●僧侶 一休の墓 一遍上人の墓 栄西の墓 円珍の墓 行基の墓 空海の墓 空也上人の墓 最澄の墓 慈円和尚の墓 俊寛の墓 親鸞の墓 相応和尚の墓 沢庵和尚の墓 天海僧正の墓 道元の墓 日蓮の墓 忍性の墓 白隠禅師の墓 法然の墓 本願寺顕如の墓 明恵上人の墓 蓮如の墓 ●教育者・社会変革者 安達峰一郎の墓 新井白石の墓 大塩平八郎の墓 岡倉天心の墓 西光万吉の墓 嵯峨天皇の墓 佐久間象山の墓 津田梅子の墓 中江兆民の墓 長谷川如是閑の墓 平塚らいてうの墓 福沢諭吉の墓 由比正雪の墓 |
●キリスト教徒 天草四郎の墓 永井隆の墓 内村鑑三の墓 細川ガラシアの墓 ●志士・尊皇派 梅田雲浜の墓 大村益次郎の墓 雲井龍雄の墓 坂本龍馬の墓 武市半平太の墓 橋本左内の墓 平野国臣の墓 横井小楠の墓 吉田松陰の墓 ●右派 大川周明の墓 北一輝の墓 頭山満の墓 ●左派 大杉栄の墓 片山潜の墓 樺美智子の墓 幸徳秋水の墓 |
武士であり学者でもあった | 進撃する大塩たち。中央、3門の大砲をひくのが見える | 日本一タフなおやっさん |
大塩家の菩提寺・成正寺は、大阪駅と 大坂城の中間地点、大阪のド真ン中にある(2010) |
成正寺の本堂背後にある大塩家の 歴代墓。大阪大空襲の焼夷弾で 焼けてしまい、一部が砕けている |
「寛政11年」(1799)という から、非常に古い墓! ※平八郎の子ども時代! |
1999年の初巡礼時。労を ねぎらいカロリーメイトを献上 ※成正寺の本堂前 |
9年後に再訪すると境内が整備され、雰囲気が 激変していた!こざっぱりとキレイになってた(2008) |
さらに2年後、再々巡礼。墓前はいつも花が 絶えないけど、江戸時代は“大罪人”大塩の 墓を造ることは許されなかったという(2010) |
180年前のヒーローにごあいさつ(2016) |
『大塩の乱に 殉じた人々の碑』 |
手前が殉死碑、奥に見えるのが大塩父子。大塩自身 の墓よりも、庶民の供養碑の方が遥かに大きかった。 あくまでも民衆第一!(1999) |
再訪すると3基並んでいた墓と石碑が 本堂の左右に分かれていた(2008) ※奥の方に大塩父子の墓が写ってます |
2016年、初めて本堂に位牌があることを知る |
住職に見せて頂き感動! |
中央が大塩、左に関係者の位牌、右の 「大義院士行日尚居士」はおそらく嫡男 |
江戸後期の陽明学者で大塩の乱の首謀者。大阪出身。父は大阪町奉行所与力(よりき)で大塩家は禄高200石の裕福な旗本だった。号は中斎。幼くして父母を失い、祖父母に育てられる。13歳頃、与力見習いとして東町奉行所に出仕、1818年(25歳)正式に与力となる。「与力」は今で言う警察機構の中堅。署長が奉行で、与力は部下の「同心」たちを指揮している。翌年には吟味役(裁判官)となり、裁定に鋭い手腕を発揮した。大塩は20代から陽明学を学んでおり、職務を通して陽明学の基本精神“良いと知りながら実行しなければ本当の知識ではない”を実践していく。
※「飢饉は天災ではなく人災である」(大塩平八郎)大塩が吟味役となって驚いたのは、奉行所がとてつもなく腐敗していたことだった。ある日、彼が担当した事件で当事者から菓子折りが届いた。中味は小判という“金のお菓子”だった。これが日常茶飯事であるばかりでなく、同僚の中には自ら賄賂を要求する者が多数いることを知り愕然とする。捜査に手心を加えることも、半ば公然と行なわれていた。つまるところ、奉行所は腐りきっていた。 内部告発の為に証拠を集める大塩は、西町奉行所(奉行所は東と西がある)にとんでもない与力がいることを知る。この弓削という男は裏社会の犯罪組織のボスで、手下に恐喝や強盗、殺人まで行なわせて自身は遊郭で遊び暮らし、与力という立場を利用して捜査を妨害する大悪党だった。 大塩は徹底的に戦う決意をし、大阪各地に潜伏する弓削の手下を片っ端から摘発、弓削のシンジケートを壊滅させた。弓削は自害し、大塩は没収した3千両という莫大な金銭を貧民への施し金とした。ところが事件はこれで収まらなかった。捜査の過程で、複数の幕府高級官僚が不正に加わっていた証拠を掴んだのだ!「余計なことをするな」「大人しくしていろ」と幕府中枢部から圧力を受けた大塩は、身の危険を感じて同棲中の恋人を親戚の家に匿ってもらい、腹をくくって巨悪に立ち向っていった。 1830年(37歳)、大塩が不正行為を暴いた一大スキャンダルの裁決が発表される。それは大塩を深く失望させる内容だった。幕府高級官僚の悪事は揉み消され、小悪党の3名が遠島や改易処分になってこの事件は幕が下ろされた。そして処分の一ヵ月後、大塩を陰ながら応援してくれていた上司が辞任。これに連座する形で、名与力として人望を集めていた大塩も、職を養子・格之助に譲って奉行所を去った。こうして大塩の25年にわたる奉行所生活が終わった。 これに先立つ5年前(1825年)、大塩は32歳の時に、私塾『洗心洞』を大阪天満の自宅に開いていた。教えていたのは陽明学。彼は学者としても広く知られており、与力や同心、医師や富農にその思想を説いていた。塾の規律は厳しく、朝2時に講義が始まり、真冬でも戸を開け放していたが、門弟は増える一方だった。奉行所を隠居した大塩は、一介の学者として学問の道を究めようとし、1833年(40歳)“知”は“行動”が一致して初めて生きるとする「知行合一」を説いた『洗心洞剳記(さつき)』を刊行する。大塩は著作の最後を「口先だけで善を説くことなく善を実践しなければならないのだ」と締めくくり、門弟と共に富士山に登り同本を山頂に納めた。 1833年(40歳)、冷害や台風の大被害で米の収穫量が激減し、米価は高騰した。凶作は3年も続き餓死者が20〜30万人に達する。世に言う「天保の大飢饉」だ。1836年(43歳)、商都大阪でも街中に餓死者が出る事態となり、大塩は時の町奉行・跡部良弼(老中・水野忠邦の弟)に飢饉対策の進言をする。凶作とはいえ“天下の台所”大阪には全国から米が集まってくる為、庶民は飢えていても米問屋や商家にはたっぷり米があったからだ。「豪商たちは売り惜しみをして値をつり上げている。人々に米を分け与えるよう、奉行所から命令を出してはどうか」と訴えたが、跡部は耳を貸すどころか「意見するとは無礼者」と叱責する始末。 さらに大塩を憤慨させることが。将軍のいる江戸に米をどんどん流して点数を稼ぐ為、奉行所は大阪に搬入されるはずの米を兵庫でストップさせ、それを海上から江戸に送っているというのだ。しかも米価を吊り上げ暴利を得ようとする豪商と結託しているからタチが悪い。飢饉につけ込む豪商らの米の買占めで、大阪の米の値段は6倍まで急騰した。一方で奉行所は大阪の米を持ち出し禁止にし、京や地方から飢えて買い付けに来る者を牢屋に入れ厳罰に処した。もうメチャクチャだ。あくまでも出世の為に組織の論理を優先し、利己的な考えに終始する為政者たち。 日々餓死者が出ているのに何の手も打たない大阪町奉行。大塩は三井、鴻池ら豪商に「人命がかかっている」と6万両の義援金を要請したが、これも無視された。「知行合一、このまま何もしなくていい訳がない」。大塩は言葉が持つ力を信じていたし、けっして武力を信奉する人間ではない。しかし、事態は一刻を争った。窮民への救済策が一日遅れれば、一日人命が失われる…。12月。ことここに及んで、大塩はついに力ずくで豪商の米蔵を開けさせる決心をした。堺で鉄砲を買い付け高槻藩からは数門の大砲を借りた。大塩が睨む最終目標は、有り余るほど大量の米を備蓄していた「大阪城の米蔵」だ。 蜂起の前に大塩は、門下生や近隣の農村に向けた木版刷りの檄文(げきぶん)を作成する。「田畑を持たない者、持っていても父母妻子の養えない者には、市中の金持ちの商人が隠した金銀や米を分け与えよう。飢饉の惨状に対し大阪町奉行は何の対策を講じぬばかりか、4月の新将軍就任の儀式に備えて江戸への廻米を優先させ一身の利益だけを考えている。市中の豪商たちは餓死者が出ているのに豪奢な遊楽に日を送り、米を買い占め米価の吊り上げを謀っている。今こそ無能な役人と悪徳商人への天誅を為す時であり、この蜂起は貧民に金・米を配分するための義挙である」。 1837年1月。大塩の同志連判状に約30名の門下生が名を連ねた。内訳は与力や同心が11名、豪農が12名、医師と神官が2名ずつ、浪人1名、その他2名。役人と百姓が主軸だ。 2月、民衆の窮状を見るに見かねた大塩は、学者の自分にとって宝ともいえる5万冊の蔵書を全て売り払い、手に入れた六百数十万両を1万人の貧民に配った(奉行所はこれをも“売名行為”と非難した)。そして檄文を周辺4カ国の貧農に配付した。そして一切蜂起の日時を、新任の西町奉行が初めて市内を巡回する2月19日、町奉行が大塩邸に近づく夕刻とした(2月の夕刻なら陽も落ち、闇に乗じて攻撃できる)。 決起の前日、大塩は幕府の6人の老中に宛て、改革を促す書状を送った。蜂起後に江戸へ届くはずの文面はこうだ。「公然と賄賂をとる政治が横行していることは、世間の誰もが知っているのに、老中様たちはそれを存知ながら意見すらおっしゃいません。その結果 、天下に害が及ぶことになったのです」。仮に蜂起が失敗しても、心ある老中が一人でもいれば改革を行なってくれるかも知れない、そう願った。 ※この書状は何者かの手によって、後日山中に打ち捨てられていた。 ●大塩の乱 蜂起当日の午前4時。門弟の与力2人が裏切り、計画を奉行所へ密告した。当直で奉行所に泊まっていた別の門弟が「バレた!」と大塩に急報する。事態急変を受け、大塩は午前8時に「救民」の旗を掲げて蜂起した!朝の大阪に大砲の音が轟く。計画が早まり仲間が集まらず最初は25人で与力朝岡宅を砲撃し、続いて洗心洞(大塩邸)に火を放った。「天満に上がった火の手が決起の合図」と伝えていたので、近隣の農民が次々と駆けつけてきた。70名になった大塩たちは、鴻池善右衛門、三井呉服店、米屋平右衛門、亀屋市十郎、天王寺屋五兵衛といった豪商の邸宅を次々と襲撃し、奪った米や金銀をその場で貧民たちに渡していった。難波橋を南下し船場に着いた昼頃には町衆も多く混じり300人になっていた。島原の乱から200年目の武装蜂起は街のド真ン中で起きた。次なる目標は大阪町奉行、そして大阪城!「救民」の旗をひるがえし進軍する大塩たち。 ※出陣した東西の町奉行が砲声に驚いた馬から振り落とされ、こんな歌が流行った。「大阪天満の真ん中で、馬から逆さに落ちた時、こんな弱い武士見たことない、鼻紙三帖ただ捨てた」。 しかし、正午を過ぎると奉行側も反撃の態勢が整い、大阪城からは2千人規模の幕府軍が出てきた。幕府軍の火力は圧倒的だ。砲撃戦が始まると民衆は逃げ始め、大塩らは100余名になった。100対2000。私塾の門下生と正規軍では勝負にならない。大塩一党は砲撃を浴びながら淡路町まで退き、二度目の総攻撃を受け夕方には完全に鎮圧された。しかし火災は治まらず翌日の夜まで類焼し、「大塩焼け」は大阪中心部の5分の1(約2万軒)を焼き尽くした。 事件後の執拗な捜査で門下生たちは軒並み捕縛されたが、大塩と養子の格之助だけは行方を掴めなかった。最終的に、約40日間逃走した後、3月27日に市内靱油掛町の民家に潜伏しているところを包囲され、大塩父子は自ら火を放つと火薬を撒いて爆死した。享年44歳。 この乱で処罰された者は実に750人に及ぶ。重罪者31人のうち6名は自害、2名は他殺、1名は病死、そして17名は1ヶ月の間に獄中死している。仲間の名を吐かせる為に過酷な拷問が行なわれたと見られる(大塩の恋人も獄中死)。刑の執行まで生存していた者は、わずかに5人だった。 大塩には逃亡中に最も重い判決「重々不届至極」が下っており、幕府は爆死して黒焦げになった大塩の遺体を塩漬け保存し、門弟20人(彼らも遺骸)と共に磔(はりつけ)に処した。※ムゴすぎる…。 幕府はこの騒動が各地に波及するのを恐れ、反乱の実態を隠し「不届き者の放火騒ぎ」と封印しようとした。しかし、大塩が1ヶ月以上も逃亡したことで、広範囲に手配せざるを得なくなり、乱のことは短期間に全国へ知れ渡った。しかも爆死したことで人相確認が出来なかったことから、「大塩死せず」との噂が各地に流れてしまう。 乱から2ヵ月後の4月に広島三原で800人が「大塩門弟」を旗印に一揆を起こし、6月には越後柏崎で国学者の生田万(よろず)が「大塩門弟」を名乗って代官所や豪商を襲い(生田万の乱)、7月には大阪北西部で山田屋大助ら2千人の農民が「大塩味方」「大塩残党」と名乗って一揆を起こした。この様な大塩に共鳴した者の一揆や反乱がしばらく続いた。 大阪周辺の村に対して、奉行所は大塩の「檄文」を差し出すよう命じたが、農民たちはこれに従わず、厳しい監視の目をかいくぐって写筆し各地に伝えていった。 薩摩や長州といった巨大な大名でさえ、幕府に対して従順であるしかなかったこの時代に(龍馬はまだ2歳)、一個人が数門の大砲を用意して、白昼堂々と大阪の中心街でブッ放し、豪商の米蔵を打ち壊しながら奉行所や大阪城襲撃を目論んだ。誰がこんな事態を想像できよう。この事件は徳川政権を大きく揺さぶり、幕府の権威が地に落ちていることを全国に知らしめた。 とはいえ、大塩らが幾ら鉄砲や大砲を揃えた所で、幕府を敵に回して勝ち目などある訳がない。密告がなく予定通り決起しても、敗北が早いか遅いかの違いだ。大塩もそれが分かっているからこそ、蜂起前に資産を処分して貧民に配ったのだろう。要するに、一身を犠牲に庶民の救済を求め立ち上がったのだ。それはあの朝集まった25名の門下生も同じだ。だからこそ、大火で焼け出された人々は、大塩らに怒りをぶつけるどころか、「大塩さま」と呼んでその徳を称えた。※事件後、市中で大塩を賞賛したとして数十名の逮捕者が出ている。 大塩の先祖は家康から直々に愛用の弓を賜ったという直参の旗本。彼は真面目に与力という要職を勤め上げ、ずっと体制側にいた元幕府役人だ。そんな男が幕府の政治に反抗したという事実は、幕府だけでなく諸大名にも強烈な衝撃を与えた。たとえ半日で鎮圧されても、彼らの死は無駄ではなかった。つまり、幕政に不満を持つ人々に、それまでは考えもしなかった“幕府は刃向かえるもの”という選択肢を心の中に芽生えさせた。これは30年後の明治維新へと繋がっていく。 ●墓 江戸時代、“大罪人”大塩の墓を造ることは許されなかった。維新から30年後にようやく建立されたが大阪大空襲で破壊、1957年に有志が墓を復元した。大塩父子の墓よりも『大塩の乱に殉じた人々の碑』の方が5倍近く大きい。後世に建てられたものとはいえ、墓にまで“民衆第一”という思想が現れている。 ---------------------- ●大塩が撒いた檄文から(原本は長文なので一部抜粋) 役人はただ下々の人民を悩まして米金を取立る手段ばかりに熱中し居る有様。大阪の奉行並びに諸役人共は万物一体の仁を忘れ、私利私欲の為めに得手勝手の政治を致し、江戸の廻し米を企らみながら、天子御在所の京都へは廻米を致さぬのみでなく五升一斗位の米を大阪に買ひにくる者すらこれを召捕るといふ、ひどい事を致している。何れの土地であつても人民は徳川家御支配の者に相違ないのだ、それをこの如く隔りを付けるのは奉行等の不仁である。 大阪の金持共は年来諸大名へ金を貸付けてその利子の金銀並に扶持米を莫大に掠取つていて未曾有の有福な暮しを致しおる。彼等は町人の身でありながら、大名の家へ用人格等に取入れられ、又は自己の田畑等を所有して何不足なく暮し、この節の天災天罰を眼前に餓死の貧人乞食をも敢て救はうともせず、その口には山海の珍味結構なものを食ひ、妾宅等へ入込み、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘引してゆき、高価な酒を湯水を呑むと同様に振舞ひ、この際四民が難渋している時に当つて、絹服をまとひ芝居役者を妓女と共に迎へ平生同様遊楽に耽つているのは何といふ事か。 天下の為と存じ、血族の禍を犯し、此度有志の者と申し合せて、下民を苦しめる諸役人を先づ誅伐し、続いて驕りに耽つている大阪市中の金持共を誅戮に及ぶことにした。そして右の者共が穴蔵に貯め置いた金銀銭や諸々の蔵屋敷内に置いてある俸米等は夫々分散配当致したいから、摂河泉播の国々の者で田畑を所有せぬ者、たとひ所持していても父母妻子家内の養ひ方が困難な者へは右金米を取分け遣はすから何時でも大阪市中に騒動が起つたと聞き伝へたならば、里数を厭はず一刻も早く大阪へ向け馳せ参じて来てほしい、これは決して一揆蜂起の企てとは違ふ。 此度の一挙は、日本では平将門、明智光秀、漢土では劉裕、朱全忠の謀反に類していると申すのも是非のある道理ではあるが、我等一同心中に天下国家をねらひ盗まうとする欲念より起した事ではない、それは詰るところは殷の湯王と周の武王、漢高祖、明太祖が天誅を執行したその誠以外の何者でもないのである。若し疑はしく思ふなら我等の所業の終始を人々は眼を開いて看視せよ。ここに天命を奉じ天誅を致すものである。 天保八丁酉年 摂河泉播村々 庄屋年寄百姓並貧民百姓たちへ |
脱藩浪人が日本を変えた | 薩長同盟ぜよ! | 和服に靴も龍馬ならカッコイイ |
高知市桂浜の龍馬像。 この角度だと巨大さが分かる |
高さが台座を含めて13.5m。銅像としては日本一の高さだ。 正面は太平洋。海の彼方を見つめ何を思う(2008) |
龍馬像の足下から階段を下りると広い浜辺だ | 高知市上町の「坂本龍馬生誕地」。ここで生まれた脱藩者が体一つで歴史を変えていく |
維新の志士が集い、数々の歴史的事件の目撃者となった寺田屋 | 襖の向こうが寺田屋事件の際の龍馬の部屋。他の部屋は今も宿泊可能だ |
高杉晋作から贈られ龍馬が愛用した 「S&Wモデル2アーミー33口径」の模型 |
「龍馬の部屋」は龍馬ゆかりの品が展示されている |
龍馬が撃った弾痕? |
お龍が入っていたお風呂と、龍馬へ危機を告げるために駆け上がった階段 ※実は寺田屋は戊辰戦争で燃えているので、忠実に復元されたものッス(汗) |
伏見区松林院に眠る寺田屋 の女主人、お登勢さんの墓 |
鹿児島市に建つ坂本龍馬新婚の旅碑 (2008) |
名前がよく似た龍馬とお龍。2人は日本で最初の新婚旅行をした事で有名。 薩摩での3ヶ月は龍馬の生涯で最も平和な時間だった※1年半後に暗殺 |
お龍さんはこの角度が マジで最高 (*^v^*) |
広島県、鞆(とも)の浦。龍馬たち海援隊の「いろは丸」はこの沖合いに沈んだ ※この港町は『崖の上のポニョ』のモデルになったことでも知られる |
慶応3年(1867)4月23日、広島・鞆の浦沖にて龍馬率いる海援隊蒸気船「いろは丸」と紀州藩の蒸気船「明光丸」が衝突し、「いろは丸」は海の底に沈んだ。龍馬たちは鞆の浦の「桝屋清右衛門宅」を宿にし、「魚屋萬蔵宅」を談判所とした。紀州藩といえば徳川御三家の大藩。龍馬ら海援隊は浪人集団であり、7万両(約30億)という莫大な賠償金を払うことになった紀州藩はメンツが丸潰れとなった。この談判が決着した10月19日の約1ヶ月後に龍馬は暗殺される。海援隊同志は犯人が紀州藩と信じ込み、翌月に「龍馬の仇!」と京都天満屋で宴をしていた紀州藩の面々を襲撃した(天満屋事件)。 |
鞆の浦の「いろは丸展示館」 | いろは丸の海底調査の様子が再現されている | 茶碗や船の部品などいろいろ引き上げられた |
龍馬の宿泊所跡「桝屋」。有名な回船問屋だった ※内部は非公開 |
1988年、桝屋の屋根裏に「龍馬の隠し部屋」が発見 された!従来は表通りの部屋に滞在したとされていた ※復元された部屋は「いろは丸展示館」の2階にある |
鞆の浦の法宣寺に眠る 桝屋清右衛門の墓 |
談判会場のひとつ、福禅寺の“対潮楼”。江戸中期に 当地を訪れた朝鮮通信使は「日本一の名景」と絶賛した |
対潮楼から瀬戸内を眺める。実に素晴らしい。 龍馬もこの眺望を楽しんだのだろう |
こちらも談判会場「旧魚屋萬蔵宅」 |
鞆の浦を訪れた際、ちょうど秋祭りが行なわれていて、人々が龍馬を山車に乗せて練り歩いていた。 いかに龍馬が民衆から慕われているかが分かり、僕は興奮してこの山車を撮りまくった! |
こちらは東京豊島区・妙行寺 の三浦休太郎(紀州藩)の墓 |
ここ『酢屋』は海援隊の詰所となった木材商。龍馬は この2階で大政奉還が実現したことを知り歓喜した |
酢屋の『坂本龍馬寓居之跡』。 現在、2階はギャラリーだ |
京都市中京区の「土佐藩邸跡」 | 土佐藩邸の敷地にあった土佐稲荷。境内に龍馬像とお稲荷様が並ぶ不思議空間 |
京の常宿の一つだった明保野亭。現在は湯豆腐会席、京弁当の店。清水寺近くの三年坂に面している(2010) |
明保野亭のメニューの上に「竜馬ゆかりの店」 | 明保野亭から出て来た迫力ある異人。攘夷は完全に失敗(汗) |
京都祇園・円山公園の 龍馬&中岡慎太郎像(2010) |
この銅像はけっこう大きい。ここに写っているのは インド人の旅行者。この後、記念撮影をしてました♪ |
『坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地』の石碑 |
ここが近江屋の跡だーッ!…と言っても、 多くの通行人はこの聖地に気付いていない |
京阪交通社があったが移転した。 (2008) |
2年後。大河ドラマの力は偉大なり!『龍馬伝』のオンエア前に京都市の 案内板が建ち、足下に小石が埋められ花入れが添え付けられた! 通行人も気付くようになり、この写真のように説明を読んでる人が!(2010) |
早朝というのにもう石碑の土台に水が打たれ、清め られていた。コンビニの店員さんが手入れするんだって |
このコンビニには龍馬グッズ の特別コーナーがあった! |
昼過ぎに再訪すると団体さんが到着した!龍馬のコスプレをしていた人が史跡の 解説をしていた。『龍馬伝』の人気でこうした幕末名所ツアーは満員御礼のようだ |
【豆知識】近江屋跡のこの石碑は東を向いている。ところが東側にはビルがあるため、いつ 行っても日陰になると思ってた。しかし!6月1日の朝6時半に行ったら、この写真の様に ギリギリセーフで直射日光が当たってた!石碑マニアはぜひその頃、その時間に! |
2014年、また店が変わっていた!サークルKが 消えて、回転寿司『京のとんぼ』が入っていた! |
店舗が違っていただけではない。なんと、龍馬の 肖像画と、霊山墓地までの地図が設置されていた! |
肖像画に見入る。それにしても、どうしてこの 場所の店舗は寿命が短いのだろう(2014) |
坂本龍馬記念館に最近登場した実物大「近江屋」(2008) | 龍馬は床の間の前。賊は右の屏風の方向から侵入 | 中に入れマス! |
龍馬の死の翌1868年、国家の為に殉じた者の霊を祀った日本初の招魂社が 明治政府によって創建された(1939年、護国神社に改称)。1968年、墓所に続く 道が「維新の道」と名付けられて整備され、松下幸之助が名を石碑に刻んだ (2010) |
「維新の道」碑の向かいにある石柱群。左から「木戸孝允 卿墓勅碑是より二町」「此の上に勤王志士の墳墓あり」 「梅田雲濱先生碑」「天誅組義士墓」、そして右端の岩に 「贈正四位坂本龍馬氏之墓」。これらの道標が並ぶ |
墓地に隣接して建つ『霊山歴史館』。幕末の貴重な資料を展示!偉人パネルとの 撮影コーナーでは、龍馬、新選組という敵同士の間に入って記念撮影も可能!(2010) |
近所の店で龍馬の大好物“軍鶏”(しゃも)が入った 蕎麦が食べられるぜよ(歯応えのある鳥肉だった) |
霊山歴史館の裏手にある「龍馬坂」。めっさ急斜面!龍馬の友人達 は真夜中にここを上って亡骸を墓所へ運び込み、密かに埋葬した |
龍馬坂の途中にある霊明神社。現在は護国神社の管理下にある霊山墓地は、もともとこの 霊明神社の境内墓地だった。それを招魂社創建のため明治政府が上知(あがりち=没収)した |
龍馬が眠る霊山墓地の入口。墓参者でごった返している! | 入場料は300円。自動改札を抜けて墓参したのはココだけ! |
ゲートをくぐると、龍馬の墓前まで足下にズラリと並んでいるのが、当墓地“名物”ともいうべき魂のメッセージ集。 清水寺の近くで修学旅行の生徒も多く、まるで若者の教祖状態。有名人の墓には“寄せ書きノート”が墓前に あったりするけど、石板で叫びまくりってのは他にないのでは。高杉に宛てたものも散見した(1枚千円也) |
謎の絵 |
墓地内の展望台には、どの柱にもたくさんメッセージが 書かれている。「死んだら会いに来ます。話を聞かせてくれ たら嬉しいです」(のりこ)。全く同感!その気持ち分かる! |
珍しい中岡宛!「慎太郎さんへ。天国の住み 心地はどうですか?退屈してませんか? あなたたち2人は今の日本を見てどう思うの でしょうか。見晴らしの良いこの場所で、日本 の移り変わりを見ていて下さい」(紗姫) |
女性たちが書いている内容は 詩的だったり、ジーンと来るのに、 野郎どもといったら、龍馬や中岡が ズッコケルようなものも多い。もっと 他に書くことがあるだろう!? |
大河ドラマに合わせて土佐で開催中の龍馬展の旗 | こちらは長崎の龍馬展の旗。京都なのに! | 墓地の中は龍馬の墓まで旗がいっぱい!(2010) |
この鳥居の背後が龍馬の墓所。 石板の数もここがマックス! |
木漏れ日の中の墓所。2人の墓は西側を向いているので 午後の巡礼がオススメっす!(午前中は墓地全体が日陰になる) |
墓前で千羽鶴を見たのは、龍馬、 沖田、近藤の3名のみ!(07) |
1999 憧れの坂本龍馬(左)&中岡慎太郎(右)に謁見! これは何代目の千羽鶴だろう |
2007 再巡礼。この時は大きな花束が2人に供えられていた ※2人は一緒に暗殺された。墓の名前は木戸孝允筆! |
2010 1999年に比べ名前がかなり薄くなっていた。 っていうか、中岡の前に真新しいお賽銭入れが(汗) |
1999 この時はお酒がいっぱい |
2007 「龍馬」の字に光!墓石に「坂本龍馬 紀直柔(きの・なおなり)之墓」と、通称の“坂本 龍馬”、諱(いみな)の“紀直柔”が並記 |
2010 千羽鶴が袋に入った。 手前の花入れは竹の形 |
墓の傍らに建つ2人の銅像(2007) | 円山公園の銅像の縮小版。中岡の顔が精悍でGood!(2010) |
手前から龍馬の用心棒・藤吉、龍馬、慎太郎(2010) | 2007 「藤吉之墓」 | 2010 最初に藤吉が斬られた | 3人の墓からは京の街並みが一望できる! |
2人の背後から。レアな構図かと!遠くまで見える | 斜め上から。墓前の若者は中岡と長く語り合っていた | 2人の像が見ているのは京の都ぜよ! |
墓前は若者だらけ!くどいようだけど、『龍馬伝』の影響力は凄まじいものがある。龍馬の墓参は3回目だけど、 過去2回はこんなに次から次へと若者が訪れていなかった。GWは墓地の外まで行列が出来ていたんだって! |
同じ人物の写真とは思えない!享年29歳 | 『龍馬伝』で中岡のファンも増加(2010) |
「中岡慎太郎寓居之地」 近江屋跡の近所にある |
あぶらとり紙屋さんの敷地にあるため、 店が閉まっている時はフェンスで撮影困難 |
実は笑顔の写真、中岡の膝には 女性の着物が。この腕も女性の… |
正面が中岡の遺髪墓、左が夫人、 さらに左の岩が両親のお墓(2013) |
中岡の大きな銅像 近くには中岡慎太郎館がある |
美しいお龍さん |
京都市木屋町通の 「お龍独身時代寓居跡」 |
横須賀市大津町の信楽寺(しんぎょうじ)に眠る |
墓地奥の壁沿いに建ち、立派な説明板がある |
「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」とある。 再婚先の西村姓ではなく“龍馬之妻”となっている! |
薩長同盟を西郷に訴えるフィギュアがあった |
台座前面に坂本家の家紋“桔梗紋” |
台座左側には“賛助人”として ・西村松平(夫の松兵衛) ・鈴木魚龍(別名・清次郎) ・新原了雄の連名があった |
龍馬の初恋の女性とされる“平井加尾”の墓は青山霊園にある。結婚して西山加尾と名乗っていた。※大河で広末が演じていた |
後藤象二郎。龍馬と容堂のパイプとなった | 野村維章。脱藩して亀山社中、海援隊に参加 | 佐々木高行。海援隊を援助した土佐藩士 |
黒田清隆。薩摩藩士、第2代総理大臣。龍馬と 一緒に長州の木戸を訪れ薩長同盟を薦めた |
白峰駿馬。越後長岡藩出身。勝に操船を学んだ生え抜きの海援隊士。龍馬暗殺時に 近江屋へ急行した。維新後に外国を視察、日本初の民間造船所・白峰造船所を設立 ※墓所には「海援隊士白峰駿馬墓所」と刻まれた誇らしげな石碑があった |
かなり斜面を登った 場所にあり汗だくに |
亀山社中の若者たちが、この場所に 集まっていたと思うとロマン爆発 |
複製ではあるが、龍馬の刀、銃、服、 ブーツなども展示。頑張っている |
渡英を試みた男 | 中央が近藤長次郎、右端が小曽根英四郎 | 亀山社中内の名札は3番目の地位 |
見晴らしの良い高台にあるグラバー邸 (2014) |
イギリス貿易商 トーマス・グラバーの墓 |
奥に見える墓は長男倉場富三郎 (坂本国際墓地) |
「日本を今一度、洗濯いたし申し候」(龍馬28歳の時の姉への手紙から)。圧巻!日本を洗濯、なんとスケールの大きい言葉なんだろう。しかも本当に洗濯してしまった! マンガ、小説、映画、あらゆる媒体で坂本龍馬の人気は絶大だ。龍馬は西郷、大久保、桂たちと違って、大藩の重鎮でもなければ強大な軍隊も持っていなかった。脱藩した一介の浪人だ。しかし、この男が徳川300年を終わらせた。永遠に続くかと思われた徳川幕府を、そして鎌倉時代から700年続いた武家政治に終止符を打たせた。もちろん、幕府を追い詰めたのは薩摩と長州の大きな軍事力だ。しかし、敵対関係にあった両藩を和解させ連合させたのは龍馬その人。彼が奔走したこの軍事同盟なくして倒幕はなしえなかった! 過去にも日本史を変えた英傑はいるが、大名の家に生れた信長や源氏の名家の頼朝とは、スタート地点が全然違う。江戸から見れば片田舎にすぎない土佐に生まれ、しかも脱藩者で権力の後ろ盾が何もない30歳そこそこの男が、文字通り天下国家を動かしていく。しかも龍馬が活動したのは、27歳で脱藩してから32歳で暗殺されるまでたったの5年間だ。これにロマンを感じないわけがない! 坂本龍馬は1835年(天保6年)11月15日、土佐藩高知の郷士(下級藩士)の家に生まれた。本名は直柔(なおなり)。通称の「龍馬」は、生れる前に龍が炎を吐きながら胎内に躍りこんだ夢を母親が見たことと、背中に馬のたてがみの如く毛が密生していたことによる。 18歳の時に江戸へ出て千葉道場で剣を学び、この時に黒船来航と遭遇。攘夷(じょうい=外国排斥)思想の影響を受けた龍馬は、翌年に帰郷すると藩の尊攘派急先鋒の武市半平太に接近。1861年(26歳)、半平太が結成した土佐勤王党に加盟して尊王攘夷運動に係わって行く。藩に所属していては自由な行動が出来ないので翌年に脱藩を敢行(27歳)。攘夷の気運の高かった長州を経て江戸に入り、幕府の軍艦奉行・勝海舟の自宅へ「(話が通じなければ)目ざわりじゃき、北辰一刀流で斬るだけのことよ」と論戦を挑みに行くも、逆に渡米体験のある勝の視野の広さに驚愕し、その場で弟子入りを志願する。 龍馬は無闇に外国を排するのではなく、むしろ西洋の進んだ技術を積極的に導入することで国力を高め、海外と対抗しようと考えた。 攘夷論を棄てた龍馬は勝の右腕となって幕府の近代海軍創設計画に参加し、神戸海軍操練所設立の塾頭となる(倒幕派なのに幕府軍を強化するのは矛盾しているようだが、先述したように、国防の為にも海軍強化が必要と思っていた)。 勝のおかげで脱藩の罪は許されたが、土佐藩が勤王党への弾圧を激化させた為、帰藩命令を拒否して再度脱藩。勝が幕府内の保守派に疎んじられて失脚した後、勝の計らいで龍馬は西郷のいる薩摩藩へ身を寄せる。 幕府の古い体制を打ち倒すには、諸藩の中で最強の軍隊を持つ薩摩藩と、吉田松陰、高杉晋作ら優れた人材を輩出し、反幕府の先陣を切る長州藩との連合が不可欠と龍馬は考えていたが、1864年、両者は“禁門の変”で武力衝突をし犬猿の仲となってしまう。多くの犠牲者を出した長州藩では薩摩の人間を「薩賊」(さつぞく)と呼んで憎んだ。 龍馬は「事を起こすのにまず資金が必要」と、翌1865年(30歳)、海軍操練所で身につけた航海術を生かし、日本で最初の会社組織と言われる貿易商社・亀山社中(後の海援隊)を長崎で設立。海運業に励み、経済を通して薩摩藩と長州藩の橋渡しとなっていく。 ※海援隊は身分にこだわらず、菓子屋や町医者など様々な人材で構成されていた。「海援隊には役者もおれば乞食もおるが、腹わただけはきれいだぞ」(龍馬)。 ●薩長同盟 仇敵同士の薩長両藩をどう和解させるか。長州藩は間近に迫った長州征伐を前に最新鋭の武器を欲していた。しかし幕府は『長州藩への武器売却まかりならぬ』と禁制を出しており、武器購入は不可能。文字通り藩存亡の危機に瀕していた。そこで龍馬は親交のあった西郷に働きかけ、 長州藩が武器を購入する際に薩摩藩の名義を貸す代わりに、飢饉で苦しむ薩摩に長州が米を送るという密約を提案した(運搬は亀山社中)。 作戦は大成功。新式の武器を大量に手に入れた長州藩は、薩摩藩が幕命に反してまで名義を貸してくれたことで、わだかまりが消えていく(実際、第二次長州征伐では30倍もの幕府軍を蹴散らした)。 龍馬が仲介となって両者は急接近し、悲願だった薩長の軍事同盟締結が現実味を帯びてきた。1866年、正月明けの京都で薩摩・西郷隆盛と長州・桂小五郎のトップ会談が始まる。しかし!同盟へ向けた話し合いが10日目に入っても、互いに「我が藩と同盟を結んでくれ」と切り出せないでいた。先に言った方が“お願いする”立場になるからだ。 長州への帰り支度を始める桂小五郎に龍馬が詰め寄ると「もし長州から和解を申し入れれば、幕府との戦争を控え危機にある長州が、薩摩に情けを求めることになる。たとえ和解が成立せず長州が焦土となろうとも、面目を落とすことは出来ない」との返事。彼は激怒した。「長州の体面云々、一応うけたまわろう。しかし元来、薩長の和解はこの日本国を救わんがためなれば、一藩の私情は忍ばざるべからず!」。藩の名誉や利益は関係ない、今日本を新たな世の中に変えなくてどうする、この談判に桂は心を動かされる。一方、西郷もまた龍馬から無情を痛論され、桂の心情を察して自分から同盟を申し込むことを約束する。1866年1月21日、ここに日本の歴史を変える薩長同盟が締結された! ●寺田屋事件 同盟成立の3日後、深夜3時。京都伏見の寺田屋で龍馬が長州藩士の三吉慎蔵と同盟締結の祝杯を酌み交わしていると、寺田屋の女中で龍馬に惚れていた“楢崎お龍”が、外の異変を2人に知らせた。奉行所の役人が踏み込んできたのだ。部屋に突入してきた役人と対峙した龍馬はピストルで相手の出鼻をくじく。彼は右手に深手の刀傷を負いながらも何とか薩摩屋敷に脱出したが、2名の捕り方を射殺したことで奉行所の恨みを買ってしまう。 この事件後、龍馬とお龍は正式に結婚。傷の治療には鹿児島・霧島の温泉が良いという西郷の勧めもあって、薩摩藩の汽船で日本初と言われる「新婚旅行」を敢行、高千穂の峰を登ったり温泉に入ったりと行楽を楽しんだ。 翌1867年6月、京に向かう船中。龍馬はあくまでも武力で倒幕しようとする薩長に対し、“今は日本人同士が戦っている場合ではない”と、幕府から朝廷へ平和的に政権を移譲させる大政奉還など八ヵ条の構想「船中八策」を考えた。土佐藩はこれをもとに幕府へ建白し、10月14日、将軍慶喜はついに大政奉還を受け入れた。 ●龍馬、京都近江屋に死す その1ヵ月後、運命の11月15日。寺田屋事件の後、京や大阪に人相書が出回っていた龍馬は、京都河原町蛸薬師の醤油商・近江屋の裏庭の土蔵に密室を造り、そこを隠れ家にしていた。裏手の称名寺(しょうみょうじ)への脱出ルートも作って万全を期していたが、この日の龍馬は風邪気味で、土蔵の中は寒さがこたえるからと、夕方から来訪していた同志・中岡慎太郎と母屋の二階で火鉢にあたっていた。そこに2人の仲間が加わり談笑するうちに、龍馬が「栄養たっぷりの軍鶏(しゃも)鍋でも食おう」と言い出し、20時半ごろ一人(菊屋峰吉)に鶏を買いにやらせた。もう一人も所用で帰り、この時点で母屋にいたのは龍馬、中岡、龍馬の護衛役で力士の藤吉の3人。その直後、十津川郷士と名乗る7人の男が訪問し、龍馬の部屋に案内する藤吉を背後から斬りつけた。 龍馬は藤吉が倒れる音を聞いて部屋の外でふざけていると思い「ほたえな!(騒ぐな!)」と声をかける。そこへ2人の刺客が飛び込み、龍馬の額をいきなり真横に斬った(この時の血が掛軸に残っている)。続いてもう1人が中岡に「こなくそ!」と斬りかかる。不意を突かれた龍馬はピストルを取り出す間がなく、とっさに床ノ間の愛刀『吉行』に手を伸ばす。そこを右肩から背中にかけて二の太刀が襲い、続く三太刀目はかろうじて刀の鞘で受け止めたものの、そのまま力押しで前頭部を再度斬られた。中岡も全身を10箇所以上斬られる。奥にいた刺客が「もうよい」と告げ賊は去った。 血溜まりの中で龍馬は「残念、残念」と呟き、刃に映った自分の傷を見て「俺は脳をやられたからもう駄目だ」と言い絶命。この日は奇しくも龍馬の32回目の誕生日(旧暦)だった。 重傷の中岡は暗殺時の状況を土佐藩士に伝えた後、2日後の17日に「今後は岩倉具視卿に王政復古の実行を頼れ」と言い残し息絶える。同日夕刻から葬儀が近江屋で執り行われ、龍馬、中岡、藤吉の亡骸が3つの棺桶に納められた。葬列は東山「霊明社」に向かい、敵の襲撃に備えて海援隊や陸援隊の有志が抜刀して警護した。「霊明社」でも葬儀を行い、裏山の墓域(現在の墓の場所)に3人を埋葬。時代が明治になると、政府によって霊明社の墓域の大半が招魂社の敷地として召し上げられ、名前が霊山護国神社に改称された。 龍馬らの非業の死の翌月、王政復古の大号令が発され新生日本が誕生した。 ※検死によると、龍馬には34ヶ所、中岡は28ヶ所、藤吉は7ヶ所の刀傷があったという。 「薩長同盟も大政奉還も、全部龍馬一人で考えてやったこと。あの大ボラ吹きは、言葉一つで薩摩という大藩を動かしおった」 (勝海舟) ●龍馬の墓 京都八坂神社の南東、「維新の道」の坂道を上りきった東山霊山(りょうぜん)に、明治維新に尽くした1043名を弔う霊山護国神社がある。霊山墓地には坂本龍馬や中岡慎太郎をはじめ、桂小五郎、高杉晋作、池田屋で新選組に暗殺された志士など、そうそうたる顔ぶれが眠っている。一般の墓地と様子が違うのは、入口から龍馬の墓に至る道に所狭しと並ぶ龍馬ファンの石板寄せ書き!(注・2014年の改修事業で石板は使用され現存せず) 寄せ書きは龍馬個人へ直接語りかけた熱いメッセージばかりで、どれほど彼が愛されているかよく分かった(僕が今までに訪れた国内の墓で、最も墓参者が多かったのが龍馬の墓!)。墓所の入場券(300円)は龍馬の名刺になっていて、肩書きは「土佐海援隊隊長、亀山社中代表取締役」。ファンとして最高に嬉しい。併設されている霊山歴史館は幕末維新が専門の歴史博物館として1970年に開館。龍馬が高杉晋作から貰ったピストルの同型品など、5千点を超える収蔵資料が展示されている。 龍馬の墓は山の中腹にあり、墓前からは京都市内が一望できる。今、どんな思いでこの国を見つめているのだろうか。 一人の男が30歳にして日本を新たに創世する。現代では30歳で「国を変える」と言ったところで白昼夢として一笑されそうだけど、これは平安時代や室町時代の話じゃなく、ほんの140年前の出来事だ。人間が本来持ってるエネルギーに極端な大差があるとは思えず、龍馬のことを考えると、僕らだって何でも出来そうな気がする。龍馬がけっして想像上のヒーローではなく、現実に存在していた人間という「事実」が、どれだけ力強く勇気をくれることか!ありがとう龍馬ッ!
