音楽家の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

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★パブロ・カザルス/Pablo Casals 1876.12.29-1973.10.22 (スペイン、アル・バンドレイ 96歳)2000 チェロ奏者
Cementiri De El Vendrell, Tarragona, Cataluna, Spain


25歳の頃 人類史上最高のチェリスト!

  



カザルスの墓は彼の故郷に… 「ヒシッ」墓石はチェロの形をしていた!

「音楽と政治は別」「アートに政治を持ち込むな」、そんな言葉を昨今はよく見聞きする。だが、史上最高のチェリストと称えられるパブロ・カザルスは、そうした言葉とは真逆に生きた。「音楽家には道徳的責任がある」とファシズムや核軍拡と全存在で戦った。
1996年1月14日の夜、日テレの教養バラエティ『知ってるつもり!?』で名チェリストのパブロ・カザルスが特集された。当時、僕は20代。まだネットがない時代であり、それまで「無伴奏チェロ組曲」の演奏をラジオでは聴いていたものの、人物像はよく分かっていなかった。それゆえ、ガンジーやヘレン・ケラーなど偉人が紹介される番組で、なにゆえチェロの演奏家が取り上げられるのか、興味津々で見ていた。放映中、カザルスが貫いた人道主義に何度も涙腺が決壊。これほど信念を持って民主主義や平和のために戦った音楽家がこの世にいたのかと胸を打たれ、カザルスの演奏から伝わる温かさや芯の強さが、人生に裏付けされたものであると知ってますます感動が深まった。

「音符をただ音にするのではない、音符の意味を表現するのだ」。パブロ・カザルスは1876年12月29日にスペイン東部カタルーニャ地方タラゴナ県の小村アル・・バンドレイ(エル・ベンドレル)で生まれた。フルネームはパウ・カルロス・サルバドル・デフィリョ・デ・カザルス。パブロのカタルーニャ語表記「パウ」で「平和」を意味する。アル・・バンドレイはカタルーニャ州の州都バルセロナから約70km。11人兄弟の次男(成人したのは3人のみ)。父カルロスは貧しい教会オルガン奏者。
父に音楽の手ほどきをうけて4歳からピアノを始め、5歳でヴァイオリンやオルガンを弾きこなし、6歳で「マズルカ」を作曲した。
1888年(11歳※誕生日が12/29なので年齢を1歳若く記載)、コンサートで初めてチェロの音を聴き、「こんなに美しい音色の楽器を聴いたことがない」と興奮、家族からチェロをプレゼントされると楽器の虜になった。父は音楽で食べていく苦労を知っており、カザルスを大工にしようとしたが、母は楽才をのばすべきと反対した。そして母とバルセロナに出て、名門バルセロナ市立音楽院に入学、チェロ、ピアノ、音楽理論、作曲などを学ぶ。以降、カザルスは10年強をかけて革新的なチェロ奏法を編み出していく。カザルスが登場するまで、チェリストは脇を締め小さくなって弾くのが常識で、音楽院でもそう教えていた(中には肘が上がらぬよう、脇に本を挟ませて弾かせる教師もいた)。カザルスは脇をひろげ指を立てて弦を抑えることで、音色が明るく外向的になることを“発見”し、型にとらわれない自由な演奏スタイルを確立させる。入学の半年後、町はずれのカフェ・トストで週3回、1日3時間演奏者として働き始めると、少年カザルスのチェロ演奏がたちまち評判になって、遠方から聞きに来る客も現れた。作曲家アルベニスは演奏後にかけより抱きしめた。
1890年(13歳)、バルセロナの古い楽器店でホコリだらけのバッハ(1685-1750)の『無伴奏チェロ組曲』全6曲の楽譜と運命的な出会いをする。この曲は約150年間も注目されず、シューマンが一度編曲しただけだった。全曲を聴くには退屈で味気ないと見なされ、演奏会では組曲の一部分だけが取り上げられた。カザルス自身はこの曲を誰かが練習している光景を見たことがなかったが、彼はこの6曲の真価を見抜き光を当てた。同曲の研究と練習に励み続けるも、人前で弾く勇気がでるまで12年もかかったという。後にこの曲は「チェリストにとっての旧約聖書」と呼ばれるようになった(“新約”はベートーヴェンのチェロ・ソナタ)。音楽院のチェロ教師は「もはや教えることは何もない」とカザルスを称える。
※晩年の回想「私は興奮にうち震えながら(無伴奏チェロ組曲を)弾き始めた。それは私にとって最も愛おしい音楽になった。当時私は13歳だったが、それから80年間、その発見の驚異はずっと私の中で大きくなり続けている。あの組曲が私の前にまったく新しい世界を広げてくれたのだ」。

1893年(16歳)、カザルスはより本格的に音楽を学ぶべく、パリ留学の為の奨学金を申請する。奨学金の募集枠は一名だったが、同年カザルスは音楽院を見事に首席で卒業し、これでパリに行けると確信していた。しかし、フタを開けてみると最終的に選ばれたのは、街の有力者の息子であった。何らかの不正が行われたことは明らかで、若きカザルスは社会に絶望する。
「その事件以来、私は自分の周囲の醜さに突然気付き始めた。不正な暴力、不平等、貧富の差。人々は利己主義で身を固めている。なぜこのような悪が存在するのか。それに答えすら出せない音楽が一体何の役に立つのか。音楽が無力だとするなら、自分など生きていても仕方がないではないか」
虚無感に包まれ、落ち込んでいるカザルスに、母ピラールはこう語りかけた。「誰の心にも悪魔と天使が住んでいます。大切なことはあなたがどちらを選ぶかなのです。あなたは自分でその答えを見つけねばなりません。全てはあなたの心の中にあるのです」
たとえ社会に不正があろうが、肝心なのは心を正しく持つこと。この言葉を受けて、カザルスは自分にとって音楽とは何なのか考え抜く。「芸術家も、あらゆる職人も結局は人間という大きな存在の一部分にすぎない。だとすれば、大切なことはこの人間という大きな存在にどのような姿勢でいどむかという事だ。音楽家は音楽を通して人間と出会ってゆく。音楽を通して自分を語る。そう、音楽は人生へのひとつの挨拶なのだ」。
カザルスは聴き手の魂と1対1で向き合う音楽を通じ、全存在をかけて他者との交流を始めた。マドリードに出てアルベニスの紹介で音楽好きのモルフィ伯爵(摂政の秘書。夫人はリストの弟子)の支援を得、御前演奏でクリスティーナ女王に気に入られ高額の奨学金が支給された。以後3年間をマドリードで過ごす。

1896年(19歳)、弦楽器の音楽教育に定評のあるブリュッセル王立音楽院へ転入。だが“スペインの田舎者"とチェロの教授に笑い者にされて衝突、2日間でベルギーを去る。同年、「世界的な名声を得るにはパリで成功せねばならない」と考えたカザルスは、スペイン王室からの奨学金を辞退し、パリのオペレッタ劇場で働き始める。だが現実は甘くなく、貧困の中で赤痢を発病。失意のなか3年ぶりにバルセロナに戻ると、市立音楽学校の教師に欠員がありすぐに採用された。
1899年(22歳)、成功を夢見て再びパリに出たカザルスにビッグ・チャンスが訪れる。モルフィ伯爵の推薦で大指揮者シャルル・ラムルーと面会を果たし、演奏を聴いたラムルーは「運命の子よ、神が与えし子よ」と感嘆した。カザルスはパリ3大民間オーケストラの一つ「ラムルー管弦楽団」のソリストに抜擢され、ラロの『チェロ協奏曲』でデビューを飾り大成功をおさめる。世界にカザルスの名が広まり、ロンドンではヴィクトリア女王の御前でサン・サーンスの協奏曲を演奏した。
この2度目のパリ時代に、サロンで作曲家のサティ(当時33歳)、作家のゾラ、プルースト、ドーデ、後に共演者となるピアニストのコルトーらと知り合った。
1901年(24歳)、アメリカに最初の演奏旅行。
1902年(25歳)、バッハ『無伴奏チェロ組曲』の楽譜に出会ってから12年。カザルスは初めてこの曲の公開演奏を行い、長く埋もれていた古曲を完全な形で復活させた。「私は12年間、日夜この曲を研究し弾いた。私がこの組曲の1つを演奏会で公開する勇気が出るまで12年かかり、私も25歳になっていた」。『無伴奏チェロ組曲』はカザルスの代名詞となった。(資料によっては公開演奏を1904年としているが、カザルスの“12年"“25歳"を信じると当年になる)
1904年(27歳)、ルーズベルト大統領に招かれホワイトハウスで演奏。
1905年(28歳)、1歳年下のピアノ奏者アルフレッド・コルトー(1877-1962)と、4歳年下のヴァイオリン奏者ジャック・ティボー(1880-1953)と三重奏団を結成しパリで最初の公演を行い、ロシアでも演奏した。この「カザルス三重奏団」は20世紀前半を代表する室内楽トリオとして喝采を浴びていく。深い精神性をたたえたカザルスのチェロ、詩的で情感のあるコルトーのピアノ、優雅かつ繊細なティボーのヴァイオリンが融合した音色は音楽史上のひとつの奇跡といわれる。
1908年(31歳)、ラムルー管弦楽団の演奏会に指揮者兼ソリストとして登場し、ここから指揮者としての活動も始まった。同年、父カルロスが55歳で他界。
1911年(34歳)、弟エンリケ(19歳)にスペイン陸軍から召集令状が届く。カザルスはその時の母ピラールの言葉を後に回想している。「母はこう語った。“お前は誰も殺すことはありません。また、誰もお前を殺してはならないのです。人は殺したり殺されたりする為に生まれたのではありません。行きなさい、この国から離れなさい"と。弟はアルゼンチンへ脱出し、18年間の亡命生活を送った。母は息子の命を救おうとしたのではない。間違ったことはしない、正しいと思ったことをする、という原則を守っただけなのだ。母はいつもこう言っていた。“特定の法律はある人達を守りはするけれど、他の人々には危害を与えることもある。法律ですら善悪の判断は自分でしなければならない"と。もし、世界中の母親が息子に向って私の母と同じことをしたなら、世界から戦争はなくなるだろう」

1914年(37歳)、第一次世界大戦が勃発。同年、36歳のソプラノ歌手スーザン・メトカーフ(1878-1959)と結婚し、戦乱のためパリを離れてアメリカに一時亡命する。夫婦生活は15年続き1929年から別居、正式な離婚は1957年。(結婚年は資料によって1904年説があるが、それは2人が出会った年)
1916年(39歳)、スペインの作曲家グラナドスが英仏海峡でドイツ潜水艦の魚雷で死亡。

1918年(41歳)、11月に第一次世界大戦が終結。
1919年(42歳)、故郷カタルーニャに戻り、翌年楽団員88名の「パウ・カザルス管弦楽団」をバルセロナに創設し、自ら指揮者となってカタルーニャ文化の発展に尽力した。同楽団は内戦が始まるまで16年間で363回の演奏を行う。
1930年(53歳)、7年間続いてきたプリモ・デ・リベラ将軍の独裁政権が倒される。
1931年(54歳)、スペイン共和国(第二共和政)が成立し、カザルスはカタルーニャ自治政府誕生を祝う記念式典で自らのオーケストラを率いてベートーベン『第九』を指揮。
同年、カザルスの人格形成に決定的な影響を与えてきた最愛の母ピラールが77歳で他界。



1933年(56歳)、ドイツでヒトラーが台頭しナチスが政権を掌握。反ナチスのカザルスはドイツでの演奏を拒否したが、三重奏団のコルトーはナチスに協力的で演奏を希望したために衝突し、カザルスは反発して袂を分かった。カザルスの後任でチェリストのピエール・フルニエが三重奏団に加わった。

1936年(59歳)、この年から1939年にかけて、カザルスは生涯ただ一度となるバッハ『無伴奏チェロ組曲』の全曲録音を開始。7月、カザルスがパウ・カザルス管弦楽団とベートーヴェン『第九』のリハーサルを行っていると、スペイン内乱の勃発と退避命令を伝えるメモが渡された。公正な選挙で樹立した左派連合「人民戦線」の共和政府に対し、フランコ将軍率いる軍部がクーデターを起こしたのだ。楽団員は最後まで第九のリハを続けることを求め、リハ後にカザルスは「世の中が平和になったときにもう一度第九を演奏しよう」と告げて別れた。
国民同士が銃口を向け合う内戦状態に突入したスペイン。フランコ軍を支持したのは、スペイン王党派や保守派、地主層などの富裕層で、一方の共和国支持派は、共和制支持者や左翼政党、労働者などのほかに、地方のバスク人やカタロニアの自治を主張するグループだった。バルセロナやマドリードでは市民、労働者が武装してバリケードを築きフランコ軍と戦った。
軍事独裁政権を目指したフランコは、独のヒトラー、伊のムッソリーニから大量の最新武器や兵員の援助をうけた。一方、共和国政府軍には反ファシズム、自由のために作家ヘミングウェー、ジョージ・オーウェル、アンドレ・マルロー、カメラマンのロバート・キャパなど、世界中から約4万人もの人々が国際義勇軍として参加。義勇兵の出身国と人数は仏1万人、米3千人、英2千人、亡命独人5千人、亡命伊人3千人、その他57カ国に及んだ。ヘミングウェーは後に長編『誰がために鐘は鳴る』(1940)で米義勇兵の活躍と死を描いている。
1937年4月26日、フランコ軍に激しく抵抗していたスペイン北部バスク地方に対し、フランコは見せしめのためヒトラーに爆撃を要請した。選ばれた町の名は“ゲルニカ”。この人口5千人の小さな町はドイツ空軍機の大空襲を受け壊滅した。爆撃と機銃掃射は逃げ惑う市民に向けられ、史上初の無差別攻撃となった。ゲルニカの火災は3日間続いたという。
独伊空軍の1300機に対し共和国側には中古の飛行機100機しかなく、徐々に戦線は後退し始め、エブロ河の戦いでは共和国軍10万人のうち生き残ったのは3万人しかいなかった。
カザルスは演奏活動を中断し、全世界へラジオで訴える。「スペインを見殺しにしないで下さい!スペインで独裁者の勝利を許せば、今度はあなた方自身が彼らファシストのいけにえになるでしょう!」。だが、近隣の英仏両政府はドイツとの衝突を恐れ中立政策をとった。この選択が大きな誤りであることを歴史が示している。世界はこの後、第2次世界大戦へ雪崩れ込んだのだ。ヒトラーいわく「スペイン内戦は我が独軍の最新兵器の実験場に最適だった」。

1939年(62歳)、内戦開始から3年。最後までもちこたえていた東部バルセロナ、首都マドリードが相次いで陥落し、共和国政府は敗北した。約100万人の生命を奪い、60万人が難民と化し、人民戦線20万人が処刑されるという膨大な犠牲を払って内乱は終結した。スペインには軍事独裁政権が誕生し、フランコは憲法を廃止すると共に自らを終身国家元首に任じて総統となり、支持基盤の国民運動党以外の党をすべて非合法化し解体、カタルーニャ語の使用を禁じた。カザルスはフランコ軍のバルセロナ侵攻直前に脱出し、ファシスト政府を嫌ってフランスに亡命、スペイン国境に近いピレネー山脈の寒村プラド(旧カタルーニャ領)に身を寄せた。そして60万人の難民同胞の為に、演奏活動で得た財産を投げ打ち、各国に救援声明を出して難民救済に奔走する。だが、世界は同年秋のドイツ軍ポーランド侵攻から世界大戦へ突入し、スペインを気にかける余裕がなくなった。
1942年(65歳)、平和への祈りを込めてカタロニア民謡『鳥の歌』をチェロ独奏用に編曲。1944年に『鳥の歌』をBBC放送にて初演。
1945年(68歳)、5月にドイツが降伏し、欧州における第2次世界大戦が終結。カザルスは歓喜し、翌月からロンドンで演奏活動を再開した。ところが、カザルスの戦いは世界大戦の終戦と共に終わらなかった。ヒトラーやムッソリーニが死んでいく中で、フランコだけは戦後も独裁者として居座り、諸外国もこれに協調したのだ。各国は内戦で疲弊したスペインが第2次大戦で中立を守ったことを評価した。カザルスはフランコの横暴にほぼ孤軍無援で戦い続け、各新聞に「なぜ、フランコは政権を続けるのか」と抗議広告を出した。
そして11月、“演奏活動停止"を全世界に宣言した。「私が持っている武器はチェロだけだ。だから、フランコと協調する国では、もう演奏はしない。(どの国も容認しているので)私はもう…演奏はやめた」。音楽家としての栄光を捨て、最も愛している自身の芸術を封印してしまった。芸術家にとって自らの表現手段を封印すること以上に苦しいものはない。カザルスはプラド村に2度目の亡命を行った。同年、ケンブリッジ大学とオックスフォード大からの名誉博士号を固辞。

1946年(69歳)、毎月のように各国から高額なギャラを示したコンサートの依頼書が届くがカザルスはすべて無視する。「フランコ政権を認めるという大きな過ちを犯している国々に、私はのこのこと出掛けて行くことなど出来ない」。
カザルスの演奏の素晴らしさを知っている1歳年上の哲学者アルベルト・シュヴァイツァー(1875-1965)はこう助言する。「あなたは抵抗よりも音楽的な創造をもっとするべきです」。カザルスの返事は「創造し、抵抗する。両方ではいけませんか。抵抗は、時には最も難しく、最も必要とされる創造行為です」。カザルスを尊敬する何人ものチェリストがプラドを訪れレッスンを受けた。
1949年(72歳)、米国に続いてソ連が原爆を開発。カザルスが伝えてきた音楽や人間に対する深い愛情、暴力や不正への抗議をあざ笑うかのように、世界は大量破壊兵器の開発競争に入っていく。
1950年(73歳)、バッハ没後200年。音楽家たちはカザルスをプラド村から引っ張り出すのは無理でも、カザルスのところへ音楽家が集まれば演奏会は可能と考え、ヴァイオリン奏者アレクサンダー・シュナイダー(家族がアウシュビッツで死んでいる)の説得によってカザルスを音楽監督とする『バッハ記念音楽祭〜プラド音楽祭』が開催される。カザルスが出した条件は「プラドから一歩も出ないこと」「収益はすべて病院に寄付すること」の2点。同音楽祭は2年後にパブロ・カザルス音楽祭と改称された。時代を代表する音楽家、アイザック・スターン、ルドルフ・ゼルキン、ヨーゼフ・シゲティらが音楽祭に出演した。
1951年(74歳)、カリブ海のプエルトリコ出身で、チェロをニューヨークで学ぶ14歳のマルタ(マルティータ)・モンタニュス(1936-)が、プラド音楽祭でカザルスに弟子入りを志願した。彼女がまだ若すぎることから、「弟子入りは学校を卒業してから」と回答。
1952年(75歳)、米国が史上初の水爆実験を実行。この水爆「マイク」は、原爆を起爆装置にして水爆を爆発させるという究極の兵器であり、その威力は広島型原爆の250倍(10.4メガトン)に達した。実験場所となったマーシャル諸島のエルゲラップ島は粉々に吹き飛んで世界から消滅し、直径2キロのクレーターが残った。

1953年(76歳)、カザルス三重奏団の元メンバーで、20世紀前半を代表するフランスのバイオリニスト、ジャック・ティボーが来日途中に飛行機事故によりアルプス山中で他界。享年72。
※ティボーはパリ音楽院を首席で卒業。1903年、カーネギー・ホールでニューヨーク・デビュー。1905年、コルトー、カザルスとともにトリオを結成。30年間トリオでの活動を続けた。1943年、女性ピアニストのマルグリット・ロンと共に若手音楽家の登竜門ロン=ティボー国際音楽コンクールを創設。
1954年(77歳)、18歳になり学業を終えたマルティータが再びプラドを訪れ、改めて弟子入りを志願、今度はカザルスも許可した。マルティータはプエルトリコの首都で開催されたチェロ・コンテストで千ドルの賞金を獲得した実力者で、その演奏技術にカザルスは驚いた。マルティータは仏語や英語にも長け、次第に秘書も務めるようになる。
1956年(79歳)、亡き母ピラールと愛弟子マルティータの故郷であるプエルトリコを訪問。この時、母が生まれた家で60年後に生まれたのがマルティータの母で、しかも両者は誕生日まで同じであることが判明する。奇跡のような偶然にカザルスとマルティータは運命的なものを感じ、深く心が結びついていく。
1957年(80歳)、プエルトリコの首都サンフアンに移住し、8月3日にマルティータと結婚。カザルスは80歳、彼女は20歳であり、60歳差婚だった。そしてプエルトリコを活動拠点とし、当地で毎年「カザルス音楽祭」を開催していく。同年、日本人チェリストの平井丈一郎が師事、後に一番弟子となる。

