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| 近代文学の父! |
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| 2メートルもある大きな一枚岩(2006) | 1991 |
| 本名、長谷川辰之助。明治の小説家。筆名の「二葉亭」は、父親の口癖だった「くたばってしまえ!」をもじったものだ。江戸時代までの書物といえば漢文体が一般的だったが、1887年(23歳)、彼は小説『浮雲』を現代の小説同様に“話し言葉”(言文一致)で執筆し、この日本初の本格的口語体小説に同時代の読者は仰天した。漱石が『我輩は猫である』を発表するより18年も早く、文字通り近代文学の父だ。彼はエスペラント語やロシア語に堪能で、『浮雲』の執筆中など文章に詰まると、いったん原稿をロシア語で書いて、あとからそれを翻訳したという逸話がある。だが、二葉亭の夢は文学者として大成することではなく、世界を股にかけ活躍する国際人だった故、20年後に『其面影』を執筆するまで長く筆を置く。内閣官報局局員や新聞社の特派員として海を渡り大いに活動するが、ロシアからの帰国途中、インド洋を渡る船内で肺結核のため45歳で病死した。 “恋はくせもの、こう睨み付けた時でもなお「美は美だ」と思わない訳にはいかなかった”〜『浮雲』で主人公の文三が、自分の想いを寄せている女性の、移り気、派手さ、軽薄さを憎みつつも、その外部の美を内部の美と混同して、ついもらしてしまうこの言葉は、多くの男性の共感と悔悟の涙を搾り取ってきたに違いない…。 二葉亭が眠る染井霊園は、敷地が広いものの随所に案内板が立ててあり、比較的に巡礼しやすい。彼の墓は荼毘に付されたシンガポールの日本人墓地にもある。 |
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| 日本人以上に日本を愛した |
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| 1991年 | 2002年 花に埋もれた小泉家の墓所。中央が八雲 | 2008年 いつ訪れても花が絶えない |
| 本名パトリック・ラフカディオ・ハーン。アイルランド人を父に、ギリシャ人を母に持つ。米国、フランスなどを転々とし、1890年 (40歳)にジャーナリストとして日本旅行記を書くために来日。日本文化に魅入られ、そのまま島根の松江中学で英語教師と なり、後に東大英文学講師に招かれた(後任は漱石)。日本人女性と結婚し帰化、妻の小泉を名乗る。“八雲”の名は古事記に あるスサノオノミコトの短歌「八雲立つ…」からきているが、八雲を音読みすると“ハウン”となり、ピッタリ彼の名前と重なる。 夜風に揺れる竹やぶの葉擦れの音を聞いて「聞こえますか。あれ、平家が沈んでいきます」と妻に語るなど、繊細な八雲の心は 日本人以上に日本の文化や自然を愛した。また、書斎の座布団の上で煙管(キセル)を吹かすのが大好きで、盆の火がなくなった 時には愛蔵のホラ貝を吹いて夫人に知らせるという、茶目っ気もあった。 「雪女」「耳なし芳一」などの民話を再編した有名な『怪談』を刊行したその年に、狭心症で妻に看取られながら亡くなった。享年54歳。 浴衣を着て書斎で静かに蝉の声を聞くのが好きだったハーン。墓前で「当たり前すぎて気づかなかったこの国の美しさを教えて くれて本当に有難う!」と手を合わせた。 ※幼児期に遊具があたって左目を失明した彼は、後年右目の視力も低下したことから、盲目の僧・耳なし芳一の説話に深く感銘 を受け、『怪談』の執筆中は芳一になりきっていたという。 (おまけ)ハーンが海外に向けて書いた日本についての紹介文に感動。西洋の花束と日本の生け花を比較した部分を抜粋したい。 「神々の国の首都」第20章 夜の通りを歩くとしばしばそうなのだが、殊に祭りの夜などには、何かの小さな屋台の前でじっと押し黙って感心している群集の ひしめき合うのが目にとまる。運よく覗き込むことができても大した見ものなど余りない。せいぜい花を一杯つけた細い茎か、 それともひょっとしたら花咲く木から切り取ったばかりの軽くたおやかな何本かの枝を生けた花瓶が少々あるだけということが すぐに分かる。何のことはない、生け花の名人芸を無料で見せてくれているだけだ。 日本人は我々野蛮人とは違い、花を茎や枝から無残に切りはなして無意味な色のかたまりに作り上げたりはしない。そういう ことをするには自然愛が強すぎる。彼等は花の自然な魅力がどれほどその配置や盛り上げ方、すなわち花が葉や茎に対する 関係に負うところが多いかを充分心得ている。そこで彼等は優美な枝や茎をたった一本、自然が作り上げたままの姿で選び出す。 初めのうちは何しろ西洋から来た異人だから、諸君はこういうものを見せられてもさっぱり分からないだろう。こういうものを理解 することでは、そこいらのごく平凡な労働者と比べても、こちらはまだまだ野蛮人なのだ。だが、この素朴でささやかな展示会に 大衆が興味を寄せるさまを不思議がっているうちに、諸君にもその魅力が次第に分かり始め、やがて悟入(ごにゅう)の喜びに ひたる時が来るだろう。そして西洋人特有の優越感があっても、これまで西欧諸国で目にして来た花の展示の如きは、それら 数本の素朴な若枝の自然な美しさと比べれば、ただもう醜怪なばかりだと分かって恥ずかしい思いをすることだろう。 更に花の後ろに立てられた白か水色の屏風がランプや提灯(ちょうちん)の明りに助けられて、どんなに効果を高めるかということ にも気付くだろう。屏風はそれに映る植物の影の、えも言われぬ見事さを特に見せようという目的で置かれているからである。 その上に映る枝や花の鮮明な影は、どんな西洋の装飾美術家も到底想像できないくらい美しい。 ●ハーン語録 「ニューオリンズにもこんな迷信がある。鶏が水を飲む。水を飲んでは上を向く。あれは神様に水を下さったお礼を申し上げてる、 と言うんだ。科学的にはナンセンスだ。しかし、鶏を見て、ああ水を飲んでる、と思うだけの人間と、ああ神様に感謝していると思う 人間と、どちらの心が本当の意味で豊かだろう」 「私は迷信を打ち壊すと、一緒に壊れる心もあると思っている。今のアメリカは科学と合理主義で荒れていく一方だ」 |

| 本名、島崎春樹。この寺墓地の住職の話では、藤村は火葬されず棺ごと土葬されたのだが、その後なぜか掘り出されて石棺に移され、今は地中に戻されずにそのまま写真のように置かれているのだという。地面の上に置かれたままなんて、ちょっとビックリ。 |
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| 1999 | 2005 | とても繊細な印象を受ける筆跡だ |

