| ●彫刻家・仏師 カミーユ・クローデルの墓 ドナテッロの墓 ブランクーシの墓 ミケランジェロの墓 ヘンリー・ムーアの墓 ロダンの墓 円空の墓 定朝の墓 西村公朝の墓 ●写真家 ロバート・キャパの墓 ユージン・スミスの墓 グレッグ・トーランドの墓※映画 メイプルソープの墓 マン・レイの墓 沢田教一の墓 土門拳の墓 |
●建築家 アルヴァ・アールトの墓 アスプルンドの墓 アントニオ・ガウディの墓 エッフェルの墓 夢窓疎石の墓 ●工芸家(陶工、刀工他) ウエッジウッドの墓 エミール・ガレの墓 ティファニーの墓 ルネ・ラリックの墓 本阿弥光悦の墓 尾形乾山の墓 川喜田半泥子の墓 左甚五郎の墓 棟方志功の墓 野々村仁清の墓 正宗の墓 樂長次郎の墓 |
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| 1994 ダ・ヴィンチと並ぶ、人類の限界を超えた究極生物! |
「ピエタ」はキリストの亡骸を抱え嘆き悲しむ 聖母マリアの姿。作者が署名を刻んだ唯一 のもので、なんとまだ24歳の頃の作品だッ! ※キリストの右脇の肌のたわみがスゴイ |
ダビデ像は高さ4.3m!4年 の歳月をかけて彫り上げた |
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| 『モーセ』 2本の角が生えてるのは聖書のラテン語訳の 誤訳(光を放つ→角が生える)を彼が信じた為 |
『最後の審判』 中央のキリストを挟んで左側が天へ昇天 する人々、右側は地獄へ落ちていく人々 |
『天地創造』 旧約聖書『創世記』から「光と闇の分離」「アダムの創造」「イブの創造」 「原罪と楽園追放」「大洪水」など9場面を、4年がかりで一人で描いた |
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| 2004 | 2004 | 2004 |
| ミケランジェロの名は天使長ガブリエル、天使長ウリエル、天使長ラファエルらを束ねる大天使長ミカエル(Michael)と天使(angelo)を併せたもの。ミケランジェロは天才彫刻家であると同時に、建築家、画家、詩人であり、そのどれもが傑作ぞろいというスーパー人類。サン・ピエトロ大寺院の“ピエタ”を完成したのは24歳というからやってられない(笑)。ダビデ像を完成させたのは29歳。彼はこの4.3mの大作に挑む際、習作を作らず、ぶっつけ本番でいきなりノミを巨岩に刻み始めた。驚いた周囲の人々が「なぜそれほど急ぐのか」と尋ねると、彼は「石の中に埋もれている人が早く解放してくれ、早く自由にしてくれと、私に話しかけているのだ」と答えたという。か、かっこ良すぎ! 気難しく頑固な性格は、若い時分にケンカで鼻が曲がってしまい、この容姿へのコンプレックスが大きな原因だと言われている。同性愛者として女性にあまり興味がなかったとされているが、60歳で貴族未亡人ヴィットリア・コロンナと出会ってからは、彼女に多くのソネット(詩)を捧げ、彼女をマリアのモデルにして「最後の審判」を描いた。88歳で死を前に呟いた言葉が「私が残念に思うのは、やっと何でも上手く表現出来そうになったなぁ、と思うときに死なねばならぬことだ」であったという。なんという強烈な探究心! 「生命ある像が、荒々しく硬い石から余分な物を取り除くことによって得られ、石が減るにしたがって像が大きくなるように、肉体という余分なものは、その粗野でむき出しの硬い皮の下に震える魂に溢れた良き作品を宿している」〜ミケランジェロ ※システィーナ礼拝堂の天井画をいやいや描いている時の言葉…「辞めたい。私は画家ではないからです。だから私は時間を無駄にしています。神様、お助け下さい。」そう言いつつ、あの大傑作を仕上げるのだからスゴすぎ! |
| 【ミケランジェロの詩】(高田博厚訳) ●花冠と腰帯 ※好きな女性のアクセサリーの気持を歌う
何という花の歓び方。楽しげにもつれあって/金色の女の髪につけた花冠。/互いに前へ押し重なり/ まるでわれ先にと彼女の額に接吻したいよう。/衣裳は彼女の胸を包み、下の方でひろがって/ひと日ひねもす満足している。/ その金色の飾りレースは余念なく/彼女の頬やのどに触っている。/なかで一番可愛いのは、あの嬉しげなリボンの紐/ 先に付けた鍍金の飾り。一寸むつかったように/締められた胸に衝ったり、触れてみたりする。/ そして腰を結んだ帯は、こう言っているよう/――わたしはしょっちゅう、ここを引き締めていたいの!/ ――おお、そんならわたしの腕はどうしたらいいんだろう? ●システィナ礼拝堂天井画 ※天井画を4年間も描き続ける苦しみを嘆く
わたしはこの困厄の中でもう喉を害(いた)めてしまった。/まるでロンバルディアやあの辺りの澱んだ水で猫がやられるように。/ そこで腹は胸の下へぐっと引きつられ、/髯(ひげ)は天を向き、うなじは肩にくっついている。/わたしはまるでアルピア(怪鳥)のようだ。/ そして、顔の上にある筆が滴を落して/顔を彩られた床模様にするのだ/腰は腹へめり込んで、/臀(でん)で体の平均をとり、/ 目前(めさき)めくらで足を空に動かす。/皮膚は前に引き延び、身を後に屈めるとまた皺よる。/ わたしはアッシリアのアーチみたいにふんぞり返る。/こんなわけでわたしの思考は/曲がりくねり汚れて頭から湧き出る。/ 曲がった火縄銃を撃っても駄目なように。/わたしの死せる絵とわたしの栄誉を、/ジョヴァンニよ、今守護(まも)ってくれ。/ この場所は悪いし、わたしは絵描きでもないのだから。 |
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| 写真右端の階段に座っているのが、閉館日 なのに入れてくれた優しい守衛さん! |
ロダン美術館の「考える人」の台座が彼の墓! |
| ロダンは従来の彫刻の様に神話や聖書の一場面を再現するだけでなく、そこに描かれる人間の内面の感情を筋肉の動きで表現しようとした天才彫刻家!その人生はけっして平坦ではなく、青年時代は国立美術学校エコール・デ・ボザールの入学試験に三度落ちて、とうとう入学を断念している。姉のマリアはロダン最大の理解者だったが、恋人だったロダンの友人の画家に捨てられ自殺してしまう。姉を救えなかったロダンは自責の念から一年近く修道士として生きた。初めて世間に評価されたのは37歳の時。サロンに出品した等身大の男性像『青銅時代』があまりにもリアルな作品だった為、批評家から「彫ったのではなく人間から直接型を取ったのだろう」とあらぬ中傷を受け、激怒したロダンは2年後に人間よりずっと大きい人物彫刻を作って発表したのだった。 ロダンが晩年に暮らしたムードンまでパリから約2時間。何度も電車を乗り継ぎ、駅からは徒歩で『ロダン美術館』に向かった。そのロダン家を改装した美術館は住宅街の中にあり、めちゃくちゃ探しまくる。ようやくたどり着くと、なぜか門が閉まっていた…「お昼休みか?あ、看板だ…えーと、ゲゲッ!週の後半しか開いてないじゃん(この日は火曜日)!NOーッ!」僕は狂ったようにインタホンを鳴らしまくった。インタホンの向こうからは英語で「トゥデイ・クローズド、ソーリー・マダム」との声。“マダム!?なんでマダム!?”どうやら門の上に監視カメラがあり、小さなモニターを見て勘違いしてるようだ(確かに女顔だが…声で気づけよッ!)。とにかく、日本からここまで来て“ハイ、そうですか”と帰れるかっつーの!「ソーリー・インポッシブル」を繰り返す相手に、ひたすら「シル・ブ・プレ(お願い)」を10分近く連呼し、自分は美術館の中を鑑賞したいのではない、中庭にあるというロダンの墓をひとめ見たいだけと力説した。やがて涙声に向こうが折れ「ワン・モメント」と言って守衛が出てきた!そして“考える人”の下に眠るロダン御大の墓に謁見させてもらったァーッ! 「深く、激しく、真実を語りなさい。世の中の考えと対立しても感じたまま臆せずに」(ロダン) 「芸術家である前に人間であれ」(ロダン) |



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| カミーユは心の病にかかり、この病院で亡くなった | 3行目にカミーユ・クローデルとある |
アヴィニヨンの街中で見つけた |

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| ガレは、なかなかのハンサム |