1958年(81歳)、シュバイツァー博士と米ソに核実験禁止を訴える共同声明を発表。この年コルトーと四半世紀ぶりに和解し、コルトーの引退コンサートでベートーヴェンの『チェロソナタ第3番』を一緒に演奏した。
1959年(82歳)、先妻のスーザン・メトカーフが他界。享年81。
1960年(83歳)、自作カンタータ『エル・ペセーブレ(まぐさ桶)』を初演。以降、各地で同曲を33回指揮。『鳥の歌』初演。
1961年(84歳)、10月30日、ソ連が史上最強の水爆「ツァーリ・ボンバ」の核実験を敢行。その核出力は広島型原爆(15キロトン)の3300倍となる50メガトンに達し、爆発時の衝撃波が地球を3周した。11月、ケネディ大統領の招待でホワイトハウスにて『鳥の歌』を演奏。同年、一番弟子の日本人チェリスト・平井丈一朗(たけいちろう)のため来日し、東京や京都で指揮、公開レッスンを行う。日本はスペイン独裁政権を容認したため、信念に従いチェロは演奏せず。
※平井丈一朗の父で作曲家の平井康三郎は童謡『とんぼのめがね』で有名。
1962年(85歳)、キューバ危機が起き、世界大戦の一歩手前まで行く。同年、アルフレッド・コルトーがスイスのローザンヌで他界。享年84。
※コルトーはパリ音楽院でショパン最後の弟子に師事。音楽院を首席で卒業後、ワーグナーに心酔し、1902年に『ニーベルングの指環』の「神々の黄昏」のパリ初演を指揮。カザルス三重奏団で1930年代半ばまで活動。ショパン演奏の大家となる。
1963年(86歳)、カザルスが軍縮派として大きな信頼を寄せていたケネディ大統領が暗殺され、米国はベトナム戦争の泥沼へ陥ってゆく。
1968年(91歳)、人種差別と非暴力で戦っていたキング牧師が暗殺される。
1971年(94歳)、「国連の日」である10月24日にニューヨーク国連本部に招かれ、国連平和賞が授与される。国連会議場にて約30年ぶりに海外でチェロを演奏し、アンコールにカタルーニャ民謡『鳥の歌』を奏でた。『鳥の歌』の演奏に先立ち、カザルスはこうスピーチした−−
「今日は人生において最も輝きに満ちた日です。もう何年もの間、私は皆さんの前でチェロを奏でませんでした。しかし、今日はカタルーニャの短い民謡を1曲演奏します。この曲は『鳥の歌』と呼ばれています。空の鳥…宇宙の鳥は、ピース(平和)!ピース!ピース!と歌います。この曲はバッハやベートーベンなどの偉大な音楽家たちもきっと愛したでしょう。美しい曲です。それに私の祖国カタルーニャの魂なのです」。

カザルスは国連訪問に際し、以下の声明文を発表した。「なぜ私が今日ここに来たのか。それはこの長い年月、私が自分自身に課してきた制限や道徳感に変化があったからではありません。今日、人類すべてを脅かしている巨大な恐るべき危機に比べれば、他の全てのことは二の次だと思ったからです。誤ったナショナリズム、他のものを一切認めない狂信、自由の欠如と不正さは、不信感と嫌悪感を増大させ、集団的な危険を日々増大させています。さらに、核兵器による世界の不安も日々増しています。これらの解決の為には、全ての人々によって戦争の無益さと非人道性を基盤とした対話がなされなければなりません」。
1973年10月22日、カザルスは心臓発作によりプエルトリコで永眠。96歳まで生きたが、存命中に独裁者フランコは倒れなかった。彼は遺書にこう記した。「私の遺体はフランコが倒れ自由が祖国に戻ったとき、カタロニアに運んで欲しい」。カザルス音楽祭はマルティータが実行委員会の総裁に就き、1979年まで音楽監督を務め現在も開催されている。
1975年、他界の2年後、マルティータ(39歳)はユージン・イストミンが他界し、カザルスと同じアル・・バンドレイの墓地に白亜のモダンな墓が造られた。マルティータがどちらの夫の墓に入るのかは分からない。ユージン・イストミンが他界し、カザルスと同じアル・・バンドレイの墓地に白亜のモダンな墓が造られた。マルティータがどちらの夫の墓に入るのかは分からない。20世紀を代表する米国のピアニスト、ユージン・イストミン(1925-2003/50歳)と再婚。同年、フランコ総統が死去し、スペインは民主主義国家として再生の道を歩み始め、1978年にカタルーニャ自治州が発足、自治権が戻った。
1979年11月10日、カザルスの遺体は故郷・バンドレイに帰還し、『鳥の歌』の演奏が流れるなかチェロをモチーフにした墓石のもとに埋葬された。
2003年、ユージン・イストミンが他界し、カザルスと同じアル・・バンドレイの墓地に白亜のモダンな墓が造られた。マルティータがどちらの夫の墓に入るのかは分からない。
2007年、カザルスとマルティータが暮らしたニューヨークのアパートに残された文書類(ケネディやユーディ・メニューインらとの書簡や自筆譜)が、「遺産はすべてカタルーニャに」という遺志に基づき没後34年ぶりに故郷に返還される。

カザルスから世界の子供たちへ「学校はいつになったら2プラス2は4とか、フランスの首都はパリとかではなく子供たち自身が何であるかを教えるのだろう。子供たちよ、君は驚異だ。二人といない存在だ。君はシェークスピアにもベートーベンにも、どんな人にもなれるのだ。だからこそ、君と同じ存在である他人を傷つけることなど出来ないのだ。敵対するものは殺すべしという掟がはびこる時代に生きなければならなかったことを私は悲しく思う。祖国への愛、それは自然なものである。では、なぜ国境を越えて他の国々の人々を愛してはいけないのか?私たち個々の人間は全てひとひらの木の葉に過ぎず、全人類が樹なのである」

「パブロ・カザルスの音楽を聴いたことのない人は、弦楽器をどうやって鳴らすかを知らない人である」(フルトヴェングラー)
「カザルスが非常に偉大な芸術家であるということを、私が今さら宣言する必要はどこにもない。なぜならこの点に関しては、すでに世界の意見が一致しているからだ」(アインシュタイン)
「彼の演奏を聴いて深い印象を受けたが、それはまさに、彼が深みのある人間だからこそなのだ」(シュバイツァー)
「音楽家には道徳的責任がある」(カザルス)

【墓巡礼】
史上最高のチェロ奏者、人道主義者として大きな足跡をのこしたカザルス。
2000年11月20日、午後2時。僕はスペイン、カタロニア地方のバルセロナからRENFE(スペイン国鉄)の近郊線に乗り、列車が揺れるまま身をまかせていた。約60キロほど南西に進んだ先の「アル・・バンドレイ」という小さな町を目指して。そこに“スペインの良心”と言われた音楽家、パブロ・カザルスの墓があるからだ。
彼の墓が生まれ故郷のアル・・バンドレイにある、それだけは日本を出る前に事前調査で分かったが、田舎町ゆえ地図を眺めてもスペインのどこにアル・・バンドレイがあるのか不明だった。バルセロナに入ったその朝、さっそく観光局を訪れ場所を尋ねてみた。オードリーに似たその可憐な職員は、「・バンドレイはけっこう近いの。ここから列車で1時間ほどのところよ」と、ヒマワリのようなスマイルで答えてくれた!
“そんな近くに眠っているのか!”。墓マイラーとしての長年の経験上、正確な場所を知らずにその国を訪れ、いきなり“1時間ほどの距離”だと言われる確率は限りなくゼロに近い。約1時間、これは奇跡に等しかった。僕はすぐさま地下鉄に乗って、バルセロナの国内列車のメインゲート、国鉄サンツ駅に向かった。
バルセロナは大都市だがあまり英語は通じず、切符を買うのも一仕事。巨大なサンツ駅で勝手が分からず目が泳いでいると、いろんな人が声をかけ助けてくれた。僕はそこであらためてカザルスの偉大さを思い知った。つたないスペイン語で懸命に説明しなくても、少しチェロを弾くジェスチャーをするだけで「オーッ、・バンドレイのカザルスだな」と相手に通じてしまうのだ!カザルスが動作に特徴のあるチェロ奏者で良かった。作家や科学者だとジェスチャー難易度Dだもの。

電車は1時間に1本。無事に切符はゲットできたが、そこから時刻表があってないようなスペイン国鉄とのバトルが始まった。14時7分発と教えられたが、その時刻に列車は入ってこず、2分後に入って来た列車は違う行き先だった。同じホームに様々な行き先の列車が到着するのでボーッとしているわけにはいかない。列車が入って来る度に運転席のドアをアグレッシブに叩きまくり、ノートに大きく・バンドレイと書いてホームから見せ、マルかバツかをジェスチャーしてもらった。3本目にやっと運転手にマルをしてもらい、額の汗を拭いて乗車した。
“もし乗り過ごしてしまったらどうしよう…”乗ったはいいが、新たな不安が僕を包んだ。スペイン語の車内放送は早口でさっぱり分からないし、車内にある路線図はバルセロナのすぐ近くまでしか載っておらず、・バンドレイまであと何駅あるのか見当もつかない。1時間ほどで着くと聞いていたので、50分が過ぎた頃からハラハラドキドキ、停まる度に必死の形相で駅名をチェックした。そしてこの作業は列車が遅れたため40分続いた…。無事に・バンドレイの駅に降り立った時は、しばらくヘナってしまった。しかし、余裕をこいてる時間はない。時計は15時半を指しており、すぐに墓地探しに移らねばならなかった。11月下旬の冬期なので、墓地の門が17時に、否、ヘタをすると16時に閉まる可能性があった。幸い、駅に小さな観光カウンターがあったので、係の男性に墓地の方向を質問。英語は通じなかったがここでもチェロを弾くジェスチャーがきいた。まだ学生に見えるその若い担当者は、墓地までの略図を書き、歩いて15分ほどと教えてくれた。
“あと15分後に、夢にまで見たあのカザルスに会える!”外に飛び出た僕は、地図を片手に駆け出した。途中、5人の前でチェロを“弾き"、さらに走り続けると、とうとう畑のド真ン中に白壁で囲まれた墓地が見えて来た!“もうすぐ、もうすぐだ!”いやがうえにも興奮は高まる。スピードはマッハを超えた。門をくぐり速攻で探知活動に突入。墓地内は意外と広かったけど、墓レーダーをイッキに臨界点までフル稼働させ、風を読み、耳を澄ませ、心眼でカザルスの墓を探した。そして多数の墓からわずか3分強で墓石を探し出し、その瞬間、自分がニュータイプだと確信した!…というのは大袈裟で、きっと人々に慕われていたから正門付近だろうと見込んで向かったら、本当に入ってすぐの所に彼は眠っていた。しかも、墓石はチェロの形をモチーフにしていたので、遠目にも簡単に分かった。僕はすぐさま石棺に覆い被さり、全身でカザルスに会えた喜びを伝えた。

2014年に再巡礼。この時は5歳の息子と墓参。バルセロナからアル・・バンドレイまで駅の数は16個あり、子どもがひとつひとつ駅を数えてくれたので、14年前のように駅に着く度に不安げに駅名を確認することはなかった。

※故郷アル・・バンドレイの生家は見学可能。カザルスが最初に手にした楽器であり父が幼いカザルスのためにヒョウタンをくり抜いた一弦チェロや、教会オルガン奏者だった父親が音楽の手ほどきをしたピアノ、木製のゆりかごなどを展示。
※生家近くのノヴァ広場の噴水に演奏するカザルス像がある
※アル・・バンドレイの海岸沿い(サン・サルバドール)に、避暑地として過ごした別荘が「パウ・カザルス記念館」として公開。17コーナーに手紙や平和活動を称えられたメダルなどを展示。
※生家のすぐ近くに父親がオルガン奏者を務めたサンティシム・サルバドール教会が建っている。時々、カザルスも代理で演奏したとのこと。
※プエルトリコの首都サンファンの晩年の家はカザルスの記念館になっている。チェロ、愛用のパイプ、肖像画などを展示。入場無料。
※カザルスはイタリアの楽器製作者マッテオ・ゴフリラー(1659-1742)が晩年の1733年に製作したチェロを愛用。ストラディヴァリウスについては「自分にはもったいない」「(音色が)自分には合わない」とのこと。
※現代のカザルスと評されるチェロ奏者オンツァイ・チャバもゴフリラーを愛用。



★グレン・グールド/Glenn Gould 1932.9.25-1982.10.4 (カナダ、トロント 50歳)2000&09 ピアニスト
Mount Pleasant Cemetery, Toronto, Ontario, Canada Plot: Section 38, No. 1050/375 Mount Pleasant Rd







背後がグールド家の墓、
手前はグレン単独の墓
グールドが眠るカナダの墓地は公園に近い。
サイクリングやジョギングをする人がいっぱい
「愛する息子グレン・グールド」とあった



2000 2009
墓に彫られていた楽譜、バッハの『ゴールドベルク変奏曲』は子守歌。
グールドは安らかに眠っていることだろう


1歳のグールド。かわいい! 少年グールド。犬と仲良く連弾

  

23歳で衝撃のレコード・デビュー!グールドがピアノに向かうとあらゆるクラシックの古典が新曲になった

グレン・グールド大明神!彼は僕のヒーローであり、No.1愛聴ピアニストだ。グールドの演奏を聴く度に“ハア〜、ほんと、生まれてきて良かった”と歓喜の涙が滲んでくる。彼の愛すべき人柄や数々の「伝説」を、生涯と共に紹介しよう!

●32歳で演奏会を中止

ゴッホ、ベートーヴェン、ダリ、平賀源内…昔から天才と変人は紙一重と言われてきた。グレン・グールドも間違いなくその一人。グールドは1932年9月25日にカナダ・トロントで生まれた。父は毛皮商、声楽家の母方の遠縁には作曲家グリーグがいる。1946年、トロント王立音楽院を最年少の14歳で卒業(しかも最優秀)。同年トロントでベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番第一楽章を演奏してコンサート・デビュー。23歳の時にNYで録音した初アルバム、バッハの『ゴールドベルク変奏曲』が、若々しい鮮烈な演奏で世界の注目を集め、1956年のクラシック・レコードの売上ベストワンを記録した。一躍時代の寵児となった彼は、各地で計253回の演奏会をこなして行く。
ところが!1964年、32歳の時に人気の絶頂で突然コンサート活動の中止を宣言し、聴衆の前から姿を消してしまう。「客の咳払いやくしゃみ、ヒソヒソ声が気になって演奏に集中できない」という神経質な性格もあったが、最大の理由は音楽家としてのポジティブな向上心にあった。グールドいわく「聴衆の中には、ピアニストがいつ失敗するだろうかと手ぐすね引いて待っている連中がいる。彼らはローマ時代に闘技場に集まった群集や、サーカスの綱渡り芸人が足を踏み外すのを心待ちにする観衆と同じだ。その結果、演奏家は失敗を恐れるあまり、いつもコンサート用の十八番のレパートリーを演奏することになる。すっかり保守的になって、もしベートーヴェンの3番が得意曲だったら、4番を試してみるのが怖くなるというように」「レコーディングによってコンサートの地獄のストレスから演奏家は解放される。演奏会の為に同じ曲ばかり練習するのではなく、新しい楽曲にどんどん挑戦してゆけるし、失敗を恐れずにありとあらゆる解釈を試せる」。
以後、彼はスタジオにこもり、録音専門のピアニストとなって自己の芸術を高めていく。


●重度の病気恐怖症

グールドが奇人と呼ばれたのは、まず独自の風貌にある。極度の寒がり屋で、夏でも厚い上着の下に分厚いセーターを着込み、ヨレヨレのコート、マフラー、毛皮の帽子を身につけていた(大抵は黒一色)。ズボンはだぶだぶ。常に厚い手袋をはめていたが、手袋の理由は防寒だけではない。グールドいわく「もしもの時の防衛用」。異常なまでに潔癖症(細菌恐怖症)の彼は他人との接触を極端に嫌い、握手さえ「万全を期して」避けていた。電話の向こうで咳が聞こえ「風邪がうつる」ので切ったという話まで残っており、それが冗談と思えないところがグールドならでは。また、いつも大瓶のポーランド産ミネラルウォーターと大量のビタミン剤(5瓶分)を持ち歩き、周囲から大丈夫と言われても絶対に水道水を飲まなかった(ロシア公演では晩餐会への出席を拒否!)。非常に少食で、普段は少量のビスケットとフルーツジュース、サプリメント(ビタミン剤、抗生物質)等しか取らなかったという。


  グールドといえばこの服装 1974年・トロントにて(42歳)



●指揮者よりエライのさ

幾多の指揮者を激怒させたのは、演奏中に片手があくと、その手で指揮を始める癖だった。個人リサイタルならともかく、オーケストラとの共演でも振り続けるので、「ステージに2人も指揮者はいらん」と怒りを買った。帝王カラヤンは「君はピアノより指揮台がお似合いだ」と嫌味を言い、バーンスタインは「もうやってられない」とベートーベンのピアノ協奏曲全集の録音を途中でボイコットした。評論家にも指揮癖を非難されたグールドは一言、「手を縛って演奏することは不可能だ」。


  スタジオ録音でもやっぱり“指揮”している

前述したバーンスタインは情熱家肌であり、その分グールド絡みの逸話も多い。駆け出しのグールドをバーンスタインがNYフィルに招いた時のこと。20代半ばのグールドはカーネギーホールへ出番2分前に着く大物ぶりを見せ、セーターのまま舞台に出ようとするのでバーンスタインは必死で阻止したという。最も有名なのは1962年にブラームス・ピアノ協奏曲第1番で組んだ時の「ブチ切れ宣言事件」。当時バーンスタイン44歳、グールド30歳。本番直前までバーンスタインのテンポにグールドが従わなかったことから、演奏前にバーンスタインが客席に向かって「今から始まる演奏のスピードは私の本意ではない。ここから先はグールド氏の責任だ」と、前代未聞の敗北宣言をしたのだ。結局、頑固なグールドに根負けし、指揮者が演奏者に合わせた形になった。後日のグールド「あのスピーチの時、僕は舞台裏で笑いをこらえるのに必死だった。無理を聞いてくれたバーンスタインに感謝した」。グールド、あんたすごいわ。







練習中に火花を散らすバーンスタインとグールド。
バーンスタインはグールドの音楽論に一目置いていて
「グールドの言葉は彼の弾く音符のように新鮮で
間違いがない」とも言っている


●ピアノが歌い、椅子が歌い、グールドも歌う

演奏スタイルも奇抜だった。演奏前に洗面所にこもり、両手をお湯に半時間浸して温めた後、彼がステージで腰掛けるのは有名な『グールド専用椅子』。彼は父親が作った床上35.6cmの極端に足の短い折り畳み椅子をいつも持ち歩き、この専用椅子でなければ演奏を拒否した。時々録音にキーキー音が入ってるのはこの椅子の“歌”だ。そして、椅子が異常に低い為に、彼が座ると胸の高さに鍵盤がくる。手首は鍵盤の「下」だ。演奏時は物凄く猫背になり、今にも鼻が鍵盤にくっつきそう。口の悪い批評家はその特異なスタイルを指して「猿がオモチャのピアノを叩いているようだ」と冷やかした。彼は音楽に没入すると体を揺らしながら演奏するが、その揺れは曲のリズムと合っていない。

