天皇の陵墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

巡礼完了!歴代天皇コーナー(北朝含む)

134名

〜画像(約750枚)はすべてアップ済!解説文は70代まで完成。以降加筆中!〜


(注)天皇の墓所は「墓」ではなく「御陵、陵墓」と呼びますが、下記目次のみ分かりやすくするため「墓」を使っています。
初代 神武天皇の墓
2代 綏靖天皇の墓
3代 安寧天皇の墓
4代 懿徳天皇の墓
5代 孝昭天皇の墓
6代 孝安天皇の墓
7代 孝霊天皇の墓
8代 孝元天皇の墓
9代 開化天皇の墓
10代 崇神天皇の墓
11代 垂仁天皇の墓
12代 景行天皇の墓
13代 成務天皇の墓
14代 仲哀天皇の墓
15代 応神天皇の墓
16代 仁徳天皇の墓
17代 履中天皇の墓
18代 反正天皇の墓
19代 允恭天皇の墓
20代 安康天皇の墓
21代 雄略天皇の墓
22代 清寧天皇の墓
23代 顕宗天皇の墓
24代 仁賢天皇の墓
25代 武烈天皇の墓
26代 継体天皇の墓
27代 安閑天皇の墓
28代 宣化天皇の墓
29代 欽明天皇の墓
30代 敏達天皇の墓
31代 用明天皇の墓
32代 崇峻天皇の墓
33代 推古天皇の墓
34代 舒明天皇の墓
35代 皇極天皇の墓
36代 孝徳天皇の墓
37代 斉明天皇の墓

38代 天智天皇の墓
39代 弘文天皇の墓

40代 天武天皇の墓
41代 持統天皇の墓
42代 文武天皇の墓
43代 元明天皇の墓
44代 元正天皇の墓
45代 聖武天皇の墓
46代 孝謙天皇の墓
47代 淳仁天皇の墓
48代 称徳天皇の墓
49代 光仁天皇の墓
50代 桓武天皇の墓
51代 平城天皇の墓

52代 嵯峨天皇の墓
53代 淳和天皇の墓
54代 仁明天皇の墓
55代 文徳天皇の墓
56代 清和天皇の墓
57代 陽成天皇の墓

58代 光孝天皇の墓
59代 宇多天皇の墓
60代 醍醐天皇の墓
61代 朱雀天皇の墓
62代 村上天皇の墓
63代 冷泉天皇の墓
64代 円融天皇の墓
65代 花山天皇の墓
66代 一条天皇の墓
67代 三条天皇の墓
68代 後一条天皇の墓
69代 後朱雀天皇の墓

70代 後冷泉天皇の墓
71代 後三条天皇の墓
72代 白河天皇の墓
73代 堀河天皇の墓
74代 鳥羽天皇の墓

75代 崇徳天皇の墓
76代 近衛天皇の墓
77代 後白河天皇の墓
78代 二条天皇の墓
79代 六条天皇の墓
80代 高倉天皇の墓
81代 安徳天皇の墓
82代 後鳥羽天皇の墓
83代 土御門天皇の墓
84代 順徳天皇の墓
85代 仲恭天皇の墓
86代 後堀河天皇の墓
87代 四條天皇の墓
88代 後嵯峨天皇の墓
89代 後深草天皇の墓
90代 亀山天皇の墓
91代 後宇多天皇の墓
92代 伏見天皇の墓
93代 後伏見天皇の墓
94代 後二條天皇の墓
95代 花園天皇の墓
96代 後醍醐天皇の墓
97代 後村上天皇の墓
98代 長慶天皇の墓
99代 後亀山天皇の墓

100代 後小松天皇の墓
101代 称光天皇の墓
102代 後花園天皇の墓
103代 後土御門天皇の墓

104代 後柏原天皇の墓
105代 後奈良天皇の墓
106代 正親町天皇の墓
107代 後陽成天皇の墓
108代 後水尾天皇の墓
109代 明正天皇の墓
110代 後光明天皇の墓
111代 後西天皇の墓

112代 霊元天皇の墓
113代 東山天皇の墓
114代 中御門天皇の墓
115代 桜町天皇の墓
116代 桃園天皇の墓
117代 後桜町天皇の墓
118代 後桃園天皇の墓
119代 光格天皇の墓
120代 仁孝天皇の墓
121代 孝明天皇の墓
122代 明治天皇の墓
123代 大正天皇の墓
124代 昭和天皇の墓
以上124名



●北朝、皇后ほか
初代 光厳天皇の墓
2代 光明天皇の墓
3代 崇光天皇の墓
4代 後光厳天皇の墓
5代 後円融天皇の墓
神功皇后の墓
吉備姫王の墓
中宮定子の墓
平徳子(建礼門院)の墓
藤原彰子の墓
護良親王の墓
“※”はミニ・ムービー付。



まずは当ページに登場する、天皇陵に関する用語の予備知識を!

●陵墓(りょうぼ)…天皇、皇后、太皇太后(天皇の祖母)、皇太后(先帝の皇后)のお墓。
●王墓、墓…皇太子など他の皇族。
●拝所(はいしょ)…陵墓の前の広場。
●石柵(せきさく)…拝所を仕切る石の柵。公式名は“玉垣”(たまがき)。
・最初の石柵までが一般拝所。
・2つの目の石柵までが特別拝所。
・最深部の鳥居の手前が皇族拝所。

 
昭和天皇の御陵に佳子さまが「二十歳」の報告。一番奥の皇族拝所まで入っている(2015.1.15)

●白砂(はくしょ)…拝所に敷き詰められた白い石。筋(スジ、縦線)は“道”。
●制札(せいさつ)…被葬者の名前を記した宮内庁の案内板。木製の立札。
●濠(ごう、宮内庁の人は“ほり”と呼んでいる)…周囲の堀。
●兆域(ちょういき)…天皇が真下に埋葬されている場所。
●諱(いみな)…死後に贈られる名前。
●諡号(しごう)…こちらも同じく死後に贈られる名前。
●見張所…各陵墓の前に建つ宮内庁職員の詰所。複数の見張所を統括するのが「部事務所」。さらにその上が5箇所ある
陵墓管区事務所。全国の陵墓は5つの監区=多摩、桃山、月輪(つきのわ)、畝傍(うねび)、古市(ふるいち)に分けられている。
かつて見張所では参拝証の「陵印」を押して貰えたが、人件費削減のあおりで2000年4月からは監区事務所がエリア内の
陵印を一括保管するようになった。
※宮内庁・陵墓案内ページ
※和暦西暦対応表・外部リンク



★初代 神武天皇/Jinmu 庚午年1月1日(B.C.711.2.13)〜神武天皇76年3月11日(B.C.585.4.9) (奈良県、橿原市、畝火山東北陵 127歳)2008&10


2008年は紀元2668年 橿原神宮は日本最初の皇居だ(2008) 紀元祭の告知





参道入口には「神武天皇御陵」の石柱が建つ 木立の間を抜けていくと御陵がある 御陵の鳥居が見えてきた!




2008年2月。真冬の御陵 2010年8月。真夏の御陵 鳥居は前後に並んでいる

手前の鳥居から望む。これ以上近くへは行けない 美しい白砂が広がる。冬でも御陵の葉は落ちない 夏は緑の色が違う。とってもマブシイ!








月岡芳年の神武帝(明治初期) 傍に建つ宮内庁の陵墓管区事務所 事務所では寺社の朱印ならぬ「陵印」が押せる

弥生時代前期の初代天皇。母は鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)。日本書紀に記された在位は51歳から127歳までの76年間で、酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日)〜神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日)。古事記の名は神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)。日本書紀の名は若御毛沼命(わかみけぬのみこと)をはじめ5種類ある。
日本神話によると、日本列島を作ったイザナキとイザナミの夫婦から、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの3人が生まれた。アマテラスの孫は神の国・高天原から地上(宮崎県の高千穂)に降りてきたニニギノミコト。その子どものホオリが、海の底の「わたつみの宮」(竜宮城?)でトヨタマ姫(彼女の正体は鮫)と結ばれ、両者の孫が神武天皇だ。つまり、神武天皇のお婆ちゃんは鮫!(汗)

神武天皇は45歳の時に、兄・五瀬命(イツセノミコト)と一緒に大和地方を制圧すべく日向から進軍を開始した。難波津(大阪湾)に上陸後、真っ直ぐ生駒山を越えようとして畿内の有力者と戦闘になり兄は戦死した。神武天皇は敵を背後から突くべく作戦を変更し、船で和歌山の東側に出て熊野から再上陸を果たす。そして兄の仇を討って大和を制圧した。この東征に要した期間は、日本書紀が6年、古事記が16年以上としている。
51歳で大和に入った神武天皇は橿原(かしはら)宮にて位し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を名乗った。享年127歳。橿原の畝傍(うねび)山東北陵に葬られた。

※即位日が西暦紀元前660年2月11日と比定されたことから、1873年(明治6年)に祭日(紀元節)と定められた。戦後は建国記念日となっている。

●皇室豆知識その1〜これだけは抑えておきたい宮中用語

内裏(だいり)…天皇が住む御所。皇居、禁裏、禁中とも。
入内(じゅだい)…中宮・皇后・女御(にょうご)などが正式に内裏に入ること。
内親王(ないしんのう)…天皇の姉妹や娘のこと。
東宮(とうぐう)…皇太子が暮らす場所。御所の東側にある。
後宮(こうきゅう)…天皇の妻や側室(妾)が暮らす場所。

★天皇にはたくさんの妻がいて階級があった
皇后(こうごう)…天皇の正妻(正室)。天皇の母は皇太后。
中宮(ちゅうぐう)…2人目の皇后で同資格。藤原道長が強引にそう決めた。中宮が入ると最初の皇后は“皇后宮”となった。※平安前期まで中宮=皇太夫人(こうたいふじん、天皇の生母)という意味だった。
妃(きさき)…皇后・中宮に次ぐ天皇の妻。内親王から選ばれた。定員2名。
夫人…妃に次ぐ地位。左大臣など3位以上(公卿)の娘。定員3名。平安前期に事実上廃止され、夫人の地位は中宮・女御・更衣へ移行。
女御(にょうご)…中宮に次ぐ地位。主に摂政・関白の娘がなった。平安中期以後は女御から皇后を立てた。定員はなし。
更衣(こうい)…女御に次ぐ地位。元々は天皇の衣を変える役。定員は12名!
御息所(みやすんどころ)…女御や更衣以外で天皇の寵愛を受けた女性すべて。後年は皇太子妃を指すようになった。
御匣殿(みくしげどの)…宮中で天皇の衣服の裁縫をした女性で寝所も共にした。女御の候補者はまず「御匣殿別当」という裁縫所の代表になった。
 
★妻以外の天皇周辺の女性
宮人(きゅうじん)…宮中に仕える女官。
女嬬(にょじゅ)…掃除をする下級女官。
掌侍(ないしのじょう)…女嬬を監督する女官。
 
52代・嵯峨天皇は皇后の他に、2名の妃、1名の夫人、3名の女御、3名の更衣など公式な妻が10名おり、うち8名が22名の子を生んでいる。ちなみに、嵯峨天皇は18名の宮人のほか、女嬬と掌侍を各1名という妻以外の20名も寝所に入れており、うち17名が25名の子を生んでいる(その中に“光源氏”のモデルとなった源融もいる)。また、母親が分からない3名の子もいる。つまり、計30名の妻や女官を愛し、合計50名をもうけたことになる。仰天!



★第2代 綏靖天皇/Suizei 神武天皇29年(紀元前632年)-綏靖天皇33年5月10日(紀元前549年6月28日) (奈良県、橿原市、桃花鳥田丘上陵 83歳)2010







朝6時半の参道。秋空が気持ちいい。
神武天皇の御陵に隣接している
早朝の残月!

こちらはお昼。奥の御陵まで写っている


あんまり朝早いと日陰になって写らないことが判明 お昼。神武天皇陵に比べると一気にコンパクトに この角度は松も入ってカッコイイ

弥生時代前期の天皇。神武天皇の第3子。「綏」も「靖」も“やすらか”という意味。名は『日本書紀』では神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)、『古事記』では神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)。在位は51歳から83歳までの32年間で、綏靖天皇元年1月8日(紀元前581年2月23日?)-同33年5月10日(紀元前549年6月28日?)。塚山古墳(円墳・径16m)。1878年に陵墓の場所を治定(じじょう=決定)。



★第3代 安寧天皇/Annei 綏靖天皇5年(紀元前577年)-安寧天皇38年12月6日(紀元前510年1月17日) (奈良県、橿原市、畝傍山西南御陰井上陵 67歳)2010

どうして手前の門と鳥居門を並行に作らなかったんだろ? 参道がとても短く、車道からすぐ御陵だった

弥生時代中期の天皇。畝傍山西南御陰井上陵の読み方は“うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ”。まず読めない(汗)。
名は磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)・師木津日子玉手見命(『古事記』)。在位は28歳から67歳までの39年間で、綏靖天皇33年7月3日(紀元前549年8月31日)-安寧天皇38年12月6日(紀元前510年1月17日)。
俗称「アネイ山」(山形墳)。元禄時代の修陵では陵墓の場所を間違えてしまったが、幕末の修陵で現陵に治定された。


天皇略系図(初代 - 第10代) 画像元・ウィキペディア



★第4代 懿徳天皇/Itoku 綏靖天皇29年(紀元前553年)-懿徳天皇34年9月8日(紀元前477年10月6日) (奈良県、橿原市、畝傍山南繊沙渓上陵 76歳)2010





神武天皇の御陵から西へ進んだところに眠る

美しく左右対称になった松。黄金律がどこかに
発生しているのか、思わず見とれてしまった!
この日の奈良は気温37度!8月の太陽で
足下が反射しまくり、体が溶けそうだった

弥生時代中期の天皇。名は大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと)・大倭日子?友命(『古事記』)。在位は43歳から76歳までの33年間で、懿徳天皇元年2月4日(紀元前510年3月15日)-同34年9月8日(紀元前477年10月6日)。畝傍山南纖沙溪上陵の読みは“うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ”。俗称「博多山」(山形墳)。



★第5代 孝昭天皇/Kousho 懿徳天皇5年(紀元前506年)-孝昭天皇83年8月5日(紀元前393年9月5日) (奈良県、御所市、掖上博多山上陵 113歳)2010

拝所が道路ギリギリの場所にあるため、
参道は道沿いにのびている。狭いッス!
しかも鉄柵があって正面まで行けない。
どうしてこうなった!

弥生時代中期の天皇。在位は31歳から113歳までの82年間で、孝昭天皇元年1月9日(紀元前475年2月21日)-同83年8月5日(紀元前393年9月5日)。和風諡号は観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)・御真津日子訶恵志泥命(『古事記』)。俗称「博多山」(山形墳)。



★第6代 孝安天皇/Kouan 孝昭天皇49年(紀元前427年)-孝安天皇102年1月9日(紀元前291年2月27日) (奈良県、御所市、玉手丘上陵 136歳)2010

ここから山の中を登っていく 苔むした参道。雰囲気バツグン 朝陽の中を陵墓へ。鳥がさえずっていた





やがて視界が開け、拝所が見えてきた 堂々と威厳のあるたたずまい 陵墓の構造上、拝所の左端まで行くと正面になる

石垣と急斜面が古代遺跡のようだ! 朝陽を浴びて光り輝いているッ! 僕は勝手に「日本のアンコールワット」と呼んでいる

弥生時代中期の天皇。孝昭天皇の第二子。名は日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)・大倭帯日子国押人命(古事記)。在位は35歳から136歳までの101年間で、孝安天皇元年1月7日(紀元前392年3月3日)-同102年1月9日(紀元前291年2月27日)。玉手丘陵上に所在する円墳。



★第7代 孝霊天皇/Korei 孝安天皇51年(紀元前342年)-孝霊天皇76年2月8日(紀元前215年3月27日) (奈良県、北葛城郡王寺町、片丘馬坂陵 127歳)2010

この道路沿いの石段が参道入口 勾配はなだらか。テクテクと上る感じ 特別拝所が垣根で囲まれ、殆ど見えないよ〜

生垣は高さもあり“隠れ墓”の様相 晴れた日に再訪したら緑が反射してきれいかも 転落防止のチェーンが拝所にあった。珍しい!

弥生時代中期の天皇。孝安天皇の子。在位は52歳から127歳までの75年間で、孝霊天皇元年1月12日(紀元前290年2月19日)-同76年2月8日(紀元前215年3月27日)。名は大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)(『古事記』)。 いわゆる欠史八代の1人。第一皇子は孝元天皇。子は他に、桃太郎のモデルとなった彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)と稚武彦命の兄弟がいる。また、娘の倭迹迹日百襲媛命(やまとととびももそひめのみこと)は“卑弥呼ではないか”と言われている。



★第8代 孝元天皇/Kougen 孝霊天皇18年(紀元前273年)-孝元天皇57年9月2日(紀元前158年10月14日) (奈良県、橿原市、剣池嶋上陵 115歳)2010

まるで瀬戸内海の島 歩いて渡れるようになっている 御陵の中に分け入っていく

ふおお!見えてきた! この画像だけ見ると秘境の遺跡っぽい お堀のある御陵は涼しげで良い

弥生時代後期の天皇。名は大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)・大倭根子日子国玖琉命(古事記)。在位は59歳から115歳までの56年間で、孝元天皇元年1月14日(紀元前214年2月21日)-同57年9月2日(紀元前158年10月14日)。稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に孝元天皇の第一皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていた。中山塚1〜3号墳(円墳2基、前方後円墳1基)。


天皇系図 8〜15代(画像元・ウィキペディア)



★第9代 開化天皇/Kaika 孝元天皇7年(紀元前208年)-開化天皇60年4月9日(紀元前98年5月23日) (奈良県、奈良市、春日率川坂上陵 110歳)2010

びっくりするほど奈良の中心街にある

9時前に行くと閉まってた。それとも、
これが普通の状態なのだろうか?
宮内庁職員が見張所にいたので聞いてみた


ちょうど開けるとこだった!貴重な開門シーンを激写! 一歩外に出ればビルや商店街とは思えない

弥生時代後期の天皇。孝元天皇の第二子。名は稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおびびのみこと)・若倭根子日子大毘々命(古事記)。在位は50歳から110歳までの60年間で、孝元天皇57年(紀元前158年)11月12日- 開化天皇60年4月9日(紀元前98年5月23日)。埼玉にある鳥居がない「調(つき)神社」を創建。念仏寺山古墳(前方後円墳・全長約100m)。
※学会ではこの御陵は人違い説が強い。



★第10代 崇神天皇/Sujin 開化天皇10年(紀元前148年)-崇神天皇68年12月5日(紀元前29年1月9日) (奈良県、天理市、山邊道勾岡上陵 119歳)2008&10
※山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)




『大日本帝紀要略』(1894)より

参道を行く。見張所は御陵の随分手前に建っていた。
陵墓前の空間に余裕があるのは開放感があっていい
付近は古墳銀座。崇神陵の前にもこのような
きれいな前方後円墳があった。埋葬者は不明


2008 初巡礼 2010 この2年の間に石段には手すりが! 実はえらい人混み。次から次へと参拝者がきた

倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼?)が仕えた天皇 皇族拝所の向こうは巨大な壕だ 白砂の筋はギリギリまで続き空中に消えている

皇族拝所の真横まで行ける おかげで崇神帝の巨大古墳がよく見えた

弥生時代後期の天皇。B.C.98年、50歳の時に父・開化天皇が崩御し翌年に即位した。53歳、奈良北部の三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。B.C.91年(57歳)、2年前から疫病が猛威を振るっていたが、巫女の倭迹迹日百襲姫命に大物主神(三輪山の神)が降り、お告げの通りに2人の神主をたてたところ、疫病が治まり豊作となった。B.C.88年(60歳)、近畿の外も支配するべく4人の将軍(四道将軍)に制圧を命じる。そして、丹波道主命が丹波(山陰道)を、大彦命が北陸道を、武渟川別が東海道を、吉備津彦が西道を進軍し、逆らう者を討伐。翌年、地方を平定した。B.C.30年に120歳で崩御(日本書紀)。『古事記』ではなんと168歳で崩御となっている。

初めて畿内の外まで治めた天皇とされ、学術的にも実在の可能性がある最初の天皇。在位は51歳から119歳までの68年間で、崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日)-同68年12月5日(紀元前29年1月9日)。
名はハツクニシラススメラミコト。この名前からも最初に天下を治めた天皇ということが分かる。本来の系図では崇神天皇こそが初代天皇とされていたと考える学者も多い。

【皇室豆知識その2】

『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』によれば、初代・神武天皇から第44代・元正天皇までの全天皇の諡号(しごう、没後に贈る名前)を、奈良時代末期に1人の男が考え出したという。その人物の名は、優れた漢学者で文人の淡海三船(おうみのみふね/722-785)。曾祖父は壬申の乱で後継者争いに敗れた大友皇子。つまり、淡海三船は天智天皇の血筋を引いている。たった1人で40人以上の天皇の諡号を一括して決めたのに、殆どの日本人は存在を知らず知名度が低い。
※正確には、奈良時代にはまだ天皇として未認定だった人物は除外されている。明治政府は大友皇子が敗死する前に即位したと見なして「弘文」の名を贈り(第39代弘文天皇)、強制退位・廃帝を理由に当時は歴代天皇から除外されていた「淳仁」「仲恭」の諡号も明治政府が名付けた。

●暗殺説があったり、都で死ねなかった天皇に“徳”の一字が入ることが多い。隠岐で没した後鳥羽院も、当初は「顕徳院」と贈り名されていた。
だから「徳」字がそういう文字だった、という認識は明確にあった、と。
●学術的に実在の“可能性”がある最初の天皇は第10代崇神天皇。
●『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に掲げられており、考古学的に実在が実証される最古の天皇は第21代雄略天皇。
●そして即位年や在位年数が確実に信頼できるのは、『古事記』と『日本書紀』で年号が一致する第31代・用明天皇以降。
※万世一系の先祖にサメ(トヨタマ姫)がいるのはご愛嬌。
●多くの御陵が戦国時代の混乱で場所が不明になったり荒廃していたことから、5代将軍綱吉が治めた元禄年間(1688-1703)に、歴代天皇の墓を決めて修理する事業が行われた。また幕末の文久年間(1861-1863)にも大規模な土木工事が行なわれている。これらの記録を明治初期に再検証して陵墓の場所を特定&整備した。



★第11代 垂仁天皇/Suinin 崇神天皇29年1月1日(B.C.69.1.29)-垂仁天皇99年7月14日(70.7.14) (奈良県、奈良市、菅原伏見東陵 139歳)2010


珍しい!参道が水辺に挟まれている。気持ちいいー!

参道入口から御陵まで距離がある。右端の小島は帝の命令で
不老不死の果実を探しに行った田道間守(たじまのもり)の墓
この環境なら垂仁天皇も安らかに眠られるだろう


こちらは奈良市山陵町の皇后陵。
全長203m(2014)
日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵
※正式名は佐紀寺間陵
垂仁天皇は皇后の死にあたって殉死の
風習をやめさせるため、初めて埴輪を用いた

弥生時代後期の天皇。崇神天皇の第3皇子。名は活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊、『古事記』では「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」。在位は40歳から139歳までの99年間で垂仁天皇元年1月2日(紀元前29年)-垂仁天皇99年7月14日(紀元後70年)。宝来山古墳(前方後円墳、全長227m)。139歳は12代景行天皇(143歳)、16代仁徳天皇(142歳)につぐ歴代3位の長寿。

B.C.23年(46歳)、垂仁天皇が出雲から呼び寄せた野見宿禰(のみのすくね)と大和国の当麻蹴速(たいまのけはや)が相撲。当麻蹴速は野見宿禰に蹴殺された。
B.C.2年(67歳)、殉死の禁令を発布。A.D.3年(71歳)、 皇后の日葉酢媛(ひばすひめのみこと)が没すると、人々を殉死させずに埴輪を埋め、これが埴輪の起源となった。『古事記』では赤土で様々な器を作る人間を定めたとされる。
※垂仁天皇が69歳の時に西暦では紀元前から紀元1年になった。



★第12代 景行天皇/Keiko 垂仁天皇17年(B.C.13)- 景行天皇60年11月7日(130.12.24) (奈良県、天理市、山辺道上陵 143歳)2008&10

陵墓も拝所も大きい 2008 初巡礼 2010 再巡礼。紅葉になった

皇族拝所に至る白砂の筋が美しい ヤマトタケルの父。めっさ長生きで、143歳は歴代最長寿

 
こちらは大阪府羽曳野市にある景行天皇の息子ヤマトタケルの陵墓(2009)

弥生時代後期の天皇。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。在位は84歳から143歳までの59年間で、景行天皇元年7月11日(71年8月24日)-同60年11月7日(130年12月24日)。

A.D.82年(95歳)、反乱を起こした九州・熊襲を征伐する為に、自ら出陣して翌年に平定。7年後に大和へ戻った。97年(110歳)、再び熊襲が反旗を翻したことから、息子の日本武尊を派遣し、熊襲の首長を謀殺させた。110年(123歳)、今度は日本武尊に蝦夷征討を命じる。113年(126歳)、日本武尊は蝦夷を平定したものの、帰還の途上で伊勢国能褒野(三重県亀山市)にて病死する。123年(136歳)、日本武尊を追悼するため東国巡幸を行なった。130年に崩御。享年143歳。



★第13代 成務天皇/Seimu 景行天皇14年(84年)-成務天皇60年6月11日(190年7月30日) (奈良県、奈良市、狭城盾列池後陵 106歳)2010&14

道が分かり難かった分、無事に辿り着けて感動(2010) けっこう街中に近いので、この広さに驚いた

斜め前から。立派な壕 一般拝所の入口に鎖。ちょっと入りにくい(2014)

弥生時代後期の天皇。景行天皇の子。在位は47歳から106歳までの59年間。成務天皇元年1月5日(131年2月19日)-同60年6月11日(190年7月30日)。諡は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみこと=古事記)。
『記・紀』における成務天皇の項目は極端に文量が少なく実在が疑われている。佐紀石塚山古墳(前方後円墳・全長218m)。陵墓は過去に何度も盗掘され、犯人は磔や流罪になった。



★第14代 仲哀天皇/Chuai 生年不詳-仲哀天皇9年2月6日(200年3月8日) (大阪府、藤井寺市、恵我長野西陵 ?歳)2009

 
宮内庁職員の見張所の背後にボート。これだけ堀が広いと渡るだけでも大仕事 生年が古事記ですら不明という謎の天皇

弥生時代末期の天皇。日本武尊の第2子。妻は神功皇后。子は応神天皇。名は足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、帯中日子天皇(古事記)。住吉大神の怒りに触れて急死したことから在位は8年間のみ。仲哀天皇元年1月11日(192年2月11日)-同9年2月6日(200年3月8日)。岡ミサンザイ古墳(前方後円墳)。
仲哀天皇から次の応神天皇まで、70年間も天皇のいない時代が続いた。陵墓は中世に城塞として使用されていた。



●神功皇后/Jingu 成務40年(170年)-神功69年4月17日(269年6月3日) (奈良県、奈良市、五社神古墳 99歳)2010


この石段を登っていくと小さな広場に出る 畑の手前に綺麗な白砂。左側が御陵 手前のガッシリとした石垣にも武闘派の面影

第13代・仲哀天皇の皇后で、自ら鎧を着込み新羅を攻めるほどの武闘派だったことから、江戸時代まで卑弥呼と考えられていた。現在は卑弥呼の後継者・台与(とよ)という説が有力。『日本書紀』では名が気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。応神天皇の母である事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。五社神(ごさし)古墳。



★第15代 応神天皇/Oujin 仲哀天皇9年12月14日(201年1月5日)-応神天皇41年2月15日(310年3月31日) (大阪府、羽曳野市、誉田御廟山古墳 109歳)2009

さすが全国第2位の大きさ!遠くからでも圧倒される 参道を行く。御陵の鳥居が見えてきた! もはや山!御陵の側に宮内庁の大きな事務所があった




応神帝御影(『集古十種』より) 応神天皇の御陵から左の空に月が、右に夕陽が見えた 今日も1日ごくろーさま

古墳時代初期の天皇。神功皇后が朝鮮半島の三韓征伐の帰途に九州で産んだ。在位は69歳から109歳までの40年間で、応神天皇元年1月1日(270年2月8日)-同41年2月15日(310年3月31日)。
諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。誉田御廟山古墳(前方後円墳・全長425m・後円部高さ36m)。


天皇系図 15〜26代(画像元・ウィキペディア)



★第16代 仁徳天皇/Nintoku 神功皇后摂政57年(257年)-仁徳天皇87年1月16日(399年2月7日) (大阪府、堺市、百舌鳥耳原中陵 142歳)2003&2012

1周約3kmの外堀。ずっと奥まで続いている…
ドヒーッ!これはもう墓ではなく山!地上では全貌不明



全体の巨大さを把握するため八尾空港へ セスナ機をチャーターするぞ! これなら全貌をつかめるハズ!











うおおお!面積世界最大の墓が見えてきたぁああ!
※面積はクフ王のピラミッド(底辺の長さ230m)より広い
墳長486m、後円部径245m×高さ34m、前方部幅300m×高さ34m!
堀は3重だ!2万体もの埴輪が発見された。
フライトを終えて無事に着陸!ホッ


古墳時代前期の天皇。応神天皇の子。父の崩御後3年間が空位になっているのは、後継者が決まらなかったため。最終的に、次期天皇の最有力候補だった異母子の皇子が、仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したという。
庶民の家のカマドから煙が上っていないことに気づき租税を免除し、倹約のため宮殿の屋根を葺き替えないなど仁政を行なった。日本最初の大規模土木事業として、水害を防ぐ為に堤防を築造した。在位は56歳から142歳までの86年間で、仁徳天皇元年1月3日(313年2月14日)-同87年1月16日(399年2月7日)。歴代2位の長寿。
仁徳以前は末っ子が王位を継いでいたが、この代から長子の相続に変わった。朝鮮から貰った「七枝刀(ななさやのたち)」が石上神宮に現存するという。



★第17代 履中天皇/Richu 仁徳天皇24年(336年?)-履中天皇6年3月15日(405年4月29日) (大阪府、堺市、百舌鳥耳原南陵 69歳)2009


案内の石柱 第3位の大きさ。めっさ広いお堀!てっぺんに桜が見える 御陵に沿って美しい桜並木があります〜♪

古墳時代前期の天皇。仁徳天皇の第一皇子。皇位継承の際にライバルの第二皇子を弟(第三皇子・反正天皇)に謀殺させた。在位は64歳から69歳までの5年間で、履中天皇元年2月1日(400年3月12日)-同6年3月15日(405年4月29日)。
中国の歴史書『宋書(そうじょ)』・『梁書(りょうじょ)』にみえる“倭の五王”の倭王讃。また、応神天皇もしくは仁徳天皇とする説もあり。上石津ミサンザイ古墳(前方後円墳・全長365m)。
名は大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)、大江之伊邪本和気命。



★第18代 反正天皇/Hanzei 仁徳天皇24年(336年?)-反正天皇5年1月23日(410年2月12日) (大阪府、堺市、百舌鳥耳原北陵 74歳)2009

南海堺東駅から400mなのに僕は迷いまくった 反正は“はんぜい”と読む

反正天皇が406年に創建した難波神社(2014)

難波神社の祭神は父・仁徳天皇

境内の「博労稲荷(ばくろういなり)神社」は
大阪を代表するお稲荷さん
※淡路より大坂に進出し文楽を広めた植村文楽軒(1751-1810 道具屋与兵衛)がこの境内で人形芝居を行った。

古墳時代前期の天皇。仁徳天皇の第三皇子。在位は70歳から74歳の4年のみで、反正天皇元年1月2日(406年2月3日)-同5年1月23日(410年2月12日)。
母も生年も、長兄の履中天皇、即位前に滅ぼした第二皇子と同じなので三つ子?よく分からない。
名は多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)・水歯別命(古事記)。中国の歴史書『宋書(そうじょ)』・『梁書(りょうじょ)』にみえる。
“倭の五王”の倭王珍(彌)かも?田出井山古墳(前方後円墳・全長148m)。



★第19代 允恭天皇/Ingyo 仁徳天皇64年(376年)?-允恭天皇42年1月14日(453年2月8日) (大阪府、藤井寺市、恵我長野北陵 77歳)2009&13


この参道がなかなか見つからず焦った 拝所は民家のすぐ近く(2013) 仁徳天皇の皇子だ

古墳情報をアルミ看板で丁寧に紹介(2009) 大きな堀に既に水はなく野原になっていた

古墳時代前期の天皇。仁徳天皇の第四皇子。在位は36歳から77歳までの41年間で、允恭天皇元年(412年)12月-同42年(453年)1月14日。反正天皇が後継者を決めずに崩御したことから、2年間即位を固辞したが説得負けして天皇になった。
435年(59歳)、皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)の近親相姦が発覚。驚愕した允恭天皇は軽大娘皇女を伊予に配流した(『古事記』では伊予で2人は心中している)。
名は雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)、男浅津間若子宿禰王(古事記)。
中国の歴史書『宋書(そうじょ)』・『梁書(りょうじょ)』にみえる“倭の五王”の倭王済。国府市野山古墳(前方後円墳・全長228m。



★第20代 安康天皇/Anko 履中天皇2年(401年)?-安康天皇3年8月9日(456年9月24日) (奈良県、奈良市、菅原伏見西陵 55歳)2010

近鉄大和西大寺駅からレンタサイクルでGO! 周囲の樹木や生垣がよく手入れされていた この角度がカッコよくて好き

古墳時代中期の天皇。允恭天皇の第二皇子で、雄略天皇の同母兄。在位は53歳から55歳までのたった2年間で、允恭天皇42年12月14日(454年1月28日)-安康天皇3年8月9日(456年9月24日)。名は穴穂天皇・穴穂皇子(あなほのみこ)。中国の歴史書『宋書(そうじょ)』・『梁書(りょうじょ)』にみえる「倭の五王」中の倭王興。

454年(53歳)、臣下の陰口を信じて大草香皇子(仁徳天皇の皇子)を殺害し、翌年にその妃・中蒂姫を自分の皇后にした。456年、皇后の連れ子・眉輪王(まよわのおおきみ、6歳)が、安康天皇と母の会話を盗み聞き、無実の父が天皇に殺害されたことを知る。そして就寝中の安康天皇を刺殺した(まるでハムレット!)。
眉輪王は豪族の屋敷にかくまわれたが、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)は屋敷を包囲し丸ごと焼き払った。

※考古学の世界では、安康天皇陵は古墳ではなく、“宝来城”と呼ばれる中世城郭の遺跡というのが定説。



★第21代 雄略天皇/Yuryaku 允恭天皇7年(418年)12月-雄略天皇23年8月7日(479年9月8日) (大阪府、羽曳野市、丹比高鷲原陵 61歳)2009&13


歴史・考古学ファンには知名度バツグン 学術的に実在の可能性がかなり高い(2009) けっこう御陵そのものに接近できたりする


2013年に再巡礼 一般拝所から ワカタケル大王とみられている

古墳時代中期の天皇。第19代・允恭天皇の第5皇子。『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に掲げられている天皇で、考古学的に実在が実証される最古の天皇。在位は38歳から61歳の23年間で、安康天皇3年11月13日(456年12月25日)-雄略天皇23年8月7日(479年9月8日)。
名は大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若建命・大長谷王(古事記)。中国の歴史書『宋書(そうじょ)』・『梁書(りょうじょ)』にみえる“倭の五王”の倭王武とされ、埼玉や熊本など各地の古墳から出土される金錯銘鉄剣銘の「獲加多支鹵大王」=ワカタケル大王とみられている。古墳名は高鷲丸山古墳(円墳・径76m・島泉丸山古墳とも)と平塚古墳(方墳・辺50m)。
皇位を継承する際に、安康天皇が後継者に選んでいた履中天皇の皇子を暗殺したほか、かなりのライバルや政敵を亡き者にし、即位後も処刑をやめなかった暴君とされる。晩年、心に思うことがあったのか、崩御の前年に伊勢神宮の外宮を建立した。

近鉄南大阪線の高鷲駅から直線距離なら1kmなんだけど、実際は回り道があったりしてなかなかつかない。車道の交通量も多く、徒歩だとそれなにりの覚悟を



★第22代 清寧天皇/Seinei 允恭天皇33年(444年)?-清寧天皇5年1月16日(484年2月27日) (大阪府、羽曳野市、河内坂門原陵 40歳)2009

駐車場のない御陵が多いので巡礼は自転車が最強 夕陽があたって良い感じ

古墳時代中期の天皇。雄略天皇の第三皇子。在位は36歳から40歳までの4年間で、清寧天皇元年1月15日(480年2月11日)-同5年1月16日(484年2月27日)。
幼少の頃から白髪だったため、父の雄略天皇は霊異を感じて後継者(皇太子)に選んだ。独身で子どもがいなかったが、崩御の3年前に17代履中天皇の2人の孫(仁賢天皇、顕宗天皇の兄弟)が播磨で発見されたことで、2人を宮中に迎え入れた。
名は白髪皇子(しらかのみこ)。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。西浦白髪山古墳(前方後円墳・全長112m)。



★第23代 顕宗天皇/Kenzo 允恭天皇39年(450年)-顕宗天皇3年4月25日(487年6月2日) (奈良県、香芝市、傍丘磐坏丘南陵 37歳)2010

この陵墓は居心地が良かった!大好き! 規模は中型なのにゆったり感が漂っていた


皇族拝所自体はオーソドックス 見張所が一戸建て住宅の如し!このゴージャス感! 拝所にはベンチまであった!ほっこり参拝!