なんと、飛行場の名前にまでなったぜよ! 【龍馬語録】 「何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから」 「自分に万一のことがあったら、薩摩の西郷と大久保に伝えてほしい。 二人に線香を手向けてもらえれば成仏できる」 「はてさて人間の一生というのは合点のいかぬものよ、 運の悪い者は風呂から上がる時に金玉をぶつけて死ぬものである」 「アメリカの大統領は下女の給料まで心配するそうだ。徳川幕府300年で将軍がそんな考えをした事があるか。この一件だけでも幕府は倒さにゃならんぜよ」 「天下の世話は実に大雑把なるものにて、命さえ捨てれば面白きなり」 「(刀剣を)父の形見だとか武士の魂だとか言っているのは自分に自信のない阿呆の言うことだ。形見はお前さん自身さ」(『竜馬がゆく』司馬遼太郎) 「おれは落胆するよりも次の策を考えるほうの人間だ」(同上) 【龍馬トリビア】 ※龍馬死後の坂本家について。武士に貸金をしていた本家は、明治維新で貸した金が戻らなくなり没落。1898年、一族は新天地で再起を図るべく北海道樺戸郡浦臼(うらうす)町に移住、土地を開拓する。同町には記念館がある。高知にあった家は戦災で焼失し現在は病院が建つ。 ※残された龍馬の紋服や証言から、龍馬の身長は170cmを越えていたことがわかる。当時は平均身長150cm台の時代なので、かなり大柄だったといえる。 ※次姉の栄(えい)は龍馬脱藩の際に自害したと言うのが通説だったが、近年墓が発見され、龍馬が10代前半の頃にはもう亡くなっていたことが分かった。 ※龍馬は土佐勤王党の同志・桧垣清治が流行の長刀を身につけて得意気なのを見て、「長い刀は実践の役に立たぬわい」と短い刀を薦め、次に会った時は懐中よりピストルを取り出してブッ放すと「今はコレじゃ」、3度目には「万国公法」という1冊の本を差し出して「これからは学問が何より大切だ」と言ったという。先に先にと行く男だった。 ※暗殺時に妻のお龍は下関に預けられていた。悲報を受けたお龍は下関で法事を行い、長い黒髪をバッサリと切って龍馬の霊前に供え号泣したという。2年後に江戸で西村松兵衛と再婚し横須賀で他界。墓は横須賀市の信楽寺(しんぎょうじ)。 ※「亀山社中」が「海援隊」になったのは1867年4月。 ※死と隣り合わせに生きていた龍馬は暗殺の前年、兄の権平に「先祖の刀を持って死に臨みたい」と手紙を送り、名刀・吉行を兄から譲り受けた。吉行は、山内容堂→西郷隆盛→中岡慎太郎→龍馬というルートで届く。龍馬は「京都の刀剣家が褒めてくれる」と喜んで兄に御礼状を書いた。その翌年、龍馬は吉行を握ったまま絶命した。 ※龍馬は亀山社中で薩摩藩から3両2分を給料に貰っていた。 ※『船中八策』の第二条「万機宜しく公議に決すべき事」は民主主義思想の先鞭。 ※龍馬が勝海舟と会った1862年から暗殺されるまで、わずか5年の間に船で移動した距離は実に2万km!あの時代に地球を半周もしているのがスゴイ。 ※龍馬の護衛役で、近江屋で一緒に殺された藤吉。龍馬の仲間たちが彼を不憫に思って龍馬や中岡と同じ敷地に墓を建てた。 ※勝海舟の弟子になった龍馬が、得意気に姉へ書いた“エヘンの手紙”というユーモアにあふれた手紙がある。 ※龍馬を知る人物は語る…「維新前後の志士は、扮装(なり)にも振りにも構はず、ツンツルテンの衣服で蓬頭垢面(ほうとうこうめん)の人が多かった。坂本先生も書物などには幣衣(やぶれころも)をまとい、破袴(やぶればかま)をはく、などと書いてあるが大間違いで、実は大の洒落者でありました。袴はいつも仙台平、絹の衣類に、黒羽二重の羽織、たまには玉虫色の袴などはいて、恐ろしくニヤケた風をされる。中岡慎太郎さんは又ちっとも構わぬ方で、“坂本は何であんなにめかすのか、武士には珍しい男じゃ”と、よく言い言いされました」(寺田屋のお登勢の娘・殿井力(とのいりき)の言葉) 「坂本龍馬には過激な部分が全くない。声高に論争することもなく非常におとなしい人だ。容貌を一見すると豪気に見えるけれど、万事温和に事を進める人。ただし胆力は極めて大きい」(寺田屋で龍馬と一緒に戦った長州藩士・三吉慎蔵) ※坂本家の先祖は明智光秀の娘婿・明智左馬之助という説がある。高知県南国市の坂本家初代・太郎五郎の墓に「弘治永禄の頃(1555年〜1570)畿内の乱を避け土佐の国殖田郷才谷村に来り住む」とある。坂本家の家紋は明智と同じ桔梗文。坂本の姓は光秀の本拠地、滋賀の坂本からきているのか。土佐の猛将・長宗我部元親の妻は、明智光秀の重臣&甥の斎藤利三の異父姉にあたる。斎藤利三が山崎の合戦で死んだ後、利三の妻、次男、娘“福”は長宗我部氏を頼りに土佐へ渡った。もしも坂本家が明智の家臣ならば、同様に長宗我部氏を頼って高知に向ったかも知れない。(ちなみに斎藤利三の娘・福は、後に家光の乳母・春日局となる) |
【中岡慎太郎】…土佐藩出身のク士(下級武士)。変名、石川誠之助。親は土佐国北川郷(高知県北川村)の大庄屋。1855年、17歳から武市瑞山(半平太)に剣術を習い、道場で2歳年上の坂本龍馬を知る。19歳で結婚。1861年(23歳)に武市が土佐勤王党を結成すると、すぐさま加盟して血盟文に署名した。翌年、警護部隊“五十人組”の伍長として前藩主・山内容堂(豊信、とよしげ)を守って江戸にあがり、尊王攘夷運動に参加。同年、松代を訪れ蟄居中の佐久間象山の話を聞く。翌1863年(25歳)、京都から山内容堂にしたがって帰郷するが、8月18日の政変(長州失脚)後に藩論が公武合体に傾き、藩当局が土佐勤王党の弾圧を強化した為(武市も逮捕された)、脱藩して長州に走った。 1864年(26歳)、禁門の変において長州軍遊撃隊として活躍するも、負傷により長州に戻される。その後、脱藩浪士が長州支援を目的に結成した「忠勇隊」の総督となり、攘夷派の公卿・三条実美らに仕えた。故郷の土佐では、武市の釈放を求めた清岡道之助ら同志23人が反乱罪で逮捕され全員が処刑された。長州でこの悲報を聞いた中岡は、友へ悲痛な手紙を書く「実に天下、ムチャクチャに相成り申し候。言語に絶し悲憤極まり申し候。天下挽回再挙なきにあらず。しかしながら今しばらく時を見るべし。涙を抱えて沈黙すべし。外に策なし」。何も出来ない、時を見ることだけが策…。 1865年(27歳)、武市に切腹命令が下り、三文字割腹で果てた。衝撃を受けた中岡は次の漢詩を刻んだ「吾身可而未死 淪落且抱盗生恥」(私は仲間たちから死に遅れている。落ちぶれた私が無駄に生きることは恥である)。死んでいった仲間の為にも生命を役立てねばならない、そんな決意に満ちた一文。中岡は倒幕実現の為には憎み合う薩長の和解・協力が不可欠と考え、同志である龍馬と手を組み、下関、大坂、京、太宰府、長崎、鹿児島など各地で薩長同盟に向けて尽力した。 1866年(28歳)正月、悲願の薩長同盟が締結。中岡は土佐藩の同志にむけて書いた『時勢論』の中で、「今後は薩長両藩が天下を変える」と予測している。同年6月、幕府は第2次長州征伐で敗北し、討幕の動きが加速。翌1867年に中岡は脱藩の罪をゆるされ、京都白川にて土佐藩の経済援助を受けて諸藩出身の浪士を集めた軍隊「陸援隊」を組織、隊長に就任する。この年、龍馬の「海援隊」(前身は1865年設立の亀山社中)も土佐藩の公認を得た。5月、土佐藩・板垣退助を西郷隆盛に引き合わせ、翌月の薩土盟約締結に立ち合う。 同年11月15日、武力倒幕を計画していた中岡は、京都の商家・近江屋に隠れていた龍馬を訪ね、談義中に刺客の襲撃を受ける。龍馬はその場で死亡し、中岡は2日後(17日)に絶命した。享年29。武力倒幕に積極的な中岡に対し、龍馬は穏健派だったことから、刺客が狙っていたのは中岡で、龍馬が巻き込まれたと考える歴史家もいる。 |
秋水38歳 |
仏教界を革命! | 京都市右京区清凉寺の法然上人像(2010) |
法然の弟子、熊谷直実が創建した京都府長岡京市の光明寺。法然はこの寺で火葬された(2010) |
「円光大師(法然)御石棺」 |
法然の死後、浄土宗の拡大に危機感を抱いた旧仏教の僧侶たちが、法然の墓を暴こうとして墓所を 襲撃した。法然の弟子達は師の亡骸をいったん嵯峨に避難させ、石棺に入れて光明寺まで運んできた |
石棺の手前に2体の仏像が見えた | 正面の石柱は亀趺(きふ)に乗っている | 「円光大師火葬跡」ここで火葬&分骨された(2010) |
法然の草庵跡に建立された金戒光明寺の霊廟(2010) | 霊廟の内部。この建物全体がお墓だ(2005) |
知恩院の本墓。左手の石垣の上に屋根が見える(2010) | 法然の本墓(御廟)。これより先に近づけない(2005) |
高野山の墓(1994) | 15年後、再び高野山にて(2009) |
京都嵯峨野のニ尊院の墓。東山区にある法然御廟が知恩院として発展するまで、没後しばらくは二尊院が信仰の中心地だった。 |
現在の岡山県久米郡に生れる。8歳の時、土地の警備担当者だった父が夜討ちにあって非業の死を遂げる。父の遺言は息子に復讐を禁ずるものだった「私を襲った敵を恨むな。お前が敵を恨めば、将来また敵の子孫がお前を恨む。恨みがこの世で尽きることがない。お前は世俗を離れて出家し悟りを求めろ」。この後、叔父の寺に預けられた彼は14歳で比叡山に入り正式に出家、天台宗を学ぶ。ところが山の上では高僧までが権力争いに狂奔しており、失望した彼は師を変えていく。最終的に延暦寺中心から離れた場所に庵を結ぶ聖僧・慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)に師事し、法名“法然房源空”を与えられる。ときに法然17歳。それからは人々を苦しみから救う方法を思索する日々が続くが、『智恵第一』の名で評されるほど学問を探求するも、なかなか満足する答えを見出せないでいた。 だがしかし!出家から28年目の1175年(42歳)、平安中期の僧侶・源信の「往生要集」を学んでいる時に、中国で5世紀に浄土教を大成した善導大師の思想と出合う。民衆が救済される道は専修念仏=ひたすら「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える事=と悟った法然は、他の修行を一切やめ、師に別れを告げて比叡山を下りていく。※この1175年は「回心(えしん)の年」と呼ばれ浄土宗開宗の年とされている。 法然が説く『南無阿弥陀仏』の“南無”とは“お任せします”の意。つまり全身全霊で「阿弥陀仏」に身を委ねるということだ。他宗派まで名が轟くほど学問に長けていた法然が出した結論は、学んだ全ての知識を良い意味で捨て去ることだった。学問が阿弥陀仏を信じんが為にあるのなら、信じ抜いておれば何の仏教知識がいるのかと、教義の解釈論より「南無阿弥陀仏」と行動(念仏を唱える)で示すことが肝要と考えたのだ。 従来の仏教は貴族を対象にした貴族仏教で、教義が高遠で難解すぎるうえ、文字を読めない民衆からはかけ離れたものだった。しかし、度重なる戦で人心はすさんでおり、誰もが心の拠り所となる仏の存在を欲していた。そこに登場したのが「ただ一心に阿弥陀仏のお名前を称えれば、誰もが必ず極楽浄土に入れる」という単純で分かりやすい法然の教え。乾いた砂に水が沁み込んでいく様に、武士、農民関係なく爆発的に浄土宗が普及していった。 ※なぜ阿弥陀仏なのか?…阿弥陀は仏になる為の修行の中で48個の誓い(願)をたてた。その中の18番目の願として“私の浄土に生まれたいと思って、わずかでも念仏を唱えた人を救えなければ仏にはならない”としており、仏になったいま、信徒はこの言葉を信じて阿弥陀仏に念仏を唱えている。 一方で、「悟りとは人々が修行や功徳を積んで得られるもの」(自力本願)と考えていた多くの学僧は、法然の念仏重視の思想に疑問を持っていた。そこで天台座主(延暦寺の長)は京都大原に法然を招き、学僧たちと論戦させる(1186年53歳、大原談義)。法然は「人々の修行には限界があり、念じていれば仏の方から助けに来て下さる」と阿弥陀の力を頼って往生する持論(他力本願※悪い意味ではない)を展開し、居合わせた者を感服させた。大問答を制した後は、ますます門徒が増えていく。後白河法皇や関白九条兼実というビッグネームの信仰も得て、彼が説法をする場には平敦盛を討ち取った熊谷直実や、鎌倉の北条政子の姿もあった。1198年(65歳)、九条兼実の薦めで生涯の主著となる『選択本願念仏集』を記す。1201年(68歳)には親鸞が入門してくるなど、有能な弟子も次々に増えていった。 やがて迫害の時代が訪れる。あらゆる階層、いかなる身分の者にも分け隔てなく救いの手を差し伸べる法然。浄土宗があまりに民衆にもてはやされ、浄土宗が宗教界の一大新興勢力になると、旧仏教界は警戒を強め大きく反感を持つようになっていく。法然が「念仏こそ民衆を往生に導く唯一絶対の行」と主張するにつれ、当初は寛容だった他宗派から邪教と呼ばれて激しく非難・弾圧された。人間というものは弱い生き物だ。法然の弟子の中には教えをはき違えたり、“悪事をしても念仏さえ唱えれば極楽に行ける”と都合よく曲解する者も出てきた。また、真面目に学問にいそしむ他宗派の学僧をあざ笑い馬鹿にする弟子もいた。教団はここを叩かれた。法然は一部の弟子の不品行を徹底的に攻撃される。 1204年(71歳)、比叡山の僧侶3千人が念仏禁止を求めて抗議運動を始めたので、法然は事態を深刻に受け止め、“他宗を攻撃してはならない”“悪事を為すべからず”と弟子たちを戒める「七箇条制誡」を起こし、主な門弟189名に署名させて延暦寺に送った。 だが浄土宗人気に危機感を持っていたのは京都の僧侶だけではなかった。翌年、今度は奈良興福寺の宗徒たちが、法然一派の罪科をあげて攻撃し、罪を問うべく朝廷に直訴したのだ。内容は、「阿弥陀仏の救いの光が浄土宗門徒のみに当たり他宗は救われぬとは許せない」「阿弥陀仏だけを供養し釈迦を供養しないのは仏教徒として本末転倒」「仏像や寺を造る善行を積む者をあざけり笑うとは言語道断」「法然は最澄や空海より偉いつもりか」「念仏は心の中で念じること。口で唱えるのは曲解だ」「妻帯、肉食など戒律を破壊している」「既に宗派が8つもありこれ以上必要なし」云々、最後に「全仏教徒が一丸となって訴訟するという前代未聞のことを致しますのは、事は極めて重大だからであります。どうか天皇の御威徳によって念仏を禁止し、この悪魔の集団を解散し法然と、その弟子達を処罰して頂きますよう興福寺の僧綱大法師などがおそれながら申し上げます」と結ばれていた。 そして翌年、後鳥羽上皇を激怒させる決定的な事件が起きる。弟子の住蓮と安楽に感化された宮廷の女官たちが、密かに宮廷から逃げて尼僧となったのだ。出家をそそのかした罪で2名の弟子は処刑、浄土宗は禁教とされ、1207年、法然は僧籍を剥奪されたうえ74歳という高齢にも関らず四国(讃岐)へ流されてしまう。 1年後に赦されて関西に戻ったが京都に入ることは禁じられ、3年後にようやく入洛を果たしたものの、体調を崩して床に伏し、2ヵ月後の正月明けに東山大谷で79歳の生涯を終えた(1212年)。死の2日前、念仏の核心について弟子に求められて記した「一枚起請文」は遺言書と成り、同時に浄土宗の聖典となった。 法然の没後も旧仏教からの迫害は続く。入滅から15年後の1227年、天台宗の高僧を法然の弟子が論破したことをきっかけに、逆上した延暦寺の僧侶らが現・知恩院に埋葬された法然の墓をあばこうと襲撃した。彼の遺骸を鴨川に流そうとしたのだ。これは六波羅探題が制止したものの、法然の弟子たちはその夜のうちに亡骸を嵯峨に避難させた。またいつこのような法難があるかも分からず、遺骸を一箇所に置いては危険ということで、17回忌の際に荼毘(火葬)に付し、分骨して各地に墓を造った。1234年、弟子の源智がかつての墓に遺骨を戻し、廟堂と勢至堂(入滅した大谷禅房跡)を造ったのが知恩院の始まりとなった。 以降も弾圧の過程で弟子たちは各地へ配流されることが多かったが、それが逆に地方で浄土宗が広がることにつながった。現在浄土宗は光明寺が本山の西山浄土宗、禅林寺(永観堂)が本山の西山禅林寺派、誓願寺が本山の西山深草派などに分かれている。あと数年で入滅から800年の2012年になる。 |
生誕地の伏見区日野に建つ誕生院・本堂(2010) | 境内の石碑「親鸞聖人御誕生之地」 | 「親鸞聖人童形像」 |
童形像の全景。少年時代の親鸞像は激レア | 誕生院に隣接する保育園のグラウンド奥に「産湯の井戸」「えな塚」がある |
この井戸の水を産湯に使ったと伝えられている(2010) |
「えな塚」はへその緒を埋めた場所。 なんとなくヘソの形をしている |
近所にある「日野御廟所」。ここには親鸞の父・日野有範(ありのり)、母・吉光女の墓がある(2010) | 中央の五輪塔が有範。母は分からなかった |
上越市の浄興寺。親鸞が創建。元々は茨城県にあったが、 戦火を受けて転々と場所を移りここへ。浄興寺は本願寺 よりも24年も古い。遺骨も遺言で浄興寺に安置された |
山門の手前には 『宗祖親鸞聖人御本廟』 |
境内の親鸞聖人像 |
浄興寺宝物殿。ここは絶対に入った方が 良い。なんと東本願寺と西本願寺からの 「分骨御礼状」があった!天下の本願寺が 御礼を書く…浄興寺の偉大さを実感! |
浄興寺本堂の奥に親鸞の墓(御本廟)がある |
御本廟の門は普段閉じているので正面からは墓がよく見えない(格子の向こうにある)。 でも写真のように、門の正面右端まで行くと、お墓の上部がチラッとだけ直接見える! |
『親鸞聖人御上陸之地』の石柱 (新潟県上越市居多ヶ浜) |
1207年、親鸞は念仏禁止の弾圧で京から越後に流された。上陸地の石碑には「もしわれ配所に おもむかずは、何によりてか辺鄙(へんぴ)の群類を化(け)せん、これなお師教の恩致なり」 と彫られている。※意味「もし私が越後に流されなければ、どうして辺境の人々に念仏の教えを 伝えることができようか。そう考えると、これも我が師・法然上人のご恩であったのだ」 |
こちらは「念仏発祥の地」と刻まれた石碑 (居多ヶ浜) |
本願寺の国府別院(上越市)。親鸞はここにあった 草庵で教えを広め、恵信尼と結婚生活を営んだ |
この地で7年活動した。いわば国府別院は 浄土真宗発祥の聖地※堂内は金色の世界! |
火葬の地。大谷本廟後方の大谷墓地の一角に「親鸞聖人奉火葬之古墳」碑(2012) |
浄土真宗本願寺派本願寺大谷本廟 (西大谷)。本願寺の起源だ。 この建物は明著堂といい、背後にある祖壇が親鸞聖人のお墓 |
明著堂の奥に見える建物に聖人は眠っておられる これ以上近くには接近できない。残念!(2004) |
中央に祖壇(墓)の屋根が かろうじて見える |
背後にまわってみた。夕闇の 中にたたずむ祖壇 |
嗚呼、高い所から申し訳ありません! 宇宙からはこのように…(Googleマップ) |
西大谷と同時に1272年創建 | 格子の隙間からお墓が! |
奥の院に2カ所。五輪塔と…(2005) | そして宝篋印塔。同じ墓域に平敦盛と熊谷直実もいる(写真外)(2013) |
聖徳太子が創建した六角堂。1201年に親鸞が100日間 こもって太子の霊告を受け、真宗を開宗するきっかけに |
屋根のラインが非常に美しく、いつまでも見飽きない。 北側の池坊(いけのぼう)は華道発祥の地でもある |
浄土真宗の開祖。初期鎌倉時代の仏教僧。下級貴族・日野有範(ありのり)の子で幼名松若丸。4歳で父と別れ7歳で母と死別して天涯孤独と成り伯父に育てられるも、1181年(8歳)、源平争乱の真っ只中、飢饉と疫病が蔓延する都の中で、子どもながらに人の死後を憂い比叡山に出家。以後、心の救済を求めて約20年の修業の日々を送る。だが、最澄が開いた日本仏教の最高学府比叡山は、400年の間にすっかり俗化していた。裕福な貴族たちと結んで大荘園の領主となり、僧兵を組織して他派と争い、熾烈な権力争いが飽くことなく続いていた(もちろん、真面目に学問に励む者もいたが)。 親鸞はいっこうに悟りを得ることが出来ない自分自身と、堕落してしまった比叡山への絶望もあって、1201年(28歳)、ついに下山。都で説法していた法然の元へ足を運ぶ。そこで阿弥陀仏の慈悲を全身全霊で体感した親鸞は「たとえ法然上人に騙されて念仏して地獄に落ちようとも後悔せず」と弟子入りを決意する。当時の出家者は独身を守らねばならなかったが、深く愛する女性・恵信尼と出会った親鸞は、30歳の時に法然の許しを得て結婚した(結婚は後の流刑後説もアリ)。昼夜を問わず勉学にいそしむ親鸞は、多くの門弟の中でも目に見えて頭角を表わし、入門4年目にして、法然の肖像を描くことと、師が記した『選択本願念仏集』の書写を認められた。 高い学識を持つ師の法然は、当時の旧仏教の最大勢力、奈良興福寺や叡山延暦寺からも一目置かれており、布教の当初は弾圧もなかった。しかし、浄土宗が栄えるにつれ、信者の激増が危機感を与え圧迫が始まった。1204年(31歳)、法然は綱紀粛正の為に弟子に向けて「七箇条制戒」を記し、親鸞はこれに綽空(しゃっくう)の名で連座署名した。しかし、門徒の中には「念仏を唱えれば何でも帳消しになる」と平気で悪事を行なう者もいて、弾圧はさらに厳しくなった。あげくに朝廷の女官と通じる弟子が出てきて、1207年(34歳)、とうとう朝廷から「念仏停止(ちょうじ)」の命令が下され、弟子の2名が死罪、法然は讃岐に、親鸞は越後(新潟)に流罪となった。この時代は出家者を法で裁けなかったので、わざわざ親鸞を還俗させて俗名・藤井善信(よしざね)と付けてから流した。この後、師弟は二度と再会することはなかった。 1211年(38歳)、親鸞は4年で流罪をとかれたが、法然の死を知り京都へ戻らず、東国で布教活動を始めた。41歳、関東を飢饉が襲う。当時は何回も経典を読むことが人々の救済に繋がるというのが常識だった為、根本経典(三部経)を千回読もうと思い立つが、人の渦に飛び込み伝道する事こそが重要だと悟って中止、約20年にわたって農民と共に暮らし、常陸、下総、下野を中心に、関東から東北まで教えを広めた。 この時代の僧侶は、律令制に従って国家によって認定を受け、寺の奥深くで厳しい戒律を守り、国土の安泰を祈っていた。だから、親鸞のように庶民の輪に入って仏法を説くことは極めて異例だった。この意味で親鸞は自身を「僧にあらず」と言い、一方で心底から阿弥陀を信仰する点では紛れもなく僧なので「俗にあらず」と位置づけた。非僧非俗。 封建制度の下で徹底的に痛めつけられ、他人を押しのけねば生きていけない悲惨な状況の民衆。生活の余裕から善根を積む貴族のようにはいかない。しかし民衆こそ切実に救いを求めていた。なのに多くの宗教者は、人々の弱い心につけこんで神仏を恐れの対象とし、祈祷や呪術に明け暮れている。仏は罰を与えるものではなく、救いを与えるものではないのか。仏罰の怯えの中で安らぎなど得られるはずもない。親鸞は「南無阿弥陀仏」の念仏だけで救われるという師・法然の教えの重要性をますます強く実感していく。 そして、法然が「悪人でも念仏を唱えれば“死後に”浄土に行けるが、善人の方がより救われる」とした思想(浄土宗)をさらに発展させ、「ひとたび念仏を唱えれば臨終を待つことなく“生きながら”にして救われる」(浄土真宗)との考えに至り、親鸞にとっての念仏は、“浄土に行きたい”という意味合いではなく、浄土に行くこと(往生)が決定したことで、阿弥陀に感謝する“報恩”の念仏であると説いた。そして「善人が救われるのは当たり前だが、悪人であればなおさら往生できる」とした(「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」=“悪人正機説”)。 ※「悪人正機(しょうき)説」は関東の弟子唯円(ゆいえん)が師の言葉を没後にまとめた『歎異抄(たんにしょう)』にある。親鸞の死後、教義について様々な噂が入乱れたことから、教義を明確にする為に師匠の真の口伝を刻んだ。 『世間では悪人でさえ往生できるのだから、善人なおさら往生できる言われるが、これは他力本願(阿弥陀の救いを信じ抜くこと)の主旨に反する。自力で善を為せる人は、阿弥陀に頼る必要がない。だが、どんなに行を積んでも煩悩から逃れらない私(唯円)どももいる。阿弥陀はそれを哀れに思って、自分を頼る者は必ず救って見せると願を起こされた。だから親鸞聖人は、善人だって往生するのだ、まして悪人はと仰せられたのだ』 『ある時、師が「私の言うことを信じ、けっしてそむかぬか」と仰せられるので賛意したところ、「では千人を殺せば往生できると言われたら殺すのか」と仰せであったので、「一人も殺せそうに思えません」と答えると、「それはたまたま、お前が一人とて殺せる業や縁がないから殺さないのだ。心が善いから殺さぬのではない」との仰せであった。殺さずにすむ縁に感謝すべしとのことなのです。阿弥陀の救いをあてにして、わざわざ好んで悪を行なった者に対しては、「薬があるからと言って毒を飲むようなことをするな」と正された。この頃では、善人だけが念仏を唱えるかのように、道場に貼り紙をして、これこれのことをなしたるもの、道場に入るべからずなどというのがある。これは本末転倒というもの。善きも悪しきも、業報に任せきって、ひたすらに本願に頼ってこそ他力というものだ。だいたい罪業、煩悩をなくしてから本願を信ずるというのであれば、もう煩悩が消えているのだから、そのまま仏である。仏にとっては、阿弥陀の願も用なきものであろう』 ※生涯にわたって苦しみ悩み続ける人々を何とか助けてやりたいという大きな慈悲心から、阿弥陀は「我を信じよ。どんな苦悩を持つ者でも、この世も未来も最高無上の幸福にしてみせる。もし、絶対の幸福にできなかったら、仏の生命を捨てよう」と本願(約束)を立てた。「この世も」ということから、これは死後の救いではない。親鸞の布教はいたってシンプルで、「阿弥陀仏の本願による救いを、自らも信じ、人に伝える」こと。徹底した他力信仰。現在、一般に「他力本願」という言葉はマイナスイメージの誤った使い方をされているが、仏教用語の本来の意味は、阿弥陀(他力)の本願(約束)を信じ、その為に心を整えるという尊い言葉だ。いつ死んでも浄土に往生できる安心感の中で生きるわけで、死後の不安は微塵もない。この歓喜を一人でも多くの人に親鸞は伝えたかった。法然門下の兄弟子が「念仏の徳により、死後に極楽往生させて頂けるのが、阿弥陀仏の御本願の有難さです」と説いた時の、親鸞の反論が残されている。「あなたは阿弥陀が死後でなければ助けて下さらぬとおっしゃいましたが、私は既にもう救われたことを喜ばずにおれません。“腹痛はこの世では治らぬから辛抱しなさい。死んだら何とかしてあげよう”と言う医者はいません。濁流に溺れている者に、“今は救ってやれないが土左衛門になったら助けてやるから待っていろ”と言う人がいましょうか。人間ですらそうです。ましてや慈悲深き阿弥陀仏が、“この世の苦悩はどうにもできぬから苦しくても我慢せよ、死んだら助けてあげるから”、と誓われる道理がありましょうか」。 親鸞は従来の宗派と異なり「肉食(にくじき)妻帯」の立場をとって、食欲や性欲を否定しなかった事から、浄土真宗は多くの人に受け入れやすく急速に広まった。1234年(61歳)、23年ぶりに京都に戻り弟の家に住み、74歳で主著『教行信証』を完成させ真宗の基礎を固めた。しかし、親鸞が去った関東では、幕府の弾圧や日蓮の念仏批判を受け、信者の間に動揺が広がっていた。親鸞は事態を安定させる為に息子の善鸞を派遣したが、善鸞は逆に同門内に対立を引き起こした。そして親鸞の息子という権威を高めるために「父から自分だけが教えてもらった秘法は祈祷の予言」と嘘をついてしまい、護符で病を治す祈祷師として権力者との癒着すら行なった為、1256年(83歳)、親鸞はあえて善鸞を絶縁した。 1262年、全てを阿弥陀仏の救済に任せて、心に平安を抱きつつ、末娘の覚信尼や弟子たちに看取られ89歳で大往生。遺言は「一人いて喜ばは二人と思うべし。二人いて喜ばは三人と思うべし。その一人は親鸞なり」。 旅立ちの翌日に東山の延仁寺で火葬され、翌々日に大谷へ納骨し墓標が立てられた。やがて巡礼者の増加に伴い、墓所に六角のお堂を建て親鸞像が安置された。これが現在、大谷本廟と呼ばれているもの。1694年に宝形造りの廟堂が建てられ、1709年にはお骨が納められた祖壇の前に、拝堂『明著堂』が造営された。 親鸞は終生、自分は教祖でも師でもなく、阿弥陀の前で人々と平等な存在だと考えていた。浄土真宗という教団が誕生したのは没後半世紀が経ってからだ。信者はいたが教団を結成する意志は皆無で、自分からは進んで弟子を持とうとも、寺を持とうともしなかった。とにかく、命を尽くして阿弥陀仏へ恩返しがしたい、その気持ちだけで人生を駆け抜けた。死後、見真(けんしん)大師の名を与えられる。 ※親鸞自身は日頃から「私が死んだら賀茂川へ捨てて、魚に食べさせよ」と言っていた。いかに名誉や形式への執着心がなかったかが分かる。また、僧侶でありながら菜食主義ではなく多くの魚を食したことから、死後に自らの肉体を差し出したかったのかも。 ※東京の築地本願寺には歯が埋葬されている。 |
【僧侶トリビア】比叡山の僧侶たちの身分は、学生、堂僧、堂衆の3種。
学生…貴族階級出身。小僧都→僧都→天台座主へ栄光の道を進むエリート。 堂衆…上記の貴族が出家する時に連れてきた従者。堕落する者が多く「叡山の荒法師」とビビられる。
堂僧…道場に籠もって行に励む念仏僧や、お堂で奉仕する役僧。 下級とはいえ貴族出身の親鸞は「学生」の資格があったが、修行に明け暮れる「堂僧」の道をあえて選んだ。親鸞が書き写した経文には、上下の空白や行間にぎっしりと書き込みがあり、どれほど熱心に勉強していたかがよく分かる。
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少年時代の一休をリアルに描いた絵 (*^o^*) |
もっとリアルな後年の一休 |
リアルどころか、本人の髪と髭を 植えて究極再現した一休の木像 |
一休が眠る御廟。天皇の実子なので宮内庁が管理! | 境内の橋には「このはしわたるな」 | 台座の字はアニメと全く同じ字体 |
室町期の禅僧(臨済宗)。別号、狂雲子。幼名千菊丸。父は南朝方から神器を受け取り南北朝統一の象徴となった北朝の後小松天皇。母は藤原一族、日野中納言の娘・伊予の局(つぼね)。母が一休を身篭ると、皇位の継承権を妬んだ人々の謀略で、彼女は南朝方と通じていると誹謗され、宮廷を追われることになった。そして南北統一から2年目の元旦に、嵯峨の民家でひっそり一休を産んだ。母は子が政争に巻き込まれぬよう、その身を保護する為にも、1399年、5歳の一休を臨済宗安国寺に入れ出家させた。
「周建」の名を与えられた一休は成長と共に才気を育み、8歳の時に有名な「このはし渡るべからず」や、将軍義満に屏風の虎の捕縛を命じられ「さぁ追い出して下さい」と告げ、ギャフンと言わせたトンチ話を残したとされている。 1410年(16歳)、11年間修行した安国寺を出て、学問・徳に優れた西金寺の謙翁(けんおう)和尚の弟子となる。謙翁は自身の名前・宗為から一字を譲り「宗純」の法名を与えた。一休はこの謙翁和尚を心底から慕っていたらしく、1414年(20歳)に和尚が他界した時は、悲嘆のあまり、来世で再会しようとして瀬田川に入水自殺を図っている。 運良く助けられた彼は、翌年から滋賀堅田(かただ)祥瑞庵の華叟(かそう)禅師に師事した。華叟は俗化した都の宗教界に閉口し、大津に庵を結んでいた。志は高かったが餓死しかねないほど師弟は貧しく、一休は内職をして庵の家計を支えたという。 1418年(24歳)、ゴゼ(盲目の歌方)の平家物語を聞いて、無常観を感じた彼は「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と詠んだ。有漏路の“漏”は煩悩の意味。つまり「人生は(煩悩溢れる)この世から、来世までのほんの一休みの出来事。雨が降ろうが風が吹こうが大したことない」とした。これを聞いた華叟は、歌の中からとった「一休」の号を彼に授けた。 1420年(26歳)5月20日の深夜、一休は琵琶湖岸の船上で座禅をしていた際に、カラスの鳴く声を暗闇に聞いて「カラスは見えなくてもそこにいる。仏もまた見えなくとも心の中にある」と悟りに至ったという(後の行動から、“禅僧は悟りへの欲求さえも捨てるべき”“悟る必要はないということを悟った”とも言われている)。華叟は一休を後継者と認め、印可(いんか、悟りの証明書)を授けようとしたが、権威を否定する一休は、これを頑として受け取らなかった。28歳、大徳寺7世の追悼法要にボロ布をまとって参列し、この頃から奇人和尚と噂され始める。 1428年(34歳)、師の華叟が没したことをきっかけに、一休は庵から出て庶民の間に飛び込んで行く。1人でも多く、そしてあらゆる階層の人に仏教の教理を易しく説く為に、彼は一ヶ所の寺に留まらず、一蓑一笠の姿で近畿一円を転々と説法行脚して回った。
38歳、崩御する直前の実父・後小松天皇と初めて対面する。
※この頃、一休は堺・南宗寺に庵を結び、弟子であり実子の紹偵(しょうてい)と住んでいる。
1437年(43歳)、17年前の印可状がまだ保管されていたことを知り、一休は火中に焼き捨てた。1447年(53歳)、二度目の自殺未遂。大徳寺内の派閥争いから僧侶数人が投獄され、自殺者まで出たことに胸を痛め、そして堕落した僧界に失望し、山へ入って断食死を試みる。この時は天皇自らの説得(親書)を受けて思い留まった。
1456年(62歳)、これより200年前に尊敬する大応国師(臨済宗の高僧)が創建し、その後兵火に焼かれ荒廃していた妙勝寺を、一休は恩返しの為にと約20年以上かけて修復。新たに酬恩庵として再興した。以後、この庵が一休の活動の中心地となり、これを知った多くの文化人が一休を慕って訪れた。
1461年(67歳)、浄土真宗の中興の祖、蓮如が営む親鸞200回忌に参列。一休は19歳年下の蓮如と、宗派の違いや年の差を超えて深く親交を結んでいた。互いの思想に敬意を払い、教えを学び合っており、一休はこんな歌を残している。「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ」(真理の山に向かう道は違うけれど、同じ月を我らは見ているのう)。他宗と見れば排斥しあう風潮の中で、一休の器の大きさが感じられる歌だ。
1467年(73歳)、京都で応仁の乱が勃発。一休は戦火を避けて奈良、大阪へと逃れ、1470年(76歳)、住吉薬師堂で鼓を打つ盲目の美人旅芸人・森侍者(しんじしゃ)に出会う。彼女は20代後半。2人は50歳の年齢差があったが、一休は詩集『狂雲集』に「その美しいエクボの寝顔を見ると、腸(はらわた)もはちぎれんばかり…楊貴妃かくあらん」と刻むほどベタ惚れし、彼女もまた彼の気持を受け入れ、翌年から一休が他界するまで10年間、2人は酬恩庵に戻って同棲生活を送る。 長年にわたって権力と距離を置き、野僧として清貧生活を送っていた一休だが、1474年(80歳)、戦乱で炎上した大徳寺復興の為に、天皇の勅命で第47代住職(住持)にされてしまう。「さて、再建費用をどうしたものか」。一休が向かったのは豪商が集まる堺。貿易が盛んで自由な空気の堺では、破戒僧一休の人気は絶大だったからだ。「一休和尚に頼まれて、どうして断わることが出来ようか」。商人だけでなく、武士、茶人、庶民までが我れ先にと寄進してくれ、莫大な資金が集まった。5年後、大徳寺法堂が落成。一休は見事に周囲の期待に応えた。 ※一休は大徳寺の住職となっても寺には住まず、酬恩庵からずっと通っていた。(たぶん彼女と離れたくなかったからと思う) 一休は死の前年に等身大の坐像を弟子に彫らせて、そこへ髪や髭を抜いて植え付けた。これは、髪や髭のある像を残すことで、「禅僧は髪を剃るもの」などといったつまらない形式に捉われず、精神を大切にしろという目に見えるメッセージだった。「一休の禅は、一休にしか解らない」「朦々(もうもう)淡々として60年、末期の糞をさらして梵天(ぼんてん、仏法の守護神)に捧ぐ」と辞世を残し、当時の平均寿命の倍近い87歳まで長寿して、マラリアで亡くなった。 臨終の言葉は「死にとうない」。悟りを得た高僧とは到底思えない、一休らしい言葉で人生を締めくくった。
一休は他界する直前、「この先、どうしても手に負えぬ深刻な事態が起きたら、この手紙を開けなさい」と、弟子たちに1通の手紙を残した。果たして数年後、弟子たちに今こそ師の知恵が必要という重大な局面が訪れた。固唾を呑んで開封した彼らの目に映ったのは次の言葉だった--「大丈夫。心配するな、何とかなる」。 現在、酬恩庵は一休寺の名で親しまれている。一休が死の前年に建てた墓(慈揚塔)は境内にある。しかし!彼が天皇の息子であったことから、その敷地だけが宮内庁の管轄にあり、内部の墓は見ることができない。菊の紋章の門から先は立入禁止なんだ。常に庶民と共に生き抜いた一休としては、庶民から隔離されている今の状況は不本意だろうなぁ。 境内には小僧版一休像もある。こちらは参拝者が自由に触れるとあって、誰もが頭を撫でていくので、目を細めないと直視できないほど頭部が光り輝いている。手にホウキを持っているのは、世の中の汚れを一掃して明るい世界にしたいとの願いが込められているという。 高価な法衣を着て大伽藍の奥に鎮座し、貴族のような扱いを受けていた当時の高僧たち。印可状を乱発し、金さえ積めば高僧と呼ばれる腐敗した宗教界を一休は痛烈に批判した。彼は印可状など無用と焼き捨て、禅僧でありながら酒を呑み、女性を愛し、肉を食し、頭も剃らず、戒律なんかどこ吹く風だ。一貫して権威に反発し、弱者の側に立ち、民衆と共に生き、笑い、泣いた。庶民と一緒になって貧困や飢餓にあえぎ、贅沢に溺れる権力者や、人々から偶像視され得意になり、地位を上げることしか眼中にない宗教者たちを口を極めて痛罵した。 戒律や形式に捉われない人間臭さから、庶民の間で生き仏と慕われた一休。権力に追従しない自由奔放な生き方は、後世の作家を大いに刺激し、江戸時代には『一休咄(ばなし)』というトンチ話が多数創作された。
禅の民衆化に大きく貢献した一休はまた、仏法を説くだけでなく、歌を詠み書画を描く風狂の人でもあった。
●一休の歌 その書『自戒集』『狂雲集』『仏鬼軍』は戒律を守る真面目な僧侶にとっては、読めば読むほど恐ろしいものと言われている。『続狂雲集』には「淫」「美人」といった言葉が30回以上も登場する。こんな禅僧はいない。とはいえ、美しい歌も多いので幾つか紹介。 「白露の おのが姿は 其のままに もみじにおける くれないの露」(白露はありのままの自分でいながら紅葉の上では紅の露になる) 「持戒は驢(ろば)となり 破戒は人となる」(頑固に戒律を守るのは何も考えず使役されるロバと同じ。戒律を破って初めて人間になる) 「生まれては死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も」(世の中のものは全て生まれて死んでゆく、釈迦も達磨も何もかも) 「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」(釈迦という悪戯者が世に生まれて皆を迷わしたよ、爆) 「花を見よ 色香も共に 散り果てて 心無くても 春は来にけり」(花から色も香りも消えてもちゃんと春は来るんだよ) 「秋風一夜百千年」(こうして秋風の中で貴女と過ごす一夜は、私にとって百年にも千年の歳月にも値するものです) 「いま死んだ どこにも行かぬ ここにおる 尋ねはするな ものは言わぬぞ」 アニメに出てくる“しんえもんさん”は蜷川新右衛門と言って実在する一休の弟子。初めて一休を訪れたとき、彼は「仏法とは何ですか」と質問し、一休はこう答えた。 「仏法は 鍋の月代(さかやき) 石の髭 絵にかく竹のともずれの声」 (石のヒゲや絵の中の竹の葉ずれの音と同じで、そんなの見たことも聞いたこともないわい) この人をくったような返事に新右衛門はシビレたという。 ※おまけ「骨かくす皮には誰も迷いけん 美人というも皮のわざなり」(蜷川新右衛門) ●奇行伝説 一休は町に出る時、よく美しい朱塗りの鞘(さや)に入った刀を持っていた。ある時不思議に思った人が「なぜ刀を持っているのですか」と質問したら、一休が抜いた刀は偽物の木刀だった。そして「近頃の偉い坊さんどもはコイツと同じだ。派手な袈裟を着て外見はやたらと立派だが、中身はホレこの通り、何の役にもたたぬわ。飾っておくしか使い道はござらん」と言い放った。 またある年のお正月には、一休は杖の頭にドクロを載せて、ズタボロの汚い法衣でこう歌い歩いた。 「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(元旦が来る度にあの世が近づいているのをお忘れなく)。 ●茶
侘び茶を創始し、茶室を考案した茶道の祖、堺の豪商・村田珠光(じゅこう)は一休の禅弟子。座禅の時の眠気防止に一休から茶を薦められたのが、そもそもの茶との出合いだったが、座禅を繰り返すうちに“茶禅一味”(いちみ、茶も禅も同じ)の悟りに達した。彼が始めた「侘び茶」は、従来の派手で形式中心の「大名茶」とは全く異なるもの。小さな四帖半の茶室の中では、人に身分など関係なく、そこにあるのは亭主のもてなしの心だけ。この心が仏だとした。まさに一休から学んだ「仏は心の中にある」であり、珠光は仏の教えをお経を通してではなく、日常生活(茶の湯)を通して具現化した。この思想は武野紹鴎(じょうおう)を経て千利休へと受け継がれてゆく。
●トンチ話
足利義満は周建(一休)を邸に招き、困らせてやろうと魚を食事に出した。周建がパクパク食べるので「僧が魚を食べていいのか」と義満が問いただすと、「喉はただの道です。八百屋でも魚屋でも何でも通します」との返事。義満は刀を突き出し「ならば、この刀も通して見よ」。周建は「道には関所がございます。この口がそうです。この怪しい奴め。通ることまかりならぬ」。そう言って平然としている周建に対し義満がさらに言ったことが「あの屏風の虎を捕らえよ」だった。一休の生涯を見ていると、「渡るべからず」の物語は、ただのトンチの披露ではなく、世間の束縛やくだらない慣習は無視して「堂々と橋の真ん中を渡って行け!」とメッセージを込めたエールのようだ。
※1453年(59歳)、可愛がっていた雀が死んだときに法要をあげ、“尊林"という戒名を与えた。
※能楽には一休の詞に金春禅竹が作曲した『山姥』『江口』がある。 ※一休像の“髪”は500年が経ち風化して、今は代わりに動物の毛が植えられている。 ※一休の残した言葉で一番有名なのは、アントニオ猪木が引退セレモニーで朗読したこれだろう→「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せばその一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」。(一休ではなく清沢哲夫の詩「無常断章」という説もあります)
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空海像は靴を脱いで椅子にチョコンと座ってるのが多い。手に持っている法具は三鈷杵(さんこしょ)という武器。これで煩悩を粉々に打ち砕く。 |
空海のお墓には山のふもとからケーブルカーで。かなり急勾配だ。下山の最終便が18時すぎと早いので要注意! |
この奥の院の裏手に弘法大師(空海)の御廟がある。※ココから先は写真撮影は禁止デス(2005) | 4年後。橋の前後に旗(?)があった(2009) |
こちらは京都府長岡京市の乙訓寺(おとくにでら)。空海は嵯峨天皇に命じられて当寺の別当になった。空海と最澄が初めて出会ったのもこの寺だ(2010) |