動画〜グールドの鼻歌(3分)。途中で立ち上がり最後は演奏大爆発!(バッハ/パルティータ2番)








リハ中にオケをほったらかしにして30分も高さを調節。
指揮者セルを激怒させた。グールドはこのエピソードを
否定しているが、怒った側のセル本人が証言している
のでおそらく本当のことだろう

  鍵盤が目と鼻の先!長身なのに子どものよう。(50歳、最晩年のグールド)

極めつけは、演奏しながらのハミング!グールドのCDにはこんな注意書きが書かれている。『グールド自身の歌声など一部ノイズがございます。御了承下さい』。ピアノの音色と共に、朗々と歌い上げるグールド。彼の唸り声や鼻歌に、録音の技術スタッフが怒って「楽譜に歌のパートはないぞ!」と指摘すると、「感情を抑えて、黙りこくって演奏なんか出来ない!」と逆ギレ。イジワルなインタビュアーに「演奏しながらなぜ歌うんですか?」と聞かれた時は、「あなたは私のピアノを聞いていないのか?」と逆にやりこめた。

  歌いまくりのグールド

ショパンを弾かないピアニストも珍しい。グールドはショパンを「感情過多」と軽蔑し、たった1曲しか演奏しなかった。彼に言わせるとモーツァルトも「グロテスク」らしい。だからモーツァルトの悪いところを“直してあげて”弾くんだって。グールドのことを人間ではなく、本気で「地球外生命体」「神」と信じている人もいる(マジ)。

1982年、1982年、グールドは脳卒中で倒れ1週間後に他界した。まだ50歳の若さだった。グールドが後世に残した最後の映像記録は、奇しくもデビュー・アルバムと同じ『ゴールドベルク変奏曲』だった。

★必聴!偶然見つけた海外サイト…クリックすると自動的に最晩年の『ゴールドベルク変奏曲』(約3分)が流れます!ここまで色々書いてきたけど、本物の音を聴くのが一番彼の素晴らしさが伝わります!(耳を澄ませばグールドの鼻歌もちゃんと聞えるよ♪)。とても精神的な深さを感じる感動的な演奏なので、絶対聞く価値アリ。一度きりの人生、あなたの3分間をグールドと共に!!
※ゴールドベルク変奏曲は300年前の子守唄。眠りる前に聴くとめっさ心地よいデス。

CDはコレ


●グールド、宇宙へ

彼は生涯独身で愛犬バンコーと暮らしていたことから、遺産の半分は動物愛護協会に寄付された。グールドが選んだ20世紀の最高傑作小説は漱石の『草枕』とトーマス・マンの『魔の山』で、『草枕』は異なる訳者のものを4冊持っていた。死の床には、枕もとに聖書の他に書き込みだらけの『草枕』があったという。また、死の前年にラジオで草枕の第1章を朗読している。その他、映画『砂の女』(勅使河原宏監督)を100回以上見たと伝えられている。
愛用のピアノは1945年製スタインウェイを改造したもの。晩年はヤマハの音も好み、最後のゴールドベルクの収録はヤマハで行った。
NASAが1977年に打ち上げた惑星探査機ボイジャー1号&2号には、異星人への地球人からの挨拶として、グールドが演奏したバッハのレコード『平均律クラヴィーア曲集第2巻/前奏曲とフーガ第1番』が針と一緒に積み込まれた。素晴らしい。これ以上は考えられない、人類の最高の自己紹介ではないか!


●グールドに逢いたくて

2000年7月、僕はグールドからもらった沢山の感動の御礼を伝える為に、彼が眠るトロントに向った。観光案内所の係員が墓地の場所を知らず途方に暮れていると、巨大CDショップ(HMV)が目に入った。手掛かりを求めてクラシック売り場に向かう。「あのう、グールドの墓はトロントの何処にあるかご存知ですか?」 若い店員「墓は聞いたコトないんですけど…」。ぎょえーっ。僕が不安のドン底に落ちていると、肩を背後から叩いた人がいた。立っていたのは中年の男性店員。「フッフッフッ…私が教えてあげよう」。なんと!その店員は首からグールドのブロマイドを掛けているではないか!彼は最寄りの地下鉄駅から墓地までの手書きの地図を作ってくれた。
















グールド・ファンの親切な店員さん!
胸元に“あのお方”のブロマイドが光る

なんとかグールドが眠るMount Pleasant墓地に着くと、今度はその広大さに目まいを覚えた。管理人いわく「20万人以上が埋葬されてます」。事務所でもらった墓地マップを片手に探し回り、ついに彼の墓前へ。グールドの墓には彼の代名詞とも言える『ゴールドベルク変奏曲』の楽譜が刻まれていた。頭の中で彼の音楽が流れ始め、胸がいっぱいになり膝をついた。ありがとう、グレン・グールド。

思わず耳を澄ませたくなる
(2000年7月、トロントにて)
素晴らしい音楽を有難うございましたッ!
(2009年7月)

「グールドはバッハの最も偉大な演奏者である」(スヴャトスラフ・リヒテル)
「グールドは私にとって永遠のアイドルだ」(ウラディーミル・アシュケナージ)
「グールドより美しいものを見たことがない」レナード・バーンスタイン)
「結局、彼は正しかった」(ユーディ・メニューイン)

「芸術の目的は、瞬間的なアドレナリンの解放ではなく、むしろ、驚嘆と静寂の精神状態を生涯かけて構築することにある」(グールド)

(参考文献:エンカルタ総合大百科、映画「グレン・グールド27歳の記憶」ほか)

●浅田彰氏によるまとめ〜グールドの5大特徴
(1)行儀の悪い座り方
(2)極端に低い椅子・高さ35cm
(3)弾きながら歌う
(4)曲のリズムと合わない体の揺れ
(5)自分の演奏への指揮

《市民の憩いの場〜グールド像百景》

トロントのCBCラジオ・ビル。
この前にグールドの座像が設置されている
厚着でコロンコロンの
有名なこの写真が→
こうなった!

トロント市民を見守るグールド





立ち止まって見つめるマダム 同じポージングで至福のショット 若い女性にモテモテのグールド



家族連れが男の子とグールドの記念写真をパシャリ この子、最初は帽子を触ってたけど… 「チーズ」で鼻に指を突っ込んでた!(笑)

※グールドの入門にはベスト盤CD『リトル・バッハ・ブック』が良い曲ばかりでおすすめ!(もち、本人の歌声入り)
※人間味のある人物像に迫りたい人は記録映画『グレン・グールド 27歳の記憶』が充実しています!
※07年11月、ゴールドベルク変奏曲のDVDがようやく発売!本当に長かった…(涙)



★レナード・バーンスタイン/Leonard Bernstein 1918.8.25-1990.10.14 (NY、ブルックリン 72歳)2000 指揮者
Green-Wood Cemetery, Brooklyn, Kings County, New York, USA Plot: Section G, Lot 43642








ディズニー・ランドみたいな正面ゲート。非常に古い墓地だ この丘の上にレニーは眠っている

バーンスタイン家の墓域! 手前左がレニー、お隣はフェリシア夫人





米国人の墓、特にユダヤ人の墓には
小石を積むという風習がある (2000)
約10年ぶりに巡礼。石が周囲をグルリと囲んでいた。
ヒマワリの黄色が芝生の緑に映えていた (2009)
墓の側には長椅子がありゆっくり語り合える

20世紀を代表するアメリカの指揮者で作曲家・ピアニスト。愛称レニー。ライバルのカラヤンと共に20世紀後半のクラシック音楽界をリードした。1918年8月25日、マサチューセッツ州ローレンスに3人兄弟の長男として生まれた。両親はロシアから米国に移住したユダヤ人で父は理髪店を経営していた。子ども時代はラジオから流れる様々な音楽、ワルツ、ジャズ、ポップス、クラシック、何でも夢中になって聴いた。
14歳の時、教会の慈善公演のチケットを父が貰ってきたので、初めてクラシックの演奏会を聴きにいった。その時の曲目がラヴェルのボレロ。「初めてのコンサートで、オーケストレーションのお手本のような曲を聴いたのです。稲妻に打たれ、どうしても音楽が、作曲がやりたくなった」(バーンスタイン)。
ハーバード大学で音楽を専攻して作曲を学び、卒業後にフィラデルフィアのカーティス音楽院に進み、作曲家ウォルター・ピストンに作曲を、ハンガリー出身の指揮者フリッツ・ライナーとロシア出身の指揮者クーセビツキーに指揮を師事した。
1937年(19歳)、ラヴェルのピアノ協奏曲のソリストとしてピアニスト・デビューを果たす。さらに作曲と指揮の才能が開花していく。
1942年(24歳)、ユダヤ教の影響を受けた『交響曲第1番 エレミア』を作曲し、ニューヨーク批評家賞を受賞。
1943年、25歳でニューヨーク・フィルハーモニーの指揮者ロジンスキーの指名を受け副指揮者となる。そして運命の転機がいきなり訪れた。同年11月14日、ドイツ出身の大指揮者ブルーノ・ワルター(マーラーの直弟子)が体調を崩し、急遽代役として無名の新人だったバーンスタインが指揮をすることになった。曲目はシューマン『マンフレッド序曲』、リヒャルト・シュトラウス『ドン・キホーテ』、ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー 第1幕前奏曲』など。リハーサルをする時間はない。そして本
番…結果は大成功!このライブはラジオで全米に生中継されたため、その情熱的な指揮が大評判となり、バーンスタインは一夜にしてスターとなった。当時のアメリカには米国生まれの指揮者がまだ少なく(他国からの移住者ばかり)、バーンスタインはアメリカ音楽界の期待を一身に集めた。

大戦後、プラハ、ロンドン、ウィーン、ブダペスト、パリなど欧州各地で客演し、好評を得たことから、レニーは驚きを手紙に綴った。「30歳にも満たないユダヤ人という不利な条件にもかかわらず慕われているようです」「ブダペストがこんなに沸いたのはトスカニーニ以来だそうです」。イタリアでは「もう一人のレオナルド」と讃えられた。
1944年(26歳)、ミュージカル『オン・ザ・タウン』作曲。ニューヨークで24時間の上陸許可を与えられた水兵3人の恋愛騒動を描き、1949年に『踊る大紐育』として映画化された。同年、バレエ音楽『ファンシー・フリー』作曲。
1945年(27歳)から3年間ニューヨーク・シティ交響楽団の音楽監督を務め、教育者としては1948年から7年間バークシャー音楽センターで指導し、並行して1951年から5年間ブランダイス大学で教えた。
1948年(30歳)、10歳年上の指揮者カラヤン(1908-1989)と初めて出会う。ライバルではあったが互いの才能を認めていた。
1949年(31歳)、『交響曲第2番 不安の時代』を作曲。
1951年(33歳)、チリ出身の女優・ピアニストのフェリシア・モンテアレグレと結婚し3児に恵まれる。一方、バーンスタインはバイセクシュアルであることを隠していない。
1952年、オペラ「タヒチ島での騒動」。本作は1983年に「クワイエット・プレイス」へと拡大される。
1953年(35歳)には、ミラノ・スカラ座の客演指揮にアメリカ人として初めて招かれた。同年、ミュージカル『ワンダフル・タウン』作曲。ノリノリの音楽。
1954年(36歳)、プラトンの『饗宴』に着想を得た『セレナード』を作曲。各楽章にソクラテスなど『饗宴』の登場人物の名を冠している。この年、テレビの音楽ドキュメンタリーでベートーヴェンの交響曲第5番の解説を行い話題になる。これが教育番組『青少年コンサート』に繋がっていく。同年、映画『波止場』(主演マーロン・ブランド)の音楽を担当。また、著作『音楽のよろこび』を刊行。
1956年(38歳)、ヴォルテールの小説を原作にしたオペレッタ『キャンディード』を作曲。バーンスタインと脚本担当のリリアン・ヘルマンは赤狩りで迫害された者同士であり、原作の反骨精神に共鳴した。同年、NYフィルとルイ・アームストロングが共演、『セントルイス・ブルース』を演奏した。

1957年(39歳)、バーンスタインは作曲家としても才能を華々しく開花させ、ミュージカル『ウエスト・サイド物語』(振付ジェローム・ロビンズ)の音楽を書き上げる。シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』を題材に、ポーランド系アメリカ人とプエルトリコ系アメリカ人の不良グループの抗争が生む愛と死を描いた。ブロードウェーには「悲劇はヒットしない」というジンクスがあったが、バーンスタインの数々の傑作ナンバーとロビンズの鮮烈な振付で記録的ヒットとなった。特に挿入歌『トゥナイト』は世界中の人々に愛される名歌となった。本作は1961年に映画化されたこともあって、バーンスタインの名は世界各地でクラシック・ファン以外にも広まった。
1958年(40歳)、名門ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の初のアメリカ生まれの常任指揮者(翌年音楽監督)となった。両者の相性は抜群で、1200の公演、200以上の録音をし、ニューヨーク・フィルは世界有数の楽団に成長した。NYフィル団員「バーンスタインには独特なカリスマ性があり、感動が伝わってきて何かが起こる」。同年、バーンスタインはニューヨーク・フィルの客演指揮者にカラヤンを招き、カラヤンは演奏会を8回指揮した。
ニューヨーク・フィルの常任指揮者時代、バーンスタインは後進の指揮者の育成に乗り出し、「補助指揮者」に採用した小澤征爾、クラウディオ・アバドなどを育てた。
1959年(41歳)、著作『バーンスタイン音楽をかたる』を刊行。
1960年(42歳)、ミュージカル『ウエスト・サイド物語』の主要曲を集めて編曲した、オーケストラのための演奏会用組曲「『ウエスト・サイド物語』からのシンフォニック・ダンス」を作曲(初演は翌年)。全8曲が切れ目なく演奏される。
※バーンスタイン指揮による『「ウエスト・サイド・ストーリー」からシンフォニック・ダンス』 https://www.youtube.com/watch?v=X8qM1ZCoQls

1961年(43歳)、ニューヨーク・フィルを率いて来日コンサート。以降、1970年、1974年、1979年にニューヨーク・フィルと、1985年に「広島平和コンサート」出演、そしてイスラエル・フィルを率いての2回、1990年にロンドン交響楽団と訪日している(計7回)。
1962年(44歳)、テレビ番組『青少年コンサート、音楽鑑賞の新しい試み』を文章とレコードにまとめ好評を得る。バーンスタインは音楽の啓蒙活動も熱心に展開し、テレビを通して子どもたちにクラシックの魅力を分かりやすく解説した。例えば、レシタティーブの役割を解説する際は、「鳥肉が1ポンドあたり3セント値上がりしたよ」「何て物価が高いのでしょう」という夫婦の会話をモーツァルト風、ヴェルディ風、ワーグナー風に演奏してコミカル
1963年(45歳)、『交響曲第3番 カディッシュ』を作曲。“カディッシュ”はアラム語(古代ペルシャの公用語、キリストも話したという)で「聖なるもの」の意。同年にケネディ大統領が暗殺されたことから、ケネディへのレクイエムとして捧げられた。アメリカ初演時、拍手が15分以上も鳴り続けた。
1964年(46歳)、多忙極まり「作曲の時間を取るため」に1シーズンの休みを取った。
1965年(47歳)、合唱とオーケストラのための『チチェスター詩篇』作曲。
1966年(48歳)、初めてウィーン・フィルハーモニーの客演指揮に招かれた。60年代、保守的なウィーン・フィルは伝統を重んじるあまり、客演には特に厳しいことで知られていた。後年(1986年)のレニーの回想「ウィーン・フィルとは初めにオペラをやりました。1966年の「ファルスタッフ」のことはよく覚えています。お互い神経質になっており、時間を節約できるようリストを作っていきました。音の細かい変化や難しい箇所などを指揮する前に説明しました。まもなく団員がざわついているのに気づきました。まだ音を出していなかったので、幹部から「早くやろう」と(フルートを吹くジェスチャーで)サインが出て、私もようやく事態を理解し、「始めよう」と言いました」。
ウィーン・フィルのメンバーに対し、バーンスタインは謙虚に言葉を繋いだ。「モーツァルトは皆さんの音楽です。ウィーン気質やフレージングなど私が学ぶことは多いと思います。伝統から外れているときはどうぞ教えて下さい」「ウィーンの音楽家はモーツァルト、ワーグナーの世界に生まれ、市民権を持つが、私はガーシュウィンやコープランドの国で生まれ、欧州における私の地位は養子みたいなものです」。

1969年(51歳)、かねてから『ウエスト・サイド物語』を上回る作品を作曲したいと思っていたバーンスタインは、作曲の時間を確保するためにニューヨーク・フィルと契約を終える。同フィルから終身桂冠指揮者の称号をおくられた。以降は特定のポストにつかず、ウィーン・フィル、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団、イスラエル・フィルと組んで名演を残した。

バーンスタインは音楽家としての名声をバックに、核軍縮、人権擁護、教育問題、エイズ対策など、様々な社会運動に取り組んだ。1969年、ニューヨークのベトナム反戦集会でこうマイクをとった。「政府は言う。“安易な方法は取らない、ベトナムから撤退しない、そんなことをすればベトナムは共産化されてしまう…”。虚勢を張り、歴史をゆがめ、軍事大国のイメージを保とうとしている。それこそが“安易な”方法だ」。

かつて、作曲家マーラーは他界の年、1911年2月までニューヨーク・フィルの指揮者としてタクトを振っていた。バーンスタインはマーラーが同じユダヤ人であること、指揮者であり作曲家という共通点もあり、マーラーの音楽の虜になった。1960年代、レニーはニューヨーク・フィルとマーラー全集を録音したことでアメリカにおけるマーラーの擁護者となった。バーンスタイン「マーラーを演奏していると自分で書いたような気がしてくる」。
1970年代に入ると、バーンスタインはウィーン・フィルとマーラーの音楽を演奏しようとした。
「マーラーの町(ウィーン)でマーラーのオーケストラとマーラーの曲をやろうとしたんです。しかし、偉大なるウィーンではマーラーは禁止されていました。団員達はマーラーを知らず偏見を持っていました。長ったらしく、騒々しく、不必要に複雑で、感情過多の音楽だと彼らは思っていました。リハーサルであまりに抵抗するので、私の怒りが爆発しました。マーラーは自分達の町の音楽家ですよ?」

【ウィーン・フィルとのマーラー『交響曲第5番』リハーサルから、バーンスタインの発言】
「リハーサルであることは分かっている。しかし何の為のリハーサルですか。音符が弾けることは分かる。しかしマーラーの心は一体どこだ。この嘆くようなトレモロを最大限に表現しないと。そんな感じではマーラーは弾けない。マーラーじゃない!何のためのリハーサル?だいたいの感じを掴むため?その程度の稽古でいいと思いますか?苦しさを乗り越えてマーラーを演奏するんです。練習するしかありません。8時間労働が何だ!やるのか、やらないのか。これではマーラーにならない」
「フォルテが1つ書かれていたらその通り演奏して下さい。弦楽器も楽器が壊れるくらい激しく。そうでないとマーラーにならない。平凡に演奏したら退屈な音楽になってしまいます。この曲にノーマルはありません。フォルティッシモはこの上なく強く」
「私が合図するまで待って下さい、急がないで下さい」
「私のスコアを使っていますか?自分のスコアを使っているのか?同じ資料でないと混乱する」
「ディミヌエンド(デクレッシェンド)ど書いてあるのに誰もその通りにやっていない」
「ヴェローチェ!(速い)」
「ドルチッシモ!(きわめて優しく)」
後年の回想。「とてもやりにくかった。(私に対しウィーン・フィルの団員の間で)翻訳できないような言葉がささやかれていました。しかし、ひとたびマーラーの魅力を知り、聴衆の反応がどんなにすごいかを知ると、自分達が神聖なものをたたえる器であることに気づいたのです。ブラームスと同じく神聖な音楽だということに…」
こうした“戦い”を経て、バーンスタインとウィーン・フィルはマーラー作品の歴史的名演を重ねていった。

