| ●発明家 エジソンの墓 グーテンベルクの墓 ケロッグの墓 サミュエル・コルトの墓 平賀源内の墓 モールスの墓 ライト兄弟の墓 リュミエール兄弟の墓 |
●実業家 岩崎弥太郎の墓 岩波茂雄の墓 カーネギーの墓 カーネル・サンダースの墓 シトロエンの墓 白洲次郎の墓 高田屋嘉兵衛の墓 蔦屋重三郎の墓 ハワード・ヒューズの墓 ジョン・S・ペンバートンの墓 リチャード・マクドナルドの墓 |
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| 墓所はとても分かりにくい。明治通りの 『史蹟平賀源内先生之墓』で曲がる |
住宅街の中に源内の墓所がポツンとある |
獄死した源内の墓を建てたのは、無二の親友・杉田玄白 |
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| 奇才・異才と呼ばれる江戸のダ・ビンチ |
以前は毎月第1土・日と命日の18日しか 墓参できなかったが、いまは毎日公開に? ※近所の人が管理しているらしい(2004) |
初巡礼の際、非公開と知らずに訪れて ガックリ。で、友人の肩車で塀の外から パチリ。この暗がりに墓がある(2000) |
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| こちらは広島県の鞆(とも)の浦にある『平賀 源内生祠(せいし)』。“生祠”とは優れた 人物を生前のうちに祀った“やしろ”のことだ |
源内は長崎で蘭学を学び江戸に戻る途中で 当地の溝川家に滞在し、村人に陶法(源内焼)を 伝えた。これに感謝した溝川家が1754年(源内の 死の15年前)に、彼を神としてここに祀ったという |
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| エレキテル | 西洋婦人図(源内画) | 万歩計 |
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江戸中期の博物学者・作家・画家・陶芸家・発明家。あらゆる分野に才能を発揮した日本のダ・ビンチ!本名、国倫(くにとも)。高松藩足軽白石良房の三男。24歳の時に藩の命令で長崎に留学、蘭学を修める。続いて江戸において植物を主にした漢方医学の“本草学”を学ぶ。1757年(29歳)、全国の特産品を集めた日本初の博覧会を開き、それを元に図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行。世人の注目を浴びる。
本草学者として名を成した彼は、高松藩の薬坊主格となったが、藩の許可がなくては国内を自由に行き来できない事に不便を感じ脱藩する(33歳)。この際、高松藩は源内を「仕官御構(おかまい)」に処した。これは他藩へ仕官することを禁止するものだ。源内は自ら“天竺浪人”と名乗り、秋田秩父での鉱山開発、木炭の運送事業、羊を飼って毛織物生産、輸出用の陶器製作、珍石・奇石のブローカーなど、様々な事業に手を出した。また静電気発生装置“エレキテル”、“燃えない布”火浣布(かかんぷ、石綿)、万歩計、寒暖計、磁針器、その他100種にも及ぶ発明品を残した。正月に初詣で買う縁起物の破魔矢を考案したのも源内だ。一方、画才、文才も惜しみなく発揮。彼は油絵を習得して日本初の洋風画「西洋婦人図」を描き、司馬江漢、小田野直武(「解体新書」の挿絵画家)らに西洋画法を教えた。浮世絵では多色刷りの技法を編み出し、この版画革命を受けて色とりどりのカラフルな浮世絵が誕生した。
作家としてのペンネームは「福内鬼外(浄瑠璃号)」「風来山人(戯作号)」となかなかシャレている。35歳の時に書いた『根南志具佐(ねなしぐさ)』『風流志道軒伝』は江戸のベストセラーとなり、明治期まで重版が繰り返される。後者は主人公が、巨人の国、小人の国、長脚国、愚医国、いかさま国など旅するもので、江戸版ガリバー旅行記といった感じだ。(鎖国中でもあり、源内が生れる2年前に英国で刊行されたばかりのガリバー旅行記を読んでいたとは思えない。)『放屁(ほうひ)論』ではまず「音に三等あり。ブツと鳴るもの上品にしてその形円(まろ)く、ブウと鳴るもの中品にしてその形いびつなり、スーとすかすもの下品にて細長い」と屁の形態を論じた後、当時江戸に実在した屁の曲芸師(三味線の伴奏や鶏の鳴き声を奏でた)を引き合いに出し「古今東西、このようなことを思いつき、工夫した人は誰もいない」と称賛し、さらに半ば自嘲気味に「わしは大勢の人間の知らざることを工夫し、エレキテルを初め、今まで日本にない多くの産物を発明した。これを見て人は私を山師と言った。つらつら思うに、骨を折って苦労して非難され、酒を買って好意を尽くして損をする。…いっそエレキテルをへレキテルと名を変え、自らも放屁男の弟子になろう」と語っている。ちなみに「土用の丑の日はうなぎを食べると元気になる」は、蒲焼屋の知人に頼まれて源内が考えたコピーで、それまで夏にウナギを食べる習慣はなかった。
多方面にわたる才能を持ちつつも、キワモノ扱いされて当時の社会に受け入れられず、やがて彼自身も世間に対して冷笑的な態度を取り始める。著作では封建社会をこきおろす作品を発表し、幕府行政の様々な矛盾を痛烈に暴露した。
晩年(1778年)、50歳になった源内は自分を認めてくれぬ世に憤慨し、エレキテルの作り方を使用人の職人に横取りされたこともあって人間不信、被害妄想が拡大し悲劇が起きる。自宅を訪れた大工の棟梁2人と酒を飲み明かした時のこと。源内が夜中に目覚めて便所へ行こうとすると、懐に入れておいた筈の大切な建築設計図(田沼意次の別荘)がない。とっさに“盗まれた!”と思った彼は大工たちに詰め寄り、押し問答の末に激高し、ついに2人を斬り殺してしまう。だがその図面は、源内の懐ではなく、帯の間から出てきたのであった…。発狂した源内は、厳寒の小伝馬町の牢内で破傷風にかかって獄死した(享年51歳)。
源内の墓標を建てたのは、彼と同様に好奇心が強かった無二の親友、杉田玄白。玄白は「ああ非常の人。非常のことを好む。行ないこれ非常なり、なんぞ非常に死するや」と源内の墓標に刻んだ。 現在、 墓は“あしたのジョー”の丹下ジムで有名な泪橋の近くにある。彼が中世イタリアに生れていたなら、間違いなくルネサンスの巨人として人類の歴史に名を刻んでいただろう。墓前で冥福を祈った。
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| 源内の墓の背後には弟子・福助が眠っており、「平賀源内家来」と刻まれていた |
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| 2000年7月。博物館は改修中で、エジソンが眠っている 私邸への見学ツアーはなかった。せっかくニュージャージー まで来たのに…トホホ。しかも改修はあと3週間で終了だった。 |
そして2003年8月。一度開館した後、再び改修に 入っていた!次の開館は2年後とのこと。んなアホな! ※ボディラインのそり具合が嘆きの深さを表している! |
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| “ハイ、そうですか”と引き下がれるわけがねぇ! こういうこともあろうかと3年前の涙の写真を持参 していたので、この小屋の中にいる守衛に「一目 だけでも墓参させて欲しい」と説得した(3年前と 同じ中年の黒人の守衛だった!)。守衛はずっと 「ノー」「ソーリー」ばかりだったが、最後に根負け したのか、エジソン邸の“方角”だけを教えてくれ た(自分が教えられるのはここまでだ、とも)。 |
教えてもらった方向にどんどん行くと、ゲート が行く手を阻んだ。この街(ウエスト・オレンジ) は治安が悪く、金持ちは一ヶ所に集まって要塞 の中で暮らしていたのだ。先ほどの守衛は、 このゲートがあるからエジソン邸には行けぬと 言っていたのだ。 |
「えーい、行くしかないだろう!」意を決して門番を説得すべく突撃した!やはり3年前の写真を持って!“もう後がないぞ!”自分はシェイクスピア俳優ばりに、涙を溜め声を震わせて、極限までオーバーな演技で門番に「すぐに帰ってくるから」と吠えまくった!「分かった。行って来い!坂を登って右側に見えてくるオレンジの家だ!」感激。皆さん、これがエジソン邸っす! |


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| ウギャー!スッポリと覆われている | 問題のプレート | グーテンベルク像 |


