作曲家の墓
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音楽家への巡礼は、英語が通じない国でも、メロディーを口ずさむことで誰を探しているのか相手に伝わることも多く、まさに「音楽は言葉の壁を越える」、だね。



★ベートーヴェン/Ludwig van Beethoven 1770.12.16-1827.3.26 (オーストリア、ウィーン 56歳)1989&94&2002&2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria

















都会的でハンサム でも本当はもっと素朴 第九や荘厳ミサを完成させた頃 散歩中に「田園交響曲」の構想を育む















彼が住んでいたアパート。
部屋は5階の窓が開いている所
ドアのノブに触って
「間接握手」だッ!
ベートーヴェンのピアノと胸像。窓の向こうは大学だ(撮影許可済)


路線38Aで彼が遺書を書いた
ハイリゲンシュタットへ
通称エロイカ・ハウス

窓から美しい庭が見える

デスマスク…ぐっすん


別のベートーヴェン・ハウス。彼は引越し魔
(70回以上!)だったのでウィーン中に家がある
エロイカの楽譜。ナポレオンの名前
がグチャグチャに消されているッ!










2002 夕陽の中にたたずむベートーヴェン 碑文を拡大 2005 小雨の中の彼

「モーツァルトは誰でも理解できる。しかしベートーヴェンを理解するには優れた感受性が必要だ。失恋などで悲しみのどん底にいなければならない」〜シューベルト
「ベートーヴェンの曲は“これしかない”という音が後に続くから完璧なのだ」〜レナード・バーンスタイン(指揮者)
「今、運命が私をつかむ。やるならやってみよ運命よ!我々は自らを支配していない。始めから決定されてあることは、そうなる他はない。さあ、そうなるがよい!そして私に出来ることは何か?運命以上のものになることだ!」(ベートーヴェン)

僕はかつて同じ人類の中に彼がいたという一点をもって、人間が地球に誕生したことは無意味ではなかったと確信している。ベートーヴェン以前の音楽家は、皆が王室や貴族に仕え、作品といえば注文に応じて書く式典用の音楽が大半だった。だが、平民出身で進歩的なリベラル(自由主義者)のベートーヴェンは、そのような主従関係を拒否し、一部の貴族のために作曲するのではなく、全人類に向けて作品を生み出した。自身の内面から湧き上がる創作の欲求に従い音楽を書いた。単なる娯楽としての音楽ではなく、「苦悩を突き抜け歓喜へ至れ」と人間讃歌をうたいあげた。個々の音符から見えてくるものは“そうあらねばならぬか?そうあらねばならぬ!”という鋼鉄の意志。古典派の堅固な構成とロマン派の劇的な展開が化学反応を起こし、安定感と創造的破壊のせめぎ合いが生む緊張感にシビレ、法悦(エクスタシー)とも言うべき快楽を与えてくれる。限りなく深い世界愛と、権力者の理不尽な抑圧に立ち向かう人道主義に裏打ちされた楽曲は、まさに“楽聖”の名にふさわしい。

ベートーヴェンは9曲の偉大な交響曲、7曲の協奏曲(5曲がピアノ協奏曲)、32曲のピアノ・ソナタ、17曲の弦楽四重奏曲、10曲のバイオリン・ソナタ、5曲のチェロ・ソナタ、2曲のミサ曲、オペラ「フィデリオ」、その他、138曲もの作品を生み出した巨人(タイタン)。同じ人間が作ったものとは思えず、僕にとっては存在そのものが神話に近い。
その一方で、親しみを感じる人間味のあるエピソードも多数残している。ベートーヴェンは決して“天才”ではなかった。天才とはモーツァルトのように楽譜に向かう前に既に頭の中で曲が完成している者のことをいい(モーツァルトの楽譜は殆ど修正した跡がない)、ベートーヴェンのようにひとつのメロディーを書くだけで延々と書き直したりはしない。『運命』の第2楽章には8度も旋律が書き直された(貼り直された)箇所があり、しかもそれを剥がしていくと8枚目と元の旋律が同じだったりする。有名な『運命』の冒頭もさんざん試行錯誤して下書きを繰り返したものだ。散歩中に書き付けた紙切れやメモ、ノートのスケッチは7000点以上にのぼる。
不器用な彼は作曲中、他の一切の用事が出来ず、ピアノの上にはカビの生えたパンが皿に乗っており、ピアノの下では簡易トイレが大爆発していた(雇ったメイドは片っ端から逃げ出した)。そんな環境で『エリーゼのために』や『月光』など美しい珠玉の傑作が生まれるんだから面白い。大好物はパンを入れて煮込んだスープ、魚料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたもの、そしてハンガリーの極甘口トカイワイン。コーヒーは自分で豆60粒をピッタリ数えて淹れるこだわりを持っていた。
神経質なほど“引越し魔”で、ウィーン滞在の35年間で79回も転居したという記録が残っている。他にも、人道主義的理想を掲げた大傑作の第九の直後に『なくした小銭への怒り』という珍曲を作ってるのも人間っぽくて良い!

テプリツェ(現チェコ北部)でゲーテと散歩中にオーストリア皇后・大公(皇太子)の一行と遭遇した時のこと。ゲーテは脱帽・最敬礼と共に一行を見送ったが、ベートーヴェンは堂々と頭を上げて行列を横切り、逆に大公一行から挨拶されたという。ゲーテが理由を問うと「皇太子はいくらでもいるが、ベートーヴェンはこの世にただ1人だ」と言ってのけ、ゲーテを絶句させた。後援者のリヒノフスキー侯爵に対してさえ「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎないが、私が今あるのは私自身の努力によってだ」と書き送っている。
17世紀の封建社会にあって貴族に唾を吐きかける無敵ぶりと、耳が聞こえなくなるという不運にもかかわらず、“運命が決まってるならそうなるがよい、こっちは運命の上を行くだけだ”(聴覚を失ってもさらに作曲を続ける)と、逆に運命の女神に闘争宣言を叩き付け、血祭りに上げてしまう恐るべき精神力。歩く活火山のようなパワフルさ。めちゃくちゃカッコイイ!

ベートーヴェンの作品が後世の作曲家に与えた影響は絶大で、ブラームスは40代になるまで交響曲が書けなかった。ワーグナーは「この世には既にあの9つの交響曲があるのに、このうえ交響曲を作る意味があるのか」と立ち尽くし、ベートーヴェンが開拓しなかった楽劇の道に進んだ(ベートーヴェンのオペラは1作品しかない)。また、『運命』が交響曲第5番であったことから、多くの作曲家が自身の第5番に並々ならぬ気合いを入れ、チャイコフスキー、マーラー、ブルックナー、ショスタコーヴィチ、ドヴォルザーク(「新世界より」は旧5番)などが名曲を残している。ブラームスは4番までしかない。

●その激動の生涯
1770年12月16日、ケルン選帝侯の城下町ボンに生まれる。身長167cmでがっしり体型。肌は浅黒。弟子のチェルニー(教則本で有名)は、ベートーヴェンの第一印象を「ロビンソン・クルーソー」「黒髪が頭の周りでモジャモジャ逆立っている」と表現している。後年は服装に無頓着だったためホームレスと誤認逮捕され、ウィーン市長が謝罪するなんてこともあった。
祖父(オランダ人)は宮廷楽長、父も宮廷楽団の歌手であったが、父が酒に溺れてしまい、祖父が家計を援助していた。母は宮廷料理人の娘。3歳で祖父が他界すると生活が困窮し、翌年から父はベートーヴェンをモーツァルトのような神童にして一稼ぎしようと苛烈なスパルタ教育を行う。10歳で小学校を退学し、12歳で作曲家ネーフェに師事。14歳、正式に宮廷オルガニストに任じられる。1787年(17歳)、音楽の都ウィーンを旅行してモーツァルト(当時31歳、ベートーヴェンとは14歳差)を訪問し、ピアノの腕前を高く評価される。この時、「今にこの若者は世の話題をさらうだろう」と予言されたとも。弟子入りが認められたが、母の結核が悪化しボンに帰郷、その死を看取る。
1789年(19歳)、妻を失った父はさらに酒量が増えアルコール依存症で失職。ベートーヴェンが宮廷楽師となって家計を支え2人の弟の世話をした。同年、フランスでは民衆が王政を打ち倒す革命が起き、青年ベートーヴェンも大いに刺激を受けた。この頃、ベートーヴェンは教養の不足を感じボン大学聴講生となっていた。大学で文豪シラーの詩「歓喜に寄す」と出会って胸を打たれ、約30年後に第九の歌詞にしている。
1790年に20歳で書いた「皇帝ヨーゼフ2世の悼むカンタータ」は、師ネーフェやベートーヴェンの後援者ワルトシュタイン伯らの心を動かし、“この才気ある若者を是非ウィーンに送ってモーツァルトの弟子にしよう”という運動が起きる。だが翌年にモーツァルトが35歳で早逝してしまい、1792年(22歳)、後援者たちはウィーンで活躍していた高名な作曲家ハイドン(当時60歳)にベートーヴェンを弟子入りさせた(弟子入り資金は後援者が負担)。同年、酒乱の父が他界。ハイドンはあまりに多忙でろくに指導できず、ベートーヴェンは不満を抱いて宮廷楽長サリエリなど複数の作曲家を師に持った。
※ある時ハイドンから「ハイドンの教え子」と楽譜に書くよう命じられ、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と拒否したという。

1795年(25歳)、ベートーヴェンは慈善コンサートで自作ピアノ協奏曲を演奏し、これが大きな話題を呼んだ。さらに即興演奏の名手として人々を魅了。青年ベートーヴェンは作曲家としてより、天才ピアニストとして音楽好きのウィーン貴族たちから喝采を浴びた。一躍社交界の花形となり、楽譜出版社からの収入も増えていき、ボンに残していた2人の弟を呼び寄せた。当時、音楽家の地位は低く、あのモーツァルトでさえ貴族からは使用人扱いで、貧困の中で死亡し亡骸は共同墓地に埋蔵された。だが、モーツァルトの死から10年が経つと楽譜の出版市場が拡大し、ベートーヴェンはフリーの音楽家として楽に暮らしていくことが可能になった。

名声を得て得意絶頂のベートーヴェンだったが、人生が突如暗転する。1798年(28歳)、聴覚障害の最初の兆候が現れると次第に症状が悪化していった。音楽家にとって聴覚を失うことは致命的。他人にバレないようにするため、交際を避け家に引きこもるようになった。同年、ピアノソナタ第8番『悲愴』を作曲。1800年(30歳)、明るく活気に満ちた交響曲第1番を書き上げるが、まだベートーヴェンの個性は薄くモーツァルトやハイドンに近い。1801年(31歳)、弟子でイタリアの伯爵令嬢ジュリエッタ・グイチャルディ(16歳)に捧げたピアノソナタ第14番『月光』を作曲。ベートーヴェンは彼女に恋し、身分の差に苦しむ。
転地療養のため夏はウィーン郊外の静かなハイリゲンシュタットで過ごしていたが、1802年(32歳)、不安と絶望が頂点に達し「ハイリゲンシュタットの遺書」を2人の弟に執筆した。自殺を考えたが、芸術に引き留められたという切実な文章だ。
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『ハイリゲンシュタットの遺書/わが弟たちカール(とヨハンへ)』※原文は長文ゆえ今井顕氏の訳とNHK『その時歴史が動いた』を参考に抜粋要約。

私が意地悪く、強情で、人嫌いのように見えたとしても、人はその本当の原因を知らぬのだ。私の心と魂は、子供の頃から優しさと、大きな夢をなしとげる意欲で満たされて生きてきた。
だが6年前から不治の病に冒されたことに思いを馳せてみて欲しい。回復するのでは、という希望は毎年打ち砕かれ、この病はついに慢性のものとなってしまった。
情熱に満ち活発な性格で、社交好きなこの私が、もはや孤立し、孤独に生きなければならないのだ。
「もっと大きな声で叫んで下さい、私は耳が聞こえないのです」、などと人々にはとても言えなかった。
他の人に比べてずっと優れていなくてはならぬはずの感覚が衰えているなどと人に知らせられようか…おお、私にはできない。だから、私が引きこもる姿を見ても許して欲しい。
こうして自分が世捨て人のように誤解される不幸は私を二重に苦しめる。