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| 墓地の一番奥の壁沿いに眠っている | 晩年の傑作“ひとよ茸” | 好んで植物を描いた |
| ガラス工芸家。19世紀末にブームとなったアールヌーボーの先駆者。少年時代から植物をこよなく愛していた彼は、「私は工芸家である前に植物学者だ」とし、地元の植物協会の会員となり、後に植物園の責任者となっている。 ガレの生きた時代は産業革命が進み、文明は機械化され、生活から自然が切り離されつつあった。「もはや人が木の下で眠らず、花の中で暮らさないのなら、逆に森を家の中に入れよう」--植物の美しさに自然の尊さを感じていた彼は、草花への感謝の意味を込めて、自らが制作する家具、ガラスの器、ランプなどのモチーフを植物とした。 白血病のために58歳で他界したガレは、死の2年前に傑作『ひとよ茸』を発表している。このキノコは“一夜茸”という名の通り、森の奥深くで夜のうちに傘を開いて胞子を放ち、夜明けには朽ちていく。たった一晩の短い命。ガレは傘が3段階に開いていく(成長する)様子を描くことで生命賛歌を形にした。さらに当時発明されたばかりの電球を使うことで文明と自然との融合を試みた。ロウソクの光と違って電気の光は燃え尽きることがない。そして、ガラスは朽ちることがない。ガレは自らの芸術によって、はかない一夜の命を永遠に変える奇跡を起こしたのだ。 |

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| “最後の仏師”超優しい公朝さん |
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| 公朝さんが眠る京都・愛宕念仏寺 | 羅漢さんやシャガの花で埋め尽くされた階段を上っていくと… | 公朝さんが待ってマス! |
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| 目の不自由な方でも触れることで慈悲が伝わるようにと、公朝さんが 彫り上げた「ふれ愛観音」。触ることができる仏像は珍しい |
公朝さんは21年をかけ、この三十三間堂 の千体の観音のうち600体を修復したッ! |
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| 昭和・平成と活躍し、その卓越した技術と膨大な仕事量から“最後の仏師”と言われた西村公朝は、1915年大阪高槻に生まれた。1935年(20歳)、現代彫刻に憧れ東京美術学校(東京芸大)に入学。1940年、彫刻科を卒業。中学で美術を半年教えた後、翌年に26歳で美術院国宝修理所へ就職。
そして、4年前(1937年)から始まっていた京都・三十三間堂の千体千手観音像の仏像修理(毎年50体を修理する大事業)に加わった矢先、1942年(27歳)、召集令状を受け取り中国へ出征する。 公朝は中国戦線で夜間行軍中、あまりの疲労の為に不思議な夢を見る。1人で銃を持って前進する自分の左右に無数の仏様が現れたのだ。その仏様をよく見ると、どれもが割れたり欠けたりしている痛々しい仏像だった。公朝は「私に直してほしいのか?ならば無事に日本へ帰してくれ」と声をかけた。果たして公朝は終戦まで大陸を転戦したが、自らが死ななかっただけでなく、1人の人間も殺さずに済んだという。 1945年(30歳)、帰国した公朝が三十三間堂に戻ると、修復作業は敗戦直後の混乱の中もずっと続いていた。「天命だ」こう感じた公朝は現代彫刻の道に進まず、仏師の道一本に進んでいく。1958年(43歳)、21年をかけてついに1000体すべての千手観音像の修理が完了。その内、公朝は600体の修理に携わった。三十三間堂での大仕事が終わった翌年、44歳で美術院国宝修理所の所長に就任する。1974年(59歳)には東京芸大教授に着任。 この間、公朝は仏師として活躍するかたわらで、37歳の時に得度して僧侶になっており、1955年には40歳で天台宗・愛宕念仏寺の住職に任命されている。 愛宕念仏寺は約1250年前に京都東山に建立された古刹だが、平安初期に鴨川の洪水で寺が流され、醍醐天皇の命を受けた天台僧・千観内供(せんかんないぐう)によって千年前に比叡山の末寺として再興された。その後、次第に寺運は傾き、公朝が赴任した時、愛宕念仏寺は京都一の荒れ寺と言われ、檀家もおらず境内は雑草が生い茂り荒廃しきっていた。本堂もかなり傷んでいたが、仏像たちの置かれている状況はもっと深刻だった。前住職は生活苦の為に次々と仏像を売り払い、本尊の千手観音は、腕を一本ずつバラ売りした挙句、42本中、残っていたのは僅かに4本のみだった。公朝は自分で足りなかった38本を彫り、数百年が経ったような退色した色を作ってこれに塗り、完璧に修復した。以後、全国各地の仏像を修理しながら、寺に戻っては少しずつ境内を整備していった。 「何とかして、現代を生きる人々に、もっと仏の教えを身近に感じてもらいたい」。長年こう思っていた公朝は、仏師の第一人者として「祈る気持ちさえあれば誰だって仏像を彫れるんだ」という確信から、そして寺の復興を祈願する思いも込めて、1981年(66歳)、一般参拝者に向かって「羅漢さんを彫りませんか」と呼びかけた。羅漢(らかん、正式には阿羅漢)とは釈迦の弟子となって仏教を広め伝えた僧侶のこと。釈迦が他界する時に立ち会った羅漢は500人と言われており、彼らは「五百羅漢」と呼ばれている。釈迦入滅の100年後に、教義が誤って伝えられていくのを防ぐ為に、700人の羅漢が大集会を開いて、釈迦の教え(言葉)を全員で再確認したとされている。公朝の呼びかけに全国から人が集まり、彼らは全く素人ながら公朝の指導を受けて石を刻み続け、彫り始めて10年後(1991年)、ついに願いは達成され1200羅漢が境内を埋め尽くした。時に公朝76歳。 ※これより前、1986年(71歳)に天台大仏師法印号を授かる。 1994年、最晩年の大仕事となる釈迦十代弟子の制作を開始。2003年、十代弟子の最後の1人を彫り上げた2ヵ月後に他界した。初めて三十三間堂でノミを握ってから62年。この間、公朝が修復した仏像は、広隆寺・弥勒菩薩(折れた指を復元)や平等院・阿弥陀如来など、実に1300体以上!仏教と仏像の素晴らしさを、時にはお寺から飛び出して、著作、講演、様々な媒体でやさしく説き続け、愛宕念仏寺を立派に復興させて旅立った。これら全ての根底にあるのは20代後半に戦場の夢で出会った、壊れた仏像たちとの約束。公朝は晩年になっても、口癖のように繰り返していた「あの仏像たちを思い出すと、約束を果たしたなんて到底言えない。見渡す限り何万とあったのだから」。 「現代の材料を仏像の修理に使うと、それが何十年、何百年たってどう変質するか分からないから、自分は“こくそ漆”など昔からのものを使う」(公朝) 「仏教には色々な宗派がありますが、どれも仏教の一部に過ぎないんです。それなのに各宗派の人は自分たちの教祖のことばかり話している。みんな、お釈迦さんのことを忘れている」(公朝)〜仏像修理の際には宗派など問題じゃない。釈迦は釈迦だ。そんな公朝の言葉だからこそ説得力がある。 ※公朝は絵もよくした。愛宕念仏寺の羅漢洞(集会所)には巨大な天井画があるほか、多数の仏画が拝観できる。 ●「ふれ愛観音」について 愛宕念仏寺の境内には1991年に76歳の公朝が制作した「ふれ愛観音」が安置されている。お寺の仏像は触ってはいけないのが普通だけど、この観音様は手で触れられることを喜んで下さる仏様だ。この仏像が誕生した経緯や後日談を最後に紹介したい。 公朝が亡くなった後、生涯を綴った追悼番組が放映された。僕はその中でとても懐かしい顔を見た。川島さんという全盲の女性だ(約15年前にドキュメンタリーで見て覚えていた)。当時27歳の彼女は美術館でロダンの彫刻に触れた時のことを「6歳で失明して以来、約20年間で初めての強烈な体験」と語り、「(ロダンの彫刻は)脈を打ってるのが分かる。このまま柔らかかったら人を直接触ってるみたい」と熱く話していた。作者の生命が彫刻から直接伝わって来る事に気付いた彼女が、ぜひ触ってみたかったもの…それが仏像だった。これまでお寺に御参りする事はあっても、仏像の形が全く想像できず、自分がどんなものを拝んでいるのか分からなかったからだ。しかし、大切な仏像を触らせてくれる寺など聞いたことがない。 