56才を過ぎてから肉体をメジャーに、17年間をかけて 全国を歩ききった、その不屈の精神力とパワーに脱帽! |
江東区の富岡八幡宮。境内に忠敬像がある | 忠敬は富岡八幡宮の近所に住み、毎回ここへ参拝してから測量遠征に出発していた(2009) |
江戸後期の測量家。初名、神保三治郎。千葉県九十九里町に生まれ、1762年、17歳の時に佐原(さわら)の酒造家伊能家の婿養子となる。忠敬が伊能家に来た時、家業は衰え危機的な状況だった。忠敬は倹約を徹底すると共に、本業の酒造業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で経営を完全に立て直す(29歳の時の伊能家の年間収益は351両=約3500万円)。
36歳で名主となり、1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって米や金銭を分け与えるなど地域の窮民の救済に尽力し、忠敬の村は一人の餓死者も出さなかった。1793年(48歳)の伊能家の収益は1264両(約1億2640万円)にまで増える。
この間、独学で暦学をおさめ、49歳で家業を全て長男に譲って隠居。1795年、50歳を機に幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出た。浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があった。折しも天文方は改暦作業の最中。忠敬が江戸に家を構えた同年春に、当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき
1764-1804/当時31歳)と間重富(1756-1816/当時39歳)が幕府の天文方に登用されていた。この2人は大阪で日本初の月面観測を行った麻田剛立(ごうりゅう
1734-1799/当時61歳)の一門のツー・トップだ。
忠敬は高橋至時を訪ね弟子入りした。当初、至時は20歳も年上の忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていた。しかし、昼夜を問わず勉強する忠敬の姿に感動し、“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになる。至時が不在の際は観測機器に精通した間重富から指導を受け、忠敬は巨費を投じて自宅を本格的な天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過の観測に成功する。
1797年(52歳)、高橋至時と間重富は新たな暦(寛政暦)を完成させたが、至時は地球の正確な大きさが分からず暦の精度に不満足だった。“いったい地球の直径はどれくらいなのか”。暦局の人々は、オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、子午線1度の長さは25里、30里、32里など意見が分かれていた。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。至時は忠敬の案に賛同した。2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が減るため、江戸から蝦夷地(北海道)まで距離を測ることが望ましかった。
だが、当時は幕府の許可が無ければ蝦夷地には行けない…。そこで至時が考えた名目が“地図制作”だった(つまり暦制作が本来の目的で、地図制作は移動の自由を得るための口実だった)。この頃、蝦夷地では根室にロシア特使が上陸して通商を要求し、ロシア人の択捉島上陸事件も起こっており、国防のために正確な地図が必要だった。至時・忠敬の師弟はそこを突き、結果的に幕府は蝦夷地のみならず、東日本全体の測量許可を出す(ただし幕府の財政援助はなく、すべて自費。伊能家の3万両=約30億円とも言われる資産が役立った)。
●第一次測量(1800年)〜蝦夷地太平洋岸
1800年(55歳)、測量調査の出発直前、忠敬は幕府に手紙を送った「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を作りたい」。同年、閏4月19日、自宅から蝦夷へ向けて出発。富岡八幡宮に参拝後、奥州街道を北上しながら測量を開始した。一行は忠敬、息子、弟子2人、下男2人、測量器具を運ぶ人足3人の計9人。これに馬2頭が加わった。
測量方法は、歩幅が一定(約70cm)になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、そこから距離を計算するというもの。目撃者の記録に「測量隊はいかなる難所もお通りなされ候」とあるように、雨、風、雪をはね除け、危険な海岸線も果敢に測量した。夜は宿で天体観測を行い、昼間に得た測量結果と両者を比較しながら誤差を修正、各数値の集計作業に追われた。至時は江戸から手紙で励ました「今、天下の学者はあなたの地図が完成する時を、日を数えながら待っています。あなたの一身は天下の暦学の盛衰に関わっているのです」。
