安倍晴明の墓(陰陽師) | ナイチンゲールの墓(看護婦) |
伊能忠敬の墓(測量家) | シュリーマンの墓(考古学者) |
ヘレン・ケラー&サリバンの墓(教育者) | 勅使河原蒼風の墓(華道家) |
淀川長治の墓(映画評論家) | 三人の東方賢者の墓(占星術師) |
北大路魯山人の墓(料理研究家) | レニー・ブルースの墓(エンターテイナー) |
深田久弥の墓(山岳研究家) | ルードウィヒ2世の墓(芸術擁護者) |
山田康雄の墓(声優) | 安珍の墓(行者) |
ジョゼフ・ピュリツァーの墓(ジャーナリスト) | 檀君の墓(古代人) |
宮武外骨の墓(ジャーナリスト) | 安徳天皇の墓(天皇) |
尾崎秀実の墓(ジャーナリスト) | ダビデ王の墓(ユダヤ王) |
ゾルゲの墓(スパイ) | ツタンカーメンの墓(エジプト王) |
横川省三の墓(スパイ) | 杉原千畝の墓(外交官) |
大川常吉の墓(警官) | 児島惟謙の墓(裁判官) |
芦屋道満の墓(陰陽師) | 知里幸恵の墓(アイヌ文化伝承者) |
ケラー24歳 | ケラー8歳、サリバン22歳 |
巨大なワシントン大聖堂 |
祭壇の左奥に地下霊廟へ続く 階段がある。気付く人は少ない |
写真中央左の壁にヘレンの墓を 示す銅板が埋め込まれている |
2000 初巡礼 墓碑は点字の部分だけ色が変わっている! |
2009 再巡礼//サリバン先生の遺灰が安置 された後、ヘレンの遺灰がここに安置された |
「ヘレン・ケラーと生涯の仲間アン・サリバンは この礼拝堂後方の納骨堂に埋葬された」 |
アメリカの著述家・社会事業家・平和主義者。三重苦を克服し、障害をもつ人々の救済のために生涯を捧げた。
1880年6月27日、アラバマ州タスカンビア生まれ。父は退役軍人。1歳9カ月のときに胃と脳髄の急性充血による高熱で、視覚と聴覚を失い、言葉が不自由になった。両親は沈黙の世界にいたヘレンが短気でワガママな子どもになるのを見るにつけ、教育の必要性を痛感。6歳の時に、アレグザンダー・ベル(電話の発明家であり熱心な盲人教育者)に相談し、その縁で翌1887年3月3日からパーキンス盲学校の卒業生アン・サリバン(通称アニー、当時20歳)が家庭教師として派遣された。サリバン自身も3歳で失明し、手術によって視力を取り戻した過去があった。「私の生涯を通じて忘れられない最も重要な日は、サリバン先生が来て下さった日です」「それは私の魂の誕生日だった」(ヘレン)。 1887年4月5日、サリバンがケラー家にやって来て33日目。サリバンはヘレンと散歩中に井戸へ寄った。そしてヘレンの手に水を注ぎながら「w-a-t-e-r」と指文字(指話法)で何度も綴っていると、突如としてヘレンは言葉と物を結びつけ、すべての物に名前があることに気づいた。2歳から5年間身を置いた暗闇に光が差した!ヘレンはポンプなど数語を尋ねた後、サリバンの方を向いて名前を聞いた。手の平に綴られたのは「t-e-a-c-h-e-r
」。“先生”の名の通り、サリバンは人生の先輩として、全存在をかけてヘレンに向き合っていく。「water」を理解した同日夕刻には、「give」「go」「baby」「door」「open」「come」など30もの単語を覚えていた。「言葉の存在を最初に悟った日の夜。私は嬉しくて嬉しくて、ベッドの中で、この時初めて“早く明日になればいい”と思いました」(ヘレン)。翌朝の様子をサリバンはこう記す。「彼女は妖精のようにベッドから跳ね起きると、手当たり次第に物の名前を尋ね、一語学ぶ度に感激して私にキスしました」。3カ月後には300個以上の単語を記憶し、「very」という言葉を知った時は、「very
happy」のように他の単語を組み合わせて表現することに夢中になった。
ヘレンは「water」事件の翌月に点字の本を読めるようになり、翌々月には簡単な手紙を書けるようになっていた。ヘレンが非常に高い知性を持っていたことが明らかになり、それまで聾唖者の知的発達を疑っていた人々がみな驚いた。ヘレンの噂は米国に広まり、1888年(8歳)、ホワイトハウスに招待され
第22代大統領クリーブランドと面会した。大統領はヘレンと会えたことを大いに喜んだ。
ヘレンは3年間をパーキンス盲学校(国内最大の盲人用蔵書が図書館にあった)で暮らした後、1890年(10歳)に発声法を学び、1カ月の練習で話し方を身に付けた。ただし、近親者しか理解できず、他人が聞き取るのは困難だった。
サリバンは常にヘレンに寄り添い、世界のすべてを指文字で通訳した。グラハム・ベルがバッキンガムに送った雑誌記事を通してヴィクトリア女王もヘレンのことを知っていたし、12歳の頃には“ヘレン・ケラー”という名前が世界の人々に知れ渡っていた。ベルはヘレンに普通の子どもの体験をさせてあげたくて、ワシントンの動物園に連れて行った。1893年(13歳)のシカゴ万国博では、“何でも触って良い”と許可を受けたことから、バイキング船、ダイヤモンド鉱石、エジプトのミイラ、蓄音機など世界中の珍しいものに触れることが出来た。「私は指で博覧会の素晴らしさを吸収しました」(ヘレン)。1894年(14歳)、ニューヨークの口話学校で2年間学び、大都会でスラム生活者の苦しみを初めて知り、社会問題に関心を持つようになった。
1896年(16歳)、父が他界。ボストンのケンブリッジ女学校に入学。当初、校長は「我が校には聴視覚障害者に対応できる設備がない」と入学に難色を示していたが、ヘレンと直接対面して聡明さを知り、考え方が180度変わった。サリバンはヘレンと同じ学生寮に住み、目となり耳となって全授業に出席し、講義内容を手の平に伝えた。ヘレンは歴史、文学、外国語、数学など猛烈に知識を吸収し、1900年(20歳)には名門ラドクリフ女子大学(1999年ハーバード大に吸収)に入学。他の生徒と同様に扱われ、4年後に“優等”で卒業し、ギリシア語、ラテン語、ドイツ語、フランス語を身に付けた。彼女が特別待遇なしに大学課程を終えたことを人々は喝采した。1905年、サリバンはハーバードの講師ジョン・メイヤーのプロポーズを承諾し結婚する。
卒業後のヘレンは“盲人のために尽くすことが終生の使命”と確信し、全身全霊をこの目的に捧げた。まず、ボストンで盲人が就職可能な社会整備を訴え、その結果設けられたマサチューセッツ州盲人委員会の委員に26歳で就任する。1909年(29歳)、「貧困が社会の不平等と不幸を生む」という信念からアメリカ社会党に入党。当時としては進歩的な思想を持ち、婦人参政権運動(NYやD.Cでデモ行進に参加)や公民権運動など多くの人権運動に関わり、若年労働や死刑制度にも反対した。1913年(33歳)、社会問題をテーマにしたエッセイ集『暗闇から外へ』を出版。同書は社会主義的傾向が批評家や保守派から批判され、それまで好意的だったメディアはヘレンが時事問題を語った記事を掲載拒否するようになった。
1914年(34歳)、ヘレンたちは経済的に追いつめられ、さらにサリバンの目の状態が悪化したことから、ヘレンは講演を通して生活費を稼ぐ決心をした。人前で話すことは大きな勇気が必要で、最初は講演を苦痛に感じていた。だが、どの講演でも聴衆が感動し熱狂的に受け入れてくれたので、次第に自信を持つようになり大陸横断の講演旅行を敢行する。聴衆はヘレンの発音を理解できなかったが、言葉の奥底にあるヘレンの思いをサリバンの通訳で汲み取り喝采を贈った。一方、ヘレンとサリバンがますます有名になったことでサリバンの夫ジョンは心の距離を感じ、1人の“良き友人”となって別々に暮らすようになった(ジョンは18年後に他界)。
別居後、サリバンはメーン州のホテルで倒れてしまう。行き詰まったヘレンを金銭的に援助してくれたのは実業家アンドリュー・カーネギーだった。おかげで1人の秘書を雇うことが可能になり、求人広告を見て応募してきた陽気なスコットランド人女性ポリー・トンプソンとの3人の生活が始まった。同年7月に第一次世界大戦が勃発すると、ヘレンは平和主義の立場からNYで次のようにスピーチした。「私の祖国は世界です。それゆえ、どんな戦争も私にとっては同胞を争わせる非常に嫌悪すべきものなのです」。
1916年(36歳)、ヘレンは7歳年下の若きジャーナリスト、ピーター・フェイガン(29歳)からプロポーズを受けた。サリバンが結核になり、ポリーが療養に付き添った為、臨時で雇った秘書がピーターだった。それまでヘレンは恋愛をこう捉えていた「私と結婚したい男性などいるはずがありません。彫像と結婚するようなものですから」。だが、ピーターは誠実にヘレンを愛した。「彼が本気で私を想っていることに驚きました。私を幸せにするための様々な計画を彼が持っており、結婚後は人生のどんな苦境に直面しても、常に側で私を助けたいと彼は言いました」。だが、政治的に保守思想を持っていたヘレンの母は、労働運動に身を投じていたピーターを認めず、婚約していた2人を無理やり引き裂いた。ピーターは簡単に諦めなかったが、ヘレンの妹の夫からライフルを向けられついに断念した。「(ピーターとの)短い恋愛は、私の人生の中で、暗い水に囲まれた小さな喜びの島です」。これがヘレンにとっては最初で最後の恋となった。
その後、ヘレンは労働者への共感をより深め、戦争の暴力を批判し、1917年(37歳)に起きたロシア革命を擁護した。1919年、ヘレンはハリウッドの誘いで喜劇役者チャップリンと映画『救い』で共演を果たす。
1921年(41歳)、母が他界。同年、ヘレンの発案で米国盲人援護協会が創設された。サリバンの健康は快復と悪化を繰り返し、1924年頃には視力を殆ど失ってしまったが、ヘレンと共に米国盲人援護協会の支援者を求めて各地を訪れ、3年間に250回以上も集会を開き25万人以上に声をかけた。ヘレンが持つ不屈の精神、ユーモアと楽天主義が出会う人をことごとく虜にし、ヘンリー・フォードやロックフェラーをはじめ多くの国民が米国盲人援護協会に寄付をし、100万ドル以上が集まった。ヘレンはまた、それまで欧州式、米国式など5種類に分かれて不便だった点字を、ひとつに統合すべく尽力した。そして1932年(52歳)、ルイ・ブライユが1824年に作った6点式の点字が国際標準化された。
1936年(56歳)、70歳のサリバンは目の手術が体の負担になって衰弱していき、ポリーが最期の言葉を書き留めた。「(ずっと昔)ヘレンが孤独な私の人生にやって来た。続いてポリーも。私たちはいつも幸せだった。神よ、私が居なくてもヘレンが生きていけるよう助けたまえ」。10月20日、アニー・サリバン逝去。次第に冷たくなっていく恩師の手を、ヘレンは力一杯に握りしめて「生命の光、音楽、栄光が消え去ってしまった」と泣き崩れた。
約50年にわたって共に生きたサリバンが没し、人々はヘレンの心が折れることを心配したが、彼女は盲人救済活動をやめなかった。翌1937年、日本語の点字を考案した盲目の社会実業家・岩橋武夫(ライトハウス館長)からの来日要請を受け、4月に横浜港へポリーと到着。残念なことに横浜港の待合室でヘレンは財布を盗まれてしまった。この事件が報道されると、日本全国から見舞金が寄せられ、4カ月後にヘレンが日本を離れる頃には盗難された金額の10倍以上が集まった。ヘレンは新宿御苑の観桜会で昭和天皇に拝謁し、日本各地を巡った。奈良では大仏を自由に触ることを許された最初の女性となった。その後、朝鮮や満州も訪問し、97回の講演で20万人に盲人の福祉や教育の向上を力説した。
ヘレンはリベラルな反戦・政治思想によって保守派から激しく中傷されることもあった。FBIの要調査人物に指定され、初来日の際は日本の特高警察が監視していた。そんなヘレンだが、1941年(61歳)の日本による真珠湾奇襲には憤った。1943年から、戦争で視力や聴覚を失った兵士を慰めるため軍病院を巡り始めた。ルーズベルト夫人いわく「(ヘレンの訪問は)負傷兵たちが体験した、おそらく最大の癒しでした」。ヘレン自身も、頭にキスしたり手を置くという、たったそれだけのことが傷ついた者を救うことを知って胸を動かされた。1946年からヘレンとポリーは海外盲人アメリカ協会の代表として、各国で障害者のために講演活動を続けた。1948年(68歳)、再来日。1950年に現在の東京ヘレン・ケラー協会と西日本ヘレンケラー財団が設立された。外交官の重光葵(まもる)は戦犯として巣鴨プリズンに収監されていた時、元将校の中に「あれは盲目を売り物にしている」とヘレンをけなす者がいたことから、日記に「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや」と怒りをぶつけた。1952年、仏からレジオン・ド=ヌール勲章を授けられ、同年から2年間の講演旅行が始まる。中東、中部アフリカ、北欧などを訪れた。1955年(75歳)、前年に没した岩橋武夫を弔うため3度目の来日を果たす。ヘレンとポリーの遠征は、1946年〜1957年の11年間で5大陸35カ国にのぼった。
1960年、3年前に脳出血を起こした秘書ポリー・トンプソンが他界。サリバンの死後、ポリーはどんなに困難な時も、真摯に、そして笑顔で助けてくれた。「きっと天国で2人は再会し、先生はポリーのことをとても誇りにしているはずです」。1961年(81歳)、ヘレンは軽い発作に襲われ、以降はコネティカット州イーストンの自宅で体を休めた。7年後の1968年6月1日、自宅で永眠。享年87。没後、日本政府は勲一等瑞宝章を贈った。
著作活動としては、1903年(23歳)に『私の生涯』を執筆し高く評価されたことを皮切りに、『私の住む世界』(1908※「心理学的古典」と絶賛された)、社会派エッセイ『暗闇から外へ』(1913)、自伝第2巻『流れの直中で』(1929)、『中流?私の晩年』(1930)、『私の宗教』(1940)、恩師を讃えた『教師、アン・サリバン・メーシー』(1955)、『オープン・ドアー』(1957)などを刊行。1954年(74歳)、『征服されざるもの』で生涯が映画化され、1959年(79歳)には米作家ウィリアム・ギブソン作の劇『奇跡の人』(ピュリッツァー賞受賞)でサリバンの偉業が舞台化され、同作は3年後に映画化された。
ヘレンの生涯は、三重苦に始まり波乱に満ちたものだったけれど、世界への飽くなき好奇心と強靱な精神力、そして根っからの楽天主義で様々な壁を乗り越えていった。ヘレンを知る多くの人が、人間の可能性の無限さを見せられた思いがしただろう。
〔墓巡礼〕 ヘレンの墓は米国の首都ワシントンD.C.に建つ『ワシントン国立大聖堂』の地下にある。この大聖堂は世界で6番目に巨大な聖堂であり、塔の高さは海抜206mに達する。アメリカ建国の父である初代大統領ジョージ・ワシントン(1732〜1799)が、宗派を超えた大聖堂の建設を計画し、死後1世紀近く経った1907年に着工、83年後の1990年に完成した。ホワイトハウスの約5キロ北に位置する。 僕は2000年に初めて墓所を訪れた。D.C.は面積177 km2(大阪の堺市より少し大きい)。長距離バスでアトランタから首都に入り、バス停から徒歩でヘレンが眠るワシントン大聖堂を目指した。首都で最も高い建物であり、遠くから「なんて大きいんだ」と感嘆しながら向かった。内部に入ると、国際連盟を提唱してノーベル平和賞を受賞したウッドロー・ウィルソン大統領の墓や、月面に初めて降り立ったアポロ11号が持ち帰った月の石がはめ込まれたステンドグラス「スペース・ウインドウ」があった。 中央祭壇の左奥に地下霊廟へ続く階段があり、その先の地下礼拝堂の一角にヘレンの墓を示す銅板がはめ込まれていた石壁があった。近づいて銘文を読んで驚いた。「HELEN KELLER AND HER LIFELONG COMPANION ANNE SULLIVAN MACY ARE INTERRED IN THE COLUMBARIUM BEHIND THIS CHAPEL」(ヘレン・ケラーと彼女の生涯の仲間アン・サリバンはこの礼拝堂の後ろの納骨堂に埋葬されている)、なんとサリバン先生が同じ墓所に!先生はニューヨークで没しているのでお墓もそちらか、或いは故郷のマサチューセッツ州にあると思っていた。師弟であると同時に、生涯にわたって最上の友だった2人がずっと一緒と分かって胸がいっぱいになった。 ヘレンの墓前ではもうひとつ、猛烈に感動したことがある。それは、2人の名前が刻まれた銅板の点字プレートが、点字の部分だけ指でこすられて金色に変色していたことだ。「こんなに色が変わるなんて、いったい、何千、何万人の人が2人に会いに来たのだろう!」。ヘレンの名を指でなぞっていると、誰もいない無人の霊廟にいながら、彼女をリスペクトしてここを訪れた世界中の人と心が繋がった気がした。世界をより良いものに変えていこうとした彼女に共鳴した人の多さに希望を感じた。「世界を動かすのは、英雄の強く大きなひと押しだけではありません。誠実に仕事をするひとりひとりの小さなひと押しが集まることでも、世界は動くのです」。 「マーク・トウェーン(作家。『トム・ソーヤの冒険』)と握手した際、その目の輝きを手の内に感じました」(ヘレン) 「19世紀にはふたりの偉人が出た。ひとりはナポレオン一世であり、いまひとりはヘレン・ケラーである。ナポレオンは武力で世界を征服しようとして失敗に終わった。しかしヘレンは三重苦を背負いながら、心の豊かさ、精神の力によって今日の栄誉を勝ち得た」(マーク・トゥエイン)
〔ヘレン・ケラー語録〕
●「幸せの一つの扉が閉じると、別の扉が開く。しかし、私たちは閉じた扉ばかり見ているために、せっかく開かれた扉が目に入らないことが多いのです」
●「不幸のどん底にいるときこそ、信じてほしい。世の中にはあなたにできることがある、ということを。他人の苦痛を和らげることができるならば、人生は無駄ではないのです」
●「言葉というものがあるのを、はじめて悟った日の晩。ベットの中で、私は嬉しくて嬉しくて、この時はじめて、“早く明日になればいい”と思いました」
●「私は一人の人間に過ぎないが、一人の人間ではある。何もかもできるわけではないが、何かはできる。だから、何もかもはできなくても、できることを拒みはしない」
●ロックフェラー所有の炭坑で労働争議が起き、機関銃で鎮圧された事件について。「女性と子供たちをあんなに無慈悲に虐殺するなんて、ミスター・ロックフェラーは資本主義の化け物です。慈善事業の裏では無力な人たちが殺されるのを許しているのです」 ●「ナイアガラの滝の突出部に立ち、周囲の大気が震動し、足下の大地が震えるのを感じた時の感情は表現し難いです」
●アイゼンハワー大統領の顔を触ったときのジョーク。「あなたの微笑みは美しいですね。でも髪の毛のほうはそうでもありませんよ」。
●ヘレンは楽器やスピーカー、口元に指を触れて音楽を楽しんだ。世界的バイオリニスト、ヤーシャ・ハイフェッツのバイオリンに触れた感想「個々の音譜がアザミの毛のように指先の上に留まり、それが私の顔や髪に触れるのです。まるでキスの感覚のように」。
〔関連語録〕
●アインシュタインからサリバンへの言葉「あなたの仕事は近代教育の他のいかなる業績よりも興味深いです。あなたはケラーに言葉を伝授したばかりでなく、彼女の個性を開花させました」。
●イタリア女性で近代教育法を革新したマリア・モンテッソーリ博士のサリバン評「私はこれまでパイオニアと呼ばれてきましたが、そこにはパイオニアであるあなたがいます」。
●オペラ歌手エンリコ・カルーソーいわく「ヘレン・ケラーよ、私はあなたのために人生の中で一番よく歌うことができました」。
※よく誤解されているけど、“奇跡の人”とはサリバン先生のこと。サリバンは教育者として傑出した能力を持っていた。
※ヘレンは三重苦の反面、味覚、嗅覚、触覚がケタ違いに鋭敏だった。
※子ども時代のヘレンは、母親から江戸時代の盲目の国学者、塙(はなわ)保己一のことを聞かされ、塙を手本に勉強したという。
※ヘレンは20世紀の三大重要人物に、エジソン、チャップリン、レーニンの名をあげた。
※1948年の来日ではハチ公像を触った。「(この動物愛は)日本人の人間愛を証明するもの」。
〔参考文献〕 『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ百科事典』(マイクロソフト)、『世界大百科事典』(平凡社)、『ブリタニカ国際大百科事典』(ブリタニカ)、ウィキペディアほか。こちらのサイトでは海外のヘレン伝記を翻訳されており、大いに参考にさせて頂きました。素晴らしい労作! |
“クリミアの天使” |
ロンドンのセントポール寺院 には、追悼碑だけがある |
お墓はイーストウィロー教会の墓地に |
付近の墓とはまったく異なる家の形をした墓 | 遺言でイニシャルのみ墓碑に求めた |
イギリスの看護婦、人道主義者、病院改革者。近代的看護を確立した。 両親はイギリス人の地主。長期の新婚旅行中にイタリアのフィレンツェで生まれたことから、フローレンス(フィレンツェ)と名付けられた。子ども時代のお気に入りの遊びは、人形に包帯を巻くなどの看護ごっこだった。 1949年(29歳)、イギリスを出て欧州各地やエジプトで病院システム・看護の研究をした。1953年(33歳)、ロンドンの婦人病院の院長に就任。 クリミア戦争(1853-56)が勃発すると、トルコのイギリス軍野戦病院の衛生状態が悲惨な状況を知り、彼女は38人の看護婦を率いて従軍。5000人が収容されたトルコ・スクタリの野戦病院で献身的に傷病兵を看護した。彼女は20時間連続で立ったまま働き、毎夜ランプを片手に巡回したことから「ランプを持った貴婦人」「クリミアの天使」と称えられた。野戦病院は衛生状態が改善され、彼女が赴いてからわずか4ヶ月の間に、傷病者の死亡率が42%から2%に激減した。 ナイチンゲールの活躍が本国イギリスに伝えられると、彼女の人気が沸騰。帰国用の軍艦や盛大な歓迎会が用意されたが、彼女は注目を浴びることを避け、ひっそりフランスの船で帰国した。 当時の社会では看護婦は卑しい職業とされていたが、彼女のおかげで社会的地位が高まった。活動に対して寄付金が集まると、それを基にしてロンドンに看護婦養成学校を創設、職業としての看護婦教育が始まった。これによって、看護婦は召使いから医学の専門家にひきあげられ、1872年(52歳)に引退するまでに数千人の看護婦を養成した。著作「看護ノート」(1860)は看護婦を目指す者の最初の教科書となった。 1907年(87歳)、女性として初めて英国最高峰のメリット勲章を受章。彼女の活動は赤十字運動の先駆けとなった(赤十字運動には関わっていない)。 英国ハンプシャー州、ロムジーの近くにあるイーストウィロー教会の墓地に眠っている。ナイチンゲールは有名になり過ぎたことを嫌い、遺言で墓碑にはイニシャルと生没年「F.N. Born 1820-5-12 Dead 1910-8-13」のみ刻むことを許した。彼女が看護婦の地位と能力向上に果たした役割は計り知れない。 ※1920年以来、赤十字国際委員会は優秀な看護婦にフローレンス・ナイチンゲール記章をさずけている。 |
TVで解説を始めた頃 | “サヨナラおじさん”の名で愛された | 最晩年、宮崎駿監督と |
素晴らしい名解説をもっと聞きたかったです〜ッ! (兵庫・須磨寺にて) |
生涯を銀幕に捧げた 「映画の伝道師」 |
05年の淀川長治賞に輝いて 喜ぶジャッキー・チェン |
映画評論家。神戸出身。ハイカラな港街で芸者小屋を営む両親に連れられ、4歳の頃から映画を見まくった。子どもの頃から良い作品は他人に紹介せずにいられなかった性分らしく、一人で面白い映画に出くわすと、劇場の電話を借りて家に連絡し、親類の席を約10人分予約して、改めてもう一度観たという。