この時、理解を示してくれたのが、仏師として誰よりも仏像を愛していた公朝だった。「仏師は観賞用に仏を彫るんじゃない。人々と共に在って初めて仏も生きる」そう言って川島さんを京都仁和寺に招待した。この時公朝が案内した仏像は、平安初期の国宝・阿弥陀如来!川島さんは阿弥陀の足、手、頬に触れ、1200年前の仏師の息づかいを聞いたという。仏師たちの「この仏で苦しむ人を一人でも救いたい」という祈りに触れた川島さんは、阿弥陀仏の両手をジッと握ったまま「安心する…なんだろう…とても身近な気がします」と照れるように語った。 川島さんは言う「私は触れる事で生きている。触れるという事、それは時に危険だったり、恐ろしいものであるかもしれない。でも、私はぶつかって行くしかない。触れる事が私にとって世界を確かめる術(すべ)なのだから」。 この川島さんとの出会いがきっかけとなって、公朝は「ふれ愛観音」を彫り上げた。 その川島さんが公朝の追悼番組に出ていた。15年ぶり。ブラウン管の中の少し歳をとった川島さんは、今度は国宝の阿弥陀仏ではなく、公朝が残していった「ふれ愛観音」を優しく撫でさすっていた。「先生(公朝)、ここにいらっしゃたんですね」。 川島さんは目を潤ませながらも、笑顔を作ってこう続けた「先生が彫られた、一つ一つのもの全ての中に、ずっと先生の命と心が宿っているから、亡くなった今も、こうして先生の存在を確かめることが出来て、私はとても嬉しいです」。 ※ふれ愛観音座像は2003年の時点で、京都清水寺や鎌倉長谷寺など、既に全国60カ所に安置されているとのこと。 |
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| 平安時代を代表する傑作仏、癒しまくりの平等院・阿弥陀如来像。完成の4年後に定朝は他界した |
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| 聖徳太子が創建した上品(じょうぼん)蓮台寺に眠る |
墓石の表記は「常朝」。これは 朝廷からの諡(おくり名)だ |
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| 廬山寺(ろさんじ)墓地の奥にも墓がある(2007) | 「元祖定朝法印」の墓 | 大佛師職 |
| 「石の聖書」サグラダ・ファミリア教会!夜は昼間以上に神秘的 な雰囲気だ。訪れた際は、必ず昼夜両方の表情を見て欲しい。 |
地下礼拝堂最深部に眠るガウディ。 頭上で聖母子像が見守っている。 |
| サグラダ・ファミリア(聖家族)教会あまりに複雑怪奇なデザインのため、建築開始から100年を経た今も工事は続いており、現在やっと3分の1が完成したとこだ。建築終了まで、最速でもあと半世紀はかかるという! 奇才ガウディの死は悲劇的だった。彼は大聖堂の近くで、接近する路面電車に気づかずはねられてしまったのだ。倒れた老人に駆け寄った通行人は、ガウディの服装が小汚く古びていたため、誰一人それが大建築家のガウディだと気付かなかった。貧乏なゆき倒れだと思われたのだ。居合わせたタクシーは彼を運ぶのを拒み、結局、通りすがりの人々が彼を近所の医者に運び込んだ。そこから更に、身許不明者として救急車で慈善病院に移され、意識不明のまま3日後に73歳で死亡したのであった…。 サグラダ・ファミリア教会のガウディの墓所へ通じる階段は、とても発見しにくい場所にある。しかも定められた時間しか入ることが出来るない。巡礼しようと思う方は、必ず時間に余裕を持って訪れるべし。詳細は以下の巡礼ルポで。 |
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| 30歳。この頃油絵から 板画に移行しつつあった |
66歳。めっさ豪快に笑う棟方! |
左目は失明しており、右目も極度の近眼だった |
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| 善知烏(うとう)版画巻/ 夜訪(よどい)の柵 35歳 |
釈迦十代弟子/ 目けん連の柵 36歳 |
花狐の柵 53歳 「嬉しさの狐手を出せ曇り花」 |
空晴の柵 54歳 「今日 空 晴レヌ」 |
| ある修行僧が、漁師の霊に“妻子を訪ねて 欲しい”と頼まれ、夜半に戸を叩いた場面。 能の幽玄と北国独自の悲しみを刻んだという |
板木を一杯に使って木の持つ 生命力を出し切り、仏に近づき つつある人間像を彫り上げた |
桜にうかれて踊る陽気な狐 棟方の動物はどれも味がある |
力強くピチャンと跳ねる魚 短い言葉と相まって気持ち良い |
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1903年、青森に鍛冶屋の三男坊として生まれる(15人兄弟)。小学校卒業後、すぐに家業の手伝いに入ったため中学には行けなかった。17歳の時に母が病没し、家運も傾き父親は鍛冶屋を廃業。志功は裁判所弁護士控所の給仕となった。絵が好きだった棟方は、仕事が終わると毎日公園で写生をし、描き終わると風景に対して合掌したという。
18歳の時、友人宅で文芸誌『白樺』の挿し絵に使われていたゴッホの『ひまわり』と出会う。炎のように燃え上がる黄色に、そのヒマワリの生命力と存在感に圧倒された。カンバスに刻まれたヒマワリから、ゴッホその人が立ちのぼった。 ※この『白樺』に関するエピソードは小高根二郎が『棟方志功』に次のように記している。 棟方は友人宅を帰る時に呼び止められた。 「ゴッホさ、ガ(君)にける(あげる)」 友人は棟方に白樺をプレゼントした。棟方の指がスッポンの口ばしの様に談笑中ずっと白樺を手放さなかったことに気付いたからだ。 「ワ(我)のゴッホさ、ガ(君)にける」 と繰り返して言うと、棟方は狂喜して踊り上がった。 「ゴッホさ、ワに?ゴッホさ、ワに?」 棟方がこの恩寵が信じきれないという顔をしていると、 「ンだ。ガにける」 贈呈の意志が変わらないことを、友は3度重ねて表明した。棟方は白樺を胸に抱きしめ、歓喜の笑みで「ワだば、ゴッホになる!ワだば、ゴッホになる!」 と友人の好意に応える覚悟で叫んだ。その後、友の気持ちが変わらぬうちにと、そそくさと帰ったという。 この誓い通り彼は油絵の道にのめり込み、21歳のとき上京した。ところが、簡単には世間に認められない。コンクールに落選する日々が続く。3年、4年と時間だけが経っていった。画家仲間や故郷の家族は、しきりに棟方へ有名画家に弟子入りすることを勧めた。 だが、彼は激しく抵抗した。 “師匠についたら、師匠以上のものを作れぬ。ゴッホも我流だった。師匠には絶対つくわけにはいかない!” 彼は新しい道を模索し始めた。当時の画壇で名声の頂点にあった安井曽太郎、梅原龍三郎でさえ、油絵では西洋人の弟子に過ぎなかったことから、この頃の気持を自伝にこう書いている「日本から生れた仕事がしたい。わたくしは、わたくしで始まる世界を持ちたいものだと、生意気に考えました」。 そして、とうとう棟方は気付く。 “そうだ、日本にはゴッホが高く評価し、賛美を惜しまなかった木版画があるではないか!北斎、広重など、江戸の世から日本は板画の国。板画でなくてはどうにもならない、板画でなくてはわいてこない、あふれてこない命が確実に存在するはずだ!” 『この道より我を生かす道なし、この道をゆく(武者小路実篤)』…この言葉が棟方の座右の銘となった。 ![]() 33歳、上京から12年目にして、ついに自分の作品が売れる。 35歳、帝展で版画界初の特選になる。 36歳(1939年)、大作『釈迦十代弟子』を下絵なしで一気に仕上げる。制作中の彼はこんな談話を残した…「私が彫っているのではありません。仏様の手足となって、ただ転げ回っているのです」 39歳、論集『板散華(はんさんげ)』にて、今後は「版画」という文字を使わず「板画」とすると宣言。版を重ねて作品とするのではなく、板の命を彫り出すことを目的とした芸術を板画とした。 40歳、ベートーヴェンと出会う。その宇宙的な包容力に深く胸を打たれる。 49歳、ルガノ国際版画展で優秀賞を受賞。 52歳、サンパウロ・ビエンナーレで版画部門最高賞を受賞。 53歳(1956年)、ベネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞し、一躍世界のムナカタに。「会場へ来た人のほとんどすべてが、棟方の木版画の前に愕然としていました。」