作曲家の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

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★120名


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●映画音楽ほか

ハロルド・アーレンの墓
ジェリー・ゴールドスミスの墓
マックス・スタイナーの墓
ジョルジュ・ドルリューの墓
アルフレッド・ニューマンの墓
バーナード・ハーマンの墓
アーヴィング・バーリンの墓
ビクター・ヤングの墓
ニーノ・ロータの墓

音楽家への巡礼は、英語が通じない国でも、メロディーを口ずさむことで誰を探しているのか相手に伝わることも多く、まさに「音楽は言葉の壁を越える」、だね。



★ベートーヴェン/Ludwig van Beethoven 1770.12.16-1827.3.26 (オーストリア、ウィーン 56歳)1989&94&2002&05&15X2
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria/Plot: Group 32 A, Number 29












都会的でハンサム

でも本当はもっと素朴

第九や荘厳ミサを完成させた頃

散歩中に「田園交響曲」
の構想を育む


ベートーヴェンの生家
(ドイツ・ボン)
生家の正面はピンク色だけど、奥の建物は黄色
一番上の鎧戸が開いた屋根裏部屋で彼は生まれた















ウィーンに現存する住居。彼の
部屋は5階の窓が開いている所
ドアのノブに触って
「間接握手」だッ!
ベートーヴェンのピアノと胸像。窓の向こうは大学だ(撮影許可済)


路線38Aで彼が遺書を書いた
ハイリゲンシュタットへ
通称エロイカ・ハウス

窓から美しい庭が見える

デスマスク…ぐっすん


別のベートーヴェン・ハウス。彼は引越し魔
(70回以上!)だったのでウィーン中に家がある
エロイカの楽譜。ナポレオンの名前
がグチャグチャに消されているッ!

●ウィーン:シューベルトパークのベートーヴェン最初の墓



現シューベルトパークはかつてヴェーリング地区墓地が
あった。ベートーヴェンは最初にここへ葬られた(2015)
ベートーヴェン(奥)とシューベルト
の墓石だけが改葬後も残された
ベートーヴェンの墓は
メトロノームの形をしている

●ウィーン:中央墓地のベートーヴェンの墓

“ベートーヴェン詣で”の行列!(2015)

左からベートーヴェン、モーツアルト(記念碑)、
シューベルト。鼻血が出そう…
世界中からファンが会いに来る












2002 夕陽の中にたたずむベートーヴェン

台座には「ヴェーリング地区墓地にあった
最初の墓石を模して造られた」と説明文
2005 小雨の中の彼

2015 墓前の花壇が立派に!




石柱に「32A」。ここが楽聖地区だ! 「グーテン・モルゲン!(おはよう)」夢のような散歩道 「はじめまして、ベートーヴェンさん」(2015)


「モーツァルトは誰でも理解できる。しかしベートーヴェンを理解するには優れた感受性が必要だ。失恋などで悲しみのどん底にいなければならない」〜シューベルト
「ベートーヴェンの曲は“これしかない”という音が後に続くから完璧なのだ」〜レナード・バーンスタイン(指揮者)
「今、運命が私をつかむ。やるならやってみよ運命よ!我々は自らを支配していない。始めから決定されてあることは、そうなる他はない。さあ、そうなるがよい!そして私に出来ることは何か?運命以上のものになることだ!」(ベートーヴェン)

“楽聖”ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 。僕はかつて同じ人類の中に彼がいたという一点をもって、人間が地球に誕生したことは無意味ではなかったと確信している。ベートーヴェン以前の音楽家は、皆が王室や貴族に仕え、作品といえば注文に応じて書く式典用の音楽が大半だった。だが、平民出身で進歩的なリベラル(自由主義者)のベートーヴェンは、そのような主従関係を拒否し、一部の貴族のために作曲するのではなく、全人類に向けて作品を生み出した。自身の内面から湧き上がる創作の欲求に従い音楽を書いた。単なる娯楽としての音楽ではなく、「苦悩を突き抜け歓喜へ至れ」と人間讃歌をうたいあげた。個々の音符から見えてくるものは“そうあらねばならぬか?そうあらねばならぬ!”という鋼鉄の意志。古典派の堅固な構成とロマン派の劇的な展開が化学反応を起こし、安定感と創造的破壊のせめぎ合いが生む緊張感にシビレ、法悦(エクスタシー)とも言うべき快楽を与えてくれる。限りなく深い世界愛と、権力者の理不尽な抑圧に立ち向かう人道主義に裏打ちされた楽曲は、まさに“楽聖”の名にふさわしい。

ベートーヴェンは9曲の偉大な交響曲、7曲の協奏曲(5曲がピアノ協奏曲)、32曲のピアノ・ソナタ、16曲の弦楽四重奏曲、10曲のバイオリン・ソナタ、5曲のチェロ・ソナタ、2曲のミサ曲、オペラ「フィデリオ」、その他、138曲もの作品を生み出した巨人(タイタン)。同じ人間が作ったものとは思えず、僕にとっては存在そのものが神話に近い。
その一方で、親しみを感じる人間味のあるエピソードも多数残している。ベートーヴェンは決して“天才”ではなかった。天才とはモーツァルトのように楽譜に向かう前に既に頭の中で曲が完成している者のことをいい(モーツァルトの楽譜は殆ど修正した跡がない)、ベートーヴェンのようにひとつのメロディーを書くだけで延々と書き直したりはしない。『運命』の第2楽章には8度も旋律が書き直された(貼り直された)箇所があり、しかもそれを剥がしていくと8枚目と元の旋律が同じだったりする。有名な『運命』の冒頭もさんざん試行錯誤して下書きを繰り返したものだ。散歩中に書き付けた紙切れやメモ、ノートのスケッチは7000点以上にのぼる。
不器用な彼は作曲中、他の一切の用事が出来ず、ピアノの上にはカビの生えたパンが皿に乗っており、ピアノの下では簡易トイレが大爆発していた(雇ったメイドは片っ端から逃げ出した)。そんな環境で『エリーゼのために』や『月光』など美しい珠玉の傑作が生まれるんだから面白い。大好物はパンを入れて煮込んだスープ、魚料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたもの、そしてハンガリーの極甘口トカイワイン。コーヒーは自分で豆60粒をピッタリ数えて淹れるこだわりを持っていた。
神経質なほど“引越し魔”で、ウィーン滞在の35年間で79回も転居したという記録が残っている。他にも、人道主義的理想を掲げた大傑作の第九の直後に『なくした小銭への怒り』という珍曲を作ってるのも人間っぽくて良い!(注:ウィキによると「小銭」の曲は偽作らしい)

1812年、テプリツェ(現チェコ北部)でゲーテと腕を組んで散歩中(当時ベートーヴェン42歳、ゲーテ63歳)に、オーストリア皇后やルドルフ大公(皇帝レオポルト2世の末子でベートーヴェンのパトロン兼弟子)の一行と遭遇した時のこと。ゲーテは腕を解くと、脱帽し通りの脇から最敬礼で一行を見送った。ベートーヴェンいわく「私は帽子をしっかりかぶり、外套のボタンをかけ、腕組みをしたまま、堂々と頭を上げて行列を突っ切った」「おべっか使いの臣下どもが両側に人垣を作っていたが、ルドルフ大公は私に対して帽子をとり、皇后は真っ先に挨拶した」(クルト・パーレン著『音楽家の恋文』)。逆に大公一行から挨拶されたベートーヴェン。この出来事を他人に伝えるベートーヴェンの手紙は辛辣だ「行列がゲーテの前を行進した時は、本当に可笑しくなってしまいました。彼は帽子をとり、深く頭を下げて脇に立っていました。それから私はゲーテにお説教をしてやりました。容赦せず彼の罪を全部非難しました」。21歳も年下の男から道端で激しく説教されるゲーテの気持ちはいかほどだったろう…。ベートーヴェンは後援者のリヒノフスキー侯爵に対してさえ「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎないが、私が今あるのは私自身の努力によってだ」と書き送っている。
厳格な封建社会にあって貴族に唾を吐きかける無敵ぶりと、耳が聞こえなくなるという不運にもかかわらず、“運命が決まってるならそうなるがよい、こっちは運命の上を行くだけだ”(聴覚を失ってもさらに作曲を続ける)と、逆に運命の女神に闘争宣言を叩き付け、血祭りに上げてしまう恐るべき精神力。歩く活火山のようなパワフルさ。めちゃくちゃカッコイイ!

ベートーヴェンの作品が後世の作曲家に与えた影響は絶大で、ブラームスは40代になるまで交響曲が書けなかった。ワーグナーは「この世には既にあの9つの交響曲があるのに、このうえ交響曲を作る意味があるのか」と立ち尽くし、ベートーヴェンが開拓しなかった楽劇の道に進んだ(ベートーヴェンのオペラは1作品しかない)。

●その激動の生涯
1770年12月16日、ケルン選帝侯の城下町ボンに生まれる。身長167cmでがっしり体型。肌は浅黒。弟子のチェルニー(教則本で有名)は、ベートーヴェンの第一印象を「ロビンソン・クルーソー」「黒髪が頭の周りでモジャモジャ逆立っている」と表現している。後年は服装に無頓着だったためホームレスと誤認逮捕され、ウィーン市長が謝罪するなんてこともあった。
祖父(オランダ人)は宮廷楽長、父も宮廷楽団の歌手であったが酒に溺れてしまい、祖父が家計を援助していた。母は宮廷料理人の娘。3歳で祖父が他界すると生活が困窮し、翌年から父はベートーヴェンをモーツァルトのような神童にして一稼ぎしようと苛烈なスパルタ教育を行う。10歳で小学校を退学し、1782年に12歳で作曲家ネーフェに師事。この年早くも変奏曲『ドレスラーの行進曲による9つの変奏』を作曲している。12歳らしからぬ陰影を感じる変奏曲だ。
※『ドレスラーの行進曲による9つの変奏』 https://www.youtube.com/watch?v=mZDZxYaoc-w (7分13秒)
1783年、13歳で全3曲のピアノ・ソナタ『選帝侯ソナタ』を作曲。ケルン大司教(選帝侯マクシミリアン)に献呈した。
※『選帝侯ソナタ 第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=SkmnIto4298 (10分)軽快で気持ちいい!
1784年、14歳で正式に宮廷オルガニストに任じられる。早くもこの年に『ピアノ協奏曲 変ホ長調』を作曲。
※『ピアノ協奏曲第0番』14歳の作品。ただしピアノパートのみが現存しており管弦楽は後世の補筆。https://www.youtube.com/watch?v=3Tw6UHB52zE (25分)
1787年(17歳)、音楽の都ウィーンを旅行してモーツァルト(当時31歳、ベートーヴェンとは14歳差)を訪問し、ピアノの腕前を高く評価される。この時、「今にこの若者は世の話題をさらうだろう」と予言されたとも。弟子入りが認められたが、母の結核が悪化しボンに帰郷、その死を看取る。



『選帝侯ソナタ』を作曲した
13歳のベートーヴェン
ボンに眠る優しいお母さんマリア
(2015)

1789年(19歳)、妻を失った父はさらに酒量が増えアルコール依存症で失職。ベートーヴェンが家計を支え2人の弟の世話をした。同年、フランスでは民衆が王政を打ち倒す革命が起き、青年ベートーヴェンも大いに刺激を受けた。この頃、ベートーヴェンは教養の不足を感じボン大学聴講生となっていた。大学で文豪シラーの詩「歓喜に寄す」と出会って胸を打たれ、約30年後に第九の歌詞にしている。
1790年に20歳で書いた「皇帝ヨーゼフ2世を悼むカンタータ」は、師ネーフェやベートーヴェンの後援者ワルトシュタイン伯らの心を動かし、“この才気ある若者を是非ウィーンに送ってモーツァルトの弟子にしよう”という運動が起きる。年末、高名な作曲家ハイドン(当時58歳/1732-1809)が訪英途中にボンへ立ち寄り、ベートーヴェンは謁見に成功する。
※皇帝ヨーゼフ二世の死を悼むカンタータ https://www.youtube.com/watch?v=il9GlHXSwWY (8分52秒)

1791年(21歳)、モーツァルトが12月に35歳で早逝してしまう。バレエ音楽『騎士のバレエ』を作曲。
※『騎士のバレエ』 https://www.youtube.com/watch?v=1kB8ed0k-hs (10分)
1792年(22歳)、7月にボンでハイドンに再会し、カンタータを見てもらう。ハイドンはベートーヴェンの才能を誉めた。その後、後援者たちはウィーンで活躍していたハイドンにベートーヴェンを弟子入りさせることにし、11月(10月?)にボンから送り出す(弟子入り資金は後援者が負担)。親しい友人たちは旅立つベートーヴェンのために寄せ書きノートを作成し、激励の言葉を綴った。宮中顧問官ワルトシュタイン伯(1762-1823)「親愛なるベートーヴェン。モーツァルトの守護神は秘蔵っ子の死を今なお悼み、泣き悲しんでいます。彼は次にハイドンを見出しましたが不十分です。彼は結びつく相手を探しています。あなたはモーツァルトの精神をハイドンの手から受け取りなさい」。
ところがハイドンはあまりに多忙でろくに指導できず、ベートーヴェンは不満を抱いた。同年、酒乱の父が他界。
またこの1792年にフリードリヒ・シラー(1759-1805)が1785年に26歳で書いた詩『歓喜に寄せて』と出会い、感激して曲を付けようと考える。実際に『第九』として形になるのは32年後(1824年)。
ベートーヴェンはボンを発つ前に作品1の1(Op.1)となる『ピアノ三重奏曲第1番 変ホ長調』を作曲。彼は以前にも曲を書いているが、この楽曲は公式に自身が作品発表の際に「Op.(Opus/作品番号)」を付した、その一曲目となった。第二楽章は内省的な美しさを持っている。
※『ピアノ三重奏曲第1番』第二楽章(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=YN0er1fZoEw#t=10m9s
※ある時ハイドンから「ハイドンの教え子」と楽譜に書くよう命じられ、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と拒否したという。

1793年(23歳)、ハイドンの代わりに宮廷楽長サリエリ(1750-1825)など複数の作曲家を師に持つ。サリエリは9年後の1802年までベートーヴェンの劇音楽の作曲を指導する。
ベートーヴェンは生地のボンでは有名で、この年、文豪シラーの夫人が手紙に「私はこの作曲家にたいへん期待しております」(1793年2月11日)と記している。22歳(誕生日前)にして同時代の文化人に名前が知られているのがわかる。

1794年(24歳)、年始前後にウィーンのリヒノフスキー侯邸の夜会でベートーヴェンは3曲の『ピアノ三重奏曲』を初演。居合わせたハイドンが賛辞を述べ、リヒノフスキー侯爵はベートーヴェンを自邸に住まわせた。このリヒノフスキー侯の援助を得て生活がラクになる。
この頃、作品1の2、『ピアノ三重奏曲第2番』が作曲される。こちらも第二楽章がカンタービレ的で魅力的。
※『ピアノ三重奏曲第2番』第二楽章(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=gEnmESNis_8#t=12m9s

1795年(25歳)、作品2の『ピアノ・ソナタ第1番』が完成。第4楽章はきらびやかかつ激しさがあり、既に後年のベートーヴェンを予兆するものになっている。
※『ピアノ・ソナタ第1番』第四楽章 https://www.youtube.com/watch?v=ocWejuM7wyU#t=13m17s
同年、『ピアノ協奏曲第2番』が完成(第1番の方があと)。1795年3月29日、ベートーヴェンは慈善コンサートで自作のピアノ協奏曲第2番を演奏し、ウィーンにデビューを果たす。この演奏は大きな話題を呼び、即興演奏の名手として人々を魅了し、新聞でも報道されたた。青年ベートーヴェンは作曲家としてより先に、天才ピアニストとして音楽好きのウィーン貴族たちから喝采を浴びた。一躍社交界の花形となり、楽譜出版社からの収入も増えていき、ボンに残していた2人の弟を呼び寄せる。
当時、音楽家の地位は低く、あのモーツァルトでさえ貴族からは使用人扱いで、貧困の中で没し亡骸は共同墓地に埋蔵された。だが、モーツァルトの死後は楽譜の出版市場が拡大し、ベートーヴェンはフリーの音楽家として暮らしていくことが可能になった。
※『ピアノ協奏曲第2番』この曲でウィーンデビュー https://www.youtube.com/watch?v=MxXtsRkTj-I (28分)
※チャイコフスキー「ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番の緩徐楽章、あの短い楽章ほど豊かな霊感に満ちた曲を私は知りません。それを聴く度に肌寒さを覚えて青ざめるくらいです」
チャイコお気に入りの第二楽章 https://www.youtube.com/watch?v=MxXtsRkTj-I#t=14m01s

1796年(26歳)、ピアニストとして演奏旅行を行い、ニュールンベルク、プラハ、ベルリンを訪問。同年、『チェロソナタ』の第1番と第2番を作曲し、プロシア王ヴィルヘルム2世に献呈。初演のピアノはベートーヴェンが担当しており、伴奏のピアノが活躍するのはピアニストとしての自分をアピールするためと思われる。また、『ピアノと管弦楽のための五重奏曲』を書いている。モーツァルトの同様の曲にならって、ピアノ、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットというユニークな編成。
※『ピアノと管弦楽のための五重奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=hp2OeRdWh_g (27分)
1797年(27歳)、ピアノ曲の小曲『四手のためのソナタ』(5分)を作曲。のちの運命交響曲に似たフレーズが冒頭から何度も登場。同年『ピアノ・ソナタ第4番』の楽譜を出版。ベートーヴェンの従来のピアノ・ソナタは20分前後だが、この曲は構想が大きく約30分の力作となった。
※『ピアノ・ソナタ第4番』 https://www.youtube.com/watch?v=4IxSHL8sfQw (30分)
またこの頃、約10年後に出版される約8分間のピアノの小曲『ピアノ・ソナタ第19番』『同第20番』を作曲(出版時に作品番号がついたため、大きな数字になっている)。ベートーヴェンは「2つのやさしいソナタ」と副題をつけており、弟子の練習曲として書かれた曲と思われる。

名声を得て得意絶頂のベートーヴェンだったが、人生が突如暗転する。1798年(28歳)、聴覚障害の最初の兆候が現れると次第に症状が悪化していった。音楽家にとって聴覚を失うことは致命的。他人にバレないようにするため、交際を避け家に引きこもるようになった。
この1798年は最初の豊作年。中でも『ピアノ・ソナタ第8番“悲愴”』は楽譜がよく売れ、人々はベートーヴェンが才能あるピアニストであるだけでなく、作曲家としても優れていることを知った。ベートーヴェンには珍しく「悲愴(Pathetique)」という標題を与えており、既に初版譜の表紙に記載されている。ベートーヴェンが標題をつけたピアノ・ソナタは他に「告別」しかない。悲愴ソナタは彼の3大ピアノ・ソナタ(他に月光ソナタ、熱情ソナタ)のひとつとなった。
この1798年の主な楽曲は−−
・『ピアノ協奏曲第1番』。ただしピアノ協奏曲としては3番目に書かれたもので、出版順で第1番となった。過去のものと比べて規模も大きく堂々としている。
※『ピアノ協奏曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=_O4ssd2EtRk (37分)
・10作あるヴァイオリン・ソナタのうちの第1番を作曲。明るい音色で親しまれる。
※『ヴァイオリン・ソナタ第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=eC6F4Le6mII
・『ピアノソナタ第7番』…第二楽章はベートーヴェンいわく「悲しんでいる人の心の状態を、さまざまな光と影のニュアンスにおいて描こうとした」。
※『ピアノ・ソナタ第7番』第二楽章 https://www.youtube.com/watch?v=l4Mq4iHQYjM#t=6m32s
・『ピアノ・ソナタ第8番“悲愴”』を作曲、初期のピアノ・ソナタの頂点となった傑作。支援者のリヒノフスキー公爵に献呈。
※ピアノソナタ第8番『悲愴』ギレリスの名演!素晴らしい! https://www.youtube.com/watch?v=d9ftbVi28TU (20分)
※ちなみに悲愴ソナタの第二楽章冒頭は、モーツァルトの『ピアノ・ソナタ第14番』第二楽章の一部と激似…だけどこれくらいならセーフ!
モーツァルト『ピアノ・ソナタ第14番』の第二楽章の該当部分 https://www.youtube.com/watch?v=CKtxbloW-ZQ#t=8m40s
・ハ短調の『弦楽三重奏曲第4番(旧3番)』を作曲し、ベートーヴェンの激情がみなぎった良作となる。
※『弦楽三重奏曲第4番』 https://www.youtube.com/watch?v=slgjC19XU5w (24分)
・『ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第2番』はとても旋律美に富んでおり演奏会でも人気の小品だ。怒髪天・大苦悩のベートーヴェンと全く異なる横顔の彼に会える。
※『ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=-MQGHIL7Kbk (9分20秒)
他にクラリネット、ピアノ、チェロという珍しい組合せの『ピアノ三重奏曲第4番“街の歌”』なども作曲している。

1799年(29歳)、これまでピアニストとして生計を立てていたのでピアノ曲が中心だったが、他のジャンルの開拓が始まる。この年、ベートーヴェンにとって交響曲やピアノ・ソナタと並ぶ重要な作品群となる弦楽四重奏曲の初期6曲を集中的に作曲(一部は翌年に完成)。完成順は第3番、第1番、第2番、第5番、第6番、第4番とみられている。すべて後援者のチェコの貴族ロブコヴィッツ侯爵に献呈された。
※『弦楽四重奏曲第1番』第二楽章(ロミオとジュリエットの墓場の場面を思い出して書いたという)
演奏はアルバン・ベルク弦楽四重奏団 https://www.youtube.com/watch?v=eXYBqmpBe70#t=8m58s
※『弦楽四重奏曲第2番』別名「挨拶四重奏曲」、楽器が挨拶を交わしているよう。武骨なベートーヴェンではない、優雅端麗な彼がここにいる https://youtu.be/GDvswQy97wo (24分)
※『弦楽四重奏曲第3番』実際の第1番であり、屈託のない明るさがあふれている https://youtu.be/znog4NlzjpU (22分)
※『弦楽四重奏曲第4番』6曲の中で実際には最後に完成しており、その分充実した内容に。初期6曲では唯一の短調であり、しかも運命交響曲と同じハ短調。深い感動的な美しさを備えている。中でも第一楽章の濃密さは群を抜く。
https://www.youtube.com/watch?v=aHQq9h6khMw (22分)アルバン・ベルク弦楽四重奏団の名演
※『弦楽四重奏曲第6番』第四楽章(序奏にベートーヴェンが「憂鬱」と標題をつけている) https://www.youtube.com/watch?v=JKOss36Dc6s#t=15m44s

1800年(30歳)、ウィーンに出てきて8年。この年、第一の巨匠期が開始する。まず前述した『弦楽四重奏曲』初期6曲がすべて完成。そして4月2日、ベートーヴェンの記念すべき最初の交響曲『交響曲第1番』、そして室内楽の名曲『七重奏曲』がウィーン・ブルク劇場で初演される。交響曲第1番はまだモーツァルトやハイドンの影響下にあるがベートーヴェンの個性も垣間見え、若々しく生気にあふれ、明るく活気に満ちた作品となった。
※『交響曲第1番』カラヤン指揮 https://www.youtube.com/watch?v=2A41fuD3dUA (23分)
※『交響曲第1番』ヤルヴィ指揮、古楽器を使い当時の音色を再現したドイツ・カンマーフィルとの名演 https://www.youtube.com/watch?v=ayHQvQwu5S8#t=30m27s
『七重奏曲』はクラリネット、ファゴット、ホルン、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスという編成。のびのびと明るい旋律でサロン向けであり、当初から人々に愛された。あまりの人気に楽譜の海賊版が出版前から出回っていたとも。ベートーヴェンは人々に「あの七重奏曲のベートーヴェンさん」と形容されるようになったが、ベートーヴェンは娯楽用として書いたことから不快に感じたという。 他に『ホルンソナタ』を作曲。『ピアノ協奏曲第1番』の改定を脱稿。
※『七重奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=7Kl6o3I3eNE (42分)
同年、ベートーヴェンが“大ソナタ”と称した『ピアノ・ソナタ第11番』を作曲。
※『ピアノ・ソナタ第11番』から第二楽章※旋律の繊細さから後世に「ロマン派のノクターン」と呼ばれた https://www.youtube.com/watch?v=0_5iQCV62S4#t=7m31s

1801年(31歳)、作曲家としての世間からの高評価にベートーヴェンは喜び、故郷ボンの幼馴染みの医師フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラーに次の手紙を記す「どの作品にも当てにできる出版社が6つか7つあります。それになんといっても、私が希望するのであれば彼らはもはや価格を交渉したりしません。言い値で買い取ってくれるのです。私の置かれた状況がいかに喜ばしいものかおわかりでしょう」
楽譜に向かうベートーヴェンのペン先から次々と旋律が生まれていった。作品番号順だと−−
『ヴァイオリン・ソナタ第5番“春”』を作曲。幸福感に満ちた明るい曲調から“春”の愛称で知られている。
※『ヴァイオリン・ソナタ第5番“春”』クレーメル&アルゲリッチの名盤! https://www.youtube.com/watch?v=iScgtiQUvjE (24分)
ヴァイオリン、ヴィオラ、フルートの三重奏『セレナーデ ニ長調』。響きがとても可愛らしく癒される。ベートーヴェンの隠れ名曲と言えるだろう。
※『セレナーデ ニ長調』日曜の昼に聴きたい https://www.youtube.com/watch?v=djKJ3PBSaY0 (25分)
『ピアノ・ソナタ第12番』。ショパンはこの曲の第3楽章「ある英雄の死を悼む葬送行進曲」をとりわけ好み、公の場で演奏した。20世紀のピアニスト、エトヴィン・フィッシャーは葬送の第3楽章とアレグロの第4楽章の関連をとても詩的に表現している。「葬儀の後に降った雨が、埋葬地を慰めの灰色の霧の中に覆い隠していくかのようである。もはや誰も残っていないであろうその場で、大自然が最後の言葉を与えるのだ」。この葬送行進曲の編曲版がベートーヴェンの葬儀で演奏された。
※『ピアノ・ソナタ第12番』の第3楽章。演奏はポリーニ https://www.youtube.com/watch?v=LXdEPvjsshY#t=10m00s
『ピアノ・ソナタ第13番“幻想曲風ソナタ”』はベートーヴェンが全楽章を切れ目なしに演奏するよう指示した意欲作。冒頭は穏やかに始まる。深い感動をたたえたアダージョと生き生きとしたロンドが現れる第3楽章が魅力的。
※『ピアノ・ソナタ第13番“幻想曲風ソナタ”』 https://www.youtube.com/watch?v=H4j7wQ8Ksw0
そしてこの年、弟子で14歳年下のイタリアの伯爵令嬢ジュリエッタ・グイチャルディ(16歳/1784-1856)に捧げたピアノソナタ第14番『月光』を作曲。ベートーヴェンは前年に彼女と知り合い、弟子となった彼女に恋し、身分の差に苦しんだ。親友ヴェーゲラーへの手紙「彼女は私を愛し、私も彼女を愛している。2年ぶりに幸福な瞬間がやってきました。結婚して幸福になれるだろうと考えたのは、これが初めてです。ただ、残念なことには身分が違うのです」(1801年11月16日)。2年後グイチャルディ某伯爵と結婚しイタリアに帰った。
もともとの曲名は「第13番」と同じ「幻想曲風ソナタ」だったが、30歳年下の詩人レルシュターブが「湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と形容し、のちに一般化した。月光ソナタは幻想的な第一楽章、リストが「二つの深淵の間の一輪の花」と形容した第二楽章、緊迫感に満ちた怒濤の第三楽章で構成。
※『ピアノ・ソナタ第14番“月光”』ポリーニの名演 https://www.youtube.com/watch?v=oj75TeQmSHA (15分46秒)
『ピアノ・ソナタ第15番“田園”』はベートーヴェンの没後に楽譜出版社がつけた「田園」が通奏となった。牧歌的な曲調にあった標題であり人々に受け入れられて今に至る。
※『ピアノ・ソナタ第15番“田園”』 https://www.youtube.com/watch?v=TsRJ5w1QJFA (23分)
のびのびと弦が旋律を歌う『弦楽五重奏曲』を作曲。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの編成。穏やかなベートーヴェン。
『弦楽五重奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=9-0hy-u_594 (32分)
ベートーヴェンの書いたたった2つのバレエ音楽の2番目であり、全曲が1時間にもなる『プロメテウスの創造物』が完成。プロメテウスが土と水から土人形を造り、そこに感情を吹き込んで人間を創造する物語。序曲だけが楽譜として出版された。
※『プロメテウスの創造物』序曲 https://www.youtube.com/watch?v=zPW1Esu1cjw (5分27秒)

1802年(32歳)、ロシア皇帝アレクサンドル1世から依頼され3曲のヴァイオリン・ソナタ第6〜8番を完成、献呈する。このヴァイオリン・ソナタでベートーヴェンはモーツァルトの影響をついに脱し、独自の音楽芸術を生み出してゆく。
『ヴァイオリン・ソナタ第7番』はドラマチックなハ短調で書かれ悲愴性を持ち、なおかつ旋律美にもあふれている傑作だ。最後は劇的に終わる。
※『ヴァイオリン・ソナタ第7番』 https://www.youtube.com/watch?v=IpixfypCJ7M (23分31秒)
『ピアノ・ソナタ第16番』は知名度で同時期の作品に劣るものの、第一楽章のジェットコースターのようなアルペジオの疾走感は特筆に値する。その後の楽章にはさほど見るべきものはないけれど…。
『ピアノ・ソナタ第16番』 https://www.youtube.com/watch?v=W1aG7XLwixo (22分26秒)
『ピアノ・ソナタ第17番“テンペスト”』は異様に暗く緊迫しており、尋常ではない印象を受ける。この曲の作曲と同時期にハイリゲンシュタットの遺書(後述)を書いており、心の内なる戦いを思わせる。
この頃、友人のヴァイオリニストに「私は今までの作品に満足していない。今後は新しい道を進むつもりだ」と決意を伝えており、テンペストはサロンの人々を心地よくさせる音楽ではなく、荒れ狂う内面の吐露となった。この曲は誰にも献呈されていない。
のちに弟子シントラーがベートーヴェンにこの曲と熱情ソナタを理解するヒントを質問したところ、ベートーヴェンは「シェイクスピアのテンペスト(嵐)を読め」と回答したことから通称となった。
※『ピアノ・ソナタ第17番“テンペスト”』リヒテルの名演! https://www.youtube.com/watch?v=rqiI8gA69iI (23分44秒)
この年は、のちに英雄交響曲に登場する有名な旋律を使った変奏曲『プロメテウス(エロイカ)主題による変奏曲とフーガ』が書かれている。ベートーヴェンはこの旋律を好み、人生で4度楽曲にしている。
※『プロメテウス(エロイカ)主題による変奏曲とフーガ』 https://www.youtube.com/watch?v=AUGK7HeB7mQ (24分)
『交響曲第2番』を作曲!この時期の精神の不安定さを感じさせない、躍動感のある楽曲だ。第3楽章には交響曲という分野に初めてスケルツォ(“冗談”の意)が導入された。当時の新聞評「この交響曲こそは熱血漢の作品であり、いま世にはびこっている流行作品がこの世から姿を消す時代になっても、おそらく残るものであろう。ベートーヴェンは一つの良い予言をしているが、これは正しいと思う」(アルゲマイネ音楽新聞・主筆ロホリッツ)
※『交響曲第2番』ヤルヴィ指揮。古楽器&ヴァイオリンを左右に配置したベートーヴェン時代のスタイルで演奏
https://www.youtube.com/watch?v=VAnjfp7vUvA (31分49秒)
※『交響曲第2番』第一楽章の疾風怒濤パート、ピンポイント頭出し。14秒ほどしかないこの快感フレーズをもっと長く聴いていたい…。
https://www.youtube.com/watch?v=VAnjfp7vUvA#t=5m13s 


一方、耳の具合は良くなかった。難聴の兆候が現れてから4年、症状は悪化の一途をたどっていた。ベートーヴェンは転地療養のため夏はウィーン郊外の静かなハイリゲンシュタットで過ごしていたが、不安と絶望が頂点に達し「ハイリゲンシュタットの遺書」を甥カールと弟ヨハンに執筆した。自殺を考えるも、芸術に引き留められたという切実な文章だ。
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『ハイリゲンシュタットの遺書/わが弟たちカール(とヨハンへ)』※原文は長文ゆえ今井顕氏の訳とNHK『その時歴史が動いた』を参考に抜粋要約。

私が意地悪く、強情で、人嫌いのように見えたとしても、人はその本当の原因を知らぬのだ。私の心と魂は、子供の頃から優しさと、大きな夢をなしとげる意欲で満たされて生きてきた。
だが6年前から不治の病に冒されたことに思いを馳せてみて欲しい。回復するのでは、という希望は毎年打ち砕かれ、この病はついに慢性のものとなってしまった。
情熱に満ち活発な性格で、社交好きなこの私が、もはや孤立し、孤独に生きなければならないのだ。
「もっと大きな声で叫んで下さい、私は耳が聞こえないのです」、などと人々にはとても言えなかった。
他の人に比べてずっと優れていなくてはならぬはずの感覚が衰えているなどと人に知らせられようか…おお、私にはできない。だから、私が引きこもる姿を見ても許して欲しい。
こうして自分が世捨て人のように誤解される不幸は私を二重に苦しめる。

交友による気晴らし、洗練された会話、意見の交換など、私にはもう許されないのだ。どうしても避けられない時にだけ人中には出るが、私はまるで島流しにされたかのように生活しなければならない。
人の輪に近づくとどうしようもない恐れ、自分の状態を悟られてしまうのではないか、という心配が私をさいなむ。
医者の言葉に従って、この半年ほどは田舎で暮らしてみた。そばに佇む人には遠くの笛の音が聞こえるのに、私には何も聞こえない。人には羊飼いの歌声が聞こえているのに、私にはやはり何も聞こえないとは、何と言う屈辱だろう。こんな出来事に絶望し、あと一歩で自ら命を絶つところだった。

自ら命を絶たんとした私を引き止めたものは、ただひとつ“芸術”であった。自分が使命を自覚している仕事(作曲)をやり遂げないで、この世を捨てるのは卑怯に思われた。その為、このみじめで不安定な肉体を引きずって生きていく。
私が自分の案内者として選ぶべきは“忍耐”だと人は言う。だからそうする。願わくば、不幸に耐えようとする決意が長く持ちこたえてくれればよい。もしも病状が良くならなくても私の覚悟はできている。自分を不幸だと思っている人間は、自分と同じ1人の不幸な者が、自然のあらゆる障害にもかかわらず、価値ある芸術家、価値ある人間の列に加えられんがため、全力を尽くしたことを知って、そこに慰めを見出すことができるだろう。

L. V. Beethoven 1802年10月6日
ハイリゲンシュタットにて
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“私を生につなぎ止めているのは芸術だ。内なるものを表現し尽くすまでは、死ねない”。精神の危機を克服した瞬間だ。この言葉の通り、ベートーヴェンの創作欲は遺書の脱稿後から大爆発する。パリの有名ピアノ製作者から最新型のピアノ(グランド・ピアノ)を贈られ、その幅広い音域やペダル装置が芸術家魂をさらに奮い立たせた。ベートーヴェンはこのピアノを手に入れると、さっそく特性を生かしたスケール感のあるソナタ=後援者ワルトシュタイン伯に捧げたピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」を書き始めている(完成は翌年)。

1803年、『ピアノ協奏曲第3番』を作曲。最初のスケッチから7年越しの完成となった。過去のピアノ協奏曲より管弦楽が雄大に響いており、ベートーヴェンの本領が発揮されている。『交響曲第2番』やオラトリオ『オリーブ山上のキリスト』と一緒に初演された。初演ではベートーヴェン自身がピアノを担当しており、この時点ではまだオーケストラと共演できる聴覚があったことがわかる。
※『ピアノ協奏曲第3番』グルダの名演 https://www.youtube.com/watch?v=OvJBxX5r-hk (35分)
『オリーブ山上のキリスト』(「かんらん山上のキリスト」)は、オリーブ山でのキリストの祈りと、キリストが兵士たちに捕縛されるドラマチックな場面を描いたオラトリオ。このオラトリオが一番好評で、演奏会は黒字になった。再演のたびに客席は満員になったという。
※『オリーブ山上のキリスト』テノールがキリスト、バスが使徒ペテロ、ソプラノが天使、コーラスは兵士たち。ベートーヴェンはこんな曲も書いていた https://www.youtube.com/watch?v=c8w9vOgCpY8 (47分)

同年ヴァイオリン・ソナタの最高傑作にして王者『クロイツェル・ソナタ』を作曲。ベートーヴェン自身がつけた副題は「ほとんど協奏曲のように、相競って演奏されるヴァイオリン助奏つきのピアノソナタ」。とても規模が大きく、ベートーヴェン以前の古典派のヴァイオリンソナタはピアノがメインであるのに対し、ここでは両者が完全に対等。著名なヴァイオリニスト、ロドルフ・クロイツェル(1766-1831)に献呈されたが、クロイツェル本人は生前に演奏していない。
※『クロイツェル・ソナタ』クレーメルとアルゲリッチの歴史的名演 https://www.youtube.com/watch?v=mmLaifyQGwo (37分半)
この年、弟カールと一緒に生活する。前年にカールとケンカ別れしており、あの「遺書」はケンカの後に激情に任せて書いたものと指摘する研究者がいる。

【“英雄の時代”10年】

ベートーヴェンは1804年に『ワルトシュタイン』『英雄交響曲』を完成させたのを皮切りに、10年間に6つの交響曲の他、ピアノやヴァイオリンの優れた協奏曲を次々と作曲していく。この10年間は後世の音楽愛好家から「英雄の時代」と呼ばれ、作家ロマン・ロランは特に1806〜08年を「傑作の森」と呼んだ

●1804年(34歳)
前年から作曲に取り組んでいた交響曲第3番『英雄(伊語エロイカ)』が春に完成(初演は翌年)。平民出身のベートーヴェンはフランス革命を熱烈に支持しており、ほぼ平民(下級貴族)のナポレオンが欧州の王政諸国を次々と打ち負かしていることを喜んだ。そしてナポレオンのため英雄交響曲を作曲し、楽譜の表紙には“ボナパルトへ捧ぐ”と献辞を記した。ところが、フランス大使館を通じて写譜をパリに送る段になって「ナポレオン、自ら皇帝就任」の報が届き、ベートーヴェンは「畜生!ヤツもただ権力にしがみつく俗物に過ぎなかった!民衆の権利を踏みにじる暴君になるだろう!」と怒り狂い、表紙を破り取り楽譜を床に叩きつけたと伝わる。現存する写譜は実際に「ボナパルト」の文字がぐちゃぐちゃにかき消されて穴が開いている。そして2年後の出版時に“かつて英雄だった男の思い出に”と付け加えた。

  ブチギレぶりがわかる
※写譜の表紙に書かれている言葉を上段から記すと−−
・「第1ヴァイオリンのパートには、同時に別のパートも部分的に書き込むこと」※ベートーヴェンの自筆メモ
・「シンフォニア・グランデ(大交響曲)」※写譜師ゲーバウアー筆。この時点では「Sinfonia eroica(英雄)」ではない。
・「ボナパルトと題する(判読不可能)」※写譜師ゲーバウアー筆。ベートーヴェンがぐちゃぐちゃにした。
・「(1)804年8月」※別の誰か、第三者が付け加えた文字。
・「ルイ・ヴァン・ベートーヴェン氏による」※写譜師ゲーバウアー筆。ルートヴィヒを短く“ルイ”としている。
・(画像外)「交響曲第3番」「作品55」※別の誰かが付け加えた文字。
・(画像外)「第3ホルンは、第1および第2ホルンも演奏できるように書いた」※ベートーヴェン自筆
・(画像外)「オーケストラのなかでのホルンの配置は第1ホルンが二人のホルンの間に来るように」※ベートーヴェン自筆
〔参考サイト〕 https://zauberfloete.at.webry.info/201803/article_7.html

だが、ベートーヴェンは英雄交響曲の内容を書き直すことはなかった。この曲はナポレオンという1人の英雄を表現したものではなく、全ての人間が持つ英雄的側面や、ベートーヴェンがハイリゲンシュタットで経験した芸術家としての覚悟を音楽に昇華した作品だからだ。従来の一般的な交響曲が30分程度であるのに対し、「英雄」は50分を超える前人未踏の大曲であり、壮大なコーダ(結尾)が聴衆を圧倒した。人々は音楽が持つ強烈な生命力に驚愕した。難聴という現実の苦悩を突き抜け、創造の歓びへ到達した芸術家の魂の記録であり、“これからも生き続けていく”という決意表明だ。魂の新生、ここにあり。
英雄交響曲はモーツァルトやハイドンといった古典派から、シューベルトやメンデルスゾーン、ドヴォルザークらロマン派への橋渡しとなった。のちの1817年(第9交響曲を作曲中のころ)、「自作でどれが1番出来がいいと思いますか」というオーストリアの詩人クフナーの質問に、ベートーヴェンは即座に「エロイカ」と答え、「運命交響曲かと思いました」との言葉に「いいえ、いいえ、エロイカです!」と否定したという。
ベートーヴェン自身、この曲が当時では異例の長さと承知しており、コンサートのプログラムにのせるときは、後半ではなく前半での演奏を望んだ。「後半にしてしまうと、聴衆は既にくたびれているため、この曲の感動が失われてしまうことになるだろう」。
ちなみに第一楽章でホルンが全体の総奏よりフライングする部分があるが、これはベートーヴェンの意図したものであり、間違えたと思い「アッ!」となったホルン奏者を、練習に立ち会っていたベートーヴェンが怒ったという。
1821年にナポレオンが死去した際、ベートーヴェンは『英雄』第二楽章を念頭に、「17年も前にこの男の最期を音楽で予言しておいた」、または「私はとうの昔にやつの葬送曲を書いている」と皮肉ったと伝わる。
※『英雄』古楽器による演奏 https://www.youtube.com/watch?v=V-eEbZnqeBs (48分)
※『英雄』フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル1952年の名演 https://www.youtube.com/watch?v=qoUonlkPUH8 (52分)
※『英雄』セル指揮クリーヴランド管1957年の名演 https://www.youtube.com/watch?v=YAJCnbJ8E_c (47分36秒)

この年は他に以下の曲も書きあげた。
『ピアノ・ソナタ第21番“ワルトシュタイン”』は従来のピアノ・ソナタよりも壮麗な演奏テクニックが盛られており演奏会にふさわしいものになった。前年に5オクターブ半も音域があるエラール製のピアノが贈られて創造力を刺激され、この曲を書いた。後半の楽章が繋がっているので全二楽章とされることもある。ボン時代からの良き理解者、ワルトシュタイン伯に献呈された。
※『ピアノ・ソナタ第21番“ワルトシュタイン”』ギレリスの名盤 https://www.youtube.com/watch?v=6h9PY-GRWt8 (25分)
『三重協奏曲』はヴォイオリン、チェロ、ピアノの独奏者とオーケストラが競演するという非常に珍しい編成の楽曲。
※『三重協奏曲』ソリストが旧ソ連のリヒテル、オイストラフ、ロストロポーヴィチ、オケがカラヤン&ベルリン・フィルという、あり得ないほど豪華な組合せ。よく実現したもの。 https://www.youtube.com/watch?v=cmpjXrS6ekk (34分)

●1805年(35歳)
ベートーヴェンの内省的で情感のこもった作品はさらに進化し、『ピアノ・ソナタ第23番“熱情(アパショナータ)”』を作曲。心の中の荒れ狂う激情を丸ごと叩きつけたような傑作。一音の無駄もない緻密な構成は凄まじい緊張感。第一楽章には「運命」動機が出てくる。ベートーヴェンはこの作品を生み出せたことに達成感を感じていたらしく、この先4年間もピアノ・ソナタを書いていない。『熱情』の副題は没後に出版社がつけたものだがドンピシャだ。
※『熱情ソナタ』鋼鉄のタッチ、ギレリス渾身の名演!最後の熱風は鼻血もの https://www.youtube.com/watch?v=Xk5v3iH6EMU (25分)

11月、ベートーヴェン中期の代表作であり、完成した唯一の歌劇『フィデリオ』を完成させる!主人公レオノーレが男装して「フィデリオ」という名で監獄に潜入し、政治犯として幽閉されている夫フロレスタンを救出する物語。自由主義思想へのベートーヴェンの強い共感が根底にあり、夫婦愛を讃えるだけでなく、「人間解放」の高い理念を具現化したオペラであり、ベートーヴェンのリベラルな政治的立場が窺える。音楽的にも、アリアとアリアの間をレチタティーヴォ(話すように歌う歌唱法)でつなぐ従来のイタリア式オペラではなく、演劇のようにセリフでつなぐドイツ式の歌芝居の形をとる新しさがあった。

〔フィデリオ〕…舞台は16世紀末、スペイン・セヴィリャ近郊の刑務所。門番ヤッキーノが牢番ロッコの娘マルツェリーネに求婚するが心ここにあらずだ。というのも、マルツェリーネは父の助手を務める美青年フィデリオに夢中になっているからだ。だがこのフィデリオ、実は女性であり、本名レオノーレという人妻であった。レオノーレの夫フロレスタンは刑務所長ドン・ピツァロの不正を暴いたため、政治犯として2年間も地下牢に幽閉されている。レオノーレは夫を救出するため、男装して「フィデリオ」を名乗り、牢番ロッコに接近、その助手となっていた。ある日、大臣ドン・フェルナンドが「不法に監禁されている政治犯がいないか」調べるため、抜き打ちで査察を行うことが決まる。この大臣とフロレスタンは投獄前に同志だった。焦った刑務所長ピツァロは査察の前にフロレスタンを亡き者にしようと、牢番ロッコに殺害を命じる。小心者のロッコはこれを断り、ピツァロ自らが処刑することに。レオノーレは夫を見つけるために、ロッコに囚人たちの日光浴を提案。「囚人の合唱」と共に囚人たちが登場するが、ピツァロが怒ったため日光浴は中止になる。ピツァロがフロレスタンを殺害するため地下牢に降り、短刀を握った瞬間、レオノーレが夫の前に飛び出し、「妻の私から先に殺せ」と叫ぶ。レオノーレの手には銃があり、うかつにピツァロも動けない。そこへラッパが鳴り渡り、大臣の到着を知らせる。形勢は逆転し、ピツァロが捕縛され、無実の政治犯はみんな解放された。鎖を解かれたフロレスタンは妻の勇気と深い愛に感謝し、2人は抱き合って自由を得た喜びを歌う。
※『フィデリオ』日本語字幕付き(指揮ベーム) https://www.youtube.com/watch?v=94knIqxxn4o (112分)
※『フィデリオ』から第一幕の四重唱 https://www.youtube.com/watch?v=94knIqxxn4o#t=17m38s
※『フィデリオ』から狂乱する所長と陰気な兵士の合唱 https://www.youtube.com/watch?v=94knIqxxn4o#t=33m40s
※『フィデリオ』から「囚人の歌」 https://www.youtube.com/watch?v=94knIqxxn4o#t=50m25s
※『フィデリオ』から大臣の到着、解放 https://www.youtube.com/watch?v=94knIqxxn4o#t=92m33s

『フィデリオ』の原作はフランスの劇作家ブイイの『レオノール、または夫婦愛』。フランス革命で実際に起きた事件からとられた。前半の四重唱、所長と兵士の合唱、囚人達の合唱、レオノーレによる救出、フィナーレなどが聴きどころ。大変な難産の末に生まれた作品で、ベートーヴェンは自分にオペラは向いておらず、本領は交響曲にあると痛感する。
ようやく迎えた初演だが、なんと初演予定日の2日前にウィーンがナポレオン軍に占領されてしまう。『フィデリオ』の上演は5日後に延期されたが、聴衆の大半はドイツ語がわからないフランス軍将兵であり大失敗に終わった。ベートーヴェンは翌々日に公演を早々と打ち切り、『フィデリオ』の改訂版の制作を始める。

※その後、『フィデリオ』は1806年に改訂版が上演され、今度は好評を得たものの、ベートーヴェンが期待した成功には遠く、さらに改訂を重ねる。そして1814年に決定版が完成した。ついに求めていた喝采が贈られた。初演から最終稿まで9年の年月がかかった。この1814年の決定版の上演では、当時17歳のシューベルトが教科書を売り払ってチケットを購入したという。この決定版は、ウィーン会議のために来訪した諸侯のための上演を含め、1814年中に何度も上演された。また同年に、作曲家兼指揮者のカール・マリア・フォン・ウェーバーが『フィデリオ』をプラハ(チェコ)で上演し、国外における普及に尽力した。
現在、『フィデリオ』は『アイーダ』と並んで柿落としなどの記念公演でよく上演される。第二次世界大戦後の1955年10月、オーストリアは占領軍から解放されて自由になった。その翌月、戦火で焼けたウィーン国立歌劇場が再建され、こけら落としとして戦後初めてのオペラ上演に『フィデリオ』が選ばれた。それだけ『フィデリオ』という作品には「解放」「自由」といった特別な意味がある。

この年、一緒に暮らしていた弟カールと再びケンカ別れ。
作品番号順で最初の声楽曲となる『希望に寄せて(OP.32)』を3月に作曲。内容は「希望よ、苦しみにさいなまれ、死に直面する男を救ってくれ」というもの。
※『希望に寄せて』 https://www.youtube.com/watch?v=y78xBsFC0Yc (約6分)

●1806年(36歳)
『交響曲第4番』を作曲。シューマンいわく「2人の北欧神話の巨人(英雄、運命)の間にはさまれたギリシアの乙女」。そのように優美にとられてきた作品だが、1982年にクライバーがドラマチックな演奏を行い、新しい風を吹き込んだ。第二楽章には単にドからドに音階が下がっているだけの旋律があり、超シンプルなのに心を持って行かれてしまう。
※『交響曲第4番』クライバー指揮バイエルン国立管弦楽団の名盤。この演奏から第4番が幅広く聴かれるように。拍手入り。
https://www.youtube.com/watch?v=Q8g4F-cUDMg (32分39秒)
メンデルスゾーン、ブラームスと合わせて3大ヴァイオリン協奏曲と呼ばれる『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』が書かれる。美しさと格調の高さから「ヴァイオリン協奏曲の王者」とも。3分近い長大なオーケストラに続いてソロ・ヴァイオリンが登場する。
※『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』クレーメル&アーノンクール https://www.youtube.com/watch?v=xdwsIAFgHKs (24分10秒)
このヴァイオリン協奏曲をベートーヴェン自身が親友夫妻の結婚祝いとしてピアノ協奏曲に編曲しており、その曲を『ピアノ協奏曲第6番』と題している演奏CDもある。ただこの『第6番』の称号は、未完成の別の『ピアノ協奏曲ニ長調Hess15』に与えられることもあり、混同しないよう表記の国際統一が必要。
※『ピアノ協奏曲ニ長調 作品61a』第二楽章の美しさよ。そして聴き応えのある長さに満足 https://www.youtube.com/watch?v=iTbrVPMdWq4 (46分)

弦楽四重奏曲にもラズモフスキー・シリーズ3曲の名曲を残す。ロシアのウィーン大使ラズモフスキー伯爵から弦楽四重奏曲の依頼を受けて書かれたもので、伯爵は欧州最高峰の弦楽四重奏団を持っていた。この曲は弦楽四重奏曲としては5年ぶりの作品となった。この間にベートーヴェンは作曲家として大きく成長しており、ハイドンやモーツァルトの影響から脱して完全にベートーヴェン・ワールドになっている。
『弦楽四重奏曲第7番 ラズモフスキー第1番』はシリーズ3曲を代表する楽曲。大きな構成のスケール感のある第一楽章、前衛的な第二楽章、嘆息づくしの第三楽章、ロシア民謡が登場する第四楽章で構成。当時の聴衆は実験音楽のような第二楽章に面食らったという。
※『弦楽四重奏曲第7番 ラズモフスキー第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=Kl36Tayger0 (39分)

さらに『ピアノ協奏曲第4番』を作曲。当時、ピアノ協奏曲でいきなり(オケではなく)ピアノから始まる作品は斬新だった。また1808年12月22日に「運命交響曲」「田園交響曲」などと一緒に初演された。最大のパトロンであり、ピアノと作曲の生徒だったルドルフ大公に献呈。以後難聴が進んだため、ベートーヴェン本人が初演でピアノを弾いた最後の協奏曲となった。
※『ピアノ協奏曲第4番』ポリーニ&アバド https://www.youtube.com/watch?v=MHTgLrcaPRg (32分)
ほかにオペラ『フィデリオ』改訂上演のために古今の名序曲の一角をなす『レオノーレ序曲第3番』を作曲。マーラーが指揮をする際に『フィデリオ』第2幕第2場の前にこの曲を演奏して以来、同様に演奏する慣例ができた。息をもつかせぬコーダの盛り上がりから単独で演奏される機会も多い。
※『レオノーレ序曲第3番』 https://www.youtube.com/watch?v=5OibQYjPUqc (14分)

●1807年(37歳)
謀殺された紀元前のローマの英雄コリオラヌスを描いた戯曲に刺激を受け『コリオラン序曲』を作曲。運命交響曲と同時期に書かれ、同じハ短調であり宿命感が強い。打撃音のような冒頭から始まり、力強く劇的な旋律が最後まで続き、コリオラヌスが息絶えるように音楽が終わる。
※『コリオラン序曲』カラヤン指揮ベルリン・フィル https://www.youtube.com/watch?v=DzINFjNPmqI (8分40秒)

最初のミサ曲となる『ミサ曲ハ長調』を作曲。ベートーヴェンの自信の一作で「私は今まで誰もしなかったような仕方でミサの歌詞を扱った」と記す。後世の音楽学者ガイリンガー(1899-1989)は「劇的な表現力と心情の深さとをこれほど統一的に表現したミサ曲はない」と絶賛。
※『ミサ曲 ハ長調』 https://www.youtube.com/watch?v=BeMPBzkZeZM (48分)

●1808年(38歳)
1808年12月22日、交響曲第5番『運命』と第6番『田園』がウィーンで初演された。指揮はベートーヴェン自身。当日のプログラムは他に『ピアノ協奏曲第4番』や『ミサ曲ハ長調』の一部、『合唱幻想曲』などがあり、第1部と第2部あわせて4時間以上の大演奏会。12月末なのに暖房もない劇場で、少数の観客が寒さに耐えながら演奏を聴いた。フィナーレの『合唱幻想曲』は演奏途中でオーケストラが混乱してしまい、ベートーヴェンが怒鳴りつけて中断し、始めからやり直す事態に…。こうしたことから、運命交響曲の記念すべき初演は大失敗に終わった。とはいえ、評価はすぐに高まり、多くのオーケストラがレパートリーにする。後世に与えた影響力は絶大で、多くの作曲家が自身の第5番に並々ならぬ気合いを入れ、チャイコフスキー、マーラー、ブルックナー、ショスタコーヴィチ、ドヴォルザーク(「新世界より」は旧5番)、シベリウス、プロコフィエフ、ヴォーン・ウィリアムズ、彼らの“第5番”は傑作として知られている。ブラームスは4番までしかない。

『交響曲第5番“運命”』の副題「運命」は弟子シントラーが「冒頭の4つの音」の意味を聞いたときにベートーヴェンが「運命はこのように扉を叩く」と語ったエピソードからきている。作曲家自身がつけた副題ではないため単に「ハ短調交響曲」とも呼ばれる。シンプルな4つの音を繰り返し登場させて緊張感を高めていく第一楽章、美しく雄大な第二楽章、ベルリオーズが“象のダンス”とたとえた第三楽章、パリの演奏会(他界翌年の1828年)にて老兵がクライマックスで「皇帝万歳!」と立ち上がった第四楽章、すべてが聴きどころであり、時間の感覚を失う濃密な音楽体験がここにある。のちに第九交響曲の核となる「苦悩から歓喜へ」という曲の流れが、既に第5番に現れている。
この曲でベートーヴェンは音楽史上初めて交響曲にトロンボーンやピッコロを導入し、後の作曲家に受け継がれていった。
(「運命交響曲」の呼び名は日本だけに特化したものと僕は思っていたけど、ウィキによると、どうやら英独仏中伊韓にも運命を表す名称で一部呼ばれているようだ)

※『交響曲第5番』クライバー指揮ウィーン・フィルの超名盤 https://www.youtube.com/watch?v=ayHQvQwu5S8 (33分)
※『交響曲第5番』フルトヴェングラー1947年のライヴ、音源の古さを感じさせない圧倒的迫力 https://www.youtube.com/watch?v=ayHQvQwu5S8 (33分16秒)
※『交響曲第5番』パーヴォ・ヤルヴィ(Paavo Jarvi)指揮の古楽器版 https://www.youtube.com/watch?v=ayHQvQwu5S8 (30分16秒)

『交響曲第6番“田園”』の副題「田園(独語Pastorale)」はベートーヴェン本人によるもので、ベルリオーズやリストの標題音楽の先駆をなすもの。初演の5日前、12月17日付『ウィーン新聞』掲載の演奏会予告に「田舎の生活の思い出」と副題を載せている。作曲中のスケッチ帳には「性格交響曲あるいは田舎の生活の思い出」とあり。初演時のヴァイオリンのパート譜に、ベートーヴェンは「シンフォニア・パストレッラあるいは田舎での生活の思い出。絵画描写というよりも感情の表出」と書き入れており、単なる自然の音楽描写ではなく、主軸は自然を前にした人間の心の動きにある。さらには、各楽章にも以下の標題を付している。異例の全5楽章で構成。
第一楽章「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」
第二楽章「小川のほとりの情景」(フルートがナイチンゲール、オーボエがウズラ、クラリネットがカッコウ)
第三楽章「田舎の人々の楽しい集い」
第四楽章「雷雨、嵐」
第五楽章「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」
ベートーヴェンはウィーン郊外の森や林の散策を好んだ。スケッチ帳にその喜びを綴る。「田舎ではどの樹木も“聖なるかな、聖なるかな”と私に話し掛けているようだ。森の中の恍惚!」。のちの1823年(15年後)、弟子シントラーとハイリゲンシュタットを訪れた時「小川の場面の楽章を書いたのはここだった。ここの上の方には、ホオジロやウズラやナイチンゲール、カッコウなどがいて、私と一緒に作曲した」と懐かしそうに語った。
※『交響曲第6番』ワルター指揮コロンビア響の決定版 https://www.youtube.com/watch?v=LFFSdNVZ58E (41分)
※『交響曲第6番』ガーディナー指揮の古楽器版 https://www.youtube.com/watch?v=6Wk06uJHBpc (41分)

「運命」「田園」と同時に初演された『合唱幻想曲』は興味深い曲だ。管弦楽と合唱が組み合わされ、『第九』の原型となっている。全体に構成が単純で『第九』のような緻密さはないが、旋律は“歓喜の歌”と似通っており、第九が完成される1824年より16年も前に、第九の萌芽が見られるのは興味深い。歌詞の内容は「美しき魂よ、喜びをもたらす芸術の贈り物を喜んで受けよ」という芸術賛歌。
※『合唱幻想曲』コーラス部分 https://www.youtube.com/watch?v=KKy4xLA7JtA#t=16m23s

同年『ピアノ三重奏曲第5番“幽霊”』を作曲。第二楽章がさまよう幽霊を感じさせることからこの風変わりな呼び名がついた(命名者は不明)。この部分はもともとオペラ版『マクベス』に使用するつもりだったという。ベートーヴェンの手によるオペラ・マクベス!書きあげて欲しかった!
『ピアノ三重奏曲第5番』第二楽章 https://www.youtube.com/watch?v=p7ROVc7VAMY (10分29秒)

それまで音楽史に登場したチェロ・ソナタは、実質的にピアノがメインであり「チェロ伴奏付きのピアノソナタ」といえるものであった。この第3番で初めてチェロとピアノが対等になった。チェロに真の光が当たったとする点で、バッハの無伴奏チェロ組曲が「チェロの旧約聖書」、ベートーヴェンのチェロ・ソナタが「チェロの新約聖書」と呼ばれる由縁だ。のびのびとした美しいチェロの音色を存分に味わえる傑作。
※『チェロ・ソナタ第3番』ロストロポーヴィチ&リヒテルの名盤 https://www.youtube.com/watch?v=wn2XQ7DrE6M (26分23秒)

この年、ヴェストファーレン王国(現ドイツ北部)の宮廷がベートーヴェンを招こうとした。ウィーンの貴族は彼が去ってしまうことを恐れて、ルドルフ大公、ロプコヴィッツ公爵、キンスキー公爵が年金をベートーヴェンに与える約束をした。ルドルフ大公だけが最後まで約束を守った。

●1809年(39歳)
1809年4月9日、オーストリアとフランスが開戦。ナポレオン率いるフランス軍が再びウィーンを完全包囲し、街の中心部は砲撃され、ベートーヴェンの近所にも砲弾が落ちる。彼は弟カール宅の地下室に避難、不自由な生活の下でも作曲を続けた。仏軍による砲撃音はただでさえ進行中だった難聴をより重症化させる。5月12日にウィーンは陥落し仏軍が入城。ベートーヴェンはウィーンの街中を我が物顔で歩くフランス軍将校とすれ違った際に、拳を上げて「私が対位法と同じぐらい戦術に精通していたら、目に物を見せてくれように」と叫んだという。陥落1週間前に支援者のルドルフ大公ら貴族は疎開し、ウィーンにおける音楽活動は途絶えた(11月に仏軍は引き揚げ翌年1月に大公は帰還する)。
こうしたナポレオン軍のウィーン再占領の混乱下で『ピアノ協奏曲第5番“皇帝”』が完成する。その雄大で輝ける響きから感極まった聴衆が「皇帝(フランツ1世)万歳」と叫んだという説がある。ベートーヴェン的には「皇帝」を念頭に書いておらず、のちに楽譜出版社が抱いた“ピアノ協奏曲の皇帝的存在”という印象から定着した。ウィーン初演時のピアニストは教則本で知られるチェルニー。傑作にもかかわらず不評に終わり、ベートーヴェン存命中に二度と演奏されることはなかった。何が聴衆の気に入らなかったのだろう。

『ピアノ協奏曲第5番“皇帝”』ポリーニ&アバドの名演。このタッグ、全曲が繋がった動画がない!
第一楽章、冒頭から絢爛豪華! https://www.youtube.com/watch?v=WojbFvAV_Bg (20分半)
第二楽章、穏やかで美しい楽章 https://www.youtube.com/watch?v=7_oV_Ep5aug (7分47秒)
第三楽章、勇壮なロンド https://www.youtube.com/watch?v=3kMserdIYqE (10分35秒)

同年、『創作主題による6つの変奏曲(トルコ行進曲変奏曲)』を作曲。発表時はトルコ行進曲の名前はなく、の地に祝典音楽『アテネの廃墟』に「トルコ風行進曲」の名で旋律を再利用した結果、さかのぼって変奏曲の名称となった。
※『6つの変奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=VbzEhCgI6EM (7分11秒)

●1810年(40歳)
劇付随音楽『エグモント』を作曲。序曲を含めて10曲で構成され、序曲は特に有名になった。オランダの貴族ラモラール・エグモント(1522-1568)はオランダ独立のためにスペインと戦い45歳で処刑された人物。ゲーテはエグモント伯の英雄的行為を詩にした。ウィーン宮廷劇場の支配人はこの詩をもとにした音楽劇を考え、音楽をベートーヴェンに依頼する。ベートーヴェンの手紙「私はもう、詩人(ゲーテ)に対する愛からのみでエグモントを書きました」。ベートーヴェンは圧政に対して力強く立ち上がった人物に共感を示し、エグモント伯の自己犠牲を見事に音楽に昇華した。ゲーテはこの曲を聴いて「(ベートーヴェンは)明らかな天才」と讃えた。ウィーンのブルク劇場にてベートーヴェンの指揮で初演。序曲は初演に間に合わず4回目の公演から演奏された。
※『エグモント序曲』 https://www.youtube.com/watch?v=pkxXFLRmqvw (8分)

ピアノ小品『エリーゼのために』。ベートーヴェンが愛したテレーゼ・マルファッティに捧げられた。これも悲恋に終わった。

しみじみとした深い叙情性をたたえた『ピアノ・ソナタ第26番“告別”』を作曲。前年のフランス軍侵攻によるルドルフ大公(フランツ2世の弟)の疎開と帰還を題材にした楽曲。各楽章にベートーヴェン自身が「告別」「不在」「再会」の副題を付けている。
※『ピアノ・ソナタ第26番“告別”』ポリーニの真髄 https://www.youtube.com/watch?v=7FOZ4_nv5g4 (16分)
『弦楽四重奏曲第11番“セリオーソ”』はベートーヴェン自身が副題セリオーソ(真剣)をつけた。冒頭からただならぬ雰囲気で始まり、最後まで緊張感が持続、安らげる瞬間があまりない。時たま現れる歌謡的な部分が砂漠のオアシスに思える。弦のギコギコ音を多用、その中で表現の幅を広げた。以後、『第九』の後まで14年間もベートーヴェンは弦楽四重奏曲を書いておらず、この曲でやりたかったことをある程度できたのかも。
※『弦楽四重奏曲第11番“セリオーソ”』 https://www.youtube.com/watch?v=yUlzN3Q9BUw (18分42秒)

●1811年(41歳)
室内楽の最高傑作のひとつ『ピアノ三重奏曲第7番“大公”(Archduke:アルチデューク)』を作曲。冒頭から、おおらかで温かみのある旋律が聴き手を包み込む。第三楽章はまるで音楽の“陽だまり”。ありがとう、ベートーヴェン。本作はベートーヴェンを最後まで金銭的に援助し続けたパトロン兼弟子のルドルフ大公に捧げられた。自筆原稿がベルリン国立図書館に現存。
※『ピアノ三重奏曲第7番“大公”』1928年(!)に録音されたカザルス・トリオの演奏がいまだ愛聴されているのが凄い
https://www.youtube.com/watch?v=GCS9bURe3y8 (36分15秒)
※『大公』から至福の第三楽章(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=GCS9bURe3y8#t=16m21s
※もう少し新しい録音の『大公』。ケンプ、シェリング、フルニエのトリオ https://www.youtube.com/watch?v=5mrfy_D9JVE (45分)

同年、劇付随音楽『アテネの廃墟』を作曲。序曲と全8曲からなり、第4曲「トルコ行進曲」が有名になった。「トルコ行進曲」の旋律自体は2年前の変奏曲から引用している。トルコに占領され荒廃したアテネのかわりにブダペスト(ハンガリー)が新たな芸術の都となり、知恵の女神ミネルヴァが人々を祝福する物語。作曲当時、オーストリアの属国だったハンガリーで独立の気運が高まり、オーストリア皇帝フランツ1世はこれをなだめるためブダペストに大型劇場を建設、その柿落としの劇音楽をベートーヴェンに依頼した。ハンガリー建国の父を讃えた『シュテファン王』も同じ理由で同時期に作曲されている(のちの第九の合唱旋律がチラッと出てくる)。
※『アテネの廃墟』から「トルコ行進曲」 https://www.youtube.com/watch?v=_p4M343qdXQ (1分50秒)

●1812年(42歳)
ベートーヴェンの交響曲の中で最もリズミカルな『交響曲第7番』を作曲。後年ワーグナーは“舞踏の聖化”と讃え、リストは“リズムの神化”とした。意外だがトロンボーンとピッコロが登場せず、編成は第4番以前の古典的なものになっている。同じリズムが各所で執拗に繰り返され熱狂と興奮をもたらしていく。生命力にあふれており、副題や愛称がついていれば、間違いなく誰もが知る楽曲になっていただろう。なぜこの曲がただの「第7番」のまま今日に至ったのか理解に苦しむ。今からでも遅くないから国連総会で議論して副題を決めよう。
翌年の初演(第7番&戦争交響曲)は大成功に終わり、聴衆が第二楽章のアンコールを求めた。あまりに好評で4日後に急遽再演されたほどだ。ちなみに第二楽章はアダージョっぽいけどアレグレット(少し速く)の指示が入っている。
後年、ワーグナーは「交響曲第7番終楽章は、驚くべき音の渦巻きの回転の中に、新しい惑星が生まれるのを眺めるようだ」と評した。
一方、様々なリズムが融合した第7番を聴いた同時代の作曲家ウェーバー(1786-1826)は「ベートーヴェンは今や精神病院行きだ」と唖然。クララ・シューマンの父は音が旋回する終楽章に目眩をおぼえ「酔っ払ったときに作曲したのではないか」と語った。
※『交響曲第7番』クライバー指揮ウィーン・フィルの殿堂入り名演 https://www.youtube.com/watch?v=oOTovvnP8ig (38分38秒)

同年、続けて『交響曲第8番』を作曲。「英雄」や「運命」を書いたベートーヴェンがハイドン風のあえて古いスタイルで作曲したパロディー調の楽曲で、演奏時間も25分程度、誰にも献呈されていない。とはいえ、第一楽章の展開部の盛り上がりは素晴らしい。第二楽章はメトロノームの発明者メルツェルへの御礼に聞こえる。「第7番」と同様、各楽章でリズムと旋律を楽しめるうえ、52小節もフォルティッシモが続いたり、当時では異例のfff(フォルテフォルティッシモ/トリプル・フォルテ)やpppも登場する。だが、当時の演奏会では「第7番」に人気が集中し、ベートーヴェンは「聴衆がこの曲を理解できないのは、この曲があまりに優れているからだ」と語ったという。
※『交響曲第8番』ヤルヴィ指揮の古楽器版 https://www.youtube.com/watch?v=9-f3iKeUJm4 (24分)

この年、ヴァイオリン・ソナタとしては『クロイツェル・ソナタ』以来9年ぶりとなる『ヴァイオリン・ソナタ第10番』を作曲。そして当曲がこのジャンルでは最後の作品となった。田園交響曲のような穏やかな陽射しがあり(第二楽章は絶品)、これをもってヴァイオリン・ソナタの筆をおいた気持ちがわかる。初演ではルドルフ大公が自らピアノを担当しており、ベートーヴェンの生徒であった大公のピアノの腕前は相当なものと思われる。
※『ヴァイオリン・ソナタ第10番』第二楽章 https://www.youtube.com/watch?v=7Il1Lt0E6Ls#t=10m04s

●1813年(43歳)
6月にスペインのビトリアで初代ウェリントン侯爵アーサー・ウェルズリー率いるイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍がフランス軍に勝利し、これが連合軍の最終的な勝利につながった。これを祝して、ベートーヴェンはウェリントン侯を讃える『ウェリントンの勝利(戦争交響曲)』を作曲する。刻一刻と移り変わる戦況を音楽で描写している点で、のちの「交響詩」の先駆的楽曲といえる。火器もチャイコフスキー『1812年』に先んじて導入された。この曲はベートーヴェン全作品において最大級の管弦楽であり、管弦楽編成だけを見れば『第九』をもしのいでいる。
曲前半はビトリアの戦いを再現し、イギリス軍が「ルール・ブリタニア」の音楽で、フランス軍がフランス民謡「マールボロ将軍は戦争に行く」の音楽で登場し、激戦のすえフランス軍が敗走する。後半はイギリス軍の勝利を祝う凱歌(イギリス国歌の変形)となっている。戦傷兵救済慈善音楽会にてベートーヴェンの指揮で初演され、サリエリが大砲を表す大太鼓隊の指揮を買って出た(さらにマイヤベーアとフンメルがドラム)。本作はフランス民謡をイギリス国歌が覆すという分かりやすさでウィーン市民から絶大な人気を集めた。現在は殆ど演奏されないが、ベートーヴェンにとって生前最大のヒットとなる。同じ演奏会で『交響曲第7番』も初演された。
※『ウェリントンの勝利(戦争交響曲)』この動画はすごい!映画『ワーテルロー』の映像を使って見事に音楽とリンクhttps://www.youtube.com/watch?v=samfSDbZnko (14分20秒)

●1814年(44歳)
9月から翌年6月までナポレオン戦争の戦後処理を話し合う国際会議「ウィーン会議」が開かれる。ヨーロッパ各国の首脳が出席し、ベートーヴェンは大芸術家の名士として敬意を払われた。前述したように『フィデリオ』の最終決定版が初演され、大成功となり何度も上演された。

同年、『告別』ソナタ以来、4年ぶりのピアノ・ソナタとなる第27番を完成。ベートーヴェンは第一楽章を「理性と感情の闘い」、第二楽章を「恋人との対話」とした。身分差別の壁により恋人となかなか結婚できなかったベートーヴェンの支援者リヒノフスキー伯を描いたともいわれ、同伯爵に献呈された。
※『ピアノ・ソナタ第27番』 https://www.youtube.com/watch?v=oLzQbyWfBnY (13分)
ポーランドの民族舞曲ポロネーズ(ゆるやかな4分の3拍子)といえば後世のショパンが有名だけど、実はベートーヴェンもこの年に書いている。
『ポロネーズ』 https://www.youtube.com/watch?v=HK3o9DHUNYo (6分)
また、隠れ名曲といえる四重唱曲『悲歌〜生けるごとく安らかに』を作曲。友人の妻の墓に刻まれた墓碑銘の詩「あなたは穏やかに、生きていたときと同じように人生を完結させた」を弦楽オーケストの伴奏に乗せて歌う。
※『悲歌』 https://www.youtube.com/watch?v=H7LyNefn0fM (7分12秒)
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この後、難聴が急速に進み、人前での演奏会はこの年にピアノ三重奏曲『大公』初演でピアノを弾いた場が最後になった(耳が聞こえない為ピアノを大きく弾きすぎた)。第九初演の1824年まで10年間ほど大スランプに陥り、交響曲を書くペンがピタリと止まり、室内楽の小曲や短い歌曲を書くにとどまる。この間の特筆すべき作品は後述する数曲しかない。40代半ばから他界するまでの10年間は聴力を殆ど失っていたことも関係するだろう。次第に奇行が増え、神経性である持病の腹痛と下痢にも苦しめられた。

1815年(45歳)、実弟が死去し、9歳の遺児カールの養育権を得るべくその母と5年後まで裁判で争うことになる。
同1815年、ドイツ出身のウィーンの機械技師J.N.メルツェルが、3年前(1812)にオランダ人ウィンケルが発明した時間計測器を改良、上下に振り子をつけ、ギリシャ語のメトロン(拍、韻律)とノモス(規準)を合わせた造語「メトロノーム」の名で発売した。メルツェルは発売に合わせて当時の著名作曲家200人にメトロノームをプレゼントした。
ベートーヴェンより2歳年下という同世代のメルツェル。彼はベートーヴェンの家を訪れて持参したメトロノームの使い方を説明した。難聴のベートーヴェンでも振り子を見れば目で速度が分かるため、手に入れてとても喜んだという。ベートーヴェンはそれまでの8曲の交響曲すべてに速度記号を追記し、作曲の速度指示にメトロノームを利用した最初の音楽家となった。

7年ぶりのチェロ・ソナタとなる『チェロ・ソナタ第4番』及び『第5番』を立て続けに作曲。どちらも華麗な「第3番」から渋味が加わったものになった。第4番は明確に楽章が分かれておらず単一楽章のような構成。第5番は終楽章に堂々たるフーガを導入した。この第5番をもってチェロ・ソナタの筆を置く。
※『チェロ・ソナタ第5番』第二楽章、黄昏の中の歩みを思わせる。続くフーガ楽章も聴きどころ https://www.youtube.com/watch?v=nHRrhowlLmk#t=6m27s

1816年(46歳)、創作活動における後期様式に入り、『ピアノ・ソナタ第28番』を作曲。かつての世界全面闘争の如きピアノ・ソナタではなく、感情の奥底まで沈み込み、音色に神秘性が帯び始める。心のひだを繊細にとらえながら、空間は海空のように広がっていく。30歳代半ばの弟子エルトマン夫人への手紙「(この第28番は)あなたの芸術的天分と、あなたの人柄に対する敬愛の表明になるでしょう」。別説に、わが子を失って悲しむエルトマン夫人にベートーヴェンがこの曲を演奏したという話も伝わる。
音楽之友社『最新名曲解説全集(14)』の文章が見事なので紹介→「中期の(ピアノ・ソナタの)力と闘いの様相もすばらしく人間的ではあったが、その激しささえも包括するもっと豊かな深みのある世界が、ベートーヴェンの内面に開けたのであった」
※『ピアノ・ソナタ第28番』ポリーニの真骨頂 https://www.youtube.com/watch?v=NAtlFna4RYE (20分)

同年、連作歌曲集『はるかな恋人に』(全6曲)を作曲。シューベルトやシューマンの連作歌曲集に先立つ、リート(歌曲)史上の重要作品。恋人に会いたいという想いを切々と歌いあげる。シューマンはこの曲を心から愛し、自身の『幻想曲ハ長調』や『弦楽四重奏曲第2番』に旋律を引用している。当年は先のピアノ・ソナタ第28番とこの歌曲集だけしか書いていない。
※『はるかな恋人に』英訳字幕付き https://www.youtube.com/watch?v=KOk7EWYbyqk (14分)
この年、メルツェルが出した「メトロノーム」の特許申請が認められ、先述したように本年以降に作曲されたベートーヴェンの作品すべてにメトロノームの速さが指定されるようになる。
※ウィキペディアをはじめ大半の資料で「メトロノームは1816年に発明された」となっているけど、特許が認められた年と間違っていると思われる。

1817年(47歳)、新作がなかなか書けないなか、22年前(1795)に作曲したピアノ三重奏曲(作品1の3)を弦楽五重奏版に編曲。弦の使い方に円熟味が増しており、魅力的な作品となった。
※『弦楽五重奏曲』この編曲、良いと思う! https://www.youtube.com/watch?v=wUWa_QPXMac (31分)

1818年(48歳)、作曲活動が絶不調のベートーヴェンのもとに、ロンドンのピアノ会社から73鍵6オクターヴの大型ピアノが贈られた。ベートーヴェンはこのピアノの表現能力を極限まで引き出すことを決意し、「50年後の人間なら弾ける」と語ってピアノソナタ第29番『ハンマークラヴィーア』(約45分の大曲)を完成させた。当時の一般的なピアノでは出せない音域まであった。こうして、それまで誰も聴いたことがない交響曲的壮大さを持つ巨大ピアノ・ソナタが誕生した。第三楽章は187小節(約17分)に及ぶ長大なアダージョ。のちにリストやクララ・シューマンがレパートリーにした。
※『ハンマークラヴィーア』第三楽章、演奏ポリーニ https://www.youtube.com/watch?v=xQzUu2HN0xo

1820年(50歳)、『ピアノ・ソナタ第30番』を作曲。冒頭はシューベルトやドビュッシーのように柔らかな音色で始まる。展開後、しみじみと美しい第三楽章が始まるがベートーヴェンは楽譜に「歌うように、心の底からの感動をもって」と記している。50歳になったベートーヴェンの音楽の詩。最後に第三楽章冒頭の主題が繰り返されるためバッハ『ゴールドベルク変奏曲』を思わせる。全体の3分の2以上が第三楽章という特殊構造。
※『ピアノ・ソナタ第30番』第三楽章(変奏曲) https://www.youtube.com/watch?v=z2x_aHqyfqE#t=5m30s

トリビア的なものとなるが、この年は2年後にまとめられるピアノ曲『11の新パガデル(小品)』のうち、第10曲アレグラメンテ(明るく快活に)を書いている。この曲は演奏時間がたった10秒しかなく、おそらくベートーヴェン史上最短の曲だ。
※『11の新パガデル』から第10曲 https://www.youtube.com/watch?v=Qjk2zYjwaJc#t=13m04s

有力パトロンのルドルフ大公の仲介もあって、ようやく甥っ子カールの養育権を母親から勝ち取り後見人となったが、14歳という思春期になっていたカールはベートーヴェンと激しく衝突した。
この1820年のベートーヴェンの家事日記は人間味があって面白い→「4月17日、コックを雇う。5月16日(わずか1ヶ月後)コックを首にする。5月30日、家政婦を雇う。7月1日、新しいコックを雇う。7月28日、コック逃げる。8月28日、家政婦辞める。9月9日、お手伝いを雇う。10月22日、お手伝い辞める。12月12日、コックを雇う。12月18日(たった6日後)コック辞める」。こういう具合に何年間も続く。だが、ベートーヴェンは自分にも厳しかった。ある時演奏会が絶賛されたのを読んでこう語った「私のように常に自分の限界を意識している者が、こんなに絶賛されるととても不思議な感じです」。

1822年(52歳)、最後のピアノソナタ3曲「第30番」「第31番」「第32番」と、宗教曲『ミサ・ソレムニス』を作曲。
『ピアノ・ソナタ第31番』。情感にあふれ抒情性が増している。第一楽章にはそのまま聴き手が空の中に溶け込んでしまいそうな上昇旋律が出てくる。終楽章には「嘆きの歌」と呼ばれるメランコリックな旋律があり、一音一音が五臓六腑にしみわたる。終楽章にはフーガも登場し、このフーガについて20世紀前半の音楽学者ドナルド・フランシス・トーヴィーは「ベートーヴェンの描くあらゆる幻想と同じく、このフーガは世界を飲み込み、超越するものである」と評した。
※『ピアノ・ソナタ第31番』ゼルキンの名盤 https://www.youtube.com/watch?v=QI08p3NBsGg (19分24秒)
※『ピアノ・ソナタ第31番』からギレリス「嘆きの歌」 https://www.youtube.com/watch?v=k7hiNR4wxUs#t=11m49s

続けて最後のピアノ・ソナタとなった『ピアノ・ソナタ第32番』を作曲。ベートーヴェンらしい内面の激しい闘いを思わせるハ短調の第一楽章、そしてこの世界の何もかもを浄化するような、そして真冬の夜空にまたたく星の光を思わせる第二楽章で構成されている。3年がかりで作曲され、ルドルフ大公に献呈された。
※『ピアノ・ソナタ第32番』ポリーニの第二楽章 https://www.youtube.com/watch?v=9V03NB2cVQM#t=8m45s

ベートーヴェンが「この“荘厳(そうごん)ミサ”は私の最大の作品である」とたびたび手紙に記した『ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ)』(全五章)を作曲。3年前、ルドルフ大公の大司教就任祝いとして書き始めたが、構想が大きくなったため就任式から2年後の完成となった。大規模編成の管弦楽団を必要とし、80分という演奏時間もあって、この曲は宗教音楽の巨人としてそびえ立っている。音楽之友社『名曲解説全集・声楽曲』では「バッハのロ短調ミサを唯一の例外とすれば、古今のミサ曲中最も偉大な作品」と手放しの絶賛。

※『ミサ・ソレムニス』バーンスタイン&コンセルトヘボウの名演 https://www.youtube.com/watch?v=LSCMdmYA6So (82分)
※『ミサ・ソレムニス』第三章クレド第四部の壮麗フーガ https://www.youtube.com/watch?v=LSCMdmYA6So#t=44m15s
※『ミサ・ソレムニス』第四章サンクトゥス&ベネディクトゥス、嗚呼至福です、ありがとうルートヴィヒ
 https://www.youtube.com/watch?v=LSCMdmYA6So#t=49m12s
 https://www.youtube.com/watch?v=LSCMdmYA6So#t=53m20s 弦の祈り

同年、美しい合唱と管弦楽による『奉献歌』を作曲。神に身を捧げる喜びを、コーラスが豊かな響きで歌いあげる。隠れ名曲といえる。
※『奉献歌』 https://www.youtube.com/watch?v=CRbStYrSH4k#t=0m18s (6分)

1823年(53歳)、ベートーヴェンの変奏技法の集大成であり、ピアノ曲の最後の大曲となった『ディアベリ変奏曲』を作曲。付き合いのある出版商ディアベリが自作したワルツ主題をもとにした変奏曲で、33もの変奏が50分間も続く。
『ディアベリ変奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=BDF7soN1ObI (50分)

1824年(54歳)、5月7日にウィーンで交響曲第9番の初演が行われる。第8番から10年が経っていた。この頃、ウィーンではロッシーニの喜劇など軽いタッチの音楽が流行しており、ベートーヴェンは自分の重厚な作風は受け入れられないと感じ、第九初演をベルリンで行おうとした。この動きを知ったウィーンの文化人は「どうかウィーンで初演を!」と連名の嘆願書を作成しベートーヴェンを感動させた。嘆願書には「『ウェリントンの勝利』の栄光を今一度」という文言が添えられていた。

この第9番の初演には細心の注意が必要だった。当時のウィーンではフランス革命の波及を恐れた皇帝が、王政や身分制度に反対する者を次々と秘密警察に逮捕させ大弾圧を行なっていた。平民出身のベートーヴェンもまた平等な社会を求め、危険思想の持ち主と見なされ当局にマークされていた。ベートーヴェンは知人への手紙で“自分の思想を大声で話せない。そんなことをすれば、たちまち警察に拘留されてしまう”と憂いた。また、筆談帳にレストランでの友人との次の会話が残っている「ご注意下さい、変装した警官が様子をうかがっています」。
ベートーヴェンは言論の自由のない社会への抵抗と人道主義、人類全体に向けた博愛の精神を込め、反体制詩人シラーの詩『歓喜の歌』にメロディーを付けた。シラーは23歳で書いた最初の戯曲『群盗』(1782)で悪役に「フランツ」(前・神聖ローマ皇帝フランツ1世(1708-1765)と同名。マリア・テレジアの夫)の名を付けるような反骨の人物。フランス革命派から“フランス名誉市民”の称号を1792年に与えられるほどの自由主義者。『歓喜の歌』の初稿には「暴君の鎖を断ち切れ」「貧者が王族の同胞となる」という一節がある(革命後に起きた恐怖政治を憂慮し1803年の改訂で削除)。
『歓喜の歌』(改訂版)のクライマックスでは「時勢によって引き裂かれた世界を汝の力が再び結び合わせ、その優しい翼を休めるところ全ての人々は兄弟となる」と人類の連帯・団結を高らかに歌い上げ、貴族や平民など人間を分けず、身分制度を超えた兄弟愛で人類が結ばれることを願った。『歓喜の歌』はフランス革命の4年前に書かれたものだが、ベートーヴェンはこの詩にフランス革命の精神(自由・平等・博愛)を見出した。シラーは元々「歓喜の歌」ではなく「自由の歌」としたかったが、官憲の弾圧を考えて「歓喜」としたという。当時、「自由」という言葉自体が政治的な意味を持った。
当局の検閲を怖れたベートーヴェンの秘書は、歌詞の内容を伏せて演奏会の許可をとった。権力者から要注意人物とされた作曲家のコンサートにもかかわらず、初演には大勢のウィーン市民が足を運んだ。
ステージではベートーヴェン自身が指揮棒を握ったが、聴覚の問題があるためもう1人のウムラウフという指揮者がベートーヴェンの後ろに立ち、演奏者はそちらに合わせた。演奏が終わって聴衆から大喝采が巻き起こるが、ベートーヴェンはそれに気づかず、失敗したと感じて振り向かなかった。見かねてアルト歌手のウンガーが歩み寄り、ベートーヴェンの手をとって振り向かせ巨匠は魂が聴衆に届いたことを知った。演奏後に何度もアンコールの喝采が続いたが、聴衆が5回目の喝采を行った時、劇場に潜んでいた当局の人間が人々を制止した。当時、皇帝への喝采は3回と決められており、それ以上は不敬罪となるからだ。
※『交響曲第9番』不滅の演奏フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管弦楽団
最新デジタル・リマスター版、生まれ変わった!嗚呼、天よ!モノラル音源だけどもうステレオと変わらない! https://www.youtube.com/watch?v=HIAm6oAv8fY (74分)
同年、最後のピアノ作品となる『6つのパガデル』を作曲。6曲で約20分の連作。

第9番の完成後、最晩年のベートーヴェンの楽曲は極めて個人的な性格を強め、14年ぶりに弦楽四重奏曲の作曲を開始する。ロシアの貴族ガリツィン公爵に勧められたのがきっかけ。

1825年、『弦楽四重奏曲第12番』及び『弦楽四重奏曲第15番』を完成。ベートーヴェンは弦楽四重奏曲で現世に対する達観の境地へ分け入ってゆく。
※『弦楽四重奏曲第12番』第二楽章。地の底から湧いてくるような旋律 https://www.youtube.com/watch?v=AzmtWR5pNoI#t=6m47s
※『弦楽四重奏曲第15番』第三楽章。腸の疾患が一時回復に向かい、ベートーヴェンはこのアダージョ楽章の楽譜に「病が癒えた者の神に対する聖なる感謝のうた」と書き入れた https://www.youtube.com/watch?v=Thiqr7ZzkYQ#t=17m44s

同年、『大フーガ 変ロ長調』(作品133)を作曲。もともと『弦楽四重奏曲第13番』の終楽章として書いたものだが、切り離してルドルフ大公に献呈した。(僕は初めてこの曲を聴いたときに、その音圧でブッ飛んだ。弦楽四重奏なのに、その辺の交響曲よりパワフル。しかもただ事じゃない雰囲気)
※『大フーガ』アルバン・ベルク弦四による約16分の怒濤のフーガLIVE映像! https://www.youtube.com/watch?v=13ygvpIg-S0 (15分51秒)

1826年(56歳)、『弦楽四重奏曲第13番』『第14番』を完成(第15番より後)させ、『第16番』も書きあげた。第12番から第16番まで後期弦楽四重奏曲5曲は孤高の傑作であり、内的円熟が見事に形になった。一般に、この時代の作曲家は依頼を受けて曲作りをしたが、ベートーヴェンは弦楽四重奏曲の最後の2曲を自発的に書き上げた。
死の前年に書かれた弦楽四重奏曲第14番について、これを聴い述べたという。
※『弦楽四重奏曲第13番』プレストの第二楽章と舞曲風の第三楽章は初演でアンコールを求められた。アルバン・ベルク弦楽四重奏団のライブ映像で https://www.youtube.com/watch?v=cSyh0KoB-D4 (39分)
※上記『弦楽四重奏曲第13番』からベートーヴェン本人が「会心の作」と評した、美しく抒情的な第五楽章。なんとこの第五楽章はボイジャーに搭載された!これを聴いたら敵対的な宇宙人も友好的になるのでは。(頭出し済)https://www.youtube.com/watch?v=cSyh0KoB-D4#t=23m28s
※『弦楽四重奏曲第14番』。この「第14番」は7つの楽章が中断なく一気に演奏され、2年後に初演を聴いたシューベルト(他界の前月)は「この後で我々に何が書けるというのだ?」と大いに興奮した。いきなりアダージョから始まる
https://www.youtube.com/watch?v=qsFE80Qm4aM (37分)

ベートーヴェンは養育していた甥カールと将来の進路を巡って激しく対立(カールは軍人志望、ベートーヴェンは芸術家にしたかった)。カールは伯父からの独占的な愛情に息が詰まり、7月末にピストル自殺をはかった。弾丸は頭部にめり込んだが、奇跡的に一命を取り留める。この事件にベートーヴェンはショックを受け、すっかり気弱になっていく。秋に弟ヨハンの家に身を寄せ、『弦楽四重奏曲第16番』を脱稿する。第四楽章には「ようやくついた決心」という標題が付けられ、さらに楽譜には「そうあらねばならぬか?そうあらねばならぬ!」と書かれている。
※『第16番』第三楽章、秋の陽だまり、穏やかな老境。珠玉の54小節 https://www.youtube.com/watch?v=lT8Bz3wlGro#t=9m49s
※『第16番』第四楽章“そうあらねばならぬ!” https://www.youtube.com/watch?v=lT8Bz3wlGro#t=17m39s
続けて既に完成していた『弦楽四重奏曲第13番』に、新たに終楽章となる第6楽章を作曲し、これが絶筆となった。
※絶筆の第6楽章。アレグロの快活なメロディーで音楽家人生を終えた。最後の跳ね上がる和音を聴いて、少し救われた気がした https://www.youtube.com/watch?v=_O8uquk_F4E (7分23秒)

同年12月、肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなど体力は低下していく。

1827年、体調はさらに悪化。何度も腹水を取り除く手術が行われたが快方に向かわなかった。そして3月26日、肝硬変により56年の生涯を終えた。最期の言葉はラテン語で「諸君喝采したまえ、喜劇は終わった」。10番目の交響曲に着手していたが未完成のまま終わった。

他界3日後の3月29日、集会の自由が制限されるなか、ウィーンのヴェーリング地区墓地(1769年開設)で執り行われたベートーヴェンの葬儀に2万人もの市民(当時の人口は約25万人)が参列し、臨終の家から教会に至る道を埋めた。宮廷からは一輪の花も、一人の弔問もなかった。墓地に着き、オーストリアの偉大な詩人グリルパルツァーの弔辞を俳優が墓前で読み上げた。「彼は芸術家であった。しかし同時に一人の人間であった。あらゆる意味で最も高貴な人間であった。世間を避けたので彼は敵意に満ちていると言われた。感情を避けたので無情の人と言われた。愛情が深かっただけに、世間に対抗する武器を持たなかった。だからこそ世間を逃れたのである。己の全てを同胞に捧げたが、代わりに得るものは何もなかった。だからこそ身を引いたのだ。己の分身を見つけることが出来ず一人のままでいた。しかし死ぬまで父親のような心を持ち続けた。彼はこうして生き、そして死んだ。そして永遠に存在し続ける。ここ(墓地)までついてきた者たちよ、悲しみを抑えなさい。我々は彼を亡くしたのでなく得たのである。生身の人間は永遠の命を得ることはできない。死んで初めて永遠の世界の門を通ることが出来るのだ。お前たちが嘆き悲しんでいる人は、今、最も偉大な人々の仲間入りをし、もう永遠に傷つけられることがないのである。心痛のまま、しかし落ち着きをもって家路につきなさい。今後、彼の作品の嵐のような力強さに圧倒された時、またそれらに対する意気込みが次の世代に受け継がれた時、今日のこの日を思い出しなさい。彼が埋められた時、我々は一緒にいたのだ。彼が亡くなった時、我々は泣いたのだ」。
翌年、シューベルトが31歳の若さで病没し、本人の遺言に従ってベートーヴェンのすぐ側(3つ隣り)に墓が造られた。その後、人口増加による都市計画が立案されヴェーリング地区墓地の閉鎖が決定。没後51年の1888年6月22日、ベートーヴェンの遺骸は掘り起こされ、新たに造成されたウィーン中央墓地の名誉墓地(楽聖特別区)に改葬された。ウィーン市の南端に位置する中央墓地は300万人以上が眠るヨーロッパ屈指の巨大墓地。その中の名誉墓地に埋葬されることはウィーンの芸術家にとって最高の栄誉とされている。
他界4年後(1831)、ルドルフ大公が没する。

遺書は死の3日前に書かれていた。「私は今、喜んで死を受け入れます。運命は残酷でしたが、終わりのない苦しみからやっと解放されるからです。いつでも用意はできています。私は勇気をもって死を迎えます。さようなら。私が死んでも私のことを忘れないで下さい。覚えてもらうだけのことはしたと思います。どうしたら人々を幸福にできるか、ずっと考えていたのですから。さようなら」。

●墓巡礼
墓参のために初めてウィーン中央墓地を訪れたのは1989年。当時22歳の僕は休学してアルバイトで貯めた資金で、欧州一周の墓巡礼に出発した。中央墓地はシュテファン寺院や王宮のあるウイーン中心部から南東約7キロに位置する。路面電車71番に30分ほど揺られ、目の前に巨大な墓地が見えてきた。“もうすぐルートヴィヒに会える!”、そう胸を高鳴らせて降車しかけると、他の乗客が「ノー、ノー」「ネクスト」と言っている。中央墓地は面積250ヘクタール(甲子園球場約65個分)、33万の墓所を擁し、年間約2千万人が訪れるヨーロッパ最大級の墓地。1871年に市内5箇所にあった墓地をひとつにまとめて開設された。その途方もない広大さゆえ、路面電車の停留所が端から端まで4つもあった。
ベートーヴェンら作曲家が眠る“楽聖特別区”は、第2門から目指すのが最短。ゲートを超えて案内地図を確認し、プラタナスの並木道をダッシュ!200mほど進むと左手に“聖地”が。「ここだ…第32区A!」。クラシック・ファンが卒倒しそうな光景がそこにあった。
区域の中心には、ベートーヴェン、モーツアルト(墓石のみ記念碑として移転)、シューベルト、ヨハン・シュトラウス2世、ブラームスの墓が順番に並んでいる。ちょうど団体さんが帰っていくところで、思いがけなくベートーヴェンと1対1になった。生み出した作品世界があまりに巨大すぎて、同じ人間というより、どこか架空の英雄のような非現実感があったベートーヴェン。だが目の前に彼は眠っている。「本当だった!嘘じゃなかった!ベートーヴェンは確かにいた!」。周囲に誰もいないため、思わず身を投げ出し「ダンケ・シェーン!(ありがとう!)」と落涙。側面から墓石に手を触れた瞬間、全身に電気が走るアートサンダーに打たれた。9つのシンフォニー、ピアノ・ソナタ第32番、皇帝、悲愴ソナタ、大フーガ等々、人生の糧となる様々な楽曲のお礼を言った。5分後、他の墓参者が来たので後方に下がり、離れた場所から1時間ほど語りかけた。同じ空間に身を置く至福!
ベートーヴェンの墓はメトロノーム型で、真ん中に黄金の竪琴のレリーフがある。本文で記したように、メトロノームはベートーヴェンの晩年に発明され、特許申請者メルツェル本人が持参し使い方を教えてくれた。ベートーヴェンは難聴者でも目で速度が分かるため大いに喜び、こう綴っている「第九初演の成功は大部分がメトロノームのお陰なのです」(ロンドン初演後の手紙)。
ちなみに、初巡礼で撮った写真は悲しいことに一枚も残っていない。墓参の後、南仏アルルで荷物を盗まれ、貴重なフィルムも消えてしまった。帰国後、仕事に追われ消耗する日々の中で、再びベートーヴェンに会いたい気持ちがつのり、5年後の1994年に再訪。さらに2002年、05年と貯金しては巡礼を重ね、やがてベートーヴェンの誕生日に結婚。初墓参から四半世紀、2015年に長年の夢だった妻と子を初めて墓前で紹介し、「こうして今があるのはあなたの音楽のお陰です」と心からの謝意。人生の壁にぶつかったときは、ベートーヴェンの音楽と言葉、人類愛が勇気をくれた。これからも命が続く限り、墓参を続けていきたい。

●ベートーヴェン語録
「行為の動機が重要であって結果は関係ない。精神生活が旺盛なら結果を考慮しないし、貧困と不幸は単に事柄の結果であるにすぎない」
「愛しいあなたに誇れる作品を書こう」
「田舎ではどの樹木も“聖なるかな、聖なるかな”と私に話し掛けているようだ。森の中の恍惚!」
「音楽とは啓示であり新しい美酒である」

●指揮者バーンスタイン、ベートーヴェンLOVEを吠える

・「ベートーヴェンとはどういう人物だったのか。一方では巨匠として愛され、求められ、賞賛されていた。しかし他方では偏屈な怪物の姿が浮かび上がってくる。友達もなく、寄ってくるのはパトロンと腰巾着ばかり。エネルギッシュでいつも好きな田舎を歩いていたかと思うと、慢性の鬱病、気管支炎、肝臓障害を患っていた。女性が大好きだったのに恋人はいなかった。甥カールを愛するあまり、あやうく死に追いやるところだった。この上ない崇高な心を持っていたかと思うと、出版社には厳しく、時には卑劣な条件を出した。そしてこれこそが極め付けの矛盾だが、この発育不全で病的で偏屈で苦悩に満ちた男の中に天使の声が宿っていたのだ」

・「ベートーヴェンはどんな時代の作曲家よりも優れた能力がある。主題の後にくる一番ふさわしい音を見つける能力だ。つまり次に来るべき音が何かが分かっていなければならない。その音以外考えられないということを納得させる力だ。納得できるまで書いては消し、書いては消しと、20回も書き直したパッセージもある。こうした苦闘を一生続けた。どの楽章も、どの交響曲も、どの協奏曲も、どのソナタも、常に完璧さを追及し、これ以外にはないというまで書き直していった。これはこの偉大な芸術家の神秘性を解く唯一のカギだ。ベートーヴェンは必然的な音の追究に一生を捧げた。どうしてこんなことをしたのか彼自身も分からなかっただろう。一風変わった生き方かも知れない。しかしその結果を考えるとそうでもない気がする。ベートーヴェンは我々に信じられるものを残してくれた。決して我々の期待を裏切らないものがあるとすれば、それはベートーヴェンの音楽だ」

・「ベートーヴェンの作品は、メロディ、和声、対位法、色彩感、オーケストレーション、どれをとっても欠陥だらけだ。それぞれの要素は何の変哲もない。彼は一生かけても満足なフーガを書けなかった。オーケストレーションは最悪で、トランペットが目立ってしまって、他の楽器がかき消されている。では何に惹かれるのか?それは型だ。ベートーヴェンの場合は型こそすべてだ。型は結局、次にどの音を持って来るかで決まる。ベートーヴェンの場合、その選択が完璧なのだ。まるで神と連絡を取りながら音を決めていったようだ。モーツァルトでさえこうはいかなかった。次に何が来るかは全く予想出来ないが、これしかないという音を選んでいる。どれもそれ以外考えられない音で、それゆえに完璧な型を作っている。どうしてこのようなことが出来たのか誰にも分からない。ベートーヴェンは一音一音搾り出すようにして書いている。部屋に閉じこもったまま気がおかしくなるくらい集中した。彼は心の中の氷山の一角しか表現できないと悩んだ。部屋は散らかし放題、食事は3日間手つかず、ピアノの下には一杯になったままの便器。しょっちゅう引っ越しをし、落ち着ける場所を探した。楽譜の下書きを見れば彼がどんなに苦しんだか分かるだろう。こうしてやっと完成した曲は神様が口述したかのようだ。これこそがベートーヴェンの素晴らしさなのだ。しかしこの必然性の追究の為、彼の人生はめちゃくちゃだった」

●ワーグナーのベートーヴェン賛歌
「ベートーヴェンの交響曲第5番“運命”終楽章は、ホルンとトランペットの音だけから成り立つ行進曲の簡潔なメロディーが、それ自身の単純さの巨大さゆえに我々の魂を震撼させる。時には嵐に蹂躙され、時には繊細な微風に吹き払われて、ようやく雲間から太陽が壮麗に輝き出すのを見るように、我々を不安定で待ちきれぬ気持ちにさせておく引き延ばし戦術によって、この楽章の感動は絶大なのだ」「交響曲第7番終楽章は、驚くべき音の渦巻きの回転の中に、新しい惑星が生まれるのを眺めるようだ」
「数年前に行われたベートーヴェンの遺体検分では、全骨格と同様に、まったく尋常ならざる厚みと堅さを持った頭蓋骨であることが分かったのだ。このようにして自然は極度に繊細な脳を保護したのであった。そこで、その脳はひたすら内側を向き、何物にも妨害されぬ落ち着きの中で、あの偉大な心の世界の熟視に励んだということなのであろう」
「(かつて音楽家の身分は低く)ハイドンはいわば宮廷付きの芸人であり、それで生涯を通したのである。だがベートーヴェンは、友人や支持者(パトロン)たちに年金を、もはや彼の作曲した作品の報酬としてではなく、彼がこの世界でなにものにも妨げられずに仕事に打ち込めるよう、日常の生活費として要求したのである。そこで音楽家の生涯として、ここに初めて数人の好意ある高貴な人物が、求められた意味どおりに独立したベートーヴェンのために年金を贈るという事態が実現した。先にモーツァルトもそうなる可能性があったが、彼の方は若くして疲れ果て、病を得て生命を終えてしまった」

●友よ、第九のサビを歌おうではないか!
Freude, schoner Gotterfunken,
フロイデ シェーネル ゲッテルフンケン 喜びよ 神々の散らす美しい火花よ
Tochter aus Elysium,
トホテル アゥス エリージウム 楽園からやって来た娘よ
Wir betreten feuertrunken,
ヴィル ベトレテン フォイエルトルンケン わたしたちは 炎の情熱に酔いしれて
Himmlische, dein Heiligtum!
ヒムリッシェ ダイ ハイリトム 天高きあなたの聖殿に踏み入ろう
Deine Zauber binden wieder,
ダイネ ツァーベル ビンデン ヴィーデル 世の時流がむごく引き裂いた者を
was die Mode streng geteilt
バス ディー モーデ シュトレン ゲタイル あなたの神秘なる力は再び結びつける
alle Menshen werden Bruder,
アーレ メンシェン ベルデン ブリューデル その柔らかな翼に抱かれ
wo dein sanfter Flugel weilt.
ボー ダイ ザンフテル フリューゲル ヴァイト 人々はみな兄弟となる
※他の歌詞も「我が抱擁を受けよ全人類よ!」「我がこの口づけを全世界に!」「太陽が天の軌道を進むように、君たちは自分の信じた道を進め。勝利の道を歩む英雄のように!」など超ポジティブ。

●なぜ年末になると第九を演奏するのか?理由は2説ある。
その1…1943年、戦況が悪化する中、学生にも徴兵令が下り始めた。徴兵された東京芸大音楽部の学生たちは、入隊間近の12月初旬に繰上げ卒業式音楽会で『第九』の第4楽章を演奏した。出征した多くの学生が死に、終戦後、生還した者たちで「別れ際に演奏した『第九』をもう一度演奏しよう」ということになった。つまり、“暮れの第九”の始まりは、戦場で散った若き音大生の魂を慰める鎮魂歌(レクイエム)だったんだ。
その2…N響は1927年から第九を演奏レパートリーに持っていたが、年末の演奏が定番化したのは終戦直後の混乱期から。食糧不足など厳しい生活を送っていた楽員たちは、年越しの費用を稼ぐために12月は『第九』を演奏する機会が増えた。なぜなら『第九』は曲そのものに人気があるうえ、合唱団員が多く出演するためその家族や友人がチケットを買ってくれ、確実な収入が保障されているからだ。同様の理由で“年末の第九”が、プロ、アマを問わず定着していった。現在国内の12月の第九演奏会は150回を超えている。※近年の海外の「年末第九」の習慣は日本から(ドイツは例外)。

※ファン・ゴッホ(van Gogh)のように、ベートーヴェンも姓に“van”がついているのは祖父がネーデルラント出身だから。祖父の代にボンに移住した。貴族を表す「von(フォン)」とは異なる。
※死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年(42歳)の手紙が3通発見された。ベートーヴェンは生涯独身だったが、いつも身分違いの貴族女性や既婚女性という、手が届かない相手に恋をしていた。「不滅の恋人」は長年謎だったが、フランクフルトの商人の妻で4児の母アントニエ・ブレンターノ説が最有力。手紙には恋の煩悶が綴られており、結局はベートーヴェンが自ら身を退いている。
※臨終の家はショッテン門の北側、奉納教会の斜め裏手。入口にベートーヴェンの顔のレリーフがはめ込まれている。葬儀が行われたのはアルザー通りに面する聖三位一体教会。ここにもベートーヴェンのブロンズレリーフがある。
※秘書のシントラーは第九公演の申請手続きを行うなど、身寄りのないベートーヴェンの世話を一身に引き受け助けたが、著作伝記『ベートーヴェンの生涯』の捏造部分と内容を合わせるため、ベートーヴェンが晩年約10年間に書き込んだ数百冊にのぼる貴重な筆談ノートを、半数以上も廃棄処分にして“証拠隠滅”を計る暴挙を行っている。
※CDの収録時間が74分という中途半端な時間になった理由は第九にある。ソニーがCDを開発中に、1枚に録音できる長さを盛田会長が友人の指揮者カラヤンに相談した際、カラヤンは第九が全曲入る長さ=74分を求めてそう決定した。カラヤンは「これで第九をA面、B面と中断されずに聴ける」と大いに喜んだという。
※ハイリゲンシュタットのハイリゲンシュタッター公園には散策するベートーヴェン像が立つ。
※ベートーヴェンは作曲の際、ほうきの柄の片側を歯で噛み、もう片方をピアノに入れて振動で音を聞くこともあったという。
※「(最晩年の“大フーガ”は)絶対的に現代的な楽曲。永久に現代的な楽曲」(ストラヴィンスキー)
※映画『アマデウス』で有名になったアントニオ・サリエリは、ベートーヴェンにイタリア語歌曲の作曲法を教えた。ベートーヴェンはサリエリを慕い、イタリア語歌曲を作曲する場合は必ず助言を求めていたという。サリエリがモーツァルトを毒殺したという噂がウィーンに流れた時は、筆談帳で胸を痛めている。
※ベートーヴェンは『フィデリオ』の前にオペラ『ヴェスタの火』の作曲を試みるが、1幕のみで未完となった。
※日本人でも日本の業者を通してウィーン中央墓地に眠ることが出来る(300万円〜1000万)。
※「ベートーヴェンの9曲の交響曲があるのに、それ以上に必要なのでしょうか」(ブラームスは43歳まで交響曲を書けなかった)
※「交響曲第7番は舞踏の神化だ」(ワーグナー)
※ベートーヴェンにとって、ピアノ音楽は心のエッセイ、弦楽四重奏曲は心の手紙、交響曲は心の論文。(『最新名曲解説全集(1)』音楽之友社)

聴覚を失っていく絶望感からハイリゲンシュタットで自殺さえ考えた1802年の秋。32歳のあの日、彼が芸術の存在によって命を断たなかったおかげで、後に『運命』や『第九』が生まれ、今、僕らが聴くことができる。生きていればこそだ。ダンケ・シェーン(ありがとう)、ベートーヴェン!

  ベートーヴェンの遺髪(許可を得て撮影)

※最初の埋葬場所はウィーンのWahringer Friedhof(Defunct)。


8月の朝7時だと、このようにドラマチックな朝陽が背後に!


1994 2002 2005 2015
マイ・ゴッド、ベートーヴェン大先生の足元にひれ伏してキスをする。うう…ありがたき幸せ!この瞬間、天にも昇る
歓喜の絶頂にあり、文字通り失神寸前。もう、どこへでもついて行きます、ベートーヴェン大明神さまーッ!!
(実は1989年にも巡礼して同様の写真を撮ったんだけど…南仏で荷物を全部盗まれフィルムも無くなった!トホホ)


※なんと動画あり!ウィーン中央墓地(5秒)
ベートーヴェン、モーツァルトの記念碑、シューベルト、
ヨハン・シュトラウス、ブラームスが並んでて壮観!



★ワーグナー/Wilhelm Richard Wagner 1813.5.22-1883.2.13 (ドイツ、バイロイト 69歳)2002
Plot at his Family's Home, Bayreuth, Germany

 

ワグネリアン(ワーグナー・ファン)の聖地、
“あの”バイロイト祝祭劇場の前にて!