平安初期に活躍した真言宗の開祖。弘法大師の号から「お大師さま」の名で親しまれる。出身は讃岐国の屏風ヶ浦(香川・善通寺市)。本名佐伯真魚(まお)。 788年、伯父と共に14歳で都(長岡京)に上る。伯父は桓武天皇の三男・伊予皇子の家庭教師であり、空海は伯父から論語・史伝等を学んだ。791年(18歳)、大学に入って詩経・書経等を学ぶが「大学の学問は古人の言葉の糟粕(そうはく、酒の搾りカス)で何の役にも立たない」と間もなく去り、阿波・大滝嶽や土佐・室戸岬の洞窟(御蔵洞)など四国各地で修行に入る。仏道こそ命を活かす道と確信した時に、目の前に大海原と空が果てしなく広がっていたことから、自身の名を空海とした。※この時に修行した88ヶ所が後にお遍路の札所となる。 794年、奈良では寺社が朝廷を上回るほど巨大権力を持つようになったので、これを嫌った桓武天皇が平安遷都を敢行。天皇は奈良の寺院に平安京への移転を禁じた。 797年(23歳)、奈良・久米寺で密教の経典『大日経』に触れてのめり込み、24歳で日本初の思想小説とされる『三教指帰』を記した。 ※『三教指帰(さんごうしいき)』…主人公の青年が人生の煩悶の中で、儒教・道教より仏教が優れていると悟り、官位を捨てて仏門に入るまでの心情を描く。この作品を通して、空海自身が仏教に進む理由を明らかにした。 密教の聖典は梵語=サンスクリット(古代インド語)で書かれており、日本では分からないことも多々あり、彼はやがて大陸で直接学びたいと強く願うようになる。そして7年間、奈良仏教の研究に励み、山野で修行する一方で、来たるべき日に備えて中国語、梵語を熱心に勉強した。 804年(30歳)、春に東大寺戒壇院で受戒し公式に僧となり、悲願だった遣唐使の一員に抜擢される。受戒直後の僧が国費留学生となるのは極めて異例であり、前年の遣唐使船の遭難で大量に欠員が出たとも、伊予皇子の推薦があったとも言われている。空海は留学期間を20年とされ、大陸への切符を手に入れた。4隻で出航し、空海の乗る第一船と、最澄の乗る第ニ船は唐に着いたが、第三船、第四船は暴風雨で遭難し行方不明になる。空海の船も大きく航路を逸れて漂着した。この時代、海を渡るのは命がけ。もし空海と最澄が後半の船に乗っていたら、歴史は大きく変わっていた。 ※短期留学僧の最澄は翌年に帰国。空海より7歳年上の彼は、皇室直属の僧(内供奉十禅師)であり、無名の空海と異なって、既に仏教界に高い地位を築いていた。 陸に着いた空海一行は、航路から外れた為に海賊と疑われ、約2ヶ月間も足止めされる。この時は空海が遣唐大使(責任者)に代わって潔白書を代筆し、疑いを晴らした。達筆な空海は書記として同行したという説もある。 31歳、長安に到着。青竜寺の高名な密教第七祖・恵果和尚に会う前に、梵語の知識を磨く必要があったので、まずはインド僧から梵語やバラモン(インド哲学)を学んだ。そして5月、彼は恵果を訪ねて弟子となった。恵果は空海の超人的な理解力に驚く。そして彼に対し、6月に胎蔵界、7月に金剛界、8月に伝法阿閣梨(あじゃり、規範)の灌頂(かんじょう)を授ける。灌頂とは師が免許皆伝を認めた弟子の頭上に水を注ぐ重要な仏教儀式。つまり、空海はたった2ヶ月で正統後継者として密教の奥義を全て授かったことになる。その4ヶ月後、12月に恵果は没した。 806年(32歳)、恵果の全弟子を代表し、師の業績を称える碑文を起草。空海は仏法以外にも最先端の土木技術や薬学を学んだ。そして20年と決まっていた留学期間を、違法であることを承知で2年で切り上げ帰国した。独断行動をとった為に入京を許されず、3年ほど大宰府・観世音寺に留め置かれる。罪になることが分かっていて帰国したのは、彼が極めた密教奥義を早く日本に伝えたかったこと、手に入れた新訳の経論など216部461巻の重要な仏典、貴重な曼荼羅や法具、仏舎利(釈迦の遺骨)などを、早急に国内に届けたかったからだ。 空海は従来から日本にある仏典を熟知していたので、461巻は選んで持ち帰ったもの。どれも内容がダブッていなかった。(当時、これがどれほど凄いことか分かっていたのは最澄だけだったという。彼は真っ先に経典の閲覧を希望している) 809年4月(35歳)、仏教を深く信奉する嵯峨天皇が即位。最澄の力添えもあって空海は入京を許され、かつて最澄が道場を開いた高雄山寺に身を寄せた。その御礼もあるのか、翌年に空海は最澄に宛てて「最澄さんと修円(室生寺を開山)さんと私の3人で集まり、一度仏法のことを一緒に勉強しませんか」と手紙『風信帖』を書いている。 812年(38歳)、体調を崩した空海は、自分に万が一のことがあった場合を考え、唐で学んできた真言の秘法を他人に伝える決心をし、高雄山寺で最澄ほか多数の高僧に灌頂を授けた。 しかし翌年、さらに奥義(阿閣梨灌頂)を伝授するよう願った最澄に対し、空海は「まだ3年は修行して頂かないと」と断った。最澄にしてみれば、自分は年長であり、しかも空海が2ヶ月で伝授された奥義を自分は3年かかると言われ屈辱を感じただろう。また、最澄が空海所蔵の仏典を借りたいと願ったのを、「密教を極めるのは仏典の研究ではなく実践だ」と閲覧を断ったと伝えられている。さらには最澄が後継者と目していた弟子が空海のもとへ走るという事件もあり、日本思想史に名を刻んだ2人の巨人は決別した。 816年(42歳)、東国や九州へ弟子を派遣し密教を全国に伝える一方、この年から活動の本拠地となる高野山の開山に着手。山上に草庵を造り始める。45歳から各種教義書を立て続けに執筆し、真言教学の体系を築き上げていく。また、詩歌論や日本最古の漢字辞書『篆隷(てんれい)万象名義』なども表す。彼はまた、この時期に東海地方を経て日光まで布教の為に足を運んでいる。 821年(47歳)、故郷香川で満濃池(まんのういけ、日本最大の溜め池)が決壊・洪水を繰り返しており、地方官が「百姓たちが父母のように恋慕する空海殿に、堤防改修工事の指揮を執って欲しい」と要請。彼は唐で学んだ最新の土木技術を駆使して3ヶ月で工事を完了させた(空海の人徳を慕って多くの人々が力を結集した)。翌年、最澄が他界。 823年、嵯峨天皇より京都・東寺を受預し、講堂に仏像による立体曼荼羅を配置する。 828年(54歳)、当時の大学は貴族の為のものだったので、空海は学問を学ぶ機会のない庶民の為に日本最初の学校『綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)』を開校する。総合教育を目指し、無料で儒教、道教、仏教の授業をした。 830年(56歳)、精神の成長過程を詳しく説く主著『十住(じゅうじゅう)心論』を記し、生きながら仏となる「即身成仏」の教義を完成させる。832年から高野山に隠棲して、座禅三昧の日々を送る。 835年3月21日、空海は「入定(にゅうじょう)から56億年後に弥勒菩薩の御前に控えて現世に現れ、世を救うだろう」と告げ、真言を唱えて大日如来の印を結び、結跏趺坐(けっかふざ、座禅)になったまま入定したという。享年60歳。921年(没後約100年)、朝廷より弘法大師の諡号(しごう)を贈られた。 空海が遍歴した土地には親しみと尊敬を込めた弘法大師信仰が数多く生まれた。「弘法の腰掛石」「笠掛けの松」「大師の杖立(つえたて)柳」等々。その数、全国に5000以上!中でも弘法大師が杖を突いた場所から、泉や温泉が湧き出たという「弘法水」伝説は、それだけで千数百件にのぼる。日本の歴史上にはヤマトタケル、小野小町、西行法師のように、各地に伝承地を残している人物は多いけど、5000以上というのはケタ違い。これだけでも、約1200年の間、どれほど日本人が空海を慕ってきたかが良く分かる。 ●墓 空海は没後50日が経っても肌がまだ温かく髪も伸びたので、真言宗では高野山・奥の院の御廟で今も生き続けていると信じられている。そして廟内で禅定を続ける空海の為に、高僧が毎日朝晩の食事を給仕し、年に2回衣替えも行っているとのことだ。霊廟内の様子は極秘とされ不明だが、平安末期に書かれた『今昔物語』には、東寺の住職・観賢が霊廟を開いた事が記されている。それによると、空海は厨子と石室で二重に囲われて坐しており、30cmほど伸びていた髪を観賢が剃り、衣服や数珠のほころびを整えて再び封印したという。付近には空海を敬慕する人々の墓が20万基以上あり圧倒される。 ※四国八十八カ所巡礼…若き空海が山岳修行を行なったゆかりの地88ヶ所を巡るもの。白衣姿の巡礼者は“お遍路さん”と呼ばれる。順廻りを終えて数年が経った後、88番札所から逆に回る「逆打ち(さかうち)」に挑む人も多い。逆打ちは順廻りよりも難易度が高く、その分ご利益も高いとされている。逆廻りは順廻りをしている空海と必ずどこかで出会うことになるので、空海ファンには魅力のコースという。どちらの順でも、全てを巡ったら、高野山を最後に詣でて「満願成就」となる。巡礼者はたとえ独りで歩いていても「同行二人(どうぎょうににん)」と言って、いつも空海の存在を側に感じ、2人で一緒に巡る想いで一歩一歩、足を運んでいるという。 お遍路さんの笠 ※大日如来…宇宙の姿を仏の形で表したもの。古代インド語(サンスクリット)では「マハーバイローチャナ」、漢字(音写)では「摩訶毘盧遮那仏(まかびるしゃなぶつ)」と書かれる。真理(理)と智恵の活動(智)そのものであるとされ、「大日経」が説く“理”=胎蔵界大日と、「金剛頂経」が説く“智”=金剛界大日の両界から宇宙が構成されているとみる。仏像で表現する時は、手の平を組み合せた禅定印を胎蔵界大日、左手の人差指を右手で包む智拳(ちけん)印を金剛界大日と表現する。すべての仏像は大日如来が時と場所を超えて変化した姿とされており、まさに仏の中の仏。真言宗のお寺なのに本尊が大日如来じゃなく、釈迦如来や薬師如来という場合があるけど、それは結局どの如来に手を合せても、真の姿は大日如来になるからノー・プロブレムなのだ。 ※曼荼羅(まんだら)…密教の宇宙観や悟りの境地を描いた仏画。サンスクリットのマンダラ(円、本質)が音写された。大日如来を中心として周囲に諸仏を配し、宇宙が仏で満ちていることを伝える。「大日経」を表した胎蔵界曼荼羅では、白蓮に座す大日如来を4如来&4菩薩が囲み、その周囲に444の仏像を描いて“理”を象徴し、「金剛頂経」を表した金剛界曼荼羅では、9分割された画面に1461もの仏像を描いて「智」を象徴する。 ※真言宗…単純に密教とも呼ばれる。大日如来を本尊として崇拝する。日常の言葉を使用せず、真言(大日如来の言葉)を通して、身・口(言葉)・意(心)の全てを大日如来と一体化することで、現世における成仏(即身成仏)が可能と説く。核となる聖典は「大日経」「金剛頂経」の2つ。理論だけでなく実践を重視する。密教の仏法は大日如来→金剛さった→竜猛→竜智→金剛智→不空→恵果→空海へ伝わったとし、この8名を「付法の八祖」と呼ぶ。天台宗の密教を「台密」、真言宗を「東密」ともいう。空海の誕生日に中国密教の大成者・不空三蔵が入滅したことから、空海はその生まれ変わりと言われている。 ※三密…密教の修行にある「三密」とは、指で様々な印を結ぶ「身密」、心に仏を思う「意密」、真言を唱える「口密」のこと。空海は特に口密を重視したので、自分の宗派を真言宗と命名した。大半の真言は帰依(身を委ねること)を表すオン(オーム)やナム(南無)で始まり、成就を表すソワカ(ズバーハ)で終わる。 ※真言…密教で仏や菩薩の言葉とされる短い呪文。サンスクリットのマントラ(“思考の器”の意。マンダラと別)の漢訳。真言は内容よりも文字や音声自体に無限の力を擁しているとされ、実際に声に出して唱えることで、仏の説く真理に近づき成仏できると考えられている。空海が唐で授かった『遍照金剛(へんじょうこんごう)』の灌頂名は、空海を拝む時の真言となっている。意味は「この世の全てを遍(あまね)く照らす最上の者」。 ※空海は書道でも唐風の新しい書風を生み、嵯峨天皇や橘逸勢と並び「三筆」と称される。国宝の「風信帖」「灌頂歴名」「三十帖冊子」「高雄山灌頂記」「真言七祖像賛」等で筆跡に出合える。漢詩にも優れ、弟子の編集した「性霊集」は漢文の模範とされている。 ※空海の他界後も真如など高僧が多く出て真言宗は栄えたが、没後300年ごろ根来山の覚鑁(かくばん)が念仏を導入しようとして、高野山・東寺と対立し、真言宗は覚鑁の「新義真言宗」と、従来の「古義真言宗」に大分裂した。その後、新義真言宗は長谷寺の「豊山(ぶざん)派」と智積院の「智山(ちざん)派に分かれ、古義真言宗はさらに分裂を重ねて、山階派、醍醐派、御室派、東寺派など約30派に細かく分かれている。 |
高野山で見つけた石碑「ありがたや 高野山の 岩影に 大師はここに おわしますなる」(2009) |
奥の院の参道を行く人々。いつも たくさんの人で溢れている(2009) |
高野山の「腰かけ石」。空海が この石の輪の中に座った(2009) |
身延山には京王の高速バスが 新宿から出ていて便利 |
当日は台風接近中で大雨洪水警報が 発令されており、乗客は僕を入れて3人! (この日しか休みがとれなかった…) |
正午前なのに夜のような暗さ。 楽しみだった富士川が見えない… |
ついに日蓮宗総本山・身延山久遠寺の山門に到着。豪雨もこの時がピーク!過酷な巡礼となったが、 鎌倉幕府からの弾圧、聖人の苦労に比べれば、これしきのこと試練のうちにも入らぬわ! |
「吹く風も、ゆるぐ木草も、流るる水の音までも、この山 には妙法の五字を唱えずということなし」(日蓮聖人) |
気が遠くなる287段。菩提梯(ぼだいてい)と呼ばれる 大階段で、一段登るごとに悟りに近づくとされている |
頭上に輝く「立正」 | 深い緑の中に眠る。墓には聖人の文字で「南無妙法蓮華経」と刻まれていた |
久遠寺本堂 | 山門とJR身延駅を地元のバスが結ぶ | 青空!帰りは晴れマシタ |
身延山から正式に分骨された“御真骨”が、この京都・妙伝寺(関西身延)に納められている | 日蓮終焉の地、東京・池上本門寺の御廟(2004) |
博多の吉塚駅前の身延山別院には特撮映画のような錯覚を与える日蓮上人がいる! |
日蓮上人60歳(優しそう) | こっちは任侠系、法力全開 | あの本能寺の前にも! |
超ド迫力の『快傑日蓮』(1954作) 史上最強の日蓮像。戦闘値測定不能 |
「喝ッ!!」 | 作者は長崎の平和祈念像を彫った北村西望氏! ※井の頭自然文化公園の「北村西望彫刻館」におられます! |
鎌倉市の「日蓮上人・辻説法跡」。鎌倉時代、付近は武家屋敷と商家が混在していた(2010) |
天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗…平安期、鎌倉期には様々な宗教が開かれたが、その中で日蓮宗だけが始祖の個人名が付いた宗教だ。といっても、日蓮自身がそう呼んだのではなく、弟子達が親しみを込めてこう呼び始めた。それほどズバ抜けて個性が強かったということ。一体どんな人だったのか。 千葉・小湊の漁師の家に生まれる。幼名薬王丸。親鸞と道元が貴族、法然が武士、栄西が神官階級出身ということを考えると、庶民出身というのは異例かも。世代的には法然の約90歳下、親鸞の約50歳下になる。1233年、11歳で清澄(せいちょう)寺に入り15歳で出家(1237年)。始めは鎌倉で学び、続いて比叡山、奈良、高野山、東寺、三井寺などで15年かけて各宗の経文を研究し、「釈迦が世に現れたのは法華経を伝える為、末法の世は法華経でなければ救えない」と悟りを開いた。 1253年、31歳で帰郷。4月28日に清澄山頂で、太平洋の日の出に向かって「南無妙法蓮華経(法華経に帰依します)」の題目を高らかに唱え、これが日蓮宗開宗の瞬間とされる。当時関東では禅宗が鎌倉幕府の保護で繁栄し、浄土宗も法然の開祖から約80年が経ち、弟子達の布教努力のおかげでかなり庶民の間に浸透していた。日蓮は山を降りると法華経第一の立場から、「禅天魔、律国賊、真言亡国、浄土念仏無間地獄」(禅宗信者は天魔、律宗信者は国賊、真言宗徒は亡国の徒で、浄土宗信者は地獄に堕ちるだろう)と苛烈に批判を展開。当然ながら他宗の信者は猛反発。特に、地獄堕ちを告げられた浄土宗(念仏宗)信者の怒りは激烈で、日蓮は故郷から追い出され鎌倉に身を移した。 鎌倉で日蓮がとった行動は、町中に立って人々に直接語りかける“辻説法”。他宗教を邪教と呼ぶ過激さは反感を買い人々から罵倒されたが、「南無妙法蓮華経」の題目と共に説かれる功徳に、耳を傾ける者も出てきた。おりしも1257年(35歳)に鎌倉を大地震が襲い、翌年には疫病が発生、飢饉まで重なって大量に餓死者が出た。日蓮はこうした天変地異を、幕府の為政者が邪宗を信仰するが故の国家単位の仏罰と捉え、1260年(38歳)、『立正安国論』を著して執権北条時頼に献上した。そこには禅宗や浄土宗を禁教にせねば内憂外患(国内に憂い生まれ国外より患い来る事)は避けられず、法華経を信じねば日本は滅ぶと書かれていた。しかし日蓮はまだ無名であり時頼はこれを黙殺。一方、日蓮に敵意を抱く念仏宗徒たちは彼の庵を焼き討ちし、世論に圧された幕府は翌年日蓮を逮捕、取り調べもせず伊豆(伊東)へ流した。※今の伊東は温泉のある景勝地だけど当時は世間から隔離されていた。 配流が許されたのは3年後。1264年(42歳)、これより7年前に父が没しており、墓参と病の母を見舞う為に約10年ぶりに故郷に戻ったが、「日蓮は阿弥陀仏の敵」と怨む念仏宗徒数百人の襲撃を受ける。日蓮を守った弟子と友人は殺され、彼自身も左腕を骨折した(小松原の法難)。 4年後の1268年、蒙古から幕府にフビライへの従順を迫る国書が届く。日蓮は『立正安国論』の懸念が当たったと再び幕府に進言し、他宗の代表的寺院11箇所に公開討論を申込むが、これらは全て黙殺され憤激頂点に達する。他宗への批判は輪をかけて激化し、極刑を覚悟した辻説法にも熱が入る。 3年後の1271年(49歳)、幕府に3度目の進言をしたところ、他宗からの告訴も重なってまた捕らわれ、表向きは「佐渡へ流刑」、実際はその途中で斬首という判決になった(龍口の法難)。いよいよ刑執行という時、対岸の江ノ島に激しく稲妻が走り、頭上で巨大な雷鳴が轟いたことから役人が恐れをなし処刑は中止。間一髪で佐渡への遠流となった。 ※この時の日蓮宗への弾圧は厳しいもので、弟子、信徒、そして話を少し聴いただけの一般人まで捕らえられ、謀反者として重刑に科せられた。 厳冬の島では飢えと寒さに苦しむが、“釈迦は真実(法華経)を語る者は迫害にあうと言われた。この法難こそ正しき道を行く証だ”と、ますます自説に自信を持ち、著作活動に励んで『開目抄』『観心本尊抄』等の代表作を記した。 『観心本尊抄』では信仰の中核となる三大秘法(本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇)を示し、“現実世界こそが釈迦の住む浄土”であり、人は「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることで“生きながら救われる”とした。 1274年(52歳)、北条家は次の執権を争う内紛状態になり、外からは元軍の襲来が目前に迫り、まさに内憂外患そのものの状況になった。ここにきて幕府の態度は一変し、日蓮の流刑を解いて鎌倉に呼び戻す。幕府は根負けした形で「国家の安泰のみ祈る」との条件付で布教を許した。漁師の子に生まれた貧僧・日蓮が、時の政権に認められたのだ。社会的な不安もあり日蓮宗は門徒を増やし、信者によって妙本寺が創建された。しかし、いくら日蓮が「法華経のみを信ぜよ」と言っても幕府は聞く耳を持たぬので、ほどなく鎌倉を去って山梨の山間へ分け入り、身延山(みのぶさん)に隠棲し『報恩抄』を書くなど、弟子の育成に残りの人生を捧げた。 1282年、病に冒された日蓮は湯治にいく途中で容態が悪化し、後事を弟子の六老僧(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持)に頼み武蔵池上にて60歳で他界した。遺骨は希望に従い身延山へ納骨された。 その後、弟子たちは協力して布教に励み順調に信徒を増やしたが、七回忌の際に六老僧の間に内部分裂が起きる。(このあたりの事情は各宗派によって主張が全く異なるので結果だけを書く)まず日興が駿河に大石寺や本門寺を建て最初の分派となり、続けて日朗の弟子日像が京都に妙顕寺を建て、さらに鎌倉・妙本寺、中山・法華経寺、池上・本門寺、身延山・久遠寺などに弟子が別れ、以降、分派ごとに発展することとなった。 日蓮宗では「他宗の信者の布施供養を受けず、また他宗の僧に供養してはならない」とする不受不施(ふじゅふせ)を説く僧も多く、近代では神道を拒絶するなど、異端として権力側からしばしば弾圧された。 現在は身延山久遠寺を総本山とした日蓮宗を筆頭に、日蓮正宗(大石寺)、本門宗、法華宗、本門法華宗、本妙法華宗、日蓮宗不受不施派、本門仏立宗などがあり、新宗教として、創価学会、立正佼成会、霊友会など多数の信者団体が存在している。 日蓮の他宗教に対する態度は確かに厳しかった。『選時抄』を読むと、ここには書けないような過激な言葉もある。これを「不寛容」と見るか、「純粋」と見るか。仮に「不寛容」だとしても、それは短所ではあるが偽善でないことだけは確かだ。「たとえ命を捨てても法華経は捨てない」とまで言い切る背景には、既成の宗派では末法の世を現に救済できてないという、怒りにも似た焦燥感があったのだろう。権力闘争に明け暮れる旧仏教界の要人や、多くの真面目な念仏行者の中にいる一部の不届き者(念仏をただの極楽行きの切符としか思っていない)が、どうしても許せなかった。真剣に世を憂いていた。2度にわたる流刑を生き延びたのは、門徒たちの命がけの差し入れがあったことが分かっている。佐渡の場合、鎌倉から片道15日もかかる道のりを、何度も弟子がやって来ている。もし日蓮が他宗を批判するだけで保身に勤しむ狭い男であれば、だれがそこまでして面会に行くだろう。弟子に宛てた優しい文面の手紙も多く残っている。これぞまさに人望の賜物ではないか。 ※阿弥陀仏による死後の救済(極楽浄土)を法然が説いたことに対して、日蓮は釈迦の教え(法華経)が自身の内にある仏性を目覚めさせ幸福にすると説いた。念仏や禅が個人の為の宗教であるのに対し、個人を超えて社会や国家全体の救済を主張しているのも日蓮宗の代表的な特徴だ。ただし、これら国家の救済はあくまでも非暴力、不殺生であらねばならぬとした。 ※「冬は必ず春となる」(日蓮) |
四郎は細川軍に討ち取られ、長崎でさらし首となった。 | 原城跡。この一角だけで4万人の信徒が殺された! |
島原藩が定めた税は多岐に渡り、家に棚をつけたら「棚税」、窓をつけたら「窓税」、子が出来たら「頭税」、囲炉裏(いろり)を作れば「囲炉裏税」、挙げ句の果てには死者を埋葬した時の「穴税」まで制定した。特に年貢については、3倍に水増しした検地を行ない、それを基に年貢を課すという極悪非道ぶり。しかもキリスト教が禁教となってからは、改宗を拒む者や、他の信徒の名を自白しない者は雲仙の火口へ生きたまま投げ込まれたり、火あぶりに処せられたりと、苛烈な拷問と処刑が日常的に行われた。農民にはもう、黙って死ぬか、戦って死ぬかの、どちらかしか道が残されていなかった。かくして一揆が勃発する。一揆軍のリーダーは天草四郎(本名益田時貞、洗礼名ジェロニモ)、彼はまだ15歳の少年だった。そんな若者が一揆の指導者に選ばれたのは、彼が様々な奇跡を行なったので、人々が彼を天使と信じていたからだ。海の上を歩いたり、秋に桜を咲かせたり、雀がとまった枝を折っても雀が逃げなかったなど、各種の伝説がある。中でも有名なのが、皆の前で鳩に手の平へ卵を産ませ、卵の中から聖書の経文を取り出したエピソードだ。 幕府が動員した兵力は一揆軍の3倍以上の12万人で、関ヶ原の際の東軍兵力を上回る超大軍となった。鎮圧後、一揆の原因を作った島原藩主松倉氏は、大名としては異例中の異例である斬首に処された。天草藩主の寺沢氏も領地は没収。結局寺沢氏は責任を取って切腹した。また攻防戦の時に命令に従わなかった各藩主も処分を受ける。さらに幕府はこの土地の農民の年貢を島原の乱以前と比べて6分の1(!)にし、大変優遇した。 光にきらめく青い海や、付近の田園風景があまりに穏やかなので、自分が悲劇の地に立っているとはなかなか思えなかった。しかし、ちょっと散策すると城跡のあちこちに無縁墓があるのが分かり、徐々に事件の重みが全身に伝わってきた。.) |
一遍上人像はどれも裸足。とってもストイックな雰囲気だ(右から2番目、眉毛を強調し過ぎかと…) |
高さ2mの巨大な墓(五輪塔) | 一遍を慕う人々の無縁墓 | こんな感じで隣接している |
戦や飢饉が続き、死と日常が背中合わせだった中世。民衆は切実に心の救済を求めていた。叫びにも似たその思いに応える様に、平安時代の末期から、従来は貴族社会のものであった仏教を、民衆に伝えるべく宗派を開いて奮闘した名僧が次々と現れた。法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(日蓮宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、彼ら鎌倉新仏教の巨星の最後に登場したのが、時宗の開祖・一遍だ(法然と一遍の生年は106年も離れている)。彼ら個性的なカリスマ開祖たちの中にあって、一遍は死の間際に自著・経典を全て焼き捨てるなど、その存在が一際異彩を放っている。
一遍の本名は河野時氏。伊予国(愛媛)道後温泉の法巌寺に生まれる。幼名松寿丸。河野氏は壇ノ浦の合戦で活躍した河野水軍の長を祖父とする有力豪族(伊予守護)だが、承久の乱で後鳥羽上皇(朝廷方)について幕府軍に敗北し、一族は離散、所領を奪われボロボロになった。1248年、9歳で母を失い、既に出家していた父に命じられ、天台宗の寺へ彼も入った。1251年(12歳)、九州大宰府で法然の孫弟子を師に、彼は智真の法名で12年間浄土念仏を学ぶ。1263年(24歳)、父が没したことを機に故郷・伊予に帰国する。 一遍は還俗(げんぞく、僧籍を離れる)して武士となり、豪族の長として妻子も持ち新たな生活を始めたが、8年後の1271年(32歳)に再出家する。子供が車輪を棒で転がして遊んでいる様子に「輪廻もかくの如き」と見出したとも、一族の領地争いで命を狙われたとも言われている。 信濃・善光寺で阿弥陀信仰に覚醒した彼は、伊予に戻って窪寺の山中に庵を設け、そこで3年間ひたすら念仏を唱え続けた。常に阿弥陀の名を口に唱えることで仏との一体感を実感した。 1274年(35歳)、「ただ一心に名号にすがる(阿弥陀の名を唱える)ことで、人は生きながら浄土に生まれる」と確信した一遍は、妻・娘・下女の3人を伴って念仏布教の行脚に出る。摂津・四天王寺、紀伊・高野山を経て熊野権現(阿弥陀如来)に参詣した際に、「衆生済度(全ての生物の救済)のため、阿弥陀の名を記した札を配るべし」とお告げを受け、一遍に改名する。「一遍」=「ただ一度」。この名前には“たった一回の南無阿弥陀仏で往生できる”との思いが込められている。 ※時宗はこの年を開宗としている。「南無」は“お任せします”という意味。彼が繰り返し念仏するのは、一念では足りぬからではなく、臨終の言葉としての「南無阿弥陀仏」を絶え間なく唱えることで、生と死を真っ直ぐに見つめる覚悟の念仏だった。時宗の名は『阿弥陀経』の「臨命終時(りんみょうしゅうじ)」“一刻一刻を臨終の時と思え”にちなむ。 以後、一遍は15年後に他界するまで、「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」(南無阿弥陀仏と唱えれば、誰でも往生が決定する)と記した木札を、日本全土に配り歩く遊行(ゆぎょう)を開始する。願いは衆生救済ただひとつ。 ※六十万人は一遍が考えていた当時の全人口という説もあるし、熊野で神託を得た次の言葉の頭文字とも伝えられる。 『六十万人の頌(しょう、仏法の詩)』 六字名号一遍法 「六字の名(南無阿弥陀仏)は普遍の真理そのものである」 十界依正一遍体 「十界(全ての世界)の事物は皆平等であり一つの存在である」 万行離念一遍証 「万行(あらゆる修行)で執着の念を離れた所に浄土は待っている」 人中上々妙好華 「人々の心の中で名号は清らかに美しく咲く蓮華の花なのだ」 この念仏札の配布は画期的だった。出会う人すべてに手渡しで配りまくった結果、以前から阿弥陀を信仰する者はより信心を深め、信仰しない者にはこれが浄土教に触れるきっかけとなった。 10月、博多湾にモンゴルが来襲し全国に衝撃が走る。一遍たちは北九州に向かった。戦地では負傷兵や戦火の被害を受けた庶民に「この札は、念仏だけで浄土へ往生できる安心のお礼です」と念仏札を配り歩いた。人々は一遍の教えに勇気づけられ、豊後(ぶんご、大分)では領主自らが彼に帰依した。一遍に付き従う民衆も多く、一行は九州を発ち、布教しながら北上していく。その過程で、39歳の時に備前(岡山)で吉備津宮の神主の子息を始め、280余人が一度に出家するようなこともあった。 ←「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」このお札を一遍は配っていた 一遍の心のヒーローは平安中期に活躍した空也(くうや)上人。平安朝の多くの僧は、寺院に布施を寄進する貴族の為に経を読んだが、空也は違った。彼は庶民が集まる市場や祭りの片隅に立ち、首から提げた鐘を叩きながら民衆の為に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えた。そしてお布施が入ると、すぐさま病人や貧者に届け、水源が遠い村に井戸を掘るなど民衆の為に生涯を捧げた。空也は念仏の詠唱の果てに法悦に包まれ踊り始め、これをして「踊(おどり)念仏」の開祖となった。人々はそんな空也を、敬意を込めて「市聖(いちのひじり)」と呼んだ。 それから300年後の1279年(40歳)。信濃国に滞在中だった一遍ら一行は、とある武士の館の庭で鐘に合わせて念仏を合唱しているうちに、あまりの熱気と興奮から誰ともなく無意識に跳ね回り出した。手足を振り回して一心に念仏を詠唱すると、座して唱える念仏とは異なる命の爆発があり、トランス状態で失神者が出るほどの解放感があった。空也の踊念仏が時を経て甦ったのだ。ただし空也と違ったのは、彼は一人だったが、一遍たちは数十人の集団だった。 彼らは往生決定の歓びを鐘や太鼓に合わせて激しく踊り表現したので、市場などでは「何事か」「何だか楽しそうだ」と黒山の人だかりができた。この宗教パフォーマンスは、難解な仏教哲学を説くよりも、発声や体を動かして雑念を捨て、阿弥陀と一体化する法悦に至るという分かりやすさで見る者の心を鷲掴みにし、大ブームになった。考える念仏ではなく体験される念仏、つまり「当体一念の念仏」だった。また“一人でも多くの人に念仏札を”と考えていた一遍にとって、大勢の人が自然に集まる素晴らしい布教方法だった。 彼らは新しく町に到着すると、僧と尼の集団で派手に「踊念仏」を敢行して大勢の見物人を集めては、一遍が念仏札を配って教えを説き、すぐさま次の町を目指す、そんな日々を何年も続けた。 ※男女混合の仏教集団は大変珍しいもので、それだけでも人が集まった。当時の宗教界は高野山が女人禁制だったように、神道も含めて女性を低く見る一面があった。しかし一遍は旅立ちの時点で妻や娘を連れており、女性を平等に考えていた。 一遍の行動指針は、空也上人の言葉「捨ててこそ」。あらゆる執着を捨てた時、人は現世で浄土に入る。定住は執着を生むと言わんばかりに、旅を先に進めた。九州・鹿児島から東北地方まで足を伸ばし、最後は四国へ渡るなど、不断なく布教の旅を続けた。「布教の旅」と一言で言っても、雪の日もあれば雷雨の日もあり、それは決して生易しい旅ではない。文字通り歩き通しなのだ。例えば伊豆に入った時には、8人の信者が息をひきとっている。そんな過酷な旅を、一遍は自身が他界するまで続けた。 1282年(43歳)3月、執権・北条時宗のお膝元・鎌倉に入ろうとしたが、鎌倉は元寇の乱の直後ゆえ恩賞を求める武士で混乱しており、また旧仏教や禅宗を支持していた幕府に、異端として立ち入りを禁じられる。だが一遍はくじけない。「その昔、法蔵菩薩が阿弥陀仏になった時から、全ての生命の往生は決定しているのです」。彼が次に目指したのは京の都だった。 1284年(45歳)、上洛した一遍は、憧れの空也上人が開いた六波羅蜜寺へ巡礼する。当地では「噂の踊念仏を一目見よう」と多くの民衆が集まった。「“南無阿弥陀仏”の言葉そのものが“仏”であり、その言葉には絶対的な力がある。唱えれば必ず救済されるのだ」--京の人々はボロをまとった貧僧が説く分かりやすい教義に耳を傾け、熱烈にこれを支持した。都での布教は大成功、彼は感極まった。 1289年、上半期は四国で布教し、7月18日に明石港に入り神戸に至る。8月10日朝、体調の異変から死期を悟った一遍は「“南無阿弥陀仏”以外の言葉はすべて蛇足だ」と弟子達に語り、「一代聖教(しょうぎょう)みな尽きて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」(この教えは一代限り、ただ南無阿弥陀仏が残る)として、手元にあったすべての経典、法具、書籍を自ら焼き捨てた(だから現在、時宗には本典がない)。一遍は寺を持とうとせず、名を後世に残そうという野心も全くなかった。「捨ててこそ」、なのだ。執着してはならぬ。この悟りに注釈は必要ない。※一遍は「捨て聖(ひじり)」とも呼ばれる。 2週間後の8月23日午前8時、神戸和田岬の観音堂(現・真光寺)で、眠りに入るように静かに他界した。遺言は「我が亡骸は野に捨て、ケダモノなどに施せよ」。享年50歳。日本中を歩き尽くし、一遍が一枚づつ札を手渡した相手は25万1724人と記録されている。 没後、信者達はどうしても亡骸を野に打ち捨てることが出来ず、荼毘(だび、火葬)にふした後に手厚く供養した。 真光寺には一遍の五輪塔(墓)があるが、なにぶん700年も昔の人物なので、墓碑が記念碑的なものなのか、後世の追悼供養塔なのか、当時のままの墓なのか、建立の年代もハッキリ分かっていなかった。1995年、阪神大震災で巨大な五輪塔は完全に倒壊した。ところが偶然にも割れた墓石の内部(球体の水輪部分)から遺骨が発見され、本物の一遍の墓であることが裏付けされた。その後、五輪塔は修復され遺骨も納め直された。墓のすぐ側には千基を超える数え切れぬほど無数の無縁仏(墓)がある。長年の風雨で名前は読み取れないものも多いが、誰もが一遍を慕って傍らに眠ることを願った人。これなら一遍も寂しくないし、皆も側にいれて幸せだし、見ているだけで心温まる墓所になっている。 『花は色 月は光と眺むれば 心はものを思わざりけり』 (色とりどりの花や、澄んだ月の光を眺めていると、その美しさに思わず我を忘れてしまいます)(神奈川・藤沢の片瀬にて、44歳)
※一遍上人の踊り念仏が盆踊りの起源だという。 ※時宗の教えは、『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』という浄土三部経に拠っている。 ※愛媛の法巌寺には一遍上人生誕地の碑が建つ。 ※「捨ててこそ」は魔法の言葉で、何か辛い思いに心が支配された時に、この言葉をつぶやくと、不思議と苦しみが軽くなって前進できる。 ※一遍は著作が皆無なので、没後10年目に弟子の聖戒が文を書き、3人の絵師が絵をそえた「一遍聖絵」12巻(京都・歓喜光寺所蔵)と、宗俊が編集した「一遍上人絵詞伝」10巻が貴重な資料となっている。 ※鎌倉には光触寺や別願寺など7つの時宗の寺があるが、一遍の死後に建立されたもの。 ※「唱ふれば 仏も我もなかりけり なむあみだぶつ なむあみだぶつ」(一遍上人) ※踊念仏は室町時代にかけて大流行し、やがて娯楽的色彩が強まって芸能化すると、出雲阿国が踊念仏に歌を交えて踊り始め、これが歌舞伎の幕開けになった。空也が踊念仏を始めて300年後に一遍が現れ、一遍が全国に広めてさらに300年後に歌舞伎が生まれたのだ! |
阪神大震災で完全に倒壊(1995年当時) | 700年ぶりに発見された一遍の骨壷 |
※画像元/神戸大学附属図書館震災文庫 |
他人には優しく、自分には厳しかった最澄 |
美しい稜線の比叡山(848m)。京都の鬼門となる北東にあるため、 古代より鎮護の山だった。山頂に延暦寺の諸堂が建っている |
山頂までケーブルカー でいける。良い景色! |
廟に続く山道。周囲は鳥の声だけ |
延暦寺の奥にひっそりとたたずむ最澄の墓域 | 建物の後方に小さな霊廟がある | 最澄さんのお墓!(2012) |
日本天台宗の開祖。伝教大師。近江国古市郷(滋賀・大津市)出身。4世紀中頃の渡来人の子孫で本名、三津首広野(みつのおびとひろの)。12歳で近江国分寺(石山)に入り、14歳で正式に出家して名を最澄と改めた。785年4月、東大寺において18歳で受戒(殺生の禁止など250の戒めを守ると誓うこと)したが、3ヵ月後の7月、奈良仏教が貴族社会の文化であることや、自ら煩悩を断ち切り悟りを得るために比叡山に向かい、修行生活を開始した。東大寺で受戒した僧は国家が認めた官僧であり、奈良で立身出世していく道を選ぶのが普通。最澄のように世俗的な名声を求めず、受戒後すぐに孤独な山林修行に入るのは極めて異例のことだった。 天台の教えでは、理論の研究をせず体験的な修行ばかり積む事を「愚」、体験的な修行をせず理論ばかり学んでいるのを「狂」と言う。最澄は比叡山に登る時に『願文(がんもん)』を記して誓いを立てた。18歳の彼は激しい口調で自身を批判する。「愚の中の極愚、狂の中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、上は諸仏に違い、中は皇法に背き、下は孝礼を欠く(抜粋)」“私は愚の中の極愚、狂の中の極狂、塵の如き人間、最低の最澄である。上は仏たちの教えに反し、中は天子の法に背き、下は孝を欠いている”。このように自分を定めた上で、山林修行を通して功徳を得れば、それを自分だけのものにせず、あらゆる人に伝えて世界を仏の慈悲が満ちた浄土にすると誓った。 3年後の788年(21歳)、草庵を建てた最澄は、側のお堂に自ら彫った薬師如来を本尊として安置した。(これをもって比叡山開創とし、この時に仏前で灯した小さな灯は“弥勒仏”が救済に現れる日まで絶やさぬと門徒は誓い、1200年後の現在も根本中堂を照らしている)。 最澄は793年(26歳)から草庵を比叡山寺(根本中堂)と呼ぶ。やがて一人で修行している最澄の下へ様々な立場の者が集まるようになった。鑑真和上の一番弟子・道忠は、最澄の『願文』を読んで純粋な熱意に胸を打たれ、なんと所有する2000巻以上(!)の教典を、わざわざ彼の為に写経して贈ってくれた。中国で生まれた天台学は、鑑真から道忠へ伝わり、そして道忠から最澄へと受け継がれて、日本独自の天台学が形作られていく。 翌794年、最澄27歳。この年、都が平安京に遷都された。「比叡山に無名の良き青年僧あり」との噂は宮中に届き、平安京の造営担当者・和気(わけの)清麻呂らが最澄に帰依し、やがて桓武天皇も最澄の『願文』を知ることとなる。桓武帝が奈良を出たのは仏教界の権力が朝廷を凌ぐほどになったから。帝は完全に奈良仏教と縁を切るために、寺院の京都への移転を厳しく禁じた。それほど仏教界と距離をとろうとしていたが、帝もまた『願文』が胸に沁み、なんと自ら比叡山に登り最澄の下を訪れた。最澄が説く「即身成仏(じょうぶつ)」は“一切の生き物の中にはみな仏性があり誰もが仏になれる”ということ。桓武帝は最澄と親交を結び、797年に最澄を側近の内供奉(ないぐぶ、天皇のアドバイザー)に登用した。定員が10名の役職であることから「十禅師」とも呼ばれ、30歳の最澄は文字通り大抜擢されたのだ。35歳、高雄山寺(神護寺)で法華経の講師をする。 804年(37歳)、かねてから中国に渡って最新の仏教を学びたいと思っていた最澄は、1年間の短期留学生として遣唐使で渡航した。“渡航”と一言で言ってもそれは命懸け。派遣された遣唐使12回のうち、無事に往復できたのは5回だけ。それでも最澄の仏法への思いは抑え難く船に乗り込んだ。4隻で出航した船団は暴風雨に遭い、中国に着いたのは最澄が乗る第二船と、僧として公認されたばかりの若い空海(30歳)が乗る第一船の2隻だけだった(2隻は行方不明)。 最澄と通訳の門弟は上海の南西にある天台山を訪問し、天台教学、禅、戒律などを学び、230部460巻の経典、多くの法具を土産に翌年帰国した。彼は桓武天皇に天台法華宗の設立許可を願い、806年1月26日(39歳)、天皇は奈良の南都六宗(華厳宗、律宗、法相宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)に加え、新たに天台宗の僧侶を年に2名ずつ国費で養成する許可を出した。天台宗は晴れて国教の仲間入りをし、この日が「日本天台宗」の始まりとなった(この1ヵ月後、桓武天皇は病没)。 同年に空海が帰国。彼は貴重な経典を山ほど持ち帰ってきた。最澄は大興奮。というのも、1年という短い留学期間では天台を学ぶことが精一杯で、密教の教義への理解は不完全のまま帰国したと自覚があったからだ。「空海殿に経典を借りて勉強しよう!」と、意気込む最澄。ところが空海は20年の留学が義務付けられていたのに2年で切り上げて帰国したことが違法とされ、平安京に入ることを3年も許されなかった。最澄は朝廷に働きかけ、自分が修行場に使った高雄山寺で空海を受け入れる提案をし、また新しく天皇に就いた嵯峨天皇が仏教を深く信奉していたこともあって、空海は入京を許された(809年)。 最澄が十禅師に名を連ねていたのに対し、空海は全く無名の青年僧。しかも最澄は空海より7歳も年上。だが、最澄は驕(おご)ることなく礼節をもって空海に密教経典の閲覧・借用を申し込み、空海の方もこれに対して快く貸し出した。数ヶ月が経ち、最澄は見栄を捨てて空海に頭を下げてお願いした--「灌頂(かんじょう)を受けたい」と。灌頂とは師が免許皆伝を認めた弟子の頭上に水を注ぐ重要な仏教儀式。つまり、最澄は自分が空海の弟子となる決断をしたのだ。たとえ屈辱に感じても、それでもなお、仏法を極めたいという最澄の真剣な思いが伝わってくる。 812年、空海は最澄に灌頂を授けた(45歳)。最澄が目指している天台宗のあり方は、いわば仏教の総合大学。様々な宗派を学ぶことで真理を見極め、広い視野をもって悟りに至るというもの。だから、空海が中国で極めた真言密教も、最澄はどうしても学んでおく必要があった。 しかし翌年、最澄と空海の交流は途絶えてしまう。実は灌頂には段階があり、最澄が受けた灌頂は一般人でも受けることが出来るものだった(結縁灌頂)。後日、さらに重要な灌頂(伝法灌頂)を授けて欲しいと願ったところ、空海は「それには3年かかります」と断った。さらに、新たにお経の閲覧を申し込んだところ、「真言の悟りは文章修行ではなく実践修行から得られます」とこれも拒否。最澄には関東や九州に天台を布教し、比叡山に戒壇を開く大きな計画があり、50歳を前に3年を修行にあてる時間はなかった。やむなく愛弟子を高野山に送って真言密教を学ばせるが、弟子は最澄と別れて空海の弟子になってしまった。後継者と見込んでいた愛弟子が空海に走ったことに最澄は言葉を失う。 全ての宗派を平等に見る最澄の価値観と、真言密教至上主義の空海の決別は、遅かれ早かれ避けられない道だった。 814年(47歳)、九州・筑紫国へ布教に赴き、翌年は関東で教えを説き、貧窮者の為の無料宿泊所や寺院を建立した。最澄の晩年は比叡山へ戒壇(かいだん)を設置する運動に精力を注ぐ日々。当時の仏教界は、誰もが自由に僧侶になれるわけではなく、国が指定した3ヶ所しかない戒壇で受戒した者だけが、公式に僧として認定された。3ヶ所とは奈良・東大寺、九州大宰府・観世音寺、東国栃木・薬師寺。最澄は天台の僧は奈良仏教の戒律ではなく、天台の戒律「大乗戒」を守るべきだし、比叡山での修行者が山で受戒できれば素晴らしいと考えていた。これに対し、奈良仏教界は猛反発。最澄は徹底的に叩かれた。 818年(51歳)、18歳の時に受戒した奈良仏教の戒律(具足戒)を破棄し、日本天台宗の学僧制度『山家学生式』(さんげがくしょうしき)を作る。内容は年分学生(官費の修行僧)の試験に合格した者に「大乗戒」を授け、12年間比叡山にこもって修行する菩薩僧を養成し、国の宝として下山させるというもの。「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝と為す」“国宝とは何か。宝とは正しき道を歩もうとする心であり、その心を道心という。道心のある人を名付けて国宝となす”。(『山家学生式』)※「山家」は天台宗、「学生式」は学制の意。 822年6月4日、比叡山の中道院にて逝去。遺言は「怨(おん)を以って怨に報ずれば怨止まず。徳を以って怨に報ずれば怨即ち尽きぬ。私は生涯、荒い言葉を言ったことも、叩いたこともない。私の為に仏像を造ったり経を写さなくてもよい。ただ私の志を受け継いで欲しい」。弟子の手で建てられた廟所は浄土院と呼ばれている。 最澄の戒壇設置を求める努力は生前に報われることなく、没後7日目になってようやく認められた。嵯峨天皇は最澄の死を惜しみ、生前に最澄と親しく、天台宗を国教として認めた桓武天皇の元号『延暦』を寺号として額に刻み比叡山に贈った。これを受けて最澄の弟子達は「比叡山寺」を「延暦寺」に改名した。866年(没後44年)、清和天皇から最澄に伝教大師の名が贈られた。大師の意味は“天皇の先生”。最澄は大師の第1号になった。 最澄の死後、天台宗は様々な日本仏教の母体となり、延暦寺の修行僧の中から法然上人・親鸞聖人・栄西禅師・日蓮上人・道元禅師・一遍上人という、後世に大きな名を残す各宗派の開祖が巣立っていった。すべては最澄という一人の人間が、20歳頃に人生の煩悶を振り払うように山へ分け入り、その手で小さな庵を建てたことから始まったのだ。 ※命日の6月4日は各地の天台宗寺院は「山家会(さんげえ)」という法要が催される。 ※最澄の誕生地(門前町坂本)には「生源寺」が建ち、生誕日に祭りが催される。付近には居住した紅染寺跡もある。 ※天台密教は最澄の没後、弟子の円仁が唐から最新密教を持ち帰って完成された。東密(高野山)と台密(比叡山)は日本密教の双璧となった。 ※最澄を伝える文化財は兵庫県・一乗寺の『天台高僧画像』(国宝)、滋賀県観音寺の彫像(重文)、筆跡は『将来目録』『久融帖』等々。 ※霊廟の浄土院は本堂(根本中堂)のある東塔地区から徒歩約15分。ここに仕える僧は「侍真(じしん)」と呼ばれ、12年間一歩も浄土院から出ず、毎日午前3時に起床して修行を続けている。 |
松陰先生像。烈火の魂を持つ男! |
萩市の「松陰神社」境内にある松下村塾 |
高杉、木戸、伊藤…内部にはこの塾から 巣立った長州藩の志士たちの肖像が |
“明治維新胎動之地” カッコイイ! |
こちらは生誕地に残る屋敷跡(萩市椿東椎原)。高台にあり日本海が見える。 松陰は19歳まで当地で過ごした。生誕地から墓所までは歩いてすぐ(2006) |
『吉田松陰先生誕生之地』 ※山県有朋の絶筆 |
『吉田松陰之墓/高杉晋作之墓』。墓所の入口にて(2006) |
墓所の側に建つ、松陰と その弟子・金子重輔像 |
萩の墓。上段右後方は高杉の墓! (2006) |
萩の墓には墓を建てた門人たちの名が。幕府に逆らって 死罪になった人間の墓に、堂々と名を刻むその勇気! |
高杉春風(晋作)の 名前もあった! |
荒川区・回向院の墓。最初の埋葬地で『松陰二十一回猛士之墓』とある。 “二十一回猛士”は号。死後約150年を経ても多くの人から慕われている!(2000) |
8年後に行くと環境が激変!墓地に史跡コーナーが新設され、安政の大獄 の受難者が一斉に改葬されていた。先生は一番奥だ(2008) |
『花燃ゆ』の影響か、人波が途切れない(2014) | 右隣から木が進出(2014) | 子ども達も合掌 |
東急「松陰神社前」駅から歩いてすぐ(2014) | 駅前の商店街は松陰で町おこし | 2013年に「松下村塾学び館」がオープン |
松陰神社に到着。徒歩圏内に豪徳寺が あり、宿敵の井伊直弼が眠っている(2010) |
松陰神社の鳥居(2014)。『花燃ゆ』効果で 2015年は前代未聞の参拝者数になるだろう |
松陰神社の本殿。訪れる度に境内には新しい 案内板があったり銅像が増えてたり発見がある |
境内に復元された松下村塾(2014) | 土日祝のみ9:00-16:30まで雨戸が開く | 先生や高杉の蝋人形を置いて欲しい |
本殿前の松陰像。なんだろう、 この“コレジャナイ”感は… |
こちらは2013年に新しく参道に設置された松陰像。とても知的&精悍な顔つき! コレよコレ!全国にある松陰松陰像の中でも決定版じゃないだろうか(2014) |
松陰神社の入口正面 | 境内奥にあるもう一つの鳥居。後方が墓(2001) | 9年後に再訪。7月で緑が美しい(2010) |
墓所は松陰を中心に5人が並んでいる。左から、古河藩兵に襲われ自刃した長州藩士・福原乙之進(おとのしん、26歳)、外国人襲撃計画の過激を戒められ切腹した長州藩士・来原(くるはら)良蔵(33歳)、吉田松陰(29歳)、安政の大獄に連座&獄死した鷹司(たかつかさ)家の公家・小林民部(みんぶ、51歳)、安政の大獄で刑死した儒学者・頼三樹三郎(らいみきさぶろう、34歳)。 文久3年(1863)、高杉晋作、伊藤博文らが、松陰の亡骸を小塚原回向院から現・松陰神社(世田谷若林大夫山)の楓の下に改葬。「禁門の変」後の長州征伐の際に墓は幕府によって破壊されたが、明治元年(1868)に木戸孝允らが墓を修復し、他に維新で散った人々を当地に改葬した。後に、徳川家から謝罪の意を込めて松陰墓前の石灯籠と水盤が寄進される。1958年の松陰100年祭で墓所の柵が修復された。 |
3度目、2014年に訪れると柵が設置されていた… | 柵の設置は『花燃ゆ』で参拝者激増のためか | 墓前の案内板のおかげで歴史がよくわかる |
中央区日本橋小伝馬町にある牢屋敷跡(十思公園)。 松陰はここで処刑された |
「松陰先生終焉之地」 |
京都・霊山護国神社に建つ「梅田雲浜(うんびん)碑」。 雲浜は近藤茂左衛門に続く“安政の大獄”2人目の 逮捕者。拷問のために取調中に江戸で病死(2010) |