1970年(52歳)、公民権運動を支援するため、ニューヨークの自宅で急進的黒人政治組織ブラックパンサー党の資金調達の会合を開く。
1971年(53歳)、ウィーン・フィルとマーラーの交響曲第9番をライブ収録。同年、歌手・ダンサー・演奏家たちのための『ミサ曲』を作曲。“サイモン&ガーファンクル”のポール・サイモンが詩の一部を提供するなど、ジャンルが特定できないバーンスタインらしいミサ曲で、娯楽性と信仰の危機など宗教的モティーフ    を統合した。
1973年(55歳)、イギリスのイーリー大聖堂でロンドン交響楽団とマーラー『交響曲第2番 復活』の名演を残す。
1974年(56歳)、バレエ音楽『ディバク』作曲。
1977年(57歳)、友人ロストロポーヴィチがワシントン・ナショナル交響楽団の音楽監督に就任したことを祝い、政治的序曲『スラヴァ!』を作曲。政治集会のパロディ。"Slava"はロストロポーヴィチの愛称であると同時にロシア語の歓呼の言葉。
1978年(60歳)、27年連れ添ったフェリシア夫人がガンで他界。バーンスタインは献身的に看護した。バーンスタイン「フェリシアは輝かしく優しく聡明な女性で、天使そのものでした」。
1979年(61歳)、ベルリン・フィルと1度限りの共演が行われ、マーラー『交響曲第9番』が演奏された。
1985年8月(67歳)には被爆40周年として「広島平和コンサート」を開催。同年、グラミー賞生涯業績賞を受賞。
1988年(70歳)、ウィーンで行われた老カラヤンの演奏会に「俺はヤツの音楽は嫌いなんだけど、ヤツの顔が見たいんだ」とお忍びで足を運び、舞台裏でカラヤンと交流した。バーンスタインとカラヤンは合同演奏会の計画を練るほどの仲になっていた。同年、ウィーンフィルの長老達は“我らがレニーのために”と、親密の証としてジャズを覚えバーンスタインが作曲したジャズ要素の強い『前奏曲、フーガとリフ』を演奏した。
1989年(71歳)、7月にカラヤンが他界(享年81)。バーンスタインは演奏会で2分間の黙祷を捧げ、2ヶ月後のカラヤン追悼演奏会(ウィーン・フィル)でベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番の弦楽合奏版を指揮した。11月にベルリンの壁が崩壊し、翌月にベルリンで催されたクリスマス・コンサートで、バーンスタインは東西ドイツ&アメリカ&ソ連&イギリス&フランス各国のオーケストラの混成メンバーを指揮してベートーヴェン第九を演奏。第4楽章の「歓喜の歌」の“Freude(歓び)”を“Freiheit(自由)”に歌詞を変え、東西冷戦終結を祝った。同年、連作歌曲『アリアとバルカロール』を作曲。
1990年(72歳)、6月、民主化を祝うチェコスロバキアの「プラハの春」音楽祭で再び“Freiheit(自由)”バージョンの第九を指揮。さらに後進の育成にも力を注ぐべく札幌でパシフィック・ミュージック・フェスティバルを開始。だが体調不良により、8月19日、タングルウッド音楽祭におけるボストン交響楽団とのブリテン『4つの海の間奏曲』、ベートーヴェン『交響曲第7番』の演奏を最後にすべてのコンサートをキャンセル。10月9日に指揮活動からの引退を表明。その5日後、10月14日にニューヨークの自宅で肺癌のために亡くなった。享年72歳。
1992年、バーンスタインが務めるはずだったウィーン・フィルのニューイヤーコンサートの指揮をカルロス・クライバー(1930-2004)が代行した。クライバーはバーンスタインより12歳も年下だったが、バーンスタインはクライバーの指揮に魅了され、クライバーのプッチーニ『ラ・ボエーム』を聴いて「最も美しい聴体験の一つ」と讃えたという。
バーンスタインは巨匠となっても各国で学生オーケストラを指揮し、若い演奏家たちの指導に従事した。クラウディオ・アバド、小澤征爾は彼の弟子。最後の弟子は佐渡裕だ。佐渡裕「バーンスタインはひどい演奏もしたけれど、奇跡のように素晴らしい演奏もした。天才とは奇跡が起きる確率が高い人なんです」。

〔バーンスタイン、かく語りき〕
「誰かと分かち合えない感動は私にとって無意味だ」
「20世紀の脚本は書き出しから失敗だ。ギリシャ劇とは対照的です。第1幕、欲望と偽善が世界大戦をもたらし、戦後の不公正と狂気へと続き、にわか景気、堕落、全体主義となった。第2幕、欲望と偽善が大量殺戮をもたらし、戦後の不公正と狂気へと続き、にわか景気、堕落、全体主義となった。第3幕…欲望と狂気…この先一体どうなるのか」
「マーラーは第2ヴァイオリンの端の人にもソリストと同じレベルの演奏を求めている」
「若い人は理解している。(マーラーの)終末的な音楽の良さをね」
「私の作曲の師はアーロン・コープランドだ。コープランドと出会うまで、彼をヒゲのはえた聖書の預言者のような人物と想像していた。音楽がそうだからです。初対面のとき、37歳のやせてチャーミングで人なつっこい人が“はじめまして、アーロンです”と言ったときは卒倒しそうでした。新しく書いた作品を彼に持っていくと“ゴミ箱行きだな。これじゃあスクリャービンの物真似だ、やり直し”と言うこともあれば“いいね!”と言うこともあった」

音楽で世界中の人々を抱きしめようとしたレニー。アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者。彼は指揮者として同時代のカラヤンと並ぶ名声を得ただけでなく、作曲家としてもクラシック、ミュージカル、バレエ、オペラ、映画音楽、ポピュラー音楽など幅広く活躍した。青少年への音楽教育者としても知られている。
ライブ映像として残されているマーラーの交響曲第2番のフィナーレ、第5番のアダージェット、第9番終楽章は、僕はもう大袈裟でなく、音を消してレニーの表情を見ているだけでも感動して泣ける。すべてをさらけ出し、限界を突破しての感情移入、全身全霊を込めて演奏しているのが伝わってくる。
欧州の大指揮者に多い無口で頑固なイメージとは異なり、アメリカを体現するかのような陽気で気さく、おおらかな性格のレニー。指揮に没入するあまり指揮台でジャンプすることも多かったが、それは決して表面的なパフォーマンスではなく、マーラーやベートーヴェンの作品に対する解釈が高く評価された。音楽史上、希有なスター性を備えた指揮者だった。たくさんの素敵な音楽の贈り物をありがとう、レニー。

※チェリビダッケ「バーンスタインと私は長年書簡を交わしてきた。彼は真の天才だった。彼は亡くなるにはあまりにも早すぎた」。
※毎日煙草を5箱(100本)も吸い、ウイスキーを丸1本飲んでいたという。体を壊すがパワーを生むらしい。



★フルトヴェングラー/Wilhelm Furtwangler 1886.1.25-1954.11.30 (ドイツ、ハイデルベルク 68歳)2002&15 指揮者
Bergfriedhof Heidelberg, Heidelberg, Heidelberger Stadtkreis, Baden-Wurttemberg, Germany


今も崇拝者は多い

神戸で見つけた喫茶
フルトヴェングラーに感涙

古都ハイデルベルクに眠る 右隣の井戸が目印 墓前まで案内して下さった地元の方



墓地は広大でなかなか墓が分からなかった。
何人も尋ねてやっとこさたどり着く(2002)
13年ぶりの再巡礼(2015)
前回と花の色が違うため別の墓に見えた
聖書の一節が墓石の周囲に刻ま
れている「最も大いなるものは愛」

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwangler)は1886年1月25日にベルリンで生まれた。父アドルフは考古学者で、陶器の破片から年代特定を行う重要性に最初に気づいた人物。15歳から作曲を学び始め、20歳で現ミュンヘン・フィルによるブルックナー『交響曲第九番』を指揮して楽壇デビュー。その後、チューリヒ歌劇場やシュトラスブルク歌劇場で下積みを重ね、1911年に25歳でリューベックの音楽監督に就任する。
1922年(36歳)、1月に他界したベルリン・フィルの指揮者アルトゥール・ニキシュの後任としてベルリン・フィルの第4代常任指揮者に就任。またライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者も兼任した。1926年、フルトヴェングラーにとって初の録音となる『運命交響曲』をベルリン・フィルと演奏。翌1927年、フェリックス・ワインガルトナーの後継としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者にも就任する。
1931年(45歳)、初めてバイロイト祝祭劇場に登場し、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を指揮。
1933年(47歳)、3歳年下のヒトラーが首相に就任。フルトヴェングラーはナチス不支持だったが、ベルリン国立歌劇場でワーグナー『ニュールンベルクのマイスタージンガー』を指揮した際、ヒトラーの握手にこたえてしまい写真を撮影される。
1934年(48歳)、3月12日にドイツの新進作曲家パウル・ヒンデミット(当時39歳/1895-1963)の交響曲『画家マティス』をベルリン・フィルの手で初演。大成功を収めたことから、フルトヴェングラーは秋からの新シーズンでオペラ版『画家マティス』をベルリン国立歌劇場で初演する段取りを進めた。ところが8月19日にヒトラーが総統となって独裁権を掌握すると、ヒンデミットの新作オペラが上演禁止処分となった。これまでヒンデミットはドイツ人でありながらナチスに従わず、ユダヤ人音楽家と弦楽三重奏を録音するなどヒトラーの怒りを買っていたからだ。ヒンデミットに「退廃芸術家」の烙印を押して弾圧するヒトラーのやり方に憤ったフルトヴェングラーは、同年11月25日付けの『ドイツ一般新聞』に「ヒンデミット事件」と題する投稿を寄せた。
フルトヴェングラーは「ヒンデミットは現代と未来のドイツ音楽にとってなくてはならない人物」「いかなる理由があろうとヒンデミットを切り捨てることは許されない」と全力で擁護し、「根拠のない言いがかりをつけるな」とナチス批判を展開した。この声明に怒ったナチス政権の宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスはベルリン・フィル及びベルリン国立歌劇場からフルトヴェングラーを追放しようとし、ナチスの御用新聞は一斉にフルトヴェングラーとヒンデミットをバッシングした。12月5日、フルトヴェングラーは、ベルリン・フィル音楽監督、ベルリン国立歌劇場音楽監督、プロイセン枢密顧問官および帝国音楽院副総裁などあらゆる公職を辞任。ヒンデミットはトルコに亡命した。妻がユダヤ人だった指揮者のエーリヒ・クライバーは、この状況に危機感を抱き、ベルリン国立歌劇場の楽長の地位を捨てて息子カルロスを連れアルゼンチンに亡命した。

ドイツの音楽界から世界的大指揮者フルトヴェングラーがいなくなったことは、国際社会におけるナチス政権のイメージダウンに繋がった。また、ベルリン・フィルの演奏レベルも下がり始め、危機感を持ったナチス政権はフルトヴェングラーに対する圧力を弱めたことから、3カ月後の1935年3月にフルトヴェングラーは“客演指揮者”としてベルリン・フィルに復帰した。翌年、イタリアのムッソリーニ率いるファシスト政権と対立していた指揮者トスカニーニは、ニューヨーク・フィルの次期音楽監督にフルトヴェングラーを指名したが、ナチスの妨害を受けて話は流れる。
1938年(52歳)、オーストリアをドイツに併合したナチス政権がウィーン・フィルを解散しようとしたため、フルトヴェングラーはこれを阻止。
1939年(53歳)、ヒトラーがポーランドを侵略し第二次世界大戦が勃発。多くの音楽家がナチスに抗議してドイツを離れたが、ベルリン・フィルには多くのユダヤ人演奏家がいたため、フルトヴェングラーはあえてドイツに残ることで、ユダヤ人音楽家を保護しようとした。国際社会はナチス政権下で音楽活動を続けるフルトヴェングラーを「ナチスに迎合している」と批判したが、ドイツ国内だからこそできる人道支援を続けた。
1945年(59歳)、ベルリンは空襲が日常化し、モーツァルトの演奏中に警報が鳴り避難することもあった。大戦末期、フルトヴェングラーはナチスへの非協力態度(ユダヤ人作曲家メンデルスゾーンを演奏会で取り上げるなど)が目に余るとして、ナチス高官ハインリヒ・ヒムラーからついに逮捕命令が出る。ナチス高官の中には熱烈なフルトヴェングラーファンがいて、暗に亡命を勧められた。2月、ゲシュタポ(秘密警察)に命を狙われるに至り、フルトヴェングラーはスイスでのウィーン・フィルの定期演奏会後にスイスに亡命する。5月8日にドイツ降伏。フルトヴェングラーは戦争末期まで演奏活動を続けていたことからナチス政権への協力を疑われ、演奏禁止処分を受ける。
1947年(61歳)、ナチ支持者ではないという無罪判決が下り、2年ぶりに音楽界に復帰。

1951年(65歳)、敗戦から6年を経てバイロイト音楽祭が再開され、その記念演奏会でベートーヴェンの交響曲第9番を指揮、伝説の名演となる。
1952年(66歳)、ベルリン・フィル創立以来初となる「終身指揮者」に就任。
1954年11月30日、バーデン=バーデンにて肺炎により他界。享年68。エリーザベト夫人はフルトヴェングラーの棺を、東西冷戦下のベルリンではなく、古都ハイデルベルクの彼の母の墓の隣りに埋葬することにしたた。フルトヴェングラーはドイツ最古のハイデルベルク大学(1386年創立)の名誉教授でもあり、当地に縁があった。実際、ベルリンにはこの7年後(1961年)に“ベルリンの壁”が構築されており、墓地の場所によっては墓参できなくなるところだった。12月4日にハイデルベルクの聖霊教会で葬儀が執り行われ、ベルリン・フィルがモーツアルト『フリーメースンのための葬送曲』でマエストロを見送った。弔辞はカール・ベーム。フルトヴェングラーは街の東側の山の斜面にあるベルクフリートホフ(Bergfriedhof、山の墓地)に埋葬された。
フルトヴェングラーの墓石には左右の縁に沿って新約聖書の「コリント人への第一の手紙 第13章」が刻まれている。左が「NUN ABER BLEIBT GLAUBE,HOFFNUNG,LIEBE,DIESE DREI.(そうして永遠に残るものは信仰、希望、愛、この3つである)」、右が「ABER DIE LIEBE IST DIE GROSSTE UNTER IHNEN.(その中で最も大いなるものは愛である)」。
2013年、妻のエリーザベトが102歳で他界。

フルトヴェングラーはベートーベン、ワーグナー、ブラームスなどドイツ音楽の演奏で高評価をえた。特に弦楽パートの響きを磨き上げ、力強い表情の豊かなオーケストラの音色を引き出すことに成功した。一方、フルトヴェングラーの指揮棒は海がうねるように動くため、演奏者はリズムが取りにくく、日本では「振ると面食らう」とジョークでたとえられた。
残された主な録音盤は、ベートーヴェンの第3番『英雄交響曲』が「1944年ウィーン・フィル/放送録音」と「1952年ウィーン・フィル/スタジオ」の2種、第5番『運命交響曲』が「1937年ベルリン・フィル/スタジオ」、「1947年ベルリン・フィル/ライヴ」、「1954年ウィーン・フィル/スタジオ」の3種、『第7番』が「1950年ウィーン・フィル/スタジオ」、『第九』が「1942年ベルリン・フィル/ライヴ」、「1951年バイロイト音楽祭/ライヴ※2種類」、「1954年フィルハーモニア管弦楽団/ライヴ」の4種。ワーグナーは『ニーベルングの指環』全曲が「1950年スカラ座/ライヴ」「1953年ローマRAI放送/放送録音」、『トリスタンとイゾルデ』が「1952年/スタジオ」、『ワルキューレ』全曲が「1954年ウィーン・フィル/スタジオ」。あとはシューベルトの『交響曲第9番ザ・グレイト』が「1942年ベルリン・フィル/ライヴ」、シューマンの『交響曲第4番』が「1953年ベルリン・フィル/スタジオ」などが現存する。
映像でも1954年ザルツブルク音楽祭のモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』、1942年の慰問演奏会でのワーグナー『ニュルンベルクのマイスタジンガー』第1幕前奏曲、ナチ高官列席の『第九』が残る。
※フルトヴェングラーはテンポの決め方を質問された際、「それは音がどう響くかによる」と答えた。これを聞いた指揮者のチェリビダッケは、ホールの音響を無視してメトロノームの数字のみで決めたテンポ設定は無意味と悟ったという。
※音楽評論家・吉田秀和のフルトヴェングラー評「濃厚な官能性と、高い精神性と、その両方が一つに溶け合った魅力でもって、聴き手を強烈な陶酔にまきこんだ」「(ベートーヴェンが)これらの音楽に封じ込めていた観念と情念が生き返ってくるのがきこえる」。
※同じ墓地にハイデルベルク大を卒業した社会学者マックス・ヴェーバーの墓がある。

【墓巡礼】
初めてフルトヴェングラーを墓参したのは2002年。フランクフルトから鉄道で古都ハイデルベルクに入った。1386年創立のドイツ最古の大学がある街。旧市街の東側、駅から約1kmの山の斜面に広がるベルクフリートホフ(Bergfriedhof、山の墓地)にフルトヴェングラーは眠っていた。墓石の場所を聞くために管理人事務所を探し始めたが、平地の墓地ではないため視界が限られており、広い墓地のどこに事務所があるのか分からない(2015年の再訪時には立派な案内地図の看板があった)。そこで墓地の麓でフルトヴェングラーの墓を知ってそうな人を探していたら、年配の男性が自転車で通りかかった。「ああ、知ってるよ」といきなりのビンゴ。ところが山の墓地であり、口ではうまく場所が伝わらない。その親切なお爺さんは「私についてきなさい」と墓前まで案内して下さるという。問題は自転車。斜面だらけだ。「僕が押します」とジェスチャーすると、お爺さんは「大丈夫」と段差になるとヒョイと自転車を担いで前進、また前進。10分ほどしてマエストロの墓所にたどり着いた。僕はお爺さんに何度も「ダンケ・シェーンン(ありがとう)」と繰り返し、「フルトヴェングラー、バイロイト、イッヒ・リーベ、ベートーヴェン・ナンバーナイン」とめちゃくちゃな言葉でフルヴェンLOVEを伝えると、お爺さんはニッコリ笑って「バイロイト。ブンダヴァー(素晴らしい)」。握手を交わして別れ、僕はフルトヴェングラーと対面した。数々の名演奏に感謝すると共に、反ナチスの姿勢とその勇気に心から敬意を表した。
フルトヴェングラーの墓を挟んで、左側に母と妹、右側にエリーザベト夫人が眠っている。隣接して水道施設があるのでそれが目印になるだろう。
※著名人が眠っているドイツ・オーストリア・スイスの墓地はだいたい墓所マップの看板が正門の近くにある。お陰で管理人事務所が閉まっている時間帯でも自力でたどり着ける。世界中の墓地がこうなって欲しいと切に願う。

(大戦中にドイツで活動し続けたことについて)「ベートーヴェンが演奏される場所ではどこでも人間は自由です。彼の音楽はゲシュタポ(ナチの秘密警察)も手だしのできない世界へと人間を連れ出してくれます。偉大な音楽はナチの非情な思想に真っ向から対立するので、私はヒトラーの敵です」(フルトヴェングラー)



★カルロス・クライバー/Carlos Kleiber 1930.7.3-2004.7.13 (スロヴェニア、コンスィツァ村 74歳)2005 指揮者
Cemetery of Konjsica, Konjsica, Slovenia※首都リュブリアーナの郊外




なんという気持ちのいい笑顔!見てるだけで爽快になる!
(ベートーヴェン交響曲第4番)




精神的求道者のような
最後の巨匠だった。
リハーサル映像が現存しているのは人類全体
の幸運!(少しポール・ニューマンにも似ている)
1992年のニューイヤーコンサートにて。とても
リラックスした穏やかな表情だなぁ。(当時62歳)




















墓の側にクライバー記念館がある。
館長のマルコさんがカルメンを流してくれた
クライバーの墓はお花がいっぱい!

