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1994 ダ・ヴィンチと並ぶ、人類の限界を超えた究極生物! |
「ピエタ」はキリストの亡骸を抱え嘆き悲しむ 聖母マリアの姿。作者が署名を刻んだ唯一 のもので、なんとまだ24歳の頃の作品だッ! ※キリストの右脇の肌のたわみがスゴイ |
ダビデ像は高さ4.3m!4年 の歳月をかけて彫り上げた |
『モーセ』 2本の角が生えてるのは聖書のラテン語訳の 誤訳(光を放つ→角が生える)を彼が信じた為 |
『最後の審判』 中央のキリストを挟んで左側が天へ昇天 する人々、右側は地獄へ落ちていく人々 |
『天地創造』 旧約聖書『創世記』から「光と闇の分離」「アダムの創造」「イブの創造」 「原罪と楽園追放」「大洪水」など9場面を、4年がかりで一人で描いた |
「アダムの創造」 |
2004 再巡礼 |
2004 上方に絵画 |
親友の建築家ジョルジョ・ヴァザーリが1570年に デザイン。3人は彫刻、絵画、建築を象徴している |
「最大の危険は、目標が高すぎて、達成出来ないことではない。目標が低すぎて、その低い目標を、達成してしまうことだ」(ミケランジェロ)
美術史上、最も偉大な芸術家の一人。ミケランジェロは盛期ルネサンスの頂点を築いた彫刻家、画家、建築家、詩人であり、そのどれもが傑作ぞろいというスーパー人類。人々は彼を「神のごときミケランジェロ」と呼んだ。フィレンツェ近郊のカプレーセ村出身。「ミケランジェロ」の名は天使長ガブリエル、天使長ウリエル、天使長ラファエルらを束ねる大天使長ミカエル(Michael)と天使(angelo)を併せたもの。5人兄弟の次男で父はフィレンツェの役人。早くから芸術家を夢見ていた為、13歳の時に父がフィレンツェの画家ドメニコ・ギルランダイオ(1449-94)に入門させてくれた。同年、すぐに画才を発揮し、マルティン・ショーンガウアーの銅版画を模写・着色した『聖アントニウスの誘惑』を完成させる。13歳とは思えぬ実力に兄弟子たちは仰天。ミケランジェロはフレスコ画の名手であった師から1年ほどで学び尽くした。1489年(14歳)、芸術家保護で著名な大富豪メディチ家の当主“豪華王”ロレンツォから才能を見出され、メディチ家の“彫刻家学校”で修業することを認められた。ロレンツォ邸で暮らすことになり、この生活は1492年(17歳)にロレンツォが他界するまで2年続き、メディチ家が収集した古代彫刻の逸品に触れることができた。また、後にローマ教皇レオ10世(ロレンツォ次男)やクレメンス7世(ロレンツォ甥)になるメディチ家の若者たちと親交を結ぶ機会に恵まれた。 1494年(19歳)、フランスのシャルル8世がイタリアに侵攻すると、メディチ家はフランスに接近しすぎたことでフィレンツェ市民の反感を買い、一時的に街から追放される。ミケランジェロはメディチ家と交流があったことから暴徒の襲撃を恐れ、フィレンツェを去ってボローニャで作品を制作した。この頃、ミケランジェロは人体解剖を体験し、これによって骨格や筋肉の構造や働きを科学的に理解し、以降の彫刻・絵画に大いに生かされていく。
1496年(21歳)、ミケランジェロの『眠れるキューピット』を“古代彫刻”と信じ込んで購入した枢機卿が、ミケランジェロの腕に惚れ込み、彼をローマに招いた。初めてローマの地を踏んだミケランジェロは、発掘されたばかりの古代彫刻の調査や研究に携わった。23歳からは、生涯で署名を入れた唯一の作品、傑作『ピエタ』の制作を開始し、翌年に完成する。十字架から降ろされたキリストの亡骸を抱える若きマリアの彫像は、ローマの人々の心に深く響き、24歳のミケランジェロの名声は瞬く間に広がった(500年以上経った現在もサン・ピエトロ大聖堂で来訪者に感動を与え続けている)。
翌年、フィレンツェに“凱旋”したミケランジェロは、26歳から30歳まで4年の歳月をかけて、野心的な大作である4.3mもの大理石像『ダビデ』(1501-05)に挑む。古代イスラエル王国の王ダビデは青年時代に石投げで巨人ゴリアテを打ち倒した。ミケランジェロは左肩に投石器を乗せて今まさにゴリアテを討ち果たさんと遠方を睨み付ける姿を彫り上げる。ミケランジェロがこの大作に挑む際、習作を作らずいきなりノミで刻み始めたことから、驚いた周囲の人々が「なぜそれほど急ぐのか」と尋ねると、彼は「石の中に埋もれている人が早く解放してくれ、早く自由にしてくれと、私に話しかけているのだ」と答えたという。旧約聖書の英雄を燃え上がる内面の炎まで表現したこの作品を、人々は「古代ギリシャ・ローマ彫刻を超越した」と絶賛し、市庁舎の前にフィレンツェのシンボルとして設置した(アトリエから4日がかりで運搬!)。
※フィレンツェ市庁舎前で風雨にさらされていた『ダビデ』は、完成から373年が経った1873年にアカデミア美術館に移され、レプリカが代わりに置かれた。
ミケランジェロは『ダビデ』制作中の1503年に壁画『カッシーナの戦い』の注文を受けた。フィレンツェ市庁舎会議室のための大壁画であり、真向かいではあのレオナルド・ダ・ヴィンチ((1452-1519)が『アンギアーリの戦い』に取り組んでいた。ミケランジェロは23歳も年上のレオナルド(当時51歳)のことを尊敬する一方で、28歳の若者らしく画家としての力量を巨匠に見せつけようとした。残念ながら、この世紀の対決は互いの多忙さから共にカルトン(下描き)より先に進まなかった。
1505年(30歳)、ミケランジェロは空前絶後の規模となった天井画や、教皇ユリウス2世の墓の制作のためローマに呼び戻される。当初、ミケランジェロは天井画の制作に乗り気ではなく、この仕事を辞退していたが、同時期に8歳年下のラファエロ(1483-1520/当時25歳)がヴァチカン宮殿に見事な壁画を完成しつつあり、1508年(33歳)、新たな若い才能への対抗心もあって絵筆を取る決心をした。最初は5人の助手を使って制作していたが、完全主義者で短気なミケランジェロは助手を追い出し、ひとりで土を練り、壁を塗り、絵筆を握り続けた。
ミケランジェロは完成を急かすユリウス2世とぶつかり合いながら、1512年(37歳)まで4年をかけて、礼拝堂に組まれた高さ約20mの足場で“立ったまま海老反り”になり、上を向いて奥行き約40m、幅約14mの絵画を描ききった。それらは旧約聖書「創世記」に記された「光と闇の分離」「イブの創造」「原罪と楽園追放」「大洪水」などの9場面からなり、中でも神がアダムに指先から生命をふきこんでいる「アダムの創造」は劇的なものとなった。登場する人間の数は400人に達し、それらすべての人物1人1人に個性があった。天才と呼ばれたラファエロは、ミケランジェロの天井画に感動し、人物の描き方が彫刻的でダイナミックなものに変わった。
システィナ礼拝堂の天井画が完成した翌年にユリウス2世は他界。完成を急かしていたのは死期を感じ取っていたからか。ミケランジェロはユリウス2世の墓のためにルネサンス彫刻の頂点のひとつ、傑作『モーセ』(1515)を彫り上げた。右腕に十戒の石板を抱え、遠くを見つめている族長。モーセの頭からは2本の角が生えており、これはラテン語版聖書の“誤訳”(光を放つ→角が生える)をミケランジェロが信じたためだ。
※現在『モーセ』はローマのサン・ピエトロ・イン・ビンコリ聖堂に安置。同じくユリウス2世廟のために造られた『瀕死の奴隷』はルーブルが所蔵。
ミケランジェロは40代半ばから本格的に建築家としての活動を開始する。図書館や教会を設計し、1527年(52歳)に神聖ローマ帝国皇帝カール5世の軍がローマを残虐に略奪した際は、共和制支持者としてフィレンツェ防衛のための城塞の建設を監督した(メディチ家は再び追放され共和国になっていた)。だが2年後、ミケランジェロは反逆者とされることを恐れ、フィレンツェを捨てヴェネチアに逃れる。これは彼の中で恥の感情となった。
戦後、10年以上前から取り組んでいたサン・ロレンツォ教会のメディチ家廟墓の制作を続けるためフィレンツェに戻り、ロレンツォ・デ・メディチとジュリアーノ・デ・メディチの墓を制作した。内省的な性格であったロレンツォの座像の下には「朝」「夕」、外交的なジュリアーノの座像には「昼」「夜」を象徴する裸体像を設置し、ミケランジェロはこの四体について次の四行詩を書いた「われ、石に眠るこそ、楽しみなり/破壊、恥辱の多き世に/見ず聞かざるは、幸せなり/されば目覚ますな、ひそかに語れ」。
1534年(59歳)、メディチ家が専制化したことを嫌いローマに移り住んだミケランジェロは他界するまでフィレンツェには戻らなかった。
1536年(61歳)、ミケランジェロは24年前に天井画を完成させたシスティナ礼拝堂にて、今度は祭壇後方の壁にルネサンス期最大となるフレスコ画『最後の審判』(タテ13.7m×ヨコ12.2m)を描き始め、5年を費やして完成させた。中央に右手を掲げて審判を行うキリストを配置し、その左側には祝福され天国に昇る人々を、右側には罰せられダンテ『神曲』の地獄に墜ちる人々を描いた。ミケランジェロはこの作品に自画像とされる、異形の“人間の皮”を「地獄側」に描き込んだ。フィレンツェ防衛を任されていながらヴェネチアへ逃げた自分自身を糾弾し、抜け殻になった自画像を描いたと言われる。以降、ミケランジェロの創作エネルギーは建築に向かっていく。
楕円形に構成したカンピドリオ広場にローマ皇帝マルクス・アウレリウスのブロンズ騎馬像を置き、周囲の建築物を設計した。そして1546年(71歳)にブラマンテが設計したサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命され、ドームの最終的な形を決定した。このドーム様式はワシントンの連邦議会議事堂をはじめ、後世の多くのドームのモデルとなった。
ミケランジェロは17歳のときにケンカで鼻が曲がってしまい、容姿に対するコンプレックスが気難しく頑固な性格の大きな要因になったと友人のジョルジョ・ヴァザーリは記している。同性愛者として女性にあまり興味がなかったとされているが、60歳で貴族未亡人ヴィットリア・コロンナと出会ってからは、彼女に多くのソネット(詩)を捧げ、彼女をマリアのモデルにして「最後の審判」を描いた。
1564年、88歳のミケランジェロが死を前に呟いた言葉は「私が残念に思うのは、やっと何でも上手く表現出来そうになったなぁ、と思うときに死なねばならぬことだ」。遺作となった『ロンダニーニのピエタ』を死の6日前まで彫り続けた。
7人のローマ教皇に仕えたミケランジェロは、引き受けた仕事のために後半生の大半をローマで過ごしたが、心の奥でフィレンツェに愛着を抱き続けていた。遺言で「フィレンツェに葬って欲しい」と希望し、フィレンツェでは盛大な葬儀が行われた。現在、ガリレイやマキャベリの墓があるサンタ・クローチェ教会に眠っている。
僕らは日々の生活の中で、「人間の一生なんて短い、出来ることなどしれている」、そんな言葉を聞くことがある。でも、僕はシスティナ礼拝堂の天井画や『最後の審判』の前に初めて立ったとき、“人間はたった一人でこんなことが出来るのか!4年でここまで描けるものなのか!”と、人間の可能性の極限を見た思いがした。そしてサン・ピエトロ大聖堂の『ピエタ』の美しさに、キリスト教徒ではなくても涙腺が熱くなった。無実で処刑されたキリストと、死んだ子を抱く親の気持ち。文化や言葉を超えて伝わる悲しみ。これほど精神的な深みをたたえた作品を24歳の青年が彫り上げたことに驚愕すると共に、石ゆえの堅固さから500年前の当時の姿のまま今に残り、僕らがルネサンス時代の人々と時間を超越して感動を共有している心持ちがして胸が熱くなった。
「生命ある像が、荒々しく硬い石から余分な物を取り除くことによって得られ、石が減るにしたがって像が大きくなるように、肉体という余分なものは、その粗野でむき出しの硬い皮の下に震える魂に溢れた良き作品を宿している」(ミケランジェロ) ※ミケランジェロはシスティナ礼拝堂の天井画を描きながら、気持ちは彫刻に向かっていた。彼いわく「辞めたい。私は彫刻家であり画家ではないからです。だから私は時間を無駄にしています。神様、お助け下さい」。そう言いつつ、あの大傑作を仕上げるのだから凄すぎる。
※『ピエタ』の聖母マリアが“若すぎる”と批判を受けたことに対して、ミケランジェロいわく「貞淑な女性は不貞な女性よりもずっと長く若さを保てるのをご存知か」。
※ミケランジェロもユリウス2世も激情家であったことからしばしば対立し、ローマを立ち去ったミケランジェロが連れ戻された際、ミケランジェロは抗議の意味で自ら首に縄を巻いて謁見にのぞんだ。
※ミケランジェロが制作した青銅製のユリウス2世の座像は完成から3年が経った1511年に怒れる市民たちに破壊された。
※完成当時の『最後の審判』は全員が裸体で描かれた。しかし、風紀的な問題から約10年後に別の画家が下半身に布を描いた。この画家は「腰布描き」と人々から揶揄された。
※ミケランジェロは存命中に伝記が出版された初めての西洋美術家となった。
※「ミケランジェロのような人は、いまだかつて地上に存在したことがなかった。彼は、絵画・彫刻・建築・詩のすべてを把握し、そのすべてに、激しい理想主義と、たくましいエネルギーを叩き込んだ。彼の芸術は、後に続く幾世代もの芸術家たちを支配し、虜にした。彼の強烈な個性を反映した作品の1つ1つが、見る人の心を貫き、ねじ伏せるような力を発揮するのだ」(ロマン・ロラン)
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【ミケランジェロの詩】(高田博厚訳) ●花冠と腰帯 ※好きな女性のアクセサリーの気持を歌う
何という花の歓び方。楽しげにもつれあって/金色の女の髪につけた花冠。/互いに前へ押し重なり/ まるでわれ先にと彼女の額に接吻したいよう。/衣裳は彼女の胸を包み、下の方でひろがって/ひと日ひねもす満足している。/ その金色の飾りレースは余念なく/彼女の頬やのどに触っている。/なかで一番可愛いのは、あの嬉しげなリボンの紐/ 先に付けた鍍金の飾り。一寸むつかったように/締められた胸に衝ったり、触れてみたりする。/ そして腰を結んだ帯は、こう言っているよう/――わたしはしょっちゅう、ここを引き締めていたいの!/ ――おお、そんならわたしの腕はどうしたらいいんだろう? ●システィナ礼拝堂天井画 ※天井画を4年間も描き続ける苦しみを嘆く
わたしはこの困厄の中でもう喉を害(いた)めてしまった。/まるでロンバルディアやあの辺りの澱んだ水で猫がやられるように。/ そこで腹は胸の下へぐっと引きつられ、/髯(ひげ)は天を向き、うなじは肩にくっついている。/わたしはまるでアルピア(怪鳥)のようだ。/ そして、顔の上にある筆が滴を落して/顔を彩られた床模様にするのだ/腰は腹へめり込んで、/臀(でん)で体の平均をとり、/ 目前(めさき)めくらで足を空に動かす。/皮膚は前に引き延び、身を後に屈めるとまた皺よる。/ わたしはアッシリアのアーチみたいにふんぞり返る。/こんなわけでわたしの思考は/曲がりくねり汚れて頭から湧き出る。/ 曲がった火縄銃を撃っても駄目なように。/わたしの死せる絵とわたしの栄誉を、/ジョヴァンニよ、今守護(まも)ってくれ。/ この場所は悪いし、わたしは絵描きでもないのだから。 |
国立西洋美術館(上野)にそびえる ロダンの最高傑作『地獄の門』。 高さ5.4m、幅3.9m、重さは7トン! |
地獄に転落していく無数の人々。「考える人」が地獄の中を 覗き込み苦悩している(中央)。戦慄の大作だ。この「地獄の 門」はパリや東京のものを含めて、世界に7つ鋳造されている |
赤ちゃんまで地獄に いるのが衝撃的。 しかも複数… |
神の手を持つ男! 極端に近視だったという |
写真右端の階段に座っているのが、閉館日 なのに入れてくれた優しい守衛さん! |
ロダン美術館の「考える人」の台座の下が彼の墓! ※知り合いの石材屋さんいわく「“考える人”の下という ことは“地獄”にいるってこと?」。確かに『地獄の門』的 にはそうなる。これはロダンの意図なのだろうか…!? |
「芸術家である前に人間であれ」(ロダン)。豊かな生命力と、力強い精神性を秘めた人物彫刻を多数生み出した近代彫刻の父。ミケランジェロ以来の最大の彫刻家で、外面をモデルに似せるのではなく、モデルの内面を形にしようとした。従来の彫刻の様に神話や聖書の一場面を再現するだけでなく、そこに身を置く人間の心の声を表現した。 ロダンは1840年にパリで生まれた。父は警視庁勤めの下級事務員。10歳の時に絵を描くことが好きになり、14歳から17歳まで工芸学校に通った。この3年間で粘土を握る楽しさに開眼する。その後、美術の専門教育を受けたくて国立美術学校エコール・デ・ボザール入学を目指したが3度にわたって失敗。入学を断念し、建築装飾の工房で職人となり独学を続けた。1862年(22歳)、最大の理解者だった姉マリアが修道院で病死(自殺とも)。姉が修道女になったのは酷い失恋を体験したからで、相手の男性はロダンが紹介した画家であったことから彼は自分を責めた。そしてロダンも俗世を捨て修道院に入ったが、院長から芸術家として生きるよう説得を受け翌年に還俗する。 1864年(24歳)、生涯の伴侶となる裁縫職人ローズ(20歳)と出会い長男が誕生。同年、サロン(美術展)に『鼻のつぶれた男』を出品するが落選。以降13年間、世に出ることもなく黙々と作品を造り続けた。1870年(30歳)、フランスとプロシアの間で普仏戦争が勃発し、建築装飾の仕事が激減したことから、ロダンは家族を養う為にベルギーで仕事を探す(7年間滞在)。31歳、ベルギーの彫刻家カリエ=ベルーズの助手となってブリュッセル証券取引所の建築装飾を制作。ロダンは生活を切り詰めながら貯金し、1875年(35歳)、念願のイタリア旅行(フィレンツェ&ローマ)を行った。そこでルネサンス時代の彫刻家ドナテロやミケランジェロの作品と出会い、強い存在感を持つ人体表現に衝撃を受ける。「アカデミズムの呪縛は、ミケランジェロの作品を見た時に消え失せた」(ロダン)。 1877年(37歳)、サロンに男性像『青銅時代』(初期題名“自然に目醒めていく男”)を出品して初めて美術界の注目を集めるが、等身大で生き写しのようなリアリティがあったことから「生身の人間から直接石膏の型をとったのでは」とあらぬ中傷を受け、サロンでも落選した。翌々年、怒ったロダンは人間よりずっと大きな彫刻を造って疑う者をねじ伏せ、誤解が解けたことでフランス全土に名声が広まり、『青銅時代』も制作3年後にサロン入選を果たした。 1880年(40歳)、聖人をあくまでも一人の人間として造型した『洗礼者ヨハネ』によってロダンの名声は益々高まる。同年、政府から依頼を受けて国立装飾美術館のブロンズ門扉『地獄の門』の制作をスタート。この門はダンテ「神曲」の「地獄編」をモチーフにしており、制作期間が30数年に及ぶライフワークとなった。高さ5mを超える大作であり、何度も構想を練り直して作業は遅れた。この生みの苦しみを味わっている時にロダン(43歳)の心を捉えたのが、19歳の美しい女弟子カミーユ・クローデル(1864-1943)。カミーユは才気に溢れ、高い彫刻技術を持っており、ロダンは彼女にのめり込む。だが、内妻ローズと別れることは出来ず、ドロドロの三角関係が15年も続くことになる。カミーユは20代後半にロダンの子を中絶するなど辛い経験をするが、最終的にロダンはローズを選んだことから、彼女は精神のバランスを崩し発狂してしまう。 1886年(46歳)、英仏百年戦争でカレー市を救った6人の彫像『カレーの市民』を制作。これは自己犠牲を行った歴史上の人物の内面(苦悩する英雄)を巧みに表現し、人々を圧倒するブロンズ群像となった。 『青銅時代』 『カレーの市民』 1888年(48歳)、装飾美術館の建設が立ち消え『地獄の門』の買い手はいなくなったが、ロダンは自腹で制作を続行した。翌1889年(49歳)、『地獄の門』で扉の上部から地獄の情景を見下ろしている男を単独作品『詩人』として発表(初期題名は“詩想を練るダンテ”)。この像は後に鋳造した人物が『考える人』と名付けた。地獄の門にはカミーユや私生児の姿もあることから、“詩人”はロダン本人とも言われている。 ※『地獄の門』に彫刻されている主なもの。 「パオロとフランチェスカ」…政略結婚で嫁いだフランチェスカは夫ジョバンニの弟パオロと恋に落ちる。ジョバンニは逆上して2人を刺し、2人は不義を犯した罪で地獄を彷徨っている。 「ウゴリーノと息子たち」…中世のピサの貴族ウゴリーノは、大司教ルッジェーリの陰謀で、4人の子や孫たちと塔に幽閉される。ウゴリーノは餓死するが、先に死んだ4人の息子を食べたとされ、地獄に落とされる。 その他の彫刻は国立西洋美術館の“地獄の門”の解説に詳しい(注釈は管理人) →「タンパン(入口上部の区域)の中央に坐って墜ち行く人々を凝視する男は《考える人》であり、門の頂に立つ《三つの影》は《アダム》と密接な関係を持っている(注:同じアダム像を3体設置)。