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| 厩戸皇子は実在した |
奈良県飛鳥の橘寺。ここで太子は産まれた |
「聖徳太子御誕生所」 |
右は「日本仏法最初」の大看板 奥に見える言葉は「和をもって 貴しと為す」。上は菊の紋章! |
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| こちらは太子町の御廟(1999) | 残念!藁葺き屋根の改修中だった(2005) |
本名、厩戸(うまやど)皇子。名前の由来は、厩(馬小屋)の前で産まれたからとの伝承もあるが、出生地の「厩戸」(明日香村・橘寺付近に昔あった地名)や蘇我氏興隆の地「馬屋戸」(奈良・御所市)からきているとする説が有力。一度に10人の話を聞き、各々に的確な答えを返したことから「豊聡耳」(とよとみみ)とも呼ばれた。 太子が生まれた古墳時代末期は、百済を通じて仏教が伝来(538年)してから約40年が経った頃。政局では仏教を崇拝する蘇我馬子と、日本古来の神道を信奉する物部守屋が激しく対立していた。国際派の馬子は「アジア各国が仏教を信奉しており、日本もこれを採り入れ世界の仲間入りをするべき」とし、守屋は「そんなことをすれば天照大神など日本の神々の怒りに触れる」という保守勢力の代表だった。太子のお婆ちゃんは父方が馬子の姉、母方が馬子の妹(皆父親が蘇我稲目)。蘇我氏の血をひく太子もまた少年期から仏教に傾倒していた(後の太子の妻は馬子の娘・刀自古)。馬子が百済から伝わった弥勒像を自邸に安置すると、10歳の太子が供養に訪れたという。 585年(11歳)、太子の父親・第31代用明天皇が即位したが、ほどなく父は病に臥した。父は天皇として初めて公に仏教に帰依する。587年、13歳で父は他界。馬子は先代の第30代敏達(びたつ)天皇の妃で太子の父の妹、額田部(ぬかたべ)皇女(後の推古天皇)を皇位継承者に推し、一方、物部守屋が敏達天皇の弟・穴穂部皇子を推した事で、ついに両者は戦場での直接対決となった。この戦乱では太子も蘇我軍として戦場に出る。当初、戦いは物部氏に有利に進んでいたが、太子が仏像を彫って四天王に勝利祈願したところ、自軍の矢が守屋に命中し形成が逆転、物部氏は滅亡した。 戦後、額田部皇女は弟の崇峻(すしゅん)天皇を即位させたが、崇峻天皇は馬子と仲違いして即位から5年目に暗殺された(この時代の天皇はホント命がけ)。これを受けて額田部皇女が初の女性天皇として即位し、推古天皇となった(592年)。翌年、推古の甥っ子で皇太子の聖徳太子が、19歳で摂政となり天皇の補佐に当たった。太子は就任直後に、四天王へかつての戦の感謝を込めて日本最古の官寺(国の寺)・四天王寺を建立する。 この593年の摂政就任の4年前に、大陸には約370年ぶりの統一王朝・超大国『隋』が誕生しており、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が覇権を競っていた。日本は100年以上も中国と公式に交流を持っておらず、大陸の情報が極端に不足していた。太子は渡来した高僧から隋が高度な文明社会を築いていることを聞かされる。隋には法律と官僚制による優れた行政システムがあり、政治に儒教を導入して役人に道徳を重んじさせ、首都長安では仏教芸術が花開いていた。当時の日本は大豪族が一族の利益を求めて互いに争い、民衆の暮らしは常に困窮しており、あまりに政治制度が立ち遅れていた。太子は先進国の隋と国交を結ぶことで、最先端の文化・技術を採り入れると共に、交流を通して日本の国際的地位を向上させようと思った。馬子も太子と同じ考えであり、両者は協力して改革に取り組む。 596年(22歳)、まずは国内初の本格的仏教寺院の法興寺(現飛鳥寺)を完成させた。五重塔と伽藍を備えた荘厳な寺院だ。大和政権は百済人を中心として、優れた建築術・彫刻技術を持つ者を大量に受け入れており、渡来人は宮廷人口の3分の1にまで達した。その意味でも出身国の関係なく互いの心を結ぶ仏教が益々重要になった。 そして600年(26歳)、ついに太子は120年ぶりに使者を大陸に派遣する。隋を建国した文帝は官僚の登用に際し、貴族が世襲制で就任していた伝統を廃して、真に優秀な人材を確保する為に、全ての人々に登用の機会を与える科挙(国家試験)を導入した人物。日本の政治システムを問われた使者は、大和政権に法令もなく政治的に未成熟だったことから、天皇の権威を全面に出す為に古来の日本神話を引き合いに出してしまう。文帝は呆れ果て「倭国(日本)の政治は道理にかなっていない。指導して改めさせねば」と語り、使者は外交関係を結んでもらえなかった。 日本にとって屈辱的とも言える、この第1回遣隋使の失態は『日本書紀』には記載されておらず、中国側の歴史書にのみ載っている。 発奮した太子は馬子との共同執政の中で中央集権化を進め、603年(29歳)に官僚制の基礎となる冠位十二階を、翌604年(30歳)には十七条憲法を制定していく。 《冠位十二階》 朝鮮諸国の冠位制度を参考に、儒教の徳目を現わす言葉「徳・仁・礼・信・義・智」をそれぞれ大小にわけて12階(大徳〜小智)を定め、位ごとに色分けした冠(帽子)を授けたもの。紫を頂点に、青・赤・黄・白・黒と続き、さらに色の濃淡で身分の差がひと目でわかった。血縁に関係なく働きぶりによって冠位を上下させ、格の低い氏族の出身者でも頑張れば高い地位につけた。これは律令制の位階制の源となる。 《憲法十七条》 日本初の成文の法令集。太子が理想国家の実現へ願いを込めて作った、官僚の行動倫理。仏教や儒教の長所を導入した。(以下抜粋) 第1条「和をもって貴しと為す。協調・親睦の気持ちをもって論議せよ」 第2条「あつく三宝(仏・法・僧)を敬え。本当に極悪な人間はまれであり、正道(仏道)を知れば従うものだ」 第4条「官僚は礼の精神を根本とせよ。上に立つ者に礼があれば、民も必ず礼を守り、国家は自然に治まる。その逆も然り」 第5条「官僚は欲を貪(むさぼ)らず民の訴えを公正に裁くように。近頃の訴訟を治める者は賄賂が常識となり、賄賂を見てから訴えを聞いている。裕福な者の訴えはすぐに受け入れられるのに、貧乏な者の訴えは容易に聞き入れてもらえない。もってのほかだ」 第6条「悪を懲らしめて善を勧めよ。へつらいあざむく者は、国家や人民を滅ぼす鋭い剣である」 第8条「官僚たちは、朝早く出勤し、夕方は遅く退出せよ。公務はうかうか出来ぬものだ。一日かけても全て終えるのは難しい。遅く出勤すれば緊急の用に間にあわないし、早く退出しては必ず仕事をやり残してしまう」 第10条「心の怒りを絶ち、人が自分と考えが違っても怒ってはならない。人それぞれに考えがあるのだ。自分は必ず聖人で、相手が必ず愚かということはない。皆ともに凡人なのだ。これをよく踏まえ、相手がいきどおっていたら、自分を振り返って自らに過ちがないかと恐れよ」 第12条「地方官は勝手に税をとってはならない。国に2人の君主なく、みな天皇の臣下である」 第16条「春から秋までは民を使役してはいけない。民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕が為されなければ、何を着たらよいのか」 607年(33歳)、第1回遣隋使の不面目から、冠位十二階、十七条憲法を制定し、前年には金色に輝く飛鳥大仏を法興寺に安置させ、この年には仏教の総合大学・法隆寺を建立した。外交官の小野妹子は血縁ではなく能力によって登用された公式の冠位を持つ人間。もう政治システムも仏教美術(文化レベル)も以前の「倭国」ではない。リベンジの体勢は整ったッ!7月3日、太子は『日本書紀』に記されている“第1回”の遣隋使を派遣する。妹子が謁見したのは、3年前に父(文帝)と兄を暗殺して2代皇帝に即位した暴君・煬帝(ようだい)。聖徳太子が記した国書の文面はこうだった。 「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子に致す、つつがなきや云々」 “日が昇る東の国の天子(天皇)が、日が沈む西の国の天子(皇帝)に手紙を送ります。お元気ですか?” これを読んだ煬帝は激怒。隋は朝鮮半島の高句麗、百済、新羅を属国扱いしていたが、島国日本はさらにその下の後進国と見なしていた。そんな国が対等に振舞うばかりか、隋を没落国家のように「日没する国」とは無礼千万。しかも「天子」という中国の皇帝にしか使われぬ尊い言葉を日本の王に使うとは何事か。煬帝は隋の外交官に「今後、無礼な蛮族の書はワシに見せるな」と命じるほど憤慨する。 妹子は処罰されそうになったが、このころ隋は高句麗への遠征で苦戦しており、「ここは高句麗の背後に位置する日本と手を結んだ方が得策」と、煬帝は友好姿勢をとることにした。また、妹子が公式な官位を持つ外交官であったことから、日本には整った官僚制度があり交渉が可能だと分かった。翌年、隋の外交官が初めて飛鳥の地を踏み、朝廷で国書を読み上げ日本式の礼(4度お辞儀をする等)を執った。太子の「これからは対等な関係で行くのでヨロシク」という目論見は、ここに見事成就した。 以降、数度にわたる遣隋使、遣唐使の派遣で多くの留学生・学僧を送り、彼らが吸収した知識を国政に反映させ、日本は国力を高めていった。 晩年の太子は未来の国を造る若い人材を育てる為に、政治の第一線から離れ、教育者として斑鳩宮(法隆寺東院)で仏典の研究に没頭する。太子は20歳の頃から仏教の慈悲の心の実戦として、民の救済の為に力を尽くしてきた。四天王寺には貧しい人の為の施薬院(薬局)、療病院(病院)、悲田院(飢えた人を救い身寄りのない老人を世話した社会福祉施設)などを設けていた。太子は高句麗の高僧・慧慈(えじ)に師事し、全ての人が慈悲心を大切にする平和国家の実現の為に、615年(41歳)、仏教の教科書となる『三経義疏』を作成した。人々が興味を持ちやすいように、膨大な仏典の中から選んだ「三経」は、“誰でも必ず仏に成れる”とシンプルに説く「法華経」、唯一女性が主人公の仏典「勝鬘(しょうまん)経」、問答式で親しみやすい「維摩(ゆいま)経」を選んだ。 622年(48歳)、前年暮れに太子の母が亡くなると、年が明けて太子も床に伏し、2月に入ると4人の妻のうち膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が他界する。そして、翌22日に太子も逝去した。『日本書紀』は人々の様子をこう記す『王族・諸臣及び天下の百姓ことごとく、長老は愛児を失うが如く、幼い者は父母を亡くした様に、泣き涙する声が巷に満ちた。耕す男は鋤を手にとらず、杵を突く女は杵をとらず、皆「日月が光を失い、天地が崩れ落ちたようだ。今後、誰を頼りにすれば良いのか」と嘆いた』。享年48歳。わずか3ヶ月で3人が亡くなっていることから伝染病ではないかと言われている。 太子は27歳の時に、墓所の候補地を既に決めており、他界する2年前に自身の廟を造っていたが、その際、自分の子孫を“残さないように”と、風水の吉兆に逆らって「あそこの気を断て、ここを断て」と命令したと言う。これは“一族の繁栄=幸せの絶対条件”とする時代にあって驚くべきことだ。権力を誇る者の愚かさや、物部氏のような大豪族が滅んでいく様を見てきた太子ならではの強烈なエピソードだ。 大阪府南河内郡太子町の叡福寺北古墳(太子墓)は直径50m、高さ100mの円墳で、内部は横穴式石室になっている。太子、母、膳郎女の3人が合葬されていることから「三骨一廟」の墓となった。724年に聖武天皇が伽藍を建て、太子信仰が盛んになるにつれ、太子の墓や遺品を伝える同寺は霊場となり、空海、親鸞、日蓮などの名僧が巡礼し、不動明王、愛染明王は空海作と伝えられる。周辺は“王家の谷”と呼ばれ、推古、敏達、用明、孝徳天皇陵などがある。 《後日談》 推古天皇が病没した時に太子と妻・蘇我刀自古(とじこ)の息子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)を擁立する動きがあったが、馬子亡き後に蘇我氏を束ねていた蘇我蝦夷(えみし、馬子の子)はこの即位を封じた。推古天皇と連続で蘇我氏系の山背大兄王が天皇になると、反蘇我氏勢力との対立が深刻化すると判断したからだ。しかし、蝦夷の子・蘇我入鹿が政治の実権を握ると、入鹿は彼の手足同然になっていた別の皇子の擁立を企て、依然として皇位継承の有力候補にあった山背大兄王の存在が邪魔になった。 太子の他界から21年後の643年、入鹿は山背大兄王が住む斑鳩宮を襲撃。山背大兄王はいったん生駒山に逃れる。家臣から「東国へ逃げて再起を期し、入鹿を討ちましょう」と意見されるが「挙兵して入鹿と戦えば勝てるだろう。しかし私のことで戦乱になって苦しみ傷つくのは百姓たちだ。そんな事態を引き起こすくらいなら、私の命を入鹿にくれてやろう」と、斑鳩寺に舞い戻り、山背大兄王は一族22人もろともに首をくくって自害した。ここに太子の血は絶えた。太子をよく知る蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激しく怒ったと伝えられる。この事件の2年後、大化の改新で蘇我氏は滅亡した。 ※太子&馬子が忍者を初めて使ったとされている。太子は伊賀の服部氏族や甲賀の大伴細人を使って各地の情報を収集し、馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に崇峻天皇や敵対豪族を暗殺させたとのこと。 ※実は日本書紀に「聖徳太子」という呼称は出てこない。死後130年経って編纂された『懐風藻』で初めて出てくる。太子の師・恵慈がその死を知って“太子は聖(ひじり)の徳を持っていた”と詠嘆したことによる。 ※現在法隆寺にある国宝仏像・法隆寺釈迦三尊像は太子と等身大に造られている。他界の前年に止利仏師(とりぶっし)が彫り始めたもので、太子の死後に完成した。止利は像の背後に太子追悼の銘文を刻んだ。 ※現在、東京の最高裁判所には太子が十七条憲法を制定する場面が描かれた絵が飾られている。 聖徳太子が作った池(橘寺にて) |
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| 幕末に活躍したので写真が数点残っている。幕府内にあって日本の未来を見通すことが出来た数少ない人物だ |
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| 8月の朝の光が墓域に降り注ぐ。勝海舟の墓は霊園でも お寺でもなく、ただの公園の隅っこにあるのがユニーク |
向かって右が勝海舟、左が妻・たみの墓 |
この字はあの慶喜公が書いた! |
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| 「勝海舟・西郷南州両雄之聖域」 実は、勝の墓所に隣接して 西郷を祀る神社がある |
どうして幕府側の勝と維新軍の西郷という敵同士が並んでいるのか?勝は西郷の 人間性に惚れ込み、西南戦争で西郷が死ぬと心からこれを悲しんだ。そして西郷を 称える為に、西郷の書いた漢詩を建碑し、さらに没後5年目に神社を建て追慕した。 神社や碑文は元々葛飾区薬妙寺にあったけれど、勝が生前に墓と並べて欲しいと 希望していたことから、勝の死から14年後(1913年)に移転され、両雄は再会した |
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| この角度からなら、勝海舟と西郷が同時に視界に入る。もうたまらない! ※見えるかな?写真の中央から1cmくらい左に西郷の碑文が見えてます♪ |
鹿児島の西郷の墓地にある感動的な碑 「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」(勝海舟) |
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| 墓所の側にある「勝海舟先生別邸跡」。勝はここに 墓を建てたいと思うほど洗足池が気に入ったようだ |
勝の墓前にある洗足池。かつては 墓所から富士山が見えていたらしい |
夕暮れ時も素晴らしいです!(1999) |
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本名、勝義邦(よしくに)。幼名麟太郎(りんたろう)。維新後は安芳(やすよし)に改名。貧しい武家の家庭に生れる。剣術に優れ21歳の時には免許皆伝の腕前だった。22歳、蘭学を学び始めるが、オランダ語の辞書が買えなかった彼は、知人の医者から蘭和辞典を借り執念で全頁を筆写する。また常々欲しいと思っていた外国の兵学書が、金策で飛び回っているうちに先に買われてしまうと、勝は購入者に「写させてくれ」と掛け合った。相手の返事は「昼間は本を使うが夜10時から朝8時までなら空いている」。勝は6キロの道を半年間通い詰め、根性で写し切ったという!(この向学心は半端じゃない!)28歳、蘭学塾を開く。32歳、長崎に開設された海軍伝習所に入る(後輩には榎本武揚がいた)。1860年(37歳)、オランダ製の最新鋭戦艦「咸臨丸」船長として、日米修好通商条約の批准書交換のためアメリカに向かう一行を乗せ(通訳はジョン万次郎)、日本人初の太平洋横断航海(品川〜サンフランシスコ)に成功する。とはいえ、咸臨丸は最新鋭といっても大きさ300トン、全長は50mしかなく、37日かかった外洋の航海は揺れに揺れた。乗船者の一人、当時27歳の福沢諭吉いわく「牢屋に入って毎日毎日大地震にあっているようなもの」。