中学時代、「映画ばかり見ずに数学の勉強をしろ」と説教した先生に、「公開中の『ステラ・ダラス』を観てからそれを言って下さい」と抗議し、先生が数人で劇場に足を運んだところ、感動的な自己犠牲のラブ・ストーリーに一同はむせび泣き、以降は学校行事として映画を見に行くようになった。作品の選定は淀川に一任され、自分が薦めた映画で級友たちが、笑い、泣き、楽しむ様子を見て、「もっと多くの人に映画の素晴らしさを伝えたい!」と思うようになった。 1927年(18歳)、上京して雑誌「映画世界」編集部でアルバイト。1932年(23歳)には、米国の映画会社ユナイトの大阪支社宣伝部に入った。1936年3月(27歳)、『チャップリンと新妻ポーレット・ゴダードが、新婚旅行で極秘に神戸港へ船で立ち寄る』という大ニュースをキャッチ、ホノルルからクーリッジ号で入港したチャップリン(当時47歳)にアポなし突撃取材を敢行する。甲板で5分間だけという約束だったのが、淀川がチビッコ時代から観てきたチャップリン・ムービーの様々な名場面をパントマイムで再現しているうちに、炎のファン魂がチャップリンのハートに燃え移ったのか、「ねぇ、君!中に入って話をしよう!」と船室に招待してくれ、そこで一時間も2人きりで話をするという、人生最大最高の体験をする。チャップリンは淀川に、買い物に出るポーレット・ゴダードの為の神戸ガイドを依頼した。 1938年(29歳)、次第に日本が戦争に深入りしていく中、東京支社に転勤となり両親と上京。1940年(31歳)、彼が担当した『駅馬車』が空前の大ヒットを記録する。しかし、翌年に日米開戦となり、ハリウッド作品は敵性映画として終戦まで公開禁止になる。この当時、ディズニーの長編アニメ『白雪姫』を会社の試写室で密かに見た淀川は、色彩あふれるカラー映像に驚愕し「こんな国と戦争したら絶対に負ける」と絶句したという。1942年、東宝の宣伝部に移籍。 1945年、36歳で終戦を迎えてセントラル映画社に入社。翌年、雑誌『スクリーン』の編集委員となる。1947年(38歳)、映画世界社の「映画之友」編集部に入り、翌年から1967年まで20年も同誌の編集長を務める。その間、1951年(42歳)に初めてハリウッドを訪れ、念願だったチャップリンとの再会を果たす。スタジオで『ライムライト』を撮影していたチャップリンの第一声は「アイ・リメンバー・ユー!」。神戸港でのあの楽しいひと時を彼は忘れておらず、淀川をスウィート・ボーイと呼んだ。チャップリンは62歳。淀川は15年の間にチャップリンの髪の色がすっかり変わったことを知り、思わず泣きそうになる。「なぜ泣く?」「グレー・ヘアー」「……」。チャップリンは黙って淀川の肩を抱いた。 「映画之友」編集長として、彼は読者との定期的な交流会(友の会)を企画。映画への一途な熱愛ぶりが参加者に伝わり、映画ファンの間で名が知れ渡っていく。テレビでの初仕事は1960年のTVシリーズ『ララミー牧場』の解説。51歳のブラウン管デビュー。親しみやすい解説で一躍脚光を浴びた。 1966年(57歳)、新番組『日曜映画劇場』がスタート。この番組は劇場映画を毎週オンエアするという、業界初の試みだった。解説を依頼された淀川は「より多くの人へ映画の魅力を伝える」ことが可能なこの仕事を喜んで引き受けた。以後、一度も休むことなく32年間も(死の前日まで)解説を続けることとなった。 放送が始まると、丁寧で分かりやすい解説だけでなく、番組冒頭の「ハイ、またお会いしましたね」から最後の「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」に続く一連の「淀川節」が大ブレイク。独特の口調で映画の素晴らしさを嬉々として語る姿は人々に愛され、“サヨナラおじさん”の愛称でお茶の間の人気者となった。当初は「サヨナラ」の回数が毎回異なっていたが、子ども達が回数を賭けているという噂を聞き、それからは3回に決めた。 1967年(58歳)、テレビ、ラジオ、雑誌で引っ張りだこになった淀川は、「映画之友」を離れてフリーになり、各方面に活動の場を広げていく。
※たぶん、どの本にも載っていないエピソードを紹介。80年代前半、まだレンタルビデオ店というものが世になかったので、高校生の僕は『日曜洋画劇場』を毎週必ず観ていた。一度、酒に酔ったまま解説した回があって、あの衝撃を今でもハッキリと覚えている。「ハイ、皆さん今晩は。今日は私の顔、赤いですね。ちょっとスタジオに入る前、お酒を呑みましたね。フラフラですね。そういうわけで、今日は私、少しご機嫌さんでキャメラに向かってますが、舌がもつれたら皆さんごめんなさいね。さて、今日の映画は…」。師匠も凄いがこの収録をボツにせずオンエアしたテレ朝もブッ飛んでると思った。そしてこう考えた。つまり、番組の現場スタッフは日頃からその人間的魅力に惚れ込んでいて、親近感の湧く“ご機嫌さん”バージョンをどうしても人々に見せたかったのだと。翌週のオンエアでは「あらまあ、先週はごめんなさいね」と謝っていた(笑)。 あと、「サヨナラ」ではなく「にぎにぎバイバイ、にぎにぎバイバイ」と右手を“にぎにぎ”した回があった。翌週から「サヨナラ」に戻ったけど、あれは一体…!? 『日曜洋画劇場』で解説を収録する前に、「それだけ責任あるから」と作品を三回以上見たという。映画文化を支えていく強い自負がそこにはあった。しかし、理由はそれだけではない。毎週の放送ともなると、“箸にも棒にもかからぬ救い難い駄作”を解説する回もあった。「どんな映画でも何か一つは必ず良いところがある。それを拾って皆に説明するのが私の使命」、この映画愛のたまものだ。 また“吹替え版”には次の意見を持っていた。「吹替え版はセリフのノーカット版。字幕は一度に2行しか表示できず、どうしても要約せざるをえない。複数の人間が同時に喋る場面にも対応できない。この問題を克服し、全てのセリフを楽しめるのが吹替え版のメリットだ」。 淀川は自分の人生観、人間観について、よく次の様に語っていた。 「私はいまだかつて嫌いな人に会った事がない。好きになる事がどんなに人を助けるか私は知っている」 「ウエルカム・トラブル、苦労来たれ、苦労が人間を強くするんだ。悲しいなぁ辛いなぁと泣いたことがある人が偉いんだ」 「最近の親友と申したい監督が、香港生まれのウェイン・ワン監督。親友といってもじかに話したこともない。好きな映画を見せてくれた監督は私には親友だ」 「イランがどこにあるのか調べるといい。各国の映画が国境を越えて日本に訪れ、“人間”は同じという事を知る。これほど平和を生むものは他にはない」(イラン映画『友だちのうちはどこ?』のコメント)
“好きになることが相手を助ける”“知識は(異文化への)恐怖を取り除く”…これらはすべて映画が教えてくれたのだという。
名シーンを細部まで再現する驚異的な記憶力は、年をとっても全く衰えず、「映画の生き字引」と呼ばれた。1984年(75歳)、勲四等瑞宝章受章。1992年(83歳)、雑誌「ROADSHOW」創刊20周年記念として、映画文化の発展に功績のあった人や団体に贈られる“淀川長治賞”を集英社が設立(第1回受賞者は翻訳家・戸田奈津子)。晩年の口癖は「明日、来週、新しい映画がくるかと思うと、死ねない」。そして『日曜映画劇場』の為に、テレビ朝日に近い全日空ホテルで生活していた(まるで出家者のようだ)。 後期の黒澤映画が、世間から「“七人の侍”の頃のエネルギーがなくなった」「クロサワはもうダメだ」と叩かれていた頃、淀川は『夢』(1990)を「日本映画史上最高の映画美術と申したい」と評し、『まあだだよ』(1993、遺作)には次のコメントを残した。
「若い映画ファンの多くが、この師弟の物語を観て“時代おくれ”“照れくさい”“ついていけない”と言う。馬鹿かと思った。なぜ監督の、美を一途に追い求める姿勢が分からないのか。日本中が今、この温かさを受けつけなくなった。怖いし、悲しい。干からびた地面からは、このような枯れ木の若者が伸びるのか。この映画、乾いた土に水の湿りを与える」。 1998年9月、長年親交があった黒澤監督が他界。ひとつ年上の淀川は、自らの死を予期していたのか、棺で眠る黒澤に「泣かないよ。僕もあとから追いかけるから、もうすぐだよ」と語りかけた。
2ヶ月後の11月10日、『日曜映画劇場』の解説用にブルース・ウィリスの『ラストマン・スタンディング』を観て、番組の収録を終えた後に体調を崩して倒れる。そして翌11日午後8時7分、腹部大動脈瘤(りゅう)破裂が原因による心不全で逝去した。享年89歳。最期の言葉は、病室に駆けつけた姪御さんに言った「もっと映画を見なさい」だった。 名物の「サヨナラ」は32年間に1500回以上も流れ、多くの日本人が、これからもずっと日曜夜に繰り返されると漠然と思っていたのが、突然4日後(15日)のオンエアで最後になった。
※その日、僕は朝から緊張していた。新聞に「最後の解説」と書かれていたからだ。午後9時、放送開始。89歳の淀川翁が、かすれた声を振り絞って、懸命に作品の見所を伝えている。すると画面の下方にテロップが静かに流れ始めた--『ご覧の映像は永眠される前日に収録された最後の解説です』。…激涙。僕は“翌日に亡くなった”という事実に圧倒された(収録は何週も前だと思っていた)。まさに、映画に殉じたのだ。死ぬまで映画に身を捧げた、本物の「映画の伝道師」だった。
『ラストマン・スタンディング』は、邦画の『用心棒』をハリウッドがリメイクしたもの。若い頃から外国映画の魅力を語り続けてきた淀川が、最後に日本映画が外国からリスペクトされた作品を解説する、そこにもまた感慨深いものがあった。まして『用心棒』は盟友・黒澤監督の作品。運命的なものさえ感じた。
葬儀の『淀川長治さん・さよならの会』には、杉浦孝昭(おすぎ)ら親しかった映画関係者ら約500人が出席。祭壇の遺影には、本人が最も気に入っていたという、チャプリン『独裁者』のポスター前でニッコリ笑う淀川の写真が選ばれた。棺には愛用の眼鏡やチャプリンの写真が収められ、黒澤監督が愛用したひざ掛けがかけられた。 チャプリンの『ライムライト』の美しいテーマ音楽が流れる中、全国から集まった一般ファン約2500人が白いカーネーションを祭壇に献花した。各国からの弔電もたくさん届き、そこにはベルナルド・ベルトルッチ監督、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督、アラン・ドロン、ブラッド・ピット、アーノルド・シュワルツェネッガー(“シュワちゃん”は淀川のネーミング)、スティーブン・セガールなど、名監督や銀幕のヒーローたちのそうそうたる名前が並んだ。アカデミー賞ともカンヌとも関係ない、ただ一人の映画評論家の死を、こんなにも多くの人々が国境を越えて悲しんだ。
「淀川さんが一番いいね。純粋に映画を楽しんでいる。映画は理屈じゃないんだよね」(黒澤明)
※戒名は「長楽院慈眼玉映大居士」。意味は“慈しみの目であらゆる映画を珠玉の名作として長く楽しんだ者”。
※「批評家は多いが、無声映画時代から映画に人生をささげた方は、ただ一人だと思う」(戸田奈津子)
※淀川は「邦画に関して私はアマチュアだ」と公言しており、仕事柄、筆で評論することはあっても、テレビで解説することはなかった。 ※「結婚をしていないと映画の中の男の気持ち、女の気持ちの両方がわかる」と生涯独身を通したが、同性愛者でもあった。しかしそれは“あっけらかん”としたものであり、本人は特に隠してなかったし、恥じてもいなかった。
※「映画館で映写が終わったのに、まだ座っている老人がいる。従業員が終わりましたよと声をかけると、死んでいた」--理想の死をそう語った。 ※僕が今改めて脱帽するのは、その膨大な知識(記憶力)はもちろんのこと、作品の魅力が10あれば10すべてを聞き手に伝えきる天才的な話術。解説が、分かりやすく、かつ熱狂的。この“熱狂”がないと人は引き込まれない。しかし“分かりやすさ”と“熱狂”は、非常に両立が難しい!映画に詳しい人はゴマンといるが、相手の心を掴むトークをできる人は少ない。氏は声色を巧みに使い分け、話のポイントを確実に押さえ、作品に対する自分の主張を明確に伝えている。そしてまた、(これは非常に重要な点だけど)自虐的なユーモアをふんだんに散りばめる為、評論家にありがちな傲慢な姿勢、権威主義的な部分がこれっぽちも感じられず、聞いてて押し付け感が全くないんだ。ホント、偉大な方でした。m(_
_)m
〔淀川長治が選んだ各ベスト〕 外国映画ベスト5(1980年) 1.黄金狂時代(チャールズ・チャップリン) 2.戦艦ポチョムキン(セルゲイ・エイゼンシュテイン) 3.グリード(エリッヒ・フォン・シュトロハイム) 4.大いなる幻影(ジャン・ルノワール) 5.ベニスに死す(ルキノ・ヴィスコンティ) 日本映画ベスト3(1979年) 1.残菊物語(溝口健二) 2.羅生門(黒澤明) 3.戸田家の兄妹(小津安二郎) 男優ベスト5(1985年) 1.チャールズ・チャップリン 2.オーソン・ウェルズ 3.ルイ・ジューヴェ 4.ローレンス・オリヴィエ 5.スペンサー・トレイシー 女優ベスト5(1985年) 1.メアリー・ピックフォード 2.グレタ・ガルボ 3.マレーネ・ディートリッヒ 4.ベティ・デイヴィス 5.イングリッド・バーグマン 「映画は皆のもの。映画館の中で、こっちに学校の先生、あっちにソバ屋のおかみさんがいる。お爺ちゃんも、子供もいる。皆が学問や教養に関係なく、一緒になってひとつの映画をみている。僕はそういうのが好きなの。映画は人の垣根も国の垣根も取り払ってくれる。それがいいの。それが映画なの」(淀川長治) |
214枚の日本大図はこんなに巨大だッ! ※’04年、名古屋ドームにて(撮影kooichi.ikaiさん) |
56歳を過ぎてから肉体をメジャーに、 17年間をかけて全国を歩ききった、 その不屈の精神力とパワーに脱帽 |
江東区の富岡八幡宮。境内に忠敬像がある | 忠敬は富岡八幡宮の近所に住み、毎回ここへ参拝してから測量遠征に出発していた(2009) |
源空寺は上野駅から歩いてスグ | 道路を挟んだ場所に墓地 | 案内板があるので分かりやすい |
手前が忠敬、左端に忠敬が尊敬していた 高橋至時の墓。遺言で並んでいる |
ドグサレ漫画家のS氏(左)と。2年前と比べて花が たくさんあり伊能先生もゴキゲンに見えた(2002) |
2010年、3度目の巡礼。木洩れ陽の中の先生 |
正面(2010) | 右面 | 左面 | 背面 このように3面に伝記がビッシリ |
忠敬の恩師、高橋至時。この墓 の隣りに眠ることを忠敬は希望 |
至時の子で、シーボルト事件 の罪で獄死した高橋景保 |
忠敬の墓域全景。台東区教育委員会が建てた 案内板は外国人用に英語翻訳されている |
千葉佐原の諏訪神社は伊能家の氏神 | 測量中の忠敬像が1919年に建てられた | 小型羅針盤を見ながら記録をとる忠敬 |
佐原の「伊能忠敬旧宅」。小野川沿い | 東日本大震災の翌年ゆえ、屋根にブルーシート | 中の様子を覗くことができた。ここに暮らしていた |
奥に見えるのが「伊能忠敬記念館」。旧宅の対岸 にある。かなり資料が充実した記念館だった! |
故郷佐原では大河ドラマ化 を求めるキャンペーンを展開 |
江戸後期の測量家。初名、神保三治郎。千葉県九十九里町に生まれ、1762年、17歳の時に佐原(さわら)の酒造家伊能家の婿養子となる。忠敬が伊能家に来た時、家業は衰え危機的な状況だった。忠敬は倹約を徹底すると共に、本業の酒造業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で経営を完全に立て直す(29歳の時の伊能家の年間収益は351両=約3500万円)。
36歳で名主となり、1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって米や金銭を分け与えるなど地域の窮民の救済に尽力し、忠敬の村は一人の餓死者も出さなかった。1793年(48歳)の伊能家の収益は1264両(約1億2640万円)にまで増える。
この間、独学で暦学をおさめ、49歳で家業を全て長男に譲って隠居。1795年、50歳を機に幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出た。浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があった。折しも天文方は改暦作業の最中。忠敬が江戸に家を構えた同年春に、当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき
1764-1804/当時31歳)と間重富(1756-1816/当時39歳)が幕府の天文方に登用されていた。この2人は大阪で日本初の月面観測を行った麻田剛立(ごうりゅう
1734-1799/当時61歳)の一門のツー・トップだ。
忠敬は高橋至時を訪ね弟子入りした。当初、至時は20歳も年上の忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていた。しかし、昼夜を問わず勉強する忠敬の姿に感動し、“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになる。至時が不在の際は観測機器に精通した間重富から指導を受け、忠敬は巨費を投じて自宅を本格的な天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過の観測に成功する。
1797年(52歳)、高橋至時と間重富は新たな暦(寛政暦)を完成させたが、至時は地球の正確な大きさが分からず暦の精度に不満足だった。“いったい地球の直径はどれくらいなのか”。暦局の人々は、オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、子午線1度の長さは25里、30里、32里など意見が分かれていた。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。至時は忠敬の案に賛同した。2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が減るため、江戸から蝦夷地(北海道)まで距離を測ることが望ましかった。
だが、当時は幕府の許可が無ければ蝦夷地には行けない…。そこで至時が考えた名目が“地図制作”だった(つまり暦制作が本来の目的で、地図制作は移動の自由を得るための口実だった)。この頃、蝦夷地では根室にロシア特使が上陸して通商を要求し、ロシア人の択捉島上陸事件も起こっており、国防のために正確な地図が必要だった。至時・忠敬の師弟はそこを突き、結果的に幕府は蝦夷地のみならず、東日本全体の測量許可を出す(ただし幕府の財政援助はなく、すべて自費。伊能家の3万両=約30億円とも言われる資産が役立った)。
●第一次測量(1800年)〜蝦夷地太平洋岸
1800年(55歳)、測量調査の出発直前、忠敬は幕府に手紙を送った「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を作りたい」。同年、閏4月19日、自宅から蝦夷へ向けて出発。富岡八幡宮に参拝後、奥州街道を北上しながら測量を開始した。一行は忠敬、息子、弟子2人、下男2人、測量器具を運ぶ人足3人の計9人。これに馬2頭が加わった。
測量方法は、歩幅が一定(約70cm)になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、そこから距離を計算するというもの。目撃者の記録に「測量隊はいかなる難所もお通りなされ候」とあるように、雨、風、雪をはね除け、危険な海岸線も果敢に測量した。夜は宿で天体観測を行い、昼間に得た測量結果と両者を比較しながら誤差を修正、各数値の集計作業に追われた。至時は江戸から手紙で励ました「今、天下の学者はあなたの地図が完成する時を、日を数えながら待っています。あなたの一身は天下の暦学の盛衰に関わっているのです」。
忠敬一行は、寒くなる前に蝦夷測量を済ませるべく、1日に約40kmを移動した。そして出発から21日目の5月10日、津軽半島北端(三厩/みんまや)に到達する。天候不順で船が出ないなど、苦労しながら箱館に入ったところで下男の1人が病気で脱落。本格的に蝦夷地で測量を開始したのは上陸から10日経った5月29日。地図制作の重要さを理解しない役人によって蝦夷地で測量器具運搬用の馬は1頭しか使う許可が下りなかった為、箱館で器具を減らさねばならなかった。蝦夷地は宿が無いため、村の集会所や役人の仮家で眠った。一行は東へ進み、8月7日に釧路より先のニシベツ(別海町)まで達したが、漁の最盛期で多忙な地元民の協力を得られず、東端の根室までは行けなかった。江戸に向かって一路南下し、10月下旬、180日ぶりに帰宅した(蝦夷滞在は117日)。測量で得たデータを元に、約3週間をかけ地図が完成。12月21日に地図を下勘定所に提出した。一週間後、測量手当として22両(約220万円)を受け取ったが、70両(約700万円)以上を負担した。これとは別に自腹で70両分の測量機具を購入しており計140両(約1400万円)以上の身銭を切った。
師である高橋至時は間重富に宛てた手紙に「このように測れと指図したが、これほどきちんとやれるとは思わなかった」と感嘆した。
この翌年、故郷佐原の住民たちが一昨年から運動を起こしていた「功績ある伊能忠敬・景敬親子に幕府から直々に苗字帯刀の許可を」とする請願が実り、忠敬は幕府から苗字・帯刀を許された。
●第二次測量(1801年)〜伊豆・東日本太平洋側
蝦夷地の地図に対する高い評価が郷土の藩主・堀田正敦(まさあつ)の耳に届いたこともあり、忠敬は周囲から第二次測量を勧められ、伊豆から太平洋側北端・尻屋崎までの測量を決意する。享和元年(1801年)4月2日に江戸を出発した。今回は街道を管理する道中奉行から測量隊来訪の先触れが出され、各地で地元の協力を得やすくなった。また、前回のような歩測ではなく、一間(いっけん、約180cm)ごとに印がついた縄=間縄(けんなわ)を使って測量することにした。三浦半島、鎌倉と回って伊豆下田に到着したのが5月13日。伊豆の断崖絶壁の測量は海上で縄を張るなど苦労した。いったん江戸によって6月19日に房総半島へ出発。7月18日に関東西端の銚子に到着。太平洋沿いを北上し、東北に入って地形が入り組んだリアス式海岸に苦闘する。10月1日に岩手・宮古湾を越え、10月17日に目標地点の下北半島・尻屋にたどり着いた。12月7日、230日間の測量を終え江戸に帰還。地図を幕府と藩主に提出した。子午線一度の距離を28.2里と導き出した。また、子午線一度の距離を28.2里と導き出した。
●第三次測量(1802年)〜東北日本海側
享和2年(1802年)6月3日、藩主堀田摂津守から「東北の日本海側を測量し、東日本地図を完成させよ」と命令が下る。第一次測量の頃とは大きく違い、藩から人足5人、馬3頭、長持人足4人が与えられ、手当も60両支給された(収支トントンに近づいた)。命令を受けた8日後(6月11日)には早くも出発している。一行は白河、会津若松、山形、新庄を経て、7月23日に秋田の能代(のしろ)に到着。日食の観測を行い、8月15日に三厩(青森)に到着した。その後、秋田の沿岸を男鹿(おが)半島、象潟(きさかた)と測量しつつ南下、10月4日に新潟の現上越市に達する。冬に突入することもあり、これで日本海を離れ10月23日、132日ぶりに帰宅。この第三次測量では協力的でない役人を叱りつけることが度々あった。個人的な測量ではなく幕府からの請負事業を行っているというプライドの現れと考えられている。東日本地図の完成は次の測量に持ち越された。
●第四次測量(1803年)〜東海・北陸地方
享和3年(1803年)2月18日、前年に続いて堀田摂津守から辞令が下る。今回指示された測量地域は駿河(静岡)から尾張(愛知)までの東海地方、能登半島や佐渡島といった北陸地方だった。旅費は82両(約820万円)まで増額された。2月25日に江戸を発ち、沼津、御前崎(静岡)、渥美半島(愛知)、知多半島と測量を行い、5月6日に名古屋に入った。そこから北上して岐阜を通過し、5月27日に福井・敦賀に到着。その後の約1カ月は複数の隊員が病気になり、父子だけで測量することもあったという。6月24日から北陸の雄藩・加賀藩に入ると、藩の地理情報が外部に漏れることを警戒して現地案内人が地名を黙秘するなど抵抗にあい難儀する。
能登半島や佐渡は測量効率化のため二手に分かれて行動した。9月17日に佐渡を離れ、10月7日、219日ぶりに江戸へ戻った。ここに3年がかりで行った東日本の海岸線測量が完結した。帰宅後、さっそく当初の目的であった地球の大きさの計算に取り組むと約4万キロいう結果になった。師の高橋至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると数値が一致し、師弟は手を取り合って大喜びしたという。忠敬が弾き出した数値は、地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった!