「ハハーッ!!ひらにーッ!!」


ワーグナーが晩年住んでた家がそのまま博物館に
なっている。その裏庭に彼と妻コジマが眠っている。




なんと墓はノッペラボウ!何も刻まれてないので
これが墓だと気づかず、周囲をずっと探していた。
博物館の職員になぜ名前が彫られていないか
尋ねると「自分の家の庭だから名前を彫る必要ない
でしょう?」とのこと。確かに(笑)。まったく何も彫られ
てない墓石を見たのは、後にも先にもこれっきり!
庭番が教えてくれたワーグナーの愛犬の墓!彼の墓
のすぐ側の茂みにあった。なんか胸がキューンとなった。
ワーグナーって近寄りがたいイメージがあったけど、
一気に親しみが湧いた。こういうのがあるから
墓巡礼はやめられない。実に良い墓を見た。
家の中には彼の愛用していたピアノが!おそらく妻の
父リストも使用しただろう。タイマー撮影で悦に入る。




詩と音楽と劇の融合に生涯を捧げ、従来の音楽優先のオペラではなく、詩や劇が音楽の犠牲にならない総合芸術「楽劇」を創始完成させた“楽劇王”リヒャルト・ワーグナー。ワーグナーは1813年5月22日に、ナポレオン軍占領下のザクセン王国ライプツィヒで生まれた。第9子。身長167cm。父は警察の書記でワーグナーが洗礼を受けた後に他界、母は父の友人(実父説あり)と再婚した。一家はみんな音楽好きで作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826/代表曲『魔弾の射手』『舞踏への勧誘』)と親交があった。この環境でワーグナーも音楽に関心を持ったが、モーツァルトやリストのような神童ではなく、ピアノの稽古も熱心ではなかった。11歳の頃から演劇の面白さに目覚め、シェイクスピア劇に熱中する。14歳のときにベートーヴェンが他界。翌年、ベートーヴェンの音楽に感動して音楽家を目指すようになる。ほとんど独学で作曲技法を身に付けたワーグナーは、最初にピアノ作品を作曲し始め、17歳のときにベートーヴェンの交響曲第9番をピアノ版に編曲して楽譜出版社に持ち込んだが刊行を断られた。
18歳でライプツィヒ大学に進み音楽と哲学を学ぶも中退。1832年(19歳)、生涯で完成させた唯一の交響曲、『交響曲第1番ハ長調』を書きあげる。10代とは思えない堂々とした作品だが、ワーグナーは「この世には既にあの(ベートーヴェンの)9つの交響曲があるのに、このうえ交響曲を作る意味があるのか」と立ち尽くし、もはやベートーヴェンの手で発達の余地なきまでに完成した交響曲を書くことをやめ、ベートーヴェンが開拓しなかったオペラの道に進んだ。
同年に最初の歌劇『婚礼』の台本を書きあげて作曲したが、このオペラは周囲から内容が暗すぎると否定され、未完のまま放棄された。
※『交響曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=ZpdZ7hRnBAw (35分)

1833年(20歳)、中部ドイツ・ヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者に就任。オペラ作曲家の夢を捨てきれず、同年に妖精の愛を描いたウェーバー風の全3幕の『妖精』を作曲する。この年、ゲヴァントハウスで『交響曲第1番』の初演が実現。
翌1834年(21歳)、マクデブルクで歌劇団の指揮者に就任すると4歳年上の花形女優ミンナ・プラーナーと恋に落ちた。翌年のミンナ宛の手紙には「神にかけて(公演中の)ベルリンへ行き、力ずくで君を連れ去る。乙女よ!乙女よ!君ほどに愛された者はいない!」「君と別れてからもう24時間以上たってしまった」「感覚はほとんど力を失い、子どものように涙を流してすすり泣くばかり」など情熱的な言葉が飛び交う。
1836年(23歳)、3番目のオペラ『恋愛禁制〜パレルモの修道女』を作曲。イタリアの恋愛禁止令をめぐる騒動を描き、ワーグナーの数少ない喜劇となった。この年、劇団が解散しミンナが新たにケーニヒスベルク(現ロシア)の劇団員となったため、ワーグナーははるばる彼女を追っかけて11月24日に同地で結婚した。「苦悩といたわりとが結びつける絆より固い絆などあろうか?それが我々を一つにしているのだ。君はわが妻なのだ!」。結婚の数日後、ワーグナーは借金のことで法廷に立たされ、少しでも監獄行きを逃れようと年齢を若くいって弁明した。
1837年(24歳)、結婚半年後、ミンナは夫の浪費癖に呆れたのか、幼い娘を連れてドレスデンの実家に帰り、ワーグナーは妻子を追いかけて関係修復を行っている。その後、リガ(現ラトビア)の劇場指揮者となった。リガではオペラ『リエンツィ』の台本と第2幕までの音楽を書きあげた。
ワーグナーは地方都市の歌劇場を転々とするうちに借金がかさみ、1839年(26歳)、債権者から逃げるためミンナと一緒に夜逃げ同然で船に乗る。そしてロンドンに向かう海上で猛烈な暴風雨に遭遇し、この体験が後の『さまよえるオランダ人』を生んだ。ロンドンに8日間滞在して極秘裏にフランスに入り、パリでは10歳年上のベルリオーズ(1803-1869)が標題音楽を開拓していることを知り感銘を受ける。貧乏生活に耐えながら3年間滞在し、このパリ時代にオペラ『リエンツィ』『さまよえるオランダ人』を作曲、同時に文筆家として“若い作曲家がウィーンのベートーヴェンを訪ねて会話する”という小説『ベートーヴェンまいり』や、“パリで挫折した老作曲家の愚痴”を描いた『パリ客死』を著した。
1842年(29歳)、2年前に完成していたオペラ『リエンツィ』の初演の機会を探していたワーグナーは、ドレスデン宮廷歌劇場で上演に漕ぎつける。リエンツィは14世紀のローマの政治家で、貴族の暴政から民衆を解放した護民官。貴族の反乱や民衆の暴動でリエンツィら主要人物はみんな殺される。第5幕のアリア「リエンツィの祈り」が有名。この当時、欧州は革命の機運が高まっており、政治的な『リエンツィ』の初演は観客の熱狂を呼び大成功、ドレスデンでは以後30年間に100回も上演された。『リエンツィ』の成功を受けてワーグナーはドレスデンに移住し、パリを去った。
翌1843年(30歳)、ドレスデン宮廷歌劇場の指揮者に就任し生活が安定する。同年、ドレスデンにて全3幕のオペラ『さまよえるオランダ人』を上演。神罰で不死の呪いをかけられたオランダ人船長が、幽霊船に乗って愛による贖罪の力を求めてさまよう物語。純愛を証明するために乙女ゼンタが死に、オランダ人船長とゼンタは浄化され昇天していく。このオペラでは以後のワーグナー作品を貫く「愛、死、救済」が描かれ、音楽面でもワーグナーの特徴となる金管楽器の響きが強調されている。また、この年にグリムの『ドイツ神話』を読んで12世紀の叙事詩『ニーベルンゲンの歌』を知り、後年、大規模オペラの着想となっていく。
1844年(31歳)、イギリスで1826年に客死したウェーバーの遺骨をドレスデンへ戻してあげる。

1845年(32歳)10月19日、ドレスデンにて全3幕のロマンティック・オペラ『タンホイザー』(正式名「タンホイザーとワルトブルクの歌合戦」)初演。禁断の地で愛欲の女神ヴェーヌス(ヴィーナス)におぼれたタンホイザーはローマに懺悔の巡礼にむかうが、教皇は「あまりに罪は重く、私の杖が二度と緑に芽吹くことがないのと同じく、お前は永遠に救済されない」と破門を宣告される。清純な恋人エリーザベト(ワルトブルク領主の姪)が命と引き換えにタンホイザーの赦しを神に乞い、亡骸の側でタンホイザーも死ぬ。彼女の犠牲で教皇の杖が芽吹く奇跡がおこり、タンホイザーの罪は赦された。劇中の『夕星の歌』は、タンホイザーの親友ウォルフラムがエリーザベトへの秘めた想いを込めたバリトン独唱の傑作アリアとして知られる。
『タンホイザー』は管弦楽や合唱を効果的に使った作品だが、『リエンツィ』のようなドラマチックな史劇を期待していた聴衆は内容に戸惑い、期待外れと反発し、2回目の上演で聴衆は半分に激減、8日間で打ち切られた。後年、再演を重ねているうちに次第に評価が高まっていった。
1846年(33歳)、ワーグナーは復活祭に合わせた恒例の演奏会で、当時は演奏機会が少なかったベートーベンの『第九』を取り上げ、これによって『第九』は人々に名曲として認知されるようになった。
1847年(34歳)、ウェーバーの墓地の前の家に引っ越す。
1848年(35歳)、ワイマールで宮廷楽長をしていた作曲家リストが『タンホイザー』を上演。リストはワーグナー音楽の熱烈な支持者となり両者は生涯の友情を結ぶ。同年、全3幕のオペラ『ローエングリン』が完成するが、『タンホイザー』の騒動に嫌気をさしたドレスデン宮廷歌劇場の支配人は、批評家や観客の反応を懸念して上演を拒否した。この年、『ニーベルンゲンの歌』にもとづいた超大作『ニーベルングの指環』の台本を書き始める。

2年前からヨーロッパでは農産物の不作で民衆が貧困に苦しんでおり、1848年2月、パリの労働者は社会改革を求めて武装し、バリケードを築いた。国王ルイ・フィリップは退位、議会は共和制を宣言し、社会主義者や労働者も参加した臨時政府が組織された。だが4月の普通選挙で貧困階層を代表する候補が敗北し、6月にパリの労働者が蜂起するも政府軍に鎮圧され、半年後の大統領選でナポレオン1世の甥ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)が選出されて帝政に向かって行く。
ドイツにパリの革命の情報が伝わると、1848年3月にベルリンでも政府に不満を持った学生・市民と軍隊が衝突した。この48年革命は、英国と北欧以外の全ヨーロッパで一斉に起き「諸国民の春」といわれた。だが社会主義運動に驚いた商工業者や知識人は保守的な勢力と妥協し、各国君主によって鎮圧されていく。
1849年(36歳)、当時の保守的な空気に不満を持っていたワーグナーは革命思想に共鳴、芸術のための社会改革を求めた。そして「いかなる形の政府もやがて抑圧への道をたどる」と語るロシアの革命家・無政府主義者バクーニンと交流する。ワーグナーはバクーニンらとドレスデン五月蜂起に参加するが革命運動は失敗、ワーグナーは指名手配となってしまう。仲間が大勢逮捕されたため、ワイマールにいたリストを頼って偽造旅券と逃走資金の援助を受け、チューリヒへと逃亡、亡命した。改革の熱は持続し、ここから4年間は音楽よりも著作活動に専念、理想的芸術を様々な論文にしていく。

1850年(37歳)、リストは海外亡命中のワーグナーにエールを送るために、完成から2年が経っていた最後のロマンティック・オペラ『ローエングリン』をワイマールで初演する。舞台は10世紀前半のアントワープ(現ベルギー)近郊の河畔。魔女の陰謀で弟殺しの疑惑をかけられた領主の娘エルザを助ける為に、謎の騎士が白鳥に曳かれた小舟で現れる。騎士は正体を質問しないという約束でエルザを助けるが、エルザは魔女にそそのかされて結婚式の夜に身分を尋ねてしまう。翌朝、騎士は人々の前で自分の正体が聖杯の守護長パーシヴァルの息子ローエングリンと明かす(ローエングリンはアーサー王伝説のドイツ版に登場する英雄)。キリストの血を受けた聖杯を守る騎士は、身分を知られると人々の間から去らねばならぬ掟がある。エルザの弟は魔女によって白鳥に変えられていたことが分かるが、時すでに遅し、ローエングリンは立ち去ってしまい、エルザは絶望して息絶える。劇中の「第1幕への前奏曲」「第3幕への前奏曲」「婚礼の合唱(結婚行進曲)」は独立して演奏されるほど高い人気を集め、主要人物固有のテーマ曲=「ライトモティーフ(示導動機)」の導入は、のちの楽劇につながる試みとなった。
リストは初演後にワーグナーに向けて「君の『ローエングリン』は始めから終わりまで崇高な作品だ。少なくないところで私は心底から涙を流したほどだ」と手紙に書いた。『ローエングリン』は人気作となり、ドイツ各地で上演され、亡命中のワーグナーは「“ローエングリン”を観ていないドイツ人は私だけだ」と嘆き、なんとか自分の目で観たいと願う。だが、結局見られたのは11年も経った1861年、ウィーン宮廷歌劇場の公演だった。この舞台はヨハン・シュトラウス2世の尽力で実現した。
https://www.youtube.com/watch?v=X_g9QFOTA6E

同じ1850年、ワーグナーは問題となる論文『音楽におけるユダヤ性』をK・フライゲダンク( 「自由思想」の意)の変名で『新音楽時報』に発表した。ワーグナーはメンデルスゾーンやマイアベーアなどユダヤ人音楽家の功績を認めながらも、「ユダヤ人は創造できず模倣ばかり」「強欲、金儲け主義」「メンデルスゾーンはライプツィヒをユダヤ音楽の町にした」「容貌や喋り方が嫌」と糾弾。差別的な中傷が含まれた反ユダヤ主義の論文に、リストらワーグナーの友人はなぜユダヤ人を攻撃するのかと戸惑った。しかも不思議なことに、ワーグナーはこの論文を出す一方で多数のユダヤ人(指揮者、ピアニスト、音楽評論家)と親交を結んでおり、60歳頃の自伝ではパリ時代にユダヤ人言語学者と交流した思い出を「わが人生における最も美しき友情の一つ」にあげている。借金まみれで夜逃げ経験のあるワーグナーが、貸金など金融で成功しているユダヤ人を憎悪した「逆恨み説」、母がワーグナーを身ごもった頃から“関係”のあった継父の名がユダヤ人に多いガイアーであり、ワーグナー自身がユダヤ系の可能性があるため一種の「近親憎悪説」などがる。ワーグナーは15歳までリヒャルト・ガイアーを名乗っていた。
※ワーグナーは論文発表の19年後に大幅加筆して実名で再版しており、こだわりがあるのは間違いない。かと思えば、ユダヤ系のヨハン・シュトラウス2世を「最高の音楽的頭脳」と呼び『美しく青きドナウ』や『酒、女、歌』などのワルツを好んでいた。晩年のバイロイト音楽祭で最後の楽劇『パルジファル』の世界初演を、ユダヤ人指揮者ヘルマン・レーヴィに任せている。ワーグナーという人物の大いなる謎だ。ブラームスいわく「反ユダヤ主義は狂気の沙汰」。

1851年(38歳)、ワーグナーの創作欲はスイスでの亡命生活中も燃え続け、神話を題材にした『ニーベルングの指環』の台本を書き進めていく。ワーグナーは4部作の「指環」の台本を逆順で書いた。まず第4作『神々の黄昏』の原型を書き、次に物語を理解しやすくするために第3作『ジークフリート』を書き、満足できずに第2作『ワルキューレ』を書き足し、さらに『ラインの黄金』を書き加えた。神話を選んだ理由は、それが普遍的真理だから。ギリシャ神話、北欧神話など、愛や憎しみなど時代を超越したテーマを描く神話こそがドラマの頂点とワーグナーは考えた。
この年、著書『歌劇と戯曲』を著し、ワーグナーは音楽、演劇、視覚芸術などを統合した「総合芸術」論を展開した。この考えを具体化した以降のワーグナー作品は「楽劇」と呼称され、それまでのオペラとは区別された。ワーグナー以前の大半のオペラは、アリア、二重唱、レチタティーボ、間奏曲、フィナーレを約束事のように並べるだけだった。楽劇はアリアやレチタティーボの区切りを「ライトモティーフ(示導動機)」などで繋ぎ、音楽がとぎれずに進行していった。
1852年(39歳)、チューリヒで豪商オットー・ウェーゼンドンクと24歳の美しい妻マティルデ(1828-1902)と知りあう。マティルデはワーグナーにとって芸術的霊感となり、大いに創造活動を刺激した。
1853年(40歳)、『ラインの黄金』の作曲に着手し、翌年完成。続けて『ワルキューレ』の作曲に入る際、ワーグナーはスコアの片隅に“マティルデに祝福あれ”を意味する「G・S・M」(Gesegnet sei Mathilde)と書き込んだ。
『ワルキューレ』は1856年(43歳)の暮れに完成した。
1857年(44歳)4月、パトロンとなったウェーゼンドンクがマティルデの提案でチューリヒ郊外の自邸の隣家を借り、ワーグナーに「作曲しやすい静かな別荘」として提供する。ワーグナーは妻ミンナと移り住んだ。マティルデはワーグナーを崇拝しており、この引っ越しの後、2人はすぐに不倫関係となった。44歳と29歳、この禁断の愛は音楽史を変えるほどの作品を生むことになる。ワーグナーは別荘に入った4カ月後の8月、作曲中の『ニーベルングの指環』四部作の『ジークフリート』のペンをいったん置き、『トリスタンとイゾルデ』の台本執筆を開始した。ワーグナーはこの3年前にリスト宛の手紙に「私はこれまで一度も愛の幸福を味わったことがないため、あらゆる夢の中でも最も美しいこの主題のために一つの記念碑を打ち立て、そこで愛の耽溺のきわみを表現したいと思ったのです。こうして『トリスタンとイゾルデ』の構想を得ました」と報告しており、マティルデとの関係がスイッチを押したのは確実だ。9月に、死によって愛を完遂しようとする恋人たちの物語の台本が完成。これをマティルダに捧げ、すぐに作曲に取り掛かった。
ワーグナーのマティルダ宛の手紙「9月18日に私は『トリスタンとイゾルデ』の台本を完成し、最終幕をあなたのところにお持ちしました。あなたは私をソファの前の椅子に座らせ、優しく抱擁してこう言いました。『もうこれ以上の望みはありませんわ!』。この日、このとき、私は新しく生まれたのです」。
※『ジークフリート』作曲の一時中断は他にも理由がある。(1)『ローエングリン』初演から7年間、何も新作を発表しておらず「このままでは音楽界から忘れ去られる」という危機感。(2)『指環』の構想が四部作に拡大したことで全曲完成の見通しが立たず、完成しても上演・出版のあてがない点。
※『音楽家の恋文』の著者クルト・パーレンはワーグナーとマティルデの不倫について次のように感慨をもって記している。「この陶酔は『ワルキューレ』の狂おしい情熱の嵐の原動力となり、かつて作られたなかで最も強烈な愛のドラマ、『トリスタンとイゾルデ』の着想を与えることになった。そのような一篇の田園詩から、誰がこの二つの記念碑以上のものを残せようか?」。

1858年(45歳)、ワーグナーは楽劇『トリスタンとイゾルデ』の作曲と並行して、マティルデが書いた5編の詩に音楽をつけた連作歌曲『ウェーゼンドンク歌曲集』を作曲。マティルデの誕生日に歌曲の一部をオーケストラ用にしてプレゼントした。この歌曲の3曲目と5曲目の旋律は『トリスタンとイゾルデ』にも使用されている。4月にトリスタンの第1幕が完成。ワーグナーは「このような作曲は、いまだかつてなかった」と自賛。その直後(4月7日)に大事件が起きる。ミンナがワーグナーからマティルデ宛てのラブレターを手に入れ、不倫が発覚したのだ。ヴェーゼンドンク夫妻は離婚を望んでおらず、話し合いの結果、ワーグナー夫妻がチューリヒを出ていくことになった。8月、ワーグナーはヴェネツィアに向かい、ミンナはドレスデンの実家に帰った。オットー・ヴェーゼンドンクはワーグナーが妻に手を出したにもかかわらず、ワグネリアン(熱狂的なワーグナー・ファン)として音楽に心酔しており、半年間のヴェネツィア滞在費を負担した。
1859年(46歳)、3月にトリスタンの第2幕が完成。マティルデ宛の手紙に「私の芸術の最高峰」と記す。その後、スイス・ルツェルンのホテルで作曲に集中し、6月5日に第3幕の前半が仕上がりマティルデに記す。「ねぇ君!最愛の君!これは恐るべき話だ。この巨匠はまたもや立派なものを作り上げた!すぐに仕上がったばかりの幕の前半を演奏してみて、かつて愛する神が、万事よしとわかった時に言ったのと同じことを、私も言わずにはいられなかった!私には、私を賞賛してくれる人々はいない。ちょうどあの時、約6千年前、(天地創造を終えた)神がそうだったように」。そして8月6日に第3幕を完成させ、直後に「リヒャルト、お前は悪魔の申し子だ!」と叫んだ。マティルデはイゾルデとして理想化され、音楽を通して永遠の命を吹き込まれた。曲を知った近代的指揮法の創始者ハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)は知人の音楽誌編集長に「私はあなたに、このオペラがこれまでの音楽全般の頂点に位置しているということを断言いたします」と書いた。
同年、『トリスタンとイゾルデ』を歌いこなせる歌手を探すためパリに移住。すると、ナポレオン3世から『タンホイザー』上演の勅命が下った。ワーグナーは台本をフランス語に訳し、劇場側からの要望でフランスではオペラに必須のバレエ音楽をつけ加え、197回にわたってリハーサルを行った。ところが、慣習に従わず第2幕ではなく第1幕にバレエを入れたため、踊り子目当てで第2幕から観劇した若い貴族達が怒って騒ぎ出し、初日の公演は収拾がつかなくなった。上演中の妨害は、2回目、3回目とエスカレート、ラッパや鞭など持ち込んでの嘲笑、怒号の嵐となり、ワーグナーは『タンホイザー』の公演を打ち切った。

1862年(49歳)、恩赦によってワーグナーの国外追放令が解除されて法的に亡命者ではなくなり、プロイセンに帰国。ドレスデンのミンナと再会できたが、これを最後に2人は会うことはなかった。この年、ワーグナーは指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻でリストの娘である25歳のコジマ(1837-1930)と出会う。コジマは哲学者ニーチェが絶賛するほど教養と優れた感受性を持っており、ワーグナーは自分の年齢の半分のコジマにたちまち魅了された。コジマは二児の母であったが、少女時代からワーグナーのファンであり、彼女もまた惹かれていった。ビューローはワーグナーの崇拝者だったことから、妻の不倫を暗黙のうちに了承していたとの説もある。同年、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の作曲にとりかかる。

1864年(51歳)、この年、借金地獄のワーグナーの人生が一変する。18歳の若きルートヴィヒ2世(1845-1886)がバイエルン国王に即位すると、ワグネリアンの国王はワーグナーをバイエルンに招き、なんとワーグナーの負債の全てを肩代わりしてくれた。そればかりか高額の援助金まで支給してくれた。この幸運をもたらしてくれたのは『ローエングリン』だった。ルートヴィヒが幼児期を過ごしたホーエンシュワンガウ城は中世ドイツの白鳥の騎士ローエングリンの伝説の地。そして6年前、ワーグナー亡命時代にミュンヘンで上演された『ローエングリン』を15歳で観た皇太子ルートヴィヒは、そのロマンあふれる作品世界に魅了され、ワーグナー芸術の虜になった。即位後、王は国家財政が傾くほどワーグナーに入れ込んでいく。

1865年(52歳)、4月にワーグナーとコジマの間に長女イゾルデが生まれる。
同年6月10日、完成から6年間上演機会がなかった全3幕の楽劇『トリスタンとイゾルデ』が、ルートヴィヒ2世の命令によりミュンヘン宮廷歌劇場で初演された。指揮はハンス・フォン・ビューローでワーグナー自身が演出した。
物語の舞台は中世初頭の欧州。アイルランドの王女イゾルデはイングランド南西端コーンウォール王国のマルケ王の妃となるべく船で海を渡る。船の舵を取るのはマルケ王の甥トリスタン。イゾルデは治療の秘術の持ち主で、かつて重傷のトリスタンを救ったことがあった。このケガは、イゾルデの婚約者モロルトがコーンウォールを属国扱いしたため、トリスタンが決闘を挑んで倒した際のものだった。つまり、イゾルデにとってトリスタンは婚約者を殺した仇。だが、イゾルデはトリスタンの治療を通して互いの心に愛が芽生えたと信じており、トリスタンが主君の妃にするため彼女を送り届けていることを裏切りと非難し、心中を迫る。トリスタンは覚悟を決め、2人で毒薬を飲み干すが、それはイゾルデの侍女ブランゲーネがすり替えた愛の妙薬、惚れ薬だった。力強く抱き合うトリスタンとイゾルデを乗せて、船がコーンウォールに到着する。イゾルデはマルケ王の妃となった後もトリスタンのことを想い続けており、2人は夜闇の中で密会した。トリスタンの動きを怪しんだ友人メーロトに案内されたマルケ王は逢い引きの現場を目撃し、マルケ王に忠誠を誓うトリスタンは苦悩、自分からメーロトの剣に身を投げ深手を負う。トリスタンの従者がフランスにあるトリスタンの城にトリスタンを運び込み、治療のためイゾルデを呼び寄せる。イゾルデはトリスタンの妻となるため全てを捨ててやって来たが、トリスタンは彼女の姿を見て歓喜した後に息絶えた。そこに媚薬の顛末を聞かされたマルケ王が、2人の仲を赦すためにイゾルデを追って現れる。マルケ王はトリスタンの亡骸を見て嘆き、イゾルデはトリスタンに寄り添い、永遠の愛を歌いながら静かに息を引き取る。
※ちなみにトリスタンは『アーサー王伝説』の中では“円卓の騎士”の一人に数えられ、最強の騎士ランスロットと並ぶ武勇の持ち主とされている。

ワーグナーがスイス亡命時代にマティルデと重ねた情事が生んだ濃密なロマンティシズムは、情熱的な愛をテーマとした『トリスタンとイゾルデ』として実を結んだ。「愛の二重唱」に見られる、寄せては返す大波のような音のうねりは“愛の法悦”を感じさせ、聴衆は音の中に溺れ、深く沈み込むことで、 愛の究極の賛美を体感した。もともとイゾルデもトリスタンも死ぬつもりで薬を飲んでおり、愛と死は表裏一体として描かれている。そのまま第1幕で死んでいても心中という極限的な感情表現であり、4時間半という長大な上演時間の間中、死の気配を感じながら愛に酔う目眩のするような作品となった。

音楽史において『トリスタンとイゾルテ』は“調性崩壊”につながるトリガー(引き金)となっており、発表前後で歴史が分けられるほど大きな影響を与える作品となった。不協和音を解放して半音階進行を徹底し、「第1幕への前奏曲」冒頭に使われた定まらない調性、不安定な和音は「トリスタン和音」と呼ばれるようになる。また、「心の動きは絶えず陰影をはらみながら微妙に変化する」という考えから音楽の流れが途切れることを嫌ったワーグナーは、画期的な「無限旋律」を導入した。
従来のオペラは、序曲、アリア、重唱、合唱、間奏曲がそれぞれ独立し、音楽に“切れ目”があったが、ワーグナーは途切れのない無限旋律で一つの音楽作品へと発展させた。例えば、曲の終わりに終止感のある和音を使うのをわざとやめて、音楽が先へ先へと流れる印象を与えたり、一つの旋律が終わらないうちに新しい旋律が始まるように工夫した。劇中歌では第二幕の長大な「愛の二重唱」と、イゾルデの侍女が歌う美しい「見張りの歌」、クライマックスの「イゾルデの愛の死」が名歌として知られる。本作のトリスタン役は難役として有名で、輝かしい高音とバリトン並の低音域が同時に要求され、官能的な甘美さ、高貴な雰囲気、細やかな心理表現を持ち合わせ、さらにハードな第2幕の後、イゾルデ役は第3幕で休憩できるのにトリスタンは一人舞台を任されるという、人間離れした持久力が必要とされる。
この年、ワーグナーは聖杯伝説が好きなルートヴィヒ2世のために全3幕の舞台神聖祝典劇『パルジファル』の台本を書き始めている(完成は17年後)。

1866年(53歳)、別居中の妻ミンナが病により他界。享年57歳。彼女は没する16日前に、ワーグナーをかばってデマ報道の抗議声明を新聞に出している。「真実に栄光を。某紙における誤った記事に対し、私はここに真実に忠実に申し上げる。私は現在まで、別居中の夫リヒャルト・ワーグナーから扶助を受けている。この扶助により、私は十分な、不安のない生活をしている。ドレスデン、1月9日 ミンナ・ワーグナー」。
同年、ルートヴィヒ2世や宮廷貴族がワーグナーと人妻であるコジマの関係を良く思っていないため、ミュンヘンから離れて再びスイスに亡命し、ルツェルン郊外トリープシェンで同棲生活を始めた。
1867年(54歳)、完成に5年の歳月を費やしたコミック・オペラ『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を書きあげる。同年、次女エーファ誕生。
1868年(55歳)、ミュンヘンで全3幕の楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』初演。初期の『恋愛禁制』をのぞくと、ワーグナーにとって唯一の喜劇的作品になる。マイスタージンガーとは中世ドイツの市民階級にいた文芸、音楽運動のメンバーのこと。軽い喜歌劇を書きたいと考えたワーグナーが、実在したマイスタージンガー、ニュルンベルクの詩人ハンス・ザックスを題材に選んだ。またもや構想は膨らみ、公演時間は休憩時間を入れて6時間という最大規模の大作となった。まったく「軽い喜歌劇」ではない。
舞台は16世紀半ばのドイツ・ニュルンベルク。マイスタージンガーの歌合戦が開催されることになり、優勝者には金細工師ポーグナーの評判の娘エバが与えられることになる。エバと相思相愛の騎士ワルターは歌合戦に出場するため、マイスタージンガーの試験を受けるが、市役所の書記ベックメッサーの妨害で失格する。靴屋の親方でマイスタージンガーのハンス・ザックスは、エバを愛しながらも若いワルターの自由奔放な歌に魅力を感じ、彼を応援する。ザックスからアドバイスを受けたワルターは優勝してマイスタージンガーになり、エバとも結婚、人々が「神聖ローマ帝国が滅んでもドイツの芸術は残る」と芸術やハンス・ザックスを讃える盛大な合唱の中で幕となる。
超肉食系のワーグナーも50代後半になり、この楽劇ではザックスが若者にエバをゆずって「諦念」の思想を示している。また、ワルターの自由な歌を排除しようとするベックメッサー(ワーグナーを敵視した音楽批評家ハンスリックがモデル)を通して保守的な俗物主義を風刺した。前作トリスタンから一転した明るい喜劇であり、音楽は晴れやかな長調が支配し今も人気が高い。「第1幕への前奏曲」「愛の洗礼式」「ヨハネ祭の場面」が有名。
マイスタージンガーの初演後に12年間中断していた『ジークフリート』の作曲を再開する。
この年、31歳年下の若き哲学者ニーチェ(1844-1900/当時24歳)とライプツィヒで出会う。ニーチェは18歳の時には既に『トリスタンとイゾルデ』の楽譜を買っていた熱烈なワグネリアンであり、これを機にスイスのワーグナー邸に23回も足を運んだ。ニーチェはマイスタージンガーの序曲を特に気に入り、「全神経組織が反応し、これほどまでに恍惚とした感情を体験したことがない」と感動。そしてワーグナーという人物を「現代最高の天才、気高く高貴な生命、深く心を揺さぶる人間性」と讃えた。バイロイト祝祭劇場の壮大な建設計画を聞いて心を躍らせると同時に、「指環」がニーチェの好きな古代ギリシャ演劇をモデルにしていることも彼を感激させた。また、夫人コジマの崇拝者にもなり、1870年に『悲劇の誕生』の原型の論文手稿を彼女の誕生日に贈った。

1869年(56歳)、ルートヴィヒ2世の要請で『ラインの黄金』をミュンヘンで初演。ワーグナーは全4部作が完成した後に連続上演したかったが、ルートヴィヒ2世の「楽しみで待ちきれない」という要望(というか命令)で、先行して『ラインの黄金』を披露することになった(ワーグナーに無断で上演したとも)。同年、コジマはビューローと正式に離婚する。長男ジークフリート誕生。
1870年(57歳)、ワーグナーはコジマと再婚し、彼女とビューローとの二児も引き取った。ビューローはワーグナーと決別し、楽壇ではワーグナー派と敵対していたブラームス派に加わっていく。同年、ミュンヘン宮廷劇場で『ワルキューレ』が初演される。コジマ33歳の誕生日である12月25日の朝、彼女のために密かに作曲した美しい管弦楽曲『ジークフリート牧歌』がワーグナーの友人たちによって演奏された。楽士たちは寝室の横の階段に並びワーグナーが2階から指揮し、コジマはこの音楽で目覚めた。
この年、「ベートーヴェン生誕100年セレモニー」がウィーンで催され、ワーグナーは講演することになっていたが、出席者名簿にブラームスの名を見つけて出席を拒否する。
1871年、『ジークフリート』完成。この年、プロイセン王ヴィルヘルム1世は普仏戦争に勝利してドイツ北部を統一させ、初代ドイツ皇帝に即位する。
1872年(59歳)、バイロイトに移住し、ルートヴィヒ2世の援助を受けて、ワーグナーが自身の作品上演を目的として設計した木造のオペラハウス「バイロイト祝祭劇場」(現リヒァルト・ワーグナー・フェストシュピールハウス)の建築を始める。自分の誕生日(5月22日)に合わせた祝典劇場の定礎式で、ワーグナーはベートーヴェン『第九』の歴史的演奏を行った。ワーグナーは不倫略奪婚の件でコジマの父リストと2年間絶縁状態にあったが、この年ワーグナー夫妻の熱心な招きに応じてリストがバイロイトを訪問したことで和解に至った。夏から『指環』4部作最後の『神々の黄昏』の作曲を開始。
ニーチェ(28歳)が第一作『悲劇の誕生』を発表、同書でギリシャ悲劇を「楽劇」として果敢に再生させようとするワーグナーを賛美し、「バッハ、ベートーヴェン、ワーグナー」を天才の系譜と評してワーグナーを喜ばせた。
1874年(61歳)、『神々の黄昏』を書きあげる。これで26年前の1848年から書き始めてライフワークとなっていた『ニーベルングの指環』4部作がすべて完成した。この年、ワーグナー邸を訪問したニーチェがブラームスのピアノ曲を弾き、アンチ・ブラームスのワーグナーを激怒させる。

1876年(63歳)、楽劇上演の理想的環境を追求した「バイロイト祝祭劇場」が完成。ワーグナーは観客を舞台に集中させるためオーケストラ・ピットを舞台下に設け、客席からは指揮者もオーケストラも見えないという非常に特殊な構造になっている。指揮者がいつ現れたか分からないため最初の拍手もなく、音楽が突然空気を満たす。舞台だけに観客を集中させるため、一般のオペラハウスに見られる側面の座席もない。場内の彫刻を廃し、椅子の装飾をなくして硬い木製にすることで共鳴板の役割を持たせた。硬い椅子は座り心地が悪いが、これは観客を眠らせないためのワーグナーのアイデアでもある。また、譜面台の照明が隠れるため完全な暗闇を作ることができる。

1876年8月13日から17日までバイロイト音楽祭が開催され、上演に4日、約15時間を要する『ニーベルングの指環』(正式名は序夜つき3部作)の、初の通し上演が華々しくおこなわれた。客席にはルートヴィヒ2世やリストの他に、チャイコフスキー、ブルックナーらもいた。
ワーグナーが四半世紀をかけて作詞、作曲した『ニーベルングの指環/Der Ring desNibelungen』は、13世紀初頭の中世ドイツ英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』や北欧の英雄伝説『ウォルスンガ・サガ』、古代北欧歌謡集『エッダ』を題材にして創作された。ワーグナー音楽の特色である、特定のイメージを表す“ライトモティーフ”(示導動機)や無限旋律など独自の技法が物語の展開に効果的に使用され、音楽史において他に類をみない壮大な作品となっている。過去のオペラ作品には必ずあった合唱パートが『ラインの黄金』『ワルキューレ』『ジークフリート』にはないのも革命的だった。

※ワーグナーの代名詞ともいえる「ライトモティーフ」は、簡単に言えば主要人物のテーマ曲。主人公を象徴する固定のメロディー(ライトモティーフ)が流れると、主人公の登場やその運命を暗示する。ライトモティーフは、ドラマの展開に応じてリズムや音程などを変えて何度も繰り返し登場する。ワーグナー以前はベルリオーズが効果的に使用。ライトモティーフは人物以外にも特定の場所や出来事に使われ、『指環』四部作には計82個のライトモティーフがあり、そのうち34個が『ラインの黄金』に現れ、22個が『ヴァルキューレ』に、18個が『ジークフリート』に、8個が『神々の黄昏』に新たに現れる。『神々の黄昏』は前作までのモティーフの繰り返しを含めると42個に達する。ワーグナーはこれらのライトモティーフを複雑に絡み合わせ、ドラマをより劇的なものにした。この手法はワーグナー以後のオペラや交響詩に広くみられるようになった。ただし、ワーグナー自身は「ライトモティーフ」という言葉を使わずに「案内人」と表現している。

『指環』四部作の舞台は神話時代。手にした者は世界を支配できるというラインの黄金から作られた「ニーベルングの指環」をめぐり、天上、地上、地下それぞれの世界で、小人族(ニーベルング)、ヴァルハラの神々(ヴォータン)、巨人族(ファーフナー)、英雄ジークフリートらが争う。『ラインの黄金』ではヴォータン率いる神々とアルベリヒらニーベルング族の争い、『ワルキューレ』ではヴォータンが人間に生ませた兄妹ジークムントとジークリンデの愛と、ヴォータンと娘ブリュンヒルデの親子愛、『ジークフリート』では英雄ジークフリートとブリュンヒルデの愛、『神々の黄昏』ではジークフリートの死による神々の世界の終焉までが描かれる。
※ワーグナーの希望は4夜連続の通し上演だが、音楽史上最大規模の作品であり、演奏家・聴衆の疲労を考慮して近年はバイロイトでも2日の休みを入れた6日間で上演されている。

【ニーベルングの指環】

●序夜『ラインの黄金/Das Rheingold』(全1幕/2時間40分)1854年完成…ライン川の水底で、ラインの黄金の見張り役の乙女3人が泳いでいるところへ、“ニーベルング族”の醜い小人アルベリヒが現れる。乙女から「この黄金から作った指輪を持つ者は世界を支配できる。愛の喜びを断念した者だけが指輪の魔力を得ることができる」と聞いたアルベリヒは黄金を奪い去り、ラインの黄金で作られた指環の力で地下のニーベルング族を支配する。
天上界では神々の長ヴォータン(北欧神話のオーディン)が妻フリッカの妹で美の女神フライアを報酬に、巨人族の兄弟に居城ヴァルハラを建設させた。ところがフライアは巨人族に身を捧げることを拒否。火の神で策略家のローゲ(北欧神話のロキ)は、フライアの代わりにラインの黄金を巨人族に渡すことを提案、ヴォータンと地下のニーベルング族の国へ向かう。ローゲは言葉巧みにアルベリヒを捕縛し、天上界に連行する。ヴォータンはアルベリヒから解放の条件としてラインの黄金を奪い、アルベリヒは「これを持つ者に死を与えよ!」と指環に呪いをかけた。知恵の女神エルダ(次作ブリュンヒルデの母)が警告し、ヴォータンは渋々指環を巨人たちに与える。すると指環を手に入れた巨人たちは財宝を巡って争い、弟が兄を殺してしまう。神々は指環の呪いに恐怖する。ヴァルハラに神々が入城し、ローゲは神々の没落を見通して、炎となってすべてを焼き尽くしてしまおうと独白する。ラインでは黄金を奪われた乙女たちが嘆く「ラインの黄金!涙の結晶!月光のため息!…再びライン河の水底で光っておくれ!上のお城が待っているのは、いつわりの日々。呪われよ!呪われよ!」。
劇中の曲では「神々のワルハラ城への入場」が有名。

※当時、合唱がないオペラ(楽劇)はとても珍しいものだった。
https://www.youtube.com/watch?v=3ZP-yXsNV2E&t=10s
https://www.youtube.com/watch?v=nPs9u0475QE&list=PLhCFlEaRDDRwgIVF-Skxc-RZ04UfvwpuX


●第1夜『ワルキューレ/Die Walkure』(全3幕/3時間50分)1856年完成…神々の長ヴォータンは巨人族に渡した「世界を支配する力を持つニーベルングの指環」を何とか取り戻したいと願い、また指環が野心家アルベリヒのもとに戻ることを恐れるが、自分自身は「契約」を司る神であり、手放した指環を自分の手で奪い返すことは許されなかった。そこでヴォータンは「神々の意志から自由な人間に指環を奪わせる」という作戦を思いつく。地上で人間の女との間に双子の兄妹をもうけ、兄妹にヴェルゼと名乗ったことから、兄妹はヴェルズングと呼ばれる。一方、指環がアルベリヒに戻った時の戦いに備えて、ヴァルハラの防御力を高めるため、愛娘ブリュンヒルデら9人のワルキューレを育てて地上の戦場に派遣し、戦死した人間の勇者の魂をヴァルハラに集めさせていた。
ある嵐の夜、ヴォータンが人間に生ませたヴェルズング族の若者ジークムントは、戦いに傷つき見知らぬ館の中に倒れ込む。そこはヴェルズング族の宿敵フンディングと妻ジークリンデの家であった。ジークリンデはジークムントに水を与え、不思議と互いに惹かれ合うのを感じた。フンディングは敵対民族のジークムントに「ひと晩は客人として扱うが翌日は決闘だ」と告げる。ジークリンデは夫に眠り薬を飲ませてジークムントを逃がす。2人は生い立ちを語り合い、幼い頃に行き別れた兄妹であることを知る。ジークムントはヴォータンが用意した剣をトネリコの木から引き抜き、これを「ノートゥング」(苦難・危急)と名付けた。2人は兄妹でありながら愛する気持ちを抑えられず、一緒にフンディングの館から逃亡した。
天上界ヴァルハラではヴォータンがワルキューレの長姉、愛娘のブリュンヒルデにジークムントに勝利を与えるよう命じる。だが、ヴォータンの妻フリッカ(結婚の守護神)はフンディングに同情し、ジークムントがやった略奪婚とジークリンデの不倫、タブーである兄妹の結婚を非難する。ヴォータンはフリッカに反論できずジークムントを倒すことを誓わされたが、ブリュンヒルデはジークムント殺害という命令の変更に戸惑う。ジークムントがジークリンデを想う真っ直ぐな愛に感動したブリュンヒルデは、父の命令に背いてジークムントを決闘で勝たせようとした。だがヴォータンが現れてノートゥング(剣)を破壊し、武器を失ったジークムントはフンディングに殺された。ショックで気絶したジークリンデをブリュンヒルデは愛馬グラーネに乗せて連れ去り、妹のワルキューレたちに助けを求める。ジークリンデは死んだジークムントの後を追おうとするが、お腹にジークムントの子供を宿していることを知り、生きる希望を取り戻す。ブリュンヒルデはやがて生まれてくる子の名をジークフリートと名づけた。
ヴォータンはブリュンヒルデが自分の意を汲んでジークムントの味方をしたと分かっていたが、命令違反を放置するわけにはいかず、苦渋の決断で彼女をヴァルハラ城から追放し、神性を奪って無防備なまま眠らせ、最初に覚ました男のものとなることを宣告する。そしてブリュンヒルデの願いを聞き入れて、眠る彼女のまわりに火を放ち、臆病者が近づけないようにした。ヴォータンは「さらば、勇敢で気高いわが子よ」とブリュンヒルデの眼に接吻して眠らせ、火の神ローゲを呼び出し、娘のまわりを炎で囲ませた。「わが槍の切っ先を恐れる者は、けっしてこの炎を踏み越えるな!」と叫んでヴォータンは立ち去る。
劇中の曲では「冬の嵐は過ぎ去り」「君こそは春」「ワルキューレの騎行」「ウォータンの告別」が有名。

※『ワルキューレ』は四部作の中でも特に人気が高い。ジークムントとジークリンデの悲恋、第3幕冒頭のワルキューレの騎行のスペクタクル感、ヴォータンとブリュンヒルデの父娘の愛情エピソードなど聴きどころが多い。ブリュンヒルデ役はオーケストラに負けない最高度にドラマティックな声と、長丁場を歌い切るだけのスタミナが要求される難役として知られる。「(ブリュンヒルデ役は)肉体的には大変な役でまるでマラソンです。喉ではなく体が疲れるのです。足、膝、背中…」(デボラ・ポラスキー)ソプラノ歌手
https://www.youtube.com/watch?v=1nuu9Rr1o9w

●第2夜『ジークフリート/Siegfried』(全3幕/4時間)1871年完成…ジークフリートの成長物語。ブリュンヒルデに救われたジークリンデは森の奥に逃れ、ジークフリートを産んで息絶えた。たまたまその場にいた地底人ニーベルング族の小人ミーメ(北欧神話のレギン)はジークフリートを育てる。ミーメはかつて兄アルベルヒ(『ラインの黄金』冒頭で黄金を盗んだ者)に虐待されており兄を憎んでいた。大蛇(ドラゴン)に変身した巨人族ファーフナーが護っている「世界を支配できる指環」を、ミーメはジークフリートを使って奪取しようと考える。怖いもの知らずのジークフリートは、父の形見の剣「ノートゥング」を鍛えなおし、大蛇ファーフナーを倒して指環を手に入れる。ジークフリートは大蛇の血をなめて小鳥の言葉が分かるようになり、小鳥からの情報でミーメの陰謀を知る。指環を狙って自分を毒殺しようとするミーメを返り討ちにしたジークフリートは、小鳥から聞いたブリュンヒルデが眠る岩山を目指す。途中で神々の長ヴォータンと出会うが、ジークフリートはヴォータンを祖父とは知らず、また父ジークムントの仇(父の決闘に介入して武器を破壊したのはヴォータン)であることから戦いを挑み、ヴォータンの槍を一撃で叩き折る。ヴォータンは孫の力に驚く一方、頼もしく成長していることに満足して立ち去った。
ジークフリートは燃えさかる炎を突破しブリュンヒルデを接吻で目覚めさせる。彼女は神性をはく奪され普通の人間になったことに不安を抱いたが、ジークフリートのストレートな求愛に感動し、2人は永遠の愛を誓い合うのであった。
劇中の曲では「ノートゥング! ノートゥング!」「森のささやき」「ブリュンヒルデの目覚め」が有名。

※登場人物は8人しかおらず四部作中では最も少ない。
※ジークフリート役は超人的な「ヘルデンテノール」が要求される。「ヘルデン(Helden)」は独語で「英雄」の意。ワーグナー作品で英雄役を演じるのに適した声質を持つテノールを指す。
https://www.youtube.com/watch?v=7Y2-aiKrvAw
https://www.youtube.com/watch?v=uOjBYl7l1qw

●第3夜『神々の黄昏/Gotterdammerung』(全3幕/4時間30分)1874年完成…知恵の女神エルダ(ブリュンヒルデの母)の3人の娘、「運命の女神」ノルン三姉妹が未来を占い、神々の終末(ラグナロク)が近いことを悟る。ジークフリートは愛の証しとして「世界を支配できる指環」を妻ブリュンヒルデに贈り、彼女は愛馬グラーネを夫ジークフリートに贈る。新たな冒険に旅立つ夫をブリュンヒルデが見送る。間奏曲『ジークフリートのラインへの旅』が流れる。
一方、ライン河畔のギービヒ家の館ではブルグント王国(ブルゴーニュ※かつてフランスとスイスにまたがっていた国)の一族、当主のグンター、妹のグートルーネ、家臣で異母兄弟のハーゲンが家の名声を高める方法を話し合う。ハーゲンは地底人ニーベルンゲン族のアルベリヒが人間の女に生ませた息子であり、彼は父から指輪を奪った者を憎んでいる。
ハーゲンは、グンターとブリュンヒルデ、グートルーネとジークフリートの結婚を提案する。まずジークフリートに忘れ薬を飲ませてグートルーネと婚約させ、ジークフリートにブリュンヒルデを連れて来させるという計略を立てた。館に招待されたジークフリートは忘れ薬の入った酒を飲んで記憶を失い、目の前のグートルーネに夢中になる。ジークフリートはグンターと義兄弟の誓いを交わし、グンターがブリュンヒルデを妻に欲していると聞くと彼女を連れてくると約束した。その頃、ブリュンヒルデのもとをワルキューレの妹がやってきて、「父ヴォータン(神々の長)はヴァルハラ城で無気力に過ごし、神々の終焉を待っている。神々を救うために指環をラインの乙女たちに返して欲しい」と頼みに来た。だがブリュンヒルデは愛の証である指環を渡すことができなかった。その後、見知らぬ男(実は変装したジークフリート)にブリュンヒルデは無理やり連れ去られ、指輪も奪われる。
ハーゲンが二組の婚礼のために家来を呼び集め、四部作で初めて合唱が登場。ギービヒ家の館に着いたブリュンヒルデは、ジークフリートがグートルーネと結婚しようとしていることに愕然とする。さらに彼の指に指環があったことから、一同の前でジークフリートの裏切りを訴えた。ジークフリートは潔白であることを槍に宣誓し、ブリュンヒルデはそれを偽誓と非難。グンターは家来の前で誘拐計画が露見し面目を失った。ハーゲンはブリュンヒルデの味方をするふりをして彼女に接近、不死身のジークフリートの急所が背中であることを聞き出す。ジークフリートは背中を敵に見せない勇者だから、背中が神力で護られていなかった。
翌日、ハーゲンとグンターから狩りに呼び出されたジークフリートは、“記憶が戻る薬”を飲まされ、自分がブリュンヒルデの夫であったことを思い出し、一同に明かす。ハーゲンはすぐさまジークフリートの背中に槍を突き立て「偽誓を罰した」と言いのけ、瀕死のジークフリートはブリュンヒルデを讃えながら息絶えた。間奏曲『ジークフリートの葬送行進曲』が流れる。
ジークフリートのことを愛していたグートルーネは、ジークフリートの死を聞かされショックを受け、兄グンターやハーゲンたちを責めたてた。指環の権利をめぐってグンターとハーゲンが争い始め、ハーゲンがグンターを倒す。そこへブリュンヒルデが登場し、ラインの乙女たちから聞いた真相を語る。ラインの河畔でジークフリートが火葬され、彼女はジークフリートの気高さ讃えて指環をラインの乙女たちに返すと宣言、自身も愛馬グラーネと共に火葬の炎の中に身を投じた。炎が広がり、ギービヒの館も炎上するなか、ライン川が氾濫しラインの乙女たちがハーゲンを川底へ引きずり込む。指環はついにラインの乙女たちのもとへ戻った。火はやがて天上界に達し、ヴァルハラ城と神々を焼き尽くす。何もかもが炎に包まれて崩壊し、神々の黄昏となる。(北欧神話ではこの世界の終末ラグナロクで古い神が死に、愛と平和の新しい支配が始まる。海中から新世界が浮上し、光の神バルドルが冥界から甦るという)
劇中の曲では「ジークフリートのラインへの旅」「ジークフリートの葬送行進曲」「ブリュンヒルデの自己犠牲」が有名。

※上昇志向の強いハーゲンは悪の魅力に富むアンチ・ヒーローであり、劇的なバス役としてドイツ・オペラの最高峰とされる。
※原案ではハッピーエンドだった。死後のジークフリートがヴァルハラに入って神々が栄えるというもの。
※ワルキューレの手でヴァルハラ城に運ばれた勇者たちは、昼は訓練、夜は祝宴という日々を過ごす。
※ワーグナーは中世の叙事詩『ニーベルンゲンの歌』を原作のひとつにしているが、人物設定を大きく変えている。叙事詩では、ジークフリートはネーデルランドの王子、ブリュンヒルデはアイスランドの女王、グンターはブルグント王国の王、ハーゲンはアルベリヒの息子ではなくグンター王の重臣。
※『神々の黄昏』は、四部作の中で台本が最初に書かれたが、作曲は最後にされている。そのため音楽は円熟期の素晴らしい響きに満ちている。
※北欧神話はキリスト教が布教される以前の北欧の古代の英雄、神、世界の始まりと終わりに関する神話。北欧神話は9〜13世紀にかけて北ゲルマン人の間で韻文によって伝えられた『古エッダ』、13世紀にアイスランド学者によって詩学の入門書として書かれた『新エッダ』、12〜14世紀に書かれた散文物語『サガ』に記録されている。
天地がない太古の時代、熱風と霜がぶつかり、溶けた滴から巨人ユミルが誕生した。ユミルの汗から男女の巨人が生まれ、ユミルが塩辛い石をなめると人間のブーリが出てきた。巨人の娘とブーリの息子ボルが結ばれ、アース神族となるオーディン、ビリ、ベーの3人の男子が生まれる。3人はユミルを殺し、亡骸から大地を、血から海を、骨から岩を、髪から草を、頭蓋骨から天を、脳みそから雲を創造した。アース神族は世界の中心のアースガルズ(アスガルド)に住み、そこには巨大なイグドラシル=トネリコの大樹がそびえ、枝は天に達していた。3本の根はオーディンらアース神族と、巨人族と、ニブルヘイム(ニーベルング)の世界に繋がり、それぞれに泉があり、3つの泉の運命の女神3人が、神々と人間の運命をさだめた。
世界や人類を創造した最高神オーディンは、片目と引き換えに知恵を授かった。オーディンは8本足の馬「スレイプニル」、槍の「グングニル」、黄金の腕輪「ドラウプニル」を宝として持つ。オーディンは地上の女神3人を妻にもち、大地の女神ヨルズとの間に雷神トール(ソー)が生まれた。トールはアース神族きっての力持ちであり、どんな敵も必ず倒して手元に戻る魔法の槌ミョルニルを駆使。雷鳴は戦うトールの戦車の音といわれる。ちなみに英語のThursday(木曜日)は「トールの日」の意味で、Friday(金曜日)は美の女神フレイヤを讃えた「フレイヤの日」の意味。アース神族のトールやバン神族のフレイヤらは、巨人族と壮絶な戦いを繰り広げていく。
※冥府の女王ヘル(ヘラ)は悪の精霊ロキと女巨人アングルボザの娘。世界を支える聖なるトネリコの木「イグドラシル」の3本の根のひとつの下に住む。オーディンによって死者の国ニブルヘイム(ニーベルング)の支配権を与えられた。冥府ニブルヘイムは彼女の名のヘルとも呼ばれ、英語のhell(地獄)となった。ちなみに悪の精霊ロキはオーディンの義兄弟。神ではなく巨人族であり、悪戯で災いを起こす。
https://www.youtube.com/watch?v=Y2uESjCC1Ws
https://www.youtube.com/watch?v=dM9CHYgpAYg

−−4夜連続でワーグナー自身が演出した『ニーベルンゲンの指環』の初演は、残念ながら納得のいくクオリティに達せず再上演を望んだが、多額の負債もあって生前に果たせなかった。初演の大赤字は深刻で、ワーグナーは鬱になり、6年後まで音楽祭は開かれず、『指環』に至っては20年後の1896年まで上演されなかった。
この初演はニーチェを戸惑わせた。ニーチェの目には、かつては革命運動に加わり世界の変革を求め続けていたワーグナーが、パトロンの王族や貴族にチヤホヤされて悦に入っている姿に堕落を感じ、音楽も俗化していくように感じられた。そして失望のあまり「指環」上演の途中で劇場を抜け出してしまう。またニーチェはキリスト教を嫌っており、ワーグナーがキリストにまつわる“聖杯伝説”を題材に次回作『パルジファル』の台本を書いたことに反発した。ニーチェは古代の人間はギリシャの人々のように健康で明るい精神を持っていたのに、キリスト教が赤ん坊にまで原罪を押しつけて全人類を罪人とし、人間本来の活力を奪ったと批判。キリスト教が存在しなければ、人間はもっと健康かつ精神的に明るかったはずと考えた。
1876年が最後の対面となり、同年ニーチェは評論『バイロイトにおけるワーグナー』を発表してワーグナーへの疑念を書き、2年後(1878年)の『人間的な、あまりにも人間的な』で明確にワーグナーを俗物と批判し、両者は訣別した。コジマはニーチェの変節に憤慨し、知人宛の手紙に「あれほど惨めな男は見たことがありません。初めて会った時から、ニーチェは病に苦しむ病人でした」と書いた。
一方、ニーチェは晩年の自伝『この人を見よ』(1888)でコジマを次のように讃えている。「私が自分と同等の人間であると認めている唯一の場合が存在する。私はそれを深い感謝の念を籠めて告白する。コージマ・ワーグナー夫人は比類ないまでに最高の高貴な天性の持ち主である」。また、晩年のニーチェは好んでワーグナーの思い出話を語り、話の最後を「私はワーグナーを愛していた」と結んだという。

1882年(69歳)、第2回バイロイト音楽祭でワーグナーが「舞台神聖祝祭劇」と名付けた全3幕の『パルジファル』が初演された。物語はキリストの血を受けた聖杯の伝説にもとづく。ワーグナーの楽劇では最も重厚であり、初演に際して全幕の拍手を禁じた(現在もバイロイトでは第1幕の終わりで拍手をしてはならない)。本作はバイロイト祝祭劇場の特殊な音響への配慮がなされており、ワーグナーはバイロイト以外での上演を禁じている。7月30日の初演はヘルマン・レーヴィが指揮したが、8月29日の最終公演はワーグナー自身が指揮し、これが生涯最後の演奏となった。

『パルジファル』の舞台は10世紀頃の中世スペイン北部モンサルヴァート。その昔、“聖杯”(キリストの最後の晩餐で使われ十字架上のキリストの血を受けた器)を守るモンサルヴァート城のアンフォルタス王は、魔法使いクリングゾルの呪いを受けた女性クンドリーに誘惑されて聖槍(せいそう、十字架上のキリストを突いた槍)を奪われ、その聖槍によって負傷した。以後、アンフォルタス王の傷は治癒せず、官能への憧れと罪への苦痛が王を責め立てた。そこに「神に選ばれた清らかな愚者が現れるのを待て」と神託が下る。
ある日、王に仕える老騎士グルネマンツのもとに、白鳥を弓矢で射た若者(パルジファル)が引き立てられる。若者は何かの理由で自分の名前も覚えていない。グルネマンツに説教された若者は白鳥を狙ったことを反省し弓矢を折った。グルネマンツは「この若者こそ神託の愚者かも」と聖杯の儀式を見せるために寺院へ導く。ところが若者は儀式の意味が分からず、失望したグルネマンツは若者を追い出した。
若者が魔法使いクリングゾルの魔城に近づくと、クリングゾルはクンドリーに「あの若者を誘惑せよ」と命じる。だが、若者は「“愚”という楯」を持っており容易に支配されなかった。クリングゾルは魔法で若者に美しい庭園を見せ、魔女たちに官能的な誘惑の合唱をさせる。だが若者の心は奪われない。そこでクンドリーが絶世の美女になって「パルジファル!」と呼びかけ、若者は自身がパルジファルであることを思い出す。クンドリーが母親の愛を語ると、パルジファルは自分がアーサー王の騎士になることを夢みて旅に出て故郷に母を1人置き去りにし、母が心労で死に至ったことを後悔する。心の隙を狙ってクンドリーが接吻するが、パルジファルは虜にはならず、彼は官能と戦ったアンフォルタス王の苦悩を理解した。クンドリーでは誘惑できぬと悟ったクリングゾルが姿を現し、自ら聖槍をパルジファルに投げつけるが、パルジファルは頭上で聖槍を受け止め、十字を切ると花園の魔法が解け、魔城も崩壊した。
数年後、グルネマンツが騎士となったパルジファルに洗礼を施す。儀式後、パルジファルが聖水をクンドリーの頭上にふりかけ、クンドリーは初めて泣くということを知り、魔法使いの呪いが解けた。3人が聖杯の寺院に向かうと、先頃没した先王ティトゥレルの棺と、病床のアンフォルタス王が騎士たちに運び込まれる。王は「もはや自分に資格がない」と聖杯の儀式を拒否、そして自身の不治の槍傷を指し、「悩める罪人(私)に死を与えよ!」と叫ぶ。パルジファルは「汝を傷つけた槍のみが、傷を癒すことが出来る」といい、聖槍の穂先を王の傷に当てると、不治の傷はすぐに治癒され王は快復した。パルジファルは新王に就くことを宣言、聖杯を高く掲げ祈りを捧げると、「救済者に救済を!」と合唱が歌うなか聖杯が輝きを放つ。これらの奇跡を見届けたクンドリーは呪いから解放されて息絶える。パルジファルはアンフォルタス王やグルネマンツに祝福を与えた。
劇中の曲では「聖杯行進曲」「花の乙女たちの踊り」「聖金曜日の奇跡」が有名。

※聖杯の説明補足。イエスの処刑後、アリマタヤのヨセフ(イエスの父ヨセフとは別のユダヤ人)がローマ総督ピラトに願い出てイエスの遺体を引き取り、亜麻布で巻いて香料と共に墓(洞窟)に葬った。ヨセフはイエスの傷口から流れる血を受けた杯を聖杯として保管した。後に聖杯は英国に運ばれ、ヨセフの子孫の手で代々護られてきた。この聖杯に罪人が近づくと、失明したり口がきけなくなるという。
※伝説によれば聖杯探索の旅に出発したアーサー王の騎士のうち、発見に成功したのはランスロットの子ガラードただひとりという。
※パルジファルが主人公となった最初の作品は、12世紀の仏の詩人クレティアン・ド・トロワによる未完の物語詩『ペルスバル、または聖杯物語』。作中でパルジファルは聖杯を発見し、聖杯の管理者の瀕死の傷をいやす(治癒の部分はワーグナーも同じ)。
※聖杯探索の物語は、キリスト教に改宗したケルト人の説話から登場人物を借り、キリスト教の世界観を広める推進力として利用された。
※『パルジファル』に多用されるライトモティーフ「聖杯の動機」は古い教会音楽「ドレスデン・アーメン」のもの。メンデルスゾーンも交響曲第5番『宗教改革』で使っている。
※『パルジファル』はキリスト教の救済思想を反映しており、これが原因となってキリスト教嫌いのニーチェは後にワーグナーと訣別した。
https://www.youtube.com/watch?v=NxNqMnYc21Q
https://www.youtube.com/watch?v=NxNqMnYc21Q

その後、ワーグナーは健康状態が悪化、ヴァネツィアに転地療養を試みた。水路が張り巡らされた“水の都”であり、馬車が存在せず、静寂を喜んだ彼はリストに「当地は馬車の音が聞こえず作曲に集中できます」と手紙に綴っている。だが、論文『人間における女性的なるものについて』の執筆中に、以前から患っていた心臓発作が起き、1883年2月13日に急死した。享年69。「女性の純愛による救済」を描き続けたワーグナー。コジマはベッドに横たえられたワーグナーの亡骸を一日中抱きかかえていたという。14作のオペラ・楽劇が遺された。5日後に遺体がバイロイトの私邸ヴァーンフリート荘の裏庭に埋葬された。

ワーグナーの訃報を聞いたルートヴィヒ2世は「死体は私のものだ」と泣き崩れたという。同い年のイタリアのオペラ王、ヴェルディの手紙「私は昨日その訃報を読んだとき、あまりの驚きに立ちすくんだまま、しばらくはものも言えずにいました。我々は偉大な人物を失ったのです!彼の名前は芸術の歴史にもっとも巨大な存在として残ることでしょう」。ライバルとされたブラームスは訃報に接し、弔意を表して合唱の練習を打ち切った。ブルックナーは敬愛するワーグナーの死を予感し、哀悼の音楽として『交響曲第7番』の第2楽章を作曲している最中に訃報を受け取り、最後のコーダを書きあげた。
ルートヴィヒ2世はワーグナーの楽劇を「私たちの作品」と呼び、リンダーホーフ城内には『タンホイザー』ゆかりの「ヴェーヌス(ヴィーナス)の洞窟」を作らせ、ローエングリンのコスプレで人工池の船に揺られ、国家財政が傾くほどの国費を投じてノイシュヴァンシュタイン(新しい石の白鳥)城を築城した。この城の内部は至る所にワーグナーの音楽にちなんだローエングリン伝説やタンホイザー伝説の装飾画が描かれている。

ワーグナー他界3年後の1886年、ノイシュヴァンシュタイン城の居住環境が整いルートヴィヒ2世が移住。この年、バイエルン政府は王室公債を乱発して借金を積み重ねていたルートヴィヒ2世を「統治能力にかける」と判断し、形式的な精神病鑑定にかけ禁治産宣告の決定をした。精神病の診断が下された王は6月12日にノイシュヴァンシュタイン城からベルク宮殿に移されて軟禁され、翌日の6月13日夜、侍医グッデンと共にシュタルンベルク湖畔を散歩中に謎の水死をとげた。享年41。王がノイシュヴァンシュタイン城に居住した期間はわずか172日間だった。他界2日後(15日)、王の身体はミュンヘンに移され、6月19日に王宮から聖ミヒャエル教会へ運ばれ、王家の地下墓所に安置された。訃報を聞いたオーストリアのエリーザベト皇后「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした」。ミュンヘン留学中の森鴎外はこの事件を題材に日本人の画学生がルートヴィヒ2世と出会う『うたかたの記』をあらわした。
国の経済を破綻寸前まで追い込んだルートヴィヒ2世は「狂王」「メルヘン王」の烙印を押され、国家運営の能力には恵まれなかったが、祖父王ルートヴィヒ1世、父王マクシミリアン2世と共にミュンヘンをベルリンにならぶドイツの文化的中心都市に育てあげた。王が築城した「ノイシュヴァンシュタイン城」は中世の騎士の居城を、「ヘレンキームゼー宮殿」はフランスのベルサイユ宮殿を、「リンダーホーフ宮殿」は同じくベルサイユのトリアノン宮殿を模している。ヘレンキームゼー宮殿は湖上の島を買い取って建設された。ノイシュヴァンシュタイン城は王の死の直後から観光施設として一般公開された。これらの美しい城は、現在バイエルン州を世界的な観光地とし、その繁栄に寄与している。
※ノイシュヴァンシュタイン(新しい石の白鳥)城は南ドイツ・バイエルン州にある城。標高964mに位置。城内にはワーグナーの楽劇に関する絵画が多数飾られており、中世の城の幻想的雰囲気にあふれ、ロマンチック街道の終点になっている。

コジマは1906年までバイロイト音楽祭を取り仕切り、作品の再演に尽力した。彼女は『リエンツィ』までを習作(練習作品)と見なし、上演演目を『さまよえるオランダ人』以降に限定した。コジマ引退後は作曲家・指揮者でもあった息子ジークフリート(1869-1930)が 1908年から音楽祭の終身芸術監督となって運営し、舞台演出も手がけた。コジマは1930年4月1日に92歳で他界。その4カ月後にジークフリートも心臓発作により61歳で急逝する。これを受けてジークフリートの妻ヴィニフレート(当時33歳、1897-1980)が音楽祭の後継者となった。折しもドイツではヒトラーが台頭。ジークフリートはナチスとは距離を置いていたが、ヴィニフレートはヒトラーと公私ともに親しくなった。結果、祝祭劇場はナチス政権の国家的庇護を受けることになり、ナチスと蜜月である母に怒った長女フリーデリント(1918-1991)はドイツを出てアメリカに亡命した。大戦後、ヴィニフレートはナチス接近を批判され祝祭劇場から追放される。そして敗戦から6年を経た1951年に、フルトヴェングラー指揮による伝説の第九演奏でバイロイト音楽祭は再開された。祝祭劇場はジークフリートの長男で演出担当のヴィーラント(1917-1966)と、運営担当の弟ヴォルフガング(1919-2010)というワーグナーの孫たちの共同体制となり、音楽祭は回を重ねていった。ヴィーラントの演出は、資金不足を逆手に取った極端に簡略化した舞台装置と照明による工夫が、批評家から「斬新である」と高い評価を得た。ヴィーラントが49歳で急逝した後はウォルフガングが一人で総監督に就き、以後のバイロイト運営を強権的に主導、2008年に80歳を前に引退し、ワーグナーのひ孫に当たる娘のエファ(先妻との娘)とカタリーナ(後妻との娘)が共同で総監督を務めている。

ワーグナーはオペラの作曲だけでなく、台本を書き、劇場の建築や大道具にも携わり、世界観に統一性を持たせてひとつの総合芸術「楽劇」にまとめ上げた。ライトモティーフや無限旋律を巧みに使用し、「指環」では合唱のないオペラという冒険も行った。音楽界はワーグナーの誕生以前と以後で大きく変わり、音楽家たちは壮大なワーグナー作品に影響を受け、ブルックナーやマーラーの交響曲は雄大になっていった。人格的には心が狭く攻撃的で、平気で借金を踏み倒す問題面もあったが、生み出された音楽は誰にも書けなかったものばかり。圧倒的スケールで音楽を聴く喜び(快楽といっていい)を極限まで体験させてくれ、音楽史にこの天才がいた幸運を感じずにはいられない。

「私は音楽史上まれに見る天才で、私より優れた作曲家はベートーヴェンだけだ」(ワーグナー)
「ワーグナーの作品ほど感情に訴えかける音楽はありません。他の追随を許しません」(スティーブン・ホーキング)科学者
「ワーグナーの音楽は阿片である」(ボードレール)詩人
「ワーグナーの反ユダヤ的姿勢は、恐ろしく嫌悪すべきものですが、時代の反映だったという面も…。当時のドイツのナショナリストは大抵反ユダヤだったのです」(ダニエル・バレンボイム)ユダヤ人指揮者
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【墓巡礼】
ドイツ中部に位置する人口約7万人の小さな街バイロイト。この街には毎夏「バイロイト音楽祭」のシーズンになると人口を優に超える10万人ものワーグナー信者=ワグネリアンが世界中からやってくる。この街にはワーグナーが自作専用のオペラハウスとして建てたバイロイト祝祭劇場と、ワーグナー夫妻の墓、そして「交響詩」創始者であり19世紀最大のピアニスト、フランツ・リストの墓がある。この3箇所はバイロイト駅からは北、西、南とバラバラの方角になるが、どこも1km強という近くにあり、自分の足だけですべて巡礼できる。2002年7月、朝6時半に街外れのユースホステルを出発。まずはワーグナーが1876年の柿落としで『ニーベルンゲンの指輪』四部作を初めて連続上演し、フルトヴェングラーが1951年に超ドラマチックな第九を演奏したバイロイト祝祭劇場に向かった。丘の上にある劇場には駅から真っ直ぐ道が伸びており、天上界のヴァルハラに向かっていくよう。ここに来ることを「バイロイト詣で」と呼ぶのは、参道のような坂道を一直線に上っていくこともあるのだろう。劇場に到着するとまだ7時。ガラスに額を押しつけると、客席の扉が開いているのが見え、「あの先に夢の世界があるのか」と胸が高鳴った。
次に向かったのはリストが眠る市立墓地。バイロイトの街をてくてく歩き、人に道を尋ねながら到着した。「ピアノの魔術師」の異名を持つリストは1811年にハンガリーで生まれた。早くから神童と知られ、晩年のベートーヴェンは演奏後の少年リストを抱きあげてキスを贈った。20歳の時に天才バイオリン奏者パガニーニの公演に衝撃をうけ、超絶技巧を駆使した「ピアノのパガニーニ」になることを決意。リストは幼い頃から指を伸ばす練習をしており、人さし指は11cm、中指は12cmもあり(筆者は7.8cm)、「ド」から高い「ソ」まで軽々と押さえることができた。数年後、リストは文字通り全欧を“征服”した。美貌の持ち主でもあったリストは、各地で「リストマニア」と呼ばれる女性に囲まれ、ステージに投げられた花束の中で演奏した。一方、マナー違反には厳しく、ロシアのニコライ1世に向かって「陛下が話しているうちは私も演奏が出来ません」と叩きつけた。36歳のときに人妻と駆け落ちし、彼女から「才能を作曲活動に注ぐべき」と説得され、華やかな舞台から引退し「交響詩」を創始した。晩年のピアノ曲『エステ荘の噴水』でドビュッシーの印象主義を先取りし、「無調」を標題にした音楽史上初の作品『無調のバガテル』まで書いた。1886年にバイロイト音楽祭で『トリスタンとイゾルデ』を鑑賞後、心筋梗塞で急死する。享年75歳。
クラシック作曲家は数あれど、「リストマニア」「ワグネリアン」のように、コアなファンを表す言葉を持つ人物はごくわずか。両者のカリスマ性がよくわかる。リストの霊廟は白いチャペルで気品があり、彼のイメージと合っていた。「ラ・カンパネラ」や「愛の夢」の御礼を伝える。最後にワーグナーの墓へ。彼はリストの娘コジマと結婚しており、現在「リヒャルト・ワーグナー博物館」として公開されている居館跡の裏庭に眠る。僕は墓石をすぐに発見できず、庭師さんに尋ねると「目の前だよ」。なんと、何も文字がないノッペラボウの石が墓だった。「自分の家の庭だから名前を彫る必要がない」とのこと。感慨深く夫妻の墓を見つめていると、庭師さんが「こっちに来い」。教えてくれたのは愛犬の小さな墓だった。彼はこのニューファンドランド犬をとても可愛がっていたという。墓石には『Hier ruht und wacht Wagners Russ (ここに愛犬ルースが横たわり見守っている)』と刻まれていた。近寄りがたいイメージのあるワーグナーが少し身近になった。
ワーグナーが劇場建設と音楽祭を計画し、悲劇の王ルートヴィヒ2世が資金を出し、リストが音楽祭を楽しんだ後に旅立ったバイロイト。この小さな街に、数百年先の夏も、世界中から音楽ファンが集まり続けるのだろう。

※アンチ・ワーグナーの言葉で最も辛辣なものはクララ・シューマン(シューマン夫人)の日記だろう。『トリスタンとイゾルデ』を観劇したその夜の感想が凄まじい。「それは、私が今までに見たり聴いたりしたものの中で最高に忌わしい代物だった。まったくのところ一晩中あのような愛の気違い沙汰を、人間としての品位の感覚という感覚のすべてが損なわれてしまいそうになるまで、ジッと座って見聞きし、聴衆ばかりか音楽家たちまでがそれに歓喜しているのを見るなどとは、私の芸術家生活中、最も悲しい体験だった」「まったくトリスタンが死ぬまでに約40分もかかるのでうんざり」「世の中がみんな馬鹿になったのか?それとも私が馬鹿なのだろうか?オペラの題材は私には非常に酷いものに思えた。媚薬の一服によって惹き起こされた狂気の愛、そんな恋人たちにどうして興味が持てるというのだろう」。
※ワーグナーには自らの専用列車を仕立てるなど病的な浪費癖があり、当時の高所得者の年収5年分に当たる額を1ヶ月で使い果たしたこともあった。支援者からの借金も踏み倒した。ワーグナー「作曲家に出資する以上のお金の使い方など何があるというのか」。
※ワーグナーが作り上げた「楽劇」は音楽、演劇、美術、文学の総合芸術であり音楽は全体の一部。それに対し、ブラームスなど新古典派は徹底した「純粋音楽」を目指した。生前ウィーンではベートーヴェンの正統な後継者と見られていたブラームスを熱愛する『ブラームス派』と、ワーグナーの官能美に頭がヒートした急進的な『ワーグナー派』との間で衝突が絶えず、その波紋は王宮にまで及んだという。ごひいきの作曲家のコンサートの後、興奮した一群が敵対する側のたむろ場となっているパブを焼き討ちするなどかなり過激だった。ブラームス派はワーグナー派に対し「下品、悪趣味、大袈裟すぎ」と攻め、ワーグナー派はブラームス派に「化石、カビまみれ、退屈」とやり返していた。
※ブラームスとは犬猿の仲とされているが、ある時ワーグナーはブラームスの作品『ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ』をブラームス自身の演奏で聴く機会があり、その才能を「(ヘンデルの)古い様式でも、本当に出来る人にかかると、いろいろなことが出来るものだ」と評価している。一方、ブラームスも友人にこう書いている。「いまワーグナーが当地(ウィーン)にいる。そして僕はワグネリアン(ワーグナーファン)ということになるだろう。当地の音楽家がワーグナー作品に軽率に反発しているのを見ると、思慮ある人間としてはワグネリアンになる」。ワーグナーが没した際に、ブラームスは追悼の月桂冠を送っており、ワーグナーの妻コジマは戸惑っている「ブラームスは私たちの芸術の友ではなかったはず」。そもそもブラームスが20歳も年下ということもあり、ワーグナーは存在を気にもとめていなかった。また2人とも信仰する神(ベートーヴェン)が同じだった。
※1826年にイギリスで客死したウェーバーの遺骨を、1844年にドレスデンへ移葬する際に、ワーグナーが式典の演出を担当した。ワーグナーはウェーバーを尊敬しており、葬送行進曲とウェーバーを讃える合唱曲を作詞作曲し、追悼演説を行った。
※ヒトラー率いるナチス・ドイツはワーグナーの音楽を最大限に利用。中でも国威発揚のために『ローエングリン』第3幕のハインリヒ王による演説「ドイツの国土のためにドイツの剣をとれ!」が様々な機会で使われた。チャップリンは映画『独裁者』の中でヒンケル(ヒトラー)が風船の地球儀をもて遊ぶ場面とラストシーンで『ローエングリン』の「第1幕への前奏曲」を流している。ナチス宣伝相ゲッベルスはプロパガンダにワーグナーを多用し、ナチスのニュルンベルク党大会ではマイスタージンガーの前奏曲が演奏された。現在、イスラエルではワーグナーの作品を演奏することはタブー。また、欧米においてワーグナーの「音楽」を賞賛することは許されても、「人物」を賞賛することはユダヤ人差別と見なされる。
※ドビュッシーは『トリスタンとイゾルデ』の影響から脱するために『ペレアスとメリザンド』を作曲した。
※「バイロイト祝祭劇場」は閑静な住宅街の外れの丘の上にある。1876年に「ニーベルングの指環」の初演で柿落としが行われた後、毎年7月末から8月末まで約1ヶ月にわたって「バイロイト音楽祭」が開催され、『さまよえるオランダ人』以降のワーグナーの歌劇と楽劇が上演されている。バイロイト音楽祭の切符入手は郵便による申込と抽選で行うが、非常に人気が高いために入手まで最低8年は申込み続けなければならないと言われている。
※バイロイト祝祭劇場に行くことが「バイロイト詣で」と呼ばれるように、ワグネリアンのワーグナー観賞は信仰に近いものがある。
※ワーグナー自身はこの『指環』4部作を「舞台祝祭劇」(Buhnenfestspiel)としており「楽劇」(musik drama)と呼ばれることには異議を唱えていた。
※ワーグナー自身はライトモティーフという語はつかっていない。
※ワーグナーが楽劇『ニーベルングの指環』を完成させられたのも、バイロイト祝祭歌劇場を建設できたのも、すべてルートヴィヒ2世のおかげ!
※若い頃のワーグナーは偽名を使って自分の作品を絶賛する手紙を新聞社に送ることもあった。
※ワーグナーは「ニーベルングの指環」でハープを6台も使うよう指定している。
※ワーグナーは犬とオウムを飼うなど動物好きで、動物実験に反対する投書を寄稿している。
※リヒャルト・ワーグナー祝祭歌劇場はガイドツアーで見学可能。実施は1〜4月と9月〜12月。火〜日曜日の10:00、14:00の2回。
※祝祭歌劇場は今もクーラーがなく、暑さでダウンする人に備えて外で救急車が待機している。オーケストラピットは客席から見えない構造になっているため、楽団員はTシャツや短パンで演奏し、指揮者は終演後に大急ぎで正装に着替えて舞台挨拶に出るとのこと。

〔参考資料〕『大作曲家は語る』(小林利之編/東京創元社)、『名曲事典』(音楽之友社)、『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)、『大作曲家の知られざる横顔』(渡辺学而/丸善)、『リストからの招待状』(渡辺学而/丸善)、『中央・墓標をめぐる旅』(平田達治/集英社新書)、『世界人物事典』(旺文社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)、オペラ名曲辞典(http://www.music-tel.com/ez2/o/index.html /吉田 真)、ウィキペディアほか。



★バッハ/Johann Sebastian Bach 1685.3.21-1750.7.28 (ドイツ、ライプチヒ 65歳)1989&94&2015
Thomaskirche (Saint Thomas' Church), Leipzig, Germany

  

ライプチヒの聖トーマス教会前の“音楽の父”バッハ像。かっこいい! 近所にある昔からのバッハ像


聖トーマス教会 中央の祭壇に向かって歩いて行くと… ロープの向こうにお墓! 大バッハ様だーッ!




1994年 2015年 「Gせんじょうのアリアがすきです」※彼が生まれて
来たとき、分娩室に“G線上のアリア”が流れていた
「JOHANN SEBASTIAN BACH」とだけ
刻まれ、生没年は彫られていない

パイプオルガンでバッハを演奏していた。バッハは聖トーマス教会のオルガン奏者だった なんとステンドグラスにバッハ。聖人と同じ存在!

ライプチヒのAlter Johannisfriedhof(2015) ここがバッハの最初の埋葬地 後妻アンナはこの地下のどこかに眠っている





次男のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハが眠るハンブルクの聖マイケル教会。
聖マイケル教会の天使像はめちゃカッコイイ。扉が閉じており墓前に行けなかった(2015)
聖マイケル教会のルター像


ロンドン郊外のセント・パンクラス・オールド教会墓地 末子のヨハン・クリスティアン・バッハの巨大墓 バッハ家では唯一のオペラ作曲家(2015)

「地球外の文明に人類が贈るべき物は?」と問われた生物学者ルイス・トマスはこう答えた。「バッハの全集だ。自慢しすぎだろうが…」。実際、1977年に打ち上げられた惑星探査機ボイジャーに搭載された黄金のレコードには、収録された世界の音楽27曲のうち、クラシックから選ばれた7曲中、3曲までもがバッハの作品だ。カール・リヒター指揮&ミュンヘン・バッハ管弦楽団の『ブランデンブルク協奏曲第2番第1楽章』、アルテュール・グリュミオーの演奏による『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ第3番ガヴォット』、グレン・グールドがピアノを弾いた『平均律クラヴィーア曲集第2巻 前奏曲とフーガ』がセレクトされた。ちなみに他の4曲は、モーツァルトの『魔笛“夜の女王のアリア”』、ベートーヴェンの『運命第1楽章』『弦楽四重奏曲第13番第5楽章』、ストラビンスキーの『春の祭典〜生贄の踊り』。いまボイジャー1号は太陽系の外へ出て星間飛行中。
宇宙飛行士の毛利衛さんも、スペースシャトルから地球を見たときに頭の中をバッハの音楽が流れたといい、バッハ作品から感じる崇高さ、秩序感が宇宙と高い親和性を持つのだろう。

かつてバッハの墓を訪れるのは容易ではなかった。バッハ終焉の地ライプツィヒは、ドイツ統合前の東ドイツ側に位置し共産圏。“鉄のカーテン”の向こうに墓があった。僕が初巡礼したのは1989年の7月。11月にベルリンの壁が崩壊しているので、その4カ月前ということになる。西独フランクフルトから、まず飛び地の領土で米英仏管理下の西ベルリンへ。夜行列車の車内で東独の通過ビザを入国管理官に発行してもらい、西ベルリンのツォー(動物園)駅で下車。次に地下鉄で東ベルリンに移動し、強制両替と引き換えに1日ビザを発行してもらった。続いて、1日ビザを滞在ビザに切り替えてもらうためライゼビューロー(国営旅行公社)へ。僕の目的地はライプツィヒと、『第九』で詩が引用されたシラーが眠るワイマール。外国人の移動には制約があり、鉄道切符の購入には行き先のホテルの予約証明書が必要だった。そのライゼビューローが指定した外国人向けホテルの料金がとにかく高い!当時でも200マルク(約1万5千円)以上した。夏のヨーロッパ主要都市の巨大駅は、寝袋で眠る学生旅行者でごった返しており(現在と違って夜中に駅から閉め出されなかった)、僕も学生だったから節約のために駅舎をメインの宿にしていた。それゆえ、「に、に、200マルク!?」と素っ頓狂な声で値段を聞き直したことを覚えている。

夜になってライプツィヒに到着した僕は、分不相応な駅前のホテルに宿泊し、翌朝荷物を預けて聖トーマス教会に向かった。駅からは徒歩10分の距離。東ドイツ名物の“紙でできた乗用車”トラバントを横目に歩き続けると、バッハがオルガン奏者や聖歌隊長を務めた聖トーマス教会が見えてきた。「おお〜!これが、あの!」。バッハ・ファンの聖地にやってきたという興奮を胸に中へ入ると、いきなりパイプオルガンの音色に包まれた。バッハの名曲『パッサカリアとフーガ』を演奏していた!感動で鳥肌が立ち、思わず立ちすくむ。しばし聴き惚れた後、我に返って墓を探し始めた。祭壇の方に人が集まっていたので近づくと、人々の視線の先に大バッハの墓があった!ちょうど『パッサカリアとフーガ』がクライマックスの盛り上がりに達し、目にバッハの墓、耳からはバッハの音楽と、僕はもう卒倒せんばかりだった。

−−ドイツ、フランス、イタリアのバロック音楽をまとめ上げた統合者、“音楽の父”ヨハン・セバスティアン・バッハは1685年3月21日、ドイツ中部チューリンゲン地方のアイゼナハで8人兄弟の末っ子として生まれた。同年にヘンデルも生まれている。バッハ一族は200年にわたる著名な音楽家の家系であり、4代前のファイト・バッハから孫世代まで7代にわたって53人以上の音楽家を輩出した。
宮廷楽師の父アンブロジウスと作曲家パッヘルベル(1653-1706※カノンで有名)は友人同士で、1677年、バッハが生まれる8年前にバッハ家の家庭教師になっており、バッハの14歳上の長兄、のちにオルガン奏者となったクリストフ(1671-1721)に音楽を教えている。パッヘルベルは姉ヨハンナの名付け親であり、それくらいバッハ家と親しかった。1694年、バッハ9歳のときのクリストフの結婚式にパッヘルベルは招待されており、ここで会っているはず。同年、母マリアが他界。
1695年に父アンブロジウスが他界。両親を亡くした10歳のバッハは、既にオルガン奏者になっていた兄クリストフ(24歳)に引き取られた。兄は独・仏・伊の様々な作曲家の写譜を所持しており、少年バッハはパッヘルベルなどの楽譜を見せて欲しいと頼んだが、兄に大事なものだからと断られた。そこで少年バッハは兄が大切にしている楽譜をこっそり持ち出し、半年の間、月明かりのもとで写譜したという。こうして筆写することで作曲法を独学で習得していった。

バッハの生誕地アイゼナハはルターがカトリック権力から逃れ、聖書を独語に訳し讃美歌を書いた土地。バッハの宗教心も篤いものになった。1700年(15歳)、バッハはリューネブルクの教会の少年聖歌隊に入りボーイ・ソプラノとして生活を自立。声変わりの後、18歳でワイマール公の宮廷楽団のバイオリン奏者となった。4カ月後、アルンシュタットの教会(現バッハ教会)の正式オルガン奏者として採用され、人々は18歳の若者の高いオルガン演奏技術に目を見張った。

1705年(20歳)、バッハは少年時代から憧れていたデンマーク出身の名オルガン奏者・作曲家のブクステフーデを訪ねるため1カ月の休暇をとり、ハンザ同盟の盟主リューベック(北ドイツ)に向かった。貧しかったバッハはアルンシュタットから約400km(東京〜神戸に匹敵)の道のりを歩いて行った。ブクステフーデは演奏中に音を途切れさせ、無音の中で聴衆が緊張して待っていると再び弾き始めるというドラマチックなことをしていた。バッハはブクステフーデに魅入られ、予定を2カ月もオーバーして同地に滞在し続けた。ブクステフーデは2年後に70歳で没しており、間近で演奏や作曲の技術に触れたのは貴重な体験となった。アルンシュタットに戻ると休暇をオーバーしたことや、礼拝時のオルガン伴奏に大胆な装飾音を混ぜ、普通に讃美歌を歌いたい信者を耳慣れない音で混乱させていると教会当局から激しく叱責された。他にもファゴット奏者を侮辱して剣を抜く騒ぎを起こしたことや、礼拝中に酒場に行ったり、聖歌隊席に見知らぬ若い女性(後に夫人となるマリア・バルバラ)を入れたと非難された。つまり20歳の男であり、やんちゃだった。

1707年(22歳)、又従妹で1つ年上のマリア・バルバラ・バッハと結婚。7人の子をもうけ、長男フリーデマンと次男エマヌエルは有名な作曲家になったが、長女をのぞく4人は早逝した。ミュールハウゼンの教会オルガニストを経て、翌1708年(23歳)に再びワイマール宮廷楽団のバイオリン奏者となり、同時に宮廷礼拝堂のオルガン奏者にもなった。バッハは自分好みにオルガンを改造し、多数のオルガン作品を作曲していく。同年『トッカータとフーガ ニ短調』を作曲、1710年(25歳)頃に8小節の変奏を20回繰り返す大曲『パッサカリアとフーガ』を書くなど、ワイマール滞在の9年間に約30曲のカンタータや多数のオルガン曲を作った。コラール前奏曲『イエスよ、私は主の名を呼ぶ』もこの時期の作品。

1713年(28歳)、バッハより7歳年上のイタリア人作曲家ヴィヴァルディ(1678〜1741)の楽譜に触れ、曲を劇的に始める方法を学んだ。またイタリア音楽の明るく伸び伸びとした明快さに感銘を受けた。ワイマールでの給与に不満を持っていたバッハは、ヘンデルの出身地ハレで教会オルガニストの内定をもらう。翌1714年(29歳)、バッハを手放したくなかったワイマールの領主ヴィルヘルム・エルンストはバッハを宮廷楽団の楽師長(宮廷楽長、副楽長に次ぐ3番目の地位)に昇進させ、これを受けてバッハはワイマールに留まることにした。この頃、バッハの名はオルガン演奏の名手としてドイツ全土に知れ渡り、各地でオルガン鑑定人としてオルガン建造のアドバイスも行った。ドレスデンでは高名なオルガン奏者のフランス人と腕くらべをすることになったが、相手は負けることを恐れて勝負当日に姿を消した。
ワイマール領主とその甥エルンスト・アウグストは仲が悪かったが、甥は留学先のオランダで外国人作曲家の楽譜を大量に入手していたので(先のヴィヴァルディの楽譜も甥が所持)、バッハは領主の「甥と交流するな」という命令を無視して親交を持った。

1717年(32歳)、ワイマールでなかなか宮廷楽長になれず、しかもバッハからは無能に見えた人物が新楽長になったため転職を決意。より待遇の良い職場を探した結果、エルンスト・アウグスト夫人の兄で音楽愛好家のケーテン侯レオポルトから好待遇で招かれ、ワイマール領主に辞職を申し出た(ケーテンはライプツィヒの北)。領主はバッハが無断で求職活動していたことに憤慨し、バッハを1ヶ月間投獄したうえで解任した。晴れてケーテン宮廷に転職したバッハは、聖歌隊指揮者と宮廷楽長を6年間務めた。バッハが後に「(ケーテンの6年は)わが生涯の最良の時代だった」と振り返っているように、名手が揃った17人の宮廷楽団、高い年俸など最高の環境が用意され、作曲に専念することが出来た。ケーテン侯が教会音楽を重視しない改革派であったゆえ、バッハは教会音楽ではない『ヴァイオリン協奏曲』など多くの世俗器楽曲も手がけた。

1720年(35歳)、バッハが領主に随行して2ヶ月間保養地カールスバート(現チェコ)を訪れている間に、妻マリアが急死。バッハが帰宅すると既に埋葬も終わっており、衝撃を受ける。悲しみに打たれながら、この年、『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』(計6曲。パルティータ第2番終曲の“シャコンヌ”が有名)、『無伴奏チェロ組曲』、『半音階的幻奏曲とフーガ』、『2つのヴァイオリンのための協奏曲』など傑作を書きあげ、自身の感情を吐露した。
翌1721年(36歳)、4人の子を抱えていたバッハは16歳年下で20歳の宮廷ソプラノ歌手アンナ・マグダレーナ・ウィルケン(1701-1760)と再婚、バッハが没するまでアンナとの結婚生活は約30年続いた。彼女は優れた歌手であり、他の宮廷楽団員の10倍の給料をもらっており、バッハは澄んだソプラノに聴き惚れた。彼女の父も音楽家であり、アンナは10代前半からバッハの弟子だった(1713年にバッハが書いた『4声の無限カノン』に12歳のアンナの直筆が残っている)。他界するまで楽譜の清書や写譜を手伝うと同時に、バッハの一部の曲を作曲していた。結婚から約20年で13人の子をもうけ(7人は早逝)、その一方で先妻マリアの遺児たちを我が子のように育て上げた。
同年、3年前から手がけていた6曲からなる協奏曲『ブランデンブルク協奏曲』が完成。この曲は各曲で楽器編成が異なり、それぞれの楽器が持つ固有の音色を巧みに活かし、相乗効果で素晴らしい響きを生んだ。また、複雑な和声を組み合わせるなど、バッハの比類ない作曲技術が発揮された器楽の代表作となった。中でも優雅な対位法の第3番とチェンバロが派手に駆けめぐる第5番は特に優れている。
※『ブランデンブルク協奏曲第5番』 https://www.youtube.com/watch?v=Zw-4HJ7x0HY (20分)

このケーテン時代からバッハはアンナや子どもたちのために音楽帳を作り始め、『フランス組曲』を含む『アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラビア小曲集(音楽帳)』を妻のために書き、『インベンション』を含む『ウィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラビア小曲集』を長男のために書き贈った。
1722年(37歳)、すべての長・短調を用いた前奏曲とフーガで構成され、後世の音楽家から“音楽の旧約聖書”とも例えられる鍵盤楽曲『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』を完成(第2巻は22年後の1744年に完成、各24曲)。バッハは第1巻の巻頭に「音楽を志す若い人々のために」と書き込み、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、近代のバルトーク、カザルスも毎日この曲集を弾いた。“ピアノの詩人”ショパンは、自身の演奏時の癖を矯正するためこの曲集を引き続け、恋人ジョルジュ・サンドとマジョルカ島に渡った際は『平均律クラヴィーア曲集』の楽譜だけを持ち込んだ。
※ケーテン時代、もしくは後のライプツィヒ時代に『管弦楽組曲』(全4曲)が書かれた。第2組曲は悲劇的な短調であり早逝した子どもの影響が見られる。第3組曲の第2楽章「アリア」は編曲者アウグスト・ウィルヘルミの脚色でピアノ伴奏付きの『G線上のアリア』として親しまれている。

1723年(38歳)、ケーテン領主の新たな妃が音楽嫌いだったことから、宮廷楽団の予算が縮小され始め、大家族を抱えていたバッハは“子どもの教育にも良い”と大学都市ライプツィヒに移住。以降、他界まで27年間を同地ですごす。ライプツィヒでは聖トーマス教会付属学校のカントル(音楽監督)に就き、聖歌隊長もこなし、市の音楽監督にもなったが、バッハは楽才に見合った敬意を周囲からあまり払われず、バッハの方も市の音楽水準に不満で「歌唱要員のうち17人は歌える。20人は訓練次第、17人は用なしだ」と断じている。賛美歌を選ぶ権利について聖職会議と争い、市参事会とは合唱隊員の採用をめぐって衝突し、諸方面と報酬の件で度々揉め事も起こした。
だが、バッハの創作意欲は消えることなく燃え続け、着任から数年間、日曜礼拝に合わせてカンタータを毎週作曲するなど200以上の教会カンタータを書いたほか、王がカトリックであったことから、宮廷作曲家を目指してカトリックのミサ曲も作曲した。『マニフィカト』(1723)、『ヨハネ受難曲』(1724)、『クリスマス・オラトリオ』(1734)など大曲がライプツィヒ時代に生まれた。中でも1727年(42歳)にライプツィヒ中の教会合唱団と音楽家を集めて聖トーマス教会で初演した約3時間の『マタイ受難曲』はバッハの宗教音楽の頂点を極め、2部68曲をもってキリストの受難を見事に描きあげた。1735年(50歳)、チェンバロ独奏の『イタリア協奏曲』を発表、好評を得る。

1736年(51歳)にポーランド王兼ザクセン侯の宮廷作曲家に就任。1739年頃、演奏者の名人芸が炸裂する『チェンバロ協奏曲第1番』を作曲。1741年(56歳)、鍵盤楽曲の『ゴルトベルク変奏曲』を発表。この曲はアリアと30の変奏で構成され、バッハの豊かな詩情と高度な技術が存分に発揮された名品となった。ある不眠症の伯爵のために、バッハの弟子でもあった若き14歳の天才チェンバロ奏者ゴルトベルクがこの曲を演奏したことで知られる(1956年にグレン・グールドがデビュー盤にゴルトベルク変奏曲を選び、世界的大ヒットとなって一気に曲が認知された)。
1747年(62歳)、次男カールがベルリンで仕えていた35歳の若きプロイセン王・フリードリヒ大王(1712-1786)の宮廷を訪れ、大王と交流する。大王はフルートの名手で作曲も行ったことからバッハを感嘆させた。大王はバッハに主題を与えて即興演奏を求め、これをきっかけに曲集『音楽の捧げもの』が生まれた。
1749年(64歳)、脳卒中で昏倒し、以前から悩まされていた眼病が急激に悪化、失明状態になる。アンナが目の代わりとなって聞き書きし、バッハ合唱曲の最高傑作『ミサ曲 ロ短調』が完成。この約2時間の大作はバッハが最後に完成させた曲となった(全曲が演奏されたのは死後100年が経過してから)。
『ミサ曲ロ短調』リヒター指揮の名演 https://www.youtube.com/watch?v=6vOjVSzK8Bo (124分)
翌1750年、目の手術に失敗し、後遺症などで体力を奪われ、7月18日に再び脳卒中の発作を起こし、10日後の7月28日午後8時15分に没した。享年65歳。1000を超える作品を遺した。絶筆となった『フーガの技法』はバッハの対位法技法の集大成であり、同じ主題を使った16のフーガと4つのカノンで構成され、シンプルな主題を組合せて誰も到達できなかった音の構築物を誕生させた。『フーガの技法』は死後に未完成のまま出版された。

他界から3日後、1750年7月31日にバッハはライプツィヒ市街の東部にある現在の旧ヨハニス墓地(Alter Johannisfriedhof)に埋葬され、後年アンナも同墓地に眠った。その後、バッハが約100年にわたって忘れ去られている間に墓の位置が不明になり、献花に訪れたシューマンが墓にたどり着けず途方に暮れるという有り様だった。没後144年(1894年)に遺骨が調査され、バッハの頭蓋骨が鑑定によって判明し、1900年から墓地を管理するヨハニス教会に安置された。そして第二次大戦の空襲で教会が倒壊したため、1949年に柩が聖トーマス教会の内陣に改葬された。翌1950年7月28日、バッハの200回忌当日に銅板(墓碑)が置かれた。

近代人として最初に音楽で自己を表現したバッハ。現在では信じ難いことだが、バッハの死後、その名は急速に忘れ去られた。対位法を重視したバッハの音楽は、単旋律の和声音楽が主流になっていく中で、人々から時代遅れの古くさいものに思われた。バッハは作曲家ではなくオルガン奏者として扱われ、作品が注目される機会はなかった。その中で、モーツァルトやベートーベン、ショパン、シューマン、リストといった一部の音楽家はバッハ作品の真価を見抜き、ベートーヴェンは部屋にバッハの肖像画を飾っていた。特にメンデルスゾーン(1809〜1847)はバッハ普及の使命感に燃え、バッハの死から約80年後、1829年にベルリンで若干20歳にして自らの指揮で『マタイ受難曲』の復活上演(102年ぶり)を行い、これをきっかけに忘れられていた作品群に光が当たるようになった。没後100年の1850年にバッハ協会が設立され、作品の発掘がすすめられ46巻の「バッハ全集」が刊行された。生誕330年となる2015年、『ミサ曲 ロ短調』の直筆楽譜がユネスコ記憶遺産に登録された。

先妻マリアとの間に五男二女7人の子をもうけたが4人は幼くして他界。長男のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(Wilhelm Friedemann Bach,1710-1784「ハレのバッハ」)は父に溺愛され充実した音楽教育を受け、才能にも恵まれたが、高慢さから人望はなく、父の死後は職に就けず各地を放浪、貧しさから父の作品を自作と偽ったり、父の自筆譜の多くを売却して行方知れずにしてしまった。貧困の中、ベルリンにて73歳で死去した。

次男のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ (Carl Philipp Emanuel Bach,1714-1788「ハンブルクのバッハ」)は名付け親である作曲家テレマン(父の友人)から多くを学び、24歳からプロイセンのフリードリヒ大王(当初は皇太子)にベルリンで仕えた。54歳からは拠点をハンブルクに移し多数の宗教音楽を書いた。甘美で洗練されたクラヴィーア・ソナタも多く遺しており、ハイドンやベートーヴェンに大きな影響を与えるなど、生前は父よりも有名になり、バッハ一族の中で誰よりも成功を収めた。モーツァルトはエマヌエルの異母弟クリスティアン・バッハと親しかったが、エマヌエルの楽曲を編曲しており「彼(エマヌエル)は父であり、われわれは子供だ」と称えている。墓所はハンブルクの聖マイケル教会。

後妻アンナ・マクダレーナとの間に生まれた六男七女13人のうち7人は早逝。第9子のヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ(Johann Christoph Friedrich Bach, 1732-1795「ビュッケブルクのバッハ」)はビュッケブルク宮廷楽団のコンサートマスターに就いた。その息子ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハ(バッハの孫)は作曲家になり、音楽家バッハ一族の最後を飾った。

11男で末子のヨハン・クリスティアン・バッハ(Johann Christian Bach,1735-1782「ロンドンのバッハ」)は、父の死亡時に未成年の15歳であったことから裕福な異母兄(次男)カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(当時36歳)に引き取られた。クリスティアンはイタリア歌劇に魅了されミラノで音楽修行を積み、25歳で最初のオペラを発表し生涯に約50曲のオペラを書くなど、バッハ家では唯一のオペラ作曲家となり生前に国際的な名声を得た。27歳で渡英し他界まで20年間ロンドンを拠点とする。アンナの子の中では音楽家として最も社会的に成功し、ロンドンではヘンデルの後継者と見なされ、イングランド王妃専属の音楽家となった。“ジョン・クリスティアン・バック”は当時のイギリスで最も有名な音楽家であり、ロンドンを訪れた少年モーツァルトと交流し影響を与えた(華やかな表現を伝授)。1782年に46歳で急逝し、ロンドン郊外のセント・パンクラス・オールド教会に埋葬された。26歳のモーツァルトは「音楽界にとっての損失」と嘆いた。

バッハは計20人の子どものうち11人に先立たれたが、成人した4人の息子はみな音楽家として活動した。
バッハの死後、息子たちは新天地を求めてライプツィヒを離れたが、49歳のアンナは未婚の娘2人とそのまま同居を続けた。当時の慣習では未亡人や未婚女性は市当局からの支援や寄付などで生活をおくった。10年後、1760年にアンナが亡くなったとき、死亡登録簿には「物乞いの女性 アンナ・マグダレーナ59歳 故ヨハン・セバスチャン・バッハ氏の妻」と記されており、“物乞い”と見なされていたことに胸の痛みを覚える。

バッハの書いた詩(!)を紹介

『煙』
パイプをくゆらし時を過ごせば
悲しい灰色の絵に思いが及ぶ
自分がパイプと同じだと気づかされる
かぐわしい煙の後は灰が残るのみ
この私も土にかえるのだ
灰色の絵は崩れ落ちて2つに割れ
私は己の運命の軽さを思う

−−数々の名曲を後世に遺してくれたバッハ。“JOHANN SEBASTIAN BACH”と名前だけが刻まれた墓に「ダンケ・シェーン(ありがとうございます)」と感謝の言葉を伝えた後、聖トーマス教会に向き合って建っているバッハ博物館へ。18世紀に建てられたバッハの友人の商人ボーゼ邸が博物館として利用されている。同館にはバッハとアンナの棺から発見された遺品、貴重な自筆譜、手紙、バッハが弾いたパイプオルガンの演奏台、当時の楽器などが展示されており、食い入るように見入った。作曲家の自筆譜は、ペンを手に五線譜と向き合う巨匠の姿がリアルに思い浮かべられ、作品を聴くのとは異なる感動がある。

その後、1994年の再巡礼を経て2015年に3度目の墓参を行った。私事になるが、これは特に重要な巡礼だった。息子が生まれる際、妻は高齢の出産で陣痛開始から18時間経っても出産に至らず、分娩台で苦しんでいた。僕はとっさに胎教で毎日聴かせていたバッハの特製CDを流すことを思い立ち、大急ぎで家に取りに帰った。CDの冒頭には『G線上のアリア』が入っている。病院に戻り、分娩室のスピーカーから曲を流すと、バッハの音楽に導かれるように5分もしないうちにオンギャーと赤ん坊が産まれた!18時間半にわたる出産が無事に終わったのはバッハのお陰だ。ちなみにその日は父の葬式で、僕は葬儀場から産婦人科に駆け付けるという信じ難い体験をした。そして息子が5歳になったとき、小学校にあがる前に家族にとって大恩人のバッハに御礼を言うために聖トーマス教会を訪れたのだった。教会に入ったとき、偶然にも胎教CDの2曲目に入れたコラール前奏曲『イエスよ、私は主の名を呼ぶ』が演奏され、“この曲は!”と思わず妻子と目を見合わせた。聖トーマス教会のパイプオルガンは2000年の教会修復時に新設されたものだが、バッハが生きた18世紀ドイツの音色が忠実に再現されており、まさにバッハが座った場所と同じ所でオルガン奏者が演奏していて、後ろ姿からバッハもかくあらんと250年前に思いを馳せた。
墓参後、聖トーマス教会の内部を見て歩くと、ステンドグラスにバッハ像と、バッハの音楽を復活させたメンデルスゾーン像があることに気づいた。聖人のごとくステンドグラスの中で輝く2人に改めて頭を垂れた。

僕はクラシックファンの会話の中で、一度たりともバッハの悪口を聞いたことがない。ベートーヴェンやモーツァルトが苦手という人はいたけど、バッハに関しては誰もが「いいよね」。それはベートーヴェンのカミナリ説教やモーツァルトの勝手な独り言(それはそれで良いんだけど)のように、叱られてる感じや無視されてる感じを味わうことがないからかも。
バッハの音楽は秩序そのものであり普遍性を感じる。それは彼の“呼吸音”を聴いてるかのよう。呼吸音には何も主張はないが、生きていることは確実に分かる。聴いているときに自分が一人ではないように思える。バッハの心音と言ってもいい。他人の鼓動の音を聞くことは、人を落ち着かせ穏やかな気持ちにさせる。
聖トーマス教会は頭上からほぼ1日中パイプオルガンが鳴り響いている。バッハが作曲した音楽をオルガンで聴きながら、本人に巡礼ができる…僕が訪れた墓の中で最も素晴らしい環境で対面できた墓だった。


《バッハをめぐる言葉を特集》

「神が神であるごとく、バッハはバッハなのだ」(ベルリオーズ)
「バッハのピアノ曲はどこにも音符を書き込むことが出来ない。真に完全なのだ」(キース・ジャレット)ジャズ・ピアニスト
「バッハの音楽は世界のあらゆる人種をつなぐ絆。いうならば全人類の為のフォルクローレ(民謡)だ」(エイトル・ヴィラ=ロボス)南米最大のブラジル人作曲家
「バッハの音楽は宇宙へと目を開いてくれます。ひとたびバッハを体験をすれば、この世の生にはなにがしかの意味があることに気づきます」(ヘルムート・ヴァルヒャ)盲目のオルガン奏者
「音楽家たちが、自らの仕事にかかる前に、凡庸に陥らないために、まず祈らなければならないこの慈愛にあふれる神」(ドビュッシー)
「バッハは和声の不滅の神」(ベートーヴェン)
「 ヘンデル、バッハ、グルック、モーツァルト、ハイドンの肖像画が私の部屋にある。それらは、私が求める忍耐力を得るのに助けとなるだろう」(ベートーヴェン)
「私の確信するところでは、バッハには到底かないません。彼は桁違いです」(シューマン)
「芸術の半神であり、あらゆる音楽の根源」(シューマン)
「バッハは音楽史上、空前の奇跡」(ワーグナー)
「バッハを勉強しなさい。ピアノ上達のためには一番の方法です」(ショパン)
「バッハの作品ほど深みがあり、秩序だった音楽はありません。理知的で精緻でありながら、引き込まれるような魔力と情感に溢れています」(アンドラーシュ・シフ)
「バッハの音楽は“型破り”と“安定”が合体している」(あるバッハ研究者)
「敬虔な音楽がある所には常に神が存在する」(バッハ)

「『マタイ受難曲』の随所で私は胸をつかれ震えおののきます。取り乱して泣いたりしないよう、いつも身構えながら聴くのが“神よあわれみたまえ”です。思い出しただけで涙が出てきます。一体なぜなのか…。そこではいわば、こんな状況が描かれています。「裏切るだろう」と言われていた人間が、ある悪夢のような夜に、まさに予言通り裏切ってしまう。そして許しを請うのです。その心情をバイオリンが静かに語り始めます。無神論者やユダヤ教徒でも、西洋の人間ならキリスト受難の物語は知っています。それは人々の心に深く浸透しています。ある意味でこれほど劇的なドラマはなく、読む度に心を打たれるのです。聖職者はこう言うかも知れない。「真実に触れ、内なる信仰が甦るからです」と。しかし信仰ゆえに心打たれるのではありません。人は苦しみながら生き、いつかは死ぬという普遍的真理のゆえです」(演出家ジョナサン・ミラー)

音楽評論家の故・吉田秀和氏がバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を語る。「これを聴き出して、私はこの不条理の世界(現世)にも何かの秩序があり得るのではないかという気がしてきた。この音楽が続く限り、心が静まり、ひとつの宇宙的秩序とでもいうべきものが存在する気がする」
当時94歳の吉田氏が人生と音楽を振り返って。「どういう曲が一番胸に染みてくるかというと、それはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンだね。つまるところは、この3人だなぁ。僕は女房が死んだ時に音楽が一時受け付けられない時があって…(音楽というのは)あまりに訴えかけてくる力の強い、他の人の声。だから、ちょっと休んで自分の中に一人でいたいと思った。それでも、そのうち何かで寂しくなって、音が欲しくなって、いろんなものをかけてみた。どれも邪魔をしたけど、バッハは邪魔しなかった」

2016年9月にEテレ『N響ほっとコンサート』がオンエアされた際、対談コーナーで指揮者の広上淳一さんとN響コンサートマスターの篠崎史紀(愛称まろ)さんの音楽トーク。(広上さん)「どんな演奏がつたない子のバッハでも、どんな名手のバッハでも僕は聴けるんだよね」(まろさん)「同じ価値があるんだよ。生命の重みと同じなんだ」(広上さん)「バッハは万人に音楽の贈り物をしてくれたんだ」(まろさん)「偉大なる作曲家のもと万人が平等である、ってことだよね」。

※バッハ他界から52年後、伝記作家のヨハン・ニコラウス・フォルケルが長男フリーデマン、次男エマヌエルから情報を得て1802年に最初のバッハ伝を出版した。
※バッハが書いたドイツ語の教会カンタータは約250曲あったが、約50曲の楽譜が失われ約200曲しか残っていない。世界のどこかに眠っているはず…。『マタイ受難曲』の2年後に書かれた『マルコ受難曲』は台本のみが現存している。どんな音楽だったのだろう。
※バッハはお金を節約するために自分で五線を引いていた。ライプツィヒ時代は生活が苦しく、「人が死なないので私の葬儀収入が減った」というダークな発言も残っている。
※コラールはルターがつくったシンプルな讃歌をもとにした讃美歌。カンタータは、独唱、合唱、アリア、レチタティーボ(叙唱)などからなる器楽伴奏付きの声楽曲で、小規模なオペラともいえる。バッハの教会カンタータはまず合唱とオーケストラで開始され、独唱と伴奏によるレチタティーボとアリアが交互に繰り返され、最後にコラールで締めくくられる形式が多い。バッハのカンタータは歌詞に音楽が密接に寄り添い、歌詞は深い信仰心に支えられている。
※“ディープ・パープル”のギタリスト、リッチー・ブラックモアとキーボードのジョン・ロードはバッハの曲のコード進行をハイウェイ・スター等の楽曲で引用。
※ライプツィヒ大学図書館が『マタイ受難曲』の手書き楽譜を所蔵している。無伴奏チェロ組曲はバッハ直筆の楽譜が残っていない。
※不可解なことに、バッハがアンナに書いた手紙が1枚も残っていない。1730年代に描かれたはずの彼女の肖像画もない。アンナが作曲に深く関わっていたことを知られたくない者に意図的に破棄された可能性がある。
※ドイツ語の“Bach”は“小川”の意。気むずかし屋のベートーヴェンがジョークを言った記録がある。「大作曲家バッハはバッハ(小川)と呼ばれるべきではない。むしろ大海と呼ばれるべきだ」。
※バッハ最初の埋葬地、 旧ヨハニス墓地には奥の区画にワーグナーの母ヨハンナ(1778〜1848)と姉ロザリー(1803〜1837)の墓碑が現存。
※聖トーマス教会の祭壇の洗礼盤はバッハの子ども達だけでなく、ワーグナーの洗礼でも使われた。
※メンデルスゾーンは師がバッハ直系の弟子筋であり、一族にはバッハの孫弟子がいたことから、子ども時代からバッハ作品に触れていた。メンデルスゾーンによる『マタイ受難曲』の歴史的復活上演がなければバッハは忘れられたままだった可能性があり、音楽ファンはメンデルスゾーンに感謝せねば。
※2008年、ナチの弾圧で破壊されたメンデルスゾーン像が聖トーマス教会前に復元された。
※当時の欧州ではイタリア、イギリスで国際的に活躍したヘンデルの方が、バッハよりもはるかに有名だった。バッハは地方作曲家の一人に過ぎず、同い年のヘンデルとの面会を切望していたが、その願いは残念ながら実現しなかった。
※バッハ博物館は2010年に改装され展示スペースが2倍になった。

【参考資料】音楽ドキュメンタリー『BBC Great Composers(1997)』、『大作曲家の知られざる横顔』(渡辺学而/丸善)、『ミセス・バッハ』(イギリス・グラスゴーフィルム)、『名曲事典』(音楽之友社)、『世界人物事典』(旺文社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)、ライプツィヒ観光局HPほか。



★モーツァルト/Wolfgang Amadeus Mozart 1756.1.27-1791.12.5 (オーストリア、ウィーン 35歳)1994&2005&15
Saint Marxer Friedhof Cemetery, Vienna, Wien, Austria

作曲時、ペンを握る前に頭の中
で曲は完成。書き写すだけ!
薄っすらと涙を浮かべている
ようにも見える晩年の肖像
長生きしていればどんな
世界に到達していただろう

●生誕地ザルツブルク(オーストリア)



モーツァルトの生家。
4階に17歳まで住んでいた

父レオポルドは家族でこの家に引っ越し。
8部屋もある。生家の徒歩圏内

父レオポルド(右)、妻コンスタンツェ(中央)など
近親者の墓。ザルツブルク・聖セバスチャン教会
(2015)
姉ナンネルはコンスタンツェと
仲が悪く別の教会墓地に眠る
(ザンクト・ペーター教会)

〔レオポルト・モーツァルト〕 Leopold Mozart(1719.11.14-1787.5.28)モーツァルトの父。この父あってこそのモーツァルト。史上初のバイオリン教則本を書いた音楽理論家でザルツブルクの宮廷副楽長。息子の楽才を早くから見抜き、6歳にして女帝マリア・テレジアの御前演奏会を実現。7歳から3年半にわたって、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランス(ルイ15世の御前)、イギリス、スイスに演奏旅行させ、各地の最先端の音楽を吸収させた。神童モーツァルトがロンドンの演奏会(3時間)で得た収入は、レオポルトの年収の8年分に匹敵したという。

●プラハ(チェコ)

 

プラハのベルトラムカ(モーツァルト博物館)には彼が愛用したピアノ、遺髪などが展示されているッ!
※この館で歌劇ドン・ジョバンニが作曲された


●ウィーン


イケメン・モーツァルト像 ウィーンの王宮広場にあり記念写真スポット(2002) この角度がバツグンに良い!

ザンクト・マルクス墓地はトラムの「ザ
ンクト・マルクス」駅より、ひとつ終点に
近い方から降りた方が圧倒的に近い
停留所の側のマンション背後
に線路がある。橋の下を目指そう
すると線路を横断できる隙間が
あるので、これを抜けると墓地!







ザンクト・マルクス墓地正門 入って左に案内地図がある 179番が彼の墓 墓の手前にあった案内板

正門からまっすぐテクテク歩く すると左手にポツンと単独の墓 他人の墓3人分をかき集めて造ったという 『W.A.MOAZART』と刻まれている



1994 初巡礼 2005 ピンクの花 2015 赤い花
周囲に墓はなく、このエリアはモーツァルトだけの為にあった!破格の待遇!

1994年、墓地にはなぜか“野良孔雀”がいて
驚いた。鳩や雀ではなく、クジャクだ。他にも
目撃者がいるので、ここの名物らしい
ウィーンのモーツァルトの家(フィガロ・ハウス)は
生誕250年となる06年にリニューアル・オープン
するべく改装中だった(05年)

●楽聖墓地(ウィーン中央墓地)



左からベートーヴェン、モーツァルトの最初の墓石、シューベルト。
モーツァルトは墓石のみがザンクト・マルクス墓地からここへ移設
正面に彼の肖像画
(2015)
悲しみの女神像が手に持っているのは
モーツァルトの遺作『レクイエム』の楽譜だ

 
ウィーン楽聖墓地のケッヘルの墓。彼がモーツァルトの楽譜を年代順に整理してくれた。ごくろうさま!