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東京出身。高校時代からフランス文学にしたしむ。19歳の時に、萩原朔太郎の『青猫』を読んだことがきっかけになり、文学の道を志すようになる。室生犀星を訪ね、さらに芥川竜之介と親交を結び、堀は両者を生涯の師とする。同年、震災で母を隅田川に亡くす「地震わが母を見わけぬ恨みかな」。この冬に肺を患い、以降亡くなるまで30年間も病と背中合わせに生きることになる。22歳、東大在学中に中野重治らと同人誌「驢馬(ろば)」を創刊、フランス現代文学の翻訳などを発表した。23歳の時に芥川が自殺し、全集の編纂に係わる。1930年(26歳)、コクトーやラディゲの影響を受けて書き、“まるで心の内側が肉眼で見えているようだ”と横光利一が評した『聖家族』を発表。鋭い心理描写によって文壇に認知される。
1934年(30歳)、高原の美しい自然を背景に、内面世界を巧みに描写した『美しい村』を刊行。前年に軽井沢で出会った矢野綾子と9月に婚約する。翌年7月、自分より症状の重い綾子に付き添って信州富士見のサナトリウム(療養所)に入院するが、5ヵ月後の12月に婚約者は亡くなった。堀はこの療養生活をもとにペンを握り、1938年(34歳)、徐々に重態になっていく恋人と、その死を見つめた恋愛小説『風立ちぬ』を完成する。堀は同作に「普通の人々がもう行き止まりだと信じているところから始まる」愛を描き込んだ。同年、三好達治らと詩雑誌『四季』を創刊し、若い立原道造らに影響を与える。またこの年に、綾子の死後に出会った女性と結婚している。翌年、堀が心から将来を期待していた立原が24歳で夭折する。1941年(37歳)、『菜穂子』を発表。以降は、肺結核が悪化し、毎春のように喀血を繰り返し、入院と安静の日々を病床に送った。1953年、軽井沢の自宅で夫人に看取られながら48歳の人生を終えた。
ゆっくりと衰弱していく婚約者の死を見届け、自らも長く病を患うことで、人一倍に“生”を深く見つめ、自己の存在を掘り下げた彼。その文体の静けさ、透明感。読んでいると自分の身体までが透き通っていく気がする。文字に触れるだけでこれほど清浄な波動が全身に満ちていく作家を他に知らない。墓石には自筆で名前が刻まれていた。それはまるで風にそよぐような細い文字だった。
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| 文壇を代表する趣味人 | 1991年 寂しい… | 2002年 今回は花が! | 2008年 お元気そうで何より | 奇行で有名だった |
| 本名永井壮吉。号は断腸亭主人、金阜山人。“正義の宮殿にもおりおり鳥や鼠の糞が落ちていると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と芳しい涙の果実が却って沢山に摘み集められるというものだ”(墨東綺譚※墨は“さんずい+墨”)。こういう視点から世間を捉えている荷風が僕は大好きだ。1903年にアメリカに渡り、1907年にフランスに渡るという、当時の日本では考えられないコスモポリタン(国際人)。荷風は西洋の猿真似に狂奔する近代日本を批判し続け、失われた江戸文化を熱愛した。荷風が40年間書き続けた“断腸亭日乗”(日記文学の最高傑作)には、戦時中にもかかわらず軍国主義を批判し、俗物的な人間をこき下ろした言葉が刻まれていた。憲兵が目を光らせている中でこんなことを書いた作家を荷風の他に知らない。本名は壮吉。良家に生まれ当代きっての趣味人と言われた荷風だが、晩年は非常に孤独で、誰にも看取られず吐血し、スーツ姿にマフラーという外出姿のまま死亡しているのを、翌日お手伝いさんに発見されるという野垂れ死に同然のものだった。 |
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| 浄閑寺(投げ込み寺)の山門 |
新吉原総霊塔。正面の石板には「生まれては苦界、 死しては浄閑寺」という花又花酔の川柳が刻まれていた |
新吉原総霊塔の前には永井荷風の文学碑がある。 この場所に作られたことに胸が熱くなった |
| 荒川区南千住の浄閑寺に荷風の文学碑が立つ。江戸時代、身寄りのない吉原の遊女が病死すると、この寺の門前に打ち捨てられた。江戸後期の“安政の大地震”の際には、多数の遊女の亡骸が投げ込まれたことから「投げ込み寺」と呼ばれている。寺の墓地には新吉原総霊塔があり、塔の下に無数の白い骨壺が納められている。寺の方の話では「一壺に数十〜数百人分の骨が入っており全部で2万人にのぼる」とのこと。衝撃的だった。故郷に帰ることが出来なかった彼女達の悲しみを思い言葉を失った。この新吉原総霊塔の前にあるのが荷風の文学碑だ。彼は悲しい運命を背負った遊女達に心から同情を示し、生前にこの寺を何度も訪れていた。他のどの作家でもなく、荷風だからこそ、文学碑という形で彼女達を側で見守っている姿に胸を打つものがあった。 |

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本名満寿二。釣り好きだったので筆名を鱒二に。広島県出身。28歳、親友の死の悲しみを『鯉』に刻む。1929年(31歳)、『山椒魚』を発表し、独特のユーモアを込めて生命の悲哀を語り注目を受ける。31歳、叙情的な『屋根の上のサワン』を執筆。39歳には『ジョン万次郎漂流記』で直木賞を受賞した。43歳、陸軍に徴用されてタイ、シンガポールに従軍。戦後は、人情物語『本日休診』(51歳)、戦争犠牲者としての復員兵を描いた『遥拝隊長』(52歳)を発表。1966年(68歳)、庶民の視線で原爆の悲劇をとらえた『黒い雨』を刊行し、文化勲章を受章する。95歳まで生き、肺炎で没する。
井伏が中学生だったころ、鴎外は毎日新聞に歴史小説を連載していた。彼は目ざとく史実との違いを見つけ指摘し、まんまと鴎外から直筆の返事をもらった。井伏は後年、“あれは生涯で最大の悪戯だった”と後述している。鴎外を誰よりも愛していた彼のこのエピソードは、僕の大好きな話だ。 井伏は太宰が最も慕っていた作家としても知られている。井伏文学には、はにかみと哀しみが多分に漂っており、それが太宰の文学と底でつながっていたからだと思う(井伏は太宰の葬式で葬儀委員長を務めた。当時49歳)。わずか10ページの小品『山椒魚』。学生の頃は特に何の感慨もなく読み飛ばしていたが、三十路になって読み返した時、最後の「今でも別にお前のことを怒ってはいないんだ」にむせび泣いた。 |
| いやはや、驚いた。この墓地はお寺の2階にあったのだ!1階には普通に人が住んでいた。屋内の、しかも2階の墓地なんて、後にも先にもここしか知らない。十返舎一九の墓には熊手と宝珠の絵が彫られている。知識を掻き集めたことから熊手をトレードマークに選んだとのこと。墓石の側面には辞世の言葉が彫られていて、これがもう、肩の力を抜いた茶目っ気たっぷりなもので最高にカッコ良かった! 『この世をば どりゃお暇(いとま)と線香の 煙と共に ハイさようなら』 1765年、現在の静岡市に生まれた一九(本名・重田貞一)は、江戸→大阪→江戸と奉公先を転々とする。30歳の時に奉公していた江戸の製本屋で、彼の文才に気付いた店主に勧められ執筆活動を開始。毎年20作ほど書きまくってる内に、“弥次・喜多”というデコボコ・コンビが江戸から伊勢に至る珍道中を描いた『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』が空前のベストセラーとなる。時に一九、37歳。20代の頃に東海道を往復した体験が作品に活かされたのだ。 『東海道中膝栗毛』がブレイクしたのは、「弥次さん喜多さん」という主役の2人が、旅先で次々と巻き起こすトンマな騒動が面白いだけでなく、各地の名景や特産品、方言等の風俗が、実に鮮烈かつ詳細に書き込まれており、“そこを訪れたらこれを食べなきゃ始まらない”といった旅行ガイドブックとしての実用性があったからだ(元祖“地球の歩き方”というところか)。 当時は庶民階層にも、ようやく経済的なゆとりが少しずつ生まれ、寺社参りなど“旅”が娯楽の一部になり始めていて、そんな時代背景も一九に味方した。ユーモラスな失敗談の間に“安倍川餅”“ういろう餅”など、具体的に未知の情報が挿入される“膝栗毛”は、大いに庶民の好奇心をくすぐった。 弥次喜多の2人は自分たちのドジを笑い飛ばしながら、底抜けの脳天気さで、明るく愉快に旅を続けて行く。旅を楽しくする最大の秘訣は、どんな事態に遭遇しても常に“陽気であり続ける”ことだ。ぶっちゃけ、それ以外のことはたいして重要ではない。そこがちゃんと描かれているのがいい。 風刺描写なども大衆に受け、調子に乗った一九は“膝栗毛”の2年後に、秀吉をヘビ、信長をナメクジにたとえた『化物太平記』を書き上げるが、これは“武士階級を侮辱し過ぎ”と幕府を激怒させ、50日間の手鎖(手錠)生活、出版元は罰金、作品絶版という刑をくらった。しかし、これは逆に庶民の一九人気をさらに高めるものとなり、膝栗毛シリーズは続編に続編を重ね、21年に渡る超ロング・シリーズとなった。 (ちなみに弥次喜多は一九の死後も他の作家の手で旅を続け、明治に書かれた“西洋道中膝栗毛”では、ついにロンドンの万国博覧会まで2人は見てくることに…) 晩年の一九は長年の深酒がたたって体がボロボロになり、1831年、66歳で生を終えた。生涯に残した著作は約400作。これは、江戸時代の作家としては最大の作品量である。 |

