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| 25歳の頃 | 人類史上最高のチェリスト! |
| カザルスの墓は彼の故郷に… | 「ヒシッ」墓石はチェロの形をしていた! |
| 『学校はいつになったら2プラス2は4とか、フランスの首都はパリとかではなく子供たち自身が何であるかを教えるのだろう。子供たちよ、君は驚異だ。二人といない存在だ。君はシェークスピアにもベートーベンにも、どんな人にもなれるのだ。だからこそ、君と同じ存在である他人を傷つけることなど出来ないのだ。敵対するものは殺すべしという掟がはびこる時代に生きなければならなかったことを私は悲しく思う。祖国への愛、それは自然なものである。では、なぜ国境を越えて他の国々の人々を愛してはいけないのか?私たち個々の人間は全てひとひらの木の葉に過ぎず、全人類が樹なのである』(パブロ・カザルス) スペイン人の天才チェリスト・カザルスは、フランコ将軍による軍部独裁政権を拒否しフランスへ亡命した。そして世界中の政府へスペインの民主化を訴え、フランコ政権を支持する国での演奏を封印することで抗議の意思を示した。 「フランコ政権を認めるという大きな過ちを犯している国々に、私はのこのこと出掛けて演奏することなど出来ない」 異国の地で死を迎えたカザルスの遺言は『私の遺体は独裁者フランコが倒れ自由が祖国に戻ったとき、カタロニアに運んで欲しい』だった。彼の亡骸は遺言通り、フランコの死の4年後に故郷ベンドレルの町に戻った。 「私の故郷カタロニアでは、鳥たちが、ピース、 ピース、ピースと鳴きながら大空に飛んでいくのです」…行動する音楽家カザルスは亡くなる直前、NYの国連本部でこの言葉と共にカタロニア民謡「鳥の歌」を演奏した。 |
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| 背後がグールド家の墓、 手前はグレン単独の墓 |
グールドが眠るカナダの墓地は公園に近い。 サイクリングやジョギングをする人がいっぱい |
「愛する息子グレン・グールド」とあった |
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| 2000 | 2009 |
| 墓に彫られていた楽譜、バッハの『ゴールドベルク変奏曲』は子守歌。 グールドは安らかに眠っていることだろう |
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| 1歳のグールド。かわいい! | 少年グールド。犬と仲良く連弾 |

| グレン・グールド大明神!彼は僕のヒーローであり、No.1愛聴ピアニストだ。グールドの演奏を聴く度に“ハア〜、ほんと、生まれてきて良かった”と歓喜の涙が滲んでくる。彼の愛すべき人柄や数々の「伝説」を、生涯と共に紹介しよう! ●32歳で演奏会を中止 ゴッホ、ベートーヴェン、ダリ、平賀源内…昔から天才と変人は紙一重と言われてきた。グレン・グールドも間違いなくその一人。グールドは1932年9月25日にカナダ・トロントで生まれた。父は毛皮商、声楽家の母方の遠縁には作曲家グリーグがいる。1946年、トロント王立音楽院を最年少の14歳で卒業(しかも最優秀)。同年トロントでベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番第一楽章を演奏してコンサート・デビュー。23歳の時にNYで録音した初アルバム、バッハの『ゴールドベルク変奏曲』が、若々しい鮮烈な演奏で世界の注目を集め、1956年のクラシック・レコードの売上ベストワンを記録した。一躍時代の寵児となった彼は、各地で計253回の演奏会をこなして行く。 ところが!1964年、32歳の時に人気の絶頂で突然コンサート活動の中止を宣言し、聴衆の前から姿を消してしまう。