| 足利尊氏の墓 阿弖流為の墓 木曽義仲の墓&巴御前 楠木正成の墓 熊谷直実の墓 坂上田村麻呂の墓 佐藤忠信の墓 佐藤継信の墓 平敦盛の墓 平清盛の墓 平重盛の墓 平知盛の墓 |
平教経の墓 平将門の墓 那須与一の墓 新田義貞の墓 源義経の墓&静御前 源頼朝の墓 武蔵坊弁慶の墓 蒙古塚 ヤマトタケルの墓 アレキサンダー大王の墓 |
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| 『日本武尊』(画・青木繁) |
1945年発行の千円札に登場。 今の50万円相当の超高額紙幣 |
スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』で 白鳥となって飛翔する市川右近 |
「日本武尊御陵参拝道」 |
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| 墓は全長約200mの大型前方後円墳。周辺一帯 は123基も古墳がある古墳銀座だ(1999) |
10年後に再巡礼!夕陽を浴びるヤマトタケルの古墳(2009) |
前回は気付かなかった古墳の正面! |
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| 正式名の白鳥陵にちなみ、古墳の周囲には 白鳥のレリーフがたくさんあった |
こちらは奈良県天理市にあるヤマトタケルの 父・景行天皇の古墳(2008) |
| 日本神話に登場する英雄。本名・小碓命(オウスノミコト)。第12代景行(けいこう)天皇の第2皇子で、母は播磨稲日大郎姫(ハリマノイナビノオオイラツメ)。五人兄弟の三男。『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と記されている。次男は仲哀天皇。古文書では4世紀半ばから後半(380年前後)にかけて活躍したとされている。 小碓命(後のヤマトタケル)には双子の兄・大碓命(オオウスノミコト)がいた。兄は父・景行天皇に仕える2人の美しい寵妃を奪ったことで、天皇と顔が合わせ辛くなり、大切な儀式に参列せず、食事にも顔を出さないといった具合。怒った天皇は弟の小碓命に「兄を食卓につくよう呼んで来なさい」と命じる。小碓命は兄に会いに行くが、説得しても食事に来ようとしないので、激高した彼は兄の手足をもぎ取り、体をムシロに包んで投げ捨てた(めちゃくちゃ荒っぽいが本当にそう書いてある)。 たまげたのは天皇。“実の兄を簡単に殺すようでは、いつ私も手にかけられるか分からぬ。口実を作って追放せねば…”。天皇は小碓命を疎んじ、九州南部で大和朝廷に抵抗している熊襲建(クマソタケル)兄弟の討伐を命じた。遠征軍を組織しようとする小碓命に対し、天皇は「お前ほど勇敢なら一人で充分だろう」と単身で西国へ出陣させた。 九州に入った小碓命は敵本拠地の厳重な警備を見て「これは正攻法で突破できぬ」と一計を案じた。彼は色白で美形だったことから、熊襲の館で催されている宴に女装して忍び込んだ。そして酌をしつつ建兄弟に接近し、油断をついて斬り付け、最初に兄を討ち、続いて弟を刺した。弟が「そのまま剣を抜くな…話したいことがある」というので耳を貸すと、「勇敢な君に私の名前“タケル(=族長・勇者の意)”を名乗ってもらいたい」と言い残した。たとえ敵であっても死に際の言葉を重く受け止めた彼は、以後ヤマトタケル(大和国のタケル)と名乗るようになった。 ※自分が倒した相手の名を受け継ぐ…なんかグッとくる話だ。 ヤマトタケルは周辺諸国を平定しながら帰途につく。出雲国には強敵の出雲建(イズモタケル)がいたが、ヤマトタケルは友人のフリをして川遊びに誘い、出雲建が泳いでる間にコッソリと刀を木刀にすり替え、剣の腕試しを申込んで斬り殺した。 ※ハッキリ言ってダマシ討ちで英雄らしからぬ所業だが、1人ぼっちで戦う以上、知恵を使い謀殺するしかなかったのだろう。 景行天皇はもうヤマトタケルが戻ることはないと思っていたので、単独で西国を平定して帰郷した息子を見て肝を潰した。そしてすぐさま次の命令を下す「東の十二国を平定せよ!」。今度は大遠征となるので、単独ではなく吉備、大伴、久米という数名の武将がついたが、この人数でどうせよというのか。この勅命はかなりヤマトタケルにこたえたらしく、彼は遠征途中に伊勢神宮で斎宮(神事を司る官)を務める叔母・倭姫(ヤマトヒメ)を訪ね、涙ながらに訴えた「天皇は私のことを早く死ねばいいとでも思っているのです。やっとの思いで西国平定の任を果たして大和へ戻って、すぐまた東方へ向かえとは…。それも兵を賜ることもなく、独力で十二国の賊を退治して来いとは、一体どういう訳なのです」。 倭姫は痛嘆する甥を気の毒に思い、伊勢神宮の神剣・草薙剣(くさなぎのつるぎ・天叢雲剣)と火打石が入った袋を授けた。 ※草薙剣は“やたの鏡”“やさかにの勾玉”と並ぶ天皇家の三種の神器のひとつ。この宝剣はスサノオが出雲でヤマタノオロチを退治した時に、大蛇の尾から出てきたもの。 一行は駿河から相模国(神奈川)に入った所で国造(くにのみやつこ、地方官)から悪神を退治して欲しいと要請され、教えられた草原に入っていくが、これは国造の罠だった。国造は相模国を自分のものにしようと目論んでいた。草原に火を放たれ、みるみる四方が火の海に。同行していた妻・弟橘媛(オトタチバナヒメ)を煙で見失った彼は必死で叫ぶ「弟橘媛ーッ!」。妻を見つけたヤマトタケルは草薙剣で周囲の草を切り払い、火打石で風上から迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くした。(これが焼津の地名になった) 相模から海路で上総(かずさ、千葉)に向かう際に、走水(はしりみず)の海(浦賀水道)の神が荒波を起こして船が沈みそうになった。この時、妻が「私が海に(生贄として)入り海神の心を鎮めましょう」と言って入水した。彼女は最期に歌を残す『さねさし相武の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも』“相模の野で火に囲まれた時、炎の中で私の名を呼んで下さった貴方を忘れません”。弟橘媛の犠牲を受けて暴風雨は止んだ。7日後、上総に上陸した彼が海岸を歩くと妻の櫛が流れ着いたので、御陵を造り櫛を収めて弔った。 ヤマトタケルは上総から進撃して蝦夷(えみし)を倒し、帰途に常陸(茨城)、さらに甲斐(山梨)を平定し、信濃を通って尾張に着いた。途中、信州に入る碓氷(うすい)峠を越える時に、彼は関東の方を振り返り、海底へ消えた弟橘媛を想って「ああ妻や」と声をあげて泣いた。後に一帯は「吾妻」と呼ばれるようになる。 東国の平定をすべて終えたヤマトタケルは懐かしい大和を目指す。 途中、尾張(愛知)まで帰還した時に、彼は以前に心を通わせた女性、尾張氏の娘・美夜受媛(ミヤズヒメ)と結婚する(あの〜、弟橘媛…)。祝宴の後に契りを果たすと、草薙剣が2人を祝福するように輝きを放った。彼は「この剣を私の御影だと思って大事にして下さい」と姫に渡した。翌朝、近くの伊吹山に邪神が住むと聞いた彼は、「私なら素手でも討ち取れる」と剣を持たずに山に入った。しかし途中で山神が大きな雹(ひょう)をさんざんに降らし、これまでの連戦の疲れもあって、ヤマトタケルは深いダメージを受けて撤退する。 体が弱り病に冒され、死期を意識した彼は“とにかく大和が見たい”という一心で、もう尾張に戻らず西へ進むが、鈴鹿の能褒野(のぼの、三重・亀山市)でついに力尽き、最期に望郷の歌『倭(やまと)は 国の真ほろば たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる 倭しうるはし』“大和は日本で最も素晴らしい所。青い垣根の如く山々が重なりあう姿は本当に美しい”、『愛(は)しけやし 吾家の方よ 雲居起ち来も』“嗚呼、懐かしい…我が家の方から雲がたち上っているよ”など、国を偲ぶ歌を詠んで他界した。享年30歳。 ※草薙剣はこの後、妻の美夜受媛が夫の言葉通りに大切に祀り、熱田神宮の御神体となった。668年に僧道行が盗み宮中(皇室)に置いていたが、686年に天武天皇が草薙剣の祟りで大病になったことから、剣は熱田神宮に戻されたという。また、平家と共に壇ノ浦に沈んだという説、沈んだのは予備の模造刀という説、諸説入り乱れている。 ヤマトタケルは能褒野に葬られたが霊魂は白鳥となって大和へ飛翔し、琴弾原を経て、河内国古市邑(ふるいちむら)に降り立ったという。この伝説に基づくように、三重県亀山市(能褒野)、奈良県御所市富田(琴弾原)、大阪府羽曳野市軽里(古市邑)に彼の墓陵があり、これらは「白鳥三陵」と呼ばれている。古い文献では平安初期の『延喜式』の中で墓のことが触れられている。 《現状》 ヤマトタケル伝説については、景行天皇の全国制覇軍『ヤマトタケル』の総大将が息子の小碓命(オウスノミコト)だとする説、4〜7世紀の大和の将軍たちがヤマトタケル(=大和の勇者)を名乗ったという説など、様々な解釈がなされている。いずれにせよ、大和朝廷が地方の抵抗勢力を次々と支配下に入れていく複数の征伐エピソードを、1人の英雄物語に集約したものと考えて間違いはないだろう。 興味深いのは古代の征服地の人々がヤマトタケルを英雄として受け入れたことだ。ヒーロー伝説は「大和朝廷から見た」ものであり、征服された側から見ればヤマトタケルは侵略者以外の何者でもない。彼は敵対者を容赦なく斬り殺してきた。それにもかかわらず、全国にはヤマトタケルを好意的に受け入れ、彼を祀った神社も多い。もし彼が地元民から憎まれていれば、過去に大和朝廷の権威が弱くなった時点で、即刻神社は取り壊されていただろう。しかし、人々はずっと英雄神として尊んできた。庶民にとってヤマトタケルは解放者のような存在だったのかも知れない。 ※ヤマトタケルの東国遠征は、古事記では茨城まで、日本書紀は遠く岩手まで進軍している。 ※伊勢神宮が現在のように天皇の祖先の神宮となったのは持統天皇(645-702)以降と言われている。それ以前は天皇が伊勢に足を運んだ記録がなく、地方豪族の氏神だったようだ。だから持統朝より200年も昔に伊勢神宮の斎宮を「倭姫」が務めていたという古事記・日本書紀は誤っている。 ※ヤマトタケルの父・第12代景行天皇は何と享年143歳!しかしこの超高齢は景行天皇だけでななく、初代神武天皇127歳、5代孝昭天皇114歳、6代孝安天皇137歳、7代孝霊天皇128歳、9代開化天皇111歳、10代崇神天皇119歳、11代垂仁天皇139歳、13代成務天皇107歳という、ブッ飛び大長寿。ちなみに当時の平均寿命は15歳。強引に神武天皇から系図を作った結果、こんな異常な年齢が続くことに。 ※初代神武天皇のお婆ちゃん・トヨタマ姫の正体はサメ。海底宮殿「わたつみの宮」(いわゆる竜宮城)のお姫様で、人間の姿に変身してお爺ちゃん・ヤマサチヒコの前に現れて恋をし、最後はサメというのがバレて海に帰って行った。 ※もうひとつ言うと、天皇家の究極の祖先・天照大御神(アマテラス)は女性。いきなり女系で始まっている。(夫の神の存在が書かれた文献ナシ) ※ヤマトタケルが変化したという「白鳥」は、シラサギなど白い鳥すべてを指している。
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| タクシー運転手さんも地元民に尋ね なければ分からないややこしい場所! |
この辺に西野山古墳(田村麻呂の墓)を示す石柱があるはず なんだけど…おや?フェンスとガードレールの裏に何か… |
あった!っていうか、そりゃ通り 過ぎるよ!分かるかっつーの! |
除草後に再び撮影。 「この付近西野山古墳」とある |
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| 菊池容斎画の田村麻呂 |
同じ山科区にある“坂上田村麻呂公園”の敷地にも墓がある。実は2007年までこちらが田村麻呂の墓と思われ ていた。伝承では、武器や防具を身につけた状態で棺に納められ、平安京に向けて立ったまま埋葬されたという |
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| 平安初期に活躍した武人。祖先は渡来人。791年(33歳)、当時近衛府少将だった田村麻呂は朝廷の命を受けて蝦夷征討に初参戦。そして39歳で征夷大将軍に就任する(797年)。田村麻呂は力押しの軍事攻撃はせず、軍事面と政治面の両方から蝦夷に揺さぶりをかけた。802年に蝦夷のリーダー阿弖流為(あてるい)が配下を従えて投降すると、京都に凱旋した田村麻呂は敵将ながら阿弖流為の武勇と人物を惜しみ「阿弖流為を殺さず帰して彼に東北運営を任せるべき」と助命を嘆願。しかし、平安京の貴族は「それは虎を養うようなもので災いを残す」と彼の願いを却下し、阿弖流為は斬首された。こうしたことから世の無常を感じた田村麻呂は深く仏教を信奉するようになり、晩年に清水寺を創建した。国政の面では、最終的に死の前年に大納言まで昇進した。平安京郊外の粟田(あわた)で他界。 |
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| 塚手前の碑(最初、墓と間違えた) | 巨大な塚だ。山桜と樫の大木の根元に眠る | この自然石が阿弖流為の首塚 |
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| こちらは清水寺の敷地にある石碑。東北地方の形がレリーフとして彫り込まれている | 坂上田村麻呂が創建した清水寺 |
| “北天の雄”大墓公阿弖流為(タモノキミ・アテルイ)は平安初期に活躍した蝦夷(東北地方)の首長。789年、東北地方へ侵攻してきた大和政権5万人の朝廷軍をゲリラ戦で破った(延暦八年の胆沢合戦)。翌年、大敗した朝廷は新たな司令官に征夷大将軍・坂上田村麻呂を任命。4年間の準備期間を経て朝廷軍は遠征を開始する。田村麻呂は力押しの軍事攻撃はせず、軍事面と政治面の両方から蝦夷に揺さぶりをかけた。802年、これまでの十数年に及ぶ激戦に疲弊した領民を気遣った阿弖流為は、戦友の母礼(モレ)と共に約500人の配下を従えて投降した。捕虜を連れて京都に凱旋した田村麻呂は、敵将ながら阿弖流為の武勇と人物を惜しみ「阿弖流為を殺さず帰して彼に東北運営を任せるべき」と助命を嘆願したが、平安京の貴族は「それは虎を養うようなもので災いを残す」と却下、阿弖流為と母礼は河内国で斬首に処された。 ※清水寺を開いたのは僧侶・延鎮(えんちん)。寺創建の際に彼をバックアップしてくれた後援者が坂上田村麻呂だった。田村麻呂は好敵手の阿弖流為に一種の友情を感じていたのかも。その繋がりでアテルイとモレの追悼碑が清水の敷地にあるんだ。 |
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| 将門塚は“正面から撮るべからず”とか色んな話があるので本気で緊張した(僕は平家だから無問題と思うけど…) |
| 通称相馬小次郎。将門公は平安中期の東国武将。彼は朝廷の支配を拒否し関東の独立を宣言、自ら新皇を名乗った。これは朝廷にとって初の大規模な“地方の反乱”であり未曾有の事件だった。一方、東国の民衆は国家権力に対し果敢に抵抗したことで、将門公を英雄視していた。しかし!彼は朝廷連合軍との戦いで流れ矢に当たり、無念にも討ち取られてしまう。将門公の首は京へ送られ、胴体は茨城県岩井市に葬られた。 そこで不思議な現象が起こった。都でさらし首にされた将門公は、死後3ヶ月経っても目を閉じずこの世を睨み続け、やがて閃光を放ちながら東国へ飛翔したというのだ。御首は胴体を求めて飛び続けたが、やがて力尽き落下した。その場所が現在の東京のド真ン中、大手前の将門公首塚なのだ(この時、兜が落ちた場所は今「兜町」と呼ばれている)。 僕が将門公の首塚を巡礼したのは自分の先祖が平家だったこともあるが(壇ノ浦からトンズラしたらしい)、体制を牛耳る権力サイドから「逆賊」「朝敵」と糾弾されているのに、民衆からは「救世主」「守護神」と慕われているのが、文句ナシにカッコ良いと思ったからだ。 首塚はこれまで何度か移転されかけたが、その都度、工事関係者や移転計画者が、病気になったり、怪我をして計画中止になった。決定的だったのは1950年頃、首塚を整地しようとしたブルドーザーが横転し運転手が即死したことだ。それ以来、首塚を動かそうと言い出す者はいなくなり、今日も東京駅と皇居に挟まれた超一等地・大手前に将門公は眠っておられる。(果たして今の日本をどう見ておられるのか…) |