奥さんが亡くなった半年後、後を
追うようにカルロスも旅立った
顔をクシャクシャにして見送って
くれた情の厚いマルコさん

父は高名な指揮者エーリヒ・クライバー。ベルリン生まれ。父はナチの反ユダヤ政策に抗議して、ベルリン国立歌劇場音楽総監督を辞職。家族でアルゼンチンに亡命する。一時は化学の道を進みかけたが、20歳からブエノスアイレスで音楽を学び始めた。1952年(22歳)、ラプラタ歌劇場で指揮者デビュー。24歳でチューリヒ歌劇場の指揮者にるなど期待の若手として注目される。この頃のクライバーは親の七光りと思われるのが嫌で「カール・ケラー」と名乗っていた。
1968年(38歳)、バイエルン国立歌劇場で「ばらの騎士」を指揮して名声を手に入れる。1974年(44歳)、ウィーン・フィルとベートーヴェン「運命」を共演、ドラマチックで情熱的な演奏が絶賛された。45歳でミラノ・スカラ座で「ばらの騎士」を振り、翌年にはバイロイト音楽祭で「トリスタンとイゾルデ」を演奏。1978年(48歳)にはシカゴ交響楽団を指揮してアメリカに乗り込むなど、世界各地で輝かしい成功をおさめた。
一方、1982年(52歳)にはベートーヴェンの交響曲第4番の解釈を巡ってウィーン・フィルと衝突し、演奏会をキャンセルということもあった(6年後に和解)。1988年(58歳)、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で「ラ・ボエーム」を公演。1989年(59歳)&1992年(62歳)には有名なニューイヤー・コンサート(ウィーン・フィル)を指揮した。
50代後半から指揮の回数が2、3年に数回だけというペースになり、「クライバーが指揮をした」というだけで世界のニュースとなっていった。
最後の舞台は1999年(69歳)のバイエルン放送交響楽団との共演。2004年、数ヶ月前に亡くなった妻に続いて他界した。生涯にわたってフリーの立場で活動し、音楽監督に就任しなかった。

リハーサルに膨大な時間を費やし、本番までに満足できなければ公演をキャンセルなど、究極の完全主義者と呼ばれた。しかし、けっして暴君として楽団員の上に君臨したのではなく、自己が求める音楽的な高みにオーケストラの演奏レベルが達する事が出来なければ、「作品と作曲者への冒涜」となるとして、音楽と真摯に向き合った態度が生んだ公演中止だった。一曲を完成させるまで、作曲家本人の自筆譜を研究するなど練りに練る為、レパートリーも極端に少ない。逆に言えば、クライバーが指揮台に立った時は、もうそれだけで120%名演になることが約束されたようなものだった。
厳選されたレパートリーを極限まで掘り下げ、時には圧倒的なスピード感と切れ味抜群のリズム感で聴衆を熱狂させ、時にはとろけるように優美な音色と鮮やかな色彩感で、聴衆だけでなく楽団員までも恍惚&至福の世界に導いた。クライバーは、バレエを舞うように流麗な指揮姿とあわせて、誰もが認めるカリスマだった。
正規に発売された音源はごくわずかだが、ベートーヴェンの交響曲第4番、第5番「運命」、第7番、ブラームスの交響曲第4番は、過去にも未来にもクライバーの演奏を超えるものはないと言われている。

●墓巡礼

偶然の連続で墓参できた、そんな墓も多い。例えば指揮者のカルロス・クライバー。日本で手に入れた情報は「スロヴェニアの首都リュブリアーナの郊外、コンスィツァ村」…これだけ。とにかく僕は首都に入った。まずは鉄道案内所で最寄駅を尋ねる。“そんな村は聞いた事がない、バスで行け”。バスの案内所でも窓口の中年男性は“知らない村だ”と最初は肩をすくめていたが、突然「ちょっと待て、そう言えば今朝の新聞に…あった!」と見せてくれたのが、『クライバー記念館(Spominska Soba CARLOSA KLEIBERJA)が昨日開館』という小さな記事。なんと一回忌に合わせて村に建てられたというのだ。この記事を切り取ってもらい、首都最大の旅行案内所へ。女性職員が同館の公式サイトを発見し、行き方を電話で尋ねてくれた。公共交通機関が通っていない村なので、最寄駅から館長が車で送迎してくれる事になり、駅に着いたら電話するよう言われた。ところがその田舎駅に着いて絶句!電話も何もない無人駅だった。しかも土砂降りの雨。泣きそうになっていると背後から日本語で「ドウシマシタ?」。腰を抜かした。その青年は大学で日本語を専攻しており、「日本人ヲ見タノ初メテ。僕ニ任セテクダサーイ」と自分のケータイを取り出し館長にかけてくれた!新聞記事から繋がった奇跡の巡礼だった。
 
※カラヤン「ヤツ(クライバー)は冷蔵庫が空になるまで指揮をしようとしない」
※バーンスタイン「彼は庭の野菜のように太陽を浴びて成長し、食べて、飲み、眠りたいだけと言っていた」。
※日本にはバイエルン国立歌劇場管弦楽団と共に、1974年、1981年、1986年、1988年、1994年に来日公演している。

※追悼〜カルロス・クライバーさん、ありがとう!!



★ヘルベルト・フォン・カラヤン/Herbert von Karajan 1908.4.5-1989.7.16 (オーストリア、アニーフ 81歳)1994&2015 指揮者
Friedhof neben der Pfarrkirche Anif, Anif, Salzburg-Umgebung Bezirk, Salzburg, Austria







瞑想する帝王 墓所近くのカラヤン像 この教会墓地に眠っている



1994 2015 後方、ツタの葉が増殖 名前がギリギリ見える

初巡礼時!ハハーッ! 21年ぶりの再会。故郷ザルツブルグ郊外の片田舎にて
撮影を頼んだ現地の老夫婦は、墓への土下座にシャッターを切るタイミングが分からず固まってしまった(1994)

クラシック界で“帝王”と呼ばれた指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)は1908年4月5日にオーストリアのザルツブルクで生まれた。父は騎士。4歳からピアノを始め、地元やウィーンの音楽院で学ぶ。ピアノを弾いているうちに、「自分が表現したいものは両手だけでは足りない」と気づき指揮者の道へ。1926年、18歳でザルツブルクのモーツァルテウム管弦楽団を指揮してデビュー、翌年にドイツのウルム市立歌劇場指揮者に就任しオペラ・ビューも果たした。収入は少なく、ソーセージが少しでも手に入ると喜んでいた。2年後に『フィガロの結婚』を成功させて注目される。1933年(25歳)、ヒトラーが首相に就任すると青年カラヤンはナチスに入党。後年、これを後悔し、「私にとってナチス党員になることはスキークラブの会員になる程度の感覚だった」「重要ポストを手に入れるためにはナチ党員である方が有利だった」と振り返った。同年、ザルツブルクでウィーン・フィルを初めて指揮。
1937年(29歳)、ブルーノ・ワルターの招きでウイーン国立歌劇場にデビュー。
1938年(30歳)、4月にベルリン国立歌劇場で指揮したワーグナー『トリスタンとイゾルデ』が“奇跡のカラヤン”と評されるほどの大成功となり内外で認められた。同年、アーヘン歌劇場の人気オペレッタ歌手エルミー・ホルガーレフと結婚(3年後に離婚)。翌年、正式にベルリン国立歌劇場指揮者になった後、ウィーン交響楽団の首席指揮者に就任。この年、ベルリン・フィルと始めて組み、ブラームス『交響曲第4番』を指揮。また、ベルリン国立歌劇場管弦楽団を指揮してモーツアルトの歌劇『魔笛』序曲を初レコーディングした。1942年、ユダヤ系(クォーター)のアニータ・ギュンターマンと再婚。ユダヤ系の女性と結婚することはリスクがったがカラヤンは入籍した。この結婚の件でナチから呼び出されたカラヤンは離党を表明したが、ナチの党員名簿から削除されなかった(ナチが党のイメージダウンを懸念したと思われる)。ヒトラーが観劇したカラヤン指揮のオペラは出演者の不調で精彩を欠き、ヒトラーから低い評価を受けたことで、かえって親密にならずに済んだ。
1945年(37歳)にドイツ敗戦。カラヤンは非ナチ化裁判で無罪判決が出るまで2年間活動禁止になり、1947年にウィーン・フィルのブルックナー『交響曲第8番』を指揮して楽壇に復帰した。

1949年(41歳)にウィーン楽友協会の音楽監督に就任、1951年(43歳)に楽友協会の終身芸術監督に昇格し大きな話題となった。この年、戦後初めて開催されたバイロイト音楽祭のメインの指揮者として抜擢されるが、翌年の同音楽祭で極度に簡素化された前衛的な舞台セットに反発、演出担当のヴィーラント・ワーグナーと対立し2度とバイロイトで指揮台に立たなかった。また、フルトヴェングラーは若いカラヤンの人気に嫉妬して活動を妨害したといい、カラヤンはベルリン・フィルの首席指揮者につくまでの16年間に、たった10回しか同フィルの指揮台に立たせてもらえなかった。
1954年(46歳)、単身初来日してNHK交響楽団のチャイコフスキー『悲愴』を指揮(生涯に通算11回来日)。同年11月30日、ベルリン・フィルの終身指揮者としてドイツ音楽界に君臨していたヴィルヘルム・フルトヴェングラーが68歳で急逝し、後任は前・首席指揮者のチェリビダッケが就くと思われたが、楽団員はリハーサルを延々と行うチェリビダッケの極端な完璧主義に疑問を抱いており、また直前のリハーサルで大きな衝突が起き、その独裁的傾向に楽団員は反発していた。翌1955年2月の初のアメリカ公演には米側の意向もあってカラヤンが指揮者に抜擢され、カラヤンの47歳の誕生日(4月5日)にベルリン・フィルの常任指揮者・芸術監督に就任、翌年「終身指揮者」に選ばれた。ベルリン・フィルの100年を超える歴史において終身指揮者に選出されたのはフルトヴェングラーとカラヤンだけだ。
※チェリビダッケはあまり関係なく、アメリカの公演先が「フルトヴェングラーの代役は人気のカラヤンしかいない」と要求、カラヤンは「終身音楽監督にしてくれるなら米国での指揮を引き受ける」といって終身音楽監督の地位を手に入れたという説もある。

1956年(48歳)、ウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任し、ウィーン・フィルとベルリン・フィルという共に世界最高峰のオーケストラを同時に率いる地位に登りつめ、人々はカラヤンを「帝王」と呼び始める。
1957年(49歳)、カラヤン&ベルリン・フィルの組合せでは初めての来日。ワーグナー、ブラームスを演奏し、N響と合同で運命交響曲も演奏した。
1958年(50歳)、アニータと離婚、そしてディオールのトップ・モデル、フランス人エリエッテ・ムレーと3度目の結婚をした。エリエッテはカラヤンが他界するまで30年間カラヤンを支えた。
1959年(51歳)、ウィーン・フィルと世界ツアーを敢行、このタッグでは最初で最後の日本公演を行った。カラヤンはベルリン・フィル楽団員の国際化を進め、同年にヴィオラ奏者の土屋邦雄を日本人初の団員として迎えた。翌年、長女が生まれ52歳にして初めて親となる。
1963年(55歳)、第2次大戦中に焼失した旧フィルハーモニーにかわって、ベルリン・フィルが現在本拠地とするホール、新フィルハーモニーが完成。
1964年(56歳)、ウィーン国立歌劇場の総監督と対立して芸術監督を辞任。12月にスカラ座でヴェルディ『椿姫』(演出フランコ・ゼッフィレッリ)を指揮したところ、ヴィオレッタ役のミレッラ・フレーニの喉が不調で何度も野次がとび、カラヤンにしては珍しく失敗した公演となった。スカラ座の『椿姫』は1955年にマリア・カラスがジュリーニ指揮で伝説の名演を残しているため、人々はカラヤンの失敗を「マリア・カラスの呪い」と呼び、以後スカラ座では1992年に音楽監督のムーティが上演するまで28年間も『椿姫』は封印された。1965年からクラシック音楽の映像化事業に着手、映画フィルム・プロダクションを設立した。
1967年(59歳)、“帝王”にも思い通りに出来ないことがあった。大好きなワーグナーの楽劇の理想的な上演だ。バイロイト音楽祭とは1952年にケンカ、ウィーン国立歌劇場とは1964年に対立し、実力を出せる場所がなかった。カラヤンは手兵のベルリン・フィルをオーケストラ・ピットに入れることを考え(ベルリン・フィルは通常入る機会がない)、自身が目指す上演環境を手に入れるため、ザルツブルク祝祭大劇場を会場とした「ザルツブルク復活祭音楽祭」を創始した。これは夏のザルツブルク音楽祭に対して、春のザルツブルクの代名詞となった。
1972年(64歳)、ベルリン・フィルの団員養成を目的としたカラヤン・アカデミーを創設。1977年、ウィーン国立歌劇場に復帰。
1981年(73歳)、ザルツブルク復活祭音楽祭でオーディオ会社と一緒にCD発表会を開催し、CD技術を初めて世界に披露した。
1982年(74歳)、『ベルリン・フィル100周年記念コンサート』でカラヤンは英雄交響曲を指揮、気迫の名演となる。自身の映像制作会社テレモンディアルを設立し、ベートーヴェン交響曲全集などの映像化に着手。

1983年(75歳)、ベルリン・フィルは1882年の創立以来101年間、メンバーは男性のみで女性団員は一人もいなかった。首席クラリネット奏者が空席になったため、楽団はオーディションを実施、カラヤンは24歳の女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの演奏技術を評価し、彼女を入団させようとした。これまでベルリン・フィルのメンバーはカラヤンに大きく逆らうことはなかったが、この件では激しく抵抗し、マイヤーはベルリン・フィル入団を諦めた。この騒動でカラヤンとベルリン・フィルに隙間風が生じ、カラヤンはウィーン・フィルとの関係を強化していく。
カラヤンは楽団員の集中力を高めるため、指揮をする際は目をつぶってきたが、脊椎の持病や脳梗塞の後遺症もあって、この頃から目を開いて指揮することが増えていった。この年、ベルリン・フィルの日本人初のコンサートマスターとして、入団6年目の安永徹が選ばれた。安永は2009年まで26年の長きにわたって第1コンサートマスターを務める。
1988年4月29日から5月5日にかけてベルリン・フィルと最後の来日。大阪のザ・シンフォニーホール、東京のサントリーホール、東京文化会館で公演。ムソルグスキー『展覧会の絵』、チャイコフスキー『悲愴』、ブラームス『交響曲第1番』などが演奏された。最終日のブラームスは、奇しくも1954年に日本で初めて指揮をした曲だった。
※ちなみに当時20歳の僕は4月30日のシンフォニーホール『展覧会の絵』のチケットを入手すべく、前売りチケット発売当日に買いに行くも発売直後に売り切れてゲットできず、公演日に当日券を買うために早朝からシンフォニーホールに並んだものの、50メートル先で当日券が売りきれるという悲劇を味わいました…。「次こそは絶対の絶対に!」と決意したけど、まさか翌年に他界してしまうとは。

1989年4月23日、楽友協会でウィーン・フィルが演奏したブルックナー『交響曲第7番』を指揮、これが生涯最後のステージとなった。翌日、カラヤンは34年務めてきたベルリン・フィルの芸術監督と終身指揮者を、健康状態の悪化と団員との不和を理由に辞任する。3カ月後の7月16日、ザルツブルク近郊アニフ村の自宅をソニーの大賀典雄社長(当時)が訪問し、次世代のデジタルビデオ・カメラなどの話をしていると、カラヤンが急にぐったりとなり、大賀の腕に抱かれたまま心不全のため急逝した。享年81。前日にヴェルディの歌劇『仮面舞踏会』のリハを行い、大賀と会うまでベッドで『仮面舞踏会』のスコアに目を通しており、突然の死だった。ベルリン・フィルと最後に演奏した曲はヴェルディ『レクイエム』。急死していなければ、ウィーン・フィルと来日公演を行い、ウィーン国立歌劇場に復帰する予定だったという。

圧倒的なカリスマで「帝王」と畏敬され、流麗なレガートによる“カラヤン美学”を築き上げたカラヤン。カラヤン以前、指揮者の派手な動きは戯画でコミカルに描かれていたが、カラヤンは目を閉じて魔法をかけるような動きでタクトを振り、その神秘的なシルエットは漫画の対象になり得ぬものだった。カラヤンは“左手”を巧みに使って楽団員のベストの音を引き出した。時代の寵児となったカラヤンは、自家用ジェット機を自ら操縦して別荘へ向かい、フェラーリやポルシェを疾走させ、黒を基調にした服装と白いマフラーをスマートな身体にまとい、19世紀の髪の毛がモジャモジャの音楽家のイメージを一新させた。

カラヤンはオーケストラの音色をシルクのように滑らかに、美しく響かせることにこだわった。同時にコントラバスを増強し低音パートを充実させて音に厚みをもたせ、金管にはシャープな音を求めた。こうしてベルリン・フィルは室内楽的緻密さと、迫力あるサウンドの両方を手に入れた。ベルリン・フィルの首席コントラバス奏者ライナー・ツェペリッツいわく「(オーケストラが)これほどまでの音楽的充実感、正確性を追求できたことは未だかつてなかった。われわれは世界中のどのオーケストラにも優る、重厚で緻密なアンサンブルを手に入れたのだ」。
カラヤンとベルリン・フィルは膨大な数のレコーディングを行った。デジタル録音など最新のオーディオ・テクノロジーに高い関心を持ち、来日のたびにソニー創業者のひとり盛田昭夫会長(当時)の自宅を訪ね、応接間で実験段階のデジタルサウンドを聴いた。1938年の初録音から他界する1989年までに500タイトルものディスクを収録した。
カラヤンの美を追求した緻密な音作りは、一部の批評家から「表面的な美しさばかり追っている」と批判されたが、世界的な大指揮者となっても、行進曲や序曲といった小品を愛し、ヨハン・シュトラウスのワルツを好んで演奏するなど、親しみやすい曲でクラシック音楽を大衆の音楽にしてくれた。1960年代以降はステレオLPを次々と発売し、「音楽のセールスマン」「大衆に媚びている」と揶揄されたが、カラヤンは1973年のインタビューにこう答えている。「音楽は会員制クラブのような一握りの人だけのものであってはならないのです。私は地域にオーケストラがなくて演奏会に行けない世界中の人々に良い音楽を届けたいのです。音楽を分かち合いたいのです」(NHK『日本人とカラヤン』)。「一つのオペラを映画に撮る方が舞台で上演するよりはるかに費用がかかります。しかし私たちが最上の映画を作れば、今までオペラに接したことがない人にもその真価が伝わり、また楽しんでもらえるでしょう」とも。
※実際、オペラのように高価な公演はおいそれとは手が出ないもの。そもそもカラヤン&ベルリン・フィルのチケットなんて入手困難。でもレコードがあるおかげで、様々な作品を家庭で楽しむことが出来る。大作曲家の音楽だけでなく、小さなワルツまで当代最高のオーケストラで演奏してくれて本当に感謝している。

「私たちの職業において、華麗に演奏することやテクニックに熟達することは、さして難しいことではありません。最終的な手段として本当に重要なのは指揮者の人間性なのです。なぜならば、“音楽は人間が人間の為に創るもの”だからです。音符以上のものを見出さなかったら、それがいくら興味深いものだとしても人間を豊かにはしません。音楽の目的はただひとつ、人間を豊かにし、様々な意味合いで人間が失ったものを取り戻すことなのです」(カラヤン)