忠敬一行は、寒くなる前に蝦夷測量を済ませるべく、1日に約40kmを移動した。そして出発から21日目の5月10日、津軽半島北端(三厩/みんまや)に到達する。天候不順で船が出ないなど、苦労しながら箱館に入ったところで下男の1人が病気で脱落。本格的に蝦夷地で測量を開始したのは上陸から10日経った5月29日。地図制作の重要さを理解しない役人によって蝦夷地で測量器具運搬用の馬は1頭しか使う許可が下りなかった為、箱館で器具を減らさねばならなかった。蝦夷地は宿が無いため、村の集会所や役人の仮家で眠った。一行は東へ進み、8月7日に釧路より先のニシベツ(別海町)まで達したが、漁の最盛期で多忙な地元民の協力を得られず、東端の根室までは行けなかった。江戸に向かって一路南下し、10月下旬、180日ぶりに帰宅した(蝦夷滞在は117日)。測量で得たデータを元に、約3週間をかけ地図が完成。12月21日に地図を下勘定所に提出した。一週間後、測量手当として22両(約220万円)を受け取ったが、70両(約700万円)以上を負担した。これとは別に自腹で70両分の測量機具を購入しており計140両(約1400万円)以上の身銭を切った。
師である高橋至時は間重富に宛てた手紙に「このように測れと指図したが、これほどきちんとやれるとは思わなかった」と感嘆した。
この翌年、故郷佐原の住民たちが一昨年から運動を起こしていた「功績ある伊能忠敬・景敬親子に幕府から直々に苗字帯刀の許可を」とする請願が実り、忠敬は幕府から苗字・帯刀を許された。
●第二次測量(1801年)〜伊豆・東日本太平洋側
蝦夷地の地図に対する高い評価が郷土の藩主・堀田正敦(まさあつ)の耳に届いたこともあり、忠敬は周囲から第二次測量を勧められ、伊豆から太平洋側北端・尻屋崎までの測量を決意する。享和元年(1801年)4月2日に江戸を出発した。今回は街道を管理する道中奉行から測量隊来訪の先触れが出され、各地で地元の協力を得やすくなった。また、前回のような歩測ではなく、一間(いっけん、約180cm)ごとに印がついた縄=間縄(けんなわ)を使って測量することにした。三浦半島、鎌倉と回って伊豆下田に到着したのが5月13日。伊豆の断崖絶壁の測量は海上で縄を張るなど苦労した。いったん江戸によって6月19日に房総半島へ出発。7月18日に関東西端の銚子に到着。太平洋沿いを北上し、東北に入って地形が入り組んだリアス式海岸に苦闘する。10月1日に岩手・宮古湾を越え、10月17日に目標地点の下北半島・尻屋にたどり着いた。12月7日、230日間の測量を終え江戸に帰還。地図を幕府と藩主に提出した。子午線一度の距離を28.2里と導き出した。また、子午線一度の距離を28.2里と導き出した。
●第三次測量(1802年)〜東北日本海側
享和2年(1802年)6月3日、藩主堀田摂津守から「東北の日本海側を測量し、東日本地図を完成させよ」と命令が下る。第一次測量の頃とは大きく違い、藩から人足5人、馬3頭、長持人足4人が与えられ、手当も60両支給された(収支トントンに近づいた)。命令を受けた8日後(6月11日)には早くも出発している。一行は白河、会津若松、山形、新庄を経て、7月23日に秋田の能代(のしろ)に到着。日食の観測を行い、8月15日に三厩(青森)に到着した。その後、秋田の沿岸を男鹿(おが)半島、象潟(きさかた)と測量しつつ南下、10月4日に新潟の現上越市に達する。冬に突入することもあり、これで日本海を離れ10月23日、132日ぶりに帰宅。この第三次測量では協力的でない役人を叱りつけることが度々あった。個人的な測量ではなく幕府からの請負事業を行っているというプライドの現れと考えられている。東日本地図の完成は次の測量に持ち越された。
●第四次測量(1803年)〜東海・北陸地方
享和3年(1803年)2月18日、前年に続いて堀田摂津守から辞令が下る。今回指示された測量地域は駿河(静岡)から尾張(愛知)までの東海地方、能登半島や佐渡島といった北陸地方だった。旅費は82両(約820万円)まで増額された。2月25日に江戸を発ち、沼津、御前崎(静岡)、渥美半島(愛知)、知多半島と測量を行い、5月6日に名古屋に入った。そこから北上して岐阜を通過し、5月27日に福井・敦賀に到着。その後の約1カ月は複数の隊員が病気になり、父子だけで測量することもあったという。6月24日から北陸の雄藩・加賀藩に入ると、藩の地理情報が外部に漏れることを警戒して現地案内人が地名を黙秘するなど抵抗にあい難儀する。
能登半島や佐渡は測量効率化のため二手に分かれて行動した。9月17日に佐渡を離れ、10月7日、219日ぶりに江戸へ戻った。ここに3年がかりで行った東日本の海岸線測量が完結した。帰宅後、さっそく当初の目的であった地球の大きさの計算に取り組むと約4万キロいう結果になった。師の高橋至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると数値が一致し、師弟は手を取り合って大喜びしたという。忠敬が弾き出した数値は、地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった!
