世界の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

義賊、アウトロー、姫君、遊女、町娘コーナー


★28名


アベラール&エロイーズの墓
ジュリエットの墓

アル・カポネの墓
ビリー・ザ・キッドの墓
“バグジー”シーゲルの墓
ジェシー・ジェームズの墓
デリンジャーの墓
ボニー・パーカーの墓
クライド・バロウの墓
ラッキー・ルチアーノの墓



篤姫(天璋院)の墓
阿亀(おかめ)の墓
天満屋のお初の墓

信濃屋お半&帯屋長右衛門の墓
春日局の墓
清姫の墓

江(崇源院)の墓
小春&紙屋治兵衛の墓

千姫の墓
八百屋お七&西運上人の墓
夕霧の墓
淀殿(茶々)の墓

会津小鉄の墓
石川五右衛門の墓
腕の喜三郎の墓
新門辰五郎の墓
助六&揚巻の墓
ねずみ小僧次郎吉の墓
幡随院長兵衛の墓



★ビリー・ザ・キッド/Billy the Kid 1859.11.23-1881.7.15 (USA、ニュー・メキシコ州 21歳)2000
Old Fort Sumner Cemetery, Fort Sumner, DeBaca County, New Mexico, USA

徒歩往復8時間!ヒョエ〜! この車が止まってくれた カウボーイ・ロープをグルングルン

この田舎町フォート・サムナーはバスが1日に1本しかなくて、入るのも出るのも大変だった。しかも町からキッドの墓地まで片道徒歩4時間という過酷さ。トボトボ歩いていた僕を車で拾ってくれたのが、このローリーさんだ。彼は土産に写真のカーボーイ・ロープをくれた。氏は笑いながら、「お前は日本に帰ったらこのロープを持って街へ出て、プリティ・ウーマンをゲットするんだ」だって。

 
墓参者が墓を削って持ち帰るため今は檻の中に墓がある。地元の人は
「ビリーは生前に看守を殺して脱獄したので、2度と脱獄できないよう
墓ごと牢屋にぶち込まれているんだ」と語っていた。な、なるほど(汗)
町の安宿に掛かっていたキッド
の肖像。相手を撃つ時の決め
セリフ「お前を有名にしてやる」

左利きの伝説的な早撃ち少年ガンマン。空中に投げた空き缶が地面に落ちるまでに6発当てることができたという。本名はヘンリー・マッカーティーとウィリアム・H・ボニーの2説がある(前者が有力だが映画『ヤングガン』は後者を採用)。身長は160cm未満で小柄&華奢(きゃしゃ)だったことから“キッド”の渾名が付いた。伝説では12歳の時に母親を侮辱した男を殺したのを皮切りに、アウトローとして各地で武名を轟かす。
1877年(18歳)、用心棒として24歳の若き牧場経営者ジョン・タンストールに雇われる。タンストールが敵に雇われたギャング団に殺害されたことから、ビリー達は10人強で「レギュレーターズ(整理屋)」を結成し、ここに敵側との全面抗争(リンカーン郡戦争)が勃発。
やがてニューメキシコ州知事から500ドルの賞金をつけられ、1880年12月に友人でもあった保安官パット・ギャレット(1849-1908)に仲間たちと共に逮捕された。5カ月後にビリーは看守を殺して脱獄するが、3カ月後の1881年7月14日にパット・ギャレットの手で射殺された。ビリーは丸腰で寝室を出たところを撃たれた。享年21歳。ビリーは年齢と同じ21人を殺害したと伝わる。亡骸はニューメキシコ州のサムナー砦に埋められた。
墓標には『Truth and History.21 Men.The Boy Bandit King/He Died As He Lived』(真実と経歴。21人(を殺害)。少年悪漢王 彼は彼らしく生きて死んだ)と刻まれている。

※ちなみにパット・ギャレットは32歳でビリーを射殺。引退後に牧場を経営していたが1908年に土地売買のトラブルで背後から撃たれて他界。享年58歳。


★クライド・バロウ/Clyde Barrow 1909.3.24-1934.5.23 (USA、テキサス州ダラス 25歳)2009
Western Heights Cemetery, Dallas, Dallas County, Texas, USA










クライドの最期は映画になった

アウトローなのに彼の墓には花がいっぱい

2本の木に挟まれている

ボニーの墓前に
あった小石を供えた

クライドは前年に射殺された兄貴と同じ墓に眠っている。映画『俺たちに明日はない』の実在したモデル。



★ボニー・パーカー/Bonnie Parker 1910.10.1-1934.5.23 (USA、テキサス州ダラス 23歳)2009
Crown Hill Memorial Park, Dallas, Dallas County, Texas, USA




生け垣の手前の小さな花が目印 20代前半の女ギャング 映画『俺たちに明日はない』より

ボニーの墓は彼女の母親と並んでいた。映画『俺たちに明日はない』の実在したモデル。



★ラッキー・ルチアーノ/Charles "Lucky" Luciano(Salvatore Lucania) 1897.11.24-1962.1.26 (USA、NY州 64歳)2009
Saint John Cemetery, Middle Village, Queens County, USA

  

本名サルヴァトーレ・ルカーニア。コーサ・ノストラの最高幹部でニューヨークの裏社会を支配。マフィア史上最大の大物。



★アル・カポネ/Alphonse Gabriel Capone 1899.1.17-1947.1.25 (USA、イリノイ州 48歳)2009
Mount Carmel Cemetery, Hillside, Cook County, Illinois, USA  Plot: Section 35







カポネ一族の墓域。付近はカポネだらけ

禁酒法時代に活躍した彼らしく、墓前には
本物のウイスキー(&タバコ)が供えられていた
千人以上巡礼したけれど、墓に
ウイスキーがあったのは初めて

禁酒法下で酒の密売を牛耳り、「暗黒街の帝王」として1925年(26歳)から1932年(33歳)までシカゴの夜の世界を支配した。身長179cmで当時としては大柄。ニックネームは顔の傷により「スカーフェイス」。
1929年2月14日「聖バレンタインデーの虐殺」では、偽警官に分した部下が対立したギャング組織6人と通行人1人の7人を処刑し、これによってカポネは社会の敵と認定された。翌年、批判をかわすため、シカゴにて1日に3度の無料給食を提供する慈善事業を開始。イメージアップに成功する。
だが1931年(32歳)に脱税で検挙・収監され、8年間の監獄生活の後、1939年(40歳)に釈放された。その頃には神経梅毒で狂人となっており8年後の1947年1月25日に病死。ニューヨーク・タイムズは「悪夢の終わり」と祝った。

墓所はシカゴの郊外だが、次々と墓参者が訪れていた。アンチ・ヒーローとしての人気は健在。「他人が汗水たらして稼いだ金を価値のない株に変える悪徳銀行家は、家族を養うために盗みを働く気の毒な奴より、よっぽど刑務所行きの資格がある」(カポネ)。

※宿敵エリオット・ネス捜査官の墓はコチラ



★ジョン・デリンジャー/John Herbert Dillinger Jr 1903.6.22-1934.7.22 (USA、インディアナ州 31歳)2009
Crown Hill Cemetery, Indianapolis, Marion County, Indiana, USA  Plot: Lot 44/700 West 38th Street





ジョニー・デップが演じた映画が大ヒット
し巡礼者が激増!事務所前には門から
墓までの道のりが張り出されていた
デリンジャー家の墓標


ジョンの墓には彼の半生や墓地の
歴史を紹介したチラシが置いてあった


「デリンジャー家」の大きな墓石とジョンの墓石が背中
合せ(逆方向)になってる不思議な設計。普通は同じ
方向なんだけど、何か意味があるのかな?
お爺ちゃん、パパ、孫の男3代で巡礼!映画が
良かったので隣州(イリノイ)から来たそうだ。
“男が惚れる男デリンジャー”って感じっすね!



★ジェシー・ジェイムズ/Jesse Woodson James 1847.9.5-1882.4.3 (USA、ミズーリ州 34歳)2009
Mount Olivet Cemetery, Kearney, Clay County, Missouri, USA

1866年、19歳のジェシーは世界初の銀行強盗
を行なった。最期は賞金首を狙う仲間に殺された
墓地の近所の農場にあるジェシーの博物館。
最初はここに埋葬されていたという
博物館の職員の人が親切にも改葬先の
墓地まで車で案内して下さった!