米国で視野が大きく広がった勝は、江戸城での視察報告の席上で、「私がアメリカにて最も驚きし事は、政治に際しては、賎民の出なりとも有為の人材なれば登用し、名門に属せりとも無為の人材なれば排斥することにあり…」と語り、家老たちから「無礼者!」と激怒された。
「目ざわりじゃき、北辰一刀流で斬るだけのことよ」と勝の首を獲るつもりで勝邸を訪れた龍馬は、逆に勝の懐の深さと先見の目に感動し、勝が神戸に開いた海軍操練所に入って教育を受けた。幕臣でありながら開国論者だった勝は、1868年4月11日、江戸城を無血開城させる。これによって江戸城攻防戦という最終決戦は回避され、江戸の町は焦土とならずに済んだ。維新後は徳川家の後見人的存在として新政府の要職を務めた。
墓は洗足公園の一角にあり夫婦で静かに眠っている。巨大霊園の中で隔離されているのではなく、市民が犬の散歩をする公園の片隅というのも、権威主義者ではなかった勝らしくていい。墓所の右墓塔に「海舟」、左墓塔には「海舟室」(妻・民子)と徳川慶喜の手で刻まれている。
※近くには勝が西郷の魂を慰霊する為に建立した「西郷南州留魂碑」がある。葛飾区の業妙寺にあったものを、勝の意志により移してきたものだ。 ※命日は1月19日説もあるけれど、19日に昏睡状態になり21日に他界したようです。 |
| ●江戸城無血開城 江戸に着いた新政府軍は慶喜に腹を切らせるべく多摩川沿いに陣をひく。江戸総攻撃の前日、慶喜不在の江戸城を任されていた旧幕府軍総裁・勝海舟は降伏の嘆願書を持って西郷に面会を求めに行く。 西郷と勝はこれより4年前、薩摩がまだ倒幕路線を明確にする以前に一度顔を合わせている。その時は、「幕府に勝海舟あり」といわれるほどの人物に会ってみたいという思いで西郷が一方的に勝を訪ねたのだった。勝もやはり「薩摩に西郷あり」といわれる彼の訪問を歓迎した。この席で、勝はざっくばらんに幕府の内情や、現在の諸問題について西郷と語りあう。勝は幕府の中枢にいながら、堕落した幕政への確かな批判力を備えていた。西郷はこの初対面の感想を親友の大久保に送っている〜 「勝氏と初めて会ったのだが、実に驚くような人物だった。こっちは最初やっつけるつもりだったが、実際会ってみると(その見識に)本当に頭が下がる思いになった。勝氏には一体どれだけの知略があるのか、正直自分には全く分からない」 西郷と再会した勝は、慶喜の助命を約束してくれるなら江戸城を明け渡すと告げる。西郷は勝が自らの保身について何も語らず堂々と向き合うので、その立派な態度にあらためて感心した。 「分かりもした。いろいろ難しい議論もありもすが、慶喜公については、おいが責任を持って引き受けいたしもす。」 江戸総攻撃はすんでの所で回避された。4年前の腹を割った熱い出会いがあったこの2人だからこそ、江戸城開城という大事件を、わずかに言葉を交わすだけで流血なしに実現出来たのだ。 勝は友人に西郷について以下の如く語っている。 「(こんな状況になっても)西郷は、幕府の重臣に対する敬意を持って私に接し、談判の時は始めから終わりまで背筋を真っ直ぐ伸ばして坐し、両手は膝の上にきっちりと乗せていた。とにかく西郷には少しも戦勝者の威光で敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかったのだ」 勝もまた感心しきりだったというわけだ。 1868年4月11日、江戸城無血開城。 14年前の安政の大獄以来、この日を見ることなく志し半ばで散っていった松陰、晋作、龍馬を始め多くの志士たちの悲願がついに達成された。 |
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| 卑弥呼の墓と言われている箸墓(はしはか)古墳入口。 この先は宮内庁が調査禁止に。公開して〜!(1999) |
9年後に再訪。この前週、新たに大規模な周濠が 発見されたと報道され、考古学ファンを湧かせた |
弥生文化博物館 の卑弥呼復元像 |
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| 「倭迹迹日百襲姫命 大市墓」とある |
箸墓古墳の全景。一帯はとってものどかデス |
この角度から見ると、手前が方形で奥が円に なっている「前方後円墳」というのがよく分かる |
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| 前面部分を横から | 背後の円墳部分。樹木の真ん中に“穴”が | ポッカリと開いておりミステリアス |
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| 上空から。全長280メートル! (画像/エンカルタ総合大百科) |
【参考】 長野県更埴市の森将軍塚古墳。 完成当時の古墳はこの様に石で覆われていた。 (上部にズラリと並んでるのは全部埴輪!) |
景初三年(239年)制作の画文帯神獣鏡。 何と卑弥呼が生きていた時のものだ! (画像/エンカルタ総合大百科) |
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| 『曽根遺跡群 平原遺跡』 |
この1号墓から多数の女性用副葬品が発掘され 巫女的な女王の墓と考えられている |
周囲には田畑が広がり、ゆっくり ゆらゆらと時間が流れていた |
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| 伊都国歴史博物館には発掘時の様子が再現 されている。駅から少し離れているが、充実 展示で考古学ファンにはお薦めの博物館! |
一般の国立博物館でも1、2点しか展示されて いない国宝指定の銅鏡がここにはズラリ! |
ガラス勾玉や瑠璃管玉など国宝の装飾品が ザックザク。これらがたった1人の女性の墓 から出て来たという。ということは…!? |
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| 付近には32×31mという日本最大級の 弥生王の墓『三雲南小路遺跡』がある |
ここから出土した銅鏡の数は弥生〜古墳時代 の中で最も多く、後の大量副葬の先駆けだ |
この甕棺(かめかん)がワンセットで王の棺。 互いの口を上下に合わせて密封していた |
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| 王宮(主祭殿)は高さ16.5m、13m四方という巨大さ! | 1800年前の卑弥呼が生きていた時代の姿を復元! | 王宮と見張り台の楼閣。楼閣はあちこちにある |
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| 1階では諸侯が会議をしている | 最上階では卑弥呼(?)が神託を受けていた |
| 吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は弥生時代の巨大遺跡。南北1km以上、甲子園の10倍となる約40ヘクタールの土地から、周囲を二重の堀で囲まれた大環濠集落や王族の墳丘墓、約3千もの甕棺(かめかん、昔の棺)が見つかっている。また、高さ12mの物見櫓(やぐら)跡があったり、傷を受け首がない人骨や鉄の矢じりも出ており、文献に残る邪馬台国のように戦争していたことが分かる。 |
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| まさに戦闘国家。高い柵が都市をグルリと一周 | 写ってる人間と比べてみて! | 堀の深さもかなりのもの。突破不能 |
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| 遠方から見ると柵がずっと続いているのが分かる | 外堀の柵を越えても今度はこの内堀の柵が待っている | 王宮を囲む内堀の柵。難攻不落! |
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| 吉野ヶ里には鳥のオブジェが多い。魔除けや守護神だったのかも | 居住エリアにある王の家の鳥。ちょこんと乗ってて可愛い |
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| 歴代の王の墓(北墳丘墓) | ここからは14基の甕棺(かめかん)を発掘 | 甕棺の中はこうなっている | 被葬者が抱きかかえていた立派な銅剣 |
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| 吉野ヶ里遺跡の北外れにある日吉宮。このように木を全体にくくり付けた 鳥居を見たのは初めて。これにはどういう意味が含まれているのだろう? |
謎の鳥居をくぐると日吉宮の本殿が見えてくる。ここを卑弥呼の墓と考える学者も いる。確かに“日吉”という太陽と関係ある名は日巫女=卑弥呼を彷彿させる |
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| 西都原古墳群は日本最大の古墳銀座!この土地には300基以上の古墳がある!これ以上の規模の 古墳群が見つかっていない以上、ここが邪馬台国という可能性は否定しきれない |
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| 古墳の向こうにまた古墳 | 右を見ても左を見ても古墳、古墳 | まさに古墳尽くし!これほどとは思わなかった! |
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| 春夏秋冬の表情を見てみたい | 訪れたのは朝7時半。青々とした緑が目に染みる | 内部の石室が公開されている古墳もある |
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| 宮内庁による、『男狭穂(おさほ)塚・女狭穂 (めさほ)塚 陵墓参考地』の案内板 |
男狭穂塚はニニギノミコト、女狭穂塚はコノハナサクヤビメ の墓と伝わる。円墳の男狭穂塚を卑弥呼の墓とする説も |
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| 宮内庁が立入禁止にしており望遠で撮影。分り難いけど この林の奥がニニギノミコトの墓。土が盛り上がってる |
少し離れた場所から。おそらく右の山がニニギノミコト (=卑弥呼?)、左の山がコノハナサクヤビメのハズ! |
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| 西鉄天神大牟田線の塩塚駅 |
なんて、のどかなんだろう。 だが地名はめっさ邪馬台国っぽい |
隣接するみやま市大神(おおが)の女山の旧名は 「女王山」。付近の城跡を卑弥呼の墓という人も |
| この一帯は2005年3月の合併で柳川市になるまで、住所は「福岡県山門郡大和町」だった!“山門郡”だけでも邪馬台国っぽいのに、 “大和町”という2段重ね!魏志倭人伝の記録が九州を指しているのなら、山門郡大和町という地名はまさにその名残ではなかろうか!? |
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| 美しい西大門。夕日で朱が一層映えている |
宇佐八幡宮本殿。この奥に三神が祀られている |
中央の二の御殿で祀られるヒメオオカミ(比売大神)。 比売=ヒメ(日女)&巫女=ヒメコ=卑弥呼? |
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| 三の御殿。日本書紀にはこの神功皇后を 卑弥呼と示唆する文章が書かれている |
宇佐神宮境内の亀山神社。小山になっているのでここが卑弥呼の墓という研究者もいる |
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| こちらは伊勢神宮・内宮(ないくう)。アマテラスの別名はオオヒルメノムチ。“ヒルメ”とは 「日につかえる巫女」。そこから天照大神=日巫女=卑弥呼と考える学者もいる。(2008) |
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●卑弥呼の奮闘
時は今から約2千年前。180年頃から、古代日本では「倭国大乱」と呼ばれる激しい内乱が起きていた。何年も互いに攻め合い疲弊した小国約30カ国は、国家連合を作ることで戦争を終わらせようと考え、連合体の中心国で7万余戸から構成される邪馬台国(推定人口30万人)の卑弥呼を共通の女王、王の中の王とすることにした。彼女は呪術に長け、絶大なカリスマがあり、連合体は見事にまとまった。宮殿は厳重に警護され、卑弥呼には千人の侍女がつき、決して民衆の前に姿を見せることはなかった。彼女は神の妻として終生結婚せず、神託は弟によって実行された。 この頃、中国大陸の後漢では184年の民衆蜂起“黄巾の乱”で支配体制が崩れ、『三国志』の英雄たちが活躍していた。207年に曹操(そうそう)が北部を統一、さらに全土を支配すべく15万の大軍で南下するが、翌208年に天才軍師・諸葛孔明を得た劉備(りゅうび)&孫権の5万の連合軍に“赤壁の戦”で策にはまり大敗北を期した。220年に曹操が病没すると子の曹丕(そうひ)が後漢を滅ぼし「魏」を建国する。翌年に劉備が「蜀」を、翌々年に孫権が「呉」を建国し、大陸は3国に大分裂した。 やがて劉備と諸葛孔明が病没。蜀が弱体化し西方から脅威が消えたことで、魏は東の朝鮮半島へ戦力を向け始めた。238年、魏軍が朝鮮半島を南下し、ソウル一帯まで支配下に治めると、卑弥呼は素早く政治判断を下し、魏に使節を送って貢ぎ物を献上した。魏王朝2代皇帝の明帝は卑弥呼に「親魏倭王」の称号を授けて魏の支配下に入れ、明帝は卑弥呼の使者に金印、刀、銅鏡100枚(三角縁神獣鏡?)を与えた。 邪馬台国は南方の狗奴国(くなこく)と長く戦争状態にあり、卑弥呼は魏の支援を期待して使節を送り続けた(243年)。その結果、245年に魏軍を象徴する軍旗を与えられる。卑弥呼はさらなる支持を求めて247年に戦況を報告する為の使節を派遣した。これを受けて魏は「卑弥呼に協力をするように」と檄文を出すと共に倭国の各小国へ特使をおくった(卑弥呼の狙い通り)。 このように卑弥呼は魏の軍旗や詔(みことのり)で邪馬台国の権威を高めていったが、苦戦が続くなか248年に他界する。 ※邪馬台国の兵士は魏の旗を振って戦っていた。三国志に登場した旗を卑弥呼の軍も掲げていたとは。歴史って面白い。 卑弥呼の没後、男性が後継者となったが連合国はこれを認めず内乱が再度勃発。卑弥呼の親族から13歳の台与(とよ)を新女王に選ぶことで平和を取り戻した。魏は卑弥呼の死の約20年後に晋に滅ぼされ、台与は晋にも朝貢したが(281年)、その後は413年まで倭国は中国の文献に1世紀以上登場しない。 ●邪馬台国はどこにあったのか?〜江戸時代から続く邪馬台国論争 『魏志倭人伝』に記された邪馬台国に至る方位&距離をそのまま信じると、九州よりもっと南の海上になってしまう。これが原因で、江戸中期に新井白石が苦悩し始め、本居宣長から現代まで、畿内説と九州説の議論がずっと続いている。近年は関東説、北陸説、四国説、沖縄説、果てはハワイ説、インドネシア説なども登場し、20説以上が入り乱れている状態だ。いったい邪馬台国はどこにあったのか。1世紀前半の中国・新王朝の貨泉(かせん)と呼ばれる貨幣が畿内と北九州から多く発掘されており、双方に文化圏があったのは確実だ。論争を代表する九州説、畿内説の最新情報を紹介し、日本神話も踏まえながら謎に迫りたい。 《邪馬台国九州説・10大理由》 (1)『魏志倭人伝』(以下、魏志)の方角にあるのは福岡県山門郡(現みやま市、柳川市)。山門=ヤマトだ。『日本書記』神功記には筑後国に“山門県”の文字があり、古来からこの土地名は存在していた。距離は換算方法でどうにでもなり、大事なのは方角。命がけで外洋を越える海の男たちが方向を間違えるはずはない。「北極星を頼りに渡航した中国の使者が邪馬台国の位置を誤るのは不自然」(松本清張) (2)2世紀後半に戦争で強力な武器となったのが、従来の青銅や石の武器に比べてはるかに頑丈で鋭い鉄製の武器。3世紀、卑弥呼の時代までに作られた鉄製武器の出土状況は、畿内の約300点に対して九州は約1300点と完全に圧倒している。当時の日本は製鉄技術がまだ確立されておらず、『三国志魏志弁辰伝』には「朝鮮で産出される鉄を倭人が取りに来た」とある。