(当時会場で働いていた人の証言) 56歳、フランスへゴッホ兄弟の墓巡礼に行く(!) 57歳、『歓喜自板像の柵』(自画像)を彫る。酔っ払って幸せそうにひっくり返る自分の背後に、写生に出かけるゴッホと、ベートーヴェンをたたえる言葉を刻み込んだ。この頃、朝日賞を受賞するなど、ようやく国内の美術界で正当に評価される。眼病が悪化し、左目を失明。 61歳、自伝『板極道』を出版。 66歳、ヨコ27m、タテ1.7mという世界最大の版画『大世界の柵』を完成。巨大さゆえ板壁画と呼ばれた。 67歳(1970年)、文化勲章を受章。コメントは「僕になんかくるはずのない勲章を頂いたのは、これから仕事をしろというご命令だと思っております。片目は完全に見えませんが、まだ片目が残っています。これが見えなくなるまで、精一杯仕事をします」。 70歳、板画と肉筆画を融合させていく。 1975年72歳で永眠。、自ら“板極道”を名乗った男は、「自分が死んだら、白い花一輪とベートーヴェンの第九を聞かせて欲しい。他には何もなくていい」という遺言を残した。 墓は青森三内霊園にある。棟方は死を予感したのか、亡くなる前年に自分の墓の原図を描いていた。忠実に作られたその墓は、なんと敬愛するゴッホの墓と全く同じ大きさ、デザインのものだった!前面には『棟方志功 チヤ』と夫婦の名を刻み、没年には永遠に生き続けるという意味を込めて「∞」(無限大)と彫り込まれていた。※墓の背後には「驚異モ/歓喜モ/マシテ悲愛ヲ/盡(ツク)シ得ス」《不盡(ふじん)の柵》と彫ったブロンズ板がはめ込まれている。 最後に彼が板画について残した言葉を記そう。 「愛シテモ、アイシキレナイ。 驚イテモ、オドロキキレナイ。 歓ンデモ、ヨロコビキレナイ。 悲シンデモ、カナシミキレナイ。 ソレガ板画デス。」 僕が棟方のとりこになってる理由を、少しでも伝えることができただろうか?あと、詩と画との合体の妙も楽しんで欲しい。画の背後に彫られた詩が、これまた良い味を出しているのだ!どうかぜひ、明日にでも本屋で彼の作品集を手にとって、あのパワフルな情熱を体験して欲しい! ※毎年9月13日の命日には、第九が流れる中で「志功忌」が開かれる。棟方が好んだ第九はコンヴィッツニー指揮、ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団のもの。 |
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| 『歓喜自板像の柵』 57歳 |
| 大好きな先人たちに囲まれ、酒を酌み交わしている幸福感いっぱいのセルフ・ポートレート。左上は「エヲカキニデル」 ゴッホ、中央の石塔は尊敬する民芸学者・柳宋悦の象徴(柳の字が見える)、右上は「ヨロコビノウタ」ベートーヴェンを 讃える言葉、茶碗は陶芸家の河井寛次郎の象徴、そして中央に酔っ払って幸せそうに寝転ぶ自分自身。さらに棟方の 右手には愛するチヤ夫人の白く美しい手が繋がれている。なんて幸せな作品なんだ〜ッ! |
| 「わだばゴッホになる」 草野心平 鍛冶屋の息子は。 相槌の火花を散らしながら。 わだばゴッホになる。 裁判所の給仕をやり。 貉(むじな)の仲間と徒党を組んで。 わだばゴッホになる。 とわめいた。 ゴッホにならうとして上京した貧乏青年はしかし。 ゴッホにはならずに。 世界の。 Munakataになった。 古稀の彼は。 つないだ和紙で鉢巻きをし。 板にすれすれ獨眼の。 そして近視の眼鏡をぎらつかせ。 彫る。 棟方志昴を彫りつける。※原文のまま |
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| 国道35号線。この道の先にアマウォークが ある。ダンプが猛スピードで突っ切っていく。 |
『アマウォーク』と大きく書いた紙を掲げ、 ドライバーに熱い視線を送る。15分経過。 |
全く車が止まらないのは、帽子で目が隠 れて、警戒されてるのかもと、帽子を脱ぐ。 30分経過。 |
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| 45分経過。次第に泣きが入ってくる。 | そして1時間が経ち、ついに号泣。無念だが、 キャパの墓参は作戦練り直しとなった。 |
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| マンハッタンから2時間。懐かしのカトナー駅。 この無人駅から戦いは始まる。新たな作戦は “往復8時間歩きまくれ”作戦であった!! |
前回はサンダルだったが今回はスニーカー。しかも 車にはねられないよう、目立つ黄色のTシャツを 着用!気合十分、曇り空で涼しく気候も味方した。 |
ビュンビュン車が飛ばしてるんだけど、歩行スペース はわずかに10cmほど。めっちゃ怖かった! |
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| 杖をゲット!しかし、トレッキングをしてると思わ れ、ますますどの車も止まってくれなくなった。 |
山越え。右に『鹿とび出し注意』の看板が。 |
以前にテレビで「杖は1本より2本の方が 飛躍的に楽になる」と言ってたのを思い出し、 スキーヤーのような2本体制に。すると、ホント に嘘みたいに歩くのが楽になった! |
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| あの遠くに見える緑の看板はもしや…! |
嗚呼!ここは夢にまで見たアマウォーク! |
とにかく田舎!ここが村のメインストリートだ。写真 中央の犬はどこかの番犬で、狂ったように吠えなが ら向ってきた。こっちは4時間も歩いて思うように動け ず、この場でバトルに突入。2本の杖で追い払ったが マジでビビッた。誰もいないんだもの!涙チョチョ切れ。 |
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| ネットで調べた墓地の名前と違うんだけど、 アマウォークを端から端まで歩いてもここしか 墓地はなく、キャパが確実にここにいるという 確証がないまま墓地に入っていった。 |
最初に管理人事務所を訪れたんだけど無人だった! っていうか何年も使われた形跡が建物になかった。 ガーン。小さな村のわりに墓地の面積は広く、 しかも丘の上なので登り下りが大変だったが、 ともかくひとつひとつの墓を調べていった。 |
いくら探せどキャパは見つからない。帰り道も 4時間歩くとなると、山越え中に日が暮れると 危険なので、そうそう長くこの墓地で探しても いられない。ここまできてキャパに会えずに 帰るなんて…思わず涙が頬をつたった。 |
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| この時、墓地には村人が一人だけいた。ダイアン さんという50代後半のオバサンだ。彼女は杖を 2本つきながらズタボロでキャパの墓を尋ねる アジア人に、最初はひきまくっていた(キャパを 知らなかった!)。でも、キャパがヒューマニスト であったことや、その彼にお礼を言う為に日本か ら来て、朝から4時間歩いて来た事を説明すると 、ダイアンさんは大ハッスル。「家に帰って村一番 の物知りのお婆ちゃんに電話で墓の場所を訊い てあげる」といい、ぼくに空のペットボトルを渡し、「ポンプで水を汲んで、しばらく休憩してなさい」 と言い残して車で去って行った。 |
しばらくして一台の大きなワゴン車がやって きた。運転していたのはお婆ちゃん!この人が 村の生き字引なのか!「キャパはこの墓地に 眠っているのですか!?」「まあ、ついてらっし ゃい」お婆さんはキャパの元へ案内してくれた! |
これは分からない!墓地の隅の小さな2つ の墓石がキャパだった!まるで俗世間から 隠れるように、ひっそりと眠っていた!! |
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| 世界を震撼させた代表作『崩れ落ちる兵士』 「戦争写真家の切なる願いは”失業”だ」(キャパ) |
“ちょっとピンボケ”に。キャパへのオマージュ! |
興奮しすぎて声が裏返ったダイアンさん。 |