夕ンパンの右端に《立てるフォーネス》(注:女性の牧神)と《瞑想》、左手に《オルフェウスとマイナスたち》のマイナスたち(注:マイナスは酒神バッカス崇拝者)。右扉の下部に《フギット・アモール(去りゆく愛)》、左扉中央に《ネレイスたち》(注:セイレーン)、左の付け柱に浮彫の《美しかりオーミエール》(注:元美女の老婆)、その柱の上に《うちひしがれたカリティード》(注:重い荷を負うカリュアイの女奴隷)、右の付け柱の上部に《私は美しい》(注:ボードレール“悪の華”から着想)の浮彫があり、この二人の男女を離したものが《考える人》の左の《うずくまる女》と左扉の上部から身をのけぞらせる男である。この大モニュメントは、しかし結局実際には使用されず、ロダンの生前にブロンズに鋳造されることもなかった。1920年代になって漸(ようや)く鋳造が実現し、最近の鋳造を含め現在世界に七つのブロンズが存在する。当館のコレクションのブロンズは、松方幸次郎氏の注文による鋳造である。」 1897年(57歳)、肖像彫刻の傑作『バルザック像』を発表。1913年(73歳)、既に40代後半になっていたカミーユは家族によって精神病院に入れられた。その4年後の1917年。長く内縁の妻だったローズは73歳になり死期が迫る。ロダンは正式に彼女と結婚し、その16日後にローズは世を去った。そして9カ月後の11月17日、パリ近郊のムードンでロダンも後を追うように他界した。享年77。ロダン他界から26年が経った1943年、カミーユは身内に看取られることなく転院先の南仏の精神病院において78歳で死去した。 パリのロダン美術館や東京の国立西洋美術館には『地獄の門』などまとまったコレクションがある。『地獄の門』は未完に終わったとはいえ186もの人体で埋め尽くされた驚愕の力作。高さ5.4m、幅3.9m、重さは7トン!ロダンの死の21年後(1938年)に鋳造され世界に7つある。 【墓巡礼】 ロダンは1895年にアトリエ兼住居としてパリ郊外のムードンの小高い丘にネオ・ルイ13世様式の館「ヴィラ・デ・ブリヤン(輝く家)」を購入した。現在は住宅街だが当時はブドウ畑や自然に囲まれていた。1900年には多数の注文に応えるため、ここで50人の石工や鋳造工など助手が制作を手伝っていた。今もアトリエにはたくさんの石膏作品が並ぶ。 前述したように、ロダンは24歳のときに20歳の裁縫職人ローズと知り合い長男をもうけたが入籍せず、53年後、すっかり老いて73歳になったローズが肺炎を患い死期が迫ると、ロダンは正式に彼女と結婚し、その16日後にローズは世を去った。その9カ月後、ロダンも後を追うように77歳で他界した。2人は館の庭に埋葬され、真上には『考える人』が置かれた。 『考える人』(初期題名“詩想を練るダンテ”)はもともとロダンの巨大彫刻『地獄の門』の扉の上部に設置された詩人の像を大きくしたもの。ロダンは中世の詩人ダンテが『神曲』で描写した地獄の入口の門から着想を得て『地獄の門』を制作している。『神曲』に登場する門は、その頂に「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘文が刻まれているが、ロダンは銘文のかわりに詩人(ダンテもしくはロダン自身)、考える人を置いた。詩人は足下の地獄に墜ち行く人々(186人)を見つめ、その運命に思いをめぐらしている−−。 ロダンの墓の上に『考える人』が設置されている光景は、オリジナルの『考える人』の足下が地獄であることを考えると衝撃的だ。この像の設置がロダン本人の希望なのか周囲のアイデアなのか調べても分からなかった。だが前者であるなら、その動機の心当たりがある。ロダンはかつて美しい愛弟子カミーユ・クローデルを愛人としていた。ドロドロの三角関係は15年も続き、カミーユはロダンの子を中絶する辛い経験をした。こうした愛憎の果てに彼女は心を病み、ロダンが没する4年前に精神病院に入れられている。それゆえ、ロダンは懺悔の気持ちから『考える人』を置いた、というのは僕の考えすぎだろうか。ロダンの末期の言葉は「パリに残した若い方の妻に逢いたい」と伝えられている。 ロダンが晩年に暮らしたパリ郊外のムードンまでモンパルナス駅からフランス国鉄で3駅ほど。ムードン駅から東に約20分歩いた場所にあるという『ロダン美術館』に向かった。このロダン邸を改装した美術館は住宅街の中にあり、めちゃくちゃ探しまくった。ようやくたどり着くと、なぜか門が閉まっていた。 「お昼休みか?あ、看板だ…えーと、ゲゲッ!週の後半しか開いてないじゃん(この日は火曜日)!金・土・日の午後だけ!?NOーッ!」。僕は目の前が真っ暗に。絶望のなか、ダメ元でインターホンを何度か鳴らした。すると、インターホンの向こうから英語で「トゥデイ・クローズド、ソーリー・マダム」との声。“マダム!?なんでマダム!?”どうやら門の上に監視カメラがあり、小さなモニターを見て勘違いしてるようだ(確かにこの時はソバージュ頭だったけど…声で気づいて)。 とにかく、日本からここまで来て“ハイ、そうですか”と帰れるかっつーの!「ソーリー・インポッシブル」を繰り返す相手に、ひたすら「シル・ブ・プレ(お願い)」「トンブ!トンブ!(墓!墓!)」と10分近く連呼、“美術館が休館でも良いんです、中庭のロダンの墓を墓参したいだけなんです”と想いをぶつけた。やがて涙声に向こうが折れ「ワン・モメント」と言って守衛さんが出てきて下さった!奇跡!“考える人”の下に眠るロダン御大に謁見させてもらえたッ! ※ムードンのロダン美術館は、かつては4〜9月の金・土・日のみの開館だった。現在は通年の金・土・日。 ※ロダン美術館はパリ、ムードン、フィラデルフィア、東京にある。 ※ミケランジェロ生誕の365年後にロダンが生まれている。 ※オーストリアの詩人リルケ(1875-1921)は一時期ロダンの秘書を務めていた。 ※カミーユは心の病になって自作を大量に破壊したが、彫像や絵画が約90点現存している。死の8年後(1951)、弟ポールはパリのロダン美術館で姉の作品を展示した。 ※『考える人』は右肘を右膝ではなく左膝に置いている。そのため、体がよじれ緊張感が生まれている。 ※「ロダンは内部の炎だけで燃える炉である」(弟子ブールデル) ※「深く、激しく、真実を語りなさい。世の中の考えと対立しても感じたまま臆せずに」(ロダン) |
24歳のカミーユが制作した 師匠・ロダン像(1888) |
『ワルツ』(1895) カミーユ31歳。素晴らしい造形美 |
衝撃作『分別盛り』(1898、カミーユ34歳) カミーユはロダンの手を取ろうとするが、ロダンの内縁の 妻ローズがさらってしまう。ローズは“死神”の姿… |
カミーユは心の病にかかり、この病院で亡くなった。 病院名を見ると現在は総合病院のようだ ※Centre Psychotherapique Departemental de Montfavet |
病院の前の石碑。 3行目にカミーユ・クローデルとある |
アヴィニヨンの街中で見つけた カミーユのポスター |
ここにカミーユの墓石があるという噂を聞いた 手掛かりは海外サイトの1枚の画像のみ |
墓地マップに情報はなく片っ端から 墓を探した。すると10区の手前に… |
嗚呼、あれはもしや…もしや!! |
カミーユさん、あなたに会いたかった! | 墓碑は写真入り、少しオレンジ色の墓石 | 赤い花が似合います | 四方に言葉が刻まれる |
彫刻家。19歳の時にロダン(当時42歳)に弟子入り。ロダンには内妻ローズがいたが、美貌と才能を持ったカミーユに惹かれる。カミーユはロダンの愛人となり三角関係が15年続く。20代後半で妊娠するも出産を断念する。 最終的にロダンはローズを選び、カミーユは40代後半に統合失調症を発症。 南仏アヴィニヨン近郊モントヴェルク精神病院で生涯を過ごす。ロダンを憎み続け、身内に看取られることなく院内で人生を閉じた。享年78歳。自作の大半を破壊し、約90の彫像と絵画が残った。 モンファヴェ墓地の正門から入って右手、10区の手前を右に入った壁沿いに彼女の墓がある。土台の正面に「非人道的な施設に30年監禁されて亡くなった」と悲劇が刻まれている。 カミーユの墓の左側面に彫られていた彼女の言葉は 「Mon grand desir,mon ideal est de mettre dans les formes que je tire de la pate,une idee! L'idee ne me suffit pas;je veux I'habiller de pourpre et la couronner d'or」 自動翻訳に入れると 「私の大きな願い、私の理想は、生地から描いた形に、アイデアを入れることです アイデアだけでは物足りないので、紫の服を着て金の冠をつけたい」 う〜ん、フランス語に詳しい人に翻訳してもらいたい…。 〔追記〕帰国後、墓碑前面下部の言葉を自動翻訳にかけると「彼女の遺骨はこの墓地の納骨堂にある」と出てきた。えっ!?この翻訳が正しいとすると、僕は納骨堂に行くべきだったのでは!?でもネットを検索してもカミーユの納骨堂の写真を誰もアップしていない。どういうこと!? カミーユの生涯は1988年にフランス映画『カミーユ・クローデル』で描かれた。僕はイザベル・アジャーニの熱演に圧倒された。ちなみに『機動戦士Zガンダム』の主人公カミーユの名前は彼女から。つまり、あの悲劇的な結末は第1話から決まっていたということ? |
ガレは、なかなかのハンサム |
墓地の一番奥の壁沿いに眠っている | 晩年の傑作“ひとよ茸” | 好んで植物を描いた |
ガラス工芸家。19世紀末にブームとなったアールヌーボーの先駆者。少年時代から植物をこよなく愛していた彼は、「私は工芸家である前に植物学者だ」とし、地元の植物協会の会員となり、後に植物園の責任者となっている。 ガレの生きた時代は産業革命が進み、文明は機械化され、生活から自然が切り離されつつあった。「もはや人が木の下で眠らず、花の中で暮らさないのなら、逆に森を家の中に入れよう」--植物の美しさに自然の尊さを感じていた彼は、草花への感謝の意味を込めて、自らが制作する家具、ガラスの器、ランプなどのモチーフを植物とした。 白血病のために58歳で他界したガレは、死の2年前に傑作『ひとよ茸』を発表している。このキノコは“一夜茸”という名の通り、森の奥深くで夜のうちに傘を開いて胞子を放ち、夜明けには朽ちていく。たった一晩の短い命。ガレは傘が3段階に開いていく(成長する)様子を描くことで生命賛歌を形にした。さらに当時発明されたばかりの電球を使うことで文明と自然との融合を試みた。ロウソクの光と違って電気の光は燃え尽きることがない。そして、ガラスは朽ちることがない。ガレは自らの芸術によって、はかない一夜の命を永遠に変える奇跡を起こしたのだ。 |
“最後の仏師”超優しい公朝さん |
公朝さんが眠る京都・愛宕念仏寺 | 羅漢さんやシャガの花で埋め尽くされた階段を上っていくと… | 公朝さんが待ってマス! |
目の不自由な方でも触れることで慈悲が伝わるようにと、公朝さん が彫り上げた「ふれ愛観音」。触ることができる仏像は珍しい |
公朝さんは21年をかけ、この三十三間堂 の千体の観音のうち600体を修復したッ! |
昭和・平成と活躍し、その卓越した技術と膨大な仕事量から“最後の仏師”と言われた西村公朝は、1915年大阪高槻に生まれた。1935年(20歳)、現代彫刻に憧れ東京美術学校(東京芸大)に入学。1940年、彫刻科を卒業。中学で美術を半年教えた後、翌年に26歳で美術院国宝修理所へ就職。
そして、4年前(1937年)から始まっていた京都・三十三間堂の千体千手観音像の仏像修理(毎年50体を修理する大事業)に加わった矢先、1942年(27歳)、召集令状を受け取り中国へ出征する。 公朝は中国戦線で夜間行軍中、あまりの疲労の為に不思議な夢を見る。1人で銃を持って前進する自分の左右に無数の仏様が現れたのだ。その仏様をよく見ると、どれもが割れたり欠けたりしている痛々しい仏像だった。公朝は「私に直してほしいのか?ならば無事に日本へ帰してくれ」と声をかけた。果たして公朝は終戦まで大陸を転戦したが、自らが死ななかっただけでなく、1人の人間も殺さずに済んだという。 1945年(30歳)、帰国した公朝が三十三間堂に戻ると、修復作業は敗戦直後の混乱の中もずっと続いていた。「天命だ」こう感じた公朝は現代彫刻の道に進まず、仏師の道一本に進んでいく。1958年(43歳)、21年をかけてついに1000体すべての千手観音像の修理が完了。その内、公朝は600体の修理に携わった。三十三間堂での大仕事が終わった翌年、44歳で美術院国宝修理所の所長に就任する。1974年(59歳)には東京芸大教授に着任。 この間、公朝は仏師として活躍するかたわらで、37歳の時に得度して僧侶になっており、1955年には40歳で天台宗・愛宕念仏寺の住職に任命されている。 愛宕念仏寺は約1250年前に京都東山に建立された古刹だが、平安初期に鴨川の洪水で寺が流され、醍醐天皇の命を受けた天台僧・千観内供(せんかんないぐう)によって千年前に比叡山の末寺として再興された。その後、次第に寺運は傾き、公朝が赴任した時、愛宕念仏寺は京都一の荒れ寺と言われ、檀家もおらず境内は雑草が生い茂り荒廃しきっていた。本堂もかなり傷んでいたが、仏像たちの置かれている状況はもっと深刻だった。前住職は生活苦の為に次々と仏像を売り払い、本尊の千手観音は、腕を一本ずつバラ売りした挙句、42本中、残っていたのは僅かに4本のみだった。公朝は自分で足りなかった38本を彫り、数百年が経ったような退色した色を作ってこれに塗り、完璧に修復した。以後、全国各地の仏像を修理しながら、寺に戻っては少しずつ境内を整備していった。 「何とかして、現代を生きる人々に、もっと仏の教えを身近に感じてもらいたい」。長年こう思っていた公朝は、仏師の第一人者として「祈る気持ちさえあれば誰だって仏像を彫れるんだ」という確信から、そして寺の復興を祈願する思いも込めて、1981年(66歳)、一般参拝者に向かって「羅漢さんを彫りませんか」と呼びかけた。羅漢(らかん、正式には阿羅漢)とは釈迦の弟子となって仏教を広め伝えた僧侶のこと。釈迦が他界する時に立ち会った羅漢は500人と言われており、彼らは「五百羅漢」と呼ばれている。釈迦入滅の100年後に、教義が誤って伝えられていくのを防ぐ為に、700人の羅漢が大集会を開いて、釈迦の教え(言葉)を全員で再確認したとされている。公朝の呼びかけに全国から人が集まり、彼らは全く素人ながら公朝の指導を受けて石を刻み続け、彫り始めて10年後(1991年)、ついに願いは達成され1200羅漢が境内を埋め尽くした。時に公朝76歳。 ※これより前、1986年(71歳)に天台大仏師法印号を授かる。 1994年、最晩年の大仕事となる釈迦十代弟子の制作を開始。2003年、十代弟子の最後の1人を彫り上げた2ヵ月後に他界した。初めて三十三間堂でノミを握ってから62年。この間、公朝が修復した仏像は、広隆寺・弥勒菩薩(折れた指を復元)や平等院・阿弥陀如来など、実に1300体以上!仏教と仏像の素晴らしさを、時にはお寺から飛び出して、著作、講演、様々な媒体でやさしく説き続け、愛宕念仏寺を立派に復興させて旅立った。これら全ての根底にあるのは20代後半に戦場の夢で出会った、壊れた仏像たちとの約束。公朝は晩年になっても、口癖のように繰り返していた「あの仏像たちを思い出すと、約束を果たしたなんて到底言えない。見渡す限り何万とあったのだから」。 「現代の材料を仏像の修理に使うと、それが何十年、何百年たってどう変質するか分からないから、自分は“こくそ漆”など昔からのものを使う」(公朝) 「仏教には色々な宗派がありますが、どれも仏教の一部に過ぎないんです。それなのに各宗派の人は自分たちの教祖のことばかり話している。みんな、お釈迦さんのことを忘れている」(公朝)〜仏像修理の際には宗派など問題じゃない。釈迦は釈迦だ。そんな公朝の言葉だからこそ説得力がある。 ※公朝は絵もよくした。愛宕念仏寺の羅漢洞(集会所)には巨大な天井画があるほか、多数の仏画が拝観できる。 ●「ふれ愛観音」について 愛宕念仏寺の境内には1991年に76歳の公朝が制作した「ふれ愛観音」が安置されている。お寺の仏像は触ってはいけないのが普通だけど、この観音様は手で触れられることを喜んで下さる仏様だ。この仏像が誕生した経緯や後日談を最後に紹介したい。 公朝が亡くなった後、生涯を綴った追悼番組が放映された。僕はその中でとても懐かしい顔を見た。川島さんという全盲の女性だ(約15年前にドキュメンタリーで見て覚えていた)。当時27歳の彼女は美術館でロダンの彫刻に触れた時のことを「6歳で失明して以来、約20年間で初めての強烈な体験」と語り、「(ロダンの彫刻は)脈を打ってるのが分かる。このまま柔らかかったら人を直接触ってるみたい」と熱く話していた。作者の生命が彫刻から直接伝わって来る事に気付いた彼女が、ぜひ触ってみたかったもの…それが仏像だった。これまでお寺に御参りする事はあっても、仏像の形が全く想像できず、自分がどんなものを拝んでいるのか分からなかったからだ。しかし、大切な仏像を触らせてくれる寺など聞いたことがない。 この時、理解を示してくれたのが、仏師として誰よりも仏像を愛していた公朝だった。「仏師は観賞用に仏を彫るんじゃない。人々と共に在って初めて仏も生きる」そう言って川島さんを京都仁和寺に招待した。この時公朝が案内した仏像は、平安初期の国宝・阿弥陀如来!川島さんは阿弥陀の足、手、頬に触れ、1200年前の仏師の息づかいを聞いたという。仏師たちの「この仏で苦しむ人を一人でも救いたい」という祈りに触れた川島さんは、阿弥陀仏の両手をジッと握ったまま「安心する…なんだろう…とても身近な気がします」と照れるように語った。 川島さんは言う「私は触れる事で生きている。触れるという事、それは時に危険だったり、恐ろしいものであるかもしれない。でも、私はぶつかって行くしかない。触れる事が私にとって世界を確かめる術(すべ)なのだから」。 この川島さんとの出会いがきっかけとなって、公朝は「ふれ愛観音」を彫り上げた。 その川島さんが公朝の追悼番組に出ていた。15年ぶり。ブラウン管の中の少し歳をとった川島さんは、今度は国宝の阿弥陀仏ではなく、公朝が残していった「ふれ愛観音」を優しく撫でさすっていた。「先生(公朝)、ここにいらっしゃたんですね」。 川島さんは目を潤ませながらも、笑顔を作ってこう続けた「先生が彫られた、一つ一つのもの全ての中に、ずっと先生の命と心が宿っているから、亡くなった今も、こうして先生の存在を確かめることが出来て、私はとても嬉しいです」。 ※ふれ愛観音座像は2003年の時点で、京都清水寺や鎌倉長谷寺など、既に全国60カ所に安置されているとのこと。 |
平安時代を代表する傑作仏、癒しまくりの平等院・阿弥陀如来像。完成の4年後に定朝は他界した |
聖徳太子が創建した上品(じょうぼん)蓮台寺に眠る。 本堂の左手から墓地に入ってすぐのところ(2008) |
墓石の表記は「常朝」。これは 朝廷からの諡(おくり名)だ |
2年後。墓石の周囲の“緑化” が進んでいた(汗) (2010) |
廬山寺(ろさんじ)墓地の奥にも墓がある(2007) | 「元祖定朝法印」の墓 | 大佛師職 |
2026年に完成予定!(2014) | サグラダファミリア教会の地下礼拝堂 | ガウディはこの教会の胎内に抱かれて眠る |
「石の聖書」サグラダ・ファミリア教会!夜は昼間以上に神秘 的。訪れた際は、必ず昼夜両方の表情を見て欲しい(2000) |
地下礼拝堂最深部に眠るガウディ。 頭上で聖母子像が見守っている。 |
