武将の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

武人コーナーPART4(関ヶ原、大坂の陣〜江戸中期)


(古代〜室町) (戦国期・本能寺の変まで) (安土桃山・豊臣の栄光) (関ヶ原、大坂の陣〜江戸中期) (幕末、新選組〜現代)


25名





★真田 幸村/Yukimura Sanada 1567-1615.5.7 (和歌山県、伊都郡、善名称院/真田庵 48歳)2000&05
★真田 昌幸/Masayuki Sanada 1547-1611.6.4 (長野県、長野市、長谷寺 64歳)2008



JR上田駅前の真田幸村像 “日本一の兵(つわもの)”戦国の英雄・幸村!(気温38℃!) 鹿の角の兜を装着!



性格はとても優しいのに超強い 『戦国セレクション』から PS2『戦国無双』の幸村

高野山の麓、九度山の「真田庵」に真田家三代が
弔われている。中央の霊廟は幸村の父・昌幸のもの
幸村はこの地から大阪の陣に出撃した。墓域には「猿飛佐助」
「霧隠才蔵」など時代劇ファン大興奮の旗がたなびいていた(2005)





庵にはゆかりの品を展示した宝物庫が併設され、幸村が
実際に大阪夏の陣で使用した槍先や深紅の鎧兜があった
真田庵には自筆の書も展示!

京都市右京区竜安寺の墓。幸村の墓は10ヶ所近くある


●真田家の菩提寺・・長国寺(長野市松代町)2008

 
真田一族の菩提寺、長国寺。屋根には海津城から移した1mの鯱と六文銭!寺というより城 本堂の裏に真田家の墓が並ぶ

幸村・幸昌(大助)親子の供養塔。
幸村討死の翌日に秀頼公が死ぬと、
幸昌は切腹して殉死。10代半ばだった
幸村の兄信之。本多忠勝の娘と結婚。
関ヶ原では父や弟の敵となる徳川に
ついた。そのおかげで真田は残った
幸村の父・昌幸。「長篠の戦」で
散った昌幸の兄・信綱、そして2人の
父・幸隆(幸村の祖父)の供養塔

松代駅は木造で歴史を感じる。落ち着く しかもレンタサイクルは無料! 夏の夕暮れin松代駅

●真田発祥の地・上田大巡礼!(長谷寺〜真田館〜真田本城〜上田城)2008

上田駅から上電バス
「菅平高原」行きを利用。
所用30分
「ようこそ真田の郷へ」
ずっと来たかったデス!

降りたバス停はその名も「真田」。いよいよ「核」に
到達した感じ。付近の“真田濃度”が高すぎる!
※上田駅に戻るバス、昼間走ってないよ〜(涙)
町中から遠く離れ、こんな景色が360度!







真田の旗「六文銭」は至る所に 山家神社は境内まで旗が続いた 幸村街道にも六文銭

上田時代の真田の菩提寺・長谷寺 なんと冬季は積雪で墓参不可能! いよいよ近づいてきた!





墓所の門にもやはり六文銭!

こんな緑深い山奥に、真田の土台を築いた幸隆父子
が眠ってる※松代に移ってからは長国寺が菩提寺
左から幸隆夫人、幸隆、昌幸




真田幸村の祖父・真田幸隆の墓 苔むした墓石。時間という雪が墓石に降り積もったようだ 徳川の天敵、昌幸の墓(幸村の父)



さらに真田の聖地へ 「真田屋敷跡」。上田城築城以前の居館がここにあった 「真田氏発祥の郷」と猿飛佐助が案内

山を登り、上田城に移る前の元祖・真田城跡へ ここが真田氏の本城跡!この山城から歴史の表舞台へ!



徳川でも落とせなかった上田城。関ヶ原の後、徹底的
に破却され、三基の隅櫓(すみやぐら)が残るだけだ
真田十勇士の顔出しパネル。個々の顔のパーツ
が着脱できるので、集団撮影が可能!(上田城)
真田井戸。外に続く抜け穴
があり籠城中も出入りOK

●君は「幸村まつり」を知っているか!?〜幸村終焉の地を巡礼(安居神社)2009

うおお!祭りの旗が見えてきた! 2009年の幸村まつりは5月5日だった 夢か誠か視界にたなびく六文銭の真田旗!



故郷長野の上田市や大阪の真田隊が結集。目の前が赤、赤、赤ッ!アドレナリンが噴出!真田の赤備えは人数が揃うとカッコ良さ倍増っすね!






戦死した場所に供えられるたくさんの酒や食べ物

「真田幸村戦死跡之碑」とある

幸村公の武勇は異国にも轟いて
るようで、異人さんもチラホラ

仰天!「真田幸村公、家康狙撃の銃」
(すごく新しく見えるのはきっと僕の気のせい…)
説明文には「幸村公が九度山にて御使用
の品々」とあった。モチ、六文銭入り!
この神社に建立が予定されて
いる幸村像のミニチュア

境内の隅っこでチビッコ真田兵がネコと遊んでいた(笑)

●まず最初に、幸村もスゴイが親父さん(昌幸)もスゴイ!

幸村の父・真田昌幸がまだ武田信玄の家臣だったころ、幸村は甲斐国甲府で次男として生まれた。本名、真田信繁。信繁の名は「川中島の戦い」で散った信玄の弟・武田信繁(信玄に匹敵する名将で兄をかばって戦死した)を敬慕して父がつけたもの。幸村が8歳の時、「長篠の合戦」で武田軍は敗北し、この戦で父の2人の兄も討死した。1582年には「天目山の戦」で信玄の子・勝頼も自刃し、これで主君の武田家は滅亡する。

この戦の帰り、わずか300人で敗走する真田軍は北条軍4万と遭遇する。発見されれば瞬殺だ。すると15歳の幸村が「父上、私に策があります」と昌幸に進言した。それは無地の旗に北条方の武将の紋(永楽通宝)を描くことだった。しかし、味方のフリをして逃れても怪しまれたら終わり。だが、疑う隙も与えぬ方法があった。夜襲を掛けるのだ。真田軍は50人ずつ分かれ、6方向から襲撃して人数が多いように見せた。北条側は旗を見て自軍の武将が裏切ったと思い大騒ぎ。その混乱に乗じて敵陣を突破した。6つの旗に銭が描かれたことから、これにちなんで幸村の旗印は「六文銭」の紋になった。また、三途の川を渡る船賃は6文とされ、当時は棺の中に六文を入れたことから、“真田隊はいつでも死ぬ覚悟が出来ている”という気概を象徴した。

「武田が滅び、次はいったい誰を主君にすればいいのか…」悩んだ昌幸は信長に名馬を贈って接近しつつ、『真田家』として独立大名への道を模索する。ところが勝頼の死からわずか3ヵ月後の6月に信長も本能寺の炎の中に消えた。仕方なく7月から関東の覇者北条氏の配下になり、さらに9月には家康に従属するなど戦国の世を渡る為に昌幸は試行錯誤する。

1583年(16歳)、昌幸は上杉軍に勝利して信濃国北部(長野・上田市)に居城となる上田城の築城を開始。翌年、家康と北条が和睦する。この時、真田家にとって大事件が起きた。家康は講和の条件に“真田領の沼田(群馬北部)を北条に譲る”と勝手に決めたのだ!父は怒った。「沼田は真田が戦で勝ち取った土地であり、徳川から頂戴した土地ではない!」と引渡しを拒絶した。天下を狙う家康は、このまま真田の言い分を聞いてしまうと「徳川はあんな小国も自由に出来ぬのか」と笑い者にされてしまう。家康はメンツを守る為に真田征伐を決定した。昌幸は徳川との対抗上、越後の上杉に接近する。しかし、上杉はこれまで何度も戦ってきた相手。そこで17歳の幸村を「人質」として上杉に送った。

●第1次上田合戦

1585年8月、家康は徳川軍7千を信濃に派遣し、昌幸は兵700でこれを迎え撃った。10倍の徳川軍と戦って勝ち目はあるのか?昌幸は築城中の上田城に兵500を入れ、残りの200をおとり部隊として城の手前の神川に配置する。そして城下町のあちこちに柵を交互に置いた。姿を現した徳川軍はおとり部隊へ攻撃を開始。おとり部隊は敗走する振りをしながら城の側まで敵を引き寄せた。調子に乗る徳川軍「真田は不甲斐ないのう」。徳川軍が城下にすっかり入ったことを確認すると、昌幸は道に面した家屋に火を放った(住民は既に避難済み)。この日は風が強く、すぐに徳川軍は炎に包まれた。しかも、大軍ゆえに柵で身動きが取れない。そこへ真田鉄砲隊の一斉射撃が始まった。大混乱に陥った徳川軍に対し、さらに隠れていた農民兵が襲い掛かった。徳川軍が火災から逃れるように川へ逃げ込むと、上流で真田側が堰を切った為に大増水。多くの人馬が流された。徳川勢の死傷者は3千を超え、ついに撤退命令が出され、真田軍は10倍の敵を見事に撃退、『上田合戦』に勝利した。“徳川敗北”の報は天下を巡り、“真田恐るべし”と諸大名から一目置かれるようになった。

昌幸は家康との次なる戦いに備え、秀吉の力を頼ることにする。秀吉は真田家の後ろ盾となることを約束し、人質(幸村)は上杉から秀吉の下へ移った。この後、家康は秀吉に屈服し、あとは関東北条氏さえ下せば天下の統一となった。1590年(23歳)、20万の兵を導入して小田原征伐は完了。秀吉は天下人となり、真田も徳川も同じ主君に従う家臣として和解する。昌幸の長男・信之(幸村の兄)は徳川四天王の一人・本多忠勝の娘と結婚し、幸村は秀吉の重臣で敦賀の大名・大谷吉継(石田三成の親友)の娘と結婚した。1598年(31歳)、秀吉病没。時代は再び動き出す。

1600年(33歳)、家康は天下取りに向けて豊臣五大老の征伐を開始、前田利長(利家の子)を服従させた後、会津120万石の上杉景勝に狙いを定めた。6月、家康は東進開始。一方、石田三成が7月に挙兵。21日、上杉討伐に従軍していた真田父子(昌幸、信之、幸村)は、下野国犬伏(栃木・佐野市)で家康を断罪する密書を受け取った。そこには「秀吉の遺命に家康は背き、秀頼を見捨てて勢力を拡大している。秀吉の御恩を大切にするなら西軍に入るべし」と記してあった。

「これはどうしたものかのう…」その夜、真田父子は東西のいずれに身を置くか話し合った。昌幸の妻と石田三成の妻は姉妹。信之の妻は父が徳川四天王、幸村の妻は父が三成の最大の親友(ちなみに側室は豊臣秀次の娘)。昌幸は真田領譲渡の一件で家康を嫌っていたが、信之は和平後に家康から才を認められ側近を務めるなど家康と親しく、幸村は豊臣方での人質時代に世話になった知人が大勢いる。その結果、昌幸と幸村が西軍に、信之が東軍につくことになった。敵味方に分かれる事になった両者は、互いの武運を祈ると共に、戦国の世の非情さを痛感した。昌幸・幸村は上田城に帰った。家康は信之が残ったことに感激し、関ヶ原の後、昌幸の土地は信之に与えることを約束した。

関ヶ原に向かう家康は、関東不在中に上杉・真田軍に江戸を奪われぬよう、軍を二手に分けて進軍した。自ら率いる本隊8万は東海道を、嫡子・秀忠が大将の分隊4万は真田の牽制も兼ねて中山道を行かせた。西軍としての昌幸の戦略は、秀忠軍を足留めして関ヶ原合戦に遅刻させること。東軍の両隊12万に対し西軍は9万と数の上では負けている。しかし本隊8万のみなら西軍の方が1万多い。小大名の真田が関ヶ原で秀忠の4万を倒すことは不可能だが、合戦に遅参させれば倒したも同然。このあたり昌幸が天才戦略家と呼ばれる由縁だ。

●第2次上田合戦

秀忠にとって、重要なのは関ヶ原であり、真田攻めはあくまでも“大事の前の小事”。無視して真っ直ぐ関ヶ原に行っても良かった(ていうか、行くべきだった)。しかし、信濃を通過後に背後から攻撃される可能性があり完全には無視できない。まして秀忠はこの時21歳と若いうえ、これが初陣だった。かつて徳川軍が敗退した上田城を自分が落とせば、関ヶ原に到着した時の良い土産になるし、初陣を勝利で飾れば父からも誉められる…「我が軍は4万、上田城は天守閣すらない小城(実際、真田軍は2千人だけ)、負ける訳がない」。
一方、昌幸としても秀忠を関ヶ原に行かせない為に、何とか相手を怒らせ、戦闘に持ち込む必要があった。

秀忠は上田城に近づくと、「この大軍を知れば戦わずに降伏するかも知れぬ」と、使者を立て降伏勧告をさせた。使者に選ばれたのは信之と本多忠勝の子・忠政。「信之、父上を説得して来るのだ」。会談の場に現れた昌幸は頭を剃り、粛々と降伏を受け入れ開城を約束した。秀忠は大喜び。「それ見たことか。我が軍は一人の犠牲も出さずに真田を落としたぞ!」。…ところが策士・昌幸、これは巧みな時間稼ぎだった。その日も、翌日も開城されない。どうなっているのだ。翌々日、9月5日。関ヶ原合戦は10日後(15日)であり、布陣の準備や他大名との作戦立てを考えると2日前には着いていたい。もうタイムリミットだ。
「これ以上待てん!今一度使者を送って開城を催促して来い!」。すると昌幸は、会談を拒否するどころか逆に『宣戦布告』をしてきた!「カーッ!真田め、徳川を馬鹿にしおって!」。秀忠の側近達は“殿、真田など無視して先へ!”と説得したが「何もせずナメられたままでは、武士の顔が立たぬわ!余は物笑いの種ではないか!」。秀忠は全軍に攻撃命令を下した。

真田側は上田城に昌幸が、北部の戸石城に幸村が入っていた。秀忠は本隊で上田を攻め、分隊を戸石に派遣した。分隊の大将は土地勘のある信之が選ばれた。幸村は「それがし、兄上とは戦いとうない」と、信之が着く頃には上田城に撤退していた。信之はもぬけの殻の戸石城に入ったが、奪還される可能性があるのでそのまま城を守備した。昌幸は戦わずして秀忠軍を分断することに成功し、また信之がいないので思う存分戦えた。
昌幸は徳川軍を挑発する為に、まず昌幸と幸村が自ら50騎を率いて城外に出てきた。総大将が現れて徳川軍はびっくり。昌幸らは偵察だけして戦わずに城内へ戻って行った。総大将が最前線に出てきたのは“お前らに絶対やられはせん”と嘲笑するのと同じ。頭に来た徳川軍は一斉に城門へ向かった。その結果、後方の本陣が手薄になる。この一瞬の隙を突いて、敵本陣の後方に潜んでいた伏兵たちが秀忠を襲撃した。「本陣が攻撃されているぞ!」慌てて徳川軍は城に背を向け戻り始めた。そこを城内の真田鉄砲隊が一斉射撃!徳川軍がパニックになると、城門が開いて幸村の騎馬隊が襲い掛かってきた。徳川軍は挟み撃ちになって大混乱。これはいつか来た道。徳川は援軍が到着したが、城の手前の神川は真田側によって上流の堰が切られて大増水しており、渡河して参戦することが出来ない。