九州と朝鮮は200kmしかなく(博多〜岡山より近い)、この地の利を生かしてどんどん鉄を持ってきたと思われる。魏志にも“邪馬台国の兵の鏃(やじり)は鉄か骨”と記述されており、鉄器が充実していたことが分かる。 (3)『魏志』に記された邪馬台国の風俗は南方系そのもの。「男はみんな入れ墨をし、海に潜るのが得意で魚や貝をとる」「気候は温暖であり裸足で生活している」など、海と密接した暮らし、刺青の風習、温暖な気候、すべてが南国を彷彿させる。 (4)『魏志』で人口(戸数)や支配体制まで詳しく紹介されている倭の諸国は九州のクニばかりで、九州から東の記述があまりにも少ない。これほど九州の情報が充実しているのに邪馬台国だけが畿内というのはあり得ない。もし畿内にあったなら、中国地方の大きな文化圏=吉備や出雲の記載がないのは不自然。 (5)『魏志』には「女王国の東、海を渡りて千余里、また国あり、みな倭種」とある。九州なら東に海があり、しかも渡った場所に四国・本州があって文献通りだ。 (6)『魏志』は卑弥呼の都について、「王宮、楼閣(ろうかく、物見やぐら)、城柵など防衛施設があり兵士が守っている」と記している。佐賀県の吉野ヶ里遺跡(総面積40万平方メートル)は卑弥呼には、“弥生時代最大”となる12.5メートル四方の建造物の跡があり、そこが2重の堀で囲まれていたことから王宮と考えられる。また、大きな楼閣の存在や、高い柵と土塁が周囲を巡っていることも分かった。この王宮のさらに北には日吉神社があり、これを卑弥呼の墓とする学者もいる。※日巫女であれば日&吉という意味合いから日吉神社と関連づけられたのも分かる。 ※吉野ヶ里遺跡は紀元前4世紀から700年も繁栄した都で、末期が邪馬台国の時代と重なる。遺跡からは鉄製のやじりが出土し、発掘された人骨には、鏃(やじり)の傷があったり首がなかったりと、激しい戦乱の様子を伝えている。 (7)福岡県前原市の平原(ひらばる)遺跡からは、直径46.5cmという国内最大級の銅鏡(内行花文鏡)を始め、鏡が42面も出土しており、さらに当時の最高級品であるガラスやメノウ製の勾玉、管玉、小玉が多数出土。豪華な副葬品は女性用と見られ、これほどの鏡を集める力があるのは卑弥呼ではないか。 (8)卑弥呼が魏からもらった鏡は「三角縁神獣鏡」ではなく「後漢式鏡」ではないか。「後漢式鏡」なら北九州でも多く発見されている。畿内派は近畿で多く出土する「三角縁神獣鏡」を卑弥呼が魏から授かったものとするが、この鏡は中国から一枚も出ておらず国産ではないか。「三角縁神獣鏡」の中には実在しない年号が刻まれているものがあり(改元が未反映)、このあたりも怪しい。卑弥呼の鏡は100枚の筈なのに「三角縁神獣鏡」は約500枚も見つかっている。見つかりすぎだ。 (9)卑弥呼の他界と同時期の247年と248年に、2年連続で皆既日食が北九州で発生している。このことから、卑弥呼=アマテラスとする説もある。一度隠れて(死んで)、再び出てきたこと(新女王・台与の就任)が伝説化したという。 (10)山門郡瀬高町南部(現・みやま市瀬高町)の大神(おおが)では、卑弥呼の時代より400年も前から弥生人が多く住み、稲作を始め、山間部には鉄を生産するタタラがあった。同地が発展して邪馬台国になった。地域の女山はかつて「女王山」と呼ばれていたという。また、付近には豪族・物部一族の祖先を祀った神社がある。後年、大和朝廷の軍事部門につく“あの”物部氏だ。 《邪馬台国畿内説・10大理由》 (1)畿内だと同じ場所に大和政権が成立したことを容易に説明可能。 (2)『魏志』には「南へ水上を10日、陸を1ヶ月」と記載されているが、「陸を1ヶ月」というのは古代の不便さを考慮しても九州だけでは長すぎる。 (3)『魏志』には「卑弥呼に銅鏡100枚が贈られた」とあり、事実、魏の年号が刻まれた三角縁神獣鏡が畿内を中心に出土している。多くの三角縁神獣鏡は精巧なもので、国内の鋳造技術では生産不可能と考えられている。仮に国産の場合、逆にそんな精巧な銅鏡を大量に生産できるだけ畿内の文明が発展していたことになり、いずれにせよ邪馬台国近畿説を補強するものとなる。 ※三角縁神獣鏡は全国で500枚近く発見されており、2004年に鏡の成分を分析した結果、卑弥呼が生きていた当時の中国の鏡と同じ成分のものと、日本の土を使った粗悪な模造鏡があることが判明した。精巧なものは中国の土だった。 ※「三角縁神獣鏡の中に景初4年という存在しない元号があるから国産だ」(景初は3年まで)とする説もある。これは改元を知らない職人が朝鮮で作ったか、来日して鋳造した為に改元を知らなかったものと思われる。 ※発見される枚数が多すぎるのは、何度も魏から銅鏡が送られたからだろう。 ※同じ型の鏡が畿内を中心に九州から関東まで15府県に分布している。これは畿内から全国に分けられたことを示し、権力の中心が畿内にあったことは確実。 (4)飛鳥時代に中国で完成した『隋書』(656年)には「倭国の都は邪靡堆(やまと)にあり、これは魏書に記された邪馬台なり」とある。当時の外交官は遣隋使・遣唐使で大和朝廷を訪れており、“大和”=“邪馬台”というのが大陸側の基本認識。 (5)『魏志』に卑弥呼の墓は約150mの大型古墳と記載。初期の前方後円墳は畿内に集中しており、遠ざかるにつれて古墳の規模が小さくなっている。前方後円墳は大和を中心に分布しており、時代が下るにつれて全国に広がっている。 (6)大和盆地の纒向(まきむく)遺跡は2世紀後半〜4世紀半ばの文明。ここから出土した土器全体の2割近くは北陸・東海・山陰・瀬戸内など遠隔地からもたらされたもの。中には纒向の土で作られた東海地方タイプの土器もあり、これは愛知から来た人が住み着いている証だ。当時の遺跡で他の地方からこれほど多くの人が集まっていた都は他に見つかっていない。各地域を結ぶ巨大勢力があったことが伺える。 (7)弥生時代は穴を掘った竪穴式住居が一般的だったが、纒向遺跡では身分の高い人が住んだ高床式住居がたくさんあった。これは周辺国から纒向に集まった有力者たちの“都の別邸”ではないか。 (8)2世紀半ば、ニギハヤヒや神武といった北九州勢の東征で畿内の銅鐸文化が滅ぼされ、鏡・剣・玉を崇拝する文化が畿内に広まった。“倭国大乱”とは神武の後継勢力の争乱であり、そこから卑弥呼が登場したのではないか。 (9)1997年に大和政権誕生の地、奈良・黒塚古墳から33面の銅鏡が出土。同古墳は3世紀後半〜4世紀前半のもので、初期大和政権と時代がピッタリ。同型の兄弟鏡が近畿を中心に九州から関東まで15府県に分布しており、大和政権が誕生時から絶大な権力を持っていたのは邪馬台国の延長だからだ。 (10)「ヤマタイコク」と「ヤマトコク」でふつうに名前がそっくり。中国側は「大和国」(やまとこく)を邪馬台国と聞き間違えたに過ぎない。中国人が”やまと”を聞いて書き留めたのが”邪馬台”。 ●箸墓(はしはか)古墳は卑弥呼の墓!…と思う。そう思いたい。 奈良県桜井市にある「日本最古」の大型前方後円墳・箸墓古墳は卑弥呼の墓と言われている。墳長約280m、後円部径約150m、高さ約30m、前方部幅約130m、高さ約15m。前方部4段、後円部5段からなる。古墳の多い奈良でもトップ3に入る大きさで、一帯は国内で最も古い古墳群だ。 ※追記…2008年8月、箸墓古墳を調査していた桜井市教育委員会が、同古墳は幅60m以上もの周濠(堀)に取り囲まれていたことを発表。これにより、周濠を含めた古墳域の全長は450mという巨大なものになり、“一体誰が埋葬されているのか”と考古学ファンがロマン爆発。 ・『魏志倭人伝』には「卑弥呼の墓は大きな塚で、直径が百余歩、奴婢(ぬひ、奴隷)100余人が殉葬された」とある。魏の時代の一尺は約24cmで、一歩が六尺。すると一歩は約1.45mとなり、百余歩は約150m前後。これは箸墓古墳の後円部径約150mとピッタリ一致している! ・卑弥呼の死は247年頃と伝えられている。箸墓古墳が造成されたのは墳頂から出土した土器の形式から260年頃と推定され、卑弥呼が亡くなってから工事期間10余年で完成したと考えると時期的にドンピシャ! ・宮内庁は被葬者を第10代・祟神天皇の時代に三輪山の神に仕えた巫女、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト、以下百襲姫)としている。弟は吉備地方を平定して桃太郎のモデルとなった吉備津彦(キビツヒコ)だ。箸墓古墳の体積は30万立方メートルで建設に動員されたのは述べ135万人。天皇ではなく一人の巫女の為にこれだけの人間が動くのは卑弥呼以外にありえない。『日本書紀』はこの墓について「昼は人が造り、夜は神が造った」と特記しており、「人々は近隣の山の石を手から手に渡して運び、山から墓に至るまで、人々は絶えることなく続いた」と築造の情景まで記している。墳丘の斜面から古墳の外装用に敷き詰められた葺石(ふきいし)が見つかっており、これを人々がリレー式で運んだ様子が伺える。また「壬申の乱」では、天武天皇が箸墓のそばで戦ったとされており、この墓が古くから特別視されていたのが分かる。 ・『日本書紀』では祟神天皇が巫女である百襲姫の教えを聞いて政事を行なっている。邪馬台国でも卑弥呼の神意を聞いて弟が政事を行なっている点で共通している。“百襲”という勇ましい名前も戦乱の時代に相応しい名だ。 ・付近から大量の「卑弥呼の鏡」が出土しており邪馬台国はここにあったか、もしくは、当初北九州にあった邪馬台国の本拠地が、卑弥呼の時代までにこの地へ移ってきたと見られる。また、3世紀後半までに100m級の古墳を造ることのできる権力者が複数いたことは、この地が初期大和政権の首都であったことに他ならない。卑弥呼がいたから、ここが首都になったのだ。 ・初期古墳群の全長は平均約100m。しかし箸墓は300mに迫る規模でケタ違いの巨大さ。埴輪の原型となる吉備系土器が出土したり、古墳の周囲を堀で囲むなど、従来の墳墓とは完全に一線を画している。前方後円墳として様式が完成された第1号の古墳でもあり、以後の大規模前方後円墳のモデルとなっており、箸墓古墳の完成をもって古墳時代の幕開けと見る説が多い。この墓が卑弥呼でなくて誰の墓というのか。 ★1800年目の結論〜邪馬台国は移動した!(たぶん!) 九州説、畿内説、それぞれに説得力があり論争の決着は簡単につきそうにない。九州では2世紀という早い段階から鉄のやじりが使用されており、鉄器文化が畿内より発展していたことは確実だ。一方、畿内には3世紀後半までに100m級の古墳を造ることのできる権力者が複数いた。僕が注目しているのは神武天皇の東征や鉄製武器の出土状況を基にした「邪馬台国移動説」だ。日本書紀や古事記には、九州を拠点にしていた神武天皇が、中国地方を経由して大和に入ったという大遠征の物語『東征神話』が書かれており、国家の大移動を示唆している。この神話を裏付けるかのように、九州を中心に出土していた鉄製武器が、卑弥呼の死を挟んで畿内からも出土するようになる。『魏志』には邪馬台国が南の狗奴国との戦いに苦戦していたとあり、列島全体を効率よく支配する為にも東へ拠点を移したのだろう。その後にヤマトタケルが南九州の熊襲(くまそ)を平定した物語は、畿内で力を蓄えた政権によるリベンジにも見える。 箸墓古墳については、卑弥呼が他国との戦争中に死んでいること、また死後に内戦まで起きていることから、その状況下で巨大な古墳を築く余裕があったのか疑問で、被葬者は卑弥呼の後継者・台与(とよ)ではないだろうか。大和王朝の古墳には装飾品や鏡も一緒に副葬されているが、これはもともと北九州の風習だ。箸墓古墳は表面が葺石(ふき石、化粧石)で覆われていたが、これは出雲地方の特色。また、古墳の上に並んでいた円筒ハニワの原型は山陽(吉備)地方の土器だ。古墳だけを見てもこのように様々な埋葬方法が融合しており、邪馬台国が中国地方の文化を吸収しながら東へ移動したことは間違いない! ●古代の謎を解明する為、宮内庁には全ての天皇陵を公開して欲しい! 畿内説、九州説の決着は、「親魏倭王金印」が一方の地から見つかるか、もしくは「これが卑弥呼の墓」という決定的証拠が出てくるまでつかないだろう。ただし金印は「漢委奴国王金印」だと2cm強しかなく、簡単に持ち運べて場所の説得力に欠ける。となれば、やはり墓だ。 だがしかし!卑弥呼の墓の最有力候補の箸墓古墳は宮内庁が陵墓(天皇陵)に指定し、発掘調査ができない!仕方がないので、考古学者は箸墓近辺の民家が建て替え工事をする時に発掘調査させてもらっている。つまり、あくまでも外側の調査であり、内部構造や副葬品は一切不明なのだ。2001年には箸墓古墳の周囲から国内最古の馬具が見つかった。4世紀初頭の鐙(あぶみ、足入れ)で定説を一世紀もさかのぼる物だった。こんなケースは、本格調査が実現すれば幾らでも出てくるだろう。 戦後の考古学界で最大の発見となった高松塚古墳壁画のように、「発見、即国宝」といったような文化遺産が全国の古墳にある可能性は、考古学者の誰もが分かっている。しかし政治的な問題があるので、「いつの日か詳細な調査が実施される日を待つしかない」と諦めている。宮内庁よ、このまま人類が絶滅するまで未調査のままにするつもりなのか。 今は主権在民の世であり、僕らは小学校から人間は平等だと教わっている。それは死者についても同じだ。天皇&皇后の墓だけを特別に「陵」という言葉で区別する必要はない。現行法で規定された「陵」は全国に188ヶ所あり、皇子・皇女を葬った「墓(ぼ)」なると552ヶ所にも達し、陵墓の可能性がある「陵墓参考地」を合わせると、宮内庁の管轄下にある国有地は最低でも896墓にもなる。 宮内庁は「ご子孫が現におられて、ご先祖を祀られているから文化財ではない」と主張して天皇陵を文化財と認めないが、これは詭弁だ。なぜなら、戦国期の将軍や大名の墓は被葬者が分かり、子孫が墓参をしていても文化財に認定されているからだ。 明治政府は近代天皇制国家を目指して、学説が分かれる墓所をロクに調査せず、考古学の科学的な検証も殆ど行なわず、何でもかんでも「陵」に決めていった。この流れは昭和の軍国政府になってさらに加速し、天皇制強化の道具として、政府は名前しか分かってないような皇子・皇女たちのものまで次々と聖域に指定していった。しかも、戦争が終わっても「天皇陵」の再検討は行なわれず、戦前に指定されたものが丸々“国有財産”とされ、宮内庁書陵部陵墓課が今日まで管理している。だが、“国有財産”であれば、公開決定権は宮内庁ではなく国民各自にあるのではないか。 また、明治政府の場合は学者から「墓ではない」という明確な資料を出されると、すぐさま指定から外す英断を下していたが、今の宮内庁は超がつくほど保守的で、継体天皇陵のように学者がどんなに間違いを実証しても陵墓指定の誤りに耳を貸さないばかりか、逆に「指定が誤っていても、長年祀ってきたのでもう御霊は宿っている」と開き直る始末。 死者の尊厳や、祖先を大切にする気持は、もちろん大切に守るべきだ。しかし、別人の墓を間違ったまま信じ続けるのは、被葬者に対しても冒涜ではないのか。 今一度、声を大にして言いたい。古代日本の歴史に光を当てる箸墓古墳を始め、すべての天皇陵を宮内庁は公開するべしと! ※720年に成立した『日本書紀』は卑弥呼を神功皇后(応神天皇の母)としているが、神功皇后の実在を証明する文献が皆無であり、しかも魏志倭人伝に「卑弥呼は生涯独身」と記しているので学会で否定されている。 ※邪馬台国には大人(たいじん)、下戸、生口といった身分制度、租税や刑罰があり、市場も開かれていた。 ※天皇の即位年や在位年数が確実に信頼できるのは、『古事記』と『日本書紀』で年号が一致する第31代・用明天皇以降。 ※出雲のスサノオは出雲平野の斐伊(ひい)川上流に住むオロチ族(鉄文化を持っていた)を倒し、鉄を手に入れ(草薙の剣ゲット)次に九州を平定して卑弥呼と結婚した。神武天皇は孫。--こんな異説もある。 ※箸墓古墳は壺形埴輪が前方部上から、そして特殊器台形土器、特殊器台形埴輪、特殊壺形埴輪の3種が後円部上から別々に採集されており、墳丘上に器種ごとに区別されて置かれていたようだ。 ※九州北部にあった邪馬台国が畿内へと移動したというが、畿内でたくさん発見されている銅鐸(どうたく)が九州で殆ど発見されていない。両地域に交流があれば九州でも銅鐸がもっと見つかる筈なんだけど…。1世紀前半の中国・新王朝の貨泉(かせん)と呼ばれる貨幣が畿内と北九州から多く発掘されており、双方に文化圏があったのは確実。 ※中国では前王朝の歴史を、後に続く王朝が公文書にまとめる義務があり、曹操親子が建国した魏王朝については、後の晋王朝が史書『三国志』の中に「魏書」30巻として記録した。このうち日本に関する部分が『魏志倭人伝』と呼ばれる。成立が280年頃と卑弥呼の死から30年しか経っていないこともあり、この約2000字の文章が古代日本を知る貴重な手掛りとなっている。(日本最古の歴史書『古事記』は712年成立) ※松本清張、和辻哲朗、新井白石、本居宣長、みんな九州説。 ※日本人の構成について。血液型の上では、まず太平洋の島々から「O型民族」が渡来し、次に北方から「B型民族」が渡来、最後に朝鮮半島から「A型民族」が大挙渡来したという。 ※中国の『後漢書』には、57年に倭の奴国の使者に金印を与えたという記録が残っている。この「漢委奴国王」と刻まれた金印は江戸中期に甚兵衛と農民が偶然用水路で発見し国宝になっている。卑弥呼が受け取った金印もこの国のどこかにあるはずだが、まだ発見されてない。 ※外部リンク…邪馬台国比定地 |