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200作以上も書き上げ江戸文壇の頂点を極めた男。本名、滝沢興邦(おきくに)。号は曲亭馬琴。江戸深川出身。武士の子として生まれたが、9歳で父を亡くしてから一家は窮乏し、馬琴は様々な仕事と放浪を経る。俳諧が好きで文に親しんでいたこともあり、1790年(23歳)、酒一樽を持って6歳年上の流行作家・山東京伝の門を叩く。京伝は「古今、戯作者に師というものはないから弟子にすることは断るが、作品は見てあげよう」と、色々アドバイスを与えた。翌年、24歳で処女作「尽用而二分(つかいはたしてにぶ)狂言」を出版。その直後、京伝は寛政の改革の出版統制に吉原を舞台にした自作が引っかかり、“風紀を乱した”罪によって手鎖50日間の刑を受ける。馬琴はすっかり無気力になった京伝の代作をしたり、本屋の蔦屋重三郎の仕事を手伝いつつ、自分の著作活動を続けた。馬琴の作品は次第に江戸っ子の心を捉えてゆく。誰でも分かりやすい因果応報・勧善懲悪をベースにしながらも、ドラマ性に富んだ斬新で複雑なストーリー展開、従来の作家にはない“読み応え”が、新作を待ち望む熱狂的なファンを生んだ。30代半ばには名声を確立。京伝は鰻上りの馬琴の人気に嫉妬し、両者は袂を分かつ。
1814年(47歳)、“読本(よみほん、歴史小説)こそが自分の本領で、草双紙(くさぞうし、絵入り本)は生活の為”とかねてから思っていた馬琴は、ライフワークとなる大長編「南総里見八犬伝」を執筆開始。里見家の興亡と八犬士の波乱万丈の活躍を描いた本作は、中国の「水滸伝」を目標に馬琴が全身全霊を注ぎ込んで書き続けたものだ。晩年、視力を失い妻子にも先立たれた馬琴は、「八犬伝」を完成させる為に、文盲だった息子の嫁・お路に字を教えながら口述筆記させ、執念でこの江戸文学の記念碑を完結に漕ぎ着けた。「八犬伝」は完成までに28年を要しており、全106巻という空前絶後のスケールとなり、現代まで日本最長小説の名を欲しいままにしている。
深光寺は住宅地の中にあり少し探した。馬琴の墓は本堂の前にあるので分かりやすい。左背後にはお路さんも眠っていた。「八犬伝」が無事に完結したのは彼女の献身的な協力のおかげ!僕はたっぷりとお路さんの労をねぎらった。
※十返舎一九より馬琴は2歳年下。馬琴の日記には物価や流行など生活一般が詳細に描写されており、当時の貴重な資料になっている。
※号の曲亭馬琴の発音は「くるわでまこと」(廓で誠)とも読める。遊廓で誠実に遊女に尽くす男というギャグだ。「滝沢馬琴」の名は明治以降の表記であり、馬琴自身は「曲亭」を使っていた。 |

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| 2003 | 2006 |
| 国内でカトリック教徒専用の墓地に訪れたのはこれが 初めて。遠藤氏の墓石には十字架が刻まれていた |
3年後に墓参して驚く。以前あったお墓の左後方の 樹木と、右前方の植木が消え、スッキリとしていた |
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| 同墓地内には神父の墓が埋葬された一角がある。 戦前の古い墓(1924年など)もあり、神父たちの 人生の重みを感じた。異国の地でいま何を思う? |
人物彫刻が点在し、墓地内を歩いている と、海外の墓地にいる錯覚に襲われた。 そこが日本国内だと思えなかった |
墓地の中心にあったのが、このピエタ像。十字架から 降ろされた直後のキリストと彼を抱くマリアの姿だ。 キリスト教徒でなくても、深く胸を打つものがあった |
| 雅号は狐狸庵山人。32歳の時に『白い人』で芥川賞を受賞。幼児期にカトリックの洗礼を受け、遠藤には宗教色の濃い、というより宗教そのものがテーマとなった作品が多い。僕は若い頃、苦しむ者を「見守るだけ」の神に憤りを感じ、なぜキリスト者はそれでも神を信じるのか、と理解できないでいた。小説『沈黙』には1つの答えがあった。踏み絵のキリストは語りかける「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」--神を疑う自分の弱さを恐れていた伝道師は、踏み絵を踏むことによって、それでも神に赦され、愛されていることを理解する。「見守るだけ」なのではなく「共に苦しんでいる」神を知ることで信仰がより深まる。思わず目からうろこが落ちた。 |

