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笑顔の写真が多い中沢先生 | 全10巻は国宝どころか人類の宝 |
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広島平和霊園のD区に眠る | 右隣がガーデニング墓地(目印になる) |
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お墓に自筆のメッセージ | 「人類にとって最高の宝は平和です」 | 遠くに瀬戸内海が見える(右奥) |
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戦後80年の平和祈念碑(2025) | 2021年「核兵器禁止条約」が発効! |
漫画家の中沢啓治(けいじ)は、1939年3月14日に広島市で生まれる。4男2女の6人兄弟の4番目の子(三男)。父は日本画家だが反戦主義者のため思想犯として特高警察に連行され、1年2カ月の間拷問を受けている。
国民学校(小学校)1年だった6歳のとき、1945年8月6日、月曜日の朝8時15分に、爆心地から約1.2キロメートル離れた学校への登校途中で原爆が炸裂した。たまたま友達の母親に呼び止められて、コンクリート塀の影に入ったお陰で4千度の熱線を浴びず奇跡的に助かる。気がつくと体の上にはコンクリート塀と街路樹がのしかかり、辺りは真っ暗だった。1メートルほどの距離で立ち話をしていた友の母は熱線で黒こげになり、街には焼けただれた皮膚を引きずり幽霊のように歩く人があふれていた。秒速400メートルの爆風は、爆心地から半径2キロの木造家屋を押し潰し、中沢の父、姉、弟は倒壊した家から脱出できずに延焼で焼け死んだ。原爆投下の当日に妹が生まれたが4カ月半で亡くなっている。被爆から9日後の8月15日に敗戦。 1947年(8歳)、当時19歳の手塚治虫(1928-1989)が長編デビュー作となる冒険漫画《新宝島》を発表。中沢少年は本作を読んで興奮し漫画家を志す。中学時代は『漫画少年』などへの投稿に熱中した。中学卒業後、昼は看板屋に勤め、夜はマンガを描き、初任給でバナナと羊羹(ようかん)を買った。 やがて集英社『おもしろブック』(のちの月刊少年ジャンプ)に投稿漫画の表紙絵(時代劇)が掲載され初めて原稿料をもらう。 1961年(22歳)上京して台東区谷中の狭いアパートに住み、4歳年上の漫画家・一峰大二(かずみねだいじ)のアシスタントとして師事。のちに一峰は特撮ヒーロー作品のコミカライズを手がけていく。 上京当初の中沢は被爆者に対する差別を恐れ、自身が被爆者であることを隠していた。「原爆」の二文字を見ただけで地獄絵図と死臭を思い出すうえ、原爆症の不安もあり、自分でも忘れようとしていた。 1962年(23歳)『少年画報』にカーレースと産業スパイをテーマにしたアクション「スパーク1」が掲載され、商業漫画家としてデビュー(1963年とする資料もあり)。その後、『タイガーマスク』で作画を担当していた辻なおきのアシスタントになり、並行して読み切り作品を発表した。喫茶店で一杯のコーヒーで粘って作画したという。 1966年(27歳)母キミヨが「原爆症」により60歳で他界。火葬前にアメリカ側が母の遺体を原爆病の“標本”として解剖を迫ったことに中沢は怒りを覚えた。母の骨は放射能が入ってもろくなり、ひとかけらも遺骨が残らず、すべて灰となった。「原爆は骨まで奪うのか」と憤慨した。あらためて戦争と原爆について向き合った中沢は、漫画の世界で原爆と戦うことを決意した。 同年2月、看板屋時代の仲間に紹介された4歳年下のミサヨ(23歳)と結婚、翌年1月に娘をもうけた。ミサヨは広島市から約30キロ離れた瀬戸内の島で生まれ、原爆に遭っていない。中沢が被爆したことは知っていたが、東京では被爆者であることを隠していた夫から詳しく聞いたことはなかった。 それまで差別を避けるため被爆体験を描かなかった中沢は、母の死をきっかけに初めて原爆をテーマにした漫画《黒い雨にうたれて》を描きあげる。だが、完成した原稿を各出版社に持ち込んでも、1年ほどどの出版社からも掲載を断られ続けた。中沢は養育費を稼ぐため、テレビ番組や映画などのコミカライズを描いた。 1968年(29歳)持ち込み続けた《黒い雨にうたれて》が『漫画パンチ』編集長の心を掴み、完成から2年を経てようやく掲載された。主人公は、アメリカ人が標的の仕事しか受けない殺し屋で、被爆者だった。