交友による気晴らし、洗練された会話、意見の交換など、私にはもう許されないのだ。どうしても避けられない時にだけ人中には出るが、私はまるで島流しにされたかのように生活しなければならない。
人の輪に近づくとどうしようもない恐れ、自分の状態を悟られてしまうのではないか、という心配が私をさいなむ。
医者の言葉に従って、この半年ほどは田舎で暮らしてみた。そばに佇む人には遠くの笛の音が聞こえるのに、私には何も聞こえない。人には羊飼いの歌声が聞こえているのに、私にはやはり何も聞こえないとは、何と言う屈辱だろう。こんな出来事に絶望し、あと一歩で自ら命を絶つところだった。

自ら命を絶たんとした私を引き止めたものは、ただひとつ“芸術”であった。自分が使命を自覚している仕事(作曲)をやり遂げないで、この世を捨てるのは卑怯に思われた。その為、このみじめで不安定な肉体を引きずって生きていく。
私が自分の案内者として選ぶべきは“忍耐”だと人は言う。だからそうする。願わくば、不幸に耐えようとする決意が長く持ちこたえてくれればよい。もしも病状が良くならなくても私の覚悟はできている。自分を不幸だと思っている人間は、自分と同じ1人の不幸な者が、自然のあらゆる障害にもかかわらず、価値ある芸術家、価値ある人間の列に加えられんがため、全力を尽くしたことを知って、そこに慰めを見出すことができるだろう。

L. V. Beethoven 1802年10月6日
ハイリゲンシュタットにて
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“私を生につなぎ止めているのは芸術だ。内なるものを表現し尽くすまでは、死ねない”。精神の危機を克服した瞬間だ。この言葉の通り、ベートーヴェンの創作欲は遺書の脱稿後から大爆発する。パリの有名ピアノ製作者から最新型のピアノ(グランド・ピアノ)を贈られ、その幅広い音域やペダル装置が芸術家魂をさらに奮い立たせた。ベートーヴェンはこのピアノを手に入れると、さっそく特性を生かしたスケール感のあるソナタ=後援者ワルトシュタイン伯に捧げたピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」(1803)を書き上げている。そして、1804年に英雄交響曲を完成させたのを皮切りに、10年間に6つの交響曲の他、ピアノやヴァイオリンの優れた協奏曲を次々と作曲した。この10年間は後世の音楽愛好家から「英雄の時代」と呼ばれ、作家ロマン・ロランは特に1806〜08年を「傑作の森」と呼んだ。

【“英雄の時代”10年】

●1804年(34歳)
2年をかけて交響曲第3番『英雄(エロイカ)』を完成(初演は翌年)。平民出身のベートーヴェンはフランス革命を熱烈に支持しており、平民のナポレオンが欧州の王政諸国を次々と打ち負かしていることを喜んだ。そしてナポレオンのため英雄交響曲を作曲し、楽譜の表紙には“ボナパルトへ捧ぐ”と献辞を記した。ところが、フランスに送る段になって「ナポレオン、自ら皇帝就任」の報が届き、ベートーヴェンは「畜生!ヤツもただ権力にしがみつく俗物に過ぎなかった!」と怒り狂った。そして献辞を穴が開くまで掻き消し、“かつて英雄だった男の思い出に”と書き替えた(ボロボロになった表紙は今も残っており、ブチ切れぶりがよく分かる)。
だが、ベートーヴェンは英雄交響曲の内容を書き直すことはなかった。この曲はナポレオンという1人の英雄を表現したものではなく、全ての人間が持つ英雄的側面や、ベートーヴェンがハイリゲンシュタットで経験した芸術家としての覚悟を音楽に昇華した作品だからだ。従来の一般的な交響曲が30分程度であるのに対し、「英雄」は50分を超える前人未踏の大曲であり、壮大なコーダ(結尾)が聴衆を圧倒した。人々は音楽が持つ強烈な生命力に驚愕した。現実の苦悩を突き抜けて創造の歓喜へと到達した芸術家の魂の記録であり、“これからも生き続けていく”という決意表明だ。魂の新生、ここにあり。英雄交響曲はモーツァルトやハイドンといった古典派から、シューベルトやメンデルスゾーン、ドヴォルザークらロマン派への橋渡しとなった。
●1805年(35歳)
唯一完成したオペラ『フィデリオ』を作曲。題材はフランス革命で実際に起きた事件からとられた。政治犯を救出する物語であり、ベートーヴェンのリベラルな政治的立場が窺える。大変な難産の末に生まれた作品で、ベートーヴェンは自分にオペラは向いておらず、本領は交響曲にあると痛感する。だが、作品の評価は徐々にあがり、11年後(1814年)の上演では当時17歳のシューベルトが教科書を売り払ってチケットを購入したという。
●1806年(36歳)
ベートーヴェンの内省的で情感のこもった作品群はさらに進化。鬱屈した情念が吹き荒れるピアノソナタ第23番『熱情』や、後にメンデルスゾーン、ブラームスと合わせて3大ヴァイオリン協奏曲と呼ばれるヴァイオリン協奏曲ニ長調が書かれる。弦楽四重奏曲にもラズモフスキー・シリーズの名曲を残す。
●1807年(37歳)
交響曲第4番、ピアノ協奏曲第4番、ミサ曲ハ長調。
●1808年(38歳)
1808年12月22日、交響曲第5番『運命』と第6番『田園』が同日にウィーンで初演された。『英雄』や『運命』で描かれた“苦悩を突き抜け歓喜へ至る”という姿勢がベートーヴェン作品の基軸となる。ベートーヴェンは『運命』で音楽史上初めて交響曲にトロンボーンやピッコロを導入し、後の作曲家に受け継がれていく。
●1809年(39歳)
ナポレオン軍のウィーン再占領の混乱下で完成したピアノ協奏曲第5番『皇帝』は、その雄大で輝ける響きから感極まった聴衆が「皇帝(フランツ1世)万歳」と叫んだという。※この「皇帝」はナポレオンのことではないし、フランツ1世も関係ない。後世の音楽ファンが「ピアノ協奏曲の皇帝的存在」と讃えたもの。
●1810年(40歳)
ピアノ小品『エリーゼのために』。ベートーヴェンが愛したテレーゼ・マルファッティに捧げられた。これも悲恋に終わった。
●1811年(41歳)
ピアノ三重奏曲第7番『大公』。優雅で気品のある当曲は、ベートーヴェンを最後まで金銭的に援助し続けたパトロン兼弟子のルドルフ大公に捧げられた。
●1812年(42歳)
この年に書かれ翌年初演された交響曲第7番はベートーヴェンの交響曲の中で最もリズミカルであり、後年ワーグナーは“舞踏の聖化”と讃えた。
●1813年(43歳)
交響曲『ウェリントンの勝利』を発表すると、フランス民謡をイギリス国歌が覆す(仏敗北)という分かりやすさでウィーン市民から絶大な人気を集めた。現在は殆ど演奏されないが、ベートーヴェンにとって生前最大のヒットとなった。
●1814年(44歳)
交響曲第8番が完成。演奏時間が25分前後と短く、モーツァルトやハイドンの時代の古典スタイル。だが旋律はロマン派のそれであり小品ながら意欲作。52小節もフォルティッシモが続いたり、当時では異例のfff(フォルテフォルティッシモ/トリプル・フォルテ)やpppも登場する。

この後、難聴が急速に進み、人前での演奏会はこの年にピアノ三重奏曲『大公』初演でピアノを弾いた場が最後になった(耳が聞こえない為ピアノを大きく弾きすぎた)。第九初演の1824年まで10年間ほど大スランプに陥り、交響曲を書くペンがピタリと止まる。この間に特筆すべき作品は後述する数曲しかない。40代半ばから他界するまでの10年間は聴力を殆ど失っていたことも関係するだろう。次第に奇行が増え、神経性である持病の腹痛と下痢にも苦しめられた。
1815年(45歳)、実弟が死去し、9歳の遺児カールの養育権を得るべくその母と5年後まで裁判で争うことになる。
1818年、絶不調のベートーヴェンのもとに、ロンドンのピアノ会社から73鍵6オクターヴの大型ピアノが贈られた。ベートーヴェンはこのピアノの表現能力を極限まで引き出すことを決意し、「50年後の人間なら弾ける」と語ってピアノソナタ第29番『ハンマークラヴィーア』(約45分の大曲)を完成させた。
1820年(50歳)、有力パトロンのルドルフ大公の仲介もあって、ようやく甥っ子の養育権を勝ち取り後見人となったが、14歳という思春期になっていたカールはベートーヴェンと激しく衝突した。翌年、ナポレオン死去の報が届くとベートーヴェンは“英雄”第2楽章を引き合いに「私はとうの昔にやつの葬送曲を書いている」と皮肉った。
この1820年のベートーヴェンの家事日記が人間味があって面白い→「4月17日、コックを雇う。5月16日(わずか1ヶ月後)コックを首にする。5月30日、家政婦を雇う。7月1日、新しいコックを雇う。7月28日、コック逃げる。8月28日、家政婦辞める。9月9日、お手伝いを雇う。10月22日、お手伝い辞める。12月12日、コックを雇う。12月18日(たった6日後)コック辞める」。こういう具合に何年間も続く。だが、ベートーヴェンは自分にも厳しかった。ある時演奏会が絶賛されたのを読んでこう語った「私のように常に自分の限界を意識している者が、こんなに絶賛されるととても不思議な感じです」。
1822年(52歳)、最後のピアノソナタ3曲「第30番」「第31番」「第32番」と、宗教曲『ミサ・ソレムニス』を作曲。「第32番」の第2楽章は宇宙に静かに瞬く星々の如き崇高さ!

1824年(54歳)、5月7日にウィーンで交響曲第9番の初演が行われる。第8番から10年が経っていた。この頃、ウィーンではロッシーニの喜劇など軽いタッチの音楽が流行しており、ベートーヴェンは自分の重厚な作風は受け入れられないと感じ、第九初演をベルリンで行おうとした。この動きを知ったウィーンの文化人は「どうかウィーンで初演を!」と連名の嘆願書を作成しベートーヴェンを感動させた。嘆願書には「『ウェリントンの勝利』の栄光を今一度」という文言が添えられていた。
この第9番の初演には細心の注意が必要だった。当時のウィーンではフランス革命の波及を恐れた皇帝が、王政や身分制度に反対する者を次々と秘密警察に逮捕させ大弾圧を行なっていた。平民出身のベートーヴェンもまた平等な社会を求め、危険思想の持ち主ということから当局にマークされていた。ベートーヴェンは知人への手紙で“自分の思想を大声で話せない。そんなことをすれば、たちまち警察に拘留されてしまう”と憂いた。また、筆談帳にレストランでの友人との次の会話が残っている「ご注意下さい、変装した警官が様子をうかがっています」。
ベートーヴェンは言論の自由のない社会への抵抗と、自由・平等・博愛の精神を込め、反体制詩人シラーの詩にメロディーを付けた。クライマックスで「 引き裂かれた世界を汝(市民)の力が再び結
び合わせ、その優しい翼を休めるところ全ての人々は兄弟となる」と高らかに歌い上げ、貴族や平民など人間を分けず、身分制度を超えた兄弟愛で人類が結ばれることをうたった。当局の検閲を怖れたベートーヴェンの秘書は、歌詞の内容を伏せて演奏会の許可をとった。権力者から危険人物とされた作曲家のコンサートにもかかわらず、初演には大勢のウィーン市民が足を運んだ。
ステージではベートーヴェン自身が指揮棒を握ったが、聴覚の問題があるためもう1人のウムラウフという指揮者がベートーヴェンの後ろに立ち、演奏者はそちらに合わせた。演奏が終わって聴衆から大喝采が巻き起こるが、ベートーヴェンはそれに気づかず、失敗したと感じて振り向かなかった。見かねてアルト歌手のウンガーが歩み寄り、巨匠の手をとって振り向かせベートーヴェンは魂が聴衆に届いたことを知った。演奏後に何度もアンコールの喝采が続いたが、聴衆が5回目の喝采を行った時、劇場に潜んでいた当局の人間が人々を制止した。当時、皇帝への喝采は3回と決められており、それ以上は不敬罪となるからだ。