「客の咳払いやくしゃみ、ヒソヒソ声が気になって演奏に集中できない」という神経質な性格もあったが、最大の理由は音楽家としてのポジティブな向上心にあった。グールドいわく「聴衆の中には、ピアニストがいつ失敗するだろうかと手ぐすね引いて待っている連中がいる。彼らはローマ時代に闘技場に集まった群集や、サーカスの綱渡り芸人が足を踏み外すのを心待ちにする観衆と同じだ。その結果、演奏家は失敗を恐れるあまり、いつもコンサート用の十八番のレパートリーを演奏することになる。すっかり保守的になって、もしベートーヴェンの3番が得意曲だったら、4番を試してみるのが怖くなるというように」「レコーディングによってコンサートの地獄のストレスから演奏家は解放される。演奏会の為に同じ曲ばかり練習するのではなく、新しい楽曲にどんどん挑戦してゆけるし、失敗を恐れずにありとあらゆる解釈を試せる」。 以後、彼はスタジオにこもり、録音専門のピアニストとなって自己の芸術を高めていく。 ●重度の病気恐怖症 グールドが奇人と呼ばれたのは、まず独自の風貌にある。極度の寒がり屋で、夏でも厚い上着の下に分厚いセーターを着込み、ヨレヨレのコート、マフラー、毛皮の帽子を身につけていた(大抵は黒一色)。ズボンはだぶだぶ。常に厚い手袋をはめていたが、手袋の理由は防寒だけではない。グールドいわく「もしもの時の防衛用」。異常なまでに潔癖症(細菌恐怖症)の彼は他人との接触を極端に嫌い、握手さえ「万全を期して」避けていた。電話の向こうで咳が聞こえ「風邪がうつる」ので切ったという話まで残っており、それが冗談と思えないところがグールドならでは。また、いつも大瓶のポーランド産ミネラルウォーターと大量のビタミン剤(5瓶分)を持ち歩き、周囲から大丈夫と言われても絶対に水道水を飲まなかった(ロシア公演では晩餐会への出席を拒否!)。非常に少食で、普段は少量のビスケットとフルーツジュース、サプリメント(ビタミン剤、抗生物質)等しか取らなかったという。 グールドといえばこの服装 1974年・トロントにて(42歳)●指揮者よりエライのさ 幾多の指揮者を激怒させたのは、演奏中に片手があくと、その手で指揮を始める癖だった。個人リサイタルならともかく、オーケストラとの共演でも振り続けるので、「ステージに2人も指揮者はいらん」と怒りを買った。帝王カラヤンは「君はピアノより指揮台がお似合いだ」と嫌味を言い、バーンスタインは「もうやってられない」とベートーベンのピアノ協奏曲全集の録音を途中でボイコットした。評論家にも指揮癖を非難されたグールドは一言、「手を縛って演奏することは不可能だ」。 スタジオ録音でもやっぱり“指揮”している前述したバーンスタインは情熱家肌であり、その分グールド絡みの逸話も多い。駆け出しのグールドをバーンスタインがNYフィルに招いた時のこと。20代半ばのグールドはカーネギーホールへ出番2分前に着く大物ぶりを見せ、セーターのまま舞台に出ようとするのでバーンスタインは必死で阻止したという。最も有名なのは1962年にブラームス・ピアノ協奏曲第1番で組んだ時の「ブチ切れ宣言事件」。当時バーンスタイン44歳、グールド30歳。本番直前までバーンスタインのテンポにグールドが従わなかったことから、演奏前にバーンスタインが客席に向かって「今から始まる演奏のスピードは私の本意ではない。ここから先はグールド氏の責任だ」と、前代未聞の敗北宣言をしたのだ。結局、頑固なグールドに根負けし、指揮者が演奏者に合わせた形になった。後日のグールド「あのスピーチの時、僕は舞台裏で笑いをこらえるのに必死だった。無理を聞いてくれたバーンスタインに感謝した」。グールド、あんたすごいわ。