幕末の思想家、明治維新の精神的指導者。長州藩士。名は矩方(のりかた)、通称寅次郎。号は松陰、及び二十一回猛子。下級藩士・杉百合之助の次男。5歳の時に、杉家から山鹿流兵学師範(藩の軍学指南役)の叔父・吉田大助の養子となり、翌年に養父が没したことで吉田家を継いだ。松陰は叔父・玉木文之進から厳しい教育を受け、1839年、若干9歳にして藩校明倫館の教壇に立ち山鹿流兵学の講義を行った。翌年には藩主・毛利慶親に「武教全書」の講義を行っている。同1840年、中国において阿片戦争が勃発。アジアの大国・清国は2年の戦いの後にイギリスに敗れ、列強と不平等条約を結ばされ、半植民地化の憂き目を見る。松陰は西洋兵学を急ぎ学ぶ必要を感じ、20歳のときに長崎を訪れ、海外の情報を得ようとした。 翌1851年、藩主に従って江戸に上がり、兵学者・佐久間象山の門下となって西洋兵学や儒学を学ぶ。松陰の視野は世界に広がり、異国から日本をどう守るか熟考した。諸藩の状況を自分の目で見るためには、移動の自由が必要ゆえ脱藩を決断。肥後藩士・宮部鼎三(ていぞう/後に池田屋事件で死亡)と東北、北陸、佐渡を見て回り、水戸藩志士とも交流して見聞を広めるが、藩に無断で行ったため士籍を没収された。 1853年(23歳)、浪人として江戸に出た際に、ペリーの黒船来航事件に遭遇。浦賀で象山と米国艦隊を視察し、海外情勢、西洋文明をより深く知る必要性を痛感する。 翌年(24歳)、再び来航し下田沖に停泊していたペリー艦隊に対して、松陰はなんとアメリカ密航を試みた。同藩の金子重輔と夜闇に紛れて漁船で接近、旗艦ポーハタン号の艦長に渡航を懇願した。米側は日米交渉の支障になることを恐れ、松陰らの願いを拒否し、下田に送り返した。両名は自首し、鎖国の禁を犯した罪で江戸伝馬町に投獄された。半年後に長州藩へ護送され、野山獄に収監される。金子重輔は岩倉獄で病死した。 この獄中生活において、囚人たちが松陰の語る学問に強く関心を持ったことから、国家の柱となる優れた人材を育成することを自らの天命と知る。翌年12月(25歳)、許されて生家の杉家にて蟄居(ちっきょ/自宅謹慎)を命じられる。1856年(26歳)8月、松陰は幽室=謹慎部屋にて近隣の子弟を集めて私塾を開き、最初に孟子の講義を始めた。 1857年(27歳)、松陰の私塾と叔父・玉木文之進が15年前(1842年)に自宅で開いた「松下村塾」(しょうかそんじゅく)が一体化する。藩校明倫館は武士階級と特別待遇の者しか入学できなかったが、松下村塾は農民、町民、足軽、向学心を持つ全ての者を受け入れた。門下生は約50名。松陰は後に幕末・維新期に国を動かすことになる志士を多く育てた。「識の高杉、才の久坂」「松下村塾の双璧」と称された高杉晋作と久坂玄瑞、この両名に吉田稔麿、入江九一を加えた4人が「松下村塾の四天王」と呼ばれた。他にも伊藤博文・前原一誠・山県有朋らを松陰が育てている(井上馨は塾生ではない。桂小五郎も塾生ではないが藩校で松陰から学んでいる)。同年暮れ、松陰の妹・文(ふみ)と久坂玄瑞が結婚。 翌1858年(28歳)6月19日、大老・井伊直弼が勅許(ちょっきょ/天皇の許可)を得ることなく独断で日米修好通商条約を締結。翌月これを知った松陰は烈火の如く怒り、建白書『大義ヲ議ス』を書き、「征夷(徳川将軍)は天下の賊なり、(帝の)勅を奉ずるは道なり、逆を討つは義なり」と“天皇をないがしろにする将軍は逆賊であり、これを討つことは義挙である”と、初めて倒幕に言及した。そして藩主や京都の公家に尊皇攘夷(そんのうじょうい/天皇尊崇・外国勢排斥の思想)を訴えた。 一方、幕政に批判の声をあげた者を、井伊は徹底的に弾圧する(安政の大獄)。松陰は水戸藩志士たちに井伊大老暗殺計画があるのを知り、革命の火種として我らが先に立つべきと門下生に老中首座・間部詮勝(まなべあきかつ)暗殺を提案、同志17名の血誓書を集めた。この動きが発覚し、12月26日、藩は松陰を危険視し野山獄に再投獄した。 年が明けて1859年、松陰最後の年。1月に久坂、高杉、桂小五郎らから“幕府に長州弾圧の口実を与えかねない”と間部暗殺に反対する手紙が届く。松陰は知人に宛てた手紙に焦りを記す。「僕が皆に先駆て死んで見せたら、発奮して立ち上がる者が現れるかも知れない。そういう者がいないようでは、いくら時を待っても時など来ぬ」。 4月、幕府から松陰を江戸に送れと命令が出る。同月、松陰は門下生の野村和作への手紙に“草莽崛起”(そうもうほうき/民衆蜂起)の論を記す。「民衆蜂起だ、出獄さえすれば私は一人でも実行する。他人を当てにしない。いずれ尊攘のために差し出す命、時勢を待つだけの人間にはならない。恐れながら、朝廷、幕府、我が藩も不要、必要なのはこの六尺の身だけだ」。 5月16日、塾生の松浦松洞が万一に備えて松陰の肖像画を描く。5月24日、松陰は一夜だけ杉家に帰ることを許され、翌日江戸に送られた。萩を発つ前に、松陰は孟子の「至誠にして動かざる者はいまだ之れ有らざるなり」(誠の徳で動かせないものは、いまだかつてない)の一句を書しており、江戸・評定所における取り調べを、“真心が伝われば幕府役人も分かってくれる”と、幕府役人を目覚めさせる好機と捉えていた。 ところが、7月9日に幕府評定所で詮議が行われると、幕府側は老中暗殺計画の一件を何も知らず、尊皇思想家・梅田雲浜(“松下村塾”の額を揮毫)との交友関係を簡単に取り調べたのみで藩に戻そうとした。松陰はあえて暗殺計画を自供して時代の変化を告げ、幕政の混迷ぶりを批判した。さらに長州藩を中心とした挙兵計画なども述べ、一転して重罪人となり伝馬町の獄に繋がれた。 この頃、松陰は高杉から死生観を問われ次の返事を書いている。「死は好むものでもなく、また、憎むべきものでもない。世の中には、生きながら心の死んでいる者がいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者もいる。つまり小生の見るところでは、人間というものは、生死を度外視して、何かを成し遂げる心構えこそ大切なのだ」「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」。この手紙は以後の高杉の行動指針となる。 9月5日に2度目の吟味、10月5日に3度目の吟味、10月16日に最後となる4度目の吟味が行われた。10月20日、取り調べを行った役人の態度から死を覚悟し、父、叔父、兄に遺書「永訣の書」を書く。「親思ふ心にまさる親心、今日の音づれ何と聞くらん」(どんなに深く親を思っても、子を思う親心には到底及ばない。刑死の訪れをどんな思いで聞くだろうか)。前後して『諸友に語(つ)ぐる書』を記し、「諸君が私の志を知っているならば、私のことを哀しんではいけない。哀しむのではなく私の志を理解して欲しい。私を知るということは、私の志を受け継ぎ、世に広め実現することである」と刻んだ。 10月26日、処刑の前日夕刻に松下村塾の弟子たちへ向けて全16章5000字の遺言『留魂録』を書きあげた。 『留魂録(りゅうこんろく)』 留魂録は冒頭の次の句から始まる。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂」(たとえ肉体が刑場の武蔵野の野に朽ちようとも、我が気概は永遠に留めておきたいものだ)。 全章で最も印象深いのは、人生を四季に例えた第8章。達観した心境を述べている。「今日、死を覚悟しても平穏な心情であるのは、四季の巡りについて思いを馳せているからだ。春に種を撒き、夏に苗を植え、秋に刈り、冬に貯蔵するというように。私はもう30歳になるが、何一つ成すことなく死のうとしている。いわばまだ収穫前であり、生命を惜しむべきことだろう。だが、私自身は実りの時を迎えたと感じており、これは哀しいことではない。人間の寿命は決まっておらず、10歳で死ぬ者は10歳の中に四季があり、20歳には20歳の、30歳には30歳の、50、100歳の中には50、100歳の四季がある。10歳をもって短いというのはヒグラシ蝉の命を長寿の霊椿(れいちん/霊木)を基準に考えるようなものだ。私の30年には既に四季が備わっており、また実りもある。それがただのモミ殻か、よく実ったモミなのか、私の知るところではない。もし同志諸君の中で私の想いを受け継いでくれる人がいるならば、それは今後も種が絶えることなく、毎年実り続けるのと同じであり、何ら恥ずべきことではない」 第13章では「天下の事を成すために天下の有志の士と志を通じなければ実現できない」として人脈の重要性を説き、新たに牢獄で知り合った日本各地の志士の人名を記し、「これらの人物を探し出して必ず会え。一度の失敗で挫折するのは勇士ではない。心から頼む。頼んだぞ」と、投獄されたからこそ得ることができた貴重な情報を書き留めた。 第14章は先に刑死した福井藩の俊才・橋本左内(さない 1834-1859)を惜しんでいる。「越前の橋本左内は26歳にして刑死した。10月7日のことだった。左内が牢にいたのは5、6日のみ。同獄の勝野保太郎から左内の言葉を聞いて我が意を得たり、ますます左内と対面できなかったことが悔やまれる。左内を説得して共に義挙を起こしたかった。無念だ」。 最後の第16章では、小田村伊之助、久坂玄瑞、入江九一、高杉晋作、伊藤利輔(博文)ら萩の同志たちの名を挙げ、「こちらの牢の志士たちに、お前たちの存在を伝えておいた」と報告した。 そして巻末に以下の五首を記して締めくくった。 杉家妹中 心なることの種々かき置きぬ思い残せることなかりけり(心の様々な思いをすべて書き終え、もはや思い残すことは何もない) 呼び出しの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな(処刑の呼び出しの声を待つほかに、今の世の中に待つべきことはない) 討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ(斬首される私を哀れと思う人は、天皇を崇めて異人を追い払ってほしい) 愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々(愚かな私を大切な友としてくれる人は、私の友を私と同様に大切に思ってほしい) 七たびも生きかへりつつ夷(えびす)をぞ攘(はら)はんこころ吾れ忘れめや(七度生まれかわっても異人を打ち払う心を私は忘れまい)※足利尊氏に敗れた尊皇派・楠木正成が自害前に「七生滅賊」を誓ったことに由来。 幕府には松陰の人物を惜しむ声もあったが井伊の意向で厳しい沙汰となった。10月27日、死罪を言い渡され、江戸中を引き回された後、伝馬町獄舎で処刑された。享年29歳。安政の大獄で処刑された14名のうち、松陰が最後の刑死者となった。それからわずか4カ月後の安政7年(1860年)3月3日、桜田門外において井伊は水戸浪士たちに暗殺された。松陰が塾で弟子たちを指導したのは1856年8月から1858年12月までの2年4カ月に過ぎないが、その熱き魂と至誠は多くの若者の心を掴んだ。松陰処刑から9年で徳川幕府は滅び、新しい明治の世が到来した。松下村塾は新政府に総理大臣2名、国務大臣7名、大学設立者2名を輩出した。 【松陰の墓について〜全国に4カ所】大河『花燃ゆ』の影響か、松陰の墓前は人波が途切れない。 墓マイラーは本墓のほかに複数の分骨墓があれば、それらをすべて巡って、初めて「墓参を果たした」と心から実感できる。それまでは落ち着かず、未墓参の分骨墓が残っている限り、墓参りを途中で止めたような後ろめたさを感じてしまう。 (1)小塚原回向院の旧墓/荒川区…最初の墓。刑死の2日後、桂小五郎、伊藤俊輔(博文)らが千住・小塚原回向院に埋葬し墓を建立。『松陰二十一回猛士之墓』と彫られている(現在は墓石のみ)。周囲には橋本左内をはじめ、安政の大獄や桜田門外の変の関連者が多く眠っている。 ※号の「二十一回」は名字の「杉」を「十」「八」「三」に分解、合計した数字が「二十一」となること、そして「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解、合わせて「二十一回」となることが由来。 (2)松陰神社の本墓/世田谷区…没後4年目の1863年(文久3年)正月、高杉、伊藤らが、松陰の亡骸を取り戻し、頼三樹三郎、小林民部等の亡骸と共に、小塚原回向院から長州藩主・毛利家の別邸(世田谷区若林)の楓の下に改葬した。これらの墓は「禁門の変」後の長州征伐の際に幕府によって破壊されたが、1868年(明治元年)に木戸孝允らが墓所を修復し、他に維新で散った人々を当地に改葬した(木戸寄進の鳥居が現存)。 没後23年(1882年)に門下生たちが墓の東側に小さなお堂を建て、松陰を祀る神社を創建。さらに1908年の松陰50年祭に際して、伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨などから26基の石燈籠が寄進された。また、徳川家からは謝罪の意を込めて松陰墓前の水盤と石灯籠が寄進されている。現在の社殿は1928年に造営され、1942年に松下村塾の模築が境内に建てらた。※乃木希典は10歳の時に松陰が没しているため面識はないが、松陰の叔父・玉木文之進の門下となり学んでいる。 (3)吉田家墓地の遺髪墓/山口・萩(生誕地近く)…松陰他界の100日目にあたる万延元年(1860)2月7日、萩にて親族や門下生が供養し、同月15日に遺髪墓を建てた。正面に「松陰二十一回猛士墓」、背面に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と彫られた。この墓は感動的。墓前の水盤や花立、灯籠には、17人の弟子たち=高杉春風(晋作)、久坂玄瑞、前原一誠、入江九一らや妹(“杉家妹中”と表記)が寄進者として名を刻んでいる。大罪人として幕府に処刑された人物の墓に、弟子として名を連ねることは非常に危険であり、勇気がいること。例え幕府に睨まれても、敬愛する師の墓に弟子として名を残すことを選んだ彼らに拍手を送りたい。 (4)桜山神社の招魂墓/山口・下関…高杉晋作の提案で創建された志士達の招魂場。墓石の大きさは、武士も奇兵隊の無名の町人・農民兵も、身分の分け隔て無く同じであり、そこに長州藩の革新性、近代性を見た。 松陰は29年の生涯だったが、後世に与えた影響を見るに充実した“人生の四季”を生き抜いたと思える。 松陰神社と井伊家の菩提寺・豪徳寺は谷を挟んですぐ近くにある。これについて作家・徳冨蘆花が明治の終わりに『謀叛論』で触れている。素晴らしい一節を紹介。「僕は武蔵野の片隅に住んで居る。東京へ出るたびに、必ず世田ケ谷を通る。僕の家から少し歩くと、豪徳寺(井伊直弼の墓で名高い寺)がある。そこからもう少し行くと、谷の向うに杉や松の茂った丘が見え、その上に吉田松陰の墓を擁する松陰神社がある。井伊と吉田、50年前には互いに不倶戴天(ふぐたいてん)の仇敵で、安政の大獄に井伊が吉田の首を斬れば、今度は桜田の雪を紅に染めて井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨を消してしまって谷ひとつの差し向かいで安らかに眠っている。今日の我らが見れば、松陰はもとより混じりけ無しの純粋な志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、50年後の今日から歴史の背景に照して見れば、つまるところ今日の日本を造り出さんが為に、反対の方向から相槌(あいづち)を打ったに過ぎない。彼等は各々その位置に立ち自信にたって、出来るだけの事を存分に行なって土に入り、その墓の近所で明治の今日に生きる百姓らは、さりげなく、かつ、悠々と麦などを作っている」 ※松陰は遺言『留魂録』『諸友に語ぐる書』が必ず弟子たちの手に届くよう2通作成した。1通は処刑後に弟子の飯田正伯を通して萩の塾生に送られた。これは高杉ら門弟の手で書写され、回し読まれ、若き志士たちを奮起させたが原本は行方不明になった。もう1通は小伝馬町で同獄だった沼崎吉五郎が隠し持っていた。沼崎は松陰没後に三宅島へ流され、維新後の1876年(刑死17年目)に松陰の弟子で神奈川県権令となっていた野村靖(和作)に届けた。沼崎は実に17年間も大切に保管していた。こちらは松陰神社に現存している。1909年、遺言により野村靖は松陰神社に埋葬された。 ※世田谷・松陰神社の墓所は松陰を中心に5人が並んでいる。左から、古河藩兵に襲われ自刃した長州藩士・福原乙之進(おとのしん、26歳)、外国人襲撃計画の過激を戒められ切腹した長州藩士・来原(くるはら)良蔵(33歳)、吉田松陰(29歳)、安政の大獄に連座&獄死した鷹司(たかつかさ)家の公家・小林民部(みんぶ、51歳)、安政の大獄で刑死した儒学者・頼三樹三郎(らいみきさぶろう、34歳)。 ※松下村塾は木造瓦葺き平屋建て。叔父の開塾時は八畳一室。後に杉家の母屋を増築した十畳半が加わる。オリジナルは萩市の松陰神社境内にあり、模築が世田谷区の松陰神社、東京都町田市玉川学園、山口県阿武郡阿武町の県立奈古高校、秋田県大館市の竹村記念公園、山口県周南市の徳山大学、山口県周南市の山口放送本社、山口県萩市・松陰記念館内の道の駅萩往還の7カ所に建つ。 ※「体は私なり、心は公なり」(坐獄日録) ※新政府で評判の良くない山県有朋だが、絶筆は石碑『吉田松陰先生誕生之地』である。 |
悲劇のキリシタンと して知られるガラシア |
ガラシアが嫁いだ京都府長岡京の細川家の城、 勝龍寺城に建つ「細川忠興・玉(ガラシャ)像」 |
清楚な百合の花を持つ (2010) |
勝龍寺城跡は「日本の歴史公園100選」に選ばれた | 城のあちこちに細川家の家紋がある(2010) | 本丸跡の地下水「ガラシャおもかげの水」。飲める! |
大阪市中央区の「越中井(えっちゅうい)」は 細川忠興屋敷の台所に位置=最後の地 |
細川屋敷は焼け落ちたが この井戸は残った(2013) |
京都の大徳寺高桐院は細川家の菩提寺。 美しい苔寺として有名だ(2008) |
高桐院の墓。石灯籠そのものが墓石。夫の2代細川忠興(三斎/1563-1645)の歯もこの下に。この石灯籠は利休 が天下一と美しさを讃えたもの。名声を聞いた秀吉が権力に任せて奪おうとした際、利休はわざと背後を割ってキズ モノにし譲渡を断った。そして切腹時に遺品として弟子の忠興(当時28歳)に贈った。それから約50年後、80歳に なった忠興は熊本からこの石灯籠を高桐院に運んできて、忠興とガラシアの共同の墓と遺言し3年後に他界した |
熊本市・立田自然公園の泰勝寺跡にも墓がある。しかも超巨大! | 手前から初代細川藤孝(幽斎)、藤孝妻、忠興、ガラシア |
大阪・崇禅寺の墓。周囲の小さな墓は最後までガラシアを守った家臣団だ(1999) |
ガラシアはあの明智光秀の実娘で本名は玉子。15歳の時に織田信長の媒酌で夫の細川忠興(ただおき)と結ばれた彼女は、当時から才色兼備の女性として知られていた(父光秀は教養人だった)。1582年(19歳)、光秀が本能寺の変を起した後、忠興は謀反人の娘となった愛妻と離縁せざるを得ず、ガラシアは2年後に秀吉の許しが出て復縁するまで京都の山里に幽閉される。その後、夫を介して高山右近からキリスト教の教義に触れた彼女は、イエズス会宣教師との手紙のやり取りで聖書を学び、24歳でキリシタンとして洗礼を受け、名をガラシア(Gracia=伽羅奢、意味は“神の恩寵”)に変えた。関ヶ原合戦の2ヶ月前、夫が家康に従って上杉征討のため会津へ向かった留守中に、挙兵した石田三成が大阪玉造の細川邸を包囲した。三成は合戦を西軍有利に導くために、諸大名の妻子を人質として大阪城へ集めようとしていたのだ。しかし、ガラシアは大阪城への移動を毅然として拒否する。キリスト教で自害は禁じられているので、家老の小笠原小斉に胸を突かせ、家臣らは屋敷に火薬を撒いて全員爆死した。37年の人生だった。ガラシアの辞世の句は『散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ』。この壮絶な最後に石田三成は胸を打たれ、人質作戦を断念した。ガラシアの生涯はヨーロッパにも伝わり、死後約100年が経った1698年に、音楽劇「ガラシャ夫人」がウィーンのハプスブルク家宮殿内で行われた。
「こんなにも家臣たちに愛されていたのか!」夕暮れどき、細川家の菩提寺・崇禅寺(大阪市東淀川区)を訪れると、最期の瞬間までガラシアを守り続けた重臣たちの小さな墓が7つ、死後もガラシアの周りを固めていた!彼らの遺骨は、ザビエルの弟子オルガンチノによって細川邸の焼跡から死の翌日に拾い集められ、堺のキリシタン墓地に埋葬される。その後の宗教弾圧で墓地が破壊され、この地に改葬されたという。※ガラシアの墓は夫の忠興が眠る京都大徳寺にもある。
※忠興は文武両道の武将で、利休に直接茶の湯を学び利休七哲(蒲生氏郷、高山右近、芝山監物、瀬田掃部、牧村兵部、古田織部、細川三斎=忠興)の一人に数えられている。また、宮本武蔵を肥後熊本藩に招いた初代藩主細川忠利は忠興とガラシアの長男だ。忠利の死は鴎外が小説「阿部一族」で採り上げている。次男は大阪の陣で豊臣方につき切腹。大阪玉造カトリック教会にはガラシア夫人の像がある。ガラシアの血筋をひく細川元首相は、政界引退の際にガラシアの辞世の句“散りぬべき--”を引用した。 |
俊寛は骨になってもここまで戻ってきた ※墓参の際は駅から墓まで温泉街を歩く |
鹿児島市の「俊寛の碑」。俊寛はここから鬼界ヶ島に流された。 ※1898年の埋め立てまで俊寛堀があったそうだ(2008) |
67歳の沢庵 | 沢庵ゆかりの東海寺(2010) | 墓所は境内を出て200m西側 | 京浜東北線に隣接している |
石段の下に「東海寺開山 沢庵禅師墓道」の石柱! | 石段を上ると墓地がある。竹垣の中が沢庵の墓所! |
墓域はスッキリと整い、手前に水鉢、次が竹、 その向こうに一輪挿しと石灯籠、奥にお墓(2010) |
初巡礼時。この時は墓所の門が閉まって いて接近できず望遠レンズで撮影(2000) |
10年後。門が開いていたので墓前に行く ことができた。墓石は巨大な漬物石にも見える |
背後からパチリ。“漬物石”の下にはさらなる巨石! |
沢庵の墓の手前に「利休居士 追遠塔」が。南宋寺繋がり? |
付近には「茶筅(ちゃ せん)塚」もあった |
江戸前期の禅宗の名僧。号は沢庵、諱が宗彭(そうほう)。現・兵庫県豊岡市出身。父は出石(いずし)城主・山名祐豊(すけとよ)の重臣。1580年(7歳)、主君の山名家は織田軍・秀吉の攻撃で滅ぶ。1582年(9歳)、沢庵は出石にて出家。同年、本能寺の変が勃発。1594年(21歳)、師に従って上洛。新たに大徳寺三玄院で師事し宗彭と名乗る。さらに堺・南宗寺に学び、1604年(31歳)、印可を受け沢庵の号を授かる。1609年(36歳)、大徳寺の第154世住職に選ばれるが、沢庵は高い地位には興味を示さず、3日後に大徳寺を出て南宗寺に移った。1620年(47歳)、故郷に戻り宗鏡寺の庵に住む。
この時代、2代徳川秀忠は政権安定の為にも、僧侶が巨大な力を持つことを好まず、各地の有力寺院に弾圧政策をとっていた。1627年(54歳)、後水尾天皇が大徳寺&妙心寺の僧に紫衣(しえ=高僧に朝廷から与えられる法衣)を賜ったことを、幕府は「事前に届け出せずに行なった」と問題にする。朝廷に対する幕府の優位を明確にするため、そして紫衣勅許の乱発を防ぐため、幕府は認可した僧にしか紫衣着用を許さないという方針を決めていた。
1629年(56歳)、幕府の宗教界への圧力や紫衣の取り上げに抗議していた沢庵ら4名の高僧は流罪となり、沢庵は出羽国・上山(かみのやま)藩に預けられた。同年、後水尾天皇も譲位。「心さえ潔白なら身の苦しみなど何ともない」とする沢庵。配流先では名僧への敬意から藩主が春雨庵を寄進するなど厚いもてなしを受けた。
流刑3年目の1632年(59歳)、2代徳川秀忠が死去。大赦令が出され紫衣事件の関係者は許される。1634年(61歳)、故郷に帰るも3代徳川家光に懇願されて江戸に上る。家光は歯に衣を着せぬ沢庵の気骨に惚れ込んでいた。家光は周囲にイエスマン以外の相談役が欲しかったのだ。1638年、国師号を辞退。1639年(66歳)、家光は沢庵の為にわざわざ品川に東海寺を建て開山を依頼。沢庵は故郷に戻りたかったが、将軍自らの説得により引き受ける。2年後、かつての配流先の藩主が東海寺の中に春雨庵と同じ庵を建立して寄進。1646年、「夢」の一字を書き残し江戸にて他界。享年73歳。家光が沢庵のもとを訪れた回数は75回にも及び、そこからも沢庵の人間的魅力がよく分かる。幕府から剥奪された紫衣を最終的に奪還した。 沢庵は茶の湯や書画もよくし、剣禅一致を説いた著書『不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)』を剣豪・柳生宗矩に贈り、その思想は宮本武蔵にも影響を与えた。沢庵の『不動智神妙録』、柳生宗矩の『兵法家伝書』、宮本武蔵の『五輪書』は後の武道家の聖典となる。ちなみに沢庵死去の同年に宮本武蔵も他界しており、翌年に柳生宗矩が死去している。
漬物「沢庵」の考案者ともいわれるが、次のような話も伝わっている。沢庵漬けはそれまで“貯(たくわ)え漬”と呼ばれ、関西では保存食として親しまれていた。ある時、家光から“最近は何を食べても美味しくないので何か良いものがあれば食べさせてくれ”と言われた沢庵は、快諾して翌朝10時に訪問するよう答えた。翌日、家光を茶室に通した沢庵はそのまま姿を消し、午後3時を過ぎてやっと現れた。空腹で倒れそうな家光の前に出された食膳には、大根の漬け物2枚と、おかゆのみ。家光はガツガツとかき込み「これは旨い」と2杯目を所望した。腹が満たされた家光に向かって沢庵はこう言った「毎日高価な食材を食べて口が贅沢になっているので、これからは空腹になってから食事されますように」。家光は怒ることなく、その漬け物を“貯え漬”ではなく“沢庵漬”として江戸に普及させたという。 ※若き武蔵が京都大徳寺の大仙院で沢庵と戦って負けたいう話は、残念ながら吉川英治の創作とのこと。
●墓巡礼記 かつては広大な面積を誇った東海寺。沢庵の墓は自らが住職を務めた東海寺の墓所にあるけれど、境内が今は小さくなっており、墓所はJRの線路を越え、本堂から200mほど離れた“飛び地”になっている。
沢庵の遺言がキョーレツで、宗教者としては空前絶後といっていい。
(1)自分の葬式をしてはならない (2)香典はいっさいもらってはならない (3)死骸は野外に埋めて二度と参ってはならない (4)墓は造るな (5)朝廷が名(禅師号)を与えようとしたら断れ (6)法事をしてはならない という実に驚くべきもの。達観しまくり!“墓を建てるな”との遺志だけど、徳の高い沢庵を偲ぶ人々は多く、残された人間の愛が墓を建立させた。東海寺の墓の上には楕円形の岩がドシンと乗せてあり、それがまるで漬物石そっくり。何ともユニークな墓だ。この他に、故郷である兵庫県豊岡市出石町の宗鏡寺にも墓がある。 |
「長崎被曝石」 | 東海寺の「原爆犠牲者慰霊碑」(2010) | 「広島被曝石」 |
ひたすら座禅をすることで、自身の 内にある仏に出会えと説いた |
諡(おくりな、死後贈られた名)は 仏性伝東国師・承陽大師 |
鎌倉前期の禅僧で日本曹洞宗の開祖。臨済宗の公案(問答)を中心とした禅に対し、只管打坐(しかんたざ/ひたすら坐禅をすること)を提唱し、自身が持つ本来の仏性に目覚めよと説いた。公家や武士など権力者との結びつきを避け、永平寺を創建し弟子の養成に専念した。出家主義にもとづくきびしい修行のもとに教団を形成した。諱(いみな)は希玄(きげん)。号は仏法房。勅諡(ちょくし、天皇から贈られた称号)は仏性伝東国師・承陽(じょうよう)大師。俗姓は源氏。
1200年1月26日、もと関白の血筋である内大臣・久我通親(こが みちちか/1149-1202/源通親)を父、太政大臣・藤原基房(もとふさ)の娘を母として宇治木幡(京都)に生まれた。 満2歳で父を、7歳で母を失い、12歳のときに養父で伯父の藤原師家が制止するのを振り切って、比叡山麓に天台僧であった外叔父の良観を訪ね、そのすすめで比叡山横川(よかわ)の千光房(せんこうぼう)にはいった。 翌1213年(満13歳)、天台座主(ざす)公円(1168-1235)のもとで剃髪し、戒壇院で菩薩戒を受けて仏法房“道元”と名のった。天台宗の教学を学ぶうち、天台宗では人は生まれながらにして悟りをひらく性質=仏性(ぶっしょう)を持っていることを説きながら、なぜ修行の必要性を説くのか(天台宗ではすべての人が仏であると教えるのに、既に仏である人がなぜ修行しなければならないか)に疑問を持つ。これを高僧たちに尋ねるが、いずれにも満足な解答を得ず、比叡山での修行に見切りをつけて山を降り、三井寺=園城(おんじょう)寺の座主公胤(こういん)を訪ねた。そこでも答えを得ず、公胤から「宋(中国)で禅宗を学んでくるのがよい」と入宋を勧められた。1217年秋、17歳で臨済宗の建仁寺(栄西創建)に赴いて栄西の高弟・明全(みょうぜん/1184―1225)に師事して禅を学ぶ。※栄西(えいさい/1141-1215)は2年前に他界。 1219年(19歳)、3代将軍源実朝が鎌倉八幡宮で暗殺される。 1221年(21歳)、承久の乱が勃発。 1223年(23歳)2月、建仁寺に入って6年、道元は比叡山から続く宗教的疑問の解決を求めて、師の明全とともに宋にわたる。亡き源実朝の妻や家臣が入宋(にっそう)を支援したとも。渡航後の道元は、いったん浙江省の天童山(天童寺)に滞在して臨済宗を学び、翌年(24歳)にひとり中国各地を遍歴し天台山など大陸禅の体験を積んだ。入宋2年目、1225年(25歳)4月に明全が41歳で病没し、直後に再び天童山に戻った。道元は初めて長老、天童如浄(てんどうにょじょう)に面謁し、一見して弟子入りがかなう。道元は如浄のもとで厳しい修行を続けて曹洞禅を学び、5カ月後に身心脱落し、大悟(だいご/悟りを開く)して如浄から印証(印可/悟り済の証明書)をさずけられた。曹洞禅を体得して如浄に学ぶこと3年、入宋から4年の1227年(28歳)に明全の遺骨を抱いて帰国した。 ※曹洞宗は中国の禅宗五家の一つであり、唐の時代の禅僧・洞山良价(とうざんりょうかい)を開祖とする。 1227年(27歳)秋、帰国した道元は曹洞禅を伝える。これは36年前、1191年に帰国した栄西が臨済禅を伝えて以来の新しい禅だった。道元はしばらく建仁寺にとどまり、坐禅第一主義による厳格な宋風純粋禅を唱える。道元は坐禅こそ安楽の法門であるとした開教伝道の宣言書「普勧坐禅儀」をあらわし、坐禅の方法や心得を説いた。このため天台衆徒の反発をまねき、1230年(30歳)、山城国(京都府)深草の安養院に隠棲、如浄から学んだ仏法こそ釈尊の説いた仏教の神髄との信念から、1231年より仏教思想書《正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)》の著作にとりかかる(没するまで22年間執筆を続けた)。道元は、天台、真言、臨済、真宗などの諸宗に鋭い批判を浴びせ、末法思想や念仏、祈祷などを厳しく非難した。 1233年(33歳)、坐禅の修業を行う場として、尼僧の正覚尼(しょうがくに※源実朝の妻説あり)などの寄進によって、現在の宇治市に深草興聖寺(興聖宝林禅寺)を建立して10年強を過ごし、人々を教化し入門者をふやした。臨済宗からの集団入門もあった。1237年(37歳)、入門者が増加したため《典座教訓(てんぞきようくん)》を著して「どのようなことでも修業と思って過ごすべき」と興聖寺教団の修行生活を厳しく規正した。 一方、規模が大きくなりすぎたことや、道元が他宗をはげしく排撃したため比叡山や臨済宗の圧迫をうけたため、道元は自分が伝えた禅宗こそ国家護持のための正法であることを力説する《護国正法義》を著した。 1243年(43歳)、深草の興聖寺教団の近くに、弁円が藤原一門の絶大な庇護を受けて東福寺を建立し、天台、真言、臨済の3宗を併置したので、東福寺の教団からも大きな脅威を受けるに至った。道元は大陸での師、如浄禅師の遺誡(いかい)「真実の仏法を挙揚するために権力とは距離を置き深山幽谷(ゆうこく)に居せよ」もあって、1243年(43歳)、俗弟子で越前(福井)の土豪・波多野義重の勧めを受けて義重の領地である越前にくだった。 1244年、44歳で大仏寺の開山となり、2年後に同寺を「永平寺」と改称し、自身の法名を道元から希玄に改めた。ここで10年間《正法眼蔵》を書きつづけ、また僧堂生活の規範である《永平清規(しんぎ)》2巻もあらわし、弟子の養成に尽力した。 1247年(47歳)、同年に三浦一族を滅ぼし北条氏の独裁体制を確立した鎌倉幕府五代執権・北条時頼(1227-1263)に招かれて鎌倉へ出たが、巨大寺院の建立を固辞し、半年ほどで永平寺へ帰った。 1252年(52歳)、道元は病を得て伏せる。 1253年、永平寺を高弟・懐弉(えじょう)にゆずって療養のため京都にのぼったが、9月29日(旧暦8月28日)、西洞院の俗弟子・覚念の邸において求道の53年の生涯をとじた。 遺偈(ゆいげ)に「五四年第一天を照らす。箇の跳(ぼっちょう)を打(た)して大千を触破(しょくは)す。渾身(こんしん)覓(もと)むるなく、活(い)きながら黄泉(こうせん)に落つ」。 著『正法眼蔵』95巻、『永平広録』10巻、『永平清規(しんぎ)』2巻、『学道用心集』1巻、『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』1巻、『宝慶記(ほうきょうき)』1巻、『傘松道詠(さんしょうどうえい)』1巻など。 永平寺第2代の懐奘は永平寺僧団を守り、師の大著《正法眼蔵》を完成させた陰の功労者となった。道元の門弟詮慧(せんね)はその弟子経豪(きょうごう)とともに《正法眼蔵》の最古の注釈である『御聞書抄』を著した。 没後601年の1854年に孝明天皇より「仏性伝東国師」の諡号(しごう)を賜る。 1879年に明治天皇より「承陽(じょうよう)大師」の諡号を加賜された。 ※道元は貴族・権勢に近づくことを避けた。後嵯峨天皇から紫衣を賜わったが、一生身につけなかった。「臨済将軍曹洞士民」という言葉は、臨済宗が武家政権(幕府)と強く結びついていたのに対して、曹洞宗は地方の武士や民衆に広まったことを指すもの。 ※釈迦が坐禅の修行で悟りを開いたことから、道元は座禅によって釈迦に還れと唱え、坐禅する姿そのものを「仏(悟り)の姿」とし、理論よりも実践を重んじた。曹洞宗の教えの根幹は坐禅であり、ひたすらに坐るという「只管打坐(しかんたざ)」。悟りを得る手段として修行するのではなく、修行と悟りを一体と見なす「修証一如(しゅしょういちにょ)」の教えに基づく。また、起床・食事・掃除・洗面・入浴など、日常生活のすべての行為に坐禅と同じ価値を見いだし、禅の修行として行うことを説く。 ※道元は禅という宗名すら拒否して、ひたすらに座禅に徹するとともに全一の仏法を挙掲しつづけた。道元が入宋した当時の中国の宋朝禅は、臨済宗、曹洞宗、法眼(ほうげん)宗など分派を含め五家七宗の禅に分かれていたが、道元は五家分派以前の全仏法に真髄があるとし、あえて禅宗の宗名を排して正伝の仏法を強調した。 ※臨済宗の坐禅は人と向かい合って坐禅を行うが、曹洞宗は「面壁(めんぺき)坐禅」であり壁に向かって禅を組む。加えて、臨済宗の坐禅は師から与えられる「公案」について考えながら行う看話禅(かんなぜん/宋朝に成立)だが、曹洞宗は黙ってひたすら坐禅する「黙照禅(もくしょうぜん)」。看話禅が仏に向かう修行であるのに対し、道元の示す只管打坐(しかんたざ/ただひたすら坐禅すること)は、仏になるための修行でなく、それ自体が仏の行であるとする。 ※『正法眼蔵』の根底は「現に成立しているものは絶対の真理である」と考える“現成公案(げんじょうこうあん)”。道元は、あらゆるものは現に成立しているものであり、絶対の真理であり、人間もその一つとして絶対の真理に生かされているとした。 ※「身心脱落」の境地は曹洞宗の根本聖典『正法眼蔵』1巻に「仏道をならふといふは自己をならふ也。自己をならふといふは自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは,万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは,自己の身心をよび他己の身心をして脱落せしむるなり」とある。修行によって自己の身心が澄み切った水のごとく透明になるとき、そこに世界の森羅万象が隠れなく映し出される。 ※禅宗では読経を始める前に「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」(お釈迦様に帰依します)と唱える。本来の禅は来世の概念がなく不立文字(ふりゅうもんじ/悟りの道は、文字・言語によっては伝えられるものではない)を旨とし、坐禅や公案(こうあん/問答)を中心として自力による悟りを自己の心中に形成することを目的とした。 ※永平寺蔵『明全戒牒識語』は真跡として著名。 ※瑩山紹瑾(けいざん じようきん/1268-1325)…永平寺第四祖・瑩山禅師は日本曹洞宗の中興の祖で総持寺の開山。曹洞宗では道元を高祖、瑩山を太祖として仰いでいる。瑩山は多くの優れた弟子を養成し大衆教化にもつとめた。道元は祈祷や祭礼を否定はしなかったものの、その対象は永平寺の僧たちの安全祈願及び寺院周辺の天候回復などの祈願が主であり、他の寺院が行なっている寺院以外での加持祈祷は禁じていた。瑩山は出家修行に加えて密教的な加持、祈祷、祭礼などを取り入れ、下級武士や商人に禅を伝え信徒を拡大した。晩年の道元は女性の出家修行に否定的であったが、瑩山は積極的に門下の女性を住職に登用し、女人成道を推し進めた。瑩山は1313年に能登(現在の石川県羽咋市)永光寺(ようこうじ)を開山。1321年、藤原行房の書による「總持寺」の勅額と紫衣(しえ)を天皇から賜り、能登總持寺を開山した。2015年時点で、曹洞宗は伝統宗派(単一宗教宗派)で最多となる約1万5千の寺院数を持ち、信者数は約350万人であるが、その隆盛は瑩山とその門下によるものであり、全寺院の8割は元は瑩山の総持寺系と言われる。このため、瑩山は第4世でありながら、釈迦、道元と共に一仏両祖として尊崇されている。 ※曹洞宗では福井県永平寺町の永平寺(1244年道元開山)と神奈川県横浜市の總持寺(1321年瑩山開山)の二つを大本山とする。總持寺は石川県輪島市にあったが1898年に焼失し、1911年に横浜市に移転した。永平寺は回廊で結ばれた当時のままの七堂伽藍など70余棟の堂宇が建ち並び、多くの修行僧が厳しい修行生活を送っている。總持寺は石原裕次郎や女優の川上貞奴(さだやっこ)、国際司法裁判所所長・安達峰一郎など著名人の墓が多い。赤穂浪士が眠る泉岳寺や、国宝の高岡(富山)・瑞龍寺、庭園が有名な京都・詩仙堂も曹洞宗の寺院。 ※曹洞宗の本尊は決まっておらず、「釈迦如来」が多いが各寺院の縁で菩薩を本尊とすることもある。基本経典として、道元の「正法眼蔵」と瑩山の「伝光録」を尊重する。 ※臨済禅は唐末の禅僧・臨済義玄(?‐866)を宗祖とし、その言行を集める《臨済録》をよりどころとする。日本臨済禅はむしろ宋代の楊岐派による再編のあとをうけ、とくに公案とよばれる禅問答の参究を修行方法とする ※曹洞宗・臨済宗と並ぶ日本三禅宗の一つ、黄檗宗(おうばくしゅう)は、1227年に道元が日本に曹洞禅を伝えてから427年後の1654年、明の僧隠元によって伝えられた。もと中国臨済宗の一分派で、本山は隠元が京都宇治に建立した黄檗山万福寺。宗風は臨済宗とほぼ同じだが、明代の仏教的風習が加味されている。明治に入り1874年に臨済宗と合併したが、二年後に独立して一宗派となった。 (臨済宗との比較の参考)https://www.e-sogi.com/guide/16641/ |
若い頃は僕らがイメージしてる諭吉と全然違う! |
写真屋の娘さんと♪ 諭吉も隅に置けない |
大阪市北区の『福沢諭吉誕生地』碑(2012) | 大阪には中津藩(大分県)の藩邸があった | 敷地には「天ハ人ノ上ニ…」の石碑 |
この先に善福寺の山門がある。背後の マンションがあまりに景観とミスマッチ |
初巡礼時。諭吉の墓は樹齢700年と東京最古で天然 記念物の巨大な“逆さ銀杏”と向き合っている(2001) |
約10年ぶりに再訪。目立つような 大きな変化はなかった(2010) |
諭吉は夫婦で眠っており『福沢諭吉 妻阿綿之墓』と彫られている |
浦賀湾 | 「咸臨丸出港の碑」(2009) | 裏側に乗組員全員の名前と役職が彫られている |
故郷、大分県中津駅前の福沢諭吉像 |
父は中津藩(大分県)の下級藩士。大阪の藩邸で生まれる。諭吉の父は儒学に造詣があり財政にも通じていたが、下級武士であった為に能力を発揮できず、怒り嘆きながら1歳半の時に病没した。諭吉はこの件に関し「封建制度は親の仇でござる」と残している。父の死の翌月、母は子どもたち5人を連れて大分へ帰郷。諭吉は12歳から漢学塾に通い始め、20歳の時に長崎で蘭学を学んだ。翌年、大阪にて緒方洪庵の「適塾」でさらに蘭学の知識を深める。
1858年(23歳)、江戸に出て藩邸で塾を開き、これが慶應義塾の起原となった。同時期に、ペリー来航を受けて横浜が開港したことで、これからは英語が必要になると直感し独学で英語を学ぶ。 ※諭吉は世代的には坂本龍馬の1つ年上、高杉晋作の4つ年上、吉田松陰の五つ年下にあたる。 1860年(25歳)、幕府のアメリカ派遣使節の従者として咸臨丸で渡米。そしてサンフランシスコで異文化に触れ、習慣の違いに仰天する。彼はこの時の気持ちを「日本を出るまでは怖い者なしと威張っていたのが、初めてアメリカに来て花嫁のように小さくなってしまったのは自分でもおかしかった」と記した。52日間の滞在で最も衝撃を受けたのは次の会話だった。 「私はふと、ある人に今ワシントンの子孫はどうなっているかと聞いてみた。その人の言うに、ワシントンの子孫に女の人がいたはずだ。今どうしているか知らないが、何でも誰かの妻になっている様子だと、いかにも冷淡な答えで何とも思っておらぬ。これは不思議だ。もちろん私も、アメリカは共和国、大統領は四年交代ということは百も承知の事ながら、こっちの頭には源頼朝、徳川家康というような考えがあって聞いたところが、今の通りの答に驚いた」。 諭吉は、初代大統領の子孫は高い地位に留まっていると思っていたので愕然としたのだ。徳川家康の子孫が15代にわたって将軍であり続けた日本に対し、初代大統領の子孫が一市民として暮らすアメリカ。目からウロコが落ちるとはこのことだった。 翌1861年(26歳)、幕命によって今度はヨーロッパへ渡り、ロシアを含む欧州諸国を視察。5年後(31歳)に、豊富な海外知識を記した『西洋事情』全三巻(1866)を刊行した。1867年(33歳)、江戸時代最後の年に2度目の渡米。今回はNY、ワシントンにまで足を伸ばし見聞を広めた。 維新後は塾名を慶応義塾と改名し、教育に専念する為に明治政府からの登用、勧誘を断った。1872年(38歳)、諭吉が12年前に最初の渡米で驚愕したワシントンのエピソードは、この年に刊行された『学問ノススメ』の冒頭の言葉“天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり”に結実した。そして、本来平等なはずの人間に賢人と愚人の差が生まれるのは、学ぶと学ばざるとによると訴えた。同著では古い封建主義を批判し、「大名の命も人足の命も、命の重きは同様なり」「旧幕府の時代は身分の区別が激しく、士族はみだりに権威を振るい、百姓・町人を罪人のごとく取り扱い、切捨て御免の法まであった。この法によれば、平民の生命は自分の生命ではなく借り物に過ぎないという。百姓・町人は由縁(ゆかり)もなき士族へ平身低頭し、外にありては路を避け、内にありて席を譲り、自分の家に飼っている馬にも乗られぬほどの不便利を受けたのは、けしからぬことだ」と記した。そして巻末ではたくさんの人間と出会い、交流を深め、「人にして人を毛嫌いするなかれ」という人間讃歌で締めた。同著は8年間で70万部、最終的に300万部以上も売れる大ベストセラーとなった。当時の人口が約3千万人であったことから、10人に1人が手に取った計算になる。 その後、西南の役では西郷を擁護するなど薩長藩閥と対立し、明治政府には出仕せず、民間教育者の立場を貫いた。1901年、脳出血により他界。享年66歳。戒名は「大観院独立自尊居士」。“独立自尊”の文字がいかにも諭吉らしい。 ※男尊女卑が当たり前だった江戸時代。諭吉は欧米で“レディー・ファースト”という概念と出合い、また一般家庭を訪問した際に、夫がお茶を運び妻がテーブルにつく光景に出くわし面食らった--「いかにも不審なことには、おかみさんが出て来て座敷に座り込んでしきりに客の取り持ちをすると、ご亭主が(お茶を出すなど)周旋奔走している。これはおかしい。まるで日本とアベコベなことをしている」。後年、彼が著作『日本婦人論』などを通して積極的に女性の政治参加や性の解放を主張したのは、欧米での体験が源流になっているのだ。 ※慶應義塾大学三田キャンパスに終焉の地碑がある。諭吉は大学の敷地内に住んでいた。 ※諭吉名言録。「自由とわがままとの境は、他人の妨げを為すと為さざるとの間にあり」「今日も、生涯の一日なり」「(日本の政治は腐敗しているが)良民の上には良き政府ある。ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり」。 ※夏みかんの皮でマーマレードを作ることを考えたのは諭吉。「議論」「演説」「文明」は諭吉が造った言葉。 ●墓巡礼記
諭吉の墓は1977年に品川区大崎の常光寺から、福沢家の菩提寺である麻布の善福寺に移転した。善福寺は空海が開山という非常に古い寺。江戸時代後期には寺院内にアメリカ公使館が設けられハリスが滞在していた。2度も渡米した諭吉の墓が善福寺に改葬されたことに縁を感じる。墓石は墓地に入ってすぐ右手にあり、東京最古となる樹齢700年の巨大な“逆さ銀杏”(天然記念物)と向き合っている。 命日は“雪池忌(ゆきちき)”と呼ばれ慶應義塾の関係者が多数訪れる。寺の周辺は今も大使館が多い。 |
【考察】福沢諭吉は差別主義者か?〜いわゆる『脱亜論』について 政治系のネットでよく見かけるのが、以下の『脱亜論』コピペ。
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日本の不幸は中国と朝鮮である。
この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているが、
もともと人種的に異なるのか、教育に差があるのか、 日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。 情報がこれほど早く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、 過去に拘り続ける中国・朝鮮の精神は千年前と違わない。 国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。 もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待し てはならない。 「東アジア共同体」の一員として その繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。 日本は、大陸や半島との関係を絶ち、 欧米と共に進まなければならない。 ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。 この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。 悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。 私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。 福沢諭吉 「脱亜論」(明治18年) ---------------------------------
『学問のすゝめ』で「大名の命も人足の命も、命の重きは同様なり」と書いている諭吉と、『脱亜論』で蔑視発言をしている諭吉が僕の中でずっと一致しなかった。そこでいろいろ調べて分かった事がある。諭吉は朝鮮や清の政府権力を批判しても、民族全体を蔑視したことはなかった。それに原文には「国際的な紛争の場面でも“悪いのはお前の方だ”と開き直って恥じることもない」にあたる文章はない。
(1)「脱亜入欧」という言葉を諭吉の信念の如く思い込んでいる人がいるが、諭吉が「入欧」という言葉を使った事は一度もなく、「脱亜」という単語も使用されたのは「脱亜論」1編だけ。つまり「脱亜入欧」が諭吉の思想の核にあったわけではない。
(2)しかも「脱亜論」は諭吉主宰の『時事新報』(1885年3月16日付)の社説ではあるが、あくまでも無署名であり、諭吉が書いたという証拠はない。複数の人物が社説を書いており高橋義雄など別人の起稿ではないか。その証拠に、諭吉自身は掲載の前も後も「脱亜論」に言及したことがない。
(3)「脱亜論」掲載時、この社説は世間で全く話題になっておらず、発表から48年が経過した1933年(満州事変2年後)に、岩波『続福澤全集・第2巻』へ収録されるまで忘れられていた。
(4)さらに18年が経った1951年、戦後になって歴史学者・遠山茂樹が「脱亜論」を“発見”し、アジア侵略論の源流として紹介した。 (5)近年、「脱亜論」の原文から一部分のみを抜粋し意訳したものを右派が好んでネットに流している。 (6)諭吉自身は朝鮮人を蔑視するどころか、朝鮮近代化への大きな情熱を持っていた。慶應義塾に朝鮮人留学生を積極的に受け入れ、朝鮮文化発展の為に私財を投じて朝鮮最初の新聞を発行し、ハングル活字を鋳造させた。
(7)諭吉は朝鮮にも封建制度を終わらせる維新が必要と考え、近代化を目指す朝鮮開化派の金玉均(きん・ぎょくきん)らを全力で支援した。1884年12月4日、朝鮮で開化派が決起し「甲申事変」が勃発。このクーデターで開化派は新政府を樹立したものの、清軍の介入によって三日天下に終わった。
(8)金玉均など開化派の中心人物は日本に亡命し、諭吉は保護に奔走する。一方、朝鮮にいる開化派の家族は、見せしめのため三親等(曾祖父母〜曾孫)まで捉えられ、恐ろしく残虐な方法で処刑された。
(9)「脱亜論」が掲載されたのは「甲申事変」のクーデター失敗から約3ヶ月後。仮に諭吉が起稿したとすれば、文中にある「朝鮮国に人を刑するの惨酷(ざんこく)あれば」「支那人が卑屈にして恥を知らざれば」などは、開化派処刑への激しい義憤から叩き付けたもので、差別意識から書かれたものではない。
(10)つまり、「脱亜論」は諭吉が書いたものか分からないし、また、書いたとすれば“朝鮮近代化の夢=甲申事変の挫折”という背景を知る必要があり、その後は2度と諭吉が「脱亜論」を語っていないことからも、この社説をもって「あの諭吉も中国・朝鮮人の愚かさを語っている」とする右派も、「諭吉は差別主義者だ」と糾弾する左派も、共に的外れとしか言いようがない。
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日本美術界の恩人 | 福井市にある天心像 | 政治家でも武将でもないのにめっさ巨大 | 本人もびっくりだろう(笑) |
JR福山駅前の『五浦釣人像』(2009) | 釣り竿を持った五浦の天心像だ(作者は故平櫛田中氏) | 都落ちしても誇りを失わず! |
墓の建立時、「妙高裾野の秋草」で上を覆った といい、意図的に草を生やしたようだ(2001) |
墓の上は草がボーボー。ここにかつて天心の 胸像があったという噂は真偽を確認できず(2006) |
巡礼3度目にして晴れました(2010) |
墓所全体。竹垣の中が岡倉家 | 隣には『永久の平和』の石碑 | 芸術、万歳! |
明治期の美術指導者・思想家。本名、覚三。横浜生まれ。父は福井藩士。「天心」の名は、胸にあった傷が天の字に似ていたから酔狂で付けたもの。天心が成人したころ、明治初期は、狩野派、円山派、浮世絵諸派など、伝統的な日本画は、人材の不足もあって世の流れから取り残され、壊滅寸前の状態にあった。
天心は学生時代に、日本美術の熱烈な愛好家だった米国人教師フェノロサに師事したことや、卒業後に文部省職員として、文化財保存の為にフェノロサと共に全国の社寺を訪問し、名宝を調査していた。そこで法隆寺夢殿の絶対秘仏(住職でさえ見られない)、救世観音を千年ぶりに開扉しその美しさに大感激している。 さらに、欧州での西洋美術の視察体験から、日本美術の素晴らしさを確信。美術学校開設の必要性を痛感した天心は、1889年(26歳)、今の東京芸大を設立し初代校長となった。この年、世界最古の美術専門誌『國華』を刊行、創刊の辞に「美術は國の精華なり」と刻んだ。 ところが9年後に、日本美術復興にかける苛烈で精力的な活動が、保守派や留学した洋画家ら一部の反感をまねいて排斥騒動にあい、校長辞職に追い込まれてしまう。この際、天心の熱い志に心酔していた教員たち、横山大観、下村観山、菱田春草、橋本雅邦らが連名で抗議辞職したのを受け、彼は新たに日本美術院を創設した(1898年)。天心が推し進めた画法は、従来の日本画と全く異なり、西洋の印象派のように輪郭線をなくして、その場の空気感を表現しようとするものだった。この作風は海外で絶賛されたが、日本画壇からは侮蔑の意味を込めて「朦朧(もうろう)体」「化け物絵」と呼ばれ中傷された。これにはさすがの天心もすっかり沈み込み、突如インドへの放浪の旅に出る。その旅先で大詩人タゴールと出会い、芸術における民族主義に開眼。1903年(40歳)、ロンドンで著書『東洋の思想』を出版したことを皮切りに、『日本の覚醒』『茶の本』などを執筆、日本文化を積極的に海外へ紹介する(名著『茶の本』は親日派欧米知識人のバイブルとなった)。翌年、ボストン美術館に東洋部門顧問として正式に招かれる。生涯を通して、貧乏な若い画家たちに資金を援助するなど、物心両面から育成に努めてきた天心は、長年の多忙極まる日々の無理がたたり、腎臓を壊し50歳で逝った。 染井霊園の天心の墳墓は、弟子であった中国美術学者・早川天真の考案で、方形の石の表面に戒名の釈天心(自筆)を刻み、その上に芝を植え、土饅頭を築いた中国風の形式を採っている。当初は天心が風景を愛していた新潟妙高山の裾野の秋草で上を覆ったという。以前、僕は何かの資料で墓の上に胸像があったというのを読んだけど、情報のウラがとれない。ガセなのかな? ※10代後半で結婚した天心は、夫婦喧嘩で若妻に卒論の「国家論」を焼き捨てられ、代わりに「美術論」を執筆したことが日本美術への造詣を深める結果になったという裏話がある。