| 世界初の映画『汽車の到着』は1895年にリュミエール兄弟がパリで発表した作品。彼らはパリのカフェに自ら製作した映写機を持ち込み、35人の観客に1フラン(今の千円)で上映した。リュミエール家は街の名士(実業家)。一族の墓の一番右端に兄弟の名があった。姓のリュミエールは仏語で「光」の意。偶然とはいえ映画を生んだ2人にふさわしい名前だね。 ※その後映画産業は発展し、現在の全世界の映画興行収入は約258億ドル、実に3兆円にものぼる。日本では年間400本が製作されている。 |
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| モールス信号を発明! | 人間との比較で高さは6mくらい? |
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| 兄弟の墓マップが門の側にある | スミソニアン(D.C.)のライト・フライヤー号 | 周囲が石畳のとっても立派なライト家の墓! |
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| 兄貴のウィルバー。45歳で病死 | 墓地の中央付近に眠っている | ライト家 | 弟のオーヴィル |
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| 台座に帽子を置いてみた。10m以上あるのは確実 | てっぺんの女神像 | 巨大な碑文 |
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| 大きなケロッグ家の墓石の前に個人墓が並ぶ | ジョン・ハーヴェイ・ケロッグ | ケロッグ家は地元の名士だ | ケロッグのオールドテイスト |
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| 弟でケロッグ社初代社長のウィル・キース・ケロッグは少し離れた場所に眠る。 |
墓参の帰り、ケロッグ社のロゴ入り気球を 運ぶ車が偶然前を走っていた! |
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| ジョージアに沈む夕陽と共に | 最後の行に「ORIGINATOR OF COCA-COLA」とある | コカコーラ帝国の生みの親は質素な墓だった |
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| マクドナルド創業者はこの霊廟に。まさか「王朝」と まで呼ばれる企業になるとは思わなかったろう |
お墓に黄色いMの文字!おかげですぐに分かった |
「いつもお世話になってます!」 近所でゲットして奉納! |
ここがお墓に一番近い店。チビッコ用の チューブ型ジャングルジムが充実 |
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| こんなに顔が知られている創業者も少ない(笑) | 本名はハーランド・デーヴィッド・サンダース! | 穏やかそうな表情♪ | チキンコンボの箱が! |
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| 真実の種を蒔きたいと、ミレーの種まく人をトレードマークに |
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| 1999 すべての貧乏学生の恩人! | 2009 10年ぶりに再巡礼。右後方に墓誌が増えていた | 東慶寺は古寺で墓石は五輪塔が多い |
| 古本屋の店主だった彼が出版業に転じ、それまで高価だった文学書を「文庫本」という形で“安く”世に出してくれたおかげで、若者でも手軽に名作に触れることが可能になった。また、多岐にわたって続々と刊行されたことで、目当ての作品を読むために全集をまとめ買いしなくてもよくなった。最初に出版した作品は、親しくしていた漱石の『こころ』であり、芥川は遺書で岩波に全集の出版を託した。岩波の人間性が如何に信頼されていたのかが分かる。1927年、文庫本発刊の際に「持ち運びの便利さと価格の低さを最優先にしたので外観は粗末だが内容に関しては厳選した」との言葉と共に岩波が書いた刊行の言葉は世紀の名文だ!「真理は万人によって求められることを欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。(略)生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより開放して街頭にくまなく立たせ、民衆と肩を並ばせるであろう!」 |


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| 古い歴史で有名な「スリーピーホロウ墓地」 | 巨大な墓石がドーン | 墓前の広い敷地は全部カーネギー専用 |
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| たった一代で巨万の富を築く |
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| 岩崎家墓所の通用口…閉まっている(2009) | 正門も完全に閉じており、微動だにしない |
| 2009年11月、大河ドラマ『龍馬伝』の陰の主人公であり、三菱の創業者・岩崎弥太郎の墓参のために大阪から上京。巣鴨の岩崎家墓所に足を運ぶと、なんと悲しいことに正門も通用門も閉じており、一般公開されていなかった…!ガックリと肩を落として大阪に戻った。 後日ネットを検索すると、複数のサイトに「通常非公開だが命日は一般人も墓参可能」と書かれていた。“なんだってー!”僕は歓喜し、3ヶ月先の命日=2月7日を待った。かくしてその日が到来し、弥太郎の墓参りに再挑戦!新幹線でGO! |
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| 2010年2月7日 “そんな…う…うそだ…” |
「嘘だと言ってくれェーッ!!」 近所の人の情報では、墓守の許可が必要との事 |
だがインターホンの電源が 切れており墓守に繋がらず! |
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| 隣接する小学校に事情を話し、敷地から墓所を 覗かせてもらった。すると、正門の中にさらに もうひとつ門があった!うお、枝の間に墓が見える! |
ま、ま、まさか弥太郎ではッ!?カメラの 望遠を最大にして名前を確認してみると… |
「岩崎弥次郎」、弥太郎の オヤジさんだったぁ〜! 嗚呼、天は我を見放したか |
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| 近所には三菱社宅があったので、住民の方に 許可を頂いて墓所を覗くと、2基の墓石が! でもそれは岩崎美和子(弥太郎の母)と 岩崎秀弥(弥太郎の子)だった。弥太郎や〜い! |
“命日だよ?大三菱の創始者だよ? 龍馬伝で活躍中だよ?墓参者が 列を作っていると思ってたのに!” 状況が腑に落ちず夕方にもう一度訪れた |
やはり門は閉まり墓守の詰所も無人! 僕以外にも墓参者が2人いて、 試しに正門を押してみたけど、まったく 動かず…。わーん!ここまで来て! |
| 弥太郎は『龍馬伝』で知名度があがっており、僕は早朝から墓所にはひっきりなしに巡礼者が訪れ、三菱財閥の黒塗りの車が行列を作っていると信じ切っていた。と・こ・ろ・が!門が閉まっていたァアアア!墓所にまったく人の気配なし!ギャース!何のためにここまで足を運んだのか…トホホ! 僕が立ちすくんでいると、背後から「弥太郎さんのお墓参りですか」と声。彼(Kさん)も途方に暮れていて、仲間が見つかりめっさ嬉しかった。僕らは手がかりが欲しくて、近所にある三菱のスポーツセンターや墓所に隣接する三菱の社宅の人に墓参の方法を尋ねてみた。分かったことは、門の内側に墓守(はかもり)の家があり、墓参には墓守の許可が必要ということ。だがしかし!肝心の墓守の家は雨戸が閉まっており、インターホンも故障しているのかピンポンと鳴らない(電源が通ってない様子)。 そうこうしているうちに、墓所の門を押している男性をもう一人発見。声を掛けてみると、ビンゴ!彼(Mさん)も弥太郎参りの巡礼者だった!3人寄れば文殊の智慧、墓のことは墓地に聞けということで、岩崎家の4代目以降が眠る近所の染井霊園へGO。職員の方に質問して重大な事実が判明した。いわく「以前は墓守がいて命日に公開していたけれど、今は無人になって門を開ける人がいない。完全に非公開になっている」。ガーン。“そういえば”。僕はかつて染井霊園の庭師の人が「岩崎家墓所の墓守は高齢(お婆ちゃん?)で近年亡くなった」的なことを語っていたのを思い出した。なんてこった。 「墓守が他界し後継者がいないので非公開」という同様のケースは、徳川光圀@水戸黄門の墓所でも起きている。三菱財閥も徳川財団も、墓守を雇うお金は余裕であると思うんだけどなぁ…(もし関係者の方がこのページを読まれていたら、僕、弥太郎さんと黄門様の命日にはボランティアで墓守係をやりますので!)。 |