●ピアノが歌い、椅子が歌い、グールドも歌う 演奏スタイルも奇抜だった。演奏前に洗面所にこもり、両手をお湯に半時間浸して温めた後、彼がステージで腰掛けるのは有名な『グールド専用椅子』。彼は父親が作った床上35.6cmの極端に足の短い折り畳み椅子をいつも持ち歩き、この専用椅子でなければ演奏を拒否した。時々録音にキーキー音が入ってるのはこの椅子の“歌”だ。そして、椅子が異常に低い為に、彼が座ると胸の高さに鍵盤がくる。手首は鍵盤の「下」だ。演奏時は物凄く猫背になり、今にも鼻が鍵盤にくっつきそう。口の悪い批評家はその特異なスタイルを指して「猿がオモチャのピアノを叩いているようだ」と冷やかした。彼は音楽に没入すると体を揺らしながら演奏するが、その揺れは曲のリズムと合っていない。 ※動画〜グールドの鼻歌(3分)。途中で立ち上がり最後は演奏大爆発!(バッハ/パルティータ2番)
鍵盤が目と鼻の先!長身なのに子どものよう。(50歳、最晩年のグールド)極めつけは、演奏しながらのハミング!グールドのCDにはこんな注意書きが書かれている。『グールド自身の歌声など一部ノイズがございます。御了承下さい』。ピアノの音色と共に、朗々と歌い上げるグールド。彼の唸り声や鼻歌に、録音の技術スタッフが怒って「楽譜に歌のパートはないぞ!」と指摘すると、「感情を抑えて、黙りこくって演奏なんか出来ない!」と逆ギレ。イジワルなインタビュアーに「演奏しながらなぜ歌うんですか?」と聞かれた時は、「あなたは私のピアノを聞いていないのか?」と逆にやりこめた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 歌いまくりのグールドショパンを弾かないピアニストも珍しい。グールドはショパンを「感情過多」と軽蔑し、たった1曲しか演奏しなかった。彼に言わせるとモーツァルトも「グロテスク」らしい。だからモーツァルトの悪いところを“直してあげて”弾くんだって。グールドのことを人間ではなく、本気で「地球外生命体」「神」と信じている人もいる(マジ)。 1982年、1982年、グールドは脳卒中で倒れ1週間後に他界した。まだ50歳の若さだった。グールドが後世に残した最後の映像記録は、奇しくもデビュー・アルバムと同じ『ゴールドベルク変奏曲』だった。
●グールド、宇宙へ 彼は生涯独身で愛犬バンコーと暮らしていたことから、遺産の半分は動物愛護協会に寄付された。グールドが選んだ20世紀の最高傑作小説は漱石の『草枕』とトーマス・マンの『魔の山』で、『草枕』は異なる訳者のものを4冊持っていた。死の床には、枕もとに聖書の他に書き込みだらけの『草枕』があったという。また、死の前年にラジオで草枕の第1章を朗読している。その他、映画『砂の女』(勅使河原宏監督)を100回以上見たと伝えられている。 愛用のピアノは1945年製スタインウェイを改造したもの。晩年はヤマハの音も好み、最後のゴールドベルクの収録はヤマハで行った。 NASAが1977年に打ち上げた惑星探査機ボイジャー1号&2号には、異星人への地球人からの挨拶として、グールドが演奏したバッハのレコード『平均律クラヴィーア曲集第2巻/前奏曲とフーガ第1番』が針と一緒に積み込まれた。素晴らしい。これ以上は考えられない、人類の最高の自己紹介ではないか! ●グールドに逢いたくて 2000年7月、僕はグールドからもらった沢山の感動の御礼を伝える為に、彼が眠るトロントに向った。観光案内所の係員が墓地の場所を知らず途方に暮れていると、巨大CDショップ(HMV)が目に入った。手掛かりを求めてクラシック売り場に向かう。「あのう、グールドの墓はトロントの何処にあるかご存知ですか?」 若い店員「墓は聞いたコトないんですけど…」。ぎょえーっ。僕が不安のドン底に落ちていると、肩を背後から叩いた人がいた。立っていたのは中年の男性店員。「フッフッフッ…私が教えてあげよう」。なんと!その店員は首からグールドのブロマイドを掛けているではないか!彼は最寄りの地下鉄駅から墓地までの手書きの地図を作ってくれた。
なんとかグールドが眠るMount Pleasant墓地に着くと、今度はその広大さに目まいを覚えた。管理人いわく「20万人以上が埋葬されてます」。事務所でもらった墓地マップを片手に探し回り、ついに彼の墓前へ。グールドの墓には彼の代名詞とも言える『ゴールドベルク変奏曲』の楽譜が刻まれていた。頭の中で彼の音楽が流れ始め、胸がいっぱいになり膝をついた。ありがとう、グレン・グールド。
