の為ついに悪政府の爪牙(そうが)にかかって今回死刑の宣告、即ち発行禁止の言渡しを受けた、我輩は法律によって行動し言議する者であるから、その裁判に対してはあくまでも法律によって不服を唱えるが、滑稽新聞は今が死すべき好時機と見て潔く自殺するのである」。



★中江 兆民/Chomin Nakae 1847.11.1-1901.12.13 (東京都、港区、青山霊園 54歳)2006







政治家や軍人の巨大墓が多い青山霊園にあって、
兆民の墓は質素極まりない。雑草に囲まれていた


「兆民中江先生
えい骨之標」
葬儀を拒否したので
骨を埋めた場所と標
背面には「遺言不墓」。
他界時は遺言に従い墓を
建てず、没後十余年を
経て門人が建てたらしい
墓前の花も霊園内に
咲いていそうな
野花だった

明治期の自由民権思想家。高知出身。本名篤介(とくすけ)。20歳頃に長崎で坂本竜馬を知り、海外に向けて目を開く。1871年(24歳)から岩倉使節団に同行して3年間フランスへ留学。帰国後、東京外大の校長に就任。元老院権少書記官に就くも30歳で辞職。30代になるとフランスの影響で自由民権論を説き、独裁体制の批判や人民の抵抗権・革命権を主張。東洋のルソーと呼ばれた。また、1887年(40歳)に記した『三酔人経綸問答』で“非武装国家”“小国主義”を提唱。兆民は危険分子と見なされ東京を追放された。その後も、部落差別に抗議する為に部落民でないのに部落民を自称、普通選挙論など民主主義思想を主張し続けた。1890年(43歳)、第1回総選挙で衆議院議員に当選。最晩年はやや国権主義に近づいた。



★片山 潜/Sen Katayama 1859.12.3-1933.11.5 (東京都、港区、青山霊園 73歳)2006






幸徳秋水と片山(右)

日本の労働運動の先駆者で国際共産主義運動の指導者の一人。岡山県出身。11年間の米国留学中にキリスト教徒となり、社会問題へ目が開く。帰国後は1897年(38歳)に労働組合期成会を結成。1901年5月(42歳)に日本初の社会主義政党“社会民主党”を結党するも即日禁止。1904年、第2インターナショナルのオランダ大会に日本代表として出席し、ロシア代表と共同で日露戦争反対を世界に叫ぶ。幸徳らが処刑された大逆事件後、渡米してアメリカ共産党の創立に奮闘しモスクワへ。1922年(63歳)、コミンテルン執行委員会幹部会員となり日本共産党の創立、反戦運動に尽力した。そのままモスクワで死去し、青山霊園の他にモスクワ・クレムリンの壁面(赤の広場)でレーニンらと共に眠っている。



★由比 正雪/Shosetsu Yui 1605.5.1-1651.7.26 (静岡県、静岡市、菩提樹院 46歳)2006

 

江戸幕府に反抗し悪役として時代劇で描かれたりするが、大塩平八郎よりも約200年も前に個人で反乱を企てた命知らずの漢だ




 
墓参前に寺門の掲示板で感動 罪人とされたが、墓前に銅像や句碑が建ち、県民には英雄として慕われていた

幼名久米之助。駿府の紺屋(染物屋)に生まれる。幼少から書を好み、軍学に長け兵法をよくし、江戸に道場(軍学塾)を構えて大名の子弟や旗本など3000人もの門下生を集めた。貧しい下層武士や浪人たちの境遇に義憤を覚えた正雪は、1651年(41歳)、幕府の悪政を改革しようと蜂起を計画(慶安事件とも、由比正雪の乱とも言われる)。作戦では最初に駿府城を奪い、別動隊が京都・大坂で同時に蜂起、江戸に火を放って幕府機能を混乱させ、江戸城を占拠しようという大胆なものだった。決起直前に内部から密告者が現れ、駿府の宿で包囲された正雪たち首謀者幹部は自害した。幕府転覆を図ったことで、正雪は同志と友に安倍川の河原に晒し首になるが、縁者の女性が密かに盗み去って菩提樹院に埋葬し、現首塚となった。蜂起は失敗したが、4代家綱以降の幕府の政策が、力押しの武断政策から文治政策へ転換するひとつの要因になったとされている。