顔色がみるみる真っ青になる秀忠。水位が下がって援軍が合流すると、真田軍は上田城に閉じこもって篭城戦に入った。城内にはたっぷりと兵糧・弾薬が備蓄されている。「この城を落としていたら関ヶ原に間に合わぬ…無念」。
秀忠軍は急いで関ヶ原へ向かったが、途中の天候が最悪。山中で豪雨にあうわ、利根川は洪水寸前だわで、関ヶ原合戦の開戦時間に間に合わないばかりか、到着したのは合戦から4日後の9月19日のことだった。家康は激怒し、秀忠が合流しても3日間対面を禁じた。

●高野山へ

真田父子は秀忠軍を翻弄し、遅参作戦は大成功に終わったが、肝心の関ヶ原の方で西軍が敗れてしまった。第二次上田合戦に勝利したのに敗将という立場になった2人。家康は真田父子に二度もメンツを潰され死罪にするつもりだった。そこへ信之と本多忠勝が助命の懇願にきた。「真田だけは絶対に許せん」と譲らぬ家康に対し、信之は「自分の命と父弟の命を引き換えに」と訴え、忠勝に至っては「ならば、殿と一戦つかまつる」と言う次第。家康はあくまでも特例として、真田父子を高野山の麓の九度山へ謹慎させることにした。昌幸は上田城から連行される際、「悔しい。家康をこのようにしてやりたかった」と涙ながらに語った。10月9日、高野山に到着。
※配流先への家臣の同行も一部認められ、昌幸には16人の家臣が、幸村には妻が随行した。当時の高野山は女人禁制だったので、幸村たちは高野山の入口となる九度山に入った。

配流先の善名称院(ぜんみょうしょういん)、通称『真田庵』で父子は仕送りに頼って細々と生活を送る。昌幸は三男に宛ててこんな手紙を書いている--「借金が重なって大変苦しい。至急20両を届けて欲しい。無理なら10枚、せめて5枚でも」。幸村も「焼酎を2壷送って欲しい。そして途中でこぼれないようシッカリと2重に蓋をして欲しい」と書くなど、配流生活は実に侘しい日々だった。※信之の妻・小松は鮭を届けている。
1611年(44歳)、配流から11年目に昌幸が再起の夢も虚しく病没。享年64歳。翌年に幸村は出家、伝心月叟と名乗った。幸村は来るべき日に備えて兵法書を読み、武術の訓練を積む。

「真田庵」の文字の下に旗印の“六文銭”が。 真田橋。九度山は真田づくし!

やがて時代は徳川と豊臣の全面対決へ。1614年10月1日(47歳)、家康は大坂城討伐令を布告。豊臣家の兵は3万しかおらず、秀頼は関ヶ原以降の徳川の政策に不満を持っている諸国の大名や浪人に対し、大坂城に結集するよう呼びかけた。大名は動かなかったが浪人は大勢集まった。家康が天下を統一して戦が無くなった今、諸大名からの召抱えを期待する浪人で豊臣勢は10万を超える大軍となった。
高野山にも使者が尋ねて来た。「徳川を滅ぼすため幸村殿の力を貸して頂きたい」豊臣家から当座の支度金として黄金200枚、銀30貫が贈られた。

使者が帰った後、幸村は感極まる「このまま高野の山中に埋もれるかと思ったが、ついに武士として最高の死に場所を得たぞ!」。幸村は14年間の謹慎生活で周辺の農民とも親しくなっており、彼らは幸村の心境を察し、脱走に協力したという。10月9日、幸村は高野山を脱出し妻子(長男大助など5人の子)と共に大坂城に入城した。
14日、家康の元に「真田が入城せり」と報告が入る。「なんだとッ!」家康は驚愕して立ち上がり、思わず掴んだ戸が手の震えで音を立てたという。「その篭城した真田は親か子か」「子の幸村であります」。まだ幸村の本領を知らぬ家康は胸を撫で下ろした。

大坂城での軍議は「篭城」「出撃」で真っ二つに割れた。豊臣家重臣は大坂城の堅牢さに自信を持っており、長期的な篭城戦に持ち込むことで、真冬が来て敵は疲弊し、諸大名にも寝返りが出てくると主張。幸村たち浪人衆は篭城策が有効なのは援軍を待つ時だけであり、今回は先制攻撃をかけ、伏見城、宇治川、京都、大和、茨木、大津を真っ先に抑えて畿内を統一し、遠征で疲労した東軍を迎え撃つ野戦を主張した。しかし、結局は「きっと味方になる大名が現れる」という豊臣家の強い願望が作戦に反映され、篭城策になった。
「さて、どう戦うか」。篭城が決定した後、幸村は攻城戦をシミュレーションして、東に湿地帯、北に天満川、西に難波港という地形を考えると、大軍が陣を張るのは南と考え、最も防衛力をそこへ集中する必要があるとし、南城壁の外側に砦・真田丸を築いた。真田丸は背後を大坂城の堀で防御し、三方を空掘り(水の無い堀)と三重の柵で囲み、矢倉、銃座、城内への抜け穴を持つ強固な砦になった。

●大坂冬の陣

11月15日、『大坂冬の陣』開戦。幸村は大坂城の外に飛び出た「真田丸」が総攻撃の的になる事を覚悟して立て篭もり、兵たちの団結力を高める為に、真田隊の鎧を赤で統一した(真田の赤備え)。家康は力攻めでは落城できぬと判断し、城内にスパイを忍ばせて内部の切り崩しを謀るなど、攻撃のタイミングをうかがった。同時に戦場では常に争いの種になる「一番槍」を固く禁じた。※最初に戦った者は合戦の勝敗に関係なく、英雄として後世まで語り継がれる。武士の世界では最大の名誉。
  鎧を赤で統一  頭に六文銭 

開戦から数日が経っても一向に東軍が攻めてこないので、幸村は敵兵の功名を焦る気持を刺激する心理戦で勝機を生もうとした。真田丸と敵陣との間には小山がある(真田丸の前方200m)。幸村はこの山に少数の鉄砲隊を配置し、前列の前田利常隊を連日射撃した。前田隊には死傷者が出たが家康はまだ攻撃命令を出さない。前田隊の兵たちは腹を立てて、小山の鉄砲隊を追い払おうと出陣したが、山につくと既に敵兵は撤退して誰もいない。手持ち無沙汰で小山をウロウロする前田隊は両陣営から笑われた。

翌日(12月4日)も発砲された前田隊は、小山に夜襲をかけたがやはり誰もいない。カッコ悪くて陣に戻れず、前田隊は真田丸の堀まで進撃した。これを見た徳川勢は、前田隊が「一番槍」を抜け駆けしたと思い、「我が隊も遅れをとるな!」と井伊直孝、藤堂高虎、松平忠直の各隊が真田丸に殺到した。まさに幸村の思うツボ。「撃ていッ!」堀に入った敵兵は真田丸からの一斉射撃を受けた。一瞬のうちに数百名の犠牲者を出した東軍は退却を始めたが、その時真田丸後方の城壁で、守備兵が誤って火縄を火薬桶に落とし大爆発が起きた。城内には徳川の内応者が裏切る手はずになっており、これを寝返りの合図と勘違いした東軍は引き返して来た。
手柄を焦り狭い城門の前にひしめき合う敵兵を見て、幸村は呆れ果てた。連中は開城を待っており防御していない。「…では遠慮なく」再び真田鉄砲隊の一斉射撃!みるみる死傷者が増え、やがて事態を把握した東軍は撤退を始めようとしたが、後方からはどんどん援軍がやって来てバックできない。前にも後ろにも身動き出来なくなった東軍の頭上に、さらに弾丸の雨が降り注ぐ。幸村は完全に指揮系統が崩壊した徳川勢を見て「ようし!一気に叩き潰すぞ!」と、城門を開いて長男・大助ら陸戦隊を突撃させた。
東軍は24時間で1万人以上の死傷者を出し、この日から迂闊に真田丸に接近できなくなった。師走の厳寒の中、吹きさらしの塹壕や仮小屋で野営を続ける東軍の士気は著しく低下していく。米を補給するにも、豊臣側が既に買い占めていたので現地調達は出来なかった。家康は焦燥する。

家康は家臣の真田信尹(幸村の叔父)を使者に真田丸を訪問させ、「信濃10万石で寝返らないか」と幸村を勧誘した。信濃一国をやるというのだ。幸村は「お断り申す」。あっさり断った。

「うーむ、これでは埒(らち)があかん」家康は豊臣方に和議を提案した。当初、総大将・秀頼は和睦を拒否した。しかし、家康が一晩中、約300門の大筒(大砲)で断続的に攻撃する為、轟音で母・淀君の神経が参ってしまった。しかも一発が居室を直撃、侍女の8名が即死した。悲惨な現場を見て震え上がった淀君は秀頼を説き伏せ、城の『外堀』を埋めることを呑んで12月20日に和平が成立した。豊臣側は「だらだらと埋め立てて時間を稼ごう。家康はもう高齢だ。死ねば諸大名も寝返るだろう」と考えた(事実、家康は1年半後に他界している)。和平が結ばれ、真田丸は日本中の大名20万を相手に大阪城を守り通した。

※冬の陣で幸村は真田の軍旗「六文銭」を使用せず、真紅の旗を使っている。東軍の兄・信之の部隊が「六文銭」を掲げていたので、立場を考え遠慮した。ただし、冬の陣に信之は病気で出陣しておらず、代わりに2人の若い息子が戦列に加わっていた。甥っ子たちは攻撃が巧みで豊臣の武将も感心し、猛将・木村重成は鉄砲隊に「あの六文銭の2人を撃つなよ。鉄砲なんかで殺してはならん」と命じた。

しばしの休戦。幸村は故郷の姉や親戚に遺書とも思える手紙を書く。「豊臣方について本家に迷惑をかけ申し訳ありませぬ。豊臣の味方をして奇怪とお思いでしょうが、まずは戦いも済み、自分も死なずにいます。ただし明日はどうなるか分かりませんが…。とにかく今は無事です」。







姉への手紙 大坂の陣で幸村が使った巨大望遠鏡(奥)と弁当箱(手前)

ただちに外堀の埋め立てに取り掛かった家康は、豊臣側が工事を担当したエリアまで「お手伝い」と称してどんどん埋めていった。一気に内堀まで埋めようとする東軍に豊臣方が抗議しても、シラを切ったり、とぼけたりで、約1ヶ月後には外堀、内堀、全ての堀が埋まり、真田丸も壊されてしまった。大坂城は本丸だけの裸城になった。さらに家康は、秀頼に大坂から別の土地への国替えと、すべての浪人の追放を要求してきた。秀頼はキレた「和談要求は我がドクロの前で言え!」。

●大坂夏の陣

1615年4月28日、夏の陣開戦。兵力は豊臣軍約7万、徳川軍約15万5千。豊臣方の武将は城を捨て野戦にうって出た。2倍の敵に突撃していったのだ。
5月6日、「道明寺の合戦」。豊臣方は奈良と大坂を結ぶ道明寺付近に布陣して、畿内入りする東軍を各個撃破する作戦をとった。しかし、スパイがいた為に進軍ルートを変更され、しかも濃霧の中で豊臣勢は終結が遅れ、先に集合地点に着いて孤立した後藤又兵衛、薄田兼相(すすきだかねすけ)ら有名武将が、伊達政宗の騎馬鉄砲隊1万5千の前に次々と壮絶な戦死を遂げていく。幸村が到着した頃には戦線が崩壊しており、撤退する大坂方の殿軍(最後尾)を務めた。幸村は伊達軍に対し、地面に伏した長柄槍隊で波状攻撃をかけ追撃を食い止めた。幸村は「関東の武士は百万いても、男は一人もおらんのう!」とひと吠えした後、悠々と帰還した。大坂城に戻った幸村は、木村重成が八尾合戦で討死したことを知る「そうか…あの男も逝ったか」。

5月7日、幸村は徳川の主力が天王寺方面から進軍して来ると予想し天王寺口(茶臼山)に布陣。多くの古参武将が倒れた今、戦に勝利する方法はただ一つしかない。家康の首だ。豊臣勢の疲弊は激しく、幸村は兵の士気を一気に高める為、秀頼出陣を求めた。城内には「幸村は東軍の兄のスパイ」という心無い噂が広まっていたので(おそらく東軍内応者の仕業だろう)、幸村は子・大助を大坂城に人質として送り、秀頼の出馬を要請した(秀頼側近によって出馬は阻止された)。
正午。幸村の正面の越前松平軍1万3千の後方に、家康は本陣を張った。幸村は目を細める。「まっこと、ワシは名誉な死に場所を得た。真田隊、行くぞ!」。真田隊3千は、家康だけにターゲットを定め一丸となって突撃を敢行した。幸村は越前勢の戦力を分散させる為に、数名の影武者と共に進撃し、各影武者が果敢に東軍を引き付けた(影武者は最初から死ぬ気だ)。真田隊は鬼気迫る戦いぶりで越前勢の大軍の中を突破し、そして防御が手薄となった場所を突いて、とうとう家康の本陣にたどり着いた!