「グールドはバッハの最も偉大な演奏者である」(スヴャトスラフ・リヒテル) 「グールドは私にとって永遠のアイドルだ」(ウラディーミル・アシュケナージ) 「グールドより美しいものを見たことがない」レナード・バーンスタイン) 「結局、彼は正しかった」(ユーディ・メニューイン) 「芸術の目的は、瞬間的なアドレナリンの解放ではなく、むしろ、驚嘆と静寂の精神状態を生涯かけて構築することにある」(グールド) (参考文献:エンカルタ総合大百科、映画「グレン・グールド27歳の記憶」ほか) |
| ●浅田彰氏によるまとめ〜グールドの5大特徴 (1)行儀の悪い座り方 (2)極端に低い椅子・高さ35cm (3)弾きながら歌う (4)曲のリズムと合わない体の揺れ (5)自分の演奏への指揮 |
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| トロントのCBCラジオ・ビル。 この前にグールドの座像が設置されている |
厚着でコロンコロンの 有名なこの写真が→ |
こうなった! |
トロント市民を見守るグールド |
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| 立ち止まって見つめるマダム | 同じポージングで至福のショット | 若い女性にモテモテのグールド |
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| 家族連れが男の子とグールドの記念写真をパシャリ | この子、最初は帽子を触ってたけど… | 「チーズ」で鼻に指を突っ込んでた!(笑) |
| ※グールドの入門にはベスト盤CD『リトル・バッハ・ブック』が良い曲ばかりでおすすめ!(もち、本人の歌声入り) ※人間味のある人物像に迫りたい人は記録映画『グレン・グールド 27歳の記憶』が充実しています! ※07年11月、ゴールドベルク変奏曲のDVDがようやく発売!本当に長かった…(涙) |
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| ディズニー・ランドみたいな正面ゲート。非常に古い墓地だ | この丘の上にレニーは眠っている |
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| バーンスタイン家の墓域! | 手前左がレニー、お隣はフェリシア夫人 |
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| 米国人の墓、特にユダヤ人の墓には 小石を積むという風習がある (2000) |
約10年ぶりに巡礼。石が周囲をグルリと囲んでいた。 ヒマワリの黄色が芝生の緑に映えていた (2009) |
墓の側には長椅子がありゆっくり語り合える |
マサチューセッツ州出身。作曲家・指揮者・ピアニスト。愛称レニー。ライバルのカラヤンと共に20世紀後半のクラシック音楽界をリードした。両親はロシアから米国に移住したユダヤ人。
14歳の時、教会の慈善公演のチケットを父が貰ってきたので、初めてクラシックの演奏会を聴きにいった。その時の曲目がラヴェルのボレロ。「初めてのコンサートで、オーケストレーションのお手本のような曲を聴いたのです。稲妻に打たれ、どうしても音楽がやりたくなった」(バーンスタイン)。
ハーバード大学&カーティス音楽院を卒業した後、1943年にニューヨーク・フィルハーモニーの補助指揮者となる。そして幸運がいきなり訪れた。同年11月14日、指揮者の巨匠ブルーノ・ワルターが体調を崩し、急遽代役として無名の新人だった25歳の彼が指揮することになった。リハーサルをする時間はない。そして本番…結果は大成功!このライブはラジオで全米に生中継されたので、彼の情熱的な指揮が大評判となり、バーンスタインは一夜にしてスターとなった。当時のアメリカには米国出身の指揮者がまだ少なく(他国からの移住者ばかり)、バーンスタインは米国音楽界の期待を一身に集めた。1953年(35歳)には、ミラノ・スカラ座の客演指揮にアメリカ人として初めて招かれた。