アントニオ・ガウディは1852年に北東スペイン、カタルニャ地方のレウスに生まれた。父は彫金師。母は子ども時代に亡くなり、兄や姉も学生時代に早逝している。10代の頃は経営学校で学んでいたが、タラゴナのローマ遺跡やポブレー修道院(共に世界遺産)に感動し、21歳の時にバルセロナ県立建築専門学校に入学した。在学中に発表した県議会堂中庭の設計図がコンペで特賞を受賞し、学校課題で市内の噴水や桟橋の設計を手がけた。 この頃から既にガウディのデザインは奇抜だったようで、卒業にあたって学長アリアス・ルジェンはこう語ったと言う。「私は建築士の称号を一人の天才に与えようとしているのか一人の狂人に与えようとしているのか分からない」。 卒業後、26歳の若さでバルセロナ市役所から市内の街灯の設計を依頼され、その後も着々と実績を積み重ねていった。手袋店ショーケースのデザインでガウディの才能に惚れ込んだ富豪エウセビオ・グエル(繊維会社経営)は、以降、没するまで40年もパトロンとして援助を惜しまなかった。 そして1883年、31歳でサグラダ・ファミリア大聖堂(聖家族贖罪教会)の建設主任に抜擢され、他界するまで43年間この任を務めることになる。(着工自体は既に前年の1882年に始まっておりガウディが設計を変えた) 1905年(53歳)、“アンデルセン童話のような建物”と形容されたアパート『カサ・バトロ』を設計。青タイルと色ガラスで出来た外壁は波状に削られ海を表している。あたかも貝殻とサンゴで出来ているようだ。鉄製のバルコニーは龍の頭蓋骨という造形。 翌1906年、ガウディ最後の住宅設計となるカサ・ミラを手掛ける。嵐の海をイメージしたアパートであり、最も野心的な仕事となった。外壁は波打つ曲線であり、屋根も同じく波のごとくうねり、バルコニーは海草がへばり付いたかのようなデザイン。屋上には奇怪な形の煙突や換気塔が林立している。約100部屋ある巨大アパートは全室の設計が異なっており、同じ間取りの部屋はひとつもない。窓も全て形が異なる、建物丸ごと美術作品という驚嘆の居住空間だ。 ガウディは生涯独身であったが、人生で3度恋に落ちている。これはすべて悲恋だった。1度目は既に婚約者がおり、2度目は神に仕える尼僧、3度目がこれまた婚約者持ちという具合に、不器用で恋愛が苦手であったのに、高いハードルの相手ばかりを好きになった。3度目に恋した女性とは地中海である約束をした。 「僕ら2人の思い出の、この地中海を表現した建築をたてる」 そのアパートが“カサ・ミラ”だった。ガウディはマリア像に見立てた彼女の像を屋上に置こうとしたが施主から許可が出ず、ローマ遺跡の彫刻を外壁に小さく刻んだ。 「私が結婚することは天命ではなかった」--後年、ガウディは弟子たちにこう語っている。 1914年(62歳)以降、宗教施設ではないアパートの設計などの依頼はすべて断り、サグラダ・ファミリアの建設に全精力を注ごうとした。だが、親族や友人の相次ぐ死によって仕事は停滞し、またバルセロナ市が財政危機に見舞われて、同時に進めていたコロニア・グエル教会堂の建設工事は未完のまま中止となった。1918年、追い打ちをかけるように長年のパトロンだったエウセビオ・グエルが死去する。 第一次世界大戦の後、スペイン経済は沈み込み、労働運動が激化すると共に、カタロニアでは独立を求める声が高まった。 バルセロナが属しているカタロニア地方は、中央のマドリードとは異なる独自の言語や文化を千年以上も育んでおり、人々は伝統を重視し「カタロニア魂」とも呼ぶべき民族意識を持っている。歴史上、カタロニア共和国は4度建国され、それが潰されると自治権の拡大を求めてきた。住民の独立心を封じるためカタロニア語は何度も禁じられた。 ガウディもカタルロニア解放運動に深い関心をよせ、老齢ながら主導者のひとりとなって活動した。 1923年(71歳)、独裁者プリモ・デ・リベーラが軍事クーデターを起こし、カタロニアの地方議会は解散させられ、言論統制が行われた。軍事独裁政権は地方自治運動を弾圧した。 1924年のある日、散歩中のガウディを警官が呼び止めた。警官はガウディのみすぼらしい服装や、足をリューマチで引きずる姿を見て浮浪者と勘違いした。警官のカスティリア語(首都マドリードで使われる言葉)に対しガウディはカタロニア語で返した。 “カスティリア語を話さなければ貴様を投獄する”と威圧する警官に、ガウディは譲ることなくカタロニア語で答え続けた。やがて相手がガウディであることを知った警官は“今回は見逃す"と告げる。 ところがガウディは「いいや、投獄してもらおう!」と最後までカタロニア語で続けた。結局、弟子たちが連れ戻しに来るまで4時間ほど投獄された。 サグラダ・ファミリアにスペイン国王が訪問したときもガウディは臆することなくカタロニア語で聖堂の説明をしたという。 自宅とサグラダ・ファミリアを移動する時間がもったいないと感じたガウディは、着のみ着のままの姿で聖堂の敷地の小屋で寝泊りし始める。訪れた客はあまりに質素な部屋に、貧しい画学生か彫刻家のねぐらと思ったという。 1926年、突然の不幸がガウディを襲った。ミサに向かう途中、大聖堂の近くで接近する路面電車に気づかずはねられてしまったのだ。当日は工事が忙しく、頭の中は建築の段取りで一杯だったのでは、と言われている。 倒れたガウディに駆け寄った通行人は、服装が小汚く古びていたため、誰一人それが巨匠ガウディだと気付かなかった。居合わせたタクシーは運ぶのを拒み、通りすがりの人々が近所の医者に運び込んだ。そこから更に、身許不明者として救急車で慈善病院に移され、意識不明のまま3日後に死亡した。享年73歳。遺体はサグラダ・ファミリアに埋葬された。遺言書は死の数年前に作られていた。自宅を売却して全額をサグラダ・ファミリアの建設費に当てること、建築学などの蔵書すべてを後世の若い建築家の為に図書館に寄贈することの2点が書かれていた。 ガウディが他界すると建設資金の不足から工事は完全に中断し、さらにスペイン内戦が勃発して人々はサグラダ・ファミリアどころではなくなってしまった。工事が再開されたのは独裁者フランコの死後、1979年になってからで、中断から53年も経過していた。ガウディの当初のプランにそって建築は再開された。 他界から62年後、1984年にグエル公園、カサ・ミラ、パラシオ・グエルのガウディ作品群がユネスコの世界遺産に登録された。2005年、建設途中ながらサグラダファミリアの「生誕のファサード」「地下聖堂」が追加登録された(その2カ所だけが、ガウディが生前に建造できた場所)。 30年ほど前の観光ガイドブックでは「完成まであと200年」とあったが、近年、建築工法を昔のやり方(自然石の積み重ね)から、鉄筋とセメントを使った工法に変えたこと、最新の3D構造解析技術、コンピュータ制御の加工機などの導入、入場料15ユーロ(約2千円)にもかかわらず連日大行列ができ、お陰で多くの作業員を雇うことができる点から、9代目設計責任者はガウディ没後100年にあたる「2026年」に完成予定と発表している。あと200年から、残り11年へ。この尋常ではない工期短縮のおかげで、多くの人が存命のうちに完成した姿を見ることが出来る。ちなみに最初に作った部分が崩れ始めており、その修復作業も平行して行われている。 「自然は常に開かれて、努めて読むのに適切な偉大な書物である」。サグラダ・ファミリアは非生物でありながら生きている。とにかく、石が尋常でないほど、なまめかしいのだ。真下から見つめていると、聖者の人体、植物、動物、貝殻が混沌として見る者に押し寄せてくる。教会の内側にも外側にも、動植物をモチーフとした装飾彫刻があふれている。ガウディは「美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない」と、自然の中にこそ究極の美の造形があると確信していた。「色彩とは、強烈で、豊饒で、なおかつ論理的でなければならない」とも。 ●サグラダ・ファミリアの尖塔(せんとう)は18本建てられる予定。内訳は以下の通り。 〔十二使徒を表す12本の塔。各々102〜107m〕 生誕の門(東、日が昇る側、キリスト誕生の祝福を表す)に4本(完成) 栄光の門(南側、キリストの昇天を表す)に4本 受難の門(西、日が沈む側、処刑の悲しみを表す)に4本(完成) 〔四人の福音書家を表す塔〕 4本、各130m。 〔マリアとキリストを表す塔〕 中央の2本。キリストは175m! このように18本のうち10本が未完成だが、内陣、身廊などはほぼ完成した。 サグラダ・ファミリアを訪れる人は、是非あらゆる角度から見て欲しい。1メートル移動するだけで違う建物に見えてくるはずだ。 ガウディの独創性は人間の想像力に限界がないことを教えてくれる。かつてゲーテは「建築とは氷結した音楽なり」「良い空間は、目を閉じて歩き回っていても、その良さを身体で感じることが出来る」と語った。ガウディの作品はその言葉を地で行くようなもの。サグラダ・ファミリアの前に立つと、聴こえないはずの様々な音色に包まれる。ガウディの原案ではトウモロコシ型の尖塔のうち12本を鐘楼にすることになっており、いつの日か12個の鐘がいっせいに鳴り響くはずである。 ※生前に描かれた設計図はスペイン内戦で焼失、模型も破片となった。建築に関わった職人の伝承や、大まかな外観のデッサンというわずかな資料を元に、各時代の建築家がガウディの構想を推測しながら工事が進められている。 ※20年以上前のテレビ番組で、サグラダ・ファミリアの建築に参加している唯一の日本人男性が、「完成した姿を見られないのは残念だと思わないですか?」と問われ、「神はお急ぎにならない」と答えたのが印象的だった。聖堂の正面を支えている2本の柱の下には亀がおり、ガウディがこの教会を“ゆっくり作れ”と遺言で言っているようだと語る人もいる。親子三代に渡って工事に関わっている職人もいるそうだ。 ※2004年の統計でサグラダ・ファミリアはアルハンブラ宮殿やプラド美術館を抜いて、スペインで最も観光客を集めた。2008年の訪問者は270万人。15ユーロで計算すると年間予算は50億円超えだ。 ※バルセロナ市のシンボル、サグラダファミリアの建築にこれまで公共の資金は全く使われていない。この教会は贖罪教会という懺悔を信仰の中心に置く特別な宗派に属しており、贖罪の意を込めた寄付によって建てられなければ意味がないという。計画当初から個人のお布施と心ある人の寄付、それに拝観料のみで建設されることを前提としていた。バブルのころ、ある日本企業が多額の寄付を申し出て断られたのは同様の理由による。大勢の人が小額ずつ出し合って建てられることこそが重要。ガウディは資金難になると自らバルセロナ市内を歩いて寄付金を集め、道行く人がガウディと知らずに小銭を施してくれた時も、その僅かなお金を拾い集めて寄金とし、大切に扱ったという。1990年代から訪問者が急増し財政状況が好転した。 ※サグラダファミリアは異端の教会であったが、2010年11月にローマ教皇ベネディクト16世が訪れてミサを執り行い、また聖堂に聖水を注いだことで、サグラダ・ファミリアはバシリカ(カトリック教会堂)となった。ミサには司教達を含む6500人が参列、聖歌隊も800人に及んだ。 【巡礼記】 ガウディは自ら設計したサグラダ・ファミリアの地下礼拝堂に眠っている。地下鉄サグラダ・ファミリア駅から階段で地上へ出ると、振り返った瞬間に異形の大聖堂が視界いっぱいに飛び込んでくる。付近では多くの観光客が息を呑んで立ち尽くす。理解を超えた建造物が天へ向かってそそり立っている。眼前の光景に圧倒され思考がとぶ。 入口で建設資金となる拝観券を買い内部へ。世界中の観光客がトウモロコシ型の尖塔群を唖然と見上げる中、僕は反対に地下へ降りる階段を探してキョロキョロ。工房の職人さんに墓所を聞くと、いったん教会の外に出て異なる入口から入るとのこと。墓参だけなら無料であり、チケットを買う必要はなかったようだ(汗)。 礼拝堂はいつも開放されているわけではなく、1日に6回ほど開け閉めをしている。ラッキーなら1回で墓参できるけど、僕は4回のうち2回は閉まっていた。サグラダ・ファミリアとは“聖家族”の意味だ。階段を下って礼拝堂に入ると、ヨセフ、マリア、イエスの像が立ち、その最深部にガウディの墓があった。周囲ではロウソクの灯が揺れていた。生涯かけて建設に心血を注いでいたサグラダ・ファミリアの胎内で眠るガウディは、その一部となったのだ。 |
30歳。この頃油絵から 板画に移行しつつあった |
66歳。めっさ豪快に笑う棟方! |
左目は失明しており、右目も極度の近眼だった |
「棟方志功のお墓」案内板。ゴッホの象徴であるヒマワリが描かれていた | ここを登っていく |
2000年 初巡礼 没年は永遠の命を表す「∞」! |
2012年 12年ぶりの再巡礼 “静眠碑"と彫られている |
背面に戒名 「華厳院慈航真毎志功居士」 |
志功はゴッホの大ファン。墓を同じ形にした | ゴッホ兄弟の墓。左がヴィンセント | 左が志功、右は「棟方家」の墓 |
墓石の後方に石板→ | 「驚異モ 歓喜モ マシテ悲愛ヲ 盡(ツク)シ得ス」 | 近辺には三内丸山遺跡がある |
善知烏(うとう)版画巻/ 夜訪(よどい)の柵 35歳 |
釈迦十大弟子/ 目けん連の柵 36歳 |
花狐の柵 53歳 「嬉しさの狐手を出せ曇り花」 |
空晴の柵 54歳 「今日 空 晴レヌ」 |
ある修行僧が、漁師の霊に“妻子を訪ねて 欲しい”と頼まれ、夜半に戸を叩いた場面。 能の幽玄と北国独自の悲しみを刻んだという |
板木を一杯に使って木の持つ 生命力を出し切り、仏に近づき つつある人間像を彫り上げた |
桜にうかれて踊る陽気な狐 棟方の動物はどれも味がある |
力強くピチャンと跳ねる魚 短い言葉と相まって気持ち良い |
棟方志功(むなかた・しこう)は、1903年、青森に鍛冶屋の三男坊として生まれる(9男6女の15人兄弟)。豪雪地帯であり、囲炉裏の煤で眼を病み、極度の近視となる。小学校卒業後、すぐに家業の手伝いに入ったため中学には行けなかった。17歳の時に母が病没し、家運も傾き父親は鍛冶屋を廃業。棟方は青森地方裁判所の給仕となった。絵が好きだった棟方は、仕事が終わると毎日公園で写生をするなど絵画を独学し、描き終わると風景に対して合掌したという。
18歳の時、友人宅で文芸誌『白樺』に掲載されたゴッホの『ひまわり』と出会う。炎のように燃え上がる黄色に、そのヒマワリの生命力と存在感に圧倒された。カンバスに刻まれたヒマワリから、ゴッホその人が立ちのぼった。 ※この『白樺』に関するエピソードは詩人・小高根二郎が『棟方志功』に次のように記している。 棟方は友人宅を帰る時に呼び止められた。 「ゴッホさ、ガ(君)にける(あげる)」 友人は棟方に白樺をプレゼントした。棟方の指がスッポンの口ばしの様に談笑中ずっと白樺を手放さなかったことに気付いたからだ。 「ワ(我)のゴッホさ、ガ(君)にける」 と繰り返して言うと、棟方は狂喜して踊り上がった。 「ゴッホさ、ワに?ゴッホさ、ワに?」 棟方がこの恩寵が信じきれないという顔をしていると、 「ンだ。ガにける」 贈呈の意志が変わらないことを、友は3度重ねて表明した。棟方は白樺を胸に抱きしめ、歓喜の笑みで「ワだば、ゴッホになる!ワだば、ゴッホになる!」 と友人の好意に応える覚悟で叫んだ。その後、友の気持ちが変わらぬうちにと、そそくさと帰ったという。 この誓い通り、棟方は油絵にのめり込んでいく。 1924年に21歳で上京。故郷を旅立つ際、見送りに来た人々の前で「帝展に入選するまで何があっても青森に帰りません」と誓っていた。だが、帝展や白日会展などに油絵を出品するも落選が続いた。 1926年(23歳)、版画家の川上澄生(すみお/1895−1972、当時31歳)が、初夏の恋の幻想を描いた木版画の代表作『初夏の風』を国画会に出品、棟方はすっかり心を奪われる。 1927年(24歳)、4回連続で帝展に落選。棟方の絵はなかなか世間に認められず、時間だけが経っていった。画家仲間や故郷の家族は、しきりに棟方へ有名画家に弟子入りすることを勧めたが、かたくなに抵抗した。 “師匠についたら、師匠以上のものを作れぬ。ゴッホも我流だった。師匠には絶対つくわけにはいかない!” 棟方は新しい道を模索し始めた。当時の画壇で名声の頂点にあった安井曽太郎、梅原龍三郎でさえ、油絵では西洋人の弟子に過ぎなかったことから、この頃の気持を自伝にこう書いている「日本から生れた仕事がしたい。わたくしは、わたくしで始まる世界を持ちたいものだと、生意気に考えました」。 1928年(25歳)、上京から4年、帝展への5回目のチャレンジで油絵作品『雑園』が悲願の初入選を果たす。棟方は5年ぶりに帰郷し、両親の墓へ入選を報告した。 …だが、棟方は気付いた。“そうだ、日本にはゴッホが高く評価し、賛美を惜しまなかった木版画があるではないか!北斎、広重など、江戸の世から日本は板画の国。板画でなくてはどうにもならない、板画でなくてはわいてこない、あふれてこない命が確実に存在するはずだ!” 。 棟方は油彩画から木版画に転じ、のちに“木版画の神様”と讃えられる平塚運一(うんいち/1895-1997、当時33歳)に木版を学び、木版画の制作に没入していく。また、国画会会員となり同展に出品を続けた。 「この道より我を生かす道なし、この道をゆく(武者小路実篤)」、この言葉が棟方の座右の銘となった。棟方は文字を画面に入れ込み、絵と文字を同次元に扱い、統合させた独特の「板画」を確立する。 1930年(27歳)、文化学院で美術教師を務め、同年に赤城チヤ(21歳/1909生)と結婚し、2男2女に恵まれる。当初、棟方は貧乏ゆえに東京で仲間と共同生活を送り、チヤ夫人は青森で呼び寄せられるのを待った。「昭和5年、わたくしは、チヤコと一緒になりました。 (中略)しみじみの想いというか、わたくしの足りないものを持って来てくれたチヤコであったのでした」。この年、国画会の展覧会に『貴女裳を引く』など4点が入選。 1931年(28歳)、初めての版画集『星座の花嫁』出版。 1932年(29歳)、日本版画協会会員となる。国画奨励賞を受賞した版画4点が米仏の美術館に買い上げられる。 チヤ夫人がしびれを切らして上京し一緒に暮らし始める(1934?)。 1936年(33歳)、国画会展に棟方版画の原型となった『大和し美し(やまとしうるわし)』を出品。ヤマトタケルノミコトの古代神話をうたった佐藤一英の壮大な詩と、棟方の土俗的で生命力のある絵が融合した作品となった。『大和し美し(やまとしうるわし)』は民芸運動の柳宗悦(むねよし)、河井寛次郎らの目にとまって交友が始まり、柳が日本民藝館の所蔵品として『大和し美し』を購入。棟方は上京から12年目にしてついに自分の作品が国内で売れた。 棟方は民芸運動に参加し、日本民芸派との交流は制作上の転機となった。縄文的、民芸的特質をもった棟方板画と呼ばれる独自の作品が生まれ、宗教的(仏教的)主題の多くの傑作が誕生する。棟方は「無私の心に咲く無名の美」を創作の根本とすることを自覚し、素朴な情念、原始の呪術性、広大な宇宙観を、簡潔なフォルムで大画面の版画に表現した。 ※棟方はいったん彫刻刀を持つと一心不乱に彫り上げたが、彼が創作に集中できたのはチヤ夫人が支えてくれたから。棟方の作品が安定して売れ始めたのは結婚6年目になってから。幼子を抱え貧しい日々が続いても、夫人はずっと応援し続けた。 1937年(34歳)、国画会同人となる。日本浪曼派の文芸評論家・保田与重郎(やすだ・よじゅうろう/1910-1981)らとの交友から日本的情感、東洋的美に開眼し、民話を題材に制作するようになった。 1938年(35歳)、帝展(文展)で『善知鳥(うとう)』が版画界初の特選に輝く。 1939年(36歳)、大作『釈迦十大弟子』を下絵なしで一気に仕上げる(興福寺の十大弟子から着想)。制作中の棟方の談話「私が彫っているのではありません。仏様の手足となって、ただ転げ回っているのです」。 1942年(39歳)、随筆集『板散華(はんさんげ)』にて、今後は「版画」という文字を使わず「板画」とすると宣言。板の声を聞き、板の命を彫り出すことを目的とした芸術を板画とした。 1943年(40歳)、棟方は自身がお遍路さんのように祈りを込めて1枚1枚彫っているため、この頃から自作に「○○の柵」とタイトルをつけるようになる。この年、ベートーヴェンの音楽と出会い、その宇宙的な包容力に深く胸を打たれる。 1945年(42歳)、富山県福光町に疎開。棟方は当地の自然をこよなく愛し、敗戦後も6年8カ月滞在する。浄土真宗にふれる。 1946年(43歳)、富山県に住居を建て、自宅の8畳間のアトリエを「鯉雨画斎(りうがさい)」と名付ける。この住居は谷崎潤一郎が「愛染苑(あいぜんえん)」と命名。 1951年(48歳)、東京に戻る。 1952年(49歳)、ルガノ国際版画展で優秀賞を受賞。 『天地乾坤韻』を制作。日本版画協会を脱退して、笹島喜平らと日本板画院結成。 1953年(50歳)、『湧然する女者達々する女者達々(ゆうぜんするにょしゃたちたち)』を制作。 1955年(52歳)、サンパウロ・ビエンナーレで版画部門最高賞を受賞。 1956年(53歳)、ベネチア・ビエンナーレにて『湧然する女者達々』『柳緑花紅頌(りゅうりょくかこうしょう)』などを出品、日本人として最初の国際版画大賞を受賞し、一躍世界のムナカタとなる。「会場へ来た人のほとんどすべてが、棟方の木版画の前に愕然としていました。」(当時会場で働いていた人の証言)。棟方は以後も数々の国際展で受賞をかさね、その芸術はひろく知られるようになった。 1958年(55歳)、日本画の「双妃図」を描く。版画を「板画」としたように、彼は日本画を「倭画(やまとえ)・倭絵」と称した。『柳緑花紅板画柵』を制作。 1959年(56歳)、初めての海外旅行で欧米を訪れ、アメリカでは各地の大学で板画の講義をおこない、ヨーロッパではフランスで念願だったゴッホのお墓参りを実現する。その際、チヤ夫人の眉墨を使い碑文の拓本をとったという。以降、この年を含めアメリカには4度訪れている。 1960年(57歳)、代表作を網羅した大巡回展が米国で前年に続いて開催され好評を博す。同年、『歓喜自板像の柵』(自画像)を彫る。酔っ払って幸せそうにひっくり返る自分の背後に、写生に出かけるゴッホと、ベートーヴェンをたたえる言葉を刻み込んだ。この頃、朝日賞を受賞するなど、ようやく国内の美術界で正当に評価される。眼病が悪化し、左眼を失明、右眼のみで彫り続ける。 1961年、敬愛する柳宗悦が72歳で他界。 1963年、倉敷市の大原美術館内に棟方板画館が開設。 1964年(61歳)、自伝『板極道』を出版。 1969年(66歳)、ヨコ27m、タテ1.7mという世界最大の版画『大世界の柵』を完成。巨大さゆえ板壁画と呼ばれた。 同年、青森市名誉市民第1号に選ばれる。 1970年(67歳)、文化勲章を受章。コメントは「僕になんかくるはずのない勲章を頂いたのは、これから仕事をしろというご命令だと思っております。片目は完全に見えませんが、まだ片目が残っています。これが見えなくなるまで、精一杯仕事をします」。そして長年サポートしてくれたチヤ夫人に感謝し、「この勲章の半分はチヤのもの」と讃えた。 1972年(69歳)、詩人の草野心平とインドを旅行する。 1973年(70歳)、板画と肉筆画を融合させていく。 1974年(71歳)、自分で設計したお墓を8月5日に建立する。生前墓であり夫婦墓。 1975年9月13日、肝臓癌のため72歳で永眠。自ら“板極道”を名乗った男は、「自分が死んだら、白い花一輪とベートーヴェンの第九を聞かせて欲しい。他には何もなくていい」という遺言を残した。同年11月、郷里の青森市に棟方志功記念館が開設された。 民芸的、縄文的生命感をもった“板画”を創作。代表作「二菩薩釈迦十大弟子」など。 代表作に「華厳譜」「釈迦十大弟子」「女人観世音板画巻」「湧然たる女者達々」「東海道棟方板画」など。 〔墓巡礼〕 墓は青森三内霊園の「静眠碑」。棟方は死を予感したのか、亡くなる前年に自分の墓の原図を描いていた。忠実に作られたその墓は、なんと敬愛するゴッホの墓と全く同じ大きさ、デザインのものだった!前面には『棟方志功 チヤ』と夫婦の名を刻み、没年には永遠に生き続けるという意味を込めて「∞」(無限大)と彫り込まれていた。墓の背後には「驚異モ/歓喜モ/マシテ悲愛ヲ/盡(ツク)シ得ス」《不盡(ふじん)の柵》と彫ったブロンズ板がはめ込まれている。今でも毎年9月13日の命日には、第九を流しながら焼香をあげ「志功忌」が開かれている。 ※青森市には「棟方志功記念館」「浅虫温泉 椿館」「青森県立美術館」で棟方の作品に会える。 ※棟方が好んだ第九はコンヴィッツニー指揮、ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団のもの。 ※長男は元俳優・棟方巴里爾(ぱりじ/1998年没)、次男は棟方令明(元棟方板画美術館長)、長女は宇賀田けよう、次女は小泉ちよえ。巴里爾は墓所の向かって右側のお墓に眠っている。 ※お墓はゴッホのオリジナルより少し大きく作ったとのこと。 ※30代に借家のふすまにタコが何匹も泳ぎ回る絵を描き、大家さんからえらく怒られた。 ※ねぶた祭りが大好き。 ※棟方が富山に建てた住居は移築保存され、鯉雨画斎として一般公開されている。 ※劇団ひとりが棟方を熱演したドラマ『我はゴッホになる』(107分)が素晴らしいデキ! |