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| ダイアンは鉄道にアクセスしている路線バスが通って いるヨークタウンまで、車で送ってくれた。ううっ、本当に ありがとうダイアン!なんて良い人だったんだ。ジーン。 |
バスの時刻表を見て絶句。「うげっ!たった の8本しかない!」1時間ちょい待った。 |
良かった!本当に来た!(バスを利用しても 鉄道駅に着くまで1時間半かかった。遠い!) |
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| 今回はレンタカーを利用ッ!超らく!スイスイ巡礼できたー! |
6年ぶりの再会!キャパはハンガリー人(ブダペスト 生まれ)なので、墓前にハンガリーの国旗があった |
前回にはなかった長椅子があり、 墓も2基から4基に増えていた |
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| 手前の墓は08年に他界した弟コーネル・キャパ。彼も 写真家で1974年にICP(国際写真センター)を創設した |
「心から尊敬していますーッ!」 感涙むせぶリスペクトの土下座! |


| 棟方志功の墓参の為に訪れた青森の三内霊園で、管理人事務所にあった墓マップを見て腰を抜かした。ベトナム戦争の最前線に立って悲惨な「現実」を撮り続け、執念で戦争を“告発”し続けた戦場カメラマン・沢田教一の墓があるではないかッ!「おい、平和が来たら俺は人間と人間の殺し合いではなく、南ベトナムから北ベトナムまで、美しい田園風景をとことん撮りまくるぞ」彼が同僚に語ったこの夢は、取材中に狙撃され34歳で死んでしまった為に、ついに果たせなかった。墓は霊園事務所の近くにあり、多くの人が訪れているのだろうか、美しい花が咲き乱れていた。 ※沢田と寺山修司は高校の同級生。 |
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| 2002 | 2009 | カメラのフィルムが供えられてた |
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| 左の円形部分がレイ、右側は 15年後に他界した夫人の墓碑 |
夫人には“TOGETHER AGAIN(再び 一緒に)”の文字が…感動! |
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| 赤樂茶碗 銘『夕暮』 | 黒樂茶碗 銘『俊寛』 | 赤樂茶碗 銘『道成寺』※釣鐘型! |
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| 左から、宗入、道入、長次郎、常慶、一入。 中央の長次郎だけひとまわり大きい! |
ズラリと並んだ樂家代々の墓。壮観ッ! 全部で17基あった。 |
キューン!墓はこんなに ちっちゃい(十六茶を持参) |
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| 5年ぶりに再訪!(2008) | 墓前の小さな卒塔婆(札)には当代の「楽吉左衛門」の文字があった! | |
| 楽焼(らくやき)の始祖。楽焼は茶の湯の世界で「一楽、二萩、三唐津」と萩焼や唐津焼を抑えて最高度の評価を受けている。朝鮮半島の帰化人の子として生まれ、信長、秀吉に仕えた。姓となった“樂”は、桃山を代表する名建築で秀吉の邸宅だった「聚楽第(じゅらくだい)」に由来しており、当初の楽焼が「聚楽焼」と呼ばれたのはそのためだ。長次郎は秀吉から楽の金印を賜ったという。
陶工・長次郎の人生を変えたのは、茶の湯に侘(わ)びを求めた利休との出会い。「表面の形式より精神を重んじるべし」という利休の思想に深く共鳴した彼は、人間としての成長を茶の湯に求めた利休哲学を完璧に造形化し、黒色赤色の2種の楽茶碗を50代に生み出した。 軟質陶器の楽焼で使用される土は80年以上も寝かされた(乾燥した)特別な土。その粒が細かくなった土を使って、急熱急冷で焼く。この焼き方の陶器は熱の伝わり方が遅く、手を湯の熱さから守ると同時にお茶が冷めにくい。 樂焼はその性格上、華美な装飾を嫌い、渋みと重厚さを重んじるけど、ロクロを使わない手びねりという製法が、シルエットをえも言われぬ優しいものにしている。手に取ればとても軽く、厳粛なたたずまいの内にも、両手の中で陽だまりの土のぬくもりを感じさせる。 一般の工房では制作コストを下げる為に一度に数百個を焼くのが普通だけど、長次郎は巨大な窯(かま)による大量生産に背を向け、ひとつの窯で焼く茶碗は一品のみという「一碗一窯」のポリシーを貫いた。このこだわりが、気迫のこもった多くの傑作を誕生させた。花瓶やお皿、壺は造らず、ひたすらストイックに利休の求める茶碗を生み続けた長次郎は、「単なる食事の為の器」ではなく、「茶の湯の為の芸術作品」という新たな陶芸世界を作り上げたんだ! 長次郎から400年を経た現在の樂家は15代目。ここまで長い歴史を持つ陶芸一家は他に存在しない。歴代の樂家は、初代長次郎、2代常慶(じょうけい)、3代道入(俗称のんこう、初代に次ぐ名匠)、4代一入(いちにゅう)、5代宗入、6代左入、7代長入、8代得入、9代了入、10代旦入、11代慶入、12代弘入、13代惺入、14代覚入、15代(当代)吉左衛門。樂家では代を子どもに譲るまでは吉左衛門を名乗る。また、樂家は精神&技術の停滞を避ける為に、親子間でも技を伝えないという。歴代の樂家は、各々が生きた時代の中で真摯に世界と向き合い、独自の美意識を追求してきたんだッ! 僕が好きな長次郎の5大作品は、グラデーションの美しい赤樂茶碗・銘『夕暮』、深い精神性をたたえた漆黒の黒樂茶碗・銘『俊寛』、伏せると釣鐘のような赤樂茶碗・銘『道成寺』、上部が四角形、下部が円形という、遊び心が楽しい黒樂茶碗・銘『ムキ栗』、柔らかな曲線が見ているだけで穏やかな気持ちになる赤筒(あかつつ)樂茶碗・銘『白鷺』。 ※楽家直系を本窯、直系以外で楽焼の製法をマスターした本阿弥光悦などは脇窯、別窯という。 ※京都にある樂美術館では毎月第一土曜、日曜日に、歴代当主の作品を直接手に取って鑑賞出来る「樂茶碗観賞会」が開催されている。学芸員の解説付きなので初心者にはとても勉強になります。本物の茶会のように温めた状態で鑑賞させてくれる配慮も嬉しい。 |
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| 『色絵梅花図平水指』(重文) | 『色絵鱗波文(いろえうろこなみもん)茶碗』 | 『色絵七宝繋文茶碗』 |
| 梅の老樹を側面にドーンと描き、紅梅の部分 部分に金・銀の花を混ぜて変化を与えている |
能装束のような絵柄が描かれた、雅の極みのような茶碗ッ! |
このモダンなデザイン・センス! |
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| 『色絵牡丹文(もん)水指』 | 『色絵月梅図茶壺』(重文) | 『吉野山図茶壺』(重文) | 『色絵藤花紋茶壺』(国宝) |
| 窓絵の構図が斬新!牡丹も見事 |
まろやかな曲線ラインにウットリ | 金銀の桜が咲き乱れる吉野の山々 | 仁清の色絵陶器はホント美しい! |
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| 『色絵雉(きじ) 香炉』(国宝) |
| キジはそれぞれ上下に分かれ、中にお香を入れて炊く。煙は背中の穴から 出てくる。雄(右)が国宝、雌(左)は重文。両方とも国宝でいーじゃん! |
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| 墓地入口の門。付近に全く人気(ひとけ)なし | この画面中央のちっこいのが仁清。小さすぎッ! | ポツ〜ン |