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年1月27日、神聖ローマ帝国領(現オーストリア)ザルツブルクに生まれる。性格はとても陽気でおどけることが大好き。姉への手紙の末尾には「相変わらずマヌケなヴォルフガングより」などと記していた。楽天主義者だがけっして順風満帆(まんぱん)な生涯ではない。

父のレオポルド・モーツァルトはザルツブルク大司教付きのヴァイオリニスト・作曲家でヴァイオリン教師として教則本を書いている。モーツァルトは3歳でピアノ(チェンバロ)を弾き始め、自分で和音を探して見つけては喜んでいた。4歳になって父から本格的にレッスンを受けるとすぐに楽才を発揮し、メヌエットや小曲を弾きこなす。初めての作曲は5歳(1761年1月末)のときで、ピアノのレッスン中に即興で演奏した10小節・約20秒の『アンダンテ・ハ長調』を父が楽譜帳に書きとめた。
※『アンダンテ・ハ長調』 https://www.youtube.com/watch?v=0Yao9rOmQaE

1762年(6歳)、モーツァルトと姉ナンネルは父に連れられてミュンヘンやウィーンを訪れ、父は各地で息子の神童ぶりを披露した。ウィーンのシェーンブルン宮殿では、神聖ローマ帝国の女帝マリア・テレジアの前で姉と共に御前演奏を行う。この時、モーツァルトは宮殿の床に滑って転んでしまった。起き上がるのを助けてくれたのは、テレジアの当時7歳の末娘マリー・アントワネット。彼女にこう言ったと伝わる「君は優しい人だね、大きくなったらボクのお嫁さんにしてあげるよ」。

モーツァルトは7歳から10歳まで家族で長旅をした。1763年6月に出発し、約3年半にドイツ、ベルギー、フランス、イギリス、オランダ、スイスへ足を運ぶ。文豪ゲーテはフランクフルトで7歳のモーツァルトの演奏を聴き、“その演奏はラファエロの絵画、シェイクスピアの文学に匹敵する”と感嘆した。ロンドンを訪れたモーツァルトはバッハの子クリスティアンから華やかな音楽表現を学ぶ。モーツァルトはロンドン滞在中にわずか8歳で『交響曲第1番』K. 16 全三楽章を作曲。他にもこの8歳の1年だけでヴァイオリン・ソナタを第1番から第10番まで一気に完成させている。
※『交響曲第1番』第二楽章には有名な「ジュピター音階(E♭-F-A♭-G)」が出てくる https://www.youtube.com/watch?v=C7_bdfvyDug(13分50秒)
オランダ滞在時に9歳で書いた『交響曲第5番』は全三楽章7分と短いが、より感情表現が豊かになっている。欧州各地で様々な音楽に触れたためだろう。
※『交響曲第5番』 https://www.youtube.com/watch?v=lzicvVsKrRk (7分)

1765年、9歳のときに神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世が他界、妻マリア・テレジアとの間に生まれたヨーゼフ2世(1741-1790※マリー・アントワネットの兄)が24歳で帝位に就く。
1767年、ザルツブルクに帰郷し11歳で最初のオペラを作曲する。3月に初演された宗教的ジングシュピール(キリストの教えを説く歌芝居)の『第一戒律の責務』とするか、5月に初演されたラテン語による『アポロとヒュアキントス』(全3幕)のどちらをオペラ第一作とするか見解が分かれる。書かれたのは『第一戒律の責務』が先だが、この作品は3部構成の舞台の第一部のみで、他の部はミヒャエル・ハイドン(ヨーゼフ・ハイドンの弟)らが担当した。モーツァルトの完全な単独作品としては『アポロとヒュアキントス』が最初だ。
※『アポロとヒュアキントス』 https://www.youtube.com/watch?v=ORVE_LaG-5A (77分)
※ギリシャ神話に登場する美少年ヒュアキントスは太陽神アポロから寵愛を受ける一方、西風の神ゼピュロスを拒絶した。嫉妬に狂ったゼピュロスは、風を操ってアポロが投げた円盤をヒュアキントスの頭に当て、その命を奪う。ヒュアキントスが死んだ後に咲いた花はヒヤシンスと呼ばれた。
同年に完成した『交響曲第6番』から基本的に全四楽章の形式をとるようになる。
★モーツァルトの神童ぶりに、一部の大人たちは「父親が作曲をしているのでは」と疑いを持ち、本当に一人で作曲しているのか一週間監視して曲を書かせたり、初見の楽譜をすぐに弾けるか検証したり、年齢を誤魔化していないか確認のために洗礼抄本を取り寄せるなどしたが、モーツァルトは疑いを全てはね除けて神童であることを証明した。
11歳から2年間続いた2度目のウィーン旅行では天然痘にかかるが一命を取り留めた。

1768年、12歳のモーツァルトにも男女の心の機微が分かったようで、男女の恋の駆け引きを描いたオペラ『バスティアンとバスティエンヌ』(約40分)をウィーン旅行中に作曲。ウィーンではヨーゼフ2世からの依頼でオペラ『みてくれの馬鹿娘』を作曲。100分あるオペラを書ききった。頭の良い女性が3組のカップルを結婚させる物語。同年に作曲した『交響曲第8番』は、新たにトランペットやティンパニが加わり楽器編成が拡大された。
また、この年は最初にして最長のミサ曲、『孤児院ミサ』を作曲しウィーンの孤児院教会で初演されている。
※『孤児院ミサ』これが12歳の作品だと!? https://www.youtube.com/watch?v=XidEZEG3W3s (42分)
1769年、13歳で宮廷楽団のコンサートマスターに就任。年末から初めてのイタリア旅行(約1年半)に出発し、父レオポルドはわが子に様々な音楽を聴かせた。この年『セレナード第1番』を作曲。 
1770年(14歳)は飛躍の年。モーツァルトは生涯に23曲の弦楽四重奏曲を書いており、最初の作品となる『弦楽四重奏曲第1番』をイタリアで作曲している。この伸びやかな曲にモーツァルトは愛着を持っていたという。
※『弦楽四重奏曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=2I9LyiGrclc (18分)

同年春、モーツァルトはローマ・ヴァチカンで門外不出の二重合唱曲『ミゼレーレ』(作曲グレゴリオ・アレグリ)を聴いた。この曲は、楽譜持ち出し禁止、写譜禁止、楽譜を書くことも禁止、システィーナ礼拝堂以外で演奏してもアウトで、禁を破れば“破門”となる、秘曲中の秘曲だった。『ミゼレーレ』は9声部(9つのパート)が10分以上も重なりあい、絡みあう複雑なもの。だが、モーツァルトは一発で記憶し、宿に帰って楽譜に書き起こして人々を驚嘆させた(2日後、校正のため再び聴いて完全版にした)。翌年に『ミゼレーレ』の楽譜が出版されると、少年モーツァルトはローマ教皇クレメンス14世に呼び出された。だが、教皇はモーツァルトを破門にせず、逆にその驚異的な才能を褒め称えた。ヴァチカンは『ミゼレーレ』の禁令を撤廃した。モーツァルトは教皇クレメンス14世から黄金の軍騎士勲章を授与される名誉を授かった(音楽家としては200年ぶり)。これを受けて、翌年に書かれた『交響曲第12番』から楽譜表紙のモーツァルトの名前に「Cavaliere(騎士)」と肩書が付くようになる。
 ※『ミゼレーレ』(14分50秒) https://www.youtube.com/watch?v=36Y_ztEW1NE
同年夏、『交響曲第11番』が初演される。心躍るようなみずみずしい旋律に満ち、弦がきらめいている。
※『交響曲第11番』 https://www.youtube.com/watch?v=tOXl4q7nLFc (11分半)
同1770年秋、ミラノにてイタリアの歌劇場へのデビュー作品となったオペラ『ポントの王ミトリダーテ』を自身の指揮で初演し大成功をおさめ、モーツァルトは14歳という若さで大きな名声を築いた。
※『ポントの王ミトリダーテ』…紀元前63年の黒海南岸ポントス王国ミトリダーテ(ミトリダテス6世)がローマとの戦いから帰国すると、長男は密かにローマに接近しており、次男シーファレは王の許婚者アスパージアと恋仲になっており、息子たちの裏切りに激怒した王は、シーファレの助命を求めるアスパージアの処刑を決める。ローマ軍来襲の報に王は自刃、王は死ぬ間際にシーファレを許してアスパージアを与え、ファルナーチェも許す。ローマの圧政に抵抗し続けると誓う合唱で終幕。『ポントの王ミトリダーテ』は14歳が書いたとは思えない堂々たる大作であり、ミラノでは上演20回に渡る大ヒットとなった。
※『ポントの王ミトリダーテ』から投獄されたアスパージアの素晴らしいアリア。音楽に緊張感! https://www.youtube.com/watch?v=_aRBHNSEHVk#t=25m45s
このオペラ成功を受けて、翌年、翌々年と新作オペラ上演のためイタリアを訪れた。
12月16日にベートーヴェンがドイツ・ボンで生まれている。

1771年(15歳)、イタリアで『ディヴェルティメント第1番』を作曲。この曲は2年後に改訂され、彼の曲で初めてクラリネットが導入された。“ディヴェルティメント”は貴族の食卓や宴会、社交の場で演奏されるBGM的な機会音楽で、約20曲が現存する。
1772年(16歳)、「ミラノ四重奏曲」と呼ばれる3楽章形式の6曲の弦楽四重奏曲を作曲(うち4曲の完成は翌年)。モーツァルトは旅の気晴らしで書いたようだ。レオポルドいわく「あの子はいま、退屈なので弦楽四重奏曲を書いています」。ザ・天才。
※『弦楽四重奏曲第3番』から第二楽章。まだ16歳だが老作曲家の如きアダージョ https://www.youtube.com/watch?v=3_VFEy-qObU#t=3m19
※『弦楽四重奏曲第4番』から第二楽章。こちらもいい https://www.youtube.com/watch?v=wrLTQa1F-r0#t=5m23s
故郷ザルツブルクでは新司教コロレードが着任。モーツァルトは有給の宮廷楽団コンサートマスターとなった。
同年、ザルツブルクにてディヴェルティメントの中で最も有名な『ディヴェルティメント ニ長調/K.136』(ザルツブルク・シンフォニー)を作曲。心が浮き立つような旋律!
※『ディヴェルティメント ニ長調K.136』コープマン指揮の古楽器オケ https://www.youtube.com/watch?v=zfJ2M6aDYbE (18分42秒)
※『ディヴェルティメント ヘ長調K.138』から郷愁感のある第二楽章 https://www.youtube.com/watch?v=vxbqAmMNdRA (6分15秒)

1773年(17歳)、夏に就職先を求めて父と3度目のウィーン旅行を行うが、ウィーンにはグルックやサリエリなど有能な作曲家がひしめき、駆け出しの青年作曲家が就ける職はなかった。失意の帰郷となったが、音楽的収穫は大きく、以降のモーツァルトの作風に大きな変化が現れる。この時期のハイドン(1732-1809/当時41歳)は社交音楽より内面表現を重視しており、モーツァルトは圧倒的な影響を受けた。彼は娯楽的なイタリア風の音楽から脱却して独自の境地へ入り込んでいき、10代を代表する交響曲の傑作『交響曲第25番』(映画『アマデウス』の冒頭で流れ一躍有名に)を完成させる。通常の倍となる4本のホルンを使用。短調で書かれているが、彼の交響曲のうち短調はこの25番と40番しかない。
※『交響曲第25番』アーノンクール指揮の古楽器オケ https://www.youtube.com/watch?v=NuQcFC8rink (27分)
※『交響曲第25番』クレンペラー指揮、ドラマチック https://www.youtube.com/watch?v=OljKh1x9FtE (19分)
※『交響曲第26番』第二楽章/3分半だけどすごくいいアンダンテ https://www.youtube.com/watch?v=3_nNeOaix9o#t=2m45s (リンク切れ)
同年、「ウィーン四重奏曲」と呼ばれる6曲の弦楽四重奏曲(8番〜13番)を作曲。『弦楽四重奏曲第13番』は彼の弦楽四重奏曲で初の短調。
※『弦楽四重奏曲第12番』から第二楽章。穏やかな陽光を思わせる旋律 https://www.youtube.com/watch?v=6c-bF6qhsQ0#t=5m41s
また、『ヴァイオリン協奏曲第1番』のほか、『弦楽五重奏曲第1番』、モテット『エクスルターテ・ユビラーテ(踊れ、喜べ)』、『三位一体の祝日のミサ』、オリジナルなピアノ協奏曲としての第一作『ピアノ協奏曲第5番』(それまでのピアノ協奏曲は他人の楽曲の編曲)を書く。モーツァルトは既に多数の交響曲を書いており、協奏曲は手法も内容も充実したものとなっている。モーツァルトは17歳で書いたこの曲に愛着を持ち、最晩年まで演奏し続けた。 作曲家メシアンいわく「試作というには、あまりに見事な腕前」
※『ピアノ協奏曲第5番』 https://www.youtube.com/watch?v=5TecYEthY9I (20分)
※『ヴァイオリン協奏曲第1番』から牧歌的な第二楽章。オケの前奏も良い https://www.youtube.com/watch?v=sYxRAhgdFYg#t=8m01s
※『三位一体の祝日のミサ』からドラマチックな「クレド〜エト・インカルナトゥス」 https://www.youtube.com/watch?v=UTeLX4xSkw4#t=9m46s
※のちにモーツァルトは弦楽五重奏というジャンルを深遠な芸術的高みに引きあげ、古典派の室内楽作品の最高傑作とする。

1774年(18歳)、この時期の最も円熟した作品『交響曲第29番』を作曲。前年の『25番』よりさらに表現の深まりを見せる。続いて『30番』を書いた後、彼は協奏曲の作曲に没入、3年半も交響曲を書かなかった。
※『交響曲第29番』アバド指揮モーツァルト管弦楽団の名演より。モーツァルト管弦楽団は2004年にアバドが設立した若手音楽家の楽団。
第一楽章 https://www.youtube.com/watch?v=p2KV1J_x0og (10分)
第四楽章 https://www.youtube.com/watch?v=cgyo2ak1vcI (6分42秒)
著名なファゴット奏者から依頼を受けて珍しい『ファゴット協奏曲』を作曲、18歳にしてこの分野の最高傑作を残す。ファゴットの音色好きにはたまらない1曲。
※『ファゴット協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=D_opKFbEIB0 (17分)

1775年(19歳)、ヴァイオリン協奏曲の第2番から第5番までを一気に書きあげた“ヴァイオリン協奏曲の年”。中でも『ヴァイオリン協奏曲第5番“トルコ風”』は古今のヴァイオリン協奏曲の傑作に名を連ねる。《トルコ風》の愛称の由来は第三楽章のリズムから。若々しく澄んだ作風であり、華やかさと愛らしさを備えた名曲。ちなみに第6番と第7番は偽作といわれている。
※『ヴァイオリン協奏曲第3番』第二楽章、美しいアダージョ https://www.youtube.com/watch?v=BVzabDEpH1E#t=8m45s
※『ヴァイオリン協奏曲第4番』どの楽章も魅力的 https://youtu.be/n5M2vk-RUGA (23分)
※『ヴァイオリン協奏曲第5番』気品あるグリュミオー演奏の名盤 https://www.youtube.com/watch?v=4xR0wyUbNz4 (27分)
同年、オペラ・ブッファ『偽りの女庭師』を作曲。
同年、ピアノソナタ第1番〜第6番までを作曲。モーツァルトはヴァイオリンで表現したいことをある程度やったと思ったのか、以後はピアノ・ソナタやピアノ協奏曲に興味が移っていく。彼はピアノソナタの終楽章に初めて変奏曲を取り入れた『ピアノソナタ第6番』をことのほか気に入り、自分で何度も演奏している。
※『ピアノソナタ第1番』から終楽章の爽快アレグロ https://www.youtube.com/watch?v=_1JkfHraqfk#t=9m50s
※『ピアノソナタ第6番』なかなかの大曲 https://www.youtube.com/watch?v=0P3rq_U9ia0 (27分)

1776年(20歳)、ザルツブルクの市長ハフナーの娘の婚礼を祝って全八楽章、1時間もの晴れやかな管弦楽の大曲『セレナード第7番《ハフナー》』を作曲。交響曲を含めて、これがモーツァルト最初の大管弦楽曲となった。同年、3年ぶりにピアノ協奏曲に取り掛かり、3台のピアノが共演する珍しい作品ピアノ協奏曲第7番『ロードゥロン協奏曲(3台のピアノのための協奏曲)』を作曲。3人のピアニストがいると響きが豊かに。
※『セレナード第7番《ハフナー》』コープマン指揮の古楽器オケ https://www.youtube.com/watch?v=16Rn-uhmcRU (60分)
※『ピアノ協奏曲第7番(3台のピアノ用)』ショルティ、バレンボイム、シフがピアニストに! https://youtu.be/3ztEjqpSaJA

1777年(21歳)、ザルツブルクで『オーボエ協奏曲』を作曲。当時のオーボエ奏者を歓喜させ、後世のオーボエ奏者にとって必須のレパートリーとなる。
※『オーボエ協奏曲』名手ハンス・ホリガーのオーボエ https://www.youtube.com/watch?v=P0KZFrDTR-s (21分)
この頃、傑作『ピアノ協奏曲第10番《2台のピアノのための協奏曲》』を作曲!かつては1779年の作品と思われていた。
※『ピアノ協奏曲第10番』神曲です!2台のピアノが華やか&第一楽章が軽快でめっちゃ気持ち良い https://www.youtube.com/watch?v=kEacb-9dc78
モーツァルトは性格の合わないザルツブルグ司教と対立して職を辞し、9月に充実した音楽的環境と報酬を期待して母アンナとマンハイム&パリ旅行に出発した。この道中、父の故郷アウクスブルクで、いとこのマリア・アンナ・テークラ=“ベーズレ”(いとこちゃん)と初めて男女の仲となり、モーツァルトは彼女に宛て有名な「ベーズレ書簡」をのこしている。

※絶対に音楽の教科書に載ることがないモーツァルトの横顔、それはオゲレツちゃん(汗)。21歳の青年モーツァルトが19歳の従妹ベーズレに宛てた『ベーズレ書簡』より。(以下、全て海老沢敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集から)
「お休みなさい。花壇のなかにバリバリッとウ○コをなさい。ぐっすりお眠りよ。お尻を口のなかにつっこんで。(略)ありゃ、お尻が火のように燃えてきたぞ、こりゃ一体なにごとだ!きっとウ○コちゃんのお出ましだな?(略)でも、なんだか焦げるような匂いがする」
家族への手紙の中にも
「小生はズボンにウ○コをたれましょう」「おケツでも嗅ぎやがれ」「僕らがその上にチン座しますタマは別として」「くそったれ=ローデンルの主任司祭ディビターリは、人へのお手本として、彼の女給仕のお尻をなめた」
といった言葉が“普通に”飛び交っている…。天国的な美しい音楽を書きながら、同じその手で下ネタ全開の手紙を書いているモーツァルト、人間は面白い。
ただこれらは下品ではあるものの、原文のドイツ語では韻を踏んで音楽的な響きがある。

「だから、必ず来てよ。でないと、クソくらえだ。来てくれたら、ぼくが御みずからあなたにご挨拶し(コン・プリメンティーレン)、あなたのお尻に封印し(ペチーレン)、両手に口づけし(キュッセン)、臀部小銃を発射し(シーセン)、あなたを抱擁し(アンブラシーレン)、前からも後からも浣腸し(クリスティーレン)、あなたからの借りをすっかり一毛のこらず返済し(ベッアーレン)、勇ましいおならをとどろかし(エアシャレン)、ひょっとすると何かを落下(ファレン)させるかもね。」…詩人だ。
こんな曲もある→6声の声楽曲『Leck mich im Arsch(俺のケ○をなめろ) K.231』
https://www.youtube.com/watch?v=S9MN2WeqFY8 (2分21秒) タイトルは「このクソッタレ」的な言い回し。歌詞はともかく後半のハーモニーが素晴らしい。

当時のマンハイム(南ドイツ)は欧州を代表する音楽都市であり、ヨーロッパ有数の宮廷オーケストラがあった。ここに就職する願いは実現しなかったが、モーツァルトはマンハイム楽派の作曲家から大きな影響を受ける。同楽派は交響曲の構成を従来の3楽章から4楽章形式に変えた。また、ソプラノ歌手アロイジア・ヴェーバーに恋心を燃やし、手紙に「僕の作品はあなたのために作曲したのですから、あなた以外からの賛辞は必要ありあせん」等々書き送る。
この年、マンハイムにて『ピアノ協奏曲第9番《ジュノーム》』を作曲、フランスの女性ピアニスト、ジュノーム嬢に献呈する。この曲はモーツァルトの独創性や個性が最初に強く現れた作品となった。彼は優美なだけの様式に飽き、内なる感情を表現した。彼の協奏曲で、第二楽章が短調で書かれているのはたったの5曲(第4番、第9番、第18番、第22番、第23番)しかない。また、当時の協奏曲は長い序奏のあとに独奏ピアノが登場するのが一般的だったため、ピアノがすぐに登場するこの曲は型破りだった。
※『ピアノ協奏曲第9番《ジュノーム》』ユジャ・ワン https://www.youtube.com/watch?v=Vrlk69Fmp_8 (31分)
※《ジュノーム》の渋い第二楽章。演奏はブレンデル https://youtu.be/BDp0cal1bwg (13分)
また、さるフルート愛好家の注文により翌年にかけて4曲のフルート四重奏曲を完成、中でも『フルート四重奏曲第1番』が旋律の親しみやすさで知られる。当時のフルートは今ほど音程が安定しておらず、モーツァルトはフルートを嫌ってオーボエを多用していた。父への手紙に「僕は我慢できない楽器のための作曲をずっと続けてうんざりしています」と綴っている。それにもかかわらず、名曲を書きあげてしまうところが恐ろしい。
『フルート四重奏曲第1番』第一楽章、E・パユのフルート名演 https://www.youtube.com/watch?v=2FV80rmKWfk

1778年(22歳)、3月に母とドイツ・マンハイムを去る前に、モーツァルトは同地で宿舎を提供してくれた宮廷顧問官に、感謝の気持ちとして顧問官の15歳の娘テレーゼに『ヴァイオリン・ソナタ第17番』を書いた。このとき、モーツァルトは4カ月に母が没するとは夢にも思っていなかった。
『ヴァイオリン・ソナタ第17番』ぬくもりのある第二楽章 https://www.youtube.com/watch?v=nLRW03pV3BE#t=6m45s
その後、モーツァルト母子はパリに半年間滞在した。まず春のパリで優美な『フルートとハープのための協奏曲』を書き、メロディー・メーカーとしての本領を発揮。続いて初めて交響曲にクラリネットを採用した『交響曲第31番』を書きあげた。
※『フルートとハープのための協奏曲』から夢見心地な第二楽章、ランパルの名盤 https://www.youtube.com/watch?v=AA95JuR57d4#t=10m31s
※『交響曲第31番』ブリュッヘン指揮の古楽器オケ https://www.youtube.com/watch?v=YjZmnqkIj4M (18分)
パリで母子生活を送るなか、7月に母が熱病で他界(57歳)してしまう。モーツァルトは父と姉に手紙を書いたが本当のことが言えず、6日後に打ち明けた(パリに埋葬された母の遺骸は1785年にカタコンブに改葬され不明に)。彼は母を亡くした悲しみを込めた、短調の暗く緊張感に満ちた『ピアノソナタ第8番』を作曲する。ピアノソナタ18曲中、短調作品は他に第14番しかない。同年、さらなる短調の曲として『ヴァイオリンソナタ第21番 ホ短調』を書いている。また『ヴァイオリンソナタ第23番』はグルーヴ感のある第一楽章、暖かな第二楽章が魅力的。
 ※『ピアノソナタ第8番イ短調』リパッティ(Lipatti/1917-1950/33歳)の名演、他界の年1950年録音 https://www.youtube.com/watch?v=ngdCMQr3Tss (13分半)
※『ヴァイオリンソナタ第21番 ホ短調』グリュミオー×クララ・ハスキル https://www.youtube.com/watch?v=RQVmEPp1c3Y (10分)
※『ヴァイオリンソナタ第23番』第一楽章のピアノがオーバードライブ! https://www.youtube.com/watch?v=Nq5DaLi9NKM (22分)

1779年(23歳)1月、モーツァルトは2年ぶりにザルツブルクに帰郷する。パリの就職活動に失敗し、母を亡くし、ボロボロになって。帰路ではアロイジアから手紙でこっぴどくふられ、アロイジアは間もなく他の男性と結婚した。彼はザルツブルクで宮廷オルガニストとして復職、そしてパリやマンハイムの旅行で得た音楽体験を結実させていく。まず復活祭に向け『戴冠ミサ』を作曲。短いながらも大規模で力強い作品だ。
※『戴冠ミサ』カラヤン&ベルリン・フィル https://www.youtube.com/watch?v=B26rA3D8NVY (25分)
この年、人気曲となる『ディヴェルティメント第17番』を作曲。上品な娯楽音楽であり、明るく旋律美に富みパリ風の華やかさを持つ。第3楽章のメヌエットは『モーツァルトのメヌエット』の題名で単独演奏される機会が多い。
※『ディヴェルティメント第17番』から第三楽章メヌエット https://www.youtube.com/watch?v=OKQb1iP9gDk#t=15m46s
『セレナーデ第9番《ポスト・ホルン》』を作曲。第五楽章はドラマチックな短調、第六楽章にポストホルン(駅馬車のホルン)が用いられ、交響曲にも劣らない全七楽章の大セレナーデとなった。
※『セレナーデ第9番《ポスト・ホルン》』 https://youtu.be/MS5YCVdPxCk (43分)8月3日に完成

ザルツブルク時代の最後を飾る『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲』を作曲。性質の異なる2つの楽器が使い分けられ、華やかさと陰影が同居。深い憂いに沈みゆく第二楽章が実に素晴らしい。モーツァルト自身はヴィオラを好んで弾いており、この曲でもヴィオラを巧みに活躍させている。
※『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲』クレーメル https://www.youtube.com/watch?v=WbEswW5R2yk (31分45秒)
※『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲』からメランコリックな第二楽章、ヴァイオリンがすすり泣きヴィオラが慰める https://www.youtube.com/watch?v=WbEswW5R2yk#t=14m01s
※『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲』第二楽章、ベーム、ブランディス https://www.youtube.com/watch?v=lM4WUJqF_GA (10分41秒)

1780年(24歳)、ミュンヘン宮廷から謝肉祭用のオペラの依頼を受けて11月に同地へ入り、作曲と上演準備を進める。
1781年(25歳)、24歳(誕生日前)で12作目のオペラ『イドメネオ』全三幕を完成させ、誕生日の2日後(1/29)にミュンヘン宮廷歌劇場で初演、大成功を収める。『イドメネオ』は最初の充実したオペラ・セリア(シリアス劇)であり、後世に18世紀後半に生み出された最も優れたオペラ・セリアと評される。
〔イドメネオ〕…舞台は紀元前1200年頃、トロイア戦争後のクレタ島。ギリシャ連合軍のクレタ王イドメネオはトロイとの戦いに勝利し帰国の途にいる。クレタでは先に捕虜となったトロイ王の娘イリアが、敵であるイドメネオの息子イダマンテを愛してしまい苦悩する。また、激情家エレットラ(アガメムノン王の娘)もイダマンテを想っていた。イドメネオの船は嵐に遭い、彼は海神ネプチューンに「漂着後、最初に出会った者を生贄に差し出す」と約束、海に投げ出されるもクレタに流れ着く。浜辺に倒れていたイドメネオを最初に発見したのはわが子イダマンテだった。イドメネオは息子を悲運から守るため国外退去を命じるが、ネプチューンが嵐を起こし海獣を呼び出港できない。王は自分が犠牲になる決心をするが、海神が求める生け贄ではないため海獣は町を破壊する。民衆は恐れおののき真の生け贄を要求、すべてを察したイダマンテは犠牲を志願する。泣く泣くイドメネオが剣を振り下ろそうとした瞬間、イリアが駆け込み身代わりになると訴えった。突然地震が起こり、ネプチューンの声が響き渡る「純粋なイリアの愛に免じてイダマンテを赦す。王は子に譲位せよ」。イダマンテとイリアは熱く抱擁、エレットラは嫉妬で大荒れ、民衆は若い2人を祝福し喜びを歌い終幕となる。
※『イドメネオ』英語字幕付き https://youtu.be/Ba9K_T5ivTQ (158分)
※『イドメネオ』緊迫した嵐の場面 https://www.youtube.com/watch?v=Ba9K_T5ivTQ#t=31m24s
※『イドメネオ』誓いを破った償いとしてイドメネオが自身を捧げると宣言 https://www.youtube.com/watch?v=Ba9K_T5ivTQ#t=86m42s
※『イドメネオ』イドメネオ、イダマンテ、イリア、エレットラの四重唱(オペラ・セリア史上最初の偉大な四重唱とも) https://www.youtube.com/watch?v=Ba9K_T5ivTQ#t=105m07s
※『イドメネオ』色々うまくいかず、がっくりとくるイドメネオ https://www.youtube.com/watch?v=Ba9K_T5ivTQ#t=121m40s

『イドメネオ』上演後、モーツァルトはすぐにザルツブルクに帰らずミュンヘンに滞在した。3月に大司教コロレードの命でウィーンへ向かう。
★そして運命の5月。モーツァルトはザルツブルク大司教コロレードから職務怠慢を叱責されたうえ、大司教の従臣に足蹴にされる侮辱を受けた。
同年5月9日の父宛の手紙「僕は怒りで血もたぎり立つばかりです!僕の堪忍袋は、あまりに長く試みられた挙げ句、ついに緒を切ることになったのです。もうザルツブルクはこりごりです」。こうして25歳のモーツァルトは故郷に別れを告げ、自分の才能だけを頼りに音楽の都ウィーンへと旅立つ(何月に?)。こうして人生最後の10年をウィーンで過ごす。
フリーの音楽家としてウィーンで活動を始めたモーツァルトは、定職がないため借家にすみ、貴族相手の音楽教師や演奏会、楽譜出版で生計を立てた。
ウィーン到着から半年、11月に『2台のピアノのためのソナタ』を作曲。これはピアノが上手い弟子と弾くために書いたものだが、手紙の中でその女性の弟子について「もし画家が悪魔をありのままに描こうと思ったら、彼女の顔を頼りにするにちがいありません。デブで、汗っかきで、吐き気を催すほどです」と断じており(おいおい…)、好みのタイプなら連弾、逆の場合は2台のピアノという、モーツァルトの本音が見え隠れする。この曲は漫画『のだめカンタービレ』で有名に。
※『2台のピアノのためのソナタ』第一楽章は天を駆け巡るような連弾 https://www.youtube.com/watch?v=PQQgHpMBHbo (23分)

1782年(26歳)、年明けにウィーンの音楽愛好家の貴族スヴィーテン男爵からバッハとヘンデルの魅力を教えてもらう。男爵は多数の楽譜を所持しており、モーツァルトは毎週日曜に男爵主催の集会に参加し、巨匠の楽譜からフーガの研究をした。あるときモーツァルトは男爵から「バッハとヘンデルのあらゆる作品を持ち帰れ」と言われ、その結果、恋人コンスタンツェ(当時20歳)までがフーガの虜になった。彼女は「フーガを書いてほしい」と懇願、こうして4月に『幻想曲とフーガ・ハ短調』が生まれた。
※『幻想曲とフーガ・ハ短調』から後半のフーガ https://www.youtube.com/watch?v=pDqyXOMzj_U#t=4m24s
5月下旬、結婚を直後に控えた幸福なモーツァルトは、彼の青春の記念碑であり、ドイツ語オペラの先駆となった『後宮からの誘拐』(後宮からの逃走)を完成させる。このオペラのヒロインの名はコンスタンツェであり、彼の恋人と同じ名前だ。
7月にウィーン・ブルク劇場で初演されると、トルコが舞台でエキゾティックな異国趣味が楽しめ、君主の寛大な心でハッピーエンドとなる展開が支持され称賛を得る。初演の成功により、モーツァルトはウィーン移住から1年で名声を確立した。本作はドイツ語のセリフを生かしたジングシュピール(歌芝居)の傑作であり、この形式が「魔笛」に繋がり、ベートーヴェン「フィデリオ」、ウェーバー「魔弾の射手」に発展していった。皇帝ヨーゼフ2世はかねてからブルク劇場でドイツ語オペラを成功させたいと願っており、その夢を叶える作品となった。
※次の逸話が伝えられている。『後宮』上演後に皇帝がモーツァルトに「音符が多すぎる」と指摘したところ、彼は「ちょうどよい数です、陛下」と反論したという。

〔後宮からの誘拐〕…舞台は18世紀のトルコ、太守セリムの海辺の王宮。青年ベルモンテは、海賊に拉致された婚約者コンスタンツェを救出すべく王宮にやってきた。彼女はベルモンテの召使いペドリロと、彼女の召使いブロンデと3人一緒にセリムに売られたのであった。ベルモンテはまずペドリロと再会し喜ぶ。セリムはコンスタンツェに求愛、セリムの家来(監督官)オスミンはブロンデ(ペドリロの恋人)を狙っているため、早く二人の女性を連れて逃げねばならない。深夜に王宮からコンスタンツェとブロンデを脱出させようとするが、オスミンに発見されて4人とも衛兵に捕えられてしまう。ベルモンテとコンスタンツェがセリムの前に引き出され、セリムはベルモンテが仇敵の息子であると知り、死刑を命令しようとする。そこへブロンデとペドリロも連行され、絶体絶命と思われたが、セリムはベルモンテが仇敵の息子であると知り、死刑を命令しようとする。そこへブロンデとペドリロも連行され、絶体絶命と思われたが、セリムはベルモンテらの悲嘆を聞いて改心。彼らを自由の身とし、さらに故郷へ帰してくれるという。あまりの寛大さに一同はびっくり、死罪を期待していたオスミンは悔しがる。ベルモンテは「あなたのご恩は、決して忘れません」と誓い、セリムの徳を称える近衛兵の合唱で盛大なフィナーレとなる。
※『後宮からの誘拐』から壮大なフィナーレ(4人が船に乗り込んで帰って行く) https://www.youtube.com/watch?v=-uQ0Ti9GF_U&feature=youtu.be#t=130m02s
※驚きのストーリーだ。オーストリアとトルコは1500年から約300年の間に10回以上も戦争しており、『後宮からの誘拐』上演の5年後にもまた戦火を交えている。そのような関係にあって、トルコの君主の寛大さを描く作品が誕生したのだ。

『後宮』初演から半月後の8月4日、モーツァルトはウィーンの聖シュテファン教会で6歳年下のソプラノ歌手コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚する。彼女は3年前に失恋したアロイジアの妹だ。モーツァルトは結婚前、コンスタンツェへの手紙で自分のことを「道徳的で名誉を重んじ理性的で忠実な恋人」と書いている。この結婚は良家の子女と結婚させようとした父の反対を押し切ってのことだった。

同年、モーツァルトはハイドンの弦楽四重奏曲に感銘を受け、1773年以来9年ぶりにこのジャンルを開拓、『弦楽四重奏曲第14番』を大晦日に完成させた。芸術性を追求するため自発的に書かれており、作曲技術の粋を凝らした力作となった。以後1785年までの3年間に書かれた6曲の連作は“ハイドン・セット”と呼ばれる。『第14番』フィナーレのフーガはのちのジュピター交響曲を彷彿させる。
※『弦楽四重奏曲第14番』終楽章の見事なフーガ https://www.youtube.com/watch?v=A3bAiTtM2Pc#t=26m39s
ちなみにこの年、珍曲として知られる6声の声楽曲『Leck mich im Arsch(俺の尻をなめろ)』K.231を作曲している。とんでもない曲名だが、実際の意味は「消え失せろ」という罵倒用語。 歌詞の内容は「俺の尻をなめろ/陽気にいこう/文句をいってもしかたがない/ブツブツ不平を言ってもしかたがない/本当に悩みの種だよ/だから陽気に楽しく行こう/俺の尻をなめろ」というもの。
※問題作『Leck mich im Arsch(俺の尻をなめろ)』動画の評価欄が…(笑) https://www.youtube.com/watch?v=C78HBp-Youk (2分22秒)

1783年(27歳)、前年にセレナードとして書いた音楽を編曲した『交響曲第35番《ハフナー》』を完成。ザルツブルクの富豪ハフナー家の祝い事のために書かれた。この曲を含めて以降ウィーンで書いた6つの交響曲は6大シンフォニーとして広く愛されていく。同年3月、ザルツブルクからウィーンに戻る途中に立ち寄ったリンツで、音楽好きの伯爵邸に宿泊したところ、交響曲の演奏をリクエストされた。演奏会は4日後。手持ちの楽譜がなかったためモーツァルトはたった4日間で『交響曲第36番《リンツ》』を書き上げる。ちなみに『交響曲第37番』は存在しない。冒頭だけがモーツァルトのオリジナルで、あとはミヒャエル・ハイドン(ハイドン弟)の交響曲第25番と20世紀に判明し、さりとて後の交響曲番号を詰めると混乱を呼ぶため、そのまま37番は欠番となった。モーツァルトの交響曲は作品番号が付されていない楽曲を含めると50曲ほどある。
※『交響曲第36番《リンツ》』これを4日間で!終楽章が爽快(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=HXk2te8m2-k#t=18m46s
6月に長男ライムントが生まれるが、2カ月後、ザルツブルク帰省中に他界する(結婚に反対した父・姉に、わが子を紹介して和解する目的もある帰省と思われ、痛ましい)。

同年10月、モーツァルトの宗教音楽の中では『レクイエム』の次に有名な『大ミサ曲ハ短調』をザルツブルク・聖ペーター教会で初演。前年から書き始めていたこの曲は非常に特別なもの。彼には珍しく、注文を受けずに自発的に作曲された。モーツァルトは父と姉に反対されたままコンスタンツェと結婚したため、妻の評価をあげたいという切実な想いがあった。そして『大ミサ曲ハ短調』を書き、ソプラノ独唱をコンスタンツェに担当させた。未完成だったクレドとアニュス・デイは他のミサの曲を代用。彼女は歌手としてかなりの実力を持っていたことがうかがえる。モーツァルト夫妻には、夭折したばかりの長男への感情もあっただろう。冒頭の「キリエ」と中盤の「世の罪を除きたもう主よ」が異次元の素晴らしさ。
※『大ミサ曲ハ短調』ガーディナー指揮の名盤 https://www.youtube.com/watch?v=cs9h-gWlg0o (54分)
『大ミサ曲ハ短調』同上から「世の罪を除きたもう主よ」 https://www.youtube.com/watch?v=m7ULqZMLlug (6分17秒)
※『大ミサ曲ハ短調』フリッチャイ指揮「世の罪を除きたもう主よ」https://www.youtube.com/watch?v=SAA5VVsXVKs (6分18秒)
※『大ミサ曲ハ短調』コリン・ディヴィス指揮「世の罪を除きたもう主よ」 https://www.youtube.com/watch?v=D9IL4dDYHs4 (6分)
※『大ミサ曲ハ短調』マリナー指揮「世の罪を除きたもう主よ」 https://www.youtube.com/watch?v=Df4f5vc_tMw (5分)
※『大ミサ曲ハ短調』Johannes Somary指揮「世の罪を除きたもう主よ」 https://www.youtube.com/watch?v=zjXvHOoNRBI (7分)
※『大ミサ曲ハ短調』バーンスタイン指揮「世の罪を除きたもう主よ」 https://www.youtube.com/watch?v=wYJ4ySdQqL4 (5分16秒)
※『大ミサ曲ハ短調』バーンスタイン指揮(動画)「世の罪を除きたもう主よ」https://www.youtube.com/watch?v=whVPzXDDu2Y (5分43秒)

ザルツブルクに帰省したおり、かつての同僚ミヒャエル・ハイドン(1737-1806)が病気で注文された二重奏曲を書けなかったため、モーツァルトが助け船を出してハイドン風に2曲の『ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲』を書きあげプレゼントした。同年、『ピアノソナタ第11番《トルコ行進曲》』、『ピアノソナタ第12番』、“ハイドン・セット”全6曲中で唯一の短調作品『弦楽四重奏曲第15番』を作曲、続けて『第16番』を書く。『ホルン協奏曲第2番』は友人でウィーンいちのホルンの名手ロイトゲープのために作曲され、自筆譜面にはおふざけで「ろば・牡牛・馬鹿のロイトゲープを憐れんで」の書き込みがある。
※『ピアノソナタ第11番《トルコ行進曲》』有名な第三楽章をピリスの演奏で https://www.youtube.com/watch?v=GaFGsEV2prM (3分40秒)
※『ピアノソナタ第12番』ピリス盤。第一楽章と第二楽章の対比、美しさと激しさと https://www.youtube.com/watch?v=RzzUTl2xryo (9分24秒)

1784年(28歳)、ウィーンに出て3年目。モーツァルトはウィーンいちの人気ピアニスト兼作曲家として楽壇の寵児となり、音楽家人生の成功の頂点を築く。午前中は生徒のピアノ指導、夜は演奏会、その間に次々と新作を書いた。収入が増えて生活が安定し、ウィーンの一等地に転居する(現フィガロハウス)。最初の私的演奏会(予約制)で披露するために『ピアノ協奏曲第14番』を作曲、大喝采を浴び、父への手紙に「会場はあふれんばかりに聴衆がいたし、いたるところ、この音楽会を誉める声で持ちきりです」と報告している。本年から作り始めた作品目録には、トップに『14番』を置いた。
※『ピアノ協奏曲第14番』ロマンティックな第二楽章 https://www.youtube.com/watch?v=aQWXBArpdB8#t=8m36s
続く『ピアノ協奏曲第15番』からはオーケストラを強化し、自己の芸術的な欲求を打ち出したピアノ協奏曲を書くようになる。1週間後にはもう『第16番』を完成させるという筆の速さだ。『第17番』はこの年に書かれた6曲のピアノ協奏曲の中で最も優れ、作曲家メシアンは「モーツァルトが書いた中で最も美しく、変化とコントラストに富んでいる。第2楽章のアンダンテだけで、彼の名を不滅にするに十分である」と絶賛。音楽的な霊感に満ち、優しい音色が虹の如く変化していく。
※『ピアノ協奏曲第17番』モーツァルト本人が太鼓判を押した自信作 https://www.youtube.com/watch?v=fciaxuZY6zA (30分)
※『ピアノ協奏曲第17番』メシアンが讃えた第二楽章(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=fciaxuZY6zA#t=11m29s
同時期に、クラヴィーア(ピアノ)、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットの様々な響きを楽しむことができる『クラヴィーアと木管のための五重奏曲』を作曲。モーツァルトは4月に書いた父宛の手紙の中で、同じ頃に書かれた複数のピアノ協奏曲(17番など)と共にこの五重奏曲を「生涯のこれまでの最高作品だと思っています」と記している。
※『クラヴィーアと木管のための五重奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=F40X8bRxKI4 (25分)
9月、盲目の女性ピアニスト・パラディスのために『ピアノ協奏曲第18番』を作曲。翌年にモーツァルトがウィーンで初演した際、父レオポルドは手紙でナンネルに「お前の弟は素晴らしい協奏曲を演奏した。私は各楽器の多様な音色の変化に耳を傾け、満足のあまり涙ぐんでしまった。演奏後、皇帝(ヨーゼフ2世)は『ブラヴォー、モーツァルト!』と叫ばれた」と報告している。 同月、次男カールが生まれ、この子は71歳まで長生きする。
※『ピアノ協奏曲第18番』第二楽章 https://www.youtube.com/watch?v=pAfdeyLkfuU#t=11m24s
10月、モーツァルトのピアノソナタで最も激しく劇的な『ピアノソナタ第14番ハ短調』を作曲。記念碑的作品であり、短調を使った情念の表現が、のちに若きベートーヴェンに影響を与えた。同じ頃『幻想曲ハ短調K475』も書かれた。
※『ピアノソナタ第14番』古楽器派アンドレアス・シュタイアーの名演(第一楽章) https://www.youtube.com/watch?v=-cG8yRMK0Uw (7分20秒)
※『ピアノソナタ第14番』第二楽章のここがベートーヴェン「悲愴ソナタ」に https://www.youtube.com/watch?v=2Keqr-LHOfk#t=3m54s
また、おそらくこの年にモーツァルトが管楽器書法の精緻を極めた『セレナード第10番《グラン・パルティータ》』全7楽章も作曲された(従来は1780年頃の作品と思われていた)。オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットなど13管楽器のためのセレナード。深い情感をたたえた第3楽章のアダージョが特に有名。
※『グラン・パルティータ』からアダージョ https://www.youtube.com/watch?v=5BWn1KuXGVM (6分20秒)
ハイドン・セット第4番となる『弦楽四重奏曲第17番《狩》』を作曲。冒頭に角笛のような旋律があり、軽快な曲風から広く親しまれている。
※『弦楽四重奏曲第17番《狩》』 https://www.youtube.com/watch?v=LH2_0q5UnLw (35分)
この年、第2子のカールが生まれ、旅先からの手紙の最後には「僕の代わりにカールにキスしてやっておくれ」「カールに千回のキスを」と一文が入るようになる。また、年末に秘密結社フリーメーソンに加盟している。

1785年(29歳)、『弦楽四重奏曲第18番』を作曲。この曲をベートーヴェンはとりわけ愛し、自身の弦楽四重奏曲第1番〜第6番を書くにあたり、『第18番』のフィナーレを筆写し研究した。
※『弦楽四重奏曲第18番』第三楽章アンダンテ https://www.youtube.com/watch?v=QM4ypK3SZHw#t=15m53s
そして1月14日、ハイドン・セットの最後を飾る『弦楽四重奏曲第19番《不協和音》』が完成する。冒頭22小節の不気味な和音からこの名がついたが、序奏後は一転して陽気な曲調となる。第二楽章のアンダンテ・カンタービレは不協和音どころか暖かなやすらぎと平安の世界。トータル約40分ある大曲だ。
※『弦楽四重奏曲第19番《不協和音》』 https://www.youtube.com/watch?v=kcfDxgfHs64 (39分)
※『弦楽四重奏曲第19番《不協和音》』第二楽章、陽だまりの縁側のごとし https://www.youtube.com/watch?v=Dsu7EbCZxPM (7分49秒)
モーツァルトは“ハイドン・セット”ラストの『第19番』を完成した翌日1月15日と2月12日に53歳のハイドン(1732-1809)を自宅に招いて聴いてもらった。2度目の招待時には父レオポルドも立ち会っており、この時の様子を手紙でナンネルにこう書いている「ハイドン氏は私に申しました。『誠実な人間として神にかけて申しますが、あなたのご子息は私が直接に、あるいは評判によって知っている作曲家の中で、最も偉大な作曲家です』」。同年秋に出版した弦楽四重奏曲の楽譜はハイドンへの献辞として、尊敬を込めて「わが親しきハイドンに」と始め、6つの弦楽四重奏曲(第14番〜19番)を「6人の息子」にたとえ、「どうか進んで彼らをお受け入れ下さい。そして、彼らの父とも、導き手とも、また友ともなって下さい!今後は、彼らに対する私の権利をあなたにお譲りし、それゆえ、父親の偏愛の眼が私に隠していたこともあろう欠陥を寛大にご注意下さるよう、そして我らの友情を保ち続けて下さいますようお願い致します。親しい友、あなたのこの上なく誠実な友 W.A.モーツァルト」(音楽之友社『名曲解説全集』の海老沢敏訳を要約)と記した。
同年2月、モーツァルトの作曲家としての創作力が絶頂へ向かうなか、初めての短調のピアノ協奏曲となる名曲『ピアノ協奏曲第20番』を作曲。華やかさが求められるウィーンの演奏会にあって、うごめく低音の弦で始まる不安げで悲劇的な第一楽章は革命的なものだった。続く第二楽章は甘美でロマンチックな世界、第三楽章はアグレッシブと変化に富み、のちにベートーヴェンやブラームスもパッション爆発の『第20番』に心酔し、自らカデンツァ(即興パート)を書いた。一昨年のリンツ交響曲以後、前年は1曲も交響曲を書いていなかったこともあり、交響曲的な響きを持つ楽曲となった。公演後、舞台を去るモーツァルトに対し皇帝は帽子を手に持って会釈し、このときも「ブラヴォー・モーツァルト!!」と叫んだ。初演の翌日に前述したハイドンのモーツァルト家訪問があり、弦楽四重奏曲も含めてのレオポルドへの「ご子息は最も偉大な作曲家です」となった。
※『ピアノ協奏曲第20番』グルダ&アバドの名盤 https://www.youtube.com/watch?v=aOxuBDA2XQU (33分17秒)
※『ピアノ協奏曲第20番』第二楽章、アルゲリッチ&アバドの名演 https://www.youtube.com/watch?v=f0ZOG6YTGRY (9分) 

この『第20番』を完成させた1か月後には、早くも新たな傑作『ピアノ協奏曲第21番』を書きあげている。前作の切迫した暗い短調とは打って変わり、明るいハ長調の曲だが、第二楽章(アンダンテ)のロマンティシズムはモーツァルト全作品の中でも屈指のものに。1967年に映画『みじかくも美しく燃え』に使用され、より多くの人に知られるようになった。
※『ピアノ協奏曲第21番』グルダ&アバド https://www.youtube.com/watch?v=Kiyql1Cj2Ec (29分半)
※『ピアノ協奏曲第21番』第二楽章、ブレンデル&マリナー https://www.youtube.com/watch?v=08aoAKuH4uI (6分39秒)
※『ピアノ協奏曲第21番』第二楽章、リパッティ(1950年他界の年)&カラヤン https://www.youtube.com/watch?v=ykZSLBF19Qc (7分18秒)
6月、モーツァルトがゲーテの詩を(ゲーテと知らずに)取り上げた唯一の歌曲『すみれ』を作曲。彼の歌曲の最高峰に数えられる。詩の内容があまりにもけな気。「スミレがひとつ咲いていた。可愛らしいスミレ。そこへ羊飼いの娘が歌を口ずさみながらやってきた。スミレは、“あの娘に摘まれ、ほんの少しでも胸に挿してもらえたら”と願ったが、娘はスミレにまったく気付かず踏みつけてしまった。それでもスミレは嬉しかった。あの娘に踏まれて死ねるのならばと。哀れなスミレよ」。
※『すみれ』ディースカウ https://www.youtube.com/watch?v=Msd-ud7AuPw (2分24秒)
11月『フリーメイソンのための葬送音楽』ハ短調を作曲。同志2人を追悼した作品であり、葬儀の場で演奏された。
※『フリーメイソンのための葬送音楽』ベーム&ウィーン・フィル https://www.youtube.com/watch?v=4A1JlAx3vy0 (7分)
※フリーメーソン(Freemasonry)…世界中に組織されている友愛団体。入社式が非公開ゆえ秘密結社とみられ、メンバーは博愛、平等、平和といった普遍的理想のために献身する義務がある。18世紀初頭にイングランドで原型ができた。リベラリズム精神、宗教的寛容とあらゆる人々の平等を説き、フランス革命や無神論とも親和性があるため、権利侵害を恐れた支配層やローマ・カトリック教会から敵視され、弾圧の対象となる時代があった。ロシア皇帝やヒトラーは結社の解散を命じた。
12月に演奏された『ピアノ協奏曲第22番』において、ピアノ協奏曲として初めてクラリネットがオーボエの代わりに採用されている。

1786年(30歳)、2月に全一幕の短い音楽付き喜劇『劇場支配人』を初演。劇団の俳優や歌手のオーディションを描いた喜劇で、最後に全員で「芸術家は他人よりも秀でることに努力しなければならない。しかし、他人を見下すような人は、小さな芸術家だ」と合唱して大団円となる。
3月初頭に『ピアノ協奏曲第23番』を作曲、第二楽章は儚(はかな)さと美しさが混じったモーツァルトの旋律美の極致。その3週間後にオーボエとクラリネットの両方を加えたシンフォニックな『ピアノ協奏曲第24番』を仕上げている。この『24番』(ハ短調)と『20番』(ニ短調)だけが短調のピアノ協奏曲だ。
※『ピアノ協奏曲第23番』第二楽章、グルダ&アーノンクール https://www.youtube.com/watch?v=vne1E6VH23s (6分26秒)
※『ピアノ協奏曲第24番』ハスキル&マルケヴィッチの緊張感ある名演 https://www.youtube.com/watch?v=jveN2zX6b6U (29分24秒)

同年5月1日、ウィーンのブルク劇場で『フィガロの結婚』が初演される。
※『フィガロの結婚』ベーム指揮ウィーン・フィル、日本語字幕 https://www.youtube.com/watch?v=xKhY7aV3KzY (180分)
8月に友人のクラリネットの名手シュタットラーら仲間うちで演奏するために『ピアノ、クラリネットとヴィオラのための三重奏曲(ケーゲルシュタット・トリオ)』を作曲。当時クラリネットは発明されて間もない新しい楽器であり、創作意欲が刺激された。
※『ケーゲルシュタット・トリオ』 https://www.youtube.com/watch?v=ReuB3lJNBjQ (20分)
同じく8月、音の響きの豊かな変化が特徴な『弦楽四重奏曲第20番《ホフマイスター》』を作曲。第一楽章の小刻みの旋律が印象的。友人の出版人ホフマイスターのために書かれた。
※『弦楽四重奏曲第20番』 https://www.youtube.com/watch?v=w6YQM87WgR8 (24分)
10月に第3子ヨハンが生まれるが1カ月で早逝する。
12月に『ピアノ協奏曲第25番』を作曲。この曲を最後に1784年の『ピアノ協奏曲第14番』から3年で12曲が書かれたピアノ協奏曲の作曲ラッシュが終わった。彼は残りの人生5年間に『26番』『27番』の2曲しか書いていない。ピアノ協奏曲は予約演奏会の目玉として新曲が書かれていたが、ウィーンの聴衆は次第にモーツァルトの音楽に興味を失い、予約演奏会そのものが開かれなくなっていったからだ
同月、『リンツ』以来3年ぶりのシンフォニーとなる『交響曲第38番《プラハ》』を作曲。翌月にプラハで初演されたためこの愛称がついた。全三楽章だが序奏に風格があり四楽章の印象を受ける。
※『交響曲第38番《プラハ》』ブリュッヘン https://www.youtube.com/watch?v=o2PEvQadk8A (37分)

1787年(31歳)、父レオポルドが重い病にかかり4月4日に父宛に次の手紙を書く。「死は人間の最良の友です」。
4月に『弦楽五重奏曲第3番』ト短調を作曲、室内楽の分野においてジュピター交響曲に比肩し得る風格を持つ作品となった。第二楽章アンダンテはモーツァルト作品中、無類の美しさをもつ。
※『弦楽五重奏曲第3番』 https://www.youtube.com/watch?v=VI7WBFPqTWg (31分)
5月16日に『弦楽五重奏曲第4番』ハ短調が完成。第一楽章を小林秀雄が「疾走する悲しみ」と評した。前作から短調の曲が続いているのは、父の容態の悪化も影響しているとみられる。
※『弦楽五重奏曲第4番』 https://www.youtube.com/watch?v=-RWsgnZZrZQ (34分)
5月28日、モーツァルトの楽才を開花させ、その人生に絶大な影響を及ぼしていた父レオポルドが67歳で他界。姉ナンネル夫妻が看取った。ウィーンにいたモーツァルトは臨終にも葬式にも立ち会わなかったが、友人宛の手紙で「最愛の父が死んだと知らされた。僕の心境を察してくれるだろう!」と悲しみを伝えている。
8月、有名な弦楽セレナード『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』(小さな夜の曲)を作曲。
※『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』第一楽章、オルフェウス室内管の名盤 https://www.youtube.com/watch?v=DQ3xVcbfT4Y (5分24秒)
※『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』第二楽章、同上 https://www.youtube.com/watch?v=stDMLVhyjbQ (5分45秒)
10月29日、作曲を依頼したプラハのエステート劇場(スタヴォフスケー劇場)で色事師ドン・ファンの死を描いたオペラ『ドン・ジョバンニ』全二幕を初演。当時のオペラは楽しいだけの軽いオペラが一般的だったが、この作品はクライマックスで“恐怖”を表現した異色作となった。
『ドン・ジョバンニ』に関して、モーツァルトの天才ぶりがわかるエピソードが伝わる。全幕を作曲した後に、序曲だけがまだ残っていた。締め切り前夜、モーツァルトは睡魔と戦うため、妻におとぎ話をしてもらったり飲み物を作ってもらうなど頑張っていたが、「少しだけ」と途中で眠ってしまった。あまりの熟睡ぶりに妻は起こしそびれ、朝の5時に目覚める。「しまった!眠ってしまった!」「あと2時間しかないわよ」「なんだ、2時間もあるのか」。そう言って、7時に訪れた写譜係に楽譜を手渡したという。初演前日の朝の出来事だ。
〔ドン・ジョバンニ〕…舞台は17世紀のスペイン。貴族でプレイボーイのドン・ジョバンニは、騎士長邸に忍び込んで娘のドンナ・アンナを誘惑するも失敗、父の老騎士長に見つかり決闘を申し込まれ、やむなく殺害してしまう。現場を離れるとドン・ジョバンニがかつて捨てたエルヴィラと遭遇、復讐を訴えるエルヴィラに、従者レポレロは主(あるじ)には復讐する価値もないと、口説き落とした女性のリストを手に「カタログの歌」を歌う。「イタリアでは640人、ドイツでは231人、フランスで100人、トルコじゃ91人、ここスペインでは何と1003人だ」。エルヴィラは呆れて去って行った。次にドン・ジョバンニが目を付けたのは結婚式をあげようとしている村娘ツェルリーナ。ドン・ジョバンニは新郎が見ていないところでツェルリーナを口説き、「農夫の妻ではなく貴族の妻に」という言葉に彼女はゆらぐ。そこにエルヴィラが通りがかり、「この男を信じてはいけない」とツェルリーナに警告、現場から引き離した。ドン・ジョバンニは彼を恨む人々の目を逃れるため、従者レポレロと衣装を取り替え、あの手この手で新たな恋の相手を探す。一騒動の後、深夜の墓地でドン・ジョヴァンニは殺された騎士長の石像から「笑ってられるのも今夜までだ」といわれ、逆に「あなたを晩餐に招待しよう」と言い返した。すると、居館で晩餐中に、本当に騎士長の石像がやってきた。従者レポレロは震え上がるが、豪胆なドン・ジョヴァンニは「まさか来るとは思わなかったが、急いで食事を一人分用意させよう」と招き入れた。石像は「悔い改めよ、生き方を変えろ」と迫るが、ドン・ジョヴァンニは「後悔することは何もない」と拒絶する。結局、改心しないまま地獄の亡者(悪魔)たちに囲まれ、炎の中で悲鳴を上げながら地獄に墜ちていった。その後、これまでドン・ジョバンニに振り回されてきた人々が集まり、「悪党の末路はこんなもの」とうたいあげ終幕となる。

※僕が初めて『ドン・ジョバンニ』と出会ったのは1985年、高校3年生のとき。映画『アマデウス』の中でクライマックスの“地獄墜ち”が再現されていた。歌詞の字幕がないため内容は分からないものの、弦の音がユラユラとさ迷うように浮遊する中で会話が進み、やがて松明(たいまつ)を持った地獄の亡者が何人も現れ、悪魔が宙を舞い舞台セットが崩壊するなど度肝を抜かれ、男女の恋のさや当てを超えた尋常じゃないオペラであることはわかった。まだネットのない時代であり、図書館であらすじを調べると、主人公は2065人もの女性を言葉巧みに口説き落とした放蕩者であり、恋路を邪魔した意中の女性の父親(騎士長)を殺害するなど、控え目に言って“クズ男”ゆえに騎士長の亡霊の手で地獄行きになったとのこと。女性の敵であるだけでなく、男性にとっても敵。なぜそのような人物が主人公になり、人気作品となっているのか腑に落ちなかった。
その謎が解明されたのが、1987年にザルツブルク音楽祭で上演されたカラヤン&ウィーン・フィルの『ドン・ジョバンニ』(バリトン:サミュエル・レイミー)のテレビ放送だった。この舞台は“地獄墜ち”シーンの背景が宇宙空間という仰天演出で話題に。日本語字幕のお陰で、ドン・ジョバンニは悪党ではあるが、(ことの善悪は別として)一貫して彼なりに筋を通していることがわかった。
・ドン・ジョバンニは相手の年齢も容姿も関係なく、「スカートさえはいていれば」口説く男。その言い分は「私はすべての女性を愛しているんだ」。恋心の多さを非難されると「善意や愛情の広さを裏切りと言われている」。
・従者の証言によるとドン・ジョバンニは1800人の女性の悩みを聞き慰めてきた。
・亡霊に「生き方を変えろ」と言われ「後悔したことはない」と拒絶、「悔い改めよ」には即答で「断る」。そして「来い、お前にはもっと重い刑がある」と地獄に堕とされようとしても、死ぬまで信念を曲げない。
・エルヴィラが何度騙されてもドン・ジョバンニのことを憎みきれず、想いを捨てきれないのは、やはり特別な存在なのだろう。
・老騎士長の命を奪ってしまったが、申し込まれた決闘であり、最初は戦いを拒否している。
モーツァルトの18作あるオペラの中で最も強烈なキャラクターといえるドン・ジョバンニ。繰り返すが、フェミニズムを出すまでもなく正当化できない悪党だ。それでも初演時から人気をキープしているのは、自分の生き方を一切悔いない人間などそういないため、「悪党ながら天晴れ」ということなのだろう。
※チェコの首都プラハの西岸には、モーツァルトの友人音楽家の別荘「ベルトラムカ」(最初の所有者ベルトラムスカーに由来)が現存する。プラハは前作オペラ『フィガロの結婚』が空前の大ヒットとなった都市。31歳のモーツァルトはこの別荘で『ドン・ジョバンニ』を完成させた。僕は2005年に訪問、内部には彼が弾いたピアノや白いロココ調ハープシコード、遺髪などが展示されていた。モーツァルトは『ドン・ジョバンニ』をプラハのエステート劇場(スタヴォフスケー劇場/旧ノスティツ劇場)で自身の指揮により初演したが、なんと映画『アマデウス』ではこの劇場で『ドン・ジョバンニ』公演のロケ撮影を行っている。映画でもモーツァルト役の俳優さんが指揮しており、まるでタイムスリップしたようだ。
※ドン・ジョバンニの名はドン・ファンのイタリア語読み。スペインの伝説上の好色漢だが、オペラの台本作家ロレンツォ・ダ・ポンテは、親しかったヴェネツィアの色事師カサノヴァ(1725-1798)のイメージを主人公に反映したという。カサノヴァは1000人の女性と男女の関係を持つ一方、すべての相手に敬意をもって接したと伝わる。彼の墓は隠棲地のボヘミア(現チェコ・ドゥフツォフ)の教会墓地にあったが、のちに墓地は公園になり、墓石(石板)だけが教会の外壁に遺る。
※『ドン・ジョバンニ』は父レオポルド他界の5カ月後に初演されており、映画『アマデウス』では亡霊がレオポルドであり、地獄墜ちのシーンはモーツァルトが父に説教されているという解釈をとっていた。
※吉田秀和 「彼(モーツァルト)の音楽の及ぶところ、高尚な人間も、野卑な人間も、強欲な人間も、美しい貴婦人も、醜い老婆もみんな尊い!蔑視できるものなどあるだろうか?」
※『ドン・ジョバンニ』フルトヴェングラー指揮チェーザレ・シエピ(バリトン)(カラー映像!日本語字幕) https://www.youtube.com/watch?v=NBt2vjTdCh0 (177分)
※『ドン・ジョバンニ』“地獄墜ち”同上 https://www.youtube.com/watch?v=NBt2vjTdCh0#t=161m07s
※『ドン・ジョバンニ』“地獄墜ち”マリウシュ・クヴィエチェン(ガチ炎) https://www.youtube.com/watch?v=gxgJK1JwKqQ (6分25秒)

この年、楽譜に正確に演奏すると妙な響きになる、ホルンと弦のコミカルな楽曲『音楽の冗談』を作曲。
※『音楽の冗談』https://www.youtube.com/watch?v=wFPoRmsiFzc (20分)
※『音楽の冗談』からメヌエットの調子外れなホルン https://www.youtube.com/watch?v=wFPoRmsiFzc#t=5m23s
12月末に初めての女児、第4子テレジアが誕生。
同年、神聖ローマ帝国皇室・宮廷作曲家の称号を得たものの、この頃から経済状態が極度に悪化していった。これはモーツァルトが書きたい音楽と、聴衆(貴族)が求める音楽の間にギャップが生まれ、次第にウィーンにおけるモーツァルトの人気が下火になっていったためだ。

★モーツァルトが活躍した18世紀は、音楽家は地位が低く尊重されていなかった。貴族のサロンの演奏会などで常に新曲を要求されたにもかかわらず、演奏はBGM扱いでお茶&おしゃべりに夢中、貴族たちはまともに聞いていなかった。作曲家の苦悩や人間性を音楽に反映する土壌はなく、求められたのはただただ心地よい音楽、親しみやすく聞きやすい音楽だった。モーツァルトはそれが我慢ならず、聴衆にもっとハイレベルな要求をした。「聴き手が何も分からないか、分かろうとしないか、僕の弾くものに共感できないような連中なら、僕はまったく喜びをなくしてしまう」(父への手紙)。“もっと新しいことに挑戦したい”というモーツァルトの想いは、24歳年上の当時の大作曲家、“交響曲の父”ハイドンに捧げた6つの弦楽四重奏曲、通称“ハイドンセット”に顕著に表れている。
このハイドンセットは、速筆で知られるモーツァルトが2年もの月日をかけて完成させたもので、楽譜には何カ所も書き直した跡がある。モーツァルトの自筆譜は美しく修正が少ないイメージがあるが、このハイドンセット6曲は、ベートーヴェンのような“生みの苦しみ”が見て取れる。彼自身、この力作に次の献辞を添えている「親愛なる友ハイドンへ捧げる〜わが6人(6曲)の息子、辛苦の結晶を最愛の友に委ねます」「(ハイドンの)庇護と指導のもとにあらんことを」。パトロンの貴族にではなく、敬愛する先輩作曲家に捧げた曲であり、そこから「本当はこういう曲を書きたかった」「ハイドンさんなら分かってくれるはず」という思いがにじんでいる。
ハイドンセットには当時の常識ではあり得ない“不協和音”を入れた作品があり、出版時に楽譜を手にした人から「間違いが多い」と破り捨てられたという話も伝わっている。1785年、モーツァルトはハイドンを自宅に招待し、自らヴィオラを弾いてこの曲を披露した。ハイドンは感銘を受け、同席したレオポルドに「神と私の名誉にかけて申し上げる。あなたのご子息は、私の知る、あるいは評判で知っている、全ての作曲家のうちで最も偉大な方です。彼は優れた趣味を持ち、さらには、最も優れた作曲の知識を持っています」と心から才能を讃えた。

だが、個性や芸術性を込めたモーツァルトの音楽は、人々から「難解」「とても疲れる」と思われ、かつては予約者でいっぱいだった演奏会が、一人しか予約者がいない日もあった。作曲の注文は減り、ピアノの生徒も激減した。演奏旅行でもらった贈り物の美しい陶器や装飾品は次々に質入れされた。モーツァルトは“分かりにくい音楽は必要とされなない”という「時代の壁」にぶつかり苦しんだ。「今時は、何事につけても、本物は決して知られていないし、評価もされません。喝采を浴びるためには誰もが真似して歌えるような、分かりやすいものを書くしかないのです」(父への手紙)。モーツァルトは平易な分かりやすい音楽と、自分が表現したい音楽との隔たりに悩みながら、ギリギリの妥協点を探して音楽性を高めていった。
貧困の理由としては、他にモーツァルト夫妻の浪費癖や、宮廷楽長アントニオ・サリエリらがモーツァルトの才能に脅威を感じて演奏会を妨害したため収入が激減したとする説もある。
ちなみに、1787年4月、31歳のモーツァルトはウィーンの自邸を訪れた16歳のベートーヴェンと会っている。目の前でベートーヴェンのピアノ演奏を聴き、この青年の将来の成功を確信したという。
ウィーンでは秋にグルックが他界。『ドン・ジョバンニ』をプラハで大成功させたモーツァルトが、グルックの後継として皇帝ヨーゼフ2世より《皇王室宮廷室内作曲家》の称号を与えられた。

1788年(32歳)、モーツァルトはウィーンで人気を取り戻すべく2月に予約音楽会を企画し、『ピアノ協奏曲第26番《戴冠式》』を完成させたが、残念ながら申込みが少なくて開催中止になった。《戴冠式》の愛称は2年後のドイツ公演による。
一方、3大交響曲と呼ばれる第39番、40番、41番『ジュピター』を1カ月半という驚愕の短期間で仕上げる。モーツァルトの手紙によると、まずは頭の中で第1楽章を作曲し、それを譜面に書き起しながら第2楽章を頭の中で作曲、続いて第2楽章を書きながら頭の中で第3楽章を作曲していたという。この3大交響曲は生前に演奏された確実な記録がない。ワーグナーいわく「器楽のもつ“歌う”という表現可能性を頂点まで高め、それが、心の無限の憧れの底知れぬ深みを捉えうるまでにした」。
まず6月26日に『交響曲第39番』を完成。オーボエに代えてクラリネットを導入、モーツァルトの全交響曲の中で管楽器の扱いにおいてトップクラスの作品。
※『交響曲第39番』アーノンクール指揮古楽器 https://www.youtube.com/watch?v=j0Az8THQLQ0 (30分)
続いて7月25日に『交響曲第40番』を作曲。前月末に長女テレジアが生後半年で他界したこともあるのだろう、ため息のような情感を含んだ音符が、そして感情の奔流が、聞き手を飲み込んでいく。
※『交響曲第40番』ワルター指揮 https://www.youtube.com/watch?v=3qyq1Dt-NVY (25分49秒)
※『交響曲第40番』セル指揮 https://www.youtube.com/watch?v=PF69YpR42ek (26分43秒)
※『交響曲第40番』ブリュッヘン指揮古楽器 https://www.youtube.com/watch?v=Q_-iM3EqASM (22分26秒)
そして8月10日に『交響曲第41番《ジュピター》』が完成した。美の極致。フーガの圧倒的な高揚感!リヒャルト・シュトラウスいわく「私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。終曲のフーガを聞いたとき、私は天国にいるかの思いがした」。《ジュピター》の愛称は同時代の音楽興行師ザロモンによるという。
※『交響曲第41番《ジュピター》』アーノンクール指揮 https://www.youtube.com/watch?v=f0eGW8C_124 (39分23秒)
※『交響曲第41番《ジュピター》』同上から黄昏の第二楽章 https://www.youtube.com/watch?v=pcOLU3VHsqA#t=11m41s
※『交響曲第41番《ジュピター》』同上から終楽章の昇天フーガ https://www.youtube.com/watch?v=pcOLU3VHsqA#t=27m57s
9月にヴァイオリン、ヴィオラ、チェロによる弦楽三重奏『ディヴェルティメント変ホ長調』を作曲。枯れた感じがめちゃくちゃ良い!モーツァルトのベスト作品という人も。
※『ディヴェルティメント変ホ長調』K. 563 https://www.youtube.com/watch?v=wP9WzMLaNo0 (44分)大曲!

この年の手紙には作曲家としての誇りが書かれている。「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さい頃から、特別な才能の持ち主と、同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。ぼくが幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は他には一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです」。

1789年(33歳)、7月にフランス革命が勃発。フランスでは市民が国が動かすようになった。この年、コンスタンツェは脚の病気を発病、医師の指導とモーツァルトの勧めで、毎年夏に温泉地バーデンへ湯治(とうじ)に出かけるようになった。11月に第五子アンナが生まれたが、その日のうちに息をひきとった(死産かもしれない)。ここまで5人を授かり、一人しか生存していない。
モーツァルトはコンスタンツェを愛し続け、手紙はいつも「最愛最上の妻よ!」で始まった。旅先には彼女の肖像画を必ず持参し、肖像画を取り出しては「こんにちは、いたずらっ子、ぴちぴちの踊り子さん、おチビさん」と声をかけ、寝る前には毎晩ベッドに入る前にたっぷり30分は「おやすみ、ねずみちゃん、よくお眠り」などと話しかけた。これらを文面で報告した後、「ずいぶん馬鹿げたことを書いたように思うけれど、心から愛し合っている僕たち2人にとってはちっとも馬鹿げてなんかない。君のもとを離れて6日目だけど、絶対にもう一年は経った気がするよ」(1789年ドレスデンにて)。ドレスデンで妻から手紙を受け取ったときは「夜中の11時半に書いている」「ずっと長いこと熱烈に焦がれながら待ち望んでいた手紙が届いた。最愛の君!最上の君!僕は凱歌をあげてすぐ部屋に入り、開封する前に数え切れないほどキスし、読んだというよりむさぼりついたよ」「1兆950億6043万7082回キスし抱きしめるよ」と歓喜した。ベルリンでは手紙の最後に「永遠に君の忠実な友にして心から君を愛する夫より」と結んだ。

1790年(34歳)、人気が落ちて仕事がなく、あんなに多作だったモーツァルトが1年に5曲しか書いていない。妻の療養費もあって家計の困窮は加速し、金策に駆けずり回ることが増え、ずっと陽気だった手紙に弱気な言葉が出てくる。

1月、恋人の取り替えごっこを描いたオペラ『コジ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)』初演。ナポリの美しい姉妹を恋人に持つ2人の若い士官が、相手の貞節を試すため、変装して互いの恋人に言い寄るというもの。初演は成功したが、“女性の貞節は当てにならない”というオチゆえに、女性蔑視という意味で上演機会は少なかった。20世紀に入って、陰影のある旋律や美しいアンサンブルなど優れた音楽性によって評価が高まった。
※『コジ・ファン・トゥッテ』 https://www.youtube.com/watch?v=XDqFkQRIqTU (150分)
2月、平和な理想社会の建設を目的としたフリーメイソンに理解のあった皇帝ヨーゼフ2世が48歳で崩御し、その後フリーメイソンは禁止され非合法化された。
10月、フランクフルトで神聖ローマ帝国皇帝レオポルト2世の戴冠式の祭典が催され演奏会を行う。モーツァルトは戴冠式を祝って集まる貴族を目当てにフランクフルトに入り、借金と質入れまでしてこの演奏会の実現に賭けた。当日は『ピアノ協奏曲第19番』『第26番』を演奏、後者には《戴冠式》の愛称が生まれた。だが、11時スタート、休憩時間込みで2曲演奏しただけで3時間もかかり、昼食に行きたい聴衆がいら立ち、三曲目の交響曲は演奏できずに終わる。結局、期待したほどの収入は得られず借金が増えただけだった。モーツァルトは妻への手紙で「(演奏会と同時刻にあった)侯爵邸の大がかりな昼食会と、ヘッセンの軍隊の大演習に客を取られ、書いていて涙が出てきた」と珍しく弱音を吐いた。その後も、「前の手紙を書いたときに、紙の上にいっぱい涙をこぼしてしまった」と綴るなどダメージの深さがうかがい知れる。

1791年、申込み者がなく予約演奏会を3年以上も開くことができなかったモーツァルトだが、再び開催できる可能性に賭けて1月5日に最後のピアノ協奏曲となった『ピアノ協奏曲第27番』を完成させた。晩年のモーツァルトに特徴的な、えも言われぬ透明感をたたえている。発表できるあてもないのに、このように美しい曲が書かれた。第3楽章の旋律は歌曲『春への憧れ』に転用されている。結局、演奏会は実現せず、3月に宮廷料理人の邸で開かれた音楽会で初演された。この演奏会がモーツァルトにとって演奏者としてステージに登場した最後の機会となる。
 ※『ピアノ協奏曲第27番』グルダ&アバド、軽みと透明感 https://www.youtube.com/watch?v=zcE_7adLdEo (32分)
1月14日、歌曲『春への憧れ』を作曲。モーツァルトの作品だが、現在のドイツではなかばドイツ民謡となっている。
※『春への憧れ』 https://www.youtube.com/watch?v=LjJzPok_qmE (2分38秒)
3月、仕事がなく生活に困っていたモーツァルトに、フリーメイソン会員で旧知の旅一座のオーナー、シカネーダーからオペラ『魔笛』の作曲を依頼。モーツァルトは作曲を開始する。
5月23日、盲目のグラスハーモニカの名手のため『グラスハーモニカのためのアダージョとロンド』 ハ短調 K.617を作曲。グラスハーモニカ、フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロの五重奏。夢見心地になる不思議な音色。
※『グラスハーモニカのためのアダージョとロンド』 https://www.youtube.com/watch?v=Y1SSAVAdj0Q (12分)
※『グラス・ハーモニカのためのアダージョ』 https://www.youtube.com/watch?v=QkTUL7DjTow (4分53秒)
6月(死の半年前)、バーデンで保養中のコンスタンツェにモーツァルトはウィーンから手紙を送る。「愛しい君、唯一の大事な人!空中を飛び交う僕からの2999個半のキスを受け止めておくれ」。
6月17日、療養中の妻を世話してくれた合唱指揮者のため46小節の小品、讃美歌『アヴェ・ヴェルム・コルプス』を作曲。まさに天上界の音楽、透き通った素朴な旋律が心の奥底まで染み渡る。歌詞は「めでたし、まことの御体、十字架上に犠牲となられ、我らのために血を流したまう」。
※『アヴェ・ヴェルム・コルプス』 https://www.youtube.com/watch?v=_ovQYVl0Gzs (3分31秒)これを聴いていると、もうモーツァルトは半分この世の人ではないように思える…。
7月(8月?)、過労から健康を損ねていたモーツァルトのもとに、灰色の服をまとった謎の男が訪れ、『レクイエム』(鎮魂ミサ曲)の作曲を依頼した。モーツァルトは男を死神の使いと思い込む。男の正体は音楽愛好家ワルゼック・シュトゥバッハ伯爵の使者で、伯爵が亡き妻に捧げるために依頼したものだった。7月26日に第六子フランツが生まれる。コンスタンツェは結婚から9年の間に6人の子を生んだが4人が乳幼児のときに没し、第二子のカールとこのフランツだけが成年に達した。
こうした状況でボヘミアからオペラ『皇帝ティトの慈悲』の注文がきた。新ボヘミア王となったレオポルト2世の戴冠式の祝典用だった。家計は火の車であり少しでも収入に繋がるものは引き受けねばならない。彼は『魔笛』の作曲を一時中断し、一説には8月中旬から書き始め18日間で完成させたという。9月6日プラハ国立劇場にて『皇帝ティトの慈悲』は初演された。皇位継承をめぐって友人と未来の皇妃に暗殺されかけたティトは、裏切りという残酷な運命を嘆くが、寛大さを重んじすべての者を許す。
9月30日『フィガロの結婚』『ドン・ジョバンニ』と並ぶ3大オペラの『魔笛』の初演。この最後のオペラはウィーン市民でも分かるように通例のイタリア語ではなくドイツ語で書かれ、劇場も郊外の民間劇場だった。そこには“オペラを貴族のものから市民のものに”という思いがあったのかも知れない。貴族の隣に市民が座ってオペラを楽しむなど、半世紀前には考えられなかった。
※『魔笛』日本語字幕 https://www.youtube.com/watch?v=j1u4ZIZmS2A (168分)

10月頃に最後の協奏曲『クラリネット協奏曲』を作曲。友人でフリーメイソンの仲間だったクラリネットの名手シュタートラーの演奏に刺激を受けて書かれた。第二楽章アダージョは重力から解放された温かみのある旋律、人生の何もかもがこの第二楽章に溶け込んでいくよう。
※『クラリネット協奏曲』ヘープリチ(バセット・クラリネット)&ブリュッヘン古楽器オケ https://www.youtube.com/watch?v=3g_x_LDhKq4 (28分24秒)
※『クラリネット協奏曲』第二楽章の彼岸の響き https://www.youtube.com/watch?v=3g_x_LDhKq4#t=12m48s
10月14日、ウィーン郊外からの妻宛の手紙で、宮廷楽長サリエリとその弟子がモーツァルトの最後のオペラ『魔笛』を観劇に訪れ、サリエリが台本も音楽も全てを気に入ってくれたことを喜んで報告。「彼らは“一番の祝祭日に最も偉大な君主の御前で上するに値するオペラだ”とか、“これほど素晴らしく気持ちの良い演目は観たことがなく、このオペラを何度も観に来るだろう”と言ってくれた」「サリエリは心を込めて聴いてくれ、序曲から最後の合唱までブラボーやベロー(美しい)を言わない曲はなかった」。同日の『魔笛』には7歳のカールも連れて行った。「カールはオペラに興奮してすごくはしゃいでいたよ」。この手紙には「僕は家にいるのが一番好きだ」と記しており、妻への最後の恋文となった。
その翌月、モーツァルトは11月20日から2週間ベッドで寝込み、死の4時間前までペンを握り『レクイエム』の作曲を続けたが、第6曲「ラクリモサ(涙の日)」を8小節書いたところで力尽きた。12月5日午前0時55分永眠。享年35歳。その音楽の特徴である“歌うアレグロ”のように、35年を駆け抜けた。妻は何らかの理由で臨終に立ち会えなかったが、コンスタンツェの妹ゾフィーが看取った。ゾフィーいわく「最後には口で『レクイエム』のティンパニーの音を出そうとしていました。私の耳には今でもその音が聞こえます」。臨終前に聖職者が来るのを拒んだことから、終油の儀は受けていない。モーツァルトは弟子のジュースマイヤーにレクイエムの残りの楽章の主声部を書き留めさせ、他の声部をどう補うか構想を伝えていたので、ジュースマイヤーがレクイエムを完成させた。

※『レクイエム』ベーム&ウィーン・フィルの歴史的名盤 https://www.youtube.com/watch?v=6oA3MFrL2aM (64分32秒)
※『レクイエム』アーノンクール指揮の古楽器版 https://www.youtube.com/watch?v=h4GBSO4fXIw&list=PLD845C5695BE2446B

翌日午後3時からの葬儀はモーツァルトの家のすぐ近くにある聖シュテファン大聖堂屋外の小さな十字架礼拝堂(わずか数坪)で執り行われたが、一番安い第三等級の葬儀費用も手元になく、コンスタンツェは知人からお金を借りた。まだ生後5カ月の赤ん坊(フランツ)の世話もあり、彼女は心労で寝込んでしまい、葬儀には参列できなかった。午後6時、参列者は当時ウィーンを守っていた市門まで歩き、そこで棺を乗せた荷馬車を見送った。そこからモーツァルトの亡骸は5kmの道のりを御者と旅し、ザンクト・マルクス墓地に到着した。この墓地は市内中心部の墓地の閉鎖を決めたヨーゼフ2世の勅命により、7年前の1784年に開かれたばかりの新しい墓地。ヨーゼフ2世は倹約を重視し、葬儀の簡素化を求め、たとえ肉親でも郊外の墓地に同行できなかった。
葬儀費用にも事欠くモーツァルト家に墓を建てる余裕はなく、棺は葬儀屋と墓堀り人の手で墓地中央にある貧困者用の「第三等」共同墓地(ただの穴)に運ばれ、棺から出されたモーツァルトの体は亜麻袋に入ったまま穴に放り込まれた。この時、同じ穴に他の5人の遺体があったという。映画『アマデウス』にも彼の死体袋が貧民用の墓穴に無造作に投げ込まれ、伝染病防止の為に石灰をかけられるシーンが出てくる。このように墓地が生者から隔離されているため、コンスタンツェが初めて夫の墓参りをしたのは17年も後(1808年)のことだった。ちなみに36年後にベートーヴェンが亡くなったときは、埋葬時に人々が立ち会い、棺のまま埋葬されていることから、ヨーゼフ2世の葬儀簡素令は次第に風化していったとみられる。

29歳で未亡人となったコンスタンツェは、夫が残した多大な負債を抱えながら2人の子どもを育てる。7年後、モーツァルトの再評価が進み、楽譜の版権が大きな収入を生み、借金を完済することができた。デンマークの外交官ゲオルク・ニコラウス・ニッセンと同棲を始め、ニッセンが交渉役となった。自筆譜を売りに出せば収入になると分かっていたが、すぐに手放すことができず、最初に音楽出版社に売却したのは没後8年目のことだった。
夫との死別から18年が経った1809年、コンスタンツェはニッセンと再婚した。共に47歳。1820年、ニッセンは58歳で退官しコンスタンツェと共にモーツァルトの故郷ザルツブルクに移住し、1823年からモーツァルトの伝記執筆に情熱的に取り掛かる。実姉マリア・アンナ・モーツァルト(ナンネル)から提供された弟からの手紙は400通にのぼった。1826年にニッセンは64歳で他界するが、知人の手で1829年にモーツァルトの最初の伝記が無事出版された。
ニッセンは伝記を書くにあたって、40年前の妻の記憶を、風変わりなひょうきん者で、優しい寂しがり屋の愛妻家モーツァルトとの9年間の思い出を、誠実に聞き出した。
※このニッセンによる伝記執筆について、当サイトでも複数の手紙を引用・参考にさせてもらっている書籍『音楽家の恋文』(クルト・パーレン著/池内紀訳)に胸が熱くなる文章が載っていたので紹介したい。「(ニッセンは)驚嘆すべき熱心さでモーツァルトに関する資料を集めた。そうして妻の数々の記憶にもとづいて、モーツァルトの初期の伝記の一冊を書きあげることができた。あるいはこの作業の過程で、コンスタンツェはモーツァルトという男性の価値のすべてが、はじめて正しく理解できたのかもしれない。きわめて好ましくない状況にあったにもかかわらず、何となく幸せで、愛された九年の間、自分の夫であった人のすべてが。」

コンスタンツェはニッセンの死後もザルツブルクで暮らし、モーツァルトの没後50年にあたる1841年に国際モーツァルテウム財団の設立に関わった。翌1842年3月6日に彼女は80歳で永眠した。元夫の死から51年が経っていた。彼女の墓はザルツブルク新市街の聖セバスティアン教会の墓地にある。ここには元々モーツァルトの父レオポルト・モーツァルトの墓がある。いわばモーツァルト家の墓所だ。ところが、コンスタンツェは1826年に再婚相手ニッセンの墓を、モーツァルト家の反発に耳を貸さずにレオポルドの隣りに建て、ニッセン家の墓としてしまった(息子の嫁として認めなかったレオポルドへの復讐とする説もある)。これに激怒したモーツァルトの姉ナンネル(マリア・アンナ)は、1829年に没する際に「別の聖ペーター教会に葬って欲しい」と遺言で希望し、そちらに埋葬された。コンスタンツェは1839年には姉アロイジアも聖セバスティアン教会に埋葬し、その3年後に自らもここで眠りについた。ニッセンの墓碑には「モーツァルトの未亡人の夫」と彫られてあり、一応コンスタンツェからモーツァルト家への配慮は見て取れるがナンネルには通じなかったようだ。

コンスタンツェの他界から間もなくザルツブルクにモーツァルト像が完成し、除幕式には生存していた息子2人、カール(58歳)とフランツ(51歳)が列席した。この2人の息子にも少し触れよう。コンスタンツェはモーツァルトの死後、7歳のカールにプラハで教育を受けさせ、14歳からは商業学校に通わせた。カールは次第に音楽への思いがつのり、1805年に21歳でミラノに出て本学的に音楽を学び始めたが、3年で父親のような楽才が自分にないことを悟り、音楽の道を諦めて文官としてミラノ行政に関わった。
末子の弟フランツは生後4カ月で父を失った後、成長してアントニオ・サリエリなどに師事。フランツは音楽の才能を発揮し、兄が音楽家にならなかったことや母の希望もあって“モーツアルト2世”を名乗って活躍した。ピアノ協奏曲やヴァイオリン・ソナタを作曲し、洗練された楽想が評価されたが、30代になると作曲の筆を置き、ピアニストとして演奏活動に集中した。そして先述した銅像の除幕式に出席し、2年後の1844年に胃癌のため保養地のカールスバートにて53歳で亡くなり、同地に墓が建てられた。それから14年後、1858年にカールが74歳で世を去る。カールもフランツも生涯独身で子どもをもうけなかったため、モーツァルトとコンスタンツェの血筋は途絶えた。

モーツァルトの共同墓地の墓はその後どうなったか。死から10年後、埋葬地は別用途で使うために掘り起こされ、その際にかつてモーツァルトを埋葬し、どの身体がモーツァルトかを知っていた墓掘り人が頭蓋骨(真偽は論争中)を保存した。とにもかくにも、正確な埋葬場所は分からずとも、墓守の証言で候補地は特定されており、その場所に1859年(モーツァルト家の最後の生存者カール他界の翌年)にウィーン市の依頼を受けた彫刻家ハンス・ガッサーが制作した巨大な墓碑が設置された。墓碑の上部には女性のブロンズ像があり、手には『レクイエム』の楽譜を持っている。台座の正面にはモーツァルトの横顔のレリーフがあり、側面には「ウィーン市の寄贈」と刻まれている。“ウィーン市の寄贈”…なんとも感慨深い言葉だ。モーツァルトの存命中は芸術家の社会的地位がとても低く、約70年前にモーツァルトが貧困の中で死んだとき、当局からは何のサポートもなかった。それが今や、彫像付きの立派な墓碑を行政が用意。この1859年はウィーン市を囲む城壁を撤去して幹線道路にすることを決定した年であり、オーストリアが覇権国家から文化国家へ大転換を始めた年。時代の空気が変わる中でモーツァルトに対する敬意は大いに高まった。
その後、没後100周年となる1891年に、ザンクト・マルクス墓地の墓碑はブラームス、ヨハン・シュトラウスら大勢の有名作曲家が眠る中央墓地(1874年開設)の名誉区に移設された。中央墓地にはこの3年前にベートーヴェンやシューベルトが改葬されており、“最後の大物”としてモーツァルトが加わった形だ。

ザンクト・マルクス墓地は中央墓地の開設と共に新規の受付をやめ、既に閉鎖状態にあったが、主(あるじ)同然のモーツァルトの巨大墓碑が消えたことでいっそう寂しげな空間になった。墓碑がなくとも、まだこの地下のどこかにモーツァルトの身体はあるのに…。そこで誰かが墓地に転がっていた石板にモーツァルトの名と生没年を彫って墓碑の代わりに置いた。その後、墓地の管理人アレキサンダー・コーグラーが打ち捨てられていた天使の像を添え、さらに折れた円柱の墓石を積み上げて体裁を整えた。「いまあるモーツァルトの墓碑は、すべてが“廃物利用”の墓碑である」(平田達治著『中欧・墓標をめぐる旅』より)。ザンクト・マルクス墓地は半世紀以上も放置されていたが、やがて貴重な文化財として整備され、1937年に史跡として公開された。最初に置かれた石板はいつしか消えたが、悲しむ天使が寄り添う墓を後世の人々は大作曲家を偲ぶものとして墓参している。

ときに、例の“モーツァルトの頭蓋骨”は様々な人の手を転々とした後、1902年に国際モーツァルテウム財団が保管することになった。2004年、頭蓋骨の真偽論争に決着を着ける為、ウィーン医科大学教授らの研究チームが、ザルツブルグに眠る伯母や姪の遺骨を掘り出し、DNA鑑定を実施した。結果が生誕250年の2006年に発表され、残念ながら別人だったものの、新たな謎が生まれた。伯母と姪の遺骨同士は縁戚関係にないことが判明したのだ。照合した遺骨に問題が出たことで、頭蓋骨はまだモーツァルト本人の可能性が残っている。

「ウィーンはモーツァルトがサリエリに毒殺されたという噂でもちきりです」(ベートーヴェンの筆談メモ)。モーツァルトの死因については100説以上あり、真相は謎だ。宮廷音楽長のイタリア人作曲家アントニオ・サリエリが才能に嫉妬して毒を盛ったという噂をベートーヴェンが聞いている。有力な死因は幼少期の長い旅行生活で罹ったリウマチ熱だが、モーツァルト自身は死の5カ月前に“毒殺されかけている”と妻に訴えている。「私を嫉妬する敵がポーク・カツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」。没後39年、ロシアの作家プーシキンは戯曲『モーツァルトとサリエリ』を発表した。いずれにせよ、死者に捧げる『レクイエム』の作曲中に死んだことに何か運命的なものを感じる。
モーツァルト夫妻には子どもが6人生まれたが、4人が早世。成人できた2人は生涯独身で子どもがいなかったため直系の子孫はいない。

モーツァルトの人生は35年10ヶ月と9日だが、そのうち10年2ヶ月と8日は旅をしていた(約3700日)。その距離、実に2万キロ。これは地球半周に匹敵する。6歳から19歳まで、父レオポルドは毎年のようにモーツァルトをヨーロッパ各地に連れ出し、多種多様な音楽に触れさせた。その結果、優美で繊細、かつ深みのある作風になった。モーツァルトは美しいメロディーラインを重視するイタリア気質と、厳格な構成と対位法を重んじるドイツ気質の両方を持つようになり、シンプルな均整美を持つ従来の古典派音楽を土台にしつつ、次世代の劇的なロマン派の要素も先取りしていた。フランス革命もあり、晩年の客層は貴族から市民に変わり始めていた。死の直前に完成した『魔笛』は大衆性と芸術性が見事に融合されており、興行的にも大成功した。妻への手紙「たった今オペラから戻ったところ。いつものように超満員だった。僕が一番嬉しかったのは静かな賛同だ!このオペラの評価が日ごとに高まっているのがよく分かる」。モーツァルトが長生きしていたら、どんな作品を書いていただろう。それを聞けなかったのは本当に残念だし人類の損失だ。
モーツァルトの曲は大半が宮廷用、もしくは貴族のお抱えオーケストラ用であったため、単純に聴いてて楽しい曲が多い。だが、そこには「幸せ」と「悲しみ」が同時に存在している。注文に従って明るい曲を書き続けていたが、実生活は就職口を求めて何年も続いた過酷な旅、身分差別の屈辱、旅先での母の死、子ども4人に先立たれる悲劇、膨大な借金…。
僕は悩み多き20歳頃、重厚なベートーヴェンに比べて、軽快な曲の多いモーツァルトに反発していた。でもその後、人生が辛いときに暗い曲を書くのは簡単だ、人生が苦しいのに明るい曲を書き続けたのはスゴイと思うようになった。モーツァルトはいかなる場合でも歌うことを忘れない。辛いときこそ笑顔。だからこそクラシック・ファンは彼の“陽気な曲”をこよなく愛し、今日もオーディオの電源を入れる。

ザンクト・マルクス墓地は約6000の墓石が現存し、8000人の被葬者が確認されているとのこと。行き方は71番のトラムに乗りザンクト・マルクス(St.Marx)で下車。徒歩8分なので必ず地図で確認しながら向かおう。正門からすぐの所に墓地マップがあり、モーツアルトの墓には「Mozartgrab」と印が入っている。墓地の中央道をゆっくり上っていくと左手に見えてくる。開けた場所に彼の墓だけがポツンとあるので分かりやすい。以前はこの墓地に野良猫ならぬ“野良クジャク”がいて、巡礼者を仰天させていた。

※「音楽は、最もむごたらしい状況においても、なお音楽であるべきです」(モーツァルト書簡)
※モーツァルトの死から71年を経た1862年、オーストリアのモーツァルト研究家ルートウィヒ・フォン・ケッヘルが作品目録を作成し、全作品にケッヘル番号=通し番号をつけ、これによりモーツァルト研究がさらに進んだ(現在は1964年の第6版を使用)。
※絶対王政のこの時代、音楽家の地位は非常に低く、モーツァルトも宮廷では召使い同然の扱いしか受けなかった。彼は風刺オペラ『フィガロの結婚』でバカ貴族を笑い者にしたが、台本を書いた元神父ロレンツォ・ダ・ポンテは国外追放、モーツァルトも一時期宮廷の仕事を干されてしまう。
※モーツァルトは交響曲第41番『ジュピター』を作曲した後、まだ3年間生きていたのに、新しい交響曲を書かなかった。ジュピターの終楽章には、なんと彼が8つの時に作った交響曲第1番と同じメロディーが登場する。これはモーツァルト自身が、「シンフォニーではやりたい事を全てやった」と満足していたのかも知れない。
※モーツァルトの基本タイムスケジュール→6時起床/7時作曲/9時ピアノレッスン(指導)/18時演奏会・遊び/22時作曲/25時半就寝。睡眠時間は4時間半。
※完成させた最後の曲は小カンタータ『フリーメーソンのためのカンタータ(我々の喜びを高らかに告げよ)K623』。歌詞は「♪高らかに僕らの喜びを告げよ/音楽の楽しい響きを拡げよ/兄弟1人1人の心よ/その壁のこだまを受け取れよ」。この曲についてモーツァルトは「これまでだって良いものを書いてきた。だが、これ以上うまく書けたことはない。今夜のカンタータこそ僕の最高傑作だ」と語っている。
https://www.youtube.com/watch?v=Y8Lsr0-L7ZU
※作品数は少ないけど短調の暗い曲もある。それらはどれも陰影に富み、深く胸に響く名曲揃い。哀愁を帯びた旋律が聴く者の胸に迫る。
※モーツアルト像で最も有名なものはウィーンの王宮広場のイケメン像。
※手紙は5ヶ国語を使い分けて書かれている。
※ウィキには「検死によると身長は163cm」とあるけど、僕が昔読んだ新聞記事には148cmとあった。
※ビリヤードが大好きで、自宅にビリヤード台を置き、その上で作曲したこともある。
※葬儀のあった聖シュテファン大聖堂の北東隅の十字架礼拝堂には、モーツァルトの葬儀について記された石板が置かれている。
※コンスタンツェの父方の従弟がドイツ・ロマン派のオペラ様式を『魔弾の射手』で完成させた作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバー。
※文献によってはモーツァルトが英国訪問時にバッハと会ったと書かれているけど、モーツァルトはバッハの死後6年後に生れているので、彼が会ったのはバッハの息子クリスチアン。
※日本でモーツァルト協会が設立されたのは1955年。
※1920年、リヒャルト・シュトラウスらの呼びかけでザルツブルク音楽祭が企画され、今でも毎年夏に開催されている。
※「旅をしない人はまったく哀れな人間です。凡庸な才能の人間は、旅をしようとしまいと凡庸なままです。でも、優れた才能の人はいつも同じ場所にいればダメになります」(1778/モーツァルト、父への手紙)
※これは思い過ごしであって欲しいけど、モーツァルトの最後の子どもフランツはフルネームがフランツ・クサーヴァー・モーツァルト。モーツァルトの弟子フランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーの名を受け継いでいる。ジュースマイヤーはコンスタンツェの夏期保養に長く同行しており、コンスタンツェの不義の子ではと後に憶測されることとなった。
※フランツのピアノ曲『メランコリックなポロネーズ』(4分30秒)良い曲っす! https://www.youtube.com/watch?v=dnjcu4v789s
「私はモーツァルトの曲に触れて、神を信じるようになった」(ゲオルグ・ショルティ)指揮者
「モーツァルトの音楽は、あたかも天国の記憶のようだ」(小林秀雄)文芸評論家
「モーツァルトの悲しさは疾走する。涙は追いつけない」(小林秀雄)
「その音楽は宇宙にずっと昔から存在していて、彼の手で発見されるのを待っていたかのように純粋だ」(アインシュタイン)
「死とはモーツァルトが聴けなくなることだ」(アインシュタイン)
「人生の生き甲斐とはジュピターの第2楽章だ」(ウディ・アレン)
「(もし有力者が彼の才能を理解できるのなら)多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」(ハイドン)※モーツァルトより24歳年上。

●モーツァルトの生誕250周年を祝って、故郷オーストリア・ザルツブルクの国際モーツァルテウム財団が全楽譜を無料で公開した。もちろん印刷も自由!作品番号で検索可能なので、有名な交響曲第40番(作品番号K.550)ならKVの後に「550」と入力するだけで楽譜が出てくる。5歳で書いた最初の曲“アンダンテ・ハ長調”なら「1a」でOK。ウィキペディアの「楽曲一覧」がジャンル別に整理されて作品番号も載っているので、これと併せて検索をかけるのがグッド。それにしても、700曲以上もあるモーツァルトの曲を全部アップするなんて、どんなに膨大な作業時間を要したのだろう!

〔参考資料〕平田達治『中欧・墓標をめぐる旅』(集英社新著)、クルト・パーレン/池内紀訳『音楽家の恋文』(西村書店)、『その時歴史が動いた 音楽の市民革命・神童モーツァルトの苦悩』(NHK)、『世界人物事典』(旺文社)、『名曲事典』(音楽之友社)、エンカルタ総合大百科(マイクロソフト)、『ブリタニカ国際大百科事典』(ブリタニカ・ジャパン)ほか。
【Special Thanks!!】サカタ・キャウヤさん



★チャイコフスキー/Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840.4.25-1893.10.25 (ロシア、ペテルブルク 53歳)1987&05&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation
本名:Pyotr Tchaikovski

著名人が多く眠るアレクサンドル・ネフスキー修道院 修道院のチフヴィン墓地の前で画家が絵を売っていた



2005年。この時は赤い花が多かった 4年後。写真では分り難いけど、紫の花が多くなってた(2009) 2体の天使が寄り添う


天使の左腕に献花してあった
(2005)
胸像付きの墓は、光が差すとグッとドラマチックになる。この写真を
撮る為に1時間近く太陽が出るのを待った。待って大正解!(2009)

19世紀ロシアを代表する作曲家。叙情と哀愁の作曲家チャイコフスキーは、1840年5月7日、モスクワから1000km東に位置するウラル地方ボトキンスクに生まれた。父は鉱山技師。母は14歳のときにコレラで没した。青年期は父の望みでサンクトペテルブルクの法律学校に進んだ。19歳で法務省に入ったが、以前から音楽が大好きで、特にモーツァルトの歌心とグリンカの民族性に心酔していたことから、1861年(21歳)に知人の紹介でロシア音楽協会の音楽教室(後のペテルブルク音楽院)に入学、リストと並び称される大ピアニストのアントン・ルビンシテインに師事した。本格的に音楽を学んだチャイコフスキーは23歳で法務省を辞職し、音楽一本に専念していく(大作曲家の中では音楽家としてのスタートは遅い)。

1866年(26歳)、師の弟で同じく作曲家兼ピアニストのニコライ・ルビンシテインが創設したモスクワ音楽院に招かれ、和声の教授に就任。チャイコフスキーは教壇に立ちながら作曲を続け、同年、『交響曲第1番“冬の日の幻想”』を作曲。以降11年間の教職時代に作曲家としての名声が決定づけられていく。1868年(28歳)、音楽院で知り合った劇作家の台本を使いオペラ第1作『地方長官』を作曲。この年、ロシア音楽に根ざした国民楽派の“ロシア5人組”、モデスト・ムソルグスキー(1839-1881)、アレクサンドル・ボロディン(1833-1887)、ミリイ・バラキレフ(1837-1910)、ツェーザリ・キュイ(1835-1918)、ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844-1908)と知り合い、チャイコフスキー(西欧派)の楽曲にもロシア風の曲調が増えるなど大いに刺激を受けた。同年オペラ歌手デジレ・アルトーと恋に落ちるが翌年破局。
1869年(29歳)、シェイクスピアに題材をとった幻想序曲『ロメオとジュリエット』を書き、ドラマチックな戯曲世界と登場人物を見事に音楽で表現する。1871年(31歳)、人気の“アンダンテ・カンタービレ”を含む『弦楽四重奏曲第1番』、1872年(32歳)『交響曲第2番“小ロシア”』を作曲。1875年(35歳)、代表作のひとつとなる『ピアノ協奏曲第1番』を書き上げ、ニコライ・ルビンシテインに献呈したが、ルビンシテインから「演奏不可能の難曲」と酷評された。チャイコフスキーは落胆し、改定してドイツの指揮者兼ピアニスト、ハンス・フォン・ビューローに献呈。ビューローは作品を気に入り、同年のアメリカ演奏旅行で初演し大成功させた。その後、ルビンシテインはチャイコフスキーに酷評を詫びている。

1876年(36歳)、鉄道王・富豪の未亡人メック夫人(45歳)との風変わりな交流が始まる。楽才に惚れた夫人は6000ルーブルの年金提供を申し出、14年後に夫人が経済的理由で援助を打ち切るまで続いた。両者は数千枚にのぼる文通だけの関係で、1度きりの偶然の出会いをのぞき、まったく顔を合わせることがなかった。このメック夫人の援助のお陰で教職を辞して作曲活動に集中でき、イタリアやフランスに滞在しながら傑作を書き続けた。
1877年(37歳)、バレエ音楽の最高峰『白鳥の湖』初演。シリアスな音楽が舞踊音楽のために書かれたのは、グルックのオペラ・バレエ以来、100数十年ぶりだった。『白鳥の湖』は現代では大人気の演目だが、ボリショイ劇場の初演は平凡な振り付け、ダンサーとオーケストラの練習不足もあって大不評で、お蔵入りになってしまう(他界2年後、初演から18年後に振付師のプティパが再演して大ヒット)。同年、交響曲第4番をメック夫人に捧げる。文豪トルストイ(当時49歳)との交流も始まった。
この頃、チャイコフスキーが同性愛者であることが噂になり、当時のロシアではタブーだったことから、噂を打ち消すべく、愛を告白されたモスクワ音楽院の学生アントニナ・ミリューコワと結婚した。だが、結婚生活は最初からつまづき、精神を病んだチャイコフスキーはモスクワ川で自殺を図り、医師の指導もあって早々に離婚、スイスで保養した。
1878年(38歳)、『バイオリン協奏曲』を作曲(この曲も当時の有名バイオリニストに「演奏不可能」と初演を断られている)。オペラ『エフゲニー・オネーギン』完成。1879年、ウクライナ・ブライロフで偶然メック夫人と遭遇する。
1880年(40歳)、敬愛するモーツァルトの「セレナード第13番(アイネ・クライネ・ナハトムジーク)」に着想を得た『弦楽セレナード』を作曲。同年、対ナポレオン戦争のロシア勝利を東方正教会の聖歌やロシア民謡を交えて描いた大序曲『1812年』が完成。翌年、ニコライ・ルビンシテインが他界し、一周忌に死を悼んで『ピアノ三重奏曲(偉大な芸術家の思い出)』を初演。1885年『マンフレッド交響曲』完成、モスクワ郊外に居を定める。

1888年(48歳)、壮大なフィナーレの『交響曲第5番』を作曲。 この年の手紙「ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番のアンダンテ、あの短い楽章ほど豊かな霊感に満ちた曲を私は知りません。それを聴く度に肌寒さを覚えて青ざめるくらいです」「ベートーヴェンの音楽様式は(歴史的に)幾度も模倣されました。たとえばブラームス、彼の作品などまさにベートーヴェンのカリカチュア(戯画)なのではないかと思います。見せかけの深遠さと力の誇示こそ厳に忌むべきものではないでしょうか」。
翌年、バレエ音楽『眠れる森の美女』完成。手紙に交響曲第6番の構想を記す「私は創作の最後を飾るべき荘厳な交響曲を作曲しようと張り切っている」。

1890年(50歳)、オペラの代表作『スペードの女王』を作曲。同年、メック夫人からの財政援助が打ち切られる(夫人がドビュッシーに夢中になった)。
1887年から1891年まで、欧州や米国の主要都市で自らの指揮による自作演奏会を催し大きな成功を収める。
1892年(52歳)、クリスマス・イブの物語、バレエ音楽『くるみ割り人形』を書き上げ、12月にサンクトペテルブルクで初演。以降、欧米ではクリスマス・シーズンの定番演目となっていく。

1893年、チャイコフスキー最後の年。2月、「新しい交響曲は標題音楽で、その標題は誰にも謎とされ、物議をかもすだろう。私は曲想を練りながらさ迷い、断腸の思いから何度も泣いた。今まで書いたどの作品よりもこれを愛している。自分の最後の交響曲がここに完成をみたこと、そして鎮魂曲にも似た気分にかられることは、私自身を少なからず当惑させる」。オリジナル楽譜の最初のページには「神よお助け下さい」、最後のページには「神よ、心から感謝します。私はついにこの曲を書き終えました」と記した。
5月、グリーグやサン=サーンスらと共にケンブリッジ大学音楽協会から名誉博士号を授与される。10月28日、サンクトペテルブルクで指揮台に立ち交響曲第6番の初演を果たす。終楽章は辞世の歌だった。聴衆の反応は冷ややかでチャイコフスキーを失望させたが、手紙にこう書いた。「この曲は不成功とは言わないまでも、聴衆にはいささか奇異な印象を与えたようだ。しかし私自身は、私のどの作品よりもこの曲に対して誇りを持っている」。
チャイコフスキーにとって、交響曲第6番は人生の全てを注ぎ込んだ告白であり、人生そのものだった。「この曲は私の全作品の中で最高のもの」と出来映えを確信していた。初演の2日後、交響曲第6番は弟によって『悲愴』と名づけられた。11月2日、芝居の観劇後にイタリアン・レストラン“ライナー”で会食した際、当時はコレラが流行していたのにボーイの反対を押し切ってネヴァ川の水をグラスで飲み干し、コレラに感染。下痢と嘔吐で苦しみ4日後、つまり『悲愴』初演からわずか9日後の11月6日に、コレラと併発した肺水腫で急死した。享年53歳。臨終の場には弟2人など16人が立ち会い、チャイコフスキーは死の直前に周囲の者を見渡したという。ロシア皇帝アレクサンドル3世は、サンクトペテルブルクのカザン大聖堂にてチャイコフスキーの国葬を執り行った。ネフスキー修道院のチフヴィン墓地に、チャイコフスキーの胸像に二人の天使が寄り添う墓が建立された。

ところで、公式記録の死因はコレラだが、当時から服毒自殺、自殺強要説が噂されてきた。通常、コレラ患者は厳しく隔離されるのに、16人も臨終に立ち会ったのはなぜか。遺体は葬儀の前に消毒されたというが、鉛の棺に密封されることもなく、遺体が2日間も市民に公開・安置され、多数の葬儀参列者が遺体に触れたり、キスまでしていたことの違和感。
1978年、ソ連の音楽学者アレクサンドラ・オルロヴァは次の説を発表し衝撃を与えた。チャイコフスキーは法律学校時代に同性愛に目覚めた。そしてある貴族(皇帝と縁続きの侯爵)の甥に宛てたチャイコフスキーの恋文から同性愛関係が発覚し、怒ったこの貴族から皇帝アレクサンドル3世に手紙で訴えられた。当時のロシアでは同性愛は重大な背徳行為。皇帝から問題の解決を任された検事総長はチャイコフスキーの法律学校時代の同窓生であり、同窓生グループは“秘密法廷”を開廷した。そして、国民的英雄チャイコフスキーの“不名誉”が公になることを恐れ、名誉を守るため砒素による服毒自殺を求めると決定した。チャイコフスキーは説得され、青ざめながらこれに同意。11月5日に砒素が届き、翌6日、毒をあおいで4時間後に死亡した。この説は世界でセンセーションを巻き起こし母国では非難され、オルロヴァ女史は米国に亡命する。
一方、自殺説に対して1988年に研究家アレクサンドル・ポズナンスキーが反論。死亡時のカルテなどを調査した結果、砒素ではなくコレラが死因と結論づけた。だがどの推論も決定的でなく、英語版のウィキペディアでは「死因は不明」となっている。

チャイコフスキーの楽曲は抒情的でメランコリーな旋律や民謡風の舞曲が、色彩豊かなオーケストレーションで展開し、聴く者を深く魅了する。3大バレエ音楽の『白鳥の湖』『くるみ割り人形』『眠りの森の美女』はチャイコフスキーにとっての3大ではなく、全バレエ音楽を対象にした“3大”だ。

※1958年から4年おきにチャイコフスキー国際コンクールがモスクワで開かれている。ショパンコンクール(ポーランド)、エリザベート王妃国際音楽コンクール(ベルギー)と並ぶ世界3大コンクールのひとつ。
※コレラの潜伏期間は2時間から5日。治療しなければ数時間で死に至ることもある。
※ドイツの医学実験では、うつ病患者が悲愴交響曲を聴くと症状が悪化したとのこと。
※『白鳥の湖』の日本初演は1946年、帝国劇場の東京バレエ団公演。
※チャイコフスキーのワーグナー評「彼の様式は原則的に私の心を動かしませんし、人間としても嫌悪を抱かせます。しかし、彼の並外れた音楽的才能は認めざるを得ません。彼の才能は『ローエングリン』において最も如実に示されております。このオペラは彼の創作の金字塔であり続けるでしょう。ただ、これ以後、彼の才能は下降し始め、この男の悪魔的高慢がその足下を掘り崩してしまったのです」

●墓所はペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー修道院のチフヴィン墓地。最寄り駅は地下鉄プローシャチ・アリェクサンドラ・ネフスカヴァ駅。
チャイコフスキーの隣にボロディン、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ、グリンカが眠る。




★マーラー/Gustav Mahler 1860.7.7-1911.5.18 (オーストリア、ウィーン郊外 50歳)1994&2005&15
アルマ・マリア・マーラー=ヴェルフェル/Alma Maria Mahler-Werfel 1879.8.31-1964.12.11 (85歳)
Grinzinger Friedhof, Vienna, Wien, Austria

ヒュー・グラントのようなカッコよさ。気品のある優男って感じ 生前は指揮者として有名だった 50歳で他界 運命の女性、アルマ

●アッター湖畔の作曲小屋(オーストリア)

ホテル・フェッティンガーで鍵を借りる 仕事小屋。ビーチパラソルと合わぬ 鍵にはト音記号の飾りが ここで交響曲第2番「復活」等が生まれた!