| 東京生まれ。本名は龍雄(たつお)。実業家の渋沢栄一は親類。少年期は「病気の問屋さん」とあだ名が付くほど病弱で、成長後も色白で小柄、優形だった。25歳で東大仏文科を卒業、卒論は「サドの現在性」。1954年(26歳)、10代後半から耽溺していたコクトーの翻訳を手がけ『大股びらき』を刊行。27歳、マルキ・ド・サドの『恋の駆け引き』を翻訳。以後、本格的にサドの研究と翻訳に力を注ぎ、続々とサド関連の著作物を刊行する。しかし、1960年(32歳)、前年に発表した『悪徳の栄え』の翻訳が、猥褻文書販売同目的所持の容疑で発禁処分となってしまう。翌年、東京地検により起訴。以後、10年間にわたって言論・表現の自由を巡る「サド裁判」が繰り広げられる。弁護側には、遠藤周作、大岡昇平、吉本隆明、大江健三郎、三島由紀夫らが名を連ねた。一審は無罪だったが二審で逆転敗訴し、最高裁に上告が棄却され、1969年に有罪が確定した(七万円の罰金)。
この裁判の間も1961(33歳)に傑作オカルト本『黒魔術の手帖』、35歳『毒薬の手帖』、36歳『世界悪女物語』、39歳『異端の肖像』など、人間精神のダークサイドを客観的かつ知的な筆先でとらえた作品を次々と刊行する。40歳、雑誌「血と薔薇」を創刊。続けて、1977年(49歳)『思想の紋章学』『東西不思議物語』、50歳『スクリーンの夢魔』『幻想博物誌』、51歳『悪魔の中世』、53歳『唐草物語』(泉鏡花賞)などで、怪奇、幻想、官能的な美への追求をさらに推し進め、独特の澁澤ワールドを築き上げる。1986年(58歳)、喉が慢性の炎症と診断され声帯を切除される。翌年、8月3日に頚動脈癌が発見され、その2日後に突然の頚動脈癌破裂により絶命。死後『高丘親王航海記』が刊行され読売文学賞を受賞した。それから5年を経て全22巻(別巻2巻)に及ぶ『澁澤龍彦全集』が刊行される(1993年)。
澁澤は古代ギリシャ語、ラテン語、独語、伊語に親しみ、世界中の奇書を内部に吸収した。その博識さは他に肩を並べる者がいない。一方、線の細さから受けるイメージとは裏腹に、澁澤は大変な酒豪で、酔えばバイオレンス爆発だったという。裁判所にもパイプを吹かしながら悠々と遅刻して登場したり、あるいは無断で欠席したりと、かなり心臓に毛が生えていたようだ。三島由紀夫、唐十郎、池田満寿夫、土方巽らから“大兄”と呼ばれて慕われたのは、その奔放で破天荒な人間的魅力にあったのだろう。
澁澤の墓石を見た時に「石はいわば永遠に時間に汚染されない純粋な物質、超時間性あるいは無時間性のシンボルなのだ」(『思考の紋章学』)を思い出した。墓石から永遠に続く時間を感じた。渋澤は理想の死を火山弾に当たって倒れた古代ローマの博物学者プリニウスに見ていたが、彼の最期は動脈破裂と即死に近く、その意味で願い通りの死だったといえる。ただ、59歳という享年はあまりに早い。澁澤は21世紀に入ってますます読者を増やしている。
※僕は「サド裁判」で彼を有罪にした裁判官に、世紀末美術の画家エゴン・シーレの言葉「芸術作品にはひとつとして猥褻なものはないのだ。それが猥褻になるのは、それを見る人間が猥褻な場合だけだ」を叩き付けたい。
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「深見進介は、自分の身体が熱く涙で濡れ、その頬が涙で輝くように洗われた後の、心の中一杯にふくれ上がって来た苦しみが一度彼の心の窪みに収められて、しかも溢れ出る涙は止まりながらも心の周囲にまだ涙のうるみのあるというような、いよいよ鮮やかに苦悩ばかりが集まったという精神の状態にある時、彼は改めてあの百姓ブリューゲルの絵に面し直したのである」(『暗い絵』)
野間の文体は、カンバス上に絵の具を入念に塗り重ねていく過程を見ていくようで、その緻密さに息が出来なくなる。が、読み進むうちに、この緊張感こそが魅力になっていくのだから不思議だ。
神戸生まれ。11歳で父を亡くす。高校時代から同人誌にフランス象徴詩風の詩を発表し、京大では愛読するジードの影響でマルクス主義に接する。1941年(26歳)、補充兵として召集されフィリピン戦線に出征。翌々年、治安維持法で摘発され思想犯として大阪陸軍刑務所に半年間投獄される(1943年)。敗戦の翌年、戦前に反戦を叫びながら獄死していった若者たちを描いた処女作『暗い絵』を発表(31歳)。本作は戦後文学の第一声と位置づけられ、文壇で大いに脚光を浴びる。 「そう、彼は決行するだろう。そしてすぐに逮捕されるだろう。ただ旗を揚げ、旗の位置を示すだけで。そう、それは決して成功しやしない。そして木山はそのことをよく知っている。それを知りながら俺の許(もと)を去って行く。永杉や羽山の許へ行くために。あの偉大な自己、偉大な仕事、偉大な学問の確立の野心に充ちた、そして苦しみに貫かれながら将来を目指して一歩一歩進んでいた木山省吾が、俺から去って行く。」(『暗い絵』から。木山は主人公の大親友。思想犯として獄死した友人、永杉、羽山の弔い合戦として、木山は反戦ビラを撒き逮捕され、彼もまた獄死する) 33歳の時に、安部公房、埴谷雄高らと「夜の会」を結成。1952年、37歳で発表した初の長編『真空地帯』は、軍隊内部の腐敗、兵営(内務班)の非人間性を、軍機構の末端から暴くことで軍国主義を批判し、社会に衝撃を与えた。 「たしかに兵営には空気がないのだ。それは強力な力によってとりさられている。いやそれは真空管というよりも、むしろ真空管をこさえあげるところだ。真空地帯だ。ひとはそのなかで、ある一定の自然と社会とをうばいとられて、ついには兵隊になる」(『真空地帯』)。 その後も人間を、生理、心理、社会の3方向から総合的に捉える全体小説を試み、1971年(56歳)には23年という執筆期間を経て「青年の環(わ)」全6部を完成させる。アジア・アフリカ作家会議の一員としても積極的に活動し、民主主義文学の代表的存在として生を終えた。 野間の父親は親鸞の教えを広める仏教一派を興した教祖。その影響もあり、野間が心酔した親鸞の墓所・東大谷祖廟に近い墓地に、2万基を超える信者の墓と共にある。山の斜面に建つため、墓前からは都市内を一望できる。 ※野間が南方戦線で戦闘時や行軍中に頭に浮かんだのは、ドストエフスキー『罪と罰』のソーニャの愛。人類としての気高い思想だけが、地獄に身を置く兵士としての苦悩を受け止めてくれたと言う。 ※野間は反戦文学の雄、大岡昇平の6歳年下。 |