作中では、原爆症に対して国からわずかな補償しかないことを取り上げた。中沢は作品の最後に「この一編を読んで読者のあなたが少しでも原爆を認識してくだされば原爆を受けた作者として幸いです」と署名入りで記す。本作は『はだしのゲン』の原点となった。 《黒い雨にうたれて》は他の漫画家や他社の編集者からも好評で“黒いシリーズ”を『漫画パンチ』にさらに3作描く。並行して『週刊少年ジャンプ』でも準レギュラー作家として連載を持ち、日本復帰直前の米軍基地問題を描いた《オキナワ》を発表した。 1972年(32歳)『別冊少年ジャンプ』で各漫画家の自伝を掲載する企画があり、中沢はその第一弾として被爆を描いた自伝漫画《おれは見た》を発表、これに感動した『週刊少年ジャンプ』編集長の尽力で長期連載作品の計画が進む。 1973年(34歳)6月、自伝的作品《はだしのゲン》を《週刊少年ジャンプ》に1年半にわたって連載開始(さらに掲載誌を変えながら14年間にわたって描き続けられる)。 ミサヨ夫人は下書きをペンでなぞる作業などを担いながら「あんまり原爆のことを描かないで」と直訴した。原爆の描写が続くと読者が離れてしまい、連載が打ち切られかねないとの不安からだった。中沢は譲らなかった。「描かなければいけないことを最低限書いている。誰に何を言われても原爆の恐ろしさは描かなければいけない」「焼けただれる皮膚が爪で止まって垂れ下がっている様子を描かなければ、それは原爆被害ではない。俺はうそは描けん」。 「読んだ後に子供が怖がって眠れない」と保護者から届いた便りには「感性豊かな優しいお子さんです。きっと良い子に育ちます」と返事を書いた。伝えたいことが子供たちに伝わっているという手応えが、中沢の生きがいとなった。戦後、長く続いた差別を恐れて原爆体験を隠して生きてきた被爆者の中には、「中沢さんの作品が全て代弁してくれた」と電話をかけてくる人もいた。 中沢「読者の方から手紙が来てね。残酷すぎるとかそういう場面を描くなとか。だけど原爆はあれを見せないとだめだと思うんですね。うちの子は『はだしのゲン』を読んで便所へ行けなくなった、そういう漫画はやめろという親の手紙が来てね、僕は手紙を書いた。あなたのお子さんは立派ですねって。怖いと感じてくれることが有難いんだ。二度とああいう(戦争への)道を通らんぞという決意が読者の中に芽生えてくれたらいいなと」 しかし、単行本化の話はあったものの、集英社の上層部が「(原爆マンガは)連載ならよいが単行本になると社名に傷がつく」という理由で難色を示し、『はだしのゲン』は単行本化されなかったという。 ※《はだしのゲン》…主人公・中岡元は国民学校2年生。絵付け職人の父は反戦思想家で周囲から「非国民」と扱われ、一家は嫌がらせを受けていたが、それでも5人家族で仲良く暮らしていた。だが、原爆投下で自宅は倒壊して火に包まれ、ゲンは目の前で父と姉、弟を亡くした。姉・英子と妹・友子の名前は、作者中沢の姉と妹の名前をそのまま使用しており自伝的要素が強い。特高警察に父親が連れていかれて拷問されたり、姉が盗みの疑いをかけられて裸にされるシーンは実話。中岡の姓は坂本龍馬とともに暗殺された中岡慎太郎が由来で、ゲンの名前は「元気」の「元」から。 《はだしのゲン》は原爆の惨状や戦争責任問題などが注目されがちだが、最大のテーマは「人間愛」であり、ゲンの父親が言った「踏まれても踏まれても逞しい芽を出す麦になれ」という「生きること」への大肯定にあった。ゲンは原爆がもたらした貧困や差別と向き合いながら、麦のように戦後の混乱期をたくましく生き抜き、その姿が多くの共感を呼んだ。累計部数1000万部を超えるロングセラーとなる。 ![]() 1975年(36歳)《はだしのゲン》の単行本全4巻が汐文社から刊行される。連載中の人気は高くなかったが、単行本になってマスコミに取り上げられ、爆発的な売れ行きとなった。作家大江健三郎の激賞もあって約5年で100万部を超えるベストセラーとなった。同年、続編を革新市民団体雑誌の『市民』誌で連載し始める。 1976年(37歳)《はだしのゲン》が実写版で映画化され、ゲン役を佐藤健太(注:スーパー戦隊の俳優は同姓同名の別人)、父親役を三國連太郎が演じた。被爆シーンは実写での描写表現が困難だった(三部作となり1977年、1980年にも実写映画)。同年、1年間ゲンを連載していた『市民』誌が休刊してしまう。 1977年(38歳)《はだしのゲン》が日本共産党系の論壇誌『文化評論』で連載再開。 