  
イケメンのアウトローは墓地のかなり奥の方に眠っていた

南北戦争直後の1866年2月13日、ジェシー&フランクのジェイムズ兄弟が戦友たちと結成した強盗団が、ミズーリ州で世界で初めて銀行強盗に成功。



★ベンジャミン“バグジー”シーゲル/Benjamin“Bugsy” Siegel 1906.2.28-1947.6.20 (USA、カリフォルニア州ロス 41歳)2009
Hollywood Forever, Hollywood, Los Angeles County, California, USA

 

ラスベガスを作ったギャング。豪放な性格だがハンサムでオシャレだった。あだ名は“害虫”の意味のバグジー(Bugsy)。



★ねずみ小僧次郎吉/Nezumikozou Jirokichi 1795-1832.8.19 (東京都、墨田区&荒川区、回向院 37歳)2000&04&05&08
※生年は1797年説あり
鼠小僧は罪人として斬首され、頭部と胴体の墓が別々にある。二ヶ所とも同じ名前(回向院)の寺なので混乱なされぬよう。






両国の墓(頭部)。鼠小僧は長く逮捕されなかったの
で、その強運にあやかろうと、昔から墓石をお守りに削
っていく墓参者が絶たなかった。業を煮やした寺側が
とった作戦が、手前の白い「お前立ち」を置く事だった!
立札の鼠小僧が「こちらの
“お前立ち”をお削り下さい」
とうながしているッ!(笑)
丁寧に削り用の石
(黒いヤツ)まで
用意されていた!
(2004)
 
うおー!2005年に巡礼したら、なんと「お前立ち」が新しくなっていた!戒名も消えずに残ってて読める!こんな真新しい
状態を見られるなんて…なんだか歴史的瞬間を目撃したような気分だった。戒名は『教覚速善居士』。“教覚”は侠客の
洒落かな?大泥棒なのに「教えを善く速く覚える」って、戒名を付けたお坊さんはユーモアがありますね。

2000 網アリ 2004 網ナシ 2005 花づくし 2008 なんと史跡コーナーに引っ越し
一方、こちらは南千住の回向院にあるお墓(胴体)。2000年に訪れた時は、「お前立ち」を置かない代わりに、網で囲って防御するという王道ともいえる対策を講じていた(網は破られ削られてはいたが)。ところが04年に再訪すると、網が消えていた!現住職が「罪人でも死ねば魂は浄化されるているはず。なのに、網がかかっていては、死んでも牢屋に入っているようで可哀想だ」と取り払ったとのこと!2005年はものすごい量の花に埋もれていた!(命日でも彼岸でもないのに何事!?)。そして2008年。なんと墓所が大改装され、吉田松陰らと一緒に特別区画・史跡コーナーに移動していた!

  
仰天!南千住の墓をよく見ると、墓石の後ろにもうひとつ、先代の古いちびてしまった墓石があった!
この先代の墓が何代目なのかは、墓地の人も知らないという。約200年の間に何人の人が削ったのだろう…


江戸後期の義賊、大泥棒。本名、町田次郎吉。日本橋中村座の木戸番(通行人の勧誘係)の子として生れる。幼児期からの身軽さを生かして鳶人足(とびにんそく)となった後、博打に熱を上げ、1823年(28歳)から資金稼ぎのため泥棒稼業に手を出す。彼が他のコソ泥と違ったのは、町民の長屋には入らず、大名・旗本など権力者の武家屋敷のみを狙う大胆さだった。武家の場合、金があるのはもちろんだが、奉行所に被害届けを出せば「盗賊に入られた情けない武士」として面子が潰れるので、泣き寝入りせざるを得ないと言うソロバン勘定もあった。

鼠のように天井裏から侵入するので彼には”鼠小僧”の異名がつく。28カ所、32回の盗みを行なった時点で一度捕まり、入れ墨刑を受ける。しかし彼は改心せず、1832年(37歳)5月9日、日本橋浜町の松平宮内少輔宅で二度目の捕縛。この時の自白によると、その間の約10年でさらに71カ所、90回に及ぶ盗みを重ねていた。次郎吉が生涯に侵入した屋敷は99軒、被害総額は約3120両(一両10万円として3億強)。最期は市中引き回しのうえ江戸最大級の刑場・小塚原刑場で磔にされ、獄門(=首さらし)に処された。その後、首は墨田区両国の回向院に、胴体は荒川区南千住の回向院に埋葬された。墓を建てたのはヒーロー好きの商人・伊勢屋四郎兵衛と伝えられている。

日ごろ威張っている大名をターゲットにし、人を傷付けずに現金だけ盗み去り、さらにはその金を貧民に分け与えたとあっては、噂好きの江戸っ子が放っておくわけがない、たちまち義賊とよばれて早くから講談や歌舞伎に登場するようになった。(自白では金の使い道は博打や酒食とされているが、次郎吉人気を抑える為の奉行所の策かも知れず真相は分からない)
 
僕は最初、回向院が2ヶ所あること、そして両方に次郎吉の墓があるとは思いもせず、南千住の胴体の墓(この表現、リアルすぎ…)に墓参した。次郎吉の墓石は金網が被せられていたので、“これはあの世で脱獄せぬようってコト?”などと疑問が湧いたので、墓地を掃除してたおじさんに理由を訊くと、古来から強運のお守りとして次郎吉の墓石を削っていく人があとを絶たず、こうして防御しているとのことだった(でも、網が破られてるよ…)。後日訪れた頭の方の回向院には、墓の正面にわざわざ「お前立ち」という“削られ役”の石碑があった。さすがは本墓!(最近は「スルリと入る」ということで、受験生が削っていくことも多いという)
 
※回向院は明暦3年(1657)の江戸時代最大の大火による犠牲者10万8千人を弔うため、4代将軍家綱が建てた日本一の無縁寺。諸宗山無縁寺と号し、地震や洪水の死者、牢死者など宗派は関係なく無縁仏が葬られてきた。また、犬猫など動物も分け隔てなく弔っている。
※次郎吉の墓は本墓の回向院以外にも、愛知県藤岡町(回向院から正式に分骨)、同県蒲郡市の他、全国にある。



5代目尾上菊五郎演じる鼠小僧(国周画)




立派な山門がある両国の回向院
墓の台座には鼠小僧役が大当たりした歌舞伎役者市川
団舛(?)の名があった。彼が立派な墓を寄進したのだろう



★石川 五右衛門/Goemon Ishikawa 1558.12.12‐1594.8.24 (京都府、東山区、大雲院 35歳)1999&10

1851年、市川小団次が演じる
五右衛門(歌川国明画)
市川猿之助が『楼門五
三桐』で
演じた五右衛門
こちらは十三代目。子孫
は剣豪になったようだ

5月3日に訪れたらツツジが満開だった!(1999) 11年ぶり。鼠小僧と同様に上部が少し削られていた(2010)

安土桃山時代の盗賊。出身地については、丹後守護・一色義俊の家臣石川秀門の次男石川五良衛門という京都北部野田川説(秀吉の伏見城から千鳥の香炉を盗んだという=丹後旧事記)、“石川”が流れている河内国石川村説(現在も五右衛門が休息したという石が南河内郡太子町に残っている)、三好家の家臣・石川明石の子という遠州浜松説、忍者として修業を積んだという伊賀・交野郡説等々諸説ある。

五右衛門は処刑から約150年目(1737年)に人形浄瑠璃『釜淵双級巴』で復活し、約200年後の1778年に歌舞伎『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』で大ブレイクする。舞台では彼がアジトにしている南禅寺山門の上から京の都を見下ろし「絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千金とはちいせえ、ちいせえ」とカッコよく大見得を切る。庶民はこのアンチ・ヒーローに拍手喝さいした。
大名や公家まで標的にした盗賊団のリーダーが江戸期に入ってヒーロー化した裏には、幕府の意向が働いている。大坂の陣の後も豊臣方を何としても悪にしたかった幕府は、秀吉にたてついた五右衛門を義賊として考える方が好都合だったからだ。

実際、五右衛門は秀吉の治世で大暴れしたようだ。秀吉は京都奉行・前田玄以(げんい)に命じて一味を捕縛させたというが、たかが泥棒を捕らえるのにわざわざ最高権力者の太閤秀吉が勅命を出すのが異例だし、処刑の方法も他に例がない“釜茹での刑”という見せしめの意味合いが強いもの。そこまで秀吉を怒らせたということが、庶民には痛快だったのだろう。人々は五右衛門のことを反権力の義賊と考え、講談では関白秀次(秀吉の甥)から秀吉暗殺の密命を受けた五右衛門が伏見城に潜入し、秀吉を手にかける寸前で捕まったとか、秀吉に「本当の大泥棒は天下を盗ったお前だ」と言い放ったとか、どんどんスケールがでかくなっていった。
 
1594年8月23日に京都の三条河原で執行された五右衛門一味の処刑は、異国の宣教師までが記録に残しており、当時の人々にとってもかなり凄絶なものだったようだ。熱湯の大釜に放り込まれたのではなく、グラグラに煮立つ油(!)の中で息子もろとも煮殺され、その側では盗賊仲間だけでなく母親まで約20名が磔になったという。

公家の山科言経(やましなときつね・1543‐1611)が残した日記『言経卿記(きょうき)』には「(群集が見守る中)盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり」と書かれ、『続本朝通鑑』には「頃年、石川五右衛門といふ者あり。(略)秀吉京尹前田玄以をして遍く之を捜らしめ、遂に石川を捕らふ。且つその母並に同類20人許りを縛り、これを三条河原に烹殺す」とある。江戸前期の儒学者・林羅山は自身が編集した『豊臣秀吉譜』に「文禄の頃、石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉が京都所司代の前田玄以に逮捕させ、母親以下同類二十八人と共に三条川原で煎り殺した」と記した。沢庵禅師も随筆で触れている。当時日本に滞在中の貿易商人アビラは『日本王国記』(ローマのイエズス会文書館が所蔵)の中で「都を荒らしまわる盗賊団のうち15人の頭目が捕えられ、京都三条の川原で生きたまま煮られた」と書き、この文には処刑時にイエズス会の京都修道院長だったペドロ・モレホンという宣教師が、「首領の名は“Ixicavagoyemon”、煮られたのはその家族9人ないしは10人であった」と注釈を付けている。

五右衛門が処刑寸前に詠んだものとして、後に創作された辞世の句は『石川や浜の真砂(まさご)は尽きるとも世に盗人(ぬすびと)の種は尽きまじ』。彼は自分が絶命するまで、釜の中で我が子を両手で抱え上げていたという。
戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」。墓碑には「昭和五十四年三月吉日、四条寺町大雲院墓地ヨリ当地円山町大雲院境内墓地ニ移転ス」とあった。
 