だが、それから間もなく、至時は天文学書の翻訳等で無理を重ねて床に伏し、年明けに39歳の若さで他界した。出会いから別れまで9年。忠敬は嘆き悲しみ、師の墓がある上野・源空寺の方角に毎朝手を合わせた。天文方には跡継ぎとして、子の高橋景保が登用された。
1804年(59歳)、これまでの測量データを「日本東半部沿海地図」としてまとめあげる。大図69枚、中図3枚、小図1枚という大規模なもの。同年秋、11代将軍徳川家斉が江戸城大広間で上覧。そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は驚愕する。忠敬の身分では将軍に接見できなかったが、その3日後、小普請(こぶしん/禄高三千石未満の御家人)組として10人扶持(ふち/一日玄米五合を一日扶持と計算した一年間分の米や金。この場合その10人分)を与えるという通知が届いた。そして忠敬に“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ”と幕命が下る。
●第五次測量(1805年−1806年)〜近畿・中国地方
東日本の地図完成から一年間のブランクをあけ、文化2年(1805年)2月25日に西国測量計画が実行された。忠敬ときに60歳。この測量は晴れて幕府直轄事業となる。忠敬の測量はもはや個人的な仕事ではなく、人々の期待を担う国家事業に変わった!測量隊員には幕府の天文方が加わり一行は16人に増え、各藩の受け入れ態勢が強化された。測量隊は時に100人以上になることもあったという。当初の計画では2年9カ月の大遠征であり、忠敬は暦方の皆から「西洋人が科学に携わる時には、自分の為にではなく、人の為、天下の為に命がけでやるといいます。天に尽くすつもりで事業を達成されますように祈っております」と励まされた。
浜松、紀伊半島を経て、大阪に入ったのが8月18日。人数が多くなった分、病気になる者も増え、大阪で3人が脱落した。京都を経由して琵琶湖を37日かけて測量。その後、2名補充して中国地方に向かったが、想定以上に瀬戸内の海岸線が入り組み、姫路沖の家島諸島の測量にも手間取った。さらに2名を増員し大晦日を岡山で迎える。
文化3年(1806年)1月18日に岡山を出発。本格的に瀬戸内海の島々の測量を開始した。3月29日に広島到着。防府を越えて4月30日に秋穂浦(現山口市)まで来たところで、忠敬はマラリアを発症。それでも下関まで達して、さらに山陰へ向かい6月18日より松江にて治療逗留した。忠敬が闘病している間、隊員たちは隠岐を測量し8月4日に松江で合流。忠敬は健康になり山陰の日本海沿岸を東に進んだが、忠敬不在の1カ月半の間に、隊員たちは禁酒の規律を破るなど風紀が乱れ、住民を見下す態度をとる者もいた。これが幕府の知ることとなり、戒告状が景保から届いた。島根、鳥取、若狭湾を測量して山陰の測量を終え、11月15日、1年9カ月ぶりに江戸へ帰着。その後、規律を乱した2名を破門にし、3名を謹慎処分にした。近畿・中国地方の地図制作は、長期間の測量ゆえデータが多く作図に1年を要し、翌年末に完成した。
●第六次測量(1808年)〜四国
文化5年(1808年)1月25日、四国測量のため江戸を出発。前回は約2年にわたる測量で風紀に問題が起きた為、忠敬は第六次測量を四国だけにとどめた。淡路島を経由して3月21日に鳴門から徳島に入り、南下して4月21日に室戸岬到着。29日に高知に入る。続いて海岸線に沿って北上し、8月11日に愛媛・松山到着。瀬戸内海の島々を測量しながら東進し、高松、鳴門を経て11月21日に大坂に戻った。四国各藩は測量隊のために道を整備するなど協力的で、精度をあげるため支隊が内陸部縦断測量を行った。年明け1月18日に江戸へ帰着。
●第七次測量(1809年−1811年)〜九州前半
西日本の測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷だった。3年で終わるはずが、内陸部の調査が加わったり、思いのほか四国が広かった為に、3年経っても九州は全く手付かずだった。文化6年(1809年)8月27日、全国地図の完成に向けて最後の大仕事となる九州遠征が始まる。中山道、山陽道を通って北九州の小倉で年を越し、ここをスタート地点に定めた。九州に入った忠敬が娘に出した手紙には「(10年も歩き続け)歯は殆ど抜け落ち一本になってしまった。もう、奈良漬も食べることが出来ない」と書かれていた。
一行は太平洋側を南下して2月12日に大分、4月27日に宮崎・日南に到着。大隅半島を回って6月23日に鹿児島へ到達した。一行はさらに南下して薩摩半島南端の山川港(現指宿市)に着き、そこから種子島、屋久島に渡る機会をうかがったが、悪天候により渡航を断念、北上して天草諸島を測量した。天草には小島がたくさんあり測量は時間がかかった。隊員の体調もよくなく、今回の九州測量はここで切り上げることを決定。帰途、大分で年を越し、中国地方の内陸部を測量しつつ上京した。江戸に着いたのは5月8日、第4次と同じく1年9月ぶりの帰宅となった。
●第八次測量(1811年−1814年)〜九州後半
幕府は種子島・屋久島測量にこだわっており、忠敬は前回の九州遠征から半年後、年も変わらぬうちに第二次測量に出発することになった。これは江戸からはるかに遠い薩摩藩の実態を、測量を通して把握しようという幕府の思いが見える。文化8年(1811年)11月25日、一行は九州北部や離党を測量するため江戸を出た。忠敬は66歳。出発前に息子景敬に隠居資金の分配など遺言同然の書状を残しており、不測の事態を覚悟した出発だった。年明け1月25日に小倉到着。内陸部を通って鹿児島・山川港に再び至った。そして船で屋久島に向かい3月27日に無事上陸を果たす。測量隊は北と南の二手に分かれ、13日間で測量を終えた。風待ち後、4月26日に種子島に上陸、半月で測量終了。5月23日に山川港に戻った。その後、内陸部を小倉まで北上し、博多、佐賀、島原半島などを測量し、今回の測量で2度目の越年を佐世保で迎えた。1813年(68歳)の新年、忠敬は「七十に近き春にぞあひの浦
九十九島をいきの松原」(69歳の春を相浦で迎えたが、さらに99歳まで生きて測量を続けたいものだ)と詠んだ。忠敬は九十九島、平戸、壱岐島を経て対馬に上陸し、5月21日に測量を終えた。続く五島列島では忠敬が本隊を率い、副隊長の坂部貞兵衛が坂部隊を率いて、東西の海岸を南下していった。
ここで予想もしなかった悲劇が忠敬を襲う。万全の信頼を寄せていた坂部が6月下旬にチフスに冒され、急速に容体が悪化して7月15日に息を引き取ったのだ。翌日、忠敬は両隊を集めて葬儀をおこなった。忠敬は深く落ち込み「鳥が翼を取られたようだ」と打ちのめされた。
8月15日から長崎半島を一周し、小倉より帰途につく。姫路にて3度目の越年。1814年、京都から長野に向かい、中山道を通って江戸に戻ったのは実に913日間ぶりとなる5月22日。過去最長の長期測量となり、これが最後の遠征となった。郷土では忠敬の長男景保が病死していた。
九州の測量データから地図を作成していたある日、蝦夷探検で間宮海峡を発見した間宮林蔵が訪ねてきた。忠敬は1週間かけて測量技術を林蔵に伝授した。
●第九次測量(1815年)〜伊豆諸島
これまで遠隔地の屋久島や対馬、佐渡島などは測量したが、江戸に近い三宅島など伊豆諸島は未測量だった。70歳という高齢の忠敬は、病没した坂部貞兵衛の代わりに支隊長となった永井甚左衛門に測量を託し、一行は文化12年(1815年)4月27日に江戸を出発した。永井らは三宅島、八丈島、新島、大島などを一年かけて測量し、翌年4月12日に江戸へ戻った。
●第十次測量(1815年、1816年)〜江戸
文化12年(1815年)2月3日、各街道から日本橋までの間を測量するため、第九次測量と並行して江戸府内を測る第十次測量を実施した。これは半月ほどで片付き2月19日に帰宅。翌1816年、幕命により8月8日から10月23日まで江戸府内の地図作りにたずさわった。これが最後の測量となる。時に忠敬71歳。17年かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことに!
こうして1800年の蝦夷地測量から17年がかりで集めた全国の測量データを用いて、前代未聞の全日本地図の作成作業が始まった。1817年(72歳)、かつて忠敬が測量を果たせなかった蝦夷地北西部の測量データを間宮林蔵が持って現れた。あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだ。地球は球面ゆえ、平面に移す場合の数値の誤差を修正する計算に入った。だが、この局面で忠敬は持病の慢性気管支炎が悪化し、急性肺炎(老人性肺炎)に冒されてしまう。
病床で門弟の質問に返事を書くなどしたが、文政元年(1818年)4月13日、弟子に見守られながら73歳で世を去った。高橋景保や弟子たちは“この地図は伊能忠敬が作ったもの”と世間に伝える為に、その死を伏せて地図の完成を目指した。
忠敬の死から3年後の1821年7月10日。江戸城大広間で幕府上層部が見守る中、景保や忠敬の孫・忠誨(ただのり/15歳)、弟子たちの手で日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。3万6000分の1の大図214枚、21万6000分の1の中図8枚、43万2000分の1の小図3枚という、途方もない規模のものだった。地図は幕府に献上され、紅葉山文庫に秘蔵された。翌々月の9月4日、忠敬の喪が発せられる。祖父の功績により、忠誨は五人扶持と85坪の江戸屋敷が与えられ、帯刀を許されたが、1827年に21歳で病没し忠敬直系の血筋は途絶えた。
忠敬の死から43年後の1861年、イギリス測量船アクテオン号が幕府に強要して日本沿岸の測量を始めた時、幕府役人が持っていた伊能図の一部を船長が見て仰天し、“この地図は西洋の器具や技術を使っていないにもかかわらず正確に描かれている。今さら測量する必要はない”と測量を中止してしまった。イギリス海軍は忠敬の地図を基に海図を完成させ、巻頭に「日本政府から提供された地図による」と書き記した。西洋の知識人は長く鎖国していた日本を未開の文明後進国だと決め付けていたが、世界水準の正確な地図を持っていることに驚き、見下すことを改めたという。
幕府に献上された伊能図の原本は、残念ながら1873年の皇居火災で大図、中図、小図すべて失われ、翌年に伊能家が明治政府に納めた写し(控え)も1923年の関東大震災で焼失した。ところが2001年にアメリカ議会図書館で大図214枚のうち207枚の写本が発見され、さらに国内の国立歴史民俗博物館などから大図3枚が見つかり、2004年には欠落分残り4枚の写し(1/2縮小版)が海上保安庁の海洋情報部で発見された。奇跡的に大図214枚の全容が明らかになり、2006年に大図全214枚を収録した「伊能大図総覧」が刊行された。
忠敬が弾き出した緯度1度の距離は、現在の値と比較して誤差が約1000分の1という驚異の正確さだ。これは忠敬が誤差を減らすために太陽や星の天体観測を徹底し、遠くの山を目印にして測量結果を確かめる方法や、その他様々な測定法を活用した成果だ。南中高度、日食、月食、木星の衛星食などの天体観測を、全測量日数3754日のうち1404日で実施している。多い日は1日で20個〜30個の星の南中を観測し、誤差の軽減に努めた。第三次測量からはメジャーの代わりに長さ一尺の鉄線を60本つないだ鉄鎖(縄のように伸び縮みしない)を使用し、これも忠敬の発案だった。
56歳の1800年から測量を始め、1816年まで17年間かけて日本全国を踏破した忠敬。その偉業と生涯が多くの人に知られたきっかけとなったのは忠敬の墓だ。忠敬は遺言にこう残した--「私が大事を成し遂げられたのは、高橋至時先生のお陰である。どうか先生のそばに葬ってもらいたい」。その願いは聞き届けられ、源空寺の高橋至時・景保父子の墓と並んで忠敬は眠っている。没後4年目(1822年)に建てられた墓石正面には隷書で「東河伊能先生」と刻まれ(東河は号)、左右及び背面の3面に忠敬の生涯が漢文で刻まれている。その文面には“忠敬は星や暦を好み、測量にはいつも喜びを顔に浮かべて出かけて行った”と彫られている。
つまり、この墓碑銘こそが人々が読んだ最初の伝記であり、その後の忠敬像のベースとなった。墓碑銘を書いたのは忠敬と親交があり、門下生3000人を誇る江戸後期の著名な儒学者佐藤一斎(1772-1859)。墓石建立時の一斎は忠敬が江戸で第二の人生を歩み始めた年齢と同じ50歳ゆえ、刻む文字にも思うところがあったのではないか。一斎は伊能家にあった私的な一族史『旌門金鏡類録(せいもんきんきょうるいろく)』などをを参考にしつつ、忠敬が西洋技術を学び知識が高まったことも記している(ちなみに一斎が育てた弟子に幕末に活躍する佐久間象山、横井小楠、渡辺崋山等がおり、孫娘は吉田茂の養母になっている)。
明治政府の元老院議長・日本赤十字創立者の佐野常民は、1882年に初めて忠敬をテーマにした講演「故伊能忠敬翁事蹟」を東京地学協会で行った。この時も墓碑銘をもとに生涯が紹介され、伊能図の完成度を讃えている。この講演は後の忠敬評に大きく影響を与えた。講演翌年(没後65年)に忠敬には「正四位」が贈られ、1889年、芝公園に遺功表が建てられた。10年後、文豪・幸田露伴が『少年読本』に忠敬伝を発表し、序文でこう讃えている「伊能翁の如く華麗ならずして摯実(しじつ)なる一生の経歴を具せる人は、最も国家民人に対して益を与ふるにも関せず、世間は之を尊重称讃すること余り深からざるが如し。されど世間は其実多くの伊能翁の如き人を有せざるべからず。これ予の敢(あへ)て再び伊能翁を伝ふる所以なり」。
1903年に最初の国定教科書が作られた際に、佐野常民の講演を元にした忠敬の生涯が国語教科書に載り、後に修身教科書に掲載された。これらはすべて、源空寺の墓石から始まったことである。
近年は井上ひさしが1977年に忠敬を主人公にした小説『四千万歩の男』を発表し、50歳の隠居後に大きな挑戦を始める「一身にして二生を得る」という生き方が注目された。没後180年の1998年に故郷佐原市(現香取市)に伊能忠敬記念館が開館した。測量開始200年にあたる2001年に忠敬の銅像が富岡八幡宮(江東区)に建立。忠敬は測量遠征に出る前に、必ず隊員と富岡八幡宮に参拝してから旅立っていた。10回に及んだ測量事業の出発地は常に当地であり、力強く一歩を踏み出す姿の忠敬像となった。2010年、伊能図や使用した測量器具、関係文書など2345点が、「伊能忠敬関係資料」の名称で国宝に指定された。
人生50年と言われていたこの時代、隠居後は盆栽を育てたり孫と遊んだり、のんびり余生を送るものだけど、50歳から“勉強の為に”江戸に向かう知識欲、知的好奇心の大きさにオドロキ!
忠敬が50歳で高橋至時に弟子入りしたとき、至時はまだ31歳だった。忠敬は家業を通して、長年人を使う立場にあった男。時代はメンツを何より重んじる封建社会だ。普通の男なら、20歳も年下の若造に頭を下げて入門を請うことに抵抗があるだろう。しかし忠敬は違った。燃え盛る向学心の前では、そんなプライドなど取るに足らないことだったんだ!
「地球の大きさを知りたい」、このとてつもなく巨大な好奇心を満たす為に、測量を始めることになった忠敬。当時の平均寿命を考えると、50代後半から4万kmを踏破したなんて信じられない。第一、200年前の海岸線など、道なき道に等しいものだ。コンビニがある今だって徒歩で一周なんて考えられない。しかも、忠敬が求めた緯度1度の距離は、現在の値と比較しても誤差が約1000分の1という正確さ。忠敬が残してくれたのは地図だけじゃない。彼は人間の底知れぬ可能性を後世の僕たちに見せつけてくれた!本当に有難う、推歩先生!!
※2001年公開の映画『伊能忠敬-子午線の夢』(小野田嘉幹監督、加藤剛主演)はDVDになっていな〜い!これを書くために観たかったのに視聴不可能。東映さん、ソフト化お願いしますーッ!
※体格は着物の寸法から身長160cm前後、体重55kg程度と推定。
※伊能図を仕上げた高橋景保は縮小図を持っていた。シーボルトは“世界地図と交換したい”と働きかけ、その写しを国外に持ち出した。この流出事件で景保は捕らえられ、失意のうちに獄死した--「私は罪を認める、罰も受けるが、この世界地図は日本の為になる」(高橋景保)
※幕府に対して北方警備のための出兵の正確な人数を書いた手紙や、ロシア海軍軍人ゴローニンの尋問の様子を記した手紙を送っており、測量だけを行っていた訳ではないようだ。
※故郷佐原の観福寺(千葉県香取市)にも遺髪をおさめた参り墓がある。
※墓碑銘全文(フォントにない字は置き換え。5カ所不明)
〔左側面〕
東河伊能君墓銘并叙 江都 一斎佐藤担爲文
君諱忠敬字子齊伊能氏號東河稱三郎右衛門晩稱勘解由北総香取郡佐
原村人本姓神保氏南総武射郡小堤村神保貞恒之第三子出冒伊能氏伊
能氏世爲閭右族其先出於大和高市郡西田郷大同中有諱景能者知北総
香取郡大須賀荘居伊能村因以氏焉子孫蝉聯占其地至永禄中有諱景久
者始徒佐原天正中爲居民開●塵貿易實君九世祖也高祖諱景利曾祖諱
昌雄祖諱景慶考諱長由長由無子其配神保氏君之從祖姑也因●君爲嗣
長由不幸●歿産頗荒君既來嗣慨然以幹蟲爲志听夕黽勉務検禁奢靡
家衆百口以躬率先之天明三年關東大饑君爲發私儲賑貸郷里施及旁近
村落多所全活六年又饑救之如初地頭津田日州君並優賞之君好星暦至
寛政六年委家事於子景敬躬獨来江都而従事暦學當時所傳層法君疑其
〔背面〕
有所不合偏就暦家質之猶未釋然既而 官會有改層之擧召高橋東岡者
新自浪速来君執贅往見始聞西洋暦法理精数密宿疑乃解遂棄舊學學之
推歩測量之精東岡之門獨推君云寛政十二年閏四月 官命君測量北陸
道及蝦夷地方東南沿海以定地度明年正月 官賜君父子銀各十錠許佩
刀稱姓氏賞其於天明年内兩救窮民也享和元年三月又 命測量伊豆相
摸二総常陸陸奥沿海六月又 命測量出羽三越佐渡能登駿河遠江三河
尾張沿海至文化紀元集地方各圖爲一大圖進呈其九月 官賞賜廩米擢
爲小普請組属天文方既而又 命測量山陽山陰西海南海四道壹岐対馬
二島官道及沿海十二年又 命測量伊豆七島及箱根湖既竣事測量江都
府内十四年四月府内圖成進呈自蝦夷測量之初至此閲十有八年五畿七
道無地不渉●陬僻壌盡測量而圖之最後有 命集成寓内沿海輿地全圖
〔右側面〕
及度数譜行程記至文政元年齢七十有四罹病其四月十三日劇殆不起至
四年七月輿地全圖等成進呈以其九月四日歿 官追賞其功賜廩米宅地
於孫忠誨以旌之君為人真率不修邊幅精力絶人毎測量 命下轍喜見顔
色不日而發乃躬歴険阻凌海濤奔走数十百里風雨寒暑未嘗少沮喪何其
氣之邁而事之勤也哉所著有國郡書夜時刻考対数表紀源術並用法割圓
入線表紀源法地球測遠術問答凡若干巻皆藏於家君先配長由之女繼配
桑原氏皆先歿得三男二女昆季並殤仲子景敬嗣亦先歿孫忠誨嗣君之葬
在城北淺草源空寺東岡君之塋域從遺嘱也忠誨以状来請余銘乃畧叙之
爲銘日源深以遠流長以?善積之厚慶則有?叩天之?極坤之輿瘴烟毒
霧不能爲瘉祈寒暑雨不能爲痛乃如之人能有幾興貞a可●跡則不(渝?)
文政五年壬午嘉平月下澣淡海關研書 孝孫忠誨立
伊能忠敬e史料館
主な参考文献:NHK「その時歴史が動いた」、エンカルタ総合大百科、世界人物事典(旺文社)、ウィキペディアほか。 |
欧州一の美城ノイシュバンシュタイン城(白鳥城)を建設した王として知られる(1994撮影) |
王は「私が死んだらこの城を破壊せよ」と遺言。保存されて良かった(2015撮影) | 王の墓。侍従医と謎の水死。暗殺の可能性が高い |
王の遺体発見地点 (1989) |
ドイツ・バイロイトのワーグナー邸の前に建つルードウィヒ2世像 |
1991.3.15 | 2005 14年ぶり。側の木が変わってた | ロシア語で名を刻む |
なんとロシア人の墓参者と遭遇!ここは日本か!?(2010) |
「ゾルゲとその同志たち」と彫られた墓誌。11名の名があり、それぞれ“刑死”“獄死”とある。 死亡地は「巣鴨」「網走」など。みんな、終戦直前に非業の死を遂げている |
世界史の流れを変えたスパイ。コードネームはイニシャルの頭文字RとZをとった「ラムゼイ」。1895年、旧ソ連・アゼルバイジャン共和国に生まれる。父はドイツ人鉱山技師、母はロシア人。3歳でベルリンに移住。1914年(19歳)、第一次世界大戦が勃発し、ゾルゲはドイツ陸軍に自ら志願した。戦傷を負って入院し、その際に社会主義思想と出合う。戦後、大学を最優秀で卒業し政治学の博士号を修得。1919年(24歳)、ドイツ共産党が結成されると入党し、1924年(29歳)にモスクワでソ連共産党に入り諜報部門に配属された。1930年(35歳)、ドイツの新聞記者に成り済まして上海に上陸。ゾルゲは半年で中華民国全土に情報網を構築した。そして日本の文化や言葉も学び、アジア情勢のスペシャリストとなる。この上海滞在時に、後にゾルゲの右腕となる朝日新聞記者の特派員・尾崎秀実と知り合った。
1933年(38歳)、前年の上海事変で日中両軍が軍事衝突したこともあり、日独の情報を得る為に横浜へ渡航。ドイツ人記者の肩書き信じ込ませるためナチスにも入党した。彼は駐日ドイツ特命全権大使オイゲン・オットの信頼を勝ち取り、私的顧問に抜擢される。1936年(41歳)、二・二六事件に際し的確な情報分析を行ない、1939年(44歳)にドイツが戦争に突入すると大使館情報官に任命された。翌年、日独伊三国軍事同盟が締結。
ゾルゲが知りたかった主な情報は、(1)ドイツのソ連侵攻作戦の日時(2)日本が狙うのは南方かソ連か(3)石油の備蓄量や武器弾薬など日本の戦争継続能力の3つ。この情報を得るには日本の支配層に接近する必要があった。 ゾルゲは単にソ連の為に動いている訳ではなかった。反戦・平和活動の理念を持ち、日本の民主化や列強からのアジア解放を考えていた。こうしたゾルゲの理想主義に、新聞社を辞めて近衛内閣の顧問団になっていた尾崎秀実が同調し、また、同じく近衛内閣のブレーンだった西園寺公一(元首相・西園寺公望の孫)や犬養健(犬養元首相の三男)も心を打たれて仲間となった。彼らの協力で日本政府の機密情報が手に入るようになった。またドイツ人無線技士マックス・クラウゼン、フランスのアバス通信社特派員ヴーケリッチ、アメリカ共産党員の洋画家・宮城与徳らが同志となりゾルゲ・スパイ団を作り上げた。
彼らは無線技士のクラウゼンが特別に自作した短波送信機と改造ラジオ受信機を使い、暗号を生成してウラジオストックと交信した。日本側は東京発の怪電波を確認していたが、ゾルゲ達が街中を小まめに移動しながら交信していた為に発信源を特定できなかった。1941年6月、独ソ戦が勃発。ゾルゲが詳細なドイツ軍のソ連侵攻日を打電したにもかかわらず、スターリンはその情報を信じようとせず初戦で大敗した。
日本政府には同盟国のドイツから対ソ参戦しろと要求がきていた。だが、日本には南方の資源が必要だったし、日ソ中立条約が2ヶ月前に結ばれたばかりだった。9月の御前会議で南方進軍が決定されたことを尾崎が知り、ゾルゲは翌月にソ連へ「日本南進」を急報した。この打電が歴史を変えた。日本からの侵攻がないと分かったソ連は、対日本用に配備していた満州国境の精鋭部隊を、シベリア鉄道でどんどん西の欧州戦線へ輸送した。ドイツ軍はモスクワまで数十キロに迫っていたが、ソ連の増援部隊に押し返され、最終的に4年後のベルリン陥落へ繋がっていった。ゾルゲの活躍がなければソ連はどうなっていたか分からない。このようにゾルゲが本国に送った重要情報は約400件にのぼった。 ゾルゲ・スパイ団の破滅は突然訪れた。1941年6月、1人の日本共産党員が逮捕され、特高の拷問に堪えきれずに、国内で地下に潜っていたアメリカ共産党員の仲間を自白。そこからゾルゲ一味でアメリカ帰りの宮城与徳の名が浮かんで家宅捜索が入った。宮城は不覚にも多数の重要書類を自宅に置いていた為、10月にはメンバーが一斉逮捕される。スパイ容疑の逮捕者は35名にものぼり、ゾルゲ達が近衛内閣中枢に食込んでいたことから政府・軍部に衝撃を与えた(国民には翌年まで伏せられた)。ドイツ大使は「誤認逮捕」「冤罪だ」と外務省に抗議するほどゾルゲを信じ切っていた。
1942年(47歳)、ゾルゲ達は18名が国防保安法、治安維持法、軍機保護法など各法違反で起訴され、翌年の判決で全員が有罪となった。無期は2名、ゾルゲと尾崎には死刑判決が下った。そして巣鴨拘置所において、1944年11月7日のロシア革命記念日に死刑が執行された。処刑前にゾルゲが残した最後の言葉は「ソビエト赤軍、国際共産主義万歳!」。宮城やブーケリッチなど5人も獄死した。この国際諜報団事件を戦時中は東条内閣が、戦後はGHQが反共キャンペーンに利用した。
ソ連政府としてはスパイの存在を認める訳にはいかず、戦後もしばらくゾルゲに光が当たることはなかった。死刑から20年目の1964年に、ゾルゲは功績を認められて「ソ連邦英雄勲章」が贈られた。以来、現在までロシア駐日大使が新しく日本に赴任した際は、多磨霊園のゾルゲの墓参りをすることが慣例になっている。ゾルゲの墓には「戦争に反対し世界平和のために命を捧げた勇士ここに眠る」と刻まれている。
国王でも大統領でもなく、ただ一人のスパイが後世の歴史を変えた。ゾルゲの情報がナチス・ドイツを倒すきっかけとなった。かくしてファシズムに勝利したが、戦後半世紀を経た現在でも人類は戦争と訣別していない。ゾルゲの死を犬死にとするかどうかは後世を生きる人間次第だ。 ※ゾルゲがターゲットから情報を聞き出す時の殺し文句は「あなたはそんなことも知らないのですか?」。相手は小者と思われるのが癪で、“俺はこんなことも知っている”とペラペラ喋り出す。
※墓碑には「妻石井花子」と刻まれている。彼女は銀座のドイツ料理店でウエートレスをしていてゾルゲと出会った。
※誕生日は4月10日とする説も多い。
※少し歩いた所に同志・尾崎秀実も眠っている。 |
戦時にあって理想主義を捨てなかった男 |
ゾルゲに情報をリークしていた尾崎秀実の墓。なんと三島由紀夫の斜め 後ろに墓がある。思想的には両極の2人がすぐ側で眠っているのも墓地ならでは |