| 江戸前期の京焼の名手。卓越したデザイン・センスを持ち、神のような手で優美な作品世界を作り上げた。丹波国野々村の出身。通称野々村清右衛門。12歳頃からロクロを回し始め、茶の湯ブームに湧き立つ京に出る。東山の粟田口(あわたぐち)で腕を磨いた後、より高度な技を求めて高級茶碗の産地瀬戸(愛知)に移り住み、さらに修業を積んだ。都に戻った仁清は、唐物や高麗など海外の優れた陶器の“写しもの”(レプリカ)を制作していたが、宮中へ出入りしていた茶人・金森宗和と出会い、洗練された宮廷文化と、その美意識に新たに触れる。宗和のアドバイスで仁清の優雅な作風が形作られていった。 1647年(34歳)頃、京都洛北の御室(おむろ)・仁和寺門前に窯を開く。この当時、素地の陶器は吸水性が高くて色彩を施すのは困難と言われていたが、仁清は苦心して半透明で柔らかな肌合いの釉薬(ゆうやく、うわ薬)を調合し、この「仁清釉」をかけて下地を作り、そこに鮮やかな色をのせていった。仁清は1世紀前の桃山時代に利休&長次郎が確立した、「侘びさび」の渋い陶器と全く異なる、華麗できらびやかに彩色された王朝風の色絵陶器を生み出した!これらは「綺麗さび」と呼ばれ、どれも作品世界は非常に明るい。仁清は本来生活道具としての実用的な陶器を、眺めて楽しむ陶器へと画期的に変えた。 開窯から10年を経た頃に色絵陶器の技術を完成させた彼は、仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」をあわせて「仁清」と名乗り、全ての作品の底に「仁清」の印を押すようになる。約半世紀前に本阿弥光悦が日本で最初に自分の名を“茶碗の箱”に記したが、仁清は初めて名前を“直接作品に”刻んだ陶芸家となった(今、陶器の底に作者の印があるのは仁清が始めたから)。 仁清はまた、色絵だけでなくロクロの技術も天才的で、高さ40cm近くの大型陶器でも均一の厚さでつくり上げた。そして最も驚異的なのはその薄さ!仁清は従来の厚手の陶器とは異なる、誰も真似できないような極限まで薄手の陶器を成形した。だから大ぶりの茶壷でも非常に軽い。薄さは繊細な印象を与え、まろやかな曲線ラインが見る者の心を溶けさせる。 一大ブームとなった彼の色絵陶器は「仁清手」(にんせいで)と呼ばれ、その結果、“写しもの”が中心だった京都の各窯は、優雅な色彩の色絵陶器(現在「古清水」と総称されている)が主流になったのみならず、他の産地の作風にまで影響を与えた。 金銀を巧みに使い、ゴージャスなのに派手に走らず、あくまでも上品で雅(みやび)な茶碗や茶壺。仁清の印が押された陶器はどれも、諸大名や貴族、豪商たちにとって、垂涎の名品となった。 ※優雅さや艶やかさが特徴にあげられる仁清だが、作品からはにじみ出てくる優しさがあることも付け加えておく。 仁清が眠る妙光寺は村上天皇陵の隣にある。この寺は南北朝時代に、後醍醐天皇が三種の神器を持って隠れ住んだほど歴史のある名刹だが、現住職が来るまでは、長い間無人の荒れ寺だったという。実際、僕が2002年に訪れた時は、山門に寺の名前も掲げられてなかった(住職さんはご自分で畑を耕して糧としておられるとのこと)。山門を自分で開けて本堂に向かうと、境内右奥の竹やぶに沿った道の先に朱塗りの門がある。そこを入って道なリに進んでいくと、どん突きにこじんまりとした墓地がある。仁清の墓は奥の方だが「仁清墓」の立札があるので分かりやすい。彼の墓石は驚くほど小さく、膝ほどの高さしかなかった。仁清は時代の寵児になったにもかかわらず、晩年の様子も、没年もハッキリ分かっていない。文字通り彗星のように現れ、珠玉の作品を残して消えていった。 ※現存する仁清の作品のうち、2点が国宝に、16点が重文になっている。 ※従来は無地の茶壺に銘(名前)を付けて膨らんだイメージを楽しんだが、仁清は意欲的に美しい絵をどんどん描き付け、新たな楽しみ方を示した。芸術家として過去の真似ばかりしてられないという自負心か。 ※43歳頃に宗和が没してからは、よりカラフルな色絵(赤絵)が中心になっていく。 ※尾形乾山も金森宗和の弟子であり、仁清の後を継ぐ形で、御室で作陶した。仁清の息子は後に乾山の養子となり、二代目尾形乾山と称した。 |
| 京都生まれ。工芸家、書家、陶芸家、画家、出版者、作庭師、能面打ち、様々な顔を持つマルチ・アーティスト。優れたデザイン・センスを持ち、すべてのジャンルに名品を残した日本のダ・ビンチ。特に書の世界では近衛信尹、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」の1人に数えられ、光悦流の祖となった。 生家の本阿弥家は京の上層町衆。足利尊氏の時代から刀剣を鑑定してきた名家だ(主なパトロンは加賀の前田利家)。刀剣は鞘(さや)や鍔(つば)など刀身以外の製作工程に、木工、金工、漆工、皮細工、蒔絵、染織、螺鈿(貝細工)など、様々な工芸技術が注ぎ込まれており、光悦は幼い時から家業を通して、あらゆる工芸に対する高い見識眼を育んでいった。その後、父が分家となり家業から自由になった光悦は、身につけた工芸知識を元に、好きで勉強していた和歌や書の教養を反映した芸術作品を創造するようになった。 やがて40代に入った光悦は、才能があるのに世に出る機会に恵まれない1人の若手絵師、俵屋宗達と出会う。1602年(44歳)、光悦は厳島神社の寺宝『平家納経』の修理にあたって宗達をチームに加え、彼が存分に実力を発揮できる晴れの舞台を提供した。宗達は見事期待に応え、この後『風神雷神図屏風』など次々と傑作を生み、30年後には朝廷から一流のお墨付き(法橋)を授かるほど成長した。 ※後年、宗達は若い頃を「光悦翁と出会わなければ、私の人生は無駄なものに終わっていただろう」と回想している。 |
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| 『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』(重文)※これはほんの一部です |
| そして50代になった光悦は俵屋宗達との“合作”に取り組み始めた。天才と天才の共同制作。それが『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』だ。光悦は時の将軍徳川家光に「天下の重宝」と言わしめた書の達人。彼は三十六歌仙の和歌を、宗達の絵の上に書こうというのだ。この大胆な提案を引き受けた宗達は、目を見張るほど無数の鶴を、約15mにわたって筆先で飛ばせ、これを華麗に対岸に着地させた。宗達からの“挑戦状”(下絵)を受け取った光悦は、どこに文字を置けば最高度に栄えるのか、最適の文字の大きさはどうなのか、書が絵を活かし、絵もまた書を活かす、これしかないという新しい書を探求した。そして!後に「光悦流」と呼ばれる、従来の常識を打ち破った、極限まで装飾化した文字がほとばしった!光悦の筆から生まれた文字は、時に太く、時に細く、ここでは大きく、そこでは小さく、あたかも音楽を奏でる如く、弾み、休み、また流れていった。文字を超えて絵画となった新しい「書」だった。型破りな2人の天才のセッションが完璧に調和したのだ。 |
| 1615年、大坂夏の陣の後、光悦の茶の湯の師・古田織部が豊臣方に通じていたとして自害させられる。そして57歳にして光悦の人生に大きな転機が訪れた。徳川家康から京都の西北、鷹ヶ峰に約9万坪の広大な土地を与えられたのだ。師の織部に連座して都の郊外へ追い出されたとする説もあるが、いずれにせよ光悦は俗世や権力から離れて芸術に集中できる空間が手に入ったと、この事態を前向きに受け止め、新天地に芸術家を集めて理想郷とも言える芸術村を築きあげようとした。以後、亡くなるまで20年強この地で創作三昧の日々を送る。 光悦の呼びかけに応えて、多くの金工、陶工、蒔絵師、画家、そして創作活動を支える筆屋、紙屋、織物屋らが結集し、彼はこの「光悦村」の経営と指導に当たった。文字通り、日本最初のアート・ディレクターだ。有志の中には尾形光琳の祖父もいた。風流をたしなむ豪商も住み、村には56もの家屋敷が軒を連ねていたという。光悦の友人は、武士、公家、僧など広範で、宮本武蔵も吉岡一門との決闘前に光悦村に滞在している。 茶の湯も大いに賑わい、それに関連して光悦は今まで以上に熱く陶芸(茶碗づくり)に力を入れてゆく。 |
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| 赤樂茶碗 通称『加賀光悦』 | 国宝の『不二山』 | 黒樂茶碗 銘『雨雲』 |
| 紅蓮の炎! | 雪を戴く富士! | 雨雲から降り注ぐ! |