※カラヤンの登場以前、パリでワーグナーの作品が仏語で上演されるなど、欧州ではオペラ上演の際に現地の言葉に翻訳されるのが一般的だった。カラヤンはウィーン国立歌劇場の芸術監督時代に原語上演の改革を開始、今では言語上演が常識になった。これもカラヤンの大きな業績だ。
※カラヤンは11回も来日しており、2008年放送『日本人とカラヤン』(NHK)の記録映像でこう話している。「私にとっては日本が第二の故郷で、用があってヨーロッパを何度か往復しているといった感じなのです。私にとっては日本が我が家同然なのです。日本の聴衆との出会いは、私がこの世で経験した最も素晴らしいものの一つでしょう」
※カラヤンはどの角度から自分を撮影すれば最もクールに見えるか分かっており、演奏中でもインタビューでも、指定した角度からしか撮らせなかった。ライティングの位置もカラヤンが指示した。
※カラヤンが目をつぶって指揮することにベルリン・フィルのメンバーが戸惑うと、「じきに慣れるさ」と本当に慣れさせた。
※音楽監督は、人事権を持つ首席常任指揮者。
※ウィーン国立歌劇場楽団の一流奏者で構成されるウィーン・フィルは、伝統的に楽団員が自主運営しており、常任指揮者や音楽監督を置いていない。演目ごとに指揮者を自分たちで選ぶ。
※カラヤンはオペラの役柄によって歌手に容姿の美しさを求めた最初の音楽監督。「サロメという女は20歳になっていない。従って、若くて細身の魅力ある歌手がいて初めて成立するオペラなのだ」(1977年、ザルツブルク音楽祭)。
※ベルリン・フィルの指揮台には、ブラームス、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、グリーグの他に、ハンス・リヒター、フェリックス・ワインガルトナーらが立っている。
※カラヤンのレコードはよく売れたが、中でも「運命」と「未完成」のカップリングLPは、生前に日本で約150万枚を売り上げた。
※東京のサントリーホールはベルリン・フィルハーモニー(ホール)をモデルにしており、カラヤンは設計段階から建設に携わっている。同ホール前は「カラヤン広場」と命名された。
※カラヤンに否定的な意見。音楽評論家・岩井宏之「カラヤンは、いかにもスマートで美しい響きを生み出していたものの、作品の中に込められている作曲家その人の、あるいは当の作曲家が生きていた時代の"切なさ"を十分に表出するには至らず、したがって聴き手の心に迫ってくる力が弱かった。(中略)カラヤンがオーケストラに対すると、どんな作品であれ、美しく響かせること自体を目的にしているような趣があり、それが私には不満だった」
※CDの記録時間となった「74分」は、カラヤンが自身の第九が1枚に入るよう求めた結果という説がある。僕もその話を新聞の日曜版か何かで読んで印象に残ったのだけど、どうやら少し違っていて、CD開発元のオランダ・フィリップス社とソニーが記録時間を決定する際、「60分」を主張するフィリップス社に対し、大抵の交響曲やオペラの一幕が収まる「74分」にこだわったソニーの大賀典雄(当時副社長/CD開発事業統括)はやむなく「巨匠カラヤンもそう望んでいる」と言い放ち、かくして74分になったという。その意味でカラヤン(という名)が実現させたといえる。一方、フィリップス社は「カラヤンの第九は66分なので、1951年にバイロイトで演奏されたフルトヴェングラーの第九の74分を基準にした」と主張しているとのこと。
(参照)https://www.kanzaki.com/music/cahier/cd74min
※1995年にアダージョ楽章を集めて発売された「アダージョ・カラヤン」が大ヒット、当時僕も買いました。
※カラヤンの死を目の前で看取った大賀典雄は、偶然にもカラヤンと同じ81歳と3カ月で他界。

【墓巡礼】
帝王カラヤンが“崩御”した日、ちょうど僕はベルリンで作曲家の墓を巡礼している最中だった。キオスクの新聞は軒並みトップ記事がカラヤンに関するものだったので、宿の主人に何があったか尋ねると「カラヤン・イズ・デッド」。翌日、ベルリン・フィルの活動拠点“ベルリン・フィルハーモニー”を訪れた。シーズンオフで静かにたたずむ黄色い建物に向かい、カラヤンに御礼の言葉を捧げた。
カラヤンの墓があるアニフ村(Anif)にはザルツブルク市内から路線バスを使い25分で行ける。昔は55番で2005年に25番に変わったらしく要確認。バス停の名前は「Anif Freilacher」。そこから徒歩3、4分でカラヤンが眠る教会「Pfarrkirche」に着く。教会の側にはカラヤンの銅像も建っている。生前のカラヤンは高級スポーツカーを乗り回すなど派手な生活を送っていたけど、彼が自分で故郷アニフの教会墓地に用意した墓は、敷地の片隅にありとても質素なものだった。ザルツブルク市は巨匠に相応しい立派な墓地の提供を夫人に提案したが、夫人は故人の遺志を尊重して断ったという。1994年の初巡礼で見たお墓の鉄枠の十字架は、2015年は植物で完全に覆われていた。

〔参考資料〕『マエストロ・イン・デモクラシー〜ベルリン・フィルの選択』(NHK/Euro Arts共同制作)、『大作曲家は語る』(小林利之編/東京創元社)、『日本人とカラヤン』(NHK)、『名曲事典』(音楽之友社)、『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)、『大作曲家の知られざる横顔』(渡辺学而/丸善)、『リストからの招待状』(渡辺学而/丸善)、『中央・墓標をめぐる旅』(平田達治/集英社新書)、『世界人物事典』(旺文社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)、ウィキペディアほか。
※カラヤン指揮ベートーヴェン『運命』の冒頭部分動画。まさにカリスマ。



★ハンス・フォン・ビューロー/Hans von Bulow 1830.1.8-1894.2.12 (ドイツ、ハンブルク 64歳)2015 指揮者、ピアニスト
Ohlsdorfer Friedhof, Ohlsdorf, Hamburg-Nord, Hamburg, Germany



若き日 ワーグナー夫人の
最初の夫でもある
世界最大の公園墓地に眠る


小道を少し入った場所に眠っている 巨匠の墓らしい立派なたたずまい 墓石の上部にニキシュのレリーフ

お墓の手前の石板が感動的→

指揮者29人の贈り物!
拡大画像
マエストロの後ろ姿


ハンス・フォン・ビューロー(Hans von Bulow)は1830年1月8日にドレスデンで生まれた。9歳の時に、シューマンの義父で著名音楽教師のフリードリヒ・ヴィークにピアノを師事。ヴィークは娘クララ(シューマン夫人)を当時世界最高の女性ピアニストに育て上げた人物。ビューローはピアノの才能を見せたが、両親が法律の道に進むことを希望したため18歳でライプツィヒ大学に入って法律を学ぶ。翌1849年、ワーグナー(36歳)がドレスデンで革命運動に参加して国外追放となった。
1850年、20歳のビューローはワーグナーの音楽に心酔するワグネリアンとなり、音楽家として生きる道を選択。ワーグナーの亡命先スイス・チューリヒを訪れ、ワーグナーから指揮法を学び始めた。
1853年(23歳)、才能のある人間しか弟子をとらない大ピアニストのリストに認められてピアノを学び、コンサート・ピアニストとして楽壇にデビューした。将来を心配するビューローの親を安心させるため、リストやワーグナーはビューローの楽才を讃える手紙を書いた。
1857年に27歳で師リストの娘コジマ(20歳、1837-1930)と結婚し二児を授かる。コジマは哲学者ニーチェが絶賛するほど教養と優れた感受性を持っていた。
1861年(31歳)、ビューローはワイマールでリストの『ファウスト交響曲』を指揮。この時の感想をリストは後に知人に書いている。「あの時はオーケストラ全員がビューロー氏の途方もない記憶力にビックリしたものです。何しろ彼は、全曲完全に暗譜していたばかりか、リハーサルでも楽譜を使わずに、あらゆる部分を練習番号で正確に言及したのです」。
1862年(32歳)、約10年間国外追放になっていたワーグナーが恩赦で帰国し、ビューロー家とワーグナーとの交流が始まる。ワーグナーはコジマに惹かれ、コジマもまた少女時代からワーグナーのファンであり、2人の不倫が始まった。
1864年(34歳)、バイエルン王国のミュンヘン王立歌劇場指揮者に就任。
1865年(35歳)、4月にワーグナーとコジマの間に長女が生まれ、ビューローはショックを受ける。2カ月後にバイエルン国王ルードウィヒ2世の命令を受けてワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の初演を指揮。翌年、コジマは子連れでビューローの元を去り、ワーグナーとスイスで同棲生活を始め、ワーグナーとの2人目の子を産む。
1868年(38歳)、ミュンヘンで全3幕の楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』初演を指揮。ビューローはどんな気持ちでワーグナー作品を指揮していたろう。ワーグナーの熱心な崇拝者だったことから、妻の不倫を暗黙のうちに了承していたとの説もあるが諸説あり分からない。
1869年(39歳)、ワーグナーとコジマに3人目の子が生まれ、ビューローはコジマと正式に離婚。この後、ビューローはワーグナーから離れて、当時ワーグナー派と対立していたブラームスとの親交を深め、その作品を積極的に取り上げるようになる。
1875年(45歳)、チャイコフスキーからピアノ協奏曲第1番を献呈される。当初、チャイコフスキーはこの曲の初演者を名ピアニストのニコライ・ルビンシテインと考えていたが、先方から「陳腐な作品で演奏不可能」とこき下ろされ、かわりにピアノの名手としても知られていたビューローに贈ったところ、ビューローは「独創的で高貴」とこの作品を讃えた。チャイコフスキー宛の手紙「君の作品のすべての長所を挙げたらどれだけ時間がかかるか。この曲は作曲者だけでなく、この作品を味わう未来のすべての聴衆に対して“おめでとう”と言わずにはいられないほどの傑作です」。ビューローがピアニストとして挑んだ初演は大成功を収め、チャイコフスキーを代表する人気曲のひとつとなった。ちなみにビューローはブラームスの指揮でブラームスのピアノ協奏曲のソリストを務めたこともある。
1880年(50歳)、ドイツ中部マイニンゲンの宮廷楽団指揮者に就任し、第一級の楽団に育成。この頃からリヒャルト・シュトラウスが助手になる。
1885年(55歳)、ブラームスの交響曲第4番の初演をマイニンゲン宮廷管弦楽団が行う。指揮はブラームス本人、大太鼓をビューロー、トライアングルをリヒャルト・シュトラウスが担当するという後世から見れば非常に豪華な舞台だった。
1887年(57歳)、ビューローはブラームスの生まれ故郷ハンブルクに移住。この街はビューローが20代前半に初めてピアニストとして成功を収めた縁起の良い土地だった。この年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(5年前に創立)の2代目常任指揮者に就任し、ベルリン・フィルの演奏水準を飛躍的に向上させていく。
1891年(61歳)、自分の年の半分である若い作曲家マーラー(当時31歳/1860-1911)から、交響曲第2番『復活』の第1楽章をピアノで聴かされたビューローは「これが音楽だとしたら、私は音楽がわからないことになる」と語った。
1892年(62歳)、慢性的な頭痛によりベルリン・フィルの指揮者を引退。後年、ベルリン・フィルはビューローの名を冠した栄誉賞を作った。
1894年1月、医師から転地療養を勧められ、暖かい気候を求めてハンブルクからエジプトに移住し2月7日到着した。翌日に脳卒中の発作で倒れ、4日後の2月12日にカイロのホテルで他界する。享年64歳。亡骸は防腐処理されてハンブルグに運ばれ、3月29日に葬儀がハンブルクで執り行われた。ビューローが遺言に従って火葬される際、マーラーの指揮でベートーヴェンの『英雄交響曲』が演奏され人々を感動させた。葬儀に参列する前、マーラーは作曲中の交響曲第2番『復活』の終楽章に適した歌詞が見つからず行き詰まっていたが、葬儀で詩人クロプシュトックの『復活』賛歌を聞き、歌詞に使うことを決心、後日壮大な最終楽章を完成させる。マーラーはこの体験を「聖なる受胎」と語っており、ビューローの死がなければ傑作『復活』のクライマックスは異なるものになっていたかも知れない。

ビューローは今日音楽の授業で習う「ドイツの3大B」=バッハ、ベートーヴェン、ブラームスを選んだ人物。ブラームスの交響曲第1番を「ベートーヴェンの交響曲『第10番』」と呼んだのも有名だし、交響曲第2番を「ブラームスの『田園』」とも評している。他にもバッハの平均律クラヴィーア曲集をピアノ音楽の「旧約聖書」、ベートーヴェンの32曲のピアノソナタを「新約聖書」と呼んだり、ベートーヴェンの交響曲第7番を「リズムの神化」と語るなど、音楽ファンに馴染みの言葉はビューローのものが多い。ショパンに関しては『エチュード第23番 イ短調 作品25-11(木枯らしのエチュード)』のことを「完全なピアノ音楽」と激賞した。
ビューローには様々な逸話があるが、最もインパクトがあるのは「第九監禁事件」。彼は一般聴衆が音楽を深く理解するため教育的指導が必要と考え、いつも演奏前に客席に向かって「講義」をしていた。そして1時間以上もあるベートーヴェンの第九の演奏では、聴衆が途中で逃げ出せぬよう会場の扉に鍵を掛けさせたうえで、演奏後にもう一度繰り返し演奏したという。この事件をブラームスは「ベートーヴェンの第18番(9×2)」とからかった。

【墓巡礼】
2015年の夏、うっすらと霧が立ちこめる北ドイツのハンブルクを訪れた。中心部から北上すること10km、1877年に完成した公園墓地「オールスドルフ墓地」のV22地区にハンス・フォン・ビューローは眠っている。この墓地は「世界最大の墓地」として海外の墓マイラーには非常に有名だ。面積は400ヘクタールというから、実に甲子園球場100個分!そこに3万6千本の樹木が生い茂り、ハンブルク市民にとっては散歩に最適な緑のオアシスになっている。
アードルフ・ヒルデブラントが制作した中央の墓石は上部にビューローの肖像メダルがはめ込まれ、左右には休憩用のベンチがある。墓前には1978年に設置された石板があり、そこには「ビューロー氏に敬意を込めて」という言葉と共に、29人の有名指揮者の名前がギッシリと刻まれている。バレンボイム、ベーム、ブーレーズ、ドホナーニ、ヨッフム、クーベリック、コンドラシン、マゼール、ムラビンスキー、オーマンディ、ショルティ、サヴァリッシュ、ショスタコーヴィチ、スタイン、スウィトナー、テンシュテット等々。感動したのは、不仲が噂されたバーンスタインとカラヤンの名前が同じ空間にあったこと。世界のトップ指揮者たちが、ビューローという一人の大指揮者を偲んで、リスペクトの思いを重ねている…墓参するまでこの石板の存在を知らなかったので、全身に電気が走った。
※このオールスドルフ墓地には、ブラームスの義母カロリーヌ、姉エリーゼも眠っている。また電磁波の存在を初めて実証した物理学者のハインリヒ・ヘルツの墓もある。彼の名前は周波数を示す単位ヘルツに採用された。



★アルトゥール・ニキシュ/Arthur Nikisch 1855.10.12-1922.1.23 (ドイツ、ライプツィヒ 66歳)2015 指揮者
Sudfriedhof (South Cemetery), Leipzig, Leipziger Stadtkreis, Saxony (Sachsen), Germany//Plot: Section II

  

アルトゥール・ニキシュ(Arthur Nikisch)は1855年10月12日に現ハンガリーに生まれた。ウィーン音楽院でヴァイオリンと作曲を学び、当初はヴァイオリン奏者としてウィーン宮廷歌劇場で演奏していた。1878年に23歳で指揮に転じ、ライプツィヒ歌劇場にて指揮者デビューを飾る。
1885年(30歳)、ブルックナーの交響曲第7番の初演に際し、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮。この初演を成功させるべく、ニキシュは演奏会の前にあらかじめ批評家達を招いてピアノで聴かせた。招待された作曲家ヘルツォーゲンベルクの夫人は反ブルックナー派であり、初演後にその体験を師ブラームスに「強制的におこなわれた種痘(天然痘の免疫療法)みたいにブルックナーの音楽を無理やり押しつけられた」と書いている。ブラームスの返事は「まぁ、落ち着いて」。
1888年(33歳)、この年に若いニキシュの指揮を見たチャイコフスキー(1840-1893)が後に回想記で触れている。「ニキシュの指揮は高名なハンス・フォン・ビューロー(当時58歳)のそれとは全く違ったもので、両者には微塵も共通点がなかった。ビューローは非常に激しい身体の動きで指揮していたが、ニキシュの指揮は不思議なほど静かで無駄な動作がまったくないのに驚くほど力強く、エネルギーにあふれて、それでいて自制の厳しさがあった。彼の指揮には、まるで指揮をしているのではなくて、ある神秘的な魔術に没入しているような雰囲気がある。聴取が指揮者の存在をほとんど忘れていられるのは、彼が人の注意を全然自分に向けようとしないからだ。しかし聴衆は、大編成のオーケストラの全メンバーがまるで一つの楽器のように巨匠の驚くべき手に操られて演奏し、自分から進んでそのリーダーから出される指令に従っていることを感じる。(中略)ニキシュは鋭く美しい眼を持っているが、この眼がオーケストラを統率し、呪縛する魔力のようなものを備えていて、その眼によってオーケストラはある時は千のラッパのごとく響き、ある時は息を潜めさせるような神秘的な響きでもって消えていく。しかもこういったことのすべては、ほとんど奴隷のように従順なオーケストラの上で静かに身体を揺さぶっている小柄な指揮者を、聴衆がちっとも気づかぬうちに行われるのだ」。
1895年(40歳)、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団という2つ名門オーケストラの常任指揮者に就任。ベートーヴェンの演奏に定評があり、また、マーラーやリヒャルト・シュトラウスといった同時代の作品も積極的にプログラムに入れた。ドイツ語圏外の作曲家であるチャイコフスキーの作品も取り上げ、その普及に尽力。当時の作曲家たちは自身の作品がニキシュの手で神秘的な色彩を帯びていくことに驚いていたという。
1913年(58歳)、ベルリン・フィルはニキシュの指揮で最初の録音を敢行。選ばれたのはベートーヴェンの運命交響曲。ニキシュはロンドン交響楽団とも録音を行った。
https://www.youtube.com/watch?v=VcW3ZSbYPAs(31分) 1913年のベルリン・フィル最初の録音、ニキシュ指揮「運命」
1922年1月23日、指揮芸術の向上に尽くし、歴史的大指揮者と呼ばれるに至ったニキシュは66歳で他界。その14年後、1936年にピアニストで息子のミーチャ・ニキシュはナチの迫害を受けて自殺した。

【墓巡礼】
ニキシュの墓はバッハの街ライプツィヒの南墓地(Sudfriedhof)にある。バッハが眠る聖トーマス教会から南東に約5km。墓地内のエリアはセクション2。正門からそれなりに歩くし、広大な墓地ゆえ必ず管理人さんに地図をもらおう。とても感じの良い管理人さんでした。ウチの子はアメ玉をもらった。



★マリア・カラス/Maria Callas 1923.12.2-1977.9.16 (パリ、ペール・ラシェーズ 53歳)2002 ソプラノ歌手
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France



世界の恋人マリア・カラス。ソプラノ歌手の彼女は、3オクターブという広い音域と高度な歌唱技術で人々を驚かせた。彼女は歌唱力だけが重視されていた当時のオペラ界で、初めて「演技」の重要性を強く主張した人物。そんなカラスのドラマチックな歌声は世界中を虜にした。彼女が残した伝説は数知れず。イタリア大統領が臨席した公演を、喉の不調を理由に一幕だけで降りてしまい、それがきっかけで名門のミラノ・スカラ座から放り出されてしまうこともあった。
本名 Maria Anna Sofia Cecilia Kalogeropoulos。

彼女は遺言で散骨を希望したが、母国ギリシャでは宗教上の理由で火葬が難しく亡骸はいったんフランスへ。そこで火葬されショパンやビゼーが眠るパリのペール・ラシェーズ墓地にいったん納骨された。後日エーゲ海に散骨されたが、パリの墓はそのまま残っている。



★ジャクリーヌ・デュ・プレ/Jacqueline Du Pre 1945.1.26-1987.10.19 (イギリス、ロンドン郊外 42歳)2005
Golders Green Jewish Cemetery, Golders Green, London Borough of Barnet, Greater London, England

 

薄幸の天才女性チェリスト。16歳でエルガーのチェロ協奏曲を情熱的に弾きこなし国際的スターとなったが、
多発性硬化症を発病し28歳で引退。享年42歳。夫はダニエル・バレンボイム。



★ストラディバリ/Antonio Stradivari 1648-1737.12.19 (イタリア、クレモナ 89歳)2005 バイオリン制作者
Basilica of San Domenico(今はPiazza Roma), Cremona, Provincia di Cremona, Lombardia, Italy

 

「エーッ!あれが墓なのッ!?」思わずそう叫んだストラディバリの墓。だって墓地じゃなく、町の公園の片隅にあるん
だもの!側のベンチでは新聞を読んでるオジサンがいたり、子どもがサンドイッチを食べてたり…誰も墓って気づいて
なさそう(笑)。逆に言えば、それほどまでにクレモナ市民と彼の間に壁がないということか。これはこれで素晴らしい。




一応、ストラディバリ像なんてのも見つけたけど、市場の片隅で屋台に押しやられていた…邪魔と言わんばかりに…




★トスカニーニ/Arturo Toscanini 1867.3.25-1957.1.16 (イタリア、ミラノ 89歳)2002 指揮者
Cimitero Monumentale, Milan, Lombardia, Italy




トスカニーニ・ファミリーの墓 すぐにブチ切れたトスカニーニ

カミナリ親父トスカニーニ。彼は音楽史上最も楽譜に忠実な指揮者だった。それが為、少しでも楽団員が演奏をミスると指揮棒を叩き折って怒り狂うので、リハーサルでは何本もスペアの指揮棒を用意していた。2度続けてミスをしたクラリネット奏者に「貴様が死ぬか、私が死ぬか!」と掴みかかったのは有名。その一方、根っからのヒューマニストで人種差別撤廃運動や反ファシズム運動に燃えた。イタリアで独裁者ムッソリーニが権力の座を手に入れた時、各地でムッソリーニの肖像画が掲げられたが、トスカニーニが指揮をしていたミラノ・スカラ座(世界最高のオペラ劇場)には、「私の目の黒いうちは野郎の絵を置かせん」と断固拒否したという。
現在、トスカニーニは「彫刻美術館」の異名があるミラノで最も有名な墓地に眠っている。ここはどの墓も芸術的な彫刻作品であり、墓場にいることを忘れてしまう。



★スビャトスラフ・リヒテル/Sviatoslav Richter 1915.3.20-1997.8.1 (ロシア、モスクワ 82歳)2005 ピアニスト
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation

 

この人ほど顔と音色のギャップがある人はいない。コワモテなのに泣きそうなくらい優しい音!