古墳時代中期の天皇。17代履中天皇の孫。名は弘計天皇(おけのすめらみこと)・来目稚子(くめのわくご)、袁祁王・袁祁之石巣別命(おけのいわすわけのみこと)。在位は35歳から37歳までの2年間で、顕宗天皇元年1月1日(485年2月1日)-同3年4月25日(487年6月2日)。456年(6歳)、父が皇位継承を狙う雄略天皇に殺害されると、1歳年上の兄(後の仁賢天皇)と一緒に丹後半島へ脱出し、最終的に名前を変えて播磨・明石に身を隠した。成長してからずっと牛馬の飼育をしていたが、481年(31歳)、宴の席で歌にのせて正体を明かしてしまう。だが、当時の清寧天皇には子どもがおらず、兄弟は宮中へ呼ばれて大切に扱われた。

484年(34歳)、清寧天皇が崩御。皇位継承の際、「弟よ、正体を明かしたのはお前だ。これはお前の功績だ」「いえ、弟の私が即位する訳には参りませぬ」と、兄弟で1年近く皇位を譲り合い、その間は姉の飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が執政を行なった。最終的に兄の説得に負けて、弟が顕宗天皇として即位。弟が天皇になって兄が皇太子となった歴代唯一のケースだ。顕宗天皇は在位3年、37歳の若さで崩御した。若い頃は恋敵の男を亡き者とする過激な一面もあったという。



★第24代 仁賢天皇/Ninken 允恭天皇38年(449年)-仁賢天皇11年8月8日(498年9月9日) (大阪府、藤井寺市、埴生坂本陵 49歳)2009

周囲は大型古墳だらけの古墳銀座 夕刻になり、いろんな鳥が御陵の巣に帰ってきた

古墳時代中期の天皇。17代履中天皇の孫。名は億計天皇(おけのすめらみこと)・大石尊(おおしのみこと)、意祁命・意富祁王(おおけのみこ)。在位は39歳から49歳の10年間で、仁賢天皇元年1月5日(488年2月4日)-同11年8月8日(498年9月9日)。

456年(7歳)、父が皇位継承を狙う雄略天皇に殺害されると、1歳年下の弟(後の顕宗天皇)と一緒に丹後半島へ脱出し、最終的に名前を変えて播磨・明石に身を隠した。成長して牛馬の飼育をしていたが、481年(32歳)、弟が宴の席で正体を明かしてしまう。だが、当時の清寧天皇には子どもがおらず、兄弟は宮中へ呼ばれて大切に扱われた。

484年(35歳)、清寧天皇が崩御。兄弟は王位を譲り合い、弟が顕宗天皇として即位。ところが、弟は在位3年で崩御した。488年(39歳)、仁賢天皇が即位。世の中を良く治め、朝鮮半島から手工業者を招くなど、大陸の進んだ文化を取り入れた。「天下は“仁”に帰った」と人々はその名君ぶりを讃えた。仁賢天皇は、父を暗殺した雄略天皇の娘をあえて皇后にすることで皇位継承の正当性を強める。498年、49歳で波乱の生涯を閉じた。 諱は大脚(おおし)、字は嶋郎(しまのいらつこ)。古墳名は野中ボケ山古墳(前方後円墳)。



★第25代 武烈天皇/Buretsu 仁賢天皇2年(489年)-武烈天皇8年12月8日(507年1月7日) (奈良県、香芝市、傍丘磐坏丘南陵 18歳)2010
※傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)



ラオウもびっくりの武烈帝…巡礼するのに緊張…

ゴゴゴゴゴ…前方にカラス…不吉…

意外!ただの見張所ではなく監区事務所が
あった!人気ワーストの天皇なのに…(汗)

 
うおお!通常、陵墓の石段は鳥居の正面から一般拝所まで一直線に設置されているのに、この御陵では軸をずらして設計されている!
一般拝所の階段を上ると、斜めに移動して正面に至る構図。これはカッコイイ!正直、武烈帝の巡礼は抵抗があったけど来て良かった

広々としているせいか、思ったより居心地が良い。マジで もしや、日本書紀の残虐伝は嘘で古事記が正しいんじゃ?

古墳時代中期の天皇。仁賢天皇の子。在位は9歳から18歳までの9年間で、仁賢天皇11年(498年)12月-武烈天皇8年12月8日(507年1月7日)。『日本書紀』によると「しきりに諸悪をなし、一善も修めたまはず」とある。歴代天皇の中で最も猟奇的。ちょっとここには書けない、身の毛もよだつような残虐行為を働いており(ウィキ参照)、あまりに常軌を逸脱していることから、これらは事実ではなく、先帝を批判することで次期天皇(継体天皇)の好感度をあげ、薄い血縁者の皇位継承を正当化するためではないかと言われている。
ちなみに『古事記』では武烈天皇の残酷性を伝える記録はいっさいない。



★第26代 継体天皇/Keitai 允恭天皇39年(450年)-継体天皇25年2月7日(531年3月10日) (大阪府、茨木市、継体天皇陵 81歳)2008





阪急茨木市駅で自転車をレンタル。
陵墓の入口までやってきた
昔の漢字で継体天皇とあった。
ここで間違いないようだ
えっ!?鳥居
がないの!?




『継体天皇三島藍野陵』に到着! 守衛さんのデジカメ画像!鳥居がある! とても大きな古墳だ

僕は12月10日に訪れたんだけど、守衛さんのデジカメには12月2日の時点でまだ鳥居が写っていた。守衛さんいわく
「2ヶ月ほどで新しい鳥居に入れ替わるから、ある意味君は滅多に見られない光景を見ているよ。良かったね」。


古墳時代後期の天皇。15代応神天皇から4代を経た5世孫(曾々々孫)。今の皇室との血縁が確実に確認できる最古の天皇。在位は57歳から81歳までの24年間で、継体天皇元年2月4日(507年3月3日) - 同25年2月7日(531年3月10日)。

近江国(滋賀県)出身。幼少時に父を亡くし、母の故郷・越前国(福井県)で育てられ、男大迹王(おおどのおおきみ)の名で越前地方を支配した。506年(56歳)、25代武烈天皇が後継者を定めずに崩御したことから、ヤマト王権の重臣(大伴金村)が越前に足を運んで男大迹王に皇位継承するよう説得した。
これを受け、翌507年(57歳)に、河内国の樟葉宮にて即位する。継体天皇は武烈天皇の姉を皇后に迎えた。だがヤマト王権内には、遠方から天皇を呼び寄せたことや、天皇家の血が薄すぎることに強い抵抗を持つ勢力があった。
継体天皇は大和周辺に足止めされ、なかなか大和国に入ることが出来なかった。

月日は流れ、即位から19年が経った526年(76歳)、ようやく大和の地に都を置くことが出来た。とはいえ、九州では地方豪族による「磐井(いわい)の乱」が勃発するなど、継体天皇の試練は続く。531年(81歳)、歴代天皇として初めて皇位を譲位し、皇子の勾大兄(安閑天皇)の即位と同じ日に崩御した。暗殺説もある。継体天皇の子どもから3人(欽明、安閑、宣化)が天皇になっている。
諱はオホド。『日本書紀』では男大迹王(おおどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(おおどのみこと)と記される。

※宮内庁が継体天皇陵としている太田茶臼山古墳は5世紀中頃のもので時代が合わない。継体天皇の崩御は6世紀中頃。学界の定説では、継体天皇の真陵は近隣の今城塚古墳。今城塚古墳は戦国時代に墳丘が城郭として大規模改築されている。

「お堀をどうやって渡るんですか?」と守衛さんに聞いたら、「監視小屋の後ろにボートがある」
とのこと。確かに別の角度から見えた!1人で上げ下げできるように改造されたそうだ


天皇系図 26〜37代 (画像元・ウィキペディア)



★第27代 安閑天皇/Ankan 雄略天皇10年(466年)-安閑天皇4年12月17日(536年1月25日) (大阪府、羽曳野市、古市高屋丘陵 70歳)2009

古市駅からレンタサイクルで向かった 戦国時代には大名の城に改築されていた!

古墳時代後期の天皇。継体天皇の長男。継体天皇から譲位されて即位した。在位は65歳から69歳までの4年間で、継体天皇25年2月7日(531年3月10日)-安閑天皇4年(535年)12月17日。高屋築山古墳(前方後円墳・全長122m)。
室町時代、この天皇陵は河内国を支配していた畠山氏の守護所・高屋城の本丸が置かれていた。



★第28代 宣化天皇/Senka 雄略天皇11年(467年)-宣化天皇4年2月10日(539年3月15日) (奈良県、橿原市、身狭桃花鳥坂上陵 72歳)2010

大きい!遠くからでもすぐに御陵と分かったぜよ! 参道は石と生垣の回廊。凝っている 正面もクールにキマッている

古墳時代後期の天皇。安閑天皇が子を残さずに崩御した為、同母弟の宣化天皇が即位した。在位は69歳から72歳までの3年間のみで、宣化天皇元年12月18日(536年1月26日)-宣化天皇4年2月10日(539年3月15日)。
在位は短いが任那に対新羅の援軍を派遣している。鳥屋ミサンザイ古墳。
宣化天皇即位の同年、蘇我稲目が大臣(おおおみ)に就任し、蘇我氏の全盛の基礎を作っている。



★第29代 欽明天皇/Kinmei 継体天皇3年(509年)-欽明天皇32年4月15日(571年5月24日) (奈良県、高市郡明日香村、檜隈坂合陵 62歳)2010





参道は丘を越えるような感じ

な、な、なんと!御陵を上空から見下ろすような形で
坂道(参道)を下っていく。これにはおったまげた
他の御陵は、多くが下から階段で登って御陵を
見あげる構図になる。上から見るのはここだけ!



下まで降りると幅が5mほどしかない 任那が滅ぶなど激動の時代を生きた 側面から見ると陵墓の巨大さが分かる

古墳時代後期の天皇。継体天皇の子で現天皇家の祖。御陵は全国第6位の大きさ。在位は30歳から62歳までの32年間で、宣化天皇4年12月5日(539年12月30日)-欽明天皇32年(571年)4月15日。
欽明天皇は後世のたくさんの天皇の父親だ。宣化天皇の娘との間に敏達天皇を授かり、大臣・蘇我稲目の2人の娘との間に、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇を授かった。有名な厩戸皇子(聖徳太子)は孫だ。

即位前年の538年(29歳)に百済から仏教が伝来。562年(53歳)、任那が新羅に滅ぼされ、日本からの新羅討伐軍も敗北したことから、死ぬ間際まで任那の復興を夢見ていた。和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)。梅山古墳(前方後円墳・全長140m)。

※継体天皇の死後、欽明天皇の朝廷VS安閑天皇・宣化天皇の朝廷という対立があったとする説がある。
※廃仏派を代表する物部守屋は、欽明天皇の皇子の一人・穴穂部皇子と通じていた。
※欽明天皇陵は考古学上の辻褄合わせのために円墳を無理やり前方後円墳に改築された。



★30代 敏達天皇/Bidatsu 宣化天皇3年(538年)-敏達天皇14年8月15日(585年9月14日) (大阪府、南河内郡太子町、河内磯長中尾陵 47歳)2010

参道の前にはとても広い駐車場がある 参道脇にはポップに刈り込まれた大小の低木 赤毛のアンでも出て来そうな木陰と陵墓


最後の前方後円墳。以降は円墳が中心になる

巨大古墳ならではの雄大さがある

一般拝所を囲むように、足下には細い丸太が敷かれ
ていた。他で見たことがなく珍しいのでは!?

古墳時代後期の天皇。欽明天皇の第二皇子。母は宣化天皇の娘。在位は34歳から47歳までの13年間で、敏達天皇元年4月3日(572年4月30日)-同14年8月15日(585年9月14日)。廃仏派よりの天皇だったことから、廃仏派の物部守屋が力を持ち、崇仏派の蘇我馬子と激しく対立した。
585年、蘇我馬子が寺を建立し仏像を祀ったことと、疫病の発生が重なったことから、敏達天皇は仏教禁止令を発布。物部氏らに仏殿や仏像を燃やさせた。同年のうちに病によって崩御したことから、人々は仏罰ではないかと噂し合った。太子西山古墳。

※9代開化天皇から続いた前方後円墳は、30代敏達天皇でおしまい。
※578年(40歳)、世界最古の企業である宮大工の集団「金剛組」が設立された。




★第31代 用明天皇/Yomei 継体天皇13年(519)-用明天皇2年4月9日(587年5月21日) (大阪府、南河内郡太子町、河内磯長陵 68歳)2010



仏教を深く尊んだ 用明天皇は聖徳太子の父。その関係か、陵墓前にはランドセルを背負った聖徳太子! こちらは同町の叡福寺にある聖徳太子の墓



用明天皇陵。周辺には民家があり一般拝所は狭い 没後6年目(593年)に現地点へ改葬されたという 近くには推古天皇、孝徳天皇も眠っている

古墳時代後期の天皇。聖徳太子の父。欽明天皇の第四皇子。母は蘇我稲目の娘。先帝・敏達天皇の崩御を受けて66歳で即位。仏教を保護した蘇我稲目の孫ゆえ、自身も仏法を重んじた。疱瘡によってわずか1年半で崩御しており、1870年に仲恭天皇と弘文天皇が歴代天皇に認定されるまで、在位期間が最も短い天皇とされていた。正確な在位期間は、敏達天皇14年9月5日(585年10月3日)-用明天皇2年4月9日(587年5月21日)。生年は欽明天皇元年(540年)という説もある。
法隆寺の建立は用明天皇の病気平癒祈願がきっかけという。



★32代 崇峻天皇/Susyun 生年不明-崇峻天皇5年11月3日(592年12月12日) (奈良県、桜井市、倉梯岡陵 74歳)2010
※倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)
 
11月の朝9時に巡礼。特別拝所の敷地が広すぎ、一般拝所
から鳥居までがめっさ遠い。もっと近づきたいよ〜!
臣下に殺害された悲しみの天皇。陵墓一帯の植物から
水蒸気が立ち上り、朝陽が差すと幻想的な雰囲気に

向かって右側に川が流れており、川岸から遙拝可能(左写真)。陵墓のすぐ横に川があるのはたぶんここだけ 非業の死を遂げただけに、美しい御陵で良かった

※崇峻天皇陵・18秒動画“朝霧”

古墳時代末期の天皇。29代欽明天皇の第12皇子。母は蘇我稲目の娘(馬子の妹)。在位は5年間で用明天皇2年8月2日(587年9月9日)-崇峻天皇5年11月3日(592年12月12日)。第12皇子ゆえ、異母兄の敏達天皇や用明天皇が先に天皇となり、なかなか即位できなかった。そのため、同じように不満を持っていた兄・穴穂部皇子や権力者の物部守屋らに接近したが、用明天皇が没したことで状況が変化。崇峻を即位させようとする蘇我馬子&額田部皇女(後の推古天皇=崇峻天皇の姉)と、穴穂部皇子を即位させようとする物部守屋が対立する。

穴穂部皇子は馬子に殺害され、守屋も戦で滅ぼされる。その翌月に崇峻天皇は即位した。崇峻天皇は強大な権力を持つ馬子の存在を次第に疎ましく感じ始め、592年10月4日、献上された猪の目を刺しながら「いつかこの猪の首を斬るように、憎いと思っている者を斬りたい」と口にした。馬子はこの言葉を警戒し、偽りの儀式を設けて配下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺させた。

歴代天皇で死亡当日に葬られたのも、御陵が造営されず陵戸(墓守)がいないのも崇峻天皇だけ。諱は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)。『古事記』には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とある。
朝廷史で、公式に天皇が臣下に殺害されたことが確定しているのは崇峻天皇のみ。暗殺の疑いがあるのは、(1)6歳児に仇討ちされた第20代安康天皇(2)配流先からの逃亡に失敗し急逝した第47代淳仁天皇(3)状況から毒殺の疑いのある第121代孝明天皇の3人。
※かつて崇峻天皇の位牌を祀る金福寺があった土地に崇峻陵がある。しかし、近隣の赤坂天王山古墳が崇峻陵という説が有力。斑鳩町の藤ノ木古墳が崇峻陵という説もある。



★33代 推古天皇/Suiko 欽明天皇15年(554年)-推古天皇36年3月7日(628年4月15日) (大阪府、南河内郡太子町、磯長山田陵 74歳)2010
※磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)








この山城のような小山が「推古天皇陵」 木々の隙間から陵墓が見えている! ここから参道を登っていく



6代・孝安天皇陵を彷彿させる立派な石垣! 史上初の女性天皇である! 聖徳太子の叔母としても有名




ここが一般拝所!?なんてオシャレなんだ!女性らしいというか、他の無骨な拝所とはまったく印象が違う! 先立った息子・竹田皇子と眠っている

飛鳥時代初期の天皇。日本初の女帝であり、同時に東アジア初の女性君主でもある。在位は39歳から79歳までの35年間で、崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日)-推古天皇36年3月7日(628年4月15日)。父は第29代欽明天皇。母は蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)。蘇我馬子は叔父。第31代用明天皇の妹で、第32代崇峻天皇の異母姉にあたる。『日本書紀』によると姿色端麗で所作も流れるように美しかったという。
571年(17歳)、異母兄の第30代敏達天皇の妃となる。576年(22歳)、妃から皇后に立てられる。585年(31歳)、夫の敏達天皇が崩御し、兄の用明天皇が即位。

586年(32歳)、穴穂部皇子に襲われそうになるが寵臣・三輪逆(みわのさかう)に助けられ事無きを得る。587年(33歳)、用明天皇が崩御。皇位継承争いが起き、崇峻天皇&蘇我馬子VS穴穂部皇子&物部守屋の2大勢力がぶつかった。この戦いで物部守屋は戦死。蘇我氏が完全勝利を治めた。

合戦後、皇太后(額田部皇女)の命で崇峻天皇が即位したが、592年(38歳)に崇峻天皇は馬子の手下に暗殺されてしまう。歴代天皇で、確実に臣下によって暗殺されたことが分かっているのは、この崇峻天皇のみ。翌593年(39歳)、先々代・欽明天皇の皇后であった推古天皇が馬子に説得されて、女帝として即位した。推古天皇の本心は、子の竹田皇子の即位にあり、自分はその中継ぎのつもりだった。ところがその矢先に竹田皇子が病死してしまう。推古天皇は甥っ子の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に指名して執政を任せた。
 
聖徳太子の父は推古天皇の兄・用明天皇であり、母は推古天皇の異母妹・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。聖徳太子は推古天皇の期待に十二分に応え、603年(49歳)に冠位十二階を、翌年に十七条憲法を制定し、国家の統治システムを形作っていった。また、607年(53歳)には遣隋使を派遣。622年(68歳)、聖徳太子が48歳で死去。2年後に蘇我馬子が他界。628年、推古天皇も崩御した。享年74歳。諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)。

『古事記』は推古天皇の崩御までを記し、その筆を置いている。遺令によって女帝の亡骸は息子・竹田皇子が眠る墓に合葬された。最初は奈良県橿原市五条野の植山古墳で、後に大阪府南河内郡太子町山田の河内国磯長山田陵(山田高塚古墳)に改葬された。



★第34代 舒明天皇/Jomei 推古天皇元年(593年)-舒明天皇13年10月9日(641年11月17日) (奈良県、桜井市、押坂内陵 48歳)2010
※押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)

  
す、す、素晴らしい!この、カコン、カコン、カコン!と鋭く曲がった石段がめっさカッコイイ!山間の静かな陵墓なのに、参道がスタイリッシュ!

石段を登っていくとこんな感じで見えてくる 早朝に訪れると拝所は日陰に。巡礼は午後が良いかも 拝所から見える景色。御陵は里の奥まった場所にある

飛鳥時代前期の天皇。第30代敏達天皇の第一皇子、押坂彦人大兄皇子の子。天智天皇(中大兄皇子)、天武天皇の父親。在位は36歳から48歳までの12年間で、舒明天皇元年1月4日(629年2月2日)-舒明天皇13年10月9日(641年11月17日)。629年、前年に推古天皇が次帝を決めずに崩御したことから、政治の実権を握っていた蘇我蝦夷(馬子の嫡男)が舒明天皇を立てた。
即位の翌630年、舒明天皇は最初の遣唐使を送り、大陸文化を積極的に取り入れる。639年(45歳)、百済川のほとりに百済宮(くだらのみや)を建て、3年後にその地で没した。諱は田村(たむら)。 和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。
押坂内陵=忍阪段ノ塚古墳は上円下方。明治天皇陵のモデルになった。



★第35代 皇極天皇/Kogyoku 推古天皇2年(594年)-斉明天皇7年7月24日(661年8月24日) (奈良県、高市郡高取町、越智崗上陵 67歳)2010
※第37代・斉明天皇と同一人物

斉明天皇の名前しかない 皇極天皇と並記すればいいのに…WHY?

飛鳥時代の天皇。33代推古天皇に続く歴代2人目の女帝。そして重祚(ちょうそ、再即位)した最初の天皇
第35代・皇極天皇のとしての在位は48歳から51歳までの3年間で、皇極天皇元年1月15日(642年2月19日)-4年6月14日(645年7月12日)。第37代・斉明天皇としての在位は61歳から67歳までの6年間で、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)-7年7月24日(661年8月24日)。

30代敏達天皇の孫の茅渟王(ちぬのおおきみ)と、29代欽明天皇の孫の吉備姫王(きびひめのおおきみ)の間に生まれた女性天皇。34代舒明天皇と結婚して、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)、間人皇女(孝徳天皇皇后)を産んだ。初めは31代用明天皇の孫と結婚していたが、630年(36歳)に舒明天皇の皇后になった。641年(47歳)、舒明天皇が崩御し、後継者が決まらなかったので翌年に自身が『皇極天皇』として即位した。

645年(51歳)、中大兄皇子や中臣鎌足が宮中で蘇我入鹿を殺害する「乙巳の変」(大化の改新)が起きる。事件の2日後、弟の軽皇子(孝徳天皇)に皇位を譲った。654年(60歳)、孝徳天皇が病により58歳で崩御。これを受けて、翌655年(61歳)に『斉明天皇』として再び一度皇位に就いた(重祚は初。ただし、主な行政は中大兄皇子が行なっている)。

658年(64歳)、謀叛を企てた孝徳天皇の子・有間皇子を絞首刑に処す。660年(66歳)、百済が唐&新羅に攻められて滅亡。百済の王子が日本に滞在していたので、彼を半島に送ったうえで、翌年に自ら援軍として九州(筑紫)から遠征しようとした矢先に現地で崩御した。諱は寶女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)。和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。車木ケンノウ古墳(円墳、直径約45メートル)。



★36代 孝徳天皇/Kotoku 推古天皇4年(596年)-白雉5年10月10日(654年11月24日) (大阪府、南河内郡太子町、大坂磯長陵 58歳)2010




たぶん最も可哀相な陵墓…。まず参道入口が
味気ないというか安っぽいコンクリートの階段
途中でもう一度コンクリートの石段。他の
御陵なら、石を組み合わせたものなのに…
参道の最後の方はむき出しの土。一般拝所に、
白砂どころか砂利石も敷かれてないとは(汗)

 
トドメは構造上の問題というか設計ミスというか、御陵の鳥居は一般拝所から見ると
“真横”を向いてしまっている。つまり正面から参拝することは不可能。しかも制札が邪魔…
一般拝所の一番左端ギリギリからで、
やっとこさ、こんな具合に見える(T_T)

飛鳥時代中期の天皇。父は舒明天皇の弟・茅渟(ちぬ)王。皇極(斉明)天皇の弟。敏達天皇の孫。在位は49歳から58歳までの9年間で、孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日)-白雉5年10月10日(654年11月24日)。

大化の改新の前に中臣鎌足から新政府樹立の同志と期待されていた。645年(49歳)、甥の中大兄皇子(天智天皇)と鎌足らが宮中で蘇我入鹿を殺害してクーデターに成功。その2日後に皇極天皇は子の中大兄皇子に譲位しようとしたが、中大兄が固辞。皇極天皇の弟・軽皇子(孝徳天皇)を代わりに推した。軽皇子は三度も断って、皇位継承権の1番目にあたる古人大兄皇子を推薦したが、古人大兄は政争に巻き込まれることを嫌って出家した。結果、史上初の譲位を皇極天皇から孝徳天皇が受けた。

新政府の布陣は、皇太子が中大兄皇子、左大臣が阿倍内麻呂、右大臣が蘇我倉山田石川麻呂(後に自害)、中臣が中臣鎌足。難波宮に遷都し、史上初めて元号を大化と定め「大化元年」とした。様々な行政改革を断行したことから、「大化の改新」と呼ばれている。仏法も尊ばれた。653年(57歳)、「都を元の倭飛鳥河辺行宮に戻すべき」とする中大兄皇子らと対立が生じ、多くの臣下が飛鳥に去ってしまう。翌年、難波宮に残された孝徳天皇は落胆して病気になり崩御した。
諱は軽皇子(かるのみこ)。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。



●吉備姫王/Kibihimenomiko 生年不詳-皇極天皇2年9月11日(643年10月28日) (奈良県、高市郡明日香村、吉備姫王墓)2010

鳥居の背後にある“猿石”で一気に有名に おそらく男性 おそらく女性

欽明天皇の孫(桜井皇子の娘)。宝皇女(第35代・皇極天皇=第37代・斉明天皇)と軽王(第36代・孝徳天皇)を生んだ。
墓域内には付近から発掘された石像4体があり“猿石”と呼ばれている。これがなんとも奇妙な造形!



★第37代 斉明天皇/Saimei  推古天皇2年(594年)-斉明天皇7年7月24日(661年8月24日) (奈良県、高市郡高取町、越智崗上陵 67歳)2010
※第35代・皇極天皇と同一人物





電車が1時間に1本しかないのと、日没が
迫っていたことから、分不相応にもタクシーを利用
238段を登る!事前に宮内庁の人
から「キツイですよ」と言われてた
タクシーの運転手さんがくれた、冷え冷えの
水。この日は8/4で蒸し暑く、まさに命の水!



「到着!?」と思ったら別人の墓(天智天皇の親族) 岐路は右側の石段をさらに登らねばならない やがて左側に石柵が見えてきた!



今度こそ陵墓に到着ゥウウウウ!


退位後に別名で再即位した初の天皇にして女帝


あまりに僕がヘロヘロなので、帰りに運転手
さんが自分のパンとオニギリを下さった!
嗚呼、なんて優しい人なんだろう!