1978年(39歳)《はだしのゲン》の英語版が発行され始め、その後ロシア語、フランス語などに翻訳され、2025年時点で20カ国語以上で出版され、英・仏・独・伊・露語訳など、絵本も含めて28もの言語に翻訳される。 1980年(41歳)《はだしのゲン》の『文化評論』での連載が終了する。 1982年(43歳)《はだしのゲン》が日教組機関紙『教育評論』で4度目の連載スタート。 1983年(44歳)実写の《はだしのゲン》では原爆の映像表現の限界を感じ、中沢は製作費を調達して自らの手でアニメ化し劇場公開する。 1984年(45歳)《黒い雨にうたれて》のアニメ映画を製作。 1985年(46歳)《はだしのゲン》が第一部完結。健康状態の悪化のため、これをもって連載を終了した。 1987年(48歳)《はだしのゲン》全10巻が汐文社から出揃う。 1999年(60)実写映画『お好み八ちゃん』を製作し、初の映画監督を務めた。 2001年(62歳)糖尿病による左目の網膜症と右目の白内障で視力が低下したため、執筆活動から遠ざかる。 2004年(65歳)フランスで最古の漫画関連イベントであり、「漫画界におけるカンヌ」とも言われているヨーロッパ最大級のバンド・デシネのイベント、アングレーム国際マンガ祭で環境保護に関する最優秀コミック賞を《はだしのゲン》が受賞。 ※視覚に訴えかけてくる漫画を読むと、予備知識がなくても時代背景などまで理解でき、踏まれても麦のようにまっすぐに強く伸びる生き様に、国境を超えて読者が励まされるのだろう。 2007年(68歳)ウィーンで開催された核拡散防止条約(NPT)運用検討会議の第1回準備委員会で、日本政府代表団は《はだしのゲン》の英訳版を加盟国に配布。同年、広島市民賞を授与される。フジテレビでドラマ《はだしのゲン》が放映された。 2008年(69歳)肺癌が発見され手術を行う。その後も、肺炎や心臓病でペースメーカーを入れるなどして入退院を繰り返す。 2009年(70歳)読者からの要望に応えて《はだしのゲン 第二部 東京編》の連載を決意するが、32ページのネームまで出来たところで眼底出血により中断。白内障で細かい絵が描けなくなり正式にマンガ家引退を表明する。同年12月8日、原画の劣化などを心配し、段ボール30箱以上に及ぶ作品の大半を広島平和記念資料館に寄贈する。 中沢は、その後のゲンは読者の想像に委ねるとしたが、大きな構想は固まっていた。第2部では、東京に出たゲンが被爆者と知られて「放射能がうつる」と言われショックを受けたあと、東京大空襲で両親を奪われた孤児と知り合う。その戦災孤児からは財布を盗まれるがやがて友だちに。ゲンは戦災孤児たちと手をつないで、戦争のない世界を目指す。最終的に、漫画家を目指したゲンがその夢をかなえ、横浜から貨物船に乗って絵の修業ためにフランスに旅立ち、核兵器廃絶に向けて世界を行脚する予定だったという。また、原発大国であるフランスで、絵描き仲間と共に原発問題を考えていく構想もあった。 2011年(72歳)中沢は初めて広島市主催の平和記念式典に出席した。それまでは、被爆体験への忌まわしさと戦争責任を追及しない内容に「あんな白々しい式典で、あの原爆地獄の苦しみと怒りと、悲しみが、鎮められるかっ」と参加したことはなかった。だが、広島市から招待されたため「今生の別れのつもりで」と初出席。中沢「戦争を引き起こした戦犯の人形を並べ、市民が石をぶつける式典なら喜んで参加したい」。 同年、自身の生い立ちを語ったドキュメンタリー映画『はだしのゲンがみたヒロシマ』が公開される。映画のラストは原爆ドーム前のインタビューで締めくくられる。 中沢「平和がどんなに大切かということを分かってくれれば、僕の役目は終わるんです。戦争だけはどんなことがあってもするなよ。戦争は絶対しちゃいかん。核兵器は特にそう。あれ1発使われたらヒロシマ・ナガサキの破壊力じゃないですからね。絶対に無くしていくという世代を育てていかないといけない。それには漫画も1つの役目を果たしていけるのではないか。こういうことがあったのか、無くさなきゃいけないなという気持ちが子どもたちの心に根づいてくれたら作者冥利に尽きます」 一方、この年にアンチ《はだしのゲン》派からの逆風が吹き始める。鳥取市中央図書館が児童書コーナーから貸し出しカウンター裏の事務室内に別置きにした。 2012年1月、広島市中区役所で市教委に招かれ、約50人を前に講演し、被爆体験を話した後で漫画に込めた思いを訴えた。 同年12月19日午後2時10分、中沢は肺がんのため広島市民病院で他界。73歳没。