だが、それから間もなく、至時は天文学書の翻訳等で無理を重ねて床に伏し、年明けに39歳の若さで他界した。出会いから別れまで9年。忠敬は嘆き悲しみ、師の墓がある上野・源空寺の方角に毎朝手を合わせた。天文方には跡継ぎとして、子の高橋景保が登用された。
1804年(59歳)、これまでの測量データを「日本東半部沿海地図」としてまとめあげる。大図69枚、中図3枚、小図1枚という大規模なもの。同年秋、11代将軍徳川家斉が江戸城大広間で上覧。そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は驚愕する。忠敬の身分では将軍に接見できなかったが、その3日後、小普請(こぶしん/禄高三千石未満の御家人)組として10人扶持(ふち/一日玄米五合を一日扶持と計算した一年間分の米や金。この場合その10人分)を与えるという通知が届いた。そして忠敬に“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ”と幕命が下る。
●第五次測量(1805年−1806年)〜近畿・中国地方
東日本の地図完成から一年間のブランクをあけ、文化2年(1805年)2月25日に西国測量計画が実行された。忠敬ときに60歳。この測量は晴れて幕府直轄事業となる。忠敬の測量はもはや個人的な仕事ではなく、人々の期待を担う国家事業に変わった!測量隊員には幕府の天文方が加わり一行は16人に増え、各藩の受け入れ態勢が強化された。測量隊は時に100人以上になることもあったという。当初の計画では2年9カ月の大遠征であり、忠敬は暦方の皆から「西洋人が科学に携わる時には、自分の為にではなく、人の為、天下の為に命がけでやるといいます。天に尽くすつもりで事業を達成されますように祈っております」と励まされた。
浜松、紀伊半島を経て、大阪に入ったのが8月18日。人数が多くなった分、病気になる者も増え、大阪で3人が脱落した。京都を経由して琵琶湖を37日かけて測量。その後、2名補充して中国地方に向かったが、想定以上に瀬戸内の海岸線が入り組み、姫路沖の家島諸島の測量にも手間取った。さらに2名を増員し大晦日を岡山で迎える。
文化3年(1806年)1月18日に岡山を出発。本格的に瀬戸内海の島々の測量を開始した。3月29日に広島到着。防府を越えて4月30日に秋穂浦(現山口市)まで来たところで、忠敬はマラリアを発症。それでも下関まで達して、さらに山陰へ向かい6月18日より松江にて治療逗留した。忠敬が闘病している間、隊員たちは隠岐を測量し8月4日に松江で合流。忠敬は健康になり山陰の日本海沿岸を東に進んだが、忠敬不在の1カ月半の間に、隊員たちは禁酒の規律を破るなど風紀が乱れ、住民を見下す態度をとる者もいた。これが幕府の知ることとなり、戒告状が景保から届いた。島根、鳥取、若狭湾を測量して山陰の測量を終え、11月15日、1年9カ月ぶりに江戸へ帰着。その後、規律を乱した2名を破門にし、3名を謹慎処分にした。近畿・中国地方の地図制作は、長期間の測量ゆえデータが多く作図に1年を要し、翌年末に完成した。
●第六次測量(1808年)〜四国
文化5年(1808年)1月25日、四国測量のため江戸を出発。前回は約2年にわたる測量で風紀に問題が起きた為、忠敬は第六次測量を四国だけにとどめた。淡路島を経由して3月21日に鳴門から徳島に入り、南下して4月21日に室戸岬到着。29日に高知に入る。続いて海岸線に沿って北上し、8月11日に愛媛・松山到着。瀬戸内海の島々を測量しながら東進し、高松、鳴門を経て11月21日に大坂に戻った。四国各藩は測量隊のために道を整備するなど協力的で、精度をあげるため支隊が内陸部縦断測量を行った。年明け1月18日に江戸へ帰着。
●第七次測量(1809年−1811年)〜九州前半