飛鳥時代の天皇。33代推古天皇に続く歴代2人目の女帝。そして重祚(ちょうそ、再即位)した最初の天皇
中大兄皇子(天智天皇)の母親。第35代・皇極天皇のとしての在位は48歳から51歳までの3年間で、皇極天皇元年1月15日(642年2月19日)-4年6月14日(645年7月12日)。第37代・斉明天皇としての在位は61歳から67歳までの6年間で、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)-7年7月24日(661年8月24日)。

30代敏達天皇の孫の茅渟王(ちぬのおおきみ)と、29代欽明天皇の孫の吉備姫王(きびひめのおおきみ)の間に生まれた女性天皇。34代舒明天皇と結婚して、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)、間人皇女(孝徳天皇皇后)を産んだ。初めは31代用明天皇の孫と結婚していたが、630年(36歳)に舒明天皇の皇后になった。641年(47歳)、舒明天皇が崩御し、後継者が決まらなかったので翌年に自身が『皇極天皇』として即位した。

645年(51歳)、中大兄皇子や中臣鎌足が宮中で蘇我入鹿を殺害する「乙巳の変」(大化の改新)が起きる。事件の2日後、弟の軽皇子(孝徳天皇)に皇位を譲った。654年(60歳)、孝徳天皇が病により58歳で崩御。これを受けて、翌655年(61歳)に『斉明天皇』として再び一度皇位に就いた(重祚は初。ただし、主な行政は中大兄皇子が行なっている)。

658年(64歳)、謀叛を企てた孝徳天皇の子・有間皇子を絞首刑に処す。660年(66歳)、百済が唐&新羅に攻められて滅亡。百済の王子が日本に滞在していたので、彼を半島に送ったうえで、翌年に自ら援軍として九州(筑紫)から遠征しようとした矢先に現地で崩御した。諱は寶女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)。和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。車木ケンノウ古墳(円墳、直径約45メートル)。

●皇室豆知識その3〜いわゆる“人違い御陵”について
天皇陵は明治前半に片っ端から場所を決めたので、後世になって考古学者たちから「どう考えても別人のもの、本当の御陵はこっち」と、副葬品や古文書を根拠として、再検討を求められているケースが少なくない。人間違いのまま放置する方が故人に対して失礼だと思うので、僕は宮内庁に“一斉再調査”の英断を迫りたい。もちろん、神聖なお墓であり、そこに最大限の敬意を込めた上で。
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【参考記事〜墳丘は八角形、「斉明陵」強まる=牽牛子塚古墳、発掘で確認−奈良・明日香村】

 (2010/09/09 時事通信) 国の史跡「牽牛子塚(けんごしづか)古墳」(奈良県明日香村、7世紀後半)を発掘調査していた同村教育委員会は9日、古墳の墳丘を八角形と確認したと発表した。八角形墳は天武・持統陵(同村)など天皇級の古墳の特徴。同古墳を斉明天皇陵とみる研究者は多く、今回の調査で「斉明説」の可能性がさらに高まった。
 村教委によると、墳丘は高さ4.5メートル以上の3段構成で、対辺約22メートルと推定される。墳丘のすそは上から見ると正八角形になるように削られており、周囲の幅約1メートルの溝の上には石が並べられ、その外側に二重の砂利敷きがあった。砂利敷きを含めた大きさは32メートル以上に及ぶという。
 過去の調査で、石室内が二つの空間に仕切られた合葬墳だったことが判明しており、斉明天皇と娘の間人(はしひと)皇女が合葬されたという日本書紀の記述と一致するほか、最高級のひつぎとされる漆塗りの「夾紵棺(きょうちょかん)」の破片や人骨、玉類なども出土していた。墳丘についても1977年作成の測量図で八角形と推定されており、今回の発掘で裏付けられた。
 斉明天皇は天智、天武両天皇の母で、宮内庁は別の古墳を陵墓に指定している。
 村教委文化財課の西光慎治技師は「多くの非常に重要なデータが得られた。この成果を飛鳥地域の世界遺産登録に生かしたい」と話している。
 猪熊兼勝京都橘女子大名誉教授(考古学)の話 八角形墳で夾紵棺があるなど、墳丘の形状や出土品からみて天皇陵級の古墳であることは間違いない。合葬墳や出土した歯が間人皇女と推定されるなど、これまでの調査を総合すると、斉明陵とほぼ断定していいだろう。(2010/09/09 時事通信)
斉明天皇の墓と事実上特定。手前は墳丘を
八角形に取り囲む石敷き(画像・中日新聞)
墳丘を八角形(破線)に石敷きが取り囲
んでいる牽牛子塚古墳(画像・東京新聞)

 


報道の2週間後、さっそく牽牛子
塚(けんごしづか)古墳を訪問!
周辺の景色。完全に山里。車から降りて歩くでござる

中央の山中に見える白い部分が発掘現場の古墳!
(2010年9月)

なにーッ!?「調査中のため見学はできません」…だ…と!?
わーん、ここまできたのに!(T_T) ウルウル
諦めないぜ!近くの斜面をのぼって報道写真に
出ていた古墳の一部を視認!(早く調査終わってネ)



★第38代 天智天皇/Tenchi 推古34年(626年)-天智天皇10年12月3日(672年1月7日) (京都府、山科区、山科陵 46歳)2008



参道の入口。あの「中大兄皇子」っす! 長い参道。600mほど歩き続ける





『古今偉傑全身肖像』(1899)より 夏の夕暮れにたたずむ。周囲は蝉しぐれ 「天智天皇御陵」

飛鳥時代中期の天皇。34代舒明天皇の第二皇子。母は35代皇極天皇(=37代斉明天皇)。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)として知られる。本名は葛城皇子(かづらきのみこ)。在位は42歳から46歳までの4年間で、668年2月20日-672年1月7日。
皇位継承の権利が2番目の中大兄皇子は、1番目の古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ、蘇我馬子の娘の子)を支持する蘇我入鹿と対立していた。そして645年(19歳)、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で中臣鎌足たちとクーデターを敢行し、皇極天皇の目の前で蘇我入鹿の首をはねた。この「乙巳(いっし)の変」は成功し、事件の2日後に自分が皇太子になり、孝徳天皇(母の弟)を擁立して実権を手にした。そして蘇我氏を滅ぼした3ヶ月後に、吉野に出家していた古人大兄皇子を“謀叛の疑いあり”と攻め殺した。

翌年、天皇を中心とした中央集権国家を目指して「大化の改新の詔」を発布し、公地公民制、班田収授制などを遂行する。654年(28歳)、孝徳天皇が崩御。翌年、乙巳の変で譲位した皇極天皇(母)を、再び斉明天皇として即位させた。660年、百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされる。661年(35歳)、斉明天皇が崩御し、以後7年間は無帝状態になった。
中大兄皇子は内政に手腕を振るったが、外交では663年(37歳)に百済再興を目指して遠征軍を派遣した「白村江の戦」で、唐・新羅連合軍に大敗してしまった。外交政策の失敗は豪族たちの不満を呼び、大和の地に居づらくなり、667年(41歳)、近江大津宮に遷都し、翌668年(42歳)に即位した。670年(44歳)、日本初となる全国規模の戸籍(庚午年籍)を作成。671年に享年45歳で崩御。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)。

死の翌年、後継者として希望していた実子の大友皇子(39代弘文天皇)と、弟の大海人皇子(40代天武天皇)の間に「壬申の乱」が勃発。我が子は敗北し、以後天武系の天皇が48代称徳天皇まで9代続く。その後、天智の孫・白壁王が光仁天皇として即位し、以降は天智系統が続いた。
※「中大兄」は皇位継承資格を持つ同母兄弟の中の“二番目の大兄”を意味する言葉。一番目は「大兄」。
※中大兄皇子は自身が攻め滅ぼした古人大兄皇子の娘・倭姫王と結婚している。

「秋の田の 刈穂の庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」(天智天皇)


天皇系図 38〜50代 (画像元・ウィキペディア)



★第39代 弘文天皇(大友皇子)/Kobun 大化4年(648年)-天武天皇元年7月23日(672年8月21日) (滋賀県、大津市、長等山前陵 24歳)2006
※長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)






入口に「夕暮れ時、イノシシが出没します。足音など
物音を立て警戒して下さい」と注意書きがあった
前日に降った雪がまだ残っていた。巡礼した
124代の御陵で雪景色だったのは弘文天皇のみ!
大津市役所の真裏。グルッと回り込まねばならず、
入口を探してウロウロ。駅に近いけど分かり難い

●岐阜県不破郡の関ヶ原、大友皇子陵(首塚)
関ヶ原といえば家康が勝利した1600年の合戦が有名だけど、それより約千年前にも、もうひとつの天下分け目の戦い『壬申の乱』の決戦地となった。









自害峰の三本杉。ここに自害した
大友皇子の頭が葬られたという
日本三関のひとつ「不破(ふわ)の関」。
673年に天武天皇の命で設置された
黒血川。壬申の乱の激戦でその名
の通り川が血で黒く染まったという

大友皇子(弘文天皇)は天智天皇の第一皇子。671年(23歳)、日本最初の太政大臣に任命され、皇太子と摂政をかねる形で天智天皇を補佐した。翌672年に父が崩御。2日後に24歳で即位したが、皇位継承を巡る「壬申の乱」で父の弟・大海人皇子(おおあまのみこ=天武天皇)に攻められて自害し、在位は歴代天皇で2番目に短い7ヶ月半となった(最短は85代仲恭天皇の2ヶ月半!)。期間は天智天皇10年12月5日(672年1月9日)-天武天皇元年7月23日(672年8月21日)。諱は大友(おおとも)。
大友皇子の頭は首実検の後、東軍の武将・村国男依(むらくにのおより)の手で三本杉の根元に葬られたと伝承されている。付近には吉野軍と近江軍が衝突した黒血川のほか、愛発関(あらちのせき、福井県敦賀市)、鈴鹿関(三重県関町)と共に日本三関に数えられる「不破の関」がある。
宮内庁が認定している御陵は大津市役所の裏にある長等山前陵。陵形は円丘。
※1870年(明治3年)に諡号を贈られるまで天皇として認められていなかった。今も“即位していない”とする学者が多い。
※大友皇子が后・子女と共に東国へ落ち延びたという伝説があり、神奈川県伊勢原市にも墓がある。
※「関西」「関東」という名称は鎌倉時代の『吾妻鏡』に登場し、三関より東が関東と呼ばれた。



★第40代 天武天皇/Tenmu 舒明天皇3年(631年)-朱鳥元年9月9日(686年10月1日) (奈良県、明日香村、檜隈大内陵 55歳)2004&08
※檜隈大内陵の読み方は“ひのくまのおおうちのみささぎ”




『集古十種』「天武帝御影」より 妻の持統天皇と夫婦で一緒に眠っている(2004) 正面の丘が2人の御陵(2008)

飛鳥時代後期の天皇。舒明天皇の第三皇子で母は皇極天皇。中大兄皇子(天智天皇)の弟。妻は持統天皇で、子は草壁皇子。本名、大海人(おおあま)皇子。在位は42歳から55歳までの13年間で、天武天皇2年2月27日(673年3月20日)-朱鳥元年9月9日(686年10月1日)。

645年(14歳)、兄の中大兄皇子が「乙巳(いっし)の変」(大化の改新)で蘇我氏を滅亡させる。668年(37歳)、天智天皇(中大兄皇子)が即位。672年(41歳)、天智天皇が崩御。皇位を継いだ天智天皇の息子の大友皇子(弘文天皇)はまだ24歳であり、当時では歴代最年少(3代安寧天皇が28歳。他は全員30歳以上)。この前年、大海人皇子は兄が皇位継承を大友皇子に考えていることへ抗議し、吉野へ出家していた。大海人皇子はすぐさま挙兵し、数万の大軍で近江大津宮を攻囲した(壬申の乱)。約1ヶ月の戦いで大友皇子を自害に追い込み、翌673年(42歳)、自身が飛鳥浄御原宮で即位した。

676年(45歳)、 占星を学問としてとらえ陰陽寮を設置。680年(49歳)、皇后(持統天皇)の病気の治癒を願って薬師寺の建立を指示。681年(50歳)、日本初の体系的な律令法=飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の制定を命じ、大化の改新で兄が目指していた、法による中央集権国家の確立を急ぐ。公地公民制を徹底し、683年(52歳)に日本初の貨幣“富本銭”を発行。また複都制をとり飛鳥京と難波京を共に都とした。翌684年に姓による新しい身分秩序「八色の姓」(やくさのかばね)を定め、さらにその翌年に冠位四十八階を制定した。686年、55 歳で崩御。
和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。「真人」は八色の姓の筆頭。

この時期は美術史白鳳時代と呼ばれ、数々の仏教美術の傑作が生れている。天武天皇が計画した国史の編さんは、没後に古事記、日本書紀として実を結んだ。

陵墓は持統天皇との夫婦合葬墓。藤原定家の『明月記』によると、崩御から約550年後の1235年に盗掘され、殆どの副葬品が盗まれてしまった。天武天皇の遺骸は頭蓋骨にまだ白髪が残っていた。妻の持統天皇は火葬後に遺骨を銀の骨壺に収めていたため、盗賊は遺骨を近くに打ち捨て骨壺だけを奪い去ったという…。

※『日本書紀』は天武天皇(大海人皇子)が皇位継承の正当性を強調するために作成を命じ、中心になって編纂していたのは息子の舎人親王(676-735)。
※天武天皇の治世に、五穀の収穫を祝う新嘗祭(にいなめさい)と大嘗祭(即位後の最初の新嘗祭)が区別され今に継承されている。
※46代称徳天皇を最後に天武天皇の血筋は皇統からは完全に絶えた。
※双六が大好きだった。

●皇室豆知識その4〜「大王(おおきみ)」から「天皇」へ

古墳時代、ヤマト政権のトップは大王(おおきみ)と呼ばれており、“天皇”という言葉はなかった。1998年に天武天皇ゆかりの飛鳥池遺跡で「天皇」の文字を記した木簡が発見されたことから、天武天皇が最初の天皇号使用者と見られている。その意味では、天武天皇が事実上の初代天皇となる。



★第41代 持統天皇/Jito 大化元年(645年)-大宝2年12月22日(703年1月13日) (奈良県、明日香村、檜隈大内陵 57歳)2004&08

「春すぎて夏来にけらし白妙
の」百人一首の持統天皇
夫婦で天皇というのも、合葬というのも珍しい(04) 4年後に再訪。冬で緑が色褪せ、少しもの悲しい(2008)

飛鳥時代後期の天皇。推古天皇、皇極(斉明)天皇に続く、3人目の女帝。天智天皇(中大兄皇子)の子。在位は45歳から52歳までの7年間で、持統天皇4年1月1日(690年2月14日)-持統天皇11年8月1日(697年8月22日)。本名は?野讃良(うののさらら)皇女。
657年、12歳の時に叔父(父の弟)の大海人皇子(当時26歳)と結婚。15年後の672年(27歳)、夫が皇位継承戦争「壬申の乱」で大友皇子(弘文天皇)に勝利し、翌673年(28歳)に皇后となって夫・天武天皇の国政を支えた。

686年(41歳)に天武天皇が崩御すると、皇位を子の草壁皇子へ継承させるため、有力候補の大津皇子を謀叛の嫌疑で自害させた。大津皇子は聡明な人格者だったことから、その死は人々の同情を集め、また草壁皇子が24歳と若いために即位のタイミングを待つことに。3年後(689年)、そうこうしてる間に草壁皇子が27歳の若さで病死してしまう。
翌690年(45歳)、今度は草壁皇子の遺児である6歳の軽皇子へ皇位を継承させるため、緊急措置として自ら即位して皇位を手中に収めておいた。697年(52歳)、14歳になった軽皇子(文武天皇)に譲位し、歴代初の太上天皇(上皇)となって見守った。持統天皇は柿本人麻呂の歌才に惚れ重用した。

持統天皇は有能な統治者で、藤原京遷都、飛鳥浄御原令公布、班田収授法を断行し、日本を本格的な律令国家にさらに近づけた。702年、病により崩御。享年57歳。天皇では歴代で初めて火葬され、遺骨は16年前に世を去った夫・天武天皇の棺に寄り添うように銀の骨壺に収められた。この合葬墓は1235年に残念ながら盗掘され、持統天皇は遺骨を撒かれ銀の骨壺を奪われた。この事件を聞いた藤原定家は、日記(明月記)に「遺灰を拾い集めてもとに戻すべき。ひどい話だ」と怒りを込めて記した。

万葉集に名歌「春すぎて夏きたるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」を残している。

※持統天皇の母は中大兄皇子の妻・造媛(みやつこひめ)。母の父は「乙巳の変」のクーデター現場で、ガクプルしながら上表文を読み上げていた蘇我石川麻呂。蘇我石川麻呂は中大兄皇子や中臣鎌足に協力したのに、クーデターの4年後に滅ぼされた。この時、持統天皇は4歳。母の造媛は父親を夫たちに殺され、悲嘆にくれて病死した。
※僕は万葉集第三巻の持統天皇と側近の老女のやり取りが微笑ましくて好き。
持統天皇「否といへど強(し)ふる志斐(しい)のが強ひがたり この頃聞かずてわれ恋ひにけり」
(もうたくさんと言ってるのに無理に聞かせるお前の話も、最近聞かないので恋しく思う)
老女「否といへど語れ語れと詔(の)らせこそ 志斐いは奏(まを)せ強語(しひがたり)と詔る」
(私はよしましょう言うのに、語れ、語れと言うのでお話しするのに、無理じいとはあんまりです)

飛鳥の都に夕陽が沈む(2008)

●皇室豆知識その5〜古墳時代を終わらせた法律「薄葬令(はくそうれい)」

巨大古墳の造営は民衆に多大な負担をかけたことから、大化の改新の翌646年、新政権は民衆の犠牲を減らすため薄葬令を発布した。(1)身分別に墳墓の規模を制限(2)天皇陵の造営にかける時間は最大7日以内(3)人馬の殉死や殉葬を禁止、こうした制限事項を加えることで陵墓は小型&簡素化され、前方後円墳は消えていった。



★第42代 文武天皇/Monmu 天武天皇11年(683年)-慶雲4年6月15日(707年7月18日) (奈良県、高市郡明日香村、檜隈安古岡上陵 24歳)2010

文武天皇像(道成寺蔵)

明日香村は平和そのもの。楽園でござる! 飛鳥駅から文武天皇陵に行く途中、高松塚古墳が! ここから伝説の壁画が発見された!(高松塚古墳)

山村の田畑の中に御陵がある。めっさ良い天気! 文武天皇陵に光がさんさんと降り注ぐ 農村のせいか陵墓前は時間がゆっくりに感じられた

飛鳥時代末期の天皇。読み方は“もんむ”。草壁皇子の長男。母は阿陪皇女(元明天皇)。在位は14歳から24歳までの10年間で、文武天皇元年8月1日(697年8月22日)-慶雲4年6月15日(707年7月18日)。祖母の持統天皇から譲位されて、わずか14歳で即位。701年(18歳)に大宝律令が完成し翌年に公布した。
諱は珂瑠(かる)。和風諡号は『続日本紀』の倭根子豊祖父天皇、『続日本紀』の天之眞宗豊祖父天皇(あめのまむねとよおほぢのすめらみこと)。妻は藤原不比等の娘・宮子。
※宮内庁が決めた栗原塚穴古墳よりも、同村の中尾山古墳が本物という意見が有力。
※父の草壁皇子は皇太子位のまま亡くなった。祖母の持統天皇が初の太上天皇(上皇)となり後見役として見守った。



★第43代 元明天皇/Genmei 斉明天皇7年(661年)-養老5年12月7日(721年12月29日) (奈良県、奈良市、奈保山東陵 60歳)2010

平城遷都1300年祭!せんとくん! 朱雀門に続く大通り。ここから1300年祭の会場へ 『世界遺産』に認定されたことを示す石碑



こちらは正殿となる大極殿。超巨大! 中国の紫禁城を思わせる広大な広場 平城京保存の父・棚田嘉十郎。保存を巡って自刃




元明、元正母子の御陵へ 女帝だけに、どことなく女性的に見えるのは気のせい? 奈良市内だけど中心からだいぶ北。ほとんど木津川市

奈良時代の初代天皇にして4人目の女帝。在位は46歳から54歳までの8年間で、慶雲4年7月17日(707年8月18日)-和銅8年9月2日(715年10月3日)。

天智天皇の第四皇女。平城京を建設。天武天皇と持統天皇(姉)の子・草壁皇子の正妃。679年頃(18歳)、甥の草壁皇子(17歳)と結婚。689年(28歳)、草壁皇子が27歳で夭折。697年(36歳)に子の文武天皇が持統天皇から譲位され即位した。701年(40歳)、大宝律令が完成。
707年(46歳)、文武天皇が病により24歳で崩御。文武天皇は藤原鎌足の次男・不比等の娘の藤原宮子と結婚しており、子の首皇子(おびとのみこ=聖武天皇)を残していた。孫となる首皇子は、この時まだ6歳だったことから、成長するまでの中継ぎで元明天皇として即位した。元明天皇の夫・草壁皇子は皇太子のまま他界したので、皇后を経ずにいきなり女帝に就任したことになる。
708年(47歳)、武蔵国から和銅が献じられ、和同開珎を鋳造させる。710年(49歳)、藤原京から平城京に遷都。712年(51歳)に『古事記』が完成し、翌年に『風土記』が編纂された。

715年(54歳)、老いを悟った元明天皇は、首皇子がまだ14歳だったことから、長女の氷高皇女(元正天皇、35歳)に譲位した。721年、次女の婿・長屋王(ながやのおおきみ)と、不比等の次男・藤原房前(ふささき)に後を頼んで崩御した。享年60歳。名は阿陪皇女(あへのひめみこ)。和風諡号は「日本根子天津御代豊國成姫天皇」(やまとねこあまつみよ(みしろ)とよくになりひめのすめらみこと)。



★第44代 元正天皇/Gensho 天武天皇8年(680年)-天平20年4月21日(748年5月22日) (奈良県、奈良市、奈保山西陵 68歳)2010

女帝。母は元明天皇で道を挟んで眠っている 母子が女帝で御陵が並んでいるって他にないんじゃ?

奈良時代前期の天皇。独身で即位した初めての女性天皇。母は元明天皇であり、歴代で唯一、母から娘へと女系での継承が行われた天皇。5人目の女帝。名は氷高皇女(ひたかのひめみこ)。『続日本紀』によると「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」
父は草壁皇子、早逝した42代文武天皇は弟。弟の子、首皇子(おびとのみこ=聖武天皇)がまだ若いため、譲位を受けて即位した。在位は35歳から44歳までの9年間で、霊亀元年9月2日(715年10月3日)-養老8年2月4日(724年3月3日)。

720年(40歳)、天武天皇の頃から編纂が始まっていた日本書紀がついに完成。同年、藤原不比等が病死。翌年、妹の夫・長屋王が右大臣に任命された。723年(43歳)、農地が不足し「三世一身の法」を制定。
724年(44歳)、首皇子(聖武天皇)が23歳に成長したので譲位。元正天皇は退位後も四半世紀ほど長寿しており、後見人として病弱な聖武天皇の政務を助けた。748年に崩御。和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)。



★第45代 聖武天皇/Shomu 大宝元年(701年)-天平勝宝8年5月2日(756年6月4日) (奈良県、奈良市、佐保山南陵 55歳)2010

『聖武天皇像』(鎌倉時代) 高名な天皇だけあって、とても立派な参道 御陵に続く石段も堂々たるもの

上りきった所に眠っておられます 風格を感じる御陵だった こちらは夫人の光明皇后の御陵。隣接している

奈良時代前期の天皇。文武天皇の第一皇子で母は藤原不比等(ふひと、鎌足の次男)の娘・宮子。妻は皇族以外の人間で初めて皇后となった光明皇后(光明子、藤原氏出身)。在位は23歳から48歳までの25年間で、神亀元年2月4日(724年3月3日)-天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)。
6歳で父・文武天皇が崩御したことから、父の母・元明天皇が1人目の中継ぎとして皇位につき、次に父の姉の元正天皇が2人目の中継ぎとして皇位を継承した。皇太子時代の718年(17歳)、夫人の光明子が女児(孝謙天皇)を産む。720年(19歳)、右大臣・藤原不比等が病死。724年、23歳になり譲位を受け即位する。727(26歳)、光明子が男児(基王)を産むが1歳を前に病死。

この当時、天皇には複数の妻がいるのが普通だったが、当然ながら最高位の皇后になれるのは1人だけ。名門氏族の藤原氏は、聖武天皇の母・宮子の妹(不比等の娘)で、聖武天皇と同じ年齢の藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)を皇后にするべく画策した。だが皇族ではない光明子が皇后になることを、政権トップの左大臣・長屋王(母は天智天皇の娘=元明天皇の姉)が猛反対した。なぜなら、先代、先々代と女帝が続いていたうえ、聖武天皇が病弱だったことから、皇后が天皇になる可能性がリアルにあったからだ。長屋王は皇室以外の人間が天皇になることを防ぎたかった。

ところが、729年(28歳)、「長屋王が怪しげな呪術を使って国家転覆を企んでいる」という密告が宮中に寄せられた。長屋王は大罪人として兵に邸宅を包囲され服毒自殺を強要される。また長屋王の妻・吉備内親王(文武天皇&元正天皇の妹)も3人の息子と共に縊死した。これらは藤原氏の罠だった。
政敵を葬った藤原氏は、歴代初となる非皇族の皇后(光明皇后=光明子)を立てることに成功し、不比等の4人の息子達=藤原四兄弟の天下が訪れた。しかし、737年(36歳)、「長屋王の変」の8年後に天然痘が流行し、同年に4兄弟全員が病死
する異常事態となった。これは無実の罪で死んだ長屋王の祟りと噂された。

天然痘や天災が続いたことで、聖武天皇は仏教への依存を強めていく。そして741年(40歳)に全国に国分寺建立の詔を、743年(42歳)に有名な東大寺大仏の建立の詔を発布した。同年、荒れ地対策として墾田永年私財法を制定。政務は光明皇后の兄、橘諸兄(たちばなのもろえ)が中心に行なった。
744年(43歳)、第2皇子の安積(あさか)親王が16歳で病死。749年(48歳)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇、31歳)に譲位し、男性としては初の太上天皇(上皇)となった。

752年(51歳)、東大寺大仏の開眼法要。754年(53歳)、鑑真が来日。756年、天武天皇の孫・道祖王(ふなどおう)を皇太子にすると希望し崩御した。戒名は勝満。光明皇后は東大寺(正倉院)に聖武天皇の遺品を納めた。尊号(諡号)は天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)。
4年後に光明皇后も他界し、聖武天皇陵の東側に葬られた。
※聖武天皇崩御の翌年、道祖王は皇位継承を狙い謀叛を企んでいるとして拷問を受け獄死している。
※752年に開眼した東大寺の大仏は、1180年に平重衡の南都焼討で燃え、1567年に松永久秀軍VS三好軍の兵火で焼かれた。



★第46代 孝謙天皇/Kouken 養老2年(718年)-神護景雲4年8月4日(770年8月28日) (奈良県、奈良市、高野陵 52歳)2010&14
※第48代・稱コ(しょうとく)天皇と同一人物


2010 2度天皇になった女帝 2014

奈良時代中期の天皇。史上6人目の女帝で父は聖武天皇。母は一般人で藤原氏出身の光明皇后(光明子)。天武系の最後の天皇。
孝謙天皇としての在位は31歳から40歳までの9年間で、天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)-天平宝字2年8月1日(758年9月7日)。6年後、後継者の淳仁天皇を淡路島に追放し、称徳(しょうとく)の名前で再び天皇の座につく。称徳天皇としての在位は46歳から52歳までの12年間で、天平宝字8年10月9日(764年11月6日)-神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。


弟が1歳になるまえに病死したことから、20歳(738年)の時に歴代初の女性皇太子となる。749年(31歳)、聖武天皇が病弱を理由に譲位し即位。政務を皇太后(母)の甥っ子で太政大臣の藤原仲麻呂が補佐した。758年(40歳)、退位。仲麻呂は天武天皇の皇子・舎人親王の七男(淳仁天皇)を後継者に強く推し即位させた。淳仁天皇の妻は仲麻呂の長男の未亡人であり、仲麻呂は後見人として事実上の最高権力を握った。760年(42歳)、光明皇太后が死去。翌年、孝謙上皇は病に伏せ、看病にあたった僧・道鏡を寵愛するようになる。このことを淳仁天皇が批判したことから両者は深く対立していく。

764年(46歳)、孝謙上皇&道鏡VS淳仁天皇&仲麻呂という構図に危機感を持った仲麻呂が挙兵(藤原仲麻呂の乱)。孝謙上皇は密告を受けて先手を打ち仲麻呂を破った。そして淳仁天皇を淡路島に追放し、再度即位して称徳(しょうとく)天皇となる。その後、道鏡をさらに重用して太政大臣禅師とし、吉備真備を右大臣に抜擢した。
※翌年、淳仁天皇は淡路島で逃亡をはかって捕われ、翌日に死亡している。追放後も都には淳仁天皇を慕う勢力があったことから、今後の憂いを立つため殺害されたと思われる。

769年(51歳)、九州・宇佐八幡宮から「道鏡を天皇にすべしとお告げがあった」と報告が入る。真偽の確認の為、称徳天皇の側近の弟・和気清麻呂が宇佐八幡に派遣された。和気清麻呂はこの神託が、道鏡と宇佐八幡がグルになった虚偽のものと報告し、怒った称徳天皇と道鏡は清麻呂の名前を穢麻呂(きたなまろ)に改名して大隅国(鹿児島)に流した。

翌770年、称徳天皇は病により崩御。道鏡の権力拡大に反感を抱いた貴族達に暗殺されたという説も根強くある。享年52歳。
称徳天皇は生涯独身で子どもがおらず、長年の皇位継承争いで自身にも父の聖武天皇にも兄弟がなく、天武天皇(中大兄皇子の弟)から続いた流れはここで絶えた。約2ヶ月後、天智天皇(中大兄皇子)系の光仁天皇が即位した。
859年後の江戸時代の明正天皇まで女帝はいない。



★第47代 淳仁天皇/Junnin 天平5年(733年)-天平神護元年10月23日(765年11月10日) (兵庫県、南あわじ市、淡路陵 32歳)2010

徳島鳴門から明石海峡大橋で淡路島へ! 淳仁天皇の陵墓が見えてきた! 御陵の正面から周辺をパチリ。のどか〜


悲願の初巡礼。淡路島まで簡単には来られず感無量 天皇でありながら流され、脱出にも失敗→翌日に崩御 暗殺の疑いが濃厚。どうかご冥福を…

場所が場所だけに見張所にひとけはなし


なんとドアノブに蜘蛛の巣が…(涙)


実はこの淳仁天皇が124人目の墓参。
ついに全御陵参拝の悲願が成就し、
車を出してくれた盟友 I 氏と涙にむせぶ

奈良時代中期の天皇。天武天皇の皇子・舎人親王の七男。在位は25歳から31歳までの6年間で、天平宝字2年8月1日(758年9月7日)-天平宝字8年10月9日(764年11月6日)。3歳で父が他界し、天武天皇の孫でありながら官位を持たなかった。758年(25歳)、未婚の女帝・孝謙天皇が藤原仲麻呂(恵美押勝/えみのおしかつ、皇族以外の初の太政大臣)の助言で淳仁天皇に譲位。淳仁天皇の妻は仲麻呂の長男(早逝)の未亡人で、仲麻呂とは強い繋がりがあった。淳仁天皇の即位後、政治の実権は仲麻呂が掌握する。

孝謙上皇は病の快癒をきっかけに、治療(祈祷)に当たった僧侶・弓削道鏡に絶大な信頼を置き重用していく。それがあまりに度を過ぎた寵愛ぶりであったことから、仲麻呂が淳仁天皇を通して孝謙上皇を諫めた結果、孝謙上皇は逆上。仲麻呂&淳仁天皇と孝謙上皇&道鏡は急速に不和となる。762年(29歳)、孝謙上皇は再び天皇に即位しようと画策。764年(31歳)、危機感を持った仲麻呂は挙兵してクーデターを試みるが、密告により孝謙側に先手を取られ、逃亡中に琵琶湖の湖上で捕らえられ斬首される。淳仁天皇は直接クーデター計画に参加しなかったが、仲麻呂と親密であったことを理由に廃位を宣告され淡路島に流された。

淳仁天皇には人望があったことから、配流後も宮中には淳仁天皇の復帰を望むグループがあり、淡路島まで通う役人(官人)さえいた。淳仁天皇は配流の翌年(765年)、淡路島から脱出を試みるが捕らえられ、翌日に急死する。死因は“病死”と発表されたが、逃亡翌日の死であることから殺害されたものと思われる。5年後に称徳天皇(孝謙上皇)が崩御し、その2年後に光仁天皇が淳仁天皇の魂を鎮めるために淡路島へ僧侶60人を派遣して弔った。淳仁天皇を憎む称徳天皇(孝謙上皇)の意向で1108年間も天皇として認められず、「淡路廃帝(はいたい)」と呼ばれていた。1873年、明治天皇が淡路廃帝に淳仁天皇の追号をした。諱は大炊(おおい)。
※京都・堀川にある白峰神宮は、恨みを持って死んだ淳仁天皇や後世の崇徳天皇の怨霊を合祀している。
※明治天皇が追号したのは、壬申の乱で天武天皇に敗北した39代弘文天皇(大友皇子)、承久の乱による混乱で即位の礼も大嘗祭もないまま3ヶ月で退位することになった85代仲恭天皇(九条廃帝)、そして淳仁天皇の3名。



★第48代 称徳天皇/Shotoku 養老2年(718年)-神護景雲4年8月4日(770年8月28日) (奈良県、奈良市、高野陵 52歳)2010
※第46代・孝謙天皇と同一人物

宮内庁の制札には稱コ天皇の名前だけがあり、孝謙天皇の名は見当たらなかった。並記すればいいのに

奈良時代後期の天皇。史上6人目の女帝で父は聖武天皇。母は一般人で藤原氏出身の光明皇后(光明子)。天武系の最後の天皇。
孝謙天皇としての在位は31歳から40歳までの9年間で、天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)-天平宝字2年8月1日(758年9月7日)。6年後、後継者の淳仁天皇を淡路島に追放し、称徳(しょうとく)の名前で再び天皇の座につく。称徳天皇としての在位は46歳から52歳までの12年間で、天平宝字8年10月9日(764年11月6日)-神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。


弟が1歳になるまえに病死したことから、20歳(738年)の時に歴代初の女性皇太子となる。749年(31歳)、聖武天皇が病弱を理由に譲位し即位。政務を皇太后(母)の甥っ子で太政大臣の藤原仲麻呂が補佐した。758年(40歳)、退位。仲麻呂は天武天皇の皇子・舎人親王の七男(淳仁天皇)を後継者に強く推し即位させた。淳仁天皇の妻は仲麻呂の長男の未亡人であり、仲麻呂は後見人として事実上の最高権力を握った。760年(42歳)、光明皇太后が死去。翌年、孝謙上皇は病に伏せ、看病にあたった僧・道鏡を寵愛するようになる。このことを淳仁天皇が批判したことから両者は深く対立していく。

764年(46歳)、孝謙上皇&道鏡VS淳仁天皇&仲麻呂という構図に危機感を持った仲麻呂が挙兵(藤原仲麻呂の乱)。孝謙上皇は密告を受けて先手を打ち仲麻呂を破った。そして淳仁天皇を淡路島に追放し、再度即位して称徳(しょうとく)天皇となる。その後、道鏡をさらに重用して太政大臣禅師とし、吉備真備を右大臣に抜擢した。
※翌年、淳仁天皇は淡路島で逃亡をはかって捕われ、翌日に死亡している。追放後も都には淳仁天皇を慕う勢力があったことから、今後の憂いを立つため殺害されたと思われる。

769年(51歳)、九州・宇佐八幡宮から「道鏡を天皇にすべしとお告げがあった」と報告が入る。真偽の確認の為、称徳天皇の側近の弟・和気清麻呂が宇佐八幡に派遣された。和気清麻呂はこの神託が、道鏡と宇佐八幡がグルになった虚偽のものと報告し、怒った称徳天皇と道鏡は清麻呂の名前を穢麻呂(きたなまろ)に改名して大隅国(鹿児島)に流した。

翌770年、称徳天皇は病により崩御。道鏡の権力拡大に反感を抱いた貴族達に暗殺されたという説も根強くある。享年52歳。
称徳天皇は生涯独身で子どもがおらず、長年の皇位継承争いで自身にも父の聖武天皇にも兄弟がなく、天武天皇(中大兄皇子の弟)から続いた流れはここで絶えた。約2ヶ月後、天智天皇(中大兄皇子)系の光仁天皇が即位した。
859年後の江戸時代の明正天皇まで女帝はいない。