『歓喜自板像の柵』 57歳 |
大好きな先人たちに囲まれ、酒を酌み交わしている幸福感いっぱいのセルフ・ポートレート。左上は「エヲカキニデル」 ゴッホ、中央の石塔は尊敬する民芸学者・柳宋悦の象徴(柳の字が見える)、右上は「ヨロコビノウタ」ベートーヴェンを 讃える言葉、茶碗は陶芸家の河井寛次郎の象徴、そして中央に酔っ払って幸せそうに寝転ぶ自分自身。さらに棟方の 右手には愛するチヤ夫人の白く美しい手が繋がれている。なんて幸せな作品なんだ〜ッ! |
「わだばゴッホになる」 草野心平 鍛冶屋の息子は。 相槌の火花を散らしながら。 わだばゴッホになる。 裁判所の給仕をやり。 貉(むじな)の仲間と徒党を組んで。 わだばゴッホになる。 とわめいた。 ゴッホにならうとして上京した貧乏青年はしかし。 ゴッホにはならずに。 世界の。 Munakataになった。 古稀の彼は。 つないだ和紙で鉢巻きをし。 板にすれすれ獨眼の。 そして近視の眼鏡をぎらつかせ。 彫る。 棟方志昴を彫りつける。※原文のまま |
国道35号線。この道の先にアマウォークが ある。ダンプが猛スピードで突っ切っていく。 |
『アマウォーク』と大きく書いた紙を掲げ、 ドライバーに熱い視線を送る。15分経過。 |
全く車が止まらないのは、帽子で目が隠 れて、警戒されてるのかもと、帽子を脱ぐ。 30分経過。 |
45分経過。次第に泣きが入ってくる。 | そして1時間が経ち、ついに号泣。無念だが、 キャパの墓参は作戦練り直しとなった。 |
マンハッタンから2時間。懐かしのカトナー駅。 この無人駅から戦いは始まる。新たな作戦は “往復8時間歩きまくれ”作戦であった!! |
前回はサンダルだったが今回はスニーカー。しかも 車にはねられないよう、目立つ黄色のTシャツを 着用!気合十分、曇り空で涼しく気候も味方した。 |
ビュンビュン車が飛ばしてるんだけど、歩行スペース はわずかに10cmほど。めっちゃ怖かった! |
杖をゲット!しかし、トレッキングをしてると思わ れ、ますますどの車も止まってくれなくなった。 |
山越え。右に『鹿とび出し注意』の看板が。 |
以前にテレビで「杖は1本より2本の方が 飛躍的に楽になる」と言ってたのを思い出し、 スキーヤーのような2本体制に。すると、ホント に嘘みたいに歩くのが楽になった! |
あの遠くに見える緑の看板はもしや…! |
嗚呼!ここは夢にまで見たアマウォーク! |
とにかく田舎!ここが村のメインストリートだ。写真 中央の犬はどこかの番犬で、狂ったように吠えなが ら向ってきた。こっちは4時間も歩いて思うように動け ず、この場でバトルに突入。2本の杖で追い払ったが マジでビビッた。誰もいないんだもの!涙チョチョ切れ。 |
ネットで調べた墓地の名前と違うんだけど、 アマウォークを端から端まで歩いてもここしか 墓地はなく、キャパが確実にここにいるという 確証がないまま墓地に入っていった。 |
最初に管理人事務所を訪れたんだけど無人だった! っていうか何年も使われた形跡が建物になかった。 ガーン。小さな村のわりに墓地の面積は広く、 しかも丘の上なので登り下りが大変だったが、 ともかくひとつひとつの墓を調べていった。 |
いくら探せどキャパは見つからない。帰り道も 4時間歩くとなると、山越え中に日が暮れると 危険なので、そうそう長くこの墓地で探しても いられない。ここまできてキャパに会えずに 帰るなんて…思わず涙が頬をつたった。 |
この時、墓地には村人が一人だけいた。ダイアン さんという50代後半のオバサンだ。彼女は杖を 2本つきながらズタボロでキャパの墓を尋ねる アジア人に、最初はひきまくっていた(キャパを 知らなかった!)。でも、キャパがヒューマニスト であったことや、その彼にお礼を言う為に日本か ら来て、朝から4時間歩いて来た事を説明すると 、ダイアンさんは大ハッスル。「家に帰って村一番 の物知りのお婆ちゃんに電話で墓の場所を訊い てあげる」といい、ぼくに空のペットボトルを渡し、 「ポンプで水を汲んで、しばらく休憩してなさい」 と言い残して車で去って行った。 |
しばらくして一台の大きなワゴン車がやって きた。運転していたのはお婆ちゃん!この人が 村の生き字引なのか!「キャパはこの墓地に 眠っているのですか!?」「まあ、ついてらっし ゃい」お婆さんはキャパの元へ案内してくれた! |
これは分からない!墓地の隅の小さな2つ の墓石がキャパだった!まるで俗世間から 隠れるように、ひっそりと眠っていた!! |
「この10年でキャパを訪ねて来た のは、あなたを入れて2人だけよ」 お婆さんはこう言った。もう一人の 巡礼者は米国人だったとのこと。 |
お婆さんが帰った後、ダイアンが入れ違いに様子を見に 墓地へ入って来た。ぼくは大きく手を振って「ここ!ここ! キャパはここです!」と叫ぶと、ダイアンは何かを天に叫ん で走ってきた。彼女は「サッチ・ア・ワンダフルストーリー!」 を連発。2人で狂ったように手をつないで飛び跳ねた。 |
キャパは戦場の最前線で、戦争の悲惨さと 非人道性を訴える写真を撮り続けた。最後は 地雷を踏んで40歳の若さで亡くなった。 キャパの影響を受けていない報道カメラマン はいないとまでいわれている。 |
世界を震撼させた代表作『崩れ落ちる兵士』 ※近年、撮影者はゲルダ・タローと判明 |
“ちょっとピンボケ”に。 キャパへのオマージュ! |
興奮しすぎて声が裏返ったダイアンさん。 |
ダイアンは鉄道にアクセスしている路線バスが通って いるヨークタウンまで、車で送ってくれた。ううっ、本当に ありがとうダイアン!なんて良い人だったんだ。ジーン。 |
バスの時刻表を見て絶句。 「うげっ!たったの8本しかない!」 1時間ちょい待った。 |
良かった!本当に来た!(バスを 利用しても鉄道駅に着くまで 1時間半かかった。遠い!) |
今回はレンタカーを利用ッ!超らく!スイスイ巡礼できた! |
6年ぶりの再会!キャパはハンガリー人(ブダペスト 生まれ)なので、墓前にハンガリーの国旗があった |
前回にはなかった長椅子があり、 墓も2基から4基に増えていた |
手前の墓は08年に他界した弟コーネル・キャパ。彼も 写真家で1974年にICP(国際写真センター)を創設した |
「心から尊敬していますーッ!」 感涙むせぶリスペクトの土下座! |
20世紀を代表する報道写真家ロバート・キャパは、スペイン内戦、日中戦争、第二次世界大戦、アラブ・イスラエル戦争、第一次インドシナ戦争の5つの戦争を取材し、その写真は主要な雑誌や新聞に掲載された。パートナーはドイツ人戦場カメラマンのゲルダ・タロー。
1913年10月22日にハンガリーのブタペストにて出生。本名はエンドレ・フリードマン。ユダヤ系で両親は洋服屋を経営。5歳年下の弟コーネルも写真家。 1931年5月、17歳の時に、ホルティ・ミクローシュ独裁政権に対する反政府デモに参加したことで、ハンガリーの秘密警察に逮捕され、投獄された。一晩拘束された後、知人の尽力で国外退去を条件に釈放される。フリードマンはベルリンに亡命し、ジャーナリズムを学ぶため9月にドイツ政治高等専門学校へ入学した。彼は初めジャーナリストを志すが、言語の壁を越えて自分の主張を伝えられるのは写真だと考えるようになる。 1932年(19歳)、大恐慌で両親からの仕送りが困難になり、学校を辞めて仕事を探す。写真通信社「デフォト」の暗室係として働き始め、11月にコペンハーゲン(デンマーク)に会社から派遣され、「ロシア革命の意味」について演説するレフ・トロツキーを撮影し、この写真がデビュー作品となった。 1933年(20歳)3月、ヒトラーが独裁政権を手に入れ、ユダヤ人の大学への通学を禁止したため、ウィーンに避難。ハンガリーでもユダヤ人排斥が激しくなり母と弟はアメリカへ亡命、父は消息不明に。9月フリードマンは知人をたよってパリに移住したが、パリでは写真をほとんど買ってもらえず生活に困窮する。無一文同然であり、カフェでただでもらった砂糖と水だけで数日過ごすこともあった。 1934年(21歳)9月、フランスの写真週刊誌『ヴュ』の仕事で仏独国境地帯を取材。同年秋、シュトゥットガルト出身でドイツから逃れてきた3歳年上(24歳)のユダヤ系ドイツ人、ゲルダ・タロー(本名ゲルタ・ポホリレ/1910-1937)と出会い、まもなく恋に落ちる。ゲルダはフリードマンのマネージャーになり、彼から撮影技術を学び助手となった。前年にゲルダはドイツで反ナチスの左翼組織に近づき、弟が反ナチスのビラを撒いた事で逮捕拘留され、一家はドイツを離れることを余儀なくされたのだった。 フリードマンとゲルダは恋に落ち、一年後にはパリで同棲し、公私にわたるパートナーとなる。 1935年(22歳)、フリードマンは本名で写真を撮っていたが一向に売れなかったため、ゲルダと一緒に一計を案じ、「有名なアメリカ人写真家 ロバート・キャパ(Robert Capa)」 (名付け親はゲルダ。名前は映画監督フランク・キャプラにちなんだとされる)なる架空の人物を創り出し、フリードマンが「キャパの代理人」に成りすまして自分たちの写真を売り込んだ。10月、ゲルダはアライアンス・フォト社で写真編集者として働き始める。 同年、パリ・モンパルナスで知り合った同い年の川添浩史(のち1960年に伊料理店「キャンティ」創業※祖父は後藤象二郎)らと知り会い、困窮して川添のアパートに居候するほど親しく交流し、彼らに金を借りて高級な35ミリカメラのライカを買った。また、川添の紹介で毎日新聞パリ支局長の城戸から月20ドルのアルバイトを得た。 パリ時代初期のフリードマンの写真はパリの子どもたちを撮ったものが多い。外国人としてパリの人々を観察する自分と、大人の世界を見つめる子どもが重なっているようだ。 1936年(23歳)、パリのストライキやデモ、革命記念日のパレードを精力的に撮影。パリの新聞社のカメラマン募集試験に落ちて近くのカフェで酒を飲んでいるときに、同様に落ちた元画家のカルティエ・ブレッソン(1908-2004)、ポーランド人亡命者デビッド・シーモア(1911-56)と出会う。彼らはシャンパン(弟コーネルはワインではなくシャンパンと言っている)の超大瓶(マグナム)を飲みながら、主義や流派を越えて個性的で自由な写真活動ができる通信社をつくることを約束しあった(11年後に実現)。 同年7月17日、スペインの人民戦線(共和国)政府とフランコ将軍派との間に内戦が勃発する。キャパは人民戦線側の報道写真家としてスペイン語のできるゲルダとバルセロナに向かい従軍した。敵対するフランコ将軍派をドイツ・イタリア両国が支援し、厳しい戦いだった。フリードマンとゲルダはこの時も一緒に「ロバート・キャパ」の架空のサインを使っており、「ロバート・キャパ」と銘打たれた初期の作品群は、ゲルダとの共同作業によるものだ。 一方、ゲルダは独立して契約をとるようにもなり、仕事用の名前としてモンパルナスの芸術家仲間だった岡本太郎(1911-1996/当時25歳)とスウェーデンの女優グレタ・ガルボ(1905-1990)にちなみ「ゲルダ・タロー」と名乗った。彼女はスペインの戦地で「小さい赤毛ちゃん」のニックネームで呼ばれた。 この年、写真週刊誌『ヴュ』の9月23日号に2人の写真が採用され、「死の瞬間の人民戦線兵士」というタイトルが付された。この頃、偽名の企みが発覚したが、フリードマンは自分の名前として「ロバート・キャパ」を使い続けたため、この1936年が改名の年といえる。 11月、マドリードに迫ったフランコ軍(ファシスト派)と、これを迎え撃つ市民軍や国際義勇軍の、スペイン内戦で最も激しい戦いを取材する。 1937年(24歳)2月、スペイン北部バスク地方で、フランコ軍の空爆から逃げ惑う市民を撮影。 7月、キャパはパリに一時帰国し、ゲルダはマドリードに留まった。前年に発表した人民戦線兵士の写真が、アメリカの有名なグラフ誌『LIFE』の7月12日号に《崩れ落ちる兵士》(The Falling Soldier)として転載され、撮影者に架空の写真家名「ロバート・キャパ」と記されていたことで、この名が一躍知られることとなった。無名の青年カメラマンが突然世界から注目された。 この写真は、「内戦初期にスペイン・コルドバで突撃した人民戦線兵士が頭部を撃たれた瞬間」として、ピカソの『ゲルニカ』と並んで反ファシズムのシンボルとなり、長くキャパの代表作とされてきた。ところが近年、この歴史的写真の本当の撮影者は、パートナーだったゲルダ・タローであり、さらにこの兵士は撃たれておらず、演習中に足を滑らせただけであったことが、ノンフィクション作家沢木耕太郎などにより明らかにされた。 ※スペイン内戦で1936年9月5日に24歳のフェデリコ・ボレル・ガルシーアがセロ・ムリアーノで頭部を撃たれて戦死しており、彼の兄エベリストがキャパの写真の被写体と確認した。だが、やらせ説では、被写体はフェデリコとは別人という。ちなみに、スペイン政府による公式死亡証明書に彼の名前はない。また、実際の撮影場所はセロ・ムリアーノではなく40km南東のエスペホと確定している。写真が掲載された9月23日以前にエスペホでは戦闘が起きていないため演習と判明。それでは、いったい被写体は誰なのか?これだけ有名になった写真であり、内戦で名乗りをあげないまま亡くなったとしか思えない。 一方、タローは《崩れ落ちる兵士》の『LIFE』掲載直後の7月25日にスペイン内戦の「ブルネテの戦い」(マドリード西方)の取材に向かい、激しい砲火を受けた。撤退戦の取材中、彼女が飛び乗った車に暴走した共和国軍の戦車が側面に衝突し、振り落とされたゲルダはこれに轢かれ、破れた腹から腸がはみ出すのを自ら押さえる重傷を負う。エル・エスコリアルにある野戦病院に担ぎ込まれ、緊急手術を受け、一度意識を取り戻し「私のカメラは大丈夫?まだ新品なのよ」と言ったが、これが最期の言葉となる。翌7月26日に26歳で絶命。タローは戦争の最前線を取材中に亡くなった最初の女性フォトジャーナリストとなった。キャパは彼女の死を知って打ちのめされ、何日も自宅で泣き伏せた。 国際報道機関にとって、タローのカメラはフランコ軍が流すデマを暴き、戦場の真実を伝える貴重な目だった。彼女の死は政治的な損失とされ、反ファシストの象徴となった。6日後の8月1日、彼女の27歳の誕生日にフランス共産党はパリで盛大な葬儀を行い、何万人もの人々が通りに集まった。ペール・ラシェーズ墓地に彼女を埋葬し、アルベルト・ジャコメッティが彼女の墓碑をデザインした。しかし、フランスが占領された後ナチスの要請でタローの墓碑銘は削り取られた上、墓石はすげ替えられてしまった。戦後、ジャコメッティは新たな墓碑をデザインした。ハヤブサ(エジプト神話の天空の神ホルス)が設置され、墓碑のプレートには「より良い世界のために無条件に闘ったあなたのことを誰も忘れないように」と記されている。 12月、キャパは共和国軍によるスペイン北東部の都市テルエル奪還作戦に同行。 キャパは《崩れ落ちる兵士》が演習の光景であること、本当の撮影者がタローであることを公表できなかった。彼はユダヤ系であり、ヒトラー、ムッソリーニ、フランコなどファシストからの攻撃が激化するなか、反ファシズムの象徴と見られるようになった作品に水を差すわけにいかなかったのだろう。そして、大きな後ろめたさがあったからこそ、以降、世界大戦の最前線など危険地帯で身をさらしたと想像がつくし、結果として30代で生を終えることになる。 ※ウィキペディアによると、NHKと沢木耕太郎はドキュメンタリーの中で、キャパの胸中を「祖国ハンガリーにもファシズムの影響が及びユダヤ人は迫害されていたので、キャパは祖国を逃れてパリに出て、カメラの力でなんとかしてファシズムと戦おうとした。当時まだ写真家としての実績がなかったキャパがゲルダと共にインチキを重ねて成立してしまったこの写真が、メディア上で反ファシズムのシンボルとして用いられるようになり、社会的に大きな影響力を持つものになってしまったことで、ファシズムと戦いたいキャパはこの写真成立時の真相を告白することができなくなり、口をつぐんだ」と推定したとのこと。 1938年(25歳)、ゲルダとの共著として初の写真集「生み出される死(Death In The Making)」を発表。 2月、日本の侵略に対する抵抗を記録するため、フリーのフォト・ジャーナリストとして中国の漢口市(現在の武漢市、蒋介石が一時的に首都としていた)を訪問。漢口で撮影した初のカラーフィルムが雑誌『LIFE』に掲載される。キャパは蒋介石と毛沢東の連絡係だった周恩来と親しくなり、国民党軍と共産党本部の双方を取材している。4月に中国北東部の徐州(じょしゅう)前線を取材、7月に漢口で日本軍の激しい空爆にあう。蒋介石は初めて会議中の自分の姿を撮影することをキャパに許した。 11月、キャパはスペインのアラゴン前線(バルセロナとマドリードを結ぶ要衝)で国際義勇軍の作家アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961/当時39歳)を訪ねる(初顔合わせは前年)。ヘミングウェイは後に小説『誰がために鐘は鳴る』(1940)でこの内戦を描写した。『ライフ』誌はキャパによる多数の写真とともに、ヘミングウェイと彼のスペイン滞在についての記事を掲載。一方、スターリンがヒトラーに接近し、スペイン共和国政府に国際義勇軍の解散を強要。ソ連の裏切りに市民に衝撃が走る。 この年、イギリスで発行されたフォトジャーナリズムの先駆的雑誌『ピクチャー・ポスト』が、25歳のキャパを「世界で最も偉大な戦争写真家」と評する。 1939年(26歳)1月、空襲下のバルセロナを撮影。近郊ではフランコ軍の爆撃機による機銃掃射で多くの難民が殺害され、キャパのカメラは悲劇をとらえる。バルセロナにフランコ軍が迫ると、市民の疎開が始まった。避難民を撮影したキャパ「傍らにいながらにして、その人の苦しみを記録することしかできないのは辛い」。フランスへの亡命を求めて40万人が国境を越えた。 4月1日、スペイン内戦は2年8カ月余を経て人民戦線の敗北で終わった。 