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| 我が大恩人ドストエフスキー!愛してます!どこまでも付いていきますッ! |
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| ペテルブルグ市内のドストエフスキー像は待ち合わせ場所としても有名 | 道を教えてくれたお父さん |
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| ペテルブルグのロシア文学博物館は文学ファンの聖地。文豪達の遺品がたくさんあり、ドストエフスキーも眼鏡や財布が展示されていた |
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| ペテルブルグ中心部を4.5kmにわたり西東に貫くネフスキー大通り。エルミタージュ美術館からドストエフスキーの眠るアレクサンドル・ネフスキー大修道院へと続く |
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| アレクサンドル・ネフスキー大修道院の入口 | 正門をくぐると左右に墓地がある。向かって右が目的地 | 墓地内の標識。チャイコフスキーの名前もある |
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| 花に囲まれたドストエフスキー | ドーン!! |
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| 「どひー!」涙の墓タッチ。あのヒーロー にここまで接近することが出来る! |
この土の数cm下に彼が! | 1987年 墓巡礼第一号。僕の 巡礼ライフはここから始まった |
| 1987年8月9日、ロシアのサンクトペテルブルク(当時はソビエトのレニングラード)に眠るフョードル・ミハイロビッチ・ドストエフスキーへの巡礼。自分の怒涛の墓巡礼ライフはこの地から始まった。ときに19歳。10代最後の思い出に、半生の恩師である彼に会い、どうしても感謝の気持ちを伝えたかったんだ。で、この墓参体験がとにかく強烈だったッ!それまでドストエフスキーの作品に強く影響されながらも、作者本人は架空の人物のようでリアリティがなかった。だが、実際に目の前の墓と正面から向き合ってみると、「嗚呼、本当に彼は実在したんだ!」と理屈抜きで全細胞が感じた!その瞬間、小説で感銘を受けた様々なセリフに、いっきに熱い血が流れ込んだ。それは驚天動地のエキサイティングな体験で、結局この感激が忘れられず、巡礼の虜になってしまった。 ドストエフスキーはロシア皇帝に対し反抗した罪で投獄され、死刑判決を受け、執行の30秒前に恩赦が出てシベリアに流刑になる(4年間)という極限状態を体験している。文字通り生と死の狭間を垣間見た彼が書いた作品は、どれも血文字で書かれているようだ。以下の『白痴』のセリフは、筆者の実体験であるのは間違いないだろう。 「処刑前の5分間について彼は時間の割り振りをした。まず友達との別れに2分間ばかりあて、さらに2分間をもう一度自分自身の人生を振り返る為にあて、最後の1分間はこの世の名残りに、周囲の自然風景を静かに眺める為にあてたのです」(『白痴』) 出所後、自ら月刊誌を創刊し作品を発表するも、社会批判が当局の目にとまり発禁処分を受けた。この筋金入りの反骨心! 人間の残酷さや弱さを全面に出しながら、それでもなお人類を信じていたいという彼の切実な叫びは、マジで読む者の胸を締め付ける…。彼の作品は、どれも他の作家の追随を許さぬ緊迫した心理描写が見事。同時にまた、シニカルなユーモアも十八番でニヤリとさせるのがメチャメチャうまい! 僕は彼が作中に描くお人好しなアンチ・ヒーローたちを愛してやまない。人の悲しみを知りすぎる優しさがドストエフスキーにはある! 第1部が完成しただけで彼の遺作となった『カラマーゾフの兄弟』は、未完とはいえ彼が2年を費やした大作。非常に読み応えのある傑作だ。彼が構想を練っていた第2、3部も非常に気になる。僕は死んだらあの世で真っ先に彼に続きを聞きに行くつもり。これは死後の最大の楽しみだね!(笑) ・「青年は笑っていましたけれど、やはり泣いていたのです…なぜならロシア人は泣くべきところで、笑うことが非常に多いからです」(『カラマーゾフの兄弟』) ・「自分は喜んで神を認めるし、神が世界を創造したことも認めるが、罪なき者がいわれなく苦しむ不合理に満ちた、神の創ったこの世界だけは絶対に容認することが出来ない」(『カラマーゾフの兄弟』) ・「僕は君に対してひざまずいたんじゃない、人類全体の苦痛の前にひざまずいたんだ」(『罪と罰』) ・「人間というものは、不幸の方だけを並べ立てて幸福の方は数えようとしないものなんだ。ちゃんと数えてさえすれば、誰にだって幸福が授かっていることが、すぐ分かるはずなのにね」(『地下室の手記』) ・「死んでやるわ」「でも、可哀想だな」「誰が?」「生命がさ」沈黙。(『地下室の手記』) ※黒澤明監督はドストエフスキーの愛読者。以下、監督のドストエフスキー評。 「あんな優しい好ましいものを持っている人はいないと思うのです。それは何というのか、普通の人間の限度を越えておると思うのです。それはどういうことかというと、僕らが優しいといっても、例えば大変悲惨なものを見た時、目をそむけるようなそういう優しさですね。あの人は、その場合、目をそむけないで見ちゃう。一緒に苦しんじゃう、そういう点、人間じゃなくて神様みたいな素質を持っていると僕は思うんです」 ※生涯の年表(他サイトへのリンクです。素晴らしい出来!) |
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| 「お立ちなさい!今すぐ、これからすぐに行って四辻に立って、身をかがめて、まずあなたが汚(けが)した大地にキスしなさい。だってあなたは 大地に対しても罪を犯したんですから!」(『罪と罰』)…『罪と罰』のクライマックスに登場した“あの”センナヤ広場で、大地に懺悔の接吻!! |
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| 「僕、あなたに会って人生が変わったんですよ〜ッ!」 |
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| 中世の街並みがそのまま残るストラトフォード |
シェイクスピアの生家! |
髑髏を見つめ自己問答するハムレット。シェイクスピア公園 にはマクベス夫人やフォルスタッフなどの彫像がある |
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| トリニティ教会 | 16年ぶりの再会になる | 朝9時からすごい人だかり! |
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| 壁には彼の彫像がある |
昔はこれが墓と思っていた |
足下のこっちがお墓! |
この写真だけ1989年撮影。帰国後 に現像したらピンボケで卒倒した |
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| こうして400年も前の人物と時間を共有出来る幸せ。それもシェイクスピアとだよ!? 中学・高校の頃はこんな幸福がこの世にあるなんて思いもしなかった。 |
| 「人生は動く影、所詮は三文役者。色んな悲喜劇に出演し、出番が終われば消えるだけ」(『マクベス』) 「どうとでもなれ、どんな大嵐の日でも、時間はたつ」(『マクベス』) 「恋がもし盲目なら、恋の矢はいつも外れるはず」(『ロミオとジュリエット』) ・「目よ、よく見ろ、名残りだぞ!腕よ、さあ、最後の抱擁だ!そして、おお、生命の門なる唇よ、今こそ天下晴れての接吻で、死神と永久契約の証文に証印をするのだ!」(『ロミオとジュリエット』) 「もうよい、意地の悪い運命の女神に悲しみの涙を施して、これ以上つけあがらせることはない。我々を苦しめに来るものを快く迎えてやれ。それに平然と堪えている風を見せて逆にそいつを苦しめてやるのだ」(『アントニーとクレオパトラ』) 「自分と同列の人間を恐れながら生きるのなどは真っ平だ。俺はシーザーと同様自由な市民として生まれた、君だってそうだ。俺たちは同じ物を食っている、同じ冬の寒さに堪えられる、何もあの男と違いはしない」(『ジュリアス・シーザー』) 「ああ運命よ、貴様はとんだいたずらっ子だ!貴様はわけなく人の腹に宿るくせに、いざとなると決してめでたくは生まれない、それどころか貴様をはらんだ親の命を奪ってしまうのだ!」(『ジュリアス・シーザー』) 「自殺は身に降りかかる不運の先手を打って、自ら寿命を絶つだけのこと」(『ジュリアス・シーザー』) 「この巨大な地球さえ、もとよりそこに棲まうありとあらゆる物がやがては溶けてきえる…我らは夢と同じ糸で織られているのだ。ささやかな一生は眠りによってその環を閉じる」(『あらし』) 「人間はこの世に生れ落ちるやいなや、阿呆ばかりの大きな舞台に突き出されたのが悲しくて、誰もが大声をあげて泣き叫ぶ」(『リア王』) リア王の道化のセリフはまるで天の啓示だし、マクベスが語る多くの崖っぷちセリフはかっこよすぎだし、じゃじゃ馬の破天荒なラヴストーリーは抱腹絶倒。ウーム、シェイクスピア恐るべし。人は占いで未来を知りたがるが、たとえ幸福な予言であっても知ることが不幸をもたらすということをマクベスで知った。運命の女神に断固として服従を拒否する、全作品の登場人物たちに乾杯! |


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| 2000 一本の万年筆が添えられていた | 2009 午後の陽光に包まれた墓地。妖精が出て来そう | 大作家にふさわしい、紙の形に彫られた墓標 |
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| 墓石の上には無数のペンが!作家志望の墓参者が置いていくのだろう |