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| 「音戸の瀬戸公園」の清盛像 | 六波羅蜜寺の清盛像 | PS2「GENJI」武骨な清盛 | PS2「義経英雄伝」公家風の清盛 |
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| 清盛の墓は全国に5ヶ所あるが、ここ能福寺が 最も信憑性アリと言われている(2005) |
「わが国唯一」 正統な墓と強調 |
神戸大仏が側にあるので清盛の墓が小さく見える |
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| こちらは兵庫港の運河脇にそびえる清盛塚(県の文化財に指定)。 1ケ月半前に鎌倉で源氏の総大将・頼朝と会って来たばかりなの に、もう平家の塚の前にいる節操の無さを詫びるN氏と僕(1999) |
塚の前で平家物語を朗読! ※清盛塚は高さ8.5m、 十三重の石塔!デカイ! |
平安時代後期、まだ貴族の力が圧倒的に強く、武士がただの使用人だった時代。清盛の父・平忠盛は、西国各地の国司(地方官)を歴任するなかで地方に権力地盤を築き、瀬戸内の海賊退治を通して彼らを水軍として正式に迎え入れ、叡山の荒法師を鎮圧して都の治安を守り、信仰面では三十三間堂を建立するなど、政治・軍事の各方面に敏腕を振るって、鳥羽上皇から朝廷への昇殿を許された(1132年)。武士の身分で宮廷に昇ることは極めて異例であり、公家の間からは「あんな身分の男に昇殿を認めるなど、上皇様はどうかしてしまった」と非難の声が起こった。 白河法皇は院の警備兵・忠盛に日頃の功績を称え、自らが寵愛している祇園女御の妹を嫁がせた。ところが彼女は法皇の子(清盛ッス)を宿しており、出産の2年後に病没する。白河法皇は清盛を溺愛し、自身が亡くなる直前に、まだ11歳の清盛に官位(五位)を与えた。そんな若さで五位の位を与えられたのは、過去に摂政・関白となった藤原道長・頼道ぐらい。武士の身分を馬鹿にしていた貴族達はビックリ仰天した。 この後も清盛は順調に出世を重ね、13歳で従五位上、17歳で正五位下(同年・従四位下)、22歳で従四位上、28歳で正四位下&安芸守(後に肥後守)と、位を駆け上がる。1153年(35歳)に父が逝去してからは、清盛が地位と財産を継いで平氏一門の棟梁となった。 1156年7月に鳥羽上皇が亡くなると、4日後に後継の座を巡って「保元の乱」が勃発する。 ●崇徳上皇&貴族・藤原頼長&武士・源為義&為朝(為義の八男)&平忠正(清盛の叔父) ●後白河天皇&貴族・藤原忠通(頼長の兄)&武士・源義朝(為義の長男)&平清盛 この両陣営が激突した。夜襲を受けて崇徳上皇側が敗北し、崇徳天皇は讃岐に配流、藤原頼長は逃亡中に流れ矢で死亡した。後白河天皇は818年に嵯峨天皇が廃止した死刑制度を復活させ、源義朝は実の父・為義を含む兄弟5人を斬首、これは338年ぶりの公式な処刑となった。この戦後処理にあたるなか、源義朝と清盛は武家間の主導権を巡って対立していく。 3年後の1159年、栄進する清盛に反感を抱いた源義朝が挙兵、「平治の乱」が開戦。清盛が熊野詣で都を離れた隙を狙って、政治の実権を掌握すべく、義朝は後白河上皇と二条天皇を幽閉した。両陣営は次の通り。 ●源義朝&貴族・藤原信頼 ●平清盛&貴族・藤原信西(しんぜい) 先手を打った義朝は藤原信西を斬る。帝を奪われ信西まで失った清盛は、都に戻った後に戦わずして降伏する。だがこれは相手を油断させる作戦だった。その裏では二条天皇の救出作戦が進行しており、11日後に天皇は十二単で女装して御所を脱出、上皇も逃亡に成功した。状況の変化を受けて都の武士達は雪崩を打って清盛勢に加わり、捕縛された藤原信頼は六条河原で斬首、義朝は再起を誓って東国へ逃れる途中で部下に殺された。 清盛は義朝の首を都で晒し、敵対した者をことごとく斬ったが、義朝の子、頼朝・義経という幼い兄弟の命だけは助けてやった(12歳の頼朝は伊豆に流され、1歳の義経は鞍馬寺に預けられた)。この時の清盛の慈悲心が、後に平家を滅ぼすことになる。 清盛は妻の妹・滋子(建春門院)を後白河上皇に嫁がせ、彼女は高倉天皇を産んだ。これで彼の権力はさらに堅固になる。1160年(42歳)、清盛は武士でありながら初めて正三位(しょうさんみ)まで出世し、天皇の側近として政治に参加する資格を得た。武家出身の公卿(くぎょう、上級貴族)の誕生だ。さらに47歳で権大納言、48歳で内大臣、1167年(49歳)には左大臣・右大臣を一気に飛び越えて最高官の「太政大臣」に昇りつめた。武士としては初の快挙であり、後世の武家政権の礎となった。 翌年、病に伏した清盛は治癒を願って出家、これより入道と呼ばれる。ただし政務の実権はそのまま握っていた。 平家一門の権勢は絶頂を極めた。内大臣は長男・重盛、中納言は三男・宗盛、三位中将は四男・知盛、四位少将は重盛の子の維盛(これもり)、清盛の娘・徳子(建礼門院)は高倉天皇と結ばれ天皇家と外戚になる、こんな具合で、公卿16人、殿上人30余人、諸国の国司を合わせて60名以上の平氏が重要ポストを独占した。また全国66カ国の領地の半分以上(500余りの荘園)を支配し、神戸に港を開いて大陸との日宋貿易の根拠地とし、莫大な富を手に入れた。清盛の妻の弟・時忠が「平氏にあらざれば人にあらず」と言ったのもこの頃だ。一方で、「かむろ」という名称の15、6歳の少年スパイを都に300人も放ち、平家への悪口や謀反を企んでいる者は、片っ端から捕らえていった。 1168年、清盛は平家全体の末永き繁栄を願って、宮島の厳島神社を現在のように大規模改築した(かつて20代後半に国司で安芸に赴任したのが縁)。清盛は厳島神社を平氏の氏神として拝み、「平家納経」を制作し奉納した。 1177年(59歳)、初の大掛かりな反逆計画が発覚する。首謀者は後白河法皇(出家して法皇になっていた)の側近達。法皇もまた平家の横暴に頭を痛めていた。反平家グループは京都東山鹿ヶ谷の僧侶・俊寛の庵で謀反の作戦を練っていたが、仲間の密告によって根こそぎ捕らえられ、主犯格の僧・西光は死罪、他の者は鬼界ヶ島(硫黄島)や備前への配流となった。鬼界ヶ島には俊寛、平康頼、藤原成経ら3名が流された。絶海の島で望郷の念を深くした康頼は、無駄とは思いつつも卒塔婆に都を偲ぶ歌を書いて海に流し続けた。このうち1枚が奇遇にも厳島神社の側に流れ着く。これが都に届けられるとさすがに清盛も心を動かされ、その頃徳子が帝の子を身篭ったこともあり、懐妊祝いの恩赦を出した。ただし、俊寛だけはアジトの提供者ということで赦さなかった。2人を乗せて都へ戻って行く船を、1人見送る俊寛…「私がこの地で耐えられたのは仲間がいたからだった」。※この時の彼の孤独を描いたものが能、文楽、歌舞伎になっている『俊寛』だ。 1178年(60歳)、徳子は無事に男の子(安徳天皇)を産み、清盛は涙を流して喜んだ「これで平家一門はずっと安泰だ」。 しかし翌1179年、この年から栄華を誇っていた平家の凋落が始まった。優れた人格者で誰からも尊敬され、清盛が唯一助言に耳を傾けた人物、長男の重盛が41歳の若さで病没したのだ。重盛は俊寛らの鹿ヶ谷事件が発覚した時に、身を挺して死罪になった者を流罪に減刑したり、法皇を幽閉しようとする清盛に「そんな横暴をするのであれば、まず私の首をはねてからにして下さい。謀反の原因は当方にもあるのです」と道理を諭した男だった。 最愛の長男を失って悲嘆に暮れている清盛の耳に、法皇が何の相談もせず重盛の領国・越前国を没収したとの知らせが入った。法皇は前月にも、他界した清盛の三女の荘園を無断で没収していた。しかも重盛の喪中に関らず宮廷で酒宴が催されたという。“鹿々谷で法皇をかばったのは重盛なのに…”清盛は怒りに震えた「私は保元の乱の時に後白河院の為に先陣を切って戦った。平治の乱でも法皇を守って何度命を落としかけたか。もはや、院に奉公する気は消え失せたわ」。 清盛は出家後に住んでいた神戸から軍を率いて京に入り、平家に非協力的な公家39名を全員追放し、法皇を監禁するクーデターを断行した。1180年4月(62歳)、清盛は高倉天皇を退位させ、2歳の孫・安徳天皇を即位させた。 院政は廃され、ここに平氏政権が名実ともに成立する。 しかし、この平氏の独裁に対し、既得権を奪われた公家だけでなく、武士からもまた「平家は武家の代表と思っていたのに、すっかり貴族化してしまった」と不満を抱かれ、5月には法皇の皇子・以仁(もちひと)王が源頼政(妖怪退治をした伝承のある勇者)と結んで平氏打倒を全国に訴えた。この動きに対し清盛は四男・知盛に大軍を指揮させ両者を討ち取ったが、以仁王の呼びかけは諸国を駆け巡った。6月、「全国から反乱軍が京に攻め上がって来る可能性がある」と、清盛は神戸への遷都を強行した。彼が恐れていた通り、8月に伊豆で源頼朝(33歳になっていた)が挙兵し、9月には木曽で源義仲が決起した。 「おのれ頼朝、恩を仇で返しおって…許せぬ!」清盛は重盛の忘れ形見・維盛を総大将にした頼朝討伐軍を東国へ派遣する。両軍は富士川を挟んで睨み合った。その夜、付近の農民や漁民が戦火を避けて山中や海上へ逃れて食事の火を焚いていたのを、平氏軍は「海も山も源氏軍の“かがり火”だらけだ」と勘違いし、水鳥の羽音を源氏軍の奇襲と錯覚して大パニック。一矢も射ることなく神戸へ逃げ帰るという醜態を晒してしまう。諸国の武士は呆れ果て、ますます平家から気持が遠ざかった。 また、この年は干ばつになり疫病が流行った。人々は「遷都が原因の災いだ」と噂しあい、清盛はわずか半年で都を京に戻した。 1181年2月、源氏の蜂起が各地で相次ぎ、源平争乱が全国的な内乱へと発展していく中、清盛は熱病(肺炎かマラリアとみられる)に倒れ遺言を残す。「ただ一つ思い残すことは、頼朝の首が見られなかったことだ。自分が死んでも寺や塔はいらぬ、経もあげんでいい。即刻、頼朝を討って奴の首を墓へ供えてくれ…頼む」。この2日後、高熱に悶絶しながら他界した。人々は前年に五男・重衡(しげひら)が滋賀・三井寺を滅ぼし、東大寺・興福寺など南都を焼き討ちした事に対する仏罰に違いない、と噂した。 清盛の長男重盛、次男基盛は既に他界していたので、平家の棟梁には三男の宗盛が就いた。宗盛は指導力に欠けカリスマ性もなく、各地の反乱に対し後手後手にまわった。1183年の源(木曽)義仲との「倶利伽羅(くりから)峠の戦い」(富山と石川の県境)で、平家軍は10万余騎が2万騎に激減する大敗北を期し、義仲の追撃を恐れて神戸、九州へと都落ちする。1184年、源氏側が内部分裂して義仲と義経が戦っている隙に、西国で再び勢力を盛り返した平氏軍は兵庫・一の谷に陣を張る。義仲を討った義経は、2月、一の谷に進軍して平家の背後の断崖から襲い掛かり(義経のひよどり越え)、平家は敦盛、忠度らが討ち死に、重衡は鎌倉へ連行され斬られた。 9月の「屋島の戦い」でも義経は背後からの奇襲作戦を成功させ、そして1185年3月24日、「壇ノ浦の戦い」で敗色が濃厚になった平家側は、清盛の妻・時子が安徳天皇と草薙の剣(三種の神器)を抱いて海に沈み、清盛の弟・教盛&経盛ら一族の有力武将の大半も散り果てた。滅亡する平家一門を見届けた平家の猛者・知盛は「今や見るべきものはすべて見た」と、身体が浮かばぬよう鎧を重ねて海に入った。総大将の宗盛は入水を怖がったが臣下たちに放り込まれ、泳ぎ回っているところを捕らえられ(トホホ)、都を引き回しにされた挙句に斬首された。清盛の娘・徳子は海中から源氏軍に引き上げられ出家、尼となって都の郊外・大原寂光院にて、早世した我が子・安徳天皇と平家一門の菩提を弔いながら、1213年、58歳でその生涯を終えた。 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…。 ●清盛の功績 社会の授業で「横暴」「非情」「傲慢」など悪役のレッテルを何枚も貼られている清盛。しかし、先入観なしに歴史を紐解くと、外向きには敏腕政治家、内向きには愛情豊かな家父長、そんな横顔が見えてくる。 清盛の大きな功績は3つ。(1)貴族や平民という意味不明の身分差別を突き抜けて、日本初の武家政権を築き上げた、(2)外国との本格的な貿易で経済を活性化させた、(3)平安貴族が行なわなかった大規模な公共事業を施行したことだ。(1)については、明治維新まで約700年も続く武家社会の礎となった事が非凡さを語っているし、後の貿易と公共事業については、これを同時に語る神戸港のエピソードがあるので紹介しよう。 この時代、大陸との日宋貿易は、いったん博多港で大型船から小型船へ荷を積み替え、都まで運搬していた。清盛は流通をスムーズにする為に、都の外港として神戸へ大型船が直行できるよう、6年がかりで港を改修した。彼は神戸周辺の山を切り崩して海岸を埋め立て、台風でも船が難破せぬよう、防波堤として37ヘクタール(甲子園球場の約10倍)の人工島を築いた。この人工島の名前は「経が島」。埋め立ての際に荒波で石が流され工事が難航したので、迷信を信じる貴族たちが海に人柱(生け贄)を立てよと主張した。清盛はそんな馬鹿な理由で人の命を犠牲に出来ないと、石の1個1個に経文を刻ませた。その結果、海が治まり無事に作業が完了したので「経が島」と呼ばれるようになったという。また、瀬戸内には約700も島がある為に、所々で複雑な潮流が発生していたが、一番の難所とされた音戸ノ瀬戸は、一つの島を真っ二つに切り開いて通行を容易にした。こうして盛んになった対外貿易で、日本は書籍・織物・香料・銅銭等を輸入し、漆器・金・硫黄・刀剣等を輸出した。清盛によって銅銭が大量に輸入されたことで日本の貨幣経済が大幅に進展した。神戸は名港を擁する街として今も繁栄しているが、その土台を築いたのは清盛だ。 清盛は2歳で母を亡くしたことの反動か、あり得ないほど一族へ愛情を注いだ。平氏ファミリーの全員を京都六波羅の一角に集めて皆で暮らし、一門からは誰一人として不幸な人間を出さないよう、惜しみなく愛を捧げた。また、夜中に邸宅を見廻り、平家に仕えている郎党(従者)に布団をかけてやるなど、ファミリーとそれを取り巻く世界を心底から大切にしていた。ではファミリー以外はどうだったのか。後に平家を滅亡させることになる、頼朝、義経を、彼らが幼い時に葬る機会がありながら、若い生命ゆえに助けてやったり、鹿々谷事件の反逆者にも恩赦を与えるなど、決して血に狂った冷血漢などではない。特に長男・重盛の理性的な助言には、しおらしいほど大人しく聞き従っている。蘇我氏、平清盛、明智光秀、石田三成など、歴史における敗者は、勝者の歴史観の中でことさら長所を過小に短所を過大に伝えられている。天下を獲る為に清盛も人を斬ったが、後に続く秀吉や信長ら戦国武将に比べれば、それははるかに穏やかなものだった。 ●墓 平清盛は能福寺で剃髪して出家し、遺言に従い遺骨は同寺の寺領に埋葬され、平相国廟が建立された。その後、平家の滅亡の際に能福寺は灰燼と化したが、約100年後に執権・北条貞時が平家一門の運命に悲哀を感じ、「十三重石塔」を建て清盛の霊を弔ったという。再興された寺は1945年の神戸大空襲で焼失するも墓碑は残った。 清盛の墓は別に4箇所の伝承がある。平家一門の館があった京都六波羅の平清盛塚、京都大覚寺の搭頭・祇王寺の供養搭、山口県下関市の清盛塚、神戸市兵庫区切戸町の清盛塚などがそうだ。『平家物語』には清盛が僧・円實によって経が島に埋葬されたとあるので、残念ながら京都と山口の塚は微妙だ(分骨、遺髪の可能性はある)。切戸町の清盛塚は高さ8.5mの十三重塔で、こちらは1923年の移転時に塔を解体したところ、墓でないことが判明したとのことだ。 ※『平家物語』は、1250年ごろ藤原行長の手でまとめられた。 ※「清盛公は、悪行人なれども、幾多の善根も施したからこそ、20年の間、穏やかなる世を保たれたのではないか。悪行ばかりにては、この世が治まるはずもなし」(同時代の関白・藤原基房の言葉) |