9月1日にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発すると、キャパは連合国側の雑誌特派員となり、イギリスを皮切りにヨーロッパ戦線、北アフリカ戦線に従軍し、最前線を数多く撮影した。彼はロンドン、北アフリカ、イタリア、パリ解放など、第二次世界大戦の経過を記録していく。当初は『コリアーズ・ウィークリー』誌で写真を撮り、コリアーズ誌から解雇された後、『ライフ』誌に移った。 10月、ニューヨークに渡る。 1940年(27歳)アメリカの永住権を得る。『ライフ』の仕事で半年間にわたりメキシコの大統領選挙を取材。11月、アイダホ州サンバレーで14歳年上の盟友ヘミングウェイ(当時41歳)の結婚式を撮影。キャパ「1937年にスペインでヘミングウェイに会ってからは、彼を養父とした」。 1941年(28歳)、ドイツ軍の空襲を受けるロンドン市民を撮影。 12月、日本軍の真珠湾攻撃を受け米国は第二次世界大戦に参戦。母国ハンガリーがドイツと同盟を結んでいたため、キャパは敵性外国人に認定された。 1942年(29歳)4月、『コリアーズ』特派員として大西洋護送船団に乗り込み、ロンドンへ渡り取材。小説『わが谷は緑なりき』の舞台となったウェールズの炭鉱を取材。キャパはある記者から「どうしたら(住民の)こんなにリラックスした自然な表情を撮ることができるのですか」と問われ、こう答えた。「人を好きになることだよ。そして彼らにそれを伝えることさ」。 1943年(30歳)、3月から5月にかけて北アフリカ戦線(チュニジア)でパットン将軍の作戦を取材。アルジェのホテルで他の戦場特派員たちと相部屋になったときに、アメリカ人作家ジョン・スタインベックと知り合った。 7月にイタリア戦線を取材。連合軍のシチリア上陸作戦に同行し、捕虜となった多数のドイツ兵やイタリア兵、農民が米軍の兵隊に道を教えている場面《シチリア島、1943年》、ナポリで少年パルチザンの葬儀を撮影した。また、ナポリでは映画監督ジョン・ヒューストンと出会う。この間に『コリアーズ』の契約を解除されてしまうが、知己のあった『ライフ』と契約した。 1944年(31歳)6月6日、キャパは連合軍のノルマンディー上陸作戦(Dデイ)に従軍。彼は第1陣の部隊に同行し、最大の戦死者を出したオマハ・ビーチに第1歩兵師団第16歩兵連隊第2大隊E中隊と上陸する。キャパはDデイでオマハに上陸した唯一の民間人カメラマンであり、《ノルマンディ上陸作戦、1944年》を撮影した。オマハ・ビーチのドイツ軍は堅牢な壕から米兵を猛攻撃し、キャパがシャッターを切った11枚の写真群(現像に失敗していなければ72枚とも106枚とも)は「マグニフィセント・イレブン」と呼ばれ、報道写真の古典的名作として評価が高い。撮影の13日後、6月19日発売の『ライフ』誌に掲載された。このプリントが後に彼の写真著書『ちょっとピンぼけ』のタイトルに反映された。 ※Dデイの翌日にロンドンでキャパのフィルム(2本72枚もしくは4本106枚)を受け取った元『ライフ』誌記者のジョン・G・モーリスの証言によると、届いたフィルムには「戦闘の様子は、すべてこの4本の35ミリ・フィルムに収められています」と手書きのメモがあった。数分後、暗室の若い助手が「キャパのフィルムが全部ダメになってしまいました!」と叫んだ。乾燥機にフィルムを吊して早く乾かそうとドアを閉めた結果、熱がこもって乳剤が流れてしまった。最終的に、3本のフィルムは絶望的だったが、4本目にプリントが可能なコマが11枚だけあったという。 キャパはDデイの後も連合軍に従軍し、サン・マロ、シェルブールなど、次々と街を解放していく瞬間に立ち会い、歓喜する市民、投降するドイツ兵の表情を記録していく。 8月16日に撮影された『シャルトルの剃髪された女』には、ナチスに協力した罰として頭を剃られた女性を撮影。独兵との間に生まれた赤ん坊を抱いたまま引き回される母親を、キャパのレンズはピエタのように捉えている。 8月25日、パリ解放の先鋒隊となったフランス第2機甲師団と共にパリに入り、独軍狙撃手との市街戦を経て解放を見届けた。その1週間後、キャパはドイツ占領時代もパリで生活していた画家ピカソ(1881-1973/当時63歳)のアトリエを訪問。ピカソはパリ解放を祝って毎朝11時に自宅開放パーティーを開催していた。 12月16日にヒトラーが“最後の賭け”となる全面反撃「バルジの戦い」をベルギーのアルデンヌの森で開始、キャパは12月23日に前線の取材に入り雪原の戦いを撮影した。 1945年(32歳)3月24日、キャパはアメリカ軍第17空挺師団と共にドイツ北西部ヴェーゼルにパラシュート降下した。兵士たちは3千機の航空機から降下し、これを2千機のもの戦闘機が護衛した。 4月18日キャパはドイツのライプツィヒで橋を確保するための戦いを取材、狙撃によって死亡したレイモンド・J・ボウマンを撮影した《最後に死んだ男の写真》は『ライフ』誌の見開きページに掲載された。8月、世界大戦が終結。廃墟のベルリンで交流する米兵とソ連兵を撮影。生き延びたユダヤ人たちを記録。 6月6日、キャパはアメリカ兵をもてなすためにヨーロッパを巡業していた女優イングリッド・バーグマン(1915-1982/当時30歳)とパリで出会い、彼女は歯科医の妻であったが恋人となった。12月、キャパは彼女を追ってハリウッドへ。 1946年(33歳)5月27日、アメリカ市民権を獲得。ハリウッドに滞在しながら自伝《ちょっとピンぼけ》を執筆、またバーグマンを『汚名』『凱旋門』の撮影現場で写す。夏にキャパがトルコを旅行した際にバーグマンとの関係は終わった。 1947年(34歳)、春にパリでカルティエ・ブレッソンやデビッド・シーモアらと国際写真家集団〈マグナム・フォトス〉を共同創設。世界的なフリーランス写真家のための最初の共同エージェンシーであった。 同年、キャパはニューヨークでスタインベックと再会し、「戦争が終わったのでソビエト連邦を訪問しようと考えている」と聞かされた。キャパは2人が一緒にソ連に行き、戦争で荒廃した国を写真で記録する本を共同制作することを提案。8月から翌月にかけて旅を敢行し、最大の激戦地スターリングラード、モスクワ、ウクライナ、グルジアなどを訪れ、スタインベックが『A Russian Journal』としてまとめた。 この年、第二次世界大戦を写真に記録した功績により、ドワイト・D・アイゼンハワー将軍はキャパに自由勲章を授与した。ハンガリー出身ゆえ「敵性外国人」に分類されたにもかかわらず、勲章を授与された20人のアメリカ人戦場特派員の一人となった。 キャパは自伝《ちょっとピンぼけ》を刊行。 1948年(35歳)5月14日、ユダヤ系のキャパはイスラエル建国にテルアビブで立ち会い、これに続くアラブ・イスラエル戦争(第一次中東戦争)を取材。彼はアーウィン・ショーの著書『Report on Israel』に添えられた数々の写真を撮影した。同年秋、母国ハンガリー、ポーランド、チェコスロバキアなど東欧で戦災から復興する人々を撮影。 8月、リビエラ(コートダジュール)で休暇を楽しむピカソ家を訪れ、ピカソがパートナーのフランソワーズ・ジローのためにビーチパラソルをかかげる姿を撮影。 1949年(36歳)、イスラエルの臨時移民収容所を取材。未来への希望を込めて、子どもたちをたくさん撮影。(僕はパレスチナ難民への視点がないのが気になった…。ユダヤ系のキャパはどう感じていたのだろう) 8月、ニース郊外に住む画家マティス(当時79歳)を訪ね、猫とくつろぐ姿や壁画の製作風景を撮影。 1950年(37歳)、「マグナム」の運営が多忙でほとんど撮影ができず。 1951年(38歳)、この年にルース・オーキンが撮影した、片手を顔にそえて微笑むキャパのポートレートが有名。 1952年(39歳)、ジョン・ヒューストン監督『ムーラン・ルージュ』の撮影現場を撮る。 1953年(40歳)3月、キャパはイタリアでジョン・ヒューストン監督の映画『悪魔をやっつけろ』のメイキングを撮影し、脚本担当の作家トルーマン・カポーティとも交流した。オフの間、彼らは主演のハンフリー・ボガートとポーカーを楽しんだ。同年、仲が良かった俳優ジーン・ケリーを撮影。7月に腰痛で入院。 1954年、ノーベル文学賞作家のウィリアム・フォークナーをNYで撮影。4月にマグナム・フォトの写真展のために来日し3週間滞在。招待したのは毎日新聞で、写真雑誌『カメラ毎日』の創刊記念でもあった。キャパは東京、熱海、焼津を経て、京都、奈良、大阪などを訪れ、皇居での昭和天皇や、メーデーの集会、大阪城や四天王寺、清水寺にむかう参道や東大寺の大仏、天理教教会本部などを写真に収め、何より日本の子どもを撮ることに夢中になった。4月18日には東京駅のホームに立つ男の子を映した 「東京駅」を撮影している。焼津では3月に起きた第五福竜丸被曝事件を取材している。 来日から2週間後、キャパは東京で『ライフ』誌からインドシナ戦争(1946-1954)の取材を依頼され、1ヶ月の契約で引き受けた。ライフ社は2千ドルのインドシナ戦争取材料(30日間)と、2万5千ドルのロイズ・オブ・ロンドン保険を提示した。この戦争は旧仏領インドシナの独立をめぐってベトナム民主共和国軍(ベトミン軍)とフランス軍との間で約8年間も戦われたもの。北部ディエンビエンフー(北ベトナム)で最後の決戦となり、5月7日にフランス軍の要塞が陥落、フランスは降伏した。2万人強のフランス軍部隊のうち、2,200人が戦死し、1万3千人が捕虜となった。ベトミン軍は捕虜のうち負傷兵750人を解放すると通告、キャパはその様子を取材した。5月21日、ハノイの南東、デルタ地帯のナムディンの軍人墓地で、幼子を抱いて泣き崩れる若いベトナム人女性を撮影。 5月25日、キャパは防御しきれなくなった2カ所の要塞を破壊して引き揚げるという任務を負ったフランス軍の護衛隊に同行する。朝7時にナムディンのホテルを出発し、東隣のタイビン省に向かう。午後2時55分、護衛部隊が水田地帯の堤防で停止している間に、茂みを前進するフランス軍の部隊を撮影するべく道路に沿った野原に入り、地雷を踏んで即死する。享年40。最期の写真は直前に撮った兵士たちの後ろ姿だった。 母親のジュリア、弟のコーネルとともに、ニューヨーク州ウエストチェスター郡アマウォークのクエーカー教徒の墓地、アマウォークヒル墓地の189番の区画に埋葬された。 当時マグナム・フォトで編集者を務めていたジョン・モリスは、徹底した平和主義と慈善活動でノーベル平和賞を受賞しているクエーカー教徒の葬儀が、キャパにはふさわしいと考えた。キャパはクエーカー教徒ではなかったが、戦争の悲惨さを記録することで平和を促進しようとしていたからだ。 キャパの伝記作家であるリチャード・ウィーランも同じ区画に埋葬された。2008年には、国際写真センターを設立したコーネルも兄と一緒に埋葬された。 1955年、キャパの偉大な業績を称えて「アメリカ海外記者クラブ」と「ライフ」社が『ロバート・キャパ賞』を創設。 1956年11月10日、キャパの死後にマグナム・フォトの会長を務めていたデヴィッド・シーモアが、第二次中東戦争中にスエズ運河付近でエジプト軍の銃弾に倒れた。享年44。 1964年、没後10年に写真集『戦争─そのイメージ』が刊行される。 1971年、カンボジア内戦を取材した戦場カメラマンの沢田教一(前年に銃撃で死亡)が、前年に撮影したカンボジア難民の写真で1970年度の「ロバート・キャパ賞」を受賞。 1972年、週刊で発行していた「ライフ」がなくなり、「タイム」誌担当の写真家が活躍する。 1974年、弟のコーネル・キャパがICP(国際写真センター)を創設。 1976年、キャパは国際写真殿堂入りを果たした。 2000年から2001年にかけて、「20世紀と人間 ロバート・キャパ賞展」が日本国内各所で開催された。 2007年、キャパ、タロー、チム(デイヴィッド・シーモア)によるスペイン内戦の4,500枚の35mmネガが入った3つの箱がメキシコで発見された。 同年、国際写真センターがアメリカでは初となる大規模なタローの写真展を開いた。 2008年、コーネルが90歳で他界。この年、シュトゥットガルト市にゲルダ・タロー広場が誕生する。 2011年、ドキュメンタリー映画『The Mexican Suitcase』が公開される。4年前に発見されたキャパ、タロー、シーモアのネガ写真を題材にしたもの。 2013年、ハンガリー政府はキャパを記念した切手と、キャパの彫像が描かれている5,000フォリント(20ドル)金貨を発行した。 2016年夏、ライプツィヒで開催された写真フェスティバルの一環として、タローのスペイン内戦写真の野外展示が行われた。終了後、常設展示となることが決定した。だが、直後にタローの作品は黒いペンキで汚された。反難民または反ユダヤ主義的感情によるものと疑われている。 2017年、マドリード市議会はゲルダ・タロー通りを命名。 2018年、軍の病院で死の床にあるタローの姿とされる写真が、彼女を治療したハンガリー人医師キゼリー博士の息子によって公開された。 2019年、パリ市は13区にゲルダ・タロー通りを命名。 5度の戦争を経験し、生涯にわたって戦争の写真を撮り続けたキャパは、技術的に凝った作品よりも、歴史的な瞬間を記録することにつとめた。そして、ごく普通の人々が持っている不屈の精神や優しさを世界に伝えた。 キャパは写真の価値について次の信念を持っていた。「それは、全体の出来事からしてみれば、ただのワンカットなのだ。だが、このワンカットこそが、その場にいなかった人に対して、その出来事の本質的な事実といったものを、全体の場面を見せるより以上に多く物語ることになるのだ」。 スタインベック「キャパは、戦争は写真に撮れないと知っていた。なぜなら、そのほとんどは感情だからだ。しかし彼は、撃ち合いのすぐそばに行くことで、その感情を写真に撮った。彼は子どもの表情の中にすべての人々の恐怖を写し出すことができた。彼のカメラは感情を捉えてそれを留めた。彼の写真は偶然ではない。彼は思考を撮ることができた。キャパの作品は、それ自体が圧倒的な思いやりを絵にしたものである。誰も彼ほどの素晴らしい芸術家の代わりを務めることなどできない。けれども、この男の本質を彼の写真の中に見つけられるということは、僕らにとってこのうえない幸福なことと言える」。 「写真家にできることは、戦争に巻き込まれた人々を助け、一瞬でも元気を取り戻させようとし、笑わせ.....そして彼らを写真に収め、誰かが気にかけていることを知らせること」(ロバート・キャパ) 「生き残る確率が50%もあるなら、僕は迷わずパラシュートで降りて写真を撮りにいく」 「もし良い写真を撮れなかったのなら、十分に近づいていないのだ」(If your pictures aren’t good enough you’re not close enough.) 「戦場カメラマンの一番の願いは失業することだ」(I hope to stay unemployed as a war photographer) ※キャパの友人で元『ライフ』誌記者のジョン・G・モーリス「彼は《崩れ落ちる兵士》を始めとする代表作で手にした名声に苦しんでいたのだと私は思っている。彼は、名作となったそれらの作品に迫られるかのように撮り続ける他になかったのだ」。 ※弟のコーネル・キャパも写真家であり、ロバートの遺産の保存と宣伝に努めるとともに、独自のアイデンティティとスタイルを確立した。海外記者クラブは敬意を表してロバート・キャパ・ゴールドメダルを創設した。 ※ジェネレーションXという言葉は、1953年にキャパが第二次世界大戦直後に成人を迎えた若者たちについてのフォト・エッセイのタイトルとして使用したもの。キャパ「私たちはこの未知の世代を『ジェネレーションX』と名付けたが、最初の熱狂のときでさえ、私たちは自分たちの才能や懐具合では対処しきれないほど大きなものを持っていることに気づいた」。 ※『ボストン・レビュー』誌はキャパを「左翼であり、民主主義者であり、熱烈な親王党派であり、熱烈な反ファシストであった」と評している。 ※フランスのノルマンディーにロバート・キャパの記念碑がある。 ※友人に、アーネスト・ヘミングウェイ、ジョン・スタインベック、ジョン・ヒューストン監督らがいる。スタインベック「彼は多くの友人に愛されていたが、それ以上にいつも友人を愛していた」「この写真家には僕より親しい友人はいたかもしれないが、僕ほど彼を愛した者はいなかった」。 ※キャパの評伝を書いたリチャード・ウェラン「いくつかの未払い金、いくつかのカメラ、クローゼット一杯の美しい服、打ちひしがれた家族、彼と結婚したかった女性、そして彼を友人と思った数百人の人々を残して死んだ」。 ※キャパとタローの作風の違いは、キャパは動きにこだわり、タローはカメラアングルとポーズを重視した点。 ※ペール・ラシェーズ墓地にあるタローの墓は生年が1911年と誤記されている。 ※ゲルダはキャパの求婚を断っていたが、手術を担当した医師は“キャパ夫人”と認識し、記録を残している。 ※「当時の戦場写真は4×5インチのフィルムを用いて遠くから撮られた動きの乏しい写真が普通だったが、キャパは機動性と速写性を確保するため35ミリフィルムでの撮影が可能なライカを用いて戦場の中で撮影した」と長らく信じられてきた。 〔参考資料〕『ロバート・キャパ全作品展』パンフ、『20世紀と人間:ロバート・キャパ賞展』パンフ、『NHKスペシャル/沢木耕太郎 推理ドキュメント 運命の一枚“戦場”写真 最大の謎に挑む』(NHK)ほか。 〔墓巡礼〕 キャパの墓巡礼はドラマチックだった。最初に挑戦したのは2000年7月。マンハッタンの旅行案内所で、彼が眠る「アマウォーク」という土地への行き方を聞くと、「アマウォークは森林地帯にあって公共交通で行くことができない」と言われた。まだスマホもない時代であり、とにもかくにも最寄りのカトナ駅まで行くことにした。マンハッタンからメトロノース鉄道を使い2時間かけて北上。駅員さんに何かアドバイスをもらおうと思ったら、なんと無人駅だった。朝9時半、駅周辺で開いてる店は2軒しかなく、花屋さんで「アマウォークに歩いて行くと何分くらいかかりますか」ときいてみた。「君、それは無謀だ。片道4時間かかるぞ。タクシーを呼ぶしかない。…と言っても、この町にはタクシーはなく、どれくらいでやってくるかわからないが」。僕にはタクシーを使う予算がないので、ヒッチハイクを試みた。映画で見るように、「アマウォーク」と書いた紙をかかげて国道35号線の路肩に立った。そこそこ交通量があり、ダンプカーも走っている。でも30分経ってもまったく停まる気配がないので、“帽子で目が隠れて警戒されているのかも”と帽子を脱いで、目ヂカラでドライバーに訴えた。だが、1時間経っても成果はなく“怪しいアジア人に見えたのだろう”と、旅程が詰まっていることもあり、断念して次の目的地に向かった。作戦の練り直しだ。これは後日知ったんだけど、ニューヨーク州の場合、駐車場の出口や休憩所でヒッチハイクするのはOKだけど、車道でやるのはNGだった。アジア人とか関係がなかった。完全に合法な州もあるが、多くの州で追突事故を防ぐため公道でのヒッチハイクは違法であり、通報されると前科がつき、米国に再入国できなくなるおそれがあるので要注意。僕もパトカーが通ったら危なかった。 〔州単位のヒッチハイク条例〕 https://www.hg.org/legal-articles/is-it-legal-to-hitchhike-31488 再チャレンジしたのは3年後の2003年8月。この時はもうヒッチハイクをアテにせず、最初から往復8時間歩くつもりでスニーカーを履き、車にはねられないよう、目立つ黄色のTシャツを着用した。朝6時半にマンハッタンを出て、8時半にカトナ駅から歩き始めた。気合十分、曇り空で涼しく気候も味方した。しかも木の杖をゲット!ただ、トレッキングしてるように見えるので、これで100%車が乗せてくれることはなくなった。場所によっては歩行スペースが狭く、わずか30cmほど隣りを車がビュンビュン飛ばしていくので、めっちゃ怖かった。 2時間が経ち、以前、テレビで「杖は1本より2本の方が飛躍的に楽になる」と言ってたのを思い出し、木の枝をもう1本拾った。これでスキーヤーのような2本体制に。すると、ホントに嘘みたいに歩くのが楽になった!適度に休憩を取りながら歩き続け、巨大な貯水池を通過。11時をまわり、スタートから3時間が経った頃、遠くに緑の標識が見え、そこに夢にまで見た「Amawalk」の文字があった!「よかった、片道4時間って言われたけど3時間で着けた!」と胸を撫で下ろした。 だが、喜ぶのはまだ早かった。村に着いたのはいいけど事前にネットで調べた墓地「Amawalk Friends Cemetery」が見つからず、さらに1時間ほどひっそりとした村をさまよう。無人のメインストリートを歩くと、どこかの黒い番犬が狂ったように吠えながら向ってきた。こっちは体力を消耗して思うように動けず、2本の杖でなんとか追い払った。マジでビビッた。 アマウォークを端から端まで歩いても墓地は「Amawalk Hill Cemetery」しかない。