楽譜や手紙もあった(2015) 窓の外を見ると… 美しいアッター湖!最高の眺望 マーラーも息抜きで湖に入ったか


トラム38線で行く

なだらかな坂道の先に墓地がある

妻アルマはマーラーと並んで
おらず斜めに背中合わせ…




1994 2005 墓域全体がドッシリ安定している 2015 頭上の葉っぱが消えていた

  
「やがて私の時代が来る」(マーラー)。ユダヤ人として差別を受けていたマーラーは、生前に「私の墓を訪れる者は、
既に私が何者か知っている者だ」と述べ、墓は生没年も肩書きもない、名前オンリーのクールなものに(2015)

 
よく見ると墓石の側面にコインがビッシリと挟まっていた(2015)

「私は三重の意味で無国籍者だった。オーストリアではボヘミア生まれとして、ドイツではオーストリア人として、世界ではユダヤ人として。どこでも歓迎されたことはなかった」(マーラー)

後期ロマン派交響曲の頂点を極め、20世紀の作曲家に多大な影響を与えたオーストリアの作曲で指揮者のグスタフ・マーラーは、1860年7月7日、ボヘミアの小村カリシュト(現チェコのカリシュテ)に生まれた。14人兄弟の2番目。このうち9人が早逝しており、幼少期から死と葬送行進曲がマーラーの身近にあった。ユダヤ人の両親は居酒屋を営み、マーラーは幼い頃から酒場で農民の民謡や軍隊音楽など様々な歌に触れた。こうした音楽はマーラーの血肉となり、後の音楽に反映される。家の近くには兵舎があり戦争を象徴するラッパの響きも身近だった。最初の作曲は6歳の時に書いたポルカ(ボヘミアの舞曲)。

ユダヤ人ながらカトリック教会の合唱団員だった少年マーラーは、父に楽才を見出され15歳のときにウィーン音楽院(現ウィーン国立音大)に進学する。同年、仲が良かった盲目の弟エルンストが病死。1876年(16歳)、マーラーの現存する唯一の室内楽となる『ピアノ四重奏曲』を作曲した。この年、ウィーン音楽院でピアノ曲の作曲部門と演奏部門の一等賞に輝く。
※『ピアノ四重奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=hzO2fPBxQTc (20分)
1877年(17歳)、ブルックナー(当時53歳)の和声学の講義を受けたことをきっかけに、年齢差を越えた親交が始まる。この年マーラーはブルックナーの交響曲第3番の初演を聴き、深く感動したことをブルックナーに伝えた。演奏会自体は不評だったことから、ブルックナーはマーラーの賛辞を大いに喜び、同曲のピアノ編曲を36歳も年下の彼に依頼し、これは後に出版された。

音楽院を卒業後、1880年(20歳)に温泉保養地バート・ハルの小劇場で夏のオペレッタ指揮者となる。だが、マーラーはかねてからワーグナーに心酔しており、指揮者よりも作曲家を目指していた。そこで自ら作詞も手がけた最初の自信作、カンタータ『嘆きの歌』を完成させ、ウィーン楽友協会の作曲コンクール「ベートーヴェン賞」に出品した。結果、独創性が評価されずに落選したことから、作曲よりも指揮で身を立てることにする。マーラーいわく「賞金を獲得していたら指揮者にならずに済んだ」。
1883年9月(23歳)、カッセル王立劇場の楽長に就任。翌年、音楽祭でベートーヴェンの『第9交響曲』を指揮し好評を得る。この当時、指揮者は“作曲家が生きていたらこうするはず”と、作曲家の意図を汲みつつ、楽器の進化や演奏技術の進歩による修正を加えて演奏することが高評価の条件だった。マーラーの作曲に対する情熱は消えておらず、24歳から交響曲第1番の作曲に取り掛かる。

1885年(25歳)、青眼のソプラノ歌手に失恋したマーラーは、かなわぬ恋をうたった自作詩による歌曲集『さすらう若人の歌』を完成。26歳、ライプツィヒ歌劇場の楽長となる。
1888年(28歳)に民謡詩集にもとづく歌曲集『子どもの不思議な角笛』を書きあげた。さらにこの年、『さすらう若人の歌』の旋律を取り入れた『交響曲第1番・巨人』の初稿を4年がかりで完成させている。この作品は夜明けの森を出発した英雄の旅と成長を描いた。
秋にブダペスト王立歌劇場の芸術監督に就任。
翌年、『巨人』を初演するが、第1楽章だけでモーツァルトの交響曲1曲分の長さがあったことに聴衆は困惑、演奏面では楽団員に難し過ぎ、批評家にも不評で大失敗となる。マーラー「初演の数日後、歩いていると皆が私を変人と思って避けた」。この年、父と母を立て続けに亡くす。
一方、マーラーの指揮者としての名声はどんどん高まり、1890年(30歳)、ブダペストで上演された『ドン・ジョヴァンニ』を聴いたブラームス(当時57歳)は、「本物のドン・ジョヴァンニを聴くにはブダペストに行かねばならない」と語った。31歳、ハンブルク歌劇場の楽長となる。

1894年(34歳)、夏の休暇を使って6年前から書き続けていた『交響曲第2番・復活』を完成。この作品はマーラーがオーストリアのアッター湖畔の小村シュタインバッハに建てた最初の作曲小屋で完成した。同地にはマーラーが“交響的宇宙”と読んだ厳かな静けさがあり、大自然が形作る宇宙を『復活』に凝縮させた。『復活』の冒頭は『巨人』の英雄の葬礼から始まり、終楽章のクライマックスにマーラーは次の言葉を原詩に付け加えた「再び生きるために死ぬのだ」。
※マーラーは交響曲第2番の終楽章に適した歌詞を苦心して探し続けた。聖書を全巻読んでも見つけることが出来なかったが、ハンブルグで名指揮者ハンス・フォン・ビューローの葬儀に参列した際に、ドイツの詩人クロプシュトックの『復活』賛歌を聞き、第2番の歌詞に使うことを決心、詩にインスピレーションを受けて壮大な最終楽章を完成させた。葬儀での出来事をマーラーは友人に語る。「(クロプシュトックの詩が)あたかも稲妻のように私の身体を貫き、曲の全体の形が私の前に、はっきりと明らかな姿で現れました。創作する者はかくのごとき『稲妻』を待つこと。まさしく『聖なる受胎』を待つことなのです」。

翌年、マーラーが音楽の才能を認めて応援していた弟オットーが21歳の若さでピストル自殺しショックを受ける。36歳、作曲小屋で8年の歳月を費やして『交響曲第3番』を書きあげた。この作品は演奏に約100分を要し、自作で最も長いものとなった。マーラーは第1楽章にアッター湖畔の景色を全て描き出したという。
1897年(37歳)、欧州主要都市の歌劇場で演奏会のたびに評価を高めていったマーラーは、指揮者として最高との名誉となるウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)の芸術監督となった。マーラーは数年前から経済的理由によりこの名門宮廷歌劇場に職を求めていたが、ユダヤ人であることが障害になっていた。マーラーは職を得るためにユダヤ教から国教(キリスト教)に改宗した。洗礼を受け教会から出たマーラーは知人の批評家に会いこう言った「なに、上着を換えただけさ(中身は同じ)」。マーラーは特定の宗教を信じず、宇宙の創造主たる神のみを信じていた。

マーラーが着任した世紀末ウィーンは才能ある芸術家であふれ、保守的なウィーン芸術家組合から画家クリムトに率いられた実験的な芸術家集団が離脱し“分離派”が生まれたばかりだった。マーラーは分離派のロラーに宮廷歌劇場の舞台装置を依頼しこれを刷新。そして、当時劇場から雇われた人間が客席で“さくら”となってヤラセの拍手やブラヴォーをしていたのを“悪習”として廃した。また、長時間のワーグナー作品はカットされることが多かったため、ノーカットで上演するため尽力した。これらマーラーの改革姿勢は、シェーンベルクら前衛音楽家たちを勇気づけた。
翌1898年(38歳)にはウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。その後、退任までの10年間にウィーンを世界屈指のオペラの中心地に育て上げた。
※ワーグナーは反ユダヤ主義の作曲家だが、マーラーはユダヤ人でありながらワーグナー作品を愛聴していた。ユダヤ人の知人が「ワーグナーなんか聴いてたまるか」と吐き捨てた時、マーラーはこう言った「でも牛肉を食べても、人は牛にはならないでしょう?」。

1900年(40歳)、南オーストリア・ヴェルター湖岸マイアーニックに建てた2番目の作曲小屋で『交響曲第4番』を完成。小屋にはピアノ一台とバッハの楽譜、そしてゲーテやカントの全集があった。創作中は毎朝6時に小屋に“出勤”し、マーラーが人を避けたためメイドはマーラーと異なる小道を歩いて食事を運んだ。
※「マーラーの音楽はどの交響曲のどの一瞬たりとも邪魔が入っては書けない。例えば“食事ですよ!”という一言で霊感は去ってしまう」(ケン・ラッセル)
※「マーラーの第4番は天上の愛を夢見る牧歌である」(ブルーノ・ワルター)

1901年(41歳)、マーラーが指揮したオペラは毎日新聞で取り上げられ、ウィーンで皇帝に次ぐ有名人となった。だが、マーラーがプログラムに若い30代のリヒャルト・シュトラウスの作品や自分自身の作品を組み込んだり、ベートーヴェンやシューマンの交響曲を編曲して演奏したことから、ウィーンの保守的な批評家・聴衆から「ユダヤの猿」「音楽の狂人」など猛烈なバッシングを受け、マーラーは3年間務めたウィーン・フィルの指揮者を4月に辞任した(ウィーン宮廷歌劇場の職は継続)。マーラーの自作交響曲は世間では不評だったが、作曲活動は充実しており最盛期に入っていた。そして新たに交響曲第5番に着手した。

11月、マーラーは知人の解剖学者のサロンで“ウィーンいちの美貌”と芸術家たちの注目の的だった22歳の女性作曲家アルマ・シントラー(1879?1964)と出会う。実父は著名な風景画家で、彼女はピアノも上手かった。10代の頃から社交界の花形で、いつも男たちに囲まれていた。クリムト(当時35歳)は17歳のアルマに夢中になり、アルマ一家の引っ越し先や保養先イタリアにまで現れた。クリムトはアルマのファーストキスを奪うことは出来たが、アルマの父親がこれ以上の2人の接近を許さなかった。当時のクリムトは三つ叉をかけており、うち2人の女性が妊娠していたからだ。彼女の音楽の師である新進作曲家ツェムリンスキーもこの美しい弟子に魅了された。アルマはツェムリンスキーの指導で歌曲を作曲している。マーラーもすぐに「知的で面白い」と彼女の虜になったが、自身の外見は美男とは言い難く、身長もアルマより低かった。何より19歳も年上だった。だが、アルマには天才を見抜く本能があり、“マーラーこそウィーン最高の音楽家”と確信し、批評家からの悪評も知った上で求愛を受け入れた。

交際が始まると、マーラーは熱烈なラブレターを書き綴った。「次にお会いできる日をまるで少年のように指折り数えています」(11月28日)、「私に手紙を書くときは、隣りに私が座っていて、あなたがお喋りするのだと思って気楽に書いて下さい。あなたがどのように過ごしているのか、一つ一つを常に知りたいのです。(略)万歳!たった今、待ちわびていたあなたの手紙が届きました!続きを書く前に先に読もう。力が湧いてきたぞ!これほどあなたの言葉を求めていたのです!(略)どんなに騒音だらけで自分の声すら聞こえなくとも、ただひとつ、決して消えることのない、心の中の声だけは聞こえる…ただ一言の声だけが…愛している、アルマ!」(12月9日)、「心から愛する少女よ!私は自分が愛するのと同じだけ愛されるという幸福に、人生で出会えようとは夢想だにしなかった」(12月15日)、「今日僕は門番をとても困らせ、何度も邪魔をしてしまった。あなたからの手紙が届くに違いないと思って、朝から夕方までずっと期待していたのです。(略)人間というものは、離れて一週間で手紙なしではもはや一日も耐えられない状態になりうるのです」(12月16日)、「リヒャルト・シュトラウスの時代は終わり、やがて私の時代が来る。それまで私が君のそばで生きていられたらよいが!だが君は、私の光よ!君はきっと生きてその日にめぐりあえるでしょう!」(翌年2月)。

1902年(42歳)3月9日、マーラーとアルマは出会いから4カ月で結婚した。そして夏にマイアーニックの作曲小屋では『交響曲第5番』が完成する。美しく深い精神性をたたえた第4楽章のアダージェットはアルマへの恋文として書かれ、楽譜の表紙には「私の愛しいアルムシ(アルマの愛称)、私の勇気ある、そして忠実なる伴侶に」と記された。11月には長女マリア・アンナも生まれてマーラーは幸福の絶頂にあった。だが、不安症のマーラーはあまりに幸せなためにその幸福を失う恐怖におびえた。第5番も、そして続く第6番、第7番も冒頭は葬送行進曲で始まった。同年、ドイツの初期ロマン派詩人リュッケルトの詩による『亡き子をしのぶ歌』を作曲。内容は愛児を亡くした父親の悲嘆をうたったものであり、アルマは「子どもを前に不吉だ」と作曲に反対した。だが、マーラーは原詩に描かれた愛児への情に強く胸を打たれ作曲に踏み切った。

『亡き子をしのぶ歌』
※作者の詩人リュッケルトは半月の間に2人の子に先立たれている

今、朝日が昇ろうとしている
まるで昨夜の不幸など何もなかったかのように
その不幸は私だけに起こったことで
太陽の光は普段と変わりがない
わが家の小さな可愛らしい明かりが消えただけだ

お前のあの暗い眼差しは
今にして思い当たるが
そのときは運命の霧に閉ざされて見えなかった
それはもうじきあの世に行くのだから
今のうちにもっと見ておいてと言うようだったね

お母さんがドアを開けて入ってくるとき
私はいつも一緒について入ってくるお前を振り向いていた
今でもお母さんがロウソクの明かりで入ってくるとき
後ろにお前の姿が見える

しばしば、私は考える、あの子らはちょっとそこまで遊びに行っているだけだと
間もなく家に帰ってくるだろう
天気も良いし何も気にすることはない
子どもらはただ散歩に行っているにすぎないのだから

子どもらは私たちより先に散歩に行っているだけ
私たちは子どもらに追いつく、あの太陽の輝く高みの上で
あの高みの上では、一日がうるわしいのだ

こんな天気でも
こんな嵐でも
あの子らは嵐に脅えることなく
天国で神の御手(みて)に包まれて
安らかに
安らかに
眠っているのだ
母の膝元で眠るように

1903年(43歳)、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から第三等鉄十字勲章を授与される。次女アンナ・ユスティーネが誕生。
1904年(44歳)、10月にドイツ・ケルンでマーラー自身の指揮により交響曲第5番が初演されたが、聴衆の反応は否定的でマーラーを失望させた。アルマへの手紙「私の死後50年経ってから、私の交響曲を初演できればよいのに!今からライン河のほとりを散歩してくる。この河だけが、初演の後も私を怪物呼ばわりすることもなく、悠然とわが道を進んで行くただ一人のケルンの男だ!」。
同年、ウィーンにシェーンベルクとツェムリンスキーが設立した「創造的音楽家協会」の名誉会長に就任。マイアーニックの作曲小屋では、未来に対する悲しい予感、運命への切迫感を叩きつけた『交響曲第6番・悲劇的』を書き上げた。終楽章では運命を表すハンマーの一撃が聴く者を襲った。翌年『交響曲第7番』を完成。
※作曲家コリン・マシューズ「第6番は長い間僕にとって聴きたくない音楽でした。強烈すぎて、生で聴こうものなら心臓麻痺を起こしそうで…終楽章は特に圧倒的です。僕はこの曲をもう20年も聴いていません。ただ思い浮かべるだけで十分なのです」

1907年(47歳)、『交響曲第8番・千人の交響曲』を完成。この曲の完成はマーラーに大きな自信を与えた。弟子メンゲルベルクへの手紙に喜びを綴っている「これは私のこれまでのどの作品にも勝り、内容においても形式においても比類のないものです。ここでは宇宙全体が歌い奏でるのです。それは人間の声ではなくて、惑星と太陽の音楽なのです」。別の友人には「今までの私のすべての交響曲は、この交響曲に対する序曲に過ぎなかった。今までの作品はいずれも自分の主観的な悲劇に帰結したけれども、この曲は偉大な歓喜を与えるものだ」と書き送っている。
だが、この直後に長女マリア・アンナが感染症(ジフテリア)のため5歳で他界してしまう。『亡き子をしのぶ歌』初演の2年後だった。打ちのめされたマーラーは葬儀の手配など何もかもを妻に任せて、自分を慰めるために1人で山に出かけた。「『亡き子をしのぶ歌』は、私の子供が死んだと想定して書いたのだ。もし私が本当に私の娘を失ったあとであったなら、私はこれらの歌を書けたはずがない」。

不幸は続く。娘の死後、マーラーは心臓病と診断された。これまで戯画で風刺されるほど大きな身振りでタクトを振っていた指揮スタイルは、「ほとんど不気味で静かな絵画のようだった」(ワルター)と語られるように変化してゆく。
指揮者として国際的名声を手に入れたマーラーだったが、欧州に反ユダヤ主義が広まり、差別的な音楽評論家たちの不当な攻撃が激化していった。新聞は反ユダヤ運動を展開し、マーラーを「自作の宣伝に明け暮れている」と中傷した。そしてユダヤ人排斥の嵐の中でウィーン国立歌劇場監督を辞任する。背景には作曲に専念したい気持ちもあったし、歌手までも差別的態度をとることに嫌気がさしたのもあった。また、マーラーの頑固な性格による厳しすぎるリハーサルなど、高圧的な指導に対する楽団員の反発もあった。
最愛の娘を失い、天職の職場を追われ、心臓を病んで医者から好きな山歩きを控えろと言われ、マーラーは悲しみの奥底に落ち込んでいった。
そんな折り、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場から“招きたい”と連絡があった。マーラーは自分が病に倒れた後、家族のためにお金が必要と思い、アメリカへ渡る決心をする。12月の朝、マーラーとアルマがウィーンの駅に姿を見せると、ウィーン中の文化人が見送りに集まっていた。心ある知識人はマーラーの不在を「文化の悲劇」と呼んだ。汽車が出発するとクリムトは一言呟いた「去ったのだ」。クリムトはマーラーに象徴される芸術文化を革新するエネルギーが、ウィーンから別の世界に去ったと理解した。

翌年、米国での新生活は早くもトラブルに見舞われた。メトロポリタン歌劇場の支配人が新しくなり、イタリアから気鋭の指揮者トスカニーニを呼んだのだ。マーラーは「指揮者は1人で十分」と憤慨して劇場を去った。一時欧州に戻って李白など中国の詩をドイツ語訳した歌詞に曲を付けた6楽章の交響曲を完成。ベートーヴェンもシューベルトもブルックナーも第9番の後に没しているため、マーラーは不吉な“9番”を避け、この声楽付きの交響曲を『大地の歌』と名付けた。別れの歌ではあるが、失意のうちに終わるのではなく、回帰する世界と一体となり輝がしく消えていく仏教的世界観を描いた。
「飲めるときに存分に飲むことは、この世のどんな財産よりも尊いのだ。生は暗く、死も暗い。青空と大地は永久にゆるぎなく在り続ける。だが100年と生きられない人生は、やがて墓場で月の光を浴びるだろう。いざ盃を取れ、今こそ飲むときだ。生は暗く、死も暗い。」(『大地の歌』第1曲)
「わが心は疲れ、明かりは消えた。嗚呼、休息が欲しい。いかにこの孤独に泣いたことか。わが心の秋は長すぎる。愛の太陽はこの苦しい涙を乾かすべくもう一度照ってはくれないのか?」(第2曲)
「人生が一幕の夢に過ぎぬのなら、好んで苦労をする必要はない。飲めるだけ飲もう。春がなんだ!それよりもほろ酔い気分こそ楽しい」(第5曲)
「太陽は山に暮れ、谷には夕闇が迫る。月が東の空に昇り、そよ風が爽やかだ。世界は休息に入る。私は友の来訪を待ちわびた。やって来た彼は馬から降りて別れの盃を差し出す。友は浮世に見切りを付けて山に入るのだと言う。/私の心は安らぎて、その時を待ち受ける。愛しき大地に春が来て、また新しく緑と花が満ちる。永遠に…永遠に…」(第6曲)

1909年(49歳)、経済的理由から再度渡米し、ニューヨーク・フィルの指揮者に就任する。初めてオペラと無縁の仕事だった。同年、夏の休暇はオーストリア・トーブラッハ(現イタリア領)に建てた3番目の作曲小屋にこもり、2ヶ月で『交響曲第9番』を完成させた。もはやジンクスに抗わず「第9番」をつけたこの曲では、生の渇望と死への期待が同時に描かれた。マーラーは自身の健康が急激に衰えていくのを感じ、死を予感し、死に憧れ、ついには死を賛美するようになった。終楽章の最後の小節にはマーラー自身が「ersterbend(死に絶えるように)」と書き込んでいる。
第9番には『亡き子をしのぶ歌』から“今日はよく晴れて(お墓のある)あそこの丘も輝いている”という歌詞の旋律が引用されている。交響曲の最後で日に照らされた亡き子の墓を描いていることから、2年前に失った娘へのレクイエムともいえる。この年、パリでロダンの彫刻のモデルになり、秋にアメリカへ。
※『交響曲第9番・第四楽章』アバド指揮ベルリンフィルの名演 https://www.youtube.com/watch?v=SY301g42vO8 (26分)
※トマス・ハンプソン(バリトン歌手)「交響曲第9番は、人間の限られた時間の消滅を最も見事に表現した作品。終楽章では人生の時を刻むような一定のリズムから解き放たれ、大気の一部となるのです。リズムが刻まれることで我々は自分をつなぎとめ均衡を保つことができます。終楽章では我々は均衡を失い、別の世界へと浮遊していくのです。人間とは何か、生とは何かという思いに打たれます」。
※ワルター「第9番は死を予感する者の悲劇的で絶望的な別れの曲だ」。
※シェーンベルク「マーラーの交響曲『第9番』はひとつの限界であるように思われます。そこを越えようとする者は、死ぬ他はないのです」。

1910年4月、アルマは献身ばかり求めるマーラーとの生活上のストレスからアルコール依存症になった。6月、療養所に入って治療しているうちに、27歳の若い建築家ヴァルター・グロピウス(1883-1969)と恋に落ちる。グロピウスは後に工芸学校「バウハウス」を創立し、近代建築の四大巨匠(グロピウス、ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ)に名を連ねる人物。この不倫はグロピウスが間違ってマーラー宛に恋文を出したことで発覚した。アルマは謝らず、逆に8年間の抑圧の日々がいかに辛かったかを訴え、グロピウスと密会を続けた。マーラーは自らの非を認め、妻を失う不安にかられて神経症になり、8月に精神分析医フロイトの診察を受けた。フロイトからは「強迫観念を捨てよ」とアドバイスされた。マーラーはアルマに作曲活動を禁じていたことを反省し、関心を取り戻すために彼女が作曲した歌曲を出版社に持ち込んだ。9月、ミュンヘンにて自らの指揮で交響曲第8番を初演し、生涯最高の大成功を収める。
※公演先のミュンヘンから書いたアルマへの切羽詰まった手紙が残っている。「わが愛する、気の狂うほど愛するアルムシ!信じて欲しい、僕は恋わずらいなんだ!嗚呼、ありがたい、たった今君の手紙を2通受け取った!これで息が出来る。30分ほど至福に包まれていた。だが今はもう耐えられない。一週間も君がいなかったら僕は死んでしまう」。

1911年2月、アメリカで倒れたマーラーは感染性心内膜炎と診断された。アルマに「(ウィーンに)帰郷したい」と頼み、病をおしてウィーンに戻る。死の床では「私がいなくなった後、誰がシェーンベルクのために力を貸してくれるだろう」と後輩作曲家を心配した。5月18日、敗血症で他界。享年50歳。最期の言葉は「モーツァルトル!」(=モーツァルトの愛称形)だった。
前年から取り組んでいた交響曲第10番は、第2楽章まで完成し未完となった。作曲中にアルマの不倫騒動が起きたこともあり、第10番は胸を裂くような不協和音が長く奏でられる。楽譜には終楽章の末尾に「お前のために生き、お前のために死ぬ!」「アルムシ!(アルマの愛称)」というマーラーの叫びにも似た書き込みがある。マーラーが世を去った後、世界からロマン派の残光が消えていった。
マーラーの亡骸は長女が眠るウィーンのグリンツィング墓地に埋葬された。マーラーは生前に自身の墓について語っていた。「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」。さんざんユダヤの猿だの狂人だのと叩かれてきたマーラーであり、自分の音楽の理解者しか墓を訪れないと考えていた。この言葉を尊重し、墓石には生没年も肩書きもなく「GUSTAV MAHLER」という名前だけが刻まれている。この墓はアルマの依頼で工芸家ヨーゼフ・ホフマンが制作した。
※「マーラーは自分を貫きました。時流に迎合せず、自分の魂の声に従って作曲しました。その途中で音楽ごと消えたのです」(作家エドワード・セカソン)

音楽史において交響曲はベートーヴェンで人間表現の頂点に達し、シューベルト、シューマンと下降線をたどり、ワーグナーは「この世には既にあの9つの交響曲があるのに、このうえ交響曲を作る意味があるのか」と交響曲のペンを置き、一世代後のブルックナー、そして「ベートーヴェンのまねになってしまうのではないか…」と悩み続け交響曲第1番の完成が40代になったブラームス(ベートーヴェン他界6年後に出生)の作品によって、交響曲という分野における人類の開拓の歩みはいったん終わったかに見えた。だがブラームス誕生の約30年後に生まれたマーラーがベートーヴェンと同じ9曲の傑作交響曲(10番は未完)を生み出し新たな扉を開いた。マーラーの声楽的な交響曲は大半が1時間を超える大曲であるにもかかわらず、緻密で多彩な管弦楽法が駆使された驚異的な作品だ。マーラーは民族的な旋律をベースに独自の作風を築き、目を見張る大規模編成、ベートーヴェン第九以来となる声楽の導入、厭世的な人生観の音楽的告白などで、その名を不動のものとした。また、マンドリンやカウベル(牛の鈴)、チェレスタ、鉄琴、木琴、ハーモニウム(足踏みオルガン)など多種多様な楽器の活用によって20世紀音楽を予見させた。交響曲第6番では大型ハンマーや鞭も使用された。

アルマはマーラーとは同じ墓地に眠っているが2人の墓は離れている。未亡人となったアルマはその後どうなったのか。
マーラー他界の翌1912年、画家のオスカー・ココシュカ(1886-1980)が肖像画を依頼されてアルマの自宅を訪れた。この年ココシュカは26歳、アルマは33歳。アルマがココシュカのためにピアノで『トリスタンとイゾルデ』を弾いていると、ココシュカが発作的にアルマを抱擁して家を飛び出した。翌日、プロポーズの手紙を出したココシュカに、アルマは「傑作を描けば結婚してあげる」と返答した。2人は深い関係になり、1913年にイタリアを旅行に行った。翌年、ココシュカは代表作となる『風の花嫁』(1914)で愛し合う両者を描いた。アルマは妊娠したがココシュカとの子を求めず中絶し、破れかぶれになったココシュカは第一次世界大戦に志願し出征した。
アルマは独占欲の強いココシュカが嫌になり、画家のアトリエに入ってそれまで自分が出した手紙を奪い返した。そしてグロピウスとよりを戻し1915年に36歳で再婚、翌年に娘マノンを産んだ。ココシュカは戦争で頭部を負傷。帰還するとアルマは別の男と結婚しており打ちひしがれた。1917年、精神を病んだココシュカは人形制作者にアルマの等身大の裸体人形を作ってもらう。注文書にはデッサンを添え、歯、舌、陰部まで完璧に仕上げるよう要求した。服を着せ、外出の際には馬車に乗せ、食事、オペラ、映画、どこへ行くにも人形を連れていき2人分の代金を払った。ずっとアルマに精神を支配されていたが、1922年に酔った勢いで人形の頭を割り、この人形とのいびつな関係に終止符が打たれた。

一方、アルマはグロピウスも出征したことから、その間に11歳年下の若手作家フランツ・ウェルフェル(1890-1945)と不倫関係になった。これにグロピウスが気づき、かつて自分が苦しませたマーラーと同じ地獄を体験することになった。結局、結婚生活は破綻し離婚。10年後の1929年、アルマはウェルフェルと再々婚する(アルマ50歳、ウェルフェル39歳)。1935年、マノンがポリオにより19歳で夭折。作曲家アルバン・ベルクはマノンを追悼するヴァイオリン協奏曲を作曲した。
1938年、ナチスドイツがオーストリア併合すると、ユダヤ人のウェルフェルはアルマとフランスに逃れ、さらに米国に亡命した。そしてカリフォルニアで音楽サロンを主宰し、ストラヴィンスキー、シェーンベルクなど、ヨーロッパからの多くの亡命作曲家を受け入れた。ウェルフェルは19世紀フランスの聖女を描いた小説『聖少女』でベストセラー作家になったが、1945年に心筋梗塞のため54歳で急死する。
4年後の1949年、カリフォルニアで暮らすアルマの70歳の誕生日に外国から電報が届いた。差出人はココシュカ。そこには36年前の絵のことが書かれていた。「僕たちは『風の花嫁』のなかで永遠に結ばれている」。アルマは戦後も芸術家サロンを開き、米国のマスコミはアルマが、マーラー(音楽)、グロピウス(建築)、ココシュカ(絵画)、ウェルフェル(文学)の4人にインスピレーションを与えたことから「4大芸術の未亡人」と呼んだ。アルマは1964年に85歳で他界。ココシュカはそこから16年生きて94歳まで長寿した。彼はマーラー夫婦の関係者の中で最も長生きし、1980年に没した。
※晩年のアルマの回想「マーラーの音楽は好みじゃなかったし、グロピウスの建築はよく分からず、ウェルフェルの小説には興味が湧かなかったけれど、ココシュカの絵だけはいつも感動させられた」。

〔マーラーと僕〕
僕が初めてマーラーの音楽に触れたのは、1980年代前半のウイスキーのCMだった。当時高校生の僕は映画少年で『日曜洋画劇場』を毎週観ていた。同番組ではサントリー・ローヤルのアート志向が強いCMが流れ、ガウディの建築などが登場した。ある時、音楽に合わせて中国の墨絵が動き出すユニークな演出のCMが流れ、BGMに使用されたマーラー『大地の歌』の東洋風メロディーに心惹かれた。ほぼ同時期に名画座でリバイバル上映されたヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』を観て、劇中に何度も登場する“アダージェット”の美しさに忘我の境地を味わった。さらに1985年に公開された黒澤監督『乱』の予告編で、交響曲第1番第3楽章の哀愁を帯びたメロディーに心を奪われ、ラジオで聴いた『復活』『千人の交響曲』の壮大で宇宙的なサウンドに圧倒された。
そんなある日、ラジオのクラシック番組で“無人島に3曲持って行けるとしたらどれか”を話し合っていて、出演者の結論がベートーヴェン『第九』、バッハ『マタイ受難曲』、そしてマーラーの『交響曲第9番』(なかでも終楽章)ということになった。僕はまだマーラーの9番を未聴だったので、高校の音楽準備室にあったワルター指揮コロンビア交響楽団のレコードを聴いた。ワルターはマーラの直弟子だ。初めて聴いた第四楽章はのっけから“これはただ事ではない”と思わせる終末感があり、マーラーについて語られる「真剣に死を恐れ、死に憧れた」という相反する2つの感情に直に触れた気がした。“なんて危険な音楽なんだ、しかも恐ろしく美しい…”。中盤のハープは天国に続く階段を昇る足音に聴こえた。マーラーが楽譜の最後に“死滅していくように”と書き込んだ終楽章は、おそらくこの世に存在する音楽の中で最も彼岸に近いもの。これほど美しく、儚く、音符の影に“死”の存在を感じる作品を他に知らない。この曲は、精神状態が不安定なときに聴けば、おそらく帰って来られなくなる−−。フラフラになり、虫の息のようになって聴き終わったが、数日後にまた聴きたくなった。マーラーには中毒性があった。既に唯一無二の音楽世界の虜になっていた。そして今度は音楽準備室の小型スピーカーではなく、音楽室の特大スピーカーで聴きたくなった。1人で聴いて失神すると危ないので、クラシック・ファンの友人Kと2人で吹奏楽部の部活動がない日を選んで音楽室に入った。夕闇が迫る音楽室で終楽章に再びレコードの針を下ろした。僕も友人も団地住まい、そして共に恋に破れた直後だった。家では出せない大音量でマーラーに触れ、あまりの感動に2人とも帰り道に言葉をまともに発することが出来ず、握手だけして別れた。

僕の人生にはもうひとつ、決して忘れることができないマーラー第9番の音がある。1985年9月3日、大阪・フェスティバルホールで聴いたレナード・バーンスタイン指揮によるイスラエル・フィルの演奏だ。根性でチケットを手に入れ、高校生ゆえ2階最後列の学生席で観賞した。「あのバーンスタインが!いま目の前でマーラーを!」。一音たりとも聴き逃すまいと、全神経をステージに向けた。マエストロの棒が動く…それはもう鬼気迫る演奏だった。あの世で音が鳴っているような錯覚に陥った。終楽章は、ただただ、涙、涙、涙…。終演後、幕が下りて他のお客が帰っても、僕を含む20名ほどがステージ前に集まり立ったまま拍手を続けていた。すると、着替えを終えて黒マントを着たバーンスタインが最後にもう一度ひょっこり出てきてくれた!演奏中は最後列で視界の彼方にいたバーンスタインが、今わずか2mの距離に!卒倒しかけた。マエストロは拍手に応え、優しい笑顔で僕らに手を挙げてくれた。この5年後にバーンスタインは亡くなっている。
音楽室で聴いたワルターの音、生演奏に鳥肌が立ったバーンスタインの音、どちらも40年以上前の思い出だが、いまだに身体の芯でその時に聴いたマーラーの音が共鳴している。

〔墓巡礼〕
マーラーの自然に対する深い感情移入や、人間の魂の根源を探究する姿勢、各々の民族と文化への敬意に大いに感銘を受けると共に、作品世界に濃厚に漂う終末感や人生に対する徒労感が、“マーラーは分かってくれている”と敗残兵の傷を癒やす。人生には「この曲と出会えただけでも生まれて来たモトをとった」と感じる音楽がいくつかある。マーラーの交響曲第9番終楽章はまさにそんな曲のひとつ。病的繊細さや陰気さも突き抜けると快楽に至る。心が傷つきボロボロになっているときは、友人が何も言わずただ隣にいてくれるだけで嬉しいもの。そんな風に感じていたので、いつか墓参りをしたいとずっと思っていた。
最初にマーラーの墓前を訪れたのは1994年、27歳のとき。彼はウィーンに眠っているが、ベートーヴェンやシューベルトなどクラシックの巨星が大集合しているウィーン中央墓地から遠く離れた、市の中心部を挟んで反対側約7km北西の小さなグリンツィンク墓地に眠っている。墓地にはトラム38番で行け、「An den langen Luessen」停留所で下車し、左手の緩やかな
坂道をまっすぐ5分くらい上ると墓地正門に突き当たる。左手、6グループの7−1が彼の墓。生け垣に囲まれている。墓地の管理事務所は正門左だけど、墓地内の案内図が充実しているため、管理人さんに場所を聞かなくても自分で探し出せる。
マーラーとアルマの墓は離れた場所で背中合わせになっている。再々婚しているアルマは、再婚相手との娘マノンと同じ墓に眠っている。アルマにぞっこんだったマーラーとしては隣接して眠りたいだろうけど、亡命先のアメリカで他界したアルマが、このウィーンの外れにある小さな墓地に眠っているだけでも救いになるのでは。マーラーは「やがて私の時代が来る」と言った。人間の分断が叫ばれる現代にあって、孤独感や傷心に寄り添う彼の音楽は救済であり解放だ。今やマーラーは大人気でコンサートはどこも満員。「あなたの言った通りになりましたよ」と墓前で手を合わせ感謝した。
※「演奏の質に関わらず、マーラーの交響曲ならコンサートホールは必ず満員になる。現代の聴衆をこれほど惹きつけるのは、その音楽に不安、愛、苦悩、恐れ、混沌といった現代社会の特徴が現れているからだろう」(ゲオルク・ショルティ)。
※この地域はベートーヴェンが遺書を書いたハイリゲンシュタットと隣接しているので、ベートーヴェンの家にもぜひ足を運ぼう。

〔作曲小屋訪問〕
マーラーが中部オーストリア・ザルツブルクの東方約40kmのアッター湖畔に建てた最初の作曲小屋は、傑作『交響曲第2番“復活”』が書かれた場所であり、かねてから訪問したいと思っていた。アッター湖は青く澄み渡り、遠くにはチロルの山々も見え、素晴らしい環境だった。作曲小屋は近くのホテル『Gasthaus Fottinger(ガストハウス フェッティンガー)』が管理
しており、希望者は無料で見学ができる。ホテルのカウンターで大きなト音記号のキーホルダーがついた鍵を借り、いざ湖畔の作曲小屋へ。近づいて驚いたのは周囲のビーチパラソル。白壁の小さな作曲小屋は、現在リゾート・キャンプ場のド真ン中に位置し、周囲で多勢の人が休暇を楽しんでいた。所狭しとキャンピングカーが並んでいる。小屋の中には愛用のピアノや自筆楽譜、手紙など遺品が展示されていた。僕がそれらを見ていると、白髪の紳士が小屋に入ってきた。聞けば昨日も、一昨日もここに来たという。名前はジョージさん、ニューヨーク在住とのこと。
ジョージさんは心からマーラーを崇拝していた。
「私は悲しい」とジョージさん。「どうしてですか?」「周りを見ただろう?こんなに観光客が多いのに、皆この小屋を無視している。ここは、あのマーラーの聖地なんだぞ?私はNYから来てるんだ。遠いNYから…。どうしてもっと見学しないんだ。マーラーに無関心な人がこんなに多いなんて…」。その後もジョージさんは「テリブル!ホラブル!(恐ろしいことだ!)」を連発していた。僕は作曲小屋に置かれていたファンの交流ノートを手に取った。そこには誰もがマーラーに感謝の言葉を綴っていた。「大丈夫、こんなに愛されていますよ!」「そうだな、君も日本から来たしな」「そうですよ!それに…それに…」。最後は笑顔になったジョージさんと握手。

  ジョージさんと風

〔マーラー語録〕
・「私にとって交響曲とはあらゆる技法を尽くして自分自身と向き合うことだ」
・「私の全生涯は大いなる望郷だった」

〔マーラー評〕
「ニキシュと同列に扱うに値する指揮者はマーラーだけだ」(ラフマニノフ)
「マーラーの音楽を聴くと高い次元で生まれ変わった気がします。音楽は最も魔力のある芸術であり、マーラーは最高の魔術師です」(ケン・ラッセル)映画監督
「マーラーはあらゆる形式の破壊者。彼の交響曲は詩であり世界の創造です」(ゲオルグ・ショルティ)指揮者
「マーラーの音楽を聴くと生きることの意味を問わずにはいられません」(トマス・ハンプソン)バリトン歌手
「マーラーは真の美を見つけます。醜いとされるものも、その真の姿は美しいと」(シャルロッテ・ヘレカント)メゾ・ソプラノ歌手

※弟子に指揮者のウィレム・メンゲルベルク(1871-1951)、ブルーノ・ワルター(1876-1962)、オットー・クレンペラー(1885-1973)。メンゲルベルクは師マーラーから「私の作品を安心して任せられるほど信用できる人間は彼しかいない」と讃えられ、1920年にマーラー管弦楽作品の全曲を演奏するなど作品普及に努めた。クレンペラー「マーラーは暴君ではなく、むしろ非常に親切でした。若く貧しい芸術家やウィーン宮廷歌劇場への様々な寄付がそれを証明しています」。
※マーラーのブルックナーに対する崇敬の念は生涯変わらず、ブルックナーの交響曲を出版しようとした出版社のためにマーラーは費用を肩代わりし、自らの多額の印税を放棄した。
※マーラーとの間に生まれた次女アンナ・ユスティーネは彫刻家になり、ナチの迫害を逃れイギリスに亡命。生涯に5回結婚した。
※マーラーの妹ユスティーネはウィーン・フィルのコンサートマスター、アルノルト・ロゼと結婚。夫婦の娘がアウシュヴィッツで死んだ名バイオリニスト、アルマ・ロゼ。
※マーラーは14歳年下のオーストリアの作曲家シェーンベルク(1874-1951)の才能を高く評価した。1907年、シェーンベルクの弦楽四重奏曲第1番の初演に際し、最前列で野次を飛ばす男にマーラーは「野次っている奴のツラを拝ませてもらうぞ!」と相手を制しケンカになりかけた。室内交響曲第1番の初演では、途中で席を立つ聴衆に「静かにしろ!」と一喝、演奏後はシェーンベルクに対するブーイングの嵐のなか聴衆がいなくなるまで拍手を続けた。当時マーラーは47歳、シェーンベルクは33歳。コンサートから帰宅したマーラーは妻にこう言った「私はシェーンベルクの音楽が分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのだろう。私は老いぼれで、彼の音楽についていけないのだろう」。
※マーラーはドストエフスキーを愛読し、中でも『カラマーゾフの兄弟』を特に気に入っていた。
※交響曲第1番の副題『巨人』はジャン・パウルの小説に由来する。
※マーラーは譜面に手を入れることが多かった。オリジナル絶対主義の指揮者トスカニーニは、マーラーがメトロポリタン歌劇場に残した手書き修正入りの譜面を見て「マーラーの奴、恥を知れ!」と激怒した。
※交響曲第4番・5番や歌曲をマーラー自身が弾いたピアノロールが残されている。
※クリムトの『ベートーヴェン・フリーズ』にはマーラーをモデルとした人物(金色の甲冑を身に着けた男)が描かれている。

  

※1902年、マーラーは第15回分離派展のオープニングに宮廷歌劇場の管楽器奏者を連れて参加し、ベートーヴェン第九の終楽章を編曲して演奏した。
※音大時代の同級生にフーゴー・ヴォルフがいた。
※トーマス・マンの小説『ベニスに死す』の主人公グスタフ・フォン・アッシェンバッハは、マーラーにインスピレーションを得て創作された。映画版では原作にはない「アルフレッド」という名のシェーンベルクを思わせる人物を登場させ、音楽論を戦わせている。
※マーラーの交響曲第5番の“アダージェット”は、ヴィスコンティ監督の映画『ベニスに死す』に使用されて一躍有名になった。ハリウッドの試写会でこの映画が上映された際、あるプロデューサーが作曲者の名を尋ねた。誰かが「マーラーです」と教えると、そのプロデューサーはこう即答した「彼と契約だ!」。

『大地の歌/サントリーローヤルCM』
https://www.youtube.com/watch?v=3-h_kaEnNKg

〔参考資料〕音楽ドキュメンタリー『BBC Great Composers(1997)』、『中欧・墓標をめぐる旅』(平田達治/集英社)、『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)、名曲事典(音楽之友社)、世界人物事典(旺文社)、エンカルタ総合大百科(マイクロソフト)、ウィキペディアほか。

他人が何かに感動している姿を見ることで、「え!そんなにいいの!」と、それまで興味がなかったコトに自分も関心を抱くことが人生にはある。例えば雑誌のビートルズ特集を読んでピンと来なくても、友人が「このビートルズのCDは最高。毎日聴いてる」と涙を浮かべてアルバムを握りしめるのを見て、一気に興味が沸くというように。僕の場合、仏像、バレエ、能、スケート、その他多くの分野が、他人の感動がきっかけで自分まで好きになったものだ。“この人と出会ってなかったら、ずっとこの感激を知らないままだったかも”、何度そう思うことがあったか!ここからが本題。動画サイトのyoutubeには個人のビデオ映像も数多くアップされている。その中に海外の一人の青年が、作曲家マーラーの交響曲第8番を聴く自分の姿を撮影したものがあった。楽器を演奏している姿ではなく、聴いている姿というのが何ともユニークな発想だ。そんなものを見て何が面白いのか疑問に思われるだろう。これが最高に良いッ!どんなに分厚いマーラー解説本よりも、この5分間の彼の姿が雄弁にマーラーの魅力を伝えている!青年の感動っぷりはハタから見れば尋常じゃないんだけど、実はクラシック・ファン、中でもマーラーのファンは、他人の目がない場所で一人で聴いている時は、誰でも彼と同じ状態になっていると断言していい!最近は漫画『のだめカンタービレ』がドラマ&アニメになってクラシックの普及に大きく貢献しているけど、彼の姿もそれに負けないくらい多くの人にクラシックの魅力を語ってくれると思う!マーラーの曲は1時間を超える大曲が多い。特に交響曲第8番はオーケストラが2、3団体分&合唱団つきの特大編成で、総勢千人の交響曲。歌詞はドイツ語だけど別の動画でフィナーレに日本語訳が入った演奏(7分42秒)がアップされている。最初は退屈かも知れないけど、2分24秒のとこからラストまでの盛り上がりは超エキサイティングなので最後まで聴いて欲しい。「♪永遠に女性的なものが我らを引いて(天へ)昇らせる」のメロディーは至福の極み!これを聴いて歌詞が分かったうえで、『青年、マーラーを聴く』(5分27秒、青年の登場は1分35秒から)を見て欲しい!可能な限り大ボリュームで!彼の表情、手の動き、体の揺れ、全てが音楽と一体化しているのが分かると思うッ!2つの動画を合わせても13分。この13分には価値あり!ビバ・クラシック!ビバ・マーラー!


マーラーとランチ♪



★ブルックナー/Anton Josef Bruckner 1824.9.4-1896.10.11 (オーストリア、リンツ郊外、 72歳)1994&2002&15
Saint Florian Church, Linz, Oberosterreich, Austria

〔1994年の巡礼〕









求道者ブルックナー


ウィーン市立公園の遊歩道に沿ってブルックナー像、
シューベルト像、金色のヨハン・シュトラウス2世像などが立つ
※この公園はウィーン初の市立公園として1862年に完成
リンツまで行ったのに墓所のザンクト・フローリアン修道院に向かう
バスの本数が少なく、旅程の関係で断念。その後、生家と思った
「ブルックナーハウス」を訪れるとコンサートホールでまたショック

〔2002年の巡礼〕

今回は朝7時にタクシーで向かった

リンツ駅から20分ほど丘陵地帯を抜けていく

ザンクト・フローリアン修道院。バッハと同様にブルック
ナーも自らがオルガニストをした教会に葬られている


入口近くの床にブルックナーの名!

「うおお、やっと会えました」と感涙にむせぶ

この時は、まさかこれが墓ではない
などとは、知るよしも無かった

〔2005年の衝撃〕


(撮影:このみさん/2005.3)

2005年にサイト読者の方から「カジポンさんが巡礼したのはただの記念碑で、本物の墓は地下墓地にありますよ」と衝撃のメールを頂いた。
礼拝堂の右手に地下に降りる階段があるといい、メールには僕が見たこともないブルックナーの棺の画像が添付されていた。ショックすぎる。


〔2015年の巡礼〕


 
ザンクト・フローリアン修道院よ、私は帰ってきた! 前回、勘違いした記念碑。誰だってお墓と間違うよ…

あらためて天井画や装飾に圧倒された

ブルックナーが愛したオルガン。当時オーストリアで最大の大きさを
誇っており、約100年間その栄誉を保持していた。墓はこの真下に

今度こそ会えた!ついに会えたぁあああ!
※ちなみに後方はカタコンベで6000人分のシャレコウベ
フラッシュなし
※ガイドツアーでのみ行けます
フラッシュあり
(奇跡が起きてこの巡礼は成功。詳細は本文に)

オーストリアの作曲家・オルガン奏者。後期ロマン派。宇宙全体が鳴り響くような壮大な音世界と、コラール(讃美歌)風の和音で奏でられる旋律、1時間を超える永遠の如き演奏時間で知られる。敬虔なクリスチャンで宗教音楽も多数残した。
1824年9月4日、アントン・ブルックナーはオーストリア帝国リンツ近郊の田舎町アンスフェルデンに生まれた。父は小学校教師で村のオルガン奏者でもあった。3歳のときにウィーンでベートーヴェンが他界、翌年にシューベルトが没している。父からオルガンを学んだブルックナーは早くから楽才を発揮し、10歳にして父の代役で教会オルガンを弾いていた。12歳で父を失い、13歳になるとリンツ近郊にそびえ立つ壮麗なザンクト・フローリアン修道院の聖歌隊に入った。1840年(16歳)、リンツで小学校の補助教員免許を取得し、翌年から教壇に立つ。1849年(25歳)に最初の宗教曲を作曲。1851年(27歳)にザンクト・フローリアンの正式オルガン奏者となった。この修道院のオルガンは、1774年に完成し、1886年まで100年近くも国内最大のオルガンだった。この年、初めて結婚を願い16歳のルイーゼ嬢に告白するが失恋。1854年(30歳)、自作の『荘厳ミサ』の上演成功を機に教師を辞め、創作活動に本腰を入れる。1856年(32歳)に栄誉あるリンツ大聖堂のオルガン奏者試験に合格し、作曲法を学ぶために5年間ウィーンに通いながら1868年まで12年間その任をつとめた。
このリンツ時代に複数のミサ曲を書きあげる一方、ブルックナーの胸中にはベートーヴェンやシューベルトのように交響曲を書きたいという夢があった。40歳頃から11歳年上の作曲家ワーグナーに傾倒し、地道に作曲を学んで1866年(42歳)に『交響曲第1番』を完成させた。同年、ベートーヴェンの第九を聴き深く感動する。17歳のヨゼフィーネ嬢に「私は希望を持っていいのでしょうか、それとも諦めるしかないのでしょうか」とプロポーズするも2人目の失恋。

1868年(44歳)にウィーン国立音楽院の教授に就任し、68歳になるまで24年にわたって対位法・和声法・オルガンを教え、生徒のマーラーらに多大な影響を与えた。また、宮廷礼拝堂オルガン奏者もつとめた。1869年カロリーネ嬢(17歳)に3人目の失恋。ウィーンに出て4年、1872年に『交響曲第2番』を作曲。1873年(49歳)、当時60歳のワーグナーに会うために『交響曲第3番“ワーグナー”』を携えてバイロイトを訪れ、同作を献呈、ワーグナーの好評を得た。ブルックナーはこの行動をはじめ、日頃からワーグナーの崇拝者と公言していたことから、反ワーグナー派で9歳年下のブラームスや音楽評論家ハンスリックらに敵視され、発表する作品が常に酷評されるようになる。
1874年(50歳)、作曲家として鳴かず飛ばずのブルックナーは“勝負曲”として力を注いだ『交響曲第4番ロマンティック』を書きあげ、そこから初演まで6年がかりで改訂を続けた。苦労が実を結び、初演は大成功となり、楽章が終わるごとに拍手が起き、ブルックナーは何度も客席に答礼したという。この曲は冒頭で弦のトレモロが原始霧を描いて始まる。作曲家自身の解説によると「中世の城に夜明けのラッパが響き、城門が開いて白馬に乗った騎士たちが森へ駆けて行く。森のささやき、鳥の鳴き声…」という、中世への憧れを前面に出したものとなった。

1875年(51歳)、ウィーン大学で音楽理論の講義を開始。1876年(52歳)、対位法に優れた『交響曲第5番』を作曲。同年、第1回バイロイト音楽祭に出席し、ワーグナーの『ニーベルングの指環』初演を観劇、大いに刺激を受けて交響曲第1〜5番の大幅改訂に着手する。この頃、ブルックナーへの批評家のバッシングが頂点に達しており、中立的な音楽家は巻き込まれることを恐れてブルックナーに近寄らなかった。1877年(53歳)、その孤立の中で交響曲第3番を初演するも大不評で打ちのめされる。だが17歳のマーラーはこの初演に深く感動し、ブルックナーにその旨を伝えた。ブルックナーはマーラーの賛辞を大いに喜び、同曲のピアノ編曲を36歳も年下のマーラーに依頼、後に出版された。1879年(55歳)、室内楽の傑作『弦楽五重奏曲』を作曲。

50代後半になると教職や音楽活動で高い収入を得るようになり、生活の安定と共に作品も円熟期に入った。とはいえ1881年(57歳)に『交響曲第6番』を完成させるもブルックナー叩きの逆風の中で全曲を披露できず、全曲の初演は没後にマーラーが行うまで待たねばならなかった。第6番はブルックナーが改訂しなかった唯一の交響曲だ。同年、後期ロマン派宗教曲の最高峰と賞賛され、“神なる御身を我らはたたえ”(Te
Deum laudamus)の歌詞ではじまる宗教合唱曲『テ・デウム』を作曲。初演から高い評価を得て、生前に30回も演奏された。
1883年、敬愛するワーグナーの死を予感し、哀悼の音楽として第2楽章を書いた『交響曲第7番』を作曲。そして実際に、第2楽章のクライマックスを作曲中にワーグナーの訃報を受け、最後のコーダを書きあげた。翌年、ウィーンで第7番が初演され大成功を収め、ある演奏会では第2楽章が3回もアンコールされたという。第7番は『テ・デウム』と共にブルックナーに大きな名声を与えた。
※名指揮者ニキシュはブルックナーの第7番の初演を成功させるべく、あらかじめ批評家達を招いてピアノで聴かせた。招待された作曲家ヘルツォーゲンベルクの夫人エリーザベトは反ブルックナー派であり、初演後にその体験を師ブラームスに「強制的におこなわれた種痘(事前にワクチンを投与する免疫療法)みたいにブルックナーの音楽を無理やり押しつけられた」と書いている。これに対するブラームスの返事「おそらくあなたは、あのブルックナーの交響曲が怒濤のごとく鳴り渡るなかを、最後までじっと我慢していなくてはならなかったというのに、初演後にみんなが語る賞賛の言葉を耳にして、自分の耳と判断を信頼しとおせなくなったのです。でも、同じ意見の人を知っていますし、それはそれで良いではありませんか」。

1885年マリー嬢(17歳)に4人目の失恋。2人で劇場へ出かけたり、マリーがブルックナーに自身の写真を贈る仲になっていたが、61歳と17歳の差は厳しいものがあり、ブルックナーの「私の身も心も永遠に貴女のものです」という言葉は彼女の心に届かなかった。
1887年(63歳)、3年をかけて『交響曲第8番』を完成させたが、弟子や周囲が困惑の表情を見せたために自ら改訂に取り掛かり、その勢いで交響曲第1〜4にも手を入れた(第二次改訂)。1889年リーナ嬢(18歳)に5人目の失恋。翌年ヴィースナー嬢(17歳)に6人目の失恋。

1891年(67歳)、ウィーン大学に名誉博士の称号を贈られ、御礼に改訂が終わった交響曲第1番を献呈した。同年、公演先のベルリンで病に伏し、ホテルで静養する。この時、看病してくれたホテルの小間使いイーダ・ブッシュ嬢(19歳)との間に愛が生まれ、ブルックナーは快復後に指環を購入し、彼女はこれを受け取ってくれた。ついに恋が成就するかに見えたが、彼女がプロテスタントであることが分かり、ブルックナーがカトリックへの改宗を求めた結果、彼女は指環を送り返してきた。7人目の失恋。この傷心から逃れるためか、同年にミーナ嬢(18歳)に恋するも8人目の失恋。
1892年(68歳)、改訂を重ねた努力もあって第8番初演は大成功を収め、同曲を楽譜出版の費用を負担したフランツ・ヨーゼフ帝に捧げた。同年、アンナ嬢(16歳)に人生最後の愛の告白をするも9人目の失恋。1893年(69歳)、完成作としては最後の作品となったカンタータ『ヘルゴラント』を作曲。

晩年のブルックナーは多くの人々から尊敬を集めるなか心臓を病み、1896年10月11日、『交響曲第9番』(ベートーヴェン第九と同じニ短調)の第3楽章を作曲中にベルベデーレ宮殿内の住居で心不全のため他界した。享年72歳。葬儀は楽友協会の南向かいにあるカールス教会で行われた。ブルックナーは晩年にこう言い残した。「第9番は愛する神に捧げるために書いた。仮に未完のまま終わるようなことがあれば、最後に私の“テ・デウム”(宗教合唱曲)を演奏してもらいたい。それが作曲の動機に相応しい」。翌年、ブラームスも没した。偶然か因果関係があるのか分からないか、9回重ねた失恋と同じ数の至高の交響曲がこの世に残った。
ブルックナーの亡骸は遺言によって、彼がこよなく愛したザンクト・フローリアン修道院の超巨大パイプオルガンの真下に安置された。リンツ大聖堂やウィーンのオルガンではなく、20代の頃に最初に公式オルガン奏者になった思い出のオルガン。彼はその重厚な音色に惚れ込み、ウィーンに出た後もこのオルガンを弾くために時々修道院を訪れていた。現在、当オルガンは「ブルックナー・オルガン」と呼ばれている。

作曲に挑む際のブルックナーの性格は、良く言えば柔軟性があり、悪く言えば優柔不断であり、周囲の意見を聞きながらオリジナルの楽譜にどんどん手を加えた。しかも、楽譜が出版される際に弟子たちが「このままでは長大すぎて演奏されない」と危惧して短くカットすることが多かった。他者の関与を排除した原典版を復元するため、他界33年後の1929年に「国際ブルックナー協会」がウィーンで創設され、オーストリアの音楽学者ロベルト・ハース(1886-1960)が中心になって研究を進めた。ところが戦後になってハースがナチ党の元メンバーだったことが問題になりプロジェクトから追放され、作業を引き継いだウィーン出身の音楽学者レオポルト・ノヴァーク(1904-1991)がハースの校訂をすべてやり直した原典版を刊行。結果、「ハース版」(旧全集)、「ノヴァーク版」(新全集)の2種類の原典版が存在することになった。校訂作業は今も続いており、複数のノヴァーク版への批判版が刊行されている。オーストリア国立図書館にはブルックナーの遺言で寄贈された「遺贈稿」も存在する。要するに大混乱状態。指揮者によっては好みでハース版とノヴァーク版をミックスして演奏しているケースすらある。

音楽で宇宙の深淵に誘うブルックナー。音と音の間には大気に満ちる宇宙の“気”を感じる。同時にまた、壮大な音の大聖堂を建築していく過程に向き合っている感覚にもなる。彼は生涯にわたってとても信心深いローマ・カトリック教徒だった。少年時代から修道院で聖歌を歌い、晩年まで教会にオルガン奏者として仕えていたことから、オーケストラの音色はオルガン的な色彩を放っている。ワーグナーの音楽と教会音楽の独自の融合に成功した。
当時の作曲家にとって良いオペラを書くことが成功への近道だったが、ブルックナーは声楽が得意分野であったにもかかわらず、オペラを1曲も作らず、求道者のように宗教音楽を書き続けた。そんな生真面目ともいえるブルックナーだが、形式が整ったブラームスの作品と比較すると、彼の作品は形式から解放され自由に展開しており、冒険者としての大胆な横顔を見せている。第1楽章に3つの主題を入れるなど演奏時間に1時間を要する作品を作り続けたが、魂の浄化にはこの長い時間が必須と考えたのだろう。

【墓巡礼】
ブルックナーの墓参りは3度目の挑戦でようやく墓前に到達できたという波乱に満ちたものだった。最初の巡礼は1994年。まだネット普及前のことで、僕はブルックナーゆかりのオーストリア・リンツにさえ行けば、墓所のあるザンクト・フローリアン修道院に行けると思っていた。夏の午後3時にリンツ駅に着き、修道院方面のバス停を探して時刻表を見て驚いた。数時間に1本しかなく、しかもバスが出た直後だった。次の便に乗れても修道院の閉門時間に間に合うか分からなかった。当時20代ゆえタクシーという贅沢な選択肢は頭に微塵も浮かばず、「よし、歩いて行くか!」と腹をくくる。ところが、観光案内所で地図を調べると12kmも離れていることが判明。ガーン、やはり到着が夕刻になり閉門している。落ち込んでいると『ブルックナー・ハウス』という建物を地図上に発見した。「これは生家か?お墓が無理ならせめて生家に…」。だが、現地に行って固まった。ブルックナー・ハウスの正体はコンサートホールだった!ドナウ河に面したガラス張りの巨大建築を前にしばし立ちすくむ。ブルックナー生誕150周年を記念して1974年に建てられたという。毎年9月にブルックナー音楽祭が開催されているとか…。旅程に余裕がなく断腸の思いでリンツを後にした。
再巡礼は8年後の2002年。30代半ばであり今回はタクシー代を用意して夜のリンツ駅に降り立った。ユースホステルで1泊し、朝7時にタクシーで出発。郊外の丘陵地帯を走り抜け、20分ほどで念願のザンクト・フローリアン修道院に到着した。まだブルックナーが眠る礼拝堂は門が閉まっていた。8時に開門されるらしく付近を散策。7時50分に再び礼拝堂に行くと既に入れるようになっていた。巡礼者は僕1人のみ。内部の絢爛豪華なゴシック彫刻や天井画に圧倒される。ブルックナーの名が刻まれた墓碑は、入ってすぐの場所、僕の“足下”にあった。キリスト教圏には、生前に人を踏みつけてしまったことの懺悔の意味を込め、あえて人々の通り道に墓を造って“踏んでもらう”風習がある。「生真面目なブルックナーらしいな」と膝を着いて手を置き、名曲を思い浮かべながら「ダンケ・シェーン(ありがとう)」と感謝を伝え、ひとときを過ごす。30分間誰も入って来ず、広い礼拝堂にあって音楽史の巨人を独占する至福…。そして、リンツ駅に向かう8時半のバスに乗るためバス停へ。ちなみに9時半から12時半までバスはない。その意味でも早朝に来ておいて良かった。
日本に帰国した僕は、リベンジを果たせた興奮を胸にホームページにお墓画像をアップした。それからしばらくして驚愕のメールが届いた。「カジポンさんが巡礼したのはブルックナーの記念碑で、本当のお墓は地下墓地にあります。堂内の右手に地下に降りる階段があるんですよ」。メールには見たこともないブルックナーの棺の写真が添付されていた。ギャアアアア!!な、な、なんだってぇええええええ!?もう日本に帰って来ちゃったよ!!うわあああああー!!
…月日は流れ、13年後の2015年。コツコツ巡礼資金を貯め、40代後半になった僕はドイツでレンタカーを借り欧州巡礼を敢行。だが、途中で車上荒らしにあって国際運転免許証を盗まれ、いったん帰国して免許証を再発行、ドイツに戻って再度レンタカーでオーストリアに入り、3度目のリンツ訪問を果たした。
実は、大きな不安を抱えての“イチかバチか”のザンクト・フローリアン修道院再訪だった。というのも、公式サイトによると、「所要1時間の有料ガイドツアーに参加しないと地下墓地に行けず、しかもツアー実施は11時、13時、15時の限定3回、参加者10人以上、5月1日〜10月11日(命日)までの期間限定、料金は約千円」というとんでもないハードルの高さ。途中の道路渋滞もあって僕が着いたのは16時半。時間、参加人数(僕1人)、どちらもアウトだった。
「わかっているさ…ブルックナーとは縁がない…。だけど、16時閉門じゃなかっただけでも有難い。礼拝堂には入れるようだし、あの記念碑にもう一度挨拶しておこう…」。中に入ると7、8人が天井画や祭壇の装飾を鑑賞していたが、閉門時間が近いのかすぐに僕ひとりになった。夕陽が差し込む聖堂でブルックナーに思いを馳せていると、修道士さんが戸締まりに来た。僕はダメ元でブルックナーへの熱い気持ちを訴えた。13年前に間違えて記念碑を巡礼し、これが2度目の訪問である事、交響曲第7番の第2楽章や、第8番終楽章の素晴らしさを力説した。“ブルックナーさんに一言御礼が言いたい”と話しているうちにガチで涙声に。すると修道士さんは「私も第8番が好きです。わかりました。特別にガイドをしましょう。少し待っていて下さい」と信じられない言葉!!修道士さんは祭壇のロウソクの灯を消して周った後、「さあ、私について来て下さい」。鍵束を取り出して地下に続く扉を開け、階段を降りていった。そこには広い回廊があり、修道士さんは歩きながら「ブルックナーの作品は教会で聴くとさらに良いんですよ」「第8番は第3楽章もいいですね」と語っていた。回廊の一番奥に巨匠の棺があった。

  

  

「3分だけ時間を下さい、ブルックナーに御礼を言わせて下さい」と願うと、修道士さんはニッコリして“どうぞ”と手で合図してくれた。「写真を撮っても良いですよ」と言ってくれたのも嬉しかった。ブルックナーの棺は遺言によって、パイプオルガンの真下に置かれている。「ずっとこのオルガンの音を聴いていたい」という彼の願いは聞き届けられた。毎日、頭上から降り注ぐ美しい音色に包まれてこのうえなく幸せだろう。
墓参後、「夢が叶いました。まだ信じられない思いです」と感激を伝えると、修道士さんは優しい声でこう言った。「ミラクルは世界に溢れています。この出会いもその一つですね」。

【ブルックナー・ファンが名付けた愛すべき特徴】
・ブルックナー開始
冒頭を弦楽器のトレモロ(原始霧)で開始する手法。交響曲第2、4、7、8、9番に登場。
・ブルックナー・リズム
ダン・ダン、ダ・ダ・ダという2+3のリズムの反復
・ブルックナー休止
全楽器が演奏を止め、仕切り直してまったく異なる楽想のメロディーを始める。
・ブルックナー・ユニゾン
管弦楽がみんなで同じメロディーを一斉に弾く。超シンプルな世界。
・ブルックナー終止
管弦楽の音のうねりが重なっていきカタルシスのあるフィナーレを迎える。
・ブルックナー・リピート
同じことを何度も何度も繰り返す。とにかく、くどい。そしてそこが良い。

※一度眠って目が覚めたらまだ同じ楽章だったなんてのはザラ。
※『音楽の友』の“あなたが嫌いな作曲家”アンケートの結果が衝撃的。2006年(1)ブルックナー(2)武満徹(3)ワーグナー。2011年(1)ブルックナー(2)マーラー(3)ワーグナー。2014年(1)ブルックナー(2)マーラー(3)メシアン。な、な、何かの間違いと信じたい…。
※ブルックナーの交響曲は20世紀前半までドイツ語圏でしか評価されていなかった。1959年にカラヤンが来日公演で『交響曲第8番』を取り上げた際、日本側は“ブルックナーで客が入るのか”と懸念し、モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』も加えてもらったという。
※ブルックナーとブラームスは相容れなかったが、『交響曲第1番』を40代に入ってから作曲した点で共通している。
※戦後のオーストリアで、ブルックナーの肖像は紙幣や硬貨になった。
※求婚の相手が常に若い女性であったのは、そこに何かしら純粋なものを見出していたのだろう。
※宗教音楽に大規模管弦楽を伴う『ミサ・ソレムニス』『レクイエム』『テ・デウム』などを残す一方、オペラ作品を1曲も書いていない。吹奏楽曲として『行進曲変ホ長調』、トロンボーンアンサンブルの『エクアール』がある。
※ブルックナーの名演はフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、チェリビダッケなどが知られる。指揮者のロジェストヴェンスキーはマーラーが編曲した交響曲第4番も含めたすべての稿を演奏した全集を録音した唯一の指揮者。
※日本人指揮者で最初にブルックナー交響曲全集を録音したのは朝比奈隆。
※音楽学者・広瀬大介「ブルックナーはアドバイスを受けて自作に手を入れたが、最後は自分の個性で周りを納得させた。時代に迎合しない潔さ、強さがある。個性が輝いている」
※脳科学者・茂木健一郎「60過ぎのクラシック通の方が“ありとあらゆる作曲家のシンフォニーを聴いてきたけど、いや〜最後はブルックナーだよね”とおっしゃったので、ずっとその意味を考えています」。

参考資料→『名曲事典』(音楽之友社)、NHK『ららら♪クラシック』、『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)、『世界人物事典』(旺文社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)ほか。



★ブラームス/Johannes Brahms 1833.5.7-1897.4.3 (オーストリア、ウィーン 63歳)1989&94&2002&05&15
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria/Plot: Group 32 A, Number 26

  

ウィーン・レッセル公園のブラームス像 向かいにムジークフェライン(ウィーン楽友協会)が建つ


2005 1994 2002
ブラームスはシューマンの妻クララに
惚れ、彼女が亡くなって1年も経たず
に彼も世を去った。生涯独身だった
頭を抱え込んだ物憂げなブラームス像が置かれた墓。
深遠で哲学的な彼の音楽が墓からも聴こえてきそうだ

隣の墓は親友ヨハン・シュトラウスU世。重厚な音楽を得意
としたブラームスだが、彼は軽快なワルツを魔法のように
作り出すヨハンに心から敬意と友情を抱いていたのだった

  
2015年は早朝に訪れたところ、こんなにドラマチックな光が。スポットライトを浴びるようにブラームスが輝いていた

ヨハネス・ブラームスは、バッハ、ベートーヴェンと並ぶ「ドイツ3大B」の一人。1833年5月7日、北部ハンブルクの下町に生まれる。父は市立劇場のコントラバス奏者。母は父より17歳も年上で教養人だった。ブラームスは7歳からピアノを学び、家計を支えるために13歳頃からレストランや居酒屋でピアノを演奏し始める。保守的な作曲家マルクスセンに作曲を学び、バッハとベートーヴェンを徹底的に教え込まれた。完璧主義者のブラームスは、作曲したものは最終稿だけを残し、初稿やスケッチを破棄した。また完成作であっても19歳以前に書いた作品のすべてを自己批判から燃やしてしまった。いわく「ヴァイオリンソナタ3曲、弦楽四重奏曲20曲以上を焼き捨てた」。

1853年、二十歳の時にハンガリーのヴァイオリニスト、エドゥアルト・レメーニのピアノ伴奏者となり、レメーニからジプシー音楽を教えてもらい、これが後の『ハンガリー舞曲』に結実した。レメーニとの演奏旅行中、2つ年上でこちらもハンガリー出身の名ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)と知りあい才能を認められた。ヨアヒムは19世紀後半の最も優れたヴァイオリニストの一人で、リストが指揮者をしたワイマール宮廷管弦楽団のコンサート・マスターだった。
その後、ヨアヒムの紹介でまずフランツ・リストに会い、同年9月30日、デュッセルドルフに住む作曲家ロベルト・シューマン(当時43歳、ブラームスは23歳年下)の私邸を訪れた。ブラームスが自作のピアノソナタを弾き出すと、シューマンは才能に驚いてすぐに妻のクララを呼びに行き「彼は天才だ、もう一度最初から弾いてくれ」と頼んだ。翌月、その興奮を胸に音楽評論のペンを10年ぶりに執り、かつて主筆を務めていた雑誌『新音楽時報』に寄稿、「新しい道」と題してブラームスを熱烈に賞賛し、名を広く楽壇に紹介した。ブラームスはシューマン夫妻に感謝と敬愛を抱き、夫妻からのエールと友情を支えに作曲に取り組んだ。

翌1854年、シューマン家に悲劇が起きる。シューマンは20代前半から精神を病み始め、前年に指揮台で棒を振り上げたまま固まって演奏を開始できないという事件があった。ブラームスが出会ったときは急速に症状が悪化する過程にあり、年明けから幻聴、幻覚に襲われていた。シューマンは「頭の中でラの音が鳴りっぱなしで新聞も読めない」と苦しみを訴え、クララは日記に「かわいそうなロベルト、彼にはどんな音も音楽に聞こえ、これが止まらなければ気が狂ってしまうというのです」と記す。
ブラームスはしばらくシューマン家に滞在していたが、彼が小旅行に出かけていた1854年2月27日、クララが医師と話し合っている間にシューマンはガウンとスリッパのままで家を抜け出し、真冬のライン川に身を投げた。たまたま落下を目撃した漁師に助けられ、シューマンは一命を取り留める。知らせを聞いたブラームスが旅を切り上げてデュッセルドルフに戻ると、シューマンは自身の希望でボン近郊の精神病院に入院した。

シューマン家には子どもが7人おり、クララは心身共に疲労していたため、ブラームスは3年にわたって献身的に一家を助けていく。このときブラームス21歳、クララは35歳。ブラームスにとって、知的で優しく、欧州で最高の女性ピアニストだったクララは理想の女性だった。ブラームスは心惹かれたが、恩人のシューマンは闘病中であり、クララは人妻であり、人として自分の気持ちを抑えねばならなかった。とはいえ21歳の若者、想いを完全には隠せない。1854年12月、ハンブルクの実家に帰郷中のブラームスはクララに手紙を書く。「僕は千夜一夜物語(第170夜〜第236夜)を書き写します。そこに僕の思いが最も明瞭に描写されているのです。−−おお、我が女王よ、あなたの手紙は憧れと熱望に痛めつけられた魂に香油をまき、引き裂かれ病んだ心を癒やしてくれた。(略)神よ、手紙を送る代わりに直接口でこう繰り返すことを許し給え。“あなたへの愛のために死んでしまいそうだ”と」。
その翌年、1855年(22歳)の夏の手紙。「わが愛する友よ。今日はずっとピアノを弾いたり読書をしながら絶えずあなたのことを考えていました。僕はいつもあなたのことを考えています。あなたのお手紙を待っています。近況を伝える手紙、それが欲しくてたまらないのです」。
想いを口に出すことが禁じられた若者。誰にも言えない。ブラームスはこの年、大きな作品を1曲も作曲できなかった。医師はシューマンの神経を刺激しないよう家族に面会を許さなかったが、友人のブラームスやヨアヒムは許可された。ある日、シューマンとブラームスがワインを飲んでいると、シューマンは突然「毒が入っている」と床に流してしまった。その後、食事を拒否してやせ衰えていった。
この年、ブラームスはハンブルクでシューマンの『マンフレッド序曲』を聴き、感動して自らも交響曲を書こうとした。だが、ペンを持つとベートーヴェンの傑作の存在が重圧となった。ブラームスいわく「ベートーヴェンの9曲の交響曲があるのに、それ以上に必要なのでしょうか」「僕は交響曲を書かないだろう。いつも後ろで行進している巨人(ベートーヴェン)の足音を聞いたら…」。

1856年4月、クララは生活費を稼ぐためにイギリスに3カ月間の演奏旅行に出発し、留守宅をブラームスが守った。クララ出発前のブラームスの手紙は、これまで「あなた」と書いていたのが、より近しい「君」に変化している。「健康に気をつけて、演奏会が成功しますように。演奏旅行はこれが最後になればよいのですが。この旅行が美しい夏と共に君の慰めになりますように。そんな夏を2人で過ごしたいものです」。この手紙を受け取ったクララの日記。「彼の気持ちを拒絶することができないが、私は彼を息子のように愛しているのだ。それも心から」。
6月、ブラームスがシューマンの見舞いに行くと足が腫れ上がって寝たきりになっていた。翌月、クララがドイツに戻ると病院から容体悪化の電報が届く。病院に駆け付けると、シューマンはクララに微笑みかけ、自由がきかない体で必死に腕を回した。クララの回想「私はそれを決して忘れません。世界中の宝を持ってしても、この抱擁にはかえられないでしょう」。 その2日後、1856年7月29日午後4時シューマン永眠。享年46歳。葬儀ではブラームスら友人が棺を担いだ。葬儀の2カ月後、クララは子ども達を連れて実母が暮らすベルリンに転居し、ブラームスとシューマン家が家族同然だった3年間が終わった。この年もブラームスは長い曲をひとつも書いていない。ブラームスは23歳、クララは37歳になった。
その後、クララと生涯に渡って親交を重ねたが、ブラームスはシューマンを心から尊敬しており、彼女への想いを友情に変わらせた。「クララのためにたくさんのことをしてあげたい、絶えず愛しい人と呼んでいたい」、その気持ちは一線を超えることはなかった。

1857年(24歳)、デトモルト侯国の宮廷劇場の指揮者に任命され、3年間在任。その後、演奏旅行でドイツやスイス各地をまわった。
1858年(25歳)の夏、美しい声を持つ大学教授の娘アガーテ・フォン・シーボルト(「シーボルト事件」のフィリップ・シーボルトの親類)と出会い恋心に火がつく。その年のうちに婚約し、指輪をはめた肖像画を描かせ、周囲はゴールイン間近と考えた。ところが翌年、ブラームスの方から破談にした。当時のブラームスは作品発表の度に非難と冷淡さで迎えられていた。それが我慢できたのは、自分の作品に自信があり、評価はいずれ変わるとわかっていたからだ。だが、「心配げな妻の前に出て公演の失敗を言い訳することは耐えられなかった」。そして「僕は君を愛していますが、結婚という束縛には耐えられません」と書いた。アガーテの回想「私はいかなる犠牲を払っても彼を失いたくないと願いましたが、最後には泣いて、泣いて、別れの手紙を書きました」。ブラームスはウィーンの後半生35年をひとりで暮らした。
1859年(26歳)、ピアノに内なる感情を叩きつけた『ピアノ協奏曲第1番』(完成は2年前)を自身の演奏で初演し、これが最初の公開演奏となった。この曲は、ライン川にシューマンが入水した際の衝撃(第1楽章)や、音楽で描いたクララの穏やかな肖像画(第2楽章)など、それまでの人生が集約されていた。だが、この曲は当時流行していた名人芸の見せ場など派手さがなかったため、退屈した聴衆から野次を浴びた。ヨアヒムへの手紙「僕はただわが道を行くだけです。それにつけても野次の多さよ!」。
1860年(27歳)、甘美な旋律の第2楽章で知られる『弦楽六重奏曲第1番』を書きあげ、クララの誕生日にピアノ編曲版をプレゼントした。弦楽六重奏という分野は過去の巨匠が未開拓の分野であったことから、若いブラームスは伸び伸びと作曲できた。

1862年(29歳)、ウィーンに移り、翌年合唱団の指揮者となったが1年で辞任し作曲活動に集中する。1865年(32歳)にアガーテとの別れを描いた『弦楽録重奏曲第2番』を作曲。この曲で「恋から解放された」という。同年、母が他界。
1868年(35歳)、母と恩人シューマンの死を悼んだ7部構成の『ドイツ・レクイエム』がブレーメンで初演されて大成功をおさめ、ブラームスの名がヨーロッパ全土に知れ渡った。『ドイツ・レクイエム』の歌詞はカトリック教会の伝統的なラテン語の典礼文ではなく、プロテスタントのルターによるドイツ語訳聖書をテキストにしている。
1869年(36歳)、シューマンの三女ユーリエ・シューマン(24歳)の結婚が決まり、密かに好意を感じていたブラームスは、ショックを受けてシューマン家への来訪回数が減る。ユーリエに対する恋慕はクララも気づいていなかった。
1872年(39歳)、父が他界。この年、名誉あるウィーン楽友協会の芸術監督に就任したが、楽譜出版の収入だけで十分に暮らすことができたため、作曲に専念するべく3年後に辞任した。

ブラームスは30代の間は本格的な交響曲に挑まず、ピアノのための作品とオーケストラ伴奏つきの合唱曲を中心に書いてきたが、1873年、40歳になって交響曲の準備を始める。まずは管弦楽曲『ハイドンの主題による変奏曲』を作曲した。そして室内楽でも新たな一歩を踏み出す。弦楽四重奏の分野はベートーヴェンが16曲の傑作を残しており、そのプレッシャーから40歳になるまで曲を公開できなかったが、この年『弦楽四重奏曲第1番』を発表した。
1875年(42歳)、オーストリア国家奨学金の選考委員を担当しチェコのドボルザークの存在を知る。数々の豊かな旋律に感嘆し、「ドボルザークがゴミ箱に捨てたメロディーを繋ぐだけで交響曲が一曲書けるだろう」と絶賛した。

1876年(43歳)、ブラームスは着想から21年もの歳月をかけた壮大な『交響曲第1番』をついに完成させた。ワーグナーやリストら同時代の作曲家は交響曲を時代遅れと考え、総合芸術の壮大な「楽劇」や標題音楽の交響詩で新時代を築いていたが、ブラームスはこれに反発し、ベートーヴェン以来かえりみられなかった古典派の形式・伝統を復活させた。聴衆の中でベートーヴェンの遺伝子を受け継いだ交響曲を待ち望んでいた者は喝采をあげた。指揮者ハンス・フォン・ビューローは交響曲第1番を讃えて「ベートーヴェンの交響曲第10番だ」と評した。

翌1877年(44歳)、南オーストリアの湖畔で作曲した牧歌的な『交響曲第2番』が完成。“ブラームスの田園交響曲”と呼ばれるこの曲はわずか3カ月で書かれた。ブラームスは湖畔の町ペルチャッハについてこう記している。「ここでは旋律があまりにもたくさん生まれ、散歩の時など踏み潰さないように気をつけねばならないほどです」。
1878年(45歳)、親友ヨアヒムのために取り組んだ『バイオリン協奏曲』が完成し、初演は成功に終わったが、技巧的で明るさより渋みが支配したことから「バイオリンに挑戦する協奏曲」と一部から酷評された。後にシベリウスはこの曲の交響的な響きに衝撃を受け、自作を全面的に書き直したという。この年から15年の間に夏のイタリアに8回滞在して作曲を行った。
1879年、クララが特に好んでいたブラームスの歌曲“雨の歌”を引用した『ヴァイオリンソナタ第1番“雨の歌”』を作曲し、クララへの思慕の念を込めた。同年、嫉妬深いヨアヒムが自分の妻とブラームスの関係を疑い、両者は疎遠となる。1880年(47歳)、大学から名誉博士号授与の知らせを受け、感謝の印にドイツの学生歌をとりいれた陽気な『大学祝典序曲』を作曲した。また、沈痛な『悲劇的序曲』という性格の異なる序曲も書いている。

翌1881年、後にブラームスの評伝を書いたワルター・ニーマン(1876?1953)が「ピアニストの汗と血を要求する至難の協奏曲、演奏者はピアニストの妙技を捨て労働者となる」と語った大曲『ピアノ協奏曲第2番』を発表。同曲は従来の一般的な3楽章形式の協奏曲ではなく4楽章で構成されており“ピアノ交響曲”とも呼ばれる。
1883年(50歳)、“英雄交響曲”と呼ばれる『交響曲第3番』が完成。初演はアンチ・ブラームス派の妨害を受けたが成功、ロシアでは第3楽章を、ライプツィヒでは終楽章をアンコール、中部マイニンゲンでは全曲丸ごとのアンコールを求められた。

同年ワーグナーが没した際に、ブラームスは追悼の月桂冠を送ったが、ワーグナーの妻コジマはこれに戸惑った「ブラームスは私たちの芸術の友ではなかったはず」。それというのも、当時の音楽界はワーグナーやリストを中心とする新ドイツ派と、ブラームスを中心とする新古典派が激しく論争していたからだ。ワーグナーが作り上げた「楽劇」は音楽、演劇、美術、文学の総合芸術であり音楽は全体の一部。それに対し、ブラームスなど新古典派は徹底した「純粋音楽」を目指した。ウィーンではワーグナー派とブラームス派が酒場で取っ組み合いのケンカをするほど対立していた。だが、仲が悪いのは両者の支持者だけで、ブラームス本人はかつて友人にこう書いている。「いまワーグナーが当地(ウィーン)にいる。そして僕はワグネリアン(ワーグナーファン)ということになるだろう。当地の音楽家がワーグナー作品に軽率に反発しているのを見ると、思慮ある人間としてはワグネリアンになる」。
一方のワーグナーも、ブラームスがヘンデルの作品をもとにした変奏曲を弾いているのを聴き、「古い様式でも、本当に出来る人の手にかかると、いろいろなことが可能なものだ」と評価している。そもそもブラームスが20歳も年下ということもあり、ワーグナーは存在を気にもとめていなかった。また2人とも信仰する神(ベートーヴェン)が同じだった。
この年、23歳年下のアルト歌手ヘルミーネ・シュピースに惹かれ、彼女もブラームスのもとを訪れたりしたが、今回も結婚に踏み切れなかった。「結婚すればよかったと思うこともある。しかし適齢期のころは地位がなく、今では遅すぎる」。

1885年(52歳)、最後の交響曲となった重厚な『交響曲第4番』を生み出した。曲全体の渋さを自認しており、友人のハンス・フォン・ビューローに「このサクランボは甘くないから君にはおそらく食えたしろものではないだろう」と手紙に綴った。
1887年(54歳)、最後の協奏曲となる『バイオリンとチェロのための協奏曲』が完成。クララの私邸で試演され、一時期不和だったブラームスとヨアヒムがこの日の演奏で仲直りしたことから、喜んだクララは日記に「和解の協奏曲」と記した。この年は交響曲第4番の指揮を巡って対立していたビューローとも仲直りできた。ブラームスがビューローにモーツァルト『魔笛』の“もう会えないのでしょうか?”のメロディーが書かれたカードを送ったからだ。以後、没するまで10年間はピアノ曲とクラリネットの室内楽しか書いていない。

1888年(55歳)、クララがリウマチを抱え経済的に困っていたため、独身で金銭的に余裕があったブラームスは手紙で援助を申し出る。「あなたをこの問題で悩ませたくない。いくらでも援助できるのです。匿名でお金を送ってもいいし、シューマン基金に振り込んでもいい、どうか希望の方法を教えて下さい」。ブラームスは質素な生活を好み、クララだけでなく、匿名で多くの若い音楽家を支援していた。同年、チャイコフスキーとグリークがブラームスを訪問。7歳年下のチャイコフスキーは、ブラームスと会うまで「詩情が欠け深遠さを装っている」と辛口の見解を示していたが、実際に会って評価は一転、2人で演奏会を聴きに行ったり食事をとるほど意気投合した。
1889年(56歳)、エジソンの代理人の依頼を受けて史上初の録音(レコーディング)を行い、ブラームスはピアノ演奏で『ハンガリー舞曲第1番』とヨーゼフ・シュトラウスのポルカ『とんぼ』を吹き込んだ。
1891年(58歳)、前年から老いによる創作意欲の減少を感じていたブラームスだが、クラリネットの名手リヒャルト・ミュールフェルトの演奏に触発されて『クラリネット三重奏曲』と、発表後たちまち大人気となった『クラリネット五重奏曲』を書きあげた。
1892年(59歳)、ゆったりしたテンポ、透明感のある和声のピアノ小品『三つの間奏曲』を作曲。
1893年(60歳)、ピアノ小品集『ピアノのための6つの小品』をクララに献呈。さらに最後のピアノ独奏作品となった『4つの小品』を完成。いずれも晩年の作曲家の孤高と宗教的諦観をにじませた作品となった。

1896年、歌曲『4つの厳粛な歌』を作曲(旋律が童謡“黄金虫”と似ている)。同年3月、クララがフランクフルトの自宅で倒れる。2カ月後の5月21日、脳溢血の発作でクララが他界した。享年76歳。クララの絶筆はブラームスの誕生日を祝う手紙だった。ブラームスは地方の保養地にいたため、クララの死を伝える電報はウィーン経由で2日も遅れて届いた。慌てたブラームスはフランクフルト方面の列車に飛び乗る。夜中に乗り換えが必要だったが、乗務員のミスで各駅停車で遠回りすることになってしまう。フランクフルトに着くと葬儀が終わっていて、クララの遺体はシューマンの墓があるボンに移されていた。彼女を追いかけてさらに列車に乗るブラームス。そうしてクララの棺が埋葬される直前に立ち会うことができ、棺に土をかけることだけはできた。この時の約40時間の列車の移動がブラームスの体調を崩す大きな原因のひとつになった。ブラームスは墓前で長くたたずんだ後、友人の家で追悼の曲として『4つの厳粛なる歌』を弾いて別れの儀式とした。

同年10月11日、ウィーンで72歳のブルックナーが他界。葬儀会場で扉の側にいたブラームスは「次は私が棺桶に入るよ」と呟いた。ブラームスはワーグナーに傾倒したブルックナーの音楽を「交響的大蛇」と批判したこともあったが、名オルガニストとして一目置いていた。共通の友人が食事の席をもうけた際、ブラームスとブルックナーが同じレストランの肉団子が好物とわかり、ブルックナーの「ブラームス博士!この店の肉団子こそ我々の共通点ですな!」という言葉で打ち解けた。ちなみにブラームスとブルックナーはオペラを書かなかったのも共通している。

クララを失い、打ちのめされたブラームスは肝臓癌が一気に悪化し、彼女の死から1年も経たない(11カ月後)翌1897年4月3日、後を追うようにウィーンのカールガッセ4番地のアパートで息絶えた。享年63歳。盛大な葬儀の後、亡骸は1871年に開かれたウィーン中央墓地の第32A区“楽聖特別区”に埋葬され、3年後に親友の“ワルツ王”ヨハン・シュトラウス2世(1825-1899)が隣りに眠った(シュトラウスは8歳年上だが73歳まで生きた)。ブラームスとシュトラウスはまったく作風が異なるが、互いに尊敬し合う良き理解者だった。シュトラウスの作品は批評家から「現代的すぎる」「ワルツの鎮魂曲」と酷評されていたが、ベートーヴェンの正統後継者と見られていたブラームスが「シュトラウスの音楽こそウィーンの血であり、ベートーヴェン、シューベルトの直系」と支持を表明したことで、批評家は「シュトラウスは最も素晴らしいバレエを書ける現代唯一の作曲家」と讃えるようになった。ブラームスがシュトラウスの継娘(ままむすめ)に贈った扇には、シュトラウスの『美しく青きドナウ』の旋律と共に「遺憾ながらこの曲はブラームスの作にあらず」と書かれていた。
ブラームスの墓は、楽譜を眺めながら右手を頭につけ思案するブラームスの胸像が据えられている。後背の石板には男女の裸像が彫られた。墓の斜め前には、彼が崇拝していたベートーヴェンとシューベルトが眠っている。

19世紀後半のヨーロッパ音楽界はワーグナーの圧倒的な影響下にあったが、ブラームスはヴェルディと並んでワーグナーの影響力に屈しなかった数少ない作曲家の一人だ。ベートーヴェンなどウィーン古典派の流れをくむ彼は、楽曲に「統一感」を持たせることを何よりも重視し、作品は堅牢な構造を持った。ワーグナーなど同時代の傾向に反して、突然の転調や、耳慣れない和声を闇雲に追わなかった。古典派の形式を堅固に踏襲しており新古典派と呼ぶに相応しい。だがそれはあくまでも形式の話。当時の人には時代遅れに見える作風だが、内面的な情熱、豊かな叙情性、厚みのある響き、ロマン主義ならではの感情の高まりが随所にあり、最大の後期ロマン派と言っていい。主要な管弦楽作品は4つの交響曲、2つのピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲。大半の曲は室内楽曲、器楽曲、声楽曲で、300曲以上の歌曲や合唱曲を書いている。手を出さなかったのは、オペラと交響詩のみ。霧深い北ドイツを思わせる、渋く、厚く、曇りがちの音楽。枯淡で飾り気のない素朴さ、味わい深さが、今なお多くのコアなファンを生み続けている。


「ブラームスの作品は年齢を重ねるごとに余分な部分が減って素朴さが増している」(フルトヴェングラー)
「最後の4つのピアノ曲で古典派から続いたソナタの時代は終わった」(アインシュタイン)
「ブラームスが創造したものは無能力のメランコリーに過ぎない」(ニーチェ)

※ブラームスが14歳も年上のクララを女性として意識したのは、父が17歳年上の母と結婚したことも関係しているだろう。
※ブラームスの生家は1943年7月のハンブルク空襲で焼け落ち、記念碑のみ残る。
※「反ユダヤ主義は狂気の沙汰だ」(ブラームス)
※ブラームスとヨハン・シュトラウス2世のツーショット記念写真が現存。
※晩年の欧州はジャポニズム(日本ブーム)が起き、1890年頃に琴の演奏を聴き、日本の民謡集の楽譜に書き込んでいる。
※ピアノ協奏曲第2番の第3楽章が美しい。
※ブラームスはベートーヴェンの後継者と見なされているが、バッハ全集を購読し、モーツァルトやハイドンの自筆稿を集めるなど、他の作曲家も熱心に研究している。
※ウィーンの森を散策する際はキャンディを持参して子どもたちに与えたりした。
※ブラームスは他人の作品を厳しく批評したため、ワーグナーやフーゴ・ヴォルフなど敵が少なくなかった。
※部屋にはベートーヴェン像と、ドイツ帝国の宰相ビスマルクの像が飾られていた。
※ブラームスはある貴族から贈られたモーツァルトの「交響曲第40番」の自筆譜を生涯大切に所持していた。
※ウィキペディアのブラームスの項目に、1889年12月2日録音のブラームスの演奏『ハンガリー舞曲第1番』がアップされている。100年以上前の演奏が聴け感無量。
※ウィーン中央墓地は面積250ヘクタール(甲子園球場約65個分)、33万の墓所を擁し、年間約2千万人が訪れるヨーロッパ最大級の墓地。1871年に市内5箇所にあった墓地をひとつにまとめて開設された。その途方もない広大さゆえ、路面電車の停留所が端から端まで4つもある。ウイーン中心部から南東約7キロに位置し、路面電車71番で約30分。

〔参考資料〕『中欧・墓標をめぐる旅』(平田達治/集英社)『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)『大作曲家の知られざる横顔』(渡辺学而/丸善)、『リストからの招待状』(渡辺学而/丸善)、『世界人物事典』(旺文社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)、『尚美学園大学芸術情報学部紀要第6号 クララ・シューマン』ほか。

学生時代は過激なワグネリアンだった自分も、歳をとった最近は、古寺で枯山水を楽しむようにブラームスの室内楽に浸ってばかり。
あの枯淡の極致とでもいおうか、セピア色の音色がたまらない。“キング・オブ・いぶし銀”にどっぷり。お〜い、コブ茶のおかわりをおくれ〜。



★フォーレ/Gabriel Urbain Faure 1845.5.12-1924.11.4 (パリ、パッシー 79歳)2002&09
Cimetiere de Passy, Paris, France Plot: Division 15

 





2002 シンプルな墓 2009 墓地の敷地が狭く、フォーレの周囲は墓石がひしめき合っている

フランス近代の最大の作曲家の一人。ガブリエル・フォーレは、1845年5月12日にスペイン国境に近い南仏アリエージュ県のパミエに生まれた。6人兄弟の末っ子。父は小学校教師。家族は音楽と縁がなかったが、少年フォーレは教会のオルガンを即興で弾いたことから才能を見出され、9歳のときに前年開校したばかりのパリのニデルメイエール宗教音楽学校に入学した。1861年(16歳)、校長のニデルメイエールが他界すると、作曲家サン=サーンスが教師として赴任、フォーレはピアノと作曲を師事した。サン=サーンスは宗教音楽学校の正規授業には含まれていない、ショパン、リスト、シューマン、ワーグナーなどの音楽にも触れる機会を与えた。サン=サーンスはフォーレに「芸術家の資質の一つで野心が欠けている」と指摘した。

1865年(20歳)、音楽学校の卒業作品として合唱曲『ラシーヌ賛歌』を作曲する。17世紀フランスの劇作家ジャン・ラシーヌの宗教詩に基づいて作曲されたこの作品は、作曲部門で一等賞を獲得した。同年、卒業後に旅先のレンヌで教会オルガニストに4年間採用される。この頃から、歌曲集『3つの歌』を作曲し始め、内容の異なる4つの『3つの歌』が1875年まで書かれた。
1870年(25歳)、プロイセンとの間に普仏戦争が勃発すると、フォーレは歩兵部隊に志願。仏軍は苦戦し、皇帝ナポレオン三世が前線で捕虜になった。パリは包囲され砲弾が撃ち込まれる。この頃に書かれた『3つの歌』第3集に収められた『夢のあとに』は、イタリア詩の訳詩に曲をつけた切なくメランコリックな名歌で、後世に歌い継がれるものになった。
1871年(26歳)、フォーレはサン=サーンス、セザール・フランクらが呼びかけた「フランス国民音楽協会」の設立に参加する。この協会は、フランスの作曲家の未刊作品に初演の場を与えんとするものだった。フォーレ「本当のことをいうと、1870年以前には、私はソナタや四重奏曲を書きたいとは思っていなかった。当時は、若い作曲家の作品が演奏される場などなかったからだ。サン=サーンスが国民音楽協会を設立した大きな目的は、まさに若い作曲家たちの作品を演奏することにあったのであり、私もそのために室内楽曲を作るようになったのです」
同年、フランスはプロイセンに降伏。パリ・コミューン革命が3月に起きたが2カ月後に鎮圧された。
この頃からフォーレはパリの名士が集うヴィアルド家(夫人ポーリーヌ・ヴィアルドは有名声楽家)や実業家カミーユ・クレール一家の芸術サロンに出入りし始め、日曜日に催される音楽会のために多くの声楽作品を書いた。フォーレはサロンで出会ったヴィアルドの娘マリアンヌと恋に落ちる。
1874年(29歳)、サン=サーンスの後任でマドレーヌ寺院のオルガン奏者に就任。
1876年(31歳)、フォーレはピアノ曲や歌曲以外で初の本格的な作品『ヴァイオリンソナタ第1番』を作曲。この作品はフランス室内楽の初期の傑作のひとつとなった。当時のパリはオペラがもてはやされ、室内楽は注目されなかったが、のびやかな筆致の生き生きとしたヴァイオリンソナタの初演は大成功を収めた。聴衆のアンコールに応えて第3楽章が2回も演奏された。恋人マリアンヌとの恋愛が音楽に反映され、幸福な気持ちが聴衆に伝わった。
フォーレの手紙「演奏会は予想以上の成功でした。サン=サーンスは私に、子供が成長して自分の手元を離れてゆく時に覚える母親の悲しみを今晩味わったと言いました」。サン=サーンスは音楽誌に「フォーレ氏は、一躍巨匠の域にまで達した」と寄稿。それまで室内楽ソナタの不毛の地であったフランス楽壇は、フォーレがこの分野を開拓したことで、多くの作曲家が後に続くようになる。
1877年(32歳)、サン=サーンスのオペラ『サムソンとデリラ』初演を観るためワイマールを訪れ、晩年のフランツ・リスト(1811-1886)に面会、感激する。フォーレの才能を認めたリストは、後に「尊敬と愛情をこめて」と写真に書いてフォーレに贈った。7月、パトロンのヴィアルドの娘マリアンヌと婚約。ところが彼女の母は「作曲家は速く書くすべを身に付けるべき」と作曲を急かし、フォーレは「それでは作品に技巧を凝らすことはできない」と反論、同年10月に婚約を一方的に破棄され、援助も打ち切られてしまう。
1879年(34歳)、『 ピアノ四重奏第1番』が完成。フォーレは室内楽の刷新を目指し、独自のものを生み出さんと、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの四重奏というマイナーな編成を選んだ。初演はヴァイオリンソナタに続いて成功を収めた。同年、『ピアノと管弦楽のためのバラード』を作曲。この曲は最後にピアノがハープのように音を奏で、爽やかな余韻を残す優れた作品。ヴァイオリンソナタと共に初期器楽曲の代表的作品。
この年、失恋の傷心を癒やさんと、ワーグナーの楽劇を観るために2度ドイツを訪れ『ニーベルングの指環』4部作をすべて観賞した。
1880年(37歳)、チェロ独奏と管弦楽のための『エレジー』を作曲。胸が張り裂けんばかりの恋の絶望と傷心が音楽に現れている。
1883年(38歳)、彫刻家の娘マリー・フルミエと結婚。息子エマニュエル(1883-1971)誕生。
1884年(39歳)、『4つの歌』を作曲。第4曲「イスパハンのばら」が美しい。
1885年(40歳)、父が他界。この頃から成熟期に入り、それまでの優しさや繊細さに、構築感、激しさ、緊張感が加わっていく。
1886年(41歳)、様々な旋律がほとばしる傑作『ピアノ四重奏曲第2番』が完成、フォーレの作品に肯定的なドイツの指揮者ハンス・フォン・ビューローに献呈した。第3楽章(アダージョ楽章)は幼いころに故郷の渓谷で聞いた遠い鐘の音の思い出という。この楽章について妻への手紙に記している。「存在しないものへの願望は、おそらく音楽の領域に属するものなのだろう」。
1887年、秋に『レクイエム』の作曲を開始、作曲中に母が他界し、ペン先が加速する。同年、甘美な管弦楽曲『パヴァーヌ』を作曲。また、ヴェルレーヌの詩を題材に歌曲『月の光』を書く。
1888年(43歳)、代表作の一つとなる『レクイエム』が完成し、モーツァルト、ヴェルディの作品とともに「三大レクイエム」に数えられる。フォーレの言葉 「長い間画一的な葬儀のオルガン伴奏をつとめた結果がここ(『レクエイム』)に現れている。私はうんざりして何かほかのことをしてみたかったのだ」。フォーレは自身のレクイエムから、カトリックの死者のためのミサでは必須の「怒りの日」を削ったため、そのため「死の恐ろしさが表現されていない」と批判され、マドレーヌ寺院での初演時に司祭から苦言が出た。後年のフォーレの手紙「私のレクイエムは、死に対する恐怖感を表現していないと言われており、なかにはこの曲を死の子守歌と呼んだ人もいます。しかし、私には、死はそのように感じられるのであり、それは苦しみというより、むしろ永遠の至福の喜びに満ちた解放感に他なりません」(『ららら♪クラシック』では「死は苦しみというよりも永遠の至福と喜びに満ちた解放感にほかならない」)。ちなみにマドレーヌ寺院の合唱団は男性限定であったためソプラノ独唱の「ピエ・イェス」はボーイソプラノを念頭にした音域で書かれている。

『レクイエム〜天国にて(イン・パラディウム)』
「♪天国に、天使たちが導いて行く。あなたが到着するとき、殉教者たちがあなたを出迎え、あなたを導いて聖なる街エルサレムへと行く。/天使の群れがあなたを出迎え、貧しかったラザロと共に、あなたが永遠の休息を得るように」
※このラザロは、『ヨハネによる福音書』の死後4日目に奇跡で復活したイエスの友人ラザロではなく、『ルカによる福音書』でキリストのたとえ話に出てくる「金持とラザロ」のラザロ。貧しい病人のラザロは死後に天国へ行ったが、冷淡な金持ちは行けなかった。

この年、ドイツ・バイロイト音楽祭でワーグナーの『ニュルンベルグのマイスタージンガー』『パルジファル』を観賞、後者に「身体の奥底から感動した」という。
翌年、次男フィリップ(1889-1954)誕生。
1890年(45歳)、レジオン・ドヌール五等勲章を受賞。
1891年(46歳)、詩人ヴェルレーヌ(1844-1896※フォーレは1歳年下)の詩にのせた歌曲集『5つのヴェネツィアの歌』を作曲。
1892年(47歳)、妻マリーを通じて親しくなった30歳の銀行家夫人、歌手のエンマ・バルダック(1862-1934)に創作欲を刺激され、ヴェルレーヌが婚約者に書いた詩を使った9曲の歌曲集『優しい歌』を作曲し始める。
1894年(49歳)、歌曲集『優しい歌』が完成。フォーレとエンマ・バルダックは愛人関係になっていた。フォーレの回想「『優しい歌』ほど自発的に書けた作品はなかった」。
1895年(50歳)、主題と11の変奏からなるピアノ曲『主題と変奏』が完成。ピアニストのコルトー「音楽的な豊かさ、表現の深さ、器楽的内容の質の高さからして、あらゆる時代のピアノ音楽のうち、希有で最も高貴な記念碑のひとつ」。
1896年(51歳)、マスネの後任でパリ音楽院の作曲科教授になり、生徒のラヴェルやデュカスに作曲法を教えた。この年、名誉あるマドレーヌ大聖堂の合唱隊長兼主席オルガン奏者にも任じられた。
1897年(52歳)、ピアノ連弾の組曲『ドリー』が完成。「ドリー」とはエンマ・バルダックの幼い娘、エレーヌ(1892年生まれ、当時5歳)の愛称で、エレーヌにこの曲集を献呈している。誕生日祝いにフォーレが書いてきた曲を収録し、1歳「子守歌」、2歳「ミ・ア・ウ」(エレーヌが兄ラウルを「ムッシュー・ラウル」と呼ぶ時の幼児言葉)、3歳「ドリーの庭」、4歳「キティー・ヴァルス」(ラウルの飼い犬ケティの描写)と続き、これに「優しさ」「スペインの踊り」を加えて全6曲とした。1曲目の「子守歌」は揺れるゆりかごを描写するような旋律で知られる。エレーヌをフォーレの子と見る研究者も多い。
1898年(53歳)、イギリスの女優からメーテルリンクの戯曲『ペレアスとメリザンド』の付随音楽を依頼され作曲。多忙につきオーケストレーションを弟子が手伝った。19の小品で構成され、後にさらに「前奏曲」「糸を紡ぐ女」「メリザンドの歌」「シシリエンヌ」「メリザンドの死」の5曲を抜粋して管弦楽用の組曲とした。「シシリエンヌ」(シシリアーノ、シチリア舞曲)だけは5年前に未完となった別のオペラのものだが、『ペレアスとメリザンド』では最も有名な曲となった。ちなみに、ドビュッシーが同名のオペラを初演したのは4年後の1902年。
1900年(55歳)、ギリシア悲劇に基づく全3幕のオペラ『プロメテ』初演。吹奏楽に編曲され1万人の観客を集めた野外劇場で上演された。その際、ハーピストの娘と親密になり一緒に旅行するなど愛人関係になる。
この年のパリ万博で、フォーレの『レクイエム』が「フランスを代表する音楽」として演奏された。司祭を怒らせた初演から12年経っての快挙だった。
1903年(58歳)、室内楽についてのフォーレの手紙「このジャンルはたしかに重要なものです。真の音楽、一人の人格のもっとも真摯な自己表現というものは、管弦楽か、あるいは室内楽を通じてのみ実現できると思っています」。
この年の夏から次第に聴力を失う。しかも高音と低音がピッチの違う音として聞こえフォーレを悩ませた。
1904年(59歳)、フォーレは創作の苦悩を妻宛の手紙に記す「曲を作ると言うことはなんと大変なことなのか…。そして、自分を天才だと思い込んで、つまらない作品にも満足できるような人々はどれほど幸せなことだろう!私はそういった人たちを羨ましく思います」「へとへとになるまで仕事をしたというのに(…)全く、何もできなかった!厚い壁が立ちふさがっている」。この年、ドビュッシーがエレーヌ(ドリー)の兄ラウル・バルダックのピアノ教師となり、教え子の母であるエンマ・バルダックと親密になり、エンマはラウルとエレーヌを捨ててドビュッシーと駆け落ちしてしまう。
1905年(60歳)、作曲家デュボワの後任でパリ音楽院の院長に就任し、オルガニストとしての活動をやめて学院運営に専念する。作曲は年2ヶ月の休暇中に集中して行った。15年にわたる院長在任中に様々な改革を断行し、教授と生徒の癒着を阻止するため、入学審査を外部の者に行わせた。
1906年(61歳)、情感にあふれた『ピアノ五重奏曲第1番』を作曲。3年をかけ、推敲に推敲を重ねた労作だった。
1908年(63歳)、「私にとって芸術、とりわけ音楽とは、可能な限り人間をいまある現実から引き上げてくれるものなのだ」と次男に伝える。
1913年(68歳)、ギリシア叙事詩『オデュッセイア』を基にした全3幕のオペラ『ペネロープ』初演。フォーレが休暇中に5年をかけて書き進めたものだが、サン=サーンスを戸惑わせた。いわく「調が定まらず不協和音が続くのは慣れない。『プロメテ』が懐かしい」。
1914年(69歳)、第一次世界大戦が勃発。
1917年(72歳)、『ヴァイオリンソナタ第2番』を作曲。第一次世界大戦の只中、第1番から42年後に作曲された。同年、『チェロ・ソナタ第1番』完成。荒々しい激情で始まり、明るく歌いあげて終わる楽曲。
1918年(73歳)、第1次世界大戦下のパリでドビュッシーが他界。享年55歳。
1919年(74歳)、ヴェルレーヌの詩集を下敷きにした喜劇の付随音楽『マスクとベルガマスク』を作曲。…といっても、全8曲のうち新曲は2曲であり後は過去作品を利用。
1920年(75歳)、聴覚障害のため15年間務めてきたパリ音楽院の院長を退任。妻への手紙「作曲に専念できることを思えば、職務の重荷を取り除いてくれたこの運命(聴覚障害)には感謝しなければなりません。これまで学校の仕事のことについてあなたに愚痴をこぼしたことはありませんでしたが、ここは面倒なことで一杯です」。同年、2等レジヨン・ドヌール勲章を受章。
1921年(76歳)、フォーレの室内音楽の最高傑作と讃えられる『ピアノ五重奏曲第2番』を作曲。五重奏曲は16年ぶり。冒頭が大河のように始まり、人生の喜びと悲しみが込められた楽曲は、初演で熱狂的な喝采を受け、会場にいた次男はその様子を記している。「曲が進むにつれて(聴衆の)興奮はいよいよ高まったが、それには、まだこれだけのものを書けるこの老人を、不当に無視してきたのではなかろうかという悔恨の気持ちが混じっていた。最後の和音が鳴り終わるころには、聴衆は総立ちになっていた」。同曲は20歳年下の作曲家、友人ポール・デュカス(1865-1935)に献呈され、自筆譜はフォーレの肖像画を描いた画家ジョン・シンガー・サージェントに贈られた。
同年『チェロソナタ第2番』を作曲。第2楽章はナポレオン1世没後100年記念式典に際して仏政府から委嘱された『葬送歌』を編曲したもの。この年、師サン=サーンスが他界。享年86歳。
1922年(77歳)、創作欲の減退に悩み、妻へ記す。「老いよ、消え失せろ!」「私の才能は涸れてしまったのでしょうか…」。その後、夏にフォーレ・フェスティバルが開催されたことを喜び、創作欲を取り戻した。
1923年(78歳)、『ピアノ三重奏曲』を作曲。再演時はチェロのパブロ・カザルス、ピアノのアルフレッド・コルトー、ヴァイオリンのジャック・ティボーという名手(カザルス三重奏団※20世紀前半を代表するピアノ三重奏団)が奏でた。秋から最後の作品となる『弦楽四重奏曲』の作曲に着手する。
妻への手紙。「これ(弦楽四重奏)はベートーヴェンによって知られるようになった分野で、彼以外の人はみな恐れて、あまり手を付けていません。ためらってきました。サン=サーンスもそうで、それに取り組んだのはようやく晩年になってのことでした。そして彼の場合も、他の作曲分野のようにはうまくいきませんでした。そんなわけで、今度は私が恐れる番だとおっしゃるかもしれませんね…。だからそのことについては誰にも話してはいないのです。これからも目標に手が届くようになるまで、話すつもりはありません。『お仕事をなさっていますか』と聞かれても、私は図々しく『いいえ』と答えています。だから誰にもいわないでください」(1923年9月9日)
同年、1等レジヨン・ドヌール勲章を受章。
1924年、『弦楽四重奏曲』が9月に完成する。フォーレにとってピアノを含まない唯一の室内楽作品。一般的に弦楽四重奏は4楽章形式だが、フォーレは3楽章形式にした。そのことについて妻に記している。「昨晩、終楽章を仕上げました。これで四重奏曲は完成です。第1楽章と第2楽章の間にちょっとした新たな楽章を入れようという考えが起こらなければの話ですが…。しかし必ずしも必要なものではないので、少なくとも今のところは苦労してそれを追求する気はありません」(1924年9月12日)
1924年11月4日、『弦楽四重奏曲』の完成から2か月後、フォーレは肺炎のためパリで他界した。享年79歳。死の2日前、二人の息子に次の言葉を残した。「私がこの世を去ったら、私の作品がいわんとすることに耳を傾けてほしい。結局、それがすべてだったのだ…。おそらく時間が解決してくれるだろう…。心を悩ましたり、深く悲しんだりしてはいけない。それは、サン=サーンスや他の人々にも訪れた運命なのだから…。忘れられる時は必ず来る…。そのようなことは取るに足らないことなのだ。私は出来る限りのことをした…後は神の思し召しに従うまで…」。
他界4日後、フランス政府はフォーレを国葬とすることに決め、ゆかりのマドレーヌ教会で葬儀が執り行われ『レクイエム』が演奏された。亡骸はパリのパッシー墓地に葬られた。翌年、パリ国立音楽院で『弦楽四重奏曲』が初演された。没後5年、友人の作曲家アンドレ・メサジェが隣に葬られた。

フォーレは大掛かりなシンフォニーよりも小規模編成の楽曲を好み、歌曲やピアノ小品など室内楽作品に名曲が多い。当時のヨーロッパ音楽界はドイツ・ロマン派に席巻されていたが、フォーレは悲喜を強調したドイツ音楽の感情表現より、内面へ沈み込む控えめな抒情性を好んだ。そして師サン・サーンスとフランス風に洗練された気品の高い器楽曲の作曲につとめ、晩年になるにつれストイックな作風に進んでいった。フランス楽壇においてサン=サーンス、セザール・フランクからドビュッシー、ラヴェルへの橋渡しの役目をした。

〔墓巡礼〕
フォーレはエッフェル塔に最も近い墓地、トロカデロ広場に面したパッシー墓地に眠っている。最寄り駅はメトロのトロカデロ駅。墓地の入口事務所で地図をもらえる。フォーレの墓は15区にあり、妻フルニエの親族と共に永眠。作曲された聖歌のような作品とは逆に、フォーレは女性に対していわゆる肉食系であったが、妻への手紙が晩年に至るまでたくさん残されており、妻が大きな存在であったことは確かだ。それにしても、フォーレの墓がドビュッシー夫妻と同じ墓地、しかもすぐ隣りのブロックにあるのは偶然だろうか。フォーレはドビュッシーの後に没している。ドビュッシー夫人のエンマはかつてフォーレの愛人で両者は子(ドリー)をなしたと噂されている。もしもフォーレが自分の意思でパッシー墓地を希望したのならエンマを念頭に?深読みし過ぎか。ミシェル・コルボが指揮したフォーレの『レクイエム』は聴く度に深い感動に包まれ、これまでに何度聴いたか分からない。20代後半の頃、この曲を市民合唱団がやると知って即座に入団し歌いもした。お陰でラテン語の歌詞を覚えており、墓前で感謝を込め『レクイエム』の一節を歌い、彼に捧げた。

※名前のフランス語の発音は「フォレ」に近い。しかも「レ」にアクセントがある。
※『ヴァイオリンソナタ第1番』を1928年に聴いた作曲家フランシス・プーランク「ここ50年間の間に書かれたヴァイオリンソナタの中で、これ以上の曲は思い浮かばない」。
※フォーレは生涯にわたって多くのピアノ曲を作った。中でも『舟歌』を13曲も書いている。これほど多くの舟歌を作曲したのは、有名作曲家ではフォーレだけ。
※フォーレはエンマ・バルダックの娘エレーヌにピアノ組曲『ドリー』を書き、ドビュッシーはエンマ・バルダックとの間に生まれた彼の娘シュシュにピアノ組曲『子供の領分』を書いている。2つの曲は文字通り“姉妹曲”といえる。
※リストはフォーレの『ピアノとオーケストラのためのバラード』を初見で弾き「手が足りない!」と叫んだという。

戦時中の空襲の日々を振り返って--「台所の裏に穴を掘り、そこにいっぱい本を詰め込んだブリキの缶を入れ、さらに何重もの紙で包んで板を重ねてくくったフォーレのレコード・アルバムを重ね、その上に土を盛った。(終戦という)そんな日の来ることに確信を持っていたわけではない。しかしもし、これをゆっくり聴ける日が来た時、これがなかったら、取り返しのつかない悲しみと後悔を味わうことになるだろうと考えたからだ」(吉田秀和)音楽評論家



★ショパン/Fryderyk Chopin 1810.3.1-1849.10.17 (ポーランド、ワルシャワ&パリ、ペール・ラシェーズ 39歳)1989&02&05×2&09&15×2
Holy Cross Church, Warsaw, Poland (heart)
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France Division 11(Body)

ショパン19歳 ショパン25歳 ジョルジュ・サンドとショパン ショパン37歳

●ワルシャワ


ショパンの心臓を納める聖十字架教会。正面のキリスト像はかなりドラマチック(2005)
※教会の向かいにワルシャワ大学がある

手前左の柱の中に“心臓”が入っている 巡礼者が後を絶たない




ワルシャワの巨大ショパン像。なかなか悩ましい表情をしている

●パリ


 
パリ・オペラ座に近いヴァンドーム広場
(2009)
その広場に面した12番地に1780年創業の宝石商ショーメ(Chaumet)がある。
この2階で、ショパンは39歳の若さで帰らぬ人となった

パリのショパンの墓(1989)
13年後。手前の植木鉢が増えた(2002)
その3年後、植木鉢がまた増えた(2005)

初巡礼から20年目。正面に巨大な
植木鉢が左右に2個置かれ、柵には
ポーランド旗のリボンが巻かれてた(09)
手前の門には“F・C”とある
(2009)






すごい人気ぶりだ 白髪の男性がショパンの墓を解説していた 次から次へと人がやってくる

●ジョルジュ・サンド(ノアン)

ジョルジュ・サンドはフランス中部ノアンの彼女の館の敷地に眠る。ショパンは当地で8回も夏を過ごし、生涯の楽曲の3分の2を書いた(2018)

物言わぬ墓石が故人の想いや生涯を伝えることがある。フランス・パリとポーランド・ワルシャワの2箇所に分かれたショパンの墓は彼の人生の縮図だ。“ピアノの詩人”ショパンは1810年3月1日、ポーランド・ワルシャワ近郊のジェラゾワ・ウォラ村に生まれた。父はフランス人、母はポーランド人。6歳でピアノを習い始め、演奏、作曲の両方に早熟の才を発揮、7歳でポロネーズ(ポーランド風の舞曲)を作曲し出版された。翌年8歳にして最初の公開演奏会をワルシャワで行い、15歳で「ワルシャワで最高のピアニスト」と絶賛される。
1826年(16歳)、ワルシャワ音楽院に入学(翌年ウィーンではベートーヴェンが死去)。3年後に同音楽院を“首席”で卒業し、1829年(19歳)ウィーンの演奏会で公式にピアニスト・デビューを飾る。この演奏会では、17歳のときに作曲した『ラ・チ・ダレム変奏曲』(モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」の『お手をどうぞ』による変奏曲)が評判になり数ヶ月後に出版された。

1830年(20歳)、ウィーンを音楽活動の本拠地とするため、故郷の友人たちと別れの演奏会をワルシャワの国立劇場で開き、自身が“美しい春の夜の月光を浴びながらの瞑想”とたとえた『ピアノ協奏曲第1番』(作曲順は第2番が先)を初演した。旅立ちは11月2日。ところが、ウィーンに到着したショパンの耳に、祖国ポーランドで11月29日にロシア支配に対する武装反乱「11月蜂起」が勃発したとのニュースが飛び込む。ポーランドはショパンが生まれる15年前、1795年にロシア、プロイセン、オーストリアの3国に割譲され地図から“消滅”していた。ロシアはポーランド市民から出版の自由を奪い検閲を導入し、独立を目指す愛国者はロシア秘密警察に逮捕された。圧政に抵抗する蜂起軍にショパンの親友も加わり、蜂起軍は約3倍のロシア軍相手に奮戦する。
だが、オーストリアもロシア同様に旧ポーランド領を支配していたことから、ウィーンの世論はロシア寄りで、ショパンは反ポーランドの風に晒された。翌1831年(21歳)、演奏会も楽譜の出版もままならぬ状況となり、フランスに活躍の場を求めることを決心。パリに向かう旅路で、「11月蜂起」が約1年の戦闘を経て失敗に終わったことを知る(死傷者4万人)。ドイツ・シュトゥットガルトでショパンは書き記す「父さん!母さん!姉妹たち、友人よ!僕の大切な皆はどこにいるのか」「ただ、ため息をし、絶望をピアノに向かって吐き出すばかりで気が狂いそうだ」「嗚呼、神はなぜ復讐しないのか!神よ、あなたはロシア人どもの犯罪を山ほどご覧になったはずでは。それとも、あなたご自身がロシア人なのですか?」「孤独!完全な孤独!僕のみじめさは筆舌に尽くし難い。僕の心はやっと耐えている。僕が故郷で味わった喜びや、沢山の楽しみのことを考えると胸が張り裂けそうだ」。同年、ショパンはこの激情をピアノに叩き付け『革命エチュード』が生まれた。年末にシューマンは自身が編集する音楽誌で『ラ・チ・ダレム変奏曲』を取り上げ、「諸君、帽子を脱ぎたまえ!天才だ」と絶賛した。

1832年(22歳)、パリ到着の翌年2月26日のパリデビュー演奏会で『ピアノ協奏曲第1番』を披露し好評を得、著名な批評家から「この若者は前代未聞の独創的発想を、誰かを範とすることなく成し遂げた」と讃えられた。ショパンは「作曲家兼ピアニスト兼ピアノ教師」として知名度を上げ、生徒がヨーロッパ中から集まり経済的に安定した。詩人ハイネ、作曲家リストやベルリオーズ、文豪バルザック、画家ドラクロワらと親しく交流し、ドラクロワはショパンに演奏して欲しくて、わざわざピアノを購入してアトリエに置いた。23歳、ひとつ年下のフランツ・リストとバッハの協奏曲を共演。
1835年(25歳)、現チェコ領カルロヴィ・ヴァリで両親と再会するが、結果的にこれが最後の対面となる。この年、ドレスデンでポーランド人貴族の16歳の令嬢マリアと恋に落ち、街を去る際に傑作『別れのワルツ』(ワルツ第9番変イ長調)を作曲。翌年に26歳でプロポーズし承諾を得た。
この年はショパンの前に人生を大きく変える人物が現れた。リストの愛人マリー・ダグー(ワーグナーの妻コジマの母)の家で開かれたサロンを訪れた際に女流作家ジョルジュ・サンド(本名オーロール・デュドヴァン 1804-1876)と出会ったのた。当時32歳のサンドはショパンより6歳年上で、男女同権運動家、フェミニストの自由恋愛主義者。18歳で男爵と結婚するも夫の平凡さに閉口し、27歳の時に夫と2人の子を置いて単身パリに出た。文壇で成功する一方、リスト、バルザック、ユゴー、詩人ミュッセ、思想家カール・マルクスらと華やかに交流し、ズボン姿で葉巻を手に持つ男装の才女として社交界の注目を集めていた。サンドはすぐさまショパンとその音楽に夢中になったが、ショパンの方は友人に「なんて不快な女なんだ、あれで本当に女なのか?」と酷評した。
翌年、婚約者マリアの親がショパンの結核を知ってこれを懸念し、彼は婚約破棄を通告された。ショパンは深く傷つき、マリアからもらったバラの花と彼女の手紙を紙包みにまとめ、その上に「Moja bieda(我が哀しみ)」と記した。

1838年(28歳)、ショパンはサンドと数度の出会いを重ね、日記に想いを書き込んだ。「私の演奏中、ピアノの上にかがみ込んだ彼女の眼差しは燃え上がり、私はその炎に焼かれた。…私は彼女の虜になった。オーロール、なんと魅力的な名前なのか」。だが、恋愛に慎重なショパンは感情を表に出さず、サンドは知人に打ち明ける。「ショパンの強固な意志、並外れた貞操感に私はうっとりし、ますます彼が欲しくなったわ。彼をそうさせた恋人が過去にいたのなら、そんな女はみんな縛り首にすればいい」。この知人はショパンの気持ちを知っていたので両者の橋渡しとなった。初対面から2年後、ショパンとサンドは交際を始めた。ドラクロワはこのカップルの絵を描き、サンドは画家にこう語った。「もし神様があと1時間しか命を与えてくれなくても、私は嘆きません。私は真の幸福を体験したのですから」。

パリ社交界は好奇の目で2人を見つめ、サンドの派手な男性遍歴もあって人々は好き勝手に噂を流した。2人は他人に煩わされない静かな環境を求め、またショパンの結核療養をかねて、11月に温暖なバルセロナ沖のスペイン領マジョルカ島に渡った(サンドの子ども2人も一緒)。ショパンは美しい自然に感動し書き記す「植物園の温室のようなたくさんの植物、トルコブルーに輝く空、瑠璃色の海、エメラルドグリーンの山、なんと素晴らしいのか」。島にはバッハの『平均律クラヴィーア曲集・24の前奏曲とフーガ』の楽譜だけを持ち込み、代表作のひとつとなる『24の前奏曲集』を完成させた。『軍隊ポロネーズ』、『バラード第2番』、無調音楽の先駆け『スケルツォ第3番』も形になった。だが、同年は異常気象で長雨が続き、暖かいはずのマジョルカ島は凍え始め、病状はかえって悪化。宿にしていた修道院の僧房は冷え切り、島の医者はショパンに死の宣告をし、保守的な島民は夫婦ではない2人に敵意を向けるようになった。結局、滞在を3カ月で切り上げ、翌1839年2月に島を去る。
一行はバルセロナでショパンの快復を待ち、中部フランス・ノアンのサンドの別荘で夏を過ごした。以降7年間、夏はノアンで作曲に集中、他の季節はパリで活動するようになった。ショパンの日記「オーロールのためだけに生きたい。私が奏でる最も甘美なメロディーは、彼女ひとりだけに弾いているものだ」。
サンドはショパンを“かわいい人”“3番目の子ども”と呼んで献身的に介護し、この同棲期間に、『英雄ポロネーズ』、『舟歌』、『幻想曲』、『ピアノソナタ第2番・葬送』、『バラード第4番』等、多数の傑作が書かれた。だが、サンドは次第にショパンの過度な嫉妬心に息苦しさを覚え、一方ショパンはサンドが2人の関係を暴露した小説『ルクレツィア・フロリアーニ』を書いたことに反発し、交際から9年後の1847年(37歳)についに破局する。
※ピアノ曲のタイトルに「バラード」とつけたのはショパンが最初。

サンドと別れたショパンは心身ともに疲れ果て、鬱状態となって作曲への気力を失い、急速に衰弱していく。ピアニストとしての人気に陰りが見え、弟子の数は減っていった。「僕は草や木のように日々をぼんやり送っている。じっと生涯の終わりを待っているのだ」。翌1848年2月、パリで演奏会を開くがプログラム最後の『舟歌』を疲労のために弾き切ることができず、これがパリのラスト公演となった。同月パリは2月革命が勃発しており、治安の混乱が拡大し、多くの市民が街から避難した。ショパンはスコットランド人の弟子兼秘書のジェーン・スターリングの勧めで、パリを離れて英国に渡った。貴族のスターリングは師の旅行費のすべてを負担した。5月にヴィクトリア女王の御前演奏という名誉を授かり、晩夏にスターリングの実家があるスコットランドに移るが、英語が話せないショパンはストレスで健康が悪化した。10月、死の接近を感じたショパンは遺言をしたためる。「もしもどこかで急死するようなことになれば、私の原稿を処分して欲しい」。11月、ロンドンで生涯最後の公開演奏=ポーランド難民の慈善演奏会を行ったが、聴衆はダンスを目的に集まっておりショパンは心身共に消耗し、パリに戻った。英国旅行のタイトな日程はショパンの体力を大きく削った。生活費や診察代にも窮するようになり、家具や所持品を売り払った。
1849年に入ると体調をさらに崩し、姉ルドヴィカ(1807-1855)にポーランドからパリへ出てきてもらう。彼は姉宛の手紙に「お姉さんにどうしても会いたい。お金がないなら借金してでも来て欲しい。体調が回復したら稼いで返します」と記した。
9月、スターリングの援助でヴァンドーム広場に面したきれいなアパートに転居したが、肺結核は重症化する。サンドの子は見舞い来てくれたが本人は訪れず、「“私の腕の中で息を引き取らせあげる”と約束したのに」とショパンは嘆いた。10月17日の深夜「もう何も感じない」と医者に告げて絶命した。享年39。姉や友人ら7人が死の床に付き添った。サンドの娘ソランジュの夫、彫刻家オーギュスト・クレサンジェがショパンのデスマスクと、美しい音楽を紡ぎ出した左手の型を取った。
ショパンが遺書の中で「心臓をポーランドに埋めて欲しい」と希望したため、10月20日に外科医ジャン・クルヴェイエが行った検死で心臓が摘出された。

パリのマドレーヌ寺院で葬儀が執り行われ、ショパンの遺言によってモーツァルトのレクイエムが演奏された。マドレーヌ寺院は通常女性歌手が合唱に加わることを許可しなかったが、ショパンに敬意を表して例外的に認められた。葬儀では他にショパンの「前奏曲集」から第4番ホ短調と第6番ロ短調がオルガンで演奏された。約3000人が参列したがサンドはいなかった。パリ中心部のマドレーヌ寺院から、東端のペール・ラシェーズ墓地まで約5キロ。ドラクロワや音楽家仲間が交代で棺を担ぎ、姉ルドヴィカが寄り添った。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬される際には、ショパンの「葬送行進曲」が管弦楽に編曲されて演奏された。棺の上には彼が終生大切に持っていた故郷ポーランドの土が撒かれたという。
ショパンは20歳で祖国を出て以来、ずっと帰国の日を夢見ていたが、占領者ロシアはショパンの帰国がポーランド民衆の独立運動を刺激することを恐れて入国を許可しなかった。姉ルドヴィカは弟の心臓を祖国に持ち帰るため、コニャックの瓶に詰めてスカートの中に隠してロシア兵の目をかすめ、 1850年1月2日、無事にワルシャワの実家に帰宅した。その後、心臓はクリスタルの骨壷でコニャックに浸され、ワルシャワの「聖十字架教会」の地下墓地に運ばれた。
それから約四半世紀の時が流れ、1878年に心臓が身廊の柱の中に封印された。 この柱には「あなたの宝となる場所にあなたの心もある」(マタイ伝第6章21)と刻まれている。

一方で、パリでは1周忌にあたる1850年10月17日に、クレサンジェが設計したショパンの墓の記念彫刻が除幕された。音楽神の叙情詩の女神エウテルペーが壊れた竪琴の上で涙を流す姿がそこにあった。台座にはショパンの横顔が彫られ、手前の門にはイニシャルの“F・C”が装飾された。これら墓石の制作費、葬儀費用、姉ルドヴィカの帰国費用などすべてを弟子のジェーン・スターリングが提供した。彼女は心から師を想っていた。

ショパンが没したのは、サンドとの別離からわずか2年後だった。死後、遺品からショパンが13年前に「我が哀しみ」と書いた紙包みが見つかり、婚約が流れたマリアの手紙の束とバラの花が出てきた。また、ショパンは日記にサンドの髪の束を挟んでいた。サンドはショパンの死後27年間生き、72歳の誕生日直前に他界した。
祖国ポーランドが120年以上もの外国支配から解放され、独立を取り戻したのは第一次世界大戦終結後の1918年。ショパンの死から約70年が経っていた。第二次世界大戦ではナチスが聖十字架教会の3分の1をダイナマイトで破壊し、ショパンの心臓が入った壷も奪われてしまったが、終戦後に教会は修復されてショパンの命日に心臓が戻された。この時に演奏されたのは、ショパンがポーランド独立の暁に披露しようと考えていた軍隊ポロネーズだった。

生涯の作品数は約200曲。大半が詩情あふれるピアノ曲で、マズルカ55曲、エチュード27曲、前奏曲24曲、ノクターン19曲、ポロネーズ13曲、ピアノ協奏曲2曲、ピアノ・ソナタ3曲等々。チェロや歌曲もある。祖国ポーランドへの強い愛国心を抱きながら、政情の不安定さから再び故郷の土を踏むことが出来なかったショパン。彼は「その背後に 思想無くして、真の音楽は無い」と語っており、望郷の念は作品に色濃く反映されている。ショパンの作品は生前から“ガラス細工のような音楽”と例えられていたが、祖国を武力制圧した列強への怒りなどショパンの持つ激しさをシューマンは見抜き、「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」と評していた。
ショパンの音楽家人生がポロネーズで始まりマズルカで終わったことはいかにも象徴的だ。最初の作品である“ポロネーズ”の意味は「ポーランド風」、また、最後の作品“マズルカ”(ゆっくりしたテンポの4分の3拍子)もまたポーランド各地に伝承される民族舞曲だ。どちらも母国に関するもの。遺言通りに心臓が故郷に帰ることが出来て本当に良かった。故人の非常に強い思いがこもった墓であり、ワルシャワ市民はこの墓を大切にし、心臓が入った柱は特別に照明で照らされている。

〔墓巡礼〕
音楽は世界語とよく言われる。たとえポーランド語が読めなくても、ショパンが音という言葉で魂に直接語りかけてくるので、200年前に生まれた彼の繊細な心の動きが丸ごと伝わってくる。その静かなピアノ曲はプライベートな告白を耳元で聴いているようだ。美しい音楽をたくさん遺してくれただけでなく、音楽を通して異国の人間と心を重ねることができると教えてくれたショパンに直接感謝を伝えたい、そう思って1989年の夏に初めてパリの墓地を訪れた。彼の墓はポーランドにもあったが、学生アルバイトの身では旅費が限られており、まずはフランスの墓を巡礼した。
パリの地下を疾走するメトロ3号線に乗ってペール・ラシェーズ駅で降りると、地上に出てすぐ墓地があった。このパリ最大の墓地は、ブルボン王朝の最盛期を築いた“太陽王”ルイ14世の専属司祭、ラ・シェーズ神父の名を冠しており、ショパンが生まれる6年前、1804年に開設された。面積は43ヘクタールというから甲子園球場の約11倍にあたる。この広い敷地に約7万基の墓が建ち、年間数十万人が訪れており、世界で最も訪問者の多い墓地と言われている。ショパンの墓を自力で探し出すのは不可能ゆえ、付近の売店で墓地マップを購入した。地図を広げると、作曲家ビゼー、画家のモジリアニやドラクロワ、作家のオスカー・ワイルド、プルースト、バルザック、他にも“ドアーズ”のジム・モリソンやエディット・ピアフなど、そうそうたる名前が目に飛び込んできた。ショパンの墓は97区域あるうちの第11区。ゲートから比較的近いエリアと分かり胸を撫で下ろす。地図を見ながら「こんなに墓石があってたどり着けるのか」と不安になったが、その心配は杞憂だった。ショパンの墓前は世界中の巡礼者であふれており、50m手前からそこに彼が眠っていることが分かった。順番を待ち、墓前に立つ。故郷に帰る日を夢見ながら当地で没した彼にポーランド語で御礼を言いたく、パスポートに挟んでおいたメモを取り出した。「バルゾ・ヂェンクィエン(本当にありがとう)」、そう伝えてしばし黙祷。この墓参で最も印象に残ったのは墓に結びつけられていた赤と白のリボン。ショパンの祖国ポーランドの国旗の色だ。

ショパンが生きていた時代、ポーランドは列強諸国に割譲され地図から消えていた。占領者ロシアは知名度のあるショパンの帰国で独立運動が刺激されることを恐れ、彼の帰郷を最後まで許さなかった。そして遺言で心臓が密かに母国へ…。
「これはもう、ポーランドまで墓参に行くしかない」。帰国後、ショパンの熱い郷土愛を知るにつれ、聖十字架教会に行きたいとの思いが年々強くなり、パリ巡礼の16年後、2005年についにワルシャワを訪れた。チェコから国際列車で到着し、その日は夕方で教会が閉まっていたので、大きなショパン像で知られるワジェンキ公園へ。市民の憩いの場であり、ショパン像の前をヨチヨチ歩く子どもに癒やされた。翌日、路面電車で知り合ったヴィロンスカという美しい名前のお婆さんが教会へ案内して下さった。停留所でヴィロンスカさんに最低限のポーランド語で「ショパン、ハカ、ドコ」と尋ねたのがきっかけ。僕は方向を指差してもらうつもりだったけど、お婆ちゃんは僕がポーランド語を知っていると思い込み、畳み掛けるように話しかけてきた。“簡単な英語で”と書いた紙を見せると、「ウェルカム・ポーランド」。なおもポーランド語のマシンガントークが続き、やがて“ついて来い”というジェスチャーがあったので、聖十字架教会に向かうと思いきや、なぜかお婆さんのアパートでお昼ご飯を食べることになった。しかも、最後に野菜、パン、ソーセージのお弁当まで持たせてくれた!ヴィロンスカさんは僕を教会前まで案内すると「後は大丈夫ね!」みたいなことを言って、パッと手をあげて立ち去った。なんてサバサバした気持ちの良いお婆ちゃんなんだろう。教会に入り、心臓が納められた柱へ。墓碑には「あなたの宝となる場所にあなたの心もある」(マタイ伝)と刻まれていた。“ようやくここに戻ることが出来たんですね”と、上部にあるショパンの胸像を見つめた。ショパン、ヴィロンスカさん、バルゾ・ヂェンクィエン!