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| 『伝・平重盛像』 | 重盛の「紺糸威鎧兜・大袖付」は国宝 | 石段はすり減って、かなりスベリ台状態 |
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| 「小松内大臣平重盛公墳墓」 | 小松寺の山門 | 「いのししに注意!!」 |
| 重盛他界から3年後の1182年、家臣・平貞能(さだよし)は重盛夫人と共にはるか東国の常陸(平義幹領)に落ち延び遺骨を葬った。それから9年後の1191年、重盛邸にあった勅使門を模した寺の山門が建てられた。重盛は京都小松谷に住んでいたので小松内大臣とも呼ばれ、この小松寺の名の元になった。墓は境内の裏山の中腹にある。 |
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| 柵の向こうにある石段の上に、重盛の小さな墓がある | 分かり辛いが、左から貞能、重盛夫人、重盛と点在 | |
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| 帰りに境内の石段で激しく転倒 | こちらは京都中心部の繁華街にある重盛の供養碑 |
| 平清盛の長男。京都小松谷に邸があり「小松」を号し、邸宅に48個も灯篭を建てたことから「灯篭大臣」とも呼ばれた。『平家物語』には横暴な清盛とは対照的に、父の傲慢を諌める性格温厚な人徳者として描かれている。保元の乱(18歳)と平治の乱(21歳)で父と一緒に武勲を挙げ、平家一門の勢力拡大と共に昇進を続け、1177年(39歳)、内大臣となる。その3ヵ月後、僧俊寛の山荘で打倒清盛のクーデター計画が練られている事が発覚(鹿ヶ谷事件)。首謀者と目される藤原成親(なりちか)は重盛の妻の兄だった。このままでは義兄が父に処刑されると思った重盛は、清盛邸に乗り込んだ。 クーデター未遂という状況にも関らず、重盛は鎧をわざと附けず、軍兵も連れず、数人の護衛だけを従えるのみ。清盛邸に集結していた一同は唖然とし「何故この重大時に、軍兵一人もお連れにならないのですか」。重盛は「重大事とは天下の大事を言うのだ。こんな私事がどうして重大事か」。成親に面会した重盛は我が身に替えて命を守ることを約束。父との説得にのぞんだ。重盛は自分の妻が成親の妹だから頼むのではないと前置きした上で慈悲の重要性を説く。 「死罪を行えば、逆にそれが恨みとなって謀反の輩絶える事ありません。保元の乱で故・信西入道が敵を死罪にした結果、2年後の平治の乱では、信西は墓から掘り起こされ、頭をはねられた上、大路を引き回されたではありませんか。自らが行いし事は、必ず後に応報があります。親の善悪が子孫に及ぶ事は明らか。どうか今夜首をはねるのだけは、思い留まって下さい」。 清盛は息子の説得を聞き入れ処刑を中止した。重盛は館を出ると、表の部下達に念を押した。「父の命令だからと言って、決して成親に危害を加えるでない。今腹立ち紛れに事を起こすと、後にきっと悔やむことになる」。 清盛は成親や俊寛を鬼界ヶ島に流したが、事件の黒幕は後白河法皇。法皇は当初こそ平家一門を厚遇したが、あまりに力を持ちすぎることを危惧したのだ。これを知って清盛の怒りが再燃、法皇を監禁すべく武具を身に付け、御所へ向けて出陣体勢を整えた。 「私清盛は保元の乱で後白河院の為に先頭を駆けて戦った。平治の乱でも何度法皇の為に命を落としかけたか分からない。もはや、院に奉公する気は失せた」。そこへ再び重盛が駆けつける。牛車から武装した兵たちの中に降りた重盛の姿は烏帽子に平服。場違いな風采だった。清盛「この非常時に世の中を軽んじるあの立ち振る舞い。許せぬ…」。しかし、そう思うと同時に、“常に冷静で礼儀正しさを忘れぬのは我が子ながら天晴れ”と感じ入り、息子が平服を着て落ち着いているのに、自分が鎧姿で血色ばんでいることが恥ずかしくなった。慌てて絹の衣を羽織って鎧を内に隠し、重盛との対話中も、しきりに隠す仕草を繰り返した。 座って向き合うと親子の間に、無言の時が流れる。長い長い沈黙。耐え切れず清盛が切り出した。「あの事件は法皇が計画したのだぞ。しばらく幽閉し、反省して頂かなくては」。重盛はハラハラと落涙する。なぜ泣くのかと驚く父。「父上、貴方は僧籍にある身ではありませんか(清盛は出家していた)。法衣を脱ぎ捨てて鎧甲をまとい、弓矢を帯びるなど、仏法に背くことに畏れを感じないのですか。そもそも父上が太政大臣になれたのも、この重盛が無才の身ながら大臣の位に至ったのも法皇のおかげ。多くの領地が我が一門の所領となったのも法皇のおかげ。たとえ法皇の申されることが理不尽だとしても、それには何か理由があるはず。我ら一門は地位におごって傍若無人に振舞ってはいませんか。聖徳太子が十七条憲法にて、自分が正しいと言って、必ず相手に非があるとは限らず、物事の是非はまるで環の如く端なしと申されています。父上、一度我が身を振り返って見るべきです」。清盛は反論できない。 「それでも父上が出陣されるのなら、私にも少々兵が居りますゆえ、彼らを集めて法皇の御所をお守りします!嗚呼、悲しき哉、法皇のお役に立とうとすれば親不幸の罪。親に従えば法皇に背くことに。父上!このうえは私を庭に引き、首をおはね下さい。(父の家来に)お前達も父と共に御所へ向かうつもりなら、まず重盛の首のはねられたのを見届けてからにいたせ!」。清盛は力なく、「いや、何もそこまでは考えておらぬ。この先また、法皇が悪党どもに惑わされてはならぬと思ってだな…」。 それでも父が出兵中止を明言しないので、重盛は自邸に帰り「天下の一大事が生じた。我と心を同じくする者は、武装して集まれ」と触れを回した。武士達は「滅多な事で騒がぬ重盛卿の御触れなり!」と色めき立ち、鎧を着ながら甲(かぶと)を忘れる者、弓を負うて矢を持たぬ者、大慌てで駆け参じた武者の数、実に一万余騎。清盛配下の数千騎までが、重盛の館に駆けつたのだった。息子の心意気に圧倒された清盛は、鎧を脱ぐと袈裟を被り、念仏を唱え始めたと言う。 この出来事を聞いた後白河法皇「今に始まった事ではないが、つくづく重盛卿は心の内が優れたお方だ」。人々は文武両道に長けた重盛を慕い「清盛公が亡くなっても、重盛殿さえいれば平家は安泰だ」と語り合った。 しかし、法皇を守ったものの、重盛の心が晴れることはなかった。俊寛への惨い仕打ちなど父の所業に悩み、救いを求めて那智熊野を参拝しこう祈った。「最近の父上の行ないは悪逆非道を極め、法皇の御心さえ悩ましています。このままでは平家一門の繁栄は一代すら持たぬかも知れません。私は平家一門の嫡男として何度も父上を諫めて来ましたが、聞き入れられません。どうか父を改心させて下さい。もはや平家滅亡が避けられぬのなら、私の命を縮めて下さい。私は滅び行く平家の運命を見たくはありません」。果たして、この後すぐに重盛は病の床についた。 心配したのは清盛。ちょうど中国(宋)の名医が渡来中だったので、息子に診察を申し込むように提案した。重盛の返事は「もし異国の医術によって命が永らえたなら、我が国の医術は無きに等しいことになる。それこそ国の恥です」。これを聞いた清盛は「国の恥を思う大臣が、大和奈良の頃より居たであろうか。まして、未来にあるとも思えぬ。重盛は日本に不相応な大臣である」と胸が熱くなった。 重盛は祈祷も拒否し、半年後の1179年8月1日、41歳という短命で生涯を閉じた。 清盛に真っ直ぐ意見を述べる重盛がいたからこそ、その横暴な振る舞いに歯止めが掛かっていた。重盛が没すると、3ヵ月後に清盛は後白河法皇を幽閉。翌年に源氏が挙兵し源平争乱が勃発。混乱の中、2年後に清盛死去。平家は都落ちし、4年後に壇ノ浦で滅亡した。重盛がもし存命なら平家は善政を敷き、源氏に組するものは少なかっただろう。彼は平家全盛の時に他界しており、その意味では一族の中で一番幸せだった。 ※茨城県城里町の小松寺裏の白雲山中腹にある重盛の墓は、側に妻の墓もあり、本墓の最有力候補。 |
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| 義仲騎馬武者像〜富山・小矢部市の護国八幡神社 |
長野・木曽町の歴史資料館「義仲館」 | PS2「義経英雄伝」から義仲&巴御前 |
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| 中央、薄茶色の灯篭を挟んで向かって右が義仲、左の小さな墓石が巴御前。 |
(2007) |
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| 首塚は京都東山区の八坂の塔(法観寺)境内にある。かつては民家の庭先にあったが、1997年に管理する者が いなくなり、この法観寺が引き取る形で移転してきたという。お寺に落ち着くことができてよかったね、木曽公! |
| 源義仲。通称・木曽冠者(かんじゃ)。幼名駒王丸。埼玉県比企郡嵐山町が生地と言われている。1歳の時に父・義賢が実兄・義朝(頼朝の父)との対立の中で殺され、義仲は乳母の夫・中原兼遠に長野県南西部の木曽で育てられた。頼朝・義経兄弟は、義仲にとって父の仇の従兄弟にあたる。※頼朝は7歳年上。義経は5歳年下。 1180年4月(26歳)、清盛が強引に安徳天皇を即位させると、平氏の独裁に不満を抱く後白河法皇の皇子・以仁(もちひと)王が平氏打倒を全国に訴えた。これを受けて8月に伊豆で頼朝が、そして9月に義仲が信濃国で挙兵した。翌年、越後から信濃へ攻めて来た平家方の城氏を「横田河原の戦い」で撃破。そのまま父のかつての領国上野(群馬)への進撃を考えたが、東国統一を目指す頼朝との衝突を避け、自身は北陸地方の統一に専念する。 次の年は全国的に凶作に見舞われ、義仲軍、頼朝軍、平氏軍は共に兵糧が確保できず戦どころではなかった。 1183年3月(29歳)、父の弟・源義広が甥の頼朝の配下になることを良しとせず挙兵。敗北した義広は義仲を頼ってくる。義仲が保護した結果、義仲と頼朝は対立し、義仲は西に平家軍、東に頼朝軍と両面を挟まれる形になった。頼朝は10万の兵で信濃に侵攻し、義仲は長男・義高を人質として頼朝に送り和議を求める。頼朝はこの和睦に応じ、背後の心配が消えた義仲は平氏との戦いに集中できるようになった。 5月、富山と石川の境界にある倶利伽羅(くりから)峠で、平維盛(これもり)率いる義仲征伐軍と激突。義仲軍5万に対し、平家側は10万の大軍。兵力は半分だったが、義仲は軍を本隊4万と分隊1万に分け、分隊を平氏軍の背後に回らせ、断崖の近くで夜襲をかけた。逃げ場を失った平氏軍は暗闇の中、逃げ道を求め次々と谷底へ落ちていった。約7万騎が埋め尽くした谷底は、馬には人が、人には馬が落ち重なっていたという。地の利を生かした戦法で圧勝した結果、平氏軍は一夜にして10万の兵がわずか2万まで激減するという空前の大敗北を喫した。 ※倶梨伽羅峠の戦いで捕虜にした平氏の猛将・瀬尾太郎兼康を“失うには惜しい武士じゃ”と命を救ったところ、瀬尾は再び敵に回って多くの被害を与えた。頭に来た義仲は「今度はもう許さん!」と大攻勢をかけて瀬尾を自害に追い込む。最期まで瀬尾が奮戦したことを聞くと、「さすがは瀬尾。う〜む、やはり殺すには惜しい男だった」と悔いたと言う。例え裏切られても、忠義心を高く評価する義仲だった。
●義仲、上洛! 7月末、平家一門は義仲の追撃を恐れて神戸、九州へと都落ちしていく。その2週間後に義仲は比叡山にいた後白河法皇を保護し平安京に入った。都の人々は傲慢な平家を追い出してくれた英雄として義仲軍を喝采で迎え、東方(木曽)から日の出の勢いで上洛した彼を“朝日将軍(旭将軍)”と呼び讃えた。 この頃、京の都は飢饉で荒廃し尽くしていた。人口約15万人のうち、餓死者が4万人という地獄絵図(方丈記に記述アリ)。道端には死者が連なっている。その結果、義仲軍は都で兵糧を補給することが出来ず、腹を空かせた兵たちが民家へ押し入るなど、人々への略奪を始めた。収穫前の青田を馬のエサにしたり、他人の家の蔵を開けたり、兵の中には追い剥ぎをして着物を奪う者もおり、こうした略奪行為は「平家の方がまだよかった。服までは剥がれなかった」と言われるほどになった。また後白河法皇を始めとした公家達も、義仲が牛車の乗り方さえ知らず、食事の作法もなっておらず、木曽の野生児と馬鹿にした。 ※牛車爆走事件…高い官位を得た義仲は、貴族の装束を着て烏帽子を被るが全く似合わない。牛車の牛飼いは元々平家の親玉・平宗盛に仕えていたので義仲を嫌っていた。それで牛小屋から気が荒すぎて3年も使っていない猛牛を選んだものだから、鞭を当てた瞬間爆走した。生まれて初めて牛車に乗った義仲は、仰向けに倒れ、手足をパタパタさせ車の中を転げ回った。羽根を拡げた蝶のようになっているので、さすがに気の毒に思った牛飼いは「手すりにお掴まりなさい」と教えてあげた。「おお〜、これは実に良い仕掛けだ。オヌシの案か。それとも宗盛殿か」と、すっかり感心し、手すりにしがみ付いていた。御所に着いた義仲は、後ろから乗って前から降りるというルールを知らず、「旦那様、前からです!」という指摘も聞かず後部から降りてしまった。 ※猫間殿事件…猫間という土地に住む中納言・猫間殿が、所用で義仲の館を訪れた際のこと。取次ぎが到着を告げると、義仲は「都では猫が人に会うのか」と本気で信じて噴出した。猫間殿が広間に通されると、昼時だったので義仲はいきなり「やあ、猫殿、飯を馳走しよう」。当時の貴族は1日2食。義仲はそれを知らず、嫌がる猫間殿に食事を無理強いした。「さあ召し上がれ」目の前には縁の欠けた汚い椀に山盛りの飯、平茸汁。猫間殿は躊躇したが食べないのも悪いと思い少し口に運んで箸を置く。「猫殿は小食じゃのう。噂に聞く猫の食い残しとは、まさにこの事。ガハハ。さあ食え、それ食え!」。猫間殿はそそくさと退散した。 ※鼓判官事件…法皇の伝言(「義仲は軍の狼藉者を捕らえよ」)を伝えたのは、鼓(つづみ)の名手“鼓判官(ほうがん)”。冗談好きの義仲は真面目な話の最中に「貴殿の名は誰かにぽこぽこ打たれ、頬をペタペタされたからか」と相手をおちょくったので、判官は激怒して立ち去り、法皇に「木曽を討つべし」と進言した。 10月、法皇は義仲軍を都から遠ざける為に、「平氏追討」を命じて西へ下らせた。しかし、“腹が減っては戦ができぬ”とはこのこと。義仲軍にはかつての連戦連勝を続けた覇気はなく、規律も乱れて「水島の戦い」(岡山・倉敷)で完敗した。 法皇は義仲の留守中に頼朝に接近し、「義仲追討」の令を発布。これを知って義仲は憤慨する“あのタヌキ親父め!”。「兵たちだって、兵糧があれば誰も略奪なんてしない。我らは命をかけて平氏と戦っているのだ。青田の一部を馬草にしたと非難するが、では馬に乗らず平氏と戦えというのか。なぜに分かって下さらぬ」。 12月、帰京した彼はクーデターを断行する。義仲軍は7千まで兵数が減っていたが、法住寺に終結した鼓判官率いる2万の僧兵・武士を討ち取り法皇を拘束し政権を掌握する。彼は人事を一新した。清盛は公家39名の官職を剥奪して非難を浴びたが、それを上回る47名を追放した。この『法住寺合戦』では、延暦寺の最高位・天台座主を含め、多くの高僧が犠牲になった。 ※『法住寺合戦』に関しては、兵を統率する苦労を頼朝も痛感していたのか、義仲に同情的だった。「鼓判官の軽はずみな言動が帝を悩ませ、多くの高僧を失う事態となった。もう、奴を相手にするな!」。鼓判官は面目をなくし山里に隠居したという。 一方、義仲は宴を開き上機嫌。「この義仲、帝との戦に勝利した以上、私が天皇や法皇になるべきだろうなぁ。だが、法皇になる為に出家するのも妙な話だし、天皇になるには歳を取りすぎておる。童には戻れぬから関白になろう」。義仲は上皇(位を譲った後の天皇)が出家した場合に法皇となることや、この時の後鳥羽天皇は院政の中でたまたま子どもだった訳で、何歳で天皇になってもいいことを知らなかった。関白が藤原氏の要職ということも同じく知らない。 鎌倉から頼朝の大軍6万が出陣したことを知った義仲は、平家に対して「過去を水に流し共に力を合わせて頼朝を倒そう」と呼びかける。