★カルーソー/Enrico Caruso 1873.2.25-1921.8.2 (イタリア、ナポリ 48歳)2000 テノール歌手
Del Pianto Cemetery, Naples, Campania, Italy



20世紀初頭の大テノール歌手エンリコ・カルーソー。滑らかに美しく歌うベルカント唱法と美声で知られる。貧しい家庭に生まれ義務教育も殆ど受けず、少年時代から家計を助けるため労働に従事した。声に自信があった彼は声楽教師に出世払いで教えを受け21歳でデビューする。8年後、ミラノのスカラ座で舞台に立ち栄光を手に入れた。カルーソーは美男ではなく労働者出身で武骨だったが、音域の広さは驚異的で、ある時は本番中に声がでなくなった友人のバス歌手に「僕が歌ってあげる」と耳打ちし、聴衆に背を向けて友人のパートを歌い窮地を救ったという(その間、友人は口を動かしていた)。テノールの彼がバスを歌っているのに観客は誰も気づかなかったらしい。
彼の墓は膨大な量の花に埋もれていた(造花じゃなく本物)。1921年に没しているというのに今も花に埋もれてるなんてスゴイ。現在進行形でナポリっ子に愛されていることがよく分かった!



★ゲオルグ・ショルティ/Georg Solti 1912.10.21-1997.9.5 (ハンガリー、ブダペスト 84歳)2005
Farkasreti Cemetery, Budapest, Hungary



ゲオルグのG? バルトーク(木の間にある中央の黒い墓)と並んでいる

ハンガリー・ブダペスト出身。シカゴ交響楽団を世界トップレベルにまで育てた大指揮者。
「私はモーツァルトの曲に触れて、神を信じるようになった」(ショルティ)



★ホロヴィッツ/Vladimir Horowitz 1903.10.1-1989.11.5 (イタリア、ミラノ 86歳)2002 ピアニスト
Cimitero Monumentale, Milan, Lombardia, Italy



超人的な演奏テクニックと繊細さを極めた音色で、20世紀を代表する巨匠ピアニスト、ホロヴィッツ。彼はトスカニーニの娘と結婚したので、トスカニーニ家の墓地に眠っている。
墓にホロヴィッツ夫妻の写真が貼ってあった(ガラス越しに撮ったので自分の手が写ってしまった。心霊写真じゃないので。念の為)。



★ブルーノ・ワルター/Bruno Walter 1876.9.15-1962.2.17 (スイス、モンタニョーラ 85歳)2002 指揮者
Parrocchia Cattolica di S. Abbondio/S.Abbondio Church Cemetery, Montagnola, Ticino, Switzerland



フルトヴェングラー、トスカニーニと並ぶ20世紀を代表する偉大な指揮者の1人。演奏に温かみがある。マーラーの弟子で、師の没後に交響曲第9番や『大地の歌』の初演を行った。ユダヤ系ゆえナチスに迫害され、楽屋に銃弾を撃ち込まれ、演奏会が中止に追い込まれたこともあった。米国へ移住すると、CBSレコード(現ソニー・クラシカル)は当時開発されたステレオにワルターの演奏を残すため、コロンビア交響楽団を結成、両者は録音に挑んだ。性格は温厚で、ウィーン・フィルのリハで団員に悲しい顔で「なぜあなた達は美しい音を出さないのですか?もっと歌ってください」と言い、団員達は「あんな悲しげな顔でリハーサルされたら音を出さざるを得ない。トスカニーニら怒りんぼう以上に困った指揮者だ」と、言ったという。
あの鬼指揮者トスカニーニをして「モーツァルトを聴くなら自分の演奏よりワルターを聴け。アイツが上だ」と言わしめた。



★ラファエル・クーベリック/Rafael Kubelik 1914.6.29-1996.8.11 (チェコ、プラハ 82歳)2005
Vysehradsky Hrbitov, Prague, Czech Republic

 

西暦の間に月日が入っているユニークな墓碑。クーベリック親子の上に眠っているのは、なんと画家ミュシャだ!



★ダヴィッド・オイストラフ/David Oistrakh 1908.9.30-1974.10.24 (ロシア、モスクワ 66歳)2005 バイオリニスト
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation

 

巨大なオイストラフの胸像にビックリ。バイオリン付という豪華さ!



★ジャン・ピエール・ランパル/Jean-Pierre Rampal 1922.1.7−2000.5.20 フルート奏者(パリ、モンパルナス 78歳)2002&09
Cimetiere de Montparnasse, Paris, France//Plot: Division 3






2002 2009 7年の間に花が増えていた ト音記号を彫ったレリーフがあった

20世紀の最も偉大なフルート奏者。フルートをピアノのようにソロ演奏会が可能な楽器と初めて世界に知らしめた。



★アドルフ・サックス/Adolphe Sax 1814.11.6-1894.2.4 (パリ、モンマルトル 79歳)2002 サックス発明者
Cimetiere de Montmartre, Paris, France

  

楽器のサックスは、サックスさんが作ったものとは知らなかった。(ユーフォニウムもサックスさんが生みの親)



★セルジュ・チェリビダッケ/Sergiu Celibidache 1912.7.11(ユ暦6月28日)-1996.8.14 (フランス、エソンヌ 84歳)2009
Cimetiere de Neuville sur Essone, Essone(エソンヌ), France

道を尋ねるタクシーの運転手。カーナビがあっても
迷うほどの田舎(最初は違う墓地に連れて行かれた)
Neuvilleの村には2つ墓地がある

やっとチェリビダッケの墓地に到着!





墓地の左奥に眠っていた! 立派な肖像レリーフが置かれていた ハハーッ!思わず土下座!

セルジュ・チェリビダッケ(Sergiu Celibidache)は1912年7月11日にルーマニアで生まれ、幼少時からピアノに親しんだ。1936年(24歳)からベルリン音楽大学で作曲や音楽理論を学び、1945年(33歳)にベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ交響楽団)主催の指揮者コンクールに優勝し、同オーケストラの初代首席指揮者を翌年まで務めた。同じく1945年、8月にベルリン・フィルの首席指揮者レオ・ボルヒャルト(1899-1945)がベルリンに進駐したアメリカ兵の誤射を受けて死亡するという痛ましい事件が起きる。6日後にベルリン・フィルが行った野外コンサートでチェリビダッケは指揮を任された。彼はドボルザークの「新世界」交響曲でベルリン・フィルにデビューを飾る。この成功を受けて、翌1946年に34歳でベルリン・フィルの首席指揮者に就任した。殆どの曲を暗譜で指揮し、レパートリーをどんどん広げていく
チェリビダッケは、ベルリン・フィルの前・常任指揮者でナチスとの関係を誤解され音楽活動を禁じられているフルトウェングラーを尊敬しており、この大指揮者が裁判で無罪となるよう奔走した。1947年、フルトヴェングラーに対する嫌疑が晴れ、無事にベルリン・フィルに復帰した。その結果、首席指揮者として楽団をコントロールしたい35歳のチェリビダッケと、61歳のフルトヴェングラーを本来の首席指揮者と考えている楽団員の間に温度差が生まれる。楽団員はリハーサルを延々と行うチェリビダッケのやり方、独裁的傾向に疑問を抱いていた。
翌年にチェリビダッケはロンドン・フィルでデビュー、次第にドイツ以外で客演指揮者の仕事を引き受けるようになった。1952年にフルトヴェングラーが「終身首席指揮者」に就任したことで、チェリビダッケとベルリン・フィルのメンバーは気持ちがさらに離れていったが、チェリビダッケがベルリン・フィルを指揮すると名演の連続であり聴衆や批評家から熱烈に支持された。
1954年11月、チェリビダッケとベルリン・フィルの団員はブラームス『ドイツ・レクイエム』のリハーサルで大きく衝突。この同月末にフルトウェングラーが肺炎で他界(享年68歳)した。ベルリン・フィルのメンバーは次の終身指揮者にチェリビダッケを選ばずに4歳年上のヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)を選ぶ。これでチェリビダッケはベルリン・フィルと訣別し、両者の共演はなくなった。チェリビダッケはイタリアやデンマークに拠点を移した。
1963年(51歳)、スウェーデン放送交響楽団芸術監督に就任し8年間在籍。1972年(60歳)から南ドイツ放送交響楽団(現シュトゥットガルト放送交響楽団)の芸術監督を5年間務め、この楽団の演奏レベルを大幅にあげた。
カラヤンがレコード録音を大量に行っていたのとは逆に、チェリビダッケは「ホールで聴衆に届く音と、マイクで拾う音は響き方が異なる」と極度の録音嫌いだった。レコードがほとんどないことから日本では「幻の指揮者」と呼ばれ、1977年と1978年に来日し読売日本交響楽団で客演したときは大騒ぎになった。チェリビダッケの完全主義は日本でも発揮され、読売日本交響楽団とのリハーサルはテューニングだけで数十分を要したという。
1979年(67歳)からはずっとミュンヘン・フィル芸術音楽を務め、同オーケストラとは4度来日し、ブルックナーで聴衆を魅了した。
1989年(77歳)、カラヤンが81歳で他界。
1992年(80歳)、チェリビダッケはカラヤンの生前は決してベルリン・フィルを指揮しなかったが、ドイツ大統領ヴァイツゼッカーに頼まれて、38年ぶりにベルリン・フィルの指揮台に立ち、ブルックナーの『交響曲第7番』でただ一度限りの復帰を果たす。
ベルリン・フィルとの歴史的共演から4年後、1996年8月14日にチェリビダッケはパリの自宅で他界した。享年84歳。晩年、仏教に改宗し日本で複数回参禅を行なっている。

チェリビダッケは徹底してリハーサルを重視した。すべての音が理想の音色になるまでリハーサルを重ねるため、1公演につき約10日間のリハーサルを要求した。スローテンポの指揮で知られ、最晩年に振ったブルックナー『交響曲第8番』は、他の指揮者が約80分で演奏するのに対し、105分もの時間を要している。極度の録音嫌いで生前はレコードを発売することを許さなかったが、その反面、積極的にリハーサルを一般公開した。独自のスタイルを最後まで貫き通した希代の指揮者であった。没後、「海賊版があふれるくらいなら正規の録音を」と、家族の了承のもとライブ録音のリリースが始まった。

※「音楽は『無』であって言葉で語ることはできない。ただ『体験』のみだ」(チェリビダッケ)
※1984年、米国の音楽学校で指揮を教え、学生オーケストラによるNYカーネギーホール公演を指揮した。音楽評論家ジョン・ロックウェル「今まで25年間ニューヨークで聴いたコンサートで最高のものだった。しかも、それが学生オーケストラによる演奏会だったとは!」。
※チェリビダッケは古風な指揮者カール・ベームのことを「芋袋」と呼ぶなどかなりの毒舌であり、カラヤンをはじめ他の指揮者を散々にこき下ろした。これに心を痛めたカルロス・クライバーは、オリジナル・スコアのテンポにこだわった巨匠、故トスカニーニに扮して“天国”から次の電信を打った「ブルックナーは“あなたのテンポは全て間違っている”と言っています。天国でも地上のカラヤンは人気者です」。

【墓巡礼】
チェリビダッケの墓巡礼はなかなか大変だった。周囲に鉄道がないのでタクシーを使うしかない。唯一の情報はパリの南70kmにあるヌーヴィル=シュル=エソンヌという小村に眠っているということ。グーグルマップの衛星写真で、墓っぽい場所は確認できた。そして付近に(といっても30kmも離れているけど)画家ミレーの墓があるバルビゾン村があったので、パリからまずバルビゾンに行き、そこからヌーヴィル=シュル=エソンヌに向かうことにした。タクシー代がけっこうかかりそうだったので、日本を出る前に「ミレー、チェリビダッケの墓参りしませんか。天才ジャズギタリストのジャンゴ・ラインハルトの墓にも足を伸ばせます」とインターネットで声を掛けたところ、フランスに留学中のH氏から参加表明!2009年5月の朝8時、パリのリヨン駅で待ち合わせて列車で南下を始めた。ポータブルDVDを持参し、移動中にベルリン・フィルを38年ぶりに振ったブルックナーの『交響曲第7番』の映像を2人で見てテンションをあげた。午前にフォンテーヌブローでラインハルト、昼にバルビゾンでミレーを墓参し、アトリエを見学し終わったのが午後3時。さあ、次はいよいよチェリビダッケの墓だ。ところが、バルビゾンも田舎なので、観光案内所でタクシーを呼んでもらってもなかなか来てくれない。30分ほど待ってタクシーが到着、延々と続く田園地帯を眺めながら、野を越え、丘を越え、30km先のヌーヴィル=シュル=エソンヌに到着した。…と思いきや、タクシーの運転手さんは初めての道であり、カーナビがあっても迷うほどの田舎で、「これかな?」という墓地に入った。運転手さんも加えて3人で探せどチェリビダッケの墓石が一向に見つからない。ちょうど墓地に来た人がいて尋ねてみると、どうやら僕らはひとつ手前の村の墓地に来たようだ。運転手さ〜ん!(汗)。隣の村に移動し、畑の中の墓地へ。めちゃくちゃ、のどかな場所だ。今度はすぐにチェリビダッケの墓が見つかった。彼の墓の上には肖像画のレリーフがあり、遠目にも目立っていたからだ。「やっと会えたよ、チェリさん!」。墓前でH氏とガッシリ握手。チェリビダッケの重戦車のような演奏を思い出しながら、人類に素晴らしい音の遺産を遺してくれたことに感謝の言葉を捧げた。簡単にはお墓に行けないこのハードルの高さが、自分の中のチェリビダッケのイメージ通りというか、苦労はすれどその苦労が嬉しいという不思議な精神状態になった忘れられない巡礼だ。



★アイザック・スターン/Isaac Stern 1920.7.21-2001.9.22 (USA、コネチカット州 81歳)2009
Morningside Cemetery, Gaylordsville, Litchfield County, Connecticut, USA

  

バイオリンの巨匠アイザック・スターン。若手音楽家の育成に努めたことでも有名。
墓前にスターンさんのDVD(ブラームスの弦楽六重奏曲withヨーヨー・マ)と再生機を持参し音楽奉納。故人を偲んで墓前で演奏を聴く、こんなことが可能だなんて、一昔前では考えられなかった。技術の進歩のお陰!



★尾高 尚忠/Hisatada Otaka 1911.9.26-1951.2.16 (東京都、府中市、多磨霊園 39歳)2010

兄の尾高鮮之助(1901-1933)の墓。東洋美術研究家 「尾高尚忠墓 妻節子墓」とある



墓石に刻まれた楽譜。これは何の曲だろう?

墓域にヨハネ福音書の石碑
「われは甦りなり生命なり」

指揮者、作曲家。東京出身。祖父は富岡製糸場の所長。母は渋沢栄一の娘。兄も音楽が好きで、尚忠が学生時代にベートーヴェンの第九をトイレにて口笛で吹いたところ、外へ出ると兄が激怒しており、「ベートーヴェンを便所の中で、口笛で吹くとは何事だ」とビンタされたという。20歳でウィーンに留学、翌年帰国し、23歳で再びウィーンに向かい、指揮をフェリックス・ワインガルトナーに学んだ。1938年(26歳)から、ベルリン・フィルやウィーン交響楽団の指揮台に立つ。
1941年(29歳)、日本デビューで新交響楽団(→日本交響楽団→NHK交響楽団)を指揮。その後、専任指揮者となって精力的に指揮活動を続けたが、過労のため1951年1月12日の名古屋公演後に倒れ、約1カ月後に出血性上部灰白質脳炎で39年の短い人生を終えた。作曲家としても「日本組曲」や「フルート協奏曲」などで知られ、死の翌年、作曲家に与えられる尾高賞が設立された。

音楽評論家・野村光一いわく「尾高を殺したのはNHKである。NHKがすべて面倒を見ていれば、楽員は多忙から解放されたはずだ」。尾高の死の約半年後、NHKは日本交響楽団の全面支援を決定し、名称が「NHK交響楽団」になった。尾高はガーシュインと誕生日が同じ9月26日で、享年も同じ39歳、死因も脳の病気で一緒。長男は作曲家の尾高惇忠。次男は指揮者の尾高忠明(N響正指揮者)。



★フリードリヒ・グルダ Friedrich Gulda 1930.5.16-2000.1.27(オーストリア、アッター湖畔 69歳)2015
Friedhof Steinbach am Attersee, Steinbach am Attersee, Vocklabruck Bezirk, Upper Austria (Oberosterreich), Austria



クラシックとジャズに名演 アッター湖を望むシュタインバッハ墓地 湖畔の碧さにため息。泣ける美しさ







地球から太陽が昇る、そんな宇宙的な墓 この角度は太陽が輝く 「かっこいい、おはか!」幼児もズギュン 「FRIEDRICH GULDA」

オーストリア出身。20世紀を代表する巨匠ピアニストの一人。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン演奏の名手で、ベートーヴェンのピアノソナタを3度も全曲録音している。好奇心旺盛で40代に入ってジャズにも傾倒した。「モーツァルトの誕生日に死にたい」と公言し、実際にモーツァルトの誕生日に心臓発作で他界した。享年69。2人目の妻は日本人。
※グルダといえばモーツァルトのピアノ協奏曲第20番。第2楽章(9分)に聴き惚れる。



★カール・ベーム/Karl Bohm 1894.8.28-1981.8.14 (オーストリア、グラーツ 86歳)2015
Steinfeld Friedhof Graz, Austria Plot: No. B 177

日本での人気はもはや“信仰”に近いレベル 日本人の真面目な気質とドンピシャだった 若きベーム





朝6時半に巡礼。雨が上がった直後 門から入って一番奥の壁にベームの墓 “ドクター”と肩書きあり

指揮者。モーツァルトの名手。リハーサルの厳しさで知られウィーン・フィル団員から「音楽上の弁護士(法律顧問)」と評される。
※ベーム指揮ウィーン・フィルのモーツァルト『交響曲第41番ジュピター』(27分)




★ヴィルヘルム・ケンプ/Wilhelm Kempff 1895.11.25-1991.5.23(ドイツ、マインロイス 95歳)2015
cemetery of Wernstein(near the Wernstein Castle),Mainleus, Landkreis Kulmbach, Bavaria (Bayern), Germany

  

ヴェルンシュタイン城の北側の森に墓所 車も馬も進入禁止、ここから歩き “本当に墓地なんかあるの?”不安に包まれる

しばらく進むと分かれ道が。左に行くと→ うおっ!何か柵がある!墓地なのか!? あった!ケンプの墓だーッ!やった!