  ヴィロンスカさんのアパートにて

※「最高の先生は、自分の耳だ。自分の耳が許さない音を、弾いてはいけない」(ショパン)
※ショパンの作品は戦乱で多くの自筆譜が失われ、未知の作品も多数ある。もったいない!
※ショパン他界の14年後、1863年に旧ポーランド・リトアニア共和国領で発生した対ロシアの一月蜂起で、心ないロシア軍の兵士によってショパンの遺品のピアノ(10代後半のショパンが弾いていた)がワルシャワの建物の2階から投げ出された。
※ショパンの葬儀で演奏された「前奏曲集」の第4番ホ短調は映画『ファイブ・イージー・ピーセス』の中で若きジャック・ニコルソンが弾いている。
※ショパンは生涯に約30回しか一般聴衆を相手に演奏会を開いていない。彼が好んだのは自宅で開いたサロンで少人数の友人を相手に演奏することだった。伝記作家いわく「できるだけ公の場に出なかったショパンが、ピアニストとして最大級の名声を獲得していたことは特殊なことである」。
※11歳のときにワルシャワ来訪中のロシア皇帝アレクサンドル1世の御前で演奏を披露している。
※ピアニストの登龍門「ショパン国際ピアノ・コンクール」(1927〜)は国際音楽コンクールの中では最古かつ最高権威。5年に一度開催され、命日にモーツァルトのレクイエムがワルシャワ・フィルによって演奏された後、翌日から本選が始まる。本選ではショパンのピアノ協奏曲第1番or第2番が課題になっている。
※繊細で神経質なイメージがあるけど、モノマネや漫画が得意でユーモアがあり、学生時代はクラスの人気者だった。
※パリのショパンの墓の3つ右隣に、“ピアノの化身”と言われたジャズ・ピアニスト、ミシェル・ペトルチアーニが眠っている。
※ショパンの伝記が書籍によって混乱しているのは、戦後にポーランドの音楽研究家が大量の(ショパンの)ニセ手紙を発表したため。この研究家は自殺したが、1960年代まで手紙が本物と信じられ多くの書籍が引用し、現在に至るまで内容が虚実不明のまま一人歩きしている。



ワルシャワのユースホテルの職員イェージー君はドラゴンボールの大ファン!2人で一緒に「かめはめ波」!!(2005)



★ヴェルディ/Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 1813.10.10-1901.1.27 (イタリア、ミラノ 87歳)2002
Casa di Reposo per Musicisti, Milan, Lombardia, Italy

  


ジュゼッペ・ヴェルディはイタリアの作曲家。イタリア・オペラ最高峰の楽曲を多数作曲。ドイツ・オペラの雄ワーグナーとは同い年。1813年10月10日に北イタリア・ブッセート(パルマ県)近郊の小村ロンコーレで生まれた。父は小さな居酒屋の経営者。8歳のときに中古の小型チェンバロをプレゼントされ、少年ヴェルディはすっかり夢中になって一日中弾き続けた。小型チェンバロが壊れた際、修理をした職人がヴェルディの演奏に胸を打たれ、蓋の裏に「少年の優れた音楽の資質が、私への代金だ」と書き、代金を請求しなかった。
父と親交のあった音楽好きの商人バレッツィは、ヴェルディの演奏能力に驚き、音楽の才能を伸ばすよう父に助言、ヴェルディは10歳からブッセートで音楽教育をうけた。17歳頃からバレッツィ家に住み、1歳年下のマルゲリータ・バレッツィにピアノを教えながら愛を育んでいく。
1832年(19歳)、ヴェルディは音楽の中心地ミラノ留学に憧れ、奨学金を受け、バレッツィの援助も受けて6月に移住した。だがミラノ音楽院の入学資格年齢を4歳も超えていたために入学を拒否され、ミラノ在住の音楽教師ラヴィーニャの個人指導をあおいだ。ラヴィーニャはスカラ座で作曲と演奏を担当しており、ヴェルディは様々な演劇を鑑賞させてもらった。
1833年(20歳)、ブッセートにもどって音楽愛好協会の指揮者に就任。22歳のときにマルゲリータと結婚した。1837年(24歳)、長女ヴィルジーニアが、翌年に長男イチリオが誕生。だが長女は間もなく病死した。25歳、音楽家として勝負するために再度ミラノに出る。
1839年(26歳)、オペラの処女作『オベルト』がスカラ座で初演されることになり喜んだが、リハーサルの最中に長男が1歳で病死し打ちのめされる。11月に初日を迎えた『オベルト』は好評で14回も上演された。楽譜の売上げもよく、今後2年間でオペラ3本を書く契約が結ばれ、ヴェルディはこれでようやく妻をラクにしてあげられると胸を撫で下ろした。ところが翌1840年(27歳)、マルゲリータまでもが26歳という若さで病死する。妻子全員を失いどん底の気持ちなのに、契約を果たすため笑える喜歌劇を書かねばならない。完成した『一日だけの王様』は失敗に終わり、わずか1回の公演で打ち切られた。ヴェルディはショックのあまり作曲の筆を折り、音楽の世界から去ろうとした。

才能を惜しんだスカラ座の支配人メレッリは、ヴェルディに旧約聖書のナブコドノゾール王を題材にした台本を無理やり渡し励ました。その日、ヴェルディは心が折れたまま帰宅し、自宅で台本を放り出したところ、たまたま「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」というセリフが眼に入った。この言葉に感銘を受けて作曲意欲を取り戻し、一年かけてこれを完成。
1842年(29歳)3月9日、入念なリハーサルを経てスカラ座で『ナブッコ』は初日を迎えた。当時の北イタリアはオーストリア支配下にあったことから、観客はバビロンの捕虜となったユダヤ人に境遇を重ね、劇場は異様な熱気に包まれた。特に第3幕のユダヤ人の合唱「いけ、わが思いよ、金色の翼にのって」は人々を興奮させ、当時禁止されていたアンコールの声まで上がった。『ナブッコ』は秋公演でスカラ座公演回数の新記録57回を叩き出し、ヴェルディは29歳で時代の寵児となり、「いけ、わが思いよ、金色の翼にのって」は第二の国歌と呼ばれるまでになった。支配人メレッリはヴェルディに白紙の小切手を渡したという。

1843年(30歳)、4作目となる愛国オペラ『ロンバルディ』が続けてヒットしたことから、ヴェルディのもとに各地の劇場から新作の注文が舞い込んだ。中でもスカラ座のライバル、ヴェネツィア・フェニーチェ劇場の支配人モチェニーゴ侯爵が「ナブッコの報酬の3倍」という好条件を提示したことから契約を結んだ。
1844年(31歳)、ヴェルディは5作目にヴィクトル・ユーゴー原作の悲劇『エルナニ』(死の角笛)を選択。台本を若手のピアーヴェが担当した。リウマチに苦しみながら作曲し、出演者をヴェルディが選んで初演を成功させた。続いて北アジアの遊牧騎馬民族フン族の王が滅ぶさまを描いた『アルツィーラ』を上演、こちらも好評だったが、いよいよ過労がピークとなり、医者からは休養を取るように指導された。
1846年(33歳)、数ヶ月の休養をとり、じっくりとシェイクスピアの『マクベス』をオペラ化する構想を練る。音楽と演劇の融合を重視し、徹底した時代考証を行い、実力のない歌手を交代させた。この時代はまだオペラの演出家がいないため、ヴェルディ自身が演出にあたり、『マクベス』は150回を越えるリハーサルを行った。翌1847年の初演では38回もカーテンコールに答えた。
同年夏、ヴェルディは『ナブッコ』で難役を歌った2歳年下のソプラノ歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニ(1815-1897)と同棲を始める。ジュゼッピーナは美貌と澄んだ歌声で崇拝者に囲まれていたが、声量の衰えから前年に歌手を引退していた。フランス語に堪能なジュゼッピーナは、フランス公演やパリの社交界でヴェルディのサポートを行い、優れた人脈を持つ有能な個人秘書でもあった。恋多きジュゼッピーナはこれまでに共演者との間に3人の私生児を産み、さらにスカラ座の支配人メレッリの愛人でもあったが、ヴェルディは過去にこだわらなかった。愛人を奪われたメレッリは憤慨し、ヴェルディとスカラ座は疎遠になる。
1848年(35歳)、先輩オペラ作曲家ドニゼッティが50歳で病死。ヴェルディはイタリア・オペラ界を一身に担うことになった。

1849年(36歳)、都市部でコレラが流行したことからヴェルディはジュゼッピーナを伴って故郷ブッセートに帰った。田舎の保守的な人々は“スキャンダルな元プリマ・ドンナ”に冷淡に接し、ジュゼッピーナが日曜礼拝で教会を訪れると人々は席を立ったという。同年、陰謀による悲恋と死を描いたオペラ『ルイザ・ミラー』を作曲、話題になる。
1851年(38歳)、プレイボーイのマントバ公爵につかえる道化リゴレットの苦悩と、公爵を愛してしまった娘ジルダの悲劇を描いた中期の傑作オペラ『リゴレット』完成。ユーゴーの原作戯曲は、好色で卑劣な王が登場するため検閲で不穏当とされ、フランスで上演禁止になっていたことから、物語の場所と時代を変更することでヴェネツィア当局を説得した。
劇中のカンツォーネ(歌曲)「女心の歌」(風の中の 羽根のように  いつも変わる女心)は初演直後から街中で歌われ大人気曲に。ヴェネチア中のゴンドラ乗りが口ずさんだという。ヴェルディ自身、この歌のヒットを確信していたため、初日までメロディーを徹底して秘密にし、歌手やオーケストラ団員には初演の数時間前に楽譜を渡した。『リゴレット』は3月に初演され20回以上も再演された。ユーゴーは原作の改変に不満だったが、第3幕の4重唱に感嘆し「舞台で4人同時に台詞を言わせて、個々の台詞の意味を観客に理解させるのは芝居では不可能だ」と語った。ヴェルディは切れ目のない重唱で緊張感を維持し、劇的な筋と音楽で観客を圧倒した。

経済的には豊かになったがジュゼッピーナに対する周囲の偏見は極めて厳しく、2人は冷たい視線に耐えかねて郊外のサンターガタに農園を購入しそこに引きこもった。12年前の処女作『オベルト』以降、年に1作以上のペースで作曲を続けてきたヴェルディだったが、自分のペースで仕事ができる環境になり、また農園の管理も忙しかったため、1852年はオペラを発表しなかった。
1853年(40歳)1月、ローマにて最後のベルカント・オペラ『イル・トロヴァトーレ(吟遊詩人)』初演。三角関係、復讐と呪い、陰気で荒唐無稽な物語だが、美しい音楽に満ちあふれており大当たり、パリ、ロンドン、ニューヨークで再演された。本作の「見よ、恐ろしい炎を」ではテノール歌手の“高音ハイC”が大きな見せ場となっている。ヴェルディ「西インド諸島でもアフリカの真ん中でも、私の『イル・トロヴァトーレ』を聴くことはできます」。

1853年3月、『イル・トロヴァトーレ』の翌々月、早くも次のオペラ『椿姫』がヴェネチアで発表された。『椿姫』は小デュマの小説をオペラ化。原題La traviata(ラ・トラヴィアータ)の意味は“道を踏み外した者”。青年貴族アルフレードと教養のある高級娼婦ビオレッタ(実在したリストの弟子マリー・デュプレシス)の悲恋を甘美かつ華やか、ときには力強い旋律で描きあげ、19世紀を代表するイタリア・オペラのひとつになった。『椿姫』は後の『アイーダ』と並ぶ数少ないヴェルディの女性主人公のオペラであり、「乾杯の歌」「ああ、そは彼の人か」「花から花へ」など名歌が多い。ビオレッタの幻覚が描かれる第三幕は、はかなさの極致。ただ、初演では肺結核で薄命のビオレッタ役があまりに健康的過ぎて客席から失笑が漏れ、リハーサル不足もあってわずか2回の公演で打ち切られる歴史的失敗となった。それでもヴェルディは本作に自信を持っていたことから、配役を変えて2カ月後に同地で再演、賞賛を浴びリベンジを果たした。

『リゴレット』『イル・トロバトーレ』『椿姫』によって、ヴェルディの名はイタリアから世界へ広まったが、ヴェルディはジュゼッピーナと農作業の日々を楽しむことが増えた。
1857年(44歳)、完全新作としては『椿姫』から4年ぶりとなる『シモン・ボッカネグラ』を発表。主人公が毒殺される悲劇であり、歌よりも朗読を重視した野心作だった。
1859年(46歳)、ローマにて『仮面舞踏会』初演。啓蒙専制君主スウェーデン王グスタフ3世が仮面舞踏会で暗殺された事件を題材にしたが、王の暗殺という内容が検閲対象となり、舞台をアメリカに変え、グスタフ3世をボストン総督に、暗殺者の肩書きや名前を変更、凶器をピストルから短剣に変えることで上演に漕ぎ着けた。劇中、ボストン総督は誤解により暗殺されるが寛大さを知らしめて死ぬ。感動した観客は「Viva VERDI」(ヴェルディ万歳)と讃えて、この言葉を街中に落書きしたが、そこにはもう一つの意味があった。当時はイタリア統一を目指すサルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が民衆から支持されており、イタリア統一運動のスローガン「Viva Vittorio Emanuele Re D'Italia(イタリアの王ヴィットーリオ・エマヌエーレ万歳)」が、頭文字を繋げると「Viva VERDI」になった。結果、人々はヴェルディを統一と愛国のシンボルとみなすようになった。
ヴェルディは聴衆の熱狂が音楽への正当な評価ではないと感じ、「もうオペラは書かぬ」と田舎の農場に引きこもり、同年8月、ヴェルディはジュゼッピーナとの13年間の同棲状態を終わらせ正式に結婚式を挙げた。ときにヴェルディ45歳、ジュゼッピーナ43歳。参列者は馬車の御者と教会の鐘守の2人だけだった。

1861年(48歳)、統一イタリア王国が誕生。ヴェルディは統一運動の英雄・初代首相カヴールから説得されて下院議員にしぶしぶ立候補したところ当選。任期中の4年間、特に政治活動はしなかった。
1862年(49歳)、ロシアから初めてオファーが舞い込み11月にロシア・サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場にて3年ぶりの新作『運命の力』を初演。この初演版は、主要な登場人物が全員死ぬうえ、目の前で愛する女性を殺された主人公が聖職者(修道院長)に「馬鹿野郎!」(Imbecille )と怒りをぶつけ、最期に崖の上で「私は地獄からの使者だ!人類なんか絶滅しろ!」と叫んで投身自殺する。この凄まじいラストシーンによって、悲劇の多いヴェルディ作品の中でも陰惨さが突き抜けていた。聖職者への冒涜が物議をかもしたこともあり、7年後(1869)のスカラ座公演では主人公が生き残るという改訂を加え、こちらは幅広く受け入れられた。その後、再びサンターガタの農場に引っ込み農場経営に情熱を注ぐ。
※『運命の力 オリジナル版ラスト』https://www.youtube.com/watch?v=XpddNUIYgaU

1867年(54歳)、パリ万博記念のオペラ制作をパリ・オペラ座から依頼されペンをとり、5年ぶりの大規模な新作オペラ『ドン・カルロ』(23作目)をパリにて初演。 スペインの皇太子ドン・カルロをめぐる権力と宗教、愛と友情が織りなす歴史物語で、シラーの戯曲を題材にした。初演はフランス皇帝ナポレオン3世夫妻の御前公演だったが、本筋と無関係なバレエが挿入されたり、観客が終電に間に合うように筋がカットされた不本意なものとなり、新聞で酷評されたことからヴェルディはその後オペラ座からの依頼を二度と引き受けなかった。1868年(55歳)、敬愛する19歳年上のロッシーニ(1792-1868)が他界。
※音楽による性格描写が大きく進歩した『仮面舞踏会』『運命の力』『ドン・カルロ』を中期の三大傑作とも。

1871年(58歳)、エジプトを舞台にした新作オペラの依頼があり、4年ぶりの大作『アイーダ』をクリスマスイブにカイロで初演。当初は新作に消極的なヴェルディだったが、依頼主が「引き受けないならグノーかワーグナーに頼む」と揺さぶりをかけ、「ワーグナー」という言葉でライバル心を焚き付けられたヴェルディは仕事を引き受けた。ファラオ時代の古代エジプト衣裳や当時の信仰を調査し、これまでの集大成となる『オペラ』を全力で完成させた。
古代エジプトとエチオピアの争いを背景に、エジプトの若い将軍ラダメスと奴隷となったエチオピアの王女アイーダの悲恋を描く。女性が主役になるのは『椿姫』以来。軍の機密をもらしたラダメスは反逆者として地下牢に生き埋めにされ、アイーダも運命を共にする。2人の死は官能的な生との別れで終え、これまでの絶望のみの死とは異なった。最も有名な曲はラダメスがエチオピア王を倒して勝利の凱旋をする第2幕の「凱旋行進曲」。ヴェルディはこのオペラのために開発された長いバルブを持つアイーダ・トランペット6本を使い、凱旋の壮麗さを強調した。楽器の特性を活かした多彩な管弦楽、壮大でダイナミックな合唱が融合し、「清きアイーダ」「勝ちて帰れ」「おお、わが祖国」など名アリアも多い。エキゾチックなバレエ・シーンもあり、『アイーダ』はヴェルディのオペラの中で最高の人気をほこるようになる。

初演は成功したが誤算がひとつあった。指揮者として想定していた当時イタリアで最も高名なオペラ指揮者アンジェロ・マリアーニから指揮を断わられたのだ。これはマリアーニの婚約者のボヘミア出身ソプラノ歌手テレーザ・シュトルツ(1834-1902)が、2年前の改訂版『運命の力』の上演準備中にヴェルディと愛人関係になり、マリアーニが激怒したため。マリアーニは婚約を破棄し、ヴェルディに当てつけるようにイタリアでワーグナーを普及した。一方、ヴェルディは『アイーダ』のスカラ座上演に際して、アイーダ役のシュトルツのために「おお、我が祖国」を加え大喝采を浴びた。ナポリ初演では、ヴェルディに妻ジュゼッピーナと21歳年下の愛人シュトルツが付き添ったためゴシップネタとなった。ジュゼッピーナはスキャンダルから夫を守るため、困惑しながらもシュトルツをヴェルディ夫妻の共通の親友として受け入れた。この奇妙な三角関係は生涯続いた。また、ヴェルディ夫婦は子どもに恵まれなかったため、この頃に遠縁の娘マリアを養女としている。

1873年(60歳)、弦楽四重奏曲を作曲。1874年(61歳)、ヴェルディが人生で最も敬愛していた小説家、イタリアの文豪アレッサンドロ・マンゾーニの一周忌のために傑作『レクイエム』を作曲し追悼した。初演は教会、再演はスカラ座で行われた。新聞評は「モーツァルトのレクイエム以来の傑作」「絶叫するばかりのコーラス、怒号の連続」と評価が割れたが、20歳年下のブラームス(1833-1897)は「これは天才の作品だ」と評価。当初は皮肉を言っていた大指揮者ハンス・フォン・ビューローも「どんな下手な楽団員の手で演奏されても、涙が出るほど感動させられた」と前言を撤回した。フランス政府からは同国の最高勲章レジオンドヌール勲章を贈られ、著作権料収入は途方もないものになった。農場経営も調子が良く、敷地は倍に、小作人は十数人になった。
翌年、高額納税者ゆえ上院議員に任命されたが議会には出ず、熱心に慈善活動を行い、奨学金の充実、橋の建設、病院建設に取り組み、多額の寄付も行った。ヴェルディは完全に音楽から離れて「ピアノの蓋を開けない」期間が5年間続いた。

1880年、67歳のヴェルディに宛てた65歳のジュゼッピーナからの手紙。「“アイーダ”と“レクイエム”を評価しない人がいても落ち着いて。世間ってそんなものなのです。私はお邪魔虫にならず、あなたが一番必要なときに側に行き、どんなにあなたを愛し、尊敬しているかをささやくわ。あなたの芸術はもうこれ以上ないほど高まったのです。仕事の締めくくりには喜劇が待っているでしょう。うんと長生きしましょう。フェティド(腐敗)が、おっと言い間違えたわ、フェティ(ヴェルディを敵視した音楽学者)がカンシャクで死ぬほどに。キスと抱擁を送ります。きちんと食事をとって下さいね。早く会えますように。こんなにも愛しています。…私ったらなんてお馬鹿さんなことを書いたのかしら」。ジュゼッピーナは戦友にも似た真の理解者だった。

1883年(70歳)、ワーグナーが死去。才能を認めていたライバルの死に「悲しい、悲しい、悲しい…。その名は芸術の歴史に偉大なる足跡を残した」と書き残す。かつてヴェルディは、ワーグナーの『ローエングリン』のイタリア初演を観るためにボローニャまで足を運んだこともあった。

1887年(74歳)2月、『アイーダ』以来、16年ぶりとなる新作オペラ『オテロ』がスカラ座で初演された。ヴェルディはシェークスピア四大悲劇の戯曲「オセロー」を題材に選び、7年がかりで作曲した。『オテロ』は40年前の『マクベス』から目指してきた音楽と演劇の融合の頂点に君臨する作品となった。『オテロ』は観客が途中で拍手を入れにくいように音楽が構成されており、そこからもこれまで以上に演劇を重視する姿勢が見える。一方、音楽表現も進化しており、冒頭の凄まじい嵐の描写で、のっけから聴衆の気持ちを掴んだ。ヴェネツィア領キプロスの総督オテロには誠実な妻デズデモーナがいたが、側近イアーゴーからデズデモーナの不倫をほのめかされ、嫉妬に狂って妻を絞殺、直後に無実と悟って短刀で自刃する。ヴェルディはオテロ役の歌手に死亡シーンを実演してみせ、舞台に倒れ込んだ瞬間にみんなが驚いて駆け寄ったという。愛する者を信じ抜けなかった男、オテロの悲劇。迫真の舞台に聴衆は沸き立ち、当時スカラ座のチェロ演奏だった20歳前のトスカニーニは、帰宅後に母親をたたき起こして感動を熱弁した。
ヴェルディはここからの6年間は、大農場事業主として農夫の仕事に没頭し、同時に植林、病院建設など慈善事業に邁進した。ヴェルディはかねてから引退した音楽家仲間が貧困の中で世を去る姿に心を痛めており、老いた音楽家が心安らかに過ごせる老人ホーム『カーザ・ディ・リポーゾ・ペル・ムジチスティ(音楽家のための憩いの家)』の建設に情熱をかけるようになる。

1893年、ヴェルディは高齢の80歳となっていたが、台本作家アッリーゴ・ボーイトはまだヴェルディの創造の泉は尽きていないと確信、新作に乗り気でないヴェルディを説得するため、若い頃の失敗作を引き合いに出した。ヴェルディは悲劇では名をあげたが、喜劇は27歳のときに書いて酷評された『一日だけの王様』が一本あるだけだった。同作は妻子を失う中で書きあげた作品であり、そのような状態で良い喜劇が書けるはずがなかった。
そこでボーイトはシェイクスピアの喜劇『ウィンザーの陽気な女房たち』を題材に提案、「悲劇は苦しいが、喜劇は人を元気にする」「華やかにキャリアを締めくくりましょう」と説得、ヴェルディの心を掴んだ。『ファルスタッフ』を書きあげたヴェルディは、「行け、お前の道を行けるところまで。永久に誇り高き愉快なる小悪党、さらば!」と書いた。2月、スカラ座で最後のオペラにして66年ぶりの喜歌劇『ファルスタッフ』初演。壮大な音楽で聴衆を圧倒するのではなく、小気味好い軽快な音楽表現で話を進め、フーガをもちいた終幕で太鼓腹のファルスタッフが「最後に笑えばいいのさ」「人生、これすべて冗談」と陽気に締めくくった。『ファルスタッフ』はすべての喜歌劇の頂点をなす作品と讃えられ、ヴェルディは作曲家として最初につまづいた喜劇に、人生の最後でリベンジした。
1896年(83歳)、「音楽家の憩いの家」の設計図が完成。約80室の部屋には100人の音楽家が生活できた。ヴェルディ夫妻はここに自分たちの墓所を作りたいと希望したが、法律では許されなかった。ヴェルディは国王からの大勲章を辞退するかわりに、「音楽家の憩いの家」の墓所への埋葬許可を求めた。

1897年(84歳)、ヴェルディが書いた新旧の美しく壮麗な聖歌「アヴェ・マリア」「スターバト・マーテル(悲しみの聖母/中世の詩)」「処女マリアへの讃歌(ダンテの詩)」「テ・デウム」を『聖歌四篇』にまとめる。このうち「スターバト・マーテル」は妻ジュゼッピーナの健康を願って書かれたもので遺作となった。11月、ジュゼッピーナが肺炎で他界し、ミラノの記念墓地に埋葬された。彼女は遺言で「毎年50組の貧困家庭を助ける基金の設立」を定めていた。3年後、ヴェルディも老いを感じ取り遺書を作成し、孤児院の支援や苦学生への奨学金の援助など細かい指示を残した。
1900年、ヴェルディはプッチーニについて「万歳、トスカ!」と讃えるハガキをシュトルツに書いている。

1901年1月、ヴェルディはミラノの定宿グランドホテル・エ・デ・ミランで脳溢血をおこし昏倒した。意識不明の状態が1週間続き、王族から市民まで誰もが巨匠を心配し、ホテルには見舞いの手紙がたくさん届けられた。ホテルの前には騒音防止の藁が敷き詰められた。1月27日午前2時45分、26曲のオペラを残しヴェルディは人生の幕を下ろした。享年87歳。最後を養女マリアが看取った。
遺言で「葬儀は簡素に行い、遺体は“憩いの家”の礼拝堂に安置してほしい」と望んだが、墓地以外への埋葬許可はなかなか降りず、亡骸は許可が出るまでミラノ記念墓地のジュゼッピーナの隣りに安置された。かくして他界1カ月後に夫妻の棺が「憩いの家」に運ばれ、その際に盛大な国葬が執り行われた。出棺時に『ナブッコ』の「行けわが想いよ、黄金の翼にのって」が歌われ、トスカニーニが一般民衆を加えた8000人の合唱を指揮した。沿道では国民的英雄を見送るため30万人が参列したという。かくしてヴェルディの亡骸はジュゼッピーナと共に「憩いの家」の中庭の礼拝堂に安置された。ヴェルディ他界の翌年、後を追うようテレーザ・シュトルツもミラノで亡くなった(享年78歳)。

ヴェルディが私財をはたき、「私が造った最も美しい作品」と語った音楽家専用老人ホーム『Casa di Riposa per Musicisti(音楽家憩いの家)』は、他界の翌年にオープンした。最初の50年は著作権の収入が「憩いの家」の運営資金となり、著作権が切れてからは、入居者の年金の一部と寄付金で運営されている。ネット情報によると、楽器練習室、礼拝堂、レストラン、病院まで完備しており、現在50人以上が生活。近所に音大生の寮があり、身の回りの世話をすれば安く寮に住める制度があるとのこと。施設では演奏会も催され、住人は無料で観賞できる。近年、音大生も入居可能になり、数十人の若い学生が共に暮らしている。家賃の安さと音楽練習室に惹かれ100人待ちという。

ヴェルディ没後、イタリア最高峰の音楽大学、ミラノ音楽院(1808年創立)が校名を「ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院」に変えた。ヴェルディ存命中は、本人が抵抗して改名できなかった。同校からはジャコモ・プッチーニ、アッリーゴ・ボーイト、ピエトロ・マスカーニ、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ、マウリツィオ・ポリーニ、クラウディオ・アバド、リッカルド・ムーティ、リッカルド・シャイーらが巣立った。
ヴェルディは700万リラ(今の約40億円)の資産を残した。その半分を相続した養女マリアの子孫が、現在サンターガタの「ヴェルディ博物館」を維持、公開している。

ヴェルディは歌手の名人芸を見せることにこだわった従来のイタリア・オペラを、劇として筋のとおったものにし、音楽に一貫性を持たせたるよう改革した。ヴェルディの真骨頂は音楽による性格表現であり、オペラの歌詞はワーグナーの楽劇の台本よりずっと深味がある。
まだ演出家がいなかった時代であり、同い年のヴェルディとワーグナーは、作曲家自身が舞台装置・演出に至るまで公演に全面関与した点で似ている。ロッシーニ時代のオペラで多用された歌手の技量に依存するベルカントではなく、話し言葉のイントネーションで歌うレチタティーヴォを中心に据えて劇を重視したのも、ヴェルディとワーグナーだ。

〔作品メモ〕
●第1期 『オベルト』『ナブッコ』〜『アッティラ』…時流を反映した愛国路線
●第2期 『マクベス』『リゴレット』『イル・トロバトーレ』『椿姫』…単純な善悪の対立ではない細かな心理描写を重視、ベルカントからレチタティーヴォに。
●第3期 『シチリアの晩鐘』『シモン・ボッカネグラ』『仮面舞踏会』『運命の力』『ドン・カルロ』『アイーダ』…大規模なグランド・オペラ導入、多国籍オペラ。『シチリアの晩鐘』は暴政に耐えかねた島民の反乱を扱った。
●第4期 『オテロ』『ファルスタッフ』…音楽と演劇の融合

【墓巡礼】
2002年に巡礼。目的地が墓地でも教会でもなく、ヴェルディ自身が建てた音楽家専用の老人ホーム『音楽家憩いの家』という点で唯一無二の墓参だった。建物は地下鉄Buonarroti駅のすぐ側にある。憩いの家の中庭にある礼拝堂に入ると、ヴェルディは奥さんと並んで眠っていた。正面左手にヴェルディ、右手にジュゼッピーナの墓。26歳で没した先妻マルゲリータの墓もここに移される計画だったが、故郷ロンコーレの墓を掘り起こしても遺骨が残っていなかったため、結婚指輪など遺品がヴェルディの墓に一緒に納められた。墓の周囲には大きな宗教画の壁画が描かれている。テレーザ・シュトルツの墓の場所は情報が錯綜し、「夫妻の棺の奥の一段下がったところの棺」「夫妻の墓の間の花輪のレリーフの墓石の下に養女やテレーザが眠る」「夫妻の墓から数メートル離れた床」「憩いの家のバルコニーに眠る」「ミラノ記念墓地に墓」など様々。僕自身は夫妻の墓しか気づかなかったので、もう一度確認しに行く必要がある。とにもかくにも、先妻の墓も事実上ここであり、ヴェルディは彼が愛した3人の女性と永眠しているということだ。
世に成功を収めた音楽家で、若手音楽家のための教育機関を作った人は多い。でも、不遇な音楽家仲間の老後の暮らしを心配して養老院を建てた人物はヴェルディしか知らない。成功しなかったり、様々な事情で孤独になった音楽家のことを考えて私財をはたき、行動を起こした人は他にいるのだろうか。憩いの家の敷地にいると、ヴェルディの温かい心と優しさが伝わってくる。人情家で人の気持ちが分かるからこそ、あんなにも多くの人の心を動かす作品を生み出せた。そして奥さんのジュゼッピーナもよくヴェルディを支えた。いろいろ心労もあったと思う。彼女の「ヴェルディのような人はヴェルディのように書くべきなのです」 という言葉には、すべてを理解し包み込むような響きがある。
ヴェルディ夫妻に感謝の言葉を捧げている間、憩いの家からピアノやバイオリンを練習する音が聴こえていた。弾いているのは引退した音楽家だろうか、それとも老人達と共に暮らしている音大生だろうか。夫妻もこうして毎日音楽を聴いているのだと思うと、ここに墓を造ることにこだわった夫妻の気持ちが分かった。墓地になくてここにあるもの、それが音楽だ。

※ヴェルディは立て続けに新作オペラを書いていた時期を、休み無く働き続ける船を漕ぐ奴隷にたとえ「ガレー船の年月」と回顧している。
※「憩いの家」に面したミケランジェロ・ブオナロッティ広場には大きなヴェルディ像が建つ。パレルモにヴェルディの胸像あり。
※他界の前月、ヴェルディはミラノ訪問前に養女マリアに「自分の身に何かあれば初期作品が入った手文庫と私的な手紙や書類は燃やすように」と命じた。
※いわゆる三大レクイエムは、モーツァルト、フォーレ、ヴェルディの作品。
※ヴェルディの“三大荒唐無稽オペラ”は『エルナーニ』『イル・トロヴァトーレ』『運命の力』。「トロヴァトーレ」では勇ましく出陣した人物が次幕冒頭でいきなり牢屋に放り込まれている。「運命の力」は主な登場人物が全員死んでしまうという、文字通り運命の力の前では為す術がない物語だ。
※“有名オペラの初演三大失敗”とされるのはヴェルディ『椿姫』、ビゼー『カルメン』、プッチーニ『蝶々夫人』。
※長年、苦楽を共にしたジュゼッピーナに宛てた手紙は、私生活に踏み込まれるのを嫌ったヴェルディがすべて燃やしたので残っていない。
※NYメトロポリタン歌劇場では1898年から1945年まで48シーズン連続で『アイーダ』が上演された。2006年2月までの通算上演回数は1093回で第2位。第1位はプッチーニ『ラ・ボエーム』の1,178回。
※1912年、エジプト・クフ王のピラミッドの麓で『アイーダ』が野外公演された。
※『アイーダ』の日本初演は1941年。1989年の東京ドーム落成記念でも上演された。
※2003年、宝塚歌劇団星組が『アイーダ』を『王家に捧ぐ歌』と改題して舞台化。アメリカのイラク攻撃など時事問題を絡めた反戦メッセージを全面に押し出した意欲作。
※少年時代に弾いた小型チェンバロ(スピネット)は「憩いの家」に展示されているとのこと。
※オペラ誕生以来、オペラでは基本的に不倫ドラマが描かれてきた。
※ヴェルディ以前はバリトンとバスは分かれていなかった。
※ミラノ記念墓地にヴェルディの胸像がある。同墓地には台本作家アルリーゴ・ボーイトやトスカニーニ、ホロヴィッツが眠る。礼拝堂内には作家マンゾーニの墓がある。
※ヴェルディ没後、イタリア・オペラはフランスの自然主義に刺激されてヴェリズモ(写実主義)になった。
※ヴェルディは出版社から依頼された伝記を断った。
※「憩いの家」は映画『トスカの接吻』の舞台となった。
※1895年、ドイツの若手作曲家リヒャルト・シュトラウスからファンレターが届いた。頑張ってイタリア語で書いていた。
※ヴェルディの夢はシェイクスピア『リア王』のオペラ化だったが、これは最後まで実現しなかった。
※『椿姫』のモデルとなったマリー・デュプレシスの墓はパリのペール・ラシューズ墓地にある。彼女には百万長者のパトロンが7人もいた。そして夜になると椿を手にモンマルトルの劇場に現れたという。作家のデュマ・フィスは彼女と愛し合い、マリーが23歳で他界した後に小説『椿姫』を書いた。
※妻ジュゼッピーナ「ヴェルディのような人はヴェルディのように書くべきなのです」



★シューベルト/Franz Peter Schubert 1797.1.31-1828.11.19 (オーストリア、ウィーン 31歳)1989&94&02&05&15
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



若き日のシューベルト。
けっこうカッコ良い!
わずか31年でシューベルト
のメトロノームは止まった




ウィーン中央墓地にて(1994) もっと長生きして欲しかった!(2002) 手に本物の花を握っていた(2005)

早朝のシューベルト(2015) お昼ごろのシューベルト(2015)





シューベルトの墓(右端)は、遺言通り彼が
ファンだったベートーヴェン(左端)の隣りに
埋葬されている。よかったね、シューベルト!
シューベルトの生家


彼が夭折したアパート



墓巡礼を続ける中で、最も胸を打たれることのひとつに、墓を通して故人が周囲からどれほど愛されていたか知ることがある。600以上の歌曲を遺した“歌曲王”シューベルトは、生涯宮廷に縁がなく、貴族のパトロン(後援者)もいなかったが、代わりにボヘミアン的な多くの友人たちが音楽活動を支えてくれた。19歳から他界するまで住所不定のまま友人の家を泊まり歩いた知られざる元祖ヒッピーだ。ウィーン出身でウィーンで死んだ生粋のウィーンっ子。
初期ドイツ・ロマン派の代表的作曲家の一人、フランツ・シューベルトは1797年1月31日、オーストリア・ウィーン郊外で生まれた(当時ベートーヴェン27歳、モーツァルトは6年前に他界)。父親は小学校の教員。11歳のときに宮廷礼拝堂の少年聖歌隊員となり、宮廷歌手を養成する寄宿制神学校(ウィーン楽友協会音楽院の前身校)に入った。そこでイタリアの作曲家・宮廷楽長サリエリから学び、学生オーケストラでバイオリンを担当。1811年(14歳)から歌曲(リート)を書き始め、作品は好評を得たが、声変わりをしたことから聖歌隊をやめて小学校教師の道へ進む。16歳で交響曲第1番を作曲するなど、シューベルトの才能に気づいていた同級生らは、貧しい彼を助けるために自分達の小銭を持ち寄って五線紙を提供するなど、熱心に創作活動を応援した。
1814年、17歳で最初のオペラ『悪魔の悦楽城』と最初の『ミサ曲ヘ長調』を書き、ゲーテの『ファウスト』を題材にした名歌『糸を紡ぐグレートヒェン』を作曲。
1815年(18歳)、交響曲第2番と第3番、数曲の室内楽曲を書き上げ、有名な『魔王』『野ばら』など146曲もの歌曲を作曲した(1日で8曲を書いた日もあった)。有名な逸話がある。ある日、シューベルトはレストランで仲間と食事中に突然歌曲の旋律が浮かび、素早くメニューの裏に音符を書き記した。後日、友人がその曲を歌うと、シューベルトは「良い歌じゃないか。それは誰の歌?」とレストランの一件を忘却していたという。
1816年(19歳)、友人から「教職を辞めて作曲活動に専念するべき」と提案があり、居候のための部屋も用意してもらえたことから、教師生活に別れを告げた。以降、他界するまで友人たちの家に身を寄せることになる。この年、交響曲第4番「悲劇的」と第5番、そして約100曲の歌曲が書かれた。シューベルトには収入がなかったが、周囲には多くの芸術家や音楽愛好者が集まり、新作を聴くための夜会“シューベルティアーデ(シューベルト・サークル)”が催された。シューベルティアーデのメンバーは、各々が食料を提供したり楽譜やペンを用意し、献身的にシューベルトを支えた。声楽家はシューベルトの曲を積極的に取り上げ、裕福な者は自邸を自由に使わせた。シューベルトは毎朝起床と同時に作曲を始め、14時まで五線譜に向かい、遅めの昼食を摂った後に散歩に出かけ、帰宅後は再び作曲に戻った。「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成するとまた次を始めるのです」(シューベルト)。

1817年(20歳)、歌曲『鱒(ます)』を作曲。この歌は2年後にピアノ五重奏曲でも使用される。マティアス・クラウディウスの詩をもとにした歌曲『死と乙女』を作曲。この詩は、病の床に伏す乙女と、死神の対話を描いたもの。歌い手は乙女と死神の2役を演じ、最初に死に怯える乙女、次に死神の歌と続く。「去りなさい、恐ろしい死神よ。私はまだ若いわ、さあ行って。どうか私に触れないで!」。死神に触れる事=死である為、彼女は必死で抗おうとする。メロディーも激しく揺れ動く。一瞬静寂に包まれると、次に鬼火が暗闇にゆらめき、そこから細い銀の川の流れのような、この世のものと思えないメロディーに変わる。「…手を差し出すのだ、美しく優しい生き物よ。私は味方だ。罰しに来たのではない。勇気を出せ。恐れることはない。私の腕の中で静かに眠りなさい」。死神は乙女に永遠の若さを与えてやると誘惑する。死ねば人々の記憶の中でずっと若いままだ。やがて、乙女にとって死への不安は憧れに変わり、最後に連れ去られてしまう(なんと恐ろしく、また危険な誘惑に満ちた曲か)。
1818年(21歳)、イタリア風の序曲が初めてコンサートで演奏され、夏は貴族家庭から音楽教師として招待された。
1819年(22歳)、歌曲の最初の公演が行われる。
1820年(23歳)、自由主義者の親友が政治犯として逮捕され、巻き添えでシューベルトも逮捕、拘留される。ウィーンは反動保守政治家メッテルニヒの支配下にあった。間もなく釈放されたが、親友はウィーンを追放されシューベルトは深く傷つく。「美だけが人間を生涯感激させるのは真実だが、美の光が他のいっさいのものを明るくすることは絶対にない」。シューベルトは勇気を振り絞り、追放された友人が書いた詩に音楽をつけて抵抗した。同年、シューベルトは楽譜の刊行を希望して出版社と交渉するが、どこも反応は冷淡で失望する。
1821年(24歳)、作品1として『魔王』が予約出版に成功し評判をよぶ。
1822年(25歳)、南部シュタイアーマルク州の音楽協会の名誉会員に推挙され、その御礼に代表作のひとつとなる交響曲第7番ロ短調『未完成』を作曲した。この交響曲は独創的なオーケストラの音色や転調、鮮やかな和声、歌謡的なメロディー、豊かな表現力により、古典派からロマン派への道を開いた。通常の半分、第2楽章までしかないため“未完成”とされているが、その比類なき美しさから2つの楽章をもって完璧な作品となっている(シューベルト本人も“これで良し”とペンを置いたのかも知れない)。同年、ピアノの連弾曲を出版するに当たって、尊敬しているベートーヴェンに献呈。
1823年(26歳)、3歳年上の詩人ヴィルヘルム・ミュラーの詩による20曲の失恋歌曲集『美しき水車小屋の娘』を書く(ミュラーは4年後に心臓発作で急死。享年32)。付随音楽『ロザムンデ』を作曲。そして晩年まで取り組んでいたピアノ曲集『楽興の時』を書き始めた。
1824年(27歳)、健康の悪化にともない、未来に悲観的になったシューベルトは、歌曲『死と乙女』の旋律を使用した、全楽章が短調という弦楽四重奏曲第14番を作曲。
1825年(28歳)、英詩人ウォルター・スコットの詩にもとづく『エレンの歌』を作曲し、後にこの中の第3番が『アヴェ・マリア』として愛されていく。この年、シューベルトは『グムンデン・ガスタイン交響曲』を作曲したと手紙の記録にあるが、現在に至るまで楽譜が見つかっておらず幻の交響曲となっている(『グレート』の草稿という説もあり)。

1827年(30歳)、貧困の中で有名な『菩提樹』を含む24曲の失恋歌曲集『冬の旅』を完成させる。この歌曲の作曲中、3月26日にベートーヴェンが56歳で他界した。病床のベートーヴェンはシューベルトの『美しき水車小屋の娘』を好んで口ずさんだという。シューベルトは27歳年上の巨匠を心から崇拝し、街で姿を見かけるとこっそり後をついて歩いた。ベートーヴェンが死の前年に書いた「弦楽四重奏曲第14番」を聴いたシューベルトは「この後で我々に何が書けるというのだ?」と胸を震わせた。お見舞いのためにベートーヴェンの家を友人と訪れたが、あまりの緊張で何も喋れなかったという。ベートーヴェンの葬列ではたいまつを持つ役を引き受け、棺の横を行進した。葬儀の後、友人たちと訪れた酒場で「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとり、友人たちは不吉な予感にとらわれた。死は翌年に迫っていた。

1828年、シューベルトはベートーヴェンの一周忌にあたる3月26日に、生涯でただ一度のコンサートを楽友協会ホールで催した。プログラムの内容は室内楽と歌曲で以下の通り。

〔1828年3月26日のコンサートのプログラム〕
1.弦楽四重奏曲第15番 D887より第1楽章
2.四つの新作歌曲
「十字軍」 D932
「星」 D939
「さすらい人の月に寄せる歌」D870
「アイスキュロスからの断片」D450
3.ソプラノとコーラス「セレナード」D920
4.ピアノ三重奏曲第2番 変ホ長調 D929より第2楽章
5.歌曲「川の上で」 D943※ホルンとピアノフォルテの伴奏
6.歌曲「全能の神」 D852
7.男声二重合唱「戦の歌」D912

同年、演奏1時間の苦心の大作、交響曲第8(旧9)番『グレート』を完成させ、ウィーンの音楽愛好家協会に上演を依頼したが、「作品規模が大きすぎる」と断られた。死の1カ月前に書かれた『弦楽五重奏曲ハ長調』は、演奏に約50分を要する大曲で、繊細なメロディーラインと溢れる叙情性により最後の傑作となった。他にも、ピアノソナタ3曲(第19〜21番)を作曲するなど創作欲は尽きなかったが、秋にチフスに感染し急激に衰弱した。11月12日、親友に宛てた手紙に「僕は病気だ。11日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と苦しみを訴え、これが最後の手紙となった。高熱に浮かされ「ここにはもうベートーヴェンがいない」と嘆き、一週間後の11月19日午後3時、兄の家で夭折した。最後の言葉は他界前日の「これが、僕の最期だ」。享年31歳。最晩年に書かれた未発表の14の歌曲(うち6曲はハイネの詩)は、死の翌年に『白鳥の歌』と題され出版された。
生涯自分の住居を持たず、貧しくとも友情に恵まれたシューベルト。その遺言は、「ベートーヴェンの側で眠りたい」だった。兄や友人たちはこの遺言を実現するため、地元の教会ではなく、わざわざベートーヴェンが眠るウィーン・ヴェーリング地区の教会で葬儀を行った。そして各方面に交渉し、努力が実ってベートーヴェンの墓の側(3つ隣り)に埋葬された。貧困の中で没したシューベルトは、所持品をすべて売っても埋葬費用の5分の1に満たず、兄が少ない生活費を削って費用を工面した。

他界10年後、シューベルトを尊敬していた作曲家シューマンが、墓参りのためにウィーンを訪れた後、シューベルトの話を親しかった人々から聞くために、兄フェルディナントの家を訪問した。そして遺稿や遺品を見せてもらった際に、『グレート(大ハ長調交響曲)』の楽譜に気づいた。驚嘆したシューマンは楽譜をライプチヒのオーケストラに送ることを薦め、1839年3月21日、ライプチヒ・ゲヴァントハウスの定期演奏会でメンデルスゾーン指揮によって歴史的初演が行われた。もしシューマンが見つけていなかったら『ガスタイン交響曲』のように行方不明になっていたかも知れない。1865年には、ウィーンの宮廷指揮者ヘルベックが40年以上も埃に埋もれていた『未完成交響曲』の楽譜を発見している。
その翌々年、1867年にウィーン旅行中のジョージ・グローヴとアーサー・サリヴァンが、シューベルトの7曲の交響曲、ロザムンデ、ミサ曲、オペラ、室内楽曲、大量の歌曲を発見した。一般聴衆は長年シューベルトに無関心だったが、これを機に世間から注目が集まりだした。

他界から半世紀後、都市開発によってヴェーリング墓地の閉鎖が決まると、新しく郊外に開設されたウィーン中央墓地にシューベルトとベートーヴェンの遺骸が改葬された(1888年)。シューベルトの遺骨が掘り起こされたとき、その場に立ち会った作曲家ブルックナーは、感極まって頭蓋骨に接吻したという。改葬先ではベートーヴェンの右隣りにシューベルトの墓が造られた。ヴェーリング墓地は公園として整備されたが、シューベルトを愛する人々が旧墓石の保存運動を展開し、公園の一角にベートーヴェンの墓と共に残された。知名度からいえば、ベートーヴェンが圧倒的に上だったが、同地はベートーヴェン公園ではなくシューベルト公園と呼ばれており、そこからも支持者がどれほど熱い想いで運動していたかが分かる。
1927年、シューベルト没後百年国際作曲コンクールが開催され、この時から歌曲や交響曲以外の作品(ピアノソナタなど)も光を浴び始めた。ヴァルター・ギーゼキングは最初にシューベルトのピアノ・ソナタの魅力に気づいたピアニストの一人だ。

シューベルトは生前にメディアのトップを飾るような大成功とは縁がなく、親しい詩人や歌手など仲間うちのサークルで才能を認められる存在だった。現存する楽譜では14曲の交響曲の作曲を試み、6曲が未完成となっていることが分かっているが、自作の交響曲が演奏されるのを一度も聴くこともなく31年間の短い生涯を終えた。五線譜にインクのしみを付けたことが無いほどの速筆で、20歳たらずの年齢で早くも歌曲の代表作を書き、それらの歌曲は文学と音楽の両要素が絶妙なバランスで融合している。多数のピアノ・ソナタ、室内楽曲、オペラ、ミサ曲、何より600曲以上もの歌曲を世に送り、ロマン派時代を代表する作曲家のひとりとなった。古典派の目指した調和や抑制とは正反対となる、ロマン派の詩情豊かで憧憬に満ちた、ときに神秘的、ときに感情的な世界を探究した。作曲活動の初期はモーツァルトやベートーヴェンの強い影響下にあり、そこから脱しようと苦闘していたが、次第にシューベルトならではの美しく色彩的な和声を強調した新しい響きを生み出していった。ベートーヴェンでもモーツァルトでもない真のシューベルトとなった。
シューベルトが書いた約1000曲もの作品群は、1951年にオーストリアの音楽学者オットー・エーリヒ・ドイチュが目録(ドイチュ番号)で整理した。交響曲の作品番号は、1951年の段階では第7番ホ長調、第8番「未完成」、第9番「ザ・グレート」とされていた。没後135年となる1963年、ドイツ・カッセルに「国際シューベルト協会」が創設され、それまで混乱がみられた作品番号の整理を開始。1978年、国際シューベルト協会は、第7番「未完成」、第8番「ザ・グレート」と番号の繰り上げを行った。

【墓巡礼】
芸術家は気難しい、いわゆる“偏屈”と呼ばれる人も多いけれど、シューベルトはその温厚で優しい性格から、多くの友人がいたし、彼を助けようと思わせる魅力があった。これほど友人たちに愛された音楽家を他に知らない。僕自身、5度墓参している。初めてウィーン中央墓地の楽聖エリアを訪れたとき、ベートーヴェン、シューベルト、ヨハン・シュトラウス、ブラームスの墓とモーツァルトの旧墓が並ぶ光景に圧倒された。人類の奇跡ともいうべき天才がズラリ。遺言が実現して、大好きなベートーヴェンの隣りに眠っているシューベルトの墓を見ると、“良かったですね、シューベルトさん”と思わず声を掛けてしまう。墓石には、神が右手の月桂冠をシューベルトの頭に授けようとしている姿が彫られている。ちなみに、改葬前の旧墓にはブロンズ胸像に劇作家グリルパルツァーの言葉「音楽芸術はそのかけがえのない宝、この上なく美しい希望をこの地に遺した。フランツ・シューベルトここに眠る」とが刻まれている。
彼が31歳で世を去らず、80歳まで長寿していたら、いったいどれほど多くの美しい歌曲や交響曲がこの世界に溢れていたか。31歳でも約千曲。おそらく作品群は2千曲、3千曲に達していただろう…。だが、もしもシューベルトが存在していなかったら、歌曲も交響曲もすべてゼロだった。たとえ31年という短い年月であっても、彼が生まれてこの世にいたこと、その奇跡に人類の一員として心から感謝したい。

※こんな会話の記録がある。「シューベルトさん、貴方の音楽はどうしてどれも悲しげなのですか?」「幸せな音楽というものが、この世にあるのですか?」
※シューベルト存命中に交響曲・オペラなど大型作品は楽譜が出版されなかったため、自筆譜の記号がアクセントなのかデクレッシェンドなのか判別不可能という例が少なくなく、『未完成交響曲』の管楽器の音楽記号の解釈は、いまだ指揮者によって異なっている。僕の学生時代、『未完成』はまだ第8番と教科書に載っていたし、大半のレコードも第8番だった。
※生前に出版された作品だけでも作品番号は100を超えている。
※死因については、他界の前月にレストランで出された魚料理で腸チフスになったとする説、梅毒治療を通して水銀中毒になったという説など複数ある。
※シューベルトの歌曲はゲーテの詩を基にしたものが最も多いが、同時代の無名の詩人の作品も積極的に取り上げている。文学的な知識欲が旺盛だった。歌曲は、ベルリオーズ、リスト、ブラームス、オッフェンバック、ブリテンなど後世の作曲家が、管弦楽版に編曲している。
※ゲーテに歌曲の楽譜を友人が送ったが、残念ながら送り返されてしまった。ゲーテは『魔王』のようにあまり劇的すぎるものを好まなかったようだ。
※シューベルトの音楽は2種類に分けられる。“野ばら”“アヴェ・マリア”など清らかで美しい調べの白シューベルトと、歌曲集“冬の旅”など挫折、さすらい、死の影に支配された黒シューベルト。没する直前のピアノ・ソナタは、聴いているとあの世への旅というものを体験できる。
※シューベルトに始まったドイツ歌曲の系譜は、シューマン、ブラームス、ヴォルフ、マーラー、R・シュトラウスに繋がっていく。
※「シューベルトの曲は喜びと同じくらい、悲しみがある」(吉田秀和・音楽評論家)



★プッチーニ/Giacomo Puccini 1858.12.22-1924.11.29 (イタリア、トレ・デル・ラーゴ 65歳)2002
Puccini Estate Grounds, Torre del Lago (Near Viareggio), Italy


墓は自宅プライベート・チャペルの中にあった。
残念ながら内部は撮影禁止
墓は祭壇と石棺が合体している
ように見えた(これは絵葉書)

 
撮影禁止だけどトリップアドバイザーに画像が!公式?非公式?とにかく有難いです!

ジャコモ・プッチーニは1858年12月22日、中部イタリア・トスカーナ地方のルッカに生まれた。プッチーニ家は代々、地元の教会音楽家。5歳のときに父が没し、叔父に育てられた。成長して教会オルガニストになったが、18歳のときにピサでヴェルディの傑作オペラ『アイーダ』を観てオペラ作曲家を志すようになる。
1880年、22歳のときに音楽学校の卒業制作として5曲からなる約50分の大曲『グロリア・ミサ』(正式名称「4声のミサ曲」)を作曲。高い完成度に感心した親類の援助を受けて、同年から3年間イタリア最高峰のミラノ音楽院で学び、ポンキエッリらに師事。苦学生ゆえ家賃を節約するため、後に作曲家となるマスカーニ(代表作『カヴァレリア・ルスティカーナ』)と共同生活を続け、25歳で卒業した。1884年(26歳)にコンクール用に書きあげたオペラ処女作『妖精ヴィッリ』を発表。内容は婚約者を捨てた若い男が妖精に呪い殺されるというもの。コンクールには落選したが、地元劇場で初演されると聴衆から喝采され、カーテン・コールは18回に及んだ。
この年、プッチーニは友人の妻エルヴィラに歌のレッスンをしているうちに不倫関係となり、子を宿してしまった。2人は駆け落ちし長男アントニオが生まれる。
翌年、『妖精ヴィッリ』がオペラの殿堂ミラノ・スカラ座でも上演され、この成功をきっかけに大手の楽譜出版社リコルディから作曲依頼をうけた。そして私生活で母と弟に死別しながら、1889年(31歳)に第2作『エドガール』を書きあげる。若さによる過ちで恋人が死ぬ悲劇。美しい旋律は評価されたが、台本が酷評され初演は失敗に終わった。その後、作曲家自身の手で大幅に改訂された。

1891年(33歳)、トスカーナ地方トッレ・デル・ラーゴの湖畔に別荘を借り(後に購入)、以降没するまで33年にわたって自宅兼仕事場とした。
1893年(35歳)、第3作『マノン・レスコー』をトリノで初演。魔性の女マノンと若者デ・グリューの破滅的な恋を描き、ルイジアナの荒野をさまよい死んでいくラストが衝撃を与えた。初演から高く評価され、プッチーニは気鋭の天才作曲家と認知された。この『マノン・レスコー』で組んだ2人の台本作家ルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザは、その後に『ラ・ボエーム』『トスカ』『蝶々夫人』を生み、希代のヒットメーカーとなっていく。

1896年(38歳)、トリノにて全4幕の『ラ・ボエーム』をトスカニーニの指揮で初演。“ボエーム”とはボヘミアン、芸術家気質の風来坊のこと。1830年のクリスマスイブ、パリの下町で暮らす貧しい若者たち、詩人ロドルフォ、画家マルチェロ、音楽家ショナール、哲学者コッリーネの貧乏芸術家4人の友情物語をベースに、ロドルフォと肺病のお針子ミミの悲恋、ミミの死を流麗なメロディーで描いた。ロドルフォのアリア「冷たい手を」のほか、美しい重唱ががちりばめられている。当初の反応はいまいちだったが、聴衆は音楽の中にプッチーニならではの魅力的で哀愁を帯びた旋律美を見出し、再演のたびに人気が増していった。今やプッチーニの最高傑作に位置づけられ、NYメトロポリタン歌劇場では通算上演回数第1位に輝いている。

1900年(42歳)、ローマで全3幕の『トスカ』を発表。フランスの名女優サラ・ベルナールのために書かれた戯曲をオペラ化した。プッチーニは5年前にフィレンツェでベルナールの舞台を観て、強く心を揺さぶられた。時代はナポレオンが欧州に台頭し政情不安定だった1800年のローマ。青年画家のカバラドッシは、脱獄した政治犯(共和主義者)の友人をかくまったことから、警視総監のスカルピアに逮捕され、拷問をうけ、銃殺刑が決定する。カバラドッシの恋人で歌手のトスカは、助命のためにスカルピアと交渉するが、トスカは「自分の女になれ」と迫るスカルピアを刺殺、カバラドッシは銃殺され、トスカはサンタンジェロ城(ローマ教皇領の牢獄)から身を投げる。拷問などの激しい暴力描写、主役3人がみんな死んでしまう凄絶なストーリー、緊張感があり扇情的な音楽がセンセーションを呼び、「歌に生き、恋に生き」「星は光りぬ」などの珠玉のアリアもあって、聴衆は熱狂的に『トスカ』を支持した。『ラ・ボエーム』と並ぶプッチーニの代表作であると共に、イタリア・オペラの最高傑作のひとつに数えられる。
同年、汽車で知り合った女学生と情事のトラブルになり、女学生は「もらったラブレターを公表して裁判を起こす」とプッチーニを責めた。プッチーニをスキャンダルから守るため、友人の台本作家、プッチーニの姉妹らが一丸となって女学生と交渉し、なんとか和解に至った。「もし私が恋をしなくなったら、その時は葬ってほしい」(プッチーニ)。
1903年(45歳)、新しいもの好きのプッチーニは、自動車を手に入れて乗り回し、事故を起こして脚を骨折した。

1904年(46歳)、若き日の駆け落ちから約四半世紀、トッレ・デル・ラーゴでエルヴィラと正式に結婚式を挙げる。翌月、ミラノ・スカラ座で全2幕の『蝶々夫人(マダム・バタフライ)』を発表。アメリカ海軍士官ピンカートンに対する芸者の蝶々さんの純愛を描いた。舞台は明治時代の長崎。没落士族の令嬢で芸者となった15歳の蝶々さんは、キリスト教に改宗までしてアメリカ海軍士官ピンカートンと結婚する。ピンカートンはこの結婚を軽く考え、現地妻として蝶々さんを見ており、3年の任務が終わるとアメリカに帰国した。ピンカートンとの間に青い瞳の男の子をもうけた蝶々さんは、毎日港に入る船を調べ、夫の帰宅を夢見て「ある晴れた日に」を歌う。別れから3年、ついに夫のエイブラハム・リンカーン号が入港する。蝶々さんと下女のスズキは大喜びで家の中を花で飾り、花嫁衣装の着物を着て、子どもと一緒に帰宅を待った。ところが、ピンカートンは新しい“正式な妻”ケイトを連れて来訪し、蝶々さんの子どもは引き取られることになった。蝶々さんは、婚礼時に父からもらった切腹のための短刀を取り出し、「名誉を失う前に名誉の中で死のう」と自刃する。ピンカートンは自身の愚行を悔悟した。
作曲の際にプッチーニは民謡など日本の音楽を調べ、風俗習慣や宗教に関する資料を熱心に集めた。日本大使夫人にも会って日本の事情を聞き、パリ万博で渡欧していた川上貞奴にも会ったという。その努力は、劇中に織り込まれた「さくらさくら」「君が代」などの日本の旋律に反映されている(当時の欧州はジャポニスムが流行)。第2幕の蝶々さんのアリア「ある晴れた日に」が最も有名だが、第1幕の愛の二重唱「可愛がってくださいね」は極めてハーモニーが美しく、プッチーニが書いた二重唱の最高峰と言われている。ただし、蝶々さん役はソプラノ歌手にとって中低音域に重点を置いた歌唱を求められるため「ソプラノ殺し」とも言われる。
『蝶々夫人』の初演は、プッチーニのライバル達が組織した集団による上演妨害や、第2幕の長すぎる上演時間などで歴史的失敗となった。その後、数回の改訂を経て成功、現在第6版が決定版として上演されている。『蝶々夫人』は管弦楽がこれまでより色彩的になり声楽とも調和している。プッチーニはこの作品でヴェルディが開拓したロマン派オペラの後継者と世に認められた。
1906年(48歳)、信頼していた台本作家のひとりジャコーザが他界。翌年。メトロポリタン歌劇場の招きでアメリカ訪問。

1909年(51歳)、私生活で大事件が起きる。プッチーニの妻エルヴィラが、美人の使用人ドーリア・マンフレーディとプッチーニの関係を疑い、ドーリアをいじめ始めた。プッチーニは不倫しておらずエルヴェラの誤解だったが、ドーリアは数か月にわたって公衆の面前で罵倒され、とうとう服毒自殺してしまう。このときプッチーニはローマに滞在しており家にいなかった。エルヴィラはドーリアの遺族から告発されて有罪となったが、大金での示談が成立して刑務所行きは免れた。プッチーニは自宅の前の湖を小舟で漕いでいるときに音楽のインスピレーションが沸くため、帰宅してエルヴィラと住み続けるしかなかった。ドーリアは家族に宛てた遺書の中で、「プッチーニさんにはまったく責任がなく、夫人だけが私を苦しめた」と記していたが、エルヴィラは死の責任が夫にあると責め続けた。このドーリア・マンフレーディ事件で、同時期の作曲活動は止まっていた。

1910年(52歳)、アメリカ西部を舞台にしたオペラ『西部の娘』をニューヨークのメトロポリタン歌劇場で初演。チケットの取引価格は30倍まで高騰した。アメリカ人の好みに合わせた内容で、劇の最後に男女が新天地に向けて旅立つというプッチーニ作品には珍しいハッピーエンド。『西武の娘』は初演が成功した数少ないオペラの一つになった。ただ、他の作品に比べて簡単に口ずさめるアリアがなく、人気は尻すぼみになっていった。1912年(54歳)、作曲活動の恩人リコルディ社・社主ジューリオが他界。
1915年(57歳)、トッレ・デル・ラーゴに近いヴィアレッジョに土地を購入し新居を建設。この頃、プッチーニはドイツの男爵夫人ヨゼフィーネと深い付き合いをしていたが、同時にハンガリー人の女性にも恋文を送っている。自宅の郵便受けは妻に見張られたいたので、親友の住所を教えて女性たちの返事を受け取っていた。
1917年(59歳)にフランスを舞台にした『つばめ』(La Rondine/ラ・ロンディーヌ)をモンテ・カルロのカジノ歌劇場で初演。主人公は真実の恋に憧れるパリの裕福な銀行家の愛人マグダ。つばめのように海を渡って恋を成就させるが、その恋を美しい思い出にして、再び海を渡って元の巣(昔の生活)に帰る。同じパリを舞台にした『ラ・ボエーム』の貧困学生とまったく異なる、オペレッタのように軽妙な上流社会の物語。アリア「ドレッタの美しい夢」が有名だが、第一次世界大戦の最中であり、欧州はオペラどころではなかった。

1918年(60歳)に短い1幕の3編『外套(Il tabarro)』『修道女アンジェリカ』『ジャンニ・スキッキ』からなる『三部作』を書いた。それぞれダンテ『新曲』の地獄篇、煉獄篇、天国篇に相当。3作品は同じ12月14日にメトロポリタン歌劇場で初演された。1本目の『外套』はセーヌ河畔の荷物船の老船長が若妻の不倫相手の若者を絞殺するショッキングなもの。イタリア初演を見たトスカニーニは「最低のこけおどしの芝居」と終演と同時に席を立ち、残りの2作を聴かなかった。これにプッチーニは激怒し死の前年まで疎遠になった。背景には第一次世界大戦をめぐるプッチーニ(親ドイツ)とトスカニーニ(嫌独派)の立場の違いもあった。
2本目の『修道女アンジェリカ』は未婚で出産したアンジェリカが贖罪のため修道院に入り、その後わが子が5歳で病死したことを知ったことで絶望から毒をあおる。キリスト教では自殺は大罪だったが聖母マリアに許され、天国から迎えに来た息子の前で息絶える。プッチーニは3部作の中で本作に最も自信をもっていたが、初演は「フィナーレの聖母マリアの登場はクリスマス・カードのように陳腐」と酷評され、すっかり落ち込んでしまった。

『ジャンニ・スキッキ』はプッチーニが書いた唯一の喜劇オペラ。貧しい田舎の中年男ジャンニ・スキッキが大富豪の遺産を巡る騒動で知恵を働かせ、まんまと遺産をゲットし娘の恋も成就をさせてしまう様子をコミカルに描いた。最も有名なアリアはスキッキの娘ラウレッタが歌う「わたしのお父さん」。彼女は「もし好きな人と結婚できないなら、わたしはアルノ川に身投げするから」と脅迫し、スキッキは一肌脱ぐ。ラストでスキッキは観客に向かってこう言う。「紳士、淑女の皆様。ブオーゾの遺産にこれより良い使い途があるでしょうか。この悪戯のおかげで私は地獄行きになりました。当然の報いです。でも皆さん、もし今晩を楽しくお過ごし頂けたのなら、あの偉大なダンテ先生のお許しを頂いた上で、私に情状酌量というわけにはいかないでしょうか」。次作『トゥーランドット』が未完で終ったため、プッチーニの手で完成した最後のオペラとなった。『ジャンニ・スキッキ』は他の2作と異なり、初演をした米国でもイタリアでも文句なしの大絶賛となった。
1921年、ヴィアレッジョの新居に転居。
1922年(63歳)、気晴らしのつもりで欧州のドライブ旅行に出かけたところ、ドイツでアヒル肉の骨が咽に刺さり、外科医に除去してもらう。翌年、ヘビースモーカーのプッチーニは喉頭癌になっていることが判明する。
1924年11月29日、癌のラジウム治療で滞在していたブリュッセルで手術後に合併症を起こし、心臓発作で急死した。享年65歳。女性心理を知り尽くし、女性の切実な想いをメロディーにのせてきたプッチーニだが、病院のベッドの側に女性は誰もおらず息子だけが見送った。最後のオペラ『トゥーランドット』は召使リューが自刃したところで絶筆となり、その先の23ページのスケッチが遺された。

2年後の1926年、未完のまま遺されていた『トゥーランドット』を親友アルファーノ(作曲家、トリノ音楽院教授)が完成させ、ミラノ・スカラ座で初演された。この初演は国家的イベントになり、ムッソリーニ首相も臨席する予定だったが、国家元首の臨席時に演奏されることとなっていたファシスト党党歌の演奏をトスカニーニが拒否したため、ムッソリーニの出席は取止めになった。また、プッチーニの絶筆部分でトスカニーニは突然演奏をやめ、観客に「マエストロはここで筆を絶ちました」と述べて舞台を去り、2日目になって補完版がラストまで上演された。
古代中国の北京・紫禁城を舞台に、男性不信のトゥーランドット姫の氷のように冷たい心を、ダッタン国の王子カラフが愛で溶かすまでを描いている。途中、カラフの召使いのリューが、自刃することでカラフへの愛を示しトゥーランドットの心を動かす。
トゥーランドットはオーケストラのスペクタクル的な響きが特徴であるため、トゥーランドット役はそのオーケストラの分厚い響きや民衆の合唱に負けないだけの、場を完全に支配する人間離れした高音域を長時間歌い続けねばならず、ソプラノ歌手の最大の難役の一つになっている。トゥーランドットとカラフの謎の掛け合いで、カラフの歌うアリア「誰も寝てはならぬ」が人気曲となった。
同年、プッチーニの息子アントニオが、父の亡骸をミラノのプッチーニ家の墓から、父が愛着をもって暮らしていたトッレ・デル・ラーゴの自宅兼仕事場に再埋葬した。

プッチーニは大小12本のオペラを残した。45歳先輩のヴェルディ(1813-1901)の26曲、66歳先輩のロッシーニ(1792-1868)の39曲に比べてかなり少ないのは、時間をかけて台本を練り上げたから。ヴェルディは国家の存亡といった壮大な題材もオペラで扱ったが、プッチーニは「私に書ける音楽は小さなことをあつかったものばかりだ」と、スケールの小さな庶民の物語を主に書いていた。
イタリア・オペラの伝統(歌唱法)を重んじつつ、劇的な展開と緻密な描写、豊かなオーケストレーションに手腕を発揮したプッチーニ。なかでも、一度聴いたら忘れられない優美な旋律の数々はプッチーニの名を後世まで輝かせ、ヴェルディ以来最大のオペラ作曲家といわれるまでになった。

【墓巡礼】
2002年にイタリアを訪れ、プッチーニの墓に巡礼した。彼の墓は33年暮らしたトッレ・デル・ラーゴの自宅兼仕事場、今は子孫が運営するプッチーニ記念館(Villa Museo Puccini)の中にある。トッレ・デル・
ラーゴは斜塔で有名なピサから約15kmの距離。記念館はマッサチュッコリ湖の湖畔に建っていた。40分おきにある見学ツアーに入った者だけが、プライベート・チャペルの中にある墓に墓参できる。このチャペルは息子アントニオが父の書斎を改造して教会にしたとのこと。僕を入れて6人で回った。イギリス人の3人家族とスペイン人の中年夫婦。みんなマエストロの遺品に見入り、スペインの夫婦は墓前で十字を切っていた。印象に残ったのは外の風景。湖面はとても穏やかで、犬を連れた老夫婦が湖畔を散歩している。穏やかな時間が流れており、ここに小舟を浮かべると確かに良いメロディーが天から降ってきそうだ。旅行者の僕ですら離れがたい土地だった。
僕はピサからバスを使ったけど、記念館から約1.5km(徒歩20分)のヴィアレッジョ(Viareggio)に鉄道駅「Stazione di Torre del Lago Puccini」があるので、そこからバスを使った方が便
利っぽい。毎年夏になるとプッチーニ記念館前の湖畔で「プッチーニ音楽祭」(1930〜)が開催され、世界中からオペラファンが集まる。

※生誕地ルッカの旧市街にプッチーニの生家が残り、プッチーニ博物館となっている。また、ペスカーリア(Pescaglia)にプッチーニ記念館があり、キアートリのプッチーニの別荘(Villa Ginori-Lisci)は音楽学センターに
なっている。
※プッチーニの音楽はヴェルディに比べて分かりやすかったため、同時代の批評家は「お涙頂戴オペラをほめると馬鹿にされる」とでも思ったのか、一般大衆の人気に比べて、作品と距離を置いていた批評家が多い。
※プッチーニの“ご当地三部作”は、日本が舞台の『蝶々夫人』、アメリカが舞台の『西部の娘』、中国が舞台の『トゥーランドット』。
※蝶々さんのモデルは幕末のイギリス商人トーマス・グラバーの妻ツルと有力視されてきた。ツルは長崎の武士の出身で、蝶の紋付を着用し「蝶々さん」と呼ばれていた。
※『蝶々夫人』の小説原作者ロングは、オペラ化を喜んで「あの子が美しくかつ哀しい歌を歌って帰ってくる」と記した。
※蝶々さんは原作小説では自刃しない。現代の価値観から見れば植民地主義時代の偏見、人種差別的な要素も含む。とはいえ、米国人からすればピンカートンの背信は米国軍人を貶めているともとれる。
※『エドガール』のオリジナル・スコアは第二次世界大戦の戦災で失われたと思われていたが、プッチーニの孫娘シモネッタ・プッチーニが大切に保管していたことが分かり、近年は初演版が上演されることもある。
※“三部作”のうち『ジャンニ・スキッキ』以外は不人気であるため、上演ではマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』、レオンカヴァッロの『道化師』など、他の作曲家の1幕オペラとペアにされることが多い。
※プッチーニはシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』を傑作と呼ぶなど前衛音楽に理解があり、それをラヴェルは評価していた。
※20世紀最大のオペラ歌手マリア・カラスの現存映像はトスカ第2幕だけ。1958年パリ・オペラ座、1964年コベントガーデンの舞台。
※カルーゾーの後継者といわれたイタリアのテノール歌手ベニアミーノ・ジーリ(1890-1957)はボエームのロドルフォ役を得意とした。その歌声は、力強さとメランコリックな優美さをかねそなええいた。ベル・カント唱法の典型。
※器楽曲では弦楽四重奏『菊の花(Crisantemi)』が美しい。他に管弦楽曲『交響的前奏曲』『交響的奇想曲』がある。 https://www.youtube.com/watch?v=_VmdEViPk4s




★リヒャルト・シュトラウス/Richard Georg Strauss 1864.6.11-1949.9.8 (ドイツ、ガルミッシュ 85歳)2002
Richard Strauss Villa, Garmisch, Germany

リヒャルト・シュトラウスはその雄大な音楽にふさわしく、チロル地方に近いドイツ南部のアルプスに抱かれていた。

大きな荷物を背負って坂道を登るのは大変なので、
地元の旅行案内所で預かってもらった。(奥の黒い奴)
村ハズレにある教会墓地を目指す。さすがはアルプス、
空気が上手い。街中の巡礼と違って、どんなに歩いても
なかなか疲れなかった。青空と緑が目に沁みる墓参だ。
なんとも、のどかな墓地。小さな墓地とはいえ意外に
墓が多く、墓地内の略図を旅行案内所で描いてもらっ
ていなかったら、墓探しは困難を極めていただろう。
どの墓も個性豊かでかわいらしい、田舎の墓地。
あたたかい陽射しが優しく彼らを包み込む。
ハイジに出てきそうな噴水!とっても冷たかった! 墓地の向こうには山々の大パノラマが見える。
ついに憧れのR・シュトラウスに謁見!!

R・シュトラウスの背後にも雄大な山並みが。
ほんと、素晴らしい場所に彼は眠っていた!!

ドイツの作曲家・指揮者。後期ドイツ・ロマン派の最後の巨匠。精緻を極めた楽器法で色彩豊かな管弦楽曲の傑作を書き、声楽曲のジャンルでも優れた作品を残した。
1864年6月11日にバイエルン王国(南部ドイツ)のミュンヘンで生まれる。父フランツはホルンの名手で、シュトラウスは4歳からピアノを学び音楽の英才教育を受けた。6歳で作曲を開始。8歳で父が所属する王立バイエルン管弦楽団コンサート・マスターのベンノ・ヴァルター(父の従兄弟)からヴァイオリンを教えてもらう。その後、父が組織したアマチュア・オーケストラでヴァイオリンを弾いた。
両親の希望で音楽学校へは進まず、10歳から8年間ギムナジウム(中等学校)に学ぶ。また、10歳でワーグナーのオペラ『タンホイザー』『ローエングリン』を観て強い印象を受けた。
1875年(11歳)から5年間、宮廷楽長で指揮者のフリードリヒ・マイヤーから作曲(音楽理論、和声法)の個人レッスンを受ける。
1876年、12歳にして作品1となる『祝典行進曲 変ホ長調』を作曲。
※『祝典行進曲』ほんまに12歳で書いたんけ!?https://www.youtube.com/watch?v=f2S6mlZNZKc (7分)
1880年(16歳)、作曲活動の第1期(7年間)が始まり、学校に通いながら『交響曲第1番』を作曲。この時期は古典派・ロマン派の巨匠たちの影響下にあり、流麗さが特徴。
※『交響曲第1番』う、嘘だろ…16歳でこれを!?https://www.youtube.com/watch?v=xUk03QyTD04 (36分)
1882年(18歳)、ミュンヘン大学に進み、哲学や文化史・芸術史を学びショーペンハウアーに傾倒。同年、モーツァルトの『グラン・パルティータ』をリスペクトし、同じ編成で『13管楽器のためのセレナード』を作曲。大指揮者ハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)はこの作品を大いに気に入り「ブラームス以来の最大の個性」と太鼓判を押し、翌年ビューローが初演を指揮、続けてドイツ各地で本作を紹介した。このビューローの普及活動のおかげで若きシュトラウスの名が世に広まった。
※『13管楽器のためのセレナード』 https://www.youtube.com/watch?v=TH8oWPZsjj4(9分50秒)
同年、初めての協奏曲であると共に生涯唯一となった『ヴァイオリン協奏曲』を作曲。シューマンの情熱やメンデルスゾーンの洗練された上品さ、様々な先人の魂を受け継ぎ、批評家から「作曲者の名を隠して聴けば15人の名作曲家の名があがるだろう」と評された。ウィーンの高名な批評家ハンスクリック(ブラームス派)は「並々ならぬ才能がある」と驚いた。
※『ヴァイオリン協奏曲』18歳のみずみずしい旋律が続々https://www.youtube.com/watch?v=jm1rfwHDUc4(29分)

1883年(19歳)、音楽の勉強のためミュンヘン大学を去る。この年、『チェロとピアノのためのソナタ』を作曲。また、初めての歌曲となる『8つの歌曲』を作曲。「献呈」「何もなく」「夜」「ダリア」「待ち侘びて」「物言わぬ花」「サフラン」「万霊節」で構成され、「万霊節」はシュトラウスの歌曲で1、2を争う美しさだ。内容は先に旅立った愛する女性に捧げたもの。「今日、すべての墓の上に花は咲き、匂っている。一年のたった一度の日。今日は亡き人の魂の放たれる日。おお、私の胸に再び帰ってきて下さい。かつての五月の日のように」。この年、ワーグナー(1813-1883)が他界。
※『8つの歌曲』から「万霊節」 https://www.youtube.com/watch?v=FoW4uFSvUgE(3分28秒)
※カトリックの万霊節(ばんれいせつ)=死者の日は11月2日。この前日の11月1日は万聖節といいあらゆる聖人を記念する“諸聖人の祝日”。翌日の万霊節は、この世を去ったすべての信徒を記念する日。カトリックでは天国に行けず地獄にも墜ちなかった人が行く中間的な煉獄(れんごく)があるとされ、そこで罪を清めた者が天国に入る。その際、故人のために生きている人間が行う祈りとミサによって清めの期間が短くなると考えられており、死者の日は煉獄の死者のために祈る日と位置づけられている。

1884年(20歳)、ハンス・フォン・ビューローの依頼で『13管楽器のための組曲』を作曲。初演はシュトラウスにとって公式指揮者デビューとなった。同年、『交響曲第2番』が完成、同曲では大編成の楽器を巧みに使いこなし、クライマックスの輝かしさもあってシュトラウスはさらに評価をあげた。第2番を聴いたブラームス(当時51歳/1833-1897)いわく「まったく結構」。
※『交響曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=fO22oE7jZ4c (45分)
また、ゲーテの詩による6部合唱と大編成管弦楽のための曲『さすらい人の嵐の歌』を作曲。このスケール感、既にマエストロの貫禄。若きゲーテが失恋のショックでさすらい旅に出たときの詩に曲を付けた。
※『さすらい人の嵐の歌』 https://www.youtube.com/watch?v=Hwya517vozE (20分)
同年書かれた『ピアノ四重奏曲 ハ短調』は第3楽章アンダンテが枯れてて良い!
※『ピアノ四重奏曲』第3楽章(頭出し)https://www.youtube.com/watch?v=rqhZ65c4FZI#t=17m29s

1885年(21歳)、マイニンゲン宮廷楽団の副楽長として採用され、楽長ビューローのリハーサルを見て指揮を学ぶ。間もなくビューローが引退し、シュトラウスが首席指揮者となった。この仕事でブラームス、ベルリオーズ、ワーグナー、リストなどの新しい音楽を知る。
1886年(22歳)、指揮者を辞しブラームスの勧めで春から夏までイタリアを旅行。ベルリオーズやワーグナーの標題音楽の影響を受けて、自身にとって標題音楽の第1作となる交響的幻想曲『イタリアから』を作曲。第1楽章「カンパーニャにて」、第2楽章「ローマの遺跡にて」、第3楽章「ソレントの海岸にて」、第4楽章「ナポリ人の生活」の標題がつく。第1楽章にはシュトラウスが「消え失せた栄光の幻想的な面影、輝かしい現実の中での悲哀と苦悩」と言葉を寄せている。第2楽章はローマのカラカラ大浴場でスケッチされた。第3楽章はソレントの海岸ののどかな風景画。第4楽章では底抜けに陽気なナポリっ子を描き、前年ナポリに開通した登山列車のCMソングで大流行した「フニクリ・フニクラ」を使用。シュトラウスは古い民謡と勘違いして取り込んだため、演奏の度に作曲者に著作権料を支払う事態になった。初演は聴衆の賛否が分かれたが、一定の手応えを得て標題音楽の道を歩む決意を固める。
※『イタリアから』 https://www.youtube.com/watch?v=6lSLtac0txQ (43分)
この年、事実上のピアノ協奏曲である『ピアノとオーケストラのための“ブルレスケ”』を作曲。“ブルレスケ”はユーモラスで滑稽なものを指す言葉。ブラームスに影響を受けた楽曲。後半に高難度のカデンツァがあり、献呈したビューロから演奏を断られてしまう。ティンパニの見せ場が多いのも特色。同年、ミュンヘン宮廷管弦楽団の第3指揮者に就任。ミュンヘンには3年間滞在し、4歳年上のマーラー(1860-1911)と親交を結んだ。
※『ブルレスケ』アルゲリッチ演奏の名演
https://www.youtube.com/watch?v=4q_zSvns0QY (19分)

1887年(23歳)、陸軍将軍の娘でひとつ年上のソプラノ歌手パウリーネ・デ・アーナ(当時24歳/1863-1950)と出会い、シュトラウスと師弟の関係になった。この年、作曲活動の第1期が終わる。続く第2期(17年間)は名作が集中的に書かれた。管弦楽法は格段の進歩をとげ、標題音楽で注目すべき成果をあげた。この時期は、リストが確立した交響詩のジャンルを、ワーグナーが開拓したライトモティーフの手法を活用して高度に発展させ、近代オーケストラの表現力を大幅に拡大した。
1888年(24歳)、シュトラウスの出世作となった交響詩『ドン・ファン』が完成。詩人レーナウの劇詩に音を付けており、シュトラウス自身は“交響詩”ではなく“音詩”と呼んでいる。情熱的なスペイン人ドン・ファンは、理想の女性を追い求めて様々な相手と甘い時間を過ごすも、結局はいかに美を追求しても無駄なことを悟って失望し、失意のうちに死ぬ。冒頭、“悦楽の嵐”と呼ばれる主題から始まり、5人の女性を表す旋律が次々と登場、ドン・ファンは出会いと別れを重ねていく。演奏後、聴衆の半数は喝采し、残り半数は野次を浴びせたという。シュトラウス「多数の仲間から狂人扱いされていない芸術家など誰もいなかったことを十分に意識すれば、私は今や私が辿りたいと思う道を進みつつあると知って満足している」。
※『ドン・ファン』カラヤン&ベルリン・フィルの決定盤
https://www.youtube.com/watch?v=3uHe9zysNc4 (18分)
この年のクララ・シューマン(当時69歳/1819- 1896)の日記「ミュンヘンから来たリヒャルト・シュトラウスの交響曲が彼自身の指揮で演奏され、その巧みさと才能で人々を驚かせた。二十歳そこらの若い作曲家が、見事な技術の正確さで指揮し、当地(フランクフルト)ではどんな新作でも見たことがないほどの興奮のるつぼに聴衆を投げ込んだ」。

1889年(25歳)、20代前半に大病を体験し、それが交響詩の傑作『死と変容』を生む。冒頭、ティンパニが病人の弱った心臓の鼓動を表現。続いて病人は子ども時代や元気で幸福だった日々を回想するが、突然、発作のようなティンパニの一撃から生と死の凄絶なせめぎ合いが展開し、肉体を引き裂く。この戦いが最高潮に達したあとテンポは緩やかになり、短い最後の戦いを経て銅鑼(どら)の音が絶命を告げる。その後、天上の音楽のごとき変容のテーマが奏でられ、安らぎに包まれた病人は来世で浄化(変容)を遂げる。シュトラウスは他界前、危篤状態を一時的に脱した際に、この曲を懐かしく回想している。
※『死と変容』カラヤン指揮ベルリン・フィル https://www.youtube.com/watch?v=m8y5rXtirjA (25分)
同年からビューローの紹介でワイマールの宮廷指揮者を4年間務める。音楽助手としてバイロイト音楽祭に参加、コジマ・ワーグナーの信頼を得る。
1890年(26歳)、4年がかりで交響詩『マクベス』を完成、シュトラウスは「完全に新しい道を切り拓いた」と自負したが初演で好評を得られなかった。作曲に着手したのは『ドン・ファン』より先であるため、事実上最初の交響詩ともいえる。
1892年(28歳)、病気療養のため、ギリシア、エジプト、シチリアなど南国を巡る。
1893年(29歳)、最初のオペラ『グントラム』(全3幕)が完成。
1894年(30歳)、オペラ『グントラム』がワイマールで初演される。民衆を圧政から解放する中世の騎士グントラムの物語。題材が『タンホイザー』と似ており、敬愛するワーグナーのように自身で台本も書いた。だが初演は不評で、すっかり自信を失ったシュトラウスは6年間もオペラを書けなくなった(オペラ第2作の初演は8年後)。これにより活動の場は交響詩に戻る。後年、シュトラウスは終焉の地ガルミッシュの家の庭に楽譜を“埋葬”して「グントラムの墓」を作っており、よほど失敗が無念だったのだろう。
同年、バイロイト音楽祭で『タンホイザー』を指揮。エリーザベトを演じたのは生徒のパウリーネ。彼女は『グントラム』でもヒロインを演じていた。出会いから7年、2人は恋に落ち、パウリーネは歌手としてのキャリアを捨てて結婚する。
『グントラム』の失敗で悲しみに沈むなか、『4つの歌曲』を作曲。第1曲の「憩え、わが魂」は実に痛切な詩だ。「風は完全にやみ、森は静かに眠っている。木の葉の影から光がそっと射す。憩え、わが魂よ。お前の嵐は激しく、お前は砕ける波しぶきとなった。この世はつらく、厳しく、心も頭も痛む。憩え、わが魂よ。そしてお前を脅かすものを忘れよ」。第4曲「明日こそは!」は静かに希望をうたうピアノの旋律が美しい。「明日こそは太陽が輝き、2人を一つに結ぶだろう。岸辺で言葉もなく目を見交わすとき、幸福のひそやかな沈黙がおりてくるのだ」。同年、恩人のハンス・フォン・ビューローが他界。再びミュンヘンの宮廷指揮者に就任。
※『4つの歌曲』 https://www.youtube.com/watch?v=ma7h9tsTL1Q (13分45秒)

1895年(31歳)、ドイツの子どもたちなら誰もが知っている中世(14世紀)ドイツの伝説の奇人の物語を音楽化した交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』を作曲。副題に「ロンド(輪舞/主題の繰り返し)形式による昔の無頼の物語」とあることから、当時のアンチ・シュトラウス派から「それみろ、古典的な形式に転向したではないか」と嘲笑されたが、主題は登場するたびに巧みに変奏されている。一般的な標題音楽は新たな旋律を次々と登場させて物語を進めており、ロンドの採用は革新的だった。
冒頭、「むかしむかし…」と序奏があり、ホルンによるティルのテーマが登場、その後は様々ないたずらの旅が描き出される。市場で牛馬を解き放って人々をパニックにさせ、僧侶に変装してインチキお説教で人々を翻弄し、あくび(独奏ヴァイオリン)をした後に、今度は騎士に変装して美女を口説くも振られて逆上。次に学者に論争をふっかけて論破され、めげずに小唄を歌う。その後も好き放題にいたずらを繰り返すティルだったが、小太鼓が鳴り響き逮捕される。裁判が始まり、最初は余裕ぶって嘲笑していたが、やがて死刑の判決が下り、絞首台で最期を迎える。最後にティルの笑い声が響き、死んでも愉快ないたずらは不滅と示す。
※『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』カラヤン&ベルリン・フィルhttps://www.youtube.com/watch?v=99qWgSItaNQ (15分)
同年、『3つの歌曲』を作曲。「黄昏の夢」「ときめく心」「夜の散歩」で構成。第1曲の「黄昏の夢」は霊感に満ちた名歌。詩は「黄昏の灰色の広い野原。陽は沈み星が空を進む。さあ愛しい人の下へ行こう、ジャスミンの茂みの奥へ」。第3曲「夜の散歩」はワーグナー『トリスタンとイゾルデ』のような愛の陶酔をたたえる。「私たちは静かで甘い夜をさまよっていた。腕を組み見つめ合いながら。月光がお前の顔と美しい髪を照らす。お前は優しく偉大で霊感に満ちた聖者のように見えた。太陽のように神聖で清純だった。私の目には暖かい感動が満ち、お前を抱き、そっと口づけした。私の魂は泣いた」。
※『3つの歌曲』から「黄昏の夢」「夜の散歩」 https://www.youtube.com/watch?v=JfqaaJxxdLo

1896年(32歳)、ニーチェ(当時52歳/1844-1900)が約10年前に発表した哲学書にもとづいた交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』を作曲、哲学を音楽化したことに世界が驚いた。ただでさえ難解な哲学を音楽にしようとした作曲家はそれまでいなかった。ニーチェはキリスト教を否定し「神は死んだ、これからは神に頼らず自ら生きる意味を見出し、今を生きよ」と強く説いている。シュトラウスは、ニーチェの思想から得た印象「“自然”と“人間”の永遠の対立」を、自身の持つ作曲技法を駆使して表現した。“自然”を表す旋律はハ長調、“人間”はロ長調で描いており、この2つの調が同時になると、とてつもなく汚く濁った不協和音になる。
彼は交響詩の名手と見られていたが、初演は賛否が分かれ、作家ロマン・ロランや指揮者ニキシュは賛意を示し、評論家ハンスリックや作曲家フーゴー・ヴォルフは否定した。哲学的な標題にそった内容は、その斬新さゆえに形式主義者から非難をあびた。

シュトラウスは『ツァラトゥストラはかく語りき』から9つの章を抜き出して音楽にした。本作は切れ目なしに演奏される。
(1)導入部/日の出…有名な“自然の動機”(ド・ソ・ドの音程)が演奏される。悟りを得たツァラトゥストラが10年間修行していた洞穴(ほらあな)から出て、全身に朝日を浴びた瞬間を描いている。この光はラシドレミファソラシドと音階をただ上がっていくだけのシンプルなものなのに、まばゆいばかりの輝きを放ち、シュトラウスの天才ぶりを伝える。
(2)世界の背後を説く者について(あの世の人について)…低弦で“憧憬の動機”が提示され、ホルンによりキリスト教徒が暗示された後、弦楽を中心に陶酔的なコラールが奏される。
(3)大いなる憧れについて… 求めても得られない憧れ。
(4)喜びと情熱について…2つの新しい動機が活発に展開された後、トロンボーンが“懈怠の動機” を提示し、音楽は静まっていく。
(5)墓場の歌…「おおなぜ人はこうも早く死に至るのか」。弦楽パートの各首席奏者がソロで歌い繋ぐ。
(6)科学(学問)について…科学を信じて自然を制御すようとする人間達を、ツァラトゥストラは笑い飛ばして否定する。次第に盛り上がり“舞踏の動機”が提示される。
(7)病より癒え行く者…倒れていたツァラトゥストラが回復していく。科学が世にはびこる姿が描かれた後、総奏の“自然の動機”でねじ伏せ、科学を蹴散らす。
(8)舞踏の歌…ワルツを基調にここまでの全曲を再現。自然の動機、コラール、舞踏の動機、「喜びと情熱について」の諸動機、これらが複雑に交錯しながら壮麗なクライマックスを築く。
(9)夢遊病者の歌…真夜中を告げる鐘が鳴り響く。ツァラトゥストラは闇夜を歩き、「自分の人生の中に喜びを見出せ、何度でも同じ人生を生きたいと思え」と人々に歌う。高音の「人間」と低音の「自然」が交互に奏でられ、交ることなく“自然”が最後に呟く。
※『ツァラトゥストラはかく語りき』カラヤン&ベルリン・フィルhttps://www.youtube.com/watch?v=6SFAAsdqkuQ (36分)
同年、ブルックナー(1824-1896)が他界。

1897年(33歳)、文豪セルバンテスの小説に着想を得た交響詩『ドン・キホーテ』を作曲。副題は「大管弦楽のための騎士的な性格の主題による幻想的変奏曲」で、ドン・キホーテ役の独奏チェロ、従者サンチョ・パンサ役の独奏ヴィオラが大活躍する音楽の絵巻物。
序奏…ドン・キホーテが騎士道の本を読み耽るうちに妄想が加速、自分が騎士と思い込む。
主題…ドン・キホーテが従者サンチョ・パンサを引き連れて冒険に出発。チェロ=ドン・キホーテ、ヴィオラ=サンチョ・パンサ。
第1変奏…風車の冒険。ドン・キホーテが風車を巨人と思い込んで突撃、風で羽の回転が速くなり地面に叩き付けられる。
第2変奏…戦争の冒険。ドン・キホーテは羊の群れを敵の大軍と勘違いして蹴散らし、大勝利を収める。
第3変奏…サンチョとの対話。冒険が嫌になったサンチョが質問、要求、格言を言い、ドン・キホーテは教訓、感謝、約束で答える。
第4変奏…巡礼行列との冒険。ドン・キホーテは巡礼者が掲げるマリア像を誘拐された貴婦人と思い込み、救助しようとして群衆に叩き付けられ失神。
第5変奏…ドン・キホーテは架空の恋人ドルシネア姫へに想いをつのらせる。
第6変奏…ドン・キホーテは通りかかった不器量な農民の娘をドルシネア姫と信じ込み、娘は気味悪がって逃げてしまう。
第7変奏…魔法の馬の冒険。女たちにからかわれ、だまされて目隠しをしたドン・キホーテとサンチョは、乗せられた木馬を魔法の馬だと信じて巨人退治に夢中になる。演奏にウィンドマシーンを使用。
第8変奏…小舟の冒険。水車小屋を城塞と勘違いし、小舟で囚われの王子を救出に向かうも、水車に巻き込まれて転覆、ずぶ濡れで岸に戻る。滴る水をピッツィカートで表現。
第9変奏…悪魔退治の冒険。ドン・キホーテは2人の修行僧(2本のファゴット)を悪魔と勘違いして襲いかかり、これを退治する。
第10変奏…騎士との決闘。ドン・キホーテを現実に戻すために、友人カルラスコが騎士に扮して決闘を挑む。ドン・キホーテは敗北し帰路につく。喜ぶサンチョ。
終曲…死の床のドン・キホーテは家族に看病されながら自分の生涯を回想する。チェロのグリッサンド(音を滑らす方法)が死が告げる。
※『ドン・キホーテ』チェロはロストロポーヴィチ、指揮カラヤン、貴重なライブ映像! https://www.youtube.com/watch?v=_6P1WHXKAlk (44分)
同年、ひとり息子のフランツ(1897-1980)が生まれ、巨匠ブラームスが他界。

1898年(34歳)、歴史上、絵筆による自画像、ペンによる自叙伝は存在したが、音楽による自伝はなかった。シュトラウスは交響詩『英雄の生涯』を作曲し、音楽で自分の生涯を描いた最初の音楽家となった。本作は初演の度に批評家からこき下ろされてきた7曲の「交響詩」のうち最後の作品であり総決算。「英雄」はシュトラウス自身で、ベートーヴェン「英雄交響曲」と同じ変ホ長調で書かれている。切れ目のない単一楽章で演奏され、個々の描写が1人の英雄の血肉であり、大きな塊となって聴く者の前に立ち現れる。105名から成る4管編成のオーケストラが必要。
1.英雄…最初に英雄の情熱・行動力を表すテーマが提示される。
2.英雄の敵…木管群が評論家や無理解な聴衆からの嘲笑・非難を表す。英雄は一時落胆するがやがて再起する。
3.英雄の伴侶…独奏ヴァイオリンが伴侶のテーマを提示。英雄は次第に彼女に心惹かれ、壮大な愛の情景が描かれる。敵が英雄を嘲笑しても愛を得た英雄は動じない。
4.英雄の戦場…またもや敵が苛烈に英雄を非難するが、英雄は敢然と立ち向かい、伴侶もこれを支える。戦いの最高潮で英雄の一撃があり、敵は総崩れになる。
5.英雄の業績…シュトラウスの過去6つの交響詩「ドン・ファン」「ツァラトゥストラ」「死と変容」「ティル・オイレンシュピーゲル」「マクベス」「ドン・キホーテ」などが次々と回想される。
6.英雄の引退と満ち足りた余生…牧童の笛と田園の情景。「ドン・キホーテ」終曲のテーマが引用され、年老いた英雄は穏やかな日々を送り、伴侶に看取られながら世を去る。(って、シュトラウスはまだ34歳やで〜!)
※『英雄の生涯』 https://www.youtube.com/watch?v=XGCt-yrkPLo (45分)
同年、ベルリンの宮廷指揮者に就任。また、3角関係の朗読メロドラマ『イノック・アーデン』を書きあげる。
ベルリンからミュンヘンの妻に宛てた手紙「愛する可愛いパウリーネ!僕は君をとても愛しているし、君が可能な限り幸福でいるのを見たい。君と、僕たちの素晴らしい坊や(1歳)に会うのを楽しみにしています。何千もの挨拶と限りなく優しいキスを君と“可愛いフランツ坊や”に。君のリヒャルトより」。この後、一家はベルリンで暮らす。
1899年(35歳)、『5つの歌曲』を作曲。第1曲の「子守歌」が素晴らしい。詩は「夢をごらんよ、夢をごらんよ、おまえは私の優しい生命。空からお花を持ってきて。おまえの母さんの歌。優しく揺れている。夢をごらんよ、夢をごらんよ、花咲く私のいとしい子よ。静かで清らかな夜は、この世を天国に創りかえてくれるのよ」。
※『子守歌』名ソプラノ、ルチア・ポップの歌
https://www.youtube.com/watch?v=EU_eHydcG88 (4分25秒)

1900年(36歳)、『英雄の生涯』を指揮するためパリに滞在中、後に盟友となるオーストリアの詩人・劇作家ホーフマンスタール(当時26歳/1874-1929)と出会う。10歳年下のホーフマンスタールはシュトラウスと仕事をしたがっていた。
1901年(37歳)、オペラ第2作『火の災難』がドレスデンで初演されるがミュンヘン方言のオペラでヒットに至らず。
1903年(39歳)、1日の家庭生活を日記風に書いた標題交響曲『家庭交響曲』を作曲。この曲も発表時に賛否が分かれ、肯定派は「上品で、巨人的で、魅力に富む」、否定派「これは芸術作品ではない」と評した。内容は4部に分かれる。
第1部…最初に夫の主題がチェロで提示され、続いて、感情的な妻の主題、子ども、叔母と叔父が登場する。
第2部…子どもが存分に遊びまくり、両親は笑ったり、いたずらを叱ったり。子どもは遊び疲れて寝室に連れて行かれ、母親の子守歌に包まれて眠る。時計が夜7時を知らせる。
第3部…仕事と瞑想の時間。子どもが寝る中、仕事をする夫、妻の気づかいの様子が描写される。
第4部…朝7時になり子どもが起床。教育方針を巡って両親が楽しい夫婦喧嘩を始め、子どもは泣く。落ち着くと夫婦の歌が始まり、賑やかな家庭生活が描かれて幕を閉じる。この第4部はトランペットやホルンの金管楽器に5度以上の跳躍フレーズが多用され、ハイC連発、ハイF連発、1オクターブ半の急下降など技術的に困難な箇所が多い。

1904年(40歳)、作曲活動の第2期が終わり、本格的なオペラの時代となる第3期(45年間!)が始まる。20世紀オペラの最も重要な作品が生み出されていく。同年、ドボルザーク(1841-1904)が他界。
1905年(41歳)、ドレスデン宮廷歌劇場にてオスカー・ワイルドの戯曲(独語訳)に基づいたオペラ『サロメ』(全一幕)が初演されセンセーションを巻き起こす。サロメは『新約聖書・マルコ伝』の挿話に登場する王女。聖書では「ヘロディア(ヘロディアス)の娘」と記されている。シュトラウスがこれまでに交響詩で培った極彩色の管弦楽法によって、濃厚でエロティックな官能的表現が繰り広げられる。キリストに洗礼を行ったヨハネ(ヨカナーン)が生首に接吻されるという衝撃的な内容から、教会側から強い批判が出て、反社会的作品としてウィーンでは上演禁止になり、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場では終演後に劇場全体が激しい怒号に包まれわずか1回で公演中止になるなど、各地で上演禁止が相次いだ。だが、マーラーをはじめ同時代の作曲家はその前衛的な内容に深く共感を示し、徐々に社会に受け入れられていった。そもそも初演時にシュトラウスは38回以上のカーテンコールを受けており、反発はあっても大成功は約束されていた。
サロメ役はほとんど舞台上に出ずっぱりなうえ、少女の初々しさと狂気じみた淫乱さ、可憐なか細い声と鉄の意志という相反する演技表現、第4場「サロメの踊り(7つのヴェールの踊り)」で長いソロダンスを踊る身体能力が求められ、ドイツオペラきっての難役と言われる。シュトラウスは本作でワーグナーの後継者として認められた。

『サロメ』…舞台は紀元30年ごろ、ガリラヤ湖に面したシリアのヘロデ王(ヘローデス)の宮殿。夏の月夜。ヘロデは自分の兄を殺害して王になり、その妻ヘローディアスを妃にしている。連れ子のサロメは絶世の美女であり、ヘロデは彼女に情欲を抱く。サロメは義父の視線が不快で宮殿のテラスに逃れ、そこで地下牢(古井戸)から聞こえる予言者ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)の声に心を奪われる。ヨカナーンは救世主の到来を告げていた。ひと目会いたくなったサロメは、自分に好意を寄せる衛兵隊長ナラボートに頼みヨカナーンを牢から引き出させる。威厳のあるヨカナーンに心惹かれるサロメだが、ヨカナーンは媚を売るサロメを見ようともしない。拒絶されたサロメはますますヨカナーンが好きになり「おまえの口に接吻したい」と無理やり迫り、ナボラートはショックを受けて自刃する。ヨカナーンは「不倫の母の娘よ、呪いあれ」と吐き捨て自ら牢に戻った。
サロメを探してヘロデ王が現れると、牢から王の不倫を責めるヨカナーンの声が響く。動揺した王はサロメに「なんでも欲しいものをやるから」と、7枚のヴェールを1枚ずつはがす踊りをさせた。サロメは褒美に「銀の盆にのったヨカナーンの首を」と願う。ヘロデは「預言者の首は斬れない、他の望みに代えてくれ」と断り、「宝石ではどうか」「領土の半分ではどうか」と提案するがサロメは譲らない。望み通りヨカナーンは斬首され、サロメは盆にのった頭部を前に「お前は私に接吻させてはくれなかった、今こそおまえの首に接吻を」と接吻する。ヘロデは「その女は化け物だ、殺せ」と兵士たちに命じ、サロメは楯に押しつぶされて死ぬ。
※『サロメ』テレサ・ストラーダス、指揮ベームの映像版https://www.youtube.com/watch?v=ildwhas43sY (100分)
※『サロメ』ソプラノがベーレンス、カラヤン&ウィーン・フィルの名盤https://www.youtube.com/watch?v=fhgCPmmTLy0 (105分)

1906年(42歳)、この年シュトラウスがイタリアから出したベルリンの妻宛の手紙「ここ(トリノ)から眺める雪のアルプス連峰は素晴らしい眺めだ。半月の休暇をとって一緒に君の行きたい山へ行こう。僕は本当に君を喜ばせたいんだ。君にはチョコレートを密輸で持って帰るよ」。
1907年(43歳)、この年マーラー(当時47歳)がシュトラウスについて複数の手紙を妻アルマに送っている。
「今日は少し暇があるので、何とかしてシュトラウスに会い、『サロメ』の切符をせしめてやろうと思っている」
「昨日の午後シュトラウス夫妻を訪ねた。夫人のパウリーネは私を出迎えると、「シーッ、リヒャルトは寝てるのよ」と自室に私を引っ張り込み、ありとあらゆるつまらぬ話を豪雨のように浴びせかけ、私に質問の矢を放つのだが、私に口を出す暇を与えないのだ。それから疲れて寝ているシュトラウスの部屋へ、私を両手で掴んで有無を言わせず引っ張って行き、金切り声で「起きてちょうだい、グスタフが来たのよ!」。シュトラウスは受難者めいた顔つきで苦笑しながら起きると、今度は3人で先程の話の蒸し返し。それからお茶を飲み、パウリーネに土曜日の昼食を一緒にすることを約束させられて、2人に宿泊先のホテルまで送ってもらった」
「『サロメ』はまさしく天才の手によるものと言うべく、強烈無比、現代における最高に優れた作品の一つであることに間違いない。いわば瓦礫の山の下に火の神が地獄の業火を燃やしているのだ。決してそれはありふれた花火などではない!」
「『サロメ』について私の感銘は一段と深まり、今やこの作品こそ現代の最高傑作の一つであると確信するに至った。天才の魂を貫いて語りかける地の精の声が聞こえてくるような気がする」
パウリーネは気性の激しさで知られ、シュトラウスは恐妻家に位置づけられてはいるが、彼は「彼女あっての私だ」と語り、最後まで夫人だけを愛した。美しい歌曲は妻の声を念頭に置いて作曲された。悪妻とされる夫人コンスタンツェにベタ惚れだったモーツァルトとオーバーラップするが、どちらも本人は幸福であり、他人がとやかくいう問題ではないだろう。
1908年(44歳)、ベルリン宮廷歌劇場の音楽総監督に就任。同年、『サロメ』で得た大金で南部ガルミッシュ=パルテンキルヒェンに避暑地として大きな山荘(別荘)を建て、オペラ『エレクトラ』の作曲に取り組む。多くの作品が当地で生まれた。

1909年(45歳)、ソフォクレスのギリシア悲劇から着想を得て、ホーフマンスタールが台本を書いたオペラ『エレクトラ』が初演される。これはシュトラウスがホーフマンスタールの舞台演劇版『エレクトラ』を観てオペラ向きと判断、戯曲に曲をつけた。以後、ホフマンスタールはシュトラウスのために、さらに8つのオペラ台本を書く。本作は『サロメ』に輪を掛けた血と狂気の世界となった。クラリネット8人、トランペット7人など116名もの演奏者が必要であり、初演時はワーグナーの『ニーベルングの指環』の108人を抜いて最大級の楽団編成だった。楽曲はより前衛的になり無調音楽に近づき、各所で不協和音を使った音楽は高い心理効果があったが、評判はいつものように賛否が分かれた。
『エレクトラ』…舞台は古代ギリシャのミケーネ城。王女エレクトラの父アガメムノンは、トロイア戦争のギリシア軍の総指揮官を務めたミュケナイ王。父の遠征中に母クリテムネストラはエギスト(アイギストス)と不倫し、母と情夫は凱旋帰国した父を浴室で暗殺した。弟オレストが事故死したため、妹クリソテミスと姉妹で仇を討つつもりでいると、死を偽装していた弟が宮殿に潜入し母の断末魔が響く。続けて何も知らないエギストが宮殿に入るとエギストの悲鳴が響いた。エレクトラは復讐が成就されたことを知り、「お父さん、聞こえますか!」と狂喜乱舞して倒れ動かなくなる。姉を抱きかかえオレストを呼ぶ妹の声が響き幕となる。
※『エレクトラ』英語字幕あり https://www.youtube.com/watch?v=Ix41ZgeuTs4(108分)

1911年(47歳)1月26日、シュトラウスの代表作となり、空前のヒットとなったオペラ第5作、喜歌劇『ばらの騎士』(全3幕)がドレスデンで初演される。シュトラウスはモーツァルトをこよなく愛しており、『エレクトラ』の完成後、「次はモーツァルトのオペラを書きたい」と、モーツァルト時代のオペラ・ブッファ(喜劇)に似た台本をホーフマンスタールに依頼、シュトラウスのために新作がゼロから書きあげられた(『ららら♪クラシック』ではホーフマンスタールの方から「次作は喜劇に」と手紙を書いたとあった)。当時のオペラ界では、リアリズム路線をうたい残酷な暴力描写が登場する、マスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』(1890年初演)、レオンカヴァッロ『道化師』(同1892年)、プッチーニ『トスカ』(同1900年)、ヤナーチェク『イェヌーファ』(同1904年)などが一時代を築き、シュトラウス自身も生首が出てくる『サロメ』、親殺しの『エレクトラ』といった陰惨なオペラを書いていた。観客は新たな路線のオペラを待望しており、シュトラウスはこれまでと打って変わった、ウィンナ・ワルツにのって恋愛喜劇が繰り広げられる華麗なオペラ『ばらの騎士』を作曲。モーツァルトのような軽妙な会話劇と、ワーグナーのごとく重厚な響きが合体した新たな芸術が誕生した。シュトラウスとホーフマンスタールは登場人物の心の動きを表現することを最重視した。
従来の前衛的な作風を支持していた批評家からは「時代遅れ」「大衆趣味」と批判されたが、聴衆は大喝采を送り、初演はかつてない大成功を収めた。ウィーンからドレスデンまで「ばらの騎士の観劇客用・特別列車」が運行され、ドレスデンでは50回も再演、ベルリン、プラハ、バイエルン、ミラノの歌劇場でも立て続けに上演された。
シュトラウスはイタリア・オペラを嫌っていたため、『ばらの騎士』は3時間を超える作品にもかかわらずソロのアリアが一切なく、どれもが重唱曲となっている。イタリア・オペラでは花形のテノールも、第1幕に軽い役柄で登場するのみ。3年後に第一次世界大戦が勃発し、“古き良き時代”の終焉が迫るなか、若さのうつろいをはかなむ元帥夫人は消えゆく時代の象徴であり、人々に世の変化を予感させるオペラとなった。シュトラウスは以降も喜劇を多く書いており、ワーグナー、ヴェルディ、プッチーニといったオペラの名手が悲劇を好んでいたのと対照的だ。シュトラウスは本作で恋の終わりをいかに美しく描くかに心血を注いだという。

『ばらの騎士(ローゼン・カヴァリエ)』…舞台はマリア・テレジア治下1740年代のウィーン。三十路の元帥夫人マルシャリンは結婚生活の虚しさを17歳の青年貴族、美少年オクタヴィアン伯爵を寵愛することで紛らせている。ところが逢い引き中に夫人の従兄オックス男爵がやって来る。オクタヴィアンが慌てて物陰に隠れて侍女に変装すると、好色なオックスはオクタヴィアンを口説きにかかり彼を閉口させる。オックスの来訪目的は、彼が近々新興貴族の娘ゾフィーと結婚するため、婚約の証である「銀のばら」を届けさせる騎士を探していた。元帥夫人はオクタヴィアンを推薦。後日、オクタヴィアンが香油をたらした銀のばらをゾフィーに届けると、若い2人はたちまち恋に落ちた。そこへオックスが登場、その無作法な振る舞いにゾフィーは目の前が真っ暗に。オックスは若者2人の関係を怪しみ、オクタヴィアンに決闘を挑むが返り討ちに遭い、ただのかすり傷で大騒ぎ。その後、女装オクタヴィアンの手紙に騙され郊外の料理屋に誘い出されたオックスは、浮気心がバレて居合わせたソフィーは結婚破棄を宣言。元帥夫人はそんなオクタヴィアンとソフィーを見て、「オクタヴィアンとの別れの時が来た」と瞬時に理解し、「彼が彼女(ゾフィー)を愛しても、その彼をも愛そう」と、あえて身を引くことを決める。元帥夫人、オクタヴィアン、ゾフィーが各々の胸の内を美しく歌いあげる三重唱を経て、元帥夫人は舞台を去り、若い二人は愛に酔って二重唱を歌い幕となる。オペラ史上最後の夢芝居。
※オクタヴィアン役はメゾソプラノ歌手が男装して演じる。
※『ばらの騎士』シュヴァルツコップ、カラヤンの名演(映像付)https://www.youtube.com/watch?v=HAw4iDDWby8 (192分)
※組曲『ばらの騎士』プレヴィン&ウィーン・フィル、魅力的な旋律に溢れている https://www.youtube.com/watch?v=iP1j1Q8umUI (21分)
『ばらの騎士』は長時間かつ大規模作品ゆえに“楽劇”と書かれることもあるがシュトラウス本人は“楽劇”と呼んでいない。同年、ガルミッシュの山荘で『アルプス交響曲』のスケッチを開始。

1912年(48歳)、オペラ『ナクソス島のアリアドネ』完成(初演は4年後)。この作品は元々はモリエール作『町人貴族(にわか貴族)』の劇中劇であったが、通常の劇にオペラをまるまる一本ブチ込んだことで上演が長時間になり、観客はヘトヘト、初演は大不評となった。その後、劇中劇『ナクソス島のアリアドネ』を改訂し独立したオペラとして発表。劇中劇という性格から管弦楽は36人というシュトラウス作品では異例の小編成だ。
『ナクソス島のアリアドネ』…舞台は18世紀ウィーンのロココ風の邸宅。晩餐会の後、邸内の小劇場でオペラと舞踏喜劇のどっちが今宵のメインか関係者が言い争っていると、主人の命令でオペラと喜劇が同時進行で上演されることになった。かくして劇中劇のオペラ「ナクソス島のアリアドネ」が始まる。−−ギリシャのナクソス島でクレタ王ミノスの娘アリアドネが嘆き悲しみ、死を望んでいる。彼女はミノタウロス退治の恋人テセウスから島に置き去りにされたのだ。そこに喜劇役者達が現れ(ここは実にシュール)、彼女を元気づけようと陽気な歌で励ますが効果なし。3人のニンフが船の到着を告げ、若く輝かしいバッカスが登場すると、アリアドネは死の国の使者が来たと勘違い、死の国へ行きたくてバッカスの胸に飛び込む。バッカス愛の神であり、そのキスで苦悩は消滅、愛の恍惚に包まれる。ニンフの三重唱がどれも美しい。
※『ナクソス島のアリアドネ』のアリアドネ登場シーン以降(頭出し)https://www.youtube.com/watch?v=VugbX5UgrLY#t=42m17s
1913年(49歳)、ウィーンのコンツェルトハウス落成式のために『祝典前奏曲』を作曲。5管編成140人の楽団員を要する超大規模編成の作品。
※『祝典前奏曲』冒頭のオルガンは掴みOK https://www.youtube.com/watch?v=XNZ_2B5Fv08 (11分)
1914年(50歳)、第一次世界大戦が始まり、熱病に浮かれる戦争ヒステリーが国内に蔓延したが、冷静なシュトラウスは「戦争支持を訴えるドイツの芸術家宣言」に署名しなかった。
1915年(51歳)、『家庭交響曲』以来、12年ぶりの管弦楽曲となる『アルプス交響曲』が完成。14歳ごろにドイツ最高峰ツークシュピッツェに向けて登山をした体験が、ベートーヴェン「田園交響曲」をベースに音楽となった。ガルミッシュの山荘から山を眺めながら曲想が練られた。
以下の順番でアルプスの光景が描写される。
夜…弦楽器が白んでくる東の空を描く。
日の出…トランペットが輝かしい日の出を描写。
登り道…主人公の主題。角笛を聴きながら元気に登って行く。
森に入る…深い森にトロンボーンとホルンが響く。
渓流に沿って…小川のせせらぎの音が聞こえる。
滝…滝壺のはじける水泡をハープやチェレスタが表現。
幻影…水の中にオーボエの旋律による幻影が見える。
花咲く草原…登山道から花畑が見える。
山の牧場…ヨーデル、牛たちのカウベル、アルプホルン。
林で道に迷う…山登りの動機と岩壁の動機。
氷河…トランペットの高音が氷河に跳ね返る。
危険な瞬間…ヒヤリ!足を滑らし小石が転がる。
頂上にて…トロンボーンが頂上から登頂の号砲!晴れ晴れとした景色、山の動機と太陽の動機が一体となる。
空想…登頂した登山者の空想。
霧が立ちのぼる…弦やファゴットが不安げな旋律を奏でる。
しだいに日がかげる…太陽の動機が短調で登場し霧の中へ。
哀歌…静かなオルガン、登山者の悲しげな歌。
嵐の前の静けさ…遠雷、ぽつぽつと降り出した雨、風も吹き出す。
雷雨と嵐、下山…雷雨の中の下山。強烈な稲妻が光る。
日没…太陽の動機、日没。
終曲…1日の出来事が回想され、あたりは暗くなってくる。
夜…冒頭の夜の動機が現れ、山の動機とともに静かに終わる。
※『アルプス交響曲』カラヤン&ベルリン・フィル https://www.youtube.com/watch?v=Tzr2Fw_0nY8 (50分)チャプターが細かくて助かる!
同年、シュトラウスの尽力もあってドイツ音楽著作権協会が創設される。