本陣前では家康の旗本隊(先鋭部隊)が人間の壁を作り、真田隊の猛攻を受け止め凄絶な乱戦となった。真田隊は討死が相次ぐが、戦列を整えて3度本陣への突撃を繰り返した。そしてついに家康の『馬印』(うまじるし、本陣の旗)が引き倒された。家康にとって馬印が倒されたのは、生涯で「三方ヶ原の戦」の武田戦と、この真田の特攻の2度だけだ。“真田にこの首は取らせぬ!”踏み倒された馬印を見て家康は腹を切ろうとしたが、これは側近たちに止められた。

決死の覚悟で臨んだ真田隊だが、多勢に無勢、次第に追い詰められ四天王寺に近い安居神社に撤退した。負傷した幸村は神社の側の畦(あぜ)で手当てをしていたが、そこを越前松平隊の西尾仁左衛門に槍で刺され討ち取られた。享年48歳。翌日、秀頼・淀殿は自害し、大助も秀頼に殉死。こうして大坂夏の陣は終わった。幸村を討って褒美を授かった西尾仁左衛門は、故郷に「真田地蔵尊」を建て菩提を弔った。

●そして英雄となった

夏の陣で幸村の武神ぶりを目の当たりにした島津家当主・島津忠恒(家久)は、故郷への手紙にこう記した(以下抜粋)。
「真田は日本一の兵(つわもの)。真田の奇策は幾千百。そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚をとっていない。真田を英雄と言わずに誰をそう呼ぶのか。女も童もその名を聞きて、その美を知る。彼はそこに現れここに隠れ、火を転じて戦った。前にいるかと思えば後ろにいる。真田は茶臼山に赤き旗を立て、鎧も赤一色にて、つつじの咲きたるが如し。合戦場において討死。古今これなき大手柄」。

大坂の陣の後。家康は幸村の首実検の際に、「幸村の武勇にあやかれよ」と言うと、居並ぶ武将達がこぞって遺髪を取り合ったという。そして家康は「幸村の戦いぶりは敵ながら天晴れであり、江戸城内にて幸村を誉め讃えることを許す」とした。石田三成のように名前さえ口に出来ない者がいる一方、「誉め称えていい」というのは極めて異例なこと。家康は本陣が崩壊するほど窮地に追い込まれながらも、騎上の幸村に同じ戦国の男として感嘆していたのだろう。
兄の智将・信之は、弟の人柄をこう評している「柔和で辛抱強く、物静かで言葉も少なく、怒り腹立つことはなかった」「幸村こそ国を支配する本当の侍であり、彼に比べれば、我らは見かけを必死に繕い肩をいからした道具持ち。それ程の差がある」。
これは連戦連勝の豪傑としての幸村のイメージとは随分異なる人物像だ。しかし、普段はとても温厚なのに、戦場では無敵の漢に変貌するところが人々の畏敬の念を呼び、各地から集まった浪人衆をひとつに結束させた。名だたる武将の中でも傑出した名将だ。
戦局不利と見るや身内でも裏切りが珍しくない世に、幸村の家臣は誰も降参しなかった。これも高い人徳ゆえと諸将は感心した。庶民からも歌舞伎・講談のヒーローとされたが、幕府はこれを禁じなかった。
幸村は生き延びたければ高野山にいれば良かった。それでも大坂城に入ったのは武人としての死に場所を求めたゆえ。信濃譲渡の話を蹴ったように、保身や利害といった文字は幸村の心にはない。敵味方の関係なく幸村が絶賛されるのは、戦国期においても時に失われがちな武士の誇りを、身をもって体現した数少ない本物のサムライだったからだろう。武士が憧れた武士、それが真田幸村だ。


※千利休が眠る大阪・堺の南宗寺には、なんと家康の墓もある。夏の陣で家康は「真田特攻」で槍の深手を負って死亡し、後の家康は影武者というのだ。これをトンデモ話と一笑できないのは、1623年(まだ大坂の陣の8年後)、家光が3代将軍に就いた時に、父の2代秀忠と共になぜか江戸から堺の南宋寺へ、わざわざ「将軍就任の報告」をしに足を運んでいること、明治期に旧幕臣の剣聖・山岡鉄舟が“この墓は家康のもの”と刻んだ石碑を建てたこと、水戸徳川家・家老の子孫が「家康公の終焉地である事は歴史家が保証している」と石碑を建てている等々、そんな話があるからだ。
※幸村の脇差しは貞宗、刀は正宗。
※墓は和歌山、京都をはじめ、秋田県大館市の一心院など全国に10カ所以上。(英雄だからね〜)
※「真田がいる限り信濃を取ることは難しい」(上杉謙信)
※江戸元禄期の歴史小説『真田三代記』に八勇士(真田忍者)が登場。後の真田十勇士は、猿飛佐助・霧隠才蔵・根津甚八・由利鎌助・筧十蔵・三好清海入道・三好伊三入道・望月六郎・海野六郎・穴山小助。明治末期の少年向けの読み物『立川文庫』でこの顔ぶれに決定した。それそれにモデルがいると言われている。
※幸村人気は高く、「幸村は影武者・穴山小助の死で徳川方をあざむき、秀頼を守って大坂を脱出し、薩摩で天寿を全うした」という異説もある。実際に大坂の陣の後、次のわらべ歌が流行したという「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きものいたり鹿児島へ」。

                   「オイラたち猿飛は真田忍者だよ!」



★石田 三成/Mitunari Ishida 1560.3.5-1600.10.1 (和歌山、伊都郡、高野山奥の院 40歳)2005

   
三成の紋は『大一大万大吉』!意味は「一人が万民(大)の為に、
万民が一人の為に、さすれば世に幸福(吉)が訪れる」
というもの!


「三成公出生地」 滋賀県長浜市の石田町にて。
長浜駅から東へ5キロ行った所にある
「石田治部少輔出生地」の石碑。
治部少輔(じぶしょうゆう)は官位
生誕地に座す石田光成。従来の悪役のイメージから
近年は高い評価へと変わってきた






250万石の巨大な徳川に
20万石の三成が挑んだ!
肖像画はとっても優しそう

最後まで義に生きた男
(『信長の野望』から)







三成の居城『佐和山城』の城跡。城の前では今も
チビッコが激しい攻防戦を繰り広げていた
佐和山の龍潭寺ににある『石田三成群霊供養』。佐和山観音と呼ばれている

龍潭寺の光成像。生誕地の
像よりオヤジ度がアップ






滋賀県長浜駅前にある“秀吉と光秀、出会いの像”。秀吉は同地の長浜城・城主だった。
この像は、初対面の際にお茶の温度を調整して差し出した少年三成を描いたもの
三成が秀吉と初めて出会った観音寺

三成がお茶の為に水を
汲んだ井戸は今も残る






関ヶ原古戦場にひるがえる三成の紋
『大一大万大吉』と徳川の葵紋
この小さな山に三成は本陣を張った

石田隊の本陣からは関ヶ原を一望できる
西軍は数の上では勝っていた。裏切りがなければ…






京都大徳寺三玄院の墓は残念ながら住職の意向で非公開。
ここは古田織部の墓もあり、命日だけでも開門して欲しい(涙)
現住職さんに日本国民全員で土下座説得するしかないのか…
一般人は墓参不可能だけど、一部文献には三玄院
の墓が載っている※画像は『読本石田三成』から。
1987年の様子はこちらのサイトに載ってます!
高野山の墓所。三成自身が生前に整備したという



石田一族の墓がある石田神社。
境内には三成自筆の句碑も建つ

歌碑「残紅葉 散り残る紅葉は
ことにいとおしき 秋の名残は
こればかりぞと」(三成)
こちらは辞世の句碑「筑摩江や芦間に灯す
かがり火と ともに消えゆく我が身なりけり」


 
1941年、多数の石田一族(三成の先祖)の墓石が石田町の八幡神社の地中から発掘された。
関ヶ原の合戦直後、徳川方の追求を逃れる為に村人が隠したらしい。1971年に墓石を集めて墓所を
整備し、三成の供養塔(右)を建立した。以降、毎年三成の命日に墓前で慰霊法要が行われている


近江国石田村(滋賀県長浜市)の土豪の子として生まれる。幼名佐吉。信長の命令で長浜城主となった秀吉は、巧みな領国経営によって3年間で長浜を活性化させた。17歳の三成はその過程を見て、日本中がこのように繁栄したらどんなに素晴らしいかと、秀吉に憧れて仕官するようになった。1582年(22歳)、信長が本能寺で自害。翌年、秀吉VS柴田勝家の「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」に参陣し一番槍を務めた。27歳で九州征伐、32歳で小田原攻めに従軍するなど、秀吉の天下統一事業を参謀としてサポートする。
三成は戦場で全くと言っていいほど武勲を挙げていない。それでも秀吉が側近として寵遇したのは、補給・輸送に腕を振るい(兵一人当たりの兵糧、弾薬を緻密に計算し輸送していた)、経済面での才能を高く評価していたからだった。三成は後の太閤検地の実施でも成果を挙げており、秀吉は有能な実務者は豪胆な武将以上に得難いと、彼に感服していた。1591年、三成は近江北部に所領を与えられ、31歳で城を持った(佐和山城、19万石)。

※三成が初めて500石の領地(知行)を持った時、最初に渡辺新乃丞を家臣として登用した。新乃丞は以前に秀吉が2万石で誘ったのを「10万石なら」と言いのけた英傑。秀吉がどうやって説得したのか三成に尋ねると「私の500石すべてを新乃丞に与えました。だから今、私は新乃丞の居候になっております」。三成が100万石になれば新乃丞に10万石を扶持する約束だったが、終生500石で仕えたという。

※秀吉は三成が4万石に加増された時、才気に富んだ三成がどんなに多くの人材を登用したのかワクワクして尋ねた。「あれから一人を登用しました」「たった一人だと!?」「島左近であります」。島左近は三成よりも20歳も年上の名将。「あの島左近がお前のような若僧に仕えるのか!?ありえん!」「私もそう思い、知行の半分、2万石で登用しました」「これは面白い。主君と従者が同じ知行など聞いたことがないわ」。秀吉はこの話に感心して、後日左近に高価な羽織を与え「どうか三成をよろしく頼む」とねぎらったという。三成が佐和山城主になった時、左近に加増を告げると「三成殿が50万石の大名と成られても、拙者は今の知行で充分なので、その加増はどうか部下達に」と断った。

※三成が検地で目覚しい働きをしたことから、秀吉が九州に33万石の領地を用意したところ、三成はこの破格の厚遇を断った。「私が九州の大名になってしまうと、大阪で行政を担当する者がいなくなります」。三成は個人の出世よりも、故郷・長浜が復興したように、国全体を活性化させることを重視していた。

1592年、秀吉の朝鮮出兵に対し、三成は無益さを訴えて最後まで反対していたが、秀吉はどうしても大陸を支配するといって聞く耳を持たず、ここに足掛け6年間の不毛な侵略戦争が始まった。日本軍は16万という大軍で力攻めをし、当初は優勢だったものの、やがて明の大援軍が介入して一気に戦況が悪化した。三成も渡航し最前線で戦い負傷する。翌年、明軍と和平を結ぶために休戦。明の講和使節を伴って帰国したが会談は決裂。1596年、再出兵。「補給線もズタズタに寸断されており、このままでは日本軍は全滅してしまう」。そのように三成が危惧していた矢先、秀吉があっけなく病没する(1598年8月)。三成はすぐさま全軍に朝鮮からの退却を指示した。

※最初の朝鮮出兵の撤退時に、三成と加藤清正は激しく対立した。即時撤兵を考える三成と、交渉を有利に運ぶ為にも最後に戦果を挙げるべきとする清正で口論になった。清正は戦線を無理に拡大して友軍まで窮地に追い込んでおり、勝手に“豊臣清正”と名乗るなど問題行動もあった。三成は日本にいる秀吉に“清正が和睦の邪魔をしている”と報告。怒った秀吉は清正を帰国させ謹慎処分にした。これを逆恨みした清正は「三成を一生許さぬ。たとえ切腹を申し付けられても仲直りなどできぬ」と激怒した。

●秀吉、他界

秀吉の忘れ形見・秀頼はまだ5歳。秀吉は他界する前、まだ幼い秀頼の将来を心配して、五大老(前田利家・徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)と、五奉行(前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家)に、秀頼への忠誠を誓約させた。そして、五大老と五奉行を合わせた十人衆の中から、前田利家と徳川家康をリーダー格に置き、両者の指揮のもとで合議制の政治を行なえと言い残した。秀吉の死を看取った三成は誓う。「天下が騒乱にあった時、秀吉様が世を治め、やっと今日の繁栄となった。 続いて秀頼公の世になることを誰が祈らないものがあろうか。絶対に再び戦乱の世に逆戻りさせてはいけない」。

※五奉行を選抜した際の秀吉の所感が残っている。「浅野長政は兄弟同様で会議に必要な人柄、前田玄以は智将・織田信忠が認めた男であり確かな人材のはず、長束正家は丹羽長秀の下で名判官と言われた。増田長盛は財政経理に詳しく、石田三成は進言する際に機嫌や顔色をうかがわず堂々と意見する」。秀吉はこのように考えていた。(甫安太閤記)

1599年1月(39歳)。秀吉は特定の大名が大きくならないように、大名間の婚姻を厳禁していた。ところが秀吉の死からまだ半年も経っていないのに、家康はこれに背いて伊達政宗、福島正則らと私婚を結ぶ動きを見せた。この時は家康以外の十人衆が全員で問責して縁組を止めさせた。しかし、3月に家康と並ぶ実力者・前田利家が病没してしまい、これで一気に家康が権力を掌握し始める。利家が他界した夜、三成は以前から彼と対立していた加藤清正、福島正則ら武闘派の諸将に襲撃された。命は助かったものの、大阪城からは追い出され滋賀の居城で謹慎することになった。

そして運命の1600年。家康は天下取りに向けて本格的に動き出す。6月、家康は五大老の1人上杉景勝(会津)の討伐準備で江戸に入り、諸国から兵を集めた。7月11日、三成も水面下で反家康の行動を開始。まず最も親しい越前敦賀の大名・大谷吉継に挙兵計画を打ち明けた。吉継は「今の家康に勝てるわけがない」と忠告したが三成は「秀吉様の遺言をこれ以上踏みにじらせぬ」と譲らぬため、吉継は“三成は昔からの親しい友だ。今さら見放すわけにもいかない”と腹をくくった。

※この大谷吉継はハンセン病を患っていたが、秀吉に「100万の兵を与えてみたい」と激賞された名将だった。当時の人々はこの病を感染病と誤解していたので、吉継は普段から顔や手を布で覆い隠していた。ある時、秀吉の茶会で吉継に茶碗が回った時、彼は飲む振りをして次に回すつもりが、傷口から膿みが茶に垂れてしまった。列席した武将達は絶句し、一同はすっかり青ざめてしまった。吉継は茶碗を隣に回せなくなり、場の空気は固まった。その時、三成が立ち上がる。「吉継!もうノドが渇いてこれ以上待ちきれぬ、早くまわせ!」と茶碗をもぎ取り、そのまま最後の一滴まで飲み干したのだ。石田三成とは、そういう男だった。

●関ヶ原の戦いへ

“家康を叩く”といっても家康軍8万に対し、三成には6千の兵士しかいない。しかも政治の中心から干されて1年以上が経っている。普通なら諦めるところだが、彼は筆一本にかけた。西国にはまだ五大老のうち毛利輝元・宇喜多秀家がいる。「家康公の行いは、太閤様に背き、秀頼様を見捨てるが如き行いである」三成は家康の非を訴え両者を説得し、挙兵の約束をとり付けた。また五奉行も長束正家・増田長盛・前田玄以の三奉行(自身を入れると四奉行)が味方になった。7月17日、二大老・四奉行の連署で、家康の罪科13ヵ条を記した檄文を全国の諸大名に送る。毛利輝元は西軍総大将として大阪城に入城した。これを受けて各地から続々と反家康勢力が大阪に結集し、その数は9万4千まで達した。既に数の上で1万余も家康側を上回っている。さらに東北の上杉軍3万6千を入れると13万になり、東軍をはるかに超える巨大戦力となる。「…勝った!」。西軍は手始めに伏見城、大津城を落とし、近畿一円をほぼ制圧した。

※西軍と東軍の戦闘は日本各地で行なわれており、東北で上杉(西)VS伊達・最上(東)、中山道で真田(西)VS徳川秀忠(東)、九州では黒田勢(東)が西軍諸勢力と戦っていた。

9月15日朝8時。ついに天下分け目の合戦が始まった。時に三成40歳、家康58歳。両陣営の最終的な布陣は、西軍8万5千、東軍7万5千。西軍は兵数で有利を保ったまま戦に突入できた。

  三成の兜。角がデカくて勇ましい!