「名前が情報と違うけど、他に墓地はないし…」、僕はキャパが確実にここにいるという確証がないまま入っていった。結局、駅から4時間かかったことに。最初に管理人事務所を訪れたけど無人。っていうか、もう何年も事務所は使われた形跡が自体になかった。ガーン、管理人さんに聞くことができない。 小さな村のわりに墓地の面積は広く、しかも丘の上なので登り下りが大変だった。ともかくひとつひとつの墓を調べていこう。名監督と同じヒッチコックという名前を見つけて少しテンションがあがった。…だが、1時間近く経ってもキャパは見つからなかった。時計は12時半。帰り道も3時間歩くとなると、山越え中に日が暮れると危険なので、そうそう長くこの墓地で探してもいられない。ここまできてキャパに会えずに帰るなんて…思わず涙が頬をつたった。 やがて、墓地には50歳くらいの女性が墓地に入ってきた。僕は藁をも掴む思いで駆け寄り、キャパの墓を尋ねた。杖を2本つきながらヘロヘロで突進してくるアジア人に、そのマダムは最初はひきまくっていた。名前はダイアンさんといい、彼女はキャパという人物を知らなかった。でも、キャパが戦争の悲惨さと非人道性を訴える写真を撮り続けたこと、地雷のため40歳で亡くなったこと、彼にお礼を言う為に日本からここまで来たことを説明すると、「あなた、カトナ駅から歩いてきたの?お墓参りのために!?そんなに素晴らしい人なら私もお墓を探したい」と大ハッスル。「家に帰って村一番の物知りのお婆ちゃんに電話で墓の場所を訊いてあげる」といい、僕に空のペットボトルを渡し、「墓地のポンプで水を汲んで、しばらく休憩してなさい」と言い残して車で去って行った。13時、しばらくして一台の大きなワゴン車がやってきた。運転していたのはお婆ちゃん!この人が村の生き字引なのか!?ダイアンさんが戻ってこないので僕はお婆さんと話した。 「キャパはこの墓地に眠っているのですか?」「YES、まあ、ついてらっしゃい」「うおおおお!」。お婆さんはキャパの元へ案内してくれた。ああ、これは分からない!墓地の隅っこに、まるで俗世間から隠れるように、小さな墓石がひっそりとあった! 僕が感動していると、お婆さんはこう言った。「私が知る限り、この10年でキャパを訪ねて来たのは、あなたを入れて2人だけよ」。もう一人の巡礼者は米国人だったとのこと。お婆さんが帰った後、ダイアンさんが入れ違いに様子を見に墓地へ入って来た。ぼくは大きく手を振って「ここ!ここ!キャパはここです!」と叫ぶと、ダイアンさんは何かを天に叫んで走ってきた。彼女は「サッチ・ア・ワンダフルストーリー!」を連発。2人で狂ったように手をつないで飛び跳ねた。10分後にダイアンさんの娘さんもやってきて、みんなで喜びを分かち合った。 その後、有難いことにダイアンさんは駅に向かう路線バスが出ているヨークタウンという大きな街まで、車で送ってくれた。ううっ、本当にありがとうダイアンさん!なんて良い人だったんだ。ジーン。バスの時刻表を見て「うわっ!8本しかない!」と焦ったが、ラッキーなことに10分後に14時14分発の便が来るところだった。今ならGoogleマップを見れば、キャパの墓に目印が入っているし、墓石の写真だって出てくる。このときは、墓石の形も分かっていないし、もしダイアンさんに出会っていなければ、キャパの墓を発見できずに絶望の涙に濡れながら3時間かけて夕暮れの森を駅まで歩いていただろう。普通なら一生出会うことがないはずのダイアンさんと交流できたのは、ロバート・キャパという人間がこの世にいたから。彼の存在が僕をアマウォークに向かわせた。 (ちなみに、帰りはバスを利用してもなぜか鉄道駅に着くまで1時間半かかった。遠い〜!) 2009年、マンハッタンでレンタカーを借りて再巡礼すると、前年に他界した弟のコーネルの墓が新しく建っていた。また、キャパはハンガリー人なので墓前にハンガリーの国旗があり、新たに長椅子が設置されていた。僕はキャパの墓前で6年前の思い出話を彼にした。楽しく聞いてくれていたらいいな。 2023年夏、第二次世界大戦中にキャパが上陸したノルマンディーのオマハ・ビーチを訪れた。ビーチの丘にはドイツ軍の陣地(トーチカ)跡が残り、海岸を見渡せる場所にアメリカ軍の巨大な墓地、ノルマンディー米軍英霊墓地があった。墓地の面積は70ヘクタール(甲子園球場の約18倍)で、9,387人の米国兵士の英霊が眠っている。この墓地はスピルバーグ監督の映画『プライベート・ライアン』の冒頭とラストに登場し、ライアン二等兵のモデルとなったナイランド四兄弟のうち次男・プレストン少尉と三男・ロバート二等軍曹の墓もある。ノルマンディー作戦で遺体を発見できなかったり身元が判明しない1,557名は墓地の庭園の壁に名前が刻まれ、追悼されている。 「戦争写真家の切なる願いは”失業”だ」(キャパ) |
1936年生まれ。青森出身。地雷で死んだ報道写真家ロバート・キャパの戦場写真に心を揺さぶられた沢田は、25歳でUPI通信社のカメラマンになる。東京支局で働いていたが30歳を機に自費でベトナムへ渡り、同年、最前線で戦火から逃げる母子を撮った写真が、いきなりジャーナリスト界の最高峰ピュリッツァー賞に輝く。沢田は両手をあげて喜ぶ訳にはいかなかった。題材が戦争であり、“平和で撮るネタがない”状態の方が良いに決まってるからだ。 沢田の写真はその多くが戦争の悲惨さや愚かしさを伝えており、シャッターの対象は犠牲になる弱者に向いていた。正式にサイゴン特派員に任命された彼は「寝る時間が惜しい」を口癖に、凄まじい勢いで最前線から戦争の実態を知らせ続けた。沢田は安全圏から望遠レンズで撮るのではなく、敬愛するキャパと同じく広角レンズを片手に2、3メートルの至近距離で戦争と向き合った。戦地から遠く離れた人々に現場を体感させたかったのだ。 『安全への逃避』では戦火の中逃げ惑う民衆を、『泥まみれの死』では米軍戦車に両足をロープで縛られ、死体となって引きずられていた解放軍の兵士を、『タバコを吸う負傷兵』では放心状態でカメラを見つめる若い米軍兵というように、民衆、解放軍、米軍兵と、その立場を問わず、彼のファインダーは傷ついた者すべてをとらえ、その痛ましさを世界に告発する窓となった。 「遺体をしょっちゅう見ていると、当たり前のことになる。それが怖い」。死に対して無感覚になっていく周囲の者を見て、自分がそうなってしまうことを何よりも恐れた。しかし、ピュリッツアーを受賞したことで、周囲はより突っ込んだ“刺激的な”写真を彼に期待する…。次第に沢田は無口になった。一度はUPI通信社から香港支局部長のポストを提供されるが、戦場への思い入れが強く、志願して再びベトナムに渡った。 1970年10月28日、カンボジア戦線を取材中の彼をスナイパーが狙撃した。即死だった。それから5年後にベトナム戦争が終結する。生前に沢田は同僚にこう語っていた。「おい、平和が来たら俺は人間と人間の殺し合いではなく、南ベトナムから北ベトナムまで、美しい田園風景をとことん撮りまくるぞ」。享年34歳。早すぎる死だった。 ●墓巡礼記 僕は棟方志功の墓参のために青森市の三内霊園を訪れた。そして霊園事務所の案内図を見て卒倒しかけた。「この沢田教一って、あの沢田教一!?」。憧れの人にいきなり出会い、思考停止状態に陥った。「ンだ。カメラさ撮ってる人じゃ」。緊迫した表情で確認した僕に、管理人はサクッと答えてくれた。足がガクガク震えた。なんという偶然、なんという展開!今ならネットを調べれば簡単に墓所は分かるけれど、2000年頃まではこういう偶然から巡礼できた恩人も少なくなかった。墓は霊園事務所の近くにあり、多くの人が訪れているのか、美しい花が咲き乱れていた。 ※沢田と寺山修司は高校の同級生。 |
2002 | 2009 | カメラのフィルムが供えられてた |
左の円形部分がレイ、右側は 15年後に他界した夫人の墓碑 |
夫人には“TOGETHER AGAIN(再び 一緒に)”の文字が…感動! |
米国とフランスで活動した画家・写真家で、まだ写真が芸術として低く見られていた20世紀前半に次々と質の高い実験作品を発表し、“フォト・アート”を確立させた偉大な先駆者。1920年代のパリを代表する前衛作家。 1890年8月27日にフィラデルフィアで生まれる。両親はユダヤ系で本名エマニュエル・ルドニツキーEmmanuel Rudnitsky。7歳でニューヨークに転居。高校卒業後は出版社で図案を作る ことで生活。18歳のときにニューヨークのギャラリーでセザンヌ、ブランクーシなどの作品に触れ感銘を受ける。同地の国立デザイン・アカデミーで学ぶ。 1914年(24歳)、ベルギーの詩人アドン・ラクロア(当時27歳)と結婚。 1915年(25歳)、この頃から本名を縮めて「マン・レイ(光の人)」と名乗るようになり、自作の絵を写すなど絵画表現に写真のメカニズムを持ち込むために写真機を購入。同年秋、初の絵画個展を開く(最初の個展は1912年説あり)。 1916年(26歳)、絵画『綱渡りの踊り子は影を伴っている』を制作。 1917年(27歳)、フランスの画家マルセル・デュシャンやフランシス・ピカビアらと「ニューヨーク・ダダ」の結成に参加。デュシャンに影響を受け、ガラスにエア・ブラシで絵を描くなど、新しい素材や技法の探究に乗り出す。 1919年(29歳)、妻アドンと別居。 1920年(30歳)、キネティックアートの最初期の作品の1つ、デュシャンのロータリーガラスプレート(モーターで回転させたガラス板)の制作を手伝う。 1921年(31歳)にデュシャンの後を追ってパリへ移住し、アンドレ・ブルトンのシュルレアリスム運動に参加して、その中心人物の一人となる。オブジェ『贈り物』を制作。写真表現の可能性に関心をよせ、印画紙の上に直接物をおいて感光させる「レイヨグラフ」を考案。同年、デュシャンと共に「ニューヨーク・ダダ」誌を創刊(1号限り)。モンパルナスで歌手・モデルのキキ(当時20歳/1901-1953)に出会い恋に落ち、同棲を始める。フランスでは職業的な写真家として成功をおさめ、ファッション雑誌などに写真が掲載されるようになる。キキはレイの写真によって知名度があがり“モンパルナスの女王”となった。 1923年(33歳)、シュルレアリスム運動の中でカメラを使用しないコラージュ風の前衛映画に挑み、アニメーションテクスチャ、レイオグラフ、キキの身体で構成した映画『理性への回帰(Le retour la raison)』を制作。 『理性への回帰』 https://www.youtube.com/watch?v=dNYhgcV3o-E (3分) 1924年(34歳)、キキの身体をヴァイオリンに見立てた写真『アングルのバイオリン』を制作。 1925年(35歳)、第1回シュルレアリスム展にピカソ、ミロ、クレー、マックス・エルンストらと参加。 1928年(38歳)、ロベール・デスノスの詩を映像化した『ひとで(L'toile de mer)』を制作。 『ひとで』 https://www.youtube.com/watch?v=csEDMzs3SXo (15分) 1929年(39歳)、キキと別れてヴォーグの人気モデルでのちに戦場ジャーナリストとなるリー・ミラーを弟子兼愛人にし、3年ほど交際する。リーの唇は絵画『恋人たち』で空に浮かんだ。 1937年(47歳)、妻アドンと正式に離婚。 1939年(49歳)、第2次世界大戦が勃発。 1940年(50歳)から46年まで、ナチスの迫害を避けて米国に戻り、ハリウッドに滞在。カリフォルニアで写真技法を教えた。 1946年(56歳)、ジュリエット・ブラウナー(当時35歳/1911-1991)と再婚。結婚式はマックス・エルンスト夫妻と合同で挙げた。 1951年(61歳)に再びパリに渡り以後は定住する。その後、カラー・プリントの新技法に挑み、1963年(73歳)には自伝「セルフ・ポートレート」を出版した。 1969年(79歳)、桃を箱に入れたボックスアートの『ペシャージュ』を作成。 1976年11月18日にパリにて86歳で他界。 写真、絵画、彫刻、映画、ブック・デザインなど多彩な活動を行い、多くのシュルレアリストを被写体にしたポートレートも残す。特に写真では、マン・レイ自身が考案し命名した「レイヨグラフ」「ソラリゼーション」など実験的な技法をを用いて新しい芸術表現の可能性を切り開き、前衛写真の先駆者となった。また、彫刻家ブランクーシに写真の技術の手ほどきをした。オブジェの一部が動くキネティック・アート創始者の一人。 墓はパリのモンパルナス墓地にある。墓碑は左の円形部分がレイ、右側は15年後に他界したジュリエット夫人。マン・レイの墓碑には「Unconcerned, but not indifferent」(無頓着、しかし無関心ではなく)と刻まれている。夫人の方には2人の写真がはめ込まれ、「TOGETHER AGAIN(再び一緒に)」の文字が彫られており感動的だ。写真家として知られていることから、2009年の巡礼時にカメラのフィルムが墓前に供えられてた。 「歴史に門を閉ざすことは出来ない。歴史は戸を蹴破っても進入してくるからだ。時流に乗らなければならない。いや、それ以上に歴史を先取りしなければならない。ゆっくり歩いていてはいけない。走って歴史を迎えに行け」(マン・レイ) |
赤樂茶碗 銘『夕暮』 | 黒樂茶碗 銘『俊寛』 | 赤樂茶碗 銘『道成寺』※釣鐘型! |
左から、宗入、道入、長次郎、常慶、一入。 中央の長次郎だけひとまわり大きい! |
ズラリと並んだ樂家代々の墓。壮観ッ! 全部で17基あった。 |
キューン!墓はこんなに ちっちゃい(十六茶を持参) |
5年ぶりに再訪!(2008) | 墓前の小さな卒塔婆(札)には当代の「楽吉左衛門」の文字があった! |
楽焼(らくやき)の始祖。楽焼は茶の湯の世界で「一楽、二萩、三唐津」と萩焼や唐津焼を抑えて最高度の評価を受けている。朝鮮半島の帰化人の子として生まれ、信長、秀吉に仕えた。姓となった“樂”は、桃山を代表する名建築で秀吉の邸宅だった「聚楽第(じゅらくだい)」に由来しており、当初の楽焼が「聚楽焼」と呼ばれたのはそのためだ。長次郎は秀吉から楽の金印を賜ったという。
陶工・長次郎の人生を変えたのは、茶の湯に侘(わ)びを求めた利休との出会い。「表面の形式より精神を重んじるべし」という利休の思想に深く共鳴した彼は、人間としての成長を茶の湯に求めた利休哲学を完璧に造形化し、黒色赤色の2種の楽茶碗を50代に生み出した。 軟質陶器の楽焼で使用される土は80年以上も寝かされた(乾燥した)特別な土。その粒が細かくなった土を使って、急熱急冷で焼く。この焼き方の陶器は熱の伝わり方が遅く、手を湯の熱さから守ると同時にお茶が冷めにくい。 樂焼はその性格上、華美な装飾を嫌い、渋みと重厚さを重んじるけど、ロクロを使わない手びねりという製法が、シルエットをえも言われぬ優しいものにしている。手に取ればとても軽く、厳粛なたたずまいの内にも、両手の中で陽だまりの土のぬくもりを感じさせる。 一般の工房では制作コストを下げる為に一度に数百個を焼くのが普通だけど、長次郎は巨大な窯(かま)による大量生産に背を向け、ひとつの窯で焼く茶碗は一品のみという「一碗一窯」のポリシーを貫いた。このこだわりが、気迫のこもった多くの傑作を誕生させた。花瓶やお皿、壺は造らず、ひたすらストイックに利休の求める茶碗を生み続けた長次郎は、「単なる食事の為の器」ではなく、「茶の湯の為の芸術作品」という新たな陶芸世界を作り上げたんだ! 長次郎から400年を経た現在の樂家は15代目。ここまで長い歴史を持つ陶芸一家は他に存在しない。歴代の樂家は、初代長次郎、2代常慶(じょうけい)、3代道入(俗称のんこう、初代に次ぐ名匠)、4代一入(いちにゅう)、5代宗入、6代左入、7代長入、8代得入、9代了入、10代旦入、11代慶入、12代弘入、13代惺入、14代覚入、15代(当代)吉左衛門。樂家では代を子どもに譲るまでは吉左衛門を名乗る。また、樂家は精神&技術の停滞を避ける為に、親子間でも技を伝えないという。歴代の樂家は、各々が生きた時代の中で真摯に世界と向き合い、独自の美意識を追求してきたんだッ! 僕が好きな長次郎の5大作品は、グラデーションの美しい赤樂茶碗・銘『夕暮』、深い精神性をたたえた漆黒の黒樂茶碗・銘『俊寛』、伏せると釣鐘のような赤樂茶碗・銘『道成寺』、上部が四角形、下部が円形という、遊び心が楽しい黒樂茶碗・銘『ムキ栗』、柔らかな曲線が見ているだけで穏やかな気持ちになる赤筒(あかつつ)樂茶碗・銘『白鷺』。 ※楽家直系を本窯、直系以外で楽焼の製法をマスターした本阿弥光悦などは脇窯、別窯という。 ※京都にある樂美術館では毎月第一土曜、日曜日に、歴代当主の作品を直接手に取って鑑賞出来る「樂茶碗観賞会」が開催されている。学芸員の解説付きなので初心者にはとても勉強になります。本物の茶会のように温めた状態で鑑賞させてくれる配慮も嬉しい。 |
『色絵梅花図平水指』(重文) | 『色絵鱗波文(いろえうろこなみもん)茶碗』 | 『色絵七宝繋文茶碗』 |
梅の老樹を側面にドーンと描き、紅梅の部分 部分に金・銀の花を混ぜて変化を与えている |
能装束のような絵柄が描かれた、雅の極みのような茶碗ッ! |
このモダンなデザイン・センス! |
『色絵牡丹文(もん)水指』 | 『色絵月梅図茶壺』(重文) | 『吉野山図茶壺』(重文) | 『色絵藤花紋茶壺』(国宝) |
窓絵の構図が斬新!牡丹も見事 |
まろやかな曲線ラインにウットリ | 金銀の桜が咲き乱れる吉野の山々 | 仁清の色絵陶器はホント美しい! |
『色絵雉(きじ) 香炉』(国宝) |
キジはそれぞれ上下に分かれ、中にお香を入れて炊く。煙は背中の穴から 出てくる。雄(右)が国宝、雌(左)は重文。両方とも国宝でいーじゃん! |
妙光寺は歴史のある寺。南朝と縁が 深く、2度も三種の神器が安置された |
俵屋宗達の「風神雷神図屏風」は妙光寺から建仁寺に 移された。墓所は境内の奥にあり、朱色の門が入口だ |
このように赤い門をくぐって墓所に入ったのは ここだけ。旅立ちが明るいものに思える |
中央の小さな墓石が仁清。苔むした墓地だ。 仁清の墓は西向き(2002) |
8年後に再訪。砂利が敷かれるなど整備され、 同じ場所じゃないみたい。墓も南向きになってた |
「仁清之墓」と書かれたシブい木札。これは変化なし(2010) |
花入れの裏に水鉢(2002) | 墓石と花入れの間に空間ができた。戒名は「吟松庵元龍恵雲居士」のようだ(2010) |
江戸前期の京焼の名手。卓越したデザイン・センスを持ち、神のような手で優美な作品世界を作り上げた。丹波国野々村の出身。通称野々村清右衛門。12歳頃からロクロを回し始め、茶の湯ブームに湧き立つ京に出る。東山の粟田口(あわたぐち)で腕を磨いた後、より高度な技を求めて高級茶碗の産地瀬戸(愛知)に移り住み、さらに修業を積んだ。都に戻った仁清は、唐物や高麗など海外の優れた陶器の“写しもの”(レプリカ)を制作していたが、宮中へ出入りしていた茶人・金森宗和と出会い、洗練された宮廷文化と、その美意識に新たに触れる。宗和のアドバイスで仁清の優雅な作風が形作られていった。 1647年(34歳)頃、京都洛北の御室(おむろ)・仁和寺門前に窯を開く。この当時、素地の陶器は吸水性が高くて色彩を施すのは困難と言われていたが、仁清は苦心して半透明で柔らかな肌合いの釉薬(ゆうやく、うわ薬)を調合し、この「仁清釉」をかけて下地を作り、そこに鮮やかな色をのせていった。仁清は1世紀前の桃山時代に利休&長次郎が確立した、「侘びさび」の渋い陶器と全く異なる、華麗できらびやかに彩色された王朝風の色絵陶器を生み出した!これらは「綺麗さび」と呼ばれ、どれも作品世界は非常に明るい。仁清は本来生活道具としての実用的な陶器を、眺めて楽しむ陶器へと画期的に変えた。 開窯から10年を経た頃に色絵陶器の技術を完成させた彼は、仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」をあわせて「仁清」と名乗り、全ての作品の底に「仁清」の印を押すようになる。約半世紀前に本阿弥光悦が日本で最初に自分の名を“茶碗の箱”に記したが、仁清は初めて名前を“直接作品に”刻んだ陶芸家となった(今、陶器の底に作者の印があるのは仁清が始めたから)。 仁清はまた、色絵だけでなくロクロの技術も天才的で、高さ40cm近くの大型陶器でも均一の厚さでつくり上げた。そして最も驚異的なのはその薄さ!仁清は従来の厚手の陶器とは異なる、誰も真似できないような極限まで薄手の陶器を成形した。だから大ぶりの茶壷でも非常に軽い。薄さは繊細な印象を与え、まろやかな曲線ラインが見る者の心を溶けさせる。 一大ブームとなった彼の色絵陶器は「仁清手」(にんせいで)と呼ばれ、その結果、“写しもの”が中心だった京都の各窯は、優雅な色彩の色絵陶器(現在「古清水」と総称されている)が主流になったのみならず、他の産地の作風にまで影響を与えた。 金銀を巧みに使い、ゴージャスなのに派手に走らず、あくまでも上品で雅(みやび)な茶碗や茶壺。仁清の印が押された陶器はどれも、諸大名や貴族、豪商たちにとって、垂涎の名品となった。 ※優雅さや艶やかさが特徴にあげられる仁清だが、作品からはにじみ出てくる優しさがあることも付け加えておく。 仁清が眠る妙光寺は村上天皇陵の隣にある。この寺は南北朝時代に、後醍醐天皇が三種の神器を持って隠れ住んだほど歴史のある名刹だが、現住職が来るまでは、長い間無人の荒れ寺だったという。実際、僕が2002年に訪れた時は、山門に寺の名前も掲げられてなかった(住職さんはご自分で畑を耕して糧としておられるとのこと)。山門を自分で開けて本堂に向かうと、境内右奥の竹やぶに沿った道の先に朱塗りの門がある。そこを入って道なリに進んでいくと、どん突きにこじんまりとした墓地がある。仁清の墓は奥の方だが「仁清墓」の立札があるので分かりやすい。彼の墓石は驚くほど小さく、膝ほどの高さしかなかった。仁清は時代の寵児になったにもかかわらず、晩年の様子も、没年もハッキリ分かっていない。文字通り彗星のように現れ、珠玉の作品を残して消えていった。 ※現存する仁清の作品のうち、2点が国宝に、16点が重文になっている。 ※従来は無地の茶壺に銘(名前)を付けて膨らんだイメージを楽しんだが、仁清は意欲的に美しい絵をどんどん描き付け、新たな楽しみ方を示した。芸術家として過去の真似ばかりしてられないという自負心か。 ※43歳頃に宗和が没してからは、よりカラフルな色絵(赤絵)が中心になっていく。 ※尾形乾山も金森宗和の弟子であり、仁清の後を継ぐ形で、御室で作陶した。仁清の息子は後に乾山の養子となり、二代目尾形乾山と称した。 |
