作曲家の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

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★83名


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●映画音楽ほか

ハロルド・アーレンの墓
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マックス・スタイナーの墓
ジョルジュ・ドルリューの墓
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バーナード・ハーマンの墓
アーヴィング・バーリンの墓
ビクター・ヤングの墓

音楽家への巡礼は、英語が通じない国でも、メロディーを口ずさむことで誰を探しているのか相手に伝わることも多く、まさに「音楽は言葉の壁を越える」、だね。



★ベートーヴェン/Ludwig van Beethoven 1770.12.16-1827.3.26 (オーストリア、ウィーン 56歳)1994&2002&2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria

















都会的でハンサム でも本当はもっと素朴 第九や荘厳ミサを完成させた頃 散歩中に「田園交響曲」の構想を育む















彼が住んでいたアパート。
部屋は5階の窓が開いている所
ドアのノブに触って
「間接握手」だッ!
ベートーヴェンのピアノと胸像。窓の向こうは大学だ(撮影許可済)


路線38Aで彼が遺書を書いた
ハイリゲンシュタットへ
通称エロイカ・ハウス

窓から美しい庭が見える

デスマスク…ぐっすん


別のベートーヴェン・ハウス。彼は引越し魔
(70回以上!)だったのでウィーン中に家がある
エロイカの楽譜。ナポレオンの名前
がグチャグチャに消されているッ!










2002 夕陽の中にたたずむベートーヴェン 碑文を拡大 2005 小雨の中の彼

『モーツァルトは誰でも理解できる。しかしベートーヴェンを理解するには優れた感受性が必要だ。失恋などで悲しみのどん底にいなければならない』〜シューベルト

『ベートーヴェンの曲は“これしかない”という音が後に続くから完璧なのだ』〜レナード・バーンスタイン(指揮者)

『愛しいあなたに誇れる作品を書こう』〜ベートーヴェン


僕はかつて同じ人類の中に彼がいたという一点をもって、人間が地球に誕生したことは無意味ではなかったと断言する。凄いエネルギーの世界愛と、権力者の理不尽な抑圧に対して一切妥協を許さない鋼鉄の正義感はまさに“楽聖”の名にふさわしい。17世紀の封建社会の中で貴族に唾を吐きかける無敵ぶりと、耳が聞こえなくなるという悲運にも関わらず、逆に自らの運命の女神に闘争宣言を叩き付け、血祭りに上げてしまう恐るべき精神力。とにかく歩く火山のような凶暴ぶりがめちゃくちゃカッチョイイのだ!ゲーテの話によると、ある日彼がベートーヴェンと散歩していると、皇太子の馬車が偶然通ったそうだ。そこで彼や他の通行人が立ち止まって頭を下げていると、ベートーヴェンだけが帽子も脱がず平然とガニ股で歩き続けていたという。ゲーテが追いかけて非礼を咎めると、ベ−トーヴェンは軽く肩をすくめ「皇太子は世界に何人もいるが、ベートーヴェンはただ一人だ」とのたまうので、ゲーテは絶句したという。

また、フランス革命(青春時代に勃発)大好き人間のベートーヴェンは、革命後平民出身のナポレオンがヨーロッパの王政諸国を次々と打ち負かしている事に驚喜し、彼の為に交響曲「英雄」 を作曲したが、フランスに送る段になって「ナポレオン、自ら皇帝宣言!」の号外が飛び込んだ。ゆでダコになったベートーヴェンは「クソったれ!ヤツもただ権力にしがみつく俗物に過ぎなかった!!」と吠え、怒号と共に楽譜の表紙にある“ボナパルトへ捧ぐ”というメッセージをグッチャグチャにした(そのボロボロになった紙は今も残っていて、ブチ切れぶりがよく分かる)。

さて恋愛に関してだが、彼とゴッホは実によく似ている。惚れた相手への怒濤の様な愛の押し付けと、むこうが社交辞令で言葉を交わしてくれたのを、すべて“自分に気がある”と決めつけてしまう才能だ。多くの被害者を出したあげく、失恋大魔王の2人は結局最後まで独身だった…。自分は学校教育の場でもっとベートーベンのトンマなエピソードをどんどん紹介すればいいと思う。クラシックの授業があんなにも堅苦しいのは石像の彼が身近に感じられんからで、そのひととなりを知れば授業に温かい血が流れるのは間違いない。

最後にさらに親しみやすくなる話をいくつか。彼は決して“天才”ではなかった。天才とはモーツァルトのように楽譜に向かう前に既に頭の中で曲が完成している者のことをいい(モーツァルトの楽譜は殆ど修正した跡がない)、ベートーヴェンのようにひとつのメロディーを書くだけで8度も書き直したりはしない。有名な『運命』の冒頭もさんざん試行錯誤した挙げ句のモノなんだ。不器用な彼は作曲中、他の一切の用事が出来ず、ピアノの上にはカビの生えたパンが皿に乗っており、ピアノの下では簡易トイレが大爆発していた(雇ったメイドは片っ端から逃げ出した)。そんな環境で『エリーゼのために』や『月光』など珠玉の傑作が生まれるんだから面白い。
神経質な彼は引越し魔で、ウィーンに滞在した35年間のうちに79回も転居したという記録が残っている。他にも、大傑作の第九の直後に『なくした小銭への怒り』という珍曲を作ってるのも人間ぽくて良い!

彼は31歳の秋、聴覚を失った絶望から自殺を決意して遺書を書く(1802年10月6日)。思いとどまらせたのは音楽。どんどん頭の中にメロディーが浮かんでくる以上、芸術に対する“使命感”から生き続ける覚悟を決めたんだ。享年56歳。

臨終の言葉「諸君、喝采したまえ、喜劇は終わった」が痛々しい。

●ベートーヴェン自殺未遂時の一文から〜
『自ら命を絶たんとした私を引き止めたものは、ただひとつ“芸術”であった。自分が使命を自覚している仕事(作曲)をやり遂げないで、この世を捨てるのは卑怯に思われた。その為、このみじめで不安定な肉体を引きずって生きていく。私が自分の案内者として選ぶべきは“忍従”だと人は言う。だからそうする。願わくは、不幸に耐えようとする決意が長く持ちこたえてくれればよい。・・・そして不幸な人間は、自分と同じように不幸な者が、自然のあらゆる障害にもかかわらず、価値ある芸術家、価値ある人間の列に加えられんがため、全力を尽くしたことを知って、そこに慰めを見出すがよい!』

●第九のサビを歌いませう
Freude,  schoner    Gotterfunken,
フロイデ シェーネル ゲッテルフンケン   喜びよ 神々の散らす美しい火花よ 
Tochter  aus    Elysium,
トホテル アゥス エリージウム         楽園からやって来た娘よ 
Wir  betreten   feuertrunken,
ヴィル ベトレテン フォイエルトルンケン   わたしたちは 炎の情熱に酔いしれて 
Himmlische,   dein Heiligtum!
ヒムリッシェ ダイ ハイリトム          天高きあなたの聖殿に踏み入ろう

Deine   Zauber      binden    wieder,
ダイネ ツァーベル ビンデン ヴィーデル  世の時流がむごく引き裂いた者を
was   die     Mode     streng    geteilt
バス ディー モーデ シュトレン ゲタイル  あなたの神秘なる力は再び結びつける
alle    Menshen     werden     Bruder,
アーレ メンシェン ベルデン ブリューデル  その柔らかな翼に抱かれ
wo    dein  sanfter      Flugel     weilt.
ボー ダイ ザンフテル フリューゲル ヴァイト  人々はみな兄弟となる

他の歌詞も「我が抱擁を受けよ全人類よ!」「我がこの口づけを全世界に!」「太陽が天の軌道を進むように、君たちは自分の信じた道を進め。勝利の道を歩む英雄のように!」など超ポジティブ。


  ベートーヴェンの遺髪(許可を得て撮影)

※最初の埋葬場所はウィーンのWahringer Friedhof(Defunct)。


1994 2002 2005
マイ・ゴッド、ベートーヴェン大先生の足元にひれ伏してキスをする。うう…ありがたき幸せ!この瞬間、天にも昇る
歓喜の絶頂にあり、文字通り失神寸前。もう、どこへでもついて行きます、ベートーヴェン大明神さまーッ!!
(実は1989年にも巡礼して同様の写真を撮ったんだけど…南仏で荷物を全部盗まれフィルムも無くなった!トホホ)


※なんと動画あり!ウィーン中央墓地(5秒)
ベートーヴェン、モーツァルトの記念碑、シューベルト、
ヨハン・シュトラウス、ブラームスが並んでて壮観!