※五右衛門を煮た釜は戦前まで東京の刑務所協会に保存されていたらしい。おそらく戦時の物資不足の中、鉄資源として溶かされたのだろう。
※この処刑は「五右衛門風呂」の語源になった。『東海道中膝栗毛』には、桶底の釜が鉄製の風呂が関西に流行り、少ない燃料で焚けて経済的と書かれている。浮蓋(うきぶた)の板を踏みながら底板にして入浴する。



★幡随院(ばんずいいん)長兵衛/Banzui Tyoube 1622-1657.7.18 (東京都、台東区、源空寺 35歳)2002
※歌舞伎ではバンズイと発音することが多い



向かって左が“長兵衛”、右が妻の“きん” 「幡随院長兵衛・坂東三津五郎」国芳画

「お若ぇの、お待ちなせぇやし」「人は一代、名は末代の幡随院長兵衛…」の名台詞で歌舞伎や講談で有名な江戸初期の庶民の英雄。本名、塚本伊太郎。肥前唐津藩(佐賀県)の武士の子。伊太郎が江戸へ出た当初、浅草花川戸の幡随院前の長屋に住んでいたので幡随院長兵衛と名乗った。
江戸に幕府が開かれ徳川政権が安定すると、立身出世の場を失って閉塞感に包まれた旗本たちの中に、武士の立場をカサにとって町人たちに乱暴狼藉をはたらく旗本奴(やっこ)が現れた。彼らは異様な風体で江戸の町を徘徊し、博打や喧嘩にあけくれ、江戸中のヒンシュクをかっていた。一方、町人側からは反対勢力として町奴(まちやっこ)が登場、彼らは旗本奴の横暴から庶民を守る人気者だった。長兵衛の本業は口入屋(就職斡旋業)で、3千人の子分を抱える町奴の頭。旗本奴・神祇(じんぎ)組の組頭・水野十郎左衛門は、ある時、常日頃から対立する長兵衛を亡き者にしようと屋敷に招待する。長兵衛の子分たちは「殺されに行くようなもの」と引き止めるが、「行かねば臆病者扱いされ、お前たちも人前を歩けまい」と、長兵衛は女房、一子長松、子分たちに別れを告げ、あえて敵中に乗り込んだ。招いた水野は酒宴でわざと酒をこぼさせ、長兵衛が湯殿で浴衣姿一枚になったところを槍で突き殺した。水野のこの暴挙は治安を乱す行為として、評定所で取り調べのうえ死刑に処せられた。
権力者の旗本に対して町人の心意気をしめした長兵衛は、死に際の潔さからも“江戸の華”“男の中の男”とうたわれ、事件から87年後に歌舞伎の主役となった。多くの作品が上演される中で、実際は時代が異なる平井権八(ごんぱち)や小紫と絡む場面や、鈴ヶ森での啖呵なども生まれたが、明治になって河竹黙阿弥が、権八の登場しない「極付幡随長兵衛」を書いた。

お寺の幡随院は関東大震災で焼失し小金井市に移転。長兵衛の墓は幡随院を相続した源空寺にあり、妻・きんと並んで眠っている。墓所には今でも多くの人が訪れ、江戸が東京になっても愛され続けている好男子だ。



★腕の喜三郎/1806-1846.6.3(1641-1681?/1641-1715?) Ude Kisaburo (東京都、荒川区、回向院 40歳)2004

    

ゲンコツの形をした墓は、おそらく世界で唯一だろうッ!

江戸時代後期の侠客。父は大百姓の本郷武右衛門。旗本奴(青年武士のヤクザ集団)・吉弥組と乱闘になった際、連中を数人斬り捨てたものの喜三郎も左手を斬られてしまう。彼は皮一枚でぶら下がる自分の腕を「見苦しい」と子分に肩から鋸(のこ)で切り落とさせた。
博徒として八丈島に流されたが小舟で“島抜け”を敢行する。江戸に戻って80日目で捕縛され、7年間入牢した後、病気を理由に保釈される。その翌年に40歳で死去。腕型の墓は南千住の回向院だが、菩提寺は千葉・佐原の法界寺。出家して74歳まで生きたという説もある。
歌舞伎『茲江戸小腕達引/ここはえどこうでのたてひき』(作・河竹黙阿弥)にヒーローとして登場し、国貞が錦絵を描いている。

   

左から●鼠小僧「源達信士 俗名鼠小僧 天保三年(1832)八月十九日」
●「宝國信士 四十年 俗名直侍事 直次郎 天保三辰年 十一月廿三日」(片岡直次郎)※御家人くずれ。河内山宗俊の弟分
●「榮傳信女 俗名高橋お傳」(高橋お伝・1848-1879)※高橋お伝は日本の女性死刑囚で最後の斬首刑だ
●「腕の喜三郎之墓」




★新門 辰五郎/Tastugoro Shinmon 寛政12年(1800年)-1875年9月19日 (東京都、豊島区、盛雲寺 75歳)2010






大きな存在感がある巨大な墓石 「俗名辰五郎」 台座の背後に「を組」とあった

江戸時代後期の町火消、侠客。現・台東区出身。名前の「新門」は浅草寺僧坊伝法院新門の門番であったことからきている。1824年(24歳)、妻の父親から浅草十番組「を組」の頭を継承。火消や喧嘩の仲裁などで活躍する一方、娘が15代将軍慶喜の妾となったことから、幕末の混乱期に慶喜を補佐し、京都では子分150人を引き連れて警護を務めた。鳥羽・伏見の敗戦時は、大坂城に残って将軍の馬標(うまじるし)を江戸に持ち帰って名をはせた。
押入の床が抜けるほど資金力があったという。辞世の句「思ひおく まぐろの刺身 鰒汁(ふぐとしる) ふっくりぼぼに どぶろくの味」。侠客の元締めとして45歳の時に乱闘事件の責を取って入牢している。勝海舟とも親交があったと伝えられる。
※生年は寛政4年3月5日説アリ。また、歌舞伎で有名な「め組の辰五郎」は別人。



★会津 小鉄/Kotetsu Aizu 1833年7月7日(天保4年5月20日)-1885年3月19日 (京都府、左京区、金戒光明寺 51歳)2010




 
愛刀は虎徹 侠客だが会津藩主・松平容保の忠臣でもあり、京都の会津藩墓地に眠っている

本名、上坂(こうさか)仙吉。京都の侠客。刀工の虎徹が作った名刀を持っていた為「会津の小鉄」と呼ばれた。大阪出身。元水戸藩士と商家の娘の私生児。2歳の時に父は水戸へ帰郷し、6歳で母と死別。12歳、武者修行に出て福知山で剣術を学び4年で免許皆伝。18歳、京都で会津藩の中間(ちゅうげん、武家奉公人で身分は足軽と下男の間。木刀1本を腰に差している)になる。翌年に江戸へ出て千葉道場で北辰一刀流を学ぶ。

1863年(30歳)、会津藩主の松平容保が京都守護職となって上洛し、小鉄もこれに加わった。新選組の影の協力者として池田屋事件や禁門の変に協力。1868年(35歳)、鳥羽伏見の戦いに手下500人を引き連れて参加し、朝敵として戦場に放置されていた会津藩士の亡骸を集め、京都・黒谷の会津墓地へ葬った。1883年(50歳)、賭博罪で獄中へ。翌年の出所時には7千人が自宅まで祝いに訪れた。1885年、病没。享年51歳。葬儀の参列者は実に1万3000余人。
小鉄は20歳の頃に縄張り争いで右の小指を斬られ、32歳の時に維新派の襲撃で左手の中指、薬指、小指を斬り落とされた。また全身には数十にわたる刃傷があったという。晩年は橋を架けるなど社会奉仕を積極的に行っていた。



★扇屋の夕霧/Ougiya Yugiri 1652-1678.1.6 (大阪府、天王寺区、浄国寺 26歳)1999&2014

浄国寺の山門 墓の後方に250回忌の碑文 墓誌は2005年に建立された









1999 お慕い申してござる!

2005 15年ぶりの再会だ!

正面に「花岳芳春信女」、側面に
「此塚は柳なくてもあはれ也」

この夕霧は源氏物語の夕霧ではなく、井原西鶴が憧れていた遊女、扇屋の夕霧だ。彼女は京美人だったが、西鶴が惚れたのは外見以上にその素晴らしい人柄だったようで、以下の夕霧評を残している。
「身も世も捨てようとする人には道理を説き聞かせ、女房持ちの男には妻の気持ちを話してやり、町の魚屋にも手を握らせ、柄の悪い酔客も話しているうちに温和になり、物腰良く、肌は雪と争い、声良く、琴、三味線上手く、物を貰わず、物惜しまず、情け深く…」と、これ以上はないほど誉めちぎっている。そういえば墓もほっそりとしてどこか気品があった。…西鶴には悪いが、すでに彼女のハートはいただいたぜ!
(彼女の墓は京都に2基、徳島、和歌山にも1基ずつあるが、この浄国寺の墓には文献と同じ命日が彫られているうえ、寺に彼女の手紙が保管されており、ここが本墓と考えて間違いないだろう)
※夕霧太夫の名代は遊郭を代表する遊女にうけつがれた。



★天満屋のお初/Tenmaya Ohatu 1682‐1703.4.7(大阪府、中央区、久成寺 21歳)1999&2007
★平野屋手代徳兵衛/Hiranoyatedai Tokube 1678‐1703.4.7(大阪府、八尾市、教興寺大通院 25歳)1999&2007