★第49代 光仁天皇/Konin 和銅2年10月13日(709年11月18日)-天応元年12月23日(782年1月11日) (奈良県、奈良市、田原東陵 72歳)2010

田んぼの海に浮かぶ小島に見えた 参道はゆるやかな下り坂になっている

  
奈良市内とはいえ市街地から遠く離れており、周辺はむしろこの先にある“柳生の里”に近い印象があった

奈良時代末期の天皇。在位は61歳から72歳までの11年間で、宝亀元年10月1日(770年10月23日)-天応元年4月3日(781年4月30日)。天智天皇の第7皇子・施基親王の第6子。名は白壁王。妻は女帝・孝謙天皇の異母姉、井上内親王。764年(55歳)、白壁王は恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)の鎮圧に功績を挙げる。これによって称徳天皇(=孝謙天皇)に重用され翌々年に大納言となった。この時期は皇位継承をめぐって謀殺、暗殺が絶えず、白壁王は無能者を装うために酒に溺れるフリをして、権力争いと距離を置いた。

770年(61歳)、称徳天皇が崩御。未婚で実子がいない上、何年も続いた粛清の嵐で天武天皇系の皇族がいなかった。白壁王の妻・井上内親王は聖武天皇の皇女であることから、両者の息子(当時9歳)は女系とはいえ天武天皇系の男性皇族の最後の一人となった。これを受け、白壁王は古代を除くと歴代最高齢となる62歳(数え)で即位する。翌年、「皇后(井上内親王)が呪詛を使って大逆を企てた」とする密告があり、皇后はその地位を追われ、息子も皇太子から庶人に降ろされた。その結果、光仁天皇は側室の子・山部親王(当時36歳の桓武天皇)を新たに皇太子にする。これらは山部親王が仕組んだ謀略という説もある。同年、光仁天皇の姉が他界し、これも井上内親王の呪詛の仕業とされて母子は幽閉され、775年(66歳)、挙げ句の果てに母子は共に変死した。こうして天武天皇の皇統は女系も完全に途絶えた。

一方、光仁天皇擁立の際に尽力し、その後天皇の腹心となっていた藤原式家の兄弟が、井上内親王変死後に相次いで急死する。祟りを恐れた光仁天皇は秋篠寺を建立するが、風水害、地震、干ばつ、落雷、流星、日食など天変地異や凶兆が続き、光仁天皇と山部親王(桓武天皇)も病を患った。777年(68歳)、こうしたことは井上内親王の怨霊が原因とされ、井上内親王の遺骨を改葬して丁重に葬り、翌年に山部親王は伊勢神宮に参拝した。
781年(井上内親王変死の6年後)、第一皇女(桓武天皇の姉)が他界し、消沈した光仁天皇もまた崩御する。享年72歳。3年後、桓武天皇は長岡京への遷都を決定した(その後、平安京へ)。和風諡号は「天宗高紹天皇」(あめむねたかつぎのすめらみこと)。陵墓は円丘。
※光仁天皇陵の向かい側に大和の皇陵の調査・修復に尽力した江戸期の歴史地理学者、北浦定政の墓がある。



★第50代 桓武天皇/Kanmu 天平9年(737年)-延暦25年3月17日(806年4月9日) (京都府、伏見区、柏原陵 69歳)2008




延暦寺所有の桓武天皇像 桓武天皇陵へ延々と続く道

第50代桓武天皇ここに眠る。中国の皇帝のような
絶大な権力を各方面へふるっていた





「史跡・長岡京跡」。桓武天皇が平城京から最初に遷都した
長岡京。10年間だけ日本の首都だった。当時は元旦に、
(画像奥の)朱色の旗立てに高さ9mもの祝旗を立てたという

大極殿(だいごくでん)及び後殿(こうでん)の跡地。
大極殿は政治・儀式を行う最重要施設であり、
現在の国会議事堂のようなもの(2010)
宮内庁が建てた「長岡京大極殿跡地」の石碑。
5mはあろうかという超巨大なものだった



長岡京の乙訓寺(おとくにでら)にある、桓武天皇の
弟・早良親王の供養塔。長岡京への遷都責任者・
藤原種継(たねつぐ)暗殺に関わった容疑で淡路島に
流される途中、自分の無実を訴える為に絶食死した
「早良親王の怨霊が出る」として、
長岡京から平安京への遷都を
提案した和気清麻呂(わけの
きよまろ)※京都・護王神社にて

平安時代初期の天皇。光仁天皇の第一皇子。生母は百済の武寧王の末裔・高野新笠(たかののにいがさ)。在位は44歳から69歳までの25年間で、天応元年4月3日(781年4月30日)-延暦25年3月17日(806年4月9日)。

母が身分の低い帰化系氏族ゆえ、皇位継承者と当初は見做されておらず、官僚の道を進む予定だった。ところが政争の果てに他の候補者が死亡し、773年(36歳)に皇太子に選ばれた。781年(44歳)、光仁天皇から譲位されて即位。弟の早良(さわら)親王を皇太子とした。783年(46歳)、藤原乙牟漏(おとむろ)を皇后とし、両者の間には安殿親王(平城天皇)と神野親王(嵯峨天皇)が産まれた。また、藤原旅子が大伴親王(淳和天皇)を産んだ。

東大寺や興福寺など、南都の大寺院があまりに大きな力を持つようになったため、政治への介入を排除するために桓武天皇は遷都を決意する。784年(47歳)、長岡京が新たな都となったが、翌785年に遷都の責任者である造宮使・藤原種継が工事中に矢で暗殺される事件が起きる。大伴氏など様々な関係者が処罰されるなか、東大寺の開山・良弁と親しかった皇太子の早良親王にも疑惑が持ち上がった。桓武天皇は廃太子した上で淡路島への流罪としたが、早良親王は無実を訴えて絶食し、配流の途中で河内国にて憤死(享年35歳)した。
その後、天災が襲い、安殿親王(平城天皇)が病気になったり、皇后が病死するなど不幸が続いた。中央政界へ復帰していた和気清麻呂が「これは早良親王の怨霊の仕業」と助言し、10年後の794年(57歳)に今度は平安京へ遷都した。
801年(64歳)、坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北地方に侵攻させ蝦夷を平定。良心的な参議・藤原緒嗣(おつぐ)が「これ以上、都の造営や戦争で百姓を苦しめるべきではない」と進言し、桓武天皇はその両方を中止した。806年に崩御。享年69歳。諱は山部(やまべ)。和風諡号は日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてらすのみこと)。柏原帝とも呼ばれた。1895年に平安遷都1100年を記念して桓武天皇を祀る平安神宮が創建された。
 
※2001年、今上天皇は「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております」と発言。このように厳密には皇室が半島の血筋を引いていることになる。ただし生母の高野新笠は武寧王から10代目と離れており、6代前に帰化して日本名を名乗っているので、限りなく日本人といっていい。

●皇室豆知識その6〜親政(しんせい)

親政とは、摂政や関白、幕府に執政を任せるのではなく、君主(天皇、国王)自身が政治を行うこと。桓武天皇、後三条天皇、後醍醐天皇の3人が特に有名。


天皇系図 50〜60代 (画像元・ウィキペディア)



★第51代 平城天皇/Heizei 宝亀5年8月15日(774年9月25日)-弘仁15年7月7日(824年8月5日) (奈良県、奈良市、楊梅陵 50歳)2010

平城天皇御陵は民家の間に参道があり気付きにくい 左右の松の隙間から御陵が見え良い構図 平城京・大極殿(正殿)の近くに眠ってます!

平安時代初期の天皇。桓武天皇の長男。嵯峨天皇は弟。在位は32歳から35歳までの3年間で、延暦25年3月17日(806年4月9日)-大同4年4月1日(809年5月18日)。
785年(11歳)、叔父の皇太子・早良親王が失脚したため、代わりに皇太子に選ばれる。妃の母・藤原薬子(ふじわらのくすこ)を寵愛し、この不倫騒動で宮中のヒンシュクを買い、桓武帝から薬子の追放を命じられた。

806年(32歳)、父の崩御をうけ即位。父が平安京の造営や軍の東北遠征で人々を疲弊させたので、当初は行政改革に積極的に取り組み、年中行事を停止するなど、人民の休養に努めた。一方、さっそく藤原薬子を呼び戻している。809年(35歳)、病気を理由にたった3年の在位で弟・嵯峨天皇(23歳)に譲位し、自らは太上天皇(上皇)となった。嵯峨天皇は平城天皇の子・高岳親王を皇太子とする。平城上皇は旧都の平城京に戻って暮らした。

810年(36歳)、平城上皇の平城京と嵯峨天皇の平安京という2箇所の朝廷が並ぶなか、薬子や彼女の兄の藤原仲成(なかなり)にそそのかされ、平城上皇は平城京への再遷都を宣言する。驚いた嵯峨天皇は他の貴族が追随しないようにすぐさま薬子の官位を剥奪した。これに怒った平城上皇は挙兵したものの、嵯峨天皇の命を受けた坂上田村麻呂に鎮圧された。平城上皇は出家し、薬子は服毒自殺を遂げ、藤原仲成は殺害された(薬子の変)。
嵯峨天皇は高岳親王の皇太子を廃し、新たに伴親王(淳和天皇)を皇太子とする。824年、50歳で崩御。名は安殿親王(あてのみこ)、奈良帝(ならのみかど)。
※歌人の在原業平は平城天皇の孫。
※平城天皇の読み方は“へいぜい”なので要注意!また、楊梅陵は“やまもものみささぎ”と読む。



★第52代 嵯峨天皇/Saga 延暦5年9月7日(786年10月3日)-承和9年7月15日(842年8月24日) (京都市、右京区、嵯峨山上陵 55歳)2006

嵯峨天皇像(宮内庁) 最澄への追悼詩(帝自筆)



あの山が嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ) これが参拝道の入口 ちょっとした登山だ







登り初めて20分、何か見えてきた! 山頂にて嵯峨天皇に謁見! 周囲の見晴らしは最高でした

平安時代初期の天皇。桓武天皇の第二皇子。 並外れて達筆で、同じ平安時代に活躍した空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)と並んで三筆の一人に数えられる。
平城天皇は兄。淳和天皇は異母弟。皇后は名門橘氏の中から唯一皇后になった橘嘉智子(檀林皇后)。在位は23歳から37歳までの15年間で、大同4年4月1日(809年5月8日)-弘仁14年4月16日(823年5月29日)。
809年(23歳)、病気がちの兄・平城天皇から譲位されて即位する。ところが翌年になると旧都の平城京で、兄が再び皇位につくべく挙兵した(薬子の変)。平安京にいた嵯峨天皇はすぐさま軍を派遣してこれを鎮圧、兄の子を皇太子としていたのをやめて、異母弟の大伴親王(淳和天皇)を皇位後継者とした。
 
この時代は、第46代・孝謙天皇で天智天皇系の血統が途絶えたことを教訓に、たくさんの後継ぎ候補(皇子)を作ることが理想とされた。結果、嵯峨天皇は30人以上の女性に50名もの皇子皇女を産ませた。これだけの人数を養うには莫大な費用が必要であり、宮中の財政をどんどん圧迫していった。815年(29歳)、嵯峨天皇は台所事情を改善する為に「臣籍降下」を断行し、自身の皇子・皇女たち32名を一気に皇室の外に出した。この時、彼らに「源氏」の姓を賜ったのが、武士の名門・源氏の起原となった(嵯峨源氏)。
※ただし一般に「源氏」といった場合は、第56代・清和天皇の子孫で臣籍降下した“清和源氏”を指す。
※ちなみに「平氏」は、825年に桓武天皇が第5皇子・葛原親王の子女に、自身が築いた平安京にちなんで平氏姓を与えたのが始まり。

818年(32歳)、敬虔な仏教徒だった嵯峨天皇は“不殺生”という思想から死刑制度を廃止した(弘仁の格)。以降、平家が台頭する「保元の乱」まで347年間も死刑は行なわれなかった
823年(37歳)、淳和天皇に譲位し嵯峨上皇となる(翌年に平城上皇が他界するまで2人の上皇がいたことに)。退位後も権力を握り、後年の住居となる冷然院・朱雀院・嵯峨離宮(大覚寺)といった別宮を造営。833年(47歳)、淳和天皇が病により譲位(同年崩御)し、嵯峨上皇の第二皇子・正良親王が仁明天皇として即位。仁明天皇がまだ23歳と若かったこともあり、後見として益々大きな影響力を持つようになった。842年、55歳で崩御。諱は神野(かみの)。


嵯峨天皇の葬儀に関する遺言は胸を打つものがある--「人は死ねば気は天に、体は地に帰る。徳をもたない私の死に、どうして国費を使うことができようか。盛大な葬儀や祭祀は断じて行ってはならない。墓穴は浅く、棺を収められるだけの大きさにせよ。(古墳のような)盛り土はせず、草木の生えるままに放置しておけ。この命令に従わねば私の死体は辱められ、魂は深く傷つき怨鬼になるであろう」

※嵯峨天皇の皇后も非常に仏教への信仰が篤く、日本初の禅寺・檀林寺(だんりんじ)を嵯峨野に建てたことから「檀林皇后」とも呼ばれる。彼女はなんと、「飢えた鳥や獣を救う為に私の死骸を埋葬せず野原に放置すべし」と告げ、さらに自らの亡骸が腐乱、白骨化し、土に帰る過程を描くよう絵師に命じたという。朽ち行く様子を9段階に分けた絵巻は京都・西福寺に『檀林皇后九想図』として残されており、毎年お盆の頃に数日だけ公開される。(リンク先で閲覧可能。絵巻なので右から左に絵を見ていこう。最初は十二単を着ていた美しい女性が、死後変色して崩れていくのはキツいですが、最後に骨が点在するだけになってしまうのを見て、逆に命の尊さを知るというか、僕はこの絵巻に言いようのない深い感動と神聖さを感じました)
※光源氏のモデルとされる左大臣・源融(みなもとのとおる)は嵯峨天皇第12皇子。
※日本のお茶の歴史で最も古い記録は『日本後紀』に記されている。815年に嵯峨天皇が近江(滋賀)の崇福寺に詣でた際に、梵釈寺にて大僧都(だいぞうず)永忠が煎茶して献じたとある。




【特集!巡礼最難関の陵墓、淳和天皇陵訪問レポ!】

歴代124名の天皇陵で最も参拝が困難とされる淳和天皇陵を、約50枚の写真で誌上巡礼!

★第53代 淳和天皇/Junna 延暦5年(786年)-承和7年5月8日(840年6月11日) (京都府、西京区、大原野西嶺上陵 54歳)2010

中央の小塩山山頂で散骨。標高650mだけどけっこう急斜面! 林立する電波塔が目印 手前の白い建物を覚えていてネ(後で登場)









最初に車を大原野神社の駐車場に預けた 9時15分、登山開始。地図を見て腹をくくる 一番上が大原野神社、一番下が陵墓

9:30 「小塩山6km」の案内板を発見。サルやイノシシに注意せよとあった

以前は山頂付近まで車で行けたが、落石や
道路の崩落があり、2000年から通行止めに





9:45 「小塩山5km」。“落石注意”の看板が至る所にあるけど防ぎようが… 出発から45分、初めて人間に遭遇



10:05 「小塩山4km」。まだまだ遠い。昔はここを車が通ってったのか〜 10:08 だいぶ高くなってきた!右画像の真ん中の建物が、冒頭の“白い建物”だ



10:25 「小塩山3km」。入山から1時間経過。半分は越えたぞ〜! この辺は特に落石が多いのだろうか? 10:40 「小塩山2km」。ここまで休憩ナシ

右手に大規模な土砂崩れ跡、左手は地面の下がえぐり取られた道路。くわばらくわばら 11:00 「小塩山1km」。なぜあんな高い場所の案内板が泥だらけに!?

車道の縁石は禅寺の石庭のように苔まみれ 11:23 麓から見えていた電波塔に到着!ここまで来れば山頂はすぐ! 3分後、やっとソレっぽい看板が!

11:26 「淳和天皇陵参道」キターッ!うおおおお! 参道の中央部分は風情のある苔石の道



年季の入った見張所。宮内庁の職員はミニバイクで山頂まで上がってくるらしい 左の石段を上っていった先に御陵がある





11:30 インディ・ジョーンズの世界! 入山から2時間15分、ついに陵墓前に到着!はじめまして! 「淳和天皇大原野西嶺上陵」


ここを散骨の地に選んだ当時の人も根性あるぜよ ねじれた鉄のバリアー 11:40 下山開始。さあ、下界へ!

「ここから降りるのか!?」帰りは急斜面の“天皇陵道”を利用。膝がガクガクに! 正午頃、登ってくる人と50人くらいすれ違った。みんな本格的なトレックキングスタイル




写真では分り難いけど、普段まったく登山を
しない僕には、心が折れそうになる険しさ
大きな倒木が道を阻む。登りの休憩は1度だけ
だったが、帰りは5回も休んだ。足が動かない…
一緒に巡礼した3人の若者。とて
も元気。僕はついて行くのに必死
12:55 下山開始から1時間15分で
民家の近くに出た。やっと麓だ〜!

夕暮れ時、JR長岡京の駅前から。あれを上まで登ったのかぁ。既に足腰は筋肉痛で火花が散り、煙があがっていた(笑)

平安時代前期の天皇。淳和(じゅんな)天皇は桓武天皇の第七皇子。51代平城天皇と52代嵯峨天皇は異母兄にあたる。在位は37歳から47歳までの10年間で、弘仁14年4月27日(823年6月9日)-天長10年2月28日(833年3月22日)。
仁明天皇に譲位し退位。別名、西院天皇。諱は大伴(おおとも)。積極的に地方政治や土地政策の乱れを正した。840年に54歳で崩御。

兄の嵯峨天皇と同様に仏教を尊び、薄葬の考えを徹底。「どんなに小さいものであろうと私の墓を造るな。火葬にして遺骨を京都の西山に散骨せよ」と遺言を残し、実際に亡骸は火葬され、京都市西京区の小塩山山頂付近で側近の手によって散骨された。しかし、明治時代に入って“天皇に墓がなくては皇室の威厳にかかわる”と宮内省(現・宮内庁)が、小塩山の山頂に「淳和天皇陵」を造営してしまった。
幕末まで当地には小石で築かれた円塚しかなかったが、尊皇思想の高まりとともに陵墓が築かれた。ぶっちゃけ、遺言は無視される形になってしまった(汗)。




★第54代 仁明天皇/Ninmyo 弘仁元年(810年)-嘉祥3年3月21日(850年5月6日) (京都府、伏見区、深草陵 40歳)2010

見落としそうな細い参道。名神高速のすぐ近く 御陵自体もとても小さい(方形)

和風諡号(しごう)を贈られた最後の天皇。平安時代前期の天皇。嵯峨天皇の第二皇子。在位は23歳から40歳までの17年間で、天長10年3月6日(833年3月30日)-嘉祥3年3月19日(850年5月4日)。
833年(23歳)、叔父の淳和天皇から譲位され即位。842年(32歳)、自身の第一皇子・道康親王(文徳天皇)を皇太子にするために、既に皇太子になっていた淳和天皇の皇子・恒貞親王を廃した(承和の変)。道康親王(文徳天皇)は名門貴族・藤原良房の甥っ子であり、承和の変は藤原氏による最初の他氏排斥事件となった。850年、病によって文徳天皇に譲位し、3日後に40歳で崩御。諱は正良(まさら)。和風諡号は日本根子天璽豊聡慧尊(やまとねこあまつみしるしとよさとのみこと)。
幼少時から病弱だったこともあり、医師並みの知識を持ち、自ら薬の調薬をした。
 
※承和の変で廃太子となった恒貞親王は、政争に巻き込まれるのが嫌で(当時はよく殺害された)、皇太子にされる時にさんざん固辞していた。「だからあんなに辞退したのに…」って感じだろう。
※本物の深草陵は伏見区深草瓦町・善福寺周辺という。現在の陵墓は文久の修復(1861-1863)で造られたもの。



★第55代 文徳天皇/Montoku 天長4年(827年)-天安2年8月27日(858年10月7日) (京都府、右京区、田邑陵 31歳)2010







文徳天皇像(法金剛院蔵) 住宅街の死角に入口があり超分かりにくい! どんなに迷ったか〜!(涙) この制札で直角に90度ターン!

うおお、見えてきた。ジ〜ン 辿り着けて本当に良かった 見張所が山荘のようでござった

平安時代前期の天皇。仁明天皇の子。在位は23歳から31歳までの8年間で、嘉祥3年4月17日(850年5月31日)-天安2年8月27日(858年10月7日)。
850年(23歳)、仁明天皇の崩御を受けて即位。有力者である太政大臣藤原良房の娘・藤原明子と結ばれ、2人の間に第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)が産まれる。しかし、文徳天皇は最も寵愛している更衣(こうい、女官)が産んだ第一皇子を皇太子としたかった。そのため権力拡大を狙う藤原良房と対立し、最終的に圧力に屈して第四皇子を皇太子とした。

その後も文徳天皇は、第四皇子に皇位を譲位するかわりに、第一皇子を次の皇太子にするよう提案しようとしたが、「そんなことをすれば第一皇子が暗殺されます」と左大臣から忠告され断念した。文徳天皇は藤原良房との衝突もあって一度も宮中の正殿で暮らさず離宮に身を置いていた。そして即位から8年後(858年)、脳卒中で急逝する。まだ30歳という若さから、藤原良房による暗殺とする説もある。諱は道康(みちやす)。太秦三尾古墳(円墳)。

※現在の陵墓は横穴式石室。これは古墳時代後期の特徴であり、平安朝の文徳天皇と時代が一致しない。



★第56代 清和天皇/Seiwa 嘉祥3年3月25日(850年5月10日)-元慶4年12月4日(881年1月7日) (京都府、右京区、水尾山陵 30歳)2010
※水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)

標識類がなかなか見つからず、「もしや通り
過ぎたのでは?」と不安になった頃に発見!
「清和天皇陵 徒歩20分」の道標。これが
なければ絶対に陵墓の場所は分からなかった
車を置いてレッツ・ゴー。まずは農道を下っていく




どんどん降りる。この下にあるのだろうか?

と、思いきや今度は登り坂!どひー

画面中央に見える白っぽいのが車道。つまり
谷を越えて別の山を登っているということ?

登り続けること20分。何かが見えてきた!

制札発見。「竹木等を切らぬこと」が強調されてた。
アンダーライン入りは初めて見た気がする。珍しい!
かなり古い木造の見張所。当然、人の気配はなし




うおお、確かにこの山中に眠られていました! 淳和天皇から始まる薄葬主義がここにも脈づく 陵墓の左側から接近可能。中を覗くと塚があった

 
こちらは京都市左京区の金戒光明寺にある清和天皇の“火葬塚”

平安時代前期の天皇。後世に武門の棟梁となる清和源氏の始祖。在位は8歳から26歳までの18年間で、天安2年11月7日(858年12月15日)-貞観18年11月29日(876年12月18日)。
文徳天皇の第四皇子だが、母方の祖父、太政大臣・藤原良房の後押しで皇太子となり、858年、父の崩御(急死)を受けて、わずか8歳で即位した(当時は歴代最年少)。そのため後見についた藤原良房が摂政として政治を執り行った(初の人臣摂政=皇族ではない摂政)。
866年(16歳)、応天門炎上事件が発生。放火犯として捕まった伴大納言(伴善男)は無実を訴えたが伊豆へ流され、名族・伴氏(大伴氏)は全国へ流刑となり一気に没落。これでさらに藤原氏の権勢が拡大した。

876年(26歳)、清和天皇は胸中に何かがよぎったのか、8歳の第一皇子(陽成天皇)に突然譲位。2年後に出家して諸国の仏寺を巡礼し始め、苦行も行なった。翌880年に病魔に侵され崩御。遺言に従って山陵は造らず、金戒光明寺で火葬した後に嵯峨水尾清和(水尾山)に葬られた。
諱は惟仁(これひと)。歴代天皇の諱に“仁”がつくのはここから。清和天皇の子孫の多くが臣籍(しんせき)降下して清和源氏となり、源頼朝、足利尊氏、新田義貞、武田信玄、今川義元、明智光秀など、多数の名将を輩出していく。



★第57代 陽成天皇/Yozei 貞観10年12月16日(869年1月2日)-天暦3年9月29日(949年10月23日) (京都府、左京区、神楽岡東陵 80歳)2010

江戸時代の百人一首より 真如堂から金戒光明寺に行く途中で偶然発見! こういう予期せぬ出会いは嬉しい!

平安時代前期の天皇。清和天皇の子。在位は8歳から15歳までの7年間で、貞観18年11月29日(876年12月18日)-元慶8年2月4日(884年3月4日)。
8歳にして譲位され、伯父で摂政の藤原基経(もとつね、後に初の関白)が後見となって政務を行なった。881年(12歳)、父・清和上皇が崩御。883年(14歳)、宮中にて陽成天皇の乳母の子が撲殺されるという前代未聞の事件が起きる。宮中には“陽成天皇が殴り殺した”と噂が流れた。他にも、陽成天皇が人を木に登らせて墜落死させたとか、犬と猿を闘わせて喜んでいるとか、馬好きが高じて宮中に馬小屋を作ったことが問題視された。元々、藤原基経と天皇は気が合わなかったことから、基経はこれらの“奇行”を理由に退位を迫った。結局、撲殺事件の翌884年に15歳で退位し、仁明天皇の第三皇子・光孝天皇(54歳)が新たに即位した。

陽成上皇はそれから65年後の80歳まで長生きしたことから、自身(第57代)から5代も後の、第62代村上天皇の即位まで見届けている。上皇歴65年はぶっちぎりで歴代1位の長さだ(2位の冷泉上皇は42年)。諱は貞明(さだあきら)。
歌才があり『小倉百人一首』に以下の一首が収められている。
「つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる」(陽成院)



★第58代 光孝天皇/Kokou 天長7年(830年)-仁和3年8月26日(887年9月17日) (京都府、右京区、小松山陵 57歳)2010

江戸時代の百人一首より 古都の名刹、仁和寺のすぐ近く 雲間から陽が射すまで30分ねばった

平安時代前期の天皇。在位は54歳から57歳までの3年間で、元慶8年2月23日(884年3月23日)-仁和3年8月26日(887年9月17日)。
幼少からお婆ちゃんの太皇太后・橘嘉智子の寵愛を受け、843年に13歳で元服(成人の儀式)して以来、主要な官職を歴任。884年(54歳)、陽成天皇が奇行を理由に弱冠15歳にして摂政・藤原基経(もとつね)によって廃位されたことを受け即位。光孝天皇と藤原基経の母は姉妹にあたり、両者は従兄弟になる。光孝天皇から政務全般を委任されたことから、藤原基経は実質上の初代関白となった(文献で残る“関白”は次の宇多天皇から)
光孝天皇は、聡明かつ、和歌、和琴など諸芸に優れた文化人であり、質素な生活を好み、天皇になっても炊事を自ら行なったという。
887年、第七皇子の定省親王(宇多天皇)を後継に指名し、57歳で崩御した。諱は時康(ときやす)。別名、仁和帝(にんなのみかど)、小松帝(こまつのみかど)。後田邑陵。円丘。
晩年の光孝天皇は、即位前に住んでいた館の近くに朝廷の勅願寺を創建しようと計画していた。次代の宇多天皇が志を引き継ぎ「仁和寺」を完成させた。

小倉百人一首に次の有名な歌が残る。
『君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ』(光孝天皇)


●皇室豆知識その7〜『 関白>摂政 』 『 太政大臣>左大臣>右大臣 』

・太政大臣…律令制の最高官。名誉職。左大臣(ナンバー2)や、右大臣(ナンバー3)と異なり、適任の人がなければ欠員となる。飛鳥時代の大友皇子から、明治時代の三条実美(さねとみ)まで94人。

・摂政…君主が元服(成人の儀)前で若すぎたり、病弱だったりして、政務を行うことが出来ない場合の君主代行。聖徳太子以来、皇族が就いていたが、平安時代前期、56代清和天皇の摂政に藤原良房が就いてからは、藤原氏が代々就いてきた。鎌倉以降、藤原氏は五摂家(近衛家、一条家、鷹司家、九条家、二条家)に分かれ、交代で就任した。歴代46名。

・関白…天皇(元服後)を補佐して政務を執り行なう役目。太政大臣や摂政よりさらに上。基本的には太政大臣や摂政経験者が関白に就く。平安時代前期、58代光孝天皇の関白を務めた藤原基経に始まる。歴代116人。




★第59代 宇多天皇/Uda 貞観9年5月5日(867年6月10日)-承平元年7月19日(931年9月3日) (京都府、右京区、大内山陵 64歳)2010

宇多法皇像(仁和寺蔵)※出家して仁和寺に入った

かなり山の上。そして車で来られるのはここまで 足下が岩場でボッコボコ!こんな参道は初めて! 宮内庁(明治政府?)はなぜ宇多天皇に冷たいのか





10分後、木々の間に明るい場所が見えてきた まるで“隠し墓”のような陵墓だった! 壁のない見張所を初めて見た(汗)

宇多天皇、寂しくありませんか 鳥の声やセミの声を聴いているのかも 参道から見える京都の街並み

※宇多天皇陵・15秒動画“蝉時雨”

平安時代前期の天皇。光孝天皇の第七皇子。母は桓武天皇の孫娘。在位は20歳から30歳までの10年間で、仁和3年11月17日(887年12月5日)-寛平9年7月3日(897年8月4日)。
いったん「臣籍降下」で皇室から出て、“源定省(みなもとのさだみ)”の名で暮らしていたが、887年(20歳)、光孝天皇の崩御直前に太政大臣・藤原基経の支援で皇族に復帰し、崩御を受けて天皇として即位した。宇多天皇は基経の妹の養子になっていたことから、宮中に影響力を確保したい基経の意向が背後にあった。一度皇室から出ていたので、先々代の陽成上皇は宇多天皇を見て「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と驚いたという。
この即位に際して、宇多天皇は藤原基経への詔で「関白」という言葉を初めて使用し、文献上では、藤原基経が初代関白とされる

888年(21歳)、光孝天皇の遺志を継いで朝廷の勅願寺・仁和寺を創建。891年(24歳)、関白・基経が55歳で死去。基経の子・藤原時平がまだ20歳だったことから摂政や関白を置かず、天子自らが政治を行なう親政「寛平の治」(かんぴょうのち)を始める。宇多天皇は、農民保護政策を打ち出すなど政務に通じた右大臣・源能有(みなもとのよしあり、文徳天皇の皇子)を補佐役の筆頭に置き、能有と同じ46歳で学者出身の菅原道真を重用して藤原氏の増長を抑え、行政改革を断行した。
897年(30歳)、醍醐天皇が12歳になって元服したことから譲位し、出家後に宇多法皇として仁和寺で暮らした。
 
4年後の901年、菅原道真の出世に危機感を抱いた藤原時平が醍醐天皇に「道真は皇位を奪うつもり」と吹き込み、これを信じた醍醐天皇が道真を太宰府に左遷するという事件が起きる。道真を信頼している宇多法皇は、左遷を思い止まらせるために宮中に向かったが、宇多法皇は天皇時代に陽成上皇の政治介入を阻止する為に「上皇であっても天皇の許可なしに内裏(御所)に入りことは出来ない」と定めた為、今度はこれがネックになって醍醐天皇に会うことが出来なかった。903年(36歳)、道真が都を思いながら57歳で他界。その6年後(909年)に藤原時平が38歳で病死したことから、道真の怨霊の祟りといわれた。931年、64歳で崩御。

宇多天皇と妻の藤原胤子(いんし)の間に生まれた第一皇子が敦仁親王(醍醐天皇)。第八皇子・敦実親王(あつみしんのう)の娘、源倫子(みなもとのりんし)は“あの”藤原道長の正室となって、『源氏物語』に登場する中宮彰子や関白・頼通を生んだ。綾小路家も宇多源氏の子孫。諱は定省(さだみ)。方丘。
 
※「延喜天暦の治」と称えられる醍醐天皇・村上天皇の善政(奴婢制度廃止令など)の大半がは宇多天皇の政策に基づいたもの。

●皇室豆知識その8〜上皇と法皇

後白河天皇は「後白河上皇(じょうこう)」「後白河法皇(ほうおう)」と呼ばれることも多い。上皇とは皇位を後継者に譲った天皇のことで、正式名は太上天皇(だいじょうてんのう)。そして上皇が出家すると法皇(太上法皇)となる。
上皇は「院」とも称され、院の御所は仙洞(せんとう)御所と呼ばれた。



★第60代 醍醐天皇/Daigo 元慶9年1月18日(885年2月6日)-延長8年9月29日(930年10月23日) (京都府、伏見区、後山科陵 45歳)2010


世界遺産に認定されてもおかしくないレベルの美しさ 素晴らしい松の廊下をゆく。渡り終えるのがもったいない! 松の向こうにだんだん御陵が見えてきた


醍醐天皇像(醍醐寺蔵) 間違いなく陵墓巡礼のハイライトのひとつ この辺りは交通量も少なくとても静か

平安時代前期の天皇。宇多天皇の第一皇子。在位は12歳から45歳までの33年間で、寛平9年7月13日(897年8月14日)-延長8年9月22日(930年10月16日)。

897年、12歳で元服し、父帝から譲位を受け即位。まだ若いため、左大臣に藤原時平、右大臣に菅原道真を置いて政務を任せるよう父帝より指示される。善政を敷いていたが、901年(16歳)、権勢の拡大を狙う時平が菅原道真を陥れるため「道真が皇位を狙っている」と中傷し、これを信じてしまった醍醐天皇は道真を九州・太宰府に左遷した。道真を信頼する宇多上皇は、左遷処分を思い止まらせようと宮廷を訪れたが、醍醐天皇は面会を断って左遷を強行した。このことから、醍醐天皇&藤原時平が協力して宇多上皇の政治力を削ごうとしたとも考えられるが、政治方針は宇多上皇&菅原道真が目指した「農民の保護、貴族・寺社の権力の抑制」を踏襲、発展させていった。
この時代、在位が10年前後の天皇が多いなか、醍醐天皇は33年間も君臨。左大臣・藤原時平に実権を握られていたものの(時平は即位12年目に他界)、表面的は摂関を置かずに親政体制を敷いたため、元号をとって後世に「延喜の治」(えんぎのち)と称えられた。

一方、903年(18歳)に菅原道真が左遷先で他界した後、天皇側近や皇位継承の候補者に不幸が続いた。まず909年(24歳)に政敵の藤原時平が38歳で病死。923年(38歳)に皇太子が19歳で病死。その子どもを新たに皇太子に立てたところ、2年後にわずか5歳で他界してしまう。人々は道真の怨霊の仕業と恐怖し、醍醐天皇は道真の名誉回復のため、左遷の詔を破棄して右大臣に戻し正二位を追贈した。
だが、干ばつなど異変は収まらず、930年には天皇の居所・清涼殿に朝廷要人が集まって会議をしている最中に落雷が直撃し、即死した大納言・藤原清貫をはじめ多数の死傷者が出た。この藤原清貫は左遷された道真の監視役を務めた人物であり、宮中は“菅公の呪いここに極まれり”といった様相。この光景を目にした醍醐天皇はショックで病気になり、落雷事件の3ヶ月後に崩御してしまった。諱は敦仁。
ちなみに、崩御の1週間前に朱雀天皇に譲位したが、朱雀天皇も28歳という若さで崩御することになる(しかも在位中に富士山が噴火している)。その後、朝廷は各地の天満宮で菅公の慰霊に務めた。

醍醐天皇は醍醐寺の北に土葬され、地名の醍醐に因んで「醍醐天皇」と追号された。多くの天皇陵の正確な所在が戦国期に不明になっていくなか、醍醐寺がずっと醍醐天皇陵を管理していたおかげで、確実に被葬者と陵墓が一致している貴重な平安時代の御陵になっている。円形。約20人という女御・更衣(女官)との間に、寛明親王(朱雀天皇)、成明親王(村上天皇)など、36人もの子女をもうけた。和歌を深く愛し、20歳の時(905年)に紀貫之らに『古今和歌集』の撰進を命じている。

※醍醐天皇の治世は、後の村上天皇の治世(天暦の治)と併せて「延喜・天暦の治」とも呼ばれる。


天皇系図 60〜71代 (画像元・ウィキペディア)



★第61代 朱雀天皇/Suzaku 延長元年7月24日(923年9月7日)-天暦6年8月15日(952年9月6日) (京都府、伏見区、醍醐陵 28歳)2010



ここも入口を見落としやすい陵墓のひとつ 中に入るとけっこう広い。山が近い 名前のカッコ良さは歴代No.1ではないだろうか!