| ・「ああ、愚かな人間よ、ノアの洪水はまだ退いてはおらぬ、優に世界の3分の2をまだ覆っているではないか」 ・「おぬしは気が狂うが当然じゃ、何でまだ狂わぬ?どうして狂わずに堪えてゆける?おぬしが狂えぬのは、天がまだおぬしを憎んどるからか?」 ・「見よ!神々は全て善を為し、人間は全て悪を為すと信ずる者ども、これを見よ!知らざるところなき神々が悩める人間を忘れ果てている時、人間は、よしんば愚かしくとも、自ら何を為すかを知らずとも、心優しい愛と感謝に溢れている事が分からぬか」 “(遺書を書き終わって)今から以後、何ヶ月か何週か分からぬが、いずれにせよみんな私の丸儲けだ。私は自分の寿命よりも生きるわけだから。これでばっちり死と破滅の穴へ飛び込む用意は出来た、さあ、矢でも鉄砲でも持って来い!” 〜以上『白鯨』から アメリカ文学の最高傑作『白鯨』の著者。15歳で父を亡くし家計を支える為に学校を辞め、銀行員、農場手伝い、商店勤め等の仕事に就く。20歳の頃、海への好奇心から英国行きの貨物船に乗り込み、22歳の時には捕鯨船へ。1年後、船上生活の辛さに耐えかねて船を脱走、南太平洋の島で食人種の村に迷い込み1ヶ月を過ごす。やがて他の捕鯨船に救い出されたが横暴な船長に反抗し、タヒチで投獄される。次に米国の捕鯨船で半年間働いた後、ハワイで商店勤めをし、その後、米国軍艦に乗り込みボストンで除隊になった(25歳)。 まるまる20代前半をかけた海の放浪が終わり、27歳で人生体験をもとにした処女作を発表。当初は人気作家だったが、作風が重く深刻なものになるにつれ人気は低迷、筆では食べていけず47歳の時に税関史となった。世間は彼を忘れ、最後は半ば発狂し、失意のうちに死す(72歳)。死後30年を経て、長編『白鯨』を中心に、ようやくその作品群が再評価され始め、現在では世界文学史上の大巨人として名を連ねている。 小説『白鯨』はただの海洋冒険小説ではないッ!白蛇、白鹿など、自然界に現れた白い生物は、昔から聖なる存在として崇められてきた。地上最大の動物であり、しかも白色の“白鯨”は、「神」や「運命」の象徴だ。片や、捕鯨船“ピークォド号”の船乗りたちの国籍はオランダ、中国、インド、フランス、アイスランド、マルタ、イタリア、タヒチ、デンマーク、ポルトガル、英国、アフリカ諸国etc…、つまり船は世界の縮図であり、船乗りは全人類の代表だ。船長エイハブはかつて白鯨との戦いで片足をもぎとられる深手を負い(運命に敗北した)、以来、復讐の為に“世界の果てまで”白鯨を追跡している。 ピークォドの船乗り達は、出航後しばらくしてから航海の目的が捕鯨ではなく白鯨との一騎打ちと知って驚愕する。誰もが“白鯨と戦って勝ち目はない”“自殺行為だ”と絶句するが、エイハブの熱く、激しく、鬼気迫る演説「貴様らは皆エイハブだ!」で、「白鯨上等!」「相手に不足なし!」という一種の熱狂状態へと変わっていく。 『白鯨』は生と死の物語。この作品は絶対に長編でなければならなかった。長期間を登場人物と過ごすことで、キャラの命の重みが増すからだ。短編では感情移入する前に決着がつき、白鯨との死闘で誰かが死んでも、死傷者X名という“数字”として受け止めてしまう。だが長編であれば、夜の甲板で星を見ながら船乗りの過去話に耳を傾けることもあり、酔い潰れた男が漏らす一言に胸を打たれたりする。何度も一緒に飯を食う。だからこそ、誰かが死ぬ度に「あいつが、人の良いあの男が逝ったというのか」と、底なしの喪失感にとらわれる。“もう船に奴はいない”。この感覚は長編小説なればこそ! ※ちなみに、『白鯨』の主要キャラ、一等航海士スターバックはシアトルでコーヒー店の名前になった。店の看板が海をイメージしてるのはそのため(3人で創業したので“スターバックス”と複数形になった)。 ※『白鯨』は神の象徴である巨大クジラに、様々な人種・国籍の船乗りが乗り込んだ捕鯨船ピークォド号が挑む。それはまるで、神VS人類代表の様相! |
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| 史上最強の風刺作家。いかなる権力者も彼のペンの前ではミジンコ以下! | 聖パトリック大聖堂の司祭だった |
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| 聖パトリック大聖堂にはデスマスクが展示され、床に金色の墓があった。壁面にはスウィフトの言葉「旅人よ、自分の道を行け」が彫られていた |
| (以下、ガリバーが旅を終えてロンドンの我が家に帰ってきた部分) “…我輩がヤフー族の一匹(妻のこと)と交尾して、既に子までなしている事を考えると、恥辱、当惑、恐怖に襲われた。家へ入るやいなや、妻は我輩を両腕に抱いて接吻した。だが何しろこの数年間というもの、この忌まわしい動物に触れられた事などほとんど無かったものだから、たちまち一時間ばかりも気を失ってぶっ倒れてしまった。(中略)今日でさえ、妻子には我輩が食べるパンに手を触れたり、ひとつ容器から物を飲むことなどは断じてさせない” 『ガリバー旅行記』の物語で小人の国のエピソードしか知らない人は、光速で本屋へダッシュして欲しい!巨人国やラピュタ編しか知らない人も同じ。この作品の真骨頂はラストの『馬の国』にあり、これを読まない内は他のいかなる作品にも寄り道してはダメっす!この章に関してのみ言うならば、スウィフトはドストエフスキーを凌駕している! 晩年、スウィフトが発狂したことは当然の帰結かと。 『わが国(英)の国民は、自然のお目こぼしでこの地球上を這いずり回ることを許されている害虫どもの中でも、特に悪質な種属だ』(スウィフト) ※ガリバー旅行記に出て来たヤフーという野蛮人は、その後ヤフー=ならず者という意味として定着し、あるプロバイダーが「俺たちはならず者だぜ」とその名を社名に冠した。 |

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| この教会墓地にヘッセは眠っている 僕もカインの血族であることを真っ先にカムアウトした |
墓前にリンゴがあったので驚いた。実は、日本以外で 食べ物を供えている墓はヘッセが初めてだった |
| “孤独は独立だ。私はそれを望み、長い年月をかけて獲得した。それは冷たかった。しかしまた静かであった。星のめぐる冷たい静かな空間のように、驚くほど静かで偉大だった”(『荒野のおおかみ』) “この酒場の彼らは私のように孤立脱線したやからで、破産した理想を肴にじっと考え込んでいる酔いどれだろう。ここに私は錨を下ろした。ここなら1時間は辛抱できた。2時間でも。”(『荒野のおおかみ』) “帰宅して自分の部屋の戸を開けた。私の小さな仮の故郷で、肘掛け椅子と暖炉とインキ壷と絵の具箱と、ドストエフスキーとノヴァーリスが私を待っていた。他のまともな人が帰宅すると、母や妻子や犬猫が待っているように”(『荒野のおおかみ』) “僕の同郷人の三分の二はこの種の反動的な扇動新聞を読む。朝晩この調子の文句を読み、毎日説得され、警告され、けしかけられ、不満や憎しみを掻き立てられる。そういうあらゆるお膳立ての狙いと結果はまた戦争なのだ。次の来たるべき戦争だ。何から何まで簡単明白だ。どんな人間にだって分かることだし、ものの1時間も考えれば、同じ結論が出るだろう。ところが、誰もそうしようとしない。誰も次の戦争を避けようとしない。誰も自分の子ども達のため、幾百万という大量殺害を阻止しようとしない”(『荒野のおおかみ』) 「まさか君だって、真っ直ぐ立って歩くし、9ヶ月で生まれるからというだけの理由で、そこいらを走り回っている2本足全部を人間だなどと言うつもりはないだろう?」(『デミアン』) “どれもが死のうとする意思、無常の痛切な告白であった。しかも、どれもが死にはせず、変化するだけだった。絶えず新しく産み出され、絶えず新しい顔を与えられた”(『シッダールタ』) 文芸愛好者の耳元でヘッセは選民思想を執拗に囁き続ける。傲慢ともとれる思想だが、同時に心をくすぐる思想であることも確かだ。額にカインの刻印があることが、すなわち誇りとなるのだから!ヘッセ文学は世界の孤独者のバイブル。ノーべル文学賞受賞。 |
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| ゲーテの肖像画は多数ある。個人的に好きな4枚を並べてみた。右端、優しそうで良いよね |
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| こちらは親友シラー。正義感が強く、誠実な人柄が愛された。45歳の死が残念すぎる! |
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| ミュンヘンのゲーテ像(2002) | ミュンヘンのシラー像(2002) | フランクフルトのゲーテ像(05) | マインツのシラー像(05) |
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| ウィーンの巨大ゲーテ像。街の中心部にあり、これが一番有名なゲーテ像かも(2002) |
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ドイツ各地にゲーテとシラーの銅像はあるけど、2人一緒なのはこのワイマールの物しかしらない。 後ろから見るとゲーテがシラーの肩を「ヒシッ」と掴んでいて、すっごい仲良しなのがよく分かる |
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| ゲーテの家 | シラーの家 |
| 2人の家は歩いていけるほど近所。壁も同じイエロー系。ゲーテは 10歳年下の親友シラーが先に他界した時、ずっと号泣していたという… |
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ゲーテ&シラーの墓。苦労して独のワイマールまで来たのに、霊廟は工事中。入口の扉にはCLOSEDの白い札があり、僕はブチ切れモードに。実はこの5年前にも訪れているのだが、仏のアルルで賊に荷物を全部盗まれ、この廟内を写したフィルムも一緒に消えた。故に僕はこの時の2人の墓写真を持っていないのだ。え〜い、やっとれんわ!ウッキー!(そういうわけで、右写真はポストカードのもの) |
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| 左がゲーテ | 右がシラー |
| “彼女がこの世にいるということ、僕の運命に対する彼女の共感、そういうものを思うと干からびた脳髄からも最後の涙が絞り出される”(『若きウェルテルの悩み』/ゲーテ) 「これがもっと続くと、陽気にお気が狂うか、陰気に臆病になってお果てになる。もう沢山だ…」(『ファウスト』/ゲーテ) ・空気と光と、そして友達。これだけが残っていれば、気を落とすことはない(ゲーテ格言集) ・科学と芸術は全世界に属する。それらの前には国境など消え失せてしまう(ゲーテ格言集) ・太陽が素晴らしいのは、すべての塵を輝かせることだ(ゲーテ格言集) ゲーテの優しさには泣く。彼は何不自由のない恵まれた環境に育った人間だったのに、どうして他者の心を思いやれたのだろう。 “人間追い詰められると力が出るものだ。こんなにも俺の人生に妨害が多いのを見ると、運命はよほど俺を大人物に仕立てようとしているに違いない”(『ドン・カルロス』/シラー) “世界を改革しようとした純心な人間が今まで何人も処刑場に消えたが、そういう人間は何百年、何千年と語り草になっているのに、多くの王侯は歴史の上で省略されてしまっている”(『ドン・カルロス』/シラー) “俺が神を求めた時、神は応じなかった。今度はむこうが求めても、こっちで応じなかった。このくらい公平な話があろうか。神は俺なぞ必要としない。神に創られた生き物は有り余ってるからだ”(『ドン・カルロス』/シラー) “不当な扱いを受けるのは、偉大な魂の持主にとっては気持が良いものだ”(『オルレアンの乙女』/シラー) 怒れるヒューマニスト、シラーはゲーテの親友。ワイマールを訪れると2人が並んだ銅像があるし、墓まで隣同士だ。僕はシラーの作品に登場する人物の、その孤高なたたずまいにシビレまくった。ゲーテはシラーが45才で死んで、本当に悲しかったと思う。ちなみにベートーヴェンの第九は、このシラーの詩に曲を付けたものだ。 |
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| ヘミングウェイはどんどんタフガイ&ダンディになっていった |
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| 1960年、キューバ革命の直後。 ヘミングウェイ(61歳)とカストロ(33歳) |
くらえ!右ストレート! |
ライフルを構えた文豪の写真 なんて他に見たことないぜ! |
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| 左写真の道がヘミングウェイの眠るケッチャム村に続く道なのだが、田舎すぎてケッチャムに行く公共の交通手段がない!タクシー利用の場合は往復10万円以上するとのことで、僕は泣く泣く墓参をあきらめた。 |
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| ところが!嘆き悲しむ僕の姿を見て哀れに思ったのか、初老の男性が「私はレンタカーで明朝ケッチャム方面へ向かうが、一緒にどうだい?」と声をかけてくれた!紳士の名はフレミングさん(51歳)。デンマーク人の旅人だ。まさに渡りに船! ※(右写真)フレミングさんはアイスクリームが大好物。 |