西日本の測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷だった。3年で終わるはずが、内陸部の調査が加わったり、思いのほか四国が広かった為に、3年経っても九州は全く手付かずだった。文化6年(1809年)8月27日、全国地図の完成に向けて最後の大仕事となる九州遠征が始まる。中山道、山陽道を通って北九州の小倉で年を越し、ここをスタート地点に定めた。九州に入った忠敬が娘に出した手紙には「(10年も歩き続け)歯は殆ど抜け落ち一本になってしまった。もう、奈良漬も食べることが出来ない」と書かれていた。
一行は太平洋側を南下して2月12日に大分、4月27日に宮崎・日南に到着。大隅半島を回って6月23日に鹿児島へ到達した。一行はさらに南下して薩摩半島南端の山川港(現指宿市)に着き、そこから種子島、屋久島に渡る機会をうかがったが、悪天候により渡航を断念、北上して天草諸島を測量した。天草には小島がたくさんあり測量は時間がかかった。隊員の体調もよくなく、今回の九州測量はここで切り上げることを決定。帰途、大分で年を越し、中国地方の内陸部を測量しつつ上京した。江戸に着いたのは5月8日、第4次と同じく1年9月ぶりの帰宅となった。
●第八次測量(1811年−1814年)〜九州後半
幕府は種子島・屋久島測量にこだわっており、忠敬は前回の九州遠征から半年後、年も変わらぬうちに第二次測量に出発することになった。これは江戸からはるかに遠い薩摩藩の実態を、測量を通して把握しようという幕府の思いが見える。文化8年(1811年)11月25日、一行は九州北部や離党を測量するため江戸を出た。忠敬は66歳。出発前に息子景敬に隠居資金の分配など遺言同然の書状を残しており、不測の事態を覚悟した出発だった。年明け1月25日に小倉到着。内陸部を通って鹿児島・山川港に再び至った。そして船で屋久島に向かい3月27日に無事上陸を果たす。測量隊は北と南の二手に分かれ、13日間で測量を終えた。風待ち後、4月26日に種子島に上陸、半月で測量終了。5月23日に山川港に戻った。その後、内陸部を小倉まで北上し、博多、佐賀、島原半島などを測量し、今回の測量で2度目の越年を佐世保で迎えた。1813年(68歳)の新年、忠敬は「七十に近き春にぞあひの浦
九十九島をいきの松原」(69歳の春を相浦で迎えたが、さらに99歳まで生きて測量を続けたいものだ)と詠んだ。忠敬は九十九島、平戸、壱岐島を経て対馬に上陸し、5月21日に測量を終えた。続く五島列島では忠敬が本隊を率い、副隊長の坂部貞兵衛が坂部隊を率いて、東西の海岸を南下していった。
ここで予想もしなかった悲劇が忠敬を襲う。万全の信頼を寄せていた坂部が6月下旬にチフスに冒され、急速に容体が悪化して7月15日に息を引き取ったのだ。翌日、忠敬は両隊を集めて葬儀をおこなった。忠敬は深く落ち込み「鳥が翼を取られたようだ」と打ちのめされた。
8月15日から長崎半島を一周し、小倉より帰途につく。姫路にて3度目の越年。1814年、京都から長野に向かい、中山道を通って江戸に戻ったのは実に913日間ぶりとなる5月22日。過去最長の長期測量となり、これが最後の遠征となった。郷土では忠敬の長男景保が病死していた。
九州の測量データから地図を作成していたある日、蝦夷探検で間宮海峡を発見した間宮林蔵が訪ねてきた。忠敬は1週間かけて測量技術を林蔵に伝授した。
●第九次測量(1815年)〜伊豆諸島
これまで遠隔地の屋久島や対馬、佐渡島などは測量したが、江戸に近い三宅島など伊豆諸島は未測量だった。70歳という高齢の忠敬は、病没した坂部貞兵衛の代わりに支隊長となった永井甚左衛門に測量を託し、一行は文化12年(1815年)4月27日に江戸を出発した。永井らは三宅島、八丈島、新島、大島などを一年かけて測量し、翌年4月12日に江戸へ戻った。
●第十次測量(1815年、1816年)〜江戸
文化12年(1815年)2月3日、各街道から日本橋までの間を測量するため、第九次測量と並行して江戸府内を測る第十次測量を実施した。これは半月ほどで片付き2月19日に帰宅。翌1816年、幕命により8月8日から10月23日まで江戸府内の地図作りにたずさわった。これが最後の測量となる。時に忠敬71歳。17年かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことに!