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| 箸墓古墳と三輪山(奥)という夫婦のラブラブ・ツーショット! |
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| ご神体の三輪山(みわやま)と巨大な大鳥居(2008) |
本殿はなく拝殿だけがある。 人々は背後の三輪山を拝む |
巳の神杉(みのかみすぎ)は、 根元に神の化身の蛇が棲む霊木 |
| 奈良県桜井市三輪の大神神社は、三輪山そのものが御神体なので本殿はなく拝殿だけがある。三輪山周辺は古墳時代初期の前方後円墳が多数あり、ここが邪馬台国や大和政権の発生地と考える学者も多い。祭神は『日本書紀』に登場する大物主神(オオモノヌシノカミ)。 ※拝殿の裏手にある三ツ鳥居は参拝者からは見えないけれど、神社の事務所で申し込めば拝殿の奥まで無料で案内してもらえる。三ツ鳥居は3つの鳥居が1つに合体した珍しいもので、僕はここでしか見たことがない。※残念ながら写真撮影は禁止だった |
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| 大物主神は蛇の姿と伝わり、蛇の好物&願いを丸呑みして欲しいという思いから、卵を捧げる 参拝者も多い。大物主神は酒の神でもあり、酒造家の信仰対象となり日本酒が捧げられている |
鳥居は一般のような赤い鳥居ではなく 木に縄がかけられた素朴なもの |
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| 倭迹迹日百襲姫命が仕えた第10代崇神(すじん)天皇の 古墳。スッキリして非常に美しい!崇神天皇は初めて 畿内の外まで治めた天皇だ※奈良県天理市(2008) |
1998年に“卑弥呼の鏡”と呼ばれる「三角縁神獣鏡」が33面 も発見され、畿内説を補完した黒塚古墳。4世紀初頭に造 られた全長約130mの前方後円墳※奈良県天理市(2008) |
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【 邪馬台国の風俗など〜『魏志倭人伝』現代語訳@エンカルタ百科事典 】
●邪馬台国の位置
倭人は帯方郡東南の大海の中の山島に国をつくっている。もともと100余国にわかれており、漢王朝に朝貢してきた。今は30カ国が使者をおくってくる。 帯方郡から倭国にいくには、朝鮮半島西岸沿いを船でいき、馬韓をへて、しばらく南にいき、しばらく東にいくと、倭国の北岸の狗邪韓国につく。その間、7000余里。はじめて海を横断し、1000余里で対馬国につく。そこの大官は卑狗といい、副官は卑奴母離という。離れ小島で、面積は400余里四方ほど。うっそうとした森林におおわれ、しかも山はけわしい。南に海をわたって1000余里で一大国〔一支国(壱岐国)か〕につく。 また海をわたって1000余里で末盧国につく。陸路を東南に500里いくと伊都国につく。そこの大官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚という。1000余戸あって代々の王もいるが、女王国の属国である。帯方郡からの使者が往き来するときは、いつもここで駐留する。ここから東南100里で奴国、東に100里で不弥国につく。 船で南に20日いって投馬国につく。そこから南に船で10日、陸を1カ月ほどいくと邪馬壱〔台〕国につく。ここが女王が都をおいているところである。 ●倭の習俗と社会
男はみな入れ墨する。もぐって魚・貝をとるときに大魚や海獣の害をさけるためだったが、のちに飾りになった。この国は、会稽郡東冶県の東にあたるらしい。
男子は中国のように冠をつけず、みずらを結い、布をかぶっている。体には横長の布をまきつけている。女子は髪をたばねて、単衣の布の中央に穴をあけ、そこから頭をだして着ている。稲・麻を植え、カイコをやしない、絹糸をつむいでいる。ここには牛、馬、トラ、ヒョウ、ヒツジ、カササギがいない。矛(ほこ)・楯・木弓を武器とし、竹の矢は鉄か骨の鏃(やじり)である。
気候は温暖で、年中生野菜を食べ、裸足(はだし)で生活している。まるでおしろいのように、朱を体にぬっている。飲食には高坏(たかつき)をつかい、手づかみで食べる。棺はつくるが外箱はなく、地面にうめて上に塚をきずく。人が死ぬと10余日は喪に服して肉を食べず、喪主は号泣し、ほかの人は歌舞・飲酒する。埋葬がおわると家族みんなで水浴びにいく。倭人が中国などにわたるときは、持衰という男が髪もとかさずシラミもとらず、衣服もあらわず、肉を食べず、女も近づけないで、ひたすら謹慎している。もし航海がうまくいけば褒美をあたえられるが、一行が病気や損害をうければ殺された。
物事の初めや往来には、焼いた骨にはいったひびをみて吉凶を占う。
人はみな酒好きで、100歳や80〜90歳くらいまで長生きする人が多い。支配層はみな4〜5人、一般人でも2〜3人の妻をもつが、女子はみだらでなく、嫉妬(しっと)しないし、盗みなどもしないので訴えごとが少ない。
●支配の実態
法をおかすと、軽ければ妻子が奴隷にされ、重い場合はその家族・一門が滅亡させられた。上下の身分差は厳然としてあるが、お互いに信頼している。税物を収納する建物がある。国々には市場が開かれ、物資の交換がなされ、大倭が不正のないよう監督している。
女王国の北の伊都国に一大率がいて諸国の監察にあたっているので、各国は彼をこわがっている。
支配層の者にあうと一般人は道をゆずって草むらにはいり、命令をつたえるときは一般人はひざまずいて両手をつき、承知したら「あい」という。
●卑弥呼像
倭国はもともと男子を王として70〜80年ほど経過したが、国内がみだれ、連年抗争をくりかえした。そこで卑弥呼という女性をたてて王とした。卑弥呼は鬼道(呪術)に通じていて、よく民衆をみちびいた。年をとっても夫をもたず、弟が国政を補佐している。人前にたたず、1000人の女奴隷をはべらせている。ひとりの男だけが食事の給仕と伝言にあたり、卑弥呼の部屋に出入りしている。その王宮は物見の楼閣や柵などの防衛施設がととのい、武装兵士にまもられている。
●魏との関係
238年(景初2、実際は景初3)6月、卑弥呼は大夫の難升米を帯方郡に派遣し、魏の天子(明帝)に謁見と朝貢を申しでてきた。帯方郡太守の劉夏は使者に難升米らを魏の都の洛陽まで案内させた。
その12月に、天子は卑弥呼に「親魏倭王卑弥呼に詔する。おまえははるばる大夫の難升米と都市牛利をつかわし、男女の生口(技術奴隷)と班布を献上してきた。おまえの忠孝をいとおしく思い、親魏倭王として紫綬のついた金印をあたえる。郡太守に付してとどけるからうけとりなさい。国内を安定させ、礼儀をととのえなさい。使者の2名もその労をねぎらい、それぞれに官職と青綬のついた銀印をさずける。返礼として赤地蛟竜文様の錦、縮みの粟粒(あわつぶ)文様の毛氈(もうせん)、深紅の布・紺青の布をあたえる。また特別に紺地の句文錦、細班華文様の毛氈、白絹、黄金8両、5尺の刀、銅鏡100枚、真珠、鉛丹(仙薬)をあたえる。帰国したら国中の者たちにみせ、中国がおまえをいつくしんでいることをよく知らせなさい」と詔した。
240年(正始元)郡太守の弓遵は使者をつかわし、少帝の詔書と印綬を倭国にとどけ、黄金と絹帛、刀、銅鏡、采物などをさずけた。倭王は上表文して感謝の言葉をのべた。
243年、倭王は伊声耆や掖邪狗ら8人の使者をおくって、生口、倭錦、赤青の絹、綿衣や短弓などを献上した。
245年、少帝は倭の難升米に帯方郡経由で黄色の中国軍旗をさずけた。
247年、郡太守の王?が政府にきていう。卑弥呼はもともと南にある狗奴国の男王の卑弥弓呼と仲がわるい。倭国は載斯烏越を帯方郡に派遣してその戦況を報告してきた、と。そこで中国は塞曹掾史(地方官)の張政を派遣し、少帝の詔書と中国軍旗を難升米にさずけ、狗奴国や動揺する倭の諸国に檄文をおくり、卑弥呼にしたがうよう告諭した。
●卑弥呼の後継者
卑弥呼は死んだので、大きな高塚をきずいた。その直径は100余歩分ほど。いっしょに奴婢100人あまりが葬られた。そのあとに男子の王がたったが諸国は服従せず、抗争がつづいて1000人あまりの死者がでた。そこでまた卑弥呼の一族の女で13歳の壱与〔「台与:とよ」の誤りか〕を擁立して王とした。これによって、国内はやっとおさまった。
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【追記 報道機関の最新ニュース〜近畿説を裏付ける遺跡が続々】
★卑弥呼の居館か 奈良・纒向遺跡から3世紀前半の建物跡が出土 2009.11.10 サンケイ 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半の国内最大規模の大型建物跡など2棟が見つかり、市教委が10日、発表した。倭国の女王、卑弥呼が活躍した時代(2世紀末〜3世紀前半)とほぼ一致。中国の歴史書・魏志倭人伝には「卑弥呼の宮室(宮殿)は楼観や城柵(じょうさく)を厳かに設け」と記され、卑弥呼の居館の可能性が浮上し、邪馬台国畿内説をさらに有力にする一級の資料になりそうだ。 大型建物跡は、東西2間(1間3・1メートル)、南北4間(1間4・8メートル)分を確認。西側は6世紀後半の水路で壊されていたが、市教委は建築様式などから、西側にさらに2間分延びていたと推測している。建物の規模は東西12・4メートル、南北19・2メートルで床面積は238平方メートルとなり、邪馬台国九州説の有力候補地・吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼市、吉野ケ里町)の大型建物跡(156平方メートル)を大幅に上回ることが分かった。 柱穴に残された痕跡から、柱は直径約30センチで、柱の間には床を支えるため直径15センチ程度の束柱(つかばしら)を立てるなど堅固な構造だったとみられている。 大型建物跡を復元した黒田龍二・神戸大准教授(日本建築史)によると、高床式の入り母屋造りで高さ約10メートルと推定。直径50センチ以上の太い柱を用いた弥生時代の大型建物と異なり、比較的細い柱でも造ることができる最先端の技術があったことがうかがえるという。 大型建物跡の西側では、棟持(むなもち)柱をもつ建物跡(東西5・3メートル、南北8メートル)も確認。これまでの調査でさらに西側で2棟の建物跡が見つかっており、計4棟が方位を合わせて東西に並んでいたことが判明した。このうち大型建物跡など3棟は、さくで囲まれていたという。 これらの建物群跡の外側は東西約150メートル、南北約100メートルにわたり、周囲より1メートル以上高台になっていることから、市教委は高台の範囲を宮殿の外郭、さくで囲まれた部分を内郭と想定。今回の調査区域は内郭の西半分にあたるという。 市教委の橋本輝彦主査は「建物の中心軸をそろえた極めて計画的な構造。方形で区画した飛鳥時代(7世紀)以降の宮殿構造につながる可能性もあり、国内最古の都市の中枢部が分かる重要な成果だ」と話した。 石野博信・香芝市二上山博物館長(考古学)の話 「建物の大きさだけでなく、建物群の中心軸が東西一直線に並んでいる点がすごい。これほど計画性のある建物群の遺構が見つかったのは古墳時代を通じて初めてだ。外郭もあり、復元されたら壮観だろう。祭祀(さいし)空間なのか政治空間なのかは現段階では分からないが、卑弥呼の館の可能性はある」
★国内最多銅鏡81枚 - 卑弥呼と関係か【桜井茶臼山古墳】 2010年1月8日 奈良新聞 初期ヤマト政権の大王墓とされる、桜井市外山の大型前方後円墳・桜井茶臼山古墳(3世紀末〜4世紀初め)で、国内最多となる81枚以上の銅鏡が副葬されていたことが分かり、県立橿原考古学研究所が7日、発表した。鏡の形式も最多となる13種類以上で、「卑弥呼の鏡」説もある中国・魏の年号入りの「三角縁神獣(さんかくぶちしんじゅう)鏡」もあった。「邪馬台国論争」にも影響を与える古代鏡研究の貴重な資料になりそうだ。
昨年実施した60年ぶりの再調査で、石室内の土中から銅鏡片計331点が出土。最大縦11.1センチ、横6.3センチで、多くは1〜2センチの細かな破片だった。盗掘時に割られたとみられ、完形品や本来の位置を保った遺物はなかった。過去に見つかった53点を含む破片計384点を調べたところ、81枚以上の鏡があったことが判明。国内最多だった平原遺跡1号墳(福岡県)の40面を大きく上回ることが分かった。
13種類以上の後漢から三国時代の中国産や国産の鏡を確認。半数近くが直径20センチ以上の大型鏡で、国内最大級の内行花文鏡(直径約38センチ)もあった。黒塚古墳(天理市)などに比べ、三角縁神獣鏡以外の鏡が多かった。 また、「是」の字が残る破片(縦1.7センチ、横1.4センチ)を3次元計測した結果、「正始元(240)年、陳是作鏡…」との銘文が入った蟹沢古墳(群馬県)の三角縁神獣鏡と一致。正始元年は邪馬台国の女王・卑弥呼の使者が帰国した年とされ、魏から贈られた「銅鏡100枚」の一つとする説も。県内での出土は初めてで、今後、専門家の論議を呼びそうだ。 同研究所の菅谷文則所長は「日本国家初期の『最高の王』の力を示す成果。今までの理論を超えた鏡の組み合わせで、今後は広い視野を持つことが必要だ」としている。このほか、ガラス製管玉や石製品なども見つかった。 |
| 女王陛下にィィィィイ! | 土下座ァーッ!!ハハーッ!!(1999) |
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| 豪徳寺の山門 |
吉田松陰を敬愛する僕にとって、当初は受け入れ難い存在だった。 しかし桜田門外の変の当日のエピソードを知って一気に好感度がアップした(2008年) |
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| 2001年 | 故郷では英雄 | 付近は彦根藩士の墓所だ |
| 通称、鉄三郎。彦根藩主の十四男として生まれる。文武両道で、和歌を詠み、槍術を得意とした。43歳で幕府の大老に就任。開国派で朝廷に無断で日米修好通商条約を結び、これに反抗する攘夷派を徹底して処罰した(安政の大獄)。 世間では「安政の大獄」で吉田松陰らを処刑し、志士を弾圧したことで井伊大老を悪人と感じている人が多い。実際自分も次のエピソードを知るまではそうだった---井伊直弼は殺される当日の朝、「今日は危ないことがあるようだから、病気と称して江戸城への登城を見合わせるよう」という暗殺計画を密告した匿名の手紙を、実は受け取っていた!しかし、大老は忠告を無視して、あえて普段通り登城し、待ち伏せしていた水戸藩士たちに斬り殺された。大老はまるでこの日を覚悟していたかのようだ。彼の政治思想は志士たちとは反対の方向にあったが、一身をかけて真剣に国政に挑んでいたことは間違いない。あっぱれじゃないか! ※今でも「桜田門外の変」で切られた大老の首が、皇居のお堀に沈んでいるらしい。 ※「一期一会」は井伊大老による言葉。茶人名は井伊宗観。 ※彦根市里根町の天寧寺には、四斗樽に直弼の遺品を入れ、桜田門外の血染めの土を運んで埋葬したという『井伊直弼供養塔』が建つ。 |
| ●井伊と吉田松陰の墓は近い。徳富蘆花が『謀叛論』の冒頭でそのことに触れた名文を残している。 『僕は武蔵野の片隅に住んで居る。東京へ出るたびに、必ず世田ケ谷を通る。僕の家から少し歩くと、豪徳寺(井伊直弼の墓で名高い寺)がある。そこからもう少し行くと、谷の向うに杉や松の茂った丘が見え、その上に吉田松陰の墓を擁する松陰神社がある。 井伊と吉田、50年前には互いに不倶戴天(ふぐたいてん)の仇敵で、安政の大獄に井伊が吉田の首を斬れば、今度は桜田の雪を紅に染めて井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨を消してしまって谷ひとつのさし向いで安らかに眠っている。 今日の我らが見れば、松陰はもとより混じりけ無しの純粋な志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、50年後の今日から歴史の背景に照して見れば、つまるところ今日の日本を造り出さんが為に、反対の方向から相槌(あいづち)を打ったに過ぎない。 彼等は各々その位置に立ち自信にたって、出来るだけの事を存分に行なって土に入り、その墓の近所で明治の今日に生きる百姓らは、さりげなく、かつ、悠々と麦などを作っている。 |