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| ケッチャムまで、なんと片道5時間半!タクシー代が高い筈だ。ロッキー山脈の万年雪を眺めつつ、墓を目指してひた走る。付近は国立公園で雄大な景色がずっと続いていた。 |
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| とうとう念願のヘミングウェイの墓に巡礼!フレミングさんが先に発見した。本当に来れるなんて!帰路も国立公園を突っ走る(右写真)。フレミングさんがカーステに入れたCDは“ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ”のサントラ。音楽と景色が溶け合い、夢の中を旅しているようだった。 |
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| 車を停めて休憩してると、付近の牧場の牛が全頭こちらを注目していた。2人で思わず吹き出す。 |
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| 午後6時、アイダホの州都でフレミングさんと別れる。往復11時間も運転してもらったし、マナーとして幾らかガソリン代&レンタカー代を払おうとしたら、「私はヘミングウェイに会えて嬉しかった」とだけ言って、財布を持った僕の手を静かに押し戻した。人はここまで優しくなれるものなのか。こんな良い人が実在するなんて!この人に出会えただけでも、この世界に生れてきて良かったと思う!(右写真)視界から遠ざかっていくフレミングさん。たまらなく寂しかった。 | |
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| 『星の王子さま』の作者。彼は第2次大戦中に行方不明になり、遺体は発見されていない。現在、 軍人墓地前に仏政府が建てたこの記念碑が、一応、墓ということになっている。星型の花壇に感動!! |
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| フランス・リヨンの街の中心部に、星の王子様とツーショットの銅像がある(すごい高さのとこに座っている)2005 |
| 「本当に大切なものは目に見えないものなんだ」(『星の王子さま』)。この作品は現在、聖書に次ぐ世界のベストセラーになっている。 サン・テグジュペリが若死にせずもっと生き続けていたら、どんなに素晴らしい本を残してくれたろう!本当に残念だ。もっともっと色んな作品が読みたかった。夜間飛行には死を覚悟して嵐の雲海の上を飛行する場面があり、その部分を思い出すだけで僕の背中には100万ボルトの電流が走る! ・満月ともろもろの星座とが、今このように雲を輝かしい波の如きものにしているのだ。 嵐は、機体の下方で、狂風、竜巻、雷電の荒れ狂う3千メートル厚さのある別の世界を形成しているのだが、星の方へ向っては、水晶と雪で作られているかと思える顔を向けていた。彼は徘徊した、宝物のようにたっぷり集められた星に交じって、彼ファビアンとその同僚以外には誰ひとり生きた人間のいない世界の中を。お伽話の中の盗賊どもと同じように、永久に出ることの出来ないはずの宝物庫に閉じ込められて。冷たい宝石の間を、いとも富んで、しかも死刑を宣告されて、さまよっている彼らであった。(『夜間飛行』) ・「一度犯した失敗は今後もう起こらないので、この先、失敗する可能性はひとつ減ったことになる」(『夜間飛行』) 「僕にあっては飛行機は自分を創り上げる手段だ。農夫が鋤(すき)を用いて田畑を耕すように、僕は飛行機を用いて自分を耕すのだ」(サン=テグジュペリ) 「愛するということは、お互いの顔を見つめる事ではなく、一緒に同じ方向を見つめる事だ」(サン・テグジュペリ) |
![]() 37歳の頃 |
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| 映画『カサブランカ』に出ても違和感のないカミュ |
墓は草がぼうぼうで荒れ放題だった。なんてこった! |
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| 文字は風雨で削れてしまっている ※外国人タレント、セイン・カミュの大叔父 |
写真を撮ってくれたのはタクシー運転手のオリビエさん |
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| 「帰りのバスに間に合わない!急いで!」 |
オリビエさん「バス停はどこだ!?」 |
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| バス停探して走り回るオリビエさん |
結局、帰りはタダでタクシーに!! |
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| これもまた大切な一期一会となった | ||
| 「アルジェリアでは太陽と海はタダだった。それで私はちっとも貧しいとは思わなかった」(『異邦人』) 「私は死にたくないという思いで死にそうでした」(『転落』) 「イエスの親たちが彼を安全な場所に移しているちょうどその時に虐殺されたユダヤの幼児たち、この幼児たちが死んだのは彼のせいでないとしたら、一体誰のせいです?」(『転落』) 「この年になると、いやでも本気のことを言っちまいますよ。嘘をつくなんて、とてもめんどうくさくて」(『ペスト』) “不条理”をテーマにペンを握り続けたカミュ。僕はその痛々しいまでの誠実さが好きだ。自動車事故の為、46歳で亡くなった。 |
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| ローマ・テルミニ駅にて。 23時10分発トリノ行き夜行に乗車。 |
列車は一晩かけてイタリアを縦断し、6時半に 北イタリアのトリノに到着。まだ夜明け前で薄暗い。 |
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| 10月末。ローマやナポリではまだ半袖の人も多いけど、 アルプスが近いトリノでは、誰もが完全防備していた。 |
駅からは路線バスの68番を利用。墓地のすぐ前に停留 所があった。着いたのは7時。さっそく入ろうとしたら守衛に 阻止された。「開門は8時半だからそれまで待て」トホホ。 寒さに打ち震えながら門前のベンチに1時間半座っていた。 |
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| 墓地内の案内板。非常に広大な墓地なのだ! |
8時半、ついにゲートがオープン!視界の彼方まで 続く一本道を、少しでも早くレーヴィに会いたくて小雨 が降る中ひたすら走り続けた。寒さで足がからまる! |
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| ついに出会えたレーヴィ!墓の上に紅葉の屋根があった。 | 刻まれた数字は「174517」 |
| 「私の人生は神の存在抜きに、神の無関心の中で生きられ、生きている男の人生なんです」 「それで平気なのですか?」 「お陰で余計な幻想を抱かずに前進出来ます」(『P・レーヴィは語る』) 生き地獄を知っている者だけが分かる、あまりに重い言葉だ。 プリーモ・レーヴィは、ナチの強制収容所アウシュヴィッツから奇跡の生還を果たしたユダヤ人(トリノから連行された約600人 のうち、生き残ったのはわずか3人のみ)。戦後、収容所の地獄の日々を記した著「これが人間か」を発表し、世界へ生命の尊厳 を訴え続けた。ところが、後に彼は自殺してしまう。理由は4つあった。 1.ナチに非道な仕打ちを受けたはずのユダヤ人が、今度はイスラエル軍としてパレスチナの人々を虐殺している。(“イスラエル 軍は撤退せよ”と声明文を発表した彼は、ユダヤ社会から「裏切り者」扱いされ孤立してゆく) 2.「ガス室はでっちあげ」と主張するネオ・ナチが欧州各地に勢力を広げている現実--“人々は過去の歴史を学ぶ意思が ないのでは”という絶望。 3.収容所で生き残るべきだったのは、自分ではなく他の誰かではなかったのか、という後ろめたさ。 4.再び同様の惨劇が起きるのではないかという恐怖--ヒトラーただ一人ではあの大量虐殺は行なえなかったのに、多くの人々は ヒトラーに全責任を押し付け、自分の問題として考えようとしない。 これら4つが襲いかかり彼は身を投げた。トリノの共同墓地にあるレーヴィの墓には、「174517」という数字が彫り込まれていた。 …収容所で体に刻まれた囚人番号だ。世間が美化し、忘却していく“不幸な歴史”を、朽ちる事のない墓石が「これは事実 なんだ!」と絶叫していた。 |
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| さようなら、プリーモ。貴方のことを、僕は絶対に忘れない。 | |
| アウシュビッツの設計図発見=「ガス室」表記、ナチス幹部署名も−独紙 【ベルリン10日・時事通信社】独大衆紙ビルトは8日付紙面で、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の舞台になったアウシュビッツ強制収容所の設計図がこのほど、ベルリンのアパートの一室で見つかったと報じた。 同紙によると、設計図は28枚の黄ばんだ紙に1941年から43年にかけて描かれたもの。「戦時捕虜収容所アウシュビッツ」と記されたページには、ホロコーストを指揮したナチス親衛隊(SS)長官のハインリヒ・ヒムラーの署名も見られる。 また、41年11月に作成された設計図には、「シャワー室」の奥にある約11メートル四方の部屋が「ガス室」と表記されている。このため同紙は、ユダヤ人問題の「最終的解決」を決定したとされるワンゼー会議が42年1月に開かれる以前に、ユダヤ人絶滅計画が存在したことが裏付けられたとしている。(2008/11/10-21:58) |
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| プラハのユダヤ人墓地。 地下鉄の駅からスグだ |
男性は頭に帽子を 乗せねばならない |
門からひたすら一本道を進む。 美しい小道! |
目標の21区は墓参者で賑わっていた |
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| 「ご無沙汰しております!」木漏れ日の中のカフカ! | ヘブライ語! | 1994 | 青年カフカ |
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| 今もプラハ市民の心に息づくカフカ | この青い壁の家に彼が住んでいた |


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| ナルシスの極み | ワイルドは大人気。墓参の人の波が途絶えない! | ハハーッ!(1994) |
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| 墓はキスマークだらけッ! | おそらく世界で一番キスマークが多い墓(2009) | ワイルドと語り合うマダム |
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| さらに裏側もキスマークがテンコ盛り | 漢字もあった |
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| 決定的瞬間!今まさにコケットな女性が! | 彼女は“O”(オー)の真ん中へ! | もう、何が何だか…(笑) |