こうして1800年の蝦夷地測量から17年がかりで集めた全国の測量データを用いて、前代未聞の全日本地図の作成作業が始まった。1817年(72歳)、かつて忠敬が測量を果たせなかった蝦夷地北西部の測量データを間宮林蔵が持って現れた。あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだ。地球は球面ゆえ、平面に移す場合の数値の誤差を修正する計算に入った。だが、この局面で忠敬は持病の慢性気管支炎が悪化し、急性肺炎(老人性肺炎)に冒されてしまう。
病床で門弟の質問に返事を書くなどしたが、文政元年(1818年)4月13日、弟子に見守られながら73歳で世を去った。高橋景保や弟子たちは“この地図は伊能忠敬が作ったもの”と世間に伝える為に、その死を伏せて地図の完成を目指した。
忠敬の死から3年後の1821年7月10日。江戸城大広間で幕府上層部が見守る中、景保や忠敬の孫・忠誨(ただのり/15歳)、弟子たちの手で日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。3万6000分の1の大図214枚、21万6000分の1の中図8枚、43万2000分の1の小図3枚という、途方もない規模のものだった。
地図は幕府に献上され、紅葉山文庫に秘蔵された。翌々月の9月4日、忠敬の喪が発せられる。祖父の功績により、忠誨は五人扶持と85坪の江戸屋敷が与えられ、帯刀を許されたが、1827年に21歳で病没し忠敬直系の血筋は途絶えた。 忠敬の死から43年後の1861年、イギリス測量船アクテオン号が幕府に強要して日本沿岸の測量を始めた時、幕府役人が持っていた伊能図の一部を船長が見て仰天し、“この地図は西洋の器具や技術を使っていないにもかかわらず正確に描かれている。今さら測量する必要はない”と測量を中止してしまった。イギリス海軍は忠敬の地図を基に海図を完成させ、巻頭に「日本政府から提供された地図による」と書き記した。西洋の知識人は長く鎖国していた日本を未開の文明後進国だと決め付けていたが、世界水準の正確な地図を持っていることに驚き、見下すことを改めたという。
幕府に献上された伊能図の原本は、残念ながら1873年の皇居火災で大図、中図、小図すべて失われ、翌年に伊能家が明治政府に納めた写し(控え)も1923年の関東大震災で焼失した。ところが2001年にアメリカ議会図書館で大図214枚のうち207枚の写本が発見され、さらに国内の国立歴史民俗博物館などから大図3枚が見つかり、2004年には欠落分残り4枚の写し(1/2縮小版)が海上保安庁の海洋情報部で発見された。奇跡的に大図214枚の全容が明らかになり、2006年に大図全214枚を収録した「伊能大図総覧」が刊行された。
忠敬が弾き出した緯度1度の距離は、現在の値と比較して誤差が約1000分の1という驚異の正確さだ。これは忠敬が誤差を減らすために太陽や星の天体観測を徹底し、遠くの山を目印にして測量結果を確かめる方法や、その他様々な測定法を活用した成果だ。南中高度、日食、月食、木星の衛星食などの天体観測を、全測量日数3754日のうち1404日で実施している。多い日は1日で20個〜30個の星の南中を観測し、誤差の軽減に努めた。第三次測量からはメジャーの代わりに長さ一尺の鉄線を60本つないだ鉄鎖(縄のように伸び縮みしない)を使用し、これも忠敬の発案だった。 56歳の1800年から測量を始め、1816年まで17年間かけて日本全国を踏破した忠敬。その偉業と生涯が多くの人に知られたきっかけとなったのは忠敬の墓だ。忠敬は遺言にこう残した--「私が大事を成し遂げられたのは、高橋至時先生のお陰である。どうか先生のそばに葬ってもらいたい」。その願いは聞き届けられ、源空寺の高橋至時・景保父子の墓と並んで忠敬は眠っている。没後4年目(1822年)に建てられた墓石正面には隷書で「東河伊能先生」と刻まれ(東河は号)、左右及び背面の3面に忠敬の生涯が漢文で刻まれている。その文面には“忠敬は星や暦を好み、測量にはいつも喜びを顔に浮かべて出かけて行った”と彫られている。