★嵯峨天皇/Saga 786.9.7-842.7.15 (京都市、右京区、嵯峨山上陵 55歳)2006



あの山が嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ) これが参拝道の入口 ちょっとした登山だ







登り初めて20分、何か見えてきた! 山頂にて嵯峨天皇に謁見! 周囲の見晴らしは最高でした

第52代天皇。在位809〜823年。桓武天皇の息子で名は神野(かみの)。818年(32歳)、敬虔な仏教徒だった嵯峨天皇は“不殺生”という思想から死刑制度を廃止した(弘仁の格)。以降、平家が台頭するまで347年間も死刑は行なわれなかった。並外れて達筆で、同じ平安時代に活躍した空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)と並んで三筆の一人に数えられる。嵯峨天皇は勅撰漢詩集の編纂や、法令集の制定、冷然院・朱雀院・嵯峨離宮(大覚寺)といった別宮の建設など精力的に活動した。妃の数は皇后橘嘉智子を筆頭に30人以上、皇子・皇女が52人もいたことから、皇族の生活費で財政を圧迫させない為に、子どものうち30数名に源氏姓(嵯峨源氏)を与えて皇室から出した(臣籍降下。これが源氏の起源)。
嵯峨天皇の葬儀に関する遺言は胸を打つものがある--「人は死ねば気は天に、体は地に帰る。徳をもたない私の死に、どうして国費を使うことができようか。盛大な葬儀や祭祀は断じて行ってはならない。墓穴は浅く、棺を収められるだけの大きさにせよ。(古墳のような)盛り土はせず、草木の生えるままに放置しておけ。この命令に従わねば私の死体は辱められ、魂は深く傷つき怨鬼になるであろう」。このような天皇がかつていたことを、日本史でもっと大きくとりあげて欲しいものデス。

※次に即位した淳和(じゅんな)天皇は嵯峨天皇の弟。薄葬の考えはさらに徹底され、「どんなに小さいものであろうと私の墓を造るな。火葬にして遺骨を京都の西山に散骨せよ」と遺言を残し、実際に側近の手で散骨された。しかし、明治時代に入って“天皇に墓がなくては皇室の威厳にかかわる”と宮内省(現・宮内庁)が、散骨されたと思われる西京区小塩山の山頂に「淳和天皇陵」を造営してしまった…。
※嵯峨天皇の皇后も非常に仏教への信仰が篤く、日本初の禅寺・檀林寺(だんりんじ)を嵯峨野に建てたことから「檀林皇后」とも呼ばれる。彼女はなんと、「飢えた鳥や獣を救う為に私の死骸を埋葬せず野原に放置すべし」と告げ、さらに自らの亡骸が腐乱、白骨化し、土に帰る過程を描くよう絵師に命じたという。朽ち行く様子を9段階に分けた絵巻は京都・西福寺に『檀林皇后九想図』として残されており、毎年お盆の頃に数日だけ公開される。(リンク先で閲覧可能。絵巻なので右から左に絵を見ていこう。最初は十二単を着ていた美しい女性が、死後変色して崩れていくのはキツいですが、最後に骨が点在するだけになってしまうのを見て、逆に命の尊さを知るというか、僕はこの絵巻に言いようのない深い感動と神聖さを感じました)
※光源氏のモデルとされる左大臣・源融(みなもとのとおる)は嵯峨天皇第12皇子。
※即位の翌年(810年)の“薬子の変”では兄・平城(へいぜい)上皇の復位計画を防いだ。
※日本のお茶の歴史で最も古い記録は『日本後紀』に記されている。815年に嵯峨天皇が近江(滋賀)の崇福寺に詣でた際に、梵釈寺にて大僧都(だいぞうず)永忠が煎茶して献じたとある。



★空也上人/Kuya 903-972.9.11 (京都市、東山区、西光寺 69歳)2007

 
近隣の六波羅蜜寺にある『空也上人立像』は、何と口から6体の小さな阿弥陀仏がマンガの吹き出しの様に
出ている!これは「南無阿弥陀仏」と発した6つの言葉が、一文字ずつ仏になっている様子なんだ。
左手には、空也が心の友としてその鳴声を愛した鹿(猟師に撃たれてしまった)の角を冠した杖を持っている

墓は西光寺の駐車場の脇にあり、墓の手前には大きな墓誌が建っている

平安中期の僧で踊念仏の開祖。別称で阿弥陀聖(ひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と呼ばれるように、庶民の中に身を置いてひたすら念仏(南無阿弥陀仏)を唱え続け、浄土教の布教に努めた。人々の暮らしの向上の為に、社会事業にも積極的にかかわり、道路や橋を造ったことから多くの民衆に慕われた。彼の思想は後に一遍上人に影響を与える。六波羅蜜寺にて他界。※実は醍醐天皇の子とも言われている。