岐阜県出身。生後まもなくジャーナリストの父と共に日本統治下の台湾へ渡り中学まで台北で育つ。少年尾崎は台湾人を三級市民として差別する日本人の姿を見て胸を痛めた。1922年(21歳)、一高を経て東京帝大に入学。翌年関東大震災の混乱の中でアナーキストの大杉栄が虐殺されたことにショックを受ける。農民運動者への弾圧事件などもあり、抑圧された人々を救いたいという義憤から共産主義に傾いていった。1926年(25歳)、朝日新聞社に入社。1928年(26歳)、上海支局に特派員として配属され、滞在中に人道主義者の女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーの紹介でリヒャルト・ゾルゲと出会う。1932年(31歳)、帰国。翌年、来日したゾルゲからスパイ組織に勧誘される。
1937年に盧溝橋事件が勃発すると、尾崎は中国問題の評論家として日中戦争拡大方針を論壇で訴えたが、これは世論が対ソ開戦に向かわないよう、中国や南方に引きつけるためだった。徹底抗戦を説く尾崎は支配層に気に入られ、1938年(37歳)、朝日新聞社を退社し、第1次近衛内閣のブレーンとなる。翌年、満鉄調査部嘱託職員として東京支社に就職(近衛内閣の中枢にはいたまま)。1941年、日米開戦の気配が次第に濃くなり、9月の御前会議で決まった「対米開戦、日本南進」の情報をゾルゲに報告。これによってソ連は日本と対峙していた極東部隊を欧州戦線へ移送可能となり、ドイツとの戦いに戦力を集中できた。
10月14日、ゾルゲ・スパイ団の活動が発覚し一斉逮捕される。近衛文麿首相は側近の尾崎の正体に仰天し、天皇に「全く不明の致すところ」「深く責任を感ずる次第に御座候」と謝罪した。1944年11月7日に、国防保安法違反などで巣鴨拘置所にてゾルゲと共に絞首刑となった。翌年、終戦。
尾崎はスパイであることを徹底して隠していたので、妻でさえ気付かなかった。“非国民”となって牢獄にいる夫に対し、妻は「私や子ども達のことを考えていない」と手紙で責めた。遺書で尾崎はこう綴った「ただ、私には迫り来る時代の姿があまりにもはっきり見えているので、どうしても自分や家庭のことに特別な考慮を払う余裕が無かったのです。というよりもそんなことを考えたとて無駄だ、一途に時代に身を挺して生き抜くことのうちに、自分もまた家族たちも大きく生かされることもあろうと真実考えたのでありました」。つまり、家族を守る為に時代を変革しようとしていたのだ。
そして追伸で冷夏に触れ「一番暑熱の必要なこの頃、この涼しさはお米のことが心配になります」と、全国の真面目な農民のことを心配し、遺書を締めた。戦後、尾崎が獄中から妻子に宛てた書簡集は『愛情はふる星のごとく』として出版されベストセラーとなった。 ※右派の中に反ファシズムの信念を持った尾崎を売国奴という人がいる。日本人としてスパイされたことが憎いのは分かるけど、大局を見て欲しい。尾崎の情報でダメージを受けたのは独ソ戦に敗れたナチス・ドイツだけ。右派はヒトラーに世界を支配して欲しかったのか。また、尾崎は戦時中の右翼と同じで対中徹底抗戦を主張した。本心はソ連を守る為だが、表面的には同じ事を言っている。その尾崎を批判するなら大東亜戦争肯定論も否定することになるけど、右派はそれでいいのか。勝算もなく開戦に踏み切り、補給を軽視して多数の兵士を餓死させた連中より、尾崎の方が売国奴とは思えない。誤解を恐れずに言うならば、お札に登場してもいいほどの人物。 ※尾崎の遺言は全文が青空文庫で公開されてマス。 |
ルクソール |
カイロ |
王位継承をめぐる政争に巻き込まれ、18歳の若さで毒殺 された悲劇の王ツタンカーメン。彼はエジプト南部ルクソー ルにある、王家の谷のこの石窟に何千年も眠っていた! ※後述の記事によると死因は骨折&マラリアとのこと |
ミイラが納まっていた黄金の棺は、現在カイロの国立 博物館で公開されている。よく盗掘されなかったものだ! |
●ツタンカーメンは兄妹婚の子=死因は骨折とマラリア−米医学誌 2010.2.17配信
時事通信 【カイロ時事】黄金のマスクで知られる古代エジプト王、ツタンカーメン(新王国第18王朝、紀元前14世紀)は、アクエンアテン(アメンホテプ4世)とその姉妹の1人との間に生まれ、骨折にマラリアが重なって死亡した可能性が高いことが、エジプト考古学チームによるDNA鑑定やコンピューター断層撮影装置(CT)の調査で分かった。 17日付の米医学誌「ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・メディカル・アソシエーション」が伝えたもので、最新科学で古代エジプト史の謎の一つが解き明かされた。イタリア、ドイツの専門家も加わり、ツタンカーメンを含むミイラ16体を2年がかりで調査した。 10歳で即位し19歳で早世したとされるツタンカーメンの父親は、唯一神信仰をもたらした異端の王アクエンアテンとされ、アメンホテプ3世やスメンカーラ王が父との説を否定。当時兄妹婚は一般的だった。母親の名は特定されていない。またツタンカーメンには2人の女児ができたが、いずれも母親の胎内で亡くなった。 荘厳で華麗な黄金マスクに象徴されるツタンカーメンだが、「腐骨や内反足を患い、転倒して足を骨折し、マラリアが命取りになった」という。同誌は「歩くのにつえをついていた虚弱な王だった」としている。 1922年に英考古学者ハワード・カーター氏によってエジプト南部ルクソールで王墓が発見されたツタンカーメンの死因をめぐっては、ミイラの頭蓋骨にある損傷などを根拠に他殺説も指摘されてきた。 |
墓前にはカラフルな石が 敷き詰められていた |
わかりにくい場所だがちゃんと お花が供えられていた |
登山を身近にした 功績は計り知れない |
「日本人はたいていふるさとの山を持っている。山の大小遠近はあっても、ふるさとの守護神のような山を持っている。そしてその山を眺めながら育ち、成人してふるさとを離れても、その山の姿は心に残っている。どんなに世相が変ってもその山だけは昔のままで、あたたかく帰郷の人を迎えてくれる。私のふるさとの山は白山であった」(日本百名山「白山」より)。
小説家、山岳研究家の深田久弥は、1903年に石川県大聖寺町(現・加賀市)で生まれた。12歳の時に冨士写ヶ岳(しゃがだけ
942m)に登り、これがきっかけとなり登山に興味を持つ。1918年(15歳)、旧制福井中学の友人と白山に登り、ますます登山に魅了された。1922年、19歳のときに槍ヶ岳、浅間山、翌年に白馬岳に登頂。東大哲学科に進むと山岳部に入り、1926年(23歳)、山形・新潟の県境で朝日連峰を縦走し朝日岳に登頂した。
1927年(24歳)、在学しながら、当時文学全集(円本)が人気を博していた改造社に入社する。仕事を通して知り合った、同い年で青森出身の北畠八穂(のちに作家)と恋愛関係になり、3年後に同棲。
北畠は文才があったが、脊椎カリエスで床に伏せることが多かった。深田は彼女が考えた物語を焼き直し、小説『オロッコの娘』を書き上げる。作中で、樺太(サハリン)の若者の愛の悲劇を神話へと昇華した。これが文芸春秋に掲載されると、川端康成や横光利一らに高く評価された。筆に自身を持った深田は中退し作家生活に入る。俳号は九山。
1932年(29歳)、『あすならう』が文壇に認められたが、これも物語の下敷きを北畠が提供しており、川端康成から独自性を求められる。同年、鳳凰山登頂。翌年、文芸復興を旗印に川端康成、小林秀雄らと「文学界」を創刊する。深田は風土色を前面に出した地方主義文学を書き続ける一方、谷川岳、鹿島槍ヶ岳、会津駒ヶ岳と毎年のように登り続けた。1935年(32歳)、日本山岳会に入会。1939年(36歳)には霧島山に続いて、屋久島の宮之浦岳に登頂を果たし、太平洋戦争までに国内の著名な山をほぼ制覇した。
翌1940年(37歳)、山岳雑誌『山小屋』(朋文堂)の連載で、撮影した20座の写真に登頂レポートをつけ、これが日本百名山の原型となった。同年、これまで北畠が寝たきりであることを理由に、結婚を親に反対されていたが入籍に踏み切る。
その翌年、文芸評論家・中村光夫の姉であり、初恋の女性だった木庭志げ子と再会し不倫関係となった。年末、真珠湾攻撃により日米開戦。結婚3年目(1943年)、志げ子が深田の子を産んだことを北畠が知り修羅場となる。
国家においてもアジア・太平洋戦争が泥沼化し、深田は1944年に41歳で召集された。歩兵小隊長として中国大陸を転戦し終戦を迎える。
1947年(44歳)、大陸からの引き揚げ後、深田は北畠と離婚し、志げ子と再婚した。これに憤慨した北畠は世間に“原稿提供"の件を暴露する。これで深田の作家としての評価は地に墜ちた。以降、10年以上も文壇から遠ざかり小説の筆を折る。だが、山への想いは枯れることなく、ヒマラヤを探査したり、夫人や子どもと登り続けた。
1959年(56歳)、深田に再びペンを握る機会が訪れた。山岳雑誌『山と高原』(朋文堂)に、4年間の長期連載“日本百名山"を書くことになった、深田は毎月2山、50回の山岳随筆を書き上げた(初回は鳥海山と男体山、最終回は筑波山と富士山)。北は北海道の利尻山から、南は鹿児島県屋久島の宮之浦岳まで、大雪山、鳥海山、岩木山、鳥海山、剣山、槍ヶ岳、八ヶ岳、富士山、石鎚山、阿蘇山など百峰を選定した(うち、3000mを越える山は13座)。登頂時の様子や山の歴史・文化史などに言及した随筆は山岳愛好家からも好評で、掲載誌において第1回読者賞を獲得する。深田は1年がかりでこれを加筆し、1964年(61歳)に『日本百名山』(新潮社)として出版した。
「日本アルプスで一番代表的なピラミッドは、と問われたら、私は真っ先にこの駒ヶ岳をあげよう。その金字塔の本領は、八ヶ岳や霧ヶ峰や北アルプスから望んだ時、いよいよ発揮される。南アルプスの巨峰群が重畳している中に、この端正な三角錐(すい)はその仲間から少し離れて、はなはだ個性的な姿勢で立っている。まさしく毅然という形容に値する威と品をそなえた山容である」(日本百名山「甲斐駒ヶ岳」より)
深田は百名山の選定について、「自分が登頂した山」であることを絶対条件としたうえで、「標高1500 m以上」を原則とし、次の3点を選定基準にあげた。
(1)山の品格。誰が見ても立派な山と感嘆する山 (2)山の歴史。古来から和歌に詠まれたり、山頂に祠があるなど神体として崇拝されてきた山 (3)山の個性。その山にしかない特筆すべき特徴をもっている山。逆に、有名な山でも山頂が遊園地になるなど「山霊のすみかがなくなっている」ような開発された山は除外された。 『日本百名山』は刊行の翌年に第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞し、深田は人気作家として復活した。
1966年(63歳)、中央アジアを約4カ月間旅行。1968年(65歳)、日本山岳会副会長に就任。翌年、山渓賞(山と渓谷社)を受賞する。
1970年(67歳)、山岳雑誌『岳人』にて新たに『世界百名山』の連載を開始し登山ファンに愛読されたが、1971年3月21日、山梨・茅ヶ岳(1704m)の登山中に山頂付近で脳卒中を起こし急逝した。享年68歳。茅ヶ岳には石碑『深田久弥先生終焉の地』が建立された。
没後、遺作エッセイ集『山頂の憩い−「日本百名山」その後』が刊行され、「日本百名山を出版した時、この山をまだ見ておらず、ニペソツには申し訳なかったが百名山には入れなかった。実に立派な山であることを登ってみて初めて知った」と北海道のニペンツ山を称賛している。他に遺作として『中央アジア探検史』(白水社)が刊行された。『世界百名山』は41座で中断したが、1974年に『世界百名山―絶筆41座』(新潮社)が出版され名著と称えられた。
1978年、日本山岳会の『山日記』編集メンバーが200座を選定し、深田の百名山を加えて“日本三百名山"を発表。
1981年、没後10年事業として茅ヶ岳山麓の韮崎市観光協会が茅ヶ岳登山口に深田久弥記念公園を作り、顕彰碑に「百の頂上に百の喜びあり」と刻んだ。また、翌年から韮崎市で深田を偲ぶ『深田祭』(4月第3日曜日)と記念登山のイベントが毎年実施されるようになった。
1994年、NHKがBS番組『日本百名山』シリーズを制作して全山を紹介、これに関連したガイド本や映像記録なども多く発売されて百名山はブームとなり、新たな登山愛好家がたくさん生まれた。
2002年、生誕100年を前に加賀市大聖寺に「深田久弥
山の文化館」が開館。翌年、生誕100年の記念切手が発売された。
登山家はそれぞれが各地の山に思い入れを持っているため、「“日本百名山"は深田の主観が強すぎる」と批判も起きたが、個人的なリストにそれを言うのは野暮であるし、この100選が本当に的外れであればここまでブームにはならなかった。僕はむしろ、どんなバッシングもはね返すだけの、誰よりも山を愛しているという自負と、北海道から屋久島まで名峰を踏破してきた自信、幅広く世に山の魅力を伝えんとする情熱に感服した。実際、深田は「自分の選定の試みは、旅行業界が観光振興のために選んだ“名勝百選"のようなものに比べれば正確だ」という言葉も残している。僕の身近に“百名山をいくつ登った"と楽しみにしている人が複数おり、幸せそうな表情をしているのを見ると、このように登山を身近にした深田の功績は計り知れないと思う。
【墓巡礼】
墓は故郷の石川県加賀市本光寺にある。斜面に沿って中央の道を登っていくと、「深田久彌之墓」と刻まれた墓石が先祖累代の墓と並んで右手に見えてくる。墓前には足下に五色の玉石がはめ込まれた敷石があり珍しく感じた。墓の右側面には戒名や生没年と共に「読み
歩き 書いた 妻 志げ子」と彫られている。「深田久弥
山の文化館」の高田宏館長の解説によると、深田が生涯スタンダールを敬慕していたことから、夫人がスタンダールの墓碑銘「生き、書き、愛した」にちなんで刻んだという。墓前にて“お陰様でこれまで知らなかった名峰を知ることができました"“そちらに行った際に、中断した世界百名山の話を聞かせて下さい"と合掌した。
※百名山がない都道府県は16。うち、東日本は茨城、千葉、西日本は愛知、三重、京都、大阪、和歌山、兵庫、岡山、島根、山口、香川、高知、福岡、佐賀、長崎。北海道から9座、日本アルプスから28座が選定されたが、九州は6座、近畿は3座、四国は2座、中国地方に至っては鳥取県大山の1座だけの選定であり、関西人の僕としては、西日本から選ばれた山が少ないことに寂しさを感じる…。だけど、事実として西日本は高い山が少なく、なだらかな山が多い。それゆえ深田が物足りなさを感じ、選定ゼロの府県が多数あるのもやむなしかと。
※2014年、山岳ガイドの藤川健がさらに33日間(9月1日〜10月3日)という日本百名山登頂の最短記録を達成した。
※深田久弥の墓所から「深田久弥 山の文化館」まで500mほど。
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ミケランジェロ作『ダビデ像』 | 撮影デジカメを盗難に(涙)。それ ゆえ、Wikiから墓画像を借りました |
全イスラエルを統一したB.C.10世紀頃のイスラエル王国第二代の王(在位B.C.1010頃〜B.C.970頃)。エルサレムを攻略して都に定め、初代の王サウルの後を受けて近隣諸国を征服&併合した。支配はダマスカスから紅海に及び、イスラエルの最盛期を築く。旧約聖書サムエル記によると、青年時代にペリシテ人の巨人ゴリアテを石投げで打ち殺したという。 ※メシアはダビデの系譜を継ぐものとされる。 |
2001 | 2005 | 2010 |
唯一無二の名優だった!! |
宮崎監督の名作『ルパン三世・カリオストロの城』収録風景。 担当キャラは、右からルパン、次元、不二子、五エ門、銭形 |
東京生まれ。俳優エノケン(榎本健一)を尊敬していた山田は、22歳の時に早大英文科を中退して「民芸」に入団し、続いて27歳からは劇団「テアトル・エコー」に所属する。「日本人のへそ」「表裏源内蛙合戦」「珍訳聖書」「道元の冒険」といった一連の井上ひさし作品では看板俳優として好演した。一方、海外TVドラマが全盛だった60年代当時、吹き替えの役者は新劇団の若手が務めていたことから、山田は西部劇「ローハイド」のヒーローや、クリスト・イーストウッド、ジャン・ポール・ベルモンドの吹き替えを担当した。また「お笑いスター誕生」では中尾ミエと司会を担当した(デビュー当時のドリフターズに演技指導をしたという裏話も)。1995年、突然の脳出血により大田区の都立病院で急逝する。享年62歳。『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』で追悼テロップ「永遠のルパン三世 山田康雄さん ありがとう」が流された。声優とは役者の一部という信念から、若い声優に対するアドバイス--「声優を目指すな。役者を目指せ。演技は全身でするものだ」が口癖だった。
山田康雄といえば切っても切り離せないのが、1971年から放送が始まった『ルパン三世』!当初、ルパン三世の声には野沢那智や広川太一郎などの候補がいたが、「オレは信用のおける泥棒だぜ」といったキザでトボケた味わいのあるセリフを、違和感なく言いのける声優を、演出担当の大隈正秋は、なおも必死で探していた。その時、井上ひさしの『日本人のへそ』に出演中だった山田(当時38歳)を発見、電気が走ったという。
「舞台狭しと軽やかに飛び回り、時にニヒルで、どこかに暗さがあって、まさに僕の思い描いていたルパンがそこにいた、その男こそ山田康雄です」(大隈正秋)
「“ルパンやんない?”“やるッ”、これで決まり。原作のまんが読んでて、すごく好きだったし」(山田康雄)
以降、彼は日本一有名な声優として知られることになった。
●次元役の小林清志が語る思い出〜「ルパン三世よ永遠に・山田康雄メモリアル」(徳間書店)から
『ある収録の時である。「ドリフターズ」の長さんが、顔を出した。続いてドリフの面々が顔を出す。口をそろえて、「山田さん、どうも。」と挨拶をしにくる。隣のスタジオで連中が仕事をしていたらしいな。なにせ小生の息子が、当時夢中になってテレビにかじりついて見ていた人気者たちを、直に見たから小生も、興奮の極みである。ヤスベエ(山田康雄)はというと「よう、お前たち頑張ってるか、おい」ってなもんである。どうしたもんだ、これ。何か、いわくがあるなと思って聞いてみたら、ドリフの面々のデビューしたてに、なんと演技指導をしたというのだから、そりゃ挨拶にやってくるわな。納得。榎本健一さん、エノケンさんを崇拝していたというヤスベエのこと。そういう世界の名人っちとの交流もあったのは、当然のことと言えよう。
それから苦言まじりにひとこと。最近のアニメの番組制作のなかで気になるのは、線画だけ、色も動きも口の動きもひどい時にはどんな人物なのかわからない仕上がりで声を入れなければならない場合が多い。それまでのスタッフの苦労も充分わかるのだが、なんとかならないかなぁと思う。しかし「ルパン三世」に限っては、それがないのだ。これは山田康雄が口をすっぱくして、スタッフに要望した結果である。 ともかく、愛すべき、そして見事なルパンを作りあげた男、山田康雄に、乾杯!』 |
『鬼の上前をはねる奴』は 実に上手いキャッチ・コピー |
夕日の中にたたずむ安倍晴明。墓所は住宅街の中にあり 非常に分かりにくい。式神を使って根性で探そう(2001) |
正面に五芒星 (ごぼうせい)が! |
2006年、5年ぶりに再訪! |
“陰陽師”ではなく“陰陽博士” と墓前には刻まれている |
その後、いかがお過ごしですか |
缶コーヒー(BOSS)とワインという 微妙な組合わせで供えられてた |
2010年、4年ぶり3度目の巡礼。よく晴れた! | 季節は6月。緑が目に眩しい! | 初めて後方から激写。小さな五芒星で囲まれている |
京都市上京区の晴明神社 | 鳥居の真ん中には五芒星! |
晴明神社の本殿。五芒星尽くし!左右の提灯にも! | 屋根の下の照明にも! | 屋根の上にはダブルで五芒星! |
夢枕獏、京極夏彦、荒俣宏、岡野玲子が 名前を連ねた豪華絵馬!欲しいッ! |
野村萬斎!他にも沢口 靖子、今井絵理子等々 |
晴明と式神の顔出しパネル(笑) テーマパーク状態 |
神社境内に移されてきた旧・一条戻橋 | 式神がいた! | 現・一条戻橋。晴明はこの橋の下に“式神”を隠してた |
「その占いの効果、神の如し」「わが国第一の陰陽家」と言われた平安時代の天才陰陽師。鎌倉から明治初期まで宮廷の陰陽寮(天文・暦のことを司る役所)を統括した安倍氏(土御門家)の祖。父は阿倍仲麻呂の子孫を称する下級貴族で、宮中の食事を担当した大膳大夫、安倍益材(ますき)。母は巫女といわれているが、白狐が人間に化けた葛乃葉(くずのは)という伝説もある。出身地は大阪説、讃岐説、茨城説など複数あるが、大阪市阿倍野区の安倍晴明神社には生誕地の碑(ただし江戸中期に建立)と晴明の産湯の井戸の跡があり、中世の人々は土地の名前を名字にしたので「阿倍野区」説はなかなか説得力がある。またこの神社には「晴明の生誕地へ帝が神社を建てさせた」という記録も残っている。 晴明がどんな青春期を送ったのかハッキリした記録はないが、没後まもなく編纂された『今昔物語集』では、当時最高の陰陽師、賀茂忠行&保憲父子に陰陽道を学んだとされている。何歳で結婚したのかは不明だが、33歳の時に長男吉平が生まれている。 ※若い頃の晴明を『今昔物語集』はこう記す…ある夜、師匠・忠行が牛車で出かけた時に晴明がお供でついて行くと、前方から恐ろしい鬼の群れ、百鬼夜行がやって来るのが見えた。晴明が師匠に報告すると忠行は隠形呪文で自分たち一行の姿を鬼の視界から隠して無事にやり過ごした。忠行は鬼を見ることが出来る晴明の素質に惚れ込み、自身のすべての知識を受け継がせたと言う。(今昔物語巻二十四 安倍晴明、忠行に随ひて道を習ふ語、第十六) 当時の日本では科学と呪術(占い)がワンセットであり、宮廷には天体観測を基に国家の吉凶を占う役職“天文博士”があった。そして朝廷は、年中行事を成功させるために、儀式の日をいつにすれば縁起がいいのかを占わせた。「天の意志」を読み取った天文博士は、予測した未来の情報を極秘裏に天皇へ伝えた。晴明の陰陽道の師匠・賀茂保憲は同時に天文博士でもあり、960年(39歳)、師が天文博士を引退した時に、彼は天文博士の見習い、天文得業生となった。 晴明は唐に渡って、陰陽道の本場城刑山で伯道仙人に学び、帰国すると日本独特の陰陽道を築き上げる。972年(51歳)、12年間の修業を経て天文博士となった。晴明は6代の天皇(朱雀、村上、冷泉、円融、花山、一条)や藤原道長の信頼を集め、58歳で那智山の天狗を封ずる儀式を行ったり様々な記録を残している。晴明は天文博士の一方で陰陽師としても名を極め、呪術によって式神(鬼神)を自在に操るなどして、宮廷内の政争に一役買うことも少なくなかった。※晴明は、青龍、勾陳、六合、朱雀、騰蛇、貴人、天后、大陰、玄武、大裳、白虎、天空という12体の式神を下僕として使役させていたという。 後年は主計権助、大膳大夫、左京権大夫、播磨守などの官職を歴任し、最晩年の1001年(80歳)には従四位下まで出世した。晴明は一代にして超一流の陰陽師として天下に名を成し、2人の息子も優秀な陰陽師に育ったことから、阿倍家は師匠である賀茂家と並んで2大陰陽家となった。 ※賀茂家は晴明が台頭するまでずっと天文道と暦道を担当していたが、保憲はあまりに晴明が賢い弟子なので、晴明には天文道、息子の光栄には暦道と分けて教えた。晴明の次男は晴明でさえなれなかった「陰陽頭」にまで出世している。 晴明は邸宅を平安京の鬼門に当たる北東に構え、都に侵入しようとする魔物や邪鬼を防いでいた。そうして1005年、84歳という当時ではかなりの長寿で人生の幕を閉じた。没後、晴明を惜しみ、彼に対する生前の官位が低すぎたと感じた時の天皇は、京都晴明町の住居跡を「晴明神社」に、大阪の生誕地を「安倍晴明神社」とした(晴明が稲荷大明神の化身と信じられていたことも神社で祀られる理由の一つ)。晴明桔梗印(五芒星)と呼ばれる祈祷呪符が神紋になっている。 晴明の墓は京福嵐山線嵯峨駅から南へ徒歩5分の角倉町、長慶天皇陵の横。墓の裏側は角倉神社。墓所までは細い路地裏が続くので迷いやすい。角倉町に入ったら地元の人に尋ねよう。命日の9月26日には毎年墓所祭が催されている。 晴明の伝説は『信田妻(しのだづま)』『蘆屋道満大内鑑』など文楽や歌舞伎になりいっそう世に広まった。1993年にはマンガの主人公となり、生誕1080年目(2001年)にはついに映画の中で大活躍した。 【晴明伝説】 晴明が他界した後、かなり早い段階から“鳥が話す言葉が分かった”など、その存在は伝説化されていた。晴明に関する逸話は『古事談』『大鏡』『宇治拾遺物語』『古今著聞集』『今昔物語集』『體源抄』『日本紀略』『権記』『平家物語』『大江山絵詞』『元亨釈書』『源平盛衰記』『発心集』など、文献は多岐にわたっており、いかに当時の晴明がスーパー陰陽師だったかを雄弁に語っている。 伝承で最も有名なのは先述した『今昔物語巻二十四 第十六』。鬼の一群とすれ違う話以外にも、色々なエピソードが記されている。例えば… ・陰陽道を身につけて得意になった僧侶(智徳法師)が、噂に聞こえる晴明の実力を確かめようと自分の式神を連れて会いにいったら、晴明に式神を隠されてしまい、彼に謝って出してもらう話。 ・仁和寺の僧侶らが晴明の力を試そうとして、陰陽術で庭先の蛙を殺すよう要求した。晴明は「罪作りなことを…」と言いつつ草の葉に呪文をかけて蛙に投げると、蛙は葉の下でペチャンコになった。僧侶らは真っ青になって震え上がった。 ・晴明は客がいない時には家で式神を家事に使っており、人影がないのに勝手に戸が上下し、門が開閉していた。 他の文献でよく知られているのは… ・雨が降ると頭痛に苦しむ花山天皇について、晴明は天皇の前世の頭蓋骨が野ざらしで岩に挟まっていると指摘、実際にその通りで、雨が降ると岩が膨張し骨がきしんでいた。骨を取り出したら頭痛は治った。(古事談) ・天体の異様な動きから天皇が退位し出家することを予知。(大鏡) ・藤原道長が外出しようとすると愛犬に止められた。晴明は式神の攻撃を犬が察知したと判断。果たして道を掘り起こすと道長を呪う土器が埋められていた。晴明が紙を鳥形に折って空に投げ上げると式神=白鷺に変身して南へ飛び、犯人の陰陽師・蘆屋道満(あしやどうまん、道摩)の家に落ちた。道満は自分の黒幕が道長の政敵・藤原顕光であることを白状したので、道長はこれを赦して故郷播磨へ追い返した。(宇治拾遺物語 御堂関白の御犬晴明等奇特の事) ※道満は能力のある民間陰陽師で晴明のライバルと伝えられている。一条戻橋で道満に父を殺された晴明は、術を駆使して父を蘇生させた。この橋は今でも現存し、晴明は自分の式神2人をこの橋の下に普段は隠していたという(妻が式神を不気味がるんだって)。 ※晴明の著書に「占事略決」がある。 ※奈良・安倍文殊院境内の小高い丘(展望台)は、かつて晴明が天文観測を行った場所と伝えられている。 ※晴明神社のある場所はかつて千利休の屋敷があり、利休が自害して果てた終焉の地でもある。 ※ちなみにマンガ『陰陽師』で晴明の親友として登場する音楽好きの源博雅は実在の人物で、晴明よりも3歳年上の918年生まれ。966年(48歳)、「長秋譜」を作曲し、「博雅笛譜」「長竹譜」を作成した。980年に62歳で亡くなっている。今昔物語集でも源博雅は琵琶“玄象”を探して活躍する。 |