平家の親玉・平宗盛は「やった!これで都に戻れる!」と喜んだが、武闘派の知盛から“義仲が平家に降伏することが先です”とたしなめられ、反鎌倉の大連合は実現しなかった。日本は三国志の世界の如く、西に平家、都に義仲、東に頼朝と、三者が対峙しあう一触即発の状況だった。 ●宇治川の合戦 1184年1月、義仲は自身を権威づけるため、約370年ぶりに征夷大将軍を復活させ就任する。20日、頼朝が派兵した源義経・範頼の率いる義仲討伐軍が京都に迫った。義仲軍の本隊は都への入口となる宇治川に布陣して義経隊と向き合い、分隊は瀬田(琵琶湖の南岸)で範頼と戦闘に入った。義仲は宇治の橋を事前に落としていたが、義経隊は佐々木高綱、梶原景季(かげすえ)が馬で渡りきったのをきっかけに、一斉に全軍が渡河を開始。ここに『宇治川の合戦』の火蓋が切って落とされた(義経は初陣)。義仲軍は6万の頼朝軍に7千の兵で激しく抗戦した。 しかし、やはり多勢に無勢、義仲軍の敗北は時間と共に決定的になっていく。戦場の混乱の中で、頼朝軍の間に「義仲は丹波(兵庫)へ逃げた」「いや北陸へ向かった」と情報が錯綜したが、義仲はまだ瀬田近辺にいた。兵数はわずか13騎。彼は分隊を指揮する今井兼平を探していたのだ。兼平は義仲が1歳の時に預けられた乳母の家の子。2人は兄弟のように育ち、子どもの頃から「死ぬ時は一緒」と固く誓い合っていた。分隊は千騎もおらず苦戦が予想された「兼平…生きていてくれ!」。義仲の視界に琵琶湖が見えてきた。南岸の“打出の浜”に出たところで、遠くから約50騎の武士が近づいてくる。なんと、兼平たちだった!兼平もまた義仲と死を共にする約束を思い、宇治川を目指していたのだ。 視線の先に互いの姿を認めると、共に馬の足を速めて駆け寄った。義仲は兼平の手をとり、感極まって声を震わす。「業平!」「殿!」「六条河原で幾度も討死を考えたが、貴殿のことが気掛かりで、恥を忍んで敵に後ろを見せ、ここまで逃れてきたのだ」「この兼平も、瀬田にて死なんと幾度も覚悟しましたが、殿が心配で逃れて参りました」「小さい頃に“死なば一緒”と誓ったあの約束は健在か」「殿…!」。 義仲と兼平が手を握り締める姿を見て、散り散りになっていた味方の兵が集まり出した。その数、約300騎。彼らは皆、今から死ぬことを承知しつつ、自分の意思で集結した。「ようし!この浜で最期の戦いを始めるとするか!」。一帯を見渡した彼らの目に、6千騎を率いる甲斐・一条次郎隊が見えた。「うむ!良い相手が見つかった。同じ死ぬなら大軍の中で散ろうぞ!」彼は先頭になり“義仲はここであるッ!この首をとって頼朝に見せろーッ!”と叫び突っ込んで行く。一条は驚き「いかにも木曽殿!ものども、必ず討ち取れ!」。突撃した300騎は大いに暴れ、敵陣を突破した時に50騎が残った。義仲も、兼平も、まだ生きていた。続いて土肥実平の2千騎に特攻をかけ、また2人は生きて突破した。さらに別の500騎へ、今度はこちらの300騎へと突撃を繰り返し、最後に5騎が残った。上洛前に5万人いた義仲軍は5人になった。そしてこの中に一人の女武者が生き残っていた。巴(ともえ)御前だ。 巴御前は27歳。兼平の妹で「色白く髪長く、容顔まことに優れたり」と記される義仲の妻(愛妾とも)。荒馬「春風」に乗って風を切る彼女は、人一倍派手な鎧を着て、大型の弓と大太刀を自在に扱う美しき猛者。宇治川の戦場を13騎で脱出した時、前方に立ち塞がった敵将・畠山重忠をして「かの者は女に非ず、鬼神にも勝る」と言わしめ、追討を諦めさせた勇将だ。 義仲は巴に生き延びて欲しかった。もはや5騎、ここから先は確実な死が待っていた。「巴、よくお聞き。今からは別行動だ。早く逃げなさい」「いやです。最後までお供いたします!」。巴は死ぬまで義仲に寄り添うと言ってきかない。彼女に対し“命を大切に”と説得しても通用しないので、義仲は心を鬼にして言った。「巴!お前は私のことを、“最後の戦に女を連れていた”と世の笑い者にしたいのか!」。 武士の名誉を語られて、彼女は言葉が出ない。なおもしばらく義仲から離れるのをためらっていた。 義仲が「さらばじゃ!」と言って馬を駆けて行くと、敵の30余騎が後を追撃した。巴は泣きながら、その敵のど真ん中へ「私と戦え!」と愛馬を突入させる。彼女は真っ先に大将の体を掴んで引き落とし、鞍(くら)に首を押し付けると、それを斬って投げ捨てた。巴は東国へ落ち延びて行く。 近江国粟津(あわづ、滋賀・大津市)。義仲は新たに追撃を受けていた。琵琶湖南岸は敵だらけだ。矢も少なく、いよいよ最後の局面となった。兼平は腹をくくった“ここまで戦えば悔いはない”。「殿、残りの矢は7、8本です。私が時間稼ぎをしている間に、あそこに見える粟津の松原(松林)で静かに御自害なされ」「何を言う。私は共に戦って散るぞ」。兼平の頬を涙がつたう「日本国に名を馳せた殿が、無名の雑兵に討たれてはあまりに無念ゆえ、早く松原へお入り下され」。これ以上、義仲には何も言えない。「兼平さらば!」と単騎、松原を目指した、 兼平は、素早く矢を放って瞬時に7、8騎を射落とし、矢が尽きると太刀を振り回した。敵は「奴を早く射れ!」と、次々と射掛けたが気迫に圧倒されて命中しない。義仲が“よし、もうすぐ松林だ”と思ったその時、馬の足がぬかるみに捕らわれ身動きがとれなくなった「不覚!」。そして“兼平はどうなったのか”と背後を振り返った瞬間、彼の額を矢が貫いた。即死だった。享年30歳。 敵はその首を掻き切ると太刀の先に刺し掲げ「鬼神と聞こえし木曽殿をこの石田次郎が召し取ったり!」と、名乗りを挙げた。兼平はこれを聞いて「もはや戦う意味はなし!木曽武士の死に様、貴様らよく見とけ!」。彼は馬上で太刀の先端をくわえると、頭から飛び降りて刺し抜いた。 ●義仲寺 墓は義仲を憐れんだ近隣の大津・膳所(ぜぜ)の村人たちが造った。法名、徳音院義山宣公。その数年後、尼僧が墓の側に草庵を結び、朝夕に菩提を弔い始めた。人が名を尋ねると「名は捨てました」。後に村人は彼女が巴御前と知り、没後に草庵を「無名庵(むみょうあん)」といつしか呼び始める。草庵の名は巴寺、木曾塚、木曾寺と移り行き、100年後には「義仲(ぎちゅう)寺」となった。 義仲の他界から510年後(1694年)、一人の俳人が遺言を弟子に残す「私の亡骸は義仲公の側に葬って欲しい」。その俳人の名は松尾芭蕉。芭蕉は大人気の義経ではなく、アンチヒーローと見らていれる義仲を愛し、『奥の細道』の完成後の最晩年は、京都・嵯峨の「落姉舎(らくししゃ)」と義仲寺を交互に住んだ。※境内の庭園には「無名庵」が建てられ、1691年(死の3年前)には庵に3ヶ月間滞在している。 所要で向かった大阪で逝去した芭蕉の亡骸は、遺言に従って弟子10名(去来、基角他)が舟に乗せ、淀川を上がって義仲寺・無名庵の前に埋葬した(正面右から芭蕉、義仲、巴御前の順で並んでいる)。境内には弟子の又玄(ゆうげん)によって句碑が刻まれた「木曾殿と背中合せの寒さかな」。 左奥に義仲、右手前に芭蕉の墓墓は他に3ヶ所。長野県木曽郡木曽町(木曽福島)の徳音寺に木曽義仲、巴御前、今井兼平の墓がある。寺の名前は義仲の戒名「徳音院義山宣公」が由来。また興禅寺には巴御前に託された遺髪が義仲の墓に納められている。墓前には種田山頭火の歌碑「さくらちりをへたところ旭将軍の墓」が建つ。京都東山の法観寺には首塚がある(八坂の塔の横)。六条河原で晒された首は家臣により八坂郷に手厚く葬られたとのこと。巴御前の墓も滋賀・国分寺の境内に供養塔(瀬田の唐橋の西)、横須賀市岩戸、横須賀市佐原など複数あるようだ。 源平争乱を全体から見た時に、“一ノ谷”や“壇ノ浦”での義経の華々しい活躍ばかりがクローズアップされているが、平家打倒の真の功労者は戦乱初期の「倶利伽羅峠の戦い」で、10万の平氏軍を2万まで壊滅させ、平家一門を海上へ都落ちさせた義仲だ。彼が20年続いた平氏政権を3年で打倒したのだ。義経の少人数での奇襲作戦が通用したのは、義仲がごっそりと平氏軍主力部隊の戦力を奪っていたから。平氏軍は人数が減った上に、新たに増えた兵は忠誠心のない傭兵(ようへい)ばかりになってしまった。 僕は長年、義経や頼朝の視点でしか義仲を見ていなかったので、彼のことを短慮で粗野な無法者という印象しか持っていなかった。だから、なぜ芭蕉ほどの男が、義仲の墓の側に住んだり、死後は隣に埋めてくれと遺言までしたのか、その気持がさっぱり分からなかった。しかし、共に死ぬ約束を果たす為に兼平を探し回る姿や、牛車爆走事件で手足をバタつかせている様子、猫間殿への無邪気な振る舞いを通して、荒くれ者ではあるが決して悪人ではなく、むしろその不器用さ、一本気さに親しみを感じた。何より、「木曽義仲」という人物に魅力がなければ、巴御前がああまで慕い、圧倒的に不利な戦力差で兵がついて来るハズがない。平家物語や記録に残らないエピソードが多数あることが容易に想像できる。芭蕉は豪傑であると同時に素朴で人間味の溢れる義仲の人柄を愛したのだろう。 ※長野・木曽町の歴史資料館「義仲館」(徳音寺に隣接)には義仲&巴御前の銅像があり、富山・小矢部市の護国八幡神社にも義仲の騎馬武者像がある。 ※義仲の重臣“義仲四天王”は、今井兼平、樋口兼光、根井行親、楯親忠。兼平の墓は大津市晴嵐、長野市川中島にある。 ※人質として頼朝の下にいた義仲の子・義高は、頼朝の長女・大姫と結ばれていた。始めこそ政略結婚であったが、大姫は義高にベタ惚れになる。義仲が討たれたことで大姫は義高の身が心配になって彼を逃がそうとするが、義高は捕らわれ処刑された。彼女は父を恨み、悲しみのあまり長く床に伏せる。政子は頼朝を強く非難した。後に義経の愛妾・静御前が鎌倉へ連行された時、大姫は父に愛する者を奪われた彼女に身を重ね、様々な贈り物をしている。 ※「義仲の寝覚(ねざめ)の山か月かなし」(芭蕉) お薦め参考サイト…『平家物語』現代語訳と写真で綴られており、めちゃくちゃ分かりやすい! |
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| 日本一有名な悲劇のヒーロー | 歌い舞う静御前 | PS2「義経英雄伝」は超イケメン |
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| 向かって左側が静御前、右側が義経の墓 | 2人、仲むつまじく並んでいる(淡路島だよ!) |
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| 義経の首が埋葬されたと伝えられる神奈川県藤沢市の白旗神社。境内に供養碑が建っている |
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| 尼御前(あまごぜん)像。切ない表情が胸にくるデス… | 石川県加賀市の尼御前岬 |
| 東北へ向かう義経一行の中にいた尼御前は、この先にある「安宅(あたか)の関」の取り締まりが厳しいことを 聞き知って、足手まといにならないようにと、義経の無事を祈ってこの岬から身を投げたという。わーん! |
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| 「源義経上陸の地」 山形県鶴岡市鼠ヶ関にある |
“上陸の地”の浜辺。ここから弁慶と上陸した のか!?鼠ヶ関は奥羽三大関所のひとつ |
鼠ヶ関所跡には「勧進帳の本家」とあった。“勧進帳”といえば石川県 小松市の「安宅の関」が有名だけど、ここは本家と主張していた |
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| 高松市屋島の源平古戦場。浜辺に陣を張る平家を 義経は背後の山から急襲。平家は大パニックに! |
屋島の「血の池」。武士たちが血刀を洗った為、 池が赤くなり血の池と呼ばれるようになった |
屋島の「義経鞍掛の松」。阿波・勝浦 から上陸した義経は、この松に鞍を 掛けて休息してから平家を奇襲した |
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| 新潟県上越市・観音寺の兜(かぶと)池。北上する義経が観音寺に宿泊した際、夢枕に仏が立ち、 「身分を隠すため鎧や兜をこの池に捨てろ」と告げた。従った結果、無事に関所を突破できたという |
| 京都出身。源義朝の九男で、母は常盤御前。幼名は牛若丸で頼朝は12歳年上の異母兄。義経が生まれた同じ1159年、父義朝は「平治の乱」で清盛に戦いを挑むが敗走、再起を誓って東国へ逃れる途中で部下の裏切りで殺された。清盛は義朝の首を都で晒し、敵対した者をことごとく斬ったが、12歳の頼朝はまだ幼いということで助命され伊豆に流される。翌年、美しい常盤御前に対し、清盛は1歳の義経を助ける事を条件に妾になれと強要。常盤は我が子の為に清盛に従った。義経は6歳に成長すると鞍馬寺に預けられた。10歳の時に自分が源氏の義朝の子であると知り、以後、打倒平家を誓って武芸に励む。※鞍馬山で彼に武芸を教えた天狗は山伏を指すと思われる。 1174年(15歳)、平家の勢力圏から逃れる為に、遠く奥州平泉(岩手)の藤原秀衡を頼り、当地で6年を過ごす。1180年8月、頼朝が妻・政子の父・北条時政の力添えを受けて伊豆で挙兵。「富士川の戦い」で快勝し、黄瀬川(静岡清水町)で陣を張る頼朝の元に、義経は秀衡配下の佐藤忠信兄弟ら80騎と共に馳せ参じる。頼朝・義経は協力して平家を倒すことを誓いあった。 頼朝は平家との全面対決を前に、まず東国に強固な権力地盤を築く必要があった。カリスマを演出し、東国武士団の比類なきリーダーであることを内外に見せ付けるためには、家来の前で弟を特別扱いするわけにはいかない。ナンバー2は必要なかった。しかし政治的な駆け引きに縁がなかった義経は「東国武士の団結最優先」という兄の真意を察せなかった。この年、頼朝は弟に馬の引き役を命じるが、彼は他の家来と同格になるのが嫌でこれを断り、最終的には引き受けたものの頼朝を憤慨させた(頼朝爆発5秒前)。 頼朝の挙兵から1ヵ月後に、長野でも従兄弟の木曽(源)義仲が蜂起する。 1183年(24歳)、義仲は勝ちまくって快進撃を続け、平家を「都落ち」に追い込んだ。しかし、戦いに次ぐ戦いで兵たちは疲れきっており、しかも西国は飢饉で食料も少なく、義仲軍のモラルは完全に崩壊。彼らは都一帯で民衆への略奪や暴行を繰り返し「平家の方がマシだった」と人々の間に失望が広がる。頼朝は義仲軍の狼藉を“源氏の恥”と捉えて討伐を決意、まず状況を把握する為に先遣隊で義経を伊勢に置いた(この時、義経はまさかこれが鎌倉の見納めになるとは夢にも思わなかっただろう)。すると都の後白河法皇から「上洛して義仲を討って欲しい」と院宣(いんぜん)が出た。これを受けて頼朝は弟の範頼(のりより、義経の異母兄)を大将に大軍を派遣する。 ※「院宣」は法皇の公文書。ちなみに「勅書(ちょくしょ)」が天皇の公文書、「令旨(りょうじ)」が皇太子や親王の公文書。 1184年(25歳)、義経・範頼は伊勢で合流し都を目指す。迎え撃つ義仲は増水した宇治川の橋を落として対峙するが、義経軍は川を果敢に突破し、義仲軍を蹴散らした(宇治川の戦い)。義経は初陣で見事に勝利を飾り、京の人々から喝采された。 ●合戦、また合戦 こうして源氏側が内部抗争をしている間に、平家は再び力をつけて神戸まで迫り、一ノ谷に堅固な陣を張る。後白河法皇は新たに平家追討の院宣を発令。源氏軍は二手に別れ、範頼軍(主力部隊6万)が東から、義経軍(1万)が西から本陣を攻めた(一ノ谷の戦い)。平氏軍は必死に防戦し、源氏軍は突撃しては矢を浴びて撤退するなど、戦局はこう着状態に陥る。この戦況を一変させたのが義経率いる70騎の別働隊。彼らは本陣背後の崖の上から攻め降りてきたのだ!(義経の“ひよどり越え”。彼は鹿が降りるのを見て馬も可能と判断した)。平氏軍は突如として陣内に現れた奇襲部隊によって大混乱になり、我先にと海上を目指し四国・高松の屋島へ逃げていった。源氏軍は平家の主な武将の8割近くを討ち取る大戦果を挙げ、義経は京都に、範頼は鎌倉に凱旋した。そして頼朝は義経の縁談をまとめて「郷(さと)御前」(河越重頼の娘)と結婚させた。 ここが頼朝・義経の蜜月のピークだった。以後はボタンの掛け違いの連続。