とても開放感のある御陵だった。父帝・醍醐天皇陵の近所 「朱雀天皇醍醐陵」の石柱

平安時代中期の天皇。醍醐天皇の第十四皇子。在位は7歳から23歳までの16年間で、延長8年11月22日(930年12月14日)-天慶9年4月13日(946年5月16日)。諱は寛明(ゆたあきら)。円丘。

930年、清涼殿落雷事件(菅原道真のたたりとされる)のショックで病床に伏した醍醐天皇から、崩御1週間前に譲位される。朱雀天皇はたったの7歳(最年少記録更新)であり、政務は摂関の伯父・藤原忠平(時平の弟)が取り仕切った。
935年(12歳)、関東の豪族・平将門が反乱を起こして“新皇”を名乗り、東国で独自に即位して朝廷を開いた。翌936年には初代摂関・藤原基経の大甥でありながら、瀬戸内海の海賊のボスとなった藤原純友(すみとも)が反乱した(承平・天慶の乱)。

937年(14歳)、富士山が大噴火。これは“熱湯岩石雨嵐之如く”と記録されるほど凄まじいものだった。940年(17歳)、将門征伐軍の藤原秀郷が将門を討ち、翌941年に伊予国警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)が藤原純友を捕縛し、ようやく東西が平定された。
戦争と天変地異で朱雀天皇は疲れ切ってしまい、子宝にも恵まれなかったことから、946年に23歳で弟の村上天皇に譲位し、自らは仁和寺に移り住んだ。4年後に一人娘が生まれる。952年に出家、同年崩御。28歳の若さだった。諱は寛明(ゆたあきら)。円丘。



★第62代 村上天皇/Murakami 延長4年6月2日(926年7月14日)-康保4年5月25日(967年7月5日) (京都府、右京区、村上陵 41歳)2010

参道は妙光寺に隣接(画像左側)

ここからズンズン上がっていく

石が綺麗に組み合わさった階段が続く。
丁寧な扱いを受けているのが分かる






村上天皇像(永平寺蔵) トトロとメイが初めて出会った時のような光景 陵墓前の見張所。ここはかなりズタボロだった



「歴史的風土特別保存地区」 コバルト・ブルーとグリーンの対比が鮮やか! 山の上の御陵にハズレなし。常に素晴らしい

平安時代中期の天皇。60代醍醐天皇の第十六皇子。母は藤原基経の娘。61代朱雀天皇の弟。在位は20歳から41歳までの21年間で、天慶9年4月28日(946年5月31日)-康保4年5月25日(967年7月5日)。
946年(20歳)、戦や天変地異が続き、兄の朱雀天皇が“もう疲れた”と譲位。即位から3年目の949年(23歳)に、関白・藤原忠平が他界すると、摂政も関白も置かずに天皇自らが政治を行なう親政「天暦の治」を開始した。先帝の治世で起きた平将門・藤原純友による東西の「承平・天慶の乱」(935-940)は、朝廷が5年がかりで平定したものの、国庫は危機的状況に陥った。村上天皇は倹約をすすめて財政の立て直しに努めた。
歌壇の庇護者として、951年(25歳)に『後撰集』の編纂を命じ、960年(34歳)には内裏歌合を催行。琴や琵琶も弾きこなすなど、平安文化を大いに開花させていった。
967年、在位中に41歳で崩御。諱は成明(なりあきら)。円丘。
村上天皇の第九皇子、具平親王の子孫は「村上源氏」となって北畠親房(ちかふさ)、岩倉具視などを輩出し、後年に大きな影響を与えた(武家社会では清和源氏が、公家社会では村上源氏がステイタス)。

※「天暦の治」の親政中も、実権は摂関・藤原忠平の子である、左大臣藤原実頼・右大臣藤原師輔(もろすけ)兄弟にあったという。特に異母弟の師輔は学問に優れて人望があり親政を指導していた。



★第63代 冷泉天皇/Reizei 天暦4年5月24日(950年6月12日)-寛弘8年10月24日(1011年11月21日) (京都府、左京区、桜本陵 61歳)2010

京の都の一番東端に眠る もう山はすぐそこ 喧騒から離れてホッと落ち着ける御陵だ

なんと、こんな町外れに英国人の青年が!御陵で
外国人に会ったのはこれが初めてッス!
御陵正面からの眺望。今まさに夕陽が沈むところ


平安時代中期の天皇。冷泉は“れいぜい”と読む。村上天皇の第二皇子。母は名宰相・藤原師輔の娘、中宮安子。在位は17歳から19歳までの2年間で、康保4年10月11日(967年11月15日)-安和2年8月13日(969年9月27日)。
960年(10歳)、母方の祖父で摂関家の右大臣・藤原師輔が他界。967年(17歳)、父帝・村上天皇の崩御を受けて即位。3代前の醍醐天皇から、朱雀天皇、村上天皇と関白は立てられなかったが、冷泉天皇は精神に病があるため、後見が必要となり関白職が復活した。関白には祖父の兄である左大臣・藤原実頼が就任した。

冷泉天皇の奇行は色々と記録されている。「父帝・村上天皇への手紙の返事に男性器を大きく描いた」「火事で避難する時に牛車の中で大声で歌っていた」「足が傷ついても一日中蹴鞠(けまり)を続けていた」「儀式の最中に突然冠を脱いで女官を…」云々。こういう事情もあり、早く皇位を継承する必要があった。即位から2年後の969年(19歳)に、弟の円融天皇に譲位。

退位後は冷泉院上皇を名乗り、1011年に赤痢のため61歳で崩御した。諱は憲平(のりひら)。上皇の期間が42年というのは歴代2位(1位は65年の陽成上皇)。円融系を父方、冷泉系を母方にもつ冷泉天皇の曾孫・後三条天皇で血統が融合した。



★第64代 円融天皇/Enyu 天徳3年3月2日(959年4月12日)-正暦2年2月12日(991年3月1日) (京都府、右京区、後村上陵 31歳)2010

御陵の右隣にある広大な敷地が造成中だった なんとなく南国っぽい雰囲気

一般拝所の視点から ズームで特別拝所の視点から この角度は立体感があって好み


京都市右京区龍安寺の裏山を登っていくと 頂上に「円融天皇火葬塚」がある! こんな山の上で葬儀をしたのか〜!

平安時代中期の天皇。在位は10歳から25歳までの15年間で、安和2年9月23日(969年11月5日)-永観2年8月27日(984年9月24日)

平安時代中期の天皇。村上天皇の第五皇子。母は右大臣・藤原師輔の娘、中宮安子(あんし)。在位は10歳から25歳までの15年間で、安和2年9月23日(969年11月5日)-永観2年8月27日(984年9月24日)。
964年、5歳で母・安子を亡くす。969年、兄の冷泉天皇が心の病を患っていたことから、10歳にして譲位を受け即位した。まだ若いため、大伯父の太政大臣・藤原実頼が摂政となるが、翌970年に実頼は他界。摂政を引き継いだ師輔の長男・藤原伊尹(これまさ)も翌972年に他界する。
その後、師輔の次男・藤原兼通と三男・藤原兼家とが摂関職を巡って骨肉の争いを繰り広げた。最終的に母・安子の遺言により兄の兼通が関白に任じられる。977年(18歳)、その兼通も他界。関白職は藤原実頼の次男・藤原頼忠が継いだ。

984年(25歳)、藤原氏の内紛に心労を重ねていた円融天皇は譲位し、花山天皇(先帝・冷泉天皇の第一皇子、16歳)が即位する。関白職は藤原実頼の次男・藤原頼忠が継いだ。退位から7年後の991年に31歳で崩御。諱は守平(もりひら)。



★第65代 花山天皇/Kazan 安和元年10月26日(968年11月29日)-寛弘5年2月8日(1008年3月17日) (京都府、北区、紙屋川上陵 39歳)2010


深夜に出家した花山天皇(『花山寺の月』月岡芳年・画) 住宅地の真ん中。周辺をグルグル回って見つけた



民家の間の参道を抜けてゆく 嵯峨野から山沿いに御陵が点在している まばらにある松に風情があった

平安時代中期の天皇。華山天皇とも。在位は16歳から18歳までの2年間で、永観2年10月10日(984年11月5日)-寛和2年6月23日(986年7月31日)。

平安時代中期の天皇。華山天皇とも。冷泉天皇の第一皇子。母は藤原伊尹(これまさ)の娘・懐子。在位は16歳から18歳までの2年間で、永観2年10月10日(984年11月5日)-寛和2年6月23日(986年7月31日)。
984年(16歳)、円融天皇の譲位を受けて即位。関白には先代に続いて藤原頼忠が就いたが、実権は花山天皇の母の弟で、藤原伊尹(これまさ)の子・藤原義懐(よしちか)と、乳母の子・藤原惟成(これなり)が握っていた。義懐は27歳、惟成は31歳。若手の2人は政治改革に燃え、物価統制令を出して貨幣流通の活性化を試み、荘園整理令を発布するなど、積極的に政務に取り組んだ。ところが、政敵として右大臣・藤原兼家(55歳)が立ちはだかる。また、関白・藤原頼忠も保守的な性格から革新的な政治を嫌った。義懐&惟成VS兼家VS頼忠の権力闘争は意外な形で決着する。

花山天皇は大納言・藤原為光の娘“しし”に惚れ込んだ。花山天皇は“しし”子を宮中に入れるよう義懐に為光を説得させ成功する。即位から2年が経った986年、天皇は“しし”を寵愛したが彼女は身籠もったまま病死してしまう。悲しみに打ちひしがれた若い天皇は、18歳にして「出家して残りの人生は“しし”の供養をしながら生きたい」と訴え始め、驚いた義懐&惟成は思い止まるよう説得した。一方、兼家は孫(一条天皇/円融天皇の皇子)に皇位を継がせるべく、出家させようと策略を練る。
6月の深夜、兼家の密命を帯びた三男・道兼(みちかね)は、「私も一緒に出家します」と嘘をついて巧みに花山天皇を宮中からへ連れ出し、その間に次男・道綱(母は『蜻蛉日記』の作者、藤原道綱母)が三種の神器を素早く一条天皇に届けた。これらがすべて終わってから義懐&惟成は花山天皇の失踪を知り、探し回った挙げ句に元慶寺(花山寺)で剃髪した天皇を発見し絶句する。そして自分たちが兼家との権力闘争に敗北したことを悟り、両人はその場で出家し政界から引退した。兼家はすぐに一条天皇を即位させ、天皇がまだ6歳であることを理由に念願の摂政となった(兼家は4年後に病没)。

996年(28歳)、花山法皇は仏門に入っているにもかかわらず、新たに“しし”の妹を愛し始めた。彼女の屋敷には別の女性(姉)がおり、その姉を愛していた内大臣・藤原伊周(これちか、兼家の長男道隆の子)が、「法皇は姉に会いに来た」と勘違いして嫉妬から矢を射掛け、その矢が衣の袖を貫通する事件が起きる。法皇は恥ずかしさから黙っていたが、噂が広がって伊周は太宰府へ流された。
花山法皇は退位から22年後の1008年まで生き、和歌や絵画に才能を発揮した。また、法皇が観音巡礼を行なった寺は「西国三十三箇所巡礼」として現在まで受け継がれている。兵庫県三田市の東光山で隠遁生活を送った。享年39歳。諱は師貞(もろさだ)。方丘。紙屋川上陵(かみやかわのほとりのみささぎ)。
 
※陰陽師・安倍晴明は自邸にいながら花山天皇の退位に気付き、晴明の式神(精霊)が元慶寺へ向かう花山天皇の姿を目撃したという。
※1024年(他界16年後)、花山天皇の娘が深夜の路上で殺害され、野犬に食われる悲惨な事件が起きる。犯人はなんと「命令したのは流刑された藤原伊周の子」と自白した。
※皇太子時代の花山天皇に学問を教えていたのが紫式部の父・藤原為時。花山天皇の早期退位は、出世を期待していた為時を失望させ、彼女の運命も変えた。



★第66代 一条天皇/Ichijo 天元3年6月1日(980年7月15日)-寛弘8年6月22日(1011年7月25日) (京都府、右京区、円融寺北陵 31歳)2010




一条天皇像(真正極楽寺蔵 龍安寺の裏山に参道がある。さあ、頑張るぞい! 山頂まで長い石段が続く


木漏れ日の中を登っていくのは気持ちがいい 10分弱で頭上が開けてきた。御陵までもうすぐ チラッと鳥居が見えてきたーッ!

到着!山の上だけど、白砂には綺麗な筋が入っていたに ここから京の都を見渡している。絶景かな!







陵墓の側道から前方をパチリ。1日中ここに居たい 登ってきた甲斐があった。夜景も最高なんだろうなぁ 同じ御陵に第73代堀河天皇も眠っている

※一条天皇陵・パノラマ30秒動画!

平安時代中期の天皇。円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、詮子(せんし)。在位は6歳から31歳までの25年間で、寛和2年6月23日(986年7月31日)-寛弘8年6月13日(1011年7月16日)。
986年、花山天皇が宮中から抜け出して出家したことから、わずか6歳で即位した。摂政には藤原兼家が就いた。990年(10歳)、兼家が死去し、兼家の長男・藤原道隆が摂関を務める。同年、道隆は娘の定子(ていし、13歳)を一条天皇の皇后に立てた。※定子は『枕草子』の中で、清少納言から聡明かつ優しい女性として称えられている。

995年(15歳)、道隆死去。弟の道兼(兼家三男)が関白を継ぐが、約10日後に病没してしまう。その後の権力争いは、“あの”藤原道長(兼家五男)と、道隆の長男・伊周(これちか)が競い合い、道長が天皇の秘書的存在となる“内覧”に就任し勝利した(内覧は天皇より先に宮中の文書を閲覧可能)。
翌996年、伊周と弟・隆家らが花山法皇を射掛ける奉射事件を起こす。両者は定子の兄弟であり、彼女の目の前で検非違使に捕らえらた。これにショックを受けた彼女は出家してしまう。同年、娘を出産。997年(17歳)、どうしても定子が忘れられない一条天皇は彼女を説得し、仏門からもう一度宮中へ再入内させた。これは前代未聞のことで貴族達の反感をかう。

999年(19歳)、道長は長女の彰子(しょうし、11歳)を入内させたが、同年に定子が先に皇子を産んだ。焦った道長は翌1000年(20歳)に定子を“皇后宮”とし、彰子に中宮を号させ、両者を共に皇后扱いにする史上初の「一帝二后」体制を敷いた。その直後、2人目の娘を出産した定子は難産で崩御する(享年24歳)。この悲劇に一条天皇は嘆き悲しんだ。8年後の1008年(28歳)、彰子が第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を、翌年に敦良親王(後朱雀天皇)を出産し、父・道長は「これで将来は安泰」と歓喜にむせんだ。
1011年(31歳)、病に伏した一条天皇は皇位を定子の子(第一皇子)に譲りたかったが、道長の圧力で三条天皇(35歳、道長の姉の子)に譲位する。同時に、皇太子は彰子の子(第二皇子、後一条天皇)に決まった。9日後に崩御。享年31歳。諱は懐仁(やすひと)。一条天皇を愛する彰子は、その本意を汲み取り、皇太子は我が子ではなく定子の子にすべきだ思い、強引な父を恨んだという。
一条天皇は温厚な性格で、詩文や笛を愛して文芸に造詣が深く、人々から慕われた。一条天皇が荼毘に付された後、生前に父・円融院の隣に土葬されることを望んでいたことを思い出した道長は、御骨を円融寺に納めた。

※皇后宮・定子には清少納言が、中宮・彰子に紫式部が家庭教師として仕えた。凄い時代!
※一条天皇の代に道長が関白に就かなかったのは、摂政・関白は閣議に出られない決まりがあったため。内覧として政務の実権を握ろうとした。



●藤原 定子(中宮定子)/Fujiwara-no-Teishi 貞元2年(977年)-長保2年12月16日(1001年1月13日) (京都府、東山区、鳥辺野陵 24歳)2010

 
鳥辺野陵(とりべののみささぎ)に続く石段。
京都東山・泉涌寺の北側にある
こじんまりとした可愛い御陵。御陵のデザインはどれも似ているけれど、
なぜか彼女の御陵が一番落ち着いた。不思議な温かみがある

平安中期の第66代・一条天皇の皇后。清少納言が仕えた女性で、『枕草子』の中では、美人で明るく、高い教養と思いやりの心を持つ人物として何度も登場する。父は藤原道隆(道長の兄)、母は高階成忠の娘。990年(13歳)、一条天皇の女御(にょうご)となり、ついで中宮となった。995年(18歳)に父が他界し、兄と弟が“長徳の変”で花山法皇に矢を向ける事件が起き、彼女は出家する。
一条天皇の強い希望で再度宮中に入ったが、1000年(23歳)、叔父・藤原道長の長女彰子(しょうし)が中宮となり、定子は皇后となる(一帝二后)。同年12月、出産が原因で早逝した。遺詠は「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」。



●藤原 彰子/Fujiwara-no-Shoshi 永延2年(988年)-承保元年10月3日(1074年10月25日) (京都府、宇治市、大谷宇治陵34号墓 86歳)2010

   

藤原道長の長女で、第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。関白太政大臣の頼通と教通は弟。後一条天皇(第68代)と後朱雀天皇(第69代)の生母。紫式部や和泉式部が女房として仕え、彰子の周辺は才人の集まる文芸サロンとなった。
999年(11歳)、従兄の一条天皇に入内。同年、(清少納言が仕える)中宮定子が第一皇子・敦康親王を出産する。1000年(12歳)、定子が皇后宮に、彰子が中宮となった。同年暮れに、定子は難産の果てに崩御。1008年(20歳)、入内から9年目に、父・道長が待望していた男子、第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産。翌年には敦良親王(後朱雀天皇)を産んだ。彰子は夫の一条天皇が定子のことを想い続けていることを知っており、その気持ちを尊重して、定子の子・敦康親王も大切に育てた。1011年(23歳)、一条天皇が崩御。彰子は敦康親王を後継者にさせない父・道長を恨んだ。
1016年(28歳)、彰子の子である後一条天皇が即位し、道長はかねてから狙っていた摂政の地位を手に入れた。1026年(38歳)、仏門に入り清浄覚を称する。1036年(48歳)、後一条天皇に先立たれ、1045年(57歳)には後朱雀天皇にも先立たれた。当時としては86歳という非常な長寿で、1074年、曾孫・白河天皇の代に没した。大谷本院で火葬後、大谷宇治陵34号墓 に葬られた。



★第67代 三条天皇/Sanjo 天延4年1月3日(976年2月5日)-寛仁元年5月9日(1017年6月5日) (京都府、北区、北山陵 41歳)2010


ぐああ!レンタサイクルで巡礼していたんだけど、道に
迷っている間に日が暮れてしまった!この見張所の
建物が偶然目に飛び込み、奇跡的に陵墓を発見できた!
荘厳な御陵があるはず…心の眼で見るんだ…!
山の麓にあり、周囲がめっさ暗い。闇の中を
巡礼するのはもちろん初めて。うーん、マイッタ!
写真には写らなかったけど、もっと奥にも樹木が整然と
並んでいる。美しい御陵だったので、また今度、昼間に
来なくちゃ!※場所的には金閣寺のすぐ近くデス

平安時代後期の天皇。先々帝・冷泉天皇の第2皇子。母は藤原道長の姉。花山天皇は異母兄にあたる。在位は35歳から40歳までの5年間で、寛弘8年6月13日(1011年7月16日)-長和5年1月29日(1016年3月10日)。
1010年(34歳)、左大臣・道長の次女妍子(けんし)が入内。その翌年、四半世紀もの長い皇太子時代を経て、1011年(35歳)に病に伏した一条天皇の譲位を受けて即位した。
三条天皇は新政を行おうとするが、権力強化を目指す左大臣・道長と対立。道長は三条天皇の眼病を口実に譲位を迫り、これに抵抗しきれず5年で退位。翌年に病没した。

道長は「三条天皇の第一皇子が公式な皇太子」という約束を三条天皇と交わしていたが、第一皇子は妍子の子ではなかったため、道長は第一皇子に圧力を掛けて皇太子になることを辞退させ、道長の娘・彰子が生んだ後一条天皇を、三条天皇崩御の翌年に即位させている。諱は居貞(おきさだ)。円丘。第三皇女の禎子内親王(陽明門院)は後に後朱雀天皇の皇后となり、後三条天皇を生んでいる。
退位の際に詠んだ次の歌が百人一首に採用されている。
「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな/三条院」(心ならずこの辛い世の中を生きながらえていたら、きっと恋しく思い出されるだろう、この夜更けの美しい月が)。



★第68代 後一条天皇/Goichijo 寛弘5年9月11日(1008年10月12日)-長元9年4月17日(1036年5月15日) (京都府、左京区、菩提樹院陵 27歳)2010

短い階段だけど視界が広がる高揚感がある 後冷泉天皇皇后章子内親王と共に眠っている

平安時代後期の天皇。先々帝・一条天皇の第二皇子。母は左大臣・藤原道長の長女彰子。在位は8歳から28歳までの20年間で、長和5年2月7日(1016年3月24日)-長元9年4月17日(1036年5月15日)。
後一条天皇は道長の待望の外孫で、生まれたときは歓喜の大騒ぎになったと紫式部が日記に残している。先帝三条天皇崩御の翌年に即位(1016年)。後一条天皇がまだ8歳であったため、道長が摂政となり実権を握った。

1018年(10歳)、道長は自分の四女・威子(母の妹、天皇の8歳年上)を中宮にさせた。これによって、道長は皇后(威子)・皇太后(三条天皇皇后・妍子)・太皇太后(一条天皇皇后・彰子)の三后をすべて自分の娘にするという空前絶後の快挙を成し遂げ、威子の立后の日に諸公卿を集めた祝宴の場で「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(この世は自分のためにある。だから満月が欠けることもない)と詠み上げた。

その10年後の1028年(20歳)、道長死去。この時代、天皇は30人以上も妃や後宮を持つことがあったが、他の貴族は道長に遠慮して娘を入内させなかったため、道長の死後も後一条天皇は一夫一婦の生活を送った。女児をもうけたものの男子に恵まれず、当時の貴族に蔓延していた糖尿病によって若干27歳で崩御。諱は敦成(あつひら)。円丘。菩提樹院陵(ぼだいじゅいんのみささぎ)。



★第69代 後朱雀天皇/Gosuzaku 寛弘6年11月25日(1009年12月14日)-寛徳2年1月18日(1045年2月7日) (京都府、右京区、円乗寺陵 35歳)2010



龍安寺にて。さすがは世界遺産の寺、美しい! 日本人よりも圧倒的に外国人が多いでござる! 御陵は龍安寺の裏山

「後朱雀天皇円乗寺陵」

手前から後朱雀天皇、後冷泉天皇、後三条天皇。
三帝が並んでいる様はなんとも豪華だ
後朱雀天皇は右端。そして道を挟んで
さらに右に、後朱雀天皇皇后の陵墓がある

こちらが皇后・禎子(ていし)内親王の陵墓 後朱雀天皇からこんな感じに見えている

平安時代後期の天皇。先々々帝・一条天皇の第三皇子。母は左大臣・藤原道長の長女彰子。在位は27歳から35歳までの8年間で、長元9年4月17日(1036年5月15日)-寛徳2年1月16日(1045年2月5日)。
1017年(8歳)、実兄・後一条天皇の第一皇子(彰子の子ではない)が道長の圧力で皇太子を辞退したため、道長に推されて皇太子に抜擢される。1021年(12歳)、道長の六女・嬉子(14歳)が皇太子妃として入内。1025年(16歳)、第一皇子(後冷泉天皇)が生まれるが、嬉子は出産の2日後に急逝する。

1027年(18歳)、道長と三条天皇を祖父に持つ禎子内親王(三条天皇の第三皇女)を迎え、第二皇子(後三条天皇)などをもうける。1028年(19歳)、道長死去。1036年(27歳)、兄の後一条が崩御したことを受けて即位。1045年、肩の悪性腫瘍が悪化し、子の後冷泉天皇に譲位。その2日後に崩御した。享年35歳。諱は敦良(あつなが)。円丘。
※御陵の参拝だけなら、龍安寺の拝観券を買う必要はありません。



★第70代 後冷泉天皇/Gorezei 万寿2年8月3日(1025年8月28日)-治暦4年4月19日(1068年5月22日) (京都府、右京区、円教寺陵 42歳)2010

龍安寺の裏山。この斜面の上に、後朱雀天皇、後冷泉天皇、後三条天皇の陵墓が並んでいる 後冷泉天皇の正面。段差があってよく見えない…

 
…と思っていたら、一般拝所の端に竹垣があり、特に鍵などもなく自由に出入りできた! おかげで特別拝所の手前まで行けた!

平安時代後期の天皇。“ごれいぜい”と読む。先帝・後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原道長の六女・嬉子(きし)。在位は20歳から43歳までの23年間で、1045年-1068年。

誕生の2日後に母が急逝し、紫式部の娘・大弐三位が乳母となった。1045年、父の後朱雀天皇(35歳)が崩御し、後冷泉天皇が20歳で即位する。1046年(21歳)、既に入内していた章子(しょうし)内親王が中宮となる(伯父・後一条天皇の第一皇女)。1051年(26歳)、関白・藤原頼通(道長の長男)の娘、寛子を皇后とする。
同年、東北地方で現地の有力者・阿部頼良(のち頼時に改名)が反乱を起こし、陸奥国守軍が大敗する“前九年の役”が勃発する。新たに陸奥国守となった武人の源頼義は子の義家と共に、(11年後の)1062年に阿部氏を平定し、東国における源氏繁栄の土台を築いた(この30年後の1192年に源氏の頼朝が鎌倉幕府を開いて朝廷から権力を奪ったことを考えると、“前九年の役”は後冷泉天皇が関わってなくても皇室史の最重要事件のひとつといえる)

1068年、病床にて新関白・藤原教通(頼通の弟)の三女・藤原歓子を皇后に迎え、その際に禎子内親王を皇太后から太皇太后に、藤原寛子を皇后から中宮に異動させた。この2日後に崩御。歴代全天皇の中で、同時期に三后(3人の正妻)が並立したのは後冷泉天皇だけ。享年42歳。皇子が生まれなかったことから、次帝は藤原氏を外戚としない異母弟の後三条天皇が即位することとなり、藤原氏の最盛期が去っていく。諱は親仁(ちかひと)。円丘。

※2后目の寛子立后の際、普通は既に中宮だった章子が皇后、寛子が中宮となるが、章子は中宮のまま変わらず、寛子がいきなり皇后となった。これは“皇后になると気軽に宮中に入れない”と懸念した(そういう先例があった)章子の希望によるもの。3后目の歓子立后に際しては、入内順に皇太后・章子、皇后・歓子、中宮・寛子とされた。
※後世の鳥羽天皇、二条天皇、後堀河天皇にも中宮・皇后となった后妃が3名いたが時期はバラバラ。“同時期”の三后並立は後冷泉天皇のみ。



★第71代 後三条天皇/Gosanjo 長元7年7月18日(1034年9月3日)-延久5年5月7日(1073年6月15日) (京都府、右京区、円宗寺陵 38歳)2010

山の上に見えるけど手前まで行ける(後冷泉天皇を参照) 左から後三条天皇、後冷泉天皇、後朱雀天皇。壮観! 「後三条天皇円宗寺陵」

平安時代後期の天皇。先々帝・後朱雀天皇の第2皇子。母は先々々々帝・三条天皇の第3皇女・禎子(ていし)内親王。先帝・後冷泉天皇は異母兄。第59代宇多天皇以来、170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇。母が皇族出身であり、藤原氏出身でないため、関白・藤原頼道は即位を喜ばず、23年間も皇太子に留まった。在位は後冷泉天皇が崩御した34歳から38歳までの4年間で、治暦4年4月19日(1068年5月22日)-延久4年12月8日(1073年1月18日)。

前述したように母は藤原摂関家と直接外戚関係がなかった為、後三条天皇は摂関家をおさえて天皇親政を推進。政治改革に乗り出し、売官、ワイロを禁じた。天才として知られる学者・文人の大江匡房(おおえのまさふさ)、優れた歌人で村上源氏の始祖となった源師房(もろふさ)らを登用して政治の刷新に務めた。
※源師房は祖父が村上天皇。源氏には祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)がある。武家として最も有名なのは清和源氏で源頼朝のほか武田・足利・新田を輩出。

さらに、藤原氏の勢力を割くべく、摂関家の経済的基盤を崩す為に、即位翌年に荘園整理令を出して新たな荘園を禁じ、それまで国司に委任していた荘園整理を朝廷が独自に調査する為の記録所(記録荘園券契所)を設置。皇室経済の強化を目的として各地に皇室領を設けた。また、公定枡(ます)も制定した。
このように藤原摂関家を相手に奮戦した後三条天皇だったが、病により在位4年8カ月で第1皇子の白河天皇に譲位し、皇太子に第2皇子皇子の実仁(さねひと)親王をたて、半年後に崩御した。諱は尊仁(たかひと)。享年41。円丘。


天皇系図 71〜77代 (画像元・ウィキペディア)



★第72代 白河天皇/Shirakawa 天喜元年6月19日(1053年7月7日)-大治4年7月7日(1129年7月24日) (京都府、伏見区、成菩提院陵 76歳)2010

この画像だけ見ると良い雰囲気なんだけど… 目の前がものすごい交通量であまり安らげない 第一京阪道路(高架)も下の国道も猛スピードのトラック!

同年暮れに再訪すると道路工事まで始まっていた 近隣にある「白河法皇・鳥羽法皇 院政之地」碑

平安時代後期の天皇。在位は20歳から34歳までの14年間で、延久4年12月8日(1073年1月18日)-応徳3年11月26日(1087年1月5日)。諱は貞仁(さだひと)。方丘。

この時代の朝廷権力の流れは、白河(法皇)→堀河(白河の子)→鳥羽(堀河の子)→崇徳(実は白河の子)→近衛(鳥羽の子)→後白河(鳥羽の子)。天皇が退位すると「上皇」になり、上皇が出家すると「法皇」になる。
白河はトンデモ法皇で、老いてから若い養女(待賢門院)に手を出し、お腹に子(崇徳)を身篭らせたまま孫(鳥羽)と結婚させている。白河の次男・堀河天皇 が22歳で早逝すると、5歳の鳥羽天皇を即位させ白河が後見人となる院政をスタート。鳥羽が19歳になって自己主張を始めると強制退位させて上皇(肩書き オンリー)にして、まだ5歳の崇徳を即位させ法皇自身が実権を握り続けた。



★第73代 堀河天皇/Horikawa 承暦3年7月9日(1079年8月8日)-嘉承2年7月19日(1107年8月9日) (京都府、右京区、後円教寺陵 28歳)2010


ここまでの道のりは第66代一条天皇を参照 龍安寺の裏山の山頂付近。一条天皇と同じ陵墓で、左側が堀河天皇 京の都を一望できる超一等地に眠っている!