元禄16年4月7日早朝。大阪堂島新天地天満屋の女郎はつと、内本町醤油商平野屋の手代・徳兵衞が曽根崎の露天神の森で情死した

お初は歌舞伎や文楽で有名な“曽根崎心中”のヒロイン。お初と徳兵衛が心中した曽根崎の森は、今の大阪の中心地・
梅田。事件の舞台となった森は神社(お初天神)の境内にあり、この神社に続く繁華街はお初天神通りと呼ばれている
(大阪の人間なら誰もが知っている場所!)。入口には写真のようにお初の文楽人形の姿が掲げられている。


2003年4月7日(没後300年)

お初天神には2人が旅立ったと思われる場所に石碑が…。桜咲く4月の道行きだった。心中事件は話題になり、亡骸を見た近松の手によって、死の1ヵ月後にはもう文楽となり公演されていた。


お初と徳兵衛は旧阪大病院の東角にあった梅田橋から蜆(しじみ)川の土手を東に歩き始めた(川は現存しない)。四ツ橋筋辺りにあった墓場に行き当たり、人目を避けようと墓場手前で北へ曲がり、ヒルトン大阪と大阪駅前第一ビルの間にあった田や沼地のあぜ道を東に向かい、第3ビルと第4ビルの間を抜けた。

1703年4月。この頃、近松と古い付き合いのある竹本義太夫はピンチに陥っていた。彼が文楽(人形浄瑠璃)の上演の為に築いた「竹本座」は、歌舞伎にすっかり客を取られて経営が傾き、義太夫は借金を重ねていた。「頼む、近松、助けてくれ…人形浄瑠璃の灯が消えてしまう」。義太夫は起死回生を狙って近松の台本に最後の望みを賭けた。近松は義太夫より2歳年下。何とか協力したいが、過去10年間ずっと歌舞伎を見てきただけに、文楽の難しさを改めて痛感していた。どうすれば歌舞伎から観客を呼び戻すことが出来るのか。「生きた人間の芸を見せる歌舞伎小屋が隣に並んでいるのに、命の無い人形に様々な情を持たせて客を感動させようと言うのだから、余程の台本を書かないと名作とは呼ばれない」(近松)。

そんなおり、1703年4月7日に大阪・曽根崎の露(つゆ)天神社(通称お初天神)で醤油屋の手代(親方の代理人)徳兵衛(25歳)と遊女お初(21歳)が心中事件を起こす。偶然京都から大阪へ所用で来ていた近松は、現場に足を運び若い2人の亡骸から心の叫びを聞き、胸を激しく動かされた。近松は、自由な恋愛が許されない封建社会の不条理を描く決意をした。

名もなき男女を主人公にする--これは文楽史上の革命だった。それまでの演目は歴史上の英雄や武将を主人公にした“時代物”(軍記物)しかなかったからだ。そこへ初めて、同時代を生きる町人を主人公にした“世話物”というジャンルの作品を誕生させたんだ。近松は『曽根崎心中』をわずか3週間で書き上げ、事件のちょうど1ヶ月後の5月7日に竹本座で初演した。観客はヒーローが暴れる荒唐無稽な武勇伝ではなく、初の等身大の人間ドラマ、自らが身を置く世界で、自分の分身のような登場人物が懸命に生きる姿に猛烈に感情移入し、感涙にむせんだ。『曽根崎心中』は瞬く間に評判になった。義太夫はこの作品一本だけで全ての借金を完納したという。

【事件のあらまし】
大坂内本町の平野屋(醤油屋)の手代徳兵衛(25歳)は、堂島新地の天満屋の遊女お初(21歳)と愛し合う仲。しかし徳兵衛に大きな期待を寄せている親方から、養女と結婚して江戸で開店するよう告げられる。一方、お初の方も九州への身請け話(大金で個人に買われる事)が持ち上がる。親方への義理とお初への愛情に挟まれる徳兵衛。お初は身請けを受ければ遊郭から自由の身になれるが、九州へ行くよりも、徳兵衛の側にいたい。身動きがとれなくなった2人は愛を貫く為に心中の道を選ぶ。

【近松の浄瑠璃版】
徳兵衛と遊女お初は愛し合う仲。徳兵衛を息子のように育ててきた親方(徳兵衛の叔父)は、ゆくゆくは店を継がせるつもりで姪と結婚するよう迫る。だが徳兵衛はお初と一緒になりたかったので縁談を断った。親方は姪よりも遊女を選んだ徳兵衛に激怒し、店はクビ、持参金を返せと迫る(徳兵衛の継母が先に持参金を受け取っていた)。徳兵衛は持参金を返そうとするが、友人の油屋九平次が緊急の金に困ってるというので、数日だけならと貸してあげた。ところが!九平次はとんだ悪党で、「借りた覚えは無い」の一点張り。挙句に貸し借りの際の証文を、徳兵衛が偽造したと因縁をつけ、道端で数人がかりで徳兵衛を殴打した。これでは親方に持参金を返せない。公衆の面前で殴り蹴られて男も立たない。かくなる上は、死んで無実を証明しようとお初と共に曽根崎の森に入って行く。お初は嬉しかった。大好きな徳兵衛と一緒に死ねることが幸せでならない。森の中で包丁を握ったものの、なかなか刺せない徳兵衛に、思わず「早く殺して」とせがむお初。2人は一つの帯で体を離れないように結び、ついに徳兵衛がお初を刺し、続いて自らの首を刺した。

※『曽根崎心中』の中でも、最も美しい名文とされているのが、死への道行きの文。「この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり」。
※歌舞伎版の「曽根崎心中」の歴史は比較的に新しく、浄瑠璃の初演(1703)から250年後の1953年に行なわれた。1995年、大阪・中座での3代目 中村鴈治郎による「曽根崎心中」1000回記念公演が実現した。


 
上演300年目の超傑作『曽根崎心中』



お初は谷町の久成寺の寺墓地に眠っている。入って中ほどの場所の小さな
墓石がそう。戒名の「妙法妙力信女」が刻まれており、右面に
「元禄16年4月7日寂 曽根崎心中お初の墓」
と刻まれている。 江戸時代に亡くなったのに、なぜか墓はピッカピカ…!





教興寺の塔頭・大通院(大阪八尾市)。お初は
この教興寺村の出身で、こちらにも墓がある
2人の死を可哀想に思った教興寺の住職が、大通院の境内に
墓(夫婦塚)を建て弔ったという。近松も滞在したらしい(2007)

大通院の近くにある教興寺の本堂入口。山門の左脇には「不許軍辛酒肉入干界内」
(ふきょ・ぐんしん・しゅにく・にゅうかん・かいない?)、この地は僧侶の修行の場で
あり酒、肉、精力のつくネギ・ニンニク等を食べる一般人は入ってはならぬということ



★八百屋お七/Yaoya Oshichi 1667-1683.3.29 (東京都、文京区、円乗寺 16歳)2000
★西運上人 (東京、目黒区、大円寺)2003

 
画・歌川豊国



恋に焦がれた“炎”の女、お七(2000) お七が愛した西運上人=吉三郎の墓(2003)
文京区吉祥寺の境内「お七・吉三郎比翼塚」(2013)

江戸本郷追分で八百屋を営む太郎兵衛の娘。寛文7年(1667年)に生れたのでお七と名づけられる。1682年12月28日、駒込大円寺を火元とする大火で江戸は包まれた。焼け出されたお七の一家は白山の円乗寺に避難し、そこで寺小姓・小野川吉三郎(吉祥寺というのは西鶴の誤り)と恋に落ちる。新築された家に戻っても彼女は吉三郎が恋しくてたまらず、火事になればまた会えると思い詰め、翌年3月2日夜、再会したい一心から放火の罪を犯す。火事の多い江戸では、放火は最大の罪であり、即、死罪となる大罪だ。お七がそのことを知らぬはずもなく、まさに死を覚悟しての行動だった。しかし、彼女は燃え始めた火を見て怖くなり、近くの火見櫓に上って半鐘を叩いて火事を知らせる。すぐに人々が駆けつけ消火され大事には至らなかったが、火付けの大罪を犯したお七は御用となった。
 
奉行所の取調べでは、まだ若いお七が幼い恋心からしでかしたことを不憫に思った町奉行が「おぬしは15だろう」と尋ねる場面があった。江戸時代には「15歳以下は罪一等を減じる」という少年法があり、極刑ではなく遠島にしてやれるという配慮だった。しかし、その意味が分からなかったお七は、正直に16だと答えてしまう。奉行は彼女に察してもらおうともう一度同じ質問をしたが、お七は自分の生まれた時の宮参りの記録まで持ち出して16だと主張した。こうなっては奉行も規定通りに処罰するしかない。お七は3日間市中引回しの上、鈴ケ森の刑場にて生きたまま火あぶりの極刑に処せられた。徳川300年の間で火刑になった女性は彼女ただひとり。この事件は放火の動機が一途な恋であったことや、お七がまだ16歳(数えで17歳)ということがあいまって、人々の関心を多く集め、火刑のニュースは異例の速さで全国に伝わり(北は蝦夷松前、南は薩摩・琉球まで)、人々は瓦版を手に同情したという。
お七が亡くなった後、吉三郎は彼女の魂を鎮魂するべく出家し西運上人と呼ばれるようになった。

お七の墓は地下鉄白山駅に近い円乗寺にある。墓前にはその因縁ゆえか、なみなみと水の入った木桶が2杯も置かれていた。
西運上人の墓は目黒駅の側の大円寺にあり、火事の犠牲者を弔う五百羅漢と共に眠っている。
 
※娘を不憫に思った母親はお七の遺体を刑場から運び出し、故郷の大和田・長妙寺に埋葬したという説もあり。
※お七が惚れた寺小姓は正仙院の生田庄之助、円乗寺の山田左兵衛との説もある。
※お七が丙午(ひのえうま)の年の生まれという噂から、丙午生まれの女性は夫を不幸にするとの迷信が生まれたとされている。実際の丙午は寛文6年でお七が生れる前年であり、このあたり情報が錯綜している。



引回し後、刑場に入る場面を描いた『お七大森刑場』歌川国芳画




★小春/Koharu 1702-1720.10.14 (大阪府、都島区、大長寺 18歳)2003
★紙屋治兵衛/Jihe Kamiya (大阪府、都島区、大長寺)2003




 
映画『心中天網島』(1969)から 4代目坂田藤十郎の治兵衛




左の墓石の土台に「紙治」「小春」と彫られていた そして隣には2枚の遺書の写しが!