頼朝は朝廷から支配を受けない武家政権を目指していたので、頼朝の許可がなければ官位を貰えないシステムを作ろうとしていた(無許可で官位を得ることを家来に禁止していた)。しかし義経は、自分が官位を授かれば源氏全体の名声に繋がると考え、兄の許可を受けずに任官する。しかも役職が検非違使(けびいし、京都の治安機関のトップ。判官とも言う)。検非違使になることは鎌倉の政治に参加しないということ。頼朝の構想を身内の義経がブチ壊しにしたのだ。頼朝は弟の官位習得を売名行為と見なし、朝廷権力を凌駕する武家政権を目指している矢先に、官位を貰って喜んでいる義経の振る舞いに腹を立てた。(頼朝爆発4秒前) 1185年(26歳)、頼朝は義経を平氏討伐軍から外し、範頼に指揮を一任する。だが、追い詰められた平氏の抵抗は凄まじく、遥か関東より遠征してきた源氏軍は食料も乏しく戦線崩壊の一歩手前になった。瀬戸内海の制海権も依然として平氏にあり、頼朝はやむなく義経を再起用する。攻撃目標は屋島の平家本陣。張り切って四国へ出航しようとする義経だが、頼朝の重臣・梶原景時と次の2点で喧嘩になった。「逃げる時に備えて船の前方にもオールを付けるべき」と主張する景時に対し、義経は「臆病者め」と一蹴。暴風雨を理由に「嵐が去ってから海に出ましょう」という景時に、「この天候の中を攻撃して来ると思うまい。その油断をつくのだ」と義経も譲らない。食糧が不足し、兵士たちは自分の鎧(よろい)を売るほど窮しており、これ以上戦を先延ばしにできぬと義経は考えた。 義経はわずか5隻(150人)だけで、荒波に出航した。徳島・勝浦に到着した彼らは地元の武士を味方にしながら香川・高松に進撃し、屋島の平氏本陣を背後から夜襲した。大軍に見せる為に方々に火を放ちながら突撃する。海側からの攻撃だけを想定していた平氏軍はこの奇襲に動転し、またしても海へ一目散に敗走していった。海上で我に返った平氏は敵が少人数だと分かり引き返してきたが、矢戦の最中に景時の主力部隊が彼方から接近してくるのが見えたので、西の海へ退却していった(2月19日)。義経の兵は景時らを「今ごろ来ても遅いわ」と嘲笑し、景時はメンツが潰れた。 ※当時は現代と違って戦の時間が決まっており、夕刻には「今日の戦はこれまでじゃ!」と双方が休戦タイムに入った。この「屋島の戦い」では夕刻に平氏側が船に竿を立てて扇を差し「これを射てみろ」と挑発、源氏方の那須与一が見事射抜いて両軍から歓声が起きるという一幕もあった。平氏の兵は船の腹を叩いて敵の与一を称賛したという。このように戦の中にも信頼関係があり、馬を射るなど卑怯な手は恥とされた。正面から戦って打ち破ってこそが真の勝利であり、義経十八番の「背後からの攻撃」「寝静まった敵陣への夜襲」は、武士社会ではホントはとても不名誉なことだった(汗)。 ●壇ノ浦の戦い 源氏側には元々水軍がなく、海戦は苦手だった。しかし、勝利の気運に乗って一気に平氏を殲滅(せんめつ)すべく、平氏の独壇場とされる海戦にあえて挑んでいく。源氏軍は平家最期の本拠地・下関(彦島)に向かい、屋島合戦から一カ月後の3月24日、最終決戦「壇ノ浦の戦い」の幕が上がる。 開戦前、またしても義経と景時が衝突した。「先陣は私が引き受けます。義経殿は大将なので後方に控えて下さい」「何をおっしゃる、大将は頼朝公であり、私は貴殿と同じ立場だ。私が先陣を切る」。景時は聞こえよがしに独り言を呟く「ふん。生れつきこの殿は侍を率いる器ではないわ」。頭に血が昇った義経は刀に手をかけた「そなたこそ日本一の愚か者よ!」。景時も刀に手をかけ激しい口論になる。さすがに周囲の者が止めに入った「これ以上大事を前に争えば、平家につけ入る隙を与えますぞ!鎌倉公(頼朝)がこの騒ぎを聞いたら何と嘆きになるか」。頼朝の名を聞いて両者とも我に返った。義経は望み通りに先陣を切ったが、「部下に手柄を与えないリーダー」として東国武士の気持が離れていく。 戦端が開かれたのは壇ノ浦の複雑な潮流が安定する正午頃。当初の戦力比は平氏軍800隻、源氏軍300隻で圧倒的に平氏が有利。しかし、義経の政治工作が効いて紀伊・熊野水軍、伊予・河野水軍(頭目の孫が一遍上人)、阿波・田口水軍が源氏に寝返り、船数はほぼ互角になった。とはいえ、戦闘が始まると海戦に手馴れた平氏が巧みに潮流を利用して戦いを有利に進めていく。「このままではイカン」義経は劣勢挽回の為に当時はタブー(禁じ手)だった非戦闘員殺し、つまり武器を持たない漕ぎ手に矢を浴びせたのだ。これは馬を狙う事と同じで武士にあるまじき卑劣な行為とされていた(あの〜)。午後に入って潮の流れが逆になり平氏の船は押し流され、源氏軍の掟破りのダーティー・ファイトで漕ぎ手を失った平氏は全軍が身動きできなくなった。九州へ逃げようにも既に範頼の大軍が制圧しており、この状況を受けて平氏軍から裏切り者が続出、夕刻には勝敗が決定的になった。 平家側は鬼武者と呼ばれた平教経(のりつね)と知盛が最後まで奮戦していた。教経は手持ちの矢が尽きると両手に刀を握りしめて源氏の船に乗り込み、四方八方で斬りまくった。これを見た知盛は使者を教経に送り、「もう勝敗は期したのだから、あまり罪作りな事をなさるな。それとも良い敵でも見つけられたか」と伝えた。教経は“狙うは大将・義経のみ”と悟り、血まなこで義経を探し回った。ついに発見すると鬼神の形相で迫った為に、圧倒された義経はピョンピョンと船の間をジャンプして逃げてしまった(義経の八艘跳び)。教経は武器も兜も全部海へ捨てて吠える「見ての通り武器はない!勇気のある者は俺を生け捕りにしてみろ!」。しばらく誰もビビッて近づかなかったが、力自慢の3人組が刀を振り上げて襲い掛かった。教経は一人目を海へ蹴落とし、あとの2人を両脇に挟んで締め上げ「いざ汝等、死出の旅路の供(とも)をせよ」と海中へ道連れにした(享年25歳)。 平教盛・経盛の兄弟は互いの手をとり、鎧の上に碇(いかり)を背負って海に沈んだ。資盛、有盛、行盛の3人も手と手を組み碇を背負って海に跳び込んだ。清盛の妻時子は安徳天皇と草薙の剣(三種の神器)を抱いて身を投げ、女御たちも入水していく。至る所で平家一門が沈んでいった。 知盛は舟の舳先に立ってその一部始終を見届けた後、「もはや、見るべきものは全て見た」と呟き、体が浮かばぬように鎧を二重に着込んで波頭に消えた。(享年33歳) ところが、平家一門が自決しているのに、総大将の宗盛は入水する気配はまったくナシ。ただ船から四方を見渡すばかり。家来達はあまりに情けなく思い、宗盛の傍を走り抜ける振りをして背中をドンと押して海へ突き落とした。しかし、宗盛は手ぶらなので沈まず、泳ぎも達者なので結局は生け捕りにされた。義経は「女性は救うべし」と命令を出していたので、安徳の母・建礼門院徳子(清盛の娘)など数人が入水後に引き上げられた。 壇ノ浦合戦図●義経、茫然自失 鎌倉に大勝利の報告が入った当初、頼朝は弟に恩賞を与えようとしていた。だが、源範頼と梶原景時から義経に関する抗議の書状が届いた。範頼は「頼朝に報告せず何でも独断で物事を進める」「あまりに家来に厳しく些細なミスで処罰する」「自分に一任された九州の管理に介入してきた」と訴え、景時は「高慢なので誰も心から従っていない」「手柄は自分一人のものと考える」「法皇を頼朝より重んじる」「24名の家来が義経の真似をして勝手に官位を受けた」「私が忠告すれば私まで処罰される雰囲気」と激しい怒り(というか憎しみ)をぶちまけた。頼朝はかつて戦場で景時に命を救われたことがあり、これらの中傷をまともに信じてしまう。(頼朝爆発3秒前) 頼朝は考える。弟をどう処断すべきか。確かによくやってくれたが、新時代に向けて大切なのは東国武士団の絶対の団結だ。結束を乱すスタンドプレーがこのような深い亀裂を残した。将兵たちに規律を守らせる為に、ここは厳しくする必要がある。頼朝は決断を下した。「許可なく官位を受けた24名は鎌倉を追放」「頼朝に忠を尽くす者は、今後、義経に従ってはならぬ」。 仰天したのは義経。裏切る気持ちは全くないと弁明書を鎌倉に送った。だが、これがマズかった。この時点で会いに行くべきだった。頼朝は「これまで官位の件など何も報告して来ないのに、こんな時だけ送ってくるとは。それもわずか一通!これで済ませるつもりか!」(頼朝爆発2秒前) 義経は宗盛を鎌倉へ護送しつつ気分は凱旋モード。弁明書さえ届けばこんな誤解はすぐ解け、功績を讃えてくれると信じきっていた。ところが、鎌倉の一歩手前で「鎌倉へ入ることまかりならぬ。しばし待て」と警備に足止めされてしまう。腰越で兄の怒りが解けるのを待つが、半月経っても音沙汰なし。義経はもう一度筆をとり『腰越状』を記す。 ※『腰越状』抜粋…「当然恩賞があるべきはずのところ、恐ろしい讒言(ざんげん、悪口)によって、莫大な勲功を黙殺されたばかりか、義経は犯した罪もないのにお咎めを受け、ただ為すことなく血の涙を流しております。事実を調査せず、鎌倉の中へさえ入れられませんので、私の思うところを申し上げることも出来ず、むなしく数日を送りました。このような事態に至った今、兄上の顔を見る事も出来ないのならば、骨肉を分けた兄弟の関係が既に絶え、前世からの運命も極めて儚く、縁は何の役にも立たないのでありましょうか。亡き父以外に、誰が私の悲しい嘆きを申し開いてくれましょう。誰が憐れみをかけてくれましょうか」 腰越状を読んだ頼朝は胸を動かされ(爆発3秒前に戻る)、京都に帰して少し様子を見ることにしたが、義経は真心を込めた『腰越状』が無視されたと思い込み、ついにブチ切れた。腰越を去る時に「この恨みは平氏への恨みより深い」「頼朝に恨みがある者はついてこい」と悪態をついてしまう。これはすぐさま頼朝に伝わり、義経に与えた平氏の旧所領24ヶ所を全部没収した。(いっきに頼朝爆発1秒前へ) 義経は近江(野洲市大篠原)で宗盛を斬首し京都に戻る。義経の配慮で宗盛父子の胴は一つ穴に埋葬された。都に入ると野心あって頼朝と対立していた叔父・源行家が「こうなれば西に独立国を作しましょうぞ」と接近。頼朝は景時の子・景季を都に送り、義経と行家が手を組むのか調べさせる。頼朝が「行家討伐令」を伝えて反応を探ると、「今は病気なので、治り次第に作戦を練る」との返事。頼朝は弟が行家と内通し“時間稼ぎ”をしていると見なし義経追討を決断する。(ちゅど〜ん!頼朝メガ爆発!) 4ヶ月後、義経は刺客60騎の襲撃を受けて兄との関係は修復不可能と悟り、行家と結んで挙兵に踏み切った。後白河法皇に頼朝追討の発令を求め、従わないなら皇室全員を引き連れ九州で挙兵すると告げ、法皇は「頼朝追討」の宣旨を下した。しかしその直後、朝敵にされて怒った頼朝が、6万の大軍を都に送ると聞き及び、態度を180度変えて、今度は頼朝に求められるまま6日後に「義経追討」の宣旨を下す。(このあたり、後白河法皇が“日本一の大天狗”と頼朝に言われる由縁) 義経は焦った。とにかく味方の武士が集まらない(200騎オンリー)。彼に恩賞として用意できる所領がなかったことが何より痛かった。西国で再起を図るべく大阪湾に出た義経だが“平家の呪い”と言われる暴風に吹き戻され、元々少なかった家来とさらに離れ離れになる。義経は女人禁制の吉野山に身を隠す前に、かつて平氏追討の戦勝祝賀会で見そめた愛妾の白拍子(踊り子)・静御前(17歳)と別れる。都に戻ろうとした静は従者に裏切られて荷を奪われ、頼朝勢に捕らえられた。 1186年3月(27歳)、鎌倉に送られた静御前は義経の逃亡先を尋問されるが、彼女は本当に何も知らない。ならばと、世に名高い舞の名人ゆえ、源氏の繁栄を祈る舞を鶴岡八幡宮に奉納せよと命じられる(政子も“噂の彼女の芸を見たい”と頼朝にねだっていた)。 静は自分たちを酷い目にあわせた頼朝の為に舞うなど恥辱の限りと、体調の不具合など難癖をつけて固辞していたが、頼朝に厳しく強要されて、とうとう舞うことになった。ただし、彼女は頼朝の為ではなく、堂々と義経を慕う心を歌い舞った。居並ぶ鎌倉武士が身を乗り出して聴き入る。 「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」 (吉野山で白雪を踏み分け、山深く入ってしまったあの人の足跡さえも今は恋しいのです) 「しづやしづ 賤(しづ)のをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」 (おだまき=麻糸の玉がくるくる回転するように、「静、静」と呼ばれた昔に戻れたらどんなに良いでしょう) 彼女のプライドを見せ付けた命がけの抵抗だった。一同は感動し袖を濡らしたが、頼朝は立腹する。「わしが聞いていることを知っていながら、反逆者を慕い別れの歌を舞うとはもってのほかじゃ!」。だが政子は違った。「(政子と頼朝も駆け落ちした故)静の気持はよく分かります。愛しい人と離れる不安は耐え難きもの。ここは別れてなお慕う彼女の貞節を誉めるべきです」。政子は自分が着ていた衣を褒美として与えた。 妻に諭されて頼朝の勘気は収まったが、静はまだ自由の身になれなかった。子を宿していたので鎌倉で産むよう命じられたのだ。頼朝は「女子なら見逃すが男子の場合は諦めよ」と、若い静に覚悟をするよう伝える。果たして生まれてきたのは男子だった。泣き叫ぶ静の腕から赤子は取り上げられ、由比ヶ浜の海に沈められた。静は半狂乱になる。頼朝、非情。 9月、半年の鎌倉幽閉を経て静は自由の身となり京都へ帰った。静が鎌倉を去る時、政子や大姫(頼朝の長女)たち女性陣は、彼女に同情してたくさん贈り物を送った。※大姫は父・頼朝に、愛する許婚者・源義高(木曽義仲の子)を謀殺されており、自分の運命を重ねたようだ。 上村松園画「静御前」●終焉の地、奥州へ 一方、義経は興福寺や延暦寺など寺社を転々と移っていた。京や奈良を焼いた平氏を倒した義経は、僧侶にとって英雄であり、頼朝に「かくまうなら兵を送る」と脅迫されても、寺社はまず義経を安全圏まで逃がしてから「既に出発しました」と事後報告した。同年、行家が捕縛され斬首。 1187年、ますます捜査の手は厳しくなり、追っ手が迫った義経は、少年時代に6年間を過ごした奥州平泉の藤原氏を最後の頼みとして、山伏姿に変装し北上する(同行者はたった6人)。 藤原秀衡はまだ存命しており、義経が朝敵となっているのを知りながら、我が子同然に迎え入れてくれた。義経は数年ぶりに心から穏やかな時間を過ごす。 ※義経と繋がりのある女性といえば静御前ばかりがスポットを浴びるけど、実は正妻の郷(さと)御前も特筆に値する女性だ。奥州で義経は家族3人で幸せに暮らしているが、これは郷が幼い娘を連れて、はるばるやって来てくれたからだ。実は義経が頼朝との戦を決心した時に、郷は一度離縁され、故郷の武蔵国に帰るよう言い渡されていた。これは謀反人の自分と結婚していたら、郷の実家・河越氏に害が及ぶと心配したからだ(事実、親族から戻って来いと言われていた)。しかも乳児がおり、過酷な逃避行の道連れはムリ。もともとこの縁組は頼朝が取り決めたものであり、河越氏に咎めがあるのも変な話だ。しかし、郷の父は領地を没収され、兄は出仕停止の処分を受けている。つまり、郷は離縁されたのに実家に戻らず、「自分は正妻だから」と本人の意思で奥州へ向かったことが問題になったのだろう。初めは政略結婚でも、最後は心から愛し合っていた。 だがしかし、8ヶ月で藤原秀衡が病没。秀衡は遺言で息子・泰衡に、「義経を将軍に立て鎌倉に対抗し、彼の命を全力で守れ」と残した。奮い立った義経は再起を図って西国の武将に決起を促す使者を送ったが、この使者がソッコーで捕まり、逆に奥州に潜伏していることがバレてしまう。後継者となった泰衡は頼朝と朝廷の双方から義経の身柄を引き渡すよう命じられたが、頑なにこれを拒否して義経を守った。 1189年、業を煮やした頼朝は、泰衡に対して大軍を送ると脅迫し、奥州藤原氏の滅亡を恐れた泰衡はついに頼朝に屈した。4月末に泰衡は500騎で義経の住む衣川の館を襲撃し、弁慶ら側近が最期の抵抗をしたものの、「もはやこれまで」と義経はお堂に入り法華経を読み、共に死ぬと願う郷御前と4歳の愛娘を斬った後、館に火をかけて自害した。まだ30歳の若さだった。弁慶は無数の矢が刺さり仁王立ちのまま絶命していており、馬にぶつかって倒れた。義経を最後まで支えたのは、乱暴ぶりで寺を追放された弁慶や元山賊の伊勢三郎義盛らわずかに10人。