平安時代後期の天皇。在位は8歳から28歳までの20年間で、応徳3年11月26日(1087年1月5日)-嘉承2年7月19日(1107年8月9日)。
諱は善仁(たるひと)。龍安寺の裏山の円丘。後円教寺御陵(のちのえんきょうじのみささぎ)。



★第74代 鳥羽天皇/Toba 康和5年1月16日(1103年2月24日)-保元元年7月2日(1156年7月20日) (京都府、伏見区、安楽寿院陵 53歳)2010

鳥居がない陵墓! 白壁が美しく禅寺のようだ 石碑「鳥羽法皇・白河法皇 院政の地」



同年暮れに再訪。夕陽の中の鳥羽天皇陵 夕暮れは逆光になる。朝だと白壁がMAXに映えそう 鳥羽天皇陵の制札

平安時代後期の天皇。在位は4歳から20歳までの16年間で、1107年-1123年。諱は宗仁(むねひと)。方形堂。安楽寿院陵(あんらくじゅいんのみささぎ)。

実父・白河法皇の崩御後、鳥羽上皇の巻き返しが始まる。鳥羽は白河と全く同じことをした。鳥羽は法皇となって白河の子である崇徳(当時22歳)を強制退位させて上皇にし、まだ3歳の実子・近衛を即位させ、近衛が早逝すると近衛の兄・後白河を擁立した。鳥羽法皇の崩御後、崇徳上皇VS後白河天皇の「保元の乱」が勃発した。



★第75代 崇徳天皇/Sutoku Tennou 元永2年5月28日(1119年7月7日)-長寛2年8月26日(1164年9月14日) (香川県、坂出市、白峯陵 45歳)2005





遠く流された悲劇の天皇 本州から瀬戸大橋を渡って讃岐国へ 視界の彼方まで橋が続いている。巨大! 坂出市。正面の白峯(しろみね)山で荼毘に…


白峯山に登ると遠くに瀬戸大橋が見えた。崇徳
天皇はずっと都に戻りたいと思い続けていた
御陵の参道入口。明治まで参道はなかった。ここ
から御陵まで参道脇に88基の歌碑が建ち並ぶ
どの歌も哀切に満ちており、西行法師の
「山家集」から選ばれた歌が多い

ここまで来れば御陵までもうちょっと!
落ち葉のじゅうたんが続く


真ん中の画像の道の奥に御陵がある。そして左右に建つ歌碑が、参道の最後の歌碑。
右側(画面奥)の歌碑が崇徳天皇の「思ひやれ 都はるかに 沖つ波 立ちへだてたる 心ぼそさを」
左側の歌碑が西行の「よしや君 昔の玉の 床(とこ)とても かからむ後は 何かはせむ」。1167年秋、
西行は天皇崩御から3年後に墓参に来て、墓前に座り何度も読経し、この歌を詠んだという

この石段の上が御陵!チラッと見えてる

陵墓前の見張所を覗くと、机の上に羽、窓際に14個のドングリが立ててあった。
なんか癒やされた。この宮内庁職員の人と是非お友達になりたいッス!




崇徳天皇陵に到着!左から撮ると
特別拝所の木が邪魔で鳥居が見えない
拝所の中にこのようにランダムに樹木が生えているのは
珍しい。山と一体化しているかのような陵墓だ
巡礼したのは12月の朝9時半。空気が澄んでいた。
※右から撮影しても木が鳥居と被る…




っていうか、最深部の皇族拝所までドーンと木が生えて
いるんですけど!鳥居のすぐ前に木あるってココだけ
特別拝所の中に切り株があった。かつては
もう1本、大きな木があったということか
陵墓の前から下界を見下ろすと高さを感じる。
小さく映っているのは共に巡礼した我が盟友I氏



御陵に隣接する白峯寺。崩御の直後に
地元の人々によって建てられた

寺の境内奥にある「崇徳天皇御陵遙拝所」


白峯寺の100m前の「白峯寺十三重石塔」。源頼朝が
崇徳天皇の菩提を弔う為に建立。東塔(手前の石塔)
に納骨された形跡があり、本物の供養塔と思われる

●京都における崇徳天皇〜畏怖の対象

 
江戸後期に歌川国芳が描いた崇徳帝。怨霊、夜叉そのもの。天皇の肖像では最強インパクト

明治天皇が即位に際して京都に創建した白峯神宮。
なんと御祭神は崇徳帝!御霊を讃岐から都に戻した
(2010)
京都東山区、祇園のド真ン中の「崇徳天皇御廟」。崇徳帝から寵愛された阿波内侍は
帝の遺髪をもらい受け、自邸に塚を築き弔った。祇園の歌舞練場の敷地には、かつて
阿波内侍の墓(五輪塔)があった事から、当御廟は阿波内侍が築いた遺髪塚と思われる

平安時代後期の天皇。父は鳥羽天皇。在位は4歳から23歳までの19年間で、1123年-1142年。名は顕仁(あきひと)。鳥羽天皇の第一皇子。兄弟の第四皇子は雅仁親王(後白河天皇)、第九皇子は体仁(なりひと)親王(近衛天皇)。父・鳥羽上皇は崇徳天皇が自分の子でなく、上皇の祖父・白河法皇と鳥羽上皇の中宮・藤原璋子(しょうし、白河法皇の養女だった)との間の子であると疑っており、これが保元の乱の遠因となっていく。

1123年、曽祖父・白河法皇の意向で父・鳥羽天皇の譲位を受け4歳で即位。1129年(10歳)、関白・藤原忠通の長女・聖子が入内(翌年中宮に)。同年、白河法皇が没し鳥羽上皇の院政が始まると、出生問題に絡んで鳥羽上皇と崇徳天皇の関係が次第に悪化していった。1140年(21歳)、崇徳天皇と女房・兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)の間に第一皇子・重仁親王が生まれる。忠通は崇徳天皇の寵愛が、娘の聖子から兵衛佐局に移ったことを恨んだ。
翌1141年(22歳)、崇徳天皇は鳥羽上皇から弟の体仁親王(近衛天皇、3歳)に譲位することを迫られた。これは鳥羽上皇の皇后・藤原得子が生み、“確実に”上皇の子である近衛天皇を即位させるためだった。崇徳天皇はこれに従い、退位に伴って上皇となり、鳥羽上皇は法皇となった。この後、崇徳上皇は和歌三昧の日々を送る。

1155年、近衛天皇が病により16歳の若さで崩御。近衛天皇は子を残さなかった。この早すぎる死を、鳥羽法皇&皇后は「崇徳上皇派の藤原頼長(関白・藤原忠通の弟)の呪詛によるもの」と考えた。それゆえ、次の天皇に崇徳の子・重仁親王は選ばれず、近衛天皇の兄・雅仁親王(後白河天皇)が29歳で即位した。そして皇太子には後白河天皇の子、守仁(もりひと)親王(二条天皇)がたてられた。崇徳上皇は子の重仁親王が皇位継承できなかったことで院政の夢を断たれ、鳥羽法皇との対立が決定的となる。
※摂関家の藤原忠通・頼長兄弟は、関白である兄・忠通よりも弟・頼長の方が「日本第一大学生(がくしょう)」と評されるほど学識豊かでカリスマ性があった。父の藤原忠実(ただざね)は頼長を可愛がった為、忠通は面白くなく、これも保元の乱の要因となっていく。

1156年(37歳)7月2日、鳥羽法皇が崩御(享年53歳)。法皇は自らの遺体を崇徳に見せることをよしとせず、崇徳は臨終前の見舞いを断られ、憤慨しつつ帰邸した。3日後、「崇徳上皇と藤原頼長が、後白河天皇と関白・忠通に対してクーデターを計画している」と噂が流れる。後白河天皇、忠通、鳥羽法皇の皇后・得子、後白河天皇の乳母の夫で野心家の信西(しんぜい)らは先手を打つ。後白河天皇が忠実・頼長父子に兵を集めることを禁じ、源義朝らの兵が摂関家の邸宅を没収した。
後白河側に挑発された崇徳側は、源為義・為朝父子、平家弘、清盛の叔父・平忠正ら武士を白河北殿に集め、後白河側は、平清盛、源為義の長男・義朝らを招集。ここに、京都で初めてとなる内乱が勃発する。
崇徳側の兵力は多いとは言えず、“夜襲をかけよう”という提案があったが頼長は「夜襲は卑怯」と却下した。するとなんと、後白河側が夜襲をかけてきた。崇徳側の本拠地・白河北殿は焼け落ち勝敗は喫した。2日後(7/13)、崇徳は逃亡をやめ、自ら出頭することで赦しを期待したが、讃岐国への配流が決定した。天皇・上皇の配流は764年に第47代淳仁天皇が淡路島に流されて以来、392年ぶりのこと。讃岐へは兵衛佐局が同行した。藤原頼長は父・忠実の拠点である宇治への逃避行中に矢を浴び絶命する。源為義、平忠正は死罪、為朝は伊豆大島へ配流となった。
保元の乱は貴族間の対立を武士集団が解決したことで、平氏、源氏が活躍する武士の時代が始まるきっかけとなった。

軟禁生活を通して仏教に開眼した崇徳上皇は、このまま恨みを抱いて死ぬと自分が怨霊となって朝廷に敵すると思い、膨大な写経を通して心を鎮める。そして、3年がかりで完成した写本(経文)を、都の寺へ奉納すべく朝廷へ送った(和歌「浜千鳥
跡は都へ通えども 身は松山に 音をのみぞなく」を添えて)。
ところが、後白河天皇は「経文に呪詛が込められているのではないか」と疑い、写本の受け取りを拒否して送り返した。崇徳の怒髪が天を衝く。爪や髪は伸びるに任せ、「永遠にこの国を呪い続けてやる!」と自らの血で写本に記し、1164年、配流から8年後に、府中鼓岡(つづみおか)にて憤怒の中で崩御した。享年45歳。6年前(1158年)に即位した二条天皇が刺客の三木近安に命じて暗殺させたという説もある(JR予讃線沿いの暗殺現場と伝えられる場所=柳田に、小さな石碑が建っている。大柳のウロに隠れているところを殺されたという)。崇徳帝は生きながら天狗になったとも言われる。
崩御が8月であったため、都から葬儀法の連絡が下るまで、野澤井の霊水に遺体は浸された。後白河上皇は崇徳帝を死後も罪人扱いし、讃岐国では国司が質素な葬礼を行った。朝廷の指示により、亡骸は白峯山に葬られた。

崩御から13年が経った1177年。平家に対する俊寛らの反乱計画や都を包む大火など社会的混乱が続き、それまでにも保元の乱で崇徳帝と敵対した後白河法皇(1169年に出家)や藤原忠通の近親者、すなわち後白河法皇の妃、二条天皇の中宮や子(六条天皇)、近衛天皇の中宮など次々に病死していることから、貴族達は「崇徳帝や悪左府(頼長)の怨霊のタタリではないか」と噂し合う。1184年、ビビッた後白河法皇は保元の乱の戦場跡に「崇徳院廟」(粟田宮)を建て、故頼長に太政大臣を追贈した。清盛が死去し、源平争乱で平家が滅び、権力そのものが朝廷から鎌倉幕府に移ったことで“怨霊説”は一層真実味を帯びる。陵墓に隣接する白峯寺は朝廷から保護されるようになった。

時は流れて明治元年、1868年(崩御から704年)。明治天皇は即位の礼に際して、崇徳天皇の御霊を京の都へ迎えるために勅使を讃岐に遣わし、京都市上京区に崇徳帝を御祭神とした白峯神宮を創建した。その10年後には、保元の乱で崇徳側についた源為義・為朝父子を祀る「伴緒社」が境内に建てらている。白峯神宮は平安時代より蹴鞠(けまり)の宗家である飛鳥井家の邸宅跡に建設された。それゆえ、蹴鞠の名手の藤原成通(関白=後白河天皇側近)が蹴鞠千日修行の果てに見た「鞠の精」も祀られ、サッカー選手の参拝者も多い。後白河帝の側近と崇徳帝という敵同士に所縁のある不思議な空間だ。白峯神宮には、淡路島に流され崩御した淳仁天皇も1873年に合祀されている。
白峯神宮を創建から約100年後、1964年の東京オリンピック開催前に、昭和天皇は日本復活の思いを込め、崇徳天皇陵に勅使を遣わして崇徳天皇式年祭を執り行わせた。平安時代の天皇なのに、現代の皇室にまで影響を与えているという意味でも、菅原道真を超えるキング・オブ・怨霊ともいえる。
だが、都の人には恐怖の対象であっても、四国では守り神として感じる人もいる(平将門が関東で敬われているように)。後白河法皇の曾孫・土御門上皇が、承久の乱後に土佐配流となったとき、崇徳陵の側を通過する際に、琵琶を弾いて霊を慰めた。すると、崇徳帝が夢に現れ、家族の庇護を約束したという。その後、土御門上皇の遺児、後嵯峨天皇は無事に皇位に就くことができた。室町時代には四国の守護・細川頼之が崇徳帝の菩提を弔った後に四国平定を成し遂げる。これにより、細川氏は崇徳帝を守護神として代々崇めたとのこと(これら善神エピソードはウィキで読むまで知らなかった)。
本墓は香川県坂出市青海町にある白峯陵。陵形は方丘。

※「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」(崇徳院)小倉百人一首
※「なけば聞く 聞けば都の恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす」(崇徳院)

(整理)崇徳帝の本気
1.清盛の娘を中宮に迎えた高倉天皇を19歳で鬼籍に
2.平家を一門丸ごと滅ぼす
3.ついでに源氏直系も壊滅
4.さらに鳥羽と白河の遺産を全て受け継いだ後鳥羽の家系を断絶


  
白峯寺に隣接する頓證寺殿(崇徳帝の御廟所)には、珍しい「天狗の石像」がある。名を白峰相模坊(さがみぼう)と
いい日本八天狗の一狗。崇徳帝が保元の乱に敗れて崩御した際、相模坊は御霊を鎮めるべく陵墓のある白峰山に移り
住んだという。崇徳院に仕える天狗として能「松山天狗」にも登場する。今も崇徳院の霊前に参り続けているとのこと。
【天狗トリビア・日本八天狗】
(1)大天狗・鞍馬山僧正坊(くらまやま そうじょうぼう)…京都府
(2)愛宕山太郎坊(あたごさん たろうぼう)…京都府
(3)相模大山伯耆坊(さがみたいせん ほうきぼう)…神奈川県
(4)飯綱三郎(いずなの さぶろう)…長野県飯縄山
(5)比良山次郎坊(ひらさん じろうぼう)…滋賀県
(6)大峰前鬼(おおみね ぜんき)…奈良県
(7)白峰相模坊…香川県
(8)彦山豊前坊(ひこさん ぶぜんぼう)…福岡県英彦山



★第76代 近衛天皇/Konoe 保延5年5月18日(1139年6月16日)-久寿2年7月23日(1155年8月22日) (京都府、伏見区、安楽寿院南陵 16歳)2010



ずっとここへ来たかった!なぜならッ!

歴代陵墓で唯一多宝塔がある!

どの角度から見ても美しい!嗚呼、至福なり。
まぁ、神道なのに仏式の廟というのは妙なんだけど(汗)

●紅葉シーズンはさらに素晴らしい!


夏の夕暮れ 秋の夕暮れ


いずれユネスコの世界遺産に指定されるだろう この美しさ…骨抜きでござるよ こうなれば、何とか雪景色も見たいもの!綺麗だろうなぁ

平安時代末期の天皇。鳥羽天皇(上皇)の第九皇子。在位は3歳から16歳までの13年間で、永治元年12月7日(1142年1月5日)-久寿2年7月23日(1155年8月22日)。諱は体仁(なりひと)。
父・鳥羽上皇には待賢門院(藤原璋子)という中宮がおり、中宮は崇徳天皇や後白河天皇を生んだ。しかし、鳥羽上皇は並外れた美貌を持つ美福門院(藤原得子、待賢門院より16歳若い)を深く寵愛するようになり、1139年に美福門院が体仁親王(近衛天皇)を出産すると、第九皇子で皇位継承順位が下位にもかかわらず、鳥羽上皇は「早くこの子を帝にしたい」と願うようになる。1142年、鳥羽上皇は半ば強引に現帝の崇徳天皇を譲位させて、3歳の近衛天皇を即位させた。そして鳥羽上皇は出家して法皇となり、近衛天皇が幼帝であるため院政を敷いた。
このように法皇から愛された近衛天皇であったが、一時期失明しかけるなど大変病弱で、1155年に16歳の若さで崩御してしまう。陵墓の安楽寿院南陵(あんらくじゅいんのみなみのみささぎ)は、鳥羽院が伏見に造営した安楽寿院の境内に隣接して築かれた。非常に珍しい、多宝塔付きの御陵だ。

鳥羽法皇と美福門院は近衛天皇の早逝を「自分の子を皇位につけようとする崇徳上皇の支持者、藤原頼長(悪左府)の呪詛によるもの」と考えた。それゆえ、次の天皇に崇徳帝の子は選ばれず、近衛天皇の兄・後白河天皇が即位した。後白河天皇&美福門院&関白・藤原忠通 VS 崇徳上皇&藤原頼長という確執が、翌年の『保元の乱』に繋がっていく。
※類いまれなる美貌で帝の心を掴んだことが戦乱の遠因となったゆえか、美福門院は「殺生石」伝説の妖怪、白面金毛九尾の狐“玉藻前(たまものまえ)”のモデルになった。



★第77代 後白河天皇/Goshirakawa 大治2年9月11日(1127年10月18日)-建久3年3月13日(1192年4月26日) (京都府、東山区、法住寺陵 64歳)2007&10

 

あの頼朝ですら手玉にとられ、頼朝をして「日本国第一の大天狗」と言わしめた

  

陵墓は法住寺の本堂の背後にある。境内の一部と思っていたら、参道が寺の外側にあった。その道を使って本堂背後の墓所に行くようになっている。
11月は日暮れが早くて道に迷ってしまい、着いた時はまだ17時半というのに真っ暗。日曜に訪れたところ、無情にも「土日祝は参拝不可」の看板が!
法住寺のご住職「ここまで来て頂いたので墓参させてあげたいのですが、宮内庁が参道の鍵を持っているので寺側としてはどうすることも…」。ショック!


【3年後〜リベンジ成功!】

2010年5月吉日。今回は開門していた! 三十三間堂に隣接している街中の御陵だ 天気にも恵まれ良い墓参になった

平安時代末期の天皇。鳥羽天皇の第4皇子。崇徳天皇は兄、近衛天皇は弟。在位は28歳から31歳までの3年間で、久寿2年7月24日(1155年8月23日)-保元3年8月11日(1158年9月5日)。
1155年(28歳)、近衛天皇が16歳で急逝したことから、父・鳥羽法皇や関白・藤原忠通の意向により即位。1156年(29歳)、鳥羽法皇の崩御をきっかけに崇徳上皇&藤原頼長らが挙兵し「保元の乱」が勃発。後白河天皇は平清盛らと組んでこれを迎え撃ち、夜襲をかけて崇徳側を破った。崇徳上皇は讃岐に流され、藤原頼長は流矢がもとで死亡した。
その後、後白河天皇は積極的に政治に乗り出し、乳母の夫・信西(藤原通憲)を右腕に荘園整理を行う。1158年(31歳)、第一皇子(二条天皇)に譲位し、以降は二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽という5代34年にわたって院政を敷いた。

1159年(32歳)、清盛が熊野詣で都を出ている隙に、有力貴族の藤原信頼と源氏の源義朝が挙兵(「平治の乱」)。信頼・義朝勢は後白河上皇の御所を襲撃し、後白河上皇と二条天皇は幽閉され、信西は殺害された。藤原信頼は勝利を確信したが、急ぎ帰京した清盛が二条天皇の奪還に成功し、上皇も自力で仁和寺に脱出する。天皇&上皇という切り札を失った信頼・義朝勢は急速に士気が落ち、清盛軍に駆逐された。乱後、藤原信頼は六条河原で処刑され、源義朝は東国へ逃れる途中で家臣の裏切りにあい殺害された。1169年(42歳)、上皇は出家し法皇となる。

源氏の多くの有力武士が「平治の乱」で死亡し、世は平氏の天下になった。法皇はあまりに強大になりすぎた平氏一門を排除するべく水面下で動き始める。1177年(50歳)、鹿ヶ谷で僧・俊寛らが平氏打倒計画を練っていたことが密告により発覚。黒幕が法皇と気付いた清盛は激怒した。1179年(52歳)、清盛はクーデターを敢行し、法皇が自由に行動できないように鳥羽殿に幽閉した。翌1180年(53歳)、法皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう)が全国の源氏に反平氏の武装蜂起を呼びかけ、これに呼応して平氏打倒の挙兵が各地で相次いだ。

1183年(56歳)、源義仲(木曾義仲)の軍勢が京に迫り、平氏一門は西国に都落ちしていく。法皇は延暦寺に逃れ、上洛した源義仲に平氏追討令を出した。その一方で、義仲軍の粗暴な振る舞いを源頼朝に伝え、頼朝に東国の支配権を認めるなど、頼朝と義仲が対立するよう仕向けていく。翌年、義仲は京へ進軍してきた源義経・源範頼に敗れ戦死した。1185年(58歳)、壇ノ浦で平氏が滅亡すると、法皇は頼朝の力を削ぐために義経に高い官位を与えて両者を不仲にさせた。
1192年、体調を崩しがちになり崩御。享年64歳。その5ヶ月後に頼朝は征夷大将軍となり鎌倉幕府が開かれた。陵墓の法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ)は三十三間堂のすぐ裏手にある。

後白河法皇は歴代天皇の中でもとりわけ熱心な仏教徒で、参詣を積極的に行い、多数の寺を建立し、仏像を造らせた。流行歌の今様が大好きで、それらを分類整理した歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を撰している。
保元の乱、平治の乱、源平争乱など戦乱続きの時代にあって、平清盛、源頼朝、源義経、木曾義仲など武士の力を巧みに利用し、用済みになれば他勢力に討伐させるという策士ぶりは、あの源頼朝をして「日本国第一の大天狗」と言わしめた。


天皇系図 77〜88代 (画像元・ウィキペディア)



★第78代 二条天皇/Nijo 康治2年6月18日(1143年7月31日)-永万元年7月28日(1165年9月5日) (京都府、北区、香隆寺陵 22歳)2010



住宅地にあります 参道の木々は大きく成長している 夕暮れの陵墓は昼間以上に空気が穏やか


巨大な一本松が特徴 夕陽で白砂の筋がクッキリ。道があるようだ

平安時代末期の天皇。在位は15歳から22歳までの7年間で、保元3年8月11日(1158年9月5日)-永万元年6月25日(1165年8月3日)。諱は守仁(もりひと)。円丘。



★第79代 六条天皇/Rokujo 長寛2年11月14日(1164年12月28日)-安元2年7月17日(1176年8月23日) (京都府、東山区、清閑寺陵 11歳)2010

「六条天皇御陵・高倉
天皇御陵 参道」の石柱
左側の暗がりが参道。ここから入っていく。
清閑寺の駐車場からでも行けるけど、ここは古式で
この奥にあった清閑寺の茶室で、西郷と
清水寺の月照上人が勤皇の謀議を交わした

手前に高倉天皇陵、その奥に六条天皇陵がある。
でも、木々に遮られて六条天皇陵は視認不可能
帰りに駐車場から撮影。上の方の山中に御陵が
あるという。まったく見えないけど…
画面右の鉄門が六条天皇の御陵前に出る道を封鎖。
他に道がない以上、宮内庁は鍵を開けるべきだッ!

平安時代末期の天皇。在位は1歳から4歳までの3年間で、永万元年6月25日(1165年8月3日)-仁安3年2月29日(1168年3月30日)。諱を順仁(のぶひと)。円丘。清閑寺旧境内の山腹に眠る。



★第80代 高倉天皇/Takakura 応保元年9月3日(1161年9月23日)-治承5年1月14日(1181年2月6日) (京都府、東山区、後清閑寺陵 19歳)2010



京の都から醍醐方面に続く道にある清閑寺
(せいかんじ)。この寺の裏山に陵墓がある
ここは平家物語の悲劇の女性、
小督局(こごうのつぼね)ゆかりの寺
境内の小督局供養塔。本物の墓
は高倉天皇陵の傍で見えない

これ以上近くに行けない。一般拝所から遠すぎる〜! あの塀の向こうで高倉天皇と小督局が並んで眠っている

 
小督局は京の都が一望できるこの「要石(かなめいし)」のあたりに立ち、宮中の日々を懐かしんでいたという…

平安時代末期の天皇。在位は7歳から19歳までの12年間で、仁安3年2月19日(1168年3月30日)-治承4年2月21日(1180年3月18日)。高倉天皇の中宮(夫人)は平清盛の娘であったが、小督局(こごうのつぼね)を深く寵愛していた。怒った清盛は小督局を清閑寺に入れ強引に出家させた。高倉天皇は悲しみに暮れ19歳で他界してしまう。そして、遺言に「私が死んだら小督局がいる清閑寺に葬って欲しい」と残した。諱は憲仁(のりひと)。方丘。
小督局は生涯にわたって高倉天皇の菩提を弔い続け、彼女の墓は御陵に寄り添うように建てられた。



★平 徳子(建礼門院)/Taira-no-Tokuko 久寿2年(1155年)-建保元年12月13日(1214年1月25日) (京都府、左京区、大原西陵 59歳)2010

寂光院に隣接している。宮内庁が管轄 平家物語のラストエピソードを思い出し胸熱に 鳥居の奥に見えた石塔。これが墓石なのかも

院号、建礼門院。平清盛と平時子の娘。高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母。重盛は兄。弟たちに宗盛、知盛、重衡がいる。1171年、16歳で高倉天皇に入内し、翌年中宮となる。1178年(23歳)、第一皇子・言仁親王(安徳天皇)を出産。1180年(25歳)、安徳天皇が1歳5ヶ月で即位する。翌年、高倉上皇が19歳の若さで崩御し、徳子は院号を授かり建礼門院を称した。同年、清盛が他界。
やがて時代は源平争乱に。1183年(28歳)、源氏の木曽義仲に京都を占領され、平氏一門は京を脱出する。徳子は、大宰府、屋島(香川)、壇ノ浦へと運命を共にしていく。

1185年(30歳)、平家は「壇ノ浦の戦」で敗北し、母・時子が安徳天皇(6歳)を抱いて入水した後、徳子も海中に身を投げた。ところが、徳子は源氏側の熊手に髪をかけられ、引き上げられて京都に送還されてしまう。同年出家し、真如覚と称し大原寂光院に入る。以降、他界するまで約30年の間、ただひたすらに平氏一門と幼い安徳の冥福を祈り菩提を弔った。享年59歳。墓所は大原寂光院に隣接する大原西陵。『平家物語』は後白河法皇が大原の徳子を訪ねる話で締めくくられている。



★第81代 安徳天皇/Antoku 治承2年11月12日(1178年12月22日)-寿永4年3月24日(1185年4月25日) (山口県、下関市、赤間神宮内・阿弥陀寺陵 6歳)2006



6歳の入水は悲しすぎる…

壇ノ浦を望む赤間(あかま)神宮。 安徳天皇が竜宮城にいる
夢を母の建礼門院が見たため、竜宮城の形をしている
境内の奥には壇ノ浦に散った知盛や教経など、
平氏を代表する14名の墓が並んでいる

  
平家の滅亡と運命を共にした幼き天皇。「安徳天皇阿弥陀寺陵」は壇ノ浦にある 平時子の墓(清盛の妻)

平安時代末期の天皇。父は高倉天皇。母は平清盛の娘・徳子(建礼門院)。ゆえに清盛にとって孫にあたる。在位は在位は1歳5ヶ月から6歳4ヶ月の5年間で、治承4年4月22日(1180年5月18日)-寿永4年3月24日(1185年4月25日)。諱は言仁(ときひと)。
1180年、約1歳半で即位。この頃、政治の実権は父方の祖父・後白河法皇ではなく母方の祖父・清盛が握っていた。1181年(3歳)、清盛は熱病に倒れ他界。1183年(5歳)、源義仲の軍勢が都に迫り、安徳天皇は平氏一門に連れられ西国に都落ちする。太宰府、屋島と逃れ、都落ちから2年後の1185年、平氏は壇ノ浦にて源氏との決戦に挑む。午前中は平氏が有利に戦いを進めていたが、午後になって潮目が変わり、また船の漕ぎ手(非戦闘員)に対して義経軍が弓矢を射るという卑劣な戦法を使い(当時、馬や漕ぎ手を攻撃しない事は武士の掟だった)、機動性を失った平氏軍は敗北した。平氏一門は「見るべきものは全て見た」(平知盛)と次々に入水し滅亡する。

“もはやこれまで”と清盛の妻、安徳天皇の祖母・二位尼(にいのあま=平時子)は“三種の神器”のうち、草gの剣、神爾(しんじ、田代の勾玉)を身に付け、孫を抱きかかえた。
「尼、私をどこへ連れて行くのですか」
「この世は辛く厭わしい場所ですから、極楽浄土という素晴らしい場所にお連れ致します」
安徳天皇は6歳の小さな手を合わせ念仏を唱える。
二位尼は「波の下にも都がございます」と、安徳天皇を抱いて海中に身を投げた。歴代最年少の崩御となった。母の建礼門院は、我が子の入水を見届けた後に身を投じたが、源氏軍の熊手に髪をかけられ引き上げられてしまう。建礼門院は出家し、安徳天皇と平家一門の菩提を生涯弔い続けた。

源頼朝は安徳天皇の怨霊を鎮めるため、壇ノ浦合戦の一年後に阿弥陀寺御影堂を下関に建立する。この御影堂は京の都を望むように東向きに造られた。そして、明治期の廃仏毀釈を経て、安徳天皇を祀る現在の赤間神宮となった。本殿床下からは五輪塔(墓石)が見つかっており、隣接して陵墓が築かれた。円丘。
※下関市伊崎町の「御旅所」は、合戦翌日に壇ノ浦の漁師の網かかった安徳天皇の遺体を一時的に安置した場所と伝わる。
※安徳天皇が女帝であることを示唆する記述が『平家物語』にあるといい、文楽『義経千本桜』は女子説で描かれている。

【安徳天皇生存説〜平氏残党に警護され逃げ延びた】
当時の公卿・藤原経房の遺書によると、壇ノ浦を脱出した安徳天皇と侍従4名は山陰地方を東に進み(石見→伯耆→但馬)、摂津国・能勢(大阪北部)の野間郷に隠れた。しかし壇ノ浦合戦の翌年に病で崩御し岩崎八幡社に祀られる。この遺書は能勢の旧家にて1817年に発見され、既に実物が失われたため真偽を確かめる術がないけれど、内容が色々と細かく完全に嘘と言い切れない。現在、能勢野間郷の来見山・山頂に安徳天皇御陵墓がある。その他にも(1)対馬に逃れ宗氏の祖となった(2)平盛国が阿波国祖谷山(徳島県三好市)で保護した(3)平資盛が薩摩国硫黄島(鹿児島県三島村)に匿った等々、全国に約20ヶ所も伝承地があるという。



★第82代 後鳥羽天皇/Gotoba 治承4年7月14日(1180年8月6日)-延応元年2月22日(1239年3月28日) (京都府、左京区、大原陵 58歳)2010

自身は隠岐島、息子は佐渡島に流された



大原・三千院のすぐ側に陵墓がある 後鳥羽天皇、順徳天皇親子が葬られている 人気の観光地だけあって見張所も立派



11月初旬の午後3時。早くも陽が大きく傾いている 三千院はえらい人混みだけど御陵はゆったり時間が流れてる 「後鳥羽天皇大原陵」

後鳥羽天皇皇子・道助親王墓(高野山)2013 “道を助ける”という良い名前

平安末期から鎌倉初期の天皇であり、中世屈指の歌人。高倉天皇の第4皇子。壇ノ浦に沈んだ幼帝・安徳天皇の弟。在位は3歳から18歳までの15年間で、寿永2年8月20日(1183年9月8日)-建久9年1月11日(1198年2月18日)。諱は尊成(たかひら)。

1183年(2歳)、兄の安徳天皇が平氏に連れられて都落ちしたことから、皇位の象徴“三種の神器”が揃わないまま3歳で即位。幼いため祖父の後白河法皇が院政を行った。安徳天皇は退位しておらず、同時代に2帝が存在する異常事態となった(2帝状態は南北朝時代とこの時だけ)。1185年(5歳)、壇ノ浦で平家が敗れ安徳天皇も崩御。2帝時代は2年間で終わった。

1192年(12歳)、後白河法皇が没し、政治の実権は五摂家の一つ、九条家の祖である関白・九条兼実(くじょう・かねざね)に移行する。1196年(16歳)、後鳥羽天皇は有力公家・源通親(みちちか)の娘との間に第一皇子・為仁親王をもうける。これを機に源通親は九条兼実一派を朝廷から排除した。
1198年(18歳)、後鳥羽天皇は譲位により為仁親王を土御門(つちみかど)天皇として即位させ、土御門がまだ2歳であったことから上皇として院政を開始。1201年(21歳)、和歌に秀でた才能を持っていた上皇は和歌所を設置し、藤原定家ら6人の撰者に『新古今和歌集』の編纂を命じた。
1202年(22歳)、有力者の源通親が他界したことで後鳥羽上皇の独裁状態となる。当初、上皇は鎌倉幕府との融和路線をとり、母の弟の娘を3代将軍・源実朝の妻とさせた。

1210年(30歳)、温厚で優しすぎる土御門天皇(当時15歳)の人柄に、“これでは朝廷勢力を引っ張っていけない”と考え、土御門天皇を譲位させて、その弟である気丈な順徳天皇(13歳)を即位させる。心根が強いといってもまだ少年であり、後鳥羽上皇が院政を継続。
1219年(39歳)、将軍実朝が甥の公暁(2代頼家の子)に暗殺されるという大事件が勃発。後鳥羽上皇はこの混乱を、朝廷が権力を取り戻す「倒幕」の絶好のチャンスと捉え、挙兵の準備を始める。実朝が子を遺さず他界した為、幕府側は上皇の子を4代将軍に迎えることを提案してきたが、上皇は幕府滅亡を願っており、この申し出を拒否。
※最終的には1226年に頼朝の妹の曾孫・九条頼経(よりつね、8歳)が新将軍となった。

1221年(41歳)4月、後鳥羽上皇の挙兵が間近に迫り、順徳天皇は父に協力するため、帝位を3歳の第一皇子・懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、順徳もまた上皇に退いた。翌5月、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の2代執権で北条政子の弟・北条義時追討令を諸国へ出し挙兵する。この『承久の乱』は院宣(いんぜん)を出したのに上皇側に兵力が集まらず1万7千騎に留まった。かたや、北条泰時の長男・泰時率いる幕府軍は19万騎!11倍の兵力差は埋めようがなく、木曽川の戦いで大敗し、わずか1ヶ月で都を占領され完敗した。承久の乱は従来の支配階級(天皇・公家)を新たな武士階級が破ったという点で、戦国時代の武士間の戦とは根本的に異なる“革命”だった。
後鳥羽上皇は隠岐(おき、島根県)へ、順徳上皇は佐渡(新潟県)へ、皇子の雅成親王は但馬へ、頼仁親王は備前へ配流となり、土御門上皇は承久の乱と無関係(むしろ挙兵に反対した)にもかかわらず、自身のみ京に残ることを不義と感じ、自ら望んで土佐に流された。後鳥羽上皇は配流前に出家し法皇となった。
鎌倉幕府は後鳥羽上皇の子孫を皇位継承させないことを決め、仲恭天皇は歴代最短となる2ヶ月半の在位で廃され、後鳥羽上皇の兄の子(後堀河天皇)を即位させた。さらに幕府は、朝廷監視の為に六波羅探題を設置した。

1235年(55歳)、「後鳥羽院と順徳院の帰京を赦してはどうか」と摂政・九条道家が北条泰時に訴えたが却下された。1237年(57歳)、後鳥羽上皇は「万一にもこの世の妄念にひかれて魔物となれば、世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである」と置文(遺言)に記す。
結局、上皇は隠岐から一度も出ることはなく、配流から18年後(1239年)に没した。享年58歳。亡骸は刈田山中で火葬され、遺骨を側近の藤原能茂が都に持ち帰って大原に安置した。陵墓の陵形は十三重塔。隠岐島には火葬塚の隠岐海士町陵(おきあまちょうのみささぎ)がある。

上皇は数冊の歌集を残したほか、楽器演奏や蹴鞠(けまり)も得意としていた。院政を行った期間は、1198年〜1221年まで23年に及び、土御門→順徳→仲恭天皇と3代にわたっている。
後鳥羽上皇は菊の花が大好きで、形を刀剣に彫ったり、印として愛用した。その後、第89代後深草天皇、第90代亀山天皇、第91代後宇多天皇も自身の印として菊を使用したことから、菊花紋(十六八重表菊)が皇室の紋となっていった
※後鳥羽上皇の崩御から3年後、非後鳥羽系として即位した後堀河天皇の子(四条天皇)が10歳で急死した。これを受けて、幕府としては不本意であるが、後鳥羽上皇の孫(土御門帝の子)が後嵯峨天皇として即位する。四条天皇の短命を後鳥羽上皇の怨霊のたたりと考える者もいた。
※配流先の佐渡で父・後鳥羽院の崩御を知った順徳帝は断食死した。
※承久の乱で幕府軍を指揮した北条泰時は、出陣前に「もしも後鳥羽院自らが出陣してきたらどうすればいいか」と父・義時に尋ねている。義時は「天皇に弓を引けるわけがない。鎧を脱いで降伏せよ。だが、兵だけ送ってきたら限界まで戦え」と答えた。後鳥羽院自らが最前線に出れば上皇側は勝てたかも。

分骨陵墓も墓とすると、この後鳥羽天皇で全天皇の巡礼をいったん終えたことに。車を出してくれたK氏と魂ハンドシェイクで喜びを分かち
合う。その後、供養墓ではないリアル陵墓を訪ねて四国と淡路島に遠征し、公式には第47代淳仁天皇陵が最終巡礼陵墓となった!