| 大谷墓地は西大谷の北門を右折して歩き始めるとすぐに見えてくる。司馬のお墓は親鸞上人が眠る御廟の裏手にあり、少しでも親鸞の側で眠りたいと思う真宗の門徒にとっては夢のような場所だ。ただし、付近には多数のお墓があるうえ、墓石の正面には「南無阿弥陀仏」としか彫られていないので、墓参には少し時間を要するかもしれない。周辺の目印(1)一段下がった墓域にある(2)近くにてっぺんがドーム型の巨大な石塔がある(3)その石塔の裏に門徒宗の墓がズラリと並び、この少し先に司馬の墓がある。※南谷1段中部264−1号地。 |
| 本名福田定一(ていいち)、大阪生まれ。ペンネームは、権力に逆らってでも歴史の真実を記そうとした『史記』の著者、前漢の司馬遷に敬意を払い、司馬遷に遼(はるか)に及ばずという意で司馬遼太郎とした。大阪外大で蒙古語を専攻し、1943年(20歳)、学徒出陣で中国に出征。戦車隊士官として22歳で敗戦を迎える。満州で大陸的な広い世界観を育んだ司馬は、戦争で荒廃した国土を前に立ちすくむ。「日本人はいつからこんなに馬鹿になったのだろう。いったい誰が国家をめちゃくちゃにし、こんなにつまらない民族にしてしまったのか。ここから私の小説は始まった」。1956年(33歳)、新聞社に勤務する傍ら執筆していた小説『ペルシャの幻術師』が第8回講談倶楽部賞を受賞。1959年(36歳)、忍者小説『梟の城』が直木賞に輝くと、これを機に退職し本格的に執筆生活に入った。 司馬は幕末から明治初期に活躍したエネルギッシュな若者たちを漢(おとこ)と呼び好んで描いた。それは「果たしてこれが同一の国だろうか」「こんなのは日本ではないと灰皿を叩きつけたくなった」(『この国のかたち』)と後に痛嘆することになる、大正、昭和という暗い時代への反動からだ。 日本の近代史を司馬はこう見る--「日露戦争の勝利が、日本をして遅まきの帝国主義という重病患者にさせた。泥くさい軍国主義も体験した。それらの体験と失敗のあげくに太平洋戦争という、日露戦争の勝利の勘定書というべきものがやってきた」「日露戦争の勝利が日本と日本人を調子狂いにさせた」。 大正期に入って日本が行なった中国への21ヶ条要求と、シベリア出兵については「他国とその国の人々についての無神経な感覚」と怒り、「わずかに残っていた日本の心のマシな部分を甚だしく腐食させた。この種の腐食こそ国家の滅亡につながることを、当時の“愛国者”たちは気づかなかった」とした。そして「(昭和元年から20年までは)武力と警察力、それに宣伝力で幕末の人や明治人が作った国家を粉々に潰した」と嘆く。「(ロシアから満州を勝ち取り)ガラにもなく、“植民地”を持つことによって、それに見合う規模の陸海軍を持たざるを得なくなった。“領土”と分不相応の大柄な軍隊を持った為に、政治までが変質していった。その総決算の一つが、“満州”の大瓦解だった。この悲劇は、教訓として永久に忘れるべきではない」(『ロシアについて、北方の原型』)とも。 昭和初期の指導者を「手の付けようのない侵略妄想の権力集団」とした司馬の憤怒は並大抵ではない。戦車隊にいた司馬は、攻撃力がなく(砲身短すぎ)、防御力もない(装甲薄すぎ)、世界最弱クラスの戦車の中から、軍部の視野の狭さを痛感した。極端に薄い装甲について参謀本部の見解は「防御鋼板の薄さは“大和魂”でおぎなう」というもの。こうした精神論中心の非合理性は明治初期には無かったものだ。司馬は当時の状況をこう刻む-- 「政治好きで気違いそのままの政治的空気をもった陸軍軍人は、参謀本部に集まっていた。日本は超一流の軍事国家だと思っているこの連中が、この戦車(の採用)を決めたのである。(略)むろんそれでも悪くはなかった。戦前の日本が専守防衛の非侵略国家でゆくという建前ならばである。ところが手の付けようのない侵略妄想のこの権力集団が、いざ兵器となると、技術本部を脅し上げてまで自己の卑小を守り続けたのは、財政の窮屈さという束縛があったからだというものではなく、元々この権力集団がいかに気が小さく、貧乏くさく、『国際的水準』という眩しい白日(はくじつ)の下の比較市場に自己を晒し出すことが恐ろしく、むしろ極東の片隅で卑小な兵器をコソコソと作ってそれを重々しく『軍事機密』にして世界に知られないようにするという才覚の方へ逃げ込んだと見る方が、当時の日本国家の指導者心理を見る上で当たっているように思える」。 「常識ではとても理解できないような精神の持ち主が、国中が冷静を欠いた状態にある時には出てくるものである。また権力の実際的な中枢にいる者の頭も変になり、変にならねばその要職に就くことができない。また要職に就けばいっそう変にならねば部内の人気が得られない。(略)あの当時の変な加減というのは狐狸(こり)妖怪が自分で自分を騙しつつ踊り回っているようで、冷静な後世の常識では到底信じ難いことが多いのである」。 このように昭和の世に暗黒を見た司馬は、活力のあった明治初期に光を見出し、新世界を創り上げた維新の立役者たちに熱い視線を注ぎ始め、矢継ぎ早に歴史小説を生み出していった。主な作品は、新選組を描いた『燃えよ剣』(41歳)、竜馬の生き様を描いた『竜馬がゆく』、斎藤道三を見つめた『国盗り物語』、『関ヶ原』(全て43歳)、乃木希典を語った『殉死』(44歳)、河井継之助が主人公の『峠』(45歳)、吉田松陰と高杉晋作を描いた『世に棲む日々』(48歳)、日清・日露戦争を描いた『坂の上の雲』、大村益次郎が主人公の『花神』(共に49歳)、『空海の風景』(52歳)、西郷隆盛を描いた『翔ぶが如く』(53歳)、中国を舞台にした『項羽と劉邦』(57歳)、若者に向けた『21世紀に生きる君たちへ』(66歳)、『民族の原像、国家のかたち』(69歳)等々。また、歴史紀行として『街道をゆく』が1971年から没年まで25年間連載されたことも付け加えておく。 こうした歴史小説は従来ありがちだった武勇伝や単なる英雄譚ではなく、人道主義に立つ歴史分析と鋭い文明批判、近代日本社会批判に貫かれており、菊池寛賞、吉川英治文学賞、芸術院恩賜賞など数々の賞を受賞、1993年(70歳)には文化勲章も受章している。 1996年、腹部大動脈瘤破裂のため急逝。享年72歳。司馬が好んでいた菜の花に因み、命日は「菜の花忌」と呼ばれている。 多作だった司馬だが、最後まで「昭和」を題材に小説を書かなかった。否、書けなかった。40代、50代はあれほど精力的に作品を発表してきたのに、晩年はエッセイや批評ばかりになった。実はその裏で1939年にロシアとの戦いで1万人以上の死者を出したノモンハン事件の取材を15年以上も続けていたが、それはついに形にはならなかった。「昭和という時代は精神衛生に悪い時代。発狂状態になってしまう。内臓がズタズタになって死んでしまう」「昭和は思いが重くて、嫌な事が多くて、書けない」。あの司馬をして一文字も書けなかったほど、昭和の闇はあまりに暗かったのか。「教科書に嘘を書く国、特にごく近代のことをすり替えた修辞で書く国は、やがて潰れます」と晩年に残した。 ※近年、司馬はいわゆる左右の思想家から同時に愛されている珍現象が起きている。「つくる会」の藤岡信勝は、日本人の美徳を描いた司馬を真の愛国者として持ち上げており、一方で護憲の立場をとる井上ひさしや大江健三郎は、司馬が「戦後憲法は個人を創りだしてくれた」と賛美していることから、護憲の象徴として紹介している。中国や朝鮮をこよなく愛し、先の戦争を完全に否定している司馬は、「つくる会」のいう自虐史観そのものだと思うんだけど、それは「健康なナショナリズム」(?)となるらしい。とにかく、司馬は現代日本人の歴史観の基本を作った重要な一人であることは間違いない。 2001年11月、没後5年を経て、東大阪市の自宅の横に安藤忠雄の設計による司馬遼太郎記念館が開館した。高さ11mという巨大な書架には司馬の蔵書2万冊が収められている(しかしこれで驚いてはいけない。自宅には4万冊の蔵書があったという)。これら膨大な資料文献を基に、入念に時代考証を重ねて執筆された司馬作品。そのリアリティは、歴史を素材として司馬が考えたフィクションが、「史実」として一人歩きするほどだ。『竜馬がゆく』のセリフを全部竜馬本人が言ったことだと思っている読者も少なくない。この為、司馬を批判する歴史家は「史実と違う」「通説ではない」と主張するが、氏の作品はあくまでも「小説」なのだ。学術書でも伝記でもない。そこを誤解して非難するのは論点がズレている。これは吉川英治の宮本武蔵を批判する歴史家にも言えること。なまじ文献を調べ込んでいるだけに、「歴史書」として見られてしまうが、あくまでも「史実に基づいたドラマ」なのだ。大切な事は竜馬が「言った」「言ってない」ではなく、竜馬の魂が描かれているかどうかだ。そして多くの人々が「描ききった」と感じていることに議論の余地はないだろう。作品の行間から、今まさに竜馬が立ち上がらんとする興奮。これは無味乾燥な研究書では感じられないことだ。 司馬作品は生前に1億部以上も読まれただけでなく、死後も約10年で既に2千万部以上も売れており、現役作家を凌ぐほどの人気を持ち続けている。これは今の閉塞した時代の中で、登場人物たちの爽やかさと、逆境をものともしない信念の強さが、読者の心を揺り動かすからだろう。著者が主人公に向ける眼差しに優しさがあり、それが読み手に共感として伝わってくるのもいい。司馬が歴史を語るまで、日本史は年表を暗記する為のものだった。臨場感の溢れる描写は、読者に歴史的瞬間に立ち会う感動を教えてくれた。イキイキとした文体で志士や戦国大名を描き、それまで教科書の中に閉じこもっていた人物が、突如として目の前で息づき出す。時空を超えて心臓の鼓動が伝わり、人々は現在の自分と過去の人間が繋がっていることを実感した。歴史をただの知識とせず、先人の生きる姿勢を通して人間賛歌としたのだ。素晴らしい。 |
| (優しさは)本能ではない。だから私達は訓練をしてそれを身につけねばならないのである。その訓練とは簡単なことである。例えば、友達が転ぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持を、そのつど自分の中で作り上げていきさえすればよい。自分に厳しく、相手には優しく。いたわり。それらを訓練する。訓練することで自己が確立されてゆくのである。以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心構えというものである。(司馬遼太郎) |