第9番完成後、ベートーヴェンの楽曲は極めて個人的な性格を強め、最晩年となる1824年から1826年に書かれた孤高の傑作、5曲の弦楽四重奏曲は、現世に対する達観の境地へ分け入った。この当時、作曲家は依頼を受けて曲作りをしたが、ベートーヴェンは弦楽四重奏曲の最後の2曲を自発的に書き上げた。死の前年に書かれた弦楽四重奏曲第14番について、これを聴いたシューベルトは「この後で我々に何が書けるというのだ?」と述べた。
1826年(56歳)、甥カールとの6年間に及んだ衝突は、カールのピストル自殺未遂という悲劇を引き起こす。カールは伯父からの独占的な愛情に息が詰まり疲れ果てた。ベートーヴェンはショックを受け、すっかり気弱になっていく。同年12月、肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなど病状が悪化。何度も腹水を取り除く手術が行われたが快方に向かわなかった。10番目の交響曲に着手するも未完成のまま、翌1827年3月26日、肝硬変により56年の生涯を終えた。最期の言葉はラテン語で「諸君喝采したまえ、喜劇は終わった」。

1927年3月29日、集会の自由が制限されるなか、ベートーヴェンの葬儀には2万人もの市民が参列し、臨終の家から教会に至る道を埋めた。宮廷からは一輪の花も、一人の弔問もなかった。墓地に着き、オーストリアの偉大な詩人グリルパルツァーが墓前で追悼した。「彼は芸術家であった。しかし同時に一人の人間であった。あらゆる意味で最も高貴な人間であった。世間を避けたので彼は敵意に満ちていると言われた。感情を避けたので無情の人と言われた。愛情が深かっただけに、世間に対抗する武器を持たなかった。だからこそ世間を逃れたのである。己の全てを同胞に捧げたが、代わりに得るものは何もなかった。だからこそ身を引いたのだ。己の分身を見つけることが出来ず一人のままでいた。しかし死ぬまで父親のような心を持ち続けた。彼はこうして生き、そして死んだ。そして永遠に存在し続ける。ここ(墓地)までついてきた者たちよ、悲しみを抑えなさい。我々は彼を亡くしたのでなく得たのである。生身の人間は永遠の命を得ることはできない。死んで初めて永遠の世界の門を通ることが出来るのだ。お前たちが嘆き悲しんでいる人は、今、最も偉大な人々の仲間入りをし、もう永遠に傷つけられることがないのである。心痛のまま、しかし落ち着きをもって家路につきなさい。今後、彼の作品の嵐のような力強さに圧倒された時、またそれらに対する意気込みが次の世代に受け継がれた時、今日のこの日を思い出しなさい。彼が埋められた時、我々は一緒にいたのだ。彼が亡くなった時、我々は泣いたのだ」。

遺書は死の3日前に書かれていた。「私は今、喜んで死を受け入れます。運命は残酷でしたが、終わりのない苦しみからやっと解放されるからです。いつでも用意はきています。私は勇気をもって死を迎えます。さようなら。私が死んでも私のことを忘れないで下さい。覚えてもらうだけのことはしたと思います。どうしたら人々を幸福にできるか、ずっと考えていたのですから。さようなら」。

●ベートーヴェン語録
「行為の動機が重要であって結果は関係ない。精神生活が旺盛なら結果を考慮しないし、貧困と不幸は単に事柄の結果であるにすぎない」
「愛しいあなたに誇れる作品を書こう」
「田舎ではどの樹木も“聖なるかな、聖なるかな”と私に話し掛けているようだ。森の中の恍惚!」
「音楽とは啓示であり新しい美酒である」

●指揮者バーンスタイン、ベートーヴェンLOVEを吠える

・「ベートーヴェンとはどういう人物だったのか。一方では巨匠として愛され、求められ、賞賛されていた。しかし他方では偏屈な怪物の姿が浮かび上がってくる。友達もなく、寄ってくるのはパトロンと腰巾着ばかり。エネルギッシュでいつも好きな田舎を歩いていたかと思うと、慢性の鬱病、気管支炎、肝臓障害を患っていた。女性が大好きだったのに恋人はいなかった。甥カールを愛するあまり、あやうく死に追いやるところだった。この上ない崇高な心を持っていたかと思うと、出版社には厳しく、時には卑劣な条件を出した。そしてこれこそが極め付けの矛盾だが、この発育不全で病的で偏屈で苦悩に満ちた男の中に天使の声が宿っていたのだ」

・「ベートーヴェンはどんな時代の作曲家よりも優れた能力がある。主題の後にくる一番ふさわしい音を見つける能力だ。つまり次に来るべき音が何かが分かっていなければならない。その音以外考えられないということを納得させる力だ。納得できるまで書いては消し、書いては消しと、20回も書き直したパッセージもある。こうした苦闘を一生続けた。どの楽章も、どの交響曲も、どの協奏曲も、どのソナタも、常に完璧さを追及し、これ以外にはないというまで書き直していった。これはこの偉大な芸術家の神秘性を解く唯一のカギだ。ベートーヴェンは必然的な音の追究に一生を捧げた。どうしてこんなことをしたのか彼自身も分からなかっただろう。一風変わった生き方かも知れない。しかしその結果を考えるとそうでもない気がする。ベートーヴェンは我々に信じられるものを残してくれた。決して我々の期待を裏切らないものがあるとすれば、それはベートーヴェンの音楽だ」

・「ベートーヴェンの作品は、メロディ、和声、対位法、色彩感、オーケストレーション、どれをとっても欠陥だらけだ。それぞれの要素は何の変哲もない。彼は一生かけても満足なフーガを書けなかった。オーケストレーションは最悪で、トランペットが目立ってしまって、他の楽器がかき消されている。では何に惹かれるのか?それは型だ。ベートーヴェンの場合は型こそすべてだ。型は結局、次にどの音を持って来るかで決まる。ベートーヴェンの場合、その選択が完璧なのだ。まるで神と連絡を取りながら音を決めていったようだ。モーツァルトでさえこうはいかなかった。次に何が来るかは全く予想出来ないが、これしかないという音を選んでいる。どれもそれ以外考えられない音で、それゆえに完璧な型を作っている。どうしてこのようなことが出来たのか誰にも分からない。ベートーヴェンは一音一音搾り出すようにして書いている。部屋に閉じこもったまま気がおかしくなるくらい集中した。彼は心の中の氷山の一角しか表現できないと悩んだ。部屋は散らかし放題、食事は3日間手つかず、ピアノの下には一杯になったままの便器。しょっちゅう引っ越しをし、落ち着ける場所を探した。楽譜の下書きを見れば彼がどんなに苦しんだか分かるだろう。こうしてやっと完成した曲は神様が口述したかのようだ。これこそがベートーヴェンの素晴らしさなのだ。しかしこの必然性の追究の為、彼の人生はめちゃくちゃだった」

●友よ、第九のサビを歌おうではないか!
Freude, schoner Gotterfunken,
フロイデ シェーネル ゲッテルフンケン 喜びよ 神々の散らす美しい火花よ
Tochter aus Elysium,
トホテル アゥス エリージウム 楽園からやって来た娘よ
Wir betreten feuertrunken,
ヴィル ベトレテン フォイエルトルンケン わたしたちは 炎の情熱に酔いしれて
Himmlische, dein Heiligtum!
ヒムリッシェ ダイ ハイリトム 天高きあなたの聖殿に踏み入ろう
Deine Zauber binden wieder,
ダイネ ツァーベル ビンデン ヴィーデル 世の時流がむごく引き裂いた者を
was die Mode streng geteilt
バス ディー モーデ シュトレン ゲタイル あなたの神秘なる力は再び結びつける
alle Menshen werden Bruder,
アーレ メンシェン ベルデン ブリューデル その柔らかな翼に抱かれ
wo dein sanfter Flugel weilt.
ボー ダイ ザンフテル フリューゲル ヴァイト 人々はみな兄弟となる
※他の歌詞も「我が抱擁を受けよ全人類よ!」「我がこの口づけを全世界に!」「太陽が天の軌道を進むように、君たちは自分の信じた道を進め。勝利の道を歩む英雄のように!」など超ポジティブ。

●なぜ年末になると第九を演奏するのか?理由は2説ある。
その1…1943年、戦況が悪化する中、学生にも徴兵令が下り始めた。徴兵された東京芸大音楽部の学生たちは、入隊間近の12月初旬に繰上げ卒業式音楽会で『第九』の第4楽章を演奏した。出征した多くの学生が死に、終戦後、生還した者たちで「別れ際に演奏した『第九』をもう一度演奏しよう」ということになった。つまり、“暮れの第九”の始まりは、戦場で散った若き音大生の魂を慰める鎮魂歌(レクイエム)だったんだ。
その2…N響は1927年から第九を演奏レパートリーに持っていたが、年末の演奏が定番化したのは終戦直後の混乱期から。食糧不足など厳しい生活を送っていた楽員たちは、年越しの費用を稼ぐために12月は『第九』を演奏する機会が増えた。なぜなら『第九』は曲そのものに人気があるうえ、合唱団員が多く出演するためその家族や友人がチケットを買ってくれ、確実な収入が保障されているからだ。同様の理由で“年末の第九”が、プロ、アマを問わず定着していった。現在国内の12月の第九演奏会は150回を超えている。※近年の海外の「年末第九」の習慣は日本から(ドイツは例外)。

※ファン・ゴッホ(van Gogh)のように、ベートーヴェンも姓に“van”がついているのは祖父がネーデルラント出身だから。祖父の代にボンに移住した。貴族を表す「von(フォン)」とは異なる。
死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年(42歳)の手紙が3通発見された。ベートーヴェンは生涯独身だったが、いつも身分違いの貴族女性や既婚女性という、手が届かない相手に恋をしていた。「不滅の恋人」は長年謎だったが、フランクフルトの商人の妻で4児の母アントニエ・ブレンターノ説が最有力。手紙には恋の煩悶が綴られており、結局はベートーヴェンが自ら身を退いている。
※秘書のシントラーは第九公演の申請手続きを行うなど、身寄りのないベートーヴェンの世話を一身に引き受け助けたが、著作伝記『ベートーヴェンの生涯』の捏造部分と内容を合わせるため、ベートーヴェンが晩年約10年間に書き込んだ数百冊にのぼる貴重な筆談ノートを、半数以上も廃棄処分にして“証拠隠滅”を計る暴挙を行っている。
※CDの収録時間が74分という中途半端な時間になった理由は第九にある。ソニーがCDを開発中に、1枚に録音できる長さを盛田会長が友人の指揮者カラヤンに相談した際、カラヤンは第九が全曲入る長さ=74分を求めてそう決定した。カラヤンは「これで第九をA面、B面と中断されずに聴ける」と大いに喜んだという。
※交響曲第5番を「運命」と呼んでいるのは日本だけ(汗)。
※ベートーヴェンは作曲の際、ほうきの柄の片側を歯で噛み、もう片方をピアノに入れて振動で音を聞くこともあったという。
※「(最晩年の“大フーガ”は)絶対的に現代的な楽曲。永久に現代的な楽曲」(ストラヴィンスキー)
※映画『アマデウス』で有名になったアントニオ・サリエリは、ベートーヴェンにイタリア語歌曲の作曲法を教えた。ベートーヴェンはサリエリを慕い、イタリア語歌曲を作曲する場合は必ず助言を求めていたという。サリエリがモーツァルトを毒殺したという噂がウィーンに流れた時は、筆談帳で胸を痛めている。

聴覚を失っていく絶望感からハイリゲンシュタットで自殺さえ考えた1802年の秋。32歳のあの日、彼が芸術の存在によって命を断たなかったおかげで、後に『運命』や『第九』が生まれ、今、僕らが聴くことができる。生きていればこそだ。ダンケ・シェーン(ありがとう)、ベートーヴェン!