★第83代 土御門天皇/Tsuchimikado 建久6年12月2日(1196年1月3日)-寛喜3年10月11日(1231年11月6日) (京都府、長岡京市、金原陵 35歳)2010

古都・長岡京の山里に眠る 参道と左右の田畑は垣根で分けられていた







自ら配流を希望し阿波(四国)で崩御

後方の巨木の丸みを帯びたシルエット
が、土御門天皇の温厚さを象徴してた
土御門天皇は阿波での火葬後に、母親が建立した金原
法華堂に改葬され、それが御陵となって現存している

鎌倉時代初期の天皇。在位は2歳から14歳までの12年間。建久9年1月11日(1198年2月18日)-承元4年11月25日(1210年12月12日)。諱は為仁。1196年生まれ。父の後鳥羽天皇が譲位したため2歳で即位。時代は翌年に鎌倉で源頼朝が急逝するという激動の世。成長した土御門天皇はあまりに温厚な性格であった為、“これでは鎌倉幕府に対抗できない”と考えた父・後鳥羽上皇から退位を迫られ、1210年、14歳にして異母弟の順徳天皇に譲位した。

1221年(25歳)、父が鎌倉幕府に対して挙兵し「承久の乱」が勃発。鎌倉方は北条政子や執権北条泰時のもとで団結しており、後鳥羽上皇の軍勢はわずか1ヶ月で敗北した。終戦後、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇(挙兵前に仲恭天皇に譲位済)は佐渡へ流された。挙兵に反対していた土御門上皇は罪に問われなかったが、「父が遠流になったのに都に留まる訳にはいかない」と、自ら望んで土佐国に流され、後に阿波国に移った。鎌倉幕府は土御門上皇に敬意を払い、阿波に宮殿を造営した。1231年に崩御。享年35歳。日蓮は土御門天皇の子孫と言われている。



★第84代 順徳天皇/Juntoku 建久8年9月10日(1197年10月22日)-仁治3年9月12日(1242年10月7日) (京都府、左京区、大原陵 45歳)2010

御陵に続く道に三千院があるため食事処が並ぶ 国宝・阿弥陀三尊像が坐する往生極楽院(三千院)






高い木々に囲まれた陵墓

佐渡島で崩御した順徳天皇は、隠岐の島で崩御した
父・後鳥羽上皇と並んで眠っている。墓標は正面左側
「順徳天皇大原陵」


鎌倉時代前期の天皇。後鳥羽天皇の第三皇子。土御門天皇の弟。在位は13歳から24歳までの11年間で、承元4年11月25日(1210年12月12日)-承久3年4月20日(1221年5月13日)。諱は守成(もりなり)。
1210年、鎌倉幕府の倒幕を考えていた父・後鳥羽上皇は、温厚で優しすぎる土御門天皇(当時15歳)の人柄に、“これでは朝廷勢力を引っ張っていけない”と考え、土御門天皇を譲位させて、その弟である気丈な順徳天皇(13歳)を即位させた。心根が強いといってもまだ少年であり、後鳥羽上皇が院政を継続する。

1221年(24歳)4月、順徳天皇は父が計画している幕府との戦いに自由な身分で協力しようと考え、帝位を3歳の我が子・懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、上皇に退いた。翌月、後鳥羽上皇は挙兵し、幕府2代執権・北条義時追討令を出す。ところが、予想に反して兵が集まらず、上皇側は1万7千騎、かたや幕府側は19万騎!2ヶ月の戦闘で上皇側は完敗し、順徳上皇は佐渡島へ、後鳥羽上皇は隠岐の島へ配流となった。

1242年、流されてから21年目の秋。3年前に父が崩御したことを知った順徳上皇は「これ以上の命は必要ない」と断食し崩御。享年45歳。辞世の歌は無念さに満ちた「思いきや 雲の上をば 余所に見て 真野の入り 江にて 朽ち果てむとは」(思っても見なかった、雲の行き先を想像しながら佐渡・真野湾の入江で朽ち果ててしまうとは)。
他界の翌日、亡骸は佐渡真野山で火葬され、翌年に遺骨が都に戻され、大原にて父の遺骨の側に安置された。陵形は円丘。
現在も新潟県佐渡市には火葬塚の真野御陵(まののみささぎ)がある。大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮では祭神となった。また佐渡には現地で生まれた順徳天皇の第1皇女・慶子内親王を祀る神社があるという。

父の後鳥羽院と同様に和歌をこよなく愛し、藤原定家に師事して歌を学んでいる。藤原定家は『小倉百人一首』を締めくくる100番目の歌として、順徳院が承久の乱の約5年前に貴族の没落を嘆いた1首「百敷(ももしき)や 古き軒端(のきば)の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」(宮中の古い軒端に生える忍ぶ草を見ていると、昔の栄華が思い出され、たまらなく胸が締め付けられる)を収めた。



★第85代 仲恭(ちゅうきょう)天皇/Chukyo 建保6年10月10日(1218年10月30日)-天福2年5月20日(1234年6月18日) (京都府、伏見区、九条陵 15歳)2010

光あふるる参道

在位81日間は歴代最短記録

ちなみに墓前には『維新戦役 防長藩士之墓』がある。
戊辰戦争で散った長州藩士たち。かなりの数だ

鎌倉時代前期の天皇。順徳天皇の第一皇子。3歳で即位し、在位は歴代最短の2ヶ月半だけで、承久3年4月20日(1221年5月13日)-承久3年7月9日(1221年7月29日)。諱は懐成(かねなり)。
1221年(3歳)、父・順徳天皇は祖父・後鳥羽上皇の倒幕作戦に自由な立場で加わるため、皇位を仲恭天皇に譲位した。翌月、父たちは挙兵し『承久の乱』が勃発。しかし、集まった兵力は1万7千騎に留まり、幕府軍19万騎の攻撃を受け完敗した。戦後、祖父は隠岐島に、父は佐渡島に流された。

鎌倉幕府は、たとえ幼児であっても後鳥羽上皇の子孫が天皇であることは問題とし、仲恭天皇は廃位となった。2ヶ月半という、あまりに短すぎる在位期間であった。皇位は後鳥羽上皇の兄の子(後堀河天皇)に継承された。
その後、仲恭天皇は母親の実家であり叔父にあたる摂政・九條道家(鎌倉4代将軍九条頼経の父)に引き取られ、1234年、17歳という若さで病により崩御した。長年、公式には天皇として認められず、九条廃帝と呼ばれていた。1870年(明治3年)になってようやく“仲恭天皇”と追号された。
陵墓は京都市伏見区深草本山町にある九條陵(くじょうのみささぎ)。東山本町陵墓参考地(京都市東山区本町十六丁目)という伝承もある。



★第86代 後堀河天皇/Gohorikawa 建暦2年2月18日(1212年3月22日)-天福2年8月6日(1234年8月31日)

 

鎌倉時代前期の天皇。在位は9歳から20歳までの11年間で、承久3年7月9日(1221年7月29日)-貞永元年10月4日(1232年11月17日)。諱は茂仁(とよひと)。



★第87代 四条天皇/Shijo 寛喜3年2月12日(1231年3月17日)-仁治3年1月9日(1242年2月10日) (京都府、東山区、月輪陵 10歳)2010

 

鎌倉時代前期の天皇。在位は1歳8ヶ月から10歳11ヶ月までの9年間で、貞永元年10月4日(1232年11月17日)-仁治3年1月9日(1242年2月10日)。諱は秀仁(みつひと)。



★第88代 後嵯峨天皇/Gosaga 承久2年2月26日(1220年4月1日)-文永9年2月17日(1272年3月17日) (京都府、右京区、嵯峨南陵 51歳)2010

この外国人男性はさらに先へ行けることを知らない 後嵯峨天皇(右)は子どもの亀山天皇と並んでいる 後嵯峨天皇の御陵の正面

鎌倉時代中期の天皇。在位は22歳から26歳までの4年間で、仁治3年1月20日(1242年2月21日)-寛元4年1月29日(1246年2月16日)。諱は邦仁(くにひと)。
天龍寺境内の一般者立ち入り禁止ゾーンに眠っているので、お寺の人に挨拶してから参拝させてもらおう。


天皇系図 88〜96代 (画像元・ウィキペディア)



★第89代 後深草天皇/Gofukakusa 寛元元年6月10日(1243年6月28日)-嘉元2年7月16日(1304年8月17日) (京都府、伏見区、深草北陵 61歳)2010

京阪・藤森駅の側にある
「深草十二帝御陵」石柱
なんとここ1箇所に12名の天皇が眠っている!第89、92、93、100、101、103、104、105、106、107代と北朝4〜5代だ。
地元では「十二帝陵」と呼ばれている。12名というのは、皇室の菩提寺である京都市東山区・泉涌寺の14名に続く規模だ。


各帝の遺灰が納められているとのこと ひとつの御廟が全員のお墓ということになる

鎌倉時代中期の天皇。在位は3歳から16歳までの13年間で、寛元4年1月29日(1246年2月16日)-正元元年11月26日(1259年1月9日)。諱は久仁(ひさひと)。



★第90代 亀山天皇/Kameyama 建長元年5月27日(1249年7月9日)-嘉元3年9月15日(1305年10月4日) (京都府、右京区、亀山陵 56歳)2010

この垣根の向こうに天皇父子が並んでいる

左が亀山天皇、右が後嵯峨天皇

亀山天皇の御陵。左端に見えているのは火災用
の放水銃。御陵の前に放水銃があるのは珍しい

鎌倉時代中期の天皇。在位は10歳から25歳までの15年間で、正元元年11月26日(1259年1月9日)-文永11年1月26日(1274年3月6日)。諱は恒仁(つねひと)。



★第91代 後宇多天皇/Gouda 文永4年12月1日(1267年12月17日)-元亨4年6月25日(1324年7月16日) (京都府、右京区、蓮華峯寺陵 56歳)2010



後宇多天皇陵墓に向かう途中にあった広沢池 日本三沢の一つだけあって、素晴らしい景観だった! 夢か真か、ここは桃源郷ではござらんか

池のほとりから中州へ。贅沢の極み! 珍しい石仏の千手観音が中州におられた!表情GOOD! 御陵に向かってさらに前進。農村の中を行く

森の中に参道を発見! 見張所だ!ここまでくればもうすぐだ







アルムおんじの家とモミの木の如し 本当に晴れて良かった!緑が美しい 周囲はセミの声で埋まっていた

鎌倉時代中期の天皇。後宇多は“ごうだ”と読む。鎌倉時代の天皇。在位は7歳から20歳までの13年間で、文永11年1月26日(1274年3月6日)-弘安10年10月21日(1287年11月27日)。諱は世仁(よひと)。
方形堂・石造五輪塔。蓮華峯寺陵(れんげぶじのみささぎ)。



★第92代 伏見天皇/Fushimi 文永2年4月23日(1265年5月10日)-文保元年9月3日(1317年10月8日) (京都府、伏見区、深草北陵 52歳)2010

「深草十二帝」の1人 この日の京都は気温は38度!

鎌倉時代中期の天皇。書道・伏見院流開祖。京極派の高名な歌人。在位は22歳から33歳までの11年間で、弘安10年10月21日(1287年11月27日)-永仁6年7月22日(1298年8月30日)。
諱は熈仁(ひろひと)。方形堂。深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)、御陵の別名は「深草十二帝陵」。



★第93代 後伏見天皇/Gofushimi 弘安11年3月3日(1288年4月5日)-延元元年/建武3年4月6日(1336年5月17日) (京都府、伏見区、深草北陵 48歳)2010

「深草十二帝」の1人 真夏の巡礼は白砂の照り返しが強烈

鎌倉時代後期の天皇。在位は10歳から13歳までの3年間で、永仁6年7月22日(1298年8月30日)-正安3年1月21日(1301年3月2日)。諱は胤仁(たねひと)。方形堂。



●第94代 後二条天皇/Gonijo 弘安8年2月2日(1285年3月9日)-徳治3年8月25日(1308年9月10日) (京都府、左京区、北白河陵 23歳)2010

市街地の中にある 左に見える建物は京都大学だ!

鎌倉時代後期の天皇。在位は16歳から23歳までの7年間で、正安3年1月21日(1301年3月2日)-徳治3年8月25日(1308年9月10日)。諱は邦治(くにはる)。



●第95代 花園天皇/Hanazono 永仁5年7月25日(1297年8月14日)-貞和4年/正平3年11月11日(1348年12月2日)(京都府、東山区、十楽院上陵 51歳)2010

参道が素晴らしい!森林浴ができる 観光客の多い知恩院のすぐ側だけど、御陵は静寂が保たれている

鎌倉時代後期の天皇。持明院統。先々々帝・伏見天皇の第四皇子。大覚寺統の後二条天皇の崩御に伴い即位。在位は11歳から21歳までの10年間で、延慶元年11月16日(1308年12月28日)-文保2年2月26日(1318年3月29日)。大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位した。在位中は10代であったことから、前半は父の伏見上皇が、後半は先々帝・後伏見上皇が院政を敷いた。自身の退位後は北朝初代天皇・光厳天皇の養育を行った。第一皇女の寿子内親王は光厳天皇の妃になっている。諱は富仁(とみひと)。
禅宗に傾倒し、1342年(45歳)、仁和寺花園御所を寺に改めて広大な妙心寺を開基、読経・念仏を欠かさなかった。また、47巻に及ぶ日記『花園天皇宸記』を残すなど文人肌で、『風雅和歌集』の監修も行っている。政治的に公正な態度をとり、南朝の後醍醐天皇を賞している。享年51。崩御の2日後に十楽院上陵(じゅうらくいんのうえのみささぎ)に葬られた。



★第96代 後醍醐天皇/Godaigo 正応元年11月2日(1288年11月26日)-延元4年/暦応2年8月16日(1339年9月19日) (奈良県、吉野郡吉野町、塔尾陵 50歳)2007&10
※塔尾陵(とうのおのみささぎ)



如意輪寺の境内に御陵の入口がある 如意輪寺自体がけっこう山奥なので、都を遠く感じる 制札に夕陽が差す






朝、東から光が差す醍醐天皇陵(2010)

夕刻、西日の中の醍醐天皇陵(2007)

御陵の供花は初めて!
天皇だけに「菊」だった

参道の入口脇の「正行公埋髪塔」。楠木正行は最後の出陣前に
後醍醐天皇陵を参拝し、遺髪となる髪を切ってここへ埋めたという
如意輪寺境内の「後醍醐天皇御霊殿」。内部には
後醍醐天皇の木像が安置されている(2010)

鎌倉時代末期の天皇。在位は30歳から50歳までの20年間で、文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日)。室町幕府と対抗して吉野に南朝を開いた後醍醐天皇。通常の天皇の陵墓は南向きに造成されるが、
ここは遺言で北向きに、つまり京の都に向いている。いつかは都へ戻りたいという悲願が込められた御陵なんだ。諱は尊治(たかはる)。



★護良親王/Moriyoshi-Sinno 延慶元年(1308年)-建武2年7月23日(1335年8月12日) (神奈川県、鎌倉市、理智光寺跡 27歳)2010

墓所入口。護良親王は鎌倉で殺害された 石段を登っていくと墓所が見えてくる 側道を使ってここまで近づくことができる。柵の向こうに石塔があった

後醍醐天皇の皇子。護良は“もりなが”とも読む。天台座主で法名は尊雲。大塔宮(だいとうのみや)と呼ばれた。鎌倉幕府の倒幕のために還俗して名を護良と改め、奈良・吉野・高野に潜行。諸国に令旨を発して新たな世に導く。征夷大将軍になったが足利尊氏と対立して鎌倉に幽閉され、尊氏の弟・足利直義(ただよし 1306-1352)の家臣、淵辺義博に殺害された。



天皇系図 96〜102代 (画像元・ウィキペディア)



★97代 後村上天皇/Gomurakami 嘉暦3年(1328年)-正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日) (大阪府、河内長野市、観心寺・檜尾陵 40歳)2010
※檜尾陵(ひのおのみささぎ)

観心寺の境内から参道に入っていく 5分ほど登ると見張所が途中にあった。拝所はこの上 上から見下ろすとこんな感じ。結構高さがある

南朝と北朝が合体した時の天皇だ! 南朝を代表する名将楠木正成の首塚が近くにある 山中だけどしっかり丁寧に築かれた陵墓

鳥居の背後の塚が石柵で四方を囲まれている。石柵に
角度があり、ガンタンクの頭部コクピットみたいでシブイ
ふおお、これは珍しい!一般拝所の白砂がコンクリートで固められていた!
山中の陵墓ゆえ、雨で白砂が流れ出さないようにする為だろう

室町時代初期、南朝の第2代天皇。在位は11歳から40歳までの29年間で、延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日)-正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日)。明治政府が1911年に南朝を正統と決めたことから歴代天皇に認定。

後醍醐天皇の子。1333年、5歳の時に鎌倉幕府が滅亡し、父が「建武の新政」を開始。2年後(7歳)に足利尊氏が離反。1336年(8歳)、いったんは尊氏を九州まで蹴散らすが、翌年に京都を尊氏に奪還され、父と共に吉野へ移り南朝を起こす。1339年(11歳)、後醍醐天皇が死の直前に譲位し後村上天皇が即位。1348年(20歳)、尊氏の重臣・高師直に吉野を襲撃され現・五條市へ脱出。翌年(21歳)、足利尊氏VS直義の兄弟対決=観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が勃発し、1351年(23歳)、足利尊氏・義詮父子が直義に対抗するために南朝に降伏・和睦を求めてきた。この「正平一統」によって北朝の天皇・貴族は廃され、偽物と言われていた北朝の三種の神器も南朝に還った。同年、尊氏が直義の養子・足利直冬(ただふゆ)を討つべく都を離れた瞬間を狙って京都を奪還するしたたかさを見せるが、帰京した尊氏に再び追われた。

1352年(24歳)、楠木正成の息子・楠木正儀(正行の弟)が足利義詮(21歳)を破ったことから、あらためて上洛を果たす。この時、義詮は北朝方の天皇経験者=光厳、光明、崇光という3人の上皇や皇太子を置いて逃げたことから、南朝勢は彼らを都から連れ去った。激怒した尊氏軍に敗れて、またしても都を去る。1355年(27歳)、尊氏と対立する足利直冬を立てて京に進撃するが、やはり尊氏・義詮の軍には勝てなかった。
1358年(30歳)、長年の宿敵・尊氏が死去し、義詮が2代将軍に就任。以降、後村上天皇は何度か都を攻めて一時的な勝利を得ることもあったが、足利家を屈服させることは出来なかった。1368年、足利義満が3代将軍に就き、同年、後村上天皇は崩御した。享年40歳。名帝、醍醐天皇を尊敬していた父が、生前に「後醍醐」の号を定めていたので、村上天皇への敬意から「後村上」と追号された。諱は憲良。



★第98代 長慶天皇/Chokei 興国4年/康永2年(1343年)-応永元年8月1日(1394年8月27日) (京都府、右京区、嵯峨東陵 51歳)2010

広々とスカーンとしていた。気持ちいい 長慶天皇は“南朝”の天皇 隣には長慶天皇皇子の王墓があった

室町時代前期の天皇。在位は25歳から40歳までの15年間で、正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日)-弘和3年/永徳3年(1383年)10月。南朝第3代天皇。諱は寛成(ゆたなり)。南朝・寛成親王の即位が大正時代に判明し、98代長慶天皇とされた。それまで500年以上も天皇として認められていなかった。
ここの宮内庁職員の見張所は大きかった。京福電鉄の荒電嵯峨駅からすぐ。



★第99代 後亀山天皇/Gokameyama 正平2年/貞和3年(1347年)-応永31年4月12日(1424年5月10日) (京都府、右京区、嵯峨小倉陵 77歳)2010

嵯峨野の山辺に眠る 南朝最後の天皇 写真では見えないけど鳥居の奥に五輪塔があった

室町時代前期の天皇。南朝最後の第4代天皇。1911年に南朝が正統とされ天皇に認定。在位は36歳から45歳までの9年間で、弘和3年/永徳3年(1383年)末-元中9年/明徳3年閏10月5日(1392年11月19日)。諱は熙成(ひろなり)。



★第100代&北朝6代 後小松天皇/Gokomatsu 永和3年/天授3年6月27日(1377年8月1日)-永享5年10月20日(1433年12月1日) (京都府、伏見区、深草北陵 56歳)2010

  

室町時代前期の天皇。歴代第100代の天皇にして室町北朝最後の第6代天皇。在位は5歳から35歳までの30年間で、永徳2年/弘和2年4月11日(1382年5月24日)-応永19年8月29日(1412年10月5日)。諱は幹仁(もとひと)。



★第101代 称光天皇/Shoko 応永8年3月29日(1401年5月12日)-正長元年7月20日(1428年8月30日) (京都府、伏見区、深草北陵 27歳)2010

 

室町時代中期の天皇。室町時代の天皇。在位は11歳から27歳までの16年間で、応永19年8月29日(1412年10月5日)-正長元年7月20日(1428年8月30日)。諱は實仁(みひと)。



★第102代 後花園天皇/Gohanazono 応永26年6月18日(1419年7月10日)-文明2年12月27日(1471年1月18日) (京都府、右京区、後山國陵 51歳)2010
※後山國陵(のちのやまくにのみささぎ)

常照皇寺(じょうしょうこうじ)の裏山に陵墓がある

左に行くと常照皇寺の本堂。右が御陵の参道

参道入口に「(北朝初代)光厳天皇山國陵」、
「後花園天皇山國陵」「後土御門天皇分骨所」




こちらは常照皇寺の本堂
後花園天皇陵の参道は苔むしており緑が美しかった 先に見えている石段を登ると陵墓デス





ひょえ〜、高所にあるので一般拝所から見えないYO!
樹木も邪魔!六条天皇陵よりは全然マシだけど…
それにしても、どうしてこうなった!見張所の側に立入禁止の
石段があったので、皇室の人はそこから上がっていくのだろう
ズームで撮影。御廟の扉には菊の紋章が
入ってる。ウーム、あの向こうが気になる…

室町時代中期の天皇。北朝第3代崇光天皇の孫・貞成親王の子。在位は9歳から45歳までの36年間で、正長元年7月28日(1428年9月7日)-寛正5年7月19日(1464年8月21日)。諱は彦仁(ひこひと)。学問に優れ、詩歌管弦もよくしたと伝わる。
先帝・称光(しょうこう)天皇は病弱で、代わりに称光天皇の父・後小松上皇が院政を行っていた。1428年、称光天皇が27歳の若さで崩御。翌年、後小松上皇は北朝第3代崇光天皇のひ孫・後花園天皇を即位させた。後花園天皇はまだ9歳であり、後小松上皇は院政を続けた。1433年、後花園天皇が14歳の時に後小松上皇は崩御。

1438年(29歳)、鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)が幕府に反抗的であったために室町6代将軍足利義教に自殺に追い込まれる「永享(えいきょう)の乱」が起きた。1441年(32歳)には播磨の有力守護大名・赤松満祐(みつすけ)が宴席で将軍義教を暗殺するという大事件「嘉吉(かきつ)の乱」があり、満祐は幕府の追討軍に攻められ一族と共に自害した。
※足利義教はささいな理由で遠島や処刑を行う暗君といわれ、赤松満祐の謀反は“殺られる前に殺れ”が動機。

1443年(34歳)、御所が南朝勢力によって夜襲を受け、三種の神器のうち、剣と曲玉が奪われる「禁闕(きんけつ)の変」が起きる。剣はすぐに清水寺で発見され、曲玉は「嘉吉の乱」で没落した赤松氏の家来たちが南朝から14年後(1457年)に奪還した。
1459年(40歳)〜1461年は日本全国が飢饉に襲われ(長禄・寛正の飢饉)、京都では1461年の最初の2ヶ月だけで8万2千人もの死者が出た。ところが、8代将軍足利義政は“花の御所”を改築するなど贅沢な暮らしを続けており、怒った後花園天皇は漢詩を以って戒めた。1464年(45歳)、第一皇子・成仁親王(後土御門天皇、22歳)に譲位して上皇となり院政を敷く。
1467年(48歳)、応仁の乱が勃発。戦乱を避けて後土御門天皇と“花の御所”(足利将軍邸=室町第)へ移り、同年出家した。3年後の1470年、中風により崩御。享年51歳。

亡骸は火葬され、遺詔(ゆいしょう、遺言)に従い、常照皇寺(じょうしょうこうじ)の裏手にある高祖父(ひいひい爺ちゃん)、北朝初代・光厳天皇の陵墓と同域に安置された。陵形は宝篋印塔。京都市上京区に分骨所の般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)、上京区大應寺の境内に火葬塚がある。


天皇系図 102〜107代 (画像元・ウィキペディア)



★第103代 後土御門天皇/Gotsuchimikado 嘉吉2年5月25日(1442年7月3日)-明応9年9月28日(1500年10月21日) (京都府、伏見区、深草北陵 58歳)2010

  

室町時代中期の天皇。在位は22歳から58歳までの36年間で、寛正5年7月19日(1464年8月21日)-明応9年9月28日(1500年10月21日)。諱は成仁(ふさひと)。



★第104代 後柏原天皇/Gokashiwabara 寛正5年10月20日(1464年11月19日)-大永6年4月7日(1526年5月19日) (京都府、伏見区、深草北陵 61歳)2010

 

室町時代後期の天皇。在位は36歳から61歳までの25年間で、明応9年10月25日(1500年11月16日)-大永6年4月7日(1526年5月19日)。諱は勝仁(かつひと)。



★第105代 後奈良天皇/Gonara 明応5年12月23日(1497年1月26日)-弘治3年9月5日(1557年9月27日) (京都府、伏見区、深草北陵 60歳)2010

 

室町時代後期の天皇。在位は29歳から60歳までの31年間で、大永6年4月29日(1526年6月9日)-弘治3年9月5日(1557年9月27日)。諱は知仁(ともひと)。



★第106代 正親町天皇/Ogimachi 永正14年5月29日(1517年6月18日)-文禄2年1月5日(1593年2月6日) (京都府、伏見区、深草北陵 75歳)2010

  

室町時代末期〜安土桃山時代前期の天皇。正親町(おおぎまち)天皇は信長と同時代を生きた天皇で、「本能寺の変」において光秀の黒幕とも言われる人物。
在位は40歳から69歳までの29年間で、弘治3年10月27日(1557年11月17日)-天正14年11月7日(1586年12月17日)。諱は方仁(みちひと)。



★第107代 後陽成天皇/Goyozei 元亀2年12月15日(1571年12月31日)-元和3年8月26日(1617年9月25日) (京都府、伏見区、深草北陵 45歳)2010

 

安土桃山時代中期〜江戸時代初期の天皇。在位は15歳から40歳までの25年間で、天正14年11月7日(1586年12月17日)-慶長16年3月27日(1611年5月9日)。諱は周仁(かたひと)。


天皇系図 107〜114代 (画像元・ウィキペディア)




【皇室の菩提所〜京都市東山区・泉涌寺】
なんと、ここだけで14名の天皇が眠っている!