★行基/Gyoki 668-749.2.2 (奈良県、生駒市、竹林寺 81歳)2007







近鉄奈良駅前の行基像は大仏殿に向って立っている。
奈良県民にはハチ公前より有名な待ち合わせ場所だ
民衆からは生きながら
菩薩と慕われた
墓所の竹林寺。この本堂は
1250回忌(1998年)に復元された





境内の奥に行基の墓所がある 墓石はなく、写真中央の土が盛り上がった茂みが丸ごと墓だ

大阪・堺生まれ。貧しい者の為に社会事業に取組み、生前から菩薩とよばれた奈良時代の高僧。今日の社会福祉の基を開いた。百済王の子孫(帰化人)。15歳で出家し薬師寺に入り、当時の仏教界の第一人者・道昭(どうしょう)に学ぶ。若い行基は道昭に随行して諸国を巡り、重税にあえぐ民衆の貧困生活と、都の貴族の贅沢な暮らしぶりの格差に衝撃を受ける。行基は仏教本来の目的は民衆の救済にあると考え、700年(32歳)に師の道昭が他界すると、その遺志をついで本格的に社会事業に乗り出した。704年(36歳)、故郷の堺に戻り生家を道場として家原寺を開く。多くの人々が行基の説法を聞く為に集まり、民衆は彼を菩薩と呼んで慕った。次第に地方の豪族にも行基の支持者が現れ始め、1000人の信者が行基と行動を共にするようになった。行基は各地で橋を架け、道路を整備し、水害対策で堤を築き、農業の為に池を掘った。同時に多数の布施屋(無料宿泊所)を設けて貧民を救済。建立した寺院は畿内だけで49ヶ所、全国では約700に及ぶといわれている。
『続日本紀』の記録によると、730年に行基が仏法の集会を開いた際、1万人もの民衆が集まったという(当時の少ない人口を考えると驚異的)。
 
ところが、朝廷は行基を危険人物と見なし始める。庶民の不満に行基が耳を傾けることは、体制への反抗を扇動する行為というのだ。当時は『僧尼令』が定められ、僧侶の役目は国家安泰を祈ることであり、寺の外で活動すること(民衆教化)は固く禁じられていた。事実、行基のもとへは朝廷に不満を抱く庶民が多く集まった。これを警戒した聖武天皇は行基を激しく弾圧し、ついには平城京から追放する。その結果、人心はますます聖武天皇から離れていった。741年(73歳)、聖武天皇は行基に謝罪。そして東大寺の建立のために協力を要請した。朝廷が大仏造りを呼びかけても人々は積極的に動かないが、行基が声をかければ嬉々として民衆が集うことを朝廷は認めざるを得なかった。745年(77歳)、行基は聖武天皇から日本初の大僧正(僧侶の最高位)に任ぜられた。749年(81歳)、行基は奈良西部の菅原寺で数千の弟子に囲まれ他界。生駒の山中に葬られる。それから3年後に大仏が完成し、開眼法要が営まれた。
1235年、行基の墓と伝承されていた場所から二重の銅筒が発見され、中に入っていた銀瓶に「行基菩薩遺身舎利之瓶云々」と記された札があった。これによって正式に行基の墓と確認され、同地に竹林寺が建てられた。行基が火葬された奥山往生院にも五輪塔がある。

※東大寺修二会(お水取り)では読み上げられる過去帳には、聖武天皇、光明皇后の次に、行基菩薩の名が記されている。どれほど行基が大仏建立で大役を果たしたかが分かる。
※全国を巡った行基が作ったとされる日本最初の地図(行基図)は、江戸時代に伊能忠敬が測量図を作成するまで日本地図のスタンダードだった。
※日本全国に行基が発見したとされる温泉がある。
※行基の師、道昭は日本法相宗の開祖。道昭は遣唐使で大陸に渡り、あの玄奘(三蔵法師)に師事した。道昭は日本で初めて火葬された人物でもある(遺言で火葬された)。



★長谷川 如是閑/Nyozekan Hasegawai 1875.11.30-1969.11.11 (東京都、文京区、清林寺 93歳)2008








激動の時代を生き抜く 清林寺墓地の一番奥に眠っている 命知らずの言論人

東京生まれ。本名、長谷川万次郎。明治から昭和まで93年間を、反ファシズムをモットーに戦い抜いた希代のジャーナリストだ。材木屋の父は浅草に花屋敷を開業した野心家。1903年(28歳)、新聞「日本」の記者になるも社長と対立して2年で退社。1908年(33歳)、朝日新聞社に入りコラム「天声人語」で民主主義思想を全開させ大正デモクラシーの旗振り役となった。1915年(40歳)には、夏の甲子園の前身となる野球大会を発案した。
1918年(43歳)、政府によるマスコミへの弾圧・白虹事件に抗議して退社。翌年、『我等』を創刊して反ファシズムの立場を鮮明にしていく(同紙は何度も発禁処分をくらった)。1929年には『我等』にデンマーク陸軍大将フリッツ・ホルムが起草した“戦争絶滅受合法案”を載せた。1932年(57歳)、著作『日本ファシズム批判』が発禁。終戦翌年に71歳の高齢で貴族院議員に選ばれ、73歳で文化勲章を受章。1969年、最後まで日本を代表するリベラリスト(自由主義者)として生涯を終えた。
「煩悶せざる青年は、人生初期において足らざる所あり」(長谷川如是閑)
 