苔むした墓石。石棺型だけど名前がプレート式
のように大きく、これまで見たことがないタイプ
朝陽が「WILHELM KEMPFF」の部分にだけ
ドラマチックに当たっている。なんかグッときた
ちなみにこの工事のオジサンがケンプの
墓への行き方を教えてくれた。偶然に感謝

ケンプの墓前で彼の演奏をiPadで奉納!曲は『コラール前奏曲 イエスよ、われ汝に呼ばわる』BWV639
筆者撮影→ https://www.youtube.com/watch?v=p5j0IA7YL6E (2分40秒)

ピアニスト、作曲家。ドイツ生まれ。父親は教会オルガニスト。1930年代までオペラ作品など作曲活動が中心だったが、戦後はドイツが誇る名ピアニストとなった。得意レパートリーはバッハからブラームスにいたるドイツ古典派、ロマン派。95歳まで長寿したこともあり、生涯に4度ベートーヴェンのピアノソナタ全集に挑戦している。ピアニストとしては、若い頃は技巧派だったが、後半生は精神性を重視するように。
ケンプは自叙伝に「(日本に接して)最もすばらしかったのは、相互に愛情が生まれたことでした」と述べ、調律師に日本人を起用するなど大変な親日家で、1936年(41歳)の初来日以降、10回も日本を訪れた。1954年(59歳)、広島平和記念聖堂のオルガン除幕式で録音を行った際、その売り上げを被爆者のために全額寄付。1961年(56歳)の来日公演ではベートーヴェン・ピアノソナタ全曲演奏を行い、1970年(65歳)のベートーヴェン生誕200周年では、ピアノソナタに加えて、ピアノ協奏曲の全曲演奏会も行った。1991年5月23日、イタリア・ポジターノでパーキンソン病のため他界。享年95。アルフレート・ブレンデル「(ケンプは)まさしくそよ風で鳴るエオリアンハープのように、心の赴くままに演奏した」。

※戦後、戦時中のナチスへの協力を疑われたが戦犯容疑は解けた。ただ、自作をムッソリーニに献呈したことを反省し、作曲活動の筆を置く。
※1960年代にシューベルトのピアノソナタを世界で初めて全集として録音した。
※リストのピアノ曲「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」(1950年)をミスタッチなしで録音に成功した最初のピアニスト。



★ペーター・ホフマン/Peter Hofmann 1944.8.22-2010.11.29(ドイツ、ヴンジーデル 66歳)2015
Friedhof Wunsiedel, Wunsiedel, Wunsiedel im Fichtelgebirge Landkreis, Bavaria (Bayern), Germany





ロックスターでもあった 墓石の上に写真入りの植木鉢 本職はオペラ歌手







ドイツ中部の教会 墓標とベンチのセット ト音記号が音楽家を象徴

ベンチ前にペーターの足跡。彼がいるようだ キングサイズの足

テノール歌手であると同時に欧州最高のロック歌手の1人。ワーグナーの楽劇「ワルキューレ」の
主人公ジークムント(ジークフリートの父)を得意とした。パーキンソン病で他界。




★ヘルムート・ヴァルヒャ/Helmut Walcha 1907.10.27-1991.8.11 (ドイツ、フランクフルト 83歳)2015
Sudfriedhof,Frankfurt am Main




盲目の天才オルガン奏者

大都市フランクフルトの墓地

墓地職員「ヴァルヒャ?う〜ん、
初耳だわ。場所は奥の方ね」

正門から入って、ずっと右斜め奥に墓 墓前には花もあり綺麗に整備されていた 墓地の職員にヴァルヒャの偉大さを語りたかった

幼児期に天然痘で視力を奪われ、一時期やや回復するも16歳の時に角膜炎が悪化し完全に失明した。ライプチヒ音楽学校に通い、1924年に17歳でオルガン演奏家としてデビュー。コンサートは好評だったが、目が見えないことで同情されぬよう、新聞には盲目について触れないよう頼んだ。20歳の時に最優秀の成績でオルガニスト資格試験に合格し、音楽院を卒業。1938年(31歳)、フランクフルト音大の教会音楽家教授に任命される。翌年に結婚。
楽譜が見えないヴァルヒャは、母や妻に両手と足のパートを別個に弾いてもらい、それを絶対音感で記憶したという。生涯においてバッハの全オルガン曲を2度録音している。1977年(70歳)に引退し、1991年に83歳で他界。

「バッハの音楽は宇宙へと目を開いてくれます。ひとたびバッハ体験をすれば、この世の生にはなにがしかの意味があることに気づきます」(ヴァルヒャ)

僕はヴァルヒャのパイプオルガンで感電。まさに天からの響き!
〔ヴァルヒャのバッハ名演シリーズ〕
『トッカータとフーガ ニ短調』BWV 565(9分36秒)他のオルガン奏者の演奏を聴けなくなるほどの大名演。
『小フーガ ト短調』BWV 578(4分12秒)短い曲ながらも深い感動。
『パッサカリアとフーガ』BWV 582(14分)堂々たる大曲。ゴシック建築のごとき威容。全体に宿命感。



●アルマ・ロゼ/Alma Rose 1906.11.3-1944.4.4 (ポーランド、アウシュヴィッツ 37歳)2015
Auschwitz Death Camp Oswiecim, Malopolskie, Poland

通称「死の門」 引き込み線。この門をくぐることは死を意味する 高圧電流の有刺鉄線

墓がない犠牲者のための国際慰霊碑 様々な言語で150万人を弔うと記す(これは英語) 150万人の墓石。アルマ・ロゼの墓ともいえる

オーストリアのバイオリン奏者。アウシュヴィッツで囚人オーケストラを編成・指揮し、ユダヤ人音楽家が少しでも生き延びられるように図った。死因は食中毒。彼女の在職中はオーケストラのメンバーに死者がいなかった。母親はマーラーの妹ユスティーネ。
※オーケストラは朝と夕方にゲートにて演奏で囚人を送迎。囚人とSSのために週末コンサートを開いた。ロゼはメンゲレやクラマーに尊敬され、個室を与えられ、団員が病気になると診察してもらえた。1944年に食中毒で死亡したと推定されている。戦前の1932年に女性楽団員のみのオーケストラを結成している。

※ウィーンのGrinzinger Friedhofにもがある。マーラーと同じ墓地。



★番外編・ベルリン・フィルと指揮者たち

クラシック音楽を聴き始めた当初は、指揮者の個性やオーケストラの実力で曲の魅力が大きく変化することに気づかず、曲名と作曲家だけを記憶していた。やがて人々に絶賛される「名演」の存在を知り、フルトヴェングラーやカルロス・クライバーの指揮を積極的に聴くようになり、パブロ・カザルスやグレン・グールドの演奏に感嘆するようになった。僕の青春時代は“帝王”カラヤン&ベルリン・フィルの全盛期であり、「カラヤンファンはミーハー」という批判を知りつつも、カラヤンが振った「アルビノーニのアダージョ」「花のワルツ(くるみ割り人形)」の美しさに骨抜きにされていた。そして数々の名指揮者と組んできたベルリン・フィルに興味を抱き、ゆかりのある指揮者の墓を墓参するようになった。
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ベルリンフィルハーモニー管弦楽団は1882年に50人の自主運営のオーケストラとして発足し、同年秋に49歳の初代常任指揮者ルートヴィヒ・フォン・ブレナー(1833-1902)を迎えて第1回定期演奏会が開かれた。ライプツィヒ出身のブレナーは5年間ベルリン・フィルを指揮し、14年後に68歳でベルリンにて他界したことは分かっているが、残念ながら海外サイトや諸文献を調査しても墓所の場所は不明だった。ちなみにブレナー時代の1884年にブラームスが自作の交響曲第3番を指揮し、ピアノ協奏曲第1番を自ら弾いている。ドボルザークも自作の演奏で指揮台にあがっていた。
1887年、当時は作曲家自身が指揮やオペラの演出を担当することが一般的だったが、初めて指揮だけを専門的に行う元祖“職業指揮者”のハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)が第2代常任指揮者に就任した。ビューローはワーグナー(1813-1883)から革命的な指揮法を受け継いでいた。ワーグナーやビューロー以前の指揮者は、単純に拍子をとって指揮棒を振るだけの存在だった。だが、ワーグナーは指揮者が楽譜を読み込んで曲を解釈し、それを反映させた音楽表現を追求する指揮を行った。ベルリン・フィルはワーグナーから指揮を学んだビューローのもとで、演奏水準が飛躍的に向上した。
ビューローがベルリン・フィルから離れた後、マーラーが客演指揮者として招かれるなどしたが、1895年に20世紀初期の大指揮者の一人、アルトゥール・ニキシュ(1855-1922)が第3代常任指揮者に就任した。1913年(創立31年目)、ベルリン・フィルはニキシュのもとで初のレコーディングを行った。選ばれた曲はベートーヴェンの運命交響曲。ニキシュは魔術をかけるような指揮で自在に楽団を操ったという。
1922年にニキシュが66歳で他界し、後任に史上最高の指揮者とも言われるフルトウェングラー(1886-1954)が第4代常任指揮者に就任し、ベルリン・フィルの弦楽パートが強化され、楽団はさらに表現力を増していく。フルトヴェングラーはヨーロッパ各地で演奏活動を行い、ベルリン・フィルの豊かな響きに聴衆は酔いしれた。ヒトラーが台頭するとフルトヴェングラーは音楽仲間が外国へ亡命するなか、ドイツに残ってユダヤ人演奏家の援助に尽力し、ナチスによる音楽界への圧力を批判する声明を新聞に寄稿した。ベルリン・フィルは1944年1月に活動拠点のホール、旧フィルハーモニーが連合軍の爆撃で焼失、その後も空襲や停電が頻発するなか、ベルリン国立歌劇場や映画館に会場を移しながら演奏活動を続けた。1945年2月、ユダヤ人メンデルスゾーンの作品を演奏会のプログラムに入れるなど、ナチス政権に非協力的なフルトヴェングラーに逮捕状が出され、ゲシュタポに殺害される可能性が出てきた。フルトヴェングラーはスイスに亡命し、残された楽団員はベルリン陥落の2週間前までコンサートを開催した。
1945年5月のドイツ敗戦後、フルトヴェングラーは親ナチスの嫌疑(実際は真逆)で裁判にかけられ、判決が出るまで指揮活動を禁止された。かわってロシア出身のドイツ人指揮者レオ・ボルヒャルト(1899-1945)を第5代常任指揮者(代役という意味では暫定首席指揮者)に迎えベルリン・フィルは活動を再開する。大戦中、ボルヒャルトは地下に潜伏して反ナチスのビラを刷っていた。ところがそのわずか3カ月後、1945年8月23日にベルリンに進駐した米軍兵士の検問所で誤射を受け、ボルヒャルトは46歳で不慮の死を遂げた。
その6日後、ベルリン・フィルの野外コンサートでルーマニア生まれの33歳の若手指揮者セルジュ・チェリビダッケ(1912-1996)に白羽の矢を立てられた。彼は直前に現ベルリン・ドイツ交響楽団主催の指揮者コンクールに優勝していた。チェリビダッケは野外コンサートの成功で信頼を勝ち取り、翌年に首席指揮者に就任した。同時にチェリビダッケはフルトヴェングラーを尊敬していたことから無罪判決が出るよう奔走、1947年にフルトヴェングラーの無実は証明され、晴れてベルリン・フィルに復帰した。だが、ここで問題が起きた。チェリビダッケとベルリン・フィルのタッグは、聴衆からも批評家からも熱狂的に支持されており、チェリビダッケは首席指揮者として楽団をさらに自分色に染めることを願ったが、楽団員は復帰したフルトヴェングラーを本来の首席指揮者と考え、双方の間に温度差が生まれる。
1948年12月31日、ベルリン・フィルは大晦日の恒例となるジルヴェスターコンサートを開始。演奏の模様は1月1日のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートと共に全世界に中継された。
1952年にフルトヴェングラーが初の「終身首席指揮者」に就任したことで、チェリビダッケは活躍の場を各国の客演指揮者に移していく。
2年後の1954年にフルトヴェングラーが68歳で他界すると、後任にチェリビダッケが就くと思われたが、楽団員はかねてからリハーサルを延々と行うチェリビダッケのやり方に疑問を抱いており、次の終身指揮者・芸術監督に選ばれたのはヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)だった。
カラヤンはオーケストラの音色をシルクのように滑らかに、美しく響かせることにこだわった。同時に低音パートを充実させて音に厚みをもたせ、ベルリン・フィルは室内楽的緻密さと、迫力あるサウンドの両方を手に入れた。そしてさらなる演奏技術の向上のため、カラヤンは楽団員に小編成の室内楽活動を奨励した。
ベルリン・フィルの首席コントラバス奏者ライナー・ツェペリッツいわく「(オーケストラが)これほどまでの音楽的充実感、正確性を追求できたことは未だかつてなかった。われわれは世界中のどのオーケストラにも優る、重厚で緻密なアンサンブルを手に入れたのだ」。
カラヤンとベルリン・フィルは膨大な数のレコーディングを行い、ウィーン・フィルと並ぶ世界最高のオーケストラとして人々を魅了した。また、楽団員の国際化を進め、実力があれば東洋人でも受け入れた。
1963年に現在本拠地としているホール、フィルハーモニーが完成。
1967年、カラヤンがオペラ上演を目的にザルツブルク復活祭音楽祭を創設し、ベルリン・フィルが特別にオーケストラ・ピットに入って演奏するようになった。
1977年、ジルヴェスターコンサートでカラヤンが第九を指揮。歌手はアグネス・バルツァ、ルネ・コロなど。
1982年の『ベルリン・フィル100周年記念コンサート』ではカラヤンが英雄交響曲を指揮し、気迫の名演となった。
1983年、ベルリン・フィルは創立以来101年間、男性メンバーのみで構成されてきたが、空席となった首席クラリネット奏者にカラヤンが20代前半の女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーを採用しようとしたことから、これに反対する団員たちと初めて大きく衝突した。結局マイヤーはベルリン・フィル入団を諦めたが、このトラブルでカラヤンとベルリン・フィルに隙間風が生じて“黄金時代”は終わり、カラヤンはウィーン・フィルとの関係を強化していく。
マイヤーの一件はベルリン・フィルの保守性が問題視されるきっかけとなり、翌1984年、第一バイオリンにスイス出身のマデレーヌ・カルッツォ(当時26歳)が正式に入団し、約20名の女性団員(2010年時点)が所属するようになった。
1988年、ジルヴェスターコンサートで80歳のカラヤンと17歳のピアニスト、エフゲニー・キーシン(1971〜)が共演しチャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番』を指揮。これがベルリンでのカラヤンのラストコンサートとなった。
1989年にカラヤンが健康状態の悪化と楽団員との不和により辞任。その3カ月にカラヤンは心不全で81歳の生涯を閉じた。この年のジルヴェスターコンサートはカラヤンの愛弟子・小澤征爾がオルフ『カルミナ・ブラーナ』を指揮した。
同年、カラヤンの後任を選ぶ際、楽団員がベルリン市内に集まって非公開の会議を開き、自分たちで首席指揮者を選ぶことになった。これをメディアはローマ教皇を選ぶ会議にたとえ「音楽界のコンクラーヴェ」と伝えた。1990年、楽団員投票の結果、ミラノ出身のクラウディオ・アバド(1933-2014)が最有力候補のロリン・マゼール(1930-2014)を破って首席指揮者・芸術監督に就任した。マゼールはショックのあまり9年間ベルリン・フィルの指揮台に立たなかった。カラヤンからベルリン・フィルという世界最高の名器を受け継いだアバドは、切れのある引き締まった音を色彩豊かに奏でた。アバドは時代考証を取り入れ、古楽器的な奏法を採用する冒険も行った。
1991年、ベルリン・フィル創立日の5月1日を記念して欧州の名所で演奏する「ヨーロッパコンサート」を開始。
1999年のジルヴェスターコンサートは1000年代最後の夜ということで、名曲の終楽章などフィナーレばかりを集めた特別なプログラムとなった(ベートーヴェン「交響曲第7番終楽章」、マーラー「交響曲第5番終楽章」ほか)。
アバドは2000年に胃癌で倒れ、健康問題から2002年に在位12年でベルリン・フィルを辞任(2014年に他界、享年80)。音楽界最高の地位であるベルリン・フィルの次の首席指揮者が誰になるか世界が注目した。ハイティンク、メータ、小澤、レヴァイン、ヤンソンス、マゼール、エサ・ペッカ・サロネンらの名前が候補にあがり、最終的にイギリス人のサイモン・ラトル(1955〜)と、アルゼンチン出身のイスラエル人ダニエル・バレンボイム(1942〜)に絞られ、楽団員による投票で47歳のラトルが首席指揮者・芸術監督に選出された。ラトルはそれまでベルリン・フィルがあまり演奏しなかった現代音楽を積極的に取り上げ、表現の幅を広げた。
2006年のジルヴェスターコンサートにピアニストの内田光子が登場し、モーツァルト『ピアノ協奏曲第20番』を演奏。
2008年、カラヤン生誕100周年記念コンサートでカラヤンの愛弟子だった小澤征爾がベルリン・フィルの指揮台に立ち、チャイコフスキーの悲愴交響曲を演奏した。
2009年、演奏を中継する映像配信ポータルサイト「ベルリン・フィル デジタル・コンサートホール」のサービス開始。アクセス数が最も多い国は、本国ドイツ以外では日本がトップ。日本人のベルリン・フィル好きがよくわかる。
2010年、ベルリン・フィルの第1コンサートマスターに樫本大進が就任。他に第1ヴァイオリンに町田琴和、第2ヴァイオリンに伊藤マレーネ、ヴィオラ首席に清水直子が在籍。このように現在のベルリン・フィルは女性団員の姿が普通になり、また様々な国籍の団員が所属する国際的なオーケストラとして活動を続けている。2010年のジルヴェスターコンサートは当時まだ29歳の若手指揮者、ベネズエラ人のグスターボ・ドゥダメル(1981〜)を客演指揮者として迎えた。
サイモン・ラトルは2018年に引退し、2019年からロシア出身のキリル・ペトレンコ(1972〜)が首席指揮者・芸術監督に就任予定。首席指揮者=常任指揮者としてカウントした場合、ペトレンコは第11代常任指揮者となる。
※ベルリン・フィルは毎年6月の最終日曜日に、ベルリンっ子が憩う公園“ヴァルトビューネ”の野外音楽堂で野外コンサートを開催している。コンサートの最後に必ずパウル・リンケの「ベルリンの風」が演奏され、2万人の観客が手拍子、指笛、線香花火で演奏を盛り上げる。
※ラトルが指揮者に決まる過程を追った2003年の音楽ドキュメンタリー『マエストロ・イン・デモクラシー〜ベルリン・フィルの選択』(NHK/Euro Arts共同制作)の中で、ナレーターは「ベルリン・フィルの132年の歴史の中で、首席指揮者の重責を担ったのはアバドを含めて6人だけです」と語っている。ブレナー、ビューロー、ニキシュ、フルトヴェングラー、カラヤン、アバドということだろう。レオ・ボルヒャルトは“暫定首席指揮者”だからカウントされないとしても、チェリビダッケは首席指揮者の扱いと思っているのだけれど、違うのだろうか?


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