泉涌寺の総門。 泉涌寺は皇室の菩提所
ゆえ「御寺(みてら)」と呼ばれている
地図から境内の広大さが分かる

泉涌寺本堂。舎利殿には釈迦の仏牙(ぶつげ、歯)
を祀っている。御陵へは本堂の右後方を抜ける

御陵入口の説明版 なんと天皇、皇后、皇太后、親王、皇子など皇室関係者が39名!うち、天皇は14名。
「陽光太上天皇」の名も見えるが、これは安土桃山時代の皇族・誠仁親王(さねひとしんのう/1552-1586)が死後に贈られたもので
公式の天皇ではない。ちなみに誠仁親王はあの本能寺の変の際に織田信忠(信長の長男)が陣を張った二条城にいて、明智
光秀が攻めてきた時に、信忠と光秀の話し合いによって、合戦前に京都御所へ脱出できることになった。子は第107代後陽成天皇。



〜月輪陵(つきのわのみささぎ)〜

★第108代 後水尾(ごみずのお)天皇/Gomizuno 慶長元年6月4日(1596年6月29日)-延宝8年8月19日(1680年9月11日) (84歳)2010

泉涌寺の境内から御陵へ続く門 扉の向こうは皇室の人間しか入ることが出来ない

こちらは京都市上京区・相国寺の「後水尾天皇髪歯塚」 こんもりと土が盛られている部分が髪歯塚だろう。天皇の髪や歯の塚って珍しい

江戸時代前期の天皇。在位は15歳から33歳までの18年間で、慶長16年3月27日(1611年5月9日)-寛永6年11月8日(1629年12月22日)。諱は政仁(ことひと)。



★第109代 明正(めいしょう)天皇/Meisho 元和9年11月19日(1624年1月9日)-元禄9年11月10日(1696年12月4日) (72歳)2010

 

女帝。江戸時代前期の天皇。在位は5歳から19歳までの14年間で、寛永6年11月8日(1629年12月22日)-寛永20年10月3日(1643年11月14日)。諱は興子(おきこ)。



★第110代 後光明天皇/Gokomyo 寛永10年3月12日(1633年4月20日)-承応3年9月20日(1654年10月30日) (21歳)2010

  

江戸時代前期の天皇。先々帝・後水尾天皇の第四皇子。先帝の明正天皇(女帝)は異母姉にあたる。養母は2代将軍秀忠の五女で、先帝・明正天皇の生母でもある東福門院。在位は10歳から21歳までの11年間で、寛永20年10月3日(1643年11月14日)-承応3年9月20日(1654年10月30日)。1651年、18歳の時に3代将軍家光が他界し4代家綱の時代になった。後光明天皇は武芸を好み、朝廷の威信復興に燃え、反幕府的な姿勢をとっていたが、1654年、痘瘡により21歳の若さで崩御。毒殺説アリ。朝廷が衰退した原因を「和歌と淫乱の書“源氏物語”」と見なしていたという。自身の大酒を臣下(信長の孫・徳大寺公信)から注意されて逆上し、刀に手をかけて周囲に制止されることもあった(その後、大いに反省)。

後光明天皇は儒学をよく学び、儒学者を讃えた民間文集の序文を書くほどであった。飛鳥時代に持統天皇が仏教の影響で火葬になって以来、天皇家では1000年近く火葬が主流になっていたが、儒学では火葬を身体毀損と捉えており土葬を理想としていたことから、後光明天皇は生前に「火葬は人の道ではない」と語っていた。宮中に出入りしていた魚屋、奥八兵衛が「火葬は帝への冒涜であり葬儀は土葬で」と必死に訴え、この思いが届いて土葬が採用された。これ以降、約350年後の昭和天皇崩御まですべて土葬になっている。ちなみに、後光明天皇は早逝していることから、父であり先々帝の後水尾天皇や先帝・明正天皇が後から崩御している。その際に土葬になっていることから、歴代天皇としては後水尾天皇から土葬が続いていることになる。諱は紹仁(つぐひと)。墓所は京都市東山区今熊野の泉涌寺、月輪陵(つきのわのみささぎ)で石造九重塔になっている。



★第111代 後西天皇/Gosai 寛永14年11月16日(1638年1月1日)-貞享2年2月22日(1685年3月26日) (47歳)2010

 

江戸時代前期の天皇。在位は17歳から25歳までの8年間で、承応3年11月28日(1655年1月5日)-寛文3年1月26日(1663年3月5日)。諱は良仁(ながひと)。



★第112代 霊元天皇/Reigen 承応3年5月25日(1654年7月9日)-享保17年8月6日(1732年9月24日) (77歳)2010

 

江戸時代前期の天皇。在位は9歳から33歳までの24年間で、寛文3年1月26日(1663年3月5日)-貞享4年3月21日(1687年5月6日)。諱は識仁(さとひと)。
長らく院政を行ない「仙洞様」とも呼ばれる。歌人、能書家。



★第113代 東山天皇/Higashiyama 延宝3年9月3日(1675年10月21日)-宝永6年12月17日(1710年1月16日)(34歳)2010

 

江戸時代中期の天皇。在位は12歳から34歳までの22年間で、貞享4年3月25日(1687年5月6日)-宝永6年6月21日(1709年7月27日)。諱は朝仁(あさひと)。
泉涌寺の山号に因んで「東山」と追号された。大正期の元老西園寺公望は6代目の孫。



★第114代 中御門(なかみかど)天皇/Nakamikado 元禄14年12月17日(1702年1月14日)-元文2年4月11日(1737年5月10日) (35歳)2010

 

江戸時代中期の天皇。在位は7歳から33歳までの26年間で、宝永6年6月21日(1709年7月27日)-享保20年3月21日(1735年4月13日)。諱は慶仁(やすひと)。
平安京大内裏の門の一つ、待賢門の別称に因んで「中御門」と追号された。


天皇系図 114〜122代 (画像元・ウィキペディア)



★第115代 桜町天皇/Sakuramachi 享保5年1月1日(1720年2月8日)-寛延3年4月23日(1750年5月28日) (30歳)2010

 

江戸時代中期の天皇。在位は15歳から27歳までの12年間で、享保20年3月21日(1735年4月13日)-延享4年5月2日(1747年6月9日)。諱は昭仁(てるひと)。



★第116代 桃園天皇/Momozono 寛保元年2月29日(1741年4月14日)-宝暦12年7月12日(1762年8月31日) (21歳)2010

 

江戸時代中期の天皇。在位は6歳から21歳までの15年間で、延享4年5月2日(1747年6月9日)-宝暦12年7月12日(1762年8月31日)。諱は遐仁(とおひと)。



★第117代 後桜町天皇/Gosakuramachi 元文5年8月3日(1740年9月23日)-文化10年閏11月2日(1813年12月24日) (73歳)2010

 

江戸時代後期の天皇。最後の女帝(10帝8人目)。在位は22歳から31歳までの9年間で、宝暦12年7月27日(1762年9月15日)-明和7年11月24日(1771年1月9日)。諱は智子(としこ)。



★第118代 後桃園天皇/Gomomozono 宝暦8年7月2日(1758年8月5日)-安永8年10月29日(1779年12月6日) (21歳)2010

 

江戸時代後期の天皇。在位は12歳から21歳までの9年間で、明和7年4月28日(1770年5月23日)-安永8年11月9日(1779年12月16日)。諱は英仁(ひでひと)。
崩御後も在位日が続いているが、これは急逝によるため。崩御が遅れて発表されている。


〜後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)〜

★第119代 光格天皇/Kokaku 明和8年8月15日(1771年9月23日)-天保11年11月18日(1840年12月11日) (69歳)2010

生母「お林の方」の墓。鳥取県倉吉市・大岳院

江戸時代後期の天皇。在位は9歳から46歳までの37年間で、安永8年11月25日(1780年1月1日)-文化14年3月22日(1817年5月7日)。諱は兼仁(ともひと)。傍系出身。
中世から絶えていた朝廷の儀式の復興に努め、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作った。優れた歌人でもあった。



★第120代 仁孝天皇/Ninko 寛政12年2月21日(1800年3月16日)-弘化3年1月26日(1846年2月21日) (45歳)2010

 

江戸時代後期の天皇。在位は17歳から45歳までの28年間で、文化14年9月21日(1817年10月31日)-弘化3年1月26日(1846年2月21日)。諱は恵仁(あやひと)。



《恐るべし、グーグルMAP!〜宇宙からコンニチハ》

皇室関係者以外は決して入ることが許されない、月輪陵の門の奥。一昔前なら庶民は一生見ることが出来なかった世界だが、
今はグーグルの“宇宙の目”で、歴代天皇一人一人の石塔がハッキリと見える!なんという時代になったのか〜!

 
個々の石塔は四方を石柵で囲まれているように見える。内部はこんな風になっていたのか!





★第121代 孝明天皇/Komei 天保2年6月14日(1831年7月22日)‐慶応2年12月25日(1867年1月30日) (京都府、東山区、後月輪東山陵 35歳)2010

 

幕末の天皇。攘夷に燃えていた。在位は15歳から35歳までの20年間で、弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐慶応2年12月25日(1867年1月30日)。
諱は統仁(おさひと)。岩倉具視らによる暗殺説あり。後月輪東山陵は“のちのつきのわのひがしのみささぎ”と読む。



★第122代 明治天皇/Meiji 嘉永5年9月22日(1852年11月3日)-明治45年(1912年)7月30日 (京都市、伏見区、伏見桃山陵 59歳)2009

この大階段を昇っていくと

巨大な鳥居がドーン!
背後の山には…
腰を抜かすほど巨大な陵墓!
戦前は明治大帝とも呼ばれた


ペット散歩禁止の看板に描かれた犬がめっちゃ可愛かった!(笑)

崩御の際に殉死した乃木将軍(右)。隣は夫人
※東京・青山霊園(2006)

孝明天皇の第二皇子。在位は15歳から59歳までの45年間で、1867年1月30日-1912年7月30日。京都で生まれ祐宮(さちのみや)と命名され、8歳で睦仁親王となる。1867年(15歳)、孝明天皇が崩御。幕末の大混乱のなかで即位する。同年、大政奉還により徳川慶喜が政権を朝廷に戻し、王政復古の大号令を発令した。戊辰戦争を経て、1869年(17歳)に東京へのぼり旧・江戸城を皇居とした。1882年(30歳)、軍隊を「天皇の軍隊」と規定した軍人勅諭を発令、自ら大元帥として軍備の増強に努めた。1889年(37歳)、大日本帝国憲法を公布し、翌年に教育勅語を発した。

1894年(42歳)の日清戦争、1904年(52歳)の日露戦争では大本営で戦争を指揮し、1911年(59歳)に各国との不平等条約の改正を終え日本は列強の一員となった。翌1912年、糖尿病による尿毒症で崩御。享年59歳。京都の伏見桃山陵に埋葬された。諱は睦仁(むつひと)。大喪の日に陸軍大将・乃木希典夫妻など多くの殉死者が出た。
※聖武天皇が肉食を禁じてから皇室はベジタリアンだったが明治天皇は牛肉を食べた。


天皇系図 122〜125代 (画像元・ウィキペディア)



★第123代 大正天皇/Taisho 1879年8月31日-1926年12月25日 (東京都、八王子市、多摩陵 47歳)2009&10


昭和天皇陵の前を通りさらに奥へ 初巡礼時。明治帝より小規模とはいえ巨大陵墓(2009) 再巡礼時。見事な秋晴れ!(2010)


一般拝所は大広場。歴代天皇陵で屈指の広さ! 特別拝所に続く石段の手前に「大正天皇多摩陵」の石碑

 
階段が長く、木も生い茂っているため、立入禁止エリア(特別拝所)の手前からは殆ど見えない

  
隣接する貞明(ていめい)皇后(1884-1951)の「貞明皇后多摩東陵」

明治天皇の第三皇子。在位は33歳から47歳までの14年間で、1912年7月30日-1926年12月25日。母は典侍(ないしのすけ/宮中・高級女官最上位)の柳原愛子。明治天皇と皇后に子おらず、側室が産んだ親王・内親王ら5人が相次いで死去し皇太子になった。1900年(21歳)、15歳の九条節子(さだこ、後の貞明皇后)と結婚。事実上、初の一夫一妻制の天皇となった。翌1901年(22歳)、迪宮裕仁親王(みちのみや・ひろひと/昭和天皇)が誕生。続けて、1902年(23歳)に淳宮雍仁親王(あつのみや・やすひと/秩父宮)、1905年(26歳)に光宮宣仁親王(てるのみや・のぶひと/ 高松宮)が誕生した。1907年(28歳)、併合前の大韓帝国を訪れ史上初の皇太子の外遊を行なった。

1912年(33歳)、明治天皇崩御。1915年(36歳)、京都御所で即位。同年、4男の澄宮崇仁親王(すみのみや・たかひと/三笠宮)が出生。幼少から秒弱だった大正天皇は1917年(38歳)頃から病状が深刻化し、公務が不可能になっていった。1921年(42歳)、皇太子裕仁親王が20歳になって摂政に就任し、事実上、大正天皇は引退した。宮内省は病状を国民に発表した。その後、転地療養を続けるも1926年に心臓麻痺で崩御。臨終の床には皇后・節子の配慮で生母・柳原愛子が呼ばれた。享年47歳。史上初めて関東(多摩陵)に葬られる天皇となった。諱は嘉仁(よしひと)。創作した漢詩の数は実に1367首もあった。

※山縣有朋のことを“冷淡”と嫌っていた。
※侍医(主治医)は漢方医の浅田宗伯(“浅田飴”を考案)。



★第124代 昭和天皇/Showa 1901年(明治34年)4月29日-1989年(昭和64年)1月7日 (東京都、八王子市、武蔵野陵 87歳)2009&10


高尾駅から御陵に続く並木道 参道の車止め。ここから先は一般車両が入れない 域内には大正天皇と昭和天皇が皇后と永眠






武蔵野の森の中へ分け入っていく 分岐路。左へ行くと大正、右へ行くと昭和天皇陵 さらに分岐路。左に行くと昭和天皇陵、右が皇后の陵墓


一般拝所に到着!前回は雨天だったけど、
今回は秋の青空が気持ち良い
在位は1926-1989年。激動の時代を生きた天皇

先祖の御陵よりも大きくしてはいけないので、明治天皇、
大正天皇に比べて、昭和天皇の陵墓が一番小さい



バスで次々と団体さんがやってきた 手前に建つ「昭和天皇武蔵野陵」碑

2009 この時は小雨がパラパラ降っていた。周囲の樹木が霊気で満たされるというか、晴天とはまた異なる荘厳な雰囲気がある

隣接する香淳(こうじゅん)皇后の御陵 昭和帝よりも小ぶりの陵墓。碑文は「香淳皇后武蔵野東陵」

大正天皇の第1皇子。迪宮裕仁(みちのみやひろひと)。在位は25歳から87歳までの62年間享年(87歳)も在位期間も飛鳥時代以降の歴代最長で、1926年12月25日-1989年1月7日。
1908年(7歳)、学習院に入学し院長乃木希典(陸軍大将)の教育を受ける。1912年(11歳)、皇太子となり陸海軍少尉に。1921年(20歳)、大正天皇が病弱だったことから、半年間の欧州外遊より帰国して摂政となる。1923年(22歳)、車で移動中に左翼青年・難波大助(24歳)に近接狙撃される「虎ノ門事件」が起きる。弾丸は車内に撃ち込まれたが助かった。事件の責任を取り内閣は総辞職し、難波大助は11ヶ月後に大逆罪で処刑された。翌1924年(23歳)に久邇宮良子(くにのみやながこ)と結婚。

1926年(25歳)、大正天皇崩御。全軍の最高司令官たる大元帥となる。1928年(27歳)、京都御所にて即位。以降、現人神(あらひとがみ)として神格化され、太平洋戦争終結まで日本国の最高統治者として政治に関わっていく。
1931年(30歳)、満州事変が勃発。1933年(32歳)、明仁親王が生まれる。1941年(40歳)、日米開戦。1945年(44歳)、玉音放送で終戦を告げる。米国の方針によって東京裁判では戦争責任を問われなかった。

1946年(45歳)、人間宣言。1947年(46歳)、日本国憲法が発布され日本の象徴とされた。1959年(58歳)、皇太子・明仁親王が正田美智子と結婚。1975年(74歳)、皇后と米国を訪問。1989年1月7日、腺癌により崩御。享年87歳。武蔵野陵に埋葬される。御陵の総工費は武蔵野陵が約26億円、香淳皇后が約18億円。

昭和天皇かく語りき…昭和天皇が本当に戦争拡大に反対していたことを、左派にも右派にも知って欲しい!

※いわゆるA級戦犯が靖国神社に合祀されてからは、靖国を参拝することがなくなった。侍従によると、合祀への不快感が昭和天皇にあったとのこと。
※全国各地を巡幸したが沖縄だけは最後まで訪れることが出来なかった。
※粘菌の研究に熱心で南方熊楠から講義を受けたこともある。
※戦争当初、中国での戦線拡大に陛下は強く反対していた。陸軍上層部がもっと陛下の御意思をしっかり受け止めていれば…。




【番外編】 『御即位二十年記念特別展』レポート(2009)
※今上天皇(明仁)は1933年(昭和8年)12月23日生まれ

平成21年11月14日〜23日の9日間限定の特別展 有名な二重橋 玉音放送の映像に登場する皇居前広場

“「平成の大礼」即位礼正殿の儀”を上映中

モニターは画面中央の奥

百人番所では「即位礼正殿の儀」「大嘗祭の儀」
「大饗の儀」などで使用された12装束を展示

一番人気の屋外展示がコチラの
旧御料車と儀装馬車!

旧御料車。左のロールス・ロイスには「即位礼」後の
「祝賀御列の儀」で両陛下が乗車。右のニッサン
プリンス・ロイヤルは「即位礼」で両陛下が使用!
重厚かつ優雅なロールスロイス。
ナンバープレートが菊の紋章!


儀装馬車。左の“2号”は「即位礼」で天皇陛下が
乗車、右の“3号”は皇后陛下が乗車された
儀装馬車2号は1959年(昭和34年)の
両陛下御成婚の際にも使用された
「即位礼正殿の儀」で使用された巨大な
萬歳旛(ばんざいばん)など10本の旛を展示

本丸休憩所では「御即位20年記念雅楽器特別展」 雅楽器だけが一般公開されるのは初めて 二の丸跡の雑木林が紅葉で良い感じに

その他、この年は両陛下の結婚50年でもあり、三の丸尚蔵館で両陛下愛用のテニスラケット(ヨネックスのRQ-180)、田植え道具など、身の回りの品々も展示されてた!
※大手門から入れる皇居東御苑9時から夕刻まで開苑。ただし月・金は休苑。将軍は両国の花火大会を天守代わりの富士見櫓から楽しんだという。



【番外編その2 幻の天皇〜北朝の天皇たち】

★北朝初代 光厳天皇/Kogon 正和2年7月9日(1313年8月1日)-正平19年/貞治3年7月7日(1364年8月5日) (京都府、右京区、山国陵 51歳)2010





常照皇寺の裏山。第102代後花園天皇と共に眠る こちらは嵯峨野の分骨陵。民家1軒分のスペース 当初、僕は分骨陵の方を公式陵墓と勘違いしていた

6代まで続いた北朝の第1代天皇。在位は18歳から20歳までの2年間、元弘元年9月20日(1331年10月22日)-元弘3年/正慶2年5月25日(1333年7月7日)。諱は量仁(かずひと)。



★北朝第2代 光明天皇/Komyo 元亨元年12月23日(1322年1月11日)-天授6年/康暦2年6月24日(1380年7月26日) (京都府、伏見区、大光明寺陵 58歳)2010

明治天皇陵に続いて例のワンコを発見!桃山陵墓管区事務所の人気キャラ!? 陵墓後方の林がド迫力!

北朝第3代の崇光天皇も一緒に眠っている


手前には1本の楠!楠木正成は北朝の敵なので感慨深い。
※この楠は低いけど幹が太い。落雷で燃え、再びここまで
復活したのだろう。楠は成長力が強く、生命の象徴だ

北朝方の天皇で在位は14歳から26歳までの12年間、延元元年/建武3年8月15日(1336年9月20日)-正平3年/貞和4年10月27日(1348年11月18日)。諱は豊仁(ゆたひと)。



★北朝第3代 崇光天皇/Suko 建武元年4月22日(1334年5月25日)-応永5年1月13日(1398年1月31日) (京都府、伏見区、大光明寺陵 63歳)2010

奥まで一直線に参道が続く 北朝第2代の光明天皇も一緒に眠っている
石柱は左が光明天皇、右が崇光天皇

北朝方の天皇で在位は14歳から17歳までの3年間、正平3年/貞和4年10月27日(1348年11月18日)-正平6年/観応2年11月7日(1351年11月26日)。諱は興仁(おきひと)。



★北朝第4代 後光厳天皇/Gogoko 延元3年/暦応元年3月2日(1338年3月23日)-文中3年/応安7年1月29日(1374年3月12日) (京都府、伏見区、深草北陵 35歳)2010

 

学問を愛した天皇。北朝方の天皇で在位は14歳から33歳までの19年間、正平8年/文和元年8月17日(1352年9月25日)-建徳2年/応安4年3月23日(1371年4月9日)。南北朝の和議が破れた後、足利尊氏に擁立された。諱は弥仁(いやひと)。



★北朝第5代 後円融天皇/Goenyu 正平13年/延文3年/12月12日(1359年1月11日)-明徳4年4月26日(1393年6月6日) (京都府、伏見区、深草北陵 34歳)2010

 

北朝方の天皇で在位は12歳から23歳までの11年間、建徳2年/応安4年3月23日(1371年4月9日)-弘和2年/永徳2年4月11日(1382年5月24日)。諱は緒仁(おひと)。




【番外編その3 時代別在位・歴代天皇一覧表】


●弥生時代(B.C.6世紀-A.D.3世紀)

1 神武(じんむ)天皇…畝傍山東北陵 円丘 山本ミサンザイ古墳(神武田古墳) 奈良県橿原市大久保町
2 綏靖(すいぜい)天皇…桃花島田丘上陵 円丘 塚山古墳 奈良県橿原市四条町
3 安寧(あんねい)天皇…畝傍西南御陰井上陵 山形   奈良県橿原市吉田町
4 懿徳(いとく)天皇…畝傍山南繊沙渓上陵 山形   奈良県橿原市西池尻町
5 孝昭(こうしょう)天皇…掖上博多山上陵 山形   奈良県御所市三室
6 孝安(こうあん)天皇…玉手丘上陵 円丘   奈良県御所市玉手
7 孝霊(こうれい)天皇…片丘馬坂陵 山形   奈良県北葛城郡王寺町
8 孝元(こうげん)天皇…剣池嶋上陵 山形 中山塚1〜3号墳 奈良県橿原市石川町
9 開化(かいか)天皇…春日率川坂本陵 前方後円 念仏寺山古墳 奈良市油阪町
10 崇神(すじん)天皇…山辺道勾岡上陵 前方後円 行燈山古墳 奈良県天理市柳本町
11 垂仁(すいにん)天皇…菅原伏見東陵 前方後円 宝来山古墳 奈良市尼辻町

(西暦で分けるのも変だけど、あくまでも時間感覚の目安として、ここまでが紀元前に即位

12 景行(けいこう)天皇…山辺道上陵 前方後円 渋谷向山古墳 奈良県天理市渋谷町
13 成務(せいむ)天皇…狭城盾列池後陵 前方後円 佐紀石塚山古墳 奈良市山陵町
14 仲哀(ちゅうあい)天皇…恵我長野西陵 前方後円 岡ミサンザイ古墳 大阪府藤井寺市藤井寺4
※崩御後、70年間空白。この頃、卑弥呼率いる邪馬台国最盛期。
15 応神(おうじん)天皇…恵我藻伏崗陵 前方後円 誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市誉田
16 仁徳(にんとく)天皇…百舌鳥耳原中陵 前方後円 大仙陵古墳 堺市堺区大仙町

(この頃、大和朝廷が成立)

17 履中(りちゅう)天皇…百舌鳥耳原南陵 前方後円 上石津ミサンザイ古墳 堺市西区石津ヶ丘
18 反正(はんぜい)天皇…百舌鳥耳原北陵 前方後円 田出井山古墳 堺市堺区北三国ヶ丘町
19 允恭(いんぎょう)天皇…恵我長野北陵 前方後円 国府市ノ山古墳 大阪府藤井寺市国府
20 安康(あんこう)天皇…菅原伏見西陵 方丘   奈良市宝来町
21 雄略(ゆうりゃく)天皇… 丹比高鷲原陵 円丘 島泉丸山古墳+平塚古墳 大阪府羽曳野市島泉
22 清寧(せいねい)天皇…河内坂門原陵 前方後円 西浦白髪山古墳 大阪府羽曳野市西浦
23 顕宗(けんぞう)天皇…傍丘磐杯丘南陵 前方後円   奈良県香芝市北今市
24 仁賢(にんけん)天皇…埴生坂本陵 前方後円 野中ボケ山古墳 大阪府藤井寺市青山
25 武烈(ぶれつ)天皇…傍丘磐杯丘北陵 山形   奈良県香芝市今泉
26 継体(けいたい)天皇…三島藍野陵 前方後円 太田茶臼山古墳 大阪府茨木市大字太田
27 安閑(あんかん)天皇…古市高屋丘陵 前方後円 高屋築山古墳 大阪府羽曳野市古市5
28 宣化(せんか)天皇…身狭桃花鳥坂上陵 前方後円 鳥屋ミサンザイ古墳 奈良県橿原市鳥屋町
29 欽明(きんめい)天皇…檜隈坂合陵 前方後円 梅山古墳 奈良県高市郡明日香村大字平田
30 敏達(びだつ)天皇…河内磯長中尾陵 前方後円 太子西山古墳 大阪府南河内郡太子町
31 用明(ようめい)天皇…河内磯長原陵 方丘 春日向山古墳 大阪府南河内郡太子町
32 崇峻(すしゅん)天皇…倉梯岡陵 円丘   奈良県桜井市大字倉梯

●飛鳥時代(592-710)

33 推古(すいこ)天皇…磯長山田陵 方丘 山田高塚古墳 大阪府南河内郡太子町
34 舒明(じょめい)天皇…押坂内陵 八角 忍坂段ノ塚古墳 奈良県桜井市大字忍坂
35 皇極(こうぎょく)天皇…37代斉明と同一人物
36 孝徳(こうとく)天皇…大阪磯長陵 円丘 山田上ノ山古墳 大阪府南河内郡太子町
37 斉明(さいめい)天皇…越智崗上陵 円丘 車木ケンノウ古墳 奈良県高市郡高取町
38 天智(てんじ)天皇…山科陵 八角 山科御廟野古墳 京都市山科御陵上御廟野町
39 弘文(こうぶん)天皇…長等山前陵 円丘 園城寺亀丘古墳 滋賀県大津市御陵町
40 天武(てんむ)天皇…檜隈大内陵 八角 野口王墓古墳 奈良県高市郡明日香村
41 持統(じとう)天皇…檜隈大内陵 八角 野口王墓古墳(天武と合葬) 奈良県高市郡明日香村
42 文武(もんむ)天皇…檜隈安古岡上陵 山形 栗原塚穴古墳 奈良県高市郡明日香村大字栗原

●奈良時代(710-794)

43 元明(げんめい)天皇…奈保山東陵 山形   奈良市奈良阪町
44 元正(げんしょう)天皇…奈保山西陵 山形   奈良市奈良阪町
45 聖武(しょうむ)天皇…佐保山南陵 山形   奈良市法蓮町
46 孝謙(こうけん)天皇…48代称徳と同一人物
47 淳仁(じゅんにん)天皇…淡路陵 山形   兵庫県三原郡南淡町
48 称徳(しょうとく)天皇…高野陵 前方後円 佐紀高塚山古墳 奈良市山陵町
49 光仁(こうにん)天皇…田原東陵 円丘   奈良市日笠町

●平安時代(794-1192)

50 桓武(かんむ)天皇…柏原陵 円丘   京都市伏見区桃山町
51 平城(へいぜい)天皇…楊梅陵 円丘 市庭古墳 奈良市佐紀町
52 嵯峨(さが)天皇…嵯峨山上陵 円丘   京都市右京区北嵯峨朝原山町
53 淳和(じゅんな)天皇…大原野西嶺上陵 円丘   京都市西京区大原野南春日町
54 仁明(にんみょう)天皇…深草陵 方形   京都市伏見区深草東伊達町
55 文徳(もんとく)天皇…田邑陵 円墳 太秦三尾古墳 京都市右京区太秦三尾町
56 清和(せいわ)天皇…水尾山陵 円丘   京都市右京区嵯峨水尾清和
57 陽成(ようぜい)天皇…神楽岡東陵 八角丘   京都市左京区浄土寺真如町
58 光孝(こうこう)天皇…後田邑陵 円丘   京都市右京区宇多野馬場町
59 宇多(うだ)天皇…大内山陵 方丘   京都市右京区鳴滝宇多野谷
60 醍醐(だいご)天皇…後山科陵 円形   京都市伏見区醍醐古道町
61 朱雀(すざく)天皇…醍醐陵 円丘   伏見区醍醐御陵東裏町
62 村上(むらかみ)天皇…村上陵 円丘   京都市右京区鳴滝宇多野谷
63 冷泉(れいぜい)天皇…桜本陵 円丘   京都市左京区鹿ヶ谷法然院町
64 円融(えんゆう)天皇…後村上陵 円丘   京都市右京区宇多野福王子町
65 花山(かざん)天皇…紙屋川上陵 方丘   京都市北区衣笠北高橋町
66 一條(いちじょう)天皇…円融寺北陵 円丘   京都市右京区竜安寺
67 三條(さんじょう)天皇…北山陵 円丘   京都市北区衣笠西尊上院町
68 後一條(ごいちじょう)天皇…菩提樹院陵 円丘   京都市左京区吉田神楽岡町
69 後朱雀(ごすざく)天皇…円乗寺陵 円丘   京都市右京区竜安寺朱山
70 後冷泉(ごれいぜい)天皇…円教寺陵 円丘   京都市右京区竜安寺朱山
71 後三條(ごさんじょう)天皇…円宗寺陵 円丘   京都市右京区竜安寺朱山
72 白河(しらかわ)天皇…成菩堤院陵 方丘   京都市伏見区竹田浄菩堤院町
73 堀河(ほりかわ)天皇…後円教寺陵 円丘   京都市右京区竜安寺朱山
74 鳥羽(とば)天皇…安楽寿院陵 方形堂   京都市伏見区竹田内畑町
75 崇徳(すとく)天皇…白峯陵 方丘   香川県坂出市青海町
76 近衛(このえ)天皇…安楽寿院南陵 多宝塔   京都市伏見区竹田内畑町
77 後白河(ごしらかわ)天皇…法住寺陵 方形堂   京都市東山区三十三間堂廻り町
78 二條(にじょう)天皇…香隆寺陵 円丘   京都市北区平野八丁柳町
79 六條(ろくじょう)天皇…清閑寺陵 円丘   京都市東山区清閑寺歌ノ中山町
80 高倉(たかくら)天皇…後清閑寺陵 方丘   京都市東山区清閑寺歌ノ中山町
81 安徳(あんとく)天皇…阿弥陀寺陵 円丘   山口県下関市阿弥陀寺町 赤間神宮内

●鎌倉時代(1192-1333)

82 後鳥羽(ごとば)天皇…大原陵 石造十三重塔 京都市左京区大原勝林院町
83 土御門(つちみかど)天皇…金原陵 八角丘 京都府長岡京市金ヶ原
84 順徳(じゅんとく)天皇…大原陵 円丘 京都府左京区大原勝林院町
85 仲恭(ちゅうきょう)天皇…九条陵 円丘 京都市伏見区深草本寺山町
86 後堀河(ごほりかわ)天皇…観音寺陵 円丘 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
87 四條(しじょう)天皇…四条 月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
88 後嵯峨(ごさが)天皇…嵯峨南陵 方形堂 京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町 天龍寺内
89 後深草(ごふかくさ)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
90 亀山(かめやま)天皇…亀山陵 方形堂 京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町 天龍寺内
91 後宇多(ごうだ)天皇…蓮華峯寺陵 方形堂・石造五輪塔 京都市右京区北嵯峨朝原山町
92 伏見(ふしみ)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
93 後伏見(ごふしみ)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
94 後二條(ごにじょう)天皇…北白河陵 円丘 京都市左京区白河追分町
95 花園(はなぞの)天皇…十楽院上陵 円丘 京都市東山区粟田口三条坊町

●室町・南北朝時代(1333-1573)

96 後醍醐(ごだいご)天皇…塔尾陵 円丘 奈良県吉野郡吉野町吉野山 如意輪寺内
97 後村上(ごむらかみ)天皇…檜尾陵 円丘 大阪府河内長野市寺元 観心寺内
98 長慶(ちょうけい)天皇…嵯峨東陵 円丘 京都市右京区嵯峨天龍寺角倉
99 後亀山(ごかめやま)天皇…嵯峨小倉陵 石造五輪塔 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂
 
※北朝
1 光厳(こうごん)天皇…山国陵 円丘 京都市右京区京北井戸町丸山
2 光明(こうみょう)天皇…大光明寺陵 円丘 京都市伏見区桃山町
3 崇光(すこう)天皇…大光明寺陵 円丘 京都市伏見区桃山町
4 後光厳(ごこうごん)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
5 後円融(ごえんゆう)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町

100 後小松(ごこまつ)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
※1392年に南北朝が合体し、後小松天皇は歴代100代目にして統一時の天皇となった。


101 称光(しょうこう)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
102 後花園(ごはなぞの)天皇…後山国陵 石造宝篋印塔 京都市右京区京北井戸町丸山
103 後土御門(ごつちみかど)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
104 後柏原(ごかしわばら)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
105 後奈良(ごなら)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町

●安土桃山時代(1573-1603)

106 正親町(おおぎまち)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
 
●江戸時代(1603-1867)

107 後陽成(ごようぜい)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
108 後水尾(ごみずのお)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
109 明正(めいしょう)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
110 後光明(ごこうみょう)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
111 後西(ごさい)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
112 霊元(れいげん)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
113 東山(ひがしやま)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
114 中御門(なかみかど)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
115 桜町(さくらまち)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
116 桃園(ももぞの)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
117 後桜町(ごさくらまち)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
118 後桃園(ごももぞの)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
119 光格(こうかく)天皇…後月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
120 仁孝(にんこう)天皇…後月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
121 孝明(こうめい)天皇…後月輪東山陵 円丘 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内

●近現代

122 明治(めいじ)天皇…伏見桃山陵 上円下方 京都市伏見区桃山町
123 大正(たいしょう)天皇…多摩陵 上円下方 東京都八王子市長房町
124 昭和(しょうわ)天皇…武蔵野陵 上円下方 東京都八王子市長房町



過去の天皇継承は
1世(子供):110例
2世( 孫 ):8例
3世(ひ孫):5例
4世(玄孫):0
5世(来孫):1例
と、基本的に3世までで継承されており、最低でも曽祖父が天皇であることが条件。
また、皇籍離脱者の即位例は宇多天皇の離脱期間3年であり、60年も皇籍離脱後に天皇即位した例はない。

※全国の古墳を網羅した『古墳マップ』というサイトを発見。これは重宝。現地ではよく似た地形が多いので、地図があるのが嬉しい。

  
建国記念日に神武天皇陵を墓参。橿原神宮の前は右派のお兄さんで大賑わい!(汗)


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