亡くなる直前に「好きなマンガを描いて、食べていけたんだから、こんな幸せなことはない。『ゲン』は俺が死んでも残る。『ゲン』が世代を超えて歩んでいってくれれば、それだけでいい」と語った。 死の翌日、自伝的エッセイ『はだしのゲン わたしの遺書』が刊行された。その中で「人間は忘れる動物です。描いて残すことが、戦争を防ぐ唯一の手段だと思った」「原爆を描くことは、怒りをこめてペンを握ることだった」と語り、最後をこう締めている。「『はだしのゲン』は、わたしの遺書です。わたした伝えたいことは、すべてあの中にこめました。『はだしのゲン』がこれからも読み継がれていって、何かを感じてほしい。それだけが、わたしの願いです」。 翌2013年、島根県松江市内の小中学校図書館での《はだしのゲン》閲覧制限を巡って紛糾。発端は前年夏に「子どもたちに間違った歴史認識を植え付ける」として、小中学校から作品を撤去するよう松江市に陳情が寄せられたことによる。それに対して松江市の市議会は議論の末、小中学校図書館での撤去の判断を松江市教育委員会にゆだねた。市教委は旧日本軍の残虐行為などの描写に過激な部分があるという理由で、読むのに教師の許可が必要な閉架措置とするよう学校側に要請することにした。それが「知る自由」や「表現の自由」を侵すものだと社会問題に発展。松江市教区委員会は2013年8月に、市教委の事務局の手続きに不備があったということで閲覧制限を撤回した。この騒動を機に《はだしのゲン》の注文が相次ぎ、例年の終戦時期の2〜3倍の売れ行きとなった。 2023年、《はだしのゲン》連載開始から50年を迎える中、2月に広島市教育委員会は、市立小中高校の平和教育に使っている教材「ひろしま平和ノート」を今後改訂し《はだしのゲン》を削除して別の絵本などに差し替えることを決定。小3の教材では、ゲンたちが浪曲を披露して日銭を稼いだり、栄養不足で体調を崩した母親のために他人の家の庭でコイを釣ったりする場面が掲載されているが、これに対して市教委の議論の中で、「浪曲は児童になじみがなく、コイを盗んでもいいという誤解を与える」「時代背景の説明が必要で、学習目的を達成するまで時間と手間がかかる」といった指摘が出た結果という。広島市教委が平和教材から削除する方針を表明後、文庫版『はだしのゲン』の2月の販売数は通常と比べ11倍、 翌3月には15倍超に急増した。 2024年8月、アメリカで最も権威ある漫画賞の一つで「漫画のアカデミー賞」と呼ばれるアイズナー賞「コミックの殿堂」を受賞。同賞は、世界中の業績ある漫画家に対し「殿堂入り」を認定するもの。日本人では、これまでに手塚治虫、大友克洋、宮崎駿、萩尾望都らが受賞しており、8人目となった。漫画家を目指すきっかけとなった手塚治虫と同じ賞に輝き、天国で喜んでいるだろう。 −−− 中沢は、原爆に対する怒りと同じ熱量で軍国主義にも激怒している。 ★「(町内会の竹槍訓練で)アメリカと日本では資源がちがう。資源のない小さな国の日本は平和を守って世界中と仲よくして貿易で生きるしか道はないんだ。日本は戦争をしてはいけんのじゃ!軍部のやつらが金持ちにあやつられ、武力で資源をとるためかってに戦争をはじめてわしらをまきこんでしまったんだ。おまえら(軍国主義者)は戦争の熱病にかかりだまされているんだ。この戦争はまちがっているっ」「き、きさまゆるせんぞ。戦争に協力しない非国民め」「やかましい、もう戦争はごめんだ!いまに戦争のばからしさがわかる!冷静な正しい目でみることをおぼえろっ」「お、おのれ非国民め」(ゲンの父VS町内会長)一巻 ★「日本国民一億総火の玉となって戦争勝利の日までがんばっているのにきさま(戦争に)反対するとはなにごとだ。日本人としてはずかしいとおもわんのかっ」「お…おもわん。わしは日本のことをおもえばこそ戦争に反対しているのだ」「きっ、きさま〜っ。このはじしらずの非国民めがっ!戦争に協力しない非国民めが!」(竹刀で何度も殴る)「わ…わしはもう…じゅうぶんに戦争に協力しとる…。長男の浩二は学校の勉強を犠牲にして工場で武器づくりの勤労奉仕をしとるのだ。わしの家には鉄と名のつくナベやカマまでなくなった…軍艦や戦車、鉄砲をつくるために供出でもっていかれた。子どもたちは毎日腹をすかして…イモ一個、米の一粒をとりあってすさまじいケンカをする…子どもたちがうえてるのは軍隊に食糧をもっていかれるためだ…わしらはそれでもがまんしている…これでも戦争に協力していないといわれるのか!非国民といわれるのか!」「だまれっ、だまれっ、そんなことは日本人としてあたりまえのことだっ!」