作曲家の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

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★83名


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●映画音楽ほか

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アーヴィング・バーリンの墓
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音楽家への巡礼は、英語が通じない国でも、メロディーを口ずさむことで誰を探しているのか相手に伝わることも多く、まさに「音楽は言葉の壁を越える」、だね。



★ベートーヴェン/Ludwig van Beethoven 1770.12.16-1827.3.26 (オーストリア、ウィーン 56歳)1989&94&2002&05&15
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria/Plot: Group 32 A, Number 29

















都会的でハンサム

でも本当はもっと素朴

第九や荘厳ミサを完成させた頃

散歩中に「田園交響曲」
の構想を育む
ベートーヴェンの生家
(ドイツ・ボン)















ウィーンに現存する住居。彼の
部屋は5階の窓が開いている所
ドアのノブに触って
「間接握手」だッ!
ベートーヴェンのピアノと胸像。窓の向こうは大学だ(撮影許可済)


路線38Aで彼が遺書を書いた
ハイリゲンシュタットへ
通称エロイカ・ハウス

窓から美しい庭が見える

デスマスク…ぐっすん


別のベートーヴェン・ハウス。彼は引越し魔
(70回以上!)だったのでウィーン中に家がある
エロイカの楽譜。ナポレオンの名前
がグチャグチャに消されているッ!

●ウィーン:シューベルトパークのベートーヴェン最初の墓



現シューベルトパークはかつてヴェーリング地区墓地が
あった。ベートーヴェンは最初にここへ葬られた(2015)
ベートーヴェン(奥)とシューベルト
の墓石だけが改葬後も残された
ベートーヴェンの墓は
メトロノームの形をしている

●ウィーン:中央墓地のベートーヴェンの墓

“ベートーヴェン詣で”の行列!(2015)

左からベートーヴェン、モーツアルト(記念碑)、
シューベルト。鼻血が出そう…
世界中からファンが会いに来る














2002 夕陽の中にたたずむベートーヴェン

台座には「ヴェーリング地区墓地にあった
最初の墓石を模して造られた」と説明文
2005 小雨の中の彼

2015 墓前の花壇が立派に!




石柱に「32A」。ここが楽聖地区だ! 「グーテン・モルゲン!(おはよう)」夢のような散歩道 「はじめまして、ベートーヴェンさん」(2015)


「モーツァルトは誰でも理解できる。しかしベートーヴェンを理解するには優れた感受性が必要だ。失恋などで悲しみのどん底にいなければならない」〜シューベルト
「ベートーヴェンの曲は“これしかない”という音が後に続くから完璧なのだ」〜レナード・バーンスタイン(指揮者)
「今、運命が私をつかむ。やるならやってみよ運命よ!我々は自らを支配していない。始めから決定されてあることは、そうなる他はない。さあ、そうなるがよい!そして私に出来ることは何か?運命以上のものになることだ!」(ベートーヴェン)

“楽聖”ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 。僕はかつて同じ人類の中に彼がいたという一点をもって、人間が地球に誕生したことは無意味ではなかったと確信している。ベートーヴェン以前の音楽家は、皆が王室や貴族に仕え、作品といえば注文に応じて書く式典用の音楽が大半だった。だが、平民出身で進歩的なリベラル(自由主義者)のベートーヴェンは、そのような主従関係を拒否し、一部の貴族のために作曲するのではなく、全人類に向けて作品を生み出した。自身の内面から湧き上がる創作の欲求に従い音楽を書いた。単なる娯楽としての音楽ではなく、「苦悩を突き抜け歓喜へ至れ」と人間讃歌をうたいあげた。個々の音符から見えてくるものは“そうあらねばならぬか?そうあらねばならぬ!”という鋼鉄の意志。古典派の堅固な構成とロマン派の劇的な展開が化学反応を起こし、安定感と創造的破壊のせめぎ合いが生む緊張感にシビレ、法悦(エクスタシー)とも言うべき快楽を与えてくれる。限りなく深い世界愛と、権力者の理不尽な抑圧に立ち向かう人道主義に裏打ちされた楽曲は、まさに“楽聖”の名にふさわしい。

ベートーヴェンは9曲の偉大な交響曲、7曲の協奏曲(5曲がピアノ協奏曲)、32曲のピアノ・ソナタ、17曲の弦楽四重奏曲、10曲のバイオリン・ソナタ、5曲のチェロ・ソナタ、2曲のミサ曲、オペラ「フィデリオ」、その他、138曲もの作品を生み出した巨人(タイタン)。同じ人間が作ったものとは思えず、僕にとっては存在そのものが神話に近い。
その一方で、親しみを感じる人間味のあるエピソードも多数残している。ベートーヴェンは決して“天才”ではなかった。天才とはモーツァルトのように楽譜に向かう前に既に頭の中で曲が完成している者のことをいい(モーツァルトの楽譜は殆ど修正した跡がない)、ベートーヴェンのようにひとつのメロディーを書くだけで延々と書き直したりはしない。『運命』の第2楽章には8度も旋律が書き直された(貼り直された)箇所があり、しかもそれを剥がしていくと8枚目と元の旋律が同じだったりする。有名な『運命』の冒頭もさんざん試行錯誤して下書きを繰り返したものだ。散歩中に書き付けた紙切れやメモ、ノートのスケッチは7000点以上にのぼる。
不器用な彼は作曲中、他の一切の用事が出来ず、ピアノの上にはカビの生えたパンが皿に乗っており、ピアノの下では簡易トイレが大爆発していた(雇ったメイドは片っ端から逃げ出した)。そんな環境で『エリーゼのために』や『月光』など美しい珠玉の傑作が生まれるんだから面白い。大好物はパンを入れて煮込んだスープ、魚料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたもの、そしてハンガリーの極甘口トカイワイン。コーヒーは自分で豆60粒をピッタリ数えて淹れるこだわりを持っていた。
神経質なほど“引越し魔”で、ウィーン滞在の35年間で79回も転居したという記録が残っている。他にも、人道主義的理想を掲げた大傑作の第九の直後に『なくした小銭への怒り』という珍曲を作ってるのも人間っぽくて良い!

1812年、テプリツェ(現チェコ北部)でゲーテと腕を組んで散歩中(当時ベートーヴェン42歳、ゲーテ63歳)に、オーストリア皇后やルドルフ大公(皇帝レオポルト2世の子)の一行と遭遇した時のこと。ゲーテは腕を解くと、脱帽し通りの脇から最敬礼で一行を見送った。ベートーヴェンいわく「私は帽子をしっかりかぶり、外套のボタンをかけ、腕組みをしたまま、堂々と頭を上げて行列を突っ切った」「おべっか使いの臣下どもが両側に人垣を作っていたが、ルドルフ大公は私に対して帽子をとり、皇后は真っ先に挨拶した」(クルト・バーレン著『音楽家の恋文』)。逆に大公一行から挨拶されたベートーヴェン。この出来事を他人に伝えるベートーヴェンの手紙は辛辣だ「行列がゲーテの前を行進した時は、本当に可笑しくなってしまいました。彼は帽子をとり、深く頭を下げて脇に立っていました。それから私はゲーテにお説教をしてやりました。容赦せず彼の罪を全部非難しました」。21歳も年下の男から道端で激しく説教されるゲーテの気持ちはいかほどだったろう…。ベートーヴェンは後援者のリヒノフスキー侯爵に対してさえ「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎないが、私が今あるのは私自身の努力によってだ」と書き送っている。
17世紀の封建社会にあって貴族に唾を吐きかける無敵ぶりと、耳が聞こえなくなるという不運にもかかわらず、“運命が決まってるならそうなるがよい、こっちは運命の上を行くだけだ”(聴覚を失ってもさらに作曲を続ける)と、逆に運命の女神に闘争宣言を叩き付け、血祭りに上げてしまう恐るべき精神力。歩く活火山のようなパワフルさ。めちゃくちゃカッコイイ!

ベートーヴェンの作品が後世の作曲家に与えた影響は絶大で、ブラームスは40代になるまで交響曲が書けなかった。ワーグナーは「この世には既にあの9つの交響曲があるのに、このうえ交響曲を作る意味があるのか」と立ち尽くし、ベートーヴェンが開拓しなかった楽劇の道に進んだ(ベートーヴェンのオペラは1作品しかない)。また、『運命』が交響曲第5番であったことから、多くの作曲家が自身の第5番に並々ならぬ気合いを入れ、チャイコフスキー、マーラー、ブルックナー、ショスタコーヴィチ、ドヴォルザーク(「新世界より」は旧5番)などが名曲を残している。ブラームスは4番までしかない。

●その激動の生涯
1770年12月16日、ケルン選帝侯の城下町ボンに生まれる。身長167cmでがっしり体型。肌は浅黒。弟子のチェルニー(教則本で有名)は、ベートーヴェンの第一印象を「ロビンソン・クルーソー」「黒髪が頭の周りでモジャモジャ逆立っている」と表現している。後年は服装に無頓着だったためホームレスと誤認逮捕され、ウィーン市長が謝罪するなんてこともあった。
祖父(オランダ人)は宮廷楽長、父も宮廷楽団の歌手であったが、父が酒に溺れてしまい、祖父が家計を援助していた。母は宮廷料理人の娘。3歳で祖父が他界すると生活が困窮し、翌年から父はベートーヴェンをモーツァルトのような神童にして一稼ぎしようと苛烈なスパルタ教育を行う。10歳で小学校を退学し、12歳で作曲家ネーフェに師事。14歳、正式に宮廷オルガニストに任じられる。1787年(17歳)、音楽の都ウィーンを旅行してモーツァルト(当時31歳、ベートーヴェンとは14歳差)を訪問し、ピアノの腕前を高く評価される。この時、「今にこの若者は世の話題をさらうだろう」と予言されたとも。弟子入りが認められたが、母の結核が悪化しボンに帰郷、その死を看取る。
1789年(19歳)、妻を失った父はさらに酒量が増えアルコール依存症で失職。ベートーヴェンが宮廷楽師となって家計を支え2人の弟の世話をした。同年、フランスでは民衆が王政を打ち倒す革命が起き、青年ベートーヴェンも大いに刺激を受けた。この頃、ベートーヴェンは教養の不足を感じボン大学聴講生となっていた。大学で文豪シラーの詩「歓喜に寄す」と出会って胸を打たれ、約30年後に第九の歌詞にしている。
1790年に20歳で書いた「皇帝ヨーゼフ2世の悼むカンタータ」は、師ネーフェやベートーヴェンの後援者ワルトシュタイン伯らの心を動かし、“この才気ある若者を是非ウィーンに送ってモーツァルトの弟子にしよう”という運動が起きる。だが翌年にモーツァルトが35歳で早逝してしまい、1792年(22歳)、後援者たちはウィーンで活躍していた高名な作曲家ハイドン(当時60歳)にベートーヴェンを弟子入りさせた(弟子入り資金は後援者が負担)。同年、酒乱の父が他界。ハイドンはあまりに多忙でろくに指導できず、ベートーヴェンは不満を抱いて宮廷楽長サリエリなど複数の作曲家を師に持った。
※ある時ハイドンから「ハイドンの教え子」と楽譜に書くよう命じられ、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と拒否したという。

1795年(25歳)、ベートーヴェンは慈善コンサートで自作ピアノ協奏曲を演奏し、これが大きな話題を呼んだ。さらに即興演奏の名手として人々を魅了。青年ベートーヴェンは作曲家としてより、天才ピアニストとして音楽好きのウィーン貴族たちから喝采を浴びた。一躍社交界の花形となり、楽譜出版社からの収入も増えていき、ボンに残していた2人の弟を呼び寄せた。当時、音楽家の地位は低く、あのモーツァルトでさえ貴族からは使用人扱いで、貧困の中で死亡し亡骸は共同墓地に埋蔵された。だが、モーツァルトの死から10年が経つと楽譜の出版市場が拡大し、ベートーヴェンはフリーの音楽家として楽に暮らしていくことが可能になった。

名声を得て得意絶頂のベートーヴェンだったが、人生が突如暗転する。1798年(28歳)、聴覚障害の最初の兆候が現れると次第に症状が悪化していった。音楽家にとって聴覚を失うことは致命的。他人にバレないようにするため、交際を避け家に引きこもるようになった。同年、ピアノソナタ第8番『悲愴』を作曲。1800年(30歳)、明るく活気に満ちた交響曲第1番を書き上げるが、まだベートーヴェンの個性は薄くモーツァルトやハイドンに近い。1801年(31歳)、弟子でイタリアの伯爵令嬢ジュリエッタ・グイチャルディ(16歳)に捧げたピアノソナタ第14番『月光』を作曲。ベートーヴェンは彼女に恋し、身分の差に苦しむ。
転地療養のため夏はウィーン郊外の静かなハイリゲンシュタットで過ごしていたが、1802年(32歳)、不安と絶望が頂点に達し「ハイリゲンシュタットの遺書」を2人の弟に執筆した。自殺を考えたが、芸術に引き留められたという切実な文章だ。
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『ハイリゲンシュタットの遺書/わが弟たちカール(とヨハンへ)』※原文は長文ゆえ今井顕氏の訳とNHK『その時歴史が動いた』を参考に抜粋要約。

私が意地悪く、強情で、人嫌いのように見えたとしても、人はその本当の原因を知らぬのだ。私の心と魂は、子供の頃から優しさと、大きな夢をなしとげる意欲で満たされて生きてきた。
だが6年前から不治の病に冒されたことに思いを馳せてみて欲しい。回復するのでは、という希望は毎年打ち砕かれ、この病はついに慢性のものとなってしまった。
情熱に満ち活発な性格で、社交好きなこの私が、もはや孤立し、孤独に生きなければならないのだ。
「もっと大きな声で叫んで下さい、私は耳が聞こえないのです」、などと人々にはとても言えなかった。
他の人に比べてずっと優れていなくてはならぬはずの感覚が衰えているなどと人に知らせられようか…おお、私にはできない。だから、私が引きこもる姿を見ても許して欲しい。
こうして自分が世捨て人のように誤解される不幸は私を二重に苦しめる。

交友による気晴らし、洗練された会話、意見の交換など、私にはもう許されないのだ。どうしても避けられない時にだけ人中には出るが、私はまるで島流しにされたかのように生活しなければならない。
人の輪に近づくとどうしようもない恐れ、自分の状態を悟られてしまうのではないか、という心配が私をさいなむ。
医者の言葉に従って、この半年ほどは田舎で暮らしてみた。そばに佇む人には遠くの笛の音が聞こえるのに、私には何も聞こえない。人には羊飼いの歌声が聞こえているのに、私にはやはり何も聞こえないとは、何と言う屈辱だろう。こんな出来事に絶望し、あと一歩で自ら命を絶つところだった。

自ら命を絶たんとした私を引き止めたものは、ただひとつ“芸術”であった。自分が使命を自覚している仕事(作曲)をやり遂げないで、この世を捨てるのは卑怯に思われた。その為、このみじめで不安定な肉体を引きずって生きていく。
私が自分の案内者として選ぶべきは“忍耐”だと人は言う。だからそうする。願わくば、不幸に耐えようとする決意が長く持ちこたえてくれればよい。もしも病状が良くならなくても私の覚悟はできている。自分を不幸だと思っている人間は、自分と同じ1人の不幸な者が、自然のあらゆる障害にもかかわらず、価値ある芸術家、価値ある人間の列に加えられんがため、全力を尽くしたことを知って、そこに慰めを見出すことができるだろう。

L. V. Beethoven 1802年10月6日
ハイリゲンシュタットにて
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“私を生につなぎ止めているのは芸術だ。内なるものを表現し尽くすまでは、死ねない”。精神の危機を克服した瞬間だ。この言葉の通り、ベートーヴェンの創作欲は遺書の脱稿後から大爆発する。パリの有名ピアノ製作者から最新型のピアノ(グランド・ピアノ)を贈られ、その幅広い音域やペダル装置が芸術家魂をさらに奮い立たせた。ベートーヴェンはこのピアノを手に入れると、さっそく特性を生かしたスケール感のあるソナタ=後援者ワルトシュタイン伯に捧げたピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」(1803)を書き上げている。そして、1804年に英雄交響曲を完成させたのを皮切りに、10年間に6つの交響曲の他、ピアノやヴァイオリンの優れた協奏曲を次々と作曲した。この10年間は後世の音楽愛好家から「英雄の時代」と呼ばれ、作家ロマン・ロランは特に1806〜08年を「傑作の森」と呼んだ。

【“英雄の時代”10年】

●1804年(34歳)
2年をかけて交響曲第3番『英雄(エロイカ)』を完成(初演は翌年)。平民出身のベートーヴェンはフランス革命を熱烈に支持しており、平民のナポレオンが欧州の王政諸国を次々と打ち負かしていることを喜んだ。そしてナポレオンのため英雄交響曲を作曲し、楽譜の表紙には“ボナパルトへ捧ぐ”と献辞を記した。ところが、フランスに送る段になって「ナポレオン、自ら皇帝就任」の報が届き、ベートーヴェンは「畜生!ヤツもただ権力にしがみつく俗物に過ぎなかった!」と怒り狂った。そして献辞を穴が開くまで掻き消し、“かつて英雄だった男の思い出に”と書き替えた(ボロボロになった表紙は今も残っており、ブチ切れぶりがよく分かる)。
だが、ベートーヴェンは英雄交響曲の内容を書き直すことはなかった。この曲はナポレオンという1人の英雄を表現したものではなく、全ての人間が持つ英雄的側面や、ベートーヴェンがハイリゲンシュタットで経験した芸術家としての覚悟を音楽に昇華した作品だからだ。従来の一般的な交響曲が30分程度であるのに対し、「英雄」は50分を超える前人未踏の大曲であり、壮大なコーダ(結尾)が聴衆を圧倒した。人々は音楽が持つ強烈な生命力に驚愕した。現実の苦悩を突き抜けて創造の歓喜へと到達した芸術家の魂の記録であり、“これからも生き続けていく”という決意表明だ。魂の新生、ここにあり。英雄交響曲はモーツァルトやハイドンといった古典派から、シューベルトやメンデルスゾーン、ドヴォルザークらロマン派への橋渡しとなった。
●1805年(35歳)
唯一完成したオペラ『フィデリオ』を作曲。題材はフランス革命で実際に起きた事件からとられた。政治犯を救出する物語であり、ベートーヴェンのリベラルな政治的立場が窺える。大変な難産の末に生まれた作品で、ベートーヴェンは自分にオペラは向いておらず、本領は交響曲にあると痛感する。だが、作品の評価は徐々にあがり、11年後(1814年)の上演では当時17歳のシューベルトが教科書を売り払ってチケットを購入したという。
●1806年(36歳)
ベートーヴェンの内省的で情感のこもった作品群はさらに進化。鬱屈した情念が吹き荒れるピアノソナタ第23番『熱情』や、後にメンデルスゾーン、ブラームスと合わせて3大ヴァイオリン協奏曲と呼ばれるヴァイオリン協奏曲ニ長調が書かれる。弦楽四重奏曲にもラズモフスキー・シリーズの名曲を残す。
●1807年(37歳)
交響曲第4番、ピアノ協奏曲第4番、ミサ曲ハ長調。
●1808年(38歳)
1808年12月22日、交響曲第5番『運命』と第6番『田園』が同日にウィーンで初演された。『英雄』や『運命』で描かれた“苦悩を突き抜け歓喜へ至る”という姿勢がベートーヴェン作品の基軸となる。ベートーヴェンは『運命』で音楽史上初めて交響曲にトロンボーンやピッコロを導入し、後の作曲家に受け継がれていく。
●1809年(39歳)
ナポレオン軍のウィーン再占領の混乱下で完成したピアノ協奏曲第5番『皇帝』は、その雄大で輝ける響きから感極まった聴衆が「皇帝(フランツ1世)万歳」と叫んだという。※この「皇帝」はナポレオンのことではないし、フランツ1世も関係ない。後世の音楽ファンが「ピアノ協奏曲の皇帝的存在」と讃えたもの。
●1810年(40歳)
ピアノ小品『エリーゼのために』。ベートーヴェンが愛したテレーゼ・マルファッティに捧げられた。これも悲恋に終わった。
●1811年(41歳)
ピアノ三重奏曲第7番『大公』。優雅で気品のある当曲は、ベートーヴェンを最後まで金銭的に援助し続けたパトロン兼弟子のルドルフ大公に捧げられた。
●1812年(42歳)
この年に書かれ翌年初演された交響曲第7番はベートーヴェンの交響曲の中で最もリズミカルであり、後年ワーグナーは“舞踏の聖化”と讃えた。
●1813年(43歳)
交響曲『ウェリントンの勝利』を発表すると、フランス民謡をイギリス国歌が覆す(仏敗北)という分かりやすさでウィーン市民から絶大な人気を集めた。現在は殆ど演奏されないが、ベートーヴェンにとって生前最大のヒットとなった。
●1814年(44歳)
交響曲第8番が完成。演奏時間が25分前後と短く、モーツァルトやハイドンの時代の古典スタイル。だが旋律はロマン派のそれであり小品ながら意欲作。52小節もフォルティッシモが続いたり、当時では異例のfff(フォルテフォルティッシモ/トリプル・フォルテ)やpppも登場する。

この後、難聴が急速に進み、人前での演奏会はこの年にピアノ三重奏曲『大公』初演でピアノを弾いた場が最後になった(耳が聞こえない為ピアノを大きく弾きすぎた)。第九初演の1824年まで10年間ほど大スランプに陥り、交響曲を書くペンがピタリと止まる。この間に特筆すべき作品は後述する数曲しかない。40代半ばから他界するまでの10年間は聴力を殆ど失っていたことも関係するだろう。次第に奇行が増え、神経性である持病の腹痛と下痢にも苦しめられた。
1815年(45歳)、実弟が死去し、9歳の遺児カールの養育権を得るべくその母と5年後まで裁判で争うことになる。
1818年、絶不調のベートーヴェンのもとに、ロンドンのピアノ会社から73鍵6オクターヴの大型ピアノが贈られた。ベートーヴェンはこのピアノの表現能力を極限まで引き出すことを決意し、「50年後の人間なら弾ける」と語ってピアノソナタ第29番『ハンマークラヴィーア』(約45分の大曲)を完成させた。
1820年(50歳)、有力パトロンのルドルフ大公の仲介もあって、ようやく甥っ子の養育権を勝ち取り後見人となったが、14歳という思春期になっていたカールはベートーヴェンと激しく衝突した。翌年、ナポレオン死去の報が届くとベートーヴェンは“英雄”第2楽章を引き合いに「私はとうの昔にやつの葬送曲を書いている」と皮肉った。
この1820年のベートーヴェンの家事日記が人間味があって面白い→「4月17日、コックを雇う。5月16日(わずか1ヶ月後)コックを首にする。5月30日、家政婦を雇う。7月1日、新しいコックを雇う。7月28日、コック逃げる。8月28日、家政婦辞める。9月9日、お手伝いを雇う。10月22日、お手伝い辞める。12月12日、コックを雇う。12月18日(たった6日後)コック辞める」。こういう具合に何年間も続く。だが、ベートーヴェンは自分にも厳しかった。ある時演奏会が絶賛されたのを読んでこう語った「私のように常に自分の限界を意識している者が、こんなに絶賛されるととても不思議な感じです」。
1822年(52歳)、最後のピアノソナタ3曲「第30番」「第31番」「第32番」と、宗教曲『ミサ・ソレムニス』を作曲。「第32番」の第2楽章は宇宙に静かに瞬く星々の如き崇高さ!