まず東軍の井伊直政隊が西軍の宇喜多隊へ攻撃を開始。両陣営が一進一退を繰り返すなか、三成は山上に陣を張る西軍陣営に対し、「加勢せよ」と合図の“のろし”をあげるが、なぜか山から下りてこない。西軍で戦っているのは、親友の大谷吉継、文官の小西行長、大老・宇喜多の三隊という3万5千の兵だけ。どうもおかしい。そして正午、やっと小早川秀秋の大軍が参戦してきたと思ったら、なんと西軍に襲い掛かってきた!午後1時、勇戦していた大谷隊が持ちこたえられず全滅。吉継は自分の首を敵に晒されることを良しとせず、切腹の後に地中深く埋めるよう側近に命じた(今も発見されていない)。

小早川の寝返りがきっかけとなり、味方の裏切りに歯止めが利かなくなっていく。やがて宇喜多隊、小西隊が敗走し、とうとう残るは三成の本隊のみとなった。三成の家臣は四方から津波のように押し寄せてくる東軍を相手に、獅子奮迅の戦いぶりを見せたが、多勢に無勢、一人、また一人と、壮絶に散っていった。だが、これほど絶望的な状況でも、三成の家臣だけは誰も裏切らなかった。午後2時、死闘の果てに三成隊は全滅。ここに合戦は終わった。
※西軍総大将を引き受けたはずの毛利輝元は、大阪城に入ったまま関ヶ原にやって来ず、合戦では三成が総大将になるしかなかった。毛利はこともあろうに、家康の「戦闘に加わらなければ所領は保証する」という密約をのんでいたのだ…。
※三成軍の最期を歴史書『天元実記』はこう刻む「三成は武道に名誉ある者であれば、何をおいても召抱えた為に、関が原における石田家の兵の働き、死に様は尋常ではなかった」。

合戦3日後に居城の佐和山城も落城。城内にいた父兄、石田一族は自害した。西軍を裏切った小早川、脇坂らの武将は、早く武勲をあげようとして佐和山城に乗り込み、内部の質素さに驚いた。三成は約20万石の武将であるばかりでなく、秀吉に寵遇され、長く政権中枢に身を置いていたので、さぞかし城内は豪勢で、私財を貯えているだろうと東軍は思っていた。ところが、壁は板張りで上塗りされずむき出しのまま、庭には風情のある植木もなく、手水鉢は粗末な石。ある東軍の軍医は記す「佐和山城には金銀が少しもない。三成はそれらを貯えてはいなかった」。
※三成はよくこう語っていた「奉公人は主君より授かる物を遣いきって残すべからず。残すは盗なり。遣い過ぎて借銭するは愚人なり」。

敗戦後、三成は伊吹山に独りで落ち延びたが、6日後、潜伏先の古橋村で捕縛された。9月24日、家康のもとへ護送される。縄で縛られた三成の姿を見て東軍の猛将・藤堂高虎が近づき、丁重に言った。「この度の合戦での石田隊の戦いぶり、敵ながら実にお見事でした。貴殿の目から見て我が隊に問題があれば、どうか御教授願いたい」「鉄砲隊を活かしきれてなかったようです。名のある指揮官を置けばあの鉄砲隊の威力は向上しましょう」。この助言に感謝した高虎は、以降、藤堂家の鉄砲頭には千石以上の家臣を当てることを家訓とした。
そして迎えた、家康との対面。最初に家康が声をかけた。「戦は時の運であり、昔からどんな名将でも負けることはある。恥にはあたらぬ」。三成は少しも臆することなく「承知。ただ天運が味方しなかっただけのことよ。さっさと首をはねられい」。「さすがは三成、やはり大将の器量がある。(命乞いをした)平宗盛とは大いに異なることよのう」。

関ヶ原から2週間が経った10月1日、三成は京の都を引き回された後、六条河原で処刑された。享年40歳。なぜ関ヶ原の戦場で自害せずに逃亡したのか問われた三成はこう答えた--「私はまだ再起するつもりだった」。
※三成は薩摩の島津義久と連携して九州からの巻き返しを図っていたという。

死後徳川幕府によって悪評を流され、極悪人にされてしまった石田三成。しかし、彼は20万石の一家臣でありながら、250万石の巨大な大名・徳川に戦いを挑んだ果敢な男だ。西軍から裏切り者が出たことで人望がないように言われてきたが、全滅するまで戦った石田隊の兵たち、大谷吉継、敬意を示した敵将など、彼らは人格者としての三成の素晴らしさを身をもって語っている。何より、三成に人間的な魅力がなければ筆一本で東軍を上回る9万もの兵を2ヶ月で集められるわけがない。真に国土の繁栄を願い、自身の居城は極めて質素。敗者でなければ英雄になっていた男だった。

※三成が検地改革に取り組むまで、各地で長さ・体積の単位は異なっていたうえに、収穫高は各領主の申告制だったので不正が横行していた。三成は単位を統一し、家臣たちと直接農村に入って測量を行なった。この改革で全国の農業生産高が正確に把握できるようになり、長期的視野の農政が可能になった。単位の統一は経済・流通を大いに発展させた。
※小西行長もまた、三成と一緒に斬首された。行長の場合はキリシタンなので自害しなかった。
※三成は西軍内の裏切りに薄々感づいていた。合戦直前の手紙に「小早川が敵と内通し、敵は勇気づいているという」「毛利が出馬しないことを味方の諸将は不審がっている」「人の心、計りがたし」と記している。
※家康の次男・秀康は、豊臣の時代は三成と仲が良く、名刀・五郎正宗を三成から贈られていた。秀康はこの刀を「石田正宗」と名づけ、生涯にわたって愛用した。
※三玄院の墓は、かつては古田織部の隣にあった。
※“黄門様”こと水戸光圀は三成をこう評している「石田三成を憎んではいけない。主君の為に義を心に持って行動したのだ。(徳川の)仇だからといって憎むのは誤りだ。君臣共によく心得るべし」。西郷隆盛はこの三成評に感銘を受けて記す「関ヶ原で東西は決戦し、三成は怒髪天を突き激闘した。だが勝負は時の運である。敗戦を責められるべきでない事は水戸藩の先哲(光圀)が公正に判断している」。



生地に建つ石田会館の資料室には、なんと三玄院で
発掘された三成の頭蓋骨の写真があった。ビックリ!
骨を元に復元された三成の顔。
ひょうひょうとした表情だった(笑)


●参考資料…世界人物事典(旺文社)、エンカルタ百科事典、読本石田三成(石田三成公事蹟顕彰会)、他。



★島 左近/Sakon Shima 1540.5.5-1600.9.15 (京都府、上京区、立本寺 60歳)2008



墓所の入口には“関ヶ原大軍師” 土台にドーンと「土葬」と刻まれている

本名、島清興(きよおき)。石田三成の軍師。大和国出身。豪将として知られ、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われた。関ヶ原で奮戦するも討死。しかし首が見つかっていないことから生存説もある。立本寺には過去帳や位牌が残っており、墓石の裏には「寛永九年六月二十六日没」とある。寛永九年=1632年であることから、同寺の僧侶となって余生を送り32年後まで生きたとも言われる。
※剣豪の柳生厳包とは遠縁。



★徳川 家康/Ieyasu Tokugawa 1542.12.26-1616.4.17 (栃木県、日光市、東照宮&大阪、堺市、南宗寺 73歳)2000&06

東照宮の山の奥、ヘロヘロになって登りつめた先にある。墓前に見えるのは亀に乗っ
た鶴。かごめかごめの歌は、この家康の墓にまつわるものだと信じている人もいる。
右の立札は「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し急ぐべからず」(徳川家康)
こちらは堺市の南宗寺(なんしゅうじ)の墓。寺伝によると、大阪夏の陣で家康は
豊臣方の後藤又兵衛に討ち取られ、この地に葬られたという。以後の家康は
影武者が務めたらしい。実際、墓の中には徳川家が後世に分骨を納めたといい、
あながち完全な出鱈目でもないようだ。歴史のロマンってやつだね。

 
2006年の巡礼。特に6年前と変化はなかった。でも、デジカメになった分だけ画質がアップしたね。

家康の本墓は日光東照宮の最深部、奥社にある。巡礼者はふもとのバス停からいったん陽明門まで山道を登り、そこからさらに200段以上の石段を昇らねばならない。これはけっこうキツかった。
登る途中で思わず吹き出したのが、家康の格言を記した立札だ。誰もが“いい加減疲れたぞ〜”と思う4分の3地点に『人の一生は重き荷を負うて、遠き道を行くが如し。急ぐべからず』という立札があったのだ。「こりゃ、一本やられたわい」絶妙なタイミングで声を掛けてきた家康公に脱帽!

弱小大名の松平家に生を受けた家康は、8歳で織田家に、そして19歳まで今川家に人質として預けられ、辛酸をなめる青春時代を体験した(しかも父親は家臣に暗殺されている)。今川氏が信長に殺され、晴れて自由の身になると、彼は巧みな用兵と見事な政治手腕で着々と周辺地域を平定した。
初めての大敗は武田信玄戦(家康31歳)。三方ヶ原の戦いで武田騎馬隊の猛攻を受け本陣が崩壊。彼は命からがら戦場より脱出した。馬で逃げる途中、家康はあまりの恐怖から自分が脱糞していたことにも気付かなかった。ほうほうの体で逃走した彼は、怯えきった自分の顔をすぐさま絵に描かせ、自戒の為に終生手放さなかったという。

信長の横暴も辛かった。彼が38歳の時、同盟中の信長が、信玄の後継者、武田勝頼と家康の妻子が密通しているというあらぬ嫌疑をかけてきたのだ。一度疑うと絶対に相手を許さぬ信長。家康は同盟を維持する為に、22年も連れ添った愛する妻と長男を死に追いやるという、悲痛な決断をするしかなかった。
本能寺後も天下は遠かった。秀吉を討つ力はなく、ただ秀吉が死ぬのを座して待つしかなかった。しかも、秀吉と家康は6歳しか離れておらず、どちらが先に死んでもおかしくない状況だった(結局、天下人の秀吉が死ぬまで16年待つことになる)。

関ケ原の決戦に挑んだ家康は、すでに還暦を迎えようとしていた。
幕府を開いて12年、後世の憂いを完全に絶つ為に大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼした後、精根尽き果てたのか、或いは緊張の糸が切れたのか、家康は1年も経たずにあっけなく死んでしまった。
晩年の家康は、自分がこれまでに命を奪った者に対する供養の為か、部屋にこもって南無阿弥陀仏と3万回もお経を書き連ねていた(その巻き物は現在も残っている)。

奥社の家康の棺は金・銀・銅の合金で作られた高さ5メートルの宝塔に収められ、歴史上まだ一度も開けられたことがない。宝塔の前には鶴と亀のロウソク立てや香炉他があり、それらは朝鮮国王からのプレゼントということだった。

《おまけ》3代将軍家光の墓



家康と同じ東照宮に眠っている。この門の背後が墓所(非公開)。

(徳川家康の巡礼ルポ)



★本多 忠勝/Tadakatu Honda 1548-1610.10.18 (三重県、桑名市、浄土寺 62歳)2008





岡崎城の忠勝像 RS2『信長の野望・革新』から
忠勝は8回も描き直させたという




桑名城跡の忠勝像。槍がデカい! 「ならば、殿と一戦つかまつる!」 この銅像は相当カッコイイ





戦国最強武将降臨!鳥居付きのお墓だ。
境内の墓所に忠勝専用エリアがある
大きな忠勝の墓。浄土寺は
桑名藩主・本多家の菩提寺だ
ドドーンとそびえる
『本多平八郎忠勝公本廟』


こちらは高野山の墓(2005) 愛用の「鹿角脇立兜」

徳川家康の有力部将。榊原康政、井伊直政、酒井忠次と並ぶ徳川四天王の一人。幼名鍋之助。通称は平八郎。忠勝の名は“ただ勝つのみ”から。三河国(愛知・岡崎市)出身。家康の父に仕えていた忠勝の父は、1歳の時に戦死。1557年、当時15歳の家康に9歳で仕え始める。初陣は1560年の大高城攻め(12歳)。
1563年(15歳)、一向一揆の鎮圧で奮戦した忠勝は、一向衆から「蜻蛉(とんぼ)切の平八郎」と恐れられるようになった(忠勝は5歳から長槍を特訓し、8歳で孫子の兵法を読破している)。忠勝の長槍“蜻蛉切”は全長4m33cmという巨大な槍。刃先にとまった蜻蛉が真っ二つになったことからこの異名がついた。1566年、同じ18歳の榊原康政と共に旗本先手役に抜擢され52騎が部下になる。翌年、長女の小松が誕生。※彼女は後に真田信之(幸村の兄)に嫁ぐ。

1570年(22歳)、信長・家康連合軍VS浅井長政・朝倉義景連合軍の「姉川の戦い」に出陣。この時、朝倉軍1万が家康本陣に迫る局面があり、なんと忠勝は無謀にも単騎で突撃して行った。「いかん!このままでは鍋之助(家康はまだ幼名で呼んでいた)が殺される!」と、家康は全軍に一斉攻撃を命じ、一丸となって敵軍を撃退した。戦闘後、祝勝会の席で信長は家康に語りかけた「鹿の角の兜の若武者(忠勝)の見事な勇戦ぶりに感心した。ぜひ顔が見たいものよ」「本多平八郎忠勝のことですな」。忠勝が呼ばれると信長は「そなたの戦振り、誠に天晴れであったぞ。“日本の張飛”とはおぬしのことよ」と、三国志の英傑“張飛”に例えて酒を振舞った。珍しく信長が人を誉めたので織田家の家臣からどよめきが起きたという。

1572年(24歳)、信長・家康連合軍VS武田信玄軍の「一言坂の戦い」(“三方ヶ原合戦”の前哨戦)で、忠勝は敗走する家康軍3千の最後尾を守り、一人の戦死者も出さずに武田軍の追撃を防いだ。武田側は“蜻蛉切”を片手で振り回す忠勝の猛者ぶりに、とても傍に寄り付く事はできなかったという。武田軍は兵を引く時に落書きを刻んだ立て札を残していった。そこにはこんな歌が詠まれていた「家康に 過ぎたるものが ふたつあり 唐の頭(かぶとの飾り)に 本多平八」。忠勝は戦国最強の武田騎馬隊という敵方からも絶賛されたのだ。

1582年(34歳)、信長は武田勝頼を自害に追い込み、長年の宿敵、甲斐・武田氏を滅亡させた。富士山を見物しながら都へ戻る信長を、家康の家臣達は天竜川でもてなした。その中に忠勝の顔を見かけた信長はさっそく呼び寄せて織田家の家臣団に紹介した。「この本多平八郎は花も実もある勇士である!皆もこの顔をよく覚えておけ。ほんに、おぬしはいつも見事な働きをするのう」。この47日後に信長は本能寺に散った。
1584(36歳)、「長久手の戦い」で小牧に侵攻した秀吉の大軍に対し、兵600で戦いを挑み撃退する。

1600年(52歳)、「関ケ原の戦い」では宇喜多・島津軍と戦った。合戦後、西軍についた真田昌幸・幸村父子を死罪にしようとした家康に、忠勝は娘婿の真田信之と一緒に助命を願った。家康は真田父子から2度も痛い目に合わされており「真田だけは絶対に許せん」と忠勝の嘆願を拒否した。忠勝は9歳で家康に仕えて以来、40年以上、家康の為に命を捨てる覚悟で戦ってきた。家康に無理な願いをしたことも一度もない。その自分のただ一度の願いを聞いてもらえぬのか。忠勝は怒った。
「どうしても真田父子を斬首するのであれば、それがし今から真田の城に入り、殿と一戦つかまつる!」
家康はもちろん、信之も仰天した。忠勝の迫力に押された家康は、「真田父子は高野山へ謹慎」と命を助けた。
1601年(53歳)、三重・桑名市に10万石を与えられる。さらに5万石加増の通達もあったが、これを固辞して次男・忠朝に与えてもらった。
1609年(61歳)、体力の衰えを感じて隠居し、家督を子・忠政に譲る。その翌年、徳川家きっての猛将は桑名で他界した。法名・西岸寺殿前中書長誉良信大居士。