金乗院の山門 | 金乗院から500mほど南下した林の中へ | 右に曲がると案内板が見えてくる | 市指定史跡「芦屋道満の墓」 |
東日本大震災で後方に倒壊していた… | 「解脱塔」とある | 石碑裏にあるという3基の五輪塔は確認できず |
平安時代の吉凶を占う陰陽師。道摩法師(どうまほうし)とも。播磨国岸村(兵庫県加古川市)出身。陰陽博士・加藤保憲(917-977)の弟子。 保憲の死後、同じ門下の安倍保名と法力で競い勝ったが、保名の子・晴明が成人した後は、式神対決で敗れ故郷の播磨へ追放されたという。『宇治拾遺物語』には藤原道長が安倍晴明から「何者かが式神の呪いをかけようとしている」と告げられ、犯人と見なされた道満が播磨に流罪となる話が出てくる。藤原道長お抱えの陰陽師が安倍晴明で、“悪霊左府”藤原顕光のお抱えが芦屋道満だった。道満は道長の政敵・顕光から道長へ呪祖を命じられたとされる。 那須塩原に伝わる話では、道満が師・保憲の秘伝書を騙し取ったことが露見し、都から那須野ヶ原に逃亡、発見されて死刑となったとある。明治末、墓所とされる場所に近隣の金乗院の信浄和尚が道満の霊を慰めるために「解脱塔」を建立した。 ※歌舞伎・浄瑠璃では竹田出雲の『芦屋道満大内鑑(おおうちかがみ)』(通称「葛の葉」)が有名。 |
この3賢者(カスパール、メルキオール、バルタザール)のことを、新約聖書では「マギ」と呼んでいる。 ・カスパール(没薬)は白髪白髭の老アラブ人。象徴は受難(死)と信仰。 ・メルキオール(黄金)は青年のインド人。カスパールの弟。象徴は王権と愛。 ・バルタザール(乳香)は中年のエジプト人。象徴は神性と善行。 |
この一帯はすべてピュリツアー家!大帝国! (写真では後列左から2番目がジョセフ) |
“あのう、実は密かにピュリツアー賞を狙っている んですが…ゴニョゴニョ”と本人に直談判!(笑) |
こっちは2000年に間違えて巡礼した息子の墓。 帰国後に「SON OF」ってあるのをみて絶句した! |
生け花・草月流創始者。本名はナ一(こういち)。東京生まれ。木の根を使ったり、鉄、プラスチック、コンクリート、動物の頭蓋骨、とっくり、ヤカンなど斬新な素材との組み合わせで「前衛生け花」ブームを巻き起こす。1955年(55歳)に渡欧すると、生け花と彫刻を融合した作風が海外でも話題を集め、ミロやダリが讃え、タイム誌は“花のピカソ”と呼び、生け花界のカリスマとなった。華道500年の伝統を破壊した蒼風は、岡本太郎や写真家・土門拳らとも連帯して前衛運動を繰り広げ、78歳で他界した。「生け花は、生きている彫刻である。生け花は、生命を持った花の彫刻である」(蒼風)。 |
平家の滅亡と運命を共にした幼き天皇。「安徳天皇阿弥陀寺陵」は壇ノ浦にある | 平時子の墓(清盛の妻) |
“食”の大巨人 | 墓地入口の池を右折、坂道を登った一番奥に眠る | 詩人の三好達治も愛用した魯山人の陶磁器 |
料理研究家だけでなく、陶芸家、 画家、書道家など、多様な顔を 持っていたマルチ・アーティスト |
魯山人曰く「食器は料理の着物」。彼は自ら器も焼いた。 北大路家は地元の名士。同家の墓が多数あった。 この魯山人の墓所は近年に整備されたばかりとのこと |
石碑に刻まれた言葉は「春来草自生」。 意味は“春来たらば草おのずから生ずる”。 ※情報を下さったKさん、有難うございました! |
京都出身。本名、北大路房次郎。父は訳あって魯山人の誕生と共に自刃しており、里子に出された。転々と家を移り、6歳で木版師の養子に入る。小学校卒業後、薬屋の丁稚奉公となった。当初は画家を目指したが書に才能を発揮し、1903年(20歳)に上京。いきなり翌年の日本美術展覧会にて一等に選出され注目を集める。1908年(25歳)、中国に渡って篆刻(てんこく、印判)を学び、新たな才能を開花させた。2年後、彼の才能に惚れ込んだ人物から、長浜や金沢で創作環境を提供され、書や篆刻を極めていく。この過程で竹内栖鳳や土田麦僊など日本画壇の巨匠とも知遇を得、交流を重ねていった。
魯山人は各地に逗留するうちに料理(美食)の造詣を深め、「食器は料理の着物」として自ら陶磁器を自作し始める。1921年(38歳)、東京に美術店を持ち、会員制食堂の「美食倶楽部」をスタート。42歳、赤坂に会員制高級料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」)を開き、自身が厨房に立って腕をふるった。1927年(44歳)、鎌倉に窯を持って作陶に本腰を入れ、翌年に三越で陶磁器の個展を催した。1936年(53歳)、魯山人の美学へのこだわりが周囲との衝突を生み、星岡茶寮との関係が切れる。
やがて戦火が激しくなり苦しい生活を送るが、1946年(63歳)に再起を賭けて銀座に開いた陶器店が人気を呼び、1954年(71歳)にはロックフェラー財団の招待で欧米の美術館を巡った。海外では自作の展覧会や講演も行ない、ピカソやシャガールとも会う。翌年(72歳)、織部焼の人間国宝に指定されるも辞退。その4年後、1959年に肝硬変により他界した。享年76歳。 生涯に6度も結婚したり、フランスの名門レストラン「トゥール・ダルジャン」にて手持ちのワサビ醤油で鴨料理を食すなど、その奔放な生き方も含めて(相当な毒舌家だった)、人々に強烈なインパクトを残して旅立った。
※グルメ漫画「美味しんぼ」の海原雄山は魯山人がモデル! |
案内板に“よこかわしょうぞうぼしょ” | 盛岡に生まれ、東京、アメリカ、中国と渡り、ロシアで銃殺された激動の人生 |
敵から尊敬された | 東京の青山霊園にも墓はあるけど… | 植物の侵攻が激しい(2010) |
明治期の新聞記者、特殊工作員。南部盛岡藩出身。旧名、三田村勇治。南部藩士の父は北方警備で滞在した函館でニコライ神父に感化されキリスト教に入信し、その影響で省三も熱心なキリスト教徒に。1884年(19歳)、横川家の婿養子となる。2ヶ月後、単身上京し自由民権運動の闘士となり、加波山(かばさん)事件=要人暗殺未遂事件に係わった同志を匿ったことで犯人隠匿罪に問われ1年9ヶ月投獄される。獄中で聖書や荘子を読み耽るなか、自分は1日に三度は反省すべき人間であると考え、名前を勇治から省三に改名した。 釈放後、自由民権論者は保安条例によって東京から追放された為、故郷の岩手に戻る。妻子を養うために朝日新聞の記者となり、1893年(28歳)、海軍大尉・郡司成忠(幸田露伴の兄)の千島列島探検隊に同行取材し探検記を連載、好評を博す。翌1894年、日清戦争が勃発。省三は海軍従軍記者となり、ジャーナリストとして名声を高めた。1896年(31歳)、辞表を出して翌年サンフランシスコに渡り開拓事業を始めるが、日本人移民社会の教養レベルを上げる必要性を痛感し、米国で2番目の邦字新聞社“北米日報”を設立する。 2年後に岩手の妻が重病(肺結核)という知らせが届き帰国、妻の最期を看取った。この帰国途上でハワイに移住した日本人が奴隷状態になっているのを目撃し、妻の葬儀後にハワイに戻って待遇改善のストライキを指導した。1901年(36歳)、北京に派遣された清国公使の内田康哉から手腕を見込まれ、大陸へ呼ばれて機密活動を託される。1904年に日露戦争が始まると、省三は特別任務班第六班班長となった。ロシア軍はシベリア鉄道を大動脈として兵員、弾薬を極東へ送り届けることから、省三はシベリア鉄道の爆破任務に志願。蒙古の僧侶(ラマ僧)に変装し、約50日をかけて満州チチハル付近まで潜入するが、そこで天幕の敷物の下に隠していた爆薬をロシア警備隊に発見された。 省三と沖禎介はハルピンに護送された後に軍法会議にかけられ、スパイ罪で銃殺刑を言い渡される。当初は民間人としての絞首刑だったが、省三は軍人として名誉ある銃殺刑を希望し許可された。高潔な人格に惚れたロシア軍大佐が同情し、総司令官クロパトキンに減刑を進言したが、クロパトキンは「仮に赦しても日本の軍人は捕虜とならずに自決する。野に亡骸を放置するよりも、むしろ敬意を払い銃殺せよ」と答えた。 処刑当日、2人の娘への遺書を書き終えた省三は、所持金全額となる500両をロシアの赤十字社に寄付する旨を裁判官メジャークに伝えた。メジャークはこの申し出に驚き、遺族に送ることが可能なことを説明したが、省三は(1)500両は公金であり個人のものではない(2)遺族は天皇や国民が必ず助けてくれる(3)日本軍の砲弾で負傷した貴国将兵に対する敬意である、と理由を述べて“どうか納めて欲しい”と譲らなかった。 銃殺に際し、指揮官シモノフは「射撃用意!愛を持って撃て」と部下に命令した。享年38歳、波瀾万丈の人生だった。 省三の死の30年後(1934年)、シモノフは盛岡へ省三の長女を訪ね、涙と共に「父上の立派な最期を伝えに来た」と語ったという。 |
ポロト湖畔に建つアイヌのチセ(家) | 巨大なコタンコロクル(村長)像 | アイヌの音楽と踊り |
アイヌの日用品などを展示 | アイヌの葬式。墓標は木 | アイヌの村では小熊を飼育 |
『二風谷アイヌ文化博物館』 | 外海でも漁が可能なほどの大きさ | ボウガンも使用(仕掛け弓?) |
アイヌの聖地カムイコタン(旭川) 空気が澄み、川のせせらぎが響く |
アイヌの墓標は男性が槍型、女性が裁縫の針型で、 女性の場合は上部が平らなバージョンや、 上部が円形で糸通しの穴が開いたバージョンがある |
北海道・国泰寺(こくたいじ)の「アイヌ民族弔魂碑」 僕の知る限り、アイヌ民族へ最も真摯に謝罪した碑文 |
なんと国泰寺に本物の 釈迦の骨が入った舎利塔が |
2010年「銀のしずく記念館」が開館! アイヌ文化伝承者・知里(ちり)幸恵の資料館 |
知里幸恵が弟に宛てた長い手紙 美しい字で綴られていた |
言語学者・金田一京助が 知里幸恵に出した葉書 |
記念館の裏手に知里幸恵の生家が建つ |
生家のすぐ近くに綺麗な川が流れていた |
知里幸恵の姪で「銀のしずく記念館」 館長(当時)の横山むつみさんと(2014) |
知里幸恵が眠る富浦墓地。案内板あり | 知里幸恵の墓 | 左隣の十字架は伯母・金成マツ(紫綬褒章) |
〔アイヌの歴史〕北の大地はもともと狩猟採集民族のアイヌという、大和民族とは異なる民族が住んできた土地。アイヌとはアイヌ語で「人」を意味する。アイヌモシリは「人間の大地」、ウタリは「同胞」の意。子供は5、6歳まで命名されず、人格が形成されると個性的な名前をつけられた。そのため、アイヌには同名者はほとんど存在しない。集落は規模にかかわらず「コタン」と呼ばれる。アイヌの居住域は9世紀後半に北海道全域に広がり、10世紀にサハリン、11世紀に千島列島に進出した。アイヌ文化は13世紀までに成立し、人々は熊やオオカミ、さらに水、火、風といった自然の要素に具現化された神を崇拝する。狩猟、漁業、小規模な農業により、自然と共存した穏やかな生活を送ってきた。文字を持たない民族ながら、北海道・樺太・千島列島を中心に一大文化圏を築き、物々交換による交易を行っていた。アイヌ間で、北海道東部のアイヌは「メナシクル(東の人)」、西部のアイヌは「シュムクル」(西の人)、千島のアイヌは「クルムセ」(千島の人)と呼ばれた。
和人は19世紀までアイヌを蝦夷(えぞ)と呼んだ。『日本書紀』によると、飛鳥時代の658年から660年にかけて、斉明天皇(天智・天武帝の母)の治世に、越国(こしのくに、北陸)守であった豪族阿倍比羅夫(あべのひらふ)が船軍180隻を率いて蝦夷を討ち、渡島(函館、松前近辺)の蝦夷を従わせたという。モンゴル軍は元寇に先駆け、1264年より数度にわたって樺太のアイヌを攻撃、制圧している。 平安時代末頃から道南への和人の進出が始まり、1443年、陸奥(津軽)の豪族安東(安藤)盛季(もりすえ)が、南部氏との戦いに敗れて蝦夷島(北海道)に逃げ渡ったことを機に、交易目的の和人によるアイヌモシリへの本格的な移住が始まった。和人は松前(大館館主の下国氏が守護)、下ノ国(函館周辺、茂別館の安東氏が守護)、上ノ国(江差、上ノ国町周辺、花沢館の蠣崎氏が守護)など道南に館を設けて、数百人が居住し交易を行った。当時はアイヌの最盛期であり、人口は北海道だけで数十万人もいたという説がある(2017年時点では約1万3000人)。 1454年には安東盛季の弟の孫で、秋田北部能代(のしろ)を拠点とした安東政季(まさすえ)が、南部氏に追われて道南へ入り、娘婿の花沢館(はなざわだて)の蠣崎季繁(かきざき・すえしげ)に身を寄せる。このとき、政季と共に越前(福井)の武将・武田信広(松前氏の祖)も移住した。この武田信広はアイヌの運命に後世まで大きく関わってくる。 アイヌ民族が和人の記録に最初に大きく登場したのは、室町時代後期、1457年の「コシャマインの戦い」。アイヌと和人の初めての大規模衝突だ。その前年に、志濃里(しのり)館(函館市)付近の鍛冶屋村で、アイヌ青年が和人の刀鍛冶に小刀を注文したところ出来映えが悪く、口論となって青年は殺害された。アイヌの人々は反発し、翌年に首長コシャマインの武装蜂起に発展。約1万人のアイヌ軍が、安東氏の館を次々と襲った。当初は奇襲をかけたアイヌ勢力が優勢で、和人の拠点である道南12館のうち函館や松前を含む10館を落としたが、安東氏配下の豪族蠣崎氏の切望により客将・武田信広が和人軍の総大将となって巻き返し、七重浜でコシャマイン父子を射殺。リーダーを失い、アイヌ軍は崩壊した。その後、蠣崎氏は武田信広を婿養子に迎えて蠣崎氏を名乗らせ、信広の子孫が松前藩の藩主松前氏となっていく。ちなみにコシャマインの戦いの10年後に京都で「応仁の乱」が勃発しており、戦国の世が到来する。 室町時代末期の1515年、本州に面した渡島(おしま)半島東部のアイヌの首長ショヤコウジ兄弟が蜂起。劣勢に立たされた武田信広の嫡男、蠣崎光広(かきざき・みつひろ/1456-1518)は、和睦を装って酒宴を開き、松前大館(松前城)に兄弟を招待。宝物を渡すふりをして油断させ、戸の背後から兄弟を襲い斬殺した。他のアイヌも蠣崎氏の軍勢に皆殺しにされ「ショヤコウジ兄弟の戦い」は終結した。 16世紀半ばに蠣崎氏がアイヌ首長と交易についての協定を結ぶ。当初は交易も対等で、アイヌは政治的な支配も受けなかった。 1593年、秀吉が蠣崎(松前)慶広(かきざき・よしひろ/1548-1616/武田信広の4代後)に朱印状を与え、蝦夷島の支配権を公認。慶広は領民に自分の命に背くと秀吉が10万の兵で征伐に来ると伝え、全蝦夷地(樺太、北海道)の支配を確立する。1599年には蠣崎氏がアイヌ語「マトマエ」由来の地名である「松前」に因んで苗字を松前に改めた。 1604年、前年に徳川の治世となり、松前慶広は家康より「蝦夷地の交易はすべて松前藩の許可が必要である」とするアイヌ交易の独占権を公認され、幕府は松前氏を大名格とみなし、慶広を松前藩初代藩主とする。松前藩はアイヌから獣皮・乾燥鮭・ニシン・鷹の羽(矢羽用)・海草を入手し、対価を米・鉄製品・漆器・木綿などで支払った。交易窓口の一本化により、必然的にアイヌの松前藩への従属が強まった。 1624年、蝦夷地を最初に襲った伝染病、天然痘が流行。 1663年に有珠山が噴火し、多くのアイヌが被災、命を落とす。松前藩も打撃を受け、財政難から対アイヌの交易レートを3倍に値上げする。 江戸時代前期の1669年6月、アイヌと松前藩の全面戦争「シャクシャインの戦い」が勃発。北海道中南部・日高地方のアイヌの首長シャクシャイン(1606-1669)が、和人との交易の不平等に怒りをつのらせ、アイヌモシリ全域に松前藩の打倒を呼びかけた。かねてから和人の収奪や酷使に不満を感じていたアイヌは、白糠(しらぬか/東部釧路付近)から増毛(ましけ/中部西岸)まで東西で2千人が一斉蜂起し、和人の商船を襲撃、19隻の船が被害にあい、船頭や鷹匠、砂金掘りなど東蝦夷地213人、西蝦夷地143人の和人356人が殺害される大事件となった。 幕府にとっては約30年前の島原の乱(1637〜38)以来の事件であり、江戸城に衝撃が走り、徳川家綱は松前藩主(5代)・松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広(1625-1680/2代藩主)に指揮官として出陣を命じた。アイヌ軍は南西部の長万部(おしゃまんべ)まで迫ったが、松前藩は東北諸藩の支援を得て多数の鉄砲(70丁説、1500丁説あり)でアイヌ軍に反撃、さらに松前泰広はアイヌ内部から松前藩に味方する部族を取り込み、シャクシャイン軍を室蘭、登別、苫小牧、本拠地の日高地方へと後退させた。同年10月、冬を迎えて蜂起アイヌ軍は長期戦に備えたが、松前藩は鎮圧が遅れると幕府から改易(所領没収)されてしまうため、早期終戦を求めて和議を申し出る。松前藩が提示した条件は、「シャクシャインらの助命と引き換えに賠償品の宝物を提出せよ」というもの。シャクシャインはこれを受け入れ11月16日(旧暦10月23日)に松前藩の陣営を訪れるが、和睦の祝宴で(またしても)毒殺される。アイヌ側は首長14人が騙し討ちにされ、松前藩士は帰路が長距離になるため首級の代わりに耳を持ち帰った。その後も3年間小競り合いが続き、反乱を鎮圧した松前藩は、アイヌから七ヵ条の起請文(きしょうもん、誓約書)をとって絶対服従を約束させた。また、融和策として米と鮭の交換レートを緩和した。 ※シャクシャインが和睦の場で暗殺される150年前にもショヤコウジ兄弟が同じパターンで殺害されている。アイヌは交易民族であるため、神聖な交渉・儀礼の場を冒涜する行為は想像だにできず、そこにつけ込んだ卑劣な騙し討ちに僕は憤りを覚える。 1698年、天然痘が蝦夷地全域で猛威を振るい、アイヌの人口を大きく減らす。 1756年、津軽半島で漁業に従事していた本州のアイヌに対し、弘前藩が同化政策を実施。本州のアイヌ文化が急速に失われる。 1771年、択捉島ほかのアイヌらが千島列島のロシア人を数十人殺害。 1773年に悪徳商人の飛騨屋久兵衛がクナシリ・アッケシ・キリタップの交易所を請け負い、同地でのアイヌの酷使は悲惨を極めた。男たちは安い報酬で酷使され、過労で病気への免疫が落ちた。女たちは番人たちに辱めを受け、性病を移された。16年後アイヌの怒りは爆発する。 1789年、アイヌと和人の最後の大きな武力衝突「クナシリ・メナシの戦い」(国後・目梨の戦い)が勃発。目梨は北海道東端、知床半島。クナシリで交易を請け負う和人商人・飛騨屋久兵衛の不公平な商取引や強制労働(肥料製造)、アイヌ女性たちへの目にあまる陵辱行為に反発したアイヌが蜂起し、飛騨屋の支配人・番人ら23人を殺害する。メナシ(羅臼)のアイヌもこれに呼応して商人や商船を襲い、計71人の和人が犠牲となった。松前藩が鎮圧し、蜂起の中心となった38人のアイヌは処刑、また飛騨屋に対しても責任を問い「場所請負人(交易委託者)」の権利を剥奪した。幕府はアイヌ蜂起の原因が、経済的な苦境に立たされているものであると理解し、場所請負制を幕府直轄とした。1457年の「コシャマインの戦い」から1789年の「クナシリ・メナシの戦い」にかけての332年間に24回のアイヌ蜂起があったが、最終的に和人がアイヌを制圧した。 探検家で幕臣の最上徳内(もがみ・とくない)は蝦夷地でアイヌから「クナシリ・メナシの戦い」の経緯を聞き、『蝦夷草紙』に「松前藩支配下のアイヌほど悲惨なものはない。これは地獄だ」と書き記す。最上徳内は、江戸や京都の人間が喜ぶ異国の装飾品は、松前藩の強要でアイヌの男が異国に身を売り、妻子が草の根を掘って食べて得たものだと糾弾した。 ※最上徳内(1754−1836)…江戸中期の探検家。生年は1755年説あり。出羽国 (山形)出身。貧農の家に生まれ、煙草行商などをしつつ独学。1781年(27歳)に江戸へ出て幕医の下人となった。医術や数学を学び、30歳から天文学や測量の知識も得る。1785年(31歳)、人夫として幕府の蝦夷地調査に随行、釧路、厚岸、根室に進み、アイヌの案内で国後島へも渡った。翌年単身で再び国後島へ渡り、さらに幕吏として最初に択捉島・得撫島を探検しロシア人と交流する。1787年(33歳)、老中・松平定信が寛政の改革を始め、蝦夷地開発は中止となり江戸へ帰還するも、同年に再び蝦夷へ渡り、松前藩菩提寺の法幢寺に住み込みで入門するが、正体が発覚して蝦夷地を追放され陸奥(津軽)に住む。1788年(34歳)に酒造や廻船業を営む商家へ婿入り。翌1789年、蝦夷地で商取引や労働環境に不満を持ったアイヌが蜂起した「クナシリ・メナシの戦い」が勃発、実状調査のため幕府の密偵・青島俊蔵と3度目の蝦夷地上陸を果たす。報告をまとめ幕府に提出すると、幕府はアイヌとの交流を問題視し青島と共に投獄される。青島は牢内で病死、自身も病に冒されるが、周囲の運動で翌年に釈放される。 1790年(36歳)、蝦夷地の専門家として最上徳内は再び幕府に登用され、幕府が松前藩に命じていたアイヌの待遇改善がなされているか実情を探るため、蝦夷地へ派遣される。徳内は現地で量秤の統一を指示、アイヌには作物の栽培法を指導した。1792年(38歳)、樺太調査を命じられ、松前藩のロシア、満州との密貿易を察知し、松前藩には危険人物として警戒される。1805年(51歳)に8度目の蝦夷上陸。シーボルトの『江戸参府紀行』によると、徳内の樺太滞在時に105人中53人が寒冷で死亡したが、徳内は大量の昆布を食べることで、すこぶる健康であったという。晩年は江戸の浅草に住み、1836年に他界。享年82歳。アイヌからレキカムイ(髭旦那)として親しまれた。8度も蝦夷地を訪れ、一旦は罪人として入牢しながらも、当代随一の蝦夷通として幕府に取り立てられ、農民から武士になる立身出世を果たす激動の人生だった。墓所は東京都文京区の蓮光寺。著作に『蝦夷草紙』、アイヌの生活を記した『渡島筆記』(1808)など。アイヌ語辞典『蝦夷方言藻汐草』の編纂にもかかわった。 1799年、南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え目梨郡域は天領(幕府直轄地)とされた。 1800年、伊能忠敬が蝦夷を測量。 1807年、天然痘が大流行し、わずか1年間でアイヌの総人口の約4割弱が亡くなったという。 1809年、樺太が島であることを間宮林蔵が確認。 1845年及び翌年に、探検家で“北海道”の名付け親、松浦武四郎が蝦夷地を探訪。松浦は旅人に対するアイヌの優しさに心を打たれ、13年間で6度も蝦夷地を訪れる。松浦は虐げられたアイヌの生活を記録し、著作で「アイヌの人々はとても親切で学ぶべきことは多い」と江戸の人々に訴え、アイヌ文化を遊びながら知ることが出来る“双六”まで作って偏見を取り除こうと尽力した。 ※松浦武四郎(1818-1888)…伊勢国(松阪市)出身。父は郷士で庄屋。本草学を学び、16歳から国内をめぐった。いったん僧となるが26歳で還俗して1845年(27歳)に蝦夷地探検に出発、アイヌと寝食を共にした。1846年(28歳)には樺太詰の松前藩医・西川春庵の下僕として同行、択捉島や樺太まで探査した。知識を買われて1855年(37歳)に幕府から蝦夷御用御雇に抜擢されると再び蝦夷地を踏査、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859)を出版した。1858年(40歳)に6回目となる最後の探査を行う。1869年(51歳)6月に開拓判官「蝦夷開拓御用掛」となり、蝦夷地を「北海道」(北加伊道)と命名。アイヌ語の地名を参考にして国名・郡名を選定したが、翌年に政府のアイヌ政策を批判して辞任し、従五位の官位を返上。北海道へは自費で3度、公務で3度の計6度赴き、約150冊の調査記録書を記した。松浦が残した地図には9800ものアイヌ語地名が収められている。享年69。墓所は染井霊園の1種ロ10号2側。他界翌年、武四郎が愛した奈良県上北山村西大台・ナゴヤ谷に「松浦武四郎分骨碑」が建立され分骨(国立公園、入山規制あり要申請)。1994年、生地の三重県松阪市に生家と遺品資料を保管する「松浦武四郎記念館」開館。北海道音威子府村物満内に「北海道命名之地」記念碑。釧路市幣舞公園、天塩町鏡沼海浜公園、小平町にしん文化歴史公園に銅像があるほか、道内に約50基もの記念碑が建つ。著書に『三航蝦夷日誌』『近世蝦夷人物誌』など多数。 1855年、日露和親条約で国境線が決定し、千島列島では択捉島と得撫島の間が国境となった。 1858年(40歳)に松浦は『近世蝦夷人物誌』を出版すべく箱館奉行所に原稿を提出したが、和人の蛮行を糾弾したためか出版のゆるしがでなかった。55年後の明治末、没後24年も経った1912年にやっと活字になった。