1824年(54歳)、5月7日にウィーンで交響曲第9番の初演が行われる。第8番から10年が経っていた。この頃、ウィーンではロッシーニの喜劇など軽いタッチの音楽が流行しており、ベートーヴェンは自分の重厚な作風は受け入れられないと感じ、第九初演をベルリンで行おうとした。この動きを知ったウィーンの文化人は「どうかウィーンで初演を!」と連名の嘆願書を作成しベートーヴェンを感動させた。嘆願書には「『ウェリントンの勝利』の栄光を今一度」という文言が添えられていた。
この第9番の初演には細心の注意が必要だった。当時のウィーンではフランス革命の波及を恐れた皇帝が、王政や身分制度に反対する者を次々と秘密警察に逮捕させ大弾圧を行なっていた。平民出身のベートーヴェンもまた平等な社会を求め、危険思想の持ち主ということから当局にマークされていた。ベートーヴェンは知人への手紙で“自分の思想を大声で話せない。そんなことをすれば、たちまち警察に拘留されてしまう”と憂いた。また、筆談帳にレストランでの友人との次の会話が残っている「ご注意下さい、変装した警官が様子をうかがっています」。
ベートーヴェンは言論の自由のない社会への抵抗と、自由・平等・博愛の精神を込め、反体制詩人シラーの詩にメロディーを付けた。クライマックスで「 引き裂かれた世界を汝(市民)の力が再び結
び合わせ、その優しい翼を休めるところ全ての人々は兄弟となる」と高らかに歌い上げ、貴族や平民など人間を分けず、身分制度を超えた兄弟愛で人類が結ばれることをうたった。当局の検閲を怖れたベートーヴェンの秘書は、歌詞の内容を伏せて演奏会の許可をとった。権力者から危険人物とされた作曲家のコンサートにもかかわらず、初演には大勢のウィーン市民が足を運んだ。
ステージではベートーヴェン自身が指揮棒を握ったが、聴覚の問題があるためもう1人のウムラウフという指揮者がベートーヴェンの後ろに立ち、演奏者はそちらに合わせた。演奏が終わって聴衆から大喝采が巻き起こるが、ベートーヴェンはそれに気づかず、失敗したと感じて振り向かなかった。見かねてアルト歌手のウンガーが歩み寄り、巨匠の手をとって振り向かせベートーヴェンは魂が聴衆に届いたことを知った。演奏後に何度もアンコールの喝采が続いたが、聴衆が5回目の喝采を行った時、劇場に潜んでいた当局の人間が人々を制止した。当時、皇帝への喝采は3回と決められており、それ以上は不敬罪となるからだ。

第9番完成後、ベートーヴェンの楽曲は極めて個人的な性格を強め、最晩年となる1824年から1826年に書かれた孤高の傑作、5曲の弦楽四重奏曲は、現世に対する達観の境地へ分け入った。この当時、作曲家は依頼を受けて曲作りをしたが、ベートーヴェンは弦楽四重奏曲の最後の2曲を自発的に書き上げた。死の前年に書かれた弦楽四重奏曲第14番について、これを聴いたシューベルトは「この後で我々に何が書けるというのだ?」と述べた。

1826年(56歳)、ベートーヴェンは養育していた甥カールと将来の進路を巡って激しく対立(カールは軍人志望、ベートーヴェンは芸術家にしたかった)。カールは伯父からの独占的な愛情に息が詰まり、ピストル自殺をはかった。弾丸は頭部にめり込んだが、奇跡的に一命を取り留める。この事件にベートーヴェンはショックを受け、すっかり気弱になっていく。同年12月、肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなど体力が低下。何度も腹水を取り除く手術が行われたが快方に向かわなかった。10番目の交響曲に着手するも未完成のまま、翌1827年3月26日、肝硬変により56年の生涯を終えた。最期の言葉はラテン語で「諸君喝采したまえ、喜劇は終わった」。

1827年3月29日、集会の自由が制限されるなか、ウィーンのヴェーリング地区墓地(1769年開設)で執り行われたベートーヴェンの葬儀に2万人もの市民(当時の人口は約25万人)が参列し、臨終の家から教会に至る道を埋めた。宮廷からは一輪の花も、一人の弔問もなかった。墓地に着き、オーストリアの偉大な詩人グリルパルツァーの弔辞を俳優が墓前で読み上げた。「彼は芸術家であった。しかし同時に一人の人間であった。あらゆる意味で最も高貴な人間であった。世間を避けたので彼は敵意に満ちていると言われた。感情を避けたので無情の人と言われた。愛情が深かっただけに、世間に対抗する武器を持たなかった。だからこそ世間を逃れたのである。己の全てを同胞に捧げたが、代わりに得るものは何もなかった。だからこそ身を引いたのだ。己の分身を見つけることが出来ず一人のままでいた。しかし死ぬまで父親のような心を持ち続けた。彼はこうして生き、そして死んだ。そして永遠に存在し続ける。ここ(墓地)までついてきた者たちよ、悲しみを抑えなさい。我々は彼を亡くしたのでなく得たのである。生身の人間は永遠の命を得ることはできない。死んで初めて永遠の世界の門を通ることが出来るのだ。お前たちが嘆き悲しんでいる人は、今、最も偉大な人々の仲間入りをし、もう永遠に傷つけられることがないのである。心痛のまま、しかし落ち着きをもって家路につきなさい。今後、彼の作品の嵐のような力強さに圧倒された時、またそれらに対する意気込みが次の世代に受け継がれた時、今日のこの日を思い出しなさい。彼が埋められた時、我々は一緒にいたのだ。彼が亡くなった時、我々は泣いたのだ」。
翌年、シューベルトが31歳の若さで病没し、本人の遺言に従ってベートーヴェンのすぐ側(3つ隣り)に墓が造られた。その後、人口増加による都市計画が立案されヴェーリング地区墓地の閉鎖が決定。没後51年の1888年6月22日、ベートーヴェンの遺骸は掘り起こされ、新たに造成されたウィーン中央墓地の名誉墓地(楽聖特別区)に改葬された。ウィーン市の南端に位置する中央墓地は300万人以上が眠るヨーロッパ屈指の巨大墓地。その中の名誉墓地に埋葬されることはウィーンの芸術家にとって最高の栄誉とされている。

遺書は死の3日前に書かれていた。「私は今、喜んで死を受け入れます。運命は残酷でしたが、終わりのない苦しみからやっと解放されるからです。いつでも用意はできています。私は勇気をもって死を迎えます。さようなら。私が死んでも私のことを忘れないで下さい。覚えてもらうだけのことはしたと思います。どうしたら人々を幸福にできるか、ずっと考えていたのですから。さようなら」。

●墓巡礼
墓参のために初めてウィーン中央墓地を訪れたのは1989年。当時22歳の僕は休学してアルバイトで貯めた資金で、欧州一周の墓巡礼に出発した。中央墓地はシュテファン寺院や王宮のあるウイーン中心部から南東約7キロに位置する。路面電車71番に30分ほど揺られ、目の前に巨大な墓地が見えてきた。“もうすぐルートヴィヒに会える!”、そう胸を高鳴らせて降車しかけると、他の乗客が「ノー、ノー」「ネクスト」と言っている。中央墓地は面積250ヘクタール(甲子園球場約65個分)、33万の墓所を擁し、年間約2千万人が訪れるヨーロッパ最大級の墓地。1871年に市内5箇所にあった墓地をひとつにまとめて開設された。その途方もない広大さゆえ、路面電車の停留所が端から端まで4つもあった。
ベートーヴェンら作曲家が眠る“楽聖特別区”は、第2門から目指すのが最短。ゲートを超えて案内地図を確認し、プラタナスの並木道をダッシュ!200mほど進むと左手に“聖地”が。「ここだ…第32区A!」。クラシック・ファンが卒倒しそうな光景がそこにあった。
区域の中心には、ベートーヴェン、モーツアルト(墓石のみ記念碑として移転)、シューベルト、ヨハン・シュトラウス2世、ブラームスの墓が順番に並んでいる。ちょうど団体さんが帰っていくところで、思いがけなくベートーヴェンと1対1になった。生み出した作品世界があまりに巨大すぎて、同じ人間というより、どこか架空の英雄のような非現実感があったベートーヴェン。だが目の前に彼は眠っている。「本当だった!嘘じゃなかった!ベートーヴェンは確かにいた!」。周囲に誰もいないため、思わず身を投げ出し「ダンケ・シェーン!(ありがとう!)」と落涙。側面から墓石に手を触れた瞬間、全身に電気が走るアートサンダーに打たれた。9つのシンフォニー、ピアノ・ソナタ第32番、皇帝、悲愴ソナタ、大フーガ等々、人生の糧となる様々な楽曲のお礼を言った。5分後、他の墓参者が来たので後方に下がり、離れた場所から1時間ほど語りかけた。同じ空間に身を置く至福!
ベートーヴェンの墓はメトロノーム型で、真ん中に黄金の竪琴のレリーフがある。メトロノームはベートーヴェンの晩年に発明され、特許申請者メルツェル本人が持参し使い方を教えてくれた。難聴のベートーヴェンでも振り子を見れば目で速度が分かるため、手に入れてとても喜んだという。ベートーヴェンは、作曲の速度指示にメトロノームを利用した最初の音楽家となった。
ちなみに、初巡礼で撮った写真は悲しいことに一枚も残っていない。墓参の後、南仏アルルで荷物を盗まれ、貴重なフィルムも消えてしまった。帰国後、仕事に追われ消耗する日々の中で、再びベートーヴェンに会いたい気持ちがつのり、5年後の1994年に再訪。さらに2002年、05年と貯金しては巡礼を重ね、やがてベートーヴェンの誕生日に結婚。初墓参から四半世紀、2015年に長年の夢だった妻と子を初めて墓前で紹介し、「こうして今があるのはあなたの音楽のお陰です」と心からの謝意。人生の壁にぶつかったときは、ベートーヴェンの音楽と言葉、人類愛が勇気をくれた。これからも命が続く限り、墓参を続けていきたい。

●ベートーヴェン語録
「行為の動機が重要であって結果は関係ない。精神生活が旺盛なら結果を考慮しないし、貧困と不幸は単に事柄の結果であるにすぎない」
「愛しいあなたに誇れる作品を書こう」
「田舎ではどの樹木も“聖なるかな、聖なるかな”と私に話し掛けているようだ。森の中の恍惚!」
「音楽とは啓示であり新しい美酒である」

●指揮者バーンスタイン、ベートーヴェンLOVEを吠える

・「ベートーヴェンとはどういう人物だったのか。一方では巨匠として愛され、求められ、賞賛されていた。しかし他方では偏屈な怪物の姿が浮かび上がってくる。友達もなく、寄ってくるのはパトロンと腰巾着ばかり。エネルギッシュでいつも好きな田舎を歩いていたかと思うと、慢性の鬱病、気管支炎、肝臓障害を患っていた。女性が大好きだったのに恋人はいなかった。甥カールを愛するあまり、あやうく死に追いやるところだった。この上ない崇高な心を持っていたかと思うと、出版社には厳しく、時には卑劣な条件を出した。そしてこれこそが極め付けの矛盾だが、この発育不全で病的で偏屈で苦悩に満ちた男の中に天使の声が宿っていたのだ」

・「ベートーヴェンはどんな時代の作曲家よりも優れた能力がある。主題の後にくる一番ふさわしい音を見つける能力だ。つまり次に来るべき音が何かが分かっていなければならない。その音以外考えられないということを納得させる力だ。納得できるまで書いては消し、書いては消しと、20回も書き直したパッセージもある。こうした苦闘を一生続けた。どの楽章も、どの交響曲も、どの協奏曲も、どのソナタも、常に完璧さを追及し、これ以外にはないというまで書き直していった。これはこの偉大な芸術家の神秘性を解く唯一のカギだ。ベートーヴェンは必然的な音の追究に一生を捧げた。どうしてこんなことをしたのか彼自身も分からなかっただろう。一風変わった生き方かも知れない。しかしその結果を考えるとそうでもない気がする。ベートーヴェンは我々に信じられるものを残してくれた。決して我々の期待を裏切らないものがあるとすれば、それはベートーヴェンの音楽だ」

・「ベートーヴェンの作品は、メロディ、和声、対位法、色彩感、オーケストレーション、どれをとっても欠陥だらけだ。それぞれの要素は何の変哲もない。彼は一生かけても満足なフーガを書けなかった。オーケストレーションは最悪で、トランペットが目立ってしまって、他の楽器がかき消されている。では何に惹かれるのか?それは型だ。ベートーヴェンの場合は型こそすべてだ。型は結局、次にどの音を持って来るかで決まる。ベートーヴェンの場合、その選択が完璧なのだ。まるで神と連絡を取りながら音を決めていったようだ。モーツァルトでさえこうはいかなかった。次に何が来るかは全く予想出来ないが、これしかないという音を選んでいる。どれもそれ以外考えられない音で、それゆえに完璧な型を作っている。どうしてこのようなことが出来たのか誰にも分からない。ベートーヴェンは一音一音搾り出すようにして書いている。部屋に閉じこもったまま気がおかしくなるくらい集中した。彼は心の中の氷山の一角しか表現できないと悩んだ。部屋は散らかし放題、食事は3日間手つかず、ピアノの下には一杯になったままの便器。しょっちゅう引っ越しをし、落ち着ける場所を探した。楽譜の下書きを見れば彼がどんなに苦しんだか分かるだろう。こうしてやっと完成した曲は神様が口述したかのようだ。これこそがベートーヴェンの素晴らしさなのだ。しかしこの必然性の追究の為、彼の人生はめちゃくちゃだった」

●友よ、第九のサビを歌おうではないか!
Freude, schoner Gotterfunken,
フロイデ シェーネル ゲッテルフンケン 喜びよ 神々の散らす美しい火花よ
Tochter aus Elysium,
トホテル アゥス エリージウム 楽園からやって来た娘よ
Wir betreten feuertrunken,
ヴィル ベトレテン フォイエルトルンケン わたしたちは 炎の情熱に酔いしれて
Himmlische, dein Heiligtum!
ヒムリッシェ ダイ ハイリトム 天高きあなたの聖殿に踏み入ろう
Deine Zauber binden wieder,
ダイネ ツァーベル ビンデン ヴィーデル 世の時流がむごく引き裂いた者を
was die Mode streng geteilt
バス ディー モーデ シュトレン ゲタイル あなたの神秘なる力は再び結びつける
alle Menshen werden Bruder,
アーレ メンシェン ベルデン ブリューデル その柔らかな翼に抱かれ
wo dein sanfter Flugel weilt.
ボー ダイ ザンフテル フリューゲル ヴァイト 人々はみな兄弟となる
※他の歌詞も「我が抱擁を受けよ全人類よ!」「我がこの口づけを全世界に!」「太陽が天の軌道を進むように、君たちは自分の信じた道を進め。勝利の道を歩む英雄のように!」など超ポジティブ。

●なぜ年末になると第九を演奏するのか?理由は2説ある。
その1…1943年、戦況が悪化する中、学生にも徴兵令が下り始めた。徴兵された東京芸大音楽部の学生たちは、入隊間近の12月初旬に繰上げ卒業式音楽会で『第九』の第4楽章を演奏した。出征した多くの学生が死に、終戦後、生還した者たちで「別れ際に演奏した『第九』をもう一度演奏しよう」ということになった。つまり、“暮れの第九”の始まりは、戦場で散った若き音大生の魂を慰める鎮魂歌(レクイエム)だったんだ。
その2…N響は1927年から第九を演奏レパートリーに持っていたが、年末の演奏が定番化したのは終戦直後の混乱期から。食糧不足など厳しい生活を送っていた楽員たちは、年越しの費用を稼ぐために12月は『第九』を演奏する機会が増えた。なぜなら『第九』は曲そのものに人気があるうえ、合唱団員が多く出演するためその家族や友人がチケットを買ってくれ、確実な収入が保障されているからだ。同様の理由で“年末の第九”が、プロ、アマを問わず定着していった。現在国内の12月の第九演奏会は150回を超えている。※近年の海外の「年末第九」の習慣は日本から(ドイツは例外)。

※メトロノームは1812年(ベートーヴェン42歳)にオランダ人ウィンケルが発明し、4年後(1816年)にドイツのJ.N.メルツェルが上下に振り子をつけて改良、ギリシャ語のメトロン(拍、韻律)とノモス(規準)を合わせた造語メトロノームの名で特許をとった。ベートーヴェンより2歳年下という同世代のメルツェル。彼はベートーヴェンに会ってメトロノームを披露し歓迎された。
※ファン・ゴッホ(van Gogh)のように、ベートーヴェンも姓に“van”がついているのは祖父がネーデルラント出身だから。祖父の代にボンに移住した。貴族を表す「von(フォン)」とは異なる。
※死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年(42歳)の手紙が3通発見された。ベートーヴェンは生涯独身だったが、いつも身分違いの貴族女性や既婚女性という、手が届かない相手に恋をしていた。「不滅の恋人」は長年謎だったが、フランクフルトの商人の妻で4児の母アントニエ・ブレンターノ説が最有力。手紙には恋の煩悶が綴られており、結局はベートーヴェンが自ら身を退いている。
※臨終の家はショッテン門の北側、奉納教会の斜め裏手。入口にベートーヴェンの顔のレリーフがはめ込まれている。葬儀が行われたのはアルザー通りに面する聖三位一体教会。ここにもベートーヴェンのブロンズレリーフがある。
※秘書のシントラーは第九公演の申請手続きを行うなど、身寄りのないベートーヴェンの世話を一身に引き受け助けたが、著作伝記『ベートーヴェンの生涯』の捏造部分と内容を合わせるため、ベートーヴェンが晩年約10年間に書き込んだ数百冊にのぼる貴重な筆談ノートを、半数以上も廃棄処分にして“証拠隠滅”を計る暴挙を行っている。
※CDの収録時間が74分という中途半端な時間になった理由は第九にある。ソニーがCDを開発中に、1枚に録音できる長さを盛田会長が友人の指揮者カラヤンに相談した際、カラヤンは第九が全曲入る長さ=74分を求めてそう決定した。カラヤンは「これで第九をA面、B面と中断されずに聴ける」と大いに喜んだという。
※交響曲第5番を「運命」と呼んでいるのは日本だけ(汗)。
※ベートーヴェンは作曲の際、ほうきの柄の片側を歯で噛み、もう片方をピアノに入れて振動で音を聞くこともあったという。
※「(最晩年の“大フーガ”は)絶対的に現代的な楽曲。永久に現代的な楽曲」(ストラヴィンスキー)
※映画『アマデウス』で有名になったアントニオ・サリエリは、ベートーヴェンにイタリア語歌曲の作曲法を教えた。ベートーヴェンはサリエリを慕い、イタリア語歌曲を作曲する場合は必ず助言を求めていたという。サリエリがモーツァルトを毒殺したという噂がウィーンに流れた時は、筆談帳で胸を痛めている。
※日本人でも日本の業者を通してウィーン中央墓地に眠ることが出来る(300万円〜1000万)。

聴覚を失っていく絶望感からハイリゲンシュタットで自殺さえ考えた1802年の秋。32歳のあの日、彼が芸術の存在によって命を断たなかったおかげで、後に『運命』や『第九』が生まれ、今、僕らが聴くことができる。生きていればこそだ。ダンケ・シェーン(ありがとう)、ベートーヴェン!

  ベートーヴェンの遺髪(許可を得て撮影)

※最初の埋葬場所はウィーンのWahringer Friedhof(Defunct)。


8月の朝7時だと、このようにドラマチックな朝陽が背後に!


1994 2002 2005 2015
マイ・ゴッド、ベートーヴェン大先生の足元にひれ伏してキスをする。うう…ありがたき幸せ!この瞬間、天にも昇る
歓喜の絶頂にあり、文字通り失神寸前。もう、どこへでもついて行きます、ベートーヴェン大明神さまーッ!!
(実は1989年にも巡礼して同様の写真を撮ったんだけど…南仏で荷物を全部盗まれフィルムも無くなった!トホホ)


※なんと動画あり!ウィーン中央墓地(5秒)
ベートーヴェン、モーツァルトの記念碑、シューベルト、
ヨハン・シュトラウス、ブラームスが並んでて壮観!



★ワーグナー/Wilhelm Richard Wagner 1813.5.22-1883.2.13 (ドイツ、バイロイト 69歳)2002
Plot at his Family's Home, Bayreuth, Germany

 

ワグネリアン(ワーグナー・ファン)の聖地、
“あの”バイロイト祝祭劇場の前にて!


「ハハーッ!!ひらにーッ!!」


ワーグナーが晩年住んでた家がそのまま博物館に
なっている。その裏庭に彼と妻コジマが眠っている。





なんと墓はノッペラボウ!何も刻まれてないのでこれが
墓だと気づかず、周囲をずっと探していた。博物館の職員
になぜ名前が彫られていないか尋ねると「自分の家の庭
だから名前を彫る必要ないでしょう?」とのこと。確かに
(笑)。今まで500人以上墓参してきたけど、まったく何も
彫られてない墓石を見たのは、後にも先にもこれっきり!

庭番が教えてくれたワーグナーの愛犬の墓!彼の墓
のすぐ側の茂みにあった。なんか胸がキューンとなった。
ワーグナーって近寄りがたいイメージがあったけど、
こういうの見ると一気に親しみが湧くよ。こういうのが
あるから墓巡礼はやめられない。実に良い墓を見た。
家の中には彼の愛用していたピアノが!おそらく妻の
父リストも使用しただろう。タイマー撮影で悦に入る。



「ワーグナーの音楽は阿片である」詩人のボードレールはこう言った。つまり、一度聴くとその魔力の虜となり、中毒患者の様にそれなくしては生きていけぬようになるのだという。自分はこの言葉が決して誇張されたものとは思えない。現にクラシックファンの間には、熱狂的なワーグナー信奉者を呼称する“ワグネリアン”なる言葉まであるのだ。ベートーヴェンやモーツァルトのファンは“クラシックファン”でひとくくりにされるのに、ワーグナーのファンだけが特別にそう呼ばれる。これだけで事態の異常さがある程度伝わるだろう。ワーグナーの音楽は我々をつかみ、そして引きずり回す。

当時ウィーンでは、ベートーヴェンの正統な後継者と見られていたブラームスを熱愛する『ブラームス派』と、ワーグナーの官能美に頭がヒートした急進的な『ワーグナー派』との間で衝突が絶えず、その波紋は王宮にまで及んだという。実際、ごひいきの作曲家のコンサートの後、興奮した一群が敵対する側のたむろ場となっているパブを焼き討ちしたりかなり過激だったようだ。ブラームス派はワーグナー派に対し「下品、悪趣味、大袈裟すぎ」と攻め、ワーグナー派はブラームス派に「化石、カビまみれ、退屈」とやり返していた。自分の立場は実に微妙だ。普段聴いているものは圧倒的にブラームスが多いのだが、ベストを作ってみると何故かワーグナーの方が上…くわばら、くわばら!

※ワーグナーの訃報を聞いたバイエルン王ルードヴィヒ2世は「死体は私のものだ」と泣き崩れたという。

ニーチェはライプチヒで作曲家リヒャルト・ワーグナーと出会った。彼は著作『悲劇の誕生』でワーグナーを賛美しており、23回もワーグナー邸を訪問した。両者は31歳も年が離れていたが良き友だった。ところがニーチェはワーグナーの音楽が次第に俗化していくように感じられ、バイロイト祝祭劇場で『パルジファル』を見た時は、失望のあまり途中で抜け出してしまう。彼はワーグナーとの決別宣言として『人間的な、あまりにも人間的な』を記す。ワーグナーは立腹し2人の関係は断絶した。しかし、晩年のニーチェは「私はワーグナーを愛していた」という言葉で、いつもワーグナーの思い出話を締めていたという。



★バッハ/Johann Sebastian Bach 1685.3.21-1750.7.28 (ドイツ、ライプチヒ 65歳)1989&94&2005
Thomaskirche (Saint Thomas' Church), Leipzig, Germany



“音楽の父” ライプチヒの聖トーマス教会前のバッハ像。かっこいい! 近所にある昔からのバッハ像


聖トーマス教会 中央の祭壇に向かって歩いて行くと… ロープの向こうにお墓! 大バッハ様だーッ!




1994年 2015年 「Gせんじょうのアリアがすきです」※彼が生まれて
来たとき、分娩室に“G線上のアリア”が流れていた
「JOHANN SEBASTIAN BACH」とだけ
刻まれ、生没年は彫られていない

パイプオルガンでバッハを演奏していた。バッハは聖トーマス教会のオルガン奏者だった なんとステンドグラスにバッハ。聖人と同じ存在!

バッハの音楽の魅力を語る上で最初に伝えたいのは、自分がクラシックファン同士の会話の中で、一度たりともバッハの悪口を聞いたことがないという事実だ。それはベートーヴェンのカミナリ説教やモーツァルトの勝手な独り言のように、叱られてる感じや無視されてる感じを味わうことがないからだ。

バッハの音楽はまるですぐそこにいる彼の“呼吸音”を聴いてるかのよう。呼吸音には何も主張はないが、生きていることは確実に分かる。聴いているときに自分が一人ではないように思える。バッハの心音と言ってもいい。他人の鼓動の音を聞くことは、人を落ち着かせ穏やかな気持ちにさせる。

確かに彼も人間である以上、時々呼吸が嵐のように乱れることがある。そういう時はこちらもすごく緊張する。しかしその緊迫感はマイナスにはならず、混乱すら生きている証として前向きに受け止めることが出来る。彼の作品が全曲ハズレなしっていうのは、そういう音楽を超えた部分にあるのかも。流行りの音楽スタイルを作曲に取り入れず、あくまでも古典的であったバッハの曲は死後100年以上も人々に忘れられていたが、メンデルスゾーンが再び光をあてて復活させた。享年65歳。

バッハの墓は、彼がずっとオルガニストを務めていた、ライプチヒ・聖トーマス教会の床にある。この教会では、頭上からほぼ1日中パイプオルガンが鳴り響いている(モチ生演奏)。バッハが作曲した音楽を、バッハが弾いていたオルガンで聴きながら、本人に巡礼ができる…自分が訪れた墓の中で、最も素晴らしい環境で対面できた墓だった。

『バッハのピアノ曲はどこにも音符を書き込むことが出来ない。真に完全なのだ』〜キース・ジャレット(ジャズ・ピアニスト)
『バッハの音楽は世界のあらゆる人種をつなぐ絆。いうならば全人類の為のフォルクローレ(民謡)だ』〜エイトル・ヴィラ=ロボス(ブラジル人、南米最大の作曲家)
『バッハの音楽は宇宙へと目を開いてくれます。ひとたびバッハ体験をすれば、この世の生にはなにがしかの意味があることに気づきます』〜ヘルムート・ヴァルヒャ(盲目のオルガン奏者)
『音楽家たちが、自らの仕事にかかる前に、凡庸に陥らないために、まず祈らなければならないこの慈愛にあふれる神』〜ドビュッシー

※悪魔的完成度の高さを誇る名曲、トッカータとフーガ・ニ短調はまだ若干二十歳の作品!その緻密で一瞬のスキもない曲の構成力は、円熟した老境のものだとしか思え〜ん!