| 「肉親であれ、他人であれ、自然死であれ、不自然死であれ、死と出会うことで心に年輪がきざみこまれるものである」(『破れた繭/耳の物語』)。酒造メーカーのコピーライターから芥川賞作家となり、ベトナムに飛び死線を越えて戦場を記録し、釣竿を片手に大自然に入る。なんというバイタリティーだろう。一人の人生とは思えない。死と出会うことは生きること--様々な人生の局面を見てきた開高だからこそ言える言葉ではないだろうか。「辛い時はええ酒飲まなアカン」洋酒をこよなく愛した開高の墓にはレミーマルタンが供えられていた。 開高が眠る円覚寺の松嶺院は、墓地の入口が院の門よりも手前(坂道を下った場所)にある。石段を上りきったところ、入ってすぐの所に彼は永眠している。 |
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神奈川県出身。本名英次(ひでつぐ)。幼少の頃に父親が事業に失敗し、吉川は小学校を中退、その後一度も学校へ通う機会がなく、家計を支える為に、活版工、雑貨商店員、土工手伝い、横浜ドックの船具工など転々とした。親兄弟がバラバラになるという苦しい生活の中にあって、彼の最大の楽しみは知的好奇心を満たしてくれる文学書であり、俳句や川柳の投稿、懸賞小説の応募だった。22歳、ようやく生計が安定し、再び家族が共に暮らせるようになった彼は、精神の安定を得て本格的にペンを執るようになる。仕事は新聞記者を選んだ。31歳、関東大震災で社屋が全焼し、失職した吉川は焦土の上野で牛飯を売って生計を立てる。これが人生を変える重大な転機となった。毎日多くの避難民と出会い、様々な人生に触れていく過程で、人と人を結びつける文学の役割を再認識したのだ。ことに大衆文学は人々が感動を共有できる芸術だ。彼は身辺の物を全て売り払って信州・角間温泉にこもり、冬中読書に明け暮れる。モノを書くには知識が必要だと判断したからだった。
1926年(34歳)、『剣難女難』が注目を集め、それに続く伝奇物語『鳴門秘帖』が大きな人気を呼び、大衆小説作家として名声を得る。36歳、波乱万丈の少年小説『神州天馬侠』を、39歳、自伝的小説『かんかん虫は唄ふ』を、そして42歳、ユーモア小説『あるぷす大将』を世に送った。44歳からは社会的ブームとなった『宮本武蔵』を3年間新聞に連載する。『宮本武蔵』はそれまで娯楽的要素だけが重視された大衆小説にあって、自己の完成を目指して精神を磨き修行する主人公の姿を描き、大衆小説というジャンルそのものを大きく変化させることになった。
戦後の代表作は1957年に完結した大長編『新・平家物語』。吉川はこの作品を書くために、58歳から65歳までの7年間、他の全ての仕事の依頼を断って執筆に集中した。68歳、文化勲章を受章。69歳、歴史の流れを描いた『私本太平記』を発表。肺癌に侵され亡くなる直前に、彼は文学を志す新人の為に、『私本太平記』で受賞した賞金を基に吉川英治賞を設立した。享年70歳。
墓は文机の上に湯飲茶碗が載っているような形で、そこに自筆で吉川英治と刻まれていた。広い敷地、小さな墓標、一輪の花。気さくな人柄と同じく、なんとも心地良い空間ではないか。
「小説というものは小説を読んでいる気で、読者は実は自分を読んでいる。(略)つまり僕の場合は、読者の持っているものを呼び起こさせるとういうか、呼び水を僕がかけているのです」 |

| 和歌山生まれ。中学時代から「明星」「スバル」に歌を投稿していた。17歳の時、地元の文芸講演会で反保守的な言説をとった為に無期停学の処分を受ける。翌年上京。与謝野寛の新詩社に入り、続けて永井荷風の『あめりか物語』に感動、荷風に師事した。小説を書き始めた春夫は25歳の時に「西班牙(スペイン)犬の家」を執筆、芥川から好評を得る。春夫と芥川は同じ年齢。2人は意気投合した。谷崎潤一郎(当時32歳)の推薦で本格的に文壇へデビューし、耽美主義の影響を受けた1919年(27歳)の『田園の憂鬱』が高い評価を受け、芥川と共に次世代作家として世間から注目される。 しかし、この頃から春夫は約10年間に及ぶ苦しい片想いを体験していく。好きになった女性が谷崎の夫人千代だったのだ。谷崎夫婦には幼い娘がいたが、夫の気持ちは妻の妹に移り、愛情は冷め切っていた。当初、春夫は千代に同情を寄せていたが、やがてそれが恋心になった。深く愛する人に手が届かない、しかもその人はとても寂しい境遇にいる…。春夫の苦悩を察した谷崎は妻と別れる約束をしたが、離婚の直前になって心境が変化、絶望した春夫は谷崎と絶交した。谷崎との関係を断絶したので、もう夫人とも会えない。春夫は神経症になり故郷紀伊に閉じこもった。そして谷崎夫婦の沈黙の食卓を思い出し、苦渋に満ちた胸の内を『秋刀魚の歌』として記した。 『秋刀魚(さんま)の歌』(抜粋) あはれ 秋風よ 情あらば伝えてよ、 夫を失はざりし妻と 父を失はざりし幼児とに伝えてよ ― 男ありて 今日の夕餉(ゆうげ)に ひとり さんまを食ひて 涙をながす、と。 さんま、さんま、 さんま苦いか塩っぱいか。 そが上に熱き涙をしたたらせて さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。 あわれ げにこそは問はまほしくをかし。 冷たい秋風に思いを託さねばならない孤独、流れ落ちる涙、そういった物悲しさが詰め込まれた詩。この『秋刀魚の歌』を収めた第一詩集『殉情詩集』が1921年(29歳)に出版されると、多くの人が胸を打たれた。 親友の芥川とは共著で漢訳詩集を出す相談をしていたが、1927年、芥川が35歳で自殺してしまい衝撃を受ける。その2年後、図らずも単独で出すことになった漢訳詩集『車塵集』の扉に、春夫は「芥川龍之介のよき霊に捧ぐ」と刻んだ。 1930年(38歳)、8月19日。新聞各紙の報道に世間が仰天した。谷崎、千代、春夫の3人の連名による関係者への挨拶状が掲載されたのだ。「我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り…」なんと、谷崎と千代の電撃離婚と千代と春夫の電撃結婚の同時報告だった。谷崎と春夫の交際は従来通りだという。社会はこれを「夫人譲渡事件」(失礼だなぁ)と呼んで大騒ぎした。 1935年(43歳)、芥川賞が設立されると春夫は初代選考委員になる。戦後も戯曲、歴史小説、随筆、評論、童話、紀行文と各ジャンルで精力的にペンをふるった。辛口の批評の中にも詩心のある作家であり、その門弟は3千人といわれている。1960年(68歳)、文化勲章を受章。1964年、自宅でラジオ録音中に「私の幸福は…」と言いかけ、心筋梗塞で急逝する。享年72歳。 墓は知恩院の法然の御廟の近く、「勢至堂」の墓域の奥にある。文字の彫りが浅く名前は殆ど読み取れないが、墓石は笠を被っているような特殊な形をしているので、それを目印に探そう。東京都文京区の伝通院にも墓があるが、知恩院の墓の台座には「本墓」と彫られていたので、おそらく東京の方が分骨だろう。 |