1918年(54歳)、第一次世界大戦が終結。シュトラウス家はウィーンに転居。同年、ストラヴィンスキー(1882-1971)がジャズの要素を取り入れた舞台作品『兵士の物語』を、バルトーク(1881-1945)が民族主義オペラ『青ひげ公の城』を発表。
1919年(55歳)、オーストリアの名門ウィーン国立歌劇場の指揮者・芸術監督を5年間務める。同年、大規模で難解なメルヘンオペラ『影のない女』初演。
『影のない女』…舞台は架空の時代、東洋のとある島。霊界の王カイコバトの娘は白いカモシカに変身しているときに人間の皇帝に捕らえられ、その正体が美女と知った皇帝は皇后に迎えた。だが、霊界の女である皇后には影がなく、結婚した男は1年以内に子どもが出来ない場合は石になるという掟がある。その日は3日後に迫っていた。皇后や事情を知る乳母は、人間の染め物師バラクの妻に影を売って欲しいと願い、代償として3日間女中として仕える。皇后はバラクと彼の妻の愛を見て、「他人を犠牲にできない」と、影を奪うことをやめた。その精神の尊さが奇跡を起こし、皇帝は石にならず、皇后も影を得て人間になりハッピーエンドとなる。第2幕第2場冒頭のチェロや最後の4重唱が美しい。
※『影のない女』英語字幕付き https://www.youtube.com/watch?v=-p6jiSLMavk
※『影のない女』の四重唱 https://www.youtube.com/watch?v=-p6jiSLMavk#t=192m34s
1922年(58歳)、発起人となったザルツブルク音楽祭で指揮。
1924年(60歳)、ドレスデンにて市民的喜劇『インテルメッツォ』(全2幕)初演。シュトラウス「この作品は流行の恋と人殺しの台本から背を向け、満ちたりた人間生活へ視線が向かっている。私以後の作曲家が、もっと多くの才能と幸福に恵まれて、この道を進んでいけるように願う」。同年、ウィーン国立歌劇場の芸術監督を引退。以後は世界各国で客演指揮者として活躍する。息子フランツがユダヤ人実業家の娘アリスと結婚。
※『インテルメッツォ』…クリスティーネの夫ローベルトは指揮者。夫は多忙でいつも話を聞いてくれず、今日も旅支度をしてベルリンからウィーン公演に出発した。雪が積もり、クリスティーネはそり遊びで若いルメル男爵にぶつかり、これがきっかけで仲良くなる。とはいえ、男爵が恋心を抱くと、彼女はやんわりたしなめた。そこへ夫宛に見知らぬ女性の手紙が届き、クリスティーネは愛人がいると思ってカンカン。彼女は離婚を告げる電報をウィーンに送る。夫が慌てて帰宅し、手紙はただの宛先違いと分かる。クリスティーネは何となく怒りが収まらないでいると、ルメル男爵が立ち寄った。今度は夫が関係を疑い、彼女は気まずくなって夫に謝罪する。お互いに誤解が解けて、めでたしめでたし。
※『インテルメッツォ』ネットにはこの古い映像しかない。音もよくない。https://www.youtube.com/watch?v=MSenGiFLYJs
1926年(62歳)、無声映画時代の始まりと共に多くのオペラ映画が作られるようになり、サイレント映画『ばらの騎士』のために編曲を行った。映画用の自作自演の音盤が残る。また、モーツァルトのジュピター交響曲を自身の指揮で録音した。シュトラウス「ジュピター交響曲は私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。終曲のフーガを聞いたとき、私は天国にいる思いがした」。
1929年(65歳)、『エレクトラ』以来、シュトラウスと20年の長い協力関係にあった劇作家ホーフマンスタールが55歳で他界する。彼は卒中の発作で息を引き取る5日前に新作オペラ『アラベッラ』の台本を書きあげていた。シュトラウスはすぐ作曲にとりかかる。
1931年(67歳)、シュトラウスはホーフマンスタールにかわる新しい台本作家を探し、平和主義者で作家のシュテファン・ツヴァイク(1881-1942)と知り合い、作品を依頼する。ツヴァイクは2年後に『無口な女』を書きあげた。

1933年(69歳)、1月ヒトラー内閣が組閣され3月に全権委任法が成立、ナチスの独裁政権となる。7月、ホーフマンスタールとの名コンビの最後の作品であり、4年ぶりのオペラとなる叙情的喜劇『アラベッラ』(全3幕)が初演される。初演前に指揮者がナチス台頭を嫌い亡命してしまったが上演に漕ぎつけた。会話を主体とした構成をとりながら人物の心理を音楽で巧みに描く。シュトラウスのオペラは静かに終わる作品が多いが、本作は各幕が高揚する舞踏リズムで締めくくられる(その意味で異色作)。シュトラウスがモーツァルトを敬愛していたことから、『ばらの騎士』はシュトラウス版『フィガロの結婚』、『影のない女』はシュトラウス版『魔笛』、『アラベッラ』はシュトラウス版『コジ・ファン・トゥッテ』と見られている。ヒロインのアラベッラ役は、『ばらの騎士』の元帥夫人役と並んで、ドイツオペラのプリマドンナの憧れの役となった。
※『アラベッラ』…舞台は1860年のウィーン。没落貴族のヴァルトナー伯爵は見栄を張って家族とホテル暮らしをするものの、賭で大敗して追い出される寸前。伯爵には2人の娘アラベッラとツデンカがいるが、1人しか社交界にデビューさせる財力がなく、妹ツデンカを男子として育ててる。夫婦にとって社交会の華である姉アラベッラが玉の輿に乗ることが最後の望みだ。青年士官マッテオはアラベッラに恋しているが、そのマッテオをツデンカは密かに愛している。そんなある日、アラベッラの肖像画に一目惚れしたハンガリーの富豪マンドリュカが現れ求婚する。アラベッラも恋に落ち、二重唱で永遠の愛を誓う。一方、失恋し絶望するマッテオを慰めたいと思うあまり、ツデンカは「姉から部屋の鍵を渡すよう言われた」と嘘をつき自分の部屋の鍵を渡してしまう。このやりとりを見たマンドリュカはアラベッラが裏切ったと勘違いし憤る。マッテオはアラベッラ(実はツデンカ)とベッドを過ごし、部屋を出るとちょうどアラベッラ本人が帰ってきて驚く。マンドリュカもやって来て、アラベッラとマッティオが一緒にいるのを見て「やはり!」と激怒、決闘になりかけ、女性の姿となったツデンカが慌てて二階から駆け下りてくる。人々はツデンカが女性と知って仰天、ツデンカは真実を話し、ドナウ川に身投げするという。マッティオはツデンカの美しさと一途な想いにイチコロ。一方、マンドリュカはアラベッラを疑ったことを恥じて謝罪する。アラベッラがハンガリーの風習に従い、求婚を受け入れた証としてコップの水をマンドリュカに差し出すと、彼は一気に飲み干し2人は結ばれる。めでたしめでたし。
※『アラベッラ』英語字幕付き https://www.youtube.com/watch?v=7OSP4Pw7puQ
※第2幕のアラベッラとマンドリュカの二重唱が美しい https://www.youtube.com/watch?v=7OSP4Pw7puQ#t=71m50s
同年、ナチス政権の要請で第三帝国の帝国音楽院総裁に就任。背景には、シュトラウスの息子の嫁アリスがユダヤ人であり、孫がユダヤ人の血筋となることから、家族を守るためにナチスと良好な関係を維持せねばならなかった事情があった。
1934年(70歳)、ナチスによる迫害のためツヴァイクがイギリスに亡命。

1935年(71歳)、オペラ『無口な女』初演。『ばらの騎士』以来久しぶりの完全な喜劇であり、機知に富んだ音楽が繰り広げられる。過去の『エレクトラ』『影のない女』の旋律のほか、モーツァルト『魔笛』、ヴェルディ『リゴレット』など他人のオペラの旋律も取り込むサービス精神溢れる作品。ナチスは『無口な女』の初演のポスターから、ユダヤ人作家ツヴァイクの名を外すよう要求したがシュトラウスはこれを拒否。ナチスは別件でユダヤ人メンデルスゾーンを音楽史から抹殺するため、『真夏の夜の夢』にかわる音楽の作曲をシュトラウスに命じたがこれも拒否。かつてコンビを組んだ故ホーフマンスタールはユダヤ人であり、シュトラウスはユダヤ系の作品を葬ろうとする当局と衝突し、音楽局の総裁を辞任する。怒ったナチス政権は『無口な女』を3回で上演禁止に、『ばらの騎士』をのぞく全作品の上演を一年間禁じた。シュトラウスからツヴァイク宛の手紙「私はいちいち自分を“ドイツ人”と考えて行動しません。モーツァルトは作曲するときに自分が“アーリア人”と意識的に考えていたと思いますか? 私は、才能のある人と持たない人の2種類のみを認識します」。
※『無口な女』…舞台は1780年頃のロンドン郊外。極端な雑音嫌いで独身の退役軍人モロズス卿のもとに、甥っ子ヘンリーが訪ねてくる。卿はヘンリーに館を相続させるつもりだったが、ヘンリーが人前で歌って金を稼ぎ、女優と結婚したいというので激怒し、別れないと遺産相続人から外すと宣言する。そして自身は「無口な女」と結婚するという。花嫁探しを命じられた理髪師は一計を案じ、無口と偽った女性(ヘンリーの婚約者ティミーダ)と結婚させ、結婚後に大騒ぎして離婚させる作戦を立てた。まんまと成功し、豹変した妻にうろたえるモロズス卿。ヘンリーが現れ離婚を勧めると、卿は感謝して再び相続人とすることを約束する。卿は離婚裁判で「無口な女をもらったつもりが、今では火山のようだ」と訴える。ヘンリーは真相を話して許しを求め、卿は最初は怒っていたものの、やがて一杯食わされたと笑いだし結婚を許す。喜びの大合唱となり、皆が去った後、モロゾス卿は満足げに「何と音楽は美しいことか、特にそれが終わった時には」と微笑む。
※『無口な女』 https://www.youtube.com/watch?v=tpUPUYDQkIE

1936年(72歳)、ナチス政権に対する嫌悪感から反戦オペラ『平和の日(講和記念日/Friedenstagフリーデンスタグ)』(全1幕)を作曲。17世紀前半にドイツを荒廃させた「三十年戦争」(ハプスブルクVSブルボン、ドイツのプロテスタントVSカトリックを背景にした戦争)を題材に、戦争の不毛さ、平和の大切さを描くことで好戦的なナチス政権を批判した。劇中では「ラット」「内なる敵」などユダヤ人を中傷するために使用されるナチの用語を兵士が口にしている。初演は2年後。ナチスが本作の上演を許可したのは、ポーランド侵攻の準備を悟られないよう、平和主義者を装ったカモフラージュと見られている。
※『平和の日』音声のみ。舞台が見たいです…! https://www.youtube.com/watch?v=NHbQe_mNmEs
1937年(73歳)、作曲家カール・オルフ(1895-1982)が原始主義のカンタータ『カルミナ・ブラーナ』を初演し大成功を収める。
1938年(74歳)、オペラ『ダフネ』初演。ギリシャ神話のオリンポス山のふもとで、冷たい心の若い娘ダフネが漁師の息子ロイキッポスにより愛を知る。太陽神アポロは誤解からロイキッポスを雷で打ってしまいダフネは悲嘆。アポロはゼウスに頼んで、ダフネを永遠の緑の象徴である月桂樹に変身させる。「私もゆきます」とダフネは歌い幕となる。
※『ダブネ』 https://www.youtube.com/watch?v=3IESLIbitt0
同年、息子の妻アリス(ユダヤ人)の祖母やその親族を釈放してもらうため、シュトラウスは強制収容所に向かい交渉したが、最終的に25人の親族が収容所で殺害された。子供たちの釈放を懇願する手紙を何度もSS(ナチス親衛隊)に書いたが無視された。
1939年(75歳)、第2次世界大戦が勃発。
1940年(76歳)、日本政府の依頼で宣伝相ゲッベルスがシュトラウスに建国2600年を記念する管弦楽曲の作曲を要請、『皇紀2600年祝典曲』が書かれる。曲想は「海の情景〜桜祭り〜火山の噴火〜サムライの突撃〜天皇頌歌」であるが、楽器にタイのゴングが使用されているのはご愛敬。
※『皇紀2600年奉祝音楽』 https://www.youtube.com/watch?v=5Sju1g2f8T8 (16分)

1942年(78歳)、最後のオペラ『カプリッチオ』初演。サリエリのオペラ・ブッファ(喜劇オペラ)『まずは音楽、それから言葉』から着想。18世紀後半のパリで盛んに論じられていた「音楽と言葉はどちらが先か?」(ブフォン大論争)という命題を扱ったオペラによるオペラ論。シュトラウスは本作の最後の和音について「この変ニ長調は劇場に捧げた私の一生の最良の結末ではないだろうか?遺書はひとつしか書けない!」と語っている。弦楽六重奏で奏でられる前奏曲と、終盤近くの場面転換で演奏される「月光の曲」が有名。同年、ツヴァイクは第二次世界大戦に絶望し、人類の未来に希望を感じずブラジルで妻と命を断った。
※『カプリッチオ』…舞台は1775年頃パリ郊外の城。音楽家フラマンと詩人オリヴィエは、若き未亡人マドレーヌ伯爵夫人に恋している。恋の争いは「音楽か言葉か」にまで発展、伯爵夫人は音楽を賛美し、伯爵(マドレーヌの兄)は戯曲を支持する。女優が城に到着し、伯爵は女優とオリヴィエの書いたソネット(14行詩)を朗読する。朗読にフラマンがクラブサン(チェンバロ)で即興の伴奏をつけている間、オリヴィエは伯爵夫人に愛を告白。曲が完成すると、伯爵夫人は「音楽が詩に輝きを与えた」と言うが、オリヴィエは「音楽で詩が傷つけられた」と嘆く。フラマンもまた伯爵夫人に愛を告白すると、「明日の11時に書斎で」との返事。実はオリヴィエも「明日11時に書斎で待っている」と伝言を残していた。伯爵夫人はハープを弾きながら、ソネットを今一度歌うが答えは出ない。最後に結論を暗示するかのようにホルンの音が2度響く(音楽之友社『名曲解説集(20)』に“暗示”とあったけど、これ、音楽の勝ちっていう意味だよね?サリエリのオペラも題名が『まずは音楽、それから言葉』だし)。
※『カプリッチオ』英語字幕付き https://www.youtube.com/watch?v=T4tsPsmvW7w
※「月光の曲」(この場面の曲のはず、間違ってたらご指摘を) https://www.youtube.com/watch?v=T4tsPsmvW7w#t=128m08s

1944年(80歳)、シュトラウスの留守中に息子夫婦はゲシュタポ(ナチ秘密警察)に拉致、投獄される。シュトラウスは解放に向け尽力しガルミッシュに連れ戻すことができたが、息子夫婦は終戦まで自宅軟禁となった。
1945年(81歳)、第二次世界大戦末期の2月にドレスデンが無差別爆撃され、シュトラウスが多くの自作オペラを初演してきた国立歌劇場が崩壊。ベルリンの国立歌劇場も炎上し、3月にはウィーンの国立歌劇場が瓦礫となった。故郷ミュンヘンは71回も空爆された。シュトラウスは祖国の町並みや農村風景が破壊され、古い文化財や都市、建築、劇場を喪失した悲しみ、これら「取りかえしのつかない消失についてのなげき」を表すため、前年から惜別の情を込めて『メタモルフォーゼン(変容)〜23の独奏弦楽器のための習作』を書き進めており、ドイツが敗れる直前の4月12日に完成させた。楽器編成はヴァイオリン10名、ヴィオラ5名、チェロ5名、コントラバス3名の23名。楽譜は楽器のパート別ではなく、各奏者ごとに23段のスコアに書かれており緻密を極めている。ドイツの死を悼むレクイエムであり、全体をベートーヴェン交響曲第3番『英雄』の葬送行進曲の冒頭の旋律が支配する。最後の9小節にはシュトラウスが「In
Memorium」と書き込み、葬送行進曲の主題が一度演奏され、一つの国家の死を描いた悲痛きわまりない死の音楽となった。翌月、5月8日にドイツは無条件降伏した。直前の日記「人類史上最も恐ろしい時代の終わり。ドイツ2000年の文化史で、最大の犯罪者による無知、反文化の12年間の統治が終わる」。
※『メタモルフォーゼン』カラヤン&ベルリン・フィルの名盤
https://www.youtube.com/watch?v=awLkK-9lTBg(26分)
※『メタモルフォーゼン』中盤のサビから https://www.youtube.com/watch?v=awLkK-9lTBg#t=15m53s

ナチスは国際的名声を持つシュトラウスに手出しはしなかったが、シュトラウスはナチスと関わったため批判を浴び、連合国の非ナチ化裁判にかけられたが最終的に無罪となった。10月から1949年5月まで約3年半をスイス各地で過ごす。
1947年(82歳)、ロンドン公演。指揮活動から引退し、静かな晩年を送る。
1948年(84歳)、ソプラノとオーケストラのための管弦楽伴奏歌曲集『4つの最後の歌』を作曲。オペラではない歌曲は約20年ぶりであり、「春」「九月」「眠りにつくとき」「夕映えの中で」のすべてが近づく死を感じさせる内容となっている。深い諦観に満ち、最初の3曲はヘッセの詩、最後の曲はドイツの抒情詩人アイヒェンドルフ(1788-1857)の詩。シュトラウスは自分たち夫婦の生活と似ているアイヒェンドルフの詩に共感した。

●リヒャルト・シュトラウス作曲「4つの最後の歌」から“夕映えの中で”
(Im Abendrot/詩:アイヒェンドルフ)

私たちは悲しみも喜びも互いに手をとって通ってきた
そして今 さすらうのをやめ静かな丘で休んでいる
周囲の谷は沈み あたりは暗くなった
二羽のヒバリだけが 名残を追って夕もやの中を昇っていく

こっちにおいで ヒバリはさえずるに任せよう
もうすぐ眠りの時が近づくから
寂しさの中で私たちははぐれないようにしよう
ああ 広々とした静かな安らぎよ
こんなにも深い夕映えに包まれて
歩み疲れた私たちがいる
これがもしかすると死なのだろうか?

※『夕映えの中で』エリーザベト・シュワルツコップの名唱 https://www.youtube.com/watch?v=qCK9srHcfok#t=14m34s

1949年9月8日、ミュンヘン郊外のガルミッシュ=パルテンキルヒェンで腎不全により他界。ドイツ後期ロマン派を体現した最後の巨人はバイエルンで生まれバイエルンで死んだ。享年85歳。没する48時間前にシュトラウスはいったん昏睡状態から意識を回復し、60年前、25歳のときの作品『死と変容』について語った。「私が『死と変容』のなかで作曲したことは全て正確だったと、今こそ言うことができる。私は今しがたそれを文字通り体験してきたのだよ」。
葬儀は9月11日にミュンヘンで行われ、故人の希望によりオペラ『ばらの騎士』第三幕の珠玉の三重唱が歌われ、ゲオルク・ショルティが指揮した。その8カ月後にパウリーネも後を追うように87歳で他界した。
1950年、『4つの最後の歌』の初演がロンドンにてフルトヴェングラー指揮で行われる。

1955年、第二次世界大戦の爆撃で破壊されたウィーン国立歌劇場の再開記念公演の演目に『ばらの騎士』が選ばれ、ハンス・クナッパーツブッシュが指揮した。
1956年、『ばらの騎士』が日本で初演される。
1962年、グレン・グールドがシュトラウスを「今世紀に生きた最も偉大な音楽家」と評する。
1968年、SF映画の金字塔『2001年宇宙の旅』が公開され、劇中で流れた『ツァラトゥストラはかく語りき』がクラシック・ファン以外にも知れ渡る。
1983年、シュトラウスの歌曲「葵(あおい)」が発見される。遺作は長く『4つの最後の歌』(1948年9月完成)と見なされていたが、「葵」は1948年11月に書かれており、これが白鳥の歌となった。この曲を献呈されたソプラノ歌手が生前に封印していたため、彼女の死後に公開された。晩年のシュトラウスは庭の花を観ながら「私がいなくなっても、花は咲き続けるよ」と何度も呟いたという。
※「葵」 https://www.youtube.com/watch?v=gK5tvEoQXp4 (3分24秒)
1994年、ウィーン国立歌劇場の来日公演でカルロス・クライバー指揮の『ばらの騎士』が上演される。

「音楽で表現できないものはない。たとえ、ティースプーンの上げ下げさえも」。天才にしか言えない言葉だ。ワーグナーの後継者としてドイツ音楽界の頂点に君臨し、『ドン・ファン』(1888)から数えて60年以上もの長期にわたって代表作を生み続けたリヒャルト・シュトラウス。これは驚異的な活動期間だ。器楽作品とオペラの両方に多くの代表作を書いたという点でモーツァルト以来の存在となり、約150曲の歌曲も残した。
若い頃はテーマや手法の斬新さから批判を浴びることも少なくなかったが、「真の芸術ほど最初は理解されず、作者は変人扱いされるものだ。私は思った通りの道を歩んでいる」と、管弦楽の音だけで日常から哲学の世界まで描くことに挑戦し続けた。父が優れたホルン奏者であったため、ホルンの効果的な使い方を身に付けていた。オペラは一作ごとに新境地に進み、『サロメ』でワーグナー的な官能性、『エレクトラ』で表現主義、『ばらの騎士』でオペラ・ブッファの手法に挑むなど多様な作風で魅せた。指揮者としてもミュンヘン、ベルリン、ウィーン、ワイマールの歌劇場で活躍し、世界各地を巡演。リスト、ワーグナー、マーラー、シベリウス、自身の作品を中心に指揮し、ロマン派の余光を放った。

※シュトラウスは作曲のかたわら晩年までドイツ、オーストリアの主要オーケストラ、歌劇場で指揮をとっている。指揮者としての門下はカール・ベームやジョージ・セル。椅子に座って左手は出さず、右手だけで指揮するスタイルを貫き、「ギャラを二倍にしてくれるなら両手で指揮してもいいよ」ととぼけたという。
※カードゲームに夢中だったシュトラウス。オペラ『フィデリオ』の指揮中に懐中時計を見て、トランプをやる時間に間に合わないことに気づき、いきなり猛スピードで指揮をしたという。
※シュトラウスはワーグナー作品は「最初に言葉、次に音楽」があり、ヴェルディ作品は「最初に音楽、次に言葉」があると考えた。
※『ばらの騎士』の「銀のばら」を送る風習はホーフマンスタールの創作。
※シュトラウス姓ではあるが、ウィーンのワルツ王シュトラウス家と血縁関係はない。終戦後、公演でロンドンを訪れた際、行く先々で「あなたがあの『美しく青きドナウ』の作曲者ですか?」と尋ねられたという。
※戦後のインタビューで「私はもう過去の作曲家であり、私が今まで長生きしていることは偶然に過ぎない」と語っている。
※『ばらの騎士』を献呈した「プショール家」は母の実家であり、ミュンヘンの有名ビール醸造業者(プショール醸造所)。
※ガルミッシュは「モモ」「はてしない物語」の作者ミヒャエル・エンデ(1929-1995)の出生地。観光案内所の近くにミヒャエル・エンデ・クアパークがある。

〔墓巡礼〕
リヒャルト・シュトラウスが眠るオーストリア国境に近いガルミッシュ=パルテンキルヒェンはミュンヘンから電車で1時間20分。人口3万人で、ドイツ最高峰ツークシュピッツェ(2962m)の北麓に位置し、1936年に冬季オリンピックも開催された山岳リゾートだ。ツークシュピッツェの山頂には登山鉄道とロープウェイで簡単に行ける。かつて西のガルミッシュと東のパルテンキルヒェンは別の街であったが、五輪の誘致基準を満たすよう2つの街が合併された。
僕が巡礼したのは2002年。この時はガルミッシュが冬季五輪開催地とか、最高峰の山があるとか何も知らなかった。駅名だけを手掛かりにミュンヘンから列車で向かうと、どんどん山奥に入っていき、「無人駅だったらどうしよう」「観光案内所はあるのか」と不安になった。ガルミッシュの駅に着いてびっくり。ホームには登山者やハイキング客がいっぱい!「なんで山奥なのにこんなに発展しているんだ!?」と本当に不思議だった。
日本で得た情報では、このガルミッシュ=パルテンキルヒェンのどこかにシュトラウスが眠っているはずだった。ところが駅前に観光案内所がない。駅員さんの話では、北に1km行った旧市街のリヒヤルト・シュトラウス広場に観光案内所があるという。駅にコインロッカーはなく、バックパックを背負って歩き始めた。馬車や土産物屋を横目にてくてく歩く。観光案内所ではおばさんが墓地までの地図を描いくれ、バックパックも預かってくれた。優しい!!身軽になり、地図を片手にウキウキとさらに北へ1km歩くと、切り立った山を背景に墓地が見えてきた。敷地は奥行きがあり、墓地で作業していたおじさんにシュトラウスの墓所を教えてもらった。入って左手、奥の方の壁沿いに一家の墓所は眠っていた。
憧れのシュトラウスの墓前に立ちテンションは最高潮。いろんな楽曲のメロディーが頭に浮かび、その色彩感のあふれる管弦楽マジックを讃え、また愛聴しているいぶし銀の『メタモルフォーゼン』『4つの最後の歌』の御礼を伝えたが、何と言っても“感謝の本丸”は『ばらの騎士』だ。このオペラと出会うまで、僕の失恋は実に見苦しく、お世辞にも美しいものとは言えなかった。相手に執着し、ジタバタともがいた。だが、元帥夫人の優雅な別れ方に心底から感動し、「自分もかくありたい!」とこの作品を人生の教本とした。それをシュトラウスの墓に訴えたかった。御礼を言えて感無量になり、なかなか墓地を去りがたく、墓地内を何周か散歩してから帰途についた。
数年後、ネットでシュトラウスのことを調べていて、衝撃的な事実を知った。観光案内所から西に1km行った場所、Zoeppritzstrase42にシュトラウスの家(Strauss-Villa)があるというではないか!しかも、家の北側、庭園内の散歩道には、初演で大コケして封印された最初のオペラの楽譜を埋めた「グントラムの墓」が現存するとのこと。墓標にはドイツ語で「ここに父(作曲者)の音楽により非業の死を遂げた誇り高き若者(グントラム)が眠る、どうか安らかに眠れ」と刻まれているらしい。シュトラウスの子孫(お孫さん)が住んでいるので家の内部は見学不可。グントラムの墓だけでも巡礼したいなぁ…。
※ガルミッシュでは毎年6月に名誉市民シュトラウスを偲んで「リヒャルト・シュトラウス音楽祭」が開催されている。
※近隣にリヒャルト・シュトラウス研究所があり、平日のみ公開されている。
※「グントラムの墓」に行かれた方の:レポート。羨ましすぎる!



★グリーグ/Edvard Grieg 1843.6.15-1907.9.4 (ノルウェー、ベルゲン 64歳)2005&09
Ashes sealed in the side of a cliff projecting over the fjord at Troldhaugen(his home)

 

オスロからフィヨルド地帯へ!ノルウェー西端にグリーグの眠るベルゲンがある











墓はグリーグの家(今は博物館)の裏手、海岸沿いにある。
家に至る道の美しいこと!林が夕陽を浴びて輝いていた
これがグリーグ・ハウス

そしてグリーグ像
















裏庭を下ると海岸がある

海が見えてきた!

なんとー!彼の棺は海に面した崖にめり込んでいた!
こんな場所にある墓なんて見たことないッ!ブッ飛んだぜーッ!!

墓前には美しい景観が広がっていた。崖の高さなら
見晴らしもいいだろう。なんて幸せなお墓なんだろーか!
※湾全体のフィヨルドの長さは約11km。
海外のドキュメンタリーから。なんと、お墓を開けて
グリーグ夫妻の骨壺を記録した画像があった!


「バッハやベートーヴェンのような大音楽家だけが荘厳な大聖堂を建築することが出来る。私は人々が“ここは自分たちの家庭だ”と感ずるようなありふれた住居を建てたい」(グリーグ)。エドヴァルド・グリーグはノルウェー国民学派の作曲家。22歳年下のシベリウス(フィンランド)と並ぶ北欧国民楽派の双璧。1843年6月15日、ノルウェー西岸のベルゲンに生まれる。ノルウェー語の発音はエドヴァル・グリッグ。5人兄弟の第4子。身長は152cmと小柄だった。祖国ノルウェーは中世から1814年までデンマークの支配下に置かれ、以後はスウェーデンの属国となり、自治政府を認められながらも正式な独立を果たせていなかった。
グリーグが生まれる7年前、1836年にロシア国民楽派の父グリンカが、最初のロシア語オペラであり、またロシア初の本格的オペラある『皇帝に捧げた命』を作曲。誕生前年の1842年にはオペラ第2作『ルスランとリュドミーラ』を完成させている。ベートーヴェンなどドイツ音楽の模倣でない、民謡の旋律を導入した各国ならではの国民音楽=国民楽派が産声をあげつつあるなかグリーグは生を受けた。
幼少期にピアニストの母からピアノの手ほどきを受ける。
1849年(6歳)、ショパンが39歳で他界。
1858年に15歳でライプツィヒ音楽院に留学、作曲とピアノを学び、2年前に没したシューマン(1810-1856)、メンデルスゾーン(1809-1847)などドイツ・ロマン派やショパンの影響を大きく受けた。
1862年(19歳)、ライプツィヒ音楽院を卒業。帰国後、ベルゲンにてピアニスト・作曲家としてデビューを果たす。
1863年(20歳)、デンマークの作曲家ニルス・ゲーゼを訪問、ゲーゼに学ぶため3年間コペンハーゲンに滞在する。同地で1歳年上のノルウェーの国民主義的作曲家リカルド・ノルドローク(1842-1866/リカール・ノールローク)と親交をもち、ノルドロークがノルウェーの国民音楽を創始する夢を語ったことから、次第に祖国の民俗音楽に関心を抱き、自己の作風を確立していく。
同年、チェコでは17歳年上のスメタナ(1824-1884)がボヘミアの農村を舞台にしたチェコ語オペラ『売られた花嫁』を完成させ、グリンカが開拓した母国語オペラを中欧でも成功させた。
1864年(21歳)、ゲーゼのすすめで前年から書き始めていた唯一のシンフォニー、『交響曲ハ短調』を作曲。同年、ノルドロークは後にノルウェー国歌となった『われらこの国を愛す』を作曲する。
※ノルドローク『われらこの国を愛す』 https://www.youtube.com/watch?v=Al_Hc7c5ARk (3分26秒)
1865年(22歳)、生涯で唯一となるピアノソナタ、『ピアノソナタホ短調』を作曲。続いて、『バイオリン・ソナタ第1番』を作曲。同年、北欧的憂うつな響きから歓喜に至る演奏会序曲『秋に』を作曲。
※『バイオリン・ソナタ第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=U6EHOh-Xqz4 (21分)のびのびとした終楽章が素晴らしい
1866年(23歳)、帰国しクリスティアニア(現オスロ)で音楽教師として生計をたてる。一方、ノルドロークはベルリンで結核を病み、約40曲の歌曲やピアノ小品を残し23歳の若さで夭折した。同年、グリーグはノルドロークの訃報を知らされ衝撃を受け、翌月に吹奏楽曲『リカルド・ノルドローク追悼の葬送行進曲』を作曲する。当初はピアノ独奏曲であったが、吹奏楽用に大幅な改訂を加え、ノルドロークの生誕50周年にあたる1892年に出版した。
※吹奏楽曲『リカルド・ノルドローク追悼の葬送行進曲』 https://www.youtube.com/watch?v=ZJi_rb9D8I4 (8分)
1867年(24歳)、クリスティアニアのフィルハーモニー協会の指揮者に就任。いとこのソプラノ歌手ニーナ・ハーゲルップ(1845-1935)と結婚。ピアノ曲『叙情小曲集・第1集(全8曲)』を出版。全10集(66曲)の完結まで34年を要す。
1868年(25歳)、代表作となる傑作『ピアノ協奏曲イ短調』をデンマーク訪問中に作曲。北欧の郷土的な香りに満ち、厳しく雄大な自然が楽譜から立ち現れる。霧を感じさせる渋い旋律とロマン派的な和声の融合は、シベリウスなど北欧以外の作曲家には真似ができない。高所から落下するようなインパクトがある冒頭部分は、フィヨルドの滝を表現したものといわれる。第2楽章は美しい旋律で紡がれ、第3楽章は躍動感のあるリズムが繰り返され聴き手を昂揚させる。グリーグは約40年後に亡くなる直前までこの曲に改訂を加え続け、初期版から400か所以上も変更されている。
※天才リパッティによる1947年の名演(当時30歳)、この3年後にリパッティは他界
『ピアノ協奏曲イ短調』 https://www.youtube.com/watch?v=yq6TMifXoTY (29分)
1869年(26歳)、当時ローマに住んでいた作曲家にして大ピアニストのフランツ・リスト(58歳/1811-1886)から、突然手紙が届く。そこには「あなたのヴァイオリン・ソナタ(第1番)は素晴らしい作品です。近々、ワイマールかどこかで是非一度お会いしたいものです」と記されており、グリーグは自身の名をリストが知っていたことに仰天し歓喜する。だが、北欧からローマに行くには旅費がかかり、すぐには行けなかった。最終的に、大作曲家からの招待ということもあり、ノルウェー自治政府が旅費を負担してくれることになり翌年出発する。
1870年(27歳)、ローマのリストを訪問。リストは32歳年下のグリーグが持参した『ピアノ協奏曲イ短調』の楽譜を見て異国の香りに惹かれ、初見で最後まで弾きこなし「これこそ本当の北欧だ!」と讃えた。リストは「スメタナのことを思い出した」(かつてリストは若いスメタナに才能を見出し。世に出られるよう援助した)と呟く。そして「この調子であなたの道を行きなさい。あなたは必要なものを十分に持っています。恐れるものはありません」とグリーグを励ました。リストの言葉と、亡き友ノルドロークの志を汲み、グリーグはノルウェーらしさをさらに追求していく。当初、グリーグの作風は保守派の批評家から正当な評価を得られなかったが、リストから賞賛を受けたことは大きな後押しとなり楽才を認められていく。
1871年(28歳)、クリスチャニア(オスロ)に音楽協会を設立。この年、親友であり3歳年上のノルウェーの作曲家ヨハン・スヴェンセン(1840-1911)の民族的要素の濃い『交響曲第1番』を聴いて感動し、自身の『交響曲ハ短調』があまりにシューマンなどドイツ音楽の影響を受けすぎていると判断、「演奏厳禁」とスコアに書き込み、同曲は生涯出版されなかった。
※ヨハン・スヴェンセ『交響曲第1番』の第2楽章 https://www.youtube.com/watch?v=VXs0y5mXRUQ#t=9m40s
(確かにグリーグに自作交響曲を封印させただけはある)
1874年(31歳)、グリーグに対するリストの高い評価を知ったノルウェー政府は、文化的功労に報いるため終身年金の支給を決定し、グリーグは31歳にして経済面の不安から解放される。同年、ノルウェーの劇作家で“近代劇の父”イプセン(当時46歳/1828-1906)から、イプセンが7年前(1867年)に書いた詩劇『ペール・ギュント』上演用の劇付随音楽の作曲を依頼される。
1875年(32歳)、全27曲約85分からなる『ペール・ギュント』の付随音楽を完成させる。

1876年(33歳)、『ペール・ギュント』が初演され国際的名声を獲得した。グリーグは10年続けた音楽教師を辞め、作曲に専念する。同年、10歳年上のブラームス(1833-1897)の『交響曲第1番』が初演される。
※『ペール・ギュント』…ノルウェー山中の故郷を追われてエジプト、モロッコ、アメリカなど世界を放浪し、様々な冒険をする20歳の若者。無一文の老人にになって帰郷し、かつて愛したソールベイに魂を救済される。
1877年(34歳)、ベルゲン東方のハダンゲル地方に住み、民族音楽への傾倒を深める。『ペール・ギュント』の成功で名声は揺るがないものとなった。
1878年(35歳)、ドラマチックな『弦楽四重奏曲第1番』を作曲。
1879年(36歳)、グリーグ自身の独奏で『ピアノ協奏曲』をライプチヒのゲヴァントハウスで初演。同年、バイロイト新聞にシューマン批判の記事が出て、シューマンを敬愛するグリーグは義憤にかられる。
1880年(37歳)、ニーナ夫人は歌手としても優れており、グリーグは歌曲の創作にもはげみ、「胸のいたで」「春」を作曲。
1883年(40歳)、チェリストの兄のため情熱的な『チェロソナタ』を作曲。グリーグにとって唯一のチェロソナタとなった。また、16年ぶりにピアノ曲『叙情小曲集』の続編、第2集を出版。同年、巨星ワーグナーが69歳で他界。秋にグリーグはワイマールで老リストと最後の面会を果たしている。さらに、シューマン(1810-1856)の未亡人クララ(当時64歳/1819-1896)をフランクフルトに訪ね、「遠いノルウェーでも(27年前に没した)シューマン作品は人気です」と伝えて喜ばせようとしたが、クララは「ええ、今では、ね」と顔を曇らせたという。以後、グリーグはシューマンの楽曲が正当に評価されるよう論陣をはっていく。
1884年(41歳)、同郷ベルゲンの劇作家で“デンマーク文学の父”(当時のノルウェーはデンマーク統治下)となったルズヴィ・ホルベア(1684-1754)の生誕200年のために、ピアノ組曲『ホルベアの時代から』を作曲(翌年、弦楽合奏に編曲されこちらが有名に)。グリーグはホルベアが生きていた時代のバロック音楽の様式でこの曲を書いた。
※管弦楽版『ホルベアの時代から』第4曲アリア https://www.youtube.com/watch?v=wnAGUnCQ_2M (6分)
1885年(42歳)、ベルゲン郊外のトロルハウゲン(妖精の丘※ニーナ夫人が命名)に家を建築、フィヨルドのほとりに作曲小屋を建てる。以降、没するまで22年間を当地で過ごす。
※「トロルハウゲン」とは、「トロルの住む丘」という意味で、身長152cmのグリーグが自分達を小さなトロルと称し、愛情を込めて自宅をこう呼んだという説、付近の谷を子どもたちが「トロールの谷」と呼んでいたことにちなんだ説などがある。建物はグリーグの従兄弟で建築家のシャク・ブルによって設計され、グリーグ自身も設計に深く関わった。

1886年(43歳)、春の喜びに溢れた「蝶々」「春に寄す」を含むピアノ曲『叙情小曲集』第3集を出版。同年、リスト他界。
1887年(44歳)、20年ぶりのヴァイオリンソナタであり、人気曲となる『ヴァイオリンソナタ第3番』を書きあげる。
1888年(45歳)、ピアノ曲『抒情小曲集』第4集を発表。第3曲「メロディ」が美しい。この年の元旦、グリーグは独ライプツィヒに著名ヴァイオリニスト、アドルフ・ブロドゥスキーの家を訪問した。そこでは先客のブラームス(55歳/1833-1897)がピアノの前に座り新作の「ピアノ三重奏曲」を練習しており、同席したチャイコフスキー(48歳/1840-1893)に感想を求めていた。そこへ、グリーグは夫婦で訪れた。ブラームス、チャイコフスキー、グリーグ、全員がそれぞれに初対面だった。
チャイコフスキーの回想「とても背の低い中年の男が入ってきた。特に魅力的な容姿ではないものの、髪は後ろへよくブラッシングされ、人を強く魅了する碧い瞳は、チャーミングで素直な子どもの眼差しを思い起こさせた」「グリーグの音楽には心をとろけさせるような憂愁があり、北国の美もあり、我々ロシア人の心にも暖かい共感を呼び起こす。ノルウェーの自然が持つあらゆる美しさが彼の音楽の中に反映されている」。
グリーグの回想「私はチャイコフスキーという暖かい理解者を得ました。単なる芸術家としてばかりでなく、一個の人間としてもです」。
同年、ライプツィヒのゲヴァントハウスでチャイコフスキー作品が演奏された際、壇上に座らされたチャイコフスキーの側にグリーグ夫妻の席が用意された。会場にいたある婦人が「あそこにいるのがチャイコフスキーさんで、お隣がお子さんたちですよ」と説明したという(チャイコフスキーとグリーグは3歳差)。
1891年(48歳)、劇音楽『ペール・ギュント』の前半部分を管弦楽組曲に編曲した第1組曲(「朝」「オーセの死」「アニトラの踊り」「山の魔王の宮殿にて」)を発表。
※『ペール・ギュント』第1組曲 https://www.youtube.com/watch?v=ypOCXMDUK3U(15分)
※ロックバンド“レインボー”が演奏したハードロック版『山の魔王の宮殿にて』 https://www.youtube.com/watch?v=O_cWfRVHAkQ
同じく1891年、ピアノ曲『抒情小曲集』全10集の中でも最も完成度が高い第5集を発表。この4年後(1895年)、ニューヨーク・フィル指揮者アントン・ザイドル(1850-1898)がグリーグに無断で第5集から4曲を管弦楽用に編曲した。ザイドルは3年後に47歳で他界。編曲の9年後(1904年)、オスロで管弦楽版を聴いたグリーグは、この編曲を気に入ると同時に自分自身で改訂したいと考え、ザイドル未亡人から承諾を得て改訂を行った。元々無断で編曲されたにもかかわらず、グリーグは怒るどころか未亡人に改訂料を支払ったという。グリーグは曲の一部を入れ替えて、「羊飼いの少年」「ノルウェー農民の行進」「夜想曲」「小人の行進(トロルの行進)」の4曲を『抒情組曲』としてまとめた。
※『抒情組曲』 https://www.youtube.com/watch?v=kp4DWic8ndg (19分)冒頭「羊飼いの少年」は北欧的哀愁に満ちている。
※「羊飼いの少年」 https://www.youtube.com/watch?v=hNNoSoEUim8 (4分51秒)
1892年(49歳)、劇音楽『ペール・ギュント』の後半部分を管弦楽組曲に編曲した第2組曲(「イングリッドの嘆き」「アラビアの踊り」「ペール・ギュントの帰郷」「ソルヴェイグの歌」)を発表。
※『ペール・ギュント』第2組曲から「ソルヴェイグの歌」…https://www.youtube.com/watch?v=AWQEUqg_FgM  (5分27秒)
1893年(50歳)、南フランスの保養地マントンでピアノ曲『抒情小曲集』第6集を作曲。フランスで書かれたせいか、これまでよりヨーロッパ風の響きに。フランスでは、ドビュッシー(31歳/1862-1918)、サティ(27歳/1866-1925)、ラベル(18歳/1875-1937)ら新世代が台頭しつつあった。サティは既に『ジムノペディ』を書き、ドビュッシーは翌年に出世作となる管弦楽曲『牧神の午後への前奏曲』を完成させている。
※『抒情小曲集』第6集 https://www.youtube.com/watch?v=ScteNxPVuDQ この演奏は1曲目「過ぎ去りし日々」のタッチが実に良い
1895年(52歳)、トロルハウゲンでピアノ曲『抒情小曲集』第7集を作曲。音色はより繊細に、深まる芸術性。
1896年(53歳)、ピアノ曲『抒情小曲集』第8集を作曲。第6曲「トロルドハウゲンの婚礼の日」は全10集の中で最も大規模。バラード調の曲が多い。
※「トロルドハウゲンの婚礼の日」 https://www.youtube.com/watch?v=gq83dUB37rI
1898年(55歳)、ピアノ曲『抒情小曲集』第9集を作曲。第3曲「あなたのそばに」は愛妻ニーナへの想いを綴った曲、第5曲「ゆりかごの歌」は、グリーグ夫妻が生涯に唯一授かった我が子、わずか1歳で世を去ったひとり娘のための追悼曲。
※第3曲「あなたのそばに」 https://www.youtube.com/watch?v=aoq-iczJHSI
※第5曲「ゆりかごの歌」 https://www.youtube.com/watch?v=Y-nJzJqYe9g (2分24秒)
1901年(58歳)、24歳から書き始めていたピアノ曲『叙情小曲集』第10集を出版、これにより全10集が完結した。後に「北欧のショパン」「ノルウェーのシューマン」と呼ばれるようになる。健康状態が悪化。
※『叙情小曲集』、ギレリスの名演奏20曲 https://www.youtube.com/watch?v=hjoJGXHrzvY (56分)
1905年(62歳)、ノルウェー国会がスウェーデンからの独立を宣言、グリーグの夢であった祖国独立が実現した。デンマークの王子カールがノルウェー国王ホーコン7世として迎えられた。

1907年9月4日にベルゲンの市立病院で心不全により他界。享年64歳。最期の言葉は「まあ、そうならざるを得ないのなら」。葬儀は国葬となり、ベルゲンで執り行われた。41年前、親友ノルドロークを追悼して作曲した『リカルド・ノルドローク追悼の葬送行進曲』の管弦楽版(グリーグの姪と結婚したヨハン・ハルヴォルセンが編曲)が葬儀で演奏された。さらに、ショパンのピアノソナタ第2番から「葬送行進曲」も演奏された。グリーグはこの年ベルゲンにオープンしたノルウェー初の火葬場で火葬され、遺灰は自宅近くの崖に埋葬された。墓前には毎年5月17日の建国記念日に花冠を供えるのが伝統となっている。

グリーグは亡くなる6週間前まで『ピアノ協奏曲』の改訂を続け、初版から変更された修正箇所は、ピアノパート100カ所、オーケストラパート300カ所に達する。グリーグ「芸術は実に生涯をかけても、いかなる手段によっても、表現できないものへの切望から生まれる」。グリーグの未発表の楽譜は夫人が所持していたが、後にベルゲンの公立図書館に移された。
1935年、グリーグ他界の28年後、コペンハーゲンで暮らしていたニーナ夫人も他界。享年90。翌年のグリーグの誕生日、6月15日に夫人の遺灰も山腹の墓地に収められた。
1981年、『交響曲ハ短調』が蘇演され封印が解かれた。

【墓巡礼】
ロシアのグリンカ、チェコのスメタナに続いて、ノルウェーの民俗音楽をベースにした国民楽派の確立を目指したグリーグ。霧に包まれた北欧の森や湖を想起させる和声様式を使い異国の人々を魅了し、抒情的で民族性に富んだ民謡風のメロディで親しみを感じさせた。
彼が眠る故郷ベルゲンは1299年までノルウェーの首都だった。現在の首都オスロから約500kmも離れたノルウェー西海岸にあり、夜行列車で7時間半かかる。旅費節約のためベッドを予約せず、リクライニングの座席車両で移動した。“夜行”といっても夏期は白夜に近く、暗くなったと思ったらすぐ夜明けに。真夏なのに雪山が見えてきてテンションがあがる。隣席に中東系のおじさんがいて、旅の話など雑談をしてたんだけど、途中で警官っぽい2人が車両に入ってくると、おじさんは猛烈に汗をかき始めた。何度もハンカチで額を拭うのでどうしたんだろ?と思ってると、2人組に話しかけられ、おじさんはどこかへ。そして2度と座席に戻って来なかった。周囲の人の話では密入国らしかった。とても温厚で優しく笑うおじさんだったので、胸が締め付けられた…。

朝6時50分にベルゲン駅に到着。この街の約10km南に晩年まで暮らしていた家「Troldhaugen/トロルハウゲン(妖精の丘)」とグリーグ博物館、そして夫妻の墓所がある。旅行案内所が開くのを待ってグリーグ邸への行き方を尋ねると、市内から20番、23番他のバスで行けるとわかった(注:2010年からはトラムでも行けるようになった!終点手前のホップ駅下車、少し道を戻ると標識あり)。バス停を降りて看板に従い、民家が点在する林道を15分ほど歩くと最初にグリーグ博物館が見えてくる。この博物館にはグリーグの遺髪や夫妻の服が展示されている。そして西に続く小道を50m進むと、今度はグリーグの自邸トロルハウゲンがあり書斎やリビングなどを見学できる。屋外のグリーグ像は等身大の152.5cmになっている。南側にはグリーグが曲想を練っていた赤い作曲小屋が建ち、内部にはピアノ、机、ソファーベッドがあった。机の前の窓からは北海の湾(ノルドス湖?)が見え、景色を眺めながら曲想を寝るグリーグの姿が目に浮かぶ。自邸の裏庭にはフィヨルドに下っていく散策路があり、湖岸に面した岩壁の中腹にグリーグ夫妻の墓が“埋め込まれて”いた。墓というものは地面にあると思い込んでいたので、崖の表面に造られた墓に驚いた。だが、そこに墓を造った理由はすぐにわかった。その高さからだと、美しいフィヨルドを一望できるからだ。湾をめぐるフィヨルドの長さは約11km。故郷ベルゲンを愛したグリーグの郷土愛が伝わってくる。墓石には古代ルーン文字に似た書体で「EDVARD&NINA GRIEG」と刻まれており、夫婦で末長くこの景色を楽しんでいるのだろう。火葬されたグリーグの遺灰は一部が海に撒かれたという。
この墓所はグリーグ自身が選んだ場所であり、彼が友人と小舟で出て戻ってきた時に、沈んでいく夕陽に山腹が照らされているのを見て、「ここで安らかに眠りたい」と希望した。そして従兄弟で建築家のシャク・ブルが暮石をデザインした。


【グリーグのモーツァルト論、シューマン論ほか】
・モーツァルトについて語ると言うことは、神について語るということだ。
・バッハやヘンデル、モーツァルトといった作曲家たちが現代に甦りワーグナーのオペラを聴いたらどんな顔をするだろうか。万能の天才モーツァルトだけは、ワーグナーの成し遂げたドラマとオーケストラの新たな境地に、大きく眼をみはって歓迎し容認するのみならず、おそらく子どものように歓喜するだろうということが確実だ。
・モーツァルトが最高であり、偉大なのは、その芸術がすべての時代を包括していることにある。もしある時代の人々が、あまりにいろんな種類の音楽に接しすぎ、神経が麻痺して彼のことを見落とすことになったとして、それが何であろう。美は永遠だ。流行の波というものは、せいぜいほんの一瞬の間それを曇らせるぐらいのことしか出来ぬのだ。
・私はモーツァルトの曲を現代風の響きに編曲しようとしたことがあるが、彼の書いた音符はただのひとつたりとも変更せず、その点、この巨匠に払うべき尊敬の姿勢だけは常に保った。あのバッハの「(平均律クラヴィーア曲集)前奏曲」を当世風の、ひどく感傷的で浅はかな見世物染みた歌曲に作りかえてしまうという、到底承服しがたいことをやったグノーの例は論外だと言いたい。
・モーツァルトの管弦楽作品は、未来永劫、聴衆の心を虜にるすだけの充分な新鮮さを備えている。第41番、最後の交響曲は、あたかも神の手によって創造されたかのように完璧に思えるため「ジュピター交響曲」と呼ばれる。
・ベートーヴェンは作品がより高度の輝きに達するためならば、響きの快さなど、ためらいなく棄てて顧みなかった。いわば彼と共に新しい時代が始まった。そのモットーは「第一に真実、美はそれからあとのことだ」と言える。
・シューマンの音楽はワグネリアンによって、完膚なきまでにやっつけられ格下げさせられている。そこには、ほんの砂粒ほどの名誉さえも残されておらず、シューマンの偉大な個性、輝ける想像力と飛翔力は、まったく無価値な低さに引きずり下ろされ、世にも陳腐な代物の典型として描かれている。(略)シューマンは彼をめぐる重要な出来事の全てについて公平な判断力を持ち、それによって美しい記念すべき業績を打ち立てた。ベルリオーズ、ショパン、ブラームスといった人々の才能を最初に認めて、音楽界に紹介したのはシューマンである。(略)私はシューマンの作品の中で歌曲がとても好きである。さすがのバイロイトの雇われ批評家も、彼に巣食うあらゆる憎悪の邪神でさえ、こと歌曲については、シューマンを取るに足らぬ存在だなどと貶(おとし)めることは困難だろう。
・私はシューベルトをほとんど完璧に表現した同じ歌手が、シューマンになるとまったく下手くそだったのを聴いたことがある。歌曲の伴奏部には重要な役割があり、ピアノの音色が細やかなニュアンスを表現していることにまるで注意を払わず、声だけでシューマンを歌おうとする多くの歌手どもに災いあれ!
・歌とピアノ伴奏を密接に結びつけた最初の作曲家シューマン。後にワーグナーがちょびっと発展させて、その重要性を完全に証明した。つまり、ピアノやオーケストラによってメロディーが発展させられ、声のパートは叙唱(レチタティーヴォ)的に詩を語っていく、という手法である。しかし、天は、私が「ワーグナーはシューマンから刺激を受け影響された」などとほのめかすことさえ禁じているのだ!そのような可能性のヒントですらワグネリアンはバイロイトの巨匠に対する侮辱であり、言語道断な無礼さだと見なすだろう。

※晩年の自演録音=ピアノロールが残されている。
※グリーグはピアニストとしても高く評価され、自作を携えヨーロッパを何度も演奏旅行している。
※お守りの小さなカエルの置物をポケットに入れ、演奏の前にそっと握りしめたという。
※オーストラリアの実験的フォークメタルバンドTroldhaugenは、自分たちの名前をこのグリーグ邸から取っており、グリーグの音楽の抜粋を自分たちの音楽に取り込んでいるという。
※グリーグの旧宅トロルドハウゲンは、エドヴァルド・グリーグ博物館、グリーグの別荘、グリーグが作曲した小屋、グリーグ夫妻の墓などから構成され、グリーグの思い出に捧げる「エドヴァルド・グリーグ博物館トロルドハウゲン」として運営されている。1995年にはミュージアム棟が増築され、エドヴァルド・グリーグの生涯と音楽に関する常設展示のほか、ショップやレストランが併設されている。リビングルームには、1892年に銀婚式のプレゼントとして贈られたグリーグ自身のスタインウェイ・グランド・ピアノが置かれている。



★ドビュッシー/Claude Achille Debussy 1862.8.22-1918.3.25 (パリ、パッシー 55歳)2002&09
Cimetiere de Passy, Paris, France Plot: Division14






1884年(22歳) 1908年(46歳) 駆け落ち相手のエンマ夫人 14歳で夭折した愛娘のシュシュと


2002 実にスッキリとした墓 拡大画像と訳文 2009 7年後。墓がシンプルなだけに目立った変化なし





“C”と“D”をデザイン化したサインがオシャレ 背後に家族3人の名前が 改葬前の旧墓。現存せず(ペール・ラシェーズ墓地)

独創的な和声法を導入し、印象主義音楽を書いて20世紀音楽の扉を開いたフランスの作曲家。ロマン主義音楽の行き詰まりを打開し、多くの作曲家に影響を与えた。
ドビュッシーは1862年8月22日にパリ西郊のサンジェルマンアンレーで生まれた。5人兄弟の長男。両親は陶器店を経営。3歳のときに遠くミュンヘンでワーグナー(1813-1883)の楽劇『トリスタンとイゾルデ』が初演され、音楽界の革命となる「調整崩壊」の引き金が引かれた。少年ドビュッシーは小学校に行かず母から基礎教養を学ぶ。
8歳のときにプロイセンとの間に普仏戦争が勃発、パリは包囲攻撃されフランスは敗北する。
1871年(9歳)、父がパリ・コミューンの革命運動に加わり投獄される。この牢獄で、父は詩人ヴェルレーヌの義兄のシャンソン作曲家シヴリーと知り合う。シヴリーの母はショパン門下生のモーテ・ド・フルールヴィユ夫人(ヴェルレーヌの義母)。釈放後、父はシヴリーの口利きでフルールヴィユ夫人に無償でドビュッシーのピアノ教師になってもらった。一年間でドビュッシーの才能はみるみる開花し、1872年(10歳)、パリ音楽院はドビュッシーの演奏力を認め入学を許可する。以降12年間にわたって音楽院で学んだ。
※父が革命に参加して逮捕されてなければドビュッシーの音楽院入学もなかったわけで、人生というのはつくづく分からないもの。

1880年(18歳)、苦学生のドビュッシーは上流社会の声楽教室でピアノ伴奏のアルバイトを始め、そこで18歳年上の美しいヴァニエ夫人(32歳)に魅了された。以降、約10年間ヴァニエ夫人に憧れ続ける。また、この年から3年間、夏の3カ月はチャイコフスキーの有名なパトロン、フォン・メック夫人のお抱えピアニストとして子ども達にピアノを教えるようになった。彼は一家のヴァカンスに同行し、フィレンツェ、ベネツィア、ウィーン、モスクワをまわり、ロシアではチャイコフスキーやロシア五人組の作品に接した。フォン・メック夫人が秋にチャイコフスキーに出した手紙「あの子(ドビュッシー)が帰ってしまうのが残念です。彼の音楽は私をとても喜ばせてくれましたし、それに心の優しい子でしたから」。最終的にドビュッシーがメック夫人の娘(13歳とも)に想いを寄せたことで解雇された。
1883年(21歳)、ワーグナーが69歳で他界。
1884年(22歳)、新進作曲家の登竜門、ローマ賞コンクールに提出したカンタータ『放蕩息子』が第1位に輝く。この賞の受章者は、最大3年間のローマ留学と新作の提出が義務づけられていた。翌年ローマに出発。
1887年(25歳)、ヴァニエ夫人と不倫関係になり熱を上げていたドビュッシーは、パリから遠く離れてローマで暮らすことが耐えられず、留学を2年で切り上げて2月に帰国する。この年、ボッティチェリの名画『春』にインスピレーションを得た交響組曲『春』を作曲。また、ドビュッシーは学校教育を受けなくとも鋭い感受性で難解なマラルメの詩を理解できたことから、マラルメ邸で開かれるサロンに音楽家としてただ1人参加を許された。

1888年(26歳)、学生時代からワーグナーに傾倒していたドビュッシーは、かねてから夢見ていたドイツ・バイロイトに2年連続で行き、ワーグナー音楽の祭典で楽劇(オペラ)を聴く。ドビュッシーはワーグナー作品があまりに感情過多に感じ、フランスの作曲家として、ドイツ音楽にはない新たな方向性のオペラを開拓する必要性を感じる。
この年、後にピアノの人気曲となる分散和音を多用した『アラベスク第1番』を作曲。アラベスクの意味は“アラビア風”。幾何学的文様を反復して作られたイスラム美術の一様式で、モスクの壁面装飾などに見られる。
1889年(27歳)、パリの万国博覧会でインドネシアのガムラン、カンボジアの音楽など東洋のリズムや旋法に触れ、西洋音楽の約束事に縛られない楽想の啓示を得る。前年にはエリック・サティ(1866-1925)がピアノ曲『ジムノペディ』を酒場で初演し、調性や拍子のない音楽に進もうとしていた。また、ロシア語会話のリズム・抑揚を歌曲に取り入れたムソルグスキー(1839-1881)のオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』も創作の導火線となった。音楽以外にも、当時パリで花開いた印象派絵画や日本の浮世絵がイマジネーションを刺激した。
ヴァニエ夫人への憧れは次第に薄れ、この年、お針子の可愛いパリ娘、“緑の目のガビィ”と彼が呼んだガブリエル・デュポンと同棲を始める。

1890年代に入るとドビュッシーの作品は演奏回数が増え、賛否を巻き起こしながら作曲家として認められていく。
1890年(28歳)、ドビュッシーの音楽で最も有名なピアノ作品「月の光」をふくむピアノ曲集『ベルガマスク組曲』を作曲。ベルガマスクは“ベルガモの”という意味。ベルガモはイタリア北部・アルプス山麓の歴史都市の名前。ヴェルレーヌの詩『月の光』の中に「ベルガマスク」という言葉が出てくるため、ドビュッシーの着想のもとになっている。フォーレ(1845-1924 )も同じ詩に刺激され、ドビュッシーよりも3年早く「月の光」を書いている。この組曲はヴァニエ夫人に献呈された。
同年、 夢幻的な雰囲気をたたえたピアノ独奏曲の小品『夢想』を作曲。経済的な苦しさから必要に迫られて書いた作品だが、後に人気曲の一つとなる。
1893年(31歳)、唯一の『弦楽四重奏曲』を作曲。同年、オペラ『ペレアスとメリザンド』の作曲に着手。この革新的作品は完成まで数年を要する。

1894年(32歳)、これまでピアノ曲を中心に書いてきたが、管弦楽法に自信が出てきたため、フランスの象徴派詩人マラルメ(1842-1898)の詩『半獣神の午後』に着想を得た作品に挑む。そして、出世作となる管弦楽曲『牧神の午後への前奏曲』を完成させた。詩の内容は「暑い夏の物憂い午後、森陰に眠っていた牧神が水浴に向かうニンフ(水の精)たちを見る。牧神は愛の女神ヴィナスを抱く法悦の幻想に浸りつつ、森の静寂の中で再びウトウトと眠りにつく」というもの。ドビュッシーは文字を音楽にするのではなく、この詩への“前奏曲”として、詩全体が持つ幻想的、官能的な空気の印象をスケッチした。楽器編成を木管、弦、ハープに絞ることで独特の浮遊感を出し、牧神の象徴「パンの笛」をイメージする楽器としてフルートを重用、けだるさという独自の世界を作り出した。敏感な若い芸術家たちはドビュッシーが快挙を成したことに気づき、音楽面でドイツロマン派に圧倒されていたフランスからの強烈な一撃と讃えた。初演は2度もアンコールに応えるなど大成功に終わり、この1曲でドビュッシーはフランス楽壇の英雄となり、本作はフランス印象派音楽を代表する作品のひとつとなった。作曲家ラヴェル(1875-1937)いわく「私は最初に牧神を聴いたとき、初めて真の音楽とは何かを悟った」。
1899年(37歳)、耽美主義で知られるアメリカの画家ホイッスラーの『青と銀色のノクターン』に着想を得た管弦楽曲『夜想曲』を作曲。「雲」「祭」「シレーヌ」の3曲で構成される。「雲」はセーヌ川の上空をゆっくり流れて消えていく雲を描写。「祭」は行列の賑やかな盛り上がりを描写。「シレーヌ」はギリシャ神話に登場する頭が女性で体が鳥という海の怪物で「セイレーン」とも呼ばれる。美声で船乗りの心を奪って難破させ、集団で襲って来る。演奏では月光をゆらゆらと反射する海面を表す管弦楽と、シレーヌを表す女声合唱(ヴォカリーズ)が融合し、妖しくも美しい作品となっている。
この年、10年もの間苦楽を共にし、献身的にドビュッシーを支えてきたガビィと別れて、彼女の友人でモデル業をしていた金髪のリリー・テクシエと結婚する。リリーは話し上手で愛情にあふれていた。ショックを受けたガビィはピストルで自殺未遂を起こす。

1902年(40歳)4月30日、ベルギーの作家メーテルリンクの戯曲にもとづく全五幕の『ペレアスとメリザンド』初演。ドビュッシーが完成させた唯一のオペラであり、9年の歳月をかけて書きあげた。この作品は言葉が持っている自然な抑揚、つまりフランス語の抑揚の変化がそのまま音の高低やリズムのテンポに反映され、「歌う」というより「語る」ような旋律となっており、「音楽とドラマの完璧な結婚」と讃えられた。独特の透明感のある和声法を駆使し、夢の世界の出来事のような原作の世界観を見事に表現した。
ドビュッシーはワーグナー『トリスタンとイゾルデ』の影響下から脱するため、アンチテーゼとして『ペレアスとメリザンド』を作曲した。ワーグナーの特徴である、やたら大げさな節回しや、物語を分かりやすくするためとはいえ過度に繰り返されるライトモティーフ(人物や事物の固有テーマ音楽)の“くどさ”を排除した。ハイライトのペレアスが愛を告白する場面では「ジュ・テーム(私は愛している)」=「レ・シ♭」のたった2音しか使っておらず、ドビュッシーは「もしワーグナーだったらここで長大なアリアが出てくるだろう」と語っている。ちなみに、『ペレアスとメリザンド』にはオペラの代名詞ともいえるアリアが、第3幕第1場でメリザンドがア・カペラで歌う「私は日曜の正午の生まれ」のわずか一曲しか登場しない。
ドビュッシーにとって『ペレアスとメリザンド』の初演は、原作者メーテルリンクとの衝突という苦難を乗り越えてのものだった。初演に際し、メーテルリンクは愛人かつ歌手のジョルジェット・ルブラン(“怪盗ルパン”の作者モーリス・ルブランの妹)をメリザンド役に要求。だがドビュッシーはイギリス人歌手を起用し、メーテルリンクを怒らせた。初演の7年前にドビュッシーはメーテルリンクから改変許可を手紙で得ていたが、歌手の件で憤慨したメーテルリンクは「あれは白紙委任状ではない」と主張するなど圧力をかけてきた。メーテルリンクはドビュッシーに暴行を加えようと計画したり、初演の2週間前に『フィガロ』紙(フランス最古の新聞)に「派手な失敗を望む」と声明を載せた。

※『ペレアスとメリザンド』…禁断の恋の物語。時代は中世ヨーロッパ、架空のアルモンド王国が舞台。ある日、老王アルケルの孫ゴローは狩りに出て森で迷い、泉のほとりで遠い国の王女メリザンドと出会う。ゴローは髪が長く美しい彼女に心を奪われ、妻として迎え城に戻る。城の泉の側でゴローの弟ペレアスが兄との馴れそめをメリザンドに尋ねると、彼女は恥じらい結婚指輪をいじってるうちに水中に落としてしまった。その夜、狩りで落馬したゴローは、自分を看病する妻の指に指輪がないことに気づき咎める。彼女は「海辺に貝拾いに行って落とした」と嘘をつき、ゴローは「弟と一緒に海辺を探せ」と命じた。夜、城の塔の上でメリザンドが歌いながら髪をすかしているとペレアスがやってくる。2人は互いに手を伸ばし触れようとするが届かず、彼女の長い髪が垂れ下がった。ペレアスが髪を抱き恍惚としていると、ゴローが通りかかってペレアスをたしなめ、翌日に「彼女は妊娠しており、あまり近づかないように」と警告した。その夜、ゴローが先妻の子にメリザンドの寝室の様子を探らせると、ペレアスが彼女の部屋にいることが分かり動揺する。
ペレアスは兄の言葉に従い、翌日遠くへ旅立つ決心をした。ペレアスとメリザンドは最後にもう一度夜の泉のほとりで逢い引きすることを約束する。その後、城の中で老王アルケルとメリザンドが話していると、嫉妬に駆られたゴローがやってきて彼女の髪を掴んで引きずり回して罵った。夜になり、出発前のペアレスがメリザンドに初めて愛を告白し、彼女も同じ想いを伝えて抱き合う。陰で2人を見ていたゴローは剣を抜きペレアスを刺し殺し、メリザンドも傷つけた。その後、ゴローは自らの行為を後悔し、死の床に横たわるメリザンドに許しを乞う。別室で落ち込むゴローを老王アルケルが慰め「お前には魂というものがわかっていない」と諭している最中、メリザンドは誰に看取られることもなく静かに息を引き取った。老王アルケルは悲嘆に暮れるゴローに赤ん坊を見せ「今度はこの子が生きる番だ」と語る。

『ペレアスとメリザンド』でさらなる国際的名声を獲得したドビュッシーは、翌1903年から1910年の7年間を主にピアノ曲の創作に当てた。彼はピアノを打楽器的に扱うこれまでの手法を捨て、デリケートな表現の可能性を追求し、芸術的な高みを目指した。
1903年(41歳)、ピアノ曲集『版画』を作曲。第1曲「塔(パゴダ)」はインドシナの民族音楽を模倣したもの。打楽器ガムランをイメージさせアジアを暗示。第2曲「グラナダの夕べ」はアラビア音階(マカーム)を利用し、ギターを掻き鳴らすような旋律でスペイン情緒を表現。スペインの作曲家ファリャいわく「1小節たりともスペイン民謡は含まれていないのに、作品全体の細部にわたってスペインを見事に描き切っている」。第3曲「雨の庭」はフランスの童謡が引用され、フランスの庭園に降り注ぐ雨が描写されている。
1904年(42歳)、ドビュッシーは裕福な銀行家の妻エンマ・バルダックの虜になる。彼女は同じ42歳。洗練された教養人で、人を惹き付ける魅力を持っていた。エンマは作曲家フォーレの愛人で、長男はフォーレとの不義の子とも噂された。ドビュッシーはこの長男にピアノを教えることになり、母親のエンマと親密になった。6月、ドビュッシーはエンマから贈られた花の礼状を書く。「この花を生きた唇のように抱きしめたことをお許し下さい」。
エンマとの出会いがもたらした官能と高揚感は、ピアノ独奏曲『喜びの島』となった。喜びの島とは、愛の女神ヴィーナスが誕生したエーゲ海のシテール島(キティラ島)のこと。グレゴリオ聖歌の教会旋法を活用しながら装飾音、リズム変化など技巧を駆使し、色彩豊かで細かな音を連ね、幻想的な愛の歓びを表現した。
この年の秋、ドビュッシーは彼を5年間支えてきた妻リリーを捨て、エンマもまた夫と2人の子を捨て、両者は駆け落ちした。エンマのお腹にはドビュッシーの子どもがいた。
リリーはこの衝撃に耐えられなかった。彼女はパリのコンコルド広場でかつてのガビィと同様にピストルで自殺をはかった。2人の女性を自殺未遂に追い込んだことは大きなスキャンダルとなり、多くの友人がドビュッシーから離れていった。ラヴェルはドビュッシーを師と仰ぎながらもリリーを気の毒に思い、生活費を援助していたと伝わる。世間は駆け落ちを批判し、「金持ちになったドビュッシーにはもう良い曲はかけまい」と噂した。パリに居づらくなった2人は一時的にイギリス南岸に逃れ、ドビュッシーはそこでひたむきに自己の芸術の完成を目指した。

1905年(43歳)3月、ドーヴァー海峡に面した英南部イーストボーンの海辺で、近代音楽史上最も重要な作品の1つであり、3年の歳月をかけた管弦楽曲『海〜管弦楽のための3つの交響的素描』が完成する。全体は「海の夜明けから真昼まで」「波の戯れ」「風と海の対話」の3曲で構成されている。海の情景を表した標題音楽であるが、ドビュッシーはロマン派の標題音楽とは異なり、音の断片的なスケッチを使って「雰囲気」そのものを表現しようとした。葛飾北斎の『冨嶽三十六景〜神奈川沖浪裏』が出版されたスコアの表紙に使用され、ドビュッシーの家にもこの大波の浮世絵が飾られているように、北斎の浮世絵にインスピレーションを受けてこの印象主義音楽を代表する作品を書いた。
同じ年、ピアノ曲『映像』第1集を作曲。「水に映る影」「ラモーをたたえて」「動き」で構成。「水に映る影」は水面のきらめきが音で表現され人気が高く、極めて高い演奏力が必要とされる。
ドビュッシーはこの年に前妻リリー・テクシエと正式に離婚し、エンマと再婚。そして出産のためにイギリスからパリに戻り、10月30日、43歳にして初めて一人娘のクロード=エマを授かった。ドビュッシーは歓喜し、愛娘を「シュシュ」(キャベツちゃん)と呼んで溺愛した。
1907年(45歳)、ピアノ曲『映像』第2集を作曲。「葉ずえを渡る鐘」「荒れた寺にかかる月(そして月は廃寺に落ちる)」「金色の魚(錦鯉)」で構成。3曲目の錦鯉は日本の漆器盆に金粉で描かれた鯉に触発されたもの。
同年、妻の叔父が彼女の相続権を奪ったことから、一家は経済的に苦しくなる。以降、ドビュッシーは生活費を稼ぐために、世界大戦が始まるまで7年にわたって自作の指揮者兼ピアニストとして欧州各国へ10回の演奏旅行を行うことになった。

1908年(46歳)、ピアノ小品集『子どもの領分』を作曲。当時3歳のシュシュのために書かれた。6つの小品は「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」「象の子守歌」「人形へのセレナード」「雪は踊っている」「小さな羊飼い」「ゴリウォーグのケークウォーク」で構成されている。第1曲はクレメンティのピアノ練習曲集「グラドゥス・アド・パルナッスム」に挑戦するシュシュが、退屈な練習に閉口する心理を表現。指づかい(運指)の運動になるため、ドビュッシーはこの曲を「毎朝、朝食前に弾くべき曲」と考えていた。第4曲「雪は踊っている」は窓辺で子供たちがしんしんと積もる雪を見ていると、雪の妖精が舞い降りてくるというもの。第6曲「ゴリウォーグのケークウォーク」は、黒人の男の子の人形ゴリウォーグが当時パリのモンパルナス地区で流行していた黒人のダンス“ケークウォーク”を踊ったもの。同年、初めて指揮に挑戦。
1909年(47歳)、直腸ガンを発症。
1910年(48歳)、12曲からなるピアノ小品集『前奏曲集』第1集を作曲。古代ギリシャやイタリアなど各国の舞曲のような曲集。優しい旋律の第8曲「亜麻色の髪の乙女」と、高い芸術性を誇る第10曲「沈める寺」は特に人気が高い。「亜麻色の髪の乙女」のモチーフは最初に同棲したガビィと言われている。後者の第10曲は、ケルト族の伝説に登場する海に沈んだ大聖堂の浮上と、再度の水没を描く。霧の中から大聖堂が少しずつ現れ、聖歌を響かせた後に沈んでいくという、短いながらも壮大な作品となっている。ドビュッシー後期の重要作品。
ドビュッシーは欧州の演奏旅行先から妻子によく手紙を書いた。娘は5歳の可愛い盛り。この年はウィーンから「シュシュにはもうお人形を買ったよ」と報告、ハンガリー・ブダペストでは宿のグチを妻に書いている。「私は窓の外が建物という小さな悲しい部屋に入れられてしまった。しくしく泣くことしか使い道のない部屋だ。私は支配人を呼び、私を自殺に追いやりたいのですか、と言ってやった。その甲斐あってバスルーム付きの良い部屋になったよ」。

1911年、『管弦楽のための映像』を作曲。スコットランド風の「ジーグ」、スペイン風の「イベリア」、フランス風の「春のロンド」の3曲で構成。それぞれ民族音楽風で、単独演奏されることもある『イベリア』事体も「街の道と田舎の道」「夜の薫り」「祭りの日の朝」の3曲で構成されている。「春のロンド」にはフランスの童謡「嫌な天気だから、もう森へは行かない」が使われている。
同年、音楽劇・聖史劇の『聖セバスティアンの殉教』が完成。初演時にユダヤ人女性が主役を演じたことに憤慨したパリ大司教がカトリック信徒に観劇禁止令を出した。
この年、ドビュッシーの友人で作曲家のアンドレ・カプレ(1878-1925)が『子供の領分』をピアノ曲からオーケストラ用に編曲。ちなみにカプレは第一次世界大戦従軍中に毒ガスを吸って神経を冒され46歳で他界している。

1912年(50歳)、ディアギレフが主宰するロシア・バレエ団「バレエ・リュス」が『牧神の午後への前奏曲』を使った「牧神の午後」を上演。主演も務めたニジンスキーの振り付けは、露骨な性的表現が物議をかもした。冒頭で牧神は岩の上で葡萄を食べている。そこへ7人のニンフが現れ水浴を始め、欲情した牧神は嬉々としてニンフを誘惑しようとするが、みんな牧神を恐れて逃げ出してしまう。牧神はニンフが残したヴェールを手に入れて喜び、岩の上にヴェールを敷いてうつ伏せになり、下腹部に手を置いて自慰を思わせる動作の後、腰を痙攣させて絶頂に達した。−−このようにスキャンダラスな振付は前代未聞であり、幕が降りると拍手とブーイングが同時に巻き起こった。問題のラスト以外でも、この舞台はダンサーが古代ギリシャの壺絵のように正面を向かない平面的な動きに終始し、またニジンスキーならではの優雅な跳躍がなかったことも観客を当惑させた。ディアギレフは観客に舞台の素晴らしさを理解させるため、最初からもう1度演技させた。
翌日の『フィガロ』紙は編集長が『牧神の午後』を「常軌を逸した見世物」と痛罵。この酷評に怒ったディアギレフは、彫刻家ロダンと画家ルドンが『牧神の午後』を擁護した文章を手にフィガロ編集部に乗り込んだ。ルドンは「マラルメにこの舞台を見せたい」、ロダンは「ニジンスキーの演技は古代画のような美しさ」と讃えた。2回目の上演からは警察が立会うなど、この騒動が宣伝になって『牧神の午後』の公演チケットは毎回完売となる。(初演後、ラストの表現はマイルドに変更されている)

1913年(51歳)、ピアノ小品集『前奏曲集』第2集を作曲。第1巻と同じく12曲からなり、これで合計24曲、つまりバッハの『平均律クラヴィーア曲集』やショパンの『24の前奏曲』と同じく24曲の前奏曲集となった(ただし24の調性はない)。第2集は第1集以上にドビュッシーの独創性が発揮されている。第1曲はストラヴィンスキーのバレエ音楽『ペトルーシュカ』に感銘を受けて書いた「霧」、第3曲はアルハンブラ宮殿の門をイメージした「ヴィーノ(ワイン)の門」、第4曲は『ピーター・パン』の挿絵から着想を得た「妖精達はあでやかな踊り子」、第9曲の「ピクウィック殿をたたえて」は、ディケンズの小説の主人公をコミカルに描き、イギリス国歌「神よ女王を守りたまえ」を引用している。第10曲「カノープ」は古代エジプトの壺(カノープ)から導かれる悲しみの感情。最後の第12曲「花火」は7月14日のフランス革命記念日の情景で、遠くの賑わいに始まり、夜空に花火があがりフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」が流れる。
この年、演奏旅行で遠方のロシアを訪れ、孤独感から山のように手紙と電報を妻エンマに送った。この時代、列車の中で電報を受け取るシステムがあったが、クロード・ドビュッシーの“クロード”がロシアでは女性名ゆえ、車掌は最初に女性客全員に聞いてまわるため、なかなか受け取れなかったという。モスクワからの手紙「今日は4時間練習した。休憩は5分間だけ。もうヘトヘトで、脚は棒のようだし、頭はドラム缶のようだ。君を抱きしめる力が残っていればいいが、でも君はいないし…」。ペテルブルクからの電報「二つの練習の合間に君にわが愛情のすべてを送る」。

1914年(52歳)、2月にローマで書いた妻への手紙「君の哀れな、年老いたクロードは、とても孤独で君を必要としている。かわいい愛する人よ」。7月28日、第一次世界大戦が勃発。戦争が始まったことで以降の演奏旅行はなくなった。
1915年(53歳)、ドビュッシーにとって唯一の『チェロソナタ』を作曲。
1917年(55歳)、最後の作品となる『ヴァイオリン・ソナタ』を作曲。5月5日、パリにてドビュッシー自身のピアノ伴奏で初演され、これが公に姿を現した最後の機会になった。
1918年3月25日 、第1次世界大戦下のパリで他界。享年55歳。4日後に葬儀があり、最初の墓所ペール・ラシェーズ墓地に眠った。同年11月、終戦。1908年からポーの怪奇幻想小説を元にしたオペラ『アッシャー家の崩壊』の制作に取り組んでいたが、台本だけが完成し、音楽は未完の絶筆となった。
1919年、他界の翌年、愛娘のシュシュがジフテリアに感染し、わずか14歳で旅立った。ドビュッシーの墓はパッシー墓地に改葬された
1920年、少年時代から親友だった作曲家デュカスは、ドビュッシーの追悼のために『牧神の午後への前奏曲』の冒頭を引用したピアノ曲『牧神の遥かな嘆き』を作曲する。
1934年、妻エンマが72歳で他界。ドビュッシー、エンマ、シュシュの3人が同じ墓にて16年ぶりに再会。
1977年、他界から59年後に生前は未出版だったピアノ曲集『忘れられた映像』が出版される。作曲されたのは1894年(『牧神の午後への前奏曲』を書いた年)。「レント」「ルーヴルの思い出」「もう森へは行かない」の3曲で構成され、出版社がこのタイトルをつけた。

音の響きの中に瞬間的イメージをとらえようとしたドビュッシー。調性をあいまいにすることで、夢幻の世界で浮遊する雰囲気を出し、従来の和声法ではなく新たな和声を使って感覚的な音の響きを求めた。現代音楽の様々な技法を先取ることで現代音楽の扉を開く。そして何より、ドビュッシーは音楽上のしきたりにとらわれず、アイデアや技法を果敢に試みる姿勢を通して、後世の作曲家たちに音楽的冒険に挑む勇気を与えた。

〔ドビュッシーの言葉〕
「言葉で表現できなくなったとき、音楽が始まる」
「音楽の本質は形式にあるのではなく色とリズムを持った時間なのだ」

〔墓巡礼〕
ドビュッシーは家族と共にエッフェル塔のすぐ側、トロカデロ広場に面するシャイヨ宮の近くで眠っている。当初はパリ最大のペール・ラシェーズ墓地(1804年開園)に埋葬されていたが、他界翌年(1919年)にパリ16区のパッシー墓地(1820年開園)に改葬された。最寄り駅はメトロのトロカデロ駅。パッシー墓地の入口事務所で地図をもらえる。ドビュッシーの墓は14区画の3列ほど中に入った所。正面はドビュッシーの名前しかないが、背面に妻子の名が刻まれている。左斜め方向の隣りブロックにフォーレの墓がある。
その音楽は、透明かつ繊細、叙情感あふれ、女性に大人気のドビュッシー。だが私生活は2人の女性を自殺未遂に追いやるなど手放しで讃えるのが難しい人物。とはいえ、生み出されたものは音楽史を変えてしまうほどの作品であり、最後の伴侶となったエンマは同い年の中年女性、けっして若い美人女性に走った訳ではない。かろうじて、そこはフォローできる…ということにしておこう。エンマも43歳で出産という高齢出産によく耐えた。そして14歳で早逝した可哀想なシュシュ…。墓の背面に彫られた3人の名前を見て、一家が共に生きたのは10年強と短かったけど、今こうして同じ場所で時を過ごしているのを見ると胸に来るものがあった。

※当時の批評家たちは印象派の画家の絵にたとえて印象主義音楽と呼んだ。
※「印象主義」という言葉はもともと絵画で登場したもので、当初は「印象だけで描き、中身はスカスカ」という“悪口”目的で使われていた。それゆえドビュッシー自身は印象主義という言葉を好まず、自身を象徴派として位置づけていた。
※指揮者ブーレーズ「『牧神』のフルートあるいは『雲』のイングリッシュホルン以後、音楽は今までとは違ったやり方で息づく」
※作曲家メシアンは少年時代のクリスマス・プレゼントに『ペレアスとメリザンド』の楽譜をもらい夢中になったという。作風に大きな影響を受けた。
※ストラビンスキー「私や私と同世代の作曲家たちは、最も多くのものをドビュッシーに負っている」
※ジャン・コクトー「ドビュッシーが一生涯頭の中に隠しておいたただ一人の敵はサティであったのだ」※敵というかライバル
※墓碑銘は“C”と“D”をデザイン化したサインがオシャレ。



★ビバルディ/Antonio Vivaldi 1678.3.4-1741.7.28 (オーストリア、ウィーン 63歳)2002
Vienna University of Technology, Vienna, Wien, Austria

ビバルディが埋葬された墓地は消滅! ウィーン工科大学の壁面に… かつて彼の墓があったというプレート
孤児院で教師をしていたヴィヴァルディが作った曲の大半は、生徒たちのために書かれたもの。ケンカにならぬよう
各楽器ごとに見せ場があるだけでなく、他人と共同する楽しさを教えるためアンサンブルの魅力が存分に発揮されている。

独奏協奏曲の形式を確立したバロック音楽の代表的な作曲家アントニオ・ヴィヴァルディは1678年3月4日にヴェネツィアに生まれた。父の本職は理髪師だがヴァイオリンの名手として有名で、ヴィヴァルディは幼少期から父とその音楽仲間から、演奏と作曲法の英才教育を受けた。
1685年(7歳)、父がヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂のバイオリン奏者に選ばれる。この年、ドイツではバッハとヘンデルが生まれている。
1688年(10歳)、教会附属の学校に入り、15歳で最下級の聖職者となる。22歳で仕立屋の娘さんと結婚、9人の子を授かる。
1703年、25歳のときに司祭となり「赤毛の司祭(Il Prete Rosso イル・プレーテ・ロッソ)」と呼ばれ親しまれた。同年、ヴェネツィアの由緒あるピエタ慈善院(女子孤児院)付属音楽院でヴァイオリンを教え始める。以降、1740年まで37年の間、断続的に同院のヴァイオリン教師、パートタイムの協奏曲長、さらにフルタイムの合奏長(音楽監督)を務め、毎週ひらかれる女子孤児達の学内コンサートのために協奏曲やオラトリオを作曲し、演奏・リハーサルを指導した。この間に国際的名声を確立する。
※ピエタ慈善院…1346年設立。赤ちゃんポストのある孤児院。男子は職業訓練を受け16歳で出て行き、女子は未婚の場合生涯を同院で過ごす。ピエタ慈善院の運営費をまかなうため、音楽面に才能を見せた女子を付属音楽院で「合奏・合唱の娘たち」の一員に育てた。付属音楽院のコンサートの収益が運営を大きく支えたことから、ヴィヴァルディは熱心に生徒の才能を伸ばした。「合奏・合唱の娘たち」の平均年齢は約40歳であり、名前から想像する少女オーケストラとはちょっと異なる。非常にハイレベルな楽団であり、ジャン=ジャック・ルソーも演奏を聴くため足を運んだ。ちなみに音楽の才能のない子は「手工芸の娘たち」となった。
1705年(27歳)、ヴィヴァルディはピエタ音楽院の生徒用に作曲した全12曲の『トリオ・ソナタ集』を、作品1としてヴェネツィアで出版する。トリオ・ソナタの開拓者コレッリ(当時52歳/1653-1713)の影響を受けたもの。
1709年(31歳)、12曲の『ヴァイオリンソナタ集』作品2を出版。
1710年(32歳)頃、『オーボエ協奏曲ヘ長調』(RV 455)を作曲。明るい。https://www.youtube.com/watch?v=JGwlKo8muVM
1711年(33歳)、全12曲の協奏曲集『調和の霊感』(L'estro Armonico/作品3)をアムステルダムで出版。半数の協奏曲がコレッリの合奏協奏曲(コンチェルト・グロッソ)と似ており影響を受けてる。
第6番『ヴァイオリン協奏曲 イ短調』(RV 356)は独奏ヴァイオリンがひとつであるため「ヴァイオリン協奏曲」と呼ばれている。古典的な協奏曲の中で最も古い作品であり、第一楽章は多くのヴァイオリン学習教本に載っている。
https://www.youtube.com/watch?v=BL-KzcwHDbY (7分半)1711年 - (33歳)
第8番『2つのヴァイオリンのための協奏曲』(RV 522)バッハはこの曲を「オルガン協奏曲第2番」に編曲した。
第10番『4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲』(RV 580)バッハは20年後の1731年、この曲を「4台のチェンバロのための協奏曲」に編曲している。
https://www.youtube.com/watch?v=N9fsy1mmAcc (10分55秒)スターン、ギトリス、ミンツ、イダ・ヘンデルの共演。音色が艶っぽく美しい。
https://www.youtube.com/watch?v=wC8lZ748lBE#t=6m53s (14分38秒)一番好きなとこを自分用に頭出し。謎の楽団。僕はここ、遅ければ遅いほど好きなんです!たぶんこれが一番遅い。しかもアップ主が直後に70秒間の空白設定。
https://www.youtube.com/watch?v=9nvYfmqIbWU (12分)ヴェンゲーロフとギル・シャハムとシュロモ・ミンツが動画で共演しているだと!?
https://www.youtube.com/watch?v=86Aqf2GTmCs (9分21秒)超早いのが好きな人に。切れ味バツグンの演奏。ライブ動画。カメラもいい。
https://www.youtube.com/watch?v=GWZTyiMXulQ (10分47秒)ライブ動画を見ると99%が女性の楽団。ヴィヴァルディは女子孤児院の音楽監督だから当時はこんな雰囲気だったかも。
https://www.youtube.com/watch?v=mHAsO0yqPwQ (4分)変わり種。シンセサイザーに編曲。天才か!
https://www.youtube.com/watch?v=7OwQOb6bd1M#t=5m09s バッハ編曲版「4台のピアノ(チェンバロ)のための協奏曲」のハイライト頭出し
第11番『2つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲』(RV 565)傑作と僕は叫びたい!バッハは「オルガン協奏曲第5番」に編曲した。
https://www.youtube.com/watch?v=Qe-dimakSco(9分16秒)冒頭から引き込まれる!そして第3楽章のフーガはバッハそっくり、いやバッハ(当時26歳)が似ているのか。
1712年(34歳)頃、『調和の霊感』のヒットを受けて作品4『ヴァイオリン協奏曲ラ・ストラヴァガンツァ』(全12曲)をアムステルダムで出版。ラ・ストラヴァガンツァとは“奇妙”の意。
※『ラ・ストラヴァガンツァ:ヴァイオリン協奏曲 第1番』(RV 383a)https://www.youtube.com/watch?v=8-zyaJlhzqw(9分)
※『ラ・ストラヴァガンツァ:ヴァイオリン協奏曲 第2番』(RV 279)https://www.youtube.com/watch?v=H1Q4kIwTqrI(11分20秒)
※『ラ・ストラヴァガンツァ:ヴァイオリン協奏曲 12番』(RV 298)歌心たっぷりの第2楽章:頭出し済 https://www.youtube.com/watch?v=8AnS7Dh5MFQ#t=3m02s
同年、13世紀中世の修道士トーディが書いた感動的な詩、『スターバト・マーテル(悲しみの聖母)』に曲を付ける。ヴィヴァルディ初の本格的な宗教曲であり、十字架の下にたたずみ悲しみに沈むマリアの姿を切々と歌う。
もう歌の出だしから泣けてくる。目の前で子を失った母親の悲しみを思うと、キリスト教徒じゃなくても胸にくる。
Stabat mater dolorosa(悲しみの母は立っていた)
iuxta Crucem lacrimosa,(十字架のかたわらで、涙にくれ)
dum pendebat Filius.(わが子が架けられている間ずっと…)
※ヴィヴァルディの他にも、パレストリーナ、ペルゴレージ、ハイドン、ロッシーニ、ドヴォルザークなど多くの作曲家がこの詩に曲を付けている。
 
1713年(35歳)、コレッリがローマで他界し、ヴェネツィアに埋葬される(享年59歳)。最初のオペラ『離宮のオットー大帝』を初演(ウィキにはオペラ処女作『オルランド・フリオーソ』となっている)。以後はオペラの作曲と上演にも積極的にたずさわり、自作オペラ上演のためにローマ、マントヴァなどへもでかけた。ピエタ慈善院から依頼を受けこの頃より宗教曲も作曲を開始。次第に作曲家として名声がヨーロッパに広がり始める。バッハもヴィヴァルディの楽譜を入手して研究していた。
1714年(36歳)、父を継いで一時サン・マルコ大聖堂のヴァイオリニストとなる。
1716年(38歳)、ピエタ音楽院の合奏長・合唱長に就任。同院のためにオラトリオ『敵の将軍ホロフェルネスに勝って帰るユーディト』を作曲。ヴィヴァルディの4つのオラトリオの中で唯一現存するもの。聖書の『ユディト記』に基づく、アッシリアの将軍ホロフェルネスの首を取ったユダヤの勇気ある女性ユディトの物語。2時間を超える大曲(https://www.youtube.com/watch?v=-WDKWqE0fys )。
1718年(40歳)、ヴェネツィアを離れ、マントヴァでヘッセン=ダルムシュタット方伯の宮廷楽長として2年間奉職する。
1720年(42歳)頃、『ファゴット協奏曲』を作曲、ファゴット協奏曲の先駆者となる。ファゴットは地味な印象の楽器だけど、ヴィヴァルディはドラマチックな曲調で縦横無尽に活躍させている。
※『ファゴット協奏曲 ニ短調』(RV 481)冒頭のツカミが完璧 https://www.youtube.com/watch?v=cBJ7SR0qQXo(10分35秒)
※『ファゴット協奏曲 ホ短調』(RV 484)第一楽章が特に良い https://www.youtube.com/watch?v=YWlsLJlpyPU(11分32秒)
この頃、『2つのトランペットのための協奏曲』(RV 537)を作曲。ヴィヴァルディ作品で管楽器の協奏曲というのは珍しい。
※『2つのトランペットのための協奏曲』華やかです!https://www.youtube.com/watch?v=rARdjwQWX9o(7分)
同じくこの頃『弦楽のための協奏曲 アラ・ルスティカ(田園風)』を作曲。
※『アラ・ルスティカ(田園風)』小曲に光、ありがとうカラヤン&ベルリン・フィルhttps://www.youtube.com/watch?v=07fHn91uiVw (5分11秒)
1723年(45歳)、翌年にかけてローマで3本のオペラを初演。ローマ教皇に御前演奏。この年から1740年まで17年ほど欧州を旅行。同年、ピエタ慈善院との契約で、協奏曲を月に2曲提供すること(郵送可)や、コンサート前のリハーサル指導を取り決める。
1725年(47歳)、ローマ・サンタンジェロ劇場の作曲家兼興行主となる。同年、代表曲「四季」を含む12曲のヴァイオリン協奏曲集『和声と創意の試み』(Il cimento dell'armonia e dell'inventione)作
品8をアムステルダムで出版。この協奏曲集の第1番から4番までが『四季』。『四季』には各々ヴィヴァルディ自身のソネット(十四行詩)が付いている。以下に要約。
「春」…春の到来だ!小鳥も喜んで歌っている。小川のせせらぎ、そよ風も最高。
「夏」…この猛暑はきつすぎる。カンカン照りで人間も羊もぐったり。そして恐ろしい夏の嵐!雷!ヒョウ!勘弁してくれ!
「秋」…収穫が終わって村の秋祭り。狩りもするよ。
「冬」…凍てつく寒風が吹きすさび歯はガチガチ。一方、家の中の暖炉の炎は暖かい。もうすぐ春ですなあ。
※イ・ムジチ合奏団の『四季』ザ・王道 https://www.youtube.com/watch?v=s6q0HBADw5s (43分41秒)
※『四季』オリジナル手稿譜を使った革命児ファビオ・ビオンティ率いるエウローパ・ガランテの演奏
『四季』及び第5番「海の嵐」と第7番含むhttps://www.youtube.com/watch?v=GIQU_mCR6Gg (51分)
※ビオンティ軍団のライブ動画 https://www.youtube.com/watch?v=SLP7c0o1Xq0(40分)独自解釈、あまりのアグレッシブさに最初は仰天したが、気がつけばやみつきに。
※上記の『夏』第3楽章頭出し。チェンバロ完全バトルモード、全員バーサーカー(狂戦士) https://www.youtube.com/watch?v=SLP7c0o1Xq0#t=16m42s
※上記の『冬』すごい緊張感。切り刻まれる感じ。https://www.youtube.com/watch?v=SLP7c0o1Xq0#t=30m40s
『和声と創意の試み 第8番』(RV 332)僕は名曲と思う。楽章ごとに趣がある。https://www.youtube.com/watch?v=gWOBpZRBR2Y(9分42秒)
 
1727年(49歳)、全12曲のヴァイオリン協奏曲集『チェートラ』作品9を出版。『チェートラ』の中では第12番が抜群にいい。
※『チェートラ(ヴァイオリン協奏曲 ロ短調) 第12番』(RV 391)最後の1分強のヴァイオリン独奏がたまらない(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=WvpnEJ1i7jg#t=10m36s
 
28年(50歳)トリエステで神聖ローマ皇帝カール6世(マリア・テレジアの父親)に謁見。手書きの『チェートラ』を音楽好きのカール6世に献呈。
1729年(51歳)頃、史上初となる『フルート協奏曲』(全6曲/作品10)の楽譜を出版する。また、生前出版された楽譜としては最後となる「作品11」と「作品12」のヴァイオリン協奏曲集が出版される。
※『フルート協奏曲第2番 夜』(RV 439)夜の雰囲気たっぷり。傑作。https://www.youtube.com/watch?v=3zcO4UIGhck (11分)
※『フルート協奏曲第3番 ごしきひわ』(RV 428)鳥の声に満ちた作品。さぞかし孤児院の生徒達に人気だったろう。ゴシキヒワはアザミの実を食べるためキリスト受難の象徴でもある。https://www.youtube.com/watch?v=vYrvOQiCx4I (8分半)
1730年(52歳)、『ギター協奏曲』(RV 93)を作曲。この年、オペラを上演するためプラハに向かう。
※『ギター協奏曲』第2楽章、秋の午後に林道の落ち葉の上を散歩しているみたいhttps://www.youtube.com/watch?v=X5J3Y_amFOI#t=3m43s
※リュート版。こちらもグッド。https://www.youtube.com/watch?v=AO9YC-CLTFI#t=3m15s
 
1735年(57歳)、イタリア各都市でオペラ上演を行った後、再びピエタ慈善院の協奏曲長に任ぜられる。
1738年(60歳)、ピエタ慈善院の協奏曲長を辞する。イタリアではヴィヴァルディらヴェネツィアのオペラより、ナポリのオペラが人気になっていく。
1740年(62歳)、ヴェネツィア訪問中のザクセン選帝侯の為に協奏曲3曲とシンフォニア1曲の作曲をピエタ慈善院から依頼される。同年秋、自作オペラのウィーン公演のためヴェネツィアを発つ。ところが、大変ことが起きる。10月20日にヴィヴァルディのよき理解者だった神聖ローマ帝国皇帝カール6世が55歳で崩御したのだ。このため、オーストリアは国家として1年間喪に服し、その間は全ての興業が禁止された。ヴィヴァルディはオペラ興行主として大道具やギャラに投資しており打撃を受ける。そのうえ次期皇帝をめぐって「オーストリア継承戦争」が勃発し、国内は戦争一色となりオペラどころではなくなった。同年、ヴィヴァルディに無断で『チェロ・ソナタ集』がパリで出版される。
※『チェロ・ソナタ集』 https://www.youtube.com/watch?v=h9uhSDeH6nk(71分)
1741年7月28日、ヴィヴァルディはウィーンでオペラ上演を実現できないまま病に伏せ、市民向けの歌劇場「ケルントナートーア劇場」(ベートーヴェン『第九』が初演された劇場。現存せず)が所有する作曲家宿舎で他界する。享年63歳。故郷ヴェネツィアであれば大きな葬儀になったと思われるが、旅先のウィーンであり、しかも真夏であったため、葬儀は簡単に終わり、翌日には病院付属の貧民墓地に埋葬された。ヴィヴァルディの亡骸はヴェネツィアに戻れなかった。
1751年、アルビノーニがヴェネツィアで他界。享年79歳。
残念ながらヴィヴァルディは18世紀末から19世紀末にかけて、バッハと同様に世間から忘れさられた。メンデルスゾーンの奮闘でバッハ再評価が進んだ際に、バッハが編曲の原曲としたヴィヴァルディ作品にも光が当たった。
1939年(没後198年)、当時のイタリアの作曲家カセッラがヴィヴァルディの声楽曲『グローリア』を初演する。この曲はカセッラがトリノ国立博物館のヴィヴァルディの楽譜を調査中に偶然発見したもの。
※『グローリア』 https://www.youtube.com/watch?v=Tu6yiS1Q3dA 全曲(30分)
※『グローリア』第2曲「地上には善意の人々(Et in terra pax)」。非常に美しい!“地上の善意の人に平安あれ”と歌う。 https://www.youtube.com/watch?v=vv-dq4JdkyM (5分)
1955年、世界で初めて『四季』をイ・ムジチ合奏団が録音。レコードは2500万枚以上を売り上げ、ヴィヴァルディはクラシックファン以外にも知られるようになった。
 
【作曲年不明】
『ヴィオラ・ダモーレ協奏曲 イ短調』(RV 397)ええやん、このギコギコな感じ!ええやん! https://www.youtube.com/watch?v=VeUD6W83yAc (8分)
『ヴィオラ・ダモーレ協奏曲 ニ短調』(RV 394)全編変化があっていい、クオリティ高し https://www.youtube.com/watch?v=26z7eGuPrig (10分)
『2つのオーボエのための協奏曲 イ短調』(RV 536)ヴィヴァルディのオーボエ協奏曲15曲中の代表作 https://www.youtube.com/watch?v=c6_LzscVW8I (6分12秒)
『2つのオーボエと2つのクラリネットのための協奏曲』(RV 559)バロック音楽史上最初のクラリネット協奏曲 https://www.youtube.com/watch?v=M2o3jQLgZu4 (3分26秒)
『2つのマンドリンのための協奏曲』(RV 532)こんな曲まで作ってるヴィヴァルディ先輩の守備範囲、ハンパねえっす! https://www.youtube.com/watch?v=bhUkBw58kIM (10分17秒)
3楽章形式の協奏曲を確立し、独奏者が華やかな技巧を披露するカデンツァを他の作曲家に先駆けて導入したヴィヴァルディ。急・緩・急の3つの楽章を特徴とし、ヴァイオリン協奏曲は、清々しいメロディ、躍動するリズム、巧みなソロ、管弦楽の音色の輝かしさで知られる。生涯に膨大な作品群を遺し、未完、紛失、偽作、共作(オペラ)の作品を含めると、発見されているものだけで800曲以上にも及ぶ。500曲以上が協奏曲で、うち300曲余りが独奏協奏曲。その中の220曲がバイオリン協奏曲で、残りはチェロ、オーボエ、フルートなどのための曲。これらはヨーロッパ中で協奏曲の手本とされた。 現存するオペラも52作あるが、ヴィヴァルディは94作のオペラを書いたと手紙に記している。年上の作曲家の作風にさえ影響を与えた。
ヴィヴァルディいわく「写譜屋が写譜を行っている間に、協奏曲の全パートを作曲できる」。自筆譜の筆跡は縦線ですら歪みまくったかなりの悪筆。アンチ派は「(どの曲も似通っており)600曲の協奏曲を作曲したのでなく、1曲を600回作曲したにすぎない」と批判しているが、使用楽器は多岐にわたり、僕はかなり変化に富んでいると思う。合奏協奏曲とヴァイオリン協奏曲の完成者であり、ヴィヴァルディの作品は国際的に有名になり、多くのドイツの作曲家がヴィヴァルディの形式で協奏曲を書くようになるなど、音楽史への影響は計り知れない。
 
1740年秋、ヴィヴァルディは自作オペラのウィーン公演のためヴェネツィアを発った。ところが、大変ことが起きる。10月20日にヴィヴァルディのよき理解者だった神聖ローマ帝国皇帝カール6世が55歳で崩御したのだ。このため、オーストリアは国家として1年間喪に服し、その間は全ての興業が禁止された。ヴィヴァルディはオペラ興行主として大道具やギャラに投資しており打撃を受ける。そのうえ次期皇帝をめぐって「オーストリア継承戦争」が勃発し、国内は戦争一色となりオペラどころではなくなった。
翌1741年7月28日、ヴィヴァルディはオペラ上演を実現できないまま病に伏せ、市民向けの歌劇場「ケルントナートーア劇場」(ベートーヴェン『第九』が初演された劇場)が所有する作曲家宿舎で他界する。享年63歳。故郷ヴェネツィアであれば大きな葬儀になったと思われるが、旅先のウィーンであり、しかも真夏であったため、葬儀は簡単に終わり病院付属の貧民墓地に埋葬された。
 
33年後、1774年に皇帝ヨーゼフ2世はウィーン城壁内及びその周囲(現在の第3区から第9区まで)のすべての墓地を衛生上の理由から閉鎖・移設するよう命じたため、城壁に隣接した病院の墓地も取り壊された。ヴィヴァルディの墓石は他の墓地から見つかっておらず、また改葬されたという記録もないことから、そのまま眠っている可能性が高い。その後、1815年に国立「ウィーン工科大学」が当地に開校。この工科大学には“ワルツ王”ヨハン・シュトラウス2世や物理学者ドップラーが入学しており、ある意味彼らはヴィヴァルディの墓の上で勉強していたことになる。工科大学は毎年ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートが催されるクラシック・ファンの殿堂「ウィーン楽友協会ホール」と200mしか離れておらず、レッセルパークを挟んで向き合っている。音楽の都ウィーンを象徴する聖地・楽友協会ホールに、全作曲家の中で最も近い場所に眠っているヴィヴァルディ。故郷ヴェネツィアには帰郷できなかったけれど、音楽家として少しでも慰めになっていたらと願ってやまない。
 
〔墓巡礼〕
1741年にヴィヴァルディがウィーンの病院付属の貧民墓地に埋葬されてから33年後、1774年に皇帝ヨーゼフ2世はウィーン城壁内及びその周囲(現在の第3区から第9区まで)のすべての墓地を衛生上の理由から閉鎖・移設するよう命じた。そのため、城壁に隣接した病院の墓地も取り壊される。ヴィヴァルディの墓石は他の墓地から見つかっておらず、また改葬されたという記録もないことから、そのまま眠っている可能性が高い。
その後、1815年に国立「ウィーン工科大学」(現在約3万人在学)が当地に開校。この工科大学には“ワルツ王”ヨハン・シュトラウス2世や物理学者ドップラーが入学しており、ある意味彼らはヴィヴァルディの墓の上で勉強していたことになる。工科大学は毎年ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートが催されるクラシック・ファンの殿堂「ウィーン楽友協会ホール」と200mしか離れておらず、レッセルパークを挟んで向き合っている。音楽の都ウィーンを象徴する聖地・楽友協会ホールに、全作曲家の中で最も近い場所に眠っているヴィヴァルディ。故郷ヴェネツィアには帰郷できなかったけれど、音楽家として少しでも慰めになっていたらと願ってやまない。

ヴィヴァルディの生誕300年にあたる1978年、工科大学の外壁に以下の言葉が刻まれた石板が設置された。
『AN DIESER STELLE BEFAND SICH BIS 1789
DER BURGERSPITALS-ODER
ARMEN SUNDER-GOTTESACKER
ANTONIO VIVALDI
GEBOREN AM 4 MARZ 1678 IN VENEDIG
WURDE HIER AM 28 JULI 1741 BEGRABEN
ZUM 300 GEBURTSTAG GEWIDMET VON DER CREDITANSTALT-BANEVEREIN』
《この場所に1789年まで、市民のための病院、あるいは、哀れな罪人のための神の城があった
アントニオ・ビバルディ
1678年3月4日にヴェネチアに生まれ、1741年7月28日にこの地に葬られた
生誕300年の日にバーネ協会信用金庫が、ここに贈る》
※ドイツ在住のピアニストMさんが翻訳して下さいました!ありがとうございました!