バッハの書いた詩(!)を紹介

『煙』
パイプをくゆらし時を過ごせば
悲しい灰色の絵に思いが及ぶ
自分がパイプと同じだと気づかされる
かぐわしい煙の後は灰が残るのみ
この私も土にかえるのだ
灰色の絵は崩れ落ちて2つに割れ
私は己の運命の軽さを思う

バッハの『平均律クラヴィール曲集』を聴いて--「これを聴き出して、私はこの不条理の世界(この世)にも何かの秩序があり得るのではないかという気がしてきた。この音楽が続く限り、心が静まり、ひとつの宇宙的秩序とでもいうべきものが存在する気がする」/94年生き続けて--「どういう曲が一番胸に染みてくるかというと、それはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンだねぇ。つまるところは、この3人だなぁ〜(笑)。僕は女房が死んだ時に音楽が一時受け付けられない時があって…(音楽というのは)あまりに訴えかけてくる力の強い、他の人の声。だから、ちょっと休んで自分の中に一人でいたいと思った。それでも、そのうち何かで寂しくなって、音が欲しくなって、いろんなものをかけてみた。どれも邪魔をしたけど、バッハは邪魔しなかったなぁ」(吉田秀和)音楽評論家



★モーツァルト/Wolfgang Amadeus Mozart 1756.1.27-1791.12.5 (オーストリア、ウィーン 35歳)1994&2005&15
Saint Marxer Friedhof Cemetery, Vienna, Wien, Austria

作曲時、ペンを握る前に頭の中
で曲は完成。書き写すだけ!
薄っすらと涙を浮かべている
ようにも見える晩年の肖像
長生きしていればどんな
世界に到達していただろう

●生誕地ザルツブルク(オーストリア)



モーツァルトの生家。
4階に17歳まで住んでいた

父レオポルドは家族でこの家に引っ越し。
8部屋もある。生家の徒歩圏内

父レオポルド(右)、妻コンスタンツェ(中央)など
近親者の墓。ザルツブルク・聖セバスチャン教会
(2015)
姉ナンネルはコンスタンツェと
仲が悪く別の教会墓地に眠る
(ザンクト・ペーター教会)

〔レオポルト・モーツァルト〕 Leopold Mozart(1719.11.14-1787.5.28)モーツァルトの父。この父あってこそのモーツァルト。史上初のバイオリン教則本を書いた音楽理論家でザルツブルクの宮廷副楽長。息子の楽才を早くから見抜き、6歳にして女帝マリア・テレジアの御前演奏会を実現。7歳から3年半にわたって、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランス(ルイ15世の御前)、イギリス、スイスに演奏旅行させ、各地の最先端の音楽を吸収させた。神童モーツァルトがロンドンの演奏会(3時間)で得た収入は、レオポルトの年収の8年分に匹敵したという。

●プラハ(チェコ)

  

プラハのベルトラムカ(モーツァルト博物館)には彼が愛用したピアノ、遺髪などが展示されているッ!
※この館で歌劇ドン・ジョバンニが作曲された


●ウィーン


イケメン・モーツァルト像 ウィーンの王宮広場にあり記念写真スポット(2002) この角度がバツグンに良い!

ザンクト・マルクス墓地はトラムの「ザ
ンクト・マルクス」駅より、ひとつ終点に
近い方から降りた方が圧倒的に近い
停留所の側のマンション背後
に線路がある。橋の下を目指そう
すると線路を横断できる隙間が
あるので、これを抜けると墓地!







ザンクト・マルクス墓地正門 入って左に案内地図がある 179番が彼の墓 墓の手前にあった案内板

正門からまっすぐテクテク歩く すると左手にポツンと単独の墓 他人の墓3人分をかき集めて造ったという 『W.A.MOAZART』と刻まれている



1994 初巡礼 2005 ピンクの花 2015 赤い花
周囲に墓はなく、このエリアはモーツァルトだけの為にあった!破格の待遇!

1994年、墓地にはなぜか“野良孔雀”がいて驚いた。鳩や雀で
はなく、クジャクだ。他にも目撃者がいるので、ここの名物らしい
ウィーンのモーツァルトの家(フィガロ・ハウス)は生誕250年とな
る06年にリニューアル・オープンするべく改装中だった(05年)

●楽聖墓地(ウィーン中央墓地)



左からベートーヴェン、モーツァルトの最初の墓石、シューベルト。
モーツァルトは墓石のみがザンクト・マルクス墓地からここへ移設
正面に彼の肖像画
(2015)
悲しみの女神像が手に持っているのは
モーツァルトの遺作『レクイエム』の楽譜だ

 
ウィーン楽聖墓地のケッヘルの墓。彼がモーツァルトの楽譜を年代順に整理してくれた。ごくろうさま!

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年1月27日、神聖ローマ帝国領(現オーストリア)ザルツブルクに生まれる。人間的にはひょうきんな性格で、姉への手紙の末尾には「相変わらずマヌケなヴォルフガングより」などと記していた。
父のレオポルド・モーツァルトはザルツブルク大司教付きのバイオリニスト・作曲家。モーツァルトは3歳でピアノ(チェンバロ)を弾き始め、自分で和音を探して見つけては喜んでいた。4歳になって父から本格的にレッスンを受けるとすぐに楽才を発揮し、メヌエットや小曲を弾きこなした。初めての作曲は5歳(1761年1月末)のときで、ピアノのレッスン中に即興で演奏した約20秒の『アンダンテ・ハ長調』を父が楽譜帳に書きとめた。
1762年(6歳)、モーツァルトと姉ナンネルは父に連れられてミュンヘンやウィーンを訪れ、父は各地で息子の神童ぶりを披露した。ウィーンのシェーンブルン宮殿では、神聖ローマ帝国の女帝マリア・テレジアの前で姉と共に御前演奏を行う。この時、モーツァルトは宮殿の床に滑って転んでしまった。起き上がるのを助けてくれたのは、テレジアの当時7歳の末娘マリー・アントワネット。モーツァルトは彼女にこう言ったという「君は優しい人だね、大きくなったらボクのお嫁さんにしてあげるよ」。
7歳から10歳まで家族全員で長期旅行を行い、文豪ゲーテはフランクフルトで7歳のモーツァルトの演奏を聴き、“その演奏はラファエロの絵画、シェイクスピアの文学に匹敵する”と感嘆した。ロンドンを訪れたモーツァルトはバッハの子クリスティアンから華やかな音楽表現を学ぶ。モーツァルトはこれらの旅と平行して、わずか8歳で『交響曲第1番』を作曲し、11歳で最初のオペラ『アポロとヒアキントス』を作曲した。
一部の大人たちは「父親が作曲をしているのでは」と疑いを持ち、本当に一人で作曲しているのか一週間監視して曲を書かせたり、初見の楽譜をすぐに弾けるか検証したり、年齢を誤魔化していないか確認のために洗礼抄本を取り寄せるなどしたが、モーツァルトは疑いを全てはね除けて神童であることを証明した。
11歳から13歳までの2度目のウィーン旅行では天然痘にかかるが一命を取り留めた。
1769年、13歳で宮廷楽団のコンサートマスターに就任。年末から初めてのイタリア旅行に出発し、ローマ教皇から黄金の軍騎士勲章を授与される名誉を授かった(音楽家としては200年ぶり)。
1770年(14歳)の春、ローマ・ヴァチカンで門外不出の二重合唱曲『ミゼレーレ』(作曲グレゴリオ・アレグリ)を聴いた。この曲は、楽譜持ち出し禁止、写譜禁止、楽譜を書くことも禁止、システィーナ礼拝堂以外で演奏してもアウトで、禁を破れば“破門”となる、秘曲中の秘曲といえる作品だ。『ミゼレーレ』は9声部(9つのパート)が10分以上も重なりあい、絡みあう複雑なもの。だが、モーツァルトは一発で記憶し、宿に帰って楽譜に書き起こして人々を驚嘆させた(2日後、校正のため再び聴いて完全版にした)。翌年に『ミゼレーレ』の楽譜が出版されると、少年モーツァルトはローマ教皇クレメンス14世に呼び出された。だが、教皇はモーツァルトを破門にせず、逆にその驚異的な才能を褒め称えた。ヴァチカンは『ミゼレーレ』の禁令を撤廃した。
※『ミゼレーレ』(14分50秒) https://www.youtube.com/watch?v=36Y_ztEW1NE
 
同年秋、ミラノにてオペラ『ポントの王ミトリダーテ』を自身の指揮で初演し大成功をおさめ、モーツァルトは14歳という若さで不動の名声を築いた(ちなみにこの年にベートーヴェンが生まれている)。そして、翌年、翌々年と新作オペラ上演のためイタリアを訪れた。この間、故郷のザルツブルグでは新司教コロレードが着任。モーツァルトは有給の宮廷楽団コンサートマスターとなった(それまでは無給)。17歳、父と3度目のウィーン旅行を行う一方、翌年にかけて10代の交響曲の傑作となる、交響曲第24番、第25番(映画『アマデウス』の冒頭で流れ一躍有名に。18歳の作品)、第29番を作曲した。
モーツァルトは性格の合わないザルツブルグの司教と対立して職を辞し、1777年(21歳)、充実した音楽的環境と報酬を期待して母アンナとマンハイム・パリ旅行に出発した。この道中、父の故郷アウクスブルクで、いとこのマリア・アンナ・テークラ=“ベーズレ”(いとこちゃん)と初めて男女の仲となり、モーツァルトは彼女に宛て有名な「ベーズレ書簡」をのこしている。
 
※絶対に音楽の教科書に載ることがないモーツァルトの横顔、それはオゲレツちゃん(汗)。21歳の青年モーツァルトが19歳の従妹ベーズレに宛てた『ベーズレ書簡』より。(以下、全て海老沢敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集から)
「お休みなさい。花壇のなかにバリバリッとウ○コをなさい。ぐっすりお眠りよ。お尻を口のなかにつっこんで。(略)ありゃ、お尻が火のように燃えてきたぞ、こりゃ一体なにごとだ!きっとウ○コちゃんのお出ましだな?(略)でも、なんだか焦げるような匂いがする」
家族への手紙の中にも
「小生はズボンにウ○コをたれましょう」「おケツでも嗅ぎやがれ」「僕らがその上にチン座しますタマは別として」「くそったれ=ローデンルの主任司祭ディビターリは、人へのお手本として、彼の女給仕のお尻をなめた」
といった言葉が“普通に”飛び交っている…。
ただこれらは下品ではあるものの、原文のドイツ語では韻を踏んで音楽的な響きがある。
 
「だから、必ず来てよ。でないと、クソくらえだ。来てくれたら、ぼくが御みずからあなたにご挨拶し(コン・プリメンティーレン)、あなたのお尻に封印し(ペチーレン)、両手に口づけし(キュッセン)、臀部小銃を発射し(シーセン)、あなたを抱擁し(アンブラシーレン)、前からも後からも浣腸し(クリスティーレン)、あなたからの借りをすっかり一毛のこらず返済し(ベッアーレン)、勇ましいおならをとどろかし(エアシャレン)、ひょっとすると何かを落下(ファレン)させるかもね。」…詩人だ。
こんな曲もある→6声の声楽曲『Leck mich im Arsch(俺のケ○をなめろ) K.231』
https://www.youtube.com/watch?v=S9MN2WeqFY8 (2分21秒) タイトルは「このクソッタレ」的な言い回し。歌詞はともかく後半のハーモニーが素晴らしい。
 
当時のマンハイムは欧州を代表する音楽都市であり、マンハイム楽派の作曲家は交響曲の構成を従来の3楽章から4楽章形式に変えた。モーツァルトは同地で大いに影響を受ける。また、ソプラノ歌手アロイジア・ヴェーバーに恋心を燃やすが失恋し、1778年(22歳)、父に命じられてパリに半年間滞在した。パリでは優美な『フルートとハープのための協奏曲』『交響曲第31番』など数点を書きあるが、現地で母が他界してしまう。翌1779年、就職活動に失敗し、2年ぶりにザルツブルクに帰郷。宮廷オルガニストとして復職した。
1780年(24歳)、ミュンヘン宮廷の招待を受けて同地にてオペラを書き、上演も好評だったが、翌年にザルツブルク大司教コロレードから職務怠慢を叱責されたうえ、大司教の従臣に足蹴にされる侮辱を受けた。怒ったモーツァルトはザルツブルクと決別し、ウィーン定住を決断する。宮廷の職を離れ、フリーの音楽家としてウィーンで活動を始めたモーツァルトは、定職がないため借家にすみ、貴族相手の音楽教師や演奏会、楽譜出版で生計を立てた。
1782年(26歳)、モーツァルトはかつて失恋したアロイジア・ヴェーバーの妹コンスタンツェと結婚。これは良家の子女と結婚させようとした父の反対を押し切ってのことだった。1783年(27歳)、リンツ滞在中に交響曲第36番『リンツ』を4日で書き上げる。帰郷後、『大ミサ曲ハ短調』を上演。同年、『トルコ行進曲』も作曲。1784年、ウィーンの一等地に引っ越し(現フィガロハウス)、秘密結社のフリーメーソンに加盟した。
 
人生最後の10年を過ごしたウィーンにおいて、モーツァルトの才能はさらに開花し、1786年(30歳)に喜劇『フィガロの結婚』、翌年に色事師ドン・フアンの死を描いた『ドン・ジョバンニ』、晩年に『魔笛』という3大オペラを生み出している。また、交響曲の分野でも、1788年(32歳)に3大交響曲である第39番、40番、41番『ジュピター』を1カ月半という驚愕の短期間で仕上げている(一曲あたり2週間)。また、17曲にのぼるピアノ協奏曲、弦楽セレナード『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』(1787)などの傑作も、借金苦の中で完成した。
モーツァルトの手紙によると、まずは頭の中で第1楽章を作曲し、それを譜面に書き起しながら第2楽章を頭の中で作曲、続いて第2楽章を書きながら頭の中で第3楽章を作曲していたという。
 
1787年(31歳)に神聖ローマ帝国皇室・宮廷作曲家の称号を得たものの、この頃から経済状態が極度に悪化していった。これはモーツァルトが書きたい音楽と、聴衆(貴族)が求める音楽の間にギャップが生まれ、次第にウィーンにおけるモーツァルトの人気が下火になっていったためだ。
モーツァルトが活躍した18世紀は、音楽家は地位が低く尊重されていなかった。貴族のサロンの演奏会などで常に新曲を要求されたにもかかわらず、演奏はBGM扱いでお茶&おしゃべりに夢中、貴族たちはまともに聞いていなかった。作曲家の苦悩や人間性を音楽に反映する土壌はなく、求められたのはただただ心地よい音楽、親しみやすく聞きやすい音楽だった。モーツァルトはそれが我慢ならず、聴衆にもっとハイレベルな要求をした。「聴き手が何も分からないか、分かろうとしないか、僕の弾くものに共感できないような連中なら、僕はまったく喜びをなくしてしまう」(父への手紙)。“もっと新しいことに挑戦したい”というモーツァルトの想いは、24歳年上の当時の大作曲家で“交響曲の父”と呼ばれるハイドンに捧げた6つの弦楽四重奏曲、通称“ハイドンセット”に顕著に表れている。
このハイドンセットは、速筆で知られるモーツァルトが2年もの月日をかけて完成させたもので、楽譜には何カ所も書き直した跡がある。モーツァルトの自筆譜は美しく修正が少ないイメージがあるが、このハイドンセット6曲は、ベートーヴェンのような“生みの苦しみ”が見て取れる。彼自身、この力作に次の献辞を添えている「親愛なる友ハイドンへ捧げる〜わが6人(6曲)の息子、辛苦の結晶を最愛の友に委ねます」「(ハイドンの)庇護と指導のもとにあらんことを」。パトロンの貴族にではなく、敬愛する先輩作曲家に捧げた曲であり、そこから「本当はこういう曲を書きたかった」「ハイドンさんなら分かってくれるはず」という思いがにじんでいる。
ハイドンセットには当時の常識ではあり得ない“不協和音”を入れた作品があり、出版時に楽譜を手にした人から「間違いが多い」と破り捨てられたという話も伝わっている。1785年、モーツァルトはハイドンを自宅に招待し、自らヴィオラを弾いてこの曲を披露した。ハイドンは感銘を受け、同席したレオポルドに「神と私の名誉にかけて申し上げる。あなたのご子息は、私の知る、あるいは評判で知っている、全ての作曲家のうちで最も偉大な方です。彼は優れた趣味を持ち、さらには、最も優れた作曲の知識を持っています」と心から才能を讃えた。
だが、個性や芸術性を込めたモーツァルトの音楽は、人々から「難解」「とても疲れる」と思われ、かつては予約者でいっぱいだった演奏会が、一人しか予約者がいない日もあった。モーツァルトは“分かりにくい音楽は必要とされなない”という「時代の壁」にぶつかり苦しんだ。「今時は、何事につけても、本物は決して知られていないし、評価もされません。喝采を浴びるためには誰もが真似して歌えるような、分かりやすいものを書くしかないのです」(父への手紙)。モーツァルトは分かりやすい音楽と、自分が表現したい音楽との隔たりに悩みながら、ギリギリの妥協点を探して音楽性を高めていった。
貧困の理由としては、他にモーツァルト夫妻の浪費癖や、宮廷楽長アントニオ・サリエリらがモーツァルトの才能に脅威を感じて演奏会を妨害したため収入が激減したとする説もある。
 
1788年(32歳)の手紙には作曲家としての誇りが書かれている。「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だった頃から、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。ぼくが幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は他には一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです」。
1789年(33歳)、フランス革命が勃発。フランスでは市民が国が動かすようになった。2年後の最後のオペラ『魔笛』はウィーン市民でも分かるように通例のイタリア語ではなくドイツ語で書かれ、劇場も郊外の民間劇場だった。そこには“オペラを貴族のものから市民のものに”という思いがあったのかも。貴族の隣に市民が座ってオペラを楽しむなど、半世紀前には考えられなかった。
1791年7月(死の5カ月前)、過労から健康を損ねていたモーツァルトのもとを、灰色の服をまとった謎の男が訪れ、『レクイエム』(鎮魂ミサ曲)の作曲を依頼した(正体は音楽愛好家ワルゼック・シュトゥバッハ伯爵。亡き妻に捧げるために依頼)。モーツァルトは11月20日から2週間ベッドで寝込み、死の4時間前までペンを握り『レクイエム』の作曲を続けたが、第6曲「ラクリモサ(涙の日)」を8小節書いたところで力尽きた。12月5日午前0時55分永眠。享年35歳。臨終に立ち会った義理の妹ゾフィーいわく「最後には口で『レクイエム』のティンパニーの音を出そうとしていました。私の耳には今でもその音が聞こえます」。レクイエムは弟子のジュースマイヤーらによって完成された。臨終前に聖職者が来るのを拒んだことから、終油の儀は受けていない。
没後50年目の1841年、故郷ザルツブルグに国際モーツァルテウム財団が設立され、翌年のモーツァルト像の除幕式には、モーツァルトの息子2人が列席した。そして死から71年を経た1862年、オーストリアのモーツァルト研究家ルートウィヒ・フォン・ケッヘルが作品目録を作成し、全作品にケッヘル番号=通し番号をつけた(現在は1964年の第6版を使用)。
 
モーツァルト家は経済的に困窮し、墓すら建てる余裕がなく、その亡骸はウィーン市門外のサンクト・マルクス墓地に埋葬された。映画『アマデウス』にも彼の死体袋が貧民用の「第三等」共同墓地(ただの穴)に無造作に投げ込まれ、伝染病防止の為に石灰をかけられるシーンが出てくる。後日、共同墓地にはモーツァルトを顕彰した記念碑が建てられた。
死から10年後、埋葬地は別用途で使うために掘り起こされ、その際にかつてモーツァルトを埋葬し、どの身体がモーツァルトかを知っていた墓掘り人が頭蓋骨を保存した。それは様々な人の手を転々とした後、1902年に国際モーツァルテウム財団が保管することになる。2004年、頭蓋骨の真偽論争に決着を着ける為、ウィーン医科大学教授らの研究チームが、ザルツブルグに眠る伯母や姪の遺骨を掘り出し、DNA鑑定をすることになった。結果が生誕250年の2006年に発表され、残念ながら別人だったものの、新たな謎が生まれた。伯母と姪の遺骨同士は縁戚関係にないことが判明したのだ。頭蓋骨はまだモーツァルト本人の可能性が残っている。
没後100年にあたる1891年には、ベートーヴェンやシューベルトが眠るウィーン中央墓地にモーツァルトの記念碑が移動し、この際にサンクト・マルクス墓地側の埋葬候補地が分からなくなったという。現在、“この墓地のどこかにモーツァルトは眠っている”という認識の上で墓が建てられている。
 
「ウィーンはモーツァルトがサリエリに毒殺されたという噂でもちきりです」(ベートーヴェンの筆談メモ)。モーツァルトの死因については100説以上あり、真相は謎だ。宮廷音楽長のイタリア人作曲家アントニオ・サリエリが才能に嫉妬して毒を盛ったという噂をベートーヴェンが聞いている。有力な死因は幼少期の長い旅行生活で罹ったリウマチ熱だが、モーツァルト自身は死の5カ月前に“毒殺されかけている”と妻に訴えている。「私を嫉妬する敵がポーク・カツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」。没後39年、ロシアの作家プーシキンは戯曲『モーツァルトとサリエリ』を発表した。いずれにせよ、死者に捧げる『レクイエム』の作曲中に死んだことに何か運命的なものを感じる。
モーツァルト夫妻には子どもが6人生まれたが、4人が早世。成人できた2人は生涯独身で子どもがいなかったため直系の子孫はいない。
「死は厳密に言えば、僕らの人生の真の最終目標ですから、数年来、僕は人間のこの真実の最上の友と非常に親しくなっています。その結果、死の姿は僕にとって、もはや恐ろしくないばかりか、大いに心を慰めてもくれます」(病床の父に送った手紙)
 
モーツァルトの人生は35年10ヶ月と9日だが、そのうち10年2ヶ月と8日は旅をしていた(約3700日)。その距離、実に2万キロ。これは地球半周に匹敵する。6歳から19歳まで、父レオポルドは毎年のようにモーツァルトをヨーロッパ各地に連れ出し、多種多様な音楽に触れさせた。その結果、優美で繊細、かつ深みのある作風になった。モーツァルトは美しいメロディーラインを重視するイタリア気質と、厳格な構成と対位法を重んじるドイツ気質の両方を持つようになり、シンプルな均整美を持つ従来の古典派音楽を土台にしつつ、次世代の劇的なロマン派の要素も先取りしていた。フランス革命もあり、晩年の客層は貴族から市民に変わり始めていた。死の直前に完成した『魔笛』は大衆性と芸術性が見事に融合されており、興行的にも大成功した。妻への手紙「たった今オペラから戻ったところ。いつものように超満員だった。僕が一番嬉しかったのは静かな賛同だ!このオペラの評価が日ごとに高まっているのがよく分かる」。モーツァルトが長生きしていたら、どんな作品を書いていただろう。それを聞けなかったのは本当に残念だし人類の損失だ。
モーツァルトの曲は大半が宮廷用、もしくは貴族のお抱えオーケストラ用であったため、単純に聴いてて楽しい曲が多い。だが、そこには「幸せ」と「悲しみ」が同時に存在している。注文に従って明るい曲を書き続けていたが、実生活は就職口を求めて何年も続いた過酷な旅、身分差別の屈辱、旅先での母の死、子ども4人に先立たれる悲劇、膨大な借金…。
僕は悩み多き20歳頃、重厚なベートーヴェンに比べて、軽快な曲の多いモーツァルトに反発していた。でもその後、人生が辛いときに暗い曲を書くのは簡単だ、人生が苦しいのに明るい曲を書き続けたのはスゴイと思うようになった。モーツァルトはいかなる場合でも歌うことを忘れない。辛いときこそ笑顔。だからこそクラシック・ファンは彼の“陽気な曲”をこよなく愛し、今日もCDの電源を入れる。
 