★ワーグナー/Wilhelm Richard Wagner 1813.5.22-1883.2.13 (ドイツ、バイロイト 69歳)2002
Plot at his Family's Home, Bayreuth, Germany

ワグネリアン(ワーグナー・ファン)の聖地、
“あの”バイロイト祝祭劇場の前にて!


「ハハーッ!!ひらにーッ!!」


ワーグナーが晩年住んでた家がそのまま博物館に
なっている。その裏庭に彼と妻コジマが眠っている。





なんと墓はノッペラボウ!何も刻まれてないのでこれが
墓だと気づかず、周囲をずっと探していた。博物館の職員
になぜ名前が彫られていないか尋ねると「自分の家の庭
だから名前を彫る必要ないでしょう?」とのこと。確かに
(笑)。今まで500人以上墓参してきたけど、まったく何も
彫られてない墓石を見たのは、後にも先にもこれっきり!

庭番が教えてくれたワーグナーの愛犬の墓!彼の墓
のすぐ側の茂みにあった。なんか胸がキューンとなった。
ワーグナーって近寄りがたいイメージがあったけど、
こういうの見ると一気に親しみが湧くよ。こういうのが
あるから墓巡礼はやめられない。実に良い墓を見た。
家の中には彼の愛用していたピアノが!おそらく妻の
父リストも使用しただろう。タイマー撮影で悦に入る。



「ワーグナーの音楽は阿片である」詩人のボードレールはこう言った。つまり、一度聴くとその魔力の虜となり、中毒患者の様にそれなくしては生きていけぬようになるのだという。自分はこの言葉が決して誇張されたものとは思えない。現にクラシックファンの間には、熱狂的なワーグナー信奉者を呼称する“ワグネリアン”なる言葉まであるのだ。ベートーヴェンやモーツァルトのファンは“クラシックファン”でひとくくりにされるのに、ワーグナーのファンだけが特別にそう呼ばれる。これだけで事態の異常さがある程度伝わるだろう。ワーグナーの音楽は我々をつかみ、そして引きずり回す。

当時ウィーンでは、ベートーヴェンの正統な後継者と見られていたブラームスを熱愛する『ブラームス派』と、ワーグナーの官能美に頭がヒートした急進的な『ワーグナー派』との間で衝突が絶えず、その波紋は王宮にまで及んだという。実際、ごひいきの作曲家のコンサートの後、興奮した一群が敵対する側のたむろ場となっているパブを焼き討ちしたりかなり過激だったようだ。ブラームス派はワーグナー派に対し「下品、悪趣味、大袈裟すぎ」と攻め、ワーグナー派はブラームス派に「化石、カビまみれ、退屈」とやり返していた。自分の立場は実に微妙だ。普段聴いているものは圧倒的にブラームスが多いのだが、ベストを作ってみると何故かワーグナーの方が上…くわばら、くわばら!

※ワーグナーの訃報を聞いたバイエルン王ルードヴィヒ2世は「死体は私のものだ」と泣き崩れたという。



★バッハ/Johann Sebastian Bach 1685.3.21-1750.7.28 (ドイツ、ライプチヒ 65歳)1994
Thomaskirche (Saint Thomas' Church), Leipzig, Germany



バッハの音楽の魅力を語る上で最初に伝えたいのは、自分がクラシックファン同士の会話の中で、一度たりともバッハの悪口を聞いたことがないという事実だ。それはベートーヴェンのカミナリ説教やモーツァルトの勝手な独り言のように、叱られてる感じや無視されてる感じを味わうことがないからだ。

バッハの音楽はまるですぐそこにいる彼の“呼吸音”を聴いてるかのよう。呼吸音には何も主張はないが、生きていることは確実に分かる。聴いているときに自分が一人ではないように思える。バッハの心音と言ってもいい。他人の鼓動の音を聞くことは、人を落ち着かせ穏やかな気持ちにさせる。

確かに彼も人間である以上、時々呼吸が嵐のように乱れることがある。そういう時はこちらもすごく緊張する。しかしその緊迫感はマイナスにはならず、混乱すら生きている証として前向きに受け止めることが出来る。彼の作品が全曲ハズレなしっていうのは、そういう音楽を超えた部分にあるのかも。流行りの音楽スタイルを作曲に取り入れず、あくまでも古典的であったバッハの曲は死後100年以上も人々に忘れられていたが、メンデルスゾーンが再び光をあてて復活させた。享年65歳。

バッハの墓は、彼がずっとオルガニストを務めていた、ライプチヒ・聖トーマス教会の床にある。この教会では、頭上からほぼ1日中パイプオルガンが鳴り響いている(モチ生演奏)。バッハが作曲した音楽を、バッハが弾いていたオルガンで聴きながら、本人に巡礼ができる…自分が訪れた墓の中で、最も素晴らしい環境で対面できた墓だった。

『バッハのピアノ曲はどこにも音符を書き込むことが出来ない。真に完全なのだ』〜キース・ジャレット(ジャズ・ピアニスト)
『バッハの音楽は世界のあらゆる人種をつなぐ絆。いうならば全人類の為のフォルクローレ(民謡)だ』〜エイトル・ヴィラ=ロボス(ブラジル人、南米最大の作曲家)
『バッハの音楽は宇宙へと目を開いてくれます。ひとたびバッハ体験をすれば、この世の生にはなにがしかの意味があることに気づきます』〜ヘルムート・ヴァルヒャ(盲目のオルガン奏者)
『音楽家たちが、自らの仕事にかかる前に、凡庸に陥らないために、まず祈らなければならないこの慈愛にあふれる神』〜ドビュッシー

※悪魔的完成度の高さを誇る名曲、トッカータとフーガ・ニ短調はまだ若干二十歳の作品!その緻密で一瞬のスキもない曲の構成力は、円熟した老境のものだとしか思え〜ん!

バッハの書いた詩(!)を紹介

『煙』
パイプをくゆらし時を過ごせば
悲しい灰色の絵に思いが及ぶ
自分がパイプと同じだと気づかされる
かぐわしい煙の後は灰が残るのみ
この私も土にかえるのだ
灰色の絵は崩れ落ちて2つに割れ
私は己の運命の軽さを思う

バッハの『平均律クラヴィール曲集』を聴いて--「これを聴き出して、私はこの不条理の世界(この世)にも何かの秩序があり得るのではないかという気がしてきた。この音楽が続く限り、心が静まり、ひとつの宇宙的秩序とでもいうべきものが存在する気がする」/94年生き続けて--「どういう曲が一番胸に染みてくるかというと、それはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンだねぇ。つまるところは、この3人だなぁ〜(笑)。僕は女房が死んだ時に音楽が一時受け付けられない時があって…(音楽というのは)あまりに訴えかけてくる力の強い、他の人の声。だから、ちょっと休んで自分の中に一人でいたいと思った。それでも、そのうち何かで寂しくなって、音が欲しくなって、いろんなものをかけてみた。どれも邪魔をしたけど、バッハは邪魔しなかったなぁ」(吉田秀和)音楽評論家



★モーツァルト/Wolfgang Amadeus Mozart 1756.1.27-1791.12.5 (オーストリア、ウィーン 35歳)1994&2005
Saint Marxer Friedhof Cemetery, Vienna, Wien, Austria

作曲の時、ペンを握る前に頭の中で曲
が完成していた。後は書き写すだけ!
薄っすらと涙を浮かべている
ようにも見える晩年の肖像

ザンクト・マルクス墓地はトラムの「ザ
ンクト・マルクス」駅より、ひとつ終点に
近い方から降りた方が圧倒的に近い
停留所の側のマンション背後
に線路がある。橋の下を目指そう
すると線路を横断できる隙間が
あるので、これを抜けると墓地!