つまり、この墓碑銘こそが人々が読んだ最初の伝記であり、その後の忠敬像のベースとなった。墓碑銘を書いたのは忠敬と親交があり、門下生3000人を誇る江戸後期の著名な儒学者佐藤一斎(1772-1859)。墓石建立時の一斎は忠敬が江戸で第二の人生を歩み始めた年齢と同じ50歳ゆえ、刻む文字にも思うところがあったのではないか。一斎は伊能家にあった私的な一族史『旌門金鏡類録(せいもんきんきょうるいろく)』などをを参考にしつつ、忠敬が西洋技術を学び知識が高まったことも記している(ちなみに一斎が育てた弟子に幕末に活躍する佐久間象山、横井小楠、渡辺崋山等がおり、孫娘は吉田茂の養母になっている)。
明治政府の元老院議長・日本赤十字創立者の佐野常民は、1882年に初めて忠敬をテーマにした講演「故伊能忠敬翁事蹟」を東京地学協会で行った。この時も墓碑銘をもとに生涯が紹介され、伊能図の完成度を讃えている。この講演は後の忠敬評に大きく影響を与えた。講演翌年(没後65年)に忠敬には「正四位」が贈られ、1889年、芝公園に遺功表が建てられた。10年後、文豪・幸田露伴が『少年読本』に忠敬伝を発表し、序文でこう讃えている「伊能翁の如く華麗ならずして摯実(しじつ)なる一生の経歴を具せる人は、最も国家民人に対して益を与ふるにも関せず、世間は之を尊重称讃すること余り深からざるが如し。されど世間は其実多くの伊能翁の如き人を有せざるべからず。これ予の敢(あへ)て再び伊能翁を伝ふる所以なり」。
1903年に最初の国定教科書が作られた際に、佐野常民の講演を元にした忠敬の生涯が国語教科書に載り、後に修身教科書に掲載された。これらはすべて、源空寺の墓石から始まったことである。
近年は井上ひさしが1977年に忠敬を主人公にした小説『四千万歩の男』を発表し、50歳の隠居後に大きな挑戦を始める「一身にして二生を得る」という生き方が注目された。没後180年の1998年に故郷佐原市(現香取市)に伊能忠敬記念館が開館した。測量開始200年にあたる2001年に忠敬の銅像が富岡八幡宮(江東区)に建立。忠敬は測量遠征に出る前に、必ず隊員と富岡八幡宮に参拝してから旅立っていた。10回に及んだ測量事業の出発地は常に当地であり、力強く一歩を踏み出す姿の忠敬像となった。2010年、伊能図や使用した測量器具、関係文書など2345点が、「伊能忠敬関係資料」の名称で国宝に指定された。
人生50年と言われていたこの時代、隠居後は盆栽を育てたり孫と遊んだり、のんびり余生を送るものだけど、50歳から“勉強の為に”江戸に向かう知識欲、知的好奇心の大きさにオドロキ!
忠敬が50歳で高橋至時に弟子入りしたとき、至時はまだ31歳だった。忠敬は家業を通して、長年人を使う立場にあった男。時代はメンツを何より重んじる封建社会だ。普通の男なら、20歳も年下の若造に頭を下げて入門を請うことに抵抗があるだろう。しかし忠敬は違った。燃え盛る向学心の前では、そんなプライドなど取るに足らないことだったんだ!
「地球の大きさを知りたい」、このとてつもなく巨大な好奇心を満たす為に、測量を始めることになった忠敬。当時の平均寿命を考えると、50代後半から4万kmを踏破したなんて信じられない。第一、200年前の海岸線など、道なき道に等しいものだ。コンビニがある今だって徒歩で一周なんて考えられない。しかも、忠敬が求めた緯度1度の距離は、現在の値と比較しても誤差が約1000分の1という正確さ。忠敬が残してくれたのは地図だけじゃない。彼は人間の底知れぬ可能性を後世の僕たちに見せつけてくれた!本当に有難う、推歩先生!!
※2001年公開の映画『伊能忠敬-子午線の夢』(小野田嘉幹監督、加藤剛主演)はDVDになっていな〜い!これを書くために観たかったのに視聴不可能。東映さん、ソフト化お願いしますーッ!