  ベートーヴェンの遺髪(許可を得て撮影)

※最初の埋葬場所はウィーンのWahringer Friedhof(Defunct)。


1994 2002 2005
マイ・ゴッド、ベートーヴェン大先生の足元にひれ伏してキスをする。うう…ありがたき幸せ!この瞬間、天にも昇る
歓喜の絶頂にあり、文字通り失神寸前。もう、どこへでもついて行きます、ベートーヴェン大明神さまーッ!!
(実は1989年にも巡礼して同様の写真を撮ったんだけど…南仏で荷物を全部盗まれフィルムも無くなった!トホホ)


※なんと動画あり!ウィーン中央墓地(5秒)
ベートーヴェン、モーツァルトの記念碑、シューベルト、
ヨハン・シュトラウス、ブラームスが並んでて壮観!



★ワーグナー/Wilhelm Richard Wagner 1813.5.22-1883.2.13 (ドイツ、バイロイト 69歳)2002
Plot at his Family's Home, Bayreuth, Germany

 

ワグネリアン(ワーグナー・ファン)の聖地、
“あの”バイロイト祝祭劇場の前にて!


「ハハーッ!!ひらにーッ!!」


ワーグナーが晩年住んでた家がそのまま博物館に
なっている。その裏庭に彼と妻コジマが眠っている。





なんと墓はノッペラボウ!何も刻まれてないのでこれが
墓だと気づかず、周囲をずっと探していた。博物館の職員
になぜ名前が彫られていないか尋ねると「自分の家の庭
だから名前を彫る必要ないでしょう?」とのこと。確かに
(笑)。今まで500人以上墓参してきたけど、まったく何も
彫られてない墓石を見たのは、後にも先にもこれっきり!

庭番が教えてくれたワーグナーの愛犬の墓!彼の墓
のすぐ側の茂みにあった。なんか胸がキューンとなった。
ワーグナーって近寄りがたいイメージがあったけど、
こういうの見ると一気に親しみが湧くよ。こういうのが
あるから墓巡礼はやめられない。実に良い墓を見た。
家の中には彼の愛用していたピアノが!おそらく妻の
父リストも使用しただろう。タイマー撮影で悦に入る。



「ワーグナーの音楽は阿片である」詩人のボードレールはこう言った。つまり、一度聴くとその魔力の虜となり、中毒患者の様にそれなくしては生きていけぬようになるのだという。自分はこの言葉が決して誇張されたものとは思えない。現にクラシックファンの間には、熱狂的なワーグナー信奉者を呼称する“ワグネリアン”なる言葉まであるのだ。ベートーヴェンやモーツァルトのファンは“クラシックファン”でひとくくりにされるのに、ワーグナーのファンだけが特別にそう呼ばれる。これだけで事態の異常さがある程度伝わるだろう。ワーグナーの音楽は我々をつかみ、そして引きずり回す。

当時ウィーンでは、ベートーヴェンの正統な後継者と見られていたブラームスを熱愛する『ブラームス派』と、ワーグナーの官能美に頭がヒートした急進的な『ワーグナー派』との間で衝突が絶えず、その波紋は王宮にまで及んだという。実際、ごひいきの作曲家のコンサートの後、興奮した一群が敵対する側のたむろ場となっているパブを焼き討ちしたりかなり過激だったようだ。ブラームス派はワーグナー派に対し「下品、悪趣味、大袈裟すぎ」と攻め、ワーグナー派はブラームス派に「化石、カビまみれ、退屈」とやり返していた。自分の立場は実に微妙だ。普段聴いているものは圧倒的にブラームスが多いのだが、ベストを作ってみると何故かワーグナーの方が上…くわばら、くわばら!

※ワーグナーの訃報を聞いたバイエルン王ルードヴィヒ2世は「死体は私のものだ」と泣き崩れたという。



★バッハ/Johann Sebastian Bach 1685.3.21-1750.7.28 (ドイツ、ライプチヒ 65歳)1989&94
Thomaskirche (Saint Thomas' Church), Leipzig, Germany

 

バッハの音楽の魅力を語る上で最初に伝えたいのは、自分がクラシックファン同士の会話の中で、一度たりともバッハの悪口を聞いたことがないという事実だ。それはベートーヴェンのカミナリ説教やモーツァルトの勝手な独り言のように、叱られてる感じや無視されてる感じを味わうことがないからだ。

バッハの音楽はまるですぐそこにいる彼の“呼吸音”を聴いてるかのよう。呼吸音には何も主張はないが、生きていることは確実に分かる。聴いているときに自分が一人ではないように思える。バッハの心音と言ってもいい。他人の鼓動の音を聞くことは、人を落ち着かせ穏やかな気持ちにさせる。

確かに彼も人間である以上、時々呼吸が嵐のように乱れることがある。そういう時はこちらもすごく緊張する。しかしその緊迫感はマイナスにはならず、混乱すら生きている証として前向きに受け止めることが出来る。彼の作品が全曲ハズレなしっていうのは、そういう音楽を超えた部分にあるのかも。流行りの音楽スタイルを作曲に取り入れず、あくまでも古典的であったバッハの曲は死後100年以上も人々に忘れられていたが、メンデルスゾーンが再び光をあてて復活させた。享年65歳。

バッハの墓は、彼がずっとオルガニストを務めていた、ライプチヒ・聖トーマス教会の床にある。この教会では、頭上からほぼ1日中パイプオルガンが鳴り響いている(モチ生演奏)。バッハが作曲した音楽を、バッハが弾いていたオルガンで聴きながら、本人に巡礼ができる…自分が訪れた墓の中で、最も素晴らしい環境で対面できた墓だった。

『バッハのピアノ曲はどこにも音符を書き込むことが出来ない。真に完全なのだ』〜キース・ジャレット(ジャズ・ピアニスト)
『バッハの音楽は世界のあらゆる人種をつなぐ絆。いうならば全人類の為のフォルクローレ(民謡)だ』〜エイトル・ヴィラ=ロボス(ブラジル人、南米最大の作曲家)
『バッハの音楽は宇宙へと目を開いてくれます。ひとたびバッハ体験をすれば、この世の生にはなにがしかの意味があることに気づきます』〜ヘルムート・ヴァルヒャ(盲目のオルガン奏者)
『音楽家たちが、自らの仕事にかかる前に、凡庸に陥らないために、まず祈らなければならないこの慈愛にあふれる神』〜ドビュッシー

※悪魔的完成度の高さを誇る名曲、トッカータとフーガ・ニ短調はまだ若干二十歳の作品!その緻密で一瞬のスキもない曲の構成力は、円熟した老境のものだとしか思え〜ん!

バッハの書いた詩(!)を紹介

『煙』
パイプをくゆらし時を過ごせば
悲しい灰色の絵に思いが及ぶ
自分がパイプと同じだと気づかされる
かぐわしい煙の後は灰が残るのみ
この私も土にかえるのだ
灰色の絵は崩れ落ちて2つに割れ
私は己の運命の軽さを思う

バッハの『平均律クラヴィール曲集』を聴いて--「これを聴き出して、私はこの不条理の世界(この世)にも何かの秩序があり得るのではないかという気がしてきた。この音楽が続く限り、心が静まり、ひとつの宇宙的秩序とでもいうべきものが存在する気がする」/94年生き続けて--「どういう曲が一番胸に染みてくるかというと、それはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンだねぇ。つまるところは、この3人だなぁ〜(笑)。僕は女房が死んだ時に音楽が一時受け付けられない時があって…(音楽というのは)あまりに訴えかけてくる力の強い、他の人の声。だから、ちょっと休んで自分の中に一人でいたいと思った。それでも、そのうち何かで寂しくなって、音が欲しくなって、いろんなものをかけてみた。どれも邪魔をしたけど、バッハは邪魔しなかったなぁ」(吉田秀和)音楽評論家



★モーツァルト/Wolfgang Amadeus Mozart 1756.1.27-1791.12.5 (オーストリア、ウィーン 35歳)1994&2005
Saint Marxer Friedhof Cemetery, Vienna, Wien, Austria

作曲の時、ペンを握る前に頭の中で曲
が完成していた。後は書き写すだけ!
薄っすらと涙を浮かべている
ようにも見える晩年の肖像

ザンクト・マルクス墓地はトラムの「ザ
ンクト・マルクス」駅より、ひとつ終点に
近い方から降りた方が圧倒的に近い
停留所の側のマンション背後
に線路がある。橋の下を目指そう
すると線路を横断できる隙間が
あるので、これを抜けると墓地!







ザンクト・マルクス墓地正門 入って左に案内地図がある 179番が彼の墓 墓の手前にあった案内板




バーン!周囲に墓はなく、このエリアはモーツァルトだけの為にあった!破格の待遇!(2005)

墓地にはなぜか“野良孔雀”がいて驚いた。鳩や雀ではなく、
クジャクだ。他にも目撃者がいるので、ここの名物らしい(1994)

「人生の生き甲斐とはジュピターの第2楽章だ」(ウディ・アレン)
「死とはモーツァルトが聴けなくなることだ」(アインシュタイン)
「モーツァルトの悲しさは疾走する。涙は追いつけない」(小林秀雄)

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト。彼の曲は大半が宮廷用、もしくは貴族のお抱えオーケストラ用だったので、単純に聴いてて楽しい曲が多いんだけど、時たま本人の為だけに書いたとしか思えない“何なんだ!?”という暗い曲がある。そういうダークな曲は、どれも深く胸を打つ名曲で、哀愁を帯びた旋律が聴く者の涙を絞り取る。けっして明るいだけではないモーツァルト。だからこそクラシック・ファンは彼の陽気な曲をこよなく愛し、今日もCDの電源を入れるのだ。

父レオポルドは宮廷音楽家。モーツァルトは3歳でピアノを弾き、5歳でピアノ小曲「アンダンテ・ハ長調」を作曲し、8歳で交響曲第1番を、11歳で最初のオペラ『アポロとヒアキントス』を作曲した。彼の記憶力の良さを伝えるこんな逸話がある。カトリックの総本山ヴァチカンには、楽譜を持ち出すことも、写譜も禁じている、絶対秘曲「ミゼレーレ」があった。13歳のモーツァルトはシスティーナ礼拝堂でこの合唱曲を聴くと、宿に帰って全曲を譜面に書き写してしまった。結果、門外不出だった「ミゼレーレ」は秘曲ではなくなってしまう。この曲は9声部(9つのパート)が10分以上も重なりあい、絡みあう複雑なもの。一発で9声部を聞き取って記憶するとは!あ、圧巻!!
アカデミー賞に輝いた映画『アマデウス』の冒頭で流れ、一躍有名になった交響曲第25番を作曲したのは17歳。32歳の時には、わずか2ヶ月で交響曲第39番、第40番、第41番「ジュピター」を書き上げた。恐ろしく作曲スピードが速いうえ、そのどれもが傑作というのがスゴ過ぎ。
オペラの作曲に関してエピソードが残っている。約束の締切りの前夜にうっかり眠ってしまったモーツァルト。当日の朝、彼は妻のコンスタンツェに叫んだ。
「しまった!コンスタンツェ、眠ってしまった!」
「あなた、あと2時間しかないわよ」
「な〜んだ、2時間もあるのか」
そしてあっという間に書き上げてしまった。既に頭の中に完璧な譜面が出来上がっているので、後はそれを書き写すだけでよかったのだ。

※モーツァルトは幼い頃からヨーロッパ中を演奏旅行していた。1762年、ウィーンのシェーンブルン宮殿に一家で招かれ、神聖ローマ帝国の女帝マリア・テレジアの前で姉と共に御前演奏をした時のこと。6歳のモーツァルトは宮殿の床に滑って転んでしまった。起き上がるのを助けてくれたのは、テレジアの当時7歳の末娘マリー・アントワネット。モーツァルトは彼女にこう言ったという「君は優しい人だね、大きくなったらボクのお嫁さんにしてあげる」。このプロポーズが実現してたら歴史が変わってたね(笑)。
※彼はとてもひょうきんな性格で、姉への手紙の末尾には「相変わらずマヌケなウォルフガングより」などと記していた。
※文献によってはモーツァルトが英国訪問時にバッハと会ったと書かれているけど、モーツァルトはバッハの死後6年後に生れているので、彼が会ったのはバッハの息子クリスチアン。
※絶対王政のこの時代、音楽家の地位は非常に低く、モーツァルトでさえ宮廷では召使い同然の扱いしか受けなかった。彼は風刺オペラ「フィガロの結婚」でバカ貴族を笑い者にしたが、台本を書いた元神父ロレンツォ・ダ・ポンテは国外追放、モーツァルトも宮廷の仕事を干されてしまう。
※モーツァルトは交響曲第41番「ジュピター」を作曲した後、まだ3年間生きていたのに、新しい交響曲を書かなかった。ジュピター終楽章のサビは、なんと彼が8つの時に作った交響曲第1番と同じメロディー。これはモーツァルト自身が、「シンフォニーではやりたい事を全てやったぜ」と満足していたのかも知れない。