大阪天満に住む紙屋治兵衛(じへえ)と曽根崎新地「紀伊国屋」の遊女小春は、今から約300年前、江戸中期に実在した人物で、1720年10月に大阪網島の大長寺境内で心中した。小春は18歳だった。近松はこの事件を題材に1ヵ月半で浄瑠璃『心中天網島(てんのあみじま)』を書き上げ、その2週間後の12月に大阪竹本座で初演、文楽史に残る大ヒット作となった。題名は老子の「天網恢恢(てんもうかいかい)」(天は全てを見ている)と事件があった網島をかけている。

天満で紙屋を営む治兵衛は妻と6歳&4歳の子がいる身でありながら、3年前から遊女の小春と深く情を交わしていた。治兵衛は根が真面目なだけにいったん惚れると歯止めが利かなくなり、小春もまた商売を超えて客に恋してしまう純粋な女性だ。小春は遊女である限り客を選べず、さりとて治兵衛に身請け(遊女を店から大金で買って自由にすること)するだけの金もなく、2人は「心中して結ばれよう」と約束していた。

…しかし、小春はもう治兵衛と縁を切る気持になっていた。嫌いになったのではない。治兵衛の妻おさんから「どうか夫の命を救って下さい」と身を案じる手紙を内々に受け取っていたからだ。おさんは2人の関係を知っていて、心中されることを恐れていたのだ。小春は別れることで治兵衛の命を救うことにする。彼女は治兵衛に理由を話さず「心中が嫌になった」とだけ告げた。突然の心変わりが理解できず「この裏切り者!」と激しく罵る治兵衛。彼はまた、人づてに成金の太兵衛が小春の身請けを狙っていると聞いてパニックになる。

家で治兵衛がメソメソしているので、おさんが理由を尋ねてみると「小春と別れるのが悲しいのではない。金がなくて太兵衛に身請けされるのが悔しいのだ。男の面子が立たぬ」。太兵衛は金持ちを自慢する嫌味な男で、治兵衛とは犬猿の仲だった。これを聞いたおさんは狼狽する。“小春さんは身請けされてお店に恩(親の借金)を返した後、1人で死ぬつもりだ!”。おさんは自分が出した手紙のことを正直に話し、「小春さんを死なせては女同士の義理が立たない」と仕入れ金や家中の着物(子どもの服も)、髪飾りまで掻き集め、「これだけあればきっと」と身請けの金を工面しようとした。
ところが、タイミング悪くおさんの父親が家に立ち寄った。「何をやっている!タンスに着物がないじゃないか!」。なぜ治兵衛の浮気相手の為に、娘がここまで尽くさねばならぬのか。もうこんなバカ婿の家に娘を置いておけぬと、おさんを強引に離縁させ連れ帰ってしまう。

万事休す。明日にも小春は太兵衛に身請けされてしまう。治兵衛は夜更けの町を小春のもとへ急ぐ。「ついにその時がきた」と彼女を密かに遊郭から連れ出した。空には十五夜の月、死への道行き。2人は蜆(しじみ)川に沿って天神橋、梅田橋、緑橋、桜橋など大阪の橋を次々渡り、網島の大長寺に着く。境内で2枚の遺書を書き終えた頃、もう夜が明けようとしていた。2人は髪を切って出家姿になる。
「同じ場所で死んではおさんさんへ義理が立たないので、離れた場所で死にましょう」と小春。まず治兵衛が小春を刺し、自身は付近の水門で首を吊った。

当時は情死(心中)が美化され、死亡した者の名鑑が発行されるほど心中事件が多発していた。この風潮を憂えた幕府は『心中は社会秩序を乱す行為』と心中禁止令を出し、たとえ未遂に終わったとしても、当事者は町中でさらし者にされた後、身分を奪われた。死亡した場合、亡骸は罰として家族に引き取らせず、野犬や野鳥が食い荒らすままにしたという。それでも二人で命を絶つほど愛し合っていたということか。
大阪都島区の大長寺には「紙治」「小春」と土台に刻まれた比翼塚(ひとつの墓に男女の戒名が並んだもの)がある。彼らの遺書は現存し、墓の隣の石碑に2枚の遺書がそのまま写し彫られていた。遺書は300年前に彼らがこの世に存在していたことを強烈に実感させた。心中した者の墓石と遺書の写しが並んでいるのは世界でここだけじゃないだろうか。その光景は死を恐ろしくリアルにし、僕は息を呑んだまま立ちすくんだ。

※大長寺は明治末まで網島(現・藤田美術館敷地内)にあったが、今は500mほど北に移転している。
※おさんについて。「紙治おさんの墓」と刻まれた小碑が大阪西成区岸里東の安養寺にある。
※治兵衛が家業の「紙屋」をおざなりにしていることから、本作は“神(紙)をないがしろにした者”の成れの果てを描く教訓話と指摘する説もある。
※治兵衛と小春は、大長寺にお詣りした後、淀川へ身投げしたとも伝えられている。
※近松が1720年に発表した『心中天網島』は全3巻。歌舞伎版『心中紙屋治兵衛』の初演は約60年後(1778年)。現在の『河庄』は原作上巻部分、『時雨の炬燵(こたつ)』は中巻部分。治兵衛は4代目坂田藤十郎(中村鴈治郎改め)にとって『曽根崎心中』のお初と並ぶ当たり役だ。



★清姫/Kiyohime (和歌山県、中辺路町、清姫渕 13歳)2001





狂恋で身を焼き尽くす 熊野古道の清姫の墓 道成寺の安珍の墓

和歌山県中辺路町真砂(まなご)の荘司、藤原左衛門之尉清重の娘。彼女の家では毎年『熊野詣(もうで)』を行なう修行僧に宿を貸している。

※熊野詣…和歌山熊野地方の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)は古代から霊場として敬われ、阿弥陀仏浄土や観音の補陀落(ふだらく)浄土が当地にあると信じられてきた。現世、来世の安楽を願って907年に宇多法皇が参詣したことをきっかけに、皇族の行幸も相次ぎ(100回以上)、また貴族、武士、庶民も身分の関係なく続々と押し寄せ、参詣道から人が絶えることはなかった。その様子は、鎌倉期に「蟻の熊野詣」と例えられている。2004年に熊野三山は世界遺産に登録された。

928年、はるばる東北から和歌山まで毎年熊野詣をしている16歳の修行僧・安珍は、この年も藤原家に宿を借りた。安珍は奥州白河(福島県)在萱根の里、安兵衛の息子。誰もが息を呑む水も滴る美青年だ。
藤原家には13歳になる娘・清姫がいた。彼女は父が冗談で「あの安珍はお前の夫になる人だよ」と言ったのを真に受け、慕う気持を抑えることが出来ず、夜中に安珍の寝床に忍び込んできた。「安珍さま、また1年後まで離れるのは耐えられません。どうか今夜私を妻に…」。安珍は仰天した。情熱的に恋を告白する清姫に「私は出家の身であり…修行の身であり…」と断ったが、彼女はすぐに妻にして欲しいと引き下がらない。困り果てた安珍は嘘をついた「帰りに再訪するので、それまでお待ち下さい」。

再会の約束を信じた清姫は、今日か明日かと、館の前で彼を待ち続けた。ところが、待てど暮らせど安珍は訪れない。心配になって熊野詣から帰って来る人に消息を尋ねてみると、「そのお坊さんなら見かけたよ。でも、別の道から帰って行ったので、ここは通らないと思う」。ガーン!
“よくも…よくも私を騙したわね!”。清姫は鬼の形相で気も狂わんばかりに安珍の後を追いかけた。途中で草履の鼻紐がちぎれると、裸足で駆け続けた。ようやく追いつくと「ひ、ひ、人違いでは?」と安珍。清姫は輪をかけて逆上し、安珍は「こりゃイカン」と走って逃げた。そこは男の足、彼女に差をあけ先に日高川の岸辺に着く。渡し舟は一艘。対岸に渡りきると安珍は、清姫が来ても乗せないようにと船頭に頼み込む。

やがて清姫が岸にやって来た。「乗せて下さいな!」「……」船頭は彼女を無視。対岸には安珍がいる。“ひどい!”怒りに我を忘れた清姫は川に飛び込み泳ぎ始めた。そして!あまりの憤怒に人の心を失った彼女は妖怪変化を起こし、大蛇に変容してしまった!驚愕の安珍!