| 『井伊直弼の墓、埋葬状況解明へレーダー探査』2010年1月5日(読売) 東京・世田谷の豪徳寺にある幕末の大老・井伊直弼(なおすけ)(1815〜60年)の墓について、世田谷区教育委員会は、墓を改修するのに伴い、地中レーダー探査を今週、行うことを決めた。桜田門外の変で暗殺された直弼の埋葬状況の解明につながるものと期待される。豪徳寺には、直弼をはじめ、井伊家が代々治めた彦根藩の藩主6人のほか、正室・側室、家臣らを含め、300基以上の墓がある。改修にあたり、区教委が先月までに、現状を確認するため、地下約2メートル下まで発掘したが、直弼を葬った棺おけは見つからず、レーダー探査によって、棺おけの位置を特定することにした。直弼は、尊王攘夷(じょうい)派の志士たちを厳しく取り締まる安政の大獄(1858〜59年)を実行し、憤激した水戸浪士たちに、江戸城桜田門外で暗殺され、首を切り落とされた。だが、大老という要職が暗殺されたことによる幕府権力の動揺を恐れ、幕府当局は、直弼の死を約2か月間、公表しなかった。そのため、死後の直弼の埋葬状況については確定的な情報が少なく、水戸浪士が首を持ち去ったとの説も流れている。 |
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| 古墳から盛り土がすべて奪われ、無惨に石室が剥き出しになっている。 「蘇我氏憎し」の後世の政権の仕業と見られる。 |
馬子が創設した飛鳥寺には 日本最古の仏像・飛鳥大仏が鎮座 |
ちなみに飛鳥大仏の前には本物の 釈迦の骨(米粒大の)が安置されてる |
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| 1999 | 2005 |
| 大阪太子町にも馬子のものと伝えられる墓がある。 なんと墓の下から大木が突き出て、重い墓石 が傾いてしまっている。こんなの見たことない! 生前のパワフルな馬子を象徴するかのようだ。 |
6年ぶりに再訪したら、馬子の墓が後方に移されていて ビックリ!近所の人に話を聞くと、横に倒壊寸前だったので 05年に墓域を整備したとのこと。以前は柵に囲われ立入 禁止だったけど、今は墓石にだって触れる事が可能だ。 |
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蘇我氏とはどんな一族なのか。以前は大和盆地の土着の豪族という説もあったが、近年は朝鮮半島から渡日して大和国曽我(奈良・橿原)や河内国石川(大阪・南河内郡)を本拠地に定め、渡来人社会に支えられて頭角を現したとする説が有力になっている。馬子が執拗に新羅へ兵を派遣したのは、蘇我氏が百済系であり百済と対立した新羅を敵視していたとも、蘇我氏の祖先が新羅王族の“昔(せき)氏”で、昔氏が4世紀半ばに王位(新羅王朝)を金氏に奪われたので祖先のリベンジで金王朝へ派兵したとも言われている。蘇我一族は蘇我満智(まち、馬子の曾々祖父)の代に半島を追われて出雲に渡り、そこから飛鳥に入ったとされる。
渡来説の主な根拠は以下の通り--
・一族の名前が、蘇我満智→韓子→高麗→稲目(いなめ)→馬子と、朝鮮色が濃厚。 ・馬子が蘇我氏の氏寺(私寺)・飛鳥寺で百済服を着用していたことが古文書に記載されている。 ・蘇我氏の配下の邸宅跡から朝鮮のオンドル(床下暖房)の設備や半島様式の池が見つかっている。 ・蘇我氏の本拠地・奈良橿原一帯は古墳の発祥地であり、副葬品にガラス椀など日本で未生産の宝物があった。 ・日本に仏教が伝来する前から渡来人は「大唐神(おおからのかみ)」の名で仏像を自宅に安置していた。蘇我氏が物部氏と違って仏教を熱心に受け入れた事と辻褄が合う。 ・遣隋使の構想など世界観のスケールの大きさは、国境を越えた渡来系ゆえ。 ・「半島から出雲を経て飛鳥に入った」説は、出雲大社の真後ろの神社名が「素鵞社」(そがのやしろ=ソガ神社)であったり、奈良橿原の蘇我入鹿を祀る「入鹿神社」が出雲と縁深いスサノオノミコトも祀っていること等々から。 ・当時の国際情勢として、532年に加耶の金官国が新羅に滅ぼされるなど、半島では高句麗、新羅、百済が覇権を競っており、蘇我氏だけでなく、多くの人が戦乱を避けて日本へ渡っていた。渡来系の人口は先住の縄文人を大きく上回り、総人口の約7割にのぼったという。(人口約10万→60万に激増?) ・朝廷で誰も読めなかった高句麗の国書を馬子の側近が翻訳するなど、有能な渡来系の人々が蘇我氏のもとに結集していた。移民社会で支持される理由は蘇我氏が半島を象徴する一族であったと考える方が自然、等々。 ●蘇我稲目 536年、馬子の父・蘇我稲目が大臣(おおおみ、今の首相)となる。稲目は2人の娘を欽明(きんめい)天皇の妃とした。後の用明天皇(聖徳太子の父)・崇峻天皇・推古天皇は蘇我の血が流れる稲目の孫だ。馬子は稲目が40歳を過ぎた頃に生まれた。 538年、百済の王から大和朝廷に仏像(釈迦如来像)と経典が献じられ、そこに次の言葉が添えられていた--「仏教は様々な教えの中で最も優れているので日本にも伝えます。遠くインドから朝鮮半島に至るまでこの教えに従っています」。受け取った欽明天皇は「仏教などかつて見たことも聞いたこともない」と、臣下に拝むべきか否か問いかける。稲目は大陸の進歩した技術・文化の中心に仏教があることを知っていたので、「西方の国々はどこも仏教を祀っています」と容認派に立ち、軍事を司る保守派の物部尾輿(おこし)や神事を司る中臣鎌子(注・「大化の改新」の中臣鎌子とは別人)は「他国の神をまつれば、天照大神や日本古来の神々の怒りをかってしまう」と強く反対した。 天皇は「試しに仏像を稲目に拝ませよう」と提案し、稲目は自邸をお堂にして仏像を安置した。ところが偶然この年に天然痘が大流行し、多くの死者が出てしまう。排仏派は「それみたことか。異国の神を祀ったからだ」と気色ばみ、お堂は焼かれ仏像は難波池(大阪難波ではなく飛鳥の難波池)に沈められた。この対立は半世紀後に互いの子孫の軍事衝突へと繋がっていく。 ※沈んだ仏像は翌年に欽明天皇が引き揚げたとも、602年に引き揚げられ信濃国(長野)の善光寺の本尊となったとも言われている。 569年に稲目が他界。572年、敏達(びだつ)天皇が即位し、馬子は父の跡を継ぎ21歳で大臣(おおおみ、今の総理大臣)に就任。物部氏も尾輿から息子の守屋に家督が移り、馬子と守屋が全面対決する時代を迎える。 ●蘇我馬子VS物部守屋 馬子は父と同じく、仏教を単なる宗教ではなく、高度な工芸美術や建築技術、最新の哲学を擁した総合文化と見ていた。新羅が百済より優勢なのは仏教信仰が盛んだからと考え、流入する渡来人と日本人を仏教が共通の価値観で結ぶ橋渡しになると考えた。 584年(33歳)、馬子は布教を誓って行動を開始する。自邸に仏殿を造って仏像を安置すると、自ら高句麗僧に帰依した。そして翌年には、飛鳥の丘に仏舎利(釈迦の遺骨)を納める塔を建てこれを礼拝した。だがしかし、またしても運悪く疫病が流行する。「神道をないがしろにしたタタリだ!」と今回も物部氏に糾弾され、時の敏達天皇は仏教禁止令を出した。ただちに守屋は仏殿を襲って仏像を破壊し、仏塔を焼き払った。物部氏は軍を握っており馬子には為す術もなく、焼け落ちる仏殿を見て彼は泣き叫んだという。ところがこの事件の直後に敏達天皇が病で逝去し、「仏殿を焼いたタタリではないか、仏罰が下ったのではないか」と豪族の間に動揺が走る。 敏達天皇の葬儀で馬子と守屋はさらに亀裂を深める。両者が弔辞を読み上げた際、小柄な馬子が長刀を差す姿を「まるで矢が突き刺さった雀ですな」と守屋が嘲り、一方、緊張で声を震わせて弔辞を読む守屋を「貴殿に鈴を付けたら面白そうだ」と鼻で笑った。両者、火花散りまくり。 次に即位したのは馬子の妹が産んだ用明天皇。用明天皇は即位後ほどなくして病に伏し、神道を頼っても治癒しなかったことから、587年4月2日、天皇として史上初めて仏教を受け入れる事を表明した。これで一気に風向きが変わる。これまで物部氏の配下にいた豪族が、次々と蘇我氏のもとに集まってきたのだ。守屋はこれ以上馬子が力をつける前に武力で滅ぼすことを決意、馬子も「いずれ避けては通れぬ道、長年の因縁に決着をつける時が来た」と武装を整えた。 用明天皇が崩御して緊張が高まり、7月、決戦の火蓋が切られる(戦場は現・東大阪市)。諸豪族を味方につけた蘇我軍は次々と物部軍の防衛ラインを突破したが、守屋は軍事部門のトップ。本陣付近の樹の上に弓矢部隊を配置して、油断して接近した蘇我軍の頭上に矢の雨を降らせた。多数の犠牲者を出し馬子たちは3度撤退する。兵達は疲労し敗戦の空気が流れ始めたが、この窮地を救ったのが14歳で蘇我軍に加わっていた用明天皇の子、聖徳太子だった。彼は巧みに仏像を彫りあげて仏の加護をアピール、部隊の士気を一気に高め4度目の突撃が敢行される。馬子の刺客が守屋に矢を命中させ、大将を失った物部軍は総崩れになり、ここに物部氏は滅亡した。翌月、馬子は崇峻天皇を擁立。36歳で天下をとった。 ●太子と組んで文明国家へ 588年、心置きなく仏教を広めることが可能になった馬子は国内初の本格的仏教寺院となる飛鳥寺の建設をスタートさせる(21年後に完成)。この寺は日本初の瓦屋根の建物であり、五重塔も備えていた。重い瓦を支える建築技術は日本になく、馬子は多数の建築家や僧侶を半島から招致する。 592年(41歳)、即位5年目の崇峻天皇が馬子の支配を嫌ったので刺客・東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を放ち暗殺した。日本の歴史上、天皇が臣下に殺されたことが完全に分かっているのは崇峻天皇のみ(あとは毒殺とかハッキリしない)。次の天皇には馬子の妹の娘で初の女帝・推古天皇を即位させた。馬子の娘は聖徳太子と結婚した。こういった怒涛の政界工作で、馬子は権力をより堅固にしていった。 594年、大和政権は仏教を国教とする『三宝興隆の詔』を発し、諸豪族は競うように寺院を建設し始め、法隆寺、広隆寺、橘寺など次々と完成していく。596年には飛鳥寺も僧侶が住める状態になった。 一方、時を同じくして大陸では370年ぶりの統一王朝「隋」が誕生。この巨大帝国は高句麗を攻め始めた。600年、世界情勢を把握する為に中国へ120年ぶりの使者「遣隋使」を派遣した。ところが、日本の使節団は野蛮な後進国としてまともに相手をしてもらえない。馬子と太子は政治システムや文化レベルを国際標準にあわせる必要を痛感し、603年に冠位十二階を、604年に十七条憲法を制定し、607年(56歳)、2度目の遣隋使を派遣。翌年に返書を持って渡日した隋の使節は、未開の島国と思っていた日本に、美しい大伽藍を持つ飛鳥寺があることに仰天し、ここに国交が樹立された。609年には金色の飛鳥大仏を飛鳥寺に安置し、同寺はついに完成をみた。馬子は九州から東国までの幹線道路を整備し、各地で農業用水を作って生産力を高め、税収の基本となる戸籍制度を整えるなど、国政に腕を振るう。 622年に聖徳太子が他界し、626年に馬子も75歳で世を去り、ここに一つの時代が終わった。日本書紀には馬子の亡骸が桃原墓に葬られたと記されており、これは奈良県高市郡明日香村島庄の石舞台古墳と見られている。理由は以下の通り。 ・一辺が50mを超え、王陵(天皇の墓)に匹敵する大きさで、中央の巨大石室は全長20mと日本3位の長さ。こんな権力を持っていたのは馬子だけ。 ・建立時は立派な古墳だったのに、今は周囲の盛り土がすべて奪われ、無惨に石室が剥き出しになっている。「蘇我氏憎し」の後世の政権の仕業と見られる。 ・飛鳥全体を見渡せる一等地にある。 ・日本書紀では馬子の名が「嶋大臣」と書かれており、古墳がある明日香村「島庄」とドンピシャ。 ●後世の評価 歴史はしばしば勝者の手で事実を書き換えられ後世に伝えられてきた。馬子の死からわずか20年後に「大化の改新」で蘇我氏は滅ぶことになるが、日本人がイメージする蘇我氏は、正義のヒーロー・中大兄皇子(天智天皇)と藤原鎌足に倒される「悪の一族」だ。これは明治政府が天皇家の権威を高める為に導入したイメージ戦略のたまもの。それまでは「大化の改新」という言葉自体が存在しなかった。 『日本書紀』を書かせた天武天皇は中大兄皇子の弟。編纂の目的は天皇家が国を支配する正当性を過去にさかのぼって証明することだ。権力を奪取したクーデターに大義名分を与える為に、どうしても“極悪非道な”蘇我氏像が必要だった。しかし、現実には逆臣のはずの入鹿を祀る「入鹿神社」が奈良にあったり、鎌倉期の文献で蘇我氏が「仏教を尊び広めた偉人」と記述されているように、幕末まで人々は蘇我氏を敬愛すべき人物と考えていた。例えば、入鹿神社の近辺には江戸後期(1806年)に『蘇我入鹿公 御旧跡』と刻まれた道標が建立されており、わざわざ道標が建てられるほど多くの人が入鹿神社に詣でていたことが、そこからも分かる。 しかし明治政府は天皇家を権威づけしようとするあまり、“朝廷を操る逆賊・蘇我氏を中大兄皇子や藤原鎌足が成敗し、天皇の権威を復活させた”“現皇室は天智・天武天皇の権力を受け継いだ正義の血筋”と強調し、蘇我氏が仏教の経典を通して文字を普及させ(日本最古の書物は聖徳太子が615年に書いた『法華義疏』)、飛鳥寺建立によって日本に最先端の建築技術を伝え、仏教美術を通して工芸技術を発展させ、積極的な外交活動で日本の国際的地位を向上させた業績が、長らく無視されてきた。そして最近になって、「大化の改新」という言葉が勝者側に偏り過ぎているとして、645年の干支にならって「乙巳(いっし)の変」 と呼ぶようになってきていることを、最後に付け加えておく。 ※蘇我宗家の血は入鹿で絶えたが、分家の血は持統天皇に受け継がれている。
※天武天皇は入鹿の子で、壬申の乱で大化改新のかたきを取ったという説もある。 ※百済系渡来人で有名なのは天智天皇の孫と結婚し桓武天皇を生んだ高野新笠(たかののにいがさ)。 ※僕が学生時代にマンガ『日出処の天子』を読んで「悪党・蘇我氏」という印象が消え、滅び行く一族に同情するようになった。 一人の仏像ファンとしても馬子に礼が言いたい。日本に仏像があって良かった。 |

| 政子は親が決めた縁談を破棄し、当時は平家の天下であるにもかかわらず、源氏の頼朝と駆け落ちした超激情型の女性。頼朝が愛人を作ったことを知った時、兵を出して愛人の館を焼き払った。あの非情な頼朝をお尻の下に敷いていたんだから、たいしたもんだ。義経の愛人・静御前が、頼朝の目の前で義経を想う舞いを踊って激怒させた時、「彼女の気持は分かります」と頼朝をなだめて命を助けてやったのも政子。夫の死後、承久の乱の時に東国武士たちに気合を入れた演説は、胸を打つ内容として高く評価されている。 |

| 8代将軍。和歌山藩の藩主徳川光貞の四男。身長が180cmを超え、当時の日本人としては大変な大男だった。色黒でガッチリしており、関取と相撲までとった記録がある。 母親は百姓出身で、屋敷での奉公中に光貞の目にとまり吉宗を宿したという。母の身分が低かった為、5歳まで家臣の子として育てられたが、藩主を継いだ3人の兄が相次いで亡くなり、21歳の若さで和歌山藩5代藩主に就任した。和歌山藩は長く財政難で苦しんでいたが、吉宗は粗食を食べ、粗末な着物を着ることで自ら手本となって倹約を呼びかけ、また農政改革なども断行して、5年間で見事に藩を立て直した。1716年、江戸では6代将軍家宣の病死後、次の家継も8歳で死亡し、徳川本家の血筋が途絶えてしまう。老中たちが後継者に推したのは藩主として実績のある吉宗だった。彼は当初この申し出を固辞したが、“これは家宣の遺言なのです”と6代家宣夫人から説得され将軍職を承諾する。時に吉宗32歳。5代綱吉の頃から悪化する一方の幕府の財政事情を目の当たりにした彼は、幕府財政の再建の為に不退転の決意で30年にわたる「享保の改革」に乗り出す。 江戸城の中で過保護に育てられた従来の将軍と違い、和歌山など地方に暮らす庶民の声にも触れてきた吉宗の改革は、机上の空論ではなく具体性があった。米価を調節し、新田の開発をすすめ、飢饉対策として青木昆陽に薩摩芋(甘藷)の栽培法を研究させた。全国各地の特産品の開発振興をうながし、学問を奨励する為に寺小屋に教科書を配り、洋書の輸入を緩和して、学者にはオランダ語を学ばせた。また100万都市の秩序維持のため刑法を制定するなど法令を編纂(へんさん)し、奉行所には人望の厚い大岡越前守を登用した。参勤交代を緩め大名の負担を減らし、倹約をアピールする為に、江戸城に70万両をかけて造った門を解体させた。
役人の不正をなくす為に江戸城前に目安箱を置いて民衆に投書させ、吉宗は自分でこれらを読んだという。目安箱から採用された有名な例として、いろは48組からなる町火消の設立や、極貧病人の為の無料の医療施設・小石川養生所の開設などがある。61歳で将軍職を子の家重に譲り、その6年後に没した。
寛永寺には吉宗の墓だけでなく、四代家綱、五代網吉、十代家治、十一代家斉、十三代家定の6代将軍の霊廟がある。ただし!吉宗を含めて全員が徳川家専用の墓地に眠っており、一般公開はされていない。必然的に、外から手を合わせる「遥拝」(ようはい)という形になる。しかし、墓前に謁見できる可能性が全くないわけではない。方法はふたつ。1.徳川家の親族になる(かなり難易度が高い)2.秋に台東区が開催する『上野の山文化ゾーンフェスティバル』の寛永寺拝観ツアーに応募する(まだこっちの方が一抹の望みあり)。もし定員80名の中に抽選で選ばれれば、晴れて葵の紋所の聖域に入ることが許されるのだ。頑張ろう!