同書には99人ものアイヌが登場し、豪勇、貞節など28項目の中で紹介された。松浦はアイヌが野蛮でなく、情を重んじ親孝行であり、むしろ優れた徳を備えていることを記した。一方、冷酷な和人によってアイヌが悲惨な境遇に追い込まれていることを知らしめた。 「この地の夷人(アイヌ民族)は、16〜17歳になると男女の区別なくクナシリ(国後)やリイシリ(利尻)等へ強引に移動させ、そこで使役させる。女は番人(見張り)・稼人等の妾とし、その夫は離れた土地の漁場に追いやり働かせる。アイヌの男性は昼夜の別なく酷使され、その苦しみに耐えられず病に就くものは倉に放置し、一服の薬も、一切の食事も与えない。ただ、身寄りの者が食事を運んで生きながらえさせる生活をするのみ」(近世蝦夷人物誌) 同じく1858年、松浦武四郎が6回目となる最後の蝦夷地調査を行う。この旅には「アイヌを救いたい」という明確な目的があった。松浦は松前藩の役人や商人の不正、アイヌへの非道な仕打ちを、現地で203日をかけて徹底的に調べ上げ、のちに62冊もの『戊午(ぼご) 東西蝦夷山川(さんせん)地理取調日誌』にまとめた。 1863年、松浦武四郎が『知床日誌』を出版。松浦は『近世蝦夷人物誌』に続いてここでも、アイヌの若い女性が人妻が和人の漁師・番人の慰み物にされ、男たちは夫役(強制労働)で離島で酷使され、独身者は妻帯も難しかったと、アイヌの悲惨な状況を報告した。 「舎利、アバシリ両所にては女は最早十六七にもなり、夫を持べき時に至ればクナシリ島へ遣られ、諸国より入来る漁者、船方の為に身を自由に取扱はれ、男子は娶る比に成らば遣られて昼夜の別なく責遣はれ、其年盛を百里外の離島にて過す事故、終に生涯無妻にて暮す者多く、男女共に種々の病にて身を生れ付ぬ病者となりては、働稼のなる間は五年十年の間も故郷に帰る事成難く、又、夫婦にて彼地へ遣らるる時は其夫は遠き漁場へ遣し、妻は会所また番屋等へ置て番人、稼人(皆和人也)の慰み者としられ、何時迄も隔置れ、それをいなめば辛き目に逢ふが故に、只泣々日を送る。」(知床日誌) 1865年、イギリス領事館員らによる墓地からのアイヌ人骨盗掘事件が起きる。箱館奉行小出秀実の談判により翌年に13体の遺骨が返還された。 ★明治維新後 1869年(明治2年)、明治新政府は石炭など豊富な天然資源を獲得するため、そして南下するロシアを牽制(けんせい)するため、アイヌ民族に相談もなくアイヌモシリを日本領土とし、蝦夷地は松浦武四郎の命名で「北加伊道(北海道)」と改称される。アイヌに心を寄せていた松浦武四郎は、アイヌの人々が互いに「カイドウ」と呼び合っていたことから、北のカイドウ、北加伊道と名前を考案した。松浦は「ここはアイヌ民族が暮らす大地」という思いを込めた。また、北蝦夷地は「樺太」に改称。 開拓が本格的に開始され、屯田兵や農民が次々と入植し、和人の人口は増加。当時、道内にいたアイヌ約2万人に対し和人は約12万人に達した。森林伐採などアイヌの聖地を開発したい政府は、土地を所有物と考えないアイヌの人々を騙して二束三文で土地を奪った。そして没収された土地は、外からやって来た開拓民に安価で払い下げられた。 1870年、松浦武四郎が明治政府のアイヌ弾圧に抗議して役職を辞任。 1871年、「旧土人学校」(アイヌ学校)が各地に設立され日本語の使用を強制、教育が日本語で行われた。また、アイヌブリ(アイヌの習慣)の耳輪、女子の入れ墨が禁止される。 1873年、地租改正によりアイヌの土地も私有財産と見做されたが、地権という概念を持たない多くのアイヌが、自分の耕地を焼酎一本など格安で騙し取られ、移住を余儀なくされた。 1875年、人口調査結果でアイヌの人口1万7084人と記録。この年「樺太・千島交換条約」が締結され、日本は樺太から撤退し、ロシアは千島から退いた。約2400人の樺太アイヌは、ロシア国籍か日本国籍か判断を迫られ、108戸841人が北海道・宗谷に移住した。翌年、彼らは石狩に強制移住となり農業開拓に従事させられたが、森や坂など畑作に適さない不毛な土地をあてがわれ、不慣れな農耕に苦労し、洪水、コレラ、天然痘に襲われ、たった7年で移住樺太アイヌの半数となる400人以上が亡くなった(移住30年後の1905年、日露戦争に日本は勝利しポーツマス条約で樺太の南半分が日本領となり北海道へ移住した樺太アイヌのうち336人が帰郷した)。 1877年、のちに“アイヌの父”と呼ばれるイギリス人宣教師(聖公会)、当時23歳のジョン・バチェラー(1854-1944)が静養のため香港から函館へ来た。バチェラーは伝道を通してアイヌ民族のことを知り、1941年に太平洋戦争で敵性外国人として日本を追放されるまで約65年もアイヌに寄り添った。彼はアイヌの長老の家に3ヶ月滞在してアイヌ語を学んだ後、アイヌのための教会堂、学校、無料の施療病室を建設し、アイヌ語辞典の編纂に協力する。またアイヌの向井八重子を養女にした。英国に帰国して3年後、1944年に90歳で没した。アイヌの叙事詩ユカラを愛した。 1883年、政府は乱獲防止を理由にアイヌ文化を象徴する鮭漁を禁止する。だが、アイヌは資源保護を意識し、上流で産卵後の鮭(あとは死ぬだけの鮭)を捕獲していた。 1886年、北海道庁を設置。 889年、アイヌの食料として許されていたシカ猟が禁止される。鮭、鹿という主食が獲れなく、食生活の変化でアイヌは病気がちになった。 1899年に「北海道旧土人保護法」が制定され、アイヌは旧土人という名のもとに差別的に「保護」された。文面では、農業に従事したいアイヌに対する土地の無償附与、貧困者への農具の給付や薬価の給付が定められていたが、その実態は、農耕に適さない荒れ地に無理やり移住させ、生活の中心だった狩猟の場を取り上げるなど、アイヌの人々は極度の貧困に追い込まれた。また貧困者の子弟への授業料の給付も法律化されたが、アイヌの児童だけをあつめた「旧土人学校」で日本語による教育が実施され、民族教育は皆無であった。 アイヌの窮状に対する国の施策には先住民族の権利や少数民族への配慮はまったくなかった。狩猟民族の生活の核となる、鮭、熊、鹿を獲る権利を奪い(狩猟の禁止)、言葉を奪い(学校教育の場でのアイヌ語の禁止)、名前を奪い(日本式に改名)、人間としての尊厳を奪った。最後に待ち受けるものは先住民の“自然消滅”だった。これらの差別的施策により、多くのアイヌが極貧生活を送り、民族としての誇りすらもてない境遇に陥った。アイヌ文化では自殺者は地獄で永遠の苦しみを受けると信じられているにもかかわらず、同化政策に絶望して死を選ぶ者もいた…。 こうした状況を変えるきっかけとなったのが一人の少女の活躍だった。 ★大正期のアイヌ文化伝承者、知里幸恵(ちり・ゆきえ)は1903年6月8日に北海道幌別(ほろべつ)村(現・登別市、札幌の南約100キロ)に生まれた。アイヌの旧家であり、父高吉は農・牧畜業を営む。母ナミ(旧姓金成)。弟の言語学者・知里真志保(ましほ)はアイヌ初の北海道大学教授となった。もうひとりの弟に高央。1歳のときに日露戦争が勃発、翌年に日本が勝利している。 幸恵の祖母モナシノウクはアイヌの口承の叙事詩“カムイ・ユカラ”の謡い手(ユカラクル)で、言語学者・金田一京助はユカラ(叙事詩)の最後で最大の伝承者と絶賛している。カムイ・ユカラは文字を持たないアイヌにとって、その民族文化の核となるものであり、幸恵は祖母の側でユカラを身近に聞いて育った。 1909年、6歳のときに祖母モナシノウクと一緒に、近文(ちかぷに)コタン(旭川市)の伯母・金成(かんなり)マツ(1875-1961※母の姉)のもとに移住する。マツもまた口承文芸の伝承者であり、記憶している口承伝承を約160冊のノートを残している(膨大なテキストゆえ翻訳作業は2022年もまだ続いている)。マツは腰を怪我して松葉杖が必要な生活をしており、マツの母(モナシノウク)が同居することになった。また、妹夫婦に女の子(幸恵)が生まれたらマツに預けるという約束があったため、幸恵も共に暮らした。マツはキリスト教徒で、旭川の聖公会伝道所(英国国教会系)で布教活動をしていた。 ※ユカラ(ユーカラ)…アイヌ口承文芸のうち、節(ふし)をつけ韻文で語られる叙事詩。広義には、人間の英雄を主人公とした戦闘・恋愛の長編叙事詩である英雄詞曲(人間のユカラ)と、自然神(カムイ)などが主人公でサケヘ(リフレイン)を挟んで謡われる神謡(しんよう、神々のユカラ)をさすが、狭義には前者のみをさす。孤児として育った少年ポイヤウンペが、両親の仇討や許嫁(いいなずけ)の奪還のために敵と交える物語。カムイは自然神と訳されることが多いが、厳密には“環境”のことをいう。一般にイメージされる天界の神ではなく、人間と同じ様な精神を持ったものがカムイと見なされる。カムイには動植物だけでなく、火、水、雷なども含まれ、さらには人間が作った家(人間を守るという意志を持つ)や舟(人間を運ぶという意志を持つ)までカムイになる。舟は人間に乗ってもらえないとこの世に存在する意味が無いので、「乗ってもらえると嬉しい」と舟は考える。料理はカムイではないが、この世界のものは全て魂を持つため、料理にも魂が宿る。人間とカムイはお互いに支え合う関係であり、人間は動物から肉をもらい、お礼にお酒やイナウ(ヤナギやミズキの木を削って作る御幣のようなもの)を動物に捧げる。イナウをもらったカムイは、カムイの世界で格があがるため、とても喜ぶという。アイヌにおける“狩り”の考え方は、動物(カムイ)の方から人間を選んで当たりにくるもの。嫌な人間の矢はよけて当たらない。つまり、狩りの腕前は技術の問題ではなく、矢を射た者の人間性が重要。ちなみにアイヌの発音ではカムイの“ム”にアクセントがある。 1910年(7歳)、幸恵は和人の子どもと同じ尋常小学校に入学したが、和人とアイヌの子どもを別々に教育するという行政の方針から、同年にアイヌ児童だけを通わせるアイヌ学校(上川第五尋常小学校)が建ち、そちらに移籍する。幸恵はアイヌの小学校で、立派な日本人になるための同化教育を受け、優等で卒業した。 明治維新以降、アイヌは土地・伝統文化・風習・生活資源などを次々と和人に取り上げられてきた。幸恵は国の政策で“アイヌは劣った民族”と思い込まされて育つなか、努力して日本語を勉強し、14歳の時にアイヌ女性として初めて旭川の女子職業学校に合格する(入試成績は4番目であった)。彼女はただ1人のアイヌの生徒として通い、作文と習字を得意とする成績優秀な少女であったが、ある日同級生から「ここはあんたの来るところじゃない」と言われてショックを受ける。 翌1918年(15歳)、幸恵が劣等感に包まれていると、東京から言語学者の金田一京助(1882-1971/当時36歳)が、アイヌの言葉や民話を記録するため伯母と祖母を訪ねて来た。老いた村人からアイヌ伝統のカムイユカラを熱心に聞き、書き留める金田一の姿を見て、幸恵は“今まで否定されてきたアイヌの文化を学者が必死に学ぼうとしている”と驚く。彼女が「私たちのユカラはそんなに価値のあるものでしょうか」と思わず尋ねると、金田一はこう答えた。「世界の五大叙事詩に入るくらいアイヌのユカラは価値のあるもので、自分の全財産を注ぎ込んでも良いと思うくらいだ」「アイヌの伝承は、あなた方が決して劣った民族ではないという何よりの証拠なのです」。世間ではアイヌ文化やアイヌ語は野蛮で劣等だとまでいわれていたが、金田一は祖母を「最大の叙事詩人」と讃えた。 東京に戻った金田一は、「伝承をまとめる作業を手伝って欲しい」と幸恵に3冊のノートを送り、幸恵は金田一が抱くアイヌ伝統文化への尊敬の念にあらためて胸を打たれる。アイヌの人々は「土人」と呼ばれて差別され、自分たちもアイヌであることを恥じるようになっていたが、幸恵は金田一との交流を通して民族としての誇りに目覚めてゆく。 ※アイヌと和人はかつて対等に交易していたが、1604年に松前藩が成立してアイヌの運命が変わった。当地では米が獲れないため、松前藩は俸禄(ほうろく、給料)の代わりにアイヌとの交易権を藩士の給与として分け与えた。結果、藩士の言い値で取引される基盤ができる。続いて砂金を求めて本州から移民が押し寄せ、砂金掘りたちはサケやマスが上ってくる川を荒らし、アイヌの生活を脅かした。和人への不満がつのったアイヌはついに蜂起し、1669年にシャクシャイン戦争が勃発する。アイヌは敗北し、松前藩は支配を強めた。1789年のクナシリ・メナシ蜂起でもアイヌは敗れた。明治に入ると、北海道がアイヌの土地だという意識を持たせぬための政策が次々施行される。1872年に北海道の土地すべての所有者を決める法律「北海道土地売買規則」「地所規則」が制定され、アイヌから土地が取り上げられた。もともと人が住んでいるところはそのままその人が住むとされたが、「人が住んでいる」の「人」にアイヌは入っていなかった。アイヌが暮らしていた山は所有者なしとされ払い下げられた。1878年には自家用のサケ漁が全面禁止、1889年には道内のシカ猟が全面禁止になる。サケとシカはアイヌの主食であった。文化面では1871年に男子耳輪・女子入墨が禁止され、伝統的な生活をする基盤が根こそぎ奪われ困窮するアイヌが続出した。これを“救済”するため1899年に「北海道旧土人保護法」が制定され、“保護”を名目にアイヌの農耕民化が図られた。「北海道旧土人保護法」ではアイヌ一戸あたり上限1万5千坪の土地を給与、ただし15年以内に開墾しない場合は没収された。これらの土地は農耕に適さない土地が多く含まれ、しかもアイヌは本格的な農耕をしたことがない者がほとんどだった。いつの間にか名義が和人に書き換えられるケースが多発し、和人の元で働く以外にお金を得る手段がなくなった。日本語が話せないと良い仕事に就けないため、アイヌの親は「アイヌ語は汚い言葉だから覚えなくていい、日本語を覚えろ」と子どもたちに教え、こうしてアイヌ文化は衰退していった。金田一京助までが同化政策を是とし、“助けてあげる”という考えだった。「我々がやって来た対アイヌ種族の同化政策というものは、少数民族を処理する最も人道的な方法だったのであって、日本文化をもって彼らをすっかり日本人化し、彼らもまた惜しみなく日本文化を取り込んで、そして新しい北日本を構成するのに一意(いちい)専念しているのである」(金田一) 1920年、17歳で女子職業学校を卒業。幸恵はアイヌの口承文芸の重要性を自覚し、祖母モナシノウクから伝えられたアイヌ神謡ユカラの文字化と和訳を決意する。当時は紙が貴重だったので、ノートの1ページの半分にローマ字、半分にアイヌ語の和訳を書いた。それを金田一に送ると「もっと贅沢にノートを使って下さい。片側にアイヌ語、片側に和訳を書いて、余白には注釈を書くようにしてください」と指導を受ける。それに従い、2冊目のノートは、左ページにはアイヌ語をローマ字で書き、右ページには和訳を書き、ところどころに彼女なりの注釈を記した。これがあまりに良い内容だったため、金田一は涙を流して喜び、民俗学者で出版も手掛ける柳田国男に「近代化で失われる前に本として残すべき」と説得、『アイヌ神謡集』の書籍化が決定する。 その際、アイヌの伝承は多数あるため、どの物語を選んで載せるかを考える必要があった。東京と北海道で何度も葉書をやり取りした(20通が現存)。 同年、幸恵は心臓の弁がうまく開閉しない心臓弁膜症を発病する。 1922年、金田一から物語を本にするために上京するように促されるが、幸恵はアイヌの青年と婚約しており、父にも反対され思い悩む。だが、アイヌ語や文化を本にして知らせたいと思う気持ちが勝り、周囲を説得し納得させ、5月に母親に見送られて室蘭港から青森に出発した。手元には自らが編簒した『アイヌ神謡集』(アイヌ語と日本語の対訳形式による13編)があり、上京後は金田一家に同居して出版作業を助けた。 幸恵は初めて見る都会の喧騒に目を丸くし、都会人は目がキョロキョロと忙しそうで、余裕がないから神経過敏になっていると感じる。きらびやかでモノが溢れる百貨店の感想は「私はただ別な人間の住む星の世界を見物にでも来たような気がした。自分で欲しい、身につけてみたいなどとは、ちっとも思わなかった」(日記)。 日記には力強いアイヌ宣言も記されている。7月12日「私が東京へ出て、黙っていればそのままアイヌであることを知られずにすむものを、アイヌだと名乗って投稿すれば世間の人に見下げられるようで、私がそれを好まぬかもしれぬと懸念をもっておられるという。そう思っていただくのは私には不思議だ。私はアイヌだ。どこまでもアイヌだ。どこにシサム(和人)のようなところがある。たとえ自分でシサムですと言い得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない。そんな口先でばかりシサムになってなんになる。シサムになればなんだ。アイヌだから、それで人間でないということもない。同じ人ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ。私がもしシサムであったら、もと湿(うるお)いの無い人間であったかも知れない。アイヌなるが故に世に見さげられる。それでもよい。自分のウタリ(同胞)が見下げられるのに私ひとりぽつりと見あげられたって、それが何になる。多くのウタリと共に見さげられた方が嬉しいことなのだ。おお愛する同胞よ。愛するアイヌよ」。 アイヌでは世のあらゆるものに精霊が宿っていると考え、自然が与えてくれる食べ物に感謝を忘れずに生きている。幸恵は出版を通して、人間が本来大切にしてきたことを伝えようとした。ところが、『アイヌ神謡集』の出版作業で無理を重ねたことで同年8月に心臓発作を起こしてしまう。医者には安静を命じられたが、校正作業は最終段階に来ており、早くアイヌの伝承を世に送りたいという思いに突き動かされて校正を続けた。その夏は非常に猛暑であり、北海道育ちで心臓の弱い幸恵に過酷な状況だった。 そして1922年9月18日。「この本を出す事は命を失っても成し遂げる自らの使命」と考えていた彼女は、まさに原稿の最後の1ページのチェックを終えたその日の夜、容態が急変し、心臓麻痺によりわずか19歳3カ月で急逝した。幸恵は生後に登別で6年間、旭川で13年間暮らし、東京に出てから4ヶ月で亡くなった。他界4日前の最後の手紙では「婚約者の村井さんを労わってほしい。彼に何か言ってあげてください」と両親に頼んでいた。同年、旧土人児童教育規程が廃止され、アイヌ児童への差別的な学校教育が撤回される。 『アイヌ神謡(しんよう)集』 …口伝えで受け継がれてきたアイヌの物語をアイヌ語で書き記したもの。600年頃に形成されたユカラ(叙事詩)から13の小編(神謡)が、ローマ字表記によるアイヌ語原文と日本語の対訳形式でおさめられている。幸恵が祖母から伝承したアイヌ民族の口承文芸を筆記し、幸恵の手で文学作品として創出した。アイヌ語のローマ字表記の正確さと和訳の美しさから、珠玉の名著と賞賛されている。神謡は人間以外のものからこの世界を見た物語。“神謡”の“神”が人間以外のものを指す。 翌1923年8月10日に『アイヌ神謡集』は柳田國男の編集による『炉辺叢書(ろばたそうしょ)』の一冊として出版され、アイヌの世界を広く知らしめた。 幸恵が記した序文にはこう書かれている 『その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児(ちご)の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう. 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀(さえ)ずる小鳥と共に歌い暮して蕗(ふき)とり蓬(よもぎ)摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,宵まで鮭とる篝(かがり)も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,円(まど)かな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.平和の境(きょう),それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく. 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて,野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦(また)いずこ.僅かに残る私たち同族は,進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり.しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて,不安に充ち不平に燃え,鈍りくらんで行手も見わかず,よその御慈悲にすがらねばならぬ,あさましい姿,おお亡(ほろ)びゆくもの……それは今の私たちの名,なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう. その昔,幸福な私たちの先祖は,自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは,露ほども想像し得なかったのでありましょう. 時は絶えず流れる,世は限りなく進展してゆく.激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも,いつかは,二人三人でも強いものが出て来たら,進みゆく世と歩をならべる日も,やがては来ましょう.それはほんとうに私たちの切なる望み,明暮(あけくれ)祈っている事で御座います. けれど……愛する私たちの先祖が起伏(おきふ)す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語,言い古(ならわ)し,残し伝えた多くの美しい言葉,それらのものもみんな果敢なく,亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか.おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います. アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は,雨の宵(よい),雪の夜,暇ある毎(ごと)に打集(うちつど)って私たちの先祖が語り興(きょう)じたいろいろな物語の中極(ご)く小さな話の一つ二つを拙(つた)ない筆に書き連ねました. 私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば,私は,私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び,無上の幸福に存じます. 大正十一年三月一日』 この序文は先住民族宣言であり、アイヌ同化政策の本質を描き、経済優先で異なる価値観を認めない社会への重要なメッセージになっている。他にも、アイヌコタンをまもるフクロウ神(シマフクロウ)の寿詞(じゅし)の訳語《「銀の滴(しずく)降る降るまわりに(シロカニペ ランラン ピシカン)、金の滴降る降るまわりに(コンカニペ ランラン ピシカン)…」で始まるユカラはアイヌ文化を象徴するフレーズとして広く一般にも知られている。当初の訳は「あたりに降る降る銀の水、あたりに降る降る金の水」であったが、幸恵は文学を学んだことがなかったが、推敲を重ねて美しい言葉で満たした。同書はアイヌ民族自身によるその本格的記録として評価が高く、和人にとってもアイヌの伝統・文化・言語・風習を知るきっかけとなった。 金田一は同書について「神様が惜しんでたった一粒しか我々に恵まれなかった」と嘆いた。それでも、幸恵の『アイヌ神謡集』の出版によってカムイユカラが文字として後世に残された。文字を持たないアイヌ民族にとって画期的な業績であり、明治時代に入り絶滅の危機にさらされていたアイヌ民族に自信を与え、誇りを取り戻す転機となった。 1927年、伯母の金成(かんなり)マツが幸恵の遺志を受け継ぎ、母モナシノウクから伝承したユーカラのローマ字筆記を登別で始めた。 1945年、大戦末期にソ連が日本に宣戦布告、樺太・千島を占領する。 1952年、サンフランシスコ講和条約締結。日本は南樺太と千島列島に対するすべての権利、権限を放棄。 1955年、イヨマンテ(熊送り)が禁止される。 1956年、金成マツが紫綬褒章を受章。 1961年、日本政府が国内における少数民族としてのアイヌの存在を認めないため、「北海道ウタリ協会」が設立される。同協会は国がアイヌを先住民族であることを認め、また同化政策や差別で苦しめられたアイヌに対する政治的・経済的権利保障を求めた。この年、金成マツ、知里真志保、知里高吉が亡くなる。 1963年、「アイヌブリ(アイヌの習慣)で葬ってくれ」という遺言に従い、明治以来途絶えていたアイヌの葬式が行われたという 1969年、コマシャイン父子が戦死した決戦地、北斗市・七重浜の七重浜共同墓地(旧上磯町)に「七重浜慰霊碑古戦蹟」が建つ。 1970年、函館市にコマシャインの戦いの慰霊碑「志苔・和人殉難御霊碑/阿伊努・帳魂慰霊碑」が建つ。和人とアイヌの双方を慰霊。同年、絶版となっていた『アイヌ神謡集』が復刻。 1977年、徳川幕府が1804年に建立した厚岸郡の国泰寺(こくたいじ)山門脇に「アイヌ民族弔魂碑」が設置される。碑文にはこう刻まれている。 「由来厚岸(釧路地方)は美しい自然と資源に恵まれたあなたたちの楽土であった。しかるにその後進出した和人支配勢力の飽くなき我欲により財宝を奪われ、加えて過酷な労働のために一命を失うものすら少なくなかったと聞く。けだし感無量である。我等はいま先人に代わって過去一切の非道を深くお詫びすると共に、その霊を慰めんため このたび心ある人びとと相計り東蝦夷発祥のこの地へ、うら盆に弔魂の碑を建てる』(1977年8月15日)。本土の人間によるアイヌ侵略について「過去一切の非道を深くお詫びする」とこれほど明言している石碑があるとは! 