★ラヴェル/Maurice Joseph Ravel 1875.3.7-1937.12.28 (フランス、パリ郊外 62歳)2002&09
Cimetiere de Levallois-Perret, Paris, France

  


2002 大雨だった 2009 正門をくぐって右前方に眠っている

「オーケストラの魔術師」、フランス近代音楽の鬼才。20世紀の音楽に多大な影響を与えたフランス印象派の作曲家。精緻な作風はストラビンスキーに「スイス製の時計のように精密な音楽」と評された。1875年3月7日、スペイン国境に近い南仏ピレネー地方ののシブールで生まれる。父ジョセフはスイス系、母マリーはスペイン系で、幼少期のラヴェルは母が歌うスペイン民謡を聴きながら育った。音楽好きの父の影響で7歳からピアノを始める。
1889年、ラヴェルに音楽の才能を見出した両親は、息子が音楽の道に進むことを応援し、14歳の彼をパリ音楽院に送り出した。同年、パリ万国博覧会でインドネシアのガムランなどアジアの民族音楽を聴き、西洋と異なる音階や和音に刺激を受けた。13歳年上のドビュッシー(当時27歳/1862-1918)もこの万博で芸術の霊感を得ている。なお、この前年(1888年)に22歳のエリック・サティがピアノ曲『3つのジムノペディ』を、2年後に『グノシエンヌ』を作曲しており、調性や拍子、小節線のない音楽に進み始めている。
1891年(16歳)、音楽院の予科から本科に移籍し、ピアノと和声学を学ぶ。
1893年(18歳)頃、現存する最初のピアノ曲『グロテスクなセレナード』(原題はセレナードのみ)を作曲。各フレーズがすぐに中断されるため、ラヴェエルはグロテスクと形容した。
1895年(20歳)、ピアノ独奏曲『古風なメヌエット』を作曲し、これが最初の出版作品となった。彼は実質的なデビュー作であるこの曲に愛着を持ち続けていたらしく、作曲から30年以上も経ってから管弦楽化している。同年、本科に入ってここまで何の賞も獲ることができず、学則に従って音楽院を中退する。
1898年(23歳)、音楽院に再入学し、作曲をフォーレに師事、その作品に強く影響を受ける。必修科目のフーガは音楽院院長のデュボアが教えていたが、ラヴェルは0点をつけられ、聴講生としてフォーレのクラスに残った。フォーレはラヴェルの個性を自由に伸ばし、音の色彩に対するラヴェルの鋭い感覚に磨きをかけた。この年、国民音楽協会の演奏会で作曲家として公式デビューを果たす。

1899年(24歳)、ピアノ曲『亡き王女のためのパヴァーヌ』を作曲。パヴァーヌとは16世紀のヨーロッパの宮廷で親しまれていた行列舞踏のこと。ラヴェルは「昔、スペインの宮廷で小さな王女が踊ったようなパヴァーヌ」と語っており、曲名からイメージする王女の死を悼むものではない。ラヴェルがルーヴル美術館で観賞したベラスケス作のマルガリータ王女の肖像画にインスピレーションを得たという。古風な旋律に古いスペインへのノスタルジーが込められている。この曲はパトロンのポリニャック公爵夫人に捧げられた。
1900年(25歳)、新進作曲家の登竜門「ローマ賞」に挑むが落選。入賞できなかったために音楽院のクラスを除籍される。
1901年(26歳)、聴講生として再びフォーレに師事。ピアノ曲『水の戯れ』(原題の意味は“噴水”)を作曲しフォーレに献呈する。ラヴェルは譜面の冒頭にレニエの詩「河の神は水にくすぐられて笑う」を引用した。古典派のソナタの構造をなぞりつつ、輝かしい音色で噴水のきらめきを技巧的に描写し、並行和声の多用という当時斬新な試みがされており、ピアノ技法に新時代を切り開いた。ラヴェルの精密、精巧なピアノ技法が完全に開花した金字塔的な作品であり、一般的にピアノ音楽の印象主義の幕開けとして認知されているドビュッシーの組曲『版画』(1903)よりも、ラヴェルの方が2年も先んじている。このように『水の戯れ』は先輩のドビュッシーにも大きな影響を及ぼしたが、サン=サーンスからは「不協和音に満ちた作品」と酷評された。同年、2回目のローマ賞に挑み、カンタータ『ミラ』で3位に入賞。
1902年(27歳)、3回目のローマ賞挑戦は本選に入賞できず。
1903年(28歳)、『弦楽四重奏曲』を作曲しフォーレに捧げた。ラヴェルは10年前にドビュッシーが作曲した弦楽四重奏曲に啓発され、この作品を書きあげた。ドビュッシーは最大限の賛辞を贈る。「音楽の神々の名とわが名にかけて、一音符たりとも変える必要がない完璧な作品です」。同年、4回目のローマ賞挑戦も本選に入賞できず。
1904年(29歳)、ラヴェルの代表的な声楽曲の一つ、管弦楽伴奏歌曲集『シェヘラザード』を作曲。ソプラノ用の声楽曲で第1曲「アジア」、第2曲「魔法の笛」、第3曲「つれない人」の3曲で構成されている。ラヴェル特有の色彩感のある管弦楽法が発揮され、当時のフランス音楽界の代表的な保守派さえ「ラヴェル氏の作品中で最良のもの」と価値を認めた。この年、ドビュッシーが銀行家の妻(フォーレの愛人)と駆け落ちし、ドビュッシーの妻リリーがパリのコンコルド広場でピストルで自殺をはかる。ラヴェルはドビュッシーを音楽家として尊敬しながらもリリーを気の毒に思い、彼女の生活費を援助した。同年はローマ賞への応募を見送る。

1905年(30歳)、音楽史に名を残す「ラヴェル事件」が起きる。ローマ賞の応募資格は30歳までであり、この年がラヴェルにとって同賞の最後の挑戦となった。ところが、結果は大賞どころか予選段階で落選してしまう。学校側はラヴェルの前衛的な作品に対する反感から、最終試験の受験を拒否したのだ。既に『水の戯れ』や『亡き王女のためのパヴァーヌ』などを発表し、「国民音楽協会」の演奏会で才能を認められていたラヴェルが予選落ちしたことは大きな波紋を呼び、作家ロマン・ロランら知識人がラヴェル擁護の抗議文を書いた。しかも、この時の本選に進んだ6名全員が音楽院の作曲科教授かつ審査員のシャルル・ルヌヴー門下生であったことがコンクールの公正さの点からも問題視された。パリ音楽院院長のテオドール・デュボワは辞職に追い込まれ、後任にラヴェルの師フォーレが就き、音楽院改革が始まる。フランス音楽界において、ローマ賞を逃し続けたラヴェルの作品は、パリ音楽院のトップの椅子と同じ価値を持つまでになっていた。
同年、音楽院を卒業し、ピアノ組曲『鏡』を作曲。「蛾」「悲しげな鳥たち」「海原の小舟」「道化師の朝の歌」「鐘の谷」の5曲で構成。「海原の小舟」では『水の戯れ』に続いて水の表現に挑んだ。「道化師の朝の歌」は単独で演奏されることも多い。この2曲は後に管弦楽に編曲された。
この年に作曲されたハープとフルート、クラリネットおよび弦楽四重奏のための七重奏曲『序奏とアレグロ』は、現代のハープの原型となったエラール社のペダル付きハープの普及のために同社より依嘱された室内楽曲で、ハープ協奏曲ともいえる。現在、NHKがBSの『クラシック倶楽部』でオープニングテーマとして使用している。
同じくこの年のピアノ曲『ソナチネ』は、雑誌が主催した作曲コンクールのために書き上げたもので、ラヴェルだけが入選した。彼は古典的な形式を現代的に復興させた。
※「ソナチネ」とは「小さいソナタ」の意。

1907年(32歳)、1幕のオペラ『スペインの時』を作曲。時計屋の浮気な妻と彼女に言い寄る2人の間男のドタバタ喜劇。この年、前年に第二ラヴェル事件。1906年作曲した歌曲集《博物誌》が聴衆にもドビュッシーにも批判され、マスメディアを賑わす。
1908年(33歳)、習作をのぞく最初の管弦楽曲『スペイン狂詩曲』を作曲。高い評価を得て、初期の出世作となる。第1曲「夜への前奏曲」、第2曲「マラゲーニャ」、第3曲「ハバネラ」、第4曲「祭り」の4曲で構成。第1曲の主題が各曲に再登場する(ハバネラを除く。この曲だけ旧作の再利用)。マラゲーニャはスペインの民族ダンス、終曲では祭の日の賑やかな市場が色彩豊かに描かれる。初演ではアンコールに応えて「マラゲーニャ」が演奏された。この曲を聴いたスペインの作曲家ファリャは「スペイン人以上にスペイン的だ」と感嘆した。同年、父が他界。
※『スペイン狂詩曲』 https://www.youtube.com/watch?v=2rEc_vksrnc

同年、ラヴェル初期のピアノ曲の最高傑作であり、演奏に超絶技巧が求められるピアノ組曲『夜のガスパール』を作曲。フランスの詩人ルイ・ベルトランの遺作詩集(1842年刊行)から題材を得て、第1曲「オンディーヌ」、第2曲「絞首台」、第3曲「スカルボ」の組曲とした。形式は古典的なピアノ・ソナタを意識しつつ、標題音楽でもあり、和音には印象派のエッセンスが入っており、これらが高次元で融合している。
「オンディーヌ」は水の精。人間の男に恋をし、結婚して湖の王になってくれと告白するが、男に断られるとしばらく泣いた後に大声で笑い、豪雨の中を消え去る。『水の戯れ』、『洋上の小舟』(『鏡』)と合わせて“水3部作”と呼ばれる。「絞首台」は冒頭から最後まで葬送の鐘が鳴り響き、風の音や死者のすすり泣きがそこに混じる。「スカルボ」は自由に飛び回る小悪魔を描く。ラヴェルは「スカルポ」について、当時“難曲の中の難曲”として知られたバラキレフの『イスラメイ』を上回る超絶技巧を要求しており、友人に「『夜のガスパール』の作曲の目標は、『イスラメイ』以上の難曲を書き上げること」と話している。急速な連打音やアルペジオの複雑な運指が演奏者を青ざめさせる。
『夜のガスパール』から「スカルポ」
https://www.youtube.com/watch?v=hKgcHjq1xKQ#t=14m28s (約10分)
バラキレフ「イスラメイ」楽譜つき https://www.youtube.com/watch?v=chN3b-WQmik (7分51秒)
バラキレフ「イスラメイ」演奏映像、ラストスパート
https://www.youtube.com/watch?v=O5raMK4Z9co#t=4m59s //https://www.youtube.com/watch?v=O5raMK4Z9co#t=6m35s

1909年(34歳)、「フランス音楽の創造」を掲げる国民音楽協会が保守化したことから、ラヴェルは同協会を退会し、自身が中心となって独立音楽協会を結成した。初代総裁に恩師フォーレが就任。独立音楽協会は「現代的な音楽の創造を支持すること」を目標とする。役員にはシェーンベルク、ファリャ、ストラヴィンスキーらが名を連ねた。
1910年(35歳)、「マザー・グース」を題材にしたピアノ連弾用の組曲『マ・メール・ロワ(マザーグース)』を作曲。子ども好きのラヴェルが友人夫妻の幼い姉弟のために書き、独立音楽協会の第1回演奏会で初演された。第1曲「眠れる森の美女のパヴァーヌ」、第2曲「親指小僧」、第3曲「パゴダ(中国製の首振り陶器人形)の女王レドロネット」、第4曲「美女と野獣の対話」、第5曲「妖精の園」。第5曲は眠りについた王女が王子の口づけで目を覚ますシーンが華やかに描かれ終曲となる。
同年、『亡き王女のためのパヴァーヌ』を管弦楽に編曲。
1911年(36歳)、8曲のワルツからなるピアノ独奏曲『優雅で感傷的なワルツ』を作曲。独立音楽協会で初演された際に作曲者の名を伏せ、演奏後に作曲者を当てるユニークな企画が催され、サティと回答する人もいた。同年、『マ・メール・ロワ』を管弦楽曲に編曲。終曲「妖精の園」に素晴らしいオーケストレーションが施され、壮麗な大団円で締めくくられる。

1912年(37歳)、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の主宰者ディアギレフの依頼を受け、印象主義的なバレエ音楽『ダフニスとクロエ』(全3場)を作曲。初演の振付はフォーキン、ダフニスをニジンスキー、クロエをタマーラ・カルサヴィナが演じた。物語は古代ギリシアの神聖な森のはずれにある牧場が舞台。第1部「パンの神とニンフの祭壇の前」では羊飼いのダフニスとクロエの踊り、海賊によるクロエの拉致、3人のニンフとパンの神の登場、夜想曲などが描かれる。第2部「海賊ブリュアクシスの陣営」では、海賊たちの戦いの踊り、クロエの優しい踊り、パンの神によるクロエの救出が描かれる。第3部「再び祭壇の前」では、壮大な森の夜明けの描写から始まり、ダフニスとクロエの再会、2人の愛の踊り(無言劇)が全員の踊りに発展し、歓喜の渦の中でフィナーレとなる。
組曲版はラヴェル自身がバレエ音楽から一部分を抜粋したもので第1組曲(第1部と2部の抜粋)と第2組曲(第3部の音楽)がある。ラヴェルはこのバレエ音楽を「3部からなる舞踏交響曲」と形容。現在、『ボレロ』『スペイン狂詩曲』と並ぶコンサートの人気曲となっている。
※舞台『ダフニスとクロエ 第3部』
https://www.youtube.com/watch?v=0_N60WyJcLM#t=41m02s
同年、『マ・メール・ロワ』をバレエ用に前奏曲、間奏曲など新曲を足して管弦楽曲化。ディアギレフによって初演された。

1914年(39歳)、ヴァイオリン、チェロ、ピアノの『ピアノ三重奏曲』を作曲。7月、第一次世界大戦が勃発。ラヴェルは10月に陸軍の野戦病院の運転手として従軍。翌年3月に志願兵となって第13砲兵連隊のトラック運転手として従軍し、砲弾の下をかいくぐって資材を輸送した(ここで戦死していれば「ボレロ」は存在しなかった)。
1916年(41歳)、健康を害してパリに帰還し、翌年に除隊。
1917年(42歳)、ラヴェルは18世紀フランスの音楽や伝統に敬意の念を込め、そして大戦で散った友人たちへのレクイエムとして最後のピアノ独奏曲『クープランの墓』(正確な訳は「クープランを偲んで」)を作曲。若い頃はドビュッシーの作風に惹かれていたラヴェルだが、音楽の構造や様式に簡潔さを求めて次第に18世紀フランスの古典的音楽に傾倒していった。中でもクラヴサン(ハープシコード)音楽の大家フランソワ・クープラン(1668-1733)を尊敬し、18世紀の音楽全般を称える気持ちを音楽にする。「プレリュード(前奏曲)」「フーガ」「フォルラーヌ」「リゴドン」「メヌエット」「トッカータ」の6曲で構成され、各曲が第一次世界大戦で戦死した知人たちへの思い出に捧げられている。「トッカータ」は同音連打を多用したピアノ曲の最高峰のひとつ。初演後、意地悪な反ラヴェル派の批評家はこう評した。「『クープランの墓』は大変結構だった。だがクープラン作曲の『ラヴェルの墓』だったらもっと結構だったに違いない」。
この年、最愛の母が76歳で他界。母の死はラヴェルにとって人生最大の悲しみであり、心に大きな空洞ができて創作意欲が消えてしまう。実質的に3年間も新曲を書けなくなってしまった。1919年(44歳)に『クープランの墓』から「前奏曲」「フォルラーヌ」「メヌエット」「リゴードン」の4曲を抜粋して管弦楽版に編曲したが、同年の暮れの手紙に「(3年が経っても)日ごとに絶望が深くなっていく」と綴っている。

1920年(45歳)、3年前にディアギレフから新しいバレエ音楽の作曲を依頼されていたことから、久々の新作となる管弦楽のための舞踏詩『ラ・ヴァルス(ワルツ)』を作曲する。19世紀末のウィンナ・ワルツへの讃歌であり、ワルツの聖化を目指した。ラヴェルは曲の内容をこう解説する。「渦巻く雲の中から、ワルツを踊る男女がかすかに浮かび上がって来よう。雲が次第に晴れ上がる。と、A部において、渦巻く群集で埋め尽くされたダンス会場が現れ、その光景が少しずつ描かれていく。B部のフォルティッシモでシャンデリアの光がさんざめく。1855年ごろのオーストリア宮廷が舞台である」。
※僕はこの曲を聴く度に「なんで冒頭はこんなにモヤモヤした音なんだろう」と違和感を持っていたけど、ラヴェルの「渦巻く雲」という解説を読んで合点がいった。
ラヴェルは『ラ・ヴァルス』を書きあげたものの、翌年は1曲も完成作がなく、以前と比べて創作ペースが大幅に落ちる(年に1、2曲)。この年、栄誉あるレジオンドヌール勲章叙勲者にノミネートされたが、ラヴェルがこれを拒否したために問題になり、政府はラヴェルへの叙勲を撤回した。
1921年(46歳)、パリ近郊のモンフォール=ラモリー(パリの西50km)にベルヴェデール荘を構え終身の自宅とした。

1922年(47歳)、ラヴェルは40年前に他界したロシアのムソルグスキー(1839-1881)が作曲したピアノ組曲『展覧会の絵』(1874)を管弦楽へと編曲する。依頼者は指揮者クーセヴィツキーで、彼はラヴェルの編曲版をパリのオペラ座で初演し、これによって『展覧会の絵』は世界的に知られるようになった。当時、フランスの音楽家には和音を多用するムソルグスキーの作曲法を評価する動きがあり、ラヴェルにとってもやり甲斐のある仕事だった。ラヴェルの編曲はトランペットの印象的なファンファーレで始まり、最後の壮大な“キエフの大門”まで華やかな色彩で彩られ、「オーケストラの魔術師」の手腕が存分に発揮されている。ラヴェルの手で半世紀ほど眠っていた『展覧会の絵』に新たな生命が吹き込まれ、ムソルグスキーが時代を越えて甦った。
1924年(49歳)、ロンドンのラヴェル祭のために狂詩曲『ツィガーヌ』(ロマ、ジプシーの意)を作曲。当時31歳のハンガリー人女性で名ヴァイオリニストのイェリー(1893-1966)に献呈。この数年前、イェリーはサロンで一晩中ラヴェルからのリクエストでハンガリーのロマ音楽を弾かされたことがあった。ラヴェルはパガニーニの難曲『24の奇想曲』を上回る超絶技巧を求める作品を書くためにギリギリまで推敲を重ね、イェリーが『ツィガーヌ』の楽譜を受け取ったのは初演3日前であったという。

1925年(50歳)、オペラ『子供と魔法』(全1幕)を作曲。台本を女性作家コレットが書いた。オペラとバレエが融合しており、ラヴェルは本作を「ファンタジー・リリック(幻想的オペラ)」と呼んだ。物語は、宿題をやらずに遊んでいた7歳の少年が母親に叱られ、罰として砂糖抜きの紅茶とバターの塗っていないパンを与えられる。母が去った後に部屋でカンシャクを起こした少年は「僕はとっても意地悪なんだ!」と、八つ当たりで部屋にあるポットやカップを叩き割り、ペットのリスをペン先で突いたり、暖炉の灰を掻き回し、大時計の振り子を外し、壁紙や本を破る。すると、部屋中の物に突然魂が宿って動き出し、「よくもやってくれたな」と少年を責め立て追いかけ回す。少年が後悔して庭に出ると、そこでは様々な動物が仲良くしており、少年は孤独感に包まれる。ケガをしたリスを見つけて介抱し、そのまま眠る少年。動物たちは「彼は傷の手当てをした」と少年を家に運び、「彼はおりこうです。非常に優しくて、良い子です」と去って行く。目覚めた少年は母親に手を差し伸べて「ママ!」と呼び幕が降りる。

この年、サティが59歳で他界。ラヴェルは晩年のサティを世話していた。世間は最初に並行和音を多く用いた作曲家をドビュッシーと見ていたが、ラヴェルは自身が処女作『グロテスクなセレナード』でドビュッシーよりも先に並行和音を駆使しており、それはサティから影響を受けた技法で、サティこそ最も敬意を払われるべきと訴えていた。ラヴェル「(サティは)いまや四半世紀以上も前に、知る人ぞ知る大胆な音楽を先駆けて編み出した天才です」。
1927年(52歳)、5年がかりで無駄な音符を削っていた最後の室内楽曲『ヴァイオリン・ソナタ』が完成し、親友の女性ヴァイオリニスト、エレーヌ・ジュルダン=モランジュ(1892-1961)に献呈する。モランジュは10年前の1917年(彼女は当時25歳)からラヴェルと親交を結び、求婚されたが断ったという。彼女はラヴェルの家の近くに住み、彼が他界するまで20年にわたって最も親密な友人だった。第2楽章にはジャズのリズムが取り入れられ、高い技巧が必要な終楽章はヴァイオリン奏者の見せ場となっている。

1928年(53歳)、バレエ演者のイダ・ルビンシテインの依頼を受け、ラヴェルの代表曲となる管弦楽曲『ボレロ』を作曲。“ボレロ”はスペインで18世紀に生まれた3/4拍子の民族舞踊のこと。軽やかな動きからvolar(ボラー/飛ぶ)が語源という説もある。バレエの舞台はセビリアの酒場。一人の踊り子が、舞台で軽く練習しているうちに興が乗って振りが大きくなり、最初はそっぽを向いていた客たちが、最後は一緒に踊り出す。スペイン人役のバレエ曲として書かれた本作は、延々と同じリズムが続くなか、たった2種類のメロディーが何度も繰り返される単純な構造にもかかわらず、次々と異なる楽器構成でメロディーが奏でられ、次第に全体の音量と音圧が増していくなど、オーケストレーションの見事な運用で聴く者を飽きさせない魔法のような作品に仕上がった。ラヴェルは旋律の単調さから世界の一流オーケストラが演奏を拒否すると考えていたため、パリ・オペラ座で初演された後に様々なオーケストラが取り上げる人気曲となったことに驚いた。
同年、初めてアメリカを訪問し、自作を指揮しながら4カ月にわたって演奏旅行を行った。25都市に大歓迎で迎えられ、NYではスタンディングオベーションも起きた。同時にラヴェルはジャズや黒人霊歌に直接触れ、大いに刺激を受ける。オーケストレーションのコツについてガーシュウィンに尋ねられたラヴェルは「あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要などない」と答えたという。ラヴェルはアメリカの作曲家に「ヨーロッパの模倣ではなく、民族主義スタイルの音楽としてのジャズとブルースを意識した作品を作るべきだ」と語った。

1929年(54歳)、34年前に書いたデビュー作のピアノ独奏曲『古風なメヌエット』を管弦楽化。
1930年(55歳)、第1次世界大戦に従軍して右腕をうしなったウィーンのピアニスト、パウル・ビトゲンシュタイン(1887-1961/哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの兄)のため『左手のためのピアノ協奏曲』を作曲。以降、左手のみで活動するピアニストの重要なレパートリーなる。単一楽章の3部構成で、2部ではピアノがジャズ的に演奏される。同年、ラヴェル本人が『ボレロ』を指揮し録音を行う。演奏はコンセール・ラムルー管弦楽団。指揮者によってテンポは異なるが、ラヴェルは1秒刻みで演奏する17分を望んでいた。翌年には早くも日本で初演されている。
※『左手のためのピアノ協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=1T8KlSOG4CM (楽章の表示あり)

1931年(56歳)、世界ツアーで自身がソリストとなる楽曲の必要性を感じ、『ピアノ協奏曲』を作曲。ラヴェルは「モーツァルトやサン=サーンスと同じような美意識」に基づいて作曲したといい、明るく華やかな作風は、『左手のためのピアノ協奏曲』の重厚さとは対照的。第2楽章はラヴェル作品屈指の美しさを誇り、終楽章には息詰まる興奮がある。ラヴェルの健康状態の悪化で世界ツアーの規模は欧州20都市に縮小されたが、ピアノ協奏曲は各地で喝采を呼び、アンコールで輝かしい終楽章がもう一度演奏されたという。モーツァルトから現代ジャズまでの縮図となった作品。
1932年(57歳)、ラヴェルは5年ほど前から軽度の言語・記憶障害に悩まされていたが、パリでタクシーに乗車中に交通事故に遭い、脳疾患が深刻化する。
1933年(58歳)、3曲からなるオーケストラ伴奏の連作歌曲『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』を作曲。第1曲「空想的な歌」、第2曲「英雄的な歌(叙事詩風の歌)」、第3曲「酒の歌」。これ以降、ラヴェルは脳疾患のため文字や記号を思い出せないなど作曲が不可能となり、この歌曲が最後の作品となる。同年11月にパリで『ボレロ』を指揮したが、既に自分のサインも書けなくなっており、これが最後の演奏会となった。
過去の記憶を失ったラヴェルは『亡き王女のためのパヴァーヌ』を聴いて、かつて「大胆さに欠けて貧相な形式」と自ら褒めることがなかったこの作品を、「この素晴らしい曲は誰の曲だい?」と尋ねたという。
1934年(59歳)、周囲の勧めでフランスを離れてスイス・モンペルランで療養する。
1936年(61歳)、入退院を繰り返す。ラヴェルは他人との接触を避けるようになり、小さな家の庭で一日中椅子に座っていることが増えた。
1937年11月、『ダフニスとクロエ』を聴いたラヴェルは楽屋を訪れた友人の前で泣き崩れた。「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一文字も曲が書けなくなってしまった」。そしてオペラ『ジャンヌ・ダルク』の構想を語り、「頭の中ではもう完成しているし音も聴こえている」と無念さを訴えた。
その翌月、脳の開頭手術を受けるも、腫瘍も出血も発見されず失敗に終わり、昏睡状態のまま手術から11日後の12月28日にパリで他界した。享年62歳。病床のラヴェルを見舞った友人に葬儀にはストラヴィンスキー、ミヨー、プーランクらが参列した。
ラヴェルの亡骸はパリ近郊西北のルヴァロワ=ペレに埋葬された。

1960年、弟のエドゥワールが他界し、晩婚で子どもがいなかったためラヴェル家の血筋は途絶えた。
1961年、モーリス・ベジャールが振付を行ったバレエ『ボレロ』が初演され、以降の大人気演目となる。1979年にダンサーのジョルジュ・ドンが演じ、当代一のボレロ踊りとして栄光を手に入れた。
1981年、映画『愛と哀しみのボレロ』(クロード・ルルーシュ監督)公開。
1984年、サラエボオリンピックのアイスダンスでイギリスのジェーン・トービルとクリストファー・ディーンのペアが『ボレロ』を使用し、五輪史上初めて9人の審判全員が満点をつけ金メダルを獲得した。

〔墓巡礼〕
彼のような人を天才と言うのだろう。オーケストラの楽器の特性をすべて熟知し、その響きを自由自在に操った。印象派の音の目新しさから前衛に思われがちだが、モーツァルト、クープラン、ラモーなど古典の作曲家を生涯崇拝し、『ソナチネ』で古典的な形式を現代的に復興させた。その一方、世界各地の音楽に興味を抱き、スペイン音楽を『スペイン狂詩曲』『ボレロ』で、ウィーン音楽を『ラ・ヴァルス』『高雅にして感傷的なワルツ』で、ジプシーの音楽を『チガーヌ』で、アメリカのジャズを『ピアノ協奏曲』などで取り入れ、それら全部をフランス的な洗練された趣味の良さで消化し、エレガントなラヴェルのサウンドとしてまとめあげた。
初めてラヴェルを墓参したのは2002年。パリの国鉄サン・ラザール駅から2駅乗って、北西部のクリシー・ルヴァロワ(Clichy Levallois)駅で下車。当地ルヴァロワにはかつてラヴェルの弟の家があり、彼はそこに仕事部屋を用意してもらっていた(ラヴェルのモンフォールの自宅がパリから西に約50kmも離れているため)。鉄道駅から北西に700メートル歩くとルヴァロワ・ペレ墓地が見えてきた(ネット情報に最寄り駅は地下鉄3番線Pont de Levallois - Becon駅とあるけど、たぶん国鉄駅もほぼ同じ距離)。歩いている時にパラパラと小雨が降り始め、管理人事務所でラヴェルのお墓の位置を聞いているうちにドシャ降りになってしまった。
すぐに止むと思って事務所で雨宿りさせてもらったら、管理人のおばさん(英語を話せる人だった)がコーヒーを入れて下さった。なかなか雨脚は弱くならない。やがて管理人さんとの世間話も尽きた。すると管理人さんは「そうだ!」と人差し指を立て、ラヴェルが死去した際の“埋葬証明書”を見せてくれ、「墓参の記念に」とコピーまでとってくれた!偉人の埋葬証明書をもらったのは初めて。やがて小雨になり、丁寧に御礼を言って墓に向かった。
ラヴェルの墓は正門に近く、メインストリートの右寄りにあった。彼は両親や弟エドゥワールと一緒に眠っており、墓石の中央にラヴェル、右上に母、左上に父、下に弟の名が彫られていた。ラヴェル家の血筋は1960年に他界したラヴェルの弟で途絶えているはずだけど、墓前に植物が綺麗に植えられている。彼のファンなど有志によるものか、墓地や行政の配慮か。いずれにせよ、子孫がいなくても人々の手できちんと整備され、守られ続けていることが嬉しかった。

※『ボレロ』で小太鼓が叩く2小節のフレーズの繰り返しは、実に169回!
※1人で家の中にいるときもスーツとネクタイを着用していた。
※パリ郊外、イヴリーヌ県モンフォール=ラモーリーのラヴェルの最後の家は、そのまま保存され『モーリス・ラヴェル博物館』として公開されている。作曲に使ったピアノや浮世絵のコレクションなどを展示。ここで『ボレロ』『ピアノ協奏曲』『左手のためのピアノ協奏曲』などが作曲され、『展覧会の絵』が編曲された。
※ラヴェル「エドヴァルド・グリーグの影響を受けてない音符を書いたことがありません」
※ドビュッシーの印象主義から出発したが、フランス古典主義の精神を近代的な感覚で再生したのであり、ドビュッシーの印象派の音楽とは本質的に異なる。
※ラヴェルはドビュッシーの「グラナダの夕べ」(『版画』第2曲)を自作「ハバネラ」の盗作と感じていた。
※無神論者であったため、西洋の作曲家にしては珍しく宗教音楽が1曲もない。同性愛者であったとも。

バレエ『ボレロ』…1928年、バレリーナのイダ・ルビンシュタインが「スペイン人役のバレエ曲を作って下さい」とモーリス・ラヴェルに作曲を依頼し、音楽史に残る名曲が完成した。作品のコンセプトは“スペイン・セビリアのタブラオ(居酒屋)で1人のロマ(ジプシー)の女がテーブルに乗り、周囲の男たちを挑発する”というもの。初演は同年11月22日のパリ・オペラ座。振付けを担当したのはニジンスキーの妹、ブロニスラヴァ・ニジンスカだった。それから32年後、1960年にモーリス・ベジャールがユーゴのバレリーナ、デュスカ・シフニオスに振り付けたものが、現在の有名な『ボレロ』だ。

ベジャールの演出では、円形の赤いテーブルの上で「メロディ」役を1人の女性ダンサーが踊り、周囲では「リズム」役を男性のコール・ド(群舞)が踊った。リズムたちは、最初は離れた場所で椅子に座っている。メロディが静かに踊り始めてもソッポを向いているが、やがてメロディの振りが激しく情熱的になっていくと、1人、2人と我慢しきれなくなって立ち上がり、メロディを女神の如く讃えるように踊り出す。次第にメロディとリズムは響きあうように熱狂していき、官能と興奮のピークで全エネルギーを放出して倒れ伏す。全15分。※円形のテーブルを卵子とする解釈もある。確かにラストに男たちがテーブルを取り囲む姿は受胎を思わせる。さすれば、新たな命を産み出す生命賛歌であり、『ボレロ』はいっそう感動的に見える。

物語の展開上、当初は女性だけがメロディを踊っていたが、やがてジョルジュ・ドンというアルゼンチン出身の素晴らしい男性ダンサーが現れ、ベジャールはドンをメロディに抜擢、この試みは大成功を収める。そして映画『愛と哀しみのボレロ』(1981)のクライマックスでドンの踊りが映し出され、ボレロは世界的に有名になった。それからの約10年、ドンは各国でボレロを踊るが、あまりにドン=ボレロのイメージが強くなり過ぎた為、「過去から自由になりたい」とドンはボレロを封印する(日本公演は1990年が最後。僕は23歳の時に大阪フェスティバルホールで鑑賞)。それからすぐ、92年にドンはエイズの為に45歳で他界した。※YouTube『ジョルジュ・ドンのボレロ』(8分41秒のハイライト。クライマックスは3分50秒から)

数々のダンサーが『ボレロ』を踊ることを熱望したが、ベジャールが彼の芸術を理解し体現できると認めた人間しか許さないため、僕の知る限り、女性で踊ったのは、マイヤ・プリセツカヤ、シルヴィ・ギエム、ショナ・ミルク、マリシア・ハイデ、マリ=クロード・ピエトラガラ、デュスカ・シフニオス、上野水香の7人、男性はジョルジュ・ドンを筆頭に、パトリック・デュポン、シャルル・ジュドー、エリック・ヴ=アン、リチャード・クラガン、高岸直樹、首藤康之、後藤晴雄の8人、計15人だけ(他にもいたらスミマセン!)。ベジャールが他界したのは07年11月22日。奇しくもボレロの初演と同じ日だった。

ボレロ研究で参考にさせて頂いたこちらのサイトによると、男性群舞の衣装は、初期は居酒屋に集う水夫をイメージし、縞柄シャツを着て首にミニ・スカーフを巻いていた。現在上半身が裸なのは、(1)波打つ裸体が音楽を視覚的に表現する(2)「裸体こそが最も美しい衣装」(三宅一生談)。また、話題のバレエ漫画『昴』にはこんなセリフが出てくるらしい→「ダンサーには二種類しかない。『ボレロ』を踊ることが許されたダンサーとそうでないダンサー」。クーッ、かっこいい!

※1987年に2つのテーブルを前後に並べた「二人ボレロ」という珍しい舞台があったそうだ(シュツットガルト・バレエ団公演、メロディはマリシア・ハイデ&リチャード・クラガン)。うっわー、めっさ興味をそそられるんだけど、映像が残っていないのかな!?



★ドヴォルザーク/Antonin Leopold Dvorak 1841.9.8-1904.5.1 (チェコ、プラハ 62歳)1994&2005
Vysehradsky Hrbitov, Prague, Czech Republic

1994 墓地の壁沿いに眠る 2005 お久しぶりです!墓の両脇の柱がオシャレ

チェコ国民楽派(ボヘミア楽派)を代表する作曲家アントニン・ドヴォルザーク。チェコ語の発音では「ドヴォジャーク」。クセの強い破滅型の作曲家が多いなかで、唯一といっていいほど温厚で、誰からも愛された人物。彼が生きた時代は、クラシック音楽の本場とされるドイツ、オーストリア、イタリア、フランス以外で生まれ育った作曲家が、郷土の民謡など民族音楽の旋律やリズムを積極的に作品に取り入れる運動が始まっていた。

1841年9月8日、プラハ近郊のネラホゼベスに生まれる。身長は180cm以上あり、当時の欧米では大柄になる。父は肉屋と宿屋を営んでいた。小学校でヴァイオリンを習うとみるみる腕をあげ、父の宿屋で演奏するようになる。
1845年(4歳)、プラハと独ドレスデンを結ぶ鉄道が開通し、8歳のときに鉄道の線路がドヴォルザークの村を通ることになった。田舎暮らしの少年ドヴォルザークは、黒煙を吐き出して疾走する巨大な黒い鉄の塊・機関車に圧倒された。ここから生涯にわたって鉄道マニア道を突き進むことになる。機関車の型番やシルエット、製造番号、時刻表を覚えることがこの上ない喜びとなり、時間を見つけては鉄道模型を組み立てた。

9歳でアマチュア楽団のヴァイオリン奏者になったドヴォルザークだが、父は息子に肉屋を継がせるつもりだったので、小学校を中退させ、30kmほど離れた別の町ズロニツェへ肉屋の修業に行かせた。そのズロニツェで運命的な出会いがあった。彼が公用語のドイツ語を学び始めると、語学教師は音楽家でもあった。その人物は非常に音楽教育に熱心で、ドヴォルザークに楽器演奏だけでなく作曲に必要な音楽理論も教えてくれたのだ。
1856年(15歳)、ドヴォルザークは2年間の肉屋修業を真面目に勤め上げ、ボヘミアの肉屋組合から肉屋を開業できる腕前を保証された正規の免状を受け取った。
1857年(16歳)、両親がいよいよ息子を肉屋にしようとしたとき、ドヴォルザークに楽才を見出した教師や親戚が協力しあって「この子は音楽の道を進ませるべき」と両親を説得、ドヴォルザークはプラハのオルガン学校へ入学することができた。学費を稼ぐために在学中からヴィオラ奏者としてオーケストラで働き、授業で使う楽譜を友人から借りるなどして苦学を重ねた。18歳でオルガン学校を次席の成績で卒業、レストランなやホテルで演奏する商業楽団の団員となった。

1862年(21歳)、チェコを支配するオーストリア帝国に対する反発など、民族独立運動の高まりから、プラハにチェコ語オペラ上演のための国民劇場を建設することになり、その仮劇場が設けられると、ドヴォルザークは仮劇場所属オーケストラにビオラ奏者で入団した。本当に興味があるのは作曲であり、楽団員の仕事をしながらコンクールに向けて地道に作曲を続けた。
1865年(24歳)、ピアノの教え子だった女優ヨゼフィーナに恋するも失恋。同年、コンクールの応募作品として最初のシンフォニー『交響曲第1番“ズロニツェの鐘”』を書く。約45分の力作となったが、ドヴォルザークはこれを発表することなく楽譜を破り捨て焼却し、生前に演奏されることはなかった。死後20年が経った1924年に同曲のスケッチがドイツの古本屋で発見され、これを見つけたチェコの学生が母国に持ち帰り、12年後(1936年)にチェコのブルノで初演された。
1866年(25歳)、17歳年上のスメタナ(1824-1884)がボヘミアの農村を舞台にしたチェコ語オペラ『売られた花嫁』を完成させ、同作は独語や伊語ではない母国語オペラの先駆けとなった。『売られた花嫁』は仮劇場で初演され、ドヴォルザークはオーケストラピットでこれを奏でた。同年、楽団の首席指揮者にスメタナが迎えられ、ドヴォルザークは“チェコ国民楽派の祖”から音楽の教えを受ける貴重な機会を得た。
1870年(29歳)、古代イングランド王を描くドヴォルザークの最初のオペラ『アルフレート』が完成。当時のドヴォルザークは熱心なワグネリアン(ワーグナーファン)で、ライトモティーフの多用や切れ目なく続く朗唱風の歌唱などワーグナー(1813-1883)の手法で書かれている。
※『アルフレート』序曲 https://www.youtube.com/watch?v=XS2E2snOU1A (14分)

1871年(30歳)、作曲活動に専念するためオーケストラを退団し、個人レッスンで生計を立てることにした。ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のプラハ初演に刺激を受け、オペラ『王様と炭焼き』を作曲するがリハーサルで作品の未熟さが露呈しお蔵入りとなった。
1873年(32歳)、愛国的な合唱賛歌『白山(ビーラー・ホラ)の後継者たち』によって作曲家としてデビュー、高い評価を受けプラハの楽壇で注目を浴びる。この曲の初演の合唱団に、数年前ドヴォルザークが失恋した女優ヨゼフィーナの妹、アンナ・チェルマーコヴァーがいた。彼は恋心を抱いて求婚し、同年秋に2人は結婚する。姉に失恋して妹と結ばれた著名作曲家は、他にモーツァルトとハイドンがいる。同年、ワーグナー音楽の影響を強く受けた『交響曲第3番』を作曲。初期作品にピアノ曲がなく、交響曲や室内楽ばかりなのは貧しくてピアノを持っていなかったからという。

1874年(33歳)、伝統あるプラハの聖ヴォイチェフ教会(聖アダルベルト教会)のオルガニストに就任し、月収10グルデンが保証され、新婚夫婦の経済状態が安定した。ワーグナーの“タンホイザー”に旋律が似た『交響曲第4番』を作曲。また、放棄されていたオペラ『王様と炭焼き』をテコ入れしたが、こちらではワーグナー路線(切れ目のない歌)と訣別して各曲を独立させた。初演は大成功となり、音楽雑誌でも賞賛された。
同年、『交響曲第3番』『第4番(部分)』がスメタナの指揮によりプラハで初演され、ドヴォルザークはこれらの曲を含めた数曲を新設されたオーストリア政府文化省の国家奨学金の審査に提出した。審査員には8歳年上のブラームス(1833-1897/当時41歳)や著名批評家ハンスリックがいて、彼らはその才能をいち早く認めた。

1875年(34歳)、ドヴォルザークの当時の年収126グルデンの倍以上となる400グルデンもの奨学金が支給され、夫妻は大いに喜んだ。審査は毎年あり、5年間受け取った。音楽面ではスラヴ風の『交響曲第5番』でワーグナーの支配からの離脱がさらに進む。5月、生活が安定し、穏やかで幸福感に満ちた『弦楽セレナード』を作曲。
9月、長女が急死しショックを受ける。悲しみの中、長女を悼む気持ちから『スターバト・マーテル』の作曲に取り掛かる。『スターバト・マーテル』は中世ヨーロッパの作者不詳の宗教詩で「悲しみの聖母は立っていた」の意。ゴルゴダの丘で子を失った聖母マリアに、我が子を失った自身を重ねての作曲だった。過去に、ヴィヴァルディ、ロッシーニ、パレストリーナ、ペルゴレージらが作曲している。
※奨学金400グルデンについて。シューベルト時代(1820年頃)のウィーンは、家具付きの下宿の家賃が月10グルデン、レストランの少し上等な食事が1グルデンとのこと。
※『弦楽セレナード』 https://www.youtube.com/watch?v=CRcbDMg56yg (33分)※NHKラジオのクラシック番組で長くテーマ曲に

1876年(35歳)、年明けに『弦楽四重奏曲第8番』を作曲。長女を亡くしてまだ3カ月後であり、深い悲しみが作品に影を落としている。同年、管弦楽パートに重点を置いた『ピアノ協奏曲』を作曲。『弦楽五重奏曲ト長調』で芸術家協会芸術家賞を獲得。
※スヴャトスラフ・リヒテルが弾いたドヴォルザークの『ピアノ協奏曲』は、指揮者カルロス・クライバーにとって録音を行った唯一の協奏曲となった。
https://www.youtube.com/watch?v=f3PNmWmwtaM

1877年(36歳)、ドヴォルザークが奨学金審査会に提出した歌曲集『モラヴィア二重唱曲集』に感動したブラームスは、自ら楽譜出版社に強くはたらきかけ、初めてドヴォルザークの楽譜が出版される。この歌曲集はよく売れヒット作となった。ブラームスはワーグナーの魔力から脱したドヴォルザークを高く評価した。
一方、私生活において8月に次女ルジェナが、翌月に長男オタカルが相次いでこの世を去り、中断していたミサ曲『スターバト・マーテル』(全10曲)の作曲を再開、この宗教作品の傑作を完成させた。その後、2男4女に恵まれている。
※『スターバト・マーテル』 https://www.youtube.com/watch?v=E_AkAGqJWTA

1878年(37歳)、リスト『ハンガリー狂詩曲』やブラームス『ハンガリー舞曲集』のドヴォルザークによるチェコ版舞曲集、ピアノ連弾曲集『スラブ舞曲』第1集(8曲)がベルリンで出版されると、新聞は「神々しい、この世ならぬ自然らしさ」と激賞、ドヴォルザークは国際的名声を確立した。ヒットを受けてすぐに管弦楽版を発表、これも大好評となる。同年、ドヴォルザークはウィーンにブラームスを訪ね、翌年にはブラームスがプラハのドヴォルザークを訪ね、親しい交際が始まった。
この年、オペラ『いたずら農夫』が完成、プラハで初演され成功を収め、後年ドイツ、オーストリアでも上演される。
1879年(38歳)、ドヴォルザークの“田園交響楽”と呼ばれるスラブ風の牧歌的な『交響曲第5番』を作曲、名指揮者ハンス・フォン・ビューローに捧げる。チェコの民族舞曲やウクライナ民謡「ドゥムカ」の形式を採り入れた『弦楽四重奏曲第10番』を作曲。また、5曲で構成される『チェコ組曲』を作曲。
同年、聴覚を失ったスメタナが作曲し、初演の機会がなかった傑作『弦楽四重奏曲(わが生涯より)』がスメタナの友人宅で演奏された際、ドヴォルザークがヴィオラ奏者を務めた。
※この年、スメタナは全6曲の連作交響詩『わが祖国』を完成させている。チェコ人が愛してやまない“母なる河モルダウ”を描いた第2曲『モルダウ(ブルタバ)』と、祖国の自然風土を描いた第4曲『ボヘミアの森と草原から』は特に人気が高い。スメタナとドヴォルザークは国民楽派の両頭と見られているが、考え方は異なっていた。スメタナは「民族独自の歴史や民話を題材としつつも、音楽の形式はバッハやベートーヴェンが構築したドイツ音楽の伝統、世界共通の音楽言語で書くべきで、ローカルな民謡や舞曲を取り入れれば国民音楽になるのではない」と考え、ドヴォルザークは「ローカル色を出すことが国民音楽になる」と考えていた。これには正解はなく、あくまでも考え方の違いだ。

1880年(39歳)、歌曲集『ジプシーの歌』を作曲。第4曲の「我が母の教えたまいし歌」が人気曲に。同年、ブラームス作品の影響を受けた『交響曲第6番』(旧第1番)を書きあげ名指揮者ハンス・リヒターに献呈。出版に至った最初の交響曲であるため当初は交響曲第1番と呼ばれていた。
1882年(41歳)、名ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)の協力を得て、郷土的かつ歌謡性に富んだ『ヴァイオリン協奏曲』を完成。同年、オペラ『ディミトリ』を作曲。
この年、スメタナの代表作、連作交響詩『わが祖国』6曲が初めて全曲演奏され、聴衆は6つの楽曲ごとに立ち上がって割れんばかりの喝采を送った。チェコの未来を明るくうたった第6曲「ブラニーク」が終わると劇場は興奮のるつぼとなった。
※『ヴァイオリン協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=cR5T8XgeTpI (31分)

1883年(42歳)、古いフス派の聖歌を主題とする劇的序曲『フス教徒』を作曲。同年、ワーグナーがヴェネチアで他界。
1884年(43歳)、1月に音による抒情画となった全6曲のピアノ曲『ボヘミアの森から』を作曲。第5曲の「森の静けさ」はメロディーの美しさから後にチェロと管弦楽のための作品に編曲された。3月、ロンドン・フィルハーモニック協会の招きでイギリスを訪問し、ロイヤル・アルバート・ホールにて自身の指揮で『スターバト・マーテル』を演奏。既に『交響曲第6番』などでドヴォルザークの名はイギリスにも轟いており、“ヘンデル以来”といわれる大歓迎を受けた。「私が姿を現すと12,000人もの聴衆から熱狂的な歓迎を受けた。(中略)私は心からの感謝を表すために何度も繰り返しお辞儀をしなければならなかった」。以降、最後の渡英となる1896年までの12年間に9回も訪英することに。帰国後、プラハから60km離れた小さな村ヴィソカーに別荘を建て、田園地帯の中で自分の落ち着いた時間を作った。5月にスメタナが他界し、ドヴォルザークはチェコを代表する作曲家となる。秋にベルリンで指揮者デビュー。また、さっそく英国を再訪している。アンナ夫人への手紙「愛するアンナ。僕が行くところ人がやって来る。買い物で店に入ると人が押し寄せサインをねだられる。僕のポートレートをどの本屋も売っているんだ。昨日、交響曲が初演され、みんな感激していた。一言で言えば、大成功だ(アントン)」。
※『森の静けさ』 https://www.youtube.com/watch?v=XTL7DxfiFo8 (6分)

1885年(44歳)、ロンドン・フィルハーモニック協会の依頼でチェコの愛国的叙情を持つ『交響曲第7番』を作曲。
1887年(46歳)、名曲『ピアノ五重奏曲第2番』を作曲。ピアノ五重奏曲の分野ではシューベルト、シューマン、ブラームス、ショスタコーヴィチの作品に並ぶ傑作とされ、ドイツ仕込みの構成と、ボヘミアの民族色を盛り込んだ意欲作として高く評価されている。同年、全8曲の『スラヴ舞曲集』第2集を発表、前作と異なりチェコの舞曲だけでなく他地域のスラヴ舞曲も取り入れた。この第2集のメランコリーな第2番は特に人を呼び、NHK『名曲アルバム』初回放送(1976年4月5日)でも第2番が選ばれた。
※『ピアノ五重奏曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=_CR1E3R-198
※『スラヴ舞曲集・第2集から第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=wX52fGwrG20

1888年(47歳)、プラハを訪れたチャイコフスキー(1840-1893)と交流。チャイコフスキーはドヴォルザークより1歳年上の同世代であり、すっかり意気投合した。
1889年(48歳)、オペラ『ジャコバン党員』初演。
1890年(49歳)、プラハ音楽院作曲科教授に就任。チャイコフスキーの招待でモスクワとサンクトペテルブルクを初訪問。この年、力強いボヘミア讃歌で後に人気曲となる『交響曲第8番』を書きあげたが、ドイツの出版社は「大規模な作品はあまり売れないので小品を」と買い叩くため、怒ったドヴォルザークはロンドンの出版社にこの曲を渡す。この経緯から第8番は「交響曲イギリス」と呼ばれることがある。よって英国をモチーフにした標題音楽ではない。
1891年(50歳)、プラハ大学名誉博士号、ケンブリッジ大学名誉音楽博士号を授与される。多忙な日々の中、英国バーミンガム音楽祭のための新作注文に応えて、深淵で美しい旋律にあふれた大曲『レクイエム』を作曲。また、スラヴ的な愁いをたたえたピアノ三重奏曲第4番『ドゥムキー』を作曲。“ドゥムキー”はウクライナの憂鬱な叙事的な歌謡バラッド「ドゥムカ」の複数形。さらに演奏会用序曲の3部作『自然と人生と愛』もこの年に書かれた。同作に含まれる「自然の中で」(=自然)、「謝肉祭」(=人生)、「オセロ」(=愛)では、「謝肉祭」の演奏機会が最も多い。

1892年(51歳)、アメリカで国民楽派を作る目的で設立されたニューヨーク国立音楽院から、院長就任を求める要請が届く。新興国アメリカは経済的に発展し、メトロポリタン歌劇場のようなハコを作り、豊富な資金力で演奏家も集めたが、音楽学校が十分に機能しておらず、音楽家の育成が遅れていた。それゆえ国民楽派の顔であるドヴォルザークに白羽の矢が立ち、アメリカ文化を土台にした音楽家の輩出が期待された。チェコを離れたくないドヴォルザークは当初断っていたが、プラハ音楽院の給料の25倍という高額の年俸15,000ドル(現在の1億円以上)を提示され、子ども6人を抱えていたためこれを承諾する。渡米前の告別演奏会ではチェロとピアノに編曲された『森の静けさ』が演奏された。
同年、アメリカ発見400年祭の新作を依頼され『テ・デウム』を作曲。以後3年間のアメリカ滞在中、黒人霊歌やアメリカ先住民の音楽、フォスターの歌曲に親しんだ。

1893年(52歳)、ニューヨーク国立音楽院の院長、作曲科教授を務めるなか、5月に代表作となる『交響曲第9番“新世界より”』を作曲。アメリカの黒人霊歌が故郷ボヘミアの音楽に似ていることに刺激を受け、故郷へ向けてドヴォルザーク自ら「新世界から」というタイトルを付けた。ニューヨークで初演を行い大喝采を浴びた。友人宛の手紙に「この作品は以前のものとは大きく異なる」「(黒人霊歌、先住民の音楽など)これらの国民的なアメリカの旋律の精神をもって書こうとした」と記す。郷愁にかられる第2楽章は『家路』『遠き山に日は落ちて』のタイトルで編曲され、日本では下校の音楽として知られている。終楽章の最後の1音について、指揮者ストコフスキーは「新大陸に血のように赤い夕日が沈む」と評した。
同年、弦楽四重奏曲第12番『アメリカ』を作曲。この弦楽四重奏曲は、休暇でアイオワ州のボヘミア人移民の集落スピルヴィルを訪れたドヴォルザークが、ボヘミア人移民との交流から刺激を受け約半月で書きあげた。チェコの民俗音楽の旋律と、アメリカの黒人やアメリカ先住民の音楽から受けた影響が高次元で融合している。第2楽章はヴァイオリンが黒人霊歌風の歌を切々と歌いあげ、ボヘミアの民謡風の歌へと続くなど、ノスタルジーあふれる旋律が聴く者の胸に染みこむ。
※『交響曲第9番“新世界より”』 https://www.youtube.com/watch?v=WuqyfEyNXQo (43分)

続けてヴィオラが大活躍する『弦楽五重奏曲第3番(アメリカ五重奏曲)』を作曲。年末に15歳の娘と10歳の息子ために、技巧的に優しいヴァイオリンとピアノのための作品『ソナティーナ』を作曲。同年、チャイコフスキーが他界。
※異国の地でドヴォルザークが熱を入れたのは、ここでも鉄道だった。毎日ニューヨークのグランド・セントラル駅に行って特急の車体番号を記録し、音楽院の仕事で行けないときは、弟子に調査に行かせて報告させた。ある日、新型車両が到着すると聞いて、朝から製造番号を記録しようと浮き足立っていたが、急用が入って行けなくなった。そこで娘の恋人で自身の弟子でもあった作曲家ヨセフ・スークを駅に派遣したが、スークは誤った製造番号を控えてきた。ドヴォルザークはカンカンに怒り、娘に「あんなアホと結婚する気か!」と爆発したという。
※ニューヨークからアイオワまで三日間、2000kmの汽車の長旅をドヴォルザークは大いに楽しんだ。帰国後にチェコの汽車に乗った際、「アメリカとチェコの汽車は走行音のリズムがまったく異なる。一本のレールの長さが、アメリカの方が長いからだ」と分析した。
※弦楽四重奏曲第12番『アメリカ』 https://www.youtube.com/watch?v=DxtAHpYIXdU (25分)

1894年(53歳)、ピアノ曲『8つのユモレスク』(クライスラーのヴァイオリン独奏による第7番が特に有名)を作曲。この作品の独特のリズムは、鉄道の走行音から着想したという。“ユモレスク”は自由な奇想曲。同年、カトリックの敬虔な歌曲集『聖書の歌』を作曲。欧州では親交のあった音楽家の訃報が続き、父も病没したことから、夏に5ヶ月間の休暇を取りボヘミアに帰国。秋にアメリカに戻ったが、体調を崩すほどのホームシックになる。
1895年(54歳)、2月に沈んだ気持ちを自ら鼓舞するかのように、パワフルなチェロの音が次々と全面展開する『チェロ協奏曲』が完成。この作品は他の作曲家を含めても、協奏曲というジャンルの最高傑作の一つであり、後世の音楽ファンから「ドヴォコン(ドヴォルザークのコンチェルト)」と親しまれるようになる。ブラームスいわく「人の手がこのような協奏曲を書きうることに、なぜ気づかなかったのだろう。気づいていれば、とっくに自分が書いただろうに」。この金字塔を打ち立てた後、ドヴォルザークのホームシックが限界に達し、国立音楽院の院長を辞任、4月に3年の米国生活を終えてボヘミアに帰国。休養後、秋からプラハ音楽院で再び教鞭を執る。年の暮れに『弦楽四重奏曲第13番』『同第14番』を作曲。13番の第2楽章、14番の第3楽章は祖国チェコへの愛情が凝縮されており、故郷でゆっくりとくつろぐドヴォルザークの姿が目に浮かぶような作品。
※『弦楽四重奏曲第13番』第2楽章 https://www.youtube.com/watch?v=od2HXuT_NuI#t=10m30s 
※『弦楽四重奏曲第14番』第3楽章 https://www.youtube.com/watch?v=2OAWlfIsDhE#t=13m51s

1896年(55歳)、最後のイギリス訪問(9回目)。ブラームスからウィーン音楽院教授就任の要請を受けるが、もはやボヘミアから離れる気持ちは一寸もなく、これを断った。同年、チェコの国民的詩人カレル・ヤロミール・エルベンの詩集「花束」のバラード(悲歌)にインスパイアされ、標題音楽となる4曲の交響詩の連作を作曲。不吉な内容が多い。『水の精』(子どもが水の精に殺される)、『真昼の魔女』(子どもが魔女に殺される)、『金の紡ぎ車』(王と優しい娘が結婚、唯一明るい内容)、『野ばと』(夫を毒殺した妻が悲しげな野鳩の声で発狂して自殺)を立て続けに作曲する。『野ばと』は物語性に富んだ傑作で、ドヴォルザークの交響詩の中では一番演奏機会が多い。

1897年(56歳)、オーストリア国家委員会の奨学金審査を行う委員になり、かつて自分が助けられたように、才能ある貧しい若者を援助できることを心から喜んだ。
1898年(57歳)、ブラームスしか得ていなかった芸術科学名誉勲章をフランツ・ヨーゼフ1世の在位50周年式典の席で授けられる。
1899年(58歳)、晩年のドヴォルザークは代表作といえるオペラがないことが気がかりだった。この年初演されたオペラ『悪魔とカーチャ』は大成功したが、まだ納得できなかった。
1900年(59歳)、全3幕の妖精オペラ『ルサルカ』を作曲。ルサルカはスラヴ神話の水の女神。森の湖の水の精ルサルカは、人間の王子に恋をし、魔法使いに人間の姿に変えてもらう。ただし、人間の姿のときは喋られない、恋人が裏切った時は男と共に水底に沈むという2つの条件があった。王子は美しいルサルカに惚れ結婚するが、口をきかない彼女を冷たい女性と思って、婚礼の祝宴会場にいた外国の王女に心を移す。父なる水の精ヴォドニックの手で森の湖に戻されたルサルカは、魔法使いから「裏切り者の王子を殺せば元の水の精の姿に戻す」とナイフを渡されるが、「まだ愛している」とナイフを捨てる。ルサルカを探して湖にやってきた王子は妖精達から真実を知らされ、「罪をあがないたい」と口づけを求める。ルサルカは口づけをすれば王子は死ぬと伝えるが、王子は「この口づけこそ喜び、幸いのうちに私は死ぬ」と訴え、ルサルカは「裏切らなければ、こんなことにならなかったのに…」と嘆きつつ、互いの愛を再確認し口づけをする。王子は幸せに包まれ、ルサルカに抱擁されながら冷たい湖の底へ沈んでいった…。第1幕でルサルカが「月よ、愛しい人に私は待っていると伝えて」と歌う美しいアリア『月に寄せる歌』が特に知られる。
※『ルサルカ』 https://www.youtube.com/watch?v=uSiTTi-Fd6U

1901年(60歳)、『ルサルカ』がプラハ国民劇場で初演され大成功をおさめたが、目標だったウィーン上演に至らず、オペラでの国際的名声は得られなかった。同年、プラハ音楽院長に就任。オーストリア終身上院議員に任ぜられる。
1904年、3月に最後のオペラ『アルミダ』初演、されど不評に終わる。翌月、持病の尿毒症と進行性動脈硬化症が悪化。5月1日、昼食時に気分が悪くなり、ベッドに横になるとすぐに意識を失い、2度と目覚めることはなかった。死因は脳出血。30年以上も結婚生活を共にした愛するアンナ夫人が最期を看取った。享年62歳。4日後に国葬が営まれ、棺がプラハの聖サルヴァトール教会に安置された後、スメタナなどチェコの偉人が眠るヴィシェフラット民族墓地に埋葬された。

ドヴォルザークは神童と呼ばれたわけではなく、両親が著名な音楽家だったわけでもなく、ただコツコツと努力を重ねて成功を手に入れた。アメリカの被差別民族である黒人の霊歌やアメリカ・インディアンが持つ悲哀と、ヨーロッパにおける被抑圧民族出身者であるドヴォルザークの悲哀が共感して、支配民族であるドイツ、オーストリア、フランス、イギリスの作曲家の作品には見られない、繊細な哀愁が彼の作品に込められている。

〔墓巡礼〕
初めてスメタナとドヴォルジャークの墓参りをしたのは1989年の夏。ベルリンの壁崩壊の3ヶ月前。当時のチェコは社会主義国にもかかわらず、物が豊かであったことに驚いた。目的地のヴィシェフラット民族墓地はプラハ駅から3km。モルダウに沿って走っているトラムで向かってもいいが、せっかくなので歩いて向かった。古都プラハは世界大戦の空襲被害を受けておらず、古い石畳があちこちに残っており、映画『アマデウス』のロケ地に選ばれたことに納得した。モーツァルトの時代と変わってないのでは、そんな風に見える路地が随所にあった。丘を登って墓地に入ると、まるで美術館のように壁画や彫刻であふれた世界がそこにあり驚いた。墓地には地元の人がたくさんいて、目が合ったおばさんに墓石の場所を尋ねると、いろんな偉人の墓を案内して下さった。日本人にも人気の画家ミュシャ、“ロボット”という言葉を考案した作家カレル・チャペック、強制収容所から生還した指揮者カレル・アンチェル、2度目の巡礼時は新たに指揮者ラファエル・クーベリックの墓も増えていた。
ドヴォルジャークの墓は、さらに国民的英雄ということだろう、壁に沿った特別な回廊に墓所があり、彼の胸像が設置され周囲の壁も彫刻になっていた。小学校の下校の音楽『家路』は、子ども心に最初に響いたクラシック。親しみを感じていたからか、初めての墓参なのに既に何度か墓前を訪れている気がした。

※ドヴォルザークは家庭を大切にし、規則正しい生活送った。毎朝5時に起床し、午前と午後に3時間ずつ作曲し、あとは家族との時間をもった。アメリカ滞在中も毎朝6時に起きてセントラルパークを散歩し、パーティーに誘われても参加せず、音楽院から真っ直ぐ帰宅した。
※現在、音楽の都ウィーンとプラハを結ぶ特急「アントニン・ドヴォルザーク号」が走っており、彼は天国でとても喜んでいることだろう。
※ドヴォルザークとアンナ夫人が取り交わした手紙は、他の作曲家と比べて極端に少ない。これは仲が悪かったからではなく、常に一緒にいたからだ。アメリカに赴任したときも一緒だった。
※プラハにアントニン・ドボルザーク博物館がある。
※流れるようなメロディーを考えることが苦手だったブラームスは、親友のドヴォルザークの才能を終生羨ましがっていたという。「ドヴォルザークがダメだと思ってゴミ箱に捨てた楽譜の断片で自分は一曲書ける」(ブラームス)
※筋金入りの“鉄っちゃん”だったドボルザーク。音大で講座中に列車の通過時間になると授業を中断して観に行ったという。「本物の機関車が手に入るのだったら、これまで自分が創った曲の全てと取り替えてもいいのに…」(ドヴォルザーク)



★ムソルグスキー/Modest Petrovich Mussorgsky 1839.3.21-1881.3.28 (ロシア、ペテルブルク 42歳)1987&05&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation

    
若きムソルグスキー   合い言葉は「民衆の中へ!」 死の3週間前(レーピン画)
「芸術家は未来を信じる。自分自身が未来に生きるゆえに」(ムソルグスキー)



2005 チャイコフスキーのすぐ側 2009 画家レーピンが彼を埋葬した 墓参は6月上旬の15時半。木漏れ日がちょうど顔に当たって立体感が出た



両側面の足下に、代表作の
名前が彫られた石板がある
歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』の楽譜が正面に刻まれている。第1幕第1場の修道僧ピーメンの歌。
歌詞の意味は 「そうして正教徒の子孫達は知るだろう、故郷の地の過去の運命を!」

※墓石の楽譜について、「"展覧会の絵"研究会」を参照しました。同サイトによると墓の裏面には生没年が記載されており、
その生年が間違っているらしい(僕は未確認、不覚!)。当時は魔よけのため生年月日を偽る習慣があり、本人も勘違いしていたらしい。


 
墓のデザインで目をひいたのは、下の方がピアノの鍵盤になっていたこと!音楽家にふさわしい墓!

「芸術はそれ自身が目的ではなく、人々と語り合うための手段である」。ロシア国民音楽の創造に尽力した作曲家であり、最もロシア的な作曲家とされる。ロシアの民衆を音楽で描き出すため、ロシア語の話し言葉のイントネーションに合わせた音楽を創造し、これは西欧の音楽と大きく異なる独創的で新しい音楽だった。
モデスト・ムソルグスキーは1839年3月21日、エストニアに近いロシア西方のプスコフ県カレボ村で、広大な領地を所有する古い貴族の家系の地主の末子に生まれた。民話や民謡を聞きながら育つ。6歳から母にピアノの手ほどきをうけ、7歳でリストの小品を弾く。
1849年(10歳)、ペテルブルクのエリート中学校に進む。当時一流のピアニストに5年間師事する。
1852年(13歳)、軍人を志してサンクトペテルブルクの近衛士官学校に入学。士官学校の合唱団に加わり、独学で作曲にも挑戦するようになる。同年、父の援助でピアノ曲『騎手のポルカ』が出版された。
※『騎手のポルカ』13歳の作品。かわいいポルカ
https://www.youtube.com/watch?v=0i7idhRg4mQ (3分半)
1855年、アレクサンドル2世(1818-1881)が即位。
1856年(17歳)、卒業と同時に陸軍プレオブラジェンスキー近衛連隊の士官になる。そして6歳年上の軍医ボロディンと知り合いシューマンの曲を紹介し感銘を与えている。ボロディンの回想「彼のマナーは優雅で貴族的だった。会話にはフランス語のフレーズが散りばめられていた。おしゃれで穏やかな物腰に女性たちは大騒ぎした。彼はピアノの前に座って『椿姫』の甘く優美な旋律を奏でていた」。
同年、作曲家バラキレフ(19歳)とキュイ(21歳)が出会い、「五人組」誕生の第一歩となる。※「ロシア五人組」は後年の呼称であり、当初は「力強い一団」と呼ばれていた。
1857年(18歳)、“ロシア近代音楽の父”グリンカが52歳で他界。バラキレフはグリンカのあとを継ぎ、ロシアの民族的な音楽を目指していく。バラキレフの家には毎火曜日の夜に音楽家が集まるようになる。この年、ムソルグスキーは作曲家ダルゴムイシスキー(1813- 1869)邸のサロンでキュイと知り合い、彼らを通じてバラキレフのロシア国民楽派サークルに加わった。サークルではバラキレフだけが音楽家を本業としており、優れたピアニストとして知られていた。ムソルグスキーは作曲を初めてバラキレフに学び、歌曲やピアノ曲の習作を書く。
1858年(19歳)、最初の精神不安定の兆候があったこと、そして音楽に専念するために軍務から退く。管弦楽曲『スケルツォ変ロ長調』を作曲。
※『スケルツォ変ロ長調』 https://www.youtube.com/watch?v=G-awhWQ8mMo
1859年(20歳)、ロマンティックなピアノ小品『熱情的即興曲』を作曲。想いを寄せていた友人の妹に捧げた。
※『熱情的即興曲』 https://www.youtube.com/watch?v=H_h9TpCvfdU (3分39秒)
1860年(21歳)、『スケルツォ変ロ長調』が新設されたロシア音楽協会の演奏会で取り上げられて成功し、作曲家としてデビューする。夏に再び精神の変調に襲われ3カ月の静養。

1861年(22歳)、“農奴解放令”が発布され、ロシア全土で約2300万人の農奴が解放された。ただし、土地の分与は高額であり、地主たちは農民に条件の悪い土地を分与した。一方、ムソルグスキーと兄は貴族の生活を支えてくれた農民や農村に愛情や共感を持っていたことから、小作農にすべての土地を与え、一家は経済的打撃をうける。同年、リムスキー=コルサコフ(17歳)がバラキレフたちに合流する。
1862年(23歳)、民族主義的な音楽の確立を目指すバラキレフのサークルにボロディンが入り、これで「五人組」が揃った。合い言葉は「民衆の中へ!」。五人組の作曲活動はロシア民謡やロシア文学から強く影響を受け、オペラや標題作品に傑作が多く残された。ムソルグスキーはバラキレフとリムスキー=コルサコフに作曲の教えを受けることもあったが、結局はほぼ独学で作曲法を身につけた。同じ国民楽派でも、ドイツ寄りのコルサコフ、フランス寄りのキュイに対して、ムソルグスキーは強烈なロシア固有の国民性を反映した作品を作り続けた。
この時点で五人組の年齢は、ボロディン(29歳)、キュイ(27歳)、バラキレフ(25歳)、ムソルグスキー(23歳)、リムスキー=コルサコフ(18歳)。ちなみに路線が異なる西欧志向のチャイコフスキー(1840-1893)はこの時22歳。
1863年(24歳)、生活に困窮して運輸通信省に就職し、官吏として生計をたてる。作曲面では次第にバラキレフの指導から離れ独自の創造に向かう。
1865年(26歳)、母が他界。そのショックで酒に溺れ精神錯乱を起こし、田舎の兄に引き取られ監視下に置かれる。一方、歌曲『農民の子守歌(眠れ、目を閉じて、農夫の子よ)』を作曲するなど、農民の厳しい暮らしをテーマにした写実的な歌曲の作曲を書き始める。『農民の子守歌』の第一稿には当局に睨まれそうな以下の歌詞がある。「もし皇帝がロシアの至る所にはびこる不正に気付き、恥ずかしく思うなら、すべての苦難はすぐにも消え去るだろう」。
※『農民の子守歌』 https://www.youtube.com/watch?v=X6zc8UCd9Ik (5分40秒)
1866年(27歳)、風刺歌曲『神学生』を作曲。神学生が見とれている娘は司祭の娘で、その視線を司祭に見つかりぶん殴られ、罰として「is」で終わる名詞の語形変化を延々と暗誦させられる、そんな歌詞をムソルグスキーが書いた。ロシアとドイツで出版禁止となる。
※『神学生』 https://www.youtube.com/watch?v=AV1GZ69QCGo (4分半)
1867年(28歳)、初めて本格的な管弦楽曲、交響詩『聖ヨハネ祭前夜の禿山(はげやま)』を作曲する。ロシア民話には「聖ヨハネ祭(夏至祭)の前夜、禿山に地霊チェルノボーグ(闇の王)が現れ手下の魔物と夜明けまで大騒ぎする」との伝承があり、ゴーゴリの『聖ヨハネの夜』を参考に魔物の饗宴を音楽で描き出した。叩きつけるリズムと鋭い響きの和音はロシア民族の音楽を反映し、西欧にはない音階も旋律に取り入れた。魔物たちの狂乱が頂点に達したとき、遠くの村の教会の鐘が鳴り始め、夜明けとともに彼らは退散していく−−。バラキレフは同曲の粗野なオーケストレーションを批判したがムソルグスキーは変更に応じず、バラキレフが指揮を拒んだため存命中は上演されなかった。没後にリムスキー=コルサコフが「禿山の一夜」に改訂し、こちらが普及した。この年、スターソフが「五人組」と名付ける。
※「禿山の一夜」原典版(ムソルグスキーファンのアバド指揮)
https://www.youtube.com/watch?v=Q8wqaJSkEP4#t=1m37s
※「禿山の一夜」リムスキー=コルサコフ版(ゲルギエフ×ウィーン・フィル)
https://www.youtube.com/watch?v=IgGsnrk9As8
1868年(29歳)、ダルゴムイシスキーの開拓した新しい朗唱様式(歌い方)を用いてゴーゴリの喜劇に基づくオペラ『結婚』(未完)の第1幕を書き上げた。続いて評論家スターソフの提案で詩人プーシキンの戯曲にもとづくオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』の作曲を開始する。同年、林野局に移動。
1869年(30歳)、12月に『ボリス・ゴドゥノフ』がいったん完成する。尊敬するダルゴムイシスキーが55歳で他界。
1870年(31歳)、マリンスキー劇場に『ボリス・ゴドゥノフ』を提出。同年、バラキレフのサークルで建築家・画家のヴィクトル・ガルトマン(ハルトマン/1834年5月5日-1873年8月4日)と出会う。ガルトマンは36歳で5歳年上だったが、無二の親友となった。ガルトマンは幼くして孤児になり建築家のおじに引き取られ、ペテルブルク美術アカデミーに進み、当初は挿絵画家として活動した。1864年(30歳)から4年間外国をスケッチ旅行し、水彩画や鉛筆画を描いた。国民楽派の作曲家がロシア民族の旋律を作品に反映したように、ガルトマンは絵の分野で伝統的なロシアのモチーフをとり入れた最初の画家の一人となった。

この年、風刺歌曲『ラヨーク(のぞきからくり)』を作詞・作曲。五人組と敵対する音楽関係者をからかう内容で、ペテルブルク音楽院の院長ザレンバ、音楽評論家フェオフィル・トルストイ、音楽評論家ファミンツィン、作曲家・音楽評論家セローフ(スターソフの宿敵)、ロシア音楽協会設立者エレナ・パヴロヴナ大公妃がターゲットにされている。このパロディは仲間内で馬鹿うけだった。
1871年(32歳)、2月にマリンスキー劇場から『ボリス・ゴドゥノフ』上演を拒否される。物語が陰惨で地味なうえ、ソプラノ(プリマドンナ)の見せ場がなく、音楽が“新しすぎる”ためだ。ムソルグスキーは憤ったが、上演実現に向けてバレエ場面を追加するなど改訂版に取り込む。
この年、ダーウィンの『種の起源』ロシア語訳が出版され、進化論に熱烈に共感する。当時の手紙「人生は変化に富んで多様だ。なぜ芸術家たちは一つの所に留まりたがるのだろう」。
1872年(33歳)、多くの改訂を経て新たな『ボリス・ゴドゥノフ』が完成。同年、スターソフの助言で次の歴史オペラ『ホヴーァンシチナ』(未完)の作曲を開始。さらに、五人組のうちムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、ボロディン、キュイの4人で合作オペラ『ムラーダ』を作る計画が持ち上がり、ムソルグスキーは行進曲を作曲したが、残念ながらオペラは実現せず。
この年、4年をかけてまとめた連作歌曲集『子供部屋』(全7曲)が完成する。ムソルグスキーは子どもが大好きで、甥っ子たちとよく遊んでいた。この歌曲集は子どもの繊細な内面を見事に表現し、愛らしい詩情に満ちている。ムソルグスキーの52曲ある歌曲の中で最高傑作となり、ドビュッシーは「傑出した作品」と感動し、リストは「ピアノ用に編曲したい」と申し出た。画家レーピンは初版に美しい表紙を描いている。歌詞は作曲者自身による。
歌曲集『子供部屋』
第1曲 ばあやと一緒…「ばあや、お化けの話をして」。ロシア国民楽派の祖ダルゴムイシスキーに捧ぐ。
第2曲 部屋の隅…「子猫のいたずらだよ、僕じゃないよ」。親友ガルトマンに捧ぐ。
第3曲 かぶと虫…「かぶと虫が死んじゃった!」。理論的指導者スターソフに捧ぐ。
第4曲 お人形と一緒に…「お人形さん、おやすみ」。ムソルグスキーの甥っ子たちに捧ぐ。
第5曲 夕べの祈り…「神様、お許し下さい、パパとママを。お許し下さい、ばあやを。お救い下さい、カーチャとナターシャ、マーシャとパラーシャ、リューバ、ワーリャ、サーシャ、オーリャ、ターシャ、ナージャ、ペーチャとコーリャ、ヴォロージャ、グリーシャ、サーシャ(2回目)を。みんなお許し下さい、フィルカ、ヴァニカ、ソーニャ、ドヌニャーシャを…ばあや、ばあや、それから何て言うの?神様お許し下さい、罪深い私を。こう?ばあや?」。キュイの娘に捧ぐ。
第6曲 いたずら猫…「猫が鳥籠を狙っている!」。女の子の早口のお話。(これが7曲目の版もある)
第7曲 木馬に乗って…「跳ねて、跳ねて、進め!」。スターソフの子どもたちに捧ぐ。
※『子供部屋』アンナ・ネトレプコが若い!(25歳/1996ロンドン)
https://www.youtube.com/watch?v=ykzW_x1IRho (17分23秒)
※上記の『子供部屋』から「夕べの祈り」https://www.youtube.com/watch?v=ykzW_x1IRho#t=8m32s
1873年(34歳)、6月にある夜会で詩人アルセニイ・ゴレニシチェフ=クトゥーゾフと出会う。この夜、ムソルグスキーは皆を笑わせようと西欧派をからかう例の風刺歌曲『ラヨーク』をやった。大いに盛り上がり得意な気分だったが、帰り道にクトゥーゾフから「君はあの歌を芸術と考えているのか」と迫られた。ムソルグスキーは自分の違う面を見せたくなり、別の曲を歌って聴かせ、その才能にクトゥーゾフは心を奪われた。そしてムソルグスキーも後にクトゥーゾフの詩をもとに歌曲『忘れられた者』『日の光もなく』『死の歌と踊り』の歌詞を書いている。同月、幻覚症状が現れ、幻覚を追い払うために8年我慢していた深酒が始まる。

同年8月4日、最大の理解者だったヴィクトル・ガルトマンが急逝する。ムソルグスキーとガルトマンは作曲家と建築家・画家で肩書きは異なっていたが、2人とも「芸術の真の目的は民衆の生活を描くこと」「富裕層の為の芸術ではなく民衆の為の芸術を!」と高い理想を胸に抱いていた。だが、両者はなかなか世間から認められず、世渡り下手で友達も少なかった。
ムソルグスキーは批評家から「素人同然」と酷評され、ガルトマンも「空想の絵だけ描けて現実の物は描けない」と仲間うちでさえ嘲笑された。だが、ムソルグスキーは帝政ロシア末期の暗い時代にあって、明るさを忘れないガルトマンの画風を高く評価していた。「分かってくれるのは君だけだ」、両者の存在がお互いに掛け替えのないものになっていった。だが1873年、出会いから3年でガルトマンは動脈瘤(りゅう)の破裂により急死する。まだ39歳の若さだった。

  無二の親友だったガルトマン 

訃報の電報を受け取ったムソルグスキーは倒れ込んだという。「たった2行の知らせが僕を打ちのめした。僕はベッドに倒れ込み、そのまま翌日まで起き上がることが出来なかった」。ガルトマンと最後に出会った時(1ヶ月前)の記憶をムソルグスキーは手紙にこう記している。「ガルトマンが突然街角でうずくまった。今から思えば、あれは心臓発作だったんだ。だが、僕は全く気付かなかった。なんて愚かだったのだろう。もし気付いていれば何かしてやれたのに」。一方、ガルトマンもこの時の気持を絶筆の手紙に残している。「僕はあの時、死が近いことを感じ、とても取り乱してしまった。なのにムソルグスキーはとても親切にしてくれた。ムソルグスキーは僕にとっていつも神様みたいな存在だった」(NHKスペシャル「革命に消えた絵画」より)。
同年マリインスキー劇場で『ボリス・ゴドゥノフ』の“抜粋”上演が行われた。

1874年(35歳)、2月27日にマリンスキー劇場でムソルグスキー芸術の頂点であり、ロシア・オペラ史上の最高傑作『ボリス・ゴドゥノフ』の全曲初演がついに実現する。革新的な合唱の用い方(ロシア語の話し言葉のイントネーションを重視した歌い方や、ロシアの伝統的な旋律を基礎にした和声)や、鋭い心理的洞察、ロシア民衆のリアルな描写で音楽史に革命を起こした。28年後(1902)にドビュッシーがオペラ『ペレアスとメリザンド』でフランス語の話し言葉の抑揚を旋律やリズムに落とし込んだが、これはムソルグスキーの影響によるもの。その意味で、ムソルグスキーは『ボリス・ゴドゥノフ』によって、もはや単なるロシア国民楽派にとどまらず、近代音楽を開拓した作曲家となった。
『ボリス・ゴドゥノフ』では民衆を美化せず、愚かさやしたたかさなど、ありのままの姿を描いており、この点からも真に国民的なオペラとなった。とはいえ、初演は聴衆に好評だったものの、斬新さゆえに批評家の反応は悪く十回程度の上演にとどまった。五人組のキュイが悪意ある批評を行いムソルグスキーを悲しませた(キュイは後に再評価している)。上演後、脇役の逃亡僧ヴァルラームを見事に演じたバス歌手ペトロフに感動し、彼が活躍する作品を書くためゴーゴリの短編に基づくオペラ『ソロチンスクの定期市』(未完)の作曲に着手する。

『ボリス・ゴドゥノフ』…実在したロシアのツァーリ(皇帝)、ボリス・ゴドゥノフ(1551-1605)の生涯をオペラ化した、プロローグと4幕から構成される大作。時代は1591年、ロマノフ朝の誕生(1613)前夜。皇帝フョードル1世の異母弟で、先代の故イワン雷帝の皇太子ディミトリーが9歳で死ぬ。亡骸は喉を切られていたが、ナイフで遊んでいて発作を起こしたとされる。(オペラはここから)1598年フョードル1世が崩御すると、民衆は摂政のボリスが即位するよう求めた。ボリスはツァーリ(皇帝)となり善政を敷くが、不運なことに天候不順の凶作と重なった。民衆は飢饉の原因はボリスのディミトリー暗殺ではと噂しあう。そんな折、グレゴリーという若者が偽物ディミトリーを名乗ってポーランドで挙兵する。ボリスは死んだはずのディミトリーがモスクワに攻め上がってくると聞いて取り乱し、1605年に乱心、狂死する(オペラはここまで)。モスクワへ入城した偽ディミトリーはボリスの息子(16歳)を殺害し皇帝につくが、翌年ボリスの首席顧問シェイスキー公に始末される。シェイスキー公はヴァシーリー4世として即位するが大貴族のクーデターで退位され、1613年にミハイル・ロマノフが即位しロシア革命まで300年も王朝が続く。
※『ボリス・ゴドゥノフ』アバド指揮ベルリン・フィルのザルツブルク音楽祭
https://www.youtube.com/watch?v=VUdUhbByvbQ
※『ボリス・ゴドゥノフ』英語字幕入り
https://www.youtube.com/watch?v=cfz7IJtzijs

ガルトマンの他界から半年後、同年2月から3月にかけてガルトマンの母校ペテルブルク美術アカデミーで回顧展が開かれ、400点以上の遺作が展示された。スターソフがガルトマン未亡人の資金援助のためにこれを企画した。ムソルグスキーは展覧会を訪れ、親友の絵に再会して深く心を動かされる。「僕の心の中でガルトマンが熱く沸騰している。音と思想が空気の中に漂い、僕はそれを見つめ紙の上に書き記す」。彼は400点の絵から10点を選び、その印象をもとに10曲からなるピアノ組曲『展覧会の絵』を作曲した。ムソルグスキーは遅筆であったが、この曲は猛スピードで書き続けており、約半年後の7月27日に完成した(わずか3週間で書きあげたとも)。脱稿の前月、スターソフ宛ての手紙に「アイデアが煮えたぎっていて紙に書く暇がない」と綴っている。
『展覧会の絵』の曲と曲の間には「プロムナード」(仏語で“散歩”の意)が曲想を変えながら5回流れ、ムソルグスキー本人が会場を歩いている様子が描写されている。
曲の構成は
「プロムナード(仏語で“歩き回る”の意)」
「第1曲 グノーム」ロシアのドワーフ(小人の土の精)
「第2プロムナード」絵から絵へ移動するムソルグスキー
「第2曲 古城」古城の前で歌う吟遊詩人
「第3プロムナード」ちょっと元気が良いムソルグスキー
「第3曲 テュイルリーの庭:遊びの後の子供たちの口げんか」パリのテュイルリー公園の賑わい
「第4曲 ヴィドロ」ポーランドの虐げられた人々
「第4プロムナード」淋しげなムソルグスキー
「第5曲 卵の殻をつけた雛のバレエ」軽快・コミカルなバレエ音楽
「第6曲 サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」金持ちで傲慢な男と貧乏で弱気な男の会話
「第5プロムナード」威風堂々なムソルグスキー
「第7曲 リモージュの市場」フランス・リモージュの市場の喧騒
「第8曲  カタコンベ:ローマ時代の墓」古代ローマのキリスト教徒の墓
「死せる言葉による死者への呼びかけ」(第6プロムナードともいえる)
「第9曲  鶏の足の上に建つ小屋:バーバ・ヤガー」ロシア神話の魔女バーバ・ヤガーが飛行
「第10曲  キエフの大門」古都キエフに鳴り響く鐘、民衆のための大ロシアよ永遠なれ
の全16曲。ロシアだけでなく、フランスの市場、ローマの墓、ポーランドの民衆弾圧など様々な国の風物が描かれている。

特筆したいのは第4曲の「ヴィドロ」。この重厚なメロディーの曲は、「ヴィドロ」がポーランド語で“牛”を指すことから、長く「牛車」の描写と思われてきた。ムソルグスキーも手紙に「ヴィドロ、これは“牛車”という意味にしておこう」と意味深に記している。わざわざ含みを持たせているのは、「ヴィドロ」には「家畜のように虐げられた民衆」というもう一つの意味があったからだ。ガルトマンが描いた「ヴィドロ」の元絵は、ロシア支配下のポーランドで実際に起きた民衆蜂起の絵で、その絵では軍隊に弾圧された民衆がギロチン刑にされていた。ガルトマンはポーランド旅行の時に処刑の現場に出くわし、強烈な体験を描きとめたのだ。
ロシア皇帝の圧政が続く時代、抑圧されたポーランドの民衆への同情を表明した知識人は次々と投獄されており、ムソルグスキーは権力に対する命がけの抵抗歌として第4曲「ヴィドロ」を書いた(日本の音楽教育の現場では、いまだに「ヴィドロは牛車が遠くからやってきて、目の前を通り、去っていく様子」と教えている。違〜う!)。
フィナーレの第10曲「キエフの大門」は最も感動的な曲。これはロシア発祥の地・古都キエフで廃墟になっていた大門(11世紀にロシア最初の統一王朝が作った門)の再建案が公募された時、ガルトマンがデザインした絵だ。それは鳴り響く釣り鐘やロシア民族の誇りを表す「兜(かぶと)型」の屋根がついた美しいもの。この門の絵にムソルグスキーは壮麗なメロディーをつけた。しかもクライマックス直前には、華やかな「キエフの大門」の中に「プロムナード」(=ムソルグスキー)のメロディーを入れた込んだ!つまり、ムソルグスキーは楽譜の中でガルトマンと再会を果たしたんだ!ガルトマンやムソルグスキーが夢見た明るい理想のロシアの下で、2人の魂が溶け合っている!ムソルグスキーは『展覧会の絵』の楽譜に「ガルトマンの思い出に」と刻んだ。

●『展覧会の絵』はジャズやロックなど古今東西の音楽家に100種類以上も編曲されている。お好きなものをどうぞ!
※『展覧会の絵(オーケストラ)』ラヴェル版ジュリーニ指揮シカゴ響の名演!
https://www.youtube.com/watch?v=HLB4hjqgSRw (34分44秒)
※『展覧会の絵(オーケストラ)』ストコフスキー版オルガン入り(1963)
https://www.youtube.com/watch?v=6p6i1OQJjRM (25分43秒)
※『展覧会の絵(ピアノ)』ホロヴィッツ編曲の伝説のライブ(1951)
https://www.youtube.com/watch?v=llr9zcPTjGo (29分33秒)
※『展覧会の絵(ピアノ)』キーシン31歳のライブ・映像付(2002)
https://www.youtube.com/watch?v=rH_Rsl7fjok (35分・拍手込み)
※『展覧会の絵(チェロとピアノ)』チャールス・シフ版
https://www.youtube.com/watch?v=MjM2yZbCsP8 (32分33秒)
チャールス・シフ版は「古城」が特に素晴らしい
https://www.youtube.com/watch?v=MjM2yZbCsP8#t=5m27s
※『展覧会の絵(ジャズ)』Yaron Gottfriedバージョン
https://www.youtube.com/watch?v=mEMq8ZkzjG0 (57分)
※『展覧会の絵(プログレッシブ・ロック)』エマーソン・レイク・アンド・パーマー映像付(1970) https://www.youtube.com/watch?v=ZTU1eYjxNSg (40分)
※『展覧会の絵(プログレッシブ・メタル)』メコン・デルタ版
https://www.youtube.com/watch?v=Wzbrsx8C6bY (71分)前半がバンド版、後半がオケ付き
メコン・デルタ版は「ヴィドロ」がカッコいい
https://www.youtube.com/watch?v=Wzbrsx8C6bY#t=11m09s
※『展覧会の絵(ギター)』山下和仁バージョン
https://www.youtube.com/watch?v=39puTBlkz0Y (17分)
※『展覧会の絵(シンセサイザー)』冨田勲バージョン
https://www.youtube.com/watch?v=IVvQQMrEUzQ (37分12秒)

ガルトマンの死後、それまでも深酒をしていたムソルグスキーはますます酒に溺れ、アルコールでボロボロになっていく。
同年、詩人クトゥーゾフの詩をもとに歌詞を書いた歌曲集『日の光もなく』(全6曲)を作曲。この作品もロシア語の話し言葉の抑揚に基づく旋律が書かれている。厭世的な心情が赤裸々に綴られている。
歌曲集『日の光もなく』
第1曲 壁に囲まれて…「閉ざされた部屋の中で陰うつな想いと追憶に浸っている。これこそ僕の孤独な夜だ」
第2曲 人混みの中で君は僕に気付かなかった…「人混みの中で出会った君は僕を無視した。僕は苦痛に耐えた」
第3曲 騒がしい日も終わり…「喧騒に満ちた1日が終わり夜の闇が町を包む。僕は寝付けず失われた年月を振り返る。見えるのは涙の中に心の全てを捧げたあの人の幻影」
第4曲 退屈するがいい…「倦怠よ、君の運命は決まっている。あとは力を使い果たして死ぬだけだ」
第5曲 エレジー(悲歌)…「夜の雲間に星はまたたく。様々な想いが駆け巡る。やがて星は不透明な僕の未来のように雲に隠れる」
第6曲 川の上で…「月夜に川面を覗き込んでいると水中から妖しい声が聞こえ、僕は魅了される。深みへと誘うのか、ならばすぐに飛び込もう」
※『日の光もなく』 https://www.youtube.com/watch?v=WkhAcvfh1gs (18分)

歌曲『忘れられた者』を作曲するが、反戦的内容が問題となり存命中は演奏も出版も禁止される。歌詞の大意は「彼は異郷で戦死した。味方は勝利したが戦友は去り、彼は荒野にひとり残される。飢えたカラスが眼をついばみ、飛び去っていく。遠い故郷では母が子をあやしながら「坊や、泣かないで、お父さんはもうすぐお帰りよ」…だが彼は忘れられて孤独に横たわっている」。
※『忘れられた者』 https://www.youtube.com/watch?v=j-5nJbMYVbY (2分19秒)

1875年(36歳)、1歳年下のチャイコフスキーが名曲『ピアノ協奏曲第1番』を発表すると、ムソルグスキーは知人への手紙に「ロシア人が描くテーマは他にあるはずだ」と記しまったく評価しなかった。
1877年(38歳)、2年前から取り組んでいた連作歌曲集『死の歌と踊り』(全4曲)が完成。この頃からキュイやリムスキー・コルサコフとは別の方向をとるようになる。
第1曲「子守歌」…病気の子を看病する母の側に死神が訪れ、「あとは私に任せるのだ。子どもに優しい眠りを与えよう。ねんねんよ」と歌い、母は必死にその歌をやめさせようとする。
第2曲「セレナード」…病にかかった若い女に死神がセレナードを歌い死に誘う。「おお、お前をしっかりと抱きしめて絞め殺してあげよう」。
第3曲「トレパーク」…吹雪の夜道で酒に酔った貧しい農夫が死神とトレパーク(2拍子の舞曲)を踊っている。「さあ雪の衣でしっかりと包んでやる、眠れ農夫よ」。後半でピアノが猛吹雪を表現する。
第4曲「司令官」…戦場に現れた死神が前線を司令官のように見渡して満足する。「死んだ戦士たちよ、もう戦いは終わったのだ。生前に争ったお前たちを私が和解させてやろう」。
※『死の歌と踊り』 https://www.youtube.com/watch?v=gyV8JFFml_M (20分47秒)
1878年(39歳)、ムソルグスキーが新作オペラの主役にしようと考えていたバス歌手ペトロフが他界。悲しみに暮れ、ますます酒に溺れる。
この年チャイコフスキー(当時38歳)が知人宛ての手紙で五人組を総括しており興味深い。「彼ら(五人組)は非常に恵まれた素質を持っている。同時に彼らは最高に生意気でいやらしい奴らで、自分たちが世界中の他の作曲家全部を合わせたよりも優れた作曲家だという、まったく未熟な思い上がりに染まりきっている。(略)キュイは確かな審美眼を持っており響きはエレガントだが、音楽がお化粧されすぎている。ボロディンは非常に大きな才能があるのに、音楽の基礎教育が欠けているために何の役にも立たずにいる。ムソルグスキーはサークル全員の中で最も音楽的素質があるが、人間として性格が粗野で洗練されておらず醜いものを好み、キュイとは逆のタイプだ。バラキレフは…彼こそが勉強する必要なしと言ってリムスキー=コルサコフの若い頃を駄目にした張本人だ」「ムソルグスキーはその粗野な醜さにもかかわらず、新しい音楽言語で語っている。美しくはないとしても、とにかくそれは新しい言語であって、ロシアにいつの日か芸術のために新しい道を切りひらく勇者達が生まれ出る可能性がある」。
1879年(40歳)、孤独な彼に帝室歌劇場のアルト歌手レオノーワが「演奏旅行のピアノ伴奏者になってほしい」と声をかけ、ムソルグスキーは初めてロシア国内を3カ月演奏旅行した。
1880年(41歳)、悲しみと慰めを綴るようなピアノ小品『涙』を作曲。ムソルグスキーの作品は時代の理解をほとんど得られず、アルコール中毒による精神錯乱をおこし廃人同然になる。官吏を解雇され収入も激減。友人たちはムソルグスキーのことを心配し、オペラ『ホヴァーンシチナ』のピアノ・スコアは大半が完成していたことから、『ソロチンスクの定期市』を含めてこれらが完成できるように寄付を集めようとしたが、ムソルグスキーの健康悪化の方が早かった。
※『涙』 https://www.youtube.com/watch?v=AneABJXRym8 (4分)

1881年、年始に絶望感から友人に「物乞い以外に何も残されていない」と宣言。その後、心臓発作で倒れて入院したことから作曲どころではなくなった。そして3月28日、サンクトペテルブルクで他界した。享年42歳。ガルトマンの死の8年後だった。没する2週間前に画家イリヤ・レーピンが有名な肖像画を描いている。レーピン「洗練された紳士だった男が、持ち物を全て売り払って安酒場に入り浸っている。ボロを着て酒で顔が膨れあがった男。本当にこれが私の知るムソルグスキーなのだろうか」。死後、ロシア音楽が各地で演奏される時代がやって来る。
1882年、歌曲集『死の歌と踊り』が出版される。
1883年、遺稿の整理に当たったリムスキー=コルサコフはムソルグスキーの才能を何とかして世に知らしめたいと考え、未発表の作品を補筆した交響詩『禿山の一夜』を出版する(初演は1886年、ペテルブルクにて)。刊行された総譜の冒頭には次の解説がある。「地下から響く不気味な声。魔物が登場し、続いて闇の王が出現する。闇の王に対する賛美と魔女達が加わった暗黒ミサ。夜明けの鐘の音で饗宴は終わり魔物は消え去る」。また、未完のオペラ『ホヴーァンシチナ』のオーケストレーションを行った。同年、ムソルグスキーが合作オペラ『ムラーダ』のために書いた行進曲をリムスキー=コルサコフが補筆し『トルコ行進曲(カルスの奪還)』として出版している。
1886年、ヴォーカル・スコアが残ったまま未完となっていたオペラ『ホヴーァンシチナ』(「ホヴァーンスキー事件」に基づきムソルグスキーが台本を執筆)をリムスキー=コルサコフが完成させて初演。全編を通し美しい曲が溢れており、序曲『モスクワ河の夜明け』が風景画のようでことに素晴らしい。
『ホヴーァンシチナ』…タイトルの意味は“ホヴァンスキーのやつら”。銃兵隊の反乱「ホヴァンスキーの乱」を題材にしている。舞台は17世紀末のモスクワ。西欧的な近代化をはかる改革派ピョートル1世(のちの大帝)に対し、銃兵隊長官ホヴァーンスキー公と旧教徒(ロシア正教主流派から見た、古い礼拝様式を重んじる古儀式派)たちは謀反を企む。政争の結果、ホヴァーンスキー公は暗殺され、旧教徒は「屈服して信仰を捨てるよりは殉教しよう」と僧院でたきぎの山を作り、火を放って集団自決を遂げ凄絶な幕切れとなる。
※『ホヴーァンシチナ』衣装が壮麗、音も良い
https://www.youtube.com/watch?v=nqP7IR_8CEM
※序曲『モスクワ河の夜明け』ショスタコーヴィチ編曲
https://www.youtube.com/watch?v=Bo6ZMFqPOq4 (6分)
同年、リムスキー=コルサコフは『展覧会の絵』のピアノ譜を初めて出版している。ただし原典からの改変が多く「リムスキー=コルサコフ版」となっている。
1887年、ボロディンが53歳で急死。2人が欠けた「五人組」は自然消滅していった。
1889年、サンクトペテルブルクでリムスキー=コルサコフがワーグナー『ニーベルングの指環』を聴き、その管弦楽法に大いに感銘を受ける。
1896年、ムソルグスキーの死後『ボリス・ゴドゥノフ』は存在が忘れられていたが、リムスキー=コルサコフが編曲版の楽譜を出版する。その序文がなかなか手厳しい。「『ボリス・ゴドゥノフ』は、現実を無視した演奏の困難さ、支離滅裂なフレーズ、ぎこちないメロディ、耳障りな和声と転調、間違った対位法、稚拙なオーケストレーションなどのため、上演されなくなった」。リムスキー=コルサコフは和声を変更するなど大幅にオーケストレーションを改訂し、華麗なものとした。これにキュイは「改変しすぎ」と反発、原点回帰を提唱した。
1897年、『ホヴーァンシチナ』のモスクワ上演で名バス歌手シャリアピンが歌い、このオペラが脚光を浴びる。
1906年、リムスキー=コルサコフは「改変しすぎ」と非難されていた『ボリス・ゴドゥノフ』を再改訂し、原典に近づける。
1908年、リムスキー=コルサコフが『ボリス・ゴドゥノフ』(1908年版)をパリで初演し、ボリス役のシャリアピンの名演もあって大成功を収める。以降、本作の上演では主にコルサコフ版が使用されていたが、近年は1869年原典版や、初演で使用された1872年改訂版の上演が増えてきた。同年、リムスキー=コルサコフが64歳で他界。
1910年、バラキレフが73歳で他界。
1916年、キュイがムソルグスキーの未完のオペラ『ソロチンスクの定期市』を完成させ出版する。農夫の一家の恋愛騒動を描いた作品。
1918年、五人組で最後まで生きていたキュイが83歳で生を終える。
1922年、フランスの「オーケストラの魔術師」作曲家ラベル(1875-1937)が指揮者クーセヴィツキーの依頼で『展覧会の絵』を管弦楽曲に編曲。華やかな色彩のオーケストラでムソルグスキーとガルトマンの魂が甦った。秋にパリ・オペラ座で演奏されこの曲は世界的に有名になった。ラヴェルはムソルグスキーの自筆譜を見ることが出来なかったため、リムスキー=コルサコフ版のピアノ譜から管弦楽化した。
1933年、存在が忘れられていた『禿山の一夜』の原典版が研究者に発見された。
1940年、ディズニーが『禿山の一夜』を映画『ファンタジア』に使用し幅広く知られる。同年、ショスタコーヴィチが『ボリス・ゴドゥノフ』をオーケストレーションする。
1951年、ホロヴィッツがラヴェルの管弦楽版『展覧会の絵』をピアノに編曲し、超絶技巧を駆使したライブ演奏で世界をねじ伏せる。
1958年、ソ連のピアノの巨人リヒテルがロシア色の濃い『展覧会の絵』の原典版をリリースして、ラヴェル版にはない魅力を引き出した。以降、『展覧会の絵』のピアノ演奏は原典版が主流となる。
1960年、『ホヴーァンシチナ』のショスタコーヴィッチ版がキーロフ劇場で初演され、高い評価を得る。
1971年、イギリスのプログレッシブ・ロック・バンド、エマーソン・レイク・アンド・パーマー(ELP)が『展覧会の絵』のライブレコードを発売、大ヒットする。
1975年、冨田勲のシンセサイザー版『展覧会の絵』が全米クラシックチャート第1位に輝く。
1991年、『展覧会の絵』に登場したガルトマンの絵のうち散逸して未発見だった5枚を作曲家・團伊玖磨とNHKが発掘。NHKスペシャル《革命に消えた絵画−追跡・ムソルグスキー『展覧会の絵』》として放送。
1996年、ドイツのヘビメタ・バンド、メコン・デルタがELP版『展覧会の絵』を元にしたオーケストラとの共演版を発表。

農民への共感を表現するために、音楽の主題をロシア民謡に求め、多様なロシア的リズムを取り入れ、ロシアの伝説に題材を求めたムソルグスキー。曲調は民族主義的な色彩が強く、ロシア民謡の音階にもとづく大胆な和声法が使われている。
「五人組」では最も才能に恵まれ、独創的な作風を築いた彼の最大の功績は、ロシア語の会話を音楽で再現する方法を探求したこと。会話のリズムと抑揚の再現を目指した。ロシア語のアクセントに忠実なメロディーの創造を目指す手法、ロシア民謡の音階にもとづく大胆な和声法は、西欧音楽の正統な手法から外れていたが、印象主義のドビュッシーをはじめ、近代音楽の作風に大きな影響を与え、表現主義音楽の前触れにもなった。ムソルグスキーなしにフランスの印象派音楽を考えることはできない。
「芸術家は未来を信じる。自分自身が未来に生きるゆえに」(ムソルグスキー)

※ムソルグスキーの3大歌曲集は『子供部屋』『日の光もなく』『死の歌と踊り』。
※ムソルグスキーは7つのオペラの作曲を試みたが、『ボリス・ゴドゥノフ』以外は未完となった。その中にはソフォクレスに題材をとった歌劇『アテネのエディプス王』、フローベール原作の歌劇『サランボー』、ゴーゴリ原作の歌劇『結婚』などがある。
※『ナニコレ珍百景』で珍百景が紹介されるときにキエフの門(展覧会の絵)が使われている。
※ムソルグスキーが没する15日前にアレクサンドル2世が62歳で崩御している。
※ショスタコーヴィチが20世紀半ばにムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』『ホヴァーンシチナ』の管弦楽法を原典に忠実にやり直したことで、作品の斬新さが再発見された。

〔墓巡礼〕
ムソルグスキーは極貧のうちに没したので、画家レーピンら友人が彼を埋葬しお墓を建てた。墓石の上部には歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』の楽譜が刻まれている。第1幕第1場の修道僧ピーメンの歌で、歌詞の意味は 「そうして正教徒の子孫達は知るだろう、故郷の地の過去の運命を!」。墓石の下部はなんとピアノの鍵盤になっている!これぞまさしく音楽家の墓!両側面の足下には代表作の名前が彫られた石板がある。お墓の右隣は彼の『禿山の一夜』を世に伝え、未完成のオペラを補筆し完成させてくれたリムスキー=コルサコフ、左側は軍隊時代に最初に知り合った音楽仲間のボロディン。ほんと、よく考えて五人組の墓は並べられている。
※墓の裏面には生没年が記載されており、その生年が間違っているらしい(僕は未確認、不覚!)。当時は魔よけのため生年月日を偽る習慣があり、本人も勘違いしていたらしい。

亡き親友の為に作曲したピアノ組曲『展覧会の絵』は生前に発表されることはなかったが、半世紀後に作曲家ラヴェル(@ボレロ)の手でオーケストラ化され、今や世界の人々に愛される名曲になっている。ロシアでさえ無名の画家だったガルトマン、不遇のまま死んだムソルグスキー。しかし人間は死んだからって終わりじゃない。両者の魂は芸術に姿を変えて世紀を超え、130年後を生きる僕らの心に届き、さらにまたこれからも人類が生き続ける限り受け継がれていくだろう。『展覧会の絵』を聴けばいつだって彼らに会える。
※『展覧会の絵』のモチーフになった絵は、革命や戦争で散逸し、長い間10枚のうち半数しか判明していなかった。残りの絵は「海外へ流出した」「独ソ戦で燃えた」と噂されていた。ところが、1991年にNHKの調査チームと作曲家の故・團伊玖磨さんがロシアに渡って、不明だった残りの5枚の絵を執念ですべて発見!ロシア人の研究者でさえ果たせなかった快挙だ。これは世界的&人類史的に見ても、芸術という分野でNHKが果たした最大の功績だと思う。(ウィキには番組への批判の声もあるけど、“絵柄と楽想の乖離”ってちゃんと番組を見たのかと。スターソフが書いた回顧展の図録の解説と一致してたやん!)

ピアノ版、オケ版が入って千円と良心的(Ama

(参考資料)NHK『革命に消えた絵画』、NHK『名曲探偵アマデウス』ほか



★ラフマニノフ/Sergei Vasilievitch Rachmaninoff 1873.4.2-1943.3.28 (USA、NY郊外 69歳)2000&09
Kensico Cemetery, Valhalla, Westchester County, New York, USA

  




2000 2009 背後の木々が少しスッキリ ロシア正教の十字架



十字架前の墓標に“セルゲイ&ナタリー”とあった この角度から見るのが好き。カッコイイ!

「音楽は心より生まれ、心に届かなければならない」(ラフマニノフ)。ロシア出身のアメリカの作曲家・ピアニスト。哀愁をたたえた抒情的な甘い旋律を多く生み出し、作品はロマン派最後の輝きとなった。また、ピアニストとしても超人的な演奏技巧によって20世紀屈指のピアニストに名を連ねる。
セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフは1873年4月1日、ペテルブルクの南に位置するロシア最古の都市ノブゴロド近郊セミョノヴォに生まれる。父は没落ロシア貴族。幼児期から音感に優れ、4歳から母にピアノを習った。9歳の時に一家は破産、ペテルブルクに移住する。両親は離婚しラフマニノフは母親に引き取られた。知り合いのピアノ教師がペテルブルク音楽院の奨学金手続きをしてくれ、同音楽院の幼年クラスに入学したが、一般教科に興味が湧かず12歳の時に全学科で落第し奨学金を取り消されてしまう。
1888年(15歳)、困った母は、ラフマニノフの従兄でフランツ・リストの最後の高弟の一人、ピアニストのアレクサンドル・ジロティからアドバイスを受け、ラフマニノフをモスクワ音楽院に転入させた。ジロティからリストの名人芸的技法を吸収し、33歳年上のチャイコフスキー(1840-1893)からは才能を認められ作曲法を学んだ。ラフマニノフはチャイコフスキーを終生敬愛した。
1891年、18歳のときにモスクワ音楽院の卒業試験のため『ピアノ協奏曲第1番』を完成させピアノ科を首席で卒業する(成績優秀のため1年繰り上げで卒業)。ちなみに次席は1歳年上の作曲家スクリャービン(1872-1915)だった。同年、単一楽章の室内楽曲『悲しみの三重奏曲』を作曲。音楽院の作曲科を卒業するためには交響曲とオペラを作曲する必要があり、まず習作交響曲の『ユース・シンフォニー』(第一楽章のみ)を書きあげる。同年、最初の大規模な管弦楽曲『ロスティスラフ公』を作曲。戦死したロスティスラフ公の魂の嘆きが壮大な映画音楽のように紡がれる。
※『悲しみの三重奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=rN7h3ILAqXo (15分)
※『ロスティスラフ公』 https://www.youtube.com/watch?v=MTWfPNqermg (17分)

1892年(19歳)、音楽院作曲科を卒業。卒業制作オペラとしてプーシキンの物語詩を題材にした歌劇『アレコ』をわずか17日で書き上げ金メダルに選ばれた。『アレコ』は主人公の青年貴族の名前。ジプシーの娘ゼムフィーラに惚れ、浮気をした娘と相手の若い男を殺してしまう悲劇。
同年10月8日にモスクワ電気博覧会でピアノ曲『前奏曲嬰ハ短調』を自ら初演し、ピアニストとしてデビュー。この曲は熱狂的な人気を獲得し、ラフマニノフの代名詞的な存在になった。後の演奏会では、聴衆がアンコールで「Cシャープ!(嬰ハ短調)」とリクエストするほどだった。※2009年に管弦楽版をスケートの浅田真央選手がフリー演技で使用し、多くの日本人がこの曲を知った。
1893年(20歳)、チャイコフスキーの尽力によりオペラ『アレコ』がボリショイ劇場で上演され注目を集める。同年11月にチャイコフスキーが53歳で他界し、その死を悼んで『悲しみの三重奏曲第2番』を作曲。約10年前にチャイコフスキーが旧友ニコライ・ルビンシテインの追悼でピアノ三重奏曲『偉大な芸術家の思い出に』を書いており、ラフマニノフはそれにならってこのでピアノ三重奏曲を捧げた。
同年、ピアノ・デュオ曲『2台のピアノのための組曲第1番“幻想的絵画”』を作曲。4つの楽章には各々作曲のインスピレーションを受けた詩がエピグラフ(題句)として添えられ、楽譜の各楽章冒頭に印刷された。第1楽章「舟歌」(レールモントフ)、第2楽章「夜〜愛」(バイロン)、第3楽章「涙」(チュッチェフ)、第4楽章「復活祭」(ホミャコーフ)。
1895年(22歳)、作曲に情熱を注ぎ2年間取り組んでいた『交響曲第1番』が完成。
1896年(23歳)、ピアノ曲集『6つの楽興の時』を作曲。シューベルトの『楽興の時』にインスピレーションを受けつつ、舟歌、夜想曲、超絶的練習曲といったショパンやリストの得意様式を取り入れている。
※『6つの楽興の時』 https://www.youtube.com/watch?v=IDzIVgnHVwE

1897年(24歳)、3月、完成から2年を経て『交響曲第1番』がペテルブルクで初演(指揮グラズノフ)されるが、ラフマニノフがうつ病になるほどの大失敗に終わる。ペテルブルクはロシア民族の土着の音楽を重視する国民楽派の拠点であり、ラフマニノフが属するモスクワ楽派(西欧楽派)への風当たりがきつかった。会場は演奏直後から罵詈雑言が飛び交い、ロシア5人組の作曲家キュイ(当時62歳/1835-1918)は新聞紙上で「ありふれた技法の無意味な繰り返し」「作品を覆う病的にひねくれたハーモニー」「地獄に音楽学校があったらラフマニノフ君が地獄の住人を大いに喜ばせるだろう」と徹底的にこき下ろした。ロシア最高の音楽院を首席で卒業し、自らの楽才に自信を持っていたラフマニノフは、あまりの酷評に精神がズタズタになり、この楽譜を出版禁止にし、存命中に演奏されることはなかった。友人への手紙「ペテルブルクから帰るときに自分は別人になった」。
作曲家としてすっかり自信を失ったラフマニノフは、作曲活動が3年にわたってほぼストップする。しかし生活費を稼がねばならぬので、“モスクワのメディチ”と呼ばれた芸術を愛する大富豪サーヴァ・マモントフの個人オペラ団の指揮者として演奏活動に従事した。このオペラ団で偉大なオペラ(バス)歌手フョードル・シャリアピン(1873-1938)と知り合い、同い年で意気投合し、生涯の友となった。シャリアピンは天性の豊かな美声とずばぬけた演技力で時代を築いていく。

1898年(25歳)、シャリアピンとの演奏旅行でヤルタを訪れた際に劇作家アントン・チェーホフ(当時38歳/1860-1904)と出会い、チェーホフから「あなたは大物になります」と励まされ、この言葉を一生の支えにした。ラフマニノフ「チャイコフスキーはかつて私が出会ったもっとも魅惑的な芸術家、人物のひとりでした。そして、あらゆる点で彼に似ていたもうひとりの人物、それがチェーホフでした」。
1899年(26歳)、ラフマニノフとシャリアピンは知人の仲介で文豪レフ・トルストイ(1828-1910)の自宅を訪ね、歌曲「運命」を披露する機会を得た。ところが、トルストイにはいたく不評で、再びラフマニノフは打ちのめされる。同年、ロンドン・フィルの招きでイギリスに渡りピアノ協奏曲の作曲依頼を受ける。
1900年(27歳)、復活の年。ラフマニノフが温厚な人柄から友人に恵まれ、落胆する彼を周囲の者は心配し、元気づけ、立ち直らせようとした。1月、友人が紹介してくれた精神科医ニコライ・ダーリ(1860-1939)は「君は豊かな才能を持っている」と暗示療法を行い、この治療を3カ月以上続けた結果、創作意欲を取り戻したラフマニノフは作曲を再開した。
1901年(28歳)、4月に大傑作『ピアノ協奏曲第2番』が完成。この作品は先に第2、第3楽章を書きあげ、苦心していた第1楽章が最後にできあがった。ラフマニノフはこの曲を医師のダーリに献呈した。初演は大成功を収め、ラフマニノフはグリンカ賞と賞金1000ルーブルを授与され、作曲家としての名声を確立した。この曲は冒頭の和音の連打部分で一度に10度の間隔に手を広げることが要求され、手の小さいピアニストはアルペッジョで弾くしかない。
並行して作曲していたピアノ・デュオ曲『2台のピアノのための組曲第2番』も完成し、これらは前作『楽興の時』から5年ぶりの新曲となった。続けて『チェロ・ソナタ』を作曲、チェロとピアノを対等に位置づけ、双方に見せ場がある。以後17年間に数々の名曲を書き上げる。
※『チェロ・ソナタ』 https://www.youtube.com/watch?v=YrXMpfwnbQ4
※『ピアノ協奏曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=khBDXDckJTk

1902年(29歳)、従姉ナターリヤと結婚、二女に恵まれる。新婚旅行でヴェニスを訪れ、現地で鑑賞したワーグナー『ニーベルングの指輪』に圧倒される。同年『12の歌曲集』を作曲、第7曲「ここは素晴らしい」は妻に捧げたもの。
1903年(30歳)、ワーグナーに感化されオペラの作曲に取り掛かる。
1904年(31歳)、ボリショイ劇場の指揮者に2年間就任。団員から口うるさく気難しい指揮者と恐れられた。
※ボリショイ劇場…モスクワのオペラ・バレエ劇場。ボリショイは「大きい」の意。劇場の歴史は1770年代まで遡る。何度も大火にあっており、現在の建物は1956年に完成。チャイコフスキー「白鳥の湖」は1877年にボリショイ劇場で初演された。19世紀末、当バレエ団の情緒豊かでドラマチックなスタイルが世界各地のバレエに影響を及ぼした。一般人にも幅広く知られるようになったのは、同劇場バレエ団が1956年にロンドン公演で成功をおさめたことによる。サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場と共にロシア舞台芸術の中心的役割を担ってきた。オペラではシャリアピン、ネステレンコ、ビシネフスカヤ、バレエではゲリツェル、ウラーノワ、プリセツカヤ、ワシーリエフといった名手が活躍した。
1905年(32歳)、「自由芸術家宣言」に署名し、帝政ロシア当局から目をつけられる。

1906年(33歳)、1月、自作のオペラ『フランチェスカ・ダ・リミニ』と『けちな騎士』を二本立てにしてボリショイ劇場で初演。『フランチェスカ・ダ・リミニ』はダンテの『神曲 地獄篇』をチャイコフスキーが
台本にしたものをオペラ化した。古代ギリシャの大詩人ヴァージルの亡霊に地獄を案内されるダンテが、寂しげに抱き合う男女、フランチェスカとパオロと出会う。2人は不義を犯し、嫉妬に狂ったフランチェスカの夫ジョバンニ(パオロの兄)に殺され、地獄で幸福だった昔を思い出していた…。
※『フランチェスカ・ダ・リミニ』 https://www.youtube.com/watch?v=gqGBpjqiVyA
(演出が素晴らしい。骸骨になった2人が切ない)
『けちな騎士』はプーシキンの原作をラフマニノフ自身が台本に書き直しオペラ化した。お金をめぐる父子の争いがテーマ。歌手が男性のみという異色作であり、音楽面でも歌手よりもオーケストラが前面に出た新しいスタイルのオペラとなった。
ラフマニノフは作曲に集中するためにボリショイ劇場の指揮者を辞め、同年秋から1908年まで家族とドイツのドレスデンに滞在する。ラフマニノフの手紙「(ドレスデンで)私たちはツグミのように暮らしています。誰にも会わず、知り合いも作らず、何処にも出掛けずに居ります。しこたま仕事をしました」。
この年、歌曲集『12のロマンス』を作曲。第5曲「リラの花」はピアノ曲にも編曲され、多くの人に愛される作品となった。
1908年(35歳)、前年に書きあげた『交響曲第2番』を自身の指揮で初演。場所は11年前に『交響曲第1番』で酷評された因縁の地ペテルブルク。今回は熱狂的な喝采を受け、2度目のグリンカ賞を受賞した。第3楽章は歌心に富みとても美しい。後に『第2番』の自筆は行方不明になったが2004年に発見され、2億円で落札されている。この年、ファウスト物語に霊感を受けた『ピアノ・ソナタ第1番』完成。

1909年(36歳)、スイス出身の象徴主義の画家アルノルト・ベックリン(1827-1901)が描いた『死の島』に着想を得た交響詩『死の島』を作曲。この絵は白い棺を乗せた小舟が墓地のある小さな孤島に向かう様子を描いている。ラフマニノフは絵が持つ神秘的な空気を音楽で表現し、さらに名声を高めた。
同年、アメリカへの初の演奏旅行のために『ピアノ協奏曲第3番』を作曲。出発直前に完成したため、船に音の出ない鍵盤を持ち込んで洋上で練習し、ニューヨーク・カーネギー・ホールで自らピアニストとして初演した。翌年にはマーラーの指揮でニューヨーク・フィルと共演し、リハーサルでは慣れないロシアの曲調に戸惑う楽団員にマーラーが「静かにしなさい。この曲は傑作だ」と断じ、ラフマニノフを感動させた。
1910年(37歳)、正教会聖歌として無伴奏の4声合唱曲『聖金口イオアン聖体礼儀』(別名の「聖ヨハネス・クリソストムスの典礼」は誤訳)を作曲。正教会では人間の声のみで奉神礼(ほうしんれい/典礼)の聖歌を歌うため、本作は無伴奏の混声合唱となった。初演を聴いた聖職者いわく「音楽は実に素晴らしい、美し過ぎるほどだ。しかしこのような音楽で祈るのは難しい。教会向きではない」。以後、7年間はモスクワでおもに指揮者として活躍。
※『聖金口イオアン聖体礼儀』 https://www.youtube.com/watch?v=65_5pw0ThXE (53分)
※『聖金口イオアン聖体礼儀』第12曲「爾(なんじ)を崇め歌い/我らは主を讃える」
https://www.youtube.com/watch?v=0FLvDNV494o (3分)…ロシア革命後、ソ連共産党政府は無神論を掲げ宗教音楽の演奏を禁じたが、この曲はあまりに美しいために「静かなメロディー」というタイトルでハミングのみで歌われた。

1912年(39歳)、女性文学者マリエッタ・シャギニャン(当時24歳/1888-1982)から届いた偽名のファンレターをきっかけに交流が始まり、彼女が選んだ詩による歌曲集『14のロマンス』を作曲。この曲集の終曲には2年後に歌詞のない有名な『ヴォカリーズ』が追加された。同曲はボリショイ劇場の歌姫、同い年のソプラノ歌手アントニーナ・ネジダーノヴァ(1873-1950)に捧げられた。
ラフマニノフは『ヴォカリーズ』の作曲にあたって歌手のネジダーノヴァのもとを訪れ、ピアノで伴奏を弾きながら助言を求めた。ネジダーノヴァの回想「私たちは一緒に、(ヴォカリーズを)より演奏しやすいように慎重に検討を重ねたり、フレーズの途中に息継ぎを入れたりしました。歌とピアノを合わせながら、ラフマニノフは別の和声や転調を発見するたびその場で変更していきました」。彼女が「どうしてこんなに美しい旋律なのに歌詞がないの?」と聞くと、ラフマニノフはこう回答した「なぜ言葉が必要なんです?あなたは自分の声と演奏で、言葉に頼る人よりも、はるかに素晴らしく沢山のものを表現できるじゃないですか」。

1913年(40歳)、4ヶ月間ローマに滞在し、かつてチャイコフスキーが創作に励んだスペイン広場近くの家を借り、アメリカの作家エドガー・アラン・ポーの詩に基づく合唱交響曲『鐘』を作曲(ピアノ曲の前奏曲嬰ハ短調“鐘”とは別)。ラフマニノフはこの曲を「交響曲」と呼んでおり、4つの楽章で構成されている。人生の四季を鐘になぞらえており、第1楽章は疾走するそりや若さを象徴する銀の鐘、第2楽章は結婚式で鳴り響く金の鐘、第3楽章は混乱した時代を表す真鍮の警鐘(怒りの日/ディエス・イレ)、第4楽章は死を悼む弔いの鉄の鐘。同年、『ピアノ・ソナタ第2番』を作曲。
1915年(42歳)、正教会聖歌として奉神礼音楽の大作『徹夜?(てつやとう)』(晩祷:ばんとう)、を2週間で作曲。非常に民族色が濃厚な混声4部合唱の宗教曲で、ラフマニノフは本作の第5曲「(聖抱神者シメオンの祝文)主宰や今 爾(なんじ)の言(ことば)にしたがい」を自分の葬儀で演奏するよう希望した。初演は好評で、月に5回以上も再演されたという。ラフマニノフは『徹夜?』を合唱交響曲『鐘』と並ぶ傑作と自負していた。同年、スクリャービンが43歳で他界し、ラフマニノフは追悼演奏会を開催した。
1917年(44歳)、16年前に18歳で作曲した『ピアノ協奏曲第1番』を徹底的に改訂し決定版とし、これがロシアで完成させた最後の曲となった。10月にロシア革命が起き、混乱を避けるため演奏旅行の名目でロシアを出国、妻子を連れ小さなスーツケースひとつだけで北欧へ向かう。このとき、二度と祖国の土を踏めなくなるとは予想もしていなかった。北欧諸国で短期間演奏活動を行った後、フランスに渡る。
1918年(45歳)、秋にアメリカへ移住。亡命後は作曲家からコンサート・ピアニストに転身し欧米で演奏旅行を行い、人気ピアニストとして過密スケジュールをこなしていった。また、指揮者としてもレコーディングを多数おこなった。一方で作曲活動は8年間も途絶えることになる。音楽仲間から「もう作曲しないのか」と問われたラフマニノフは「もう何年もライ麦のささやきも、白樺のざわめきも聞いてない、これでどうやって作曲できるんだ」と寂しそうに答えた。ラフマニノフの創作の源泉は、ロシアの大地や雄大な自然が与える音楽的霊感だった。母国喪失という虚無感から、なかなか作曲に気持ちが向かない彼は、ストラビンスキーから「6フィート半のしかめ面」と評された。
折しも時代はスクリャービンやシェーンベルクなど斬新な前衛音楽をもてはやしており、美しい旋律を重視するラフマニノフは評論家から「ハリウッド用の娯楽音楽」「時代遅れのロマン派の末裔」「保守的で古くさい」と叩かれた。だが、ラフマニノフは自分のスタイルを変えなかった。音楽は人々の心を動かし豊かにするものでなければならないという信念を曲げなかった。

1924年、ロシアを出て7年。友人の強い勧めで創作を再開。
1926年(53歳)、ロシア出国から9年後、亡命後初の作品となる『ピアノ協奏曲第4番』が完成。
1928年(55歳)、ロシア出身の天才ピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツ(当時25歳/1903-1989)がアメリカ・デビューの4日前にラフマニノフと対面、2人で『ピアノ協奏曲第3番』を演奏した(ラフマニノフがもう一台のピアノで伴奏)。19年前に作曲したこの『ピアノ協奏曲第3番』は、あまりに高度な演奏技術を要求するため、作品を献呈されたピアニスト(ヨゼフ・ホフマン)は一度も演奏しなかった。それを完璧に弾きこなした若きホロヴィッツにラフマニノフは胸を打たれ、両者は親しく交流するようになる。
1930年(57歳)、英音楽誌のインタビューにラフマニノフが登場。「僕に唯一門戸を閉ざしているのが、他ならぬ我が祖国ロシアである」。同年、ホロヴィッツが『ピアノ協奏曲第3番』を世界初録音。
1931年(58歳)、亡命後に作曲した唯一のピアノ独奏曲『コレルリの主題による変奏曲』が完成。主題と20の変奏からなり、フリッツ・クライスラーに献呈された。
同年、アメリカとヨーロッパを行き来するなか、休暇でスイスのルツェルン湖畔を訪れると そこには果てしなく続く森、ロシアと同じように雨が降り続ける灰色の土地が
あり、懐かしい祖国を思い出した。彼は欧州での生活拠点とするため湖畔に別荘を建設し、故郷の景色に似せるため周囲に3年がかりで白樺の木を植えた。別荘の名を、セルゲイ、ナターリヤ、ラフマニノフの頭文字を取って「セナール(Senar)」とした。
1934年(61歳)、「セナール」のお陰で望郷の想いが癒されたラフマニノフは、3年ぶりに作曲に取り組み、パガニーニが作曲した『24の奇想曲』に着想を得た、ピアノとオーケストラのための『パガニーニの主題による狂詩曲』が完成する。超絶技巧と引き換えに悪魔に魂を売ったと噂されたニコロ・パガニーニの伝説が色濃く反映され、悪魔の象徴としてグレゴリオ聖歌「怒りの日」の旋律が挿入されている。主題と24の変奏で構成され、美の極限に達した「第18変奏」が同曲を有名にした。「第18変奏」の旋律は人間が生み出したものと思えぬほど叙情性にあふれ美しいが、何とこれはパガニーニのメロディーを反行形(音符を鏡写しのように上下逆さまにした形)にしたものだ。とびきりのアイデアだった。作曲中のラフマニノフの手紙「親愛なる友人ホロヴィッツよ!!今パガニーニの主題を使って変奏曲を作曲しているが、シューマンもブラームスも思いつかなかったすごいアイデアが浮かんだんだ!!この変奏ひとつがこの曲全体を救ってくれるぞ!!」。最後の「第24変奏」は「怒りの日」の後、悪魔がコト切れるようにピアノが短く弱奏され同曲は終わる。初演はラフマニノフのピアノ独奏、ストコフスキー指揮、フィラデルフィア管弦楽団により行われた。
※『パガニーニの主題による狂詩曲 第18変奏』
https://www.youtube.com/watch?time_continue=3&v=h_BArG3ollw (3分)ルビンシュタインの名演!
※1980年のアメリカ映画、SFラヴストーリーの傑作『ある日どこかで』(クリストファー・リーヴ主演)で「第18変奏」が劇中に何度も使用され、観客に強烈な印象を残した。僕にはこれが最初のラフマニノフ体験だった。30年近く前に観た映画なのに、この「第18変奏」を聴くと、劇中に登場した女性の肖像画の瞳が記憶の底から甦ってくる。『ある日どこかで』は初公開時に批評家から不評で公開打ち切りになったが、後にクチコミで人気が出始め、今や「カルト古典」映画として熱烈なファンが世界中にいる。

1936年(63歳)、故郷ロシアを離れて約20年、望郷の念強く、スラブ風の主題を集めた最もロシア的な交響曲となった『交響曲第3番』全3楽章を作曲。
1939年(66歳)、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。ラフマニノフは8年間を毎夏スイスで過ごしてきたが、別荘を訪れるのはこの年が最後になる。
1940年(67歳)、最後の作品となる『交響的舞曲』全3楽章を作曲。45年前、22歳で発表してうつ病になるほど酷評された『交響曲第1番』第1楽章の旋律を同じ第1楽章で使っており、トラウマとなった曲を最後の作品に登場させることで、作曲家として宿命を乗り越えた感がある。同年、ホロヴィッツがアメリカに亡命。
1941年(68歳)、ナチス・ドイツがソ連に侵攻し独ソ戦が始まると、ラフマニノフはソ連政府と戦争犠牲者を支援するためのチャリティー・コンサートを開催。そのようなこともあって、亡命した人間にもかかわらず、ソ連政府はラフマニノフを糾弾の対象にしなかった。
1942年(69歳)、家族とカリフォルニア州のビバリーヒルズに移住する。演奏活動は亡くなる直前まで続けられた。
1943年3月28日、ビバリーヒルズの自宅にて癌のため他界。享年69歳。70歳の誕生日の4日前だった。晩年は祖国に戻ろうとしたが、第2次世界大戦のため果たせなかった。ラフマニノフは彼が崇拝するチェーホフや有名芸術家が多く眠るモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されることを希望したが、世界大戦の真っ只中で実現できず、3カ月後にニューヨーク州ヴァルハラのケンシコ墓地に埋葬された。墓標としてロシア正教会の八端十字架が建てられている。
1958年、ロシア(当時ソ連)で開催された第1回チャイコフスキー国際コンクールで、米国人ピアニストのヴァン・クライバーンが本選でラフマニノフの『ピアノ協奏曲第3番』を弾いて第1位に輝いた。クライバーンは帰国の際にペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院の墓地に眠るチャイコフスキーの墓から土を持ち帰り、チャイコフスキーを熱烈に崇拝していたラフマニノフの墓前に供えた。また、ラフマニノフの名歌「リラの花」にちなみ、クライバーンはロシアからリラの木を持ち帰っており、これをラフマニノフの墓の周囲に植えた。リラの花言葉は「友情」だ。

【墓巡礼】
ピアノという楽器を極限まで歌わせたラフマニノフ。歌曲もひろく愛唱され、歌曲だけで80以上にのぼる。
初巡礼は2000年。ラフマニノフはニューヨークに眠っている。「ニューヨークに墓がある」と聞いて、マンハッタンの都会の墓地をイメージするかも知れないが、マンハッタン島は約20キロしかなく、ニューヨーク州の大半は森やのどかな田園風景。鉄道路線も少し東に行くと単線だったりする。ラフマニノフが眠る広大なケンシコ墓地は、マンハッタン中心部から約45キロ北で、メトロノース鉄道のハーレム(Harlem)線で1時間20分もかかる場所。2駅にわたって複数の墓地が集まったエリアだ。隣接するゲート・オブ・ヘブン墓地には、あのベーブ・ルースが眠っている。
ケンシコ墓地にはラフマニノフの他に、喜劇役者ダニー・ケイ、野球選手ルー・ゲーリック、トロンボーン奏者トミー・ドーシーなどが眠っており、事務所で墓石の場所を尋ねると、中年の女性職員が若い男性職員に「歩いて全員墓参するのは大変だから、車を出してあげて」と、車でケンシコ墓地を巡ることに!途中で「あれはロバート・デ・ニーロの親父さんの墓だよ。ロバートもここに入るんじゃないかな」と教えてくれた。
ラフマニノフの墓はきれいに剪定(せんてい)された生け垣の中にあった。中央に正教会の特徴的な八端十字架(横線が3本入った形)があり、手前に石板が置かれ「セルゲイ&ナタリー」と夫婦の名が刻まれていた。墓所の左右にはクライバーンが植えたというリラの木が花咲いていた。
広大なケンシコ墓地に眠る著名人を墓参した後、案内してくれた男性職員が「最寄りのヴァルハラ駅まで2キロあるから送ってあげるよ」と、なんと僕を送り届けてくれた!墓巡礼31年、墓地の職員が車で墓地をガイドしてくれたうえ、帰りの駅まで送ってくれたのは後にも先にもこの時だけ。なんて親切なんだ。敬愛する先人たちに会えた興奮、墓地職員の優しさ、アメリカでの忘れ難い墓参となった。

※甘美でロマンティックな旋律を得意としたラフマニノフ。辛口の批評家は「時代遅れで没個性的」「作り物めいて大袈裟」「人気は長く続かないだろう」と非難してきたが、ロマン大爆発は僕が求めているものなので彼の曲が大好きだ。「(ラフマニノフ芸術の特徴は)顕著な叙情性、表現の幅広さ、構成における独創性、オーケストラの豊かで特徴的な色彩のパレット」(ニュー・グローヴ音楽大辞典)。
※身長2メートル、その巨大な手は12度の音程を左手で押さえることができたという(小指でドの音を押しながら親指で高い方のソの音を押せた!)。
※ラフマニノフがいかにピアニストとしても優れていたか、次の証言が残っている。彼が演奏したショパン『ピアノソナタ第2番』を直接聞いた音楽評論家ウィリアム・ジェイムズ・ヘンダーソンいわく「我々はラフマニノフと同じ時代に生き、彼の神々しいまでの天賦の才能がこの名作を再創造するのを聴くことができるという運命のめぐり合わせに、ただただ感謝するほかはない。それは天才が天才を理解した一日だった。このような場には滅多に立ち会うことができるものではない。そして忘れてならないのは、そこに偶像破壊者の関与はなかったということだ。ショパンはショパンのままだったのである。」
※ラフマニノフ自身のピアノ演奏の音源がけっこう残っている。1992年に日本では10枚組のラフマニノフ全集(4曲の協奏曲、交響曲第3番、交響詩「死の島」など)が出た。
※亡命後、ピアニストとして成功すると、ラフマニノフは海外からマリインスキー劇場合唱団やモスクワ芸術座などを資金援助した。
※ラフマニノフの作品を聴いた作家ゴーリキーいわく「彼は静寂を聴くことができるんですな」。
※作品番号がついたラフマニノフの作品数は45。うちの作品39までが亡命前のロシア時代のもの。彼は『交響曲第1番』の改訂を望んでいたが、ロシア革命の混乱の中で楽譜を自宅に置いたまま亡命したため、楽譜が行方不明となり改訂できなかった。
※ラフマニノフの姉エレーナは17歳で夭逝。
※ラフマニノフは詩的な音色と華やな超絶技巧が同居したユダヤ系ロシア人ピアニストのベンノ・モイセイヴィチ(1890-1963)を「精神的な後継者」と讃えた。
※2007年の映画『ラフマニノフ ある愛の調べ』はフィクションだらけで伝記映画ではない。



★ビゼー/Georges Bizet 1838.10.25-1875.6.3 (パリ、ペール・ラシェーズ 36歳)1989&02&05&09&15
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France






傑作『カルメン』を作曲! 1989 初巡礼 2002 墓上にはビゼー像が建つ

 
2005 この時もまだビゼー像がある。優しげな瞳

2009 ぐおー!どこのどいつじゃ、胸像を持ち去った野郎は!
そりゃ、僕だって欲しかった。が、持って行っちゃイカンだろう!
2015 いまだ胸像戻らず!