「わしら貧乏人がこれ以上戦争に協力できますか…!?」「う〜ぬ、この非国民の国賊めが!きさまの考えは危険思想だ。ゆるせん!精神をたたきなおしてやる!この馬鹿者!日本人としてきさま天皇陛下にもうしわけないと思わないのか。恥を知れっ!(竹刀でめった打ち)」(警官VSゲンの父)一巻 ![]() ★「フフフ…警察のやつ派手にやりやがって、歯が折れたよ…。今の軍国主義の日本で戦争に反対するとこうなるんだ。心配はいらん、体は傷つけられても心の中まで傷つけられはせんわい。(略)君江、泣くな。わしら何もない貧乏人が心の中のほこりまでとられたら、何を支えに生きるんじゃ」(ゲンの父)一巻 ★「ばかたれっ!朝鮮の人をばかにするようなこというなっ!」「だってみんないうとるぞ、朝鮮人や中国人はばかだって」「だまされるんじゃない。戦争を始めた日本のオエラ方がばかだと教え込んだんだ。日本人がすぐれていて、朝鮮人や中国人はばかでダメな人間だとな。よその国の人間はみんなだめで鬼みたいななつだと教え…弱い相手だから日本は戦争に勝てると信じさせるためだ」(ゲンの父とゲン)一巻 ★「今の日本は学校も新聞もラジオも警察も軍隊も、戦争をおっぱじめた軍部の独裁者の言いなり…お前(ゲン)たちに嘘を教えているんだ。お前たちは騙されるんじゃないぞ。朝鮮の人や中国の人みんなと仲良くするんだ。それが戦争を防ぐたった一つの道だ」(ゲンの父)一巻 ★「軍人が政治の権力をにぎると軍国主義の暗いおそろしい世の中になるんだ」(ゲンの父)一巻 ![]() ![]() ★「子どもの心に一生きえないキズをつけやがって!おまえら(軍国教師)に子どもを教える資格はないっ!おまえはわしが戦争反対をいうとる非国民だから英子(娘)が金をとったといったそうだな。わしからみればおまえたちのほうがよっぽど非国民だ!教え子を戦争にかりたてて戦場へおくりこんで人殺しだっ!」(ゲンの父)一巻 ★「おまえこの戦争が日本人みんなのためになっていると思っているのかっ。ひとにぎりの金持ちがもうけるため国民のわしらにはなにひとつ相談もなく勝手に始めたのだ!」(ゲンの父)一巻 ★「戦争を起こしたやつは悪いが、その戦争に協力してありがたがる国民ひとりひとりも悪いんじゃ。こんなひどい目にあわされて…」(ゲンの父)一巻 ★「だいたい人間は老人から順番に死んでいくのが当たり前だ。それが俺たち未来ある若い者が先に死んでいく。なんで戦争を起こして命令ばかりしているじじいが生き残るんだ。間違っとる!俺はまだ死にたくない。まだまだやることはいっぱい残っているんだ。ちくしょう、戦争したけりゃ、戦争をはじめたやつらだけが無人島でやりやがれっ!」(特攻隊員の熊井)一巻 ※特攻隊は昭和19年10月29日に敷島隊5人の米艦隊体当たりに始まり、終戦まで290回以上も出撃、2500人以上の空の男が死んでいった。 ★「おどれら、かっこうばっかり気にする鬼じゃ!なんで長く生きてられん政二さんに優しくしてやれんのじゃ」「かえらんと三円あげないわよ」「いるもんか。政二さんの命の方がだいじじゃ」(ゲン)二巻 ★「わしら落ちるとこまで落とされたんじゃ。もうこれ以下の底はないわい。這い上がるだけじゃ。わしゃどんなことをしても這い上がってやるわい」(隆太)六巻 ★「わしゃ戦争のにおいをふりまく道具はみんなだめにしてやるわい。二度と戦争はごめんじゃけえの」(ゲン)七巻 ★「うちはお前らが心配なんだよ、また戦争に巻き込まれはしないかと。また戦争を喜ぶ流れが起きてはまったら、もう遅いのよ。次々と治安維持法みたいな法律を作られ、完全に逃げられないようにされ、人間がただの戦争する道具にされるんだから…いつも戦争を起こそうとする企てを早く見破って、みんなで声を張り上げ反対して防ぐのよ。国のためだと言って戦争して陰でもうける奴がいつもおるんじゃけえ」(ゲンの母)七巻 ★「おどれら右翼はアメリカとイギリスは鬼畜のように悪いやつだからこらしめるために日本は正義の戦争をするのだと叫んで日本を侵略戦争へ導いていったじゃないか!日本が戦争に負けるとコロリと変わって鬼といっていたアメリカに協力しろか。おどれらは何百万人もの日本人を殺し、国を滅ぼしておいて実に都合がええやつじゃ。わしゃおどれらみたいなやつはゆるせんのだ」(相原)八巻 ★「わしらピカで家族も親類もみな殺しにされ学校へ行きたくても行けんのじゃ!勉強がしたくても働かんとめしが食えんのじゃ。字を読みたくても読めんようにしたのは誰じゃ。