| 「日本人の国民性のひとつに“無責任”ということがありはしないか。こう考えるのは、開戦時における陸海軍首脳の無責任を思い出すからだ。アメリカを相手に開戦して勝てるかと言うと、陸軍も、海軍も、自信がなかった。自信のないまま、ズルズル開戦してしまった。これが一般国民とか、一般軍人ならいい。しかし、国家の存亡を担う首脳として、あまりに無責任な考えである。彼らは海軍の名誉利害、陸軍の名誉利害ばかり考えて、日本の名誉利害を考えなかった。ようするに、日本人の無責任性が最悪の形で表れたものとしか言いようがない」(1960年の日記)。 |

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本名寛(ひろし)。高松に生まれる。26歳の時に第3次『新思潮』が創刊され、学生時代の友人芥川龍之介と参加。1916年(28歳)には芥川らと第4次「新思潮」を発刊し、肉親の情愛の葛藤を描いた戯曲『父帰る』を発表した。卒業後は記者をしながら作品を書き続け、31歳の時に『恩讐の彼方に』『藤十郎の恋』を世に出した。テーマを絞り込んだ簡潔で力強い構成が高く評価され、ヒューマニズムとリアリズムの作家として名声を得た。翌年からは『真珠夫人』など、通俗小説の分野でも広く活躍。35歳、雑誌「文芸春秋」を創刊。38歳、文芸家協会を設立。1935年(47歳)、文壇の登龍門として芥川賞・直木賞を設定するなど、「文壇の大御所」として雑誌経営や後進の育成にも力を尽くす。晩年は大映社長として文化的事業を行い、作家の地位向上に貢献した。1948年(59歳)、菊池は一週間続いた腹痛が治まり、友人たちと自宅で全快祝いをしている最中に心臓発作に襲われ、約10分で還らぬ人となった。墓石には川端康成が「菊池寛之墓」と刻んでいる。
28歳から小説を書き始めた菊池寛は、後年「25歳未満の者、小説を書くべからず」という規則をこしらえた。この言葉の真意は、“まず生活して自分の人生観を持て。それがないのに書いてもしょうがない”というもの。全くその通りだと思う。「我に神を頼まざるがごとき、力を与えたまえ!」--これはどの作品に書かれていたのかどうしても失念して思い出せないんだけれども、僕は菊池寛のこの言葉を、自分の心が弱くなりかけた時にいつも思い出して発奮してきた。芥川賞の創設者の菊地寛。いつかご縁がありますように…。
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『小説家たらんとする青年に与う』(抜粋) (1923年、菊池寛・35歳)
僕はまず、「25歳未満の者、小説を書くべからず」という規則をこしらえたい。全く、17、18ないし20歳で、小説を書いたって、しようがないと思う。 とにかく、小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るという事と、ある程度に、人生に対する考え、いわゆる人生観というべきものを、きちんと持つということが必要である。 とにかく、どんなものでも、自分自身、独特の哲学といったものを持つことが必要だと思う。20歳前後の青年が、小説を持ってきて、「見てくれ」というものがあっても、実際、挨拶のしようがないのだ。で、とにかく、人生というものに対しての自分自身の考えを持つようになれば、それが小説を書く準備としては第一であって、それより以上、注意することはない。小説を実際に書くなどということは、ずっと末の末だと思う。 小説を書くということは、決して紙に向って筆を動かすことではない。我々の普段の生活が、それぞれ小説を書いているという事になり、また、その中で、小説を作っているべき筈だ。どうもこの本末を転倒している人が多くて困る。ちょっと1、2年も、文学に親しむと、すぐもう、小説を書きたがる。しかし、それでは駄目だ。だから、小説を書くということは、紙に向って筆を動かすことではなく、日常生活の中に自分を見ることだ。すなわち、日常生活が小説を書く為の修行なのだ。学生なら学校生活、職工ならその労働、会社員は会社の仕事、各々の生活をすればいい。そうして、小説を書く修業をするのが本当だと思う。 では、ただ生活してさえ行ったら、それでいいかというに、決してそうではない。生活しながら、色々な作家が、どういう風に、人生を見たかを知ることが大切だ。それには、やはり、多く読むことが必要だ。 小説というものは、或る人生観を持った作家が、世の中の事象に事よせて、自分の人生観を発表したものなのである。 だから、そういう意味で、小説を書く前に、先ず、自分の人生観をつくり上げることが大切だと思う。 そこで、まだ世の中を見る眼、それから人生に対する考え、そんなものが、ハッキリと定まっていない、独特のものを持っていない、25歳末満の青少年が、小説を書いても、それは無意味だし、また、しようがないのである。
僕なんかも、始めて小説というものを書いたのは、28の年だ。それまでは、小説といったものは全く一つも書いたことはない。紙に向って小説を書く練習なんか、少しも要らないのだ。 とにかく、自分が、書きたいこと、発表したいもの、また発表して価値のあるもの、そういうものが、頭に出来た時には、表現の形は、あたかも、影の形に従うが如く、自然と出て来るものだ。 そこで、いわゆる小説を書くには、小手先の技巧なんかは、何んにも要らないのだ。短篇なんかをちょっとうまくまとめる技巧、そんなものは、これからは何の役にも立たない。 これほど、文芸が発達して来て、小説が盛んに読まれている以上、文学の才のある人は、誰でも上手く書くと思う。 そんなら、何処で勝つかと言えば、技巧の中に匿された人生観、哲学で、自分を見せて行くより、しようがないと思う。 それから、小説を書くのに、一番大切なのは、生活をしたということである。実際、古語にも「可愛い子には旅をさせろ」というが、それと同じく、小説を書くには、若い特代の苦労が第一なのだ。金のある人などは、真に生活の苦労を知ることは出来ないかも知れないが、とにかく、若い人は、つぶさに人生の辛酸をなめることが大切である。 作品の背後に、生活というものの苦労があるとないとでは、人生味といったものが、何といっても稀薄だ。だから、その人が、過去において、生活したということは、その作家として立つ第一の要素であると思う。そういう意味からも、本当に作家となる人は、くだらない短篇なんか書かずに、もっぱら生活に没頭して、将来、作家として立つための材料を、収集すぺきである。 かくの如く、生活して行き、そうして、人間として、生きて行くということ、それが、すなわち、小説を書くための修業として第一だと思う。 |
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| 1999 | 2005 |