ザンクト・マルクス墓地正門 入って左に案内地図がある 179番が彼の墓 墓の手前にあった案内板




バーン!周囲に墓はなく、このエリアはモーツァルトだけの為にあった!破格の待遇!(2005)

墓地にはなぜか“野良孔雀”がいて驚いた。鳩や雀ではなく、
クジャクだ。他にも目撃者がいるので、ここの名物らしい(1994)

「人生の生き甲斐とはジュピターの第2楽章だ」(ウディ・アレン)
「死とはモーツァルトが聴けなくなることだ」(アインシュタイン)
「モーツァルトの悲しさは疾走する。涙は追いつけない」(小林秀雄)

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト。彼の曲は大半が宮廷用、もしくは貴族のお抱えオーケストラ用だったので、単純に聴いてて楽しい曲が多いんだけど、時たま本人の為だけに書いたとしか思えない“何なんだ!?”という暗い曲がある。そういうダークな曲は、どれも深く胸を打つ名曲で、哀愁を帯びた旋律が聴く者の涙を絞り取る。けっして明るいだけではないモーツァルト。だからこそクラシック・ファンは彼の陽気な曲をこよなく愛し、今日もCDの電源を入れるのだ。

父レオポルドは宮廷音楽家。モーツァルトは3歳でピアノを弾き、5歳でピアノ小曲「アンダンテ・ハ長調」を作曲し、8歳で交響曲第1番を、11歳で最初のオペラ『アポロとヒアキントス』を作曲した。彼の記憶力の良さを伝えるこんな逸話がある。カトリックの総本山ヴァチカンには、楽譜を持ち出すことも、写譜も禁じている、絶対秘曲「ミゼレーレ」があった。13歳のモーツァルトはシスティーナ礼拝堂でこの合唱曲を聴くと、宿に帰って全曲を譜面に書き写してしまった。結果、門外不出だった「ミゼレーレ」は秘曲ではなくなってしまう。この曲は9声部(9つのパート)が10分以上も重なりあい、絡みあう複雑なもの。一発で9声部を聞き取って記憶するとは!あ、圧巻!!
アカデミー賞に輝いた映画『アマデウス』の冒頭で流れ、一躍有名になった交響曲第25番を作曲したのは17歳。32歳の時には、わずか2ヶ月で交響曲第39番、第40番、第41番「ジュピター」を書き上げた。恐ろしく作曲スピードが速いうえ、そのどれもが傑作というのがスゴ過ぎ。
オペラの作曲に関してエピソードが残っている。約束の締切りの前夜にうっかり眠ってしまったモーツァルト。当日の朝、彼は妻のコンスタンツェに叫んだ。
「しまった!コンスタンツェ、眠ってしまった!」
「あなた、あと2時間しかないわよ」
「な〜んだ、2時間もあるのか」
そしてあっという間に書き上げてしまった。既に頭の中に完璧な譜面が出来上がっているので、後はそれを書き写すだけでよかったのだ。

※モーツァルトは幼い頃からヨーロッパ中を演奏旅行していた。1762年、ウィーンのシェーンブルン宮殿に一家で招かれ、神聖ローマ帝国の女帝マリア・テレジアの前で姉と共に御前演奏をした時のこと。6歳のモーツァルトは宮殿の床に滑って転んでしまった。起き上がるのを助けてくれたのは、テレジアの当時7歳の末娘マリー・アントワネット。モーツァルトは彼女にこう言ったという「君は優しい人だね、大きくなったらボクのお嫁さんにしてあげる」。このプロポーズが実現してたら歴史が変わってたね(笑)。
※彼はとてもひょうきんな性格で、姉への手紙の末尾には「相変わらずマヌケなウォルフガングより」などと記していた。
※文献によってはモーツァルトが英国訪問時にバッハと会ったと書かれているけど、モーツァルトはバッハの死後6年後に生れているので、彼が会ったのはバッハの息子クリスチアン。
※絶対王政のこの時代、音楽家の地位は非常に低く、モーツァルトでさえ宮廷では召使い同然の扱いしか受けなかった。彼は風刺オペラ「フィガロの結婚」でバカ貴族を笑い者にしたが、台本を書いた元神父ロレンツォ・ダ・ポンテは国外追放、モーツァルトも宮廷の仕事を干されてしまう。
※モーツァルトは交響曲第41番「ジュピター」を作曲した後、まだ3年間生きていたのに、新しい交響曲を書かなかった。ジュピター終楽章のサビは、なんと彼が8つの時に作った交響曲第1番と同じメロディー。これはモーツァルト自身が、「シンフォニーではやりたい事を全てやったぜ」と満足していたのかも知れない。

「ウィーンはモーツァルトがサリエリに毒殺されたという噂でもちきりです」(ベートーヴェンの筆談メモ)。
モーツァルトの死因は当時から毒殺説が囁かれるなど100説以上あり、真相は謎に包まれている。『レクイエム』(死者の為の鎮魂歌)の作曲中に死んだのも何か象徴的だ。彼は死の4時間前までペンを握り、レクイエム第6曲“涙の日/ラクリモサ”を8小節書いたところで力尽きた。12月5日午前0時55分没。
晩年のモーツァルトは経済的に困窮し、墓すら建てる余裕がなかった。映画『アマデウス』にも彼の死体袋が貧民用の「第三等」共同墓地(ただの穴)に無造作に投げ込まれ、伝染病防止の為に石灰をかけられるシーンが出てくる。死から10年後、同土地は別用途に使用する為に掘り起こされ、その際にかつて彼を埋葬し、どの身体がモーツァルトか知っていた墓掘り人が頭蓋骨を保存した。それは様々な人の手を転々とした後、1902年に国際モーツァルテウム財団が保管することになる。2004年、頭蓋骨の真偽論争に決着を着ける為、ウィーン医科大学教授らの研究チームが、ザルツブルグに眠る父親や姪の遺骨を掘り出し、DNA鑑定をすることになった。この結果は生誕250年の2006年に発表されたが、残念ながら別人だったようだ。
※モーツァルトの人生は35年10ヶ月と9日だったが、そのうち10年2ヶ月と8日は父と旅をしていた。

「私はモーツァルトの曲に触れて、神を信じるようになった」(ゲオルグ・ショルティ)指揮者
「モーツァルトの音楽は、あたかも天国の記憶のようだ」(小林秀雄)文芸評論家
「その音楽は宇宙にかつてから存在していて、彼の手で発見されるのを待っていたかのように純粋だ」(アインシュタイン)

※絶対に音楽の教科書には載っていないモーツァルトの横顔、それはオゲレツちゃん(汗)。有名なのは21歳の青年モーツァルトが
19歳の従妹ベーズレに宛てた、俗に言う『ベーズレ書簡』。(以下、全て海老沢敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集から)
「お休みなさい。花壇のなかにバリバリッとウ○コをなさい。ぐっすりお眠りよ。お尻を口のなかにつっこんで。(略)ありゃ、お尻が火のように燃えてきたぞ、こりゃ一体なにごとだ!きっとウ○コちゃんのお出ましだな?(略)でも、なんだか焦げるような匂いがする」
家族への手紙の中にも
「小生はズボンにウ○コをたれましょう」「おケツでも嗅ぎやがれ」「僕らがその上にチン座しますタマは別として」「くそったれ=ローデンルの主任司祭ディビターリは、人へのお手本として、彼の女給仕のお尻をなめた」
といった言葉が“普通に”飛び交っている…。 
   
ただこれらは超下品ではあるものの、原文のドイツ語では韻を踏んで音楽的な響きがある。そこはモーツァルトといえるかも。
「だから、必ず来てよ。でないと、クソくらえだ。来てくれたら、ぼくが御みずからあなたにご挨拶し(コン・プリメンティーレン)、あなたのお尻に封印し(ペチーレン)、両手に口づけし(キュッセン)、臀部小銃を発射し(シーセン)、あなたを抱擁し(アンブラシーレン)、前からも後からも浣腸し(クリスティーレン)、あなたからの借りをすっかり一毛のこらず返済し(ベッアーレン)、勇ましいおならをとどろかし(エアシャレン)、ひょっとすると何かを落下(ファレン)させるかもね。」
…お見事。

●なんとモーツァルトの生誕250周年を祝って、故郷オーストリア・ザルツブルクの国際モーツァルテウム財団全楽譜を無料で公開した。もちろん印刷も自由!作品番号で検索可能なので、有名な交響曲第40番(作品番号K.550)ならKVの後に「550」と入力するだけで楽譜が出てくる。5歳で書いた最初の曲“アンダンテ・ハ長調”なら「1a」でOK。ウィキペディアの「楽曲一覧」がジャンル別に整理されて作品番号も載っているので、これと併せて検索をかけるのがグッド。それにしても、700曲以上もあるモーツァルトの曲を全部アップするなんて、どんなに膨大な作業時間を要したのだろう!