12歳の時の初陣「大高城攻め」から52歳の「関ケ原の戦い」まで、生涯に57回も合戦で活躍しながら、忠勝はただの一度も刀傷を負わなかったという。姉川の戦いの単騎突入、小牧・長久手での秀吉軍への突撃など、生前から勇猛さは知れ渡り、勝頼の代の武田軍と遭遇した際、名乗りだけで退散させたこともあった。信長は「花実兼備の武士」と称え、秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」と誉め、家康は「わが家の勇将」と大いに自慢した。戦国武将の中で最強の名を冠される一人とされている。

※合戦前に毛利軍が山上に陣を張ったのを見て、「戦う気なら最初から平地にいるはず。毛利は動かん」と勝利を確信していた。
※唯一の“刀傷”は老後に趣味の彫刻で切ってしまった小指の傷のみ。
※本墓は三重県桑名市清水町・浄土寺。分骨は高野山の他に千葉県夷隅郡大多喜町の良玄寺が知られている。
※三重県桑名市の桑名城内に、忠勝の銅像がある。



伊達 政宗/Masamune Date 1567.8.3-1636.5.24 (宮城県、仙台市、瑞鳳殿 68歳)1994&2004














後年の政宗

青葉城の伊達政宗像

RS2『信長の野望・革新』から
シビれるほどカッコイイ政宗
政宗の兜は戦国一
スタイリッシュ!
キャシャーン、
ザンボット3に影響

 
2004 仙台にある墓・瑞鳳(ずいほう)殿。あまりに豪華絢爛でビックリ! 1994 高野山の墓

初代仙台藩主。父は輝宗。出羽国(山形)の米沢城で誕生。伊達氏は源頼朝の奥州征伐でも武勲をあげた古来からの名門であり、政宗は伊達家17世として生まれた。幼名梵天丸。正式名・藤原正宗。当時の日本は、川中島では信玄と上杉が、桶狭間では信長と今川が戦っている戦国時代の真っ只中。
4歳の時に天然痘にかかって右目を失明し、これが原因で母・義姫に疎んじられるようになる。母は弟・小次郎ばかりに愛情を注いだ。しかし父は政宗に大きく期待しており、5歳の時に名僧・虎哉(こさい)禅師を招いて仏教・漢学を学ばせ、養育係には智将・片倉小十郎を任じた。1581年(14歳)、隣国の相馬氏と戦に15歳で初陣し勝利を飾る。
翌年、本能寺で信長が討たれ、時代は秀吉の世に移っていく。1584年、父が隠居し政宗は17歳にして伊達家当主となる。

※この頃の東北地方は諸勢力がひしめき合って混沌としていた。有力大名は、蘆名(あしな、会津若松)、最上(山形)、相馬(相馬)、岩城(いわき)、葛西&大崎(宮城北部)。福島では畠山、二階堂、田村、石川、白川らが睨み合っていた。

1585年(18歳)、父輝宗と畠山氏の和平談義が破局し、会談後に父が拉致される事件が起きる。追撃した政宗は人質となった父に「我と共に撃て」と命じられ、泣く泣く畠山を父をもろともに射殺したという。その後、政宗は鬼神の如く戦い続け、22歳で強敵の会津・蘆名氏を「摺上原(すりあげはら)の戦い」で撃破し、会津城に移り住んだ。周辺の中小勢力を次々と平定し、政宗は当主となってわずか5年で、東北地方南部のほぼ全域を支配する。彼は30万石から、一気に90万石の領主になった。

伊達氏は奥州の巨大勢力となり、次は関東へ進撃、その勢いのまま京へ!…と10年前なら、それも可能だった。しかし、時代は既に秀吉の天下統一の最終段階。残るは関東・北条氏と東北地方のみだった。これが政宗の悲運であり、彼が『遅れてきた戦国武将』『最後の戦国大名』と呼ばれる由縁だ。また、秀吉からは大名同士の私戦を禁じられ(惣無事令)、領土拡張も望めなくなった。
伊達氏以外の奥羽諸大名は秀吉に従属する決断をし、政宗にも「京都へ挨拶に来い」と何度も催促の書状が届く。上洛することは秀吉に屈服するということ。天下への野望を捨て切れないでいた政宗は、なかなか秀吉の前に顔を出さなかった。

1590年(23歳)、秀吉は北条氏の征伐を決意し、20万の大軍を率いて小田原城の攻略戦を開始する。東北の諸大名にも出兵・参陣せよと指令が下った。「秀吉との全面対決か服従か…」政宗は迷い続ける。何度も軍議が開かれ、最終的には「参陣すべき」とする重臣たちの意見に従い、小田原に向かうことになった。ところが出発前に母が弟を当主にしようと画策し、政宗の毒殺を計るという大事件が起きる。こうした事態の再発を防ぐため、政宗は心を鬼にして弟に自害を命じ、小田原に上った。

もともと参陣の決定が遅かった上に毒殺未遂のゴタゴタもあって小田原への到着は遅れに遅れた。「政宗はいつになったら顔を見せるのか!」秀吉は非常に憤慨しており、状況によってはたとえ参陣しても“謀反の疑いあり”と、政宗に切腹を命じるつもりだった。小田原に着いた政宗は、自分に逆心がないことを示す為に、秀吉との謁見に“白装束”で現れた。政宗は遅参を詫び臣従を誓うと同時に、「もし自刃を賜るのであれば、最期に小田原にいる大茶人・千利休に茶の湯を教授して欲しい」と願った。政宗は茶の湯をこよなく愛しており、日本一と言われる利休の手並みを、どうしてもその目で見たかったのだ。「白装束で茶の湯とは、何とも天晴れな男よのう」秀吉は感心し、政宗の首を扇子で突付きながらこう言った「ほれほれ、あともう少し遅かったらココが危なかったわ」(秀吉、こわ…)。
小田原城は落ち、北条氏は滅亡。小田原攻めに参加しなかった大名の領地は没収され、政宗も「摺上原の戦い」以降に手にいれた所領は没収されたが本領は何とか保証された。

1591年(24歳)、米沢から岩出山(宮城県)へ転封。25歳、秀吉の朝鮮出兵に3千の兵を率いて従軍し朝鮮半島釜山へ渡る(翌年帰国)。半島へ出征する前に京都を通過した際の伊達軍のいでたちが奇抜・豪華だったことから、驚いた都の人々は派手な服装を着こなす者を「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった。1598年(31歳)、秀吉没。翌年、政宗は家康に接近し、娘の五十八(いろは)姫を6男・松平忠輝と婚約させた。

1600年(33歳)、関ヶ原の戦では東軍勢として上杉景勝と戦う。翌年、“千代”を“仙台”に改め、仙台城に居城を移し城下町の建設に取り掛かる。巨大な仙台藩は家臣も多く、徳川から認められた62万石では足りなかったので、政宗は北上川の流れを変えて荒れ地を新田に開墾した。また、河口の石巻を整備するなど、政宗が積極的に産業の発展に努めたおかげで、仙台藩の財政は豊かになった。また、政宗は30歳前後に長期間京都に滞在し桃山文化に触れており、後年に造営・修復した塩竈神社・大崎八幡宮・松島瑞巌寺といった建築物を通して、東北地方に絢爛たる桃山文化をもたらした。

※1613年(46歳)、政宗は西欧との通商に乗り出し、「慶長遣欧使節」として支倉常長ら約180名を交渉の為に欧州へ派遣した。使節は宮城・石巻市を出帆、太平洋を渡ってメキシコに到着。今度は大西洋を渡り、日本を出て2年後にスペインへ入った。両大洋を横断する大航海だ。常長は政宗の書状を国王フェリペ3世に届け、マドリードでは国王列席のもとで洗礼を受けた。一行はさらにイタリアへ向かい、なんとヴァチカンにてローマ教皇パウロ5世にも謁見している。彼らはジパングからの使者として市民からも熱狂的歓迎され公民権を贈られた。常長に至っては貴族に列せられている。帰途についた常長は7年ぶりに仙台へたどり着いて驚愕する。彼らが出国中に幕府は禁教令を出し、キリシタンは大弾圧されていたのだ(日本出国の翌年に、国内の宣教師や高山右近らキリシタン武将はマニラに追放されていた)。常長は失意のなか2年後に病死する。※20年後、息子・常頼はキリシタンを召使に使っていたとして処刑され支倉家の血は絶えた。

1615年(48歳)、家康と豊臣方の雌雄を決する大坂夏の陣が勃発、この戦いは政宗など戦国期を生き延びた諸大名たちの最後の戦いとなった。その後、政宗は3代将軍家光の代まで仕えた。1636年、死期を感じた政宗は墓の場所を経ヶ峰(仙台市青葉区)と定める。この年、江戸滞在中に体調を崩した彼を家光自らが見舞いに訪れたという。5月、死の前日に妻と娘が面会に訪れたが、見苦しいところは見せられぬと形見の品を贈った。翌朝、政宗は波乱に満ちた68年の生涯を閉じた(死因は食道癌)。
戦場での勇猛さから『独眼竜』の異名を持つ政宗だが、独自に海外貿易を試み欧州と交渉するなど経済への先見性を持ち、茶の湯、和歌、書、能楽にもよく通じ、茶会や歌会を催すなど一流の文化人だった。
辞世の句は「曇りなき心の月を先だてて 浮世の闇を照してぞ行く」(澄み切った心の月光を道案内に、浮き世の闇を照らし進んでいこう)。
 
死の翌年、息子・忠宗が遺言通りに経ヶ峰に霊廟・瑞鳳殿(ずいほうでん)を建立した。瑞鳳殿は終戦間際に戦災で焼失し、
1974年に再建される。この時の発掘調査で遺体の他に愛用の文箱やキセル、黄金のブローチなど副葬品が発見された。政宗
は鼻筋が通った顔立ちで、身長は159.4cm、血液型はB型ということが分かった。法名は瑞巌寺殿貞山禅利大居士(貞山公)。



★豊臣 秀頼/Hideyori Toyotomi 1593.8.3-1615.5.8 (京都府、右京区、清凉寺 21歳)2002





秀頼公首塚。大阪城三の丸の跡地で発見された頭蓋骨を埋葬 優男に見えるけど超巨漢だった

秀吉の次男。母は側室の淀君(浅井長政の娘)。この時代、拾われた子は健康に育つと言われていたことから、幼名は拾丸(ひろいまる)と名付けられた。秀吉の長男鶴松が病没し(享年2歳)、甥の関白秀次が自刃した為(享年27歳)、秀吉は57歳で生まれた秀頼を世継ぎとして溺愛した。秀頼は伏見城で育ったが、父が他界すると遺命に従って大坂城に移った。
秀吉は逝去する前に、まだ5歳の秀頼の将来を心配し、息子の補佐として側近の五大老(前田利家・徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)や、五奉行(前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家)らに秀頼への忠誠を誓約させた。これら五大老と五奉行を合わせた十人衆の中でも、前田利家と徳川家康がリーダー格に置かれ、両者の指揮のもとで合議制の政治を行なうシステムを秀吉は残した。
ところが翌年に前田利家までが病没。五奉行の間で内部対立が起き、石田、浅野が失脚するなど、結果的に家康に権力が集まった。そして秀吉の没後わずか2年で関ヶ原の合戦が勃発する。家康はこの決戦で、毛利、宇喜多ら残りの五大老をくだし合議制は完全に崩壊した。

家康は戦後処理にあたって豊臣氏の領地を独断で分配し、7歳の秀頼は何も落ち度がないのに問答無用で240万石から摂津・河内・和泉65万石まで減らされてしまう。そして1603年(10歳)に家康が幕府を開いたことで、豊臣氏はただの一大名(大坂藩初代藩主)になってしまった。しかし同じこの年、家康は豊臣氏をなだめる為に息子・徳川秀忠の娘千姫を秀頼の元へ嫁がせたり、朝廷に対し秀頼を右大臣に推薦している(内大臣の秀忠より上の位になる)。1605年、秀忠が2代将軍に就任。家康は徳川家が豊臣氏より優位に立つことを内外に見せつける為に、「新将軍となった秀忠に挨拶に来い」と秀頼を京都二条城に呼び出した。これに対し淀君は断固として息子を挨拶に行かせなかった。

1611年、18歳になった秀頼は再三に及ぶ家康の要請を受け、猛将加藤清正や浅野幸長を従え、ついに二条城へ向かった。幼少から過保護に育てられた秀頼を愚者呼ばわりする風説もあったが、実際に会見した家康は、彼の毅然とした立ち振る舞いに驚き、「賢き人なり、なかなか人の下知など聞く様子ではないだろう」と一目を置いた。幕府へ従う姿勢をあくまでも示さぬ秀頼に、将来徳川を脅かすカリスマ性を見て取った家康は、豊臣氏を早く滅ぼさねばと腹をくくった。※加藤清正はこの二条会見の帰途に急死しており家康に毒殺されたいう説がある。

1614年、血まなこで豊臣氏と開戦するネタを探していた家康は、豊臣氏が再建した方広寺大仏殿の鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」とあるのを、“家”“康”と文字を断ち、“君臣豊楽”、つまり豊臣を主君として楽しむの意味だとイチャモンをつけ、「大坂城から退去せよ」と難題を突きつけた。豊臣氏は秀吉が築いた大坂城を手放せるわけがなく、諸国に呼びかけて浪人を召集、真田幸村・後藤又兵衛ら約10万の兵力を確保した。この動きをしてやったりと喜んだ家康は約20万の大軍で大坂城を包囲、11月15日に開戦した。秀頼は総大将として本丸を守備。豊臣方は開戦すれば西国の諸大名が次々と支援に駆けつけると期待していたが、幾ら檄を飛ばしても一向に集まらなかった。
しかし、さすがは堅牢を誇る大坂城!徳川勢は各武将が手柄を焦って連携を欠き、12月4日には勇将真田幸村の猛攻を受け、24時間で1万人以上の死者を出した。徳川勢は攻めあぐねているうちに食料や弾薬が尽き始め、師走の厳寒の中、吹きさらしの塹壕や仮小屋で野営していた兵の士気は著しく低下していく。米を補給するにも、豊臣氏が既に買い占めていたので現地調達は出来なかった。結果、家康は和議を提案した。

当初、秀頼は徹底抗戦を訴えて和睦することを拒否した。しかし、開戦から一ヵ月後、淀君の説得で和平を結ぶことになった。淀君が和平に傾いたのは家康の精神戦の勝利だった。当時の戦は夜になれば翌日まで休戦というのが普通だったが、家康は一晩中、約300門の大筒(大砲)で断続的に攻撃し、淀君はこの轟音で神経が参ってしまったのだ。しかも一発が居室を直撃、侍女の8名が即死した。悲惨な現場を見て震え上がった淀君が息子に対し「源頼朝も次の好機を待ったではないか」と説き伏せ、城の外堀を埋めることを呑んで12月20日に和平が成立した。豊臣側は「だらだらと埋め立てて時間を稼ぎ、体勢を整えよう。それに家康はもう高齢だ」と考えたのだ(事実、家康は1年半後に他界した)。