1957年(39歳)、バーンスタインは作曲家としても才能を華々しく開花させ、ミュージカル『ウエスト・サイド物語』の音楽を書き上げる。全編に素晴らしいナンバーが満ちた作品で、特に“トゥナイト”は世界中の人々に愛される名歌となった。
1958年(40歳)、ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任。両者の相性は抜群で、ニューヨーク・フィルは世界有数の楽団に成長した。1969年に同オーケストラと契約を終え、以降はウィーン・フィル、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団、イスラエル・フィルと組んで名演を残した。
音楽の啓蒙活動も熱心に展開し、テレビを通して子どもたちにクラシックの魅力を分かりやすく解説した。巨匠となっても各国で学生オーケストラを指揮し、若い演奏家たちの指導に従事した。※クラウディオ・アバド、小澤征爾は彼の弟子。最後の弟子は佐渡裕。
バーンスタインはまた、社会的なメッセージも積極的に発信し続けた。「政府は言う。安易な方法は取らない、ベトナムから撤退しない。虚勢を張り、歴史をゆがめ、軍事大国のイメージを保とうとしている。それこそが“安易な”方法だ」(1969年、ベトナム戦争に反対して)。彼は音楽家としての名声をバックに、核軍縮、人権擁護、教育問題など、様々な社会運動に取り組んだ。1985年8月(67歳)には被爆40周年として広島で平和コンサートを開催。1989年(71歳)のベルリンの壁崩壊時には、翌月ベルリンで催されたクリスマス・コンサートで、東西ドイツ&アメリカ&ソ連&イギリス&フランス各国のオーケストラの混成メンバーを指揮してベートーヴェン第九を演奏。第4楽章の「歓喜の歌」の“Freude(歓び)”を“Freiheit(自由)”に歌詞を変え、東西冷戦終結を祝った。
1990年8月のタングルウッド音楽祭におけるボストン交響楽団との演奏を最後に、10月に指揮活動からの引退を表明、その5日後に肺癌のためNYの自宅で亡くなった。享年72歳。
※1985年、グラミー賞生涯業績賞を受賞。
※毎日煙草を5箱(100本)も吸い、ウイスキーを丸1本飲んでいたという。(体を壊すけどそれがパワーを生むらしい)
※1985年9月のイスラエル・フィルとの来日公演、大阪フェスティバル・ホールでマーラーの9番を聴きに行った。当時の僕は情緒不安定な高校3年生。それはもう、驚天動地の音楽体験だった。人間がこんなにも美しいものを生み出せるのかと卒倒しかけた。
「誰かと分かち合えない感動は私にとって無意味だ」(レナード・バーンスタイン) 「バーンスタインはひどい演奏もしたけれど、奇跡のように素晴らしい演奏もした。天才とは奇跡が起きる確率が高い人なんです(佐渡裕)指揮者 |
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| 墓地は広大でなかなか墓が分からなかった。 何人も人に尋ねてやっとこさたどり着いた。感激! |
今も崇拝者は多い | 関係ないけど、神戸で偶然見つけた 喫茶「フルトヴェングラー」。感涙! |
| 現在過去を通じて、クラシック音楽史上、最も偉大な指揮者と多くの人が称賛するフルトヴェングラー!(僕も彼が最高だと思う!)彼の演奏には魔力がある。特にベートーヴェンの第九は、フルトヴェングラーを聴くともう他の指揮者のは聴けない! (大戦中にドイツで活動し続けたことについて)「ベートーヴェンが演奏される場所ではどこでも人間は自由です。彼の音楽はゲシュタポ(ナチの秘密警察)も手だしのできない世界へと人間を連れ出してくれます。偉大な音楽はナチの非情な思想に真っ向から対立するので、私はヒトラーの敵です」(フルトヴェングラー) |