  

プラハのベルトラムカ(モーツァルト博物館)には彼が愛用したピアノ、遺髪などが展示されているッ!
※この館で歌劇ドン・ジョバンニが作曲された




ウィーンのモーツァルトの家(フィガロ・ハウス)は生誕250年となる06年にリニューアル・オープンするべく改装中だった(05年)



★チャイコフスキー/Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840.4.25-1893.10.25 (ロシア、ペテルブルグ 53歳)1987&05&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation
本名:Pyotr Tchaikovski

著名人が多く眠るアレクサンドル・ネフスキー修道院 修道院のチフヴィン墓地の前で画家が絵を売っていた




2005年。この時は赤い花が多かった 4年後。写真では分り難いけど、紫の花が多くなってた(2009) 2体の天使が寄り添う


天使の左腕に献花してあった
(2005)
胸像付きの墓は、光が差すとグッとドラマチックになる。この写真を
撮る為に1時間近く太陽が出るのを待った。待って大正解!(2009)

胸を掻きむしるような哀愁を帯びたメロディーを書かせたら、右に出るものはいない我らがチャイコフスキー!
長く「病死」とされてきたが、近年は同性愛を非難され、コレラ菌の入った水を飲んで自殺したという説が有力だ。
彼がこの世への遺書として作曲したのが第6番『悲愴』。その哀しみと慟哭の第1楽章と、諦めと達観の終楽章は、
言葉を超えた魂の叫びだ。自筆譜の隅には「ああ神よ、お助けください」という彼の切実な言葉が記されている。

●墓所はペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー修道院のチフヴィン墓地。最寄り駅は地下鉄プローシャチ・アリェクサンドラ・ネフスカヴァ駅。
チャイコフスキーの隣にボロディン、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ、グリンカが眠る。




★マーラー/Gustav Mahler 1860.7.7-1911.5.18 (オーストリア、ウィーン郊外 50歳)1994&2005
Grinzinger Friedhof, Vienna, Wien, Austria


トラム38線で行く

なだらかな坂道の先に墓地がある

妻アルマはマーラーと並んで
おらず斜めに背中合わせ…




1994 2005 墓域全体がドッシリ安定している

「やがて私の時代が来る」(マーラー)

マーラーは生前に「私の墓を訪れる者は、既に私が何者か知っている者だ」と述べ、墓は
こんなにクールになった。名前は申し訳程度に彫られ、生没年もない。カックイイ〜ッ!


「私は死を真剣に恐れ、また、心から憧れる」(マーラー)
「私にとって交響曲とはあらゆる技法を尽くして自分自身と向き合うことだ」(マーラー)

濃厚に漂う、世の終末感。そして人生に対する徒労感。聴いてると死にたくなるような病的繊細さが満ち満ちているマーラーの世界。特に交響曲第9番の終楽章は、この世に存在する音楽の中で最も彼岸に近いものと言われており、事実マーラーは楽譜の最後の部分に、“死滅していくように”と演奏の注意書きを記している。僕は、これほど美しく、儚(はかな)く、音符の影に“死”の存在を感じる音楽を他に聴いたことがない。
マーラーの音楽を聴く時は、ヤバいと思ったらすぐに救急車を呼べるよう、手にケータイを持って聴いてもらいたい。精神状態が不安定な時に聴いてしまうと、マーラーの内面世界に巻き込まれて帰ってこれなくなるからだ。(曲が長いので体調も大切)
「『第9番』はひとつの限界であるように思われます。そこを越えようとする者は、死ぬ他はないのです」(シェーンベルク)

交響曲第5番の第4楽章“アダージェット”は、映画「ベニスに死す」で使用されたのでとても有名だ。しかし、この5番はドイツ・ケルンでの初演時に不評だったようで、マーラー(当時44歳)は妻にこんな手紙を送っている--「私の死後50年経ってから、私の交響曲を初演できればよいのに!今からライン河のほとりを散歩してくる。この河だけが、初演の後も私を怪物呼ばわりすることもなく、悠然とわが道を進んで行くただ一人のケルンの男だ!」。

ワーグナーは反ユダヤ主義の作曲家だが、マーラーはユダヤ人でありながらワーグナー作品を愛聴していた。ユダヤ人の知人が「ワーグナーなんか聴いてたまるか」と吐き捨てた時、マーラーはこう言った「でも牛肉を食べても、人は牛にはならないでしょう?」。また、指揮者として良い仕事にありつけるように、出世に不利なユダヤ教からカトリックに改宗した時も肩をすくめてこう言った「なに、ちょっと上着を変えただけさ。中身は同じだよ」。マーラーも言うね。

マーラーが眠るウィーン北部のグリンツィンク墓地(Grinzinger Friedhof)には、トラム38番で行ける。「An den langen Luessen」停留所で下車し、左手の緩やかな坂道をまっすぐ5分くらい上ると墓地正門に突き当たる。左奥、6グループの7−1が彼の墓。生け垣に囲まれている。墓地の管理事務所は正門左。この地域はベートーヴェンが遺書を書いたハイリゲンシュタットと隣接しているので、ベートーヴェンの家にもぜひ足を運ぼう。

「私は三重の意味で無国籍者だった。オーストリアではボヘミア生まれとして、ドイツではオーストリア人として、世界ではユダヤ人として。どこでも歓迎されたことはなかった。」(マーラー)

※マーラーはドストエフスキーを愛読し、中でも「カラマーゾフの兄弟」を特に気に入っていた。


他人が何かに感動している姿を見ることで、「え!そんなにいいの!」と、それまで興味がなかったコトに自分も関心を抱くことが人生にはある。例えば雑誌のビートルズ特集を読んでピンと来なくても、友人が「このビートルズのCDは最高。毎日聴いてる」と涙を浮かべてアルバムを握りしめるのを見て、一気に興味が沸くというように。僕の場合、仏像、バレエ、能、スケート、その他多くの分野が、他人の感動がきっかけで自分まで好きになったものだ。“この人と出会ってなかったら、ずっとこの感激を知らないままだったかも”、何度そう思うことがあったか!ここからが本題。動画サイトのyoutubeには個人のビデオ映像も数多くアップされている。その中に海外の一人の青年が、作曲家マーラーの交響曲第8番を聴く自分の姿を撮影したものがあった。楽器を演奏している姿ではなく、聴いている姿というのが何ともユニークな発想だ。そんなものを見て何が面白いのか疑問に思われるだろう。これが最高に良いッ!どんなに分厚いマーラー解説本よりも、この5分間の彼の姿が雄弁にマーラーの魅力を伝えている!青年の感動っぷりはハタから見れば尋常じゃないんだけど、実はクラシック・ファン、中でもマーラーのファンは、他人の目がない場所で一人で聴いている時は、誰でも彼と同じ状態になっていると断言していい!最近は漫画『のだめカンタービレ』がドラマ&アニメになってクラシックの普及に大きく貢献しているけど、彼の姿もそれに負けないくらい多くの人にクラシックの魅力を語ってくれると思う!マーラーの曲は1時間を超える大曲が多い。特に交響曲第8番はオーケストラが2、3団体分&合唱団つきの特大編成で、総勢千人の交響曲。歌詞はドイツ語だけど別の動画でフィナーレに日本語訳が入った演奏(7分42秒)がアップされている。最初は退屈かも知れないけど、2分24秒のとこからラストまでの盛り上がりは超エキサイティングなので最後まで聴いて欲しい。「♪永遠に女性的なものが我らを引いて(天へ)昇らせる」のメロディーは至福の極み!これを聴いて歌詞が分かったうえで、『青年、マーラーを聴く』(5分27秒、青年の登場は1分35秒から)を見て欲しい!可能な限り大ボリュームで!彼の表情、手の動き、体の揺れ、全てが音楽と一体化しているのが分かると思うッ!2つの動画を合わせても13分。この13分には価値あり!ビバ・クラシック!ビバ・マーラー!