※誕生日について。1862年12月26日生まれというのは旧暦。西暦では1863年2月14日になる。 ※「西洋は日本のことを野蛮な未開国だとみなしてきた。だが、満州において大規模な戦いを行うと日本を文明国と呼ぶようになった。血生臭い戦争という栄光に立脚しなければならないのなら、我々は野蛮国でいることにしよう」(岡倉天心『茶の本』) |
救世観音 |
ガーン。この壁より向こうには行けないんだって | 前庭には「茶碑」があった |
「ようさい」ともいう。別名、葉上房、千光法師。鎌倉初期の禅僧で臨済宗の開祖。岡山で神主の家に生れる。13歳で出家して比叡山延暦寺で受戒し、18歳の時に鳥取・伯耆大山寺(だいせんじ)で天台密教の奥義を学んだ。1168年(27歳)、かねてから夢だった宋に博多から渡り、かつて575年に仏僧智(ちぎ)が天台宗を開いた聖地・天台山を訪れた。
当地は禅宗が強く支持を集めており、栄西も大いに感化された。一ヵ月半後に天台の経巻60巻を携えて帰国し比叡山へ戻るが、この頃の延暦寺は僧侶たちが権力争いに明け暮れていたので、仏法復興の為にもインドへ渡って釈迦の足跡を辿りたいと願うようになった。そして1187年(46歳)、19年ぶりに大陸に渡航する。 しかし、宋から陸路インドに入ろうとしたところ、金軍の南下という治安上の問題で許可が出ず泣く泣く帰国することに。だが、博多へ向けて乗船したが船が逆風で難破し温州に漂着。これがきっかけとなって天台山万年寺の高僧と出会い師事し、本格的に臨済禅(南宋禅)の修行を積み、明菴(みょうあん)の道号を与えられる。4年後(1191年)、宗の船に便乗して帰国に成功すると、筑前、肥後を中心に、まず北九州から戒律重視の臨済禅を伝え始めた。これは、当時の京都が天台宗&真言宗という平安時代が生んだ2大勢力の下にあり、すぐに新興宗教となる禅宗の布教活動を開始できる状況ではなかったからだ。 お経もなく、仏を拝むのではなく、座禅を通して自らが仏であることを悟る禅宗。栄西は旧仏教界との対立を避ける為に天台宗だけでなく真言宗も学ぶなど調和に努めたが、禅宗が広がるにつれ、それを快く思わない旧仏教界からの迫害を受ける。1194年(53歳)、比叡山からの告訴を受け、ついに朝廷から禅宗の布教禁止の命が出されてしまう。大宰府で尋問を受けた栄西は「禅は天台宗の復興に繋がる。禅の否定は最澄の否定だ」と主張してその場を押し切り、翌年には博多に日本初の禅寺となる聖福寺を建てた。 圧迫を受けて逆に禅を伝える使命感に火が付いた栄西は、1198年(57歳)、閉塞状態を打破する為に意を決して京都に入り、“禅は既存宗派を否定しておらず、目的はあくまでも仏法復興だ”と『興禅護国論』を記して弁明する。そして翌々年の1200年、今度は誕生から間もない幕府に庇護を求めて鎌倉へ赴き、禅宗の重要性を力説。厳しい戒律など精神性を重んじる禅に鎌倉武士は美学を感じ、将軍頼家や北条政子の帰依を得ることに成功した。そして政子の援助を受けて鎌倉での布教の根拠地となる寿福寺を建てた。 そして!幕府から京都に所有する直轄地を提供してもらうことで、1205年(64歳)、ついに禅寺(建仁寺/けんにんじ)を「京都に建てる」という悲願が実現した。※スムーズに建仁寺を創建できるよう、栄西は同寺を禅宗、天台宗、真言宗の三派を学ぶ為の寺とした。 その後も栄西は禅宗の浸透だけにこだわるのではなく、日本仏教全体に活力を与える為に、1206年には東大寺勧進職に就任して同寺の復興に尽力した。朝廷や幕府の間を精力的に立ち回る姿が、比叡山から「政治権力に媚びる慢心の権化」などと批判されたが、この間も浄土宗が弾圧を受け法然が配流されており、逆にそこまでしなければ旧仏教側の妨害の中で新しい禅宗を広められなかったとも言える。1215年、寿福寺にて74歳で病没した。(このとき、のちに日本曹洞宗の開祖となる道元は15歳) 栄西は2度目の渡航で大陸(宋)から茶の種子を持ち帰ると、長崎県平戸の千光寺、佐賀県背振山(せぶりやま、昔は茶振山と書いた)の雲仙寺・石上坊に植え、これが日本のお茶栽培の原点とされている。そして将軍源実朝に献上した『喫茶養生記』では「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」とその薬効を説き、具体的に栽培の適地や製法、茶のたて方まで細かく解説し、日本における茶文化の祖となった。そして実際に実朝の二日酔いを茶が癒したことで、茶の普及が加速したという。 ※建仁寺では栄西を“ようさい”と呼んでいる。また、命日を6月5日としている。
※建仁寺四頭(よつがしら)茶会…「茶祖」栄西禅師の誕生日である毎年4月20日に催される茶会。茶道の原型である古式の禅宗式の茶会。四頭は中国の禅寺の接客形式で、4人の正客(しょうきゃく、客の代表)が各8人の相判客(しょうばんきゃく、連客)を連れて席につく。この茶会の参加者は普段非公開の栄西のお墓「開山堂」を拝観できる。茶会には定員があり、3/1の受付開始と同時にネットで申込むのが吉。参加費は2万5千円。 ※栄西が茶の栽培に積極的だったのは、単に健康に良いだけでなく、お茶の持つ不眠作用が禅の修行に不可欠と思ったからだ。 ※宇治以前の京茶の名産地は栂尾(とがのお)だった。栄西が栂尾・高山寺の明恵上人に茶の薬効を話して栽培を薦めた後、同地では茶栽培が盛んになり、栂尾の茶を「本茶」、それ以外のものを「非茶」と呼ばれたほどだったという。 ※法然は栄西より8歳年上。 |
高崎藩の武士として江戸に生まれ、7歳の時に明治維新を迎える。16歳で札幌農学校(現北大)に入学、「少年よ、大志を抱け」で有名なクラークからキリスト教を知る。翌年にはメソディスト派の受洗を受け、23歳の時に米国へ留学し神学を学ぶ。帰国後、各地で教職に従事。1891年(30歳)、東大教養部において前年に明治天皇が発布した教育勅語の奉読式が行なわれた際、礼拝を強いられた内村は「天皇の署名のある勅語への礼拝は、天皇を神と認めることだ」と、最敬礼を拒否した。これが「不敬事件」と呼ばれ、非国民と非難された彼は学校から追放されてしまう。
その後、日本各地を転々を移り住みながら、1895年(34歳)、『余は如何にして基督(キリスト)信徒となりしか』を刊行、反響を呼ぶ。36歳、日刊新聞「万朝報」の英文主筆に就任。翌年には「東京独立雑誌」を創刊して、社会批判や政治評論を行なった。
内村はかねてから、欧米の宣教師たちが受洗者の数を競い合い、実績を上げることで満足している様子に怒りを覚えていた。彼にとって教会が信仰の内容よりも、自身の繁栄を追う態度を“宗教的自慰”として心から嫌悪した。そして宗教改革の原点である「信仰のみ」「聖書のみ」の立場を徹底するべく、教会組織も儀式的礼拝も廃した無教会主義の運動を開始する。個々人が聖書を通して神と直接向き合うことを目指したのだ。1901年(40歳)、この考えをもとに創刊した『無教会』巻頭の言葉に、内村はこう記す--「“無教会”は教会のない者の教会であります。天国には実は教会なるものはないのであります。天国には洗礼もなければ晩餐式もありません。しかしこの世に居る間は矢張りこの世の教会が必要であります。それは神の造られた宇宙であります。その天井は青空であります。その床は青い野であります」。
同年、彼は『余の従事しつつある社会改良事業』の中で、この頃の悲壮な決意を吐露している。「余はたびたび思う。余にしてもし貞応-貞永年間(鎌倉時代)にこの国に生まれて来たならばさぞかし幸福であったろう、されば余も及ばずながら鎌倉武士の中に加わって、少しは真面目なる、日本人らしき行動をなしたものを。もし松葉ヶ谷に日蓮上人が独り天下を相手に戦っておったならば、余も日朗上人にならい、千里をとせずして彼のもとを訪れ、彼の弟子となったものをと。しかしながら、何たる不幸か、この偽善政府をいただくこの偽善社会に生まれてきて、余の心に存する天賦の良性は少しも発達するの機会を与えられず、馬を見てはこれを鹿と言わざるをえず、嘘をつくのがかえって忠臣である義士であると唱えられることなれば、余は、人類の一人として、如何にしてこの世に処せんかと、ほとんど途方にくれる者であって、幾回か天を仰ぎ、地に伏して余の不幸を嘆ずるものである」と。
以後晩年に至るまで、彼は自宅で毎週のように聖書講義を行ない、文書での伝道も精力的に進め、学生や知識人を中心に多くの支持者を得ていった。また足尾鉱毒事件が起きると、田中正造と連帯して被害農民の救済運動にあたって財閥企業と対決し、さらには幸徳秋水らと社会改良団体「理想団」を結成するなど、熱い情熱を持って社会悪と闘った。後の日露戦争、第一次世界大戦に際しては、「汝、殺すなかれ」というキリスト者の立場から、終始徹底して非戦論を貫いた。1926年(65歳)、『イエスと日本〜二つのJ』を刊行。同著に「イエスは私を世界人とし、人類の友たらしめる。日本は私を愛国者たらしめ、それによって私をしっかりとこの地球に結合せしめる」と書き記した。内村は、政府とは違う立場をとったが、彼もまた真の愛国者なのだ。1930年、69歳で永眠。彼が創始した無教会主義運動は、現在も継承されている。
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墓には英文で以下の言葉が刻まれていた--- I for Japan,(我は日本のため) Japan for the World,(日本は世界のため) The World for Christ,(世界はキリストのため) And all for God.(そしてすべては神のために) |
小鳥たち | 大自然の中で | 香炉を炊く | 木に登って座禅 | リス | 木の下の下駄 |
御廟(墓所)の入口には、彼が詠んだ「山の端に我も入りなむ月も入れ 夜な夜なごとにまた友とせむ」 (山に入るので月も入っておいで。夜毎にまた友として語り合おうぞ)の歌碑がある。 |
和歌山有田出身。南都六宗の華厳宗(大本山は東大寺)の学僧。諱(いみな、没後の贈り名)は高弁。鎌倉初期の同時代を生きた法然、親鸞、日蓮と違って新宗派を開いた教祖ではないので、現代では知名度が低いけれど、当時は旧仏教界側の最も影響力の大きな人物の1人だった。父は平重国、母も武家出身。 1180年、7歳の時に母が病没、父も半年後に挙兵した頼朝軍と戦い東国で敗死してしまう。翌年、両親を失った明恵は、亡き母が生前に彼を京都高尾・神護寺の薬師仏に仕える僧にしたがっていたことから、同寺の叔父を頼って仏門を叩き、名僧文覚(もんがく)の弟子となる。 ※明恵は母がこの薬師仏に祈願して授かった子どもだった。 熱心に華厳宗を学び、16歳の時に東大寺にある鑑真が作った戒壇院で公式に出家。これまで以上に力を入れて修行するが、京都や奈良の僧たちが出世レースに明け暮れている姿を見て違和感を感じ、1196年(23歳)、故郷紀州に戻ると山中に小さな庵を建てそこに篭って修行を続けた。 この時の仏道を究めんとする明恵の決意は相当なもので、学識で有名になり傲慢になりつつあった自分を戒める為に、そして色欲の煩悩など全ての俗念を取り去る為に、庵に入ってすぐ右耳を切り落としている。彼は「これでもう自分から人前に出なくなる。人目をはばかり、出世しようと奔走することもない。私は心が弱いので、こうでもしなければ道を誤ってしまう」と語り、そして「目を潰すとお経が読めなくなる。鼻がないと鼻水が落ちてお経が汚れる。手を切ると印が結べない。耳は見栄えが悪くなるだけだ」と耳を選んだ理由をあげている。以後、明恵は自身の事を「耳切り法師」と呼ぶようになった。 ※ゴッホは耳を切ったり『ボンズ(坊主)としての自画像』を描いている。明恵の影響、というのは考え過ぎだろうが、文献で“坊主”を知っている以上、可能性が全くゼロともいえない。 1199年(26歳)、神護寺に帰るが、師の文覚が後鳥羽上皇への謀反の嫌疑で流刑となり死去、神護寺は荒廃し明恵は各地を流転する。次第にあらゆる全仏教の原点となる釈迦の遺跡を巡拝したいとの思いを強め、30歳、32歳の時に2度にわたってインド渡航を計画した。三蔵法師の旅行記などを熟読して長安からの日程表を作り旅支度をしたが、病に伏したり周囲の猛反対や神託の為に頓挫。実際、大陸の治安はチンギスハンの勢力拡大と共に悪化しており旅を出来る状況ではなかったという。 1206年(33歳)、後鳥羽上皇から京都郊外の栂尾(とがのお)を与えられ、華厳宗の修行道場として高山寺を再興する。明恵は坐禅をこよなく愛し、数日分の食料を小ぶりの桶に入れて裏山に行き、「一尺以上ある石で、私が坐ったことのない石はない」というほど、昼夜を問わず石の上、木の下などで坐禅を重ねた。 明恵は常に釈迦を深く慕い、憧れていた。心の中心にいたのは釈迦だ。彼は釈迦を敬慕するあまり、仏陀伝を聞いている途中で失神したという。そして釈迦の言葉を理解する為にも、学問、戒律、行を重視していた明恵は、1212年(39歳)、念仏(南無阿弥陀仏)さえ唱えれば阿弥陀の大慈悲で極楽往生できるという法然・親鸞の浄土教へ反感を持ち、『摧邪輪(さいじゃりん)』を著して、舌鋒鋭く猛烈に抗議した(ちなみに親鸞とは年が同じ)。 1215年(42歳)、臨済宗開祖の栄西禅師が没する。明恵は30歳頃から栄西と交流があり、明恵の誠実さに惚れ込んだ栄西は「宗派の後継者になって欲しい」と願ったが、明恵はガラじゃないとこれを固辞。栄西は「せめてこれだけでも」と、自分の大切な法衣を明恵に贈った。栄西は弟子達に「分からないことがあれば明恵上人に聞け」と言い残したという(すごい信頼ぶりだ)。 栄西はまた、宋から持ち帰った茶種を明恵に渡した。明恵は高山寺に茶園を作って栽培し、優れた効能を知ると宇治に広め、そこから静岡や各地に茶が伝わった。高山寺のある栂尾は茶の発祥地として鎌倉後期には日本最大の産地となり、毎年天皇にも献上された。 1221年(48歳)、承久の乱で幕府軍に追われて高山寺の境内に隠れていた上皇側の落武者をかくまい、明恵はその罪で六波羅(治安機関)の北条泰時の下に連行される。泰時に真意をただされた明恵はこう語った「私は親友に祈祷を依頼されても引き受けない。なぜか。全ての人々の苦しみを救う事が重要であり、特定の人の為に祈祷などしないのだ。この戦でも、どちらか一方の味方をするつもりはない。高山寺は殺生禁断の地である。鷹に追われた鳥、猟師から逃げてきた獣は、皆ここに隠れて命を繋いでいる。ましてや人が岩の狭間に隠れているのを、無慈悲に追い出せようか。むしろ袖の中でも袈裟の下でも隠してあげたいし、私は今後もそうするつもりだ。もしも、この当然のことが許されぬのなら、即座にこの愚僧の首をはねられよ」。この毅然とした態度、高潔な徳に泰時は胸を打たれ、無礼を謝ると帰りの牛車を用意して寺に届けた。この後、泰時は明恵を師と仰ぎ、教えを請うためにしばしば高山寺に足を運んだ。この2年後、明恵は夫を戦で失った妻たちの為に尼寺(善妙寺)を開いた。 1231年(59歳)、明恵は紀州で法要を行ない、帰って来た後に疲れが出て床に伏した。そして翌年1月、明恵は「今日臨終すべし」と告げて、弟子たちに「名声や欲得に迷わぬように」と戒め、しばらく座禅をした後、「時が来たようだ。右脇を下に身を横たえよう」と横になり、蓮華印にした手を胸に置き、右足を真っ直ぐ伸ばし、左膝を少し曲げて重ねた。最期は顔に歓喜が満ち、安らかな大往生だったという。明恵は禅堂院の後方に、弟子によって丁重に埋葬された。現在、廟前には毎年11月8日に茶業者が訪れ、その年の新茶を供える献茶式が行われている。 栄誉を避け、戒律を守り、ひたすら釈迦を慕い、心静かに修行し続けた清僧・明恵。訃報を聞いた天台座主の良快は、宗派が異なるにもかかわらず「今の世は、明恵上人のような人こそ聖人と言うのだ」と称えたという。 【月の歌人・明恵】 明恵がまだ10代半ばの頃、放浪歌人の西行法師が何度か神護寺を訪れており、明恵は歌道の指導を受けたという。明恵は一晩中屋外で座禅を組むことが多かったことから、「月の歌人」と呼ばれるほど月の歌を大量に詠んだ。その歌才は勅撰集に27首も選ばれているほど優れている。 「山寺に 秋の暁 寝ざめして 虫と共にぞ なきあかしつる」 (山寺の秋の朝焼け。眠れぬ私は虫と共に泣きあかしたよ) 「隈もなく 澄める心の 輝けば 我が光とや 月思ふらむ」 (隅々まで澄み切った私の心の明るい輝きを、月は自分の光と思うのではないか) 「昔見し 道は茂りて あとたえぬ 月の光を 踏みてこそ入れ」 (昔訪れた廃寺の草茂る道。私は月の光を踏み入って行く) 「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」 (明るい!明る過ぎるぜ、お月さまッ!) 「雲を出でて 我にともなふ 冬の月 風や身にしむ 雪や冷たき」 (雲から出て私に同行する冬の月よ、風が身に沁むだろう、雪が冷たいだろう) ※川端康成はノーベル文学賞受賞の記念講演「美しい日本の私」の冒頭でこの名歌を紹介した。 【高山寺】 寺内の石水院は戦火をくぐり抜けた鎌倉期の建物で国宝。『明恵上人座禅像』のほか、有名な『鳥獣人物戯画』(漫画の原点!)も寺の所蔵で、これまた国宝だ。明恵は幼くして死に別れた両親をよく懐かしみ、母の遺品の美しい櫛を、常に肌身離さず懐に入れていた。また夢で修行に出かける時はいつも仔犬が登場することから、仔犬を見る度に父母の生まれ変わりではないかと思ったらしく、明恵に帰依した名仏師・運慶が彫ってくれた木彫の仔犬を、常に机の側に置いて大切に可愛がっていたという。これらの櫛や仔犬像は現在も高山寺に保管されている。 ※平家一門が我が世の春を謳歌していた頃、明恵は建礼門院(清盛の娘、安徳の生母)に受戒を頼まれた。ところが、建礼門院は高座の御簾(みす)から手だけを出しており、明恵は静かにこう言った。「私は低い身分ですが釈迦の弟子となって久しく、高座に上らず受戒すれば師弟ともに罪に落ちると経にあります。どうか私以外の法師を招き御授戒ください」。びっくりした建礼門院は御簾から飛び出て彼を高座に座らせ、その後は深く帰依するようになったという。 ※明恵は19歳から58歳までの40年間、毎夜の夢を綴った。これは世界で唯一の夢の日記、『夢記(ゆめのき)』として知られている。 ※承久の乱の際、明恵は泰時への説法で許されたが、後鳥羽院は隠岐に流され、かの地で死去している。 ※高山寺は真言宗と華厳宗の寺であったが、江戸時代に真言宗のみに転じた。 ※インド旅行がボツになった悲しみを慰めるように、明恵は寺周辺の山に釈迦と縁のあるインドの山の名を付けている。 ※高山寺には複製画の『鳥獣人物戯画』が展示されている。オリジナルは京都国立博物館に預かってもらっている。 ※文覚(俗名遠藤盛遠)は頼朝に挙兵を促した高僧。父の仇ともいえる人物に弟子入りしたわけだが、明恵が後年それを知ったのかは不明。神護寺に伝頼朝像があるのは文覚繋がりだろう。 ※釈迦は阿弥陀について語っていない以上、阿弥陀より釈迦を尊ぶ明恵の気持は理解できる。また、宗教の価値が人の苦しみを取り除くことにあるならば、念仏ひとつで救われる浄土教がお経を読めない多くの民衆を勇気づけたかを考えると、要は一人一人が自分にあった思想を選べばいいのだと僕は思う(もちろん何も選ばなくてもいい)。 |
●南都六宗〜当時は仏教を学問として捉えていたので、学僧たちは自由に各宗派間を飛び回っていた。 法相(ほっそう)宗…661年伝来。弥勒、無著、世親に始まり、唐の玄奘三蔵を経た万物唯識を説く宗派。法隆寺、薬師寺などで栄え、行基や良弁(ろうべん)といった名僧を生んだ。 華厳(けごん)宗…736年伝来。華厳経が根本聖典。聖武天皇の東大寺造営を通して国家的宗派となった。明恵上人が有名。「一即一切、一切即一」。 律宗…753年渡来した鑑真が、戒律の道場(唐招提寺)を建立して始まった宗派。 三論宗…625年伝来。般若の空を研究する宗派。元興寺流と大安寺流がある。 倶舎(くしゃ)宗…法相宗の一学派。一切有部(うぶ)の教義を研究。 成実(じょうじつ)宗…三論宗の一学派。中国天台の智(ちぎ)に小乗的と批判され衰える。 |
墓参者が少ないのか、墓所に続く 石段は完全に苔で覆われていた |
慈眼堂 |
亀の形をした水場。とにかく、何もかもが苔むしている |
仰天!墓石の周囲を等身大の六部天像(四天王&梵天・帝釈天)が守護していた! |
こんな形態のお墓は天海の他には見たことがない。ビックリ&カッコイイ! |
喜多院の天海像 |
こちらは滋賀坂本の天海の墓 |
『家康・家光・天海 御影額』…秀忠がいないのに天海が いる!どれほど徳川にとって重要人物かが分かる。 |
「天海僧正は人間の中の仏なり。恨まれるのは出会いが遅かったことだ」(家康)
通称・南光坊天海。安土桃山〜江戸初期の天台宗・大僧正。徳川のブレーンとして家康、2代秀忠、3代家光に仕え、幕府の設立と安定に努めた。別名「幕府の知恵袋」「黒衣の宰相」。陸奥・会津高田出身。蘆名兵太郎。10歳で出家し「隋風」と名乗り、13歳で宇都宮粉河寺に学ぶ。1553年、17歳で比叡山に学僧として入り、三井寺や興福寺でも熱心に学んだようだ。1558年(22歳)、母が病没したため故郷にいったん戻り、24歳で下野国(栃木県)足利学校に学び、29歳で上野国(群馬県)善昌寺で修行を続けたとのこと。1571年(35歳)、比叡山に帰ったが信長による全山焼き討ちで入れなかった。甲府に入り武田信玄の元に逗留。1573年(37歳)、上野国長楽寺で修行し、会津に戻って黒川稲荷堂の住職となる。1590年(54歳)、武蔵国(埼玉県)川越・喜多院の僧正豪海の弟子となり、この頃名前を「天海」と改めた。同年、江戸城に入城した家康に師・豪海の代理として謁見。翌年、常陸国(茨城県)江戸崎不動院と無量寿寺北院を兼務。
天海は武芸に長じていたようで、1600年(64歳)の関ヶ原合戦に従軍したと思われる。『関ヶ原合戦図屏風』に東軍最後方の家康の傍で、鎧をまとった天海が描かれているからだ(絵には「南光坊」と書かれている)。 ただし!ここまでは「……と、言われている」。つまり前半生は全くの謎。確定されている経歴はこれ以降。 1607年、71歳の時に家康から比叡山の探題奉公(幕府の要職)に任命され、信長の焼き討ちで衰退していた延暦寺を再興。これを機に積極的に幕政に参画するようになる。1612年(76歳)、埼玉の喜多院の住職となり同院を関東天台宗の総本山とする。家康は寺領300石を寄進。翌年、日光山第53世貫主を家康から拝命。豊臣家が滅亡した大坂の陣では、合戦の際に作戦会議で家康に意見を述べていることから、戦略にも優れていたようだ。豊臣に余程深い恨みがあったのかも(天海の甲冑は現在大阪城に展示されている)。 1616年(80歳)、家康は他界の15日前に遺言を天海に伝え、葬儀の導師を務める。僧界トップの大僧正に任ぜられ、家康に「東照大権現」(“権現”は天台系)を贈った。当初、“東照大明神”とする動きがあった。天海は「明神」に猛反対し「権現」として祀られるようになった。秀吉が「豊国大明神」だったからだ。家康の亡骸は静岡・久能山に埋葬され、翌年に日光へ改葬、東照社(東照宮)が建立された。 1625年(89歳)、上野に寛永寺を創建し、同寺は後に徳川家の霊廟となった。京都の鬼門(北東)を比叡山が守るように、江戸の北東を守護するべく“東の叡山”という意味で寛永寺の山号を「東叡山」と名付けた。1636年(100歳)、家光の大号令で日光東照宮が現在のように大増築される。 以後、1643年に107歳という仰天するほどの長寿で他界するまで、その身を天台宗の布教に捧げた。没後5年目に謚号(しごう、死後の名)として『慈眼(じげん)大師』が朝廷から贈られた。この号が贈られたのは平安時代以来700年ぶり。それほどの快挙だ。天海は仏法だけでなく、風水や陰陽道にも深く通じており、天海がこれらの知識をもとに江戸の都市計画を練ったとされている。 天海は長生きしただけに「正体」をめぐる伝説も多い。11代足利義澄の子、或は12代足利義晴の子であるとか、第4次「川中島の戦い」を見物していたとか、没年にも諸説あり最高で135歳!だが、最も有名な伝説は「天海=明智光秀説」。これがトンデモ話と笑い飛ばせないのは、奇妙な一致点が山ほどあるからだ。 ・家康の墓所、日光東照宮は徳川家の「葵」紋がいたる所にあるけれど、なぜか入口の陽明門を守る2対の座像(木像の武士)は、袴の紋が明智家の「桔梗」紋!しかもこの武士像は寅の毛皮の上に座っている。寅は家康の干支であり、この門を造営した天海は徳川の守護神であると同時に、文字通り“家康を尻に敷く”ようだ。また、門前の鐘楼のヒサシの裏にも無数の桔梗紋が刻まれている。どうして徳川を守護するように明智の家紋が密かに混じっているのか。 ・日光の華厳の滝が見える平地は「明智平」と呼ばれており、名付けたのは天海。なぜ徳川の聖地に明智の名が?(異説では元々“明地平”であり、訪れた天海が「懐かしい響きのする名前だ」と感慨深く語ったと伝わる) ・2代秀忠の「秀」と、3代家光の「光」をあわせれば「光秀」。 ・天海の着用した鎧が残る。天海は僧兵ではなく学僧だ。なぜなのか。 ・年齢的にも光秀と天海の伝えられている生年は数年しか変わらない。 ・家光の乳母、春日局は光秀の重臣・斎藤利三の娘。斎藤は本能寺で先陣を切った武将であり、まるで徳川は斉藤を信長暗殺の功労者と見るような異様な人選。まして家光の母は信長の妹・お市の娘。謀反人の子を将軍の養育係にするほど徳川は斉藤(&光秀)に恩があったのか。※しかも表向きは公募制で選ばれたことになっている。 ・強力な物的証拠もある。比叡山の松禅院には「願主光秀」と刻まれた石灯籠が現存するが、寄進日がなんと慶長20年(1615年)。日付は大坂冬の陣の直後。つまり、冬の陣で倒せなかった豊臣を、夏の陣で征伐できるようにと“願”をかけたのだ。※この石灯籠、移転前は長寿院にあり同院に拓本もある。 ・家康の死後の名は「東照大権現」だが、当初は“東照大明神”とする動きがあった。天海は「明神」に猛反対し「権現」として祀られるようになった。秀吉が「豊国大明神」であったからだ。 ・そして極めつけ。光秀が築城した亀山城に近い「慈眼(じげん)禅寺」には彼の位牌&木像が安置されているが、没後に朝廷から贈られた名前(号)が「慈眼大師」。※大師号は空前絶後の名誉。“大師”とは“天皇の先生”の意。つまり、信長を葬った光秀は朝廷(天皇)の大恩人ということ。 天海の墓は滋賀坂本と家康が眠る日光東照宮に隣接した輪王寺・慈眼堂にある。坂本は明智光秀の居城・坂本城があった場所で、山崎の合戦の際に、この地で光秀の妻や娘も皆死んだ。天海の墓と明智一族の墓まで歩いていける距離にある。そして天海の墓の側には家康の供養塔(東照大権現供養塔)が建っている。明智一族の終焉の地に天海の墓と家康の供養塔…実に意味深だ。
日光の墓は慈眼堂の拝殿背後にあり、天海の命日(10月2日)は慈眼堂で長講会(じょうごえ、法要)が営まれ、天海の大好物であり、長寿の秘訣という「納豆汁」がお供えされる。
※寛永寺に眠る将軍は、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の6人。天海の髪が納められた「天海僧正毛髪塔」もある。 ※家光の遺言は「死後も東照大権現(家康)にお仕えする」。これを受け4代家綱が日光に家光廟大猷院を建立した。家光の霊廟は家康の方を向いている。 ※光秀であった場合、前半生の経歴を比叡山で出会った「隋風」から買ったのではないか、或は比叡山で亡くなった「隋風」に成りすましていたのではないか、そんな説もある。比叡山にとって光秀は、宿敵・信長を倒した英雄であり、どんな協力も惜しまなかっただろう。 |
上野公園にある『天海僧正毛髪塔』。死後もここから江戸城を鎮護していた(2008) |
理想に生き、散った | 左から大杉、長女の魔子、パートナーの伊藤野枝 | 甥の宗一はまだ6歳だった |
ぐおー!ここから探し出すのか!(2006) | さんざん迷い、墓前の石碑のおかげで分かった | ほとんど読めない | 2010年に再巡礼 |
名古屋の日泰寺で発見 された橘宗一少年の墓 ※現在は直心寺に移転 |
宗一(むねかず)少年の墓の背面に 「(一九二三)九月十六日ノ夜 大杉栄 野枝ト共ニ犬共ニ虐殺サル」と父が刻む |
なぜ6歳の命まで憲兵は奪う必要が あったのか…。墓前には駒や電車など 子どもが喜ぶ玩具が供えてあった(2023) |
明治・大正期の社会運動家・無政府主義者(アナキスト)。当時の労働運動に大きな影響を与えた。
1885年1月17日香川県丸亀市に生まれる。父は陸軍歩兵少佐。軍人の子として14歳まで新潟県新発田で少年期を過ごす。大杉は家族でも聞き取れない程の重度の吃音に生涯悩まされ続けた。1899年(14歳)、父に憧れ元帥を目指して名古屋陸軍地方幼年学校に入学。1901年、16歳のときに名古屋陸軍幼年学校で上官に反抗し、また同期生とのケンカで刃傷沙汰(怪我をしたのは大杉)に及び在学二年で退学処分となる。17歳で上京して東京学院、順天中学を経て、1903年(18歳)に東京外国語学校仏文科に入学した。この頃に母が亡くなる。また、キリスト教の受洗。在学中に足尾鉱毒事件に関心を抱く。 ※足尾鉱毒事件…日本の公害事件第1号。明治中〜後期、栃木県足尾銅山の鉱毒で渡良瀬川(利根川の支流)流域一帯が汚染されて社会問題化した公害事件。足尾銅山は明治新政府が民間にはらいさげ、1877年に古河市兵衛の所有となった。84年大鉱脈が発見され、生産量が飛躍的に増大し、精錬にともなう廃棄物も増加。精錬用燃料の木材伐採や精錬で放出される亜硫酸ガス(二酸化硫黄)で周辺の山林は荒廃して大洪水も発生、銅・亜鉛・ヒ素などの有毒物をふくむ廃棄物が大量に渡良瀬川に流出し、流域に大きな被害をあたえた。しかし、会社側は、被害防止の対策をすることはなかった。1890年、住民が鉱毒反対の行動をおこし、翌年には代議士田中正造が第2議会でこの問題をとりあげた。しかし、政府は産銅業の保護育成を重視して抜本的な対策をとらなかったため、96年の大洪水で鉱毒被害は栃木・群馬・茨城・埼玉・東京・千葉にまでひろがった。以来、田中正造の指導で数千の住民が政府に直接請願と抗議をくりかえした。1900年には群馬県川俣村で憲兵・警官隊による大弾圧(川俣事件)をうけ、田中正造は01年に天皇に直訴した。直訴状は名文家としても知られた社会主義者の幸徳秋水が代筆したものだった。世論は高まり、支援活動も活発となった。政府は、問題が各地の鉱山に飛び火するのをおそれて農民の移住を計画。1907年、谷中(やなか)村に土地収用法を適用して強制的に廃村とし、跡地を遊水池にした。 ※平民社…社会主義結社。1903年10月に日露戦争を前に、開戦論に転じた「万朝報」を退社した幸徳秋水がと堺利彦が東京有楽町に創設した。翌11月に週刊「平民新聞」を創刊。平民主義・社会主義・平和主義をかかげて日露戦争反対をうったえた。安部磯雄や片山潜らも執筆し、1周年記念号には堺と幸徳の共同訳による「共産党宣言」を掲載して発禁処分をうけている。新聞の発行のほか木下尚江の反戦小説「火の柱」など15冊の平民文庫も発刊。各地で演説会や講演会をひらき、社会主義をひろめるのに中心的役割をはたした。あいつぐ発禁処分や堺らの入獄、財政難、内部の思想的対立などが表面化し、「平民新聞」は1905年1月の第64号で廃刊。07年1月に再興され、幸徳、堺、荒畑寒村らが日刊の「平民新聞」を発行し、日本社会党の機関紙ともなったが、政府の弾圧をうけて3カ月で解散した。 1903年(18歳)10月、幸徳秋水がと堺利彦が社会主義結社「平民社」を結成。翌月、週刊「平民新聞」を創刊し、平民主義・社会主義・平和主義をかかげて日露戦争反対をうったえた。大杉は彼らの非戦論に共鳴して平民社を訪れ、講演会を聞くなどした。 1904年(19歳)2月から翌年にかけて日露戦争。3月、大杉は「社会主義研究会」に出席。社会主義に感化されて頻繁に平民社に出入りし、社会主義に目覚めていく。 1905年(20歳)東京外国語学校卒業。卒業後は幸徳秋水の影響でアナキスト(無政府主義者)となった。また、堺利彦を通してエスペラントを知り、翌年にかけ東京の習性小学校にエスペラント学校を開いた。 1906年(21歳)2月、日本社会党に参加し、3月に東京市電値上げ反対運動で先頭にたち兇徒聚集罪により初入獄、6月に保釈となった。その後も新聞紙条例違反、金曜会屋上演説事件、赤旗事件で幾度も投獄される。大杉は入獄のたびに〈一犯一語〉を目指して、外国語修得に努めた。この頃、日本エスペラント協会の創設や『家庭雑誌』の編集に従事。 9月に2歳年上の堀保子(やすこ、1883-1924/当時23歳)と結婚。内妻、大杉やす。堺利彦の死別した先妻の妹。保釈された大杉が転がり込んだ利彦の家で出会った。大杉は着ている浴衣の裾に火をつけ「どうだ」と言い焼身自殺をすると脅して求婚した。 堀保子の回想「当時、大杉は同志の間に有為な青年として望みを託され、殊に電車事件の被告で保釈中という身の上でしたから私も深い同情を以て迎えていましたが、何分年下ではありすぐに承諾する気にはなれませんでした。しかし、大杉が余り迫ってきますので、遂に結婚したような次第です」 保子と大杉は入籍せずに新居を構え、保子の『家庭雑誌』編集の収入を生活費とし、大杉はフランス語とエスペラント語を教えた。大杉が投獄されるたびに保子は外国から取り寄せた書物を差し入れる。 1907年(22歳)2月、日刊『平民新聞』に「欧洲社会党運動の大勢」を発表、直接行動派の立場を明らかにし、幸徳をしのぐアナキズム理解者となる。3月『平民新聞』に掲載されたクロポトキンの翻訳「青年に訴ふ」が翌月新聞紙条例違反となり起訴され収監。 1908年(23歳)1月、東京の平民書房で予定されていた「金曜講演会」が警察から解散を命じられたため、大杉、堺、山川らが屋上に出て群衆に向けて警官の迫害を訴える演説をした。これが治安警察法違反となり逮捕、本郷警察署に拘引され二晩留置される(屋上演説事件)。「金曜会」は大杉、幸徳、山川、堺ら革命派(直接行動派)の発起で毎週金曜日に「金曜講演」を開催。彼らは片山潜ら改良派(議会政策派)の「社会主義同志会」と対立した。5月、日刊『平民新聞は廃刊。 6月22日、社会主義者に対する弾圧事件「赤旗事件」が起きる。前述したように当時社会主義勢力は、直接行動派(硬派)と議会政策派(軟派)の二派に大きく分かれていた。筆禍事件で入獄していた山口孤剣(こけん)は分派問題に関係がなく、この日は久しぶりに両派が一堂に会し、神田の錦輝館(きんきかん)で盛大な出獄歓迎会を開いた。終了直前に、幸徳秋水の直接行動論を支持する大杉、荒畑寒村ら一派が、議会政策派への示威のため「無政府共産」「無政府」の文字を白テープで縫い付けた2本の赤旗を翻し、革命歌を歌い、無政府主義万歳を叫び、屋外行進をしようとして場外に出たところ、「旗を巻け!」と命ずる警官隊との間で乱闘となった。大杉、荒畑、堺利彦、山川均、管野(かんの)スガら16人が検挙された(うち2人は即時釈放)。山県有朋系勢力はこれを大事件につくりあげ、7月に社会主義取締りに比較的寛大であった第一次西園寺公望(きんもち)内閣を辞職に追い込み、第二次桂太郎内閣は社会主義取締りを強化する態度を打ち出した。この結果、直接行動派内にテロリズムの傾向を生み、大逆事件の遠因をなす。大杉は荒畑、堺、山川ら10人と2年半の懲役刑を受け、千葉刑務所(のち東京監獄)での刑務所生活を送ったが、そのお陰で大逆事件を免れることができた。大杉は獄中で語学を学び、アナキズムの本も多読。クロポトキン(近代アナーキズムの主唱者)の影響から脱した。 1910年(25歳)5月、幸徳秋水(1871-1911)ら多数の社会主義者・無政府主義者が明治天皇暗殺を計画したとして、大逆罪のかどで検挙された「大逆事件」が起きる。検挙者は全国で数百名にのぼり、裁判は秘密のうちにすすめられ、公判では1人の証人も出廷させず、わずか2週間あまり審議で結審。翌年1月、無関係者を含め24名に死刑が宣告され(当時、大逆罪は未遂・予備含めて死刑しか定められていなかった)、翌日12人が特赦により無期懲役に減刑された。判決6日後に市ヶ谷刑務所において幸徳ら11人(幸徳享年39)、翌日に幸徳の内縁の妻・管野スガ(肺病療養中だが検察は首謀者とした。享年29)の死刑が異例の早さで執行され、無期懲役12人のうち5人は獄死している。この計画に幸徳は関与しておらず、大逆罪の可能性があったのは管野、新村忠雄、宮下太吉、古河力作の4名とされる。以後、社会主義運動は「冬の時代」をむかえる。大杉は獄中にいたために助かった。11月に出所し堺利彦らと売文社を作るが、大杉は堺の時機待機論を批判した。 ※弁護士によると、宮下と新村が中心になり長野県で計画した標的は、明治天皇ではなく皇太子(大正天皇)で、彼らは師の幸徳に身の危険が及ばぬようメンバーから除外したという。事実、当時の幸徳は管野と神奈川県湯河原で湯治していたため計画への具体的な関与は無かった。古河力作については同志として見ておらず計画自体を知らせていなかったが、古河は「未遂」として逮捕された。力作は死を覚悟して「僕は『無政府共産主義者』です。しかしドグマに囚われてもいない。自由を束縛されるのは嫌だ。貧困・生存競争・弱肉強食の社会よりも、自由・平等・博愛・相互扶助の社会を欲す。戦争無く、牢獄無く、永遠の平和、四海兄弟の実現を望む」という言葉を残し、26歳で刑死した。 1911年(26歳)1月24日、幸徳たちが処刑され、社会主義運動が一時的に冬の時代を迎える。 1912年(27歳)10月、2歳年下の荒畑寒村と『近代思想』を創刊、生の拡充と創造を説き、社会的個人主義を確立していく。労働組合至上主義と直接行動の立場を鮮明にした。 1913年(28歳)、サンジカリズム(労働組合主義)研究会主宰。 1914年(29歳)7月28日、第一次世界大戦が勃発。9月、大杉は辻潤・伊藤野枝(当時19歳)夫妻の家を訪問し、初めて10歳年下の野枝と会う。同月、大杉と荒畑は『近代思想』を廃刊し実際運動に踏み切り、10月に月刊《平民新聞》を発行するも毎号発売禁止という過酷な弾圧にあう。10月チャールズ・ダーウィンの"The Origin of Species"を『種の起原』という題で翻訳出版した(国内では3番目。2番目が『種之起源』だった)。 1915年(30歳)、大杉は月に一度のペースで辻宅を訪問。1月、3歳年下の東京日日新聞記者・神近(かみちか)市子と初めて面会。3月《平民新聞》は第6号で廃刊となる。4月、辻潤が野枝の従妹(じゅうまい)と不倫。7月、野枝は辻との婚姻届を出し戸籍上の妻となる。10月、神近は第二次『近代思想』の編集事務を手伝い経済的援助も行うが発禁となり、大杉は経済的に行き詰まる。11月、大杉と神近は恋愛関係になった。同年、ファーブルの『昆虫記』の日本語初訳を刊行。 1916年(31歳)2月、大杉と野枝は夜の日比谷公園で初めて接吻に至り、大杉はこれを神近に告白。後日、大杉は10年前からの内妻・堀保子、愛人・神近市子、伊藤野枝との四角関係を続けるために、神近、野枝と三者会談し、自由恋愛の三つの条件「各自が経済的自立、同棲をしない、性を含めた互いの自由の尊重」を提示。野枝は発行責任者だった『青鞜』を6巻2号で無期休刊とする。このような“自由恋愛の実践”は多数の同志から批判を受けた。 3月、大杉は堀保子と離婚を協議。4月24日、野枝は夫・辻潤と離別し生後5カ月の次男・流二を連れて家を出て、旅館に身を寄せる。6月、野枝は流二を千葉へ里子に出した。野枝は『青鞜』終了で原稿料がなくなり食べていけず、大杉も雑誌が発禁続きで家賃を払えなくなり、9月8日から大杉と野枝はホテルで同棲を始めるが、これは自由恋愛の条件違反であった。 10月30日、度重なる雑誌発禁処分で金銭的に進退きわまった大杉は、「発禁となった責任は内務省にある」と内務大臣・後藤新平を官邸に訪ね、直接談判をして300円(現在の約600万円)を入手。同棲解消資金を得て神近の嫉妬を抑えた。 大杉の回想によると以下のようなやり取りだったらしい。 大杉「いま非常に生活に困っているんです。少々の無心を聞いてもらえるでしょうか」 後藤「あなたは実にいい頭を持ってそしていい腕を持っているという話ですがね。どうしてそんなに困るんです」 大杉「政府が僕らの職業を邪魔するからです」 後藤「が、特に私のところへ無心にきたわけは」 大杉「政府が僕らを困らせるんだから、政府へ無心にくるのは当然だと思ったのです。そしてあなたならそんな話は分かろうと思ってきたんです」 後藤「そうですか、分かりました」 大杉は500円を借りるつもりが吃音症でゴの発音が出ず、仕方なく300円と言ったという。 ※1923年12月17日の衆議院予算委員会で後藤新平が第2次山本内閣内務大臣として行った答弁によれば、後藤は寺内内閣内務大臣として大杉に2回にわたって計500円を渡しており、大杉への資金提供は「歴代ノ内務大臣ガヤッテ居ッタコトテアル」と述べている。 11月6日夜、神近は大杉と野枝が神奈川の葉山に出かけたことを知る。 11月7日、神近は神奈川県葉山の旅館「日蔭茶屋」に到着し、三人で床を並べて寝る。 11月8日、野枝はひとりで東京へ帰った。 11月9日未明、大杉は旅館「日蔭茶屋」の一室で、野枝との関係を嫉妬した神近に首を刺され重傷を負う(日蔭茶屋事件)。当時大杉31歳、神近28歳、野枝21歳。神近はこれまで大杉を経済面で懸命に支えてきたため、世論も友人も神近に同情を寄せ、大杉は人望を失い、野枝は魔性の女と罵られた。 ※神近がこれまでに支援した金のことを持ち出すと、大杉が返すと言い出したため、神近は関係を絶たれると察知し、野枝と大杉を殺して自殺しようと考えたという。神近は事前にピストルを入手し、青山墓地で地面に試射すると、手が震えたためピストルを断念し短刀に変えた。だが、野枝を殺害しようとしたができず大杉を刺した。神近は傷害罪で懲役2年となった。戦後、日本社会党の衆議院議員として5期13年を務めている。 11月12日、同志の村木源次郎が大杉に「俺ならもっとうまく刺すんだが、惜しいことをしたなア」と言うと、大杉は「まったくだ」と苦笑したという。21日に退院。 新聞・雑誌の多くが日蔭茶屋事件を取り上げ、大杉と野枝は非難され孤立したが、2人の結束はより強くなった。 12月9日、夏目漱石が49歳で病没。 12月13日、日陰茶屋事件で縁談が破談になった大杉の妹・秋子が包丁を喉に刺し自殺する。享年19。 12月19日、大杉は堀保子と離婚した。 1917年(32歳)9月に野枝は辻潤との協議離婚が成立。その1週間後に野枝は大杉との間に長女を出産し、周囲からの「悪魔」呼ばわりを逆手に取って魔子と命名した。彼女は4女1男を生む。生活資金にも事欠き、友人も去るなか、村木源次郎(1890-1925/当時27歳)だけは大杉の家に同居し雑事を手伝った。ロマン・ロラン《民衆芸術論》を翻訳、刊行。11月7日、ロシア十月革命が起きる。年末、東京・亀戸(かめいど)に転居。 1918年(33歳)1月、大杉宅にアナキストの和田久太郎(1893-1928/当時25歳)と反権力の自由人画家・久板卯之助(1877-1922/当時41歳※4年後に伊豆の天城山に写生にでかけ凍死)も同居を始める。ロシア革命・戦後恐慌の影響による労働運動の盛り上がりを受け、大杉は同志たちとの関係修復を図る。『文明批評』を創刊して無政府主義をさらに明確にし、大正期の労働界と思想界に大きな影響を与えた。 3月2日、浅草で労働者風の男が酒場の窓を割ってしまい警官達に責められているところに、大杉と仲間3人が遭遇。「弁償は僕がする。それで済むはずだ」と大杉が間に入ったところ、大杉ら4人全員が公務執行妨害罪で日本堤(にほんづつみ)警察署に連行される(とんだ木賃宿事件)。東京監獄に移送され、逮捕の4日後に大杉を除く3人は釈放されたが、なぜか大杉だけは拘留が続いた。1週間後の3月9日、激怒した野枝は後藤新平・内務大臣(警察の最高責任者)に長さ4メートルに及ぶ抗議の手紙を出した(手紙は2002年に発見)。その文面は灼熱の炎で相手を焼き尽くさんばかりに戦闘的だった。「前おきは省きます。私は一無政府主義者です」「今回大杉栄を拘禁された不法について、その理由をただしたいと思いました」「彼をいい加減な拘禁状態におくことがどんなに危険かを知らない政府者の馬鹿を私たちは笑っています。よろこんでいます。つまらないことから、本当にいい結果が来ました。あなたはどうか知りません」「二、三日うちに、あなたの面会時間を見てゆきます。私の名前をご記憶下さい。そしてあなたの秘書官やボーイの余計なおせっかいが私を怒らせないように気をつけて下さい」「私に会うことが、あなたの威厳を損ずることでない以上、あなたがお会いにならないことは、その弱味を暴露します。私には、それだけでも痛快です。どっちにしても私の方が強いのですもの」「ねえ、私は今年二十四(※数え年)になったんですから、あなたの娘さんくらいの年でしょう?でもあなたより私の方がずっと強味をもっています。そうして少なくともその強味は或る場合にはあなたの体中の血を逆行さすくらいのことは出来ますよ、もっと手強いことだって」「あなたは一国の為政者でも私よりは弱い」。 同日、証拠不十分として、この手紙と入れ違いで大杉は釈放された。 5月に和田久太郎、久板卯之助と『労働新聞』を創刊、活発な運動を展開し、アナキズム色を鮮明にした。8月、大阪で米騒動の騒乱を目の当たりにする。11月11日、第一次世界大戦が終結。女性問題などで大杉は一時的に政治活動の一線から退いていたが、ロシア革命・戦後恐慌の影響による労働運動の盛り上がりを受け、再び活動を再開した。 1919年(34歳)5月、大杉は千葉滞在中に尾行していた船橋署の安藤清巡査を殴る。10月、第一次『労働運動』を創刊してサンジカリズム(労働組合至上主義)運動の先頭にたつ。12月に野枝が二女・エマ(幸子)を出産。同月、大杉は尾行巡査殴打事件で懲役三ヶ月となり豊多摩監獄に投獄されファーブルの英訳本を貪り読む。 1920年(35歳)5月2日に上野公園で日本初のメーデー(労働祭)が開催される。8月、アナキストとマルクス主義者の両派が提携し日本社会主義同盟を結成、その発起人となる。この時点では、幸徳、大杉らアナルコ・サンディカリズム(無政府組合主義)派が優位に立ち、堺利彦、山川均らのマルクス主義派がこれに協力していた。10月、大杉は上海のコミンテルン極東社会主義者大会に参加し、共産主義ボリシェビキ派と協同するが、ロシア革命評価などをめぐってしだいに批判を強める。11月帰国。不況下で労働争議も増え大杉の活動は広がる。 この年、大杉は野枝との共著『乞食の名誉』を発表。野枝は「吹けよ、あれよ、風よ、嵐よ」と謳った。 1921年(36歳)、1月にコミンテルンからの資金でアナ・ボル(アナキスト&ボルシェヴィキ)共同の機関紙として『労働運動』(第2次)を創刊。2月に腸チフスを悪化させ入院。3月に三女・エマ(笑子)が生まれる。5月に日本社会主義同盟が解散を命ぜられ、この前後から左翼両派の論争が激化し、労働組合も二分されて対立した。6月『労働運動』(第2次)は13号で廃刊。11月、原敬首相が東京駅で中岡艮一(こんいち)に刺殺され、大杉は尾行から号外を入手。12月にはアナキストだけで『労働運動』(第3次)を復刊させる。 1922年(37歳)、大杉らのアナキスト系は大逆事件以後の〈冬の時代〉を通じて優勢化したが、ロシア革命(1917)の成功で、堺利彦、山川均らボリシェビキ系の影響が増大。大杉は『労働運動』紙においてソビエト政府のアナキスト達への弾圧を報告した。 6月に四女・ルイズ(ルイ)が生まれる。 7月、堺や山川らは国際共産主義運動と結びついて日本共産党を結党、ボル派がやや優勢になる。同月、森鴎外が60歳で他界。 8月に大杉は「自由労働者同盟」を結成。新潟、中津川での朝鮮人労働者虐殺の実態調査に赴く。 9月30日、大杉は労働組合の連合を目指し、労働組合の統一のための日本労働組合総連合の創立大会が開かれたが、総連合を自由な連合体とする (アナキスト派) か、中央集権的組織とする (ボルシェビキ派) かをめぐって激突し、警察の解散命令によって創立大会は不成立となった。アナキスト系は各組合の自由連合=自由連合論をとり、政党の指導を排除すべきと主張。一方、この大会で堺利彦・山川均ら共産主義ボルシェビキ派(レーニン主義)は中央集権主義を主張して激しく対立した。両者は決裂・流会して結成に失敗する。アナ・ボル論争(労働運動の組織をめぐってのアナルコ・サンディカリスム(労働組合至上主義)派とボルシェビズム派の論争)は激化した。 10月にはテロリストの結社、ギロチン社を古田大次郎らと結成する。 12月11日、ベルリンで翌年1月末に開かれる予定の国際アナキスト大会で労働者の自由連合を提唱すべく、再び日本を密出国。フランス経由でドイツに入る計画だった。旅費1500円は作家・有島武郎から受領。 12月30日、ソビエト連邦樹立。 ※アナルコ・サンディカリスム…労働組合運動を重視する無政府組合主義、労働組合至上主義。アナルコは無政府主義、サンディカは労働組合のこと。社会主義の一派。議会を通じた改革などの政治運動には否定的で、労働組合を原動力とする直接行動(ゼネラル・ストライキなど)で社会革命を果たし、労働組合が生産と分配を行う社会を目指した。議会制度に強く反対したため、左派の政党主義者と対立した。19世紀末にフランスで労働組合を拠点とした革命を主張する革命的サンディカリスムがうたわれ、20世紀に入ってアナキズムと合流し、アナルコ・サンディカリスムとなり、フランス・スペインなどに広がった。大杉の虐殺後、マルクス主義が左翼運動の主流になる。 この年、かつて豊多摩刑務所収監中に翻訳した『ファーブル昆虫記』が『昆虫記』の名で出版される(初の日本語訳)。大杉は原題『昆虫学的回想録』を『昆虫記』と名付けた。また、野枝との共著『二人の革命家』を記している。 1923年1月5日、大杉は上海からフランス船に乗り、中国人に偽装して渡仏。この旅にはパリに亡命したウクライナ人アナキスト、ネストル・マフノと接触も図る目的もあった。マフノは貧農の立場に立ち、都市の工場労働者を重視し農民を軽視したボリシェヴィキと対立していた。大杉はアジアでのアナキストの連合も考え、上海、仏で中国のアナキストらと会談を重ねる。2月に仏に入ったが、官憲がドイツへの旅行許可証をなかなか発行せず、また国際アナキスト大会もたびたび延期された。待機しているうちに、5月にパリ近郊サン・ドニでメーデーが開催され、そこで演説を行って逮捕され、ラ・サンテ監獄に送られた。最終的に国外退去処分となり、日本領事館の手配でマルセイユから箱根丸に乗船、7月10日神戸に戻り野枝が出迎える。 7月13日、横浜に住む大杉の弟・勇が大杉宅を訪れる。勇は妹の橘あやめの子、宗一を預かっていた。あやめは米国ポートランドに住んでいたが結核を患い、療養のため帰国。姉・菊がいる静岡の病院に入院。 8月、欧州での体験を『日本脱出記』にまとめる。8月5日、豊多摩郡淀橋町(北新宿)に転居、近所に作家内田魯庵が住み交流。8月9日に長男ネストルが誕生。同月末にアナキストの連合組織を目指して会合を開く。 9月1日11時58分、関東大震災が帝都を襲う。大杉家は市外なので火事を逃れたが米が高騰し、叔父・代準介に米を無心したものが最後の手紙となった。震災の混乱を好機として官憲や陸軍の一部は社会主義や自由主義の指導者を殺害しようと画策。戒厳令のもと亀戸事件など軍隊・警察による社会主義者迫害が続いた。 9月2日、戒厳令がしかれる。横浜の鶴見警察署に自警団が4人の朝鮮人を突き出し「こいつらが鶴見駅近くの井戸に毒を投げ込むのを見た」「叩き殺せ」と詰め寄る。当時、同地区には臨海部の埋め立て工事のため朝鮮人労働者が多く居住していた。対応した大川常吉署長は大声で「朝鮮人が毒を入れたという井戸の水を持ってこい!私が目の前で飲む!異状があれば朝鮮人は諸君に引き渡す。異状が無ければ私に預けよ!」と一喝、一升ビンの井戸水を飲み干して場を収めた。翌日、デマ拡大にともない、殺気立った千人もの群衆に鶴見署は包囲される。同署は朝鮮人220人中国人70人の約300人を保護していた。人々が「朝鮮人に味方する警察など叩き潰せ」「朝鮮人を殺せ」と叫ぶと、大川署長は「彼らも同じ被災者だ。朝鮮人を殺す前に、まずこの大川を殺せ!」と両手を広げて訴えた。「もし(同署から)逃げ出したらどうする」と声が飛ぶと、署長は「この大川が君らの前で腹を切っておわびする」と断言、群衆は理性を取り戻し引きあげた。(鶴見区の東漸寺に大川常吉署長の墓と、在日朝鮮人の方々が感謝を込めて建立した氏の顕彰碑が建つ)。 9月3日の朝、政府・内務省警保局長(警察庁長官)から全国に打電された「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり」「各地において鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」により、虐殺の決定的な引き金が引かれる。この政府のお墨付きで「噂」は「事実」となった。震災から4日間で3689もの自警団が組織され、軍の一部から刀を貸し与えられ血眼になって朝鮮人を探す。朝鮮人は日本語の「ジュ」の発音が苦手で「チュ」と言ってしまうことから、自警団は朝鮮人らしい人間を見つけては「15円55銭」と発音させ、うまく言えなかった者をその場で処刑、又はリンチにした。率先して新聞記者にデマ記載を要求した警視庁官房主事・正力松太郎(後の読売新聞社長)は、のちに「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局として誠に面目なき次第であります」と悔いた。 この日、亀戸警察署では軍が社会主義者・川合義虎、労働運動指導者・平澤計七など20歳の若者3名を含む10名の社会主義者を処刑。平澤は首を切り落とされた(亀戸事件)。 9月4日、埼玉の本庄(ほんじょう)警察署で86名ともいわれる朝鮮人が構内で群衆に虐殺され、震災時の朝鮮人虐殺で最大の悲劇となった(本庄事件)。遺体は長峰無縁墓地に埋葬されたが1999年9月に慰霊碑を囲む石柱の3分の1が倒され、無縁墓34基のうち27基までもが倒され、7基がハンマーで割られた。 9月5日、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という流言を信じた旧新町(群馬県高崎市)の土木業者が、従業員ら朝鮮人17人を旧藤岡署(藤岡市)に収容させた。近隣住民は「警察が朝鮮人をかばっている」と暴徒化。約二千人の群衆が日本刀や猟銃を持って署内へなだれ込み、無抵抗で抱き合い、命乞いする朝鮮人を暴行。遺体にまで危害を加え、警察の現場検証で血に染まった肉塊が確認されたという。殺人容疑などで37人が摘発されたが、大半が執行猶予付きなど軽い刑だった。現場近くの成道(じょうどう)寺には慰霊碑が立つ。群馬の詩人・萩原朔太郎は次のように怒りを刻む。「朝鮮人あまた殺され その血百里の間に連なれり われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」 9月6日、千葉県福田村(現野田市)にて香川県の薬売り行商人15名のうち妊婦・子供を含む9名が、讃岐弁を聞き慣れない自警団によって朝鮮人と判断され虐殺された(福田村事件)。日本人まで殺される状況であり、朝鮮人と発覚すればひとたまりもなかった。 震災後に虐殺された朝鮮人は最低でも231人(内務省)、朝鮮総督府東京出張員(日本の機関)が813人、当時の東大・吉野作造教授の調査が2613人余、最大が6661人(半島系新聞)、また誤認により殺害された地方出身者は59名にのぼる。女子・子供を含む在日中国人200余名も殺害されている。 ※ネット上では、当時の新聞記事を根拠に「朝鮮人の暴徒は実際にいた」との意見を散見するが、震災2年後に警視庁は『大正大震火災誌』をまとめ、新聞が書き立てた朝鮮人の犯罪は事実無根であったと結論づけている。当初、朝鮮人による殺傷事件は殺人2件、傷害3件とあったが、殺人は被疑者不詳で「不起訴」となっている。朝鮮人は起訴されていない。井戸に毒、武装蜂起、放火、すべて嘘の噂だった。火事場泥棒についても、震災月の窃盗犯の検挙件数は973件、うち日本人が約960件、朝鮮人が12件、つまり窃盗犯はほぼ日本人だ。当時の警察がデマだと結論している新聞記事が、100年経ってもネットで流布されている。なぜ朝鮮人反乱というデマを簡単に信じてしまったのかは、4年前に朝鮮で起きた独立運動「三・一運動」を徹底弾圧した(死者数は朝鮮側の発表7509人、日本側の発表553人)という時代背景があった。差別感情がなければ「報復される」というパニックに近い恐怖心を持たなかっただろう。集団心理が暴走すると、いかに歯止めが効かないか歴史は物語る。人間にとって最も恐ろしいものは「ひとくくり」と「思い込み」。「○○人というものは」というひとくくり、「○○人ならこうするに違いない」という思い込み。これは過去の話ではない。 9月7日、軍・官憲の想定をはるかに超える規模で朝鮮人虐殺が起きたため、風説を取り締まる「流言浮説ヲ為シタル者ハ、十年以下ノ懲役若シクハ禁錮又ハ三千円以下ノ罰金二処ス」(流言浮説取締令)を公布、事態の収拾に動く。最終的に、虐殺に関わったとして自警団員など233人が起訴された。 9月8日、労働運動社の同志が一斉に検束される。 9月13日、夜に新聞記者の安成二郎が大杉宅に立ち寄り、野枝が出したコーヒーを手に小一時間話す。 9月15日、大杉の弟・勇は横浜の家が焼けたが無事であり、避難先を知らせる便りが届く。 9月16日、戒厳令が続くなか、東京憲兵隊麹町(こうじまち)分隊長・甘粕(あまかす)正彦大尉は、東京憲兵隊本部付(特高課)の森慶次郎曹長と共に、「無政府主義者が不穏な動きを起こし、政府を転覆しようとするおそれがある」として大杉を探索。 この日、大杉と野枝は午前9時に家を出て神奈川県鶴見に住んでいた野枝の前夫・辻潤を見舞ったが、家が損壊し不在だったので、近所の貸家に避難していた実弟の大杉勇を見舞いした。たまたま、大杉の末の妹あやめとその6歳の息子・橘宗一(たちばなむねかず)が滞在しており、宗一が「東京の焼け跡が見たい」というので、午後二時半すぎに一緒に東京に戻ることとなった。 午後5時半頃、新宿柏木の自宅付近に帰ってくるが、野枝が梨を買っていると、4名の憲兵隊、甘粕正彦大尉、森慶次郎憲兵曹長、憲兵上等兵の鴨志田安五郎と本多重雄が張り込みをしており、「子供だけは帰宅させてくれ」という大杉の要望を拒否して、強引に3人を拉致し、自動車で麹町憲兵分隊に連行した。宗一は連行される自動車の中で甘粕に懐いていたという。東京憲兵隊本部で夕食を出したが、大杉と伊藤は食べず、宗一だけが食べた。大杉はナイフを借りて伊藤が持っていた梨を2人で食べた。午後8時、3人は別々の部屋に移され、全員がその日のうちに絞め殺された。大杉は享年38、伊藤野枝は28。宗一は大杉と伊藤との間の子供と誤解された。遺体は裸にされ畳表(たたみおもて)で巻かれ、憲兵隊裏の古井戸に投げ込まれ、井戸は馬糞や煉瓦を投げ込んで埋められた。 大杉が行方不明になると、友人の読売新聞記者・安成(やすなり)二郎らが探索を始めた。大杉の妹あやめは日系貿易商の夫と米国で宗一を生んでおり、宗一は米国籍を持っていたことから、家人は真っ先に米国大使館に駆け込み、その後、警察に捜索願を出した。警視庁は行方不明の大杉が何か良からぬ計画でも行っているのではないかと行方を捜した。 9月18日、戒厳令が解除され新聞の報道規制が解かれると、報知新聞の夕刊が「大杉夫妻が子供と共に憲兵隊に連れて行かれた」と掲載。警視庁官房主事の正力松太郎は、以前より陸軍が何かやるらしいと聞いていたという。事態を憂慮し、警視総監湯淺倉平に相談し、湯淺総監は山本権兵衛首相に報告した。 9月19日、事件の報告を受けた山本権兵衛首相は田中義一陸相に調査を指示。戒厳司令官・福田雅太郎(まさたろう)を呼んで問いただしてみても関知していなかったので、憲兵隊の捜査が開始された。田中陸相が改めて憲兵司令官・小泉六一を呼んで問いただすと、小泉は甘粕の犯行を認めた上で賛美したため、田中は叱責して小泉に謹慎を命じ、軍法会議の開催を決定。甘粕と森が衛戍(えいじゅ)監獄に収監され、古井戸から3人の遺体が引き上げられた。 9月20日、「甘粕憲兵大尉が大杉栄を殺害」の一報を読売新聞、時事新報、大阪朝日新聞が号外で報じ、米国大使館は自国民(宗一)が危険に瀕しているとみて日本政府に抗議、事態を解明、保護を図るよう求めた。閣議では、既に国際問題化し複数の新聞社が情報を掴んでいる以上、揉み消しは不可能との結論になった。時事新報は記者を憲兵隊本部に張り込ませ、大杉だけではなく伊藤野枝と子供が殺されたことを察知した。 動揺した軍は隠し通せなくなり、同日付けで甘粕正彦憲兵大尉と東京憲兵隊本部付(特高課)森慶次郎憲兵曹長が「職務上不法行為」を行ったとして軍法会議にかけた。そして福田雅太郎・戒厳司令官を更迭、憲兵司令官・小泉六一少将と東京憲兵隊長・小山介蔵憲兵大佐を停職処分とすると発表した。以後、報道を禁じられる。三人の遺体は憲兵隊本部の井戸から三宅坂の東京第一衛戍病院へ搬送され、田中隆一軍医により死体解剖される。弟・勇に東京朝日新聞記者から大杉らは憲兵隊に殺害された可能性が高いと連絡が入る。 9月24日午後3時、陸軍省が「甘粕憲兵大尉が大杉外二名を致死」と発表。この日、軍法会議予審があり事件の概要が明らかにされた。甘粕大尉らは、大震災の混乱に乗じてアナキストらが不穏な動きを起こし政府を転覆しようとすると憂慮し、アナキストの主要人物であった大杉と伊藤を殺害することを決めたという。 甘粕の証言では、大杉は16日午後8時から応接室で森曹長と雑談のような取り調べを受けていたが、入室した甘粕が背後から柔道の締め手で大杉の首を右手で絞め、森は苦しみもがく大杉の足を押さえた。15分ほどでぐったりして亡くなった。その後、念のためとしてさらに麻縄で絞めた。午後9時15分、次に甘粕は階下の隊長室に入れられた伊藤のもとを訪れ、しばらく会話して油断させると、同様に絞殺した。甘粕はここまでしか語っていないが、事件から53年が経った1976年、三人の「死因鑑定書」が発見され、大杉と野枝は肋骨が何本も完全に折れており、虐殺の直前に凄惨な暴行を受けていたことが判明している。 遺体を構外に運び出すと露見するため、憲兵本部裏の古井戸に投げ込むことになり、甘粕は3名の着物をハサミで切って裸として菰(こも)に包み、古井戸に落とした。衣類は翌17日に別の場所で焼却。古井戸は馬糞や煉瓦を投げ込んで埋められた。 9月25日、第一師団司令部は、「甘粕大尉が16日の夜に大杉栄と他2名を某所に連行して殺害した」と公表したが、他2名が何者であるかは公表させなかった。この日、東京第一衛戍(えいじゅ)病院から、大杉の弟の勇と進、代準介、安成二郎、村木、山崎今朝弥らが3人の遺体を引き取る。 9月27日、遺体の腐敗が進行していたため、葬儀に先駆け火葬することになった。落合火葬場で荼毘に付され、4人の遺児を含む遺族、友人らが骨を拾った。 10月2日、大杉の子供を野枝の実家が引き取る。代準介は6歳の魔子ら4人の遺児を連れ、分骨した三人の遺骨を抱き野枝の郷里(福岡県)に向かう。8月から同居していた野枝の叔母・モトと野枝の親戚の娘・水上雪子も同行。4人の子供は伊藤家に入籍され、魔子は眞子、エマは笑子(えみこ)、ルイズは留意子、ネストルは榮と改名。 10月5日、鴨志田安五郎と本多重雄の2名の憲兵上等兵が橘宗一殺しの共犯であるとして自首。この日、三人の遺骨が今宿の伊藤家に着く。 10月6日、平井利一憲兵伍長も見張り役として大杉らの死に関与していたことを告白し自首。被告人は5名となった。鴨志田と本多は子供殺しに躊躇したが、甘粕と森が「上官の命令だからやりそこなうな」と話していたと証言。命令に逆らえずに、鴨志田が首を絞め、本多が押さえて殺した。だが、上官である憲兵隊の小泉少将と小山大佐がこの証言を否定、以後は軍上層部が関与した疑惑は追及すらされなかった。甘粕は「大杉の次は堺利彦と福田狂二を殺す予定だった」と述べた。 10月8日、甘粕正彦らの第一回公判があり、同時に虐殺事件の記事が解禁になり「外二名」が野枝、宗一であることが公表される。有名なアナキストであり恋愛スキャンダル(日蔭茶屋事件)でも世に知られた大杉・伊藤の2人に加え、6歳の小児までも殺されたとあって世間は騒然となった。甘粕を糾弾する声がある一方、当時の日本は右傾化しており、甘粕を支持する声も強く「国賊・大杉を処断した甘粕大尉に減刑を」との署名が数十万名分も集まった。 10月9日、閣議で後藤新平内相が激高して「人権蹂躙だ」と叫ぶ。 10月16日、野枝の故郷、今宿村(福岡県)松原の墓地で三人の葬儀と埋骨式があり、海を見下ろす松林の墓地に埋葬される。翌年8月、伊藤亀吉が山から大きな自然石を引いて墓碑銘のない墓を建てる。 12月8日、甘粕事件の判決公判。軍法会議の結果、殺害を実行および命令したとして甘粕大尉を首謀者と断じて懲役10年(のち恩赦減刑2年10ヶ月)、森曹長には同3年(のち1年3ヶ月で恩赦仮出所)、本多・鴨志田の2名は命令に従ったのみとして無罪、見張りとして関与した平井伍長は証拠不十分により無罪とされた。憲兵隊の組織的関与は否定される。 甘粕は判決の翌日、弁護士宛の手紙に「事実を曲げ自己に不利な様に申立てなければならなかつたことは、人間として甚だ残念に存ずるところであります」「考えていただきたいのは、軍人としての私の苦しい立場であります」と胸中を吐露している。では、甘粕に大杉殺害を命じた黒幕、主犯は誰だったのか。 (1)憲兵司令部副官・上砂勝七は1955年の著書『憲兵三十一年』の中で「(憲兵司令官の)小泉司令官が甘粕大尉に命じたもの」「自分も社会主義者の福田狂二の殺害を命じられた。福田が家族ともども大阪に避難する準備をしていたので、見のがすことにした」と記し、翌年に没している。 (2)事件当時に警視庁官房主事だった正力松太郎・読売新聞社長は翌年10月14日の社内招待会で「陸軍が(9月)14日に大杉を殺すと言って来た。大杉と吉野作造博士など4人を殺すと、そんなバカなことがあるかと言って置くと、16日になって淀橋署から大杉が憲兵隊に連れられて行ったという報告が来た。殺したナと思ったが、黙っていた」「子供が一緒でなければ大杉事件はまるで知られずに済んだのだ」と発言し、陸軍の組織的犯行を示唆した。 (3)大杉を慕う古田、村木、和田ら無政府主義者は、指揮命令系統のトップであった戒厳司令官・福田雅太郎大将が殺害命令を出したに違いないと判断し、復讐の暗殺を計画した。 (4)憲兵大佐・斉藤美夫は刑務所で森曹長と面会した際に「大杉を殺したのは麻生三連隊だ」と聞いたという。 大杉の殺害を誰が計画したのか、真相はよく分かっていない。渋谷と麹町の分隊長である憲兵大尉甘粕正彦が、直属の部下ではない憲兵司令部付曹長である森慶次郎に命令しており、この2人に指示ができる命令者は甘粕よりも立場が上であるため、小泉や福田が主犯と疑われる理由となっている。 ※その後、甘粕は千葉刑務所で服役し、摂政宮(昭和天皇)の御成婚による恩赦で7年半に減刑、さらに謹直な獄内生活が評価され、結局2年10ヶ月で、1926年10月6日に秘密裏に仮出獄した。翌年、陸軍の官費でフランスに留学し、1930年満州に渡って満州事変に関わった。満州国協和会中央本部総務部長(最高幹部)、満州映画協会理事長など重要ポストに収まり"満洲の夜の帝王"とも呼ばれ、日本政府の意を受けて政界の黒幕的存在となったが、1945年、敗戦から5日後に54歳で服毒自殺している。 12月11日、大杉の遺骨を父・東の墓所である静岡県清水町の鉄舟寺に埋葬しようとしたが拒否される。 12月15日、本郷駒込片町にある無政府主義運動の労働運動社で大杉ら3名の通夜が行われる。 12月16日、虐殺からちょうど3カ月後。右翼団体・大化会は「国賊の葬儀などさせぬ」と考え、この日に予定されていた大杉らの告別式を潰すため、「遺骨を奪えば葬儀は潰れるだろう」と労働運動社の通夜会場を狙った。早朝、2台の自動車で労働運動社に乗り付けた大化会の一行は、黒紋付き羽織袴を着た下鳥繁造が労働者風の2人を連れて中に入った。下鳥は「福岡県飯塚炭鉱 下鳥繁造」という名刺をさし出し、大杉先生を尊敬していた、焼香がしたいと言って上り込む。下鳥は位牌に黙礼をした後、白布で一つに包まれていた3つの骨壺を抱えて立ち上がり、ピストルを片手に「この骨はオレがもらったぞ」と玄関に立ち塞がり、古田大次郎、和田久太郎、村木源次郎らとにらみ合う。下鳥は遺骨を仲間の2人に渡し、2人は車で待つ寺田稲次郎に届け、下鳥は高笑いして大杉の遺影に銃弾を放って逃走した。通夜客らアナキスト約30名が怒って追いかけ、下鳥に追いつくとピストルを取り上げ殴打した。異変を聞きつけた私服警官が下鳥の身柄を確保。その間に車を急発進させた寺田(のちに岐阜駅で逮捕)は遺骨を大化会会長・岩田富美夫に渡した。 遺骨は奪われたとはいえ、もともと無宗教でやる予定であったので、告別式は実行されることになり、遺骨の代わりに3人の遺影を先頭に隊列を組んで、労働運動社から出発した。大杉、野枝、宗一の三人の合同葬は、自由連合派の労働組合、アナキスト各団体が主催となり、上野の谷中斎場にて催され、700人が参列する。葬儀は盛大に行われたが、「無政府主義万歳」の大合唱が始まると警察が介入して解散を命じ幕切れとなった。同日、大阪天王寺区の善福寺でも追悼集会があり200名以上が参列したが、弔辞の文言が過激だということで警察の妨害が入り、こちらも途中で中止となった。 盗まれた遺骨は、9日後に岩田が警察に届け出、半年後に警察から遺族に返還された。岩田は主犯と見なされず、犯行現場にもいなかったので不起訴となり、実行犯の下鳥は懲役6力月を求刑された。 12月27日、難波大助が摂政(昭和天皇)を狙撃する虎ノ門事件が起きる。 1924年5月17日、遺骨の強奪から半年、弟の大杉勇はようやく3人の遺骨を警視庁より受け取る。 1924年5月25日、遺骨は大杉の妹・柴田菊が当時住んでいた静岡市葵区の市営沓谷霊園に葬られ三人の密葬が執り行われる。大杉の死によりアナキズム運動は大打撃を受けることになった。 著書に《自由の先駆》《正義を求める心》《自叙伝》《日本脱出記》など。訳書にクロポトキン《一革命家の思出》、ダーウィン《種の起源》、ファーブル《昆虫記》など。「大杉栄全集」は全14巻。 これに先立ち、1924年3月17日、最初の妻・堀保子が腎臓炎のため41歳で他界している。 大震災からちょうど一年目の9月1日、大杉殺害の報復のため無政府主義者(ギロチン社)の古田大次郎、中浜哲、労働運動社の和田久太郎、村木源次郎らは、関東戒厳司令官・福田雅太郎大将狙撃事件を起こした。和田久太郎が実行犯、村木と古田は見張り役。和田のピストルは1発目が空砲であったために失敗した。1925年、和田は無期懲役となり、あまりに重い量刑に弁護士の山崎今朝弥は「地震憲兵火事巡査。甘粕は三人殺しで仮出獄?久さん未遂で無期懲役!」と憤った。翌年の大正天皇の崩御により恩赦があり、懲役20年に減刑されたが、和田は肺病を患っており、村木源次郎の病死(福田の家に爆弾を送りつけるなどで投獄。肺病により1925年1月24日没、享年35)、古田大次郎の刑死(資金稼ぎで銀行員を殺害した小坂事件もあり1925年10月15日に絞首刑。古田は控訴せず。享年25)を知って悲観し、1928年2月20日、看守の目を盗んで35歳で自殺した。和田の獄中の俳句は芥川龍之介が絶賛している。 1960年、甘粕事件を題材にした映画『大虐殺』(小森白監督) が公開され、ギロチン社の古田大次郎を天知茂が演じた。大杉役は細川俊夫、野枝役は宮田文子。 ※こちらのサイトにストーリー https://www.ne.jp/asahi/gensou/kan/eigahyou54/daigyakusatsu.html 1965年 瀬戸内晴美(寂聴)が『文藝春秋』に大杉と野枝を描いた『美は乱調にあり』の連載開始。 2022年、NHKで伊藤野枝を主人公にしたドラマ『風よ あらしよ』放送。野枝役は吉高由里子。大杉役は永山瑛太。 「美は乱調にある。諧調は偽りである」(大杉栄『生の拡充』) ※伊藤野枝(1895-1923)…大正時代の無政府主義者・女性解放思想家。1895年1月21日、今宿村(福岡県福岡市)の貧しい瓦職人の家に生まれ、1909年(14歳)高等小学校卒業後、地元の郵便局に勤務。翌年、親類の援助でに上京し、猛勉強で飛び級の私立上野高等女学校4年に編入。1911年(16歳)、平塚らいてうが『青鞜』を刊行、その創刊号に女性解放のシンボルともいうべき〈元始女性は太陽であった〉という平塚の文を載せ、野枝は強く感銘を受ける。同年、辻潤が英語教師として赴任。1912年(17歳)卒業後、いったん帰郷して親の決めた結婚を隣村の末松福太郎とするが、家制度に反発して9日目の朝に出奔し再上京、辻潤のもとに身を寄せ同棲する。辻潤は野枝のことが学校で問題となり、非難を受けて教師を辞めた。結婚問題を通して家族制度に疑問を抱いた野枝は、平塚らいてうらの青鞜社(せいとうしゃ)に通い始め、与謝野晶子・岡本かの子らと交流、10月に入社して文筆活動に加わり〈新しい女〉の一人となった。新聞記者の神近市子も参加し、発行部数1000が約3倍に増した。 1913年(18歳)、野枝は『青鞜』に『新しき女の道』を発表。同年、末松福太郎との協議離婚成立。1915年(20歳)からは平塚らいてうにかわって『青鞜(せいとう)』の編集にあたり女性解放運動に参加。女性蔑視の批判に堪え、権威の否定や女性の自立を訴えた。この間、著名なアナキストの大杉栄やエマ・ゴールドマンの影響を受けて無政府主義者となり、弱者の正義に生きようと決心。同年7月、婚姻届を出し、辻潤の戸籍上の妻となる。 1916年(21歳)2月、『青鞜』6巻2号にて無期休刊とする。4月に辻潤と離別、9月から大杉と同棲を始めたことから、大杉の妻・堀保子および愛人・神近市子と四角関係になり、11月9日未明に神近は葉山の旅館「日蔭茶屋」で大杉を刺して重傷を負わせた(日蔭茶屋事件)。神近はこれまで大杉を経済面で懸命に支えてきたため、世論も友人も神近に同情を寄せ、大杉は人望を失い、野枝は魔性の女と罵られた。以後、思想と行動を共にし、『文明批評』『労働運動』などの刊行にも協力した。1917年9月18日に辻潤と協議離婚が成立し伊藤家へ復籍、1週間後に大杉との間に長女・魔子を生む(4女1男を生む)。辻潤は比叡山の宿坊に入り、以後は放浪生活を続けながら翻訳をする。1918年、公務執行妨害で収監された大杉を出すため、野枝は後藤新平内務大臣に4mもの手紙を書き、文末で「あなたは一国の為政者でも私よりは弱い」と叩きつける。1920年(25歳)、野枝はこの年「吹けよ、あれよ、風よ、嵐よ」と謳った。この年『解放』4月号で結婚制度を否定する『自由母権の方へ』を発表、戦後のウーマンリブの結婚制度否定を半世紀早く提起した。 1921年(26歳)、普通選挙を前に社会主義の婦人団体「赤瀾(せきらん)会」を結成し、無政府主義者として山川菊栄らと参加、綱領を〈私達は私達の兄弟姉妹を窮乏と無智と隷属とに沈淪せしめたる一切の圧制に対して断乎として宣戦を布告するものであります〉とした。先妻の堀保子も参加している。 1923年関東大震災の混乱の中で軍部に28歳で虐殺された。著作『クロポトキン研究』『乞食の名誉』『二人の革命家』(いずれも大杉との共著)、『伊藤野枝全集』全2巻。実業家の代準介(だいじゅんすけ)は叔父(野枝の叔母キチの夫)。 ※神近市子(かみちかいちこ/1888-1981)…婦人運動家。長崎出身。女子英学塾(津田塾大学)を卒業後、青森県の弘前高等女学校教諭となったが、平塚らいてうの青鞜社に参加していたことがわかり、同校を解雇された。1914年(26歳)に「東京日日新聞」(毎日新聞の前身)の記者となり、婦人解放の主張にもとづく取材活動を展開、大杉栄の仏蘭西文学研究会にも参加し、これを機に大杉との親交を深めた。しかし、妻や愛人伊藤野枝がいた大杉との関係がもつれ、1916年(28歳)、神奈川県葉山の日蔭茶屋旅館で大杉を刺傷し、殺人未遂で2年間服役。出獄後は鈴木厚と結婚して文筆活動に専念、1935年(47歳)には夫と「婦人文芸」を主宰した。戦後、民主婦人協会と自由人権協会の設立に参画、1953年(65歳)には、社会党・衆議院議員に初当選した。女性の地位向上運動を積極的にすすめ、1956年(68歳)の売春防止法の制定には市川房枝らと大きな貢献をしたほか、死刑囚再審問題にもとりくんだ。代議士を5期つとめたのち、1969年に政界を引退。1981年、93歳で他界。 ※大杉と野枝の間に“悪魔の子”魔子(1917-1968、のち眞子)、リトアニア出身アナキストのエマ・ゴールドマンからエマ(1919-2003、のち幸子)、エマ(1921-2013、のち笑子)、フランス人アナキストのルイズ・ミシェルからルイズ(1922-1996、のち留意子、さらにルイに改名)、ネストル・マフノのネストル(1923-1924、のち栄)がいる。四女の伊藤ルイを描いたドキュメンタリー「ルイズその旅立ち」(監督・藤原智子)がキネマ旬報・1997年度文化映画部門ベストテン第一位などの賞を獲得。 ※四女の伊藤ルイは市民運動家となった。筆者は1990年に晩年のルイさんと旅先で知り合いました。 ※大杉「社会問題は容易に実現せざるべし、これは500年1000年、または永劫実現せざるやも知れず、さりながら、理想の道程をすがり行くこと吾が任務なり」 ※伊藤野枝の最も詳細な年譜「クレヤン.コム」(労作に敬意!) https://onl.bz/d3ZrEZ8 ●墓所について 大杉の墓が静岡市にあることを地元の人もあまり知らないように思う。静岡市葵区沓谷一丁目の沓谷霊園が永眠の地。静岡鉄道の音羽町駅から北へ徒歩10分。墓地は管理人がおらず、墓地内の地図にも大杉の墓の表示はなかった。墓を見つけるまでめっさ苦労。静岡市はもっと大杉に愛を!(追記。2023年現在、グーグルマップでお墓の場所に印が入っている。便利な時代になったもの) 大杉の父の墓は静岡市清水区にあるが、寺の檀家らに反対されて3人は父と同じ墓に入れなかった。当時は妹の柴田菊が静岡市に住んでいたため妹夫婦が沓谷霊園に墓を建て、労働運動社が費用250円を贈った。右翼から取り戻された遺骨は、他界翌年の5月25日に収められた。毎年命日の9月16日に大杉栄・伊藤野枝の墓前祭が開かれ、関係者の高齢化により没後80年にあたる2003年を最後にいったん途絶えたが、没後90年の2013年に復活した。以降、毎年この時期に開催している。 一方、1972年に名古屋市千種区の覚王山日泰寺の墓地でも橘宗一(むねかず)少年の分骨墓が発見された。その後、1975年9月16日、名古屋で初めての墓前祭が開かれ、以来、9月15日は名古屋で橘宗一の墓前祭が、翌16日は静岡で大杉栄・伊藤野枝の墓前祭が開かれるようになった。 宗一少年は大杉の妹あやめと、貿易商・橘惣三郎の長男。墓はクリスチャンの父惣三郎が事件4年後(1927年4月)に建立し、墓の高さは宗一の身長118.7cmに近い約1.2メートル。表に宗一の名前、裏には「大杉栄野枝ト共ニ犬共ニ虐殺サル」と墓の言葉とは思えない激しい感情で、親の無念の思いが刻まれている。主犯とされた憲兵隊の甘粕正彦大尉は宗一の墓の建立前年に釈放されていた。惣三郎の実家を継いでいる元町議の橘幸典さん(86)「惣三郎は内気で真面目な人だった。よほど腹が立ったが、口に出せず、思いを墓に刻んだんだろう」。 事件そのものがむごすぎるうえ、支持者と見られることを恐れ、一族は事件について口を閉ざした。惣三郎は1956年に亡くなり、墓の世話をする人がいなくなっていたが、1972年、近くの女性が散歩の途中、夏草に埋もれた墓を見つけ、新聞投書欄に投稿したことで、大杉の友人で論争相手だった社会主義者堺利彦の娘や荒畑寒村らが発起人になり、墓碑保存会を設立、1975年から墓前祭が開かれるようになった。 【追記】橘宗一少年のお墓が、2023年12月15日、愛知県あま市(名古屋の西)の橘家の菩提寺、直心寺に改葬された。 |
●石川啄木が語る“アナーキズム” 「政府はアナーキストをテロ信奉の狂信者の如く評しているが、実はアナーキズムはその理論において何ら危険な要素を含んでいない。今の様な物騒な世の中では、アナーキズムを紹介しただけで私自身また無政府主義者であるかのごとき誤解をうけるかもしれないが…もしも世に無政府主義という名を聞いただけで眉をひそめる様な人がいれば、その誤解を指摘せねばなるまい。無政府主義というのは全ての人間が私欲を克服して、相互扶助の精神で円満なる社会を築き上げ、自分たちを管理する政府機構が不必要となる理想郷への熱烈なる憧憬に過ぎない。相互扶助の感情を最重視する点は、保守道徳家にとっても縁遠い言葉ではあるまい。世にも憎むべき凶暴なる人間と見られている無政府主義者と、一般教育家及び倫理学者との間に、どれほどの相違もないのである。(中略)要するに、無政府主義者とは“最も性急なる理想家”であるのだ」。 |
甘粕大尉の墓は府中市の多磨霊園に | 1945年、敗戦5日後に服毒自殺(2010) |
金次郎バージョン | 尊徳バージョンの像 | 今市の二宮神社に眠っている |
墓石の背後の塚が本来の墓だ(2006) | JR小田原駅。故郷の像 |
文京区の吉祥寺にも墓がある。大きい!(2013) | 墓前の茂みに金次郎さんの石像を発見 |
通称、金次郎。江戸後期の農政家。現・神奈川県小田原市の農民の子。幼少期に両親と死別し伯父に育てられる。畑仕事を手伝いながら読み書き・算術を独学で身につけ、財を蓄え田畑を手に入れ小作人に貸すようになる。この才覚が噂になり、1818年(31歳)、小田原藩家老の財政再建を一任される。尊徳は資金運用と倹約で成功させ、次は旗本の赤字財政を建て直した。
1823年(36歳)、下野国(しもつけこく、栃木県)の荒村の再興を命じられ、尊徳は先進的な農業技術を導入。農民を指導して荒地を田畑に変えていった。また、領主にかけ合って年貢を4分の1にした。 おかげで、10年後の天保の飢饉(1833-36)では、全国で数十万の餓死者が出たにもかかわらず、尊徳がいた小田原藩はただ一人の餓死者も出さなかった。 飢饉中、尊徳は城の米倉を開放させて、貧困者に毎日一合ずつお粥を配給した。この時、尊徳はこう声をかけた「体は痩せるだろうが、決して餓死する心配はない。次の収穫まで寝たければ寝ていてよい。空腹をこらえることを仕事だと思って頑張ってくれ」。“耐える事も立派な仕事”と言うことで、人々に気力と誇りを与えたんだ。 尊徳が指導した農法は、弟子によって北関東各地や陸奥にも伝えられ、1842年(55歳)、幕府の御普請役格に抜擢された。1855年(68歳)、幕命で今市に転居し翌年に他界。 死から35年が経った1891年、作家・幸田露伴が『二宮尊徳翁』の中で薪をかついで読書する金次郎像を描き出し、以降、全国の小学校に銅像が建てられていった。 「私の願いは人々の心の田の荒廃を開拓して、天から授かった善の種を育てて、また蒔き広めることにある。心の荒廃を一人が開けば、土地の荒廃が何万町あろうと恐れるものではない」(尊徳) |
こういうキューブ形の墓石はあまり見ない | 白石の理想主義は現代にも必要かと! |
江戸中期の儒学者、詩人、政治家。白石は号。祖先は関ヶ原の戦で所領を失った。貧困ゆえ幼少時から独学で勉強し、1686年(29歳)に儒学者・木下順庵の弟子となる。そして師の推薦で甲府藩主・徳川綱豊(家宣)の講師となり、20年後に家宣が6代将軍となると、重用されて幕府政治の改革(正徳の治)を推進した。7代家継(いえつぐ)の世でも、白石は仁愛の精神と理想主義で国家を運営しようとしたが、人々はこれについてこれず社会は混乱。1716年(59歳)、8代将軍に吉宗が就任すると白石は幕府からお役ご免となった。6年後に他界するまで著作活動に精進し、約100年が経ってから主著「読史余論」「西洋紀聞」などが学問的に高く評価された。 |
香川出身。同郷の鬼才・平賀源内に例えられ“明治源内”の異名を持つ。20歳頃に頓知(とんち)協会を設立し、1889年(22歳)発行の「頓知協会雑誌」第28号で、大日本帝国憲法の発布を風刺した「大日本頓知研法」や、天皇のパロディ「頓知研法発布式」図を掲載、発禁処分を受ける。外骨は不敬罪で3年余りの獄中生活を送り、同雑誌は廃刊となった。出所後は官僚を宿敵と認定して腐敗を追及、さらに権力批判を強めていく。生涯に創刊した刊行物は160種。入獄4回、罰金40回以上、発禁&発行停止14回をくらった、筋金入りの反骨のジャーナリスト! ※外骨の刊行物は当局にマークされていたにもかかわらず、その姿勢は多くの民衆、知識人に支持され、南方熊楠、森鴎外、谷崎潤一郎、武者小路実篤らも寄稿している。 ●1901年(34歳)に創刊した『滑稽新聞』は過激な風刺で人気を博していたが、権力者の度重なる弾圧に激怒した外骨は、7年後の第173号(外骨は“自殺号”と呼んだ)で廃刊に踏み切った。 廃刊の辞--「滑稽新聞は明治34年1月をもって生れ、今明治41年10月をもって自殺する、近来世間に続出する自殺者は、その原因多くは煩悶厭世(えんせ)の為であるが、我輩が自殺するのはそのような薄弱の意志ではない、これを例せば南朝の忠臣・楠正成公が湊川(みなとがわ)において自殺したのと同様の見識に出たもので、楠公の生命がその自殺の日より長(とこしな)えに存続するがごとく、滑稽新聞もまた今日以後死して亡びざるものとなりたいのである。滑稽新聞の本領は、強者を挫(くじ)いて弱者を扶(たす)け、悪者に反抗して善者の味方となるのであったが、その本領の為ついに悪政府の爪牙(そうが)にかかって今回死刑の宣告、即ち発行禁止の言渡しを受けた、我輩は法律によって行動し言議する者であるから、その裁判に対してはあくまでも法律によって不服を唱えるが、滑稽新聞は今が死すべき好時機と見て潔く自殺するのである」。 |
政治家や軍人の巨大墓が多い青山霊園にあって、 兆民の墓は質素極まりない。雑草に囲まれていた |
「兆民中江先生 えい骨之標」 葬儀を拒否したので 骨を埋めた場所と標 |
背面には「遺言不墓」。 他界時は遺言に従い墓を 建てず、没後十余年を 経て門人が建てたらしい |
墓前の花も霊園内に 咲いていそうな 野花だった |
2009年冬。前回(06年)の緑豊かな夏の巡礼とまったく別世界。寂しげだ |
明治期の自由民権思想家。高知出身。本名篤介(とくすけ)。19歳、長崎でフランス語を学習中に坂本龍馬を知り、海外に向けて目を開く。「豪傑は自ら人をして崇拝の念を生じしむ、予は当時少年なりしも、彼を見て何んとなきエラキ人なると信じぜる」「第二の坂本君たらんとしたりき」。
1871年(24歳)から岩倉使節団に同行して3年間フランスへ留学。帰国後、東京外大の校長に就任。元老院権少書記官に就くも30歳で辞職。30代になるとフランスの影響で自由民権論を説き、独裁体制の批判や人民の抵抗権・革命権を主張。東洋のルソーと呼ばれた。また、1887年(40歳)に記した『三酔人経綸問答』で“非武装国家”“小国主義”を提唱。兆民は危険分子と見なされ東京を追放された。その後も、部落差別に抗議する為に部落民でないのに部落民を自称、普通選挙論など民主主義思想を主張し続けた。1890年(43歳)、第1回総選挙で衆議院議員に当選。最晩年はやや国権主義に近づいた。 |
幸徳秋水と片山(右) |
日本の労働運動の先駆者で国際共産主義運動の指導者の一人。岡山県出身。11年間の米国留学中にキリスト教徒となり、社会問題へ目が開く。帰国後は1897年(38歳)に労働組合期成会を結成。1901年5月(42歳)に日本初の社会主義政党“社会民主党”を結党するも即日禁止。1904年、第2インターナショナルのオランダ大会に日本代表として出席し、ロシア代表と共同で日露戦争反対を世界に叫ぶ。幸徳らが処刑された大逆事件後、渡米してアメリカ共産党の創立に奮闘しモスクワへ。1922年(63歳)、コミンテルン執行委員会幹部会員となり日本共産党の創立、反戦運動に尽力した。そのままモスクワで死去し、青山霊園の他にモスクワ・クレムリンの壁面(赤の広場)でレーニンらと共に眠っている。 |
墓参前に寺門の掲示板で感動 | 罪人とされたが、墓前に銅像や句碑が建ち、県民には英雄として慕われていた |
幼名久米之助。駿府の紺屋(染物屋)に生まれる。幼少から書を好み、軍学に長け兵法をよくし、江戸に道場(軍学塾)を構えて大名の子弟や旗本など3000人もの門下生を集めた。貧しい下層武士や浪人たちの境遇に義憤を覚えた正雪は、1651年(41歳)、幕府の悪政を改革しようと蜂起を計画(慶安事件とも、由比正雪の乱とも言われる)。作戦では最初に駿府城を奪い、別動隊が京都・大坂で同時に蜂起、江戸に火を放って幕府機能を混乱させ、江戸城を占拠しようという大胆なものだった。決起直前に内部から密告者が現れ、駿府の宿で包囲された正雪たち首謀者幹部は自害した。幕府転覆を図ったことで、正雪は同志と友に安倍川の河原に晒し首になるが、縁者の女性が密かに盗み去って菩提樹院に埋葬し、現首塚となった。蜂起は失敗したが、4代家綱以降の幕府の政策が、力押しの武断政策から文治政策へ転換するひとつの要因になったとされている。 |
あの山が嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ) | これが参拝道の入口 | ちょっとした登山だ |
登り初めて20分、何か見えてきた! | 山頂にて嵯峨天皇に謁見! | 周囲の見晴らしは最高でした |
第52代天皇。在位809〜823年。桓武天皇の息子で名は神野(かみの)。818年(32歳)、敬虔な仏教徒だった嵯峨天皇は“不殺生”という思想から死刑制度を廃止した(弘仁の格)。以降、平家が台頭するまで347年間も死刑は行なわれなかった。並外れて達筆で、同じ平安時代に活躍した空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)と並んで三筆の一人に数えられる。嵯峨天皇は勅撰漢詩集の編纂や、法令集の制定、冷然院・朱雀院・嵯峨離宮(大覚寺)といった別宮の建設など精力的に活動した。妃の数は皇后橘嘉智子を筆頭に30人以上、皇子・皇女が52人もいたことから、皇族の生活費で財政を圧迫させない為に、子どものうち30数名に源氏姓(嵯峨源氏)を与えて皇室から出した(臣籍降下。これが源氏の起源)。 嵯峨天皇の葬儀に関する遺言は胸を打つものがある--「人は死ねば気は天に、体は地に帰る。徳をもたない私の死に、どうして国費を使うことができようか。盛大な葬儀や祭祀は断じて行ってはならない。墓穴は浅く、棺を収められるだけの大きさにせよ。(古墳のような)盛り土はせず、草木の生えるままに放置しておけ。この命令に従わねば私の死体は辱められ、魂は深く傷つき怨鬼になるであろう」。このような天皇がかつていたことを、日本史でもっと大きくとりあげて欲しいものデス。 ※次に即位した淳和(じゅんな)天皇は嵯峨天皇の弟。薄葬の考えはさらに徹底され、「どんなに小さいものであろうと私の墓を造るな。火葬にして遺骨を京都の西山に散骨せよ」と遺言を残し、実際に側近の手で散骨された。しかし、明治時代に入って“天皇に墓がなくては皇室の威厳にかかわる”と宮内省(現・宮内庁)が、散骨されたと思われる西京区小塩山の山頂に「淳和天皇陵」を造営してしまった…。 ※嵯峨天皇の皇后も非常に仏教への信仰が篤く、日本初の禅寺・檀林寺(だんりんじ)を嵯峨野に建てたことから「檀林皇后」とも呼ばれる。彼女はなんと、「飢えた鳥や獣を救う為に私の死骸を埋葬せず野原に放置すべし」と告げ、さらに自らの亡骸が腐乱、白骨化し、土に帰る過程を描くよう絵師に命じたという。朽ち行く様子を9段階に分けた絵巻は京都・西福寺に『檀林皇后九想図』として残されており、毎年お盆の頃に数日だけ公開される。(リンク先で閲覧可能。絵巻なので右から左に絵を見ていこう。最初は十二単を着ていた美しい女性が、死後変色して崩れていくのはキツいですが、最後に骨が点在するだけになってしまうのを見て、逆に命の尊さを知るというか、僕はこの絵巻に言いようのない深い感動と神聖さを感じました) ※光源氏のモデルとされる左大臣・源融(みなもとのとおる)は嵯峨天皇第12皇子。 ※即位の翌年(810年)の“薬子の変”では兄・平城(へいぜい)上皇の復位計画を防いだ。 ※日本のお茶の歴史で最も古い記録は『日本後紀』に記されている。815年に嵯峨天皇が近江(滋賀)の崇福寺に詣でた際に、梵釈寺にて大僧都(だいぞうず)永忠が煎茶して献じたとある。 |
近隣の六波羅蜜寺にある『空也上人立像』は、何と口から6体の小さな阿弥陀仏がマンガの吹き出しの様に 出ている!これは「南無阿弥陀仏」と発した6つの言葉が、一文字ずつ仏になっている様子なんだ。 左手には、空也が心の友としてその鳴声を愛した鹿(猟師に撃たれてしまった)の角を冠した杖を持っている |
めちゃくちゃ道に迷ってしまい、西光寺にたどり着いた時は、もうとっぷり日が暮れていた。 墓は西光寺の駐車場の脇にあり、墓の手前には大きな墓誌が建っている(2007) |
3年後。今度はちゃんと昼間に巡礼!(2010) | 緑が美しい!やっぱりお墓参りは昼間に限る | すぐ近くに清水寺があり、お寺を一歩出ると観光客だらけ |
平安中期の僧で踊念仏の開祖。別称で阿弥陀聖(ひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と呼ばれるように、庶民の中に身を置いてひたすら念仏(南無阿弥陀仏)を唱え続け、浄土教の布教に努めた。人々の暮らしの向上の為に、社会事業にも積極的にかかわり、道路や橋を造ったことから多くの民衆に慕われた。彼の思想は後に一遍上人に影響を与える。六波羅蜜寺にて他界。※実は醍醐天皇の子とも言われている。 |
近鉄奈良駅前の行基像は大仏殿に向って立っている。 奈良県民にはハチ公前より有名な待ち合わせ場所だ |
民衆からは生きながら 菩薩と慕われた |
竹林寺の山門。柱2本のみでシンプル |
墓所の竹林寺。この本堂は 1250回忌(1998年)に復元された |
境内の奥に行基の墓所がある |
2007 墓石はなく、写真中央の土が盛り上がった茂みが丸ごと墓だ。古墳に近い |
2014 | 史跡に指定されている |
行基創建の奈良・喜光寺(きこうじ)2014 |
喜光寺の本堂。行基は当地で没し、竹林寺へ |
大阪・堺生まれ。貧しい者の為に社会事業に取組み、生前から菩薩とよばれた奈良時代の高僧。今日の社会福祉の基を開いた。百済王の子孫(帰化人)。15歳で出家し薬師寺に入り、当時の仏教界の第一人者・道昭(どうしょう)に学ぶ。若い行基は道昭に随行して諸国を巡り、重税にあえぐ民衆の貧困生活と、都の貴族の贅沢な暮らしぶりの格差に衝撃を受ける。行基は仏教本来の目的は民衆の救済にあると考え、700年(32歳)に師の道昭が他界すると、その遺志をついで本格的に社会事業に乗り出した。704年(36歳)、故郷の堺に戻り生家を道場として家原寺を開く。多くの人々が行基の説法を聞く為に集まり、民衆は彼を菩薩と呼んで慕った。次第に地方の豪族にも行基の支持者が現れ始め、1000人の信者が行基と行動を共にするようになった。行基は各地で橋を架け、道路を整備し、水害対策で堤を築き、農業の為に池を掘った。同時に多数の布施屋(無料宿泊所)を設けて貧民を救済。建立した寺院は畿内だけで49ヶ所、全国では約700に及ぶといわれている。
『続日本紀』の記録によると、730年に行基が仏法の集会を開いた際、1万人もの民衆が集まったという(当時の少ない人口を考えると驚異的)。
ところが、朝廷は行基を危険人物と見なし始める。庶民の不満に行基が耳を傾けることは、体制への反抗を扇動する行為というのだ。当時は『僧尼令』が定められ、僧侶の役目は国家安泰を祈ることであり、寺の外で活動すること(民衆教化)は固く禁じられていた。事実、行基のもとへは朝廷に不満を抱く庶民が多く集まった。これを警戒した聖武天皇は行基を激しく弾圧し、ついには平城京から追放する。その結果、人心はますます聖武天皇から離れていった。741年(73歳)、聖武天皇は行基に謝罪。そして東大寺の建立のために協力を要請した。朝廷が大仏造りを呼びかけても人々は積極的に動かないが、行基が声をかければ嬉々として民衆が集うことを朝廷は認めざるを得なかった。745年(77歳)、行基は聖武天皇から日本初の大僧正(僧侶の最高位)に任ぜられた。749年(81歳)、行基は奈良西部の菅原寺で数千の弟子に囲まれ他界。生駒の山中に葬られる。それから3年後に大仏が完成し、開眼法要が営まれた。
1235年、行基の墓と伝承されていた場所から二重の銅筒が発見され、中に入っていた銀瓶に「行基菩薩遺身舎利之瓶云々」と記された札があった。これによって正式に行基の墓と確認され、同地に竹林寺が建てられた。行基が火葬された奥山往生院にも五輪塔がある。
※東大寺修二会(お水取り)では読み上げられる過去帳には、聖武天皇、光明皇后の次に、行基菩薩の名が記されている。どれほど行基が大仏建立で大役を果たしたかが分かる。
※全国を巡った行基が作ったとされる日本最初の地図(行基図)は、江戸時代に伊能忠敬が測量図を作成するまで日本地図のスタンダードだった。 ※日本全国に行基が発見したとされる温泉がある。
※行基の師、道昭は日本法相宗の開祖。道昭は遣唐使で大陸に渡り、あの玄奘(三蔵法師)に師事した。道昭は日本で初めて火葬された人物でもある(遺言で火葬された)。
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激動の時代を生き抜く | 清林寺墓地の一番奥に眠っている | 命知らずの言論人 |
東京生まれ。本名、長谷川万次郎。明治から昭和まで93年間を、反ファシズムをモットーに戦い抜いた希代のジャーナリストだ。材木屋の父は浅草に花屋敷を開業した野心家。1903年(28歳)、新聞「日本」の記者になるも社長と対立して2年で退社。1908年(33歳)、朝日新聞社に入りコラム「天声人語」で民主主義思想を全開させ大正デモクラシーの旗振り役となった。1915年(40歳)には、夏の甲子園の前身となる野球大会を発案した。