岸辺まで追いついた清姫 怖いよ〜ママン

日高川を大蛇が渡って来るのを見て安珍は飛び上がり、付近の道成寺(どうじょうじ)へ逃げ込む。僧侶達に事情を話すが彼らも大蛇が来るとあっては彼をどこに隠せばいいのか分からない。結局、釣鐘の中が安全ということで、鐘楼から大鐘を下ろしてかくまった。
寺の山門を突き破って侵入した大蛇は、安珍を探して境内をさまよう。やがて大鐘が地上に下りていることに気づくと、長い蛇体で幾重にも巻きつき、血の涙を流しつつ怒りの火炎を吐いた。灼熱の為に誰も近づけない。安珍は鐘もろともに骨が残らぬほど焼き尽くされ、3時間後、清姫は蛇体のまま日高川に入水し、安珍の後を追った。焼けた鐘は安珍の遺灰と共に境内へ埋葬された。



大変なことになってしまった こちらは下半身が蛇体

この『道成寺伝説』には後日譚がある。それから430年という長い年月が流れた後の話だ。1359年、南朝方の豪族・逸見清重が2代目の釣鐘を寄進する。その奉納祝儀の日に清姫の怨霊が白拍子(踊り子)となって道成寺に出現し、「思えばこの鐘こそ恨めしい」と鐘を落とすやいなや“安珍の側に行きたい”と中に飛び込んだのだ。釣鐘落下の轟音に驚き、駆けつけた住職が鐘を引き上げると、中から鬼に変容した清姫が現れた。僧侶らは驚愕しつつも、鬼を包囲してお経を読み上げる。長い長いお経の唱和の中で、清姫の魂はついに成仏した。住職は安珍と清姫があの世で結ばれたことを夢で知らされたという。2代目の大鐘は清姫の怨霊を再び呼び戻さぬよう、寺の背後の竹林に埋められた。
※別説では、白拍子は鐘を引き下ろすと中に入り、そのまま姿を消したと伝えられる。


清姫は鐘の中で鬼と化していた 僧侶達がお経で成仏させた

さらに時を経た200年後。1585年に紀州攻めを行なった秀吉軍の武将・仙石権兵衛は、戦利品として大鐘をわざわざ竹林から掘り出し、京都に持ち帰った。しかし、怨霊が憑いているかも知れず気味が悪いということで、京都市左京区の妙満寺に納めて解脱の法要が行なわれた。今も妙満寺にはこの大鐘が現存しており、表面に「道成寺」の文字が刻まれている。大鐘は2004年秋、実に420年ぶりに道成寺へ「お里がえり」した。
※道成寺は701年に開かれた和歌山県最古の寺。 聖武天皇の母・藤原宮子(藤原不比等の娘)が建立。境内には安珍塚・鐘楼跡・蛇塚などがあり、毎年4月27日に鐘供養も行われている。

清姫の墓は道成寺から35kmも離れた熊野古道の中辺路(なかへち)、富田川のほとりにある。伝承ではこの集落に彼女の館があり、安珍を待ち続けて戻らぬことを知ると、悲しみのあまり富田川に入水し、その霊が大蛇となって安珍を追ったという。清姫が身投げした岸辺は現在「清姫渕」と呼ばれている(けっこう高さのある崖)。墓の隣に立つ石碑には「煩悩の炎も消えて今ここに眠りまします清姫の魂」と刻まれており、彼女の命日・4月23日には、毎年供養祭が催されている。
※墓の近辺には、彼女が水鏡にした「鏡岩」、安珍を待った「清姫のぞき橋」、衣を掛けた「衣掛松」、安珍を探す為に登り、蛇身となって幹を捻った「捻木杉(ねじきすぎ)」など清姫にまつわるものが多い。




清姫が身投げした「清姫渕」 これが2代目の大鐘だ!

この安珍清姫伝説は“道成寺もの”と呼ばれ、お能、歌舞伎踊り、文楽、長唄、絵画、文学、映画と、様々なジャンルで題材とされ語り継がれている。
清姫はあまりに純粋であったがゆえに、燃え上がる自分の恋心を抑え付けることが出来ず、一心に彼を愛するか、一心に憎むか、どちらかしか出来なかった。この物語が様々なジャンルで語り継がれるのは、人間の誰もが胸の内に持っているかも知れない「一途な恋心」が、共感を呼び同情させるのだろう。

・能楽『道成寺』…室町時代の作品。2代目の鐘が奉納された時の清姫再来を描く。能の全作品中、最も難度の高い演目とされ、“小鼓との格闘技”と言われる緊張感あふれる足遣いの「乱拍子」や、クライマックスには頭上から落下する鐘に飛び込む「鐘入り」がある。過去の能楽師には鐘が足に落下して骨折したり、ジャンプのタイミングが遅れて首の骨を折る大怪我を負った者もいる大技だ。この『道成寺』を舞って、初めて本物の能楽師と認められるため、“能楽師の卒論”とも呼ばれている。
・歌舞伎舞踊『京鹿子(きょうがのこ)娘道成寺』…1753年初演。清姫が転生した白拍子となり、手ぬぐいや笠といった小道具を持ち替えて、様々な感情に揺れる女心を踊り分ける。絶大な人気を誇る演目だ。
・文楽『日高川入相花王』(ひだかがわいりあいざくら)…通し狂言の大作。劇的な「日高川渡し場の段」がよく上演される。
・『道成寺縁起絵巻』…清姫が大蛇となって安珍を焼き殺すまでを描いた16世紀(戦国期)の絵巻で、重要文化財に指定されている。
・映画『安珍と清姫』(1960、市川雷蔵・若尾文子主演)、『娘道成寺〜蛇炎の恋』(2004、中村福助・牧瀬里穂主演)
※『今昔物語集』に登場する彼女は若後家という設定。1742年の浄瑠璃「道成寺現在蛇鱗(うろこ)」の中で、「清姫」の名が与えられた。



★阿亀(おかめ)/Okame 1221年没(京都府、上京区、大報恩寺)2003

奥に見えるのは巨大な「おかめ像」!
阿亀は鎌倉時代の名工・長井飛騨守高次の妻。夫・高次は千本釈迦堂造営の指揮を任されたが、目測を誤って柱の寸法を短く切りすぎてしまう。苦悩する夫の姿を見た阿亀は、短い柱でも不都合のない柱の組み方を考案し、おかげで工事は無事完成!だが、妻の助けを借りて棟梁の大任を果たしたとあっては夫の恥になると思い、阿亀は釈迦堂落成の朝自刃して果てる。高次は亡き妻の名に福面を奉納し冥福を祈ったという。夫の顔を立てて命を捨てる妻…現代では「絶対に」あり得ない話だ。



★助六&揚巻/Sukeroku 生年不明-1652 (東京都、足立区、不退寺易行院)2008

 
六代目市川団十郎が助六塚を建立 墓石(比翼塚)の側には「助六の塚」と彫られた石碑が立つ

歌舞伎の超人気演目『助六由縁江戸桜』(すけろくゆかりのえどざくら)で有名な、ヒーロー花川戸助六。
墓石に刻まれた「西入浄心信士」が助六の戒名。助六の恋人、花魁「あげ巻」(三浦屋揚巻)の名も見える。




★信濃屋 お半/Ohan Sinanoya 1747-1761 (京都府、中京区、誓願寺 14歳)2008
★帯屋 長右衛門/Choemon Obiya 1723-1761 (京都府、中京区、誓願寺 38歳)2008










案内板があった 墓の横に大きく「おはん・長右衛門」 2人は今同じ墓に眠っている

京都柳馬場押小路の38歳の中年男・帯屋長右衛門と隣家信濃屋の14歳のお半は恋に落ち、お伊勢参りの宿で結ばれる。しかし、長右衛門は他人から預かっていた名刀・正宗を盗まれ(お半を好きな丁稚が嫉妬して盗んだ)、また長右衛門には妻子がいるのにお半は妊娠してしまう。お半が書き置きを残して桂川へ入水したことから、長右衛門も後を追って桂川に入った。この心中事件は15年後の1776年に浄瑠璃・歌舞伎の『桂川連理柵』(かつらがわれんりのしがらみ、通称「お半長右衛門」)として描かれ、人々の涙を絞った。
※誓願寺のお墓以外にも、桂川の岸辺に2人の供養碑があるとのこと。



★江(崇源院)/Go(Sugenin) 天正元年(1573年)-寛永3年9月15日(1626年11月3日) (京都府、左京区、金戒光明寺 53歳)2010

数奇な人生を送ったお江。2011年の大河ドラマのヒロイン!