マーラーとランチ♪



★ブルックナー/Anton Josef Bruckner 1824.9.4-1896.10.11 (オーストリア、リンツ郊外 72歳)2002
Saint Florian Church, Linz, Oberosterreich, Austria

 

ブルックナーの墓は、バッハと同じく自らがオルガニストをしていた教会に葬られている。正門を入ってすぐの場所
にあり、人々は必ずブルックナーの側を通ってから座席に着くことになる。この教会の祭壇はとても美しかった。

この教会はリンツの郊外にありバスは3時間に1本しかない。8年前にリンツを訪れた時は、時間がなくて挫折した。今回は
市内のユースホテルに泊まって本格的に郊外へ足を伸ばす体制を整え、やっとのことで彼に名曲のお礼を言えた。感激!


ブルックナーの音楽はやたらと長い上に変化が乏しく、どの曲もサビが同じで、これをクラシックファンは愛憎を込めて“ブルックナー音階”と呼んでいる。一度眠って目が覚めたらまだ同じ楽章だったなんてのはザラ。でも彼のファンにしてみれば“だからブルックナーは最高なんだ”という答えになる。絶対的安心感といおうか、同じメロディーの繰り返しでトランス状態へ導かれたといおうか…ブルックナーの音魔法は音階の積み重ねの果てに、宇宙空間が待っているので、一度心地よいと思ったら病みつきになるのは時間の問題なのだ。

●追記!


(撮影:このみさん/2005.3)
なんと!教会には地下に降りる階段があり、そこにはブルックナーを納める棺があることが判明!
※うお〜、まったく気がつかなった!写真を貸して頂き有難うございマス!




★ブラームス/Johannes Brahms 1833.5.7-1897.4.3 (オーストリア、ウィーン 63歳)1994&2002
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria


2005 1994 2002
ブラームスはシューマンの妻クララに
惚れ、彼女が亡くなって1年も経たず
に彼も世を去った。生涯独身だった
頭を抱え込んだ物憂げなブラームス像が置かれた墓。
深遠で哲学的な彼の音楽が墓からも聴こえてきそうだ

隣の墓は親友ヨハン・シュトラウスU世。重厚な音楽を得意
としたブラームスだが、彼は軽快なワルツを魔法のように
作り出すヨハンに心から敬意と友情を抱いていたのだった

学生時代は過激なワグネリアンだった自分も、歳をとった最近は、古寺で枯山水を楽しむようにブラームスの室内楽に浸ってばかり。
あの枯淡の極致とでもいおうか、セピア色の音色がたまらないんだ。もう“キング・オブ・地味音楽”にどっぷり。お〜い、コブ茶のおかわりをおくれ〜。

※交響曲第1番は21年間もかかって作られた。




★フォーレ/Gabriel Urbain Faure 1845.5.12-1924.11.4 (パリ、パッシー 79歳)2002&09
Cimetiere de Passy, Paris, France





2002 シンプルな墓 2009 墓地の敷地が狭く、フォーレの周囲は墓石がひしめき合っている

天上の音楽を次々と生み出したフォーレ。彼が作曲した「レクイエム」はクラシック界最強の癒し系音楽。フォーレを聴いているとき、
部屋の中がどんどん透明になっていくのが分かる。その、はかなくも美しい調べの前では、この世の重力はあまりにも虚しい。


戦時中の空襲の日々を振り返って--「台所の裏に穴を掘り、そこにいっぱい本を詰め込んだブリキの缶を入れ、さらに何重もの紙で包んで板を重ねてくくったフォーレのレコード・アルバムを重ね、その上に土を盛った。(終戦という)そんな日の来ることに確信を持っていたわけではない。しかしもし、これをゆっくり聴ける日が来た時、これがなかったら、取り返しのつかない悲しみと後悔を味わうことになるだろうと考えたからだ」(吉田秀和)音楽評論家



★ショパン/Fryderyk Chopin 1810.3.1-1849.10.17 (ポーランド、ワルシャワ&パリ、ペール・ラシェーズ 39歳)2002&05&09
Holy Cross Church, Warsaw, Poland (heart)
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France (Body)

●ワルシャワ


ショパンの心臓を納める聖十字架教会。正面のキリスト像はかなりドラマチック(2005)

手前左の柱の中に“心臓”が入っている 巡礼者が後を絶たない




ワルシャワの巨大ショパン像。なかなか悩ましい表情をしている

●パリ


 
パリ・オペラ座に近いヴァンドーム広場
(2009)
その広場に面した12番地に1780年創業の宝石商ショーメ(Chaumet)がある。
この2階で、ショパンは39歳の若さで帰らぬ人となった

2002 パリのショパンの墓

2005 植木鉢が少し増えた

2009 正面に巨大な植木鉢が2個置かれ
柵には三色のリボンが巻かれていた
手前の門には“F・C”とある
(2009)





すごい人気ぶりだ 白髪の男性がショパンの墓を解説していた 次から次へと人がやってくる

ピアノの詩人ショパンは、祖国ポーランドに帰る日を夢見ながら異国の地で果てた。葬式では彼の希望を受け、モーツァルトのレクイエムが奏でられた。ショパンがパリに埋葬された時、彼が終生ずっと大切にしていた故郷の土(20歳の頃、旅立つ時に友人がくれたもの)が棺の上に撒かれたという。死の翌年、遺言により彼の心臓は姉ルドヴィカの手でポーランドに運ばれ、首都ワルシャワの聖十字架教会の石柱に納められた。この柱には「あなたの宝の場所にあなたの心がある」(マタイ伝)と刻まれている。
大戦中はナチスが同教会の3分の1をダイナマイトで破壊し、ショパンの心臓が入った壷も奪われてしまったが、終戦後に教会は修復され、彼の命日に心臓は戻された。この時に演奏されたのは、ショパンがポーランド独立の暁に披露しようとしていた軍隊ポロネーズだった。

ショパンは7歳で既に公衆を前に演奏していた。最初の作品は同じく7歳の時に作った民族舞曲のポロネーズ。最後の作品は、民族舞曲のマズルカだった。パリではベルリオーズ、ハイネ、バルザック、リスト、ドラクロワら作家・芸術家と親交を結んでいた。女流作家ジョルジュ・サンドとの熱愛は有名。生涯の作品数は約200曲。ピアニストの登龍門「ショパン国際ピアノ・コンクール」は5年に一度開催され、命日(10月17日)にモーツァルトのレクイエムがワルシャワ・フィルによって演奏された後、翌日から本選が始まる。

ショパンの、次第に内にこもっていく曲調が自分は好きだ。どんどん魂の奥底へ意識が沈んでいく。左手(低音)を伴奏専門から解放したピアノの革命家に乾杯。

※画家ドラクロワはわざわざショパンの為にピアノを買い、アトリエに置いていた。もちろん、ショパンが遊びに来た時に聴けるから!
※パリのショパンの墓の3つ右隣に、“ピアノの化身”と言われたジャズ・ピアニスト、ミシェル・ペトルチアーニが眠っている。



ワルシャワのユースホテルの職員イェージー君はドラゴンボールの大ファン!2人で一緒に「かめはめ波」!!(2005)



★ヴェルディ/Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 1813.10.10-1901.1.27 (イタリア、ミラノ 87歳)2002
Casa di Reposo per Musicisti, Milan, Lombardia, Italy

  

ヴェルディ・ハウスの礼拝堂に奥さんと並んで眠っていた。墓の周囲には大きな宗教画の壁画が描かれ、
作曲家の中では最も威厳のある墓だった。付近の音楽学校から生徒が弾くピアノの音色が聴こえていた。

晩年、妻子を亡くした時ヴェルディはある仕事に追われていた。それはかねてから依頼されていた喜劇オペラの作曲
だった。葬式のあとコメディの台本を手にせねばならぬ状況に彼はこう言ったという「人生はすべてこれ冗談なり」と。
※最初の埋葬場所はミラノのCimitero Monumentale。




★シューベルト/Franz Peter Schubert 1797.1.31-1828.11.19 (オーストリア、ウィーン 31歳)2002&2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria


















わずか31年でシューベルト
のメトロノームは止まった。
ウィーン中央墓地にて。彼にはほんと、
もっと長生きして欲しかった…無念。
(2002)
シューベルトの墓(右端)は、遺言通り彼が大ファン
だったベートーヴェン(左端)の隣りに埋葬されている。
よかったね、シューベルト。
若き日のシューベルト。
けっこうカッコ良い!