●長谷川が紹介した『戦争絶滅受合法案』は以下の通り。これを軍部の権力が拡大し、首相でさえ銃撃される時代に発表したことがスゴイ。

『戦争絶滅受合法案』(現代語訳)

「戦争開始後、または宣戦布告の後、10時間以内に次の処置をとること。以下に該当する者を“最下級”の兵士として召集し、出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下で戦わせること。

1.国家元首。君主も大統領もこれに該当。ただし男子に限る。
2.国家元首の男性親族で16歳以上の者。
3.総理大臣、及び各国務大臣、並びに次官。
4.国民によって選ばれた男性議員。ただし戦争反対の投票をした者は除く。
5.キリスト教や仏教のほか、あらゆる宗教関係者の高僧で、公然と戦争に反対しなかった者。
付記.該当者の妻、娘、姉妹等は、戦争継続中、看護婦または使役婦として召集し、最も砲火が接近した野戦病院に勤務すること。
 
※ネットの意見ではこの法案には有権者の責任が入ってないとして、「戦争に賛成した議員を選んだ選挙区の有権者から順番に徴兵」「戦争資金に国家予算は一円も使わず、戦争に賛成した議員の資産、及びその議員に投票した有権者の資産でまかなう」という提案もあり、なるほどと納得。こうなってくると、まず戦争は起こせないだろう。



★武市 半平太/Hanpeita Takechi 1829.9.27-1865.5.11 (高知県、高知市、瑞山神社 35歳)2008

武市一族の墓がたくさん並んでいた 手前が「武市半平太小楯」、左奥が妻の富子 墓石の角が欠けているのが目印

墓所近くの瑞山(半平太)旧宅。座敷が現存 墓所の側に半平太を称えた瑞山神社もある 半平太の獄中自画像

 
「武市瑞山先生殉節之地」。半平太が割腹した場所だ(高知市内・四国銀行帯屋町支店前)

幕末の尊攘派志士で土佐勤王党の盟主。本名、武市小楯(こたて)。号は瑞山。現高知市の郷士出身。6歳下の坂本龍馬とは遠縁。若い頃から剣にすぐれ、1849年(20歳)、城下に剣術道場を開く。門下生に岡田以蔵や中岡慎太郎らがおり、この道場が土佐勤王党の母体となった。1856年(27歳)、江戸にのぼり鏡心明智流を学んで塾頭となる。半平太は江戸で高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞など尊皇攘夷派の長州藩士と親交を深めた。1860年(31歳)、桜田門外の変が起きて井伊大老が暗殺されると尊王攘夷運動がヒートアップ。翌年に半平太は土佐勤王党を結成する。龍馬や中岡も加わり、加盟者は約200名にもなった。1862年(32歳)、半平太は高知藩の重鎮で公武合体論者の吉田東洋暗殺を指令。勢いをかって土佐藩を尊王攘夷に向かわせた。続いて京に乗り込んだ半平太は、“暗殺マシーン”岡田以蔵や薩摩藩の田中新兵衛を放って幕府側の政敵を文字通り葬っていく。
どんどん影響力を増していく半平太だったが、1863年(33歳)に会津藩と薩摩藩が結んで起こした長州追放のクーデター「8月18日の政変」が起き、いっきに尊王攘夷運動が後退する。土佐藩においても公武合体論者の前藩主・山内容堂が後藤象二郎らを使い、土佐勤王党へ大弾圧を開始する。長州の久坂玄瑞は、半平太に「京から土佐に戻れば弾圧されるぞ」と長州亡命を熱心に勧めたが、半平太は主君への忠義を重んじ土佐に帰った。同年9月に投獄された半平太は、吉田東洋の暗殺指令など様々な容疑を追求されるが、これを頑なに否定し続けた。だが、同様に捕縛されていた岡田以蔵が拷問に耐えきれずに自白。これは以蔵の口封じを考えた半平太が、刺客に毒殺させようとして失敗し、怒った以蔵がバラしたとも言われている。半平太は約1年半投獄されたが、最後は切腹を命じられ自害する。半平太は武士として初となる「三文字の切腹」をやり遂げ気骨を見せた。享年35歳。半平太は「人望は西郷、政治は大久保、木戸に匹敵する人材」と評され、そのまま生きていれば首相になれる器を持っていたことから、維新後に山内容堂は切腹させたことをずっと悔いていたという。
辞世の句は「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」。 
※高知市にある瑞山(半平太)旧宅は無関係の人が住んでいるが、国の史跡に指定されており、事前予約すれば半平太の部屋を見学できる。