1918年(43歳)、政府によるマスコミへの弾圧・白虹事件に抗議して退社。翌年、『我等』を創刊して反ファシズムの立場を鮮明にしていく(同紙は何度も発禁処分をくらった)。1929年には『我等』にデンマーク陸軍大将フリッツ・ホルムが起草した“戦争絶滅受合法案”を載せた。1932年(57歳)、著作『日本ファシズム批判』が発禁。終戦翌年に71歳の高齢で貴族院議員に選ばれ、73歳で文化勲章を受章。1969年、最後まで日本を代表するリベラリスト(自由主義者)として生涯を終えた。 「煩悶せざる青年は、人生初期において足らざる所あり」(長谷川如是閑) ●長谷川が紹介した『戦争絶滅受合法案』は以下の通り。これを軍部の権力が拡大し、首相でさえ銃撃される時代に発表したことがスゴイ。
『戦争絶滅受合法案』(現代語訳) 「戦争開始後、または宣戦布告の後、10時間以内に次の処置をとること。以下に該当する者を“最下級”の兵士として召集し、出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下で戦わせること。 1.国家元首。君主も大統領もこれに該当。ただし男子に限る。
2.国家元首の男性親族で16歳以上の者。
3.総理大臣、及び各国務大臣、並びに次官。 4.国民によって選ばれた男性議員。ただし戦争反対の投票をした者は除く。
5.キリスト教や仏教のほか、あらゆる宗教関係者の高僧で、公然と戦争に反対しなかった者。 付記.該当者の妻、娘、姉妹等は、戦争継続中、看護婦または使役婦として召集し、最も砲火が接近した野戦病院に勤務すること。
※ネットの意見ではこの法案には有権者の責任が入ってないとして、「戦争に賛成した議員を選んだ選挙区の有権者から順番に徴兵」「戦争資金に国家予算は一円も使わず、戦争に賛成した議員の資産、及びその議員に投票した有権者の資産でまかなう」という提案もあり、なるほどと納得。こうなってくると、まず戦争は起こせないだろう。
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京都市中京区の「武市瑞山先生寓居之跡」。右隣には土佐勤王党 出身で“天誅組”を組織した吉村寅太郎が住んでいたという |
京都市東山区の翠紅館(すいこうかん)跡。半平太、 久坂玄瑞、井上聞多ら攘夷派が密会していた |
高知市の瑞山神社。武市一族の墓がたくさん並んでいた | 手前が「武市半平太小楯」、左奥が妻の富子 | 墓石の角が欠けているのが目印 |
墓所近くの瑞山(半平太)旧宅。座敷が現存 | 墓所の側に半平太を称えた瑞山神社もある | 半平太の獄中自画像 |
「武市瑞山先生殉節之地」。半平太が割腹した場所だ(高知市内・四国銀行帯屋町支店前) |
幕末の尊攘派志士で土佐勤王党の盟主。本名、武市小楯(こたて)。号は瑞山。現高知市の郷士出身。6歳下の坂本龍馬とは遠縁。若い頃から剣にすぐれ、1849年(20歳)、城下に剣術道場を開く。門下生に岡田以蔵や中岡慎太郎らがおり、この道場が土佐勤王党の母体となった。1856年(27歳)、江戸にのぼり鏡心明智流を学んで塾頭となる。半平太は江戸で高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞など尊皇攘夷派の長州藩士と親交を深めた。1860年(31歳)、桜田門外の変が起きて井伊大老が暗殺されると尊王攘夷運動がヒートアップ。翌年に半平太は土佐勤王党を結成する。龍馬や中岡も加わり、加盟者は約200名にもなった。1862年(32歳)、半平太は高知藩の重鎮で公武合体論者の吉田東洋暗殺を指令。勢いをかって土佐藩を尊王攘夷に向かわせた。続いて京に乗り込んだ半平太は、“暗殺マシーン”岡田以蔵や薩摩藩の田中新兵衛を放って幕府側の政敵を文字通り葬っていく。
どんどん影響力を増していく半平太だったが、1863年(33歳)に会津藩と薩摩藩が結んで起こした長州追放のクーデター「8月18日の政変」が起き、いっきに尊王攘夷運動が後退する。土佐藩においても公武合体論者の前藩主・山内容堂が後藤象二郎らを使い、土佐勤王党へ大弾圧を開始する。長州の久坂玄瑞は、半平太に「京から土佐に戻れば弾圧されるぞ」と長州亡命を熱心に勧めたが、半平太は主君への忠義を重んじ土佐に帰った。同年9月に投獄された半平太は、吉田東洋の暗殺指令など様々な容疑を追求されるが、これを頑なに否定し続けた。だが、同様に捕縛されていた岡田以蔵が拷問に耐えきれずに自白。半平太は約1年半投獄されたが、最後は切腹を命じられ自害する。半平太は武士として初となる「三文字の切腹」をやり遂げ、土佐藩の「上士」「下士」という時代錯誤な身分制への怒りを示した。気骨を見せた。享年35歳。半平太は「人望は西郷、政治は大久保、木戸に匹敵する人材」と評され、そのまま生きていれば首相になれる器を持っていたことから、維新後に山内容堂は切腹させたことをずっと悔いていたという。
辞世の句は「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」。 ※高知市にある瑞山(半平太)旧宅は無関係の人が住んでいるが、国の史跡に指定されており、事前予約すれば半平太の部屋を見学できる。
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「蓮如上人御誕生之地」 京都市東山区・崇泰院。この地で蓮如は産まれた |
山科区。お墓は蓮如が建立した山科本願寺の跡地に! | 浄土真宗を広く布教 | 立派な門が墓所を守る |
夕日が石柱の背後で反射し、偶然にも建立者したお坊さんの名前が壁に! | 格子の間から撮影。古墳のような盛り土があった |
本願寺中興の祖となった浄土真宗の僧。今の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築く。諱は兼寿。東山大谷の本願寺7世存如の長男。43歳で本願寺8世を継ぎ、さびれていた本願寺を復興させるべく奮闘。しかし1465年(50歳)に延暦寺から“仏敵”と認定されてしまい、比叡山の衆徒に寺を破壊され大津に脱出する。その後、越前・吉崎で活動して信徒を増やすも、加賀守護・富樫政親の弾圧を受けて1475年に畿内に戻る。1483年、京都山科に本願寺を再建。1496年(81歳)には大坂に布教の一大拠点となる石山本願寺を建立した(この地は後に大坂城が建つ)。3年後、死期を悟った蓮如は山科本願寺に戻り、その翌月に他界した。
※後年、石山本願寺は石垣に囲まれ要塞化していく。一向宗を弾圧する織田信長軍を10年間もしりぞけたが、創建から84年後、1580年に滅ぼされた。
※蓮如の子供の数は男子13人、女子14人という計27人!これは妻と4度も死別し、5度結婚したからだ。
※蓮如が越前から追われた13年後(1488年)、加賀で一向一揆が起きて守護の富樫政親が倒され、浄土真宗門徒が100年近くも加賀の国を支配することに。 ※「徳をもって恨みに報いれば、恨み、すなわち、やむ」(蓮如上人) |
短命が悔やまれる | 左内公園には巨大左内像と墓所がある |
お寺や霊園ではなく公園の片隅に眠る |
「景岳先生之墓」が左内の墓 |
『啓発録』…稚心を去る、気を振う、 志を立てる、学を勉める、交友を択ぶ |
左内公園には、かつて 芭蕉の逗留地があった |
左内公園で仰天したのは実物大の動物たち。 象のデカさは圧巻。彼らはただそこにいるだけ |
キリンもいるけど 高すぎて遊びようがない |
回向院は刑場跡に建立。正面のお堂が左内の墓 | 左内先生!同じ墓地に吉田松陰も眠る | 南無南無南無南無南無… |
墓前の巨大顕彰碑 | 子供は1mだから高さ3mほど! |
橋本左内は幕末に開国を訴えた福井藩士。本名、橋本綱紀。父は藩医。1849年(15歳)、左内は大坂に出て蘭学者の緒方洪庵から蘭方医学を学んだ。また、薩摩藩の西郷隆盛(当時20歳頃)や水戸学の大家・藤田東湖との交流から政治に関心を深める。1857年(23歳)、越前・福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、藩政改革や藩校の学制改革に取り組んだ。この頃、13代将軍家定の後継者問題が起き、一橋慶喜を推す主君春嶽の意を受け慶喜擁立に奔走。しかし、井伊直弼の大老就任と共に14代将軍は家茂に決定し、慶喜を推した一橋派への大弾圧「安政の大獄」が吹き荒れる。1859年、春嶽は隠居謹慎処分に命ぜられ、左内は一橋派の責任をとるかたちで小塚原刑場にて斬首された。まだ25歳という若すぎる死だった。戒名は景鄂院紫陵日輝居士。 左内が目指していたのは、幕藩体制を維持した上で、大名から庶民まで才能ある人間を登用した将軍慶喜を頂点とする統一国家体制の樹立。同時に開国&外国貿易による富国強兵が必要と訴えた。明治維新の主役になる志士たちに先駆けてこれらの思想を持っていたことは特筆に値する。 ※左内は15歳の時に次の5つの戒律を定め『啓発録』に記した。(1)稚心を去る(2)気を振う(3)志を立てる(4)学を勉める(5)交友を択ぶ。 ※東京の南千住回向院にも墓があり、安政の大獄で刑死した吉田松陰らと並ぶ。死から4年後の1863年に回向院から福井県に改葬された。 |
白隠の人柄を讃えた「白隠塔」(竹採公園前) |
竹採公園の場所には無量寺というお寺があったが、 明治初年の神仏分離令で廃寺処分となった |
中央が白隠。無量寺の歴代住職の墓と共に並ぶ |
駿河国出身。禅宗の刷新を図った臨済宗中興の祖で「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた。諱は慧鶴(えかく)。白隠は15歳の時に松蔭寺で出家。23歳で悟りに達したと自負していたところ、道鏡慧端(えたん、真田幸村の兄信之の子)にその慢心を「鬼窟裏の死禅和(きくつりのしぜんな)=死人のように動きのとれぬ禅坊主」と厳しく指摘されて目から鱗が落ちた。熱心に参禅に励み、1718年(33歳)、京都の名刹・妙心寺の第一座となり白隠の名を号す。その後、法華経を読誦(どくじゅ)している時にコオロギの声を聞き、生涯最高の悟りをえた(42歳の秋)。 白隠は晩年まで民衆の中に入って教化に務め、多数の寺院を建立&再興し、田舎の貧乏寺で奮闘し人々から愛された。禅画も多数残している。白隠の死後、遺骨は無量寺、沼津市原の松蔭寺、三島の龍澤寺の3カ所に分骨された。 |
浄土真宗本願寺派本願寺大谷本廟。この明著堂の 背後にある祖壇(親鸞の墓)の側に顕如の墓も建つ |
明著堂の奥に見える建物に親鸞が眠っている。 非公開ゆえ、これ以上接近できない |
その後、格子の隙間から見えることに気づいた! (2012) |
墓は6基あるうちの右から1番目 (最も親鸞上人に近い場所) |
横井家の墓所。顕彰碑が偉業を伝える |
「沼山横井先生墓」 |
庭園の奥に墓地の入口があるので、お寺の人に 挨拶して墓参しよう。向かって右奥、左手に眠る |
“神霊”と刻まれた珍しい供養塔。京都市東山区の霊山護国神社の墓地に建つ(2010) |
熊本藩士。開国論者で幕府・藩を越えた統一国家の必要性を説き、参勤交代制を廃止させた儒学者。名は時存(ときあり)で「小楠」「沼山」は号。公武合体派。若い頃から藩校で頭角を現し、28歳で時習館居寮長(塾長)に抜擢される。1839年(30歳)、藩命により江戸に遊学して朱子学を学ぶと共に、水戸藩士・藤田東湖や幕臣・川路聖謨など、有能な人物と交流を重ねた。だが、翌年、酒癖の悪い小楠は酒の席で失敗(喧嘩)し、帰国を命じられてしまう。1841年(32歳)に帰藩すると、藩内に学問を伝え、1843年(34歳)に私塾を開いた。小楠は政治と学問の一致を説く「実学党」を結成。私塾で学んだ生徒を通して他藩まで名が広まり、1858年(49歳)、その才覚を見込んだ福井藩に招かれる。小楠は福井藩主・松平春嶽(慶永)を補佐し藩政改革を行なった。
1860年(51歳)、公武合体運動を推進し、開国・貿易により海軍の充実を求める『国是三論』を表す。小楠の開国思想は長州藩士ら尊王攘夷派の激しい怒りを買い、命を狙われるようになる。1862年(53歳)、松平春嶽が幕府の政事総裁職に就任し、小楠その政治顧問とし江戸に移り住む。同年暮れ、春嶽のお供で京へ登ることになり、江戸住まいの熊本藩士たち(吉田平之助、都筑四郎)が見送りの酒宴を開いてくれた。小楠が3人で酒を呑んでいると、突然3人の刺客の襲撃を受けた。小楠は料亭を飛び出して福井藩邸に駆け込み、援軍の福井藩士を連れて戻ると2人とも負傷しており、吉田平之助は後日死亡した。小楠は仲間を置いて逃げたことを“士道不覚悟”として糾弾され失脚。松平春嶽は小楠を助ける為に熊本藩に嘆願書を送ったが、1863年(54歳)、士籍剥奪・知行召し上げの処分を受け、1浪人として熊本郊外沼山津の自宅「四時軒」に引きこもった。 翌1964年(55歳)、小楠の私塾を訪れた龍馬に『国是七条』を説き、これが後に龍馬の“船中八策”の原案となった。以降、幕府最後の4年間、小楠はまったく政治に関われないまま維新を迎えた。 1868年(59歳)、明治新政府に召し出されて参与になったが、保守派から西洋追随者と非難され、明治2年に京都で旧攘夷派(十津川郷士)によって「開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」という事実無根の理由で暗殺された。享年60歳。現在、「横井小楠殉節地」の石碑が、京都市中京区寺町丸太町下る東側にある。 |
「国家の財産」を自認 | 「佐久間象山寓居之址」。京都三条木屋町にて |
この地点のすぐ北に「佐久間象山先生遭難之碑」 「大村益次郎遭難之碑」があることを示す石碑 |
京都市中京区の「佐久間象山先生遭難之碑」。左隣には廃刀論を唱えて反対士族に暗殺された 長州藩出身の大村益次郎の遭難碑。※高瀬川を挟んだ対岸には「桂小五郎幾松寓居趾」がある |
「象山佐久間先生墓」。墓前には“象山会”の石灯籠が建つ | 墓所の奥の方に眠っている |
幕末期の洋学の第一人者、兵学者。東洋の道徳や社会体制を尊重しつつ、西洋の科学技術を積極的に取り入れようとした。名は啓(ひらき)、象山は号。信濃国松代藩の下級武士。儒学、和算など学問に優れ22歳で江戸に遊学。1842年(31歳)、主君である老中・真田幸貫(ゆきつら)から海外事情の研究を命じられ、同年、清がアヘン戦争で英国に敗北したことを知り愕然とする。
国防の必要性を痛感して『海防八策』を書き、大砲の鋳造に成功、1851年(40歳)に西洋砲術の塾を開く。吉田松陰、勝海舟、橋本左内、坂本龍馬らが門弟となった。翌年、勝海舟の妹・順と結婚。1853年(42歳)、浦賀にペリーが来航。1854年(43歳)、松陰の密航未遂事件に連座し松代にて蟄居。 8年後(井伊大老暗殺の2年後)に赦免され、幕命を受けて京都で慶喜らに公武合体論、開国論を説く。翌々年(1864年)、京都三条木屋町にて尊王攘夷派の河上彦斎、前田伊右衛門らによって「西洋かぶれ」と暗殺された。犯人の河上彦斎は、殺害後に象山の大人物を知って所業を悔い、2度と暗殺をしなかった。 ※象山はガラスの製造や地震予知器の開発にも成功している。 ※息子の三浦啓之助は新選組を脱走。
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実家の西光寺の境内に墓がある | ちなみに西光寺の正面は「水平社博物館」だ | 西光寺前の石碑。“あらゆる差別を許さぬ”とあった |
朝陽に包まれた墓。まさに「光あれ」の世界 | 墓石側面に「水平社創立者」 | 万吉の自筆で「人の世に熱あれ、人間に光あれ」 |
社会運動家、水平社創立者。本名、清原一隆。奈良県出身。父は浄土真宗西本願寺の末寺、西光寺の住職。中学で部落差別を受け、絵画を学ぶ為に京都や東京(日本美術院)に出る。二科展に入選する一方でまたしても部落差別にあい、人間の平等をうたって部落民を差別しないマルクス主義や仏教に接近した。
1917年(22歳)、病気療養のために奈良に帰郷。社会主義運動家、佐野学の論文「特殊部落民解放論」に触発され、被差別部落民が自力で解放を勝ち取る為の組織を起ち上げることを決意。1922年3月3日(27歳)、同志・阪本清一郎らと全国水平社を設立した。万吉は運動のシンボルである荊冠旗をデザインし、自ら起草した水平社宣言の最後を「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と締めくくった。
1928年(33歳)、日本共産党に入党。三・一五事件(治安維持法違反)で投獄され、過酷な獄中生活の中で厳しく思想転向を迫られた。1933年(38歳)、5年間を獄中で過ごした後、転向書を提出して仮釈放される。一転して極右団体で活動し、国粋主義に染まっていった。1941年(46歳)、妻の故郷・和歌山県打田町(紀の川市)に居を定める。1945年(50歳)、終戦。戦争へ協力した戦争責任に悩み、敗戦直後に自殺未遂をはかる。その後、悔い改めて立ち直り、「不戦和栄」の信念のもと、日本の再軍備に反対し、原水爆禁止運動に加わり世界平和を訴えた。1970年、享年74歳で他界。
「“水平”とは自然によって作られた平等の尺度です」(西光万吉) |
本名、小島守善(もりよし)。米沢藩出身。字は居貞、号は枕月。志士であり詩人。維新で没落した旧幕臣や諸藩の藩士に参政の機会を与えよと4度にわたって政府に嘆願書を提出した結果、雲井は新政府に不満を持つ人々の象徴的存在となった。 1871年、雲井と同志は政府転覆の陰謀罪に問われ、リーダーの雲井は判決の2日後に斬首。小塚原にて晒された。約50名が投獄され、22名が牢死する。雲井の胴は解剖の授業に使用された。新政府は雲井の業績を隠し、郷里(米沢)でも名前を語るのはタブーとされた。本墓は米沢市の常安寺。戒名は義雄院傑心常英居士。命日には雲井祭が催される。 |
「世界の良心」と謳われた | なんとオランダで“国葬”となった | 鏡子夫人、子の太郎と眠る |
墓域全景。総持寺の奥まった墓地(中央イ-1-1-18) | 墓誌にはギッシリ経歴が書かれている |
戦前の常設国際司法裁判所の裁判長。不平等条約の改正、非戦思想の制度化、世界平和の組織化に尽力。国家間の紛争を戦争ではなく国際法によって解決する組織作りに生涯を捧げた。 山形県出身。少年時代は勝海舟と交流のあった地元の医師に漢学を学び、11歳で小学校教員助手となる。15歳で上京し、司法省法学校に最年少で合格する(志願者約1500人中2番目の成績)。同級生に後の首相、若槻礼次郎がいる。東京帝大では英仏伊語を習得した。1892年(23歳)、鏡子(かねこ)と結婚し外務省に入省、翌年、陸奥外務大臣の辞令でイタリアに赴任する。1897年(28歳)、フランスに転任しジャポニズムブームに沸くパリ万博の事務次官を拝命。1903年に帰国、6年間国内で勤務。1905年(36歳)、小村寿太郎の随員としてポーツマス条約の草案作成に取り組んだ。 メキシコ公使、ベルギー公使を経て、1920年(51歳)の国際連盟第1回総会に日本代表代理として、翌年の第2回から10回までは日本代表として出席した。1922年(53歳)、国際連盟の国際紛争調停手続き研究委員会の議長に就任。1927年にフランス大使に就任、ヴェルサイユ講和条約実施委員長に任じられる。翌年のパリ不戦条約締結に尽力。 1929年(60歳)、国際連盟理事会議長に就任。ハーグ対独賠償会議では、日本代表として対立していた英仏の代表者を茶席に招待し和解させた。 1930年(61歳)、第一次世界大戦の戦後処理で戦争の悲劇に触れた安達は、非戦の制度化や世界平和の組織化の重要性を痛感し、常設国際司法裁判所の判事選挙に立候補。最高得票(連盟加盟国52カ国中49カ国)で当選した。翌1931年(62歳)、同裁判所の第4代所長(裁判長)となった。 同年、国際平和を望む安達の思いに反して満州事変が勃発。翌年には日本の国際連盟脱退問題が起き、心労を重ねていく。1934年、3年の任期を勤めて一般判事に戻ったが、祖国の侵略行為に悩んで体調を崩して心臓病を発症。同年暮れにアムステルダムの病院にて心臓内膜炎で他界した。享年65歳。 「世界の良心」と謳われた安達の功績を、オランダは“国葬”の礼をもって称え、日本政府代表や日本皇室名代も参列した。新渡戸稲造いわく「安達の舌は国宝だ」。 ※安達は彫刻家ロダンの作品や言葉に感銘を受け、高村光太郎にロダンの言葉をまとめた手紙を送っている。 ※外部参考サイト |
右翼のカリスマだがアジアは平等と考える | 和平の試みを東條英機に潰された | 妻の峰尾と眠る。隣りの墓は三男・秀三 |
「頭山翁は、衰運(弱み)に乗じてその領土を盗むようなことが非常に嫌いで、朝鮮の併合も反対、満州事変も不賛成、日華事変に対しては、心から憤っていた。翁の口から蒋介石に国際平和の提言をすすめてもらうことを考えた」(東久邇宮/ひがしくにのみや)。 戦前の国家主義運動のカリスマ。右翼の巨頭かつ草分け的存在。福岡生まれ。日本の海外進出を訴える一方、中国の孫文や蒋介石、韓国の金玉均、インドのビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウら亡命革命家の支援活動をおこない、アジア各国の独立を支援した。アジア諸国と同盟することで西洋列国と対抗する“大アジア主義”を構想。また、右翼ではあるが、アナキストの大杉栄、民権運動家の中江兆民や吉野作造、政界の犬養毅、広田弘毅とも交友があった。 福岡藩士の子で明治維新を13歳で迎える。1876年(21歳)、萩の乱に連座して入獄。その後、1881(26歳)に自由民権運動家の平岡浩太郎を社長とする玄洋社を創立する。自らは玄洋社の海外工作部門・黒龍会の顧問となった。 1884年(29歳)、朝鮮の近代化を目指して金玉均がクーデター(甲申政変)を試みるが清軍の介入で失敗に終わる。翌年、日本に亡命した金玉均と会った頭山は、5百円(今の1500万くらい?)を支援した。1895年、大陸で武装蜂起を企てた孫文が密告されて日本に亡命。2年後の1897年(42歳)、頭山は革命家・宮崎滔天の紹介で孫文と会い、頭山が橋渡しとなって平岡は孫文に東京滞在費の援助を行った(犬養毅が住居を斡旋)。 1911年(46歳)、大陸に戻った孫文は辛亥革命を成功させるが、やがて袁世凱に権力を独占され、再び日本へ亡命する。袁世凱に気を遣った日本政府は孫文の入国に否定的だったが、頭山は犬養を通じて山本権兵衛首相に働きかけて亡命を認可させた(頭山邸の隣家に孫文をかくまった)。 1904年(49歳)に日露戦争が始まると、「満州義軍」を結成してロシア軍の背後を撹乱するゲリラ戦を展開。朝鮮半島に対しては、玄洋社は“対等合併”を目指しており、1910年(55歳)の日韓併合は不平等合併であったことから、黒龍会主幹の内田良平は日本政府に激怒した。 1915年(60歳)、日本政府から国外退去命令が出されていたインドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースの支援を行う。その他、フィリピン、ベトナム、エチオピアにも独立支援を行った。1924年(69歳)、孫文が中国東北部からの日本軍撤退を求めて来日したが、頭山は日本の拡大がアジアの安定につながると考え、話し合いは平行線に終わった(孫文は4カ月後に病没)。1927年(72歳)、国民軍総司令官の蒋介石が日本に逃れてくると、頭山はまたも隣家でかくまった。その後、蒋介石は大陸で北伐を成功させる。1929年(74歳)、南京で行われた孫文の英霊奉安祭に、日本を代表して犬養毅と共に出席。1932年(77歳)、満州国が建国するが、日本の植民地同然であり、頭山の理想とは異なっていた。 1937年に日中戦争が勃発すると、近衛首相は頭山を中国に派遣して蒋介石と和平のきっかけを見出そうとしたが、頭山を無法者扱いしていた内大臣・湯浅倉平が反対して幻に終わった。1941年(86歳)、今度は東久邇宮稔彦王が蒋介石との和平会談の橋渡しを頭山に求めてきた。蒋介石が会談に応じたので飛行機の手配を行ったところ、東條首相が「勝手なことをしてもらっては困る」と横槍を入れ会談は流れた。1944年、太平洋戦争が泥沼化する中、御殿場にて89年の人生を終えた。「おれの一生は大風の吹いたあとのようなもの。何も残らん」(頭山)。青山霊園のほか、博多崇福寺の玄洋社墓地にも墓がある。号は立雲。 ※元玄洋社の来島恒喜は外務省門前で大隈重信外相に爆弾を投げ付けて右脚切断の重傷を負わせ、その場で頸動脈を切って自害した。 ※1990年、孫の頭山統一(洗足学園大学講師)が、青山霊園の墓前で拳銃自殺している。 ※玄洋社三傑…頭山満、箱田六輔、平岡浩太郎。 |
福岡藩士。通称、次郎。和歌や雅楽を好み、古来の日本をこよなく愛した。20代後半の頃、国臣は福岡の城下を烏帽子、直垂(ひたたれ)という平安時代のコスプレで出歩き、養子先から離縁されてしまう。髪型も、当時の成人男性は頭頂部の髪を剃る月代(さやかき)が普通だったのに、髪を伸ばして髷を結い周囲を驚かせた。刀も古風な太刀を差し、特異なビジュアルと古代オタクの豊富な学識により、次第にカリスマ性を帯びていく。 1858年(30歳)、京都で西郷と知り合い攘夷派志士として政治運動を始める。その後、薩摩の新藩主・島津久光が尊攘派を弾圧したことから、前途を悲観した西郷は攘夷派の僧侶・月照と入水。月照は水死したが、西郷は国臣が引き上げた。「安政の大獄」で次々と攘夷派が捕縛されるなか、国臣は逃避行の過程で水戸藩士と知り合い、井伊大老の暗殺計画を語り合う。翌年3月、「桜田門外の変」で井伊大老が殺害されたことを下関で知った国臣は、志士の仲間と祝杯をあげた。国臣が大老暗殺計画を事前に知っていたことから、福岡藩は逮捕命令を出す。国臣は同志の手引きで薩摩に潜伏するが、薩摩の志士は慎重派が多く、失望した国臣は「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」と詠んだ。 そして、薩摩藩士にハッパをかけるため『尊攘英断録』を書き、その中で「もはや公武合体では国難に対応できず、薩摩藩など大藩が天皇を奉じて討幕の挙兵を断行すべし」と大いに煽った。1862年(34歳)、薩摩の急進派・有馬新七らは京に入って開国派の関白、公卿を暗殺しようとしたが、公武合体派の島津久光の命を受けた同郷の薩摩藩士たちに寺田屋で粛清された(寺田屋騒動)。 1863年(35歳)、攘夷派の吉村寅太郎ら「天誅組」が大和国で挙兵すると、国臣は天誅組支援のため攘夷派公卿・沢宣嘉(のぶよし)を擁して但馬(たじま、兵庫北部)・生野銀山で挙兵する。だが、農民2000人を集めるも、周辺国の藩兵に包囲・鎮圧され、京の六角獄舎に送られる。翌年、禁門の変で発生した火災が獄舎に迫り、脱走を恐れた町奉行の判断で、わずか3時間の間に同志36人と共に斬首された。享年36歳。 ※上京区の竹林寺にも墓。 ※福岡市立博物館に国臣の横笛が2本展示されている。 |
九段下駅から靖国神社の大鳥居をくぐると… | 巨大な益次郎の銅像が立っている! | まゆげがカモメの羽のごとし! |
緒方洪庵の菩提寺でもある龍海寺(2011) | 「大村兵部大輔埋大腿之地」 | 左隣り(塀の向こう)は洪庵先生! |
日本陸軍の創始者。長州征討と戊辰戦争における勝利の立役者であり、維新十傑の一人。洋学者・軍政家・医師。周防国(山口市)大村出身。父は長州藩の村医。元の名は村田良庵のち蔵六。41歳から大村益次郎。あだ名は「火吹き達磨」。 1842年(18歳)、防府で梅田幽斎(シーボルトの弟子)に医学・蘭学を学ぶ。22歳で大坂に出て緒方洪庵の適塾で学び、塾頭まで進んだ。1850年(26歳)、父の要望で帰郷し村医となった。翌年、農家の娘・琴子と結婚。29歳のときにペリーが来航、蘭学の知識を持つ大村は伊予宇和島藩主・伊達宗城に招かれ、西洋兵学・蘭学を教え軍艦製造にもかかわった。1856年(32歳)、藩主の参勤に供して江戸に入り私塾を開く。翌年、幕府の武芸練習所=講武所教授となった。大村の授業は当時最高水準のものであり、幕府・生徒から賞賛され、1860年(36歳)に江戸詰の長州藩士となった。 1863年(39歳)、長州萩に戻り西洋兵学の講義を担当。製鉄所建設や通訳も行った。5月長州藩は関門海峡を通る外国船に砲撃を行うが、米仏艦隊の猛攻を受け、軍事力の差を痛感する。高杉晋作は郷土防衛のため、志願制の非正規軍「奇兵隊」を組織。奇兵隊は農民・町人・下級武士など隊員の身分はまちまちだが、大村の指導で西洋式兵制を採用し士気も高かった。 1864年(40歳)、禁門の変や第一次長州征伐の敗北で攘夷派は力を失い、保守派が権力を握ったが、翌年に高杉晋作らが挙兵して倒幕派が権力を取り戻した。1866年、幕府の第二次長州征伐が始まった。長州ただ一藩で幕府軍と戦うことは、世間からは無謀に見えたが、長州藩は大村の指導で命中率が高く射程の長い最新型ライフルのミニエー銃4300挺を購入するなど軍備を近代化させており、大村が指揮官を集めて戦術を徹底的に教え込むなど、強力な軍に進化していた。「その才知、鬼の如し」と評された大村の用兵術で長州軍は勝ち続け、幕府軍が攻めあぐねている間に第14代将軍徳川家茂が病死するという大事件が起き、長州はついに幕府軍を退けた。 1868年(44歳)に始まった戊辰戦争でも大村は存分に能力を発揮。江戸における彰義隊掃討、東日本の旧幕府勢力の鎮圧で、大村の軍略が火を吹いた。翌1869年、新政府の幹部となった大村は、これからは政府直属の中央軍創設が必要と考えた。町民・農民でも訓練すれば強くなることを奇兵隊で知っているため、藩兵を解体し徴兵制を目指す軍制改革を進めた。ところが、薩摩は職業軍人たる士族だけで中央軍を編成すべしと猛反発(大久保利通は士族の抵抗を考慮し、鹿児島(薩摩)・山口(長州)・高知(土佐)藩兵を中心に中央軍を作るべきと考えた)。朝廷側でも岩倉具視が農民に戦闘を教えると一揆に繋がると危惧した。 7月、大村は兵部省の設置にともない兵部大輔(たいふ/国防次官)に就任。9月4日、京都三条の旅館で、長州藩大隊指令の静間彦太郎、伏見兵学寮教師の安達幸之助(大村の教え子)らと会食中、急な西洋化を嫌った攘夷派の元長州藩士の団伸二郎、神代直人ら8人の刺客に襲われた。静間と安達は死亡、大村は全身を負傷し、特に右膝の刀傷は動脈から骨に達する重傷だった。10月27日に大阪の病院で蘭医ボードウィンに足の切断手術を受けるも、11月1日に敗血症で容態が悪化、5日の夜に他界した。享年45。臨終の床では「(薩摩を念頭に)西国から敵が来るから大砲をたくさんこしらえろ」「切断した足は緒方洪庵先生の墓の傍に埋めておけ」と遺言した。 大村の訃報を聞いた木戸は日記に「大村ついに五日夜七時絶命のよし、実に痛感残意、悲しみ極まりて涙下らず、茫然気を失うごとし」と記す。遺骸は妻が郷里に運び葬儀が営まれた。本墓は山口市鋳銭司。大村の死の4年後(1873)に徴兵令が制定された。他界27年後の1896年、靖国神社に巨大な大村益次郎の銅像(日本初の西洋式銅像)が建立された。 大村は第二次長州征伐の際に「我が兵を損じざるようにいたし」と語っており、常に味方兵の損失を最小限に抑える作戦を立てた。また、一般人を戦闘に巻き込むことを避け、戊辰戦争では「上野山中を戦闘の場所として敵(彰義隊)を食い止める。そうしたならば市民に迷惑をかけまい」と指示している。敵であっても有能な人材であれば助け、箱館戦争の終結時に「大鳥(圭介)もやはり助けねばならぬ。どうしても官軍に抵抗して一番強いが、後日のために尽くすならば、大鳥は一番賊のうちで役に立つ。どうしても戦はあの人が一番よい」と減刑に奔走した。 ※襲撃される直前に、大村は大阪を訪れて、13年前に江戸で幕府役人となった頃の同僚・原田一道を呼び、道頓堀で芝居を見物し料亭で会食した。普段、質素な生活をしていた大村には珍しいこと。後年の原田いわく「先生自身にはもはや今生の訣別なりと考え、すでに身辺に迫りくる逃るべからざる災難を予知しておられたから」。 ※大村は緒方洪庵の通夜の席で、長州藩を攘夷の狂人扱いする福沢と口喧嘩している。 ※大阪市西区江戸堀の江戸堀フコク生命ビル前に「大村益次郎先生寓地址」がある。 |
墓所は滝泉寺の山門から離れている | 二・二六事件に連座 | 墓地を上の方まで登っていく | 大川周明の墓と向き合ってる |
国家主義者。大川周明と並ぶ国家主義運動の理論的指導者。新潟県佐渡出身。本名は輝次郎(てるじろう)。1906年(23歳)、独学で『国体論及純正社会主義』を執筆するが、藩閥官僚政治への厳しい批判により発禁処分を受ける。1911年(28歳)、中国に渡って辛亥革命を支援。 1919年(36歳)、国家改造を主唱した著書『日本改造法案大綱』を発表。同書において、天皇発令の戒厳令下で私有財産制限、金融・産業の国有化を断行し、アジア帝国建設をすべしと論じた。これは戦前の右翼のバイブルとなり、陸軍青年将校に深い影響を与える。『日本改造法案大綱』を思想的背景として、1932年に海軍青年将校を中心とした五・一五事件が起き、1936年(53歳)には陸軍青年将校による二・二六事件が勃発。北は二・二六事件に直接関わっていないが、電話で決起将校らを激励したことを批判され、“理論的首謀者”と見なされて弟子の西田税と共に刑死。 |
東條の後頭部を叩く有名なシーン | 兼子夫人も同じ墓 | 右の五輪塔は大川家の先祖墓 | 北一輝の墓と向き合ってる |
北一輝と並ぶファシズム運動の理論的指導者。山形出身。東大でインド哲学を専攻し、インド独立運動に共鳴、反欧米の思いを強くする。1919年(33歳)、3歳年上の北一輝らと猶存(ゆうぞん)社を結成。1925年(39歳)、行地社を結成し、雑誌「日本」を創刊して大衆的ファシズム運動を展開。多くの若者を国家主義にかりたてた。 次第に軍部に接近し、1931年に2度のクーデタ未遂事件を起こす(三月事件、十月事件)。1932年(46歳)、五・一五事件に資金提供し、禁錮5年となって服役。敗戦後の東京裁判では、民間人として唯一A級戦犯となったが、法廷で東条英機の後頭部を叩くなど不可解な言動を繰り返し、1948年(62歳)に精神障害者として釈放される。その後、コーラン全文の翻訳を完成し、1957年に死去。享年71。日米開戦には最後まで反対していた。 |
安保闘争の中、国会突入で死亡 | 没後50年を経た今も花が絶えない | 墓誌には19歳で書いた詩 |
安保闘争で死亡した学生運動家。東大生。祖父は数学教育近代化の先駆的役割を果たした樺正董(せいとう)。父の樺俊雄は社会学者。東京出身。1957年、20歳の誕生日に正義感から日本共産党に入党。3年後、1960年の安保闘争に共産主義者同盟(ブント)のメンバーとして参加し、1月の全学連羽田空港占拠事件では検挙された76人のうちの1人(不起訴処分)。親はこの検挙まで学生運動に参加している事を知らなかった。 そして1960年6月15日、全学連の学生約4000人が衆議院南通用門から国会構内に突入した際、警官隊と衝突して死亡した。享年22。死因は胸部圧迫及び頭部内出血。警察側は転倒が原因の圧死と主張し、学生側は機動隊の暴行による死亡と主張。 この3日後の6月18日、60年安保最大の33万人が国会を取り囲んだ。23日(死の8日後)、日米新安保条約が発効し、岸信介首相は退陣を表明した。翌日、樺美智子の“国民葬”が日比谷公会堂で行われ、毛沢東から次の言葉が寄せられた「樺美智子は全世界にその名を知られる日本の民族的英雄になった」。 母・光子は遺稿集『人しれず微笑まん』を出版、ベストセラーとなった。この事故をきっかけに、警察は学生運動を取り締まる際に監察医を待機させるようになった。 ------------------------------------------------ ●墓誌の詩 『最後に』 誰かが私を笑っている 向うでも こっちでも 私をあざ笑っている でもかまわないさ 私は自分の道を行く 笑っている連中もやはり 各々の道を行くだろう よく云うじゃないか 「最後に笑うものが 最もよく笑うものだ」と でも私は いつまでも笑わないだろう いつまでも笑えないだろう それでいいのだ ただ許されるものなら 最後に 人知れずほほえみたいものだ 1956年 美智子作 |
竹林寺の山門脇。墓所の方向へ標識 | この林の中に忍性の墓石がある | かなりの大きさ |
墓所全景 | 美しい五輪塔 | 慈悲深く人々から慕われた |
鎌倉末期の律宗の僧。社会事業家。通称、良観。大和国(奈良県磯城郡三宅町)出身。10歳には文殊菩薩信仰に目覚めていた。1232年(15歳)、母と死別しこれを機に出家、奈良・額安寺で剃髪した。翌年、東大寺戒壇院で受戒した後、行基ゆかりの竹林寺にて仏法を学ぶ。 1239年(22歳)、西大寺再建を進めていた名僧・叡尊に弟子入り。1252年(35歳)から本格的に関東で布教を行い、鎌倉幕府五代執権・北条時頼の信頼を得て、1262年(45歳)には鎌倉の律僧・念仏僧の中心的人物となった。1267年(50歳)、鎌倉極楽寺の開山となる。関東では鎌倉の光泉寺、常陸の三村寺なども創建。1294年(77歳)、大阪・四天王寺別当となって同寺を再興し石の鳥居を築造した。 忍性は道路や橋の整備を主導したほか、悲田院(ひでんいん/貧民救済施設)や施薬院(せやくいん/貧民治療所)を極楽寺、四天王寺等に設けるなど、社会福祉事業に尽力。鎌倉桑ヶ谷では20年間に46800人を治療する。積極的に非人およびハンセン病患者の救済運動を展開していくなかで、“非人救済だけでは逆に差別を助長する”と考え、全ての階層を救済していく。これらの活動により、当時の人々から生身の如来、医王如来と呼ばれ尊敬された。1303年、極楽寺で他界。遺骨は極楽寺、竹林寺、額安寺に分けられた。 生涯に創建した伽藍は83ヶ所、図絵した地蔵菩薩1355図、僧尼に与えた戒本3360巻、非人に与えた衣服33000領、架橋した橋189所、修築した道71所、掘った井戸33所等々、偉業は『性公大徳譜』に細かく記録されている。 |
多くの志士が影響を受けた | 安政の大獄で捕らえられた2名が並ぶ | 向かって右側が雲浜先生、左は藤井尚弼(なおすけ) |
若狭国小浜藩士。雲浜は近藤茂左衛門に続く“安政の大獄”2人目の逮捕者。15歳で江戸に出て儒学を学び、28歳から京都で講師となる。尊王攘夷の立場から何度も藩政、海防策に意見し、ついには藩主・酒井忠義を怒らせ1852年(37歳)に士籍を剥奪され浪人となる。翌年にペリー来航。各地を奔走し、水戸で武田耕雲斎らに尊攘論を説いた。安政の大獄でいちはやく逮捕され、江戸におくられたのち、
取り調べ中にコレラにかかって死去した。墓石は関東大震災で大きく大破したという。戒名は「勝倫斎俊巌義哲居士」。 ※藤井尚弼(1825-1859)も尊皇主義。安政の大獄で捕らえられ脚気で獄死。享年34。 |
平安時代の天台宗の僧。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。讃岐の人。天台宗寺門派の祖で諡号は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)。俗姓は和気氏。
法号は「南無大師智慧金剛(なむだいしちえこんごう)」。母は空海の姪。 853〜858年唐で密教を学び、帰朝後に延暦寺別院として園城寺(おんじょうじ)を再興。台密(たいみつ)を完成させた。 法華教学に対する台密の優位を主張し、その門下は良源の出現まで天台の主流をなした。 |
「長崎の鐘」の著者 | 寝たきりのまま顕微鏡で研究を進める永井博士 | 原爆で亡くなった緑夫人と |
晩年を過ごした“如己堂” | 如己堂内(2畳)に遺品が並ぶ | 永井隆記念館に展示 |
長崎原爆資料館に展示された プルトニウム型原子爆弾ファットマンの模型 |
原爆投下後、緑夫人の遺骨と 共に見つかったロザリオ |
『この子を残して』の自筆原稿や 刊行された『長崎の鐘』 |
平和公園の平和祈念像(高さ9.7m) |
原爆で左半分が吹き飛んだ 山王神社のニの鳥居 |
「原爆落下中心地碑」。石棺に「原爆殉難者 名奉安奉安」とあり、名簿が安置される |
原爆で倒壊した浦上天主堂の鐘楼 | 爆心地に移された浦上天主堂の遺構 | 再建された浦上天主堂 |
坂本国際墓地案内板。近くにグラバー墓 | 永井夫妻の墓所入口 | 墓所のお掃除セット |
永井隆・緑の墓 |
お墓の表面がグリーンなのは、 夫人の名前によるものと推測 |
小さな石の十字架と聖母子像 |
昭和期の放射線医学者、長崎医科大学教授。「長崎の鐘」の著者。洗礼名パウロ(ポーロ)。
1908年2月3日、島根県松江市に生まれる。 1930年、22歳で母を亡くし霊魂の存在に関心を抱き(永井隆記念館HPは1930年母他界になっているが、ウィキは1931年没になっている)、パスカル(1623-1962)の思索の書『パンセ』を通してカトリックに魅了される。 1932年(24歳)、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)を卒業。内科医を目指していたが、急性中耳炎で右耳が不自由になり断念。同大物理的疫法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻する。 この頃、永井は浦上天主堂の近くで牛の売買を営んでいたカトリックの森山家(先祖は隠れキリシタンの指導者)に下宿し、そこで一人娘の緑(洗礼名マリア)に出会う。 1933年(25歳)、短期軍医として満州事変に従軍、翌年帰国。 1934年(26歳)、浦上天主堂で6月に洗礼を受け、洗礼名を日本二十六聖人の1人であるパウロ三木に因んでパウロとする。 2ヶ月後の8月に森山緑と結婚。夫妻は1男3女をもうけたが、長女と3女は夭折した。 永井はカトリックの信徒組織「聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会」に入り、無料診断など奉仕活動を行う。 1935年(27歳)、長男の誠一(まこと)が生まれる。誠一は、のちに長崎市永井隆記念館長となる。 1937年(29歳)、7月に盧溝橋で日中戦争が勃発すると、軍医中尉として出征、河北・河中・河南で計72回の戦闘に従軍、1940年まで中国各地を転戦した。永井は日本軍だけでなく中国人にも医療を行い、現地の知事から感謝された。 1940年(32歳)、帰国後に母校長崎医科大学助教授・放射線科長に就任し、1944年(36歳)に『尿石の微細構造』で医学博士となる。 1941年(33歳)、次女の茅乃(かやの)が生まれる。のちに教員となり、一女の母となる。 1945年(37歳)6月に職業病でもあるレントゲンの大量照射による慢性骨髄性白血病のため余命3年と診断される。 その直後の8月9日11時2分に長崎にプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下され市街の上空500mで炸裂した。永井は爆心地から700mの長崎医大の診察室で被爆。右側頭動脈切断の重傷を負うなか、布を頭に巻いて救護活動にあたった。米軍が翌日に 撒いたビラで原子爆弾と知る。長崎市の人口24万人のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊した。 永井「アメリカが原子爆弾の研究をしているということは知っておった。しかしこんなに早くに使えるまでになってるとは、知らなかった…」。 爆心地から500m、壮大さから“東洋一の聖堂”と讃えられた浦上天主堂は原形を留めぬほど破壊された。投下当時、8月15日の聖母被昇天の祝日を間近に控え、ゆるしの秘跡(告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に来ており、司祭を含む全員が死亡 した。 永井が原爆投下から3日目の8月11日にようやく帰宅すると、妻は爆死しており、台所跡から骨片となった遺骸を発見する。翌日、子供たち(誠一10歳、茅乃4歳)が疎開していた市内北部の西浦上に行き、同地に救護本部を設置、被爆者救護に あたった。 翌月、永井は傷が悪化、何度か意識を失い、死を覚悟して辞世の句「光りつつ 秋空高く 消えにけり」を詠むも命を取り留めた。 8月15日の敗戦で放心状態になるが、翌々日に気を取り直す。その時の心情を、後日こう振り返る「一人の尊い生命をこそ助けねばならぬ。国は敗れた。しかし傷者は生きている。戦争はすんだ。しかし、医療救護隊の仕事は残っている。日本は 滅んだ。しかし医学は存在している。私たちの仕事はこれからではないか。国家の興亡とは関係のない個人の生死こそ、私たちの本務である。敵味方の区別は、本来赤十字にはないのである。日本が個人の生命をあまりに簡単に粗末に取り扱った から、こんなみじめな目にあったのではないか。個人の生命を尊重し、ここに私の立場をつくる一つの礎石があるのではあるまいか?」(「長崎の鐘」) 11月23日、浦上のカトリック信徒約300名が廃墟となった浦上天主堂わきの広場で、浦上信徒の原爆犠牲者合同慰霊祭を挙行し、これが原爆犠牲者慰霊の始まりとなった。 永井は信者代表として「原子爆弾合同葬弔辞」を読む。 −−− 「(抜粋)八月十五日終戦の大詔が発せられ、世界あまねく平和の日を迎えたのでありますが、この日は聖母の被昇天の大祝日に当っておりました。浦上天主堂が聖母に献(ささ)げられたものであることを想い起こします。これらの事件の奇し き一致は果して単なる偶然でありましょうか? それとも天主の妙なる摂理でありましょうか? 日本の戦力に止めを刺すべき最後の原子爆弾は元来他の某都市に予定されてあったのが、その都市の上空は雲にとざされてあったため直接照準爆撃が出来ず、突然予定を変更して予備目標たりし長崎に落すこととなったのであり、しかも投下時に 雲と風とのため軍需工場を狙ったのが少し北方に偏って天主堂の正面に流れ落ちたのだという話をききました。もしもこれが事実であれば、米軍の飛行士は浦上を狙ったのではなく、神の摂理によって爆弾がこの地点にもち来らされたものと解釈 されないこともありますまい。 終戦と浦上潰滅との間に深い関係がありはしないか。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地・浦上が犠牲の祭壇に屠られ燃やさるべき潔き羔(こう、小羊)として選ばれたのではないでしょうか?」 「これまで幾度も終戦の機会はあったし、全滅した都市も少なくありませんでしたが、それは犠牲としてふさわしくなかったから、神は未だこれを善しと容れ給わなかったのでありましょう。然るに浦上が屠られた瞬間初めて神はこれを受け納め 給い、人類の詫びをきき、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ、終戦の聖断を下させ給うたのであります。信仰の自由なき日本に於て迫害の下四百年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上 教会こそ、神の祭壇に献げらるべき唯一の潔き羔ではなかったでしょうか。この羔の犠牲によって、今後更に戦禍を蒙る筈であった幾千万の人々が救われたのであります」 原子爆弾合同葬 −−− 翌1946年(38歳)1月に長崎医科大学教授に就任。永井はカトリック教徒として原爆廃止を祈り、8月に随筆『原子時代の開幕(のち『長崎の鐘』に改題)』を書きあげる。 −−− 「(被爆した浦上天主堂の)煉瓦の底から掘り出した鐘は、五十メートルの鐘塔から落ちたのにもかかわらず、ちっとも割れていなかった。クリスマスの夕にようやく吊り上げて、岩永君らが朝昼晩、昔ながらの懐かしい音を響かせる。(略) 「カーン、カーン、カーン」澄みきった音が平和を祝福してつたわってくる。事変以来長いこと鳴らすことを禁じられた鐘だったが、もう二度と鳴らずの鐘となることがないように、世界の終わりのその日の朝まで平和の響きを伝えるように、 「カーン、カーン、カーン」とまた鳴る。人類よ、戦争を計画してくれるな。原子爆弾というものがある故に、戦争は人類の自殺行為にしかならないのだ。原子野に泣く浦上人は世界に向かって叫ぶ。戦争をやめよ。ただ愛の掟に従って相互に協 商せよ。浦上人は灰の中に伏して神に祈る。ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえと。鐘はまだ鳴っている」(『長崎の鐘』から) −−− 1948年(40歳)3月、浦上の人々やカトリック教会の協力により、天主堂近くに永井が療養を行うための庵、二畳ひと間のトタン屋根の小屋・如己堂(にょこどう)が完成。没するまで3年ほど暮らし“浦上の聖者”と呼ばれた。 ※「己(おのれ)の如(ごと)く人を愛せよ」というキリストの教えから“如己堂(にょこどう)”と名付けられた。 4月に随筆『この子を残して』脱稿、同年出版されベストセラーとなる。白血病の永井は、原爆で妻を失い、わが子を残して死んでゆく悔しさ、自分の専門にかかわる病気と戦争で死ぬ悔しさを訴えた。 −−− 「うとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきたのか、カヤノが冷たいほほを私のほほにくっつけ、しばらくしてから、 「ああ、……お父さんのにおい……」と言った。この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか!」 