手に本物の花を握っていた(2005) シューベルトの生家 彼が夭折したアパート

こんな会話の記録がある。
「シューベルトさん、貴方の音楽はどうしてどれも悲しげなのですか?」
「幸せな音楽というものが、この世にあるのですか?」

短い生涯で600曲の歌を書いた歌曲王。彼の音楽は2種類に分けられる。“野ばら”“アヴェ・マリア”など清らかで美しい調べの白シューベルトと、歌曲集“冬の旅”など挫折、さすらい、死の影に支配された黒シューベルトがそうだ。死ぬ直前のピアノ・ソナタは、聴いているとあの世への旅というものを体験できるので、「もっと黒シューベルトを!」という人はそちらへ。享年31歳。

僕はシューベルトの歌曲『死と乙女』を聴いて、歌詞とメロディーに全身が感電してしまった(同曲には弦楽四重奏曲版もあって、そっちは旋律がドラマチックで以前から愛聴)。歌曲の歌詞をじっくり読んだのは初めてだった。歌い手は乙女と死神の2役を演じ、最初に死に怯える乙女、次に死神の歌と続く。「去りなさい、恐ろしい死神よ。私はまだ若いわ、さあ行って。どうか私に触れないで!」死神に触れる事=死である為、彼女は必死で抗おうとする。メロディーも激しく揺れ動く。一瞬静寂に包まれると、次に鬼火が暗闇にゆらめき、そこから細い銀の川が流れていくような、この世のものと思えないメロディーに変わる。「--手を貸しなさい。美しく優しい生き物よ。私は味方だ。罰しに来たのではない。勇気を出せ。恐れることはない。私の腕の中で静かに眠りなさい」。死神は乙女に永遠の若さを与えてやると誘惑する(死ねば人々の記憶の中でずっと若いままだ)。乙女の死への不安は、やがて憧れに変わり、最後に連れ去られてしまう。なんと恐ろしく、また危険な誘惑に満ちた曲だろう。ヤバすぎだぜ、シューベルトさんよ!※シューベルトはクラウディウスの詩『死と乙女』からインスピレーションを得た。

※20歳前から死ぬときまで、彼は住所不定のまま友人の家を泊まり歩いていた。知られざる元祖ヒッピーなり。
※最初の埋葬場所はウィーンのWahringer Friedhof (Defunct)。

「シューベルトの曲は喜びと同じくらい、悲しみがある」(吉田秀和)音楽評論家



★プッチーニ/Giacomo Puccini 1858.12.22-1924.11.29 (イタリア、トレ・デル・ラーゴ 65歳)2002
Puccini Estate Grounds, Torre del Lago (Near Viareggio), Italy


墓は自宅プライベート・チャペルの中にあった 中は撮影禁止(これは絵葉書)

斜塔で有名なピサの近郊にプッチーニ邸があり、現在、彼の博物館として公開されていた。



★リヒャルト・シュトラウス/Richard Georg Strauss 1864.6.11-1949.9.8 (ドイツ、ガルミッシュ 85歳)2002
Richard Strauss Villa, Garmisch, Germany

リヒャルト・シュトラウスはその雄大な音楽にふさわしく、チロル地方に近いドイツ南部のアルプスに抱かれていた。

大きな荷物を背負って坂道を登るのは大変なので、
地元の旅行案内所で預かってもらった。(奥の黒い奴)
村ハズレにある教会墓地を目指す。さすがはアルプス、
空気が上手い。街中の巡礼と違って、どんなに歩いても
なかなか疲れなかった。青空と緑が目に沁みる墓参だ。
なんとも、のどかな墓地。小さな墓地とはいえ意外に
墓が多く、墓地内の略図を旅行案内所で描いてもらっ
ていなかったら、墓探しは困難を極めていただろう。
どの墓も個性豊かでかわいらしい、田舎の墓地。
あたたかい陽射しが優しく彼らを包み込む。
ハイジに出てきそうな噴水!とっても冷たかった! 墓地の向こうには山々の大パノラマが見える。
ついに憧れのR・シュトラウスに謁見!! R・シュトラウスの背後にも雄大な山並みが。
ほんと、素晴らしい場所に彼は眠っていた!!

彼のオペラ『サロメ』は完成当初、あまりに背徳的な描写があるという理由で、上演禁止に追い込まれたセンセーショナルな作品だ。
また、弦楽器のみで演奏される『変容』は、世紀末の闇と混沌が包み込んでくるような曲で、マジで魂を抜き取られそうになる。


●リヒャルト・シュトラウス作曲「4つの最後の歌」から“夕映えの中で”
(Im Abendrot/詩:アイヒェンドルフ)

私たちは苦しみにつけ喜びにつけ手に手をとって歩んできた
そして今 さすらうのをやめ静かな丘で休んでいる
周りの谷は沈み 空には闇が近づいている
二羽のヒバリだけが夢を追いつつ 夕もやの中を昇っている
こっちにおいで ヒバリたちはさえずらせておこう
もうすぐ眠りの時が近づくから
二人きりの寂しさの中 はぐれないようにしよう
ああ 広々とした静かな安らぎよ
こんなにも深い夕映えに包まれ
歩み疲れた私たちがいる
これがもしかすると死なのだろうか



★グリーグ/Edvard Grieg 1843.6.15-1907.9.4 (ノルウェー、ベルゲン 64歳)2005
Ashes sealed in the side of a cliff projecting over the fjord at Troldhaugen(his home)

 

オスロからフィヨルド地帯へ!ノルウェー西端にグリーグの眠るベルゲンがある











墓はグリーグの家(今は博物館)の裏手、海岸沿いにある。
家に至る道の美しいこと!林が夕陽を浴びて輝いていた
これがグリーグ・ハウス

そしてグリーグ像
















裏庭を下ると海岸がある

海が見えてきた!

なんとー!彼の棺は海に面した崖にめり込んでいた!
こんな場所にある墓なんて見たことないッ!ブッ飛んだぜーッ!!



墓前には美しい景観が広がっていた。崖の高さなら見晴らしもいいだろう。なんて幸せなお墓なんだろーか!



★ドビュッシー/Claude Achille Debussy 1862.8.22-1918.3.25 (パリ、パッシー 55歳)2002&09
Cimetiere de Passy, Paris, France


2002 実にスッキリとした墓 なんて書いてあるんだろう? 2009 7年後。墓がシンプルなだけに目立った変化なし

“C”と“D”をデザイン化したサインがオシャレ 背後にも名前が入っていた

エッフェル塔のすぐ近くに彼は眠っている。シンプルでフォルムの美しい墓だった。絵画の印象派といえばモネや
ルノアールだが、音楽の印象派の第一人者はドビュッシーだろう。繊細な音のきらめきに陶然としてしまう。

「言葉で表現できなくなったとき、音楽が始まる」(ドビュッシー)




★ビバルディ/Antonio Vivaldi 1678.3.4-1741.7.28 (オーストリア、ウィーン 63歳)2002
Vienna University of Technology, Vienna, Wien, Austria



悲惨!かつてビバルディが埋葬されていた墓は消えていた!