いずれも組織と相容れないアウトローたちだった。 ※藤原泰衡は義経を討ったが、結局頼朝は5ヵ月後に28万という超大軍(関ヶ原合戦で戦った18万よりさらに10万も多い)を派兵して奥州藤原氏を滅ぼした。“どうせ攻められるなら義経を殺すべきでなかった”と泰衡は深く後悔したのではないか。 1192年、天下を統一した頼朝は鎌倉幕府を開いたが、そのわずか7年後(1199年)に落馬が原因で死んだとされている。ハッキリとした事情が分からないのは、吾妻鏡から頼朝の死の前後の部分がごっそりと欠如しているから。それゆえ北条家による暗殺説も根強い。5年後(1204年)に長男の頼家が、1219年には次男の実朝が暗殺された。平家は清盛が太政大臣に昇りつめて僅か18年で滅亡したが、頼朝もまた幕府を開いてから27年、3代でその血は絶えた。 義経は悲劇の英雄として多くの伝説が残っている。義経の影武者・杉目小太郎は平泉にて義経の身代わりで自害し、北海道に逃れさせたという(小太郎の供養塔が宮城・金成町津久毛にある)。実際にアイヌの村に「義経神社」があり義経の木像が祀られているなど、「北海道逃亡説」は単純にトンデモ話と言えないものがある。明治に入ると、北海道からさらに大陸へ渡り、チンギス・ハンとなって世界最大の帝国を作ったとする説も生まれた。 ●墓 平泉・高舘で自刃した義経の首は鎌倉へ送られたが頼朝は首実検をせず、代わりに梶原景時、和田義盛にさせた。確認後に捨てられた首を、まだ牛若と名乗っていた鞍馬時代の師・聖弘上人が貰い受け、神奈川・藤沢の白旗神社付近に埋葬したという。今は塚の盛り土は消え、宅地になっていた(首洗い井戸が現存している)。胴体の方は、親交のあった沼倉小次郎の手で、彼の領地・宮城の栗駒町に運ばれた。そして沼倉判官森に五輪塔(胴塚)を築いて丁重に葬ったとされる。判官森の裏手の森は弁慶森と呼ばれている。 また、淡路島の東海岸「静の里公園」(淡路市)にも義経の墓があり、静御前の墓と仲良く並んでいる(町史跡指定)。静は義経の死を知ると菩提を弔う為に剃髪して尼となり、同地に隠棲したという。この地は頼朝の妹の夫・一条能保の荘園であり、彼女は一条家に預けられて当地に眠ったとも、静の母・磯禅師が淡路島の出身であり縁をつたって移り住んだとも伝えられている。 《淡路島以外にも静御前の墓は至る所に!》どの墓の伝承もそれなりに説得力がある。 ●埼玉・栗橋町の光了寺。過去帳に静の戒名「巌松院殿義静妙源大姉」があり、1189年9月15日に他界したとある。寺宝に後鳥羽院が雨乞いの褒美で静に与えた舞の衣装もあるという。付近に「静ケ谷」という村があり、彼女は奥州へ向かう途中、この地で義経の死を知ったという。 ●長野・大町市社地区松崎の牛立山薬師寺。戒名は「勧融院静図妙大師」。付近に母・磯禅尼の供養碑もある。 ●香川・大川郡長尾町の長尾寺。「静御前得度乃寺」の石柱あり。町内の静屋敷跡に、かつて母と住んでいたらしい。10月13日を命日としている。 ●香川・木田郡三木町。下高岡の願勝寺と井戸鍛冶池西堤防の側にあり、静の死を看取った下女の琴柱も横に眠っている。命日は1192年3月14日。24歳没。母の墓は井戸川橋の東側。 ●新潟・栃尾市の高徳寺。長旅の疲れと病で、この地で息を引き取ったという。北条政子が静を供養する為に建てた庵が高徳寺になった。1190年4月28日没。 ●福島県郡山市には、義経の訃報を聞いた静が1189年3月28日に身投げしたという「美人ヶ池」や供養の為の静御前堂がある。(この日付だとまだ義経は死んでないけど…) ●前橋にも静の墓。 ※京都・竹野郡網野町磯は静の生まれ故郷とされており「静神社」が建立されている。 《雑感》 「朝廷の権威を無価値」にする武家政権を築こうとした頼朝と、「朝廷の権威を後ろ盾」に源氏の力を巨大にしようと考えた義経。2人の目指す方向はあまりに違っていた。また、頼朝のバックボーンである東国武士団は完璧な一枚岩ではなく、何より結束を強化することが最優先課題であり、軍全体が一丸となって行動することに意義があった。「皆で勝ち取った勝利」、これが重要であり、スタンド・プレーは必要ない。どんなに武勲を挙げても、東国武士団との間に深い亀裂を残しては意味がないのだ。まして、身内にさえ羨望される官位の任官は最も慎重を要すること。これらについて義経はあまりに無頓着すぎた。 頼朝は弟の所領を没収して東国武士たちに分け与えたが、義経には屈辱的でも、「頼朝公はそこまで我ら東国武士団を思って下さっている」と支持基盤はいっそう堅固になった。逆に言えば、弟にそこまで鬼に徹せねばならぬほど、長引く戦乱で団結力が揺らいでいたのだ。しかし、義経には兄の胸中を察することが出来なかった。兄もまた弟が純粋に誉めてもらいたくて奮闘している気持を信じきる余裕がなかった。それがこの兄弟の最大の不幸だろう。 いずれにせよ、義経本人がどれほど人間的魅力に溢れていたかは、彼をよく知る周囲の人間が証明している。悲惨な境遇でも最期まで裏切らなかった弁慶たち、身の危険を顧みずに義経を愛し抜いた郷御前、静御前の2人の女性。彼ら、彼女達にとって、義経はそこまで愛するに値する人物だったのだ。 ※1193年、範頼も義経同様に謀反の嫌疑をかけられ頼朝に殺された。頼朝、身内を殺しすぎ。 ※梶原景時は義経以外にも他人を失脚させることが度々あり、頼朝の死後は鎌倉から追放された。後に新将軍の擁立を画策して殺された。 ※当時は一夫多妻制。義経は側室が24名もいたが、これは一度でも関係を持った相手は必ず生活の面倒を見るという、彼の情の深さと言われている(好意的解釈)。 ※比叡山の僧兵・武蔵坊弁慶は千本の刀を奪い取る願をかけ、ちょうど千本目が義経だった。勝てば刀をゲット、負ければ相手の家来になるという約束で五条大橋にて戦い、義経のスピードに対応できず完敗。以後、最強の側近となった。 ※『平家物語』は義経を「色白で反っ歯の小男」と記しており、大山祇神社に奉納された甲冑から身長は約150cmと言われている。母親の常盤は絶世の美女と記録されているので、義経美男子説はそこからきているようだ。 ※義経の伝説の半分は、同時代の近江の源氏・山本義経のものという説がある。 ※合戦時は赤旗が平氏カラー、白旗が源氏カラー。この“赤と白”の戦いは大晦日の紅白歌合戦に継がれている(同番組は当初、源平歌合戦とも言われていた)。 ※義経が中国の兵法書『六韜(りくとう)』の「虎巻」を学んだことから、成功の書を「虎の巻」と呼ぶ。 ※ドラえもんの静ちゃんの名字は「源」。つまり、源義経と静御前から名付けられた。 |
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| 船へ退却せず戻って来た敦盛 15歳の若武者だ |
PS2「義経英雄伝」の敦盛。 彼は横笛の名手だった |
愛用の横笛「小枝」 は今も須磨寺に |
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| 敦盛の胴塚の前で『まんが平家物語』 を心を込めて詠唱!(1999年) |
須磨寺にある敦盛の首塚。墓参者が絶えない (2000年) |
| 平清盛の弟・経盛(つねもり)の末子。1183年、14歳の敦盛は平家一門として都に暮らしていたが、源(木曽)義仲の軍勢が迫りつつあったので、京を明け渡して神戸、四国、九州へと都落ちしていく。翌1184年、源氏側が内部分裂(義仲VS頼朝)している隙に、西国で勢力を盛り返した平家軍は兵庫・須磨まで東進し、神戸一帯に堅固な陣を張った。滋賀で義仲を討った義経・範頼連合軍は、その勢いで神戸に進軍し、2週間で平家軍の陣地に肉迫する。 決戦前夜、源氏の武将・熊谷直実(くまがいなおざね、埼玉熊谷市の領主)は、平家の陣営から雅な管弦の調べが聴こえて来るので、思わず聴き入った。特に笛の音の美しさは格別だった。「うーむ、敵ながらさすがは平家じゃ。戦いの中にあって風流を愛するか。我ら東国武士は何万騎もいるが、戦場に笛を持ってくる者はまずおらぬわ」。 そして翌朝(2月7日)、「一ノ谷の合戦」の火蓋が切って落とされた! ※「一ノ谷の合戦」と呼ばれているけれど、“一ノ谷”はあくまでも戦場の一角にすぎない。平家は本拠地の福原(神戸)を守る為に、東西と北方に広範囲な布陣をひいた(南側は海なので守る必要なし)。現在のJR線三宮〜須磨駅まで7駅分という広さだ。 ※もうひとつ。これは義経軍VS平家軍ではない。源氏側の範頼(のりより、彼も頼朝の弟)軍は6万で義経軍は1万のみ。つまり範頼軍が本隊だ。 平家は大阪方面から源氏軍が来ると考え、東側・東門(三宮)に平家最強の知盛軍を配置。そして予想通り源氏の本隊は東から攻めた。源氏軍は相手の頑丈な防御壁に阻まれて、突撃しては弓矢に射られ、なかなか防衛線を突破できない。西門(須磨、一ノ谷)の義経軍も同様で、戦局は一進一退のこう着状態に陥った。この均衡を破ったのが義経軍の別働隊70騎だった。義経は西門を攻撃する一方で、先鋭部隊を引き連れて山岳地帯に入り、平家の陣の側面の崖から一気に駆け下りた(世に言う“義経のひよどり越え”)。 突如として西門の内側に現れた源氏軍に、平家軍は大パニック。「あり得ない!」「西門は落ちたのか!?」「撤退だ!」わずか70騎の奇襲だが、平家軍は“防衛線の内側にいれば安心”と思っていただけに衝撃は絶大だった。しかも義経が現れたポイントは、平家全軍の総大将・宗盛や安徳天皇がいる場所に近かった。「万一のことがあってはならぬ」と、宗盛はすぐに安徳天皇を須磨の海上に避難させた。「総大将が退避!?」この動きを知った西門の守備隊が一斉に浜辺を目指したことで、義経軍は全軍が防衛ラインを突破する。平家の武将達の名誉の為に、この敗走を好意的に解釈するなら、“洋上の帝と御大将を最優先で守らねば”という心理が働いたのかも知れない。 “西門陥落”の急報を受けて、奮闘していた東門の知盛軍に動揺が走る。正面には6万の範頼軍がおり、このままでは背後の義経軍に挟み撃ちにされてしまう。しかも、東門は西門と違って、船が待機する須磨海岸までは距離がある--「やっべ!早く逃げないと、とんでもないことになる!」。アッと言う間に東門も総崩れになった。 海岸は我先にと船に飛び乗る者、定員オーバーで転覆する船などで大混乱になる。平家軍を追って浜まで追撃してきた源氏の武将達は、下っ端の敵ではなく、名のある平家武将を討ち取って名をあげようと、血眼で獲物を探していた。「なんとかこの合戦で手柄を!」源氏の猛者・熊谷直実もそう思って、馬で砂浜を駆け巡っていると、壮麗な甲冑(かっちゅう)を身につけた一人の平家の武将が、沖に停泊する船に向かって、馬と共に海に入っていくのが見えた。それが敦盛だった。 15歳の敦盛も果敢に西門を守っていたが、すぐに撤退せず奮戦していた為に逃げ遅れ、単騎で船を目指していた。“あれは間違いなく大物だ”直実は扇をかざして背後から大声で呼び止めた「卑怯者め!敵に後ろを見せて逃げるのか!戻って我と戦え!」。 敦盛と直実(須磨寺)卑怯と言われては引き下がれない。敦盛は馬の頭を反転させて浜に戻り、直実との一騎打ちに挑んだ。しかし、直実は43歳で数々の修羅場をくぐってきた古兵、一方の敦盛はまだ少年で戦の経験はほぼ皆無。波打ち際で馬をぶつけてきた直実に体を掴まれ、地面に引き倒され、たちまち捻じ伏せられてしまう。 直実が首を討ち取ろうとして相手の兜をあげると、何と自分の子と同じくらいの年ではないか。しかも薄化粧をして非常に美しい。思わず直実の刃先が迷う。敦盛のどこを刺せばいいのか分からなかった。「あなたは一体どんなご身分の方でしょうか。お名乗り下さい。お助けします」「そういう貴殿は誰なのか」「大した者ではありませぬが、武蔵国の熊谷直実という者です」。この当時、身分の高い者は低い者に名を告げなかった。「それでは名乗ることもなかろう。私を討てば手柄になろうぞ。さあ、首をとれ!」。命乞いもせず、それは見事な覚悟だった。 既に合戦の勝敗は期している。この若者を一人逃がしても勝利はゆるがない。自分は親だから、この子を失った親の悲しみが想像できる。逃がしてやろう--。 「直実殿!いかがなされたー!」そう思った時、源氏の軍勢50騎が迫ってきた。「嗚呼、味方が来てしまった。お助けしたかったのですが、もう間に合いませぬ。私が助けても彼らが討ち取るでしょう」「かまわぬ、早く討て!」。直実は“自分が討ち取れば供養もできよう”と、泣きながら首をとった。 直実が敦盛の首を包んでいると、その懐から一本の横笛が出てきた。「昨夜、私が聞き惚れた笛の音の主は、この若者だったのか…!」直実は砂浜で絶句した。 直実が本陣に戻って義経に首と笛を見せ、その天晴れな死に様を語ると、同席した武将達が皆涙を拭った。そしてすぐに笛の持ち主が敦盛と判明した。「武家に生まれたばかりに、私はこの子の命を奪ってしまった」人生の無常を感じた直実は、この事が原因で後に武士をやめて出家し、法然の弟子となって名を「蓮生」と改め、敦盛の菩提を死ぬまで供養し続けた。 出家後に熊谷直実が彫った敦盛像。ジーンとくるね…(須磨寺)【戦い終わって〜合戦の総括】 東門(生田エリア、三宮)…大将・知盛(脱出)/副将・重衡(しげひら、捕虜→斬首)/武将・知章(討死) VS 源範頼(のりより、源氏軍本隊5万6千) 西門(須磨エリア、一ノ谷)…大将・忠度(討死)/武将・敦盛(討死) VS 義経本隊(1万騎)、分隊(70騎、義経自ら指揮) 北門(長田エリア)…大将・通盛(討死)/副将・教経(脱出)/武将・経正(討死)、業盛(討死)、経俊(討死)、盛俊(討死) VS 源氏連合軍 平家側にとって「一ノ谷の合戦」は、知盛と教経が生き延びただけで、主な武将の11人中9人が死亡するという凄絶な戦いになった。その知盛と教経も1年後に壇ノ浦の海中へ消えていった。 『平家物語』は15歳で散った敦盛の為に「敦盛最期」という段を置き、討たれる場面を最も哀切に歌い上げる。このエピソードから、幸若(こうわか)舞や能の『敦盛』が生まれた。幸若舞の「人間五十年 下天の中をくら ぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか」の部分を、信長が桶狭間合戦(1566)の出陣前に清洲城で舞ったことが知られている(敦盛の死から382年後)。 ※敦盛の官位は従五位下。若い彼は一門で唯一官職に就いてなかったので「無官の大夫」(大夫は五位の通称)とも呼ばれた。 ●感動的な墓 須磨浦公園の敦盛の墓は胴塚で、須磨寺の墓は首塚と言われている。胴塚は高さが4mもあり、個人の五輪塔としては日本最大だ(石清水八幡宮の5mの五輪塔は墓ではない)。敦盛は『平家物語』の悲劇のヒーローとして古来から知られており、参勤交代で山陽道を通る大名たちは敦盛塚に献花したという。須磨寺には首塚の他にも、出家後に直実が彫った木造「敦盛像」や、なんと敦盛愛用の横笛「青葉の笛」(正式名・小枝)、鎧甲、弓、自筆和歌が寺宝として伝わり公開されている。「青葉の笛」は鳥羽院が清盛の父・忠盛に与えた由緒あるもので、それが平家一番の笛の名手・敦盛に譲られたという。須磨寺は886年に開かれた古寺で一ノ谷に近く、源平ゆかりの寺宝が多い。 さらに特筆したいのは、京都・金戒光明寺と和歌山・高野山の墓だ。金戒光明寺には法然の霊廟(墓)があり、その前で直実(法然の弟子)と敦盛の墓が仲良く向き合っている。そして!高野山の墓は敦盛・直実、両者がピッタリ隣接して並んでいる!もう、見た瞬間に泣きそうになった。生前は源氏と平家に別れて敵同士だった2人が、今は恩讐を越えて共に並んでいるんだ…感動! 2人の墓が並んでいる高野山の墓地! |
| 《植物トリビア〜敦盛草と熊谷草》 ラン科にはアツモリソウとクマガイソウがある。源平合戦で敦盛や直実が背負った母衣(ほろ)に、袋状の花の形が似ていることから名付けられた。この時代、武将は背後からの矢を防ぐ為に、母衣という長い布を背負い、風ではらませて“エアー・バッグ”の代わりにしていた。室町時代以後は竹で編んだ籠に布を貼り、常に膨らんだ状態に形態が変わった。
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| 退却する敦盛を呼び止める直実 (左)埼玉・熊谷市(右)神戸・須磨寺 | 武者絵の直実 | 松本幸四郎の直実 | |