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| 沖縄生まれ。琉球一の人物になることを願って「球一」と付けられた。戦時中に革命運動に加わり、政治犯として終戦まで18年間も投獄されていた。その後、衆議院議員となったが共産党を組織したことでマッカーサーの圧力を受け政界から追放。地下に潜り、最後は中国・北京で息をひきとった。その思想がどうあれ、長年に渡る獄中での拷問に耐えきった信念の人。 |
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| 百済から渡来した 王子という説もある |
明治時代の百円札に 載っていた鎌足の肖像画 |
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| 鎌足の古墳は、山頂付近に見える大きな白い建物 (地震観測所)の裏手あたり (2008) |
地震観測所から古墳まで案内標識が出ている。 「墓室」という標識の約3m地下に眠っていた |
| 中臣鎌足。藤原氏の祖。次男は奈良期に政界の頂点に立った不比等。中臣家は代々神道の祭祀を司ってきた名門。青年貴族の鎌足は海外の動向にかねてから関心を持っていた。640年(26歳)、大陸から32年ぶりに帰国した南淵請安(しょうあん、遣隋使の留学僧)が私塾を開くと、さっそく彼は通いつめ、師が見届けた隋の滅亡、唐の誕生の話を熱心に聞いた。643年(29歳)、蘇我系の天皇擁立を目指していた蘇我入鹿が、皇位継承権を主張していた聖徳太子の息子・山背大兄王ら太子一族を皆殺しにする。蘇我氏は広大な宮殿に住み、墓も天皇にしか許されていなかった巨大御陵(古墳)を造営した。 国内の政局が混沌とする中、644年(30歳)、国外では超大国・唐が高句麗への侵略を開始。鎌足は豪族同士が内乱を続けている場合ではなく、一刻も早く強力な中央集権国家を作らねば諸外国につけ入られてしまうと憂慮する。同年、鎌足は朝廷祭祀官への就任を要請されたがこれを断り、飛鳥を離れて摂津国三島に下がった。緊張した国際情勢を乗り切る為にも、鎌足は唐に対抗できる指導力のある皇子を探していたのだ(1年半をかけてクーデターの準備を進めることになる)。 そんなおり、飛鳥寺の蹴鞠(けまり)会で中大兄皇子(後の天智天皇、鎌足の12歳年下)の脱げて飛んだ靴を鎌足が拾い、これが縁となって両者は親交を結ぶ。同じ私塾に通っていたこともあり、帰り道に両者は国政について熱く語り合った。その結果、まずは位の高い同志が必要ということで、鎌足は蘇我一族の内部対立を利用して蘇我石川麻呂を味方につける事に成功する。鎌足は石川麻呂の娘を中大兄皇子に嫁がせることで、巨大な蘇我一族の力を分断した。 645年5月、鎌足(31歳)と中大兄皇子(19歳)は、奈良桜井・多武峰(とうのみね)の山中でクーデター当日の作戦を練った(この談合した場所が後に談山神社となる)。入鹿はいつも屈強な護衛を連れ、屋敷も厳重に警備されており、簡単に討てる相手ではなかった。そこで、宮中ならば護衛もいないということで、三韓(百済・新羅・高句麗)の外交使節を迎える6月12日を決行日に決めた。白昼に天皇の御前で、そして海外の外交団が居並ぶ前で、最高位の大臣を皇子が斬り殺すという、前代未聞の大胆な暗殺計画だった。 当日、小雨が降る飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)。まずは入鹿が腰に帯びている剣を、踊り子が「歓迎の舞い」の中で外させることに成功、入鹿は丸腰になった。続いて10の門を全て閉ざし逃亡できないようにする。そして中大兄皇子が槍を、鎌足が弓矢を手に殿中に潜んだ。その後の計画は、石川麻呂が皇極天皇(中大兄皇子の母)に上表文を読み始めるのを合図として、同志の佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田が入鹿に一刀を浴びせ、中大兄皇子と鎌足がトドメを刺す段取りだった。 しかし!石川麻呂の上表文が終わりに近づいても、なかなか刺客の攻撃が始まらない。「もしや計画がバレたのでは!?」石川麻呂は手足が震え冷汗をかき、声が上ずった。入鹿から「貴公はなぜそれほど震えているのか」と問われ、石川麻呂は「天皇の御前であり、畏れ多くて震えているのです」と答えた。両者が会話しているのを“隙あり”と見た中大兄皇子は飛び出し、佐伯連子麻呂らと共に「ヤァ!」と肩や脚に斬り付けた。入鹿は血を流して帝の前に倒れ「どうして私がこのような目に」と叫び、天皇も「これは何事か」と驚く。中大兄皇子は「皇位を奪おうとした入鹿めを成敗しました」。天皇は暗黙の了解を与えるように背中を向けて退出した。まだ息のあった入鹿は、さらに斬られ絶命した。 その場に居合わせた各国の来賓、貴族たちは突然の出来事に誰もが絶句していた。入鹿の遺体は外に放り出され雨に濡れていた。 この事件は入鹿の父・蘇我蝦夷(えみし、馬子の子)にもすぐ伝わった。蝦夷は屋敷の防御を固め戦闘態勢に入ったが、兵たちが中大兄皇子の使者に説得されて武装を解いたことから、抵抗の無意味さを悟って邸に火を放ち自害する。こうして蘇我宗家は滅亡した。(乙巳の変) 「大化の改新」以降の鎌足は内臣(参謀)となって軍事指揮権を掌握。中大兄皇子は内政改革に集中する為に孝徳・斉明天皇を立てて自身は皇子に留まり、ようやく即位して天智(てんじ)天皇となったのは23年後の668年だった(皇位は即位直前まで7年間空白だった)、鎌足はこの間、影に表にずっと中大兄皇子の腹心として活躍し、公地公民制、班田収授制、国郡制、租・庸・調の税制、戸籍の作成など国家体制の骨格づくりに一生を捧げた。 669年10月(55歳)。鎌足は落馬で重傷を負い病床に就く。病状が深刻と聞いた天智天皇は自ら鎌足邸へ見舞いに訪れた。鎌足曰く「思い残すことは何もありません。葬儀はなるべく質素にして、民に迷惑をかけぬようお願いします」。その5日後、天智天皇は弟の大海人皇子を鎌足邸へ遣わせ、鎌足の為に用意した“大織冠”(たいしょくかん)と「藤原」の姓を授与した。この翌日、鎌足は他界した。2人が初めて出会ってから四半世紀、大化の改新以後も共に荒波を乗り越えてきた。訃報を聞いた天智天皇は、人目をはばからず号泣したという。この2年後に天智天皇も45歳で世を去った。“大職冠”は冠位十二階より上位の最高位であり、日本史上でこの称号を与えられたのは鎌足しかいない。 歴史は皮肉だ。この後、大荘園を支配して公地公民制を崩し、皇室に娘を送り込んで国政に介入し、蘇我氏と同じ様なことをして、鎌足と天智天皇が築いた律令体制を、一族の利益の為に利用しまくったのは、他ならぬ「鎌足の子孫」たち、藤原不比等、道長らだった。遺言で「墓は質素に」と民を気遣った鎌足だけに、平安朝の宮廷政治を独占した子孫が詠んだ次の歌に怒り心頭だろう。『この世をば わが世とぞ思う望月の 欠けたることもなしと思えば』“この世は全て私のモノだ。我が人生は満月の如く何ひとつ欠けていない”(藤原道長) ●墓のビックリ・エピソード 鎌足の墓には実にドラマチックなエピソードがある。『多武峯略記』『三代実録』『藤氏家伝』などの文献に「最初は摂津国安威(現・大阪茨木市)に葬られ、後に大和多武峯に改葬された」と書かれていることから、千年以上も墓所は奈良県桜井市多武峯の談山神社と思われてきた。ところが!1934年、大阪茨木市安威と高槻市にまたがる阿武山(標高約214m)で、京大阿武山地震観測所の拡張工事中に、偶然地中から石室と棺が発見され事態は急変した。過去1265年間この直径約80mの古墳は一度も盗掘されておらず、棺内から60歳前後の男性人骨と副葬品(美しいガラス玉を連ねた超一級の枕や7世紀の土器)が出てきた。古墳発見後の一般公開では、たった10日間で2万人が見学に訪れたと言うから、当時の凄いフィーバーぶりが伺える。当初より“貴人の墓”として見られていたが、棺内から金色の糸が出てきたことで天皇の可能性が出てきた。この時点で調査は強制終了。戦前でもあり、これ以上は不敬罪に当たるとして政府が介入、憲兵隊の監視下で全てが埋め戻されてしまった。 それから約50年後の1982年。何と、かつて発掘直後に研究者がこっそり隠し撮りをした、被葬者の調査写真が34枚も京大地震研で発見された!中にはX線写真や故人の毛髪まであった。新資料を5年間をかけ分析した結果、金糸(金モール)は冠帽の刺繍のもの、死亡原因は肋骨など複数の骨折による二次的な合併症ということが分かった。ここで鎌足が俄然脚光を浴びることになる。骨折は鎌足が落馬で大けがをした史実と合致する。また、古墳から金糸が見つかる例は極めて少ないのに(入ってても数センチ程度)、常識を遥かに超える「100m」という長さの金糸が冠帽の形をして横たわっていた。通常の冠帽には刺繍すらないことから、これは日本書紀に記録がある「大織冠」ということになり、この冠帽をかぶる資格のある歴史上唯一の人間、「藤原鎌足」の墓と断定されたのだ。 それにしても、墓の発見エピソードで、これほど奇跡が連続して起きた話は聞いたことがない。京大地震研究所が拡張工事をしなければ、おそらく永遠に土中の棺に気づくこともなかったであろうこと、不敬罪覚悟でレントゲン撮影した勇気ある研究員が戦前にいたこと、その隠し撮り写真が眠ったままになってたのをこれまた偶然半世紀後に見つけた人がいたこと、何もかもがビックリだ!(まるで映画みたいな話だ) ※鎌足の出生に関しては大きく4つの説がある。(1)『藤氏家伝』の大和国藤原説(現橿原市)(2)飛鳥大原神社説、産湯の井戸がある(現明日香村)説(3)『大鏡』の常陸国鹿島説(4)百済から渡来した王子説。「藤原」の姓を賜わったのは、邸宅の所在地が藤原であったとする説、渡来系なので『百(ホ)済(ゼ)倭(ワ)国(ラ)』の“百済倭国”(ホゼワラ)の当て字が「藤原」という説もある。両国友好の架け橋となる名前だ。 ※鎌足百済出身説…阿武山古墳のように円墳の周囲を溝で掘ったり、石室の上に盛り土をするといった特種形態の古墳は他に国内に例はなく、鎌足と同時代(7世紀)の百済の首都・扶余の古墳群に同タイプの物があるという。古墳に剣・鏡・玉の“副葬品セット”がなかったのも日本式でない証拠。ある時、宴席で天智天皇と弟の大海人皇子が口論になり、興奮して槍を床に刺した皇子対し、天智天皇も激高して刀を抜こうとした。この場を間に入って収めたのが鎌足。彼は百済を内乱の挙句に追放された身であり、身内で争うことがどれほど愚かのことか痛感していたという。 ※現在、談山神社に埋葬されているのは鎌足の次男・不比等とする『延喜式』の説が多く支持されている。後年の藤原氏としては、始祖の墓の場所が不明とあっては面目に関ることであり、「改葬した」と嘘をついてまで鎌足の廟を造る必要があったのだろう。 ※不比等の娘・宮子は文武天皇の妃となって聖武天皇を生んだ。 ※中大兄皇子の黒歴史。「大化の改新」後、中大兄皇子は噂だけで入鹿暗殺の同志・蘇我石川麻呂(上表文を読んだ人)に謀反の疑いをかけ、釈明の機会も与えず軍を送り自殺に追い込んでしまう。後日、石川麻呂の無実を知って中大兄皇子は大いに嘆き悲しんだという。自分の父を夫(皇子)に殺された妻・蘇我遠智娘は狂死した。 ※「秋の田の かりほの庵(いお)の 苫(とま)をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」(百人一首 中大兄皇子/天智天皇) ※万葉集にある鎌足の歌が何かかわいい。豪族の娘さんの安見児(ヤスミコ)に想いが届いた時の歌。「吾はもや安見児得たり 人の得かてにすとふ安見児得たり」(俺は憧れの安見児を 得たぞ!皆が高嶺の花と言う安見児を得たぞ!) |
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| 6:50の大久保 | 13:00の大久保 | 16:30の大久保 | 20:00の大久保 |
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| 大久保の背後には知る人ぞ知る遊び心が。 彼は馬が大好きだったので足下に馬がいる♪ |
鹿児島市中心部を流れる甲突川の川岸に建つ石碑 「大久保利通君誕生之地」。近くに西郷の生地もある |
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| 薩英戦争記念碑 | 天保山砲台跡 | 祇園之州砲台跡 |
| 1863年6月薩英戦争が勃発。3日間の砲撃戦の死傷者数は英軍63名、薩摩軍19名と数字の上では勝っているが、城下は 火の海になった。薩摩の砲台は英軍7隻のアームストロング砲計101門(射程4倍)の前に壊滅し、攘夷不可能と薩摩藩は痛感する |
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| 鹿児島市の「西南の役官軍戦没者慰霊塔」。西南戦争は政府軍の勝利に終わったが、西郷たち の抵抗は凄まじく、薩軍の死者6400人に対し、官軍の死者はそれを上回る6840人にのぼった。 国内最後の内戦は、両軍あわせて13240人という膨大な命が消えて終結したのであった |
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| 墓碑の高さは僕が知る限り日本最大の5メートル(2006) |
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| 亀に乗って桃源郷へ |
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| 墓後方には暗殺時に殺された馭者と馬の墓もある(2000) | 西郷と夢を追っていた頃 | 非業の死を遂げる |
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通称正助、号は甲東。西郷隆盛、木戸孝允(たかよし)と並ぶ維新の三傑。元薩摩藩の下級武士。3歳年上の西郷は同じ町に生まれた幼馴染で、2人の家は100mしか離れていなかった。15歳の時に藩の記録所へ出仕。20歳の頃、父親が藩の御家騒動に巻き込まれて島流しにあい、彼も失職する。この時の苦労が彼を現実主義者にした。翌年父が許された後は、西郷と組んで藩政の改革に乗り出す。
西郷は相手が藩主であろうと何でもストレートに物言いする男。裏表がない分、世渡りが下手だ。一方、大久保はそんな西郷をフォローする役回りを演じた。大久保は西郷がスケープゴートになってくれているお陰で、両者は同じ意見であるにもかかわらず、保守派からは穏健的に見られ評価を上げていた。だからこそ大久保は、「吉之助(西郷の本名)どんに切腹命令が出た時は一緒に死ぬばい」と誓っていた(30歳)。やがて33歳の時に薩英戦争、そして翌年に下関戦争が起こり、欧米諸国との絶望的な戦力差に愕然とする。今の幕府では諸外国と対抗できない…大久保は幕府を倒すことが急務だと確信した。36歳の時に西郷と一緒に上京し、京都で長州藩の木戸と薩長同盟を締結。1867年(37歳)、王政復古を果たす。翌年正月の鳥羽伏見の戦いで幕府軍に決定的な勝利を収め、後は版籍奉還、廃藩置県と、ひたすら新政府の屋台骨の強化にまい進した。
※「このまま何もせずに政府が瓦解するよりは、思い切って廃藩を断行して瓦解した方が良い」(大久保) 41歳、欧米を視察。洋行先で圧倒的な工業生産力に仰天した大久保は、一刻も早く近代化を図らねば欧米の植民地にされかねないと、富国強兵をスローガンに、強権をもってさらに社会構造の変革を加速させる。国民に重税を課し、官営の製糸工場、セメント、造船、鉄工など大工場を次々と建設した。強い政府を目指し、自由民権運動を警察力で弾圧し、列強に対抗すべく台湾へ軍を送り支配下に置く。
この歴史の大激動の中で行き場を失ったのが、時代に取り残された士族(武士)たちだった。廃刀令で武士の魂である刀を奪われ、断髪令でちょんまげを切られ誇りはズタズタに。農民には田畑があり、商工業者は手に職を持っていたが、多くの武士は自活する手だてがないまま突然世間に放り出された形になる。最初は新政府も廃藩した責任上、国家予算の40%を注ぎ込んで彼らに俸禄(ほうろく)を支給していたが、徐々に支給額を切り下げていく。新政府に反旗を翻した者は、たとえ維新の時に肩を並べあった友であっても武力鎮圧し(佐賀の乱など)、首謀者を江戸時代さながらに晒し首にするという大久保の非情ぶりだった。
維新から10年後の1877年、とうとう青春時代からの親友であり、かつては“一緒に死のう”とまで思っていた西郷までが、「再革命」を求めて挙兵した(西南の役)。内戦につけ込んで列強各国が介入してくるのを恐れた大久保は、国家統一の為に鬼畜と呼ばれる腹をくくり、数倍の兵力をもって盟友を逆賊として自決に追い込む。
だが…西郷軍の討伐を命じた大久保自身も、西郷の死から約半年後に、彼に積年の恨みを持つ6人の旧武士によって暗殺された。亡骸は喉に刀が1本、胴体に脇差が3本突き立てられており、めった斬りの状態だった(享年47歳)。この前年5月に三傑の同志木戸は脳病の為に45歳で既に狂死しており、木戸の死から1年を待たずして、西郷、大久保たち明治維新の立役者3人は、全員が死んでしまったのだ。倒幕の流れを作った松陰と高杉の師弟、薩長の橋渡しとなった土佐の龍馬、そして敵側の土方や近藤も含め、幕末に起ち上がった若者はこれで誰もいなくなった。
大久保の墓は明治政府が造営した官営墓地・青山霊園(現在約11万人が永眠)にあり、その墓碑の高さはおそらく日本最大ではないかと思う5メートル!大久保は心の内で周囲の反感を買うのが分かっていても、急速に近代化を推し進めずにはいられなかった。100年後、GNP世界第2位の大国となった日本。東京の都心に眠る彼は、いまどんな思いでこの国を見つめているのだろう。
※西郷を深く愛する鹿児島県民にとって、大久保は長く受け入れ難い存在だった。死後100年が経った1978年になって、初めて大久保の銅像が市内に建立された。
※権力者となっても金銭を求めず、財をなさなかったことを追記しておく。借金を8千円(今の約8千万円)も残したくらいだ。
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| この写真は優しそうな 大久保だね〜 |
定点観測の結果、朝陽を浴びる 大久保が一番カッコ良いことが判明! |
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| 高知城の板垣像 |
高知城をバックにポージング。足下には有名な言葉 「板垣死すとも自由は死せず」の石碑が建っている |
「板垣退助先生誕生之地」 高知市内の高野寺の前にある |
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| 龍馬と同じ土佐出身 | 品川神社境内の裏にひっそりと眠る | 左右に割れた見事なヒゲ |
| 幼名猪之助。号は無形。維新後の混乱の中で、徳川300年間に武士と農民の間が完全に断絶したことを感じ取った板垣は、明治新政府に国民全般の意見を反映できる“国会”を開設すべきだと主張した。国が活力を得るのには、民の政治参加が不可欠だと確信していたのだ。 “欧米に活力があるのは、国民誰もが政治に参加できるチャンスがあり、自分たちが国を作っているという意識を皆が持てるからだ”そういった信念から彼は自由民権運動に取り組んだのだった。 「板垣死すとも自由は死せず!」 これは士農工商の時代は去ったと“四民平等”を説いて全国を遊説しているおりに、保守派の暴漢に襲われ、血みどろになって叫んだ言葉だ。 大名出身の板垣は伯爵の位を持っていたが、“もはや人間を身分で区分けする時代ではない”という彼の信念から、遺言で子孫に“肩書きでなく、自らの力で生きよ”と爵位を辞退させた。う〜む、あっぱれじゃ。 |

| 「こちらから戦いを仕掛けないが、いざとなれば一身をもって国を守る」蒙古襲来の前年、22歳の時宗はこう決意を記した。初戦で敵を退けた彼は再襲来があると確信し、北九州沿岸に石塁を築き決戦に挑む。はたして二度目は前回の4倍の14万人、4400隻もの大軍だった。大暴風雨が去った後、博多湾には9万8千人という凄まじい数の溺死者が沈んでいた。敵とはいえ人間、時宗は円覚寺を建て双方の戦死者を供養したのだった。 |