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| 中央の林に囲まれた場所が岩崎家墓所! | 中心に見える墓石が弥太郎!宇宙から合掌! |
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| 『岩崎弥太郎之墓』 1980年3月12日にNさんが撮影されました!当時は24時間 公開されていたのかも。Nさん超貴重な墓画像を有難うございましたーッ! m(_ _)m |
| 実業家。明治期に活躍した三菱財閥の創始者。土佐藩の武士の中でも最下級の地下(じげ)浪人=半農の家に生まれる。立身出世を目指して学問に精を出し、土佐藩重臣の吉田東洋の目に止まる。1859年(24歳)、藩命で長崎に赴任したことを機に、長崎貿易で頭角を現す。1861年(26歳)、地下浪人から郷士(ごうし)に身分があがり、次いで1867年(32歳)には上士の身分である新留守居組へと出世した。 明治維新後は藩船の払い下げを使って海運業に進出。1874年(39歳)に勃発した佐賀の乱を始めとして、台湾出兵、西南戦争などで政府の輸送業務を独占し、これによって国内最大の汽船会社を築き上げる。さらに弥太郎は各方面で多角的に事業を展開し、政商として三菱財閥を作り上げていった。50歳で病死。坂本龍馬とは同じ年に生まれており、弥太郎は海援隊の経理を担当していた時期もあった。
※弥太郎は20歳の時に、酒の席の喧嘩が原因で投獄された父の冤罪を訴え出て、自らも投獄されたことがある。
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| 函館山を背にした「日露友好の碑」と高田屋嘉兵衛像 |
ロシア側と交渉に挑む嘉兵衛。右手に松前奉行からの書、左手に艦内で正装に 着替えた時の衣服を持っている。函館開港100年を記念して1958年に建てられた |
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| 津軽海峡と函館湾に挟まれた宝石箱のような夜景 | 函館市内の称名寺 |
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| 柵の中の墓石(中央)が嘉兵衛の墓 | 真ん中の戒名「高誉院至徳唐貫居士」が嘉兵衛 |
| 江戸後期の海運業者で函館発展の基礎を築いた豪商。淡路島出身。28歳の時に函館に渡り、択捉島航路を開発するなど、北洋漁場を開いた。 1811年、ロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニンは、千島列島を測量中に幕府役人に捕縛される。翌年、嘉兵衛は国後沖でロシア側に拿捕されるが、このピンチをロシア人との友情を育む好機とし、幕府側とロシア側の間に立って、1813年にゴローニンの釈放を実現させた。 嘉兵衛は民間人でありながら日露武力衝突の危機から日本を救ったのだ。ゴローニンは帰国後に記した『日本幽囚記』の中で嘉兵衛について「この世で最も素晴らしい尊敬すべき人物」と絶賛した。 ※残念ながら「高田屋」は嘉兵衛他界の6年後に、家業を継いだ弟が密貿易の疑いをかけられ、幕府に全財産を没収され没落した。 |
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| 案内板で大助かり。 これなら迷わない |
心月院にて。左が正子、右が次郎。正子の墓には梵字で 「十一面観音」、次郎の墓には「不動明王」と刻まれている |
五輪塔を薄くスライス。石を次郎が 選び、正子がデザインした |
| “昭和の鞍馬天狗”と呼ばれた伝説的実業家。兵庫の名家に生まれ、10代後半で英国ケンブリッジ大に留学。身長185センチ、スポーツ万能。超行動派かつカー・マニアとあって高級自動車を乗り回し、20代半ばにはスペイン南端のジブラルタルまでヨーロッパ大旅行を終えていた。1928年(26歳)に帰国し新聞記者となる。翌年、友人の妹と結婚(随筆家の白州正子)。その後、商社や食品会社の取締役を歴任し、商用で渡航する際に駐英外交官の吉田茂と親交を深め、イギリス大使館をホテル代わりに使っていた。1940年(38歳)、太平洋戦争を予期して事業から離れ、農村に隠居し畑仕事の日々を送る。戦時中は吉田茂と共に反戦の立場から終戦工作に取り組んだ。戦後は吉田の要請で終戦連絡中央事務局の参与に就任。「我々は戦争に負けたのであって奴隷になったのではない」と占領軍を相手に啖呵を切り、マッカーサーを叱りつけたり、語学力を褒めるGHQの准将を「あなたももう少し勉強すれば上手くなる」とやり込めるなど、その破天荒さは当時の日本人の枠から突き抜けた存在だった。白州はGHQから「従順ならざる唯一の日本人」「Mr.Why」と呼ばれた。1948年、“戦後の日本は貿易立国として発展するしかない”という信念から貿易庁(通産省)の初代長官に就任。1951年(49歳)、サンフランシスコ講和会議に顧問として随行し、受諾演説を英語でしようとする吉田首相の原稿を書き直し、「独立国なのだ」とあえて日本語で演説させた。後半生は政治と縁を切り、電力会社や大洋漁業(現マルハ)、日テレ、証券会社の顧問などを歴任。日本人で初めてジーンズをはいた男と言われ、三宅一生のモデルを務めたことも。老いてなお80歳まで68年型ポルシェ911Sをかっ飛ばしていたが、1985年に胃潰瘍と内臓疾患で死去。享年83歳。遺言書には「葬式無用 戒名不用」とあった。まさにスーパー日本人。 |
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| 台東区のHPには瑞泉寺に墓があると あったが、墓地を探してもいなかった |
住職に尋ねてみると「関東大震災の大火災で墓も焼けてしまい、 境内のどこに蔦屋が眠っているのか分からなくなった」とのこと。 僕はこの敷地全体を彼の墓と受け止め、寺に向って合掌した |
多くの絵師や作家を援助した蔦屋。 寺の前の言葉は、芸術を世に送った 彼を表しているかのようだった |
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| 台東区の正法寺にも墓があるという情報をキャッチ!しかしこの正法寺、目の前まで来てるのに なかなか場所が分からなかった。だって、まさかこんな大きなビルがお寺なんて思いもよらなかったよ〜! |
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| うおお!あれは! |
上段左から3番目の命日がドンピシャ! 戒名は「幽玄院義山日盛信士」とのこと |
ついに蔦屋に墓参できた! |
| 江戸中期の出版人。江戸吉原生まれ。短く“蔦重”(つたじゅう)とも呼ばれる。人の才能を見抜く事に長けており、浮世絵師の写楽や歌麿の名作を世に送り、作家の十返舎一九、曲亭馬琴、山東京伝らをバックアップした。1773年、蔦屋は23歳で吉原に書店を開業し、ベストセラーを次々と刊行。33歳で一等地の日本橋に店を構えるようになる。イケイケドンドンで事業を展開するなか、寛政の改革で出版物が風紀違反に咎められ過料(罰金)の処罰を受ける。歌麿や山東京伝は手鎖の刑となった。1794年(44歳)、写楽を見出し役者絵を出版。その3年後に脚気で他界した。享年47歳。開業から約25年の間に800点以上も出版した。写楽の絵がこの世にあるのは蔦屋のおかげだ。 ※フランキー堺は最晩年に映画『写楽』の中で蔦屋を演じた。どうしても死ぬまでにこの役をやりたかったとのこと! ※レンタル大手のTUTAYAは、創業者が「現代の蔦屋になりたい」という思いで付けた名前という。一気にTUTAYAの好感度アップ! |