1978年、『アイヌ神謡集』が岩波文庫で改訂刊行される。ジャンルは外国文学とされた。これは日本社会に大和民族の言葉以外を指す日本語がないためだ。 1980年、旭川市が公園用地とされていた「近文アイヌ墓地」を墓地として認める。 1982年、彼女の筆録は「知里幸恵ノート」として、北海道教育委員会から報告書の形で刊行された。 1984年、『銀のしずく 知里幸恵遺稿』刊行。アイヌ古式舞踊が重要無形文化財に指定される。 1985年、旭川でイヨマンテ復活。 1986年、中曽根康弘首相による「日本は単一民族国家」発言。中曽根首相は抗議を受け「差別を受けている少数民族はいないとの意味だった」と釈明した。 1987年、アイヌ語教室が始まる(のちに道内10箇所以上)。 1990年、市民の募金で幸恵の文学碑が旭川市立北門中学校に建立され、翌年より誕生日に旭川チカプニ(近文)のアイヌの主催で生誕祭が開催。 1991年、伊達市の有珠善光寺にアイヌ慰霊碑が建つ。碑文に「アイヌ達は伊達の開拓に励み今日の市発展の礎をく築く事に協力して来た」。やや美化されている。 1992年、国連本部で開催された「世界の先住民の国際年」の開幕式典で北海道ウタリ協会理事長が日本の先住民族として記念演説。 1994年、参院にてアイヌの萱野茂(社会党)が比例代表繰り上げ当選。アイヌ初の国会議員が誕生。 1997年、3月にアイヌの聖地におけるダム建設に反対しておこした二風谷(にぶたに)ダム訴訟で札幌地裁がアイヌを先住民族であると認めた。さらには、7月に「アイヌ文化振興法」が制定され、初めてアイヌ民族の存在が法律により認められ、「北海道旧土人保護法」は廃止された。ただし、このアイヌ文化振興法ではアイヌを「先住民族」と認定せず、政治的・経済的保障についても何も盛り込まれず、文化事業の推進だけにとどまる内容となった。 2000年、幸恵の姪(弟高央の娘)、横山むつみが行李(こうり)に入っていた幸恵の日記や手紙などを発見、登別市で初の遺品展「知里幸恵の世界展」が開催される。以後、毎年命日の9月18日ごろに知里むつみ(幸恵の姪)を中心とする特定非営利活動法人「知里森舎」によって、生誕地の登別でアイヌ文化などを考えるイベントが催される。 2002年、作家池澤夏樹が代表となり、幸恵の記念館の建設募金委員会が発足。約2500人から3200万円が集まった(8年後に開館)。 2003年の生誕100年をきっかけに幸恵の再評価の声が高まる。 2006年、ノーベル文学賞作家のフランス人ル・クレジオが、『アイヌ神謡集』フランス語版の出版報告に幸恵の墓を墓参。『アイヌ神謡集』は他に英語・エスペラントに翻訳されている。 2007年9月に国連総会で、先住民族の権利に関する国際連合宣言(先住民宣言)が採択される。 2008年6月6日、国内でもアイヌ問題に対する理解が広がり、国会にて「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択された(「認める」決議ではない)。 同年10月、NHK『その時歴史が動いた』で幸恵の人生が取り上げられ幅広く存在が知られる。 2009年、アイヌ語がユネスコにより「危機に瀕する言語」として、最高ランクの「極めて深刻」の区分に分類された。2007年の推定では、約1万5000人のアイヌの中で、アイヌ語を流暢に話せる母語話者は10人のみ。 2010年9月「知里幸恵 銀のしずく記念館」が生誕地にオープン。幸恵の遺品や未出版の直筆原稿、神謡集の初版本など資料を中心に、アイヌ文化継承に尽力した先人に関わる約300点が展示されている。 2014年、自民党・道民会議に所属する小野寺まさる議員(当時)が道議会で「アイヌが先住民族かどうかは非常に疑念がある」「我々の祖先は無謀な、むちゃなことをアイヌの人たちにやってきてはいない。そういう自虐的な歴史を北海道で植え付けるのはいかがなものか」と発言。和人が同化政策で日本語を強要し、伝統の狩猟を禁じ、先祖伝来の土地を奪って不毛な土地に移住させたことは歴史的事実。和人が持ち込んだ疫病や強制労働で命を落としたアイヌも多い。 2015年、野田サトルがアイヌ文化を取り上げた人気冒険漫画『ゴールデンカムイ』連載を開始、アニメにもなりアイヌ・ブームが起きる。 2016年、文部科学省が中学校の教科書検定で、アイヌ民族について「狩猟採集中心のアイヌの人々の土地を取り上げて、農業を営むようにすすめました」という記述を「狩猟や漁労中心のアイヌの人々に土地をあたえて、農業中心の生活に変えようとしました」と、正反対に“修正”するよう指導。文科省の言い分は、明治政府は“アイヌ民族を保護したかった”。実際の方針はあくまでも「同化政策」であり、畑作に専念させ、従来のアイヌの狩猟を中心とした生活と文化を葬り去ることだった。 同年、長万部町の国縫川ほとりの旧国縫小学校グランド内に「シャクシャイン古戦場跡碑」が建立。アイヌ軍と松前軍との最大の激戦地の跡。松前軍は騙し討ちで勝利しており、碑文に「戦いの勝ち負けは、生き方の善し悪しを意味してはいない」と刻まれる。 また、かつて北海道大学が研究目的で墓から持ち去ったアイヌ民族の12体の遺骨が、85年ぶりに故郷の日高管内浦河町のアイヌに返還された。 この年、知里幸恵の姪で「銀のしずく記念館」館長・横山むつみが68歳で病没。 2019年、国会は「アイヌ新法」(正式名称「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」)をついに制定。アイヌが北海道の先住民族であることを明記した。 2020年、北海道白老(しらおい)町のポロト湖畔にアイヌの歴史や文化をテーマとした国立アイヌ民族博物館「ウポポイ」が開館。博物館や体験型公園などを整備している。「ウポポイ」とは“みんなで歌う”の意。 アイヌがアイヌとして現代社会で堂々と活躍する、幸恵が願った時代が到来しつつある。 〔アイヌ神話〕 アイヌ民族の神々の物語は、神謡(ユカラ)と呼ばれる口承文芸で伝えられてきた。神謡には自然神を主人公とするものと、文化神を主人公とするものがある。王権にかかわるような政治的な神話は存在しない。アイヌの神(カムイ)には序列があり、クマやシマフクロウ、シャチ、オオカミは位が高い。人々が日常的に祈る神は、火の神、水の神など。人間が自然界の恵みに対する礼儀を忘れると神は不機嫌になり、シカやサケを地上におろさず飢饉になる。一方、神は人間から祀られ供え物をされ、感謝されることによって神の世界での株があがることから、アイヌの神と人間は、対等の互恵関係といえる。 国づくりの神がアイヌモシリ(人間の大地)をつくったときに、最初に生えたのはドロノキ(ヤナギ科)で、次にハルニレ(ニレ科)が生じた。神は人間に火を授けるためドロノキで火起こしをしたが失敗し、悪神たちが生まれる。だが、ハルニレで火起こしに成功し、善神たちが生まれた。女神ハルニレの美しさにみとれた雷神がハルニレの上におち、人間型の文化神アイヌラックルが生まれ、このアイヌラックルが人間に生活の知恵を授けた。 アイヌの世界観には、神々のすむ世界「カムイモシリ」、人間のすむ世界「アイヌモシリ」、魔物がすむ世界「テイネモシリ」がある。神は、カムイモシリにいるときは人間の姿をしているが、霊魂なので人間からは見えない。時々、神は動物の姿となり、肉や毛皮というお土産を持ってアイヌモシリを訪れる。クマの場合は、人間に毛皮を脱がせてもらい、肉をとってもらって霊とならなければカムイモシリに帰れない。そのため、神が再び人間の世界にお土産を持って遊びにくるように、丁重に霊送りの儀式をおこなう。「イヨマンテ(イオマンテ)」と呼ばれる飼い熊送りの儀式はその代表例。悪人は魔物がすむ地下のテイネモシリへ行く。 イヨマンテ(熊送り)…神が仮装して人間界に現れたのが動物であり、その動物の皮や肉の仮装を脱がせ霊を神の国へ送り返す儀礼。アイヌは熊を神の使者として神聖視し、集落で2〜3年丁重に飼育した小熊を弓矢で殺して村人で食し、供物を供えて歌舞で霊を神の国に送り返す。 ※シマフクロウ…村を守るカムイ。村に厄災が及ばぬように、夜の間、村を見守ってくれている。日本最大のフクロウで羽を広げると2mになる。 〔人口と伝染病について〕 1669年の「シャクシャインの戦い」の時期に、梅毒などの性病が蝦夷地に発生しており、アイヌを制圧した和人が広めたものと思われる。天然痘や梅毒などの感染症で、アイヌの人口は1804年に2万3797人であったのが、1873年には約5千人減少して1万8630人となった。また、年頃の男女を和人が性の対象や労働力として連れ去るため、アイヌの村は人口が減る一方であった。松浦武四郎は『近世蝦夷人物誌』でアイヌの人口減少を嘆いている。1821年に交易地の知床・シャリ(斜里)会所に366戸1326人が住んでいたのが、1849年に173戸350人と、27年間で4分の1にまで激減していた。 その後回復して2006年に23782人に増えているが、2017年の調査で道内のアイヌ人口は約1万3000人と11年間で急減している。あまりに減りすぎており、背景に個人情報保護の立場から調査に協力する人が減っていること、出自を隠して子孫に伝えない人もいるため、自身がアイヌであることを知らない人も多数いることが考えられる。「道内に10万人、関東に1万人」とみている研究者もいる。 ※アイヌ民族の現在の定義は「アイヌの血を受け継いでいると思われる」人、または「婚姻・養子縁組等によりそれらの方と同一の生計を営んでいる」人。 ※最盛期の15世紀に約50万人のアイヌがいたとされるが、僕は情報元の文献がわからず確証が持てない。当時の和人の人口は約800万人。 〔アイヌから見た同化政策〕 アイヌの方のツイッター投稿でとても参考になったものがあります。ある人が「アイヌの同化政策って保護を前提の政策ですよね?」とツイート、それに対する回答です。 2013年11月12日 野良アイヌ・ルプネイケ 「通りすがりのアイヌです。まず同化政策が保護だとおっしゃいますが、それは同化を行う側の言い分にしかすぎません。実際にそれがどのような経緯でなされたのか知る必要があります。初めての同化政策は幕末から始まります。 ロシア船が北海道沿岸をはじめ頻繁に現れるようになり、アイヌとの接触も多くなってからです。エトロフ島にいた和人に対するロシア船からの砲撃など、緊迫する北辺で露日の領土画定の話し合いがされ、日本側は「アイヌは古くより自分側の人間である、日本人であるからアイヌの居住する所は日本領である」と主張した訳です。そう主張する中で実態がないと困る訳で、当時松前藩から蝦夷地を召し上げ直轄していた幕府は風俗改めや和名への改名を行う訳ですが、当時の記録では多くのアイヌは嫌がり、中には自殺する者もいた。自殺と言っても和人の感覚の自殺と違います。アイヌは自殺すると地獄に行って永遠の苦しみを受けると考えるから、自殺するのは余程の事です。」 「明治2年(北海道には明治元年がない)以降開拓使が北海道を統治、殖民開拓政策が進むなかで、どさくさまぎれにアイヌの抹殺が図られました。学制令、教育令が出され学校が創られていく中で、アイヌは除外されました。それは言葉が通じないと言えばそれまでだけど、何故言葉が違うまま放置したかと言えば、当然自分達の住む土地を勝手に無主の土地として奪う和人に抗議ができないようにです。それでも旭川などは当時札幌にしかなかった裁判所へ訴訟を起こしています。これは「コノモノタチ、邦語に通ゼズ(日本語を理解せず)」と却下されています。こういう中で、このままでは黙って殺されると感じたアイヌ達はアイヌ語をまずは棄ててでも日本語を学んでいきました。 明治以降キリスト教の禁教令が廃止されたので、北海道にもアイヌに対する宣教がはじまりましたが、この中でミッションスクールで学ぶ若者達が現れます。彼らは勿論キリスト教の事を学びますが、それだけではなく英語やその他の学問も身につけます。アイヌ語をローマ字で表記するのは、そうしたアイヌが自分達の言葉を自分達で記述したからです。」 ※知里幸恵の9月14日(他界4日前)の両親への手紙「おひざ元に戻ります。一生を登別で暮らします。過去幾千年の先祖の語り伝えた文芸を書き記すことが自分の使命です」。 ※『アイヌ神謡集』の美しい文章は、金田一京助が手を加えたという意見もあるが、幸恵の日記に「銀の雫」という言葉が出てきている。 ※新日高町のシャクシャイン像の近くの碑文「心情の素直で純朴なことは例えようがない。世の方々にアイヌ民族の美しい心を知っていただきたい(松浦武四郎)」 ※函館市に「コマシャインの戦い」(1457)の慰霊碑「志苔・和人殉難御霊碑/阿伊努・帳魂慰霊碑」が建つ。和人とアイヌの双方を慰霊。 ※北斗市の七重浜共同墓地(旧上磯町)に「コマシャインの戦い」の決戦地を示す「七重浜慰霊碑古戦蹟」が建つ。 ※松前町福山に「ショヤコウジの戦い」(1515)で、蠣崎氏に騙し討ちにされた2人の首長ショヤコウジ兄弟やアイヌを埋葬した「蝦夷塚」が現存。 ※松前町松城に「シャクシャインの戦い」(1669)で、松前藩に騙し討ちにされたシャクシャインら14名のアイヌの切り取られた耳を埋めた「耳塚」がある。 ※長万部町に「シャクシャイン古戦場跡碑」が建立。アイヌ軍と松前軍との最大の激戦地の跡。 ※伊達市の有珠善光寺にアイヌ慰霊碑が建つ。ただし碑文はやや美化されている。 ※千島アイヌもロシア人に武力制圧され、毛皮税などの重税を課され、経済的に苦しめられた。 ※1916年に日本最古のアイヌ文化の資料館を川村イタキシロマが建設、「川村カ子ト(かねと)アイヌ記念館」として現存。二代目館長の川村カ子トは鉄道測量技師。 ※アイヌの高校や大学の進学率は、北海道の平均を大幅に下回っている。背景にアイヌの高い貧困率と失業率がある。 ※知里幸恵が命と引替に書いた『アイヌ神謡集』は岩波文庫で今も残っている。 ※留萌(るもい)を北上した小平町に松浦武四郎の銅像が建つ。 ※八雲町に北海道で唯一となる全文アイヌ語の碑「御所の松由来碑」がある。東宮(のちの大正天皇)御所でアイヌの弁開氏が下賜された赤松の由来を記す。 ※1264年、モンゴル軍が樺太のアイヌを攻撃。これは1274年の文永の役(一度目の元寇)より10年早い。侵攻は1308年まで何度もあり、多くの樺太アイヌが殺害された。 ※知里真志保(ましほ)(1909-1961)…言語学者、アイヌ語学者、民族学者。アイヌの血をひくアイヌ研究の学者で、独自のアイヌ語文法体系をつくりあげ、アイヌ文学をはじめとするアイヌ文化を広く研究した。1923年、真志保が14歳のときに姉・知里幸恵が『アイヌ神謡集』を脱稿し夭折した。真志保はその後、東大文学部言語学科を卒業、1936年に27歳で『アイヌ語法概説』を刊行、31歳から3年間樺太の豊原(現ユジノサハリンスク)の高等女学校教諭をつとめ、この間にカラフトアイヌ語の調査をおこなう。1949年(40歳)、北海道大学文学部講師、のちに教授となった。1956年(47歳)、『アイヌ語入門』を刊行。前後してアイヌ文化の貴重な史料となる『分類アイヌ語辞典』(植物篇、人間篇、動物篇)をあらわしている。享年52歳。 〔墓巡礼〕 当初、知里幸恵は金田一京助により東京・雑司が谷墓地の金田一家の墓所に埋葬されていたが、他界53年後の1975年に登別市富浦墓地に眠る伯母・金成マツの十字架の右隣に改葬された。幸恵の墓石は和人と同じ和墓だが、“墓参り”という習慣がなかったアイヌの墓は、もともとは素朴な木の墓標だった。墓地の入口に、幸恵とマツの功績を讃える案内板が立っている。JR室蘭本線・富浦駅下車、徒歩7分(北600m)。 ちなみに、幸恵がまだ2歳で登別に住んでいた頃(1905年)、旭川には「旭川市営旭岡墓地」(通称アイヌ墓地)が作られ現存し、こちらには木の墓標がある。当墓地に遺骨を納められるのはアイヌの子孫のみといい、昭和50年代には近文墓地のアイヌの墓も改葬されてきた。アイヌ語の墓地は「トゥシリ」、墓標は「クワ」。伝統的な木製の墓標は、旭川ではエゾニワトコの木で作る。キハダ、ハシドイ、イヌエンジュで作る地方もある。墓標の先端が尖っているのが男性(槍型墓標)で、平らであったり丸くなっているのが女性(針型墓標)だ。旭岡墓地はアイヌ様式の墓を現代に伝え残す極めて重要な墓地となっている。 僕はアイヌ世界を学ぶため、「アイヌ民族博物館」(白老町/現在“ウポポイ”の一部)、「二風谷アイヌ文化博物館」(平取町)、「川村力子(かねと)アイヌ記念館」(旭川)の3箇所を訪問、自然に対する敬意あふれる暮らしに感銘を受けた。舞踊音楽にも聴き入った。旭川では石狩川上流のアイヌ民族の聖地「神居古潭(カムイコタン)」にも足を運び、奇岩が続く峡谷で川の音を聴き、神聖な空気に身を浸した。「カムイ」は神、「コタン」は村。 ネット上にはアイヌに対する心ない言葉、誤った歴史観が見受けられる一方、大ヒット漫画『ゴールデンカムイ』で多くの人にアイヌ文化への理解と敬意が生まれたことは素晴らしい出来事と思う。 〔アイヌと文芸〕 鶴田知也『コシャマイン記』(小説)(1936)芥川龍之介賞受賞 菊田一夫作詞、古関裕而作曲『イヨマンテの夜』(曲)(1949) 高畑勲監督『太陽の王子 ホルスの大冒険』(アニメ映画)(1968) 原作がユカラを題材にした人形劇。 矢野徹『カムイの剣』(小説、アニメ映画)(1970、1985) 手塚治虫『シュマリ』(漫画)(1974-1976) 野田サトル『ゴールデンカムイ』(漫画、アニメ)(2015-)舞台が明治末期の北海道や樺太。アニメも傑作。 『永遠のニシパ 北海道と名付けた男 松浦武四郎』(テレビドラマ)(2019) 〔語源がアイヌ語の名前〕 札幌(サッ・ポロ・ペッ) 昆布(コンブ) ラッコ(ラッコ) トナカイ(トゥナカイ) 十和田(トワダ) 気仙 (ケセン) 遠野 (トーノ) 三内(サンナイ) 〔アイヌ語〕 イランカラプテ(こんにちは) イヤイライケレ(ありがとう) スイウヌカラアンロ(また会いましょう) ヒンナ(おいしい) ピリカ(美しい) カムイ(神) チセ(家) ベツ/ホロ/ナイ(川) ヌプリ(山) コタン(村) ワッカ(水) モイ(湾) ノッ(岬) カップ(崖) ウポポ(歌) イチャルパ(慰霊祭) 〔参考〕 『その時歴史が動いた〜神々のうた 大地にふたたび?アイヌ少女知里幸恵の闘い』(NHK) 『100分de名著 知里幸恵“アイヌ神謡集”』(NHK) 『アイヌ人物誌』(松浦武四郎)平凡社 横山むつみ氏「知里幸恵を伝える意義」 https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/kai2008.pdf 『北海道開拓の先覚者達(81)〜アイヌ民族―6』 https://www.zaikaisapporo.co.jp/blog/blog-article.php?id=8858 『エンカルタ総合大百科』『ブリタニカ国際大百科事典』など各種百科事典 |
“命のビザ"を発行 | 若き日の杉原 | 外国でも偉人として切手になっている |
ヴィリニュスにて。杉原の顕彰碑が建つ広場 | 顕彰碑の正面にはネリス川が流れている | 広場の名は「杉原千畝さくら公園」 |
優しい表情の千畝さん | 午前中だと逆光。次回は午後に来よう | 早稲田大学が2001年に建立し桜を植樹 |
ユダヤ人約6千人の生命を救った “命のビザ"が金属のプレートに |
次々と日本人のツアーバスがきた。今や リトアニア観光に欠かせない名所に |
顕彰碑の斜め前方に、広島で原爆に被爆した電車の敷石の石碑があった。 碑文は「この悲惨な体験を教訓に日本は二度と他国への侵略はしないと “平和憲法”を作っています」。この誓いはリトアニア語でも書かれており、 平和の大切さが伝わる静かな聖地に。敷石には仏様が彫られていた |
リトアニア・カウナスの旧日本領事館前の通り。 1940年7月ここに大勢のユダヤ人が集まった |
杉原が勤務していた旧日本領事館。 「杉原千畝記念館」として公開されている |
領事館の門も現存。「希望の門、命の ヴィザ」とプレートに書かれている |
午後の陽光が入る執務室。とても穏やかな空気に満ちていた。「ここに座ってビザを書いていた…」、そう思うと胸が熱くなった。 杉原「大した事をした訳ではない。彼らは国を出たいという、だから私はビザを出す。ただそれだけの事だ」 |
日本通過ビザのレプリカ。ユダヤ難民はこれ を持って、欧州→日本(舞鶴)→世界各地へ |
机の上の千畝さんの写真。 約80年前、この部屋で撮影された |
領事館の窓から見える門。あの門の向こうに助けを 求める人々が集まっていた。英断により開門する |
千畝さんの闘いを支えた幸子夫人。 苦難を一緒に乗り越えた |
「杉原ビザ」で命を救われた子どもたち。ビザで 脱出した難民の子孫は現在25万人に達するう |
記念館の人が「座っても良い」と言って下さった ので、千畝さんのビザ発行を追体験、感無量 |
鎌倉霊園に眠る(2012) | 日本が世界に誇る人道主義者 | 背面に「千畝」とある |
杉原千畝(ちうね)は1900年(明治33年)1月1日に岐阜県で生まれた。父は税務署員。次男。「千畝」は豊かな棚田を意味する。八百津町で幼少時代を過ごした後、父の仕事に従い名古屋で生活。小学校を全甲(オール5)で卒業。17歳、中学校卒業後に京城(現ソウル)へ転居。父の願いで京城医学専門学校を受験したが、英語教師を目指していたため白紙答案を出し不合格となる。翌年、早稲田大に入学するも怒った父から仕送りがなく生活に困窮。公費で勉強ができる外務省留学生の存在を知って大学図書館で英字新聞を読むなど猛勉強し、試験に合格。大学を1年で中退し、官費留学生として中華民国ハルビンに渡り、現地でロシア語を学んだ(19歳)。千畝は「露和辞典を二つに割って左右のポケットに一つずつ入れ、寸暇を惜しんで単語を一ページずつ暗記しては破り捨てていく」というやり方でロシア語を身に付けた。20歳から22歳まで陸軍に入る(最終階級は少尉)。 1924年(24歳)、卓越したロシア語能力を買われて外務省書記生として採用され、満州国ハルビンに在勤。同年に白系ロシア人女性クラウディアと結婚。26歳で600ページを超えるロシア情勢分析レポートを書き上げ、外務省から高く評価される。日露協会学校の講師、ハルビン大使館の通訳官なども経て、1932年(32歳)、3月に建国された満州国の外交部事務官となった。 1935年(35歳)、杉原は日本きっての「ロシア通」として、ソ連側と北満州鉄道の譲渡を巡り交渉し、ソ連側の当初要求額6億2500万円を1億4000万円まで値下げさせた。関東軍は杉原の頭脳を欲し、多額の報酬でスパイになるよう迫ったがこれを拒否。杉原は日頃から関東軍の横暴に反発していた。「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが、我慢できなかった」。そして、「驕慢(きょうまん)、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満州国への出向三年の宮仕えが、ホトホト厭(いや)」になり、満州国外交部を辞任した。「若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになった」(杉原手記)。 関東軍は杉原に報復する如く、妻クラウディアを“ソ連のスパイ”と風説を流し、杉原は結婚11年目で離婚に追い込まれた。満州国を支配する関東軍に睨まれては同地で生活できないため、杉原は蓄えた貯金をすべてクラウディアに渡し、無一文になって帰国する。 帰国後、池袋の安下宿に身を寄せた杉原は、知人の妹・幸子と結婚した。間もなく外務省に復帰したが、結婚式を挙げるお金はなく記念写真一枚さえ撮る余裕もなかった。夫人いわく「あまり饒舌な方ではなかったのですが、言葉を選ぶように、私に分かりやすく話そうとしてくれているのがわかりました。私にとってそんな“千畝さん”の態度は不思議な感じでした。当時は女性の話を真剣に聞いて、きちんと答えてくれるような男性はほとんどいなかったからです」。 1937年(37歳)、モスクワ勤務を命じられたが、前妻が反革命的な白系ロシア人であったことをソ連側が問題視して入国を拒否したことから、フィンランド・ヘルシンキ公使館勤務となる。 1939年(39歳)9月、ドイツが突如としてポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発。杉原は外務省から占領下のポーランドと国境を接するリトアニアの当時の首都カウナスに領事館開設を命じられた。これはドイツ軍による対ソ攻撃の情報を集めるためだった。日本は満州に配置した対ソ連用の関東軍を南方に回したかったので、独ソ戦の開戦日を知りたがっていた。杉原は領事代理として赴任する。 当時、ナチスドイツはユダヤ人への迫害を激化させており、1940年(40歳)5月にはアウシュヴィッツ強制収容所が完成。西からドイツが迫っていたため、ポーランドやリトアニアのユダヤ人はシベリア鉄道を経て極東に向かうルートしか残されていなかった。一方、リトアニアは6月にソ連軍の侵攻を受けソ連支配下に入った。ソ連は在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を各国に求めたが、杉原たちは独ソ戦の情報収集のため業務を続けていた。このような理由からユダヤ難民たちが日本領事館へ通過ビザを求めて殺到した。 杉原手記「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった」「6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」。 ユダヤ人に対する迫害の凄惨さを知っている杉原は、難民たちの切迫した状況をすぐに理解した。ただちに外務省へ「ソ連横断の日数を20日、日本滞在30日、計50日の通過ビザを出してもよいか」と電報を打ったが、本省からの返電は「行先国の入国許可手続を完了し、旅費及び日本滞在費等の携帯金を有する者にのみに査証を発給せよ」という、難民には非現実的なものだった。