 

誰もが一度は耳にする名曲『四季』の作曲者でありながら、その晩年は不遇だったようで、故郷ベネチィアを遠く離れた
ウィーンの貧民墓地に葬られた。しかも墓地の上には、現在ウィーン工科大学が建っている。大学の壁面に、
かつてこの地に彼が埋葬されたことを示す小さなプレートがあるが、これに気づき立ち止まる人は殆どいない。


孤児院で教師をしていた彼が作った曲の大半は、生徒達のために書かれたもの。ケンカにならぬよう各楽器ごとに見せ場があるだけでなく、
他人と共同する楽しさを教える為にアンサンブルの魅力が存分に発揮されている。それが理由なのか、彼の曲は聴いていて全く退屈しない。



★ラヴェル/Maurice Joseph Ravel 1875.3.7-1937.12.28 (フランス、パリ郊外 62歳)2002&09
Cimetiere de Levallois-Perret, Paris, France

  


2002 大雨だった 2009 正門をくぐって右前方に眠っている

02年はドシャ降りの中の巡礼!管理人事務所で雨宿りさせてもらっていたら、話題に窮した管理人のおばさん(英語を話せる人
だった)が、何を思ったかラヴェルが死去した際の“埋葬証明書”を見せてくれ、「墓参の記念に」とコピーまでとってくれた!

たったひとつのフレーズを約15分にわたり、全宇宙に展開する“ボレロ”。音の魔術師ラヴェルの神業に近い
オーケストレーションに絶句!(小太鼓が叩く2小節のフレーズの繰り返しは、なんと169回!)

バレエ『ボレロ』…1928年、バレリーナのイダ・ルビンシュタインが「スペイン人役のバレエ曲を作って下さい」とモーリス・ラヴェルに作曲を依頼し、音楽史に残る名曲が完成した。作品のコンセプトは“スペイン・セビリアのタブラオ(居酒屋)で1人のロマ(ジプシー)の女がテーブルに乗り、周囲の男たちを挑発する”というもの。初演は同年11月22日のパリ・オペラ座。振付けを担当したのはニジンスキーの妹、ブロニスラヴァ・ニジンスカだった。それから32年後、1960年にモーリス・ベジャールがユーゴのバレリーナ、デュスカ・シフニオスに振り付けたものが、現在の有名な『ボレロ』だ。

ベジャールの演出では、円形の赤いテーブルの上で「メロディ」役を1人の女性ダンサーが踊り、周囲では「リズム」役を男性のコール・ド(群舞)が踊った。リズムたちは、最初は離れた場所で椅子に座っている。メロディが静かに踊り始めてもソッポを向いているが、やがてメロディの振りが激しく情熱的になっていくと、1人、2人と我慢しきれなくなって立ち上がり、メロディを女神の如く讃えるように踊り出す。次第にメロディとリズムは響きあうように熱狂していき、官能と興奮のピークで全エネルギーを放出して倒れ伏す。全15分。※円形のテーブルを卵子とする解釈もある。確かにラストに男たちがテーブルを取り囲む姿は受胎を思わせる。さすれば、新たな命を産み出す生命賛歌であり、『ボレロ』はいっそう感動的に見える。

物語の展開上、当初は女性だけがメロディを踊っていたが、やがてジョルジュ・ドンというアルゼンチン出身の素晴らしい男性ダンサーが現れ、ベジャールはドンをメロディに抜擢、この試みは大成功を収める。そして映画『愛と哀しみのボレロ』(1981)のクライマックスでドンの踊りが映し出され、ボレロは世界的に有名になった。それからの約10年、ドンは各国でボレロを踊るが、あまりにドン=ボレロのイメージが強くなり過ぎた為、「過去から自由になりたい」とドンはボレロを封印する(日本公演は1990年が最後。僕は23歳の時に大阪フェスティバルホールで鑑賞)。それからすぐ、92年にドンはエイズの為に45歳で他界した。※YouTube『ジョルジュ・ドンのボレロ』(8分41秒のハイライト。クライマックスは3分50秒から)

数々のダンサーが『ボレロ』を踊ることを熱望したが、ベジャールが彼の芸術を理解し体現できると認めた人間しか許さないため、僕の知る限り、女性で踊ったのは、マイヤ・プリセツカヤ、シルヴィ・ギエム、ショナ・ミルク、マリシア・ハイデ、マリ=クロード・ピエトラガラ、デュスカ・シフニオス、上野水香の7人、男性はジョルジュ・ドンを筆頭に、パトリック・デュポン、シャルル・ジュドー、エリック・ヴ=アン、リチャード・クラガン、高岸直樹、首藤康之、後藤晴雄の8人、計15人だけ(他にもいたらスミマセン!)。ベジャールが他界したのは07年11月22日。奇しくもボレロの初演と同じ日だった。

ボレロ研究で参考にさせて頂いたこちらのサイトによると、男性群舞の衣装は、初期は居酒屋に集う水夫をイメージし、縞柄シャツを着て首にミニ・スカーフを巻いていた。現在上半身が裸なのは、(1)波打つ裸体が音楽を視覚的に表現する(2)「裸体こそが最も美しい衣装」(三宅一生談)。また、話題のバレエ漫画『昴』にはこんなセリフが出てくるらしい→「ダンサーには二種類しかない。『ボレロ』を踊ることが許されたダンサーとそうでないダンサー」。クーッ、かっこいい!

※1987年に2つのテーブルを前後に並べた「二人ボレロ」という珍しい舞台があったそうだ(シュツットガルト・バレエ団公演、メロディはマリシア・ハイデ&リチャード・クラガン)。うっわー、めっさ興味をそそられるんだけど、映像が残っていないのかな!?



★ドヴォルザーク/Antonin Leopold Dvorak 1841.9.8-1904.5.1 (チェコ、プラハ 62歳)1994&2005
Vysehradsky Hrbitov, Prague, Czech Republic

  

チェコの偉人が大集合したヴィシュフラド墓地(元は古城だった)にドボォルザークは眠っている。モルダウ川が近い。
彼の楽曲の土臭さが大好き。親近感ありまくり。メロディーラインは詩情に溢れ、どの曲も退屈という言葉とは無縁だ。
流れるようなメロディーを考えることが苦手だったブラームスは、親友のドヴォルザークの才能を終生羨ましがっていたという。
「ドヴォルザークがダメだと思ってゴミ箱に捨てた楽譜の断片で自分は一曲書ける」(ブラームス)

※ドヴォルザークは筋金入りの“鉄っちゃん”(鉄道オタク)。音大で講座中に列車の通過時間になると授業を中断して観に行ったという。
「本物の機関車が手に入るのだったら、これまで自分が創った曲の全てと取り替えてもいいのに…」(ドヴォルザーク)



★ムソルグスキー/Modest Petrovich Mussorgsky 1839.3.21-1881.3.28 (ロシア、ペテルブルグ 42歳)1987&05&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation



2005 チャイコフスキーのすぐ側 2009 画家レーピンが彼を埋葬した 墓参は6月上旬の15時半。木漏れ日がちょうど顔に当たって立体感が出た

 
墓のデザインで目をひいたのは、下の方がピアノの鍵盤になっていたこと!音楽家にふさわしい墓!

    
若きムソルグスキー   合い言葉は「民衆の中へ!」 死の3週間前(レーピン画)
「芸術家は未来を信じる。自分自身が未来に生きるゆえに」(ムソルグスキー)

作曲家ムソルグスキーと画家ガルトマン(ハルトマン)は「芸術の真の目的は民衆の生活を描くこと」「富裕層の為の芸術ではなく民衆の為の芸術を!」と高い理想を胸に頑張っていたが、なかなか世間から認められず、世渡り下手で友達も少なかった。ムソルグスキーは批評家から「素人同然」と酷評され、ガルトマンも「空想の絵だけ描けて現実の物は描けない」と仲間から嘲笑された。だが、ムソルグスキーは帝政ロシア末期の暗い時代の中でも、明るさを忘れないガルトマンの画風を高く評価していた。理解者がお互いだけという状況で、2人は両者の存在が掛け替えのないものになっていく。だが1873年、出会いから3年目にガルトマンは動脈瘤で急死。まだ39歳の若さだった。訃報の電報を受け取ったムソルグスキーは倒れ込む「たった2行の知らせが僕を打ちのめした。僕はベッドに倒れ込み、そのまま翌日まで起き上がることが出来なかった」。ガルトマンと最後に出会った時(1ヶ月前)の記憶をムソルグスキーは手紙にこう記している「ガルトマンが突然街角でうずくまった。今から思えば、あれは心臓発作だったんだ。だが僕は全く気付かなかった。なんて愚かだったのだろう。もし気付いていれば何かしてやれたのに」。一方、ガルトマンもこの時の気持を絶筆の手紙に残している「僕はあの時、死が近いことを感じ、とても取り乱してしまった。なのにムソルグスキーはとても親切にしてくれた。ムソルグスキーは僕にとっていつも神様みたいな存在だった」。