江の供養塔。こんなに巨大な宝篋印塔を初めて見た。
この供養塔を建てたのは、不仲だった春日局!
春日局はこの中に
江の遺髪を納めた
つくづくデカイ。他の墓がミニチュアのよう。
ちなみに、近くに春日局の供養塔もある

浅井長政と信長の妹・市の三女。長姉の茶々は淀殿として秀吉側室となり、次姉の初は若狭国小浜藩初代藩主・京極高次の正室となった。諱は江(ごう)、江与(えよ)、達子(さとこ)。1573年、近江国小谷(現・滋賀県長浜市)に生まれる。同年、信長の浅井攻めで小谷城は陥落し父・長政は自刃。その際、母と三姉妹は信長に保護されるが、9歳の兄・万福丸は男子ゆえ磔にされた。

1582年(9歳)、伯父・信長が本能寺で討死。その後、母(市)が柴田勝家と再婚したので三姉妹も越前国北ノ庄城に入る。翌年、「賤ヶ岳の戦い」で北ノ庄城が秀吉に落とされ、勝家と母は自害。三姉妹は新たに秀吉に保護された。
1584年(11歳)、江は秀吉の命令で市の姉の子・佐治一成へ嫁がされる。しかし一成が「小牧・長久手の戦い」で家康側についたことから、激怒した秀吉は一成の所領を没収し江を離縁させた。秀吉は、今度は江を秀吉の甥・秀勝(秀吉の姉の次男)に嫁がせた。1592年(19歳)、江は初めての子ども、完子(さだこ)を出産。だが夫・秀勝は朝鮮出兵で病没し生還しなかった。

1595年(22歳)、3度目の結婚。嫁ぎ先は家康の嫡男・秀忠!秀忠はまだ16歳であり、江の方が6歳年上だった。24歳、千姫を出産(計3男5女を儲ける)。1598年(25歳)、秀吉死去。26歳、次女・珠姫を出産。28歳、三女・勝姫を出産。同年、次女・珠姫が“2歳”で加賀藩第2代藩主・前田利常に嫁いだ。29歳、四女・初姫を出産。1603年(30歳)、長女の千姫が8歳で豊臣秀頼に嫁ぐ。31歳、お家待望の次男・家光が産まれる(長男の長丸は9ヶ月で死去)。1605年(32歳)、夫・秀忠が26歳で江戸幕府第2代征夷大将軍に就任。33歳、三男・忠長を出産。34歳、五女・和子(まさこ)を出産。1611年(38歳)、三女・勝姫が10歳で福井藩主・松平忠直のもとへ、四女・初姫が9歳で若狭国小浜藩第2代藩主・京極忠高に嫁いでいった。
 
1615年(42歳)、大坂の陣で豊臣家が滅亡し、姉の淀君も死去。秀頼の妻となった千姫は大坂城から無事に保護された。翌年、千姫は姫路新田藩主・本多忠刻に再び嫁いでいく。同年、家康死去。47歳、五女・和子が後水尾天皇女御として入内し、後に中宮となって第109代明正天皇を出産する。1623年(50歳)、家光が19歳で江戸幕府第3代征夷大将軍に就任。それから3年後の1626年、江は江戸城で波乱の生涯を閉じた。秀忠と2人の息子は上洛中で、江の死を看取ることが出来なかった。享年53歳。法名は「崇源院殿昌譽和興仁C大禪定尼」。
江の亡骸は家光が荼毘に付し、増上寺に埋葬した。ほか、京都市の金戒光明寺に宝篋印塔、和歌山の高野山には五輪塔と六角宝塔内卵塔といった供養塔がある。

※将軍の正室で将軍の生母となったのは、徳川300年で江だけ。
※家光が3代将軍に選ばれる際、家光を推す乳母の春日局と、弟の忠長を推す江が対立したという
※秀忠との結婚の際に、完子は茶々の養女となり、後に関白・九条忠栄に嫁いだ。
※第109代明正天皇の外祖母。



★春日局/Kasuga-no-Tsubone 天正7年(1579年)-寛永20年9月14日(1643年10月26日) (京都府、左京区、金戒光明寺 64歳)2010



  

3代将軍徳川家光の乳母。本名、斉藤福。父は明智光秀の重臣、斎藤利三。母は稲葉一鉄の兄・通明の娘。3歳の時、本能寺の変に続いて起きた山崎合戦で父が敗北、斬首される。稲葉一鉄の子・重通の養女となり、成長して重通の養子で小早川秀秋の家臣・正成の後妻となって、正勝を産む。京都所司代が将軍家の乳母を一般公募し、これに応募する為に離別。1604年(25歳)、2代秀忠の子・竹千代(家光)の乳母となった。

3代将軍を選ぶ際、秀忠夫妻が家光の弟・忠長を後継ぎにしようとした為、1610年(31歳)、彼女は家康に家光の擁立を直訴し成功した。1626年(47歳)、家光の母の崇源院(江/ごう)が他界。その後の約20年間は大奥を統率し、将軍の乳母として権勢を振るった。1629年(50歳)、紫衣(しえ)事件の収束のために秀忠の命令で上京。その際、謁見した後水尾天皇から春日の局号を与えられた。辞世の句は「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」。法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。本墓は自身が建立した東京都文京区の麟祥院(りんしょういん)。
※あまりに春日局の権力が大きかったことから、家康の妾であり家光の実母ではないかとも言われている。
※春日局は離別した稲葉家の再興に力を注ぎ、元夫の稲葉正成は福井藩主・松平忠昌の家老として召し出されて大名となり、子の正勝は江戸幕府の老中となった。
※晩年は文京区春日町に広大な屋敷地を持ち、余生を送っていた。春日という地名の由来になっている。
※1628年、春日局は金戒光明寺の蓮池に極楽橋を架けた。



★篤姫(天璋院)/Atsuhime(Tenshoin) 天保6年12月19日(1836年2月5日)-明治16年(1883年)11月20日
(東京都、台東区、寛永寺 47歳)2004


寛永寺の「徳川綱吉霊廟勅額門」。
左手前の看板を拡大すると…
『天璋院篤姫 墓所』の案内板だった!
大河ドラマに合わせて建てられた模様(2010)

篤姫(天璋院)の墓 夫婦で並んでいる。右手前が家定、左奥が篤姫 家定の墓
※寛永寺の徳川家墓所は一般非公開。秋の台東区祭りの際、抽選で墓参できる

第13代徳川家定の正室。薩摩藩・島津家に生まれる。幼名は一(かつ)。1853年(17歳)、薩摩藩主・島津斉彬の養女となり同年江戸藩邸へ。1856年(20歳)、五摂家筆頭の近衛家の養女となり徳川家に嫁いだ。1858年(22歳)、わずか2年の夫婦生活を送っただけで家定が急死。篤姫は出家し戒名である天璋院を名乗る。

1867年(31歳)、幕府が大政奉還を受入れ、将軍家は存亡の危機に追い込まれるが、天璋院が島津家に、14代家茂夫人の静寛院宮(皇女・和宮)が朝廷に嘆願して徳川家の救済に奔走した。
1883年、徳川宗家邸にて脳溢血で倒れ一週間後に他界した。享年47歳。上野・寛永寺には25年前に旅立った夫・家定が眠っており、その隣に墓が建てられた。

維新後の天璋院は元大奥関係者の生活を援助するために身銭を切って尽力しており、死亡時の所持金は3円(現在の約6万円)のみであったという。諱は源篤子(みなもとのあつこ)。
※ミシンを日本人で初めて扱った。このミシンはペリーから贈られたものという。



★淀殿(茶々)/Yodo 1569-1615.5.8 (大阪府、北区、太融寺 46歳)2008&11









太融寺は源融(みなもとのとおる)ゆかりの寺 2008 淀殿の墓 2011 再訪。史跡と表示 墓前に漢詩人・藤見東陽による追悼碑

淀殿が足繁く通った鴫野(しぎの)神社※生国魂神社の境内(2014)



「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」碑。大阪城・山里丸跡にて 大阪城は観光名所。石碑にも中国人観光客が続々到来 淀殿と秀頼に合掌(2013)

本名、浅井茶々。浅井長政と信長の妹・お市の間に生まれた娘。絶世の美女と伝わる。4歳で父が信長に殺され、その後、13歳の時に母が柴田勝家と再婚。しかし翌年に本能寺の変が起き、後継者争いで秀吉に敗戦した勝家はお市と共に自害。茶々は両親の仇である秀吉に引き取られた。
1588年、豊臣秀吉(51歳)は19歳の茶々を側室に迎えた。翌年、鶴松の出産を機に秀吉が淀城を与えたことから“淀の方”と呼ばれ始める。鶴松は2歳で病死したが、2年後に秀頼が生まれた。1598年、秀吉が他界。この時、淀殿29歳、秀頼5歳。母子は豊臣体制を維持しようとするも家康に追い込まれ、秀吉の死の17年後(1615年)に大坂の陣で死去。

太融寺は空海が821年に嵯峨天皇の勅願により創建した古寺。嵯峨天皇の12男・源融(光源氏のモデル)が本尊・千手観世音菩薩のため七堂伽藍を建立した。大坂夏の陣で全焼し、元禄年間に再建され「北野の太融寺」として繁栄した。



★千姫/Senhime 慶長2年4月11日(1597年5月26日)-寛文6年2月6日(1666年3月11日) (京都府、東山区、知恩院 68歳)2005&09

京都・知恩院に眠る秀頼の妻・千姫(2005) こちらは高野山の千姫の墓。彼女は家康の孫(2009)

2代将軍徳川秀忠の長女で淀君の妹。弟は家光。母は浅井長政の3女・江で、祖母は信長の妹・お市。超サラブレッド。1603年(6歳)、祖父家康の命で豊臣秀頼(10歳)に嫁ぐ。政略結婚であったが2人はおしどり夫婦となった。1615年(18歳)、大坂夏の陣が勃発。秀頼は自刃前に千姫を大坂城から脱出させ徳川方へ送った。千姫は秀頼の側室の娘・奈阿姫の助命に奔走し尼寺の東慶寺に入れた。

翌年、桑名藩主・本多忠政の嫡男・忠刻と再婚し、移封により姫路城に居住。1626年(29歳)、夫が他界し娘・勝姫と江戸にて出家し、天樹院と号した。娘は後に池田光政の元へ嫁ぐ。1666年、江戸で没。享年68歳。本墓は伝通院。京都の浄土宗総本山知恩院にも分骨され宝塔に納められた。高野山や茨城県常総市の天樹院弘経寺にも墓がある。千姫は大坂の陣の直後に津和野藩主・坂崎直盛からも愛されたが、千姫に失恋した直盛は自害したという。