ただちに外堀の埋め立てに取り掛かった家康は、豊臣側が工事を担当したエリアまで「お手伝い」と称してどんどん埋めていった。一気に内堀まで埋めようとする徳川勢に豊臣方が抗議しても、シラを切ったり、とぼけたりで、約1ヶ月後には外堀、内堀、全ての堀が埋まってしまった。大坂城は本丸だけの裸城になった!防御力など、あってないようなもの。そしてさらに、家康は城内の浪人の追放と転封(国替え)を要求してきた。
翌1615年4月4日、大坂城の内での軍議。“こうなってしまっては転封に応じるしかない”と言う淀君や穏健派に対し、秀頼は声を荒げた「そんな和談は臆病者のすることだ!和談要求は我がドクロの前で言え!」。

4月28日、夏の陣開戦。兵力は豊臣軍約7万、徳川軍約15万5千。豊臣勢は前年より3割ほど減ったものの、「秀頼公は浪人として朽ち果てるのみだった自分を召し抱えてくれた。諸将に先駆けて討死するのが何よりの御奉公だ」(後藤又兵衛)と士気は高く、関ヶ原以降、世間に居場所のなかった多くの浪人たちは「やっと死に場所を得た」と果敢に戦った。一方の徳川軍は家康の命令で参戦しているだけという兵も多く、開戦前に家康が豪語した「今度は手間もかかるまい。(食料は)3日の腰兵糧で十分」という訳には簡単にいかなかった。豊臣軍は堀の消えた大坂城への篭城を止めて野戦を選び、倍以上もの敵兵へ突撃していった。最大の激戦となったのは5月7日。真田幸村が茶臼山・岡山付近で徳川勢の一瞬の防御の隙を突いて家康の本陣(!)に斬り込み、一時は家康が腹を切る覚悟をするほどの大乱戦となった。しかし、やはり多勢に無勢、最終的に幸村は討たれ、豊臣軍の各武将はことごとく散り果て、主力部隊は壊滅した。

翌5月8日、開戦から10日目にして大坂城は完全に包囲された。秀頼は武士として死に花を咲かせる為に出馬を試みたが、重臣に「最期まで本丸を守り、力尽きた後に自害すべき」と諭され出撃を断念。16時頃、裏切り者が城内に火をかけ騒然となる。1時間後に二ノ丸が陥落。続々と武将が自害していく。やがて天守閣が炎上し、秀頼は城内の山里丸(茶会・能を楽しむ場所)に隠れたが、そこも徳川軍に包囲された。彼は妻であり家康の孫・千姫を引渡すことで助命を願ったが、家康はこれを頑なに拒否。山里丸への射撃が始まり秀頼は淀君と共に自害した。享年21歳。
秀頼は一男一女をもうけたが、息子の国松は落城後に逃亡中、自分のことを「若君様」と呼んだことから素性がバレ、まだ7歳なのに市中車引き回しの後、六条河原で乳母と供に斬首された(逃亡15日目)。生かしておくと反徳川の盟主にされるからだ。家康非情なり。娘の奈阿姫は千姫の尽力で(跡継ぎができぬよう)出家を条件に助命され、鎌倉東慶寺に入った。彼女は1645年に36歳で没し、これで完全に秀吉の直系は途絶えた。

秀頼は自害の際に毛利勝永が介錯をつとめたと伝えられるが、実は落城後に秀頼の遺骸が発見されていない。墓所は清凉寺(首塚)のほか東山区養源院にもあるが、鹿児島にも2ヶ所、大分にも1ヶ所あり、熊本城の「昭君の間」が秀頼の居室という伝承もある為、炎上する大坂城から島津・加藤ら九州勢の武将が、薩摩や琉球に脱出させたという説がある。しかも夏の陣の後、大阪では「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きものいたり鹿児島へ」というわらべ歌まで流行ったという。だが、どちらにせよ、2度と豊臣の名は歴史に登場していない。

※明治以降に「大坂」は「大阪」と表記されるようになった。
※九州脱出説とリンクしているのか、天草四郎の父親という噂もある。



★大谷 吉継/Yoshitsugu Otani 1559-1600.9.15 (岐阜県、不破郡、関ヶ原 41歳)2006



左後方の墓は側近の湯浅五助 西軍の吉継の墓を建てたのは、なんと敵方(東軍)の藤堂家! 側には藤堂の子孫が建てた巨大な追悼碑!

豊臣秀吉をして「吉継に100万の兵を与え自由に指揮させてみたい」といわしめた武将。ハンセン病を患い頭部を白い頭巾で隠していた。石田三成の親友だが家康とも良好な関係だった為、関ヶ原の合戦前に3度にわたって「今の家康には勝てぬ」と三成に挙兵をやめるよう説得を試みた。しかし三成の意思が固いことを知り、西軍につくことを決意。合戦当日は死装束を着用し、6千の兵を率いて参戦した。彼は小早川秀秋の裏切りを予測し、小早川の陣に一番近い場所へ布陣。合戦開始後、東軍の藤堂高虎、京極高知らの軍勢を蹴散らした。やがて小早川が寝返ったが、脇坂安治らその他の武将も裏切ったのは予想外だった。吉継は小早川1万5千の大軍を何度も押し返したが、側面の他武将の攻撃にはさすがに持ちこたえられず、小姓の湯浅五助に「私の醜い顔を敵に晒すな」と伝え自害した。五助は首を埋葬している所を藤堂高刑(たかのり、藤堂高虎の甥)に発見されたが、「私の首を差し出すのでこの場所のことは黙っててくれ」と頼み自らを斬らせた。五助の首実検の際、藤堂高刑は家康から「五助は主君の首を隠したのではないか?」と問いただされると「はい、存じております。しかし彼と最後に約束したことゆえ、武士として他言できませぬ。私を御処分下さい」と正直に返答。家康は「場所を言えば手柄となるのになんと律儀な若者か」と褒め、罰する代わりに自分の槍と刀を与えたという。
関ヶ原の合戦前に「吉隆」と改名し墓所も大谷吉隆になっていた。



★藤堂 高虎/Takatora Todo 1556.1.6-1630.10.5 (三重県、津市、寒松院 74歳)2006









史跡『寒松院(かんしょういん)藤堂家墓地』 激動の時代を74歳まで生き抜いた 右手前が初代津藩主の高虎。左に2代高次、3代高久

藤堂家の墓地は何と上野動物園の中にもある!藤堂家の屋敷跡に動物園が作られた。墓所は動物慰霊碑の真後ろ。歴代17基の墓があり、
高虎の墓は西側中央。写真ではちょうど木の背後に隠れてしまっている(涙)。他の写真はピンボケだった…なんてこったい!

滋賀出身。身長190cmの巨漢。「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」とあっけらかんと言い放ち、自分を高くかってくれる主君を求めて、
浅井→織田→豊臣→徳川と次々居場所を変えていった。東軍として参戦した関ヶ原の戦いでは、敗将三成や大谷吉継を高く評価する男気を見せる。
家康は高虎の変わり身の速さを、冷静な判断力のなせるものと前向き捉えた。家康の臨終時に立ち会いを許された外様大名は高虎1人だったという。

※高虎の墓は後に江戸から現・三重県津市に改葬され、今ではそちらがメインの墓として認知されているようだ。




★直江 兼続/Kanetugu Naoe 1560-1619.12.19 (山形県、米沢市、林泉寺 59歳)2007

  

  
直江兼続は主人公にした『天地人』が09年の大河ドラマに決定したので、墓の周囲は旗で埋まりエライことに!






奥の墓は夫人の墓。仲睦まじく並んでいる 五輪塔が入っている 兼続といえば“愛”の兜!戦場で会えば敵でさえ感動するかも

  
この墓地の墓は、五輪塔が石格子の中に入っている特異なスタイルだ。
これは戦時に鉄砲隊の柵として流用できるよう、兼続が考案したとのこと。さすが名将!

兼続が仕えた上杉景勝の墓。この廟の中に眠る(米沢市上杉家廟所)

坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主で上杉謙信の遠縁・長尾政景に仕えた樋口惣右衛門の長男。樋口家の祖先は平安末期の猛将、木曾義仲を支えた義仲四天王の樋口兼光(巴御前の兄)と伝えられる。兼続誕生の翌年に有名な第4次川中島合戦が行われた。長尾政景の死後は子の景勝に仕えていたが、景勝が謙信の養子になったことから、兼続も謙信に感化されて学問に親しむ(15歳頃)。兼続はその美貌と才気により謙信から寵愛されたとも伝えられる。1578年(18歳)、謙信が死去。実子がいなかった為に、後継者争いが2人の養子、景勝と景虎の間に起こり景勝が勝利する(御館の乱)。21歳、上杉の重臣・直江信綱が私闘で絶命し、名門の直江家が断絶することを惜しんだ景勝は、直江信綱の未亡人“お船”の下へ兼続を婿入りさせた。以降、直江兼続を名乗る。名門を継いだことで、兼続は上杉の執政(家老)となって支えることになる。その翌年、武田を滅ぼした織田軍が勢いに乗って上杉を攻め始め大ピンチに。ところが6月に本能寺の変が起きて信長が死に、兼続の根回しで景勝は秀吉と和睦し上杉を残した。1592年(32歳)、秀吉の命で、景勝、兼続らは朝鮮へ出兵。1598年(38歳)、上杉は会津へ加増移封され同年に秀吉死去。
 
1600年、景勝が会津若松のインフラ整備を進めると、家康はこの動きに謀反の疑いを持ち、景勝に上洛して弁明するよう求めた。兼続はこれに対して“こんなことでいちいち謀反呼ばわりされてはたまらない、心配なら見に来ればいい”“家康殿が人を疑うのは、人間にやましいところがあるからではないか”と上洛を拒否する「直江状」を家康に送りつける。家康は激怒し5万の兵で会津へ進軍を開始した。家康が東に向ったことを知った石田三成はこのタイミングで挙兵(三成と兼続は友人同士)。慌てて家康が西に戻ると、兼続は北の最上領に進軍し、最上軍&援軍の伊達軍と戦った。関ヶ原で家康が勝利したことを知った景勝は兼続に戦闘の中止を命じた。西軍の敗北を知らされた兼続は自害しようとするが、親友の前田慶次(前田利益)がこれを止めた。この退却戦で兼続は効果的に鉄砲隊を運用し、殿軍の前田慶次の活躍もあって、兼続はほとんど損害を出さずに最上と伊達の追撃を振り切り、悠々と米沢城へ帰還した。この華麗な退却戦は敵である最上や家康までが賞賛し、後世まで語り草となった。その後の兼続は、54歳で大坂の陣に参戦し、翌年に家康の訃報を聞き、1619年に59年間の波乱の生涯を終えた。その死に際し、景勝が香典として銀50枚、将軍秀忠が銀70枚を供えた。兼続は側室を置かずにお船だけを愛し抜き、2人の墓は林泉寺の墓地に並んでいる。(徳昌寺から改葬)
 
※高野山清浄心院の上杉家墓地の西隣にも夫婦の遺骨が納められているらしい。
※兼続の兜には「愛」の一字が前立にあしらわれていた。この「愛」は愛染明王が由来とされている。
※兼続は蔵書家としても有名。所持本の何点かは現在国宝に指定されている。第一級の文化人であり文武両道の典型だ。
※著書『四季農戒書』『軍法』を残している。
※江戸城で兼続が伊達政宗とすれ違った際、大名(伊達)に挨拶をしない兼続の無礼を政宗が咎めた。これに対し「(敗走する)後姿しか拝見した事がなく、お顔を存じ上げませんでした」と答えたという。
※江戸中期の逸話集『常山紀談』では、兼続のことを「大男にて、百人にもすぐれたるもったいにて、学問詩歌の達者、才知武道兼ねたる兵なり」「弁舌明に殊更大胆なる人なり」と高評価。
※秀吉は兼続が欲しくて山形30万石を贈与するなど何度も引き抜き工作をするが、忠義に厚い兼続はこれをすべて断ったという。



★前田 慶次/Keiji Maeda 1543-1612.6.4 (山形県、米沢市、善光寺 69歳)2007

男も惚れる男。マンガ『花の慶次』の主人公!

善光寺は田んぼの中の小山にある。慶次はこの地に
『無苦庵』を構え、悠々自適に花鳥風月を楽しんだという
米沢駅からレンタサイクルのペダルをこぎまくり。地図で
見ると近いのに、なかなか着かない。しかも道に迷った

墓を風雪から守るお堂は
06年に完成したばかり
後世に作られた墓(供養塔)ではあるが、一般のように五輪塔を墓石にするのではなく、石板に
レリーフの如く五輪塔が“彫られている”という、見たこともないか傾(かぶ)いた墓だった!

墓前にはいろんな酒があった!












宮坂考古館は個人施設と思えない充実ぶり!
米沢駅の近くに建っている

人気No.1の展示品、前田慶次の甲冑!編み笠のような兜、
巨大な襟、龍のウロコのような肩当てなど異例尽くし。
傾き者に相応しいものだ(画像は宮坂考古館パンフより)
なんと慶次自筆の和歌も現存!
(慶次遺品展パンフより)


本名前田利益(とします)。前田利家の義理の甥。勇猛果敢に大きな赤槍を振り回し戦場で功績をあげ、一方では和歌や書、文学をこよなく愛していた“かぶき者”。養父であった前田利久(利家の長男)が信長の気を損ねたことから、利久ともども荒子城を追われて流浪の身となる。1569年(26歳)から約15年は消息が分かっていない。1584年(41歳)の記録では慶次は加賀藩に身を置いていた。関ヶ原の合戦前には直江兼続の元にいて、最上の攻略戦でしんがりを引き受け、無事に味方を撤退させた。晩年は米沢の堂森に居(無苦庵)を構えて、自然を愛し、最後まで自由奔放に生きたという。

宮坂考古館では本物の火縄銃を持たせてくれる。時代劇では銃を持って走っているが、重すぎて
とてもじゃないが走れない!片手では持つなど絶対に無理。まさに鉄塊!(許可を得て撮影)