★蓮如/Rennyo 1415.2.25-1499.3.25 (京都府、山科区、蓮如上人御廟所 84歳)2008




蓮如が建立した山科本願寺の跡地にある 浄土真宗を育てた 立派な門が墓所を守る


夕日が石柱の背後で反射し、偶然にも建立者したお坊さんの名前が壁に! 格子の間から撮影。古墳のような盛り土があった

本願寺中興の祖となった浄土真宗の僧。今の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築く。諱は兼寿。東山大谷の本願寺7世存如の長男。43歳で本願寺8世を継ぎ、さびれていた本願寺を復興させるべく奮闘。しかし1465年(50歳)に延暦寺から“仏敵”と認定されてしまい、比叡山の衆徒に寺を破壊され大津に脱出する。その後、越前・吉崎で活動して信徒を増やすも、加賀守護・富樫政親の弾圧を受けて1475年に畿内に戻る。1483年、京都山科に本願寺を再建。1496年(81歳)には大坂に布教の一大拠点となる石山本願寺を建立した(この地は後に大坂城が建つ)。3年後、死期を悟った蓮如は山科本願寺に戻り、その翌月に他界した。
※後年、石山本願寺は石垣に囲まれ要塞化していく。一向宗を弾圧する織田信長軍を10年間もしりぞけたが、創建から84年後、1580年に滅ぼされた。
※蓮如の子供の数は男子13人、女子14人という計27人!これは妻と4度も死別し、5度結婚したからだ。
※蓮如が越前から追われた13年後(1488年)、加賀で一向一揆が起きて守護の富樫政親が倒され、浄土真宗門徒が100年近くも加賀の国を支配することに。
※「徳をもって恨みに報いれば、恨み、すなわち、やむ」(蓮如上人)



★橋本 左内/1834.3.11-1859.10.7 (福井県、福井市、左内公園 25歳)2008






短命が悔やまれる 左内公園には巨大左内像と墓所がある





お寺や霊園ではなく公園の片隅に眠る

「景岳先生之墓」が左内の墓

『啓発録』…稚心を去る、気を振う、
志を立てる、学を勉める、交友を択ぶ

幕末に開国を訴えた福井藩士。本名、橋本綱紀。父は藩医。1849年(15歳)、左内は大坂に出て蘭学者の緒方洪庵から蘭方医学を学んだ。また、薩摩藩の西郷隆盛(当時20歳頃)や水戸学の大家・藤田東湖との交流から政治に関心を深める。1857年(23歳)、越前・福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、藩政改革や藩校の学制改革に取り組んだ。この頃、13代将軍家定の後継者問題が起き、一橋慶喜を推す主君春嶽の意を受け慶喜擁立に奔走。しかし、井伊直弼の大老就任と共に14代将軍は家茂に決定し、慶喜を推した一橋派への大弾圧「安政の大獄」が吹き荒れる。1859年、春嶽は隠居謹慎処分に命ぜられ、左内は一橋派の責任をとるかたちで小塚原刑場にて斬首された。まだ25歳という若すぎる死だった。戒名は景鄂院紫陵日輝居士。
左内が目指していたのは、幕藩体制を維持した上で、大名から庶民まで才能ある人間を登用した将軍慶喜を頂点とする統一国家体制の樹立。同時に開国&外国貿易による富国強兵が必要と訴えた。明治維新の主役になる志士たちに先駆けてこれらの思想を持っていたことは特筆に値する。
※左内は15歳の時に次の5つの戒律を定め『啓発録』に記した。(1)稚心を去る(2)気を振う(3)志を立てる(4)学を勉める(5)交友を択ぶ。
※東京の南千住回向院にも墓があり、安政の大獄で刑死した吉田松陰らと並ぶ。死から4年後の1863年に回向院から福井県に改葬された。

左内公園には、かつて
芭蕉の逗留地があった
左内公園で仰天したのは実物大の動物たち。
象のデカさは圧巻。彼らはただそこにいるだけ
キリンもいるけど
遊びようがない





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