「ウィーンはモーツァルトがサリエリに毒殺されたという噂でもちきりです」(ベートーヴェンの筆談メモ)。
モーツァルトの死因は当時から毒殺説が囁かれるなど100説以上あり、真相は謎に包まれている。『レクイエム』(死者の為の鎮魂歌)の作曲中に死んだのも何か象徴的だ。彼は死の4時間前までペンを握り、レクイエム第6曲“涙の日/ラクリモサ”を8小節書いたところで力尽きた。12月5日午前0時55分没。
晩年のモーツァルトは経済的に困窮し、墓すら建てる余裕がなかった。映画『アマデウス』にも彼の死体袋が貧民用の「第三等」共同墓地(ただの穴)に無造作に投げ込まれ、伝染病防止の為に石灰をかけられるシーンが出てくる。死から10年後、同土地は別用途に使用する為に掘り起こされ、その際にかつて彼を埋葬し、どの身体がモーツァルトか知っていた墓掘り人が頭蓋骨を保存した。それは様々な人の手を転々とした後、1902年に国際モーツァルテウム財団が保管することになる。2004年、頭蓋骨の真偽論争に決着を着ける為、ウィーン医科大学教授らの研究チームが、ザルツブルグに眠る父親や姪の遺骨を掘り出し、DNA鑑定をすることになった。この結果は生誕250年の2006年に発表されたが、残念ながら別人だったようだ。
※モーツァルトの人生は35年10ヶ月と9日だったが、そのうち10年2ヶ月と8日は父と旅をしていた。

「私はモーツァルトの曲に触れて、神を信じるようになった」(ゲオルグ・ショルティ)指揮者
「モーツァルトの音楽は、あたかも天国の記憶のようだ」(小林秀雄)文芸評論家
「その音楽は宇宙にかつてから存在していて、彼の手で発見されるのを待っていたかのように純粋だ」(アインシュタイン)

※絶対に音楽の教科書には載っていないモーツァルトの横顔、それはオゲレツちゃん(汗)。有名なのは21歳の青年モーツァルトが
19歳の従妹ベーズレに宛てた、俗に言う『ベーズレ書簡』。(以下、全て海老沢敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集から)
「お休みなさい。花壇のなかにバリバリッとウ○コをなさい。ぐっすりお眠りよ。お尻を口のなかにつっこんで。(略)ありゃ、お尻が火のように燃えてきたぞ、こりゃ一体なにごとだ!きっとウ○コちゃんのお出ましだな?(略)でも、なんだか焦げるような匂いがする」
家族への手紙の中にも
「小生はズボンにウ○コをたれましょう」「おケツでも嗅ぎやがれ」「僕らがその上にチン座しますタマは別として」「くそったれ=ローデンルの主任司祭ディビターリは、人へのお手本として、彼の女給仕のお尻をなめた」
といった言葉が“普通に”飛び交っている…。 
   
ただこれらは超下品ではあるものの、原文のドイツ語では韻を踏んで音楽的な響きがある。そこはモーツァルトといえるかも。
「だから、必ず来てよ。でないと、クソくらえだ。来てくれたら、ぼくが御みずからあなたにご挨拶し(コン・プリメンティーレン)、あなたのお尻に封印し(ペチーレン)、両手に口づけし(キュッセン)、臀部小銃を発射し(シーセン)、あなたを抱擁し(アンブラシーレン)、前からも後からも浣腸し(クリスティーレン)、あなたからの借りをすっかり一毛のこらず返済し(ベッアーレン)、勇ましいおならをとどろかし(エアシャレン)、ひょっとすると何かを落下(ファレン)させるかもね。」
…お見事。

●なんとモーツァルトの生誕250周年を祝って、故郷オーストリア・ザルツブルクの国際モーツァルテウム財団全楽譜を無料で公開した。もちろん印刷も自由!作品番号で検索可能なので、有名な交響曲第40番(作品番号K.550)ならKVの後に「550」と入力するだけで楽譜が出てくる。5歳で書いた最初の曲“アンダンテ・ハ長調”なら「1a」でOK。ウィキペディアの「楽曲一覧」がジャンル別に整理されて作品番号も載っているので、これと併せて検索をかけるのがグッド。それにしても、700曲以上もあるモーツァルトの曲を全部アップするなんて、どんなに膨大な作業時間を要したのだろう!

  

プラハのベルトラムカ(モーツァルト博物館)には彼が愛用したピアノ、遺髪などが展示されているッ!
※この館で歌劇ドン・ジョバンニが作曲された




ウィーンのモーツァルトの家(フィガロ・ハウス)は生誕250年となる06年にリニューアル・オープンするべく改装中だった(05年)



★チャイコフスキー/Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840.4.25-1893.10.25 (ロシア、ペテルブルグ 53歳)1987&05&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation
本名:Pyotr Tchaikovski

著名人が多く眠るアレクサンドル・ネフスキー修道院 修道院のチフヴィン墓地の前で画家が絵を売っていた




2005年。この時は赤い花が多かった 4年後。写真では分り難いけど、紫の花が多くなってた(2009) 2体の天使が寄り添う


天使の左腕に献花してあった
(2005)
胸像付きの墓は、光が差すとグッとドラマチックになる。この写真を
撮る為に1時間近く太陽が出るのを待った。待って大正解!(2009)

胸を掻きむしるような哀愁を帯びたメロディーを書かせたら、右に出るものはいない我らがチャイコフスキー!
長く「病死」とされてきたが、近年は同性愛を非難され、コレラ菌の入った水を飲んで自殺したという説が有力だ。
彼がこの世への遺書として作曲したのが第6番『悲愴』。その哀しみと慟哭の第1楽章と、諦めと達観の終楽章は、
言葉を超えた魂の叫びだ。自筆譜の隅には「ああ神よ、お助けください」という彼の切実な言葉が記されている。

●墓所はペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー修道院のチフヴィン墓地。最寄り駅は地下鉄プローシャチ・アリェクサンドラ・ネフスカヴァ駅。
チャイコフスキーの隣にボロディン、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ、グリンカが眠る。




★マーラー/Gustav Mahler 1860.7.7-1911.5.18 (オーストリア、ウィーン郊外 50歳)1994&2005
Grinzinger Friedhof, Vienna, Wien, Austria

ヒュー・グラントのようなカッコよさ。気品のある優男って感じ 生前は指揮者として有名だった 50歳で他界


トラム38線で行く

なだらかな坂道の先に墓地がある

妻アルマはマーラーと並んで
おらず斜めに背中合わせ…




1994 2005 墓域全体がドッシリ安定している

「やがて私の時代が来る」(マーラー)

マーラーは生前に「私の墓を訪れる者は、既に私が何者か知っている者だ」と述べ、墓は
こんなにクールになった。名前は申し訳程度に彫られ、生没年もない。カックイイ〜ッ!


「私は死を真剣に恐れ、また、心から憧れる」(マーラー)
「私にとって交響曲とはあらゆる技法を尽くして自分自身と向き合うことだ」(マーラー)

濃厚に漂う、世の終末感。そして人生に対する徒労感。聴いてると死にたくなるような病的繊細さが満ち満ちているマーラーの世界。特に交響曲第9番の終楽章は、この世に存在する音楽の中で最も彼岸に近いものと言われており、事実マーラーは楽譜の最後の部分に、“死滅していくように”と演奏の注意書きを記している。僕は、これほど美しく、儚(はかな)く、音符の影に“死”の存在を感じる音楽を他に聴いたことがない。
マーラーの音楽を聴く時は、ヤバいと思ったらすぐに救急車を呼べるよう、手にケータイを持って聴いてもらいたい。精神状態が不安定な時に聴いてしまうと、マーラーの内面世界に巻き込まれて帰ってこれなくなるからだ。(曲が長いので体調も大切)
「『第9番』はひとつの限界であるように思われます。そこを越えようとする者は、死ぬ他はないのです」(シェーンベルク)

交響曲第5番の第4楽章“アダージェット”は、映画「ベニスに死す」で使用されたのでとても有名だ。しかし、この5番はドイツ・ケルンでの初演時に不評だったようで、マーラー(当時44歳)は妻にこんな手紙を送っている--「私の死後50年経ってから、私の交響曲を初演できればよいのに!今からライン河のほとりを散歩してくる。この河だけが、初演の後も私を怪物呼ばわりすることもなく、悠然とわが道を進んで行くただ一人のケルンの男だ!」。

ワーグナーは反ユダヤ主義の作曲家だが、マーラーはユダヤ人でありながらワーグナー作品を愛聴していた。ユダヤ人の知人が「ワーグナーなんか聴いてたまるか」と吐き捨てた時、マーラーはこう言った「でも牛肉を食べても、人は牛にはならないでしょう?」。また、指揮者として良い仕事にありつけるように、出世に不利なユダヤ教からカトリックに改宗した時も肩をすくめてこう言った「なに、ちょっと上着を変えただけさ。中身は同じだよ」。マーラーも言うね。

マーラーが眠るウィーン北部のグリンツィンク墓地(Grinzinger Friedhof)には、トラム38番で行ける。「An den langen Luessen」停留所で下車し、左手の緩やかな坂道をまっすぐ5分くらい上ると墓地正門に突き当たる。左奥、6グループの7−1が彼の墓。生け垣に囲まれている。墓地の管理事務所は正門左。この地域はベートーヴェンが遺書を書いたハイリゲンシュタットと隣接しているので、ベートーヴェンの家にもぜひ足を運ぼう。

「私は三重の意味で無国籍者だった。オーストリアではボヘミア生まれとして、ドイツではオーストリア人として、世界ではユダヤ人として。どこでも歓迎されたことはなかった。」(マーラー)

※マーラーはドストエフスキーを愛読し、中でも「カラマーゾフの兄弟」を特に気に入っていた。


他人が何かに感動している姿を見ることで、「え!そんなにいいの!」と、それまで興味がなかったコトに自分も関心を抱くことが人生にはある。例えば雑誌のビートルズ特集を読んでピンと来なくても、友人が「このビートルズのCDは最高。毎日聴いてる」と涙を浮かべてアルバムを握りしめるのを見て、一気に興味が沸くというように。僕の場合、仏像、バレエ、能、スケート、その他多くの分野が、他人の感動がきっかけで自分まで好きになったものだ。“この人と出会ってなかったら、ずっとこの感激を知らないままだったかも”、何度そう思うことがあったか!ここからが本題。動画サイトのyoutubeには個人のビデオ映像も数多くアップされている。その中に海外の一人の青年が、作曲家マーラーの交響曲第8番を聴く自分の姿を撮影したものがあった。楽器を演奏している姿ではなく、聴いている姿というのが何ともユニークな発想だ。そんなものを見て何が面白いのか疑問に思われるだろう。これが最高に良いッ!どんなに分厚いマーラー解説本よりも、この5分間の彼の姿が雄弁にマーラーの魅力を伝えている!青年の感動っぷりはハタから見れば尋常じゃないんだけど、実はクラシック・ファン、中でもマーラーのファンは、他人の目がない場所で一人で聴いている時は、誰でも彼と同じ状態になっていると断言していい!最近は漫画『のだめカンタービレ』がドラマ&アニメになってクラシックの普及に大きく貢献しているけど、彼の姿もそれに負けないくらい多くの人にクラシックの魅力を語ってくれると思う!マーラーの曲は1時間を超える大曲が多い。特に交響曲第8番はオーケストラが2、3団体分&合唱団つきの特大編成で、総勢千人の交響曲。歌詞はドイツ語だけど別の動画でフィナーレに日本語訳が入った演奏(7分42秒)がアップされている。最初は退屈かも知れないけど、2分24秒のとこからラストまでの盛り上がりは超エキサイティングなので最後まで聴いて欲しい。「♪永遠に女性的なものが我らを引いて(天へ)昇らせる」のメロディーは至福の極み!これを聴いて歌詞が分かったうえで、『青年、マーラーを聴く』(5分27秒、青年の登場は1分35秒から)を見て欲しい!可能な限り大ボリュームで!彼の表情、手の動き、体の揺れ、全てが音楽と一体化しているのが分かると思うッ!2つの動画を合わせても13分。この13分には価値あり!ビバ・クラシック!ビバ・マーラー!