★加藤 清正/Kiyomasa Kato 1562.6.24-1611.6.24 (熊本県、熊本市、本妙寺 49歳)2008

  
墓所の本妙寺の裏手の山にある高さ8.2mの巨大銅像!熊本市内を見下ろしている

 
清正が葬られた場所に立派な霊廟(清正廟)が建っている。この建物自体が彼の墓だ。
清正の遺言によって熊本城の天守閣と同じ高さに建てられている

 
築城の天才だった清正は、天下の名城・熊本城を残した

安土桃山〜江戸時代初期の智勇兼備の名将。尾張(愛知)の鍛冶屋の息子で秀吉と同郷。幼名は夜叉丸、元服後は虎之助清正。母親が秀吉の母と従姉妹だったことから、長浜城主となった秀吉に10代半ばで仕官。1583年(21歳)、秀吉が信長の後継者争いで柴田勝家と賤ヶ岳で激突した際、苦戦する中で清正が一番槍を名乗って突っ込み、敵の鉄砲隊を蹴散らしたところへ福島正則(親友)ら6人が続いて勝利に繋がった。この7人が後に「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる。続く小牧・長久手の戦いでも手柄を立て、19万石の熊本城主となった。1591年(31歳)、秀吉から朝鮮出兵を命じられライバルの小西行長と共に半島を攻略。漢城(ソウル)を制圧し、その先の開城(ケソン)で2人の王子を捕縛するなど大暴れ。朝鮮の人々から「鬼(幽霊)上官」と恐れられた。慶長の役では明の大軍の猛攻を蔚山(ウルサン)にて地獄の籠城戦でしのぎきる。
秀吉死後、武断派の清正は文治派の石田三成と対立。関ヶ原の戦いでは、九州から西軍勢を駆逐した。結果、肥後(熊本)&豊後(大分)を支配する54万石の巨大大名となった。そして堅牢の誉れ高い今の熊本城を築城。この城が徳川の脅威にみられないよう、外観を黒く塗ることで城を小さく見せた。
清正は内政・経済にも良く通じ、長年の戦乱で農村が荒廃したため、有明海に堤防を作って新田を干拓し、川の流れを変えて農地を作った。治水や新田開発の名手腕により、地元の人々から“清正公(せいしょこ)さん”と呼ばれ、今でも土木の神様として祀られている。先見性は貿易にも発揮され、麦を特産品化し、フィリピン、タイ、ベトナムなどへ巨大通商船を出して大きな利益を上げた。晩年は江戸城や名古屋城の築城も手掛け、『論語』を好み文学や芸道をよくした。
家康に忠節を尽くしながらも、秀吉への恩から豊臣家の存続に心を砕き、1611年(49歳)、豊臣秀頼と家康の和解会見を成功させる。しかし、この会見の帰路に急死したことから家康による毒殺説がある。死後、豪放な人物像が江戸時代の庶民に愛され、講談や小説などを通して武勇談が語られた。
 
※清正は領内の土木作業に際し、男女関係なく人々を動員したが、過度な労役を課さず農作業の時間を確保し、ちゃんと給金を払ったことから領民も進んで協力した。
※熱心な日蓮宗信者でキリシタン信徒への苛烈な弾圧策をとった。
※鹿児島で西郷の悪口を言えないように、熊本で清正の悪口を言うのは命がけ。
※拳が口に入ったという逸話があり、清正を尊敬していた近藤勇が真似をして拳を口に入れていたらしい。

熊本城の前の清正像



★島津 義弘/Yoshihiro Shimazu 1535.7.23-1619.7.21 (鹿児島県、鹿児島市、福昌寺跡・島津家墓地 83歳)2008

  
JR伊集院駅前の島津義弘像。ここまでカッコイイ銅像はそうそうない。島津ファンは必見だ!

戦国のバーサーカー(狂戦士)軍団とは義弘軍のこと 絶対に戦いたくない

(1)1572年(37歳)、日向の伊東軍3000人が島津に侵攻してくると、義弘が300人でこれを奇襲して撃破(木崎原の戦い)。10倍の敵を倒したことからこの戦は「九州の桶狭間」といわれる。
(2)1598年(63歳)、慶長の役の泗川(しせん)の戦いでは、明軍・朝鮮軍の巨大連合軍20万人を、わずか7000人で叩きのめし、島津側の記録では敵兵約4万人を討ち取り、敗北した明国の記録に至っては戦死者約8万人となっている。家康は「前代未聞の大勝利」と仰天した。
(3)1600年(67歳)、関ヶ原の戦いで義弘は西軍として参戦。合戦が始まり西軍敗北が決定的になると、義弘は家康本陣の側を駆け抜ける“中央突破”で戦場を脱出する。関ヶ原で義弘が率いた1500人のうち生存者はたったの80数名。義弘と兵の信頼関係はあつく、多くの兵が義弘を逃がす為に盾となって突撃していったからだ。
※三男の忠恒は初代薩摩藩主となった。

(この項はまだ追記します!)



★木村 重成/Shigenari Kimura 1593-1615.5.6 (大阪府、八尾市、木村公園 22歳)2007








東大阪市の蓮城寺に位牌がある 義を重んじ義に散る 霊牌所の外観


 
蓮城寺の近所の廃墟チックな場所に石像発見 銅像の顔は22歳に見えないオッサンだが、甲冑はかなり精密

以上が東大阪市側にある重成ゆかりの地。そして第2寝屋川の流れを挟んで、八尾市側には木村公園と墓がある。
一方は位牌と石像、一方は墓と公園いう具合に、“重成公は我が市の英雄”と互いに競っている状態







木村公園の入口 公園で遊ぶ子ども達を見守るかの如く、隅に墓所がある 有名な武将でも荒廃した墓が多い中、これだけの施設を作ってもらえた重成は幸福者

実母は豊臣秀頼の乳母であり、秀頼と重成は同い年の幼馴染み。当然ながら大坂冬の陣で豊臣方として参戦し、砦攻防戦で徳川の大軍を蹴散らし武勇を世に知らしめた。さらに翌年の夏の陣では徳川勢の藤堂高虎軍の右翼を撃破。重成は「この程度の勝利はものの数ではない」と言い残すと井伊直孝隊(直政の次男)に斬り込んで行き、激戦の末に討ち取られた。22歳の短い人生だった。戦の後に家康が重成の首級を首実検すると、重成の頭髪には香が焚きこめてあり良い匂いがした。つまり、重成は最初から首を落とされる気で戦にのぞんでいたんだ。家康は重成の覚悟を知り感嘆したという。
今の墓は1764年の150回忌の際に、重成の首を落とした安藤長三郎の子孫が建てたものだ。

※冬の陣で名将・真田幸村は豊臣方についたが、幸村の兄・信之は徳川方についた。しかし信之は病気で出陣できず代わりに2人の若い息子が出陣。敵ながら幸村の甥っ子たちの巧みな攻撃に感心した重成は、自分の鉄砲隊に「あの六文銭(真田紋)の2人を撃つなよ。鉄砲なんかで殺してはならん」と命じた。武士たるもの、鉄砲ではなく斬り合って勝敗を決すべし、それが重成の美学だった。八尾合戦での重成戦死の報を聞いた真田幸村は「あの男も逝ったか」と落胆を隠さなかったという。


【 山口重信の墓 】

  


無名に近い武将だが兄弟の手でこんなに立派な墓が 『ワンピース』のゴーイング・メリー号にソックリ(笑)

ちなみに重成の墓の背後を流れる川の対岸には、大坂夏の陣の「若江の戦い」で木村軍に対して先陣を切った徳川勢の
武将山口重信の墓がある。彼は没落した家を復活させるべく武功を上げようと果敢に突撃し、5騎を倒すも26歳の
若さで討ち死にした。巨大な墓石(3m)は亀の背に載っており、倒壊防止の為に鉄柱で周囲を補強されていた。



重信の墓は 1647年に弟の手で建てられて以来、本体も碑文の当時のまま。一度も移転することなくずっと同じ場所にある。
1801年の『河内名所図会』では、徳川の治世でもあり、対岸にある豊臣方の木村重成の墓よりも大きく描かれていた。
※木村重成の墓はこの頃から既に二本松が描かれているね。今の二本松と同じなのかな?



★前田 利長/Toshinaga Maeda 1562.1.12-1614.5.20 (富山県、高岡市、前田利長公墓所 52歳)2008




 
利長公墓所のオシャレな案内板 墓所参道の利長像。兜がめっさビヨ〜ンとなってる















菩提寺の瑞龍寺と利長の墓所は長い一本道で
結ばれてる。嬉しいことに虹が出た
  墓石だけで8m以上、
地表から墓頭まで12mもある!
利長の三十三回忌に弟の利常が建立。
武将の墓では日本一の大きさだッ!

瑞龍寺には利長の分骨墓がある。右手前から利長、利家、
織田信長、信長側室、織田信忠。なんとも壮観な眺め!
(富山県高岡市・瑞龍寺)
利長だけ壁面に二十五菩薩が
彫られている。美しい石廟だ

戒名は「瑞龍院殿
聖山英賢大居士」


前田利家の嫡男。正室は織田信長の娘・永姫。加賀藩の礎を築く。秀吉配下の武将として各地を転戦し、秀吉の天下統一を助ける。1599年(37歳)、豊臣政権の五大老を務めた利家の跡を継ぎ五大老に就任。家康は前田家を失墜させるべく謀反容疑で征伐を試みるが、利長の母・芳春院(まつ)が自ら人質となって江戸へ赴き、また、利長の弟・利常と秀忠の娘・珠姫が結婚することで和議が成立し戦争は回避された。関ヶ原の戦いでは東軍について軍功をあげ、加賀・越中・能登を支配する120万石の巨大大名となる。1609年(47歳)、隠居生活を送っていた富山城が焼失。高山右近に命じて新たに高岡城を築く。その5年後に同城で病没。享年52歳。



★後藤 又兵衛/Matabe Goto 1560.4.10-1615.5.6 (鳥取県、鳥取市、景福寺 55歳)2008



山門前の石柱に「大坂陣豪将・後藤又兵衛父子之墓」 「後藤又兵衛一族の墓所」 右から夫人、又兵衛、子の為勝の墓

黒田如水、豊臣秀頼の家臣。後藤基次。通称は又兵衞。幼くして父を亡くし、父の友人・黒田如水の家臣として育てられる。豪将となり無数の武功を重ね、朝鮮や関ケ原でも大奮戦した。一方、如水の子・黒田長政との仲は最悪で、如水が他界すると又兵衛は一家で黒田家から出て行った。これに対し長政は又兵衛を切腹に次ぐ重刑、奉公構(ほうこうかまい、再仕官禁止)に処した。おかげで各地の大名が又兵衛を欲しがっているのに仕官が出来ず、長期の浪人生活を強いられ物乞いにまで身をやつしたという。1614年(54歳)に大坂冬の陣が勃発すると、家康は莫大な恩賞で又兵衛を味方に引き入れようとしたが、又兵衛はこれに感動しつつも筋を通すため大坂城に入った。「秀頼公には先陣を務めることで、家康公には合戦初日に死ぬことで御恩に報いよう」(又兵衛)。翌年5月の大坂夏の陣では兵2800を率いて、真田幸村、木村重成らと共に大いに暴れたが、伊達政宗軍の片倉重長(片倉小十郎の嫡男)の鉄砲隊に腰を撃たれ歩けなくなった。観念した又兵衛は「もはやこれまで」と自害した。
その後、又兵衛の妻は夫の遺髪を胸に実家の岡山へ帰る。妻の実家は池田氏の家臣であり、主君が鳥取に移る際に又兵衛の遺族も共に移り、夫人は景福寺を後藤家の菩提寺として遺髪を埋めた。



★黒田 長政/Nagamasa kuroda 1568-1623.8.29 (東京都、渋谷区、祥雲寺 55歳)2008&09

  
大きな墓石が木のお堂の中に入っていた(祥雲寺)2008

 

こちらは福岡市崇福寺の墓。黒田家墓所に眠る (2009) 本堂で墓所の鍵をもらって墓前に(2008)



左が長政。奥の茶色い墓石は父の如水。緑が眩しい 冬場はとても寂しい墓地になる

秀吉、家康に仕えた猛将で、筑前国福岡藩の初代藩主。智将・黒田如水の子。キリシタンとしての霊名はダミアン。子ども時代に父・官兵衛の裏切り(本当は裏切ってなかった)に怒った信長に殺されかけたが、秀吉の軍師・竹中半兵衛にかくまわれ命を救われた。この時、竹中半兵衛の領地が関ヶ原のすぐ近くだったことから、当地の地理に詳しくなり、関ヶ原の戦いでは他の東軍武将に先駆けて石田本陣にたどり着いた。また、調略担当として小早川秀秋ら諸将の寝返り交渉を成功させるなど、一番の武功を挙げた。
石田三成とは不仲だったが、捕らえられた三成を前にした時、侮蔑の言葉を浴びせずに馬を降りて敬意を示したと伝えられる。
※藩の絵師に“戦国のゲルニカ”と呼ばれる『大坂夏の陣図屏風』を描かせたことでも知られる。大坂の庶民が戦に巻き込まれ、虐殺される様子が克明に描かれた衝撃的な屏風だ。



★毛利 輝元/Terumoto Mouri 1553.1.22- 1625.4.27 (和歌山、伊都郡、高野山奥の院 72歳)2005



幼名幸鶴丸。中国地方10カ国という広大な領国を支配し、都を追われた足利義昭をむかえ信長に対抗した。
関ヶ原の戦では西軍の総大将を務める(大坂城にいた)。合戦後は120万石を37万石に大減封されトホホ…。



★島津 忠恒(家久)/Tadatune Simazu 1576.11.7-1638.4.7 (和歌山、伊都郡、高野山奥の院 62歳)2005



初代薩摩藩主。島津の最強武将・島津義弘の三男。琉球王国を支配下におき、海外貿易で得た資金により大薩摩の基礎を作る。
忠恒の息子で二代藩主となった島津光久(1616-1696)、その光久の長男綱久も共に眠る。



★阿部 弥一右衛門(やいちえもん)/Yaichiemon Abe ?‐1641.5.9 (熊本県、熊本市、北岡公園)2008


ズラリと並ぶ殉死者 第3代細川忠利の墓。主君を追って家臣19人が殉死した 阿部弥一右衛門の墓





この細川藩墓所には第4代細川
光尚を追った11人の家臣の墓も…
主君忠利と向き合う弥一右衛門の背中(手前)

弥一右衛門は後年になって一番端に移されてきた


熊本の細川家に仕えた阿部弥一右衛門と彼の一族は、日本歴史文学の最高傑作とされる森鴎外の作品で一躍有名になった。1641年、3代目細川藩主が病で逝くと、側近の家臣たちはあの世で主君に仕える為に、追腹(おいばら)を切って殉死した。弥一右衛門も殉死したが、許可のない追腹だったので処罰の対象となってしまった(殉死は藩内で高い地位にあった者が、主君から許しを得た場合に限って行なうことの出来る“特権”だった)。命を捧げたことが罪になる悲劇!細川藩は阿部一族に藩兵を差し向け、進退きわまった弥一右衛門の息子たちは武装して迎え撃つ…。(詳細は下記の烈風伝へ)

墓は熊本駅から徒歩20分。メインストリートから遠く離れた北岡公園に大名細川家の墓所があり、3代目忠利と4代目光尚の霊廟を30個の墓が取り囲んでいた。忠利に19人、光尚に11人の家臣が、追腹を切って命を捧げたのだ。
僕は墓所のド真ン中に立ってみた。右も左も見渡す限りの家臣の墓。他の大名の墓もこれまでいくつか見てきたが、こんなに殉死者を見たのは初めて。“名誉の死”だろうが、自分には凄惨な光景にしか見えなかった。
広大な敷地には人っ子一人おらず、蝉しぐれだけが墓地に響いていた。

(阿部一族の烈風伝へ)



★浅野内匠頭/Takuminokami Asano 1667.8.11-1701.3.14(東京都、港区、泉岳寺 34歳)2000&07
★大石 内藏助(赤穂藩家老)/Kuranosuke Ooishi 1659-1703.2.4(東京都、港区、泉岳寺 44歳)2000&07
★四十七士(赤穂浪士)/Shijyuushiti








泉岳寺の大石内蔵助像 主君の仇を討つべし! 吉良邸への討ち入り。門を叩き壊す


泉岳寺の立派な山門 左奥の井戸で吉良の首級を洗った








浅野内匠頭(浅野長矩)の墓(2007) 大石内蔵助(大石良雄)の墓(2007) 2000年当時


四十七士たち。右奥に大石と浅野の墓が見える(2007) 2000年

  
一段上の写真はガラガラに見えるけど、実はこのようにものすごい墓参者の数です!