日本は2カ月後(9月)に日独伊三国同盟の締結を控えており、ユダヤ人保護によって同盟国ドイツが気を悪くすることを恐れたのだ。 杉原は夫人に「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」と問いかけ、夫人は「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と同意したという。杉原は「人道上、どうしても拒否できない」と腹をくくると、訓命違反による罷免を覚悟した上で、受給要件を満たさない難民にも独断で日本通過ビザを大量発給し始めた。8月16日、本省から“受給要件を確認し安易にビザを発給するな”と独断行為を非難する電信が入るが、杉原はなおも発給を続けた。中南米のオランダ領(キュラソー、スリナムなど)は入国ビザを必要としないことから、杉原は難民の行先国をそれら中南米の国にして受給要件をクリアーさせた。 杉原は外務省の追及をトボけるため、批判された電信を無視し、第3国への入国許可が確実で、所持金も十分にあり、本省が許可しやすい人物を選び、「当国へ避難中のポーランド出身ユダヤ系工業家『レオン・ポラク』54歳へのビザ発給の可否」と問い合わせている。また、本省との意見の衝突を避けるためにわざと返信を遅らせ、公使館を閉鎖した後になって“指示を守って当方はビザを発給している”と言い張った。 杉原は約1カ月半の間、万年筆が折れるほど多量のビザを手書きし、筋肉痛で腫れ上がった腕を夫人が毎日ほぐした(途中から亡命ポーランド将校の提案で、ゴム印とサインを組み合わせた)。その間、ソ連は何度も領事館の閉鎖命令を出し、日本外務省からも領事館退去及びベルリンへの移動命令がきた。杉原の命令違反は、東京の陸軍中央まで「カウナス事件」という名前で伝えられていた。これらの圧力が無視できなくなると、8月29日にカウナス領事館を閉鎖して老舗ホテル「メトロポリス」に移り、なおもホテル内で仮通行書を発行した。9月5日、カウナス駅からベルリンに旅立つ際も、車窓から手渡しされたビザを書き続けた。汽車が動き出すと杉原は頭を下げ、「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と謝った。ホームからは「スギハラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ!」と叫び声があがり、人々は泣きながら列車と並び走った。 杉原が発行したビザの枚数は、記録が残る番号入りのものだけでも「2139枚」にのぼる。ビザは一家族につき、一枚で良かったことから、家族の人数を考慮すると約6千名の国外脱出を助けたと考えられている。杉原は領事館の閉鎖日が近づくと、作業効率化のため記録をやめ、発行手数料の徴収も忘れていたので、記録外の実数は把握できない。翌1941年6月の独ソ開戦後、リトアニアは3年間ドイツの占領下となった。占領前、リトアニアにはユダヤ人20万8000人が暮らしていたが、9割以上の19万5000人が殺害された。 ※杉原の『命のビザ』でリトアニアから脱出したユダヤ人は、シベリア鉄道で極東ウラジオストックに到着した。日本外務省はウラジオストックの日本総領事館に「(杉原ビザのような)通過ビザは行先国の入国許可手続きが終わっていることを証明する書類を提出させてから、日本行きの乗船許可を与えること」と厳命した。これに対し、かつて杉原が通ったハルビン学院の後輩、ウラジオストック総領事代理・根井三郎は難民に同情し、本省にこう返電した。「日本の領事が出した通行許可書を持ってやっとの思いでたどり着いたのに、行先国が中南米というだけの理由で乗船許可を与えないのは、日本の外交機関が発給した公文書の威信をそこなうことになります」。根井は杉原ビザを無効にする理由がないと、形式主義を逆手にとって、本省と5回にわたって交渉し、漁業者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給して難民を救済した。難民たちは舞鶴港、敦賀港から次々と上陸し、米国、パレスチナ、上海へ旅立った。杉原千畝の名と共に根井三郎も記憶に留めるべき人物だ。 リトアニアを出た杉原は、その後、チェコのプラハ総領事館に勤務し、1941(41歳)にドイツ領ケーニヒスベルグ総領事館、同年11月にルーマニアのブカレスト公使館勤務(一等通訳官)を命じられた。1945年(45歳)、大戦終結後にブカレストでソ連軍に身柄を拘束されて郊外の捕虜収容所に収監され、2年後の1947年4月に帰国した。妻と2人の子を連れてようやく日本に戻ったものの、2カ月後に外務省から退職通告書が送付され外務省退官。形式上は“依頼退職”だが、独断によるビザ発給を責めた事実上の解雇だった。外務省関係者の間には「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という冷淡な中傷が流れていた。これを聞いた杉原は旧外務省関係者と絶縁した。 ※夫人の話では岡崎勝男・外務事務次官(後の外務大臣)から免官の理由として「ビザ発給の責任」を告げられたという。現在、外務省のHPには「(杉原は)カウナス領事館引き揚げの後も7年間にわたり外務省で勤務を継続」「依願退職しています」と、外務省が杉原を冷遇した事実はなく通常の人員整理と強弁しているが、冷戦が始まりソ連情勢に詳しい人材をかき集めていた時期に、外務省きってのロシア通である杉原が重用されないのは道理に合わず、カウナスでの命令不服従が問題になっているのは明らか。杉原はロシア語だけでなく、英語、フランス語、ドイツ語など数カ国語に精通していたし、独ソ戦の開戦時期を的確に予想していた。そのように有能な杉原の解雇を進言したのは終戦連絡中央事務局連絡官兼管理局二部一課。外務省ソ連課長の曽野明いわく「杉原は本省の命令を聞かなかったから、クビで当たり前なんだ。クビにしたのは私です」「日本国を代表もしていない一役人が、こんな重大な決断をするなど、もっての外であり、絶対、組織として許せない」。 帰国後の杉原はNHK国際局など職を転々とし、1960年(60歳)、貿易商社の事務所長としてモスクワに赴任した。 1968年(68歳)、かつて杉原ビザで救われたイスラエル政府の参事官ニシュリ氏が杉原を探し出し、28年ぶりに再会する。ニシュリ氏はカウナス駅で「私たちはあなたを忘れません」と叫んだその人だった。再会するまで戦後四半世紀も要したのは、杉原が自分の名前を外国人が発音しやすいように「センポ・スギハラ」と教えていたから。多くのユダヤ人が杉原を探し続けたが、ユダヤ人協会からの問い合わせに対して、外務省は旧外務省の名簿に杉原姓は3名しかいなかったのに「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答していた。難民たちのその後の運命を気にした杉原がイスラエル大使館を訪れ、住所を伝えていたのでニシュリ氏は杉原にたどり着けた。ニシュリ氏はボロボロになった当時のビザを手にして泣きながら「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません」と感謝を伝えた。 翌1969年(69歳)、杉原ビザで助けられイスラエル宗教大臣になっていたバルハフティク氏からエルサレムで勲章を受ける。バルハフティク氏は杉原にビザ発給を交渉したユダヤ難民のリーダーだった。 「再会時に杉原氏が訓命に背いてまでビザを出し続けてくれたことを知ってとても驚いた。杉原氏の免官は疑問である。(略)私は20年前から、日本政府は正式な形で杉原氏の名誉を回復すべきだといっている。しかし日本政府は何もしていない。大変残念なことである」(バルハフティク、1998) 1975年(75歳)に退職し帰国。西鎌倉に住んだ。1981年、旧西独テレビ協会・東アジア支局長として1974年から1981年まで東京に在住していたドイツ人ジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンは著作『孤立する大国ニッポン』で杉原に献辞を捧げ、「戦後日本の外務省が、なぜ杉原のような外交官を表彰せずに追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか、なぜ劇作家は彼の運命をドラマにしないのか、なぜ新聞もテレビも、彼の人生をとりあげないのか理解しがたい」と抗議した。 1985年(85歳)、イスラエルの「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を受賞。同年、顕彰碑の除幕式や記念植樹祭がエルサレム郊外のベート・シェメッシュの丘で行われたが、杉原は高齢で出席できず四男・伸生(のぶき)が出席した。翌1986年7月31日、鎌倉で死去。享年86歳。駐日イスラエル大使が弔問し、葬儀には生前の杉原を知る約300人が参列した。4年後の1990年、幸子夫人による回想録『六千人の命のビザ』が出版される。翌1991年、日テレ『知ってるつもり』が杉原を取り上げて反響を呼び、さらに次の年には夫人の著書をドラマ化した『命のビザ』(主演は加藤剛と秋吉久美子)が放映され、多くの日本人が杉原の存在を知るようになった。1997年、杉原を描いた映画『ビザと美徳』が制作され第70回アカデミー賞短編実写部門賞に輝く。 杉原の生誕百周年となる2000年10月10日、没後14年目にして、ようやく日本政府による公式の名誉回復が河野洋平外務大臣によって行われたが、この時ですら当時の外務省幹部は反対しており、名誉回復は押し切ってなされた。 「これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。(略)故杉原氏は今から60年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です」(河野洋平外相) 同年、杉原の故郷・岐阜県加茂郡八百津町の“人道の丘公園”に杉原千畝記念館が開館。館内では杉原の肉声(1977年のインタビュー)が聞ける。2005年、終戦60周年記念ドラマとして『日本のシンドラー杉原千畝物語 六千人の命のビザ』 (主演は反町隆史と飯島直子)が製作される。2008年10月8日幸子夫人逝去(享年94)。 2011年、杉原の顕彰碑が早稲田大に建立。碑文には「外交官としてではなく、人間として当然の正しい決断をした」と刻まれた。現在、杉原の“命のビザ”で生き残った難民たちの子孫は25万人に達するという。 「政府の命令に背き、良心に従った杉原さんがいなかったら、私たちの誰も存在しなかった。私たちが歩み続けた暗い道の中で、杉原さんの星だけが輝いていた」(ビザ受領者アンナ・ミロー) 「一言で言えば『古武士』のような方で、すべて黙っていて、分かる人だけが分かってくれればいいという、言い訳をしない方でした」「自分についてはまったく話さなかった。誰にでも温かく接する人柄だし、決して、上から見下ろしたり、差別したりしなかった」(モスクワ駐在員時代の部下・川村秀) 「非人間的な行為に対抗する勇気には、国籍や人種や宗教の壁などないということを示した」(国際司法裁判所判事トーマス・バーゲンソール) 〔杉原語録〕 「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」 「世界は、大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、みんなで手をつなぎあって、まわっていかなければなりません」 「新聞やテレビで騒がれるようなことではない」 「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」 「あの人たちを憐れに思うからやっているのだ。彼らは国を出たいという、だから私はビザを出す。ただそれだけのことだ」 【墓巡礼】 杉原千畝は外務省内で能力を高く評価され、大人しく命令に従っていれば輝かしい出世街道が待っていた。だが、免職覚悟で目の前のユダヤ人難民6000人の生命を救う決断をした。ナチスの殺戮部隊から守るために。その5年前には中国人に暴力を振るう関東軍(日本陸軍)への協力も断っている。根底に揺るぎないヒューマニズムがある。僕は1991年の『知ってるつもり』で杉原さんの勇敢な行動を知り、それ以来、ずっと墓巡礼がしたいと思っていた。墓所の情報が皆無で八方塞がりになっていたところ、2000年に故郷の岐阜に杉原千畝記念館が開館。同館の職員さんなら情報をご存知と思ってさっそく問い合わせた(高確率で墓所が故郷にあると推測)。でも、返ってきた言葉は「この町に杉原さんのお墓はありません」。ガーン。「それではどこに?」「事情があって教える事ができません。鎌倉ということだけ、お伝えします」。鎌倉という情報だけでは厳しいものがあったけど、少なくとも国内に眠っている事が分かったのは嬉しかった。それにしても“事情”ってなんだろ…さらに調査を進めたところ、判明した“事情”は思いがけないものだった。僕は日本人の誰もが杉原さんを英雄と称えていると思っていたけど、一部の人は国家の命令を破った売国奴、国賊と糾弾していたのだ。当時存命だった杉原夫人は、糾弾者に墓所を荒らされる事を心配されていたんだ。戦時中の外務省ならともかく、現代になっても氏を国賊と呼んでいる人がいるなんて理解できなかった。 僕はもし墓を見つけても誰にも言わないつもりで鎌倉の墓地を探し回った。最有力は、墓マイラーが「鎌倉」という言葉で真っ先に連想する鎌倉霊園。川端康成、山本周五郎、萬屋錦之介、秋山真之、多くの著名人が眠っているウルトラ巨大霊園だ。 超広大な鎌倉霊園 管理事務所で問い合わせると個人情報保護の壁にぶつかり、墓の有無さえ分からなかった。結局、10年近く鎌倉霊園に行くたびに周囲を観察するも墓所を見つけられなかった。08年に夫人が他界し、それから4年が経った2012年。情報が解禁されたようで、各種メディアに杉原さんのお墓が続々と出始めた。場所はやはり鎌倉霊園だった!サイトの読者の方から墓所の写真や地図を頂いたこともあり、急いで鎌倉へ。管理事務所でも情報は公開され、ウィキペディアには「29区5側」と詳細情報が掲載された。僕はついに墓前に立った。信念を貫いた杉原さんに、生き方に感動したこと、勇気をもらったこと、自分が受けた様々な影響を伝え、心底から感謝と御礼の言葉を捧げた。 ※ヘルシンキ時代に杉原は作曲家シベリウスからレコードとサイン入りポートレートを贈られている。 ※杉原は長男に弘樹と命名するほど元外務大臣、第32代内閣総理大臣の広田弘毅を尊敬していた。 ※カウナスのソリー・ガノールは少年時代に子供好きの杉原から日本の切手をもらった。その後、ダッハウ強制収容所に収監され、奇遇にも日系二世部隊に救出された。 ※杉原は複数国で切手になった。 1998年イスラエル、2000年日本、2002年ガンビア、グレナダ領グレナディーン諸島、2004年リトアニア。 ※杉原ビザで助かったレオ・メラメドは「先物取引」の父となり、シカゴ取引所の名誉会長となった。 ※リトアニアの首都ヴィリニュスには、杉原が好んだベートーヴェンのピアノ・ソナタ「月光」をモチーフにした記念モニュメントがある。「スギハラ通り」もある。 ●イスラエルで杉原千畝に感謝する式典(NHK 2013.04.8) 7日、イスラエル中部の町ネタニヤでは、第2次世界大戦中、ナチス・ドイツによる迫害からリトアニアに逃れて来たユダヤ人にビザの発行を続け、およそ6000人の命を救ったとされる日本の外交官、杉原千畝に感謝するセレモニーが行われました。 セレモニーには杉原のビザで命を救われた3人が出席し、家族に付き添われながらろうそくに火をつけて犠牲者を悼むとともに、改めて杉原への感謝の意を表しました。イスラエルでは杉原の切手が発売されたり、通りに杉原の名前がつけられたりしていますが、杉原のビザによる生存者が出席し、ホロコーストの追悼式典に合わせてこうしたセレモニーが行われるのは初めてだということです。杉原のビザで命を救われた女性は、「厳しい状況にあったユダヤ人を見捨てずに救ってくれたスギハラには、心から感謝しています」と話していました。 |
関東大震災直後の朝鮮人虐殺の嵐の中、命がけで 在日300人の命を救った“鶴見のシンドラー”大川署長 |
東漸寺(とうぜんじ)。事件の舞台となった鶴見 警察署のすぐ近く。大川署長の墓と顕彰碑が建つ |
戦後、在日の人々が感謝を込めて 建立した『大川常吉氏乃碑』(本堂前) |
本堂裏の2列目一番奥 (C区画)に大川家之墓がある |
墓石側面の右端に 「應徳院等正常光居士 俗名常吉」 |
1923年(大正12)9月1日午前11時58分、相模湾を震源地とするマグニチュード7.9の巨大地震=関東大震災が関東全域を襲った。被害は、死者・行方不明10万5000人余、住家全半壊21万余、焼失21万余に及び、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。この混乱下で社会主義者や朝鮮人などへの不法逮捕・虐殺事件が起きた。
墓マイラーをしていると教科書に載っていない地元の物語と出会うことがある。横浜市鶴見区潮田町の東漸寺には、鶴見警察署長・大川常吉の墓と、在日コリアンの方々が建立した大川氏の顕彰碑が建ってる。 −−−−− 関東大震災の翌日9月2日の出来事。震災の混乱の中、自警団が鶴見警察署に4人の朝鮮人を突き出し、「こいつらが鶴見駅近くの井戸に毒を投げ込むのを見た」「叩き殺せ」と詰め寄った。当時、同地区には鶴見臨海部の埋め立て工事のため朝鮮人労働者が多く住んでいた。対応した大川常吉署長は大声で「朝鮮人が毒を入れたという井戸の水を持ってこい!私が目の前で飲む!異状があれば朝鮮人は諸君に引き渡す。異状が無ければ私に預けよ!」と一喝、そして一升ビンの井戸水を飲み干し、いったん場は収まった。 翌日、デマ拡大にともない、殺気立った千人もの群衆に鶴見署は包囲された。同署は朝鮮人220人中国人70人の約300人を保護していた。人々が「朝鮮人に味方する警察など叩き潰せ」「朝鮮人を殺せ」と叫ぶと、大川署長は「彼らも同じ被災者だ。朝鮮人を殺す前に、まずこの大川を殺せ!」と両手を広げて訴えた。「もし(同署から)逃げ出したらどうする」と声が飛び、署長は「この大川が君らの前で腹を切っておわびする」と断言、群衆は理性を取り戻し引きあげた。 大川署長の墓は横浜市鶴見区の東漸寺(とうぜんじ)の本堂裏にあり、境内には1952年に在日コリアンらが感謝の意を込めて建立した石碑『大川常吉氏乃碑』がある。文面は次の通り→ 『関東大震災当時、流言蜚語により激昂した一部暴民が鶴見に住む朝鮮人を虐殺しようとする危機に際し、当時鶴見警察署署長故大川常吉氏は、死を賭してその非を強く戒め、300余命の生命を救護したことは誠に美徳である故、私達は茲に個人の冥福を祈り、その徳を永久に讃揚する。 一九五二年三月二一日 在日朝鮮統一民主戦線 鶴見委員会』 【歴史メモ】 1923年、関東大震災直後に、官憲や陸軍の一部は震災を好機として、社会主義や自由主義の指導者を殺害しようと画策。また、日韓併合に反対する朝鮮人独立運動家を、混乱を利用して摘発しようと考えた。内務大臣・水野錬太郎、警視総監・赤池濃(あつし)、警視庁官房主事・正力松太郎(後の読売新聞社長)らは、軍と警察を通して「暴徒化した朝鮮人が井戸に毒を入れ、放火して回っている」という流言を流した。 ※正力が警視庁官房に集まった新聞記者に「朝鮮人暴徒化の噂が流れている」とリークし、鵜呑みにした記者たちが記事にしたことによってデマが広がった。1944年に正力は虚報を認める。 憲兵大尉・甘粕正彦はアナーキストの大杉栄、伊藤野枝、そして両者の子と誤解された6歳の甥っ子を殺害して憲兵隊本部の古井戸に遺棄。亀戸警察署では軍が社会主義者・川合義虎、労働運動指導者・平澤計七など13人を殺害。平澤は首を切り落とされた。 一方、市民は朝鮮人暴動のデマを信じ、震災から4日間で3689もの自警団が組織された。軍の一部から銃剣、日本刀を貸し与えられた自警団は血眼になって朝鮮人を探す。朝鮮人は日本語の「ジュ」の発音が苦手で「チュ」と言ってしまうことから、自警団は朝鮮人らしい人間を見つけては「15円55銭」と発音させ、うまく言えなかった者をその場で処刑、又はリンチにした。 死者数は最低でも231人(内務省調査)、当時の東大教授・法学博士の吉野作造の調査が2613人余、半島系新聞では6661人に達する。また、ろうあ者や方言を話す地方出身者も、朝鮮人と誤解されて59名が殺害され、女子・子供を含む在日中国人200余名が殺害されている。 当時の新聞に朝鮮人の犯罪が掲載されたことを根拠に、“朝鮮人暴徒はデマではない”という人がいる。だが震災時の新聞は「名古屋全滅」「伊豆大島が沈む」「富士山爆発」が載るほど混乱しており、新聞もまたデマにのまれていたため、文面を鵜呑みするのは危険。実際に警察が記録した朝鮮人による殺傷事件は殺人2件(ただし被疑者不詳で不起訴)、傷害3件。誰も「井戸に毒」なんか入れてない。 【藤岡事件】震災4日〜5日後に群馬県藤岡市で起きた虐殺事件。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という流言を信じた旧新町(現高崎市)の土木業者が、従業員らの朝鮮人17人を旧藤岡署に収容させた。ここには鶴見署の大川署長のような人物がおらず最悪の事態となった。近隣住民は「警察が朝鮮人をかばっている」と暴徒化。約二千人の群衆が日本刀や猟銃を持って署内へなだれ込み、無抵抗で抱き合い、命乞いする朝鮮人を暴行。遺体にまで危害を加え、警察の現場検証で血に染まった肉塊が確認された。殺人容疑などで37人が摘発されたが、大半が執行猶予付きなど軽い刑だった。現場近くの成道(じょうどう)寺には慰霊碑が立つ。 当時の群馬の詩人・萩原朔太郎はこう糾弾する−−「朝鮮人あまた殺され その血百里の間に連なれり われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」 【福田村事件】震災5日後、千葉県福田村(現野田市)にて香川県の薬売り行商人15名のうち妊婦・子供を含む9名が、讃岐弁を聞き慣れない自警団によって朝鮮人と判断され虐殺された。このように日本人の子どもまで殺されており、いかに集団心理が暴走すると歯止めが効かないか、歴史の悲劇が物語っている。 人間にとって最も恐ろしいものは「ひとくくり」と「思い込み」。「○○人というものは…」というひとくくり、「○○人ならこうするに違いない」という思い込み。これは過去の話ではありません。 僕はネットが普及し始めたとき「今は昔と違ってネットがあるから、もはやデマはすぐに嘘とバレて広がらない」と希望を持っていた。でも現実は真実よりもデマの方が速く広がり、しかもデマと判明したあとの「訂正情報」があまり共有されないという、恐ろしい状況になってしまった。再び隣国の人を「ひとくくり」にして罵倒、嘲笑する言説がワイドショーや週刊誌であふれ、非常に危機感を持っています。違う部分より、同じところの方がいっぱいあるのに。 ※こちらのブログは関東大震災直後のデマを詳しく検証されています。 http://datsuaikokukarutonosusume.blog.jp/archives/1077873131.html ※リンク先に資料多数。 |
“大津事件”で司法権の独立を守り抜き、「護法の神様」と高く評価される明治期の裁判官。名の惟謙は“これたか”とも読む。伊予宇和島藩士。討幕運動に身を投じ、3度の脱藩。1865年(28歳)、坂本竜馬や五代友厚らと長崎で接触。維新後、法曹界に入り、名古屋裁判所長、大阪控訴裁判所長などを歴任。 1891年5月に54歳で大審院長に就任した際、6日後に来日中のロシア皇太子ニコライ(23歳)が滋賀で警護の津田三蔵巡査にサーベルで斬りつけられる大津事件が発生した。ニコライは頭部に9cmの傷を負う。松方正義内閣は強国ロシアからの報復を恐れ、死刑に相当する大逆罪=「皇室に対する罪」(旧刑法116条)を適用するよう児島に迫ったが、その圧力をはねのけ一般人の「謀殺未遂罪」(同112条)を適用し、無期徒刑(無期懲役)を言い渡した。後に貴族院議員や衆議院議員をつとめた。 |
歴史のあるチェコのドゥフツォフ |
晩年はこのドゥフツォフ城に客人として招かれた。 中にカサノヴァの博物館がある |
史上最強プレイボーイ 千人とベッドイン |
聖バーバラ教会の入口の壁に→ |
カサノヴァの墓標 らしきものがあった |
教会周辺はかつて墓地だった。地元の人の 話では、この地下のどこかに棺があるという |
一部の墓石は教会の壁際に現存 |
ドゥフツォフの町は可愛い建物が多い |
城の前の「CAFE CASANOVA」 |
教会前のカサノヴァ・ホテル。ここの 従業員にもいろいろ聞いた |
ヴェネツィア出身の作家&スパイ。長身、浅黒い肌、入念にカールさせた良い香りの長髪。千人の女性とベッドを共にした伝説的プレイボーイ。欧州各地をスキャンダルで追放され、ヴェネツィアで脱獄経験あり。スパイとなってヴェネツィア帰国が許された。 彼の墓は隠棲地のボヘミア(現チェコ・ドゥフツォフ)の教会墓地にあったが、のちに墓地は公園になり、墓石(石板)だけが教会の外壁に遺る。別説にはドゥフツォフ城の背後にあった墓地を公園にした時に消失したとも。 ※モーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』の名はドン・ファンのイタリア語読み。スペインの伝説上の好色漢だが、オペラの台本作家ロレンツォ・ダ・ポンテは、親しかったヴェネツィアの色事師カサノヴァのイメージを主人公に反映したという。カサノヴァは1000人の女性と男女の関係を持つ一方、すべての相手に敬意をもって接したと伝わる。 |
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