 ※モーツァルトの基本タイムスケジュール→6時起床/7時作曲/9時ピアノレッスン(指導)/18時演奏会・遊び/22時作曲/25時半就寝。睡眠時間は4時間半。
※完成させた最後の曲は小カンタータ『我々の喜びを高らかに告げよ』。歌詞は「♪高らかに僕らの喜びを告げよ/音楽の楽しい響きを拡げよ/兄弟1人1人の心よ/その壁のこだまを受け取れよ」。この曲についてモーツァルトは「これまでだって良いものを書いてきた。だが、これ以上うまく書けたことはない。今夜のカンタータこそ僕の最高傑作だ」と語っている。
※作品数は少ないけど短調の暗い曲もある。それらはどれも陰影に富み、深く胸に響く名曲揃い。哀愁を帯びた旋律が聴く者の胸に迫る。
※モーツァルトは交響曲第41番『ジュピター』を作曲した後、まだ3年間生きていたのに、新しい交響曲を書かなかった。ジュピターの終楽章には、なんと彼が8つの時に作った交響曲第1番と同じメロディーが登場する。これはモーツァルト自身が、「シンフォニーではやりたい事を全てやった」と満足していたのかも知れない。
※絶対王政のこの時代、音楽家の地位は非常に低く、モーツァルトも宮廷では召使い同然の扱いしか受けなかった。彼は風刺オペラ「フィガロの結婚」でバカ貴族を笑い者にしたが、台本を書いた元神父ロレンツォ・ダ・ポンテは国外追放、モーツァルトも一時期宮廷の仕事を干されてしまう。
※手紙は5ヶ国語を使い分けて書かれている。
※ウィキには「検死によると身長は163cm」とあるけど、僕が昔読んだ新聞記事には148cmとあった。
※ビリヤードが大好きで、自宅にビリヤード台を置き、その上で作曲したこともある。
※オペラの作曲に関して、モーツァルトの天才ぶりが分かるエピソードが残っている。締切り前夜にうっかり眠ってしまったモーツァルトは、当日の朝、妻のコンスタンツェに叫んだ。
「しまった!コンスタンツェ、眠ってしまった!」
「あなた、あと2時間しかないわよ」
「なんだ、2時間もあるのか」
そしてあっという間に書き上げてしまった。既に頭の中に完璧な譜面が出来上がっているので、後はそれを書き写すだけでよかったのだ。
※1787年4月、31歳のモーツァルトはウィーンの自邸を訪れた16歳のベートーヴェンと会っている。目の前でベートーヴェンのピアノ演奏を聴き、この青年の将来の成功を確信したという。
※文献によってはモーツァルトが英国訪問時にバッハと会ったと書かれているけど、モーツァルトはバッハの死後6年後に生れているので、彼が会ったのはバッハの息子クリスチアン。
※日本でモーツァルト協会が設立されたのは1955年。
※1920年、リヒャルト・シュトラウスらの呼びかけでザルツブルク音楽祭が企画され、今でも毎年夏に開催されている。
※「旅をしない人はまったく哀れな人間です。凡庸な才能の人間は、旅をしようとしまいと凡庸なままです。でも、優れた才能の人はいつも同じ場所にいればダメになります」(1778/モーツァルト、父への手紙)
 
「私はモーツァルトの曲に触れて、神を信じるようになった」(ゲオルグ・ショルティ)指揮者
「モーツァルトの音楽は、あたかも天国の記憶のようだ」(小林秀雄)文芸評論家
「モーツァルトの悲しさは疾走する。涙は追いつけない」(小林秀雄)
「その音楽は宇宙にずっと昔から存在していて、彼の手で発見されるのを待っていたかのように純粋だ」(アインシュタイン)
「死とはモーツァルトが聴けなくなることだ」(アインシュタイン)
「人生の生き甲斐とはジュピターの第2楽章だ」(ウディ・アレン)
「(もし有力者が彼の才能を理解できるのなら)多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」(ハイドン)※モーツァルトより24歳年上。

●なんとモーツァルトの生誕250周年を祝って、故郷オーストリア・ザルツブルクの国際モーツァルテウム財団全楽譜を無料で公開した。もちろん印刷も自由!作品番号で検索可能なので、有名な交響曲第40番(作品番号K.550)ならKVの後に「550」と入力するだけで楽譜が出てくる。5歳で書いた最初の曲“アンダンテ・ハ長調”なら「1a」でOK。ウィキペディアの「楽曲一覧」がジャンル別に整理されて作品番号も載っているので、これと併せて検索をかけるのがグッド。それにしても、700曲以上もあるモーツァルトの曲を全部アップするなんて、どんなに膨大な作業時間を要したのだろう!



★チャイコフスキー/Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840.4.25-1893.10.25 (ロシア、ペテルブルグ 53歳)1987&05&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation
本名:Pyotr Tchaikovski

著名人が多く眠るアレクサンドル・ネフスキー修道院 修道院のチフヴィン墓地の前で画家が絵を売っていた



2005年。この時は赤い花が多かった 4年後。写真では分り難いけど、紫の花が多くなってた(2009) 2体の天使が寄り添う


天使の左腕に献花してあった
(2005)
胸像付きの墓は、光が差すとグッとドラマチックになる。この写真を
撮る為に1時間近く太陽が出るのを待った。待って大正解!(2009)

19世紀ロシアを代表する作曲家。叙情と哀愁の作曲家チャイコフスキーは、1840年5月7日、モスクワから1000km東に位置するウラル地方ボトキンスクに生まれた。父は鉱山技師。母は14歳のときにコレラで没した。青年期は父の望みでサンクトペテルブルクの法律学校に進んだ。19歳で法務省に入ったが、以前から音楽が大好きで、特にモーツァルトの歌心とグリンカの民族性に心酔していたことから、1861年(21歳)に知人の紹介でロシア音楽協会の音楽教室(後のペテルブルク音楽院)に入学、リストと並び称される大ピアニストのアントン・ルビンシテインに師事した。本格的に音楽を学んだチャイコフスキーは23歳で法務省を辞職し、音楽一本に専念していく(大作曲家の中では音楽家としてのスタートは遅い)。

1866年(26歳)、師の弟で同じく作曲家兼ピアニストのニコライ・ルビンシテインが創設したモスクワ音楽院に招かれ、和声の教授に就任。チャイコフスキーは教壇に立ちながら作曲を続け、同年、『交響曲第1番“冬の日の幻想”』を作曲。以降11年間の教職時代に作曲家としての名声が決定づけられていく。1868年(28歳)、音楽院で知り合った劇作家の台本を使いオペラ第1作『地方長官』を作曲。この年、ロシア音楽に根ざした国民楽派の“ロシア5人組”、モデスト・ムソルグスキー(1839-1881)、アレクサンドル・ボロディン(1833-1887)、ミリイ・バラキレフ(1837-1910)、ツェーザリ・キュイ(1835-1918)、ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844-1908)と知り合い、チャイコフスキー(西欧派)の楽曲にもロシア風の曲調が増えるなど大いに刺激を受けた。同年オペラ歌手デジレ・アルトーと恋に落ちるが翌年破局。
1869年(29歳)、シェイクスピアに題材をとった幻想序曲『ロメオとジュリエット』を書き、ドラマチックな戯曲世界と登場人物を見事に音楽で表現する。1871年(31歳)、人気の“アンダンテ・カンタービレ”を含む『弦楽四重奏曲第1番』、1872年(32歳)『交響曲第2番“小ロシア”』を作曲。1875年(35歳)、代表作のひとつとなる『ピアノ協奏曲第1番』を書き上げ、ニコライ・ルビンシテインに献呈したが、ルビンシテインから「演奏不可能の難曲」と酷評された。チャイコフスキーは落胆し、改定してドイツの指揮者兼ピアニスト、ハンス・フォン・ビューローに献呈。ビューローは作品を気に入り、同年のアメリカ演奏旅行で初演し大成功させた。その後、ルビンシテインはチャイコフスキーに酷評を詫びている。

1876年(36歳)、鉄道王・富豪の未亡人メック夫人(45歳)との風変わりな交流が始まる。楽才に惚れた夫人は6000ルーブルの年金提供を申し出、14年後に夫人が経済的理由で援助を打ち切るまで続いた。両者は数千枚にのぼる文通だけの関係で、1度きりの偶然の出会いをのぞき、まったく顔を合わせることがなかった。このメック夫人の援助のお陰で教職を辞して作曲活動に集中でき、イタリアやフランスに滞在しながら傑作を書き続けた。
1877年(37歳)、バレエ音楽の最高峰『白鳥の湖』初演。シリアスな音楽が舞踊音楽のために書かれたのは、グルックのオペラ・バレエ以来、100数十年ぶりだった。『白鳥の湖』は現代では大人気の演目だが、ボリショイ劇場の初演は平凡な振り付け、ダンサーとオーケストラの練習不足もあって大不評で、お蔵入りになってしまう(他界2年後、初演から18年後に振付師のプティパが再演して大ヒット)。同年、交響曲第4番をメック夫人に捧げる。文豪トルストイ(当時49歳)との交流も始まった。
この頃、チャイコフスキーが同性愛者であることが噂になり、当時のロシアではタブーだったことから、噂を打ち消すべく、愛を告白されたモスクワ音楽院の学生アントニナ・ミリューコワと結婚した。だが、結婚生活は最初からつまづき、精神を病んだチャイコフスキーはモスクワ川で自殺を図り、医師の指導もあって早々に離婚、スイスで保養した。
1878年(38歳)、『バイオリン協奏曲』を作曲(この曲も当時の有名バイオリニストに「演奏不可能」と初演を断られている)。オペラ『エフゲニー・オネーギン』完成。1879年、ウクライナ・ブライロフで偶然メック夫人と遭遇する。
1880年(40歳)、敬愛するモーツァルトの「セレナード第13番(アイネ・クライネ・ナハトムジーク)」に着想を得た『弦楽セレナード』を作曲。同年、対ナポレオン戦争のロシア勝利を東方正教会の聖歌やロシア民謡を交えて描いた大序曲『1812年』が完成。翌年、ニコライ・ルビンシテインが他界し、一周忌に死を悼んで『ピアノ三重奏曲(偉大な芸術家の思い出)』を初演。1885年『マンフレッド交響曲』完成、モスクワ郊外に居を定める。

1888年(48歳)、壮大なフィナーレの『交響曲第5番』を作曲。翌年、バレエ音楽『眠れる森の美女』完成。手紙に交響曲第6番の構想を記す「私は創作の最後を飾るべき荘厳な交響曲を作曲しようと張り切っている」。1890年(50歳)、オペラの代表作『スペードの女王』を作曲。同年、メック夫人からの財政援助が打ち切られる(夫人がドビュッシーに夢中になった)。
1887年から1891年まで、欧州や米国の主要都市で自らの指揮による自作演奏会を催し大きな成功を収める。
1892年(52歳)、クリスマス・イブの物語、バレエ音楽『くるみ割り人形』を書き上げ、12月にサンクトペテルブルクで初演。以降、欧米ではクリスマス・シーズンの定番演目となっていく。

1893年、チャイコフスキー最後の年。2月、「新しい交響曲は標題音楽で、その標題は誰にも謎とされ、物議をかもすだろう。私は曲想を練りながらさ迷い、断腸の思いから何度も泣いた。今まで書いたどの作品よりもこれを愛している。自分の最後の交響曲がここに完成をみたこと、そして鎮魂曲にも似た気分にかられることは、私自身を少なからず当惑させる」。オリジナル楽譜の最初のページには「神よお助け下さい」、最後のページには「神よ、心から感謝します。私はついにこの曲を書き終えました」と記した。
5月、グリーグやサン=サーンスらと共にケンブリッジ大学音楽協会から名誉博士号を授与される。10月28日、サンクトペテルブルクで指揮台に立ち交響曲第6番の初演を果たす。終楽章は辞世の歌だった。聴衆の反応は冷ややかでチャイコフスキーを失望させたが、手紙にこう書いた。「この曲は不成功とは言わないまでも、聴衆にはいささか奇異な印象を与えたようだ。しかし私自身は、私のどの作品よりもこの曲に対して誇りを持っている」。
チャイコフスキーにとって、交響曲第6番は人生の全てを注ぎ込んだ告白であり、人生そのものだった。「この曲は私の全作品の中で最高のもの」と出来映えを確信していた。初演の2日後、交響曲第6番は弟によって『悲愴』と名づけられた。11月2日、芝居の観劇後にイタリアン・レストラン“ライナー”で会食した際、当時はコレラが流行していたのにボーイの反対を押し切ってネヴァ川の水をグラスで飲み干し、コレラに感染。下痢と嘔吐で苦しみ4日後、つまり『悲愴』初演からわずか9日後の11月6日に、コレラと併発した肺水腫で急死した。享年53歳。臨終の場には弟2人など16人が立ち会い、チャイコフスキーは死の直前に周囲の者を見渡したという。ロシア皇帝アレクサンドル3世は、サンクトペテルブルクのカザン大聖堂にてチャイコフスキーの国葬を執り行った。ネフスキー修道院のチフヴィン墓地に、チャイコフスキーの胸像に二人の天使が寄り添う墓が建立された。

ところで、公式記録の死因はコレラだが、当時から服毒自殺、自殺強要説が噂されてきた。通常、コレラ患者は厳しく隔離されるのに、16人も臨終に立ち会ったのはなぜか。遺体は葬儀の前に消毒されたというが、鉛の棺に密封されることもなく、遺体が2日間も市民に公開・安置され、多数の葬儀参列者が遺体に触れたり、キスまでしていたことの違和感。
1978年、ソ連の音楽学者アレクサンドラ・オルロヴァは次の説を発表し衝撃を与えた。チャイコフスキーは法律学校時代に同性愛に目覚めた。そしてある貴族(皇帝と縁続きの侯爵)の甥に宛てたチャイコフスキーの恋文から同性愛関係が発覚し、怒ったこの貴族から皇帝アレクサンドル3世に手紙で訴えられた。当時のロシアでは同性愛は重大な背徳行為。皇帝から問題の解決を任された検事総長はチャイコフスキーの法律学校時代の同窓生であり、同窓生グループは“秘密法廷”を開廷した。そして、国民的英雄チャイコフスキーの“不名誉”が公になることを恐れ、名誉を守るため砒素による服毒自殺を求めると決定した。チャイコフスキーは説得され、青ざめながらこれに同意。11月5日に砒素が届き、翌6日、毒をあおいで4時間後に死亡した。この説は世界でセンセーションを巻き起こし母国では非難され、オルロヴァ女史は米国に亡命する。
一方、自殺説に対して1988年に研究家アレクサンドル・ポズナンスキーが反論。死亡時のカルテなどを調査した結果、砒素ではなくコレラが死因と結論づけた。だがどの推論も決定的でなく、英語版のウィキペディアでは「死因は不明」となっている。

チャイコフスキーの楽曲は抒情的でメランコリーな旋律や民謡風の舞曲が、色彩豊かなオーケストレーションで展開し、聴く者を深く魅了する。3大バレエ音楽の『白鳥の湖』『くるみ割り人形』『眠りの森の美女』はチャイコフスキーにとっての3大ではなく、全バレエ音楽を対象にした“3大”だ。


【墓巡礼】
1987年に初巡礼。

※1958年から4年おきにチャイコフスキー国際コンクールがモスクワで開かれている。ショパンコンクール(ポーランド)、エリザベート王妃国際音楽コンクール(ベルギー)と並ぶ世界3大コンクールのひとつ。
※コレラの潜伏期間は2時間から5日。治療しなければ数時間で死に至ることもある。
※ドイツの医学実験では、うつ病患者が悲愴交響曲を聴くと症状が悪化したとのこと。
※『白鳥の湖』の日本初演は1946年、帝国劇場の東京バレエ団公演。
※チャイコフスキーのワーグナー評「彼の様式は原則的に私の心を動かしませんし、人間としても嫌悪を抱かせます。しかし、彼の並外れた音楽的才能は認めざるを得ません。彼の才能は『ローエングリン』において最も如実に示されております。このオペラは彼の創作の金字塔であり続けるでしょう。ただ、これ以後、彼の才能は下降し始め、この男の悪魔的高慢がその足下を掘り崩してしまったのです」

●墓所はペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー修道院のチフヴィン墓地。最寄り駅は地下鉄プローシャチ・アリェクサンドラ・ネフスカヴァ駅。
チャイコフスキーの隣にボロディン、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ、グリンカが眠る。




★マーラー/Gustav Mahler 1860.7.7-1911.5.18 (オーストリア、ウィーン郊外 50歳)1994&2005&15
Grinzinger Friedhof, Vienna, Wien, Austria

ヒュー・グラントのようなカッコよさ。気品のある優男って感じ 生前は指揮者として有名だった 50歳で他界 運命の女性、アルマ

●アッター湖畔の作曲小屋(オーストリア)

ホテル・フェッティンガーで鍵を借りる 仕事小屋。ビーチパラソルと合わぬ 鍵にはト音記号の飾りが ここで交響曲第2番「復活」等が生まれた!







楽譜や手紙もあった(2015) 窓の外を見ると… 美しいアッター湖!最高の眺望 マーラーも息抜きで湖に入ったか


トラム38線で行く

なだらかな坂道の先に墓地がある

妻アルマはマーラーと並んで
おらず斜めに背中合わせ…




1994 2005 墓域全体がドッシリ安定している 2015 頭上の葉っぱが消えていた

  
「やがて私の時代が来る」(マーラー)。ユダヤ人として差別を受けていたマーラーは、生前に「私の墓を訪れる者は、
既に私が何者か知っている者だ」と述べ、墓は生没年も肩書きもない、名前オンリーのクールなものに(2015)

 
よく見ると墓石の側面にコインがビッシリと挟まっていた(2015)

「私は三重の意味で無国籍者だった。オーストリアではボヘミア生まれとして、ドイツではオーストリア人として、世界ではユダヤ人として。どこでも歓迎されたことはなかった」(マーラー)

後期ロマン派交響曲の頂点を極め、20世紀の作曲家に多大な影響を与えたオーストリアの作曲で指揮者のグスタフ・マーラーは、1860年7月7日、ボヘミアの小村カリシュト(現チェコのカリシュテ)に生まれた。14人兄弟の2番目。このうち9人が早逝しており、幼少期から死と葬送行進曲がマーラーの身近にあった。ユダヤ人の両親は居酒屋を営み、マーラーは幼い頃から酒場で農民の民謡や軍隊音楽など様々な歌に触れた。こうした音楽はマーラーの血肉となり、後の音楽に反映される。家の近くには兵舎があり戦争を象徴するラッパの響きも身近だった。最初の作曲は6歳の時に書いたポルカ(ボヘミアの舞曲)。

ユダヤ人ながらカトリック教会の合唱団員だった少年マーラーは、父に楽才を見出され15歳のときにウィーン音楽院(現ウィーン国立音大)に進学する。同年、仲が良かった盲目の弟エルンストが病死。1876年(16歳)、マーラーの現存する唯一の室内楽となるピアノ四重奏曲を作曲した。この年、ウィーン音楽院でピアノ曲の作曲部門と演奏部門の一等賞に輝く。
1877年(17歳)、ブルックナー(当時53歳)の和声学の講義を受けたことをきっかけに、年齢差を越えた親交が始まる。この年マーラーはブルックナーの交響曲第3番の初演を聴き、深く感動したことをブルックナーに伝えた。演奏会自体は不評だったことから、ブルックナーはマーラーの賛辞を大いに喜び、同曲のピアノ編曲を36歳も年下の彼に依頼し、これは後に出版された。

音楽院を卒業後、1880年(20歳)に温泉保養地バート・ハルの小劇場で夏のオペレッタ指揮者となる。だが、マーラーはかねてからワーグナーに心酔しており、指揮者よりも作曲家を目指していた。そこで自ら作詞も手がけた最初の自信作、カンタータ『嘆きの歌』を完成させ、ウィーン楽友協会の作曲コンクール「ベートーヴェン賞」に出品した。結果、独創性が評価されずに落選したことから、作曲よりも指揮をして身を立てることにする。マーラーいわく「賞金を獲得していたら指揮者にならずに済んだ」。
1883年9月(23歳)、カッセル王立劇場の楽長に就任。翌年、音楽祭でベートーヴェンの『第9交響曲』を指揮し好評を得る。この当時、指揮者は“作曲家が生きていたらこうするはず”と、作曲家の意図を汲みつつ、楽器の進化や演奏技術の進歩による修正を加えて演奏することが高評価の条件だった。マーラーの作曲に対する情熱は消えておらず、24歳から交響曲第1番の作曲に取り掛かる。

1885年(25歳)、青眼のソプラノ歌手に失恋したマーラーは、かなわぬ恋をうたった自作詩による歌曲集『さすらう若人の歌』を完成。26歳、ライプツィヒ歌劇場の楽長となる。1888年(28歳)に民謡詩集にもとづく歌曲集『子どもの不思議な角笛』を書きあげた。さらにこの年、『さすらう若人の歌』の旋律を取り入れた『交響曲第1番・巨人』の初稿を4年がかりで完成させている。この作品は夜明けの森を出発した英雄の旅と成長を描いた。
秋にブダペスト王立歌劇場の芸術監督に就任。翌年、『巨人』を初演するが、第1楽章だけでモーツァルトの交響曲1曲分の長さがあったことに聴衆は困惑、演奏面では楽団員に難し過ぎ、批評家にも不評で大失敗となる。マーラー「初演の数日後、歩いていると皆が私を変人と思って避けた」。この年、父と母を立て続けに亡くす。一方、マーラーの指揮者としての名声はどんどん高まり、1890年(30歳)、ブダペストで上演された『ドン・ジョヴァンニ』を聴いたブラームス(当時57歳)は、「本物のドン・ジョヴァンニを聴くにはブダペストに行かねばならない」と語った。31歳、ハンブルク歌劇場の楽長となる。

1894年(34歳)、夏の休暇を使って6年前から書き続けていた『交響曲第2番・復活』を完成。この作品はマーラーがオーストリアのアッター湖畔の小村シュタインバッハに建てた最初の作曲小屋で完成した。同地にはマーラーが“交響的宇宙”と読んだ厳かな静けさがあり、大自然が形作る宇宙を『復活』に凝縮させた。『復活』の冒頭は『巨人』の英雄の葬礼から始まり、終楽章のクライマックスにマーラーは次の言葉を原詩に付け加えた「再び生きるために死ぬのだ」。
※マーラーは交響曲第2番の終楽章に適した歌詞を苦心して探し続けた。聖書を全巻読んでも見つけることが出来なかったが、ハンブルグで名指揮者ハンス・フォン・ビューローの葬儀に参列した際に、ドイツの詩人クロプシュトックの『復活』賛歌を聞き、第2番の歌詞に使うことを決心、詩にインスピレーションを受けて壮大な最終楽章を完成させた。葬儀での出来事をマーラーは友人に語る。「(クロプシュトックの詩が)あたかも稲妻のように私の身体を貫き、曲の全体の形が私の前に、はっきりと明らかな姿で現れました。創作する者はかくのごとき『稲妻』を待つこと。まさしく『聖なる受胎』を待つことなのです」。

翌年、マーラーが音楽の才能を認めて応援していた弟オットーが21歳の若さでピストル自殺しショックを受ける。36歳、作曲小屋で8年の歳月を費やして『交響曲第3番』を書きあげた。この作品は演奏に約100分を要し、自作で最も長いものとなった。マーラーは第1楽章にアッター湖畔の景色を全て描き出したという。
1897年(37歳)、欧州主要都市の歌劇場で演奏会のたびに評価を高めていったマーラーは、指揮者として最高との名誉となるウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)の芸術監督となった。マーラーは数年前から経済的理由によりこの名門宮廷歌劇場に職を求めていたが、ユダヤ人であることが障害になっていた。マーラーは職を得るためにユダヤ教から国教(キリスト教)に改宗した。洗礼を受け教会から出たマーラーは知人の批評家に会いこう言った「なに、上着を換えただけさ(中身は同じ)」。マーラーは特定の宗教を信じず、宇宙の創造主たる神のみを信じていた。