おどれらクソッタレ大人が国のためじゃ、天皇陛下のためじゃと兵器をつくってもうける死の商人にだまされやがって、勝手に戦争をはじめて原爆までくらいやがって、わしらを学校にも行けんみじめな生活にたたきこんだんじゃ。おどれら大人こそ恥を知れ、恥をっ!」(隆太)九巻 ★「同じキリスト教の信者がいる教会の上で原爆を爆発させ、皆殺しにするんじゃけ、イエスキリストさんはずいぶん勝手な神様じゃ…もし神様や仏様がおるんなら、なぜ苦しみと破壊しかない戦争と原爆をなくしてくれんのじゃ」(ゲン)九巻 ★「学校の先生になる人は、本当に心の底から子供が好きな人以外は教師になるなっ!失敗したらどなりつけて理屈を言うより、だまって力いっぱい抱きしめて共に失敗を悲しむ人になれやっ!」(ゲン)十巻 ★「新聞をよんどるとピカで生き残った被爆者に急激に白血病が増加しとると発表されているんじゃ…わしゃ胸クソが悪うなって腹が立ってしょうがないんじゃ!ピカが落ちて八年がたつのに、どこまであのピカはわしらを苦しめるんじゃ。よくもあんなにひどい原子爆弾をアメ公は平気で落としやがったと思うと腹が立って…いつわしの体にもピカの放射能の毒が出てくるかもしれんと思うと…わしゃ不安になってやりきれんよ」(ゲン)十巻 --------------- また、中沢は昭和天皇の戦争責任について厳しい発言を続け、天皇制の廃止を強固に求めていたことでも知られている。戦争責任を取らず退位もしなかった昭和天皇に対する中沢の怒りは激しく、1947年の昭和天皇の広島行幸において市民は天皇を歓迎していたのに対し、中沢は天皇に激しい怒りを抱き『人間の神経をもたない冷血人間』『厚顔破廉恥な野郎』と評するほどだった。中沢「天皇や軍部はポツダム宣言を無視し、その結果、広島・長崎で多くの人が亡くなった。なのに戦後、天皇が広島に来た時には日の丸を振るように学校で言われた。なぜ万歳なのか。今でも腹の中が煮えくり返る思いがある。日本人は甘いと思う」「天皇ヒロヒトと皇族を助けるために広島と長崎は犠牲にされたのだ」。中沢がここまで言っても右翼から襲撃されなかったのは、原爆のサバイバーという圧倒的な背景があったからだろう。 他に「天皇の名によってアジアで2000万人、日本では300万人も殺された、私は天皇が憎い」「私は原爆の実態を天皇に示し、天皇は土下座して心から自分の責任を謝ってほしいと思いました」とも。 中沢は怒りの人であった。《はだしのゲン》の後半になるにつれ感情を叩きつけている。僕は広島市教育委員会が平和教材から『ゲン』を削除した理由は浪曲や鯉泥棒ではなく、このストレートすぎる天皇や軍部への批判にあると見ている。 ★「まったく日本人はおめでたいよ!戦争でもうけるやつにすっかりおどらされて天皇陛下を信じて裸にされて…天皇陛下も勝手すぎるよ…戦争に負けるとわかったなら、なぜもう少し早く戦争をやめてくれなかったのかね…。せ…せめて1週間前に戦争が終わっていれば広島も長崎も新型爆弾を落とされず何十万の人たちが死なずにすんだのに…すでに東京や日本中の都市がB29で焼き尽くされて、日本が負けることはわかっていたはずなのに。何百万もの日本人の命を犬死にさせた天皇陛下を、あ…あたしゃうらむよ…天皇陛下を利用して戦争をはじめてもうけ…ぬくぬく生きている金持ちや自分たちのことしか考えない戦争の指導者をひとりずつ殺してやりたいよ」(ゲンの母)三巻 ★「天皇は戦争をおこし日本中の街やこの広島や長崎をピカで焼け野原にし、わしの父ちゃんや数え切れない人を殺し、いまも苦しめている。戦争の責任者じゃないか。なんでありがたがって歓迎しないといけんのじゃ」(ゲン)五巻 ★「(母の亡骸を背負い)マッカーサー元帥に会うんじゃ。言うたるんじゃ、しっかり知らせてやるんじゃ。アメリカが広島と長崎に落とした原爆の罪深さを言うたるんじゃ。どれだけひどい地獄を作り出し、今も続いているか、たっぷり知らせてやるんじゃ。お母ちゃんにすまなんだ、許してくれと言わせてやるんじゃ。もう原爆は二度と使わんと約束させてやるんじゃ。(略)アメリカは原爆の恐ろしさを知っとらんけん、お母ちゃんの苦しんで死んだ思いを知らせてやるんじゃ。それともう一人、お母ちゃんを見せてやる奴がいるんじゃ。天皇じゃ!天皇にお母ちゃんを抱かせて心の底から謝らせてやるんじゃ」「バカタレ、恐れ多くも天皇陛下に」「何が恐れ多いんじゃ。天皇はクソもすりゃ屁もするただの人間じゃ。天皇は戦争をすることを決定し、日本人を何百万人も死なせた戦争の最高責任者じゃ。お母ちゃんを殺した責任者じゃ。天皇はお母ちゃんに土下座して謝るんが当たり前じゃ。