| 作陶は楽焼の2代常慶、3代道入から指導を受け、ロクロを使用せず手とヘラで整えた手びねりで制作した。本職の陶芸家ではなく外野から参加している分、自由な発想で個性あふれる茶碗を生み出した。革命的だったのは、光悦が茶碗の箱に自分の署名を入れたことだ!制作者が名を刻んだのは日本陶芸史上初めてのことだった。それまでは陶芸家でさえハッキリと茶碗を芸術作品とは認識していなかったのを、光悦が名前を入れたことで、茶碗を通して作者の自我を主張できるようになったんだ。現在国産の焼き物で国宝に指定されているのは2つだけ。その1つが光悦の銘『不二山』だ。雪を冠した富士のような景色からこの名が付いた。他にも『雨雲』『雪峰』『時雨』『加賀光悦』などの傑作茶碗を後世に残した。 | ||
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| 『船橋蒔絵(まきえ)硯(すずり)箱』(国宝) |
| 硯箱の表面に書かれた文字は『後撰和歌集』の源等(みなもとのひとし)の歌「東路(あづまぢ)の佐野の船橋かけてのみ 思ひ渡るを知る人のなき」“東国佐野に長い舟橋(舟と舟に架かる橋)が架かっているように、あなたをずっと想い続けているのにちっとも気づいて下さらない”。ただし遊び心でわざと「東路乃 さ乃ゝ“ ”かけて」と、途中の「舟橋」の言葉が抜かれている。そのかわりに舟橋そのものを箱に描いている心憎い演出だ。下地に波を描き、そこへ並んだ小舟を彫り、その上に鉛の板を橋に見立てて配置している。丸々と盛り上がった蓋のデザインも斬新だ。古典文学と硯箱のコラボに光悦の“キマッタ!”という満足気な顔が見えそうな逸品だ。 |
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| 日本のダ・ビンチ、光悦の墓 | 色紙帖『薄(すすき)に月図』 | 『山姥』 |
| 洛北の鷹ヶ峰は静かで落ち着く良い場所だ。芸術村に あった彼の屋敷の跡が、そのまま光悦寺になっている。 美しい庭の外れに眠っていた。※千葉県市川に分骨あり |
これも光悦筆・宗達画のコラボ。半月は銀色 だったのが、今は酸化して黒ずんで残念。 当初は手前のススキが浮かびあがっていた |
能面も打った! |
| 光悦は平安朝から続く伝統文化を深く愛し、それをベースに様々な創意工夫を加えて新しく甦らせた。従来の蒔絵(まきえ、漆を塗って金銀粉を蒔いたもの)についても、見た物をそっくりに描いて「ハイ、おしまい」ではなく、対象となった物をデザイン化して再構成したり、文字を絵の一部として装飾化して加えるなど、変幻自在にスタイルをかえた。その斬新な造形感覚は他に比類のない独自のもので、屏風、掛軸、うちわ、本の表紙など各種生活実用品まで多岐にわたって創作の対象とした。装飾を凝らした日用品を創ることで、光悦は美術品を観賞用ではなく、生活道具の一部として暮らしに密着させようとした。光悦村が美術史の中で日本のルネサンス(文芸復興)の地と呼ばれる由縁だ。そして特筆したいのは、そこに軽妙な遊び心があったこと。この明るさがまた人々を惹きつけた。 光悦は宗達と共に琳派の創始者となり、その精神は半世紀後に尾形光琳に受け継がれていく。光悦が日本文化に与えた影響は計り知れない。享年79歳。 ※光悦は名器(瀬戸の茶入れ)の購入の際、相手が値引きしようとしたのを断って、あえて言い値で買い取ったという。芸術家として、鑑定家として、自分がその価格に見合う真に価値ある作品だと思えば、それを値切ることは作者への冒涜だと思ったのかもしれない。 ※本阿弥家は法華経の有力信徒。光悦村そのものが法華経信徒の牙城となった。 ※1604年(46歳)から2年をかけ光悦の書を版下にした『方丈記』『徒然草』『伊勢物語』などが出版された(嵯峨本と呼ばれる)。 |
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| 【おまけ】“弘法も筆の誤り”というが光悦も間違うことがある。冒頭の『鶴下絵』をよく見ると、宗達の絵に 見とれ過ぎたのか、柿本人丸(麻呂)と書くべきところを、“柿本丸”と書いてしまった。墨なので 消すわけにもいかず、“柿本丸”の隣に申し訳なさそうに薄く“人”と付け加えられている。かわいい! |
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![]() さび絵滝山水図茶碗 |
| 幼名権平、本名深省。京焼きの名手。京都の高級呉服商の家に生まれる。天才絵師・尾形光琳は5歳年上の兄。派手好きで女性関係も賑やかだった光琳に対し、弟の乾山は物静かで読書が趣味。隠遁を好み生涯独身だった。キャラが正反対の兄弟だが、終生支えあい仲が良かった。1687年、24歳の時に父が他界し、息子たちは莫大な遺産を継いだが、光琳の経済観念はゼロ。みるみる資産は減少していく。しかも1693年(30歳)には金を貸していた大名に債権を踏み倒され回収不能になり、光琳は弟に金を借りに来る始末。「兄上は根本的に生き方を変えないと、このままでは兄上の為にもならない」と乾山は手紙をしたため、自身はそれまで趣味で習っていた陶器づくりを商売とする為に、本腰を入れて野々村仁清に陶法を学び、1699年(33歳)、仁和寺近くの鳴滝に自分の窯を構えた。そこが京都の乾(いぬい、西北)の方角になることから乾山の号を名乗った。弟が自立した姿を見て兄の光琳も絵筆で立つ決心をし、2年後に作品を発表し始めた。 1712年(49歳)、窯を開いて16年。郊外で焼いているだけでは生活が苦しくなり、焼き物店を出す為に街の中心へ居を移し、再出発を試みる。これに呼応するように数年前から江戸に出ていた光琳が戻って来て、乾山の作品に名声のある光琳が絵付けをするようになった。ここに兄弟合作、黄金タッグによる多数の傑作が誕生した!今度は兄が弟を手助けしたんだ。描かれた絵は、笑顔の七福神など楽しげで微笑ましいものが多い。乾山は兄の死後も30年近く生き、70歳頃から江戸に上がって筆を握り、文人趣味の優れた書画などを残した。 ※二代目尾形乾山…野々村仁清の息子が初代乾山の養子となり二代目を名乗る。乾山の名はその後も受け継がれ、現在は8代目乾山(山本如仙)を数えている。
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| 国宝の名刀“相州正宗” |

| 【豆知識】現在の銃砲刀剣登録規則…刃渡り60cm以上が太刀(刀)、30cm以上60cm未満を脇指、30cm以下ものを短刀と呼ぶ。 |


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| エッフェル家の廟(2002) | いつまで見ていても見飽きない美しさ(2009) |

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| 「史蹟 左甚五郎利勝墓所」 高松市内の地蔵寺から道路拡張で四国村に移設された |
墓石の側面に「初代左甚五郎利勝」とある |
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「甚五郎の彫った鯉が泳いだ」「鶴が飛ぶので足に鎖をした」「竹の水仙を水にいけると花が開いた」など、その天才ぶりを伝える逸話が各地に残る。播州明石出身。子供時代に父をなくし、飛騨高山の伯父宅に身を寄せる。13歳で京都伏見禁裏大工棟梁・遊左与平次に弟子入り。1619年(25歳)、江戸に上ってさらに腕を磨き、堂宮大工棟梁として名を馳せる。ところが江戸城改築に関わったところ、西の丸地下道の秘密保持のために口封じで殺されそうになる。甚五郎は刺客を返り討ちにしたが、1634年(40歳)、ツテを頼って讃岐高松藩主・生駒高俊のもとに逃れた。1640年(46歳)、京都にて禁裏大工棟梁を拝命、芸術家として最高栄誉となる官位“法橋”を朝廷から受ける。2年後に高松藩の大工棟梁となり1651年に他界。享年57歳。“左”の由来は、嫉妬した大工に右腕を斬られた説、左利き説、“飛騨の甚五郎”が訛った説など色々ある。
【伝・左甚五郎の作品】
日光東照宮の眠り猫(栃木県日光市) 上野寛永寺の竜(東京都台東区) 秩父神社の“つなぎの龍”(埼玉県秩父市) 妻沼聖天山・歓喜院(埼玉県熊谷市) 国昌寺(さいたま市緑区大字大崎) 安楽寺(埼玉県比企郡吉見町) 淨照寺(山梨県大月市) 誠照寺の山門、駆け出しの竜、蛙股の唐獅子(福井県鯖江市) 鯉山の鯉(京都・祇園祭) 北野天満宮の透彫(すかしぼり)(京都市) 豊国神社の竜の彫り物(京都市)
石清水八幡宮(京都府八幡市)
成相寺(京都府宮津市) 圓教寺の力士像(兵庫県姫路市)