マーラーが着任した世紀末ウィーンは才能ある芸術家であふれ、保守的なウィーン芸術家組合から画家クリムトに率いられた実験的な芸術家集団が離脱し“分離派”が生まれたばかりだった。マーラーは分離派のロラーに宮廷歌劇場の舞台装置を依頼しこれを刷新。そして、当時劇場から雇われた人間が客席で“さくら”となってヤラセの拍手やブラヴォーをしていたのを“悪習”として廃した。また、長時間のワーグナー作品はカットされることが多かったため、ノーカットで上演するため尽力した。これらマーラーの改革姿勢は、シェーンベルクら前衛音楽家たちを勇気づけた。
翌1898年(38歳)にはウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。その後、退任までの10年間にウィーンを世界屈指のオペラの中心地に育て上げた。
※ワーグナーは反ユダヤ主義の作曲家だが、マーラーはユダヤ人でありながらワーグナー作品を愛聴していた。ユダヤ人の知人が「ワーグナーなんか聴いてたまるか」と吐き捨てた時、マーラーはこう言った「でも牛肉を食べても、人は牛にはならないでしょう?」。

1900年(40歳)、南オーストリア・ヴェルター湖岸マイアーニックに建てた2番目の作曲小屋で『交響曲第4番』を完成。小屋にはピアノ一台とバッハの楽譜、そしてゲーテやカントの全集があった。創作中は毎朝6時に小屋に“出勤”し、マーラーが人を避けたためメイドはマーラーと異なる小道を歩いて食事を運んだ。
※「マーラーの音楽はどの交響曲のどの一瞬たりとも邪魔が入っては書けない。例えば“食事ですよ!”という一言で霊感は去ってしまう」(ケン・ラッセル)
※「マーラーの第4番は天上の愛を夢見る牧歌である」(ブルーノ・ワルター)

1901年(41歳)、マーラーが指揮したオペラは毎日新聞で取り上げられ、ウィーンで皇帝に次ぐ有名人となった。だが、マーラーがプログラムに若い30代のリヒャルト・シュトラウスの作品や自分自身の作品を組み込んだり、ベートーヴェンやシューマンの交響曲を編曲して演奏したことから、ウィーンの保守的な批評家・聴衆から「ユダヤの猿」「音楽の狂人」など猛烈なバッシングを受け、マーラーは3年間務めたウィーン・フィルの指揮者を4月に辞任した(ウィーン宮廷歌劇場の職は継続)。マーラーの自作交響曲は世間では不評だったが、作曲活動は充実しており最盛期に入っていた。そして新たに交響曲第5番に着手した。

11月、マーラーは知人の解剖学者のサロンで“ウィーンいちの美貌”と芸術家たちの注目の的だった22歳の女性作曲家アルマ・シントラー(1879?1964)と出会う。実父は著名な風景画家で、彼女はピアノも上手かった。10代の頃から社交界の花形で、いつも男たちに囲まれていた。クリムト(当時35歳)は17歳のアルマに夢中になり、アルマ一家の引っ越し先や保養先イタリアにまで現れた。クリムトはアルマのファーストキスを奪うことは出来たが、アルマの父親がこれ以上の2人の接近を許さなかった。当時のクリムトは三つ叉をかけており、うち2人の女性が妊娠していたからだ。彼女の音楽の師である新進作曲家ツェムリンスキーもこの美しい弟子に魅了された。アルマはツェムリンスキーの指導で歌曲を作曲している。マーラーもすぐに「知的で面白い」と彼女の虜になったが、自身の外見は美男とは言い難く、身長もアルマより低かった。何より19歳も年上だった。だが、アルマには天才を見抜く本能があり、“マーラーこそウィーン最高の音楽家”と確信し、批評家からの悪評も知った上で求愛を受け入れた。

交際が始まると、マーラーは熱烈なラブレターを書き綴った。「次にお会いできる日をまるで少年のように指折り数えています」(11月28日)、「私に手紙を書くときは、隣りに私が座っていて、あなたがお喋りするのだと思って気楽に書いて下さい。あなたがどのように過ごしているのか、一つ一つを常に知りたいのです。(略)万歳!たった今、待ちわびていたあなたの手紙が届きました!続きを書く前に先に読もう。力が湧いてきたぞ!これほどあなたの言葉を求めていたのです!(略)どんなに騒音だらけで自分の声すら聞こえなくとも、ただひとつ、決して消えることのない、心の中の声だけは聞こえる…ただ一言の声だけが…愛している、アルマ!」(12月9日)、「心から愛する少女よ!私は自分が愛するのと同じだけ愛されるという幸福に、人生で出会えようとは夢想だにしなかった」(12月15日)、「今日僕は門番をとても困らせ、何度も邪魔をしてしまった。あなたからの手紙が届くに違いないと思って、朝から夕方までずっと期待していたのです。(略)人間というものは、離れて一週間で手紙なしではもはや一日も耐えられない状態になりうるのです」(12月16日)、「リヒャルト・シュトラウスの時代は終わり、やがて私の時代が来る。それまで私が君のそばで生きていられたらよいが!だが君は、私の光よ!君はきっと生きてその日にめぐりあえるでしょう!」(翌年2月)。

1902年(42歳)3月9日、マーラーとアルマは出会いから4カ月で結婚した。そしてマイアーニックの作曲小屋では『交響曲第5番』が完成する。美しく深い精神性をたたえた第4楽章のアダージェットはアルマへの恋文として書かれ、楽譜の表紙には「私の愛しいアルムシ(アルマの愛称)、私の勇気ある、そして忠実なる伴侶に」と記された。11月には長女マリア・アンナも生まれてマーラーは幸福の絶頂にあった。だが、不安症のマーラーはあまりに幸せなためにその幸福を失う恐怖におびえた。第5番も、そして続く第6番、第7番も冒頭は葬送行進曲で始まった。同年、ドイツの初期ロマン派詩人リュッケルトの詩による『亡き子をしのぶ歌』を作曲。内容は愛児を亡くした父親の悲嘆をうたったものであり、アルマは「子どもを前に不吉だ」と作曲に反対した。だが、マーラーは原詩に描かれた愛児への情に強く胸を打たれ作曲に踏み切った。

『亡き子をしのぶ歌』
※作者の詩人リュッケルトは半月の間に2人の子に先立たれている

今、朝日が昇ろうとしている
まるで昨夜の不幸など何もなかったかのように
その不幸は私だけに起こったことで
太陽の光は普段と変わりがない
わが家の小さな可愛らしい明かりが消えただけだ

お前のあの暗い眼差しは
今にして思い当たるが
そのときは運命の霧に閉ざされて見えなかった
それはもうじきあの世に行くのだから
今のうちにもっと見ておいてと言うようだったね

お母さんがドアを開けて入ってくるとき
私はいつも一緒について入ってくるお前を振り向いていた
今でもお母さんがロウソクの明かりで入ってくるとき
後ろにお前の姿が見える

しばしば、私は考える、あの子らはちょっとそこまで遊びに行っているだけだと
間もなく家に帰ってくるだろう
天気も良いし何も気にすることはない
子どもらはただ散歩に行っているにすぎないのだから

子どもらは私たちより先に散歩に行っているだけ
私たちは子どもらに追いつく、あの太陽の輝く高みの上で
あの高みの上では、一日がうるわしいのだ

こんな天気でも
こんな嵐でも
あの子らは嵐に脅えることなく
天国で神の御手(みて)に包まれて
安らかに
安らかに
眠っているのだ
母の膝元で眠るように

1903年(43歳)、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から第三等鉄十字勲章を授与される。次女アンナ・ユスティーネが誕生。
1904年(44歳)、10月にドイツ・ケルンでマーラー自身の指揮により交響曲第5番が初演されたが、聴衆の反応は否定的でマーラーを失望させた。アルマへの手紙「私の死後50年経ってから、私の交響曲を初演できればよいのに!今からライン河のほとりを散歩してくる。この河だけが、初演の後も私を怪物呼ばわりすることもなく、悠然とわが道を進んで行くただ一人のケルンの男だ!」。
同年、ウィーンにシェーンベルクとツェムリンスキーが設立した「創造的音楽家協会」の名誉会長に就任。マイアーニックの作曲小屋では、未来に対する悲しい予感、運命への切迫感を叩きつけた『交響曲第6番・悲劇的』を書き上げた。終楽章では運命を表すハンマーの一撃が聴く者を襲った。翌年『交響曲第7番』を完成。
※作曲家コリン・マシューズ「第6番は長い間僕にとって聴きたくない音楽でした。強烈すぎて、生で聴こうものなら心臓麻痺を起こしそうで…終楽章は特に圧倒的です。僕はこの曲をもう20年も聴いていません。ただ思い浮かべるだけで十分なのです」

1907年(47歳)、『交響曲第8番・千人の交響曲』を完成。この曲の完成はマーラーに大きな自信を与えた。弟子メンゲルベルクへの手紙に喜びを綴っている「これは私のこれまでのどの作品にも勝り、内容においても形式においても比類のないものです。ここでは宇宙全体が歌い奏でるのです。それは人間の声ではなくて、惑星と太陽の音楽なのです」。別の友人には「今までの私のすべての交響曲は、この交響曲に対する序曲に過ぎなかった。今までの作品はいずれも自分の主観的な悲劇に帰結したけれども、この曲は偉大な歓喜を与えるものだ」と書き送っている。
だが、この直後に長女マリア・アンナが感染症(ジフテリア)のため5歳で他界してしまう。『亡き子をしのぶ歌』初演の2年後だった。打ちのめされたマーラーは葬儀の手配など何もかもを妻に任せて、自分を慰めるために1人で山に出かけた。「『亡き子をしのぶ歌』は、私の子供が死んだと想定して書いたのだ。もし私が本当に私の娘を失ったあとであったなら、私はこれらの歌を書けたはずがない」。

不幸は続く。娘の死後、マーラーは心臓病と診断された。これまで戯画で風刺されるほど大きな身振りでタクトを振っていた指揮スタイルは、「ほとんど不気味で静かな絵画のようだった」(ワルター)と語られるように変化してゆく。
指揮者として国際的名声を手に入れたマーラーだったが、欧州に反ユダヤ主義が広まり、差別的な音楽評論家たちの不当な攻撃が激化していった。新聞は反ユダヤ運動を展開し、マーラーを「自作の宣伝に明け暮れている」と中傷した。そしてユダヤ人排斥の嵐の中でウィーン国立歌劇場監督を辞任する。背景には作曲に専念したい気持ちもあったし、歌手までも差別的態度をとることに嫌気がさしたのもあった。また、マーラーの頑固な性格による厳しすぎるリハーサルなど、高圧的な指導に対する楽団員の反発もあった。
最愛の娘を失い、天職の職場を追われ、心臓を病んで医者から好きな山歩きを控えろと言われ、マーラーは悲しみの奥底に落ち込んでいった。
そんな折り、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場から“招きたい”と連絡があった。マーラーは自分が病に倒れた後、家族のためにお金が必要と思い、アメリカへ渡る決心をする。12月の朝、マーラーとアルマがウィーンの駅に姿を見せると、ウィーン中の文化人が見送りに集まっていた。心ある知識人はマーラーの不在を「文化の悲劇」と呼んだ。汽車が出発するとクリムトは一言呟いた「去ったのだ」。クリムトはマーラーに象徴される芸術文化を革新するエネルギーが、ウィーンから別の世界に去ったと理解した。

翌年、米国での新生活は早くもトラブルに見舞われた。メトロポリタン歌劇場の支配人が新しくなり、イタリアから気鋭の指揮者トスカニーニを呼んだのだ。マーラーは「指揮者は1人で十分」と憤慨して劇場を去った。一時欧州に戻って李白など中国の詩をドイツ語訳した歌詞に曲を付けた6楽章の交響曲を完成。ベートーヴェンもシューベルトもブルックナーも第9番の後に没しているため、マーラーは不吉な“9番”を避け、この声楽付きの交響曲を『大地の歌』と名付けた。別れの歌ではあるが、失意のうちに終わるのではなく、回帰する世界と一体となり輝がしく消えていく仏教的世界観を描いた。
「飲めるときに存分に飲むことは、この世のどんな財産よりも尊いのだ。生は暗く、死も暗い。青空と大地は永久にゆるぎなく在り続ける。だが100年と生きられない人生は、やがて墓場で月の光を浴びるだろう。いざ盃を取れ、今こそ飲むときだ。生は暗く、死も暗い。」(『大地の歌』第1曲)
「わが心は疲れ、明かりは消えた。嗚呼、休息が欲しい。いかにこの孤独に泣いたことか。わが心の秋は長すぎる。愛の太陽はこの苦しい涙を乾かすべくもう一度照ってはくれないのか?」(第2曲)
「人生が一幕の夢に過ぎぬのなら、好んで苦労をする必要はない。飲めるだけ飲もう。春がなんだ!それよりもほろ酔い気分こそ楽しい」(第5曲)
「太陽は山に暮れ、谷には夕闇が迫る。月が東の空に昇り、そよ風が爽やかだ。世界は休息に入る。私は友の来訪を待ちわびた。やって来た彼は馬から降りて別れの盃を差し出す。友は浮世に見切りを付けて山に入るのだと言う。/私の心は安らぎて、その時を待ち受ける。愛しき大地に春が来て、また新しく緑と花が満ちる。永遠に…永遠に…」(第6曲)

1909年(49歳)、経済的理由から再度渡米し、ニューヨーク・フィルの指揮者に就任する。初めてオペラと無縁の仕事だった。同年、夏の休暇はオーストリア・トーブラッハ(現イタリア領)に建てた3番目の作曲小屋にこもり、2ヶ月で『交響曲第9番』を完成させた。もはやジンクスに抗わず「第9番」をつけたこの曲では、生の渇望と死への期待が同時に描かれた。マーラーは自身の健康が急激に衰えていくのを感じ、死を予感し、死に憧れ、ついには死を賛美するようになった。終楽章の最後の小節にはマーラー自身が「ersterbend(死に絶えるように)」と書き込んでいる。
第9番には『亡き子をしのぶ歌』から“今日はよく晴れて(お墓のある)あそこの丘も輝いている”という歌詞の旋律が引用されている。交響曲の最後で日に照らされた亡き子の墓を描いていることから、2年前に失った娘へのレクイエムともいえる。
この年、パリでロダンの彫刻のモデルになり、秋にアメリカへ。
※トマス・ハンプソン(バリトン歌手)「交響曲第9番は、人間の限られた時間の消滅を最も見事に表現した作品。終楽章では人生の時を刻むような一定のリズムから解き放たれ、大気の一部となるのです。リズムが刻まれることで我々は自分をつなぎとめ均衡を保つことができます。終楽章では我々は均衡を失い、別の世界へと浮遊していくのです。人間とは何か、生とは何かという思いに打たれます」。
※ワルター「第9番は死を予感する者の悲劇的で絶望的な別れの曲だ」。
※シェーンベルク「マーラーの交響曲『第9番』はひとつの限界であるように思われます。そこを越えようとする者は、死ぬ他はないのです」。

1910年4月、アルマは献身ばかり求めるマーラーとの生活上のストレスからアルコール依存症になった。6月、療養所に入って治療しているうちに、27歳の若い建築家ヴァルター・グロピウス(1883-1969)と恋に落ちる。グロピウスは後に工芸学校「バウハウス」を創立し、近代建築の四大巨匠(グロピウス、ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ)に名を連ねる人物。この不倫はグロピウスが間違ってマーラー宛に恋文を出したことで発覚した。アルマは謝らず、逆に8年間の抑圧の日々がいかに辛かったかを訴え、グロピウスと密会を続けた。マーラーは自らの非を認め、妻を失う不安にかられて神経症になり、8月に精神分析医フロイトの診察を受けた。フロイトからは「強迫観念を捨てよ」とアドバイスされた。マーラーはアルマに作曲活動を禁じていたことを反省し、関心を取り戻すために彼女が作曲した歌曲を出版社に持ち込んだ。9月、ミュンヘンにて自らの指揮で交響曲第8番を初演し、生涯最高の大成功を収める。
※公演先のミュンヘンから書いたアルマへの切羽詰まった手紙が残っている。「わが愛する、気の狂うほど愛するアルムシ!信じて欲しい、僕は恋わずらいなんだ!嗚呼、ありがたい、たった今君の手紙を2通受け取った!これで息が出来る。30分ほど至福に包まれていた。だが今はもう耐えられない。一週間も君がいなかったら僕は死んでしまう」。

1911年2月、アメリカで倒れたマーラーは感染性心内膜炎と診断された。アルマに「(ウィーンに)帰郷したい」と頼み、病をおしてウィーンに戻る。死の床では「私がいなくなった後、誰がシェーンベルクのために力を貸してくれるだろう」と後輩作曲家を心配した。5月18日、敗血症で他界。享年50歳。最期の言葉は「モーツァルトル!」(=モーツァルトの愛称形)だった。
前年から取り組んでいた交響曲第10番は、第2楽章まで完成し未完となった。作曲中にアルマの不倫騒動が起きたこともあり、第10番は胸を裂くような不協和音が長く奏でられる。楽譜には終楽章の末尾に「お前のために生き、お前のために死ぬ!」「アルムシ!(アルマの愛称)」というマーラーの叫びにも似た書き込みがある。マーラーが世を去った後、世界からロマン派の残光が消えていった。
マーラーの亡骸は長女が眠るウィーンのグリンツィング墓地に埋葬された。マーラーは生前に自身の墓について語っていた。「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」。さんざんユダヤの猿だの狂人だのと叩かれてきたマーラーであり、自分の音楽の理解者しか墓を訪れないと考えていた。この言葉を尊重し、墓石には生没年も肩書きもなく「GUSTAV MAHLER」という名前だけが刻まれている。
※「マーラーは自分を貫きました。時流に迎合せず、自分の魂の声に従って作曲しました。その途中で音楽ごと消えたのです」(作家エドワード・セカソン)

音楽史において交響曲はベートーヴェンで人間表現の頂点に達し、シューベルト、シューマンと下降線をたどり、ワーグナーは「この世には既にあの9つの交響曲があるのに、このうえ交響曲を作る意味があるのか」と交響曲のペンを置き、一世代後のブルックナー、そして「ベートーヴェンのまねになってしまうのではないか…」と悩み続け交響曲第1番の完成が40代になったブラームス(ベートーヴェン他界6年後に出生)の作品によって、交響曲という分野における人類の開拓の歩みはいったん終わったかに見えた。だがブラームス誕生の約30年後に生まれたマーラーがベートーヴェンと同じ9曲の傑作交響曲(10番は未完)を生み出し新たな扉を開いた。マーラーの声楽的な交響曲は大半が1時間を超える大曲であるにもかかわらず、緻密で多彩な管弦楽法が駆使された驚異的な作品だ。マーラーは民族的な旋律をベースに独自の作風を築き、目を見張る大規模編成、ベートーヴェン第九以来となる声楽の導入、厭世的な人生観の音楽的告白などで、その名を不動のものとした。また、マンドリンやカウベル(牛の鈴)、チェレスタ、鉄琴、木琴、ハーモニウム(足踏みオルガン)など多種多様な楽器の活用によって20世紀音楽を予見させた。交響曲第6番では大型ハンマーや鞭も使用された。

アルマはマーラーとは同じ墓地に眠っているが2人の墓は離れている。未亡人となったアルマはその後どうなったのか。
マーラー他界の翌1912年、画家のオスカー・ココシュカ(1886-1980)が肖像画を依頼されてアルマの自宅を訪れた。この年ココシュカは26歳、アルマは33歳。アルマがココシュカのためにピアノで『トリスタンとイゾルデ』を弾いていると、ココシュカが発作的にアルマを抱擁して家を飛び出した。翌日、プロポーズの手紙を出したココシュカに、アルマは「傑作を描けば結婚してあげる」と返答した。2人は深い関係になり、1913年にイタリアを旅行に行った。翌年、ココシュカは代表作となる『風の花嫁』(1914)で愛し合う両者を描いた。アルマは妊娠したがココシュカとの子を求めず中絶し、破れかぶれになったココシュカは第一次世界大戦に志願し出征した。アルマは独占欲の強いココシュカが嫌になり、画家のアトリエに入ってそれまで自分が出した手紙を奪い返した。そしてグロピウスとよりを戻し1915年に36歳で再婚、翌年に娘マノンを産んだ。ココシュカは戦争で頭部を負傷。帰還するとアルマは別の男と結婚しており打ちひしがれた。1917年、精神を病んだココシュカは人形制作者にアルマの等身大の裸体人形を作ってもらう。注文書にはデッサンを添え、歯、舌、陰部まで完璧に仕上げるよう要求した。服を着せ、外出の際には馬車に乗せ、食事、オペラ、映画、どこへ行くにも人形を連れていき2人分の代金を払った。ずっとアルマに精神を支配されていたが、1922年に酔った勢いで人形の頭を割り、この人形とのいびつな関係に終止符が打たれた。

一方、アルマはグロピウスも出征したことから、その間に11歳年下の若手作家フランツ・ウェルフェル(1890-1945)と不倫関係になった。これにグロピウスが気づき、かつて自分が苦しませたマーラーと同じ地獄を体験することになった。結局、結婚生活は破綻し、10年後の1929年、アルマはウェルフェルと再々婚する(アルマ50歳、ウェルフェル39歳)。1935年、マノンが19歳で夭折。作曲家アルバン・ベルクはマノンを追悼するヴァイオリン協奏曲を作曲した。
1938年、ナチスドイツがオーストリア併合すると、ユダヤ人のウェルフェルはアルマとフランスに逃れ、さらに米国に亡命した。そしてカリフォルニアで音楽サロンを主宰し、ストラヴィンスキー、シェーンベルクなど、ヨーロッパからの多くの亡命作曲家を受け入れた。ウェルフェルは19世紀フランスの聖女を描いた小説『聖少女』でベストセラー作家になったが、1945年に心筋梗塞のため54歳で急死する。
4年後の1949年、カリフォルニアで暮らすアルマの70歳の誕生日に外国から電報が届いた。差出人はココシュカ。そこには36年前の絵のことが書かれていた。「僕たちは『風の花嫁』のなかで永遠に結ばれている」。アルマは戦後も芸術家サロンを開き、米国のマスコミはアルマが、マーラー(音楽)、グロピウス(建築)、ココシュカ(絵画)、ウェルフェル(文学)の4人にインスピレーションを与えたことから「4大芸術の未亡人」と呼んだ。アルマは1964年に85歳で他界。ココシュカはそこから16年生きて94歳まで長寿した。彼はマーラー夫婦の関係者の中で最も長生きし、1980年に没した。
※晩年のアルマの回想「マーラーの音楽は好みじゃなかったし、グロピウスの建築はよく分からず、ウェルフェルの小説には興味が湧かなかったけれど、ココシュカの絵だけはいつも感動させられた」。

〔マーラーと僕〕
僕が初めてマーラーの音楽に触れたのは、1980年代前半のウイスキーのCMだった。当時高校生の僕は映画少年で『日曜洋画劇場』を毎週観ていた。同番組ではサントリー・ローヤルのアート志向が強いCMが流れ、ガウディの建築などが登場した。ある時、音楽に合わせて中国の墨絵が動き出すユニークな演出のCMが流れ、BGMに使用されたマーラー『大地の歌』の東洋風メロディーに心惹かれた。ほぼ同時期に名画座でリバイバル上映されたヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』を観て、劇中に何度も登場する“アダージェット”の美しさに忘我の境地を味わった。さらに1985年に公開された黒澤監督『乱』の予告編で、交響曲第1番第3楽章の哀愁を帯びたメロディーに心を奪われ、ラジオで聴いた『復活』『千人の交響曲』の壮大で宇宙的なサウンドに圧倒された。
そんなある日、ラジオのクラシック番組で“無人島に3曲持って行けるとしたらどれか”を話し合っていて、出演者の結論がベートーヴェン『第九』、バッハ『マタイ受難曲』、そしてマーラーの『交響曲第9番』(なかでも終楽章)ということになった。僕はまだマーラーの9番を未聴だったので、高校の音楽準備室にあったワルター指揮コロンビア交響楽団のレコードを聴いた。ワルターはマーラの直弟子だ。初めて聴いた第四楽章はのっけから“これはただ事ではない”と思わせる終末感があり、マーラーについて語られる「真剣に死を恐れ、死に憧れた」という相反する2つの感情に直に触れた気がした。“なんて危険な音楽なんだ、しかも恐ろしく美しい…”。中盤のハープは天国に続く階段を昇る足音に聴こえた。マーラーが楽譜の最後に“死滅していくように”と書き込んだ終楽章は、おそらくこの世に存在する音楽の中で最も彼岸に近いもの。これほど美しく、儚く、音符の影に“死”の存在を感じる作品を他に知らない。この曲は、精神状態が不安定なときに聴けば、おそらく帰って来られなくなる−−。フラフラになり、虫の息のようになって聴き終わったが、数日後にまた聴きたくなった。マーラーには中毒性があった。既に唯一無二の音楽世界の虜になっていた。そして今度は音楽準備室の小型スピーカーではなく、音楽室の特大スピーカーで聴きたくなった。1人で聴いて失神すると危ないので、クラシック・ファンの友人Kと2人で吹奏楽部の部活動がない日を選んで音楽室に入った。夕闇が迫る音楽室で終楽章に再びレコードの針を下ろした。僕も友人も団地住まい、そして共に恋に破れた直後だった。家では出せない大音量でマーラーに触れ、あまりの感動に2人とも帰り道に言葉をまともに発することが出来ず、握手だけして別れた。