| “すぐれた肖像画に気づかないことは人殺しをしたも同然だ” 「(完成した)あの絵は僕よりもまるひと月若いので、少々ねたましい気がする」 “詩や彫刻や絵画に傑作がある如く、「人生」そのものにも珠玉の傑作が存在する” 「僕は彼女が大好きだが愛してなどいない。一方彼女は僕を熱烈に愛しているがそれほど好きではない」 “悪というものも所詮は自分が抱いている美の概念を実現する一手段に過ぎぬ” “お前は罪びとなのだと言われるほど、人間の虚栄心を満足させるものはない” “人間の先祖は本人の血族ばかりでなく、文学のうちにも存在している” “男はどの女とでも幸福になれるものだ、その女を愛していない限り” “人間との取引関係において運命は一瞬たりと帳簿を閉じてはくれぬ。一度の過失に何回となく償いをせねばならず、 繰り返し繰り返し代価を支払わねばならぬのだ” “物事を外観によって判断しない人間こそ、浅薄なのだ” 〜『ドリアン・グレイの肖像』から 学生時代は快楽主義者のワイルドにまんまとのせられた。ドリアン・グレイは本当に危険書だよ。 |
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| ワイルドとその恋人 |
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| 若きカーソンさん |
著書『沈黙の春』で農薬の 乱用に警笛を鳴らした |
大企業を相手に一歩も 譲らず戦い抜いた |
小鳥に餌をあげる晩年のカーソンさん。彼女の 活動は世界的な環境保護運動の起爆剤となった |
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| 夕陽にほんのり照らされるカーソンさん | この墓地は墓石の向きがバラバラで探すの大変(汗) | 墓参しているうちに日が暮れた。ホタルが飛んでた〜! |
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| 墓地の優しい庭師さん。米国の墓地は 管理人事務所が閉まっても、住み込みの 庭師さんがいる場合は案内してもらえる |
この墓地は僕が行った墓地の中で一番鹿が多かった! 伸びた草を食べてくれるから、墓地も助かるらしい |
海を愛したカーソンさん。遺灰の半分は このメイン州沖に撒かれたという(2000) |

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| 上海の魯迅公園にて。園内には大きな魯迅像もある。墓石の文字は「魯迅先生之墓」。 ※ちなみに“先生”の意味はミスター。日本でいうところの先生は“老師”になる |
| 本名は周樹人。ペンネームの“魯”は母親の旧姓。以下、魯迅の人となりがよく分かる彼の遺言を紹介。 1.葬式の為に誰からも一文でも受け取ってはならぬ…ただし親友だけはこの限りにあらず 2.さっさと棺に入れ、埋め、片付けてしまう事 3.何なりと記念めいた事をしてはならぬ 4.私の事を忘れて自分の生活に構ってくれ…でないと全く阿呆者だ 5.子供が成長して、もし才能がなければつつましい仕事を求め生活せよ。絶対に空疎な文学者や美術家になるな 6.他人がお前に約束したものを当てにしてはならぬ 7.他人を傷つけながら報復に反対し、心の広さを主張する者、こんな人間には決して近づいてはならぬ |

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| 再開発で墓地が移転し探すのが大変だった。 最初の巡礼時は地元のおじさんが車で送ってくれた |
教会の裏の墓地。門は無施錠なので24時間OK。 この墓地は夜になるとホタルが飛んでいる! |
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| 2000 | 墓石には“ギャツビー”の台詞が刻まれていた | 2009 |
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| 3度の獄中生活のほか、奴隷として売られた経験もあるセルバンテス |
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| 首都マドリードの中心にあるセルバンテスの座像と、その正面にあるドン・キホーテ&サンチョ・パンサの像(スペイン広場) |
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| プラド美術館の向かいの坂道をず〜っと上って行くと、セルバンテスの墓がここにあったことを示す 墓標がある(正確な場所は不明らしい)※ロペ・デ・ベガ通りにあるトゥリニターリアス修道院の外壁デス! |
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“行って除こうと思った邪悪、正さねばならぬ非道、改めさすべき無法、直すべき悪習、実行すべき義務そういったものがどんなにひどいかを思うと、自分の行動が遅れたために世の人を待ちあぐねさせていることにせき立てられた”(『ドン・キホーテ』)
1547年、マドリードの東に位置するアルカラデエナレスで生まれる。父は貧しい外科医。1569年(22歳)、ローマで枢機卿に仕えた後、ナポリに駐屯していたスペイン軍に入隊する。2年後のトルコ軍との海戦で負傷したセルバンテスは、左手の自由を失ってしまう。1575年(28歳)、軍を退役した彼は母国スペインへ帰る途中で、トルコの海賊に襲撃され、悲惨なことに奴隷としてアルジェに売られてしまう。4度試みた脱走はことごとく失敗。5年後に家族や友人、慈善団体が大金で身請けしてくれ、ようやく自由になれた。 少年時代から読書好きだったセルバンテスは、帰国後に作家を志し、30代後半で小説、詩、戯曲を書く。それらは殆ど評判にならず彼を失望させた。1585年(38歳)には父親が他界し、彼が家族6人を養わねばならなくなり文筆業を断念。その後、海軍の食料調達係に就職するも、熱心すぎた彼は教会から強引に食料を徴発して投獄された(45歳)。次にアンダルシアで税の徴収吏となったが、50歳の時に計算ミスで投獄され、さらに回収した税金を預けていた銀行が倒産し、その責任を負う形で再び投獄…(ときに55歳)。
不運続きのセルバンテスの人生だったが、獄中生活で新作小説の構想を練り、中世騎士道物語のパロディを思いつく。1605年(58歳)、風刺精神により近代小説の幕開けとなる『才智あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の前編が出版され、10年後に後編が刊行された。
『ドン・キホーテ』…ラ・マンチャに暮らす田舎紳士アロンソ・キハーノは時代遅れの騎士道物語に熱中し、かつて騎士が行なった修業の旅を自らも行なおうとする。彼は騎士ドン・キホーテを名乗り、農夫サンチョ・パンサを従者とし、鎧と武具を身につけ、ガリガリの愛馬ロシナンテに乗って出発する。ドン・キホーテは各地で悪に戦いを挑むが、それは巨人と思い込んだ風車であったり、敵の軍勢に見えた羊の群れであったり、やることなすこと的外れなことばかり。やがてドン・キホーテは騎士道を諦めて故郷で死ぬが、サンチョだけは徐々に主人の理想主義を理解し始めていた。封建主義の理不尽さ、抑圧された庶民、ご都合主義の教会などを、明るいユーモアと強烈なブラックジョークで綴った小説。 この作品は大当たりし、出版からたった2週間でマドリードに3つの海賊版が出回るほどの人気ぶりだった(ただし、セルバンテスは版権を安く売り渡しており、ベストセラーに見合う金銭を得ることは出来なかった)。その後、1613年(66歳)に12本の短編小説で構成された『模範小説集』を書き上げる。さらに3年後(1616年)に寓意小説『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』を完成させ、その3日後にマドリードで波瀾万丈の生涯を閉じた。享年68歳。 『ドン・キホーテ』の英語版は前編が刊行の7年後、後編が5年後に出ている。後に様々な言語に翻訳され、現在は実に約700種類もの版が刊行されている。交響詩やオペラ、バレエ、映画、ミュージカル(ラ・マンチャの男)など、多様なジャンルで『ドン・キホーテ』を題材にした作品が生まれていった。
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| トルストイは写真や肖像画がたくさん残っているので時代順に並べてみた。若い頃の彼(左端)はイーサン・ホークばりの美男 |
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| 晩年はこれでもかというくらい髭モジャに!右端は棺の中のトルストイ。まさに巨星堕つという感じだ |
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| モスクワにあるトルストイ像 |
1882年から1901年にかけて、冬期に 住んでいたモスクワの家。現在は博物館 |
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| ペテルブルグのロシア文学博物館に展示されてたトルストイの愛用品(ティーカップ、コート、靴、机など) |
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| 地方へ個人で行くのは大変なので日本語のガイドさんと車を予約。 当日の運転手はハードボイルドなウラジミールさん。スピード狂だった |
ドヒーッ!160キロ! 客を乗 せて走るスピードじゃない! |
車はボルボの3110型。いくら ボルボが頑丈でも怖すぎ! |
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| 10時半にモスクワを出発。片道5車線の道路を爆走 |
路肩でよく見たスイカ屋さん | 片道3時間半の道のりは、白樺の林と、どこまでも続く広大な農場が交互に続く | |
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| 「オラオラァ」窓も開かない不整備車で 追い抜きまくり。“こ、こ、殺されるーッ!” |
途中でパトカーに…ゴホンゴホン |
田舎道を進むと突然観光客だらけの 場所に出た。午後1時半、目的地に到着! |
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| まずは皆で腹ごしらえ。 ボルシチがうまい! |
メインのビーフストロガノフ |
近隣のこの教会にはトルストイの親族やアンナ・カレーニナのモデルと言われる人の墓がある |
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| メインゲート。トルストイ・ファンがいっぱい | 広い敷地にトルストイ関連施設が点在 | 門から入り、左に池を眺めながら進んでいく |
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| 馬やアヒルがそこらにいる | 白樺の並木道は太陽が差すと本当に美しい | トルストイも手入れしていた畑や花壇 |
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| 夏期にトルストイが住んでいた大きな邸宅。 「トルストイの屋敷博物館」として公開されている |
2階にある客間&食堂のサロン。大テーブルやピアノが置いてある。かつて、この部屋に ツルゲーネフ、チェーホフ、ゴーリキー、レーピンなどビッグな顔ぶれが集まっていた |