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明治・大正期の政治家で早稲田大学の創立者。旧佐賀藩士。7歳で藩校に入るが学風に親しめず17歳の時に学風改革騒動を起こして退学になる。29歳、将軍慶喜に大政奉還を勧告しようと脱藩、上京するが失敗。維新後は明治新政府に加わり、参議となって頭角を現す。43歳、薩長中心の藩閥政府に対し、国会開設を求める自由民権運動が国民の間で高まると、大隈も国会の即時開設と英国式の政党内閣制を主張した。特権的地位をあくまでも守っていこうとする伊藤博文らは大隈と対立、政争の過程で大隈は辞職に追い込まれる。翌年、板垣退助が自由党を結成すると、それに呼応するように大隈も立憲改進党を結成。彼はさらに若い人材を育てる目的で現・早稲田大学を創設する(44歳)。1888年(50歳)、伊藤博文は外交政策で行き詰まり、民権派に譲歩して大隈を外相に迎えた。だが大隈が大審院に外国人判事を任用する考えを表明すると、政権内&世論から激しく叩かれ、ついには外務省前で右翼に爆弾を投げつけられ右足を失う。内閣総辞職。しかし大隈はへこたれない。58歳になると今度は進歩党を結成し再び外相を務める。1898年(60歳)、大隈が首相、板垣が内相という日本最初の政党内閣が誕生!…が、内部に不協和音が生じて、わずか4ヶ月で総辞職する。しばらく政界から退き早稲田で総長をしていたが、大正に入って憲政擁護運動が起きると三度政府にカムバック、76歳で第二次大隈内閣を組織する。第一次世界大戦への参戦などを経て、2年後に総辞職。6年後の1922年、83歳で永眠する。日比谷公園で行われた国民葬には20万人を超える会葬者があった。
僕はこれほど政府を追われては復活するという事を繰り返した政治家を他に知らない。軍備拡大、中国への21カ条要求など、個人的には賛成できない部分もあるけど、国会の開設運動をしたり、テロにあったり、彼なりに日本の将来を見据えて身体を張っていたのは確か。ひたすら金儲けに奔走する現代の政治家とは大違いだ。
大隈の墓所は護国寺本堂の向かって右側、大きな石の鳥居の奥。「従一位大勲位侯爵大隈重信之墓」と刻まれている。
※大隈は日本初のヒゲなき総理だった。当時、ヒゲは権力の象徴として、閣僚の全員が庶民を威圧する為に生やしていたが「髭は戦争の道具みたいなものだ、武装的なものだ」と、大隈はけっしてヒゲを蓄えなかった。
※「学問は脳、仕事は腕、身を動かすは足である。しかし、卑しくも大成を期せんには、先ずこれらすべてを統(す)ぶる意志の大いなる力がいる。これは勇気である」(大隈重信) |

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| 慶喜が大政奉還を受け入れた京都・二条城 | この「二の丸御殿」の大広間で徳川300年が終わった |
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| 墓前の三つ葉葵 | 台東区谷中霊園。徳川の紋が庶民の墓参を拒む | 歴代将軍が眠る寛永寺とは少し離れている |
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| 「蘇我入鹿首塚」の案内標識 | (民家の裏の)甘橿丘に入鹿邸があったという | 甘橿丘を背後にした入鹿の首塚 |
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| 入鹿の首塚。はねられた首がここまで飛んできたという…(2008) | 前回の巡礼は雨。田んぼが青い(2004) | |
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| クーデターの現場・飛鳥板蓋(いたぶき)宮跡(2004) | 水路の跡のようなものが残っている(2008) | 和歌で有名な“香久山”を甘橿丘の木立から見る |
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蘇我蝦夷の子。日本史では悪者扱いだが、唐帰りの学僧・新漢人旻(いまきのあやひとみん)から中国の新知識を学び、学堂で1番の秀才と評された。皇位継承問題で山背大兄王(聖徳太子の子)を滅ぼしたことが反蘇我氏の気運を高め、大化元年に中臣(藤原)鎌足と中大兄皇子(天智天皇)によって暗殺された。亡骸は雨の中に打ち捨てられたという。墓は日本最古の寺で蘇我馬子が建立した飛鳥寺に隣接する。
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| 夫婦で一緒に眠っている。結婚した時は26歳と12歳。 12歳は若いけど、当時の感覚では普通だったんだよね(04) |
4年後に再訪。冬で緑が色褪せ、少しもの悲しい (2008) |
| 本名、大海人(おおあま)皇子。672年(41歳)に、皇位を巡って壬申の乱を起こすなど武闘派としても知られるが、第40代天皇に即位してからは仏教を手厚く保護し、妻(後の持統天皇)の病気の平癒を願って薬師寺を建立。この時期は美術史白鳳時代と呼ばれ、数々の仏教美術の傑作が生れている。天武天皇が計画した国史の編さんは、没後に古事記、日本書紀として実を結んだ。天皇として初めて火葬された。 持統天皇は夫の死後に女帝として即位。万葉集に名歌「春すぎて夏きたるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」を残している。 |
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| 飛鳥の都に夕陽が沈む(2008) |

| ●1957年2月、防衛大学第1回卒業式・吉田茂の言葉 「君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい」 |

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| JR水戸駅前の“チーム黄門”。 徳川光圀は水戸藩主だ |
おしゃべりパークの黄門様は ボタンを押すと喋り出す! |
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| 一般人は水戸徳川家の墓所に入れず、 門の外から黄門様に手を合わせた |
門の上に手を伸ばして内部を撮影。 この山道の左側に眠ってられるとの事 |
水戸駅前の「黄門様誕生の地」 |
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| ※水戸光圀の墓〜『水戸徳川家墓所』(発行・常陸太田市教育委員会)より。まったく一般再公開のメドがついていない水戸徳川家墓所 ですが、教育委員会の遺跡調査報告書に光圀公の墓所の写真が載っていました!墓石の土台は亀趺(きふ)のようですね! |
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| 助さんの墓(格さんが墓碑文を書いてる) | 地酒“助さん格さん” | そしてこちらは、格さんの墓 |
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| 町中から一番遠い場所で電動レンタ サイクルが故障して地獄を見る |
後部サドルの荷物ロープを 巻き込みチェーンが壊れた |
地元のガラス屋さんが自転車をトラックに積んでくれ、 町中に戻れた。あうう、有難うございました!(T_T) |
| ちなみに史実によると旅をしていたのは助さんだけ。光圀は人生の大半を江戸小石川にある水戸藩邸で過ごした。そして『大日本史』編纂のため調査員を全国に派遣し、各地の特産物の情報を集めた。助さんは光圀の命を受けて福島から鹿児島まで巡り、地域の歴史を調査しつつ、珍味を江戸へ送り届けた。そして、寄せられた情報を整理し資料としてまとめたのが格さん。格さんが作成したこの“データベース”を参考に、光圀は各地から“日本の為なり”と特産物を取り寄せた(有田のみかん、鹿児島の人参、北海道の昆布など計135品!)。光圀は効果的な栽培方法や養殖の方法を全国に幅広く普及させることで、人々の生活を豊かにしようと考えたんだ。 |
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| 京都御所・蛤御門前の水戸藩邸跡。光圀は『大日本史』編集の資料を集めるため京都にも 大勢を派遣し、この藩邸が拠点となった。資料の筆写もここで行なわれた。 |
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| 坂本龍馬や高杉晋作(分骨)など、維新の立役者たちと同じ墓地に眠っている。木戸公の墓が最上段なので場所的には一等地! 木戸公の隣には妻で元芸妓の幾松の墓が並んでいる。彼女は従四位を賜り、勤王の志士たちも女傑として一目置いていたという。 |
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| こちらは山口県萩市にある木戸の生家 | 誕生の間 |

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| 自害峰の三本杉。ここに自害した 大友皇子の頭が葬られたという |
日本三関のひとつ「不破(ふわ)の関」。 673年に天武天皇の命で設置された |
黒血川。壬申の乱の激戦でその名 の通り川が血で黒く染まったという |
| 関ヶ原といえば家康が勝利した1600年の合戦が有名だけど、それより約千年前にも、もうひとつの天下分け目の戦い『壬申の乱』の決戦地となった。大友皇子は天智天皇の息子。皇位継承争いの壬申の乱で、父の弟・大海人皇子(おおあまのみこ=天武天皇)に攻められ自害した。“弘文”の名は明治時代におくられたもの。大友皇子の頭は首実検の後、東軍の武将・村国男依(むらくにのおより)の手で三本杉の根元に葬られたと伝承されている。付近には吉野軍と近江軍が衝突した黒血川のほか、愛発関(あらちのせき、福井県敦賀市)、鈴鹿関(三重県関町)と共に日本三関に数えられる「不破の関」がある。 ※ちなみに「関西」「関東」という名称は鎌倉時代の『吾妻鏡』に登場し、三関より東が関東と呼ばれた。 |
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| 会津若松市内なのにびっくりするほど山奥に眠っている | 墓誌は巨大な亀の背中に建つ |
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| 上杉家廟所。中央の墓は謙信 | 鷹山は向って一番左側 |
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| 落ち葉の中の鷹山 | あまりに有名な座右の銘 | 上杉神社の銅像 |


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| 2008年は紀元2668年 | 橿原神宮は日本最初の皇居だ | 紀元祭の告知 |
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| 御陵入口。画面奥の木立の間を抜けていくと墓所がある | 墓前には美しい石庭が広がる。宮内庁の管理下にあり、これ以上近くへは行けない | |

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| 蘇我馬子&聖徳太子が日本に仏教を導入しようとしたことに抵抗し、日本古来の神々を奉じ神道の重要性を訴えた物部氏。 それゆえか、墓の周囲は全国の有名神社の名が刻まれた石柱がギッシリ。仏教に対抗する「チーム神道」のスクラム状態だった! |
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| そこにも、ここにも、あそこにも!至るところに、神社!神社!神社! |
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| 守屋が矢で射貫かれて死んだ場所は『弓代塚』と呼ばれて いる。龍華中学の南側の高圧電線の下だ。道路から塚は 見えないので、目印となる道路脇の石柱を見逃さぬよう! |
廃材置き場?をすり抜けると、フェンスに囲まれた狭い 空き地があり、そこには確かに『弓代』と刻まれた石柱が 建っていた。こんな場所に史蹟があるとは! |
大聖勝軍寺の門前にある守屋池(守屋首洗池)。 討ち取られた守屋の首はこの池で洗われた |
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| 守屋を射貫いた鏑矢(かぶ らや)はここに埋められた |
史蹟『鏑矢塚』の石柱は発見が困難だ。 飲み屋の看板に隠れて可哀想なことに… |
側にはゴミ袋が置いてあるし…。ノーッ! |
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| 太子は戦場にこの仏塔を建立し敵将・守屋の冥福を祈った | 奥に見える黒い扉の中に、守屋と太子の像があるという | |
| 歴史は勝者によって記録されてきた。何が真実かは分からない。“寺を焼き仏像を海に投げ捨てた”排仏派の物部氏や、大化の改新で暗殺された蘇我入鹿は、ドラマでも悪として描かれることが多い。しかし物部氏にも人徳があったからこそ大軍を組織できたのだろう。仏像ファンの僕としては仏像の首を落とした物部氏に憤りを感じるけど、蘇我氏が当時の“新興宗教”である仏教を政界に持ち込むことに対し、「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と警戒心(恐怖)を抱いた心境も理解できる。流行っていた疫病を“仏教導入で怒った神々の神罰”と感じたのも、当時の科学的知識では無理もない。守屋は弓矢で狙い撃ちされて死んだ。それはつまり、矢が届く場所に身をさらして戦っていたからであり、権力者によくある“自分は安全な場所にいて兵に戦わせる”連中ではなかったということ。 聖徳太子の基本精神は「和をもって貴しと為す」(和の心を大切にせよ)。太子軍VS守屋軍の激戦後、勝利した太子は決戦の地となった場所に太子堂を創建し、仏塔の中に物部氏と自身の像を安置、敵味方の区別無く死んだ兵を丁重に弔ったという。 |
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| 若き日の伊藤 | 伊藤家墓所の霊廟 | 敷地にある伊藤像 |
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| 山口県萩の生家 | 出世後の大邸宅(生家に隣接) |
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長州藩の農民の子として生まれ、父が武家の養子となり藩士となる。吉田松陰の松下村塾で学び、1863年に22歳で渡英。世界を見てきた彼は高杉晋作らと討幕運動を推進。維新後は明治新政府の参与となる。1871年(30歳)、岩倉使節団に加わり欧米を視察。大久保暗殺後は政府の中枢で活躍し、1885年(44歳)に内閣制度を創設し初代総理大臣になった。伊藤は武力政治を嫌い、日露戦争前は日露協商論を主張してロシアとの不戦を主張。1905年(64歳)、韓国統監府の初代統監に就任。日韓併合の声が高まると、伊藤は“そこまですることはない”“実質的な統治で十分”と、当初はこれに反対していた。日本国内の武断派やマスコミは「高圧手段で対処すべき」と勇ましい世論に染まっていたが、伊藤は孤立しながらも穏和方針を固持して動かなかった。しかし、結果的に植民地政府のトップとして韓国国民から恨みを買い、ハルピン駅で韓国の独立運動家・安重根に暗殺される。朝鮮人が犯人と知らされた伊藤は「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」とつぶやいたという。
※「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」(伊藤博文)
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| 善性寺って、良い名前の寺だよねぇ | これほど先見性のある人が総理になることが、また来るのだろうか |
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第55代内閣総理大臣。戦前は経済ジャーナリストとして“加工貿易立国論”を唱え、勇気を出して植民地の放棄を訴えた。また軍備全廃、二十一カ条要求反対などを主張し、大正デモクラシーをリードする。戦後まもなく吉田内閣の蔵相となったが、占領軍の駐留費を削減しようとして公職から追放される。復帰後、1956年に72歳で自由民主党第2代総裁となり首相に就任する。さっそく政官界の綱紀粛正、福祉の充実、雇用の拡大、対米従属主義の見直しに取りかかるが、脳梗塞の為わずか2カ月で退陣する。晩年は高い理想を掲げて「日中米ソ平和同盟」を説いて回った。
------------------------------------------------------------- ●NHK『その時歴史が動いた 石橋湛山』のまとめ 第1次世界大戦が欧州で勃発すると、日本は欧米列強に対抗する為に、この混乱に便乗して大陸に勢力を広げようとした。世論も「これで一等国の仲間入りだ」と熱狂した。だが石橋湛山は違った。彼は“大日本主義の幻想”という題で「全ての植民地を一切捨てる覚悟をせよ」と経済誌に書いた。理由はこうだ。当時の日本とアジアの貿易額は約9億円。一方、英米との貿易額は倍の約18億円。日本が英米と衝突すればこの18億が失われるので、平和的な貿易立国を目指すべきと説いた。これは軍部が思いもしなかった主張だった。 しかし1931年に満州事変が起き、大陸への進出が加速していく。世界各国から非難を受けた日本は翌々年に国際連盟を脱退。1934年、湛山は英字経済誌を創刊し、これを欧米で発行して「日本政府の政策は決して国民の総意ではない」と世界に訴えた。彼は権力ににらまれ、1942年に同誌の記者や編集者が逮捕されて4人が拷問で獄死する。さらに紙やインクの配給も大幅に減らされた。 だが、それでも湛山は絶対にペンを折らなかった。「私は自分の正しいと信ずる主張の為に今後いかなる艱難(かんなん)が身の上に降りかかってこようとも、甘んじて受けるつもりだ。良心に恥ずる事を書き、国の為にならぬ事を書かねばならぬくらいなら、雑誌をやめた方がよい」。湛山の次男は南方戦線で戦死した。湛山は日記に刻む「汝が死をば父が代わりて国の為に生かさん」。そして終戦。人々は深い喪失感に包まれるが、湛山は違った。すぐに発行した雑誌に「更正日本の門出〜前途は実に洋々たり」と載せた。 翌年、吉田茂首相は湛山を大蔵大臣に抜擢。湛山は聖域とされていた進駐軍の経費削減に乗り出す。進駐軍の諸経費は広範囲で、ペット代やゴルフ代までが賠償と見なされ日本が負担していた。これら進駐軍の経費は国家予算の実に3分の1を占め、敗戦で貧困にあえぐ民衆の暮らしをさらに圧迫していた。湛山はGHQに自ら乗り込んで直談判を試み、経費の2割削減を実現させる。だがGHQの報復で彼は4年間公職から追放されてしまう。 1954年、政界に復帰した湛山は通産大臣に就任。当時の世界は、原爆・水爆の核実験ラッシュ。“経済交流が国家間に安定をもたらし平和を築く”、この信念を湛山は持っており、ソ連・中国といった東側陣営との貿易も積極的に推し進めていった。米国はこれに猛反発。鳩山首相の辞任を受け、湛山と岸信介(親米派)が総裁選に出馬した。そして湛山が見事勝利して総理大臣となる。湛山は語る「日本は世界平和全体の為にイデオロギーを超えて貿易を行う。アメリカの政策もそれに合わせてもらいたい。自分の言い分ばかり日本に押しつけるようでは困る」。 1957年、湛山は冷戦構造の打破を見据えた外交方針を国民に直接語りかける為に全国遊説を行うが、帰京後に脳梗塞で倒れてしまう。在任期間わずか65日。医者は安静を説き、湛山は総理を辞任した。1959年、台湾問題で米中が一触即発になると、湛山は麻痺の残る体で訪中し、周恩来に“日中米ソ平和同盟”という驚きの構想を提示。湛山の熱意にうたれた周恩来は「台湾に武力攻撃はしない」と伝えた。1973年、日中国交回復を見届けた湛山は88年の生涯を終えた。葬儀には党派や国境を超えて様々な人が参列した。 |