僕の人生にはもうひとつ、決して忘れることができないマーラー第9番の音がある。1985年9月3日、大阪・フェスティバルホールで聴いたレナード・バーンスタイン指揮によるイスラエル・フィルの演奏だ。根性でチケットを手に入れ、高校生ゆえ2階最後列の学生席で観賞した。「あのバーンスタインが!いま目の前でマーラーを!」。一音たりとも聴き逃すまいと、全神経をステージに向けた。マエストロの棒が動く…それはもう鬼気迫る演奏だった。あの世で音が鳴っているような錯覚に陥った。終楽章は、ただただ、涙、涙、涙…。終演後、幕が下りて他のお客が帰っても、僕を含む20名ほどがステージ前に集まり立ったまま拍手を続けていた。すると、着替えを終えて黒マントを着たバーンスタインが最後にもう一度ひょっこり出てきてくれた!演奏中は最後列で視界の彼方にいたバーンスタインが、今わずか2mの距離に!卒倒しかけた。マエストロは拍手に応え、優しい笑顔で僕らに手を挙げてくれた。この5年後にバーンスタインは亡くなっている。
音楽室で聴いたワルターの音、生演奏に鳥肌が立ったバーンスタインの音、どちらも40年以上前の思い出だが、いまだに身体の芯でその時に聴いたマーラーの音が共鳴している。

〔墓巡礼〕
マーラーの自然に対する深い感情移入や、人間の魂の根源を探究する姿勢、各々の民族と文化への敬意に大いに感銘を受けると共に、作品世界に濃厚に漂う終末感や人生に対する徒労感が、“マーラーは分かってくれている”と敗残兵の傷を癒やす。人生には「この曲と出会えただけでも生まれて来たモトをとった」と感じる音楽がいくつかある。マーラーの交響曲第9番終楽章はまさにそんな曲のひとつ。病的繊細さや陰気さも突き抜けると快楽に至る。心が傷つきボロボロになっているときは、友人が何も言わずただ隣にいてくれるだけで嬉しいもの。そんな風に感じていたので、いつか墓参りをしたいとずっと思っていた。
最初にマーラーの墓前を訪れたのは1994年、27歳のとき。彼はウィーンに眠っているが、ベートーヴェンやシューベルトなどクラシックの巨星が大集合しているウィーン中央墓地から遠く離れた、市の中心部を挟んで反対側約7km北西の小さなグリンツィンク墓地に眠っている。墓地にはトラム38番で行け、「An den langen Luessen」停留所で下車し、左手の緩やかな
坂道をまっすぐ5分くらい上ると墓地正門に突き当たる。左手、6グループの7−1が彼の墓。生け垣に囲まれている。墓地の管理事務所は正門左だけど、墓地内の案内図が充実しているため、管理人さんに場所を聞かなくても自分で探し出せる。
マーラーとアルマの墓は離れた場所で背中合わせになっている。再々婚しているアルマは、再婚相手との娘マノンと同じ墓に眠っている。アルマにぞっこんだったマーラーとしては隣接して眠りたいだろうけど、亡命先のアメリカで他界したアルマが、このウィーンの外れにある小さな墓地に眠っているだけでも救いになるのでは。マーラーは「やがて私の時代が来る」と言った。人間の分断が叫ばれる現代にあって、孤独感や傷心に寄り添う彼の音楽は救済であり解放だ。今やマーラーは大人気でコンサートはどこも満員。「あなたの言った通りになりましたよ」と墓前で手を合わせ感謝した。
※「演奏の質に関わらず、マーラーの交響曲ならコンサートホールは必ず満員になる。現代の聴衆をこれほど惹きつけるのは、その音楽に不安、愛、苦悩、恐れ、混沌といった現代社会の特徴が現れているからだろう」(ゲオルク・ショルティ)。
※この地域はベートーヴェンが遺書を書いたハイリゲンシュタットと隣接しているので、ベートーヴェンの家にもぜひ足を運ぼう。

〔作曲小屋訪問〕
マーラーが中部オーストリア・ザルツブルクの東方約40kmのアッター湖畔に建てた最初の作曲小屋は、傑作『交響曲第2番“復活”』が書かれた場所であり、かねてから訪問したいと思っていた。アッター湖は青く澄み渡り、遠くにはチロルの山々も見え、素晴らしい環境だった。作曲小屋は近くのホテル『Gasthaus Fottinger(ガストハウス フェッティンガー)』が管理
しており、希望者は無料で見学ができる。ホテルのカウンターで大きなト音記号のキーホルダーがついた鍵を借り、いざ湖畔の作曲小屋へ。近づいて驚いたのは周囲のビーチパラソル。白壁の小さな作曲小屋は、現在リゾート・キャンプ場のド真ン中に位置し、周囲で多勢の人が休暇を楽しんでいた。所狭しとキャンピングカーが並んでいる。小屋の中には愛用のピアノや自筆楽譜、手紙など遺品が展示されていた。僕がそれらを見ていると、白髪の紳士が小屋に入ってきた。聞けば昨日も、一昨日もここに来たという。名前はジョージさん、ニューヨーク在住とのこと。
ジョージさんは心からマーラーを崇拝していた。
「私は悲しい」とジョージさん。「どうしてですか?」「周りを見ただろう?こんなに観光客が多いのに、皆この小屋を無視している。ここは、あのマーラーの聖地なんだぞ?私はNYから来てるんだ。遠いNYから…。どうしてもっと見学しないんだ。マーラーに無関心な人がこんなに多いなんて…」。その後もジョージさんは「テリブル!ホラブル!(恐ろしいことだ!)」を連発していた。僕は作曲小屋に置かれていたファンの交流ノートを手に取った。そこには誰もがマーラーに感謝の言葉を綴っていた。「大丈夫、こんなに愛されていますよ!」「そうだな、君も日本から来たしな」「そうですよ!それに…それに…」。最後は笑顔になったジョージさんと握手。

  ジョージさんと風

〔マーラー語録〕
・「私にとって交響曲とはあらゆる技法を尽くして自分自身と向き合うことだ」
・「私の全生涯は大いなる望郷だった」

〔マーラー評〕
「マーラーの音楽を聴くと高い次元で生まれ変わった気がします。音楽は最も魔力のある芸術であり、マーラーは最高の魔術師です」(ケン・ラッセル)映画監督
「マーラーはあらゆる形式の破壊者。彼の交響曲は詩であり世界の創造です」(ゲオルグ・ショルティ)指揮者
「マーラーの音楽を聴くと生きることの意味を問わずにはいられません」(トマス・ハンプソン)バリトン歌手
「マーラーは真の美を見つけます。醜いとされるものもその真の姿は美しいと」(シャルロッテ・ヘレカント)メゾ・ソプラノ歌手

※弟子に指揮者のウィレム・メンゲルベルク(1871-1951)、ブルーノ・ワルター(1876-1962)、オットー・クレンペラー(1885-1973)。メンゲルベルクは師マーラーから「私の作品を安心して任せられるほど信用できる人間は彼しかいない」と讃えられ、1920年にマーラー管弦楽作品の全曲を演奏するなど作品普及に努めた。クレンペラー「マーラーは暴君ではなく、むしろ非常に親切でした。若く貧しい芸術家やウィーン宮廷歌劇場への様々な寄付がそれを証明しています」。
※マーラーのブルックナーに対する崇敬の念は生涯変わらず、ブルックナーの交響曲を出版しようとした出版社のためにマーラーは費用を肩代わりし、自らの多額の印税を放棄した。
※マーラーとの間に生まれた次女アンナ・ユスティーネは彫刻家になり、ナチの迫害を逃れイギリスに亡命。生涯に5回結婚した。
※マーラーの妹ユスティーネはウィーン・フィルのコンサートマスター、アルノルト・ロゼと結婚。夫婦の娘がアウシュヴィッツで死んだ名バイオリニスト、アルマ・ロゼ。
※マーラーは14歳年下のオーストリアの作曲家シェーンベルク(1874-1951)の才能を高く評価した。1907年、シェーンベルクの弦楽四重奏曲第1番の初演に際し、最前列で野次を飛ばす男にマーラーは「野次っている奴のツラを拝ませてもらうぞ!」と相手を制しケンカになりかけた。室内交響曲第1番の初演では、途中で席を立つ聴衆に「静かにしろ!」と一喝、演奏後はシェーンベルクに対するブーイングの嵐のなか聴衆がいなくなるまで拍手を続けた。当時マーラーは47歳、シェーンベルクは33歳。コンサートから帰宅したマーラーは妻にこう言った「私はシェーンベルクの音楽が分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのだろう。私は老いぼれで、彼の音楽についていけないのだろう」。
※マーラーはドストエフスキーを愛読し、中でも『カラマーゾフの兄弟』を特に気に入っていた。
※交響曲第1番の副題『巨人』はジャン・パウルの小説に由来する。
※マーラーは譜面に手を入れることが多かった。オリジナル絶対主義の指揮者トスカニーニは、マーラーがメトロポリタン歌劇場に残した手書き修正入りの譜面を見て「マーラーの奴、恥を知れ!」と激怒した。
※交響曲第4番・5番や歌曲をマーラー自身が弾いたピアノロールが残されている。
※クリムトの『ベートーヴェン・フリーズ』にはマーラーをモデルとした人物(金色の甲冑を身に着けた男)が描かれている。

  

※1902年、マーラーは第15回分離派展のオープニングに宮廷歌劇場の管楽器奏者を連れて参加し、ベートーヴェン第九の終楽章を編曲して演奏した。
※音大時代の同級生にフーゴー・ヴォルフがいた。
※トーマス・マンの小説『ベニスに死す』の主人公グスタフ・フォン・アッシェンバッハは、マーラーにインスピレーションを得て創作された。映画版では原作にはない「アルフレッド」という名のシェーンベルクを思わせる人物を登場させ、音楽論を戦わせている。
※マーラーの交響曲第5番の“アダージェット”は、ヴィスコンティ監督の映画『ベニスに死す』に使用されて一躍有名になった。ハリウッドの試写会でこの映画が上映された際、あるプロデューサーが作曲者の名を尋ねた。誰かが「マーラーです」と教えると、そのプロデューサーはこう即答した「彼と契約だ!」。

『大地の歌/サントリーローヤルCM』
https://www.youtube.com/watch?v=3-h_kaEnNKg

〔参考資料〕音楽ドキュメンタリー『BBC Great Composers(1997)』、『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)、名曲事典(音楽之友社)、世界人物事典(旺文社)、エンカルタ総合大百科(マイクロソフト)、ウィキペディアほか。

他人が何かに感動している姿を見ることで、「え!そんなにいいの!」と、それまで興味がなかったコトに自分も関心を抱くことが人生にはある。例えば雑誌のビートルズ特集を読んでピンと来なくても、友人が「このビートルズのCDは最高。毎日聴いてる」と涙を浮かべてアルバムを握りしめるのを見て、一気に興味が沸くというように。僕の場合、仏像、バレエ、能、スケート、その他多くの分野が、他人の感動がきっかけで自分まで好きになったものだ。“この人と出会ってなかったら、ずっとこの感激を知らないままだったかも”、何度そう思うことがあったか!ここからが本題。動画サイトのyoutubeには個人のビデオ映像も数多くアップされている。その中に海外の一人の青年が、作曲家マーラーの交響曲第8番を聴く自分の姿を撮影したものがあった。楽器を演奏している姿ではなく、聴いている姿というのが何ともユニークな発想だ。そんなものを見て何が面白いのか疑問に思われるだろう。これが最高に良いッ!どんなに分厚いマーラー解説本よりも、この5分間の彼の姿が雄弁にマーラーの魅力を伝えている!青年の感動っぷりはハタから見れば尋常じゃないんだけど、実はクラシック・ファン、中でもマーラーのファンは、他人の目がない場所で一人で聴いている時は、誰でも彼と同じ状態になっていると断言していい!最近は漫画『のだめカンタービレ』がドラマ&アニメになってクラシックの普及に大きく貢献しているけど、彼の姿もそれに負けないくらい多くの人にクラシックの魅力を語ってくれると思う!マーラーの曲は1時間を超える大曲が多い。特に交響曲第8番はオーケストラが2、3団体分&合唱団つきの特大編成で、総勢千人の交響曲。歌詞はドイツ語だけど別の動画でフィナーレに日本語訳が入った演奏(7分42秒)がアップされている。最初は退屈かも知れないけど、2分24秒のとこからラストまでの盛り上がりは超エキサイティングなので最後まで聴いて欲しい。「♪永遠に女性的なものが我らを引いて(天へ)昇らせる」のメロディーは至福の極み!これを聴いて歌詞が分かったうえで、『青年、マーラーを聴く』(5分27秒、青年の登場は1分35秒から)を見て欲しい!可能な限り大ボリュームで!彼の表情、手の動き、体の揺れ、全てが音楽と一体化しているのが分かると思うッ!2つの動画を合わせても13分。この13分には価値あり!ビバ・クラシック!ビバ・マーラー!


マーラーとランチ♪



★ブルックナー/Anton Josef Bruckner 1824.9.4-1896.10.11 (オーストリア、リンツ郊外 72歳)2002&15
Saint Florian Church, Linz, Oberosterreich, Austria

  

ブルックナーの墓は、バッハと同じく自らがオルガニストをしていた教会に葬られている。正門を入ってすぐの場所
にあり、人々は必ずブルックナーの側を通ってから座席に着くことになる。この教会の祭壇はとても美しかった。

この教会はリンツの郊外にありバスは3時間に1本しかない。8年前にリンツを訪れた時は、時間がなくて挫折した。今回は
市内のユースホテルに泊まって本格的に郊外へ足を伸ばす体制を整え、やっとのことで彼に名曲のお礼を言えた。感激!


ブルックナーの音楽はやたらと長い上に変化が乏しく、どの曲もサビが同じで、これをクラシックファンは愛憎を込めて“ブルックナー音階”と呼んでいる。一度眠って目が覚めたらまだ同じ楽章だったなんてのはザラ。でも彼のファンにしてみれば“だからブルックナーは最高なんだ”という答えになる。絶対的安心感といおうか、同じメロディーの繰り返しでトランス状態へ導かれたといおうか…ブルックナーの音魔法は音階の積み重ねの果てに、宇宙空間が待っているので、一度心地よいと思ったら病みつきになるのは時間の問題なのだ。

●追記!


(撮影:このみさん/2005.3)
なんと!教会には地下に降りる階段があり、そこにはブルックナーを納める棺があることが判明!
※うお〜、まったく気がつかなった!写真を貸して頂き有難うございマス!


●さらに追記!!2015年、巡礼に成功!!





ザンクトフロリアン聖堂よ、私は帰ってきた! 前回、勘違いした記念碑 このパイプオルガンの直下に ブルックナーの墓が!やっと会えたぁあああ!



★ブラームス/Johannes Brahms 1833.5.7-1897.4.3 (オーストリア、ウィーン 63歳)1989&94&2002&15
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria/Plot: Group 32 A, Number 26


2005 1994 2002
ブラームスはシューマンの妻クララに
惚れ、彼女が亡くなって1年も経たず
に彼も世を去った。生涯独身だった
頭を抱え込んだ物憂げなブラームス像が置かれた墓。
深遠で哲学的な彼の音楽が墓からも聴こえてきそうだ

隣の墓は親友ヨハン・シュトラウスU世。重厚な音楽を得意
としたブラームスだが、彼は軽快なワルツを魔法のように
作り出すヨハンに心から敬意と友情を抱いていたのだった

  
2015年は早朝に訪れたところ、こんなにドラマチックな光が。スポットライトを浴びるようにブラームスが輝いていた

ドイツ・ロマン派を代表する作曲家。堅牢な楽曲構成、重厚な作風からバッハ・ベートーヴェンと共にドイツ音楽「三大B」と称される。
交響曲第1番、第4番が著名。交響曲第1番は21年間もかかって作られた。


学生時代は過激なワグネリアンだった自分も、歳をとった最近は、古寺で枯山水を楽しむようにブラームスの室内楽に浸ってばかり。
あの枯淡の極致とでもいおうか、セピア色の音色がたまらないんだ。もう“キング・オブ・地味音楽”にどっぷり。お〜い、コブ茶のおかわりをおくれ〜。



★フォーレ/Gabriel Urbain Faure 1845.5.12-1924.11.4 (パリ、パッシー 79歳)2002&09
Cimetiere de Passy, Paris, France Plot: Division 15





2002 シンプルな墓 2009 墓地の敷地が狭く、フォーレの周囲は墓石がひしめき合っている

フランスの作曲家。繊細、抒情的な音色で「レクイエム」を書く。歌曲や室内楽に優れ、内省的な作品を多く残した。パリ音楽院院長。

天上の音楽を次々と生み出したフォーレ。彼が作曲した「レクイエム」はクラシック界最強の癒し系音楽。フォーレを聴いているとき、
部屋の中がどんどん透明になっていくのが分かる。その、はかなくも美しい調べの前では、この世の重力はあまりにも虚しい。


戦時中の空襲の日々を振り返って--「台所の裏に穴を掘り、そこにいっぱい本を詰め込んだブリキの缶を入れ、さらに何重もの紙で包んで板を重ねてくくったフォーレのレコード・アルバムを重ね、その上に土を盛った。(終戦という)そんな日の来ることに確信を持っていたわけではない。しかしもし、これをゆっくり聴ける日が来た時、これがなかったら、取り返しのつかない悲しみと後悔を味わうことになるだろうと考えたからだ」(吉田秀和)音楽評論家



★ショパン/Fryderyk Chopin 1810.3.1-1849.10.17 (ポーランド、ワルシャワ&パリ、ペール・ラシェーズ 39歳)1989&02&05&09&15
Holy Cross Church, Warsaw, Poland (heart)
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France Division 11(Body)

ショパン19歳 ショパン25歳 ジョルジュ・サンドとショパン ショパン37歳

●ワルシャワ


ショパンの心臓を納める聖十字架教会。正面のキリスト像はかなりドラマチック(2005)

手前左の柱の中に“心臓”が入っている 巡礼者が後を絶たない




ワルシャワの巨大ショパン像。なかなか悩ましい表情をしている

●パリ


 
パリ・オペラ座に近いヴァンドーム広場
(2009)
その広場に面した12番地に1780年創業の宝石商ショーメ(Chaumet)がある。
この2階で、ショパンは39歳の若さで帰らぬ人となった

パリのショパンの墓(1989)
13年後。手前の植木鉢が増えた(2002)
その3年後、植木鉢がまた増えた(2005)

初巡礼から20年目。正面に巨大な
植木鉢が左右に2個置かれ、柵には
ポーランド旗のリボンが巻かれてた(09)
手前の門には“F・C”とある
(2009)






すごい人気ぶりだ 白髪の男性がショパンの墓を解説していた 次から次へと人がやってくる

西洋音楽史上最高のピアノ音楽の作曲家、“ピアノの詩人”ショパン。1810年3月1日、ポーランド・ワルシャワ近郊のジェラゾワ・ウォラにて生まれた。父はフランス人、母はポーランド人。4歳でピアノを習い始め、演奏、作曲の両方に早熟の才を発揮。1817年、わずか7歳で『ポロネーズ ト短調』を作曲、出版された。翌年(8歳)、最初の公開演奏会がワルシャワで催される。
ポーランドはショパンが生まれる15年前(1795年)に、ロシア、プロイセン、オーストリアの3国に割譲され地図から消滅していた。1819年(9歳)、ロシア側はポーランド市民から出版の自由を奪い検閲を導入し、独立を目指す愛国者はロシア秘密警察に逮捕された。
1826年(16歳)、ワルシャワ音楽院に入学。3年後に同音楽院を首席で卒業し、ウィーンの演奏会で公式にピアニスト・デビューを飾る(翌年ウィーンではベートーヴェンが死去している)。

1830年(20歳)、ウィーンを音楽活動の本拠地とするため、故郷の友人たちと別れの演奏会を開き、『ピアノ協奏曲第1番』を初演した。ところが、ウィーンに到着したショパンの耳に、祖国ポーランドでロシア支配に対する武装反乱「11月蜂起」が勃発したとのニュースが飛び込む。ショパンの親友も蜂起に加わり、ポーランド軍(蜂起軍)は約3倍のロシア軍相手に奮戦する。
オーストリアも旧ポーランド領を支配していたことから、ウィーンの世論はロシア寄りで、ショパンは反ポーランドの風に晒された。翌1831年(21歳)、演奏会もままならぬ状況となり、フランスに活躍の場を求めることを決心。パリに向かう旅路で、「11月蜂起」が約1年の戦闘を経て失敗に終わったことを知る(死傷者4万人)。ドイツ・シュトゥットガルトでショパンは書き記す「父さん!母さん!姉妹たち、友人よ!僕の大切な皆はどこにいるのか」「ただ、ため息をし、絶望をピアノに向かって吐き出すばかりで気が狂いそうだ」「嗚呼、神はなぜ復讐しないのか! 神よ、あ
なたはロシア人どもの犯罪を山ほどご覧になったはずでは。それとも、あなたご自身がロシア人なのですか?」「孤独!完全な孤独!僕のみじめさは筆舌に尽くし難い。僕の心はやっと耐えている。僕が故郷で味わった喜びや、沢山の楽しみのことを考えると胸が張り裂けそうだ」。ショパンはこの動揺をピアノに叩き付け『革命エチュード』(約3分)が生まれた。
http://www.youtube.com/watch?v=ruwEDT9BGQw#t=16s

同年パリに到着し、翌年演奏会を開催、作曲家兼ピアニスト兼ピアノ教師として知名度を上げていく。詩人ハイネ、作曲家リストやベルリオーズ、文豪バルザック、画家ドラクロワらと親しく交流し、ドラクロワはショパンに演奏して欲しくて、わざわざピアノを購入してアトリエに置いた。1835年(25歳)、現チェコ領で両親と再会するが、結果的にこれが最後の対面となる。26歳、パリにてポーランド人貴族の令嬢マリアと恋に落ち、後世に『別れのワルツ』と呼ばれる傑作を捧げる。マリアと婚約するが、彼女の親がショパンの結核を知って懸念し、翌年に婚約破棄を通告された。ショパンは深く傷つく。

1838年(28歳)、作曲家リストの愛人宅(サロン)で2年前に知り合った女流作家ジョルジュ・サンド(1804-1876)と交際を始める。当時34歳のサンドはショパンより6歳年上で、フェミニストの自由恋愛主義者。18歳で男爵と結婚するも夫の平凡さに閉口し、27歳の時に夫と2人の子を置いて単身パリに出た。文壇で成功する一方、リスト、バルザック、ユゴー、詩人ミュッセ、思想家カール・マルクスらと華やかに交流し、ズボン姿で葉巻を手に持つ男装の才女として社交界の注目を集めていた。

パリ社交界は好奇の目で2人を見つめ、サンドの派手な男性遍歴もあって人々は好き勝手に噂を流した。2人は他人に煩わされない静かな環境を求めて、またショパンの結核療養をかねて、バルセロナ沖のスペイン領マジョルカ島に渡った(サンドの子ども達も一緒)。ショパンは島にバッハ『平均律クラヴィーア曲集・24の前奏曲とフーガ』の楽譜だけを持ち込み、代表作のひとつとなる『24の前奏曲集』を完成させた。だが、同年は異常気象で長雨が続き、病状はかえって悪化。半年でフランスに戻る。
1839年(29歳)以降、夏はサンドの別荘がある中部フランス・ノアンで作曲に集中し、他の季節はパリで演奏活動を行う生活が基本スタイルになる。サンドはショパンを献身的に介護し、この同棲期間に、『英雄ポロネーズ』、『舟歌』、『幻想曲』、『バラード第4番』等、多数の傑作が書かれた。だが、ショパンの過度な嫉妬心にサンドは息苦しさを覚え、交際から9年後の1847年(37歳)についに破局する。
サンドと別れたショパンは心身ともに疲れ果て、鬱状態となって作曲への気力を失い、急速に衰弱していった。「僕は草や木のように日々をぼんやり送っている。じっと生涯の終わりを待っているのだ」。翌年、パリで最後となる演奏会を開く。同年、英国にてヴィクトリア女王の御前演奏という名誉を授かるが、旅行のタイトな日程がショパンの体力をさらに奪った。そしてサンドと別離した2年後、1949年10月17日にパリで肺結核のため他界する。享年39。マドレーヌ寺院で葬儀が執り行われ、ショパンの遺言によってモーツァルトのレクイエムが演奏された。死後、ショパンの遺品から「わが哀しみ」と書かれた紙包みが見つかり、中から婚約者マリアがくれた手紙の束とバラの花が出てきた。また、ショパンは日記にサンドの髪の束を挟んでいた。
ショパンの亡骸はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、棺の上には彼が終生ずっと大切に持っていた故郷の土が撒かれたという。遺書には「心臓はワルシャワに戻して欲しい」とあり、帰国の夢が叶わなかったショパンを憐れんだ姉ルドヴィカは、心臓をスカートの中に隠してロシア兵の目をかすめ、ポーランドに持ち込んでワルシャワの聖十字架教会の石柱に納めた。この柱には「あなたの宝の場所にあなたの心がある」(マタイ伝)と刻まれている。

生涯の作品数は約200曲。大半が詩情あふれるピアノ曲で、マズルカ55曲、エチュード27曲、前奏曲24曲、ノクターン19曲、ポロネーズ13曲、ピアノ協奏曲2曲、ピアノ・ソナタ3曲等々。チェロや歌曲もある。祖国ポーランドへの強い愛国心を抱きながら、政情の不安定さから再び故郷の土を踏むことが出来なかったショパン。彼は「その背後に 思想無くして、真の音楽は無い」と語っ
ており、望郷の念は作品に色濃く反映されている。音楽家人生がポロネーズで始まりマズルカで終わったことは象徴的だ。最初の作品である“ポロネーズ”の意味はフランス語で「ポーランド風」、また、最後の作品“マズルカ”(ゆっくりしたテンポの4分の3拍子)はポーランド各地に伝承される民族舞曲だ。マズルカは50曲を超えており、ショパンが晩年まで抱き続けた祖国愛がヒシヒシと伝わる。
サンドはショパンの死後27年間生き、72歳の誕生日直前に他界した。祖国ポーランドが120年以上もの外国支配から逃れ、晴れて独立を取り戻したのは第一次世界大戦終結後の1918年。ショパンの死から約70年が経っていた。
第二次世界大戦ではナチスが同教会の3分の1をダイナマイトで破壊し、ショパンの心臓が入った壷も奪われてしまったが、終戦後に教会は修復されてショパンの命日に心臓が戻された。この時に演奏されたのは、ショパンがポーランド独立の暁に披露しようと考えていた軍隊ポロネーズだった。
僕はショパンの次第に内にこもっていく曲調が好き。どんどん魂の奥底へ意識が沈んでいく。左手(低音パート)を伴奏専用から解放したピアノの革命家に乾杯!