わしは天皇から一言でもすみませんでした、許して下さいと言う言葉を聞いたことがないわい」(ゲン)七巻 ★「おどれらみたいな職業軍人が戦争を喜んではじめたために原爆が落とされたんじゃっ!おどれらは自分の身の上に苦しみがふりかかってこんと戦争と原爆の残酷さがわからんバカタレじゃっ!おどれらは大きな面(つら)をして世の中に出てきて戦争を賛美するようなことを二度とするな!」(ゲン)十巻 ★「天皇が無謀な太平洋戦争をやれとゴーのサインを出したお陰で日本列島は焼け野原にされ、この広島も長崎も原爆までくらってわしの家族を含め日本人三百万人以上がもがき苦しんで殺されたじゃないか。それだけじゃないぞ。天皇陛下のためだと言う名目で、日本軍は中国、朝鮮、アジアの各国で約三千万人以上の人を残酷に殺してきとるんじゃ。(略)その数千万人の人間の命を平気でとることを許した天皇をわしゃ許さんわい!いまだに戦争責任をとらずにふんぞりかえっとる天皇をわしゃ許さんわいっ!君が代なんか誰が歌うもんかクソクラエじゃ!君が代なんかっ、国歌じゃないわいっ!」(ゲン)十巻 ★「女にも戦争を起こした責任はあるんだ!日本中の女が体を張って反対したら男の思うようにできず戦争は防げたはずよ。それを日本は神の国じゃけえ神風が吹いて神様の天皇が国を守るけえ、日本は絶対に戦争に勝つと、あの貧相なつらをした爺さんの天皇、今上裕仁(きんじょうひろひと)を神様としてありがたがり、デタラメの皇国史観を信じ切った女も大バカなんよ…うちゃ戦争を起こした奴ら、賛成した奴らは絶対に許せんよ!原爆で苦しみ抜いた弱い者を利用してのうのうと生きとるヤクザも許せんよ!」(光子)十巻 ★「殺人罪で永久に刑務所に入らんといけん奴はこの日本にはいっぱいいっぱいおるよ!まずは最高の殺人者、天皇者じゃ!あいつの戦争命令でどれだけ多くの日本人、アジア諸国の人間が殺されたか!命令ばっかりして自分はいつも安全圏にいて、のうのうと生きのこっとる東条内閣の大臣や役人どもも、大殺人者じゃ!戦えば必ず勝つとうぬぼれて戦争を始めた陸海軍のバカな軍人の幹部どもも大殺人者じゃ!正義のために日本は鬼畜のアメリカとイギリスをやっつける戦争をするんだと勝手な嘘のお題目をふりまき、正義の仮面を着けて戦争の甘い汁を吸った奴らはみんな殺人者として刑務所に入るんじゃ。正義という言葉ほど恐ろしいものはないよっ!」(勝子)十巻 ★「戦争のもとをつくった奴らがのうのうといばっているのは本当に不公平じゃ。日本人の手で天皇はじめ戦争指導者を裁く裁判をやらんといけんわい。本当に日本人は甘い民族じゃ。一番許せんワルを許しとるんじゃけえ」(ゲン)十巻 ★「もし広島、長崎の原爆の破壊力と惨状がなかったら、戦争狂いの天皇や指導者は完全に負けると判っている戦争をやめんかったわい…。日本人最後の一人まで戦うと叫んで皆殺しにされ…日本民族は滅びていたわい。原爆の破壊力と惨状が天皇はじめ戦争狂の指導者をふるえ上がらせ、自分らも原爆で殺されると慌てて無条件降伏のポツダム宣言を受けとって、戦争は終わったんじゃ。戦争を終わらせたのは広島、長崎約30万以上の死者と生き残った被爆者約37万人の姿じゃ…。日本人は広島、長崎の犠牲に感謝せんといけんわい。生き残れて安心して眠れる戦争のない世の中にしたんじゃけえ。いや世界中の国々も広島、長崎に感謝せんといけんわい。核兵器の恐ろしさを知ったんじゃけえ。地球が滅びる核戦争を防いでおるんじゃけえ」(ゲン)十巻 --------------- ★「元、麦はのう、寒い冬に芽を出し、何回も何回も踏まれ、根を大地にしっかり張って、まっすぐに伸び、やがて豊かな穂を実らせるんじゃ…おまえも麦のようになれ。踏まれても踏まれてもたくましい芽を出す麦になれ」(ゲンの父)十巻 世の中に核戦争後のサバイバル漫画は数多いが、『はだしのゲン』はヒロシマのリアルサバイバーが描いた唯一の漫画だ。いま『はだしのゲン』以外の日本の漫画や映画の大半は、戦争を台風や津波と同様に「海の向こうから突然やって来るどうしようもないモノ」と、まるで自然災害のように表現している作品ばかりだ。政治家・軍・財閥の責任を追及するのではなく、「悪いのは戦争であり、みんな辛いんだからみんなで耐える」となる。 ときに日本軍への批判はあれど、それは軍のせいで若者が無駄死にしたという、あくまでも日本人は被害者という視点であり、他国を侵略した、現地の人間を殺害したという加害者の視点で作られた作品はほぼない。名作の声が高い『この世界の片隅に』でさえ、原作漫画では大きく描かれていた敗戦時に掲げられた太極旗(韓国の国旗)も、映画だと非常に小さく、台詞もソフトに変更され、今の日本映画界はこんな描写でさえ忠実にできなくなっている。 