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| JR駿河小山駅〜冨士霊園はシャトルバスが便利 | この大きな生垣の中が本田家の墓所!外に表札が出ている |
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| 広い墓域が美しく整備された本田家墓所。近隣には富士スピードウェイがあり、レーシングカーの エンジン音が墓前まで聞こえていた。車のサウンドを子守歌のように聞けて、宗一郎さんも幸せだろう |
墓域の一角には本田家 代々の墓も建立されていた |
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| ちなみに本田家の2区画左隣は元総理の安倍家 | さらにその左は岸家。冨士霊園は著名人が多い |
| 本田技研工業の創業者。単なる経営者ではなく、自らも技術開発に取り組み、戦後日本を代表する技術者兼起業家として世界的に有名。静岡県出身。 本田家は代々の鍛冶屋。1928年(22歳)、東京の奉公先、自動車修理工場から暖簾を分けてもらい、浜松に支店を開業する。1936年(30歳)、第1回全国自動車競走大会に飛行機のエンジンを改良した車で弟と参戦し、最高時速120kmを叩き出す。事故によって車外に投げ出されたことから、以後はハンドルを握ってレースに臨むことはなかったが、“120km”は約20年間も破られなかった。 1937年(31歳)、エンジン製作を目指して浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)機械科の聴講生となり勉学に励む。終戦後、1946年(40歳)に本田技術研究所を設立し、小型エンジンを自転車に取り付けた「バタバタ」を大ヒットさせる。1948年(42歳)、本田技研工業を起ち上げ念願のオートバイ生産をスタート。翌年、経営を不得手と自覚していた宗一郎は副社長に藤沢武夫を迎えて経営の一切を任せ、自身は技術屋として汗を流した。 ※宗一郎と藤沢は身内を入社させなかった。2人とも「会社は個人の持ち物ではない」という信念を持っており、「役員の子弟は入社させない」という規則を作った。井深大が社名を「ソニー」としたことから、宗一郎は自分の名前を社名にしたことを恥じた。 1958年(52歳)、名作「スーパーカブ号」を完成。翌年から世界最高峰のオートバイ・レース、英国マン島TTレースに参戦し、1961年(55歳)に優勝した。翌1962年(56歳)から自動車生産に乗り出し、小型スポーツカーや軽トラックを発売。1964年(58歳)になると、今度はF1グランプリにチャレンジするなど飽くなき向上心を持っていた。1972年(66歳)、初めて低公害CVCCエンジンを開発し、米国からも高く評価され「世界のホンダ」として認知された。1973年(67歳)、社長を引退し最高顧問となる。翌年、ミシガン工科大学が名誉工学博士号を授与。宗一郎は「全ての従業員や関係者に挨拶をしたい」との思いから、国内はもとより3年がかりで世界各国のホンダ工場やディーラーへ挨拶まわりを行なった。宗一郎が一般工員と同じ白い作業着(ツナギ)を着て偉ぶることがなかったこともあり、他の日系企業で多発した労働争議がホンダでは一度も起きなかった。 F1では1986年(80歳)から没するまでホンダのエンジンを搭載したチームが製造者部門タイトルを獲得し続けた。 1989年(83歳)、日本人として初めて米国の自動車殿堂入りを果たす。1991年、肝不全のため84歳で他界。正三位・勲一等旭日大綬章を贈位された。生前に「自動車メーカーの経営者が葬儀で渋滞を起こしてはいけない」と語っており、遺族は通夜、社葬を行わなかった。 「人には失敗する権利がある。だがしかし、それには反省と言う義務が付く」 「チャレンジしての失敗を恐れるな。何もしないことを恐れろ」 「私が手がけた事業のうち99%は失敗だった。1%の成功のおかげで今の私がある」 「私は年寄りだから新しい開発からはもう手を引いているが、一応今の若い連中が何をやっているか見せて貰っている。でも(何をやっているのか)わからないんだな。だからこそ嬉しいんだ。この年寄りに分るような事をやっているのならうちの若い連中はボンクラですよ。僕に分らない事をやってくれていることが僕は一番嬉しいんだ」 ※宗一郎の部下たちは「オヤジ」と呼んで慕っていた。 ※南青山の本社ビルは全フロアにバルコニーがある。これは宗一郎が「地震で割れたガラスが歩行者に降りかからないように」と指示したから。 ※本田技研の正装のズボンにはポケットがない。工場巡回中に若い工員から「オッサン、転んだら危ないからポケットに手突っ込んで歩くな!」と注意されたのがきっかけ。 ※かつて緊急車両しか車体に赤色を使う事が許されなかった。宗一郎は「国家がデザインの基本である赤色に難癖を付けるのはおかしい」とメディアで抗議し、赤のカラーリングが認可された。 |
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| 多磨霊園の右手奥の方。近くに岸田今日子さんの墓 | 左が「井深家一門之墓」、右が井深大の墓 |
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| 仲良く腕相撲をとる井深(右)と盛田昭夫。共にソニーを創業 | 墓石に刻まれた言葉は“自由闊達” | 背後に墓碑銘(略歴) |
| 盛田昭夫と共にソニーを創業。盟友・本田宗一郎と並んで戦後日本を代表する技術者&起業家として世界的に知られる。栃木県出身。3歳で父を亡くし、愛知県の祖父に引き取られる。その後、母が再婚し神戸で育つ。 1933年(25歳)、早稲田の理工学部電気工学科を卒業。在学中に発明した「走るネオン」が1937年の パリ万博で優秀発明賞に輝いた。この時の雑誌記事を中学生の盛田昭夫が読んでいる。卒業後、写真化学研究所(現ソニーPCL)に入社。その後、日本光音工業、日本測定器に籍を置く。1943年(35歳)、戦時科学技術研究会の熱線追尾爆弾の開発グループにて、海軍技術中尉で13歳年下の盛田昭夫と出会う。 1945年(37歳)、終戦後に東京日本橋に短波受信機を製造する東京通信研究所を設立。翌1946年(38歳)、社名を「東京通信工業」として、社長に義父で文相の前田多門を迎え、井深が技術担当の専務取締役、盛田が営業担当の常務取締役となり、20数人で創業した。1950年(42歳)、社長に就任。翌年、日本初のテープレコーダーを、そして1955年(47歳)に日本初のトランジスタラジオを発売。同年、盛田が渡米し「SONY」ブランドで売り込みを開始。「SONY」の名前は“SOUND(サウンド)”の語源であるラテン語“SONUS(ソヌス)”と、元気で若い企業のイメージから英語の“SONNY”(“坊や”の意)を重ねたもの。1958年(50歳)、商標名の「SONY」を社名とした。 その後も、1960年(52歳)に世界初のトランジスタテレビ、1965年(57歳)に世界初の家庭用ビデオ・テープレコーダーを世に出すなど、日本初や世界初の革新的な商品を次々と生み出し、同社を世界企業に押し上げていった。1971年(63歳)、会長に就任。1976年(68歳)、名誉会長となった。1979年、外出先でも個人で音楽を楽しめる携帯型テープレコーダー『ウォークマン』を発売し、空前の人気商品となった。 井深は子どもがハンディキャップを持っていたことから、障がい児の学校設立に尽力し、社員の6割が障がい者の工場「ソニー・太陽」を設立。また幼児教育の重要性を唱えた書籍も出版している。 1986年(78歳)に勲一等旭日大綬章、1989年(81歳)に文化功労者、1992年(84歳)に産業人として初めて文化勲章を受章。1997年、89歳で他界。 創業時20数名だった従業員は2010年時点で約17万人。井深の墓は多磨霊園にあり、墓石には「自由闊達(かったつ)」という言葉が刻まれている。これはソニー創業の設立趣意書に記された「真面目なる技術者の技能を最高度に発揮せしむるべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」からきている。 ※晩年、井深は非科学の分野にも強く興味を示し、1991年(83歳)、ソニー社内にエスパー研究所を設立した。そこでは超能力者たちがテレパシーや透視能力などの実験をしていたが、井深の死の翌年に研究所は閉鎖されたという。 ※飯盛山で自刃した白虎隊士・井深茂太郎は先祖の1人。 ※井深は東京芝浦電気(現・東芝)の採用試験で不合格になった。もし東芝社員になっていたらソニーはなかった。 ※「この人の能力はこれだけだと決め付けていたらその人の能力は引き出せません」(井深大) |