京都生まれ。工芸家、書家、陶芸家、画家、出版者、作庭師、能面打ち、様々な顔を持つマルチ・アーティスト。優れたデザイン・センスを持ち、すべてのジャンルに名品を残した日本のダ・ビンチ。特に書の世界では近衛信尹、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」の1人に数えられ、光悦流の祖となった。 生家の本阿弥家は京の上層町衆。足利尊氏の時代から刀剣を鑑定してきた名家だ(主なパトロンは加賀の前田利家)。刀剣は鞘(さや)や鍔(つば)など刀身以外の製作工程に、木工、金工、漆工、皮細工、蒔絵、染織、螺鈿(貝細工)など、様々な工芸技術が注ぎ込まれており、光悦は幼い時から家業を通して、あらゆる工芸に対する高い見識眼を育んでいった。その後、父が分家となり家業から自由になった光悦は、身につけた工芸知識を元に、好きで勉強していた和歌や書の教養を反映した芸術作品を創造するようになった。 やがて40代に入った光悦は、才能があるのに世に出る機会に恵まれない1人の若手絵師、俵屋宗達と出会う。1602年(44歳)、光悦は厳島神社の寺宝『平家納経』の修理にあたって宗達をチームに加え、彼が存分に実力を発揮できる晴れの舞台を提供した。宗達は見事期待に応え、この後『風神雷神図屏風』など次々と傑作を生み、30年後には朝廷から一流のお墨付き(法橋)を授かるほど成長した。 ※後年、宗達は若い頃を「光悦翁と出会わなければ、私の人生は無駄なものに終わっていただろう」と回想している。 |
『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』(重文)※これはほんの一部です |
そして50代になった光悦は俵屋宗達との“合作”に取り組み始めた。天才と天才の共同制作。それが『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』だ。光悦は時の将軍徳川家光に「天下の重宝」と言わしめた書の達人。彼は三十六歌仙の和歌を、宗達の絵の上に書こうというのだ。この大胆な提案を引き受けた宗達は、目を見張るほど無数の鶴を、約15mにわたって筆先で飛ばせ、これを華麗に対岸に着地させた。宗達からの“挑戦状”(下絵)を受け取った光悦は、どこに文字を置けば最高度に栄えるのか、最適の文字の大きさはどうなのか、書が絵を活かし、絵もまた書を活かす、これしかないという新しい書を探求した。そして!後に「光悦流」と呼ばれる、従来の常識を打ち破った、極限まで装飾化した文字がほとばしった!光悦の筆から生まれた文字は、時に太く、時に細く、ここでは大きく、そこでは小さく、あたかも音楽を奏でる如く、弾み、休み、また流れていった。文字を超えて絵画となった新しい「書」だった。型破りな2人の天才のセッションが完璧に調和したのだ。 |
1615年、大坂夏の陣の後、光悦の茶の湯の師・古田織部が豊臣方に通じていたとして自害させられる。そして57歳にして光悦の人生に大きな転機が訪れた。徳川家康から京都の西北、鷹ヶ峰に約9万坪の広大な土地を与えられたのだ。師の織部に連座して都の郊外へ追い出されたとする説もあるが、いずれにせよ光悦は俗世や権力から離れて芸術に集中できる空間が手に入ったと、この事態を前向きに受け止め、新天地に芸術家を集めて理想郷とも言える芸術村を築きあげようとした。以後、亡くなるまで20年強この地で創作三昧の日々を送る。 光悦の呼びかけに応えて、多くの金工、陶工、蒔絵師、画家、そして創作活動を支える筆屋、紙屋、織物屋らが結集し、彼はこの「光悦村」の経営と指導に当たった。文字通り、日本最初のアート・ディレクターだ。有志の中には尾形光琳の祖父もいた。風流をたしなむ豪商も住み、村には56もの家屋敷が軒を連ねていたという。光悦の友人は、武士、公家、僧など広範で、宮本武蔵も吉岡一門との決闘前に光悦村に滞在している。 茶の湯も大いに賑わい、それに関連して光悦は今まで以上に熱く陶芸(茶碗づくり)に力を入れてゆく。 |
赤樂茶碗 通称『加賀光悦』 | 国宝の『不二山』 | 黒樂茶碗 銘『雨雲』 |
紅蓮の炎! | 雪を戴く富士! | 雨雲から降り注ぐ! |
作陶は楽焼の2代常慶、3代道入から指導を受け、ロクロを使用せず手とヘラで整えた手びねりで制作した。本職の陶芸家ではなく外野から参加している分、自由な発想で個性あふれる茶碗を生み出した。革命的だったのは、光悦が茶碗の箱に自分の署名を入れたことだ!制作者が名を刻んだのは日本陶芸史上初めてのことだった。それまでは陶芸家でさえハッキリと茶碗を芸術作品とは認識していなかったのを、光悦が名前を入れたことで、茶碗を通して作者の自我を主張できるようになったんだ。現在国産の焼き物で国宝に指定されているのは2つだけ。その1つが光悦の銘『不二山』だ。雪を冠した富士のような景色からこの名が付いた。他にも『雨雲』『雪峰』『時雨』『加賀光悦』などの傑作茶碗を後世に残した。 |
『船橋蒔絵(まきえ)硯(すずり)箱』(国宝) |
硯箱の表面に書かれた文字は『後撰和歌集』の源等(みなもとのひとし)の歌「東路(あづまぢ)の佐野の船橋かけてのみ 思ひ渡るを知る人のなき」“東国佐野に長い舟橋(舟と舟に架かる橋)が架かっているように、あなたをずっと想い続けているのにちっとも気づいて下さらない”。ただし遊び心でわざと「東路乃 さ乃ゝ“ ”かけて」と、途中の「舟橋」の言葉が抜かれている。そのかわりに舟橋そのものを箱に描いている心憎い演出だ。下地に波を描き、そこへ並んだ小舟を彫り、その上に鉛の板を橋に見立てて配置している。丸々と盛り上がった蓋のデザインも斬新だ。古典文学と硯箱のコラボに光悦の“キマッタ!”という満足気な顔が見えそうな逸品だ。 |
日本のダ・ビンチ、光悦の墓 | 色紙帖『薄(すすき)に月図』 | 『山姥』 |
洛北の鷹ヶ峰は静かで落ち着く良い場所だ。芸術村に あった彼の屋敷の跡が、そのまま光悦寺になっている。 美しい庭の外れに眠っていた。※千葉県市川に分骨あり |
これも光悦筆・宗達画のコラボ。半月は銀色 だったのが、今は酸化して黒ずんで残念。 当初は手前のススキが浮かびあがっていた |
能面も打った! |
光悦は平安朝から続く伝統文化を深く愛し、それをベースに様々な創意工夫を加えて新しく甦らせた。従来の蒔絵(まきえ、漆を塗って金銀粉を蒔いたもの)についても、見た物をそっくりに描いて「ハイ、おしまい」ではなく、対象となった物をデザイン化して再構成したり、文字を絵の一部として装飾化して加えるなど、変幻自在にスタイルをかえた。その斬新な造形感覚は他に比類のない独自のもので、屏風、掛軸、うちわ、本の表紙など各種生活実用品まで多岐にわたって創作の対象とした。装飾を凝らした日用品を創ることで、光悦は美術品を観賞用ではなく、生活道具の一部として暮らしに密着させようとした。光悦村が美術史の中で日本のルネサンス(文芸復興)の地と呼ばれる由縁だ。そして特筆したいのは、そこに軽妙な遊び心があったこと。この明るさがまた人々を惹きつけた。 光悦は宗達と共に琳派の創始者となり、その精神は半世紀後に尾形光琳に受け継がれていく。光悦が日本文化に与えた影響は計り知れない。享年79歳。 ※光悦は名器(瀬戸の茶入れ)の購入の際、相手が値引きしようとしたのを断って、あえて言い値で買い取ったという。芸術家として、鑑定家として、自分がその価格に見合う真に価値ある作品だと思えば、それを値切ることは作者への冒涜だと思ったのかもしれない。 ※本阿弥家は法華経の有力信徒。光悦村そのものが法華経信徒の牙城となった。 ※1604年(46歳)から2年をかけ光悦の書を版下にした『方丈記』『徒然草』『伊勢物語』などが出版された(嵯峨本と呼ばれる)。 |
【おまけ】“弘法も筆の誤り”というが光悦も間違うことがある。冒頭の『鶴下絵』をよく見ると、宗達の絵に 見とれ過ぎたのか、柿本人丸(麻呂)と書くべきところを、“柿本丸”と書いてしまった。墨なので 消すわけにもいかず、“柿本丸”の隣に申し訳なさそうに薄く“人”と付け加えられている。かわいい! |
さび絵滝山水図茶碗 |
幼名権平、本名深省。京焼きの名手。京都の高級呉服商の家に生まれる。天才絵師・尾形光琳は5歳年上の兄。派手好きで女性関係も賑やかだった光琳に対し、弟の乾山は物静かで読書が趣味。隠遁を好み生涯独身だった。キャラが正反対の兄弟だが、終生支えあい仲が良かった。1687年、24歳の時に父が他界し、息子たちは莫大な遺産を継いだが、光琳の経済観念はゼロ。みるみる資産は減少していく。しかも1693年(30歳)には金を貸していた大名に債権を踏み倒され回収不能になり、光琳は弟に金を借りに来る始末。「兄上は根本的に生き方を変えないと、このままでは兄上の為にもならない」と乾山は手紙をしたため、自身はそれまで趣味で習っていた陶器づくりを商売とする為に、本腰を入れて野々村仁清に陶法を学び、1699年(33歳)、仁和寺近くの鳴滝に自分の窯を構えた。そこが京都の乾(いぬい、西北)の方角になることから乾山の号を名乗った。弟が自立した姿を見て兄の光琳も絵筆で立つ決心をし、2年後に作品を発表し始めた。 1712年(49歳)、窯を開いて16年。郊外で焼いているだけでは生活が苦しくなり、焼き物店を出す為に街の中心へ居を移し、再出発を試みる。これに呼応するように数年前から江戸に出ていた光琳が戻って来て、乾山の作品に名声のある光琳が絵付けをするようになった。ここに兄弟合作、黄金タッグによる多数の傑作が誕生した!今度は兄が弟を手助けしたんだ。描かれた絵は、笑顔の七福神など楽しげで微笑ましいものが多い。乾山は兄の死後も30年近く生き、70歳頃から江戸に上がって筆を握り、文人趣味の優れた書画などを残した。 ※二代目尾形乾山…野々村仁清の息子が初代乾山の養子となり二代目を名乗る。乾山の名はその後も受け継がれ、現在は8代目乾山(山本如仙)を数えている。
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名刀と言えば正宗! | 国宝の名刀“相州正宗” |
数々の名刀を生み出した正宗の供養塔 | 2005 | 2009 |
びっくり!最初の巡礼時には、冒頭に載せた墓石が正宗のお墓と思っていた。ところが再巡礼の際に 住職さんに確認をとったところ、それはあくまでも供養塔で、本物は本堂裏の墓地にある“卵形”の 墓とのことだった! 向かって右が正宗、左が子の貞宗。この墓には今も子孫が墓参に来ているそうだ |
本覚寺の境内では名物の枝垂れ桜が満開だった! こりゃ、良い時期に訪れたなぁ。本覚寺は鎌倉駅から 歩いてスグ。日蓮上人の分骨が納められている |
本名、岡崎五郎入道正宗。天下一の名刀を生み出した伝説の刀匠。日蓮(法華経)と正宗は同時代の人物で、日蓮に帰依していた正宗は、「正しい宗教」=「正宗」という名を日蓮に付けてもらったという。国宝となっているのものは刀4口、短刀5口。鎌倉の正宗の屋敷跡に刃稲荷(やいばいなり)が建っている。 今でも正宗の弟子の子孫(24代目)綱廣が鎌倉駅北側に『正宗孫刀剣鍛冶綱廣』という鍛冶屋を開いており、“正宗”の文字が刻まれた包丁や鋏を購入できる。 |
【豆知識】現在の銃砲刀剣登録規則…刃渡り60cm以上が太刀(刀)、30cm以上60cm未満を脇指、30cm以下ものを短刀と呼ぶ。 |
エッフェル家の廟(2002) | いつまで見ていても見飽きない美しさ(2009) |
セルフ・ポートレート | 仏像、昭和の子ども達、労働者、“日本”をフレームに収めた |
車椅子になってもカメラを離さなかった | 育て上げた弟子の数も多い |
「史蹟 左甚五郎利勝墓所」 高松市内の地蔵寺から道路拡張で四国村に移設された |
墓石の側面に「初代左甚五郎利勝」とある |
「甚五郎の彫った鯉が泳いだ」「鶴が飛ぶので足に鎖をした」「竹の水仙を水にいけると花が開いた」など、その天才ぶりを伝える逸話が各地に残る。播州明石出身。子供時代に父をなくし、飛騨高山の伯父宅に身を寄せる。13歳で京都伏見禁裏大工棟梁・遊左与平次に弟子入り。1619年(25歳)、江戸に上ってさらに腕を磨き、堂宮大工棟梁として名を馳せる。ところが江戸城改築に関わったところ、西の丸地下道の秘密保持のために口封じで殺されそうになる。甚五郎は刺客を返り討ちにしたが、1634年(40歳)、ツテを頼って讃岐高松藩主・生駒高俊のもとに逃れた。1640年(46歳)、京都にて禁裏大工棟梁を拝命、芸術家として最高栄誉となる官位“法橋”を朝廷から受ける。2年後に高松藩の大工棟梁となり1651年に他界。享年57歳。“左”の由来は、嫉妬した大工に右腕を斬られた説、左利き説、“飛騨の甚五郎”が訛った説など色々ある。
【伝・左甚五郎の作品】
日光東照宮の眠り猫(栃木県日光市) 上野寛永寺の竜(東京都台東区) 秩父神社の“つなぎの龍”(埼玉県秩父市) 妻沼聖天山・歓喜院(埼玉県熊谷市) 国昌寺(さいたま市緑区大字大崎) 安楽寺(埼玉県比企郡吉見町) 淨照寺(山梨県大月市) 誠照寺の山門、駆け出しの竜、蛙股の唐獅子(福井県鯖江市) 鯉山の鯉(京都・祇園祭) 北野天満宮の透彫(すかしぼり)(京都市) 豊国神社の竜の彫り物(京都市)
石清水八幡宮(京都府八幡市)
成相寺(京都府宮津市) 圓教寺の力士像(兵庫県姫路市)
加太春日神社(和歌山県和歌山市加太) 出雲大社の八足門、蛙股の瑞獣、流水紋(島根県出雲市)
※変わったところでは京都・知恩院の御影堂天井に甚五郎が置き忘れた「忘れ傘」というのもある。 |
一両編成のかわいい長良川鉄道 | 『円空入定塚』。死期を悟りここで自ら土中に入った | 即神仏となった塚の前には美しい長良川 |
12万体も仏像を 彫りまくった |
この山中に円空の墓が…! |
お菓子のカールのように曲がったお墓! 円空らしい素朴でユーモラスな墓だ |
“円空上人”と読める (すごい蚊だった) |
江戸時代前期の天台宗の僧。岐阜県生まれ。奈良の大峯山(おおみねさん)で修行した後、生涯に12万体の仏像を彫るという大願を立て、各地を遍歴しながら仏像を彫り上げていった(青森にまで足跡がある)。仏像を通して民衆を救済した“今釈迦”。個性豊かで鋭さの中にもユーモアがある独自の造形は「円空仏」と呼ばれ、数千体の木彫り(一刀彫)の作品が見つかっている。円空は仏像を彫った時に出た木の破片(削りカス)からも、さらに小さな仏像を彫った。岐阜県内だけで千体以上も残っている。晩年、円空は生きながら土中に入る。空気を送る竹筒からは読経の声が聞こえ、やがて静寂が訪れたという。 ※手塚治虫の傑作『火の鳥・鳳凰編』のモデル。 |
伊賀水指 銘「慾袋」 でっぷり感が“慾”袋(笑) |
半泥子のひょうひょうとした 作風を多くの人が愛した |
志野茶碗 銘「赤不動」 すごい迫力! |
川喜田家は地元の名士。一族の墓所の 向って右端から3番目が半泥子の墓 |
遺言通り半泥子の骨は母がわりの祖母と同じ墓に納められた。 死後50年も経ってないのに江戸時代の墓並に古くて驚いた! |
「東の魯山人、西の半泥子」と称された川喜田半泥子。生家は伊勢の豪商・川喜田久太夫家。創業が寛永年間の木綿問屋で半泥子は16代にあたる。本名、川喜田久太夫政令(まさのり)。生まれてすぐに両親と別れ1歳で家督を継ぐ。祖母が母代わりに半泥子を育て上げた。百五銀行の頭取、三重県議会議員など要職を歴任する一方で、陶芸、書画、俳句など茶文化に通じた文化人。才能のある陶芸家を経済的に支援しながら、本阿弥光悦や尾形乾山など桃山陶芸をリスペクトするあまり、1933年(55歳)に自分の窯を築き生涯に3万5千個以上を焼き上げた。 半泥子は“趣味の道楽焼き”を自認しており、師匠もおらず、号も半泥子の他に「莫加野廬(やろう)」「鳴穂堂主人」「無茶法師」「反古(ほご)大尽」など奇天烈なものを使った。※半泥子の意味は「半ば泥みて半ば泥まず」。何事もほどほどに、ということ。 作品に付けた銘も「昔なじみ」「おらが秋」「ねこなんちゅう」「すず虫」「むかし話」など実に楽しい。美濃、楽、志野、織部、萩、なんでもありの、“素人”ならではの枠に囚われない大胆かつ自由奔放な作風が多くの人を魅了している。そのおおらかさに癒されるのだ。 ※戒名は『仙鶴院半泥自在居士』。この“自在”という言葉が半泥子らしくていいね! ※半泥子の肩書きを陶芸家と書いたけど、それが本職というわけじゃないので広い意味での芸術家が正しいデス。っていうか、半泥子は生前に茶碗をひとつも売ったことがなく、人にあげたり普通に自分の茶会で使っていた。 |
多くの名庭を設計した名僧 | 美しい西芳寺の苔庭(画像元・ウィキペディア) |
疎石が開いた臨川寺に眠る(写真のお廟の地下)。非公開だけど腰をかがめると格子の間から墓石っぽいのが見えた |
室町前期に活躍した臨済宗の名僧で、禅精神を現した庭の設計にも天才的な才能を発揮した。西芳寺(苔寺)と天龍寺庭園はその代表的名庭。道号が夢窓、法諱が疎石。三重県生まれ。1283年、8歳で山梨・平塩山寺に出家。18歳で東大寺にて受戒するも進路に迷い道場で瞑想。その際夢の中で見知らぬ老人に疎山と石頭の両寺へ案内され、禅宗の開祖・達磨大師の画を授けられたことから禅宗に進む。京都建仁寺、鎌倉の円覚寺、建長寺、万寿寺など名刹で学び、1305年(30歳)、浄智寺で印可(いんか、悟りの証明書)を授かる。これを受け、かつて夢に登場した寺から1字ずつとり疎石と名乗った。しかし、仲間の僧から印可を嫉妬され師に悪口を吹き込まれたことから名声争いに嫌気がさし、幕府のお膝元・鎌倉を離れて、美濃、土佐、相模、上総など各地の庵に隠居し、若い僧たちの指導に務めた。 だが、世の中と距離を置こうとするほど逆に“地位を求めぬ名僧”と噂になり、1325年(50歳)には、とうとう後醍醐天皇から懇請を受けて京都・南禅寺住職となる。54歳、鎌倉幕府第14代執権・法条高時の依頼で円覚寺住職となり禅を教え、翌年に甲斐で恵林寺(後の武田家の菩提寺)を開く。1333年(58歳)の鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇の招きで上洛し、60歳で嵯峨・臨川寺(りんせんじ)の初代住職となった。疎石は教育者としても大いに人望を集め、この臨川寺は京都を代表する五山派中の最大門派となった。南北朝の戦いを制した足利尊氏もまた疎石を尊敬していたため、室町幕府が開かれた後も足利家の内紛調停に一役かった。尊氏は疎石の薦めで後醍醐天皇を弔う天龍寺や、戦死者を慰霊する為の安国寺を建立。疎石は各地の禅寺に名庭を残し76歳で人生を終えた。7人の天皇から国師号(朝廷が高僧に贈った称号)を授かり夢窓国師とも呼ばれる。 ※甥の春屋妙葩(みょうは)は京都相国寺を開創。 |
中央の大きな木の下、壁沿いに眠る | 墓碑銘 | この壁の下の花が彼の墓 |
“森の墓地”は墓地の暗さはゼロ! | アスプルンドの墓の側の大きな十字架 | 世界遺産指定!“調和”という言葉しか見つからない |
北欧近代建築の礎を築いたスウェーデンの天才建築家。洗練されたデザインと自然回帰の思想は、アールトなど20世紀の北欧の建築家に絶大な影響を与えた。 アスプルンドは自身が設計した「森の墓地」(スコーグスシュルコゴーデン)に眠る。この墓地はストックホルムの南に位置し、「死者は森に還る」という北欧の死生観を そのまま映したような墓地であり、20世紀以降の建築物の中では世界遺産の登録第1号に選ばれたという伝説の墓地だ。 自然の景観を生かした設計が静謐な美しさをたたえており、アスプルンドがストックホルム市の共同墓地として主に設計を担当し、1917年着工、1940年に完成した。 100ヘクタールを超える国内最大規模の敷地内に森林が広がり、その木立に個々の墓が溶け込んでいる。 |