マーラーとランチ♪



★ブルックナー/Anton Josef Bruckner 1824.9.4-1896.10.11 (オーストリア、リンツ郊外 72歳)2002
Saint Florian Church, Linz, Oberosterreich, Austria

  

ブルックナーの墓は、バッハと同じく自らがオルガニストをしていた教会に葬られている。正門を入ってすぐの場所
にあり、人々は必ずブルックナーの側を通ってから座席に着くことになる。この教会の祭壇はとても美しかった。

この教会はリンツの郊外にありバスは3時間に1本しかない。8年前にリンツを訪れた時は、時間がなくて挫折した。今回は
市内のユースホテルに泊まって本格的に郊外へ足を伸ばす体制を整え、やっとのことで彼に名曲のお礼を言えた。感激!


ブルックナーの音楽はやたらと長い上に変化が乏しく、どの曲もサビが同じで、これをクラシックファンは愛憎を込めて“ブルックナー音階”と呼んでいる。一度眠って目が覚めたらまだ同じ楽章だったなんてのはザラ。でも彼のファンにしてみれば“だからブルックナーは最高なんだ”という答えになる。絶対的安心感といおうか、同じメロディーの繰り返しでトランス状態へ導かれたといおうか…ブルックナーの音魔法は音階の積み重ねの果てに、宇宙空間が待っているので、一度心地よいと思ったら病みつきになるのは時間の問題なのだ。

●追記!


(撮影:このみさん/2005.3)
なんと!教会には地下に降りる階段があり、そこにはブルックナーを納める棺があることが判明!
※うお〜、まったく気がつかなった!写真を貸して頂き有難うございマス!




★ブラームス/Johannes Brahms 1833.5.7-1897.4.3 (オーストリア、ウィーン 63歳)1989&94&2002
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria


2005 1994 2002
ブラームスはシューマンの妻クララに
惚れ、彼女が亡くなって1年も経たず
に彼も世を去った。生涯独身だった
頭を抱え込んだ物憂げなブラームス像が置かれた墓。
深遠で哲学的な彼の音楽が墓からも聴こえてきそうだ

隣の墓は親友ヨハン・シュトラウスU世。重厚な音楽を得意
としたブラームスだが、彼は軽快なワルツを魔法のように
作り出すヨハンに心から敬意と友情を抱いていたのだった

学生時代は過激なワグネリアンだった自分も、歳をとった最近は、古寺で枯山水を楽しむようにブラームスの室内楽に浸ってばかり。
あの枯淡の極致とでもいおうか、セピア色の音色がたまらないんだ。もう“キング・オブ・地味音楽”にどっぷり。お〜い、コブ茶のおかわりをおくれ〜。

※交響曲第1番は21年間もかかって作られた。




★フォーレ/Gabriel Urbain Faure 1845.5.12-1924.11.4 (パリ、パッシー 79歳)2002&09
Cimetiere de Passy, Paris, France





2002 シンプルな墓 2009 墓地の敷地が狭く、フォーレの周囲は墓石がひしめき合っている

天上の音楽を次々と生み出したフォーレ。彼が作曲した「レクイエム」はクラシック界最強の癒し系音楽。フォーレを聴いているとき、
部屋の中がどんどん透明になっていくのが分かる。その、はかなくも美しい調べの前では、この世の重力はあまりにも虚しい。


戦時中の空襲の日々を振り返って--「台所の裏に穴を掘り、そこにいっぱい本を詰め込んだブリキの缶を入れ、さらに何重もの紙で包んで板を重ねてくくったフォーレのレコード・アルバムを重ね、その上に土を盛った。(終戦という)そんな日の来ることに確信を持っていたわけではない。しかしもし、これをゆっくり聴ける日が来た時、これがなかったら、取り返しのつかない悲しみと後悔を味わうことになるだろうと考えたからだ」(吉田秀和)音楽評論家



★ショパン/Fryderyk Chopin 1810.3.1-1849.10.17 (ポーランド、ワルシャワ&パリ、ペール・ラシェーズ 39歳)1989&02&05&09
Holy Cross Church, Warsaw, Poland (heart)
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France (Body)

●ワルシャワ


ショパンの心臓を納める聖十字架教会。正面のキリスト像はかなりドラマチック(2005)

手前左の柱の中に“心臓”が入っている 巡礼者が後を絶たない




ワルシャワの巨大ショパン像。なかなか悩ましい表情をしている

●パリ


 
パリ・オペラ座に近いヴァンドーム広場
(2009)
その広場に面した12番地に1780年創業の宝石商ショーメ(Chaumet)がある。
この2階で、ショパンは39歳の若さで帰らぬ人となった

パリのショパンの墓(1989)
13年後。手前の植木鉢が増えた(2002)
その3年後、植木鉢がまた増えた(2005)

初巡礼から20年目。正面に巨大な
植木鉢が左右に2個置かれ、柵には
三色のリボンが巻かれていた(2009)
手前の門には“F・C”とある
(2009)






すごい人気ぶりだ 白髪の男性がショパンの墓を解説していた 次から次へと人がやってくる

ピアノの詩人ショパンは、祖国ポーランドに帰る日を夢見ながら異国の地で果てた。葬式では彼の希望を受け、モーツァルトのレクイエムが奏でられた。ショパンがパリに埋葬された時、彼が終生ずっと大切にしていた故郷の土(20歳の頃、旅立つ時に友人がくれたもの)が棺の上に撒かれたという。死の翌年、遺言により彼の心臓は姉ルドヴィカの手でポーランドに運ばれ、首都ワルシャワの聖十字架教会の石柱に納められた。この柱には「あなたの宝の場所にあなたの心がある」(マタイ伝)と刻まれている。
大戦中はナチスが同教会の3分の1をダイナマイトで破壊し、ショパンの心臓が入った壷も奪われてしまったが、終戦後に教会は修復され、彼の命日に心臓は戻された。この時に演奏されたのは、ショパンがポーランド独立の暁に披露しようとしていた軍隊ポロネーズだった。

ショパンは7歳で既に公衆を前に演奏していた。最初の作品は同じく7歳の時に作った民族舞曲のポロネーズ。最後の作品は、民族舞曲のマズルカだった。パリではベルリオーズ、ハイネ、バルザック、リスト、ドラクロワら作家・芸術家と親交を結んでいた。女流作家ジョルジュ・サンドとの熱愛は有名。生涯の作品数は約200曲。ピアニストの登龍門「ショパン国際ピアノ・コンクール」は5年に一度開催され、命日(10月17日)にモーツァルトのレクイエムがワルシャワ・フィルによって演奏された後、翌日から本選が始まる。

ショパンの、次第に内にこもっていく曲調が自分は好きだ。どんどん魂の奥底へ意識が沈んでいく。左手(低音)を伴奏専門から解放したピアノの革命家に乾杯。

※画家ドラクロワはわざわざショパンの為にピアノを買い、アトリエに置いていた。もちろん、ショパンが遊びに来た時に聴けるから!
※パリのショパンの墓の3つ右隣に、“ピアノの化身”と言われたジャズ・ピアニスト、ミシェル・ペトルチアーニが眠っている。



ワルシャワのユースホテルの職員イェージー君はドラゴンボールの大ファン!2人で一緒に「かめはめ波」!!(2005)



★ヴェルディ/Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 1813.10.10-1901.1.27 (イタリア、ミラノ 87歳)2002
Casa di Reposo per Musicisti, Milan, Lombardia, Italy

  

ヴェルディ・ハウスの礼拝堂に奥さんと並んで眠っていた。墓の周囲には大きな宗教画の壁画が描かれ、
作曲家の中では最も威厳のある墓だった。付近の音楽学校から生徒が弾くピアノの音色が聴こえていた。

晩年、妻子を亡くした時ヴェルディはある仕事に追われていた。それはかねてから依頼されていた喜劇オペラの作曲
だった。葬式のあとコメディの台本を手にせねばならぬ状況に彼はこう言ったという「人生はすべてこれ冗談なり」と。
※最初の埋葬場所はミラノのCimitero Monumentale。




★シューベルト/Franz Peter Schubert 1797.1.31-1828.11.19 (オーストリア、ウィーン 31歳)1989&94&02&05
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria




若き日のシューベルト。
けっこうカッコ良い!
わずか31年でシューベルト
のメトロノームは止まった




ウィーン中央墓地にて(1994) もっと長生きして欲しかった!(2002) 手に本物の花を握っていた(2005)









シューベルトの墓(右端)は、遺言通り彼が
ファンだったベートーヴェン(左端)の隣りに
埋葬されている。よかったね、シューベルト!
シューベルトの生家


彼が夭折したアパート



こんな会話の記録がある。
「シューベルトさん、貴方の音楽はどうしてどれも悲しげなのですか?」
「幸せな音楽というものが、この世にあるのですか?」

短い生涯で600曲の歌を書いた歌曲王。彼の音楽は2種類に分けられる。“野ばら”“アヴェ・マリア”など清らかで美しい調べの白シューベルトと、歌曲集“冬の旅”など挫折、さすらい、死の影に支配された黒シューベルトがそうだ。死ぬ直前のピアノ・ソナタは、聴いているとあの世への旅というものを体験できるので、「もっと黒シューベルトを!」という人はそちらへ。享年31歳。

僕はシューベルトの歌曲『死と乙女』を聴いて、歌詞とメロディーに全身が感電してしまった(同曲には弦楽四重奏曲版もあって、そっちは旋律がドラマチックで以前から愛聴)。歌曲の歌詞をじっくり読んだのは初めてだった。歌い手は乙女と死神の2役を演じ、最初に死に怯える乙女、次に死神の歌と続く。「去りなさい、恐ろしい死神よ。私はまだ若いわ、さあ行って。どうか私に触れないで!」死神に触れる事=死である為、彼女は必死で抗おうとする。メロディーも激しく揺れ動く。一瞬静寂に包まれると、次に鬼火が暗闇にゆらめき、そこから細い銀の川が流れていくような、この世のものと思えないメロディーに変わる。「--手を貸しなさい。美しく優しい生き物よ。私は味方だ。罰しに来たのではない。勇気を出せ。恐れることはない。私の腕の中で静かに眠りなさい」。死神は乙女に永遠の若さを与えてやると誘惑する(死ねば人々の記憶の中でずっと若いままだ)。乙女の死への不安は、やがて憧れに変わり、最後に連れ去られてしまう。なんと恐ろしく、また危険な誘惑に満ちた曲だろう。ヤバすぎだぜ、シューベルトさんよ!※シューベルトはクラウディウスの詩『死と乙女』からインスピレーションを得た。

※20歳前から死ぬときまで、彼は住所不定のまま友人の家を泊まり歩いていた。知られざる元祖ヒッピーなり。
※最初の埋葬場所はウィーンのWahringer Friedhof (Defunct)。

「シューベルトの曲は喜びと同じくらい、悲しみがある」(吉田秀和)音楽評論家



★プッチーニ/Giacomo Puccini 1858.12.22-1924.11.29 (イタリア、トレ・デル・ラーゴ 65歳)2002
Puccini Estate Grounds, Torre del Lago (Near Viareggio), Italy


墓は自宅プライベート・チャペルの中にあった 中は撮影禁止(これは絵葉書)

斜塔で有名なピサの近郊にプッチーニ邸があり、現在、彼の博物館として公開されていた。



★リヒャルト・シュトラウス/Richard Georg Strauss 1864.6.11-1949.9.8 (ドイツ、ガルミッシュ 85歳)2002
Richard Strauss Villa, Garmisch, Germany

リヒャルト・シュトラウスはその雄大な音楽にふさわしく、チロル地方に近いドイツ南部のアルプスに抱かれていた。

大きな荷物を背負って坂道を登るのは大変なので、
地元の旅行案内所で預かってもらった。(奥の黒い奴)
村ハズレにある教会墓地を目指す。さすがはアルプス、
空気が上手い。街中の巡礼と違って、どんなに歩いても
なかなか疲れなかった。青空と緑が目に沁みる墓参だ。
なんとも、のどかな墓地。小さな墓地とはいえ意外に
墓が多く、墓地内の略図を旅行案内所で描いてもらっ
ていなかったら、墓探しは困難を極めていただろう。
どの墓も個性豊かでかわいらしい、田舎の墓地。
あたたかい陽射しが優しく彼らを包み込む。
ハイジに出てきそうな噴水!とっても冷たかった! 墓地の向こうには山々の大パノラマが見える。
ついに憧れのR・シュトラウスに謁見!! R・シュトラウスの背後にも雄大な山並みが。
ほんと、素晴らしい場所に彼は眠っていた!!