  無二の親友だったガルトマン 

ガルトマンの他界から半年後、ロシア美術アカデミーで催された遺作展を訪れた彼は、親友の絵に再会して深く心を動かされる。「僕の心の中でガルトマンが熱く沸騰している。音と思想が空気の中に漂い、僕はそれを見つめ紙の上に書き記す」。ムソルグスキーは親友の400点の絵から10点を選び、それをモチーフに音楽をつけた。これが有名な『展覧会の絵』だ。曲と曲の間には「プロムナード」(仏語で“散歩”の意)が流れ、ムソルグスキー本人が会場を歩いている様子が描写されている。特筆したいのは第4曲の「ヴィドロ」。この重厚なメロディーの曲は、「ヴィドロ」がポーランド語で“牛”を指すことから、長く「牛車」の描写と思われてきた。ムソルグスキーも手紙に「ヴィドロ、これは“牛車”という意味にしておこう」と記している。わざわざ含みを持たせているのは、「ヴィドロ」には「家畜のように虐げられた民衆」というもう一つの意味があったからだ。ガルトマンが描いた「ヴィドロ」の元絵は、ロシア支配下のポーランドで実際に起きた民衆蜂起の絵で、その絵では軍隊に弾圧された民衆がギロチン刑にされていた。ガルトマンはポーランド旅行の時に処刑の現場に出くわし、強烈な体験を描きとめたのだ。ロシア皇帝の圧政が続く時代、抑圧されたポーランドの民衆への同情を表明した知識人は次々と投獄されており、ムソルグスキーは権力に対する命がけの抵抗歌として第4曲「ヴィドロ」を書いたんだ(日本の音楽教育の現場では、いまだに「ヴィドロは牛車が遠くからやってきて、目の前を通り、去っていく様子」と教えている。違〜う!)。フィナーレの第10曲「キエフの大門」は最も感動的な曲。これはロシア発祥の地・古都キエフで廃墟になっていた大門(11世紀にロシア最初の統一王朝が作った門)の再建案が公募された時、ガルトマンがデザインした絵だ。それは鳴り響く釣り鐘やロシア民族の誇りを表す「兜(かぶと)型」の屋根がついた美しいもの。この門の絵にムソルグスキーは壮麗なメロディーをつけた。しかもクライマックス直前には、華やかな「キエフの大門」の中に「プロムナード」(=ムソルグスキー)のメロディーを入れた込んだ!つまり、ムソルグスキーは楽譜の中でガルトマンと再会を果たしたんだ!ガルトマンやムソルグスキーが夢見た明るい理想のロシアの中で、2人の魂が溶け合っている!(これは泣く!)。ムソルグスキーは『展覧会の絵』の楽譜に「ガルトマンの思い出に」と刻んだ。
ガルトマンの死後、それまでも深酒をしていたムソルグスキーはますます酒に溺れ、アルコールでボロボロになり8年後に42歳で亡くなった。ムソルグスキーの肖像画を描いたレーピンいわく「洗練された紳士だった男が、持ち物を全て売り払って安酒場に入り浸っている。ボロを着て酒で顔が膨れあがった男。本当にこれが私の知るムソルグスキーなのだろうか」。

亡き親友の為に作曲したピアノ組曲『展覧会の絵』は生前に発表されることはなかったが、半世紀後に作曲家ラヴェル(@ボレロ)の手でオーケストラ化され、今や世界の人々に愛される名曲になっている。ロシアでさえ無名の画家だったガルトマン、不遇のまま死んだムソルグスキー。しかし人間は死んだからって終わりじゃない。両者の魂は芸術に姿を変えて世紀を超え、130年後を生きる僕らの心に届き、さらにまたこれからも人類が生き続ける限り受け継がれていくだろう。『展覧会の絵』を聴けばいつだって彼らに会える。
※『展覧会の絵』のモチーフになった絵は、革命や戦争で散逸し、長い間10枚のうち半数しか判明していなかった。残りの絵は“海外へ流出した”“独ソ戦で燃えた”と噂されていた。ところが、1991年にNHKの調査チームと作曲家の故・團伊玖磨さんがロシアに渡って、不明だった残りの5枚の絵を執念ですべて発見!ロシア人の研究者でさえ果たせなかった快挙だ。これは世界的&人類史的に見ても、芸術という分野でNHKが果たした最大の功績だと思う!

ピアノ版、オケ版が入って千円と良心的(Ama

(参考資料)NHK『革命に消えた絵画』、NHK『名曲探偵アマデウス』ほか

ムソルグスキー・ファンの方!墓石に刻まれたこの2段の曲名が分かれば、ぜひ御一報をッ!m(_ _)m



★ラフマニノフ/Sergei Vasilievitch Rachmaninoff 1873.4.2-1943.3.28 (USA、NY郊外 69歳)2000&09
Kensico Cemetery, Valhalla, Westchester County, New York, USA




2000 2009 背後の木々が少しスッキリ ロシア正教の十字架



十字架前の墓標に“セルゲイ&ナタリー”とあった この角度から見るのが好き。カッコイイ!

彼が精神病棟でリハビリの為に作曲した「ピアノ協奏曲第2番」は、クラシック史上に残る美しい名曲となった。
この墓地は世界一親切な墓地だった!広大な墓地だったので職員が自家用車で墓の場所まで連れてってくれ、
帰りは最寄の鉄道駅まで送ってくれた。こちらは何も頼んでいないにも関わらずだ。あ、あり得ない!
※ラフマニノフはロシア生まれ。後に米国へ亡命した。本名の綴りは“Rachmaninov”。




★ビゼー/Georges Bizet 1838.10.25-1875.6.3 (パリ、ペール・ラシェーズ 36歳)2002&05&09
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France





2002 墓上にはビゼー像が建つ

2005 この時もまだビゼー像がある

2009 ぐおー!どこのどいつじゃ、ビゼー像を持ち去った野郎は!
そりゃ、僕だって欲しかった。が、持って行っちゃイカンだろう!

不遇な作曲家は多いがビゼーはその代表格。カルメンの初演が不評だった為に心労で体調を崩し、そのまま36歳の若さで
亡くなった。だから、後に得た名声を何も知らない。長生きしていれば、人類はどれだけ多くの名作を味わっていただろう!




★サティ/Erik Satie 1866.5.17-1925.7.1 (フランス、パリ郊外 59歳)2002
Cimetiere d'Arcueil, Arcueil, France

 

清掃車の兄ちゃんたちに墓地への道順を尋ねたら、なんとそのまま清掃車で墓地の近くまで送ってくれた!
サティの曲はすごくオリジナリティがあり、彼だけにしか作れないものばかり。曲名も「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」など実にユニーク。
※命日は7月4日説アリ。



★リスト/Franz Liszt 1811.10.22-1886.7.31 (ドイツ、バイロイト 74歳)2002
Alter Friedhof, Bayreuth, Germany

   

白亜のチャペルの中に眠っている。※若き日のこのイケメンぶりを見よ!

神の化身といわれた人類史上最大のピアニスト、リスト!彼は作曲も試み、色彩感豊かな素晴らしい作品を多数残している。




ワイマールにあるリストの家。他の見学客がいなかったので、なんと管理人さんがリストのピアノを弾かせてくれた!(1989)



★メンデルスゾーン/Felix Mendelssohn-Bartholdy 1809.2.3-1847.11.4 (ドイツ、ベルリン 38歳)2002
Dreifaltigkeitsfriedhof I, Berlin, Germany



メンデルスゾーン家の墓所。彼らは町の名士だった。 実は94年にも訪れていたが、赤の他人のメンデルスゾーン
さんに巡礼していた。完全に人マチガイ。大雨の中を、ズブ
濡れになって2時間かけて探し当てたのに…。墓前で超喜ん
でるだけに、この写真は自分にとって涙なくしては見れない。

メンデルスゾーンの曲はどれもメロディーが大変美しく、何時間聴いても苦にならないッス。




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