中沢は自分が目撃した原爆の惨状だけでなく、軍国主義に覆われた日本社会の問題も鋭く描きだしており、それがどれほど貴重か。 「《ゲン》に救われた」という被爆者は多い。中沢は差別など被爆者が抱えた苦悩を丁寧に描き、そして「踏まれても麦のように強く生きろ」と全身全霊で同胞にエールを送り続けた。 第9巻には画家とゲンのこんな会話がある。「どこの国の人間だって真心をこめてつくりだしたものには感動するけえのう」「芸術に国境はない…わしも世界中の人間を相手に心を揺り動かし国境をとりはらう仕事がしたいのう。芸術に国境はない…芸術に国境はない…わしゃすきじゃこの言葉。わしはなんだか自分の行く道を見つけたような気がするのう…芸術に国境はないっ!そうじゃ、わしは芸術で世界中の国を飛び回る男になりたい!けちな国境と言う垣根をとりはらえる男になりたい!」。《はだしのゲン》は28以上の言語に翻訳されることで、中沢はまさに国境という垣根を取り払った人間になった。 《墓巡礼》 「何度踏まれても芽を出す麦のようにたくましい人間になれ」とゲンの父を通して読者にエールをおくった中沢さん。いま広島市を見下ろす気持ちの良い高台に広がる「広島平和霊園」のD区に眠る。ガーデニング樹木葬の隣だ。黒御影(みかげ)石に刻まれた言葉は「人類にとって最高の宝は平和です」。中沢さんの没後、妻ミサヨさんは広島市街や瀬戸内海が一望できる墓地を探し、2019年5月に納骨を済ませた。中沢さん自身は原爆で人が一瞬で焼け死ぬ様子を目の当たりにし「死んだら骨になるだけ」と達観、「死んだら葬式もいらない。瀬戸内海に散骨してほしい」と語っていたが、ミサヨさんは「散骨した後さみしくなるから。海も見えるし、許してくれるでしょ」と建墓。墓石には中沢さんがサイン色紙に好んで書いたメッセージを色紙から転写した。 僕は戦後80年の2025年に巡礼。核兵器の所持そのものを禁じる「核兵器禁止条約」が2021年に発効し、世界の約半数の98か国が加入していることを墓前に報告し合掌した。同条約は核保有国による威嚇も禁じている。ウクライナや中東で戦火は続いていたが、「核兵器禁止条約」の成立は間違いなく人類の大きな前進であり、一歩一歩、世界は良い方向に向かっていると信じたい。 ※厚労省によると、被爆者健康手帳を持つ全国の被爆者は2019年度末で13万6682人。1980年度末の37万2264人をピークに減少している。平均年齢は83・3歳。被爆者の高齢化と減少が年々進み、被爆体験の継承が課題。2012年度からは、証言者から体験を受け継いで語り伝える「被爆体験伝承者」の制度を始め、現在は150人が活動する。 ※中沢はニューメキシコとネバダの核実験場、テニアン島を訪れ、原爆不要論を唱えるアメリカ人のピーター・カズニック歴史学教授とも交流。 ※「とにかく戦争はだめだ。どんなことがあっても。どんな屈辱をあびようが何しようが、絶対に戦争はいけん、戦争はしちゃいかん。お互いに話し合いで解決していく。」(どう出版のWebサイトより) ※「福島のことを考えると、いまもあのころと事態はあまり変わっていないように思います。唯一の被爆国なのに、放射能のことが正しく理解されていないことは、なんと情けないことでしょうか」(中沢) ※『はだしのゲン』1巻のコラムから。「現代の若い世代は、戦争を知らない。うっかりすると西部劇の延長のようなゆがんだ戦争観を持っている。戦争の恐ろしさは直接原爆が落ちたり、弾丸が飛んできたりすることだけでなく、戦争に対する批判や反対はもちろん、積極的に戦争に協力しない者はすべて疎外してしまうようなところにある。しかもその傷は戦後にもおよび、三十年を経た現在でも痛々しい傷口をさらしている」(尾崎秀樹/文芸評論家) 〔参考資料〕『はだしのゲン』(中沢啓治/汐文社)、『中沢啓治さんの思いを受け継ぐ』(NHK)、『こころの時代『はだしのゲン』と父 翻訳者・坂東弘美』(NHK)、『中沢啓治さん 平和こそ「最高の宝」 死してなお響く次世代へのメッセージ』(毎日新聞)、『故・中沢啓治氏が原爆をマンガにした理由』(ダ・ヴィンチニュース)、ウィキペディアほか。
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《あの人の人生を知ろう》 | ||
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