なんと本棚には正岡子規らの 「不如帰」(ホトトギス)があった |
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| トルストイ屋敷のガイドは 美人のお姉さん。ハラショー! |
この小さな書斎机から「アンナ・カレーニナ」「戦争と 平和」という文学史に輝く名作が誕生した |
狩猟に使われたトルス トイ愛用の猟銃 |
小柄だったようで寝室の ベッドは随分小さかった |
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| トルストイ屋敷からさらに林の奥へ分け入る | 100mほど進むと何かが見えてきた | なんと!この草ボーボーの盛り土がお墓だった! |
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| トルストイの墓前には無数の花束が並んでいた! “ヤースナヤ・ポリャーナ”は「森の中の明るい草地」の意 |
「何かしら?」そんな感じで女の子が不思議そうに見ていた |
「ダーッ!素晴らしい作品を有難う ございます!」たまらず土下座! |
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| 帰途、車の底の方からカラカラと異音が聞こえ始め、160kmで車体は震えているし「何か異変では?」と 点検を提案した。路肩でチェックしたけど問題は見つからず「日本人は心配しすぎだぜ」とウラジミール。 車が多い道でも車間距離ゼロで100kmオーバー。往復の7時間は死兆星が見えていたハズ |
ゴソゴソと片手運転を するので、ハラハラしてたら 飴玉を出してくれた(笑) |
出発から11時間半。午後9時、モスクワに無事 帰還!フーッ、ウラジミールさん、ガイドのヴォン さん、スパシーバ(有難う)!※9時でもまだ明るい |
| “長い年月会わずにいた恋人の顔を見ると、最初は別れていた間に生じた外見的な変化に驚かされるものの、やがて少しずつ、何年も前と全く同じにものになっていき、やがて他に二つとない、その人だけの精神的個性の表情だけが浮かび上がってくる”(『復活』) “我々は刑法を活用する前に、囚人を罰する前に、こういう不幸な人間が作られていく環境そのものを絶滅するように努めねばならない”(『復活』) “幸福な家庭はすべて互いに似通っているが、不幸な家庭はその内容が千差万別である”(『アンナ・カレーニナ』) 「教養とは一切のものから快楽を作り出すことだ」(『アンナ・カレーニナ』) 「(不倫を終わらす)解決法は二つしかないんだ。妻を殺すか、あの女を殺す。その他…あ、そうか、第三の道があった。自分を殺すんだ。そう、自殺だ。そうすれば二人を殺す必要もない」(『悪魔』) 世界文学史上の巨星。社会の不平等を批判したモラリストでリアリズム小説の大家。生涯にわたって世界の問題と向き合い、自らの道徳的完成を目指した求道者。家系は名門の地主貴族で、1828年にモスクワ南部の領地ヤースナヤ・ポリャーナに生まれる(四男)。2歳で母を失い、9歳で父と死別し、親戚の元に身を寄せる。モスクワに出てルソーの啓蒙思想に触れた彼は、19歳の時に大学を中退し、領地に戻って農奴の生活を向上させようと奮闘する。しかし、既得権益を持つ地元有力者たちの抵抗にあい、計画はことごとく頓挫する。挫折を経験したトルストイは自暴自棄になり、モスクワに戻ると何一つ仕事をせず、勉強もせず、女性を追いかけ、享楽と荒廃の日々を送る。
1851年(23歳)、自堕落な放蕩生活の中で“このままではダメだ”と思い至った彼は、兄の助言に従い精神を叩き直す為に軍へ入隊する。トルストイは砲兵隊に配属され、クリミア戦争や辺境の異民族との戦いで何度も実戦を体験し、そこで生と死について深く考察するようになる。戦闘の合間にペンをとり始めた彼は、1852年(24歳)に自伝小説『幼年時代』を執筆。続けて2年おきに『少年時代』、『青年時代』を完成させた。内面の葛藤を正直に吐露したこれらの作品は、世間で高い評価を受ける。 1856年(28歳)、ロシアはクリミア戦争で英・仏・伊・トルコの連合軍に敗北。両軍の死者は、連合軍の7万人に対し、ロシア側は無謀な作戦計画の結果、2倍近い13万人にのぼった。トルストイは自らの体験を元に『セバストポリ物語』を執筆。そこでは、最前線の過酷な状況を何も知らない軍上層部が、安全な場所から英雄気取りで命令している愚かさを告発した。また、死と隣り合わせの戦地で神や信仰について思索した彼は、宗教の本当の役割は“死後の幸福”を約束することではなく、生者にこの世の幸福を与えることこそが重要と考えるようになる。 戦争後にペテルブルクで生活していたトルストイは、以前に失敗した農奴の生活改善に再び関心を寄せていく。軍を退役して29歳、33歳と2度ヨーロッパを訪れ、ドイツやフランスの教育環境を視察し、領地(ヤースナヤ・ポリャーナ)の村に学校を建設した。農民教育の重要性を訴えた雑誌も創刊したが、官憲はトルストイを“農奴に同情的すぎる危険思想の持ち主”と見なし、家宅捜索を行ない雑誌を握り潰した。 1862年(34歳)、宮廷医の娘ソフィア(18歳)と結婚し、多くの子宝に恵まれる。幸福で安定した暮らしはトルストイの創作欲を爆発させた。領地を運営する傍らで、1865年(37歳)から大長編小説『戦争と平和』の執筆を開始。世界文学史上の金字塔となるこの一大叙事詩を4年の歳月をかけて書き上げた。トルストイは半世紀前の対ナポレオン戦争を舞台に、559人もの登場人物の目を通して人間讃歌をうたいあげた。1875年(47歳)、『戦争と平和』完成の6年後、新たに近代心理小説の傑作『アンナ・カレーニナ』を書き始め、これを2年で完成させる。描かれたのは人妻でありながら青年将校と恋に落ち、社会道徳との狭間で苦しむアンナの葛藤。トルストイは自己犠牲こそ真の愛と訴えた。 その後、宗教的な迷いを真摯に告白する一方で、教訓的な物語を幾つも書き残し、1899年(71歳)には若い娘を傷つけて良心の呵責に苦しむ青年貴族の魂の再生を描いた最後の長編『復活』を完成させた。1901年(73歳)、第1回のノーベル文学賞の最有力候補として名前があがったことから、賞を授与するスウェーデン・アカデミーに「私に決まったら賞金はロシアで迫害されているキリスト教少数派(ドゥホボル教徒。平和主義で徴兵を忌避した)のカナダ移住費に回して欲しい」と手紙を送った。ところが、選考の最終段階でトルストイの無政府主義的な思想が問題になり、文学賞はフランスの詩人シュリ・プリュドムに与えられた。それまでトルストイは著作権を放棄して金銭を受け取っていなかったが、『復活』では原稿料を受け取り、それをドゥホボル教徒の移住費としてカンパした。 1904年(76歳)に日露戦争が勃発すると、トルストイは6月27日付のロンドン・タイムズに日露両国民に向けた反戦論文『思い直せ!』を発表した--「戦争はまたもや起こった。見よ、一方は一切の殺生を禁じた仏教徒であり、一方は世界の人々の兄弟愛を公言するキリスト教徒であるというのに。今や極めてむごたらしい方法で、互いに傷つけあい、殺戮を重ねようとしている。陸に海に、野獣の如く相手の隙をうかがっているのだ。なんという悪夢なのか」。
ロマノフ王朝の圧政や、自身を含めた支配層の偽善や自己中心主義を厳しく糾弾したトルストイ。彼は“神は教会ではなく心の内にいる”など、腐敗した教会も手加減せず批判したので、ロシア正教会はトルストイを破門した。トルストイは自己の理想に生活を近づける為に、贅沢はせず身の回りの物を必要最小限にきりつめ、財産を全て妻に譲り、菜食主義を貫き、野良着を着て自ら農作業を行ない、長靴も手作りだった。その生きる姿勢と文学は国外でも多くの人々に支持され、様々な人物が田舎のヤースナヤ・ポリャーナまで彼に会うために訪れた。 最晩年のトルストイは、主張してきた人類平等の概念と、(妻に譲った)トルストイ家の巨額の富に矛盾を抱き、“資産を放棄しよう”と妻に訴える。しかし、この決意は猛反対にあい、実行に移せないまま口論の繰り返しになっていく。そして1910年11月の寒い夜、理想と現実の間で引き裂かれそうになったトルストイは心の安らぎを求めて家出をした。部屋にはドストエフスキーの遺作『カラマーゾフの兄弟』が読みかけのまま残された。 既に82歳になっていた彼は3日後に肺炎になり、それから1週間後の11月20日、故郷から200km離れた寂しい田舎駅アスターポボで息絶えた。最後の言葉は「真理を…私は熱愛する…なぜあの人たちは…」。 ヤースナヤ・ポリャーナに戻ったトルストイの棺は、彼を慕う農民たちに担がれた。モスクワから多くの市民が鉄道で葬儀に向かおうとしたが、ロシア政府はトルストイの反逆精神が広がることを恐れて、臨時列車の運行を許さなかった。それでも1万人を超える参列者が集まり、“聖人”に最後の別れをした。 ※トルストイ夫人は夫の死の9年後に同じく肺炎で他界する。彼女は死の間際に、娘に対し夫の家出のことを詫びた。「あの頃の私は自分の心がどうかなっていたの…ごめんね」。
※「少しの無駄もなく、全体の構図も、細部の仕上げも、一点非の打ち所のない作品、それが“アンナ・カレーニナ”だ」(トーマス・マン) ※「トルストイは自分では無政府主義者だと名乗らなかったが、その立場は無政府主義的であった」(クロポトキン)
※トルストイの最後の手紙は若きガンジーに宛てたもの。この頃ガンジーはインド独立運動の前に南アフリカで非暴力闘争をしていた。
「無抵抗と呼ばれている行為は、愛の法則に他なりません。愛は人間の生活の最高にして唯一の法則であり、この事は誰でも心の奥底で感じていることです。私たちは子どもの中にそれを一番明瞭に見出せます。愛の法則はひとたび抵抗という名の元での暴力が認められると、無価値になり、そこには権力という法則だけが存在します。私はこの世の果てと思われるトランスヴァールでの貴方の活動こそ、現在世界で行われている、あらゆる活動の中の最も重要なものと思います」
※今もロシア正教会からのトルストイの破門は取り消されていないという。(参考文献一覧) |
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| めっさハンサム!医者であり作家。貴婦人の黄色い声が聞こえてきそう |
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| こちらの写真は優しい表情でいかにも人が良さげ(32才) | トルストイとの貴重なツーショット | 44歳の若さで他界 |
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| チェーホフの家博物館(モスクワ) | 愛用の鞄や眼鏡を展示 | チャイコフスキーからの手紙 | ピアノはロウソクの燭台付き。夜も弾ける |
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| 当時のまま保存されている書斎 | 奥に見えるのが寝室 | 博物館の受付さん。眼鏡を外してパチリ |
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| こちらはペテルブルグのロシア 文学博物館にあった遺品 |
チェーホフの墓は白壁で家の形をしていた |
鉄柵の外からでも ヒシッとくっつける♪ |