母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っ ているのであろうか? (略)子供は親にすがりつきたがるものである。学校から帰れば、タダイマッ、と叫んで飛びつきたかろう。しかし私に飛びついたら、脾臓(ひぞう)はたちどころにパンクするに決まっている。それで子供たちは主治医の朝長先生から「お父さ んのそばへ寄ってはいけません!」と言いつけられているのだ。子供たちはこの言いつけをよく守り、そばへ寄りたい、じゃれつきたい、すがりつきたい、甘えたい想いをおさえ、いつも少し離れて私と話をする。私のほうも、世の常の父親のよ うに、この子を抱き上げたり、ひっくり返して押さえつけたり、くすぐったり、キャッキャッ言わせて遊びたい。けれどもそんなふうにしている子供がいつしか慣れて、こちらがうっかり眠っている時などに、いきなりドンと飛びついたり、寝床 のすぐ傍らでふざけ合って私の上に倒れかかって来ぬともかぎらない。それを防ぐために私は心をことさら冷たくして、寝床のまわりに本を積み、薬壜を並べて、愛情を隔てるバリケードを築いている。 ――カヤノが遊びから帰ってきて、私の眠っているのを見定め、こっそり近寄って、お父さんのにおいを求めたのは、こんなわけがあるからであった。 (『この子を残して』から) 長男の誠一、次女の茅乃と −−− 永井は翌年にかけてカトリック信者としての生活記録「ロザリオの鎖」「長崎の鐘」「花咲く丘」などを相次いで出版。 同年8月、長崎医大休職。 10月、来日中のヘレン・ケラーが如己堂まで見舞いに訪れた。 12月、「九州タイムズ」の文化賞を受賞、その賞金を元手にして、荒れ地となった浦上の復興のため桜の苗木1000本(永井千本桜)を浦上天主堂などに寄贈した。 1949年(41歳)1月、随筆『長崎の鐘』刊行。 同年5月に昭和天皇に拝謁し、浦上公民館で日本に運ばれていたフランシスコ・ザビエルの聖腕に接吻、ローマ教皇特使ギルロイ枢機卿の見舞を受けた。 同年7月に藤山一郎が唄う歌謡曲『長崎の鐘』のレコードが発売されヒット曲となる。作詞はサトウハチロー、作曲は古関裕而。歌の2番では妻のことが歌われた「♪召されて妻は 天国へ/別れてひとり 旅立ちぬ/かたみに残る ロザリオの/鎖 に白き わが涙/なぐさめ はげまし 長崎の/ああ 長崎の鐘が鳴る」。 この曲を聴いて感動した永井は、「新しき朝」と題する短歌を詠んだ。「新しき 朝の光の さしそむる 荒野にひびけ 長崎の鐘」。 9月に長崎医科大学教授を退官。 10月に『いとし子よ』が刊行される。永井は同作で日本国憲法を取り上げ、自分の子供に戦争放棄条項を守ってほしいと記す。 「私たち日本国民は、憲法において戦争をしないことに決めた。(略)憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくて も、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。 これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から、憲法を改めて戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ者が出ない ともかぎらない。そしてその叫びが、いかにももっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。 そのときこそ、……誠一よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんなののしりや暴力を受けても、きっぱりと「戦争絶対反対」を叫び続け、叫び通しておくれ!たとい卑怯者とさげすまされ、裏切者とたたかれても「戦争絶対反対」の叫び を守っておくれ! (略)いとし子よ。敵も愛しなさい。愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。愛されたら、滅ぼされない。愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ」 12月に長崎市名誉市民の称号を贈られる。 1950年(42歳)5月、永井は子どもたちの心を少しでも豊かにしようと、私財を投じて子ども図書室 『うちらの本箱』を作る。アメリカでは寄贈運動もおこり数千冊の洋書が寄贈された。 同月、聖フランシスコ・ザビエル渡日400年記念式典が浦上天主堂で行なわれ、翌日にローマ教皇特使フルステンベルク大司教が見舞いに訪れ、教皇からロザリオ贈られる。 6月、国会の表彰勧告に基づき吉田首相の表彰を受け天皇から銀盃一組を賜う 8月、永井の半生が描かれた松竹映画『長崎の鐘』(監督大庭秀雄)が完成し、如己堂前庭で試写される。日本人によって原爆を取り扱った最初の劇映画となった。翌月に全国で公開。 11月、アルゼンチンのルハン大聖堂にある聖母マリア像を永井が欲しがっていることを知った“エビータ”ことアルゼンチン大統領夫人エヴァ・ペロンから大小2体のルハンの聖母像が長崎に到着。大きい像はペロン夫人から長崎市に、小さい像は ブラジル在留日本人から永井に贈られた。 1951年5月1日、容体が悪化した永井は、「死ぬ前に医学生に白血病の最終段階を見せて、病気への知識を深めるのに役立てたい」と希望し、長崎大学付属病院に緊急入院。危篤になった後で21時50分に意識を取り戻し「イエズス、マリア、ヨゼ フ、わが魂をみ手に任せ奉る」と祈り、駆けつけた息子の誠一から十字架を受け取ると「祈って下さい」と叫び、その直後に息を引き取った。死因は白血病による心不全。享年43。ときに、誠一16歳、茅乃10歳。前月に脱稿したキリシタン守山甚 三郎等を中心とした津和野の殉教者物語『乙女峠』の原稿が絶筆となった。 他界2日後に浦上天主堂で死者ミサが捧げられ、5月14日にも 浦上天主堂で永井の「長崎市公葬」が行われ2万人が参列した。田川市長が吉田茂首相ら300通の弔電を1時間半にわたって読み上げ、正午に浦上天主堂の鐘が鳴ると全市の汽笛が一斉に鳴り響き、市民は1分間の黙祷を捧げた。墓所は長崎市坂本 町の国際外人墓地。「長崎市名誉市民永井隆之墓」として緑夫人と共に葬られた。 辞世は「白ばらの花より香り立つごとくこの身をはなれ昇りゆくらん」。 自ら重傷を負いながらも医師として被爆者の救護、治療にあたり続けた永井の生き方は人々の心を打ち、 1952年、ブラジル在留邦人471名からの寄付金を主な建設資金として「長崎市立永井図書館」が完成。 1958年、浦上天主堂の廃墟の一部が平和公園内に移設され、被爆遺構として保存される。 1959年、日本最大規模のカトリック教会「カトリック浦上教会(旧名浦上天主堂)」が再建された。 1969年、「長崎市立永井図書館」は「長崎市立永井記念館」に改称され、永井の遺品や写真等もあわせて展示するようになった。 1970年、永井が幼少期を過ごした島根県・三刀屋町(みとやちょう) にも「永井隆記念館」が開館。 1983年、『この子を残して』が映画化される。監督は名匠木下惠介、主演は加藤剛。 2000年、「長崎市立永井記念館」は「長崎市永井隆記念館」に改称、博士の精神を広く国内外に伝える。 2001年4月4日、長崎市永井隆記念館の館長を務めた長男永井誠一が66歳で他界。 2008年2月2日、次女永井茅乃が兄と同じく66歳で他界。 |
1872年(7歳) アメリカにて |
1873年(8歳) |
1878年(13歳)、山川捨松 (18歳)、永井繁子(17歳) |
1882年(17歳) | 1889年(24歳) | 1900年(35歳) | 1929年(64歳) |
梅子の情熱の結晶・津田塾大学 | 正門で守衛さんに入構票を申請 | 地図の左上(白い部分)が墓所 |
霊園ではなくキャンパスに墓が! | まるで生徒を見守っているようだ | 墓石は「UME TSUDA」となっている |
3月上旬に訪れると墓前の“梅”が満開! | 父・津田仙に抱かれる赤ちゃん梅子と、青山霊園の両親(2023) |
津田塾大学の「星野あい記念図書館」 | 2階に「津田梅子史料室」 | 自筆の手紙やゆかりの品がある |
(津田梅子は大晦日に生まれているため、本項の年齢は誕生日前を基本とします)
明治・大正期の女子教育家。津田塾大学の前身、女子英学塾の創立者。日本最初の女子留学生5人の一人。 1864年12月31日、幕臣(佐倉藩士/現千葉県佐倉市)として外国奉行支配通弁(通訳官)を務め、のちに西洋農学者となった津田仙(1837-1908)の次女として江戸牛込(新宿区)に生まれる。名は梅(「むめ」と書いた)、母は初子。 1867年(2歳※誕生日前)、長州征討を果たせず海軍充実の必要性を痛感した幕府は、軍艦補充のため軍艦頭取・小野友五郎をアメリカへ派遣。その際に父の津田仙(30歳)、福澤諭吉(1835-1901/当時32歳)、尺振八(せきしんぱち)の3名が通訳として随行した。一行は大統領アンドリュー・ジョンソンと会見し、海軍省との交渉の末、軍艦ストーンウォール号(のちの「甲鉄艦」)の購入契約を結ぶことに成功した(ただし戊辰戦争の勃発で米国は中立をとり入手できず、勝利した新政府が購入した)。父は帰国後、新潟奉行に転役して、通弁・翻訳御用、英語教授方に就く。 1868年(3歳)、父は戊辰戦争で幕府側として越後へ出向き敗戦。元号が明治に改まるとともに官職を辞した。 1869年(4歳)、父が洋風旅館に勤め始め、西洋野菜の栽培を手がける。 1871年(6歳)、開拓次官・黒田清隆が1月から5月まで米国(南北戦争(1861-1865)終結から6年)と欧州を旅行して、日本でも男女平等・女子教育の必要性を感じ、この年に外国との不平等な条約を改正するため出発することになっていた政府派遣の「岩倉使節団」(メンバーは大久保利通、木戸孝允、伊藤博文ら)に、女子留学生を随行させることにした。留学期間は10年で、政府が旅費・学費・生活費を全額負担し、加えて奨学金として毎年800ドル(当時の管理職の役人の年収に匹敵)を支給するという好条件だった。だが、当時の常識では女子に高等教育は無用とされ、未知なる海外への女子留学など考えられず、10年もの長期留学で婚期を逃す懸念もあった。これらの事情から国費留学にもかかわらず初回募集は応募者0人であり、再募集がかけられ、ようやく5人が集まった。開明的人物であった仙は外国体験の貴重さを知っており、梅子を応募させた。梅子「父は、最初は姉の琴子を留学に応募させるつもりでしたが、姉は拒否しました。その後で父から留学の話を聞いた私は、アメリカに行きたい、と自分の意志で答えました」。出発に先立ち、女子留学生5人は士族の女子としては史上初めて皇后への拝謁を許された。 明治天皇の勅諭では女子の留学について「外国の女性から教養を学び育児の方法を身につけるべきである」と、あくまでも良妻賢母が求められた。 12月23日(旧暦11月12日)の横浜出港時の梅子はまだ6歳(数え8歳)だった(1週間後に7歳)。他の女子は次の通り。全員が戊辰戦争で賊軍とされ、新政府から冷遇されていた旧幕府側士族の娘である。 ・山川捨松/大山捨松(1860-1919)…11歳。会津藩家老・山川尚江の娘。山川浩(ひろし)・山川健次郎の妹。幼名は咲子。8歳で会津戦争を体験し、終盤は1日に2千発もの砲弾が撃ち込まれた会津城に1ヶ月籠城する。維新後に留学が決まった時、母は「今生では二度と会えるとは思っていないが、捨てたつもりでお前の帰りを待つ(松)」といい「捨松」と改名させた。アメリカでは女子教育を学び、また看護婦免状を得る。帰国後、日本で初めて慈善バザーを開き収益金を看護婦養成所に寄付。日露戦争では赤十字篤志看護婦会の運営に努めた。陸軍卿の大山巌と結婚。 ・永井繁子/瓜生(うりゅう)繁子(1861-1928)…10歳。幕府軍医・永井玄栄の養女。実兄は実業家で三井物産の創立者益田孝。留学は兄が勝手に応募した。アメリカで音楽を学び日本初のピアニストとなる。米国で知り合った海軍武官・瓜生外吉(のち海軍大将)と結婚。 ・上田悌子(ていこ/ 1855-1939)…16歳。父・上田友助(東作)は幕臣で1861年の第1回遣欧使節(文久遣欧使節=開市開港延期交渉使節)で福澤諭吉らと渡欧体験あり。新政府では外務省に勤務し、娘を応募。数ヶ月で病気のため帰国。のち、医師桂川甫純と結婚。詩人で『海潮音』訳者の上田敏は甥。 ・吉益亮子(よします りょうこ/1857-1886)。14歳。父は幕臣。優しく面倒見の良い性格で最年少の梅子を親身に世話したが、亮子は大陸横断中に雪のために眼病を患い、日々の学習にも支障が出て、官費留学生としての責務を果たせないことで精神的なダメージを負う。滞米10か月余りの明治5年(1872)10月、病のために帰国を願い出ていた悌子と共に帰国を余儀なくされた。帰国後、米国人女性宣教師が横浜に開設した学校で学び、1875年(18歳)から5年間「女子小学校」(のちの青山学院)の英語教師を務めた。30歳で早逝。 ※岩倉使節団…1871‐73年に右大臣・岩倉具視(46歳)を特命全権大使とし、欧米をおとずれた明治政府の使節団。参議木戸孝允(38歳)・大蔵卿大久保利通(41歳)・工部大輔伊藤博文(30歳)・外務少輔山口尚芳(なおよし、32歳)の4名を副使とし、新政府の要人や各省の書記官など64名の大使節団。旧幕臣者は外国との接触体験をもち、語学にもすぐれている者が多かった。さらに43名の留学生が同行し、5人の女子留学生や、のちに民権思想の普及につとめる中江兆民らがいた。官民、総勢107名が乗船。使節団の目的は(1)幕末に通商条約を結んだ各国に新政府の国書を渡す(2)治外法権など不平等条約改正への予備交渉(3) 近代国家樹立に向けた西洋の近代的制度・文物の調査研究。このうち、条約改正の試みは失敗し、一行は最初の訪問先アメリカで予備交渉をやめた。以降は社会政治制度と文物の調査研究がおもな目的となった。1872年7月に米国を離れ、英国、仏、ベルギー、蘭、独、露、デンマーク、スウェーデン、伊、オーストリア、スイスとまわった。1873年7月、マルセイユを出港し、完成したばかりのスエズ運河をとおってインド洋へ出て、東南アジアを経由し、同年9月に帰国した。 1872年1月15日、日本を出て23日間の航海でサンフランシスコに入港。1月31日にサンフランシスコを5両編成の貸切列車で出発し、大陸横断鉄道を経由してワシントンD.C. ヘ向かったが、大雪のためソルトレイクシティで18日間も足止めされた。吉益亮子は雪のために眼病を患う。 2月25日にシカゴに到着、当地で5人は岩倉具視に直談判して洋服を購入してもらう。2月29日に目的地のワシントンD.C.に到着した。梅子は吉益亮子と共に郊外のジョージタウンに住む日本弁務使館(日本公使館)の書記官チャールズ・ランマン(1819-1895)の家に預けられた。ランマン夫人(1826-1914)は高等女学校に相当する学校を卒業した女性であった。約1週間後、岩倉使節団の通訳・新島襄が梅子を訪ね「彼女はこれまで会ったどの少女よりも可愛くて才知に富んでいます」と手紙に記している。捨松はコネチカット州の牧師ベーコン家に迎えられ、娘のアリス・ベーコン(1858-1918/当時14歳)と生涯の親友になった。 5月1日、駐米少弁務使・森有礼(ありのり)の斡旋で、留学生5人はワシントン市内に集められて同じ家に住み、生活に必要な最低限の英語の勉強をさせられた。吉益亮子は眼病が改善せず、日々の学習にも支障が出て、官費留学生としての責務を果たせないことで精神的なダメージを負う。 滞米10か月余りの旧暦10月末、吉益亮子は勉強に支障が出るほど目を悪くしたことを理由に、そして上田悌子は体調不良により帰国を願い出て、アメリカを去った。 残った3人は再度別々にアメリカの家庭に預けられることとなり、梅子は再びランマン家に預けられ、米国人のように自分の意見をハッキリと主張できる芯の通った女性に成長していく。 当初はランマン家に梅子が預けられるのは1年間の予定であったが、ランマン夫妻には子供がなく、梅子を実の娘同様に大切にしてくれ、最終的に約11年ホームステイして通学、初等・中等の学校教育をおえた。記憶力の良い梅子は、渡米9か月後にはもう『A little girl's stories』と題する英文の絵日記を書く英語能力を身につけてランマン夫妻を驚かせた。渡米一年後には生活に困らない程度の英語力を身につけていた。 この間、ピューリタンの気風の中で育ちキリスト教に入信、受洗。文学、美術の薫陶を受ける。ラテン語、数学、物理学、天文学、フランス語を学ぶ。 第二の両親となったランマン夫妻は「仮に梅子の留学が打ち切られるようなことがあれば、私どもが梅子の養育費や教育費を負担して預かり続ける覚悟です」と手紙に記している。 梅子自身もランマン夫妻を深く敬慕し、帰国後もランマン夫人が1914年に88歳で亡くなる直前まで、数百通に及ぶ手紙を書き送った。 1873年、自然にキリスト教への信仰が芽生え、7月に特定の教派に属さないフィラデルフィアの教会にて8歳で受洗。洗礼を授けた牧師は「感性と表現力は年上のアメリカの子より優れている」と誉めている。 この年、父はウィーン万国博覧会に副総裁として出席する佐野常民(日本赤十字社の創設者)の書記官として随行。オランダ人農学者の指導を受けた。 1875年(10歳)、父がウィーン万博から持ち帰ったニセアカシアの種子は大手町に植えられ、東京初の街路樹となった。 1876年(11歳)、父は東京麻布に農産物の栽培・販売・輸入、農産についての雑誌の出版などを事業とする学農社を設立、農学校も併設した。そして『農業雑誌』でアメリカ産トウモロコシの種の通信販売を始め、これが日本で最初の通信販売となる。父はのちに足尾鉱毒事件で田中正造を助け、農民救済運動に奔走した。 1878年(13歳)、梅子はコレジエト・インスティチュートを卒業し、私立女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学。ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学び、留学中に17科目を修めた。 同年、永井繁子はニューヨーク州の名門女子大ヴァッサー・カレッジの音楽学校に入学(3年制音楽科)、捨松も同校の通常科に進んでフランス語や政治学を修め、卒業後に看護学を学ぶ(捨松はアメリカの大学を卒業した初の日本人女性となる。成績は学年3番)。 1881年(16歳)、留学期間の10年目であり、開拓使(かいたくし)から同年9月までの帰国命令が出た。永井繁子はヴァッサー大学音楽科を6月に卒業し、卒業式に梅子と捨松が参列した。繁子は結婚の準備もあり、命令通りに10月に帰国した。一方、梅子と捨松は1年間の延長を申請して認められた。 1882年(17歳)、日本では官費女子留学生を所管していた開拓使が2月に廃止され、彼女たちの管理は文部省に引き継がれた。永井繁子は西洋音楽とピアノの専門知識及び技能を有する唯一の日本人であり、日本語能力が乏しくてもピアノの演奏と教授は可能であることから、3月2日付で文部省直轄の音楽取調掛(現・東京芸大音楽学部)の教師に採用され、日本最初のピアニストとして活躍した。 梅子は春先にフィラデルフィアの資産家・慈善家で敬虔なクエーカーであるメアリ・モリス夫人(1836-1924)と知り合い、モリス夫人は梅子の良き理解者、かつ、最大の支援者となった。 6月に梅子と捨松はそれぞれの学校を卒業し、同年11月21日、11年ぶりに帰国し、繁子が横浜港で出迎えた。そして繁子が住んでいた兄・益田孝の邸で、梅子・捨松・繁子・亮子の4人が再会した。 12月の繁子と瓜生外吉(海軍大尉)の結婚パーティで捨松が「ベニスの商人」を演じ、その美しさに18歳年上で薩摩出身の政府高官(陸軍中将・参議・陸軍卿)大山巌が惚れ込み結婚を申し込んだ。会津生まれの捨松にとって、大山は戊辰戦争では鶴ヶ城(会津城)を砲撃した仇敵。周囲から猛反対されたが、ジュネーブに留学経験のある大山は、英語、仏語、独語に通じ、ユーモアもあったことから捨松は気持ちを受け入れていく。 梅子は帰国したとき、まったく日本語を話せなくなっており日本の生活への適応に苦労する。また、繁子も覚えていた日本語は「ねこ」だけであり、捨松は文部省より東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)への奉職を打診されたが、日本語能力が乏しい為に辞退せざるを得なかった。 帰国した男子留学生には明治政府の仕事が用意されていたが、女子には何もなく、梅子は男女差別に強い衝撃を受け、深い失望を味わった。ランマン夫人宛の手紙に「女性の人生はなんと困難に満ちているのでしょう。アメリカにいるときでさえ男であれば良かったとよく思ったものです。日本ではより一層そう感じます。可哀想で気の毒な女性たちの地位を高めるために何かしてあげたい。」でも今、この私に一体何ができるのでしょう」(12月7日付)と記した。ランマン夫人は「仕事がなければアメリカに戻って来なさい」と言ってくれたが、税金で外国に派遣された以上、日本に留まって恩返しをする「道義的責任」があると考えた。 1883年(18歳)、瓜生繁子の口利きにより6月から6週間、築地海岸女学校(青山学院大学の前身)で夏季休業中の英語教師として働く。 11月3日、外務卿井上馨の邸で開かれた天長節祝賀パーティに出席した梅子は、岩倉使節団で同行して以来11年ぶりに伊藤博文と再会する。 11月8日、山川捨松と大山巌が結婚。捨松は政府高官夫人の立場から留学で得た学識を生かすことに決め、「鹿鳴館の貴婦人」と呼ばれた(「鹿鳴館の華」は陸奥亮子)。留学仲間の親友、繁子と捨松が相次いで結婚するなか、梅子はランマン夫人や瓜生繁子夫妻から薦められた、留学中に知り合った海軍士官・世良田亮(せらた たすく)との縁談を断り、女性の教育を天職と決めた。梅子「結婚の話題にうんざりしている。話を聞くのも話すのも辟易している」。 11月26日、梅子は伊藤夫妻と共に、華族子女を対象とする私塾「桃夭女(とうようじょ)塾」を主宰していた下田歌子を訪問し、梅子と下田は互いに英語と日本語を教え合い、そして梅子が伊藤の妻と娘に英語や西洋式マナーを教えることになった。 12月8日、伊藤邸での最初のレッスンを行った際、伊藤から客分として住込みの家庭教師を提案され、伊藤家の通訳兼家庭教師となる。伊藤の娘にはピアノの指導も行った。伊藤は、自邸に滞在する梅子に様々なことについて意見を求めて討論した。 同年、煉瓦造り二階建て洋風建築の社交クラブ「鹿鳴館」が落成。 1884年(19歳)、梅子は3月1日から「桃夭女塾」に英語教師として出講。6月に母が病気になったため、伊藤家での半年間の家庭教師生活を終え、自宅に戻った。 6月12日から捨松が看護師養成学校の設立資金を集めるため、鹿鳴館で日本初のチャリティー・バザーを開催、3日間で1万2千人が来場し現在の1億円が集まった。4カ月後、日本初の看護学校が設立された。 同年、梅子や捨松の招聘により、留学時代の友人アリス・ベーコンが華族女学校(後の学習院女学校)英語教師として来日する。 1885年(20歳)、待機すること3年、9月に華族や皇室女子のために学習院女学部から独立した「華族女学校」が創立され、梅子は伊藤博文の推薦で年俸420円(現在の840万円)の英語担当教授補(翌年教授)として採用された。生徒は現在の女子中高生。華族女学校の生徒心得には良妻賢母となるよう定められていた。そして女性には高尚な学問は無用という方針から初歩的な英語しか教えられず、それが梅子には不満だった。生徒たちは手本になる自立した女性を見たことがないため、勉強への意欲が乏しく、自分の意見を述べることもなく、可能性を自ら閉じていた。 同年、吉益亮子が銀座に私塾「女子英学教授所」を創設。 1886年(21歳)、当時あまり顧みられていなかった女子教育の必要性を感じた伊藤博文は、自らが創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会」(翌年から「女子教育奨励会」)を創設した。委員には、伊藤の他に実業家の渋沢栄一や岩崎弥之助、東京帝大教授ジェムス・ディクソンらが加わり、東京女学館を創設するなど女子教育の普及に積極的に取り組んだ。また、伊藤は日本女子大学の創設者、成瀬仁蔵から女子大学設立計画への協力を求められ、これに協力した。 この年、繁子は東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)で音楽と英語の教壇に立つ。繁子はただ一人の女性教授だった。 同年秋、吉益亮子がコレラのため30歳で他界。亮子は前年に英学塾を創設したが、志半ばで疫病により早逝した。 9月4日、梅子は両親や姉夫婦と集合写真を撮影。 11月、梅子は華族女学校教授に昇進した(高等官6等、年俸500円。現在の1000万円)。同校の女性教師のうち、高等官に列するのは学監の下田歌子と梅子のみであった。梅子は華族女学校で3年余り教えた。良家の令嬢が集う華族女学校や女子高等師範学校にあって、梅子はアメリカの習慣通りに鞭を持って教室に現れて令嬢たちを驚愕させたという。 1888年(23歳)、梅子はもう一度アメリカに留学することを希望するようになる。育ての親ランマン夫人への手紙「私は将来あと1、2年、できればそれより長く学問の課程を取ることができればとよく考えます。帰国した当時よりも精神的にずっと成長したので、勉学を通して得られることがずっと多いと思います。長くは仕事を休めませんが、短期間であっても留学して、真剣に学ぶことができたらどんなに素晴らしいことかと。教師としての様々な仕事をしていくうえで良い訓練なることと思います。英語の教師としてではなく、いつか英語科の主任にもなれるでしょうし、学校の規則についても意見を述べることが出来るようになるでしょう」「通常の人生を歩むなら十分な教育はすでに受けていると言えるかもしれませんが、私はもっと教育を受けたいのです」(5月6日付)。さらにフィラデルフィアのモリス夫人に手紙で留学について相談すると、モリス夫人は、懇意にしている名門女子大学ブリンマー大学(クエーカーが作った大学)のローズ学長(※男性)に梅子の受け入れを要請し、学長は「授業料の免除」と「寄宿舎の無償提供」を約束した。 これを受けて梅子が3年間勤務してきた華族女学校の校長に辞職願いを出したところ、解雇されず在職のまま俸給を受けながらのアメリカ官費留学(2年間)が認められた。アリス・ベーコンが来日。 1889年(24歳)、2月に初代文部大臣の森有礼が欧化主義者とみなされ、国粋主義者により41歳で暗殺される。5月、アリス・ベーコンは米国の大学での再留学を強く薦めた。「アリスは私の計画を賛成し励ましてくれます。(再留学は)私をもっと有用な人材にしてくれるだろうとアリスは思っています」。7月、梅子が再渡米すると、ブリンマー大学はケアリ・トマス学部長(※女性)が「女性も男性と同様に学問にたずさわるべき」と考えており、学内は「女性でも一流の学者になれることを証明したい」という熱気にあふれていた。当時はダーウィンが1859年に『種の起源』を発表して以来、生き物の成り立ちや仕組みを解き明かそうとする生物学が注目されており、同校の生物学科は全米でも先進的な教育で知られていた。梅子は教育分野(英語の教授法)の研究を名目に留学しており、出発前に生物を専攻する考えはなかったが、ブリンマー大学で生物学の道に進んでいく。一年目は生物学の基礎を学び、二年目は動物の解剖などを行った。 これは留学を許可した華族女学校の方針に反していたので母国にはいっさい報告しなかった。明治天皇の『御親喩(ごしんゆ)』には「華族の女子たるものはもっぱら自然科学のみに優れているのはよくない。高尚な学問は人の妻として家を治めるにはふさわしくないものである」(1885)と記されていた。 1891年(26歳)6月15日、留学期限が迫った梅子は華族女学校に1年間の留学延期願いを提出した。そこには「あと1年在学すれば大学を卒業でき、帰国後の女学校の教育にも大いに関係する」と記し、生物学を勉強していることは伏せた。女学校は「女子教育の調査」という名目で留学延長を許可した。そのお陰で梅子はさらに高度な生物学の研究に没頭することが可能になった。全米最古の海洋生物学の研究施設、マサチューセッツ州のウッズホール海洋生物学実験場で7週間の夏期講座を受けた。朝晩に生物学のレクチャーを受け、昼間はフィールドワークで海に出かけて採集し、標本を作って観察した。 1892年(27歳)、梅子は優秀な学生だけが受講できるトーマス・モーガン博士(のちに1933年ノーベル生理学・医学賞受賞)の特別研究を履修した。これは当時の生物学の最先端、実験発生学の研究だった。梅子が与えられた課題は、カエルの受精卵を使って細胞分裂の過程を観察すること。一つの細胞から体がどのように作られるのか解明するため、何日も顕微鏡を覗いてスケッチし、細胞が分裂した後に体のどの部位に変化していくか、図を用いて解き明かした。学長は大学理事会への報告書でこの成果を特筆して讃え、モーガン博士は梅子がまとめた研究論文を活用し、1894年に梅子との共著論文『蛙の卵の定位』としてイギリスの学術誌に発表して高い評価を得た。梅子は欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性となり、日本人女性が学問で世界に通用することを示した。 梅子はペスタロッチ主義教育の中心校として知られるN Y州のオスウィーゴ師範学校でも、半年間教授法をおさめた。 梅子は自分が様々なことに挑戦できたのは二度も留学できたお陰と感じ、後輩にも道を切り拓いてあげたいとの思いから、日本人女性をアメリカに留学させるための奨学金の創設活動を始めた。梅子は「銀行に8千ドル(現在の3億円)を預ければ、利息で3、4年に1人を留学させられる」と考え、アメリカ社会に「教育で置き去りにされている日本の女性のために力をお貸し下さい」と情熱的に寄付を訴えた。共鳴したモリス夫人が募金委員長を引き受け、わずか1年で8千ドルの基金が集まり、翌年に「日本婦人米国奨学金」が発足した。この奨学金は1976年に発展的に解消するまで80年以上も続き、基金の利子によって計25人もの日本女性のアメリカ留学を実現させた。 同1892年6月にブリンマー大学での2年半の修学を終え、同学での生物学研究の継続を提案されたが、日本の女性に自分が得たものを還元するため、そして女子教育に身を捧げるために辞退し、8月に帰国。モーガン博士は、帰国した梅子に米国に戻るよう手紙を記している。梅子は華族女学校の教授に復職し、教職を続けながら、自宅に生徒を寄宿させるなど学生への積極的援助を行った。 1893年(28歳)、梅子は密かに生物学の研究を続け恩師モーガンに手紙を書いた。「私は生物学の関心をなくしたわけではなく、帰国してもカエルの卵の発生を観察しています」(7月25日付) 同年、「日本婦人米国奨学金」の第1号受給者となった松田道が渡米。6年後にブリンマー大学を卒業し、1922年に同志社女子専門学校(現:同志社女子大学)校長となった。 1894年(29歳)、明治女学院講師も務めた。この年、日清戦争が勃発。翌年に終戦。 1898年(33歳)、5月に女子高等師範学校(現、お茶の水女子大学)教授を兼任。この年、アメリカ・コロラド州デンバーで催された「万国婦人連合大会」に日本婦人代表として出席するため私費で渡米。3千人の聴衆を前に日本の女子教育について演説を行ない、18歳のヘレン・ケラー(1880-1968)から「あなたにお会いできて大変嬉しく思います。あなたの成功と幸せを心から願っています」と手紙をもらい勇気づけられた。サリバン先生とも会って教育が人を変えることを実感した。その後、渡英して女子の高等教育機関を視察し、オックスフォード大学で英文学、倫理学などを受講し、78歳のナイチンゲール(1820-1910)との面会も果たした。ナイチンゲールは「イギリスでも40年前までは親は娘に結婚しか期待していませんでした。女子教育で日本女性の自立を目指すあなたを応援します」とエールを送り、別れ際に花束を贈り、梅子はこの花束を押し花にして生涯大切にした。続けてパリを訪問、翌年7月に帰国した。 1899年(34歳)、高等女学校令・私立学校令による法整備や成瀬仁蔵の女子大学創設運動で女子教育への機運が高まり、梅子は帰国以来抱いていた日本女性の地位向上には高等教育が必要であるとの考えにもとづき、自立した女性を育てる学校を自ら設立しようと動き出す。学校の開設資金に12000円(現在の2億4千万円)が必要だった。年末に梅子は高等官5等に昇格し、年俸は800円(現在の約1600万円)となった。 1900年(35歳)、モリス夫人やブリンマー大学学長など梅子の志に共鳴するアメリカの人々が「フィラデルフィア委員会」(委員長モリス夫人)を組織し、3月に最初の送金となる1500ドルが梅子に届いた。以降も同委員会は梅子の学校を支える寄付金を集めては日本へ送り続けて経済的に支援した。また、4月に捨松の依頼で友人のアリス・ベーコンが英学塾の英語講師として再び来日。捨松、繁子、新渡戸稲造ら協力者の助力を得た梅子は、キリスト教精神にもとづいた女子教育と国際人養成の使命感に燃えた。7月に当時の日本人女性にとっての最高の職業的地位であった華族女学校教授&女子高等師範学校教授の官職を辞し、私立学校令に基づく「女子英学塾」の設立願を東京府知事に提出して認可を受ける。 9月14日、日本で最初の女子高等教育機関、「女子英学塾」(現・津田塾大学)を創立し、東京麹町(現・千代田区)の借家に開校した。顧問は捨松。10人の生徒から出発し、開校にあたって塾生を前に塾長の梅子が説いた塾設立の目的は、中等学校の英語教師の養成とともに、キリスト教精神のもと少人数教育の中で人格を形成し、英語教育をとおして国際的知見を広め、視野の広い女性を育てることだった。英語の教師になれば経済的にも男性から自立できた。梅子は華族平民の区別のない女子教育を行い、良妻賢母が標榜されるなか「知力を持ち自分で思考できる女性」を育てる志を掲げた。 女子英学塾は進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となり、生徒10名で出発した塾は、8年後の1908年には150名に達した。一方で、梅子が鞭を手に持ち教室に現れて生徒を驚愕させるなど、教育の厳しさでも知られ、開校当初は脱落者が相次いだ。3年間の教育で英語教員免許状を取得できるレベルまで学生を鍛え上げねばならず、そのための厳しさであった。学生たちに対しては「自学自習が基本であり、授業は疑問を解決する場」という方針を示し、学生たちは完璧な予習を求められた。梅子は生徒が繰り返し質問してもいやな顔をせず、生徒の方が言い負かすようなことがあっても、怒らぬどころか逆にその意気を喜んだという。英語の発音指導は特に厳しく、正しい発音をできるまで何十回でも繰り返させた。 星野あい(1906年卒業)の回想「先生から直接指導を受けたのは一年半に過ぎなかったが、その授業の徹底、少しのごまかしも許さぬ厳しさは身に沁みて今に至るも忘れることは出来ない」(1955) ※同時代の一般的な高等女学校での英語教育の目的は、結婚後に夫の洋書を本棚に逆さに並べないようにすること、輸入品の缶詰の中身が何なのか分かるようにすること、そんなレベルだった。 ※津田塾の伝統として、学生の主体性を重んじて校歌、校章、校旗をあえて持たない。 1901年(36歳)、女学校運営のかたわら、英文新誌社を設立し、「英学新報」創刊。英語教科書や英文学書の出版なども行い、明治・大正期をつうじて英語教育に大きな功績を残した。同年に帰国した新渡戸稲造は、女子英学塾での課外講義を何度も担当した。 1902年(37歳)、父である津田仙の戸籍から分籍した際に梅子に改名。4月にアリスが2年の任期を終えてアメリカに帰国し、入れ替わりでアナ・ハーツホン(フィラデルフィア委員会の書記)が来日し、無報酬で塾に奉仕してくれた。だが、授業料収入(学生1名につき年額24円)のみでは塾の拡張(土地建物購入)も見込めず、塾の経営は常に厳しかった。梅子は米国の支援者への手紙を書き続け、一か月に300通を書いたこともあった。 同年、聖公会(イギリス国教会系)のミッションスクールである静修女学校の閉鎖にともない、土地と校舎と生徒を梅子の盟友・石井筆子から譲り受ける。 ※アリスは兼任していた女子高等師範学校嘱託としての報酬で、梅子は女子高等師範学校講師としての報酬や岩崎家(三菱財閥)での家庭教師としての報酬で生活していた。梅子とアリスは塾に住み込み、アリスは「家賃」を塾に支払って苦しい経営を助けた。 ※塾顧問の大山捨松を介して、ヴァッサー大学の同級会から送られてきた50ドルの寄付金に対し、深く感謝を表し、使途の詳細を伝えた梅子の手紙(1902年8月31日付)が現存。 1903年(38歳)2月、現・千代田区に新築落成した校舎に移り、第1回卒業式を挙行する。卒業生は8人。彼女たちは英語教師の国家試験に挑み5人が合格した。この資格を女性がとったのは初めてのことだった。その後も大勢の卒業生が英語教師となって全国に羽ばたいていった。同年、専門学校令が公布される。 1904年(39歳)、3月に女子英学塾が専門学校に昇格。9月には、「社団法人女子英学塾」の設立許可により社団法人に移行した。梅子には女子英学塾から年間300円(今の600万円)の手当が出され、執筆と講演活動の副収入で生活できた。同年、日露戦争が勃発、翌年に終戦。 捨松は、95万人の兵を率いてロシアと戦う満州軍総司令官・大山巌の妻。陸軍は8万人を超える犠牲者を出しながら辛くも勝利をおさめた。日露戦争の戦死者の遺族への慰問を大切にした。捨松の手紙「今、私が一番つらいことは遺族の方たちを訪ね慰めの言葉をかけるときです。たとえ国中の人が栄誉ある死について誉め称えたとしても、私たち女性は悲しみを殺して愛国主義者となる前に妻であり母なのですから」(1904年12月1日付)。 この年、のちに第2代塾長となる星野あい(1884-1972/当時20歳)がフェリス和英女学校を出て塾の2年生に編入してくる。 1905年(40歳)、9月に塾は私立女子教育機関としては初めて、無試験検定による英語教員免許状の授与権を与えられた。10月、梅子を会長として日本基督教女子青年会(日本YWCA)が創立された。 1906年(41歳)9月、梅子が創設した「日本婦人米国奨学金」の4人目の受給者に星野あいが選ばれ、アメリカのブリンマー大学(梅子の母校)への入学を目指して渡米。2年間の受験準備を経てブリンマー大学に入学した。 1907年(42歳)、瓜生繁子が女子英学塾の社員になる。 1908年(43歳)4月24日、父仙が東海道本線の車内で脳出血のため亡くなっている所を発見された。享年70。没後、内村鑑三や新渡戸稲造らは追悼文を発表し、父の事業を讃え「大平民」と呼んだ。同志社大学の創始者新島襄、人間の自由と平等を説いた東大教授の中村正直とともに、仙はキリスト教界の三傑とうたわれた。 1909年(44歳)10月26日、伊藤博文が68歳で暗殺される。 1912年(47歳)、星野あいが28歳でブリンマー大学を卒業して帰国し、女子英学塾の教授陣に加わり、英語・英文学・生物学を教えた。 1913年(48歳)、世界キリスト教学生大会出席のため渡米するなど女子教育家として活躍した。 1914年(49歳)、ホームステイで世話になったランマン夫人が88歳で他界。 1916年(51歳)、津田梅子邸で、梅子・大山(山川)捨松・瓜生(永井)繁子の3人と上田悌子が44年ぶりに再会。 1917年(52歳)春に発病、聖路加病院に入院し塾長を辞任。2か月後に退院したものの、その後も入院と退院を繰り返した。日記に「わたしやわたしの仕事などごく些少なものに過ぎない。新しい苗木が芽生えるためには、ひと粒の種子が砕け散らねばならないのだ。わたしと塾についてもそう言えるのではなかろうか」と記す。 1918年(53歳)、星野あいが塾から米国コロンビア大学に派遣され、教育学を1年間学ぶ。 1919年(54歳)、3度の入院を経て、これ以上塾長を務めることが難しいと自覚した梅子は1月に辞意を表明。2月に教え子で留学経験のある辻マツ(1882-1965/当時37歳)が塾長代理に就任し、梅子は塾長としての実質的な活動を終えた。奇しくも、2月18日に盟友の大山捨松がスペイン風邪により58歳で他界。留学生3人が揃ったときは楽しげに英語でおしゃべりしたといい、梅子と繁子は寂しかっただろう。 9月に、星野あい(当時35歳)が帰国し、教頭に任じられる。星野は重態に陥っていた梅子を見舞った際に、「あまり規模を大きくしないこと、あくまでも堅実にやってゆくこと、万事よろしく頼む」という旨が記された紙片を受け取った。 10月ごろ、品川区に梅子の新居が完成し、以後10年間この家で過ごした。 1923年(58歳)、関東大震災で校舎は全焼し、塾の存続が危ぶまれる事態となった。アナ・ハーツホン(当時63歳)は急遽アメリカに帰国し、梅子の妹、かつ塾の卒業生でサンフランシスコに在住していた安孫子余奈子(1880-1944)の協力を得て、50万ドル(公定為替レートで100万円)を目標とする募金活動を展開した。3年間に渡るアナの献身的な努力により、塾は目標金額を達成する寄付金(総額85万1784円12銭、利子込みで100万円を超えた)を得て、塾の復興と小平キャンパスの建設を果たした。 1925年(60歳)、辻マツの後任として星野あいが塾長代理に就任。約30年間に渡って津田塾の運営を担っていく。 1928年11月3日、親友の瓜生繁子が癌のため66歳で永眠。11月12日、昭和天皇即位の大典に際して梅子は勲五等に叙され、瑞宝章を授けられた。 ★1929年1月、甥にあたる津田眞(まこと)(梅子の弟、津田純の四男)を養子に迎える。7月、鎌倉の別荘に移住し、8月16日に同地にて脳出血のため64歳で他界した。生涯、母語は英語だった。 葬儀は女子英学塾講堂での校葬(キリスト教式)として行われ、会葬者は約1千人に上り、昭和天皇と皇后から祭祀金一封が下賜された。遺言によって墓が津田塾大学(東京都小平市)の構内に建てられた。第2代塾長に星野あいが就任。 ※津田眞の娘・あい子と西郷隆盛の曾孫・西郷隆晄の次男として生まれた写真家津田直は、祖父・津田眞と養子縁組をし、2000年津田梅子家当主を継いだ。 1931年、塾が編纂した高等女学校向け英語教科書『津田リーダー』と文法教科書『津田英文典』が発売され、好評を得て多数の高等女学校に採用され、その収入で塾の経費の1割を賄えた。だが9月に満州事変が起き、アメリカとの関係悪化が始まる。 1932年、アナ・ハーツホンのアメリカでの献身的な募金活動による小平キャンパスの建設・移転。 1933年、女子英学塾は梅子を記念して校名を「津田英学塾」に改めた。同年、日本が国際連盟脱退を通告する。 1937年、日中戦争が勃発。 1939年、梅子の留学生仲間で最後まで生きていた上田悌子が85歳で他界。 1941年、日米開戦。アメリカと深い縁を持ち、英語教師の育成を第一とする塾は逆風に晒された。「英語不要論」によって全国の高等女学校の英語科は殆ど全廃され、塾の卒業生の主な進路である英語教師の需要は激減し、塾の学生数も減る一方で、塾は再び存続の危機に陥った。 1943年、星野は塾を存続させるために校名から「英学」を外し、数学科・物理科学科を増設し「津田塾専門学校」に改称する。原書をすらすら読める科学者を養成するためとして、週当たり5時間の英語の授業を課した。 1945年、敗戦。小平キャンパスは都心から離れていたため空襲を免れた。 1948年、新制大学に移行し津田塾大学として新たに発足。星野あいが津田塾大学の初代学長を務める。翌年、数学科を増設。「早慶を蹴ってでも入るトップの名門私学」とされ、女子大最難関校として「女の東大」の異名を持つ。 1952年、新制の津田塾大学の最初の卒業生を送り出し、星野は68歳で津田塾大学学長を辞した。 1963年、津田塾大学に大学院を設置。 1969年、まだ草分け期にあった国際関係論という分野を、日本の大学として初めて国際関係学科として創設。 1972年、星野あいが88歳で他界。 2010年、創立110周年事業として津田梅子賞を創設し、「女性の自立と社会貢献を促す精神」を具体化する活動を行っ ている団体や個人を顕彰する。 2017年、女子大としては初の「総合政策学部」を千駄ヶ谷キャンパスに設置。 2019年、五千円札の肖像に2024年から採用されることが決定した。 明治・大正期の女性教育、英語教育に大きな足跡を残した津田梅子は、男性優位社会の中で多くの人材と優れた女子教員を育成し、少人数による人間教育・個性教育は、英語の教育水準をひきあげただけでなく、近代日本の女子教育の先駆けとなり、その後の女性の地位向上に果たした。英語教育とキリスト教による人格教育を中心とした女子高等教育につくした。 津田塾大学・小平キャンパス構内にある梅子の墓所(1931年建立)の墓碑銘は ”UME TSUDA / DECEMBER 31-1864 / AUGUST 16-1929” である。 都合5回の米・英滞在を通じ国際交流に貢献した。 武士の娘の誇りとキリスト教の奉仕の精神を終生持ち続け、自らの経験を生かし日本女性の知的解放に尽くした。 欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性である。 英語教本、教材の出版のほか、アメリカの新聞に日本の女性と教育を論じた記事を多数寄稿。 ※墓参の際は津田塾大学の守衛所に届け出て入構票をもらう。毎年10月の津田塾祭(学園祭)の期間は自由に墓参できるようだ。 ※17人の肖像画が使われた日本のお札の歴史で、これまで肖像に選ばれた女性はたった2人。明治時代1881年に発行された1円、5円、10円札の神功(じんぐう)皇后、そして2004年に採用された樋口一葉だけ。それもあって2024年からの新紙幣に女子教育家の津田梅子が決定して良かった。ちなみに神功皇后のお札は日本最初の「肖像画入り紙幣」でもある。 ※新札の津田梅子の肖像写真が左右逆になってて、あれをそのまま使うと髪の生え際も逆でめっちゃ違和感がある。別の写真に変更するより、オーストラリアの20ドル、50ドルのように左側に人物を置いて良いと思う。昔の人物には右向きの肖像しか残っていない人もいるから、津田梅子が左側に人物配置されたお札の第一号になればいい。彼女は第一号が似合う。 ※1万円は渋沢栄一、千円は北里柴三郎。 ※父は日本で最初に通信販売を行った(トウモロコシの種)。 ※日本人として初めて西洋で正規の音楽教育を受けた瓜生繁子。アメリカでも日本でも人前でピアノを演奏している記録があり、しかも曲目がシューベルトの『4つの即興曲』、ウェーバーの『舞踏への勧誘』などハッキリと分かっている。日本人の最初のピアニストが誰かは諸説あるけれど、僕は瓜生繁子を推したい。 残った梅子、捨松、繁子の3人は生涯親しくし、梅子がのちに学校を設立する際に2人は助力している。 以降、同塾は伝統的に少人数教育を基本にし、キリスト教精神による人格教育と高度の英語、英文学の教育を特色とした。 ※留学仲間の山川捨松と永井繁子は、帰国後に比較的早期に日本語を取り戻したが、年少だった梅子は日本語の習得に苦しんだ。生涯を通じて、梅子の話す日本語は外国人風の発音で、梅子の母語は英語であった。捨松・繁子・梅子の3人同士の会話は常に英語であった。 ※現存する梅子の書き物はほぼ全て英語。 ※作家の大庭みな子の評「いったい梅子は幼いときから、日本人、アメリカ人、女性、男性を問わず、どうしてこうも次つぎとめぐり逢う有力な人びとに助けられる運命にあるのか。まず、チャールズとアデリン・ランマン夫妻、伊藤博文、森有礼、大鳥校長、西村校長、アリス・ベーコン、捨松、繁子、モリス夫妻、それぞれの立場で助力を惜しまなかった。そして冒頭に述べたアンナ・ハーツホンなどはまさにその一生を津田塾のために捧げたといってよいくらいである」(1990) ※作家の山崎孝子の評「(津田梅子についての多くの資料は)関東大震災・太平洋戦争の戦災などで焼失した。梅子の住んだ家・別荘の類も何一つ現存しない。ただ私どもの眼前に津田塾大学が現存し、同大学の東北隅には梅子の墓所がある。これが梅子が世に遺したすべてであった」(1962) ※梅子は当時の日本女性の中でも小柄な部類であり、身長は140センチメートルを少し超える程度だった。 ※教壇に立つ梅子は和服姿で懐中時計を常に持っていた。 ※素顔の梅子は朗らかで良く笑った。 ※梅子の伯母にあたる高井武子(母・初の姉)は徳川宗家第16代当主・徳川家達(いえさと)の生母! ※2022年、テレビドラマ『津田梅子?お札になった留学生』で梅子の役を広瀬すずが演じた。 ※梅子は世良田亮との縁談以外に、神田乃武(英学者)、中島力造(倫理学者)とも縁談があったという。 〔参考資料〕『津田梅子 女子教育を拓く』(橋裕子/岩波ジュニア新書)、『英雄たちの選択/女子教育のその先へ〜津田梅子・科学への夢と葛藤』(NHK)、『偉人の年収How much?教育者津田梅子』(NHK)、『Tsuda Today No.93』(津田塾大学)ほか。 |
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