※胸像は2006年11月に他の5体と共に何者かに盗まれたが、後に発見され現在は墓地が保管しているとのこと。レプリカでも良いので置いて欲しい…。

ジョルジュ・ビゼーは1838年10月25日にパリで生まれた。母はピアニスト、父は声楽教師という音楽家の家庭ゆえ、幼い頃から音楽に親しみ、9歳で名門パリ音楽院に入学した。グノーに師事。1855年、17歳で『交響曲ハ長調』を作曲。若々しく伸びやかなシンフォニーであるが、当時のフランスはオペラしか音楽と認められず、交響曲のような純音楽は発表する機会がなかったため、この曲は生前に演奏されず、初演は実に作品完成から80年も経った1935年だった。
https://www.youtube.com/watch?v=ioi6XXXfF3M 『交響曲ハ長調』
18歳の時に若い芸術家の登竜門ローマ大賞(1663-1968)に応募。ローマ大賞は30歳以下の若者への奨学金付留学制度で、音楽、建築、絵画、彫刻、版画の5部門について王立アカデミーが最優秀者を選び、イタリアへ国費留学させるというもの。ビゼーは最優秀になったが年少のため2位扱いになり、翌年(19歳)にあらためてローマ大賞に輝き1860年(22歳)までイタリアに留学した。当時の音楽界ではオペラが最も価値あるものと思われていたので、オペラの本場であるイタリアに行くことは若い作曲家の夢だった。
1859年(21歳)、イタリア滞在中のビゼーのもとへ、ビゼーより2年遅れてローマ賞を獲得した、1歳年上の作曲家エルネスト・ギロー(1837-1892)が訪ねて来た。一足先に留学していたビゼーはギローを歓迎し、2人は1カ月の間一緒にイタリアを旅行した。ビゼーは母への手紙に綴る「旅先でギローとモーツァルトを一日中歌っていました。素晴らしい旅の友を得て僕は幸せです」。2人の友情は生涯続いた。

23歳、帰国後のビゼーは作曲家であり大ピアニストのリスト(当時50歳)の目の前でピアノを弾く機会があった。リストが「この曲(リストの新作)を弾けるのは私とハンス・フォン・ビューローしかいない」と断言した曲を、ビゼーは初見で完璧に弾きこなし、仰天したリストが「弾けるのは3人だった。そして若い君の方が、音が輝いている」と讃えた。
だが、ビゼーはピアニストではなく、あくまでもオペラ作曲家を目指していた。1863年(25歳)、嫉妬による破滅を描いた歌劇『真珠採り』が初演されると、巨匠ベルリオーズ(1803-1869)が「ビゼーがいかに素晴らしいピアニストであったとしても、このオペラを聴けば誰もが彼を作曲家と認めないわけにはいかないだろう」といち早く絶賛した。一方、他の批評家や新聞評は冷淡で、以降に発表した約10曲のオペラは晩年の作品をのぞいてどれも大きな話題にはならなかった。ビゼーの才能を見抜いた劇場支配人レオン・カルヴァーヨ(カルヴァロ)は、落ち込むビゼーを励まし続けた。
27歳のときに才女かつ高級娼婦という年上の女性セレスト・モガドールにぞっこんになり、彼女が歌うハバネラ(スペインの流行歌)に聴き惚れ、後に『カルメン』にハバネラを入れた。30歳、交響組曲『ローマ』完成。
1869年(31歳)、作曲の恩師ジャック・アレヴィ(1799-1862)の娘、ジュヌヴィエーヴ・アレヴィと結婚。この頃からビゼーは持病の扁桃炎が悪化、耳を痛め作曲の筆が鈍った。親友ギローはビゼーを支え勇気づけた。

1872年(34歳)、フランス人作家ドーデの戯曲『アルルの女』につけた付随音楽(劇伴音楽)が話題になり、ビゼーの名が初めてパリっ子に広く知られた。『アルルの女』のストーリーは男が嫉妬で身投げする暗い内容もあって不評だったが、音楽は高く評価されたため、ビゼーは使用された全27曲から演奏会用に4曲を選んで組曲にした。オーケストラの編成にサックスが入っており、クラシックの有名曲の中では最初のサックス登場作品となっている。ちなみに原作者ドーデは初演の不評に落ち込み「一気に200歳も年をとったような気分」と嘆いたが、劇場支配人カルヴァーヨは「これこそ劇と音楽が完全に一致した作品」と大いに満足した。
『アルルの女』はオペラではなく舞台演劇であったため、ビゼーはなんとか作曲家の最高ステータスであるオペラ作曲家として成功したいと熱望し、翌年から1年をかけて『カルメン』の作曲に取りかかる。
※『カルメン』…原作はフランスの作家メリメの小説「カルメン」(1845)。タバコ工場で働くロマ(ジプシー)の女カルメンは、他の女工を喧嘩で傷つけ監獄に連行される。カルメンは伍長ドン・ホセを虜にして逃がしてもらい、ホセはカルメンの夫を刺殺して2人は一緒になった。その後、自由奔放で移り気なカルメンは新たに闘牛士エスカミーリョに夢中になり、嫉妬に狂ったホセに刺し殺される(その後、原作ではホセは絞首刑となる)。

1875年3月、渾身の力作『カルメン』が完成し初演を迎えた。当初予定されていたカルメン役の歌手が「ふしだらな女の役は嫌だ」と出演を拒否するなど、苦労を超えての初日だった。喝采を期待していたビゼーだが、ヒロインが貴族の令嬢ではなくタバコ工場の労働者ということで華やかさに欠け、またヒロイン役が一般的なソプラノ歌手ではなくメゾソプラノ歌手という点も観客を戸惑わせた。何より観客の反発を受けたのはカルメンの奔放な性格だった。19世紀のパリでオペラを観に来る上流階級は女性に貞淑さを求めており、自分の意思で恋をし、工場で働いて自立し、平気で男を捨てるという姿は、あまりに過激な女性像に映った。従来のオペラのヒロインは、最初は悪女でも最後に改心してハッピーエンドというのが主流だった。それゆえ、「悪女が自分の意思を貫き通し、最後は殺されてしまう。こんな野蛮なオペラはない」と非難ごうごうになった(後にカルメンは自立した現代的な女性と見られるようになっていく)。
『カルメン』初演の不評は、ビゼーを深く失望させた。『カルメン』は3カ月で33回上演されるなど、決して失敗作ではなかったが、初演は「卑わいだ」「不愉快だ」と酷評され、もっと大きな成功を期待していたビゼーは心労で体調を崩してしまう。そして初演から3ヶ月後、1875年6月3日に敗血症(細菌感染症)と心臓発作のため36歳という若さで他界した。ギローは親友の急死に打ちのめされる。その4カ月後、10月に『カルメン』はウィーンで上演され大成功を収め、欧州各地でビゼーの名は高まっていく。

『カルメン』は音楽に無駄な音が一音もなく、ドラマチックな展開と音楽の盛り上がりが完全に一致している。闘牛場を舞台にしたクライマックスは、闘牛士の勝利を讃える観客の歓声と、カルメンとホセの悲劇とのコントラストが見事としか言いようがない。恋愛沙汰の殺人を含む恐ろしい内容でありながら、けっしてセンセーショナルな内容に依存せず、堅実に人間ドラマを描ききった。ビゼーの優れた劇的表現は、19世紀末のベリズモ(現実派)・オペラに多大な影響を与え、リアル路線オペラの先駆けとなった。主人公が他者を殺めるプッチーニの『トスカ』より、『カルメン』は25年も早く作られている。
2歳年下のチャイコフスキーはビゼーの死の5年後にこう記している「昨夜、仕事の疲れを休める為にビゼーの『カルメン』を全曲弾いた。傑作という言葉の意味をいかんなく発揮した楽曲だ。今後10年の間に世界で一番人気のあるオペラになるだろう」。ドビュッシーやサン=サーンスもビゼーを絶賛し、哲学者ニーチェは『カルメン』を20回も観たという。チャイコフスキーの予言は的中し、『カルメン』は初演から130年以上が経った今でも、世界各地で常に上演され続けている大人気演目となった。

他界3年後の1878年、舞台『アルルの女』が再演され絶賛される。翌年、『アルルの女』の付随音楽は芝居がなければ演奏されない音楽であるため、親友ギローは「このまま埋もれていくのは惜しい」と感じた4曲を選んで管弦楽版にアレンジし、有名なファランドールを含む『アルルの女・第2組曲』にした。若い頃にイタリア旅行で育んだビゼーとギローの友情は、『アルルの女』の名旋律を甦らせ、音楽を聴く喜びを後世の僕らに与えてくれた。彼らの友情に乾杯。

※ビゼーの死後、妻ジュヌヴィエーヴは息子ジャックを連れて再婚し、サロンの花形となった。ジャックは作家マルセル・プルーストの友人で、プルーストは小説『失われた時を求めて』執筆の際にジュヌヴィエーヴをゲルマント公爵夫人のモデルとした。

〔墓巡礼〕
ビゼーはフランスで最も有名な墓地、パリのペール・ラシェーズ墓地に眠っている。最初に巡礼したのは1989年。広大な墓地ゆえ、地図を片手に迷いながら墓前にたどり着いた。立派なブロンズの胸像があり、ビゼーに直接語りかけているような気持ちに。彼は優しい顔立ちだから、見つめていると癒やされる。以降、2002年、2005年と、この胸像&墓に「お久しぶりです」と挨拶していた。ところが、2009年に4度目の墓参をしたところ、なぜか胸像が消えてお墓の上は空っぽに!訳が分からず墓地の事務所で「どうしたのですか」と尋ねたら、2006年11月に同じ墓地のジム・モリソン(ドアーズのヴォーカル)など他の5体の胸像と共に、何者かに盗まれたという。後日発見され、現在は墓地が保管しているとのこと。泥棒よ、何てことをしてくれたんだ。そりゃあ、欲しいのは分かる。僕だってビゼーの胸像と暮らしたい。だけど、盗んじゃイカンだろ!お陰で、2015年の時点でまだ胸像は戻されず、とても寂しい状態に…。

『カルメン』(前奏曲/2分26秒)レヴァイン指揮/メトロポリタン歌劇場管弦楽団(めっさ爽快!)



★サティ/Erik Satie 1866.5.17-1925.7.1 (フランス、パリ郊外 59歳)2002
Cimetiere d'Arcueil, Arcueil, France

 
恋人ヴァラドンが
描いた若き日のサティ
映画『幕間』に登場した裁判年のサティ。山高帽、雨傘、眼鏡がトレードマーク。
劇中でサティはパリ市街を砲撃しようとしている

孤高の天才作曲家サティの墓

「ここに並外れた音楽家が 優しき心を
持つ男が 希有な市民が眠る」
清掃車の兄ちゃんたちに墓地の道順を尋ねたら、
なんと清掃車で墓地の近くまで送ってくれた!
※墓碑銘の“市民”は、フランスにおいては革命を起こした“市民”という重要な意味を持つ

現代の音楽への扉を開いた「音楽界の異端児」、エリック・サティはフランスの作曲家。トレードマークは黒いコートと帽子、丸眼鏡、そして晴れの日でも手に雨傘。この傘は憎い批評家を攻撃する時に文字通り“武器”にもなった。酒場の演奏で生計を立て、安アパートで没するまで暮らした。
1866年5月17日、北部の港町オンフルールに生まれる。4人兄妹の長男。父は海運業を営んでいたが、4歳の時に仕事を変えパリに移住。6歳で母と下の妹を失い、子ども達は故郷の祖父母に預けられた。8歳のとき、サティがパイプオルガンを聴くために教会に入り浸る姿を見て、祖父は教会のオルガン奏者から音楽を学ばせた。1878年、祖母が海で謎の溺死。12歳で母も祖母も失ったサティは、パリで楽譜出版業を手がける父のもとへ戻される。
1879年(13歳)、名門のパリ音楽院に入学。同校はオペラばかり重視し、サティが好きな器楽曲を冷遇、違和感を覚えながら歳月を重ね、アカデミックな教育やロマン主義への反発が強まっていく。
1886年(20歳)、ピアノ曲『4つのオジーヴ(尖弓形)』を作曲。パリ音楽院に通い始めて7年目。歩兵連隊に入るも気管支炎にかかり1年で除隊。サティは音楽院が「退屈すぎる」と復学せず退学する。

1887年(21歳)、モンマルトルの小さなシャンソン酒場『黒猫(シャ・ノワール)』のピアノ弾きになる。この店はプルースト、ヴェルレーヌ、ゾラ、モーパッサンら作家の集う文学酒場でもあった。
1888年(22歳)、芸術家が集うモンマルトルの自由な空気がサティの創作力となり、社会や音楽のルールから解き放たれた名曲、サティ音楽の代名詞となるピアノ曲『3つのジムノペディ』を作曲した。初演は『黒猫』。物憂げで哀愁を帯びた独特の旋律がゆったりとしたテンポで奏でられた。「ジムノペディ」の語源となったジムノペディアは、古代ギリシャで行われていた神々を讃える儀式で、大勢の裸身の青少年がアポロンやバッカス像の前で何日も歌い踊った。サティはこの祭典を描いた古代ギリシャの壺の絵からインスピレーションを得たという。各曲へのサティの指示は、第1番「ゆっくりと苦しみをもって」、第2番「ゆっくりと悲しさをこめて」、第3番「ゆっくりと厳粛に」。
1889年(23歳)、パリ万博でルーマニアや日本の音楽を知る。
1890年(24歳)、全6曲のピアノ曲『グノシエンヌ』を作曲。第1番〜第3番は『3つのグノシエンヌ』として有名。「知る」という意味のギリシア語の動詞「グノリステ」から、サティが造語「グノシエンヌ」を考えた。別説で語源は古代クレタ島にあった古都「グノーソス宮」とも。曲調はパリ万博で触れた異国音楽の影響で『ジムノペディ』より東洋的になっている。
『グノシエンヌ』の楽譜には拍子記号どころか小節線すらなく、表現は演奏者の自由意志に任されているが、各曲にサティから演奏者へ助言が記されている(第5番のみ小節線あり)。サティの注意書きは、第1番「思考の隅で…あなた自身を頼りに」、第2番「外出するな…驕りたかぶるな」、第3番「先見の明をもって…頭を開いて」等々。
この年、『黒猫』で秘密結社「カトリック・薔薇十字教団」を主宰する神秘小説家ペラダンと出会う。サティはグレゴリオ聖歌など教会の単旋聖歌に惹かれていく。
1891年(25歳)、『黒猫』の経営者と喧嘩、同店のピアニストを辞める。「薔薇十字教団」の聖歌隊長に任命され、『薔薇十字教団の最初の思想』を作曲。この年、4歳年上のドビュッシー(1862-1918)と親交を結ぶ。

1892年(26歳)、モンマルトルの画家シュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938※ユトリロの母)がサティの肖像画を描く。ヴァラドンの元彼はロートレックだが、ユトリロの父はルノアールという説もある。彼女はドガに絵を学んだ。同年、『薔薇十字教団のファンファーレ』を書いた後、ペラダンの傲慢さに閉口し、教団を脱会。「新アテネ・カフェ」のピアニストになる。
1893年(27歳)、1月から1歳年上のシュザンヌ・ヴァラドンと交際を始め、これが生涯で唯一の恋愛となった。サティは彼女に300通を超える熱烈な手紙を書くが、ヴァラドンはすぐにサティに退屈し、もらったラブレターを開封もしなかったという(サティはラブレターを書いたまま出さなかったという説もある)。ヴァラドンの恋心はサティの友人の大金持ちに移り、同年6月20日、屈辱を感じたサティは交際6カ月で絶交した。トラウマになるほど心が傷つき、没するまでの32年間、二度と女性に触れることはなかった。そればかりか、他者と深く交流することを避け、友人さえ臨終の時までアパートの自室に招き入れなかったという。
同年、自宅でキリスト教の新宗派「主イエスに導かれる芸術のメトロポリタン教会」を設立し、司祭かつ唯一の信徒となる。
1894年(28歳)、ピアノ曲『天国の英雄的な門への前奏曲』を作曲し、「この作品をエリック・サティに献呈する」と自分で自分に献呈した。
1895年(29歳)、“世界一長いピアノ音楽”である『ヴェクサシオン』を作曲。題名の意味は「嫌がらせ」。約1分(52拍)のメロディーを840回繰り返すという気の遠くなる作品。速度指定がなく過去の公演の演奏時間は18時間から25時間。サティの注釈は「このモチーフを連続して840回繰り返し演奏するためには、大いなる静寂の中で、真剣に身動きしないことを、あらかじめ心構えしておくべきであろう」。
1897年(31歳)、友人ドビュッシーがサティのために『ジムノペディ』の第1番と第3番を管弦楽曲に編曲。
1898年(32歳)、モンマルトルに別れを告げ、パリ南部の田舎町アルクイユのアパートに住む。引っ越しの際、彼の荷物は手押し車一台に収まったという。このアパートで蚊に悩まされながら没するまで27年間を暮らす。その後もモンマルトルで度々シャンソン歌手のピアノ演奏を引き受けたが、その時はアルクイユとモンマルトルの距離10km(片道2時間)を徒歩でテクテク往復した。
1900年(34歳)、人気シャンソン歌手ダルティのためにシャンソン『ジュ・トゥ・ヴー(お前が欲しい)』を作曲。
1901年(35歳)、『ピカデリー』を作曲。副題は「マーチ」。アメリカの黒人が白人のまねをして踊ったケークウォーク風の楽曲。
1902年(36歳)、作曲家協会から、わずかながら著作権料を初めて受け取る。同年、ドビュッシーが先進的なオペラ『ペレアスとメリザンド』を作曲し、サティは衝撃を受ける。同オペラは「音楽とドラマの完璧な結婚」と讃えられ、透明感のある和声法で夢の世界の出来事のような原作の世界観を見事に表現した。

1903年(37歳)、ドビュッシーから「形式も大事にした方が良い」というアドバイスを受け、サティには珍しく調性や拍子を持つ全7曲のピアノ曲『梨の形をした3つの小品』を作曲。なぜ7曲なのに3の小品とつけたかは不明。フランス語の“西洋梨”には「まぬけ」の意味がある。
詩人ジャン・コクトーいわく「印象派の音楽家たちは梨を十二に切って、その十二切れの一つ一つに詩の題をつける。ところが、サティは十二の詩を作って、その全体に『梨の形をした曲』という題をつけた。」
1904年(38歳)、指揮者・ピアニストでドビュッシー作品の初演で知られるカミーユ・シュヴィヤールの演奏会場で、日頃からサティに批判的な音楽評論家・作家のヴィリー(本名アンリ・ゴーティエ=ヴィラール/1859-1931※作家コレットの夫)とケンカになり警察沙汰になる。事の起こりは12年前の1892年。サティが前年に発表した付随音楽『星たちの息子』に対してヴィリーが「キャバレーで弾いてる元ピアニスト」「ナーバスすぎる」「蛇口のセールスマン」などとこき下ろし、怒ったサティ(当時26歳)が公開書簡で「頭の鈍い売文野郎」「文芸界のゴミ溜めの一部」とやり返し舌戦が激化。この年シュヴィヤールの演奏会で鉢合わせになったサティはヴィリーの帽子を地面に投げつけ、ヴィリーが杖で殴りかかるという事態に発展した。「雨傘で決闘した」という話もあり、おそらくヴィリーの杖VSサティの雨傘という状況になったのだろう。この騒動でサティは警察に連行され、生涯にわたって批評を忌み嫌うようになった。
1905年(39歳)、音楽の基礎理論を学ぶ必要を感じ、パリの私立音楽学校スコラ・カントルム(1894年設立)に入学し、若者たちに交じって対位法を学ぶ。この学校はオペラ一辺倒のパリ音楽院に対抗するため開校しており、反骨心の固まりであるサティの性格に合った。サティは通学のために身なりを整え、黒のスーツをスマートに着こなした。
1908年(42歳)、スコラ・カントルムを“最優秀”で卒業。左翼思想からアルクイユの急進社会主義委員会に加わる。
1911年(45歳)、ラヴェルが演奏会でサティの『ジムノペディ』などを取り上げ、次第にパリの音楽界でサティの存在が知られ始める。
1912年(46歳)、ピアノ曲『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』を作曲。題名で作品を判断しようとする人々への警告として奇抜なタイトルにした。「内奥の声」「犬儒派的牧歌」「犬の歌」「友情をもって」の4曲で構成。出版社にこの楽譜の出版を拒否されたことから、同じ年に『犬のためのぶよぶよした“真”の前奏曲』を作曲。「きつい叱責」「家に一人」「お遊び」の3曲で構成。

1913年(47歳)、海洋生物をモチーフにしたピアノ曲『ひからびた胎児』を作曲。「ナマコの胎児」「甲殻類の胎児」「柄眼類の胎児」の3曲で構成。1曲目の演奏の心がけとしてサティは「歯の痛いナイチンゲール(小鳥)のように」と指示している。2曲目はショパン「葬送行進曲」のパロディだが、サティは「シューベルトのマズルカからの引用」とトボけている。3曲目は完全終止の和音が18回繰り返され、サティいわく「作曲者による強制的な終止形」で終わるというパロディ精神に満ちた作品。
同年、『古い金貨と古い鎧』を作曲。「金を扱う商人の家で:13世紀のヴェニス」「鎧の踊り:ギリシャ時代」「キムブリ族の敗退:悪夢」の3曲で構成。第3曲の最後に演奏者をのけぞらせる“267回繰り返し”が待っている。これはシャルル10世の長い退屈な戴冠式を描いており、約10秒の同じ旋律を45分ほど聞かされることになる。18年前(1895年)に書いた840回繰り返しの『ヴェクサシオン(嫌がらせ)』を彷彿させる。
この年はサティが台本を書いた1幕の喜歌劇『メドゥーサの罠』(全7曲)も作曲している。伝統的な形式美に反抗したダダイズム劇。物語は、メデューズ男爵が娘フリゼットとの結婚を願い出た青年アストルフォに、人物を見極めるため罠を仕掛けようとするもの。場面転換の際に機械仕掛けの猿の7つの踊りがサティの音楽と共に挿入される。
https://www.youtube.com/watch?v=D2Q6dd1yK-E
この年、ドビュッシーの紹介でストラビンスキーと出会う。
1914年(48歳)、20枚の風俗画にピアノの小品を1曲ずつ添えるという婦人高級雑誌の企画に協力し、ピアノ小曲集『スポーツと気晴らし』(序曲を入れ全21曲)を作曲。雑誌社は当初売れっ子のストラビンスキーに作曲を依頼したが、契約金額が高額で断念。代わりにサティに依頼したところ、逆にサティは「こんなに貰えない」と抵抗、自分への報酬を“値下げ交渉”して仕事を請け負った。この曲集も楽譜に調号がなく、小節線が存在しない。序曲「食欲をそそらないコラール」に続いて様々な小品が続くが、異色は第16曲「タンゴ」。ダルセーニョ記号によって永遠に繰り返され、厳密には終わりのない作品になっている。
https://www.youtube.com/watch?v=rA-y3MdZcmM
1915年(49歳)、ヴァイオリンとピアノのための小品集『右や左に見えるもの〜眼鏡無しで』を作曲。「偽善的なコラール」「暗中模索のフーガ」「筋肉質なファンタジー」の3曲で構成。この年、ジャン・コクトーと知り合う。

1916年(50歳)、バレエ音楽『パラード』を作曲。「コラール」「赤いカーテンの前奏曲」「中国の手品師」「アメリカの少女」「軽業師」「終曲」の6曲で構成。初演は翌年。
1917年(51歳)、ディアギレフが率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)が全1幕の『パラード』を初演。台本を28歳の詩人ジャン・コクトー(1889-1963)、美術・衣装を36歳のパブロ・ピカソ(1881-1973)、音楽を51歳のサティが担当するという、時代の最先端をいく芸術家の合作であり大いに話題を呼んだ。物語は日曜日の見世物小屋のテント前で、軽業師らが客寄せの芸を披露し、マネージャーが客を呼び込むというもの。ピカソがデザインした2人のマネージャーは口がラッパになっているなど、ピカソの絵から抜け出てきたような奇抜なデザインとなっている。獅子舞のように2人の人間が入った馬がコミカルな動きで笑いを誘う。サティはタイプライター、ラジオの雑音、サイレン、ピストル、発電機、空きビンを叩く音など、生活音をそのまま音楽に取り込んでおり現代音楽を先取りしている。初演時のプログラムに詩人アポリネールは「この作品が聴衆に快い驚きを与えることになるだろう」と寄せた。第一次世界大戦の真っ只中であり、このような公演を不謹慎とみる者は抗議し、初演はヤジと喝采が混じり合って騒然となった。サティは『パラード』を非難した批評家に抗議の手紙を書き、その内容が問題となって侮辱罪および名誉毀損で警察に拘留されたが、コクトーら友人の尽力で大事に至らなかった。一方、『パラード』は若手作曲家たち、ミヨー、オネゲル、オーリック、プーランク、デュレ、タイユフェールらフランス「6人組」を大いに刺激した。サティは「6人組」の尊敬を集め、彼もまた「6人組」の音楽を積極的に世に紹介した。
同年、全3楽章の『官僚的なソナチネ』を作曲。ソナチネのピアノ教本で有名なクレメンティの作品をパロディ化したもの。官僚の出勤から帰宅までをイメージ。
1918年(52歳)、プラトンの対話編にもとづくソプラノとオーケストラのための交響的ドラマ『ソクラテス』を作曲。サティがプラトンの著作の仏語訳からテクストを抜粋した。
1919年(53歳)、『5つの夜想曲』を作曲。同年パリのダダの芸術家たちと交流し、自身もメンバーとなる。

1920年(54歳)、室内楽曲『家具の音楽』を作曲。家具のようにそこにあっても日常生活を妨げない音楽、意識的に聴かれることのない音楽を目指した。「県知事の私室の壁紙」「錬鉄の綴れ織り」「音のタイル張り舗道」の3曲で構成。ギャラリーで実験的に演奏した際、プログラムに「休憩時に演奏される音楽をどうぞお聴きになりませんように」と注意書きを添えたにもかかわらず、演奏が始まると人々は曲に興味を示して聴く態度を見せたため、サティが「おしゃべりを続けて!」と呼びかけたという。結局人々は聴き入ってしまい“計画”は失敗に終わった。この「生活の中に溶け込む音楽」という思想が、後にBGMやイージー・リスニング、アンビエントミュージック(環境音楽)を生むことになった。作曲家ダリウス・ミヨーいわく「(6人組の)オーリックとプーランクはこういうサティの提案に失望したが、私はとても面白いと思ったので、サティに協力して、バルバザンジュ・ギャラリーで行なわれたコンサートで実験してみた」。
1921年(55歳)、フランス共産党が結党され、サティはすぐさまアルクイユ支部の党員となった。
1924年(58歳)、サティの最後の作品となるシュルレアリスム・バレエ『本日休演(ルラーシュ)』の音楽を作曲。シャンゼリゼ劇場でスウェーデン・バレエが上演し、370枚も反射鏡がはられた眩しい舞台の上で、ダンサーが即興で台本を考えて振付を行った。バレエの途中で映画『幕間』が上映され、映像の冒頭に最晩年のサティ(雨傘を持っている)と画家フランシス・ピカビア(横尾忠則が敬愛)が登場しパリに大砲を撃ち込む。その後、前衛美術家マルセル・デュシャンと写真家マン・レイがチェスをやり、髭モジャのプリマドンナが登場し、ラクダが引っ張る霊柩車に葬儀参列者がスキップでついていき、棺から飛び出したダンサーのジャン・ボルランが出演者全員を魔法のステッキで消すという、シュールの極致といった世界が繰り広げられる。監督は後に仏映画の巨匠となる当時26歳のルネ・クレール(1898-1981)でこれが第2作。ドビュッシーは“ついて行けない”と思ったらしい。いつもなら味方のジャン・コクトーも「もし、こんな馬鹿騒ぎだということを知っていたら、子供達でも連れて来るのだった」と手厳しい。ドビュッシー、コクトー、「6人組」のオーリックやプーランクがサティから離れ、孤立していく。
『幕間』 https://www.youtube.com/watch?v=sNmxvRt4Rg8 (14分)

1925年7月1日午後8時、パリの聖ジョゼフ病院にて肝硬変のため他界。享年59歳。棺はアルクイユの公共墓地に埋葬された。彫刻家ブランクーシが造形にかかわったサティの墓はとてもシンプルなデザインで、次の石板が設置された『Ici repose un musicien immense,un homme de coeur,un citoyen d'exception(ここに並外れた音楽家が 優しき心を持つ男が 希有な市民が眠る)』。晩年のサティは「年老いた共産主義者」を自称。他界後、遺品の整理でサティのアパートを訪れた友人たちは100本以上という大量の雨傘を見つけた。同時代の作家モーリス・サックスは記す。「エリック・サティは死んだ!不幸にも、あまりにも早くこの世を去った。貧困と安酒のために…。異論の余地のないのは、彼が今日のフランスの音楽家の先達だということである」。

日本ではサティの音楽が没後半世紀以上も知られていなかったが、1951年に作曲家・伊福部昭(『ゴジラ』で知られる)が著作『音楽入門』に「人類が生みえたことを神に誇ってもよいほどの傑作」と讃えた。
他界38年後の1963年に、840回繰り返し演奏される『ヴェクサシオン 』が、ジョン・ケージら10人のピアニストと2人の助っ人によって初演された。18時から演奏が始まり、終わったのは翌日の午後12時40分だった。この年、ルイ・マル監督のフランス映画『鬼火』でジムノペディが使用され、これをきっかけにサティが世界的に知られるようになる。

楽譜から「調性」「拍子」「小節線」を廃止することを“発明”したサティ。調号の表記は捨てられ、臨時記号は1音符ごとに振られた。『家具の音楽』のように観賞を目的としない音楽も手がけ、環境音楽、BGMの開祖となった。また、「ヴェクサシオン」の15時間に及ぶ840回の繰り返し、「古い金貨と古い鎧」の267回の繰り返し、「スポーツと気晴らし」第16曲「タンゴ」の永遠の繰り返しは、ミニマル・ミュージックの先駆けとなる。楽器以外のタイプライターやサイレンを音楽に組み込んだ点では、現代音楽の祖ともいえる。そして聴衆に対しては、曲名にこだわることをからかうように、「梨の形をした三つの小品」「彼のジャム付きパンを失敬する食べ方」「輪回し遊びの輪をこっちのものにするために、彼の足のウオノメを利用すること」「官僚的なソナチネ」「快い絶望」「いやらしい気取り屋の3つの高雅なワルツ」「コ・クオの少年時代(1)ココアを指につけてなめちゃだめよ」「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」など奇妙な題名のピアノ曲を量産した。
流行りのロマン主義の重々しいドラマチックな音楽や、過度に複雑化していく楽曲に反逆し、独特の和声で澄みきった情感や静けさを紡いだ作風は、先輩のドビュッシーや年下のラヴェルに影響を与え、サティがグレゴリオ聖歌の教会旋法を作品に取り込むと、それをヒントにドビュッシーやラヴェルも教会旋法を扱って表現の幅を広げ、従来と異なる風景の音空間を築くことに成功した。
ミヨーら「6人組」の若い革新的な作曲家たちは、音楽の無限の可能性を知った。ワーグナーが『トリスタンとイゾルデ』で行った調性崩壊は3度集積の和声の範囲内であったが、サティは3度集積を使わずに自由で複雑な和音を書き込み、和声面で音楽史上に大変化をもたらした。
「人間の環境の中で、音楽は自然に存在するべきだ」。サティにとって、音楽はコンサートホールで行儀正しく聴くだけのものではなく、壁紙や椅子と同じように日々の暮らしで役立つものだった。音楽史に大きく貢献し、若手作曲家から師と仰がれたサティだが、水道も電気もない安アパートで「もう2日間、何も食べていない」と記す極貧生活を送り、モンマルトルの酒場でピアノを弾いて生計をたてた。アカデミズムに対して皮肉な言動をとり続け、社交界など華やかな世界からは相手にされなかったが、それを気にも留めず自分の年齢の半分ほどの新進芸術家たちと時間を過ごした。ラヴェルやコクトーが老いたサティの面倒をみ、サロンの帰りは10km先のアルクイユまで誰かが車で送った。その音楽は豊かなユーモアと鋭い風刺を同時に含み、あらゆる既成の権威に反発した反骨の作曲家だった。
「肝腎なのはレジオン・ドヌール勲章を拒絶することではないんだよ。なんとしても勲章など受けるような仕事をしないでいることが必要なんだ」(サティ)

〔サティ評〕(ツイッターのサティbotから)
ストラビンスキー「サティは、私がかつて知ったひとの中で、たしかに、一番変人だったが、そればかりでなく一番めずらしい、一番エスプリにとんだひとだった。私は彼が大好きだった。」
ジョン・ケージ「サティは自分自身の損得や人気といったことには無関心だった。だからサティには笑うことも、泣くことも、それを自分で選ぶことができた。」
ジャン・コクトー「サティのような人間の、底知れぬオリジナリティは、若い音楽家たちに彼ら自身のオリジナリティを放棄しなくてもいいという教訓をあたえる。」
坂口安吾「サティはいつも聴衆の先に立っていた。聴衆がようやく彼を理解しはじめると、彼は忽然と、もう一歩先へ身を躍らせれてしまう。そして彼は生涯ほがらかに落伍者の生活を続けた。」
モーリス・ラヴェル「いまや四半世紀以上も前に、知る人ぞ知る大胆な音楽を先駆けて編み出した天才。」

〔墓巡礼〕
サティの墓参をしたのは2003年。ガイドブックやネットではサティが眠る墓地の正確な場所が分からず、パリの観光案内所の中でもひときわ大きく資料が揃っていそうな、凱旋門の側の観光案内所に早朝から訪れた。「朝イチ訪問」は墓マイラーの鉄則だ。なぜなら、質問がホテルや美術館の場所のようにすぐ分かるものではなく、「墓地」というマニアックな内容であるため、観光客の多い昼ごろに質問すると、ちょっと調べただけで「わからない」と言われるからだ。それゆえ、気合いを入れて調べてもらうためには、職員にまだ心の余裕がある朝イチに行く必要がある。
駆け出しの墓マイラーだった頃、観光案内所で自分の後ろに行列ができ、「時間がかかりすぎる」と舌打ちの嵐を浴びたことがあり、「す、す、すみません」といったん列の最後尾に並び直すようなこともしていた。その経験から、サティの墓所を調べる時は、「ソーリー・アイ・ニード・ロングタイム」と書いたダンボール紙を用意して背後の足下に置いた。凱旋門そばの案内所はカウンターが複数あるため、サティの墓の調査中、僕の後ろには誰も並ばなかった!舌打ち、いっさいなし!案内所のおばさんはぶ厚い資料を調べ、「これだわ!サティの墓を見つけた!パリの外、アルクイユのようね」と、郊外を走るRER(高速鉄道)の路線マップを僕に渡し、「この丸印をつけた駅で降りて。町に墓地がいくつかあるから誰かに聞いてね」と言われた。ありがとう、それだけ分かれば充分です!僕はパリからRERのB4線に乗って10km南のアルクイユへ。
Laplace駅で降り、駅前で何人か尋ねた。ところが誰もサティの墓地を知らない。「さて、どうしたものか」。思案していると、目の前に清掃車が止まった。「そうだ!街中を走っている彼らなら知っているかも!」。屈強な3人のお兄さんたちに質問すると「おぉ、サティの墓か!知ってるぜ!」「だが墓地まで1kmある。口で説明するのはややこしいから一緒に行ってやる」。なんと、作業をやめて僕を墓地まで送ってくれるという。「ここに掴まれ」と言われ、清掃車の後部ステップに立ってバーに掴まり、キョトンとする通行人に挨拶しながら墓地に直行。正門に到着すると、思いのほか墓地が広くて面食らったが、「サティの墓は斜面の下の方にあるぜ!」と教えてもらい胸を撫で下ろす。走り去る車の窓から掛けられた次の言葉が、15年経った今も耳に心地良く響いている。「Satie is good!(サティはいいよなっ!)」。

※アルクイユにはサティが最後に住んでいた三角形のアパートが現存している。2階の窓下にそれを示すプレートが掛かっている。
※アルクイユで酔っ払い、溝の中で寝ていたこともあったという。
※サティは絵を描くことを好んだらしく、デッサンや似顔絵が残っている。
※白いものしか食べず、冬でもハンモックで寝たという。
※サティの『スポーツと気晴らし』中の第16曲「タンゴ」のように、ダルセーニョ(D.S.)記号でセーニョに戻り、永遠に繰り返しされる曲としては、他にショパンのマズルカ(作品7-5や作品68-4)や、ジョン・ケージの「オルガン2/ASLSP」がある。後者は2001年からドイツの教会で自動化されたオルガンが演奏中だ。演奏時間はオルガンの寿命を考えて639年に設定され、演奏終了は2640年9月5日の予定。



★リスト/Franz Liszt 1811.10.22-1886.7.31 (ドイツ、バイロイト 74歳)2002
Alter Friedhof, Bayreuth, Germany

   

白亜のチャペルの中に眠っている。※若き日のこのイケメンぶりを見よ!



ワイマールにあるリストの家。他の見学客がいなかったので、なんと管理人さんがリストのピアノを弾かせてくれた!

「ピアノの魔術師」の異名を持つ19世紀最大のピアニストであり、近代交響曲の真髄「交響詩」の創始者でもある作曲家のフランツ・リストは、1811年10月22日にハンガリー・ショプロン近郊のライディング村に生まれた。アマチュア音楽家の父に6歳からピアノを教えてもらい9歳でコンサート・デビュー。この演奏会の成功で数人のハンガリー貴族から6年間の奨学金を約束され、11歳でウィーンに出た。そしてウィーン音楽院に入り、ピアノをチェルニーに、音楽理論をイタリア人作曲家サリエリに学んだ。1823年(12歳)、ウィーンで3回目の演奏会を開いたところ、神童の噂を聞いた晩年のベートーヴェンが列席し、演奏後に少年リストを抱きあげてキスを贈ったという。1824年(13歳)、パリでソロ・リサイタルを行い大成功をおさめ、早々にピアニストとしての名声を確立した。同年、歌劇『ドン・サンシュ、または愛の館』を書き上げて上演したがこちらは4回のみに終わった。

リストは13歳から25歳までパリに12年間滞在し、現地でショパン、ベルリオーズなどの作曲家、作家のユゴー、詩人のラマルティーヌやハイネなど多くの著名人と知りあった。1827年(16歳)、父親とベートーヴェンが他界。
1831年(20歳)、イタリアの天才バイオリニスト、パガニーニによるパリ公演に衝撃をうけ、超絶技巧を駆使した「ピアノのパガニーニ」になることを決意する。
1833年(22歳)、パリで出会った6歳年上のダグー伯爵夫人マリー(父は亡命フランス貴族)と恋に落ちる。28歳のマリーは家も夫も捨ててリストのもとに走った。翌年のリストの手紙「この神々しい愛の震えはどこから来るのか、それはあなたからだ。妹よ、天使よ、女性よ、マリーよ!」。2人はスイスへ逃げ同棲関係を6年間続け、3人の子をもうけた。次女のコジマはドイツの名指揮者ハンス・フォン・ビューローと結婚、その後に作曲家ワーグナーの妻となった。

1838年(27歳)、シューマンの可愛いピアノ曲集『子供の情景』に感動し、シューマンに「この曲のおかげで私は生涯最大の喜びを味わうことができました」「週に2、3回は娘のために弾いています」「しばしば第1曲を20回も弾かされ、ちっとも先に進みません」と手紙を書いた。同年、ドナウ川水害でチャリティー・コンサートを催し、ブダペストに多額の災害救助金を寄付する。
1839年(28歳)、マリーと子どもたちをスイスに残し、ヨーロッパ各地へのコンサート・ツアーに出発する。リストの公演先は、北はモスクワから南はリスボンまで、西はダブリンから東はイスタンブールにまでおよび、各地でリスト・フィーバーを起こし、文字通り全欧を“征服”した。憧れのパガニーニをしのぐ人気を集めて「ピアノのソロ・リサイタル」という興行形態を最初に確立した音楽家となった。ベルリンでは3カ月間に20回以上の演奏会を行ったが、その度に会場に入れない聴衆が増えて大騒ぎになった。
美貌の持ち主でもあったリストは、各地で「リストマニア」と呼ばれるグルーピー(熱狂的女性ファン)に囲まれるアイドル的存在であり、客席からステージに投げられた花束の中で演奏し、演奏会場では女性ファンの失神者が続出した。
一方、聴衆のマナー違反には手厳しく、ロシアで演奏した際に自分の演奏を聴かないニコライ1世に向かって「陛下が話しているうちは私も演奏が出来ない」と叩きつけた。ツアー初年のウィーンからマリーへの手紙「皇后がシューベルトの歌曲を望まれ私は“アヴェ・マリア”を弾いた。ところがザクセンの公女が2小節目で咳を始め、そのまま20小節も咳をやめず私は激怒した」。
人々はリストの超絶技巧に感嘆し、「リストは指が6本ある」という噂が広く信じられ、楽屋に「指を見せて欲しい」というファンが現れた。実際、そんな噂が流れるほど指が長かった。リストは幼い頃から指を伸ばす練習をしており、人さし指は11センチ、中指は12センチもあり(筆者は7.8cm)、12度の音程、つまり「ド」から高い「ソ」まで軽々と押さえることができた。
1840年(29歳)、「リストマニア」との度重なる放蕩や、貴族であるマリーとの身分の違いなどもあって、次第にマリーは愛情が冷めていく。リストからマリーへの手紙「“永久に完全に一人きりでいること以外、何も望みません”、これは君が言った言葉だ。あの献身の6年間がこのような結果をもたらすとは!」。
1844年(33歳)マリーとの同棲を解消する。別離から2年後、マリーは女流作家となりダニエル・ステルンの筆名で小説を書き、作中でリストのことを“しみったれた男”とコテンパンにこきおろした。
1847年(36歳)、演奏先のウクライナ公国キエフで現地の大地主の娘、カロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人(当時28歳)と出会う。高い教養と豊かな感性を持つカロリーネは、17歳のときに結婚した退屈な夫のもと刺激のない日々を送っていた。慈善コンサートを通して2人は出会い、互いを運命の人と確信した。カロリーネは恵まれた生活、社交界、祖国、すべてを捨てた。この頃のリストの手紙「これまで私の人生は“来たるべき人を待つ”という、果てしない待望の中で心臓は石と化していた。しかし今は石から泉があふれている。愛するカロリーネ、私が欲しているのはあなただけだ。あなたは我が魂の中の魂なのだ」。当時は厳格なキリスト教社会であり、周囲は内縁関係となった2人に冷たかった。リストはそれでもカロリーネを同棲相手に切望した。

1848年(37歳)、リストはコンサート・ピアニストとして人気絶頂にあったが、「才能を作曲活動に注ぐべき」というカロリーネの説得を受け入れ、8年間続けてきた演奏旅行と華やかな舞台から引退し、ワイマール大公の宮廷楽長(指揮者)に就任した。実際、リストが作曲した主要作品はここから約10年間のワイマール時代に生まれており、カロリーネの助言は正しかったといえる。リストはカロリーネに出会ってから生活態度が大きく変わり、生真面目な仕事人間に生まれ変わった。旅先でリストマニアと情事に浸ることもなく、ワイマールで作曲と後進の育成に専念した。
同年、ラマルティーヌの詩『4つのエレマン』中の「愛、苦悩、闘争、人生のすべては終局である死の前奏曲にすぎない」に着想を得た交響詩『前奏曲(レ・プレリュード)』を作曲。リストはベルリオーズの『幻想交響曲』など標題交響曲の影響を受け、全曲をつらぬく中心的な主題=固定楽想の手法をさらに発展させた新たなジャンル「交響詩」(リスト命名)を創始した。単一楽章の交響詩は絵画、詩、戯曲、自然の風景など音楽外の題材に着想を得ており、「物語性」を重視。19世紀後半にジャンルとして定着し、リストは『オルフェウス』『ハムレット』『マゼッパ』など13曲の交響詩を書いている。後にドボルザーク、シベリウス、スメタナ、リヒャルト・シュトラウス、チャイコフスキーらもリストを手本として交響詩を作曲した。彼らは幅広い表現力が必要な交響詩を通して、効果的な響きを追求し、和声法と楽器法を飛躍的に発展させていった。
※ベートーヴェンの「運命」「英雄」「月光」などの標題は後世の人間が付けた通称であり、19世紀前半まで標題がつく音楽は珍しかった。ベルリオーズが1830年の『幻想交響曲』(原題『ある芸術家の生涯の出来事、5部の幻想的交響曲』)で標題にこだわり、リストがそのスタイルを交響詩で発展させたことは、音楽史において極めて大きな意味を持つ。

宮廷楽長としてのリストは、ワーグナーやベルリオーズ、自分の作品を積極的に取り上げ、就任年にさっそくワーグナーの楽劇『タンホイザー』をワイマールで上演している。『タンホイザー』は3年前にドレスデン初演されたが不評であったため、リストが救いの手をのばして再演の機会をもうけ、再評価の道を開いた。リストは「楽劇」の熱烈な支持者となりワーグナーと生涯の友情を結ぶ。ワイマールはリストの手で世界有数の音楽都市として知られるようになり、ドイツ後期ロマン派音楽の中心地となった。
一方、強烈な上昇志向を持ち、皮肉屋の一面があったリストは、この年にシューマン家でやらかしている。リストはシューマン夫妻の結婚式に駆け付けるほど親しく交流していたが、6月にシューマン家を訪問した際に、年上のシューマンがセッティングした晩餐会を2時間も遅刻したうえ、シューマンの親友かつ前年に若死にしたメンデルスゾーンの批判を始めた。怒りの沸点に達したシューマンはリストの両肩を鷲掴みにし、「そんな風にいえるあなたは、いったいどれほどの人間なのだ?」と叫び部屋を出ていった。リストはシューマン夫人クララに謝罪した。「ご主人は、私がきつい言葉を冷静に受け止めることができたただ一人の相手です」。この騒動にもかかわらず、リストはシューマンの作品を積極的に演奏し続け、後にシューマンはリスト宛の手紙に「大切なことは絶えず努力し、向上することです」と書いて水に流した。ちなみにシューマンはリストの勧めで室内楽を書き始めている。

1849年(38歳)、『ピアノ協奏曲第1番』『同第2番』 が完成。『第1番』は6年後にベルリオーズ指揮、リスト自身のピアノ演奏で初演されている。『第1番』はトライアングルが活躍することから、アンチ・リストの音楽評論家ハンスリックから「トライアングル交響曲」と揶揄された。この年、民主化革命に参加して警察に追われていたワーグナーがリストを頼ってきたため、逃亡資金を渡してスイスに逃がしている。
1850年、ワーグナーが2年前に完成させたが初演機会のなかった楽劇『ローエングリン』をワイマールで初演。同年、自身の3つの歌曲をピアノ曲にした『愛の夢』(3つの夜想曲)を書く。ロマンティックな第3番「おお、愛しうる限り愛せ」が特に有名。
1851年(40歳)、『パガニーニによる大練習曲』を作曲。この曲の第3番が人気曲の「ラ・カンパネラ(伊語の“鐘”)」。右手が鐘の音色を高音で表現し、左手が激しい跳躍を繰り返す難曲で、左手は移動距離が46cmに達する箇所もある。また薬指と小指のトリルなど高度な技巧を要求される。
1852年(41歳)、2度の改訂を経て超人的なテクニックを要求するピアノのための12の練習曲『超絶技巧練習曲』第3稿を出版、ツェルニーに献呈した。
1853年(42歳)、ピアノ独奏用の15曲の『ハンガリー狂詩曲』を作曲(30年後に4曲追加)。第2番は映画版『トムとジェリー“ピアノ・コンサート”』(アカデミー賞受賞)に使用されるなど有名。
1854年(43歳)、カロリーネへの手紙に記す。「芸術とは人類の心臓であり、学問は脳、産業は手、商業は足、政治は胃である」。1856年『ダンテ交響曲』、1857年『ファウスト交響曲』を作曲。
1859年(48歳)、11年間務めていたワイマールの宮廷楽長を辞任。
1861年(50歳)、リストとカロリーネは出会いから14年が経った。なんとか正式な結婚をするために、カロリーネはローマに足を運び、教皇庁にロシアの夫との婚姻無効を認めてもらった。そしてリスト50歳の誕生日当日に結婚式を挙げる準備を整え、前日に2人で聖体拝領を受け、“さぁ結婚”となったそのときに、ローマ法王から式の延期を命じられた。不運にもたまたまローマにカロリーネの親族が訪れており、結婚の異議申し立てをしたのだ。結局、結婚は実現しなかった。
カロリーネは「神学の道を歩ませるために、この結婚に神様が反対していらっしゃる」と考えるようになり、そのままローマで宗教者となった。1865年(54歳)、リストもまた神学を研究するためローマの修道院に入り、黒衣をまとい在俗の聖職者となった。当時、衰退していた教会の宗教音楽を復興するチェチーリア運動(音楽の守護聖人/殉教者・聖セシリアの名が由来)が起きており、リストの作品も聖書を題材にしたオラトリオや『レクイエム』などキリスト教に関するものが増える。リストとカロリーネは別々に宗教生活を送ったが、精神的な結びつきはより深くなり、21年後にリストが没するまで文通が続いた。
1869年(58歳)、ワイマールからの強い要望で同地に戻り後進の指導にあたる。
1871年以後は、ローマ、ワイマール、ブダペストを往来しながら指揮、教職、作曲活動を行い、ワーグナーの作品の普及に尽力する。また、この頃より作品から調性感が薄らいでいく。
1877年(66歳)、約30年前(1848年)から3期にわたって書き重ねていたピアノ小品集『巡礼の年』が完成(第1年1848〜54、第2年1837〜49、第3年1867〜77)。この作品は『エステ荘の噴水』(1877)のように自然の風景を描写した曲を含み、ドビュッシーの印象主義を先取りしている。後にこの曲を聴いたドビュッシーは顔色(がんしょく)を失ったという。1883年(72歳)、ワーグナーが69歳で他界。

リストは1880年以降、5分以上の曲をほとんど書かず、内容は洗練され深化した。先進性もあり、1885年(74歳)に「無調」を標題にした史上初の作品『無調のバガテル(小品)』を書き、前衛の無調音楽に到達した(ただし、後のシェーンベルクらが目指した12音音楽ではない)。その翌年、1886年7月31日にバイロイトのワーグナー音楽祭で楽劇『トリスタンとイゾルデ』を鑑賞後、気道閉塞と心筋梗塞で急死した。享年75歳。
パートナーのカロリーネはカトリックであり、プロテスタントの土地バイロイトでの埋葬に反対したが、娘コジマ(ワーグナー夫人)の強い希望でバイロイトの市立墓地に霊廟が建てられた。翌年3月、リスト他界の8カ月後に後を追うようにカロリーネもローマで世を去った(享年68歳)。リストの霊廟は第二次世界大戦時に連合軍の空襲を受けて倒壊し、戦後は屋根もなく一枚の石板(墓石)が残るのみだったが、1978年に霊廟が再建された。
リストの作品は多数の改訂稿があるため作品総数は1400曲を超える。未確認の作品も400曲以上あるといわれている。リストの死後、いまだリストを超えるピアニストは現れていない。

目のくらむような多彩な響きをピアノ曲に与え、世界最高のピアニストとして欧州の楽壇に君臨し、指揮者としてワーグナーの音楽を世界に知らしめ、作曲家として約350曲もの作品を書き、8巻の著作をあらわした天才リスト。400人をこえる弟子を指導し、無名時代のベルリオーズやワーグナーを金銭と精神面で支援した。晩年はリストが好んだ他の作曲家の作品を200曲以上も編曲し、新たな可能性を引きだしている。
リストは複雑な半音階的和声を駆使するなど和声法の改革者であり、「ライトモティーフ(示導動機)」という主題を変容させる技法を発展させた。これら半音階的和声とライトモティーフはワーグナーやリヒャルト・シュトラウスに絶大な影響を与えた。後年の独創的な和声は、シェーンベルク、バルトークなど20世紀音楽の前兆となっている。リストが創始した交響詩は、発表当時はあまり理解されなかったが、後にリヒャルト・シュトラウスの手でこの様式は実を結んだ。
リストはカロリーネと出会っていなければ、作曲に本腰を入れず名人芸を見せるだけのピアニストとして人生の大半を終えていたかもしれない。カロリーネが作曲家リストを作ったのであり、後世の音楽ファンはカロリーネに感謝しなければ。

※リストはピアノ指導者としてマスタークラス(公開レッスン)を考案した。
※クラシック作曲家は数あれど、特定の作曲家のファンを指す言葉があるのは、ワーグナーファンの「ワグネリアン」、リストファンの「リストマニア」くらいでは。他にあったとしてもこの2つの呼び名ほど知名度はない。両者のカリスマ性がわかる。
※リストは編曲者としても極めて優れた才能を持っている。ベートーヴェンの9つ交響曲すべてをピアノ用に編曲したほか、ベルリオーズの幻想交響曲、ワーグナーのタンホイザー序曲、モーツァルトのドン・ジョヴァンニもアレンジしている。
※リストの演奏を聴いてあまりの衝撃に気絶する観客がいた。リスト自身ものめり込みすぎて演奏中に気絶したという。
※リストは予備のピアノを含めて3台のピアノを用意して演奏をすることもあった。リストの演奏はとても激情的で力強かっため、演奏中にピアノのハンマーが壊れたり弦が切れたることが度々あったからだ。現在、スタインウェイ、ベヒシュタインと並ぶ「ピアノ製造御三家」のベーゼンドルファーは、リストの演奏に耐えたことで有名になった。
※リストが初見で唯一弾けなかった曲がショパンの『12の練習曲 作品10』(第3番「別れの曲」、第12番「革命」が有名)。リストはパリを去って特訓し、数週間後に戻ると弾きこなせるようになっていた。ショパンはリストを讃えてこの曲を献呈した。
※天才ゆえ技巧に走りすぎるリストに対し、音楽観の違いに戸惑う音楽家も少なくない。女性のピアニストとしては当時欧州トップだったクララ・ヴィーク(シューマン夫人)は、当初こそリストの演奏に衝撃を受けて号泣していたが、演奏家は作曲家の意図を尊重した演奏をすべきと考え、リストの自由に装飾する演奏スタイルを好まず「リストはピアノの粉砕者」と評している。メンデルスゾーンは自身のピアノ協奏曲をリストが初見で完璧に弾くのを見て、「人生の中で最高の演奏だった」「彼の最高の演奏は、それで最初で最後だ」と手紙に記している。2回目の演奏からはリストが譜面にない即興をたくさん盛り込んだためだ。
※演奏中のリストを描いたものに楽譜や鍵盤を見て弾いているものが1枚もない。
※交響詩を創始したリストは、音楽史上ではワーグナーらの新ドイツ派に分類され、標題のない絶対音楽にこだわったブラームスや音楽評論家ハンスリックと距離を置いた。
※ピアノ教育者のツェルニーはたとえ優秀な生徒でも高額な謝礼を払えなければ指導を打ち切ったが、リストは才能を感じる者だけを弟子とし、無料で指導を行った。当時の音楽家はピアノの個人レッスンを貴重な収入源と見なしていたが、リストは芸術家が演奏以外で巨額の収入を得ることに否定的だった。
※教育者としてのリストは、生徒に自分の真似を強要せず、逆に生徒の個性を伸ばすことに重きを置き、オリジナリティを求めさせた。
※“リストの弟子”と嘘をついていたピアニストを家に招待し、自分の前で演奏させてこう言ったという「これで私が教えたことになる」。
※リストはまだ無名だったグリーグが書き上げた『ピアノ協奏曲イ短調』を初見で弾きこなしてグリーグを賞賛した。また、スメタナの才能を認めて資金援助を行っている。
※作品番号はイギリスの作曲家ハンフリー・サールが分類した曲目別の目録、サール番号(S.)がよく使われる。
※アイゼナハのヴァルトブルク城にはリストがオラトリオ『聖エリーザベトの伝説』を指揮した祝宴の広間、『タンホイザー』歌合戦の壁画、ルターが新約聖書を翻訳した部屋などがある。またバッハハウス、ルターの家もある。
※ワイマールには1869年〜1886年まで住んだ家が「リストの家」として公開されており、2階のサロンにグランドピアノがある。ワイマール憲法が採択された国民劇場はリスト、シューマン、ワーグナーたちが活躍した劇場。
※バイロイトでリストが没した最期の家「リスト博物館」が、ワーグナー博物館(ヴァーンフリート荘)に隣接。また、ワーグナー博物館にはリストの遺体が一度置かれた音楽の間がある。リスト博物館の外隅にリストの胸像がある。
※1975年のケン・ラッセル監督の映画『リストマニア』(主演ロジャー・ダルトリー)はリストを扱った伝記映画。
※静岡出身のピアニスト・内田光子(英国籍)は、リストの弟子ハンス・フォン・ビューローの弟子のハインリヒ・バルトの弟子のヴィルヘルム・ケンプの弟子=玄孫(やしゃご)弟子にあたる。またリストの晩年の弟子エミール・フォン・ザウアーの弟子の  ステファン・アスケナーゼからもマルタ・アルゲリッチと共に学んでおり、
この系譜では内田はリストのひ孫弟子となる。さらに内田はリストの最後の弟子の一人アレクサンドル・ジローティの弟子のニキータ・マガロフの弟子でもあり、こちらの系譜でもひ孫弟子となる。




★メンデルスゾーン/Felix Mendelssohn-Bartholdy 1809.2.3-1847.11.4 (ドイツ、ベルリン 38歳)2002
Dreifaltigkeitsfriedhof I, Berlin, Germany



メンデルスゾーン家の墓所。彼らは町の名士だった。 実は94年にも訪れていたが、赤の他人のメンデルスゾーン
さんに巡礼していた。完全に人マチガイ。大雨の中を、ズブ
濡れになって2時間かけて探し当てたのに…。墓前で超喜ん
でるだけに、この写真は自分にとって涙なくしては見れない。

気品に満ちた均整美や優れた音風景を創造し、19世紀ロマン派の指導者的役割を果たしたドイツの作曲家フェリックス・メンデルスゾーン=バルトディ。指揮者、ピアニスト、音楽院教授としても非常に優れ、仕事に追われる過密スケジュールの中で大量の作品を遺した。上品さと分かりやすい旋律、群を抜いて整い洗練された古典的な形式美、詩的で絵画的な描写が特徴。品の良い情熱をたたえながら甘美に流れる音楽。
1809年2月3日、交易都市ハンブルクの裕福なユダヤ系銀行家の子に生まれ、フルネームはヤコプ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(欧米ではメンデルスゾーン・バルトルディが一般的)。“フェリックス”は“幸福”の意。すらりとした体格で、柔らかな顔立ちと優美な物腰、陽気な性格で愛された。父アブラハム(1776-1835)は兄と「メンデルスゾーン銀行」を運営し、5年前からハンブルクで投機的拡大を図っていた。母レア・ザロモンは、ハイドンの大規模なロンドン演奏会を企画して有名になったヨハン・ペーター・ザーロモン(1745-1815)の親戚。

両親は息子にあらゆる貴族的教養を身につけさせた。朝5時から勉強が始まり、フランス語、英語、イタリア語、ギリシャ語、ラテン語をマスターした。美術や乗馬の家庭教師をつけ、絵画はプロ並みだった。剣術、水泳も達人の領域だった。姉ファニー(1805-1847)も優れたピアニストで作曲家として約500曲も書くなど女性作曲家の先駆者となった。祖父は著名な哲学者モーゼス・メンデルスゾーン。
※モーゼス・メンデルスゾーン(1729-1786)はドイツの哲学者。ユダヤ人解放の先頭に立ち、ユダヤ人のドイツ市民社会への融合を主張。ユダヤ人啓蒙のためのドイツ語教育学校を興し、ユダヤ人として初めてドイツ語で著作しヨーロッパで名声を得た。いわゆる“同化”ユダヤ知識人第1号でユダヤ分離主義の最初の批判者。最大の貢献は、モーセ五書、詩編、その他の聖書部分のドイツ語訳を通じて、ドイツ語やドイツ文学の世界とユダヤ人との掛け橋になったこと。同化支持の一方、ユダヤ伝統文化遺産の継承を重視してヘブライ語復興の啓蒙運動を東欧全域に広めた。神の存在や霊魂の不滅を理性的に論証、魂の不死性への信仰を展開した著作で「ドイツのソクラテス」と呼ばれる。啓蒙主義の劇作家レッシングの盟友となり、カントとも文通し影響を与えた。レッシングは劇詩『賢者ナータン』(1779)でユダヤ教、キリスト教、イスラム教を代表する人物を登場させ、人間にとって問題なのはどれが真の宗教かではなく、いかに実践するかであると説き、人類愛と寛容の精神を主張、独善的非寛容をきびしく批判した。モーゼスは賢者ナータンのモデルになった。逝去の際、ベルリンのユダヤ人商店は弔意を表すため店を閉めた。墓所はベルリン中心部(ミッテ)の 旧ユダヤ人墓地(Alter Judischer Friedhof)。この墓地は第二次世界大戦中、ナチスによって完全に破壊され、墓石も撤去されたが、モーゼス・メンデルスゾーンの墓だけが残った(もしくは最初に戻された)。
モーゼスは詩人としても優れ、シューベルトはその詩に作曲(『詩篇第23』D706)している。
※シューベルト『詩篇第23』 https://www.youtube.com/watch?v=xHVADfpVyAE (5分)

1811年(2歳)、前年にナポレオン軍がハンブルグを占領し、貿易を制限したため一家はベルリンに移る。新居は元々プロイセンのフリートリヒ大王の宮廷庭園の一部だった広大な屋敷で、邸宅の敷地は10エーカー(甲子園球場に匹敵)もあり、詩人ハイネや地理学者フンボルトら知識人が多く出入りしたという。※この豪邸に住み始めるのは16歳の頃からという文献もあるので要確認。
1815年、6歳のときに母からピアノを学ぶ。
1816年(7歳)、パリでフランスのピアノ教師マリー・ビゴー(1786-1820※ベートーヴェンが『熱情ソナタ』の草稿を捧げた相手)に師事。ベルリンに戻りムツィオ・クレメンティ門下のルートヴィヒ・ベルガー(1777-1839)にピアノを師事。一家はユダヤ教と距離を置いており、同年、メンデルスゾーンはプロテスタントの洗礼を受ける。このとき名前に“ヤコプ・ルートヴィヒ”が加わる。ユダヤ出身でもキリスト教徒に改宗すれば社会で活躍できた。
1817年(8歳)、ベルリンの宮廷楽団員にヴァイオリンを師事。
1818年、9歳で神童ピアニストとしてベルリンでデビュー。ホルンとの二重奏曲だったようだ。同年、ベルリンの市民合唱団(ジンクアカデミー)に入団。詩篇第19を発表。
1819年(10歳)、5月からバッハの孫弟子カール・ツェルター(当時61歳/1758-1832)に作曲と対位法など音楽理論を師事して作品を書き始める(ウィキ日本語版年譜の1817年はおそらく間違い。本文は19年で合ってる。でも「8歳から」とする書籍もあり混乱が起きている)。声楽はバッハやヘンデル、器楽でベートーベンに強い影響を受けた。当時、既にバッハの音楽は忘れ去られていたが、バッハの系譜のツェルターに学んだことで、バッハの音楽を少年期から知り、その素晴らしさに魅了された。
※カール・ツェルター『ヴィオラ協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=i0n4mdzoDvc

1820年(11歳)、自作を公開演奏。市民合唱団でバッハやヘンデルなど大作曲家の宗教曲を歌い、オルガン演奏も学び始める。
1821年(12歳)、『弦楽のための交響曲第1番〜第6番』を作曲。全3楽章。このシリーズは第12番まで書かれ、3年後に『交響曲第1番』が作曲されている。『弦楽のための交響曲』には管楽器が入っていないが、当初メンデルスゾーン自身は交響曲と見なしていたようで、『交響曲第1番』は出版前の段階では『交響曲第13番』と記されていた。少年メンデルスゾーンは、日曜音楽会の前にお抱えの管弦楽団で自作を試演できるという、世界中の作曲家が羨むような環境にあり、どんどん内容も進化していった。
※『弦楽のための交響曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=4UcfWfAwZHM (11分32秒)
※『弦楽のための交響曲第4番』 https://www.youtube.com/watch?v=4UcfWfAwZHM (8分38秒)

メンデルスゾーン邸には音楽会や演劇を開催できる大広間が複数あり、この年から隔週で恒例となる日曜音楽会が始まる。プログラムはフェリックスと姉ファニーのピアノ演奏が中心だが、宮廷楽士のオーケストラも雇われて登場した。
師ツェルターはゲーテと親しく、同年師に連れられてワイマールで文豪ゲーテ(72歳/1749-1832)の家を訪問し、約2週間滞在する。師は「最良の弟子」と紹介し、ゲーテは彼を気に入り毎日ピアノを弾かせた。ゲーテ「この少年が即興でしていること、初見でする演奏は奇跡という次元を超えている」。
1822年(13歳)、『ピアノ四重奏曲第1番』を作曲、これが最初に出版された楽譜となった。
※『ピアノ四重奏曲第1番』けっこう大曲 https://www.youtube.com/watch?v=9cxKJMUu_SQ (27分15秒)
※『ピアノ四重奏曲第1番』第二楽章がまるで老年の巨匠のよう(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=9cxKJMUu_SQ#t=8m04s
同年、ベルリン・フィル創立者で指揮者かつ名ヴァイオリニストのエドゥアルト・リーツのため『ヴァイオリン協奏曲ニ短調』を作曲。
※『ヴァイオリン協奏曲ニ短調』第三楽章 https://www.youtube.com/watch?v=V5bsQsqHY1M#t=16m19s
※『ヴァイオリン協奏曲ニ短調』フィナーレの2分間、13歳の曲というのを完全に忘れる(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=V5bsQsqHY1M#t=18m10s
『弦楽のための交響曲第7番〜第8番』を作曲。
※『弦楽のための交響曲第7番』弦が気持ち良い https://www.youtube.com/watch?v=EgBS21nxvBY
この年、両親がプロテスタントの洗礼を受けてユダヤ教から改宗し、他のメンデルスゾーン家と区別するため一家の姓に“バルトディ”が加わる。

1823年(14歳)、クリスマスにバッハの『マタイ受難曲』のスコアを祖母からプレゼントされる。本格的に作曲を始めた10歳からの4年間で、弦楽交響曲12作、ピアノ曲、声楽曲など100作以上を既に書いていたという。同年、初めて楽譜(ピアノ曲)が出版され、ベルリンで作品が演奏されるようになる。
この年、ウィーンでシューベルト(当時26歳/1797-1828)がピアノ曲『幻想曲・ハ長調(さすらい人幻想曲)』を出版、ピアノで内面を表現しながら全4楽章が切れ目なく演奏されるスタイルに、多くの作曲家が影響を受ける(リストは単一楽章のソナタを書いた)。この年、ゲーテに再会し、ゲーテはメンデルスゾーンを「音楽の奇跡」と讃えた。
※シューベルト『さすらい人幻想曲』 https://www.youtube.com/watch?v=3W732jCPxAQ (21分42秒)
『弦楽のための交響曲第9番〜第12番』を作曲。
※『弦楽のための交響曲第11番』第一楽章のこの緊張感よ https://www.youtube.com/watch?v=MqzzHiCu9DM
※『弦楽のための交響曲第12番』第一楽章も第二楽章も素晴らしい。14歳の少年に何が起きた!? https://www.youtube.com/watch?v=yz6PGkfgok8 (21分50秒)

1824年(15歳)、作曲家で名ピアニストのイグナーツ・モシェレス(当時30歳/1794-1870)は、メンデルスゾーンの父からフェリックスとファニーにレッスンを依頼されベルリンを訪れた。モシェレスは感想を残す。「見たこともないような家庭だ。15歳になるフェリックスはまさに神童である。これほどまでの才能があろうとは…もはや既に一人の成熟した芸術家といっても過言ではない。彼の姉のファニーもまた、非凡な才能に恵まれている」。その2週間後。「今日の午後、私はフェリックスに初めてのレッスンを行ったのだが…自分の隣に座る彼が、生徒ではなく一芸術家であるという事実に、しばらく呆然としてしまった」。
この年、メンデルスゾーンは若いエネルギーに満ちた『交響曲第1番』を作曲。3年後に初演され、批評家は管弦楽法を称賛した。“第1番”と冠されているが、実際には12歳から14歳までに12曲の交響曲があるため13番目となり、自筆譜には『交響曲第13番』と表記されている。作品全集の刊行時に出版社が10代前半の作品を習作と見なし、本作を第1番とした。
※『交響曲第1番』カラヤン https://www.youtube.com/watch?v=CBJEz7hQ98c (30分)

また、『六重奏曲』を作曲。ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ×2、チェロ、コントラバスで演奏。第一楽章はピアノが華やかに駆け巡り、第四楽章のフィナーレもダイナミック。15歳の体内から湧き出る音の泉水。
※『六重奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=Sakzl6bj_T8 (28分30秒)
さらに、ピアノ曲『ロンド・カプリッチョーソ』も作曲。夢見るような旋律で始まり、途中から加速、華やかに終わる人気曲。
※『ロンド・カプリッチョーソ』 https://www.youtube.com/watch?v=yt-lap4E6pU (6分12秒)
同年はウィーンでベートーヴェンが『交響曲第9番』を初演している。

1825年(16歳)、傑作『弦楽八重奏曲』を作曲。若々しく情熱的な第一楽章で始まり、第三楽章スケルツォは楽想の霊感をゲーテ『ファウスト』のワルプルギスの夜から得た。同年、オペラ『カマーチョの結婚』を作曲。父とパリを旅行し、ロッシーニ、リスト、パリ音楽院の院長ケルビーニらと親交を結び、パリで大成功を収める。
※『弦楽八重奏曲』ハイフェッツと仲間たちの名演 https://www.youtube.com/watch?v=KrITNrgQHuE(28分)
※『弦楽八重奏曲』から第三楽章(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=KrITNrgQHuE#t=18m23s

1826年(17歳)、メンデルスゾーンはシェイクスピアの『夏の夜の夢』を読んで霊感を受け、姉ファニーとのピアノ連弾用の序曲を作曲し師モシェレスの前で演奏した。好評を得てただちにオーケストラ用に編曲され、管弦楽版の劇付随音楽『夏の夜の夢』序曲が完成し、知人を邸宅に招いて演奏会形式で披露した。ロマンティックで色彩的、幻想的で妖精たちの戯れが見事に表現された楽曲は喝采を呼んだ(全曲完成は16年後の1842年)。かつては『真夏の夜の夢』と訳されていたが近年は原題に従い『夏の夜の夢』とされている。
※『夏の夜の夢:序曲』プレヴィン指揮ウィーン・フィルの名盤 https://www.youtube.com/watch?v=gO9QKI0OqKw (12分)17歳で書いたとは思えない!天才!

1827年(18歳)、3月にウィーンで大ベートーヴェンが56歳で他界。メンデルスゾーンはベートーヴェン晩年の弦楽四重奏曲に惹かれ、自身も『弦楽四重奏曲第1番』を作曲した。その後、ドン・キホーテに題材を得たオペラ『カマーチョの結婚』が完成から2年を経て初演されるが不評でショックを受ける。メンデルスゾーンは初演の幕が下りる前に劇場を去り、翌日から公演はキャンセルされ生前は2度と上演されなかった。彼はメロディー・メーカーにもかかわらず、オペラに手を出さなくなった。
同年、『“夏の名残のばら”による幻想曲』を作曲。アイルランドの詩人トーマス・ムーアが自分の詩にアイルランド民謡「ブラーニーの木立」をつけたものを題材に完成させた。この年、ベルリン大学でヘーゲルの美学講義を聴講。
※『“夏の名残のばら”による幻想曲』
ピアノ https://www.youtube.com/watch?v=x27Y75OyGy4 (9分36秒)
https://www.youtube.com/watch?v=XRCfo9IFx6A (7分46秒)
1828年(19歳)、歌曲『12の歌』を作曲。同年、ウィーンでシューベルトが31歳の若さで病没。
1829年(20歳)、ベルリンのジンクアカデミー演奏会で、バッハの『マタイ受難曲』を自身の指揮により約100年ぶりに復活上演し大成功を収め、20歳にして名声を掴んだ。これはバッハの死後初めての演奏だった。当時は古くさいと考えられ、ほとんど忘れられていたバッハ。メンデルスゾーンはバッハ作品に対する一般聴衆の関心を復活させ、バッハ復興に尽力した。公演日はパガニーニのベルリン初リサイタルと重なったが、メンデルスゾーンは慈善公演として成功させ、利益は貧しい女子のための裁縫学校設立に使われた。大勢の聴衆がマタイを聴きに押し寄せ、入場できなかった人が千人もいたため、10日後に第2回の演奏会をさっそく行った。客席には哲学者ヘーゲル、詩人ハイネらもいた。
ところで、この復活上演はバッハ再評価にとどまらず大きな変化を音楽史に起こした。従来の演奏会は作曲家の自作自演が基本で、その作曲家が没すると作品も演奏されなくなった。ベートーヴェンの第九でさえワーグナーが熱心にリバイバルしなければ聴いたことがない人が大勢いた。メンデルスゾーンは聴衆に「名曲」「クラシック」という概念を与えた。
その後、4月から指揮者兼ピアニストとしてイギリスをはじめヨーロッパ各地を精力的に単身演奏旅行し、『交響曲第1番』、『夏の夜の夢』序曲など自作を指揮し大成功を収めた。メンデルスゾーンはロンドンデビュー公演において“指揮棒”を使用し、これは当時は革新的な出来事だった(ウェーバーと並んで指揮棒を使った最初期の一人)。またピアニストとしても聴取を魅了した。6歳年上のベルリオーズ(1803-1869)、1歳年下のショパン(1810-1849)、2歳年下のリスト(1811-1886)らと親交を深めた。12月に一時帰国。イギリスには生涯で10回(計約20ヶ月)も訪れた。同年、姉ファニーが宮廷画家ヘンゼルと結婚。
この年、メンデルスゾーンが木々の間から見える寺院を描いた水彩画『ドゥアハム寺院』は名画として知られる。

1830年(21歳)、5月から1832年6月まで丸二年間となる欧州演奏旅行を敢行、オーストリア、イタリア(ローマとナポリ)、スイス、フランス、イギリスと巡った。ローマには5カ月も滞在した。
メンデルスゾーンは前年8月にスコットランド西岸のヘブリディーズ諸島スタッファ島のフィンガルの洞窟を訪れ、その場で浮かんだ楽曲冒頭の旋律を殴り書きしてベルリンの姉に送り、当年、演奏会用序曲『フィンガルの洞窟(原題:ヘブリディーズ諸島)』にまとめあげた(改訂初演1832年)。逆巻く波の向こうに見えてくる荘厳で神秘的な洞窟が巧みに描写され、メンデルスゾーンを嫌うワーグナーさえ本作を「一流の風景画のような作品」と絶賛した。
※『フィンガルの洞窟』 https://www.youtube.com/watch?v=nQdp7-NkEak (10分21秒)
同年、ワイマールを訪れ晩年の文豪ゲーテ(当時81歳/1749-1832)を訪問しピアノ曲『幻想曲・嬰ヘ短調(スコットランド・ソナタ)』を演奏。ゲーテは60歳年下の青年の演奏をどう聴いただろう。
※『幻想曲・嬰ヘ短調』老ゲーテの気持ちで聴いてみよう
https://www.youtube.com/watch?v=_VTlaGREM7I (13分46秒)弾き終えたときのメンデルスゾーンのドヤ顔が見える
この年から1845年にかけて、「歌詞をもたない歌曲」、歌謡風の旋律を持ちロマン主義的傾向のピアノ小品集『無言歌』8巻(各6曲・全48曲)を作曲。中には姉ファニーが作曲した作品も含まれる。後年、チャイコフスキーやフォーレも同名のピアノ曲を書いた。
※『無言歌』ヴァルター・ギーゼキング演奏の名演選集17曲 https://www.youtube.com/watch?v=7BFGi80d91A
※『無言歌』第1巻・第6曲「ヴェネツィアの舟歌 第1」 https://www.youtube.com/watch?v=ZWQhhOUrB-k (2分44秒)
前年の『マタイ受難曲』上演がきっかけとなって、宗教改革三百年祭(6月)のための作品を委嘱され、事実上の交響曲「第2番」である、『交響曲第5番“宗教改革”』を作曲した。カトリック教会のグレゴリオ聖歌「ドレスデン・アーメン」の旋律で始まり、プロテスタントのコラール「神はわがやぐら」(ルター作曲)で終わるため、カトリックに対するプロテストの勝利を祝っているとして、カトリックが強いフランスなどで演奏拒否にあってゆく。カトリック側の抗議で三百年祭は中止に追い込まれ、メンデルスゾーンは2年後の初演時に無題で行った。これらの事情から楽譜の出版が遅れ、「第5番」になってしまった。
※ 『交響曲第5番“宗教改革”』アバド指揮ロンドン響 https://www.youtube.com/watch?v=o2ETv2yz9Sc (30分51秒)

1831年(22歳)、バイエルン国ミュンヘンを訪れ、同地で『ピアノ協奏曲第1番』を作曲。王臨席の慈善演奏会で初演され、自身は指揮台に立ち、ソリストは恋愛関係にあったとされる弟子の18歳(17歳?)のピアニスト、デルフィーネ嬢が担当した。スイス、フランス、イタリアを旅行。
※『ピアノ協奏曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=Kj6QFnWWbNE (19分32秒)
『無言歌』第1巻・第1曲「甘い思い出」を作曲。
※『無言歌』第1巻・第1曲「甘い思い出」 https://www.youtube.com/watch?v=RIU70B6K7Ls (3分12秒)やさしい旋律の曲

1832年(23歳)、ゲーテの詩による世俗カンタータ(器楽伴奏付き合唱曲)『最初のワルプルギスの夜』を作曲(1843年改訂)。5月に師ツェルターが他界(73歳)。
この年、ピアノ小品6曲を収めた『無言歌』第1巻を出版。
※『最初のワルプルギスの夜』序曲部分の緊張感がいい https://www.youtube.com/watch?v=_7WmF_BWmV0
幼少から友人だったエドゥアルト・リーツが他界し、死を悼んで弦楽五重奏のアンダンテを書き、これを基に『弦楽五重奏曲第1番』を作曲。
※『弦楽五重奏曲第1番』からアンダンテ。リーツも喜んでいるだろう(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=u4v3WPOrOts#t=12m20s

1833年(24歳)、2年前のイタリア滞在中に楽想をえた『交響曲第4番“イタリア”』を作曲、5月にロンドンで初演。北国ドイツで育った彼が初めて見た、イタリアの真っ青な空と降り注ぐ太陽を明るいイ長調で描きあげた。メンデルスゾーン「僕の書いたものの中では最も愉快な作品」。終楽章にはローマ地方のダンス“サルタレロ”、ナポリのタランテラの踊りの軽快なリズムが反映されている。イタリアの通りで踊る人々やナポリの巡礼者の行進、バグパイプの音などが表現され、輝く青い海、野山のオレンジ、イタリアの魅力がいっぱい詰まった優雅な旅のスケッチ。ロンドンで初演されたがその後は終楽章を改訂するため採り上げず、死後に遺作として出版された。
※『交響曲第4番“イタリア”』ブリュッヘン指揮の名演 https://www.youtube.com/watch?v=6aIjfChyxzQ (28分42秒)
同年、序曲『美しいメルジーネ』を作曲。人魚の姿にされた海の精メルジーネの、人間の騎士との悲恋物語を描く。この年、デュッセルドルフ市の音楽監督に就任し、指揮と教会の音楽を担う。これが音楽家として給料を得た初めての職となった。同市のライン音楽祭を指揮し、ここはヘンデルのオラトリオを採り上げ、バッハと同様にヘンデル再評価のきっかけを与えた。
※序曲『美しいメルジーネ』かなりドラマチック https://www.youtube.com/watch?v=loIvSPPVWcQ (10分52秒)

1834年(25歳)、デュッセルドルフにてハイネが7年前に発表した詩に基づく歌曲『歌の翼に』を作曲。内容は「歌の翼に恋しい君をのせ、花園に運びたい。2人で幸せの夢を見よう」というもの。
※『歌の翼に』名歌です!https://www.youtube.com/watch?v=Zg3rN27JoyY (3分26秒)

★1835年(26歳)、ライプツィヒで世界最古の民間オーケストラ、ゲヴァントハウス(織物会館)管弦楽団(創立1743年)の5代目指揮者に就任し、同時にピアニストとして協奏曲や独奏曲を演奏。コンサートマスターには幼馴染みの名ヴァイオリニスト、フェルディナント・ダヴィット(ダーフィト/1810-1873)を招いた。年20回の定期演奏会を通して楽団を育成し、組織運営面では楽団員の社会保障拡充に取り組んだ。彼はゲヴァントハウス管弦楽団の水準を大いに引き上げ、世界屈指の管弦楽団にした。
メンデルスゾーンはゲヴァントハウスで“名曲コンサート”(歴史的音楽コンサート)をシリーズ化し、古典の傑作を世に普及していった。また、同時代の作品も積極的に紹介したことから、若手作曲家から次々と楽譜が届いた。4歳年下のワーグナー(1813-1883)は自分が送った『交響曲 ハ長調』の草稿をメンデルスゾーンがぞんざいに扱ったとして恨みを抱いた。
演奏会シーズンが終わると、オフの期間は作曲や海外演奏旅行を行っており、常に多忙な日々を送った。同年、ピアノ曲集『無言歌』第2巻を出版。
この年、メンデルスゾーンはバッハが眠るライプツィヒの聖トーマス教会の側に、演奏会で集めた寄付金でバッハの記念碑を建立した。
1836年(27歳)、デュッセルドルフのニーダーライン音楽祭でオラトリオ『聖パウロ』を初演。音楽界は同作を彼の最高傑作と讃えた。この音楽祭で初めてプロの指揮者として賃金を得る。同年、吹奏楽『葬送行進曲』を作曲。同年、フランクフルトで教会合唱団所属の8歳年下の牧師の娘セシル・ジャンルノー(当時19歳/1817-53)と出会う。彼女はフランクフルトいちの美女と評判だった。
※『聖パウロ』 https://www.youtube.com/watch?v=QMqOt81Fybo (128分)
1837年(28歳)、3月にフランクフルトでセシルと結婚し、2人は三男二女を授かる。同年『ピアノ協奏曲第2番』、オルガン曲『3つの前奏曲とフーガ』を作曲。また、ピアノ曲集『無言歌』第3巻を出版。
※『ピアノ協奏曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=_i_jqEIv5JM (22分42秒)
※『3つの前奏曲とフーガ』 https://www.youtube.com/watch?v=db23lLCqIJI (6分21秒)

1839年(30歳)、ひとつ年下のシューマン(1810-1856)が「ベートーヴェン以来の最も偉大なるピアノ三重奏曲」と激賞した『ピアノ三重奏曲第1番』を作曲。冒頭はのちにブラームス(1833-1897)が書きそうな渋い旋律、全体はシューマン的なロマン派のピアノ旋律。初演はメンデルスゾーン自身がピアノを担当した。気品があるのに親しみやすい楽曲であり、流麗で聴いてて心地よい。この曲はシューマンが楽譜を発見したシューベルトの交響曲第8番『ザ・グレート』(メンデルスゾーン指揮)と共に初演された。
※『ピアノ三重奏曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=KioVcstEF9E (31分18秒)
1840年(31歳)、グーテンベルグの印刷技術発明400周年を祝して書かれた合唱交響曲『交響曲第2番“賛歌”』を作曲。三人の独奏者と混声合唱をともなう大規模な交響カンタータ。『第九』の模倣と見なされないよう合唱パートを拡大し、先行する3つの楽章を序奏とした。
※『交響曲第2番“讃歌”』カラヤン指揮ベルリン・フィル https://www.youtube.com/watch?v=lgqbUTtRfb8 (70分)※最後にノイズが入ってるけど名演なので…。
※『交響曲第2番』から第5曲、シューマンを深く感動させた二重唱“私は主を待ち焦がれ”(頭出し済)https://www.youtube.com/watch?v=lgqbUTtRfb8#t=38m27s
※『交響曲第2番』から第10曲、爆発的なフィナーレ“全ての者は主に感謝し栄光を誉め称えよ” https://www.youtube.com/watch?v=eNp4ANnELLg#t=63m20s
同記念祭用に書いた吹奏楽と男声合唱のための『祝祭歌』第2曲を15年後に英国の宗教音楽家が讃美歌に編曲し、それがクリスマスの4大讃美歌「あめにはさかえ」となった。
この年のメンデルスゾーンの母宛の手紙にはライプツィヒを熱狂させたリストの演奏会に触れている。「二週間ほどリストが滞在し、良くも悪くも、我々の間にもの凄い興奮と熱狂の渦を巻き起こした」「いまだかつてリストのように音楽的知覚能力が指先まで満ち満ちており、音楽そのもの指先から直接放射されてくるようなピアニストを私は聴いたことがない」「ただ、彼は気立てが良く暖かい心の持ち主だが、彼が書いた音楽は、彼の演奏に比べればお話にならないし、正直なところ、演奏効果だけを計算して書かれたものでしかない」「芸術における最も重要なポイントは、その人の持っている精神であり、まさにそれこそが、今のところ彼には与えられていない」「ライプツィヒ市民は演奏会が高額であることに腹を立てている。注目されすぎていることに嫉妬を感じている者もいる。だが彼が来たことによる歓びの方が比較にならぬほど大きい。私は彼をもっと親密な形で人々に知ってもらおうと考え、ゲヴァントハウスでリストのための夜会を開催した。350人の来賓にホット・ワインとケーキを振る舞い、余興でバッハの『三台のピアノと管弦楽のための協奏曲』(ソロはリストと私とフェルディナント・ヒラー)、私の序曲とオラトリオの抜粋、そしてリストが(シューベルトの)『魔王』などいろいろ演奏した。その結果、参加者全員が歓喜の渦に巻き込まれ、誰もが、“誓ってこんなに素敵な夜を過ごしたことは生まれて初めてだ”と言ってくれた。私の目的は達せられた」。

1841年(32歳)、プロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム4世の熱心な要請で王に仕える宮廷礼拝堂楽長となったが、ゲヴァントハウスの音楽監督も兼務したため、ライプツィヒ・ベルリン間の160kmを鉄道で何度も往来するという、さらにハードな生活となる。ウィルヘルム4世が音楽教育に向けて具体的な行動を取らないため、メンデルスゾーンはしばらくして辞職した。同年、ボンのベートーヴェン記念像の建立資金を集める企画に協力し、ピアノ独奏曲『厳格な変奏曲』を作曲。重く渋いシリアス(厳格)な主題を17の変奏で展開させる。ピアノ曲集『無言歌』第4巻を出版。
※『厳格な変奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=ZJQiqTELwwI (12分25秒)

1842年(33歳)、『交響曲第3番“スコットランド”』を作曲。五つの交響曲の中では最後に完成した作品であり1829年の着想から13年を経ている。全体を北方の郷愁ある美しさが漂う。11月プロイセン音楽総監督に任命される。
※『交響曲第3番“スコットランド”』クレンペラー指揮フィルハーモニア管 https://www.youtube.com/watch?v=4nP0gqKmWuY (42分)
同年、王の命により結婚行進曲で知られる劇付随音楽『真夏の夜の夢』を作曲。1曲目の「スケルツォ」は繊細と精緻を極めた舞台音楽。
※『真夏の夜の夢:結婚行進曲』 https://www.youtube.com/watch?v=GvZINNKR4E0 (5分17秒)
※『真夏の夜の夢:夜想曲』 https://www.youtube.com/watch?v=XOXS1Gt-Z8A (6分40秒)
同年、『ピアノ協奏曲第3番』を第2楽章までスケッチ、第1楽章冒頭のみオーケストレーションを行う。近年、研究者の手で再構成され初演。
※『ピアノ協奏曲第3番』スケッチを元に別人が仕上げたが…こ、これは…アリ!https://www.youtube.com/watch?v=DKDtuI8mkp4 (20分)
ピアノ曲集『無言歌』第5巻・第6曲「春の歌」を作曲。装飾音符を巧みに使って非常に美しい効果を出している。『無言歌』全49曲の中で最も有名な楽曲となった。
※ 『無言歌』第5巻から第6曲「春の歌」 https://www.youtube.com/watch?v=70Ww91FQED0 (2分48秒)

1843年(34歳)、4月自ら設立資金を集め、シューマンらとライプツィヒ音楽院(現フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学)創設に奔走し開校にこぎつける。メンデルスゾーンが院長とピアノ・作曲科の教授を担ったほか、教授陣にシューマン(ピアノ・作曲科教授)、ダヴィッド(ヴァイオリン科教授)、モーリッツ・ハウプトマン(音楽理論)、ヨーゼフ・ヨアヒム、モシェレスといった豪華な顔ぶれになった。
同年、6歳年上のベルリオーズ(1803-1869)はメンデルスゾーンの指揮を称賛し、ライプツィヒで指揮棒を交換し、こう記した。「大いなる神秘が我らを魂の大地へ狩りに遣わす時、我ら戦士が閉ざされた部屋の前にてこのトマホーク(戦闘斧)を並び手にせんことを」。
1844年(35歳)、疲労からベルリンの宮廷を退く。メンデルスゾーンは11月からオフをとって夫人の故郷フランクフルトとその近辺の温泉で一年近く静養し、その間にベートーベン、ブラームスの作品と並ぶ三大バイオリン協奏曲『ヴァイオリン協奏曲ホ短調』を作メンデルスゾーンは1歳年下の親友のヴァイオリニスト、ダーフィトの超絶技巧に刺激を受けて同曲を書きあげ、初演を委ねた。ダーフィトはメンデルスゾーン家と同じ建物で生まれている。ヴァイオリン協奏曲の作曲中、ダーフィトは演奏家の立場から何度も助言したという。3月のライプツィヒ初演は成功したが、メンデルスゾーンは体調を崩して立ち会えなかった。
※『ヴァイオリン協奏曲ホ短調』 https://www.youtube.com/watch?v=qZndZLUbV2I (24分)
また同年は『チェロ・ソナタ第2番』『6つのオルガン・ソナタ』も作曲。エリック・ウェルナー「メンデルスゾーンのオルガンソナタは、バッハ作品に次いで、全てのオルガニスト必須のレパートリーである」。この年、ピアノ曲集『無言歌』第5巻を出版。
※『6つのオルガン・ソナタ』 https://www.youtube.com/watch?v=eTjQuLoCc2c (87分)
※『無言歌』第5巻から第5曲「ヴェネツィアの舟歌 第3」 https://www.youtube.com/watch?v=XBGOcTgNA2E (2分51秒)
同年8回目のイギリス訪問時に記す。「夜1時半以前に眠れることなど1度もなく、予定が3週間前から仕事でいっぱいになっていた。この2ヶ月の間にやり遂げた音楽は、同年の残りで扱った全ての音楽より多かった」。
1845年(36歳)、様々な感情の炎を感じさせる傑作『ピアノ三重奏曲第2番』を作曲。夏の終わりにライプツィヒに戻り、ゲヴァントハウスでの活動を再開する。仕事量を減らすため、代役と仕事を二つに分けた。空いた時間は大作オラトリオ『エリヤ』の作曲に集中した。
※『ピアノ三重奏曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=t1h-GMX1Isw (26分)

同年、ピアノ曲集『無言歌』第6巻を出版。さらに、チェロとピアノのための『無言歌』を作曲。
※『無言歌』チェロはデュ・プレ https://www.youtube.com/watch?v=F7P6YBc9KFA(4分41秒)
この年、歌曲「ふたりの心が離れてしまえば」を作曲。内容は「なんという悲しい言葉だろう、“お元気で、いつまでもお元気で”。これを聞いて私が感じたのは、愛は壊れやすいということだった」。
※歌曲「ふたりの心が離れてしまえば」 https://www.youtube.com/watch?v=Bi9g0GrnPjY (2分39秒)
1846年(37歳)、旧約聖書の予言者エリヤの物語を描いたオラトリオの大作『エリア』を作曲。第一部はイスラエル王国からエリアが邪教バアルを駆逐してエホバの怒りを解き、神罰(3年間の干ばつ)を終わらせる姿を、第2部はエリヤが迫害から逃れ火の車に乗って昇天するまでを描く。メンデルスゾーンはこの労作に心血を注ぎ込み、その心労が寿命を縮めたという。
※『エリア』第1部 https://www.youtube.com/watch?v=-Q4UZgS8E8s
※『エリア』第1部の美しい複四重唱、第7曲「主は汝のために」(頭出し済)https://www.youtube.com/watch?v=-Q4UZgS8E8s#t=17m43s
※『エリア』第2部 https://www.youtube.com/watch?v=L2pRHEKza5w
※『エリア』第2部第22曲「主なる神は言いたもう」の合唱フーガ https://www.youtube.com/watch?v=L2pRHEKza5w#t=6m33s
※『エリア』第2部第26曲のエリアのアリア「おお、主よ、足れり、わが命をとりたまえ!」 https://www.youtube.com/watch?v=L2pRHEKza5w#t=16m54s
※『エリア』第2部第38曲の合唱「かくて、預言者エリアは火のように現われ」https://www.youtube.com/watch?v=L2pRHEKza5w#t=46m54s

メンデルスゾーンはプロテスタントであったが、カトリック教会から依頼され、カトリックの聖体の祝日用のカンタータ『シオンよ、主を誉め称えよ』を作曲。この年、姉ファニーが念願の自作集を出版する。当時女性の作曲家は大変珍しかった。
※カンタータ『シオンよ、主を誉め称えよ』 https://www.youtube.com/watch?v=p3g13qfckJA (26分)
讃歌(Hymne) Op.96 https://www.youtube.com/watch?v=x7jZ1HXVjmK4
1847年、3月体力的な限界と作曲に専念するためにゲヴァントハウスの音楽監督を辞任する。4月から翌月まで10回目となる最後のイギリス旅行を行い『エリヤ』を各地で披露、ヴィクトリア女王を前に御前演奏を行い、単身でのオルガン独奏会など、分単位の生活が続いた。帰国後、衝撃的な訃報を受け取る。姉ファニーがベルリンの自宅で恒例の日曜音楽会のリハーサル中(曲は弟の『ワルプルギスの夜』)に脳卒中で倒れ42歳(41歳?)で急逝したというのだ。メンデルスゾーンは打ちのめされ、悲嘆の余り神経障害を起こし、しばらく作曲の筆をとれなくなった。「音楽のことを考えようとしても、まず心と頭に浮かんでくるのはこの上ない喪失感と虚無感なのです」。その後、家族とスイスに保養に行き、アルプスの空気を吸い、水彩画を描くなどして心のリハビリを行い、再び五線紙に向かった。姉の訃報の4カ月後、9月に約9年ぶりに『弦楽四重奏曲第6番』を作曲し、これが最後の弦楽四重奏曲となった。他に『3つのモテット』を書く。
※『弦楽四重奏曲第6番』他界2カ月前の作品。激しいトレモロで始まり心がざわめく https://www.youtube.com/watch?v=I9LvDatOFyw (24分10秒)
※『弦楽四重奏曲第6番』から姉を追悼した第三楽章アダージョ(頭出し済)https://www.youtube.com/watch?v=I9LvDatOFyw#t=11m54s
ライプツィヒ帰宅後の10月9日、姉の遺稿を整理している最中に過労による脳卒中で倒れ、11月4日午後9時過ぎに38歳で他界した。最期の言葉は「疲れたよ、ひどく疲れた」。約750曲の作品を残した。3日後にパウリーナー(パウリン)教会で葬儀があり1000人以上が参列。自宅から教会に向かう葬列の先頭をシューマンら音楽家仲間が歩き、モシェレスが管楽編曲した無言歌「葬送行進曲」が演奏された。
※「葬送行進曲」 https://www.youtube.com/watch?v=RAdDsYpfNqo (3分)
葬儀の翌日、鉄道で亡骸がベルリンに運ばれ、クロイツベルク区の聖三位一体教会の墓地に眠る両親や姉の側に埋葬された。メンデルスゾーンは死について手紙にこう記していたという。「そこにはまだ音楽があって、でも悲しみや別れがこれ以上なければいいですね」。
オラトリオ『キリスト』とオペラ『ローレライ』は未完となった。メンデルスゾーンが亡くなったライプツィヒの家は、1997年に記念館「メンデルスゾーン・ハウス」として公開された。音楽院の院長はイグナーツ・モシェレスが継いだ。

1848年、コンサート・ピアニストとして人気絶頂にあったフランツ・リストは、作曲家としても新たなジャンル「交響詩」を創始し、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。リストは強烈な上昇志向を持ち、皮肉屋の一面があった。この年、年上のシューマンがセッティングしたシューマン家の晩餐会を2時間も遅刻したうえ、シューマンの親友メンデルスゾーンの批判を始めた。怒りの沸点に達したシューマンはリストの両肩を鷲掴みにし、「そんな風にいえるあなたは、いったいどれほどの人間なのだ?」と叫び部屋を出ていった。リストはシューマン夫人クララに謝罪した。「ご主人は、私がきつい言葉を冷静に受け止めることができたただ一人の相手です」。
※とはいえ、メンデルスゾーンも手紙の中では毒舌だった。リストが作曲した楽曲は「彼の演奏に比べると劣っており、ヴィルトゥオーゾ風にしつらえただけ」、ベルリオーズの序曲『宗教裁判官』では「オーケストレーションが混乱の極みであり、楽譜を触った後には手を洗わなくてはならない」。
1850年、メンデルスゾーンの人気やユダヤ人であることにワーグナーは苛立ち、反ユダヤ論文「音楽におけるユダヤ性」を音楽誌に発表、メンデルスゾーンの音楽を「曖昧でほとんど取るに足らない内容を最大限に面白く活気を持って語ろうとしている」とし、マイアベーアらユダヤ人音楽家の芸術性を否定するなど差別的な中傷を行い、モシェレスは編集部に抗議の手紙を送った。

1851年、没後4年目に遺作としてピアノ曲集『無言歌』第7巻が出版された。
1853年、没後6年、妻のセシルが肺結核のため36歳の若さで他界。フランクフルトの中央墓地に埋葬された。
1854年、シューマンとクララに末子が生まれ、フェリックスと名付ける。
1858年、ヴィクトリア女王の娘ヴィクトリア妃とドイツ皇帝フリードリヒ3世の結婚式典で「夏の夜の夢」の「結婚行進曲」が演奏され、ここから結婚式の定番曲となった。
1868年、没後21年目にピアノ曲集『無言歌』第8巻が出版された。
1892年、ライプツィヒのゲヴァントハウス前にメンデルスゾーン記念像が建造される。
1933年、ナチス・ドイツによりメンデルスゾーンらユダヤ人作曲家の公演をすべて禁止する指令が発布される。ナチスは「メンデルスゾーンは19世紀のドイツ音楽を『退廃的』にした張本人であり、その存在は音楽の歴史における危険な『事故』である」とした。帝国音楽院やカール・オルフは作曲家たちに「夏の夜の夢」を書き直すことを推奨した。
1936年、ライプツィヒ市長カール・ゲルデラーが北欧出張中に、ナチス将校がゲヴァントハウス前のメンデルスゾーン像を引き降ろしてスクラップにした。ライプツィヒへ戻ったゲルデラーは抗議し銅像再建を進め、翌年ライプツィヒ市長職を辞職した。その後、ヒトラー暗殺計画に加わるが失敗し、拷問を受け断頭台の露となった。
1938年、メンデルスゾーン銀行がナチスによって潰される。
1951年、ロンドンのメンデルスゾーン家でヴァイオリニストのユーディ・メニューインが『ヴァイオリン協奏曲ニ短調』の楽譜を発見、自ら初演してセンセーションを起こす。楽譜はセシル夫人が初演者フェルディナンド・ダヴィッドに贈り、ダヴィット没後はイギリスへ渡った息子が所有し存在が忘れられていた。見つかって良かった。
2008年、ゲヴァントハウス前にメンデルスゾーン像が再建される。

メンデルスゾーンの音楽は上品なのに温かみがある。曲の構造は古典派形式だが、オーケストラの音色は色彩感があり、ロマン派が好んだ標題音楽を多く書いている。作風は抒情的かつ優雅、明快な響きを保ち、古典派とロマン派の精神がヨーロッパの田園風景の中に溶け込んでいる。

※ピアニストのチャールズ・ローゼン「メンデルスゾーンは西洋音楽の歴史上知られている中で、最大の神童」。
※メンデルスゾーンの名で世に出た歌曲のうち、かなりの数が姉ファニーのものという。女性作曲家という存在が認知されるまで時間を要した。
※バッハの墓がある聖トーマス教会内には、バッハだけでなくメンデルスゾーンのステンドグラスもある。

〔墓巡礼〕
初めてメンデルスゾーンの墓参りをしたのは1994年。当時はネットがないため、「ライプツィヒで没した後にベルリンに棺が運ばれた」という情報だけを頼りにドイツを訪れた。鉄路でチェコ・プラハから入国。前回ドイツを巡礼したのは1989年のベルリンの壁崩壊前。4年前にドイツが再統一されたおかげで、旧東ドイツの地域も自由に移動でき、かつてのように宿泊先が決まっていないと外国人は切符を買えないという不便な状況は消えていた。ベルリン中央駅の観光案内所に行き、「この街のどこかにメンデルスゾーンの墓があるはずですがご存知ありませんか」と尋ねた。たまたま他に観光客がいなかったので、職員3人がかりで調べてくれた。案内所の人は美術館やホテルの問い合わせに即対応できるけど、墓地の場所など滅多に質問されないので、どの国で聞いてもぶ厚い本をめくって調べたり、どこかへ電話をかけたりの、ちょとした仕事になる。ほんと感謝。10分ほどして「OK、分かったわ」と地図を出して墓地の場所に印をつけてくれた。ベルリンのほぼ真ん中、地下鉄U6のメーリングダム(Mehringdamm)駅からすぐの場所だった。今から向かうと17時に着く。日本の墓地なら閉門時間だけど、ドイツの夏は日が長いため閉門も遅い。「行ってみよう」。宿代がなく夜は駅で寝るため、バックパックをコインロッカーに入れ、身軽に成って出発した。教えられた駅に着き、ドキドキして「エルサレム&新教会墓地」(Kirchhof Jerusalem und Neue Kirche I)の正門に行くと「閉門時間20時」の看板。「よし!狙い通り!」、小さくガッツして墓地に入る。さすがにこの時間だと、門は開いていても管理人事務所は閉まっている。「大丈夫、3時間もあれば見つかるだろう」。墓の形が分からないので壁際から順に名前を確認していった。著名人なので献花がたくさんあったり、大きい墓石は特に要チェックだ。ところが2時間経ってもまだ見つからないうえ、予定外のことが起きた。天候が崩れドシャ降りになった!日本と違って欧州の男性は雨でも傘を差さないため、僕も多少の雨なら突撃するけれど、大粒の風雨にたまらず雨宿り。「早く小雨になって」と天を見つめて30分。「もうダメだ、あと30分で閉門する!」、雨中に飛び出した。「メンデルスゾーン!メンデルスゾーン!あなたはどこにいるのですか!」と、目に涙を浮かべながら墓地を駆けずり回った。「もう無理かも…」、そう諦めかけた瞬間、真横の巨大な黒い墓に金文字で「Mendelssohn」と彫ってあるのが見えた。「うおおおおお!」、時計を見ると19時57分。やった!間に合った!ちょうど小雨になってきたので、大急ぎでカメラを出してタイマーをセット、憧れのメンデルスゾーンとの対面に感極まる姿を収めた(ネットもデジカメもない時代、ヒーローとの紙焼きツーショット写真は一生の宝物だった)。大急ぎで正門に戻り、感無量で墓地を出た。メンデルスゾーンに逢えて、本当に良かった…!

それから5年が経ち、1999年にパソコンを購入、ホームページを作成して、「あの時はハラハラしたなぁ」としみじみ振り返りながらメンデルスゾーンの墓写真をアップした。その半年後、ベルリン在住の日本の方から衝撃的なメールが届いた。「喜んでいる姿を見て言いにくいのですが、あれは銀行家のメンデルスゾーンで、作曲家の方ではないんです。メンデルスゾーン違いです」「な、な、なんですとぉおおお!?」。改めて写真を確認するとフェリックス・メンデルスゾーンではなく、フランツ・メンデルスゾーンだった。メンデルスゾーンという特徴的な姓、フランツも名前が「F」で始まるため完全にフェリックスと思い込んでいた。やってしまった!普及し始めたネットを使い検索すると、フランツは伯父ジョセフの弟アレキサンデルの息子だった。一族であることは違いなかった。そして正しい墓地は隣接する「三位一体墓地」(Dreifaltigkeitsfriedhof I)であることも分かった。まさか駅前に複数の墓地があったとは。嗚呼、無念なり。
「一刻も早く再びドイツを訪れ、リベンジしなければならない」。それからの僕は旅費を貯めることに全力を集中、雨のベルリンから11年後の2002年、ついにフェリックス・メンデルスゾーン本人の墓前に立つことが出来た。作曲家の墓はチャイコフスキーやブラームスのように本人の胸像があったり、天使や女神像が設置された立派なものが多いけれど、メンデルスゾーンは何の装飾もない小さな十字架で、あまりのシンプルさに驚いた。向かって右側には彼が誰よりも慕っていた姉のファニー、左側には7歳で早逝した三男フェリックス・アウグストが眠っており、“この空間なら彼も寂しくないだろう”と感じ、数々の美しい楽曲を後世に残してくれたことへの感謝の言葉を伝えた。
念願のメンデルスゾーン墓参を終え、胸いっぱいで帰国すると、お二人の方からメールが立て続けに届いた。「ハイドンのお墓の写真、あれは弟の墓です」「ブルックナーの墓写真ですが、あれは記念碑で本当の墓は地下にありますよ」。そう、墓巡礼は一日にして成らず!

※墓地の中にメンデルスゾーン家の記念館になっている小さなチャペルがある(見学無料)。
※僕は未確認だけど、 正門の近くにメンデルスゾーンの墓を記した案内地図があるらしい。
※姉ファニーの墓碑には『想いと歌は天国まで昇り行く』の歌詞と楽譜が刻まれているとのこと(平田達治氏)、それがフェリックスの曲なのか、ファニーの曲なのか、或いは聖歌なのか、僕には分からなかった。



★ニーノ・ロータ/Nino Rota 1911.12-1979.4.10 (イタリア、ローマ 67歳)2018
Cimitero Comunale Monumentale Campo Verano, Rome, Citta Metropolitana di Roma Capitale, Lazio, Italy
Plot Zone: Monte Portonaccio (XIV), First Gradone, Row 97, Number 8

映画音楽の神様 ローマ・ヴェラーノ墓地の奥 白い墓がロータ。数分前に雨が止んだ

「ゴッドファーザー」「太陽がいっぱい」
のテーマ曲が頭の中で流れた
後方から撮影。車道から少し離れている
太陽の陽射しの下で墓参したい!
ロータの墓石は40年前のもの。
完成時は白亜の美しい墓だったろう

「本業はあくまでクラシックの作曲であり、映画音楽は趣味にすぎない」。クラシック音楽と映画音楽で活躍したイタリアの作曲家ジョバンニ・“ニーノ”・ロータは、1911年12月3日にミラノで生まれた。
11歳で最初のオラトリオ『洗礼者聖ヨハネの幼年期』を作曲、翌年に公演される。続いて13歳でアンデルセンの童話を元にオペラを作曲し、15歳のときに楽譜が出版された。ミラノ音楽院、次いでローマのサンタ・チェチーリア音楽院に進む。
1930年(19歳)、大指揮者トスカニーニに励まされて米国に渡り、フィラデルフィアの名門カーティス音楽院で奨学金を獲得し生徒となる。同時期、音楽院では1歳年上のサミュエル・バーバー(1910-1981)も学んでいる。
帰国後ミラノ大学に入学し、文学と哲学を並行して専攻。
1933年(22歳)、初めて映画音楽を作曲。ラファエロ・マタラッツォ監督のイタリア映画『観光列車』。日本未公開作品だが、監督は音楽に満足したと見られ、この後2度ロータは委嘱されている。
1937年(26歳)に文学の学位を取得して卒業し、その後は音楽教師となり、傍らでクラシック音楽の作曲家として活動を開始。
1939年(28歳)、4年前から取り組んでいた『交響曲第1番』が完成する。また、同年から南イタリア・バーリのピッチンニ音楽学校で教鞭をとる(後に校長)。
※『交響曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=pPYKwddvCr0 (21分)ドイツ音楽の悲愴さはなく、イタリア的明るさがある
1942年(31歳)、映画音楽の作曲を本格的に開始。当初は年に1、2本だったが4年後には年に6本、6年後には11本に増えている。
1943年(32歳)、木管五重奏のための『小さな音楽の贈り物』を作曲。フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、コーラングレ(イングリッシュホルン)で演奏。
※『小さな音楽の贈り物』 https://www.youtube.com/watch?v=TPWQQ4KAZr0 (3分50秒)
1946年(35歳)、喜劇オペラ『フィレンツェの麦わら帽子』を作曲。結婚と浮気をめぐるドタバタ騒動。最後はもちろんハッピーエンド。
※『フィレンツェの麦わら帽子』ミラノ・スカラ座の公演が日本語字幕付きで!
https://www.youtube.com/watch?v=ZzLDZOV64kA
1951年(40歳)、当時新進映画監督として注目を集めた9歳年下のフェデリコ・フェリーニ(1920-1993)と出会い、映画『白い酋長』の音楽を担当。その後フェリーニの映画の殆どの音楽(16本)を手がける。
1954年(43歳)、フェリーニ監督『道』の音楽を作曲。この年、最も精力的に仕事をこなしており、年間13本の映画音楽を作曲している。
※『道』 https://www.youtube.com/watch?v=Mc3y7hLuKpc (3分27秒)
1959年(48歳)、フェリーニ監督『甘い生活』の音楽を作曲。
※『甘い生活』 https://www.youtube.com/watch?v=fluX__mWS1I (4分)
1960年(49歳)、『ピアノ協奏曲ハ長調』を作曲。テンポの速い第一楽章から引き込まれる。二楽章の冒頭、ゴットファーザーっぽいけど、この曲が先。
※『ピアノ協奏曲ハ長調』 https://www.youtube.com/watch?v=H36IgwvkYbs (27分)
同年、『太陽がいっぱい』の音楽を作曲。サントラを聴くだけで映画を一本鑑賞した気持ちになる、そんな力を持っている映画音楽がすっかり減って久しい。この年は名匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』にも作曲している。
※『太陽がいっぱい』 https://www.youtube.com/watch?v=OaCaxiQcMDU (5分)
1965年(54歳)、クラシック分野で最も有名になった作品、『弦楽協奏曲』を作曲。
※『弦楽協奏曲』なんとギドン・クレーメル! https://www.youtube.com/watch?v=aBOMJxHq86c (16分20秒)
1968年(57歳)、フランコ・ゼフィレッリ監督『ロミオとジュリエット』の音楽を作曲。劇中の「ワット・イズ・ア・ユース」が大ヒットする。
※『ロミオとジュリエット』 https://www.youtube.com/watch?v=u5SPgsdeOvw (5分34秒)
1970年(59歳)、オペラ『不思議な訪問』を作曲。
1971年(60歳)、南イタリアのモノーポリにニーノ・ロータ音楽院が設立される。
1972年(61歳)、フランシス・コッポラ監督『ゴッドファーザー』の音楽を作曲。
※『ゴッドファーザー』(愛のテーマ) https://www.youtube.com/watch?v=40OZYhttpIE (4分52秒)映像を見てるだけで泣ける。暴力の嵐なのに泣ける。
1973年(62歳)、『チェロ協奏曲第2番』を作曲。チェロがよく歌っている良い曲。
※『チェロ協奏曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=WIKJzOOsZhY (33分)
同年、『ゴッドファーザー』でアカデミー作曲賞にノミネート。また、フェリーニ監督『フェリーニのアマルコルド』の音楽を作曲。
※『アマルコルド』 https://www.youtube.com/watch?v=bk4MEhUkxco (6分15秒)
1975年(64歳)、『ゴッドファーザー PARTII』でアカデミー作曲賞を受賞。
※『ゴッドファーザー PARTII』組曲https://www.youtube.com/watch?v=jURVjACNU6U (15分)
1978年(67歳)、『ナイル殺人事件』の雄大な音楽を作曲。
※『ナイル殺人事件』 https://www.youtube.com/watch?v=wqKLyyrkT_Y (2分16秒)
同年、最後の作品『ピアノ協奏曲 小さな古代世界』を作曲。音楽教育の教壇から降りる。
※『ピアノ協奏曲 小さな古代世界』ロータ自身のピアノ演奏 https://www.youtube.com/watch?v=-O_5tilgIfQ (35分)
1979年4月10日、心臓発作によりローマで他界。享年67歳。未婚だったがピアニストのマグダ・ロンガリとの間に娘ニーナ・ロタがいる。淀川長治は、ロータを失って、以降のフェリーニ作品から勢いがなくなったとしている。
150本以上の映画音楽、そして交響曲、協奏曲、室内楽、10のオペラ 、5つのバレエ、生み出したニーノ・ロータ。哀愁と涙がつまった旋律と簡易な表現が同居し、幅広い層が楽しめる音楽を書いた。もしもベートーヴェンやモーツァルトの時代に映画があれば、オペラやバレエに音楽を付けたように、映画に音楽を書いたと思う。天国でニーノが偉大な先人たちに会えたら、彼の書いた音楽を聴かせてほしい。きっとショパンやシューベルトも魅了されるはずだ。

※ロータ「フェリーニは直観の世界に属する希有な性質を持った人でした。彼が到着するとすぐに、ストレスがなくなり、すべてがお祭りになりました」
※フェリーニ「ロータは私の映画の画像を見る必要がありませんでした。 あるシーンを説明するために彼が念頭に置いていたメロディーについて彼に尋ねたとき、私は彼が画像にまったく関心がないことを理解しました。 彼の世界は彼自身の中にあり、そこに介入する方法がないのです」 「ピアノの前に座るニーノに、ただ自分が考えていることを話すだけで、望む音楽が生まれていった」

〔墓巡礼〕
ニーノ・ロータの墓はローマで最も有名人が多く眠るヴェラーノ墓地にある。ローマの鉄道玄関口、テルミニ駅から東に2kmだから歩いても行ける。僕は最初に訪れたとき、路線バスでしか行けないと思って本数の少ないバスを待ち続け、逆方向のバスに乗ってしまうという痛恨のミスをやらかした。徒歩で行った方が絶対に早かった。
ロータの墓はかなり奥の方にある。Monte Portonaccio (XIV)というブロック。お墓に向かって歩いていると、『ゴッドファーザー』『ロミオとジュリエット』『太陽がいっぱい』など、往年の名画の様々なメロディーが思い出され、自然に鼻歌を歌っていた。墓前に到着すると、彼の白い大理石の墓石が泥んこで、お花もなくて戸惑った。“なんで?世界のニーノ・ロータなのに!”。奥行きが1kmもある広大な墓地だし、正門からかなり遠いから、これは仕方ないのか。娘さんもけっこうなお年なのかも知れない…。とにもかくにも、映画ファンとしてずっと御礼を伝えたかったと、感謝の言葉をニーノに捧げた。同じ墓地に、俳優のマルチェロ・マストロヤンニやアニタ・ヴァリ、監督のヴィットリオ・デ・シーカやロベルト・ロッセリーニが眠っている。



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