加太春日神社(和歌山県和歌山市加太) 出雲大社の八足門、蛙股の瑞獣、流水紋(島根県出雲市)
※変わったところでは京都・知恩院の御影堂天井に甚五郎が置き忘れた「忘れ傘」というのもある。 |
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| 一両編成のかわいい長良川鉄道 | 『円空入定塚』。死期を悟りここで自ら土中に入った | 即神仏となった塚の前には美しい長良川 |
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| 12万体も仏像を 彫りまくった |
この山中に円空の墓が…! |
お菓子のカールのように曲がったお墓! 円空らしい素朴でユーモラスな墓だ |
“円空上人”と読める (すごい蚊だった) |
| 江戸時代前期の天台宗の僧。岐阜県生まれ。奈良の大峯山(おおみねさん)で修行した後、生涯に12万体の仏像を彫るという大願を立て、各地を遍歴しながら仏像を彫り上げていった(青森にまで足跡がある)。仏像を通して民衆を救済した“今釈迦”。個性豊かで鋭さの中にもユーモアがある独自の造形は「円空仏」と呼ばれ、数千体の木彫り(一刀彫)の作品が見つかっている。円空は仏像を彫った時に出た木の破片(削りカス)からも、さらに小さな仏像を彫った。岐阜県内だけで千体以上も残っている。手塚治虫の傑作『火の鳥・鳳凰編』のモデル。 |
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| 伊賀水指 銘「慾袋」 でっぷり感が“慾”袋(笑) |
半泥子のひょうひょうとした 作風を多くの人が愛した |
志野茶碗 銘「赤不動」 すごい迫力! |
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| 川喜田家は地元の名士。一族の墓所の 向って右端から3番目が半泥子の墓 |
遺言通り半泥子の骨は母がわりの祖母と同じ墓に納められた。 死後50年も経ってないのに江戸時代の墓並に古くて驚いた! |
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| 「東の魯山人、西の半泥子」と称された川喜田半泥子。生家は伊勢の豪商・川喜田久太夫家。創業が寛永年間の木綿問屋で半泥子は16代にあたる。本名、川喜田久太夫政令(まさのり)。生まれてすぐに両親と別れ1歳で家督を継ぐ。祖母が母代わりに半泥子を育て上げた。百五銀行の頭取、三重県議会議員など要職を歴任する一方で、陶芸、書画、俳句など茶文化に通じた文化人。才能のある陶芸家を経済的に支援しながら、本阿弥光悦や尾形乾山など桃山陶芸をリスペクトするあまり、1933年(55歳)に自分の窯を築き生涯に3万5千個以上を焼き上げた。 半泥子は“趣味の道楽焼き”を自認しており、師匠もおらず、号も半泥子の他に「莫加野廬(やろう)」「鳴穂堂主人」「無茶法師」「反古(ほご)大尽」など奇天烈なものを使った。※半泥子の意味は「半ば泥みて半ば泥まず」。何事もほどほどに、ということ。 作品に付けた銘も「昔なじみ」「おらが秋」「ねこなんちゅう」「すず虫」「むかし話」など実に楽しい。美濃、楽、志野、織部、萩、なんでもありの、“素人”ならではの枠に囚われない大胆かつ自由奔放な作風が多くの人を魅了している。そのおおらかさに癒されるのだ。 ※戒名は『仙鶴院半泥自在居士』。この“自在”という言葉が半泥子らしくていいね! ※半泥子の肩書きを陶芸家と書いたけど、それが本職というわけじゃないので広い意味での芸術家が正しいデス。っていうか、半泥子は生前に茶碗をひとつも売ったことがなく、人にあげたり普通に自分の茶会で使っていた。 |
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| 多くの名庭を設計した名僧 | 美しい西芳寺の苔庭(画像元・ウィキペディア) |
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| 疎石が開いた臨川寺に眠る(写真のお廟の地下)。非公開だけど腰をかがめると格子の間から墓石っぽいのが見えた |
| 室町前期に活躍した臨済宗の名僧で、禅精神を現した庭の設計にも天才的な才能を発揮した。西芳寺(苔寺)と天龍寺庭園はその代表的名庭。道号が夢窓、法諱が疎石。三重県生まれ。1283年、8歳で山梨・平塩山寺に出家。18歳で東大寺にて受戒するも進路に迷い道場で瞑想。その際夢の中で見知らぬ老人に疎山と石頭の両寺へ案内され、禅宗の開祖・達磨大師の画を授けられたことから禅宗に進む。京都建仁寺、鎌倉の円覚寺、建長寺、万寿寺など名刹で学び、1305年(30歳)、浄智寺で印可(いんか、悟りの証明書)を授かる。これを受け、かつて夢に登場した寺から1字ずつとり疎石と名乗った。しかし、仲間の僧から印可を嫉妬され師に悪口を吹き込まれたことから名声争いに嫌気がさし、幕府のお膝元・鎌倉を離れて、美濃、土佐、相模、上総など各地の庵に隠居し、若い僧たちの指導に務めた。 だが、世の中と距離を置こうとするほど逆に“地位を求めぬ名僧”と噂になり、1325年(50歳)には、とうとう後醍醐天皇から懇請を受けて京都・南禅寺住職となる。54歳、鎌倉幕府第14代執権・法条高時の依頼で円覚寺住職となり禅を教え、翌年に甲斐で恵林寺(後の武田家の菩提寺)を開く。1333年(58歳)の鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇の招きで上洛し、60歳で嵯峨・臨川寺(りんせんじ)の初代住職となった。疎石は教育者としても大いに人望を集め、この臨川寺は京都を代表する五山派中の最大門派となった。南北朝の戦いを制した足利尊氏もまた疎石を尊敬していたため、室町幕府が開かれた後も足利家の内紛調停に一役かった。尊氏は疎石の薦めで後醍醐天皇を弔う天龍寺や、戦死者を慰霊する為の安国寺を建立。疎石は各地の禅寺に名庭を残し76歳で人生を終えた。7人の天皇から国師号(朝廷が高僧に贈った称号)を授かり夢窓国師とも呼ばれる。 ※甥の春屋妙葩(みょうは)は京都相国寺を開創。 |
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| 中央の大きな木の下、壁沿いに眠る | 墓碑銘 | この壁の下の花が彼の墓 |
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| “森の墓地”は墓地の暗さはゼロ! | アスプルンドの墓の側の大きな十字架 | 世界遺産指定!“調和”という言葉しか見つからない |
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| “大人の事情”でボカシます |

| 美しく機能美を備えた“北欧デザイン”で世に知られた、フィンランドを代表する建築家&デザイナー。冷たいイメージのあるモダニズム全盛の中で、木や曲線をデザインに取り入れた。彼のガラス器は“アールト・ベース”として、今も高い人気を持つ。 |
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| 宝飾デザイナーとして成功 |
この一角にティファニー家が全員集合! |
背後の墓は創業者の チャールズ・ルイス・ティファニー |

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| 優しさが溢れるカメラマンだった | 『楽園へのあゆみ』(1946) |
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| 墓参時に夕立があり、楽園へ歩んでいくようだった |
名前の他に「PHOTOJOURNALIST」 「LET TRUTH BE THE PREJUDICE」と刻まれていた |
“造花お断り”の看板。米国の墓地には プラスチックの花を禁じる墓地が多い |
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| 上から2段目がトーランド | 本の形をした骨壺がシブイ |
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