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| 領地の吉利に建つ帯刀像 |
薩摩では誰もが知る英雄。 大河の『篤姫』で全国区に! |
鹿児島市中心部の帯刀像 |
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| 旗を広げてくれた優しい紳士 |
小松家の墓所は断崖のギリギリにある。 なんでこういう地形になっちゃったんだろ? |
大河ドラマに合わせて綺麗に整備された。 旗も案内板も吉利の銅像も全てが新しい! |
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| 海が近く海風で風化しやすい為、 墓石をお廟で保護していた |
あまりに狭すぎる墓前の空間!人が1人 通るのがやっと。※奥の墓は妻・お近 |
帯刀の妻・お近の墓 |
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| 鹿児島市の「小松帯刀邸跡」。碑文に“明治維新の功労者”“西郷、大久保らを抜擢し 大政奉還に尽力した薩摩藩の家老”とある。龍馬も新婚旅行の際にここへ泊まった |
篤姫が生まれ育った鹿児島市の今和泉島津家 本邸跡。今は石垣のみが残り当時を偲ばせる |
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| 巡礼時にちょうど期間限定の篤姫館が 鹿児島市で開いていた |
大奥の豪華絢爛な御鈴廊下を再現 |
番組に何度も登場した2人のお守り! |
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| 篤姫の打掛け(上着) | 和宮の打掛け | 篤姫の居室セットを再現 |
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本名は小松清廉(きよかど)で、幼名は尚五郎、通称帯刀。鹿児島城下にて薩摩藩士・肝付兼善の三男として生まれる。1856年(21歳)、急死した吉利領主・小松清猷(きよもと)の家督を継ぐ為に養子として入る。この時に清猷の妹・千賀と結婚。小松氏は平家の名将・平重盛(小松内大臣)を祖先に持つ2600石の名門だ。幼少から学問を好み、先進的な藩主島津斉彬の影響を受ける。1861年(26歳)、斉彬の死後に実権を握った島津久光に登用され、大久保利通と薩摩藩の改革に取り組む。翌年、弱冠27歳で家老職に就任し、京都に派遣され幕府や朝廷など各方面との交渉役を任された。1863年、同じ歳の土佐脱藩浪士の坂本龍馬と意気投合し、亀山社中(海援隊)設立を助ける。1865年(30歳)、長崎でイギリス帰りの長州藩士・伊藤博文や井上馨(かおる)と会い、欧米列強と対抗する為に薩長が和解する必要性を痛感する。帯刀は井上を大久保に会わせることで同盟を模索する。龍馬もまた薩長同盟案を懐に抱いていた為、両者は協力して京都小松邸にて西郷と木戸を引き合わせ、1866年(31歳)、薩長同盟を実現させた。この直後に龍馬は寺田屋事件で負傷。帯刀は龍馬にお龍との新婚旅行&療養を目的とした薩摩行きを薦め、薩摩の小松邸に宿泊させている。帯刀は翌1867年に、今度は薩摩と土佐を結ぶ薩土同盟を成立させ、10月に京都二条城で宣言された大政奉還の場に薩摩藩の代表として列席した。明治維新後は参与など要職を歴任するが、1869年、体調不良を訴えて全役職を辞し大阪で療養に専念。翌年、これから新生日本を作っていくというその矢先に34歳で病死した。
幼い頃からの勤勉さが生んだ高い知性と言説の雄弁さ、陽気な性格と誠実で寛容な心。藩内では佐幕派も倒幕派も彼の声に耳を傾けた。浪人の龍馬や下級武士の西郷や大久保が歴史を動かせたのは、薩摩藩家老という大物の帯刀がバックアップしたからだ。龍馬は彼が考えた新政府の人事構想の中で、木戸、西郷、大久保を抑えて帯刀を真っ先に挙げていたほど。後年は総理大臣になれたはずの人物であり、34年というあまりに短い人生が惜しまれる。
墓は小松の故郷、日置市吉利の園林寺跡にある。寺そのものは廃仏毀釈で取り壊され墓地のみ残る。帯刀の墓周辺は見渡す限り小松一族が眠っている。墓前は崖になっており、人1人が通るのがやっと。隣には夫人が並ぶ。大河ドラマ『篤姫』の準主人公になったことから、急遽立てられたのぼりが付近にはためく。 |
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| 桓武天皇陵へ延々と続く道 |
第50代桓武天皇ここに眠る。中国の皇帝のような 絶大な権力を各方面へふるっていた |
桓武天皇に長岡京から平安京へ遷都を 提案した和気清麻呂(わけのきよまろ) ※京都・護王神社にて |
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| 古墳のような墓だった!(和意谷廟・三の御山) |
夫婦で並んでいる。手前が光政。妻は豊臣秀頼 の妻・千姫(2代将軍忠秀の子)の娘だ |
朝廷から正三位を贈られている |
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江戸前期の岡山藩主。水戸藩主・徳川光圀(1628-1700)、会津藩主・保科正之(1611-1672)と並ぶ江戸初期の三名君。池田輝政の孫。父は播磨国・姫路城主の池田利隆、母は2代将軍・秀忠の養女。1616年に7歳で家督を継ぐが、翌年に幼少を理由として伯耆(ほうき)国・鳥取城へ減封され、1632年(23歳)に備前国・岡山城主を継いだこれまた幼少の光仲と交換転封された。岡山藩主となった光政は陽明学を政治に取り入れ藩政を改革。新田開発や治水を推進し産業を奨励した。中でもとりわけ教育を重視し、1670年(61歳)に日本最古の庶民の学校となる閑谷(しずたに)学校を創立した(完全に完成したのは光政死後の1700年)。光政は学校が後世まで存続する為には学校独自の財源が必要と考え学校領を確保。光政の右腕、津田永忠は学校を地主とした学校田を作り出した。閑谷学校への入学者は庶民の子どもが中心だったが、他領の者や武士の子弟も認められた(現在、講堂は国宝に指定されている)。光政は1672年(63歳)に隠居し10年後に他界。
陽明学…自分の行動が大切であるという思想。明の思想家・王陽明(ようめい、1472-1528)が唱えた。江戸初期に日本に伝えられ、当初は過激な危険思想と見られた。朱子学は「知識あっての行動」として、理(知識)を優先し「知先行後」と考えるが、陽明学では知識と行動は一体とし「知行合一」を説いた。そして「自己の心こそ理」と考え「心即理」を主張した。日本では大塩平八郎、池田光政、渡辺崋山、佐久間象山らが陽明学者として知られる。
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| 「史跡・福昌寺跡」 | 案内図をデジカメに撮り墓参 | 墓所の門には島津の家紋が入っていた |
| 鹿児島は明治初頭に日本で最も苛烈な廃仏毀釈の嵐が起こり、一時期は市内の仏寺が“すべて”取り壊された。 この福昌寺も由緒ある島津家の菩提寺でありながら解体され、今はその跡地に墓所だけが残っている。 島津家は初代が鎌倉市西御門に、2代〜5代までが鹿児島市の清水町(本立寺跡)&鹿児島県出水郡感応寺に、 6代〜28代が福昌寺跡に、29代以降は福昌寺の西にある常安峰(とこやすみね)に眠っている。 |
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| 正面右が斉彬公、左が夫人 | 彫刻や装飾に凝った美しい造形 | 彩色されていたのかも! |
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| 照国神社の斉彬像 (鹿児島市) |
「明治維新薩藩殉難志士・戊辰戦没者銘碑」 無数の戦死者の名が斉彬像の側にある |
天保山中学校にある『島津斉彬御陣屋跡』。 洋式砲術や騎兵、工兵の訓練を行なった |
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薩摩藩の第11代藩主。藩経済の近代化に尽力し、薩摩の富国強兵に成功した名君。篤姫は養女。福井藩主の松平慶永、土佐藩主の山内容堂、宇和島藩主の伊達宗城と並ぶ「幕末の四賢侯」。斉彬は藩内に木綿紡績事業やガス灯、ガラスの製造業を興し、溶鉱炉を建設。ガラス工芸品(薩摩切子)は藩を代表する特産品に成長した。米国帰りの中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し、軍事面では1854年(45歳)に西洋式帆船・伊呂波丸を完成させる。人材登用においても下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を見出すなど先見の明を見せた。黒船ショックに揺れる幕府に対し、斉彬は公武合体・武備開国を主張。養女の篤姫が第13代将軍・家定に嫁いだ後、斉彬は第14代将軍に一橋慶喜(後の15代)を就任させるべく奔走。しかし、井伊大老が強引に家茂を後継者にしたことから、斉彬はこれに抗議するために藩兵5000人で上洛することを計画した。しかし、藩兵の軍事訓練中に病に倒れ、わずか8日後に急死した。享年49歳。後の世に、辛口で知られる勝海舟が「幕末第一等の英主」と斉彬を絶賛した。
※斉彬の提案で日の丸が日本の船章となり、後の時代に日章旗が国旗となった。
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| これが宇治陵!? | これも宇治陵! | これもッ! | これもッ!! |
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| 左手前は無人の1号陵守衛室。 1号陵が「宇治陵総拝所」に指定されてる |
1号陵が道長というわけではなさそうだ |
1号陵前の説明板から、宇治陵には皇后や皇女が大勢埋葬されていることが分かる。 中には紫式部や和泉式部が仕えた一条天皇の中宮・彰子というビッグネームも! |
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| 宇治の茶畑の側にひときわ大きな12号陵があった。「これが道長に違いない」と手を合わせて墓参を終えた |
| 32号陵…藤原道長の墓? 33号陵…藤原道長の墓? 34号陵…藤原冬嗣夫妻塚?藤原彰子? 35号陵…左大臣・藤原時平の墓(ほぼ決定) 36号陵…関白・藤原基経の墓? 37号陵…関白・藤原基経の墓(この意見多い) |
| 35号陵の時平以外は説が複数あり、調査を進めなくてはならない。とにかく、32&33号陵には行かなくては! 藤原道長は摂関政治の全盛期を築いた平安中期の貴族・政治家。藤原兼家の5男。左大臣まであがって政務の実権を握ると、999年(33歳)に長女の彰子を一条天皇の中宮とし、1016年(50歳)には彰子の子・敦成親王を天皇に即位させ摂政に就任。摂政を長男・頼通に譲った後も娘たちを次々と皇室に入れ、なんと道長は太皇太后彰子、皇太后妍子、中宮威子という三后の父となった。この権力と栄華の絶頂で詠んだ歌が、有名な 「この世をば我が世とぞ思ふ望月(もちづき)のかけたることもなしと思へば」 だ。しかし、贅沢のし過ぎで糖尿病が悪化し、先の歌から10年後に61歳で没した。 ※総遙拝所の近くに「藤原氏塋域」の碑があり、藤原冬嗣、基経、時平、兼家、道隆、道長、頼通、師実という8名の名前が刻まれているそうだけど、不覚にも僕は気付かなかった。 ※1005年に藤原道長は木幡に浄妙寺を創建し藤原一族の菩提寺とする。道長は他界後に鳥辺野で火葬され浄妙寺に葬られたが、室町期の戦乱の中で浄妙寺は廃寺となり場所も不明になった。その後、1967年に木幡小学校を建設する際に遺構が発見され、浄妙寺跡の石碑が建てられた。 ※こちらのサイトは37号まですべて巡礼されてます!アッパレ! |
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| 御陵の入口から600mほど歩き続ける | 夏の夕暮れにたたずむ。周囲は蝉しぐれ | 「天智天皇御陵」 |
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第38代天皇。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)として知られる。父は34代舒明天皇、母は35代皇極天皇。子は大友皇子。40代天武天皇(大海人皇子)は同母弟にあたる。蘇我入鹿と対立し645年(19歳)に飛鳥板蓋宮で、中臣鎌足たちとクーデターを敢行し(乙巳の変)、大化の改新政府を樹立する。翌年、天皇を中心とした中央集権国家を目指して「大化の改新の詔」を発布し、公地公民制、班田収授制などを遂行した。内政には手腕を振るったが、外交では663年(37歳)に百済を応援した「白村江の戦」で、唐・新羅連合軍に大敗した。667年(41歳)、近江大津宮に遷都。死の前年には初の全国規模の戸籍(庚午年籍)を導入した。享年45歳。死の翌年、後継者として希望していた実子の大友皇子と、弟の大海人皇子(天武天皇)の間に壬申の乱が勃発。我が子は敗北し、以後天武系の天皇が48代称徳天皇まで9代続く。
「秋の田の 刈穂の庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」(天智天皇)
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| 「弾圧は抵抗を呼ぶ、抵抗は友を呼ぶ」(瀬長亀次郎) |
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| 沖縄のお墓は本土とは全く異なる。4月のシーミー(清明祭) では、親戚一同が墓前でお参りと食事をする。 そのため、どのお墓も敷地がとても広くなっているんだ |
米軍占領下の沖縄で、圧制に対する抵抗運動を行った 現代沖縄の英雄。「カメさん」と呼ばれ、沖縄では 誰もが知っている。元那覇市長。常に県民の味方だった |
沖縄のお墓は墓誌だけでなく、名前さえ 彫ってない墓がたくさんある。瀬長さんも 正面からだと誰だか分からない |
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「一リットルの水も、一握りの砂も、一坪の土地もアメリカのものではない。空気は我々がただで吸わせている。そのうえ、今回の新たな土地強奪である。我々は対米非服従運動を起こさねばならない」(瀬長亀次郎)。太平洋戦争後、米軍占領下の沖縄で、基地建設のために人々の土地が奪われていくなか、米軍の圧制に対して抵抗運動を展開した沖縄の英雄。那覇名誉市民&豊見城名誉村民。県民からは「カメさん」と呼ばれて慕われた。現沖縄県豊見城市出身。
若い頃から社会運動に関心を持っていた瀬長は、1932年(25歳)にトンネル建設労働者の戦いを指導し、治安維持法違反で逮捕される。懲役3年の刑を受け、横浜刑務所に投獄された。その後、砲兵として中国へ出征し、戦後は名護町助役、新聞記者を経て、1946年(39歳)に現・琉球新報の社長につく。だが、沖縄人民党の結成に参加したことから、米軍の圧力を受けて社長を辞任。1950年(43歳)、知事選に出馬して落選したものの、2年後の第1回立法院議員総選挙ではトップ当選を果たした。瀬長は選挙後の琉球政府創立式典で宣誓を拒否。そして軍事利益優先のアメリカの政策を非難し続けた。
1954年(47歳)、アメリカ統治を批判する沖縄人民党を、米国は共産主義政党として弾圧を加える。沖縄退去命令を出した2名の人民党員を瀬長が匿ったとし、彼を弁護士なしの裁判にかけた。瀬長は懲役2年の判決を受け再び獄中生活を送る。牢獄では出所前日に「残りの生命を大衆のためにささげることを固く誓わなければならん」と日記に記した。
1956年(49歳)、出獄後に那覇市長選に出馬し、様々な選挙妨害を受けつつも当選を果たす。占領軍は露骨に拒否反応を示し、瀬長市政を潰すべく、那覇市への補助金及び融資を打ち切り、預金を凍結し市政運営の資金を断った。那覇市民は瀬長を助けるために積極的に納税し、納税率が97%という驚異的な数字になった。これによって瀬長市政は自主財源のみで予算を組めるようになり最大のピンチを切り抜ける。一方、占領軍と沖縄自民党は不信任決議を7度にわたって提出したが効果がなかった。ここに及んで占領軍は強権を発動し、過去の逮捕歴を理由として瀬長を追放。さらに立候補する権利を奪い去った。瀬長が市長を務めたのは約1年と短かったが、強大な米軍を相手に不屈の精神と非暴力で戦い抜いたことを、沖縄県民は心から称えた。
1970年(63歳)、沖縄初の国政参加選挙が行なわれ、瀬長は衆議院議員に当選。彼は沖縄県民の基本的人権が本土のレベルに達していないことを憂慮し、熱心に祖国復帰を訴えた。翌年、瀬長は国会で吠えた「沖縄の大地は、再び戦場となることを拒否する。基地となることを拒否する。あの紺碧の空、あの美しい海。沖縄県民の手に返って、初めて平和な島が、沖縄県の回復ができるんだということを、(沖縄の大地は)26年間叫び、要求し続けてきた」。1972年(65歳)、沖縄の本土返還が実現。瀬長は復帰後共産党に属し、7期連続当選を果たす。1990年(83歳)、高齢となり政界から引退。2001年に肺炎で他界した。享年94歳。 ●沖縄豆知識…沖縄のお盆は旧盆で、2009年であれば9月1、2、3日。旧盆入りの日はウンケイ(お迎え)、次がナカビー(真ん中の日)、最後がウークイ(送り)。ウンケイの日にはウンケイジューシーというおじやが硬くなったような料理を、ウークイの時はソーメン汁を作る。シーミー(清明祭)はお盆とはまた別。※沖縄のO.Yさん、情報を有難うございました! |
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| 阪急茨木市駅で自転車をレンタル。 陵墓の入口までやってきた |
昔の漢字で継体天皇とあった。 ここで間違いないようだ |
えっ!?鳥居 がないの!? |
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| 『継体天皇三島藍野陵』に到着! | 守衛さんのデジカメ画像!鳥居がある! | とても大きな古墳だ |
| 継体天皇は第26代天皇。男大迹(オホド)王とも。今の皇室との血縁が確実に確認できる最古の天皇。応神天皇の5世孫。もともと越前(福井県)に住んでいたが、大和政権で大王位の後継者が途絶えたので、57歳の時に大伴金村の説得を受けて天皇に即位した。
しかし、大和政権内には遠方から天皇を呼び寄せることや、天皇家の血が薄すぎることに強い抵抗があり、畿内までやって来たものの大和周辺に足止めされ、実際に大和地方に入ることができたのは20年後だった。
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| 「お堀をどうやって渡るんですか?」と守衛さんに聞いたら、「監視小屋の後ろにボートがある」 とのこと。確かに別の角度から見えた!1人で上げ下げできるように改造されたそうだ |

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