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| 東芝創業者!白石が敷き詰められた墓域 |
久重翁の略歴と墓域図。 1875年、東京に店舗兼工場を開いた |
「万般の機械考察の依頼に応ず」 店頭の看板にこの言葉が掲げられた |
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| 緑色の自然石の墓 | 田中久重夫妻 | こちらは2代目久重(養子)。初代の真向かい |
| 東芝創業者。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた発明家。筑後国久留米出身。父はべっこう細工師。通称、儀右衛門。手先が器用で幼少から細工や発明に優れ、からくり人形の仕掛けを次々と考案し、全国興業で名前が知れ渡った。1824年(25歳)、諸国遍歴に出て時計製作の技術を学ぶ。 1834年(35歳)、大坂に住居を持ち、無尽灯(圧縮空気を使い自動で油を補給する灯明台)や小さな懐中燭台を製造・販売した。1837年(38歳)、大塩平八郎の乱が勃発して家財が燃えてしまう。 1851年(52歳)、洋式・和式の両時刻、七曜、月齢、干支(えと)、二十四節気をすべて表示する高精度の万年時計「万年自鳴鐘」を完成させた。翌1852年、京都四条烏丸に機巧堂(からくりどう)を開店し、雲竜水(手押し消防ポンプ)、高級時計、須弥山儀(天体儀)、無尽灯などを製作・販売した。 1854年(55歳)、佐野常民に請われて佐賀藩精錬方に招かれ、国産としては日本初の蒸気船や蒸気機関車の模型を製作。1863年(64歳)には初の国産アームストロング砲を完成させた。1864年(65歳)、久留米藩の要望で帰郷し、精米や河川掘削の器械を作成した。2年後、上海を視察。1875年(76歳)、銀座に民間の電器機械工業の先駆けとなる田中製造所を設立し、6年後に死去。享年81歳。養子の2世田中久重が後を継いだ。他界の23年後(1904年)に社名が芝浦製作所となり、1930年に電気洗濯機と電気冷蔵庫の国産第1号を発売。没後58年目(1939年)に東京電気と合併し東京芝浦電気(東芝)となった。 「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」(田中久重) |
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| 故郷は田んぼがいっぱい。ここから世界へ! | 生地最寄りの「千旦(せんだ)」駅は無人駅 | 墓所の対面にある松下公園 |
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| 「松下幸之助君生誕の地」 たった一代で帝国を築き上げた |
碑文の揮毫は先祖が紀州藩士の湯川秀樹博士 |
左側の木陰が生誕地、右の塀が墓所。 生誕地とお墓が並ぶ光景を初めて見た |
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| 庭園のような墓所。全体がスッキリとしている | 墓石もいたってシンプル | 斜め後ろから |
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| 墓所の隅にはロウソクや線香を標準装備。 誰でも使えるっぽいのはさすが天下の松下 |
墓所内にある水場。井戸ポンプは当然ナショナル製! |
| パナソニック(旧・松下電器産業)の創業者。世界有数の同社を一代で築き上げたことから“経営の神様”と呼ばれる。経営理念は「水道の哲学」。これは“供給量が増えればあらゆる物資は無料同然になる”というもので、大量生産でコストを削減し国内家電メーカーのトップに立った。和歌山県出身。 1899年(5歳)、小地主の父が米相場で破産。父は和歌山市で下駄屋を始めるがこれも失敗する。幸之助は9歳で小学校を中退し、大阪の火鉢店や自転車屋へ丁稚奉公に出された。15歳の時に大阪電燈(現・関西電力)に入社し、電球ソケットを考案。23歳で退職し、自宅でソケットの製造&販売を始め、二股電球ソケットがヒットする。翌1918年(24歳)、大阪市内に松下電気器具製作所を創業。1925年(31歳)、「ナショナル」商標を登録し、乾電池販売でも成功した。1931年(37歳)、ラジオの生産開始。1933年(39歳)、事業拡大にともない大阪門真市に工場を移転する。また、独立採算制の事業部制を導入した。1935年(41歳)、社名を「松下電器産業」へ改名。戦時中は政府の命令で無線機器や船、飛行機を生産し、戦後にGHQから戦争協力者として公職追放処分を受ける。 1947年(53歳)、社長に復職。テレビ、洗濯機、冷蔵庫など家庭用電器製品を次々と開発し、1950年から死没するまで40年間に、10回も長者番付で全国1位となった。1961年(67歳)、会長に就任。ダイエーが家電を安売りすることに反発し、60年代中頃から30年に及ぶダイエー・松下戦争が勃発。安売り店への出荷停止という強硬手段が批判を浴びた。1973年(79歳)、相談役となり第一線から引退。81歳、国土庁顧問に就任。1980年(86歳)、私財70億円を投じて松下政経塾を設立し、政財界の指導者養成に努めた。1987年(93歳)、勲一等旭日桐花大綬章を受章。1989年、肺癌により他界。享年94歳。戒名は光雲院釋眞幸。 「産業人の使命は貧乏の克服である。その為には、物資の生産に次ぐ生産を以って、富を増大しなければならない。水道の水は価有る物であるが、乞食が之を飲んでも咎められない。それは量が多く、価格が余りにも安いからである。産業人の使命も、水道の水の如く、物資を無尽蔵たらしめ、無代に等しい価格で提供する事にある。それによって、人生に幸福を齎し、この世に楽土を建設する事が出来るのである。松下電器の真使命も亦その点に在る」(『水道哲学』) 「松下は人をつくる会社です。あわせて、家電もつくっています」 「ご苦労さん。ええもんが出来たな。さあ、今日からこの商品が売れなくなるような新商品をすぐに作ってや」 ※遺産総額は2449億円で国内の最高記録を更新した。浅草寺の雷門と大提灯は幸之助のポケットマネーで再建された。 ※日本郵船の各務鎌吉に続いて、米タイム誌国際版の表紙を飾った2人目の日本人実業家となった。 |
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| 豊田家の墓所は丘の一番高い所 | 左から長男喜一郎、佐吉、父伊吉、先祖代々墓 | 佐吉の墓。喜一郎が3世代の墓をいっきに建てた |
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発明家・実業家。豊田式自動織機(しょっき)を発明。別名「織機王」。現・静岡県湖西市の農家に生まれる。小学校卒業後、父親の大工仕事を手伝いつつ、手織機(ておりばた)の改良に挑む。
1890年(23歳)、内国勧業博覧会で見た外国製織機をヒントに木製人力織機を発明。6年後に木製動力織機を完成させた。1910年(43歳)、欧米に紡織業視察のため渡航。そして1924年(57歳)、悲願のに自動織機を発明する。これを受けて1926年(59歳)に株式会社豊田自動織機製作所を創立した。
この頃、日本では外国製自動車が急速に普及していた。佐吉は国産自動車の生産を決意し、1929年(62歳)、英国企業に自動織機の欧州特許権を100万円で譲渡した。翌1930年、その特許料を資金に自動車国産化の夢を長男・喜一郎に託して他界する。享年63歳。同年、喜一郎は4馬力のガソリン・エンジンを完成させ、7年後にトヨタ自動車工業を創立した。
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| この墓地に隣接して、本物の釈迦 の骨が納められた奉安塔が建つ |
左から長男喜一郎、佐吉、父伊吉の墓。トヨタ 自動車工業が創立された1937年に喜一郎が建立 |
付近には豊田一族の 墓が林立している |