| 「やがて新しい生活の朝焼けが見え始め、真理が勝利をおさめ、そして我々に運が向いてくるでしょう!僕はそれを待たずにくたばるでしょうが、その代わり誰かのひ孫たちがそれに巡り会うんだ。僕は彼らに心からの挨拶を送って喜ぶ。彼らのために喜ぶ!進め!友人たちに神助あれ!真理ばんざい!」(『6号室』) 「ストア学派(禁欲主義者)は富や生活の便宜に心を惹かれるな、苦しみや死を軽蔑せよと説教したが、大多数の者には何が何だか分からない。だって彼らは一度も富を知らず生活の便宜も知らなかったのだから。それに苦しみを軽蔑すべきだということは、彼らには生活そのものを軽蔑すべきだということになったから、生活を重荷に感じたり、憎んだりは出来ても、軽蔑することは出来ないのだ」(『6号室』) 1860年、ウクライナの商家に生まれる。16歳の時に父が経営する雑貨店が倒産し、一家は夜逃げ同然にモスクワへ移住する。モスクワ大の医学部に進学したチェーホフは、家族を養う為に在学中から新聞、雑誌に多数のユーモア短編を発表した。1884年(24歳)、卒業して医師の資格を得るが、結核を患って体調が安定せず、また発表した短編が好評だったことから、医師の道を進まず文筆業を選んだ。26歳、老作家から“ユーモア短編で才能の無駄遣いをせず、ちゃんと文学作品を書け”と激励され、この言葉に従って長編戯曲を書き始める。翌1887年(27歳)、初の本格的戯曲『イワーノフ』が完成。モスクワの初演は不発だったが、ペテルブルグでは大ヒットし、チェーホフの名も広く知られるようになった。
1890年(30歳)、チェーホフは極東流刑地の実態調査のため、約3ヶ月にわたってサハリンに滞在。5年後にルポルタージュ『サハリン島』を刊行し、過酷な島の様子を“地獄”と告発した。この本は大きな反響を呼び、ついにはロシア政府が待遇改善に動き出す。この取材を通してチェーホフは様々な社会問題に関心を寄せていった。
1895年(35歳)、ロシア知識階級の虚無感を描いた戯曲『かもめ』が完成。翌年の初演は大ゴケだったが、1898年に名演出家スタニスラフスキー率いるモスクワ芸術座が再演すると大ヒット。チェーホフの名声は益々高まった。劇作家チェーホフ&演出家スタニスラフスキーのタッグはその後も続き、1897年(37歳)に『ワーニャ伯父さん』、1901年(41歳)に『三人姉妹』が初演される。チェーホフは『三人姉妹』で次女マーシャを演じた女優と結婚した。 一方、結核は徐々に悪化しており、1898年(38歳)に黒海沿岸の温暖なクリミア半島ヤルタに転地療養する。翌年、『可愛い女』『犬を連れた奥さん』などの短編が書かれた。
1904年(44歳)、代表作となる『桜の園』が初演される。チェーホフが多くの作品で描いたのは、現実を直視せず、過去の栄光にすがる没落貴族の哀愁や、知識階級の現実に対する無力。これらが日常生活を通して淡々と綴られる。事件らしい事件は何も起きず、時間の経過と共に朽ち果てていく人々。孤独の悲しみがセリフを通してではなく、むしろ無意味な会話の長い間(ま)からジワジワと伝わってくる。 チェーホフの結核はさらに酷くなり、『桜の園』上演と同年に治療のため訪れたドイツの保養地で息絶える。享年44歳。最後の言葉は「イッヒ・シュテルベ(私は死ぬ)」。遺骸はロシアに運ばれ、モスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬された。
チェーホフはロシアの文豪の中でもズバ抜けて作品数が多い。短命を意識していたのか、とにかく書き続けた。しかも、そのいずれもがユーモアと緊張感をたたえ、一定レベルの質を保っている希有な作家だ。戯曲も短編小説も、人間の心の動き、内面のドラマを叙情的に記した名品であり、根底には作者の良心と優しさが見て取れる。
僕らはチェーホフが希望と共に祝福(挨拶)を贈った“新しい生活”を生きる人類に、少しずつでも近づいていると信じたい! 「治療するなら病気でなく、病気の原因を直すべきです。病院とか学校とか図書館とか救急箱とかは、現在の体制下では人間の奴隷化に役立つだけです。民衆は大きな鎖でがんじがらめに縛られているのに、あなた方はその鎖を断ち切ろうとせず、新しい鎖の輪を付け加えているに過ぎない」(『中二階のある家』) 「幸福な人間が良い気分でいられるのは、不幸な人々が自己の重荷を黙々と担ってくれているからに過ぎないんだし、この沈黙なしには幸福なんてありえない。これは社会全体の催眠術じゃありませんか」(『ともしび』) 「本当の生活がない以上、幻に生きるほかはない。とにかく、何もないよかましだからね」(『ワーニャ伯父さん』) ※モスクワ芸術座は『かもめ』の上演成功を記念して、かもめの絵をシンボル・マークにした。 |
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| チェーホフ博物館の近所の陽気なサンドイッチ屋さん |
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| ペテルブルグのロシア文学博物館にあった肖像画、自筆手紙(絵も上手かったようだ)、逝去時の様子など | ||
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| 重厚な墓に立派な胸像が載っていた |
| ロシアのリアリズム文学の創始者。ウクライナの小貴族の家に生まれ、19歳でペテルブルクの下級官吏となる。文学青年の彼は22歳でウクライナの農村生活を描いた小説を発表し、生き生きとした人物描写とユーモアで脚光を浴びる。1836年(27歳)、官僚社会の愚かさを笑い飛ばした風刺喜劇『検察官』を発表。これは現代に至るまでロシア戯曲の最高傑作と讃えられている。翌年、親交があり敬愛していた10歳年上のプーシキンが決闘で死に衝撃を受ける。 31歳、ゴーゴリは虐げられた者、社会的弱者に人間愛を抱き、彼らの怒れる代弁者として、『外套』では善良な小役人の死を描く。そして、旅先のローマで1842年(33歳)にロシア社会の腐敗を暴いた代表作『死せる魂』第1部を書き上げた。その後、第2部の執筆中に主人公の魂の救済をどう描くかでノイローゼになり(理想のロシアと現実にギャップがありすぎた)、1845年(36歳)に原稿を焼き捨てる。39歳のエルサレム巡礼で前向きになったゴーゴリは執筆を再開、4年後に第2部が完成。ところが1人の神父から内容を酷評されて再び原稿を焼却し、10日間の断食の末にモスクワで悶死した。最後の言葉は「梯子(はしご)を…梯子を…」。 ※この神父はとんだ馬鹿野郎だ!酷評しなければゴーゴリは命を絶たなかったし、そのまま第2部、第3部も出版されていた。天才作家を死に追いやったことを反省すべし! ※ちょっち、同性愛的傾向があった。 |
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| モームの外見はマフィアのボス。ドン・モーム! |
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| カンタベリーはとても美しい街 |
キングス・スクールのモーム図書館 |
図書館のバラの花壇に 彼の遺灰が撒かれた |
| パリ生まれ。10歳で両親を亡くし英国にいる叔父に引き取られた。その後ドイツと英国で医学を学び医師の資格を持つが作家を志す。皮肉屋だったが読みやすいシンプルな文体と語り口の巧さで人気を博した。1915年(41歳)、写実主義小説の傑作でモームの代表作となった自伝的小説『人間の絆』を発表。1919年(45歳)、画家ゴーギャンをモデルに芸術家が一般社会で生きていく苦悩を描いた『月と6ペンス』を完成させる。短編にも優れた作品を多く残し、1921年(47歳)の『葉のそよぎ』には名作『雨』『赤毛』が収められている。最後の30年は作家活動をほとんどやめ、旅行に明け暮れた。享年91歳と長寿だったが同性愛者ゆえ独身だった。 「描かないではいられないんだ。自分でもどうにもならないのだ。水に落ちた人間は、泳ぎが上手かろうと拙かろうと、そんなこと云ってられるか」(『月と6ペンス』) 「だって僕のしたことは全てそうするよりほかなかったのだとすれば、後悔しようにも、しようがないじゃないか?」(『人間の絆』) “人間が求めているものは、明らかに快楽であり、幸福なんぞ求めてやしない”(『人間の絆』) “あらゆる屈辱よ、来らば来れ、むしろそれに直面することによって、いわば運命の手に挑んでいるのだという、一種奇妙な気持を感じていた”(『人間の絆』) 「人生への準備には、もううんざりした。今こそ、生きてみたいんだ」(『人間の絆』) ★モームが選んだ『世界十大小説』 メルヴィル『白鯨』、ヘンリー・フィールディング『トム・ジョウンズ』、ジェーン・オースティン『高慢と偏見』、 スタンダール『赤と黒』、バルザック『ゴリオ爺さん』、チャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパーフィールド』、 フロベール『ボヴァリー夫人』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、トルストイ『戦争と平和』 「イギリスで美味しい食事を取るならば3食朝食を食べるべき」(モーム) |
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| 当時では珍しい女性作家。 ユーモアのセンスも抜群だった |
ジェーンが住み、 そして亡くなった家 |
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| 壁の金ピカのプレートはただのメモリアル。 手前の太っちょオジサンが見てるのが墓! |
彼女の名が刻まれている だけに勘違いしやすい |
こっちの地味な方が本当の墓 |
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“虚栄心と自尊心は別のものだ。人は誇り高くても虚栄心を持たぬことがある。自尊心は自分の自分自身に対する意見の問題だが、虚栄心は他人の自分自身に対する意見と関わりがあるのだ”(『高慢と偏見』)
「君の心の庭に忍耐を植えよ、その草は苦くともその実は甘い」(ジェーン・オースティン) ユーモアとウィットに富み、格調高く文章を綴った天才ストーリーテラーで、当時はまだ珍しい女流作家だった。卓越した人間観察力を持っていた彼女の作品は、心理写実主義の頂点を極め、近世英国文学を代表する作家となった。どの作品も田舎の中流社会の出来事を描いたものばかりで、歴史上の英雄や戦争が出て来たり、都会を舞台にしたものはない。毒舌家のサマセット・モームをして「大きな事件も起きてないのに、ページをめくる手が止まらない」と言わしめた。 1775年、英国南部ハンプシャー生まれ。父親は牧師で、オースティンは8人兄弟の7番目。家族を愛していた彼女は、皆を楽しませたくて子ども時代から小説を書いていた。26歳の時に生涯に一度の恋を体験するが成就せず、翌年に6歳年下の男性から求婚されるが性格が合わず断った。1811年(36歳)、風刺小説『分別と多感』を刊行。そして1813年(38歳)に代表作となる『高慢と偏見』を発表する。物語は5人姉妹の理想の夫探し。「第1印象」だけで“高慢”な男と決めつけていた女主人公の“偏見”が消えていくさまを、細かな日常描写を通して書き上げた圧巻の心理小説。脇役まで含めた全登場人物がまさに目の前で呼吸している。あらゆる個性が詳細に描き出されており、それらは愛を持って風刺され、面白可笑しく綴られている。いずれも20代前半に書き上げており、完成から出版まで15年以上もかかった苦労の末の刊行だった。 オースティンは作品がなかなか出版されないため、失意に打ちのめされ12年間も新作を書かなかったが、刊行後に人気を得たことで気持ちを取り直し(後の英国王ジョージ4世までが彼女の作品の愛読者だった)、1815年(40歳)にこれまた傑作の誉れが高い『エマ』を発表する。こうした作品は全部名前を隠して“BY
A
LADY”(ある女性)の匿名で出版したので、近所の村人さえ彼女が作家であることを知らなかった。