| 名探偵明智小五郎や怪人二十面相の生みの親。本名は平井太郎だが、アメリカの推理作家エドガー・アラン・ポーを崇拝し、名前をもじってペンネームとした。様々な仕事を体験した後、1923年に29歳で書き上げた探偵小説『二銭銅貨』で、世間にミステリー作家として認められる。 1937年(43歳)に日中戦争が始まると、いわゆる探偵小説は“犯罪を誘発する反体制的なもので文学ではない”と警察当局から見なされた。後年の乱歩いわく「度々内務省から書き換えを命じられた。僕はブラックリストに載って探偵小説はいかんということになった。編集者は恐れをなして(仕事を)頼みに来なくなった」。負傷兵を主人公にした「芋虫」の発行禁止を皮切りに、1941年(47歳)には探偵もの、怪奇もの、少年ものに至るまで、全ての作品が発売中止・絶版にさせられた。この時乱歩は日記に「探偵小説全滅」と刻み、戦後の探偵作家クラブ設立まで6年間筆を折った。 近年は、映画に舞台にと、作品世界の再評価が著しい乱歩ワールドだが、少年時代の僕は、乱歩のことを単純に少年探偵団が活躍する冒険談の作者と思っていた。やがて、奇抜な科学的トリックや着想の斬新さだけが魅力の正体ではなく、息づまるような心理サスペンスの裏にある、倒錯的ともいえる爛熟したエロスの香りの存在を知り、クラクラと目まいがした。墓石には「平井家之墓」と彫られているが、墓前に「江戸川乱歩墓所」と自筆を模して刻んだ石碑があり、墓参者には分かりやすい。 「ミステリーは民主主義の社会でないと成熟しない。基本的人権が尊重され、命の重さを皆が知っているからこそ感情移入できる。ミステリーはその国の社会における基本的人権の実態のバロメーターになり得る」(森村誠一) |
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| 「五重塔」と露伴の墓。このアングルが欲しかった! | 岸部露伴じゃないよ | 娘さんの幸田文も同じ墓域 |

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| 1999 | 2005 |






| 本名は淳(きよし)。東京浅草生まれ。若い頃はフランス象徴主義やアナーキズムに傾倒。36歳(1935)、『佳人』でデビュー。翌年の『普賢』で芥川賞に輝く。日本が戦争に突入していく1938年(39歳)、『マルスの歌』が反戦思想とされ発禁に。戦時中は江戸文学からパロディ精神を学ぶ。戦後は『紫苑物語』(1956)といった小説だけでなく、多くのエッセーも残した。号は夷斎(いさい)。 |



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山梨県出身。本名清水三十六(さとむ)。多くの大衆小説を発表し、権力に抵抗する庶民や弱者への共感に貫かれた作品が多くの読者から愛されている。封建時代に気高く生きる女性を描いた「日本婦道記」で直木賞に選ばれるもこれを辞退。代表作は「樅ノ木は残った」(1956)、黒沢監督が映画化した「赤ひげ診療譚」(1958)、自伝的小説「青べか物語」(1960)など。すべての文学賞を拒否し、文壇ではどのグループにも属さない一匹狼だった。
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| 案内板で大助かり。 これなら迷わない |
心月院にて。左が正子、右が次郎。正子の墓には梵字で 「十一面観音」、次郎の墓には「不動明王」と刻まれている |
五輪塔を薄くスライス。石を次郎が 選び、正子がデザインした |
| 東京生まれ。“韋駄天お正”と呼ばれるほどの行動派で、「骨董の目利きではないが自分の好きなものだけはハッキリわかる」と、自らの信じる美を追求した随筆家。同時に、仏像、工芸、芸能、古典の研究家でもある。特に東西の古美術(骨董)に詳しい。4歳から能を学び始め、6歳で梅若六郎(2世梅若実)に師事。14歳、女人禁制の能舞台に女性として初めて立つ。10代半ばで渡米し米国の学校で学ぶ。18歳で帰国し、兄の友人で実業家の白洲次郎と出会う(翌年結婚)。趣味人であった夫婦の周囲には、志賀直哉、柳宗悦、小林秀雄、大岡昇平ら、そうそうたる顔ぶれの文化人の姿があった。交流を通して大いに刺激を受けた正子は、元々能や骨董に造詣が深かったことから、日本の風土や文化、美をテーマに多くの随筆を記すようになった。代表作は『能面』『かくれ里』(共に読売文学賞)、『明恵上人』『私の古寺巡礼』『西行』『西国巡礼』等々。 |
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| 字も見えず案内板の意味が ない。立て直してあげて! |
青山霊園の地図には「10区14側5番」 となってたけど「15側」の間違いだと思う |
紅葉の絵が彫られた花受け |
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| 丘の上にあり周囲に似たような墓地も多く、探し出すまで 大変苦労した。墓前の句碑は「木蓮や堀の外吹く俄風」 |
墓地にいた猫。 名前はノラ?クルツ? |
墓の手前にあった動物慰霊碑 ネコ好きの百閧ヘ嬉しいと思う |


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| なんとこの球体が墓らしい。眠狂四郎の「円月殺法」をモチーフにしているのかな? |
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| バス路線から外れているので利用 したら、初乗りがたったの280円! |
坂口家の墓所。大地主の同家は「阿賀野川の水が 尽きても坂口家の富は尽きることがない」と言われた |
新潟は米どころ。付近は田園地帯だ |
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| 墓前には「あちらこちら命がけ 安吾」とあった | 「坂口安吾」という独立した墓石はなく、この中央の「坂口家墓域」の中に合葬されているとのこと |
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| 安吾と語り合っているうちに日が暮れた |
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本名、坂口炳五(へいご)。新潟生まれ。旧家の坂口家は大地主。敗戦直後の1946年(40歳)に、「生きよ、堕ちよ」と戦後の人間のあり方を主張した『堕落論』や、無垢な人間との戦時下での出会いを描いた短編小説『白痴』を発表して社会に衝撃を与えた。安吾は終戦の混乱の中で時代の寵児となり、太宰治、織田作之助、石川淳らと並ぶ新文学の旗手と評価され、無頼派、新戯作派と呼ばれた。だが、安吾はヒロポン(覚醒剤)、アドルム(睡眠薬)などの薬物中毒に陥って入退院を繰り返し、1955年に脳出血のため48歳で他界した。
「天皇というものには実際に尊敬に値する理由はない。日本に残る一番古い家柄、そしてずいぶん昔に日本を支配した名門であるということの外に特別な意味はなく、古い家柄といっても単に家系図をたどりうるというだけで、人間誰しもただ系図を持たないだけで、類人猿からこのかた、みんな同じだけ古い家柄であることは論をまたない」(坂口安吾) |
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| 山門脇の壁際に本名の“杉山”で眠っている。九州の墓は金文字が多い |
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福岡生まれ。本名、杉山泰道(たいどう)。30歳の頃から西日本新聞の記者をしながら小説を書き始める。数点の童話を書いた後に推理小説としてデビュー。1935年(46歳)、“狂人の書いた推理小説”という異常な設定に自身の思想を込め、夢野が「これを書くために生きてきた」とまで語った『ドグラ・マグラ』を自費出版。刊行の翌年に脳溢血で急死した。『黒死館殺人事件』(小栗虫太郎著)、『虚無への供物』(中井英夫著)と並ぶ「推理小説三大奇書」として『ドグラ・マグラ』は今もカルト的な人気を保っている。※本作は桂枝雀の主演で映画化された。
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| 文壇BAR“ルパン”にて (撮影/林忠彦) |
楞厳寺は“りょうごんじ”と読む |
墓石の正面には織田信長の 家紋「織田木瓜」が入ってた! |
参考画像…信長を祀る 建勲神社(京都)の織田木瓜 |
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