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トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の創立者。父は発明家の豊田佐吉。静岡県出身。1920年(26歳)、東京帝大工学部を卒業し、豊田紡織(豊田自動織機製作所)に入社。父と一緒に自動織機の開発に挑み、1924年(30歳)に完成させた。1930年(36歳)、父が自動車国産化の夢を喜一郎に託して他界。喜一郎は欧米の自動車工場を視察し、1933年(39歳)、社内に自動車部を設立し国産自動車の生産に着手した。技術問題、資金問題を克服して1935年(41歳)に試作車・A1型乗用車&G1型トラックを完成させた。
トラック量産化の目途が立ち、1937年(43歳)、豊田自動織機製作所から自動車部を独立させてトヨタ自動車工業を設立。翌年、現・豊田市(愛知県)に工場を建設し操業を開始。1939年(45歳)、大衆向けの中型乗用車「トヨタ新日本号」を生産した(400台)。 1941年(47歳)、2代トヨタ自動車工業社長に就任。乗用車量産化をスタートしようとした矢先、同年末に真珠湾攻撃があり太平洋戦争が勃発、計画は中断される。戦後、日本の自動車産業発展の基盤を築き、1952年に57歳で他界した。妻は元・高島屋社長、飯田新七の娘。長男は6代トヨタ自動車社長の豊田章一郎。次男は7代社長の豊田達郎。長女はみずほ銀行総裁の妻。豊田市役所の広場に喜一郎の銅像がある。 ※トヨタ自動車工業の初代社長は義兄の利三郎だが、実質的な創業者は喜一郎。
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| 江戸前期の豪商。故郷紀州のみかんを江戸に運び、帰りの船には塩鮭を江戸から上方に運んで大成功を収めた。通称、紀文。紀伊国出身。江戸八丁堀に住み材木問屋を開業。28歳頃、幕府の老中や勘定奉行に接近し、駿府の豪商・松木新左衛門と一緒に御用達商人として上野寛永寺根本中堂の用材を調達し巨利を得た。40代に火災で木場を焼失し材木屋は廃業する。吉原で豪遊し「紀文大尽(だいじん)」と呼ばれた。 ※他の有名な豪商は日光東照宮の修復工事を請け負った奈良屋茂左衛門。 ※左側の小さいのが墓石 |
| 日本資本主義の父。現・埼玉県深谷市の富農に生まれる。江戸で尊王攘夷運動に加わった後、24歳で一橋家につかえた。財政運用で頭角を現し、当主・一橋慶喜の15代将軍就任と同時に幕臣となる。1867年(27歳)、慶喜の弟の欧州視察に同行し、先進技術の数々に衝撃を受ける。維新後は大蔵省で財政制度の確立に励んだが内部対立で辞任。第一国立銀行や東京証券取引所などの設立を推進した。 1909年(69歳)以降は、政財界から身をひいて社会・公共事業や国際親善に尽力した。戒名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。 |
| 日産自動車、日産コンツェルン創始者。貴族院議員、参議院議員、帝国石油社長などを歴任。山口県出身。大学卒業後、芝浦製作所(東芝)に入り、2年後にアメリカで鋳物の製造技術をマスターする。1910年(30歳)、福岡にて戸畑鋳物を創業。1928年(48歳)、公衆持株会社(公開持株会社)の日本産業に改組する。1933年(53歳)、自動車製造株式会社(現・日産自動車)を創業し、乗用車を日本で初めて輸出した。 旧財閥と異なる路線の自由主義を掲げ、日産自動車、日立製作所、日本水産、日本鉱業(JXホールディングス)といった有力企業を傘下に収めた新興財閥、日産コンツェルンを築き上げる。 1937年(57歳)、日本産業本社を満州に移し、戦時中は航空機エンジンの生産など国策に協力。戦後は戦犯として巣鴨拘置所に収監された。公職追放が解除されると政界に進出し、1953年(73歳)に参議院議員に当選した。1967年、86歳で他界。 |
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| 墓石には“真浄”の2文字と家紋だけが彫られている | 階段の右脇に「盛田」 |
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| 正面左に盛田家が愛知出身 であることなど先代の話が |
そして正面右には歴代当主の 戒名が初代〜13代まであった |
どっしりと安定感のある墓域! 井深大と2人でソニーを創業 |
| 井深大(まさる)と共にソニーを創業。“世界のセールスマン”と称された。父は酒造業者。愛知県出身。1944年(23歳)、大阪帝大の理学部物理学科を卒業。海軍技術中尉になり、戦時科学技術研究会で知り合った13歳年上の井深大と熱線探知機の開発に携わる。終戦後、1946年(25歳)に、井深と「東京通信工業」を共同設立。常務取締役の盛田が営業を担当し、専務取締役の井深が技術開発を行なった。両者のモットーは「新商品で新しい市場開拓」。1950年(29歳)、日本初のテープレコーダー「G型」を完成させ、盛田が大ヒットさせた。翌年、三省堂社長の娘と結婚。 続いて1955年(34歳)に日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を発売。盛田は渡米して「SONY」ブランドで売り込みを開始した。「SONY」の名前は“SOUND(サウンド)”の語源であるラテン語“SONUS(ソヌス)”と、元気で若い企業のイメージから英語の“SONNY”(“坊や”の意)を重ねたもの。1957年(36歳)、世界最小・高性能のトランジスタラジオ「TR-63」がアメリカでヒットし、「SONY」の名が認知された。 1960年(39歳)にトランジスタテレビ、1965年(44歳)に世界初の家庭用ビデオ・テープレコーダーを開発。 盛田は徹底した海外マーケティングを行ない、各国に現地法人の販売会社を作ったことから、SONYの名は世界に広まった。1971年(50歳)、井深が会長になり盛田は社長に就任。そして1976年(55歳)には井深が名誉会長、盛田が会長に就任した。1979年(58歳)、ウォークマンを発売し爆発的にヒットさせる。1989年(68歳)、石原慎太郎と共著した「NOといえる日本」が話題になった。 盛田は非常に語学に優れ、英国では名誉英語達人賞を受けた。ニューヨーク証券取引所諮問委員会委員やIBMの役員も歴任し、国内では1991年(70歳)に勲一等瑞宝章を受章。翌年、英国王室からナイト爵の称号と名誉大英勲章を贈られた。1993年(72歳)、脳内出血で倒れ財界から身を引き、ハワイで静養に入る。1998年(77歳)、米誌「タイム」が企画した“20世紀の20人”に、日本人でただ1人選出された。1999年、肺炎により他界。享年78歳。戒名は盛昭院天涯敬道上座。 |

| 世界初の総合商社・三井物産を設立。日本経済新聞を創刊。佐渡出身。江戸に出てヘボン塾に学び、アメリカ公使館に勤めてハリスに英語を教えて貰った。1863年(15歳)、幕府役人の父と渡欧し、帰国後に幕府陸軍に入隊する。維新後、横浜で貿易商館に勤務。1872年(24歳)、井上馨の誘いで大蔵省に入省。1874年(26歳)、井上と先収会社を設立し副社長となる。 1876年(28歳)、中外物価新報(現・日本経済新聞)を創刊。同年、三井物産を設立し初代社長に就任する。1880年、ロンドン支店を開設して欧州へ米を輸出した。石炭、綿糸など多様な物品をアジア各地へ輸出し、日本の貿易総額の約2割を占めるまで成長させた。 1889年(41歳)、「三池炭鉱社」(三井鉱山)を設立し団琢磨を事務長に迎える。1900年(52歳)に台湾製糖を設立。1913年(65歳)に引退。茶人・鈍翁としては「利休以来の大茶人」と称された。1938年、90歳で他界。男爵。 ※三井家…17世紀に伊勢の商人・三井高利が江戸日本橋に呉服店越後屋(三越)を開店し、両替商にも手を広げ、京都、大坂に店舗を構える三都御用商人となった。明治新政府の政商となり、三井物産(益田孝が経営)、三井銀行(中上川彦次郎が経営)、三井鉱山(米国で鉱山学を学んだ団琢磨が経営)の3企業を軸に発展し、鐘淵紡績(カネボウ)、王子製紙、芝浦製作所(東芝)、富岡製糸場などを傘下にした。 |

| 三井中興の祖。中上川は“なかみがわ”と読む。大分県出身。父は中津藩士。福澤諭吉の甥(母が諭吉の姉)。慶應義塾を卒業後、イギリス留学を経て工部省に入省。井上馨の知遇を得、共に外務省に入った。1887年(33歳)、山陽鉄道(JR山陽本線)の社長に就任。 1891年(37歳)、経営危機に陥った三井銀行を建て直す為に、井上馨の要請を受けて三井財閥に入った。中上川は益田孝と共に不良債権処理を断行するなど財政の健全化を図り、芝浦製作所(東芝)、鐘淵紡績(カネボウ)、王子製紙を傘下に置き三井財閥の工業化を進めた。1901年、腎臓炎により47歳の若さで他界。 |