★ジュリエット/Juliet (イタリア、ヴェローナ 13歳!)2005
Juliet's House, Verona, Veneto, Italy






「TOMBA」の意味は“墓” 地下礼拝堂に彼女の石棺がある 夏でも寒いくらいにヒンヤリしている





彼女の墓から1km強の場所にあるこの建物は、
2階までツタが伸びて、その先にバルコニーが
あることから「ジュリエットの家」と呼ばれている
これは1989年のトホホ写真。彼女の墓の方向に、建物
の外からロミオの如く花を捧げるポーズをタイマー撮影
したら、非情にも清掃車が猛スピードで通過した。しかも
フィルムが最後の1枚で撮り直しが出来なかった…。



★エロイーズ/Heloise 1101-1164 (パリ、ペール・ラシェーズ 63歳)2005&09
★アベラール/Pierre Abelard 1079-1142.4.21(パリ、ペール・ラシェーズ 63歳)2005&09

Cimetiere du Pere Lachaise,Paris, France

禁断の恋を目撃されたエロイーズとアベラール
















西洋で最も有名な恋人同士という
だけあって女性の巡礼者が多い
2人の像が仲良く並んで眠っている

2人は人気がありすぎるのか、
柵があってこれ以上近づけない
「恋が実りますよう
に…」祈りの手紙



 
4年後。墓は修復作業に入ってた! 足場の向こうにエロイーズが見える。こりゃ2人も落ち着いて眠れないだろう(汗)

聖職者として交わした情熱的な愛の手紙。師弟を超えて禁断の愛に燃え上がった中世最強カップル。アベラールは仏ブルターニュ出身。神学、哲学を究め、合理主義神学を説く。ラテン名ペトルス・アベラルドゥス。1108年(29歳)、自分の学校をパリに作ると新鋭の思想家として名声はたちまち欧州全土に轟いた。1117年(38歳)、パリのノートルダム大聖堂参事会員フュルベールの姪っ子で、16歳のエロイーズと出会う。美貌かつ語学堪能、才気溢れる彼女はパリでも有名で、アベラールは実際に彼女が“男心をそそるあらゆる魅力を備えて”いたことから、恋情に燃え上がり、何とか彼女の心を掴もうと策を練る。彼は自身の名声を最大限に利用し、まず友人を通してエロイーズの叔父フュルベールに接近。次に下宿代を払うといって、住み込みの家庭教師となることを提案した。フュルベールは下宿代という金銭的メリットがあるうえ、有名な思想家が家庭教師になるという名誉欲も満たされるため、この申し出を快諾した。
アベラールとその弟子エロイーズの年の差は22歳。だが、両者はすぐに恋に落ちた---。

2人の魂の交流は12通の往復書簡となって現代に伝えられている。
「本は開かれてありながら学問に関するよりは愛に関する言葉が多く交わされ、説明よりは接吻が多くあった。私の手はますます本よりは彼女の胸に手がいった」「結局われわれは、愛のすべてを貪り尽くした」(第一書簡よりアベラールの手紙)

このことを知ったフュルベールは姪を汚されたと憤怒し両者を別れさせた。ところが、エロイーズは自分が妊娠していることに気付いた。歓喜してアベラールに報告し、彼は叔父の留守を見計らってエロイーズを連れ出し、故郷の妹に彼女を預けた。やがて無事に息子アストララブが誕生。叔父に対してアベラールは“彼女と正式に結婚します。ただ、人々が知るとスキャンダルとなって神学を教えられなくなるので内密に”と説得。そして、実際に結婚したことで叔父の怒りは鎮まった。世間の目を避けて会うことになった2人。ところが、叔父は結婚のことを言ってしまい、“言わないで”と懇願するエロイーズを虐待したことから、アベラールはエロイーズをアルジャントゥイユ修道院に入れた(避難させた)。このことを「アベラールがエロイーズを修道院に厄介払いで捨てた」と早合点した叔父は、2人の縁者にアベラールを襲撃を命じ、彼の“局部”を切断させた。アベラールいわく「罪を犯したところに罰を受けた」。この事件は広く知れ渡ることになり、恥辱の為にパリにいられなくなったアベラールはサン・ドニ修道院に入った。かつての師弟であり、愛し合う夫婦は、修道士と修道女になって別れて暮らすことになる。

1121年(42歳)、アベラールは最初の著作を発表するが、異端とみなされて焚書処分になった。この結果、彼はサン・ドニ修道院(院長になっていた)を追われ、パラクレーのパラクレトゥス聖堂に移り、敷地に修道院付属学校を建設した。4年後(1125年)、ブルターニュ地方の修道院長ポストの声がかかり、パラクレーを去った。その後、今度はエロイーズがパラクレーに移り、パラクレトゥス聖堂の敷地内に女子修道院を建て院長になった。1132年、アベラールは不運に苦しむ友人宛に“私もこんなに悲しいことがあった”と語る為に書簡『わが不幸の物語』を執筆。偶然これを読んだエロイーズは、著者がアベラールであることに気づき「一目であなたの手紙だとわかりました」と感想を送った。こうして熱烈な愛の往復書簡が交わされ始める。ときにアベラール53歳、エロイーズ31歳。

●アベラールの思い出
「あなたも知っている通り、我々の結婚の誓いの後、あなたがアルジャントゥイユの修道院で修道女達と居を共にしていたときに、ある日私はこっそりとあなたを訪れた。そして、其処で、私の制しきれぬ激情があなたと共になにをしたであろうか。しかもそれは、他に隠れる所がなかったままに、実に修道院の食堂の一隅においてであった。敢えていう、当時のこの厚かましい行いは、童貞女マリヤにささげられた最も尊厳な場所においてなされたのであった」

●エロイーズの思い出
「妻という名称は神聖、健全に聞こえるかもしれませんが、私にとっては、常に愛人という名前の方がもっと甘美だったのです。いっそ思い切っていって申しますが、私は妾あるいは娼婦という名でもよかったのです」
「私たちが一緒に味わったあの愛の快楽はとても甘美でしたから、私はそれを悔いる気になれませんし忘れることもできません。どこを向いても、それはいつも私の目の前に生き生きと現れ、私を欲望にそそります。眠っている時でも、その記憶は容赦なく私に迫ってきます。純粋にお祈りにうちこむべきミサの儀式の間でさえも、その歓楽のあられもない映像が憐れな私の魂をすっかり虜にしてしまい、私はお祈りに集中するより恥ずべき思いに耽るのです、犯した罰を悔いるかわりに、かえって失われたものに焦れているのです。(略)私がその怒りを恐れているのは、神よりはむしろあなたです。神の気に入るよりはあなたの気に入るようにと努めてきました。私がこの世を捨てたのはあなたのご命令によるので、信仰心からではありません」 
「私に残されているのは、今はただ全くあなたのものになりきりたいという願いだけなのです」 

エロイーズは10年以上も修道院に入り院長になっていても、まだ31歳。アベラールのことを強く想っていた。1142年にアベラールが63歳で他界すると、亡骸はエロイーズの切望でパラクレーに埋葬された(女子修道院の礼拝堂の中)。それから22年後、1164年にエロイーズも同じ63歳で世を去り、アベラールの隣に葬られた。653年が経った1817年、2人の遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に移され、現在まで一緒にひとつの墓で眠っている。

※12通の往復書簡のうちわけは第1書簡「受難記」、第2〜5書簡「愛の手紙」、第6〜12書簡「教養の手紙」。
※息子アストララブはアベラールの妹が育てた。


【豆知識〜江戸の刑法】

〔奉行所の処分の基準〕
不埒→重々不埒→不届→重々不届→重々不届至極

〔刑罰=御定書百箇条〕
呵責(しかり)、押込、たたき、追放、遠島(えんとう)。これに追加刑として、晒(さらし)、入墨が加わる。
現代の死刑は絞首刑のみだが、当時は死刑にも6種類あり、庶民と武士では内容が違った。
【庶民】
・下手人…斬首。埋葬可。
・死罪…斬首。死体は試し切りにされ埋葬不可。
・火罪…火あぶり。放火犯に適用。
・獄門…斬首。首が小塚原か鈴ヶ森に3日間晒される。
・磔…十字架上にて槍で突かれる。その後3日間晒される。
・鋸挽(のこぎりびき)…反逆罪に適用。引き廻しの上、二日間晒して鋸挽の上さらに磔という恐ろしい刑罰。
【武士】
逼塞(ひっそく)、閉門、蟄居、改易、預、切腹、斬罪。

町奉行所は武士・僧侶の犯罪に手出し出来ない。武士・僧侶を摘発可能なのは「火附盗賊改」(“鬼平”長谷川平蔵など)。
江戸の刑場は鈴が森と小塚原の二ヶ所。小塚原では20万人が処刑されたという。付近は骨が原(こづかはら)と呼ばれ
ていたので、小塚原の当て字がはめられた。

【豆知識〜門徒証明書】

※江戸時代の旅は関所を越えるのに門徒証明書が必要であり、旅の途中で没するとそれが身分証明書となり、
信仰宗派にのっとって葬られた。

【豆知識〜江戸の3大大火】

・明暦の大火(1657年1月18日)…死者約10万人。3日間燃え続け江戸城天守閣焼失。別名“振り袖火事”。本郷・
本妙寺で呪われた振り袖の供養をしようとして、振り袖についた火が燃え広がったという。
・明和の大火(1772年2月29日)…死者約2万人。目黒の大円寺が窃盗目的で放火され延焼。放火犯は火刑。
・文化の大火(1806年3月4日)…死者約1200人。芝車町の材木座から出火。別名“丙寅の大火”。
※“お七”が焼け出されたのは1682年12月28日の“天和の大火”。



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