穏やかな人生を送っていたオースティンだったが、『エマ』刊行の翌年に副腎機能が低下するアジソン病に感染。年が明けて療養のためにウィンチェスターに移るが2ヶ月後に他界する。享年41歳という短い生涯だった。1年後、『ノーサンガー僧院』『説得』が刊行される。墓はウィンチェスター大聖堂。 男性の作家には書けない、繊細な女性心理の文字表現。作品の人気は衰えず、死の100年後には未完の作品まで出版。近年でも映画の原作で引っ張りだこ。『分別と多感』は“ある晴れた日に”(アン・リー監督)のタイトルで1995年に公開。『エマ』は5回も映画化され、『高慢と偏見』にいたっては6回も映像化されている。最近ではキーラ・ナイトレイが主演した“プライドと偏見”(2005)が有名。 2003年にBBCが英国人75万人に“最も好きな小説は何か”とアンケートした際、第1位が映画“ロード・オブ・ザ・リング”の原作『指輪物語』(ちょうど完結編が公開中だった)で、そして第2位がジェーン・オースティンの『高慢と偏見』だった!発表から200年後も経つのに、こんなにも愛されている!ちなみに第5位が『ハリー・ポッター』、7位が『くまのプーさん』。映画『ユー・ガット・メール』の中でメグ・ライアンは『高慢と偏見』を200回も読んでいた(笑)。 ※「Jane Austenは写実の泰斗(たいと=権威)なり。平凡にして活躍せる文字を草して技(わざ)神に入る」(夏目漱石)
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| 青年期から晩年まで肖像が残っている |
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| ペテルブルグ中心街から44番のトラムで向かう |
墓地の入口。トラムの停留所からすぐ |
これがロシア語の墓地名なので、 メモってから墓参に行って下さい! |
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| 都会の中だけど、緑に囲まれた素晴らしい環境 | 墓の上には存在感のあるツルゲーネフ像が立つ |
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1818年、中部ロシアのオリョールに生まれる。父は軍人、母は貴族。子どもの頃に母親の領地で貧しい農奴たちが虐待され、過酷な生活を送っているのを目撃。貴族でありながら社会変革の必要性を強く感じるようになる。1843年(25歳)、詩作活動が批評家に認められる。同年、人気オペラ歌手ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドに一目惚れした彼は、彼女が人妻で子どもがいるにも拘わらず、後を追ってパリに居を構えた(その後、晩年までロシアとの往復の日々が続く)。この出国にはツルゲーネフ曰くもうひとつの理由があった。彼は後年次のように回想している--「私は自分の憎むものと同じ空気を呼吸することが出来なかった。それには性格の強さが足りなかったのであろう。私は敵に対してより強い打撃を加えるために、自分の敵から遠ざることが必要であった。その敵とは他ならぬ農奴制度である」。
1852年(34歳)、農奴が貧困の中でも美しい魂を失わずに生きる姿を、温かい視線で描いた処女短編小説集『猟人日記』を刊行。同作は世間から高く評価されたが、作品中で農奴制を批判したことで権力に睨まれ逮捕される。直接の罪状は、彼が書いたゴーゴリへの追悼文が“不穏当”であるとした検閲法違反。ツルゲーネフはペテルブルグ要塞監獄に1ヶ月投獄され、その後も流刑同然に2年間領地から出ることを禁じられた。結果的に彼が自由と引き換え書いた『猟人日記』は、9年後の農奴制廃止(1861)に多大な影響を与えていく。
その後、1860年(42歳)に恋の苦しみを描いた『初恋』を、1862年(44歳)に新旧の世代間の対立を描いた代表作『父と子』を発表し、名文家としてその名を不動のものにする。彼は『父と子』に、古い道徳や世の権威を全て否定した無神論者の医学生バザーロフを登場させ、“ニヒリスト”(信仰や道徳を全て否定する者)という言葉を初めて使用した。 進歩的な思想を持っていたツルゲーネフは、西欧文化の長所を導入してロシア全体の生活を改善すべきと考え、1871年(53歳)以降は本格的にパリに居を定める。1883年、脊髄癌を患いパリ郊外のブージバルで逝去。享年64歳。亡骸はペテルブルグに戻った。 ※二葉亭四迷が『猟人日記』を日本に初めて紹介。
「僕は、こんなに早く死ぬとは思わなかった。これは、正直言って、実に不愉快な偶然だ」(『父と子』) 「僕は毎晩庭のはずれにある菩提樹に逢引にかよった。彼女のその幹を抱くとまるで自分が自然界をことごとく抱きしめ、そして、自然界がそっくり入り込んでくるように思えて、胸がふくらみうっとりしたのです」(『ルージン』) |
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| 良い笑顔! | ボーヴォワール、サルトル、チェ・ゲバラ!すごい顔ぶれ! | カフェにて |
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| サルトルは生涯のパートナー。お墓も一緒 | 晩年の2人 |
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| 1989 初巡礼! | 2002 名前の部分は横型(五角形) | 2009 名前の部分が縦型になっていた!初巡礼から20年が経ち、墓も変化している |
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「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」(『第二の性』)
小説家で実存主義者。フェミニストとして女性の解放を強く訴え、作品はジェンダー論の先駆けとなった。ソルボンヌ大学で哲学を専攻し、1929年(21歳)、フランスで最難関の教授資格試験に2番で合格。トップをとったのは3歳年上のサルトルだった。2人は急速に親しくなり“契約結婚”を結び、生涯にわたってベスト・パートナーとなる。彼女は自伝に「今まで彼と共に過ごさなかった日々が、まったくの時間の浪費に思えた」と記す。
※サルトルとボーヴォワールの“契約結婚”…互いに他の異性との恋愛も認めるが、どちらかが会いたくなった時は優先的に会うこと。サルトルは様々な女性と噂になったが、他界するまで50年間彼女との約束を守った。 卒業後に2人は教員になるが、1943年(35歳)、ボーヴォワールは処女小説『招かれた女』で成功を掴み、以降は文筆業に集中する。翌々年、サルトルも教壇を降りて思想誌の雑誌編集長となった。ボーヴォワールの代表作は1949年(41歳)に発表した『第二の性』。彼女は社会の中の女性の役割をあらゆる角度から分析し、性差別が構造として存在している実態を指摘。社会が求める“女性らしさ”に束縛されるべきではないと主張した。 その後、1954年(46歳)に刊行した『レ・マンダラン』でゴンクール賞(仏で最も権威のある文学賞)を受賞。1980年(72歳)、サルトルが他界。その6年後に彼女も旅立った。享年78歳。モンパルナス墓地の正門近くで2人は同じ墓に眠っている。 |
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| 波乱に富んだ人生を送ったロマン派の巨人、ビクトル・ユゴー |
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| パリのパンテオンにあるユゴーの棺。パンテオンは国葬、もしくはそれに 準ずる功績を残した者だけが眠ることを許されるフランスの聖地だ |
| 人道主義の詩人・作家。1802年、仏東部ブザンソンに生まれる。父はナポレオン軍の将軍。少年期から詩作に励み、15歳でフランス学士院から詩が表彰される。1822年(20歳)、処女詩集を出版。続けて小説や詩集、史劇を次々と発表し、それらに魅せられた若い作家・芸術家がユゴーの元に集まり、彼はロマン派の総大将になっていく。一方、権力者への皮肉が含まれた戯曲などは検閲の圧力で上演禁止となった。 ユゴーの名が一般にも広く知られるようになった作品は1831年(29歳)に発表した歴史小説『ノートルダム・ド・パリ』。1843年(41歳)、まだ19歳の長女が事故によりセーヌ川で溺死し、悲嘆に暮れたユゴーは約10年間も新作を発表しなくなる(ただし後述する『レ・ミゼラブル』を1845年から書き始めている)。1851年(49歳)、ナポレオン3世によるクーデタに抗議してベルギーに亡命。4年後に英国領ガーンジー島に渡った。 1862年(60歳)、この島でユゴーの代表作となる長編小説『レ・ミゼラブル』が完成する。誠実な心を持つジャン=パルジャンの生涯を綴った執筆17年に及んだ大作。ユゴーはこれまでも作品を通して社会の腐敗や内政を批判してきたが、『レ・ミゼラブル』でも世の不正義を痛烈に糾弾した。この作品の売れ行きが気になったユゴーは出版社へ「?」とのみ書いた世界一短い手紙を送った。返事もまた短い「!」のみ。『レ・ミゼラブル』は完売続出の大ベストセラーになった。 「ああ、最後の苦難、もっと適切に言えば、唯一の苦難とは愛する者を失うことなのだ」(『レ・ミゼラブル』) 「第一歩は何でもない。困難なのは、最後の一歩だ」(『レ・ミゼラブル』) 1870年(68歳)、ナポレオン3世の第2帝政が崩壊すると、15年間の亡命生活に終止符を打ち祖国に戻る。帰国したユゴーは共和主義のために戦った英雄として上院議員に選出された。彼は政治活動の傍らで執筆を続け、1885年にパリで他界。享年83歳。熱い情熱で理想主義社会を目指し、パリ市民に愛された文豪は国葬となった。遺体は凱旋門の下に安置され、ユゴー本人の遺志で貧困者用の霊柩車で埋葬先のパンテオンに運ばれた。 ※ユゴーは日本で小説家として有名だけど、本国ではフランス最高の「詩人」として認知されている。最大傑作は原始時代から現代まで人類史を歌った壮大な叙事詩『諸世紀の伝説』。 ※ミュージカル『レ・ミゼラブル』は素晴らしい作品。レビューはこちら。 |
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| ユゴーは絵も上手かった。これはインクでルクセンブルク・フィアンデンの町並みを描いたもの |

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| 2002 | 2009 花が増えていた | 大文豪に相応しい立派なヒゲ | 「生きた、書いた、愛した」 |
| 本名マリー・アンリ・ベール。フランス、グルノーブル生まれ。徹底した緻密な心理分析と背景描写により、バルザックと並ぶ近代写実主義小説の先駆者となった。 父は弁護士、母は7歳で他界。1800年、17歳の時にナポレオンのイタリア遠征軍に陸軍少尉として参加しミラノの土を踏む。彼は明るい陽光のイタリアの風土に心酔した。23歳から陸軍省の外交官として活躍。1812年(29歳)、ナポレオンのモスクワ遠征に従軍するも冬将軍に襲われ敗北。その2年後に帝政は崩壊し、失職したスタンダールは愛するミラノに亡命し、芸術論や旅行記などの著述活動を開始する。1821年(38歳)、イタリア北部を支配するオーストリアから“独立運動派の危険分子”とみなされスタンダールはミラノから追放、フランスへ帰国する。彼はミラノ時代に数々の手痛い失恋を経験し、その体験を元に1822年(39歳)に『恋愛論』を発表する。 1830年(47歳)、イタリア通の彼はフランス領事としてイタリアに赴任し、その後ずっとローマ近郊に駐在することに。同年、貧しい青年ジュリアン・ソレルが野心の為に自滅していく『赤と黒』を執筆。1839年(56歳)には『パルムの僧院』を完成させる。1842年、休暇でフランスに戻っていた時に、パリの街頭で脳卒中になり翌日逝去した。享年59歳。 時代の反逆児を描いたスタンダールの作品群を、4歳年上のバルザックは高く評価していたが、当時の人々はほとんど注目しなかった。スタンダールは自分の作品を理解できるのは未来の“少数の幸福な読者”と考え、後世の人間に向けてペンを握っていた。実際、スタンダールの評価が高まったのは半世紀も後(19世紀末)のことだった。墓碑銘に彫られた言葉は「ミラノ人アッリゴ・ベイレ 生きた、書いた、愛した」。アッリゴ・ベイレは本名アンリ・ベールのイタリア語読み。“ミラノ人”というのも、イタリアをこよなく愛したスタンダールらしい。 “すべて恋愛は4つに分類される。情熱恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛がそうだ”(『恋愛論』) “久しい以前から、人生が僕には堪え難いものになっていますので、このたび終止符を打つことにしました”(『赤と黒』) “牢獄にいて一番の不幸は、扉にこちらから鍵がかけられないことだ”(『赤と黒』) 「愛は罪かしら」「愛さぬこそ罪だ」(『パルムの僧院』) |