彼のオペラ『サロメ』は完成当初、あまりに背徳的な描写があるという理由で、上演禁止に追い込まれたセンセーショナルな作品だ。
また、弦楽器のみで演奏される『変容』は、世紀末の闇と混沌が包み込んでくるような曲で、マジで魂を抜き取られそうになる。


●リヒャルト・シュトラウス作曲「4つの最後の歌」から“夕映えの中で”
(Im Abendrot/詩:アイヒェンドルフ)

私たちは苦しみにつけ喜びにつけ手に手をとって歩んできた
そして今 さすらうのをやめ静かな丘で休んでいる
周りの谷は沈み 空には闇が近づいている
二羽のヒバリだけが夢を追いつつ 夕もやの中を昇っている
こっちにおいで ヒバリたちはさえずらせておこう
もうすぐ眠りの時が近づくから
二人きりの寂しさの中 はぐれないようにしよう
ああ 広々とした静かな安らぎよ
こんなにも深い夕映えに包まれ
歩み疲れた私たちがいる
これがもしかすると死なのだろうか



★グリーグ/Edvard Grieg 1843.6.15-1907.9.4 (ノルウェー、ベルゲン 64歳)2005&09
Ashes sealed in the side of a cliff projecting over the fjord at Troldhaugen(his home)

 

オスロからフィヨルド地帯へ!ノルウェー西端にグリーグの眠るベルゲンがある











墓はグリーグの家(今は博物館)の裏手、海岸沿いにある。
家に至る道の美しいこと!林が夕陽を浴びて輝いていた
これがグリーグ・ハウス

そしてグリーグ像
















裏庭を下ると海岸がある

海が見えてきた!

なんとー!彼の棺は海に面した崖にめり込んでいた!
こんな場所にある墓なんて見たことないッ!ブッ飛んだぜーッ!!



墓前には美しい景観が広がっていた。崖の高さなら見晴らしもいいだろう。なんて幸せなお墓なんだろーか!



★ドビュッシー/Claude Achille Debussy 1862.8.22-1918.3.25 (パリ、パッシー 55歳)2002&09
Cimetiere de Passy, Paris, France


2002 実にスッキリとした墓 なんて書いてあるんだろう? 2009 7年後。墓がシンプルなだけに目立った変化なし

“C”と“D”をデザイン化したサインがオシャレ 背後にも名前が入っていた

エッフェル塔のすぐ近くに彼は眠っている。シンプルでフォルムの美しい墓だった。絵画の印象派といえばモネや
ルノアールだが、音楽の印象派の第一人者はドビュッシーだろう。繊細な音のきらめきに陶然としてしまう。

「言葉で表現できなくなったとき、音楽が始まる」(ドビュッシー)




★ビバルディ/Antonio Vivaldi 1678.3.4-1741.7.28 (オーストリア、ウィーン 63歳)2002
Vienna University of Technology, Vienna, Wien, Austria



悲惨!かつてビバルディが埋葬されていた墓は消えていた!

 

誰もが一度は耳にする名曲『四季』の作曲者でありながら、その晩年は不遇だったようで、故郷ベネチィアを遠く離れた
ウィーンの貧民墓地に葬られた。しかも墓地の上には、現在ウィーン工科大学が建っている。大学の壁面に、
かつてこの地に彼が埋葬されたことを示す小さなプレートがあるが、これに気づき立ち止まる人は殆どいない。


孤児院で教師をしていた彼が作った曲の大半は、生徒達のために書かれたもの。ケンカにならぬよう各楽器ごとに見せ場があるだけでなく、
他人と共同する楽しさを教える為にアンサンブルの魅力が存分に発揮されている。それが理由なのか、彼の曲は聴いていて全く退屈しない。



★ラヴェル/Maurice Joseph Ravel 1875.3.7-1937.12.28 (フランス、パリ郊外 62歳)2002&09
Cimetiere de Levallois-Perret, Paris, France

  


2002 大雨だった 2009 正門をくぐって右前方に眠っている

02年はドシャ降りの中の巡礼!管理人事務所で雨宿りさせてもらっていたら、話題に窮した管理人のおばさん(英語を話せる人
だった)が、何を思ったかラヴェルが死去した際の“埋葬証明書”を見せてくれ、「墓参の記念に」とコピーまでとってくれた!

たったひとつのフレーズを約15分にわたり、全宇宙に展開する“ボレロ”。音の魔術師ラヴェルの神業に近い
オーケストレーションに絶句!(小太鼓が叩く2小節のフレーズの繰り返しは、なんと169回!)

バレエ『ボレロ』…1928年、バレリーナのイダ・ルビンシュタインが「スペイン人役のバレエ曲を作って下さい」とモーリス・ラヴェルに作曲を依頼し、音楽史に残る名曲が完成した。作品のコンセプトは“スペイン・セビリアのタブラオ(居酒屋)で1人のロマ(ジプシー)の女がテーブルに乗り、周囲の男たちを挑発する”というもの。初演は同年11月22日のパリ・オペラ座。振付けを担当したのはニジンスキーの妹、ブロニスラヴァ・ニジンスカだった。それから32年後、1960年にモーリス・ベジャールがユーゴのバレリーナ、デュスカ・シフニオスに振り付けたものが、現在の有名な『ボレロ』だ。

ベジャールの演出では、円形の赤いテーブルの上で「メロディ」役を1人の女性ダンサーが踊り、周囲では「リズム」役を男性のコール・ド(群舞)が踊った。リズムたちは、最初は離れた場所で椅子に座っている。メロディが静かに踊り始めてもソッポを向いているが、やがてメロディの振りが激しく情熱的になっていくと、1人、2人と我慢しきれなくなって立ち上がり、メロディを女神の如く讃えるように踊り出す。次第にメロディとリズムは響きあうように熱狂していき、官能と興奮のピークで全エネルギーを放出して倒れ伏す。全15分。※円形のテーブルを卵子とする解釈もある。確かにラストに男たちがテーブルを取り囲む姿は受胎を思わせる。さすれば、新たな命を産み出す生命賛歌であり、『ボレロ』はいっそう感動的に見える。

物語の展開上、当初は女性だけがメロディを踊っていたが、やがてジョルジュ・ドンというアルゼンチン出身の素晴らしい男性ダンサーが現れ、ベジャールはドンをメロディに抜擢、この試みは大成功を収める。そして映画『愛と哀しみのボレロ』(1981)のクライマックスでドンの踊りが映し出され、ボレロは世界的に有名になった。それからの約10年、ドンは各国でボレロを踊るが、あまりにドン=ボレロのイメージが強くなり過ぎた為、「過去から自由になりたい」とドンはボレロを封印する(日本公演は1990年が最後。僕は23歳の時に大阪フェスティバルホールで鑑賞)。それからすぐ、92年にドンはエイズの為に45歳で他界した。※YouTube『ジョルジュ・ドンのボレロ』(8分41秒のハイライト。クライマックスは3分50秒から)

数々のダンサーが『ボレロ』を踊ることを熱望したが、ベジャールが彼の芸術を理解し体現できると認めた人間しか許さないため、僕の知る限り、女性で踊ったのは、マイヤ・プリセツカヤ、シルヴィ・ギエム、ショナ・ミルク、マリシア・ハイデ、マリ=クロード・ピエトラガラ、デュスカ・シフニオス、上野水香の7人、男性はジョルジュ・ドンを筆頭に、パトリック・デュポン、シャルル・ジュドー、エリック・ヴ=アン、リチャード・クラガン、高岸直樹、首藤康之、後藤晴雄の8人、計15人だけ(他にもいたらスミマセン!)。ベジャールが他界したのは07年11月22日。奇しくもボレロの初演と同じ日だった。

ボレロ研究で参考にさせて頂いたこちらのサイトによると、男性群舞の衣装は、初期は居酒屋に集う水夫をイメージし、縞柄シャツを着て首にミニ・スカーフを巻いていた。現在上半身が裸なのは、(1)波打つ裸体が音楽を視覚的に表現する(2)「裸体こそが最も美しい衣装」(三宅一生談)。また、話題のバレエ漫画『昴』にはこんなセリフが出てくるらしい→「ダンサーには二種類しかない。『ボレロ』を踊ることが許されたダンサーとそうでないダンサー」。クーッ、かっこいい!

※1987年に2つのテーブルを前後に並べた「二人ボレロ」という珍しい舞台があったそうだ(シュツットガルト・バレエ団公演、メロディはマリシア・ハイデ&リチャード・クラガン)。うっわー、めっさ興味をそそられるんだけど、映像が残っていないのかな!?



★ドヴォルザーク/Antonin Leopold Dvorak 1841.9.8-1904.5.1 (チェコ、プラハ 62歳)1994&2005
Vysehradsky Hrbitov, Prague, Czech Republic

  

チェコの偉人が大集合したヴィシュフラド墓地(元は古城だった)にドボォルザークは眠っている。モルダウ川が近い。
彼の楽曲の土臭さが大好き。親近感ありまくり。メロディーラインは詩情に溢れ、どの曲も退屈という言葉とは無縁だ。
流れるようなメロディーを考えることが苦手だったブラームスは、親友のドヴォルザークの才能を終生羨ましがっていたという。
「ドヴォルザークがダメだと思ってゴミ箱に捨てた楽譜の断片で自分は一曲書ける」(ブラームス)

※ドヴォルザークは筋金入りの“鉄っちゃん”(鉄道オタク)。音大で講座中に列車の通過時間になると授業を中断して観に行ったという。
「本物の機関車が手に入るのだったら、これまで自分が創った曲の全てと取り替えてもいいのに…」(ドヴォルザーク)



★ムソルグスキー/Modest Petrovich Mussorgsky 1839.3.21-1881.3.28 (ロシア、ペテルブルグ 42歳)1987&05&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation

    
若きムソルグスキー   合い言葉は「民衆の中へ!」 死の3週間前(レーピン画)
「芸術家は未来を信じる。自分自身が未来に生きるゆえに」(ムソルグスキー)



2005 チャイコフスキーのすぐ側 2009 画家レーピンが彼を埋葬した 墓参は6月上旬の15時半。木漏れ日がちょうど顔に当たって立体感が出た



両側面の足下に、代表作の
名前が彫られた石板がある
歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』の楽譜が正面に刻まれている。第1幕第1場の修道僧ピーメンの歌。
歌詞の意味は 「そうして正教徒の子孫達は知るだろう、故郷の地の過去の運命を!」

※墓石の楽譜について、「"展覧会の絵"研究会」を参照しました。同サイトによると墓の裏面には生没年が記載されており、
その生年が間違っているらしい(僕は未確認、不覚!)。当時は魔よけのため生年月日を偽る習慣があり、本人も勘違いしていたらしい。


 
墓のデザインで目をひいたのは、下の方がピアノの鍵盤になっていたこと!音楽家にふさわしい墓!