※体格は着物の寸法から身長160cm前後、体重55kg程度と推定。
※伊能図を仕上げた高橋景保は縮小図を持っていた。シーボルトは“世界地図と交換したい”と働きかけ、その写しを国外に持ち出した。この流出事件で景保は捕らえられ、失意のうちに獄死した--「私は罪を認める、罰も受けるが、この世界地図は日本の為になる」(高橋景保)
※幕府に対して北方警備のための出兵の正確な人数を書いた手紙や、ロシア海軍軍人ゴローニンの尋問の様子を記した手紙を送っており、測量だけを行っていた訳ではないようだ。
※故郷佐原の観福寺(千葉県香取市)にも遺髪をおさめた参り墓がある。
※墓碑銘全文(フォントにない字は置き換え。5カ所不明)
〔左側面〕
東河伊能君墓銘并叙 江都 一斎佐藤担爲文
君諱忠敬字子齊伊能氏號東河稱三郎右衛門晩稱勘解由北総香取郡佐
原村人本姓神保氏南総武射郡小堤村神保貞恒之第三子出冒伊能氏伊
能氏世爲閭右族其先出於大和高市郡西田郷大同中有諱景能者知北総
香取郡大須賀荘居伊能村因以氏焉子孫蝉聯占其地至永禄中有諱景久
者始徒佐原天正中爲居民開●塵貿易實君九世祖也高祖諱景利曾祖諱
昌雄祖諱景慶考諱長由長由無子其配神保氏君之從祖姑也因●君爲嗣
長由不幸●歿産頗荒君既來嗣慨然以幹蟲爲志听夕黽勉務検禁奢靡
家衆百口以躬率先之天明三年關東大饑君爲發私儲賑貸郷里施及旁近
村落多所全活六年又饑救之如初地頭津田日州君並優賞之君好星暦至
寛政六年委家事於子景敬躬獨来江都而従事暦學當時所傳層法君疑其
〔背面〕
有所不合偏就暦家質之猶未釋然既而 官會有改層之擧召高橋東岡者
新自浪速来君執贅往見始聞西洋暦法理精数密宿疑乃解遂棄舊學學之
推歩測量之精東岡之門獨推君云寛政十二年閏四月 官命君測量北陸
道及蝦夷地方東南沿海以定地度明年正月 官賜君父子銀各十錠許佩
刀稱姓氏賞其於天明年内兩救窮民也享和元年三月又 命測量伊豆相
摸二総常陸陸奥沿海六月又 命測量出羽三越佐渡能登駿河遠江三河
尾張沿海至文化紀元集地方各圖爲一大圖進呈其九月 官賞賜廩米擢
爲小普請組属天文方既而又 命測量山陽山陰西海南海四道壹岐対馬
二島官道及沿海十二年又 命測量伊豆七島及箱根湖既竣事測量江都
府内十四年四月府内圖成進呈自蝦夷測量之初至此閲十有八年五畿七
道無地不渉●陬僻壌盡測量而圖之最後有 命集成寓内沿海輿地全圖
〔右側面〕
及度数譜行程記至文政元年齢七十有四罹病其四月十三日劇殆不起至
四年七月輿地全圖等成進呈以其九月四日歿 官追賞其功賜廩米宅地
於孫忠誨以旌之君為人真率不修邊幅精力絶人毎測量 命下轍喜見顔
色不日而發乃躬歴険阻凌海濤奔走数十百里風雨寒暑未嘗少沮喪何其
氣之邁而事之勤也哉所著有國郡書夜時刻考対数表紀源術並用法割圓
入線表紀源法地球測遠術問答凡若干巻皆藏於家君先配長由之女繼配
桑原氏皆先歿得三男二女昆季並殤仲子景敬嗣亦先歿孫忠誨嗣君之葬
在城北淺草源空寺東岡君之塋域從遺嘱也忠誨以状来請余銘乃畧叙之
爲銘日源深以遠流長以?善積之厚慶則有?叩天之?極坤之輿瘴烟毒
霧不能爲瘉祈寒暑雨不能爲痛乃如之人能有幾興貞a可●跡則不(渝?)
文政五年壬午嘉平月下澣淡海關研書 孝孫忠誨立
伊能忠敬e史料館
主な参考文献:NHK「その時歴史が動いた」、エンカルタ総合大百科、世界人物事典(旺文社)、ウィキペディアほか。 |
千葉佐原の諏訪神社は伊能家の氏神 | 測量中の忠敬像が1919年に建てられた | 小型羅針盤を見ながら記録をとる忠敬 |
佐原の「伊能忠敬旧宅」。小野川沿い | 東日本大震災の翌年ゆえ、屋根にブルーシート | 中の様子を覗くことができた。ここに暮らしていた |
奥に見えるのが「伊能忠敬記念館」。旧宅の対岸 にある。かなり資料が充実した記念館だった! |
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