“大人の事情”でボカシます |
美しく機能美を備えた“北欧デザイン”で世に知られた、フィンランドを代表する建築家&デザイナー。冷たいイメージのあるモダニズム全盛の中で、木や曲線をデザインに取り入れた。彼のガラス器は“アールト・ベース”として、今も高い人気を持つ。 |
ダンディなコルビュジエ | 『サヴォア邸』ウィキペディアより |
無人駅から出発。コートダジュールと いっても都会から離れるとすぐ田舎に |
店主「墓地は山の上だから子連れでは無理」 村の売店でタクシーを呼んでもらった |
タクシーは別の街から来るので高かった(汗) 若い頃なら徒歩で登ったなぁ |
「うおお!墓地の門から地中が見える!」 | ひょえ〜、ここはもう天国ですか!? | こんなに景観の良い墓地は始めてかも |
コルビュジエここに眠る | 墓石の隣には植木鉢があった | 晩年はこの村に住んでいた |
海と夕陽のような絵が墓石に | 「コルビュジエさん、めるしー」4歳のソウルトーク | 同じ墓地の壁際に詩人イエーツの旧墓 |
スイス出身のフランスの建築家。近代建築の祖。フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、グロピウスと共に近代建築の四大巨匠とされる。住宅建築から都市計画まで機能的合理主義に立った現代建築を主導。本名Charles Edouard Jeanneret-Gris。代表作にポワッシーのサボア邸、ロンシャンの礼拝堂など。 |
宝飾デザイナーとして成功 |
この一角にティファニー家が全員集合! |
背後の墓は創業者の チャールズ・ルイス・ティファニー |
「シャネル」創業者。「働く女性のための服」というファッション哲学を掲げ、パリ・モード界の女王として君臨した20世紀を代表する服飾デザイナーの一人。その名はエレガンスとシックの同義語とされる。本名ガブリエル・シャネル、愛称コ
コ・シャネル。
1883年8月19日、マイン・エ・ロワール県ソミュール生まれ。父は衣服の行商人、母は洗濯婦だった。12歳で母が病死し孤児院で育ち、6年間そこで裁縫を学んだ。母の死をのちにこう振り返っている。「私はすべてをはぎとられて死んだの よ…。こんなことは十二のときに経験ずみ。人間はね、一生のうちで何度でも死ぬものなのよ…」。18歳になり孤児院から出され、カトリック女子寄宿舎に預けられ、仕立て屋のお針子や旅まわりの歌手などをして苦しい青春時代を送った。 1906年、23歳のときにシャネルは舞台歌手として成功することを夢見て、温泉リゾート地ヴィシーに向かう。この頃、彼女は資産家の仏軍元騎兵将校バルサンの愛人となって乗馬を学び、他の女性がロングスカートをはき横座りで騎乗するのを 横目に、自分用の乗馬ズボンを仕立てさせ鞍にまたがった。当時、女性がズボンをはく習慣はなく、突拍子もない発想だった。 1909年(26歳)、シャネルはバルサンの援助によりパリに女性用の帽子店を開業する。同年、バルサンの友人で資産家のイギリス軍大尉ボーイ・カペルと関係を持つ。両者は深く愛し合い、関係は約10年間続いた。 1910年(27歳)、バルサンとカペルはシャネルの帽子デザイナーとしてのセンスを讃え、彼女は正式に婦人用帽子職人のライセンスを取得、パリで最もファッショナブルな地区のカンボン通りに帽子専門店「シャネル・モード」を開店。彼女は 婦人帽子デザイナーとしてキャリアをスタートした。 1912年(29歳)、姉のジュリアが自殺。シャネルは残された甥を可愛がった。 1913年(30歳)、カペルの資金提供でフランス北岸のリゾート地ドーヴィルにモードブティックの第1号店を開店、シャネルは婦人服に進出する。 1914年(31歳)、第一次世界大戦が勃発。 1915年(32歳)、大西洋岸のリゾート地ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープンしてオートクチュール・デザイナーとして本格的にデビューを果たす。米ファッション誌『ハーパーズ バザー』は「たった1つもシャネルを持ってい ない女性は絶望的に時代遅れです」と早くも書いている。 1916年(33歳)に第1回シャネル・オートクチュール・コレクションを発表。 1918年(34歳)、カペルは英国貴族の女性と結婚したがシャネルとの関係は続いた。第一次世界大戦が終結。 1919年(35歳)12月22日、シャネルにとって最愛の男性カペルが交通事故で他界。カペルはシャネルとの密会に向かう途中だった。享年38。後年のシャネルの回想「彼こそ私が愛したただ一人の男」「彼の死はわたしにとって恐るべき打撃 だった。わたしはカペルを失うことですべてを失った」。 1920年(36歳)、シャネルはバレエ・リュス(ロシアバレエ団)の団長ディアギレフを介してロシアの作曲家ストラヴィンスキーと出会う。シャネルはロシア革命の混乱を逃れてきたストラヴィンスキー家のためにパリ郊外の自邸を8か月間提 供、同居した。シャネルは初演が暴動騒ぎになったバレエ・リュスの『春の祭典』の金銭的損失を、ディアギレフへの匿名の贈与で補填した。同年、妹のアントアネットがスペイン風邪で他界。 1921年(38歳)、高級衣装店「シャネル」本店をカンボン通り(チュイルリー庭園から北にのびるコンボン通り)31番地に移転する(移転は1918年?)。彼女は第一次世界大戦後の社会変化を反映し、働く女性のために柔らかく伸縮性のある ジャージー生地を初めて婦人服の素材に取り入れ、機能的・活動的でシンプルなデザインの服を次々と発表する。コルセットから解放され、従来の服飾の伝統を破った「新しい女性らしさ」の概念を打ち出した。中でも、カーディガン・スタイル のジャージー製襟なしジャケットと、短いほっそりしたスカートからなるシャネル・スーツは有名。彼女は日常生活における利便性とファッション性を両立した。 同年、調香師エルネスト・ボーと組んでシャネル初の香水「No.5」を5月5日に発売。オート・クチュール(パリの高級衣装店協会加盟店)として初めての香水販売であり、それまでは天然香料を主にした香水が市場に出ていたが、シャネルは合成 香料のアルデハイドを配合した香水を発表し、世界的に有名になった。以後ランバン、ジャン・パトゥ、スキャパレリ、ディオールなどデザイナー・ブランドの香水が発売されるようになる。 シャネルはまた、「高価なジュエリーを身につけるより、イミテーション(模造)でも洋服に合っているジュエリーを選ぶことが重要」と提唱、ファッション性や芸術性を重視し、大小の色ガラスやクリスタル・ガラスのアクセサリーを取り入れ たアール・デコ調のイミテーション・ジュエリー(コスチューム・ジュエリー)をいくつも発表した。そして、これらと短い髪形、セーラー・ハットを組み合わせた、典型的なシャネル・ルックを世におくりだした。1867年創刊の世界最古の女性 向けファッション誌《ハーパーズ・バザー》や1892年創刊の《ヴォーグ》といったファッション誌によってパリ・ファッションは米国など海外へも伝わった。 1923年(40歳)、シャネルはモンテ・カルロで英国の大富豪ウェストミンスター公と知り合う。氏は彼女に求婚したが、「ウェストミンスター公は何人もいました。シャネルは1人しかいません」と断ったという。英国王太子のエドワード8世と のロマンスもあった。 1926年(43歳)、喪服として使用されていた黒一色のドレスを、シャネルは可愛いワンピースのリトル・ブラック・ドレス(LBD)として発表し、黒のイメージを大きく変えた。「私はあえて黒を使いました。この色はいまだに衰えていませ ん。なぜなら、黒は他の全てを一掃するからです」。 1929年(46歳)、女性が社会に参加するためには両手を空ける必要があると考え、細いショルダーストラップによって肩から下げられるハンドバッグを作成した。これは軍用バッグにヒントを得たもの。 1935年(52歳)、シャネルのクチュールは4000人を雇用する営利企業になった。一方、ライバルのイタリア出身のデザイナー、エルザ・スキャパレッリ(1890-1973)の鮮やかな色彩と派手なシルエットがシャネルより人気を集めていく。 1936年(53歳)、フランスで労働運動が盛り上がり、シャネルのクチュールでも従業員が有給休暇や時短を求めてストライキを敢行、彼女は自分の店から追い出され、ストをした従業員を恨んだ。強力なライバルの出現、従業員の反乱、新作への 批評家の酷評などから、シャネルは薬物を常習するようになり、日常的にモルヒネを注射する。 1939年(56歳)9月に第二次世界大戦が勃発。香水とアクセサリーのブティック以外の全店を閉鎖し、創作活動を中断する(ストをした従業員への感情のしこりがあったとも)。戦時中、シャネルはドイツによるフランス占領期にドイツ外交官・ 諜報員のディンクラーゲ男爵(母は英国貴族)と交際し、ドイツ当局に協力的な姿勢を取った。 1944年(61歳)9月のパリ解放の2週間後、シャネルはドイツの諜報活動関与の疑いで逮捕され、フランスの粛清委員会に尋問された。だが、彼女が親交を持っていたチャーチルのお陰で、わずか数時間で釈放された。その後、犯罪者として告訴さ れるのを避けるためスイスに亡命した。 1947年(64歳)、シャネルは戦時中のシャネルNo.5の販売利益(現在の約一千億円)を受け取り、以後も1年あたり2500万ドル(25億円以上)の収入を得、当時世界で最も裕福な女性となった。同年、クリスチャン・ディオールがニュールック (なで肩、細いウエスト、すそ広がりのスカート)で成功を収める。他にも優れた男性デザイナーとしてクリストバル・バレンシアガ、ロバート・ピゲ、ジャック・ファットらが続いた。 1954年(71歳)、シャネルが表舞台を去り15年の歳月が経ったこの年、スイスからパリに戻って創作現場にカムバックし、店舗を再開。当初の酷評をはね除けてシックなシャネル・ルックを再び流行させた。1960年代は世界的にシャネル・スーツ が人気を呼ぶ。 1969年(86歳)、シャネルの生涯に基づいたアメリカ製ミュージカル「ココ」がアラン・ジェイ・ラーナーとアンドレ・プレビンにより上演される。 1970年(87歳)、香水「No.19」を発表。 1971年1月10日、30年以上居住していたパリのホテル・リッツにて87歳で他界した。最後の言葉は前日にメイドが聞いた「人はこんなふうに死ぬのよ」。 シャネルは女性を過酷なコルセットから解放し、羽根飾り、ロングヘア、肩パット、窮屈なスカートの時代を終わらせた。カーディガン・ジャケットにスカートとブラウスを組み合わせたシャネル・スーツなど、シンプルでスポーティー、カジュ アル・シックなデザインは多くの女性に支持された。死に至るまで現役であり、世界のファッションスタイルに大きな影響を与えた。 葬儀はパリのマドレーヌ寺院で執り行われ、棺は白い花(ツバキ、クチナシ、ラン、ツツジ)と少しの赤いバラで飾られた。 墓所はスイス、ローザンヌのボワ=ド=ヴォー(Bois-de-Vaux)墓地。シャネルの最愛の男性カペルは白い花を好んで彼女に贈っていた。彼女は遺言で「墓前には白い花だけを植えて欲しい」と願い、その想いは今も守られている。 ※その影響の大きさから『タイム』誌の20世紀の最も重要な100人にファッションデザイナーとして唯一名を連ねている。 ※ピカソ、コクトーら芸術家から貴族までの多彩な交友は有名。 ※シャネルがデザインした「C」を2文字組み合わせたモノグラム(組み字)は1920年代から使用されている。 ※カペルの事故現場の道路脇に設置された記念碑はシャネルが依頼したものという。 ※シャネルのミドルネーム“ボヌール(幸福)”は洗礼証書には載っていない。 ※1983年以来シャネル店のデザイナーに任命された、カール・ラガーフェルド(1933―2019)により、再び世界的にシャネル・スーツ・ブームが起こった。 〔シャネル語録〕 「時代が私を待っていた。私はこの世に生まれさえすればよかった。時代は準備を終えていた」 「大切なのは、どんな人生を夢見たかということだけ。なぜって、夢はその人が死んだ後もいき続けるのですから」 「恋の終わりは、自分から立ち去ること」 「口紅は、落ちる過程にこそ、ドラマがある」 「下品こそ、もっともみにくい言葉です。私はこれと闘う仕事をしています」 「20歳の顔は自然の贈り物。50歳の顔はあなたの功績」 「シンプルさはすべてのエレガンスの鍵」 −−− 「自分の生き方を決めると人はクヨクヨしなくなる。人間は成功でなく失敗で強くなるの。私は逆流をさかのぼって強くなった」(映画『ココ・シャネル』) |
優しさが溢れるカメラマンだった | 『楽園へのあゆみ』(1946) | Crum Elbow Rural Cemetery |
墓参時に夕立があり、楽園へ歩んでいくようだった |
名前の他に「PHOTOJOURNALIST」 「LET TRUTH BE THE PREJUDICE」と刻まれていた |
“造花お断り”の看板。米国の墓地には プラスチックの花を禁じる墓地が多い |
米国の写真家ユージン・スミスは水俣病の被害を世界へ初めて伝えた。2021年にジョニー・デップがユージンを熱演した力作『MINAMATA
ミナマタ』が公開された。 墓所はNY州、墓に刻まれた言葉は「LET TRUTH BE THE PREJUDICE」(先入観はできるだけ真実に近いものにしよう) 水俣病の原因はチッソ社の工場廃水(水銀)が引き起こしていることは、1956年に被害が公式確認されてから、3年後にはわかっていた。しかし、チッソはその後も9年間汚水を流し続け、国も止めなかった。ユージン・スミスは患者たちの抗議運動を取材中にチッソ社員から激しい暴行を受け、片目失明、脊椎骨折の重傷を負うなか、写真集『MINAMATA』を世に出し「過去の誤りをもって未来に絶望しない人びとに捧げる」と言葉を寄せた。 沖縄戦の後遺症(日本軍の砲弾の破片が体内に残る)とチッソの暴行でユージンもまた体の痛みと闘い続け、暴行事件の6年後に59歳で他界した。 チッソ社との自主交渉の先頭に立ち、「闘士」と呼ばれた患者の故・川本輝夫さん(映画で真田広之が演じた人物のモデル)は、1978年にユージンの訃報を聞いてこう語っている。「(チッソ社員からの暴行事件の後)幾度も失神状態になるなど、後遺症があったので心配していた。いわば日本人に殺されたようなもので、水俣病の犠牲者の一人ともいえる。私がある時『日本人としてすまない』と謝ると『そんなことをいうのはいかにも日本人的な感覚だ。気にしなくていい』と一笑に付されたのをいまでも覚えている」 ※ジョニー・デップがユージンに扮し、「水俣病」をテーマにした作品に真正面から取り組んだことに驚き、そして感動した。水俣湾の汚染魚は沿岸部で流通するだけでなく、行商などで山間部まで運ばれたため、感覚障害が確認されながら、国から患者認定されない被害者が2021年時点で約7万人いる。 デップ「水俣の問題が解決されたわけではなく、いまだに(被害認定をめぐる訴訟が)続いているということこそが衝撃的な事実です。この歴史は語り継がねばなりません。少しでも多くの人が、今まで全く知らずにいた事実に、興味を持ったり、関心を持つきっかけになればと思います。関心を持てないのは、単純にそのことに対する知識がないだけです。それゆえ、映画の持つ力をフルに活用して伝えたいメッセージを発信したいのです」 ※患者家族の川本愛一郎さん「東京湾だったら同じことが起きただろうか。水俣病では、力の弱い、声が届かない者たちが成長の犠牲として切り捨てられた。世界でいま起きている環境汚染も同じ構図に映る」 |
上から2段目がトーランド | 本の形をした骨壺がシブイ |
渋いルックスの写真師 | 横山家の墓所。一番右が松三郎 | 斜面で少し傾いている |
息子の湛慶が彫った父・運慶像 | 運慶20代半ばのデビュー作・大日如来坐像 |
運慶が晩年に手掛けた、日本、いや、世界の肖像彫刻の最高傑作・無著菩薩立像 |
京都市東山区の六波羅蜜寺 |
かつて六波羅蜜寺の境内にあった十輪寺は運慶一派の菩提寺だった。応仁の乱をはじめ、度重なる戦火で 諸堂は燃えてしまい、運慶の墓も行方不明に。しかし、この地面のどこかに運慶一派は眠っているはずだ。 僕は墓地に向かって合掌した。現在、六波羅蜜寺が収蔵する運慶像も、当初は十輪寺に置かれていたものだ |
平安末期から鎌倉初期に活躍した慶派の仏師。平安貴族に好まれた従来の温厚な仏像ではなく、武士の世を反映した写実的な荒ぶる仏を彫り上げた。父は奈良仏師の康慶。1176年、20代半ばで奈良・円成寺の大日如来像を制作(現存する最古の作品)。1180年、平家(平重衡)の“南都焼討”によって東大寺や興福寺など巨大寺院が灰燼と化す大事件が起きる。運慶の目の前で、500年という歳月を越えてきた天平の傑作仏像たちが炎に焼かれていった。1185年(35歳頃)、壇ノ浦の戦で平家が滅亡。翌年、運慶は東国武士たちの依頼で、静岡・願成就院に阿弥陀如来像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像を、1189年(39歳頃)に神奈川・浄楽寺で阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像を彫像した。 1196年(46歳頃)、父康慶、ライバル快慶らと東大寺大仏の両脇侍像&四天王像の巨大仏像6体を制作。現存していれば国宝間違いなしのこの6体は、1567年に戦国きってのワル・松永久秀が敵陣ごと焼き払った。1203年(53歳頃)、東大寺南大門に立つ高さ8mの金剛力士の巨像を、“チーム運慶”を率いて約2ヶ月という短期間で完成させる。この偉業が評価され仏師の最高位“法印”を受けた。1212年(62歳頃)、4年前から取り組んでいた興福寺北円堂の本尊弥勒仏坐像、そして肖像彫刻の最高傑作“無著(むぢゃく)・世親(せしん)像”を完成。無著と世親は実在したインドの高僧。運慶は若き日に仏のトップ・大日如来像でデビューし、最後は2人の人間を彫った。仏で始まり人間で終わる…何かを悟ったかのような仏師人生だった。 ※正確にはその4年後に神奈川の称名寺光明院に大威徳明王像を残しているが(1998年発見)、これは高さ21cmのミニ仏像ゆえ、大仕事は無著・世親が最後かと。
※チーム運慶…弟の定覚、運慶の長男湛慶、父康慶の弟子快慶、その他多数の弟子で構成された運慶工房。
●現存する仏像で100%運慶の作品と分かっているもの(年代順) ・奈良〜円成寺 大日如来坐像(国宝)安元2年(1176年)
・静岡〜願成就院 阿弥陀如来坐像、不動明王及び二童子立像、毘沙門天立像(重文)文治2年(1186年) ・神奈川〜浄楽寺 阿弥陀三尊像、不動明王立像、毘沙門天立像(重文) 文治5年(1189年) ・奈良〜東大寺南大門 金剛力士立像(国宝)建仁3年(1203年)※チーム運慶 ・奈良〜興福寺北円堂 弥勒仏坐像(国宝)建暦2年(1212年)※チーム運慶 ・奈良〜興福寺北円堂 無著菩薩・世親菩薩立像(国宝)建暦2年(1212年)※チーム運慶 ・神奈川〜称名寺光明院 大威徳明王像(重文)建保4年(1216年) ●作風や納入期から、かなり真作の可能性がある仏像
・奈良〜興福寺 木造仏頭(重要文化財) 文治2年(1186年)
・和歌山〜金剛峯寺 八大童子立像(国宝)建久8年(1197年)※2体は後世のもの ・京都〜六波羅蜜寺 地蔵菩薩坐像(重文) ・栃木〜光得寺 大日如来坐像(重文)
・愛知〜滝山寺 聖観音菩薩・梵天・帝釈天立像(重文)建仁元年(1201年)
・東京〜宗教法人真如苑蔵 大日如来坐像(重文)※東京国立博物館に寄託
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陶芸家。島根県生まれ。京都五条坂に窯を築き陶芸に従事。柳宗悦・浜田庄司らの民芸運動に参加。
辰砂など釉(うわぐすり)の技法に優れ、重厚で独創的な造形を試みる。晩年、木彫なども手がけた。 彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも作品を残している。 人間国宝、文化勲章、芸術院会員のすべてを辞退した無冠の巨匠。 お墓は智積院の墓地。歴代住職より上の方、奥から2列目の三基並んでいるうちの真ん中。右側面に名前あり。 |
なんて優しい笑顔! |
ロシアのカムチャツカ半島で熊に襲われ他界。死は 悲しみであるが星野さんの場合自然に還った気がする |
冬の早朝に訪れた。澄んだ空気の中、 柔らかな光に包まれる星野さん |
道路に第5区。この歩道沿いに墓がある | 「生命の光をさがしもとめて道夫は逝く 安らかれ」 | 作品を通してファンが増え続けている |
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