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なんという気持ちのいい笑顔!見てるだけで爽快になる! (ベートーヴェン交響曲第4番) |
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| 精神的求道者のような 最後の巨匠だった。 |
リハーサル映像が現存しているのは人類全体 の幸運!(少しポール・ニューマンにも似ている) |
1992年のニューイヤーコンサートにて。とても リラックスした穏やかな表情だなぁ。(当時62歳) |
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| 墓の側にクライバー記念館がある。 館長のマルコさんがカルメンを流してくれた |
クライバーの墓はお花がいっぱい! |
奥さんが亡くなった半年後、後を 追うようにカルロスも旅立った |
顔をクシャクシャにして見送って くれた情の厚いマルコさん |
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父は高名な指揮者エーリヒ・クライバー。ベルリン生まれ。父はナチの反ユダヤ政策に抗議して、ベルリン国立歌劇場音楽総監督を辞職。家族でアルゼンチンに亡命する。一時は化学の道を進みかけたが、20歳からブエノスアイレスで音楽を学び始めた。1952年(22歳)、ラプラタ歌劇場で指揮者デビュー。24歳でチューリヒ歌劇場の指揮者にるなど期待の若手として注目される。この頃のクライバーは親の七光りと思われるのが嫌で「カール・ケラー」と名乗っていた。
1968年(38歳)、バイエルン国立歌劇場で「ばらの騎士」を指揮して名声を手に入れる。1974年(44歳)、ウィーン・フィルとベートーヴェン「運命」を共演、ドラマチックで情熱的な演奏が絶賛された。45歳でミラノ・スカラ座で「ばらの騎士」を振り、翌年にはバイロイト音楽祭で「トリスタンとイゾルデ」を演奏。1978年(48歳)にはシカゴ交響楽団を指揮してアメリカに乗り込むなど、世界各地で輝かしい成功をおさめた。
一方、1982年(52歳)にはベートーヴェンの交響曲第4番の解釈を巡ってウィーン・フィルと衝突し、演奏会をキャンセルということもあった(6年後に和解)。1988年(58歳)、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で「ラ・ボエーム」を公演。1989年(59歳)&1992年(62歳)には有名なニューイヤー・コンサート(ウィーン・フィル)を指揮した。
50代後半から指揮の回数が2、3年に数回だけというペースになり、「クライバーが指揮をした」というだけで世界のニュースとなっていった。
最後の舞台は1999年(69歳)のバイエルン放送交響楽団との共演。2004年、数ヶ月前に亡くなった妻に続いて他界した。生涯にわたってフリーの立場で活動し、音楽監督に就任しなかった。 リハーサルに膨大な時間を費やし、本番までに満足できなければ公演をキャンセルなど、究極の完全主義者と呼ばれた。しかし、けっして暴君として楽団員の上に君臨したのではなく、自己が求める音楽的な高みにオーケストラの演奏レベルが達する事が出来なければ、「作品と作曲者への冒涜」となるとして、音楽と真摯に向き合った態度が生んだ公演中止だった。一曲を完成させるまで、作曲家本人の自筆譜を研究するなど練りに練る為、レパートリーも極端に少ない。逆に言えば、クライバーが指揮台に立った時は、もうそれだけで120%名演になることが約束されたようなものだった。 厳選されたレパートリーを極限まで掘り下げ、時には圧倒的なスピード感と切れ味抜群のリズム感で聴衆を熱狂させ、時にはとろけるように優美な音色と鮮やかな色彩感で、聴衆だけでなく楽団員までも恍惚&至福の世界に導いた。クライバーは、バレエを舞うように流麗な指揮姿とあわせて、誰もが認めるカリスマだった。