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| 直実の墓 | 法然の霊廟前で互いに向き合う(手前が直実) | 敦盛の墓 |
| 源平「一ノ谷の戦い」での、源氏の猛者・熊谷直実と平家の若武者・平敦盛との戦いは、『平家物語』の中で深い哀切と共に描かれている。我が子と同じ年頃の敦盛を討ったことで殺生の虚しさを悟った直実は、後に敦盛供養のために出家し、法然の弟子となった。法名は蓮生(れんしょう)。京都・金戒光明寺でも和歌山・高野山でも、直実と敦盛の墓はワンセットだった。合掌。 ●詳しいエピソードは「平敦盛」を参照。 |

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| 壇ノ浦を望む赤間(あかま)神宮。平家の多くがここに眠る |
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| 境内奥の平家一門の墓 | 墓地の側にはかつて当地にあった阿弥陀寺の琵琶法師を祭る“芳一堂”が建つ(耳が無かった。汗) |
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| 壇ノ浦に散った14名の平氏がズラリと並んでいる | 七盛の墓包み降る椎の露(高浜虚子) | |
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| 知盛の墓 | 時間が静止しているようだった | 中央の墓は教経 |
| 壇ノ浦合戦の戦端が開かれたのは複雑な潮流が安定する正午頃。当初の戦力比は平氏軍800隻、源氏軍300隻で圧倒的に平氏が有利。しかし、義経の政治工作が効いて紀伊・熊野水軍、伊予・河野水軍(頭目の孫が一遍上人)、阿波・田口水軍が源氏に寝返り、船数はほぼ互角になった。とはいえ、戦闘が始まると海戦に手馴れた平氏が巧みに潮流を利用して戦いを有利に進めていく。「このままではイカン」義経は劣勢挽回の為に当時はタブー(禁じ手)だった非戦闘員殺し、つまり武器を持たない漕ぎ手に矢を浴びせたのだ。これは馬を狙う事と同じで武士にあるまじき卑劣な行為とされていた(あの〜)。午後に入って潮の流れが逆になり平氏の船は押し流され、源氏軍の掟破りのダーティー・ファイトで漕ぎ手を失った平氏は全軍が身動きできなくなった。九州へ逃げようにも既に範頼の大軍が制圧しており、この状況を受けて平氏軍から裏切り者が続出、夕刻には勝敗が決定的になった。 平家側は鬼武者と呼ばれた平教経(のりつね)と知盛が最後まで奮戦していた。教経は手持ちの矢が尽きると両手に刀を握りしめて源氏の船に乗り込み、四方八方で斬りまくった。これを見た知盛は使者を教経に送り、「もう勝敗は期したのだから、あまり罪作りな事をなさるな。それとも良い敵でも見つけられたか」と伝えた。教経は“狙うは大将・義経のみ”と悟り、血まなこで義経を探し回った。ついに発見すると鬼神の形相で迫った為に、圧倒された義経はピョンピョンと船の間をジャンプして逃げてしまった(義経の八艘跳び)。教経は武器も兜も全部海へ捨てて吠える「見ての通り武器はない!勇気のある者は俺を生け捕りにしてみろ!」。しばらく誰もビビッて近づかなかったが、力自慢の3人組が刀を振り上げて襲い掛かった。教経は一人目を海へ蹴落とし、あとの2人を両脇に挟んで締め上げ「いざ汝等、死出の旅路の供(とも)をせよ」と海中へ道連れにした(享年25歳)。 平教盛・経盛の兄弟は互いの手をとり、鎧の上に碇(いかり)を背負って海に沈んだ。資盛、有盛、行盛の3人も手と手を組み碇を背負って海に跳び込んだ。清盛の妻時子は安徳天皇と草薙の剣(三種の神器)を抱いて身を投げ、女御たちも入水していく。至る所で平家一門が沈んでいった。 知盛は舟の舳先に立ってその一部始終を見届けた後、「もはや、見るべきものは全て見た」と呟き、体が浮かばぬように鎧を二重に着込んで波頭に消えた。(享年33歳) |
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| なんと京都国立博物館の庭に墓があった。6mという巨大な2基の十三重石塔で、どちらが兄、弟かは分かっていない |
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| 長野県の大名刹・善光寺(2008) | 善光寺境内に母・梅唇尼(はいしんに)が建てた供養塔 | 兄は屋島で、弟は吉野で義経の身代わりとなって戦死 |
| 福島出身。佐藤兄弟は共に義経四天王の一人。兄・継信と弟・忠信は義経が奥州から上京する段階から行動を共にしていた。継信は“屋島の戦い”において、敵側の弓の名手・平教経が義経めがけて放った矢を、身代わりに受けて戦死した。義経は人目をはばからずに泣き、地元の僧侶に名馬を渡して丁重に供養させた。この様子を見た家臣達は「この主君の為なら命を失うことは露塵ほども惜しくはない」と感じたという(by平家物語)。 忠信は壇ノ浦の合戦後に都に潜伏していたが、隠れ家を密告されて頼朝勢に包囲され自害し果てた。歌舞伎・文楽の『義経千本桜』に登場する“狐忠信”(源九郎狐)のモデルとしても有名。 ※福島市の医王寺にも佐藤兄弟の墓あり。 |
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| 即成院(そくじょういん)の与一の墓は高さが約3mもある! |
弓矢の名手だけに、「願いが的へ」の旗。 受験生が多く訪れるという |
| 源平合戦に際し、源義経の配下となって活躍した弓矢の天才。1185年(16歳)の“屋島の戦い”で、平家方が挑発して船上に掲げた扇の的を馬上から見事に射落とし、源平両軍から「揺れる的を一矢で落とした」と喝采を浴びた。下野(しもつけ)国の豪族、那須資隆の11男。本名、那須宗隆。合戦の功績で源頼朝より五カ国に荘園を賜った。山城国伏見にて死去。法名は即成院殿禅海宗悟大居士。 墓は即成院の他にも、栃木県大田原市の玄性寺、米沢市の西蓮寺の側の与市供養塔、神戸市須磨区の墓所(付近に与市を祀った那須神社があり)、岡山県井原市西江原の山中の五輪供養塔など各地に点在する。 |

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| 国宝の「伝・頼朝像」 | PS2「GENJI」の憂いを帯びた頼朝 | PS2「義経英雄伝」 | 鎌倉市・源氏山公園の頼朝 |
| 源義朝の三男。12歳の時に平治の乱で平家側に敗北し伊豆へ流された。1180年(33歳)、平氏打倒を掲げて挙兵。源氏の棟梁として東国武士をまとめあげ、木曽義仲、平家一門、奥州藤原氏を次々と滅ぼして初の武家政権、鎌倉幕府を開いた。 何百年も貴族と公家が支配していた世の中を、武士が天下を取る世へと社会構造を変えた点で、頼朝は日本初の革命家といっていいだろう。以降、武家社会は徳川15代将軍まで実に676年間も続いた。平安貴族は日々遊び暮らし、民衆から搾取するだけ。しかし、鎌倉武士は自ら畑に出て鍬を握る“兵農一致”を行ない、質素で堅実な暮らしを送った。だから僕は鎌倉武士にとても好感を持っている。頼朝の死因は落馬説、糖尿病説、北条家の謀略説など様々だが、幕府の公式記録『吾妻鏡』には、なぜか頼朝の死の3年前から葬儀の翌月までの記述がごっそり欠落している。となれば、北条家に暗殺された可能性が大きいのかも…。頼朝は今、観光客で賑わう鶴岡八幡宮の裏手の山中にひっそりと眠っている。 |
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| 栃木県足利市の尊氏像 |
京都・等持院の木像と位牌。幕末に尊攘派浪士がこの 木像の首を抜き取り、京都三条河原で晒し首にした |
思いやりと優しさで天下をとった |
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| 墓は垣根に囲まれている | 1999 シンプルな宝篋印塔 | 2007 何も変わってない。花もなし |
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| 墓の近くにある室町幕府の将軍を祀った“足利家十五代供養塔”。尊氏は立命館大学に隣接する等持院に眠っている |
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室町幕府初代将軍。初めは高氏を名乗った。足利氏は源氏一族であり、彼にとって北条氏に奪われた実権を取り戻すことが悲願だった。1333年(28歳)、倒幕を叫んで挙兵した後醍醐天皇を幕府軍の大将の1人として討ちに行くが、京都に近づくと彼は朝廷側に寝返り、幕府側の軍事機関・六波羅探題を陥落させた。関東でも尊氏の動きに呼応して猛将・新田義貞が鎌倉に進軍、敗北した第14代執権北条高時とその一門283人は、鎌倉東勝寺に立て篭もって盃を酌み交わした後、ことごとく自害して果てた。140年続いた鎌倉幕府はここに滅亡し、後醍醐天皇の建武の新政権が誕生する。天皇は彼の忠臣ぶりを評価して実名の尊治(たかはる)から一字を与え、高氏は「尊氏」へ改名した。
後醍醐天皇は米を蓄えて不正に利益を得ていた富裕層から米を没収したり、通行人から金をとっていた多くの関所を廃止するなど、庶民の為に善政をしいた。そして、理想の政治を行なう為には強権が必要と考え、再び武士が大きな力を持たぬよう独裁を推し進めた。倒幕に功績を挙げた武士よりも、貴族ばかりを優遇して高い位につかせたのだ。また、行政の現場では、持ち主がいる所領を誤って恩賞で授けたり、同じ土地を複数の武士に与えるなどの事務的な失敗を繰り返して反感を買い、1年後には京都二条河原にこんな落書が建てられた「このごろ都に流行るもの、夜討ち、強盗、謀りんじ(偽の命令書)。させる忠孝無けれども過分の昇進するものあり」。 こうした世の混乱を見るにつけ、尊氏は武家政権復活への思いを強くした。尊氏の心を見抜いていた後醍醐天皇の皇子は、いずれ父(朝廷)と尊氏(武家)が覇権を巡って戦うことになるだろうと予測し、その日の為に兵を集めていたが、天皇はそれを皇子が自分の位を狙っているのではと誤解し、皇子を鎌倉へ幽閉した。 1335年(30歳)、長野に潜んでいた北条氏の生き残りが挙兵し鎌倉へ雪崩れ込んだ。尊氏の軍はすぐに京から鎌倉へ出陣したが、鎌倉を守っていた尊氏の弟・直義は兄が到着するまで防戦できずいったん鎌倉を手放すことに。この時、逃げる前に幽閉中の皇子を直義は暗殺した。皇子はいずれ兄にとって危険な存在になると判断したのだ。尊氏軍は北条氏の残党を駆逐し鎌倉を再占領する。皇子が殺されたことを知った後醍醐天皇は「幽閉しろとは命じたが生命まで奪えとは言ってない!」と激怒、新田義貞に尊氏・直義兄弟の追討を発令した。義貞は兵に叫ぶ「いざ鎌倉へ!」。 新田軍が迫っていることを知った直義は、これを迎え撃つことを兄に進言したが、尊氏は朝敵(朝廷の敵、賊軍)となることを恐れて戦おうとしない。やむなく直義が軍を率いたが新田軍に苦戦し鎌倉へ撤退する。再び兄に出陣を促しに行くと、なんと尊氏は武士の証である元結(もとゆい、髪を束ねる紐)を外し建長寺にいた。「出家して帝に許してもらうのだ」と言う兄に対し、弟は“足利一門はたとえ出家しようと皆殺しにせよ”と後醍醐天皇が書いた命令書を見せた。これを読んだ尊氏は腹をくくり、ついに朝廷に対して挙兵した(ちなみに、天皇の命令書は直義が兄に出陣させる為に用意した偽物)。 尊氏は初戦で新田軍を破り、勢いをかってそのまま一気に京都まで進軍する。しかし入京した足利軍は、後醍醐天皇に強く忠誠を誓う智将・楠木正成や北畠顕家(あきいえ)、体制を立て直した新田軍の猛攻を受けて大敗してしまう。 「こ、このままでは全滅してしまう!」尊氏は京都から脱出し、九州福岡・多々良浜まで海上を落ち延びた。この時、多々良浜まで尊氏に従って来た兵は、わずか500人あまりだったという。しかも、多くの兵が武器や鎧を失っており悲惨な状況だった。 そんな尊氏を応援してくれたのが、貴族による支配より武家政治を求めていた九州武士たち。500人の兵が2ヶ月もたたず400倍に膨れ上がった!再び挙兵した尊氏は、20万の兵と7000の船をもって海と陸から京を目指して攻め上った!兵庫・湊川で強敵の楠木正成を破り(正成の首を晒し者にせず丁重に取り扱って家族の下へ返した)、尊氏は新しい天皇を擁立して建武式目(施政方針)を発表、幕府の再興を宣言した。 ※建武式目には聖徳太子にならって十七条を制定した。第4条「たとえ幕府でも民家を勝手に奪わない」第10条「賄賂をやめること」第11条「賄賂を贈られても返すこと」第15条「貧しい者の訴えをよく聞くこと」等々。 戦乱の中、後醍醐天皇は奈良・吉野に逃亡して南朝を設け、全国に足利一門の討伐を呼びかけた。戦線は各地に広がり、以後60年に及ぶ南北朝の時代になる。 1338年(33歳)、南朝側に立って激しく抵抗していた新田義貞を越前で、北畠顕家を和泉でついに討ちとった。義貞の散りざまは、切腹せずに自分の刀で自ら首を斬り落とすという凄絶なものだった。これらの勝利を受けて、尊氏は北朝から征夷大将軍に任じられ、名実ともに室町幕府が樹立した。 正成、義貞、顕家、3人の重臣を失った後醍醐天皇は希望を失い、翌年「我が骨は吉野の山の苔下に埋もれようと魂は常に京の空にあり」と言葉を残し病没した。後醍醐天皇の死を知った尊氏は、結果的に背くことになったとはいえ、かつては鎌倉幕府倒幕の為に共闘し、名前の一部を賜るほど仕えた帝を思い落涙した。彼はまだ敬愛の念を抱いたままだった(だから南朝を総攻撃しなかった)。そして、哀悼の意を表すために幕府の業務を7日間停止し喪に服させ、亡き魂を弔う為に京都嵯峨野に巨大な天龍寺を造営した。 後醍醐天皇を失い南朝は弱体化し、これで北朝側が圧倒的に有利になったかのように見えた。しかし、1350年(45歳)、尊氏の古い戦友であり北畠顕家を討ち取った闘将・高師直(こうのもろなお)と直義の間に内部抗争が勃発する。義理と人情の板挟みになった尊氏は動けない。兄の支援を受けられぬと悟った直義は、こともあろうに「南朝」の武将たちと結んで挙兵し、師直を討った。1352年(47歳)、この一連の事態にけじめをつける為に、尊氏は長年共に人生を歩んできた弟の命を奪った。尊氏は直義を始めこれまでの戦で散っていった敵味方全ての戦没者の慰霊の為に、全国66ヶ所に安国寺を建てた。 その後も南朝方や旧直義派武将の反乱が断続的に起き、それを鎮圧する日々を送り続ける中、1358年1月、天龍寺が火事で全焼する。後醍醐天皇の呪いではと畏れる尊氏。そして4ヵ月後、4月20日に尊氏の背中に腫れ物ができ、わずか9日後に逝去した。享年53歳。法号は等持院殿仁山妙義。 天皇が2人、年号が2つという時代はまだ続き、3代将軍義満の手で南北朝が統一されたのは1392年、尊氏の死からさらに34年も後だった。 尊氏の葬儀は洛北の等持院(天龍寺の末寺)で執り行われた。墓は同院霊光殿の北庭にあり、付近には足利15代の供養塔もある。また、鎌倉の長寿寺、京都綾部市の安国寺、山梨市牧丘町の浄居寺、福井県志津原などにも分骨墓がある。
尊氏は天皇に歯向かったことから、戦前の教科書では逆臣と書かれ長く批判されてきた。鎌倉では小学生が「この憎たらしい尊氏め」と墓を蹴り崩していたとも言う。それ以前でも、幕末には尊攘派浪士が等持院の尊氏の木像の首を抜き取り、京都三条河原で晒し首にしたこともあった。しかし、尊氏と親交のあった禅僧・夢窓疎石は、彼に3つの大きな徳があったという。戦場において危機の中でも笑みを保ち決してひるまぬ心の強さ、人を憎むことを知らぬ天性の慈悲深さ、自分が得た財宝をためらいなく人に与えた物惜しみのなさをあげている。 僕は尊氏の人柄にグッと来る。彼は謀反にあってもこれを赦し、見せしめで一族を皆殺しにすることはなかった。たとえ裏切られても、相手が降伏すれば再び快く配下に加えた。政権のトップに立った武将でこんなに心が広い大人物はいない。特に、後に続く信長や秀吉は斬って斬って斬りまくっている。確かに頼朝のように弟を殺してしまったが、全国に供養する為の寺を造るなど基本姿勢が全く違う。戦国期では優しさは武器にならないというが、500人の部下が2ヶ月で20万人になるのは、そこに無条件に人を信頼させる未曾有のカリスマ性があったとしか思えない。背信や下克上が常の世にあって、慈悲心と優しさを忘れずに天下一まで上りつめた尊氏が僕は大好きだ。