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| ポーが眠るボルチモアの教会 |
8時半でまだ門が閉まっていた。 必死こいて隙間から撮影。すると… |
「本当は9時からだけど可哀相 だから開けてやるよ」良い警官! |
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| 2000 | 2009 | バラの束が供えられていた |
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| 墓にあったポーの肖像レリーフ |
これは墓地の奥にある移転前の旧墓 |
長詩『大鴉』にちなんでか、本来は不吉と されるカラスが墓に。さすがはポー |

| 1875年、北ドイツ・リューベックの商家に生まれる。人間の心理を緻密に分析し、芸術家や精神的な葛藤を胸に抱えた主人公を多く描いた。19歳頃から小説を書き始め、1901年(26歳)の『ブデンブローク家の人びと』で文壇に名声を得る。以降、1903年(28歳)に『トニオ・クレーゲル』を、1912年(37歳)に交流のあった作曲家マーラーの死に触発された『ベニスに死す』を発表。1924年(49歳)にはサナトリウムを舞台に人間模様を描いた20世紀文学の金字塔『魔の山』を刊行する。1929年(54歳)、ノーベル文学賞を受賞。ナチスが台頭すると論戦を挑み、1930年(55歳)にベルリンでナチズムの危険性を訴えた講演『理性に訴える』を行った。ヒトラーが政権を掌握するとスイスに亡命してファシズムに抵抗し続けた。後に米国に渡ったが、大戦終結後にスイス・チューリヒ近郊へ戻り、1955年に他界する。享年80歳、葬儀の悼辞はヘルマン・ヘッセが述べた。 “これまでにも長いこと、たちの悪い気違いじみた影響を深刻に及ぼしていた悪魔が、いよいよ権力を掌握してもはや誰はばかることなく公然とその支配権を宣言したといってもいい。その為に神秘的な恐怖を覚え逃げ出したいような気持に襲われるのであった。…この悪魔の名は“鈍感”であった”(『魔の山』) |
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| キャラクター造形の天才 | 2002 太陽がポカポカで気持ちよさげ。 | 2009 保存の為に囲いが出来ていた |
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1799年、フランスのトゥールに生まれる。文学者として身を立てることを決意し、20代前半にパリで作品を書き始めるが全く注目されず貧困に苦しむ。創作活動に集中するには生活費のゆとりが必要と考えた彼は、26歳から金持ちになる為に印刷業など様々な事業に乗り出すが全て失敗し、逆に3年間で6万フランという巨額の借金を作ってしまう。
しかし彼はへこたれない。1834年(35歳)、バルザックはフランス社会を超リアルな写実主義で描き尽くす構想を実行に移す。自らの小説全作品を「人間喜劇」と呼んで大全集とし、主要人物を他作品にも脇役として登場させる“人物再登場”の手法で書き始めた。濃いコーヒーをがぶ飲みして夜半に十数時間も書き続け、「人間喜劇」は96編という膨大な小説となり、登場人物は2000人にのぼった。この中には、「谷間のゆり」「絶対の探究」「ゴリオ爺さん」「従妹ベット」「従兄弟ポンス」など多くの名作が含まれる。そして、全体の構想の約3分の2を完成させたところで寿命が尽きた。 晩年のバルザックは18年間も文通を続けてきたポーランドの貴族の未亡人と結婚するが、長年の創作活動と暴飲暴食の不摂生でボロボロになっていた為、家庭の安らぎにホッとしたのか結婚の5ヶ月後に他界した。享年51歳。バルザックの膨大な借金は夫人が精算した。
※バルザックは『ゴリオ爺さん』の中でパリをこう書いている→「本物の苦しみと、しばしばニセモノの喜びとに満ち溢れたこの盆地」。 ※名前オノレ・ド・バルザックの「ド」は貴族を気取った自称。 ※「バルザックは確実に天才とよぶにふさわしい人物」(サマセット・モーム) ※親友ヴィクトール・ユゴーが葬儀で述べた弔辞 「彼の人生は短かったが充実していた。生きた日数より作品の数のほうが多かった。ああ、この疲れを知らない力強い書き手、この哲学者、この思想家、この詩人、この天才は、偉大な男たちの天命である波乱と闘いに満ちた生涯を生きたのだ」 |
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| パリにはロダンが制作したパジャマのバルザック像があるが、 これは借金取りから逃げる姿と言われている。 |

| ドイツの劇作家・演出家。1898年、バイエルン生まれ。20歳で第1次世界大戦に従軍したブレヒトは、身をもって戦争の非人間性を痛感し、反戦平和の思想を強く持つ。1924年(26歳)にベルリン・ドイツ座の座付き劇作家となった彼は、1828年(30歳)、作曲家クルト・ワイルと組んで盗賊団長メッキー・メッサーが活躍する音楽劇『三文オペラ』を発表した。この作品でブレヒトはブルジョワ社会を痛烈に風刺し、徹底的に資本家をこき下ろす。上演は大成功し国外でも大きな話題となった。 “ブルジョア社会は弱者を「苦しめ裸にし襲い絞め食う」ことによってのみ、「ただ悪業によってのみ」生きており、そこでの御大層な道徳は食うもののない人間にとっては何の役にも立たない”(『三文オペラ』) “ブルジョアジーの支配はもっぱら犯罪を土台として生まれ、また絶えず犯罪を生み出している”(『三文オペラ』) ブレヒトはまた「叙事的演劇」と呼ばれる演出法を開拓。これは観客をあえて登場人物に感情移入させず、冷静に人物を観察させることで物語の本質に気付かせるというもの。反ナチスの活動を積極的に行なっていた彼は、1933年(35歳)にヒトラーが首相に就くとデンマークへ亡命する。その直後、ナチスはブレヒトの作品を発禁処分とした。 第2次世界大戦の間は米国で反ナチ運動を展開していたが、戦後に“赤狩り”のターゲットにされ、1947年(49歳)にチューリヒへ脱出。翌々年に東ドイツへ戻って劇団を設立した。1956年心臓発作で他界。享年58歳。 墓は遺言によって哲学者ヘーゲルとフィヒテに対面して作られた。 |
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| ジョン・スタインベックの家 | スタインベックの墓への案内板 |
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| 「ハミルトン」と彫られた墓の前にスタインベック家の墓も並んでいた。墓域には別の「ジョン・スタインベック」がいるので生没年に注意 |

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| 港町ル・アーブルからバスで1時間。エトレタに到着。ここからキュベルビル村に 行きたいが路線バスがなく、旅行案内所でタクシーを呼んでもらうしかなかった。 ところが、町のタクシーは2台だけ!しかも、両方とも予約が入っていてアウト。 結局、隣町のタクシーを呼んでもらうことに…。「1時間後に来るそうよ」。ひえ〜! |
なんと、エトレタには「アルセーヌ・ルパンの家」があり公開されていた |
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| タクシーを待つ間に海岸へ。画家モネが愛した 断崖絶壁や奇岩が待ち構えていた! |
青い海と絶壁の白い壁が 美しいコントラストを作っていた! |
いつかバカンスで訪れて、一日中 ここでゆっくりしたいなぁ (*^v^*) |
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| やってきたタクシーはBMW、運転手はグラサンをかけたイケイケのオバサンだった! |
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| 走ること約15分、「Cuverville」の文字が!さらに 左下の看板は「ジードの墓まで500m」と出てる! |
キュベルビル村の田園風景。天国のような土地! 小麦畑の間を風が吹き抜けていた |
なんて、のどかなんでせう…(涙) |
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| 村の教会に到着!ここに眠っているはず! | 裏側の墓地の奥にジードはいた!(手前から2番目) | 嗚呼、お会いしたかったです! |
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| 教会の前は牧場だった! | 牛さんがすぐ側に。ドキドキ | ジードは素晴らしい土地に眠っていた |
| 1869年、パリ生まれ。若い頃から詩人マラルメのサロンの常連になり、1891年(22歳)、理想主義を描いた処女作を執筆。両親が厳格なプロテスタントであった為、その反動からか1897年(28歳)の『地の糧』で快楽主義を唱えるようになる。 同性愛にも目覚め1902年(33歳)に『背徳者』を執筆。1909年(40歳)に発表した『狭き門』はキリスト教にこだわるあまり自滅していく人間を描いた。1919年(50歳)の『田園交響楽』の中では、牧師によって世界の美しさを説かれて育った盲目の少女が、目が見えるようになった時に現実との矛盾に耐えきれず死を選ぶ姿を描く。 政治的にはヒトラーやスターリンの全体主義を批判し、反ファシズムを貫いた。享年81歳。ジードは死の4年前にノーベル文学賞(1947)を受賞したが、死後にローマ教皇庁は反キリスト的な彼の著作を禁書に認定した。 “人の一生は長い旅行だ。書物や人間や国々を通ってゆく長い旅だ”(ジード) |
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| (オマケ)エトレタの移動遊園地で見かけた笑顔の子ども。めっちゃ嬉しそう♪ |
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| コネチカット州ハートフォードにあるマーク・トウェインの家 |
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| トウェインは今も大人気の国民的作家 | 正面の大きな墓標の左右には小さな墓碑が並び、トウェエインのものもあった |
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