正規に発売された音源はごくわずかだが、ベートーヴェンの交響曲第4番、第5番「運命」、第7番、ブラームスの交響曲第4番は、過去にも未来にもクライバーの演奏を超えるものはないと言われている。
●墓巡礼 偶然の連続で墓参できた、そんな墓も多い。例えば指揮者のカルロス・クライバー。日本で手に入れた情報は「スロヴェニアの首都リュブリアーナの郊外、コンスィツァ村」…これだけ。とにかく僕は首都に入った。まずは鉄道案内所で最寄駅を尋ねる。“そんな村は聞いた事がない、バスで行け”。バスの案内所でも窓口の中年男性は“知らない村だ”と最初は肩をすくめていたが、突然「ちょっと待て、そう言えば今朝の新聞に…あった!」と見せてくれたのが、『クライバー記念館が昨日開館』という小さな記事。なんと一回忌に合わせて村に建てられたというのだ。この記事を切り取ってもらい、首都最大の旅行案内所へ。女性職員が同館の公式サイトを発見し、行き方を電話で尋ねてくれた。公共交通機関が通っていない村なので、最寄駅から館長が車で送迎してくれる事になり、駅に着いたら電話するよう言われた。ところがその田舎駅に着いて絶句!電話も何もない無人駅だった。しかも土砂降りの雨。泣きそうになっていると背後から日本語で「ドウシマシタ?」。腰を抜かした。その青年は大学で日本語を専攻しており、「日本人ヲ見タノ初メテ。僕ニ任セテクダサーイ」と自分のケータイを取り出し館長にかけてくれた!新聞記事から繋がった奇跡の巡礼だった。 ※カラヤン「ヤツ(クライバー)は冷蔵庫が空になるまで指揮をしようとしない」
※バーンスタイン「彼は庭の野菜のように太陽を浴びて成長し、食べて、飲み、眠りたいだけと言っていた」。
※日本にはバイエルン国立歌劇場管弦楽団と共に、1974年、1981年、1986年、1988年、1994年に来日公演している。 |
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瞑想する帝王 ![]() |
| クラシック界最高の2大オーケストラ、ベルリン・フィルとウィーン・フィルの支配者となり、“帝王”と称されたカラヤン。どんな大曲も完璧に暗譜し、本番では目を閉じたまま演奏したことで、さらにカリスマ度が炸裂した。CD開発時に60分だった規格が「それでは第九が入らん」というカラヤンの鶴の一声で74分になったという逸話がある。故郷ザルツブルグ郊外の教会墓地に眠っている。 「クラシックは理解ではなく体験だ」(ヘルベルト・フォン・カラヤン) 「私たちの職業において、華麗に演奏することやテクニックに熟達することは、さして難しいことではありません。最終的な手段として本当に重要なのは指揮者の人間性なのです。なぜならば、音楽は人間が人間の為に創るものだからです。音符以上のものを見出さなかったら、それがいくら興味深いものだとしても人間を豊かにはしません。音楽の目的はただひとつ、人間を豊かにし、様々な意味合いで人間が失ったものを取り戻すことなのです」(カラヤン) |
| 世界の恋人マリア・カラス。ソプラノ歌手の彼女は、2オクターブ半という超人的な音域と高度な歌唱技術で人々を驚かせた。彼女は歌唱力だけが重視されていた当時のオペラ界で、初めて「演技」の重要性を強く主張した人物。そんなカラスのドラマチックな歌声は世界中を虜にした。彼女が残した伝説は数知れず。イタリア大統領が臨席した公演を、喉の不調を理由に一幕だけで降りてしまい、それがきっかけで名門のミラノ・スカラ座から放り出されてしまうこともあった。 本名 Maria Anna Sofia Cecilia Kalogeropoulos。 彼女は遺言で散骨を希望したが、母国ギリシャでは宗教上の理由で火葬が難しく亡骸はいったんフランスへ。そこで火葬されショパンやビゼーが眠るパリのペール・ラシェーズ墓地にいったん納骨された。後日エーゲ海に散骨されたが、パリの墓はそのまま残っている。 |