1701年3月14日江戸城。兵庫県赤穂の城主・浅野内匠頭(浅野長矩、ながのり)は、江戸城での儀礼作法を幕臣・吉良上野介に学ぶ際にワイロを求められた。吉良の要求を拒否したところ、指導が不親切であったばかりでなく、浅野の失敗をあざ笑ってイモ侍呼ばわりする為、プッツンした浅野は松の廊下で吉良に切りかかった。神聖な江戸城内で刀を抜くというのは前代未聞であり、浅野は即日切腹、将軍家との御家断絶を言い渡された。一方、身分の高い吉良は一切おとがめなし。
1702年12月15日、赤穂藩の家老・大石内蔵介を筆頭に47人の藩士(正確には一人逃げたので46人)が吉良邸に討ち入り、見事主君の敵を討った。そのまま彼らは泉岳寺に眠る浅野の墓に向かい、墓前に吉良の首を捧げた。

その後、藩士たちは幕府からの処分を待ち続ける。幕府内には大石らを忠義に厚い武士の鑑とする同情論があったが、将軍家お膝元の江戸本所で47人が刀を振り回すという行為は、幕府が日頃から繰り返し強調してきた一揆・徒党を禁ずる法を真っ向から破ることになり、事件から一ヶ月半後、全員に切腹の判決が下った。大石らの赤穂藩再興の夢は虚しく散り、2月4日、同時刻に46人がいっせいに自ら腹を切り裂いた。

『忠臣蔵』がテレビや映画で有名だからといって、観光気分で泉岳寺に行くとえらい目にあう。非業の死を遂げた四十七士が円陣を組むように葬られており(写真参照)、この真ん中に立つと額から冷たい汗が滲んでくる。幕命とはいえ、自ら命を絶った約50人の人間に前後左右を囲まれ、テレビや活字で触れる数字としての「47」と、目の前にズラリと並ぶ47人分の墓との数の重みの違いに絶句した。

〔 1703年2月4日に切腹した全46人の名、役職、享年 〕※17歳〜76歳!
1.大石内藏助良雄(赤穂藩家老)44歳、2.吉田忠左衞門兼亮(足軽頭,郡奉行)62歳、3.原惣右衞門元辰(足軽頭)55歳、4.片岡源五右衞門高房(内証側用人兼小姓頭)36歳、5.間瀬久太夫正明(大目附)62歳、6.小野寺十内秀和(京都留守居)60歳、7.間喜兵衞光延(,馬廻勝手方吟味役,山奉行)68歳、8.磯貝十郎左衞門正久(物頭並側用人)24歳、9.堀部彌兵衞金丸(元江戸留守居役)76歳、10.近松勘六行重(馬廻)33歳、11.富森助右衞門正因(馬廻兼使番)33歳、12.潮田又之丞高教(国絵図奉行兼郡奉行)34歳、13.早水藤左衞門滿堯(赤穂藩士,馬廻)39歳、14.赤埴源藏重賢(馬廻)34歳、15.奧田孫太夫重盛(江戸詰武具奉行)56歳、16.矢田五郎右衞門助武(江戸詰武具奉行)28歳、17.大石瀬左衞門信清(馬廻)26歳、18.大石主税良金(大石内藏助良雄の子)15歳、19.堀部安兵衞武庸(江戸常詰馬廻)33歳、20.中村勘助正辰(祐筆役)47歳、21.菅谷半之丞政利(馬廻兼郡代)43歳、22.不破數右衞門正種(馬廻,浜辺奉行,普請奉行)33歳、23.千馬三郎兵衞光忠(馬廻兼宗門改役)50歳、24.木村岡右衞門貞行(馬廻役,国絵図奉行)45歳、25.岡野金右衞門包秀(赤穂藩士)23歳、26.貝賀彌左衞門友信(中小姓兼蔵奉行)53歳、27.大高源五忠雄(膳番元方,腰物方,金奉行)31歳、28.岡島八十右衞門常樹(札座勘定奉行)37歳、29.吉田澤右衞門兼貞(蔵奉行)28歳、30.武林唯七隆重(馬廻,中小姓)31歳、31.倉橋傳助武幸(扶持奉行兼中小姓)33歳、32.間新六郎光風(浪人)23歳、33.村松喜兵衞秀直(江戸常詰扶持方奉行)61歳、34.杉野十平次次房(札座横目)27歳、35.勝田新左衞門武堯(中小姓,札座横目)23歳、36.前原伊助宗房(中小姓,扶持方奉行)39歳、37.小野寺幸右衞門秀富 (赤穂藩士)27歳、38.間十次郎光興(赤穂藩士)25歳、39.奧田貞右衞門行高(,加東郡勘定方)25歳、40.矢頭右衞門七教兼(赤穂藩士)17歳、41.村松三太夫高直(赤穂藩士)26歳、42.間瀬孫九郎正辰(赤穂藩士)22歳、43.茅野和助常成(横目)36歳、44.横川勘平宗利(徒士横目,焔硝蔵奉行)36歳、45.三村次郎左衞門包常 (台所役,酒奉行)36歳、46.神崎與五郎則休(足軽徒士目付,郡目附)37歳



1994 こちらは高野山中の浅野内匠頭の墓 2005 白い案内柱が新しくなっていた



★ナポレオン/Napoleon Bonaparte 1769.8.15-1821.5.5 (パリ、アンヴァリッド 51歳)1989&2002
Les Invalides, Paris, France


パリ中心のナポレオンが眠るアンヴァリッド(廃兵院)
の外観。手前の芝生はパリっ子の憩いの場だ
エッフェル塔の後方、左端の金色の屋根がアンヴァリッド。超一等地!









超巨大なナポレオンの墓。後ろの
人影と比べてミソ。Oh,クレイジー!
フランス革命の頃の
ナポレオン(24歳)
ダヴィッドが描いた
「ナポレオンのアルプス越え」

19世紀最大の軍事戦略家&天才政治家。コルシカ島出身の田舎の貧しい青年が、ついには皇帝まで登りつめるという激動の人生を送る。仏以外の欧州の人々にとっては危険な侵略者であるが、エジプトを攻略する際にわざわざ200人の学術調査団を従軍させたように、単に破壊を好むだけのアホ暴君と違う学者肌の男だった。35歳でフランス皇帝となったナポレオンは法律学を猛勉強し、個人の権利、私有財産の尊重、法の前での万人の平等を明文化した、世界三大法典のひとつ『ナポレオン法典』を執念で完成させる。皇帝の戴冠式の際、慣例ではローマに赴くところを、逆に法王をパリに呼び寄せ、しかも法王の手から冠を奪い取って自信の手で頭に冠を載せるという前代未聞の行動に出た。彼は法王という人間ではなく、神から直接選ばれたことを民衆にアピールしたのだ。

1812年の時点でナポレオンが支配していた領土は現在のポルトガル、スペイン、イタリア、スイス、オランダ、ベルギー、ドイツ、ポーランド、オーストリア、エジプト。彼は欧州に850年続いた神聖ローマ帝国を解体させた。しかし、調子をこいてロシアまで手を伸ばしたのがアダになる。モスクワを占領したものの、それは内陸部へ引き込む為のロシア側の罠であり、補給ラインが伸びきったところに冬将軍(大寒波)が直撃。飢えとゲリラの攻撃も加わり、70万の大軍のうちフランス本国に帰還できたのはたったの2万人という大敗北を喫した。
欧州各国の反撃が始まり、ついにパリは陥落。ナポレオンはエルバ島に流される。その後、いったん帝位に返り咲くが百日天下に終わり、今度は南大西洋に浮かぶ絶海の孤島セントヘレナに流された。6年後「フランス、軍隊、先頭…」を最後の言葉に病で死す。

「私はセーヌ河のほとりでフランス国民に囲まれて眠りたい」という生前の願い通り、現在ナポレオンはセーヌ川に近いパリ中心部のアンヴァリッドに眠っている。

【豆知識】
ナポレオンが一日三時間しか寝なかったのは夜の話。しっかり昼寝を取っていた。/有名なアルプス越えの絵で、実際にナポレオンが乗っていたのは白馬ではなくただのロバ。/ブレザー等の袖ボタンは、ロシア遠征の時にフランス兵が袖で鼻水を拭えないようにする為に彼が付けた。/2度、自殺未遂をしている。/シャンパン風呂に入っていた。/暗殺を恐れて自分で髭を剃っていた。/愛読書はゲーテ作『若きウェルテルの悩み』。生涯に7度も読み返している。



★ネルソン提督/Admiral Horatio Nelson 1758.9.29-1805.10.21 (イギリス、ロンドン 47歳)2002
Saint Paul's Cathedral, London, England
   

19世紀初頭のイギリス艦隊の提督で英国の国民的英雄。皇帝となったナポレオンは欧州全土に戦線を広げ、イギリス本土にも侵攻計画を練り、フランス・スペイン連合艦隊を編成した。迎え撃った英国側のネルソンは、コルシカ島の対仏戦で右目を失い(35歳)、カナリア諸島での対スペイン戦で右腕を失った(39歳)。最大の決戦となったトラファルガー沖の海戦では、英国側の方が艦隊数で劣っていたにもかかわらず、フランス・スペイン艦隊の3分の2を壊滅させ、死傷者7千人という大打撃を与えた。一方、この決戦でのイギリス艦船の損害はゼロ、死傷者は1500人にとどまったが、ネルソンは流れ弾に当たって戦死した。最後の言葉は『神よ感謝します、私は義務を果たすことができました』。ナポレオンの英国への侵攻を断念させたこの勝利を記念して、ロンドンの有名なトラファルガー広場には、ネルソンを称えた巨大円柱が建てられた。
※肖像画で2枚とも右腕を隠しているのは失ったため。



★デイヴィッド・クロケット/David Crockett 1786.8.16-1836.3.6 (USA、テキサス州 49歳)2009
San Fernando Cathedral , San Antonio, Bexar County, Texas, USA







クロケットたちが玉砕したアラモ要塞 門の左にある木の下で死んだ 墓は同市の聖フェルナンド大聖堂に

クロケットらテキサス義勇兵約200人VSメキシコ軍1600人がアラモ要塞攻防戦で激突。テキサス側の義勇兵はことごとく戦死し全滅した。



★立花 宗茂/Muneshige Tachibana 永正10(1567)11.18-寛永19(1643)11.25 (福岡県、柳川市、福厳寺 76歳)2009

立花家の菩提寺・福厳寺 本堂裏に筑後柳川藩の歴代藩主の墓が集まる






宗成の立派な墓

右隣には養父・立花道雪の墓が並ぶ

ちなみに寺墓地には直木賞作家。檀一雄
の墓もあるらしいが発見できず。無念!

名将高橋紹運(しょううん)の嫡男で、14歳の時に猛将立花道雪の一人娘・ァ千代(ぎんちよ)の婿養子となった。宗成は島津の大軍から
立花城を死守。秀吉から柳川領を与えられるが、関ヶ原で西軍につき家康から領地を没収される(加藤清正のとりなしで命は助けられた)。
後に柳川を拝領し復活。関ヶ原の西軍武将で、改易後に大名として旧領に復帰したのは立花宗成ただ一人!
戒名は大円院殿松蔭宗茂大居士。練馬区桜台の広徳寺にも墓がある。




★立花 ァ千代/Ginchiyo Tashibana 永禄12(1569)8.13-慶長7(1602)10.17 (熊本県玉名郡、長洲町、ぼたもちさん 33歳)2009

 
ァ千代像 PS2『戦国無双2』から。父道雪が雷を斬った「雷切」を持っている

最寄り駅は熊本県北部のJR長洲駅。徒歩約2km。
日没が迫っていたので、急いでタクシーを利用
地元の運転手さんには「立花ァ千代の墓まで」と
言っても通じず、別名の「ぼたもちさん」で通じた!
墓所は腹栄中学校の南側。墓石の近くまで林が
迫っており、撮影は午後の方がいいようだ

ぼた餅。ちなみに牡丹(ぼたん)の季節(春の彼岸)に食べるから「ぼた餅」で、萩の季節(秋の彼岸)
には名前が「おはぎ」に変わる。これらを墓前に供えるのは、小豆の赤色に魔除けの意味があるからだ


夕陽の中にたたずむァ千代の墓

「ぼたもちさん」と呼ばれるだけあって
こし餡のぼた餅が墓石の上に乗っているみたい!
墓前の石塔には天保年間の刻印


戦国期には珍しい女性の当主。父は大友宗麟の重臣・立花道雪。6歳にして立花家の家督を継ぎ、
12歳で猛将・高橋紹運(しょううん)の長男・宗茂を婿養子に迎える。美女という噂を聞いた秀吉は、宗成が
朝鮮出兵している間に彼女を手に入れようとしたが、ァ千代は甲冑を着込んで武装し、付き人の女中に
鉄砲を持たせて秀吉と面会したため、秀吉は肝を潰して何も出来なかったという。30代に入ってから宗成と
別居状態となり33歳の若さで他界。墓が建立されたのは1634年であり、死後32年も経ってからのことだった。




★田中 吉政/Yoshimasa Tanaka 天文17(1548)-慶長14(1609).2.18 (福岡県、柳川市、真勝寺 61歳)

吉政の墓の上に真勝寺本堂が建っており、地元の
ガイド本には“寺自体が墓といえる”とあった
真勝寺の境内にあった「田中吉政公顕彰碑」。本堂内部は非公開っぽかったけど、
墓石画像をアップしているサイトもあるので、申し込めば墓参可能かも知れない

転封先の近江国・八幡(滋賀県近江八幡市)、三河国・岡崎(愛知県岡崎市)、筑後国・柳河(福岡県柳川市)などの都市設計に手腕を振るった。
人々から人望があり、逃亡中の石田三成を伊吹山で捕らえた際、三成をして「他の連中ではなく、お前に捕われてよかった」と言わしめた。
墓は他にも、東京駒込の吉祥寺、京都黒谷の金戒光明寺(龍光院)、久留米市の善導寺にある。




★鍋島 直茂/Naoshige Nabeshima 天文7(1538).3.13-元和4(1618).6.3 (佐賀県、佐賀市、高伝寺 80歳)2009

 
貴人のような肖像画が残っている。顔は思いっきり武人だけど(笑)

高伝寺は鍋島・龍造寺両家の菩提寺 直茂の墓 右側の白い石は継室(後妻)

息子で初代鍋島藩主の忠直


左端が孫で二代藩主の光茂。父忠直の一周忌に有能な
家臣が追腹を切って殉死したことを悲しみ、追腹禁止令を
発布。2年後に徳川幕府も公式に禁止令を全国に出した

鍋島直茂は“肥前の熊”龍造寺隆信の重臣。主君の死後に領土を管理。関ヶ原合戦時の九州での働きが評価され、肥前佐賀藩の藩祖となった。
誠実な人間性を高く評価された直茂は、江戸時代中期に鍋島藩藩士の山本常朝が武士の心得について語り、田代陣基が筆録した『葉隠』
(はがくれ、全11巻)において、“武士の鑑”とされている。※「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」(『葉隠』より)






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