〔墓巡礼〕
これまで身体が埋葬されたパリの墓を4度(1989、02、05、09年)、そして心臓が納められたワルシャワの墓を05年に一度訪れている。パリの墓はモジリアニ、オスカー・ワイルド、ドラクロワ、ビゼー、エディット・ピアフ、ジム・モリソンなど多数の著名人が眠る有名なペール・ラシェーズ墓地にあり、ショパンの墓前は巡礼者でごった返している。墓の上部には竪琴を持ち、悲しみにうな垂れた女神が座し、台座にはショパンの横顔が刻まれている。花があふれる純白の美しい墓だ。
ワルシャワの聖十字架教会へは路面電車で知り合ったヴィロンスカという美しい名前のお婆さんが案内して下さった。僕が停留所でヴィロンスカさんに最低限のポーランド語で「ショパン、ハカ、ドコ」と尋ねたのがきっかけ(僕は方向を指差してもらおうと思った)。ヴィロンスカさんは僕がポーランド語を知っていると思い込み、畳み掛けるように話しかけてきた。“簡単な英語で”と書いた紙を見せると、肩をすくめてなおもポーランド語のマシンガントーク。やがて“ついて来い”というジェスチャーがあったので、聖十字架教会に向かうと思いきや、なぜかヴィロンスカさんのアパートでお昼ご飯を食べることになり、サンドウィッチや炒り卵、サラダを作って下さった。そしてお弁当まで持たせてくれた!感激!教会への道すがら、ヴィロンスカさんは紙コップなどゴミが落ちていたら拾いあげ、道端でお腹を空かせている人には買い物袋からパンやバナナを分けていた。ヴィロンスカさんにとってはすべてが自然な流れ。
僕を教会前まで案内すると「後は大丈夫ね!」みたいなことを言って、パッと手をあげて立ち去った。なんてサバサバした気持ちの良いお婆ちゃんなんだろう!教会内のショパンの墓にヴィロンスカさんのことを話し、「ポーランドには素晴らしい人がいますね」と語りかけると、祖国を愛したショパンが「そうとも!」と言ってる気がした。これもまた忘れられない巡礼となった。

  ヴィロンスカさんのアパートにて

※「最高の先生は、自分の耳だ。自分の耳が許さない音を、弾いてはいけない」(ショパン)
※ピアニストの登龍門「ショパン国際ピアノ・コンクール」(1927〜)は国際音楽コンクールの中では最古かつ最高権威。5年に一度開催され、命日にモーツァルトのレクイエムがワルシャワ・フィルによって演奏された後、翌日から本選が始まる。
※ショパンの作品は戦乱で多くの自筆譜が失われ、未知の作品も多数ある。もったいない!
※シューマンのショパン評「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」
※繊細で神経質なイメージがあるけど、モノマネや漫画が得意でユーモアがあり、学生時代はクラスの人気者だった。
※パリのショパンの墓の3つ右隣に、“ピアノの化身”と言われたジャズ・ピアニスト、ミシェル・ペトルチアーニが眠っている。
※ショパンの伝記が書籍によって混乱しているのは、戦後にポーランドの音楽研究家が大量の(ショパンの)ニセ手紙を発表したため。この研究家は自殺したが、1960年代まで手紙が本物と信じられ多くの書籍が引用し、現在に至るまで内容が虚実不明のまま一人歩きしている。



ワルシャワのユースホテルの職員イェージー君はドラゴンボールの大ファン!2人で一緒に「かめはめ波」!!(2005)



★ヴェルディ/Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 1813.10.10-1901.1.27 (イタリア、ミラノ 87歳)2002
Casa di Reposo per Musicisti, Milan, Lombardia, Italy

  

ヴェルディ・ハウスの礼拝堂に奥さんと並んで眠っていた。墓の周囲には大きな宗教画の壁画が描かれ、
作曲家の中では最も威厳のある墓だった。付近の音楽学校から生徒が弾くピアノの音色が聴こえていた。

晩年、妻子を亡くした時ヴェルディはある仕事に追われていた。それはかねてから依頼されていた喜劇オペラの作曲
だった。葬式のあとコメディの台本を手にせねばならぬ状況に彼はこう言ったという「人生はすべてこれ冗談なり」と。
※最初の埋葬場所はミラノのCimitero Monumentale。




★シューベルト/Franz Peter Schubert 1797.1.31-1828.11.19 (オーストリア、ウィーン 31歳)1989&94&02&05
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria




若き日のシューベルト。
けっこうカッコ良い!
わずか31年でシューベルト
のメトロノームは止まった




ウィーン中央墓地にて(1994) もっと長生きして欲しかった!(2002) 手に本物の花を握っていた(2005)









シューベルトの墓(右端)は、遺言通り彼が
ファンだったベートーヴェン(左端)の隣りに
埋葬されている。よかったね、シューベルト!
シューベルトの生家


彼が夭折したアパート



墓巡礼を続ける中で、最も胸を打たれることのひとつに、墓を通して故人が周囲からどれほど愛されていたか知ることがある。600以上の歌曲を遺した“歌曲王”シューベルトは、生涯宮廷に縁がなく、貴族のパトロン(後援者)もいなかったが、代わりにボヘミアン的な多くの友人たちが音楽活動を支えてくれた。19歳から他界するまで住所不定のまま友人の家を泊まり歩いた知られざる元祖ヒッピーだ。ウィーン出身でウィーンで死んだ生粋のウィーンっ子。
初期ドイツ・ロマン派の代表的作曲家の一人、フランツ・シューベルトは1797年1月31日、オーストリア・ウィーン郊外で生まれた(当時ベートーヴェン27歳、モーツァルトは6年前に他界)。父親は小学校の教員。11歳のときに宮廷礼拝堂の少年聖歌隊員となり、宮廷歌手を養成する寄宿制神学校(ウィーン楽友協会音楽院の前身校)に入った。そこでイタリアの作曲家・宮廷楽長サリエリから学び、学生オーケストラでバイオリンを担当。1811年(14歳)から歌曲(リート)を書き始め、作品は好評を得たが、声変わりをしたことから聖歌隊をやめて小学校教師の道へ進む。16歳で交響曲第1番を作曲するなど、シューベルトの才能に気づいていた同級生らは、貧しい彼を助けるために自分達の小銭を持ち寄って五線紙を提供するなど、熱心に創作活動を応援した。
1814年、17歳で最初のオペラ『悪魔の悦楽城』と最初の『ミサ曲ヘ長調』を書き、ゲーテの『ファウスト』を題材にした名歌『糸を紡ぐグレートヒェン』を作曲。
1815年(18歳)、交響曲第2番と第3番、数曲の室内楽曲を書き上げ、有名な『魔王』『野ばら』など146曲もの歌曲を作曲した(1日で8曲を書いた日もあった)。有名な逸話がある。ある日、シューベルトはレストランで仲間と食事中に突然歌曲の旋律が浮かび、素早くメニューの裏に音符を書き記した。後日、友人がその曲を歌うと、シューベルトは「良い歌じゃないか。それは誰の歌?」とレストランの一件を忘却していたという。
1816年(19歳)、友人から「教職を辞めて作曲活動に専念するべき」と提案があり、居候のための部屋も用意してもらえたことから、教師生活に別れを告げた。以降、他界するまで友人たちの家に身を寄せることになる。この年、交響曲第4番「悲劇的」と第5番、そして約100曲の歌曲が書かれた。シューベルトには収入がなかったが、周囲には多くの芸術家や音楽愛好者が集まり、新作を聴くための夜会“シューベルティアーデ(シューベルト・サークル)”が催された。シューベルティアーデのメンバーは、各々が食料を提供したり楽譜やペンを用意し、献身的にシューベルトを支えた。声楽家はシューベルトの曲を積極的に取り上げ、裕福な者は自邸を自由に使わせた。シューベルトは毎朝起床と同時に作曲を始め、14時まで五線譜に向かい、遅めの昼食を摂った後に散歩に出かけ、帰宅後は再び作曲に戻った。「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成するとまた次を始めるのです」(シューベルト)。

1817年(20歳)、歌曲『鱒(ます)』を作曲。この歌は2年後にピアノ五重奏曲でも使用される。マティアス・クラウディウスの詩をもとにした歌曲『死と乙女』を作曲。この詩は、病の床に伏す乙女と、死神の対話を描いたもの。歌い手は乙女と死神の2役を演じ、最初に死に怯える乙女、次に死神の歌と続く。「去りなさい、恐ろしい死神よ。私はまだ若いわ、さあ行って。どうか私に触れないで!」。死神に触れる事=死である為、彼女は必死で抗おうとする。メロディーも激しく揺れ動く。一瞬静寂に包まれると、次に鬼火が暗闇にゆらめき、そこから細い銀の川の流れのような、この世のものと思えないメロディーに変わる。「…手を差し出すのだ、美しく優しい生き物よ。私は味方だ。罰しに来たのではない。勇気を出せ。恐れることはない。私の腕の中で静かに眠りなさい」。死神は乙女に永遠の若さを与えてやると誘惑する。死ねば人々の記憶の中でずっと若いままだ。やがて、乙女にとって死への不安は憧れに変わり、最後に連れ去られてしまう(なんと恐ろしく、また危険な誘惑に満ちた曲か)。
1818年(21歳)、イタリア風の序曲が初めてコンサートで演奏され、夏は貴族家庭から音楽教師として招待された。
1819年(22歳)、歌曲の最初の公演が行われる。
1820年(23歳)、自由主義者の親友が政治犯として逮捕され、巻き添えでシューベルトも逮捕、拘留される。ウィーンは反動保守政治家メッテルニヒの支配下にあった。間もなく釈放されたが、親友はウィーンを追放されシューベルトは深く傷つく。「美だけが人間を生涯感激させるのは真実だが、美の光が他のいっさいのものを明るくすることは絶対にない」。シューベルトは勇気を振り絞り、追放された友人が書いた詩に音楽をつけて抵抗した。同年、シューベルトは楽譜の刊行を希望して出版社と交渉するが、どこも反応は冷淡で失望する。
1821年(24歳)、作品1として『魔王』が予約出版に成功し評判をよぶ。
1822年(25歳)、南部シュタイアーマルク州の音楽協会の名誉会員に推挙され、その御礼に代表作のひとつとなる交響曲第7番ロ短調『未完成』を作曲した。この交響曲は独創的なオーケストラの音色や転調、鮮やかな和声、歌謡的なメロディー、豊かな表現力により、古典派からロマン派への道を開いた。通常の半分、第2楽章までしかないため“未完成”とされているが、その比類なき美しさから2つの楽章をもって完璧な作品となっている(シューベルト本人も“これで良し”とペンを置いたのかも知れない)。同年、ピアノの連弾曲を出版するに当たって、尊敬しているベートーヴェンに献呈。
1823年(26歳)、3歳年上の詩人ヴィルヘルム・ミュラーの詩による20曲の失恋歌曲集『美しき水車小屋の娘』を書く(ミュラーは4年後に心臓発作で急死。享年32)。付随音楽『ロザムンデ』を作曲。そして晩年まで取り組んでいたピアノ曲集『楽興の時』を書き始めた。
1824年(27歳)、健康の悪化にともない、未来に悲観的になったシューベルトは、歌曲『死と乙女』の旋律を使用した、全楽章が短調という弦楽四重奏曲第14番を作曲。
1825年(28歳)、英詩人ウォルター・スコットの詩にもとづく『エレンの歌』を作曲し、後にこの中の第3番が『アヴェ・マリア』として愛されていく。この年、シューベルトは『グムンデン・ガスタイン交響曲』を作曲したと手紙の記録にあるが、現在に至るまで楽譜が見つかっておらず幻の交響曲となっている(『グレート』の草稿という説もあり)。

1827年(30歳)、貧困の中で有名な『菩提樹』を含んだ24曲の失恋歌曲集『冬の旅』を完成させる。この歌曲の作曲中、同年3月26日、ベートーヴェンが56歳で他界した。病床のベートーヴェンはシューベルトの『美しき水車小屋の娘』を好んで口ずさんだという。シューベルトは27歳年上の巨匠を心から崇拝し、街で姿を見かけるとこっそり後をついて歩いた。ベートーヴェンが死の前年に書いた「弦楽四重奏曲第14番」を聴いたシューベルトは「この後で我々に何が書けるというのだ?」と胸を震わせた。お見舞いのためにベートーヴェンの家を友人と訪れたが、あまりの緊張で何も喋れなかったという。ベートーヴェンの葬列ではたいまつを持つ役を引き受け、棺の横を行進した。葬儀の後、友人たちと訪れた酒場で「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとり、友人たちは不吉な予感にとらわれた。死は翌年に迫っていた。
1828年、シューベルトはベートーヴェンの一周忌にあたる3月26日に、生涯でただ一度のコンサートを楽友協会ホールで催した。同年、演奏1時間の苦心の大作、交響曲第8(旧9)番『グレート』を完成させ、ウィーンの音楽愛好家協会に上演を依頼したが、「作品規模が大きすぎる」と断られた。死の1カ月前に書かれた『弦楽五重奏曲ハ長調』は、演奏に約50分を要する大曲で、繊細なメロディーラインと溢れる叙情性により最後の傑作となった。他にも、ピアノソナタ3曲(第19〜21番)を作曲するなど創作欲は尽きなかったが、秋にチフスに感染し急激に衰弱した。11月12日、親友に宛てた手紙に「僕は病気だ。11日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と苦しみを訴え、これが最後の手紙となった。高熱に浮かされ「ここにはもうベートーヴェンがいない」と嘆き、一週間後の11月19日午後3時、兄の家で夭折した。最後の言葉は他界前日の「これが、僕の最期だ」。享年31歳。最晩年に書かれた未発表の14の歌曲(うち6曲はハイネの詩)は、死の翌年に『白鳥の歌』と題され出版された。
生涯自分の住居を持たず、貧しくとも友情に恵まれたシューベルト。その遺言は、「ベートーヴェンの側で眠りたい」だった。兄や友人たちはこの遺言を実現するため、地元の教会ではなく、わざわざベートーヴェンが眠るウィーン・ヴェーリング地区の教会で葬儀を行った。そして各方面に交渉し、努力が実ってベートーヴェンの墓の側(3つ隣り)に埋葬された。貧困の中で没したシューベルトは、所持品をすべて売っても埋葬費用の5分の1に満たず、兄が少ない生活費を削って費用を工面した。

他界10年後、シューベルトを尊敬していた作曲家シューマンが、墓参りのためにウィーンを訪れた後、シューベルトの話を親しかった人々から聞くために、兄フェルディナントの家を訪問した。そして遺稿や遺品を見せてもらった際に、『グレート(大ハ長調交響曲)』の楽譜に気づいた。驚嘆したシューマンは楽譜をライプチヒのオーケストラに送ることを薦め、1839年3月21日、ライプチヒ・ゲヴァントハウスの定期演奏会でメンデルスゾーン指揮によって歴史的初演が行われた。もしシューマンが見つけていなかったら『ガスタイン交響曲』のように行方不明になっていたかも知れない。1865年には、ウィーンの宮廷指揮者ヘルベックが40年以上も埃に埋もれていた『未完成交響曲』の楽譜を発見している。
その翌々年、1867年にウィーン旅行中のジョージ・グローヴとアーサー・サリヴァンが、シューベルトの7曲の交響曲、ロザムンデ、ミサ曲、オペラ、室内楽曲、大量の歌曲を発見した。一般聴衆は長年シューベルトに無関心だったが、これを機に世間から注目が集まりだした。

他界から半世紀後、都市開発によってヴェーリング墓地の閉鎖が決まると、新しく郊外に開設されたウィーン中央墓地にシューベルトとベートーヴェンの遺骸が改葬された(1888年)。シューベルトの遺骨が掘り起こされたとき、その場に立ち会った作曲家ブルックナーは、感極まって頭蓋骨に接吻したという。改葬先ではベートーヴェンの右隣りにシューベルトの墓が造られた。ヴェーリング墓地は公園として整備されたが、シューベルトを愛する人々が旧墓石の保存運動を展開し、公園の一角にベートーヴェンの墓と共に残された。知名度からいえば、ベートーヴェンが圧倒的に上だったが、同地はベートーヴェン公園ではなくシューベルト公園と呼ばれており、そこからも支持者がどれほど熱い想いで運動していたかが分かる。
1927年、シューベルト没後百年国際作曲コンクールが開催され、この時から歌曲や交響曲以外の作品(ピアノソナタなど)も光を浴び始めた。ヴァルター・ギーゼキングは最初にシューベルトのピアノ・ソナタの魅力に気づいたピアニストの一人だ。

シューベルトは生前にメディアのトップを飾るような大成功とは縁がなく、親しい詩人や歌手など仲間うちのサークルで才能を認められる存在だった。現存する楽譜では14曲の交響曲の作曲を試み、6曲が未完成となっていることが分かっているが、自作の交響曲が演奏されるのを一度も聴くこともなく31年間の短い生涯を終えた。五線譜にインクのしみを付けたことが無いほどの速筆で、20歳たらずの年齢で早くも歌曲の代表作を書き、それらの歌曲は文学と音楽の両要素が絶妙なバランスで融合している。多数のピアノ・ソナタ、室内楽曲、オペラ、ミサ曲、何より600曲以上もの歌曲を世に送り、ロマン派時代を代表する作曲家のひとりとなった。古典派の目指した調和や抑制とは正反対となる、ロマン派の詩情豊かで憧憬に満ちた、ときに神秘的、ときに感情的な世界を探究した。作曲活動の初期はモーツァルトやベートーヴェンの強い影響下にあり、そこから脱しようと苦闘していたが、次第にシューベルトならではの美しく色彩的な和声を強調した新しい響きを生み出していった。ベートーヴェンでもモーツァルトでもない真のシューベルトとなった。
シューベルトが書いた約1000曲もの作品群は、1951年にオーストリアの音楽学者オットー・エーリヒ・ドイチュが目録(ドイチュ番号)で整理した。交響曲の作品番号は、1951年の段階では第7番ホ長調、第8番「未完成」、第9番「ザ・グレート」とされていた。没後135年となる1963年、ドイツ・カッセルに「国際シューベルト協会」が創設され、それまで混乱がみられた作品番号の整理を開始。1978年、国際シューベルト協会は、第7番「未完成」、第8番「ザ・グレート」と番号の繰り上げを行った。

【墓巡礼】
芸術家は気難しい、いわゆる“偏屈”と呼ばれる人も多いけれど、シューベルトはその温厚で優しい性格から、多くの友人がいたし、彼を助けようと思わせる魅力があった。これほど友人たちに愛された音楽家を他に知らない。僕自身、5度墓参している。初めてウィーン中央墓地の楽聖エリアを訪れたとき、ベートーヴェン、シューベルト、ヨハン・シュトラウス、ブラームスの墓とモーツァルトの旧墓が並ぶ光景に圧倒された。人類の奇跡ともいうべき天才がズラリ。遺言が実現して、大好きなベートーヴェンの隣りに眠っているシューベルトの墓を見ると、“良かったですね、シューベルトさん”と思わず声を掛けてしまう。墓石には、神が右手の月桂冠をシューベルトの頭に授けようとしている姿が彫られている。ちなみに、改葬前の旧墓にはブロンズ胸像に劇作家グリルパルツァーの言葉「音楽はここに豊かな至宝と、それよりもさらに尊い希望を葬った」が刻まれている。
彼が31歳で世を去らず、80歳まで長寿していたら、いったいどれほど多くの美しい歌曲や交響曲がこの世界に溢れていたか。31歳でも約千曲。おそらく作品群は2千曲、3千曲に達していただろう…。だが、もしもシューベルトが存在していなかったら、歌曲も交響曲もすべてゼロだった。たとえ31年という短い年月であっても、彼が生まれてこの世にいたこと、その奇跡に人類の一員として心から感謝したい。

※こんな会話の記録がある。「シューベルトさん、貴方の音楽はどうしてどれも悲しげなのですか?」「幸せな音楽というものが、この世にあるのですか?」
※シューベルト存命中に交響曲・オペラなど大型作品は楽譜が出版されなかったため、自筆譜の記号がアクセントなのかデクレッシェンドなのか判別不可能という例が少なくなく、『未完成交響曲』の管楽器の音楽記号の解釈は、いまだ指揮者によって異なっている。僕の学生時代、『未完成』はまだ第8番と教科書に載っていたし、大半のレコードも第8番だった。
※生前に出版された作品だけでも作品番号は100を超えている。
※死因については、他界の前月にレストランで出された魚料理で腸チフスになったとする説、梅毒治療を通して水銀中毒になったという説など複数ある。
※シューベルトの歌曲はゲーテの詩を基にしたものが最も多いが、同時代の無名の詩人の作品も積極的に取り上げている。文学的な知識欲が旺盛だった。歌曲は、ベルリオーズ、リスト、ブラームス、オッフェンバック、ブリテンなど後世の作曲家が、管弦楽版に編曲している。
※ゲーテに歌曲の楽譜を友人が送ったが、残念ながら送り返されてしまった。ゲーテは『魔王』のようにあまり劇的すぎるものを好まなかったようだ。
※シューベルトの音楽は2種類に分けられる。“野ばら”“アヴェ・マリア”など清らかで美しい調べの白シューベルトと、歌曲集“冬の旅”など挫折、さすらい、死の影に支配された黒シューベルト。没する直前のピアノ・ソナタは、聴いているとあの世への旅というものを体験できる。
※シューベルトに始まったドイツ歌曲の系譜は、シューマン、ブラームス、ヴォルフ、マーラー、R・シュトラウスに繋がっていく。
※「シューベルトの曲は喜びと同じくらい、悲しみがある」(吉田秀和・音楽評論家)



★プッチーニ/Giacomo Puccini 1858.12.22-1924.11.29 (イタリア、トレ・デル・ラーゴ 65歳)2002
Puccini Estate Grounds, Torre del Lago (Near Viareggio), Italy


墓は自宅プライベート・チャペルの中にあった 中は撮影禁止(これは絵葉書)

斜塔で有名なピサの近郊にプッチーニ邸があり、現在、彼の博物館として公開されていた。



★リヒャルト・シュトラウス/Richard Georg Strauss 1864.6.11-1949.9.8 (ドイツ、ガルミッシュ 85歳)2002
Richard Strauss Villa, Garmisch, Germany

リヒャルト・シュトラウスはその雄大な音楽にふさわしく、チロル地方に近いドイツ南部のアルプスに抱かれていた。

大きな荷物を背負って坂道を登るのは大変なので、
地元の旅行案内所で預かってもらった。(奥の黒い奴)
村ハズレにある教会墓地を目指す。さすがはアルプス、
空気が上手い。街中の巡礼と違って、どんなに歩いても
なかなか疲れなかった。青空と緑が目に沁みる墓参だ。
なんとも、のどかな墓地。小さな墓地とはいえ意外に
墓が多く、墓地内の略図を旅行案内所で描いてもらっ
ていなかったら、墓探しは困難を極めていただろう。
どの墓も個性豊かでかわいらしい、田舎の墓地。
あたたかい陽射しが優しく彼らを包み込む。
ハイジに出てきそうな噴水!とっても冷たかった! 墓地の向こうには山々の大パノラマが見える。
ついに憧れのR・シュトラウスに謁見!! R・シュトラウスの背後にも雄大な山並みが。
ほんと、素晴らしい場所に彼は眠っていた!!