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| 安田家墓所は非公開だけど格子から中が見える | 中央の墓が本家。側の墓には“分家”と入ってた | 「安田氏累代墓」 |
| 安田財閥の創始者。“銀行王”。富山県出身。幼名、岩次郎。父は富山藩の足軽で半農半士。1858年(20歳)、江戸にあがり玩具問屋などで奉公し、1864年(26歳)、日本橋に海産物商兼両替商の「安田屋」を開いた。2年後、海産物商をやめて両替専門に特化。「安田商店」に改名し、明治新政府の官公金を扱って莫大な利益を得た。1876年(38歳)、第三国立銀行(第三銀行)を設立。吸収合併を繰り返して支店を増やし、1880年(42歳)に「安田銀行」(現・みずほ銀行)を設立した。1882年(44歳)、新たに開業した日本銀行の理事に就任。「銀行王」と呼ばれた。 1893年(55歳)、帝国海上保険(現・損保ジャパン)を設立し、翌年には共済生命保険会社(現・明治安田生命保険)を設立するなど、金融財閥へと爆進する。 大正末期の不況の中、善次郎は東大安田講堂、日比谷公会堂、麹町中学校の校地などを寄贈したが、1921年、国粋主義者・朝日平吾に“富を社会に還元せず富豪の責任を果たしておらず天誅に値する”と大磯の別荘で刺殺された。朝日平吾はその場で剃刀で首を切り死亡。戒名は正徳院釈善貞楪山大居士。 オノ・ヨーコの曽祖父でショーン・レノンの高祖父にあたる。 「五十、六十は鼻たれ小僧 男盛りは八、九十」(安田善次郎) |
| 日立製作所創業者。栃木県出身。1910年(36歳)、久原鉱業所・日立鉱山の工作課長をしていた小平が、同鉱山の電気機械の修理を行なう日立製作所を創業(茨城県日立市)。やがて製作したモーターや発動機を外部へも売り始め、1920年(46歳)、久原鉱業所から独立する。後に大阪鉄工所(日立造船)や東京瓦斯電気工業などを買収合併し、グループは成長していった。1951年、77歳で他界。 |
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| 左が喜八郎、右が夫人 | 徳川家のような墓 |
| 大倉財閥の創設者。越後国(新潟県)出身。1854年(17歳)、江戸へ上京し鰹節店に勤める。20歳で乾物店を開業し、1867年(30歳)に鉄砲店を開く。折しも戊辰戦争が勃発し武器販売で利益を得た。1872年(35歳)、1年半をかけて欧米を視察した喜八郎は、帰国後に大倉組商会を設立し、外国との貿易だけでなく、台湾出兵、西南戦争、日清・日露戦争における(三菱、三井を超える)軍需品調達で莫大な富を得た。 3歳年下の渋沢栄一と深く親交を結び、協力して1878年(41歳)に東京商法会議所(現・東京商工会議所)を設立。1883年(46歳)に東京電灯会社(東京電力)と鹿鳴館、1885年(48歳)に東京瓦斯会社(東京ガス)、1887年(50歳)に帝国ホテル、1893年(55歳)に大倉土木組(大成建設)、1906年(69歳)に大日本麦酒会社(後にアサヒビールとサッポロビールに分割)、1911年(74歳)に帝国劇場の設立に関わった。1915年(78歳)、男爵を授与された。 |
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| なんという大規模な墓域! 護国寺は講談社本社のすぐそば |
こちらは戒名が刻まれた墓(右端)。 この墓の背後に見えている墓石が→ |
「野間清治墓」とある巨大墓。どうして 戒名の墓と2種類造ったのかは不明 |
| 講談社創業者で「雑誌王」と呼ばれた。また、報知新聞社やキングレコードの社長も務めた。群馬県出身。小学校、中学校の教師を経て、1909年(31歳)に大日本雄弁会を創設。翌年に弁論雑誌「雄弁」を創刊する。 1911年(33歳)、講談社を設立して「講談倶楽部」を創刊し、その後の10年間に「少年倶楽部」「面白倶楽部」「婦人倶楽部」「現代」と次々と人気雑誌を刊行していった。1925年(47歳)に創刊した大衆娯楽雑誌「キング」は、発行部数100万部を超える大ヒット作となった。この年、講談社と大日本雄弁会を合併させ、社名を「大日本雄弁会講談社」とした。 1938年に59歳で死去。他界の3年後、野間賞が設けられた。没後20年にあたる1958年に、社名が「講談社」になった。剣道を深く愛していたことでも知られる。 |
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| 正面右側が佐藤喜亮 | 新潮文庫いっぱい持ってます! |
| 新潮社創業者。名前の義亮は“ぎりょう”とも読む。秋田県出身。父は荒物屋。文学青年であり、1895年(17歳)に上京、秀英舎(現・大日本印刷)の工場で働く。やがて、雑誌への投稿文が評価されて校正係に抜擢され、自ら出版事業を始める大志を抱く。支援者を得て1896年に18歳の若さで新声社(現・新潮社)を創業。主に田山花袋らの自然主義文学を出版する。1904年(26歳)に文芸誌『新潮』、1914年(36歳に新潮文庫を発行した。1951年に死去。享年73歳。戒名は真澄院釈義照居士。他界の5年後(1956年)に保守系週刊誌『週刊新潮』が創刊された。 |
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| 墓域全景。長谷寺墓地の奥の方 | 宮崎駿監督に資金援助! | ジブリの社長に就任 | 墓前には仏像が7体もあった |
| 初代の徳間書店社長。スタジオジブリ社長や大映社長も歴任した。実業家としてだけでなく、映画やレコード・プロデューサーとしても腕を振るった。1984年(63歳)、一般的には無名に近かった宮崎駿(当時43歳)の才能を見出して製作面で支援し、『風の谷のナウシカ』を世に送る。その後も、『天空の城ラピュタ』(1986)、『となりのトトロ』(1988)、『魔女の宅急便』(1989)、『紅の豚』(1992)で製作を担当し、『もののけ姫』(1997年)や遺作となった『千と千尋の神隠し』(2001)では製作総指揮にまわった。 実写映画でも、『敦煌』(1988)、『おろしや国酔夢譚』(1992)、『Shall we ダンス?』(1996)、平成ガメラ・シリーズで製作総指揮になっている。『ガメラ2 レギオン襲来』(1996)では内閣官房長官役でカメオ出演した。 ※宮崎監督にいくら才能があっても製作資金がなければ映画を作れないわけで、その点で徳間康快はアニメ・ファンの恩人ともいえる。 |
| 中央公論社の名社長。軍の弾圧と戦った反骨の出版人。奈良県生まれ。1912年(25歳)、早稲田を卒業し中央公論社に入社。名編集者滝田樗陰(ちょいん)の助手をしながら企画した婦人問題特集が話題となり、1916年(29歳)に新雑誌「婦人公論」の編集長となる。1925年(38歳)、滝田が他界し「中央公論」主幹を兼任。1928年(41歳)、中央公論社の社長となる。嶋中は近代的な経営を目指し、就任翌年に出版部を新設。「西部戦線異状なし」が大ベストセラーとなり手腕が注目された。また、谷崎潤一郎や永井荷風など作家を積極的に援助した。 1936年(49歳)、二・二六事件が勃発。以降、反軍国主義、自由主義的な姿勢を貫く中央公論社への弾圧が激しくなる。1938年(51歳)、「中央公論」掲載の石川達三『生きてゐる兵隊』が反軍的であるとして発禁処分を受け、嶋中や石川は新聞紙法違反で起訴された。谷崎の連載『細雪』も「時局に相応しくない」と二回で中断される。 1942年(55歳)、太平洋戦争下の大規模な言論弾圧事件“横浜事件”が起きる。これは神奈川県の特高警察が架空の共産党再建謀議をでっちあげ、中央公論社の編集者ら数十人が検挙されたもの。取り調べは過酷を極め4人が獄死した。そして1944年(57歳)、情報局通達の解散命令で「中央公論」は廃刊となる。 終戦と同時に、嶋中は中央公論社を執念で再建し、1945年の年末に「中央公論」復刊第1号を刊行。翌春には「婦人公論」も復刊した。終戦から4年後(1949年)、嶋中は波乱の人生を閉じる。享年61歳。 |