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| トスカニーニ・ファミリーの墓 | すぐにブチ切れたトスカニーニ |
カミナリ親父トスカニーニ。彼は音楽史上最も楽譜に忠実な指揮者だった。それが為、少しでも楽団員が演奏をミスると指揮棒を叩き折って怒り狂うので、リハーサルでは何本もスペアの指揮棒を用意していた。2度続けてミスをしたクラリネット奏者に「貴様が死ぬか、私が死ぬか!」と掴みかかったのは有名。その一方、根っからのヒューマニストで人種差別撤廃運動や反ファシズム運動に燃えた。イタリアで独裁者ムッソリーニが権力の座を手に入れた時、各地でムッソリーニの肖像画が掲げられたが、トスカニーニが指揮をしていたミラノ・スカラ座(世界最高のオペラ劇場)には、「私の目の黒いうちは野郎の絵を置かせん」と断固拒否したという。 現在、トスカニーニは「彫刻美術館」の異名があるミラノで最も有名な墓地に眠っている。ここはどの墓も芸術的な彫刻作品であり、墓場にいることを忘れてしまう。 |
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| 20世紀初頭の大テノール歌手エンリコ・カルーソー。貧しい家庭に生まれ義務教育も殆ど受けず、少年時代から家計を助けるため労働に従事した。声に自信があった彼は声楽教師に出世払いで教えを受け21歳でデビューする。8年後、ミラノのスカラ座で舞台に立ち栄光を手に入れた。カルーソーは美男ではなく労働者出身で武骨だったが、音域の広さは驚異的で、ある時は本番中に声がでなくなった友人のバス歌手に「僕が歌ってあげる」と耳打ちし、聴衆に背を向けて友人のパートを歌い窮地を救ったという(その間、友人は口を動かしていた)。テノールの彼がバスを歌っているのに観客は誰も気づかなかったらしい。 彼の墓は膨大な量の花に埋もれていた(造花じゃなく本物)。1921年に没しているというのに今も花に埋もれてるなんてスゴイ。現在進行形でナポリっ子に愛されていることがよく分かった! |
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| ゲオルグのG? | バルトーク(木の間にある中央の黒い墓)と並んでいる |
| 超人的な演奏テクニックと繊細さを極めた音色で、20世紀を代表するピアニストのマエストロ・ホロヴィッツ。彼はトスカニーニの娘と結婚したので、トスカニーニ家の墓地に眠っている。 墓にホロヴィッツ夫妻の写真が貼ってあった(ガラス越しに撮ったので自分の手が写ってしまった。心霊写真じゃないので。念の為)。 |


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| 2002 | 2009 | ト音記号を彫ったレリーフがあった |
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| 道を尋ねるタクシーの運転手。カーナビがあっても 迷うほどの田舎(最初は違う墓地に連れて行かれた) |
Neuvilleの村には2つ墓地がある |
やっとチェリビダッケの墓地に到着! |
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| 墓地の左奥に眠っていた! | 立派な肖像レリーフが置かれていた | ハハーッ!思わず土下座! |

| バイオリンの巨匠アイザック・スターン。若手音楽家の育成に努めたことでも有名。 墓前にスターンさんのDVD(ブラームスの弦楽六重奏曲withヨーヨー・マ)と再生機を持参し音楽奉納。故人を偲んで墓前で演奏を聴く、こんなことが可能だなんて、一昔前では考えられなかった。技術の進歩のお陰! |
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