彼のオペラ『サロメ』は完成当初、あまりに背徳的な描写があるという理由で、上演禁止に追い込まれたセンセーショナルな作品だ。
また、弦楽器のみで演奏される『変容』は、世紀末の闇と混沌が包み込んでくるような曲で、マジで魂を抜き取られそうになる。


●リヒャルト・シュトラウス作曲「4つの最後の歌」から“夕映えの中で”
(Im Abendrot/詩:アイヒェンドルフ)

私たちは苦しみにつけ喜びにつけ手に手をとって歩んできた
そして今 さすらうのをやめ静かな丘で休んでいる
周りの谷は沈み 空には闇が近づいている
二羽のヒバリだけが夢を追いつつ 夕もやの中を昇っている
こっちにおいで ヒバリたちはさえずらせておこう
もうすぐ眠りの時が近づくから
二人きりの寂しさの中 はぐれないようにしよう
ああ 広々とした静かな安らぎよ
こんなにも深い夕映えに包まれ
歩み疲れた私たちがいる
これがもしかすると死なのだろうか



★グリーグ/Edvard Grieg 1843.6.15-1907.9.4 (ノルウェー、ベルゲン 64歳)2005&09
Ashes sealed in the side of a cliff projecting over the fjord at Troldhaugen(his home)

 

オスロからフィヨルド地帯へ!ノルウェー西端にグリーグの眠るベルゲンがある











墓はグリーグの家(今は博物館)の裏手、海岸沿いにある。
家に至る道の美しいこと!林が夕陽を浴びて輝いていた
これがグリーグ・ハウス

そしてグリーグ像
















裏庭を下ると海岸がある

海が見えてきた!

なんとー!彼の棺は海に面した崖にめり込んでいた!
こんな場所にある墓なんて見たことないッ!ブッ飛んだぜーッ!!


墓前には美しい景観が広がっていた。崖の高さなら見晴らしもいいだろう。なんて幸せなお墓なんだろーか!

ノルウェーの作曲家。近代北欧音楽の代表者の一人で、抒情的で民族性に豊んだ音楽を生み出した。代表作に「ピアノ協奏曲イ短調」、組曲「ペール=ギュント」。



★ドビュッシー/Claude Achille Debussy 1862.8.22-1918.3.25 (パリ、パッシー 55歳)2002&09
Cimetiere de Passy, Paris, France Plot: Division14


2002 実にスッキリとした墓 なんて書いてあるんだろう? 2009 7年後。墓がシンプルなだけに目立った変化なし

“C”と“D”をデザイン化したサインがオシャレ 背後にも名前が入っていた

フランスの作曲家。従来の和声法を棄て、新たな和声を使って感覚的な音の響きを重視した印象派音楽を生む。
代表作は「牧神の午後への前奏曲」、仏語歌劇「ペレアスとメリザンド」など。

エッフェル塔のすぐ近くに彼は眠っている。シンプルでフォルムの美しい墓だった。絵画の印象派といえばモネや
ルノアールだが、音楽の印象派の第一人者はドビュッシーだろう。繊細な音のきらめきに陶然としてしまう。
1919年にペール・ラシェーズからこっちへ改葬されたらしい。

「言葉で表現できなくなったとき、音楽が始まる」(ドビュッシー)




★ビバルディ/Antonio Vivaldi 1678.3.4-1741.7.28 (オーストリア、ウィーン 63歳)2002
Vienna University of Technology, Vienna, Wien, Austria



悲惨!かつてビバルディが埋葬されていた墓は消えていた!

 

誰もが一度は耳にする名曲『四季』の作曲者でありながら、その晩年は不遇だったようで、故郷ベネチィアを遠く離れた
ウィーンの貧民墓地に葬られた。しかも墓地の上には、現在ウィーン工科大学が建っている。大学の壁面に、
かつてこの地に彼が埋葬されたことを示す小さなプレートがあるが、これに気づき立ち止まる人は殆どいない。


孤児院で教師をしていた彼が作った曲の大半は、生徒達のために書かれたもの。ケンカにならぬよう各楽器ごとに見せ場があるだけでなく、
他人と共同する楽しさを教える為にアンサンブルの魅力が存分に発揮されている。それが理由なのか、彼の曲は聴いていて全く退屈しない。



★ラヴェル/Maurice Joseph Ravel 1875.3.7-1937.12.28 (フランス、パリ郊外 62歳)2002&09
Cimetiere de Levallois-Perret, Paris, France

  


2002 大雨だった 2009 正門をくぐって右前方に眠っている

02年はドシャ降りの中の巡礼!管理人事務所で雨宿りさせてもらっていたら、話題に窮した管理人のおばさん(英語を話せる人
だった)が、何を思ったかラヴェルが死去した際の“埋葬証明書”を見せてくれ、「墓参の記念に」とコピーまでとってくれた!

たったひとつのフレーズを約15分にわたり、全宇宙に展開する“ボレロ”。音の魔術師ラヴェルの神業に近い
オーケストレーションに絶句!(小太鼓が叩く2小節のフレーズの繰り返しは、なんと169回!)

バレエ『ボレロ』…1928年、バレリーナのイダ・ルビンシュタインが「スペイン人役のバレエ曲を作って下さい」とモーリス・ラヴェルに作曲を依頼し、音楽史に残る名曲が完成した。作品のコンセプトは“スペイン・セビリアのタブラオ(居酒屋)で1人のロマ(ジプシー)の女がテーブルに乗り、周囲の男たちを挑発する”というもの。初演は同年11月22日のパリ・オペラ座。振付けを担当したのはニジンスキーの妹、ブロニスラヴァ・ニジンスカだった。それから32年後、1960年にモーリス・ベジャールがユーゴのバレリーナ、デュスカ・シフニオスに振り付けたものが、現在の有名な『ボレロ』だ。

ベジャールの演出では、円形の赤いテーブルの上で「メロディ」役を1人の女性ダンサーが踊り、周囲では「リズム」役を男性のコール・ド(群舞)が踊った。リズムたちは、最初は離れた場所で椅子に座っている。メロディが静かに踊り始めてもソッポを向いているが、やがてメロディの振りが激しく情熱的になっていくと、1人、2人と我慢しきれなくなって立ち上がり、メロディを女神の如く讃えるように踊り出す。次第にメロディとリズムは響きあうように熱狂していき、官能と興奮のピークで全エネルギーを放出して倒れ伏す。全15分。※円形のテーブルを卵子とする解釈もある。確かにラストに男たちがテーブルを取り囲む姿は受胎を思わせる。さすれば、新たな命を産み出す生命賛歌であり、『ボレロ』はいっそう感動的に見える。

物語の展開上、当初は女性だけがメロディを踊っていたが、やがてジョルジュ・ドンというアルゼンチン出身の素晴らしい男性ダンサーが現れ、ベジャールはドンをメロディに抜擢、この試みは大成功を収める。そして映画『愛と哀しみのボレロ』(1981)のクライマックスでドンの踊りが映し出され、ボレロは世界的に有名になった。それからの約10年、ドンは各国でボレロを踊るが、あまりにドン=ボレロのイメージが強くなり過ぎた為、「過去から自由になりたい」とドンはボレロを封印する(日本公演は1990年が最後。僕は23歳の時に大阪フェスティバルホールで鑑賞)。それからすぐ、92年にドンはエイズの為に45歳で他界した。※YouTube『ジョルジュ・ドンのボレロ』(8分41秒のハイライト。クライマックスは3分50秒から)

数々のダンサーが『ボレロ』を踊ることを熱望したが、ベジャールが彼の芸術を理解し体現できると認めた人間しか許さないため、僕の知る限り、女性で踊ったのは、マイヤ・プリセツカヤ、シルヴィ・ギエム、ショナ・ミルク、マリシア・ハイデ、マリ=クロード・ピエトラガラ、デュスカ・シフニオス、上野水香の7人、男性はジョルジュ・ドンを筆頭に、パトリック・デュポン、シャルル・ジュドー、エリック・ヴ=アン、リチャード・クラガン、高岸直樹、首藤康之、後藤晴雄の8人、計15人だけ(他にもいたらスミマセン!)。ベジャールが他界したのは07年11月22日。奇しくもボレロの初演と同じ日だった。

ボレロ研究で参考にさせて頂いたこちらのサイトによると、男性群舞の衣装は、初期は居酒屋に集う水夫をイメージし、縞柄シャツを着て首にミニ・スカーフを巻いていた。現在上半身が裸なのは、(1)波打つ裸体が音楽を視覚的に表現する(2)「裸体こそが最も美しい衣装」(三宅一生談)。また、話題のバレエ漫画『昴』にはこんなセリフが出てくるらしい→「ダンサーには二種類しかない。『ボレロ』を踊ることが許されたダンサーとそうでないダンサー」。クーッ、かっこいい!

※1987年に2つのテーブルを前後に並べた「二人ボレロ」という珍しい舞台があったそうだ(シュツットガルト・バレエ団公演、メロディはマリシア・ハイデ&リチャード・クラガン)。うっわー、めっさ興味をそそられるんだけど、映像が残っていないのかな!?



★ドヴォルザーク/Antonin Leopold Dvorak 1841.9.8-1904.5.1 (チェコ、プラハ 62歳)1994&2005
Vysehradsky Hrbitov, Prague, Czech Republic

1994 墓地の壁沿いに眠る 2005 お久しぶりです!墓の両脇の柱がオシャレ

チェコの偉人が大集合したヴィシュフラド墓地(元は古城だった)にドボォルザークは眠っている。モルダウ川が近い。
彼の楽曲の土臭さが大好き。親近感ありまくり。メロディーラインは詩情に溢れ、どの曲も退屈という言葉とは無縁だ。
流れるようなメロディーを考えることが苦手だったブラームスは、親友のドヴォルザークの才能を終生羨ましがっていたという。
「ドヴォルザークがダメだと思ってゴミ箱に捨てた楽譜の断片で自分は一曲書ける」(ブラームス)

※ドヴォルザークは筋金入りの“鉄っちゃん”(鉄道オタク)。音大で講座中に列車の通過時間になると授業を中断して観に行ったという。
「本物の機関車が手に入るのだったら、これまで自分が創った曲の全てと取り替えてもいいのに…」(ドヴォルザーク)



★ムソルグスキー/Modest Petrovich Mussorgsky 1839.3.21-1881.3.28 (ロシア、ペテルブルグ 42歳)1987&05&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation

    
若きムソルグスキー   合い言葉は「民衆の中へ!」 死の3週間前(レーピン画)
「芸術家は未来を信じる。自分自身が未来に生きるゆえに」(ムソルグスキー)



2005 チャイコフスキーのすぐ側 2009 画家レーピンが彼を埋葬した 墓参は6月上旬の15時半。木漏れ日がちょうど顔に当たって立体感が出た



両側面の足下に、代表作の
名前が彫られた石板がある
歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』の楽譜が正面に刻まれている。第1幕第1場の修道僧ピーメンの歌。
歌詞の意味は 「そうして正教徒の子孫達は知るだろう、故郷の地の過去の運命を!」

※墓石の楽譜について、「"展覧会の絵"研究会」を参照しました。同サイトによると墓の裏面には生没年が記載されており、
その生年が間違っているらしい(僕は未確認、不覚!)。当時は魔よけのため生年月日を偽る習慣があり、本人も勘違いしていたらしい。


 
墓のデザインで目をひいたのは、下の方がピアノの鍵盤になっていたこと!音楽家にふさわしい墓!

作曲家ムソルグスキーと画家ガルトマン(ハルトマン)は「芸術の真の目的は民衆の生活を描くこと」「富裕層の為の芸術ではなく民衆の為の芸術を!」と高い理想を胸に頑張っていたが、なかなか世間から認められず、世渡り下手で友達も少なかった。ムソルグスキーは批評家から「素人同然」と酷評され、ガルトマンも「空想の絵だけ描けて現実の物は描けない」と仲間から嘲笑された。だが、ムソルグスキーは帝政ロシア末期の暗い時代の中でも、明るさを忘れないガルトマンの画風を高く評価していた。理解者がお互いだけという状況で、2人は両者の存在が掛け替えのないものになっていく。だが1873年、出会いから3年目にガルトマンは動脈瘤で急死。まだ39歳の若さだった。訃報の電報を受け取ったムソルグスキーは倒れ込む「たった2行の知らせが僕を打ちのめした。僕はベッドに倒れ込み、そのまま翌日まで起き上がることが出来なかった」。ガルトマンと最後に出会った時(1ヶ月前)の記憶をムソルグスキーは手紙にこう記している「ガルトマンが突然街角でうずくまった。今から思えば、あれは心臓発作だったんだ。だが僕は全く気付かなかった。なんて愚かだったのだろう。もし気付いていれば何かしてやれたのに」。一方、ガルトマンもこの時の気持を絶筆の手紙に残している「僕はあの時、死が近いことを感じ、とても取り乱してしまった。なのにムソルグスキーはとても親切にしてくれた。ムソルグスキーは僕にとっていつも神様みたいな存在だった」。

  無二の親友だったガルトマン 

ガルトマンの他界から半年後、ロシア美術アカデミーで催された遺作展を訪れた彼は、親友の絵に再会して深く心を動かされる。「僕の心の中でガルトマンが熱く沸騰している。音と思想が空気の中に漂い、僕はそれを見つめ紙の上に書き記す」。ムソルグスキーは親友の400点の絵から10点を選び、それをモチーフに音楽をつけた。これが有名な『展覧会の絵』だ。曲と曲の間には「プロムナード」(仏語で“散歩”の意)が流れ、ムソルグスキー本人が会場を歩いている様子が描写されている。特筆したいのは第4曲の「ヴィドロ」。この重厚なメロディーの曲は、「ヴィドロ」がポーランド語で“牛”を指すことから、長く「牛車」の描写と思われてきた。ムソルグスキーも手紙に「ヴィドロ、これは“牛車”という意味にしておこう」と記している。わざわざ含みを持たせているのは、「ヴィドロ」には「家畜のように虐げられた民衆」というもう一つの意味があったからだ。ガルトマンが描いた「ヴィドロ」の元絵は、ロシア支配下のポーランドで実際に起きた民衆蜂起の絵で、その絵では軍隊に弾圧された民衆がギロチン刑にされていた。ガルトマンはポーランド旅行の時に処刑の現場に出くわし、強烈な体験を描きとめたのだ。ロシア皇帝の圧政が続く時代、抑圧されたポーランドの民衆への同情を表明した知識人は次々と投獄されており、ムソルグスキーは権力に対する命がけの抵抗歌として第4曲「ヴィドロ」を書いたんだ(日本の音楽教育の現場では、いまだに「ヴィドロは牛車が遠くからやってきて、目の前を通り、去っていく様子」と教えている。違〜う!)。フィナーレの第10曲「キエフの大門」は最も感動的な曲。これはロシア発祥の地・古都キエフで廃墟になっていた大門(11世紀にロシア最初の統一王朝が作った門)の再建案が公募された時、ガルトマンがデザインした絵だ。それは鳴り響く釣り鐘やロシア民族の誇りを表す「兜(かぶと)型」の屋根がついた美しいもの。この門の絵にムソルグスキーは壮麗なメロディーをつけた。しかもクライマックス直前には、華やかな「キエフの大門」の中に「プロムナード」(=ムソルグスキー)のメロディーを入れた込んだ!つまり、ムソルグスキーは楽譜の中でガルトマンと再会を果たしたんだ!ガルトマンやムソルグスキーが夢見た明るい理想のロシアの中で、2人の魂が溶け合っている!(これは泣く!)。ムソルグスキーは『展覧会の絵』の楽譜に「ガルトマンの思い出に」と刻んだ。
ガルトマンの死後、それまでも深酒をしていたムソルグスキーはますます酒に溺れ、アルコールでボロボロになり8年後に42歳で亡くなった。ムソルグスキーの肖像画を描いたレーピンいわく「洗練された紳士だった男が、持ち物を全て売り払って安酒場に入り浸っている。ボロを着て酒で顔が膨れあがった男。本当にこれが私の知るムソルグスキーなのだろうか」。

亡き親友の為に作曲したピアノ組曲『展覧会の絵』は生前に発表されることはなかったが、半世紀後に作曲家ラヴェル(@ボレロ)の手でオーケストラ化され、今や世界の人々に愛される名曲になっている。ロシアでさえ無名の画家だったガルトマン、不遇のまま死んだムソルグスキー。しかし人間は死んだからって終わりじゃない。両者の魂は芸術に姿を変えて世紀を超え、130年後を生きる僕らの心に届き、さらにまたこれからも人類が生き続ける限り受け継がれていくだろう。『展覧会の絵』を聴けばいつだって彼らに会える。
※『展覧会の絵』のモチーフになった絵は、革命や戦争で散逸し、長い間10枚のうち半数しか判明していなかった。残りの絵は“海外へ流出した”“独ソ戦で燃えた”と噂されていた。ところが、1991年にNHKの調査チームと作曲家の故・團伊玖磨さんがロシアに渡って、不明だった残りの5枚の絵を執念ですべて発見!ロシア人の研究者でさえ果たせなかった快挙だ。これは世界的&人類史的に見ても、芸術という分野でNHKが果たした最大の功績だと思う!

ピアノ版、オケ版が入って千円と良心的(Ama

(参考資料)NHK『革命に消えた絵画』、NHK『名曲探偵アマデウス』ほか



★ラフマニノフ/Sergei Vasilievitch Rachmaninoff 1873.4.2-1943.3.28 (USA、NY郊外 69歳)2000&09
Kensico Cemetery, Valhalla, Westchester County, New York, USA

  




2000 2009 背後の木々が少しスッキリ ロシア正教の十字架



十字架前の墓標に“セルゲイ&ナタリー”とあった この角度から見るのが好き。カッコイイ!

彼が精神病棟でリハビリの為に作曲した「ピアノ協奏曲第2番」は、クラシック史上に残る美しい名曲となった。
この墓地は世界一親切な墓地だった!広大な墓地だったので職員が自家用車で墓の場所まで連れてってくれ、
帰りは最寄の鉄道駅まで送ってくれた。こちらは何も頼んでいないにも関わらずだ。あ、あり得ない!
※ラフマニノフはロシア生まれ。後に米国へ亡命した。本名の綴りは“Rachmaninov”。




★ビゼー/Georges Bizet 1838.10.25-1875.6.3 (パリ、ペール・ラシェーズ 36歳)1989&02&05&09
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France






傑作『カルメン』を作曲! 1989 初巡礼 2002 墓上にはビゼー像が建つ

 
2005 この時もまだビゼー像がある。イイ男

2009 ぐおー!どこのどいつじゃ、ビゼー像を持ち去った野郎は!
そりゃ、僕だって欲しかった。が、持って行っちゃイカンだろう!
※胸像は2006年11月に他の5体と共に何者かに盗まれたが、後に発見され現在は墓地が保管しているとのこと。レプリカでも良いので置いて欲しい…。

1838年、パリ生まれ。母はピアニスト、父は声楽教師という音楽家の家庭ゆえ、幼い頃から音楽に親しみ、9歳でパリ音楽院に入学した。グノーに師事。18歳の時に若い芸術家の登竜門ローマ大賞(1663-1968)に応募。ローマ大賞は30歳以下の若者への奨学金付留学制度で、音楽、建築、絵画、彫刻、版画の5部門について王立アカデミーが最優秀者を選び、イタリアへ国費留学させるというもの。ビセーは最優秀になったが年少のため2位扱いになり、翌年(19歳)にあらためてローマ大賞に輝き1860年(22歳)までイタリアに留学した。当時の音楽界ではオペラが最も価値あるものと思われていたので、オペラの本場であるイタリアに行くことは若い作曲家の夢だった。
23歳、帰国後のビゼーは巨匠ピアニストのリスト(当時50歳)の目の前でピアノを弾き、天才リストをして“私よりあなたが上だ”と言わしめた。だが、ビゼーはピアニストではなく、あくまでもオペラ作曲家を目指した。しかし現実は厳しい。1863年(25歳)に発表した歌劇『真珠採り』が好評となり、オペラ作曲家の地位を確立したかに見えたが、以降に発表した約10曲のオペラは晩年の作品をのぞいてどれも大きな話題にはならなかった。

1872年(34歳)、フランス人作家ドーデの戯曲『アルルの女』につけた音楽(BGM)が話題になり、ビゼーの名が初めてパリっ子に広く知られた。『アルルの女』はオペラではなく舞台演劇であったため、ビゼーはなんとか作曲家の最高ステータス=オペラで成功したいと熱望し、翌年から1年をかけて『カルメン』の作曲に取りかかる。1875年3月、渾身の力作『カルメン』が完成し初演を迎えた。喝采を期待していたビゼーだが、ヒロインが貴族の令嬢ではなくタバコ工場の労働者ということで華やかさに欠け、またヒロイン役が一般的なソプラノ歌手ではなくメゾソプラノ歌手という点でも、観客の反応はイマイチだった。これはビゼーを深く失望させた。『カルメン』は初演こそ不評だったものの、90日間に33回上演されるなど、決して失敗作ではない。しかし、ビゼーはもっと大きな成功を期待していたことから心労で体調を崩してしまう。そして初演から3ヶ月後に敗血症(細菌感染症)のため他界した。

2歳年下のチャイコフスキーはビゼーの死の5年後にこう記している「昨夜、仕事の疲れを休める為にビゼーの『カルメン』を全曲弾いた。傑作という言葉の意味をいかんなく発揮した楽曲だ。今後10年の間に世界で一番人気のあるオペラになるだろう」。ドビュッシーやサン=サーンスもビゼーを絶賛し、哲学者ニーチェは『カルメン』を20回も観たという。チャイコフスキーの予言は的中し、『カルメン』は初演から130年以上が経った今でも、世界各地で常に上演され続けている大人気演目となった。

『カルメン』(前奏曲/2分26秒)レヴァイン指揮/メトロポリタン歌劇場管弦楽団(めっさ爽快!)



★サティ/Erik Satie 1866.5.17-1925.7.1 (フランス、パリ郊外 59歳)2002
Cimetiere d'Arcueil, Arcueil, France

 

清掃車の兄ちゃんたちに墓地への道順を尋ねたら、なんとそのまま清掃車で墓地の近くまで送ってくれた!
サティの曲はすごくオリジナリティがあり、彼だけにしか作れないものばかり。曲名も「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」など実にユニーク。
※命日は7月4日説アリ。



★リスト/Franz Liszt 1811.10.22-1886.7.31 (ドイツ、バイロイト 74歳)2002
Alter Friedhof, Bayreuth, Germany

   

白亜のチャペルの中に眠っている。※若き日のこのイケメンぶりを見よ!

神の化身といわれた人類史上最大のピアニスト、リスト!彼は作曲も試み、色彩感豊かな素晴らしい作品を多数残している。




ワイマールにあるリストの家。他の見学客がいなかったので、なんと管理人さんがリストのピアノを弾かせてくれた!(1989)



★メンデルスゾーン/Felix Mendelssohn-Bartholdy 1809.2.3-1847.11.4 (ドイツ、ベルリン 38歳)2002
Dreifaltigkeitsfriedhof I, Berlin, Germany



メンデルスゾーン家の墓所。彼らは町の名士だった。 実は94年にも訪れていたが、赤の他人のメンデルスゾーン
さんに巡礼していた。完全に人マチガイ。大雨の中を、ズブ
濡れになって2時間かけて探し当てたのに…。墓前で超喜ん
でるだけに、この写真は自分にとって涙なくしては見れない。

メンデルスゾーンの曲はどれもメロディーが大変美しく、何時間聴いても苦にならないッス。




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