※京都府綾部市安国寺町は尊氏の母清子と縁が深く、尊氏の生地ではないかと言われている。 |
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| 楠木正成の墓は亀の背に乗っていた! 『嗚呼忠臣楠氏之墓』の文字はあの水戸黄門の自筆 |
智・仁・勇の三徳を備え、敵からも尊敬されていた |
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南北朝時代の武将。大阪・千早赤阪村の山里に生まれ、金剛山一帯を本拠地とする。幼名多聞丸。
鎌倉時代末期、元寇から半世紀が経ち、幕府にはもう与える恩賞がなく権威が失墜していた。執権の北条高時は政治への興味をなくし遊興三昧の日々。民は重税に苦しみ、世の秩序は乱れた。1331年、幕府打倒を目指して後醍醐天皇が京都で挙兵。しかし、幕府軍の巨大な軍事力に恐れをなして倒幕勢力に加わる者は少なかった。焦る後醍醐天皇。この時、駆けつけた数少ない武将の中に当時37歳の楠木正成の姿があった。 正成の前半生は不明だが、楠木一族は地元特産の水銀を売って経済的に力を蓄えた新興の土豪(地方豪族)。河内地方の商業や輸送の利権をめぐって、これを独占しようとする幕府側と対立関係にあった。天皇に謁見して戦への意見を求められた正成は「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありませんが、知謀を尽くし策略をめぐらせば勝機もあるでしょう」と答えた。この言葉は後の戦いで証明されていく。 地元に戻った正成は山中に築いた山城・赤坂城を拠点に挙兵する。“挙兵”といっても正成の兵力はわずかに500。これに対して幕府は数万の討伐軍を差し向けた。甲冑(かっちゅう)を着て武装した幕府軍に対し、正成軍の大半は普段農民の地侍であり、兜もなく上半身が裸の者もいた。粗末な山城を見た幕府軍の武将からは「こんな急ごしらえの城など片手に乗せて放り投げてしまえるではないか。せめて1日でも持ちこたえてくれねば恩賞に預かれぬぞ」と声が聞こえた。 油断した幕府兵は各自が勝手に攻撃を始め、城の斜面を昇り始める。ところが、兵が斜面を埋めた瞬間に突然城の外壁が崩れ(二重の塀だった!)、幕府兵の頭上にドデカい岩や大木が地響きをあげて転がってきた!1対1で戦うことを名誉とする鎌倉武士と異なり、武勲にこだわらない地侍たちは集団での奇襲を得意とし、この初戦だけで幕府側は700名も兵を失った。藁人形であざむく、熱湯をかけるなど奇策に翻弄された幕府軍は力押しをやめ、城を包囲して持久戦に持ち込んだ(この時、幕府軍の中には足利尊氏もいた。彼は「正成という男は只者ではない」と感心したという)。 兵糧攻めの結果、正成軍は20日で食糧が尽き、そこへ京都で後醍醐天皇が捕らえられたと急報が入った(天皇は隠岐島に配流された)。正成は城に火を放ち、火災の混乱に乗じて抜け道から脱出、行方をくらます。 ※この時、幕府側の武将の誰もが、“正成は武士の伝統に従って炎の中で自刃した”と考え、「敵ながら立派な最期だった」と言い合ったという。このような従来の価値観で動かず、舌を出してサクッと逃げているところが、型に収まらない正成の正成たる由縁だろう。 1332年(38歳)、赤坂城の攻防戦から1年が経った頃、再挙兵の仕込みを完璧に仕上た正成が姿を現す。彼は河内や和泉の守護(幕府の軍事機関)を次々攻略し、摂津の天王寺を占拠、京を睨む。これに対し北条氏は幕府最強の先鋭部隊を差し向けた。正成側には敵の4倍の兵が終結しており、臣下は「一気に踏み潰しましょう」と主張したが、正成は「良将は戦わずして勝つ」と提案を退け、謎の撤退をする。幕府のエリート部隊はもぬけの殻になった天王寺をなんなく占領。ところが夜になると、天王寺は何万という“かがり火”に包囲され、兵士達は緊張で一睡も出来ないまま朝を迎える。しかし夜が明けても正成軍に動く気配はない。次の夜になると再び無数のかがり火が周囲を包囲した。「いつになれば正成の大軍は総攻撃を始めるのか…」4日目、精神的&肉体的に疲労の極致に達した幕府兵は、ついに天王寺から撤退した。実は、このかがり火は「幻の大軍」で、正成が近隣の農民5000人に協力してもらい、火を焚いたものだった。正成軍は一人の戦死者を出すこともなく勝利する。 翌1333年2月(39歳)、幕府は目の上のコブ、正成の息の根を止めるべく、8万騎の大征伐軍を追討に向かわせる。正成は千人の兵と共に山奥の千早城に篭城した。幕府軍は大軍でこれを包囲したものの、正成の奇策を警戒するあまり近づくことが出来ない。結局、2年前の赤坂城と同様に兵糧攻めを選んだ。ところが、今回は勝手が違った。なまじ8万も兵がいる為に、先に餓えたのが包囲している幕府兵だったのだ。正成の作戦は、目の前の大軍と戦わずに、その補給部隊を近隣の農民達と連携して叩き、敵の食糧を断つという、「千早城そのものが囮(おとり)」という前代未聞のものだった。山中で飢餓に陥った幕府兵に対し、抜け道から城内へどんどん食糧が運び込まれていた正成軍は、3ヶ月が経ってもピンピンしていた。やがて幕府軍からは数百人単位で撤退する部隊が続出し、戦線は総崩れになった。 8万の幕府軍がたった千人の正成軍に敗北した事実は、すぐに諸国へと伝わった。「幕府軍、恐れるに足らず」これまで幕府の軍事力を恐れて従っていた各地の豪族が次々と蜂起し始め、ついには幕府内部からも、足利尊氏、新田義貞など反旗を翻す者が出てきた。尊氏は京都の幕府軍を倒し、義貞は鎌倉に攻め入って北条高時を討ち取る。正成が庶民の力で千早城を守り抜いたことが、最終的には140年続いた鎌倉幕府を滅亡させたのだ。6月、正成は隠岐へ後醍醐天皇を迎えにあがり、都への凱旋の先陣を務めた。 ※赤坂城、千早城の合戦の後日、正成は敵・味方双方の戦死者を区別なく弔う為に、「寄手(よせて、攻撃側)」「身方(味方)」の供養塔(五輪塔)を建立し、高僧を招いて法要を行なった。敵という文字を使わずに「寄手」としたり、寄手塚の方が身方塚よりひとまわり大きいなど、残忍非情な戦国武将が多い中で、人格者としての正成の存在は際立っている。誠実な人柄が垣間見える感動的な供養塔だ(現在も千早赤阪村営の墓地に残っている)。 1334年(40歳)、後醍醐天皇は朝廷政治を復活させ、建武の新政をスタート。正成は土豪出身でありながら、河内・和泉の守護に任命されるという異例の出世を果たす。後醍醐天皇は天皇主導の下で戦のない世の中を築こうとしたが、理想の政治を行なう為には強権が必要と考え独裁を推し進める。まずは鎌倉時代に強くなりすぎた武家勢力を削ぐ必要があると考え、恩賞の比重を公家に高く置き、武士は低くした。また、早急に財政基盤を強固にする必要があるとして、庶民に対しては鎌倉幕府よりも重い年貢や労役を課した。 朝廷の力を回復する為とはいえ、こうした性急な改革は諸国の武士の反発を呼び、1335年11月、尊氏が武家政権復活をうたって鎌倉で挙兵する。 京へ攻め上った尊氏軍を、楠木正成、新田義貞、北畠顕家ら天皇方の武将が迎え撃った。尊氏軍は大敗を期し、九州へと敗走する。 正成はこの勝利を単純に祝えなかった。逃げていく尊氏軍に、天皇方から多くの武士が加わっていく光景を見たからだ。「自軍の武士までが、ここまで尊氏を慕っている…!」。新政権から人々の心が離反した現実を痛感した正成は、戦場から戻ると朝廷に向かい、後醍醐天皇に対して「どうか尊氏と和睦して下さい」と涙ながらに進言する。ところが、公家達は「なぜ勝利した我らが尊氏めに和睦を求めねばならぬのか。不思議なことを申すものよ」と正成を嘲笑する始末…。 1336年4月末、九州で多くの武士、民衆の支持を得た尊氏が大軍を率いて北上を開始。後醍醐天皇は「湊川(みなとがわ、神戸)で新田軍と合流し尊氏を討伐せよ」と正成に命じる。“討伐”といっても、今や尊氏側の方が大軍勢。正面からぶつかっては勝てない。策略が必要だ。正成は提案する「私は河内に帰って兵を集め淀の河口を塞ぎ敵の水軍を足留めしますゆえ、帝は比叡山に移って頂き、京の都に尊氏軍を誘い込んだ後に、北から新田軍、南から我が軍が敵を挟み撃ちすれば勝利できましょう」。しかしこの案は「帝が都から離れると朝廷の権威が落ちる」という公家たちの意見で却下された。彼が得意とした山中での奇策も「帝の軍の権威が…」で不採用。 失意の中、正成は湊川に向かって出陣する。天皇の求心力は無きに等しかった。尊氏軍3万5千に対し、正成軍はたったの700。戦力差は何と50倍!正成は決戦前に遺書とも思える手紙を後醍醐天皇に書く。「この戦いで我が軍は間違いなく敗れるでしょう。かつて幕府軍と戦った時は多くの地侍が集まりました。民の心は天皇と通じていたのです。しかしこの度は、一族、地侍、誰もこの正成に従いません。正成、存命無益なり」。彼はこの書状を受け取った天皇が、目を開いて現実を直視するように心から祈った。 5月25日、湊川で両軍は激突。海岸に陣をひいた新田軍は海と陸から挟まれ総崩れになり、正成に合流できなかったばかりか、足利軍に加わる兵までいた。戦力の差は歴然としており即座に勝敗がつくと思われたが、尊氏は正成軍に対し戦力を小出しにするだけで、なかなか総攻撃に移らなかった。今でこそ両者は戦っているが、3年前は北条氏打倒を誓って奮戦した同志。尊氏は何とかして正成の命を助けたいと思い、彼が降伏するのを待っていた。しかし、正成軍は鬼気迫る突撃を繰り返し、このままでは自軍の損失も増える一方。尊氏はついに一斉攻撃を命じた。6時間後、正成は生き残った72名の部下と民家へ入ると、死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃した。正成は弟・正季(まさすえ)と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺していたという。享年42歳。 正成の首は一時京都六条河原に晒されたが、死を惜しんだ尊氏の特別の配慮で、彼の首は故郷の親族へ丁重に送り届けられた。尊氏側の記録(『梅松論』)は、敵将・正成の死をこう記している「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」。 尊氏の没後、室町幕府が北朝の正当性を強調する中、足利軍と戦った正成を『逆賊』として扱ったため、彼は死後300年近く汚名を着せられていた。たとえ胸中で正成の人徳に共鳴していても、朝廷政治より武士による支配の優秀さを説く武家社会の中で、後醍醐天皇の為に殉じた正成を礼賛することはタブーだった。 正成の終焉の地・湊川にある墓は、もとは畑の中の小さな塚で荒廃していたのを、1692年に“水戸黄門”徳川光圀が自筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した墓石を建立、整備した(墓碑銘に「嗚呼」とあるのは正成だけと思う。ちなみに工事の監督を指揮したのは“助さん”こと佐々介三郎)。光圀は「逆賊であろうと主君に忠誠を捧げた人間の鑑であり、全ての武士は正成の精神を見習うべし」と正成の名誉回復に努めた。墓の傍らには水戸光圀像がある。 正成の墓碑は大きな亀の背に乗っている儒教式だ。古来から中国では、死後の魂が霊峰・崑崙山(こんろんさん)に鎮まることが理想とされている。亀はこの山に運んでくれる聖なる生き物とされており、こうした墓の形になった。 室町時代の軍記物語『太平記』には、正成について「智・仁・勇の三徳を備え、命をかけて善道を守るは古より今に至るまで正成ほどの者は未だいない」と刻んでいる。 ※正成の故郷、大阪・河内長野の観心寺の境内には彼の首塚がある。法名は霊光寺大圓義龍卍堂。 ※1872年、明治政府は天皇制強化の過程で墓所に隣接して彼を祀る湊川神社を創建。さらに天皇家に尽くした英雄として皇居の前に銅像が建てられた。 ※正成の母親の姉妹が能楽師の観阿弥を生んだという一説がある。 ※正成討死の半年後、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開く。翌1337年、新田義貞が敗死。1339年には後醍醐天皇も他界する。正成の死の12年後(1348年)、息子の楠木正行(まさつら、22歳)は南朝方の武将として父の弔い合戦に挑んで破れ、父の最期と同様に、弟の正時と互いに刺し違えて自害した。 |
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| 皇居前の楠木正成像はめっさカッコイイ造形美!馬の尻尾まで躍動感がある | 大阪四条畷の正行の墓 |
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| 滝口寺にて |
猛烈に風化が進んでいる |
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| 福井市の新田塚。1657年に 義貞の兜が掘り出された |
「新田義貞戦死此所」 実物はかなり大きい(2008) |
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| 異国風の塚だ | 逃げ遅れて処刑された120名の蒙古兵を弔った塚 | 塚は博多湾を見つめている。福岡市の勝立寺が建立 |
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| 蒙古兵の家紋が刻まれた墓。絵柄から火炎塚とも | 1個ずつ家紋が異なる | 今でもモンゴルから巡礼にくる人が多いらしい |
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| 元寇の役で奮戦する日本軍を描いた浮世絵 | 旧蒙古塚があった場所 |
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| 博多湾に面したこの砂浜から上陸してきた。弘安の役では前回の4倍となる14万人の兵が 4400隻で襲撃。暴風雨が去った後、9万8千人という凄まじい数の溺死者が沈んでいた |
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| B.C.356生まれのマケドニア王で、アレクサンドロス大王とも呼ばれる。20歳の時に暗殺された父に代わって王位に就くと、天才戦略家としての才能を発揮し、すぐさま隣国ギリシャを支配下に治めた。大王は家庭教師が高名なアリストテレスだったこともあって文化や芸術に造詣が深く、アテネを侵略しても焼き払わず、逆に文化遺産の保存にいそしんだ(反乱したアテネ北部のテーベを見せしめの為に焼いたが、詩人の家だけは手を出さなかった)。26歳で当時最強のペルシャ帝国を打ち倒し、最終的にギリシャ・エジプトからガンジス川(インド)の川岸までを支配下におく、史上空前の大帝国の王となった。 彼は東西文明の融合に力を注ぎ、自らも中央アジア(現アフガニスタン)の女性と結婚、ペルシャの生活様式を取り入れた。インドで仏像が作られたのも、大王がギリシャ彫刻の技術を伝えた為だ。32歳で熱病の為に倒れ、若き王者は「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言を残して逝った。 ※彼が権力を掌握すると、多くの政治家や哲学者が祝辞を述べに訪れた。ところが哲人ディオゲネスだけはやって来ない。大王自らがおもむき「何か欲しい物はないか」と尋ねると、日向ぼっこ中のディオゲネスは「陰になるので陽の当たる所からどいて下さい」と答えた。大王は侮辱を感じるどころか「私がもしアレキサンダーでなかったら、ディオゲネスになりたい」と言ったという。 |
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