作曲家ムソルグスキーと画家ガルトマン(ハルトマン)は「芸術の真の目的は民衆の生活を描くこと」「富裕層の為の芸術ではなく民衆の為の芸術を!」と高い理想を胸に頑張っていたが、なかなか世間から認められず、世渡り下手で友達も少なかった。ムソルグスキーは批評家から「素人同然」と酷評され、ガルトマンも「空想の絵だけ描けて現実の物は描けない」と仲間から嘲笑された。だが、ムソルグスキーは帝政ロシア末期の暗い時代の中でも、明るさを忘れないガルトマンの画風を高く評価していた。理解者がお互いだけという状況で、2人は両者の存在が掛け替えのないものになっていく。だが1873年、出会いから3年目にガルトマンは動脈瘤で急死。まだ39歳の若さだった。訃報の電報を受け取ったムソルグスキーは倒れ込む「たった2行の知らせが僕を打ちのめした。僕はベッドに倒れ込み、そのまま翌日まで起き上がることが出来なかった」。ガルトマンと最後に出会った時(1ヶ月前)の記憶をムソルグスキーは手紙にこう記している「ガルトマンが突然街角でうずくまった。今から思えば、あれは心臓発作だったんだ。だが僕は全く気付かなかった。なんて愚かだったのだろう。もし気付いていれば何かしてやれたのに」。一方、ガルトマンもこの時の気持を絶筆の手紙に残している「僕はあの時、死が近いことを感じ、とても取り乱してしまった。なのにムソルグスキーはとても親切にしてくれた。ムソルグスキーは僕にとっていつも神様みたいな存在だった」。

  無二の親友だったガルトマン 

ガルトマンの他界から半年後、ロシア美術アカデミーで催された遺作展を訪れた彼は、親友の絵に再会して深く心を動かされる。「僕の心の中でガルトマンが熱く沸騰している。音と思想が空気の中に漂い、僕はそれを見つめ紙の上に書き記す」。ムソルグスキーは親友の400点の絵から10点を選び、それをモチーフに音楽をつけた。これが有名な『展覧会の絵』だ。曲と曲の間には「プロムナード」(仏語で“散歩”の意)が流れ、ムソルグスキー本人が会場を歩いている様子が描写されている。特筆したいのは第4曲の「ヴィドロ」。この重厚なメロディーの曲は、「ヴィドロ」がポーランド語で“牛”を指すことから、長く「牛車」の描写と思われてきた。ムソルグスキーも手紙に「ヴィドロ、これは“牛車”という意味にしておこう」と記している。わざわざ含みを持たせているのは、「ヴィドロ」には「家畜のように虐げられた民衆」というもう一つの意味があったからだ。ガルトマンが描いた「ヴィドロ」の元絵は、ロシア支配下のポーランドで実際に起きた民衆蜂起の絵で、その絵では軍隊に弾圧された民衆がギロチン刑にされていた。ガルトマンはポーランド旅行の時に処刑の現場に出くわし、強烈な体験を描きとめたのだ。ロシア皇帝の圧政が続く時代、抑圧されたポーランドの民衆への同情を表明した知識人は次々と投獄されており、ムソルグスキーは権力に対する命がけの抵抗歌として第4曲「ヴィドロ」を書いたんだ(日本の音楽教育の現場では、いまだに「ヴィドロは牛車が遠くからやってきて、目の前を通り、去っていく様子」と教えている。違〜う!)。フィナーレの第10曲「キエフの大門」は最も感動的な曲。これはロシア発祥の地・古都キエフで廃墟になっていた大門(11世紀にロシア最初の統一王朝が作った門)の再建案が公募された時、ガルトマンがデザインした絵だ。それは鳴り響く釣り鐘やロシア民族の誇りを表す「兜(かぶと)型」の屋根がついた美しいもの。この門の絵にムソルグスキーは壮麗なメロディーをつけた。しかもクライマックス直前には、華やかな「キエフの大門」の中に「プロムナード」(=ムソルグスキー)のメロディーを入れた込んだ!つまり、ムソルグスキーは楽譜の中でガルトマンと再会を果たしたんだ!ガルトマンやムソルグスキーが夢見た明るい理想のロシアの中で、2人の魂が溶け合っている!(これは泣く!)。ムソルグスキーは『展覧会の絵』の楽譜に「ガルトマンの思い出に」と刻んだ。
ガルトマンの死後、それまでも深酒をしていたムソルグスキーはますます酒に溺れ、アルコールでボロボロになり8年後に42歳で亡くなった。ムソルグスキーの肖像画を描いたレーピンいわく「洗練された紳士だった男が、持ち物を全て売り払って安酒場に入り浸っている。ボロを着て酒で顔が膨れあがった男。本当にこれが私の知るムソルグスキーなのだろうか」。

亡き親友の為に作曲したピアノ組曲『展覧会の絵』は生前に発表されることはなかったが、半世紀後に作曲家ラヴェル(@ボレロ)の手でオーケストラ化され、今や世界の人々に愛される名曲になっている。ロシアでさえ無名の画家だったガルトマン、不遇のまま死んだムソルグスキー。しかし人間は死んだからって終わりじゃない。両者の魂は芸術に姿を変えて世紀を超え、130年後を生きる僕らの心に届き、さらにまたこれからも人類が生き続ける限り受け継がれていくだろう。『展覧会の絵』を聴けばいつだって彼らに会える。
※『展覧会の絵』のモチーフになった絵は、革命や戦争で散逸し、長い間10枚のうち半数しか判明していなかった。残りの絵は“海外へ流出した”“独ソ戦で燃えた”と噂されていた。ところが、1991年にNHKの調査チームと作曲家の故・團伊玖磨さんがロシアに渡って、不明だった残りの5枚の絵を執念ですべて発見!ロシア人の研究者でさえ果たせなかった快挙だ。これは世界的&人類史的に見ても、芸術という分野でNHKが果たした最大の功績だと思う!

ピアノ版、オケ版が入って千円と良心的(Ama

(参考資料)NHK『革命に消えた絵画』、NHK『名曲探偵アマデウス』ほか



★ラフマニノフ/Sergei Vasilievitch Rachmaninoff 1873.4.2-1943.3.28 (USA、NY郊外 69歳)2000&09
Kensico Cemetery, Valhalla, Westchester County, New York, USA




2000 2009 背後の木々が少しスッキリ ロシア正教の十字架



十字架前の墓標に“セルゲイ&ナタリー”とあった この角度から見るのが好き。カッコイイ!

彼が精神病棟でリハビリの為に作曲した「ピアノ協奏曲第2番」は、クラシック史上に残る美しい名曲となった。
この墓地は世界一親切な墓地だった!広大な墓地だったので職員が自家用車で墓の場所まで連れてってくれ、
帰りは最寄の鉄道駅まで送ってくれた。こちらは何も頼んでいないにも関わらずだ。あ、あり得ない!
※ラフマニノフはロシア生まれ。後に米国へ亡命した。本名の綴りは“Rachmaninov”。




★ビゼー/Georges Bizet 1838.10.25-1875.6.3 (パリ、ペール・ラシェーズ 36歳)1989&02&05&09
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France






傑作『カルメン』を作曲! 1989 初巡礼 2002 墓上にはビゼー像が建つ

 
2005 この時もまだビゼー像がある。イイ男

2009 ぐおー!どこのどいつじゃ、ビゼー像を持ち去った野郎は!
そりゃ、僕だって欲しかった。が、持って行っちゃイカンだろう!

1838年、パリ生まれ。母はピアニスト、父は声楽教師という音楽家の家庭ゆえ、幼い頃から音楽に親しみ、9歳でパリ音楽院に入学した。グノーに師事。18歳の時に若い芸術家の登竜門ローマ大賞(1663-1968)に応募。ローマ大賞は30歳以下の若者への奨学金付留学制度で、音楽、建築、絵画、彫刻、版画の5部門について王立アカデミーが最優秀者を選び、イタリアへ国費留学させるというもの。ビセーは最優秀になったが年少のため2位扱いになり、翌年(19歳)にあらためてローマ大賞に輝き1860年(22歳)までイタリアに留学した。当時の音楽界ではオペラが最も価値あるものと思われていたので、オペラの本場であるイタリアに行くことは若い作曲家の夢だった。
23歳、帰国後のビゼーは巨匠ピアニストのリスト(当時50歳)の目の前でピアノを弾き、天才リストをして“私よりあなたが上だ”と言わしめた。だが、ビゼーはピアニストではなく、あくまでもオペラ作曲家を目指した。しかし現実は厳しい。1863年(25歳)に発表した歌劇『真珠採り』が好評となり、オペラ作曲家の地位を確立したかに見えたが、以降に発表した約10曲のオペラは晩年の作品をのぞいてどれも大きな話題にはならなかった。

1872年(34歳)、フランス人作家ドーデの戯曲『アルルの女』につけた音楽(BGM)が話題になり、ビゼーの名が初めてパリっ子に広く知られた。『アルルの女』はオペラではなく舞台演劇であったため、ビゼーはなんとか作曲家の最高ステータス=オペラで成功したいと熱望し、翌年から1年をかけて『カルメン』の作曲に取りかかる。1875年3月、渾身の力作『カルメン』が完成し初演を迎えた。喝采を期待していたビゼーだが、ヒロインが貴族の令嬢ではなくタバコ工場の労働者ということで華やかさに欠け、またヒロイン役が一般的なソプラノ歌手ではなくメゾソプラノ歌手という点でも、観客の反応はイマイチだった。これはビゼーを深く失望させた。『カルメン』は初演こそ不評だったものの、90日間に33回上演されるなど、決して失敗作ではない。しかし、ビゼーはもっと大きな成功を期待していたことから心労で体調を崩してしまう。そして初演から3ヶ月後に敗血症(細菌感染症)のため他界した。

2歳年下のチャイコフスキーはビゼーの死の5年後にこう記している「昨夜、仕事の疲れを休める為にビゼーの『カルメン』を全曲弾いた。傑作という言葉の意味をいかんなく発揮した楽曲だ。今後10年の間に世界で一番人気のあるオペラになるだろう」。ドビュッシーやサン=サーンスもビゼーを絶賛し、哲学者ニーチェは『カルメン』を20回も観たという。チャイコフスキーの予言は的中し、『カルメン』は初演から130年以上が経った今でも、世界各地で常に上演され続けている大人気演目となった。

『カルメン』(前奏曲/2分26秒)レヴァイン指揮/メトロポリタン歌劇場管弦楽団(めっさ爽快!)



★サティ/Erik Satie 1866.5.17-1925.7.1 (フランス、パリ郊外 59歳)2002
Cimetiere d'Arcueil, Arcueil, France

 

清掃車の兄ちゃんたちに墓地への道順を尋ねたら、なんとそのまま清掃車で墓地の近くまで送ってくれた!
サティの曲はすごくオリジナリティがあり、彼だけにしか作れないものばかり。曲名も「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」など実にユニーク。
※命日は7月4日説アリ。



★リスト/Franz Liszt 1811.10.22-1886.7.31 (ドイツ、バイロイト 74歳)2002
Alter Friedhof, Bayreuth, Germany

   

白亜のチャペルの中に眠っている。※若き日のこのイケメンぶりを見よ!

神の化身といわれた人類史上最大のピアニスト、リスト!彼は作曲も試み、色彩感豊かな素晴らしい作品を多数残している。




ワイマールにあるリストの家。他の見学客がいなかったので、なんと管理人さんがリストのピアノを弾かせてくれた!(1989)



★メンデルスゾーン/Felix Mendelssohn-Bartholdy 1809.2.3-1847.11.4 (ドイツ、ベルリン 38歳)2002
Dreifaltigkeitsfriedhof I, Berlin, Germany



メンデルスゾーン家の墓所。彼らは町の名士だった。 実は94年にも訪れていたが、赤の他人のメンデルスゾーン
さんに巡礼していた。完全に人マチガイ。大雨の中を、ズブ
濡れになって2時間かけて探し当てたのに…。墓前で超喜ん
でるだけに、この写真は自分にとって涙なくしては見れない。

メンデルスゾーンの曲はどれもメロディーが大変美しく、何時間聴いても苦にならないッス。




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