| 我が国初となる日本語の日刊新聞「横浜毎日新聞」創業者。長崎出身。通称、子之助。陽其二(よう・そのじ)は30歳の時に明治維新を迎えた。1870年12月8日(31歳)、横浜毎日新聞を印刷。日本最初の日刊邦字紙であるだけでなく、国産の活字を使用し、従来の木版刷り&和紙ではなく、活版刷り&洋紙一枚両面という画期的新聞となった。3年後に印刷業の景諦社を設立した。号は天老居士。 同紙は「東京横浜毎日新聞」→「毎日新聞」→「東京毎日新聞」と名前が変わり、他界の34年後、日米開戦直前の1940年に廃刊となった。 ※現在の「毎日新聞」は日本最古の日刊紙ではあるけど、まったく別会社のもの。陽其二が横浜毎日新聞を創刊してから2年後、1872年に誕生した「東京日日新聞」が、1911年に「大阪毎日新聞」と合体 し、1943年に社名が「毎日新聞」となった。 |
| 博報堂創業。富山県出身。1895年(43歳)、東京都日本橋に広告取次店「博報堂」を開業。当初は教育雑誌を対象にしていたが、新聞や一般誌の広告も取り扱うようになった。1910年(58歳)、日刊『内外通信』を発刊し、通信社事業にも乗り出す。1939年に他界。社名は「内外通信社博報堂」を経て1955年に博報堂に戻った。 |
| 三越百貨店創業者。日本初の百貨店を作った人物!父は久留米藩士。商社勤めを経て、1896年(36歳)に三井銀行に入社。2年後に三井中興の祖・中上川彦次郎の依頼で三井呉服店に入る。1904年(44歳)、三越呉服店が開業し専務取締役に就任。1906年(46歳)、欧米視察の際にロンドンのハロッズ百貨店に大きな刺激を受ける。 1913年(53歳)、三越呉服店会長となり、翌年荘厳な洋風建築の日本橋三越本店を建設した。子どもに「雷音」と付けるほどライオン好きで、三越本店の正面玄関にライオン像を設置した。 |
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| 広大な鎌倉霊園の一番上に墓所がある |
一般人はここまでしか行けない。セコムが発動する |
頂上に墓があるというけど写真で見たことない… ヘリポートも備え付けてあるそうだ |
| カルピス創業者。1917年(39歳)、乳酸菌入りのキャラメルを販売するラクトーを設立。1919年(41歳)、モンゴル人の飲み物をヒントに、脱脂乳を乳酸発酵させて加糖し、カルシウムを添加した乳酸菌飲料を発売する。三島はこの商品を、カルシウムと梵語(サンスクリット語)で“最高の味”を意味するサルピスを合成して“カルピス”と名付けた。「初恋の味」というキャッチコピーが大当たりし、国民的な飲み物になっていった。 |
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| 森永家の墓所 | 中央が太一郎。皆クリスチャンで側面に聖書の言葉 | 「罪人の中 我は音なり」と刻む |
| 森永製菓創業者。佐賀県出身。10代後半から行商を始め、焼き物を販売すべく渡米するも不振に終わる。再起を賭けた2度目の渡米で洋菓子の製造技術を学び帰国。1899年(34歳)、赤坂に森永西洋菓子製造所を創業する。当初の主力商品はマシュマロ。6年後にエンゼルマークを商標登録。1912年(47歳)、社名を森永製菓に改称。1914年(49歳)、ミルクキャラメルを発売。1918年(51歳)にチョコレート、1923年(58歳)にビスケットの量産体制を整える。晩年はキリスト教の伝道に尽力した。元首相・安倍晋三夫人は曾孫。 |
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| 午後の木洩れ陽が良い感じ。ラガービールを飲みたくなる | 「米井家之墓」 |
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| 広大な墓域! | 右が総一郎、左が夫人 | 一代で70社という浅野財閥を築いた | 背後に「初代浅野総一郎」 |
| 浅野財閥の創設者。京浜工業地帯を立案。富山県出身。23歳で上京。砂糖水売り、竹の皮(包装用)売りを経て1874年(26歳)に薪炭(しんたん)商になる。コークス(石炭を蒸し焼きした燃料)の販売で成功し、1883年(35歳)、渋沢栄一の支援で官営深川セメント製造所を創業する。これを日本最大のセメント・メーカーに成長させ、同郷の銀行家・安田善次郎の協力で、日本初の太平洋定期航路を持つ東洋汽船を1896年(48歳)に設立。 1898年(50歳)に浅野セメント(日本セメント)、1916年(68 歳)に浅野造船所(日本鋼管、現JFE)、1918年(70歳)に浅野製鉄所を設立するなど、第1次世界大戦の特需で事業を拡大させた。一代でセメント、造船、貿易、炭鉱、製鉄など、関係会社70社に及ぶ浅野帝国を築き上げた。 |
| 花王創業者。24歳で東京の日本橋に洋小間物商の長瀬富郎商店を創業。1890年(27歳)、月のマークの“花王石鹸”の販売を開始する。1911年に他界。長瀬の死から14年後、1925年に社名が花王石鹸となる。他界21年後に“花王シャンプー”、その2年後(1934年)に洗濯石鹸“ビーズ”、さらに4年後に日本最初の家庭用合成洗剤“エキセリン”を発売し、日本の石鹸、洗剤業界を牽引した。戒名は大法院教徳日富居士。 |
| 御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。真珠養殖の先駆者であり、“真珠王”と呼ばれた。三重県出身。家はうどん屋。乱獲によって絶滅の可能性があったアコヤガイ(真珠貝)の養殖に取り組み、1905年(47歳)、天然に匹敵する美しさの真円真珠の養殖に成功した。海外にも販売網を構築し、96歳まで長寿した。 |
| 東京出身。1948年(21歳)、東京文化学院卒。1951年(24歳)、第一企画宣伝を設立。ラジオをメインに取扱う広告会社としてスタート。1961年(34歳)、第一企画に社名を変えて社長に就任。4年後にアニメ部門の第一動画を設立し、1968年(41歳)、全国のチビッコを震え上がらせた『妖怪人間ベム』を世に送った。境の死の6年後、1999年に旭通信社と合併し、社名をアサツー
ディ・ケイとする。国内 広告代理店としての年間売上高は、電通、博報堂に次いで第3位。アサツー ディ・ケイは『∀ガンダム』『機動戦士ガンダムSEED』『機動戦士ガンダム00』『ドラえもん(大山)』『蟲師』の制作に関わっている。 |
| 浅田飴の処方を考案。漢方医、儒学者。現・長野県松本市出身。1866年(51歳)に徳川将軍家の典医となり、1876年(61歳)に宮内省侍医になる。明治政府の漢方廃止政策に反対し漢方保存に取り組んだ。フランス公使ロッシュ、嘉仁親王(大正天皇)の生命を救う。 1894年に他界。享年78歳。(株)浅田飴の創業者・堀内伊太郎の父は浅田宗伯の書生(下宿学生)。 |
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| 団家の墓所。右端の大きい墓が琢磨 | 中央の小さい墓は、孫で作曲家の伊玖磨 |
| 三井財閥の総帥。工学博士。男爵。作曲家・団伊玖磨は孫。福岡県生まれ。1871年(13歳!)、岩倉使節団と渡米し、マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学び7年後に帰国。東大理学部助教授を経て1884年(26歳)工部省に入省、三池鉱山局技師となる。採炭技術の習得のために渡欧。1894年(36歳)、三井鉱山合名会社専務理事に就任し、三池炭鉱の近代化に尽力。その結果、三井鉱山の利益は三井銀行を追い抜き、三井物産と肩を並べるまでになった。三井グループ中で発言力を増した琢磨は、1914年(46歳)、益田孝にかわって三井合名会社理事長に就任し、三井財閥の総帥となる。 1922年(54歳)、第2の“渋沢”と言われた井上準之助と日本経済連盟会(経団連の前身)を設立し、6年後に会長となり財界の顔となった。昭和恐慌の際に三井財閥がドル買いによって利潤を上げていたことから、右翼団体“血盟団”に「私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」と見なされ、1932年3月5日、東京・日本橋の三井本館正面玄関前で団員・菱沼五郎に拳銃で暗殺された。犯人の菱沼は無期懲役判決を受けたが、わずか6年で仮出所し、小幡五朗と改名、1958年に茨城県議会議員に当選し、8期連続当選、県議会議長まで務めて県政界の実力者となった。 労働組合法の制定に反対していたことから、僕は長年墓巡礼に行かなかったけれど、福岡藩士の馬廻役の子に生まれ、養子に出され、そこから日本財界のトップ(現・経団連会長)まで登り詰めたバイタリティは、それはそれとして評価できると思うようになり巡礼。 ※九州新幹線新大牟田駅前に銅像が建つ。 |
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